これまで与党主張に寄り過ぎた反省か、解約増加で危機意識か。このところ国際放送が、これまでと逆傾向とも思える報道に向いてる気がする。それとも「共謀罪パニック」が過ぎるまでのポーズに過ぎないのか。
番組内容の書き起しサイトが有ったので紹介する。
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NHK【憲法70年 平和国家はこうして生まれた】の詳細。安倍晋三は繰り返し見て、歴史を正しく学んだ学んだ方がいい。
2017/5/1(月) 午前 7:46 無題 その他政界と政治活動
https://blogs.yahoo.co.jp/kazusanosukekazusa/55805913.html
2017年4月30日、NHKスペシャル「憲法70年 平和国家はこうして生まれた」は、平和主義の根幹の憲法第九条がどのように生まれたのかを、武田真一アナウンサーが多くの新たな資料を交えて伝えた。
日本国憲法を『占領下にGHQが七日間で作った憲法』だと吐き捨てて顧みない、日本国憲法知らずの無学な「日本を取り戻す」と言う安倍晋三は、この番組を何度も見てよくよく歴史の真実を学んだ方がいい。その立派な教科書になるような番組だ。
憲法第九条の究極の生みの親は、もう戦争は懲り懲りだと、軍国主義の長い戦争生活に心身ともに疲弊し平和を渇望した当時の臣民、日本国民の総意の思いだろう。
押し止めることのできない、末期に及んでもなお本土決戦を頑強に主張し続けた軍部の軍国主義が日本全土にもたらした多大な犠牲と被害の惨状こそが全てだった。
無論、その被害は日本国内に止まらず広範なアジア太平洋地域の人々に及んだ。
召集され外地の戦場や南方のジャングルで骨と皮になって命を失った多くの兵士、広島、長崎への原爆投下、東京大空襲での一晩での十万人の犠牲はじめ全土の主要都市などを総なめにし焦土にした圧倒的な米軍の連続空襲で焼け死んだ国民。
その総数は310万人にも及ぶ。
結婚したばかりの若き夫や恋人、親や子供や家族を失ったその人々の悲しみはどれ程のものだったか。その涙の悲しみの総量はどれ程のものだったのか。
番組は終戦から憲法第九条が誕生するまでの一年八ヶ月の動きを追う。
GHQの草案にはない、第九条の冒頭の『日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』に注目した。
まずは昭和天皇の動向だ。
九月二日のミズーリ号でのポツダム宣言受諾の調印式の二日後の四日、素早く統治権者の昭和天皇は帝国議会を召集する。
ここで、『平和国家を確立して人類の文化に寄与せんことをこいねがう』と勅語を読み上げた。
「平和国家の確立」を新たな国家目標にすることを明確に宣言した。
この勅語は、どのようにしてできたのか。取材班が国立公文書館で発見した極秘の草案は、第一案から第四案まで何度も修正を繰り返して作成されたものだった。
第一案には平和国家の文言はなかった。「国體の護持」が残されていた。第二案ではこれが消された。
第三案に加えられたのは、「平和的新日本を建設」。平和、が初めて登場した。
これを書き加え修正したのは、終戦処理内閣の東久邇宮稔彦首相だった。
東久邇宮はその国会で「潔く自ら誓約せるポツダム宣言を誠実に履行し、誓って信義を世界に示さんとするものであります」と日本の非軍事化、民主化を強調した。
昭和天皇の平和国家の勅語にいち早く反応したのは、東大の憲法学者の宮澤俊義で、九月に武装解除と平和主義と題して大学で講義した。戦後の憲法学の大家である。
宮澤は武備なき国家を思い描いていた。
文部省は九月十五日に、平和国家の建設を根幹とする新日本建設の教育方針を発表した。
昭和天皇が掲げた「平和国家の確立」の目標は、わずか一ヶ月で焼け野原での小学校の教育現場に到達した。
新しい天皇の姿を世界に伝える重要な意義があった。
全権を統治する大元帥のイメージからの脱却を示した。
九月二十五日、昭和天皇と初めて会見したニューヨークタイムズの従軍記者のクルックホーンの回想録も見つかった。
「平和が訪れて喜んでいる。マッカーサー元帥に協力する」
敵国だった日本の天皇が恒久平和についてよく理解していると感じたようだと記録を保管する甥は話す。
この会見の記録は宮内庁にも残されていた。
事前の質問に対する英文の回答文書だ。お
「恒久平和は銃剣を突き付けて確立することはできない。平和の問題を解決するのは、自由な諸国民の非武装による和解である。」
『非武装の平和』この英文の回答を書いたのは、元外務大臣の幣原喜重郎だった。真打ちが登場した。
戦前、軍縮条約を結んだ幣原は軍部から軟弱だと非難された。
九月二十七日、昭和天皇はアメリカ大使公邸にマッカーサーを訊ねた。
「平和の基礎の上に新日本を建設する」ことを伝えた。天皇が占領政策に協力することを確認したマッカーサーは、日本政府に憲法改正を促していく。
昭和天皇と側近らも憲法改正に意を用いて、九月二十一日、近衛文麿元首相に調査を依頼した。
当時、近衛が持ち歩いていた手帳がテレビで初めて公開された。「民主主義の意味」と題したメモがあった。
「国民多数の意向に従った君民一致こそ新しい憲法にふさわしい」
近衛は天皇の軍の統帥権などの大権を制限することで明治憲法の改正を進めようとしていた。
同じ時期に別の憲法改正の調査が始まる。十月九日に幣原喜重郎内閣が発足した。
「民主主義政治確立の為、最善の努力を尽くす覚悟であります」
幣原は内閣に憲法問題調査委員会を設置し、元東大教授の松本丞治国務大臣を委員長に当てた。
天皇は近衛による調査の進捗状況を気にかけ確認していたが、その思いはGHQによる近衛の戦犯容疑者指定とその自殺によって挫折した。他方の政府の松本調査委員会の案は、明治憲法の修正の域を出ずに一蹴されることになる。
昭和二十一年元日、昭和天皇は人間宣言をする。
アメリカ国立公文書館には、六年生の明仁親王の「平和国家建設」の習字の大きな写真が、書き初めとして収められている。
アルバムには戦犯容疑者の東條らの輸送車内の写真がある。
東京裁判の開廷を前に、昭和天皇の戦争責任を追及する声が国際社会にあった。
一月二十四日、幣原首相はGHQにマッカーサーを訪ねた。通訳のない二人だけの三時間にわたる会談だった。
会談の記録は、友人が会談の内容を聞き、娘が鉛筆書きして残されていた。羽室メモだ。
「どうしても天皇制を残したいが協力してくれるか」
「一発の銃声も無く一滴の血も流さず進駐できたのは、全く日本の天皇の力による事が大きい」
「戦争を放棄するという様なことをはっきりと世界に声明する事、それだけが日本を信用してもらえる唯一の誇りとなる事じゃないだろうか」
【幣原は戦争の放棄を提案した。】「マッカーサーと幣原、大いに二人は共鳴した」
天皇制の維持と戦争の放棄を伝えた幣原はこう書き残している。
「国民が子々孫々その総意に反して戦争の渦中に引き込まれるが如きことなきよう」。
どちらが言い出したのかと論争が続けられた「戦争の放棄」は、マッカーサーの回想録や証言にもあるように、やはり幣原喜重郎首相から申し出たものだった。
占領軍のGHQに押し付けられたものだという批判は、その根拠を失った。
松本委員会での宮澤俊義の主張が明らかになった。「潔く裸になって平和国家としてやっていく」
天皇の軍の統帥権などの大権の条項を削除すべしとした。
「過去の日本を滅ぼしたものは軍国主義であったということ。従ってその結果として憲法の狙いが何よりも平和主義にあるということは当然であります」(昭和三十六年のNHKでの放送)
しかし、軍の規定を残置するという主張と対立した。反対の中心は委員長の松本丞治国務大臣で、明治憲法の改正に消極的だった。
大変に政治力があり、学者としても高名な松本の存在に委員は反抗できずに、改正案に平和という文言が出ようにもなかった。
二月一日、政府の憲法改正案が新聞にスクープされた。天皇を中心とする君主主義はそのまま認められていた。
GHQは、これを極めて保守的だと批判し、マッカーサーは憲法の草案を作成することを決めた。
マッカーサーが急いだ背景には極東委員会の存在があった。連合国の日本占領の最高機関としてGHQの上位にある機構で、二月下旬に発足しGHQを管理することになっていた。
極東委員会には、ソ連やオーストラリアなど天皇の戦争責任を追及し、天皇制に厳しい意見の国々が加わっていた。
二月三日、マッカーサーは新たな憲法の基本原則を自ら示した。マッカーサーノートである。
そこには、戦争の放棄があった。「国権の発動たる戦争は廃止する」
戦争の廃止、戦力の不保持、交戦権の否認を打ち出した。
更に、自己の安全を保持するための戦争、自衛戦争も否定した。
同日、マッカーサーは民政局に一週間で憲法草案を作成するよう命じた。戦争放棄の条文を担当したのは、次長のあのケーディス大佐である。
ケーディスは、自衛戦争を否定した箇所を削除したと生前に証言した。
「どんな国であれ、自衛の権利は本来的に持っていて当然のものです。自国が攻撃されたら自分で守る権利を否定するのは非現実的だと思ったのです。そして『紛争解決の手段としての武力の威嚇は放棄する』を加えました」
〈マッカーサーノート〉
国権の発動たる戦争は、廃止する。
日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する。
〈ケーディス案〉
国権の発動たる戦争は、廃止する。
いかなる国であれ、他の国との間の紛争解決の手段としては、武力による威嚇、または武力の行使は、永久に放棄する。
いずれも侵略戦争は明確に否定している。
二月十二日、GHQ草案が出来上がった。
多くの人権規定が盛り込まれ、天皇は象徴とされた。ケーディスの部下として女性の人権の尊重に努めたベアテさん、シロタゴードンさんのお姿とその人生の日本との物語を思い出す。
翌日、GHQは憲法草案を日本政府に示し、次のように伝えた。ケーディスは語る。
「マッカーサー元帥は、天皇制に対する連合国の批判に耐えきれなくなるかもしれない。
しかし、我々の草案の基本原則を受け入れれば、天皇の身は安泰になるであろう。逆に、日本政府が拒否すれば、マッカーサー元帥はこの草案を日本国民に公表し、国民投票にかけることを決意されました」
日本政府は、GHQ草案を受け入れた。その条文の検討が行われ、政府による帝国憲法改正案の作成が進められることになった。
四月、戦後初の総選挙が行われた。第一党の自由党の鳩山一郎が組閣直前に公職追放され、幣原内閣の外務大臣の吉田茂が首相になった。
女性が初めて参加した総選挙の結果は、日本自由党141、日本進歩党94、日本社会党93、日本協同党14、日本共産党5、諸派38、無所属81議席だった。
憲法改正案について衆議院での審議が始まる。
〈帝国憲法改正案〉
国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争解決の手段としては、永久にこれを放棄する。
陸海空軍その他の戦力は、これを保持しなければならない。国の交戦権は、これを認めない。
現在の第九条にだいぶ近づいた。違うのは冒頭の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」が無いことと、
第二項の頭の「前項の目的を達するため」の十一文字である。後者については、芦田修正として広く論じられ伝えられてきた。
番組は前者の加筆を取り上げた。
衆議院の小委員会での議事録が公開されていた。これも新たな資料だという。
昭和二十一年七月二十五日、国会で帝国憲法改正案委員小委員会が開かれた。八月二十日まで十三回続いた。
委員長は芦田均(日本自由党)、他に十三人の委員から成った。
日本自由党から二人、日本社会党から四人、日本進歩党から六人、協同民主党から一人だ。
七月二十三日に、委員長の指名で十人が決まり、開催日の二十五日に四人が追加指名された。
この中には、日本社会党の西尾末広の名前がある。
先の十人の中には、後の指揮権発動の法務大臣で知られる日本自由党の犬養健、社会党の森戸辰男、鈴木義男の名前がある。
出入りが厳しくチェックされる秘密会だった。
この会議の記録は戦後五十年間封印されていたが、近年公開された。
日本人の委員たちによって多くの草案の条文の追加や修正がなされたことがわかった。
第二十五条の生存権、第二十六条の義務教育の中学までの延長、そして第九条に「平和」の文言が加えられた。
平和について提言したのは社会党の鈴木義男委員だった。
「ただ戦争をしない、軍備を皆棄てるということは、ちょっと泣き言のような消極的な印象を与えるから、まず平和を愛好するのだということを宣言しておいて、その次にこの条文を入れようじゃないか」
翌年に片山内閣で司法大臣、引き続いて芦田内閣で法務総裁になる鈴木義男の主張は、九条の冒頭に先ず平和を愛好するという文言を追加することだった。
犬養健はじめ多くがこれに賛同した。
芦田委員長「社会党の案に何か平和愛好の意味の箇条があったのではないですか」
鈴木義男「日本国は平和を愛好し、国際信義を重んずることを国是とし教育の根本精神をここに置くというようなことを表せば法律になる」
何故、鈴木は平和の文言にこだわったのか。
法学者だった鈴木に影響を与えたのは、第一次大戦後の欧州とアメリカへの留学体験だった。
戦死者が一千万人近くに上った世界大戦後に、世界は平和を求めて国際連盟を発足させた。
鈴木は国際協調と戦争を違法化する考え方を学び、帰国して東北帝国大学の教授となった。
しかし、そこは軍国主義に向かう日本があった。教育現場に軍人を配属して軍事教練の強化が進んだ。
1924年、まだ大正十三年、河北新報に鈴木は「殺人術を教える」と反対して訴えた。
「人類文化の理想が平和にある」
日本の当時の最も重要な政策の一つである軍事教育にに真っ向から反対した鈴木は東北帝国大学を辞めざるを得なくなった。
辞職して弁護士となった鈴木は、美濃部達吉などの治安維持法違反に問われた事件の人々の弁護に取り組んだ。
戦争に突き進む時代の中で無罪を主張した。
1931年、満州事変で中国を侵略し(この番組では「進出し」である。あたかも企業が平和的にその国の法律に則り、支店や営業所を他国に展開するような表現だ。一国の軍隊が一方的に他国の領土に侵攻して戦争を仕掛けることを『侵略』という。時代は列強がその軍事力に物を言わせて、アジア、アフリカらの弱小国や地域を侵略し植民地化することを競う帝国主義の時代だ。)、国際的な孤立の道に踏み出していく。リットン調査団の報告に反発して日本は国際連盟を脱退し、戦争一色に踏み込んで行った。
国土は荒れ果て、日本人の310万人の命が失われた。
二度の世界大戦の末に国際連合が誕生した。平和を指向する動きを鈴木は注視していた。
戦後、国会議員になった鈴木は「我々はあくまでも積極的平和機構への参加政策をとるべきである」と述べている。
鈴木義男の孫の(知らなかった!)国際関係史の学者の油井大三郎氏は、「単に戦争は懲り懲りだという消極的な考え方で九条が入るだけでなく、もっと積極的に第二次世界大戦の反省から国際連合ができるという新しい平和維持の国際構想の中に九条を積極的に位置付けていくと、日本人自身の問題として戦争を二度と繰り返さない制度を作らないといけない」と鈴木の思いを語る。
鈴木の提案を芦田委員長は受けとめた。外交官出身で、戦前、軍部を批判するなどリベラルな政治家として知られていた。
芦田はがいむしょうwからの資料を示した。「国際信義を重んじて条約を守るということがどこかに有ってほしいというような意見が出ておりましたがね」
犬養「外務省が今日、言ってきたのは日本が締結又は加入した条約、日本の参加した国際機関の決定及び一般に承認された国際法規は、この憲法と共に尊重せられなければならない」
この外務省の資料を取材班は発見した。
「国際法規はこの憲法と共に尊重」作成したのは、萩原徹条約局長だった。
その提出理由を萩原は、戦前の外交をドンキホーテ式外交だと指摘、日本の伝統的な外交を破壊したと批判した。
油井名誉教授は、外務省の新しい憲法への並々ならぬ期待を読み取る。
「戦前の軍部独裁的な体制の下では、国際法の遵守は軽んじられたということの反省を新憲法では明記して国際法を尊重すつと書くべきだというトーンだと思うんですね」
「新日本が国際秩序の中にのみ存在し得る」
外務省が小委員会に提出した資料で、「条約、国際法規、これを誠実に、遵守する」ことが記されている。
これを受け、憲法第九十八条に第二項が追加された。「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」
更に芦田委員長はこの資料を第九条の修正に生かそうとした。委員は党派を越えて次々に発言する。
七月二十九日、冒頭で芦田委員長は一つの試案を示した。
「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」。まさにドンピシャの文言だ。
「陸海空その他の戦力を保持せず。国の交戦権否認することを声明する」
鈴木義男「戦力を保持しない。国の交戦権を否認する、と言い放せば良い。自分の行動を規律することをここに意思表示すつのです」
憲法九条の平和主義が誕生した。
憲政史の古関彰一元教授「みんな平和を望んでいたんですよ。上は昭和天皇から下は庶民まで、みんながもう二度と戦争は懲り懲りだという気持ちが政党の区別なしに、GHQも日本政府もしょうがないから戦争の放棄をするのではなく、積極的な意味を入れたい、そこではみんな一致したんだと思います」
こうして今から七十年前に日本国憲法は誕生した。
【第九条】
『日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、
国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため 陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない』
第九条文の冒頭の条文は衆議院の小委員会で加えられた。鈴木義男の発言、国際秩序、条約の遵守を求める外務省の意向を受け、十四人の国会議員の委員が、党派を越えた熱心な議論の末に生み出したことが明らかになった。
それは国際連合へと歩み始めた世界の動きを見据え、日本が積極的に平和を担おうとする考え方から生まれたものだった。
そこには、多くの犠牲者を出した先の大戦への反省の念が込められていた。
昭和二十一年十一月三日、日本国憲法公布。
「朕は国民と共に 自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたいと思う」
国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を掲げた新たな憲法。
鈴木義男は新憲法読本という解説書で「憲法の一大特徴は、平和主義、国際協調主義を根本としている。
今度、我々は国を建て直すことになったのであって、これは世界の憲法史上、画期的なものである」と書いた。
敗戦の焼け跡から平和国家として歩み始めた日本。
日本国憲法は今年、施行から七十年をむかえる。
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