日本では広島および長崎から、数多くの原爆文学が生まれてきた。
その中には一般によく知られているものもあれば、そうでないものもある。
ここで紹介する手記は、知る人は知っているというたぐいのものである。
名越操(1930−1986)という女性の名前を記憶している人がいるだろうか。
広島の被爆者であったこの女性から、戦後1960年に、次男の史樹くんが誕生した。
しかし史樹くんは、七歳で白血病にて死亡。
両親は、この子の思い出を手記に残した。
『ぼく生きたかった 被爆二世 史樹ちゃんの死』
竹内淑郎・編/宇野書店1968年
『ぼく生きたかった』
名越謙蔵・操(文)/矢野洋子(絵)/
労働教育センター1982年、1983年2刷
「名越史樹(なごやふみき)
お母さんは原爆症に苦しんでいましたが、昭和35年8月、元気な産声をあげて生れました。まるまる太った赤ちゃんでした。−略−昭和43年2月22日夜明け。被爆後23年後めにあらわれたそれはヒロシマの死でした。」
この中に次の短い詩がある。この短い詩の中に、操さんのすべての思いが凝縮されている。
「もしもわたしのこの腕から
史樹が逝ってしまうなら
史樹が逝ってしまうなら
史樹を抱いて
化石になりたい」
その後、名越操さん自身も、被爆の症状が出てきて、操さん自身も1986年にガンで死亡。
親子二世代で、被爆の体験を生きた。
操さんは、長男の死後にもその思いをさらに手記にまとめた。
『「ヒロシマの母の記」史樹の死を生きて』
名越操・著/平和文化1985年
操さんの壮烈な生きざまは、多くの人の心に残った。
http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/7cb559426442f13a92acd9d5c149a363
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一九六八年二月二十二日、一人の被爆二世の少年が広島市内の病院で、わずか七歳の生涯を閉じた。名越史樹 (なごや・ふみき)君。白血病を発症し二年八カ月に及ぶ闘病の末だった。
両親は手記「ぼく生きたかった」をまとめた。健康不安とともに生きる二世の存在を世に知らしめる一冊となった。朗読劇にもなり、今も各地で語り継がれる。
史樹君の兄の由樹さん(51)=広島市西区=は現在、安佐南区の総合病院で医療事務の仕事を続けている。 弟の入院当時は市内の祖母宅に預けられていたという。「不思議と、弟が重病だった印象はない。両親が家で弟の話をすることもほとんどなかった」。原爆がもたらす健康不安を社会に告発した両親は、同時に、同じ二世の 兄を気遣ったのだろう。家庭では違う顔を見せていた。
母の操さん(八六年に五十六歳で死去)は市立第一高等女学校(市女、現舟入高)四年の時、爆心地から二・ 三キロ離れた牛田町(東区)の自宅で被爆した。戦後は労組書記を務め、市民団体が発行する被爆手記集の編集 に携わった。高校教師だった夫の謙蔵さん(二〇〇四年に七十五歳で死去)とともに、被爆者運動や反核運動に 奔走しているさなか、史樹君は白血病を発症した。
「子を亡くした親の悲しみを伝え、書き残すことに執念を燃やし、命を削った。しんの強い人でした」。市女 の二年後輩で、被爆手記集の編集を一緒にこなした広島県被団協(金子一士理事長)副理事長の矢野美耶古さん (75)が思い出す。
「史樹君の母」として操さんはいつも、同世代の母親たちの輪の中心にいた。矢野さんが長男を仮死状態で産んだ体験をあっけらかんと話すと、操さんは「何てのんきなの」。以来、矢野さんの手を引き、平和集会へと連 れ出した。
そんな操さんが、被爆二世の遺伝的影響を調べる原爆傷害調査委員会(ABCC)への心情を吐露した文章がある。史樹君の死の二年前、「白血病のわが子」と題し、被爆二世支援団体の小冊子に寄せた。
「ABCCや病院では被爆とは関係ないといいます。しかし、被爆者は、みんな心では関係があると思っているのです。二世、 三世、四世と、この犠牲はいつまで続くかわかりません」
由樹さんは三人の子の父親になった。「子どもが少し寝込んだだけでも『史樹のようになりゃせんか』とぴりぴりする」と打ち明ける。
http://www.chugoku-np.co.jp/kika
http://www.asyura2.com/13/genpatu30/msg/750.html