「世界四大文明」の虚構
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浦沢直樹氏の劇画『マスター・キートン』は、考古学者であり、元イギリス特殊部隊(SAS)隊員であり、そして、保険会社の調査員でもある人物を主人公とする物語だ。自分は、この劇画が大好きだ。
その『マスター・キートン』の第一話だっただろうか。主人公のキートンが、娘の学校の世界史の教科書を読んで、その内容を酷評する場面が有る。キートンは、娘が使ってゐる「世界四大文明」に関する記述を酷評し、古代文明は、もっと沢山存在した、と学校の教師に向かって言ふ。
「世界四大文明」なんて、発掘法が未熟だった時代の考古学が生んだ概念で、古代文明は、もっと世界中あちらこちらに存在して居たと言ふのだ。なるほど、「世界四大文明」なんて無意味な概念なのだ。
しかし、自分は、ここでキートンの言葉に疑問を持つ。それは、古代、何故、そんなに多くの文明が、発生したのか?と言ふ疑問だ。本当に、そんなに多くの文明が、地球上の色々な場所で、独立して発生したのだろうか?そもそも、かつて言はれた「四大文明」だって、独立して発生した物だったのだろうか?
四つか、或いはそれ以上か知らないが、地球上の複数の場所で、文明は、それぞれが無関係に、独立して発生したのだろうか?
キートンの言葉に依れば、2桁の数の文明が、古代、色々な場所で発生したと言ふ。では、それらの複数の古代文明は、皆、お互いに無関係に、独立して発生した物だったのだろうか?そうだとすれば、これは、凄い偶然ではないだろうか。
素人の愚見をお許し頂ければ、自分には、古代の地球上で、そんなに多数の文明が、お互いに無関係に、独立して発生したとは、到底思へないのだ。
そこから、自分は、一つの仮説に導かれる。それは、古代に存在した多数の文明は、実は、共通の起源を持って居たのではないか?と言ふ仮説だ。即ち、文明は、ひとつの共通の起源を持つのではないか?と言ふ事だ。
裏を返せば、「世界四大文明」をはじめとする、古代文明の同時多発発生説は、現代の考古学の限界から来る錯覚か、或いは、現代のイデオロギーが投影された幻影ではないか言ふのが、自分の考えだ。
ここで言ふ「現代のイデオロギー」とは何か?それは、諸民族が持つ自己の文明への思ひ入れだ。或いは、ナショナリズムと言ってもいい。
例えば、インダス文明が、「独立して」発生したと考える事の背景には、インド人たちのナショナリズムと、そのインド人の願望にに応えようとしたアカデミズムの見方が投影されては居なかったと言ひ切れるのだろうか?
或いは、黄河文明が、「独立して」発生したと考える事の背景には、自分達の先祖が偉大だったと信じたい漢民族の思ひ入れ、或いはナショナリズムが投影されては居ないだろうか?
かつて、イタリアの歴史かクローチェ(Croce)は、「全ての歴史は、現代史である。」と言ったが、この問題(文明の起源は単一かそれとも複数か?)も、「古代史」の問題であると同時に、「現代史」なのではないだろうか。
最近、BBCが、中国の兵馬傭作製にあたり古代ギリシア人が技術指導した可能性が出て来た事を報道した。兵馬傭から採取したミトコンドリアを調べた結果、西洋人のDNAが発見されたと言ふのだ。
自分は、全く驚かなかったが、中国人は、驚いた様である。と言ふより、この報道に対して、中国人の間からは反発が発生した様である。
矢張り、中国人たちは、自分達の古代文明が、他の文明の影響を受けて居たとは思ひたくないのである。だから、こうした新しい発見に反発するのだろう。
中国人たちは、自分達の古代文明が、他の文明の影響を受けて居たとは思ひたくない様である。だから、こうした新しい発見に反発するのだろう。
なるほど、矢張り、クローチェの言葉(「全ての歴史は現代史である。」)は、正しい様だ。