投稿者 サイエントロジスト 日時 2000 年 10 月 30 日 23:50:35:
回答先: Re: おかしいですか? 投稿者 霊止 日時 2000 年 10 月 30 日 18:37:15:
「わからないものはわからないのが普通だと思うし、
分からないことを他人も自分も本来裁けないと思うので」
なぜ、記号という便利な道具が、使えるのに、「分からないもの」
に、こだわるのでしょうか?「記号」を用いる最大の理由は、
「記号」で、体系的に表現できる範囲だけで考えましょうということでしょう。
私をはじめとして、誰一人として、「オウム真理教の経典」の記号(列)が、
何を意味していて、どのような価値があるなどとは、明確に定義することなど、
できないでしょう。ただ、一人一人が、それなりに、自己満足するという
意味で、価値なり、意味なりを享受できることが、せいぜいでしょう。
私は、そのようなことを問題にしているのではありません。
井上氏の冒頭陳述には、「私は、なになにをしました。
誰それは、あれこれといいました。」と書かれています。
これらの、「いつ、どこで、何をした、何を言った」、という証言には、
概ね事実が表現されており、彼の感情的変化が、
生じたとしても、ほぼ同じような「なになに」や「あれこれ」
が、主張されるであろうと予想することが出来ます。
(逆に、そのような予想、合意が、なければ、裁判などは不可能です。
つまり、このことは、法治国家を可能にさせる必要条件でもあります。)
すると、このような仮定に立脚するならば、だれでも「オウムという組織は、
そのような人物(しかも、指導層の人物と言われている)を排出し、
しかも、このような行動をし、それが、どういう結果を生じさせたのか」が、
分かるはずだと思うのです。(オウムの信者であろうが、なかろうが、。。。)
すると、当然ながら、オウムの信徒が収めた献金、組織のための労働、
組織体制への信任を通じて、オウムの信徒は、直接・間接にこれらの
犯罪行為に関与したことを理解することが、できるはずです。
従って、「それら理解しえた事実」に対して、信徒一人一人に、
責任を問うことは、不自然ではないでしょう。
私は、「分からないことを分かってください」と言っているのではなく、
「分かることは、分かってください」といっているのです。
「分からないことを分かろうとする」のは、徒労です。
しかし、「分かることを分かろうとしない」のは、怠慢です。
「煩悩」などという意味不明な「記号」を使うのは、この際やめましょう。