妻に先立たれた、萩本欽一の別れの作法 「僕は妻に線香をあげない」
萩本欽一のプロフィールとは ?
(www.news-postseven.com:2021年2/7(日) 7:05)
かつて3つの冠番組の視聴率を足すと100%を超えたことから、「視聴率100%男」と呼ばれ、コメディアンとして芸能界の頂点に上りつめた萩本欽一(79)。
しかし、半世紀にわたって連れ添い、彼を支え続けた妻の存在は知られていない。その最愛のパートナー・澄子さんが、半年前にがんで亡くなった。欽ちゃんは、妻の病、そして死にどう向き合ったのか──コラムニストの石原壮一郎氏が聞いた。
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ここ何年かは、スミちゃん(澄子さん)は骨折で何回か入院してたんだけど。お見舞いに行こうとすると「すぐ退院するから、来なくていい」って言うんだよね。
「もう東名に乗っちゃったよ。お見舞いの品を置いたら帰るよ」って言って強引に向かった。そしたら、近所に住んでいて最後まで面倒を見てくれた義妹に、「すぐ来い」って連絡したみたい。なんだろうと思って駆けつけたら、「眉を描いてほしい」だって。入院するときは、まずお化粧道具を準備してたらしい。
昔から、ぼくが家に帰ったときには、いつもお化粧してて、オシャレなんだなと思ってた。亡くなってから義妹が「義兄さんに会うために決まってるじゃない」って。ぼくの前ではお酒は一滴も飲まなかったけど、実際は好きだった。ぜんぜん知らなかったな。
家にみんなが集まったときに、息子が「お父さんのどこが好きだったの?」って聞いたら、
「うーん、『好き』って思ったことはないわね」
なんて言うから、ぼくが「じゃあ、なんで結婚してくれたんだよ」って問い詰めた。そしたら、ちょっと考えて、「ファンだったのよ。今もずっとファンなの」 そう言ってくれた。あれは嬉しかったな。
「ありがとうね」
スミちゃんから初めて「ありがとう」って言葉を聞いたのも、4年前にがんがわかってからだった。
ある日、ぼくが見舞いに行ったら、帰り際に「ありがとうね」って言ってくれた。ぼくは思わず大きな声で、「スミちゃんから『ありがとう』って言ってもらっちゃった! 今日はとっても嬉しい日だなあ。バンザーイ!」
そう言って、本当に両手をあげてバンザイしたんだよね。
人間って、死を意識すると、素直になれるのかもしれない。「一生懸命」って言葉があるじゃない。命を懸けて一生を振り返って、初めて「ありがとう」って言葉が出てきたのかな。そう考えると、なおさら嬉しいな。
本当に「ありがとう」を言わなきゃいけないのは、ぼくのほうだよね。でも、あらたまって言ったら、「私、もう長くないのかしら」なんて思わせちゃう。だから、なかなか言えなかった。
やっと言えたのは、彼女が亡くなる数日前だった。もう話せないし、意識があるかどうかもわからない。布団の中で手を握って、「スミちゃん、たいへんだったね」って言ったら、ギュッと握り返してきた。その次に、「子どもたち、あいつらみんないい子だね。いい子に育ててくれて、ありがとうね」
そう言ったら、さっきの何倍も強く握り返されて、目もちょっと滲んでいるみたいに見えた。
近くにいた義妹を呼んで「ほら、涙出てるよね」って聞いてみた。彼女も「そうね、泣いているわね」って合わせてくれればいいのに、「うーん、出てると言えば出てるかなあ」なんて、冷静に言われちゃって。
それが、ぼくとスミちゃんとの最後の会話です。ぼくの「ありがとう」は間に合ったのかな。きっと間に合ったよね。
◆妻の死に顔は見ていない !
スミちゃんは、こうして旅立った。でも、最初に話したみたいに、ぼくはスミちゃんが「死んだ」という実感はまだない。
葬儀は、身内だけのこぢんまりとしたものだった。ぼくは、火葬場でも祭壇のスミちゃんの写真にも、一度も手を合わせなかった。家にある仏壇にだって、一度もお線香をあげたことがない。だって、そんなことしたら、まるで死んじゃったみたいじゃない。
恩人が亡くなったときも大切な仕事仲間が亡くなったときも、お葬式では手を合わせないことにしてる。「顔を見てやってください」って言われるけど、全部断わってきた。元気なときの顔だけ覚えておきたいからね。もちろん、スミちゃんの死に顔も見てません。まだ別れを言っていないんだから、ぼくの中では、スミちゃんは生きています。
スミちゃんについては、まだまだ知らないことだらけ。3人の子どもたちとも、それぞれ物語があるはずだし、義妹からも近所の友達からも、スミちゃんはどういう人だったのか、どんな毎日を過ごしていたのかを教えてもらいたい。
今は、もう一回あらためてスミちゃんと出会ったみたいな気持ちになってる。未知の部分を知るのが楽しみ。「遺される」っていうと寂しい響きだけど、思いがけない特典が付いてきちゃった。
【インタビュー・構成】
石原壮一郎(いしはら・そういちろう)/1963年三重県生まれ。コラムニスト。「大人養成講座」「大人力検定」「恥をかかない コミュマスター養成ドリル」など著書多数。
※週刊ポスト2021年2月12日号
(参考資料)
○萩本欽一のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
萩本欽一(はぎもと・きんいち、1941年(昭和16年)5月7日 生まれ。79歳。)は、日本のコメディアン。
日本野球連盟に所属する野球クラブチーム・茨城ゴールデンゴールズの創立者であり、初代監督を務めた。司会者などタレント業のほか、舞台などの演出家としても活動する。
浅井企画所属。浅井企画グループの佐藤企画と業務提携し、同じく浅井企画傘下に置く個人事務所・萩本企画にも所属している。
東京府東京市下谷区稲荷町(現:東京都台東区東上野3丁目)出身。身長164cm、体重65kg。血液型はA型。
欽ちゃん、大将の愛称で広く知られる。
◆来歴・人物
コント55号以前
両親は香川県小豆島出身[1]。父の実家は饅頭屋で、母はお嬢様で嫁ぎ先で洗濯をする発想が無く洗濯物を貯めこむ有様だった。稲荷町で幼少期を過ごすも、父親が稲荷町の長屋で営んでいたカメラ製造販売(戦時中に借金をして買い込んだ故障品を戦後ニコイチで粗製し、進駐軍に売りさばいた)が成功し埼玉県浦和市に家を建てたため、稲荷町から一家で浦和に転居、裕福な少年時代を送る[2]。
父は都内に妾を囲っており、浦和へは週末しか帰宅しなかったが、母はそれを甲斐性として是認して子供達には立派な父だと教え、萩本に妾宅へ遊びに行く事を勧めたりしたという。
父と愛人と萩本少年とで浅草へよく出かけ、それが芸能へ興味を持つ原点になっている。地元の市立高砂小学校では級長をしたが、強い生徒の後ろに隠れたり、女の子と遊ぶような少年だった。
遊びに行った家の親御さんにおべっかを使うのが上手で可愛がられたという。
1952年、萩本が小学5年の時に父の会社が倒産(低価格カメラを発売するも販売不振。ボルタフィルムを参照)し、家には借金取りが連日押し寄せる。かなりショックを受けて涙が出てきたという。その後、再び稲荷町の長屋に居を移し、中学3年の時に文京区丸山町に転居するが、極貧生活を余儀なくされ、萩本の高校時代に一家で夜逃げ。その後家族は"解散"し両親は香川に帰った[3]。父はその後、欽一の兄が開いた写真館で働いていた。
極貧の生活を抜け出したい萩本は、映画で“面白い人が面白いことをしてお金をもらっている姿”を見たことがきっかけで、中学卒業と同時に芸人を目指し浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充の元へ弟子入りを請うが、「せめて高校を出てからおいで」と断られた[4]。駒込高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場(東洋興業経営)の仲介で、再度入門を請うべく大宮が常打ちにしていた浅草松竹演芸場へと赴くが、寸前で入門することを取り止め、その足で同じ近隣の東洋劇場に入団。
研究生としてコメディアンの卵となる。
東洋劇場では、先輩芸人である池信一や石田英二、そして東八郎から数多くの指導を受ける。また、彼らの大師匠筋である深見千三郎からも薫陶を受け、大いに可愛がられた。
入団当時、極度のあがり症などでうまくセリフが言えず、演出家の緑川士朗から「君は才能がないからやめたほうがいい」と言われて落ち込んだが、池が説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっといていいよ」と萩本を引き止めた。その後、緑川から「萩本は才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ」と池が説得したことを知らされ、「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ」と言われ奮起し、誰も居ない劇場で、早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返すした。
父の家が火災になり、萩本は父親を助けるためにコメディアンを辞めようとしたこともあったが、それを聞いた池は、劇場の関係者からカンパを募り約60万円を萩本に渡した。これには、萩本も感極まって号泣し、コメディアンを続けていくことを決意した[注 1]。
系列の浅草フランス座へ出向した後は、ストリップの幕間コントに出演していたが、当時、漫才師崩れの専属コメディアン・安藤ロール(後の坂上二郎)と知り合う。当初の坂上に対する印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」だったという。
その後、萩本は東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て、浅草松竹演芸場で「劇団浅草新喜劇」を旗揚げ。同時期に、放送作家のはかま満緒に師事し、お笑い作りに本格的に取り組んでいたが、後年コント55号のほとんどの台本を手掛けた岩城未知男と知り合う。はかまの伝手で、TBSのプロデューサー・向井爽也や芸能マネージャー・浅井良二(浅井企画代表)と知り合い、本格的にタレント活動を開始し、向井の手掛ける公開コメディ番組ジンタカ・パンチ!のコマーシャルに起用された。
CM収録で21回ものNGを連発し、降板を余儀なくされる。一度はテレビ進出を諦め、生涯舞台役者で生きていくことを決意し、浅草新喜劇も解散して、熱海つるやホテルの営業で再起を期していた。
後に『快獣ブースカ』で脚本家デビューすることになる市川森一と、はかま満緒師事時代に友好を持ち、市川は後年、日本テレビの開局40周年スペシャルドラマ『ゴールデンボーイズ』で、若かりし頃の萩本(演者は小堺一機)の、これらのエピソードを描いている。
◆視聴率100%男
1971年、日本テレビ『スター誕生!』の初代司会者として単独での活動を始め、1972年にはニッポン放送のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』が開始された。聴取者からのハガキ投稿が基本の番組で人気が上昇し、1975年にニッポン放送と同じフジサンケイグループのフジテレビにて『欽ちゃんのドンとやってみよう!』として公開テレビ番組となった。
当時同局で司会を担当していた、『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年〜1986年、ただし萩本は1984年6月限りで司会を降板)で編み出したともいわれる、ゲストの家族や素人出演者へのツッコミぶり(いわゆる「素人いじり」)は、「欽ドン !」では、素人主体で結成された、「欽ドン劇団」や、ロケ先で道行く人々をも巻き込み、その後テレビ界で主流となった。
スタ誕のオファーがあった際に、「俺は司会ができないから、ちゃんと司会ができる女の子をつけてほしい」と希望したことが、アシスタントの走りとされる。
1981年には月曜9時にフジテレビ『欽ドン !良い子悪い子普通の子』シリーズが放送開始し、1976年から始まっていたホームコメディのテレビ朝日(当初はNET)『欽ちゃんのどこまでやるの!』(欽どこ)は、最高視聴率42%を記録する。1982年に始まったTBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』、さらにはTBS『ぴったし カン・カン』、フジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』と、レギュラー番組が高視聴率となった。特に冠3番組(欽ドン・欽どこ・週刊欽曜日)の合計した視聴率の数字から「100%男」の異名を取り、これらの番組から人気芸能人が生まれ、彼らは「欽ちゃんファミリー」として巣立った。
一連の企画・主演バラエティ番組以外でも、1978年から現在も続いている『24時間テレビ』(日本テレビ系)や、1975年に始まった『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』(ニッポン放送)でメインパーソナリティを務め、番組の顔となった。―以下省略―