南相馬で建設されている工場で生産が予定されているmRNA製品は生物兵器との声
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2023.04.03 櫻井ジャーナル
ロシア軍は昨年2月24日から巡航ミサイルの「カリブル」などでウクライナの軍事基地や生物化学兵器の研究開発施設などを攻撃し始め、機密文書を回収している。この攻撃でウクライナにおける生物化学兵器の研究開発は難しくなり、アメリカ国防総省は拠点をケニア、シンガポール、タイなどへ移動させているようだ。日本でも研究開発を行う可能性は否定できない。
現在、ウクライナで行われている戦乱の直接的な原因は2013年11月から14年2月にかけて行われたクーデターだ。その黒幕はアメリカのバラク・オバマ政権。2014年2月に入るとNATOの訓練を受けたネオ・ナチがチェーン、ナイフ、棍棒を手にしながら石や火炎瓶を投げはじめ、ブルドーザーなども持ち出してきた。
キエフのクーデターで2014年2月にビクトル・ヤヌコビッチ大統領が排除されるが、ヤヌコビッチの支持基盤だった東部や南部では住民が反クーデターで立ち上がる。いち早く動いた南部のクリミアでは住民がロシアとの一体化を選んだが、オデッサでは反クーデター派の住民がネオ・ナチに惨殺され、東部のドンバスでは内戦が始まった。
ウクライナの軍や治安機関の一部メンバーもドンバスの反クーデター軍に参加したこともあり、戦況は反クーデター軍が優勢だった。オバマ政権は内務省にネオ・ナチを主体とする親衛隊を設立、キエフにCIAやFBIの専門家数十名を顧問として送り込み、傭兵会社「アカデミ(旧社名はブラックウォーター)」の戦闘員約400名もウクライナ東部の作戦へ参加させた。2015年からCIAはウクライナ軍の特殊部隊をアメリカの南部で訓練し始めたともいう。
しかし、それでもクーデター軍の劣勢は変わらない。そこでドイツやフランスを仲介役として停戦交渉が始まり、ミンスク合意が成立するのだが、キエフのクーデター政権は合意を守らなかった。
その当時から指摘されていたが、この合意はクーデター政権の戦力を増強するための時間稼ぎに過ぎず、キエフ政権が合意を守らないのは当然だったのだ。
この事実はアンゲラ・メルケル元独首相が昨年12月7日にツァイトのインタビューで認めている。その直後にフランソワ・オランド元仏大統領はメルケルの発言を事実だと語っている。1インチたりともNATOを東へ拡大させないという約束が嘘だったように、ミンスク合意も嘘だった。
アメリカ/NATOの軍事力増強計画が達成されたと思われる2022年2月、ロシア軍は先手を打った。そして現在の戦闘が始まったわけだ。
その直後にウォロディミル・ゼレンスキー政権はウラジミル・プーチン政権と和平交渉を始める。仲介役はイスラエルのナフタリ・ベネット首相(当時)だ。ベネットによると、話し合いで双方は妥協に応じ、停戦は実現しそうだった。それを壊したのはアメリカとイギリスだ。
ゼレンスキー政権はアメリカやイギリスの圧力でロシアと戦う道を進まざるをえなくなった。その代償としてアメリカ/NATOは兵器を提供し、兵士を訓練してきたのだが、その戦闘によってウクライナは国として機能しなくなり、十数万人から二十数万人が戦死したと推測されている。
そして、ワーグナー・グループを率いるイェフゲニー・プリゴジンがバフムート(アルチョモフスク)を事実上、制圧したと発表した3月29日、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領はAPに対し、バフムートで負けたならロシアに「妥協」しなければならないだろうと語ったという。その前にゼレンスキー大統領は読売新聞に対し、ドンバスでの戦況は「良くない」と認め、ロシア軍は連日ウクライナ軍の約3倍の弾薬を発射していると語っている。
アメリカの支配層はロシアや中国の周辺にある自分たちの属国に核兵器を配備しているが、ウクライナにも配備を予定していただろう。これは実現しなかったようだが、約30カ所に生物化学兵器の研究開発施設を建設した。ロシア政府は遅くとも2013年にはこうした施設の建設を批判している。つまり、クーデターの前からアメリカはウクライナで生物化学兵器の研究開発を始めていたわけだ。
その施設が2022年2月に始まったロシア軍の攻撃で使えなくなった可能性が高く、別の国に新たな施設を作ることになる。その国がケニア、シンガポール、タイなどだが、日本にはアメリカの国防総省が計画したと言われているmRNA技術を使った製品を製造する工場が作られつつある。この製品は生物化学兵器だとも言われている。
アメリカでは1943年にUSBWL(陸軍生物兵器研究所)がキャンプ・デトリック(後のフォート・デトリック)を建設し、生物化学兵器の研究開発が始まるが、本格化するのは第2次世界大戦後のことだと言われている。ドイツや日本の研究資料や研究者を押さえてからだ。
日本では1933年に軍医学校が東京帝国大学や京都帝国大学の医学部と共同で生物化学兵器の研究開発を始めたが、正確なデータを得るため、日本では生体実験が組織的に実施されている。犠牲になったのは主に中国人、モンゴル人、ロシア人、朝鮮人。こうした人びとを日本軍は「マルタ」と呼んだ。
生体実験を実施するため、軍の内部に特別な部隊が占領地である中国で編成される。当初は加茂部隊や東郷部隊と呼ばれたが、1941年からは第731部隊と呼ばれている。第731部隊の隊長は1936年から42年、そして45年3月から敗戦までが石井四郎、その間、42年から45年2月までを北野政次が務めた。
1945年8月には関東軍司令官の山田乙三大将の名前で部隊に関連した建物は破壊され、貴重な資料や菌株は運び出された。捕虜の多くは食事に混ぜた青酸カリで毒殺される。事態に気づいて食事をとならなかった捕虜は射殺され、死体は本館の中庭で焼かれ、穴の中に埋められたという。
石井たち第731部隊の幹部は大半が日本へ逃げ帰るが、日本の生物化学兵器に関する情報はアメリカ軍も入手していた。1946年に入ると石井たちアメリカ軍の対諜報部隊CICの尋問を受けることになるが、厳しいものではなく、資料はアメリカ側へ引き渡された。
尋問の過程でGHQ/SCAPの情報部門G2の部長を務めていたチャールズ・ウィロビー少将と石井は親しくなり、隊の幹部たちはアメリカの保護を受けるようになる。日本が提供した資料や研究員はドイツから提供された知識と同じように、アメリカにおける生物化学兵器開発の基盤になった。
1950年6月に朝鮮戦争が勃発、52年2月に朝鮮の外務大臣はアメリカ軍が細菌兵器を使用していると国連に抗議した。アメリカ側は事実無根だと主張したが、1970年代にウィリアム・コルビーCIA長官は議会証言の中で、1952年にアメリカ軍が生物化学兵器を使ったと認めている。
朝鮮戦争が始まると、アメリカ軍は輸血体制を増強しなければならなくなり、「日本ブラッドバンク」が設立されたが、北野政次が顧問に就任するなど、この会社は第731部隊と深い関係がある。後に社名は「ミドリ十字」へ変更され、「薬害エイズ」を引き起こすことになる。現在は田辺三菱製薬の一部だ。
第731部隊を含む日本の生物化学兵器人脈は「伝染病対策」の中枢を形成することになる。その拠点として1947年には国立予防衛生研究所(予研)が創設された。当初は厚生省の所管だったが、1949年には国立になる。1997年には国立感染症研究所(感染研)に改名された。
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