欧米のキリスト教徒全員の行動指針となっているヨハネの默示録
マクス・ウェーバーによると、宗教改革の際に魂の救済は神が予め定めているとする教えが広がった。善行は無駄だということでもある。
キリスト教世界で最も影響力を持っている文書はヨハネの黙示録だと言われている。しかも原著者でなく、後に加筆した人物の記述。
田川健三によると、その加筆した人物は狂信的なユダヤ民族主義者で、ユダヤ民族以外はすべて殺しつくさるべしと繰り返し、世界中の異邦人が滅ぼしつくされ、殺しつくされ、ユダヤ人、あるいはユダヤ主義キリスト信者のみ救われることを願っている。
(田川健三訳著『新約聖書 訳と註 第七巻』作品社、2017年)
実際、キリスト教の影響下にある欧米諸国は侵略、破壊、殺戮、略奪を繰り返してきた。
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回心者ブッシュの演説に聞き入る「十字軍」兵士達
アメリカには「ポーン・アゲン」を なのり、そう呼ばれる人びとがいる。 人生の道半ばで、神に、キリストに、聖書に出会い、キリスト教徒として新しく生まれ変わった人びとであ る。改宗ではなくて、回心と再生を誓う、プロテスタント教会のなかの行動的な一派である。
◆40歳にして「回心再生」
ブッシュニ世はボーン・アゲンのひ とりになった。飲酒にふけって、安易な生活を送っていたのが、名高い伝道師の説教を聞いてからは、四十歳にして酒を断ち、回心再生の人となった。
朝は祈りと聖書の読誦にはじまり、閣議も祈りではじまる。
演説には聖書のことばがちりばめられている。
「アメリカに昧方しないやつは敵だ」というブッシュニ世の人物を特色づける発言も聖書からでている。
「わたしの側に立たない者はわたしに逆らう者、わたしと共に集めない者は散らす者である」
神仏の信仰を問わず、ボーン・アゲンの宗教体験をもつ人びとのおおくは、個人の内面の間題として回心をうけとめている。
ところが、アメリカの 「生まれ変わり」は異様に猛烈である。かれらは公の場で回心の体験を声高 に語って、人間は罪を負って生まれた存在であるから回心しなさい、改俊しなさいと、説得と折伏の活動に訴えることを神に奉仕する使命と信じている。
その特徴は徹底した二元論である。人間は神に選ばれて救われる者と、救われない者に分かれている。回心者に は永遠の平和、福音に耳ふさぐ者は悪魔の子で永遠の地獄が待っている。
善と悪、神と悪魔、味方と敵、白と黒、光と闇が現世を二分して戦っているという論理を用いて、迷える小羊に選択をせまるのである。
原理主義(ファンダメンタリズム) はイスラムの 「専売」のように思われているが、この 言葉と運動は はじめて一九二〇年代アメ リカの白人プロテスタントの環境からうまれた。
ボーン・アゲンは原理主義の三つの 教条を継承している。
聖書に書かれてあることはすべて神の言葉であって、解釈や考証はゆるされない。
人間は神によってつくられた被造物で、サルから進化したなどという「妄説」はゆるされない。
やがてキリストがこの世に再臨して至福の千年 が始まるから、神への奉仕にいそしまなければならない。
◆悪魔うけいれる土壌
最近のギャラップ世論調査による と、アメリカ人の48%は神が人間をつ くったと信じ、28%が進化論に傾いている。そして、悪魔の存在を68%が信 じている。
テロリズムも「九・一一」の悲劇も、バグダッドに巣食う悪魔の仕業だ という圧倒的な政治宣伝がたやすくう けいれられる精神的土壌がそろっている。 プロテスタント教会の少数派であっ たボーン・アゲン原理主義と、帝国を夢みる新保守覇権主義の二つの特殊な 潮流と人脈が、アメリカ政治の中枢を乗とってしまった。
神の下なる道義の国アメリカの指揮 官ブッシュニ世は、「万軍の王の王、主の主」(ヨハネ黙示録)として、神の御業を実践する十字軍に立つのであ る。
しかし、利得の追求を宗教的熱狂で紛飾した十字軍は、中東のみならず、 世界の現状にひそむ限りない複雑さと、そして、人間の惨害を無視して強行されるのだから、前途には、とほうもない魔の陥弊が待っている。
現在の狂ったアメリカ人の精神構造を探るには、アメリカを覆っているキリスト教原理主義的教義が分からないと理解できない。
回心再生と言ったって何のことか分からない。
回心再生して神に仕え、そうでない福音に耳を塞ぐ者たちを、悪魔の子として永遠の地獄に突き落とすことが、彼らの使命なのだ。
このようなキリスト教原理主義の教義が分かっていれば、ラムズフェルドの冷酷さも理解できる。
彼はアフガニスタンの戦場における、タリバン兵の捕虜達をクンドゥスに集め、爆撃して皆殺しにした。悪魔の子として地獄に突き落としたわけだ。
彼らにとっては異教徒は人間とはみなさないのだ。
http://www.asyura2.com/0304/bd25/msg/114.html
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ヨハネの默示録 大正改訳聖書(1950年版)
http://bible.salterrae.net/taisho/html/revelation.html
http://bible.salterrae.net/taisho/html/
第1章
1:1これイエス・キリストの默示なり。即ち、かならず速かに起るべき事を、その僕どもに顯させんとて、神の彼に與へしものなるを、彼その使を僕ヨハネに遣して示し給へるなり。 1:2ヨハネは神の言とイエス・キリストの證とに就きて、その見しところを悉とく證せり。 1:3此の預言の言を讀む者と之を聽きて其の中に録されたることを守る者どもとは幸福なり、時近ければなり。
1:4ヨハネ書をアジヤに在る七つの教會に贈る。願はくは今在し、昔在し、後來りたまふ者、および其の御座の前にある七つの靈、 1:5また忠實なる證人、死人の中より最先に生れ給ひしもの、地の諸王の君なるイエス・キリストより賜ふ恩惠と平安と汝らに在らんことを。願はくは我らを愛し、その血をもて我らを罪より解放ち、 1:6われらを其の父なる神のために國民となし祭司となし給へる者に、世々限りなく榮光と權力とあらんことを、アァメン。 1:7視よ、彼は雲の中にありて來りたまふ、諸衆の目、殊に彼を刺したる者これを見ん、かつ地上の諸族みな彼の故に歎かん、然り、アァメン。
1:8今いまし、昔いまし、後きたり給ふ主なる全能の神いひ給ふ『我はアルパなり、オメガなり』
1:9汝らの兄弟にして汝らと共にイエスの艱難と國と忍耐とに與る我ヨハネ、神の言とイエスの證との爲にパトモスといふ島に在りき。 1:10われ主日に御靈に感じゐたるに、我が後にラッパのごとき大なる聲を聞けり。 1:11曰く『なんぢの見る所のことを書に録して、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤに在る七つの教會に贈れ』 1:12われ振反りて我に語る聲を見んとし、振反り見れば七つの金の燈臺あり。 1:13また燈臺の間に人の子のごとき者ありて、足まで垂るる衣を著、胸に金の帶を束ね、 1:14その頭と頭髮とは白き毛のごとく雪のごとく白く、その目は焔のごとく、 1:15その足は爐にて燒きたる輝ける眞鍮のごとく、その聲は衆の水の聲のごとし。 1:16その右の手に七つの星を持ち、その口より兩刃の利き劍いで、その顏は烈しく照る日のごとし。 1:17我これを見しとき其の足下に倒れて死にたる者の如くなれり。彼その右の手を我に按きて言ひたまふ『懼るな、我は最先なり、最後なり、 1:18活ける者なり、われ曾て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。また死と陰府との鍵を有てり。 1:19されば汝が見しことと今あることと、後に成らんとする事とを録せ、 1:20即ち汝が見しところの我が右の手にある七つの星と七つの金の燈臺との奧義なり。七つの星は七つの教會の使にして、七つの燈臺は七つの教會なり。
第2章
2:1エペソに在る教會の使に書きおくれ。「右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燈臺の間に歩むもの斯く言ふ、 2:2われ汝の行爲と勞と忍耐とを知る。また汝が惡しき者を忍び得ざることと、自ら使徒と稱へて使徒にあらぬ者どもを試みて、その虚僞なるを見あらはししこととを知る。 2:3なんぢは忍耐を保ち、我が名のために忍びて倦まざりき。 2:4されど我なんぢに責むべき所あり、なんぢは初の愛を離れたり。 2:5さればなんぢ何處より墜ちしかを思へ、悔改めて初の行爲をなせ、然らずして若し悔改めずば、我なんぢに到り汝の燈臺を、その處より取除かん。 2:6されど汝に取るべき所あり、汝はニコライ宗の行爲を憎む、我も之を憎むなり。 2:7耳ある者は御靈の諸教會に言ひ給ふことを聽くべし、勝を得る者には、われ神のパラダイスに在る生命の樹の實を食ふことを許さん」
2:8スミルナに在る教會の使に書きおくれ。
「最先にして最後なる者、死人となりて復生きし者かく言ふ。 2:9われ汝の艱難と貧窮とを知る――されど汝は富める者なり。我はまた自らユダヤ人と稱へてユダヤ人にあらず、サタンの會に屬く者より汝が譏を受くるを知る。 2:10なんぢ受けんとする苦難を懼るな、視よ、惡魔なんぢらを試みんとて、汝らの中の或者を獄に入れんとす。汝ら十日のあひだ患難を受けん、なんぢ死に至るまで忠實なれ、然らば我なんぢに生命の冠冕を與へん。 2:11耳ある者は御靈の諸教會に言ひ給ふことを聽くべし。勝を得るものは第二の死に害はるることなし」
2:12ペルガモに在る教會の使に書きおくれ。
「兩刃の利き劍を持つもの斯く言ふ、 2:13われ汝の住むところを知る、彼處にはサタンの座位あり、汝わが名を保ち、わが忠實なる證人アンテパスが、汝等のうち即ちサタンの住む所にて殺されし時も、なほ我を信ずる信仰を棄てざりき。 2:14されど我なんぢに責むべき一二の事あり、汝の中にバラムの教を保つ者どもあり、バラムはバラクに教へ、彼をしてイスラエルの子孫の前に躓物を置かしめ、偶像に献げし物を食はせ、かつ淫行をなさしめたり。 2:15斯くのごとく汝らの中にもニコライ宗の教を保つ者あり。 2:16さらば悔改めよ、然らずば我すみやかに汝に到り、わが口の劍にて彼らと戰はん。 2:17耳ある者は御靈の諸教會に言ひ給ふことを聽くべし、勝を得る者には我かくれたるマナを與へん、また受くる者の外たれも知らざる新しき名を録したる白き石を與へん」
2:18テアテラに在る教會の使に書きおくれ。
「目は焔のごとく、足は輝ける眞鍮の如くなる神の子かく言ふ、 2:19われ汝の行爲および汝の愛と信仰と職と忍耐とを知る、又なんぢの初の行爲よりは後の行爲の多きことを知る。 2:20されど我なんぢに責むべき所あり、汝はかの自ら預言者と稱へて我が僕を教へ惑し、淫行をなさしめ、偶像に献げし物を食はしむる女イゼベルを容れおけり。 2:21我かれに悔改むる機を與ふれど、その淫行を悔改むることを欲せず。 2:22視よ、我かれを牀に投げ入れん、又かれと共に姦淫を行ふ者も、その行爲を悔改めずば、大なる患難に投げ入れん。 2:23又かれの子供を打ち殺さん、斯くてもろもろの教會は、わが人の腎と心とを究むる者なるを知るべし、我は汝等おのおのの行爲に隨ひて報いん。 2:24我この他のテアテラの人にして未だかの教を受けず、所謂サタンの深きところを知らぬ汝らに斯くいふ、我ほかの重を汝らに負はせじ。 2:25ただ汝等はその有つところを我が到らん時まで保て。 2:26勝を得て終に至るまで我が命ぜしことを守る者には、諸國の民を治むる權威を與へん。 2:27彼は鐵の杖をもて之を治め、土の器を碎くが如くならん、我が父より我が受けたる權威のごとし。 2:28我また彼に曙の明星を與へん。 2:29耳ある者は御靈の諸教會に言ひ給ふことを聽くべし」
第3章
3:1サルデスに在る教會の使に書きおくれ。
「神の七つの靈と七つの星とを持つ者かく言ふ、われ汝の行爲を知る、汝は生くる名あれど死にたる者なり。 3:2なんぢ目を覺し、殆ど死なんとする殘のものを堅うせよ、我なんぢの行爲のわが神の前に全からぬを見とめたり。 3:3されば汝の如何に受けしか、如何に聽きしかを思ひいで、之を守りて悔改めよ。もし目を覺さずば、盜人のごとく我きたらん、汝わが何れの時きたるかを知らざるべし。 3:4されどサルデスにて衣を汚さぬもの數名あり、彼らは白き衣を著て我とともに歩まん、斯くするに相應しき者なればなり。 3:5勝を得る者は斯くのごとく白き衣を著せられん、我その名を生命の書より消し落さず、我が父のまへと御使の前とにてその名を言ひあらはさん。 3:6耳ある者は御靈の諸教會に言ひ給ふことを聽くべし」
3:7ヒラデルヒヤにある教會の使に書きおくれ。
「聖なるもの眞なる者、ダビデの鍵を持ちて、開けば閉づる者なく、閉づれば開く者なき者かく言ふ、 3:8われ汝の行爲を知る、視よ、我なんぢの前に開けたる門を置く、これを閉ぢ得る者なし。汝すこしの力ありて、我が言を守り、我が名を否まざりき。 3:9視よ、我サタンの會、すなはち自らユダヤ人と稱へてユダヤ人にあらず、ただ虚僞をいふ者の中より、或者をして汝の足下に來り拜せしめ、わが汝を愛せしことを知らしめん。 3:10汝わが忍耐の言を守りし故に、我なんぢを守りて、地に住む者どもを試むるために全世界に來らんとする試錬のときに免れしめん。 3:11われ速かに來らん、汝の有つものを守りて、汝の冠冕を人に奪はれざれ。 3:12われ勝を得る者を我が神の聖所の柱とせん、彼は再び外に出でざるべし、又かれの上に、わが神の名および我が神の都、すなはち天より我が神より降る新しきエルサレムの名と、我が新しき名とを書き記さん。 3:13耳ある者は御靈の諸教會に言ひ給ふことを聽くべし」
3:14ラオデキヤに在る教會の使に書きおくれ。
「アァメンたる者、忠實なる眞なる證人、神の造り給ふものの本源たる者かく言ふ、 3:15われ汝の行爲を知る、なんぢは冷かにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。 3:16かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温きが故に、我なんぢを我が口より吐き出さん。 3:17なんぢ、我は富めり、豐なり、乏しき所なしと言ひて、己が惱める者・憐むべき者・貧しき者・盲目なる者・裸なる者たるを知らざれば、 3:18我なんぢに勸む、なんぢ我より火にて煉りたる金を買ひて富め、白き衣を買ひて身に纏ひ、なんぢの裸體の恥を露さざれ、眼藥を買ひて汝の目に塗り、見ることを得よ。 3:19凡てわが愛する者は、我これを戒め之を懲す。この故に、なんぢ勵みて悔改めよ。 3:20視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が聲を聞きて戸を開かば、我その内に入りて彼とともに食し、彼もまた我とともに食せん。 3:21勝を得る者には我とともに我が座位に坐することを許さん、我の勝を得しとき、我が父とともに其の御座に坐したるが如し。 3:22耳ある者は御靈の諸教會に言ひ給ふことを聽くべし」』
第4章
4:1この後われ見しに、視よ、天に開けたる門あり。初に我に語るを聞きしラッパのごとき聲いふ『ここに登れ、我この後おこるべき事を汝に示さん』 4:2直ちに、われ御靈に感ぜしが、視よ、天に御座設けあり。 4:3その御座に坐したまふ者あり、その坐し給ふものの状は碧玉・赤瑪瑙のごとく、かつ御座の周圍には緑玉のごとき虹ありき。 4:4また御座のまはりに二十四の座位ありて、二十四人の長老、白き衣を纏ひ、首に金の冠冕を戴きて、その座位に坐せり。 4:5御座より數多の電光と聲と雷霆と出づ。また御座の前に燃えたる七つの燈火あり、これ神の七つの靈なり。 4:6御座のまへに水晶に似たる玻璃の海あり。御座の中央と御座の周圍とに四つの活物ありて、前も後も數々の目にて滿ちたり。 4:7第一の活物は獅子のごとく、第二の活物は牛のごとく、第三の活物は面のかたち人のごとく、第四の活物は飛ぶ鷲のごとし。 4:8この四つの活物おのおの六つの翼あり、翼の内も外も數々の目にて滿ちたり、日も夜も絶間なく言ふ、
『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
昔いまし、今いまし、のち來りたまふ
主たる全能の神』
4:9この活物ら御座に坐し、世々限りなく活きたまふ者に榮光と尊崇とを歸し、感謝する時、 4:10二十四人の長老、御座に坐したまふ者のまへに伏し、世々限りなく活きたまふ者を拜し、おのれの冠冕を御座のまへに投げ出して言ふ、
4:11『我らの主なる神よ、榮光と尊崇と能力とを
受け給ふは宜なり。汝は萬物を造りたまひ、
萬物は御意によりて存し、かつ造られたり』
第5章
5:1我また御座に坐し給ふ者の右の手に、卷物のあるを見たり、その裏表に文字あり、七つの印をもて封ぜらる。 5:2また大聲に『卷物を開きてその封印を解くに相應しき者は誰ぞ』と呼はる強き御使を見たり。 5:3然るに天にも地にも、地の下にも、卷物を開きて之を見得る者なかりき。 5:4卷物を開き、これを見るに相應しき者の見えざりしに因りて、我いたく泣きゐたりしに、 5:5長老の一人われに言ふ『泣くな、視よ、ユダの族の獅子・ダビデの萠蘗、すでに勝を得て卷物とその七つの封印とを開き得るなり』 5:6我また御座および四つの活物と長老たちとの間に、屠られたるが如き羔羊の立てるを見たり、之に七つの角と七つの目とあり、この目は全世界に遣されたる神の七つの靈なり。 5:7かれ來りて御座に坐したまふ者の右の手より卷物を受けたり。 5:8卷物を受けたるとき、四つの活物および二十四人の長老、おのおの立琴と香の滿ちたる金の鉢とをもちて、羔羊の前に平伏せり、此の香は聖徒の祈祷なり。 5:9かくて新しき歌を謳ひて言ふ
『なんぢは卷物を受け、その封印を解くに相應しきなり、汝は屠られ、その血をもて諸種の族・國語・民・國の中より人々を神のために買ひ、 5:10之を我らの神のために國民となし、祭司となし給へばなり。彼らは地の上に王となるべし』
5:11我また見しに、御座と活物と長老たちとの周圍にをる多くの御使の聲を聞けり。その數、千々萬々にして、 5:12大聲にいふ
『屠られ給ひし羔羊こそ、能力と富と知慧と、勢威と尊崇と、榮光と讃美とを受くるに相應しけれ』
5:13我また天に、地に、地の下に、海にある萬の造られたる物、また凡てその中にある物の云へるを聞けり。曰く
『願はくは御座に坐し給ふものと羔羊とに、讃美と尊崇と榮光と權力と世々限りなくあらん事を』
5:14四つの活物はアァメンと言ひ、長老たちは平伏して拜せり。
第6章
6:1羔羊その七つの封印の一つを解き給ひし時、われ見しに、四つの活物の一つが雷霆のごとき聲して『來れ』と言ふを聞けり。 6:2また見しに、視よ、白き馬あり、之に乘るもの弓を持ち、かつ冠冕を與へられ、勝ちて復勝たんとて出でゆけり。
6:3第二の封印を解き給ひたれば、第二の活物の『來れ』と言ふを聞けり。 6:4かくて赤き馬いで來り、これに乘るもの地より平和を奪ひ取ることと、人をして互に殺さしむる事とを許され、また大なる劍を與へられたり。
6:5第三の封印を解き給ひたれば、第三の活物の『來れ』と言ふを聞けり。われ見しに、視よ、黒き馬あり、之に乘るもの手に權衝を持てり。 6:6かくてわれ四つの活物の間より出づるごとき聲を聞けり。曰く『小麥五合は一デナリ、大麥一升五合は一デナリなり、油と葡萄酒とを害ふな』
6:7第四の封印を解き給ひたれば、第四の活物の『來れ』と言ふを聞けり。 6:8われ見しに、視よ、青ざめたる馬あり、之に乘る者の名を死といひ、陰府これに隨ふ。かれらは地の四分の一を支配し、劍と饑饉と死と地の獸とをもて人を殺すことを許されたり。
6:9第五の封印を解き給ひたれば、曾て神の言のため、又その立てし證のために殺されし者の靈魂の祭壇の下に在るを見たり。 6:10彼ら大聲に呼はりて言ふ『聖にして眞なる主よ、何時まで審かずして地に住む者に我らの血の復讐をなし給はぬか』 6:11ここにおのおの白き衣を與へられ、かつ己等のごとく殺されんとする同じ僕たる者と兄弟との數の滿つるまで、なほ暫く安んじて待つべきを言ひ聞けられたり。
6:12第六の封印を解き給ひし時、われ見しに、大なる地震ありて日は荒き毛布のごとく黒く、月は全面血の如くなり、 6:13天の星は無花果の樹の大風に搖られて、生り後の果の落つるごとく地におち、 6:14天は卷物を卷くごとく去りゆき、山と島とは悉とくその處を移されたり。 6:15地の王たち・大臣・將校・富める者・強き者・奴隷・自主の人、みな洞と山の巖間とに匿れ、 6:16山と巖とに對ひて言ふ『請ふ、我らの上に墜ちて御座に坐したまふ者の御顏より、羔羊の怒より、我らを隱せ。 6:17そは御怒の大なる日既に來ればなり。誰か立つことを得ん』
第7章
7:1この後、われ四人の御使の地の四隅に立つを見たり、彼らは地の四方の風を引止めて、地にも海にも諸種の樹にも風を吹かせざりき。 7:2また他の一人の御使の、活ける神の印を持ちて日の出づる方より登るを見たり、かれ地と海とを害ふ權を與へられたる四人の御使にむかひ、大聲に呼はりて言ふ、 7:3『われらが我らの神の僕の額に印するまでは、地をも海をも樹をも害ふな』 7:4われ印せられたる者の數を聽きしに、イスラエルの子等のもろもろの族の中にて印せられたるもの合せて十四萬四千あり。
7:5ユダの族の中にて一萬二千印せられ、
ルベンの族の中にて一萬二千、
ガドの族の中にて一萬二千、
7:6アセルの族の中にて一萬二千、
ナフタリの族の中にて一萬二千、
マナセの族の中にて一萬二千、
7:7シメオンの族の中にて一萬二千、
レビの族の中にて一萬二千、
イサカルの族の中にて一萬二千、
7:8ゼブルンの族の中にて一萬二千、
ヨセフの族の中にて一萬二千、
ベニヤミンの族の中にて一萬二千印せられたり。
7:9この後われ見しに、視よ、もろもろの國・族・民・國語の中より、誰も數へつくすこと能はぬ大なる群衆、しろき衣を纏ひて手に棕梠の葉をもち、御座と羔羊との前に立ち、 7:10大聲に呼はりて言ふ
『救は御座に坐したまふ我らの神と羔羊とにこそ在れ』
7:11御使みな御座および長老たちと四つの活物との周圍に立ちて、御座の前に平伏し神を拜して言ふ、
7:12『アァメン、讃美・榮光・知慧・感謝・尊貴・能力・勢威、世々限りなく我らの神にあれ、アァメン』
7:13長老たちの一人われに向ひて言ふ『この白き衣を著たるは如何なる者にして何處より來りしか』 7:14我いふ『わが主よ、なんぢ知れり』かれ言ふ『かれらは大なる患難より出できたり、羔羊の血に己が衣を洗ひて白くしたる者なり。 7:15この故に神の御座の前にありて、晝も夜もその聖所にて神に事ふ。御座に坐したまふ者は彼らの上に幕屋を張り給ふべし。 7:16彼らは重ねて飢ゑず、重ねて渇かず、日も熱も彼らを侵すことなし。 7:17御座の前にいます羔羊は、彼らを牧して生命の水の泉にみちびき、神は彼らの目より凡ての涙を拭ひ給ふべければなり』
第8章
8:1第七の封印を解き給ひたれば、凡そ半時のあひだ天靜なりき。 8:2われ神の前に立てる七人の御使を見たり、彼らは七つのラッパを與へられたり。
8:3また他の一人の御使、金の香爐を持ちきたりて祭壇の前に立ち、多くの香を與へられたり。これは凡ての聖徒の祈に加へて、御座の前なる金の香壇の上に献げんためなり。 8:4而して香の煙、御使の手より聖徒たちの祈とともに神の前に上れり。 8:5御使その香爐をとり、之に祭壇の火を盛りて地に投げたれば、數多の雷霆と聲と電光と、また地震おこれり。
8:6ここに七つのラッパをもてる七人の御使これを吹く備をなせり。
8:7第一の御使ラッパを吹きしに、血の混りたる雹と火とありて、地にふりくだり、地の三分の一燒け失せ、樹の三分の一燒け失せ、もろもろの青草燒け失せたり。
8:8第二の御使ラッパを吹きしに、火にて燃ゆる大なる山の如きもの海に投げ入れられ、海の三分の一血に變じ、 8:9海の中の造られたる生命あるものの三分の一死に、船の三分の一滅びたり。
8:10第三の御使ラッパを吹きしに、燈火のごとく燃ゆる大なる星、天より隕ちきたり、川の三分の一と水の源泉との上におちたり。 8:11この星の名は苦艾といふ。水の三分の一は苦艾となり、水の苦くなりしに因りて多くの人死にたり。
8:12第四の御使ラッパを吹きしに、日の三分の一と月の三分の一と星の三分の一と撃たれて、その三分の一は暗くなり、晝も三分の一は光なく、夜も亦おなじ。
8:13また見しに、一つの鷲の中空を飛び、大なる聲して言ふを聞けり。曰く『地に住める者どもは禍害なるかな、禍害なるかな、禍害なるかな、尚ほかに三人の御使の吹かんとするラッパの聲あるに因りてなり』
第9章
9:1第五の御使ラッパを吹きしに、われ一つの星の天より地に隕ちたるを見たり。この星は底なき坑の鍵を與へられたり。 9:2かくて底なき坑を開きたれば、大なる爐の煙のごとき煙、坑より立ちのぼり、日も空も坑の煙にて暗くなれり。 9:3煙の中より蝗地上に出でて、地の蝎のもてる力のごとき力を與へられ、 9:4地の草すべての青きもの又すべての樹を害ふことなく、ただ額に神の印なき人をのみ害ふことを命ぜられたり。 9:5されど彼らを殺すことを許されず、五月のあひだ苦しむることを許さる、その苦痛は、蝎に刺されたる苦痛のごとし。 9:6このとき人々、死を求むとも見出さず、死なんと欲すとも死は逃げ去るべし。 9:7かの蝗の形は戰爭の爲に具へたる馬のごとく、頭には金に似たる冠冕の如きものあり、顏は人の顏のごとく、 9:8之に女の頭髮のごとき頭髮あり、齒は獅子の齒のごとし。 9:9また鐵の胸當のごとき胸當あり、その翼の音は軍車の轟くごとく、多くの馬の戰鬪に馳せゆくが如し。 9:10また蝎のごとき尾ありて之に刺あり、この尾に五月のあひだ人を害ふ力あり。 9:11この蝗に王あり。底なき所の使にして、名をヘブル語にてアバドンと云ひ、ギリシヤ語にてアポルオンと云ふ。
9:12第一の禍害すぎ去れり、視よ、此の後なほ二つの禍害きたらん。
9:13第六の御使ラッパを吹きしに、神の前なる金の香壇の四つの角より聲ありて、 9:14ラッパを持てる第六の御使に『大なるユウフラテ川の邊に繋がれをる四人の御使を解放て』と言ふを聞けり。 9:15かくてその時その日その月その年に至りて、人の三分の一を殺さん爲に備へられたる四人の御使は解放たれたり。 9:16騎兵の數は二億なり、我その數を聞けり。 9:17われ幻影にてその馬と之に乘る者とを見しに、彼らは火・煙・硫黄の色したる胸當を著く。馬の頭は獅子の頭のごとくにて、その口よりは火と煙と硫黄と出づ。 9:18この三つの苦痛、すなはち其の口より出づる火と煙と硫黄とに因りて、人の三分の一殺されたり。 9:19馬の力はその口とその尾とにあり、その尾は蛇の如くにして頭あり、之をもて人を害ふなり。 9:20これらの苦痛にて殺されざりし殘の人々は、おのが手の業を悔改めずして、なほ惡鬼を拜し、見ること聞くこと歩むこと能はぬ、金・銀・銅・石・木の偶像を拜せり、 9:21又その殺人・咒術・淫行・竊盜を悔改めざりき。
第10章
10:1我また一人の強き御使の、雲を著て天より降るを見たり。その頭の上に虹あり、その顏は日の如く、その足は火の柱のごとし。 10:2その手には展きたる小き卷物をもち、右の足を海の上におき、左の足を地の上におき、 10:3獅子の吼ゆる如く大聲に呼はれり、呼はりたるとき七つの雷霆おのおの聲を出せり。 10:4七つの雷霆の語りし時、われ書き記さんとせしに、天より聲ありて『七つの雷霆の語りしことは封じて書き記すな』といふを聞けり。 10:5かくて我が見しところの海と地とに跨り立てる御使は、天にむかひて右の手を擧げ、 10:6天および其の中に在るもの、地および其の中にあるもの、海および其の中にある物を造り給ひし、世々限りなく生きたまふ者を指し、誓ひて言ふ『この後、時は延ぶることなし。 10:7第七の御使の吹かんとするラッパの聲の出づる時に至りて、神の僕なる預言者たちに示し給ひし如く、その奧義は成就せらるべし』 10:8かくて我が前に天より聞きし聲のまた我に語りて『なんぢ往きて、海と地とに跨り立てる御使の手にある展きたる卷物を取れ』と言ふを聞けり。 10:9われ御使のもとに往きて、小き卷物を我に與へんことを請ひたれば、彼いふ『これを取りて食ひ盡せ、さらば汝の腹苦くならん、然れど其の口には蜜のごとく甘からん』 10:10われ御使の手より小き卷物をとりて食ひ盡したれば、口には蜜のごとく甘かりしが、食ひし後わが腹は苦くなれり。 10:11また或物われに言ふ『なんぢ再び多くの民・國・國語・王たちに就きて預言すべし』
第11章
11:1ここにわれ杖のごとき間竿を與へられたり、かくて或者いふ『立ちて神の聖所と香壇と其處に拜する者どもとを度れ、 11:2聖所の外の庭は差措きて度るな、これは異邦人に委ねられたり、彼らは四十二个月のあひだ聖なる都を蹂躙らん。 11:3我わが二人の證人に權を與へん、彼らは荒布を著て千二百六十日のあひだ預言すべし。 11:4彼らは地の主の御前に立てる二つのオリブの樹、二つの燈臺なり。 11:5もし彼らを害はんとする者あらば、火その口より出でてその敵を焚き盡さん。もし彼らを害はんとする者あらば、必ず斯くのごとく殺さるべし。 11:6彼らは預言するあひだ雨を降らせぬやうに天を閉づる權力あり、また水を血に變らせ、思ふままに幾度にても諸種の苦難をもて地を撃つ權力あり。 11:7彼等がその證を終へんとき、底なき所より上る獸ありて之と戰鬪をなし、勝ちて之を殺さん。 11:8その屍體は大なる都の衢に遺らん。この都を譬へてソドムと云ひ、エジプトの云ふ、即ち彼らの主もまた十字架に釘けられ給ひし所なり。 11:9もろもろの民・族・國語・國のもの、三日半の間その屍體を見、かつ其の屍體を墓に葬ることを許さざるべし。 11:10地に住む者どもは彼らに就きて喜び樂しみ互に禮物を贈らん、此の二人の預言者は地に住む者を苦しめたればなり』 11:11三日半ののち生命の息、神より出でて彼らに入り、かれら足にて起ちたれば、之を見るもの大に懼れたり。 11:12天より大なる聲して『ここに昇れ』と言ふを彼ら聞きたれば、雲に乘りて天に昇れり、その敵も之を見たり、 11:13このとき大なる地震ありて、都の十分の一は倒れ、地震のために死にしもの七千人にして、遺れる者は懼をいだき天の神に榮光を歸したり。
11:14第二の禍害すぎ去れり、視よ、第三の禍害すみやかに來るなり。
11:15第七の御使ラッパを吹きしに、天に數多の大なる聲ありて
『この世の國は我らの主および其のキリストの國となれり。彼は世々限りなく王たらん』
と言ふ。 11:16かくて神の前にて座位に坐する二十四人の長老ひれふし神を拜して言ふ、
11:17『今いまし、昔います主たる全能の神よ、なんぢの大なる能力を執りて王と成り給ひしことを感謝す。 11:18諸國の民怒をいだけり、なんぢの怒も亦いたれり、死にたる者を審き、なんぢの僕なる預言者および聖徒、また小なるも大なるも汝の名を畏るる者に報賞をあたへ、地を亡す者を亡したまふ時いたれり』
11:19斯くて天にある神の聖所ひらけ、聖所のうちに契約の櫃見え、數多の電光と聲と雷霆と、また地震と大なる雹とありき。
第12章
12:1また天に大なる徴見えたり。日を著たる女ありて、其の足の下に月あり、其の頭に十二の星の冠冕あり。 12:2かれは孕りをりしが、子を産まんとして産みの苦痛と惱とのために叫べり、 12:3また天に他の徴見えたり。視よ、大なる赤き龍あり、これに七つの頭と十の角とありて、頭には七つの冠冕あり。 12:4その尾は天の星の三分の一を引きて之を地に落せり。龍は子を産まんとする女の前に立ち、産むを待ちて其の子を食ひ盡さんと構へたり。 12:5女は男子を産めり、この子は鐵の杖もて諸種の國人を治めん。かれは神の許に、その御座の下に擧げられたり。 12:6女は荒野に逃げゆけり。彼處に千二百六十日の間かれが養はるる爲に神の備へ給へる所あり。
12:7かくて天に戰爭おこれり、ミカエル及びその使たち龍とたたかふ。龍もその使たちも之と戰ひしが、 12:8勝つこと能はず、天には、はや其の居る所なかりき。 12:9かの大なる龍、すなわち惡魔と呼ばれ、サタンと呼ばれたる全世界をまどはす古き蛇は落され、地に落され、その使たちも共に落されたり。 12:10我また天に大なる聲ありて
『われらの神の救と能力と國と神のキリストの權威とは、今すでに來れり。我らの兄弟を訴へ夜晝われらの神の前に訴ふるもの落されたり。
12:11而して兄弟たちは羔羊の血と己が證の言とによりて勝ち、死に至るまで己が生命を惜まざりき。 12:12この故に天および天に住める者よ、よろこべ、地と海とは禍害なるかな、惡魔おのが時の暫時なるを知り、大なる憤恚をいだきて汝等のもとに下りたればなり』
と云ふを聞けり。
12:13かくて龍はおのが地に落されしを見て、男子を生みし女を責めたりしが、 12:14女は荒野なる己が處に飛ぶために、大なる鷲の兩の翼を與へられたれば、其處にいたり、一年、二年、また半年のあひだ蛇のまへを離れて養はれたり。 12:15蛇はその口より水を川のごとく、女の背後に吐きて之を流さんとしたれど、 12:16地は女を助け、その口を開きて龍の口より吐きたる川を呑み盡せり。 12:17龍は女を怒りてその裔の殘れるもの、即ち神の誡命を守りイエスの證を有てる者に、戰鬪を挑まんとて出でゆき、 12:18海邊の砂の上に立てり。
第13章
13:1我また一つの獸の海より上るを見たり。之に十の角と七つの頭とあり、その角に十の冠冕あり、頭の上には神を涜す名あり。 13:2わが見し獸は豹に似て、その足は熊のごとく、その口は獅子の口のごとし。龍はこれに己が能力と己が座位と大なる權威とを與へたり。 13:3我その頭の一つ傷つけられて死ぬばかりなるを見しが、その死ぬべき傷いやされたれば、全地の者これを怪しみて獸に從へり。 13:4また龍おのが權威を獸に與へしによりて、彼ら龍を拜し、且その獸を拜して言ふ『たれか此の獸に等しき者あらん、誰か之と戰ふことを得ん』 13:5獸また大言と涜言とを語る口を與へられ、四十二个月のあひだ働く權威を與へらる。 13:6彼は口をひらきて神を涜し、又その御名とその幕屋すなはち天に住む者どもとを涜し、 13:7また聖徒に戰鬪を挑みて、之に勝つことを許され、且もろもろの族・民・國語・國を掌どる權威を與へらる。 13:8凡て地に住む者にて、其の名を屠られ給ひし羔羊の生命の書に、世の創より記されざる者は、これを拜せん。 13:9人もし耳あらば聽くべし。 13:10虜にせらるべき者は虜にせられん、劍にて殺す者はおのれも劍にて殺さるべし、聖徒たちの忍耐と信仰とは茲にあり。
13:11我また他の獸の地より上るを見たり。これに羔羊のごとき角二つありて龍のごとく語り、 13:12先の獸の凡ての權威を彼の前にて行ひ、地と地に住む者とをして死ぬべき傷の醫されたる先の獸を拜せしむ。 13:13また大なる徴をおこなひ、人々の前にて火を天より地に降らせ、 13:14かの獸の前にて行ふことを許されし徴をもて地に住む者どもを惑し、劍にうたれてなほ生ける獸の像を造ることを地に住む者どもに命じたり。 13:15而してその獸の像に息を與へて物言はしめ、且その獸の像を拜せぬ者をことごとく殺さしむる事を許され、 13:16また凡ての人をして、大小・貧富・自主・奴隷の別なく、或はその右の手、あるいは其の額に徽章を受けしむ。 13:17この徽章を有たぬ凡ての者に賣買することを得ざらしめたり。その徽章は獸の名、もしくは其の名の數字なり。 13:18智慧は茲にあり、心ある者は獸の數字を算へよ。獸の數字は人の數字にして、その數字は六百六十六なり。
第14章
14:1われ見しに、視よ、羔羊シオンの山に立ちたまふ。十四萬四千の人これと偕に居り、その額には羔羊の名および羔羊の父の名記しあり。 14:2われ天よりの聲を聞けり、多くの水の音のごとく、大なる雷霆の聲のごとし。わが聞きし此の聲は彈琴者の立琴を彈く音のごとし。 14:3かれら新しき歌を御座の前および四つの活物と長老たちとの前にて歌ふ。この歌は地より贖はれたる十四萬四千人の他は誰も學びうる者なかりき。 14:4彼らは女に汚されぬ者なり、潔き者なり、何處にまれ羔羊の往き給ふところに隨ふ。彼らは人の中より贖はれて神と羔羊とのために初穗となれり。 14:5その口に虚僞なし、彼らは瑕なき者なり。
14:6我また他の御使の中空を飛ぶを見たり。かれは地に住むもの、即ちもろもろの國・族・國語・民に宣傳へんとて、永遠の福音を携へ、 14:7大聲にて言ふ『なんぢら神を畏れ、神に榮光を歸せよ。その審判のとき既に至りたればなり。汝ら天と地と海と水の源泉とを造り給ひし者を拜せよ』
14:8ほかの第二の御使、かれに從ひて言ふ『倒れたり、倒れたり。大なるバビロン、己が淫行より出づる憤恚の葡萄酒をもろもろの國人に飮ませし者』
14:9ほかの第三の御使、かれらに從ひ大聲にて言ふ『もし獸とその像とを拜し、且その額あるいは手に徽章を受くる者あらば、 14:10必ず神の怒の酒杯に盛りたる混りなき憤恚の葡萄酒を飮み、かつ聖なる御使たち及び羔羊の前にて、火と硫黄とにて苦しめらるべし。 14:11その苦痛の煙は世々限りなく立ち昇りて、獸とその像とを拜する者、また其の名の徽章を受けし者は、夜も晝も休息を得ざらん。 14:12神の誡命とイエスを信ずる信仰とを守る聖徒の忍耐は茲にあり』
14:13我また天より聲ありて『書き記せ「今よりのち主にありて死ぬる死人は幸福なり」御靈も言ひたまふ「然り、彼等はその勞役を止めて息まん。その業これに隨ふなり」』と言ふを聞けり。
14:14また見しに、視よ、白き雲あり、その雲の上に人の子の如きもの坐して、首には金の冠冕をいただき、手には利き鎌を持ちたまふ。 14:15又ほかの御使、聖所より出で、雲のうへに坐したまふ者にむかひ、大聲に呼はりて『なんぢの鎌を入れて刈れ、地の穀物は全く熟し、既に刈り取るべき時至ればなり』と言ふ。 14:16かくて雲の上に坐したまふ者その鎌を地に入れたれば、地の穀物は刈り取られたり。
14:17又ほかの御使、天の聖所より出で、同じく利き鎌を持てり。 14:18又ほかの火を掌どる御使、祭壇より出で、利き鎌を持つ者にむかひ大聲に呼はりて『なんぢの利き鎌を入れて地の葡萄の樹の房を刈り收めよ、葡萄は既に熟したり』と言ふ。 14:19御使その鎌を地に入れて地の葡萄を刈りをさめ、神の憤恚の大なる酒槽に投げ入れたり。 14:20かくて都の外にて酒槽を踐みしに、血酒槽より流れ出でて馬の轡に達くほどになり、一千六百町に廣がれり。
第15章
15:1我また天に他の大なる怪しむべき徴を見たり。即ち七人の御使ありて最後の七つの苦難を持てり、神の憤恚は之にて全うせらるるなり。
15:2我また火の混りたる玻璃の海を見しに、獸とその像とその名の數字とに勝ちたる者ども、神の立琴を持ちて玻璃の海の邊に立てり。 15:3彼ら神の僕モーセの歌と羔羊の歌とを歌ひて言ふ
『主なる全能の神よ、なんぢの御業は大なるかな、妙なるかな、萬國の王よ、なんぢの道は義なるかな、眞なるかな。 15:4主よ、たれか汝を畏れざる、誰か御名を尊ばざる、汝のみ聖なり、諸種の國人きたりて御前に拜せん。なんぢの審判は既に現れたればなり』
15:5この後われ見しに、天にある證の幕屋の聖所ひらけて、 15:6かの七つの苦難を持てる七人の御使、きよき輝ける亞麻布を著、金の帶を胸に束ねて聖所より出づ。 15:7四つの活物の一つ、その七人の御使に、世々限りなく生きたまふ神の憤恚の滿ちたる七つの金の鉢を與へしかば、 15:8聖所は神の榮光とその權力とより出づる煙にて滿ち、七人の御使の七つの苦難の終るまでは、誰も聖所に入ること能はざりき。
第16章
16:1我また聖所より大なる聲ありて、七人の御使に『往きて神の憤恚の七つの鉢を地の上に傾けよ』と言ふを聞けり。
16:2かくて第一の者ゆきて其の鉢を地の上に傾けたれば、獸の徽章を有てる人々とその像を拜する人々との身に、惡しき苦しき腫物生じたり。
16:3第二の者その鉢を海の上に傾けたれば、海は死人の血の如くなりて、海にある生物ことごとく死にたり。
16:4第三の者その鉢をもろもろの河と、もろもろの水の源泉との上に傾けたれば、みな血となれり。 16:5われ水を掌どる御使の『いま在し昔います聖なる者よ、なんぢの斯く定め給ひしは正しき事なり。 16:6彼らは聖徒と預言者との血を流したれば、之に血を飮ませ給ひしは相應しきなり』と云へるを聞けり。 16:7我また祭壇の物言ふを聞けり『然り、主なる全能の神よ、なんぢの審判は眞なるかな、義なるかな』と。
16:8第四の者その鉢を太陽の上に傾けたれば、太陽は火をもて人を燒くことを許さる。 16:9かくて人々烈しき熱に燒かれて、此等の苦難を掌どる權威を有たちまふ神の名を涜し、かつ悔改めずして神に榮光を歸せざりき。
16:10第五の者その鉢を獸の座位の上に傾けたれば、獸の國暗くなり、その國人痛によりて己の舌を齧み、 16:11その痛と腫物とによりて天の神を涜し、かつ己が行爲を悔改めざりき。
16:12第六の者その鉢を大なる河ユウフラテの上に傾けたれば、河の水涸れたり。これ日の出づる方より來る王たちの途を備へん爲なり。 16:13我また龍の口より、獸の口より、僞預言者の口より、蛙のごとき三つの穢れし靈の出づるを見たり。 16:14これは徴をおこなふ惡鬼の靈にして、全能の神の大なる日の戰鬪のために全世界の王たちを集めんとて、その許に出でゆくなり。 16:15(視よ、われ盜人のごとく來らん、裸にて歩み羞所を見らるることなからん爲に、目を覺してその衣を守る者は幸福なり) 16:16かの三つの靈、王たちをヘブル語にてハルマゲドンと稱ふる處に集めたり。
16:17第七の者その鉢を空中に傾けたれば、聖所より御座より大なる聲いでて『事すでに成れり』と言ふ。 16:18かくて數多の電光と聲と雷霆とあり、また大なる地震おこれり、人の地の上に在りし以來かかる大なる地震なかりき。 16:19大なる都は三つに裂かれ、諸國の町々は倒れ、大なるバビロンは神の前におもひ出されて、劇しき御怒の葡萄酒を盛りたる酒杯を與へられたり。 16:20凡ての島は逃げさり、山は見えずなれり。 16:21また天より百斤ほどの大なる雹、人々の上に降りしかば、人々雹の苦難によりて神を涜せり。是その苦難甚だしく大なればなり。
第17章
17:1七つの鉢を持てる七人の御使の一人きたり、我に語りて言ふ『來れ、われ多くの水の上に坐する大淫婦の審判を汝に示さん。 17:2地の王たちは之と淫をおこなひ、地に住む者らは其の淫行の葡萄酒に醉ひたり』 17:3かくてわれ御靈に感じ、御使に携へられて荒野にゆき、緋色の獸に乘れる女を見たり、この獸の體は神を涜す名にて覆はれ、また七つの頭と十の角とあり。 17:4女は紫色と緋とを著、金・寶石・眞珠にて身を飾り、手には憎むべきものと己が淫行の汚とにて滿ちたる金の酒杯を持ち、 17:5額には記されたる名あり。曰く『奧義大なるバビロン、地の淫婦らと憎むべき者との母』 17:6我この女を見るに、聖徒の血とイエスの證人の血とに醉ひたり。我これを見て大に怪しみたれば、 17:7御使われに言ふ『なにゆゑ怪しむか、我この女と之を乘せたる七つの頭、十の角ある獸との奧義を汝に告げん。 17:8なんぢの見し獸は前に有りしも今あらず、後に底なき所より上りて滅亡に往かん、地に住む者にて世の創より其の名を生命の書に記されざる者は、獸の前にありて今あらず、後に來るを見て怪しまん。 17:9智慧の心は茲にあり。七つの頭は女の坐する七つの山なり、また七人の王なり。 17:10五人は既に倒れて一人は今あり、他の一人は未だ來らず、來らば暫時のほど止るべきなり。 17:11前にありて今あらぬ獸は第八なり、前の七人より出でたる者にして滅亡に往くなり。 17:12汝の見し十の角は十人の王にして未だ國を受けざれども、一時のあひだ獸と共に王のごとき權威を受くべし。 17:13彼らは心を一つにして己が能力と權威とを獸にあたふ。 17:14彼らは羔羊と戰はん。而して羔羊かれらに勝ち給ふべし、彼は主の主、王の王なればなり。これと偕なる召されたるもの、選ばれたるもの、忠實なる者も勝を得べし』 17:15御使また我に言ふ『なんぢの見し水、すなわち淫婦の坐する處は、もろもろの民・群衆・國・國語なり。 17:16なんぢの見し十の角と獸とは、かの淫婦を憎み、之をして荒涼ばしめ、裸ならしめ、且その肉を喰ひ、火をもて之を燒き盡さん。 17:17神は彼らに御旨を行ふことと、心を一つにすることと、神の御言の成就するまで國を獸に與ふることとを思はしめ給ひたればなり。 17:18なんぢの見し女は地の王たちを宰どる大なる都なり』
第18章
18:1この後また他の一人の御使の大なる權威を有ちて天より降るを見しに、地はその榮光によりて照されたり。 18:2かれ強き聲にて呼はりて言ふ『大なるバビロンは倒れたり、倒れたり、かつ惡魔の住家、もろもろの穢れたる靈の檻、もろもろの穢れたる憎むべき鳥の檻となれり。 18:3もろもろの國人はその淫行の憤恚の葡萄酒を飮み、地の王たちは彼と淫をおこなひ、地の商人らは彼の奢の勢力によりて富みたればなり』
18:4また天より他の聲あるを聞けり。曰く『わが民よ、かれの罪に干らず、彼の苦難を共に受けざらんため、その中を出でよ。 18:5かれの罪は積りて天にいたり、神その不義を憶え給ひたればなり。 18:6彼が爲しし如く彼に爲し、その行爲に應じ倍して之を報い、かれが酌み與へし酒杯に倍して之に酌み與へよ。 18:7かれが自ら尊びみづから奢りしと同じほどの苦難と悲歎とを之に與へよ。彼は心のうちに「われは女王の位に坐する者にして寡婦にあらず、決して悲歎を見ざるべし」と言ふ。 18:8この故に、さまざまの苦難、一日のうちに彼の身にきたらん、即ち死と悲歎と饑饉となり。彼また火にて燒き盡されん、彼を審きたまふ主なる神は強ければなり。 18:9彼と淫をおこなひ、彼とともに奢りたる地の王たちは、其の燒かるる煙を見て泣きかつ歎き、 18:10その苦難を懼れ、遙に立ちて「禍害なるかな、禍害なるかな、大なる都、堅固なる都バビロンよ、汝の審判は時の間に來れり」と言はん。 18:11地の商人かれが爲に泣き悲しまん。今より後その商品を買ふ者なければなり。 18:12その商品は金・銀・寶石・眞珠・細布・紫色・絹・緋色および各樣の香木、また象牙のさまざまの器、價貴き木、眞鍮・鐵・蝋石などの各樣の器、 18:13また肉桂・香料・香・香油・乳香・葡萄酒・オリブ油・麥粉・麥・牛・羊・馬・車・奴隷および人の靈魂なり。 18:14なんぢの靈魂の嗜みたる果物は汝を去り、すべての美味、華美なる物は亡びて汝を離れん、今より後これを見ること無かるべし。 18:15これらの物を商ひ、バビロンに由りて富を得たる商人らは、其の苦難を懼れて遙に立ち、泣き悲しみて言はん、 18:16「禍害なるかな、禍害なるかな、細布と紫色と緋とを著、金・寶石・眞珠をもて身を飾りたる大なる都、 18:17斯ばかり大なる富の時の間に荒涼ばんとは」而して凡ての船長、すべて海をわたる人々、舟子および海によりて生活を爲すもの遙かに立ち、 18:18バビロンの燒かるる煙を見て叫び「いづれの都か、この大なる都に比ぶべき」と言はん。 18:19彼等また塵をおのが首に被りて泣き悲しみ叫びて「禍害なるかな、禍害なるかな、此の大なる都、その奢によりて海に船を有てる人々の富を得たる都、かく時の間に荒涼ばんとは」と言はん。 18:20天よ、聖徒・使徒・預言者よ、この都につきて喜べ、神なんぢらの爲に之を審き給ひたればなり』
18:21ここに一人の強き御使、大なる碾臼のごとき石を擡げ海に投げて言ふ『おほいなる都バビロンは斯くのごとく烈しく撃ち倒されて、今より後見えざるべし。 18:22今よりのち立琴を彈くもの、樂を奏するもの、笛を吹く者、ラッパを鳴す者の聲なんぢの中に聞えず、今より後さまざまの細工をなす細工人なんぢの中に見えず、碾臼の音なんぢの中に聞えず、 18:23今よりのち燈火の光なんぢの中に輝かず、今よりのち新郎・新婦の聲なんぢの中に聞えざるべし。そは汝の商人は地の大臣となり、諸種の國人はなんぢの咒術に惑され、 18:24また預言者・聖徒および凡て地の上に殺されし者の血は、この都の中に見出されたればなり』
第19章
19:1この後われ天に大なる群衆の大聲のごとき者ありて、かく言ふを聞けり。曰く
『ハレルヤ、救と榮光と權力とは、我らの神のものなり。 19:2その御審は眞にして義なるなり、己が淫行をもて地を汚したる大淫婦を審き、神の僕らの血の復讐を彼になし給ひしなり』
19:3また再び言ふ『ハレルヤ、彼の燒かるる煙は世々限りなく立ち昇るなり』 19:4ここに二十四人の長老と四つの活物と平伏して御座に坐したまふ神を拜し『アァメン、ハレルヤ』と言へり。 19:5また御座より聲出でて言ふ
『すべて神の僕たるもの、神を畏るる者よ、小なるも大なるも、我らの神を讃め奉れ』
19:6われ大なる群衆の聲おほくの水の音のごとく、烈しき雷霆の聲の如きものを聞けり。曰く
『ハレルヤ全能の主、われらの神は統治らすなり。 19:7われら喜び樂しみて之に榮光を歸し奉らん。そは羔羊の婚姻の時いたり、既にその新婦みづから準備したればなり。 19:8彼は輝ける潔き細布を著ることを許されたり、此の細布は聖徒たちの正しき行爲なり』
19:9御使また我に言ふ『なんぢ書き記せ、羔羊の婚姻の宴席に招かれたる者は幸福なり』と。また我に言ふ『これ神の眞の言なり』 19:10我その足下に平伏して拜せんとしたれば、彼われに言ふ『愼みて然すな、我は汝およびイエスの證を保つ汝の兄弟とともに僕たるなり。なんぢ神を拜せよ、イエスの證は即ち預言の靈なり』
19:11我また天の開けたるを見しに、視よ、白き馬あり、之に乘りたまふ者は「忠實また眞」と稱へられ、義をもて審きかつ戰ひたまふ。 19:12彼の目は焔のごとく、その頭には多くの冠冕あり、また記せる名あり、之を知る者は彼の他になし。 19:13彼は血に染みたる衣を纏へり、その名は「神の言」と稱ふ。 19:14天に在る軍勢は白く潔き細布を著、白き馬に乘りて彼にしたがふ。 19:15彼の口より利き劍いづ、之をもて諸國の民をうち、鐵の杖をもて之を治め給はん。また自ら全能の神の烈しき怒の酒槽を踐みたまふ。 19:16その衣と股とに『王の王、主の主』と記せる名あり。
19:17我また一人の御使の太陽のなかに立てるを見たり。大聲に呼はりて、中空を飛ぶ凡ての鳥に言ふ『いざ、神の大なる宴席に集ひきたりて、 19:18王たちの肉、將校の肉、強き者の肉、馬と之に乘る者との肉、すべての自主および奴隷、小なるもの大なる者の肉を食へ』
19:19我また獸と地の王たちと彼らの軍勢とが相集りて、馬に乘りたまふ者および其の軍勢に對ひて戰鬪を挑むを見たり。 19:20かくて獸は捕へられ、又その前に不思議を行ひて獸の徽章を受けたる者と、その像を拜する者とを惑したる僞預言者も、之とともに捕へられ、二つながら生きたるまま硫黄の燃ゆる火の池に投げ入れられたり。 19:21その他の者は馬に乘りたまふ者の口より出づる劍にて殺され、凡ての鳥その肉を食ひて飽きたり。
第20章
20:1我また一人の御使の底なき所の鍵と大なる鎖とを手に持ちて、天より降るを見たり。 20:2彼は龍、すなわち惡魔たりサタンたる古き蛇を捕へて、之を千年のあひだ繋ぎおき、 20:3底なき所に投げ入れ閉ぢ込めて、その上に封印し、千年の終るまでは諸國の民を惑すことなからしむ。その後、暫時のあひだ解放さるべし。
20:4我また多くの座位を見しに、之に座する者あり、審判する權威を與へられたり。我またイエスの證および神の御言のために馘られし者の靈魂、また獸をもその像をも拜せず、己が額あるいは手にその徽章を受けざりし者どもを見たり。彼らは生きかへりて千年の間キリストと共に王となれり。 20:5(その他の死人は千年の終るまで生きかへらざりき)これは第一の復活なり。 20:6幸福なるかな、聖なるかな、第一の復活に干る人。この人々に對して第二の死は權威を有たず、彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年のあひだ王たるべし。
20:7千年終りて後サタンは其の檻より解放たれ、 20:8出でて地の四方の國の民、ゴグとマゴグとを惑し戰鬪のために之を集めん、その數は海の砂のごとし。 20:9かくて彼らは地の全面に上りて、聖徒たちの陣營と愛せられたる都とを圍みしが、天より火くだりて彼等を燒き盡し、 20:10彼らを惑したる惡魔は、火と硫黄との池に投げ入れられたり。ここは獸も僞預言者もまた居る所にして、彼らは世々限りなく晝も夜も苦しめらるべし。
20:11我また大なる白き御座および之に座し給ふものを見たり。天も地もその御顏の前を遁れて跡だに見えずなりき。 20:12我また死にたる者の大なるも小なるも御座の前に立てるを見たり。而して數々の書展かれ、他にまた一つの書ありて展かる、即ち生命の書なり、死人は此等の書に記されたる所の、その行爲に隨ひて審かれたり。 20:13海はその中にある死人を出し、死も陰府もその中にある死人を出したれば、各自その行爲に隨ひて審かれたり。 20:14かくて死も陰府も火の池に投げ入れられたり、此の火の池は第二の死なり。 20:15すべて生命の書に記されぬ者はみな火の池に投げ入れられたり。
第21章
21:1我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。 21:2我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許をいで、天より降るを見たり。 21:3また大なる聲の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、 21:4かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく、悲歎も號叫も苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり』 21:5かくて御座に坐し給ふもの言ひたまふ『視よ、われ一切のものを新にするなり』また言ひたまふ『書き記せ、これらの言は信ずべきなり、眞なり』 21:6また我に言ひたまふ『事すでに成れり、我はアルパなり、オメガなり、始なり、終なり、渇く者には價なくして生命の水の泉より飮むことを許さん。 21:7勝を得る者は此等のものを嗣がん、我はその神となり、彼は我が子とならん。 21:8されど臆するもの、信ぜぬもの、憎むべきもの、人を殺すもの、淫行のもの、咒術をなすもの、偶像を拜する者および凡て僞る者は、火と硫黄との燃ゆる池にて其の報を受くべし、これ第二の死なり』
21:9最後の七つの苦難の滿ちたる七つの鉢を持てる七人の御使の一人きたり、我に語りて言ふ『來れ、われ羔羊の妻なる新婦を汝に見せん』 21:10御使、御靈に感じたる我を携へて大なる高き山にゆき、聖なる都エルサレムの、神の榮光をもて神の許を出でて天より降るを見せたり。 21:11その都の光輝はいと貴き玉のごとく、透徹る碧玉のごとし。 21:12此處に大なる高き石垣ありて十二の門あり、門の側らに一人づつ十二の御使あり、門の上に一つづつイスラエルの子孫の十二の族の名を記せり。 21:13東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門あり。 21:14都の石垣には十二の基あり、これに羔羊の十二の使徒の十二の名を記せり。 21:15我と語る者は都と門と石垣とを測らん爲に金の間竿を持てり。 21:16都は方形にして、その長さ廣さ相均し。彼は間竿にて都を測りしに一千二百町あり、長さ廣さ高さみな相均し。 21:17また石垣を測りしに、人の度すなはち御使の度に據れば百四十四尺あり。 21:18石垣は碧玉にて築き、都は清らかなる玻璃のごとき純金にて造れり。 21:19都の石垣の基はさまざまの寶石にて飾れり。第一の基は碧玉、第二は瑠璃、第三は玉髓、第四は緑玉、 21:20第五は紅縞瑪瑙、第六は赤瑪瑙、第七は貴橄欖石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十は緑玉髓、第十一は青玉、第十二は紫水晶なり。 21:21十二の門は十二の眞珠なり、おのおのの門は一つの眞珠より成り、都の大路は透徹る玻璃のごとき純金なり。 21:22われ都の内にて宮を見ざりき、主なる全能の神および羔羊はその宮なり。 21:23都は日月の照すを要せず、神の榮光これを照し、羔羊はその燈火なり。 21:24諸國の民は都の光のなかを歩み、地の王たちは己が光榮を此處にたづさへきたる。 21:25都の門は終日閉ぢず(此處に夜あることなし) 21:26人々は諸國の民の光榮と尊貴とを此處にたづさえ來らん。 21:27凡て穢れたる者また憎むべき事と虚僞とを行ふ者は、此處に入らず、羔羊の生命の書に記されたる者のみ此處に入るなり。
第22章
22:1御使また水晶のごとく透徹れる生命の水の河を我に見せたり。この河は神と羔羊との御座より出でて都の大路の眞中を流る。 22:2河の左右に生命の樹ありて十二種の實を結び、その實は月毎に生じ、その樹の葉は諸國の民を醫すなり。 22:3今よりのち詛はるべき者は一つもなかるべし。神と羔羊との御座は都の中にあり。その僕らは之に事へ、 22:4且その御顏を見ん、その御名は彼らの額にあるべし。 22:5今よりのち夜ある事なし、燈火の光をも日の光をも要せず、主なる神かれらを照し給へばなり。彼らは世々限りなく王たるべし。
22:6彼また我に言ふ『これらの言は信ずべきなり、眞なり、預言者たちの靈魂の神たる主は、速かに起るべき事をその僕どもに示さんとて、御使を遣し給へるなり。 22:7視よ、われ速かに到らん、この書の預言の言を守る者は幸福なり』
22:8これらの事を聞き、かつ見し者は我ヨハネなり。かくて見聞せしとき我これらの事を示したる御使の足下に平伏して拜せんとせしに、 22:9かれ言ふ『つつしみて然すな、われは汝および汝の兄弟たる預言者、また此の書の言を守る者と等しく僕たるなり、なんじ神を拜せよ』
22:10また我に言ふ『この書の預言の言を封ずな、時近ければなり。 22:11不義をなす者はいよいよ不義をなし不淨なる者はいよいよ不淨をなし、義なる者はいよいよ義をおこなひ、清き者はいよいよ清くすべし。 22:12視よ、われ報をもて速かに到らん、各人の行爲に隨ひて之を與ふべし。 22:13我はアルパなり、オメガなり、最先なり、最後なり、始なり、終なり、 22:14おのが衣を洗ふ者は幸福なり、彼らは生命の樹にゆく權威を與へられ、門を通りて都に入ることを得るなり。 22:15犬および咒術をなすもの、淫行のもの、人を殺すもの、偶像を拜する者、また凡て虚僞を愛して之を行ふ者は外にあり。
22:16われイエスは我が使を遣して諸教會のために此等のことを汝らに證せり。我はダビデの萠蘗また其の裔なり、輝ける曙の明星なり』
22:17御靈も新婦もいふ『來りたまへ』聞く者も言へ『きたり給へ』と、渇く者はきたれ、望む者は價なくして生命の水を受けよ。
22:18われ凡てこの書の預言の言を聞く者に證す。もし之に加ふる者あらば、神はこの書に記されたる苦難を彼に加へ給はん。 22:19若しこの預言の書の言を省く者あらば、神はこの書に記されたる生命の樹、また聖なる都より彼の受くべき分を省き給はん。
22:20これらの事を證する者いひ給ふ『然り、われ速かに到らん』アァメン、主イエスよ、來りたまへ。
22:21願はくは主イエスの恩惠なんぢら凡ての者と偕に在らんことを。
http://bible.salterrae.net/taisho/html/revelation.html
http://bible.salterrae.net/taisho/html/
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難解と言われるヨハネの黙示録の意味は C・G・ユングが『ヨブへの答え』で解明しています。
ヨブへの答え – 1988/3/11
C.G. ユング (著), 林 道義 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A8%E3%83%96%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%AD%94%E3%81%88-C-G-%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0/dp/4622012189
ヨハネの黙示録はヨハネの実際に体験した白昼夢(幻視)をそのまま正確に文章化したものなので、深層心理学の専門家でないとその意味はわからないのですね。
ヨハネの黙示録は周囲から聖者とされている禁欲者のルサンチマンを表現しているというのがユングの解釈です。
マザー・テレサが典型ですが、ずっと聖者でいる事を強いられると性格が悪くなるのですね:
C.G.ユングの『ヨブへの答え』(原書1952)は非常に面白い。
邦訳は二種類(野村美紀子訳/ヨルダン社、林道義訳/みすず書房)。
ユングは、神を「集合的無意識」として、すなわち、ある時代の民衆の心の無意識的な働きの対象として捉える。
神は物理的事実としては存在しないが、心理的事実としては、十分に実在的である。つまり、神を一種の社会心理学的対象と見るわけである。すると、「神」は決して不変の対象ではなく、歴史的に変容する心理的事実の問題になる。
そのように見た場合、『ヨブ記』は、ユダヤ−キリスト教における神概念の転換を予告する決定的な位置にある。つまり、無意識のレベルに根ざす荒々しい怒りの神であったヤハウェ神は、人間の意識が高まるにつれて、普遍的な愛の神であるキリスト教の神に変容を余儀なくされる。
その転換点を象徴するのが『ヨブ記』におけるヨブとヤハウェの対決であり、『ヨブ記』は、ヤハウェがヨブを力ずくで屈服させたように見えるけれど、実際は、ヤハウェはヨブに敗北したというのがユングの見解である。ユングは言う、「ヨブはヤハウェより道徳的に上に立った。この点では、被造物が創造主を追い越したのである」(みすず版、p68)。
「被造物が創造主を追い越す」などということが、なぜ起きたのであろうか。
ヤハウェは世界の宗教でも珍しい、「無から世界を創造した」神である。これほどの神であれば、その全能の力と知恵は絶大だと思われるかもしれないが、ユングによれば、そうではない。
「世界創造主が意識的な存在であるという素朴な仮定はゆゆしい偏見と言わざるをえない。なぜならその仮定は後に信じがたいほどの論理的な矛盾を生み出したからである。
・・・それに対して神が無意識であり無反省であると仮定すれば、神の行為を道徳的判断の対象とせず、善なる面と恐ろしい面とを矛盾とは見ない見方が可能になる」(p38)。
これはなかなか面白い指摘だ。「無からの創造」を行ったヤハウェは、我々の予想とは違って、無意識で、無反省で、知恵を欠いた神なのである。
ユングによれば、『旧約』におけるヤハウェの「予想もつかない気紛れや破壊的な怒りの発作は昔から有名であった。彼は嫉妬深い道徳の番人として知られ、・・・彼の独特の人格は古代の王にそっくりで・・・、人間の不実な心と密かな思いとを不信の目で探り出そうとする」(p18)。
たしかに疑い深いヤハウェは、サタンにヨブを「試させ」た。精神分析家としてのユングの判定によれば、
「このようなヤハウェの性格を判断すると、それは客体によってしか自分の存在感をもてない人格に相当することが分かる。主体が自己反省せず、したがって自分自身への洞察を持たないときには、客体への依存は絶対である」(p21)。
「無からの創造」を行った神は、それが取り柄だとすれば、「客体によってしか自分の存在感をもてない」神であるともいえる。
ヨブの前に現れたヤハウェは、自分が創造した客体をいちいち列挙して創造主であることを自慢することしかできなかったが、これによってヤハウェは、自分が「客体によってしか自分の存在感をもてない」人格であることを証明してしまった。
圧倒的に強い力を持つ創造主ヤハウェも、反省的意識を欠いている点で、大きな弱点をもっている。それを明らかにしたのが、弱い人間であるヨブである。
なぜ被造物ヨブが、創造主ヤハウェを追い越すことができたのか。それはヤハウェにない自己反省の意識をヨブが持つからである。
「力ある者に対して小さく弱く頼りないために、人間は、すでに示唆したように、自己反省に基づいて意識がその者よりは少しばかり鋭くなっている。つまり人間は生きていくためには、乱暴な神に対する自らの無力をつねに意識していなければならない。神の方はこうした用心を必要としない。神は自分が障害に出会うことがないからである。」(p26)
では、『ヨブ記』で「被造物に追い越された」創造主ヤハウェは、そのまま敗退したのだろうか。
そうではない。人間に追い越された神は、反省して、「人間にならなければならない」と考えた。つまり「神が人間になる」というイエスの誕生である。
ユングは、『ヨブ記』から『新約』までの数百年間に位置する、『ソロモンの箴言』『シラクの息子イエスの知恵』『エノク書』などの文書を通じて、「神の息子イエス」の先駆的形態が生まれつつあることに注目する。
「神の息子」が生まれるためには、「母」がいなくてはならない。男性神ヤハウェだけでは、「神が人間になる」ことはできない。ヤハウェに子が生まれるためには、女性性が準備されなくてはならないが、『ソロモンの箴言』に登場する「ソフィア(=知恵)」という女性名こそ、実はヤハウェの妻であるべき女性性の神話的形象であるというのが、ユングの説である。
だが、男性性が過剰であったヤハウェ神をもとにしたユダヤ―キリスト教には、実際にはヤハウェの妻が登場することはできなかった。それを代償するのが、「イエスの母である人間マリア」であるが、マリアは「聖母マリア」でもある。ユングによれば、1950年にローマ法王が出した「マリア被昇天」の教義によって、父なる神の妻がついに天上にその位置を占めたという。
『ヨブ記』に始まった神の変容は、2500年かけて完成した。
また、無意識の神ヤハウェがキリスト教の愛の神に変容したあとも、無意識そのものはなくならないので、そのような無意識における荒々しい暗黒の神が噴出したのが、『ヨハネの黙示録』であるとする。
このあたりのユング説は、あまりに面白すぎるので、慎重な吟味が必要かもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/charis/20060823
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ドストエーフスキイ全作品を読む会 『読書会通信』No.164(2017)
チホンvsスタヴローギン 二つの疑問 下原 康子
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/akuryoumeta.html
ドストエフスキーの『悪霊』(1871)の「スタヴローギンの告白−チホンのもとで」の章はそれこそ様々な議論の的になっているが、ここでは、チホンとスタヴローギンの会話の中で、私自身、気になった二箇所について想像を交えて触れてみたい。
1.トルストイへのオマージュ?
気づまりな雰囲気で始まったばかりの二人の会話を、スタヴローギンが唐突に打ち切って、(壁に貼られていたと思われる)地図について訊ねる場面がある。
「ふむ・・・・ところであの地図はなんの地図です?おや、この前の戦争の地図だ!なんのためにこんなものを?」
「地図と本文を対照しておるのです。たいへんおもしろい記録でしてな」
「見せてください。なるほど、文章は悪くない。それにしても、あなたにしては奇妙な読み物ですね」
彼は本を引き寄せて、ちらとそれをのぞいた。それは、この前の戦争の状況の膨大な、才能ゆたかな記録であったが、軍事的というより、むしろ純文学的な見地から見てそう言えるものだった。しばらく本をひねくりまわしていてから、急に彼はもどかしげにそれを突き返した。(江川卓訳)
これだけの記述だが、リュドミラ・サラスキナさんの「ドストエフスキーの創作原理からすれば、偶然のディテールはない」という主張に賛同している者としては、<この純文学的見地から見て才能豊かな本>について気にしないわけにはいかない。
まず浮かんだのはトルストイの『戦争と平和』(1869)だが、ロシアのナポレオン戦争(1812)を「この前の戦争」とは言わないだろう。トルストイの年譜を見たら1853年のクリミア戦争で将校として従軍し、セヴァストーポリで激戦に参加し、その体験を『セヴァストーポリ』(1855-56年) という作品に結実させたとあった。
手元にあった米川正夫訳「トルストイ全集2」にこの作品が収録されていた。100頁を超える中編である。(この全集は49歳で早世した親友の伊東佐紀子さんの遺品である)
これがチホンが読んでいた本だと思われる。
それにしても、ドストエフスキーは何のためにこの挿話を入れたのだろうか。
チホンの複雑な性格に何か付け加えるためだろうか、それとも、ドストエフスキーからトルストイに向けたオマージュであろうか。
ドストエフスキー(1821-1881)とトルストイ(1828-1910)はまさしく同時代を生きたロシアの二大文豪である。しかし、直接あいまみえたことはなかったようだ。
「スタヴローギンの告白ーチホンのもとにて」の章は、当初第2部第8章の「イワン皇子」のすぐあとに続く章として書かれたが雑誌掲載を断られた。
その後「告白」の存在は知られることなく、半世紀近くが過ぎた1921年(ドストエフスキー没後40年かつ生誕100年)に原稿が発見されるまで陽の目を見なかった。
したがって、トルストイが「告白」を読んだ可能性はない。だが、もし、読んでいたとしたら『セヴァストーポリ』の挿話をドストエフスキーからのなんらかのメッセージと感じたろうか。
2.『悪霊』第三のメタファ 「熱い・冷たい・ぬるい」
スタヴローギンとチホンは無心論について以下の会話を交わす。
「でも、神を信じないで、悪霊だけを信じることができますかね?」
「おお、できますとも、どこでもそんなものです」
「あなたはそういう信仰でも、完全な無信仰よりはまだしもと認めてくださるでしょうね・・・」
「それどころか、完全なる無神論でさえ、世俗的な無関心よりはましです」(江川卓訳)
このやり取りのあとで、スタヴローギンはなぜか奇妙にそわそわとうろたえ気味になり、
「では、覚えておられますか、『ラオデキヤにある教会に書き送れ』とか?」
と尋ねる。チホンは即座に「ヨハネの黙示禄第8章」の該当箇所を暗唱する。
「ラオデキヤに在る教会の使いに書き送れ。
アーメンたる者、忠実なる真なる証人、神の造りたもうものの本源たる者かく言う、われ汝のおこないを知る。
汝は冷やかにもあらず熱きにもあらず、われはむしろ汝が冷やかならんか、熱からんかを願う。
かく熱きにもあらず、冷やかにもあらず、ただぬるきゆえに、われ汝をわが口より吐き出さん。
汝、われは富めり、豊かなり、乏しきところなしと言いて、己が悩める者、憐れむべき者、貧しき者、盲目なる者、裸なる者たるを知らざれば・・・」
(ヨハネの黙示録 章3)
「たくさんです」スタヴローギンが口を入れた。
「実はですね、ぼくあなたが大好きなんです」
「私もあなたが好きですな」
チホンが小声で答える。(江川卓 訳)
チホンはスタヴローギンの心理に深く入り込み、読む前から「告白」の意味するところを予感していたかのように見える。チホンは言う。
「あなたはただぬるきものでありたくないと思われた。
あなたは異常な意図に、おそらくは、おそろしい企画に押しひしがれておられるように思いますぞ」
この同じヨハネの黙示録の一節が、『悪霊』3部第7章のステパン氏臨終の場面で、福音書売りのソフィアによって朗読される。
ステパンの頼みに応じて、ソフィアがあてずっぽ開いて読み上げたのが偶然にもこの一節だった。ステパンは目をきらきらさせ、枕から頭を起こしながら
「ぼくはそんな偉大な箇所があろうとは、ついぞ知らなかった!」
と叫ぶ。それから急激に衰弱していく中で、
「もう一か所、読んでもらえますか・・・豚のところを」
と頼み込む。朗読を聞いたステパン氏は興奮しうわごとを言いはじめ意識を失いやがて死ぬ。
ここからは私の想像だ。「告白」の発表が不可能になったことを受けて、ドストエフスキーは、この「ヨハネの黙示禄の一節」を、エピグラムに掲げた二つのメタファ(「豚の群れに入って溺れる悪霊ども」と「プーシキンの詩の悪鬼」)に加えるべく、第三のメタファとして物語の最後に提示したのではないだろうか。
「冷たい・熱い・ぬるい」から想起されるのは、『マクベス』の魔女の「きれいは汚い、汚いはきれい」である。
ドストエフスキーの小説には、『悪霊』に限らず、このオクシモロン(矛盾撞着技法)的な登場人物が少なからずみうけられる。
『悪霊』における「冷たい・熱い・ぬるい」から見た人物像 (逡巡しつつ・・・)
熱い 冷たい ぬるい
http://dokushokai.shimohara.net/meddost/akuryoumeta.html
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(スラヴ圏)スラヴのコスモロジー
〈「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉
http://www.stakaha.com/?activitycat=%E3%80%8E%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2%E3%80%8F
長編小説『白痴』の時代は、ドストエフスキーにとって「ローマ帝国」の強力な軍事力でユダヤの反乱が鎮圧され、さらにキリスト教徒が弾圧された時代に書かれた『ヨハネの黙示録』の世界と重なるところが多く、「世界の終わり」への恐れとそれを救う「本当に美しい人」への熱烈な願いが記されていたといえます。
11月18日の新聞に「イラン攻撃現実に」という題で、イスラエルがイランの原発開発に強い危機感を抱いているという気になる記事があったので持ってきました。この記事は原爆と原発が結びついていることを物語っているでしょう。つまり、イランの原発開発はアメリカと仲がよかったときは認められていたのです。しかし革命後に政策が変わると、原発の開発は、いつ攻撃の対象になるかもしれないのです。つまり現代という「核の時代」では、原発が世界中の国で広まっていくということは、その国が政策を変えたときに核戦争のきっかけになりうるという危険性を持っているのです。
その意味で注目したいのは、『白痴』ではマルサスの人口論だけでなく、生存闘争の理論や、西欧近代の投機的な自由主義経済、さらに新しい科学技術の危険性が登場人物たちの会話をとおして批判されており、ことに近代文明を象徴する鉄道は『ヨハネ黙示録』の地上に落ちて「生命の水の泉」を混濁させる「苦よもぎ(チェルノブイリニク)の星」の話と結び付けられて解釈されていました。
それゆえ、チェルノブィリ原発事故が起きると『白痴』の予言性が話題となりましたが、それはチェルノブィリという地名が、「苦よもぎ」を意味する単語と非常に似ていたために、ロシアやウクライナ、ベラルーシなどでは原発がそういうのろわれたものであり、それを作ったソ連の政権が神の罰を受けたという批判が強く出たのです。そして、このような『黙示録』の解釈も影響して、この原発事故は神による共産党政権に対する罰だという解釈が広がったことや、原発事故による莫大な経済的損失は、ソ連政権が崩壊する一因となったのです。
____
はじめに――投げかけられた問い
お手元にレジュメは届いていますでしょうか?
2枚目のところにスラヴの神話や民話に出てくる森の精や水の精などの絵があります。
私の専門はドストエフスキーなのですが、『罪と罰』とか『白痴』という世界がそういうロシアの民衆的な民話的な世界や宇宙観とも深く結びついており、それが普遍性をおびているために世界中で読まれて深い感動を与えているという話を今回はしたいと思いました。ただ、レジュメにも書きましたけれども、3月に起きた原発事故のために私のふるさとの福島県の二本松でも祖先の墓の上に放射能が降り注ぐなど、日本の大地、大気、川が汚されるという大変な事態がおきました。
さらに私は25年前にチェルノブイリで起きた原発事故の際にモスクワに滞在していましたが、そのときに留学生を引率していたので事故の情報の問題、当時のソ連から情報が流れてこないというのはわかるのですが、日本大使館からも流れてこない。それでヨーロッパの留学生たちがそれぞれの大使館から持ってくる情報を集めてどう対応すべきかなどを考えざるを得なかったということがありました。
実は司馬遼太郎の作品に入っていくきっかけも情報の問題からです。司馬さんは大地震の問題についてもたびたび書いています。たとえば、『竜馬がゆく』の中でも竜馬が大地震に際して深く感じることのできる詩人のような心を持っていたと冒頭近くで説明されています。原発は「国益」という形で進められてきましたが、果たして一部の人たちが握っている情報が我々にちゃんと伝えられているのか、その問題が明治以降もいまだに続いていると思えます。
一方、『坂の上の雲』の第3巻において司馬さんは、東京裁判におけるインド代表判事のパル氏の言葉を引用しつつ、「白人国家の都市に落とすことはためらわれたであろう」と原爆投下を厳しく批判しておりました。実はこの原爆の投下の問題は、原発の問題と結びついており、司馬さんはチェルノブイリ事故の後で「この事件は大気というものは地球を漂流していて人類は一つである、一つの大気を共有している、さらにいえばその生命は他の生命と同様もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていました。
実際にチェルノブイリについてはヨーロッパ各国が大変な危機感を持ちました。私の場合は、幸い住んでいたモスクワの方には風の向きが違っていたので流れてこなかったのですが、風の向きが変わればどのような被害が及ぶかはわからなかったのです。それゆえ、今回はスラヴやロシアのコスモロジーを視野に入れることで民話的なレベルから見ても原発がおかしいということを明らかにしていきたいと思います。
* * *
先ほど見ていただいたのはギランの『ロシアの神話』という本に掲載されている絵ですが、スラヴでは自然崇拝が強く、ことに大地は「母なる湿潤の大地」というふうに讃えられており、このような世界観はドストエフスキーが『罪と罰』の後半で描いていますが、それよりも前にプーシキンがおとぎ話のような形で書いていました。
時間がないので、ごく一部を紹介します。「入り江には緑の樫の木があった。その樫の木には猫が繋がれていた。そして右に歩いては歌を歌い、左へ行ってはおとぎ話を語る。そこには不思議なことがある。森の精が徘徊し、水の妖精ルサールカが枝に座る」。こういう形で民話の主人公を紹介したプーシキンは、「そこにはロシアの精神がある、ロシアの匂いがする」と続け、物知りの猫が私に語った物語のひとつをこれからお話しましょうという形で『ルスランとリュドミーラ』というおとぎ話が始まります。
『罪と罰』のあらすじについては、ほとんどの方がご存知のことと思いますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害するにいたる過程とその後の苦悩が描かれています。ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと、民衆の感覚を失ってしまったという批判をしていることです。
たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが彼にはわからなかったのです。しかし彼はシベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになるのです。
このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、しかしロシアの民話を集めてロシアのグリムとも言われているアファナーシエフの『スラヴ民族の詩的自然観』の第一巻が既に『罪と罰』が書かれている時期に出版されていました。そのことを指摘した井桁貞義氏は、ウクライナやセルヴィアを初めスラヴには古くから聖なる大地という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。
さらにソーニャという存在が囚人たちから、「お前さんは私らのやさしい慈悲深いお母さんだ」と語られていることに注目して、ソーニャという女性が大地の神格であると同時に聖母の意味も背負っているという重要な指摘をしています。
このようなロシアの自然観や宇宙観は民話などでやさしく語られており、日本でも知られているものがあるので幾つか紹介して、それが文学作品にどうかかわっているかを少し見てみます。
まず、『イワンと仔馬』という作品は、これは永遠の生命を持つ火の鳥が出てくる作品で、手塚治虫の『火の鳥』にも影響を与えています。次に『森は生きている』もあちこちで上演されることもありますしアニメーションにもなっているので、知っている人も多くおられると思いますが、これは月の精の兄弟たちとみなしごの少女、そしてわがままな女王との物語です。
わがままな若い女王の命令で少女は、大晦日に雪深い森の奥に春の花の待雪草を探しに行かされるのですが、たまたま焚き火を囲んでいた12人の兄弟(十二ヵ月の精)たちと出会い、少女が森を大切にして一生懸命に生きているのを知っていた彼らから待雪草を贈られるのです。
一方、人間関係のみで成立している「城」の世界しか知らなかったやはり孤児だった女王は、自分でも待雪草を摘みたいと願って、私も森に行くから案内しなさいと命令して森に行く。つまり、「支配する者」と「支配される者」からなる「城」において絶対的な権力者となった女王は、「自然」や「季節」をも「支配」しようとしたのです。つまり「城」というのは、ここでは現代の日本に言い換えれば「原子力村」と考えればわかりやすいでしょう。「原子力村」の論理だけで生きている人は、「自然」のことを理解できないために、「自然」や「季節」をも支配しようとする。しかし実際には、そういうことはあり得ないのです。そのために女王も「森」に行くと、一瞬にして再び冬の季節に戻って彼女は自分の無力さを感じるのですが、やさしい少女に救われるというストーリーです。
ここで注目したいのはやさしい少女を『罪と罰』のソーニャに、それから自然をも支配できると考えている女王をラスコーリニコフに置き換えると、骨格としては『罪と罰』と同じような自然観が浮かび上がってくるということになることです。
それから『雪娘』というおとぎ話では「桃太郎」などと同じように、子供に恵まれなかった老夫婦が雪を丸めて雪だるまをつくるとその雪だるまの女の子は、老夫婦の気持ちを理解したかのように動き出して、その家の娘になります。しかし、「かぐや姫」が時間がたって、月に戻っていくように、その「雪娘」も春になると一筋の雲になって、天に昇ってしまうのです。
このおとぎ話について先ほどのアファナーシエフはこういうふうに解釈しています。「雨雲が雪雲に変わる冬、美しい雪の娘が大地に、人間が住むこの世に降りてきて、その白さで人々を感動させる。夏が訪れると娘は大気の新たな姿をとり、地上から天に昇って軽やかな翼を持つほかのニンフたちと共に天を飛翔する」。
すなわち、雪娘は溶けて「亡くなる」のではなく、別な形を取って生き続け、さらにまた季節が巡れば、「復活」するという考え方が、ロシアの民話を通して語られているということになります。
一方、『罪と罰』のエピローグでは、知力と意志を授けられた旋毛虫に侵されて、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地上に数名のものしか残っていないという主人公が見る「人類滅亡の悪夢」が描かれています。
実際、この作品が書かれた当時は、オーストリアとの戦いに勝ったプロシアが軍事力をつけたために、フランスとの間での戦争がおき、さらにロシアもまたそういう大戦争に巻き込まれるかもしれないという恐怖感が、欧州の世界で広まっていたのです。そして、軍事力の必要を各国が認識したために戦争に近代兵器が持ち込まれるのです。日露戦争では機関銃が登場し、第一次世界大戦でも用いられ、さらに第二次世界大戦では原子爆弾が用いられるということになります。
つまり長編小説『白痴』の時代は、ドストエフスキーにとって「ローマ帝国」の強力な軍事力でユダヤの反乱が鎮圧され、さらにキリスト教徒が弾圧された時代に書かれた『ヨハネの黙示録』の世界と重なるところが多く、「世界の終わり」への恐れとそれを救う「本当に美しい人」への熱烈な願いが記されていたといえます。
11月18日の新聞に「イラン攻撃現実に」という題で、イスラエルがイランの原発開発に強い危機感を抱いているという気になる記事があったので持ってきました。この記事は原爆と原発が結びついていることを物語っているでしょう。つまり、イランの原発開発はアメリカと仲がよかったときは認められていたのです。しかし革命後に政策が変わると、原発の開発は、いつ攻撃の対象になるかもしれないのです。つまり現代という「核の時代」では、原発が世界中の国で広まっていくということは、その国が政策を変えたときに核戦争のきっかけになりうるという危険性を持っているのです。
その意味で注目したいのは、『白痴』ではマルサスの人口論だけでなく、生存闘争の理論や、西欧近代の投機的な自由主義経済、さらに新しい科学技術の危険性が登場人物たちの会話をとおして批判されており、ことに近代文明を象徴する鉄道は『ヨハネ黙示録』の地上に落ちて「生命の水の泉」を混濁させる「苦よもぎ(チェルノブイリニク)の星」の話と結び付けられて解釈されていました。
それゆえ、チェルノブィリ原発事故が起きると『白痴』の予言性が話題となりましたが、それはチェルノブィリという地名が、「苦よもぎ」を意味する単語と非常に似ていたために、ロシアやウクライナ、ベラルーシなどでは原発がそういうのろわれたものであり、それを作ったソ連の政権が神の罰を受けたという批判が強く出たのです。そして、このような『黙示録』の解釈も影響して、この原発事故は神による共産党政権に対する罰だという解釈が広がったことや、原発事故による莫大な経済的損失は、ソ連政権が崩壊する一因となったのです。
一方、非常に自然環境に恵まれている日本から見ると旧約聖書などで描かれている神の罰という考えは、非情に見えます。しかし古代からのことを考えると、神や天というのは、人智を超えた存在であって、富士山も単に美しくて高い存在であっただけではなくて、大噴火を起こして、我々日本人を深く畏怖させたのです。これについては明日のシンポジウムでも論じられると思います。
こうして、大自然に対する畏怖というものは、これからの時代にも重要だと思えますが、放射能は水に流しても消えるものではなく「循環の思想」に反しており、大自然を汚すものだといえるでしょう。その意味でも早期の「脱原発」が求められており、そのためにはこの学会も含めて全力を尽くしていくべきではないかというのが、私の考えです。
http://www.stakaha.com/?activitycat=%E3%80%8E%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2%E3%80%8F
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「黙示録」の獣 2016-06-21
https://ameblo.jp/in-your-own-sweet-way/entry-12171852850.html
テーマ:ドストエフスキー『罪と罰』の世界
ドストエフスキーは、プロメテウス神話のほかにも『罪と罰』と神話との結合を試みていました。それは、「ヨハネの黙示録」との結合です。ドストエフスキーは「黙示録」的な世界観を持つ作家でした。
「ヨハネ黙示録」13章には、二匹の獣が現れます。この二匹の獣は、いわば終末神話のプロローグを演じています。この二匹の獣が押させた「666」の刻印の意味は、聖書の用語解説に次のように記されています。
ヨハネの黙示録13:8で、ある人物の名を暗示する数字。ヘブライ語やギリシア語、ラテン語には特別な数字はなく、アルファベットの文字がそれぞれ数を表す。数を用いた暗号は、逆に文字に戻して解読することができる。666について最も有力な説は、ヘブライ語でネロ皇帝と読む解釈である。
初期キリスト教の迫害者ネロ皇帝の名、ネロン・カエサルをヘブライ文字で表記し、その文字に対応する数字を合計すると「666」になるのです。
ヌン レーシュ ワウ ヌン コフ サメク レーシュ
50 + 200 + 6 + 50 + 100 + 60 + 200 = 666
こうして、「666」という数字は、キリスト教の迫害者、アンチ・キリスト、悪魔を指す数とされました。「ゲマトリア」と呼ばれるこの計算法は次第に各国に広まり、それぞれの国のアルファベットを数値に代入してアンチ・キリストを割り出すことが、19世紀にも流行していました。20世紀になってもおとろえてはいません。
たとえば、ロシアの分離派は、宗教改革で自分たちを迫害したニーコン総主教の本名を「NIKON NIKITOS」とギリシア文字で表記し、
N I K O N N I K I T O S
50+10+20+70+50+50+10+20+10+300+70+6=666
また、ナチス・ドイツの独裁者は、ラテン文字表記で
H I T L E R
107+108+119+111+104+117=666
ドストエフスキーの時代において、ロシア人にとって最も脅威となった人物はナポレオンでした。1812年に「祖国戦争」を戦い、その後も長く、ナポレオンのセント・ヘレナ島脱出説などにおびえてきたロシア人にとって、ナポレオンはまさにロシアを迫害する者でした。
さて、ナポレオンをフランス語で綴り「Le Empereur Napoleon」とすると、
L e E m p e r e u r N a p o l e o n
20+5+5+30+60+5+80+5+110+80+40+1+60+50+20+5+50+40=666
そして、ラスコーリニコフですが、彼のフルネーム、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフをロシア語で表記すると、次のようになります。
РОЛИОН РОМАНЫЧ РАСКОЛЬНИКОВ
そして、イニシャルは「PPP」となります。
「PPP」というイニシャルは、ロシアではほとんどみられないイニシャルで、明らかに作為的なものです。
この「PPP」を上下に反転させると、「666」の数字が現れるのです。
『罪と罰』の創作において、創作の初期段階では、主人公はワシーリィ(ギリシア語のバシリオス〈王者〉から派生)・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフと命名され、中篇小説になる予定でした。しかし、ドストエフスキーは、ワシーリィからロジオンに改名することによる「666」の数字を発見しました。この発見はドストエフスキーの創造力を大いに刺激したと思います。彼は中編小説から、神話との結合をなす長編小説に構想を改めるのです。
そして、ラスコーリニコフは、アンチ・キリスト、悪魔という名前をもつ人物となるのです。
また、ドストエフスキーは、ニヒリズムの行く末と神話的終末思想との結合を試みていました。それは、ラスコーリニコフが見た疫病の夢として表現されています。
ついに、人々は、「目的もなく意味もない」憎悪に駆られて殺し合いをはじめます。軍隊と軍隊が衝突するだけでなく、その軍隊の内部でも殺し合いがはじまり、それが「互いに相手の肉を食い合う」人肉嗜食にまでになります。荒廃と飢えが世界を覆い、疫病だけがますます猛威を振るいます。
「ヨハネの黙示録」は「ノアの洪水」や「ソドム」、「ゴモラ」のように、人間の傲慢をいましめようとする「神の怒り」による終末神話ですが、ラスコーリニコフの疫病の夢は、あくまで人間が主体です。人間の集団的な狂気、そして人間自身の傲慢さこそが、人間を終末に駆り立てる最大の根源であるとみなしています。
ラスコーリニコフの疫病の夢は、「神亡き時代の終末神話」であり「ドストエフスキーの黙示録」といえます。
このラスコーリニコフの疫病の夢と、ナチスのユダヤ人虐殺、資本主義各国の赤狩りと反ソ・ヒステリー、ソ連の大粛清、中国の文化大革命、カンボジアの内戦、南米での虐殺、さらには、パレスチナ内戦、アフガン出兵、イラン・イラク戦争など現代に至るあらゆる流血との類似性を指摘する声もあります。
また、余談ですが、『悪霊』のシガリョフ主義、『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフの「大審問官」がソ連のスターリン体制の予言であるとみる学説があります。
ドストエフスキーは、「666」のイニシャルを持つラスコーリニコフの夢と「ヨハネの黙示録」とを結合させ、ニヒリズムによる人類の終末の危機を警告しているのだと読むことができます。それはドストエフスキーが、ニヒリズムに見た退屈さと孤立主義、非道徳性と愛の喪失を、微生物に感染した人間たちの症状に見立てていることからも分かります。つまり、「ラスコーリニコフ=666」と彼の思想〈非凡人の法〉自体が終末のプロローグを演じることになるのです。
しかし、「ラスコーリニコフ=666=アンチ・キリスト=悪魔」の構図だけが、「ヨハネの黙示録」との結合ではありません。ラスコーリニコフは悪魔にしては、あまりにも人間的です。そして、悪魔性に徹して平然と死を選ぶことのできる『悪霊』のニコライ・スタヴローギンとは対照的に、生への執着が強いのです。
生きていられさえすれば、生きたい、生きていたい!どんな生き方でもいい。
生きてさえいられたら!……何という真実だろう!……これこそ、たしかに真実の叫びだ!
この生への執着心が、ラスコーリニコフにとって、更正への原動力となるのです。
そこで、小説の構成を見てみると、一つの事実が浮かび上がります。
『罪と罰』は、第一部(7章構成)、第二部(7章構成)、第三部(6章構成)、第四部(6章構成)、第五部(5章構成)、第六部(8章構成)とエピローグ(2章構成)から成っています。
この数に注目すると、「全6部+1部=7部」という構成は、「ヨハネの黙示録」の「7」を意識したものです。「7」という数字は、過去・現在・未来に存在する神を指す「3」と自然界(地水火風あるいは東西南北)を指す「4」との和である完全数とされています。また、『罪と罰』の「7」は、完全な「7」ではなく、不完全数「6」に短いエピローグのついた構成で、ラスコーリニコフの更正がまだ始まったばかりで、完全には成就されていないことを暗示しているのです。
そして、各部の章の合計は、「7+7+6+6+5+8+2=41」です。この数は、「黙示録」の獣の活動期間「四十二か月」から「1」だけ足りない数です。ラスコーリニコフは、小説にはない最後の「1」で、ソフィアの愛により信仰を取り戻し、「666」+「1」の変身が期待されているのです。
また、「PPP」を左右に反転させると「999」の数字が現れるとして、一人の青年「1」ラスコーリニコフ「999」が「七月はじめの酷暑のころ」に行動するということから、「一九九九の年、七の月」のノストラダムスの人類滅亡の予言詩との結合を示唆する学説もあります。ラスコーリニコフのニヒリズムが「恐怖の大王」となり、〈新しいエルサレム〉という「幸福の名」のもとに〈非凡人〉による支配に乗り出すという読み方です。
https://ameblo.jp/in-your-own-sweet-way/entry-12171852850.html
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2018-05-10
動物で読み解く『罪と罰』の深層 連載3 〈獣〉(зверь) 清水正
https://shimizumasashi.hatenablog.com/entry/20180510/1525931141
■〈獣〉(зверь)
マルメラードフは告白の最後に、万人を裁き、万人を赦される唯一人の神について語る。親鸞の悪人正機説を彷彿とさせるマルメラードフ神学のお披露目である。彼は語る
「『酒のみも出い、いくじなしも出い、恥知らずも出い!』
そこで、われわれが臆面もなく出て行っておん前に立つと、神さまは仰せられる。
『なんじ豚ども! そちたちは獣の相をその面に印しておるが、しかしそちたちも来るがよい!』
すると知者や賢者がいうことに、
『神さま、何ゆえ彼らをお迎えになりまする?』
するとこういう仰せじゃ。
『知恵ある者よ。わしは彼らを迎えるぞ。賢なる者よ、わしは彼らを迎えるぞ。
それは彼らの中のひとりとして、みずからそれに値すると思う者がないからじゃ……』
こういって、われわれに手を伸ばされる。
そこで、われわれはそのみ手に口づけして……泣きだす……そして、何もかも合点がゆくのだ」(米川正夫訳)と。
ここで、喉の渇きを癒そうと思って酒場に寄り、マルメラードフの神学を聞く羽目になった青年に注目しよう。この青年は瀬踏みに行ったアリョーナ婆さんにラスコーリニコフと名乗っている。ロシア人の名前は洗礼名、父称、姓からなる。酒場の時点で読者は青年の姓がラスコーリニコフであることは分かっているが、未だに洗礼名と父称は報告されていない。マルメラードフは初対面の青年に自分の姓と身分(九等官)を名乗るが、青年は「勉強中です」としか答えず、マルメラードフは青年を〈元学生さん〉と見なして一方的に告白話を展開した。
青年のフルネームはロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフである。洗礼名〈ロジオン〉(Родион)は〈薔薇〉を、父称〈ロマーノヴィチ〉(Романович)はロジオンの父親の名が〈ロマン〉(Роман)であったことを意味し、姓〈ラスコーリニコフ〉(Раскольников)は〈分離派〉(Раскольники)に由来する。イニシャルРРРを下から上にひっくり返すと666になり、悪魔の数字となる
(РРР=666説を初めて発表したのは『謎とき「罪と罰」』の著者・江川卓である)。
つまり『罪と罰』の主人公である〈一人の青年〉(один молодои человек)の額には悪魔の数字666が刻印されていたことになる。
ところで、マルメラードフが告白の最後に神学を披露した時点で青年のフルネームは報告されておらず、従って青年の額に悪魔の数字が刻印されていたなどという認識を得ていた読者はいない。そこで改めてマルメラードフの言葉に照明を当てる必要がある。
「獣の相をその面に印しておる」(образа звериного и печати его)〈豚ども〉(Свиньи)の中に〈酒のみ〉〈いくじなし〉〈恥知らず〉が想定されている。もちろんマルメラードフ自身も含まれている。が、誰よりも明白に〈獣の相をその面に印しておる〉のは、マルメラードフの面前で話に耳を傾けていた勉強中の元学生ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ(РРР=666)であったことになる。因みにマルメラードフがここで言う〈獣〉(зверь)はヨハネ黙示録13章に出てくるそれを意識している。
「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった」
(ヨハネの黙示録13章1節)
「И стал я на песке морском и увидел выходящего из моря зверя с семью головами и десятью рогами: на рогах его было десять диадим, а на головах его имена богохульные.」(ロシア語訳聖書より)
「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った」(ヨハネの黙示録13章11節)
「И увидел я другого зверя, выходящего из земли; и говорил как дракон.」(ロシア語訳聖書より)
「ここに知恵がある。思慮のある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である」
(ヨハネの黙示録13章18節)
「Здесь мудрость. Кто имеет ум, тот сочти число зверя, ибо это число человеческое; число его шестьсот шестьдесят шесть.」(ロシア語訳聖書より)
海から上ってきた第一の獣は豹に似ており、足は熊、口は獅子のようであり、〈竜〉(дракон)から大きな権威を与えられていた。七つの頭のうちの一つが打ち殺されたかと思われたが、その致命傷もなおった。この獣は傲慢なことを言う口を与えられ、〈神に対するけがしごと〉を言い始めた。地から上ってきた第二の獣は、地に住む人々に第一の獣の像を造らせて礼拝させ、従わない者を皆殺しにした。そしてすべての人々の右手か額に獣の名、または獣の名の数字を刻印した。
ここで、様々な隠喩と象徴に満ちた「ヨハネ黙示録」を十全に解釈することはできない。ここでは黙示録の獣と『罪と罰』の主人公の関係についてだけ言及するにとどめる。第一の獣には角が〈十本〉、頭が〈七つ〉、冠が〈十〉とある。これら七、十という数字は竜から与えられた絶対的な力と位と権威を意味している。ラスコーリニコフは自分を絶対者、選ばれた唯一者と考え、非凡人の代表格であるナポレオンと自身とを同一視する傾向があった。第一の獣の頭には〈神をけがす名〉があったが、ラスコーリニコフの額には〈ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ=РРР=666〉という悪魔の数字が刻印されていた。
ラスコーリニコフはソーニャに「ラザロの復活」の場面の朗読を要請するが、その前に数々の〈神に対するけがしごと〉を口にしている。一つだけ引用しておこう。
「ポーレチカもきっと同じ運命になるんだろうな」
と彼は出しぬけにこういった。
「いいえ! いいえ、そんなことのあろうはずがありません、違います!」
とソーニャは死にもの狂いの様子で、まるでだれかふいに、刀で切りつけでもしたかのように叫んだ。
「神さまが、神さまがそんな恐ろしい目にはおあわせにはなりません!」
「だって、ほかの人にはあわせてるじゃありませんか」
「いいえ、いいえ! あの子は、神さまが守っていてくださいます、神さまが!……」
と彼女はわれを忘れてくりかえした。
「だが、もしかすると、その神さまさえまるでないのかもしれませんよ」
一種のいじわるい快感を覚えながら、ラスコーリニコフはそういって笑いながら、相手の顔を見やった。(米川正夫訳)
狂信者ソーニャは神さまは「なんでもしてくださいます!」と言う。哲学的思弁家でもあるラスコーリニコフは、現実を冷静に見ればむしろ神は何にもしてくれないじゃないかと言う。何にもしてくれない神を盲目的に信じるよりも、現実を冷静に見て判断する分別こそが必要なんだ、とまで挑発する。
ラスコーリニコフはソーニャの前では〈不信心者〉(безбожник)、〈神の冒瀆者〉(богохульник)を装って〈神に対するけがしごと〉を口にするが、それをもって彼を反キリスト者と決めつけることはできない。
彼はポルフィーリイ予審判事の前では〈新しきエルサレム〉を、〈神〉を、〈ラザロの復活〉を文字通り信じていると断言している。ラスコーリニコフの分裂は深く、彼を一義的に判断することぐらい危険なことはない。彼は誰よりも激しく執拗に〈神に対するけがしごと〉を口にしながら、同時に誰よりも〈神〉を求めている〈悪魔=666〉なのである。
この悪魔はとつぜん淫売婦ソーニャの前にひれ伏し、彼女の足に接吻する。そしてすぐに身を起こすと、驚愕したソーニャに向かって「わたしはあなたの前にひざまずいたのではない。わたしは全人類の苦悩の前にひざまずいたのです」と答える。一家の犠牲になって身売りしている〈大いなる罪人〉(великая грешница)ソーニャは、言わばすべての人間の罪を背負って十字架上で息を引き取ったイエスその人を思わせる。
ラスコーリニコフという〈悪魔〉は人間の〈苦悩〉に関してきわめて敏感である。マルメラードフは「ものに感じる、学問のある人」とラスコーリニコフを見なして告白話を披露したことを忘れてはならない。全人類の〈苦悩〉(страдание)の前にひれ伏すことのできる〈悪魔〉は限りなく〈神〉に近づいた存在とも言える。ラザロの復活を読み終えたソーニャはラスコーリニコフを「限りなく不幸だ」と思う。この不幸な人間(殺人者・分裂者)に向かって、苦しみという十字架を背負って生きよ、と強く指示したのが大いなる罪人ソーニャ(淫売婦・キリスト者)であった。
ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフを666(獣)と見なすことはできるが、ドストエフスキーの場合、名前においても多義的な象徴的意味が込められている。ロジオン(Родион)は〈薔薇〉(美・愛・聖)を意味するが、同じくギリシャ語起源のイロジオン(Иродион)と見なせばヘーロース=геройつまり〈英雄〉となる。
ロジオンは、ゼウス神に反逆して天界の火を盗みカウカソス山に鎖でつながれ鷲に肝を食われるという罰を受けた、ギリシャ神話の英雄プロメテウスにもたとえられている。またロジオンはポルフィーリイ予審判事によって
「太陽におなりなさい、そうすれば、みんながあなたを仰ぎ見ますよ! 太陽は、まず第一に太陽でなければなりません」
(Станьте солнцем, вас все и увидят. Солнцу прежде всего нада быть солнцем.)と言われている。
ポルフィーリイは現実的な役割としては予審判事であるが、実質的には優秀な心理分析官であり批評家であり、そして予言者でもある。彼が、二人の女を斧で殺害した殺人者ロジオンを〈太陽〉と見なしていることを、単なる皮肉のきいた冗談とのみ受け取ることはできない。いずれにせよ、ロジオンという名は美・愛・聖の統合としての〈薔薇〉(Роза)であり、世界を変革する使命を帯びた〈英雄〉(Герой)であり、万人に仰ぎ見られる〈太陽〉(Солнца)といった多義的な意味を込められている。
父称のロマーノヴィチ(Романович)はロマーヌィチ(Романыч)とも表記されている。前者をロマノフの息子と見れば〈ロマノフ王朝〉、後者をロマンの息子と見れば〈ローマの、ローマ人の、ローマ帝国の、長編小説の〉などと解釈できる。
姓のラスコーリニコフ(Раскольников)は〈分離派〉(раскольники)、〈分離派教徒〉(раскольник)、〈分裂・分離派〉(раскол)、〈打ち割る〉(расколоть)などが考えられる。
因みにロマノフ王朝第二代皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチはロシア正教会の権威強化のためニコンを総主教に任命したが、ニコンの奉神礼改革によって教会は分裂した。ニコンの改革案は一六六六年にギリシャ正教会で承認されたが、傲慢な態度で皇帝の反感を買っていたニコンは総主教の座を剥奪された。改革案に断固反対した信徒は一六六六年以来分離派と見なされ弾圧迫害の試練を受けることになる。
『罪と罰』はニコンの改革から二百年後の一八六五年七月のペテルブルクを舞台として展開されている。ロジオンの母親プリヘーリヤはこの二百年を十分に意識してラスコーリニコフ家を由緒ある家柄とし、〈一家の柱であり杖である〉一人息子に没落したラスコーリニコフ家の再建という使命を託すのである。この母親の過剰な期待が、ロジオンを〈高利貸しアリョーナ殺し〉という第一の〈踏み越え〉(преступление)に追い込んで行ったとも言える。〈666〉という悪魔の数字を刻印されていたのは決してロジオンだけではない。ラスコーリニコフ家の人々全員にこの数字は深く関わっているのである。
https://shimizumasashi.hatenablog.com/entry/20180510/1525931141
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2017.10.06
ドフトエフスキー『罪と罰』宗教的解釈
http://hikki-c.hateblo.jp/entry/2017/10/06/%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%80%8E%E7%BD%AA%E3%81%A8%E7%BD%B0%E3%80%8F%E5%AE%97%E6%95%99%E7%9A%84%E8%A7%A3%E9%87%88
前回の記事では、『罪と罰』の物語について述べましたが、今回は本作が現代の予言の書と言われる所以となったキリスト教との関連を紐解いていきます。
ナンバー666
ドストエフスキーは、『罪と罰』と神話「ヨハネの黙示録」との結合を試みていた。
“
「また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。
この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」
(新約聖書 ヨハネの黙示録13章16-18節より)
”
「ヨハネ黙示録」13章には、二匹の獣が現れます。この二匹の獣は、いわば終末神話のプロローグを演じている。
そして、666という数字は聖書の用語解説に次のように記されています。
ヨハネの黙示録13:8で、人物の名を暗示する数字。ヘブライ語やギリシア語、ラテン語には特別な数字はなく、アルファベットの文字がそれぞれ数を表す。数を用いた暗号は、逆に文字に戻して解読することができる。
666について最も有力なのは、ヘブライ語でローマ皇帝ネロと読む説である。
初期キリスト教の迫害者ネロ皇帝の名、ネロン・カエサルをヘブライ文字で表記し、その文字に対応する数字を合計すると「666」になる。
ヌン レーシュ ワウ ヌン コフ サメク レーシュ
50 + 200 + 6 + 50 + 100 + 60 + 200 = 666
こうして「666=キリスト教の迫害者、アンチ・キリスト、悪魔を指す数」とされた。これは「ゲマトリア」と呼ばれるこの計算法である。それぞれの国のアルファベットを数値に代入し、アンチ・キリストを割り出すことができるとされている。
例えば、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーは、ラテン文字表記で
H I T L E R
107+108+119+111+104+117=666
また、「罪と罰」が執筆された当時のロシア人にとって最も脅威となった人物は、ドイツの英雄ナポレオンだった。1812年に「祖国戦争」を戦い、その後も長く、ナポレオンのセント・ヘレナ島脱出説などにおびえてきたロシア人にとって、ナポレオンはロシアの迫害者であった。
そして、ナポレオンをフランス語で綴り「Le Empereur Napoleon」とすると、
L e E m p e r e u r N a p o l e o n
20+5+5+30+60+5+80+5+110+80+40+1+60+50+20+5+50+40=666
そして、ラスコーリニコフですが、彼のフルネーム、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフをロシア語(キリル文字)で表記すると
РОЛИОН РОМАНЫЧ РАСКОЛЬНИКОВ
そしてイニシャルは「PPP」となり、これを上下に反転させると、「666」の数字が現れる。 「PPP」というイニシャルは、ロシアではほとんどみられないイニシャルで、明らかに作為的なものであり、当初予定されていたワシーリィという名前を直前に変更したということからも意図的なものであると推測される。
謎とき『罪と罰』 (新潮選書)
作者: 江川卓
発売日: 1986/02/01
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106003031/umineko08-22/
人類の終末
本作において、ドフトエフスキーは十九世紀に蔓延しはじめた、神を否定し、人間は自らの意志、自らの欲望に基づいて行動するべきだという「ニヒリズム」(虚無主義)の思想に警笛を鳴らしている。
“
感染すると、かつて人々が一度も決して抱いたことのないほどの強烈な自信をもって、自分は聡明で、自分の信念は正しいと思いこむようになるのである。自分の判決、自分の理論、自分の道徳上の信念、自分の信仰を、これほど絶対だと信じた人々は、かつてなかった。(中略)誰をどう裁いていいのか、わからなかったし、何を悪とし、何を善とするか、意見が一致しなかった。誰を有罪とし、誰を無罪とするか、わからなかった。人々はつまらないうらみでお互いに殺し合った。
”
このように彼は、来たるべき世界大戦と宗教戦争・飢饉・天災・疫病などで発狂した人間の精神の乱れにより引き起こされる世界の終末を予言している。
神とは何か
本作における「神」とは、なんなのか。それは「絶対的真理」である。永久不変の正義であり、法則である。
常識や価値観は、時代によって絶えず変化する。
しかし、放火・殺人・窃盗・詐欺などは、いつの時代も罪悪とされており、これからも許されることはないだろう。
ノアの箱舟
「罪と罰」の舞台であるペテルブルグは、初代皇帝ピョートル大帝の時代に都市計画として建設された人工都市である。当時のペテルブルグは、人口の急激な増加や、貧困と不正の蔓延で地獄のような場所であった。
ペテルブルグには、ペトロパヴロフスという要塞があり、スウェーデンの脅威が低下した19世紀には政治犯収容所としても利用され、ドストエフスキーもその一人として収容されていた。
1849年に官憲に逮捕され、死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝からの特赦が与えられシベリア流刑となる。四年間に渡る獄中生活の記録は『死の家の記録』に記されている。
ペテルブルグ水の都、つまり水に浮かんだ船にたとえられる。同様にラスコーリニコフの部屋も「船室」と呼ばれる。これらは「ノアの箱舟」を連想させる。ロシアの民話には、ノアの妻をそそのかして箱舟に乗船する悪魔の話がある。悪魔は鼠に化けて船倉に穴を開けようとしたが、英雄は猫になって鼠を退治した。ラスコーリニコフは猫になるはずの鼠。マルメラードフも鼠であるが彼は箱舟から自殺によって下船したが、ラスコーリニコフは生に執着するあまり箱舟にとどまろうとする。
“
生きていられさえすれば、生きたい、生きていたい!どんな生き方でもいい。 生きてさえいられたら!……何という真実だろう!……これこそ、たしかに真実の叫びだ!
”
罰とは何か
まず、罰にあたることとして古い法律解説書にある「汚辱刑」というのがある。自尊心の高い犯人には狂信をあざけり恥をかかせることが必要という理論がある。それに照応するのが、ソーニャに宣告された大地への接吻と全世界への告白である。
“
「立ち、ひざまずいて、あなたがけがした大地に接吻しなさい。それから世界中の人々に対して、四方に向かっておじぎをして、大声で『わたしが殺しました!』というのです。そしたら神さまがまたあなたに生命を授けてくださるでしょう」
”
そこには周囲の人のあざけりと笑いがあった。
また、ラスコーリニコフはさまざま機会で世界との断絶を実感する。そのような人物にとって愛は不可能である。これは、「カラマーゾフの兄弟」ゾシマ長老の言葉と照応する。
“
「地獄とはなにか?それは、もはや愛することができない、という苦しみである。」
”
このように、ラスコーリニコフは愛のない地獄で、生に執着するという矛盾の中で絶望に暮れることになる。これが「罰」の総体である。
ナンバー13と復活祭
「罪と罰」は1865年7月8日から同年7月20日までの13日間の物語である。7月20日は聖イリヤの祝日。
そして一年半後、シベリア流刑にあるラスコーリニコフの復活が訪れる。復活祭の週の朝、ソーニャと会い不意にラスコーリニコフはソーニャへの愛を自覚する(このシーンは聖書のイエス復活を下敷きにしている)。「殺人者」と「娼婦」という呪われた者が愛し合うことでユートピアへの入場資格を得た瞬間である。
“
どうしてそうなったのか、彼は自分でもわからなかったが、不意に何ものかにつかまれて、彼女の足下へ突き飛ばされた気がした。彼は泣きながら、彼女の膝を抱きしめていた。最初の瞬間、彼女はびっくりしてしまって、顔が真っ青になった。(中略)だがすぐに、一瞬にして、彼女はさとった。彼女の両眼にははかりしれぬ幸福が輝き始めた。彼が愛していることを、無限に彼女を愛していることを、そして、ついに、その時が来たことを、彼女はさとった、もう疑う余地はなかった。
”
また、ラスコーリニコフが過ごした屋根裏部屋も復活と大きく関係している。この場所は「戸棚」「トランク」、「船室」と比喩され、上京した母には「棺桶」とも言われる。中でも、「戸棚」や「棺桶」は聖書の「ラザロの復活」や、ホルバインの絵画『死せるキリスト』を象徴させる表現と捉えることができる。
最後に
「罪と罰」は、物語を楽しむ通俗小説としても、キリスト教的背景を持った予言書としても楽しめる作品です。日本人は仏教徒ではあるけれど、無神論者が多いのでキリスト教的な読み方をする人はごく少数だと思います。(私はそうでした)聖書は小説だけでなく、エヴァンゲリオンやその他の漫画等のストーリーにも大きく影響しているので、物語の認識を深めるのに一度読んでみようかな。
アンチキリスト―悪に魅せられた人類の二千年史 – 1998/12/1
バーナード マッギン (著)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309223346/isisnejp-22/ref=nosim
333夜『アンチキリスト』パーナード・マッギン松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0333.html
ロマン・ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』の主題はアンチキリストの母親とは誰かという、ヨーロッパ2000年の謎を継承したシナリオにもとづいた映画だった。ミア・ファローはその途方もない苦悩をよく演じた。
これにくらべると『オーメン』はアンチキリスト思想が20世紀末の世の中にはびこっていることを訴えるにはもってこいだったものの、ダミアンの頭髪の中の666の数字といい、犬狼的獣性の暗示といい、いささかハリウッド的すぎてもいた。
現代においてアンチキリストの存在を信じているのは、世界中に数百万はいるといわれるキリスト教根本主義派(ファンダメンタリスト)たちである。かれらはちょっと信じがたい推理によって、現代においてもなおアンチキリストがいることを指摘する。たとえばヘンリー・キッシンジャー、たとえばミハイル・ゴルバチョフ、たとえばテレビ伝道師のパット・ロバートソン、たとえばサダム・フセイン……。
アンチキリストが現代社会にひそんでいるという考え方は、現代文学にも露出している。
T・S・エリオットが「本当の世界にわれわれを導くために綴られた超常的な作品」と絶賛したチャールズ・ウィリアムズの『万霊節の夜』は、大戦がやっと終わった1945年に発表された作品だが、主人公のクラーク・サイモンを魔術師シモンの再来として描いた。この作品はロンドンの日常性に隣接するらしい「シティ」というヴァーチャルな分身都市に迷いこんだ二人の男女をサイモンが支配するという筋書きだが、ウィリアムズはこうした奇怪なアナザーワールドを設定して、現代社会に巣食う「悪の本質」をアンチキリストとして象徴化した。この主題はウィリアムズの友人のC・S・ルイスも得意としたし、コリン・ウィルソンから荒俣宏におよぶ多くの批評家を虜にした。
これより前の作品ではウラジーミル・ソロヴィヨフの『戦争・平和・終末に関する三つの会話』の中の「アンチキリストの短い物語」が目立つほか、それに影響をうけたアンドレイ・ベリの『ペテルブルク』、メレシコフスキーの『キリストとアンチキリスト』、ロバート・ヒュー・ベンソンの『世界の主』が際立った。アンチキリストは20世紀文学の主題のひとつでもあったのだ。
現代文学が「悪」を描こうとすると、その作家やその作家が育った風土にキリスト教やギリシア正教があるばあい、多くのばあいにその主題はアンチキリスト観念と交差したのであった。
これらの文学作品がアンチキリストを描いた源泉は、おそらくはドストエフスキーの『作家の日記』、とりわけ『カラマーゾフの兄弟』の中の「大審問官」に起因しているとおもわれる。ドストエフスキーをはじめとするロシア文学がなぜに黙示的な傾向をもっていたかということは、すこぶる興味深い問題ではあるが、ここでは省いておきたい。
では、いったいアンチキリストとは誰なのかということだ。
どのように発生したキャラクターなのか。
アンチキリストの存在を確信する異様な歴史は、しつこいほどにヨーロッパを襲ってきた。
むろん恐怖が原因である。その恐怖は「あらゆる神性に刃向かう最終的人間の登場」に対する恐怖であって、それは究極の人間悪というものへの憎悪によっていた。神ももちろん畏怖の対象である。神こそは全知全能であり、最大の力の持ち主である。けれども、その神に救われるべき魂に「悪」が宿っていたらどうするか。神の善は人間の悪を必ず打倒してくれるのか。
古代このかた、悪が誇ってきた例は枚挙にいとまがない。暴君や暴帝はいくらでもいたし、家族や共同体を破壊する悪人は数かぎりなく輩出していた。むしろ悪こそが力の象徴だったのだ。そうだとすれば、そのような人間悪は、憎悪の対象ではありながら、ひょっとすると神をも凌ぐ力をもつのではないか。
恐怖とは、その恐怖なのである。ミルチャ・エリアーデが「歴史の恐怖」とさえよんだ恐怖であった。
このような恐怖あるいは憎悪がどこから生まれたかというと、紀元前3世紀以降のユダヤ教第二神殿時代にまでさかのぼる。
そこに黙示的なメシアの思想が芽生えたとき、そのメシアの存在こそが、同時にそのメシアに反旗をひるがえす集団にとっての憎悪の対象となったのである。
ということは、アンチキリスト像の真の登場は、そのメシアがナザレのイエスとして登場したときだったということになる。意外なことに、イエスそのものの存在がアンチキリストの存在の原型なのである。なぜ、このような見方が成立するかということは、ちょっと考えてみればすぐ理解できる。イエスはメシアとして待望されたのであるが、そのイエス像が絶対化されたとたん、そのような絶対像に対極する絶対像が想定できるからである。
もともとこういう見方の先駆的な温床となったのは、いわゆる黙示文学だった。
黙示文学は神の啓示を伝える内容をもつが、大別すると二つの流れに分かれる。ひとつは天上界の秘密の解明を語るもので、これは各種の天界の物語となっていった。もうひとつは、その啓示の内容に時の神秘や時の流れが含まれるもので、ここに世界の年代やその終焉が語られ、歴史の終わりと新たな神の時代の始まりが予告された。時の終わりが綴られたのだ。
なかで有名なのが『ダニエル書』や『ヨハネの黙示録』である。これらは悪の軍勢に対して神の裁きが下されるという内容だった。とくにその『ダニエル書』7−12章の黙示録はその歴史の終末の年代を暗示した。
こうして黙示的終末論がはびこったのである。
二つの気になる問題が蟠っていた。第1には、いったいその「神の裁き」はいつ下されるのかということだ。この算定は長期間にわたってキリスト教徒を悩ませる。3世紀にはヒッポリュトスが紀元500年が終末の日だとしたし、別の者たちは1000年とか1050年代を算定した。この算定合戦はひきもきらず、かのアイザック・ニュートンさえもがアンチキリストの出現の日時を『ダニエル書』と『ヨハネの黙示録』によって算定しようとしていたほどなのだ。
第2には、おぞましくも強烈な新しいキャラクターが登場しそうなことである。悪魔(サタン)だった。その原型は第二神殿時代のユダヤ教や『ダニエル書』に「小さな角」と揶揄されたアンティオコス4世エピファネスにも見られるが、エッセネ派の分派クムラン宗団の"義の教師"に対する"偽りの教師"や"邪悪な司祭"や、ユダヤ教徒を迫害したヘロデ王にも見られた。
ともかくも、終末がいつかくるはずだということと、悪魔が神に対抗するという発想とが車の両輪となって、以降、アンチキリスト像は加速的に強化されていく。
本書は読むのにちょっと疲れる大著である。著者はシカゴ大学の神学部の研究者だが、黙示的信仰論と至福千年論の権威であるせいで、真面目すぎるし、詳しすぎるのだ。
しかし、詳細な研究だけがアンチキリスト像を正確に浮上させるといってもよい。なにしろアンチキリストについてはあまりにもオカルト趣味が蔓延(はびこ)っている。つい『オーメン』や『エクソシスト』や、そうでなければルシフェロやダースベイダーの肩をもちたくなりかねない。ぼくもずいぶんいいかげんな議論にふりまわされてきた。
しかし、本書でかなりのことが歴史的にはっきりした。ざっと次のようなことである。
ひとつ、アンチキリストには6つの特性がある。
@ユダヤ人の血統をもっている、
A使徒を派遣する、
B世界中から民人を集める、
C追随者に徴(しるし)をつけたがる、
D人の姿をとってあらわれる、
E神殿をつくる。
ひとつ、アンチキリストは「二重のアンチキリスト」としてあらわれる。奇蹟を与え、そして人類をことごとく滅亡させるという二重性である。
ひとつ、アンチキリスト像がほぼ完全に確立したのは中世であるが、その背景にはアンチキリストを異教徒たちを改宗させる反面教師としてつかったことが大きかった。大グレゴリウスがその筆頭に立っている。
ひとつ、背教者をアンチキリストにしたてることが流行した。ユスティニアヌスはその一人である。
ひとつ、アンチキリスト像は6世紀前後に登場した『ヨハネの黙示録』の図版に大きく依存した。
ひとつ、意外なことには、教皇こそが実はアンチキリストという言葉を普及させた張本人であり(十字軍の派遣のために教皇がアンチキリスト概念を拡張してしまった)、それが昂じて教皇権力の反対者からは教皇こそがアンチキリストであるという発想を出させてしまった。後世、教皇をアンチキリストとして弾劾した最も有名な男はマルティン・ルターだった。
ひとつ、結局、アンチキリストを民衆に広めたのはユオン・ド・メリーの『中世騎士物語』である。
このほか、アゾとビンゲンのヒルデガルトとフィオーレのヨアキムのヴィジョンがアンチキリストのイメージを引っ張ったということもわかった。
しかし、ここまでは迷信深い中世までの出来事である。どんな説が出ようともおかしくはない。問題はそのようなアンチキリスト像がその後も生き延びて、20世紀の社会にもかぶさってきたということだ。
理由はいくつかある。まず宗教改革とプロテスタンティズムがカトリック批判や教皇批判のためにアンチキリストのレッテルを活用した。これはエリザベス女王以降のイングランドでは決定的なものとなっている。ついで、ロシアがアンチキリスト・イメージの舞台になった。
もともとロシアは17世紀には自分たちの国が"第3のローマ"であろうという自覚をもとうとしていた。モスクワ大公国に実現された教会=国家こそは『ダニエル書』2章の"第四の帝国"を任ずる最後の国であるという思想である。
これがピョートル大帝の時期に潜在的に拡張し、ピョートル大帝の人格と悪政こそがアンチキリストの象徴であるというふうにみなされた。悪政とは私生活の乱脈とロシア社会の西欧化ということをさす(メレシコフスキーの『キリストとアンチキリスト』はピョートル大帝をアンチキリストとして徹底的に描いている)。ドストエフスキーやソロヴィヨフが"ロシア的黙示文学"ともいうべきを深化させた背景には、以上のような事情もあったのである。
さらにナポレオンやナポレオン3世がアンチキリストに見立てられたことも大きかった。これは新大陸アメリカにわたったピューリタンたちの喧伝も手伝った。この風潮はアナキストをアンチキリスト呼ばわりする傾向にまで流れこんでいる。
こういうぐあいで、アンチキリストは宗教の問題から社会の問題に横すべりしていった。
ところが、こうした社会化したアンチキリストに対して、むしろ心理化したアンチキリストの存在の重要性を指摘した者があらわれた。カール・グスタフ・ユングである。ユングはキリスト教にはそもそもキリストとアンチキリストという二重性があると分析して、そのような二重性は「自我の影」としての人間の心の暗部を象徴する必然性なのだと説いた。
ありうることである。ただし、そうなると誰の心にもアンチキリストが棲んでいるということになる。はたして、そこまで言えるのか。本書の著者はこのようなユングの見方に反対している。神学者であるマッギンはあくまで信仰における偏向の役割としてのアンチキリストを捉えたいからだ。
しかし、ぼくが本書を読んだかぎりの感想では、アンチキリストの力はそもそもの歴史の当初から信仰の問題よりも心理の問題よりも、むしろ社会の問題として浮上してきたのではないかとおもわれる。いつかじっくり考えたい。
意外なことに、アンチキリストという用語は、『ヨハネの第一の手紙』と『ヨハネの第二の手紙』だけにしか出てこない。
それにもかかわらずアンチキリストという言葉が流布してしまったのは、さまざまな文書に「キリストに代わる者」とか「偽のキリスト」とか「キリストに対立する者」という言葉が頻繁にみられ、それらがやがて"一人のアンチキリスト"に集約されていったからである。
とくに『ダニエル書』、パウロがテサロニケ人に送った二つの手紙、『ヨハネ黙示録』がアンチキリストの"原典"として何百回、何千回と読み替えられてきた。そこにエドム人ドエグ、ゴグとマゴグ、レビヤタン(リヴァイアサン)とベヘモート、魔術師シモン、七頭の龍の伝説、淫婦バビロンなどのキャラクターがアンチキリスト像に習合された。
しかし、当時も今も、アンチキリストは複数者のことであって、世の中にはいくらでもアンチキリストがいるという見方がとられてきたのである。
参考¶著者のバーナード・マッギンには『黙示論的霊性』『終末のヴィジョン』『神秘主義の起源』『ヨーロッパの伝統における黙示的終末』など多くがあるようだが、翻訳書は『フィオーレのヨアキム』(平凡社)くらい。1937年の生まれで、最初は中世思想史を専攻していた。
https://1000ya.isis.ne.jp/0333.html
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回心者ブッシュの演説に聞き入る「十字軍」兵士達
アメリカには「ポーン・アゲン」を なのり、そう呼ばれる人びとがいる。 人生の道半ばで、神に、キリスト に、聖書に出会い、キリスト教徒とし て新しく生まれ変わった人びとであ る。改宗ではなくて、回心と再生を誓 う、プロテスタント教会のなかの行動的な一派である。
◆40歳にして「回心再生」
ブッシュニ世はボーン・アゲンのひ とりになった。飲酒にふけって、安易 な生活を送っていたのが、名高い伝道師の説教を聞いてからは、四十歳にし て酒を断ち、回心再生の人となった。
朝は祈りと聖書の読誦にはじまり、閣議も祈りではじまる。
演説には聖書 のことばがちりばめられている。
「ア メリカに昧方しないやつは敵だ」というブッシュニ世の人物を特色づける発 言も聖書からでている。
「わたしの側 に立たない者はわたしに逆らう者、わたしと共に集めない者は散らす者である」
神仏の信仰を問わず、ボーン・アゲ ンの宗教体験をもつ人びとのおおく は、個人の内面の間題として回心をうけとめている。
ところが、アメリカの 「生まれ変わり」は異様に猛烈である。かれらは公の場で回心の体験を声高 に語って、人間は罪を負って生まれた存在であるから回心しなさい、改俊しなさいと、説得と折伏の活動に訴えることを神に奉仕する使命と信じている。
その特徴は徹底した二元論である。人間は神に選ばれて救われる者と、救 われない者に分かれている。回心者に は永遠の平和、福音に耳ふさぐ者は悪魔の子で永遠の地獄が待っている。
善と悪、神と悪魔、味方と敵、白と黒、光と闇が現世を二分して戦ってい るという論理を用いて、迷える小羊に選択をせまるのである。
原理主義(ファンダメンタリズム) はイスラムの 「専売」のように思われて いるが、この 言葉と運動は はじめて一九 二〇年代アメ リカの白人プロテスタントの環境からうまれた。
ボーン・アゲンは原理主義の三つの 教条を継承している。
聖書に書かれてあることはすべて神の言葉であって、解釈や考証はゆるされない。
人間は神によってつくられた被造物で、サルから進化したなどという「妄説」はゆるされない。
やがてキ リストがこの世に再臨して至福の千年 が始まるから、神への奉仕にいそしまなければならない。
◆悪魔うけいれる土壌
最近のギャラップ世論調査による と、アメリカ人の48%は神が人間をつ くったと信じ、28%が進化論に傾いている。そして、悪魔の存在を68%が信 じている。
テロリズムも「九・一一」の悲劇も、バグダッドに巣食う悪魔の仕業だ という圧倒的な政治宣伝がたやすくう けいれられる精神的土壌がそろっている。 プロテスタント教会の少数派であっ たボーン・アゲン原理主義と、帝国を夢みる新保守覇権主義の二つの特殊な 潮流と人脈が、アメリカ政治の中枢を乗とってしまった。
神の下なる道義の国アメリカの指揮 官ブッシュニ世は、「万軍の王の王、主の主」(ヨハネ黙示録)として、神の御業を実践する十字軍に立つのであ る。
しかし、利得の追求を宗教的熱狂で紛飾した十字軍は、中東のみならず、 世界の現状にひそむ限りない複雑さ と、そして、人間の惨害を無視して強行されるのだから、前途には、とほうもない魔の陥弊が待っている。
現在の狂ったアメリカ人の精神構造を探るには、アメリカを覆っているキリスト教原理主義的教義が分からないと理解できない。
回心再生と言ったって何のことか分からない。
回心再生して神に仕え、そうでない福音に耳を塞ぐ者たちを、悪魔の子として永遠の地獄に突き落とすことが、彼らの使命なのだ。
このようなキリスト教原理主義の教義が分かっていれば、ラムズフェルドの冷酷さも理解できる。
彼はアフガニスタンの戦場における、タリバン兵の捕虜達をクンドゥスに集め、爆撃して皆殺しにした。悪魔の子として地獄に突き落としたわけだ。
彼らにとっては異教徒は人間とはみなさないのだ。
http://www.asyura2.com/0304/bd25/msg/114.html
キリスト教原理主義
キリスト教原理主義の本質は、主に米国が過去に行った過失を正当化できるからこそ普及しているのであり、キリスト教よりもユダヤ教の亜種に近い性質を帯びている。
プロテスタントといえば、多くの日本人はルター派とカルバン派しか思いつかないだろうが、英米のプロテスタントの多くは、英国国教会の亜種である。
英国国教会は、設立当初から血塗られている。
ローマ教会が離婚を許さないのを理由に、ローマ教会を離脱して英国王が首長となる教会を設立したのであるが、そのヘンリー8世は6人の妻を持ち、2番目の妻アン・ブーリンと5番目の妻キャサリン・ハワードを姦通罪で処刑している。6人のうち死別は3番目の妻ジェーン・シーモアのみである。
英国国教会の成立には、ローマ教会を通して仏の影響力を廃したかったのもあるだろう。アビニョン捕囚(1309〜77)の影響でフランスはローマ教会への影響力を強化していた。
また、ローマ教会自体が各国の王の上に己の存在を置く状態であり、英国内の反発があるからこそ、英国国教会は存続したのだろう。
つまり、設立自体が、エゴイズムとナショナリズムが動機である。
そのため、エリザベス一世時代に英国国教会から清教徒が反発して分離するのだが、彼らがローマ教会へ戻らずに新しい諸派を建てていった理由も、ナショナリズムによるローマ教会への反発があった。
もちろん、当時のローマ教会は相当腐敗していたのも事実だ。
つまり、英米のプロテスタントの場合、ルター派とカルバン派ほど純粋な動機とは言い難い部分が元来強かったのである。
ローマ教会を離れた時に、教皇に替わる宗教的権威は、何になるか。
自派内のヒエラルキーの頂点である。
古い宗派の中で頂点を極めることは難しいが、新派を建てれば己自身が頂点になりうる可能性がある。
「英国人は六十の宗派を抱えているが、料理のソースは一つだ」というイタリアの諺があるほど、英米のプロテスタントは多数の派がある。
己が宗教的権威になりたいという我欲こそが、多数の派が存在する理由の最大の要因ではないかと憶測している。
一番の問題は、聖書無謬性という偏向なのだが、これはルター派が聖書中心主義を唱えた影響から英米のキリスト教原理主義に多い。
キリスト教において本来一番大切なのは、イエス=キリストの言葉であった筈だが、イエス=キリストの言葉と矛盾する見解を米国人が頻繁に出すのは、聖書無謬性の影響ではないかと思う。
聖書無謬性、というよりも、旧約聖書無謬性こそが、キリスト教原理主義の中心に存在するのではないか。
旧約聖書は、無謬どころか矛盾だらけだが、キリスト教原理主義で重要視されているのは、旧約聖書の内容とヨハネの黙示録なのである。
ヨハネの黙示録の諸派にとって都合の良い解釈することと、旧約の内容が、キリスト教原理主義の根本のようだ。
これでは、キリスト教というよりも、選民思想が極端に強いユダヤ教の亜種である。
まず、北米インディアンの土地を奪ったことについては、「アメリカは約束の地である」と説明する。
鉄砲隊に向かって「特攻」を続けた北米インディアンを、虐殺し続けるのに当たって、「北米インディアンは聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と説明する。
奴隷貿易の中心は実は英国だったが、「黒人は聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と同様に説明している。
聖書の無謬性という信仰を利用することによって、自分達のエゴイズムや貪欲な物欲、選民思想を合理化できるのだ。
どんな人間だとて、異民族でも多数の人間を無差別虐殺すれば、潜在的に罪悪感を感じるものである。
もちろん、本物の「見せかけだけの善人」ならば、潜在的にも罪悪感を感じないだろうが。
米国人の心に在った潜在的罪悪感や不安感を薄れさせ、自らの虐殺・軍事的及び経済的侵略を正当化するために、聖書無謬性は、実に利用価値の高い説なのである。
聖書無謬性は、選民思想を強化し、エゴイズムの発現と経済侵略を正当化する。
だから、英国は「死の商人」として長年成功できたのだろう。日本で有名なグラバーも、英国の武器商人である。
第二次世界大戦後、英国の国土は荒廃していた。
戦争の被害のない米国が「世界の中心」となったのは必然であるが、その世界の中心とは、「世界の武器工場」なのである。この情けない地位は、この先当分揺るぎそうにない。
人殺しで儲ける「商売」は、私は世界中で最も卑しい職業だと思う。
殺傷兵器を多数生産することにも、自己正当化と合理化が必ず必要になる。
「我々は、民主主義を世界に普及するために武器を製造しているのである」とか工場で合理化の言葉を言わなければ、現場の労働意欲が必ず低下していく筈だからだ。
米国で武器を多数製造しなくても、たくさんある別の産業に大半を転換すればいいだけの筈だ。日本は、戦後ちゃんとできたのだから。
だが、恐らく、最早不可能だろう。
なぜなら、米国は「民主的な豊かな社会」から「憎悪と恐怖の対象」「言論を弾圧する強国」へと変質して行っているからである。
報復を恐れて先制攻撃し、無差別攻撃するために、他国民の憎悪と怒りが増し、死を賭しても抵抗を表したいという人々をどんどん増やしているという、ごく当たり前の論理が、米国人には理解できないようだ。
恐らく、欧米人以外の人々を、無意識下で「人間」と認めていないからである。
世界中から恨まれ憎まれていることを、米国人の大半が9.11まで気づかずに済めたのは、エバンジェリカルが米国民が潜在的に持つ罪悪感や不安感を合理化し、選民思想を強化してくれているためである。
戦争があるたびに、米国内のエバンジェリカルは信者数を増していく。
今や、聖書無謬性を信じる米国人が半数以上なのではないか。
例え、神が言ったことが正しかったとしても、転記を続けた古代ユダヤ人が自分達に都合の良い内容に書き換えなかったと何故信じられるのかは、理解に苦しむ。
古代ユダヤ人の知っている世界しか書かれていないからといって、それ以外の土地に住むのは人間ではない、あるいは被差別民族だと信じられるのは、何故なのか。
「木を見る西洋人 森を見る東洋人」に従えば、西洋人の世界観があまりに単純だからと説明できるだろう。
そんなに、世の中、単純なわけなかろうが。
あらゆる物事は、複雑に絡み合っている。
人体の一部が悪くなれば、全体に影響が及ぶようにだ。
潜在的罪悪感を引きずるからこそ、米国は犯罪大国になったのではないか。
エバンジェリカルは「核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記 朝日選書」によると、ヨハネの黙示録の「ゴグとマゴク」、つまりイスラエルに進攻して戦う二つの大国とは、ロシアと中国だと教えているそうだ。
信者を増やすために、「核戦争はすぐ来る」とエバンジェリカルが米国民の恐怖を煽れば煽るほど、「どうせ先はないんだから」と自暴自棄の心境に陥り、犯罪に走る者は増えていったのだろう。
潜在的罪悪感や不安感は、潜在的犯罪者を増加させていき、米国民の人心を荒廃させて行ったのである。
「人のふり見て我がふり直せ」と言う。
経団連が武器輸出を求めた結果、内閣が勝手に、当座米国にのみミサイルを輸出することに決めてしまったが、これは米国の轍を踏むことになるだろう。
潜在的罪悪感を合理化する装置としての宗教は、日本において国家神道と靖国である。
次第に国粋主義者が再度増えて行っている現状を、よく考えてほしい。
米国の事実上支配下に入っている日本では、精神的には戦後の混乱が続いたままなのである。
恐らく、潜在的罪悪感や社会の矛盾を合理化するために、日本人の多数が、再び自発的に国家神道と靖国に縋り始めたのである。
それを否定する者に対して、「非国民」扱いが始まっている。
戦後の精神的混乱を「日教組の偏向が」等とする、安易な合理化を続けているようでは、昭和初期と同じ状況を自ら作り出してしまうだろう。
そして、潜在的罪悪感と社会の矛盾を合理化するのに、靖国では駄目だと考える人々が新・新興宗教に縋っていくのである。
この状況が長く続けば、オウムのような極端な教義を必要とする人々が増えていくはずだ。
武器輸出は、第二・第三のオウムを作り出し、アーレフを強化する。
エゴイズム、利己主義と物質主義、利益優先主義、選民思想などの、「アメリカナイゼーション」が「グローバリズム」の名で一層進行していけば、犯罪発生率が増加するのは当然である。
物事は連鎖していると考えるのは、東洋的発想らしいが、過去の清算が充分に済まないならば、潜在的罪悪感や不安感が、国を誤った方向へと導くのは避けがたいだろう。
良い商品を世界に供給するのを止めて、死の商人への道を進むのが、日本国の将来のために素晴らしいことと思いますか。
経済的論理のみを追求すれば、犯罪発生率は高まり、要人暗殺や報道機関への武力攻撃等の右翼テロが頻発する時代をもたらすだろう。
その先にあるのは、五‐一五事件(1932年犬養毅首相暗殺)、二‐二六事件(1936年陸軍クーデター)のような時代が来るだろう。
貴方は、奥田経団連会長や小泉首相が、そういうことまで考えて武器輸出を決めたと思いますか。
重要案件が国会の議決を経ないで決まる事態は、民主主義の形骸化の進行です。
「誰がなっても変らない」と賢しらに言う人々が多数日本にはいますが、本来、日本の未来を選ぶのは、国民の一票の筈です。
貴方は、どんな未来を選びたいと考えていますか?
何もせずに他人(政治家や官僚)のせいにするというのも、一つの選択であり、その選択に相応しい未来が待っているはずです。
【福音派】聖書の外典・偽書と「聖書の絶対不可謬性」
キリスト教史の中で、旧約聖書が正式に聖典の扱いを受けるようになった歴史は意外に浅く、トリエント公会議(1545)の時である。
2世紀には既に旧約聖書を認めない派が存在し、それに反対するためにも4世紀に聖書のラテン語訳が始まり、397年「正典」が一応決まった。
特に、ヨハネの黙示録を新約に残すかどうかで、随分揉めたらしい。
東方正教会は、長く認めていなかったという。
1世紀末に書かれたもので、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」の著者とは別人が書いているが、今でも諸説あり、作者が福音書作者でないと文献学等で否定されていることを聞くと激怒する宗派もあるらしい。
どの文書が聖書として認められるべきか否かで、長く揉めて来た歴史というのは、大抵の宗教にあることだ。例えば、「北伝仏教の経典の多数は偽書である」という研究もある(「梅原猛の授業 仏教」をご参照下さい)
そんな歴史があるのに、特に、キリスト教原理主義者達を中心に「聖書の絶対不可謬性」を固く信じているキリスト教徒が結構いるのだそうだ。
聖書の中には、これを聖書に含めるかで揉めた文書があるという歴史等を、清教徒は全く知らなかったらしい。そのため、アメリカを中心に「聖書の絶対不可謬性」という、珍奇な教義をもつ教団が多いのだそうだ。
しかも、彼らが「間違いがない」と主張するのは、大抵、本来は聖典ではなかった旧約聖書のほうで、新約と違って間違いだらけの書物だ。
281投稿者:狂ったアメリカ人の精神構造 投稿日:2007年06月10日(日) 08時50分55秒
旧約聖書は盲信されると、世界の迷惑になる話が多すぎるのだ。
聖書と言っても旧約聖書は、基本的に泊付けのために導入されたものであり、どう考えても新約聖書の「神」と矛盾している。
旧約聖書の「神」は、所詮民族宗教の神なので、イエスと違い、人を幸福にすることのない神なのだ。
その「神」とイエスが三位一体であると言ったものだから、それから、キリスト教の神は相当残虐な「神」に変化し、教会の教えも残虐なものに変質してしまったのかもしれない。
ローマカトリックが新教の発生と共に今までの教会のあり方を見直して現在に至るのと対照的に、「自分達こそ、(旧教の輩と違って)汚れなき者である」と主張し続けて来た人々は、随分人殺しが好きな人々になっていき、全く自分達の行動を振り返ろうとはしない。
「神に選ばれた」とか「(自分達だけは)清浄なるものである」とか、「アメリカは『神の国』である」とか言うのは、明らかな(誇大)妄想である。
民族宗教の神ならともかく、キリスト教の神が、そんなに驕り高ぶり尊大で、「自分達は選ばれているから何をやっても許される」といった論理で他国民を無差別虐殺するような信者を、そんなに高く評価するだろうか。
「汝の敵のために祈れ」と言った神がだ。
聖書を書き記したのは所詮古代ユダヤ人であり、聖書の中にサハラ以南の黒人、インド以東のアジア人、北米南米・オーストラリア・ミクロネシアの現地人の存在が書かれていないのは、単に、当時の古代ユダヤ人の知識が足らなかっただけである。
ところが、「聖書の絶対不可謬性」を盲信する人々は、聖書に出て来ない人々を「人間として認めてはならない」という、見解になりがちだ。
清教徒が最初にこの考え方を米国に伝え、英国の清教徒が奴隷貿易を擁護した。自分達は清い名を名乗り、その行動は実に血なまぐさい。
聖書が誤っていることを認めぬ代わりに、世界や現実のほうを自分達の信念に合わせようとすると、随分多数の人々の人権を侵害し、戦争を次々起こし、多数の国を弱体化させ、...たくさんの異教徒をアジア・アフリカ・南北アメリカで殺さなければならない。
実際に、合わせようと今まで努力してきたのが、アメリカ合衆国という国の「裏の歴史」ではないのだろうか。
「キリスト教原理主義のアメリカ」(p.94)では、「聖書の絶対不可謬性」を信じる信者の割合を表示している。
ユニタリアン・ユニバーサリスト 6%
統一キリスト教会 12%
アメリカン・福音ルーテル教会 21%
エビスコーパル・チャーチ(聖公会) 22%
統一長老派教会 25%
統一メソディスト教会 34%
エホヴァの証人 51%
チャーチ・オブ・クライスト 55%
サザン・バプティスト会議 58%
チャーチ・オブ・ナザレン 58%
アセンプリーズ・オブ・ゴッド 65%
ユナイテッド・ペンテコスタイル・チャーチ 69%
チャーチ・オブ・ゴッド 80%
http://hoffnungenlied.cocolog-nifty.com/kaizen/cat1966234/index.html
「敵を妥協せず徹底的に叩く」というアメリカの精神的背景について
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html
アメリカに移住したピューリタンは、「キリスト教原理主義」を貫いて、「エルサレムの建国」を「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」として、西部開拓(実際は先住民殺戮)を推し進めた。
この「キリスト教原理主義」の精神性が連綿と続いているという。
「キリスト教原理主義」は聖書(:福音)絶対であるのと同時に、選民思想であるという。これが他部族みな殺しを正当化させているとのこと。
元々、ヨーロッパ自体が
「古代・地中海周辺における皆殺し戦争の結果としての共同体の徹底破壊」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=330205
により、選民思想も登場してきているという背景があります。
ヨーロッパは、17世紀中頃に徹底殺戮の宗教戦争(:「神」と「悪魔」の戦い)をやめる条約を取り交わしました。しかし、アメリカ(に渡った移民)はその後も長きにわたって、みな殺しの殺戮を繰り広げてきたことが、今尚「敵を妥協せず徹底的に叩く」という精神性に繋がっているのだと思います。
以下、
『世界を操るグローバリズムの洗脳を解く(馬渕睦夫著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%B4%97%E8%84%B3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4908117144
からの紹介です。
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■アメリカを新しいエルサレムの地にする
イギリスでピューリタン革命が起こる前、宗教的な迫害を受けたピューリタンの一部の人たちは、新天地を求めてイギリスからアメリカ大陸に向いました。1620年にピルグルム・ファーザーズがメイフラワー号でアメリカに渡ったのです。
ピューリタン(清教徒)というのは、purity(純水、清浄)という言葉から来たものですが、文字通り、宗教的な純粋、純化を求めていた人たちです。
彼らは、当時のカソリックの腐敗した状況を見て、ルターの宗教改革をさらに徹底してやらなければいけないと考えました。
ある意味で、キリスト教の原理主義であり、相当極端な過激な思想であったと思われます。それゆえに、イギリス国内での迫害も強かったのでしょう。ピューリタンたちはイギリスで食い詰めた最下層の人たちだったという説もあります。
いずれにせよ、彼らの一部はイギリスを逃れてアメリカに移住しました。
彼らピューリタンは、司祭の言葉ではなく、聖書の言葉こそ神の言葉と考えて、聖書の言葉を忠実に実践しようとしました。そして「この地に自分たちにとってのエルサレムを建国しよう」と考えたのです。
ピューリタンたちは旧約聖書を重視しましたが、旧約聖書に忠実に従ったという点ではユダヤ人たちと考え方は同じです。
ユダヤ人は自分達を選民と考えていましたが、ピューリタンも自分達を現代の選民と考えて、アメリカという地をエルサレムにして、神の福音を世界に伝えようと考えました。これが「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」と呼ばれるものです。建国の精神に立ち戻って考えれば、アメリカと言うのは宗教国家であることが分かります。
彼らは、神の福音を伝えることを使命と考えていましたから、それを妨害する勢力は皆敵と見なしました。その観点に立てば、先住民の殺戮も正当化されました。
そして神の福音を妨害する勢力を西へ、西へとなぎ倒していったのがフロンティア・スピリットです。フロンティア・スピリットは、ピューリタニズムと表裏一体です。
西へ、西へと進んでいって最終的にたどり着いたのがカリフォルニア。そこから先は海に遮られています。しかし、太平洋を越えて福音を伝えようと考え、アメリカはハワイ、フィリピンに進出し、さらに日本、中国にも福音を伝えようと考えました。
このように、アメリカのたどってきた歴史は、マニフェスト・デスティニーの歴史と考えると筋が通ります。
■宗教国家のアメリカには「妥協」がない
現代のアメリカには、ピューリタニズムの精神はもうほとんど残っていません。アメリカの国体はすっかり変わってしまいました。国体は変質してしまいましたが、彼らのマニフェスト・デスティニーの考え方は変わっていません。アメリカ的な発想を世界に普及させる、あるいは押し付けるというやり方を続けています。つまり、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を世界に広げることが、一貫したアメリカの世界戦略です。
彼らは、「自分達は植民地主義者ではない。帝国主義者ではない」とずっと主張し続けていますが、実際の現象を見れば、遅れてきた帝国主義者の様相を呈しています。彼らは「門戸開放」という言葉を使いましたが、言い方を変えれば、「オレたちにも分け前をよこせ」という意味です。
神の福音を伝えることが目的であったにせよ」、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を広げることが目的であったにせよ、実質的には帝国主義と同じです。
建国の経緯を見れば、アメリカと言う国の本質は宗教国家であることが見えてきます。宗教を広げることを理念としている以上、彼らに妥協というものはありません。その点を理解しておくことが重要です。宗教国家の側面は、アメリカの戦争のやり方にも影響しています。
ヨーロッパにおける戦争というのは、妥協が成立することがよくあります。17世紀に宗教戦争によって疲弊しきったヨーロッパ諸国は、1648年にウェストファリア条約を結んで宗教戦争を止めることを決めました。
宗教戦争というのは、「神」と「悪魔」の戦いですから、悪魔は徹底的に叩くほかなく、どちらかが破滅するまで行われます。続けていけば際限が無くなり、ヨーロッパ全体が破壊されてしまうため、宗教を理由とした戦争を止めるウェストファリア条約が結ばれました。
ウェストファリア条約以降は、ヨーロッパでは戦わずして対立が終わることもありましたし、話し合いによって妥協が成立することもありました。
アメリカの場合は、選民思想によるマニフェスト・デスティニーが根本にあるため、アメリカにとっての戦争は、いずれも宗教戦争的意味合いが濃く、彼らには妥協というものがありません。
第二次世界大戦においては、アメリカは日本を徹底的に攻撃して壊滅状態に追い込みました。その後の占領政策では日本の国体を徹底的に潰そうとしました。一切の妥協はありませんでした。それが宗教国家のやり方です。
今は、ピューリタニズムのアメリカ的な精神を持った人たちは、ほとんどいなくなりました。アメリカの国体が変質して、宗教国家の要素はなくなっていますが、妥協しないやり方は変わっていません。
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html
▲△▽▼
2019.03.25
ポンペオ国務長官に限らず、米国はキリスト教系カルトの思想に影響されている
アメリカのドナルド・トランプ米大統領がシリア領のゴラン高原におけるイスラエルの主権を認める時期だと表明した頃、マイク・ポンペオ国務長官はイスラエルを訪問していた。そこで同長官はクリスチャン放送網のインタビューを受け、その中でトランプ大統領が現れたのはイランの脅威からユダヤの民を救うためなのかと聞かれる。その答えは「キリスト教徒として、それは確かにありえると思う」だったという。
ポンペオはマイク・ペンス副大統領と同じようにキリスト教系カルト(ファンダメンタリスト)で、トランプ大統領がアメリカ軍にシリアから撤退するように命じたときは激しく反発していた。その命令にはペンスとポンペオだけでなく、アメリカの有力メディアや議員たちも同じように反発していた。
バラク・オバマ政権の政策は東部シリア(ハサカやデリゾール)にサラフ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)の支配国を作ることになる可能性があると2012年8月にDIAは警告していたが、その当時のDIA長官、マイケル・フリンをトランプは国家安全保障補佐官に任命した。そのフリンを有力メディアや議会は激しく攻撃、2017年2月に解任される。その直後の3月、トランプ大統領を排除してペンス副大統領を後釜に据えるという計画があるとする情報が流れた。
1991年当時、国防次官だったネオコン(イスラエル至上主義の一派)のポール・ウォルフォウィッツはイラク、シリア、イランを殲滅すると口にしていた。これはウェズリー・クラーク元欧州連合軍(現在の作戦連合軍)最高司令官の話。(ココやココ)
ネオコンは1980年代にも似たことをホワイトハウスで主張していた。イラクのサダム・フセイン政権を倒して親イスラエル体制を樹立、シリアとイランを分断して両国を殲滅すると言っていたのだが、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領(当時)などイラクをペルシャ湾岸産油国の防波堤と考えるグループと対立、スキャンダルが発覚する一因になった。
キリスト教系カルトがイスラエルへ接近したのは1970年代のこと。ネオコンがアメリカで政治の表舞台へ出てくる時期、つまりジェラルド・フォード政権と重なる。ベトナム戦争でアメリカ軍が苦しんでいた1967年に引き起こされた第3次中東戦争でイスラエル軍が圧勝、カルトの信者たちはそこに新たな「神の軍隊」を見たようだ。
キリスト教の「新約聖書」は何人かが書いた文書を集めたもので主義主張に違いがあるわけだが、その中で最も強い影響力を持っているのが「ヨハネの黙示録」。そこで日本語版を読んだことがあるのだが、おどろおどろしい妄想にしか思えなかった。
新約聖書を研究している田川健三によると、黙示録にはふたりの人物、つまり原著者と編集者によって書かれた文章が混在している。ギリシャ語の能力が全く違い、思想も正反対であることから容易に区別できるという。原著者は初歩的な文法についてしっかりしているのに対し、編集者の語学力は低く、知っている単語や表現をまるで無秩序に並べ立てただけだというのだ。(田川健三訳著『新約聖書 訳と註 第七巻』作品社、2017年)
この説明を読み、黙示録の支離滅裂さの理由がわかった。本当の問題は語学力ではなく、その思想の違いにあるのだ。元の文章を書いた人物はすべての民族、すべての言語の者たちを同じように扱い、ユダヤ人の存在そのものが意識されていないのだが、元の文章に加筆した人物は極端に偏狭なユダヤ主義者で、異邦人は神によって殺し尽くされると考えている。
後のキリスト教は異邦人を異教徒に読み替え、侵略、破壊、殺戮、略奪を繰り返してきた。十字軍の中東侵略やアメリカ大陸での先住民殲滅と略奪は勿論、ピューリタンはカトリックの信者が多いアイルランドなどへ攻め込み、アジアやアフリカも植民地化して殺戮と破壊の限りを尽くした。
そうした流れの中、中国(清)を略奪するために始めたのがアヘン戦争であり、イギリス(シティ)は兵力の不足を補うために日本人を傭兵として使った。その戦略はアメリカ(ウォール街)が引き継いでいる。
ポンペオ長官のトランプ大統領に関する話が事実だったとしても、驚くほどのことではない。アメリカとはそういう国なのである。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903250000/
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読書:田川建三『新約聖書 訳と註』 ヨハネ黙示録 2017/09/07
https://ohta.at.webry.info/201709/article_1.html
13年かかった田川建三の新約聖書翻訳が遂に完結である。長年の田川ファンとしては、慶賀の至である。なんせ、1935年生まれだから、今年で82歳。高齢ゆえに、完結を待たずして病に倒れるなんて状況はいくらでもあり得たのである。
近年の刊行ペースは二年に一回だった。最終稿が上がって最終校正も終わった頃になると田川自身のホームページが2年ぶりに更新されて、そろそろ新刊が出ることと近況として病気をして寝込んでいたことなどが報告されるというのが最近のパターンだったのである。まずは、よかったよかった。
しかし、、、、この調子でいくと『事実としての新約聖書』(新約聖書概論)が発刊されるのは、2ー3年先になりそうだし、それまで田川建三先生の元気が持つかどうかは相当に怪しい。何としても、ここは頑張っていただきたい。そうでないと、日本のキリスト教理解が生半可なまま続いてしまう。日本人のおめでたいキリスト教観が維持されてしまう。それは堪忍してほしい。
で、現物を買ってきて読んだ。訳文41ページ、註が約800ページという配分も相変わらずで、註の文章の中で炸裂する田川節も相変わらずというか、しつこいぐらいに聖書協会の翻訳(文語訳、口語訳、新共同訳)とアメリカ聖書協会の英訳(RSVとか)をこき下ろしまくる。今回は岩波訳が槍玉に上がってないなと思ったら、岩波の黙示録翻訳は特に程度が低いので相手する気にもならないのだそうだ。代わりに槍玉に上がっているのは佐竹明の(注解書の)翻訳と解釈。読みながら「ああ、私は佐竹明の親族親戚でも友達でもなくて良かった」としみじみ思いたくなるくらいに執拗な批判(というか、攻撃だよなぁこれは)を繰り返す。
・佐竹は学問のやり方を根本的に間違っている。しっかりと証拠を上げることには何の興味も示さず、他人の「論文」の結論だけを写してきたとて、それじゃ学問にはならない。それも大部分は近頃の学者になりたがり屋の連中(ほとんどは学問ごっこのお遊びの水準)が業績稼ぎに書いた「論文」を何百と読んだとて、何の役にも立つまいに。p.85
・佐竹さんは太陽が地平線から上って来る瞬間を見たことがないのかしらん。p.91
・佐竹はこの人たちのことを「リベラルな性格を持ったグループ」とレッテルを貼ってお出でだが、このレッテルがエイレナイオスの悪口に起因する、という事実をご存知ないままに、それに乗っかっておいでなだけである。p.110
800ページの注釈の中でこれを延々続けるのである。いや、日本にとどまらず、英独仏の聖書学者を片端からこき下ろしている。
・この種の学説をご自分で検討しないで尻馬に乗る奴が多いが、たとえばローマイヤー。(中略)尻馬進学者はそれを有難い神学の教えに転化しようというのだから有難や聖書学も困ったものである。安物学者は学問をやらずに神学ごっこをやっている。p.175
果てはルターの翻訳も批判にさらされるのだから、半端では無い。私も含めて田川ファンというのは歯に衣着せぬ田川節=罵倒を楽しむという不埒な趣味の人間が多い筈だが、ここまで徹底的にやられてしまうと、さすがに辟易というか、「田川先生、よく分かりましたから、そのあたりでやめてください。読んでる私たちが辛くなりますから」状態である。叩かれている相手が可哀想になってくるぐらいに田川はしつこい。
田川は、自分で書いた原稿は何回も繰り返して推敲するのだと、あるところで述べているのだが、あそこまで繰り返しているとご自身で読んでいて辛くならないのか?とも思いたくなる。しかし、田川はこの調子で全7巻8冊の註を書き切ってしまったのだ。
そして今回、あとがきを読んでいたらこんな一節に出くわした。
「(佐竹明について)自分が若い頃から何かとお世話になり、尊敬してきた先輩、畏友の書物をここまで徹底して、いわばなますに刻むようにして批判を叩きつけるのは、私としては心理的にずい分迷ったのだが、学問である以上、下手な手加減は許されない。…(中略)……真理、真実を明らかにする作業では一切の手加減も許されず、徹底した相互批判を通してしか正確な認識は得られない。学問は非常に徹しなければならないのである。むろん、佐竹さんもそういうことはよく了解なさっておられるはずである。この書物を書き進む時に、私の心には常にその点で痛みがあったが、我々はこういう仕方で協力して学問の真実を前進させていかねばならない。」
うーん。心に痛みを感じておられたんですか、、、
その上であれをやっていらっしゃったということを読むと、田川先生自身が「痛い人」に見えてきました、、、
既存翻訳に関する罵倒は、他巻でもお馴染みのことではあったのだが、今回はそれに加えて「黙示録編集者S」への攻撃が凄まじい。田川は今回の訳と註で「黙示録の原著者が書いた本文に対して、ほど同量の文章を書き加えた編集者Sがいる」という説を唱えた。Sは「サディスティック」の略であり、黙示録で有名な、天使のラッパとともに地上が破壊し尽くされあらゆる生き物が滅ぼされるというような話を書いたのは全てこの編集者Sなのだというのだ。異教徒をホローコーストしたくて堪らないガチガチのユダヤ教教条主義者というのが田川の見立てなのだが、原著者の文章と、編集者Sの文章は使っている語彙や文法で分離することが可能だとも田川はいう。編集者Sは文法が滅茶苦茶だというのだ。ギリシャ語が得意でないのに、無理に文章を書き加えたから、前後の話は繋がらないし文章自体も目を剥きたくなるような文法の間違いで一杯だという。引用すると、以下のようなものである:
・のっけから、構文上ひどく手抜きの下手くそな文。以下最後まで、この手の構文不整合が連続して出現する。編集者Sがそもそも西洋語の文法構造をろくに理解してない証拠。と言うか、そもそも言語の文章構造というものが理解できていない。 p.54
・下手に自己流に言葉を付け加えようとするから、しっぽを出してしまった。p.59
・属格支配の前置詞に続けて名詞を置くのに主格の語を並べるなぞ、唖然とするしかない。(中略)冒頭から不注意でこの種の幼稚な文法的間違いを犯す人は普通はいないだろう。それにこれはギリシャ語の初歩の中でも最も初歩、(中略)つまりこの人、そもそもギリシャ語文法をろくに知らないのである。p.59
これが第1章1節から4節までからの抜粋である。これが第22章の終わりまで延々と続くのだ。
これに加えて、編集者Sのユダヤ教教条主義への攻撃も凄まじい。田川の読者なら保守的なユダヤ教の感性がついに抜けなかった使徒パウロに対する田川の攻撃的文章の数々を思い出すだろうが、パウロより小物の編集者Sへの攻撃はさらに凄まじい。2世紀初頭の西アジアのどこかであのギリシャ語を書いていた著者からすれば、まさか2000年近く経って遥か東の島の人間が自分の書いた文章に悪口を並べているなんて想像もできない事態だろう。
ということで、田川訳新約聖書全8冊の中で田川節の濃度はこの巻が最も高かったです。
****
とまあ、「田川節は健在だった」報告はこの辺りにして、内容的な話。やはり「編集者Sの加筆」という田川の見解は面白いと思う。そして、田川訳で編集者Sの加筆部分とされる部分を除いて通しで読んでみると、難解だった黙示録が実にすらすらと読めてしまう。「え、これだけの話だったの?」状態である。つまり、
「私は幻視しました。ローマが滅びて民族の隔てなく人々が平和に暮らせる状態を。終わり。」
天使はラッパを吹かず、海は血に染まらない。悪の勢力はハルマゲドンにも集まらない。千年王国もない。それが、ヨハネ黙示録の元々の姿だったのだというのだ。もちろん、味わうべき文章はそこにもいろいろある。マルクスが貨幣物神のくだりで引用した13章、田川先生お気に入りの18章などは原著者の文章だという。ただ、話と描写があっちこっちに飛んでなんの事やらよく分からなかったヨハネ黙示録の話の筋が、田川説では、実にスッキリと見える。天使がラッパを吹いて地上が破壊されるみたいなスペクタクルはないけれども、分かりやすい構成の話だったのである。
元々はそんなに難解でも複雑でもなかったヨハネ黙示録だが、編集者Sが「ユダヤ人だけが残されて異邦人(ユダヤ人じゃない人々)は滅びる」という立場から執拗に加筆を行い、ホロコースト趣味の視点であれこれと書き加え(田川によれば、その場の思いつきで程度の低い文章を突っ込んでいった)訳が分からなくなった、、ということらしい。
実に面白い見解だと思う。願わくば、専門家の検証を待ちたいところだが(だって、古典ギリシャ語が相当に分かっていないと、あの註はきちんと読めないもん)、田川建三の説を取り上げようという聖書学者がもはや日本にいるとは思えないのが悲しいところである。田川先生の孤独な戦いは著作を残す事でしか世に問えないのだろうか。
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附論:田川建三にはなぜファンがつくのか
田川建三がコアなファンを獲得している理由は、護教論的発想をすっぱり切り捨てている聖書学者だからである。彼は教会とキリスト教自体を突き放して見ている。例えば使徒パウロの「女は会堂で発言するな」という発言を、女性蔑視と田川は言い切っている。要するにパウロは大変に保守的な心性の持ち主だったのだ。そして、大方の聖書学者がいろいろと理屈をこねたりそれっぽい文献を出してきて、「パウロの真意」を言い繕おうとする中で「この発言は、取り間違えようのない女性蔑視の発言だ」と言い切る。現代の基準からすると問題となる発言は困る、つまり聖パウロともあろうお方なら普遍的に立派な人でなくては困る、聖書の言葉は神が聖書記者に霊感を与えて書かせたのだし、、、云々という信者的発想からすると困ったことになる事態であろうとも、田川は反論を退ける。そんな信者の事情など持ち込むなと一蹴する。
フツーの人が、パウロの「女は会堂で発言するな」を読めば、フツーに女性蔑視の人だったんだねと思う。でも、信者サイドの人たちはなんやかんやと理屈をつけたがる。いわゆる護教論というヤツである。キリスト教に心を奪われた人はともかくとして、フツーの感性が残っている人はそういう護教論は胡散臭いと思っているし、鬱陶しい。そしてそれを口にすると、信者サイドはさらに理屈やら「証拠」を積み上げてくるので更に鬱陶しくなる。彼らが積み上げてくる「証拠」をいちいち反論するのには多大な労力を要するからである。なんせ、彼らのバックには聖書学者達がそれっぽい理屈をいっぱい用意してくれている。
2000年にわたって築き上げられたこの護教論の城を攻めるのに、田川建三の著作は大変役に立つ。歴代の聖書学者たちの論拠を、事細かに「テキストの読み方が間違っている」「ギリシャ語の解釈がおかしい」と暴いてくれるからである。キリスト教に対してモヤモヤしたものを抱きつつも、それを具体的な言葉にできないでいる知識人にはうってつけの素材を田川建三は提供してくれている。
これは、単にキリスト教に漠然とした反感を持つ程度のインテリではできない仕事である。向こうが展開している神学の中に相当程度に入り込まない限り、きちんとした反論は構成できない。2000年近い歴史を誇る組織神学はそんなにヤワなものではないのだ。
田川建三がそこに切り込んでいけたのは、新約聖書の正文批評という物証主義(というかテキスト主義?)で作業したことが大きいのだが、元々はキリスト教の環境で教育を受けた人であることが大きいと思う。変な喩えかもしれないのだが、UFOや心霊現象について懐疑論を展開している人には、UFOや心霊現象を信じていた過去がある人が多いという現象に似ている。つまり、UFOや心霊現象を鼻から馬鹿にしている人たちは、UFOや心霊現象のことを深く知ろうとはしない。深入りするのも馬鹿馬鹿しいからだ。そういう人たちがビリーバー(信者)に反論しても、深いところで突っ込めない。しかし、ビリーバーの過去がある人たちは相当に細かいところまで深入りしたことがあるので、反論も無闇に細かいのである。そして、過去の愛着が裏返しになっているので、議論も長続きするし持久力がある。
田川がどこでキリスト教の信仰から自由に物事を考えられるようになったのかは、本人がはっきりとしたことを語っていない以上知る由も無い。しかし、国際基督教大学で教職を勤めていた時代に「存在しない神に祈ろう」と学内礼拝の講話で話し、それが遠因で大学を辞めさせられることになったと語っているから、その頃には人類が神に祈ってきたという行為には敬意を表しつつも神の実在は否定していたことは確かである。しかし、恐らくは東京大学文学部修士課程で西洋古典学を学んでいた頃にはキリスト教の信仰に距離を取っていただろうし、マルクスの考え方なども学んでいただろう。
蛇足になるかもしれないのだが、東大文学部修士課程の西洋古典学科(の古典ギリシャ語)は、プロテスタント系神学者のエリートコースである。そして、どんな学術分野でもそうなのだが、ここで(新約聖書の)ギリシャ語を学んだ学者さんたちは、狭いコミュニティーを形成した。田川建三がかなり執拗に批判し続けた聖書学者荒井献にしても、今回のヨハネ黙示録で散々槍玉にあげられた佐竹明にしても西洋古典学科の同窓生なのであり、個人的な行き来もあった。コミュニティが狭かっただけに、人間関係のこじれ方も半端なかったのでは無いかとも想像できる。
荒井献にしても佐竹明にしても、田川建三の批判から浮かび上がるのは「要領の良い学者」像である。欧米の主流学説を効率よく(あるいは貪欲な数量の論文を)取り入れて論文を書いていく生産性の高さで評価されるという学者像なのだが、荒井や佐竹が本当にそういう学者なのかどうかは私はご本人たちを知らないからなんとも言いかねる。しかし、田川の批判を通じて見えるのはそういう学者像だから、田川はそのように彼らを見ていたのだろうし、そういう学者はどの分野にも居た(私の専攻した分野にももちろん居た)から、説得力はある。そして、その手の要領の良い学者が学閥みたいなものを形成していくのを田川が快く思って居なかっただろうことも容易に想像はつく。
田川はそうした要領とは無縁の道を進んだ。国際基督教大学を追われてからは独力でドイツに行き、アフリカの大学にも赴任し、帰国後は聖書学以外の講義で糊口を凌ぎ、退職後は一般市民を相手に私塾を開いて聖書学を講義し、独力で新約聖書を翻訳し、ほとんど罵倒と変わらないような言葉でかつての同僚の仕事を批判し続けた。愚直なまでにそれを続けたのだ。言ってみれば、「呪われた知識人」である。このポジションに田川は嵌っており、それがファンを呼び寄せているのである。
私も長年の田川ファンを自認するものなのではあるが、こうした事情に基づく田川ファンの構造に無意識で居られるほどの無知でもない。それだけに、精神病理学的な領域に達しているとすら思われる田川の罵倒癖にも無頓着では居られない。
学問上の真実を追求するために情を排した批判は不可欠だと田川は言う。だが、田川の言う「非情」(=情を排した)の実質は「ネガティブな情が満載」なだけのようにも見える。情を交えた学問が百害あるものだとすれば、ネガティブな情を交えた学問はさらに害がありそうなものだ。田川節は少なからぬファンを獲得した。そのファンの存在があればこそ、田川の『新約聖書 訳と註』の出版が可能になったのかもしれないが、あの罵倒が学界全体の向上に繋がったのかは疑問である。田川ファンを自認するものとして悩ましい事態である。
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