山崎元のマルチスコープ
【第443回】 2016年9月14日 山崎 元 [経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員]
小池都知事の「給与半減」で考えるトップの最適報酬
社長の報酬の最適額はどのうように決まるべきなのか
小池都知事の賢い公約
給与半減は有効な「投資」
現在、築地市場の移転問題で話題を集めている小池百合子都知事が、都知事選の公約でもあった知事の報酬半減を打ち出した。公約だったのだから当然とも言えるが、ボーナスを含めた全報酬の半減であれば、年収が約1450万円となって、都議会議員の1700万円と逆転するという。
月払いの給料だけの半減なら、逆転は起こらないが、ボーナスに業績査定がある訳でもなく、事実上一定の収入が確保されているのだから、ボーナスを含めた全報酬を「給与」と考えて半減させるのが、普通の考え方だろう。月額のみ半減といった、中途半端な措置を取ると、都庁の役人に左右されたのではないかとの不名誉な憶測を生むだろうから、小池知事は、事務方からこの種の提案があっても、引っ掛からない方がいい。
知事の報酬の変更には都議会の承認が必要だ。一部には、自分たちの報酬額に対する有権者の批判や反感を恐れた都議達が、都知事の報酬削減に反対するのではないかとの憶測もあるが、都議諸氏は、都知事本人がそうしたいと言っているのだから、「静かに」受け入れて可決すると良かろう。「政治にはカネが掛かる」とか、「政治家のなり手がいなくなる」とか、仲間受けを狙った発言をすると、本人のマイナスになるリスクが大きいとご忠告申し上げておく。
小池都知事に反対したい都議にとっては、むしろ小池都知事に都議の報酬批判をさせる方がチャンスが大きいだろう。もっとも、クレバーな小池知事は、そのような愚策を採らないだろう。
一方、小池都知事は、年間約1450万円の費用で、都知事という大きなポジションにあって、政治的な評判を買うことが出来、メッセージを発することもできるのだから、この費用を「投資」と考えるなら、極めてリターンが高いと言えるのではないか。賢いやり方だと思う。
両者が合理的であれば、小池都知事の報酬半減はスンナリ決まるだろうというのが筆者の読み筋だが、さてどうなるだろうか。成り行きに注目したい。
企業のトップの最適報酬は
いくらであるべきなのか?
わが国の大企業、特に上場企業のトップ(社長、代表、CEO、など呼称は様々だが、以下、分かりやすく「社長」と呼ぶ)の報酬は、リーマンショック後に一時的に減った可能性があるが、趨勢的には明らかに増えている。長きにわたるデフレ経済の中でも、増えて来た。勤労者所得が伸び悩んでいるのとは対照的だ。特に、近年、上場企業の役員報酬で1億円を超える人の人数が目立って増えている。
成功したオーナー社長が大金持ちになるのは、昔も今も同じだし、資本に所有権がある経済システムなのだから、羨ましくはあっても、ある程度納得できる。
悩ましいのは、サラリーマン社長の報酬だ。彼らの報酬を増やす必要はあるのか、あるいは、彼らの報酬の最適額はどのように決まるべきなのだろうか。
報酬を増やす際の社長の言い分は以下のようなものだろう。
(1) 一般社員と比べて社長の業績に対する貢献度・影響度は桁違いに大きい。
(2) 社長は激務だし個人として不自由な場合もある。
(3) 社長は(役員も)株主代表訴訟のリスクなどリスクを負っている。
(4) 欧米の社長はもっと報酬が高い。
(5) 社長以下の幹部の高額な報酬が後進の励みになる。
(6) 株主は業績あるいは株価連動の報酬に納得する。
(7) 社外取締役や報酬委員会の検討を経ている。
手短に感想を言うなら「(1)と(2)は確かにそうだが、昔からそう。(3)は気の毒だが、悪いことをしなければいい。(4)は単に外国の話。(5)も昔から」ということになり、大きな変化要因は(6)と(7)であるように思われる。
コーポレートガバナンスの本質は
「株主による経営者の買収」
「コーポレートガバナンス・コード」や「スチュワードシップ・コード」さらには「ROE」の強調などに表れている、近年のコーポレートガバナンスを巡る動きは、一言で言うと「株主による経営者の買収」だ。経営者の報酬を上げるようなコーポレートガバナンスに協力する代わりに、経営者に対して、株主への利益配分を要求する構造になっている。
社長は、人件費などのコストを抑えて利益を出し、利益や内部留保を配当や自社株買いに使うと、株主・投資家・報酬委員会(社外取締役)に評価されて、自らの報酬を増やすことが出来る。
社長は、社員に嫌われても、株主に嫌われても困る立場なのだが、目下、株主寄りの方向に利害の重心が移動しつつある(「経済合理的」ではある)。
他方、安倍政権から見ると、デフレ脱却のための企業に対する「賃上げ要請」と、コーポレートガバナンス改革で要求している「ROE目標」は、明らかに相反する方向を目指しているが、社長の利害から見て、賃上げよりもROEが強いのが現状だ。
社長の報酬を決める要因の順番
最近は「株主の意向」を優先
企業の場合、社長の報酬は、主に以下の要因で決まっていたように思う。(A)株主の意向、(B)従業員の意向、(C)顧客や世間の反応、の3つだ。
過去には、株式持ち合いで株主の影響が封じ込められていたことなどを反映して、日本企業の社長(特にサラリーマン社長)は、(B)を最も気にする「社員の長」だった。
しかし、これが株主の力が大きくなることで、(A)に移行しつつあり、株式会社にあって「(株式)会社の長」になりつつあるようだ。
この変化は、社長自身にとって経済的に好都合だ。同じ業績でも、株主の利益を指向する施策を採ることで、自分の報酬を上げることが出来るからだ。典型的には、自社株買いを行って、株主に現金を渡し、ROEを上げたらいい。
純粋な予想の問題としては、サラリーマン社長にあっても、社長の報酬はもうしばらく増加する傾向だろう。
日本企業は横並びを気にするから、同業他社の動向を見ながら徐々に上げて行けばいい。(B)に関しては、トップと幹部の報酬を上げることが、社員のモチベーションにつながる面を強調すればいいし、所詮会社側に選ばれる社外取締役や、報酬委員会といった存在が、社長の報酬を正当化するほどよい賛成者として機能する。
資本効率を上げること自体は好ましいケースが大いにあるので、これを一律に敵視する必要はさらさらないが、経済政策上悩ましいのは、賃金との関係だ。
経営者の利害の重心が、従業員を中心とする会社組織から、株主の側に移行することで、賃金(人件費)はより抑制されやすくなるし、非正規労働者の利用をなるべく増やしたいとも考えるはずだ。コストを抑えて、利益を出そうとするモチベーションはもともと存在したが、それがもっと強力になる。
賃金に対する抑制的な圧力は、当面のマクロ政策目標であるデフレ脱却に逆行している。安定的な物価上昇には、賃金上昇の継続が不可欠だが、その実現のためには、デフレギャップを埋めて、全般的な人手不足の状態をキープするしかない。
一般的にはトップの報酬は
「組織目的」で決めるべき
組織のトップの報酬額の決定方法について、一般的にこれで良しとされる方法はないように見える。あえて一般化しようとするなら、組織の目的に適うかどうかだろう。
例えば、小池都知事の場合、自らの報酬削減が知事の求心力につながったり、都政の引き締めにつながったりするなら、彼女の「目的」(恐らくは、正しい目的だ)に適うことになる。
企業の場合は、建前も本音も錯綜している。
建前として、企業は、社会的存在としては、たとえば「付加価値」を最大化すべきだろうし、株式会社であることを強調するなら「株主利益」の最大化を目指すべきだ。現実に取るべき行動、組織体制、そして報酬体系について、両者の価値観は一致する場面もあるし、しない場面もある。
ここで、両者をどうバランスさせるのがいいかという、より高次元の一般論は存在しない。トップの報酬は、組織ごとに、時には状況によって、都度都度、組織目的を明確化して決めることになるだろう。正当化する側も、批判する側も、何とでも言える状況だ。
例えば、個人の能力に対する評価と、社員の感情とを考えると、組織がパフォーマンスを最大限に発揮する上では、日本企業のサラリーマン社長の報酬は、そろそろ頭打ちでいいのではないかと思う。しかし、先に述べたように、まだその気配はない。
余談だが、都議会議員はいい商売だ
ところで、話が前後して恐縮だが、それにしても、年収約1700万円で、一人当たり毎月60万円の政務活動費があるというのだから、職業として都議会議員は恵まれている。若くても、あるいは、相当に高齢であっても、選挙に勝つだけで、大企業の部長クラスくらいの報酬が手に入る。
リスクやコストも考える必要があろうが、地方議員は、なかなか魅力的な職業選択プランかもしれない、と考えさせる。
東京都民の一人として、都議諸氏には報酬に見合う「大活躍」を期待したい。
http://diamond.jp/articles/-/101840
いま世界の哲学者が考えていること
【第4回】 2016年9月14日 岡本裕一朗
「思弁的実在論」とは何か?メイヤスーのもたらした実在論的転回
世界の哲学者はいま何を考えているのか――21世紀において進行するIT革命、バイオテクノロジーの進展、宗教への回帰などに現代の哲学者がいかに応答しているのかを解説する哲学者・岡本裕一朗氏による新連載です。いま世界が直面する課題から人類の未来の姿を哲学から考えます。9/9発売からたちまち重版出来の新刊『いま世界の哲学者が考えていること』よりそのエッセンスを紹介していきます。第4回は哲学・思想界の新たなスターであるカンタン・メイヤスーによる「思弁的実在論」を概観します。
ポストモダン以後の思想――実在論的転回とは何か?
前回はポストモンダン以降の21世紀における哲学の3つの潮流を概観しました。今回と次回はそのなかでも「実在論的転回」にフォーカスして解説をしたいと思います。
21世紀になって、ポスト「言語論的転回」として目立った活動をしているのが、「実在論的転回」とでも呼ぶことができる潮流です。ただ、この潮流は若手の哲学者が中心となっていることもあって、まだ翻訳も少なく、今のところ全体像が把握し難い状況です。そのため、ここでは、紹介の意味を込めて、その成立過程に触れておきたいと思います。
マウリツィオ・フェラーリスの『新実在論入門』(2015年)によると、「実在論的転回」が明確な形で現われたのは、カンタン・メイヤスーによる『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』(2006年)からです。「この書物出版の2年後に、きわめて影響力のある運動、つまり思弁的実在論の運動が生まれた」のです。
この運動に参加した主要なメンバーは、メイヤスー自身と、3人の思想家たち(グレアム・ハーマン、イアン・ハミルトン・グラント、レイ・ブラシエ)です。彼らの議論については、2011年の論集『思弁的転回』において、確認することができます。
こうした運動とは独立して、フェラーリス自身やドイツのマルクス・ガブリエルらによって、「新実在論」と呼ばれる思想も展開されています。ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』(2013年)によれば、「新実在論は、いわゆるポストモダン以後の時代を示す哲学的立場を記述する」とされます。これを受けて、フェラーリスは2012年に『新実在論宣言』を書き、その立場を簡潔に示しています。
注目したいのは、実在論的転回を唱える思想家たちが、二つの重要な傾向をもっていることです。一つは、彼らが総じて、「ポストモダン以後」を明確に打ち出していることです。20世紀末に流行したポストモダン思想に対して、その終焉を突きつけたわけです。
もう一つは、ポストモダン思想を、歴史的により広い視野から捉え直したことにあります。実在論者たちによれば、ポストモダンにおいて頂点に達する言語論的転回は、じつを言えば、すでにカントの「コペルニクス的転回」から始まっています。これを示すために、フェラーリスは「フーカント(フーコー+カント)」という言葉で茶化しています。
さらに、この伝統は、ある意味では近代哲学の創始者デカルトにまで淵源する、とされます。そのため、フェラーリスは「デカント(デカルト+カント)」という言葉を語ることもあります。「フーカント」も「デカント」も、存在は思考によって構築されるという「構築主義」を戯画的に表現しています。こうした構築主義が、20世紀末のポストモダン思想の本質をなしている、と考えたのです。
21世紀を迎える頃には、ポストモダンの流行も終息していましたが、実在論的転回はそれを思想的に葬り去ろうとしたのです。その意味で、フェラーリスが語るように、現代の実在論的潮流を、「時代精神」と呼ぶことも可能かもしれません。
しかし、注意したいのは、実在論的転回といっても、一枚岩ではなく、それぞれの論者によって内容が違っていることです。そこで、その思想を理解するには、個々の哲学者たちの議論を取り上げなくてはなりません。
メイヤスー「思弁的実在論」の衝撃
ここでは思弁的転回を理解する第一歩として、若きスターであるメイヤスーに焦点を当てることにしましょう。
20世紀の後半(70年代以降)、フーコーやデリダやドゥルーズなど、フランスの現代思想家たちが、アメリカで多くの支持を集めました。しかし、21世紀になると、そうした巨匠たちも亡くなり、思想的カリスマが不在となってしまいました。そうした状況で、新たな思想的ヒーローとして登場したのが、カンタン・メイヤスーです。彼は、現在パリ第1大学の准教授となっていますが、1967年生まれとまだ若く、注目されたころは30代でした。
メイヤスーが2006年に出版し、その後「思弁的実在論」の運動を形成するきっかけになったのが、『有限性の後で』です。アラン・バディウの推薦もあって、この本によってメイヤスーは一躍、現代思想界の中心に立つようになりました。
では、この本で彼は、何を語ったのでしょうか。彼の基本的な視座となっているのは、カント以来の近代哲学の中心概念が「相関」になったという洞察です。その意味を彼は、次のように説明しています。
私たちが「相関」という語で呼ぶ観念に従えば、私たちは思考と存在の相関のみにアクセスできるのであり、一方の項のみへのアクセスはできない。したがって今後、そのように理解された相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向を、相関主義と呼ぶことにしよう。そうすると、素朴実在論であることを望まないあらゆる哲学は、相関主義の一種になったと言うことができる。
メイヤスーによれば、こうした「相関主義」は、20世紀の現象学であれ、分析哲学であれ、免れてはいません。そして、言うまでもなく、言語論的転回やポストモダン思想も例外ではありません。メイヤスーはこうした相関主義を乗り越え、思考から独立した「存在」へと向かうのです。その意味で実在論を目ざすのですが、かつての「素朴実在論」とは区別されます。
むしろ、彼が「実在」と考えているのは、数学や科学によって理解できるものです。その立場を、メイヤスーは「思弁的唯物論」と呼びながら思考を深めていくのです。
人間の思考から独立した「存在」を考えるために、メイヤスーは人類の出現以前の「祖先以前性」を問題にしたり、人類の消滅以後の「可能な出来事」を想定しています。これらは、「人間から分離可能な世界」として、科学的に考察することが可能でしょう。それなのに、「相関主義」はそのような理解に目を閉ざしてきたのです。
こうして、メイヤスーによれば、カントの超越論的観念論(認識論的転回)も、20世紀の言語論的転回も、ポストモダン思想も、相関主義に他ならず、批判されなくてはならないのです。
しかし、メイヤスーの哲学は、今のところ基本的な視点を提示したにとどまり、そこから具体的にどんな思想を展開していくのか、明らかではありません。それについては、今後の議論を待たなければなりません。
次回(9/16公開)は「実在論的転回」のなかでもメイヤスーとはまた違った思想を展開しているマルクス・ガブリエルについて紹介していきたいと思います。
http://diamond.jp/articles/-/101731
【第58回】 2016年9月14日 渡部 幹 [モナッシュ大学マレーシア校 スクールオブビジネス ニューロビジネス分野 准教授]
子どもを週5日預けっぱなし!マレーシアの仰天育児事情
子どもとは週末だけ一緒に!
マレーシアの仰天育児事情
先日、マレーシアの新聞記者と話をしていて、驚くような話を聞いた。
王族や石油王など、超富裕層は別として、マレーシアの富裕層家族は、たいてい夫婦共働きである。ここ数十年の経済発展の恩恵を受けて、マレーシア全体の所得も生活水準もずいぶん上がったが、物価や生活費の高騰も激しい。特に教育費の値上がりはすさまじく、子どもの学費のために富裕層でも共働きするのが、むしろ「普通」となっている。
そんな、富裕層夫妻はメイドを雇っている場合が多い。家事はもちろん、子どもの学校への送り迎え、さまざまな行事参加の代行など、かなり広範囲の仕事をメイドに任せている人々もたくさんいる。マレーシア近隣の国からくる労働力はまだ安いので、そうすることが可能なのだ。つまり、家事一切の時間を仕事に当てたほうが、メイド代を支払ってもまだ経済合理性があるというのがマレーシアの状況である。
メイドを雇ってる日本人もある程度いるが、大抵の場合、掃除を中心とする家事のお手伝いがほとんどだ。上記のように広範囲な仕事をさせるのは、マレーシア人の富裕家族である。
筆者が聞いて驚いた話というのは、最近になってその富裕層の子育ての仕方に劇的な変化が見られることだ。もともと、メイドに学校の送り迎えをさせたり、宿題を見させたりするマレーシアのやり方には、筆者は違和感を覚えていたが、今回聞いた話は、それどころではなかった。
平日は子どもを他の家族に預けて、学校から食事から寝る場所まで、一切合切を任せ、仕事のない週末だけ、子どもと一緒に過ごす富裕層夫妻が増えているというのだ。週末だけ家族がそろう「週末家族」だ。主に中華系のマレーシア人がそうしているという。
日曜の夜に、子どもの面倒をみてくれる家族のもとへ、子どもを預けに行き、翌朝から金曜夜までは、夫婦だけで過ごす。子どもは、預けられた家から学校に通い、食事もし、風呂に入り、寝る。その間の学校行事や授業参観等、親がやるべきことは、お金の支払い以外、すべて受け入れた家族の親が行うのだ。
これまでは、子どもの面倒が見られないほど忙しい夫婦は、祖父母や他の血縁に預けるのが常だった。中華系はその傾向が強く、中国本土でも、親ではなく、祖父母が子どもの世話をみることが多い。近年では、両親は都会に住む共働きで、その2人に子どもができると、田舎にいた祖父母が都会に出てきて同居し、着替えや食事から、保育園の送り迎えまで、徹底的に面倒を見るもの珍しいことではないそうだ。こういった傾向は、戦後から高度成長期にかけての日本でも起こっていた。幼少期は、おじいちゃんおばあちゃんと過ごした時間のほうが長かったという中高年の方も多いと思う。
このように、どんなに両親が忙しくても、子どもの面倒を見るのは、血を分けた祖父母や血縁者だった。特に日本を含む儒教ベースの国にはその傾向が強かった。しかし、それらの国も急速に核家族化が進み、両親の代わりに子どもの世話をする血縁者を探すのは難しくなっている。
その解決策として、日本では核家族の働き方そのものを変えることと、保育園や学童などの行政主導の制度で対応しようとしている。すっかり定着した「イクメン」という概念や、ライフワークバランスが重視されるようになったのも、そういった流れからだ。もちろん、東京都の保育園待機児童問題など、制度の面ではまだまだ追いついていない部分も多い。
受け入れ側はシングルマザー
なぜこのビジネスが成立するのか?
一方で筆者の住むマレーシアでは、政府や行政の制度について、日本ほど問題にはなっていない。ただ、現在の中華系マレーシア人たちは、中国本土ほど祖父母が出てきて孫の面倒をみるという社会規範は強くない。それに嫁姑がうまくいかないといった問題は、例にもれず、マレーシアでも多い。
統計によると、マレーシア人の就労時間は、東南アジア内では、シンガポールについで2位である。それだけ忙しく働く、マレーシアの富裕層たちは自分たちで解決方法を探さなくてはならない。これまでそれに代わる方法がメイドだったのだが、最近になって、上記の完全に子どもを預ける方式が出てきたのだ。
ここまでは、「富裕層側の理由」だ。だが、こういった「週末だけの家族」ができる理由は、富裕層だけにあるわけではない。受け入れる側にもあるのだ。
子どもを受け入れるのは、大抵は教育に熱心だが、裕福ではないシングルマザーだという。イスラム圏にもかかわらず、マレーシアの離婚率は意外に高い。また事故や病気で父親が亡くなって、突然シングルマザーになってしまうケースも後を絶たない。
シングルマザーたちは、子どもに良い教育を受けさせてやるためには、できるだけ稼ぎのよい職に就かなくてはならない。だが、そのような職は、たいていの場合相当忙しく、家で十分に子どもの面倒をみることができなくなる、というジレンマが生じる。
彼女らにとって、富裕層の子どもを預かることは、家庭内でできて、自分の子どもにも目が行き届き、かつ高収入という、願ってもない条件の仕事なのである。この意味で、富裕層のインセンティブと、受け入れ層のインセンティブは完全に合致する。経済合理性の観点から言えば、このビジネスモデルは素晴らしいものといえるだろう。だからこそ、最近この手の預かりビジネスが急速に増えているのだ。
だからと言って、筆者はこの現象を手放しで喜ぶ気にはなれない。筆者が仮に共働きの富裕層だったとしても、自分の子どもを週末以外すべて他人に預けるなどということは到底できない。そしてこの意見に感覚的に賛同してくれる人も多いだろう。
その理由は、一般的に言えば「子どもの精神的発達にとって良くない」、専門的に言えば「子どもが発達障害を引き起こす可能性が高い」、より正確には愛着障害を引き起こす可能性が高い、ということになる。イギリスの精神科医のボウルビィは、親子間の特別な絆のことを「アタッチメント(愛着)」と呼んだ。親子が離れ、そしてまた一緒になるときの、子どもの反応から、この愛着について、AからDの4つのタイプ分けができることがわかっている。
Aタイプは回避型と呼ばれる。子どもは親から離されるとき、泣いたり混乱したりしない。一見すると聞き分けのよい子に見える。親との再会時には、親を避けたり、無視したりする行動が見られる。子どもたちは親が嫌いなのではない。親と離れることへの恐怖が強いため、親に対して愛着を見せないようにして、親からの分離を心理的に防衛してしまうのだ。そういう子どもの場合、子どもからの働きかけに拒否的に振る舞うようなタイプの親が典型的だ。子どもは否定されるのが怖くて、わざと自分から親を拒否してしまう。
Bタイプは安定型と呼ばれる。親からの分離時に多少の泣きや混乱を示すが、再会時には、積極的に接近して関わりを求め、すぐに安定する。一般的で健全な子どもの反応と言っていいだろう。
Cタイプはアンビバレント型と呼ばれる。親から離された時には、強い不安や混乱を見せる。特徴的なのは再会時には接触を求めると同時に怒りに満ちた抵抗を示す。愛着のある相手と離れたストレスを攻撃に変えて、相手にぶつけてしまうのだ。このタイプの子どもの親は、子どもの状態を敏感に察知して反応するのが苦手な場合が多い。
Dタイプは、上記のどれにも当てはまらない無秩序・無方向型と呼ばれるものだ。親に甘えたり(接近)する一方で、嫌ったり(回避)するという、本来両立しない行動を同時に示すものだ。親をみて、嬉しさを見せながら突然すくんで動かなくなったり、顔を背けながら親に甘えたりといった。矛盾する行動を同時にするため、行動を予測しにくい。
健全な対人関係を築けない!
恐ろしい「愛着障害」
こうしてみると、B型以外は、程度にもよるが「問題のある子ども」と認識されてしまう可能性が高い。そして重要なのは、成長してからもこういった特徴が対人関係に現われやすいことである。例えばAタイプの回避型の人は、好きな人に対して、素直に自分の気持ちを伝えられずに、わざと距離を置いてしまうように振る舞う。自分が子どもを持っても、子どもに対してそういう風に振る舞ってしまうのだ。
こういったタイプの行動が、治療の必要なレベルに達すると、それは愛着障害と判断される。これら愛着障害の原因は、基本的には幼少期に親からの愛情を十分にもらえなかった(と子どもが主観的に感じている)ことだと言われている。
そう考えると、子どもの教育費を稼ぐために、週末だけ子どもと過ごす親の行動は、本末転倒だと筆者は考える。子どもの精神的発達を妨げるという副作用の方が大きいと思っている。
また筆者は、基本的な社会教育は、親が行わなくてはならないと考えている。基本的な社会教育を、親自らが手本になって見せて、子どもに学ばせ、それを土台として、はじめて学校での集団生活や他者との関係で学ぶことができるのだと考えている。そのためには、ある程度の時間、親が子どもと過ごすことは大変重要になる。
このままでは学力は高いものの、社会関係に支障をきたすような人ばかりの社会ができあがってしまう。今の日本では、すでにそれが問題となっているのは承知の通りだ。
そして重要なのは、このような障害がビジネスにも影響を与えるという点だ。
日本の企業の人事部が、新卒採用の際に最も重要視するのは「コミュニケーション力」だ。その遠因に、愛着障害を含む、親子関係の問題があるのだと筆者はている。それは採用される新卒世代だけではなく、その上司となる世代にも存在する。
現在の40〜50歳代は、いわゆる受験戦争世代で、幼少期に学力重視で育てられてきた人が多い。これらの世代にもまた、健全な親子関係が得られなかったことが原因で、対人関係に何らかの問題を持つ者が多いのだ。現在「大人の発達障害」が取り上げられ始めているのも、こういった背景があるからだと思っている。
もちろん、これらの世代の人々には、発達障害ではない人の方が多い。だが発達障害は程度の問題であって、障害と健常の間に明確な線引きができるわけではない。
上記の愛着障害の例でいえば、皆どこかのタイプに、なんとなくは当てはまるものなのだ。したがって、発達障害や愛着障害のない人も、他人との関係性において、こうした障害に少しだけ似た要素を持っているものだ。自分にどんな傾向があるかを知っておくことが、対人関係で自分が知らず知らずにとっている「偏った」行動や見方を直すのに役立つ。そのためには、自分の対人関係や親子関係のヒストリーを省みて、分析するといいだろう。
冒頭のマレーシアの週末家族は、経済合理性が引き出した現象だが、それはたぶん十数年後に社会問題を引き起こすかもしれない。そのときの対処法も同様に「自分のヒストリーをひもとき、自分の心の偏りを知る」ことになるだろう。
逆に考えれば、自分の持つ発達障害の可能性を知ることは、自分の対人コミュニケーション能力を正確に知り、問題があれば、その原因を探ることになる。繰り返しになるが、発達障害や愛着障害ではない人も、多少はそうした要素を持ってるものだからだ。そして己を知る取り組みは、うまく生かせば、ビジネスでの武器にもなりえるのだ。
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