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2019年4月27日13時47分 〜
記事 [経世済民132] 仏ルノー 日産が経営統合応じぬなら西川CEOの続投を拒否(日刊ゲンダイ)
 


仏ルノー 日産が経営統合応じぬなら西川CEOの続投を拒否
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/252767
2019/04/26 日刊ゲンダイ


日産・西川社長(C)日刊ゲンダイ

 経営統合に応じないなら西川氏の続投を拒否する――。仏ルノーが日産自動車の西川広人CEOに対し、こう伝えていたことが分かった。26日の読売新聞が報じた。

 ルノーは、日産株式を43.4%保有しており、西川氏の再任を拒否することは可能。日産側は、ルノーが西川氏続投との交換条件として経営統合を、どこまで強く圧力をかけてくるか出方を見極めているという。

 一方、日産は新しい取締役を11人程度、選出する方針で、ルノーが西川氏続投拒否を伝えたのは、「ルノー側に有利な人選をするための揺さぶり」との見方もある。










http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/292.html

コメント [政治・選挙・NHK260] 怒り!飯塚「不逮捕」以外に5つの理由がある!   赤かぶ
28. 2019年4月27日 13:47:21 : d6jQkpY64w : c2FodDJZcVBjMkk=[1]
そういえば羽鳥のモーニングショーで交通ジャーナリストの何とかって人がやたら飯塚が逮捕されないこと擁護してたな。あれは口止めされたとしか思えないな。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/175.html#c28
コメント [近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
38. 中川隆[-10578] koaQ7Jey 2019年4月27日 13:47:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1498]
プチエンジェル事件と大嘗祭
https://twitter.com/pencil19937/status/1091658902326800385

pencil‏ @pencil19937 3:25 - 2019年2月2日
彼らのやっている事は悪魔崇拝です。過去にローマ法王とエリザベス女王が5万人にわたって性的幼児虐待、人身売買、幼児虐殺、そして幼児を食べていたことがわかっている。

プチエンジェル事件はこれを日本でも行われている事を裏付けるような事件。


pencil‏ @pencil19937 · 2月2日
【プチエンジェル事件】

この事件の建物は小沢一郎の資金管理団体「陸山会」が所有。
https://newsmatomedia.com/petit-angel

顧客リストには医者、弁護士、政治家、皇太子の名前も。
https://www.google.com/amp/s/naruzu3.exblog.jp/amp/29341158

事件後、犯人が自殺。この事件の取材をしていた人物は殺害されている。何か隠そうとしてるとしか思えない。

pencil‏ @pencil19937 · 2月2日
小沢一郎は皇太子妃と近い関係にあるので顧客リストに載っていてもおかしくない。
今年皇太子が天皇に即位しますが、即位後に行う儀式「大嘗祭」が悪魔崇拝儀式なのでローマ法王などだけではなく、天皇も悪魔崇拝をしていることが分かる。この事件は天皇家絡みの可能性大


かこちゃん‏ @j6bENMZvGajJaiH · 2月3日
闇の都合の悪いことは何でも小沢・皇太子妃に転嫁する清和会。警察が現場に乗り込んだら秋篠宮がいたが皇宮警察が連れ去ったと読んだことがある。いい加減にして!


だいわピュアラブ‏ @daiwaryu1121 · 4月14日
プチエンジェル事件の真相を書きました。
プチエンジェル事件で有名な未成年少女売春クラブプチエンジェルの少女に会いました。プチエンジェルの仕切りはやはり住吉会でした。 https://daiwaryu1121.com/post-5959/

https://twitter.com/pencil19937/status/1091658902326800385

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c38

コメント [原発・フッ素50] 《極めて重大な情報につき、阿修羅の魑魅魍魎氏の情報を転載す》を受けて懸念される《フクイチ3号炉で懸念される不完全核爆発》 お天道様はお見通し
12. 2019年4月27日 13:51:05 : fxFdu1KKZc : T1BHN2pWMk1ockU=[2]

11の工作員、

長い時間かけて

やっと反論したね。

どこから情報仕入れてきたか

知らないが、

勉強したんだね。

工作員としては、

優秀だ。

頑張ってるね。

でも、煙に巻かれた感じで、

ゴホゴホしているよw

放射能の煙じゃなければ

いいんだけどね。



http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/851.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
1. 2019年4月27日 13:54:39 : ABPExKQ6Vk : REhURHl6ZS52bm8=[47]
その通り
さすが分析のポストさんですね

遅いけど!!!

枝豆なんどは
東北の全学連(ユダヤ傀儡)上がり嫁の親は役人上がり
どう見てもユダヤそのものだろう
気がつくのが遅すぎる
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK260] NHKから国民を守る党 臨時総会 ユーチューブでやってます 怪傑
12. 2019年4月27日 13:55:19 : PdDHSqpKj2 : QXQwNENWc1dDMlU=[6]
>>11
>正義はだれがやってもいいと思っています

NHK党が犯罪者集団と言うつもりはさらさらないが
犯罪者集団が自分達の犯罪的事実を無視して
正義を掲げても問題ないと言いたいのか。

>>10
>犯罪者であっても然るべき償いをすれば、
>被選挙権は与えられますが…

そこは重要。ただ釈放されても悪態を付いている
元ライブドア堀江のような人間は断固拒否
偏狭でも何でもなく道理ですよね。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/165.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK260] 現代の共産主義は独裁者の道具に過ぎない!  赤かぶ
2. 2019年4月27日 13:55:27 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[714]
かつての英ソ関係は体制の違いにも係わらず現在の英露関係よりも良好だった気がしてならない。イデオロギーの違いなど世界の真の支配者を覆い隠すための単なるツールのひとつなのかもしれない。日露戦争では英国は日本の味方で第2次大戦では逆。これはイデオロギーの違いから生じていたものではないように思う。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/188.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
2. 2019年4月27日 13:56:44 : 4AqwZ2Evbg : UmlCd05xSG80Qmc=[5]
こういう おかしな人が寄ってこない為にも共闘に慎重な姿勢を崩さない枝野を評価する

あと立憲の支持率が下がったのは
安倍の支持率が下がると野党の支持率を下げて調整する御用メディアの常套手段
にも拘らず、官邸の狙い通りの反応を見せる人にも要注意
決して近づかせてはいけない
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK260] 悠仁さまの学校の席に包丁 何者かが侵入か(NHK) 完璧帰趙
3. 2019年4月27日 13:58:32 : 4AqwZ2Evbg : UmlCd05xSG80Qmc=[6]
よう、真相の道
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/187.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 怒り!飯塚「不逮捕」以外に5つの理由がある!   赤かぶ
29. 2019年4月27日 14:01:48 : Y4cSz3xci2 : aHJwaEt2SjdVSkE=[1]
このプリウスって自動ブレーキとか何も無い2代前だね。

年収2000万以上という話からするとどんだけケチなんだよ。

安全には金を掛けないというのは原発と同じか。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/175.html#c29

コメント [政治・選挙・NHK260] 政権を目指さない野党政治家は政界に巣食う「政治屋」だ。(日々雑感) 笑坊
9. 2019年4月27日 14:04:22 : PdDHSqpKj2 : QXQwNENWc1dDMlU=[7]
>党の合流にモタモタしていることが,なぜ政権を
>狙わないことになるのかさっぱりわからない。
>党の合流は必須ではない。別の党と
>連立政権を組んでもいいのだ。
>過去の政権交代は,いずれも連立政権だった。
>今の自公政権も連立政権だ。

>「小沢氏だけだ」をやたら協調するが,

信者は「日本の救世主は教祖を措いて他にない」
と言いたいのだろう。宗教を信仰する者と何も変わらない。
時に責め立て危機を煽るが言い触らす側が
正常な認識に基づき語っているのか否かは
十分に見極める必要がある。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/158.html#c9

コメント [政治・選挙・NHK260] 小沢一郎代表 自由党は国民民主党と合流することになりました。必要なことは、全野党の「結集」。そのための第一歩です。 赤かぶ
42. 2019年4月27日 14:06:35 : MwqM2u5ylY : WmdFRGhUVFJRdkk=[354]
41>さんが言う様に何が何でも野党が結集して安倍政権を打倒、野合と言うなら自民公明だって野合、これ以上国を破壊し国民を無視する自民公明は数の力で好き勝手している。もう我慢の限界だ。階議員というのは本当に心の狭い石のような固い頭の人間、政治家には向かない人間だ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/171.html#c42
コメント [経世済民132] もはや学歴だけでは食えない!日本も実力主義に!   赤かぶ
14. 2019年4月27日 14:07:27 : 6KiUALiH2Y : NTNnc2FGWVN2SWM=[28]
「出る杭は打たれる」、「仕事は盗んで覚えろ」、「能ある鷹は爪を隠す」等は日本の社会では本当に優秀な人材が存分にその能力を発揮できる環境とはほど遠いことから生まれたことわざであろう(もちろんそうでない所もたくさんあるが)。

組織のほとんどすべては聖人君子ではない人間の集合体なので、その事実を前提として組織が常に正常に機能するような管理方法が適用されなければならないだろう。
会社からちゃんと給料をもらっている以上、会社や自分が直接所属する部署、上司、同僚、部下に対して誠実であろうとすることは当然のことであろう。

まずは「適材適所」の徹底を目標とするべきではないか。某有名電気メーカーのように日本人社長の下で青色吐息であった会社が外国人社長に変わった途端みるみる業績を回復していった実例があるが、あれは社長が不適格者であったという以外の何物でもない。社長の資格のない人間が社長になっていたのである。その時に外国人社長の言ったと言われている「管理職が辞めるのは問題ない」という発言は、管理職が会社を毒していたということであろう。

会社のトップは人材の採用が本当に適正に行われているかチェックした方がいいのではないか。なぜなら、低能な管理職ほど自分を追い抜く恐れのある人材を忌避するからである。これは人事の採用担当者と言えども例外ではないようである。極端な話、採用担当者が欲望に負けて、仕事はできなくてもセフレにできそうな女性を優先して採用していたらそのような会社の業績が落ちていくのは火を見るように明らかである。実際にそのような話は掲示板に載っている。 

少し前まではまだ、企業のトップに太平洋戦争の生き残りの人たちがいて、「死んだ戦友の分まで頑張ろう、そうでないと死んだ戦友たちに申し訳ない」という意識を持った人たちがたくさんいたが、そういう人たちは悪いこともできなかったはずである。そういう良質なトップが時の経過とともにだんだんと消えていくに従って日本の企業の衰退が加速していったように見える。

公正な人事を行っている企業には法人税を軽減するとかの特典をあたえるか何かしないとどんどん日本の会社は衰退していくのではないだろうか。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/227.html#c14

コメント [経世済民132] ルノーの日産との統合案判明 持ち株会社方式で〜近く、正式な提案を日産に/日経デジ 仁王像
5. 2019年4月27日 14:09:58 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[38]
そんなこといっても筆頭株主。
議決権もある。
稼ぎ頭。
切り捨てるわけが無い。
ルノーの完全子会社にならないだけマシ。
日産が潰れてもルノーが潰れなきゃいいんだよ。

日産のルノー離脱を画策している方々、ご苦労さんだけどその努力は水の泡。
現実を直視しようね。

http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/286.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK260] 政権を目指さない野党政治家は政界に巣食う「政治屋」だ。(日々雑感) 笑坊
10. 2019年4月27日 14:10:39 : PdDHSqpKj2 : QXQwNENWc1dDMlU=[8]
B級映画では楽天家で能天気故に死亡する人間と
悲観論(終末論)故に死亡する人間の二通りが
描かれる傾向にある。前者は正確な情報を
与えても全く聞こうとせず後者は固定的な
考えに縛られるあまり正確な情報を全く認識せず。

また前者は健常者であり後者は時に精神病患者なので
後者を弄るようなことは控えられつつあるが
滑稽(道化)であることは言うまでもない。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/158.html#c10

コメント [政治・選挙・NHK260] <事実上、原発は、もはや無理だと宣言したのだ!>脱原発に舵を切った安倍首相の野党つぶし  天木直人  赤かぶ
31. 2019年4月27日 14:12:30 : BpzhY7qFk6 : WW9HMHFYNXdVOW8=[145]

 選挙に勝ったら 原発再始動!!    それまでの 辛抱 辛抱!!
 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/178.html#c31
コメント [経世済民132] 10年連続プラスの自動車生産、今年度はとうとうマイナスか(ニュースイッチ) 赤かぶ
1. 2019年4月27日 14:18:25 : BpzhY7qFk6 : WW9HMHFYNXdVOW8=[146]

 多少は減るのだろうね〜〜〜 
 
 だけど 自動車産業の 苦難は 5年後が本番だ
 
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/291.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民と自由が合流。小沢の手に多額資金と大組織+党内では小沢元側近から強い抵抗。離党もありか?(日本がアブナイ!) 笑坊
21. 2019年4月27日 14:21:41 : MwqM2u5ylY : WmdFRGhUVFJRdkk=[355]
野田佳彦なる裏切り者、大嘘付きの詐欺師が良くも意見など言えるものだ。その野田と同じ理念の階猛は何故いつまでも心の狭い男でぐずぐず言っているのか,今すべきこと安倍政権を倒す事、多少の意見が違ったからどうだと言うのか、国民から見たらまず大同小異で野党が一つにならなければ安倍与党には勝てないことは素人でも解る。国民の為に何をすべきか考えればぐずぐすいっている場合ではない。議員という国民の代弁者という資格は階猛にはない。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/159.html#c21
コメント [政治・選挙・NHK260] 現代の共産主義は独裁者の道具に過ぎない!  赤かぶ
3. 22A[1093] glGCUUE 2019年4月27日 14:22:41 : LKXRYf922A : ZGRUU0wxY3FvbVk=[105]
政治の仕組みとしては,民主主義と独裁がある。
経済の仕組みとしては,資本主義と社会主義・共産主義がある。

この2つは独立だから,結局政治と経済を合わせた仕組みとしては,4通りあるということだね。

これを理解していない人がいろいろ言っているわけだ。

では,社会主義・共産主義とは何か?
日本共産党の綱領によれば以下。
http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/

 社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される。
 生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。
 生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/188.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK260] 原子力規制委委員会も現実に恐れている原発へのテロ発生(かっちの言い分) 一平民
12. 2019年4月27日 14:25:23 : VE86th4Elo : bXNnNXZpM29WMVU=[3]
>11
>保有しすぎの使用済み燃料の期限付き廃棄指示が出された=高速炉の再開発?


廃棄指示? 一体どこに廃棄しろと? 最終処分場も決まっていないのに?

米が引き取ってくれるんでしょうか?

それとも、昨年この様な会議があったらしいけど、ひょっとしてこの話の事でしょうか?

遂に切れた核燃サイクルの「輪」
https://facta.co.jp/article/201905028.html

>昨年12月の原子力関係閣僚会議は、かつて脱原発派として名を馳せた河野太郎外相から「国際社会に説明する立場からプルトニウムの削減が必要」との発言もあったが、


もんじゅが失敗して核燃料サイクルは破綻しているのに、Puを削減しろという事は、通常の原発でPuを燃やす、危険と言われているプルサーマル発電を行ってPuを減らせと言っている事になりますよね。

つまりは、外務省は、もっと原発を再稼動させろと言っている事になりますよね。

また暗に、破綻が明白な核燃サイクルも止めないで、原発政策を維持しろとも言っている事にもなりますよね。

外務省は。

それが宗主国の要望なんでしょうか?

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/121.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK260] 中国に懐柔された二階幹事長──「一帯一路」に呑みこまれる日本(ニューズウィーク) 赤かぶ
1. 赤かぶ[11098] kNSCqYLU 2019年4月27日 14:27:17 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1160]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/190.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] 中国に懐柔された二階幹事長──「一帯一路」に呑みこまれる日本(ニューズウィーク) 赤かぶ
2. 赤かぶ[11099] kNSCqYLU 2019年4月27日 14:28:10 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1161]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/190.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK260] 中国に懐柔された二階幹事長──「一帯一路」に呑みこまれる日本(ニューズウィーク) 赤かぶ
3. 赤かぶ[11100] kNSCqYLU 2019年4月27日 14:28:52 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1162]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/190.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 当事者が異例の反省会見「他の人たちも早く目を覚まして」 高齢者はなぜネトウヨにはまるのか(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
13. 2019年4月27日 14:29:49 : 1y0nxOwYko : WW1HVlZZck9TTnM=[3]
阿修羅だってこのスレにも書き込んでいる「しんのすけ99」なるゴミのように他のサイトに書いてある内容について嘘を言うヤツもいる。

http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/618.html#c27

バカかぶ君のようにそんな嘘つきの肩を持って投稿者による非表示権限を使うヤツもいる。

ネットに嘘つきが多いのは確かだ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/176.html#c13

コメント [政治・選挙・NHK260] 中国に懐柔された二階幹事長──「一帯一路」に呑みこまれる日本(ニューズウィーク) 赤かぶ
4. 赤かぶ[11101] kNSCqYLU 2019年4月27日 14:30:30 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1163]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/190.html#c4
コメント [経世済民132] 日産に経営統合迫る 牙むいたルノー会長スナール氏の本性(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
6. 2019年4月27日 14:30:49 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[39]
技術も販売量も関係なく、株主には勝てない。それが株式資本主義。

弊害ばっかだが、今んところそういうルールだ。あきらめな。

個人的には、日産嫌いだが、株主の力が強すぎるのは大問題だと思っている。
不労所得ってやつだよ。
非正規で年収300万足らずなのが山ほどいるのに、金持ちは株買って株主配当で濡れ手に粟な生活。
そのくせ経営まで口出ししやがる。
これが問題でないとは言わないだろ。

http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/268.html#c6

コメント [経世済民79] 日本株GW暴落!? 米市場は「ヒンデンブルグ・オーメン」警戒 (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
1430. 2019年4月27日 14:31:00 : 1DJe9ORvh2 : Q1RTSTJsMUl5bGs=[4]
Sagnac effect を簡単に説明すると 次のようになります。

xy平面で考えます。A(t) = (at, 0) , B(t) = (at + c, 0)
ここに (c >) a (>0)は速度(m/sec), c は光が1秒間に進む距離: 29.8 ✖ 10^7 m
とします。線分A(t)B(t) は 光ファイバーとします。
t = 0 の時に A(0) から その光ファイバーに入射した光は、1秒後に
(c,0)に達します。ところが B(0) は、B(1) = (a + c, 0) 迄進んでいますから
まだ光は出口迄来ていません。

t = 0 の時に B(0) = (c, 0) から入射した光は、1秒後には、(0,0) に達します。
A(1) = (a, 0) ですから、既に光は出口から出終わった後です。

順行の時と逆行の時とでは、出口迄達するには、異なる伝播距離を 進まなければ
ならないという事です。一方は 出口を追いかけ、他方は 出口が近づいて来ます。

光ファイバーを円周上の巻いても 同じ事が言えます。

.


http://www.asyura2.com/13/hasan79/msg/610.html#c1430

コメント [政治・選挙・NHK260] 中国に懐柔された二階幹事長──「一帯一路」に呑みこまれる日本(ニューズウィーク) 赤かぶ
5. 赤かぶ[11102] kNSCqYLU 2019年4月27日 14:31:26 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1164]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/190.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK260] しぼむ安倍首相への期待 でも「ネット限定層」は高支持/朝日デジ 仁王像
4. HIMAZIN[646] SElNQVpJTg 2019年4月27日 14:31:29 : tfL5STIxFs : SktxRUovLlVxR1E=[6]
テレビだろうがネットだろうが情報の取捨選択、吟味が出来るか否かの違いでしか無いでしょう。
鵜呑みにする人間はどこから情報を得ようとも鵜呑みにするだけだし。

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/180.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK260] 派手な欧米歴訪にも懸念 安倍外交“破綻”青書の衝撃(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 2019年4月27日 14:33:14 : MwqM2u5ylY : WmdFRGhUVFJRdkk=[356]
外交音痴、正にその通り、どれだけ血税を使いどれだけ血税をばら撒いてきたか、しかし国益や国民にとって何一つ良い事は無かった、プーチンや習近平さすが頭もいいし強かな外交をするが安倍は低能だからそういう技術も無い、北朝鮮のキムジョウンの方がずっと外交が上手い。毎月の様に外遊日程を組み夫婦で外国旅行気分、これだけ夫婦で外遊しているのも世界広しといえども、他国にはない。どれだけ無駄な税金を費やしているか、国民に知らせるべきだ、とても国民には知らせる事が出来ない程浪費しているに違いない。安倍の周り、マスコミも含め自分たちも一緒に美味しい思何も批判もせず国民にも知らせない。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/170.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] 慰安婦問題検証映画『主戦場』で極右論客たちが衝撃のトンデモ発言! 櫻井よしこ、杉田水脈、テキサス親父、加瀬英明…(リテラ… 赤かぶ
5. 赤かぶ[11103] kNSCqYLU 2019年4月27日 14:37:25 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1165]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/186.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK260] 慰安婦問題検証映画『主戦場』で極右論客たちが衝撃のトンデモ発言! 櫻井よしこ、杉田水脈、テキサス親父、加瀬英明…(リテラ… 赤かぶ
6. 赤かぶ[11104] kNSCqYLU 2019年4月27日 14:42:35 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1166]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/186.html#c6
コメント [政治・選挙・NHK260] 晋三がまた、自己宣伝のために外遊した!   赤かぶ
7. 2019年4月27日 14:44:45 : MwqM2u5ylY : WmdFRGhUVFJRdkk=[357]
全く行く必要もない外遊、安倍は政府専用機を自分のプライベートジェット位に思っているのだろう、しかも夫婦揃って行く必要もない外交の為の外遊か?呆れてしまう、よくもこんな外遊日程を組むものだ、国民を馬鹿にしている。増してヨーロッパからアメリカに行くのはトランプ夫人の誕生パーティ、次の日はゴルフだとか、そんな日程に何億もの血税を平気で使う、まるで私的な事でそこまでしていく必要はまるでない、自己資金で行け!といいたい。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/151.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK260] 国民と自由が合流。小沢の手に多額資金と大組織+党内では小沢元側近から強い抵抗。離党もありか?(日本がアブナイ!) 笑坊
22. 2019年4月27日 14:45:15 : J3nUrZGckA : clF2N1dQYXhYckE=[297]
黄川田氏が何か国民の為になることをしたことある?
党の為に何かしたことがあるの?
黄川田氏はただ「あの震災で家族を全部無くした気の毒な議員」って事で知られただけじゃないの?

何でシナはそんなに黄川田氏を買ってるの?
階(シナ)は党の中で自分の発言力を維持したいだけなんじゃないの?
「小澤氏にものを言える議員」と思われたくて、強情を張ってるだけにしか見えないけど。

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/159.html#c22

コメント [政治・選挙・NHK260] 怒り!飯塚「不逮捕」以外に5つの理由がある!   赤かぶ
30. 2019年4月27日 14:46:02 : fxFdu1KKZc : T1BHN2pWMk1ockU=[3]

この事故における

飯塚氏の扱いは、

原発事故やモリカケ問題で、

責任者や関係者の殆どが、

罪や責任を問われなかったり、

詩織さん事件での山口氏も

そうだが、

権力側にいる人間は、

法を犯しても、

権力によって

守られるということが

分かった訳だ。

飯塚氏の特別扱いに

怒る国民が、

この国の権力構造の腐敗に

怒る様に願う。


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/175.html#c30

コメント [経世済民132] 巨大・日立グループが解体加速、名門子会社“切り”か…中国企業へ売却なら日本企業の脅威に(Business Journal) 赤かぶ
2. 2019年4月27日 14:46:24 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[40]
意外と大企業の収益構造がこういう事態を引き起こしているのかも。
外注に充分な支払いをしていないとか、社員の給与を上げたがらないとか、株主にばかり金を出すとか。
そのせいで日本の経済が小さくなっている。

まあそれも、政府の法人税引き下げが元なんだけどな。
法人税が高かったころ、税金をたくさん払うのが嫌だからと、経費で計算できる給与に多くをまわして節税をしていたが、その後法人税が引き下げられたため、純益を多くしてその分株主配当も増えることになったんだわ。

結局は小泉からの自民党政権の方針継続の結果、安倍での日本経済崩壊となるわけだ。
政治家ならこれぐらい解って当然なんだが、自民党の政治屋には解らないかもな。
官僚も解っていないだろうな。

http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/288.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
3. 2019年4月27日 14:46:45 : XC4kc1n7Fs : bDlMWTRHTEplTTY=[120]

>>2
> こういう おかしな人が寄ってこない為にも

投稿者のポスト米英時代も、>>1氏も議員ではないので、こういう人が立憲に「寄っていく」可能性は皆無、ゼロである。

こんなふうに、政治家と外野の区別もつかなくなって、ただひたすら「要注意」だの気をつけろだの近づけるなだのと言ってる姿は、
バカ丸出しという以上に
もう思いっきりからだを丸めて針山のようになって守りに入ってるハリネズミのようで痛々しい。



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c3

コメント [経世済民132] 仏ルノー 日産が経営統合応じぬなら西川CEOの続投を拒否(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 2019年4月27日 14:48:30 : Ft5PhGZaus : eVhpVlpSams1eTY=[52]
 頭の動きは悪いが、「悪企み」はすばしこい簾の菅にネジ巻かれたんだかなんだか知らないが、「司法取引」にいそいそと馳せ参じた西川が、その名の通りの賽の河原の石積みと相成ったわけだ。
 CEOとは名ばかりの「小細工男」に、ルノーの狙う「世界制覇」のCEOが務まるわけでもなく、永世「ゴーンの足を引っ張った男」の名前が残るばかりとなった訳だ。痴犬特捜部も「九木元」の名前ばっかり出さずに、下っ端のポチか゛「あっしの手柄」でやんすと、シャシャリ出ないのも、「証拠捏造」の「前科前歴」に震えているんだろうな。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/292.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] NHKから国民を守る党 臨時総会 ユーチューブでやってます 怪傑
13. 茨城市民[85] iO@P6Y5zlq8 2019年4月27日 14:50:36 : 2mB9WkmAoY : di5DUDU4V1RiMWM=[10]
>12.
NHK党が犯罪者集団と言うつもりはさらさらないが犯罪者集団が自分達の犯罪的事実を無視して正義を掲げても問題ないと言いたいのか。

〇レスポンス、ありがとうございます。
 NHKは、見ない人からもを集め、その金で高い給料を分配し、犯罪者集団とも思われます。こうした巨悪に立ち向かう場合、NHK党以外、誰かいるのでしょうか。

 江戸時代ドラマに「必殺仕事人」という闇の殺し屋ドラマがあります。彼らは明らかに犯罪者ですが、多くの国民は犯罪者とは見ていない。これをどう見たらいいのでしょう。
 
 以上、教えていただければ幸いです。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/165.html#c13

コメント [政治・選挙・NHK260] 怒り!飯塚「不逮捕」以外に5つの理由がある!   赤かぶ
31. 2019年4月27日 14:53:15 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[41]
退院後も逮捕なしって理由がわかりません。
あまりに非常識な対応のため、多くの方がブチ切れるのがわかります。

飯塚幸三容疑者は出頭して逮捕してもらいなさいよ。

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/175.html#c31

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍政権GW外遊ラッシュ 13閣僚“海外旅行”に血税5億の衝撃(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
20. 2019年4月27日 14:54:40 : MwqM2u5ylY : WmdFRGhUVFJRdkk=[358]
安倍夫婦の外国旅行の為にどれだけの血税が使われたか、国民に知らせるべきだ。これだけ外遊三昧している首脳は世界広しといえども居ない、しかも必ず夫婦二人で手を取り合い外国旅行気分、これで外交??外交どころか外交音痴も甚だしい、それでいて国民には我慢を強い増税する、議員世界一高い議員報酬もいい加減もっと下げるべきだ。どれだけ税金に集っているのか、特に自民党は酷い。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/156.html#c20
コメント [原発・フッ素51] <事実上、原発は、もはや無理だと宣言したのだ!>脱原発に舵を切った安倍首相の野党つぶし  天木直人 :政治板リンク 赤かぶ
1. 茶色のうさぎ[-10685] koOQRoLMgqSCs4Ks 2019年4月27日 14:55:14 : YLIDLf0cXM : T0ttNmV0M3BnUWc=[-2]

 うれしい、ニュースだけど、、選挙、野党つぶし

 だって、原発は重要な、ベースロード電源ですよー♪ぷっ

 ムラは、残る? 残すんだよー♪ぺっ うさぎ♂


http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/456.html#c1

コメント [原発・フッ素51] 電力各社への原発テロ対策に関する規制委強硬姿勢は天木直人さんの言うように安倍政権の事実上の脱原発宣言で、それが恒久的な… お天道様はお見通し
2. 2019年4月27日 14:55:24 : VE86th4Elo : bXNnNXZpM29WMVU=[4]
>この国はムラがムラでなくならないと原発もなくならないだろうし…。

皆様はそのムラの中に外務省は入っているとの認識はお持ちなのでしょうか。

日米原子力協定(核の平和利用)を盾に政府に原発再稼動を迫っているのも外務省ですし。
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/455.html#c2

コメント [お知らせ・管理21] 2019年04月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
130. 2019年4月27日 14:55:44 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1167]
投稿板限定違反です。

立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html
投稿者 ポスト米英時代 日時 2019 年 4 月 27 日 13:37:49: /puxjEq49qRk6 g3yDWINnlcSJcI6ekeM


http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/553.html#c130

コメント [政治・選挙・NHK260] 立民 枝野代表「他党との合併行わない」改めて強調  赤かぶ
33. 2019年4月27日 15:00:09 : 2ZHxxLKGME : d2UvallxSUdPZlU=[1]
阿修羅の腐りっぷりも頂点
こういうネタとなるとわらわら沸いてくる電通ご用アルバイト
そしてパヨク・小沢信者を装うてか
立民叩きは大抵アルバイト
10連休だもな
しっかり稼いでくれ
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/167.html#c33
コメント [政治・選挙・NHK260] 派手な欧米歴訪にも懸念 安倍外交“破綻”青書の衝撃(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
2. 2019年4月27日 15:02:25 : VE86th4Elo : bXNnNXZpM29WMVU=[5]
>とうとう「日米安保条約の離脱」も公然と言い出す始末だ。

うわ〜これ、日刊ゲンダイ モロじゃん。


>外務省が築いた外交努力が水泡に帰すのも時間の問題になってきたが、

歴代外務省が築いた(日露関係改善を妨害するという)外交(工作)努力が水泡に帰すのも時間の問題になってきたが。。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/170.html#c2

コメント [原発・フッ素51] 電力各社への原発テロ対策に関する規制委強硬姿勢は天木直人さんの言うように安倍政権の事実上の脱原発宣言で、それが恒久的な… お天道様はお見通し
3. 茶色のうさぎ[-10687] koOQRoLMgqSCs4Ks 2019年4月27日 15:04:07 : YLIDLf0cXM : T0ttNmV0M3BnUWc=[-4]

>2さんへ  ボクの、10秒かちー♪ぷっ 意味は同じですね。 うさぎ♂

1. 茶色のうさぎ[-10685] koOQRoLMgqSCs4Ks 2019年4月27日 14:55:14


http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/455.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK260] 御用NHKが震撼「NHKから国民を守る党」大躍進(植草一秀の『知られざる真実』)  赤かぶ
59. 茨城市民[86] iO@P6Y5zlq8 2019年4月27日 15:06:14 : 2mB9WkmAoY : di5DUDU4V1RiMWM=[11]
>50. ゆでガエル
 >>49 さん
 NHKをぶっ潰すには異論はありません

〇ゆでガエルさん、49の茨城市民です。
 レスポンス、ありがとうございます。

 それではお尋ねしますが、どうしたらNHKをぶっ潰すことができるのですか。

 もしかしたら、ゆでガエルさんは金持ちで、NHKなどたいした問題でないとお考えでしょうか。貧乏人にNHK料金を払うのはきついですよ。まして見ていないのに取られるなんて許されないことです。そして、さらには、NHK職員は、その金で貧乏人から見ると莫大な給料をもらっているようですね。こうなるとNHKは犯罪者ですよ。
 おかしなことに、その不正を今まで、どの政党も正そうとしなかった。
 NHK党に期待が集まるのは普通のことと思われます。
 草々
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/133.html#c59

コメント [政治・選挙・NHK260] 怒り!飯塚「不逮捕」以外に5つの理由がある!   赤かぶ
32. 2019年4月27日 15:07:16 : Ye6rWhFDQo : aTBYYW50UldiZDI=[129]
文句が出て事態が大きくなれば何らかの動きを取れるが、そうでなかったら従来通り何もなかったことにしようとなる。
同じ国の同じ大地を歩き、同じ空気を吸っていても同じ国の者は平等の扱いとはならない。
この社会は生まれながらに規格が決められており、固定化されている。
これが現実だが、嫌だったら変えればいいだけのことである。
だが、個人も国家も、もう嫌だ、これ以上は我慢ならん、こんなことが永遠に続くとなれば死んだほうがましだ・・というとこまで来ないと人間は変われない「めんどくさい」生き物となっている。
統治する者もその辺りは気が利いて寸止めをやるだろう。
統治する者とされるものの差は歴然としているが、日本は主権のもとに統治されていないところに大いなる問題がある。
これが解決されない限り事態は一歩も進まない。
変な国だ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/175.html#c32
コメント [政治・選挙・NHK260] 現代の共産主義は独裁者の道具に過ぎない!  赤かぶ
4. 新共産主義クラブ[-10866] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2019年4月27日 15:10:02 : YeXqcmpfRg : OTBSZ3pZRXpyUFU=[1]
小沢一郎たちが、次に言いそうなことは、
 
「共産主義とは独裁主義だから、民主主義に反する。
 
したがって共産主義は憲法違反なので、憲法裁判所を作って、『共産党』を名乗る政党を、憲法違反という理由により解党させよう。」
 
である。
 
>>1で紹介した本には「共産党はドイツで憲法違反」と書かれているが、現在のドイツにも、「ドイツ共産党」 (DKP)という共産主義の政党が存在し、東ドイツ時代の政権政党だった「ドイツ社会主義統一党」(SED)も、合併を重ねた後、現在も社会主義を掲げる「左翼党」(Die Linke)として存続している。
 

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/188.html#c4
コメント [カルト20] 東京・セブン・時短を容認。累計千人自殺で一万人破産なら当然、仕入れ強要と見切り禁止もやめる事である。 ポスト米英時代
3. 2019年4月27日 15:11:13 : niyy4hTwUA : OHU1UGRCUHhtN0k=[42]
セブンイレブンの正体(金曜日)を読んでいれば、少しは状況がよくなったのかも知れない。
あの本が出たときには、7-11が相当ブラックなのがわかったから。
弁当ぐらい値引き販売で全量売りさばかせろって思ったもんです。

比較的緩かった○Kさんはファミマに吸い取られたし。
(ユニーグループからコンビに部門だけ奪って、スーパーはポイだからな…ファミマも最悪)


http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/743.html#c3

コメント [政治・選挙・NHK260] 当事者が異例の反省会見「他の人たちも早く目を覚まして」 高齢者はなぜネトウヨにはまるのか(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
14. 2019年4月27日 15:16:28 : PdDHSqpKj2 : QXQwNENWc1dDMlU=[9]
>>9
>各自それなりに高等教育も受け、仕事の上では
>必ずしも無能でもなかっであろう人たちが、
>そんな「非常識」にハマってしまうらしいのが怖いな。

高等教育を受けずに仕事の上でも無能であり
そしてそのような人を「非常識行為に走る人間」と
規定する君も十分に怖いと思うのだがな。
固定観念の成せる業か。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/176.html#c14

コメント [政治・選挙・NHK260] 現代の共産主義は独裁者の道具に過ぎない!  赤かぶ
5. 2019年4月27日 15:17:28 : yZSC9Lu6yc : UnloLk5Pak0uS2M=[1]
>>4
ドイツ連邦で「憲法違反の独裁的体制構築をもくろんでいる」としてドイツ共産党が違憲・非合法化されたのは1956年。
非合法時に共産党員だった人間は「共産党員だった」というだけの理由で公的な恩給や年金、そしてナチス時代の迫害への補償すら30年以上後の1988年まで拒否され続けた。
ただし「共産党」という呼称そのものが違憲ではないので、同じ呼称を使った政党が後世にできたというだけの話。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/188.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK260] 当事者が異例の反省会見「他の人たちも早く目を覚まして」 高齢者はなぜネトウヨにはまるのか(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
15. 2019年4月27日 15:21:24 : PdDHSqpKj2 : QXQwNENWc1dDMlU=[10]
>>4
勉強になりました。ありがとう。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/176.html#c15
コメント [政治・選挙・NHK260] 「戦争は負けと思った時が負け」と国民に説いた東條首相 保阪正康 日本史縦横無尽(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 赤かぶ[11105] kNSCqYLU 2019年4月27日 15:23:58 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1168]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/192.html#c1
コメント [カルト20] 東京・一帯一路、150ヵ国参加。安倍サックスの存在感は永遠のゼロである。 ポスト米英時代
1. 2019年4月27日 15:24:14 : HCDU7rB1lg : NkdOS2ZMTkJ0cXc=[143]
日本の政界やマスゴミ界は親米が多い。
対象的に、学術界は左派系が七割だそうです。
彼らに親中派になってもらおうと、習近平の指示が出たとか。
というのも、このところ一帯一路計画がやや失速していて、日本の協力でテコ入れしていきたいんだそうです。
失速というのは、マレーシアの東海岸鉄道計画をマハティールが中止したのに続いて、モルディブやパキスタンでもうまく行ってないみたい。(マハティールは中国といろいろ交渉の末、今月また計画の再開で合意)

昨年、中国ではアジア諸国の一帯一路への反発の高まりをみて、政府系シンクタンク『社会科学院』において方向転換の議論が展開され、“日本取り込み論”が優勢となったそうです。
福田康夫・鳩山由紀夫・筑波大学の進藤榮一・東洋学園大学の朱建栄教授らがパイプ役となって、まず学者から親中派になってもらって、その人たちに一帯一路の正当性を各国に発信してもらうのが中国の狙いだそうです。

いいじゃないですか。どんどん中国の代弁してあげて。
代わりに旨味も享受していけるように進めればいいんですよ。マハティールを見習って。
アホの親米派は、中国の意図を警戒警戒、慎重に見極め見極め・・・こればっかし。
サックスへの警戒はないんかーーーい(笑)

習氏、国際社会の支持演出 「一帯一路」会議 150カ国参加
https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201904/CK2019042702000143.html
中国に懐柔される日本の学術界――背後には中国べったりのあの政治家、一帯一路“親中派工作”の深謀
http://tskeightkun.blog.fc2.com/blog-entry-6058.html?sp
http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/746.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK260] 「戦争は負けと思った時が負け」と国民に説いた東條首相 保阪正康 日本史縦横無尽(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
2. 赤かぶ[11106] kNSCqYLU 2019年4月27日 15:24:55 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1169]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/192.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK260] 「戦争は負けと思った時が負け」と国民に説いた東條首相 保阪正康 日本史縦横無尽(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
3. 赤かぶ[11107] kNSCqYLU 2019年4月27日 15:25:28 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1170]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/192.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 「戦争は負けと思った時が負け」と国民に説いた東條首相 保阪正康 日本史縦横無尽(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
4. 新共産主義クラブ[-10865] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2019年4月27日 15:27:03 : YeXqcmpfRg : OTBSZ3pZRXpyUFU=[2]
>戦時指導者(特に軍人たち)はなぜ勝算など全く失われた段階でも戦うことを、天皇にも国民にも要求したのだろうか。
 
 
敗戦を経験した兵隊が帰郷して、一般の国民が、負けないはずの皇軍が負けたこと知ると、天皇制の崩壊につながることを危惧したのだろう。
 
戦場に立って一度でも皇軍の敗戦を目撃した兵士を、日本に帰らせないために、別の戦場で死ぬまで戦わせたのだろう。
 

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/192.html#c4
コメント [原発・フッ素51] 電力各社への原発テロ対策に関する規制委強硬姿勢は天木直人さんの言うように安倍政権の事実上の脱原発宣言で、それが恒久的な… お天道様はお見通し
4. 2019年4月27日 15:29:59 : VE86th4Elo : bXNnNXZpM29WMVU=[6]
>3
あちゃ〜10秒負けてましたかort


>意味は同じですね。

>だって、原発は重要な、ベースロード電源ですよー♪ぷっ
 ムラは、残る? 残すんだよー♪ぺっ うさぎ♂


それが原発政策を利用したこの国のエリート 外務省の日本支配戦略の一つという事なのでしょうかね。



http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/455.html#c4

コメント [国際26] 朝鮮半島問題で唯一残る隘路の解消に向け「安倍−金正恩会談」がウラジオストでまもなく実現!? あっしら
3. エテ公[7] g0eDZYz2 2019年4月27日 15:33:08 : 0M3y7VFs1Y : YTUybi5lTDgwRVU=[1]
あっしらさん、おかえりなさい(*'▽')
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/294.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 小沢一郎代表 自由党は国民民主党と合流することになりました。必要なことは、全野党の「結集」。そのための第一歩です。 赤かぶ
43. TondaMonta[891] gnOCj4KOgoSCgYJsgo@CjoKUgoE 2019年4月27日 15:33:09 : ltwXOFdNKQ : ZGNsTk9KdjYwYmM=[1]
階議員をどう扱う積りですか。??????。彼の不満は増すばかり。もちろん一人や二人の反対者にどうのこうのと左右はされないでしょうが、やはり階議員を最大尊重しなくてもいいのですか。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/171.html#c43
コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
4. 2019年4月27日 15:34:02 : dx6VqrGigk : TnNUZVNTVGYvbmc=[1]
支持者に、こういうのがいれば同じ。
こーいうのは「共闘」「一つになる」=自分の思い通りになる
と勘違いしているので
たいていは「これを共通公約にすれば必ず勝てる!」とか言い出して
次に思い通りにならないと、癇癪を起してなじる
そして選挙になれば「誰それを追い出せ」
このパターンである
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK260] 現代の共産主義は独裁者の道具に過ぎない!  赤かぶ
6. 2019年4月27日 15:34:04 : 05COWJ2Yqg : alpqWnE3Uk15dFU=[99]
現代の共産主義は独裁者の道具に過ぎない!

現代の資本主義は富裕層という独裁者の道具に過ぎない!

ともいえるからな。

ハサミが悪用されたからハサミの名前変えろと言ってるようなもの。

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/188.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK260] 当事者が異例の反省会見「他の人たちも早く目を覚まして」 高齢者はなぜネトウヨにはまるのか(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
16. 2019年4月27日 15:34:11 : PdDHSqpKj2 : QXQwNENWc1dDMlU=[11]
>>13
「人の振り見て我が振り直せ」これに尽きる。
阿修羅の全てとは言わないが人事に
出来ない人も決して少なくはないだろう。

>>12
熟考に値する。

>男性は、その元となる情報を信じた時に
>相反する情報を排除したはずだ。

阿修羅でも不都合な情報を排除した上で
都合の良い情報だけを書き込む人が存在する。
公平性・中立性を重んじるのであれば
苦々しくとも書き記さなければならない。

>問題は選択当時にそれを確実に避ける方法が
>存在しないことにある。どれだけ冷静沈着で
>客観的な人であっても、バイアスが
>掛かる可能性は否定できないからだ。

人との出会いも重要。これは巡り合わせという
運が左右する部分もある。時間を掛けて
諭してくれる人が存在するのか否か。時間を
掛けて煽り続ける人が存在するのか否か。
それとも誰の目にも留まることなく一人で
思考を硬直化させていくのか。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/176.html#c16

コメント [原発・フッ素51] 白棚線62周年、未来は暗い(めげ猫「タマ」の日記) 赤かぶ
1. 茶色のうさぎ[-10689] koOQRoLMgqSCs4Ks 2019年4月27日 15:35:16 : YLIDLf0cXM : T0ttNmV0M3BnUWc=[-6]

 「棚倉町逆川」
Cs-137: 4,393Bq/kg前後
Cs-134: 356Bq/kg前後
ID:28388
https://minnanods.net/maps/?pref=fukushima&m2_kg=kg&time=today&sum_137=sum ←汚染マップ

結論: 5000Bq/kg x 65倍 = 325000Bq/m2

 2019年だよ!! 逃げろー♪ 人殺しー♪ぺっ うさぎ♂

 山林除染: 1ha(100mx100m):1億円くらいと思います。 財政破綻♪ぷっ


http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/454.html#c1

コメント [政治・選挙・NHK260] 派手な欧米歴訪にも懸念 安倍外交“破綻”青書の衝撃(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
3. 赤かぶ[11108] kNSCqYLU 2019年4月27日 15:41:26 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1171]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/170.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 中国に懐柔された二階幹事長──「一帯一路」に呑みこまれる日本(ニューズウィーク) 赤かぶ
6. 2019年4月27日 15:41:41 : dx6VqrGigk : TnNUZVNTVGYvbmc=[2]
遠藤誉(筑波大学名誉教授、理学博士

笑えばいいのか?
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/190.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK260] 派手な欧米歴訪にも懸念 安倍外交“破綻”青書の衝撃(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
4. 赤かぶ[11109] kNSCqYLU 2019年4月27日 15:42:00 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1172]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/170.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK260] 立民 枝野代表「他党との合併行わない」改めて強調  赤かぶ
34. 2019年4月27日 15:44:10 : CoOulyKXh6 : UFJzdS8xUlFkWmM=[2]
大きなかたまりを作ってほしい。

少なくとも、野党党首が並んで政策を会見で発表し、ともに戦う
図をテレビで流さないとなんにも動かない。

最早、実質2ヶ月しかない。

野党共闘で候補者調整をやっていることさえ知らない人々が確実に
いる。

これだけ生活苦にあえいでいる人が増えてきているのに、何やって
いるんだ。

訴えが届かないままで終わっちゃうよ。


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/167.html#c34

コメント [原発・フッ素51] <事実上、原発は、もはや無理だと宣言したのだ!>脱原発に舵を切った安倍首相の野党つぶし  天木直人 :政治板リンク 赤かぶ
2. 赤かぶ[11110] kNSCqYLU 2019年4月27日 15:45:20 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1173]



http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/456.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
5. 22A[1094] glGCUUE 2019年4月27日 15:45:47 : LKXRYf922A : ZGRUU0wxY3FvbVk=[106]
では希望の党→国民民主党と,未来の党→生活の党→自由党の支持率が下がった原因も説明してもらいたいと思う。

おそらく世論調査は捏造だ,と言うだろうと予測している。


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c5

コメント [お知らせ・管理21] 2019年04月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
131. 日高見連邦共和国[13514] k_qNgoypmEGWTYukmGGNkQ 2019年4月27日 15:50:50 : 5gQXb3grNk : MnZ5Um41WjF6Mmc=[1]
>>124 『馬糞ストーカー』くん

>うすペラいんだ。

何語?(笑)

『言霊云々』って事を殊更言いなさる点、私のコメントを読んで、しかも“無視できない”御仁らしい。

それはね、キミがまだ“更生”できる可能性があるって証でもある。ここいらが最後のチャンスかもネ。
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/553.html#c131

コメント [政治・選挙・NHK260] 小沢一郎代表 自由党は国民民主党と合流することになりました。必要なことは、全野党の「結集」。そのための第一歩です。 赤かぶ
44. 22A[1095] glGCUUE 2019年4月27日 15:55:28 : LKXRYf922A : ZGRUU0wxY3FvbVk=[107]
日高見さん

それは原発推進派の電力総連(等)の組織内候補と,前原誠司氏(井出栄策氏の考えを取り入れたAll for Allというのは,結局みんなで負担しようということであり,消費税増税を前提としている)を国民民主党から追い出してから言ってほしいね。


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/171.html#c44

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍政権GW外遊ラッシュ 13閣僚“海外旅行”に血税5億の衝撃(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
21. 2019年4月27日 15:55:56 : PdDHSqpKj2 : QXQwNENWc1dDMlU=[12]
課題は山積しているが将来的には「三次元映像」で
会議を開催することになるのかもしれない。
元より会議は会議前に各国の官僚により
擦り合わせが行われ会議場所に首脳が赴いて
調印するだけのことも多く非効率的。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/156.html#c21
コメント [近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
6. 中川隆[-10577] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:06:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1499]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c6

コメント [近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
75. 中川隆[-10576] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:07:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1500]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c75

コメント [近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
39. 中川隆[-10575] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:07:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1501]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c39

コメント [政治・選挙・NHK260] 派手な欧米歴訪にも懸念 安倍外交“破綻”青書の衝撃(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
5. 2019年4月27日 16:07:34 : 9bESHEjuhs : QVFFUC5pOVljWk0=[286]

ロシアが政治利用してではなく、


「安倍が政治利用して負けた」のが結果でしょう。

見誤るな.習主席やプーチンや文在寅氏はぶれないぞ。

  
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/170.html#c5

コメント [近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
22. 中川隆[-10574] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:07:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1502]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c22

コメント [近代史3] 高円宮が 47歳の若さで腹上死(?)しなければならなかった理由とは 中川隆
13. 中川隆[-10573] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:08:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1503]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/370.html#c13

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
75. 中川隆[-10572] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:08:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1504]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c75

コメント [昼休み53] 被差別部落出身の有名人は? 中川隆
91. 中川隆[-10571] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:09:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1505]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/431.html#c91

コメント [近代史3] プチエンジェル事件の深すぎる闇 中川隆
39. 中川隆[-10570] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:09:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1506]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/358.html#c39

コメント [社会問題9] 語られ始めた皇太子「退位論」は説得力があるか・・が、語られるだけでも適応失調の天皇家! 墨染
213. 中川隆[-10569] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:10:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1507]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html#c213

コメント [日本の事件32] プチエンジェル事件  この事件の真相が暴露されたとき、戦後保守体制は大爆発する(東海アマ) てんさい(い)
18. 中川隆[-10568] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:10:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1508]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/17/nihon32/msg/175.html#c18

コメント [日本の事件17] プチエンジェル事件の真相
63. 中川隆[-10567] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:11:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1509]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/0505/nihon17/msg/722.html#c63

コメント [近代史3] 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 中川隆
33. 中川隆[-10566] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:13:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1510]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html#c33

コメント [政治・選挙・NHK260] 全然中立ではないNHK(小笠原誠治の経済ニュースゼミ) 赤かぶ
1. 赤かぶ[11111] kNSCqYLU 2019年4月27日 16:13:14 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1174]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/193.html#c1
コメント [政治・選挙・NHK260] 全然中立ではないNHK(小笠原誠治の経済ニュースゼミ) 赤かぶ
2. 赤かぶ[11112] kNSCqYLU 2019年4月27日 16:13:54 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1175]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/193.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK260] 全然中立ではないNHK(小笠原誠治の経済ニュースゼミ) 赤かぶ
3. 赤かぶ[11113] kNSCqYLU 2019年4月27日 16:15:47 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1176]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/193.html#c3
コメント [原発・フッ素51] 白棚線62周年、未来は暗い(めげ猫「タマ」の日記) 赤かぶ
2. 茶色のうさぎ[-10691] koOQRoLMgqSCs4Ks 2019年4月27日 16:17:48 : YLIDLf0cXM : T0ttNmV0M3BnUWc=[-8]

>1訂正です。 除染費用

 現在、平地のみ: 4兆円: 2200万袋です。

 一袋、約: 20m2 : 20万円と思います。

 1m2当たり:1万円 −−> 1ha当たり:1億円です。

結論: つまり、山林だから、10倍の、10億円くらいと思いますw うさぎ♂

 でも、単価表だと、平地は、1ha当たり:1千万円くらいと思います!! ←除染サギです。💢


http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/454.html#c2

コメント [カルト20] 東京・一帯一路、150ヵ国参加。安倍サックスの存在感は永遠のゼロである。 ポスト米英時代
2. 2019年4月27日 16:18:01 : HCDU7rB1lg : NkdOS2ZMTkJ0cXc=[144]
そのほか、中国の快進撃について(新聞記事より)

北極圏に進出して研究開発しようということで、アイスランドやフィンランドも大喜び。エネルギー科学外交。
さらに北極海に原潜を持って行ければ、軍事上、アメリカにだいぶ対抗できるようになるとか。うぇーい。

アフリカで衛星テレビを提供。「万村通」。中国国際テレビ(CGTN)や地元の放送も見られてアフリカ人大喜び。
「でも、中国の悪い所はけして流れない」と、ヒューストン大学教授が批判してるけど、お前が言うなーーです。
そして『孔子学院』『孔子教堂』という塾で中国語を学ぶアフリカ人が急増中。
こういうのに対してもヘリテージ財団が「新植民地主義だ」と批判。ヘリテがどの口で言うとるのでしょうか。笑わせますね。

というわけで、『中国アフリカ協力フォーラム』という首脳会議では、エスワティニという小さい国ひとつ以外は、アフリカ53ヵ国が参加、だそうです。(エスワティニが参加しなかったのは、台湾と外交関係があるから…)
http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/746.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
6. スポンのポン[11157] g1iDfIOTgsyDfIOT 2019年4月27日 16:18:41 : YLRU9o6eFk : dUpJOXhqbEFjRlU=[337]
 
 
■ごみ。
 
 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c6
コメント [政治・選挙・NHK260] ジャパンライフに一斉捜査 安倍首相“広告塔”の動かぬ証拠(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
31. マッハの市[2037] g32DYoNugsyOcw 2019年4月27日 16:19:15 : KccX6gy7so : NW5ocVZEd2F0NC4=[22]
ほっ、何も難しく考えなくてもいいんだよ。

安倍晋三が関わっていたのは、事実だがね。
広告塔なんてのも、進展次第で実は従犯だったりしてね。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/162.html#c31

コメント [政治・選挙・NHK260] 拉致家族会は安倍晋三の「アタクチ詐欺」に巻き込まれた それでもバカとは戦え(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
11. 2019年4月27日 16:28:51 : GATR97qeCc : UWZwSTN1MEVKaVU=[1]
詐欺に巻き込まれた 被害者 だけではない
オイシイ生業と心得た、安倍と同根の、国賊も多数居る
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/179.html#c11
コメント [お知らせ・管理21] 2019年04月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
132. 2019年4月27日 16:29:04 : jH4hnNHGRg : VkJRZ1hKUGJrQjY=[5]
>>129
管理人に対する同情ですよ
魑魅魍魎のせいで阿修羅掲示板は信用失墜
ステージ4のガンで余命数カ月の状態
でも悪性ガン細胞の魑魅魍魎を切れば余命は伸びるかもしれない
あの病的な初期非表示で真っ黒の掲示板見たらまともな人はドン引きしますよ
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/553.html#c132
コメント [原発・フッ素51] 池袋で暴走し母子を轢き殺した元官僚は原子力ムラの重鎮だった! 天下り先のクボタは福島の廃棄物処理業務に参画  魑魅魍魎男
24. 2019年4月27日 16:30:23 : 05COWJ2Yqg : alpqWnE3Uk15dFU=[100]
放射能でさんざん人を殺してきたんだから二人ぐらいなんともおもわんのだろ
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/447.html#c24
コメント [国際26] 米国の情報統制はオバマ政権から強化されたが、日本政府も連動して「秘密保護」(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
3. 2019年4月27日 16:35:41 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[715]
カバール絶体絶命 元検察官が報道番組放送中に爆弾情報を投下
.
ch 国際政経
2019/04/27 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=D4xT-wAHDEg
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/242.html#c3
コメント [カルト20] シャン・古賀・安倍が壊した日本に残された道は下請け大国。以前の中の役回りで地方の出番である。 ポスト米英時代
7. 2019年4月27日 16:39:00 : BDsLSyLQss : VEg5anlUbjdWUGM=[1]
>>06

80年代の中国がどんな国だったか知っているかね。日本円でおかず4品弁当一つ40円、家が一軒10万円。そんな物価だから日本に来たらみんな必死で働く。1000万円貯めて中国に帰れば豪邸が建つ。その時に買った不動産で今はみんな大金持ちだ。

今はそうはいかないだろう。キツイ危険汚い仕事なんぞ中国人は誰もやらなくなってしまった。例え働いてもカツカツの生活しかできない給料で80年代のような「おいしい」話はもうどこにもない。

80年代の中国に照らし合わせれば今の日本人の収入が減っているのなら物価を下げるように政府に要求すべきではないのか。今は逆に物価が上がり続けているようだが。消費税も上がる事だし。

まぁそういう物価にしなければ中国では暴動になりかねなかったという面もあるが、黙って受け入れるだけなら自分が苦しむだけだろうな。

野村の赤字はそれだけ日本という国の投資環境が悪化している証拠だな。要するに何をやっても儲からない社会になってしまった。

http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/742.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
7. 2019年4月27日 16:39:02 : MYIuFRFI0Q : WlYyZTBwR0JFenM=[1]
板違いである。スレ主は管理人からカルト板と昼休み板限定で投稿を許されているはずである。ルールが守れないならここから永久追放するべきである。管理人さん処置をお願いします。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK260] 小沢一郎代表 自由党は国民民主党と合流することになりました。必要なことは、全野党の「結集」。そのための第一歩です。 赤かぶ
45. 2019年4月27日 16:41:43 : CoOulyKXh6 : UFJzdS8xUlFkWmM=[3]
>44
22Aさんは、なぜに、いつもいつもそんなに視野が狭いのですかね?

前原が消費税増税を前提としているとしても、それをもって、国民から出ていくべき
というのは、まったく筋が通っていませんよ。

いろいろな意見、主張があって良いではありませんか?

同じ考えで、同じ教条でまとまっているからといって、

実効ある政治運営ができなければ、この国に住んでいる

主権者が困るのですよ。

最近のあなたは、日高見さんに絡んでいるようにさえ見えます。



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/171.html#c45

コメント [政治・選挙・NHK260] 「戦争は負けと思った時が負け」と国民に説いた東條首相 保阪正康 日本史縦横無尽(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
5. 2019年4月27日 16:44:11 : jk03vlqOxu : emUwdUZNQ0lZQlU=[25]
その時はすでに東條氏は首相では無かったのですが。サイパン陥落以降の事は次の小磯内閣の責任ですよ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/192.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
8. 2019年4月27日 16:46:12 : MYIuFRFI0Q : WlYyZTBwR0JFenM=[2]
理由は病的なことばかり投稿するのでカルト板に隔離されている。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c8
コメント [経世済民132] 仏ルノー 日産が経営統合応じぬなら西川CEOの続投を拒否(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
2. 仁王像[2706] kG2JpJGc 2019年4月27日 16:46:33 : ZTeRWKsUIQ : NWVkQ2dPWE9tYVE=[1]
 西洋人は普段はきらびやかな文化で身を包んでいるが、追いつめられるとそれらをかなぐり捨て、本性である”獣性”を剥き出しにしてくると見て対処するのが間違いない。
 ならばこの闘いは容易ではない。日産側にその戦略があるかどうか。
 一連の揉み合いの中から国際的にも通用する生え抜きの「軍師」が育ってくれば良いが…。

(西洋人の獣性)
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/283.html#c1
 西洋人の野蛮性は大航海時代の陰惨な歴史によって立証済み。彼らの”やらずぶったくりの獣性”は今もって連綿と遺伝子あるいは”集合的無意識(ユング)”として世代を超えて繋がっているものと推察せざるを得ない。
 大航海時代に世界から略奪した富の上に築いた西洋文明が出来上がると、過去の獣性を覆い隠すかのように”レイシスト”などと眉を顰める”洗練された”文化をまことしやかにでっち上げて来たのだA。

 フィヨンもゴーンも仏人なのでどうしても西洋人を代表して出てくるのだが、彼らの”自己欺瞞体質”である@。

(補)
 「会長スナール氏の本性」というのも経済板にアップされている。三者揃(そろ)い踏みってところか。

http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/292.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK260] ジャパンライフに一斉捜査 安倍首相“広告塔”の動かぬ証拠(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
32. panbet37[1269] gpCCgYKOgoKChYKUglKCVg 2019年4月27日 16:49:00 : 77WVdtoUII : TTd0MUpFSkpCdlU=[7]
 森友、加計、安倍麻生道路・・・。悪事あるところ、必ず安倍晋三あり。

 そして今度は、ジャパンライフ問題。

 利権まみれ、疑惑まみれ。いくらなんでも、人間として許される限度を、もう完全に超えたんじゃない?

 安倍晋三よ、最後はチャウシェスクみたいになると覚悟しといてね。もう誰もこの蛆虫犯罪男を助けてくれないよ。


 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/162.html#c32

コメント [カルト20] 東京・一帯一路、150ヵ国参加。安倍サックスの存在感は永遠のゼロである。 ポスト米英時代
3. 2019年4月27日 16:49:32 : BDsLSyLQss : VEg5anlUbjdWUGM=[2]
>>01

マハティールはあれ一発で200億元(800億円)値切ったと中国人がネットで騒いでましたけどね。日本人のプライドをくすぐったりとあの爺さんも相当なたまですな。

http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/746.html#c3

コメント [カルト20] 東京・一帯一路、150ヵ国参加。安倍サックスの存在感は永遠のゼロである。 ポスト米英時代
4. 2019年4月27日 16:52:22 : BDsLSyLQss : VEg5anlUbjdWUGM=[3]
>>03

800億円ではなくて1600億円でした
失礼しました

http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/746.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK260] 「戦争は負けと思った時が負け」と国民に説いた東條首相 保阪正康 日本史縦横無尽(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
6. しんのすけ99[386] grWC8YLMgreCrzk5 2019年4月27日 16:54:13 : A4AvZivHZs : WU95VlVYQVVmdmM=[148]
「戦争は負けと思った時が負け」 これ 誰が聞いたって、ハッタリ以外の何ものでもないと思うはず

それはそうだろう、開戦前の昭和16年夏の時点で アメリカと戦争なんて勝てる筈がないと公式に
シュミレーションした結果が出ており 東條英機だってそれを充分知っていたのだから
_____________________________________________

結論は「日本必敗」...開戦前に存在した「奇跡の組織」総力戦研究所とは?
https://www.huffingtonpost.jp/kazuhiko-iimura/japan_failure_b_17694998.html

結論を聞いた東條陸相は、

「...これはあくまで机上の演習でありまして、...戦というものは、 計画通りにはいかない。...(この演習の結果は)意外裡の要素というものを考慮したものではないのであります」と発言し、「この机上演習の經緯を、諸君は輕はずみに口外してはならぬ」として、演習について口外しないよう求めたという。

結局、総力戦研究所の研究結果は現実に生かされることはなく、

日本は「必敗」の戦争に突入していく。
_____________________________________________

さらに 資源を欲して戦争をする事を 「泥棒である」 という認識を示していたのは他ならぬ東條英機だ

「私としては陛下に泥棒いたすしかございません、とは申し上げられんのだよ」

開戦前にこう明確に発言しているのだから 明らかに 侵略戦争という認識で始めた戦争である訳だ

「泥棒はいけませんよッ」――東條英機の意外な一面
https://blog.goo.ne.jp/gb3616125/e/e507b390c7cd7a34e54ec1c36bc0bc1e
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/192.html#c6

コメント [政治・選挙・NHK260] 後追い報道なしの異様 菅官房長官“食の安全”フェイク発言(日刊ゲンダイ)  赤かぶ
12. 2019年4月27日 16:54:18 : MwqM2u5ylY : WmdFRGhUVFJRdkk=[359]
菅官房長官の科学的に安全というならその証拠を出すべきだ。国内でも事故後どれだけ厳重な検査をしてきたと言うのか、高齢の私でも福島産の物は買わない、しかし加工されれば避けようもない。子供や孫は何処で口にしているか解らない、本来政府と東電が責任をもって食物検査を定期的に厳重にすべきだ、海外の国が心配するのは当然、これまで国は厳しく継続して検査してきたと言うのか、そんな様子はテレビでも見たことが無い、海には汚染水を垂れ流し汚染土は各地に持っていき、福島にも汚染土が畑のすぐそばに山積みされている姿はとても安心で出来るものではない。安倍政権は何の努力もせずただ安心だとはいつもの嘘だらけ、他国に通用しない。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/149.html#c12
記事 [原発・フッ素51] 日本の「敗訴」確定 WTO、韓国禁輸容認の報告書採択 「極めて遺憾だ」日本政府 


日本の「敗訴」確定 WTO、韓国禁輸容認の報告書採択
https://digital.asahi.com/articles/ASM4V6WBPM4VULFA04D.html
2019年4月26日23時43分 朝日新聞

 世界貿易機関(WTO)は26日、スイス・ジュネーブの本部で紛争解決機関の会合を開いた。日本は、韓国による東京電力福島第一原発事故の被災地などからの水産物の全面禁輸を事実上容認した上級委員会の報告書について「極めて遺憾」と表明。だが、報告書は採択され、日本の「敗訴」が確定した。

 日本は、韓国の禁輸措置がWTO協定違反にあたるかの判断を避けた上級委の姿勢を問題だ、と指摘した。在ジュネーブ日本代表部の伊原純一・特命全権大使は記者団に「今後も不当な輸入規制の除去に取り組み、紛争解決制度そのものについての議論に建設的に関与していく」と話した。ただ、採択は加盟国が全会一致で反対しない限り可決される仕組みで、採択を阻むのは難しい状況だった。

 報告書をめぐっては、安倍晋三首相が25日、訪問先のベルギー・ブリュッセルでの記者会見で、「時代の変化に追いついていない。上級審のあり方にも様々な課題がある」と不満を表明していた。(ジュネーブ=和気真也、ブリュッセル=別宮潤一)





















http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/457.html

コメント [原発・フッ素51] 日本の「敗訴」確定 WTO、韓国禁輸容認の報告書採択 「極めて遺憾だ」日本政府  赤かぶ
1. 赤かぶ[11114] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:01:10 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1177]



http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/457.html#c1
コメント [原発・フッ素51] 日本の「敗訴」確定 WTO、韓国禁輸容認の報告書採択 「極めて遺憾だ」日本政府  赤かぶ
2. 赤かぶ[11115] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:01:46 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1178]



http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/457.html#c2
コメント [原発・フッ素51] 日本の「敗訴」確定 WTO、韓国禁輸容認の報告書採択 「極めて遺憾だ」日本政府  赤かぶ
3. 赤かぶ[11116] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:03:39 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1179]






http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/457.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 現代の共産主義は独裁者の道具に過ぎない!  赤かぶ
7. 新共産主義クラブ[-10864] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2019年4月27日 17:09:27 : yEr5BGzmdY : dHN4YWlBa2Z2eFE=[13]
>>5さん

西ドイツで、ドイツ共産党( Kommunistische Partei Deutschlands, KPD)は、1951年に西ドイツ政府により西ドイツ連邦憲法裁判所へ提訴され、1956年に違憲判決が出せれて解散を命じられました。
 
ドイツ共産党(KPD)の違憲判決の理由は、ドイツ共産党(KPD)に刑法に触れる違法な行為があったからではなく、党の理念に掲げる「マルクス=レーニン主義」が、西ドイツ基本法の「その目標又はその支持者の行態に徴し、自由民主主義的基本秩序を害し或いは廃し若しくはドイツ連邦共和国の存立を危くすることを目指す政党は、連邦憲法裁判所における憲法裁判手続きを通じて、違憲とされ禁止される」という規定に抵触するという思想的な部分に対するものでした。
 
その後、1968年に、同じくマルクス・レーニン主義を掲げる政党のドイツ共産党( Deutsche Kommunistische Partei, DKP)が設立されています。
 
西ドイツ政府の両党の扱いの違いには、それぞれ当時の国際情勢に違いが挙げられます。
 
1951年は朝鮮戦争が勃発した翌年であり、判決が出された1956年は、米国ではアイゼンハワーが大統領を努めた、東西冷戦の最も激しかった時期に該当します。
 
ドイツ政府のみならず、アメリカ合衆国政府の強い影響により、西ドイツ連邦憲法裁判所によるドイツ共産党(KPD)に対する違憲判決が出されたものと推測されます。
 
その後、1960年代後半以降、米ソのデタントを経て、西ドイツにおいても、マルクス・レーニン主義を掲げる政党が容認されるようになったと考えられます。
 
違憲判断が、時の自国の政府のみならず、時の覇権国家の政府の影響を強く受けやすいという、憲法裁判所という制度の、危険な負の側面を表しているといえます。
 
 
◆ 憲法裁判所の設置、どう考える?
(しんぶん赤旗,2004年9月25日)
 
〈問い〉 憲法裁判所の設置を、自民、民主両党が主張していますが、憲法裁判所とはどういうもので、どんな問題があるのですか?(広島・一読者)
  
憲法判断を憲法裁判所の裁判官だけに任せれば、政権政党がコントロールをしやすくなります。
 
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-09-25/12_01faq.html
 

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/188.html#c7

コメント [原発・フッ素51] 自分のまわりで何と6人も白血病が出た人がいる 白血病激増中 インフルエンザ誤診に注意  魑魅魍魎男
7. 2019年4月27日 17:10:41 : 6LMTQnspjA : eS93Rk82aEZLdFE=[-2]
有名人や富裕層に属する最近、流行の言葉で言うところの上級国民らは
一件だけ、日本国内だけの、検査、診断結果をそのまま信用せずに、複数、そして
海外の医療機関の検査を受けるようにすべきということになるか
自身を含め、貧困層やB層は、見せ掛けの権威には平身低頭、言われたとおりを
そのまま素直に承る生き方に慣らされきっているので、医師や病院の下した診断を
疑うなど、先ずしない、選択肢も経済的余裕もない
芸能タレントのこうした不治の病に掛かったという告白、報道は、そうした人々に
大きな影響を与えるのだから、医療で金儲けや人殺しを遂行する連中にとっては
カモの量産にもってこい、プロパガンダに利用されるということもあるわけだな


-neo.com/wp-content/uploads/2017/08/slide_411660_5189008_free.jpg
地下鉄霞ケ関駅から採取した毒物が入っているとされる容器を運び出す警視庁科学捜査研究所の職員が笑顔なのはなぜか?

そして、このようなキナ臭い事件を起こして、多くの人々の命を見殺しにできるのであれば、病気にかかってもいない人たちを「人間ドッグ」に呼び寄せて大金をぼったくり、その挙句に「あなたは死の病にかかっています」と嘘の診断を下して、大量の治療費をぼったくることなど朝飯前でしょう。

http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/448.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK260] ハンメルの笛を吹く安倍自公政権。(日々雑感) 笑坊
4. 2019年4月27日 17:13:47 : XIsvNAajdE : U2ouNWk4OUx4N1E=[44]
いや、クトゥルフさんに呼ばれてまして。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/181.html#c4
コメント [政治・選挙・NHK260] 現代の共産主義は独裁者の道具に過ぎない!  赤かぶ
8. 人間になりたい[1011] kGyK1ILJgsiC6IK9gqI 2019年4月27日 17:14:41 : Igew9LiSCV : SVFzcHhMUWdwdG8=[61]

資本主義と共産主義とどちらが良いのかという話をする時の、
良い悪いの判断基準は人の幸福だとおもうが、
主義や制度の良し悪しをいっても、
人の良し悪しを問題にしないのはなぜだろう。
資本家が労働者を奴隷扱いする資本主義ならば、
共産主義のほうが良いし、
資本を国家が独占しても、それを管理するのは人だ。
統治者が極悪非道の独裁者ならば、
資本家と労働者が善き人間関係で結ばれている、
資本主義の方がましだろう。
「今や権力者達の欺瞞の象徴で、資金集めの道具でもあります」
などと言っているが、これは共産主義の問題ではなく人の問題だろう。
資本主義や共産主義そのものに良い悪いはない。
日本共産党が最近評判が良いのは、共産主義が好まれているのではなく、
共産党国会議員の人柄や働きによるものだろう。
名前を変えれば良くなるというものではない。
 
 
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/188.html#c8
コメント [政治・選挙・NHK260] 現代の共産主義は独裁者の道具に過ぎない!  赤かぶ
9. 新共産主義クラブ[-10863] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2019年4月27日 17:18:22 : yEr5BGzmdY : dHN4YWlBa2Z2eFE=[14]
>>7(訂正)
 
西ドイツ政府の両党の扱いの違いには、それぞれ当時の国際情勢の違いが挙げられます。
 
1951年は朝鮮戦争が勃発した翌年であり、判決が出された1956年は、米国ではアイゼンハワーが大統領を務めた、東西冷戦の最も激しかった時期に該当します。
 

http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/188.html#c9
コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
76. 中川隆[-10574] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:20:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1502]
天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ _ 2


『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』/工藤隆インタビュー
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html


長江流域の少数民族イ(彝)族の女性(左)と著者 中国四川省美姑(メイグー)大涼山地区の以作(イーヅオ)村にて。(1997年3月17日、撮影・工藤綾子)


『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E2%80%95%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E9%9A%86/dp/4121024621


を刊行した工藤隆さん。いま話題になっている「大嘗祭」とは、どんな儀式なのか、どのような特徴と歴史があるのか、伺いました。


――大嘗祭とはそもそもどういった儀式でしょうか。


工藤:大嘗祭は、天皇が即位した後に一度だけ行う大規模な新嘗(にいなめ)祭のことです。新天皇は、まず神器(じんぎ)を渡されて践祚(せんそ、即位)し、少しあいだを置いて即位の礼を行い、践祚の半年〜1年半後くらいに大嘗祭を行います。新嘗祭は、伊勢神宮のアマテラスオオミカミに新稲を捧げるとともに天皇もそれを食する毎年冬至ごろの祭りでした。

しかし、このような毎年の新嘗祭が、天皇位継承儀礼の一連の流れの最後の部分に組み込まれたのは、600年代末の天武・持統天皇のころだったようです。それ以前のニイナメ儀礼がどのような性格のものだったのかについては、よくわかっていません。『古事記』『日本書紀』の神話や『万葉集』の東歌(あずまうた)などによれば、新嘗祭の主役は〈女〉だったらしく、また東南アジアの水田稲作儀礼の文化人類学的報告によると、やはり稲収穫儀礼の主役は〈女〉でした。これらのことを手がかりに、ニイナメ儀礼の起源に迫っていけば、結果として大嘗祭の起源も見えてくることになるでしょう。

――それでは大嘗祭という祭りの特徴はなんでしょうか。


工藤:「祭り」には、限られた当事者だけがかかわる「秘儀」の部分と、地域の人々も参加して行われる「公開」の部分とがあります。普通、「祭り」というと、御輿担ぎや、山車(だし)の引き回しなど、地域の人々が参加して賑やかに行われる「公開」の部分がイメージされます。しかし、大嘗祭の最も重要な部分は「秘儀」にあたりますので、一般人には公開されません。その「秘儀」の部分は、大嘗祭を進行させている関係者および新天皇しか知ることができません。しかも、大嘗祭が行われる大嘗殿の中での具体的な所作は、天皇自身でさえも口外することが許されません。

そのため私たちは、平安時代の儀式書や、江戸時代に桜町天皇のときに復活した大嘗祭について国学者が書き残して公開した史料(閉門の罰を受けた)などを参考にして、推測するのがせいぜいです。それらによれば、大嘗殿の中では、新天皇は、神社で神主が神に供え物をして拝礼しているのと同じようなことをしていたらしいと推測されます。

しかし、大嘗殿の中には、中央にベッド状のものが置いてあるのですが、伊勢神宮のアマテラスオオミカミの座もあり、天皇はそのアマテラスの座に面して座って供え物を捧げます。このとき、中央のベッド状のものは使用されないのです。
ということは、中央のベッド状のものは、古くからの稲の祭りであるニイナメ儀礼の残影であり、本来は、つまり弥生時代にまでさかのぼれば、稲の神がこのベッドにやって来ていたと考えられます。

600年代末の天武・持統天皇のころに本格的に制度が整えられはじめたと思われる大嘗祭は、伊勢神宮の神事形式を援用しつつも、それとは別に、弥生時代に起源を持つ水田稲作儀礼であるニイナメ儀礼の痕跡も、中央のベッド状のものとして取り込んだと考えられます。その名残りが今でも大嘗祭に残っているのです。

また、大嘗殿内の「秘儀」の直前までの式次第の部分は、ある程度平安時代の儀式書に記述されています。それによると、そのなかで最も重視されているのは稲と、その稲から造られる神酒(みき)と、それらに密接にかかわる「造酒児」(サカツコ、「造酒童女」とも書く)1人を筆頭とする6名の女性たちです。

これらの儀式書から見える大嘗祭は、奈良・平安時代に形式化が進み、また洗練度を高めたものの記録ですから、縄文・弥生時代にまでさかのぼる原型的なニイナメ儀礼からは大きな変質を経ていると思われます。しかし、そのような平安朝大嘗祭でも、特に稲、神酒と、それらにかかわるサカツコを筆頭とする女性たちが重要な存在であったことは、原型的なニイナメ儀礼の残影として重要です。

このように、古いニイナメ儀礼の痕跡を残していることが大嘗祭の大きな特徴だと言えます。

――これまでも大嘗祭についていろいろなアプローチの本が刊行されたと思いますが、本書の特徴はなんでしょうか。


工藤:大嘗祭は、ニイナメ儀礼としての誕生から、天皇位継承儀礼の一角に組み込まれて現代に至るまでの間に、かたちをいろいろと変えてきました。大きく分けると次の4つの段階があったと考えられます。

@大嘗祭の原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方
A男王たちが覇権を争った古墳時代のあり方
B600年代末ごろの大嘗祭整備開始期のあり方(初期大嘗祭)
C700年代以後の、式次第が完成して固定化される平安時代のあり方

このうちの@とAの、弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方、すなわち大嘗祭の原型を中心に論じているのが本書の特徴です。従来の大嘗祭論は、そのほとんどすべてがC700年代以後の、式次第が完成して固定化された平安時代のあり方を論じるものでした。それは、平安時代の『儀式』『延喜式』という漢文で書かれた儀式書の記述の範囲内での正確さを求めるのが、文献証拠に基づく学問的手法としては堅実かつ安全なものと思われていたからです。

しかし、平安朝の儀式書からは、まずB600年代末ごろの初期大嘗祭の形がわかりません。ましてや、@とAの弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方を論じるためには、文字記録がまったくないのですから、文化人類学や日本民俗学の事例を手がかりにして論じていくことが必要になります。

私は、大嘗祭の本質・原型・源に迫るための切り札は、この文化人類学・日本民俗学の報告に基づくモデル理論だと判断しましたので、本書ではそれを、@その原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方に迫る部分で活用しました。この点が本書独自の特徴でしょう。


――それでは、そのモデル理論についてくわしくお聞かせ下さい。


工藤:伝統的な国文学の世界では、文化人類学の現地調査報告を取り入れることにとても消極的です。つまり、日本列島の外の地域の民俗資料にまで視界を広げることに消極的です。

しかし、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が登場する700年代以前には、仮に弥生時代以来と限定しても千数百年の、無文字文化の時代があったのです。その時代の文化状況がどうなっていたのかを考えるには、特にアジア全域の文化人類学の報告を手がかりにして、日本列島民族の儀礼形態を推測するモデル理論に頼るのは当然のことなのです。

多くの国文学者が傾倒している折口信夫(おりくちしのぶ)を純粋ヤマト文化主義者だと思っている人が多いようですが、実は彼は、柳田国男との対談で「私などの対象になるものは、時代がさかのぼっていくことが多いので、エスノロジーと協力しなければならぬ」(1950年、第二柳田国男対談集『民俗学について』筑摩叢書、1965年)と述べています。

日本の民俗芸能のほとんどは、その始まりは中世か近世です。出雲神楽・備中神楽・高千穂神楽などいわゆる「神代(じんだい)神楽」も、内容こそアメノイワヤト神話など『古事記』に素材をとっていますが、実は中世・近世に始まったものであり、どんなに古く見たとしても平安時代くらいまでしかさかのぼれません。

折口が、新野(にいの)の雪祭り、愛知の花祭り、坂部(さかんべ)の冬祭り、下伊那の霜月祭りといった奥深い山村の祭りに古代的なものを感じ取ったことは有名ですが、実はそれらの祭りが形成されたのは、ヤマト国家が形成されて数百年を経たあとの、中世・近世期でした。

折口自身も、それらでイメージされる古代像よりもっと古い源にまでさかのぼるには、「エスノロジー」(文化人類学=民族学)の報告の助けが必要だと感じていたのです。そこで彼は、沖縄本島、また石垣島など八重山地域にまで足を延ばし、日本本土の内側の祭り・民俗だけをモデルとする限界を突破しようとしました。彼は、大正10年(1921)、大正12年(1923)、昭和10年(1935)の計3回、沖縄を訪問しました。当時の沖縄調査は、時間のかかる船旅であり、現地でも移動や日常生活でかなりの困難があったと思われます。

また折口は、当時は日本領だった台湾にも行きました。しかし、アジア全域の少数民族文化の調査は、国際情勢、交通・通信網の未発達そのほかさまざまな時代の制約があったので、折口は実現できませんでした。もし折口が現代に壮年期を生きていたら、おそらく彼はアジア辺境の少数民族の村にまで足を踏み入れたことでしょう。

現在は、個人でも中国辺境の少数民族の村に民俗調査で入れる時代になりました。航空機、車、通信手段が発達し、また日本の経済力伸長のおかげで調査経費の工面も楽になりました。今や、日本の古代文学を始原から考えようとする発生論的古代像は、折口が時代の制約ゆえに実現できなかったこと、つまり「エスノロジーと協力」することで得られる、より高度な水準を目指す段階に入りました。

私も折口と同じように、日本国内の民俗行事を見歩いたのち、石垣島・西表島も含めて、沖縄全域の祭りを訪問しました。そのようななかで、沖縄の先の長江(揚子江)流域に、原型的な文化を伝えている多数の民族が存在することを知り、1994年以来、中国雲南省を中心としてアジア各地の少数民族文化の現地調査に踏み出しました。これらの調査からは、日々の生活と密着し祭式のなかで歌われている“生きている神話”の実例や、実際に配偶者や恋人を得るという実用の目的で行われている“生きている歌垣”にも触れることができました。それらの素材をモデルにして、『古事記』の古層や、歌垣の原型を想定できたのです。

――そのような研究をされてきたなかで、とくに本書執筆にさいしての御苦労がありましたらお聞かせ下さい。


工藤:このように、20年以上にわたる少数民族文化の調査から、大嘗祭の原型をとらえようとしたのですが、ここで本当の意味での「執筆の苦労」が登場しました。というのは、日本列島に流入したジャポニカ米や水田稲作技術の源が長江以南地域だとはわかったのですが、肝腎のその地域の少数民族の稲作儀礼に、〈女〉が主役の水田稲作儀礼の典型的な事例が残っていなかったからです。『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの伝承や、また東南アジアの水田稲作儀礼のように、主役を〈女〉が務める稲収穫儀礼の実例に出会えなかったのです。ハニ族のように、田から稲を刈り取ってきて家の中の先祖棚に供えるところまではその家の主婦が務めていても、そのあとの宴席となると男戸主が主役になってしまうのです。

そこで、女性原理濃厚な長江以南地域の在来の文化に、北方から南下してきた男性原理の漢族文化が重なって、〈女〉が主役の前段と〈男〉が主役の後段という二重構成になったという分析にたどり着きました。そうすると、日本古代の弥生時代にもすでに、縄文時代以来の女性原理が濃厚な基盤の上に、男性原理が濃厚な文化が重なったと考えることができました。のちの大嘗祭においても、前段は女性であるサカツコが主役、後段の大嘗殿の中では原則として男性である天皇が主役という二段構成になっていることも、同じような意味であると理解してよいのでしょう。


――日本古代の文化も、二重構成になっていたのですね。


サミュエル・ハンチントンが、世界をキリスト教圏、イスラム教圏、東方正教圏(ロシア)、仏教圏、中国、そして日本と分けたうえで、「文化と文明の観点からすると、日本は孤立した国家である」と述べています(『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書、2000年)。また同書で、「日本が特徴的なのは、最初に近代化に成功した最も重要な非西欧の国家でありながら、西欧化しなかったという点である」とも述べています。

日本がそのような位置づけになったのは、私は、日本文化の基層が長江以南地域の少数民族文化と共通しているからだと考えています。これらの少数民族文化には、以下のような3つの特徴があります。

まず、その宗教は、教祖、教典、教義、教団、布教活動の揃った本格宗教でなく、自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)が中心になっていることです。仮に本格宗教が流入しても、アニミズム、シャーマニズムの側に引き寄せて変形させてしまっています。

第二に、その少数民族の持つ世界観が、自然と密着したアニミズム、シャーマニズムを背景にした神話世界を中心に据えていることです。

第三に、その集団・民族は、〈国家〉樹立を目指さず、仮に〈国家〉らしきものを作っても弱小であることです。

長江以南の少数民族文化は、国家を作らず、あるいは作ったとしても弱小であっただけでなく陸続きでもあったために漢族の侵攻によって国家を維持することが出来ませんでした。いっぽうで古代日本は、大陸とのあいだに海の防護壁があったおかげで、大陸国家からの直接の侵略を受けませんでした。しかし、国家の樹立や運営の実用的かつリアリズム型の知識だけはその大陸国家から学ぶことができました。その結果、それらとは逆方向の、もともと持っていたアニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質も濃厚に残すことになったのです。

日本は、この、リアリズム型の知識と、それとは逆の方向性の文化資質を抱え込んで、およそ1400年間、〈国家〉としての体裁を維持して21世紀の現代にまで至っています。このとき、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質は、ほとんどDNAのように現代日本文化の基層として生き続けています。この点が、「西欧化しなかった」(ハンチントン)という指摘の意味でしょう。

――来たるべき次代の大嘗祭にさいして、わたしたちはどういったところに注目するとよいでしょうか。


工藤:1868年の明治新政府の登場によって、日本の社会制度には大きな変化が生じました。天皇制については、「大日本帝国憲法」が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としたように、天武天皇のように武力王でもあった初期天皇制の時代に歴史を逆戻しする一方で、天皇の呪術王的側面では、女性神職を廃止するなど卑弥呼以来の女性性の部分は排除しました。明治天皇には、富国強兵政策のなかで、武力王・軍事王の姿が求められたのです。そのような潮流のなかで、それまで重要視されていたサカツコという童女も明治天皇の大嘗祭では廃止され、大正・昭和・平成の大嘗祭でも復活しませんでした。

しかし、このサカツコは、『古事記』『日本書紀』神話の中でニイナメ儀礼を行っているアマテラスオオミカミやカムアタカシツヒメ(どちらも女神)、巫術の女王卑弥呼、そして、長江以南アジアの〈女〉が主役の水田稲作儀礼などの残影と考えてよい存在です。簡略化された形ででもよいですから、次回の大嘗祭ではサカツコの復活を望みたいと思います。

もう一つ、大嘗祭の行われる旧暦11月下旬は、新暦では冬至のころにあたります。この時期は、季節的な衰弱・仮死の冬から復活し、春を引き寄せようとする鎮魂祭が行われる時期でもありました。この自然界の生命力復活の祭祀に、収穫された稲(稲の仮の死)からの翌年の稲の子の誕生の儀礼が重ね合わされ、そこにさらに新天皇復活の祭祀が重なって、大嘗祭が形成されたのでしょう。

ということは、この祭りは冬至のころすなわち新暦では12月下旬に行われないと、自然界の生命力復活という大きな呪的目的が見えにくくなるのです。旧暦の11月を新暦の11月にそのまま移したために、季節感に1か月余のズレが出てしまったのです。
ということで、できるならば、大嘗祭の期日を新暦の12月下旬(冬至のころ)に移すとよいのです。それができないのならば、想像力で、きょうは実は太陽の力が最も弱まる冬至のころで、暗くて寒い冬の極みなのだと時間をずらして、大嘗祭の報道に接するとよいでしょう。


――最後に若い人たちへのメッセージがありましたらお聞かせください。


工藤:21世紀の日本にも、その基層には、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質が、濃厚に生き続けています。このような文化資質は、西欧的な近代化を基準とすれば、“後れた文化”という印象を受けるでしょう。しかし、西欧的近代化には大きな副作用があります。その最大のものが自然破壊です。

1700年代のイギリスでの産業革命以後、資本主義経済が地球規模に広がり、21世紀の現在では、発展途上国を含めて全世界でGDP(国内総生産)を競い合う時代になりました。地球環境の汚染と、地球財の消尽が加速度的な勢いで進行しています。そのうえ、核兵器や原子力発電所の登場によって、地球の生活環境の全体が一気に崩壊に向かう可能性さえ見えてきました。
このようなときにこそ、日本の基層文化であるアニミズム系文化が、そのような生存環境崩壊の流れに対して、ブレーキ役を果たすでしょう。アニミズム系文化には、自然と共に生きる思想があります。生態系を重視するエコロジー思想とも通じていますし、またアニミズム系文化の節度ある欲望の感覚は、「GDPはほどほどに」という抑制された生産・経済活動の可能性を示唆するでしょう。

またアニミズム系文化は、近代合理主義が取りこぼしがちな人間存在の曖昧領域を許容し、寛容さを示す心性も持っています。また神話が示す世界は、人々の空想力を豊かに展開させてくれますし、恋歌文化の伝統は、潤いのある感性を育てます。そして、縄文文化に典型的なように、女性原理が強いので平和志向も強いのです。
そのうえ、日本文化には、島国文化・ムラ社会性という特性もあり、そこには、人と人の和をたいせつにする助け合い精神や寛容の精神のような得がたい美徳があります。

ただし、これらの文化資質は、近代合理主義を基準とすれば、たしかに国際政治の現場などにおいて現実的思考を取りにくいという側面もあります。そこで、近代合理主義の側のリアリズム的思考もしっかり取り入れて、その弱点を補う必要はあります。
日本は、古代に、〈国家〉を目指さない少数民族文化の特徴を持っていたにもかかわらず〈国家〉を樹立し、それを21世紀の現代にまで維持してきています。古代国家形成期の経験を生かして、明治期の近代化にも成功しました。したがって、その歴史体験から得られた知恵も動員して、今後とも、アニミズム系文化の伝統と近代文明を融合させるべく、模索を続けていくことが必要です。

最後に付け加えます。私が20歳のころ(1962年)は、まだ1945年までの、軍国主義ファシズムと結びついた天皇制に対する嫌悪感が、教養人一般の感情に強く残っていました。その結果、天皇存在そのものはもちろん、天皇と密接な関係を持つ『古事記』や伊勢神宮に対しても同じような反感と違和感をいだく教養人が多かったのです。

しかし、敗戦後の新憲法で、天皇から武力王(軍事王)・政治王としての側面が除かれました。残ったのは、アニミズム系の祭祀・行事・和歌などの継承者としての文化王的側面です。したがって、敗戦後72年を経た現在では、天皇・『古事記』・伊勢神宮に親しみを感じることが、そのまま右翼的な国粋主義思想や、偏狭な愛国主義に向かうのではない道が見えてきています。アニミズム系文化を継承しているそれらは、エコロジー思想にも通じる、地球規模の文化遺産としての普遍性を持っています。そのような文化特質が、かなりの高水準で達成されつつある西欧的近代化と併存している点にこそ、21世紀日本の独自性があるのです。

最近、若い人たちが、伊勢神宮など神域とされるようなところを指して「パワースポット」と言ったりしているようです。それは、それらの地域に凝縮されている、縄文・弥生時代以来の、人間生存の原型的生命力のようなものを感受しているからでしょう。私たち人間の生存の原点を見つめようとしているという意味で、それはとてもよいことです。ただし、その感性を過剰な神秘主義や偏狭な愛国主義に向かわせないような、心のしなやかさを持ち続けてほしいと思います。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c76

コメント [近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
76. 中川隆[-10573] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:22:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1503]

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ _ 2

『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』/工藤隆インタビュー
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html


長江流域の少数民族イ(彝)族の女性(左)と著者 中国四川省美姑(メイグー)大涼山地区の以作(イーヅオ)村にて。(1997年3月17日、撮影・工藤綾子)


『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E2%80%95%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E9%9A%86/dp/4121024621


を刊行した工藤隆さん。いま話題になっている「大嘗祭」とは、どんな儀式なのか、どのような特徴と歴史があるのか、伺いました。

――大嘗祭とはそもそもどういった儀式でしょうか。

工藤:大嘗祭は、天皇が即位した後に一度だけ行う大規模な新嘗(にいなめ)祭のことです。新天皇は、まず神器(じんぎ)を渡されて践祚(せんそ、即位)し、少しあいだを置いて即位の礼を行い、践祚の半年〜1年半後くらいに大嘗祭を行います。新嘗祭は、伊勢神宮のアマテラスオオミカミに新稲を捧げるとともに天皇もそれを食する毎年冬至ごろの祭りでした。

しかし、このような毎年の新嘗祭が、天皇位継承儀礼の一連の流れの最後の部分に組み込まれたのは、600年代末の天武・持統天皇のころだったようです。それ以前のニイナメ儀礼がどのような性格のものだったのかについては、よくわかっていません。『古事記』『日本書紀』の神話や『万葉集』の東歌(あずまうた)などによれば、新嘗祭の主役は〈女〉だったらしく、また東南アジアの水田稲作儀礼の文化人類学的報告によると、やはり稲収穫儀礼の主役は〈女〉でした。これらのことを手がかりに、ニイナメ儀礼の起源に迫っていけば、結果として大嘗祭の起源も見えてくることになるでしょう。

――それでは大嘗祭という祭りの特徴はなんでしょうか。

工藤:「祭り」には、限られた当事者だけがかかわる「秘儀」の部分と、地域の人々も参加して行われる「公開」の部分とがあります。普通、「祭り」というと、御輿担ぎや、山車(だし)の引き回しなど、地域の人々が参加して賑やかに行われる「公開」の部分がイメージされます。しかし、大嘗祭の最も重要な部分は「秘儀」にあたりますので、一般人には公開されません。その「秘儀」の部分は、大嘗祭を進行させている関係者および新天皇しか知ることができません。しかも、大嘗祭が行われる大嘗殿の中での具体的な所作は、天皇自身でさえも口外することが許されません。

そのため私たちは、平安時代の儀式書や、江戸時代に桜町天皇のときに復活した大嘗祭について国学者が書き残して公開した史料(閉門の罰を受けた)などを参考にして、推測するのがせいぜいです。それらによれば、大嘗殿の中では、新天皇は、神社で神主が神に供え物をして拝礼しているのと同じようなことをしていたらしいと推測されます。

しかし、大嘗殿の中には、中央にベッド状のものが置いてあるのですが、伊勢神宮のアマテラスオオミカミの座もあり、天皇はそのアマテラスの座に面して座って供え物を捧げます。このとき、中央のベッド状のものは使用されないのです。
ということは、中央のベッド状のものは、古くからの稲の祭りであるニイナメ儀礼の残影であり、本来は、つまり弥生時代にまでさかのぼれば、稲の神がこのベッドにやって来ていたと考えられます。

600年代末の天武・持統天皇のころに本格的に制度が整えられはじめたと思われる大嘗祭は、伊勢神宮の神事形式を援用しつつも、それとは別に、弥生時代に起源を持つ水田稲作儀礼であるニイナメ儀礼の痕跡も、中央のベッド状のものとして取り込んだと考えられます。その名残りが今でも大嘗祭に残っているのです。

また、大嘗殿内の「秘儀」の直前までの式次第の部分は、ある程度平安時代の儀式書に記述されています。それによると、そのなかで最も重視されているのは稲と、その稲から造られる神酒(みき)と、それらに密接にかかわる「造酒児」(サカツコ、「造酒童女」とも書く)1人を筆頭とする6名の女性たちです。

これらの儀式書から見える大嘗祭は、奈良・平安時代に形式化が進み、また洗練度を高めたものの記録ですから、縄文・弥生時代にまでさかのぼる原型的なニイナメ儀礼からは大きな変質を経ていると思われます。しかし、そのような平安朝大嘗祭でも、特に稲、神酒と、それらにかかわるサカツコを筆頭とする女性たちが重要な存在であったことは、原型的なニイナメ儀礼の残影として重要です。

このように、古いニイナメ儀礼の痕跡を残していることが大嘗祭の大きな特徴だと言えます。

――これまでも大嘗祭についていろいろなアプローチの本が刊行されたと思いますが、本書の特徴はなんでしょうか。

工藤:大嘗祭は、ニイナメ儀礼としての誕生から、天皇位継承儀礼の一角に組み込まれて現代に至るまでの間に、かたちをいろいろと変えてきました。大きく分けると次の4つの段階があったと考えられます。

@大嘗祭の原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方
A男王たちが覇権を争った古墳時代のあり方
B600年代末ごろの大嘗祭整備開始期のあり方(初期大嘗祭)
C700年代以後の、式次第が完成して固定化される平安時代のあり方

このうちの@とAの、弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方、すなわち大嘗祭の原型を中心に論じているのが本書の特徴です。従来の大嘗祭論は、そのほとんどすべてがC700年代以後の、式次第が完成して固定化された平安時代のあり方を論じるものでした。それは、平安時代の『儀式』『延喜式』という漢文で書かれた儀式書の記述の範囲内での正確さを求めるのが、文献証拠に基づく学問的手法としては堅実かつ安全なものと思われていたからです。

しかし、平安朝の儀式書からは、まずB600年代末ごろの初期大嘗祭の形がわかりません。ましてや、@とAの弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方を論じるためには、文字記録がまったくないのですから、文化人類学や日本民俗学の事例を手がかりにして論じていくことが必要になります。

私は、大嘗祭の本質・原型・源に迫るための切り札は、この文化人類学・日本民俗学の報告に基づくモデル理論だと判断しましたので、本書ではそれを、@その原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方に迫る部分で活用しました。この点が本書独自の特徴でしょう。


――それでは、そのモデル理論についてくわしくお聞かせ下さい。

工藤:伝統的な国文学の世界では、文化人類学の現地調査報告を取り入れることにとても消極的です。つまり、日本列島の外の地域の民俗資料にまで視界を広げることに消極的です。

しかし、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が登場する700年代以前には、仮に弥生時代以来と限定しても千数百年の、無文字文化の時代があったのです。その時代の文化状況がどうなっていたのかを考えるには、特にアジア全域の文化人類学の報告を手がかりにして、日本列島民族の儀礼形態を推測するモデル理論に頼るのは当然のことなのです。

多くの国文学者が傾倒している折口信夫(おりくちしのぶ)を純粋ヤマト文化主義者だと思っている人が多いようですが、実は彼は、柳田国男との対談で「私などの対象になるものは、時代がさかのぼっていくことが多いので、エスノロジーと協力しなければならぬ」(1950年、第二柳田国男対談集『民俗学について』筑摩叢書、1965年)と述べています。

日本の民俗芸能のほとんどは、その始まりは中世か近世です。出雲神楽・備中神楽・高千穂神楽などいわゆる「神代(じんだい)神楽」も、内容こそアメノイワヤト神話など『古事記』に素材をとっていますが、実は中世・近世に始まったものであり、どんなに古く見たとしても平安時代くらいまでしかさかのぼれません。

折口が、新野(にいの)の雪祭り、愛知の花祭り、坂部(さかんべ)の冬祭り、下伊那の霜月祭りといった奥深い山村の祭りに古代的なものを感じ取ったことは有名ですが、実はそれらの祭りが形成されたのは、ヤマト国家が形成されて数百年を経たあとの、中世・近世期でした。

折口自身も、それらでイメージされる古代像よりもっと古い源にまでさかのぼるには、「エスノロジー」(文化人類学=民族学)の報告の助けが必要だと感じていたのです。そこで彼は、沖縄本島、また石垣島など八重山地域にまで足を延ばし、日本本土の内側の祭り・民俗だけをモデルとする限界を突破しようとしました。彼は、大正10年(1921)、大正12年(1923)、昭和10年(1935)の計3回、沖縄を訪問しました。当時の沖縄調査は、時間のかかる船旅であり、現地でも移動や日常生活でかなりの困難があったと思われます。

また折口は、当時は日本領だった台湾にも行きました。しかし、アジア全域の少数民族文化の調査は、国際情勢、交通・通信網の未発達そのほかさまざまな時代の制約があったので、折口は実現できませんでした。もし折口が現代に壮年期を生きていたら、おそらく彼はアジア辺境の少数民族の村にまで足を踏み入れたことでしょう。

現在は、個人でも中国辺境の少数民族の村に民俗調査で入れる時代になりました。航空機、車、通信手段が発達し、また日本の経済力伸長のおかげで調査経費の工面も楽になりました。今や、日本の古代文学を始原から考えようとする発生論的古代像は、折口が時代の制約ゆえに実現できなかったこと、つまり「エスノロジーと協力」することで得られる、より高度な水準を目指す段階に入りました。

私も折口と同じように、日本国内の民俗行事を見歩いたのち、石垣島・西表島も含めて、沖縄全域の祭りを訪問しました。そのようななかで、沖縄の先の長江(揚子江)流域に、原型的な文化を伝えている多数の民族が存在することを知り、1994年以来、中国雲南省を中心としてアジア各地の少数民族文化の現地調査に踏み出しました。これらの調査からは、日々の生活と密着し祭式のなかで歌われている“生きている神話”の実例や、実際に配偶者や恋人を得るという実用の目的で行われている“生きている歌垣”にも触れることができました。それらの素材をモデルにして、『古事記』の古層や、歌垣の原型を想定できたのです。

――そのような研究をされてきたなかで、とくに本書執筆にさいしての御苦労がありましたらお聞かせ下さい。

工藤:このように、20年以上にわたる少数民族文化の調査から、大嘗祭の原型をとらえようとしたのですが、ここで本当の意味での「執筆の苦労」が登場しました。というのは、日本列島に流入したジャポニカ米や水田稲作技術の源が長江以南地域だとはわかったのですが、肝腎のその地域の少数民族の稲作儀礼に、〈女〉が主役の水田稲作儀礼の典型的な事例が残っていなかったからです。『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの伝承や、また東南アジアの水田稲作儀礼のように、主役を〈女〉が務める稲収穫儀礼の実例に出会えなかったのです。ハニ族のように、田から稲を刈り取ってきて家の中の先祖棚に供えるところまではその家の主婦が務めていても、そのあとの宴席となると男戸主が主役になってしまうのです。

そこで、女性原理濃厚な長江以南地域の在来の文化に、北方から南下してきた男性原理の漢族文化が重なって、〈女〉が主役の前段と〈男〉が主役の後段という二重構成になったという分析にたどり着きました。そうすると、日本古代の弥生時代にもすでに、縄文時代以来の女性原理が濃厚な基盤の上に、男性原理が濃厚な文化が重なったと考えることができました。のちの大嘗祭においても、前段は女性であるサカツコが主役、後段の大嘗殿の中では原則として男性である天皇が主役という二段構成になっていることも、同じような意味であると理解してよいのでしょう。


――日本古代の文化も、二重構成になっていたのですね。

サミュエル・ハンチントンが、世界をキリスト教圏、イスラム教圏、東方正教圏(ロシア)、仏教圏、中国、そして日本と分けたうえで、「文化と文明の観点からすると、日本は孤立した国家である」と述べています(『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書、2000年)。また同書で、「日本が特徴的なのは、最初に近代化に成功した最も重要な非西欧の国家でありながら、西欧化しなかったという点である」とも述べています。

日本がそのような位置づけになったのは、私は、日本文化の基層が長江以南地域の少数民族文化と共通しているからだと考えています。これらの少数民族文化には、以下のような3つの特徴があります。

まず、その宗教は、教祖、教典、教義、教団、布教活動の揃った本格宗教でなく、自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)が中心になっていることです。仮に本格宗教が流入しても、アニミズム、シャーマニズムの側に引き寄せて変形させてしまっています。

第二に、その少数民族の持つ世界観が、自然と密着したアニミズム、シャーマニズムを背景にした神話世界を中心に据えていることです。

第三に、その集団・民族は、〈国家〉樹立を目指さず、仮に〈国家〉らしきものを作っても弱小であることです。

長江以南の少数民族文化は、国家を作らず、あるいは作ったとしても弱小であっただけでなく陸続きでもあったために漢族の侵攻によって国家を維持することが出来ませんでした。いっぽうで古代日本は、大陸とのあいだに海の防護壁があったおかげで、大陸国家からの直接の侵略を受けませんでした。しかし、国家の樹立や運営の実用的かつリアリズム型の知識だけはその大陸国家から学ぶことができました。その結果、それらとは逆方向の、もともと持っていたアニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質も濃厚に残すことになったのです。

日本は、この、リアリズム型の知識と、それとは逆の方向性の文化資質を抱え込んで、およそ1400年間、〈国家〉としての体裁を維持して21世紀の現代にまで至っています。このとき、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質は、ほとんどDNAのように現代日本文化の基層として生き続けています。この点が、「西欧化しなかった」(ハンチントン)という指摘の意味でしょう。

――来たるべき次代の大嘗祭にさいして、わたしたちはどういったところに注目するとよいでしょうか。

工藤:1868年の明治新政府の登場によって、日本の社会制度には大きな変化が生じました。天皇制については、「大日本帝国憲法」が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としたように、天武天皇のように武力王でもあった初期天皇制の時代に歴史を逆戻しする一方で、天皇の呪術王的側面では、女性神職を廃止するなど卑弥呼以来の女性性の部分は排除しました。明治天皇には、富国強兵政策のなかで、武力王・軍事王の姿が求められたのです。そのような潮流のなかで、それまで重要視されていたサカツコという童女も明治天皇の大嘗祭では廃止され、大正・昭和・平成の大嘗祭でも復活しませんでした。

しかし、このサカツコは、『古事記』『日本書紀』神話の中でニイナメ儀礼を行っているアマテラスオオミカミやカムアタカシツヒメ(どちらも女神)、巫術の女王卑弥呼、そして、長江以南アジアの〈女〉が主役の水田稲作儀礼などの残影と考えてよい存在です。簡略化された形ででもよいですから、次回の大嘗祭ではサカツコの復活を望みたいと思います。

もう一つ、大嘗祭の行われる旧暦11月下旬は、新暦では冬至のころにあたります。この時期は、季節的な衰弱・仮死の冬から復活し、春を引き寄せようとする鎮魂祭が行われる時期でもありました。この自然界の生命力復活の祭祀に、収穫された稲(稲の仮の死)からの翌年の稲の子の誕生の儀礼が重ね合わされ、そこにさらに新天皇復活の祭祀が重なって、大嘗祭が形成されたのでしょう。

ということは、この祭りは冬至のころすなわち新暦では12月下旬に行われないと、自然界の生命力復活という大きな呪的目的が見えにくくなるのです。旧暦の11月を新暦の11月にそのまま移したために、季節感に1か月余のズレが出てしまったのです。
ということで、できるならば、大嘗祭の期日を新暦の12月下旬(冬至のころ)に移すとよいのです。それができないのならば、想像力で、きょうは実は太陽の力が最も弱まる冬至のころで、暗くて寒い冬の極みなのだと時間をずらして、大嘗祭の報道に接するとよいでしょう。


――最後に若い人たちへのメッセージがありましたらお聞かせください。

工藤:21世紀の日本にも、その基層には、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質が、濃厚に生き続けています。このような文化資質は、西欧的な近代化を基準とすれば、“後れた文化”という印象を受けるでしょう。しかし、西欧的近代化には大きな副作用があります。その最大のものが自然破壊です。

1700年代のイギリスでの産業革命以後、資本主義経済が地球規模に広がり、21世紀の現在では、発展途上国を含めて全世界でGDP(国内総生産)を競い合う時代になりました。地球環境の汚染と、地球財の消尽が加速度的な勢いで進行しています。そのうえ、核兵器や原子力発電所の登場によって、地球の生活環境の全体が一気に崩壊に向かう可能性さえ見えてきました。
このようなときにこそ、日本の基層文化であるアニミズム系文化が、そのような生存環境崩壊の流れに対して、ブレーキ役を果たすでしょう。アニミズム系文化には、自然と共に生きる思想があります。生態系を重視するエコロジー思想とも通じていますし、またアニミズム系文化の節度ある欲望の感覚は、「GDPはほどほどに」という抑制された生産・経済活動の可能性を示唆するでしょう。

またアニミズム系文化は、近代合理主義が取りこぼしがちな人間存在の曖昧領域を許容し、寛容さを示す心性も持っています。また神話が示す世界は、人々の空想力を豊かに展開させてくれますし、恋歌文化の伝統は、潤いのある感性を育てます。そして、縄文文化に典型的なように、女性原理が強いので平和志向も強いのです。
そのうえ、日本文化には、島国文化・ムラ社会性という特性もあり、そこには、人と人の和をたいせつにする助け合い精神や寛容の精神のような得がたい美徳があります。

ただし、これらの文化資質は、近代合理主義を基準とすれば、たしかに国際政治の現場などにおいて現実的思考を取りにくいという側面もあります。そこで、近代合理主義の側のリアリズム的思考もしっかり取り入れて、その弱点を補う必要はあります。
日本は、古代に、〈国家〉を目指さない少数民族文化の特徴を持っていたにもかかわらず〈国家〉を樹立し、それを21世紀の現代にまで維持してきています。古代国家形成期の経験を生かして、明治期の近代化にも成功しました。したがって、その歴史体験から得られた知恵も動員して、今後とも、アニミズム系文化の伝統と近代文明を融合させるべく、模索を続けていくことが必要です。

最後に付け加えます。私が20歳のころ(1962年)は、まだ1945年までの、軍国主義ファシズムと結びついた天皇制に対する嫌悪感が、教養人一般の感情に強く残っていました。その結果、天皇存在そのものはもちろん、天皇と密接な関係を持つ『古事記』や伊勢神宮に対しても同じような反感と違和感をいだく教養人が多かったのです。

しかし、敗戦後の新憲法で、天皇から武力王(軍事王)・政治王としての側面が除かれました。残ったのは、アニミズム系の祭祀・行事・和歌などの継承者としての文化王的側面です。したがって、敗戦後72年を経た現在では、天皇・『古事記』・伊勢神宮に親しみを感じることが、そのまま右翼的な国粋主義思想や、偏狭な愛国主義に向かうのではない道が見えてきています。アニミズム系文化を継承しているそれらは、エコロジー思想にも通じる、地球規模の文化遺産としての普遍性を持っています。そのような文化特質が、かなりの高水準で達成されつつある西欧的近代化と併存している点にこそ、21世紀日本の独自性があるのです。

最近、若い人たちが、伊勢神宮など神域とされるようなところを指して「パワースポット」と言ったりしているようです。それは、それらの地域に凝縮されている、縄文・弥生時代以来の、人間生存の原型的生命力のようなものを感受しているからでしょう。私たち人間の生存の原点を見つめようとしているという意味で、それはとてもよいことです。ただし、その感性を過剰な神秘主義や偏狭な愛国主義に向かわせないような、心のしなやかさを持ち続けてほしいと思います。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c76

コメント [近代史3] プチエンジェル事件の顧客と噂されている秋篠宮・高円宮はロリコンなのか? 中川隆
23. 中川隆[-10572] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:22:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1504]
天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ _ 2

『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』/工藤隆インタビュー
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html


長江流域の少数民族イ(彝)族の女性(左)と著者 中国四川省美姑(メイグー)大涼山地区の以作(イーヅオ)村にて。(1997年3月17日、撮影・工藤綾子)


『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E2%80%95%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E9%9A%86/dp/4121024621


を刊行した工藤隆さん。いま話題になっている「大嘗祭」とは、どんな儀式なのか、どのような特徴と歴史があるのか、伺いました。

――大嘗祭とはそもそもどういった儀式でしょうか。

工藤:大嘗祭は、天皇が即位した後に一度だけ行う大規模な新嘗(にいなめ)祭のことです。新天皇は、まず神器(じんぎ)を渡されて践祚(せんそ、即位)し、少しあいだを置いて即位の礼を行い、践祚の半年〜1年半後くらいに大嘗祭を行います。新嘗祭は、伊勢神宮のアマテラスオオミカミに新稲を捧げるとともに天皇もそれを食する毎年冬至ごろの祭りでした。

しかし、このような毎年の新嘗祭が、天皇位継承儀礼の一連の流れの最後の部分に組み込まれたのは、600年代末の天武・持統天皇のころだったようです。それ以前のニイナメ儀礼がどのような性格のものだったのかについては、よくわかっていません。『古事記』『日本書紀』の神話や『万葉集』の東歌(あずまうた)などによれば、新嘗祭の主役は〈女〉だったらしく、また東南アジアの水田稲作儀礼の文化人類学的報告によると、やはり稲収穫儀礼の主役は〈女〉でした。これらのことを手がかりに、ニイナメ儀礼の起源に迫っていけば、結果として大嘗祭の起源も見えてくることになるでしょう。

――それでは大嘗祭という祭りの特徴はなんでしょうか。

工藤:「祭り」には、限られた当事者だけがかかわる「秘儀」の部分と、地域の人々も参加して行われる「公開」の部分とがあります。普通、「祭り」というと、御輿担ぎや、山車(だし)の引き回しなど、地域の人々が参加して賑やかに行われる「公開」の部分がイメージされます。しかし、大嘗祭の最も重要な部分は「秘儀」にあたりますので、一般人には公開されません。その「秘儀」の部分は、大嘗祭を進行させている関係者および新天皇しか知ることができません。しかも、大嘗祭が行われる大嘗殿の中での具体的な所作は、天皇自身でさえも口外することが許されません。

そのため私たちは、平安時代の儀式書や、江戸時代に桜町天皇のときに復活した大嘗祭について国学者が書き残して公開した史料(閉門の罰を受けた)などを参考にして、推測するのがせいぜいです。それらによれば、大嘗殿の中では、新天皇は、神社で神主が神に供え物をして拝礼しているのと同じようなことをしていたらしいと推測されます。

しかし、大嘗殿の中には、中央にベッド状のものが置いてあるのですが、伊勢神宮のアマテラスオオミカミの座もあり、天皇はそのアマテラスの座に面して座って供え物を捧げます。このとき、中央のベッド状のものは使用されないのです。
ということは、中央のベッド状のものは、古くからの稲の祭りであるニイナメ儀礼の残影であり、本来は、つまり弥生時代にまでさかのぼれば、稲の神がこのベッドにやって来ていたと考えられます。

600年代末の天武・持統天皇のころに本格的に制度が整えられはじめたと思われる大嘗祭は、伊勢神宮の神事形式を援用しつつも、それとは別に、弥生時代に起源を持つ水田稲作儀礼であるニイナメ儀礼の痕跡も、中央のベッド状のものとして取り込んだと考えられます。その名残りが今でも大嘗祭に残っているのです。

また、大嘗殿内の「秘儀」の直前までの式次第の部分は、ある程度平安時代の儀式書に記述されています。それによると、そのなかで最も重視されているのは稲と、その稲から造られる神酒(みき)と、それらに密接にかかわる「造酒児」(サカツコ、「造酒童女」とも書く)1人を筆頭とする6名の女性たちです。

これらの儀式書から見える大嘗祭は、奈良・平安時代に形式化が進み、また洗練度を高めたものの記録ですから、縄文・弥生時代にまでさかのぼる原型的なニイナメ儀礼からは大きな変質を経ていると思われます。しかし、そのような平安朝大嘗祭でも、特に稲、神酒と、それらにかかわるサカツコを筆頭とする女性たちが重要な存在であったことは、原型的なニイナメ儀礼の残影として重要です。

このように、古いニイナメ儀礼の痕跡を残していることが大嘗祭の大きな特徴だと言えます。

――これまでも大嘗祭についていろいろなアプローチの本が刊行されたと思いますが、本書の特徴はなんでしょうか。

工藤:大嘗祭は、ニイナメ儀礼としての誕生から、天皇位継承儀礼の一角に組み込まれて現代に至るまでの間に、かたちをいろいろと変えてきました。大きく分けると次の4つの段階があったと考えられます。

@大嘗祭の原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方
A男王たちが覇権を争った古墳時代のあり方
B600年代末ごろの大嘗祭整備開始期のあり方(初期大嘗祭)
C700年代以後の、式次第が完成して固定化される平安時代のあり方

このうちの@とAの、弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方、すなわち大嘗祭の原型を中心に論じているのが本書の特徴です。従来の大嘗祭論は、そのほとんどすべてがC700年代以後の、式次第が完成して固定化された平安時代のあり方を論じるものでした。それは、平安時代の『儀式』『延喜式』という漢文で書かれた儀式書の記述の範囲内での正確さを求めるのが、文献証拠に基づく学問的手法としては堅実かつ安全なものと思われていたからです。

しかし、平安朝の儀式書からは、まずB600年代末ごろの初期大嘗祭の形がわかりません。ましてや、@とAの弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方を論じるためには、文字記録がまったくないのですから、文化人類学や日本民俗学の事例を手がかりにして論じていくことが必要になります。

私は、大嘗祭の本質・原型・源に迫るための切り札は、この文化人類学・日本民俗学の報告に基づくモデル理論だと判断しましたので、本書ではそれを、@その原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方に迫る部分で活用しました。この点が本書独自の特徴でしょう。


――それでは、そのモデル理論についてくわしくお聞かせ下さい。

工藤:伝統的な国文学の世界では、文化人類学の現地調査報告を取り入れることにとても消極的です。つまり、日本列島の外の地域の民俗資料にまで視界を広げることに消極的です。

しかし、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が登場する700年代以前には、仮に弥生時代以来と限定しても千数百年の、無文字文化の時代があったのです。その時代の文化状況がどうなっていたのかを考えるには、特にアジア全域の文化人類学の報告を手がかりにして、日本列島民族の儀礼形態を推測するモデル理論に頼るのは当然のことなのです。

多くの国文学者が傾倒している折口信夫(おりくちしのぶ)を純粋ヤマト文化主義者だと思っている人が多いようですが、実は彼は、柳田国男との対談で「私などの対象になるものは、時代がさかのぼっていくことが多いので、エスノロジーと協力しなければならぬ」(1950年、第二柳田国男対談集『民俗学について』筑摩叢書、1965年)と述べています。

日本の民俗芸能のほとんどは、その始まりは中世か近世です。出雲神楽・備中神楽・高千穂神楽などいわゆる「神代(じんだい)神楽」も、内容こそアメノイワヤト神話など『古事記』に素材をとっていますが、実は中世・近世に始まったものであり、どんなに古く見たとしても平安時代くらいまでしかさかのぼれません。

折口が、新野(にいの)の雪祭り、愛知の花祭り、坂部(さかんべ)の冬祭り、下伊那の霜月祭りといった奥深い山村の祭りに古代的なものを感じ取ったことは有名ですが、実はそれらの祭りが形成されたのは、ヤマト国家が形成されて数百年を経たあとの、中世・近世期でした。

折口自身も、それらでイメージされる古代像よりもっと古い源にまでさかのぼるには、「エスノロジー」(文化人類学=民族学)の報告の助けが必要だと感じていたのです。そこで彼は、沖縄本島、また石垣島など八重山地域にまで足を延ばし、日本本土の内側の祭り・民俗だけをモデルとする限界を突破しようとしました。彼は、大正10年(1921)、大正12年(1923)、昭和10年(1935)の計3回、沖縄を訪問しました。当時の沖縄調査は、時間のかかる船旅であり、現地でも移動や日常生活でかなりの困難があったと思われます。

また折口は、当時は日本領だった台湾にも行きました。しかし、アジア全域の少数民族文化の調査は、国際情勢、交通・通信網の未発達そのほかさまざまな時代の制約があったので、折口は実現できませんでした。もし折口が現代に壮年期を生きていたら、おそらく彼はアジア辺境の少数民族の村にまで足を踏み入れたことでしょう。

現在は、個人でも中国辺境の少数民族の村に民俗調査で入れる時代になりました。航空機、車、通信手段が発達し、また日本の経済力伸長のおかげで調査経費の工面も楽になりました。今や、日本の古代文学を始原から考えようとする発生論的古代像は、折口が時代の制約ゆえに実現できなかったこと、つまり「エスノロジーと協力」することで得られる、より高度な水準を目指す段階に入りました。

私も折口と同じように、日本国内の民俗行事を見歩いたのち、石垣島・西表島も含めて、沖縄全域の祭りを訪問しました。そのようななかで、沖縄の先の長江(揚子江)流域に、原型的な文化を伝えている多数の民族が存在することを知り、1994年以来、中国雲南省を中心としてアジア各地の少数民族文化の現地調査に踏み出しました。これらの調査からは、日々の生活と密着し祭式のなかで歌われている“生きている神話”の実例や、実際に配偶者や恋人を得るという実用の目的で行われている“生きている歌垣”にも触れることができました。それらの素材をモデルにして、『古事記』の古層や、歌垣の原型を想定できたのです。

――そのような研究をされてきたなかで、とくに本書執筆にさいしての御苦労がありましたらお聞かせ下さい。

工藤:このように、20年以上にわたる少数民族文化の調査から、大嘗祭の原型をとらえようとしたのですが、ここで本当の意味での「執筆の苦労」が登場しました。というのは、日本列島に流入したジャポニカ米や水田稲作技術の源が長江以南地域だとはわかったのですが、肝腎のその地域の少数民族の稲作儀礼に、〈女〉が主役の水田稲作儀礼の典型的な事例が残っていなかったからです。『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの伝承や、また東南アジアの水田稲作儀礼のように、主役を〈女〉が務める稲収穫儀礼の実例に出会えなかったのです。ハニ族のように、田から稲を刈り取ってきて家の中の先祖棚に供えるところまではその家の主婦が務めていても、そのあとの宴席となると男戸主が主役になってしまうのです。

そこで、女性原理濃厚な長江以南地域の在来の文化に、北方から南下してきた男性原理の漢族文化が重なって、〈女〉が主役の前段と〈男〉が主役の後段という二重構成になったという分析にたどり着きました。そうすると、日本古代の弥生時代にもすでに、縄文時代以来の女性原理が濃厚な基盤の上に、男性原理が濃厚な文化が重なったと考えることができました。のちの大嘗祭においても、前段は女性であるサカツコが主役、後段の大嘗殿の中では原則として男性である天皇が主役という二段構成になっていることも、同じような意味であると理解してよいのでしょう。


――日本古代の文化も、二重構成になっていたのですね。

サミュエル・ハンチントンが、世界をキリスト教圏、イスラム教圏、東方正教圏(ロシア)、仏教圏、中国、そして日本と分けたうえで、「文化と文明の観点からすると、日本は孤立した国家である」と述べています(『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書、2000年)。また同書で、「日本が特徴的なのは、最初に近代化に成功した最も重要な非西欧の国家でありながら、西欧化しなかったという点である」とも述べています。

日本がそのような位置づけになったのは、私は、日本文化の基層が長江以南地域の少数民族文化と共通しているからだと考えています。これらの少数民族文化には、以下のような3つの特徴があります。

まず、その宗教は、教祖、教典、教義、教団、布教活動の揃った本格宗教でなく、自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)が中心になっていることです。仮に本格宗教が流入しても、アニミズム、シャーマニズムの側に引き寄せて変形させてしまっています。

第二に、その少数民族の持つ世界観が、自然と密着したアニミズム、シャーマニズムを背景にした神話世界を中心に据えていることです。

第三に、その集団・民族は、〈国家〉樹立を目指さず、仮に〈国家〉らしきものを作っても弱小であることです。

長江以南の少数民族文化は、国家を作らず、あるいは作ったとしても弱小であっただけでなく陸続きでもあったために漢族の侵攻によって国家を維持することが出来ませんでした。いっぽうで古代日本は、大陸とのあいだに海の防護壁があったおかげで、大陸国家からの直接の侵略を受けませんでした。しかし、国家の樹立や運営の実用的かつリアリズム型の知識だけはその大陸国家から学ぶことができました。その結果、それらとは逆方向の、もともと持っていたアニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質も濃厚に残すことになったのです。

日本は、この、リアリズム型の知識と、それとは逆の方向性の文化資質を抱え込んで、およそ1400年間、〈国家〉としての体裁を維持して21世紀の現代にまで至っています。このとき、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質は、ほとんどDNAのように現代日本文化の基層として生き続けています。この点が、「西欧化しなかった」(ハンチントン)という指摘の意味でしょう。

――来たるべき次代の大嘗祭にさいして、わたしたちはどういったところに注目するとよいでしょうか。

工藤:1868年の明治新政府の登場によって、日本の社会制度には大きな変化が生じました。天皇制については、「大日本帝国憲法」が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としたように、天武天皇のように武力王でもあった初期天皇制の時代に歴史を逆戻しする一方で、天皇の呪術王的側面では、女性神職を廃止するなど卑弥呼以来の女性性の部分は排除しました。明治天皇には、富国強兵政策のなかで、武力王・軍事王の姿が求められたのです。そのような潮流のなかで、それまで重要視されていたサカツコという童女も明治天皇の大嘗祭では廃止され、大正・昭和・平成の大嘗祭でも復活しませんでした。

しかし、このサカツコは、『古事記』『日本書紀』神話の中でニイナメ儀礼を行っているアマテラスオオミカミやカムアタカシツヒメ(どちらも女神)、巫術の女王卑弥呼、そして、長江以南アジアの〈女〉が主役の水田稲作儀礼などの残影と考えてよい存在です。簡略化された形ででもよいですから、次回の大嘗祭ではサカツコの復活を望みたいと思います。

もう一つ、大嘗祭の行われる旧暦11月下旬は、新暦では冬至のころにあたります。この時期は、季節的な衰弱・仮死の冬から復活し、春を引き寄せようとする鎮魂祭が行われる時期でもありました。この自然界の生命力復活の祭祀に、収穫された稲(稲の仮の死)からの翌年の稲の子の誕生の儀礼が重ね合わされ、そこにさらに新天皇復活の祭祀が重なって、大嘗祭が形成されたのでしょう。

ということは、この祭りは冬至のころすなわち新暦では12月下旬に行われないと、自然界の生命力復活という大きな呪的目的が見えにくくなるのです。旧暦の11月を新暦の11月にそのまま移したために、季節感に1か月余のズレが出てしまったのです。
ということで、できるならば、大嘗祭の期日を新暦の12月下旬(冬至のころ)に移すとよいのです。それができないのならば、想像力で、きょうは実は太陽の力が最も弱まる冬至のころで、暗くて寒い冬の極みなのだと時間をずらして、大嘗祭の報道に接するとよいでしょう。


――最後に若い人たちへのメッセージがありましたらお聞かせください。

工藤:21世紀の日本にも、その基層には、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質が、濃厚に生き続けています。このような文化資質は、西欧的な近代化を基準とすれば、“後れた文化”という印象を受けるでしょう。しかし、西欧的近代化には大きな副作用があります。その最大のものが自然破壊です。

1700年代のイギリスでの産業革命以後、資本主義経済が地球規模に広がり、21世紀の現在では、発展途上国を含めて全世界でGDP(国内総生産)を競い合う時代になりました。地球環境の汚染と、地球財の消尽が加速度的な勢いで進行しています。そのうえ、核兵器や原子力発電所の登場によって、地球の生活環境の全体が一気に崩壊に向かう可能性さえ見えてきました。
このようなときにこそ、日本の基層文化であるアニミズム系文化が、そのような生存環境崩壊の流れに対して、ブレーキ役を果たすでしょう。アニミズム系文化には、自然と共に生きる思想があります。生態系を重視するエコロジー思想とも通じていますし、またアニミズム系文化の節度ある欲望の感覚は、「GDPはほどほどに」という抑制された生産・経済活動の可能性を示唆するでしょう。

またアニミズム系文化は、近代合理主義が取りこぼしがちな人間存在の曖昧領域を許容し、寛容さを示す心性も持っています。また神話が示す世界は、人々の空想力を豊かに展開させてくれますし、恋歌文化の伝統は、潤いのある感性を育てます。そして、縄文文化に典型的なように、女性原理が強いので平和志向も強いのです。
そのうえ、日本文化には、島国文化・ムラ社会性という特性もあり、そこには、人と人の和をたいせつにする助け合い精神や寛容の精神のような得がたい美徳があります。

ただし、これらの文化資質は、近代合理主義を基準とすれば、たしかに国際政治の現場などにおいて現実的思考を取りにくいという側面もあります。そこで、近代合理主義の側のリアリズム的思考もしっかり取り入れて、その弱点を補う必要はあります。
日本は、古代に、〈国家〉を目指さない少数民族文化の特徴を持っていたにもかかわらず〈国家〉を樹立し、それを21世紀の現代にまで維持してきています。古代国家形成期の経験を生かして、明治期の近代化にも成功しました。したがって、その歴史体験から得られた知恵も動員して、今後とも、アニミズム系文化の伝統と近代文明を融合させるべく、模索を続けていくことが必要です。

最後に付け加えます。私が20歳のころ(1962年)は、まだ1945年までの、軍国主義ファシズムと結びついた天皇制に対する嫌悪感が、教養人一般の感情に強く残っていました。その結果、天皇存在そのものはもちろん、天皇と密接な関係を持つ『古事記』や伊勢神宮に対しても同じような反感と違和感をいだく教養人が多かったのです。

しかし、敗戦後の新憲法で、天皇から武力王(軍事王)・政治王としての側面が除かれました。残ったのは、アニミズム系の祭祀・行事・和歌などの継承者としての文化王的側面です。したがって、敗戦後72年を経た現在では、天皇・『古事記』・伊勢神宮に親しみを感じることが、そのまま右翼的な国粋主義思想や、偏狭な愛国主義に向かうのではない道が見えてきています。アニミズム系文化を継承しているそれらは、エコロジー思想にも通じる、地球規模の文化遺産としての普遍性を持っています。そのような文化特質が、かなりの高水準で達成されつつある西欧的近代化と併存している点にこそ、21世紀日本の独自性があるのです。

最近、若い人たちが、伊勢神宮など神域とされるようなところを指して「パワースポット」と言ったりしているようです。それは、それらの地域に凝縮されている、縄文・弥生時代以来の、人間生存の原型的生命力のようなものを感受しているからでしょう。私たち人間の生存の原点を見つめようとしているという意味で、それはとてもよいことです。ただし、その感性を過剰な神秘主義や偏狭な愛国主義に向かわせないような、心のしなやかさを持ち続けてほしいと思います。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/362.html#c23

コメント [近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
7. 中川隆[-10571] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:23:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1505]
天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ _ 2

『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』/工藤隆インタビュー
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html


長江流域の少数民族イ(彝)族の女性(左)と著者 中国四川省美姑(メイグー)大涼山地区の以作(イーヅオ)村にて。(1997年3月17日、撮影・工藤綾子)


『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E2%80%95%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E9%9A%86/dp/4121024621


を刊行した工藤隆さん。いま話題になっている「大嘗祭」とは、どんな儀式なのか、どのような特徴と歴史があるのか、伺いました。

――大嘗祭とはそもそもどういった儀式でしょうか。

工藤:大嘗祭は、天皇が即位した後に一度だけ行う大規模な新嘗(にいなめ)祭のことです。新天皇は、まず神器(じんぎ)を渡されて践祚(せんそ、即位)し、少しあいだを置いて即位の礼を行い、践祚の半年〜1年半後くらいに大嘗祭を行います。新嘗祭は、伊勢神宮のアマテラスオオミカミに新稲を捧げるとともに天皇もそれを食する毎年冬至ごろの祭りでした。

しかし、このような毎年の新嘗祭が、天皇位継承儀礼の一連の流れの最後の部分に組み込まれたのは、600年代末の天武・持統天皇のころだったようです。それ以前のニイナメ儀礼がどのような性格のものだったのかについては、よくわかっていません。『古事記』『日本書紀』の神話や『万葉集』の東歌(あずまうた)などによれば、新嘗祭の主役は〈女〉だったらしく、また東南アジアの水田稲作儀礼の文化人類学的報告によると、やはり稲収穫儀礼の主役は〈女〉でした。これらのことを手がかりに、ニイナメ儀礼の起源に迫っていけば、結果として大嘗祭の起源も見えてくることになるでしょう。

――それでは大嘗祭という祭りの特徴はなんでしょうか。

工藤:「祭り」には、限られた当事者だけがかかわる「秘儀」の部分と、地域の人々も参加して行われる「公開」の部分とがあります。普通、「祭り」というと、御輿担ぎや、山車(だし)の引き回しなど、地域の人々が参加して賑やかに行われる「公開」の部分がイメージされます。しかし、大嘗祭の最も重要な部分は「秘儀」にあたりますので、一般人には公開されません。その「秘儀」の部分は、大嘗祭を進行させている関係者および新天皇しか知ることができません。しかも、大嘗祭が行われる大嘗殿の中での具体的な所作は、天皇自身でさえも口外することが許されません。

そのため私たちは、平安時代の儀式書や、江戸時代に桜町天皇のときに復活した大嘗祭について国学者が書き残して公開した史料(閉門の罰を受けた)などを参考にして、推測するのがせいぜいです。それらによれば、大嘗殿の中では、新天皇は、神社で神主が神に供え物をして拝礼しているのと同じようなことをしていたらしいと推測されます。

しかし、大嘗殿の中には、中央にベッド状のものが置いてあるのですが、伊勢神宮のアマテラスオオミカミの座もあり、天皇はそのアマテラスの座に面して座って供え物を捧げます。このとき、中央のベッド状のものは使用されないのです。
ということは、中央のベッド状のものは、古くからの稲の祭りであるニイナメ儀礼の残影であり、本来は、つまり弥生時代にまでさかのぼれば、稲の神がこのベッドにやって来ていたと考えられます。

600年代末の天武・持統天皇のころに本格的に制度が整えられはじめたと思われる大嘗祭は、伊勢神宮の神事形式を援用しつつも、それとは別に、弥生時代に起源を持つ水田稲作儀礼であるニイナメ儀礼の痕跡も、中央のベッド状のものとして取り込んだと考えられます。その名残りが今でも大嘗祭に残っているのです。

また、大嘗殿内の「秘儀」の直前までの式次第の部分は、ある程度平安時代の儀式書に記述されています。それによると、そのなかで最も重視されているのは稲と、その稲から造られる神酒(みき)と、それらに密接にかかわる「造酒児」(サカツコ、「造酒童女」とも書く)1人を筆頭とする6名の女性たちです。

これらの儀式書から見える大嘗祭は、奈良・平安時代に形式化が進み、また洗練度を高めたものの記録ですから、縄文・弥生時代にまでさかのぼる原型的なニイナメ儀礼からは大きな変質を経ていると思われます。しかし、そのような平安朝大嘗祭でも、特に稲、神酒と、それらにかかわるサカツコを筆頭とする女性たちが重要な存在であったことは、原型的なニイナメ儀礼の残影として重要です。

このように、古いニイナメ儀礼の痕跡を残していることが大嘗祭の大きな特徴だと言えます。

――これまでも大嘗祭についていろいろなアプローチの本が刊行されたと思いますが、本書の特徴はなんでしょうか。

工藤:大嘗祭は、ニイナメ儀礼としての誕生から、天皇位継承儀礼の一角に組み込まれて現代に至るまでの間に、かたちをいろいろと変えてきました。大きく分けると次の4つの段階があったと考えられます。

@大嘗祭の原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方
A男王たちが覇権を争った古墳時代のあり方
B600年代末ごろの大嘗祭整備開始期のあり方(初期大嘗祭)
C700年代以後の、式次第が完成して固定化される平安時代のあり方

このうちの@とAの、弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方、すなわち大嘗祭の原型を中心に論じているのが本書の特徴です。従来の大嘗祭論は、そのほとんどすべてがC700年代以後の、式次第が完成して固定化された平安時代のあり方を論じるものでした。それは、平安時代の『儀式』『延喜式』という漢文で書かれた儀式書の記述の範囲内での正確さを求めるのが、文献証拠に基づく学問的手法としては堅実かつ安全なものと思われていたからです。

しかし、平安朝の儀式書からは、まずB600年代末ごろの初期大嘗祭の形がわかりません。ましてや、@とAの弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方を論じるためには、文字記録がまったくないのですから、文化人類学や日本民俗学の事例を手がかりにして論じていくことが必要になります。

私は、大嘗祭の本質・原型・源に迫るための切り札は、この文化人類学・日本民俗学の報告に基づくモデル理論だと判断しましたので、本書ではそれを、@その原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方に迫る部分で活用しました。この点が本書独自の特徴でしょう。


――それでは、そのモデル理論についてくわしくお聞かせ下さい。

工藤:伝統的な国文学の世界では、文化人類学の現地調査報告を取り入れることにとても消極的です。つまり、日本列島の外の地域の民俗資料にまで視界を広げることに消極的です。

しかし、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が登場する700年代以前には、仮に弥生時代以来と限定しても千数百年の、無文字文化の時代があったのです。その時代の文化状況がどうなっていたのかを考えるには、特にアジア全域の文化人類学の報告を手がかりにして、日本列島民族の儀礼形態を推測するモデル理論に頼るのは当然のことなのです。

多くの国文学者が傾倒している折口信夫(おりくちしのぶ)を純粋ヤマト文化主義者だと思っている人が多いようですが、実は彼は、柳田国男との対談で「私などの対象になるものは、時代がさかのぼっていくことが多いので、エスノロジーと協力しなければならぬ」(1950年、第二柳田国男対談集『民俗学について』筑摩叢書、1965年)と述べています。

日本の民俗芸能のほとんどは、その始まりは中世か近世です。出雲神楽・備中神楽・高千穂神楽などいわゆる「神代(じんだい)神楽」も、内容こそアメノイワヤト神話など『古事記』に素材をとっていますが、実は中世・近世に始まったものであり、どんなに古く見たとしても平安時代くらいまでしかさかのぼれません。

折口が、新野(にいの)の雪祭り、愛知の花祭り、坂部(さかんべ)の冬祭り、下伊那の霜月祭りといった奥深い山村の祭りに古代的なものを感じ取ったことは有名ですが、実はそれらの祭りが形成されたのは、ヤマト国家が形成されて数百年を経たあとの、中世・近世期でした。

折口自身も、それらでイメージされる古代像よりもっと古い源にまでさかのぼるには、「エスノロジー」(文化人類学=民族学)の報告の助けが必要だと感じていたのです。そこで彼は、沖縄本島、また石垣島など八重山地域にまで足を延ばし、日本本土の内側の祭り・民俗だけをモデルとする限界を突破しようとしました。彼は、大正10年(1921)、大正12年(1923)、昭和10年(1935)の計3回、沖縄を訪問しました。当時の沖縄調査は、時間のかかる船旅であり、現地でも移動や日常生活でかなりの困難があったと思われます。

また折口は、当時は日本領だった台湾にも行きました。しかし、アジア全域の少数民族文化の調査は、国際情勢、交通・通信網の未発達そのほかさまざまな時代の制約があったので、折口は実現できませんでした。もし折口が現代に壮年期を生きていたら、おそらく彼はアジア辺境の少数民族の村にまで足を踏み入れたことでしょう。

現在は、個人でも中国辺境の少数民族の村に民俗調査で入れる時代になりました。航空機、車、通信手段が発達し、また日本の経済力伸長のおかげで調査経費の工面も楽になりました。今や、日本の古代文学を始原から考えようとする発生論的古代像は、折口が時代の制約ゆえに実現できなかったこと、つまり「エスノロジーと協力」することで得られる、より高度な水準を目指す段階に入りました。

私も折口と同じように、日本国内の民俗行事を見歩いたのち、石垣島・西表島も含めて、沖縄全域の祭りを訪問しました。そのようななかで、沖縄の先の長江(揚子江)流域に、原型的な文化を伝えている多数の民族が存在することを知り、1994年以来、中国雲南省を中心としてアジア各地の少数民族文化の現地調査に踏み出しました。これらの調査からは、日々の生活と密着し祭式のなかで歌われている“生きている神話”の実例や、実際に配偶者や恋人を得るという実用の目的で行われている“生きている歌垣”にも触れることができました。それらの素材をモデルにして、『古事記』の古層や、歌垣の原型を想定できたのです。

――そのような研究をされてきたなかで、とくに本書執筆にさいしての御苦労がありましたらお聞かせ下さい。

工藤:このように、20年以上にわたる少数民族文化の調査から、大嘗祭の原型をとらえようとしたのですが、ここで本当の意味での「執筆の苦労」が登場しました。というのは、日本列島に流入したジャポニカ米や水田稲作技術の源が長江以南地域だとはわかったのですが、肝腎のその地域の少数民族の稲作儀礼に、〈女〉が主役の水田稲作儀礼の典型的な事例が残っていなかったからです。『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの伝承や、また東南アジアの水田稲作儀礼のように、主役を〈女〉が務める稲収穫儀礼の実例に出会えなかったのです。ハニ族のように、田から稲を刈り取ってきて家の中の先祖棚に供えるところまではその家の主婦が務めていても、そのあとの宴席となると男戸主が主役になってしまうのです。

そこで、女性原理濃厚な長江以南地域の在来の文化に、北方から南下してきた男性原理の漢族文化が重なって、〈女〉が主役の前段と〈男〉が主役の後段という二重構成になったという分析にたどり着きました。そうすると、日本古代の弥生時代にもすでに、縄文時代以来の女性原理が濃厚な基盤の上に、男性原理が濃厚な文化が重なったと考えることができました。のちの大嘗祭においても、前段は女性であるサカツコが主役、後段の大嘗殿の中では原則として男性である天皇が主役という二段構成になっていることも、同じような意味であると理解してよいのでしょう。


――日本古代の文化も、二重構成になっていたのですね。

サミュエル・ハンチントンが、世界をキリスト教圏、イスラム教圏、東方正教圏(ロシア)、仏教圏、中国、そして日本と分けたうえで、「文化と文明の観点からすると、日本は孤立した国家である」と述べています(『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書、2000年)。また同書で、「日本が特徴的なのは、最初に近代化に成功した最も重要な非西欧の国家でありながら、西欧化しなかったという点である」とも述べています。

日本がそのような位置づけになったのは、私は、日本文化の基層が長江以南地域の少数民族文化と共通しているからだと考えています。これらの少数民族文化には、以下のような3つの特徴があります。

まず、その宗教は、教祖、教典、教義、教団、布教活動の揃った本格宗教でなく、自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)が中心になっていることです。仮に本格宗教が流入しても、アニミズム、シャーマニズムの側に引き寄せて変形させてしまっています。

第二に、その少数民族の持つ世界観が、自然と密着したアニミズム、シャーマニズムを背景にした神話世界を中心に据えていることです。

第三に、その集団・民族は、〈国家〉樹立を目指さず、仮に〈国家〉らしきものを作っても弱小であることです。

長江以南の少数民族文化は、国家を作らず、あるいは作ったとしても弱小であっただけでなく陸続きでもあったために漢族の侵攻によって国家を維持することが出来ませんでした。いっぽうで古代日本は、大陸とのあいだに海の防護壁があったおかげで、大陸国家からの直接の侵略を受けませんでした。しかし、国家の樹立や運営の実用的かつリアリズム型の知識だけはその大陸国家から学ぶことができました。その結果、それらとは逆方向の、もともと持っていたアニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質も濃厚に残すことになったのです。

日本は、この、リアリズム型の知識と、それとは逆の方向性の文化資質を抱え込んで、およそ1400年間、〈国家〉としての体裁を維持して21世紀の現代にまで至っています。このとき、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質は、ほとんどDNAのように現代日本文化の基層として生き続けています。この点が、「西欧化しなかった」(ハンチントン)という指摘の意味でしょう。

――来たるべき次代の大嘗祭にさいして、わたしたちはどういったところに注目するとよいでしょうか。

工藤:1868年の明治新政府の登場によって、日本の社会制度には大きな変化が生じました。天皇制については、「大日本帝国憲法」が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としたように、天武天皇のように武力王でもあった初期天皇制の時代に歴史を逆戻しする一方で、天皇の呪術王的側面では、女性神職を廃止するなど卑弥呼以来の女性性の部分は排除しました。明治天皇には、富国強兵政策のなかで、武力王・軍事王の姿が求められたのです。そのような潮流のなかで、それまで重要視されていたサカツコという童女も明治天皇の大嘗祭では廃止され、大正・昭和・平成の大嘗祭でも復活しませんでした。

しかし、このサカツコは、『古事記』『日本書紀』神話の中でニイナメ儀礼を行っているアマテラスオオミカミやカムアタカシツヒメ(どちらも女神)、巫術の女王卑弥呼、そして、長江以南アジアの〈女〉が主役の水田稲作儀礼などの残影と考えてよい存在です。簡略化された形ででもよいですから、次回の大嘗祭ではサカツコの復活を望みたいと思います。

もう一つ、大嘗祭の行われる旧暦11月下旬は、新暦では冬至のころにあたります。この時期は、季節的な衰弱・仮死の冬から復活し、春を引き寄せようとする鎮魂祭が行われる時期でもありました。この自然界の生命力復活の祭祀に、収穫された稲(稲の仮の死)からの翌年の稲の子の誕生の儀礼が重ね合わされ、そこにさらに新天皇復活の祭祀が重なって、大嘗祭が形成されたのでしょう。

ということは、この祭りは冬至のころすなわち新暦では12月下旬に行われないと、自然界の生命力復活という大きな呪的目的が見えにくくなるのです。旧暦の11月を新暦の11月にそのまま移したために、季節感に1か月余のズレが出てしまったのです。
ということで、できるならば、大嘗祭の期日を新暦の12月下旬(冬至のころ)に移すとよいのです。それができないのならば、想像力で、きょうは実は太陽の力が最も弱まる冬至のころで、暗くて寒い冬の極みなのだと時間をずらして、大嘗祭の報道に接するとよいでしょう。


――最後に若い人たちへのメッセージがありましたらお聞かせください。

工藤:21世紀の日本にも、その基層には、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質が、濃厚に生き続けています。このような文化資質は、西欧的な近代化を基準とすれば、“後れた文化”という印象を受けるでしょう。しかし、西欧的近代化には大きな副作用があります。その最大のものが自然破壊です。

1700年代のイギリスでの産業革命以後、資本主義経済が地球規模に広がり、21世紀の現在では、発展途上国を含めて全世界でGDP(国内総生産)を競い合う時代になりました。地球環境の汚染と、地球財の消尽が加速度的な勢いで進行しています。そのうえ、核兵器や原子力発電所の登場によって、地球の生活環境の全体が一気に崩壊に向かう可能性さえ見えてきました。
このようなときにこそ、日本の基層文化であるアニミズム系文化が、そのような生存環境崩壊の流れに対して、ブレーキ役を果たすでしょう。アニミズム系文化には、自然と共に生きる思想があります。生態系を重視するエコロジー思想とも通じていますし、またアニミズム系文化の節度ある欲望の感覚は、「GDPはほどほどに」という抑制された生産・経済活動の可能性を示唆するでしょう。

またアニミズム系文化は、近代合理主義が取りこぼしがちな人間存在の曖昧領域を許容し、寛容さを示す心性も持っています。また神話が示す世界は、人々の空想力を豊かに展開させてくれますし、恋歌文化の伝統は、潤いのある感性を育てます。そして、縄文文化に典型的なように、女性原理が強いので平和志向も強いのです。
そのうえ、日本文化には、島国文化・ムラ社会性という特性もあり、そこには、人と人の和をたいせつにする助け合い精神や寛容の精神のような得がたい美徳があります。

ただし、これらの文化資質は、近代合理主義を基準とすれば、たしかに国際政治の現場などにおいて現実的思考を取りにくいという側面もあります。そこで、近代合理主義の側のリアリズム的思考もしっかり取り入れて、その弱点を補う必要はあります。
日本は、古代に、〈国家〉を目指さない少数民族文化の特徴を持っていたにもかかわらず〈国家〉を樹立し、それを21世紀の現代にまで維持してきています。古代国家形成期の経験を生かして、明治期の近代化にも成功しました。したがって、その歴史体験から得られた知恵も動員して、今後とも、アニミズム系文化の伝統と近代文明を融合させるべく、模索を続けていくことが必要です。

最後に付け加えます。私が20歳のころ(1962年)は、まだ1945年までの、軍国主義ファシズムと結びついた天皇制に対する嫌悪感が、教養人一般の感情に強く残っていました。その結果、天皇存在そのものはもちろん、天皇と密接な関係を持つ『古事記』や伊勢神宮に対しても同じような反感と違和感をいだく教養人が多かったのです。

しかし、敗戦後の新憲法で、天皇から武力王(軍事王)・政治王としての側面が除かれました。残ったのは、アニミズム系の祭祀・行事・和歌などの継承者としての文化王的側面です。したがって、敗戦後72年を経た現在では、天皇・『古事記』・伊勢神宮に親しみを感じることが、そのまま右翼的な国粋主義思想や、偏狭な愛国主義に向かうのではない道が見えてきています。アニミズム系文化を継承しているそれらは、エコロジー思想にも通じる、地球規模の文化遺産としての普遍性を持っています。そのような文化特質が、かなりの高水準で達成されつつある西欧的近代化と併存している点にこそ、21世紀日本の独自性があるのです。

最近、若い人たちが、伊勢神宮など神域とされるようなところを指して「パワースポット」と言ったりしているようです。それは、それらの地域に凝縮されている、縄文・弥生時代以来の、人間生存の原型的生命力のようなものを感受しているからでしょう。私たち人間の生存の原点を見つめようとしているという意味で、それはとてもよいことです。ただし、その感性を過剰な神秘主義や偏狭な愛国主義に向かわせないような、心のしなやかさを持ち続けてほしいと思います。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c7

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍夫妻の海外出張中を狙ったのか、捜査当局はジャパンライフを家宅捜査:野党は国会で、安倍氏とアベ友詐欺会社の関係を徹底… 赤かぶ
8. panbet37[1270] gpCCgYKOgoKChYKUglKCVg 2019年4月27日 17:24:27 : 77WVdtoUII : TTd0MUpFSkpCdlU=[8]
   僕は、安倍ゲート、安倍晋三大疑獄と呼ぶ。こいつが闇に葬った数々の疑惑。捏造、隠匿、握りつぶした情報。そして、いざとなれば、安倍晋三にとっての邪魔者を始末しかねない恐怖政治・・・。

 明治新政府以来150年、安倍晋三ほど陰険で、恐ろしい首相、非人間は一人もいない。善良な数千万人の日本人は、この吸血鬼に殺される前に、この悪魔をたたきつぶさなければならないよ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/164.html#c8

コメント [原発・フッ素51] 日本の「敗訴」確定 WTO、韓国禁輸容認の報告書採択 「極めて遺憾だ」日本政府  赤かぶ
4. 2019年4月27日 17:26:23 : 7rY4s0ldlY : Q1c4RXlrak5GbFE=[1]
 
「極めて遺憾だ」

馬鹿だね、この人たち。
海の外から見れば、チェリノブイリ3発分も汚染されてどこが安全?
と思うのが当然だろう。

ガラスバッジ1/3のような誤魔化しが外国に通じるとでも?
 
http://www.asyura2.com/19/genpatu51/msg/457.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
9. 2019年4月27日 17:29:17 : XIsvNAajdE : U2ouNWk4OUx4N1E=[45]
俺にはいまだに世論調査と開票の公正を信じる敬虔なテレビ真理教の信者がこの板に隔離されているように見えるね。

基幹統計までいじった国だぞ?
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c9

コメント [政治・選挙・NHK260] 自公が「絶対割れない」これだけの裏事情!  赤かぶ
9. 2019年4月27日 17:30:22 : RXPw1oLfVI : bTdocTY4cTdvU0U=[2]
日本を東朝鮮ファシスト国家へと生まれ変わらせるプロジェクト
美しい国・詐欺、大日本帝国復活アジェンダでしっかりと結びついているのさ
維新の松井は、笹川財団・笹川良一つながり、森友疑獄事件で、安倍を助けたのも
笹川財団つながりだと、報道されている
そしてその維新を橋下時代、資金面でバックアップしたのがカルト「大本教」から派生した「生長の家」だと、週刊誌が報道している
全部グル、統一地方選挙も当然、毎度毎度の「不正選挙」
自民党対維新とか、対立は偽装、B層目くらまし戦術、残念プロレス、臭い芝居
笹川財団には、毎年、国から200億円もの資金が提供されているなんて話も
その笹川財団に恩を受けている松井が、安倍自民党に対立できる筈などあるまい


畑中理  笹川財団  創価  北朝鮮  
2017-06-24 16:41:49 | 田布施族 朝鮮半島  


創価5代目会長  秋谷栄之助をたどっていくと、
こんな上田君ちの家系図にぶち当たりました。
とりあえずメモっておきましょう。


http://stokerintheneighbors.blog.fc2.com/blog-entry-15.html

創価と大本教のつながり - 2014.03.23 Sun

未知との遭遇までノラリクラリさんが転載されていた「煩悩くん フルスロットル」さんの22日の記事は、驚きの内容でした。


詳細はリンク先でご覧いただきたいのですが、後半部分を転載させて頂きます。


〜〜〜〜〜〜


上田吉松の子が、創価学会の初代会長の牧口常三郎、北朝鮮残置者の畑中理(金策)、日本財団の笹川良一であり、孫が大本の上田鬼三郎(出口王仁三郎)、創価学会二代目会長の戸田城聖であるという。


津軽藩主の娘 
                            横田めぐみ
↓                              |       
 上田鬼一郎           笹川良一              正恩
                 畑中理  ━  金正日  

  
  イ子  
   
   ↓    逸見十郎太     戸田城聖

                 (創価2代目会長)
        牧口常三郎
        (創価初代会長)

初代上田音吉
  
   ↓    2代目上田音吉

          |
        (よね)

 宇能       |      上田鬼三郎
                 (出口王仁三郎)
        有栖川 
                   |         出口直日
渡辺ウメノ
(音吉の愛人)


出口ナオ              出口すみ
(音吉の愛人)


上田吉松は青森県下北郡に流れて槇玄範を名乗った。

その後、長男・鬼一郎に下北郡の医師・槇玄範を継がせ、自らは死去を偽装し氏家省一郎と称した。

鬼一郎の子が笹川良一と陸軍中野学校出身で北朝鮮残置謀者となった畑中理(金策)。

新潟県柏崎市の漁師・渡邊長松とイ子(いね)の間にはで双子の兄弟が誕生しているが、但し、それは戸籍上であり、渡邊長松が海で行方不明になってからイ子は双子を生み、離婚している。


この時、イ子に接近していたのが上田音吉。双子はそれぞれ「父親知らず」としてと逸見家と牧口家に養子に出されたという。兄が逸見十郎太(戸田城聖の父)で弟の方が創価学会の初代会長の牧口常三郎。

初代の上田吉松と妻の宇能(中村孝道の姪)との間に生まれたのが世祢(よね)。「初代吉松」はなぜか突然、娘の世祢19歳の時、兄弟(世祢にとっては叔父)の経営する伏見の船宿に養女に出す。


その船宿は有栖川宮熾人親王のお忍びでの定宿。ところが何故か世祢は突然上田家に戻り、二代目吉松(船井郡川辺村船岡の紺屋、佐野清六の次男)を婿に迎え、鬼三郎(出口王仁三郎)を産んだ。


創価も大本も北朝鮮も日本財団も皆繋がっていたのですね。


明治維新後、教育制度発足に伴い子供達が学校に行くようになった為に農村では深刻な人手不足に陥った。


これを補うために済州島を中心に朝鮮から半島で食い詰めた白丁階級を呼び寄せ労働力としたが、現代の日系ブラジル人の投入と同じようなもの。この渡来した白丁層の2世3世を取り込んで大きく成長したのが創価学会。


二代目会長の戸田城聖の後を半ば強奪したのが池田太作で、GHQの日本間接代理支配の道具としてこの頃から創価学会は変貌していった。


「永住外国人の地方参政権付与」も半島における創価学会の布教認可と引き換えの密約によるものと噂される。


以上のように全ては皇道大本へ、、、金神教の大江山霊媒衆こと卍党(仏教や神道の仮面を被ったキリスト教)に繋がっていくのですが、卍党の正体とは初期大 王家に繋がる家系であり、天孫系(百済系)にまつろわぬが故に「鬼」とされた者たちではないかと睨むが、大本を生んだ綾部のアヤタチが黒龍会の中核なの か?


アヤタチ上田家がスサノオ(バアル)信仰を捨てていないことは大本を見れば明白なのだが、それと卍党という仏教や神道の仮面を被ったキリスト信仰者という部分が矛盾する。


その卍党が推し進めるのが東西分断及びネオ満州国の建国。


https://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38578099.html


☆ 宗教 云々よりも とても 単純なことが しりたかったのです。 つまり、畑中理は 日本人ではなく、維新からの 侵略朝鮮ではないかということです。

つまり 維新からの 天皇族ですね。


笹川良一 (韓国名をもっている) との繋がりがある時点で もう 疑問はクリアです (笑)。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/185.html#c9

コメント [政治・選挙・NHK260] 拉致家族会は安倍晋三の「アタクチ詐欺」に巻き込まれた それでもバカとは戦え(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
12. 赤かぶ[11117] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:30:56 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1180]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/179.html#c12
コメント [政治・選挙・NHK260] 拉致家族会は安倍晋三の「アタクチ詐欺」に巻き込まれた それでもバカとは戦え(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
13. 赤かぶ[11118] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:31:34 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1181]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/179.html#c13
コメント [政治・選挙・NHK260] 慰安婦問題検証映画『主戦場』で極右論客たちが衝撃のトンデモ発言! 櫻井よしこ、杉田水脈、テキサス親父、加瀬英明…(リテラ… 赤かぶ
7. 赤かぶ[11119] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:33:56 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1182]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/186.html#c7
コメント [政治・選挙・NHK260] 慰安婦問題検証映画『主戦場』で極右論客たちが衝撃のトンデモ発言! 櫻井よしこ、杉田水脈、テキサス親父、加瀬英明…(リテラ… 赤かぶ
8. 赤かぶ[11120] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:34:44 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1183]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/186.html#c8
コメント [政治・選挙・NHK260] 慰安婦問題検証映画『主戦場』で極右論客たちが衝撃のトンデモ発言! 櫻井よしこ、杉田水脈、テキサス親父、加瀬英明…(リテラ… 赤かぶ
9. 赤かぶ[11121] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:35:16 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1184]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/186.html#c9
コメント [政治・選挙・NHK260] 怒り!飯塚「不逮捕」以外に5つの理由がある!   赤かぶ
33. 2019年4月27日 17:35:23 : XMT2YjOjgs : c29FU3VXS1RyVEk=[55]
最初に「上級国民」と言い放ったのは誰なのか?
出どこが知りたい。非常に気になります。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/175.html#c33
コメント [政治・選挙・NHK260] 立民 枝野代表「他党との合併行わない」改めて強調  赤かぶ
35. 2019年4月27日 17:35:41 : hHRyrQsPsY : Nk5rVnVxSUM2Vk0=[98]
私は、枝野が各党と「一緒に」でなく「個別に」会談すると聞いてこの男の心根が分かった。各党にとっても、最重要の問題なのだから、各党首が最優先で時間を割いてくれるのはわかりきった話だから、「一緒に」会談したほうが、アッチ行ったりコッチいったりせずに十倍効率良いに決まっている。

何故だと思う?

31さんの仰る通り「要するに枝野は、自分がお山の大将で居たいだけ。」というのは確かにそうなのだが、実はもっと深い理由がある。それは、枝野の心の底の底に何があるかということだ。枝野は、野党が、合併であろうと、共同名簿であろうと、一体になって選挙を戦えば、自公に勝てる、少なくとも勝つかもしれない、くらいは絶対に分かっている。

問題はその後だ。勝てば、よほどおかしいな理屈をつけない限り、枝野が首相になる。これが、枝野の心の底にある大問題なのだ。

首相となれば、消費税はどうする、辺野古はどうする、原発は、防衛装備は、年金は、税制改革は、生活保護は、、、、となる。すると、枝野の場合、(国民は2009の鳩山のような改革イメージを期待しているのに)、野田佳彦のような政策をとるのだから、あっという間に人気が落ちる。1年もたないだろう。すると、選択肢は2つ。安倍以上の強権政治をやるか、退陣かである。

それよりも、今の野党第一党の党首(当主)のほうが居心地がよいに決まっている。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/167.html#c35

コメント [近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
77. 中川隆[-10570] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:35:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1506]

大嘗祭の本義 折口信夫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html


     一

最初には、演題を「民俗学より見たる大嘗祭」として見たが、其では、大嘗祭が軽い意義になりはせぬか、と心配して、其で「大嘗祭の本義」とした。

題目が甚、神道家らしく、何か神道の宣伝めいた様なきらひがあるが、実は今までの神道家の考へ方では、大嘗祭はよく訣らぬ。民俗学の立場から、此を明らかにして見たい。

此処で申して置かねばならぬのは、私の話が、或は不謹慎の様に受け取られる部分があるかも知れない、といふ事である。だが、話は明白にせぬと何も訣らぬ。話を明白にするのが、却つて其を慕ふ事にもなり、ほんとうの愛情が表れる事にもなる。或は、吾々祖先の生活上の陰事カクレゴト、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出す様になるかも知れぬが、其が却つて、国の古さ・家の古さをしのぶ事になる。単なる末梢的な事で、憤慨する様な事のない様にして頂き度い。国家を愛し、宮廷を敬ふ熱情に於ては、私は人にまけぬつもりである。

     二

まづ「にへまつり」の事から話して見る。「にへ」は、神又は天皇陛下の召し上り物、といふ事である。調理した食物の事をいふので、「いけにへ」とはちがふ。生贄イケニヘとは、生ナマのまゝで置いて、何時でも奉る事の出来る様に、生イけてある贄の事である。動物、植物を通じていふ。

只今の神道家では、にへといへば、生ナマなものをも含めて言ふが、にへといふ以上は、調理したものを言ふのである。御意の儘に、何時でも調理して差し上げます、といつて、お目にかけておくのが、生贄イケニヘである。ほんとうは食べられる物を差し上げるのが、当り前である。生物ナマモノを差し上げるのは、本式ではない。この贄の事から出発して、大嘗祭の話に這入りたい。

大嘗祭は、古くはおほむべまつりと言うて居る。おほんべ即、大嘗に就ては、次の新嘗・大嘗の処で話す事にして、此処では、まづまつりの語源を調べて見る事にする。此まつりといふ語がよく訣らぬと、上代の文献を見ても、解決のつかぬ事が多い。

まつりごととは、政といふ事ではなく、朝廷の公事全体を斥して言ふ。譬へば、食国政・御命購政などゝ言ふし、平安朝になつても、検非違使庁の着駄チヤクダの政などいふ例もある。着駄チヤクダといふのは、首枷クビカセを著ける義で、謂はゞ、庁の行事始めと言つた形のものである。ともかくも、まつり・まつりごとは、其用語例から見ると、昔から為来シキタりある行事、といふ意味に用ゐられて居る。

私は、まつる・またすといふ言葉は、対句をなして居て、自ら為る事をまつると謂ひ、人をして為さしむる事をば、またすと謂ふのであると見て居る。日本紀を見ても、遣又は令といふ字をまたすと訓ませて居る。

一体、まつるといふ語には、服従の意味がある。まつらふも同様である。上の者の命令通りに執り行ふことがまつるで、人をしてやらせるのをまたすといふ。人に物を奉る事をまたすといふのだ、と考へる人もあるが、よくない。人をしてまつらしむる事、此がまたすと謂ふのである。させる・してやらせる、此がまたすである。
日本の太古の考へでは、此国の為事は、すべて天つ国の為事を、其まゝ行つて居るのであつて、神事以外には、何もない。此国に行はれる事は、天つ神の命令によつて行つて居るので、つまり、此天つ神の命令を伝へ、又命令どほり執り行うて居る事をば、まつるといふのである。

処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行いたしました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になつた。古典に用ゐられて居る「祭り」といふ言葉の意味は此で、即御命令によつてとり行ひました処が、かくのごとく出来上りました、と報告する、神事の事を謂ふのである。

まつりは、多くは、言葉によつて行はれる。即、仰せ通りに致しましたら、此様に出来上りました、と言つた風に言ふのである。此処から段々と「申す」といふ意味に変つて来る。そして、復奏する事をも「申す」といふ様になり、其内容も亦、まつるの本義に、近づく様になつて来た。

まをすとは、上の者が理会をして呉れる様に、為向ける事であり、又衷情を訴へて、上の者に、理会と同情とをして貰ひ、自分の願ひを、相手に容れて貰ふ事である。こひまをす(申請)などいふ語も、此処から出て来たのだ。此様に、大体に於ては「申す」と「まつる」とは、意義は違ふが、内容に於て、似通つた所がある。此点は又、後に言ふ事にする。

     三

日本の天子様は、太古からどういふ意味で、尊位にあらせられるか。古い文献を見ると、天子様は食国ヲスクニのまつりごとをして居らせられる事になつて居る。だから天孫は、天つ神の命によつて、此土地へ来られ、其御委任の為事をしに来らせられた御方である。

天子様が、すめらみこととしての為事は、此国の田の生ナり物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国ヲスクニのまつりごとである。

食ヲすといふのは、食クふの敬語である。今では、食ヲすを食クふの古語の様に思うて居るが、さうではない。食国ヲスクニとは、召し上りなされる物を作る国、といふ事である。後の、治ヲサめる国といふ考へも、此処から出てゐる。食ヲすから治ヲサめる、といふ語が出た事は、疑ひのない事である。天照大神と御同胞でいらせられる処の、月読命の治めて居られる国が、夜の食国ヲスクニといふ事になつて居る。此場合は、神の治ヲサめる国の中で、夜のものといふ意味で、食すは、前とは異つた意味で用ゐられて居る。どうして、かう違ふかと謂ふと、日本の古代には、口で伝承せられたものが多いから、説話者の言語情調や、語感の違ひによつて、意味が分れて行くのである。此は民間伝承の、極めて自然の形であつて、古事記と日本紀とでは、おなじ様な話に用ゐられてゐる、おなじ言葉でも、其意味は異つて来て居る。時代を経る事が永く、語り伝へる人も亦、多かつたので、かうした事実があるのである。

さて、食国ヲスクニをまつる事が天子様の本来の職務で、それを命令したのは、天つ神である。古事記・日本紀では、此神を天照大神として居る。此点は、歴史上の事実と信仰上の事実とが、矛盾して居る。歴史上では、幾代もの永い間、天子様は一系で治めていらつしやる。信仰上では、昔も今も同様で、天つ神の代理者として、此土地を治めておいでになる。此土地を御自分の領土になさる、といふ様な事や、領土拡張の事などは、信仰上では、御考へなさらない。天子様は、神の言葉を此国にお伝へなさる為に、お出でになつたのである。此意味がかはつて、神に申し上げる報告の意味が、出たのである。

吾々の考へでは、働かなければ結果が得られない、と訣つて居るが、昔は、神の威力ある詞を精霊に言ひ聞かせると、詞の威力で、言ふ通りの結果を生じて来る、と信じて居た。此土地の精霊は、神の詞を伝へられると、其とほりにせねばならぬのである。貴い方が、神の詞を伝へると、其通りの結果を生じたのである。此が、まつるといふ事で、又食国ヲスクニのまつりごとである。

私は、祭政一致といふ事は、まつりごとが先で、其まつりごとの結果の報告祭が、まつりであると考へて居る。祭りは、第二義的なものである。神又は天子様の仰せを伝へる事が、第一義である。処が、天子様は、天つ神の詞を伝へるし、又天子様のお詞を伝へ申す人がある。そして又、此天子様の代理者の詞を伝へる人がある。かうして段々、上から下へ、と伝へる人がある。此天子様のお詞を伝へる人をまつりごと人といふ。日本紀には、大夫・宰等の文字が宛てゝある。此大夫や宰は、高い位置の官吏ではないのに、何故まつりごと人などいふ、尊い名称で呼ばれるか。此は、前に言うた様に、段々下へ/\と行くからである。かうした人々の事を、御言持ミコトモチといふ。此意味で、天子様も御言持である。即、神の詞を伝達する、といふ意味である。

神の代理をする人は、神と同様で、威力も同様である。譬へば、神ながらの道などいふ語は、天子様の為さるゝ事すべてを、斥して言ふのであつて、決して神道といふ事ではない。天子様は、神ながらの方で、神と同様といふ事である。神ながらは、信仰上の語であつて、道徳上の語ではない。此意味に於て、天子様のお言葉は、即、神の御言葉である。日本の昔の信仰では、みこともちの思想が、幾つも重なつて行つて、時代が進むと、下の者も上の者も同様だ、と考へて来た。そして鎌倉時代から、下尅上の風も生じた。日本の古来の信仰に、支那の易緯の考へ方を習合させて、下尅上と言うたのである。此話は、幾らしても限りのない事であるが、申さねば、贄祭りのほんとうの意味が知れないから、述べたのである。

古い時代のまつりごとは、穀物をよく稔らせる事で、其報告祭がまつりである事は、前にも述べた。此意味に於て、天子様が人を諸国に遣して、穀物がよく出来る様にせしむるのが、食国の政である。処が穀物は、一年に一度稔るのである。其報告をするのは、自ら一年の終りである。即、祭りを行ふ事が、一年の終りを意味する事になる。此報告祭が、一番大切な行事である。此信仰の行事を、大嘗祭オホムベマツリと言ふのである。

此処で考へる事は、大嘗と、新嘗との区別である。新嘗といふのは、毎年、新穀が収穫されてから行はれるのを言ひ、大嘗とは、天子様御一代に、一度行はれるのを言ふのである。処が「嘗」といふ字を宛てたのは、支那に似た行事があつて、それで当てたのである。新嘗の用語例を蒐めて考へて見ると、新穀を召し上るのを、新なめとは言へない。なめるといふ事には、召食メシアガるの意味はない。日本紀の古い註を見ると、にはなひといふ事が見えて居る。万葉集にも、にふなみといふ言葉があり、其他にへなみと書かれた処もある。

今でも、庄内地方の百姓の家では、秋の末の或一日だけ、庭で縄を綯なひ、其が済むと、家に這入る。此を行ふには、庭へ竈を造つて、其日一日は、庭で暮すらしい。日本紀の古註に見える庭なひと言ふのは、其であらう。此事は、考へて見ると、一種の精進で、禁慾生活を意味するのである。だが、庭で縄を絢ふから、庭なひだとしてはいけない。此には、何かの意味があつて、庭で縄を綯ふのであらう。
にはなひ・にふなみ・にひなめ・にへなみ、――此四つの用語例を考へて見ると、にへ・には・にふは、贄と同語根である事が訣る。此四つの言葉は、にへのいみといふことで「のいみ」といふことが「なめ」となつたのである。発音から見ても、極近いのである。結局此は、五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活である事を意味するのであらう。新しく生つたものを、神に進める為の物忌み、と言ふ事になるのである。神様の召し上りものが、にへであることは、前にも言うた通りであるが、同時に、天子様の召し上りものも亦、にへである。さうすると、新嘗の大きな行事であるから、大にひなめといひ、それからおほんべとなつたことが訣る。

此大嘗と新嘗とは、どちらが先かは問題であるが、大嘗は、新嘗の大きなものといふ意味ではなくて、或は大は、壮大なる・神秘なるの意味を表す敬語かも知れぬ。此方が或は、本義かも知れぬ。普通には、大嘗は天皇御一代に一度、と考へられて居るが、古代ではすべて、大嘗であつて、新嘗・大嘗の区別は、無かつたのである。何故かと言ふと、毎年宮中で行はれる事は、尠くとも御代初めに、行はれる事の繰り返しに過ぎない、といふ古代の信仰から考へられるのである。御代初めに一度やられた事を、毎年繰り返さぬと、気が済まぬのであつた、と見るべきである。其が新嘗である。新嘗のみではなく、宮中の行事には、御代初めに、一度行へば済む事を、毎年繰り返す例がある。だから、名称こそ新嘗・大嘗といへ、其源は同一なものである。

此新嘗には、生物ナマモノのみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い/\物忌みが行はれる。単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。民間には、其物忌みの例が残つて居る。常陸風土記を見ると、祖神ミオヤガミが訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟ワセの初嘗ニヒナメで、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。そこで祖神は、筑波岳で宿止ヤドメを乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇ツヽシミツカヘ承つた、とある。此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。

猶、万葉集巻十四に、

にほとりの 葛飾早稲カツシカワセをにへすとも、そのかなしきを、外トに立てめやも
誰ぞ。此家ヤの戸おそぶる。にふなみに、わが夫セをやりて、斎イハふ此戸を

新嘗の夜の、物忌みの有様の見えて居る歌である。此歌などは、もう神の来る事が忘れられて、たゞの男女関係の歌のやうに見えるが、猶、神が来たといふ原義が見えて居る。神の来たのが、愛人が来るやうに考へられて来たのだ。ところが、この新嘗に似た行事が、まだ他にもある。其は神嘗祭である。そこで、神嘗祭の話に移る。

     四

神嘗祭・神今食・相嘗祭、此三つは新嘗祭に似て居る。だから、まづ神嘗祭から話を進めて見る。これは、新嘗祭と相対して行はれた祭りであつて、九月に行はれる。伊勢の神宮に早稲ワセの走穂ハツホを奉る祭りであると考へられて居る。天子様の新嘗に先立つて行はれる。此より前の六月と十二月とにも同様な行事が行はれる。神今食といふのが其である。此神今食を、或人々は「かむいまけ」と読んで、新米を奉るのだとして居るが、十二月の方はともかくも、六月には、まだどの様にしても、新米は出来ないから、此説は同意出来かねる。猶、神今食に奉るものは、早稲の初穂ではなくて、古米を奉るのであらう、と私は考へて居る。

だが、従来、神今食と、神嘗と、新嘗とは、区別が判然して居ない。私は、新米を奉るのと、古米を奉るのとの違ひであらう、と考へて居る。何故かと言ふと、神今食の直前に行はれるのに、月次祭がある。此は、六月と十二月とに行はれる。つまり、一年を二つに分けて、行うたのである。此事は、平安朝に見えて居る。この月次祭の後、直に、つゞいて行はれるのが、神今食である。月次祭の時は、日本中の大きな社の神々が、天子様の許に集まつて来る。その集まつて来た神々に、天子様が、物を食べさせて、おかへし申すのが、神今食である。

一年に二度行ふといふのは、大切な祭りは、一年を二期に分けてする習慣が出来てからの事である。つまり、夏の終りを年の終りと考へ、又、年の終りの冬毎に神が来る。其神に御馳走して帰すのが、神今食である。此は、よく考へて見ると、新嘗を二つに分けて、日をちがへて行つた、といふ事になる。月次祭は、新嘗祭の変化したもので、新嘗祭を行ふ中に、変態な習慣が行はれ出したのである、と考へられる。

神嘗祭とは、諸国から奉つた処の、早稲の走穂ハツホを、宮廷で整理して置かれて、九月になつてから、伊勢の大神に奉られることである。諸国から、初穂を朝廷へ奉る使を、のさきのつかひといふ。荷前使と書くのである。古くから神嘗祭と言うたか、どうか。或は、新嘗といふ支那訳が出来てから後に、神の新嘗といふ意味から、神嘗と言うたのかも知れぬ。ともかくも、神嘗祭は、前に言うた相嘗祭と、関聯させて話さねばならぬ。

諸国から稲穂を奉るのは、鎮魂式と関係があるから、此処で話して置く。諸国から稲穂を奉るのは、宮廷並びに、宮廷の神に服従を誓ふ意味なのである。日本では、稲穂は神である。其には、魂がついて居る。国々の魂がついて居る。魂の内容は、富・寿命・健康等である。諸国から米を差し上げるのは、此等の魂を差し上げる事になる故に、絶対服従といふ事になる。米の魂が身に入ると強くなり、寿命が延び、富が増すのである。そして、此魂たる米を差し上げることを、みつぎといふ。たゞつぎといふ事もある。

かうして、諸国から差し上げた稲穂を、天子様は、御自分で召食メシアガらぬ先に、上の方かたで居られる処の伊勢の大神に奉られる。奉り物は、料理した御飯と、料理せない稲の穂のまゝのを二通り、はざ木にかけて、差し上げる。此をかけぢからといふ。かうして、諸国から到来した米を、天子様が自ら、伊勢の大神に差し上げるのは、祖神に魂を差し上げる事になり、即服従を誓はれる事になるのである。

かうした関係は、民間にもある。本家・中本家・小本家といつた風に分れて居る家では、各の家で、子分を持つて居る。其子分が小本家へ奉つた物を、小本家では中本家へ、中本家では、小本家から奉つたものと、自分の子分の奉つたものとを一処にして、大本家へ差し上げる。此場合には、到来物だから差し上げます、と言うて奉るのである。かうして子方から、次第に、上へ差し上げて行く。すると、献上物としての威力は、其効力を増し、且強くなる。此は信仰上の事実であつた。

上述の様な次第で、神嘗と新嘗とは、大分違つたものである。新嘗は、後にこそ刈り上げ祭りの様になつて居るが、ほんとうは、神の命令に依つて行つた、農事の報告であり、神嘗は、諸国から宮廷へ奉つた稲穂を整理して、更に、伊勢大神宮へ奉る行事である。処が、諸国から奉つた稲の魂を、天子様が更に、上位の神に奉られる行事は、他にもある。即、相嘗祭で、十一月の中の卯の日に行はれる。卯の日が二度しかない時は、上の卯の日に行はれる。新嘗祭よりは、一まはり先の卯の日に行はれるのである。此時は、宮廷から畿内の近辺の大きな社に、稲穂を供へる。此が、相嘗祭である。又、天子様のお血筋や、外戚の陵墓にも奉る。此を荷前ノサキといふ。

約言すると、地方から、宮廷へ奉る処の稲の初穂を、九月に入つて、伊勢へ奉るのを神嘗といひ、其他の神々又は、大きな社に奉るのを相嘗と言ひ、陵墓に奉るのを荷前ノサキと言ふのである。何れも、新嘗祭と前後して行はれたのである。本来は、神に奉るのは相嘗と云ひ、其以下の神で、而も天子様の尊敬する神、又は、天子様の御血つゞきの方に差し上げるのを荷前、と言うたのである。

此等の行事が済んだ後で、新嘗祭が行はれたのだ。新嘗祭は正式には、十二月の中の卯の日に行はれたのである。此処で問題となるのは、卯の日といふ干支を用ゐる事が、果して、古代からあつたかどうか、と言ふ事である。現在知り得る範囲では、日を数へる事よりは、干支を数へる暦法の方が古い、と云へよう。尠くも、支那の古い暦法を伝へた漢人種や、朝鮮人種が、天孫民族と同時に、或はそれ以前に、渡来して居た事は事実である。

新嘗祭其他、すべての行事をするのに、干支に依つて定められる以前は、占ひによつてきめた。此がいつの間にか、干支に依つて、定められるやうになつたのである。かうして日を定めて、十一月の中の卯の日、又は、下の卯の日に、新嘗祭をするのである。此を秋の祭りといふ。

延喜式の祝詞を見ると、大和の龍田の風神祭祝詞がある。此は、五穀の稔る事を祈り、さて稔ると、斯様々々に出来ました、と言うて、秋祭りをして、五穀を奉るのである。此処の秋祭りといふのは、四季でいふ「秋」ではなくて、新嘗祭といふ意味であつて、農事に関係ある語である。処が、相嘗祭は、龍田風神祭の詞の中には、見えては居ないが、古から無かつたとは見られない。中世から、何かの原因で絶えた、と見るべきである。

祝詞の、秋祭りに就て考へて見ても、新嘗、又は相嘗は、今の暦法上の秋ではない。だが、其を秋祭り、と古くから言うて居る処を見ると、秋に就ての考へ方が、昔と今とでは差異があつたのであらう。事実、地方の秋祭りは、早稲の刈り上げ前に行はれるのであつて、晩稲の刈り上げが済んでからやるのは、正式の秋祭りではなくて、其は家々の祭りである。何故、斯うして家々即、地方では、早く秋祭りをするか、と言ふと、朝廷へ奉る荷前ノサキの使と同時に、国々の神の祭りをする為である。朝廷の新嘗祭と前後して、諸国で神に差し上げる。此が秋祭りの始めである。もう一つ、後の理由であるが、稲の花の散つた後が大切だから、やるのである。

此二つの考へが一つになつて、今の秋祭りが行はれるのである。だから、今民間に行はれて居る秋祭りは、ほんとうの秋祭りとしてのものではなくて、寧、家々の祭りと見てよろしい。社の祭りではないのである。新嘗祭と同様なものが、ほんとうの秋祭りである。田舎の秋祭りは、新嘗祭よりも、早く行はれる。新嘗を中心にして考へると、少しく変だが、認容出来ぬ事はない。前に挙げた処の「にほどりの」と言ふ歌にしても、其地方で勝手に、祭りを行うた処から、出来た歌で、宮廷よりは先に、行つた消息が窺はれる。

宮廷の新嘗祭は、日本中の稲の総括りの様なものである。秋祭りには、前述の意味と、もう一つは、冬祭りともいふべき程の意味とがある。さて、秋祭りが、同時に冬祭りに当るのに、どうして冬祭りと言はぬかといへば、其は、秋祭りには、祭りの最古い意味があるが、冬祭りは、少し意味が違つて居るからである。

     五

私の考へでは、一夜の中に、秋祭り・冬祭り・春祭りが、続いて行はれたものであつて、歳の窮キハマつた日の宵の中に、秋祭りが行はれ、夜中に冬祭りが行はれ、明け方に春祭りが行はれるのである。

そして、続いて、初春の行事が行はれる、といふ順序である。此が後に、太陰暦が輸入せられてから、秋・冬・春といふ暦法上の秋・冬・春が当て篏められて、秋祭り・冬祭り・春祭りとなり、更に其中へ夏祭りが、割り込んで来たものと思ふ。

冬祭りとは何かと言ふと、歳、窮つた時期に、神がやつて来て、今年の出来たものを受けて、報告を聞き、家の主人の齢を祝福し、健康の寿ぎをする所の、祭りを言ふのである。古い書物を見ると、秋祭りの晩には、尊い方がやつて来られた事が、書いてある。神の来られた事を忘れた後には、自分よりも身分の高い人を頼んで、来て貰つて居る。後世の宴席に、又は祭事に当つて、正客の習慣は、遠い昔に、其起原のある事が知れる。即、秋祭りとは、主人より遠来の神に、田畑の成績の報告をする事である。そして冬祭りとは、此秋祭りが済んで、客神マレビトが主人の為に、生命の寿ぎと、健康の祝福とをする事である。同席で行はれても、両者の間には、区別は明らかにある。

此処で「冬」といふ言葉を考へて見る。ふゆは、殖ゆで、分裂する事・分れる事・枝が出る事などいふ意味が、古典に用ゐられてゐる。枝の如く分れて出るものを、取扱ふ行事が、冬の祭りである。ふゆは、又古くは、ふると同じであつた。元来、ふるといふ事は、衝突する事であるが、古くは、密着するといふ意味である。此処から「触れる」といふ意味も出て来る。

日本の古代の考へでは、或時期に、魂が人間の身体に、附着しに来る時があつた。此時期が冬であつた。歳、窮つた時に、外から来る魂を呼んで、身体へ附着させる、謂はゞ、魂の切り替へを行ふ時期が、冬であつた。吾々の祖先の信仰から言ふと、人間の威力の根元は魂で、此強い魂を附けると、人間は威力を生じ、精力を増すのである。

此魂は、外から来るもので、西洋で謂ふ処のまなあである。此魂が来て附着する事を、日本ではふるといふ。そして、魂の附着を司る人々があつた。毎年、冬になると、此魂を呼んで附着させる。すると春から、新しい力を生じて活動する。今から考へると、一生に只一度つければよい訣だが、不安に感じたのでもあらう。毎年繰り返した。新嘗を毎年、繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものだ、との考へである。此復活の信仰は、日本の古代には、強いものであつた。

古代信仰に於ける冬祭りは、外来魂を身に附けるのだから、ふるまつりである。処が後には、此信仰が少し変化して、外来魂が身に附くと同時に、此魂は、元が減らずに分割する、と考へて来た。此意味が、第二義のふゆまつりである。

日本紀の敏達天皇の条を見ると、天皇霊といふ語が見えて居る。此は、天子様としての威力の根元の魂といふ事で、此魂を附けると、天子様としての威力が生ずる。此が、冬祭りである。処が後には、或時期に於て、此魂は分割するのだ、と考へ出して来た。そして分割の魂は、人々に分けてやつた。此分割の一つ/\の魂は、着物を以てしるしとした。一衣一魂として、年の暮に、天子様は、親しく近い人々に、着物を分配してやられた。此を御衣配といふ。天子様以下の人に於ても、やはり、家々の氏ノ上の魂は分割する。其を衣に附けて分配した。此を衣配キヌクバりというた。此が近世まで続いて、武家時代になつても、召し使ひに為着シキせを呉れるといふ習慣があつた。

此魂の分割、衣分配の信仰は、冬祭りの第二義である。此祭りの事を鎮魂式といふのである。たまふり、又はみたまふりといふ。後世になると、たましづめといふ。たましづめといふのは、人間の魂が或時期に於て、游離し易くなるから、其を防ぐ為と、又既に、游離した魂を落ちつかせる為で、此考へ方は、後のものである。支那にも、此に似た行事があつて、鎮魂と謂うて居た処から、日本のたまふりをも鎮魂と訳したのである。その大元は、外来魂を身に附ける事が、第一義。更に、分割の魂を、人々の内身へ入れてやる事。此が、第二義。そして、鎮魂を意味するのが、第三義である。

此鎮魂の行事は、非常に重大なもので、宮廷では、十一月中に、日を卜ひ定めて行うた。処が、たまふりの祭りの中にも、もう一つ違つた祭りがある。それは、魂を附着する、といふ意味の理会が変つて、目下の者が、自分の主人又は、長上の人に服従を誓ふ為に、自分の魂の主要なものを、相手の長上なり、主人なりに献上して了ふといふ祭りである。それで主人或は、目上の人は、元来の自分の魂と、目下が持つて来て奉つた魂とを合せて持つ事になるから、上位の人となる。此行事がやはり、天子様の御代初めに行はれた。其が又、新嘗の如く、毎年繰り返される事になつた。此行事も亦、みたまふりの一の意味である。

上述の如く、生きて居る人が、自分の魂の大部分を、長上に奉る事をみつぎといひ、目下が献つた数多の魂と、元来天子様の持つて居られる魂とを一処にして、其を分割して臣下が頂くのをば、みたまのふゆといふ。そして、此為の行事即、祭りの事をみたまのふゆ祭りといふ。結局冬祭りは、魂分割の祭りで、年の暮には、此魂の切り替へに関する行事が、いろ/\と行はれた。後世になると、年に二度、盆と年の暮れとに行はれた。更に其が、盆と正月とに行はれる事になつた。

元来、冬祭りと秋祭りとは、引続いて一日の中に行はれたのであつたが、漸次分れて来て、秋祭りを十一月、冬祭りを十二月に行ふ様になつた。かうなつて来てからは、十一月に行はれるのをば鎮魂祭といひ、十二月に行はれるのを、普通には御神楽といひ、内侍所の御神楽ともいふ。此二つは共に、鎮魂祭である。十一月の方の祭りは、元来日本にあるみたまふりの祭りで、十二月の方のは、後に、宮中へ這入つて来た処の鎮魂ミタマシヅメの祭りである。

天子様に、下から魂を差し上げる時期は、大体に於て、冬の祭りと一定して居つたが、後には、春行はれることになつた。併し、処によると、違つた時期にも差し上げた。此は、国や家によつて、違つてゐるのである。譬へば、出雲の国造家では、国造の代替りには、其年と、其年の翌年と、引続いて二度、京都へ出て来て、天子様に魂を奉る儀式をした。

     六

前にも言うた通り、宮廷の鎮魂式には、三通りある。

一、猿女の鎮魂  鈿女の鎮魂法の事をいふ。高天原伝来のもの。
二、物部の鎮魂  物部氏に伝来されて居る処の石ノ上鎮魂法。
三、安曇の鎮魂  奈良朝の少し前、宮廷へ這入つた、と見るべき鎮魂法。


此三つの中、猿女鎮魂と、石ノ上鎮魂とは、合体して了うた。最後に這入つた処の、阿曇アヅミの鎮魂式は、海人部の者が取扱つたもので、此は、特殊な面白味があつたので、日本元来のみたまふりとは異つた待遇を受けて、十二月に行はれる事になつた。古来の日本流のがみたまふりで、阿曇のは、たましづめの意義が、主なる要素をなして居る。外来魂を身に附けるのが、古い意義の、日本伝来のみたまふりで、魂の発散を防止し、且既に、発散した魂をして、鎮まらせる。此が、阿曇のたましづめ即、御神楽である。

とにかく、鎮魂式といふのは、群臣から天子様に、魂を差し上げる事だ、とわかればよい。同時に、冬というても、時代によつては、十月の事でもあり、十一月の事でもあり、又十二月の事でもあつた、といふ事を承知してかゝらねばならぬ。

此鎮魂を行ふと、天子様はえらくなる。併し、かうした行事を毎年やるのは、どうした事か。一代に一度やれば、よろしいのであるが、昔の人は、魂は一年間活動すると、もう疲れて役に立たなくなる、と考へて居たから、毎年やるのである。毎年々々、新しく復活して来ねばならぬ、と考へて居つたからである。

恐れ多い事であるが、昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た。天子様の御身体の事を、すめみまのみことと申し上げて居た。みまは本来、肉体を申し上げる名称で、御身体といふ事である。尊い御子孫の意味であるとされたのは、後の考へ方である。すめは、神聖を表す詞で、すめ神のすめと同様である。すめ神と申す神様は、何も別に、皇室に関係のある神と申す意味ではない。単に、神聖といふ意味である。此非常な敬語が、天子様や皇族の方を専、申し上げる様になつて来たのである。此すめみまの命に、天皇霊が這入つて、そこで、天子様はえらい御方となられるのである。其を奈良朝頃の合理観から考へて、尊い御子孫、という風に解釈して来て居るが、ほんとうは、御身体といふ事である。魂の這入る御身体といふ事である。

此すめみまの命である御身体即、肉体は、生死があるが、此肉体を充す処の魂は、終始一貫して不変である。故に譬ひ、肉体は変つても、此魂が這入ると、全く同一な天子様となるのである。出雲の国造家では、親が死ぬと、喪がなくて、直に其子が立つて、国造となる。肉体の死によつて、国造たる魂は、何の変化も受けないのである。

天子様に於ても、同様である。天皇魂は、唯一つである。此魂を持つて居られる御方の事を、日の神子ミコといふ。そして、此日の神子ミコとなるべき御方の事を、日つぎのみこといふ。日つぎの皇子とは、皇太子と限定された方を申し上げる語ではない。天子様御一代には、日つぎのみこ様は、幾人もお在りなされる。そして、皇太子様の事をば、みこのみことと申し上げたのである。

天子様が崩御なされて、次の天子様がお立ちになる間に、おほみものおもひ(大喪)といふのがある。此時期は、日本に於ては、日つぎのみこの中のお一方が、日の御子(天子様)となる為の資格を完成する時、と見る事が出来る。祝詞や、古い文章を見ると、「天のみかげ・日のみかげ」などゝいふ詞がある。此詞は普通には、天子様のお家の屋根の意味だ、と云はれて居るが、宮殿の奥深い所といふ事である。そこに、天子様はおいでになるのである。此は、天日に身体を当てると、魂が駄目になる、といふ信仰である。天子様となる為の資格を完成するには、外の日に身体をさらしてはならない。先帝が崩御なされて、次帝が天子としての資格を得る為には、此物忌みをせねばならぬ。此物忌みの期間を斥して、喪といふのである。喪と書くのは、支那風を模倣しての事で、日本のは「裳」或は「襲」であらうと思ふ。

大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちやんと御寝所が設けられてあつて、蓐・衾がある。褥を置いて、掛け布団や、枕も備へられてある。此は、日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此御寝所に引き籠つて、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂ミタマフリの行事である。此処に設けられて居る衾は、魂が身体へ這入るまで、引籠つて居る為のものである。裳といふのは、裾を長く引いたもので、今の様な短いものゝみをいうては居ない。敷裳などゝいうて、着物の形に造つて置いたのもある。此期間中を「喪」といふのである。

或人は、此お寝床の事を、先帝の亡き御身体の形だといふが、其はよくない。死人を忌む古代信仰から見ても、よろしくない。猶亦、或人は、此が高御座だといふが、此もよくない。高御座に枕を置いたり、布団をおく筈はない。高御座は、天子様がお立ちになつて、祝詞を申される場所であつて、決してお寝になる場所ではない。此処では、何も、ものを仰せあらせないから、高御座と考へる事は出来ぬ。
古代日本の考へ方によれば、血統上では、先帝から今上天皇が、皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫で居られる。御身体は御一代毎に変るが、魂は不変である。すめみまの命といふ詞は、決して、天照大神の末の子孫の方々といふ意味ではなく、御孫といふ事である。天照大神との御関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。

此重大な復活鎮魂が、毎年繰り返されるので、神今食・新嘗祭にも、褥が設けられたりする事になる。大嘗祭と、同一な様式で設けられる。復活を完全にせられる為である。日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲衾マドコオフスマと申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此真床襲衾マドコオフスマこそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすがともなり、皇太子ヒツギノミコの物忌みの生活を考へるよすがともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。此は、日本紀の話であるが、此を毎年の行事でいへば、新嘗祭が済んだ後、直に鎮魂祭が行はれ、其がすんで、元旦の四方拝朝賀式が行はれる。だが此は、元は、一夜の中に一続きに行はれたもので、秋祭りの新嘗祭と、冬祭りの鎮魂祭即、真床襲衾から出て来られ、やがて高御座にお昇りなされて、仰せ言を下される。此らの事は元来、一続きに行はれたのであるが、暦法の変化で、分離して行はれる様になつたのである。

日嗣ぎの皇子ミコが、日の皇子(天子様)におなりなされると、天子様としての仰せ言が下る。すると、群臣は天子様に対して、寿言ヨゴトを申し上げる。寿言の正確な意味は、齢を祝福申し上げる、といふ処にある。すめみまの命の御身体に、天子霊が完全に這入つてから、群臣が寿言を申すのだ。寿言を申すのは即、魂を天子様に献上する意味である。群臣等は、自分の魂の根源を、天子様に差し上げて了ふのだ。此程、完全無欠な服従の誓ひは、日本には無い。寿言を申し上げると、其語について、魂は天子様の御身に附くのである。

天子様は倭を治めるには、倭の魂を御身体に、お附けにならなければならない。譬へば、にぎはやひの命が、ながすね彦の方に居た間は、神武天皇は戦にお負けなされた。処が、此にぎはやひの命が、ながすね彦を放れて、神武天皇についたので、長髓彦はけもなく負けた。此話の中のにぎはやひの命は、即、倭の魂である。此魂を身に附けたものが、倭を治める資格を得た事になる。

此大和の魂を取扱つたのは、物部氏である。ものとは、魂といふ事で、平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には、鬼の字を、ものといふ語にあてゝ居る。物部氏は、天子様の御身体に、此倭を治める魂を、附着せしむる行事をした。此が、猿女鎮魂以外に、石イソノ上カミの鎮魂がある所以である。

此処で、猿女の鎮魂式を考へて見る。さうすると、日本人の生死観がよく訣る。元来、日本の古い信仰では、生と死との区別は、不明瞭なものであつた。人が死んでも、魂をよび戻せば生きかへる、と思うてゐた。そして、どうしても魂がかへらぬとあきらめるまでは、略ほぼ一年間かゝつた。此一年の間は、生死不明の時期で、古い文献を見ると、殯宮モガリノミヤ、又はあらきの宮と言うて居るが、此は此魂を附着せしめようとして居る間の、信仰行事を斥していふのである。御陵を造つて居る間が殯宮だ、といふ考へは、後の考へ方で、支那の考へが這入つて来て居る。
殯宮の間に於ける天子様を、大行天皇と申上げて居る。此も亦、支那流の考へが混つて居る。此期間中は、生死不明であると共に、日つぎの皇子が、裳(襲)に籠つて居られる期間である。

猿女鎮魂の起原ともいふべきは、天ノ岩戸の一条の話である。天照大神は、天ノ岩戸に籠られた。そして、天ノ鈿女命は、盛んなる鎮魂術をやつた。それで、一度発散した天照大神の魂は、戻つて来て、大神は復活した。魂を附着せしむるといふ事は、直に死を意味するものとはならない。此処から考へても、あの大嘗祭の時の蓐の行事が、真に死骸だと考へる事は出来ぬ。

此蓐の行事の、毎年繰り返されるのが、神今食・新嘗祭などの蓐である。蓐に籠る度数が、多ければ多いだけ、威力を増す、といふ考へである。こんな考へ方からして、天子様は、御一代の間に、毎年新嘗をせられて復活されるのである。そして、毎年復活して、新しい威力ある御身体を以て、高御座にお昇りなされて、祝詞を下されるのである。

     七

此処で春の祭りの話をする。春の祭りは、大嘗祭と、即位式と、四方拝と、もう一つ朝賀式とを兼ねたもので、正月の元日から三日の間に行はれるのである。

大宝令――詳しくは養老令――を見ると、五つの詔書々式が残つて居る。其中の主なものは二つで、此は、外国に対しての詔書々式で、他の三つは、国内に対してのものである。此は、大・中・小の三つに分れて居るが、大体から見て、内・外は対をなして居るもの、と見る事が出来る。

内国に対する詔書中、大きな事に用ゐられる書式は、最初の書き出しの言葉に、

明神御大八洲天皇詔旨アキツミカミトオホヤシマグニシロシメススメラガオホミコト……咸聞モロ/\キコシメセトノル

といふ詞を、此書式の詔書のはじめに、据ゑねばならぬ。次に、外国即、朝鮮に対しての詔書には、同じく養老令を見ると、大八洲天皇詔旨の代りに、御宇日本天皇詔旨と書いて居る。(「高御座」参照。全集第二巻)

斯くの如く、国内に対しては大八洲天皇といひ、外国には御宇日本天皇といふのである。そして此言葉を唱へられる場合は、初春か、又は、即位式の時である。此点から見ても、即位式と、初春とは同一である、といふ事がわかる。

其意味は、大八洲は皆私のものだ、といふ意味である。そして、御宇日本天皇といふのは、此言葉を受ける人は、皆日本の天子様の人民になつて了ふ、といふ信仰上の言葉である。支那に対しては、言へなかつた。朝鮮にのみ用ゐられた。朝鮮の任那の国をば、内屯倉ウチミヤケとよんで居つた。うちみやけは、朝廷の御料を収めて置く処といふ意味である。

初春の詔書の全体の意味は、即位式の詔書の意味と、全く同一である。内屯倉ウチミヤケは、天子様の御言葉の勢力が及んだ証拠で、此大八洲天皇とか、御宇日本天皇とかいふ言葉を聞くと、もう、人々の心も身も、天子様のものになつて了ふ。後にこそ、大八洲・御宇日本と分けて用ゐられて居るが、語の及ぶ効力は同一で、其間に、少しの距たりも無かつたのであらう。即、此語の及ぶ範囲が、天子様の御領土といふ事になる。

日本歴史で、知り得る限りでは、大和国の山辺郡の大倭村が、やまとの本地であつたらしい。其が次第に拡がつて、今吾々の考へて居る程の、広さになつたのであらう。猶日本紀によつて、仮説を樹てゝ見れば、日本の宮廷は、或時期の間、筑紫の方面に栄えられた事を伝へて居る。筑紫の山門ヤマト郡の名称が、神武天皇の大和に入られたのと同時に、ついて来た名称とも考へられる。とにかく、何故に、全国到る所をやまとと言うたかといふと、前に言うた通り、明神御大八洲天皇詔書……咸聞といふ、言葉の勢力が及ぶ範囲、といふ意味である。この信仰を度外視しては、何故に日本全体をやまとと言うたか、といふ事は訣らぬ。戦争で領土が拡まつた、といふ考へのみでは、説明は出来ぬ。

又、続日本紀を見ると、天子様は、御代初めに、何か仰せ言を下される時に、大倭根子何々天皇、と最初に言ひ出される。古事記にも、日本紀にもある。「根子」の古い例は、山背根子・難波根子等である。根子は、神主・君主といふ事である。昔は、神主は即、君主であつた。大倭根子といふと、大倭の地方全体の神事を司る人即、君主といふことになるのである。後には、日本全体の祭主、即君主との意味になつて来た。かうした天子様のお言葉も、古い時代は、口頭で言はれたが、奈良朝頃から、文書に書いてやられる事が行はれた。此を宣命といふ。此宣命が、飛鳥ノ宮の末頃からは、文書の形式が定まる様になり、天皇御即位の年の、春の初めには、必、宣命をお下しなされた。後になつて、御即位の式と、朝賀の式とが分れても、両方共に、仰せられるお言葉は、似たものである。

宮廷の儀式をみると、春の儀式と、即位式と沢山、似た処がある。昔から、即位式と、大嘗祭とは同じだ、といふ学者は、沢山ある。昔は必、同一な者であつたと思ふ。そして、此式が春行はれるものだ、と考へられる様になつた。

さて、春といふ語の本義が、不明である。草木の芽が発する事を「はる」といふ処から言ふのだ、と言はれて居るが、ほんとうの事は訣らぬ。其他、いろ/\と言はれて居るが、不明である。そして、春といふ用語例の、古い処も訣らぬ。何にしても、はるかす・はるく・はるなど考へて見ると、開けるといふ意味があるらしい。

今此処で、民間の春の行事からして、宮廷の春の行事を考へて見る事にする。俳句の歳事記を見ると、逆簑岡見といふ事がある。此は、大晦日の夜、簑を逆に着て、小高い所へ上つて四方を見ると、来年一年の村の吉凶・五穀の豊凶等、万事が見えるといふのである。此風習は、春の前に当つて、山の尾根伝ひに、村を祝福しに来た、神のあつた事を語るものである。

日本では、簑は、人間でないしるしに着るものである。処が、百姓は簑を着るが、此は、五月の神事の風習が便利だから、其神事の風を真似て了うたのである。すさのをの命は、千位置戸を負はせられて、爪をぬかれ、髪を抜かれ、涙も唾も痰も皆とられて、為方が無いから、青草を束ねて簑として、下つたと言うて居るし、奈良朝以前の風習と思ふが、簑を着て人の家に這入ると、這入つた人から、科料を取るといふ事もある。此は、簑は神の着るもので、神が来ると、祓へをしなければならぬから、其入費を科するのである。簑について神が来るので、簑を着て来る人から、入費をとるのである。今でも、民間には、人の家へ簑を着て行く時は、必、外でぬいで這入れ、というて居る。

又、前の岡見の話に還るが、高い山から、里に近い岡の上に神が来て、村人の為に、来年の様子を言うてくれた。此は、大晦日の夜から、明け方にかけてのことである。此風が替つて、今度は里人が神になつて、簑をきて、岡へ上つて行つた。こんな習慣が固定して出来たのである。神のやつてくれたのを、人間がやる様になり、神の祝福の語からして、人間がやつて見ても訣る、といふ風に変つて来たものである。

考へて見ると、ににぎの尊も、山の尾根伝ひに、降臨されて居る。一体、日本へ来られた神々は、皆高い所から、山の尾根伝ひに下つて来られて居る。此信仰上の事実が、今でも国々村々には、ざらに残つて居る。

処で、春といふのは、吾々の生活を原始的な状態に戻さうとする時であつて、其には、除夜の晩から初春にかけて、原始風な信仰行事が、繰り返される事になつて居る。つまり、原始時代に一度あつた事を毎年、春に繰り返すのである。古代の考へでは、暦も一年限りであつた。国の一番始めと、春とは同一である、との信仰である。此事からして、天子様が初春に仰せられる御言葉は、神代の昔、ににぎの尊が仰せられた言葉と、同一である。又、真床襲衾を被られ、其をはねのけて起たれた神事、そして、日の皇子となられた事など、其がつまり、代々の天子様が行はせられる、初春の行事の姿となつて居るのである。

     八

元旦の詔詞は、後には書かれて居るが、元は、天子様御自分で、口づから仰せ出されたものである。だからして、天子様の御言葉は、神の言葉と同一である。神の詞の伝達である。此言葉の事を祝詞ノリトといふ。今神主の唱へる祝詞は、此神の言葉を天子様が伝達する、といふ意味の変化したものである。

のるといふのは、上から下へ命令する事である。上から下へ言ひ下された言葉によつて、すべての行動は規定される。法・憲・制等の文字に相当する意義を持つて居る。祝詞は正式には、天ツ祝詞ノ太祝詞といふのである。のりとは、のりを発する場所の事で、神座の事である。而して、此神座で発する言葉が、祝詞である。「天つ祝詞の太祝詞ごと」とは、神秘な壮大崇高な場所で下された御言葉、といふ事である。此尊い神座の事を高御座といふ。

高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。だから、祝詞を唱へる所は、どこでも高御座となる。そんなら、御即位式の時に昇られる高御座は、何を意味するかといへば、前述の様に、天が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持つて居る所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天のみかどなどいふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持つて居る処、といふ意味である。みかどといふ語が後には、天子様の版図の事にもなるのは、此意味であり、後には、天子様の事をも申し上げる様になつて来て居る。

高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる。かうして、時も、人も、所も、詞も、皆元へかへる。不思議な事に、天上にある土地の名が、其々地上にもある。天の安河原は、天上の土地の名であるが、近江の国にもある。天上に高市タケチがあるかと思へば、倭にも高市郡がある。天上から降つて来た土地だなどいふ伝説も、かうした信仰から出たのである。

天子様は、申すまでもなく、倭の神主であらせられて、神事が多い故に、常に御物忌みをせられなければならぬ。殆ど一年中祭りをして居らせられねばならぬ。此は、信濃の国の諏訪の神主に見ても知れる様に、年中祭りに忙殺されて居る。天子様は、日本中の神事の総元締めで、中々やりきれない。そこで、日本には中臣といふ御言詔持ミコトモチが出来た。此中臣は、天子様と群臣との中間に居て、天子様の御言葉を、群臣に伝達する職のものである。

それから、天子様と、神との中間に在るものを、中天皇ナカツスメラミコトといふ。万葉集には、中皇命と出してある。此中皇命の役に立つものは、多くは、皇女或は后などである。

中臣は主として、天子様の御言葉を伝達するのが、為事であつた。元来なら、天子様が申されるはずの祝詞をも、中臣が代理で申すのだ。だから後には、中臣の詞が、祝詞と云はれる事になつた。今ある祝詞は、平安朝の延喜年間に書きとられたものである。平安朝には、斯様に、固定して居たのであらう。其前には、常に詞章が変化して居た、と見るべきである。後には、中臣の家一軒に定まつて了ひ、且、次第に勢力を得て来た。此は御言葉伝達ミコトモチの職をつとめたからである。

今ある祝詞は、一般に古いものとされて居るが、実は古い種の上に、新しい表現法が加はつて居る。神代ながらのものは無い。奈良朝又は平安朝頃の手加減が加はつて居る。古い姿のまゝでは、訣らなかつたのである。時代々々で理会し易い様に、変へて了ふ。又、故意になさずとも、口伝の間に、自ら誤りが生ずる。祝詞の中では、何の事か訣らなくなつて、手のつけようのなかつたと思はれる部分が、古いものである。天つ神の言葉とされて居るのを、天子様が高御座で唱へられるのが、古い意味の祝詞である。中臣の手に移つてからは、祝詞の価値は下つて了うた。

奈良朝の少し前頃から、地方の神々が、朝廷から良い待遇を受けて居る。平安朝では、地方の神々に、位を授けて居る。朝廷の神は別として、それ以外の地方神は、精霊の成り上りで、天子様よりは、位が下の筈である。だから、天子様から位を授けられるのも、尤な事である。併し、位を授けられてからは、漸次地位が高くなつて来て、遂には天子様と同じ程の位のものにも考へられて来た。其で地方神に申される言葉が、対等の言葉づかひで申される様になつて来た。処が、伊勢の天照大神に対しては、天子様の方が、下位に立たれて居る。だから、天子様が伊勢の大神に申される御言葉は、元来寿言ヨゴトの性質のものである。だが、延喜式では、前者も後者も等しく、祝詞と称して居る。

かうした訣で、祝詞には、今日から見れば、種々の意味があるが、ほんとうは天子様が、高御座で仰せ出されるのが、祝詞である。祝詞の中では、春の初めのが、一番大切である。古くは、大嘗祭の後に、天子様の即位式があつた。昔は、即位式といつて、別にあつた訣ではない。真床襲衾からお出になられて、祝詞を唱へられると、即、春となるのである。

元来、大嘗祭と、即位式と、朝賀の式とは、一続きである。其間に於て、四方拝といふのは、元来は、天子様が高御座から、臣下や神に対して、お言葉を下される事を斥して、言うたのであつたが、後に、支那の道教の考への影響を受けて、天子四方を拝すといふ様になつて了うた。

     九

此処で大嘗祭に奏上される寿詞に就て言うて見る。

寿詞とは服従を誓ふ時に、即、自分の守り魂を奉る時に、唱へる言葉である。此は国々に伝はつて居る物語と、同様なものである。後には変化して、宮廷と自分等の氏々、又は、国々との関係の、初めを説く様になつた。其で、宮中に仕へて居る役人等は、自分の職業の本縁・来歴を説く物語を申し上げる。朝廷に直接に、仕へて居る役人のみでなく、地方官・豪族の首長、又、氏々の長なども、地方を又は、氏々を代表して、寿詞を申し上げる。此事は、近世まで、初春の行事に、其儀を留めて居る。一年に二度行はれたらしい様子も、盆の行事に、其名残りが見えて居る。今日民間でも、初春に「おめでたう」といふのは、おめでたく今年一年間いらせられまする様に、といふ寿詞の最大事な部分が、単純化されたものである。此を言ふのが、即、服従を誓ふ所以である。

処が、初代から、朝廷に仕へて来た人々の寿詞と、国々で申し上げる寿詞とは、性質が違うて居る。初代からのものは、自分の職業の神聖なる所以と、来歴とを説くし、国々のは、天子様に服従した来歴・関係を物語るのである。譬へば、天孫降臨の時に、ににぎの尊がつれて来られた、五ノ伴ノ緒の子孫等の申される寿詞は、古いものであるが、朝廷と国々との関係を申し上げる物語は、新しい寿詞である。此寿詞をば、大嘗祭・即位式・元旦此三つの場合に申されるのである。後には、春と大嘗祭との二度、代表者で、間に合せる事になつた。

元旦の朝賀の式に、天子様が祝詞を下される式は、奈良朝には既に、陰に隠れて了うて、群臣が寿詞を申し上げに出る式のみとなつた。此は、物部とか、蘇我とか、大伴とかいふ、高い氏の代表者が出て、申し上げるのであつた。処が、大嘗祭の時には、中臣氏が代表して、寿詞を申し上げるのである。即、自分の家の職業を申し、天寿を祝福して、百官を代表するのである。同時に、諸国の寿詞が奉られるが、此諸国の寿詞の話は、後に言ふ事にして、此処では、中臣の寿詞の話をする。
後世では、大嘗祭の第二日目の辰の日の卯の刻に、中臣ノ天神ノ寿詞を奏上する。天子様は、此より少しまへに、悠紀殿へ御出御になり、つゞいて皇太子・群臣が着座する。そこへ神祇官の中臣が、榊の枝を笏に取り添へて、南門から這入つて、定座に着いて、寿詞を申し上げる。即位式にも、全く此と同様な事を行ふ。此から見ても、即位式と大嘗祭とは同一であると言へる。

では、中臣ノ天神ノ寿詞とは何かといふと、全く中臣の寿詞で、天つ神の寿詞ではない。元来、この寿詞は、藤原頼長の台記の中に書きとられたのが、残つたものである。康治元年に、近衛天皇が、即位式を挙げられた時に用ゐられたのを、書きとつたものである。実に、偶然な幸ひであつた。

寿詞の大体の意味は、次の如くである。

中臣の遠つみ祖である処のあめのこやねの命、皇御孫尊にお仕へ申してあめのおしくもねの命をして、二上山に登らしめて、其処で、天神にお尋ね申さしめられるには、皇御孫尊に差し上げる御膳の水は、如何致したらよろしうございますか、と申された。すると、天神の教へ諭されるには、其は、人間界の水と、天上の水とを一処にして、差し上げねばならぬ。あめのおしくもねの命は又、お尋ねした。然らば、其を得るには、如何致したらよろしうございますか、と問ふと、天神は、玉串をお授けになつて、言はるゝ事に、此玉串を地上に立てゝ、夕日の時から、朝日の照り栄える時まで、天つ祝詞と太祝詞を申せ。かく申せば、その祝詞の効力に依つて、直に兆象が顕れる。そして若蒜が五百個、篁の如く生える。そこを掘つて見ると、天の八井が湧く。その水をとつて奉れ、と教へられた。だから、此をおあがりなさいませといふ。

つまり、中臣としての聖職の歴史を申し上げるのである。此縁故・来歴によつて、悠紀・主基の地方の米に、天つ水をまぜて、御飯を炊き、お酒をこしらへて、天皇に差し上げる。此をお召しあがりなされると、天子様は健康を増し、弥栄えに栄えられるのである。

中臣家は、水の事を司る家筋である。だから、天子様の御湯殿にも、仕へる。そこからして、后が出る事にもなる。つまり中臣は、水の魂を天子様に差し上げる聖職の家である。言ひ換へれば、中臣の家は、水の魂によつて生活して居る家筋である。其故、水の魂を、天子様に差し上げるといふ事は、自分の魂を差し上げる事になる。中臣は、群臣を代表して居るから、他の臣たちのも、此意味で、各々の家筋の魂を天子様に奉る事になる。昔は、神事と家系とは、切り離す事の出来ぬ、深い/\関係があつたのである。

譬へば、大伴家にしても、本来は、宮廷の御門を守つた家筋である。一体「伴」といふのは、何にてもあれ、宮廷に属して居るものをいふ語であつて、大伴は御門の番人である。記・紀を見ると、門の神をば、大苫部と言うて居る処がある。大苫部と大伴部とはおなじで、門をお預りして居る役人といふ事である。後世は、かういふ職の役人も増して来て、物部の家筋の者も、御門の番人となつて来た。そこで、門部の発達をも見る様になつた。平安朝では、大伴は単に、伴というて居る。

大嘗祭の時に、悠紀・主基の御殿の垣を守る為に、伴部の人と、門部の人とが出る。此は両者同一な役を勤めるが、元来は、異つた系統の者である。此等の御門の番人は、元来は或呪言を以て、外来の悪い魂を退けたのである。此等の家筋の頭をば、伴造と云ひ、其部下の者をば、伴部又は部曲というて居る。此頭即、伴造は、種々あるが、神主の地位に居たのであつた。神主たる職業を以て、天子様に仕へて居た。此者達が、後には官吏化して、近衛・衛門・兵衛等の職が出来た。此等は、大伴部・門部・物部等が、元来の家筋を離れて、官吏化して出来たものである。平安朝にはもう、むちやくちやになつて、庭掃きの者に至るまで「殿守の伴のみやつこ」などゝ言ふ様になつて了うた。だが、大嘗祭の時には、昔の形を復活して、大伴部・門部・物部等の人々の代表を、官人から任命して、御門警衛の任に用ゐられた。

     一〇

次には、大嘗祭の時の、御所の警衛の話をして見る。

一体、物部といふ語には、固有名詞としての意味と、普通名詞としての意味とがある。八十物部(八十武夫)といふ様に、此部に属する者は、沢山あつた。物部も、其中の一つである。広く言へば、魂を追ひ退けたり、ひつつけたりする処の部曲が、物部である。大伴が代表者となつたのは、大倭の魂を取り扱つたからである。大嘗祭の時に、物部の任務が重大視されるのも、此故である。物部氏が、本流は亡びたが、石イソノ上カミ氏が栄えてゐて、大嘗祭の時に、大切な御門の固めをした。門の処に、楯と矛とを樹てゝ、外敵を差し止める事をした。此楯を立てゝ、宮廷を守る事を歌つたのが、万葉集巻一に出てゐる。

健男マスラヲの鞆トモの音すなり。物部モノノフの大臣オホマヘツギミ楯立つらしも(元明天皇御製)

此歌に和せられたのが、

我が大君。物な思ほし。尊神スメガミのつぎて給へる君なけなくに(御名部皇女)

此御製は、大嘗祭の時に、物部の首長が、楯を立てる儀式をしてゐる様子を歌はれた、即興の歌である。和せられた方のは、天皇が何か考へて居られるを見てとつて「何もそんなに、お考へなさらずとも、いゝではありませんか。あなた様は、尊い神様が、順次にお立てになつた所の、尊い御方ですもの」との意である。

大嘗祭などの重大な儀式に当つて、楯を立てるのは、悪い魂が邪魔をすると、それを物部が追ひ払ふ為である。口では、呪言を唱へて、追ひ払ふ事をするが、具体的には、此楯を立てる。又、矛をも振り、弓をも鳴らす。かうして、宮廷の御門を固めるのみではなくて、海道四方の関所を固めた。日本の三関といはれて居る所の逢坂・不破・鈴鹿などは、何れも固められた。全く宮殿の御門を固めるのと同一な考へからやるのである。

さて、大嘗宮は、柴垣の中に、悠紀・主基の二殿を拵へてあつて、南北に門がある。天子様は、まづ悠紀殿へ出御なされて、其所の式をすませ、次に主基殿へお出でなされる。古来の習慣から見ると、悠紀殿が主で、主基殿は第二義の様である。すきは、次といふ意だと言はれて居る。悠紀のゆは斎む・いむなどの意のゆで、きは何か訣らぬ。そして、ゆき・すきとなぜ二つこしらへるのか、其も訣らぬ。だが、大体に於て、推定は出来る。

日本全国を二つに分けて、代表者として、二国を撰定し、其二国から、大嘗祭に必要な品物をすべて、持つて来させて、この二殿で、天子様が御祭りをなされる。昔は或は、宮廷の領分の国の数だけ、悠紀・主基に相当する御殿を建てたものかも知れぬ。そして、天子様が大きなお祭りをせられたのかも知れぬ。そして、此御祭りの中に、いろ/\の信仰行事が取り込まれて来て、天子様の復活祭をも行はれる様になつたのであらうと思ふ。

天子様は、悠紀・主基の二殿の中に、御蓐を設けられるのは、何時の頃からか、よく考へて見ると、何も左様な褥の設けられねばならぬ、といふ理由はない。悠紀殿・主基殿の二个所で、復活なされる必要はない。大嘗宮の外に、復活式をせられる場所がなければならぬ。悠紀殿・主基殿へ出御なさるのは、新嘗を御うけなされる為であらう。

大嘗祭の時には、廻立殿をお建てになるが、恐らく此が、天子様の御物忌みの為の御殿ではなかつたか、と考へられる。此宮でなされる復活の行事が、何時の間にか、悠紀・主基の両殿の方へも移つて行つて、幾度も此復活の式をなさる様になつたのであらう。次に、風俗と語部の話をして見たい。

     一一

昔は、大嘗祭の時には、ゆき・すき二国からして、風俗歌が奉られた。平安朝の頃は、其国の古歌を用ゐて居た。後には、其国から出た、古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、都の歌人が代表して歌を作る様になつた。

此風俗歌は、短歌の形式であつて、国風クニフリの歌をいふのである。此国ふりの歌は、其国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふりは、たまふりのふりで、国ふりの歌を奉るといふ事は、天子様に其国の魂を差し上げて、天寿を祝福し、合せて服従を誓ふ所以である。

ふりは、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)にもいひ、歌にもいふ。ふりといふと、此二つを意味するのである。歌をうたつて居ると、天子様に、其歌の中の魂がつき、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)を舞つて居ると、其※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)の中の魂が、天子様に附着する。諸国の稲の魂を、天子様に附着せしめる時に、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)や歌をやる。すると、其稲の魂が、天子様の御身体に附着する。

此魂ふりの歌を、いつでも天子様に申し上げる。其が宮中に残つたのが、記紀のふりの歌である。今残つて居るのは、短い長歌の形をして居る。国風の歌の出発は、呪詞と同様に、諸国の寿詞中から、分裂して出来たもので、つまり、長い呪言中のえきすの部分である。長い物語即、呪言を唱へずとも、此部分だけ唱へると、効果が同様だ、といふ考へである。大嘗祭の歌は、平安朝になると、全く短歌の形になつてゐる。

大嘗祭には、かうして、ふりの歌が奉られて居るが、一方、卯の日の行事を見ると、諸国から、語部が出て来て、諸国の物語を申し上げて居る。平安朝には、七个国の語部が出て来て居る。

美濃  八人    丹波  二人    丹後  二人    但馬  七人
因幡  三人    出雲  四人    淡路  二人

皆で、廿八人である。昔から、此だけであつたかどうか、其は訣らぬ。又、此だけの国が、特別な関係があつての事か、其も訣らぬ。恐らく、或時に行はれた先例があつて、其に倣つて、やつた事であらう。其が又、一つの例を作つて、延喜式には、かう定まつて居たと考へればよい。平安朝以前には、此よりも多くの国々から出たのか、或は、此等の国々が、代表して出たのか、其辺の事もよく訣らぬ。

何処の国にも、語部の後と見るべきものはあるが、正しく其職は伝はらない。語部は、祝詞・寿詞を語るものゝ他に、歴史を語るものもある。奈良朝を中心として、一時は栄えたが、やがては、衰へて了うた。大嘗祭の時に出て来る語部は、ふりの歌の本縁を語るのである。歌には又※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)が附いて居るから、此歌の説明をすると、其由来の古さも感ぜられる。随つて、其歌の来歴も明らかになり、歴史づけられるのである。かうした訣で、大嘗祭には、語部は、歌の説明に来たのである。語部も、もう此辺になると、末期のもので、此から後は、どうなつたかよく訣らぬ。鎌倉や室町の頃になると、もう全く、わからなくなつててゐる。さて、国風の歌は奉らなくなつても、語部は出て来て居る。そして、風俗歌を出したのは、悠紀・主基二国だけである。

此国風の中で、一種特別なものが、東歌であつて、即すなはち東の風俗である。不思議な事に、此東の歌や※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)は、大嘗祭には参加しない。此は、東の国は大嘗祭が固定して了うて後に、天子様の領分になつた国であるからである。東がまだ、日本の国と考へられないうちに、大嘗祭は、日本の生活古典として、固定して了うて居たのだ。吉野の国栖や、薩摩の隼人が歌を奏するのに、東だけがやらぬといふのは、東が新しく領土となつたといふ証拠である。平安朝になつてから、何かの機会にやつと、宮中に奉られたのである。尤此より先に、万葉集には既に、東歌が採られて居る。古今集には、勿論ある。そして東遊び(寿楽)も、宮中へ這入つて居る。此は、何かの儀式の時に、東歌や、東遊びが、宮中で行はれ出したのに違ひない。

東歌が、どんな時に、宮中に這入つたか、略目当てはつく。此は、東の諸国から、荷前の使が行く時に、宮廷で奏したのであらう。即、東の国の稲の魂を持つて行つて、服従を誓うた時の歌が、東歌である。只、大嘗祭が行はれる時期と、東の国で、荷前を奉る時期とが、合つて居た為であらう。

平安朝に入つてから、風俗といへば、主として、悠紀・主基二国のものと考へられては居るが、其は、此二地方が注意にのぼり易く、且繰り返される場合が、多かつた為である。だが、東遊中の風俗歌は、主として、東の国のものが残つて居る処を見ると、風俗といふのは、何も悠紀・主基二国のものと限つて居つたわけでもない。寧、風俗歌は、東が主だと信ぜられて居つたと思はれる。

悠紀・主基の国では、稲穂を中心として、すべての行事が行はれる。稲穂は、神様の取り扱ひを受けて居る。其役員には、男・女共に定められる。女の方では、郡領の娘が造酒子サカツコに定められる。造酒子サカツコは、地位の高い巫女である。男の方は、稲実の君が定められる。此で、酒と米との役人が出来た訣である。――昔の考へでは、酒と米との間に、劃然とした区別はなかつた――それから、造酒子サカツコの下には、酒波さかなみが一人、篩粉コフルヒが一人、共造アヒツクリが二人、多明ためつ酒波が一人あるが、此等は皆、酒に関する巫女である。男子の方は、稲実の君の外に、灰焼一人、採薪四人が定められる。猶、歌女二十人、其他、いろ/\の役割りが定められる。然も、酒の事に仕へるのみかと思ふと、さうではない。山へ行つて、薪や御用の木を伐る時に、一番先に斧を入れたり、又野原へいつて、御用の茅を刈るのも、造酒子サカツコの為事であつた。

此人々は、時期が来ると、稲を積んで都へ上り、土地を選んで、そこへ斎庭を作る。後世は大抵、北野につくられた。そして大嘗祭の前に、大嘗宮へ運んで来る。つまり、此等の人々は、稲の魂を守つて都へ上り、其で酒もこしらへ、御飯も焚きして、其を天子様の御身体に入れる、といふ信仰上の行事を行うた。

稲の魂は、神の考へが生ずる、一時代前の考へ方である。外来魂の考へである。此魂を身につけると、健康になり、農業に関する、すべての権力を得ることにもなる。大嘗祭の中へ、稲穂を入れる時には、警蹕の声をかける。警蹕は、神又は天子様の時でないと、かけない。そして、警蹕のかけ方で、何処の国、何処の誰といふ事が訣つた位である。

警蹕の意味は「尊い神が来た。悪い者よ。そこをどけ」といふ事である。此で見ても、稲穂が大切な尊いものであつた事が知れる。此稲魂の事をば、うかのみたまといふ。うかはうけで、召食メシアガリものといふ事で、酒の方に近い語である。

悠紀・主基の二个国は、何時頃から定められたか訣らぬが、近代は、亀卜で定められる。昔は、何かの方法があつたのであらう。延喜式で見ても、御幣について上る国を以て、其とする様だ。これを国郡卜定と言うて居る。だが、悠紀・主基の国といふのは、大抵、朝廷の近くの国である。そして、東は悠紀・西は主基とされる。御殿もやはり、此様にこしらへる。つまり、大倭朝廷を中心として、其進路の前後を示したのであらう。或は、往き・過ぎの意かも知れぬ。ともかく、悠紀は大和の東南、主基は西北に当つて居る。此二国が定まる前は、新嘗屋が沢山造られて、其をば、天子様は一々廻つて御覧なされた事と思ふ。

悠紀殿・主基殿は、おなじ囲ひの中にあつて、両殿の界は、目隠しだけである。後世は、立蔀を立てゝ拵へられた。立蔀というても、椎の青葉で立てられたもので、此は、昔の青柴垣の形である。南北に御門がある。御殿は、黒木を用ゐる。黒木といふのは、今考へる様に、皮のついたまゝの木といふ事ではなくて、皮をむいて、火に焼いた木の事である。かうすると、強いのである。昔は京都の近くの八瀬の里から、宮殿の材木を奉つた。此を八瀬の黒木というた。後世には、売り物として、市へも出した。此黒木を出すのが、八瀬の人々の職業であつた。とにかく、此は、神秘な山人の奉る木で、此の黒木で造つた御殿の周囲に、青柴垣を拵へたのである。

かうして、尊いお方の御殿を拵へるのに、青柴垣を以てした事は、垂仁記のほむちわけの命の話にも見えて居る。

故、出雲に到りまして、大神を拝み訖ヲへて、還りのぼります時に、肥河の中に黒樔橋クロキノスバシを作り、仮宮を仕へ奉りて、坐マさしめき。こゝに、出雲国造の祖、名は岐比佐都美キヒサツミ、青葉ノ山を餝カザりて、其河下に立てゝ、大御食献らんとする時に、其子詔りたまひつらく、此川下に、青葉の山なせるは、山と見えて、山にあらず。若ケタシ、出雲の石※イハクマ[#「石+囘」、209-14]の曾宮ソノミヤに坐す、葦原色許男アシハラシコヲ大神を以て斎イツく祝ハフリが、大庭か、と問ひ賜ひき。こゝに、御伴につかはさえたる王等、聞き歓び、見喜びて、御子をば、檳榔アヂマサの長穂の宮に坐マせまつりて、駅使を貢上りき。

此話は、ほむちわけの命をして、青葉の山を拵へて、国造の岐比佐都美がお迎へしようとしたのである。即、青葉の山は、尊いお方をお迎へする時の御殿に当るもので、恐らく大嘗祭の青葉の垣と、関係のあるものであらう。かの大嘗祭の垣に、椎の若葉を挿すのも、神迎への様式であらう。尊い天つ神にも、天子様にも、かうするのである。

此、青葉の垣は、北野の斎場では、標の山として立てられる。此は平安朝にはへうのやまと発音されて居るが、其は誤つて音読したからである。本来はしめのやまで、神のしめる標シルシの山といふ事である。神様を此標の山に乗せて、北野から引いて来て、悠紀・主基の御宮にお据ゑ申す。標の山は神の目じるしとしてのものである。だが後には此標の山は、どうなつて了うたかわからぬ。

併し、此標の山の形のものは、近世まで、祭りの時は引き出す。屋台とか、山車ダシとか、お船とかいふ様なものは、此標の山の名残りの形と見る事が出来る。松本の青山様も、此様式のものであらう。

先に引いた垂仁記のは、古い形のものであらう。此が常に、尊い神や、人をお迎へする時に造られたのであつて、大嘗祭にも注意せられたのである。後世、祭りとして、一番「標の山」が用ゐられたのは、夏祭りの標本なる、祇園の祭りである。祇園祭りといふのは、ほんとうは、田植ゑのさなぶりの祭りで、田の神に振舞ひをする祭りであつて、本来は農村の祭りであつた。其が、だん/\と農村から出て、道教の考へと一処になり、怨霊の祟りの考へと一つになつて、御霊の信仰が強くなつた。京都などでは、殊に此考へが盛んになつて、五个処に御霊様を祀つて、御霊会を行ひ、神を慰め、悪事をやめて貰つたのである。こんな風で、後には、悪い事を防ぐ神と信じられて来て、其が仏教と習合して、牛頭天王様であると考へて来たのである。そして、其牛頭天王の垂跡が、すさのをの命だといふ様になつた。すさのをの命は、農業の神だから、直に一処にして了うたのだ。此時も「山」を出し、其山を中心として、祭りを行ふのである。こんな風で、後には、夏祭りには、鉾や山が行はれるやうになつた。

次に天子様の御禊の話をして見る。

     一二

大嘗祭の用意として、十一月は全体、物忌みの月である。これを散斎と言うて居る。其中で、大嘗祭の前二日と、其当日とをば、殊に、致斎と呼ぶ。散斎は割合に自由な物忌みといふ事で、穢れた事や、神事上の絆れた問題には与らない、といふ程の意味である。致斎の方は、昔は絶対な物忌みであつたらうが、令の規定以来、少しく軽くなり、十月の末日と定められて、山城の京都では、加茂川の某地点で、御禊を行はせられた。かうした御禊は、伊勢の斎宮・加茂の斎院を定められる時も、予めなされる。天子様・斎宮・斎院の御禊は、同一な格式でなされる。平安朝になると、音読してごけいと言うて居るが、古くは、みそぎと言うて居る。

此所で、少しく、みそぎ(禊)とはらへ(祓)との区別をいうて見る事にする。
祓へといふのは、穢れ又は、慎しむべき事を冒した場合、又は彼方からして、穢れや慎しむべき事がやつて来て、此方に触れた時に、其を贖ふ為に、自分の持つて居るものを提供して、其穢れを祓ふ事である。神は、此贖ひ物を受けて、其穢れを清めて呉れるのである。元来、祓へは、神事に与る人が、左様にして呉れるから、他動風なものである。自分からするのならはらひであるが、はらへと他動風に昔からいうて居る。

次に、みそぎといふのは、神事に与る為の用意として、予め、身心を浄めておくことである。家でも、神の来べき時には浄める。謂はゞ、みそぎは、家でも身体でも、神に接する為の資格を得る方法である。後世の神道家は、吉事祓へ・悪事祓へと対照して言ふが、元来、吉事に祓へはない筈である。吉事をまつため、迎ふる為の行事は、禊ぎである。其に対して、祓へは悪事を前提として行はれるものである。謂はゞ、祓へは後世の刑罰に当るものである。

宮廷で大祓へというて居られるのは、実は禊ぎであつて、平安朝の初期から、間違うて居る。だが、まづ罪といふ事を考へて見る。大祓へのうちに、祓ふべき罪・穢れ即、神に対して、慎しむべき事を罪といふ。其中で「天つ罪」といふのは、天上の罪といふ事で、普通にはすさのをの尊が、天上で冒した罪を斥していふ。それから此国で慎しまねばならぬ罪を「国つ罪」といふ。国つ罪の中には、勿論慎しまなければならぬ事のあるのは勿論だが、又さうでなく、何でも無い様なのがある。譬へば、這ふ虫の禍罪ワザハヒ・たかつどりの禍、かういふのがある。此は、鳥や蛇が家に這入つて来たのは、此家が、神の家になつたといふ標で、其故に慎しまねばならぬ、といふ意味である。

奈良朝の頃でも、此禊ぎと祓へとを混用して、両方とも慎しみ、と考へて居る。祓へは、贖罪として、祭りの費用を出す行事であるし、禊ぎはよい事を待ち迎へる為に、予め家又は、身心を清浄に、美しくする行事である。

日本古来の信仰からいふと、一度呪言を唱へると、何でも新しくなる。それで、新嘗祭の新室も、一言呪言を唱へて、其で、新室と信じきつて居つた。其事が、大嘗祭にも行はれ、また米を食べる神今食の時にも行はれる。其を宮廷では、大殿祭といふ。此は、祭りの行はれる前の日の夜明け方に、仮装した神人が、宮廷を浄めて廻る。家を浄める為である。そして其後で、祭りが行はれる。此清浄になつた家、即大殿へ、神様がお出でになると、天子様は御一処に、此処で御飯をおあがりなされる。凡て神様の来られるお祭りは、神様に振舞ふといふ事が、行事の中心になつて居るものである。

大殿祭は、大嘗祭の時にもあるのであるが、此は、悠紀殿・主基殿が出来ると、直に早く行はれる故に、隠れて見えないのである。此大殿祭の間、天子様は御身浄めの為に、御湯殿へ御這入りになつて居られる。つまり、天子様は、禊ぎをして居られる訣である。

神の祭りの時に、一番初めに出て来る人は、御馳走を享けられる神ではなくて、御殿を浄める為の神人である。此浄めの為に来る人々を、平安朝の考へでは、山人だとされて居る。山人は、山の神に仕へる神人である。本来は山の神が自ら来て、御殿を清めて呉れた、と考へて居るのである。此清浄にされた御殿へ客人神マレビトカミが来て、天子様と御一処に、御飯を召し上るのである。此御殿を清める時の詞を、延喜式によれば、大殿祭祝詞というて居る。

ほかひといふのは、祝福すること、又は其詞、或は動作などをくるめていふのである。此言葉を祝詞というたのは、平安朝の事で、元来は鎮詞イハヒゴト、又は鎮護詞イハヒゴトなどゝいふべき詞である。其語の性質から見ても、仲間の親分が、子分に申し聞かせ、又は相談する様な物言ひぶりである。「かうだから、お互ひに、かうしようぞ」といふ意味が、主要な部分である。上から下への、のるではない。
かうして見ると、山の神は、土地の精霊の代理者で、同じ仲間の者同志である、其精霊の代理者が、精霊を鎮まらせるのである。さて、此いはひごとが済んだ後で、本式な祭りが行はれるのである。

大嘗祭の時は、大殿祭は既に済んで居るので、卯の日には、其行事が見えないが、お湯へお這入りになる事は、屡行はれる。本来は、此湯へ這入つて居られる時に於て、一方では、御殿のほかひが行はれて居るのである。大嘗宮は、紫宸殿の前で、南に建てられる。東には廻立殿が造られる。そして、紫宸殿から廻立殿への出御は、廊下を渡つてなされる。

廻立殿といふのは、悠紀・主基両殿へお出でになる御用意の為に、設けられた御殿で、いはゞ祭事の為に、お籠りになる御殿である。

此御殿の名称が、何の故に廻立殿とよばれるか、其は訣らぬ。そして、此廻立殿の御儀式は、外部からは、一切訣らぬものにされて居る。廻立殿は、東西五間、南北三間の御殿である。西側三間を、天子様の居られる所とし、東側二間は、竹の簀子にしてある。此所が、茶の湯所となつて居るが、なにか、忌斎の場所らしい。天子様は、大嘗祭の卯の日の儀式にも、始終、この廻立殿へ出御なされる。そして、御湯をお使ひなされる。此処で、此お湯のお話をする事にする。

     一三

湯は斎ユに通ずる音で、古く湯といつたのが、果して、今の吾々の云ふ所の温いものかどうか、一寸疑問である。斎川水といふ事もあつて、此は、天子様の御身体をお浄めになる水で、用水でも、池でも、泉でも、何でも左様にいふのである。だから、斎川といふのは、御禊に使ふ水をいふ事である。此斎川水が段々と変化して、終には湯にまでなつた、と見るべきである。

日本の古い信仰では、初春には、温い水が遠い国から、此国土へ湧き流れて来る、と信じて居つた。そして事実、日本には温泉が多い。こんな事からして、いづる湯についても、神秘な考へを持つて居つた。温泉は、常世の国から、地下を通つて来た温い水で、禊ぎには理想的なもので、そこで、斎川水ユカハミヅとして尊重されたものである。又さうでなくとも、斎川水は温いと信じて居つた。こんな風な信仰から、禊ぎには、温い水を用ゐる様になつた。だから古い書物に、湯とあつても、其は、今日の吾々の考へて居る温湯である、と直ぐに、極めつける事は出来ぬ。

藤原の宮から奈良・飛鳥の宮にかけては、天子様が時々、湯に行かれたり、温泉を求められたりした事が、記・紀・万葉集などには、非常に多く出てゐる。此温泉へ旅行せられるのは、今日の吾々の様に、たゞの遊山や避暑ではなく、御禊の信仰の考へから見ねばならぬ。とにかく、以上いうた様な信仰から、宮廷の斎川水の考へは、温い湯と変つたので、又其を直にゆと申す事になつた。此湯に這入られると、尊い方となられるのである。日本にある処の、天の羽衣伝説は、此禊ぎと深い関係を持つて居る話である。天上から降つた処女が、天の羽衣を脱いで、湯に這入つたら、人間になつてしまつた。又、天の羽衣を奪ふと、人間になる。かういふ筋の話は沢山あるが、此天女の羽衣の話の源をなすものは、丹波の天の真名井マナヰの、七人の天つ処女の伝説である。

天の真名井の話で見ると、七人の天女の中で、羽衣を奪はれた一人の娘が、後には、伊勢の外宮の豊受大神となられた。此七人の天つ処女の縁故で、丹波からは、八処女が、宮廷へも、伊勢へも出て来て、禊ぎの事に奉仕する。不思議なのは、禊ぎに奉仕する処女が、其尊い方の后となられる、習慣の見えて居ることである。だから、或時期の間は、丹波氏の娘が、宮廷へ仕へて、后となつて居る。さうでなくとも、丹波氏の娘の形式をとつて、后となつて居る。

先に申した所の、天の羽衣を脱いだから人間になつて了うた、といふのは誤りで、脱げば、物忌みから解放されたのだから、神人とならねばならぬ筈だ。御禊をせられた尊い方は神であり、羽衣をぬがれた処女は、或任務を果たす為の、巫女である。巫女は神に仕へる、最高な女である。

此処で、話をずつと、後世へ引き下げて言うて見る。汚い話のやうであるが、今より二百年前までは、御湯へ這入る時に、湯具・褌などは、締めたまゝ這入つた。ほんとうは、湯に行く時は、褌を二筋持つて行つた。一筋は締めて居り、一筋は這入る時に締め換へて這入る為の用意である。何の為に、締め換へて這入るのか。此は、陰所を見せては恥づかしい、といふ考へからでは、決してない。

元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである。民間では、褌をするのは、一人前の男になつた時のしるしだと言はれて居る。十五歳になると、褌を締めて、若衆宿へ仲間入りの挨拶に行く。此行事の事を、袴着というて居る。此が、女の方だと、裳着といふ。正式には、男女共に、二回ある筈だ。

第一回は、村の子どもとなる為で、五六歳頃にやる。平安朝頃の貴族たちの仲間でも、やかましく行はれた。源氏物語など見ても、書いてある。次のは、をとこ・をとめになる為の行事としてゞある。我々は、二度の行事をすまさぬと、一人前の男女には、なれなかつたのである。今日では略して、一回だけしか行はぬが、ほんとうは、二回あつた。第一回の時には、お宮参詣マヰリをして、それで子どもになつて、村の小さな神に仕へる資格を得る。子どもが、道祖神のお祭りをするのは、何処にでもある。二回目がすむと、村の産土の神に仕へる資格を得る。此二度の袴着を終つたものを、をとこ・をとめといふ。ふんどしはじめ・ゆもじはじめがすむと、立派な一人前の男女になる。だから、一人前の男女になつてから、初めて褌を締める、ゆもじをするといふのではない。男女になる前提の行事として、此事が行はれるのである。

此物忌みの褌を締めて居る間は、極端なる禁欲生活をせねばならぬ。禁欲というても、今日の我々の考へる様な、鍛錬風な生活ではない。神秘なる霊力をして発散させぬ為の禁欲である。処が或期間、禁欲生活をすると、解放の時が来る。すると、極めて自由になる。此処で初めて、性の解放がある。さうして、此紐を解いて、物忌みから解放されるのが、湯の中である。即、斎川水ユカハミヅの中である。天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけなさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生ずるのである。

昔から、湯の信仰に就ては、わりあひに考へられて居なかつたが、今考へて見ると、不思議な事が多い。譬へば、御湯殿腹などいふ子どもゝある。そして、お湯殿腹の子、というて重んぜられた、傾向がある。さうかと思ふと、又、垢掻き女に子どもが出来るのは当然だ、とも云はれて居る。此等の事は、日本の昔の産湯の話をして見ると、判然として来る。

一体昔は、今の世の乳母の役をする者が、四人あつた。大湯坐オホユヱ・若湯坐ワカユヱ・飯嚼イヒガミ・乳母である。此大湯坐は、主として、産児に産湯をつかはせる役目をする者、つまり湯の中へ、御子をお据ゑ申す役目なのである。若湯坐も同様である。乳母は、乳をのませる者、飯がみは、飯や食物を嚼んで、口うつしに呉れる者である。

まづ御子が産れると、其御子をば、豪族に附托して、養育せしめる。昔でいふと、其家筋を壬生氏といふ。壬生氏は、壬生部といふ団体の宰領である。

此話で名高いのは、反正天皇がお産れになつた時、天皇の為に、河内の丹比氏が、壬生部となつて、御育て申し上げた。其で、丹比の壬生部氏といふのである。御子が生れると、此氏の者の中から、四人の養育係が選定せられる。前にいうた所の、大湯坐・若湯坐は、高い身分の者から出る。大湯坐はつまり、水の神として、禊ぎの御世話をする役目である。御子がお産れになつた時に行はれるのが、第一回の禊ぎである。

此禊ぎをおさせ申して居る一方に於て、氏の上は、天つ寿詞を申して居る。水の魂をして、天子様となるべき尊いお方におつけ申すのだ。水中の女神が出て来て、お子様のお身体に、水の魂をおつけ申して、お育て申す儀式である。だから、壬生部の事を、入部ニフベとも書いて居る。「入」は水に潜る事であつて、水中に這入る事である。それから、大湯坐は主で、若湯坐は附き添への役である。

此第一回の禊ぎの形を、天子様は、毎年初春におやりなされる。生れ替つて、復活する、といふ信仰である。大湯坐は、年をとつた女で、若湯坐は、年の若い者がつとめる。それから事実に徴して見ると、大湯坐は、天子様の后となるし、若湯坐は、皇子の后となる傾きが見えて居る。飛鳥以前の后は、天子様の御家の禊ぎの行事に、奉仕した女がなつた。丹比氏は、元来禊ぎの事を司つた家筋で、宮廷及び伊勢のお宮へ、八処女を奉つて居る。此八処女は、五節の舞姫に関係があるが、其事は後に言ふ事にする。

     一四

日本の昔の語に、天つ罪・国つ罪といふ並立した語のある事は、前に述べた。其天つ罪とは、すさのをの命が、天上で犯された罪で、其罪が此国土にも伝はつて、すべて農業に関する罪とされて居る。つまり、田のなり物を邪魔するのが、此国でいふ処の天つ罪である、とされて居る。だが今では、罪といふ語が、余りに新しい意味の罪悪観念に這入り過ぎて居る様である。天つゝみのつみの語原は、他に無くてはならぬ。

万葉集を見ると、雨障・霖禁・霖忌など書いて、あまつゝみとよませて居る。

あまつゝみ常する君は、久方の きのふの雨に こりにけんかも(巻四)

此歌は、いつも雨つゝみをしてゐるあなたは、昨日の雨で外出が出来ずに、懲りた事でせう、といふ意だとされて居るが、実は男、女の禁欲生活をして居る意味の罪である。

猶、此事を考へるのに、手がゝりとなるのは、景行記に見える次の話である。景行天皇が、美濃の国造の祖神、大根王の娘、兄媛・弟媛を、皇子大碓命をして召し上げさせられた時、大碓命は、媛二人を我ものとしてしまひ、他の娘を奉つた。そこで、天子様はお憤りなされて「つねに、長眼ナガメを経ヘしめ、又婚メしもせず、惚モノオモはしめたまひき」とある。普通には、此ながめのめは男女相合ふ機会の事を言ふから、其間を長く経る事をば、長目を経るといふのだとしてゐる。だが、此ながめは、霖禁に関係がありさうだ。

さて、此ながめ・ながむといふ言葉の意味は、平安朝頃になると、「ぼんやりして何も思はず」といふ位な風になつて居る。もう一つ伊勢物語の例を挙げると、

起きもせず、寝もせで夜をあかしては、春のものとて、ながめくらしつ

此等のながめは長雨で、長雨のふりつゞ頃の、物忌みから出た言葉であらうと思はれる。長雨の物忌み、即、雨のふりつゞくころの、慎しみから出た言葉であらうと思ふ。

かうして考へて来ると、天つ罪は、天上の罪ではない。本義は、五月の田植ゑ時の慎しみ、即、雨つゝみ(雨障・霖禁)である。今でも、処によると、田植ゑ時に夫婦共寝せぬ地方がある。田植ゑの頃は、一年中で一番、長雨のふりつゞく時期であつて、此間は、村の男女は、すつかりと神事関係になつて了うて、男は神、女は巫女となるのである。

四月の頃、女は山に籠つて成女戒を受け、躑躅の花をかざして下りて来て、今年の早処女をつとめる。此は、田植ゑの神事に与る巫女の資格で、田植ゑの終るまで処女の生活をする。此処で考ふべきは、処女生活といふ事であるが、此には三通りあつた。一つはほんとうの処女、此はまだ男を持つた事のない女(一)。次に或期間のみ男に逢はぬ女、即、或期間だけ処女生活をする女(二)。次は床退サりをした女、即、或年齢に達すると、女は夫を去つて、処女生活に入る信仰があつたが、さういふ様な女(三)。此床退りの女は、其以後の生活は、神に仕へるのである。後世のお室様といふのは、此の事をいふのだ。平安朝には床退りした女は、尼となつて仏事に入り、処女生活をしたのである。

さて女は、五月の田植ゑの済むまでは、男を近づけない。男の方でも女に触れない。此期間は男女共に、袴や裳に標を附けて、会ふ事をしない。此間の事をながめをふるといふのである。一軒の家に同居して居ても、会はない。前の、景行天皇の話の、媛をして、長眼を経しめたまふといふのは、媛にお顔を見せながら、霖雨中放つて置いて、性欲的の苦しみをなさしめたといふ事である。其が固定してながめとなり、性欲的な憂鬱からして、ぼんやりして居る事を表す語になつたのである。

平安朝になつてからのながめは、美しい意味に替つて来て了うたので、根本は、性欲的の憂鬱の状態を言ひ表す語である。

五月の物忌みが雨つゝみで、此が天つ罪となるには、すさのをの命が元来、田の神で、其犯された罪を一処にして了うたのだ。すさのをの命は、仏教では牛頭天王にされて居る。悪い方の田の神である。其悪い方の田の神を祀つて、いたづらせぬ様に守つてもらふ所から出た、信仰である。悪い神も祀られると、よい事をするといふ考へ方である。さて、此すさのをの命に対する慎しみが、天つ罪である。其がちようど雨の時の慎しみと、同じ時期に当つて居る。

神は普通には、夜出現するが、田植ゑ時には、昼間出て来る。夏祭り神事の中心は、昼間行はれる。昼間、田を植ゑて居ると、神が来て田を囃してくれる。後世では、田植ゑの前後にのみ囃しをするが、本来は植ゑて居る最中に、囃すのである。後には、囃す田も固定して、はやし田といふ名も出て来て居る。又、田植ゑの初めに囃して、其で、後やらぬ様になつた所もある。此囃しに来る神は、仮装して出て来る。此仮装がやがて、田舞ひを生む。そして田舞ひが、猿楽と合体して、田楽が出来る。男女共に顔を隠して、神の形になつて居る。五月の田植ゑの時は、昼は勿論、夜も神が廻つて歩いて居るから、男女相逢ふことは出来ぬ。だが、さなぶりの時から自由になつて、男女の語ひは許される。

此所で、不思議な誤解が一つある。其は神事が始まれば、物忌みは無い訣であるが、其がある事である。播磨風土記を見ると、田植ゑ女を大勢でかまつて、隠し所を断ち切つたといふ話がある。だから、雨つゝみといふのは、田植ゑの始まる前の、物忌みである事が知れる。其が、いつか田植ゑの済むまで続くものだ、と考へられて来たのである。此は、男の資格を得る為の褌が、いつか褌するのが男の資格だ、と考へられて来たのと、同一である。

ふんどしは、ふもだし・ほだし・しりがひ・おもがひ・とりがひなどゝ同一なもので、又たぶさき・たぶさくなどいふ語も、同一である。たぶさくとは、またふさぐといふ事で、着物の後の方の裾を、股をくゞらして前の方に引き上げて、猿股みたいにする事で、子どもの遊戯にも、今日は廿五日の尻たくり、といつて、此形をする。元来は、人間のふんどしも、馬のふもだしも同一任務のもので、或霊力を発散させぬやうに、制御しておくものである。そして、物忌みの期間が済むと、取り避けるものである。事実朝廷の行事に見ても、物忌みの後、湯殿の中で、天の羽衣をとり外して、そこで神格を得て自由になられ、性欲も解放されて、女に触れても、穢れではない様になられる。

先にもいうたが、大湯坐・若湯坐などが、御子を育てゝ行く間に、湯の中で、若い御子の着物をとりさけて、まづ其御子に触れられるのは、若湯坐である。大湯坐は、前述の如く、御子の父君につかへる。

此みづのをひもを解くと同時に、ほんとうの神格になる。そして、第一に媾あはれるのが、此紐をといた女である。さうして、其人が后になるのである。だが此事は、もう奈良の頃は忘れられて了ひ、此行事以後、御子を育てる所の、乳母の役になつた。さうして、若い乳母即、子守りである人が、お育て申した方の妻となる。其証拠は、うがやふきあへずの尊が、御叔母玉依姫と御夫婦になられた、とあるのをみても訣る。元来、めのとといふ言葉は、妻の弟といふ事で、乳母の弟が、妻になつた事を意味してゐるのである。

不思議な事に、后になられる御方は、水の神の娘、又は水の神に関係の深い女である。かの丹波氏の家筋も、水の神に深い関係を持つて居る。世が下つてからは、丹波氏の資格を以て、藤原氏が禊ぎを司る事になり、其家から后が出た。

一体御湯殿は、平常でも、非常に重ぜられて居た。「御湯殿の上の日記」も、平安朝からのものではあらうが、女の手になつたもので、断篇ながら、参考にはなる。此で見ても、湯棚・湯桁は、神秘な行事の行はれた所である事が、察せられるのである。即、湯棚には天子様の瑞ミヅの緒紐ヲヒモを解く女が居て、天子様の天の羽衣、即ふもだしを解くのである。

話を元へ戻して、大嘗祭第一回に天子様が湯へお這入りになるのは、紫宸殿の近くで行はれるのかと思ふが、正式には廻立殿で行はれたのである。平安朝には既に、行はれなくなつて了うたらうが、太古は必、行はれたのである。此問題は、天の羽衣の話と関係がある。天人の話の天の羽衣と同一で、飛行の衣とする話は、逆に考へられて了うたからである。天子様の、天の羽衣をおぬがせ申し奉るのが、八処女のすべき勤めである。今では、廻立殿から大嘗宮へ行く道に敷かれてある布の事を、天の羽衣と称へて居るが、其は何かの間違ひである。或は、羽衣ではなくて、葉莚ハゴモといふのであらう。此は、延喜式にも、見えて居る。葉莚は、天子様が、お通りなされる時に敷いて、通られると、直に後から巻いて行くものである。其を今では、新しく道を拵へた形であると言うて居る。一寸合理風でほんとうらしいが、やはり誤りである。

天子様はかくして、悠紀殿・主基殿へ行かれるが、其間に、折々お湯にお這入りになられる。とにかく、日本の后の出る根本は、水の神の女で、御子をして、神秘な者にする為事を、司る所から出て居るのである。
次に直会の事をいうて見る。

     一五

直会は、直り合ふ事だと云はれて居るが、字は当て字で、当てになるまい。元来なほるといふ語は、直日の神の「直」と関係のある語で、間違ひのあつた時に、匡正してくれる神が、直日の神だから、延喜式にある所の、天子様の食事の時につかへる最姫・次姫の事から考へて見ねばならぬ。天子様が食事をせられる時に、此最姫・次姫は「とがありともなほびたまへ……」といふ呪言を唱へる。此は、よし、手落ちがあつたとしても、天子様の召し上り物には間違ひのない様に、といふ意味のとなへ言である。普通には、座をかへてものする時に、なほると言うて居る。此は或は、二度食事をする事から出た解釈かも知れぬ。大嘗祭の行事に見ても、一度食事をせられてから、座を易へて、もう一度、自由な態度でお召し上りなされる。此が直らひの式である。つまり、ゆつたりと寛いだ式である。そして、其席上へ出る神も亦、直日の神と言はれて居る。平安朝に入つてからは、直日の神といふのは、宴会の神、又は遊芸の神となつて居るのも、此考へから出たのである。

大嘗祭の直会の時には、大和舞ひが行はれ、田舞ひが行はれ、舞姫の舞ひも行はれる。そして、すべての人は、今までの厳重な物忌みから、開放される。直会ナホラヒは、一口に言へば、精進落ちともいへる。だが、精進とは、仏教の考へから、魚を食はぬ事を斥していふが、本来は、禁欲生活・物忌み生活を言うた語である。
昔は、正式な祭りが済んでも、猶、神が居られた。そして、祭りの後で、豊かな気分で宴席に臨んで、くだけた饗応を享けて帰られたのである。肆宴トヨノアカリ(豊明楽)といふのは、此行事をいふのである。とよのあかりとは、酒を飲んで、真赤な顔になるからだといふが、ほんとうは、よく訣らぬ。ともかく、とよのあかりのうちに、神を満足させて帰す、といふのが本義であらう。

大嘗祭に来られる神は、どんなお方か、よく訣らぬ。天子様は、神を招く主人でいらつしやると同時に、饗宴をなされる神である。つまり、客であり、又神主でもある。神の為事を行ふ人であると同時に、神その者でもある。だから、極点は解らぬ。結局、お一人でお二役つとめなされる様なものである。

他の家々でいふと、新嘗祭の時には、主人よりも格式の上の人を招いて、客になつてもらふ。此は其昔、尊い神が来られた形を見せて居るのである。

次に、五節の舞ひの話をして見る。五節といふのは、五節イツヨの舞ひを舞うたから言うたのではあるまいか。五節イツヨの舞ひは、天子様の寿命を祝福する舞ひで、天子様の禊ぎの時に、竹で御身の丈を計つて、御身の長さだけの処へ標シルシをつける。此を節折ヨヲリと言ふ。折ヲリは繰り返すといふ事で、竹で幾度も/\、繰り返して計る。かうする事は亦、天子様の魂の事と関係がある。平安朝頃までの信仰によると、天子様の魂には、荒世の魂・和世の魂と言うて、二つあつたのである。其で、天子様の御身の丈を竹で計るにも、二度計つたのである。竹で計つて着物を拵へて、其着物を、節折ヨヲリの式に与つた人々に、分配なされる。あらよの御衣ミソ・にぎよの御衣ミソといふのが、此である。

かう考へて来ると、五節の舞ひの時も、実は天子様の御身の丈を、五度繰り返して計つたのではなからうか。さうして、其行事に出る女が、五節の舞姫といふのであつたらうと思はれる。そして五節に出る女は、天子様の食事の事に与つた女である。すると、供饌に与つた女が、衣を進め、節折もし、舞ひも舞うたのである。舞ひを舞ふといふのは、みたまふり(鎮魂)の意味のもので、他の意味ではなかつた事と思ふ。

古く、神服女カムハトリメの舞ひといふ事も見えて居る。此は、着物を取扱ふ女の舞ひといふ事で、後の五節の舞ひと同一である。だから五節舞も神服女舞も同一で、正式には八人で舞うたのだらうと思ふ。神の八処女の事は、前にもいうた。
五節の舞姫の仕へる所を、五節の帳台といふ。そして、五節の帳台の試みといふ事が行はれる。此は、舞姫をして、天子様が、女にせしめる行事である。平安朝頃のものを見ると、舞姫が、何とかかとかいうて、言ひ騒がれて居るのも、此帳台の試みの考へから見ねば訣らぬ。

五節の舞ひがすむと、其後に悠紀・主基両殿の式の名残りとして、国風クニフリの奏歌が行はれる。各其国の国司が、歌人や歌姫を引きつれて行つて、やるのだ。そして、其後に、忌みを落す舞ひがある。此を解斎舞といふ。此がすむと、凡て此祭りに与つた人・神が、皆散らばる形になる。其時も、式に与つた人たちは、お酒や御飯を頂く。それから各人は、忌服をぬいで、散会する。散会の時は、男も女も乱舞して、躍り狂うて帰る。

一体宴会の時は、二度目の食事をすませて、最後の食事の時に、主人側から舞姫が出で、客人側からは、いろ/\の持ち芸が出る。つまり、此は主人に答へる形である。うたげは、打ち上げといふ事で、盛んに手を拍つてやる事である。此乱舞の時に、巡の舞ひというて、正座の客から次第に、下位の客に廻つて行つてやる。

此中に、一つ面白いのは、家の精霊が出て舞ふ形のものがある。滑稽な風をしてやる。此は、今見ても、地方の神社の祭りの時に、滑稽な踊りをするが、皆此精霊の舞ひから出て居るのである。今の民間の宴会は、神事の直会ナホラヒ以後の形をとつてやつて居るのである。

此処で一寸、附け加へて置く。天子様をもてなす役は、藤原氏がやつた。藤原氏の家は、宴会に使用する道具を、大事にして居る。朱器・台盤は、藤原氏の家長が、大切に保存して伝へて居る。此は、藤原氏は、朝廷に仕へて、祭りのある時は、神をもてなす役をして居たからである。客人マレビトをもてなすに大切なのは、道具である。其道具を預つて居るのが、藤原氏であつた。今日でも、民間に、椀貸伝説はいくらも残つて居る。

私は、直会と宴会とを同一だ、とは思はぬ。宴会の方は、客人側が主人に替つて、大いに騒いだものと考へる。大嘗祭に於ける客人の式も、三段に考へられる。

一、供饌の式
二、直会の式
三、宴会ウタゲの式

かうなると思ふ。
たゞ、此間に於て、客が主人になり、主人が客になり、主人か客か訣らぬ様な場合が多い。其は、長い間に於て、其時代々々で、祭りが合理化されて、其に又、種々の説明が加へられて、今日の如くに変化したからである。

ともかくも、大嘗祭は、平安朝に固定して、今日に及んだもの故、神代その儘、そつくりのものとは考へられない。吾々は、其変化のうちに、隠れて居る所を見たいものである。

以上、長々と話しはしたが、極荒筋のものである。今年の十一月に行はれる大嘗祭は、宮内省の方々も緊張して、出来るだけ古の形をとる、といつて居られるから、有り難い大嘗祭を拝める事と思ふ。

大分話が混み入つて、味のない、雑然たるものに終つてしまうた。だが、私の考へは、大体申したつもりである。


底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
※「昭和三年講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c77

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
77. 中川隆[-10569] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:36:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1507]

大嘗祭の本義 折口信夫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html


     一

最初には、演題を「民俗学より見たる大嘗祭」として見たが、其では、大嘗祭が軽い意義になりはせぬか、と心配して、其で「大嘗祭の本義」とした。

題目が甚、神道家らしく、何か神道の宣伝めいた様なきらひがあるが、実は今までの神道家の考へ方では、大嘗祭はよく訣らぬ。民俗学の立場から、此を明らかにして見たい。

此処で申して置かねばならぬのは、私の話が、或は不謹慎の様に受け取られる部分があるかも知れない、といふ事である。だが、話は明白にせぬと何も訣らぬ。話を明白にするのが、却つて其を慕ふ事にもなり、ほんとうの愛情が表れる事にもなる。或は、吾々祖先の生活上の陰事カクレゴト、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出す様になるかも知れぬが、其が却つて、国の古さ・家の古さをしのぶ事になる。単なる末梢的な事で、憤慨する様な事のない様にして頂き度い。国家を愛し、宮廷を敬ふ熱情に於ては、私は人にまけぬつもりである。

     二

まづ「にへまつり」の事から話して見る。「にへ」は、神又は天皇陛下の召し上り物、といふ事である。調理した食物の事をいふので、「いけにへ」とはちがふ。生贄イケニヘとは、生ナマのまゝで置いて、何時でも奉る事の出来る様に、生イけてある贄の事である。動物、植物を通じていふ。

只今の神道家では、にへといへば、生ナマなものをも含めて言ふが、にへといふ以上は、調理したものを言ふのである。御意の儘に、何時でも調理して差し上げます、といつて、お目にかけておくのが、生贄イケニヘである。ほんとうは食べられる物を差し上げるのが、当り前である。生物ナマモノを差し上げるのは、本式ではない。この贄の事から出発して、大嘗祭の話に這入りたい。

大嘗祭は、古くはおほむべまつりと言うて居る。おほんべ即、大嘗に就ては、次の新嘗・大嘗の処で話す事にして、此処では、まづまつりの語源を調べて見る事にする。此まつりといふ語がよく訣らぬと、上代の文献を見ても、解決のつかぬ事が多い。

まつりごととは、政といふ事ではなく、朝廷の公事全体を斥して言ふ。譬へば、食国政・御命購政などゝ言ふし、平安朝になつても、検非違使庁の着駄チヤクダの政などいふ例もある。着駄チヤクダといふのは、首枷クビカセを著ける義で、謂はゞ、庁の行事始めと言つた形のものである。ともかくも、まつり・まつりごとは、其用語例から見ると、昔から為来シキタりある行事、といふ意味に用ゐられて居る。

私は、まつる・またすといふ言葉は、対句をなして居て、自ら為る事をまつると謂ひ、人をして為さしむる事をば、またすと謂ふのであると見て居る。日本紀を見ても、遣又は令といふ字をまたすと訓ませて居る。

一体、まつるといふ語には、服従の意味がある。まつらふも同様である。上の者の命令通りに執り行ふことがまつるで、人をしてやらせるのをまたすといふ。人に物を奉る事をまたすといふのだ、と考へる人もあるが、よくない。人をしてまつらしむる事、此がまたすと謂ふのである。させる・してやらせる、此がまたすである。
日本の太古の考へでは、此国の為事は、すべて天つ国の為事を、其まゝ行つて居るのであつて、神事以外には、何もない。此国に行はれる事は、天つ神の命令によつて行つて居るので、つまり、此天つ神の命令を伝へ、又命令どほり執り行うて居る事をば、まつるといふのである。

処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行いたしました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になつた。古典に用ゐられて居る「祭り」といふ言葉の意味は此で、即御命令によつてとり行ひました処が、かくのごとく出来上りました、と報告する、神事の事を謂ふのである。

まつりは、多くは、言葉によつて行はれる。即、仰せ通りに致しましたら、此様に出来上りました、と言つた風に言ふのである。此処から段々と「申す」といふ意味に変つて来る。そして、復奏する事をも「申す」といふ様になり、其内容も亦、まつるの本義に、近づく様になつて来た。

まをすとは、上の者が理会をして呉れる様に、為向ける事であり、又衷情を訴へて、上の者に、理会と同情とをして貰ひ、自分の願ひを、相手に容れて貰ふ事である。こひまをす(申請)などいふ語も、此処から出て来たのだ。此様に、大体に於ては「申す」と「まつる」とは、意義は違ふが、内容に於て、似通つた所がある。此点は又、後に言ふ事にする。

     三

日本の天子様は、太古からどういふ意味で、尊位にあらせられるか。古い文献を見ると、天子様は食国ヲスクニのまつりごとをして居らせられる事になつて居る。だから天孫は、天つ神の命によつて、此土地へ来られ、其御委任の為事をしに来らせられた御方である。

天子様が、すめらみこととしての為事は、此国の田の生ナり物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国ヲスクニのまつりごとである。

食ヲすといふのは、食クふの敬語である。今では、食ヲすを食クふの古語の様に思うて居るが、さうではない。食国ヲスクニとは、召し上りなされる物を作る国、といふ事である。後の、治ヲサめる国といふ考へも、此処から出てゐる。食ヲすから治ヲサめる、といふ語が出た事は、疑ひのない事である。天照大神と御同胞でいらせられる処の、月読命の治めて居られる国が、夜の食国ヲスクニといふ事になつて居る。此場合は、神の治ヲサめる国の中で、夜のものといふ意味で、食すは、前とは異つた意味で用ゐられて居る。どうして、かう違ふかと謂ふと、日本の古代には、口で伝承せられたものが多いから、説話者の言語情調や、語感の違ひによつて、意味が分れて行くのである。此は民間伝承の、極めて自然の形であつて、古事記と日本紀とでは、おなじ様な話に用ゐられてゐる、おなじ言葉でも、其意味は異つて来て居る。時代を経る事が永く、語り伝へる人も亦、多かつたので、かうした事実があるのである。

さて、食国ヲスクニをまつる事が天子様の本来の職務で、それを命令したのは、天つ神である。古事記・日本紀では、此神を天照大神として居る。此点は、歴史上の事実と信仰上の事実とが、矛盾して居る。歴史上では、幾代もの永い間、天子様は一系で治めていらつしやる。信仰上では、昔も今も同様で、天つ神の代理者として、此土地を治めておいでになる。此土地を御自分の領土になさる、といふ様な事や、領土拡張の事などは、信仰上では、御考へなさらない。天子様は、神の言葉を此国にお伝へなさる為に、お出でになつたのである。此意味がかはつて、神に申し上げる報告の意味が、出たのである。

吾々の考へでは、働かなければ結果が得られない、と訣つて居るが、昔は、神の威力ある詞を精霊に言ひ聞かせると、詞の威力で、言ふ通りの結果を生じて来る、と信じて居た。此土地の精霊は、神の詞を伝へられると、其とほりにせねばならぬのである。貴い方が、神の詞を伝へると、其通りの結果を生じたのである。此が、まつるといふ事で、又食国ヲスクニのまつりごとである。

私は、祭政一致といふ事は、まつりごとが先で、其まつりごとの結果の報告祭が、まつりであると考へて居る。祭りは、第二義的なものである。神又は天子様の仰せを伝へる事が、第一義である。処が、天子様は、天つ神の詞を伝へるし、又天子様のお詞を伝へ申す人がある。そして又、此天子様の代理者の詞を伝へる人がある。かうして段々、上から下へ、と伝へる人がある。此天子様のお詞を伝へる人をまつりごと人といふ。日本紀には、大夫・宰等の文字が宛てゝある。此大夫や宰は、高い位置の官吏ではないのに、何故まつりごと人などいふ、尊い名称で呼ばれるか。此は、前に言うた様に、段々下へ/\と行くからである。かうした人々の事を、御言持ミコトモチといふ。此意味で、天子様も御言持である。即、神の詞を伝達する、といふ意味である。

神の代理をする人は、神と同様で、威力も同様である。譬へば、神ながらの道などいふ語は、天子様の為さるゝ事すべてを、斥して言ふのであつて、決して神道といふ事ではない。天子様は、神ながらの方で、神と同様といふ事である。神ながらは、信仰上の語であつて、道徳上の語ではない。此意味に於て、天子様のお言葉は、即、神の御言葉である。日本の昔の信仰では、みこともちの思想が、幾つも重なつて行つて、時代が進むと、下の者も上の者も同様だ、と考へて来た。そして鎌倉時代から、下尅上の風も生じた。日本の古来の信仰に、支那の易緯の考へ方を習合させて、下尅上と言うたのである。此話は、幾らしても限りのない事であるが、申さねば、贄祭りのほんとうの意味が知れないから、述べたのである。

古い時代のまつりごとは、穀物をよく稔らせる事で、其報告祭がまつりである事は、前にも述べた。此意味に於て、天子様が人を諸国に遣して、穀物がよく出来る様にせしむるのが、食国の政である。処が穀物は、一年に一度稔るのである。其報告をするのは、自ら一年の終りである。即、祭りを行ふ事が、一年の終りを意味する事になる。此報告祭が、一番大切な行事である。此信仰の行事を、大嘗祭オホムベマツリと言ふのである。

此処で考へる事は、大嘗と、新嘗との区別である。新嘗といふのは、毎年、新穀が収穫されてから行はれるのを言ひ、大嘗とは、天子様御一代に、一度行はれるのを言ふのである。処が「嘗」といふ字を宛てたのは、支那に似た行事があつて、それで当てたのである。新嘗の用語例を蒐めて考へて見ると、新穀を召し上るのを、新なめとは言へない。なめるといふ事には、召食メシアガるの意味はない。日本紀の古い註を見ると、にはなひといふ事が見えて居る。万葉集にも、にふなみといふ言葉があり、其他にへなみと書かれた処もある。

今でも、庄内地方の百姓の家では、秋の末の或一日だけ、庭で縄を綯なひ、其が済むと、家に這入る。此を行ふには、庭へ竈を造つて、其日一日は、庭で暮すらしい。日本紀の古註に見える庭なひと言ふのは、其であらう。此事は、考へて見ると、一種の精進で、禁慾生活を意味するのである。だが、庭で縄を絢ふから、庭なひだとしてはいけない。此には、何かの意味があつて、庭で縄を綯ふのであらう。
にはなひ・にふなみ・にひなめ・にへなみ、――此四つの用語例を考へて見ると、にへ・には・にふは、贄と同語根である事が訣る。此四つの言葉は、にへのいみといふことで「のいみ」といふことが「なめ」となつたのである。発音から見ても、極近いのである。結局此は、五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活である事を意味するのであらう。新しく生つたものを、神に進める為の物忌み、と言ふ事になるのである。神様の召し上りものが、にへであることは、前にも言うた通りであるが、同時に、天子様の召し上りものも亦、にへである。さうすると、新嘗の大きな行事であるから、大にひなめといひ、それからおほんべとなつたことが訣る。

此大嘗と新嘗とは、どちらが先かは問題であるが、大嘗は、新嘗の大きなものといふ意味ではなくて、或は大は、壮大なる・神秘なるの意味を表す敬語かも知れぬ。此方が或は、本義かも知れぬ。普通には、大嘗は天皇御一代に一度、と考へられて居るが、古代ではすべて、大嘗であつて、新嘗・大嘗の区別は、無かつたのである。何故かと言ふと、毎年宮中で行はれる事は、尠くとも御代初めに、行はれる事の繰り返しに過ぎない、といふ古代の信仰から考へられるのである。御代初めに一度やられた事を、毎年繰り返さぬと、気が済まぬのであつた、と見るべきである。其が新嘗である。新嘗のみではなく、宮中の行事には、御代初めに、一度行へば済む事を、毎年繰り返す例がある。だから、名称こそ新嘗・大嘗といへ、其源は同一なものである。

此新嘗には、生物ナマモノのみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い/\物忌みが行はれる。単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。民間には、其物忌みの例が残つて居る。常陸風土記を見ると、祖神ミオヤガミが訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟ワセの初嘗ニヒナメで、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。そこで祖神は、筑波岳で宿止ヤドメを乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇ツヽシミツカヘ承つた、とある。此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。

猶、万葉集巻十四に、

にほとりの 葛飾早稲カツシカワセをにへすとも、そのかなしきを、外トに立てめやも
誰ぞ。此家ヤの戸おそぶる。にふなみに、わが夫セをやりて、斎イハふ此戸を

新嘗の夜の、物忌みの有様の見えて居る歌である。此歌などは、もう神の来る事が忘れられて、たゞの男女関係の歌のやうに見えるが、猶、神が来たといふ原義が見えて居る。神の来たのが、愛人が来るやうに考へられて来たのだ。ところが、この新嘗に似た行事が、まだ他にもある。其は神嘗祭である。そこで、神嘗祭の話に移る。

     四

神嘗祭・神今食・相嘗祭、此三つは新嘗祭に似て居る。だから、まづ神嘗祭から話を進めて見る。これは、新嘗祭と相対して行はれた祭りであつて、九月に行はれる。伊勢の神宮に早稲ワセの走穂ハツホを奉る祭りであると考へられて居る。天子様の新嘗に先立つて行はれる。此より前の六月と十二月とにも同様な行事が行はれる。神今食といふのが其である。此神今食を、或人々は「かむいまけ」と読んで、新米を奉るのだとして居るが、十二月の方はともかくも、六月には、まだどの様にしても、新米は出来ないから、此説は同意出来かねる。猶、神今食に奉るものは、早稲の初穂ではなくて、古米を奉るのであらう、と私は考へて居る。

だが、従来、神今食と、神嘗と、新嘗とは、区別が判然して居ない。私は、新米を奉るのと、古米を奉るのとの違ひであらう、と考へて居る。何故かと言ふと、神今食の直前に行はれるのに、月次祭がある。此は、六月と十二月とに行はれる。つまり、一年を二つに分けて、行うたのである。此事は、平安朝に見えて居る。この月次祭の後、直に、つゞいて行はれるのが、神今食である。月次祭の時は、日本中の大きな社の神々が、天子様の許に集まつて来る。その集まつて来た神々に、天子様が、物を食べさせて、おかへし申すのが、神今食である。

一年に二度行ふといふのは、大切な祭りは、一年を二期に分けてする習慣が出来てからの事である。つまり、夏の終りを年の終りと考へ、又、年の終りの冬毎に神が来る。其神に御馳走して帰すのが、神今食である。此は、よく考へて見ると、新嘗を二つに分けて、日をちがへて行つた、といふ事になる。月次祭は、新嘗祭の変化したもので、新嘗祭を行ふ中に、変態な習慣が行はれ出したのである、と考へられる。

神嘗祭とは、諸国から奉つた処の、早稲の走穂ハツホを、宮廷で整理して置かれて、九月になつてから、伊勢の大神に奉られることである。諸国から、初穂を朝廷へ奉る使を、のさきのつかひといふ。荷前使と書くのである。古くから神嘗祭と言うたか、どうか。或は、新嘗といふ支那訳が出来てから後に、神の新嘗といふ意味から、神嘗と言うたのかも知れぬ。ともかくも、神嘗祭は、前に言うた相嘗祭と、関聯させて話さねばならぬ。

諸国から稲穂を奉るのは、鎮魂式と関係があるから、此処で話して置く。諸国から稲穂を奉るのは、宮廷並びに、宮廷の神に服従を誓ふ意味なのである。日本では、稲穂は神である。其には、魂がついて居る。国々の魂がついて居る。魂の内容は、富・寿命・健康等である。諸国から米を差し上げるのは、此等の魂を差し上げる事になる故に、絶対服従といふ事になる。米の魂が身に入ると強くなり、寿命が延び、富が増すのである。そして、此魂たる米を差し上げることを、みつぎといふ。たゞつぎといふ事もある。

かうして、諸国から差し上げた稲穂を、天子様は、御自分で召食メシアガらぬ先に、上の方かたで居られる処の伊勢の大神に奉られる。奉り物は、料理した御飯と、料理せない稲の穂のまゝのを二通り、はざ木にかけて、差し上げる。此をかけぢからといふ。かうして、諸国から到来した米を、天子様が自ら、伊勢の大神に差し上げるのは、祖神に魂を差し上げる事になり、即服従を誓はれる事になるのである。

かうした関係は、民間にもある。本家・中本家・小本家といつた風に分れて居る家では、各の家で、子分を持つて居る。其子分が小本家へ奉つた物を、小本家では中本家へ、中本家では、小本家から奉つたものと、自分の子分の奉つたものとを一処にして、大本家へ差し上げる。此場合には、到来物だから差し上げます、と言うて奉るのである。かうして子方から、次第に、上へ差し上げて行く。すると、献上物としての威力は、其効力を増し、且強くなる。此は信仰上の事実であつた。

上述の様な次第で、神嘗と新嘗とは、大分違つたものである。新嘗は、後にこそ刈り上げ祭りの様になつて居るが、ほんとうは、神の命令に依つて行つた、農事の報告であり、神嘗は、諸国から宮廷へ奉つた稲穂を整理して、更に、伊勢大神宮へ奉る行事である。処が、諸国から奉つた稲の魂を、天子様が更に、上位の神に奉られる行事は、他にもある。即、相嘗祭で、十一月の中の卯の日に行はれる。卯の日が二度しかない時は、上の卯の日に行はれる。新嘗祭よりは、一まはり先の卯の日に行はれるのである。此時は、宮廷から畿内の近辺の大きな社に、稲穂を供へる。此が、相嘗祭である。又、天子様のお血筋や、外戚の陵墓にも奉る。此を荷前ノサキといふ。

約言すると、地方から、宮廷へ奉る処の稲の初穂を、九月に入つて、伊勢へ奉るのを神嘗といひ、其他の神々又は、大きな社に奉るのを相嘗と言ひ、陵墓に奉るのを荷前ノサキと言ふのである。何れも、新嘗祭と前後して行はれたのである。本来は、神に奉るのは相嘗と云ひ、其以下の神で、而も天子様の尊敬する神、又は、天子様の御血つゞきの方に差し上げるのを荷前、と言うたのである。

此等の行事が済んだ後で、新嘗祭が行はれたのだ。新嘗祭は正式には、十二月の中の卯の日に行はれたのである。此処で問題となるのは、卯の日といふ干支を用ゐる事が、果して、古代からあつたかどうか、と言ふ事である。現在知り得る範囲では、日を数へる事よりは、干支を数へる暦法の方が古い、と云へよう。尠くも、支那の古い暦法を伝へた漢人種や、朝鮮人種が、天孫民族と同時に、或はそれ以前に、渡来して居た事は事実である。

新嘗祭其他、すべての行事をするのに、干支に依つて定められる以前は、占ひによつてきめた。此がいつの間にか、干支に依つて、定められるやうになつたのである。かうして日を定めて、十一月の中の卯の日、又は、下の卯の日に、新嘗祭をするのである。此を秋の祭りといふ。

延喜式の祝詞を見ると、大和の龍田の風神祭祝詞がある。此は、五穀の稔る事を祈り、さて稔ると、斯様々々に出来ました、と言うて、秋祭りをして、五穀を奉るのである。此処の秋祭りといふのは、四季でいふ「秋」ではなくて、新嘗祭といふ意味であつて、農事に関係ある語である。処が、相嘗祭は、龍田風神祭の詞の中には、見えては居ないが、古から無かつたとは見られない。中世から、何かの原因で絶えた、と見るべきである。

祝詞の、秋祭りに就て考へて見ても、新嘗、又は相嘗は、今の暦法上の秋ではない。だが、其を秋祭り、と古くから言うて居る処を見ると、秋に就ての考へ方が、昔と今とでは差異があつたのであらう。事実、地方の秋祭りは、早稲の刈り上げ前に行はれるのであつて、晩稲の刈り上げが済んでからやるのは、正式の秋祭りではなくて、其は家々の祭りである。何故、斯うして家々即、地方では、早く秋祭りをするか、と言ふと、朝廷へ奉る荷前ノサキの使と同時に、国々の神の祭りをする為である。朝廷の新嘗祭と前後して、諸国で神に差し上げる。此が秋祭りの始めである。もう一つ、後の理由であるが、稲の花の散つた後が大切だから、やるのである。

此二つの考へが一つになつて、今の秋祭りが行はれるのである。だから、今民間に行はれて居る秋祭りは、ほんとうの秋祭りとしてのものではなくて、寧、家々の祭りと見てよろしい。社の祭りではないのである。新嘗祭と同様なものが、ほんとうの秋祭りである。田舎の秋祭りは、新嘗祭よりも、早く行はれる。新嘗を中心にして考へると、少しく変だが、認容出来ぬ事はない。前に挙げた処の「にほどりの」と言ふ歌にしても、其地方で勝手に、祭りを行うた処から、出来た歌で、宮廷よりは先に、行つた消息が窺はれる。

宮廷の新嘗祭は、日本中の稲の総括りの様なものである。秋祭りには、前述の意味と、もう一つは、冬祭りともいふべき程の意味とがある。さて、秋祭りが、同時に冬祭りに当るのに、どうして冬祭りと言はぬかといへば、其は、秋祭りには、祭りの最古い意味があるが、冬祭りは、少し意味が違つて居るからである。

     五

私の考へでは、一夜の中に、秋祭り・冬祭り・春祭りが、続いて行はれたものであつて、歳の窮キハマつた日の宵の中に、秋祭りが行はれ、夜中に冬祭りが行はれ、明け方に春祭りが行はれるのである。

そして、続いて、初春の行事が行はれる、といふ順序である。此が後に、太陰暦が輸入せられてから、秋・冬・春といふ暦法上の秋・冬・春が当て篏められて、秋祭り・冬祭り・春祭りとなり、更に其中へ夏祭りが、割り込んで来たものと思ふ。

冬祭りとは何かと言ふと、歳、窮つた時期に、神がやつて来て、今年の出来たものを受けて、報告を聞き、家の主人の齢を祝福し、健康の寿ぎをする所の、祭りを言ふのである。古い書物を見ると、秋祭りの晩には、尊い方がやつて来られた事が、書いてある。神の来られた事を忘れた後には、自分よりも身分の高い人を頼んで、来て貰つて居る。後世の宴席に、又は祭事に当つて、正客の習慣は、遠い昔に、其起原のある事が知れる。即、秋祭りとは、主人より遠来の神に、田畑の成績の報告をする事である。そして冬祭りとは、此秋祭りが済んで、客神マレビトが主人の為に、生命の寿ぎと、健康の祝福とをする事である。同席で行はれても、両者の間には、区別は明らかにある。

此処で「冬」といふ言葉を考へて見る。ふゆは、殖ゆで、分裂する事・分れる事・枝が出る事などいふ意味が、古典に用ゐられてゐる。枝の如く分れて出るものを、取扱ふ行事が、冬の祭りである。ふゆは、又古くは、ふると同じであつた。元来、ふるといふ事は、衝突する事であるが、古くは、密着するといふ意味である。此処から「触れる」といふ意味も出て来る。

日本の古代の考へでは、或時期に、魂が人間の身体に、附着しに来る時があつた。此時期が冬であつた。歳、窮つた時に、外から来る魂を呼んで、身体へ附着させる、謂はゞ、魂の切り替へを行ふ時期が、冬であつた。吾々の祖先の信仰から言ふと、人間の威力の根元は魂で、此強い魂を附けると、人間は威力を生じ、精力を増すのである。

此魂は、外から来るもので、西洋で謂ふ処のまなあである。此魂が来て附着する事を、日本ではふるといふ。そして、魂の附着を司る人々があつた。毎年、冬になると、此魂を呼んで附着させる。すると春から、新しい力を生じて活動する。今から考へると、一生に只一度つければよい訣だが、不安に感じたのでもあらう。毎年繰り返した。新嘗を毎年、繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものだ、との考へである。此復活の信仰は、日本の古代には、強いものであつた。

古代信仰に於ける冬祭りは、外来魂を身に附けるのだから、ふるまつりである。処が後には、此信仰が少し変化して、外来魂が身に附くと同時に、此魂は、元が減らずに分割する、と考へて来た。此意味が、第二義のふゆまつりである。

日本紀の敏達天皇の条を見ると、天皇霊といふ語が見えて居る。此は、天子様としての威力の根元の魂といふ事で、此魂を附けると、天子様としての威力が生ずる。此が、冬祭りである。処が後には、或時期に於て、此魂は分割するのだ、と考へ出して来た。そして分割の魂は、人々に分けてやつた。此分割の一つ/\の魂は、着物を以てしるしとした。一衣一魂として、年の暮に、天子様は、親しく近い人々に、着物を分配してやられた。此を御衣配といふ。天子様以下の人に於ても、やはり、家々の氏ノ上の魂は分割する。其を衣に附けて分配した。此を衣配キヌクバりというた。此が近世まで続いて、武家時代になつても、召し使ひに為着シキせを呉れるといふ習慣があつた。

此魂の分割、衣分配の信仰は、冬祭りの第二義である。此祭りの事を鎮魂式といふのである。たまふり、又はみたまふりといふ。後世になると、たましづめといふ。たましづめといふのは、人間の魂が或時期に於て、游離し易くなるから、其を防ぐ為と、又既に、游離した魂を落ちつかせる為で、此考へ方は、後のものである。支那にも、此に似た行事があつて、鎮魂と謂うて居た処から、日本のたまふりをも鎮魂と訳したのである。その大元は、外来魂を身に附ける事が、第一義。更に、分割の魂を、人々の内身へ入れてやる事。此が、第二義。そして、鎮魂を意味するのが、第三義である。

此鎮魂の行事は、非常に重大なもので、宮廷では、十一月中に、日を卜ひ定めて行うた。処が、たまふりの祭りの中にも、もう一つ違つた祭りがある。それは、魂を附着する、といふ意味の理会が変つて、目下の者が、自分の主人又は、長上の人に服従を誓ふ為に、自分の魂の主要なものを、相手の長上なり、主人なりに献上して了ふといふ祭りである。それで主人或は、目上の人は、元来の自分の魂と、目下が持つて来て奉つた魂とを合せて持つ事になるから、上位の人となる。此行事がやはり、天子様の御代初めに行はれた。其が又、新嘗の如く、毎年繰り返される事になつた。此行事も亦、みたまふりの一の意味である。

上述の如く、生きて居る人が、自分の魂の大部分を、長上に奉る事をみつぎといひ、目下が献つた数多の魂と、元来天子様の持つて居られる魂とを一処にして、其を分割して臣下が頂くのをば、みたまのふゆといふ。そして、此為の行事即、祭りの事をみたまのふゆ祭りといふ。結局冬祭りは、魂分割の祭りで、年の暮には、此魂の切り替へに関する行事が、いろ/\と行はれた。後世になると、年に二度、盆と年の暮れとに行はれた。更に其が、盆と正月とに行はれる事になつた。

元来、冬祭りと秋祭りとは、引続いて一日の中に行はれたのであつたが、漸次分れて来て、秋祭りを十一月、冬祭りを十二月に行ふ様になつた。かうなつて来てからは、十一月に行はれるのをば鎮魂祭といひ、十二月に行はれるのを、普通には御神楽といひ、内侍所の御神楽ともいふ。此二つは共に、鎮魂祭である。十一月の方の祭りは、元来日本にあるみたまふりの祭りで、十二月の方のは、後に、宮中へ這入つて来た処の鎮魂ミタマシヅメの祭りである。

天子様に、下から魂を差し上げる時期は、大体に於て、冬の祭りと一定して居つたが、後には、春行はれることになつた。併し、処によると、違つた時期にも差し上げた。此は、国や家によつて、違つてゐるのである。譬へば、出雲の国造家では、国造の代替りには、其年と、其年の翌年と、引続いて二度、京都へ出て来て、天子様に魂を奉る儀式をした。

     六

前にも言うた通り、宮廷の鎮魂式には、三通りある。

一、猿女の鎮魂  鈿女の鎮魂法の事をいふ。高天原伝来のもの。
二、物部の鎮魂  物部氏に伝来されて居る処の石ノ上鎮魂法。
三、安曇の鎮魂  奈良朝の少し前、宮廷へ這入つた、と見るべき鎮魂法。


此三つの中、猿女鎮魂と、石ノ上鎮魂とは、合体して了うた。最後に這入つた処の、阿曇アヅミの鎮魂式は、海人部の者が取扱つたもので、此は、特殊な面白味があつたので、日本元来のみたまふりとは異つた待遇を受けて、十二月に行はれる事になつた。古来の日本流のがみたまふりで、阿曇のは、たましづめの意義が、主なる要素をなして居る。外来魂を身に附けるのが、古い意義の、日本伝来のみたまふりで、魂の発散を防止し、且既に、発散した魂をして、鎮まらせる。此が、阿曇のたましづめ即、御神楽である。

とにかく、鎮魂式といふのは、群臣から天子様に、魂を差し上げる事だ、とわかればよい。同時に、冬というても、時代によつては、十月の事でもあり、十一月の事でもあり、又十二月の事でもあつた、といふ事を承知してかゝらねばならぬ。

此鎮魂を行ふと、天子様はえらくなる。併し、かうした行事を毎年やるのは、どうした事か。一代に一度やれば、よろしいのであるが、昔の人は、魂は一年間活動すると、もう疲れて役に立たなくなる、と考へて居たから、毎年やるのである。毎年々々、新しく復活して来ねばならぬ、と考へて居つたからである。

恐れ多い事であるが、昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た。天子様の御身体の事を、すめみまのみことと申し上げて居た。みまは本来、肉体を申し上げる名称で、御身体といふ事である。尊い御子孫の意味であるとされたのは、後の考へ方である。すめは、神聖を表す詞で、すめ神のすめと同様である。すめ神と申す神様は、何も別に、皇室に関係のある神と申す意味ではない。単に、神聖といふ意味である。此非常な敬語が、天子様や皇族の方を専、申し上げる様になつて来たのである。此すめみまの命に、天皇霊が這入つて、そこで、天子様はえらい御方となられるのである。其を奈良朝頃の合理観から考へて、尊い御子孫、という風に解釈して来て居るが、ほんとうは、御身体といふ事である。魂の這入る御身体といふ事である。

此すめみまの命である御身体即、肉体は、生死があるが、此肉体を充す処の魂は、終始一貫して不変である。故に譬ひ、肉体は変つても、此魂が這入ると、全く同一な天子様となるのである。出雲の国造家では、親が死ぬと、喪がなくて、直に其子が立つて、国造となる。肉体の死によつて、国造たる魂は、何の変化も受けないのである。

天子様に於ても、同様である。天皇魂は、唯一つである。此魂を持つて居られる御方の事を、日の神子ミコといふ。そして、此日の神子ミコとなるべき御方の事を、日つぎのみこといふ。日つぎの皇子とは、皇太子と限定された方を申し上げる語ではない。天子様御一代には、日つぎのみこ様は、幾人もお在りなされる。そして、皇太子様の事をば、みこのみことと申し上げたのである。

天子様が崩御なされて、次の天子様がお立ちになる間に、おほみものおもひ(大喪)といふのがある。此時期は、日本に於ては、日つぎのみこの中のお一方が、日の御子(天子様)となる為の資格を完成する時、と見る事が出来る。祝詞や、古い文章を見ると、「天のみかげ・日のみかげ」などゝいふ詞がある。此詞は普通には、天子様のお家の屋根の意味だ、と云はれて居るが、宮殿の奥深い所といふ事である。そこに、天子様はおいでになるのである。此は、天日に身体を当てると、魂が駄目になる、といふ信仰である。天子様となる為の資格を完成するには、外の日に身体をさらしてはならない。先帝が崩御なされて、次帝が天子としての資格を得る為には、此物忌みをせねばならぬ。此物忌みの期間を斥して、喪といふのである。喪と書くのは、支那風を模倣しての事で、日本のは「裳」或は「襲」であらうと思ふ。

大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちやんと御寝所が設けられてあつて、蓐・衾がある。褥を置いて、掛け布団や、枕も備へられてある。此は、日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此御寝所に引き籠つて、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂ミタマフリの行事である。此処に設けられて居る衾は、魂が身体へ這入るまで、引籠つて居る為のものである。裳といふのは、裾を長く引いたもので、今の様な短いものゝみをいうては居ない。敷裳などゝいうて、着物の形に造つて置いたのもある。此期間中を「喪」といふのである。

或人は、此お寝床の事を、先帝の亡き御身体の形だといふが、其はよくない。死人を忌む古代信仰から見ても、よろしくない。猶亦、或人は、此が高御座だといふが、此もよくない。高御座に枕を置いたり、布団をおく筈はない。高御座は、天子様がお立ちになつて、祝詞を申される場所であつて、決してお寝になる場所ではない。此処では、何も、ものを仰せあらせないから、高御座と考へる事は出来ぬ。
古代日本の考へ方によれば、血統上では、先帝から今上天皇が、皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫で居られる。御身体は御一代毎に変るが、魂は不変である。すめみまの命といふ詞は、決して、天照大神の末の子孫の方々といふ意味ではなく、御孫といふ事である。天照大神との御関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。

此重大な復活鎮魂が、毎年繰り返されるので、神今食・新嘗祭にも、褥が設けられたりする事になる。大嘗祭と、同一な様式で設けられる。復活を完全にせられる為である。日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲衾マドコオフスマと申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此真床襲衾マドコオフスマこそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすがともなり、皇太子ヒツギノミコの物忌みの生活を考へるよすがともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。此は、日本紀の話であるが、此を毎年の行事でいへば、新嘗祭が済んだ後、直に鎮魂祭が行はれ、其がすんで、元旦の四方拝朝賀式が行はれる。だが此は、元は、一夜の中に一続きに行はれたもので、秋祭りの新嘗祭と、冬祭りの鎮魂祭即、真床襲衾から出て来られ、やがて高御座にお昇りなされて、仰せ言を下される。此らの事は元来、一続きに行はれたのであるが、暦法の変化で、分離して行はれる様になつたのである。

日嗣ぎの皇子ミコが、日の皇子(天子様)におなりなされると、天子様としての仰せ言が下る。すると、群臣は天子様に対して、寿言ヨゴトを申し上げる。寿言の正確な意味は、齢を祝福申し上げる、といふ処にある。すめみまの命の御身体に、天子霊が完全に這入つてから、群臣が寿言を申すのだ。寿言を申すのは即、魂を天子様に献上する意味である。群臣等は、自分の魂の根源を、天子様に差し上げて了ふのだ。此程、完全無欠な服従の誓ひは、日本には無い。寿言を申し上げると、其語について、魂は天子様の御身に附くのである。

天子様は倭を治めるには、倭の魂を御身体に、お附けにならなければならない。譬へば、にぎはやひの命が、ながすね彦の方に居た間は、神武天皇は戦にお負けなされた。処が、此にぎはやひの命が、ながすね彦を放れて、神武天皇についたので、長髓彦はけもなく負けた。此話の中のにぎはやひの命は、即、倭の魂である。此魂を身に附けたものが、倭を治める資格を得た事になる。

此大和の魂を取扱つたのは、物部氏である。ものとは、魂といふ事で、平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には、鬼の字を、ものといふ語にあてゝ居る。物部氏は、天子様の御身体に、此倭を治める魂を、附着せしむる行事をした。此が、猿女鎮魂以外に、石イソノ上カミの鎮魂がある所以である。

此処で、猿女の鎮魂式を考へて見る。さうすると、日本人の生死観がよく訣る。元来、日本の古い信仰では、生と死との区別は、不明瞭なものであつた。人が死んでも、魂をよび戻せば生きかへる、と思うてゐた。そして、どうしても魂がかへらぬとあきらめるまでは、略ほぼ一年間かゝつた。此一年の間は、生死不明の時期で、古い文献を見ると、殯宮モガリノミヤ、又はあらきの宮と言うて居るが、此は此魂を附着せしめようとして居る間の、信仰行事を斥していふのである。御陵を造つて居る間が殯宮だ、といふ考へは、後の考へ方で、支那の考へが這入つて来て居る。
殯宮の間に於ける天子様を、大行天皇と申上げて居る。此も亦、支那流の考へが混つて居る。此期間中は、生死不明であると共に、日つぎの皇子が、裳(襲)に籠つて居られる期間である。

猿女鎮魂の起原ともいふべきは、天ノ岩戸の一条の話である。天照大神は、天ノ岩戸に籠られた。そして、天ノ鈿女命は、盛んなる鎮魂術をやつた。それで、一度発散した天照大神の魂は、戻つて来て、大神は復活した。魂を附着せしむるといふ事は、直に死を意味するものとはならない。此処から考へても、あの大嘗祭の時の蓐の行事が、真に死骸だと考へる事は出来ぬ。

此蓐の行事の、毎年繰り返されるのが、神今食・新嘗祭などの蓐である。蓐に籠る度数が、多ければ多いだけ、威力を増す、といふ考へである。こんな考へ方からして、天子様は、御一代の間に、毎年新嘗をせられて復活されるのである。そして、毎年復活して、新しい威力ある御身体を以て、高御座にお昇りなされて、祝詞を下されるのである。

     七

此処で春の祭りの話をする。春の祭りは、大嘗祭と、即位式と、四方拝と、もう一つ朝賀式とを兼ねたもので、正月の元日から三日の間に行はれるのである。

大宝令――詳しくは養老令――を見ると、五つの詔書々式が残つて居る。其中の主なものは二つで、此は、外国に対しての詔書々式で、他の三つは、国内に対してのものである。此は、大・中・小の三つに分れて居るが、大体から見て、内・外は対をなして居るもの、と見る事が出来る。

内国に対する詔書中、大きな事に用ゐられる書式は、最初の書き出しの言葉に、

明神御大八洲天皇詔旨アキツミカミトオホヤシマグニシロシメススメラガオホミコト……咸聞モロ/\キコシメセトノル

といふ詞を、此書式の詔書のはじめに、据ゑねばならぬ。次に、外国即、朝鮮に対しての詔書には、同じく養老令を見ると、大八洲天皇詔旨の代りに、御宇日本天皇詔旨と書いて居る。(「高御座」参照。全集第二巻)

斯くの如く、国内に対しては大八洲天皇といひ、外国には御宇日本天皇といふのである。そして此言葉を唱へられる場合は、初春か、又は、即位式の時である。此点から見ても、即位式と、初春とは同一である、といふ事がわかる。

其意味は、大八洲は皆私のものだ、といふ意味である。そして、御宇日本天皇といふのは、此言葉を受ける人は、皆日本の天子様の人民になつて了ふ、といふ信仰上の言葉である。支那に対しては、言へなかつた。朝鮮にのみ用ゐられた。朝鮮の任那の国をば、内屯倉ウチミヤケとよんで居つた。うちみやけは、朝廷の御料を収めて置く処といふ意味である。

初春の詔書の全体の意味は、即位式の詔書の意味と、全く同一である。内屯倉ウチミヤケは、天子様の御言葉の勢力が及んだ証拠で、此大八洲天皇とか、御宇日本天皇とかいふ言葉を聞くと、もう、人々の心も身も、天子様のものになつて了ふ。後にこそ、大八洲・御宇日本と分けて用ゐられて居るが、語の及ぶ効力は同一で、其間に、少しの距たりも無かつたのであらう。即、此語の及ぶ範囲が、天子様の御領土といふ事になる。

日本歴史で、知り得る限りでは、大和国の山辺郡の大倭村が、やまとの本地であつたらしい。其が次第に拡がつて、今吾々の考へて居る程の、広さになつたのであらう。猶日本紀によつて、仮説を樹てゝ見れば、日本の宮廷は、或時期の間、筑紫の方面に栄えられた事を伝へて居る。筑紫の山門ヤマト郡の名称が、神武天皇の大和に入られたのと同時に、ついて来た名称とも考へられる。とにかく、何故に、全国到る所をやまとと言うたかといふと、前に言うた通り、明神御大八洲天皇詔書……咸聞といふ、言葉の勢力が及ぶ範囲、といふ意味である。この信仰を度外視しては、何故に日本全体をやまとと言うたか、といふ事は訣らぬ。戦争で領土が拡まつた、といふ考へのみでは、説明は出来ぬ。

又、続日本紀を見ると、天子様は、御代初めに、何か仰せ言を下される時に、大倭根子何々天皇、と最初に言ひ出される。古事記にも、日本紀にもある。「根子」の古い例は、山背根子・難波根子等である。根子は、神主・君主といふ事である。昔は、神主は即、君主であつた。大倭根子といふと、大倭の地方全体の神事を司る人即、君主といふことになるのである。後には、日本全体の祭主、即君主との意味になつて来た。かうした天子様のお言葉も、古い時代は、口頭で言はれたが、奈良朝頃から、文書に書いてやられる事が行はれた。此を宣命といふ。此宣命が、飛鳥ノ宮の末頃からは、文書の形式が定まる様になり、天皇御即位の年の、春の初めには、必、宣命をお下しなされた。後になつて、御即位の式と、朝賀の式とが分れても、両方共に、仰せられるお言葉は、似たものである。

宮廷の儀式をみると、春の儀式と、即位式と沢山、似た処がある。昔から、即位式と、大嘗祭とは同じだ、といふ学者は、沢山ある。昔は必、同一な者であつたと思ふ。そして、此式が春行はれるものだ、と考へられる様になつた。

さて、春といふ語の本義が、不明である。草木の芽が発する事を「はる」といふ処から言ふのだ、と言はれて居るが、ほんとうの事は訣らぬ。其他、いろ/\と言はれて居るが、不明である。そして、春といふ用語例の、古い処も訣らぬ。何にしても、はるかす・はるく・はるなど考へて見ると、開けるといふ意味があるらしい。

今此処で、民間の春の行事からして、宮廷の春の行事を考へて見る事にする。俳句の歳事記を見ると、逆簑岡見といふ事がある。此は、大晦日の夜、簑を逆に着て、小高い所へ上つて四方を見ると、来年一年の村の吉凶・五穀の豊凶等、万事が見えるといふのである。此風習は、春の前に当つて、山の尾根伝ひに、村を祝福しに来た、神のあつた事を語るものである。

日本では、簑は、人間でないしるしに着るものである。処が、百姓は簑を着るが、此は、五月の神事の風習が便利だから、其神事の風を真似て了うたのである。すさのをの命は、千位置戸を負はせられて、爪をぬかれ、髪を抜かれ、涙も唾も痰も皆とられて、為方が無いから、青草を束ねて簑として、下つたと言うて居るし、奈良朝以前の風習と思ふが、簑を着て人の家に這入ると、這入つた人から、科料を取るといふ事もある。此は、簑は神の着るもので、神が来ると、祓へをしなければならぬから、其入費を科するのである。簑について神が来るので、簑を着て来る人から、入費をとるのである。今でも、民間には、人の家へ簑を着て行く時は、必、外でぬいで這入れ、というて居る。

又、前の岡見の話に還るが、高い山から、里に近い岡の上に神が来て、村人の為に、来年の様子を言うてくれた。此は、大晦日の夜から、明け方にかけてのことである。此風が替つて、今度は里人が神になつて、簑をきて、岡へ上つて行つた。こんな習慣が固定して出来たのである。神のやつてくれたのを、人間がやる様になり、神の祝福の語からして、人間がやつて見ても訣る、といふ風に変つて来たものである。

考へて見ると、ににぎの尊も、山の尾根伝ひに、降臨されて居る。一体、日本へ来られた神々は、皆高い所から、山の尾根伝ひに下つて来られて居る。此信仰上の事実が、今でも国々村々には、ざらに残つて居る。

処で、春といふのは、吾々の生活を原始的な状態に戻さうとする時であつて、其には、除夜の晩から初春にかけて、原始風な信仰行事が、繰り返される事になつて居る。つまり、原始時代に一度あつた事を毎年、春に繰り返すのである。古代の考へでは、暦も一年限りであつた。国の一番始めと、春とは同一である、との信仰である。此事からして、天子様が初春に仰せられる御言葉は、神代の昔、ににぎの尊が仰せられた言葉と、同一である。又、真床襲衾を被られ、其をはねのけて起たれた神事、そして、日の皇子となられた事など、其がつまり、代々の天子様が行はせられる、初春の行事の姿となつて居るのである。

     八

元旦の詔詞は、後には書かれて居るが、元は、天子様御自分で、口づから仰せ出されたものである。だからして、天子様の御言葉は、神の言葉と同一である。神の詞の伝達である。此言葉の事を祝詞ノリトといふ。今神主の唱へる祝詞は、此神の言葉を天子様が伝達する、といふ意味の変化したものである。

のるといふのは、上から下へ命令する事である。上から下へ言ひ下された言葉によつて、すべての行動は規定される。法・憲・制等の文字に相当する意義を持つて居る。祝詞は正式には、天ツ祝詞ノ太祝詞といふのである。のりとは、のりを発する場所の事で、神座の事である。而して、此神座で発する言葉が、祝詞である。「天つ祝詞の太祝詞ごと」とは、神秘な壮大崇高な場所で下された御言葉、といふ事である。此尊い神座の事を高御座といふ。

高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。だから、祝詞を唱へる所は、どこでも高御座となる。そんなら、御即位式の時に昇られる高御座は、何を意味するかといへば、前述の様に、天が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持つて居る所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天のみかどなどいふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持つて居る処、といふ意味である。みかどといふ語が後には、天子様の版図の事にもなるのは、此意味であり、後には、天子様の事をも申し上げる様になつて来て居る。

高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる。かうして、時も、人も、所も、詞も、皆元へかへる。不思議な事に、天上にある土地の名が、其々地上にもある。天の安河原は、天上の土地の名であるが、近江の国にもある。天上に高市タケチがあるかと思へば、倭にも高市郡がある。天上から降つて来た土地だなどいふ伝説も、かうした信仰から出たのである。

天子様は、申すまでもなく、倭の神主であらせられて、神事が多い故に、常に御物忌みをせられなければならぬ。殆ど一年中祭りをして居らせられねばならぬ。此は、信濃の国の諏訪の神主に見ても知れる様に、年中祭りに忙殺されて居る。天子様は、日本中の神事の総元締めで、中々やりきれない。そこで、日本には中臣といふ御言詔持ミコトモチが出来た。此中臣は、天子様と群臣との中間に居て、天子様の御言葉を、群臣に伝達する職のものである。

それから、天子様と、神との中間に在るものを、中天皇ナカツスメラミコトといふ。万葉集には、中皇命と出してある。此中皇命の役に立つものは、多くは、皇女或は后などである。

中臣は主として、天子様の御言葉を伝達するのが、為事であつた。元来なら、天子様が申されるはずの祝詞をも、中臣が代理で申すのだ。だから後には、中臣の詞が、祝詞と云はれる事になつた。今ある祝詞は、平安朝の延喜年間に書きとられたものである。平安朝には、斯様に、固定して居たのであらう。其前には、常に詞章が変化して居た、と見るべきである。後には、中臣の家一軒に定まつて了ひ、且、次第に勢力を得て来た。此は御言葉伝達ミコトモチの職をつとめたからである。

今ある祝詞は、一般に古いものとされて居るが、実は古い種の上に、新しい表現法が加はつて居る。神代ながらのものは無い。奈良朝又は平安朝頃の手加減が加はつて居る。古い姿のまゝでは、訣らなかつたのである。時代々々で理会し易い様に、変へて了ふ。又、故意になさずとも、口伝の間に、自ら誤りが生ずる。祝詞の中では、何の事か訣らなくなつて、手のつけようのなかつたと思はれる部分が、古いものである。天つ神の言葉とされて居るのを、天子様が高御座で唱へられるのが、古い意味の祝詞である。中臣の手に移つてからは、祝詞の価値は下つて了うた。

奈良朝の少し前頃から、地方の神々が、朝廷から良い待遇を受けて居る。平安朝では、地方の神々に、位を授けて居る。朝廷の神は別として、それ以外の地方神は、精霊の成り上りで、天子様よりは、位が下の筈である。だから、天子様から位を授けられるのも、尤な事である。併し、位を授けられてからは、漸次地位が高くなつて来て、遂には天子様と同じ程の位のものにも考へられて来た。其で地方神に申される言葉が、対等の言葉づかひで申される様になつて来た。処が、伊勢の天照大神に対しては、天子様の方が、下位に立たれて居る。だから、天子様が伊勢の大神に申される御言葉は、元来寿言ヨゴトの性質のものである。だが、延喜式では、前者も後者も等しく、祝詞と称して居る。

かうした訣で、祝詞には、今日から見れば、種々の意味があるが、ほんとうは天子様が、高御座で仰せ出されるのが、祝詞である。祝詞の中では、春の初めのが、一番大切である。古くは、大嘗祭の後に、天子様の即位式があつた。昔は、即位式といつて、別にあつた訣ではない。真床襲衾からお出になられて、祝詞を唱へられると、即、春となるのである。

元来、大嘗祭と、即位式と、朝賀の式とは、一続きである。其間に於て、四方拝といふのは、元来は、天子様が高御座から、臣下や神に対して、お言葉を下される事を斥して、言うたのであつたが、後に、支那の道教の考への影響を受けて、天子四方を拝すといふ様になつて了うた。

     九

此処で大嘗祭に奏上される寿詞に就て言うて見る。

寿詞とは服従を誓ふ時に、即、自分の守り魂を奉る時に、唱へる言葉である。此は国々に伝はつて居る物語と、同様なものである。後には変化して、宮廷と自分等の氏々、又は、国々との関係の、初めを説く様になつた。其で、宮中に仕へて居る役人等は、自分の職業の本縁・来歴を説く物語を申し上げる。朝廷に直接に、仕へて居る役人のみでなく、地方官・豪族の首長、又、氏々の長なども、地方を又は、氏々を代表して、寿詞を申し上げる。此事は、近世まで、初春の行事に、其儀を留めて居る。一年に二度行はれたらしい様子も、盆の行事に、其名残りが見えて居る。今日民間でも、初春に「おめでたう」といふのは、おめでたく今年一年間いらせられまする様に、といふ寿詞の最大事な部分が、単純化されたものである。此を言ふのが、即、服従を誓ふ所以である。

処が、初代から、朝廷に仕へて来た人々の寿詞と、国々で申し上げる寿詞とは、性質が違うて居る。初代からのものは、自分の職業の神聖なる所以と、来歴とを説くし、国々のは、天子様に服従した来歴・関係を物語るのである。譬へば、天孫降臨の時に、ににぎの尊がつれて来られた、五ノ伴ノ緒の子孫等の申される寿詞は、古いものであるが、朝廷と国々との関係を申し上げる物語は、新しい寿詞である。此寿詞をば、大嘗祭・即位式・元旦此三つの場合に申されるのである。後には、春と大嘗祭との二度、代表者で、間に合せる事になつた。

元旦の朝賀の式に、天子様が祝詞を下される式は、奈良朝には既に、陰に隠れて了うて、群臣が寿詞を申し上げに出る式のみとなつた。此は、物部とか、蘇我とか、大伴とかいふ、高い氏の代表者が出て、申し上げるのであつた。処が、大嘗祭の時には、中臣氏が代表して、寿詞を申し上げるのである。即、自分の家の職業を申し、天寿を祝福して、百官を代表するのである。同時に、諸国の寿詞が奉られるが、此諸国の寿詞の話は、後に言ふ事にして、此処では、中臣の寿詞の話をする。
後世では、大嘗祭の第二日目の辰の日の卯の刻に、中臣ノ天神ノ寿詞を奏上する。天子様は、此より少しまへに、悠紀殿へ御出御になり、つゞいて皇太子・群臣が着座する。そこへ神祇官の中臣が、榊の枝を笏に取り添へて、南門から這入つて、定座に着いて、寿詞を申し上げる。即位式にも、全く此と同様な事を行ふ。此から見ても、即位式と大嘗祭とは同一であると言へる。

では、中臣ノ天神ノ寿詞とは何かといふと、全く中臣の寿詞で、天つ神の寿詞ではない。元来、この寿詞は、藤原頼長の台記の中に書きとられたのが、残つたものである。康治元年に、近衛天皇が、即位式を挙げられた時に用ゐられたのを、書きとつたものである。実に、偶然な幸ひであつた。

寿詞の大体の意味は、次の如くである。

中臣の遠つみ祖である処のあめのこやねの命、皇御孫尊にお仕へ申してあめのおしくもねの命をして、二上山に登らしめて、其処で、天神にお尋ね申さしめられるには、皇御孫尊に差し上げる御膳の水は、如何致したらよろしうございますか、と申された。すると、天神の教へ諭されるには、其は、人間界の水と、天上の水とを一処にして、差し上げねばならぬ。あめのおしくもねの命は又、お尋ねした。然らば、其を得るには、如何致したらよろしうございますか、と問ふと、天神は、玉串をお授けになつて、言はるゝ事に、此玉串を地上に立てゝ、夕日の時から、朝日の照り栄える時まで、天つ祝詞と太祝詞を申せ。かく申せば、その祝詞の効力に依つて、直に兆象が顕れる。そして若蒜が五百個、篁の如く生える。そこを掘つて見ると、天の八井が湧く。その水をとつて奉れ、と教へられた。だから、此をおあがりなさいませといふ。

つまり、中臣としての聖職の歴史を申し上げるのである。此縁故・来歴によつて、悠紀・主基の地方の米に、天つ水をまぜて、御飯を炊き、お酒をこしらへて、天皇に差し上げる。此をお召しあがりなされると、天子様は健康を増し、弥栄えに栄えられるのである。

中臣家は、水の事を司る家筋である。だから、天子様の御湯殿にも、仕へる。そこからして、后が出る事にもなる。つまり中臣は、水の魂を天子様に差し上げる聖職の家である。言ひ換へれば、中臣の家は、水の魂によつて生活して居る家筋である。其故、水の魂を、天子様に差し上げるといふ事は、自分の魂を差し上げる事になる。中臣は、群臣を代表して居るから、他の臣たちのも、此意味で、各々の家筋の魂を天子様に奉る事になる。昔は、神事と家系とは、切り離す事の出来ぬ、深い/\関係があつたのである。

譬へば、大伴家にしても、本来は、宮廷の御門を守つた家筋である。一体「伴」といふのは、何にてもあれ、宮廷に属して居るものをいふ語であつて、大伴は御門の番人である。記・紀を見ると、門の神をば、大苫部と言うて居る処がある。大苫部と大伴部とはおなじで、門をお預りして居る役人といふ事である。後世は、かういふ職の役人も増して来て、物部の家筋の者も、御門の番人となつて来た。そこで、門部の発達をも見る様になつた。平安朝では、大伴は単に、伴というて居る。

大嘗祭の時に、悠紀・主基の御殿の垣を守る為に、伴部の人と、門部の人とが出る。此は両者同一な役を勤めるが、元来は、異つた系統の者である。此等の御門の番人は、元来は或呪言を以て、外来の悪い魂を退けたのである。此等の家筋の頭をば、伴造と云ひ、其部下の者をば、伴部又は部曲というて居る。此頭即、伴造は、種々あるが、神主の地位に居たのであつた。神主たる職業を以て、天子様に仕へて居た。此者達が、後には官吏化して、近衛・衛門・兵衛等の職が出来た。此等は、大伴部・門部・物部等が、元来の家筋を離れて、官吏化して出来たものである。平安朝にはもう、むちやくちやになつて、庭掃きの者に至るまで「殿守の伴のみやつこ」などゝ言ふ様になつて了うた。だが、大嘗祭の時には、昔の形を復活して、大伴部・門部・物部等の人々の代表を、官人から任命して、御門警衛の任に用ゐられた。

     一〇

次には、大嘗祭の時の、御所の警衛の話をして見る。

一体、物部といふ語には、固有名詞としての意味と、普通名詞としての意味とがある。八十物部(八十武夫)といふ様に、此部に属する者は、沢山あつた。物部も、其中の一つである。広く言へば、魂を追ひ退けたり、ひつつけたりする処の部曲が、物部である。大伴が代表者となつたのは、大倭の魂を取り扱つたからである。大嘗祭の時に、物部の任務が重大視されるのも、此故である。物部氏が、本流は亡びたが、石イソノ上カミ氏が栄えてゐて、大嘗祭の時に、大切な御門の固めをした。門の処に、楯と矛とを樹てゝ、外敵を差し止める事をした。此楯を立てゝ、宮廷を守る事を歌つたのが、万葉集巻一に出てゐる。

健男マスラヲの鞆トモの音すなり。物部モノノフの大臣オホマヘツギミ楯立つらしも(元明天皇御製)

此歌に和せられたのが、

我が大君。物な思ほし。尊神スメガミのつぎて給へる君なけなくに(御名部皇女)

此御製は、大嘗祭の時に、物部の首長が、楯を立てる儀式をしてゐる様子を歌はれた、即興の歌である。和せられた方のは、天皇が何か考へて居られるを見てとつて「何もそんなに、お考へなさらずとも、いゝではありませんか。あなた様は、尊い神様が、順次にお立てになつた所の、尊い御方ですもの」との意である。

大嘗祭などの重大な儀式に当つて、楯を立てるのは、悪い魂が邪魔をすると、それを物部が追ひ払ふ為である。口では、呪言を唱へて、追ひ払ふ事をするが、具体的には、此楯を立てる。又、矛をも振り、弓をも鳴らす。かうして、宮廷の御門を固めるのみではなくて、海道四方の関所を固めた。日本の三関といはれて居る所の逢坂・不破・鈴鹿などは、何れも固められた。全く宮殿の御門を固めるのと同一な考へからやるのである。

さて、大嘗宮は、柴垣の中に、悠紀・主基の二殿を拵へてあつて、南北に門がある。天子様は、まづ悠紀殿へ出御なされて、其所の式をすませ、次に主基殿へお出でなされる。古来の習慣から見ると、悠紀殿が主で、主基殿は第二義の様である。すきは、次といふ意だと言はれて居る。悠紀のゆは斎む・いむなどの意のゆで、きは何か訣らぬ。そして、ゆき・すきとなぜ二つこしらへるのか、其も訣らぬ。だが、大体に於て、推定は出来る。

日本全国を二つに分けて、代表者として、二国を撰定し、其二国から、大嘗祭に必要な品物をすべて、持つて来させて、この二殿で、天子様が御祭りをなされる。昔は或は、宮廷の領分の国の数だけ、悠紀・主基に相当する御殿を建てたものかも知れぬ。そして、天子様が大きなお祭りをせられたのかも知れぬ。そして、此御祭りの中に、いろ/\の信仰行事が取り込まれて来て、天子様の復活祭をも行はれる様になつたのであらうと思ふ。

天子様は、悠紀・主基の二殿の中に、御蓐を設けられるのは、何時の頃からか、よく考へて見ると、何も左様な褥の設けられねばならぬ、といふ理由はない。悠紀殿・主基殿の二个所で、復活なされる必要はない。大嘗宮の外に、復活式をせられる場所がなければならぬ。悠紀殿・主基殿へ出御なさるのは、新嘗を御うけなされる為であらう。

大嘗祭の時には、廻立殿をお建てになるが、恐らく此が、天子様の御物忌みの為の御殿ではなかつたか、と考へられる。此宮でなされる復活の行事が、何時の間にか、悠紀・主基の両殿の方へも移つて行つて、幾度も此復活の式をなさる様になつたのであらう。次に、風俗と語部の話をして見たい。

     一一

昔は、大嘗祭の時には、ゆき・すき二国からして、風俗歌が奉られた。平安朝の頃は、其国の古歌を用ゐて居た。後には、其国から出た、古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、都の歌人が代表して歌を作る様になつた。

此風俗歌は、短歌の形式であつて、国風クニフリの歌をいふのである。此国ふりの歌は、其国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふりは、たまふりのふりで、国ふりの歌を奉るといふ事は、天子様に其国の魂を差し上げて、天寿を祝福し、合せて服従を誓ふ所以である。

ふりは、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)にもいひ、歌にもいふ。ふりといふと、此二つを意味するのである。歌をうたつて居ると、天子様に、其歌の中の魂がつき、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)を舞つて居ると、其※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)の中の魂が、天子様に附着する。諸国の稲の魂を、天子様に附着せしめる時に、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)や歌をやる。すると、其稲の魂が、天子様の御身体に附着する。

此魂ふりの歌を、いつでも天子様に申し上げる。其が宮中に残つたのが、記紀のふりの歌である。今残つて居るのは、短い長歌の形をして居る。国風の歌の出発は、呪詞と同様に、諸国の寿詞中から、分裂して出来たもので、つまり、長い呪言中のえきすの部分である。長い物語即、呪言を唱へずとも、此部分だけ唱へると、効果が同様だ、といふ考へである。大嘗祭の歌は、平安朝になると、全く短歌の形になつてゐる。

大嘗祭には、かうして、ふりの歌が奉られて居るが、一方、卯の日の行事を見ると、諸国から、語部が出て来て、諸国の物語を申し上げて居る。平安朝には、七个国の語部が出て来て居る。

美濃  八人    丹波  二人    丹後  二人    但馬  七人
因幡  三人    出雲  四人    淡路  二人

皆で、廿八人である。昔から、此だけであつたかどうか、其は訣らぬ。又、此だけの国が、特別な関係があつての事か、其も訣らぬ。恐らく、或時に行はれた先例があつて、其に倣つて、やつた事であらう。其が又、一つの例を作つて、延喜式には、かう定まつて居たと考へればよい。平安朝以前には、此よりも多くの国々から出たのか、或は、此等の国々が、代表して出たのか、其辺の事もよく訣らぬ。

何処の国にも、語部の後と見るべきものはあるが、正しく其職は伝はらない。語部は、祝詞・寿詞を語るものゝ他に、歴史を語るものもある。奈良朝を中心として、一時は栄えたが、やがては、衰へて了うた。大嘗祭の時に出て来る語部は、ふりの歌の本縁を語るのである。歌には又※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)が附いて居るから、此歌の説明をすると、其由来の古さも感ぜられる。随つて、其歌の来歴も明らかになり、歴史づけられるのである。かうした訣で、大嘗祭には、語部は、歌の説明に来たのである。語部も、もう此辺になると、末期のもので、此から後は、どうなつたかよく訣らぬ。鎌倉や室町の頃になると、もう全く、わからなくなつててゐる。さて、国風の歌は奉らなくなつても、語部は出て来て居る。そして、風俗歌を出したのは、悠紀・主基二国だけである。

此国風の中で、一種特別なものが、東歌であつて、即すなはち東の風俗である。不思議な事に、此東の歌や※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)は、大嘗祭には参加しない。此は、東の国は大嘗祭が固定して了うて後に、天子様の領分になつた国であるからである。東がまだ、日本の国と考へられないうちに、大嘗祭は、日本の生活古典として、固定して了うて居たのだ。吉野の国栖や、薩摩の隼人が歌を奏するのに、東だけがやらぬといふのは、東が新しく領土となつたといふ証拠である。平安朝になつてから、何かの機会にやつと、宮中に奉られたのである。尤此より先に、万葉集には既に、東歌が採られて居る。古今集には、勿論ある。そして東遊び(寿楽)も、宮中へ這入つて居る。此は、何かの儀式の時に、東歌や、東遊びが、宮中で行はれ出したのに違ひない。

東歌が、どんな時に、宮中に這入つたか、略目当てはつく。此は、東の諸国から、荷前の使が行く時に、宮廷で奏したのであらう。即、東の国の稲の魂を持つて行つて、服従を誓うた時の歌が、東歌である。只、大嘗祭が行はれる時期と、東の国で、荷前を奉る時期とが、合つて居た為であらう。

平安朝に入つてから、風俗といへば、主として、悠紀・主基二国のものと考へられては居るが、其は、此二地方が注意にのぼり易く、且繰り返される場合が、多かつた為である。だが、東遊中の風俗歌は、主として、東の国のものが残つて居る処を見ると、風俗といふのは、何も悠紀・主基二国のものと限つて居つたわけでもない。寧、風俗歌は、東が主だと信ぜられて居つたと思はれる。

悠紀・主基の国では、稲穂を中心として、すべての行事が行はれる。稲穂は、神様の取り扱ひを受けて居る。其役員には、男・女共に定められる。女の方では、郡領の娘が造酒子サカツコに定められる。造酒子サカツコは、地位の高い巫女である。男の方は、稲実の君が定められる。此で、酒と米との役人が出来た訣である。――昔の考へでは、酒と米との間に、劃然とした区別はなかつた――それから、造酒子サカツコの下には、酒波さかなみが一人、篩粉コフルヒが一人、共造アヒツクリが二人、多明ためつ酒波が一人あるが、此等は皆、酒に関する巫女である。男子の方は、稲実の君の外に、灰焼一人、採薪四人が定められる。猶、歌女二十人、其他、いろ/\の役割りが定められる。然も、酒の事に仕へるのみかと思ふと、さうではない。山へ行つて、薪や御用の木を伐る時に、一番先に斧を入れたり、又野原へいつて、御用の茅を刈るのも、造酒子サカツコの為事であつた。

此人々は、時期が来ると、稲を積んで都へ上り、土地を選んで、そこへ斎庭を作る。後世は大抵、北野につくられた。そして大嘗祭の前に、大嘗宮へ運んで来る。つまり、此等の人々は、稲の魂を守つて都へ上り、其で酒もこしらへ、御飯も焚きして、其を天子様の御身体に入れる、といふ信仰上の行事を行うた。

稲の魂は、神の考へが生ずる、一時代前の考へ方である。外来魂の考へである。此魂を身につけると、健康になり、農業に関する、すべての権力を得ることにもなる。大嘗祭の中へ、稲穂を入れる時には、警蹕の声をかける。警蹕は、神又は天子様の時でないと、かけない。そして、警蹕のかけ方で、何処の国、何処の誰といふ事が訣つた位である。

警蹕の意味は「尊い神が来た。悪い者よ。そこをどけ」といふ事である。此で見ても、稲穂が大切な尊いものであつた事が知れる。此稲魂の事をば、うかのみたまといふ。うかはうけで、召食メシアガリものといふ事で、酒の方に近い語である。

悠紀・主基の二个国は、何時頃から定められたか訣らぬが、近代は、亀卜で定められる。昔は、何かの方法があつたのであらう。延喜式で見ても、御幣について上る国を以て、其とする様だ。これを国郡卜定と言うて居る。だが、悠紀・主基の国といふのは、大抵、朝廷の近くの国である。そして、東は悠紀・西は主基とされる。御殿もやはり、此様にこしらへる。つまり、大倭朝廷を中心として、其進路の前後を示したのであらう。或は、往き・過ぎの意かも知れぬ。ともかく、悠紀は大和の東南、主基は西北に当つて居る。此二国が定まる前は、新嘗屋が沢山造られて、其をば、天子様は一々廻つて御覧なされた事と思ふ。

悠紀殿・主基殿は、おなじ囲ひの中にあつて、両殿の界は、目隠しだけである。後世は、立蔀を立てゝ拵へられた。立蔀というても、椎の青葉で立てられたもので、此は、昔の青柴垣の形である。南北に御門がある。御殿は、黒木を用ゐる。黒木といふのは、今考へる様に、皮のついたまゝの木といふ事ではなくて、皮をむいて、火に焼いた木の事である。かうすると、強いのである。昔は京都の近くの八瀬の里から、宮殿の材木を奉つた。此を八瀬の黒木というた。後世には、売り物として、市へも出した。此黒木を出すのが、八瀬の人々の職業であつた。とにかく、此は、神秘な山人の奉る木で、此の黒木で造つた御殿の周囲に、青柴垣を拵へたのである。

かうして、尊いお方の御殿を拵へるのに、青柴垣を以てした事は、垂仁記のほむちわけの命の話にも見えて居る。

故、出雲に到りまして、大神を拝み訖ヲへて、還りのぼります時に、肥河の中に黒樔橋クロキノスバシを作り、仮宮を仕へ奉りて、坐マさしめき。こゝに、出雲国造の祖、名は岐比佐都美キヒサツミ、青葉ノ山を餝カザりて、其河下に立てゝ、大御食献らんとする時に、其子詔りたまひつらく、此川下に、青葉の山なせるは、山と見えて、山にあらず。若ケタシ、出雲の石※イハクマ[#「石+囘」、209-14]の曾宮ソノミヤに坐す、葦原色許男アシハラシコヲ大神を以て斎イツく祝ハフリが、大庭か、と問ひ賜ひき。こゝに、御伴につかはさえたる王等、聞き歓び、見喜びて、御子をば、檳榔アヂマサの長穂の宮に坐マせまつりて、駅使を貢上りき。

此話は、ほむちわけの命をして、青葉の山を拵へて、国造の岐比佐都美がお迎へしようとしたのである。即、青葉の山は、尊いお方をお迎へする時の御殿に当るもので、恐らく大嘗祭の青葉の垣と、関係のあるものであらう。かの大嘗祭の垣に、椎の若葉を挿すのも、神迎への様式であらう。尊い天つ神にも、天子様にも、かうするのである。

此、青葉の垣は、北野の斎場では、標の山として立てられる。此は平安朝にはへうのやまと発音されて居るが、其は誤つて音読したからである。本来はしめのやまで、神のしめる標シルシの山といふ事である。神様を此標の山に乗せて、北野から引いて来て、悠紀・主基の御宮にお据ゑ申す。標の山は神の目じるしとしてのものである。だが後には此標の山は、どうなつて了うたかわからぬ。

併し、此標の山の形のものは、近世まで、祭りの時は引き出す。屋台とか、山車ダシとか、お船とかいふ様なものは、此標の山の名残りの形と見る事が出来る。松本の青山様も、此様式のものであらう。

先に引いた垂仁記のは、古い形のものであらう。此が常に、尊い神や、人をお迎へする時に造られたのであつて、大嘗祭にも注意せられたのである。後世、祭りとして、一番「標の山」が用ゐられたのは、夏祭りの標本なる、祇園の祭りである。祇園祭りといふのは、ほんとうは、田植ゑのさなぶりの祭りで、田の神に振舞ひをする祭りであつて、本来は農村の祭りであつた。其が、だん/\と農村から出て、道教の考へと一処になり、怨霊の祟りの考へと一つになつて、御霊の信仰が強くなつた。京都などでは、殊に此考へが盛んになつて、五个処に御霊様を祀つて、御霊会を行ひ、神を慰め、悪事をやめて貰つたのである。こんな風で、後には、悪い事を防ぐ神と信じられて来て、其が仏教と習合して、牛頭天王様であると考へて来たのである。そして、其牛頭天王の垂跡が、すさのをの命だといふ様になつた。すさのをの命は、農業の神だから、直に一処にして了うたのだ。此時も「山」を出し、其山を中心として、祭りを行ふのである。こんな風で、後には、夏祭りには、鉾や山が行はれるやうになつた。

次に天子様の御禊の話をして見る。

     一二

大嘗祭の用意として、十一月は全体、物忌みの月である。これを散斎と言うて居る。其中で、大嘗祭の前二日と、其当日とをば、殊に、致斎と呼ぶ。散斎は割合に自由な物忌みといふ事で、穢れた事や、神事上の絆れた問題には与らない、といふ程の意味である。致斎の方は、昔は絶対な物忌みであつたらうが、令の規定以来、少しく軽くなり、十月の末日と定められて、山城の京都では、加茂川の某地点で、御禊を行はせられた。かうした御禊は、伊勢の斎宮・加茂の斎院を定められる時も、予めなされる。天子様・斎宮・斎院の御禊は、同一な格式でなされる。平安朝になると、音読してごけいと言うて居るが、古くは、みそぎと言うて居る。

此所で、少しく、みそぎ(禊)とはらへ(祓)との区別をいうて見る事にする。
祓へといふのは、穢れ又は、慎しむべき事を冒した場合、又は彼方からして、穢れや慎しむべき事がやつて来て、此方に触れた時に、其を贖ふ為に、自分の持つて居るものを提供して、其穢れを祓ふ事である。神は、此贖ひ物を受けて、其穢れを清めて呉れるのである。元来、祓へは、神事に与る人が、左様にして呉れるから、他動風なものである。自分からするのならはらひであるが、はらへと他動風に昔からいうて居る。

次に、みそぎといふのは、神事に与る為の用意として、予め、身心を浄めておくことである。家でも、神の来べき時には浄める。謂はゞ、みそぎは、家でも身体でも、神に接する為の資格を得る方法である。後世の神道家は、吉事祓へ・悪事祓へと対照して言ふが、元来、吉事に祓へはない筈である。吉事をまつため、迎ふる為の行事は、禊ぎである。其に対して、祓へは悪事を前提として行はれるものである。謂はゞ、祓へは後世の刑罰に当るものである。

宮廷で大祓へというて居られるのは、実は禊ぎであつて、平安朝の初期から、間違うて居る。だが、まづ罪といふ事を考へて見る。大祓へのうちに、祓ふべき罪・穢れ即、神に対して、慎しむべき事を罪といふ。其中で「天つ罪」といふのは、天上の罪といふ事で、普通にはすさのをの尊が、天上で冒した罪を斥していふ。それから此国で慎しまねばならぬ罪を「国つ罪」といふ。国つ罪の中には、勿論慎しまなければならぬ事のあるのは勿論だが、又さうでなく、何でも無い様なのがある。譬へば、這ふ虫の禍罪ワザハヒ・たかつどりの禍、かういふのがある。此は、鳥や蛇が家に這入つて来たのは、此家が、神の家になつたといふ標で、其故に慎しまねばならぬ、といふ意味である。

奈良朝の頃でも、此禊ぎと祓へとを混用して、両方とも慎しみ、と考へて居る。祓へは、贖罪として、祭りの費用を出す行事であるし、禊ぎはよい事を待ち迎へる為に、予め家又は、身心を清浄に、美しくする行事である。

日本古来の信仰からいふと、一度呪言を唱へると、何でも新しくなる。それで、新嘗祭の新室も、一言呪言を唱へて、其で、新室と信じきつて居つた。其事が、大嘗祭にも行はれ、また米を食べる神今食の時にも行はれる。其を宮廷では、大殿祭といふ。此は、祭りの行はれる前の日の夜明け方に、仮装した神人が、宮廷を浄めて廻る。家を浄める為である。そして其後で、祭りが行はれる。此清浄になつた家、即大殿へ、神様がお出でになると、天子様は御一処に、此処で御飯をおあがりなされる。凡て神様の来られるお祭りは、神様に振舞ふといふ事が、行事の中心になつて居るものである。

大殿祭は、大嘗祭の時にもあるのであるが、此は、悠紀殿・主基殿が出来ると、直に早く行はれる故に、隠れて見えないのである。此大殿祭の間、天子様は御身浄めの為に、御湯殿へ御這入りになつて居られる。つまり、天子様は、禊ぎをして居られる訣である。

神の祭りの時に、一番初めに出て来る人は、御馳走を享けられる神ではなくて、御殿を浄める為の神人である。此浄めの為に来る人々を、平安朝の考へでは、山人だとされて居る。山人は、山の神に仕へる神人である。本来は山の神が自ら来て、御殿を清めて呉れた、と考へて居るのである。此清浄にされた御殿へ客人神マレビトカミが来て、天子様と御一処に、御飯を召し上るのである。此御殿を清める時の詞を、延喜式によれば、大殿祭祝詞というて居る。

ほかひといふのは、祝福すること、又は其詞、或は動作などをくるめていふのである。此言葉を祝詞というたのは、平安朝の事で、元来は鎮詞イハヒゴト、又は鎮護詞イハヒゴトなどゝいふべき詞である。其語の性質から見ても、仲間の親分が、子分に申し聞かせ、又は相談する様な物言ひぶりである。「かうだから、お互ひに、かうしようぞ」といふ意味が、主要な部分である。上から下への、のるではない。
かうして見ると、山の神は、土地の精霊の代理者で、同じ仲間の者同志である、其精霊の代理者が、精霊を鎮まらせるのである。さて、此いはひごとが済んだ後で、本式な祭りが行はれるのである。

大嘗祭の時は、大殿祭は既に済んで居るので、卯の日には、其行事が見えないが、お湯へお這入りになる事は、屡行はれる。本来は、此湯へ這入つて居られる時に於て、一方では、御殿のほかひが行はれて居るのである。大嘗宮は、紫宸殿の前で、南に建てられる。東には廻立殿が造られる。そして、紫宸殿から廻立殿への出御は、廊下を渡つてなされる。

廻立殿といふのは、悠紀・主基両殿へお出でになる御用意の為に、設けられた御殿で、いはゞ祭事の為に、お籠りになる御殿である。

此御殿の名称が、何の故に廻立殿とよばれるか、其は訣らぬ。そして、此廻立殿の御儀式は、外部からは、一切訣らぬものにされて居る。廻立殿は、東西五間、南北三間の御殿である。西側三間を、天子様の居られる所とし、東側二間は、竹の簀子にしてある。此所が、茶の湯所となつて居るが、なにか、忌斎の場所らしい。天子様は、大嘗祭の卯の日の儀式にも、始終、この廻立殿へ出御なされる。そして、御湯をお使ひなされる。此処で、此お湯のお話をする事にする。

     一三

湯は斎ユに通ずる音で、古く湯といつたのが、果して、今の吾々の云ふ所の温いものかどうか、一寸疑問である。斎川水といふ事もあつて、此は、天子様の御身体をお浄めになる水で、用水でも、池でも、泉でも、何でも左様にいふのである。だから、斎川といふのは、御禊に使ふ水をいふ事である。此斎川水が段々と変化して、終には湯にまでなつた、と見るべきである。

日本の古い信仰では、初春には、温い水が遠い国から、此国土へ湧き流れて来る、と信じて居つた。そして事実、日本には温泉が多い。こんな事からして、いづる湯についても、神秘な考へを持つて居つた。温泉は、常世の国から、地下を通つて来た温い水で、禊ぎには理想的なもので、そこで、斎川水ユカハミヅとして尊重されたものである。又さうでなくとも、斎川水は温いと信じて居つた。こんな風な信仰から、禊ぎには、温い水を用ゐる様になつた。だから古い書物に、湯とあつても、其は、今日の吾々の考へて居る温湯である、と直ぐに、極めつける事は出来ぬ。

藤原の宮から奈良・飛鳥の宮にかけては、天子様が時々、湯に行かれたり、温泉を求められたりした事が、記・紀・万葉集などには、非常に多く出てゐる。此温泉へ旅行せられるのは、今日の吾々の様に、たゞの遊山や避暑ではなく、御禊の信仰の考へから見ねばならぬ。とにかく、以上いうた様な信仰から、宮廷の斎川水の考へは、温い湯と変つたので、又其を直にゆと申す事になつた。此湯に這入られると、尊い方となられるのである。日本にある処の、天の羽衣伝説は、此禊ぎと深い関係を持つて居る話である。天上から降つた処女が、天の羽衣を脱いで、湯に這入つたら、人間になつてしまつた。又、天の羽衣を奪ふと、人間になる。かういふ筋の話は沢山あるが、此天女の羽衣の話の源をなすものは、丹波の天の真名井マナヰの、七人の天つ処女の伝説である。

天の真名井の話で見ると、七人の天女の中で、羽衣を奪はれた一人の娘が、後には、伊勢の外宮の豊受大神となられた。此七人の天つ処女の縁故で、丹波からは、八処女が、宮廷へも、伊勢へも出て来て、禊ぎの事に奉仕する。不思議なのは、禊ぎに奉仕する処女が、其尊い方の后となられる、習慣の見えて居ることである。だから、或時期の間は、丹波氏の娘が、宮廷へ仕へて、后となつて居る。さうでなくとも、丹波氏の娘の形式をとつて、后となつて居る。

先に申した所の、天の羽衣を脱いだから人間になつて了うた、といふのは誤りで、脱げば、物忌みから解放されたのだから、神人とならねばならぬ筈だ。御禊をせられた尊い方は神であり、羽衣をぬがれた処女は、或任務を果たす為の、巫女である。巫女は神に仕へる、最高な女である。

此処で、話をずつと、後世へ引き下げて言うて見る。汚い話のやうであるが、今より二百年前までは、御湯へ這入る時に、湯具・褌などは、締めたまゝ這入つた。ほんとうは、湯に行く時は、褌を二筋持つて行つた。一筋は締めて居り、一筋は這入る時に締め換へて這入る為の用意である。何の為に、締め換へて這入るのか。此は、陰所を見せては恥づかしい、といふ考へからでは、決してない。

元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである。民間では、褌をするのは、一人前の男になつた時のしるしだと言はれて居る。十五歳になると、褌を締めて、若衆宿へ仲間入りの挨拶に行く。此行事の事を、袴着というて居る。此が、女の方だと、裳着といふ。正式には、男女共に、二回ある筈だ。

第一回は、村の子どもとなる為で、五六歳頃にやる。平安朝頃の貴族たちの仲間でも、やかましく行はれた。源氏物語など見ても、書いてある。次のは、をとこ・をとめになる為の行事としてゞある。我々は、二度の行事をすまさぬと、一人前の男女には、なれなかつたのである。今日では略して、一回だけしか行はぬが、ほんとうは、二回あつた。第一回の時には、お宮参詣マヰリをして、それで子どもになつて、村の小さな神に仕へる資格を得る。子どもが、道祖神のお祭りをするのは、何処にでもある。二回目がすむと、村の産土の神に仕へる資格を得る。此二度の袴着を終つたものを、をとこ・をとめといふ。ふんどしはじめ・ゆもじはじめがすむと、立派な一人前の男女になる。だから、一人前の男女になつてから、初めて褌を締める、ゆもじをするといふのではない。男女になる前提の行事として、此事が行はれるのである。

此物忌みの褌を締めて居る間は、極端なる禁欲生活をせねばならぬ。禁欲というても、今日の我々の考へる様な、鍛錬風な生活ではない。神秘なる霊力をして発散させぬ為の禁欲である。処が或期間、禁欲生活をすると、解放の時が来る。すると、極めて自由になる。此処で初めて、性の解放がある。さうして、此紐を解いて、物忌みから解放されるのが、湯の中である。即、斎川水ユカハミヅの中である。天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけなさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生ずるのである。

昔から、湯の信仰に就ては、わりあひに考へられて居なかつたが、今考へて見ると、不思議な事が多い。譬へば、御湯殿腹などいふ子どもゝある。そして、お湯殿腹の子、というて重んぜられた、傾向がある。さうかと思ふと、又、垢掻き女に子どもが出来るのは当然だ、とも云はれて居る。此等の事は、日本の昔の産湯の話をして見ると、判然として来る。

一体昔は、今の世の乳母の役をする者が、四人あつた。大湯坐オホユヱ・若湯坐ワカユヱ・飯嚼イヒガミ・乳母である。此大湯坐は、主として、産児に産湯をつかはせる役目をする者、つまり湯の中へ、御子をお据ゑ申す役目なのである。若湯坐も同様である。乳母は、乳をのませる者、飯がみは、飯や食物を嚼んで、口うつしに呉れる者である。

まづ御子が産れると、其御子をば、豪族に附托して、養育せしめる。昔でいふと、其家筋を壬生氏といふ。壬生氏は、壬生部といふ団体の宰領である。

此話で名高いのは、反正天皇がお産れになつた時、天皇の為に、河内の丹比氏が、壬生部となつて、御育て申し上げた。其で、丹比の壬生部氏といふのである。御子が生れると、此氏の者の中から、四人の養育係が選定せられる。前にいうた所の、大湯坐・若湯坐は、高い身分の者から出る。大湯坐はつまり、水の神として、禊ぎの御世話をする役目である。御子がお産れになつた時に行はれるのが、第一回の禊ぎである。

此禊ぎをおさせ申して居る一方に於て、氏の上は、天つ寿詞を申して居る。水の魂をして、天子様となるべき尊いお方におつけ申すのだ。水中の女神が出て来て、お子様のお身体に、水の魂をおつけ申して、お育て申す儀式である。だから、壬生部の事を、入部ニフベとも書いて居る。「入」は水に潜る事であつて、水中に這入る事である。それから、大湯坐は主で、若湯坐は附き添への役である。

此第一回の禊ぎの形を、天子様は、毎年初春におやりなされる。生れ替つて、復活する、といふ信仰である。大湯坐は、年をとつた女で、若湯坐は、年の若い者がつとめる。それから事実に徴して見ると、大湯坐は、天子様の后となるし、若湯坐は、皇子の后となる傾きが見えて居る。飛鳥以前の后は、天子様の御家の禊ぎの行事に、奉仕した女がなつた。丹比氏は、元来禊ぎの事を司つた家筋で、宮廷及び伊勢のお宮へ、八処女を奉つて居る。此八処女は、五節の舞姫に関係があるが、其事は後に言ふ事にする。

     一四

日本の昔の語に、天つ罪・国つ罪といふ並立した語のある事は、前に述べた。其天つ罪とは、すさのをの命が、天上で犯された罪で、其罪が此国土にも伝はつて、すべて農業に関する罪とされて居る。つまり、田のなり物を邪魔するのが、此国でいふ処の天つ罪である、とされて居る。だが今では、罪といふ語が、余りに新しい意味の罪悪観念に這入り過ぎて居る様である。天つゝみのつみの語原は、他に無くてはならぬ。

万葉集を見ると、雨障・霖禁・霖忌など書いて、あまつゝみとよませて居る。

あまつゝみ常する君は、久方の きのふの雨に こりにけんかも(巻四)

此歌は、いつも雨つゝみをしてゐるあなたは、昨日の雨で外出が出来ずに、懲りた事でせう、といふ意だとされて居るが、実は男、女の禁欲生活をして居る意味の罪である。

猶、此事を考へるのに、手がゝりとなるのは、景行記に見える次の話である。景行天皇が、美濃の国造の祖神、大根王の娘、兄媛・弟媛を、皇子大碓命をして召し上げさせられた時、大碓命は、媛二人を我ものとしてしまひ、他の娘を奉つた。そこで、天子様はお憤りなされて「つねに、長眼ナガメを経ヘしめ、又婚メしもせず、惚モノオモはしめたまひき」とある。普通には、此ながめのめは男女相合ふ機会の事を言ふから、其間を長く経る事をば、長目を経るといふのだとしてゐる。だが、此ながめは、霖禁に関係がありさうだ。

さて、此ながめ・ながむといふ言葉の意味は、平安朝頃になると、「ぼんやりして何も思はず」といふ位な風になつて居る。もう一つ伊勢物語の例を挙げると、

起きもせず、寝もせで夜をあかしては、春のものとて、ながめくらしつ

此等のながめは長雨で、長雨のふりつゞ頃の、物忌みから出た言葉であらうと思はれる。長雨の物忌み、即、雨のふりつゞくころの、慎しみから出た言葉であらうと思ふ。

かうして考へて来ると、天つ罪は、天上の罪ではない。本義は、五月の田植ゑ時の慎しみ、即、雨つゝみ(雨障・霖禁)である。今でも、処によると、田植ゑ時に夫婦共寝せぬ地方がある。田植ゑの頃は、一年中で一番、長雨のふりつゞく時期であつて、此間は、村の男女は、すつかりと神事関係になつて了うて、男は神、女は巫女となるのである。

四月の頃、女は山に籠つて成女戒を受け、躑躅の花をかざして下りて来て、今年の早処女をつとめる。此は、田植ゑの神事に与る巫女の資格で、田植ゑの終るまで処女の生活をする。此処で考ふべきは、処女生活といふ事であるが、此には三通りあつた。一つはほんとうの処女、此はまだ男を持つた事のない女(一)。次に或期間のみ男に逢はぬ女、即、或期間だけ処女生活をする女(二)。次は床退サりをした女、即、或年齢に達すると、女は夫を去つて、処女生活に入る信仰があつたが、さういふ様な女(三)。此床退りの女は、其以後の生活は、神に仕へるのである。後世のお室様といふのは、此の事をいふのだ。平安朝には床退りした女は、尼となつて仏事に入り、処女生活をしたのである。

さて女は、五月の田植ゑの済むまでは、男を近づけない。男の方でも女に触れない。此期間は男女共に、袴や裳に標を附けて、会ふ事をしない。此間の事をながめをふるといふのである。一軒の家に同居して居ても、会はない。前の、景行天皇の話の、媛をして、長眼を経しめたまふといふのは、媛にお顔を見せながら、霖雨中放つて置いて、性欲的の苦しみをなさしめたといふ事である。其が固定してながめとなり、性欲的な憂鬱からして、ぼんやりして居る事を表す語になつたのである。

平安朝になつてからのながめは、美しい意味に替つて来て了うたので、根本は、性欲的の憂鬱の状態を言ひ表す語である。

五月の物忌みが雨つゝみで、此が天つ罪となるには、すさのをの命が元来、田の神で、其犯された罪を一処にして了うたのだ。すさのをの命は、仏教では牛頭天王にされて居る。悪い方の田の神である。其悪い方の田の神を祀つて、いたづらせぬ様に守つてもらふ所から出た、信仰である。悪い神も祀られると、よい事をするといふ考へ方である。さて、此すさのをの命に対する慎しみが、天つ罪である。其がちようど雨の時の慎しみと、同じ時期に当つて居る。

神は普通には、夜出現するが、田植ゑ時には、昼間出て来る。夏祭り神事の中心は、昼間行はれる。昼間、田を植ゑて居ると、神が来て田を囃してくれる。後世では、田植ゑの前後にのみ囃しをするが、本来は植ゑて居る最中に、囃すのである。後には、囃す田も固定して、はやし田といふ名も出て来て居る。又、田植ゑの初めに囃して、其で、後やらぬ様になつた所もある。此囃しに来る神は、仮装して出て来る。此仮装がやがて、田舞ひを生む。そして田舞ひが、猿楽と合体して、田楽が出来る。男女共に顔を隠して、神の形になつて居る。五月の田植ゑの時は、昼は勿論、夜も神が廻つて歩いて居るから、男女相逢ふことは出来ぬ。だが、さなぶりの時から自由になつて、男女の語ひは許される。

此所で、不思議な誤解が一つある。其は神事が始まれば、物忌みは無い訣であるが、其がある事である。播磨風土記を見ると、田植ゑ女を大勢でかまつて、隠し所を断ち切つたといふ話がある。だから、雨つゝみといふのは、田植ゑの始まる前の、物忌みである事が知れる。其が、いつか田植ゑの済むまで続くものだ、と考へられて来たのである。此は、男の資格を得る為の褌が、いつか褌するのが男の資格だ、と考へられて来たのと、同一である。

ふんどしは、ふもだし・ほだし・しりがひ・おもがひ・とりがひなどゝ同一なもので、又たぶさき・たぶさくなどいふ語も、同一である。たぶさくとは、またふさぐといふ事で、着物の後の方の裾を、股をくゞらして前の方に引き上げて、猿股みたいにする事で、子どもの遊戯にも、今日は廿五日の尻たくり、といつて、此形をする。元来は、人間のふんどしも、馬のふもだしも同一任務のもので、或霊力を発散させぬやうに、制御しておくものである。そして、物忌みの期間が済むと、取り避けるものである。事実朝廷の行事に見ても、物忌みの後、湯殿の中で、天の羽衣をとり外して、そこで神格を得て自由になられ、性欲も解放されて、女に触れても、穢れではない様になられる。

先にもいうたが、大湯坐・若湯坐などが、御子を育てゝ行く間に、湯の中で、若い御子の着物をとりさけて、まづ其御子に触れられるのは、若湯坐である。大湯坐は、前述の如く、御子の父君につかへる。

此みづのをひもを解くと同時に、ほんとうの神格になる。そして、第一に媾あはれるのが、此紐をといた女である。さうして、其人が后になるのである。だが此事は、もう奈良の頃は忘れられて了ひ、此行事以後、御子を育てる所の、乳母の役になつた。さうして、若い乳母即、子守りである人が、お育て申した方の妻となる。其証拠は、うがやふきあへずの尊が、御叔母玉依姫と御夫婦になられた、とあるのをみても訣る。元来、めのとといふ言葉は、妻の弟といふ事で、乳母の弟が、妻になつた事を意味してゐるのである。

不思議な事に、后になられる御方は、水の神の娘、又は水の神に関係の深い女である。かの丹波氏の家筋も、水の神に深い関係を持つて居る。世が下つてからは、丹波氏の資格を以て、藤原氏が禊ぎを司る事になり、其家から后が出た。

一体御湯殿は、平常でも、非常に重ぜられて居た。「御湯殿の上の日記」も、平安朝からのものではあらうが、女の手になつたもので、断篇ながら、参考にはなる。此で見ても、湯棚・湯桁は、神秘な行事の行はれた所である事が、察せられるのである。即、湯棚には天子様の瑞ミヅの緒紐ヲヒモを解く女が居て、天子様の天の羽衣、即ふもだしを解くのである。

話を元へ戻して、大嘗祭第一回に天子様が湯へお這入りになるのは、紫宸殿の近くで行はれるのかと思ふが、正式には廻立殿で行はれたのである。平安朝には既に、行はれなくなつて了うたらうが、太古は必、行はれたのである。此問題は、天の羽衣の話と関係がある。天人の話の天の羽衣と同一で、飛行の衣とする話は、逆に考へられて了うたからである。天子様の、天の羽衣をおぬがせ申し奉るのが、八処女のすべき勤めである。今では、廻立殿から大嘗宮へ行く道に敷かれてある布の事を、天の羽衣と称へて居るが、其は何かの間違ひである。或は、羽衣ではなくて、葉莚ハゴモといふのであらう。此は、延喜式にも、見えて居る。葉莚は、天子様が、お通りなされる時に敷いて、通られると、直に後から巻いて行くものである。其を今では、新しく道を拵へた形であると言うて居る。一寸合理風でほんとうらしいが、やはり誤りである。

天子様はかくして、悠紀殿・主基殿へ行かれるが、其間に、折々お湯にお這入りになられる。とにかく、日本の后の出る根本は、水の神の女で、御子をして、神秘な者にする為事を、司る所から出て居るのである。
次に直会の事をいうて見る。

     一五

直会は、直り合ふ事だと云はれて居るが、字は当て字で、当てになるまい。元来なほるといふ語は、直日の神の「直」と関係のある語で、間違ひのあつた時に、匡正してくれる神が、直日の神だから、延喜式にある所の、天子様の食事の時につかへる最姫・次姫の事から考へて見ねばならぬ。天子様が食事をせられる時に、此最姫・次姫は「とがありともなほびたまへ……」といふ呪言を唱へる。此は、よし、手落ちがあつたとしても、天子様の召し上り物には間違ひのない様に、といふ意味のとなへ言である。普通には、座をかへてものする時に、なほると言うて居る。此は或は、二度食事をする事から出た解釈かも知れぬ。大嘗祭の行事に見ても、一度食事をせられてから、座を易へて、もう一度、自由な態度でお召し上りなされる。此が直らひの式である。つまり、ゆつたりと寛いだ式である。そして、其席上へ出る神も亦、直日の神と言はれて居る。平安朝に入つてからは、直日の神といふのは、宴会の神、又は遊芸の神となつて居るのも、此考へから出たのである。

大嘗祭の直会の時には、大和舞ひが行はれ、田舞ひが行はれ、舞姫の舞ひも行はれる。そして、すべての人は、今までの厳重な物忌みから、開放される。直会ナホラヒは、一口に言へば、精進落ちともいへる。だが、精進とは、仏教の考へから、魚を食はぬ事を斥していふが、本来は、禁欲生活・物忌み生活を言うた語である。
昔は、正式な祭りが済んでも、猶、神が居られた。そして、祭りの後で、豊かな気分で宴席に臨んで、くだけた饗応を享けて帰られたのである。肆宴トヨノアカリ(豊明楽)といふのは、此行事をいふのである。とよのあかりとは、酒を飲んで、真赤な顔になるからだといふが、ほんとうは、よく訣らぬ。ともかく、とよのあかりのうちに、神を満足させて帰す、といふのが本義であらう。

大嘗祭に来られる神は、どんなお方か、よく訣らぬ。天子様は、神を招く主人でいらつしやると同時に、饗宴をなされる神である。つまり、客であり、又神主でもある。神の為事を行ふ人であると同時に、神その者でもある。だから、極点は解らぬ。結局、お一人でお二役つとめなされる様なものである。

他の家々でいふと、新嘗祭の時には、主人よりも格式の上の人を招いて、客になつてもらふ。此は其昔、尊い神が来られた形を見せて居るのである。

次に、五節の舞ひの話をして見る。五節といふのは、五節イツヨの舞ひを舞うたから言うたのではあるまいか。五節イツヨの舞ひは、天子様の寿命を祝福する舞ひで、天子様の禊ぎの時に、竹で御身の丈を計つて、御身の長さだけの処へ標シルシをつける。此を節折ヨヲリと言ふ。折ヲリは繰り返すといふ事で、竹で幾度も/\、繰り返して計る。かうする事は亦、天子様の魂の事と関係がある。平安朝頃までの信仰によると、天子様の魂には、荒世の魂・和世の魂と言うて、二つあつたのである。其で、天子様の御身の丈を竹で計るにも、二度計つたのである。竹で計つて着物を拵へて、其着物を、節折ヨヲリの式に与つた人々に、分配なされる。あらよの御衣ミソ・にぎよの御衣ミソといふのが、此である。

かう考へて来ると、五節の舞ひの時も、実は天子様の御身の丈を、五度繰り返して計つたのではなからうか。さうして、其行事に出る女が、五節の舞姫といふのであつたらうと思はれる。そして五節に出る女は、天子様の食事の事に与つた女である。すると、供饌に与つた女が、衣を進め、節折もし、舞ひも舞うたのである。舞ひを舞ふといふのは、みたまふり(鎮魂)の意味のもので、他の意味ではなかつた事と思ふ。

古く、神服女カムハトリメの舞ひといふ事も見えて居る。此は、着物を取扱ふ女の舞ひといふ事で、後の五節の舞ひと同一である。だから五節舞も神服女舞も同一で、正式には八人で舞うたのだらうと思ふ。神の八処女の事は、前にもいうた。
五節の舞姫の仕へる所を、五節の帳台といふ。そして、五節の帳台の試みといふ事が行はれる。此は、舞姫をして、天子様が、女にせしめる行事である。平安朝頃のものを見ると、舞姫が、何とかかとかいうて、言ひ騒がれて居るのも、此帳台の試みの考へから見ねば訣らぬ。

五節の舞ひがすむと、其後に悠紀・主基両殿の式の名残りとして、国風クニフリの奏歌が行はれる。各其国の国司が、歌人や歌姫を引きつれて行つて、やるのだ。そして、其後に、忌みを落す舞ひがある。此を解斎舞といふ。此がすむと、凡て此祭りに与つた人・神が、皆散らばる形になる。其時も、式に与つた人たちは、お酒や御飯を頂く。それから各人は、忌服をぬいで、散会する。散会の時は、男も女も乱舞して、躍り狂うて帰る。

一体宴会の時は、二度目の食事をすませて、最後の食事の時に、主人側から舞姫が出で、客人側からは、いろ/\の持ち芸が出る。つまり、此は主人に答へる形である。うたげは、打ち上げといふ事で、盛んに手を拍つてやる事である。此乱舞の時に、巡の舞ひというて、正座の客から次第に、下位の客に廻つて行つてやる。

此中に、一つ面白いのは、家の精霊が出て舞ふ形のものがある。滑稽な風をしてやる。此は、今見ても、地方の神社の祭りの時に、滑稽な踊りをするが、皆此精霊の舞ひから出て居るのである。今の民間の宴会は、神事の直会ナホラヒ以後の形をとつてやつて居るのである。

此処で一寸、附け加へて置く。天子様をもてなす役は、藤原氏がやつた。藤原氏の家は、宴会に使用する道具を、大事にして居る。朱器・台盤は、藤原氏の家長が、大切に保存して伝へて居る。此は、藤原氏は、朝廷に仕へて、祭りのある時は、神をもてなす役をして居たからである。客人マレビトをもてなすに大切なのは、道具である。其道具を預つて居るのが、藤原氏であつた。今日でも、民間に、椀貸伝説はいくらも残つて居る。

私は、直会と宴会とを同一だ、とは思はぬ。宴会の方は、客人側が主人に替つて、大いに騒いだものと考へる。大嘗祭に於ける客人の式も、三段に考へられる。

一、供饌の式
二、直会の式
三、宴会ウタゲの式

かうなると思ふ。
たゞ、此間に於て、客が主人になり、主人が客になり、主人か客か訣らぬ様な場合が多い。其は、長い間に於て、其時代々々で、祭りが合理化されて、其に又、種々の説明が加へられて、今日の如くに変化したからである。

ともかくも、大嘗祭は、平安朝に固定して、今日に及んだもの故、神代その儘、そつくりのものとは考へられない。吾々は、其変化のうちに、隠れて居る所を見たいものである。

以上、長々と話しはしたが、極荒筋のものである。今年の十一月に行はれる大嘗祭は、宮内省の方々も緊張して、出来るだけ古の形をとる、といつて居られるから、有り難い大嘗祭を拝める事と思ふ。

大分話が混み入つて、味のない、雑然たるものに終つてしまうた。だが、私の考へは、大体申したつもりである。


底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
※「昭和三年講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
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コメント [近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
8. 中川隆[-10568] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:37:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1508]

大嘗祭の本義 折口信夫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html


     一

最初には、演題を「民俗学より見たる大嘗祭」として見たが、其では、大嘗祭が軽い意義になりはせぬか、と心配して、其で「大嘗祭の本義」とした。

題目が甚、神道家らしく、何か神道の宣伝めいた様なきらひがあるが、実は今までの神道家の考へ方では、大嘗祭はよく訣らぬ。民俗学の立場から、此を明らかにして見たい。

此処で申して置かねばならぬのは、私の話が、或は不謹慎の様に受け取られる部分があるかも知れない、といふ事である。だが、話は明白にせぬと何も訣らぬ。話を明白にするのが、却つて其を慕ふ事にもなり、ほんとうの愛情が表れる事にもなる。或は、吾々祖先の生活上の陰事カクレゴト、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出す様になるかも知れぬが、其が却つて、国の古さ・家の古さをしのぶ事になる。単なる末梢的な事で、憤慨する様な事のない様にして頂き度い。国家を愛し、宮廷を敬ふ熱情に於ては、私は人にまけぬつもりである。

     二

まづ「にへまつり」の事から話して見る。「にへ」は、神又は天皇陛下の召し上り物、といふ事である。調理した食物の事をいふので、「いけにへ」とはちがふ。生贄イケニヘとは、生ナマのまゝで置いて、何時でも奉る事の出来る様に、生イけてある贄の事である。動物、植物を通じていふ。

只今の神道家では、にへといへば、生ナマなものをも含めて言ふが、にへといふ以上は、調理したものを言ふのである。御意の儘に、何時でも調理して差し上げます、といつて、お目にかけておくのが、生贄イケニヘである。ほんとうは食べられる物を差し上げるのが、当り前である。生物ナマモノを差し上げるのは、本式ではない。この贄の事から出発して、大嘗祭の話に這入りたい。

大嘗祭は、古くはおほむべまつりと言うて居る。おほんべ即、大嘗に就ては、次の新嘗・大嘗の処で話す事にして、此処では、まづまつりの語源を調べて見る事にする。此まつりといふ語がよく訣らぬと、上代の文献を見ても、解決のつかぬ事が多い。

まつりごととは、政といふ事ではなく、朝廷の公事全体を斥して言ふ。譬へば、食国政・御命購政などゝ言ふし、平安朝になつても、検非違使庁の着駄チヤクダの政などいふ例もある。着駄チヤクダといふのは、首枷クビカセを著ける義で、謂はゞ、庁の行事始めと言つた形のものである。ともかくも、まつり・まつりごとは、其用語例から見ると、昔から為来シキタりある行事、といふ意味に用ゐられて居る。

私は、まつる・またすといふ言葉は、対句をなして居て、自ら為る事をまつると謂ひ、人をして為さしむる事をば、またすと謂ふのであると見て居る。日本紀を見ても、遣又は令といふ字をまたすと訓ませて居る。

一体、まつるといふ語には、服従の意味がある。まつらふも同様である。上の者の命令通りに執り行ふことがまつるで、人をしてやらせるのをまたすといふ。人に物を奉る事をまたすといふのだ、と考へる人もあるが、よくない。人をしてまつらしむる事、此がまたすと謂ふのである。させる・してやらせる、此がまたすである。
日本の太古の考へでは、此国の為事は、すべて天つ国の為事を、其まゝ行つて居るのであつて、神事以外には、何もない。此国に行はれる事は、天つ神の命令によつて行つて居るので、つまり、此天つ神の命令を伝へ、又命令どほり執り行うて居る事をば、まつるといふのである。

処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行いたしました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になつた。古典に用ゐられて居る「祭り」といふ言葉の意味は此で、即御命令によつてとり行ひました処が、かくのごとく出来上りました、と報告する、神事の事を謂ふのである。

まつりは、多くは、言葉によつて行はれる。即、仰せ通りに致しましたら、此様に出来上りました、と言つた風に言ふのである。此処から段々と「申す」といふ意味に変つて来る。そして、復奏する事をも「申す」といふ様になり、其内容も亦、まつるの本義に、近づく様になつて来た。

まをすとは、上の者が理会をして呉れる様に、為向ける事であり、又衷情を訴へて、上の者に、理会と同情とをして貰ひ、自分の願ひを、相手に容れて貰ふ事である。こひまをす(申請)などいふ語も、此処から出て来たのだ。此様に、大体に於ては「申す」と「まつる」とは、意義は違ふが、内容に於て、似通つた所がある。此点は又、後に言ふ事にする。

     三

日本の天子様は、太古からどういふ意味で、尊位にあらせられるか。古い文献を見ると、天子様は食国ヲスクニのまつりごとをして居らせられる事になつて居る。だから天孫は、天つ神の命によつて、此土地へ来られ、其御委任の為事をしに来らせられた御方である。

天子様が、すめらみこととしての為事は、此国の田の生ナり物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国ヲスクニのまつりごとである。

食ヲすといふのは、食クふの敬語である。今では、食ヲすを食クふの古語の様に思うて居るが、さうではない。食国ヲスクニとは、召し上りなされる物を作る国、といふ事である。後の、治ヲサめる国といふ考へも、此処から出てゐる。食ヲすから治ヲサめる、といふ語が出た事は、疑ひのない事である。天照大神と御同胞でいらせられる処の、月読命の治めて居られる国が、夜の食国ヲスクニといふ事になつて居る。此場合は、神の治ヲサめる国の中で、夜のものといふ意味で、食すは、前とは異つた意味で用ゐられて居る。どうして、かう違ふかと謂ふと、日本の古代には、口で伝承せられたものが多いから、説話者の言語情調や、語感の違ひによつて、意味が分れて行くのである。此は民間伝承の、極めて自然の形であつて、古事記と日本紀とでは、おなじ様な話に用ゐられてゐる、おなじ言葉でも、其意味は異つて来て居る。時代を経る事が永く、語り伝へる人も亦、多かつたので、かうした事実があるのである。

さて、食国ヲスクニをまつる事が天子様の本来の職務で、それを命令したのは、天つ神である。古事記・日本紀では、此神を天照大神として居る。此点は、歴史上の事実と信仰上の事実とが、矛盾して居る。歴史上では、幾代もの永い間、天子様は一系で治めていらつしやる。信仰上では、昔も今も同様で、天つ神の代理者として、此土地を治めておいでになる。此土地を御自分の領土になさる、といふ様な事や、領土拡張の事などは、信仰上では、御考へなさらない。天子様は、神の言葉を此国にお伝へなさる為に、お出でになつたのである。此意味がかはつて、神に申し上げる報告の意味が、出たのである。

吾々の考へでは、働かなければ結果が得られない、と訣つて居るが、昔は、神の威力ある詞を精霊に言ひ聞かせると、詞の威力で、言ふ通りの結果を生じて来る、と信じて居た。此土地の精霊は、神の詞を伝へられると、其とほりにせねばならぬのである。貴い方が、神の詞を伝へると、其通りの結果を生じたのである。此が、まつるといふ事で、又食国ヲスクニのまつりごとである。

私は、祭政一致といふ事は、まつりごとが先で、其まつりごとの結果の報告祭が、まつりであると考へて居る。祭りは、第二義的なものである。神又は天子様の仰せを伝へる事が、第一義である。処が、天子様は、天つ神の詞を伝へるし、又天子様のお詞を伝へ申す人がある。そして又、此天子様の代理者の詞を伝へる人がある。かうして段々、上から下へ、と伝へる人がある。此天子様のお詞を伝へる人をまつりごと人といふ。日本紀には、大夫・宰等の文字が宛てゝある。此大夫や宰は、高い位置の官吏ではないのに、何故まつりごと人などいふ、尊い名称で呼ばれるか。此は、前に言うた様に、段々下へ/\と行くからである。かうした人々の事を、御言持ミコトモチといふ。此意味で、天子様も御言持である。即、神の詞を伝達する、といふ意味である。

神の代理をする人は、神と同様で、威力も同様である。譬へば、神ながらの道などいふ語は、天子様の為さるゝ事すべてを、斥して言ふのであつて、決して神道といふ事ではない。天子様は、神ながらの方で、神と同様といふ事である。神ながらは、信仰上の語であつて、道徳上の語ではない。此意味に於て、天子様のお言葉は、即、神の御言葉である。日本の昔の信仰では、みこともちの思想が、幾つも重なつて行つて、時代が進むと、下の者も上の者も同様だ、と考へて来た。そして鎌倉時代から、下尅上の風も生じた。日本の古来の信仰に、支那の易緯の考へ方を習合させて、下尅上と言うたのである。此話は、幾らしても限りのない事であるが、申さねば、贄祭りのほんとうの意味が知れないから、述べたのである。

古い時代のまつりごとは、穀物をよく稔らせる事で、其報告祭がまつりである事は、前にも述べた。此意味に於て、天子様が人を諸国に遣して、穀物がよく出来る様にせしむるのが、食国の政である。処が穀物は、一年に一度稔るのである。其報告をするのは、自ら一年の終りである。即、祭りを行ふ事が、一年の終りを意味する事になる。此報告祭が、一番大切な行事である。此信仰の行事を、大嘗祭オホムベマツリと言ふのである。

此処で考へる事は、大嘗と、新嘗との区別である。新嘗といふのは、毎年、新穀が収穫されてから行はれるのを言ひ、大嘗とは、天子様御一代に、一度行はれるのを言ふのである。処が「嘗」といふ字を宛てたのは、支那に似た行事があつて、それで当てたのである。新嘗の用語例を蒐めて考へて見ると、新穀を召し上るのを、新なめとは言へない。なめるといふ事には、召食メシアガるの意味はない。日本紀の古い註を見ると、にはなひといふ事が見えて居る。万葉集にも、にふなみといふ言葉があり、其他にへなみと書かれた処もある。

今でも、庄内地方の百姓の家では、秋の末の或一日だけ、庭で縄を綯なひ、其が済むと、家に這入る。此を行ふには、庭へ竈を造つて、其日一日は、庭で暮すらしい。日本紀の古註に見える庭なひと言ふのは、其であらう。此事は、考へて見ると、一種の精進で、禁慾生活を意味するのである。だが、庭で縄を絢ふから、庭なひだとしてはいけない。此には、何かの意味があつて、庭で縄を綯ふのであらう。
にはなひ・にふなみ・にひなめ・にへなみ、――此四つの用語例を考へて見ると、にへ・には・にふは、贄と同語根である事が訣る。此四つの言葉は、にへのいみといふことで「のいみ」といふことが「なめ」となつたのである。発音から見ても、極近いのである。結局此は、五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活である事を意味するのであらう。新しく生つたものを、神に進める為の物忌み、と言ふ事になるのである。神様の召し上りものが、にへであることは、前にも言うた通りであるが、同時に、天子様の召し上りものも亦、にへである。さうすると、新嘗の大きな行事であるから、大にひなめといひ、それからおほんべとなつたことが訣る。

此大嘗と新嘗とは、どちらが先かは問題であるが、大嘗は、新嘗の大きなものといふ意味ではなくて、或は大は、壮大なる・神秘なるの意味を表す敬語かも知れぬ。此方が或は、本義かも知れぬ。普通には、大嘗は天皇御一代に一度、と考へられて居るが、古代ではすべて、大嘗であつて、新嘗・大嘗の区別は、無かつたのである。何故かと言ふと、毎年宮中で行はれる事は、尠くとも御代初めに、行はれる事の繰り返しに過ぎない、といふ古代の信仰から考へられるのである。御代初めに一度やられた事を、毎年繰り返さぬと、気が済まぬのであつた、と見るべきである。其が新嘗である。新嘗のみではなく、宮中の行事には、御代初めに、一度行へば済む事を、毎年繰り返す例がある。だから、名称こそ新嘗・大嘗といへ、其源は同一なものである。

此新嘗には、生物ナマモノのみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い/\物忌みが行はれる。単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。民間には、其物忌みの例が残つて居る。常陸風土記を見ると、祖神ミオヤガミが訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟ワセの初嘗ニヒナメで、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。そこで祖神は、筑波岳で宿止ヤドメを乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇ツヽシミツカヘ承つた、とある。此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。

猶、万葉集巻十四に、

にほとりの 葛飾早稲カツシカワセをにへすとも、そのかなしきを、外トに立てめやも
誰ぞ。此家ヤの戸おそぶる。にふなみに、わが夫セをやりて、斎イハふ此戸を

新嘗の夜の、物忌みの有様の見えて居る歌である。此歌などは、もう神の来る事が忘れられて、たゞの男女関係の歌のやうに見えるが、猶、神が来たといふ原義が見えて居る。神の来たのが、愛人が来るやうに考へられて来たのだ。ところが、この新嘗に似た行事が、まだ他にもある。其は神嘗祭である。そこで、神嘗祭の話に移る。

     四

神嘗祭・神今食・相嘗祭、此三つは新嘗祭に似て居る。だから、まづ神嘗祭から話を進めて見る。これは、新嘗祭と相対して行はれた祭りであつて、九月に行はれる。伊勢の神宮に早稲ワセの走穂ハツホを奉る祭りであると考へられて居る。天子様の新嘗に先立つて行はれる。此より前の六月と十二月とにも同様な行事が行はれる。神今食といふのが其である。此神今食を、或人々は「かむいまけ」と読んで、新米を奉るのだとして居るが、十二月の方はともかくも、六月には、まだどの様にしても、新米は出来ないから、此説は同意出来かねる。猶、神今食に奉るものは、早稲の初穂ではなくて、古米を奉るのであらう、と私は考へて居る。

だが、従来、神今食と、神嘗と、新嘗とは、区別が判然して居ない。私は、新米を奉るのと、古米を奉るのとの違ひであらう、と考へて居る。何故かと言ふと、神今食の直前に行はれるのに、月次祭がある。此は、六月と十二月とに行はれる。つまり、一年を二つに分けて、行うたのである。此事は、平安朝に見えて居る。この月次祭の後、直に、つゞいて行はれるのが、神今食である。月次祭の時は、日本中の大きな社の神々が、天子様の許に集まつて来る。その集まつて来た神々に、天子様が、物を食べさせて、おかへし申すのが、神今食である。

一年に二度行ふといふのは、大切な祭りは、一年を二期に分けてする習慣が出来てからの事である。つまり、夏の終りを年の終りと考へ、又、年の終りの冬毎に神が来る。其神に御馳走して帰すのが、神今食である。此は、よく考へて見ると、新嘗を二つに分けて、日をちがへて行つた、といふ事になる。月次祭は、新嘗祭の変化したもので、新嘗祭を行ふ中に、変態な習慣が行はれ出したのである、と考へられる。

神嘗祭とは、諸国から奉つた処の、早稲の走穂ハツホを、宮廷で整理して置かれて、九月になつてから、伊勢の大神に奉られることである。諸国から、初穂を朝廷へ奉る使を、のさきのつかひといふ。荷前使と書くのである。古くから神嘗祭と言うたか、どうか。或は、新嘗といふ支那訳が出来てから後に、神の新嘗といふ意味から、神嘗と言うたのかも知れぬ。ともかくも、神嘗祭は、前に言うた相嘗祭と、関聯させて話さねばならぬ。

諸国から稲穂を奉るのは、鎮魂式と関係があるから、此処で話して置く。諸国から稲穂を奉るのは、宮廷並びに、宮廷の神に服従を誓ふ意味なのである。日本では、稲穂は神である。其には、魂がついて居る。国々の魂がついて居る。魂の内容は、富・寿命・健康等である。諸国から米を差し上げるのは、此等の魂を差し上げる事になる故に、絶対服従といふ事になる。米の魂が身に入ると強くなり、寿命が延び、富が増すのである。そして、此魂たる米を差し上げることを、みつぎといふ。たゞつぎといふ事もある。

かうして、諸国から差し上げた稲穂を、天子様は、御自分で召食メシアガらぬ先に、上の方かたで居られる処の伊勢の大神に奉られる。奉り物は、料理した御飯と、料理せない稲の穂のまゝのを二通り、はざ木にかけて、差し上げる。此をかけぢからといふ。かうして、諸国から到来した米を、天子様が自ら、伊勢の大神に差し上げるのは、祖神に魂を差し上げる事になり、即服従を誓はれる事になるのである。

かうした関係は、民間にもある。本家・中本家・小本家といつた風に分れて居る家では、各の家で、子分を持つて居る。其子分が小本家へ奉つた物を、小本家では中本家へ、中本家では、小本家から奉つたものと、自分の子分の奉つたものとを一処にして、大本家へ差し上げる。此場合には、到来物だから差し上げます、と言うて奉るのである。かうして子方から、次第に、上へ差し上げて行く。すると、献上物としての威力は、其効力を増し、且強くなる。此は信仰上の事実であつた。

上述の様な次第で、神嘗と新嘗とは、大分違つたものである。新嘗は、後にこそ刈り上げ祭りの様になつて居るが、ほんとうは、神の命令に依つて行つた、農事の報告であり、神嘗は、諸国から宮廷へ奉つた稲穂を整理して、更に、伊勢大神宮へ奉る行事である。処が、諸国から奉つた稲の魂を、天子様が更に、上位の神に奉られる行事は、他にもある。即、相嘗祭で、十一月の中の卯の日に行はれる。卯の日が二度しかない時は、上の卯の日に行はれる。新嘗祭よりは、一まはり先の卯の日に行はれるのである。此時は、宮廷から畿内の近辺の大きな社に、稲穂を供へる。此が、相嘗祭である。又、天子様のお血筋や、外戚の陵墓にも奉る。此を荷前ノサキといふ。

約言すると、地方から、宮廷へ奉る処の稲の初穂を、九月に入つて、伊勢へ奉るのを神嘗といひ、其他の神々又は、大きな社に奉るのを相嘗と言ひ、陵墓に奉るのを荷前ノサキと言ふのである。何れも、新嘗祭と前後して行はれたのである。本来は、神に奉るのは相嘗と云ひ、其以下の神で、而も天子様の尊敬する神、又は、天子様の御血つゞきの方に差し上げるのを荷前、と言うたのである。

此等の行事が済んだ後で、新嘗祭が行はれたのだ。新嘗祭は正式には、十二月の中の卯の日に行はれたのである。此処で問題となるのは、卯の日といふ干支を用ゐる事が、果して、古代からあつたかどうか、と言ふ事である。現在知り得る範囲では、日を数へる事よりは、干支を数へる暦法の方が古い、と云へよう。尠くも、支那の古い暦法を伝へた漢人種や、朝鮮人種が、天孫民族と同時に、或はそれ以前に、渡来して居た事は事実である。

新嘗祭其他、すべての行事をするのに、干支に依つて定められる以前は、占ひによつてきめた。此がいつの間にか、干支に依つて、定められるやうになつたのである。かうして日を定めて、十一月の中の卯の日、又は、下の卯の日に、新嘗祭をするのである。此を秋の祭りといふ。

延喜式の祝詞を見ると、大和の龍田の風神祭祝詞がある。此は、五穀の稔る事を祈り、さて稔ると、斯様々々に出来ました、と言うて、秋祭りをして、五穀を奉るのである。此処の秋祭りといふのは、四季でいふ「秋」ではなくて、新嘗祭といふ意味であつて、農事に関係ある語である。処が、相嘗祭は、龍田風神祭の詞の中には、見えては居ないが、古から無かつたとは見られない。中世から、何かの原因で絶えた、と見るべきである。

祝詞の、秋祭りに就て考へて見ても、新嘗、又は相嘗は、今の暦法上の秋ではない。だが、其を秋祭り、と古くから言うて居る処を見ると、秋に就ての考へ方が、昔と今とでは差異があつたのであらう。事実、地方の秋祭りは、早稲の刈り上げ前に行はれるのであつて、晩稲の刈り上げが済んでからやるのは、正式の秋祭りではなくて、其は家々の祭りである。何故、斯うして家々即、地方では、早く秋祭りをするか、と言ふと、朝廷へ奉る荷前ノサキの使と同時に、国々の神の祭りをする為である。朝廷の新嘗祭と前後して、諸国で神に差し上げる。此が秋祭りの始めである。もう一つ、後の理由であるが、稲の花の散つた後が大切だから、やるのである。

此二つの考へが一つになつて、今の秋祭りが行はれるのである。だから、今民間に行はれて居る秋祭りは、ほんとうの秋祭りとしてのものではなくて、寧、家々の祭りと見てよろしい。社の祭りではないのである。新嘗祭と同様なものが、ほんとうの秋祭りである。田舎の秋祭りは、新嘗祭よりも、早く行はれる。新嘗を中心にして考へると、少しく変だが、認容出来ぬ事はない。前に挙げた処の「にほどりの」と言ふ歌にしても、其地方で勝手に、祭りを行うた処から、出来た歌で、宮廷よりは先に、行つた消息が窺はれる。

宮廷の新嘗祭は、日本中の稲の総括りの様なものである。秋祭りには、前述の意味と、もう一つは、冬祭りともいふべき程の意味とがある。さて、秋祭りが、同時に冬祭りに当るのに、どうして冬祭りと言はぬかといへば、其は、秋祭りには、祭りの最古い意味があるが、冬祭りは、少し意味が違つて居るからである。

     五

私の考へでは、一夜の中に、秋祭り・冬祭り・春祭りが、続いて行はれたものであつて、歳の窮キハマつた日の宵の中に、秋祭りが行はれ、夜中に冬祭りが行はれ、明け方に春祭りが行はれるのである。

そして、続いて、初春の行事が行はれる、といふ順序である。此が後に、太陰暦が輸入せられてから、秋・冬・春といふ暦法上の秋・冬・春が当て篏められて、秋祭り・冬祭り・春祭りとなり、更に其中へ夏祭りが、割り込んで来たものと思ふ。

冬祭りとは何かと言ふと、歳、窮つた時期に、神がやつて来て、今年の出来たものを受けて、報告を聞き、家の主人の齢を祝福し、健康の寿ぎをする所の、祭りを言ふのである。古い書物を見ると、秋祭りの晩には、尊い方がやつて来られた事が、書いてある。神の来られた事を忘れた後には、自分よりも身分の高い人を頼んで、来て貰つて居る。後世の宴席に、又は祭事に当つて、正客の習慣は、遠い昔に、其起原のある事が知れる。即、秋祭りとは、主人より遠来の神に、田畑の成績の報告をする事である。そして冬祭りとは、此秋祭りが済んで、客神マレビトが主人の為に、生命の寿ぎと、健康の祝福とをする事である。同席で行はれても、両者の間には、区別は明らかにある。

此処で「冬」といふ言葉を考へて見る。ふゆは、殖ゆで、分裂する事・分れる事・枝が出る事などいふ意味が、古典に用ゐられてゐる。枝の如く分れて出るものを、取扱ふ行事が、冬の祭りである。ふゆは、又古くは、ふると同じであつた。元来、ふるといふ事は、衝突する事であるが、古くは、密着するといふ意味である。此処から「触れる」といふ意味も出て来る。

日本の古代の考へでは、或時期に、魂が人間の身体に、附着しに来る時があつた。此時期が冬であつた。歳、窮つた時に、外から来る魂を呼んで、身体へ附着させる、謂はゞ、魂の切り替へを行ふ時期が、冬であつた。吾々の祖先の信仰から言ふと、人間の威力の根元は魂で、此強い魂を附けると、人間は威力を生じ、精力を増すのである。

此魂は、外から来るもので、西洋で謂ふ処のまなあである。此魂が来て附着する事を、日本ではふるといふ。そして、魂の附着を司る人々があつた。毎年、冬になると、此魂を呼んで附着させる。すると春から、新しい力を生じて活動する。今から考へると、一生に只一度つければよい訣だが、不安に感じたのでもあらう。毎年繰り返した。新嘗を毎年、繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものだ、との考へである。此復活の信仰は、日本の古代には、強いものであつた。

古代信仰に於ける冬祭りは、外来魂を身に附けるのだから、ふるまつりである。処が後には、此信仰が少し変化して、外来魂が身に附くと同時に、此魂は、元が減らずに分割する、と考へて来た。此意味が、第二義のふゆまつりである。

日本紀の敏達天皇の条を見ると、天皇霊といふ語が見えて居る。此は、天子様としての威力の根元の魂といふ事で、此魂を附けると、天子様としての威力が生ずる。此が、冬祭りである。処が後には、或時期に於て、此魂は分割するのだ、と考へ出して来た。そして分割の魂は、人々に分けてやつた。此分割の一つ/\の魂は、着物を以てしるしとした。一衣一魂として、年の暮に、天子様は、親しく近い人々に、着物を分配してやられた。此を御衣配といふ。天子様以下の人に於ても、やはり、家々の氏ノ上の魂は分割する。其を衣に附けて分配した。此を衣配キヌクバりというた。此が近世まで続いて、武家時代になつても、召し使ひに為着シキせを呉れるといふ習慣があつた。

此魂の分割、衣分配の信仰は、冬祭りの第二義である。此祭りの事を鎮魂式といふのである。たまふり、又はみたまふりといふ。後世になると、たましづめといふ。たましづめといふのは、人間の魂が或時期に於て、游離し易くなるから、其を防ぐ為と、又既に、游離した魂を落ちつかせる為で、此考へ方は、後のものである。支那にも、此に似た行事があつて、鎮魂と謂うて居た処から、日本のたまふりをも鎮魂と訳したのである。その大元は、外来魂を身に附ける事が、第一義。更に、分割の魂を、人々の内身へ入れてやる事。此が、第二義。そして、鎮魂を意味するのが、第三義である。

此鎮魂の行事は、非常に重大なもので、宮廷では、十一月中に、日を卜ひ定めて行うた。処が、たまふりの祭りの中にも、もう一つ違つた祭りがある。それは、魂を附着する、といふ意味の理会が変つて、目下の者が、自分の主人又は、長上の人に服従を誓ふ為に、自分の魂の主要なものを、相手の長上なり、主人なりに献上して了ふといふ祭りである。それで主人或は、目上の人は、元来の自分の魂と、目下が持つて来て奉つた魂とを合せて持つ事になるから、上位の人となる。此行事がやはり、天子様の御代初めに行はれた。其が又、新嘗の如く、毎年繰り返される事になつた。此行事も亦、みたまふりの一の意味である。

上述の如く、生きて居る人が、自分の魂の大部分を、長上に奉る事をみつぎといひ、目下が献つた数多の魂と、元来天子様の持つて居られる魂とを一処にして、其を分割して臣下が頂くのをば、みたまのふゆといふ。そして、此為の行事即、祭りの事をみたまのふゆ祭りといふ。結局冬祭りは、魂分割の祭りで、年の暮には、此魂の切り替へに関する行事が、いろ/\と行はれた。後世になると、年に二度、盆と年の暮れとに行はれた。更に其が、盆と正月とに行はれる事になつた。

元来、冬祭りと秋祭りとは、引続いて一日の中に行はれたのであつたが、漸次分れて来て、秋祭りを十一月、冬祭りを十二月に行ふ様になつた。かうなつて来てからは、十一月に行はれるのをば鎮魂祭といひ、十二月に行はれるのを、普通には御神楽といひ、内侍所の御神楽ともいふ。此二つは共に、鎮魂祭である。十一月の方の祭りは、元来日本にあるみたまふりの祭りで、十二月の方のは、後に、宮中へ這入つて来た処の鎮魂ミタマシヅメの祭りである。

天子様に、下から魂を差し上げる時期は、大体に於て、冬の祭りと一定して居つたが、後には、春行はれることになつた。併し、処によると、違つた時期にも差し上げた。此は、国や家によつて、違つてゐるのである。譬へば、出雲の国造家では、国造の代替りには、其年と、其年の翌年と、引続いて二度、京都へ出て来て、天子様に魂を奉る儀式をした。

     六

前にも言うた通り、宮廷の鎮魂式には、三通りある。

一、猿女の鎮魂  鈿女の鎮魂法の事をいふ。高天原伝来のもの。
二、物部の鎮魂  物部氏に伝来されて居る処の石ノ上鎮魂法。
三、安曇の鎮魂  奈良朝の少し前、宮廷へ這入つた、と見るべき鎮魂法。


此三つの中、猿女鎮魂と、石ノ上鎮魂とは、合体して了うた。最後に這入つた処の、阿曇アヅミの鎮魂式は、海人部の者が取扱つたもので、此は、特殊な面白味があつたので、日本元来のみたまふりとは異つた待遇を受けて、十二月に行はれる事になつた。古来の日本流のがみたまふりで、阿曇のは、たましづめの意義が、主なる要素をなして居る。外来魂を身に附けるのが、古い意義の、日本伝来のみたまふりで、魂の発散を防止し、且既に、発散した魂をして、鎮まらせる。此が、阿曇のたましづめ即、御神楽である。

とにかく、鎮魂式といふのは、群臣から天子様に、魂を差し上げる事だ、とわかればよい。同時に、冬というても、時代によつては、十月の事でもあり、十一月の事でもあり、又十二月の事でもあつた、といふ事を承知してかゝらねばならぬ。

此鎮魂を行ふと、天子様はえらくなる。併し、かうした行事を毎年やるのは、どうした事か。一代に一度やれば、よろしいのであるが、昔の人は、魂は一年間活動すると、もう疲れて役に立たなくなる、と考へて居たから、毎年やるのである。毎年々々、新しく復活して来ねばならぬ、と考へて居つたからである。

恐れ多い事であるが、昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た。天子様の御身体の事を、すめみまのみことと申し上げて居た。みまは本来、肉体を申し上げる名称で、御身体といふ事である。尊い御子孫の意味であるとされたのは、後の考へ方である。すめは、神聖を表す詞で、すめ神のすめと同様である。すめ神と申す神様は、何も別に、皇室に関係のある神と申す意味ではない。単に、神聖といふ意味である。此非常な敬語が、天子様や皇族の方を専、申し上げる様になつて来たのである。此すめみまの命に、天皇霊が這入つて、そこで、天子様はえらい御方となられるのである。其を奈良朝頃の合理観から考へて、尊い御子孫、という風に解釈して来て居るが、ほんとうは、御身体といふ事である。魂の這入る御身体といふ事である。

此すめみまの命である御身体即、肉体は、生死があるが、此肉体を充す処の魂は、終始一貫して不変である。故に譬ひ、肉体は変つても、此魂が這入ると、全く同一な天子様となるのである。出雲の国造家では、親が死ぬと、喪がなくて、直に其子が立つて、国造となる。肉体の死によつて、国造たる魂は、何の変化も受けないのである。

天子様に於ても、同様である。天皇魂は、唯一つである。此魂を持つて居られる御方の事を、日の神子ミコといふ。そして、此日の神子ミコとなるべき御方の事を、日つぎのみこといふ。日つぎの皇子とは、皇太子と限定された方を申し上げる語ではない。天子様御一代には、日つぎのみこ様は、幾人もお在りなされる。そして、皇太子様の事をば、みこのみことと申し上げたのである。

天子様が崩御なされて、次の天子様がお立ちになる間に、おほみものおもひ(大喪)といふのがある。此時期は、日本に於ては、日つぎのみこの中のお一方が、日の御子(天子様)となる為の資格を完成する時、と見る事が出来る。祝詞や、古い文章を見ると、「天のみかげ・日のみかげ」などゝいふ詞がある。此詞は普通には、天子様のお家の屋根の意味だ、と云はれて居るが、宮殿の奥深い所といふ事である。そこに、天子様はおいでになるのである。此は、天日に身体を当てると、魂が駄目になる、といふ信仰である。天子様となる為の資格を完成するには、外の日に身体をさらしてはならない。先帝が崩御なされて、次帝が天子としての資格を得る為には、此物忌みをせねばならぬ。此物忌みの期間を斥して、喪といふのである。喪と書くのは、支那風を模倣しての事で、日本のは「裳」或は「襲」であらうと思ふ。

大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちやんと御寝所が設けられてあつて、蓐・衾がある。褥を置いて、掛け布団や、枕も備へられてある。此は、日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此御寝所に引き籠つて、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂ミタマフリの行事である。此処に設けられて居る衾は、魂が身体へ這入るまで、引籠つて居る為のものである。裳といふのは、裾を長く引いたもので、今の様な短いものゝみをいうては居ない。敷裳などゝいうて、着物の形に造つて置いたのもある。此期間中を「喪」といふのである。

或人は、此お寝床の事を、先帝の亡き御身体の形だといふが、其はよくない。死人を忌む古代信仰から見ても、よろしくない。猶亦、或人は、此が高御座だといふが、此もよくない。高御座に枕を置いたり、布団をおく筈はない。高御座は、天子様がお立ちになつて、祝詞を申される場所であつて、決してお寝になる場所ではない。此処では、何も、ものを仰せあらせないから、高御座と考へる事は出来ぬ。
古代日本の考へ方によれば、血統上では、先帝から今上天皇が、皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫で居られる。御身体は御一代毎に変るが、魂は不変である。すめみまの命といふ詞は、決して、天照大神の末の子孫の方々といふ意味ではなく、御孫といふ事である。天照大神との御関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。

此重大な復活鎮魂が、毎年繰り返されるので、神今食・新嘗祭にも、褥が設けられたりする事になる。大嘗祭と、同一な様式で設けられる。復活を完全にせられる為である。日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲衾マドコオフスマと申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此真床襲衾マドコオフスマこそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすがともなり、皇太子ヒツギノミコの物忌みの生活を考へるよすがともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。此は、日本紀の話であるが、此を毎年の行事でいへば、新嘗祭が済んだ後、直に鎮魂祭が行はれ、其がすんで、元旦の四方拝朝賀式が行はれる。だが此は、元は、一夜の中に一続きに行はれたもので、秋祭りの新嘗祭と、冬祭りの鎮魂祭即、真床襲衾から出て来られ、やがて高御座にお昇りなされて、仰せ言を下される。此らの事は元来、一続きに行はれたのであるが、暦法の変化で、分離して行はれる様になつたのである。

日嗣ぎの皇子ミコが、日の皇子(天子様)におなりなされると、天子様としての仰せ言が下る。すると、群臣は天子様に対して、寿言ヨゴトを申し上げる。寿言の正確な意味は、齢を祝福申し上げる、といふ処にある。すめみまの命の御身体に、天子霊が完全に這入つてから、群臣が寿言を申すのだ。寿言を申すのは即、魂を天子様に献上する意味である。群臣等は、自分の魂の根源を、天子様に差し上げて了ふのだ。此程、完全無欠な服従の誓ひは、日本には無い。寿言を申し上げると、其語について、魂は天子様の御身に附くのである。

天子様は倭を治めるには、倭の魂を御身体に、お附けにならなければならない。譬へば、にぎはやひの命が、ながすね彦の方に居た間は、神武天皇は戦にお負けなされた。処が、此にぎはやひの命が、ながすね彦を放れて、神武天皇についたので、長髓彦はけもなく負けた。此話の中のにぎはやひの命は、即、倭の魂である。此魂を身に附けたものが、倭を治める資格を得た事になる。

此大和の魂を取扱つたのは、物部氏である。ものとは、魂といふ事で、平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には、鬼の字を、ものといふ語にあてゝ居る。物部氏は、天子様の御身体に、此倭を治める魂を、附着せしむる行事をした。此が、猿女鎮魂以外に、石イソノ上カミの鎮魂がある所以である。

此処で、猿女の鎮魂式を考へて見る。さうすると、日本人の生死観がよく訣る。元来、日本の古い信仰では、生と死との区別は、不明瞭なものであつた。人が死んでも、魂をよび戻せば生きかへる、と思うてゐた。そして、どうしても魂がかへらぬとあきらめるまでは、略ほぼ一年間かゝつた。此一年の間は、生死不明の時期で、古い文献を見ると、殯宮モガリノミヤ、又はあらきの宮と言うて居るが、此は此魂を附着せしめようとして居る間の、信仰行事を斥していふのである。御陵を造つて居る間が殯宮だ、といふ考へは、後の考へ方で、支那の考へが這入つて来て居る。
殯宮の間に於ける天子様を、大行天皇と申上げて居る。此も亦、支那流の考へが混つて居る。此期間中は、生死不明であると共に、日つぎの皇子が、裳(襲)に籠つて居られる期間である。

猿女鎮魂の起原ともいふべきは、天ノ岩戸の一条の話である。天照大神は、天ノ岩戸に籠られた。そして、天ノ鈿女命は、盛んなる鎮魂術をやつた。それで、一度発散した天照大神の魂は、戻つて来て、大神は復活した。魂を附着せしむるといふ事は、直に死を意味するものとはならない。此処から考へても、あの大嘗祭の時の蓐の行事が、真に死骸だと考へる事は出来ぬ。

此蓐の行事の、毎年繰り返されるのが、神今食・新嘗祭などの蓐である。蓐に籠る度数が、多ければ多いだけ、威力を増す、といふ考へである。こんな考へ方からして、天子様は、御一代の間に、毎年新嘗をせられて復活されるのである。そして、毎年復活して、新しい威力ある御身体を以て、高御座にお昇りなされて、祝詞を下されるのである。

     七

此処で春の祭りの話をする。春の祭りは、大嘗祭と、即位式と、四方拝と、もう一つ朝賀式とを兼ねたもので、正月の元日から三日の間に行はれるのである。

大宝令――詳しくは養老令――を見ると、五つの詔書々式が残つて居る。其中の主なものは二つで、此は、外国に対しての詔書々式で、他の三つは、国内に対してのものである。此は、大・中・小の三つに分れて居るが、大体から見て、内・外は対をなして居るもの、と見る事が出来る。

内国に対する詔書中、大きな事に用ゐられる書式は、最初の書き出しの言葉に、

明神御大八洲天皇詔旨アキツミカミトオホヤシマグニシロシメススメラガオホミコト……咸聞モロ/\キコシメセトノル

といふ詞を、此書式の詔書のはじめに、据ゑねばならぬ。次に、外国即、朝鮮に対しての詔書には、同じく養老令を見ると、大八洲天皇詔旨の代りに、御宇日本天皇詔旨と書いて居る。(「高御座」参照。全集第二巻)

斯くの如く、国内に対しては大八洲天皇といひ、外国には御宇日本天皇といふのである。そして此言葉を唱へられる場合は、初春か、又は、即位式の時である。此点から見ても、即位式と、初春とは同一である、といふ事がわかる。

其意味は、大八洲は皆私のものだ、といふ意味である。そして、御宇日本天皇といふのは、此言葉を受ける人は、皆日本の天子様の人民になつて了ふ、といふ信仰上の言葉である。支那に対しては、言へなかつた。朝鮮にのみ用ゐられた。朝鮮の任那の国をば、内屯倉ウチミヤケとよんで居つた。うちみやけは、朝廷の御料を収めて置く処といふ意味である。

初春の詔書の全体の意味は、即位式の詔書の意味と、全く同一である。内屯倉ウチミヤケは、天子様の御言葉の勢力が及んだ証拠で、此大八洲天皇とか、御宇日本天皇とかいふ言葉を聞くと、もう、人々の心も身も、天子様のものになつて了ふ。後にこそ、大八洲・御宇日本と分けて用ゐられて居るが、語の及ぶ効力は同一で、其間に、少しの距たりも無かつたのであらう。即、此語の及ぶ範囲が、天子様の御領土といふ事になる。

日本歴史で、知り得る限りでは、大和国の山辺郡の大倭村が、やまとの本地であつたらしい。其が次第に拡がつて、今吾々の考へて居る程の、広さになつたのであらう。猶日本紀によつて、仮説を樹てゝ見れば、日本の宮廷は、或時期の間、筑紫の方面に栄えられた事を伝へて居る。筑紫の山門ヤマト郡の名称が、神武天皇の大和に入られたのと同時に、ついて来た名称とも考へられる。とにかく、何故に、全国到る所をやまとと言うたかといふと、前に言うた通り、明神御大八洲天皇詔書……咸聞といふ、言葉の勢力が及ぶ範囲、といふ意味である。この信仰を度外視しては、何故に日本全体をやまとと言うたか、といふ事は訣らぬ。戦争で領土が拡まつた、といふ考へのみでは、説明は出来ぬ。

又、続日本紀を見ると、天子様は、御代初めに、何か仰せ言を下される時に、大倭根子何々天皇、と最初に言ひ出される。古事記にも、日本紀にもある。「根子」の古い例は、山背根子・難波根子等である。根子は、神主・君主といふ事である。昔は、神主は即、君主であつた。大倭根子といふと、大倭の地方全体の神事を司る人即、君主といふことになるのである。後には、日本全体の祭主、即君主との意味になつて来た。かうした天子様のお言葉も、古い時代は、口頭で言はれたが、奈良朝頃から、文書に書いてやられる事が行はれた。此を宣命といふ。此宣命が、飛鳥ノ宮の末頃からは、文書の形式が定まる様になり、天皇御即位の年の、春の初めには、必、宣命をお下しなされた。後になつて、御即位の式と、朝賀の式とが分れても、両方共に、仰せられるお言葉は、似たものである。

宮廷の儀式をみると、春の儀式と、即位式と沢山、似た処がある。昔から、即位式と、大嘗祭とは同じだ、といふ学者は、沢山ある。昔は必、同一な者であつたと思ふ。そして、此式が春行はれるものだ、と考へられる様になつた。

さて、春といふ語の本義が、不明である。草木の芽が発する事を「はる」といふ処から言ふのだ、と言はれて居るが、ほんとうの事は訣らぬ。其他、いろ/\と言はれて居るが、不明である。そして、春といふ用語例の、古い処も訣らぬ。何にしても、はるかす・はるく・はるなど考へて見ると、開けるといふ意味があるらしい。

今此処で、民間の春の行事からして、宮廷の春の行事を考へて見る事にする。俳句の歳事記を見ると、逆簑岡見といふ事がある。此は、大晦日の夜、簑を逆に着て、小高い所へ上つて四方を見ると、来年一年の村の吉凶・五穀の豊凶等、万事が見えるといふのである。此風習は、春の前に当つて、山の尾根伝ひに、村を祝福しに来た、神のあつた事を語るものである。

日本では、簑は、人間でないしるしに着るものである。処が、百姓は簑を着るが、此は、五月の神事の風習が便利だから、其神事の風を真似て了うたのである。すさのをの命は、千位置戸を負はせられて、爪をぬかれ、髪を抜かれ、涙も唾も痰も皆とられて、為方が無いから、青草を束ねて簑として、下つたと言うて居るし、奈良朝以前の風習と思ふが、簑を着て人の家に這入ると、這入つた人から、科料を取るといふ事もある。此は、簑は神の着るもので、神が来ると、祓へをしなければならぬから、其入費を科するのである。簑について神が来るので、簑を着て来る人から、入費をとるのである。今でも、民間には、人の家へ簑を着て行く時は、必、外でぬいで這入れ、というて居る。

又、前の岡見の話に還るが、高い山から、里に近い岡の上に神が来て、村人の為に、来年の様子を言うてくれた。此は、大晦日の夜から、明け方にかけてのことである。此風が替つて、今度は里人が神になつて、簑をきて、岡へ上つて行つた。こんな習慣が固定して出来たのである。神のやつてくれたのを、人間がやる様になり、神の祝福の語からして、人間がやつて見ても訣る、といふ風に変つて来たものである。

考へて見ると、ににぎの尊も、山の尾根伝ひに、降臨されて居る。一体、日本へ来られた神々は、皆高い所から、山の尾根伝ひに下つて来られて居る。此信仰上の事実が、今でも国々村々には、ざらに残つて居る。

処で、春といふのは、吾々の生活を原始的な状態に戻さうとする時であつて、其には、除夜の晩から初春にかけて、原始風な信仰行事が、繰り返される事になつて居る。つまり、原始時代に一度あつた事を毎年、春に繰り返すのである。古代の考へでは、暦も一年限りであつた。国の一番始めと、春とは同一である、との信仰である。此事からして、天子様が初春に仰せられる御言葉は、神代の昔、ににぎの尊が仰せられた言葉と、同一である。又、真床襲衾を被られ、其をはねのけて起たれた神事、そして、日の皇子となられた事など、其がつまり、代々の天子様が行はせられる、初春の行事の姿となつて居るのである。

     八

元旦の詔詞は、後には書かれて居るが、元は、天子様御自分で、口づから仰せ出されたものである。だからして、天子様の御言葉は、神の言葉と同一である。神の詞の伝達である。此言葉の事を祝詞ノリトといふ。今神主の唱へる祝詞は、此神の言葉を天子様が伝達する、といふ意味の変化したものである。

のるといふのは、上から下へ命令する事である。上から下へ言ひ下された言葉によつて、すべての行動は規定される。法・憲・制等の文字に相当する意義を持つて居る。祝詞は正式には、天ツ祝詞ノ太祝詞といふのである。のりとは、のりを発する場所の事で、神座の事である。而して、此神座で発する言葉が、祝詞である。「天つ祝詞の太祝詞ごと」とは、神秘な壮大崇高な場所で下された御言葉、といふ事である。此尊い神座の事を高御座といふ。

高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。だから、祝詞を唱へる所は、どこでも高御座となる。そんなら、御即位式の時に昇られる高御座は、何を意味するかといへば、前述の様に、天が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持つて居る所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天のみかどなどいふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持つて居る処、といふ意味である。みかどといふ語が後には、天子様の版図の事にもなるのは、此意味であり、後には、天子様の事をも申し上げる様になつて来て居る。

高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる。かうして、時も、人も、所も、詞も、皆元へかへる。不思議な事に、天上にある土地の名が、其々地上にもある。天の安河原は、天上の土地の名であるが、近江の国にもある。天上に高市タケチがあるかと思へば、倭にも高市郡がある。天上から降つて来た土地だなどいふ伝説も、かうした信仰から出たのである。

天子様は、申すまでもなく、倭の神主であらせられて、神事が多い故に、常に御物忌みをせられなければならぬ。殆ど一年中祭りをして居らせられねばならぬ。此は、信濃の国の諏訪の神主に見ても知れる様に、年中祭りに忙殺されて居る。天子様は、日本中の神事の総元締めで、中々やりきれない。そこで、日本には中臣といふ御言詔持ミコトモチが出来た。此中臣は、天子様と群臣との中間に居て、天子様の御言葉を、群臣に伝達する職のものである。

それから、天子様と、神との中間に在るものを、中天皇ナカツスメラミコトといふ。万葉集には、中皇命と出してある。此中皇命の役に立つものは、多くは、皇女或は后などである。

中臣は主として、天子様の御言葉を伝達するのが、為事であつた。元来なら、天子様が申されるはずの祝詞をも、中臣が代理で申すのだ。だから後には、中臣の詞が、祝詞と云はれる事になつた。今ある祝詞は、平安朝の延喜年間に書きとられたものである。平安朝には、斯様に、固定して居たのであらう。其前には、常に詞章が変化して居た、と見るべきである。後には、中臣の家一軒に定まつて了ひ、且、次第に勢力を得て来た。此は御言葉伝達ミコトモチの職をつとめたからである。

今ある祝詞は、一般に古いものとされて居るが、実は古い種の上に、新しい表現法が加はつて居る。神代ながらのものは無い。奈良朝又は平安朝頃の手加減が加はつて居る。古い姿のまゝでは、訣らなかつたのである。時代々々で理会し易い様に、変へて了ふ。又、故意になさずとも、口伝の間に、自ら誤りが生ずる。祝詞の中では、何の事か訣らなくなつて、手のつけようのなかつたと思はれる部分が、古いものである。天つ神の言葉とされて居るのを、天子様が高御座で唱へられるのが、古い意味の祝詞である。中臣の手に移つてからは、祝詞の価値は下つて了うた。

奈良朝の少し前頃から、地方の神々が、朝廷から良い待遇を受けて居る。平安朝では、地方の神々に、位を授けて居る。朝廷の神は別として、それ以外の地方神は、精霊の成り上りで、天子様よりは、位が下の筈である。だから、天子様から位を授けられるのも、尤な事である。併し、位を授けられてからは、漸次地位が高くなつて来て、遂には天子様と同じ程の位のものにも考へられて来た。其で地方神に申される言葉が、対等の言葉づかひで申される様になつて来た。処が、伊勢の天照大神に対しては、天子様の方が、下位に立たれて居る。だから、天子様が伊勢の大神に申される御言葉は、元来寿言ヨゴトの性質のものである。だが、延喜式では、前者も後者も等しく、祝詞と称して居る。

かうした訣で、祝詞には、今日から見れば、種々の意味があるが、ほんとうは天子様が、高御座で仰せ出されるのが、祝詞である。祝詞の中では、春の初めのが、一番大切である。古くは、大嘗祭の後に、天子様の即位式があつた。昔は、即位式といつて、別にあつた訣ではない。真床襲衾からお出になられて、祝詞を唱へられると、即、春となるのである。

元来、大嘗祭と、即位式と、朝賀の式とは、一続きである。其間に於て、四方拝といふのは、元来は、天子様が高御座から、臣下や神に対して、お言葉を下される事を斥して、言うたのであつたが、後に、支那の道教の考への影響を受けて、天子四方を拝すといふ様になつて了うた。

     九

此処で大嘗祭に奏上される寿詞に就て言うて見る。

寿詞とは服従を誓ふ時に、即、自分の守り魂を奉る時に、唱へる言葉である。此は国々に伝はつて居る物語と、同様なものである。後には変化して、宮廷と自分等の氏々、又は、国々との関係の、初めを説く様になつた。其で、宮中に仕へて居る役人等は、自分の職業の本縁・来歴を説く物語を申し上げる。朝廷に直接に、仕へて居る役人のみでなく、地方官・豪族の首長、又、氏々の長なども、地方を又は、氏々を代表して、寿詞を申し上げる。此事は、近世まで、初春の行事に、其儀を留めて居る。一年に二度行はれたらしい様子も、盆の行事に、其名残りが見えて居る。今日民間でも、初春に「おめでたう」といふのは、おめでたく今年一年間いらせられまする様に、といふ寿詞の最大事な部分が、単純化されたものである。此を言ふのが、即、服従を誓ふ所以である。

処が、初代から、朝廷に仕へて来た人々の寿詞と、国々で申し上げる寿詞とは、性質が違うて居る。初代からのものは、自分の職業の神聖なる所以と、来歴とを説くし、国々のは、天子様に服従した来歴・関係を物語るのである。譬へば、天孫降臨の時に、ににぎの尊がつれて来られた、五ノ伴ノ緒の子孫等の申される寿詞は、古いものであるが、朝廷と国々との関係を申し上げる物語は、新しい寿詞である。此寿詞をば、大嘗祭・即位式・元旦此三つの場合に申されるのである。後には、春と大嘗祭との二度、代表者で、間に合せる事になつた。

元旦の朝賀の式に、天子様が祝詞を下される式は、奈良朝には既に、陰に隠れて了うて、群臣が寿詞を申し上げに出る式のみとなつた。此は、物部とか、蘇我とか、大伴とかいふ、高い氏の代表者が出て、申し上げるのであつた。処が、大嘗祭の時には、中臣氏が代表して、寿詞を申し上げるのである。即、自分の家の職業を申し、天寿を祝福して、百官を代表するのである。同時に、諸国の寿詞が奉られるが、此諸国の寿詞の話は、後に言ふ事にして、此処では、中臣の寿詞の話をする。
後世では、大嘗祭の第二日目の辰の日の卯の刻に、中臣ノ天神ノ寿詞を奏上する。天子様は、此より少しまへに、悠紀殿へ御出御になり、つゞいて皇太子・群臣が着座する。そこへ神祇官の中臣が、榊の枝を笏に取り添へて、南門から這入つて、定座に着いて、寿詞を申し上げる。即位式にも、全く此と同様な事を行ふ。此から見ても、即位式と大嘗祭とは同一であると言へる。

では、中臣ノ天神ノ寿詞とは何かといふと、全く中臣の寿詞で、天つ神の寿詞ではない。元来、この寿詞は、藤原頼長の台記の中に書きとられたのが、残つたものである。康治元年に、近衛天皇が、即位式を挙げられた時に用ゐられたのを、書きとつたものである。実に、偶然な幸ひであつた。

寿詞の大体の意味は、次の如くである。

中臣の遠つみ祖である処のあめのこやねの命、皇御孫尊にお仕へ申してあめのおしくもねの命をして、二上山に登らしめて、其処で、天神にお尋ね申さしめられるには、皇御孫尊に差し上げる御膳の水は、如何致したらよろしうございますか、と申された。すると、天神の教へ諭されるには、其は、人間界の水と、天上の水とを一処にして、差し上げねばならぬ。あめのおしくもねの命は又、お尋ねした。然らば、其を得るには、如何致したらよろしうございますか、と問ふと、天神は、玉串をお授けになつて、言はるゝ事に、此玉串を地上に立てゝ、夕日の時から、朝日の照り栄える時まで、天つ祝詞と太祝詞を申せ。かく申せば、その祝詞の効力に依つて、直に兆象が顕れる。そして若蒜が五百個、篁の如く生える。そこを掘つて見ると、天の八井が湧く。その水をとつて奉れ、と教へられた。だから、此をおあがりなさいませといふ。

つまり、中臣としての聖職の歴史を申し上げるのである。此縁故・来歴によつて、悠紀・主基の地方の米に、天つ水をまぜて、御飯を炊き、お酒をこしらへて、天皇に差し上げる。此をお召しあがりなされると、天子様は健康を増し、弥栄えに栄えられるのである。

中臣家は、水の事を司る家筋である。だから、天子様の御湯殿にも、仕へる。そこからして、后が出る事にもなる。つまり中臣は、水の魂を天子様に差し上げる聖職の家である。言ひ換へれば、中臣の家は、水の魂によつて生活して居る家筋である。其故、水の魂を、天子様に差し上げるといふ事は、自分の魂を差し上げる事になる。中臣は、群臣を代表して居るから、他の臣たちのも、此意味で、各々の家筋の魂を天子様に奉る事になる。昔は、神事と家系とは、切り離す事の出来ぬ、深い/\関係があつたのである。

譬へば、大伴家にしても、本来は、宮廷の御門を守つた家筋である。一体「伴」といふのは、何にてもあれ、宮廷に属して居るものをいふ語であつて、大伴は御門の番人である。記・紀を見ると、門の神をば、大苫部と言うて居る処がある。大苫部と大伴部とはおなじで、門をお預りして居る役人といふ事である。後世は、かういふ職の役人も増して来て、物部の家筋の者も、御門の番人となつて来た。そこで、門部の発達をも見る様になつた。平安朝では、大伴は単に、伴というて居る。

大嘗祭の時に、悠紀・主基の御殿の垣を守る為に、伴部の人と、門部の人とが出る。此は両者同一な役を勤めるが、元来は、異つた系統の者である。此等の御門の番人は、元来は或呪言を以て、外来の悪い魂を退けたのである。此等の家筋の頭をば、伴造と云ひ、其部下の者をば、伴部又は部曲というて居る。此頭即、伴造は、種々あるが、神主の地位に居たのであつた。神主たる職業を以て、天子様に仕へて居た。此者達が、後には官吏化して、近衛・衛門・兵衛等の職が出来た。此等は、大伴部・門部・物部等が、元来の家筋を離れて、官吏化して出来たものである。平安朝にはもう、むちやくちやになつて、庭掃きの者に至るまで「殿守の伴のみやつこ」などゝ言ふ様になつて了うた。だが、大嘗祭の時には、昔の形を復活して、大伴部・門部・物部等の人々の代表を、官人から任命して、御門警衛の任に用ゐられた。

     一〇

次には、大嘗祭の時の、御所の警衛の話をして見る。

一体、物部といふ語には、固有名詞としての意味と、普通名詞としての意味とがある。八十物部(八十武夫)といふ様に、此部に属する者は、沢山あつた。物部も、其中の一つである。広く言へば、魂を追ひ退けたり、ひつつけたりする処の部曲が、物部である。大伴が代表者となつたのは、大倭の魂を取り扱つたからである。大嘗祭の時に、物部の任務が重大視されるのも、此故である。物部氏が、本流は亡びたが、石イソノ上カミ氏が栄えてゐて、大嘗祭の時に、大切な御門の固めをした。門の処に、楯と矛とを樹てゝ、外敵を差し止める事をした。此楯を立てゝ、宮廷を守る事を歌つたのが、万葉集巻一に出てゐる。

健男マスラヲの鞆トモの音すなり。物部モノノフの大臣オホマヘツギミ楯立つらしも(元明天皇御製)

此歌に和せられたのが、

我が大君。物な思ほし。尊神スメガミのつぎて給へる君なけなくに(御名部皇女)

此御製は、大嘗祭の時に、物部の首長が、楯を立てる儀式をしてゐる様子を歌はれた、即興の歌である。和せられた方のは、天皇が何か考へて居られるを見てとつて「何もそんなに、お考へなさらずとも、いゝではありませんか。あなた様は、尊い神様が、順次にお立てになつた所の、尊い御方ですもの」との意である。

大嘗祭などの重大な儀式に当つて、楯を立てるのは、悪い魂が邪魔をすると、それを物部が追ひ払ふ為である。口では、呪言を唱へて、追ひ払ふ事をするが、具体的には、此楯を立てる。又、矛をも振り、弓をも鳴らす。かうして、宮廷の御門を固めるのみではなくて、海道四方の関所を固めた。日本の三関といはれて居る所の逢坂・不破・鈴鹿などは、何れも固められた。全く宮殿の御門を固めるのと同一な考へからやるのである。

さて、大嘗宮は、柴垣の中に、悠紀・主基の二殿を拵へてあつて、南北に門がある。天子様は、まづ悠紀殿へ出御なされて、其所の式をすませ、次に主基殿へお出でなされる。古来の習慣から見ると、悠紀殿が主で、主基殿は第二義の様である。すきは、次といふ意だと言はれて居る。悠紀のゆは斎む・いむなどの意のゆで、きは何か訣らぬ。そして、ゆき・すきとなぜ二つこしらへるのか、其も訣らぬ。だが、大体に於て、推定は出来る。

日本全国を二つに分けて、代表者として、二国を撰定し、其二国から、大嘗祭に必要な品物をすべて、持つて来させて、この二殿で、天子様が御祭りをなされる。昔は或は、宮廷の領分の国の数だけ、悠紀・主基に相当する御殿を建てたものかも知れぬ。そして、天子様が大きなお祭りをせられたのかも知れぬ。そして、此御祭りの中に、いろ/\の信仰行事が取り込まれて来て、天子様の復活祭をも行はれる様になつたのであらうと思ふ。

天子様は、悠紀・主基の二殿の中に、御蓐を設けられるのは、何時の頃からか、よく考へて見ると、何も左様な褥の設けられねばならぬ、といふ理由はない。悠紀殿・主基殿の二个所で、復活なされる必要はない。大嘗宮の外に、復活式をせられる場所がなければならぬ。悠紀殿・主基殿へ出御なさるのは、新嘗を御うけなされる為であらう。

大嘗祭の時には、廻立殿をお建てになるが、恐らく此が、天子様の御物忌みの為の御殿ではなかつたか、と考へられる。此宮でなされる復活の行事が、何時の間にか、悠紀・主基の両殿の方へも移つて行つて、幾度も此復活の式をなさる様になつたのであらう。次に、風俗と語部の話をして見たい。

     一一

昔は、大嘗祭の時には、ゆき・すき二国からして、風俗歌が奉られた。平安朝の頃は、其国の古歌を用ゐて居た。後には、其国から出た、古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、都の歌人が代表して歌を作る様になつた。

此風俗歌は、短歌の形式であつて、国風クニフリの歌をいふのである。此国ふりの歌は、其国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふりは、たまふりのふりで、国ふりの歌を奉るといふ事は、天子様に其国の魂を差し上げて、天寿を祝福し、合せて服従を誓ふ所以である。

ふりは、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)にもいひ、歌にもいふ。ふりといふと、此二つを意味するのである。歌をうたつて居ると、天子様に、其歌の中の魂がつき、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)を舞つて居ると、其※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)の中の魂が、天子様に附着する。諸国の稲の魂を、天子様に附着せしめる時に、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)や歌をやる。すると、其稲の魂が、天子様の御身体に附着する。

此魂ふりの歌を、いつでも天子様に申し上げる。其が宮中に残つたのが、記紀のふりの歌である。今残つて居るのは、短い長歌の形をして居る。国風の歌の出発は、呪詞と同様に、諸国の寿詞中から、分裂して出来たもので、つまり、長い呪言中のえきすの部分である。長い物語即、呪言を唱へずとも、此部分だけ唱へると、効果が同様だ、といふ考へである。大嘗祭の歌は、平安朝になると、全く短歌の形になつてゐる。

大嘗祭には、かうして、ふりの歌が奉られて居るが、一方、卯の日の行事を見ると、諸国から、語部が出て来て、諸国の物語を申し上げて居る。平安朝には、七个国の語部が出て来て居る。

美濃  八人    丹波  二人    丹後  二人    但馬  七人
因幡  三人    出雲  四人    淡路  二人

皆で、廿八人である。昔から、此だけであつたかどうか、其は訣らぬ。又、此だけの国が、特別な関係があつての事か、其も訣らぬ。恐らく、或時に行はれた先例があつて、其に倣つて、やつた事であらう。其が又、一つの例を作つて、延喜式には、かう定まつて居たと考へればよい。平安朝以前には、此よりも多くの国々から出たのか、或は、此等の国々が、代表して出たのか、其辺の事もよく訣らぬ。

何処の国にも、語部の後と見るべきものはあるが、正しく其職は伝はらない。語部は、祝詞・寿詞を語るものゝ他に、歴史を語るものもある。奈良朝を中心として、一時は栄えたが、やがては、衰へて了うた。大嘗祭の時に出て来る語部は、ふりの歌の本縁を語るのである。歌には又※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)が附いて居るから、此歌の説明をすると、其由来の古さも感ぜられる。随つて、其歌の来歴も明らかになり、歴史づけられるのである。かうした訣で、大嘗祭には、語部は、歌の説明に来たのである。語部も、もう此辺になると、末期のもので、此から後は、どうなつたかよく訣らぬ。鎌倉や室町の頃になると、もう全く、わからなくなつててゐる。さて、国風の歌は奉らなくなつても、語部は出て来て居る。そして、風俗歌を出したのは、悠紀・主基二国だけである。

此国風の中で、一種特別なものが、東歌であつて、即すなはち東の風俗である。不思議な事に、此東の歌や※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)は、大嘗祭には参加しない。此は、東の国は大嘗祭が固定して了うて後に、天子様の領分になつた国であるからである。東がまだ、日本の国と考へられないうちに、大嘗祭は、日本の生活古典として、固定して了うて居たのだ。吉野の国栖や、薩摩の隼人が歌を奏するのに、東だけがやらぬといふのは、東が新しく領土となつたといふ証拠である。平安朝になつてから、何かの機会にやつと、宮中に奉られたのである。尤此より先に、万葉集には既に、東歌が採られて居る。古今集には、勿論ある。そして東遊び(寿楽)も、宮中へ這入つて居る。此は、何かの儀式の時に、東歌や、東遊びが、宮中で行はれ出したのに違ひない。

東歌が、どんな時に、宮中に這入つたか、略目当てはつく。此は、東の諸国から、荷前の使が行く時に、宮廷で奏したのであらう。即、東の国の稲の魂を持つて行つて、服従を誓うた時の歌が、東歌である。只、大嘗祭が行はれる時期と、東の国で、荷前を奉る時期とが、合つて居た為であらう。

平安朝に入つてから、風俗といへば、主として、悠紀・主基二国のものと考へられては居るが、其は、此二地方が注意にのぼり易く、且繰り返される場合が、多かつた為である。だが、東遊中の風俗歌は、主として、東の国のものが残つて居る処を見ると、風俗といふのは、何も悠紀・主基二国のものと限つて居つたわけでもない。寧、風俗歌は、東が主だと信ぜられて居つたと思はれる。

悠紀・主基の国では、稲穂を中心として、すべての行事が行はれる。稲穂は、神様の取り扱ひを受けて居る。其役員には、男・女共に定められる。女の方では、郡領の娘が造酒子サカツコに定められる。造酒子サカツコは、地位の高い巫女である。男の方は、稲実の君が定められる。此で、酒と米との役人が出来た訣である。――昔の考へでは、酒と米との間に、劃然とした区別はなかつた――それから、造酒子サカツコの下には、酒波さかなみが一人、篩粉コフルヒが一人、共造アヒツクリが二人、多明ためつ酒波が一人あるが、此等は皆、酒に関する巫女である。男子の方は、稲実の君の外に、灰焼一人、採薪四人が定められる。猶、歌女二十人、其他、いろ/\の役割りが定められる。然も、酒の事に仕へるのみかと思ふと、さうではない。山へ行つて、薪や御用の木を伐る時に、一番先に斧を入れたり、又野原へいつて、御用の茅を刈るのも、造酒子サカツコの為事であつた。

此人々は、時期が来ると、稲を積んで都へ上り、土地を選んで、そこへ斎庭を作る。後世は大抵、北野につくられた。そして大嘗祭の前に、大嘗宮へ運んで来る。つまり、此等の人々は、稲の魂を守つて都へ上り、其で酒もこしらへ、御飯も焚きして、其を天子様の御身体に入れる、といふ信仰上の行事を行うた。

稲の魂は、神の考へが生ずる、一時代前の考へ方である。外来魂の考へである。此魂を身につけると、健康になり、農業に関する、すべての権力を得ることにもなる。大嘗祭の中へ、稲穂を入れる時には、警蹕の声をかける。警蹕は、神又は天子様の時でないと、かけない。そして、警蹕のかけ方で、何処の国、何処の誰といふ事が訣つた位である。

警蹕の意味は「尊い神が来た。悪い者よ。そこをどけ」といふ事である。此で見ても、稲穂が大切な尊いものであつた事が知れる。此稲魂の事をば、うかのみたまといふ。うかはうけで、召食メシアガリものといふ事で、酒の方に近い語である。

悠紀・主基の二个国は、何時頃から定められたか訣らぬが、近代は、亀卜で定められる。昔は、何かの方法があつたのであらう。延喜式で見ても、御幣について上る国を以て、其とする様だ。これを国郡卜定と言うて居る。だが、悠紀・主基の国といふのは、大抵、朝廷の近くの国である。そして、東は悠紀・西は主基とされる。御殿もやはり、此様にこしらへる。つまり、大倭朝廷を中心として、其進路の前後を示したのであらう。或は、往き・過ぎの意かも知れぬ。ともかく、悠紀は大和の東南、主基は西北に当つて居る。此二国が定まる前は、新嘗屋が沢山造られて、其をば、天子様は一々廻つて御覧なされた事と思ふ。

悠紀殿・主基殿は、おなじ囲ひの中にあつて、両殿の界は、目隠しだけである。後世は、立蔀を立てゝ拵へられた。立蔀というても、椎の青葉で立てられたもので、此は、昔の青柴垣の形である。南北に御門がある。御殿は、黒木を用ゐる。黒木といふのは、今考へる様に、皮のついたまゝの木といふ事ではなくて、皮をむいて、火に焼いた木の事である。かうすると、強いのである。昔は京都の近くの八瀬の里から、宮殿の材木を奉つた。此を八瀬の黒木というた。後世には、売り物として、市へも出した。此黒木を出すのが、八瀬の人々の職業であつた。とにかく、此は、神秘な山人の奉る木で、此の黒木で造つた御殿の周囲に、青柴垣を拵へたのである。

かうして、尊いお方の御殿を拵へるのに、青柴垣を以てした事は、垂仁記のほむちわけの命の話にも見えて居る。

故、出雲に到りまして、大神を拝み訖ヲへて、還りのぼります時に、肥河の中に黒樔橋クロキノスバシを作り、仮宮を仕へ奉りて、坐マさしめき。こゝに、出雲国造の祖、名は岐比佐都美キヒサツミ、青葉ノ山を餝カザりて、其河下に立てゝ、大御食献らんとする時に、其子詔りたまひつらく、此川下に、青葉の山なせるは、山と見えて、山にあらず。若ケタシ、出雲の石※イハクマ[#「石+囘」、209-14]の曾宮ソノミヤに坐す、葦原色許男アシハラシコヲ大神を以て斎イツく祝ハフリが、大庭か、と問ひ賜ひき。こゝに、御伴につかはさえたる王等、聞き歓び、見喜びて、御子をば、檳榔アヂマサの長穂の宮に坐マせまつりて、駅使を貢上りき。

此話は、ほむちわけの命をして、青葉の山を拵へて、国造の岐比佐都美がお迎へしようとしたのである。即、青葉の山は、尊いお方をお迎へする時の御殿に当るもので、恐らく大嘗祭の青葉の垣と、関係のあるものであらう。かの大嘗祭の垣に、椎の若葉を挿すのも、神迎への様式であらう。尊い天つ神にも、天子様にも、かうするのである。

此、青葉の垣は、北野の斎場では、標の山として立てられる。此は平安朝にはへうのやまと発音されて居るが、其は誤つて音読したからである。本来はしめのやまで、神のしめる標シルシの山といふ事である。神様を此標の山に乗せて、北野から引いて来て、悠紀・主基の御宮にお据ゑ申す。標の山は神の目じるしとしてのものである。だが後には此標の山は、どうなつて了うたかわからぬ。

併し、此標の山の形のものは、近世まで、祭りの時は引き出す。屋台とか、山車ダシとか、お船とかいふ様なものは、此標の山の名残りの形と見る事が出来る。松本の青山様も、此様式のものであらう。

先に引いた垂仁記のは、古い形のものであらう。此が常に、尊い神や、人をお迎へする時に造られたのであつて、大嘗祭にも注意せられたのである。後世、祭りとして、一番「標の山」が用ゐられたのは、夏祭りの標本なる、祇園の祭りである。祇園祭りといふのは、ほんとうは、田植ゑのさなぶりの祭りで、田の神に振舞ひをする祭りであつて、本来は農村の祭りであつた。其が、だん/\と農村から出て、道教の考へと一処になり、怨霊の祟りの考へと一つになつて、御霊の信仰が強くなつた。京都などでは、殊に此考へが盛んになつて、五个処に御霊様を祀つて、御霊会を行ひ、神を慰め、悪事をやめて貰つたのである。こんな風で、後には、悪い事を防ぐ神と信じられて来て、其が仏教と習合して、牛頭天王様であると考へて来たのである。そして、其牛頭天王の垂跡が、すさのをの命だといふ様になつた。すさのをの命は、農業の神だから、直に一処にして了うたのだ。此時も「山」を出し、其山を中心として、祭りを行ふのである。こんな風で、後には、夏祭りには、鉾や山が行はれるやうになつた。

次に天子様の御禊の話をして見る。

     一二

大嘗祭の用意として、十一月は全体、物忌みの月である。これを散斎と言うて居る。其中で、大嘗祭の前二日と、其当日とをば、殊に、致斎と呼ぶ。散斎は割合に自由な物忌みといふ事で、穢れた事や、神事上の絆れた問題には与らない、といふ程の意味である。致斎の方は、昔は絶対な物忌みであつたらうが、令の規定以来、少しく軽くなり、十月の末日と定められて、山城の京都では、加茂川の某地点で、御禊を行はせられた。かうした御禊は、伊勢の斎宮・加茂の斎院を定められる時も、予めなされる。天子様・斎宮・斎院の御禊は、同一な格式でなされる。平安朝になると、音読してごけいと言うて居るが、古くは、みそぎと言うて居る。

此所で、少しく、みそぎ(禊)とはらへ(祓)との区別をいうて見る事にする。
祓へといふのは、穢れ又は、慎しむべき事を冒した場合、又は彼方からして、穢れや慎しむべき事がやつて来て、此方に触れた時に、其を贖ふ為に、自分の持つて居るものを提供して、其穢れを祓ふ事である。神は、此贖ひ物を受けて、其穢れを清めて呉れるのである。元来、祓へは、神事に与る人が、左様にして呉れるから、他動風なものである。自分からするのならはらひであるが、はらへと他動風に昔からいうて居る。

次に、みそぎといふのは、神事に与る為の用意として、予め、身心を浄めておくことである。家でも、神の来べき時には浄める。謂はゞ、みそぎは、家でも身体でも、神に接する為の資格を得る方法である。後世の神道家は、吉事祓へ・悪事祓へと対照して言ふが、元来、吉事に祓へはない筈である。吉事をまつため、迎ふる為の行事は、禊ぎである。其に対して、祓へは悪事を前提として行はれるものである。謂はゞ、祓へは後世の刑罰に当るものである。

宮廷で大祓へというて居られるのは、実は禊ぎであつて、平安朝の初期から、間違うて居る。だが、まづ罪といふ事を考へて見る。大祓へのうちに、祓ふべき罪・穢れ即、神に対して、慎しむべき事を罪といふ。其中で「天つ罪」といふのは、天上の罪といふ事で、普通にはすさのをの尊が、天上で冒した罪を斥していふ。それから此国で慎しまねばならぬ罪を「国つ罪」といふ。国つ罪の中には、勿論慎しまなければならぬ事のあるのは勿論だが、又さうでなく、何でも無い様なのがある。譬へば、這ふ虫の禍罪ワザハヒ・たかつどりの禍、かういふのがある。此は、鳥や蛇が家に這入つて来たのは、此家が、神の家になつたといふ標で、其故に慎しまねばならぬ、といふ意味である。

奈良朝の頃でも、此禊ぎと祓へとを混用して、両方とも慎しみ、と考へて居る。祓へは、贖罪として、祭りの費用を出す行事であるし、禊ぎはよい事を待ち迎へる為に、予め家又は、身心を清浄に、美しくする行事である。

日本古来の信仰からいふと、一度呪言を唱へると、何でも新しくなる。それで、新嘗祭の新室も、一言呪言を唱へて、其で、新室と信じきつて居つた。其事が、大嘗祭にも行はれ、また米を食べる神今食の時にも行はれる。其を宮廷では、大殿祭といふ。此は、祭りの行はれる前の日の夜明け方に、仮装した神人が、宮廷を浄めて廻る。家を浄める為である。そして其後で、祭りが行はれる。此清浄になつた家、即大殿へ、神様がお出でになると、天子様は御一処に、此処で御飯をおあがりなされる。凡て神様の来られるお祭りは、神様に振舞ふといふ事が、行事の中心になつて居るものである。

大殿祭は、大嘗祭の時にもあるのであるが、此は、悠紀殿・主基殿が出来ると、直に早く行はれる故に、隠れて見えないのである。此大殿祭の間、天子様は御身浄めの為に、御湯殿へ御這入りになつて居られる。つまり、天子様は、禊ぎをして居られる訣である。

神の祭りの時に、一番初めに出て来る人は、御馳走を享けられる神ではなくて、御殿を浄める為の神人である。此浄めの為に来る人々を、平安朝の考へでは、山人だとされて居る。山人は、山の神に仕へる神人である。本来は山の神が自ら来て、御殿を清めて呉れた、と考へて居るのである。此清浄にされた御殿へ客人神マレビトカミが来て、天子様と御一処に、御飯を召し上るのである。此御殿を清める時の詞を、延喜式によれば、大殿祭祝詞というて居る。

ほかひといふのは、祝福すること、又は其詞、或は動作などをくるめていふのである。此言葉を祝詞というたのは、平安朝の事で、元来は鎮詞イハヒゴト、又は鎮護詞イハヒゴトなどゝいふべき詞である。其語の性質から見ても、仲間の親分が、子分に申し聞かせ、又は相談する様な物言ひぶりである。「かうだから、お互ひに、かうしようぞ」といふ意味が、主要な部分である。上から下への、のるではない。
かうして見ると、山の神は、土地の精霊の代理者で、同じ仲間の者同志である、其精霊の代理者が、精霊を鎮まらせるのである。さて、此いはひごとが済んだ後で、本式な祭りが行はれるのである。

大嘗祭の時は、大殿祭は既に済んで居るので、卯の日には、其行事が見えないが、お湯へお這入りになる事は、屡行はれる。本来は、此湯へ這入つて居られる時に於て、一方では、御殿のほかひが行はれて居るのである。大嘗宮は、紫宸殿の前で、南に建てられる。東には廻立殿が造られる。そして、紫宸殿から廻立殿への出御は、廊下を渡つてなされる。

廻立殿といふのは、悠紀・主基両殿へお出でになる御用意の為に、設けられた御殿で、いはゞ祭事の為に、お籠りになる御殿である。

此御殿の名称が、何の故に廻立殿とよばれるか、其は訣らぬ。そして、此廻立殿の御儀式は、外部からは、一切訣らぬものにされて居る。廻立殿は、東西五間、南北三間の御殿である。西側三間を、天子様の居られる所とし、東側二間は、竹の簀子にしてある。此所が、茶の湯所となつて居るが、なにか、忌斎の場所らしい。天子様は、大嘗祭の卯の日の儀式にも、始終、この廻立殿へ出御なされる。そして、御湯をお使ひなされる。此処で、此お湯のお話をする事にする。

     一三

湯は斎ユに通ずる音で、古く湯といつたのが、果して、今の吾々の云ふ所の温いものかどうか、一寸疑問である。斎川水といふ事もあつて、此は、天子様の御身体をお浄めになる水で、用水でも、池でも、泉でも、何でも左様にいふのである。だから、斎川といふのは、御禊に使ふ水をいふ事である。此斎川水が段々と変化して、終には湯にまでなつた、と見るべきである。

日本の古い信仰では、初春には、温い水が遠い国から、此国土へ湧き流れて来る、と信じて居つた。そして事実、日本には温泉が多い。こんな事からして、いづる湯についても、神秘な考へを持つて居つた。温泉は、常世の国から、地下を通つて来た温い水で、禊ぎには理想的なもので、そこで、斎川水ユカハミヅとして尊重されたものである。又さうでなくとも、斎川水は温いと信じて居つた。こんな風な信仰から、禊ぎには、温い水を用ゐる様になつた。だから古い書物に、湯とあつても、其は、今日の吾々の考へて居る温湯である、と直ぐに、極めつける事は出来ぬ。

藤原の宮から奈良・飛鳥の宮にかけては、天子様が時々、湯に行かれたり、温泉を求められたりした事が、記・紀・万葉集などには、非常に多く出てゐる。此温泉へ旅行せられるのは、今日の吾々の様に、たゞの遊山や避暑ではなく、御禊の信仰の考へから見ねばならぬ。とにかく、以上いうた様な信仰から、宮廷の斎川水の考へは、温い湯と変つたので、又其を直にゆと申す事になつた。此湯に這入られると、尊い方となられるのである。日本にある処の、天の羽衣伝説は、此禊ぎと深い関係を持つて居る話である。天上から降つた処女が、天の羽衣を脱いで、湯に這入つたら、人間になつてしまつた。又、天の羽衣を奪ふと、人間になる。かういふ筋の話は沢山あるが、此天女の羽衣の話の源をなすものは、丹波の天の真名井マナヰの、七人の天つ処女の伝説である。

天の真名井の話で見ると、七人の天女の中で、羽衣を奪はれた一人の娘が、後には、伊勢の外宮の豊受大神となられた。此七人の天つ処女の縁故で、丹波からは、八処女が、宮廷へも、伊勢へも出て来て、禊ぎの事に奉仕する。不思議なのは、禊ぎに奉仕する処女が、其尊い方の后となられる、習慣の見えて居ることである。だから、或時期の間は、丹波氏の娘が、宮廷へ仕へて、后となつて居る。さうでなくとも、丹波氏の娘の形式をとつて、后となつて居る。

先に申した所の、天の羽衣を脱いだから人間になつて了うた、といふのは誤りで、脱げば、物忌みから解放されたのだから、神人とならねばならぬ筈だ。御禊をせられた尊い方は神であり、羽衣をぬがれた処女は、或任務を果たす為の、巫女である。巫女は神に仕へる、最高な女である。

此処で、話をずつと、後世へ引き下げて言うて見る。汚い話のやうであるが、今より二百年前までは、御湯へ這入る時に、湯具・褌などは、締めたまゝ這入つた。ほんとうは、湯に行く時は、褌を二筋持つて行つた。一筋は締めて居り、一筋は這入る時に締め換へて這入る為の用意である。何の為に、締め換へて這入るのか。此は、陰所を見せては恥づかしい、といふ考へからでは、決してない。

元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである。民間では、褌をするのは、一人前の男になつた時のしるしだと言はれて居る。十五歳になると、褌を締めて、若衆宿へ仲間入りの挨拶に行く。此行事の事を、袴着というて居る。此が、女の方だと、裳着といふ。正式には、男女共に、二回ある筈だ。

第一回は、村の子どもとなる為で、五六歳頃にやる。平安朝頃の貴族たちの仲間でも、やかましく行はれた。源氏物語など見ても、書いてある。次のは、をとこ・をとめになる為の行事としてゞある。我々は、二度の行事をすまさぬと、一人前の男女には、なれなかつたのである。今日では略して、一回だけしか行はぬが、ほんとうは、二回あつた。第一回の時には、お宮参詣マヰリをして、それで子どもになつて、村の小さな神に仕へる資格を得る。子どもが、道祖神のお祭りをするのは、何処にでもある。二回目がすむと、村の産土の神に仕へる資格を得る。此二度の袴着を終つたものを、をとこ・をとめといふ。ふんどしはじめ・ゆもじはじめがすむと、立派な一人前の男女になる。だから、一人前の男女になつてから、初めて褌を締める、ゆもじをするといふのではない。男女になる前提の行事として、此事が行はれるのである。

此物忌みの褌を締めて居る間は、極端なる禁欲生活をせねばならぬ。禁欲というても、今日の我々の考へる様な、鍛錬風な生活ではない。神秘なる霊力をして発散させぬ為の禁欲である。処が或期間、禁欲生活をすると、解放の時が来る。すると、極めて自由になる。此処で初めて、性の解放がある。さうして、此紐を解いて、物忌みから解放されるのが、湯の中である。即、斎川水ユカハミヅの中である。天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけなさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生ずるのである。

昔から、湯の信仰に就ては、わりあひに考へられて居なかつたが、今考へて見ると、不思議な事が多い。譬へば、御湯殿腹などいふ子どもゝある。そして、お湯殿腹の子、というて重んぜられた、傾向がある。さうかと思ふと、又、垢掻き女に子どもが出来るのは当然だ、とも云はれて居る。此等の事は、日本の昔の産湯の話をして見ると、判然として来る。

一体昔は、今の世の乳母の役をする者が、四人あつた。大湯坐オホユヱ・若湯坐ワカユヱ・飯嚼イヒガミ・乳母である。此大湯坐は、主として、産児に産湯をつかはせる役目をする者、つまり湯の中へ、御子をお据ゑ申す役目なのである。若湯坐も同様である。乳母は、乳をのませる者、飯がみは、飯や食物を嚼んで、口うつしに呉れる者である。

まづ御子が産れると、其御子をば、豪族に附托して、養育せしめる。昔でいふと、其家筋を壬生氏といふ。壬生氏は、壬生部といふ団体の宰領である。

此話で名高いのは、反正天皇がお産れになつた時、天皇の為に、河内の丹比氏が、壬生部となつて、御育て申し上げた。其で、丹比の壬生部氏といふのである。御子が生れると、此氏の者の中から、四人の養育係が選定せられる。前にいうた所の、大湯坐・若湯坐は、高い身分の者から出る。大湯坐はつまり、水の神として、禊ぎの御世話をする役目である。御子がお産れになつた時に行はれるのが、第一回の禊ぎである。

此禊ぎをおさせ申して居る一方に於て、氏の上は、天つ寿詞を申して居る。水の魂をして、天子様となるべき尊いお方におつけ申すのだ。水中の女神が出て来て、お子様のお身体に、水の魂をおつけ申して、お育て申す儀式である。だから、壬生部の事を、入部ニフベとも書いて居る。「入」は水に潜る事であつて、水中に這入る事である。それから、大湯坐は主で、若湯坐は附き添への役である。

此第一回の禊ぎの形を、天子様は、毎年初春におやりなされる。生れ替つて、復活する、といふ信仰である。大湯坐は、年をとつた女で、若湯坐は、年の若い者がつとめる。それから事実に徴して見ると、大湯坐は、天子様の后となるし、若湯坐は、皇子の后となる傾きが見えて居る。飛鳥以前の后は、天子様の御家の禊ぎの行事に、奉仕した女がなつた。丹比氏は、元来禊ぎの事を司つた家筋で、宮廷及び伊勢のお宮へ、八処女を奉つて居る。此八処女は、五節の舞姫に関係があるが、其事は後に言ふ事にする。

     一四

日本の昔の語に、天つ罪・国つ罪といふ並立した語のある事は、前に述べた。其天つ罪とは、すさのをの命が、天上で犯された罪で、其罪が此国土にも伝はつて、すべて農業に関する罪とされて居る。つまり、田のなり物を邪魔するのが、此国でいふ処の天つ罪である、とされて居る。だが今では、罪といふ語が、余りに新しい意味の罪悪観念に這入り過ぎて居る様である。天つゝみのつみの語原は、他に無くてはならぬ。

万葉集を見ると、雨障・霖禁・霖忌など書いて、あまつゝみとよませて居る。

あまつゝみ常する君は、久方の きのふの雨に こりにけんかも(巻四)

此歌は、いつも雨つゝみをしてゐるあなたは、昨日の雨で外出が出来ずに、懲りた事でせう、といふ意だとされて居るが、実は男、女の禁欲生活をして居る意味の罪である。

猶、此事を考へるのに、手がゝりとなるのは、景行記に見える次の話である。景行天皇が、美濃の国造の祖神、大根王の娘、兄媛・弟媛を、皇子大碓命をして召し上げさせられた時、大碓命は、媛二人を我ものとしてしまひ、他の娘を奉つた。そこで、天子様はお憤りなされて「つねに、長眼ナガメを経ヘしめ、又婚メしもせず、惚モノオモはしめたまひき」とある。普通には、此ながめのめは男女相合ふ機会の事を言ふから、其間を長く経る事をば、長目を経るといふのだとしてゐる。だが、此ながめは、霖禁に関係がありさうだ。

さて、此ながめ・ながむといふ言葉の意味は、平安朝頃になると、「ぼんやりして何も思はず」といふ位な風になつて居る。もう一つ伊勢物語の例を挙げると、

起きもせず、寝もせで夜をあかしては、春のものとて、ながめくらしつ

此等のながめは長雨で、長雨のふりつゞ頃の、物忌みから出た言葉であらうと思はれる。長雨の物忌み、即、雨のふりつゞくころの、慎しみから出た言葉であらうと思ふ。

かうして考へて来ると、天つ罪は、天上の罪ではない。本義は、五月の田植ゑ時の慎しみ、即、雨つゝみ(雨障・霖禁)である。今でも、処によると、田植ゑ時に夫婦共寝せぬ地方がある。田植ゑの頃は、一年中で一番、長雨のふりつゞく時期であつて、此間は、村の男女は、すつかりと神事関係になつて了うて、男は神、女は巫女となるのである。

四月の頃、女は山に籠つて成女戒を受け、躑躅の花をかざして下りて来て、今年の早処女をつとめる。此は、田植ゑの神事に与る巫女の資格で、田植ゑの終るまで処女の生活をする。此処で考ふべきは、処女生活といふ事であるが、此には三通りあつた。一つはほんとうの処女、此はまだ男を持つた事のない女(一)。次に或期間のみ男に逢はぬ女、即、或期間だけ処女生活をする女(二)。次は床退サりをした女、即、或年齢に達すると、女は夫を去つて、処女生活に入る信仰があつたが、さういふ様な女(三)。此床退りの女は、其以後の生活は、神に仕へるのである。後世のお室様といふのは、此の事をいふのだ。平安朝には床退りした女は、尼となつて仏事に入り、処女生活をしたのである。

さて女は、五月の田植ゑの済むまでは、男を近づけない。男の方でも女に触れない。此期間は男女共に、袴や裳に標を附けて、会ふ事をしない。此間の事をながめをふるといふのである。一軒の家に同居して居ても、会はない。前の、景行天皇の話の、媛をして、長眼を経しめたまふといふのは、媛にお顔を見せながら、霖雨中放つて置いて、性欲的の苦しみをなさしめたといふ事である。其が固定してながめとなり、性欲的な憂鬱からして、ぼんやりして居る事を表す語になつたのである。

平安朝になつてからのながめは、美しい意味に替つて来て了うたので、根本は、性欲的の憂鬱の状態を言ひ表す語である。

五月の物忌みが雨つゝみで、此が天つ罪となるには、すさのをの命が元来、田の神で、其犯された罪を一処にして了うたのだ。すさのをの命は、仏教では牛頭天王にされて居る。悪い方の田の神である。其悪い方の田の神を祀つて、いたづらせぬ様に守つてもらふ所から出た、信仰である。悪い神も祀られると、よい事をするといふ考へ方である。さて、此すさのをの命に対する慎しみが、天つ罪である。其がちようど雨の時の慎しみと、同じ時期に当つて居る。

神は普通には、夜出現するが、田植ゑ時には、昼間出て来る。夏祭り神事の中心は、昼間行はれる。昼間、田を植ゑて居ると、神が来て田を囃してくれる。後世では、田植ゑの前後にのみ囃しをするが、本来は植ゑて居る最中に、囃すのである。後には、囃す田も固定して、はやし田といふ名も出て来て居る。又、田植ゑの初めに囃して、其で、後やらぬ様になつた所もある。此囃しに来る神は、仮装して出て来る。此仮装がやがて、田舞ひを生む。そして田舞ひが、猿楽と合体して、田楽が出来る。男女共に顔を隠して、神の形になつて居る。五月の田植ゑの時は、昼は勿論、夜も神が廻つて歩いて居るから、男女相逢ふことは出来ぬ。だが、さなぶりの時から自由になつて、男女の語ひは許される。

此所で、不思議な誤解が一つある。其は神事が始まれば、物忌みは無い訣であるが、其がある事である。播磨風土記を見ると、田植ゑ女を大勢でかまつて、隠し所を断ち切つたといふ話がある。だから、雨つゝみといふのは、田植ゑの始まる前の、物忌みである事が知れる。其が、いつか田植ゑの済むまで続くものだ、と考へられて来たのである。此は、男の資格を得る為の褌が、いつか褌するのが男の資格だ、と考へられて来たのと、同一である。

ふんどしは、ふもだし・ほだし・しりがひ・おもがひ・とりがひなどゝ同一なもので、又たぶさき・たぶさくなどいふ語も、同一である。たぶさくとは、またふさぐといふ事で、着物の後の方の裾を、股をくゞらして前の方に引き上げて、猿股みたいにする事で、子どもの遊戯にも、今日は廿五日の尻たくり、といつて、此形をする。元来は、人間のふんどしも、馬のふもだしも同一任務のもので、或霊力を発散させぬやうに、制御しておくものである。そして、物忌みの期間が済むと、取り避けるものである。事実朝廷の行事に見ても、物忌みの後、湯殿の中で、天の羽衣をとり外して、そこで神格を得て自由になられ、性欲も解放されて、女に触れても、穢れではない様になられる。

先にもいうたが、大湯坐・若湯坐などが、御子を育てゝ行く間に、湯の中で、若い御子の着物をとりさけて、まづ其御子に触れられるのは、若湯坐である。大湯坐は、前述の如く、御子の父君につかへる。

此みづのをひもを解くと同時に、ほんとうの神格になる。そして、第一に媾あはれるのが、此紐をといた女である。さうして、其人が后になるのである。だが此事は、もう奈良の頃は忘れられて了ひ、此行事以後、御子を育てる所の、乳母の役になつた。さうして、若い乳母即、子守りである人が、お育て申した方の妻となる。其証拠は、うがやふきあへずの尊が、御叔母玉依姫と御夫婦になられた、とあるのをみても訣る。元来、めのとといふ言葉は、妻の弟といふ事で、乳母の弟が、妻になつた事を意味してゐるのである。

不思議な事に、后になられる御方は、水の神の娘、又は水の神に関係の深い女である。かの丹波氏の家筋も、水の神に深い関係を持つて居る。世が下つてからは、丹波氏の資格を以て、藤原氏が禊ぎを司る事になり、其家から后が出た。

一体御湯殿は、平常でも、非常に重ぜられて居た。「御湯殿の上の日記」も、平安朝からのものではあらうが、女の手になつたもので、断篇ながら、参考にはなる。此で見ても、湯棚・湯桁は、神秘な行事の行はれた所である事が、察せられるのである。即、湯棚には天子様の瑞ミヅの緒紐ヲヒモを解く女が居て、天子様の天の羽衣、即ふもだしを解くのである。

話を元へ戻して、大嘗祭第一回に天子様が湯へお這入りになるのは、紫宸殿の近くで行はれるのかと思ふが、正式には廻立殿で行はれたのである。平安朝には既に、行はれなくなつて了うたらうが、太古は必、行はれたのである。此問題は、天の羽衣の話と関係がある。天人の話の天の羽衣と同一で、飛行の衣とする話は、逆に考へられて了うたからである。天子様の、天の羽衣をおぬがせ申し奉るのが、八処女のすべき勤めである。今では、廻立殿から大嘗宮へ行く道に敷かれてある布の事を、天の羽衣と称へて居るが、其は何かの間違ひである。或は、羽衣ではなくて、葉莚ハゴモといふのであらう。此は、延喜式にも、見えて居る。葉莚は、天子様が、お通りなされる時に敷いて、通られると、直に後から巻いて行くものである。其を今では、新しく道を拵へた形であると言うて居る。一寸合理風でほんとうらしいが、やはり誤りである。

天子様はかくして、悠紀殿・主基殿へ行かれるが、其間に、折々お湯にお這入りになられる。とにかく、日本の后の出る根本は、水の神の女で、御子をして、神秘な者にする為事を、司る所から出て居るのである。
次に直会の事をいうて見る。

     一五

直会は、直り合ふ事だと云はれて居るが、字は当て字で、当てになるまい。元来なほるといふ語は、直日の神の「直」と関係のある語で、間違ひのあつた時に、匡正してくれる神が、直日の神だから、延喜式にある所の、天子様の食事の時につかへる最姫・次姫の事から考へて見ねばならぬ。天子様が食事をせられる時に、此最姫・次姫は「とがありともなほびたまへ……」といふ呪言を唱へる。此は、よし、手落ちがあつたとしても、天子様の召し上り物には間違ひのない様に、といふ意味のとなへ言である。普通には、座をかへてものする時に、なほると言うて居る。此は或は、二度食事をする事から出た解釈かも知れぬ。大嘗祭の行事に見ても、一度食事をせられてから、座を易へて、もう一度、自由な態度でお召し上りなされる。此が直らひの式である。つまり、ゆつたりと寛いだ式である。そして、其席上へ出る神も亦、直日の神と言はれて居る。平安朝に入つてからは、直日の神といふのは、宴会の神、又は遊芸の神となつて居るのも、此考へから出たのである。

大嘗祭の直会の時には、大和舞ひが行はれ、田舞ひが行はれ、舞姫の舞ひも行はれる。そして、すべての人は、今までの厳重な物忌みから、開放される。直会ナホラヒは、一口に言へば、精進落ちともいへる。だが、精進とは、仏教の考へから、魚を食はぬ事を斥していふが、本来は、禁欲生活・物忌み生活を言うた語である。
昔は、正式な祭りが済んでも、猶、神が居られた。そして、祭りの後で、豊かな気分で宴席に臨んで、くだけた饗応を享けて帰られたのである。肆宴トヨノアカリ(豊明楽)といふのは、此行事をいふのである。とよのあかりとは、酒を飲んで、真赤な顔になるからだといふが、ほんとうは、よく訣らぬ。ともかく、とよのあかりのうちに、神を満足させて帰す、といふのが本義であらう。

大嘗祭に来られる神は、どんなお方か、よく訣らぬ。天子様は、神を招く主人でいらつしやると同時に、饗宴をなされる神である。つまり、客であり、又神主でもある。神の為事を行ふ人であると同時に、神その者でもある。だから、極点は解らぬ。結局、お一人でお二役つとめなされる様なものである。

他の家々でいふと、新嘗祭の時には、主人よりも格式の上の人を招いて、客になつてもらふ。此は其昔、尊い神が来られた形を見せて居るのである。

次に、五節の舞ひの話をして見る。五節といふのは、五節イツヨの舞ひを舞うたから言うたのではあるまいか。五節イツヨの舞ひは、天子様の寿命を祝福する舞ひで、天子様の禊ぎの時に、竹で御身の丈を計つて、御身の長さだけの処へ標シルシをつける。此を節折ヨヲリと言ふ。折ヲリは繰り返すといふ事で、竹で幾度も/\、繰り返して計る。かうする事は亦、天子様の魂の事と関係がある。平安朝頃までの信仰によると、天子様の魂には、荒世の魂・和世の魂と言うて、二つあつたのである。其で、天子様の御身の丈を竹で計るにも、二度計つたのである。竹で計つて着物を拵へて、其着物を、節折ヨヲリの式に与つた人々に、分配なされる。あらよの御衣ミソ・にぎよの御衣ミソといふのが、此である。

かう考へて来ると、五節の舞ひの時も、実は天子様の御身の丈を、五度繰り返して計つたのではなからうか。さうして、其行事に出る女が、五節の舞姫といふのであつたらうと思はれる。そして五節に出る女は、天子様の食事の事に与つた女である。すると、供饌に与つた女が、衣を進め、節折もし、舞ひも舞うたのである。舞ひを舞ふといふのは、みたまふり(鎮魂)の意味のもので、他の意味ではなかつた事と思ふ。

古く、神服女カムハトリメの舞ひといふ事も見えて居る。此は、着物を取扱ふ女の舞ひといふ事で、後の五節の舞ひと同一である。だから五節舞も神服女舞も同一で、正式には八人で舞うたのだらうと思ふ。神の八処女の事は、前にもいうた。
五節の舞姫の仕へる所を、五節の帳台といふ。そして、五節の帳台の試みといふ事が行はれる。此は、舞姫をして、天子様が、女にせしめる行事である。平安朝頃のものを見ると、舞姫が、何とかかとかいうて、言ひ騒がれて居るのも、此帳台の試みの考へから見ねば訣らぬ。

五節の舞ひがすむと、其後に悠紀・主基両殿の式の名残りとして、国風クニフリの奏歌が行はれる。各其国の国司が、歌人や歌姫を引きつれて行つて、やるのだ。そして、其後に、忌みを落す舞ひがある。此を解斎舞といふ。此がすむと、凡て此祭りに与つた人・神が、皆散らばる形になる。其時も、式に与つた人たちは、お酒や御飯を頂く。それから各人は、忌服をぬいで、散会する。散会の時は、男も女も乱舞して、躍り狂うて帰る。

一体宴会の時は、二度目の食事をすませて、最後の食事の時に、主人側から舞姫が出で、客人側からは、いろ/\の持ち芸が出る。つまり、此は主人に答へる形である。うたげは、打ち上げといふ事で、盛んに手を拍つてやる事である。此乱舞の時に、巡の舞ひというて、正座の客から次第に、下位の客に廻つて行つてやる。

此中に、一つ面白いのは、家の精霊が出て舞ふ形のものがある。滑稽な風をしてやる。此は、今見ても、地方の神社の祭りの時に、滑稽な踊りをするが、皆此精霊の舞ひから出て居るのである。今の民間の宴会は、神事の直会ナホラヒ以後の形をとつてやつて居るのである。

此処で一寸、附け加へて置く。天子様をもてなす役は、藤原氏がやつた。藤原氏の家は、宴会に使用する道具を、大事にして居る。朱器・台盤は、藤原氏の家長が、大切に保存して伝へて居る。此は、藤原氏は、朝廷に仕へて、祭りのある時は、神をもてなす役をして居たからである。客人マレビトをもてなすに大切なのは、道具である。其道具を預つて居るのが、藤原氏であつた。今日でも、民間に、椀貸伝説はいくらも残つて居る。

私は、直会と宴会とを同一だ、とは思はぬ。宴会の方は、客人側が主人に替つて、大いに騒いだものと考へる。大嘗祭に於ける客人の式も、三段に考へられる。

一、供饌の式
二、直会の式
三、宴会ウタゲの式

かうなると思ふ。
たゞ、此間に於て、客が主人になり、主人が客になり、主人か客か訣らぬ様な場合が多い。其は、長い間に於て、其時代々々で、祭りが合理化されて、其に又、種々の説明が加へられて、今日の如くに変化したからである。

ともかくも、大嘗祭は、平安朝に固定して、今日に及んだもの故、神代その儘、そつくりのものとは考へられない。吾々は、其変化のうちに、隠れて居る所を見たいものである。

以上、長々と話しはしたが、極荒筋のものである。今年の十一月に行はれる大嘗祭は、宮内省の方々も緊張して、出来るだけ古の形をとる、といつて居られるから、有り難い大嘗祭を拝める事と思ふ。

大分話が混み入つて、味のない、雑然たるものに終つてしまうた。だが、私の考へは、大体申したつもりである。


底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
※「昭和三年講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c8

コメント [政治・選挙・NHK260] 安倍夫妻の海外出張中を狙ったのか、捜査当局はジャパンライフを家宅捜査:野党は国会で、安倍氏とアベ友詐欺会社の関係を徹底… 赤かぶ
9. 2019年4月27日 17:42:09 : Xdy2BhfMTw : ZXNySDBjVm84Sms=[1]
日本でもとうとう、ディープステートのパシリ犯罪者総理その他の数々の犯罪が 世界に暴露される日が近い気がするなーーー ワクワクするよ。♬
あべちゃんらはビクビクだよねーー
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/164.html#c9
コメント [経世済民132] 財政赤字容認の「現代貨幣理論」を“主流派”がムキになって叩く理由(ダイヤモンド・オンライン) 赤かぶ
13. 2019年4月27日 17:42:48 : jXbiWWJBCA : Rm5WWGpiTzAwU2c=[55]

国民が十分賢く、自律的であれば、超少子高齢化の中で

構造改革とMMTを併用し、投資と生産性を高めることで、

労働力として価値のない高齢者や精神障碍者を含む

多くの貧困層を養いつつ、緊縮不況の罠から抜けることができる

一方、愚かで利己的で、怠惰(依存的)で無責任であれば、MMTにより

目先の狭い既得権や利便性に執着して改革の痛みを先延ばしする


つまり生産力が消費を下回ったとしても、必ず社会保障やゾンビ企業、地方へのバラマキ継続の

ポピュリスト政治家を選び、MMTを誤用して、確実に財政破綻することになる


残念ながら、多くの国では、後者の道を選ぶことが圧倒的に多く

結局、MMTとは関係ない話ではある


http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/283.html#c13

コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
10. 2019年4月27日 17:42:58 : WbwrPHx79g : aTRnSVIwR01qeFE=[1]

支持率が捏造だとか、選挙はムサシマン・サックスのインチキだと書き込むとカルトだとの指摘がある。

しかし、安倍馬鹿党そのものが日本会議を隠れ蓑にした「日本乗っ取り計画」のカルト統一教会であり、
山口ナチオの公明党は「総体革命」で日本の官慮機構等にはびこる悪性腫瘍のカルト創価学会であり、

カルトの手先が事実を指摘する投稿をカルト呼ばわりするということは、限りなく痛いところと言うか、
急所と言うか、真実を暴露しているというか、「大当たり―」「おめでとう!」ということであり、

数多く提訴されている不正選挙裁判を絶対に、猫に小判のように、間違っても話題にしないことから、
とても痛いところを意図的に、恣意的に、わざと避けているというふうに理解したでござんす。

>検索 カルト統一教会 カルト創価学会 報道されない不正選挙裁判


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c10

コメント [政治・選挙・NHK260] 悠仁さまの学校の席に包丁 何者かが侵入か(NHK) 完璧帰趙
4. 2019年4月27日 17:48:45 : 1PQi7uAv3M : UGs1SWdNWnR5a3c=[1]
> 天皇陛下の退位や皇太子さまの即位に伴う一連の儀式を控えていることから、警視庁は警備態勢を強化する

席が、教室内の何所にあるかなど、クラスメートでなければ、分からない。

犯行を行った者は、そのような情報に接することができる階層にいる。

庶民の中には、天皇制に反対する人々がいるけれど、それらにつながる者の犯行では、断じてない。

天皇・オリガークの内部で、権力闘争が激化しているか、天皇制に反対する人々を弾圧するための口実作り、すなわち偽旗作戦の、どちらかだ。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/187.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK260] 日本は米国の臣下だけでは満足せず、中国の臣下にもなろうとしているのか。 (日々雑感) 笑坊
1. 2019年4月27日 17:48:58 : ABsDurX8Ag : NHlNM3c4dUw3NC4=[1]
情けないウヨ評論家、安倍批判出来ず、安倍に派遣され安倍親書を渡しに行った人を批判儲けの薄い評論ビジネスにしがみ付いても、ますます商売が成り立たないだろうhttps://t.co/RpQOD1Ecla— 宋 文洲 (@sohbunshu) 2019年4月26日


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/196.html#c1

コメント [近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
78. 中川隆[-10567] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:49:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1509]

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く 2019/03/01


平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)© SHOGAKUKAN Inc. 提供平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)

 新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *

 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】

 天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


 前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

※SAPIO2019年4月号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E7%A7%98%E5%84%80%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%80%81%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E4%BE%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F/ar-BBUdNGb#page=2

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c78

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
78. 中川隆[-10566] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:49:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1510]

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く 2019/03/01


平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)© SHOGAKUKAN Inc. 提供平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)

 新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *

 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】

 天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


 前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

※SAPIO2019年4月号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E7%A7%98%E5%84%80%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%80%81%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E4%BE%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F/ar-BBUdNGb#page=2

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c78

コメント [近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
9. 中川隆[-10565] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:50:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1511]

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く 2019/03/01


平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)© SHOGAKUKAN Inc. 提供平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)

 新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *

 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】

 天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


 前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

※SAPIO2019年4月号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E7%A7%98%E5%84%80%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%80%81%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E4%BE%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F/ar-BBUdNGb#page=2

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c9

コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
11. 2019年4月27日 17:51:32 : U3tsuS9KfY : MFRpUFpneFNYN0U=[1]
フセイセンキョまでわいてきた。赤かぶだったら非表示にするだろうがスレ主はお仲間だから。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c11
コメント [政治・選挙・NHK260] プーチンに3000億円も献上し物事が後退してしまうって… 室井佑月の「嗚呼、仰ってますが。」(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
33. 赤かぶ[11122] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:52:11 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1185]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/160.html#c33
コメント [政治・選挙・NHK260] しぼむ安倍首相への期待 でも「ネット限定層」は高支持/朝日デジ 仁王像
5. MO[32] gmyCbg 2019年4月27日 17:52:54 : gPlgFlmceY : bk9xRnhoTFE1RS4=[1]
>>2
阿倍サポーターズは関係ない。
ネットができるるのは、金がある人間だけという事。
金がある人間は社会的強者だから、強いものを強くするアベ自民を支持してる。

それから、ネットで世論を動かせるのも、金と教育がある人間だけ。
この層も、確率的に社会的強者だから、強いものを強くするアベ自民を支持してる。

生活保護を受けてたり、ぎりぎりの所得しかなくてネット代払えないとか、
もしくは教育を受けてないため情報の洪水のネットで情報の取捨選択ができないとか、今の日本人の大多数はこういう層だろ。


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/180.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK260] プーチンに3000億円も献上し物事が後退してしまうって… 室井佑月の「嗚呼、仰ってますが。」(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
34. 赤かぶ[11123] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:53:32 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1186]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/160.html#c34
コメント [政治・選挙・NHK260] 怒り!飯塚「不逮捕」以外に5つの理由がある!   赤かぶ
34. 2019年4月27日 17:53:46 : 53wVq7Y1lU : b2dQTGd2Y0RqeHc=[58]
まあ この事件のその後は
他の大きなニュースがあったとき こそっと
報道されるだろう

丁度、加計がこそこそと会見したみたいにね
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/175.html#c34

コメント [政治・選挙・NHK260] プーチンに3000億円も献上し物事が後退してしまうって… 室井佑月の「嗚呼、仰ってますが。」(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
35. 赤かぶ[11124] kNSCqYLU 2019年4月27日 17:54:12 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1187]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/160.html#c35
コメント [経世済民132] 衝撃の日銀リポート 10年後“地銀6割が最終赤字”に怨嗟の声 プロはこう見る 経済ニュースの核心(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
2. 2019年4月27日 17:54:54 : jXbiWWJBCA : Rm5WWGpiTzAwU2c=[56]

>地銀はどうなる?

当然、統廃合により淘汰が進むことが望ましい

斜陽産業とは、そういうものであり

無理に延命させようとすると、全体の崩壊を加速することになる

地方の過剰な医療やインフラなども同じであり

いずれ、避けられないもっと悲惨な事態の予行練習とも言える

>我々に(マイナス金利という)毒を盛っておきながら、早く何とかしないと死んでしまうぞと言っている

そうではない

バブル崩壊後の、経済が成熟・老化した日本の社会・人口・産業構造の変化、

そして冷戦後の新興国の急成長など、世界の金融・経済・労働・貿易・安全保障環境の変化の中で

銀行よりも日本企業(生産力=雇用=国家・財政)の存続を優先し

国民が反対する厳しい改革が放置される中で、経済の崩壊を、何とか阻止するため

金融緩和政策(マイナス金利=円安政策)を継続せざるえない

だから、銀行も、その中で生き残るために努力せよ

ということであり

今の衰退が進む日本(国民)の現状では、ほぼ他に選択の余地はないということだ


http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/289.html#c2

コメント [政治・選挙・NHK260] プーチンに3000億円も献上し物事が後退してしまうって… 室井佑月の「嗚呼、仰ってますが。」(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
36. 空虚[2055] i_OLlQ 2019年4月27日 17:55:28 : Ws8wWaoKsA : WUs0MmlWWS91NzY=[1]
@ >>30 おじゃま一郎 殿

>現金を渡したの?

A >>32 殿

>3000億円、まるで上げたみたいに言うけれど、

口約束だからね。これからその保証金を口約束どおり、履行し、正直に

あげる安倍政権とは思えない。

@の金額の出所ネタ元はあのNHKね。

中部新聞引用:「安倍首相、ロシアに3000億円経済協力も領土問題進展なし」
https://japanese.joins.com/article/665/223665.html

そして実態は、出資100%政府の特別銀行を設立し【投資ファンド】を組んだと。

「ロシア直接投資基金との共同投資枠組みの創設」これがその実態。

轄総ロ協力銀行(ホーム)ご参照のこと
https://www.jbic.go.jp/ja/information/press/press-2017/0908-57509.html

ま、一言で云えば政府資金を担保に博打の賭場を開くってこったw。

よって

A 32殿のお考えは外れましたわ(悔しいが)、あのバカもんの口約束は

すでに履行されている過程にありまっせ、ホンマのこと腹立つわ。

ま、これが世に云う【オカルト黒魔術・税金ロンダリング】でんな。

このプロジェクトが、採算割れしようがしまいが政府の出資で成り立つ

民間銀行の投資と云うことで、原発ムラと同様の責任回避システムになるわな。


わかりる?

ややこしおまっけど、今まで政府というものがやってきたことを

知っていれば糞腹立つこってっせ。

ちなみに、このファンドでの失敗は露西亜さんは踏み倒すつもりよw

暗黙に露西亜の熊ぷーの笑顔は、そー云ってまんがなwwwww。


それが、大陸で生き残ってきた常識でんがな。

島国の田舎のオカルト妄想狂には、負えるもんやおまへんがな。

道理として、国家資産のツケは国民に廻ることになる。


ときに、オカルトってキーワード使うと非表示になっちまうの?

かんべんでんがなぁ〜 まんがなぁ〜


http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/160.html#c36

コメント [政治・選挙・NHK260] 全然中立ではないNHK(小笠原誠治の経済ニュースゼミ) 赤かぶ
4. 2019年4月27日 17:59:00 : eQHpkW1P7s : Li5jYUI0RzNET2c=[93]
 NHKはいまだに良識的国民が「政権に寄り過ぎて中立性に問題がある」と批判(非難に近い)しても平然としていられるのは、TV視聴率調査で常に上位にランクされる番組中がかなりの割合を占め続けていることも原因になっているだろう。

 例えば視聴率上位の番組には常にNHKのニュース番組が入っている。よって今でも多くの国民はこの番組=NHKニュースを信頼できると信じている可能性が大きい。

 その他の番組もかなり多くが上位にランクされている。

 これらの多くの普通の国民がNHK番組内容がおかしくなっている、と気づかぬ限り現在の偏った報道姿勢を改めることは難しいと思う。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/193.html#c4

コメント [近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
79. 中川隆[-10564] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:00:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1512]

2019.03.01 SAPIO
「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神(あまてらすおおみかみ)や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *
 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】


天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

【PROFILE】工藤隆●1942年栃木県生まれ。東京大学経済学部卒、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得退学。大東文化大学文学部日本文学科講師・助教授・教授を経て、現職。著書に『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』(中公新書)などがある。

※SAPIO2019年4月号
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c79

コメント [経世済民132] ルノーの日産との統合案判明 持ち株会社方式で〜近く、正式な提案を日産に/日経デジ 仁王像
6. 2019年4月27日 18:00:31 : KyPgZPlu8Y : U0EzUDRXcC5YdzY=[190]
ルノーのライバルはPSAだが、PSAはオトモビル・プジョーとオトモビル・シトロエンを傘下に持つ「持株会社」です。フランス政府はルノーとPSAに出資している。つまり、持株会社方式で日産自動車を支配下に入れるというのは、フランス政府の方針です。両建て戦略です。
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/286.html#c6
コメント [近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
10. 中川隆[-10563] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:00:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1513]

2019.03.01 SAPIO
「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神(あまてらすおおみかみ)や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *
 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】


天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

【PROFILE】工藤隆●1942年栃木県生まれ。東京大学経済学部卒、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得退学。大東文化大学文学部日本文学科講師・助教授・教授を経て、現職。著書に『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』(中公新書)などがある。

※SAPIO2019年4月号
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c10

コメント [昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
79. 中川隆[-10562] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:01:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1514]

2019.03.01 SAPIO
「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html


新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神(あまてらすおおみかみ)や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *
 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】


天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

【PROFILE】工藤隆●1942年栃木県生まれ。東京大学経済学部卒、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得退学。大東文化大学文学部日本文学科講師・助教授・教授を経て、現職。著書に『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』(中公新書)などがある。

※SAPIO2019年4月号
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c79

コメント [政治・選挙・NHK258] 高須院長が〈アウシュビッツは捏造〉ツイートに抗議受け酷い反論! ご意見番扱いするメディアはなぜこの問題を報じないのか  赤かぶ
48. しんのすけ99[387] grWC8YLMgreCrzk5 2019年4月27日 18:02:19 : A4AvZivHZs : WU95VlVYQVVmdmM=[149]
それでは ここにも 結論を書いておきましょうか

あくまでも田中宇氏のサイトは 事実と違う部分があり信憑性はありません(それ元々 有名ですけどね)

要するに 陰謀論かぶれで 自説の都合の良いように事実を捻じ曲げており ソースとしての価値は
ほとんど無いようなものです
____________________________________________

ツンデル裁判とロイヒター・レポート[編集]

元カナダ居住者のエルンスト・ツンデルはサミスダット・パブリッシング (Samisdat Publishing) という出版社を運営し、リチャード・ヴァーラル(本名リチャード・ハーウッド) の著書『本当に600万人も死んだのか?(英語版)』 (Did Six Million Really Die?) といった書物を出版した。1985年、ツンデルは「ホロコーストを否定する書物を配布、出版した」として「虚偽の報道」罪で裁判にかけられ、オンタリオ州地方裁判所によって有罪宣告、15箇月の禁固刑を言い渡された。この事件は大きく注目され、多くの活動家が表現の自由を訴えて、ツンデルの表現の権利を擁護しようと介入し、1992年にカナダ最高裁判所が「虚偽の報道」法は憲法違反だと宣言し、彼の有罪判決は覆された[60]。この裁判で1988年にツンデルが弁護側証拠として米国のフレッド・ロイヒター(en:Fred A. Leuchter)に依頼して作成した「ロイヒター・レポート」は、一般にガス室とされている建造物では技術的な問題からガスによる殺人は不可能であると結論づけている。裁判でロイヒターが証言をしたものの、彼が工学修士ではなく哲学修士であること、ビルケナウのガス室に関する資料を十分に読むことなくレポートを書いていることを指摘され「専門家による証言」とはみなされなかった。1995年5月20日にはツンデル自宅へ爆弾が届く[48]。その後、ツンデルはウェブサイトを立ち上げて主張を宣伝した。このウェブサイトに対する告訴に対して、2002年1月、カナダ人権裁判所はカナダ人権法に違反しているとの判決を下した。2003年2月、アメリカ合衆国移民帰化局はテネシー州において移民法違反の容疑でツンデルを別件逮捕し、数日後カナダに身柄を送還した。そこでツンデルは難民認定を受けようとしたが、ツンデルは2005年1月まで拘留され、11月にドイツで起訴された[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E5%90%A6%E8%AA%8D#%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E5%90%A6%E8%AA%8D%E8%AB%96%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
_____________________________________________

要するに ツンデルの直接の逮捕理由は 田中宇氏ですら認めているように 「入国管理関係の法律違反」
さらに オンタリオ州地方裁判所にかけられた罪状は 「虚偽の報道の罪」 であって 「ホロコーストを否定罪」
なるものでは無い事が ウィキにはハッキリと書かれており 田中氏のサイトは 都合の良いように表現を
変えているだけの事です

さらにこのウィキには
「ホロコースト否認のための研究そのものが法的に禁止されているという事実は無い」

という事実も 明言されており 田中氏の言う事は 事実とかなり違うという事が判るというものです


さらに おまけ 

田中宇氏のサイトは 面白い事は面白いのだが その斬新過ぎる論評に 胡散臭さを感じる人が多数いるのも事実で
「田中宇の論説は どこまで信用できるのか」 なんてスレッドが 2chに立つ事じたいその証と言えましょう

まあ 私自身はここまで辛辣な事言うつもりはなかったのですが参考まで これほどまでに田中氏を
扱き下ろすネットユーザーだって ↓↓↓ 居るという事をお見せしましょう

中東・イスラム世界との対話コミュの田中宇なるネットジャーナリストについて考える
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=3871028&id=37699543

足で稼がない情報と解説の無意味さ--田中宇氏HP
https://blog.goo.ne.jp/mujinatw/e/82690a83f7689a90c673670dce3c6271

評論家の田中宇さんの解説には信憑性がありますか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1095527210

田中宇さんの「ニセ科学」論への安井至さんの批判
https://hymatsuda.hatenablog.com/entry/20070402/1175475595

↑↑↑ 以上 田中宇氏の論説は 信憑性という点で多くの人に疑問を抱かれているのは紛れもない事実で
ちょっとでも胡散臭さを感じた人は ググればいくらでも こんなところは出て来るのですから

田中宇氏のサイトを ソースとして使う事じたい 恥を晒しているようなもので
「オカルト雑誌 ムー」 を 科学誌に書かれているのだぞとかって 持って来るのとほぼ同じ事ですから

(私も 昔は ムーの読者で 80年代90年代は 買って読んだものです さすがにあの1999年以降は
買う事はなくなりましたが、いまでも立ち読みぐらいはしますけどね)

あくまでも 田中宇氏のサイトは 「ああ こういう見方もあるんだな」 という認識で見るべきもので
「ムー」 と同様 ソースとして使うだけの信頼性は ほぼ無いと 言わざるを得ませんから。
http://www.asyura2.com/19/senkyo258/msg/618.html#c48

コメント [政治・選挙・NHK260] 悠仁さまの学校の席に包丁 何者かが侵入か(NHK) 完璧帰趙
5. 2019年4月27日 18:03:00 : 6MZ3f5ndnQ : a1BaMUFPajVZYk0=[1]
これ、警備の内部犯行、もしくは内通者がいるでしょう。ヤバイ話だよ、これ!
だって包丁で無く、爆弾なら殺せるよ。
皇族が脅されてるよ。

警察に指示出せるのは政権中央の者。

安倍か、それに近い者が脅してると考えられるよね。

コエー。レイワが地獄に真っしぐらにしか思えない。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/187.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK260] 全然中立ではないNHK(小笠原誠治の経済ニュースゼミ) 赤かぶ
5. 赤かぶ[11125] kNSCqYLU 2019年4月27日 18:04:20 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1188]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/193.html#c5
コメント [政治・選挙・NHK260] 立憲の支持が低下したのは枝豆が空き缶サックスを迎えたからで、騒ぎ始めた野田豚サックスは論外である。 ポスト米英時代
12. 2019年4月27日 18:04:33 : XIsvNAajdE : U2ouNWk4OUx4N1E=[46]
>11
不正選挙を疑う人に「お前はフセイセンキョだ」と言うと何かいいことあるの?

気持ち良くなるの?
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/189.html#c12

コメント [政治・選挙・NHK260] 全然中立ではないNHK(小笠原誠治の経済ニュースゼミ) 赤かぶ
6. 赤かぶ[11126] kNSCqYLU 2019年4月27日 18:05:15 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1189]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/193.html#c6
コメント [戦争b22] 墜落した空自のF35、どのような戦闘機か うまき
6. MO[33] gmyCbg 2019年4月27日 18:06:13 : gPlgFlmceY : bk9xRnhoTFE1RS4=[2]
コンピュータに依存しすぎると、人間の脳が劣化するという絶好のサンプルだな。
池袋のプリウス事故もそうだけど。俺は、スマホは持たず、電車の定期も磁器定期券
にしてるよ。
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/615.html#c6
コメント [カルト20] 東京・一帯一路、150ヵ国参加。安倍サックスの存在感は永遠のゼロである。 ポスト米英時代
5. 2019年4月27日 18:14:06 : cpsXSc5NUs : OXkuTi55cndLQnc=[1]
Belt & Road Project一帯一路、一進一退で事が進んでいくのではないすっか?

何事も栄枯盛衰!体力勝負のアメリカさんもいつまでも若いんじゃない。散り際があるんす!

13億9000〜人ナンボもいるし、下々には分らんが、いろいろ研究開発をしているみたいだし、消えゆく存在感ゼロのアヘン晋君もおとなになって、🐅おじさんにしたように手もみでもして、‟礼節”をもって、近づいたら?

マハおじさんみたいな人って、へへへと笑いながらの商売人、けっこう、いるタイプだよね。

Face BookのZ君が中国人女性と結婚した時、ああいう世界の人間って、言ってみれば政略結婚みたいもんだなって!
中国人女性って、仕事できそうだしな!分るヨ。
美人が多いし。
http://www.asyura2.com/18/cult20/msg/746.html#c5

コメント [政治・選挙・NHK260] 現代の共産主義は独裁者の道具に過ぎない!  赤かぶ
10. 2019年4月27日 18:17:25 : 1PQi7uAv3M : UGs1SWdNWnR5a3c=[2]
半歩前へは、勉強した方が良い。

共産主義の理論武装を謀ったのは、ユダヤ人だ。(マルクス・エンゲルス)

日露戦争の戦時国債を引き受けた、ユダヤ人金融家ジェイコブ・シフは、同時にロシア革命を、支援した人物だった。

ロシア革命を初め東欧の革命には、多数のユダヤ人たちが参加していた。(多数のロシア人は、現在でも、ユダヤ人を好ましく思っていない。)

ワイマール共和政において、ドイツ人に、反ユダヤ感情を抱かせたのは、ユダヤ人たちで、その意味で、ナチ政権の誕生に寄与した。

そして、そのナチを支援したのは、アングロサクソンの金融であることも、分かっている。

日本の共産党に話を戻せば、宮本顕治は、田布施システムの中の人だ。

世界各地(朝鮮、インドネシア、ラテン・アメリカ諸国)で、共産・社会主義者やシンパの労働者・市民の皆殺し政策を実行してきた、米国が、日本共産党だけ優遇するとは稀有なことだ。(理由は、自分で考えて。)

ラビの教えによれば、ユダヤ人は、自分たち以外のGoyimに、嘘をついても、殺しても良いとされている。(旧約聖書とタルムードは、全く別物である。タルムードの教えは、旧約聖書と何の関係もない。)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/188.html#c10

コメント [政治・選挙・NHK260] 女性有権者と警察沙汰に…公明議員ドーカツ騒動の一部始終(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 赤かぶ[11127] kNSCqYLU 2019年4月27日 18:17:25 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1190]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/197.html#c1
コメント [議論31] 続々・ゴーンの犯罪性を指摘するコメ集/無名氏 仁王像
4. 仁王像[2707] kG2JpJGc 2019年4月27日 18:17:55 : ZTeRWKsUIQ : NWVkQ2dPWE9tYVE=[2]
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/276.html#c23
 泥棒、背任罪は明らかです。
 ゴーン、処刑してやりましょう、日産の泥棒メ。

 (拙コメ)
http://www.asyura2.com/19/hasan132/msg/292.html#c2
 西洋人は普段はきらびやかな文化で身を包んでいるが、追いつめられるとそれらをかなぐり捨て、本性である”獣性”を剥き出しにしてくると見て対処するのが間違いない。
 ならばこの闘いは容易ではない。日産側にその戦略があるかどうか。
 一連の揉み合いの中から国際的にも通用する生え抜きの「軍師」が育ってくれば良いが…。
(西洋人の獣性)
http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/283.html#c1
 西洋人の野蛮性は大航海時代の陰惨な歴史によって立証済み。彼らの”やらずぶったくりの獣性”は今もって連綿と遺伝子あるいは”集合的無意識(ユング)”として世代を超えて繋がっているものと推察せざるを得ない。
 大航海時代に世界から略奪した富の上に築いた西洋文明が出来上がると、過去の獣性を覆い隠すかのように”レイシスト”などと眉を顰める”洗練された”文化をまことしやかにでっち上げて来たのだA。

 フィヨンもゴーンも仏人なのでどうしても西洋人を代表して出てくるのだが、彼らの”自己欺瞞体質”である@。

(補)
 「会長スナール氏の本性」というのも経済板にアップされている。三者揃(そろ)い踏みってところか。


http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/668.html#c4

コメント [政治・選挙・NHK260] 女性有権者と警察沙汰に…公明議員ドーカツ騒動の一部始終(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
2. 赤かぶ[11128] kNSCqYLU 2019年4月27日 18:17:57 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1191]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/197.html#c2
コメント [政治・選挙・NHK260] 女性有権者と警察沙汰に…公明議員ドーカツ騒動の一部始終(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
3. 赤かぶ[11129] kNSCqYLU 2019年4月27日 18:18:34 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1192]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/197.html#c3
コメント [政治・選挙・NHK260] 怒り!飯塚「不逮捕」以外に5つの理由がある!   赤かぶ
35. 2019年4月27日 18:18:43 : Ygkzw26rj6 : NExxd3h1TGlpUEU=[33]
26>> 天皇の前に 感想をのべなければならんのは、上級公務員のTOP

    じゃないか。事務次官とか 今回は技術系の官僚TOPが感想を

    述べる程度かな? 天皇はこの程度でいちいち発言しない。

    下のものがやる仕事。

    天皇も軽く見られてきてるね、 ここ阿修羅掲示板は反日、反天皇の

    巣窟じゃからな、こんなもんか。  
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/175.html#c35

コメント [政治・選挙・NHK260] 日本は米国の臣下だけでは満足せず、中国の臣下にもなろうとしているのか。 (日々雑感) 笑坊
2. 2019年4月27日 18:18:56 : JiurVnE3Cx : TXBoL2hqbHppTzY=[1]
二階に同行しているのが、金田勝年、稲田朋美という元ポンコツ2大臣だというのが驚きでしたね。
先方から「ナメてんのか」と言われても不思議ではない人の起用でした。
朝貢ならもっとマシなのを派遣するでしょう。
あれでも米国に気をつかってるんじゃないでしょうかね。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/196.html#c2
コメント [近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
80. 中川隆[-10561] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:19:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1515]
諏訪春雄通信 27 「大嘗祭」
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。

諏訪春雄通信 15
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm

諏訪春雄通信 18
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm

ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c80

コメント [政治・選挙・NHK260] 女性有権者と警察沙汰に…公明議員ドーカツ騒動の一部始終(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
4. 赤かぶ[11130] kNSCqYLU 2019年4月27日 18:20:00 : 48FW7XOL3U : ODEvY0JSVUxLeU0=[1193]



http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/197.html#c4
コメント [近代史3] 皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式 中川隆
11. 中川隆[-10560] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:20:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1516]
諏訪春雄通信 27 「大嘗祭」
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。

諏訪春雄通信 15
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm

諏訪春雄通信 18
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm

ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html#c11

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