犠牲の灯り 第1部 「ちむぐりさ」 /6 目覚め
2013年1月8日 東京新聞[社会]
2011年3月12日、福島第一原発1号機が爆発した。
古堅益三(64)が乾いたごう音を聞いたのは、7キロ離れた福島県富岡町の自宅だった。前日の大地震とは明らかに違う。体に伝わる衝撃が胸の鼓動を高ぶらせた。
「原発、爆発したんじゃないの」。妻恵子(63)が叫んだ。
だが、古堅は首を縦に振るわけにはいかなかった。そうすれば、原発にかけてきた人生が終わってしまうような気がしたからだ。
やっとの思いで言葉を返す。「雷でも、落ちたんだろ」
頭上には、雲一つない青空が広がっていた。
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古堅が生まれたのは、沖縄本島中部の読谷村だ。海と米軍基地に囲まれて育った。
古堅は基地が大嫌いだった。軍用機と高射砲は時を選ばず爆音を響かせる。米兵の事故や事件に住民は何の声も上げられなかった。
高校生のころ、ある知り合いが基地で働いていた。ベトナム戦争(1960〜75年)で死んだ米兵の遺体をはるか本国の遺族に届けるため、もげた手足をつなぎ、腐らぬよう内臓を抜く。米国人は決してやらない仕事だ。
「飯ものどを通らなくなる」とぼやきながら、それでも職のない地元民たちは基地にすがるしかなかった。
68(昭和43)年、19歳の古堅は迷わず日本へ渡る。懐には「琉球列島米国民政府」と刻まれたパスポート。島を抜け出し、「日本人」になれば自由に稼げると信じた。
工業高卒の経歴を生かし、会社を渡り歩きながら火力発電所やプラントの設計技術を身につけた。「日本語しゃべれますか」と真顔で尋ねる「日本人」にも笑顔を返した。
そんな古堅にとって、日本人にもまだなじみのなかった原発は成功への階段だった。
大手電機メーカーの関連会社で設計部門にいた30歳のころ、福島第二原発を建設する話が舞い込んだ。
東京から福島への出張手当は月16万円。給料が倍になる計算だ。「放射能は怖い」とためらう同僚たちの中で、真っ先に手を挙げた。沖縄出身の妻との間に3人目の息子が生まれようとしていた。
福島に移り住むと、東電の孫請けとして独立。第一、第二原発に出入りし、電気設備の図面を描き続けた。建設を間近で見守った原子炉建屋は、1.8メートルもの壁の厚さ。内部には直径32ミリもの鉄筋が密林のように埋め込まれていた。
「原発は大丈夫?」。人から尋ねられると、自信満々で答えた。「原発が爆発するときは、日本が破滅する時だ」
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その福島で大事故が起きた。今、古堅は放射能に自宅を追われ、福島県いわき市の被災者用アパートで妻と暮らす。
富岡町のわが家には、原発に携わってからの給与明細と独立後の収入を刻んだ銀行通帳すべてをしまってある。30年以上、ずっと右肩上がり。それが、島育ちの自分が「日本」で成功した証しだと思ったから。
だが、古堅が今、もっとも持ち出したいのは、孫たちが背丈を刻んだ家の柱だ。「目先の豊かさを追いかけ、原発に洗脳されとったのかもしれん」
あれほど逃げ出したかった基地だらけの沖縄と、原発に心血を注いだ福島。どちらも、「本土」や「都市」の豊かさのため、裏返しの危険を押し付けられてきたのではないか。
古堅には時折、ともに働いた後輩たちから相談の電話がくる。「また原発で働こうと思うんですが」
今は静かにこう答えている。「いや、もうやめた方がいい。原発とは別れよう」(敬称略)
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