今日のヤフージャパンのトップ記事は、スマップでも電通でもなく、世界のミシマで
あった。
ニュースのトップ記事になるくらいだから、縦の会再結成とか、ブロードウェイで上演が
きまったとか、それなりの話題性にとんだものかと思いきや、いつものアレであった。
そう。また、ミシマの生前インタビューの映像か録音テープが見つかったというやつである。
いったい、何回小出しにして「封印された歴史を呼び起こ」せば気が済むのだ。だいたい、毎度
出てくる内容はそんなにかわらないじゃねえか。
私は、オノ・ヨーコが自宅で「偶然見つけた」というレノンがギターを弾き語った古い音源をCD化したときに、TVのキャスターが投槍に彼女へ向けた質問を思い出した。「もう、こういうのこれからはないの?まだ売り出すの?」これで最後だと答えさせられるヨーコは音声化されない「もーいいよ」コールの過去ログの山を発見させられたようだった。
三島由紀夫の肉声テープは、なんでこうランダム・・というか10年おきくらいにメディア倉庫などから「偶然」発見されてしまうのだろうか。美輪明宏が機を測ってはばれないように置き逃げしてるんじゃないだろうな。
今回も内容がたいしたことないので、いちいちニュースにする価値がないのは自明であるが、
三島というキーワードは一つの文化の象徴語だからいまだに人気だ。
自決数か月前のミシマの口からでたのは「死の位置がね、肉体の外から中に入ってきた気がする」という意味不明の散文調なコメントである。
1970年はすでに鈴木大拙が禅ブームを巻き起こし、ヒッピーがヒンドゥーの神秘体験を綴っていたような時代の後なので、もう少し挑戦的な言葉が文学者には期待できたものだと私は考える。
1992年にビートたけしが、新興宗教の教祖とTVで対談したときに、たけしは死生観について「死と生は表裏一体で切り離すことができない、それぞれが半々に人間の存在には内包されている」と直球勝負な言葉でいってのけた。(私の知るかぎり、TVで思想を説いたのは、あとにも先にも、ビートたけしとその親分の立川談志の笑芸人二人である)
表裏一体を分解して半々、というのは論理学的な誤りであるが、いいたいことは十分に伝わる。死の位置というのは、肉体の中にも外にもなく、生ある肉体に刷り込まれたポテンシャル、つまりこれが業である。受け入れることでも、認知することでもなく、死は既に生のダイナミズムの機能として人間に開かれている。
私はその前後のミシマの行動や言動からして、彼が外から取り入れたのは、死ではなく自分の命だったのだと思っている。その観念上の非互換性によって彼の自決は実にもたらされた。死を天皇にかわる切り札にしたなら、彼は死を守るために死を提供することがなかったのだ。彼の持ち札はどこから回ってきたかわからないがそれが命なのだった。ポーカーをするような感覚だといってもいいだろう。死を肉体に見いだせなかった三島は命も持ってはいなかったため、死期をむかえる直前になって命を得たのである。それを彼はとらえ間違いをしている。意図的であったかはわからないが。
1970年に没した人物にしては、これだけ話す姿が露出している(しかも各国の言葉で)ことは特例だろうか。そのうち、YukioChanというボーカロイドがネット上を震撼させるかもしれない。MにもWにもMWにも大人気、ニュースも読ませればいい。