オットー・ニコライ(Otto Nicolai, 1810年6月9日 – 1849年5月11日)
カール・オットー・エーレンフリート・ニコライ(Carl Otto Ehrenfried Nicolai, 1810年6月9日 – 1849年5月11日)は、ドイツの作曲家・指揮者。1842年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(の前身 Philharmonische Academie)の創設、およびシェイクスピアの喜劇に基づくオペラ『ウィンザーの陽気な女房たち』で知られている。5つのオペラのほか、管弦楽曲・合唱曲を作曲している。
生涯
プロイセン王国のケーニヒスベルク(現ロシア領、カリーニングラード)に生まれた。幼少のころ天与の才を示し、音楽家であった父親が神童と銘打って売り出そうと躍起になったことから、16歳で親元を離れ、ベルリンのカール・フリードリヒ・ツェルターの保護を受けてベルリン・ジングアカデミーの学生として教会音楽を中心に学ぶ。1831年6月27日に行われた演奏会で、ツェルターとその弟子のフェリックス・メンデルスゾーンとともにバッハのマタイ受難曲を蘇演したジングアカデミーの学生として、イエス・キリストのパートを歌った。 1833年には交響曲第1番を初演するなど、ドイツでの初期の成功を収めた後に、駐ローマ・プロイセン大使館付き礼拝オルガニストとなった。1840年代にウィーンに活動の拠点を移し、ケルントナートーア劇場の楽長に就任した。特筆すべき活動として、1842年3月にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の前身である宮廷楽団員の自主演奏団体「フィルハーモニー・アカデミー」による最初の演奏会を催している。
1844年に、ベルリンの宮廷礼拝堂Koenigliche Hofkapeleの楽長職を務めていたフェリックス・メンデルスゾーンが退任して空席となったため、ニコライが後任に推されたが、彼自身は晩年の1849年に至るまで、ベルリンに生活の拠点を移すことはなかった。 喜歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』の初演から約2ヵ月後、ベルリンの王立歌劇場(現ベルリン国立歌劇場)・宮廷礼拝堂楽長就任の2日前にあたる1849年5月11日、脳梗塞で倒れて息を引き取った。亡くなる数日前にプロイセン王立芸術アカデミー会員への推薦がなされ、死後アカデミー会員に加えられた。
作品
オペラ
Rosamonda d'Inghilterra(エンリーコ2世、1839年)
Il Templario(神殿の騎士、1840年)
Odoardo e Gildippe(1841年)
Die Heimkehr des Verbannten(追放された男、1844年)
ウィンザーの陽気な女房たち(1849年)
交響曲
交響曲第1番 ハ短調
交響曲第2番 ニ長調
ミサ曲
ミサ曲ニ調(1835年)
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