【福島原発】<追悼・吉田元所長> 社命に背いて日本を救った男の生き様〔1〕/<対談> 田原総一朗(ジャーナリスト)、門田隆将(ジャーナリスト)
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PHP Biz Online 衆知(Voice) 8月16日(金)10時44分配信
◆太平洋の水を使うしかない◆
田原 門田さんがお書きになった『死の淵を見た男』(PHP研究所)はたいへんいい本ですね。福島第一原発の事故後、東京電力は悪の権化のように国民から思われていた。しかし本書を読んで、吉田昌郎所長(当時)以下、福島第一原発の現場の人間はほんとうに命を懸けて事故の収束にあたっていたことがわかりました。そうした姿はまったく報道されてこなかっただけに、感動しました。門田さんが取材を開始されたのは、いつごろからですか。
門田 2011年3月11日の事故発生直後からです。すべては事故当時に福島第一原発の所長であった吉田昌郎さんに取材できるかにかかっていました。1年数カ月は、吉田さんを説得するためだけに動いていた、といってもいいぐらいです。福島第一のいわば“親分”である吉田さんの取材のOKさえとれれば、そのもとで闘った現場の人間にも一気に許諾が得やすくなると考えていました。
田原 門田さんが吉田さんに取材したのは昨年7月、彼が食道がんの手術と抗がん剤の治療を終えてから、脳内出血で倒れるあいだのことでしたね。取材のOK自体は、だいぶ前にもらっていたわけですか。
門田 いや、そうではないんです。取材OKとなったのは、吉田さんがまだ抗がん剤治療を受けているときでした。2012年5月のことです。
田原 すでに、がんが発見されたあとのことだった。現場の技術者に取材していったのは、それ以降ですね。東電の広報部の許可を得て、取材を開始されたわけではなかった。
門田 東電の広報部も、私のようなフリーランスの人間が勝手に動いて吉田さんを説得してしまったことで、困っただろうと思います。吉田さんは東電の執行役員でもありました。その立場の人間がOKを出した以上、取材をやめさせるわけにはいかなかったのでしょう。
田原 本書を読んで驚くのは、なんといっても関係者が実名で出てくることです。東電の広報部を通しての取材だったら、こうはいかなかったでしょう。
門田 あとは取材に応じてくれた方一人ひとりに直接、実名を出していいか、確認していったわけです。だから、東電広報部も本が出るまでは、実名だということを知らなかったはずです。
田原 事故当日のことを振り返っていきたい。東日本大震災が起こったとき、地震で電気がストップした。本来であれば、非常用の自家発電が作動して、原子炉を冷やす仕組みになっていた。しかし、頼みのディーゼル発電機が津波にやられてしまい、午後3時41分、全電源喪失という事態に陥る。炉心を冷却水で冷やすことができなくなって、核燃料がどんどん燃え始めた。このままでは原子炉の格納容器が爆発する恐れがあった。そのときです。現場はどうすればよいと判断したのですか。
門田 免震重要棟の緊急時対策室にいる吉田さんも、現場の中央制御室(中操)にいるプラントエンジニアたちも、ほぼ同時に「太平洋の水を使うしかない」と考えました。つまり、原子炉を冷やすには海水をぶち込むしかないと判断したわけです。そのために水を入れるライン(経路)をつくっておく必要があったのですが、原子炉建屋に水を通す消火ラインを組み直して、炉心に水を送れるようにした。真っ暗闇のなかで懐中電灯を使いながら、決死の作業が行なわれたのです。
田原 すでに周辺の放射線量は高くなっていて、身の危険があったはず。そこはどう考えていたのですか。
門田 やはり恐怖心はそうとうあったそうです。原子炉建屋のなかはとても熱く、真っ暗闇のなかを白い粒子が漂っていた。当時の作業者に「それは放射能だったのか」と聞くと、「わからない」といっていました。そんななかで、バルブの番号を読み上げながらの作業が数時間かけて行なわれた。
その後、午後11時以降に線量が高くなったため、吉田所長によって原子炉建屋に入ること自体が禁じられました。したがって、このとき現場の判断で水を入れるラインを確保していたことが、のちのち重大な意味をもつことになる。そうしていなければ、炉心を冷やすことはもはや不可能になっていたわけですから。
◆家族のことすら考える余裕がない◆
田原 続いて、ベントの問題についてお聞きしたい。格納容器の爆発を防ぐため、原子炉内の圧力を外に逃がす必要があった。これがベントですね。門田さんの本によれば、吉田所長から現場に(1号機の)ベントの準備指令がきたのは、日付が変わった午前0時ごろのこと。だがすでにその前に、当の吉田所長によって原子炉建屋への入域禁止命令が出されていた。だからベントに行くということは、死と直接、向かい合うことでもある。はっきりいえば、その役割は「特攻隊」といっていい。
門田 たしかに、突入部隊を生と死の狭間に立たせることですから、吉田所長の苦悩も深かったと思います。現場でその人選を決める責を負ったのは、1、2号機の中操の当直長だった伊沢郁夫さんです。「申し訳ないけれども、若い人は行かせられない」。伊沢さんはまずこういったそうです。若い人にはこれから子孫を残す未来があるから、突入部隊のメンバーはベテランが中心とされた。
一瞬の静寂のあと、沈黙を破ったのは伊沢さん自身でした。事態が悪化していくなかで、伊沢さんはそれまで何度も部下を原子炉建屋内など危険な場所に派遣していた。それが申し訳なく、最後は自分が行きたかったそうです。そうすることで、楽になりたかったともいっていました。それを「おまえはここに残れ」と制したのが、二人の先輩当直長です。
田原 そのあと、若い人も次々と志願しましたね。
門田 ええ。暗闇のなかで「僕が行きます」「私も行きます」という声が上がっていく。伊沢さんはそのときの様子を涙ぐみながら語っていました。
田原 そんなときに福島第一原発にやってきたのが、菅総理(当時)でした。3月12日にヘリで飛んできて、「なんでベントをやらないんだ!」と怒鳴りつけた。現場はさぞ迷惑だったでしょう。
門田 ええ、大いに。というのも実際にベントを行なうと、同時に放射性物質が放出されます。まだ住民の避難が確認されていませんでしたから、ベントのために原子炉建屋に突入する「GOサイン」が出なかったのはむしろ当然だったのです。
所長の吉田さんの立場としては、放射能が拡散された状況下でやってくる総理一行に、それなりの装備をして来てもらう必要がありました。しかし現場は対処する余裕がなく、そこで吉田さんはテレビ会議で本店に装備を用意するように頼みましたが、「現場でやれ」といわれたものだから、「ふざけんじゃねえ」と大喧嘩になった。吉田さんは事あるごとに本店と衝突していましたが、本店に従順なタイプだったら、あそこまで部下に信頼されなかったでしょう。喧嘩を繰り返したのは、現場の人心掌握のためもあったでしょう。
田原 なるほど。それで結局、総理一行の装備は本店が用意したんですか。
門田 いいえ。何の装備もなく、総理一行は吉田所長のいる免震重要棟に入りました。要するに、「自分たちが放射能の汚染源になるかもしれない」という意識がなかった。
田原 現場にとって菅さんたちは邪魔な存在でしかなかった。とはいえ、門田さんの本を読んで初めて、私には当時の菅さんの行動が理解できた。なにしろ情報が錯綜しており、総理のもとへちゃんとした報告が上がってこない。それなら自分で確かめたくなる気持ちもわかる。
門田 そうですね。そして、最大のミスは、原子力安全委員会の班目春樹委員長のような専門家を、官邸の危機管理センター中2階にある小部屋に閉じ込めたことです。連絡や情報収集の手段は固定電話2本しかなく、いわば“情報隔絶地帯”に専門家を置いてしまった。
田原 吉田所長から現場にベントの「GOサイン」が出たのは、菅さんたちが帰ったあとですよね。何時ごろですか。
門田 12日の午前9時です。いざ原子炉に突入するとき、いったいどんな気持ちだったのか。私は選ばれた突入部隊のメンバーに聞きました。「奥さんや子供のことを考えなかったか」と聞くと、「そんな余裕はなかった」というのです。突入前の時間は、メンバー同士で「このハシゴを上がって次に進むのは右か、左か」というように、原子炉建屋内の構造を頭に思い浮かべながら、イメージトレーニングを繰り返していたそうです。自分たちが死ぬ前に、バルブのハンドルを回せるかどうかが勝負だった。
田原 ベントをせずに死ぬわけにはいかなかった。
門田 失敗すれば、文字どおり日本が終わるわけですから。だからこそ先の答えのように、家族のことすら考える余裕もなかったわけです。
〔2〕につづく
【福島原発】<追悼・吉田元所長> 社命に背いて日本を救った男の生き様〔2〕/<対談> 田原総一朗(ジャーナリスト)、門田隆将(ジャーナリスト)
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PHP Biz Online 衆知(Voice) 8月16日(金)10時44分配信
◆「昔から、リーダーだった」◆
田原 事故当時、ベントの次に大問題となったのが、原子炉への海水注入ですね。やるかやらないかで官邸はもめていたけれど、吉田さんはとっくに始めていた。
門田 官邸による海水注入中止命令の原因とされたのが、班目委員長がしたとされる「海水に切り替えた場合、再臨界が起こる可能性がある」という発言です。しかし、これは間違いで、私は本人にも確認しましたが、班目さんは反対に、早い段階から「海水注入しかない」といっていました。班目発言が誤解されたのは、海水注入によって再臨界の可能性があるかどうかを聞かれて「可能性はゼロではない」と答えたことによるものでした。
田原 再臨界とは、停止した核燃料(未臨界状態)が再び連続的な核分裂反応を起こすことですね。
門田 ええ。それは可能性が「ゼロではない」という科学者らしい対応だったのですが、海江田経産大臣(当時)や枝野官房長官はいまそこにある危険性と捉え、誤った認識が官邸に広がってしまった。それを受けて菅総理は、海水注入で再臨界の可能性がないか「検討しろ」という指示を出すのです。
田原 だから菅さんは「検討しろ」といっただけで、海水注入を「やめろ」とはいっていないと責任逃れをしているわけだ。しかし菅さんの周りには、班目さん以外にも専門のスタッフがいたはずですよね。事故後、私は東電の武黒一郎フェローに何度か会っているのですが、彼はそのときどういう役割をしていたのですか。
門田 実際に、武黒さんは吉田さんに海水注入をやめるよう電話をしました。「とにかくやめろ」と。口調まで吉田さんに聞きましたが、武黒さんはすごい勢いだったそうです。「うるせえ。官邸がグジグジいってんだよ」と。吉田さんも「なに言ってんですか!」とやり返し、凄まじいやりとりになった。そこで武黒さんからの電話がブツンと切れたあと、次は本店から正式に海水注入中止命令が来ると予想した吉田さんは、先回りして手を打ちます。「海水注入中止命令が来たら、自分は本店にテレビ会議で聞こえるように中止命令を出すが、それはあくまで会議上のことだけで、現場は注入を続けるように」と担当者に言い含めておいたのです。
田原 本店からの命令を突っぱねたわけだ。
門田 ええ。吉田さんはどんなときでも「本義」を忘れない人だったと思います。電気事業者として、原子力事業者として、国民の命を守ることが本来の目的、本義と考えて行動していますね。
田原 そこで聞きたい。海水注入をするか、やめるか、菅さんや枝野さんには判断できなかった。彼らは原子力の専門家ではないのだから、それはやむをえない部分もある。しかし、東電本店に詰めていたエリートは違います。彼らは、どうして「海水注入をやめろ」などという愚かな命令を出したのか。
門田 東電幹部たちは、自分たちが電気事業者として何をすべきかよりも、官邸の指示のほうを重んじる人びとだった。つまり、本義がない人たちだったわけです。こうした行動は、エリートにはむしろありがちなことかもしれません。
田原 でも、吉田さんだって執行役員だったわけでしょう。まさにエリートだ。にもかかわらず、なぜ吉田さんだけが社命に背いて「本義」を守ることができたのか。ここがいちばん大事なところだと思います。
門田 人間というのは、まさに非常時こそ生き様が問われるわけです。私は吉田さんがどんな人間かを知りたいと思い、取材に応じてくれるよう周りから説得するためもあって、中学や高校時代の友人たちを訪ね歩きました。1955年生まれの吉田さんは、1958年生まれの私と同世代といえますが、率直にいって「いまどきまあ、こんな人がよくいたものだ」と思いましたね。
田原 吉田さんはどんな人だったのですか。
門田 中学、高校時代からあの森田健作のように、周囲の友人に「おまえはそんな生き方でどうするのか」と熱く問いかけるタイプだったそうです。一方で生や死、宗教、哲学といったことに非常に関心が強かった。友人たちはみんな「昔から、あいつはリーダーだったよな」と口を揃えるようにいっていました。また吉田さんの奥さんいわく、「主人は昔から抹香臭い人」。恋人時代に旅行したときも、吉田さんは寺社を回るのが好きで、住職に頼み込んでは秘仏を見せてもらう、ということを繰り返していたそうです。若いころから宗教書を読み漁り、禅宗の道元が著した『正法眼蔵』を座右の書にしていました。福島原発の免震重要棟にも置いていたぐらいです。
私は、事故当時、吉田さんのもとで闘った部下たちに「福島第一原発の所長が吉田さんでなかったら、あの事故はどうなっていたか」と問いました。すると皆、「吉田さんでなければ無理だった」「吉田所長となら一緒に死んでもいいと思った」。そう語りました。
田原 なぜ、そこまで部下に信頼されたのだろう。
門田 吉田さんのほうも、普段から部下を信頼していましたからね。その姿勢は、事故のときの行動にも表れています。命懸けで事態の収拾に向かい、帰ってきた部下たちに対して、吉田所長は一人ひとりと握手をし、「よく帰ってきてくれた」と苦闘を労ったそうです。そして本店の無理な注文に対しては、前述のように一歩も引かずに対応する。この人となら一緒に死ねる――。当時の心境を言葉に示すのは難しいですが、そう思わせる強固な信頼関係が両者にあったことは間違いありません。
◆国家の「死の淵」に立つというストレス◆
田原 事故のときの話をもう少し続けたい。3月15日の午前5時半過ぎ、菅総理が東電本店に「撤退はありえない」といって怒鳴り込むシーンがありますね。その様子を、テレビ会議を通じて吉田所長はじめ福島第一原発の人間も目にしていた。このときの菅さんの行動を門田さんはどう捉えていますか。
門田 1つは、東電の清水正孝社長(当時)の言い方に問題があったと思います。海江田、枝野両大臣に「2号機が非常に厳しい状況になっており、今後ますます事態が悪化する場合は、退避を考えている」と清水社長が電話で報告した際、「ただし制御に必要な人間を除いて」とひと言付け加えるべきでした。しかしそれをしなかったため、東電側の発言を両大臣は「全員撤退」と受け止め、菅総理に報告した。
田原 そのあと菅総理は、東電本店から清水社長を官邸に呼びつけ、撤退について直接、問い質していますね。その答えは「撤退など考えていません」という拍子抜けするものだったわけですが、なぜ菅さんは答えに納得しなかったのですか。
門田 当時すでに、菅総理は東電のいうことをまったく信用しなくなっていましたから。おそらく海江田、枝野両大臣から「撤退」の報告を受けた時点で、東電本店に乗り込むことを決めていたと思います。
田原 一方、吉田さんはじめ、現場で闘っている人たちには撤退しようという気持ちはなかった。興奮した菅さんの姿をどういう思いで受け止めたのですか。
門田 のちに公開された映像を注意深くみると、円卓中央の本部長席にいる吉田さんが、テレビ会議のカメラの方向に背を向けて立ち上がるなり、ズボンを下ろして、自分のシャツの裾を入れ直すシーンが映っています。
総理に対していわば尻を向けたわけで、「この野郎」といいたかったのかもしれない。「かもしれない」というのは、このときの行動を私は吉田さんに聞きましたが、本人はまったく覚えていなかったからです。地震発生直後から、吉田さんは不眠不休で指揮を執っていた。そのため、当時の記憶が飛んでいる部分がけっこうあるのです。
田原 吉田さんは何日ぐらい起きっ放しだったのですか。
門田 11日に事故が起きてから、少なくとも5日間は免震重要棟の本部長席に座ったままで、さすがに寝ないと死んでしまう。どうしたかというと、吉田さんは本店とのあいだで、たとえば、「何も事態が動かなければ、これから2時間は互いに呼びかけないようにしよう」という取り決めを交わしていた。そうして30分でも1時間でも、わずかな仮眠を取っていたのです。
田原 それでよく気力が保てましたね。
門田 究極のストレス下にある状態だったでしょう。私は本書に『死の淵を見た男』というタイトルを付けましたが、吉田さんは自分の「死の淵」だけでなく、いわば国家の「死の淵」に立った人でした。原発が危機に陥るたびに、そのストレスを何度も自らの身体に浴びた。そのようにして、吉田さんは死に至る病を患ってしまったのだと思います。
吉田所長が津波対策を疎かにした事実はない
田原 今年7月9日、惜しくも吉田さんが58歳で逝去された際、新聞やテレビは福島第一原発の所長として事故の収束に当たった功績を讃えました。その一方、津波対策を疎かにした面もあった、と指摘しましたね。
門田 あまりにひどい誤解だといわざるをえません。そうした報道に接するたび、私は吉田さんがかわいそうに思えてならない。そもそも、吉田さんが津波対策を疎かにした事実はありません。逆に、津波対策についていちばん積極的だったのは吉田所長です。
田原 そう、そこが聞きたい。2009年の経済産業省の審議会で、約1200年前の貞観地震の際、福島第一原発のある土地に10メートル以上の津波が襲ったのではないかという話が出ました。しかし、東電は何の対策もとらなかったとされてきた。この問題です。
門田 この点は順番に説明しなければなりません。2002年2月、公益社団法人土木学会が「決定論」という考えを打ち出しました。日本で起こった地震の場所に「波源」を決め、それを基にして津波の高さを計算するものです。この決定論により、福島第一原発の津波想定は「6メートル」とされました(ただし、福島沖に波源はないものとされた)。
これに対して同年7月、地震調査研究推進本部が「三陸沖から房総沖の海溝沿いのあらゆる箇所でマグニチュード8クラスの地震が発生しうる」という発表をしました。いわば土木学会とはまったく異なる見解を出したわけです。
他方、2006年1月25日に中央防災会議(本部長:内閣総理大臣)の専門委員会が、福島沖と茨城沖を「防災対策の検討対象から除外する」という報告を出しました。つまり、福島沖に波源はないとする土木学会と同じ見解を打ち出したわけです。
吉田さんが東電の本店に新設された原子力設備管理部の初代部長に就任するのはその後、2007年4月1日のことです。そのときから、吉田さんは津波について研究を続けてきました。そして3カ月後の7月16日、中越沖地震が起きる。東電の柏崎刈羽原発のエリアは震度6.5の地震に見舞われます。
吉田さんは柏崎の復旧を担当する一方、2008年1月から4月にかけて、明治三陸沖地震で津波を起こした波源が「仮に福島沖にあった場合にどうなるか」という試算を命じるのです。すると、最大波高15.7メートルという試算結果が出た。しかし、「架空の波源」がもとの試算では自治体に相談することはできない。防潮堤の建設一つとっても環境影響評価などクリアしなければならないさまざまな壁があります。漁業への影響もあるし、そもそも防潮堤に当たった津波がそれて、周辺集落に大きな被害をもたらす可能性もある。防潮堤建設のためには、自治体や漁業関係者との交渉が不可欠なので、とにかく吉田さんは、数値をはじめ自治体と相談できるオーソライズされたものが必要だったわけです。
そこで吉田さんは、土木学会の津波評価部会に対して「波源」の策定について審議を正式に依頼しています。これほど真摯な姿勢と行動を貫いているわけです。
さらに吉田さんは、2009年から10年3月にかけて、貞観地震時の津波を推定するため、農閑期を利用して堆積物調査を実施しています。しかし、結果は「4メートル」だった。10メートル以上の津波はなかったということになります。
田原 土木学会から、正式な回答は来なかった?
門田 残念ながら、土木学会の審議結果はいまに至るも出ていません。吉田さんが福島第一原発の所長に就任するのは2010年6月ですが、土木学会からオーソライズされた結論が出る前に、東日本大震災が起きてしまったのです。私はこういう話を直接、吉田さんから聞いていたので、吉田さんが津波対策に消極的だったなどという根拠のない説が流布されているのは、本当に残念です。
田原 最後に、吉田さんがいなかったら、日本はどうなっていたと思いますか。
門田 吉田さんは最悪の事態として、「チェルノブイリの10倍」という被害の規模を私に語りました。たしかに福島第一原発には6基、その10キロ南にある福島第二原発には4基の原子炉がある。合計10基の原子炉が制御できず、暴走をストップできなければ、いわゆる“悪魔の連鎖”によって、実際にそのような規模の被害になっていたと思います。炉のタイプが異なるチェルノブイリと福島を単純に比較はできませんが、吉田さんの言葉によって、現場の人間がどういう被害想定のもとに闘っていたのか、肌身でわかりました。
この吉田さんの言葉を班目さんに伝えたところ、班目さんは福島第一と第二原発が制御できなくなれば、福島だけでなく茨城の東海第二原発もやられてしまい、日本は汚染によって住めなくなった東日本と、それ以外の北海道や西日本に「3分割」されていたかもしれない、と語りました。そうならなかったのは、まさに吉田さんをはじめとする現場の命を懸けた奮闘の結果だったと思います。
まさに奇跡のように「日本」を救い、逝ってしまった男、吉田昌郎。心からご冥福をお祈りしたいと思います。
■田原総一朗(たはら・そういちろう)ジャーナリスト
1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒。岩波映画製作所を経て、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に入社。77年よりフリー。98年、城戸又一賞を受賞。著書に、『人を惹きつける新しいリーダーの条件』(PHP研究所)、『40歳以上はもういらない』(同)ほか多数。
■門田隆将(かどた・りゅうしょう)ジャーナリスト
1958年、高知県生まれ。中央大学法学部卒業後、新潮社に入社。『週刊新潮』編集部副部長などを経て、2008年に独立。『この命、義に捧ぐ』(集英社)で第19回山本七平賞を受賞。『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮社)、『蒼海に消ゆ』(集英社)、『康子十九歳 戦渦の日記』(文藝春秋)、『太平洋戦争最後の証言』(小学館)、『死の淵を見た男』(PHP研究所)など著書多数。