WEDGE REPORT
中国撤退に苦しむ日本企業行きはヨイヨイ帰りはコワイ
中国人の驚くべきビジネスマインド
2015/04/15
Wedge編集部
中国からの撤退を考える日本企業が増えている。しかし、いざ撤退となると様々な困難が待ち受けている。どうすれば、中国から逃げ切ることができるのか……。
大気汚染の酷さは日本人駐在員の削減にもつながっている
市場がシュリンクし、人件費など事業コストの高い日本国内から海外へ活路を求める。このところの日本企業のトレンドである。ところが、こと中国に関しては逆向きの動きが起きている。大手企業では、2月初旬にパナソニックが中国での液晶テレビ生産からの撤退を発表し、中小企業についても「中国からの撤退セミナーが大盛況だ」と、金融関係者やコンサルタントなどは口をそろえる。
大きく波紋が広がったのが、2月5日に行われたシチズンの撤退だ。突然の撤退通知によって一部の従業員が会社に押しかけるといった事態に発展した。シチズン側に確認すると「解雇ではなく、会社解散の場合、1カ月前の通知義務はなく、事前に地方政府からも了解を得ており法的な問題はない」(シチズン広報)という。
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シチズンも今回の解散理由の一つにはなっているという通り、日本企業が中国から撤退する背景には「賃金の上昇」がある。ただし、いざ中国から外国企業が撤退しようとすると、基本的に3つの同意が必要となる。(1)合弁相手の同意、(2)地元政府の同意、(3)従業員の同意。「合弁相手には、日本企業の看板が外れることに難色を示され、地方政府の役人は、税収が落ち込めば自らの成績に悪影響になるため同意を拒む」(コンサル関係者)。従業員については、仕事を失うことに抵抗することはもちろん「ゴネることで、経済補償金(退職金)の割り増しを狙う」(同)こともあるという。
信頼した人に裏切られる
中国人の二面性
2月下旬、2週間前に中国からの撤退が終わったという中小企業社長の夏目修さん(仮名)に話を聞くことができた。製造業を営む夏目さんが中国からの撤退を決意したのは、賃金が上昇して採算が悪化したこともあったが「家族ぐるみで付き合うほど信頼していた従業員からの裏切られたこと」が主因になった。
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2000年代前半に中国に進出して事業が軌道に乗ると、日本の本社で15年働いていた中国人従業員Aを、現地会社の責任者に就けた。あるとき不良品が目立つようになってきたので調べてみると、Aは自分の妻に会社を作らせたうえ、その会社を経由して質の悪い原材料を購入するようにしていた。
「はっきりとした姿勢を示さないと、彼らはどの線まで押せるのか、常に値踏みをしています」。Aに関係する人間は全て切ったものの、そのやり方を見ていた従業員がいる限り、第2のAが出てこないとはいえない。疑心暗鬼に陥った夏目さんは、撤退を決意した。
撤退にあたっては、焦らずに長期戦で臨んだ。中国では進出した外国企業に対して「二免三減」という免税制度が適用される。利益が出始めてからの所得税を2年間は免除、3年間は半額にするというものだ。ただし、10年を経たずして撤退する場合、免税分の返還を求められる。
夏目さんは、進出から10年間経過を待って撤退に向けて動き始めた。地元政府との合意については、別会社を現地にもう1社持っていたため「すんなり同意はもらえました。これが1社だけしかなかったらそうは行かなかったでしょう」。合弁相手からの同意は独資であるため必要なく、残ったのは従業員からの同意だった。
夏目さんが選んだのは「従業員の同意が得られなければ操業を続ける」という姿勢をとることだった。従業員に対しては次のように提案した。
「不良品の増加で仕事量が減っているため、賃金を引き下げざるを得ません。それでも皆さんが良ければ操業は続けます。ただし、安い賃金で働き続けるのであれば、他の良い賃金で働かせてくれる会社に移動したほうが良いかもしれません。そういう選択をする人には割増の退職金を付けます」
この提案後、150人ほどいた従業員は50人にまで減っていった。ここまで従業員数が減ったところで、残った従業員も一度は退職を申し出た。「ところが、従業員のなかに扇動者が現れて、『もっと退職金をよこせ』というわけです」。しかし、ここで応じてしまえば、前に辞めた人まで噂を聞きつけて、積み増し交渉に参加してくる恐れがある。夏目さんはグッとこらえて「皆さんが退職金の額に納得しないのであれば、操業を続けましょう」と返した。そこから2カ月、操業を続けた。経営者の固い決意を前にして、最終的には従業員側から退職願いが出された。
撤退の原因を作った中国人従業員Aは、その後、まったく同業種の別会社を立ち上げて操業しているという。
「AもBも、実際に仕事もできるし、人間的にも信頼できます。ただ、彼らにはもう一つの側面があります」。つまり、「自分の儲けになることであればたとえ人を裏切ろうが、何でもする」ということだ。日本人であれば「信頼できる人であればそんなことはしない」という発想になるが、中国人にとっては「それとこれとは別」ということになる。まさにカルチャーの違いというほかない。
中国とのビジネス30年
時が経つほど嫌いになる
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スズキで30年間、中国事業を担当した松原邦久さんは今年、『チャイナハラスメント〜中国にむしられる日本企業〜』(新潮新書)を上梓した。松原さんは、2004年当時の温家宝首相から『国家友誼奨』という、中国の発展に貢献した外国人に与えられる最も栄誉ある賞をもらっているほどの人だ。
「このところの日本企業を見ていると、中国に対する認識が甘すぎる」という危機感が募り、自ら筆をとり出版社に原稿を持ち込んだのだという。
松原さんによれば中国人一般には「ルールを守っていたら自分が損をする」という発想があるという。それは、中国人とビジネスをするなかで「どうして君たちはルールを守らないのか?」と苦情を言ったときに彼らから返ってくる決り文句だった。
記者の取材経験からいっても、長期駐在や、取引などで付き合いが長い国に対しては愛着を持つビジネスマンが多いが、松原さんはそれとは真逆である。「知れば知るほど、彼らのことが嫌いになります」という。といっても、松原さんは多くの中国人の友人を持つ。彼ら個人ではなく、そのビジネス習慣やモノの考え方が好きになれないということだ。
中国からの撤退について松原さんは「進出の時の手続きはスムーズに行きますが、逆になれば全ての手続きがスローになります」。松原さん自身、二輪車を生産していた会社を解散するときには「身を削るような」努力をしたという。ただし、進出時の合弁契約書に「解散事由を明確にしておいた」ことで、相手側の契約違反を指摘することができ、なんとか会社を解散することができたと振り返る。そして、いったん撤退すると決めたならば「最後は全てを捨ててもいいと腹をくくらなければ駄目です」と指摘する。
ただ、人件費は上がっているとしても生産現場としてはもちろん、市場としても中国は、日本企業にとって大事であることに変わりはない。そもそも、進出する際にコンサル任せにして正式な手続きを踏んでいなかったために、撤退の申請が出せず、潰すに潰せず、会社を休眠状態にせざるを得ない企業もあるという。日本企業の側にも改善すべき点はある。いずれにしても、中国にどうコミットしていくのかは日本企業にとって課題であり続ける。
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/4862
立花聡の「世界ビジネス見聞録」
香港大富豪の「中国撤退」がついに終盤戦へ
経営の王者・李嘉誠氏の脱出録
2019/04/02
立花 聡 (エリス・コンサルティング代表・法学博士)
2018年3月に引退を表明した香港の大富豪・李嘉誠氏(写真:AP/アフロ
中国撤退、逃げ遅れた外資企業の苦悩
李嘉誠氏の中国撤退は終盤に差し掛かった。
香港最大のコングロマリット長江和記実業(CKハチソンホールディングス)元会長、世界28位の富豪(2019年3月フォーブス発表)李嘉誠氏の中国資産(香港を含む)が総額ベースで1割に縮小し、欧州資産は5割を超えた。李氏は過去6年にわたって段階的に撤退し、中国からフェードアウトしたのである。3月25日付けの台湾・自由時報が、ハチソン社が発表した2018年度の同社財務報告を引用し報道した。
ハチソン社の総資産額は2018年末現在、1兆2322.44億香港ドル。そのうち香港を含む中国資産は1424.38億香港ドル、総資産額の11.55%を占め、2015年末の19.21%からほぼ半減した。これに対して欧州資産が2018年末現在、6736.9億香港ドル、総資産額の54.67%を占め、欧州が同社のメイン投資先になった。
米中貿易戦争の長期化を背景に、中国は資本流出に神経をとがらせ、外貨管理を強化している。中国事業から撤退しようとする多くの外資企業は、海外向けの送金まで難しくなってきたことに頭を抱えている。早い段階で撤退の決断ができなかったことを悔やむ一方、李嘉誠氏の「先見の明」を讃えた。
明暗の分かれ目、2008年の異変
李氏が中国撤退の英断を下したのは、2013年頃と推定される。同年10月、李氏は建設中の上海陸家嘴東方匯経中心(OFC)を90億香港ドルで売却した。私は同年10月に上海からマレーシアへ移住した。クアラルンプール市内の新居に入ってわずか2週間後、この一報に接して驚いた。
私は2000年に東京から上海に居を移し、以降、中国に進出した日系企業向けの経営コンサルに特化して取り組んできた。分水嶺となったのは中国が繁栄の頂点に達しつつあった2008年の労働法の改正。正確に言うと、「労働契約法」という新法の施行である。この法改正は中国経済や産業界に大きな衝撃を与えた。簡単に言ってしまえば、企業は労働者を解雇したり、減給したりできなくなり、ほぼあらゆる人事権を実質的に失ったのである。
日本流に言うと、それまではすべて非正規雇用社員だったが、一夜にしてほぼ全員が終身雇用で減給不能の正社員に変身する――それくらいの激変であった。当時、著名な経済学者(中国経済研究)である香港大学経済金融学長・張五常氏 (スティーブン・チョン)はそのレポートにこう記した――。
「労働契約法は、怠け者を保護する法律だ。市場の反応は、災難の予兆を示している。今年(2008年)は中国経済改革開放の30周年だが、人類史上かつてないこの偉大な改革は、労働契約法によって崩壊する可能性が大きい」(拙著(共著)『実務解説 中国労働契約法』(中央経済社))。
外資企業は「年老いた糟糠の妻」
結論からいうと、張教授の予言は見事に的中した。
2008年秋のリーマン・ショック後、中国が打ち出した4兆元(当時のレートで約57兆円)の景気対策は、中国だけでなく、世界をも救ったとされる一方、中国国内では地方政府や国有企業の債務を急増させ、不動産バブルといった後遺症ももたらした。労働市場では、労使紛争が急増し、労働力コストも年々上昇した。
私が2007年9月1日号の当社会員誌に寄稿したコラムの一節を抜粋する――。
「中国の外資導入は、加工貿易から始まった。ところが、輸出税還付から加工貿易政策の全面的な調整まで、最近一連(2007年以降)の動きから、加工貿易時代の終焉をはっきり感じ取れるようになった。80〜90年代にあれだけもてはやされた加工貿易だが、いよいよ中国政府に切り捨てられる。思わず『薄情者』と非難したくなる一方、冷静に考えると納得もする。中国に外貨が溜まった。労働集約型で安い工賃を稼ぎながら、貿易黒字や環境破壊で諸外国に指弾されると、さぞかし気分はよくない。年老いた糟糠の妻を家から追い出したくなる。家に残りたければ、もっと若い美人妻に変身しろと。中国語の経済用語で言えば、いわゆる『産業結構優化』、『転型正義』『転型痛苦』、つまり『産業構造のグレードアップ(モデルチェンジ)は、正義である。薄情かもしれないが、その苦痛に耐えるべきだ』ということになる」
中国にとって労働集約型の外資企業は年老いた糟糠の妻になり、外資の全盛期は終わったのだ。2008年以降、各方面において不安の兆しがじわじわと見えてきた。仕事場を中国から東南アジアへ移転しようと私が画策し始めたのは、2010年のことだった。
中国進出日系企業の「3つのグループ」
2012年春、マレーシアへの移住が決まったその直後に、反日デモが中国を席巻した。2013年1月1日付けの産経新聞は、私に対する取材記事を掲載した。その一節を抜粋する――。
「立花氏は中国ビジネスを手がける日系企業を3つのグループに分けて戦略を練るよう訴えた。
まず、中国に加え東南アジアなど別の進出先で製品供給のバックアップ態勢を取る『チャイナプラスワン組』。ただし 資金や人材に余力のある企業でないと難しい。次に、取引先が全て対中進出し、販売市場が中国にしかないため、中国にしがみつくしかない『チャイナオンリー組』。この場合は、日本の成功体験を捨て、徹底的に現地化、中国化を進める必要がある。
最後は、労働集約型の工場など、労賃の急騰や労働力不足で今後、経営悪化が予想され、中国での成長が全く望めない 『チャイナゼロ組』だ。『投下資金の回収を断念してでも、早期の撤退を決断すべきだ』と立花氏はいう。
中国は政府関係者や既得権益層など20%の特権階級が国家の富の80%を握るとされる。不正蓄財での富のゆがみが大きく、中間所得層による爆発的な消費市場の拡大は望み薄とみる。
立花氏は、『低成長時代に入ると一部の特権階級は中国でのうまみを失い、不正蓄財を含む資産を持って海外に逃げ切ろうとするだろう。そうなれば大多数を占める負け組だけが取り残され、13億人の中国は“幻の市場”に。社会動乱の要因が拡大する』という」
私は経済学者でなく、経営コンサルタントである。中国経済の将来を見通してナンボという立場にない。ワースト・シナリオを想定し、それに備えて企業経営に逃げ道を作るのが仕事である。とはいっても、情勢を判断するためのベンチマークはいろいろ持っていた。その中の1つが、李嘉誠氏の動きである。
中国脱出、李嘉誠氏の「逃げ方」
李氏は2013年10月の東方匯経中心の売却を皮切りに、2014年57.5億香港ドル、2015年66.6億香港ドル、2016年200億香港ドルというペースで中国や香港の資産を売却し、その総額が1761億香港ドルにも上る(3月26日付け台湾・信伝媒(CredereMedia)記事)。
2015年1月、李嘉誠氏は長江グループと和記黄埔有限公司を合併させ、会社の登記地をケイマン諸島に移す。2017年、李氏は香港のランドマーク級の大型資産「中環中心(The Center)」を売却した。一連の大型売却で得た巨額の資金を中華圏から引き揚げ、欧州や北米、豪州などにシフトさせ、ポートフォリオの組み替えを着々と進めた。
李嘉誠氏は裸一貫から世界級の富豪に這い上がった人物で、ビジネスのセンスに優れているだけでなく、政治的な嗅覚も抜群に鋭い。本社転出の一件を考えても、香港は自由貿易港であり、利便性がよく、法人税も高くないため、一般人が考えるような節税策ではないことが明らかであった。
ゴールド資産を大量購入し始めたのも2017年。同年4月20日付の台湾・経済日報が報じたところによると、李氏は金鉱企業関連の投資だけでなく、大量の金地金も購入した。初の大量ゴールド資産投資だったという。
「有事の金」というが、ゴールドは換金性が高く、戦争や革命、ハイパーインフレなど「有事」の際、「最後のよりどころ」として買われる。だが、2016年に北朝鮮が続々とミサイル・核実験を行い世界を恐怖に陥れても、李氏はすぐには動かなかった。2017年になって李氏が初の金大量購入に踏み切ったのはなぜか、その理由は他人には知り得ない。ただ、彼がポートフォリオの組み替えにアクティブに動き出したこと自体が注目に値すると、私は考えた。
中国や香港からの撤退。巨額の投資を引き揚げた李氏を「儲け逃げ」と批判する中国や香港の世論もあったが、李嘉誠氏は公開書簡を発表し、「私は商人だ。ビジネスマンだ。道徳家ではない。利益を出すことはビジネスマンの本質的な価値所在だ。利益を上げられない商人は良い商人ではない。昨今のグローバル時代では、資本の流動は当然だ。資本に国境はない」と世論の批判を一蹴し、「撤退の罪」を全面的に否定した。
批判は李氏と中国本土の権力との結託まで及ぶが、李氏は「政府との協力はウィンウィンの原則に基づき、利益を上げるだけでなく、中国本土に資金や技術をもたらし、人材も育成したことで、中国の発展に寄与した」とし、共存共栄の正当性を主張した。
中国での終盤戦、「収穫組」と「逃げ遅れ組」
2018年3月16日、李嘉誠氏は90歳を前に引退を宣言し、現役を退いた。引退会見では、中国政治にも触れ、改憲に伴う習近平主席の続投可能性について、「私に投票権があったら、習主席の続投に支持票を投じるだろう」とリップサービスするなど、政治的バランス感覚はまったく鈍っていなかった。
2018年の旧正月頃、李嘉誠氏一族傘下の長江実業上海子会社では、密かに大規模リストラが始まった。中国の金融・経済情報専門メディアである財聯社が2018年8月24日付けで報じたところによると、リストラは上海法人の投資企画やマーケティング、工事など複数の職能部門にわたり、多くの従業員が解雇された。
さらに報道は内部関係者の話を引用し、「上海法人ではこれまでに大型リストラは一度もなかった。今回はあまりにも突然で規模が大きいだけに、ほかに原因があったのではないか」と異変を報じ、「李嘉誠氏は中国撤退ではないとしているが、言っていることとやっていることが違う。今回の大型リストラは、李氏が中国本土の不動産事業から完全撤退するサインだ」と指摘した。
高校を中退した李嘉誠氏はプラスチック製の造花を輸出して財をなし、不動産、港湾、エネルギー、通信にわたる一大商業帝国を築き上げた。動乱の時代を乗り越えるためには、ビジネスや経営の才覚だけでなく、政治的な嗅覚も欠かせない。これらを兼ね備えているのが李嘉誠氏であった。
私の感覚では、2010年以降の外資による中国事業は、ほぼ終盤戦参入に等しい。勝率はかなり低くなっていた。しかし、終盤戦の数年間は、李嘉誠氏にとっての収穫期に当たる。彼は2013年から6年にわたって完熟した果実を収穫し、新天地で新たな種まきを着々と進めてきた。彼の動きは、必ずしも時流に乗っているように見えなかったりもするが、そうした「異端児」的な動きから、揺れ動く世界のメカニズムを読み取る力を垣間見ることができた。その力は、サバイバルの本能を誇示する野性的なものであった。
知り合いの中国人や台湾人の実業家・経営者たちで密かに李嘉誠氏の動きをモニタリングしている人が多い。それでも、李氏に同期してリアクションすることが難しいのは、人間はやはり目先の事象に目を奪われる生物であるからだ。
日本人は海外に行っても、往々にして同胞の行動にしか目を向けようとしない。すると、二次情報どころか、三次情報や四次情報をつかまされる。それでは勝ち目がない。中国も一時期、「世界の工場」やら「13億人の巨大市場」やら大騒ぎされる時期があったが、世の中はそう甘くないのである。
「経営者にとって最も重要な仕事とは、すでに起こった未来を見極めることである」(ピーター・F・ドラッカー『断絶の時代』)。李嘉誠氏はその良き実践者であった。
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/15797
セイコーウオッチ上海殺人事件、日本人幹部も殺されそうになった原因とは?
2019/02/04
立花 聡 (エリス・コンサルティング代表・法学博士)
iStock / Getty Images Plus / tomloel
セイコーウオッチ上海現地法人であった殺人事件の確定判決が出た――。殺人犯の方偉南(以下、「方」という)には、一審で下された死刑2年執行猶予の判決が確定された(中国では現在二審制が採用されている)。殺人犯罪に厳しい中国で「故意殺人罪」とされた案件としては、異例の軽い刑といえる。
日系企業の危機管理能力の欠落
この事件について、産経新聞が2016年4月25日の紙面で、「中国進出日系企業従業員の事件に衝撃 社内の情報収集限界露呈」という記事を掲載し、私に対する取材内容も含め報道した。
事件について簡単に説明すると、セイコーウオッチ上海現地法人(以下、[セイコー公司」という)のオフィスで2016年3月28日、58歳(当時、以下同じ)の中国人従業員の男が管理職の33歳の中国人女性の頚部を切りつけて死亡させ、近くにいた29歳の中国人女性にも顔面や腕などに大けがを負わせるという殺傷事件が起きた。在中日系企業の場合、労働紛争やストライキ、従業員不正などの事件はよくあるが、さすがに殺人事件となると、現地の日本人社会にはただならぬ衝撃が走った。
仕事上のトラブルが原因だが、殺意を芽生えさせるほどのトラブルは相当重大なものだろうし、また時間的な蓄積もあっただろう。これを会社の上層部は事前にまったく把握していなかったのか、それとも把握していながら適正な対処を怠ったのか、日常的な労務管理上のリスク察知・予防制度は機能しなかったのか、大惨事を未然に防ぐことは本当にできなかったのか……。
当時上海在住だった私は、現地日系企業向けのセミナーで、この事件を労務管理の事例として取り上げようとメールで告知したところ、セイコー公司の弁護士からすぐに警告文が会社宛てに送られてきた。まだ取り調べ中ということで、無責任な発言には法的責任を覚悟しなさいといったような内容だった。
殺人事件はすでに現地のテレビや新聞によって報道されており、公開情報である以上、私は経営コンサルタントの立場から仮説を立てながら、経営・労務管理面のリスク管理策を語るだけで、警告される筋合いはないと考え、その旨の回答文を会社の弁護士から送り返した。セミナーは中止することなく、予定通りに開催された。
セイコー公司には危機管理のマニュアルがほとんどなかったように思える。ローカルのテレビ局が事件発生の直後に現場に駆けつけると、なんと(殺害された)被害者・黄さんの夫が取材のカメラに向かって、「妻は犯人の上司。会社は彼(犯人)と労働契約を更新しない、解雇することで、彼は感情的になったのかもしれない……」と言い放った(上海TV「新聞総合」ニュース番組)。社外の第三者がなぜ、内部事情をそこまで知っていたのか。しかも、取り調べの前にもかかわらず、無責任な発言を連発している。企業側のリスク管理、危機(クライシス)管理がずさんだったと言わざるを得ない。
だが、これはセイコー公司に限った話ではない。似たような事案はほかにもたくさんある。また別の機会に紹介したい。
「衝撃の事実」を次々と明かす判決文
事件から2年以上経ち、ようやく殺人犯に判決が下された。早速判決文を入手して読んでみて驚いた。当時、殺害された被害者・黄さんの夫がテレビの取材で語った内容はほとんど事実であった。しかも、それだけではない。
中国政府が直轄運営している「中国裁判文書網」で公開された本事件の判決文「上海市第二中級人民法院刑事判決書(2016)滬02刑初72号」(以下「判決書」という)に基づき、その一部を抄訳しながら仮説を立て、解説・分析してみたい。(判決書原文に記載された実名もそのまま転載する)。
証人陳某の証言(判決書第3項):「・・・(中略)3月21日黄某と方は、黄某が方の仕事を調整することで争うことになった。そこで、方は日本側上司の高橋浩一に直訴した。3月23日、会社は方に解雇を通告し、黄某は方の修理中の腕時計を取り上げた。その後の2日間は方が欠勤し、3月28日に方が出勤したところで事件が発生した」
殺害された黄さんは、方の直属上司であった。解雇直前に、黄さんは方に異動を命じた。中国ではよく解雇対象となる従業員に、格下げ的な業務異動をさせることがある。退職に追い込もうとする意図は理解できるが、精巧なアプローチでないと逆効果になる。黄さんは異動を言い渡すだけでなく、修理中の腕時計を取り上げるなど、性急かつ乱暴なやり方だった。日本人上司に命じられてやったのか、それとも日本人上司の意図を忖度して手柄を見せようと自発的にやったのか、知る術はないが、黄さんのアプローチそのものは間違っていたと言えるだろう。
重病の母親を介護するため休みを取って解雇
証人沈某の証言(判決書第4項):「・・・(中略)沈某が知るところによると、方と黄某は仕事上のことでもめていた。方は最近高齢の母親を介護するためによく休みを取るようになり、そこで黄某は彼と面談し、業務異動を命じた」
証人高某の証言(判決書第7項):「高某はセイコー公司行政部副経理(訳注:総務部次長または係長相当)である。方はセイコー公司の契約社員であり、契約は年1回更新することになっている。契約は2016年3月31日付で期間満了。2016年2月、会社は方と契約を1年更新する意向があり、更新に応じる意向の有無を尋ねる社内メールを方に送った。方は更新したいとのメールを返信してきた。さらに3年の更新を希望していた。方には高齢の母親がいて、重病を患い半身不随で臥床していた。さらに3月から病状が重症化し、方は母親を介護するために度々黄某に休みを申請していた。…(中略)(訳注:休みのことなどで度々揉めたことがあって)会社は内部安定の目的で、最終的に方と労務契約を更新しないことに決めた」
重病を患い半身不随で臥床していて、しかも重症化した老母を介護する。そのための休みを許さず、さらに解雇に踏み切るとは、さぞかし信じ難いことである。この解雇はなんと、会社の内部安定が目的だったというのだ。現地人の中間管理職である黄さんが自らの意思でそう決断したのか、そもそも彼女にそんな権力があったのか。疑念は日本人上司に向けざるを得なくなる。
危機一髪!日本人副総経理に向けられた刃
証人高橋浩一の証言と調書(判決書第5項):「高橋浩一はセイコー公司副総経理である。2016年3月28日14時20分ごろ、高橋が会社に入ると、受付の前に血を流している者が倒れているのを目撃した。その時、従業員の方は刃渡り約23センチのナイフを持って傍に立っていた。方は高橋を見るや、高橋に襲いかかり、その左頚部にナイフを刺そうとした。高橋はナイフを避けながら逃げたため、負傷しなかった。警察が現場検証した結果によると、高橋のシャツの左襟部分にナイフで切り付けられた痕があり、シャツの右袖に(訳注:他の被害者の)血痕が残っていた。高橋はシャツを証拠物として警察に提出した。方は2008年7月にセイコー公司に入社し、労務契約は1年に1回、4月に更新してきたが、2016年に会社は長期的な観点から、方との契約を更新しないことにした」
真実は次々と明らかになる。セイコー公司の副総経理である高橋氏が事件に絡んでいた。しかも、犯人は高橋氏に明確な殺意を抱き、ナイフを向け、刺し殺そうと襲いかかったのだ。立派な殺人未遂ではないか。高橋氏が機敏に避けていなかったら、どうなっていたか。想像するだけで鳥肌が立つ。
裏切られたことで芽生えた殺意
証明された事実(判決書第18項):「被告人方の供述と調書によって、次の事実が明らかになった。2008年、方はセイコー公司と労働契約を締結し、時計修理部で勤務を始めた。その後繰り返し労務契約を締結し、最後の労務契約の満期日は2016年3月31日である。黄某は方の勤務する修理部の副経理(訳注:次長または係長)である。2016年初、方は母親の病気で在宅介護するためにたびたび有給休暇を取った。それが黄某は不満だった。2016年2月24日、会社は方に契約更新の意向を示し、方もこれに同意した。2016年3月21日、休みのことで方と黄某は議論で争うことになった。このため、方は会社の副総経理である高橋浩一に直訴したにもかかわらず、高橋は方の釈明を聞こうとしなかった。これだけでなく、さらに方を腕時計予検部門から修理ホールに異動させた。会社の規定によれば、契約更新は2016年3月初旬に完了しなければならない。方と同じ状況の同僚は全員契約更新が終わったにも関わらず、(まだ終わっていない)方は会社が反故にしたと予感し、その根本的原因は黄某と高橋にあって、2人の邪魔で自分がクビを切られると悟った。2016年3月26日の週末、ついに、方は南京路の張小泉刀剪商店(訳注:ナイフ専門店)でナイフを購入した」
3つの大きな問題があった――。
まず、労働・雇用関係上の合法性の疑問。方が入社した当時に締結されたのは労働契約だったが、その後労務契約に変更され、しかも繰り返し更新する形になった。
中国法の下では、労働契約と労務契約はまったく異なる性質の契約である。前者は労働法の適用だが、後者は民法適用になる。平たく言ってしまえば、前者は労働者が労働法の手厚い保護を受け、雇い止めも解雇も簡単にできない契約である。そのうえ方のケースはすでに事実上の無固定期間雇用(終身雇用の正社員相当)になっていた可能性が大きいため、そう簡単に解雇できないはずだ。ところが、後者の労務契約だと、労働者ではなく、請負業者の身分となる方は労働法の保護を受けられなくなる。
労働契約と労務契約の本質的な違いは、指揮命令権の有無にある。労働契約は会社が従業員に対する指揮命令権を伴うが、労務契約では当事者双方に従属関係は存在しないため、会社には指揮命令権がない。だが、休暇の取得という一例からだけでも、セイコー公司は終始指揮命令権を行使していたことが分かる。方は会社の厳しい管理下に置かれていた。これは会社が自ら「偽装労務契約」を示唆するような事柄ではないだろうか。それが事実ならば、日本社会で問題となっている「偽装請負」の中国版になる。もちろん中国法の下でも違法である。つまりセイコー公司が方に対する解雇行為は、違法解雇である可能性があるということだ。
次に、会社が契約更新の約束を反故にした不誠実さだ。会社は一旦方に契約更新の意向を示し、方に諾否を問うメールを送信した(当初から更新するつもりがなかった、そうしたメールも送らなかっただろう)。方もこれに同意した。その時点で更新手続は完了していたはずだ。この前提ならその後、会社が反故にしたことは、契約破棄にほかならない。契約は法的拘束力を持った中で行う約束で、当事者(会社)の申し込みの意思表示と相手側の当事者(方)の承諾の意志表示が合致して成立する法律行為であるから、契約破棄は不誠実な行為として非難を受けるだろう。誠実をモットーに海外でも評判の良い日系企業の名誉が毀損されかねない非常に遺憾な出来事である。
最後に、日本人上級管理職である高橋氏が従業員(方)の釈明を聞こうとしなかったことは最悪といえる。裁判所でさえ殺人犯にも弁解の機会を与えているのに、従業員の釈明に聞く耳を持たないことはもはや、論外である。
一連の事実から、方の殺意がいかに芽生えたかの背景が徐々に見えてくる。これが裁判官の心証と判決にも強く影響を与えたのだろう。
検察まで殺人犯に同情的だったのはなぜ?
被告人(方)の弁護側は故意殺人罪に異議を示さないものの、「労働紛争に起因し、さらに会社側の明らかな過失によって被告人は情緒的な犯行に及んだ」とし、刑を軽くするよう裁判所に求めた。会社側の顕著な過失によって、被告人は心神耗弱までいかなくとも感情や行動制御能力が著しく低下したことを理由にした。
判決理由は、以下のように記されている。
「・・・(中略)方は犯行後逃亡せずに出頭し、犯行事実を自供したことから、自首に相当する。方の家族は代わりに朱某*の経済的損失を賠償し、朱某の理解と許しを得ただけでなく、黄某の家族(訳注:遺族)への賠償金をも本裁判所に供託した。本事件の起因をも勘案すれば、方に対する減刑処罰は妥当と認める。被害者訴訟代理人の自首不相当意見および死刑求刑を支持しない。弁護人の弁護意見を支持する」
*朱某とは、大けがを負った29歳の中国人女性のこと
これに関連して、刑事事件附帯民事賠償請求として、被害者の朱某は一旦提訴したものの、後日これを取り下げた。(参考:上海市第二中級人民法院刑事附帯民事裁定書(2016)滬02刑初72号)
確定判決が下された後、上海TVは監視カメラが捉えた犯行の一部始終の動画も入れながら、生々しい追跡報道を行った(上海TV「案件フォーカス」番組 ※【視聴注意】一部暴力シーンあり)。
服役中の方は取材に応じてこう語った。「私はこの会社に入って8年で、2度表彰を受けました。私が所属する修理部、カスタマーサービス部で2度受賞しているのは、私1人だけです。他に受賞者はいませんでした」。なのに、1年後の定年退職を目前に彼は解雇された。
同じ番組に登場した上海市人民検察院第二分院の白江検察官はこう感想を述べた。「彼(犯人)はこの仕事をとても大切にしていました。彼の奥さんは仕事がないし、お母さんは病気で危篤でした。家族の生計、重荷がすべて彼一人にかかっていましたからね」
裁判所だけでなく、検察まで犯人にこれだけ同情的だったことは異例としか言いようがない。胸が詰まる思いである。
日系企業にとっての教訓
最後に補足情報として、中国の刑法と死刑について触れておきたい。
中国の刑法は、殺意をもってなされた殺人を「故意殺人罪」とし、最高刑は死刑。未遂でも、殺意の強さや犯行の悪質性などによって殺人罪が成立する。過失や注意不足などで人を殺す罪を「過失殺人罪」(日本の過失致死罪に相当)と定めている。全般的に日本よりはるかに厳しい法制度になっている。
死刑を犯罪撲滅に対する実効性があると司法当局が確信しているため、死刑の適用が多用されている。中国は死刑執行件数を公表しておらず、正確な件数は明らかになっていないが、世界中で最も多いという説もある。
そこで異例として執行猶予つきの死刑判決が存在する。何らかの理由で情状酌量の余地があると認められた場合の救済措置である。執行猶予つきの死刑判決を受けた者は、猶予の期間中に罪を犯さなければ減刑され、死刑を免れる可能性がある。さらに服役期間中に模範囚となれば、死刑から無期懲役、無期懲役から(有期)懲役刑に減刑される可能性もあるとされている。したがって、方は年齢的に考えて、生きて出所できる可能性もあるとみていいだろう。
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セイコーウオッチ上海法人社内で起きたこの殺人事件は、すべての在中日系企業、いやすべての在外日系企業にとって決して他人事ではない。個別事件を超えて、このような惨事が二度と起きないように、適正な人事労務管理、コンプライアンス、そしてリスク管理体制の構築が急務となろう。
経営者としては、法令や労働契約上明文規定された義務だけでなく、労務管理上従業員に対する安全配慮義務といった信義則上の義務をも負っている。企業の経営者や幹部はその責任の重大さを一刻も忘れることなく、事件の未然防止に社内情報の収集、従業員のメンタル管理などに総力を挙げて取り組んでもらいたい。
連載:立花聡の「世界ビジネス見聞録」
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15262
http://www.asyura2.com/19/hasan131/msg/793.html