日米開戦「自衛のためにはやむなし」という認識はなぜ生まれたのか? 「自存自衛」の起源
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50528
2016.12.27 森山 優 歴史学者 静岡県立大学准教授 現代ビジネス
日本がアメリカとの戦争に踏み切るのは、「自存自衛」のためにやむを得ない……。少なくとも当時の指導者層はそう認識し、国民もまたその説明に納得していた。
しかしこの「自存自衛」という認識は、いったいいつつくられたのか。そして、これが脅かされれば戦争に訴える理由になり得ると、開戦を決意した政府や軍の当事者たちは本気で考えていたのだろうか。
日・米・英の情報戦と政策決定の実態を丁寧に追い、日米戦争の謎に迫った話題作『日米開戦と情報戦』よりその一部を特別に紹介します。(前回はこちら gendai.ismedia.jp/articles/-/50527)
■「自存自衛」の起源
「自存自衛」が正式な「国策」として明記されたのは、大本営陸海軍部が1941年6月6日に決定した「対南方施策要綱」においてであった。
この「対南方施策要綱」は、政府に提案する前に、陸海軍のあいだで決定されたものである(結局、この「国策」は政府レベルの決定にはならなかったが、「自存自衛」という概念は、その後の「国策」に引き継がれていくことになる)。
ここでは日本の南方施策の目的を、日本の「自存自衛の為の」「綜合国防力の拡充」とし、具体的には仏印とタイとのあいだに緊密な軍事・政治・経済的関係を築くと規定していた。そして、これらはもっぱら外交的な手段によって実現をめざすものとされていた。
しかし、英米オランダが対日禁輸によって日本の自存を脅かしたり、これらの国が包囲態勢を強化して国防上忍耐できなくなった場合は、日本は「自存自衛」のため「武力を行使す」るというのである。
つまり、国防力の強化のため南方(この場合は仏印とタイ)との関係を強化するが、万一のときは武力を行使してでも実行するという決定である。
それでは、南方との関係強化(この文書では軍事的結合関係を最優先している)のために英米と事を構えることを、この段階で日本は覚悟したのだろうか。
答えは否である。
じつは「自存自衛」という文言は、南方進出(「南進」)を検討する過程で、海軍が言い出したものであった。そして、この言葉は、そもそも「南進」を抑止するためのレトリックだったのである。
「自存自衛」という文言の背景には、1940年に日本中を覆った「南進」熱があった。
欧州戦線におけるドイツの電撃戦によって、オランダ、フランスは降伏し、イギリスの命運も風前の灯火に思えた。日中戦争の展開により顕在化していた日英の対立を根本的に「解決」するための、英領植民地に対する武力攻撃が声高に唱えられた。
当時、「バスに乗り遅れるな」という浮ついた言葉が流行した。このことは、南方をテリトリーとしてきた海軍にとっては、痛し痒しであった。
それまで北方のソ連を主敵としてきた陸軍が南方に目を転じてきたこと自体は、たしかに海軍にとって歓迎すべき事態だった。
海軍は日中戦争に便乗して、1939年2月には中国大陸南部の海南島を占領していた。また、臨時軍事費によって潤沢な経費を獲得し、戦艦大和や武蔵に代表される巨艦の建造に加え、近代的な航空兵力も充実させつつあった。
国家意思が南に向くことは、政治・予算の面ともに海軍の重みが増すということである。
しかし、イギリスとの戦争は大きな賭けであった。アングロ・サクソンの紐帯を考えれば、アメリカがイギリスを助けないことは想像しがたかったためである。
このため、海軍は「英米不可分」を主張し、武力行使は「自存自衛」の場合に限ることを「対南方施策要綱」に盛り込むことになる。
このとき、海軍の目に危険と映ったのは、1940年9月の北部仏印進駐の際に、中央からの命令を無視して強引に武力進駐に持ち込んだ陸軍だけではなかった。松岡洋右外相の過激な言動も、海軍の警戒心をかき立てていた。彼は、いわゆる先手論により、軍に先んじて強硬論を展開することで外交におけるリーダーシップを掌握しようとしていた。
1940年9月の日独伊三国同盟、そして41年4月の日ソ中立条約の締結に意気揚がる松岡は、陸海軍に対してシンガポール攻略論を高唱していたのである。
要するに海軍にとって意図せぬ対英戦(それは対米戦に発展する可能性が高い)に引きずりこまれないためのレトリックが、「英米不可分」と「自存自衛」だった。
つまり、「自存自衛」の危機が訪れないことが、そもそもの前提にあったのである。それでは、この「自存自衛」とは、いったいどういう概念なのだろうか。
■「自存自衛」の意味・内容
まず、「自存」について考えてみよう。
現在の日本の高校教科書でも、「ABCD包囲陣」という当時の日本政府の宣伝文句を使用したり、石油の対日全面禁輸を採り上げて説明されている。英米が経済圧迫を加えたから、日本はやむをえず戦争に訴えた、という論理構成となりやすい。日米戦争をアメリカに強いられた戦争ととらえる、一部のナショナリストの「聖戦論」とも通じている。
しかし、戦略物資を売ってくれないから戦争に訴えるという論理は、内向きかつ独りよがりである。しかも、そのことに、ときの東条英機首相も自覚的だった。彼自身、「物盗り」の戦争では大義名分が立たないと考えていたのである。
じつは、開戦がほぼ決まってから、あわてて戦争の大義名分が議論されはじめたのである。
それでは「自衛」はどうであろうか。
英米の軍備増強は急ピッチで進められており、時間の経過によって勝機を逸するという認識は、陸海軍ともに共通していた。
しかし、1941年7月、アメリカの在米日本資産凍結直後に勃興した武力「南進」論に対して、海軍次官の沢本頼雄は以下のような疑問を呈している。
もし対米戦に踏み切れば、資産凍結の直前に日本が実施した南部仏印進駐が原因となったことになり、日本が「正義の上より悪しき立場に立つ」(『沢本頼雄日記』防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵)と。
つまり、英米の一方的な圧迫ではなく、相互挑発の最初の引き金を引いたのは日本側だと認識していたことになる。
沢本は海軍次官として、その後も戦争回避の立場をとりつづけた。彼は、アメリカの先制攻撃を憂慮して開戦に踏み切ろうとする嶋田繁太郎海軍大臣に対して、アメリカは歴史的にも国情からも自ら攻めかかる国ではない、と説得をつづけたのである。
このような冷静な判断を斥け、日本は戦争へ向かった。そして、戦争に勝つためには被占領地の協力が不可欠となった。
そのために掲げられたのがアジアの解放・大東亜共栄圏という看板である。しかし、掲げられた以上、拘束力を持つのは当然である。
そして、そもそも自存自衛と大東亜共栄圏のあいだには大きな隔たりがあった。功利的に考えれば、戦争目的を自存自衛にとどめておいた方が米英との講和も容易であり(資源さえ入手できれば戦争の原因が消滅するので、講和となったらそのまま返せばよい)、敵の植民地の解放まで進むと後戻り不能となる。
結局、日本の戦争目的は両者のあいだを揺れ動きつづけ、敗色が濃くなった段階でも先述のように統一されることはなかった。
言葉をかえれば、日本は異なる二つの戦争を戦ったのである。
ただでさえ国力に大きな隔たりがある米英(1941年の鋼鉄生産量は、アメリカは日本の11倍弱、イギリスは1・8倍)と戦うのに、力が分散しては勝利はおぼつかない。敗戦は自明であった。
結局、戦前から予想されていたように大東亜共栄圏は共貧圏となり、日本は自存どころか自衛もできない状況に追い込まれた。
日本が1945(昭和20)年8月にポツダム宣言を受諾した際、抗戦派が最後までこだわったのは「国体護持」つまり天皇を中心とした体制を守る、この一点であり、それすらおぼつかない状態で連合国に国家を委ねざるをえない羽目に陥ったのである。
しかし、もちろん日本の指導者が、そのような結果を最初から予測して行動していたわけではない。
それでは、日米間に危機を招来した南部仏印進駐は、いったいどのような過程を経て選択されたのだろうか。
(続きは本書でお楽しみください!)