https://hirakehibike.wordpress.com/
ねびえを してしまった みたいだ
きゅうに なつの ようきに なって
からだの ちょうしを くるわしちゃったかな
きのう ひが くれかかるころ ちょっとだけ
くさかりを やったんだけど やけに はりきって
もうれつな いきおいで からだを
うごかしたのも ひびいて いるかも しれない
けさ あさつゆが きえるころ つづきの
くさかりを やった とき あまり ちょうしが
でなかったけど ひとあせ かけば げんきが
もどってくるだろう なんて おもってた
だけど やっぱり パッとしないなあ
あせを たおるで ごしごし こすっていても
いつものような きもちの よさが すくない
というわけで げんきが あまり でない ままに
いま なにを おもって いるかというと
この すうせんねんの にほんの れきしと
せかいの れきしに ついて
そして おれも なんとか げんきに
いままでとは ちがう あたらしい れきしを
あたらしい せかいを めざして いっぽを
ふみだしたいなあ なんて おもうんだよね
せかいを しはいし にんげんを しはいする
うごきが れきしとして かたられ つづけて
いるわけだけど このような れきしは
ものすごく ゆがんでる というか
ほんらいの にんげんの こころから でてくる
ものじゃない
そんな かんじがして しょうがないんだ
せいしょに かかれているという にんげんを
しはいするもの ねたむもの ちにうえたものが
はだかの おおさま と なって
じょうもんじだいの にほんを はじめとする
ふるき よき せかいを しはいした
その しはいの うごきが われわれが
ごしょうだいじに している れきし
というもの なんじゃないか
アメリカ インディアンや オーストラリアの
アボリジニが あじあわされたような にんげんの
こころから かけはなれた ちなまぐさい
できごとから
にほんでも ちゅうごくでも インドでも
ヨーロッパでも アフリカでも
いまわしい れきしが はじまって
いるんじゃないか
ふるき よき せかいの おもかげを
わずかに のこすことが できているのは
じょうもんの しそんである われわれ
だけで あとは ぜんめつだ
じょうもん という レムリアに つながる
パワーだけは
ちにうえた ねたむものである はだかの
おおさまも かんぜんに ねだやしにする ことは
できなかったんだ
(だいぶ あとになってから できた
しょうとくたいしの 17じょう けんぽうが
じょうもん いきのこりを ささえて きた
しくみを われわれに つたえて くれている
んだと おもう)
にほんで れきしが ブームとして
たくさんの ひとの きょうみを あつめて
いるけど
すべての れきしは にんげんの こころとは
かけはなれた
にんげんを しはいする うごきなんだ
そうした ゆがんだ れきしの なかで
ひとり ひとりの にんげんが あじわう
くるしみ かなしみを おもうのは
いみが あるかもしれないけど
だけど いまは そんなことを している
ばあいじゃ ないんじゃないか
おれが やりたいのは
れきしを しること じゃなくて
れきしから ぬけだすこと なんだ
がんじがらめの タブーの なかで
じぶんの こころを ゆがめて
ちいさく なってないで
なんとしても ぬけださなきゃ いけない
とにかく ぬけだすこと なんだ
げんきを ださなくちゃなあ
せっかく いままで いきのこってきた
じょうもんの いのちの パワーを
じぶんの こころの なかに よびこみたいよな
そして じぶんを ばくはつさせ
あたらしい せかいに とびだすんだ
なんて おもうんだよ
ねびえ らしくて どうも ちょうしが でないから
ウィスキーを ちびちび なめちゃってるけど
べつに よっぱらってる わけじゃない
ほんきで そう おもうんだよ