2016年11月10日 橘玲
16世紀に新大陸で虐殺を行なったスペインが、当時もっとも「啓蒙的、人道的」だった[橘玲の世界投資見聞録]
クスコはアンデス山脈の高地、標高3399メートルのところにつくられたインカ帝国の首都だ。このような不便なところに巨大な都市を建設したのはインカのひとびとが「旧大陸」とは異なる文化や信仰、価値観を持っていたからではなく、巨大なアンデス山脈によって分断された南米大陸ではそれがもっとも合理的な選択であったことは前回述べた。
[参考記事]
●今も「歴史問題」となっている征服者ピサロとインカ帝国の末路
クスコにはインカの高度な石造建築技術によって王宮や神殿など多くの建物がつくられたが、スペイン人の「コンキスタドール(征服者)」はそれを徹底的に破壊し、金銀財宝を略奪すると、その石を再利用してカトリックの教会を建てた。彼らにとって「新大陸」への侵略は、イベリア半島をムスリムの手から取り戻したレコンキスタ(国土回復運動)の延長だった。スペイン国王はローマ教皇から、現地の「野蛮人」にキリストの恩寵をもたらすという「大義」を理由に新大陸の領有権を認められていたのだ。
アフガニスタンのバーミヤン渓谷にある仏教石窟群は、2001年、原理主義的なイスラーム組織ターリバーンによって「偶像崇拝禁止の教えに反している」として無残に爆破・破壊された。その500年前のクスコでは、宗教(この場合はカトリック)の名の下にバーミヤンの数百倍、数千倍の規模の「文明の破壊」が行なわれた。人間のやることなどたいして変わらないともいえるし、ターリバーンの蛮行に(イスラームの指導者を含む)世界じゅうの非難が集まったことを見れば、5世紀のあいだにひとびとの価値観が多少はまともになった、ということでもあるのだろう。
クスコの中心アルマス広場とカテドラル (Photo:©Alt Invest Com)
「キリスト教徒が天国にいるのなら、いっそ地獄に落ちたい」
バルトロメ・デ・ラス・カサスは16世紀スペインのカトリック司祭で、「新大陸」に渡ったのち、インディオ(原住民)に対するスペイン人の蛮行を告発したことで知られている。もっとも有名な著作『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は16世紀後半からヨーロッパ各国でベストセラーになり、いまも「大航海時代」の実態を知る第一級資料だ(邦訳は岩波文庫に収録)。
これまでも何度かラス・カサスの『報告』から引用したが、たとえば「キューバ島について」の項には、以下のような記述がある。
スペイン人の来襲を知った有力なカーシケ(首長)であるアトゥエイは、部下たちを集めてこういった。
「(スペイン人が生まれつき残酷で邪悪な連中だというだけでは)あんなひどいことはするまい。連中には、一つの神がいて、連中はそれを心から崇め、こよなく愛している。その神を私たちから奪い去り、崇め奉るために、私たちを言いなりにさせようと必死になり、その挙句、生命(いのち)を奪うのだ」
アトゥエイは、そばにあった金製の装身具がつまった籠を手にとって話をつづけた。
「これがキリスト教徒たちの神だ。異存がなければ、この神のためにアトレイ(舞いと踊り)を演じようではないか。そうすればこの神は大喜びして、私たちに悪事を働かないよう、キリスト教徒に命じてくださるだろう」
インディオたちは口々に「そうしましょう」と叫び、その籠の前でへとへとになるまで踊りつづけた。そんな彼らにアトゥエイは語りかけた。
「キリスト教徒が崇めるこの神の正体が何であれ、こんなものを後生大事に持っていたら、連中は奪おうとして、最後には私たちを手にかけるに違いない。だから、籠をその川に捨ててしまおう」
ひとびとはこれにも賛成し、近くを流れる川に金の装身具をみな捨ててしまった。だがスペイン人の「神」に必死に祈ったにもかかわらず、アトウェイは捕まって、生きたまま火あぶりにされることになった。
処刑の場に居合わせたフランシスコ会の修道士は、木に縛りつけられたアトゥエイに神と信仰に関する話をしたあと、「もし私の話を信じるなら、栄光に満ち溢れ、永遠の安らぎが得られる天国に召されるが、信じなければ、地獄に落ち、未来永劫に罰を受け、苦しむことになる」と告げた。
アトゥエイはしばらく考えてから、「キリスト教徒も天国に行くのですか」と訊いた。
聖職者は頷いてこたえた。「ええ、善良なキリスト教徒であれば」
するとアトゥエイは、こういった。
「天国などには行きたくない。いっそのこと地獄に落ちたい。キリスト教徒がいるようなところへ行きたくないし、二度とあんな残酷な連中の顔を見たくもない」
この印象的な逸話を紹介したあと、ラス・カサスはこう書いている。
「実際のところ、インディアス(新大陸)へ渡ったキリスト教徒の所業によって、神とわれらの信仰が手に入れた名声と名誉とは、以上のようなものであった」
クスコの細い路地には「カミソリの刃すら通さない」といわれたインカの石組みが残っている (Photo:©Alt Invest Com)
「スペイン人は世界でもっとも残虐かつ非寛容な国民」という黒い伝説
ラス・カサスの『報告』がおどろおどろしい版画を添えてヨーロッパ各国で翻訳出版されると、ひとびとはインディオが強いられた悲惨な運命に驚愕した。スペインが新大陸に植民した15世紀末から16世紀が異端審問の最盛期だったこともあって、インディオの悲劇はスペイン人の狂信性と残虐性の象徴とされ、16世紀後半には「スペイン人は世界でもっとも残虐かつ非寛容な国民」というのが定説になった。これがのちに、「黒い伝説」と(スペイン人によって)呼ばれることになる。
その一方で、スペインがヨーロッパの覇権を失い、国内政治の混乱もあって国力が衰退すると、19世紀後半から20世紀前半にかけて、保守派の知識人を中心にかつての「太陽の沈まぬ帝国」を回顧する動きが強まった。このとき真っ先に目の仇にされたのがラス・カサスの『報告』で、保守派によれば、スペイン人は新大陸を征服・支配することで人肉食の野蛮なインディオを「文明化」するという神聖で崇高な使命を果たしたのであり、「黒い伝説」はスペインに敵対したヨーロッパ諸国が『報告』に依拠して捏造したまったく根拠のない反スペインキャンペーンなのだ(この「反スペイン」を「反日」に読み替えれば、いつの時代もたいして変わらないことがわかるだろう)。
とはいえ、一見暴論とも思えるスペインの保守派の言い分にも理由がないわけではない。
『報告』がもっとも広く流布したのは16世紀後半のオランダだが、当時、オランダ(ネーデルラント)はスペイン=ハプスブルク家の支配下にあり、独立を求める反乱が繰り返されていた。ネーデルラントにはカルヴァン派などのプロテスタントが急速に浸透していたが、カトリックの牙城であるスペイン宮廷(神聖ローマ皇帝でもあるカール5世と息子のフェリペ2世)は異端審問官を派遣して徹底した弾圧を行なった。こうした状況下で、『報告』が宗主国であるスペインへの反感を醸成するために政治的に利用されたことは疑いない。
また16世紀は、「世界」の覇権をめぐって新興のイギリスがスペインとはげしく争っていた。そんななか、ネーデルラント北部諸州がスペイン統治を否認する布告を出すと、1588年、フェリペ2世は北部諸州を支援するイングランドを叩くため無敵艦隊を派遣する。このアルマダの戦いで敗退したことでスペイン帝国の退潮が始まるのだが、当時はまだスペインはイングランドよりはるかに強大と考えられており、「黒い伝説」をヨーロッパじゅうに流布させるのは反スペイン諸国にとって大きな利益があったのだ。
ラス・カサスの『報告』を一読すればわかるように、これは客観的な歴史資料ではなく、南米でのスペイン植民者の蛮行を告発するプロパガンダだ。現在では、スペイン人との接触によって天然痘、麻疹、チフス、インフルエンザなど免疫のなかった伝染病が蔓延し、インディオ社会に致命的な打撃を与えたことがわかっているが、それについての言及はひとこともなく、ひたすらスペイン人の残虐行為を書き連ねていることからも、ラス・カサスの意図がどこにあったかは明確だ。
さらなる批判を浴びたのは、ラス・カサスが挙げるインディオの犠牲者数が大幅に水増しされているとの“疑惑”だ。
たとえばラス・カサスは、征服前のイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)の人口を300万と記しているが、当時の複数の記録でも現代の研究者の評価でもその人口は100万を超えていない。同様にラス・カサスは、メキシコ中央部で400万、ペルー副王領でも同じく400万の生命が奪われ、1502年から42年までの40年間に2580万から2880万人のインディオが征服戦争の犠牲になったとしているが、当時の人口調査や統計では正確な数字を出すことは不可能で、「被害」の規模に確たる根拠があるとはいえない。
保守派が批判するように、ラス・カサスにインディオの犠牲者数を誇張する動機があったことはたしかだろうが、その一方で、この数字を一概にデタラメと見なすこともできない。スペイン人によってインディオ社会が徹底的に破壊されたため、征服以前の人口を知るための資料はほとんど残っておらず、その推計は研究者によって大きく異なるからだ。
一部の研究者は、メキシコ中央部で850万、ペルー副王領で750万のインディオが死んだと推計している。これが実態に近いとすれば、インディオの被害はラス・カサスの「誇張された」数字の倍に相当することになってしまうのだ。
インカの時代のコリカンチャ(太陽の神殿)跡に建てられたサント・ドミンゴ教会 (Photo:©Alt Invest Com)
教会内部にはインカの神殿の土台が残されている (Photo:©Alt Invest Com)
「スペインは16世紀のヨーロッパではもっとも啓蒙され、人道主義的だった」
「黒い伝説」は、「スペイン人は世界でもっとも残虐で狂信的な民族」だという。この伝説を生んだのは、ラス・カサスというスペイン人のカトリック司祭だ。ではなぜ、彼は自らの国を貶めるような『報告』を書いたのか。
この問いに対してアメリカの歴史家ルイス・ハンケは、新大陸でのスペイン人の蛮行を歴史的事実としつつも、「スペインは16世紀のヨーロッパではもっとも啓蒙され、人道主義的だった」という驚くべき主張を展開した。
『スペインの新大陸征服』(平凡社)、『アリストテレスとアメリカ・インディアン』(岩波新書)などでハンケは、ラス・カサス個人ではなく、その告発が当時のスペイン社会でどのように受けとめられたかを検証する。
新大陸のスペイン人をはげしく告発するラス・カサスは、現地のスペイン人社会はもちろん、スペイン本国でも蛇蝎のごとく嫌われた。しかしその一方で『報告』が、新大陸の統治に関する最高機関である「インディアス枢機会議」および君主であるカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に宛てられたものであることを無視することはできない。じつはこの文書は、スペイン国王から征服戦争の実態を報告するよう求められ、新大陸の統治改革のために書かれたのだ。
ハンケが指摘するまで、カトリック司祭を中心にスペインの権力者層のあいだにラス・カサスの支持者が多くいたことはほとんど注目されなかった。実際には、ラス・カサス以外にも新大陸に渡った宣教師から同様の報告が大量にスペイン本国に送られてきており、スペイン人植民者の「反人道的行為」は為政者のあいだでも広く知られていた。それに対してなんらかの対処が必要だと認識されていたからこそ、スペイン宮廷に対してインディオの「人権」を擁護するラス・カサスの運動が許されたのだ。
カルロス1世を取り巻くスペイン宮廷の権力者がラス・カサスの訴えに耳を傾けたのは、もちろん彼らが「人道主義者」だったからではない。レコンキスタによってイベリア半島のカトリック化は完成するが、そのなかで国王・宮廷をもっとも悩ませたのは地方領主が大きなちからをもって台頭してきたことだった。
分権化した領主の集まりだったスペインは、カスティーリャ王国のイサベル女王とアラゴン王国のフェルディナンド皇太子の結婚によって「国家」になったが、それはカタルーニャ、バスク、アンダルシアなどの諸王国を征服・支配することで成り立つ不安定なものだった。そこに新大陸という広大な領土が新たに加わったのだが、そのことで宮廷は、インディアスのスペイン人植民者が新たな「王国」をつくることを強く危惧するようになる。ラス・カサスの告発は、スペイン本国(宮廷)が新大陸の統治に介入する格好の口実を与えたのだ。
だがこのことでスペインの為政者たちは、「正義」を意識せざるを得なくなった。もともと新大陸の領有権がスペイン国王に与えられたのは、ローマ教皇から「キリスト教布教」の大義を委任されたからだった。ラス・カサスが告発するように、スペイン人植民者がインディオを奴隷化し虐殺しているのなら、その事実が広く知られることはスペインによるインディアス統治権の根幹を揺るがすことになる。スペイン宮廷は、「なぜ自分たちがインディアスを統治するのか」という大義(道徳的優位性)を世界に向けて示す必要があったのだ。
こうして1547年、カルロス1世の命により、スペインのバリャドリードにおいて、当代随一のアリストテレス学者といわれたセプルベダとラス・カサスのあいだで、インディアス問題をめぐる前代未聞の論戦が行なわれることになる。
インカ帝国の首都クスコは標高3400メートルの高地につくられた (Photo:©Alt Invest Com)
アリストテレスのいう「先天的奴隷」とインディオ
ここでなぜ、いきなりアリストテレスが出てくるのか、疑問に思うひともいるだろう。
ルネサンス初期にイスラーム世界との接触を通じてギリシア哲学を「発見」して以来、カトリックにおいてアリストテレスは最高の知的権威となった。とりわけラス・カサスが所属したドミニコ会では、13世紀にトマス・アクィナスが『神学大全』でキリスト教思想とギリシア哲学を統合し、それが絶対的教義として扱われていた。そのアリストテレスの著作のなかに、「人類の特定の一部は奴隷たるべく自然によって生まれつき定められており、労働を免れ徳高き生活を営むべく生まれた主人に奴隷として奉仕する」との記述があることが論争の原因になったのだ。
高名なアリストテレス学者であるセプルベダは、アリストテレスを引用しつつ、インディオは「先天的奴隷」であり、野蛮人にキリスト教の教義を教える目的に沿うのであれば、インディオを奴隷として使役することは完全に正当であると論じた。それに対してラス・カサスは、インカ帝国を例に挙げて、高度な文明を持つインディオはアリストテレスのいう「先天的奴隷」にはあてはまらず、たんにキリストの福音を知らないだけで「ひと」としての諸権利を持っているとして、こう反論した。
「なんぴとも不当に自由を奪われてはならない。なんぴとも(中略)先天的奴隷人なりという口実で奴隷にされるようなことがあってはならない」(『アリストテレスとアメリカ・インディアン』)。
これはその後の人権思想につながるきわめて啓蒙的な主張で、歴史家ルイス・ハンケは、16世紀のスペインにはこの思想に共感し、ラス・カサスを支援する多くの知識人・権力者がいたことを指摘した。その一方、同時代にブラジルを植民地化したポルトガルでは、原住民に戦争をしかけ、奴隷にし、彼らが「不正に所有する」土地を押収することは当然とされていた。じつはこれが16世紀のヨーロッパの「常識」で、それに比べればスペインは突出して開明的だったのだ。
実際、カルロス1世はラス・カサスの告発やインディアス会議からの報告を受け、征服事業を、それが正しいかどうか決定するまで停止するよう命じている。歴史家ハンケはこれを、絶対君主がおのれの征服事業を、正義を基準に自ら停止させた「空前絶後」の出来事と評価している。
ところでラス・カサスの告発は、間接的に日本の歴史にも影響を与えている。
1549年、イエズス会士フランシスコ・ザビエルが日本を訪れてキリスト教を伝えた。ザビエルはその前年にインドのゴアで宣教師になったから、47年のバリャドリード論戦を知っていたかどうかはわからないが、そこに至るまでにスペインで「植民地の正義」をめぐってはげしい論争があったことは当然、承知していたはずだ。
スペインでは16世紀後半になると、インディオの権利を保護し、植民者の横暴を禁じる法律が次々と制定されていく。それと同時に、新たに布教の対象となったフィリピン諸島や中国では、カトリックの教義を一方的に押しつけるのではなく、原住民の文化を尊重することが求められた(これは現代の「文化多元主義=マルチカルチュラリズム」の萌芽だ)。
ザビエルや彼につづく宣教師たちは、東洋の島国の原住民が自分たちと対等だなどとはけっして考えなかっただろう。しかしその一方で、ラス・カサスの告発を経たあとでは、日本人を「先天的奴隷」ではなく「ひと」と見なす程度には啓蒙されていたのだ。
アルマス広場に立つインカの王の像 (Photo:©Alt Invest Com)
ラス・カサスについては、染田秀藤氏の『ラス・カサス伝』(岩波書店)と、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』に寄せた同氏の解説を参考にしています。
橘 玲(たちばな あきら)
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、歴史問題、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。近刊『「言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)が30万部のベストセラーに。
●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中)
http://diamond.jp/articles/-/107458