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"30代の夜更かし"のせいで人生終わった 月収50万から一転、ホームレス生活
http://president.jp/articles/-/22719
2017.8.4 鈴木 俊之 PRESIDENT 2016年6月13日号
「健康が大事なんて耳にタコができるほど聞いているけど、今20年前に戻れるなら、すぐに健康診断に行ってると思うよ」
タバコを咥えながら、記者にそう答えた稲葉洋二さん(仮名・60歳)。着込んだジャンパーの袖から覗く右手の手のひらには無数の傷が付いている。稲葉さんのキャリアは、この国の高度経済成長期のあとに訪れたモータリゼーションと共にあった。稲葉さんは1956年、沖縄本島で生まれた。那覇市内の偏差値57の普通科高校を卒業後、進学はせず飲食店のアルバイトなどで職を転々としたあと、25歳で上京した。きっかけは急激に拡大する物流市場と、それに伴う長距離トラック運転手の求人数の増加だった。
「北は青森から南は神戸まで、どこでも行きましたよ。とにかく稼げるって聞いたので。当時は今ほど高速道路もなかったから、今以上に体力勝負でした。20代は気合で乗り切ってたんでしょうね」
バブル景気前夜の80年代中ごろ、稲葉さんの月収はうなぎのぼりだった。
「当時の平均月収が20万くらいだったので、今でいえば37万円くらい。移動時間が長いから金は貯まるいっぽうで、使うときは赤坂や新橋で豪快に使ってましたよ」
東京に戻るたびに稼ぎは飲み代や恋人との交際費に消えた。稲葉さんが散財をやめなかったのは、時がバブル景気に沸く80年代後半だったからにほかならない。
「運転ができれば、なんとかなるだろうと思っていました」
トラック運転手を5年ほど勤めたあと、今度は知人の紹介でタクシー運転手に転職した。
「バブル景気の真っ只中だったので、タクシー運転手はボロ儲けだった。特に夜の銀座で拾うお客さんがドル箱でね。小田原や木更津まで帰るお客さんもいましたよ」
当時の月収は、今でいうと50万円ほど。大田区のアパートから世田谷のマンションに引っ越したのもこのころだった。
そんな順風満帆な生活に急激に亀裂が走ったのが95年のこと。深夜の運転が続いた稲葉さんは、39歳にして白内障と高血圧と診断される。健康診断をろくに受けていなかったツケがまわってきたのだ。家族の支えはなかったのか。
「33歳で一度結婚しましたが、仕事が忙しくて家庭に身を置く時間はほとんどなかった。2年ほどで別居して離婚しました。夜は家にいないもんだから、家族関係が冷えきるのはあっという間でしたよ」
結果、仕事を休職。オフの日は飲み歩いていたこともあり、貯金はみるみるうちに消えていった。
そんな独身生活が半年ほど続くと、職場復帰はいよいよ困難になる。タクシー会社は退職し、自宅での引きこもり生活が始まった。
「働いてたころは沖縄の実家に稼ぎの3分の1を送ってたんですよ。でも、親も45歳のころにどちらも亡くなった。身寄りもなくて、東京で過ごすしかなくなったんだけど、ストレスと持病で今度はうつ病にかかっちゃって。家から一歩も出れなくなってからホームレスになるのはあっという間でした」
うつ病になって引っ越す気力もなくなった
世田谷のアパートから、家賃を払えず新宿中央公園のホームレスへ。99年のことだった。ほかの安いアパートに引っ越すなどの手段は考えなかったのだろうか。
「よく周囲からはそう言われますよ。でも、身体も動かなくて、うつ病になったら引っ越す気力もなくなるんです。公園から追い出されることもなかったから、ゴミ箱を漁って雑誌の転売をしてた。今から5年前にたまたま新宿のNPOの人に声をかけられて生活保護を申請したんです」
現在の生活保護の受給額は14万円弱。稲葉さんは、今以上の裕福な暮らしは求めていないという。
「タクシー運転手時代の深夜労働が思った以上に身体をいじめていたみたいです。定期的な健康診断はもちろんだけど、30歳のころに『まだ動ける』と思わず、無理するのをやめていればこんなことにはならなかったのかも……」
身振り手振りを交えながら話す稲葉さんの荒れた手のひらは、ホームレス時代の過酷な状況を想像させるには十分だった。