時間がないので、要点のみ。細部ないし補論はいずれup。
それでも、コメントがやや長くなったので、別投稿にする。
> 何が「主」で何が「従」であるか、そこを良く見極めないと事態打開の戦略論が成り立たない。
⇒ この発想は、私は取らない。少なくとも中東問題とイスラムに関しては当てはまらない。
> 現在の中東の大混乱を招いたのはモンスターの出現なのか、欧米のたび重なる軍事介入なのかというのが端的な問題。後者が「主」であることは誰の目から見ても明らかである。」
⇒ 「誰の目から見ても」というのは、仁王像さんの目から見て、ということ。「自分の見方が世界標準」だとは、思わない方がいい。
⇒ 「欧米のたび重なる軍事介入」とは、具体的に何を指しているのか?
イラク戦争とシリア内戦と、リビア崩壊に関しては、明らかに欧米に非がある。しかし他スレでも述べたように、対ISに関しては、ISによる「異教徒」少数民族(特にヤジディー教徒)の大量虐殺(ジェノサイド) が直接の原因である。
仁王像氏は、このジェノサイドを認めているのか? (なお、ヤジディー教徒の女たちは今なおISに捕らえられ、「性奴隷」にされている。イスラムは「奴隷制」を認めており、「改宗しない異教徒の女」は性奴隷にされる。)
> 米国の主導で西側諸国が国家の名において中東で残虐な「テロ」を積み重ねてきたのである。その結果モンスターを誕生させ、混乱に拍車をかけたのである。本末を転倒してはならない。」
⇒ 違うね。本末転倒しているのは、仁王像氏自身。問題の中心軸は、そこにはない。
仁王像氏のいう「モンスター」はイスラムの教理の「正統な嫡子」だ。彼らは、コーランに記されていること(アッラーの言葉と、イスラム法学者によるその解釈) をそのまま実行しているに過ぎない。つまり、ISの「根源」はイスラムとコーランにあるということだ。
⇒ それから、イスラム勢力も何度も欧州に攻め込んでいるのだよ。(8世紀〜15世紀にはスペインを占領。フランスにも来た。15−16世紀には二度に亘りウィーン包囲。) 帝国主義の時代以降、英米は一定期間石油権益を握っていたが、フランスは実質何も利益は得ず、持ち出しばかり。
現在、「ムスリム同胞団」は、在欧のムスリム人口を増加させることで欧州を「征服する」と主張している。(「征服」とは、シャリアで統治される国家を造ること。西欧の政治制度は議会制民主主義だから、有権者のムスリム比率が上がれば、いつでも憲法や法律を変えて「シャリア支配の国家」に転換することが可能。棄教したある移民系の作家は、「欧州で民主主義がいつまでもあると思うな!」と警鐘を鳴らしている。)
> イスラム教国は20世紀までほぼ平和に暮らしてきた。テロが激増したのは21世紀に入ってからだ。
⇒ これも違うね。イスラムは、初発から「戦争」(彼らは「ジハード」と称している) をすることで勢力を拡大してきた。イスラムに帰順しない者は殺し続けてきた。現在起きているテロは、その現代板。
私はISを、古代中世のイスラムを見るような思いで眺めている。町や村に ISみたいなのがやってきて、イスラムに改宗せねば殺すと脅して改宗させた。(ユダヤ教徒とキリスト教徒の一部だけが、ジズヤを払って信仰を守り細々と生き続けたが、それでもムスリムによる「異教徒差別」はひどかった。)
仮に「イスラム教国」が「平和」に暮らしてきたとすれば、それは「信者集団」の中でだけ。異教徒と不信仰者(イスラムに逆らった者も含む) に対しては、「死」で報いてきた。「死の処罰」が待っていることを知っているので、1400年間、信者も逆らわなかった。イスラムとは「服従」という意味。「アッラーへの完全服従」がイスラムで言う「平和」のこと。「現代的な意味」で、「日本人的な感覚」で、勝手な解釈をしてはいけない。
> 事態打開の戦略論の第一歩は、これらの地での一切の軍事介入から手を引くこと。
⇒ この方法での「事態打開」は無理だろうね。もうその段階ではない。今は「棄教」と「改宗」に「戦線」が移っていると思う。
イスラムの本願はシャリア(イスラム法)支配体制、つまり「シャリア」によって統治される「神権国家」(カリフ国) を世界的な規模で建設すること。世俗国家の国境線は関係ない。武力による戦争が「休止」しても、「彼らの戦い」は続く。世俗国家に「シャリア」を受け入れるよう強い続ける。
ムスリムの多産によって彼らの人口が増加し、ムスリムが多数派になれば(それは現在進行中である)、既存の世俗法や世俗憲法を変えることも十分可能だ。「ムスリム同胞団」等のイスラム原理主義本流は、そのための布石を着々と打っている。
世俗国家である近代民主主義国の国民が、「シャリア」を受け入れるか拒否するかが、現在の主たる問題なのである。
仁王像氏のような人は、世俗(非宗教)勢力と神権勢力の間の戦いにおいて、紛れもなく(後者の)「第5列」を構成する。仁王像氏は、人権擁護派でも(近代的・世俗的な意味での)平和主義者でもない。「性奴隷」を容認し、イスラムという「全体主義宗教」を擁護する「テオクラシー賛美者」である。「イスラム批判」を止めればテロは起きない、などと寝言を言う。自身はイスラムを称賛し、「アラブ好き」を公言する。(ところが、そのアラブ人は、西洋文化を知る「先進的アラブ人」は続々と棄教している。仁王像氏のいう「アラブ人」とはヴェールなど脱ぎ捨てて自由に町を歩きたいというアラブ人ではない。モスクで礼拝を欠かさず、女にヴェールを被せ(被らなければ強姦) 、「異教徒や不信仰者」に向かって「アッラー・アクバル」と叫んでいるアラブ人なのである。)
仁王像氏の「アナクロ精神」の根本には、氏の「反西洋思想」がある。それは「近代精神」とも「人権思想」とも相容れない性格のものである。氏のように、「人権」や「民主主義」ぱ「西洋イデオロ」に過ぎないとして、「西洋」を否定しさえすれば「極楽浄土」ないし「平和な世界」(≒「ダール・アル・イスラム」⇒「天国」) が現れるなどと妄想する脳は、「カルト脳」と呼ぶのがふさわしい。
「カルト脳」が造る国家、それが「テオクラシー国家」「神権政治国家」である。
イスラムは「心の中だけの宗教」ではない。イスラムは「政治的宗教」なのである。イスラムと国家は「一体不可分」のものである。
「全体主義宗教」では「思想信条の自由」は許容されない。宗教(イスラム)批判は許されない。「アッラ−・アクバル」とはそういう意味なのだ。「不信心者」を殺すとき、彼らはそう叫ぶ。