“原子力“と呼ばれる技術、私はそれを技術というコトバで修飾したくないのですが、は、はからずも、論理的存在に矛盾を抱えたとんでもない代物だったのです。
今、この世の中に存在するエネルギー、火力、水力、太陽光、風力、原子力等は、結局、おカネ自身を使っているのではなく、その各々のエネルギーは、それに携わる全ての労働の集約と資源の消費に他ありません。
そして、これが一番大切なのですが、その利害を受ける者は、決してムラの住人や、特定の団体企業に属する者だけでなく、等しく人類全員にとってであり、
つまり、人間のあるべき理想の生き方を考えた視点での話です。
その視点に立って、まず、第一にくるエネルギー選択の理論的基準は、間違いなく、人間のみならず、地球生物全てにとってその基本的行動、生活に密着する、安全に間違いありません。
そして、先の論理に従って、一番第一に排除されなければならないエネルギーは、やっぱり、原子力なのです。
なぜならそれは、原子力はその発電過程で放射性廃棄物という、ごみを排出しますね、しかもその廃棄物は化学の元素表をそのまま放射化して新たな毒物となり、それは途方もなく長期間続くでしょう。 しかも、温暖化寄与説も、その冷却に使用される、膨大な量の海水や湖水の直接的な温暖化を考えたとき、それは否定されるでしょう。
以上、原子力の論理的存在矛盾のQED。
コストを論議するのは、その次です。
異論があれば論理的かつ、わかりやすくどうぞ。
そして、今後私たちはこれを反原発の理論的根拠において運動すべきでしょう。