つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-111.htmlより転載
遠い昔の日本人は「時空」というものをどう心得ていたか、やまとことばを道しるべに思いを馳せてみたくなった。
延々と移ろう時は「うつつ―現」といわれ、うつろう時をすらりと切った切り口(断面)が「とき―時」だとされていた。時と時のあいだに仕切られた領域は「ま―間」であった。
幕末以降、近代思想の輸入とともに西欧諸語と対比させやすい合理的な日本語語句の「和製漢語(明治の新語)」がおおく造語された。そして「ま」には「時間」と、そしてそれを刻んだ「とき」には「時刻」という造語を充てられた。「うつつ」を表現できる単語は新語には見当たらないが、強いて言えば「過去現在未来」とせねばならぬ。
「うつ―空、虚、内、移、遷、映、写、現、打…」この「うつ」の音の持つ深くも広い意味は以前の記事で触れている。目には映るが不変ではない、儚いものをさしていう言葉である。人々はその虚ろな器の内に何かを打つ(充填する)ことで姿をとどめようと試みるが、それとてやがては空しくなる。
「うつつ」を「う―つつ」に分けると、「う」は大いなる、という意味の接頭語になる(例・うみ―海―大いなる水)。そして「つつ」にもともとある次のような意味が浮き上がる。
「思ひつつ」「嘆きつつ」がそうであるように、ひとつの動作を継続するときに「つつ」をつける。この解釈は「思いながら」だけでは不十分で、「思っては、また思い」というように動作や現象が絶え間なく「つく―付く」ことでもある。(「つつく―続く」の語源)
「うつつ」、大いなる時の流れである。
中が空洞の「つつ―筒」状の入れ物の中を現象が流れている、時の移ろいをこのように思い描いていたのではないだろうか。その「つつ」をどこかで斬るとその切り口に「つ」が現れる。この「つ」は「いつ―何時」の「つ」、と思われる。
竹を取りつつよろづのことに使いける竹取の翁がいた。その翁がかがやく竹をふしぎに思い切ってみると、そこから現れたのはちいさなちいさな姫だった。この世ならぬどこか別の世からやってきた姫は、竹という筒のその節と節にしきられた「ま―間」にいましたのである。「ふし―節」もまた、季節や人生の変わり目などの時を示す言葉である。この世で限られた「ま―間」を過ごしに来た姫を運ぶ器はやはり「竹」でなければならなかったのだろう。では別の世とは、である。
「ま―間」は時間と空間の両方を表す言葉である。もしかするとその両方の境がなかったのかもしれない。
「ときは―常磐」という古い日本語がある。古語辞典を引けは「トコイハ(常磐)の変形、永久不変」とあり、岩(磐)の不変さのなかに永遠を見出したゆえにこの意を得た言葉であることがわかる。
「とこ―常」はそれ自体が不変を意味するが、上述の「とき―時」の変形でもあり、時間の概念から流れを除いたものと考えられる。そして「いは(わ)」とは古代の日本人たちがその霊性を見出し畏れ敬った「岩、磐、巖」であり、その原義は「いは(わ)ふ―祝、敬、斎ふ」という動詞にある。さらにその語源か、あるいは語源を共にする動詞「いふ―結ふ」にもつながる。
やまとことばは単純な動詞から枝葉のように言葉がうまれ、広がった。
動詞「いは(わ)ふ」からはまた別の名詞「にわ―庭、わ―輪、は―端、ば―場、わ―和」などが生まれた。これらはいずれも「領域」をさす。その周囲から切り取り区別した処のことである。「わ―輪」を描いたり、そのまわりを「まわる―廻、周、回る」ことは領域を決定する原初的な方法で、そこから結界を「いふ―結ふ」などの呪術の手段に発展する。
「不変である」とする「場」を周囲から切り取ったとき、そこが「常磐」となる。神社の境内などがそうであり、三輪山や厳島のような場もそれにあたる。そしてその不変たる場はあの世を垣間見せる。
この世は時のうつろいとともに変わり続ける。不変と見立てられた岩でさえ不変不滅ではなく、万物はその姿を変えやがては塵となる。時のうつろうこの世は「うつしよ―現世」である。そして時のうつろわぬあの世を「とこよ―常世」といった。
「とき」と「うつつ」、「とこよ」と「うつしよ」、これらはそれぞれ相対の関係にある。それでは「ときは―常盤」とその関係にある言葉はあるだろうか、あるとすれば「うつは―器」をそれとするべきである。
体は魂の器である。家は親子兄弟と先祖の器、里も、国もまたそれぞれ器であり、さらにその器である「この世」のその中にあるのは時のうつろいとともに変わり続ける万象である。
やまとことばは子音という「体」に母音という「心」を打ち込むことで命を得る。だから母音が変わればそのことばの振る舞いが変わる。「とこ」と「とき」は母音の違いが用法に微妙な違いをあたえた類義語である。「とこ」はさらに母音が変わると「つき」になり、「たけ」にもなる。ふしぎだ。
鬱蒼と繁る竹薮は常盤の庭、かぐや姫はそこに降り立った。姫が来たとされる別世界とはやはり「とこよ」であった。そして翁のもとで美しい姫となるものの、月をみてはしきりに嘆くようになった。「とこよ」の者である姫にこの「うつしよ」で過ごすことの許された束の間が「つき―尽き」たとき、「つき―月」へと往かねばならなかった。
(「竹取物語」は純粋な伝説ではない。いくつもの伝説を巧みに組み合わせた「物語」であり、全体よりも細部を凝視することでその厚みを知ることになる。これは古事記から脈々と続く、能や歌舞伎にもみられる我が国ならではの表現方法で、あくまで全体評価しようとする西洋式の見方をすると荒唐無稽なものに映る。民話や童話が「子供たちにもわかりやすいように」と書きかえられているが、これは子供たちのためにではなく西洋化してしまった大人たちのためにである。)
前回の記事で触れたように、古代人の生死観は今とはいささか違うようであった。肉体が滅びると魂がそこから離れて別の世界にと旅立ってゆくというものであった。
やまとことばには「死ぬ」に当てはまる語彙がないこともそれを裏打ちしており、その代わりに使われていた言葉として「ゆく―行・逝・往く」「ゐぬ―去ぬ」「うす―失・亡す」「かくる―隠る」「たぶ―旅・渡・度ぶ」などがあった。
もちろんこれらの言葉は死ぬときばかりでなく物事のありきたりの動作をあらわす動詞である。ここを「去に」てそこへ「行く」、月が雲に「隠れ」て光の「失す」ことなどをも語ることができる。そのなかで「たぶ―旅・渡・度ぶ」がやや特別な意味を帯びて見える。
名詞「たび―旅」は動詞が「たぶ」からうまれた。「旅をする」の意であるが、そのもとの意味は「ゆく」にちかい。が、どこが違うか。
「たぶ」の語源は「とふ―訪・問ふ」であった。おとずれる、様子をきく、病を見舞う、などの使われ方をした語で、「つまどひ―妻問ひ」とは男が女の許をたずねることや求婚することをさす。かぐや姫を悩ませたのも男どもの「つまどひ」であった。
それが変化し「たぶ」になった。なにせ昔のはなしである。ちと様子を聞こうにも人づてにでは心もとなく、恋しい相手に手紙をしたためるのはもっと後の時代を待つことになる。心が疼けば野山を越えて行ったのであろう、旅をしたのだろう。
「ひとたび」「ふたたび」の「たび」もここに語源を持つ。「回、度」を意味するこの言葉はすなわち旅をさしていた。たとえば春が来て去ってゆく、そして年を一回りしてふたたび訪れる。月も日も然り、これも「たび」である。回り周るのはなにも人だけではないことに、また繋がる。
「サファリ」は遠い遠い砂漠の国の民が話すアラビア語だが、その原型の「サファル―سفر」の意味も「旅」そして「回、度」である。彼らにとっての旅とは駱駝に乗っての隊商であり、イスラム化してからは巡礼であり、布教や戦のための遠征でもあり、砂漠の旅を生涯のうちいくたびとなく果たした。風に任せて姿を変え続ける砂丘は人をはぐらかし、彼らの道しるべはその季節の空を回る月と星と日であった。
森と海の民である我々と、砂漠の民たちの遠い先祖のことばの間に繋がりがあったとは考えにくい。しかしこの接点は偶然ではないだろう。ことばがじかにつながるのではなくその作られ方に同じ思いがはたらいたのであろうと思う。アラビア語もまた「体」の子音にが「心」の母音を宿す言語である。このことは別の機会に書いてみたい。
天体は道しるべであり、時しるべでもある。自らの在る時と所を月や星そして日という「しるべ―知る辺」に頼み導き出すのである。天体の位相を読んで処を知り、天体を暦に照らして時を知り、人のさだめをも読むことができた。とき―とこ―ところ、これはもともと切り離しては捉えることはできない。遠く離れた先祖たちは同じ思いで空を眺めていたことだろう。だが西の国ではその後、空が回るか大地が回るかで大騒ぎになったという。どちらも回るというのにご苦労な話である。
空も、時も、人々も、回りまわって会い、別れる。いつか、どこかでまた出会う。月日は百代の過客、いまここにある我にとれば月日こそが旅人であり、それを出迎え見送るのが我である。そしてこのうつし世のだれもがいつの時か、見送られて常世のたびにつく。
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