株式日記と経済展望
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韓国の大学の先生たちは最近は国内学会でも英語で発表や質疑応答をされる。
それは英語がよくわからない同国民に対していささか敬意を欠いている。内田樹
2013年1月25日 金曜日
◆「14歳の子を持つ親たちへ」韓国語版への序文 1月24日 内田樹
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みなさん、こんにちは。内田樹です。
『14歳の子を持つ親たちへ』の韓国語版が出ることになりました。
これで、『下流志向』、『街場の教育論』、『先生はえらい』、『若者よマルクスを読もう』、『私家版・ユダヤ文化論』、『日本辺境論』、『寝ながら学べる構造主義』に続いて、僕の本の8冊目の韓国語訳ということになります。短期間にこれだけ集中的にひとりの外国人の著述家の本が韓国語に訳されるというのは、かなり珍しい現象ではないかと思います。
訳されたのは僕が書いた本のうち、「学校教育にかかわる書物」と「ヨーロッパの哲学にかかわる書物」の2ジャンルに属するものです(『日本辺境論』だけがこの二つのカテゴリーのどちらにも入りません)。
それはたぶん「学校教育への市場原理の導入に対して批判的なテクスト」と「西欧哲学をわかりやすく解説するテクスト」の二種類のものが、韓国においては「ニーズがある」ということを意味しているのだと思います。「ニーズがある」と言ってもいいし、「サプライがない」と言ってもいい。たぶん、そこに韓国と日本の言説状況の「ずれ」があるのだと思います。序文として、すこしだけその「ずれ」について私見を述べておきたいと思います。
「学校教育への市場原理の導入に対して批判的なテクスト」と「西欧哲学をわかりやすく解説するテクスト」は扱っている主題もアプローチもずいぶん違いますけれど、共通する点があります。それは「そういうことを書くのは主として西欧哲学の専門家である大学の先生である」ということです。
「学校教育をいかに市場から守るか?」という問いに日頃から思い悩み、それと同時に「自分が専門的な知識を持っている哲学の『読み方』と『使い方』を、できるだけ多くの非専門家に伝えるにはどうすればいいか」をつねづね工夫している大学の教師がいれば、たぶん僕が書いているような書物を書くはずです。そして、そういう先生が一定数いれば、「サプライは足りている」わけで、何も日本人の書いた本を手間暇かけて韓国語訳することはありません。ということは、どうやら今の韓国の言説状況においては、「そういう人」が足りていないらしい。
僕はそんなふうに推論します。とりあえず、そのような仮説を立てた上で話を進めさせて頂きます。
「学校教育をどうやって市場原理から守るか」というのは、どうやら今の韓国ではあまり「人気のある主題」ではない。これはたぶん間違っていないと思います。それは「学校教育は市場原理に従属すべきだ」と思っている人が韓国のメディアではたぶんその反対の立場の人たちよりもつよい影響力を持っているということです。
僕が使っている「市場原理」というのは「学校とは子どもたちに市場から要求される知識や技術やふるまい方を教えるところだ」という考え方のことです。
英語を使える人がたくさん欲しいという社会的要請があるなら、学校では英語を集中的に教えるべきである、コンピュータの知識が必要ならコンピュータを教えるべきである、金融の知識が必要なら金融工学を教えるべきである、介護技術が必要なら介護技術を教えるべきである・・・などなど。それだけ聞くとなかなか合理的に聞こえますけれど、この「市場の要請」はあくまで「市場の要請」であって、学校で学ぶ子どもたちの都合のことは配慮していません。例えばアメリカが没落して、軍事的にも経済的にも覇権を失い、中国が超大国になった場合に「北京官話ができる人がたくさん欲しい」という社会的需要が出てきたら、どうなるでしょう。「英語使いはもう不要」ということになる。学校で英語習得のために必死に努力してきたあげくに「あ、もう要りません」と言われた子どもたちはどうすればいいのか。それに対しては何の支援も言い訳も用意されていません。
別に僕は極端な話をしているわけではありません。日本の大学で1960年代から70年代にかけて理科系でいちばん履修者の多かった第二外国語はロシア語でした。当時、ロシアは宇宙開発でも軍事研究でもアメリカと競争関係にあり、分野によってはアメリカをリードしていました。ですから、最新の科学的知見にアクセスしたいと願っている理系の学生たちは進んでロシア語を学んだのです。その後のソ連の没落によって理系のロシア語履修者は激減しました。たぶん今は限りなくゼロに近いでしょう。
原子力工学も金融工学もそうでした。市場のニーズがあるときはどの大学でも飛ぶ鳥落とす勢いの看板学科でしたが、どちらももう昔日の栄光の影はありません。
そういうものです。ニーズに合わせて教育プログラムをそのつど作り替えてゆくことを市場は学校に要求します。会社の経営者ならそう考えて当然です(僕だって会社の経営者ならそう要求します)。そうすれば、企業が自力で専門家を養成するときにかかるコストを「外部化」できるんですから。そのつど必要な専門的知識を教育するコストを大学に外部化すれば、企業はその分だけ収益を増やすことができる。
企業側からすれば合理的な要求ですけれど、僕は、そういうしかたで学校が市場に従属することには反対です。学校は自律的に教育プログラムをコントロールし、卒業生たちがさまざまな危難に遭遇しても、それを切り抜け、末永く幸福で充実した人生が送れるように、汎用性の高い「生きる力」を身に付けされるところだと思っています。「とりあえず市場が必要とする」知識や技術をオン・デマンドで送り出すファクトリーではありません。
でも、僕のように考える人は日本の教師たちの中にも決して多くはありません。僕は日本でもかなり孤立した立場にいますが、韓国ではもっと孤立しているでしょう。でも、そういう少数の孤立した人たちが僕の本を読んでくれている。そして、「韓国でも日本でも、教育が直面している危機の構造は同じだ」と知って、ちょっとだけほっとしている。同じ危機感を持ち、解決のための方途を探っている人の数は一人でも多い方がいいから。そういうことではないかと思います。
もう一つの僕の仮説は「哲学の『読み方』と『使い方』をできるだけ多くの非専門家に伝える」仕事を引き受けようという人が韓国の知識人の中にはあまりいないというものです。
僕は韓国の大学の実情をほとんど知らないので、これは当て推量ですけれど、こういう「専門家と一般読者の間の架橋をする人」、「二つの界域に同時に共属するもの=トリックスター」的知識人が韓国社会ではあまり高い威信を得られないのではないかと僕は想像しています。もちろん、日本でも事情はそれほど変わりません。トリックスター型の学者には学問的な威信は認められませんし、専門家からはしばしばあらわに侮られます。でも、「そういう仕事を誰かがやらなければいけない」ということがわかっている編集者や読者は少なからずいます。そういう環境があるから、僕のような中途半端な学者でも生きてこられたわけです。
前に聞いた話ですけれど、韓国の大学の先生たちは最近は国内学会でも英語で発表や質疑応答をされるそうですね。グローバルスタンダードが英語なんだから、「世界に向けて発信」するためには英語が公用語で当然だという考え方なんでしょうけれど、それは英語がよくわからない同国民に対していささか敬意を欠いた態度ではないかと僕は思います。
「英語ができる人」は「英語ができない人」のためにその能力を使うべきであって、「英語ができる人」たちだけの閉じられた知的交換の場を設けるというのは、ことの筋目が違うんじゃないかと僕は思います。
専門的知識があるというのは「目がいい」とか「鼻がきく」とか「力持ちである」とかと同じようなたぐいの能力です。「目がいい人」は遠くに見えるものを見えない人に教えて上げられるし、「鼻がきく人」は他の人が気づかないうちに火災の発生に気がついて避難指示ができるし、「力持ちの人」は非力な人のために重いものを持って上げられる。それと同じように、自分が持っている能力は、それを持ってない人のためにこそ優先的に用いるべきだと僕は考えています。「目がいい人」ばかりが集まって「どこまで遠くが見えるか」競うようなことをするより、「目が悪い人」のために遠くを見てあげることの方がずっとたいせつな仕事だ。僕はそう思っていますけれど、こういう考え方をする人間は世界どこでも少数派です。もちろん日本国内でも僕は少数派です。そういう少数派に共感してくれる人が韓国にもたぶんいるんだと思います。
僕と韓国の読者のみなさんとは海を隔てていますけれど、「教育を通じて次世代を守りたい。彼らを市場の消耗品にしたくない」と願っている、「専門知識はまず非専門家のために用いるものであって、専門家同士で優劣を競うために習得するものではない」と思っている。どちらもそれぞれの社会で少数派ではありますけれど、この点については、ボーダーを超えて共感し、連帯することはできる。そういうタイプの「グローバルなつながり」というのがあってもいいと僕は思います。
以上、「最近韓国語訳が多く出た」ことについてひとこと感想を申し上げました。長くなってすみません。(後略)
(私のコメント)
学校教育は何のためにあるのだろうか? 特に大学教育はサラリーマン予備校化して、大学に入って三年生になる頃から就職活動を始めるのは本末転倒だ。本当に優秀な学生なら独立起業を目指すべきであり、一流企業や高級官僚になっても能力を十分に生かせる事は無いだろう。自分の能力を十分に生かしたければ中小企業の社長になるべきであり、社長なら自分の好きなことが出来る。大企業だと幾ら優秀な人材でも生かせる機会は少ない。
先日も、内田樹氏の記事を借りて同じ事を書きましたが、凡庸な人材ならば東大のような一流大学を出て一流企業や高級官僚になったほうがいいのだろう。一流企業や役所は前例に基づいた事をやっているだけであり、ペーパーテストで優秀な成績ならばその能力は生かせるだろう。しかし前代未聞の正解の無い問題に出くわすとペーパーテスト秀才は既成概念に閉じこもってしまう。日銀の白川総裁がいい例だろう。
私のいう優秀な人材とは、不可能を可能にする人材であり、前代未聞の正解の無い問題を解ける人材の事だ。インフレターゲット政策にしてもアベノミクスにしても正解かどうかは時間が経たなければわからない。最近になってようやく小泉構造改革が間違っていた事が明らかになりましたが、高速道路公団を民営化して笹子トンネルのような事故が起きた。民営化すればメンテナンスが疎かになり、今まで行なわれていた点検を目視だけにしてしまった。
インフレターゲット政策にしてもネット上では多くの記事がありますが、経済学の本には無いだろう。東大出の秀才は教科書に書かれた事しか分からないが、インフレ目標政策が正しいかどうかは実証されていないのだから教科書に載っているわけが無い。中央銀行における量的な金融緩和にしても、どうすれば効果があるのかも財政で試して見なければ分からない。
学校教育は、学生の学力を選別するところではなく、学問のやり方を教えるところであり、実社会に出て本当の学問が始まる。しかし多くの学生は社会に出て働き始めると本を読むのを止めてしまう。実社会では即戦力を求めていますが、学校で即戦力を養成するのは市場原理主義的には正しいのでしょうが、市場の流れは猫の目のように変わる。
市場からは英語が出来る人材を求められても、実際に役に立つかは専門知識がなければ英会話が出来ても医学や科学や金融などの専門分野が分からなければ役に立たない。むしろ医者や科学者や金融業者が英語を習ったほうが近道だろう。野球の選手が日本で一流プレーヤーになって大リーグに行ってから英語を習ったほうが効率的なようなものだ。
内田氏は、「原子力工学も金融工学もそうでした。市場のニーズがあるときはどの大学でも飛ぶ鳥落とす勢いの看板学科でしたが、どちらももう昔日の栄光の影はありません。」と言うように、市場はいつも変化が激しく役に立たない事を学校でやっても意味が無い。「株式日記」では、エリートには歴史と古典を教えるべきだと書いてきましたが、東大出は歴史も古典も一部の学部でしか教えていない。
得の古典の哲学など、哲学科などで無ければ教えてはいないだろう。最近では高校でも古文や漢文を教えなくなっているようですが、中国の古典などを読まなくなっているからだろう。明治の日本の文化人が西欧の哲学などを訳す時に、漢文の素養があったから訳す事が出来たが、中国古典が分からなければ西欧の哲学や社会科学などを理解する事は不可能だっただろう。
時代の要請だからといって、学校でパソコンの事を教えたって、実社会に出る頃はスマートフォンが主流になってウィンドウズを習っても意味が無いだろう。パソコンのプログラマーが求められているからといって学校で教えてもプログラミングの流れは猫の目のように変わる。英語だってアメリカが没落すればどうなるかわからない。少し前はラテン語やフランス語がヨーロッパの公用語だった。
内田氏は、『韓国の大学の先生たちは最近は国内学会でも英語で発表や質疑応答をされるそうですね。グローバルスタンダードが英語なんだから、「世界に向けて発信」するためには英語が公用語で当然だという考え方なんでしょうけれど、それは英語がよくわからない同国民に対していささか敬意を欠いた態度ではないかと僕は思います。』と書いておられますが、専門分野の学問は自国語では出来ずに英語で無ければ論文が書けないといった事があるようだ。
新興国のエリートが英語が出来るのは、英語が出来なければ自国語では勉強が出来ないからであり、欧米に新興国の留学生が集まるのは、英語が出来なければ専門分野の勉強が出来ない為だ。韓国や中国などでは日本を通じて近代西欧文化を理解する事が多かった。内田氏の著書が8冊も韓国語に訳されると言うのは、その流れの一部だろう。
韓国では漢字が使われなくなり、ハングルだけで公文書も作られていますが、欧米の専門分野の論文は韓国語に翻訳する事は不可能なのだろう。だから英語を学んで大学では英語で授業を行なっている。これに比べると日本語で専門分野が学べる日本は世界的に見れば例外的なのだろう。中国人や韓国人に哲学や倫理学と言っても通用するのだろうか? それには「哲学」「倫理」と言う言葉が分からなければなりませんが、現代の韓国人や中国人は漢字が読めなくなっている。