21. 2012年10月04日 20:10:43 : uByO0DOTVc
最後に生き残るのは農家ですよ。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/785.html#c21
93. 恵也 2012年10月04日 20:20:41 : cdRlA.6W79UEw : 5zOpWkC24g
>>73 原発は縮小ではなく、増加する。どこの数字から退潮がはっきりしているのと言えるのだろうか。
原発は少なくとも停滞でしょう。
2001年で設備数は432基、10年たってたった1基しか増えてなくしかもポンコツばかり。
原発なんて1995年ころからほとんど増えてないでしょう。
インドの原発も新規のものを凍結したというし、建設中のも本当に最後まで作れるかね。
計画中なんて机上の計算。
40年もしたのは廃炉にするのだから、発電・送電が自由化されてる国では建設できないよ。
ーーーー引用開始ーーーー
2000年12月末現在、世界31か国で430基の原子力発電所が運転中であり、総
発電設備容量は3億6,334万3,000kWとなっています。また、建設中のものは16か
国で43基、4,143万6,000kW、計画中は11か国で41基、
http://www.atom.meti.go.jp/siraberu/qa/00/sekai/01-010.html
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/675.html#c93
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0401W_U2A001C1EE8000/
2012/10/4 19:35
経団連の米倉弘昌会長は4日の名古屋市内での記者会見で、原発の再稼働を誰が決めるのか責任の所在がはっきりしない現状について「誰かが判断しないといけない。早く役割と責任を決めないと、今のままではうまくいかない」と批判した。原子力規制委員会は政府か電力会社が再稼働を判断すべきだとする一方、政府は判断に直接関与しない方針を示し、責任を押しつけ合う構図が続いている。
米倉会長が野田第3次改造内閣に早期の衆院解散を求めたことに関しては「首相への応援のつもりで言った」と説明。「重要課題の解決のための与野党間の信頼関係が欠けている。(早期解散を約束した)民主、自民、公明の3党合意を貫かないといけない」と語った。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/718.html
危うい前原誠司国家戦略兼経済財政担当相の日銀金融政策決定会合への出席
2003年の竹中平蔵氏の出席以来という閣僚の日銀会合出席だ。今までの経験から判断して、前原誠司が動くとろくな結果がでない。ホリエモンの偽メール事件から日航の再建問題まで、さわやかそうに見える彼の外見とは大違いで、彼が介入すると事態はとたんに混乱する。
少なくとも、彼自身が述べているように、日銀の動きについて、「政府と日銀が話し合いをしながら、日銀の独立性を踏まえて判断されることだ」とするなら、経済財政担当相自身が日銀会合へ出席する必要はあるまい。
すでに日銀は毎年市場から国債を10兆円以上の規模で買い上げている。多分、超長期国債のほとんどは日銀が抱え込み、満期2年程度の国債保有に多くの金融機関が走っているのが現状だ。インフレ目標達成とは、普通に考えると、より多く、つまり、年に20兆円以上の国債を市場から日銀が買い上げることを意味する。しかし、日銀は何も富の創造ができているわけではない。実態的な富を一金融機関ができるはずがなく、ましてや日銀のように普通は実際の経済活動をする企業への融資をしない金融機関が実態のある富の創造はできない。つまり、単に貨幣の供給量を増やしてインフレ圧力を増すだけだ。
特に問題なのは、日銀による社債買い上げで、東電の社債が5兆円ほど市場に出回っているが、それを日銀が引き受けることだ。既に買い入れがされていて、今後も買い入れが続くはずだ。何が問題かというと、社債市場というものは存在せず、売買価格は相対取引で決定されることだ。つまり、額面100円の東電社債は一時期60円以下にまで値下がりされたとされ、その頃に大量に買った連中から高値で日銀が買い取ることが可能なのだ。日航破たんの時も、当時の前原誠司国交相は日航株をどうするかで最後まで迷走した。
東電の破たん処理をどうするかは、国会の場で、公開で話していただきたい。
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MBCZO06TTDT601.html
前原経財相:日銀決定会合に出席、発言は公表しない−インタビュー
10月4日(ブルームバーグ):前原誠司国家戦略兼経済財政担当相は5日開かれる日銀の金融政策決定会合に出席する意向だ。
前原氏は4日、ブルームバーグ・ニュースなどとのインタビューで5日の会合について「出席する方向で調整をしている。内閣府の専門家集団と話した中で、私の意見も踏まえて発言しようと思っている」と明言した。発言内容については「事前も事後も公表しないということが約束になっている」と語った。
日銀法第19条は、財務相または経済財政担当相は必要に応じ、金融政策決定会合に出席し、意見を述べることができると規定しているが、これまでは副大臣や政務官が出席するのが慣例化していた。日銀によると、経財相自らが金融政策決定会合に出席するのは2003年4月の竹中平蔵氏以来となる。
前原氏は決定会合への対応について「国会とか、それよりも優先すべき公務がなければできる限り出席したい」とも述べた。
日本銀行が消費者物価指数(CPI)の前年比上昇率1%を目指していることに関しては「早期に実現するために強力な金融緩和をしてほしいということに尽きる」と強調した。具体的な金融政策の手段については「どういうツールを使うかということは、政府と日銀が話し合いをしながら、日銀の独立性を踏まえて判断されることだ」と述べるにとどめた。
*6月8日の記事「近づく戦争・テロ社会、これらの動きを止めるべきでは?」から一連番号を付しています。<<1150>>TC:37936,BC:7963,PC:?、 Mc:?
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/811.html
05. 2012年10月04日 20:26:45 : JraEgmqDWI
>
>甲状腺がんの原因といわれる放射性ヨードの半減期は8日とされており、事故から26年を経てベラルーシで被爆を引き起こしているとは考えにくい。
これは、放射性物質が生物に及ぼす影響について無知である者の言葉です。
こういうことを言うこと自体が無知・・・。ポリネシアの調査は、「核実験が原因である」と結論を出していませんよ。
ラットの肺と人間の肺は、違うのよ。
http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-03-02-09
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/339.html#c5
01. 2012年10月04日 20:30:34 : FijhpXM9AU
目先の利潤に目がくらんで、関わり合いになるべきではない相手と関わったのが間違いのもとだ。昔は財界人といってもただの悪人ではない、大物としての風格を漂わせていたが、今はどうだ。キャノンのオテアライとかこのうすらバカ会長といい、ただのパープリンではないか。処置無しだ。
他方で信越化学はさすがだ。長野人の唯我独尊精神の賜だ。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/810.html#c1
01. 2012年10月04日 20:31:33 : g9EbZmeAAc
アメリカ軍は張子のトラか?
「張子のトラ」この言葉を誰が言ったか忘れたが、多分中国の政治家だったと記憶するが・・
軍事的に緊張が高まった事態になった時に、果たして米軍は実際に砲火を交えるか否か?
アメリカ議会が軍事行動に承認を出すのだが、核兵器と同じで軍事的な抑止力の意味はあっても実際に戦闘を行うかどうか中国にとって未知数というところがみそ。
日本とベトナム・フイッリピン等の諸国はそれが、対中軍事戦略になっている。
中国軍がもし張子のトラかどうか試してみて、本当に張子のトラだった場合には、アメリカの外交戦略と軍事戦略は根本から見直しを迫られることになる。
アジア各国は全てアメリカが頼りにならないと判断し、いやいや中国の言うことを聞かざるを得なくなり、中国の覇権は一気にアジア諸国に及ぶ。
こう考えるとアメリカは、軍事行動に出る可能性が大きいと推論できるのだが、関係諸氏のご意見をどうぞ。
http://www.asyura2.com/11/kokusai6/msg/897.html#c1
10. 2012年10月04日 20:33:36 : 4Ep9DaTrac
こんな事が有ったのを知りませんでした。申し訳ないです。
福一事故をネットで事故以来追ってると、ここに書かれている事がそのまま行われているのが解ります。
勝俣、清水は一切自腹を切らず逃げました。普通の企業のする事ではないです。
原発推進派はもはや残党です。金の力でなんとかしようと必死になってます。
太陽光発電や風力発電他も良識ある学者は開発に頑張っていました。
ただそれに切り替える勇気がいまの行政にないだけです。行政は臆病者の集まりです。
国民の力で、推進派残党整理して行きたいです。出来ると思います。
皆でネットで声を上げ、役所にメールを送り、出来たら近くのデモに参加する。
震災後一時期『あ〜国民は捨てられてるんだ』と思い、悲しい時も有りましたが、そんなの関係ないです。戦おう!未来の日本、地球の為に!と今は思ってます。
01. 2012年10月04日 20:35:27 : FijhpXM9AU
シリア国内から誰が砲撃を行ったかも明らかになっていない
--------------
アルカイダ=CIA反乱軍もどきはロケット砲装備だからねえ。いくらでもこういう芸当はできるわけよ。トルコとシリアの戦争から第3次世界大戦にもってく算段じゃないのかね。
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/250.html#c1
68. 2012年10月04日 20:37:17 : d40J9JEANA
結婚は断る権利もあるよ。
断って何処が悪い。
選ぶ権利もあるよ。
選んで何処が悪い。
福島人を選ばなくちゃいけない理由でも有るのか?
福島人が全部断られてもそれは結果だ、理由が何だとしてもそれは仕方ないだろう。
それだけの事だよ。
それを理不尽とは言えないよ。
01. グッキー 2012年10月04日 20:41:48 : Cbr3d6O9vj7Mc : aoIHrnz1Tk
新井さんは中国に居た方だから、中国事情に詳しいのかな
ほぼ私の見方と同じです。
せっかく棚上げしてあったものを棚から引き摺り下ろして、
野田、石原、菅、前原などは売国奴としか言えません。
アメリカの謀略と分かっていても、お互いの面子を潰さないように
解決しなければならないので難しいです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/713.html#c1
05. 2012年10月04日 20:43:21 : 7uPtGleutM
この考えはおかしいよね。大局観がない。陰謀史観がない。とうてい、、全然ダメだ。
いつも思うのだけど朝鮮日報他の半島の連中は変というより可笑しいよね。シナと半島が対等だとみている。シナが半島を一個の人格としてみてくれるわけがないだろうが。一人前に半島の下朝鮮が語るには力不足の観がするけどね。半島は、なんか言ってることが何時も変だよ。彼らは自分たちがわかってないんだろうね。歴史も文化もなかった半島で、現在も教育も情報も全部嘘だからし方がないのだろうね。
等身大の自分というものが見えてないよね。これじゃあ、足払いをかけられるわ。もっと現実をにんしきして謙虚にペコペコして力を貯めないとだめだろう。
[今我々半島があるのはシナ様と日本様があるおかげです。シナ様と日本様の爪の垢でも飲んでせいぜい精進するつもりです。]
と、このぐらい言って天ぷらに上げられないように警戒をおこたらないようにするべきだろう。
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/246.html#c5
01. 2012年10月04日 20:45:40 : 8eINxzDIHQ
まいったー
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/600.html#c1
01. 2012年10月04日 20:46:37 : RjEnRjMMSg
米倉は早く別世界へ旅立った方がよい。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/718.html#c1
08. 2012年10月04日 20:50:25 : RjEnRjMMSg
自民党の河野くん、離党はしないのか。
自民党にいてどうするつもりだ。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/701.html#c8
03. 2012年10月04日 20:50:59 : 8eINxzDIHQ
これは愉快な会話ですね(笑)
なるほどー、自由自在だわ。
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/602.html#c3
03. 2012年10月04日 20:54:22 : hlKni1lqYM
02にひっぱられた。
Stalling the Stock Market Crash!
http://www.prophecies.org/DOCS/Book%2012/Chapter85.htm
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/838.html#c3
11. 2012年10月04日 20:55:10 : 7uPtGleutM
シナは日本がなくなったら終わりだろうね。日本の金と技術の援助がなければ崩壊だ。だから脅してるだけだと思うな。シナ軍は張子の虎で弱いしね。
ただ、それを含めて日中戦争を起こして日本とシナを崩壊させたい勢力がいるということだろう。日本シナ双方にいる。米国も参戦の予定かもしれんね。neoではアジアはシナが征服となってたが予定は変わるそうだし日本シナは別個になるかもしれんね。中国分裂がどうなるかはわからんが崩壊は仕組むだろうね。最後はシナの水爆にたいして、電磁波兵器などでシナを攻撃するそうだからシナ人絶滅ということまで仕組んでるかもしれんな。
流れは人口削減と世界統一だろうね。
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/241.html#c11
04. 2012年10月04日 20:55:14 : uByO0DOTVc
紙きれでどこまでも経済をコントロールしようという素晴らしい発想。さすがノーベル賞を取るだけはある。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/802.html#c4
02. 2012年10月04日 20:57:01 : txKoq6KBVw
そうです。宇宙の果てまで飛んでいけー
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/718.html#c2
09. 2012年10月04日 20:57:13 : RjEnRjMMSg
最大級を想定しておけば、予測が外れることはない、という判断。
http://www.asyura2.com/12/jisin18/msg/538.html#c9
06. 2012年10月04日 20:57:43 : a6E6uYjWPs
日中韓の緊迫が高まる中、黄文雄の本を読んでみようとオーダしてみました。
01さん、
そう、 <<韓国という国は、遣り手婆のような、とても狡猾な国なのである
例えれば、それは江戸時代における悪徳商人のようなのであり、対して日本は「武士は食わねど高楊枝」のような憐れむべき状態なのである
まさに同感です!!
03さん、 先祖が警告してきた言葉に対して、戦後の日本人は警戒が緩んでしまったのでしょうか・・・ 官の中国漁船対応大がいかにスマートな適応ではなかった
とつくづく思い知らされる今日この頃。
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/246.html#c6
03. 2012年10月04日 20:58:11 : 8eINxzDIHQ
そうそう、よう覚えとりますぞ。
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/592.html#c3
02. 2012年10月04日 20:58:36 : BnZEbGDBC6
「マスコミの公文書捏造を安倍総裁が暴露して大問題に」 2chの安倍コピペが完全なデマだったことが露呈する
1:おじいちゃんのコーヒー ◆I.Tae1mC8Y @しいたけφ ★:2012/10/03(水) 22:46:27.07 ID:???0
自民党の安倍晋三総裁が、フェイスブックの活用を加速している。日常の活動報告が頻繁に更新されるのはもちろん、マスコミ報道への反論も多い。いわゆる「カツカレー問題」にも反論したほか、安倍内閣時代の原発対応を批判した記事を「まったくのデタラメ捏造記事」とまで断じている。
カツカレーは「会場費込みの値段で参加した議員皆でワリカン」と説明
安倍事務所では、フェイスブックに公式ページを開設する以前から、週刊誌報道などについて厳しい批判を展開してきたという経緯がある。この指摘の場がフェイスブックに移行した形だ。
2012年9月30日には、「3500円の豪華カレーを食べていた」とネット上で話題になっていた件について、
「会場費込みの値段で参加した議員皆でワリカンしたものです」
と事実関係を説明。この時は、騒動を報じた報道も踏まえた上で、
「今や、インターネットでマスコミの発言も精査され、このカツカレー論争等 ジョークの対象となります。何れにせよ、カツカレーがゲンが良かったのも事実ですね」
と受け流す余裕すらあった。
続きます
http://news.livedoor.com/article/detail/7012138/
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1349271987/
9:おじいちゃんのコーヒー ◆I.Tae1mC8Y @しいたけφ ★:2012/10/03(水) 22:47:55.71 ID:???0
■サンデー毎日を「まったくのデタラメ捏造記事」と非難
だが、10月2日の書き込みは、
「ねつ造や間違った事実に基づく誹謗中傷には、黙っているわけにはいきません」
と、調子が強くなった。批判されているのは、「サンデー毎日」12年10月14日号に「『津波は大丈夫』の消せない大罪」と題して掲載された記事。記事では、日本共産党の吉井英勝衆院議員が、安倍氏の首相在任中の06年12月13日に提出した質問主意書を紹介。記事によると、主意書では、
「地震や津波で送電設備が倒壊すると外部電源が得られなくなり、非常用のディーゼル発電機やバッテリーも動かなければ、原発の冷却機能が失われる恐れを指摘」
したが、答弁書には「素っ気ない回答が並んだ」結果、
「津波に襲われた福島第1原発を『予言』するような指摘を、十分な調査をせずに『大丈夫だ』と受け流したのだ」
と、当時の政権を批判した。それに対して、安倍事務所のフェイスブックでは、
「吉井議員の質問主意書には『津波で外部電源が得られなくなる』との指摘はなく、さらにサンデー毎日が吉井議員の質問に回答として引用した政府答弁書の回答部分は別の質問に対する回答部分であって、まったくのデタラメ捏造記事という他ありません」
などと記事を猛烈に批判した。
確かに当時の吉井議員の主意書では、地震で鉄塔が倒壊した結果外部電源が得られなくなるリスクが指摘されているものの、「津波で外部電源が得られなくなる」との指摘はなく、津波については、「引き波」で海からの取水ができなくなる可能性を指摘しているに過ぎない。確かに、主意書の紹介の仕方としては不適切だと言えそうだ。
なお、潟永秀一郎・サンデー毎日編集長は
「正しい報道であったと認識しております」
とコメントしている。
64:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:55:26.49 ID:VLNYx6Rk0
>>9
>なお、潟永秀一郎・サンデー毎日編集長は
>。ヨ正しい報道であったと認識しております」
>とコメントしている。
説明になってない。
ちゃんと国民に説明しろ。
179:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:04:52.65 ID:g58NpbQy0
>>9
捏造、歪曲、嘘の記事書いた本を出版したら、
詐欺で訴えられるようにしたら良いのに。
だって読者は記事を見るためにお金払って雑誌を買う訳なので、
それが嘘だったって事になればモロに詐欺でしょ?
お金をだまし取られた、って事だから。
339:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:15:09.49 ID:OwqNyFf60
>>9
>サンデー毎日が吉井議員の質問に回答として引用した政府答弁書の回答部分は
>別の質問に対する回答部分であって、まったくのデタラメ捏造記事という他ありません
↓
>、潟永秀一郎・サンデー毎日編集長は
>。ヨ正しい報道であったと認識しております」
>とコメントしている。
なにこれwつまり
別の質問Bへの回答を、あたかも質問Aへの回答であるかのように記事を捏造
そして「捏造は正しい報道である(サンデー毎日編集長)」ってこと!?
507:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:25:31.17 ID:k0XSNMG40
>>9
これは酷い
636:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:35:51.07 ID:zoCGnCmB0
>>9
日本のメディア怖すぎるだろ
896:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:57:35.91 ID:DbTJm8m/0
>>9
>なお、潟永秀一郎・サンデー毎日編集長は
> 「正しい報道であったと認識しております」
>とコメントしている。
お前がどう認識しているかなんて関係ない。
捏造した事実があるんだから、きちんと責任を取れ!!
16:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:49:32.13 ID:stb6dBnq0
安倍ちゃんいいなw
今度は言いがかりで潰されることは無さそうだ
266:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:11:01.76 ID:wT48mgmT0
>>16
当時は反論の手段としてネットがこれほど広まってなかったからなあ
いい傾向だ
18:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:49:53.94 ID:fM9ZjeWB0
あぁ、あのコピペインチキだったのか
75:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:56:25.24 ID:ZMFYiCHiO
>>18
本人の中だけでは真実なんだろう
日本版陰謀論は中共の喧伝だってバレてるのにな
108:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:59:09.78 ID:MRSaLkc0P
>>18
当時の安倍答弁みたいな感じで散々貼られてたよなw
まさかあれ捏造だったとはw
チョンどもは嘘も100回繰り返せば真実になると思ってるが、
日本では100回繰り返されたら、事実関係確認されてばれるんだよな
26:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:51:37.26 ID:1EjMN9SW0
>正しい報道であったと認識しております
お前がくそみそに言う政治家以下の答だな、腐れマスゴミよ?
37:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:53:06.14 ID:DL44wRhr0
捏造答弁必死にコピペしまくってた奴爆死乙
捏造大好きな時点で出自が知れるな
43:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:53:39.60 ID:VbTyIbWp0
津波で外部電源が喪失するって質問じゃ無かった上に答弁自体が別の質問だったで良いんだよな?
何を持って「正しい報道であったと認識しております」何て言えるんだw
59:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:54:52.28 ID:3N5vxcSj0
潟永秀一郎・サンデー毎日編集長見てるぅ〜?
サンデー毎日の表紙にデカデカと「この雑誌はフィクションです」
って書いたら如何?
62:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:55:00.91 ID:8EqS2rWM0
間違い指摘されて、
正しい報道と認識している
ってどういうことよ
たち悪すぎだろこいつら
105:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 22:58:54.50 ID:LJBHZNd40
>正しい報道であったと認識しております
潟永秀一郎 コイツ頭大丈夫なのか?
質問主意書の指摘内容も違っている、引用した回答内容は別の質問への回答。
全然正しくないじゃん。
123:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:00:47.82 ID:LLQ2+jI6O
「サンデー」って訳すと「捏造」だっけ?
140:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:01:52.92 ID:tXPyusRg0
>>1
こんなクソ雑誌、不買で廃刊に追い込んでやればいい。
立ち読みの価値すらなし。
220:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:07:25.87 ID:BveOEvuF0
>>140
不買もなにもこのスレ見てる奴でこんなクソ雑誌を買ってる奴はいないだろうw
147:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:02:12.43 ID:mElX87az0
話題になれば何でもいいんだよ
話題になって部数が上がれば万々歳だし
話題になって他のマスコミが取り上げれば
大多数が安倍が悪いって方向性で味方につく
数年後裁判で負けたとしても、メディアがとりあげなければ国民は安倍が悪いっていう印象だけが残る
175:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:04:41.70 ID:QGYr4So20
>>147
部数?ネットの時代だ。落ちまくってるだろ。
特に毎日新聞。マヂで意味ね〜(笑)
552:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:29:16.76 ID:xolBcpUO0
>>147
サンデー毎日と安倍のフェイスブックなら安倍のほう見てる人のが多いだろ。
安倍の論のほうが浸透する。
ちなみに、
日本のソーシャルメディア人口・・・5060万人
日本のフェイスブック人口・・・1552万人
サンデー毎日発行部数・・・14万部(実売はさらに減る)
152:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:02:43.75 ID:/UNZiNi5O
すげーな会場費込みで払った値段を
カレーに3000円はネットで批判殺到、一般人の感覚からズレてるって
社食カレーが3500円の会社が書いてたのか
185:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:05:18.98 ID:6+7cZksg0
>>152
本当に、ネットで批判殺到したの?
総裁選と言う大勝負のゲン担ぎに、たかだか3500円程度で、そんなに批判が出るものなのか
169:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:04:27.01 ID:zfO3W4P70
>潟永秀一郎・サンデー毎日編集長は「正しい報道であったと認識しております」
左翼って嘘がばれても謝らないよなw
205:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:06:22.92 ID:3hfDreUR0
>>169
そういう意味で申し上げたのではない
が第一声なのがサヨク
232:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:08:17.61 ID:G12rv8jX0
裁判起こされても判決でる頃には政権とか色々変わってどうでも良くなるから強気だよな>マスゴミ
243:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:09:12.58 ID:K6UAWPA50
安倍、強くなったなぁ…
255:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:10:03.47 ID:1JIhTCZ00
>>243
腹を括って半端じゃない覚悟を決めてるんだと思う
258:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:10:17.35 ID:zF8Ur4ES0
>>243
ねー。
戦場で敵とにらみ合っていたら、自軍の総大将が最前線に立ってくれたような高揚感。
263:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:10:48.54 ID:9WzgsI5iO
権力者がいちいち反論するなんてみっともない。昭和の政治家はマスコミの記事にいちいち反論してなかったぞ。
439:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:21:38.20 ID:2KVHuAeM0
>>263
マスゴミが襟を正して正確な報道をすれば反論もされないと思うよ!
まあそうなったら別のとこから圧力が来るから無理なんだろうけどな
309:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:13:33.80 ID:Arnm8/NV0
刷り込みって怖いよね
あの変態記事以降
「毎日」の文字が「変態」に脳内で勝手に変換されて
「変態新聞」
「サンデー変態」
「変態おかあさん」
などとして目に飛び込んでくる
331:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:14:46.58 ID:YCT6la2qP
サンデー毎日の取り上げ方は完全に捏造でしょう・・・
今はじめて真実を知ってかなりショック受けてますorz
384:エラ通信@ ◆0/aze39TU2 :2012/10/03(水) 23:18:06.80 ID:ozIoDYlI0
“亡国メディアとして正しい態度”だろ。
しかし、最近のマスゴミは安倍首相に対しては絶対に謝らないな。
コイツラの態度、残念ながら共存不可能だよ。
それぞれの母国に強制送還したほうがいい。
496:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:24:58.06 ID:AWyVlUmO0
>>384
いや、いい加減、徹底的に潰すべきだと思うのよ。
権力で潰すのではなく、逃げられない場所で徹底的に問い詰めて追い詰めて晒し者にする。
そうやって今のマスゴミがいかに堕落してるのかって国民に見せつける。
そして国民の同意を取り付けて、マスゴミが安易に嘘捏造歪曲をやらかす原因を追及して、
その腐った部分を全て排除して真の自由主義国家に相応しいマスコミへと健全化を図る。
クソアカ共にはそろそろお仕置き&見せしめが必要。
400:名無しさん@13周年 :2012/10/03(水) 23:19:09.50 ID:xWyG78rH0
言論弾圧までしだしたかw
やっぱり参院選で大敗し国民から不信任されるも政権にしがみつこうと
所信表明演説した後に速攻で辞めた最低最悪のダメ総理はどうしようも
ないクズ議員だわw
国民の力で追放せんといかんな
425:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:20:33.61 ID:0W/0HhMf0
>>400
事実を捏造してまで悪を作るのが言論の役割なんですかw
533:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:27:45.82 ID:AWyVlUmO0
>>400
最早、しがみつく所がそこしか無くなっちゃったねw
日本国内でぬくぬくと生活してる支那・チョン人にしてみれば、
安倍ちゃんが総裁になっちゃった事で、
死刑執行のカウントダウンが始まっちゃった感じになっちゃってるのかねぇ。
406:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:19:31.17 ID:7K+Clewd0
Yahoo知恵袋より
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411963114
安倍?
地元の下関では、ガチで評判悪い!!
何故かって?
それは、チョソ人だから!!
↑
これは”ガチ”確定!!!
安倍がチョソ人である事は、地元・下関では、超有名な話。
安倍晋三の韓国名は「安晉三(アン・ジンサム)」という。
「晋三」という名前は統一協会の教祖・文鮮明が名付けたとも言われている。
安倍晋三は数十人の自民党の議員の秘書に統一協会の会員を紹介するなど、
政界へのスパイ浸透工作を行っている。
http://homepage.mac.com/ehara_gen1/jealous_gay/abe_shinzo.html
安倍元外相は、”生前に安倍家の起源は10世紀くらいまで韓半島北で中国大陸にかけて存在した
渤海(パルヘ)国に始まったという考えを持っていたが、日本での安倍家の起源は明らかではない”
と報道した。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=80386&servcode=20...
そして、安倍の後援会の会長は、『帰化のチョソ人』である!!!!!
安倍晋三の下関事務所は、東洋エンタープライズ(本社・下関)が所有している。
実はこの会社、何と”パチンコ業者”なのだ!!
東洋エンタープライズは、巨大パチンコチェーンで、売上げ350億を誇っている。
540:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:28:20.80 ID:K6UAWPA50
>>406
ガチで評判悪いとか言うけど
安倍って、選挙の開票直後に速報で当確ニュースが流れ他党の比例復活さえ許さないほどの
鉄板選挙区なんだが…
親父の後を継いだとはいえそこまで評判悪いならこの圧倒的な強さは説明つかんだろうよ
743:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:44:00.68 ID:2KVHuAeM0
>>406
どいた過去やらみずぽやらの朝鮮人認定をなぞったとしか思えん
408:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:19:44.01 ID:IOxUoLSk0
2006年12月13日 衆議院議員 吉井英勝
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a165256.htm
2006年12月22日 内閣総理大臣 安倍晋三
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b165256.htm
1-4
Q(吉井英勝):海外では二重のバックアップ電源を喪失した事故もあるが日本は大丈夫なのか
A(安倍晋三):海外とは原発の構造が違う。日本の原発で同様の事態が発生するとは考えられない
1-6
Q(吉井英勝):冷却系が完全に沈黙した場合の復旧シナリオは考えてあるのか
A(安倍晋三):そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない
1-7
Q(吉井英勝):冷却に失敗し各燃料棒が焼損した場合の復旧シナリオは考えてあるのか
A(安倍晋三):そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない
2-1
Q(吉井英勝):原子炉が破壊し放射性物質が拡散した場合の被害予測や復旧シナリオは考えてあるのか
A(安倍晋三):そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない
452:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:22:52.75 ID:ONPeWMBpO
衆議院の国会答弁のソースがあるし
安倍は捏造とか言うのならサンデー毎日を訴えればよい
453:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:22:57.36 ID:gBPdGqBnI
>>408
捏造を捏造だとわかっていても、
コピペを貼り続けるのが、韓国クオリティだよね。
日本人はそういうことは、カッコ悪くてできないんだよ。
455:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:23:02.32 ID:fn/5ME6u0
>潟永秀一郎・サンデー毎日編集長
捏造してまで何がしたいのかね、このキチガイはwww
462:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:23:13.04 ID:YZuXotOsO
日本語だと毎日日曜日って雑誌かぁw
週刊金曜日って雑誌もサヨお気に入りだよね。
493:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:24:40.66 ID:1gAavjVs0
自民党は政権に復帰したら、
パチンコマネーを受け取り、民主党政権誕生に尽力した勢力に対して、
徹底的に報復すべきだね。
容赦なく叩き潰していいと思う。それくらい日本はぶっ壊れた。
596:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:32:22.12 ID:dsVSItQl0
マスコミにしてみれば安倍氏は最大の敵であり、どうしても潰しておきたい、というのは良く伝わって来る。
けど、こういう捏造とか手段を選ばずにやってると、マスコミに対する規制という形で跳ね返ってくると思うのだが。
特に朝日とか放送法的にもリーチかかってる状態なのだから(椿事件とか)、ヨイショは出来ないまでもフラットを貫けばいいものを。
今の上層部にいる年代ってのは本当に脳味噌が足りてないんだなぁ、とつくづく思う。
632:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:35:40.81 ID:8TpRYH8p0
>>596
マスコミじゃなく在日の、それも特定の個人が
安倍に執拗に粘着してるのがよく分かる
これは組織ぐるみだけど組織ぐるみじゃなく
完全に個人の意向で安倍叩きが行われてる。
なんでそう断言できるかって言うと、叩き方の方向性が
すべてのテレビ局や新聞社や小林よしのりまで、完全に統率されてるからだ。
つまり1人のヤツがテレビ局や小林よしのりに「直接」呼びかけて言わせてる。
安倍批判者は、全員、この朝鮮人と面識があるはずだ。
672:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:38:16.19 ID:nq73xsFX0
安倍さん、マスゴミに対抗する術を身につけたようだね。安心した。
696:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:39:43.46 ID:6ysyMX+j0
>>672
ツイッターやfacebook、スマホの普及も大きいだろうね。
673:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:38:18.75 ID:/Ow1Q6BIO
野党党首につっかかる暇があったら
いまの政権の体たらくを追及したらどうだ?
クソマスゴミども
694:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:39:37.13 ID:5WnxLL5F0
>>673
まったくだな
881:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:55:59.88 ID:Vk45aRSb0
>>1
あー、サンデー毎日って毎日新聞系列か
なぜか今まで気づかなかったw
905:名無しさん@13周年:2012/10/03(水) 23:58:22.80 ID:E6akZB6MO
>>881
毎日がエブリデー状態だよ!
945:名無しさん@13周年:2012/10/04(木) 00:02:24.89 ID:tZbOVdl00
いや〜ほんとにネットあってよかった
なかったら今頃マスゴミ洗脳状態で、脱原発・安部は信用できない・中韓に冷静対応+謝罪になってた
956:名無しさん@13周年:2012/10/04(木) 00:03:35.35 ID:jyGI3zZj0
>>945
それでも出版物だけは昔から真実を告げていたモノもあったんだけどね。
ネットがテレビ並の影響力を持ってからは本当にやりやすくなった。
998:名無しさん@13周年:2012/10/04(木) 00:07:15.71 ID:+z7otzYx0
事実をねじ曲げる報道がされているのに、報道の自由、編成権っておかしくないですか?
公正公平で真実っていう前提崩れてるでしょ
01. taked4700 2012年10月04日 21:00:00 : 9XFNe/BiX575U : 2i09Yp9JsQ
記事投稿者です。
東電社債は4兆3010億円である様子です。よって、
>東電の社債が5兆円ほど
というのは正確ではありませんでした。
お詫びして訂正します。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/811.html#c1
08. 2012年10月04日 21:00:45 : 7uPtGleutM
郊外開発不可」は本当だな。多分業者は売り逃げで役所はリベート狙いだろうね。新築マンションは半分しか売れないのは知ってたが1割しかうれないのか。最悪だ。もちろん既に地方でも郊外は空きだらけになりつつあつぞ。ここで絶対移民をいれないことdな。鮮人は犯罪者が多いと聞く。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/793.html#c8
13. 2012年10月04日 21:08:50 : Y28uZ2IjEw
>11
{菅や野田にスワップ延長しろと言われても延長したら駄目です。もし延長したら竹島を放棄したことと同じです。} と、メールしようかと思いましたが止めました。光力という名前もどうも珍しい名前だしお仲間の気配があるので好きにさせておくことにしました。どうせ何を言っても碌な事をしないだろう。今回、韓国はすでに中国でスワップを手配したようだし何も要求しないと思います。中国がせっかくババ掴みをしてくれているのだから日本が親切におせっかいを焼く必要はない。わざわざ通貨でもない紙切れウォンを買うことは無い。それより韓国債を買う話を野田か安住がしていたようだがこれこそ基地外沙汰だ。確かにユダ金の評価では日本国債より韓国債のほうが信用度が高いようだが、あのAAA評価の債権が紙切れになりリーマンショックが起こったのだ。これぞ騙し金融である。まさか韓国債を買うようなことは無いだろうが朝鮮民主党だから何をするか分からない。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/794.html#c13
欧米の権力構造がいつの間にか大きく変化している。
それは、先週25日に開幕した国連総会の一般討論演説の模様を見ても明らかだった。
特に目を引いたのは、イスラエル政府が 各国の中で完全に孤立していたことだ。
これまではイランのアフマディネジャド大統領が演説を始めた途端に、先ずはイスラエルの国連大使が席を立ち、それに続いて その場にいる大半の欧米の国連大使たちが退室する、という流れが長年に渡って続いていた。
しかし今回、イスラエル国連大使はいつものように退室をしたものの、それに続く者は1人もいなかった。
http://www.presstv.ir/detail/2012/09/26/263674/smackdown-un-turns-its-back-on-israel/
1992年以降、イスラエル政府は『あと数ヶ月でイランの核兵器が完成する、その前にイランを攻撃しなければ』と20年間ずっと言い続けている。
そして、イスラエルがそう言う度に動揺する世論こそが、欧米や日本の一般国民が受けた洗脳の深さを証明していた。
しかし、今は違う。世界の人々が、永遠に自作自演の事件を起こして戦争を煽っている欧米の支配階級に騙されなくなってきている。
現在、一国の政府よりも大きな権力を握ってきた欧米の影の支配者集団:デイビット・ロックフェラー、パパブッシュ、エリザベス女王、エヴリン・ロスチャイルド、ローマ法王などが完全に仲間割れをしている。
結局のところ、先週の国連総会の場からイスラエル大使が1人で退席することになったのは、バルフォア宣言によりイスラエルを建国したロスチャイルド勢が、欧米の支配者集団の中でとりわけ孤立していることに起因している。
こうした状況を受け、ペンタゴンは現在、中近東にある基地全ての閉鎖を検しているという(※バルフォア宣言とは、第一次世界大戦中の1917年11月にイギリスの外務大臣:アーサー・ジェームズ・バルフォアが、国内のユダヤ人コミュニティーのリーダーであったライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡にて表明した イギリス政府公式のシオニズム支持表明のこと。)
また、この欧米支配者集団(サバタイ派マフィア)が株主となっている株式会社アメリカが現在、自らの倒産を回避するために個人の銀行口座のお金に手を付ける準備を進めている。今年の末までに・・・
2012/10/03
http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/
http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/230.html
04. 2012年10月04日 21:09:52 : HNPlrBDYLM
海上の道はあったか−琉球人−
日本人の源流を探す旅の出発点は、沖縄本島の具志頭村港川での“港川人”の発見であった。
そして旅の終わりもまた、その沖縄本島を含む、南西諸島を訪ねることとしたい。
それは、この旅の中で幾つもの課題が出来たからである。
1)琉球民族がどのように形成されたか。アイヌとの近縁性は事実か。
2)農学の佐藤洋一郎がいうように、熱帯ジャポニカは「海上の道」を伝って渡来したのか。
3)神話学が説く「古栽培民(芋などを主とする原始的な農耕民)」の渡来ルートは?。
4)日本語の語彙の多くがオーストロネシア語由来と言うが、オーストロネシア語を使う民族集団の大規模な渡来があったのか。
柳田国男が説いた「海上の道」が本当に機能し、以上のような疑問に答えうるのか、南西諸島にその痕跡を訪ねよう。
「海上の道」はあったか?- 南西諸島の地域別の歴史-
この項は、纏まった文献や解説がなく困っていたが、意外にもweb上に優れた論文が発表されていた。
小田静夫氏の「琉球弧の考古学 −南西諸島におけるヒト・モノの交流史−」と木下尚子氏の論文「貝交易の語る琉球史−発掘調査でわかったこと−」の二つである。
まず、小田静夫氏の「琉球弧の考古学 −南西諸島におけるヒト・モノの交流史−」をテキストとし、参照、引用させていただいた。詳しくは、下記のwebをご覧ください。)
http://www.ao.jpn.org/kuroshio/hitomono/
まず、次のランドサットの写真から、地政学的に俯瞰してみたい。
南西諸島とは、この写真で明らかなように、ユーラシア大陸の東端の比較的浅瀬に浮かぶ島々である。その更に東は、深い海溝となって沈んでいる。
したがって、氷河時代の特に寒い時期には何度も陸化し、台湾島を介して大陸と繋がっていたことは疑いない。その陸橋を伝って、3万2千年前に山下洞人が、1万8千年前に港川人が沖縄島にやって来たのであろう。
港川人の形態が、ジャワ島のワジャク人に近似し、且つ進化の延長線上に縄文人が位置することから、日本人の南方起源説や二重構造モデルが出来たことは、すでに説明して来た。
不思議なことに、人骨が出土するのに、彼らが使っていたはずの石器や骨角器などの考古学的資料がこれまで確認されていなかった。
しかし、山下洞穴の出土資料を再調査したところ、礫器1点・敲石(たたきいし)2点など旧石器遺物の可能性が指摘されるに至っている。
小田静夫(敬称略。以下同様)によると、この地域の旧石器文化は右図のように展開していたようである。
トカラ海峡を境に、九州では既に詳しく調べたナイフ形石器やその後の細石刃の文化が、南西諸島の中部地域と南部地域は、東南アジア、南中国、台湾島などの南方地域との関連で捉えられる「不定形剥片石器文化」が展開していた。
ただし、これは旧石器時代の話で、冒頭の諸課題に応えられる時代の話ではない。
その後の歴史は、北部・中部・南部のそれぞれの地域で、様々である。
沖縄県の埋蔵文化財センター発行の「いにしえ紀行」に記載の年表を改変して纏めると次のようになる。
まず北部の島々は、旧石器時代以来、一貫して南九州の文化圏に属し、九州の土器文化をストレートに受け入れ、西日本の文化と歩みを共にした。(したがって年表も本土の中に含めている。)
一方、中部の奄美や沖縄地域に、縄文文化が伝わるのは大幅に遅れた。上表の灰色の部分は歴史の空白部分である。
1975年、沖縄本島中部の渡具知東原(トグチアガリバル)遺跡で、中九州の曾畑式土器が発見され、さらにその下から爪形文土器が出土した。しかも爪形文土器が出土した層は、アカホヤ火山灰層の上層からの発見であった。
すなわち、この時、7000年前ごろ?(旧年代観で6000年前ごろ)、中部地域に九州の縄文文化が伝播したと考えられる。そして歴史の空白は停まり、本土の鎌倉時代近くまで続く、長い「貝塚時代」が始まる。
その後、本土が弥生時代に入り、水田稲作農耕が発展しても、沖縄で同時代、稲作が行われた形跡はない。(沖縄で稲作が導入されたのは、ずっと後のグスク時代に入ってからである。)
おそらく、南九州がシラスという火山灰や火砕流の噴出物の土壌であるため、水田稲作に適さず、稲作文化の南下を阻んでいたうえに、沖縄自体が珊瑚礁の土壌で、ここも稲作には適さなかったからであろう。
むしろ、石器の中に木の実などを摺り潰す道具(石皿、磨石)が多くあり、植物質食糧をよく調理していたことが看取されることから、ヤマイモのような根栽類の「栽培農耕」があった可能性が指摘されている。
また佐々木高明は、「日本史誕生」(p351)のなかで、
−−おそらく、この種のイモ類とアワなどを主作物とする、焼畑(畑作)農耕と漁撈とが組み合わされた生業の類型が、南島の基層文化の中に早くから定着していたと考えられる。・・・貝塚時代の前期から後期にかけて、アワや陸稲などの穀類の重要性が次第に大きくなっていったのではないか−−−
このように記述している。この陸稲という記述が、かすかに熱帯ジャポニカの栽培の可能性を暗示している。
九州の稲作文化を受け入れなかった沖縄諸島は、その後も生業形態を変えず、すなわち貝塚時代のまま、その後の存立基盤を、次に検討する“貝輪原料の供給基地”という南洋島的特性の方に置くようになる。
したがって、この地域は、本土で言えば縄文前期から平安末期までの長期に亘って、漁労、狩猟の原始生業形態を続け、12世紀ごろに突然、群雄割拠の戦国時代・グスク時代に入る、すなわち一足飛びに中世となり、琉球王国へと飛躍してゆくことになる。
南部地域、すなわち宮古・八重山諸島では、ピンザアブ洞穴から2万6,7千年前の、子供を含む数個体の化石人骨が出土し、旧石器時代に人がいたことが確認されているが、その後、空白の時代が長期間続く。
実は宮古島と沖縄諸島との間は290kmも離れ、「宮古凹地」とよばれる無島海域が広がっている。そのため中部地域と南部地域はお互いに望見することが出来ず、往来が断絶されていたからであろうか。
この南部地域(先島地域とも言われる)に新石器時代が訪れるのは、約4000年前のことである。
波照間島で下田原貝塚という遺跡が発掘されている。出土した土器は、紀元前1800〜1300年前ごろの、胎土の粗い、丸底の八重山式土器で、一方、石器のほうは、刃部だけを磨いた局部磨研石器で、台湾の巨石文化期のものと類似するとの見方がある。
石器類が耕作用とみられることから、当時、すでに漁撈と共に、イモやアワを主作物とする畑作農耕が行われていた可能性がある。
この南部地域は、その後不思議な動きをする。新石器時代後期といわれる紀元前後のころから、折角持った土器文化を忘れ(捨て?)、また「無土器文化」に逆戻りする。これは、この地域の衰退を意味するわけではない。
周りの珊瑚礁の海から得られる豊富な食料資源に支えられ、人口は増加し集落の規模は拡大しているのである。
土器を使わなくなった彼らは、いわゆる「ストーンボイリング」と呼ばれる調理用の石蒸し方法を多用し、その遺構も残している。
また、石斧に加え貝斧というシャコガイから作った特殊な道具を使ってる。
これはフィリッピン方面との繋がりが指摘されている。(右図参照。貝斧拡大サンプル)
このように南部地域は、考古学的資料からは、10世紀ごろまで南方の文化が卓越していたとみられ、北部、中部と違って、本土の文化の影響は受けなかった。
また、民族集団としても、縄文人や弥生人との交流がなく、むしろ台湾やフィリピンなど南方との繋がりを感じさせる。
この南方の文化は、神話の研究で課題として残した、「古栽培民」の文化であろうと思われるが、そうだとしても、本土への伝播はどういう経路を取ったのであろうか。
この南部地域が、北部・中部の地域と一体化するのは、与那國までグスク が築かれるようになるグスク時代においてである。
貝輪交易の供給基地として発展
(この項は、 熊本大学文学部・教授 木下尚子氏の論文「貝交易の語る琉球史─発掘調査でわかったこと」 をテキストとし、参照、引用させていただきました。詳しくは、下記のwebをご覧ください。)
http://homepage3.nifty.com/okinawakyoukai/kennkyuukai/146kai/146kai-1.htm
弥生、古墳時代を通じて、中部地域の沖縄諸島は貴重な貝輪の原料となる、ゴホウラやイモガイなどの産出地であり、供給地であった。
まさに木下尚子(敬称略。以下同様)が言うように 「沖縄では先史時代以来、貝交易が連綿と続いて、これが沖縄の古代史の大きな特徴となっている」。
それは右の図から明らかなように、弥生時代、古墳時代を通じて南海産の貝輪が日本列島を中心にいわば必需品であり、一部は朝鮮南部の王族に届けられるなど、根強い需要が持続したからである。
弥生時代の北部九州の出土状況を見ると、鏡や武器が副葬され、貴金属や玉類で着飾った人物は、政治的権力者であり、貝輪を嵌めて埋葬されていた少数の人たちは、儀礼にかかわる祭司者、宗教者であったのではないかと考えられている。
木下によると、さらに弥生末からは本土の台頭してきた地方豪族が、好んでこの南海産の貝輪をつかったことから、古墳時代のヤマト王権もこの風習を継続したと言う。
問題は、縄文時代を含めれば数千年に及ぶ貝の交易が、琉球人の形成にどう関わったかである。この点に関しても、木下尚子は極めて興味深い指摘をしている。すなわち、貝の交易は、“分業体制”で行われていたと言う。
弥生時代、需要者は勿論、北部九州の祭祀者層であったが、交易運搬に当たったのは、西北九州弥生人であったという。西北九州人が海上輸送能力に優れていたのか、言語面などで北部九州人より意思疎通がうまくいく歴史的背景があったのか、何らかの理由があってのことであろう。
西北九州人は夏の台風シーズンを避け、北風の吹く(すなわち順風の中を)秋から冬に沖縄島にやって来た。そして、暖かい島で冬を過ごし南風とともに黒潮に乗って西北九州に帰っていった。なんとも優雅な交易である。
木下は九州や琉球列島の弥生時代の遺跡から、以上のような事が想像できると言う。たとえば、沖縄諸島、奄美諸島、トカラ列島に点々と残された箱式石棺墓は、西北九州沿岸部の弥生人が好んで使った棺であり、貝の運搬の途中で落命したような仲間をみんなで葬ったものだろうという。
西北九州弥生人が冬の間、沖縄諸島に留まったり、そこに墓を造ったり、また琉球人と共同作業も考えられるから、当然、遺伝子の交流があったと考えて間違いないだろう。
その後、この貝の道は次第に合理化され、西北九州を経由しない、有明海・佐賀平野経由のルートが開発される(上図 黄色のルート)。そうなると交易に携わる人も変化し、西北九州人から肥後、薩摩の人々が中心になり、種子島人や奄美諸島人の役割も増大する。
当然、南九州人と奄美・沖縄諸島人との遺伝子交流も頻繁になったに違いない。
木下はその後の貝交易を含め、次の表のように纏めている。
(第4部08項-HLA遺伝子から見た民族集団の近縁度で、徳永勝士が、 大陸系の新しい遺伝子が沖縄集団に流入したと指摘しているのに対し、筆者は否定的な意見を述べたが、上の表のように7〜9世紀、唐との活発な貝交易があったならば当然、遺伝子の流入もあったであろう。ここに訂正しておきたい。)
以上、考古学的側面や文化・経済の側面から南西諸島について調べてきたが、西北九州人や南九州人が、沖縄諸島まで南下してきたことは確実となり、本土人と琉球人の均質化が進んだものと思われる。
しかし神話や言語から推測された南方からの、イモ栽培や雑穀栽培の文化の伝播や、大量の語彙をもたらすような文化の流入の痕跡を見出すことは出来ないでいる。
原アイヌ人が一気に南下した?-不思議なGm遺伝子の分布-
第1部08項でも検討したGm遺伝子の頻度について、もう一度確認しよう。
台湾の原住民、高砂族は、Gm遺伝子afb1b3を76%も保持している。afb1b3は南方アジア系民族の標識遺伝子であり、高砂族がインドネシア系の言語を使うこととも、きっちりと符合する。
それに対し、台湾から僅か100kmあまりしか離れていない与那國島をはじめ、宮古、石垣の住人は、ほとんど、その遺伝子を持っていない。
この信じられないような、断崖絶壁とでもいうような遺伝子頻度の格差の存在を説明するには、上述の考古学的知見から、10世紀ごろまでインドネシア系の言語を使う南方系の集団がいたが、グスク構築期に沖縄本島などから、強力な豪族が南下し、先住民を駆逐した。
こう説明するほか説明のしようがない。(それでも、afb1b3遺伝子が中部地域の半分に過ぎないという、低さの説明には不十分であるが。)
あえてそのafb1b3遺伝子の低さを説明する仮説を作るとすれば、4000年前ごろ、南部地域に新石器時代をもたらしたのは、南九州の縄文人か南西諸島北部の縄文人で、彼らが南部地域まで南下して住するようになった。その後も近隣の高砂族などと交流することなく現在に至った、というものだ。(この場合、南九州の縄文人と東日本の縄文人は人類学的には、同一と考えてよいほど縄文人は均一であった、ということでなければならない。一般的なアイヌ・琉球人同系論の立場の人は、そのように考えているのであろうか。)
あるいはもっと大胆に、丁度4000年前ごろに起こったと、以前から筆者が指摘して来た、東日本人の1万人規模での西日本地区への南下、そのうちの一団が南西諸島、それも南部地域まで一気に南下したとする。すなわち、東日本縄文人(原アイヌ人)が南西諸島全域に、且つその最南端まで移動した、そしてその後、その人たちに被さるように、弥生人や古墳人が南西諸島中部地域まで進出した。
こういう仮説を置けば、Gm遺伝子の不思議な分布も、アイヌ・琉球人同系説も無理なく説明することが出来る。
しかしこういう仮説で、遺伝子の分布はうまく説明できても、文化面からの知見、すなわちグスク時代以前までは南方の文化が卓越していたと言う事実との整合性がない。
アイヌ民族と琉球人の系統論-同系説と異系説-
日本列島の南端と北端に居住する沖縄の人々とアイヌの人々が、形態的に似通っているということは、明治のお雇い外国人医師、東京医学校のベルツも認めていた。この「アイヌ沖縄同系論」は、遺伝子からはどのように考えられるのか。
人類進化学の斎藤成也は、尾本恵市との共同研究成果として、次のグラフを提示する。
(この近縁図のブーツストラップ法による確率=85%)
この簡素に纏められた近縁図から、アイヌ人が他の集団から離れているが、沖縄人と結びついて一つのグループを形成していることが分かる。斉藤成也はこれを次のように説明している。
−−アイヌ人が独特な遺伝的特徴を濃く残しているのに対して、遠い過去には共通性の高かった沖縄人が、弥生時代以降の九州からの移住によって、本土人と遺伝的にずっと近くなった、ということを示唆している。さらに本土人の位置そのものが、韓国人を代表とするアジアの人類集団からの影響を強く受けていることを示している。−−と。
さらに斎藤はアイヌ沖縄同系論の立場に立って、日本列島の集団が、かなり複雑な時間的発展をしたと、次図のような展開を考えている。
筆者の日本人形成の詳細図は、この斎藤の図に啓発されたものである。
一方、ミトコンドリアDNAの分析からアイヌ沖縄異系論を支持するのは、宝来聡である。
宝来は日本の3集団(本土日本人、アイヌ人、琉球人)と韓国人、中国人の合計293人のmtDNA482塩基(Dループ領域といわれる)の配列を決定し、分析した。
その結果、293人から207種類のmtDNA配列のタイプが観察された。このうちの189タイプは、それぞれの集団に固有のものであった。つまりタイプの大部分、90%以上が一つの集団でのみ観察され、他の集団ではみられないという結果になった。
(これはmtDNAが、遺伝子の概念からいうと、極めて早い速度で変化し、したがって多様性を持つものだということを示していると、筆者は理解する。)
残りの18タイプだけが集団間で共通してみられるもので、このうち14タイプは2集団間で共通であり、4タイプは3集団にまたがって共通に見られた。これを図示したのが次の図である。
この図は宝来の原図から筆者が改変して作成したものである。
琉球人を例に見てみよう。琉球人と線で結ばれた集団は、本土日本人と韓国人のみである。アイヌ人とは結ばれていない。すなわち、琉球人とアイヌ人とに共通するmtDNAのタイプがない、共通する母親はいなかった、ということになる。
本土日本人との関係で言うと、3つのタイプで共通し、本土日本人、琉球人それぞれ8%ぐらいの人が共通のmtDNAを持っているということになる。
これらの結果は、アイヌ沖縄同系論を否定するものである。筆者もこの結果を肯定的に捉えている。
以上、思った以上に“琉球人”には苦戦を強いられた。しかもいろいろ逍遥したものの、最初に掲げた課題の解決には程遠かった。特に日本語の語彙にオーストロネシア語が80%も混じっている、という崎山理の主張の根拠を見つけ出すことは出来なかった。
「日本人の源流を探して」と題して研究してきた日本人の起源について、これで一応、草稿を完了したい。沖縄の検討を加えた、筆者の日本人の成立モデル完成図は次のとおりである。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_06kamigaminosisonn_ryuukyuujinn1.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/327.html#c4
03. 2012年10月04日 21:12:01 : XR9J7UbYgI
日本人をやめて、日本から出て行け!
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/718.html#c3
04. 2012年10月04日 21:17:34 : JwDwgGy09c
>米倉会長が野田第3次改造内閣に早期の衆院解散を求めたことに関しては「首相への応援のつもりで言った」と説明。
早期の衆院解散は野田政権の早期終了を意味する。
どうして、これが「首相への応援」になるのか?
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/718.html#c4
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/niigata/news/20121003-OYT8T01655.htm?from=tw
岩手でがれき搬出作業始まる
. 三条市と柏崎市で試験焼却する東日本大震災で発生したがれきの搬出作業が3日、岩手県山田町の破砕施設で始まった。両市は試験結果を基に本格的な焼却を実施するか判断するとしている。
放射線量の測定は、廃棄物をコンテナに搬入する前にも行われた(3日、岩手県山田町で) 県内では両市を含め5市が岩手県大槌町のがれきを受け入れる方針を示している。試験焼却を行うのは両市が初めてで、3〜4日に搬出作業を行い、三条市は11日から13日にかけて13トンを、柏崎市は11日から12日にかけて10トンをそれぞれ焼却する。
がれきは山田町の施設で破砕され、作業員が異物が混入していないことを確認。その後、大型トラックに搭載されたコンテナに次々と積み込まれた。放射線量は随時測定され、5市の定める基準値を下回った。
この日の作業を見守った柏崎市の山田哲治副市長は「現地に来て、廃棄物の処理が進んでいないことがわかった。受け入れを懸念している市民もいるので、試験焼却の結果をきちんと示したい」とし、三条市の宗村里士(さとし)・市民部長も「試験焼却は市民に公開する」と述べた。
がれきの受け入れについて、泉田知事は3日の記者会見で「放射能の問題であり、的確に管理すべきだ。この段階では残念ながら、県民に説明するほどの情報がない。今後、放射能の監視をしていくしかない」と懸念を示した。
一方、柏崎市の会田洋市長は「放射能について心配されるレベルでは全くない。焼却灰の管理についても県に確認し、合意して進めている」と泉田知事に反論した。
(2012年10月4日 読売新聞)
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原発・フッ素27
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/719.html
02. 2012年10月04日 21:23:24 : U4167S9WPs
>>とりあえず先発メンバーを発表させていただくが、
投手は昨日用事の無かった者
捕手は今日も用事のない者、
ファーストは明日も用事のない者、
ショートは来月も特に用事のない者、
といった感じでベンチ入りメンバーを決めさせて頂いたが
主力メンバーはネットじじいとニートという事である。
■最高―ー! 大笑いしました!
ニート諸君がネット社会で粘り強く長年頑張っていてくれたおかげで、
団塊の世代も定年後の今、ネットでゆっくりとで学べるのです!
ニート諸君に感謝です!
http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/228.html#c2
米「尖閣、日本に残存主権」=歴史的経緯踏まえ判断−71年6月の沖縄返還協定前(時事通信)
【ワシントン時事】1971年6月の沖縄返還協定調印直前、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー大統領補佐官(国家安全保障担当)が尖閣諸島を沖縄の一部とみなし日本の「残存主権」が及ぶことを確認していたことが、2日までに分かった。カリフォルニア州のニクソン大統領図書館がこの時のやりとりを記録した音声資料を保存していた。
「残存主権(潜在主権)」は、外国施政下にある地域に潜在的に有する主権を指す。オバマ政権は現在、日中が争う尖閣問題では「主権問題に関与しない」との立場を取っている。
音声資料によれば、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官らは同年6月7日午後、ホワイトハウスの大統領執務室で約20分間、10日後に迫った沖縄返還協定の署名と当時の中華民国(台湾)が日本への返還に反対していた尖閣諸島の地位について検討を行った。
キッシンジャー補佐官はこの中で、45年に日本が台湾から撤退した際、尖閣諸島は「沖縄と共に残された。51年のサンフランシスコ講和条約で、沖縄の日本の残存主権はわれわれによって認められた。その時にこれらの島々に関する大きな決断は成された」と主張した。
中華民国の反対をめぐっては、講和条約から71年に入るまで尖閣諸島に関する「特別な交渉は一切行われていない。既に(中華民国から)手放され、自動的に沖縄に含まれた。これが(今日までの)歴史だ」と指摘。ニクソン大統領も、沖縄返還交渉を「台無しにすることはできない」と応じ、同補佐官の意見を支持していた。(2012/10/03-15:47)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012100300560
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/273.html
04. 2012年10月04日 21:29:13 : HNPlrBDYLM
尖閣列島あれこれZ
(1)藤田元治の削除
藤田元治氏は、一九三八年冨山房から出版した『日支交通の研究』『中近世論』のなかで、おおよそつぎのように述べている。
台湾の北富貴角を東にまわると、基隆港口に基隆嶼周囲二〇町(筆者注 約二、二〇〇メートル)の孤立せる黒岩がある。其の北に花瓶、綿花、彭佳の三嶼が鼎足の形をなしている。この彭佳嶼の東にさらに尖閣群島がある。
日本の多くの地図には載っていない。台湾の版図にも沖縄の版図にも、そこまで広く書いていないのが例であるからだが、日本総図ならば載せなくてはならぬ島である。もちろん沖縄県八重山郡に属する帝国領土で ある。尖閣の名は沖縄県師範学校教諭黒岩恒氏の実地踏査の時の命名で、明治三十三年の地学雑誌に同氏の報告がある。この諸島の中で最大のものを鉤魚嶼という。英国製の地図にピンナクル島 Pinnacle Is. と出てい る。
ところがこの島を沖縄県人はユクン・クバと呼ぶ。これは随書『琉球伝』に記されているところの義安すなわち広東から琉球に至る航路のうちに●●嶼の名残りである。●●は音クヒ、すなわちクバである。ユクンとは「ユークの」という語の約で、つまり「琉球のクバ」という意である。日本人は隋の煬帝の大業三年 (六○七年、聖徳太子摂政十五年)ころの名だということをしらないから鉤魚(ky y●)という字を誤って逆に魚 釣島ということにしてしまった。
それはともかくこうした記録によって一、三○○年来中国と日本との航路に は重要な島であったことがわかる。この島は実に台湾の北端を離れて、南風に乗じて東へ十更、西表島の北九○浬、基隆から一二○浬にあたり、沖縄島へ二三○浬であるが、陳侃使録には
「十日南風甚迅、舟行如飛、然順流而下、亦不甚動。過平喜山、鉤魚嶼過黄色嶼過赤嶼目不暇接、一昼夜兼三日之路、夷舟帆小、不能相及矣、相失在後、十一日夕見古米山」とあるところで、南風にあえば順流即ち黒潮にものるので三日の路を一昼夜で快走することが出来たと見える。平嘉山というのは彭嘉山であり、現在の彭佳嶼である。
ところが藤田元治氏は、十一日夕見古米山のつぎに、
「乃属琉球者、夷人歌舞於舟、喜達於家」
とあるのを削除してしまっている。陳侃の『使琉球録』は、古米山(久米島)を見て、これを「すなわち琉球に属するもの」としたのだから、久米島からが琉球だとしたので、久米島を見て夷人(琉球人)たちは舟の上で、ああ無事に家に帰ってきたと小おどりして喜んだのである。どうして、藤田氏はこのところを削除したのか。これを削除しないと尖閣列島が「八重山郡に属する帝国領土」といえなくなるからではないのか。「夷人歌舞於舟、喜達於家」のあとにまだ記述は続き、久米島を望見したのちに東風になり、「進寸退尺」の状態で二十五日ようやく那覇港に入ったわけだが、「喜達於家」までは当然引用すべきである。
そしてまた、藤田元春氏は「ユクン・クバ」は「琉球のクバ島」ということであるとして、尖閣列島を「琉球の島」であると論証しようとしている。しかし、八重山でイーグン・クバシマと呼んだイーグンは八重山方言で魚を突いてとる銛のことで、クバシマはクバの葉が繁茂しているからそのように呼んだのである。尖閣列島周辺は、各種の文献によって明らかなように、今も昔もサバ、カツオ、カジキマグロ、サメ等の魚の宝庫であり、釣魚台、釣魚嶼、魚釣島等の呼称が由来するユクンあるいはイーグンはこの島に関係しており、「琉球の」ということではない。
(2)倭寇と尖閣列島と沖縄
井上清氏教授は『尖閣列島』(現代評論社刊、一九七二年)の中で述べている。
おそくとも十六世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や 郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲が編纂した『籌海図編』(一五六一年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器の制・船艦の制などを説明した本である。
本書の巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が、現在のどれに当たるか、いちいちの考証は私はまだしていない。
しか し、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の巻一は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。
これに対し奥原敏雄教授は、『中央公論』一九七八年七月号の論文「尖閣列島領有権の根拠」でつぎのように反論している。
井上清氏は、鄭若曽の『籌海図編』巻一の「福建沿海山沙図」をもち出して、その中に釣魚台などの見出されることをもって、これらが中国領の島嶼とみなされていたとされる。しかし、『籌海図編』における右の事 実を中国の領有論拠だとすることは、陳侃、郭汝霖使録よりもさらに劣るといってよいであろう。大体、沿海図といった性格のものは、かならずしも、自国の領土だけでなく、その付近にある島々や地域を含めるもので あって、たとえば、日本の沿海図であれば、朝鮮半島の南端の一部が含まれることもあるし、台湾省の沿海図 では、与那国島や石垣島なども、示されるのが普通である。むしろ『籌海図編』を引用するのであれば、同書 巻一の十七「福建界」が当時の福建省の境界を示すものとして適当であるといえよう。だが、この地図に示されているのは、澎佳山までであって、少琉球(台湾)、釣魚台などは描かれていない。『籌海図編』は台湾が中 国の版図に編入された一六八三年よりも百二十一年前に書かれたものであるから、台湾が「福建界」の外に置かれていたのは当然であった。それだけでなく、釣魚台などが「福建界」のなかに描かれていないことは、魚 釣台などが当時中国領でなかったことを明らかにしているとさえいえるのであろう。
倭寇の歴史のなかで、倭寇がもっともひどく暴れ回ったのは、一五五三(中国の嘉靖三十二)年から一五五九(嘉靖三十八)年のあいだである。一五五三年王直が数十群の倭寇を糾合したが、これは最大の倭寇であった。この倭寇討伐のため、中国の明朝は一五五六年に胡宗憲を倭寇討伐総督に任命した。明朝はすでに何回も日本国王に対して倭寇を取締まってくれと使者をだしていた。胡宗憲の前任者揚宜は、鄭舜功を使者として日本に送った。このとき鄭は二年も日本に滞在した。胡宗憲も蒋洲と陳可願を日本に送り、王直と会談させた。胡宗憲と王直とは同郷人だ
ったのである。一五六○(嘉靖三十九)年に、うまく故郷におびきよせた王直を胡宗憲は処刑し、倭寇を征伐した。しかし、このことによって倭寇が滅びたわけではない。鄭舜功は『日本一鑑』を著わした。蒋洲は帰国して、明代第一の地理学者であった鄭若曽に、日本で調査した資料を提供し、鄭舜曽は『籌海図編』を著わした。『籌海図編』の実際の著者は胡宗憲でなく鄭若曽である。
この『籌海図編』は、中国人の日本に対する知識を一変させたものであった。司馬遼太郎氏は『籌海図編』はながい中国の歴史のなかで、最初に出現した日本研究書であるといっている。一六二一年(中国明朝の天啓元年)の茅元儀の『武備志』の日本に関する部分は、『籌海図編』からそのまま取られている。藤田元治氏によれば、中国では、倭寇が中国を侵略するようになってから、陳侃の記録や『籌海図編』、『広興図』などが書かれたもので、それ以前の中国は日本を辺境の地として重視していなかったといっている。
ところが倭寇の根拠地は、沖縄に意外に多いことを知った。一般に知られているのは、宮古島東端に近い城辺町の上比屋山の倭寇の根拠地であるが、司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』を呼んで驚いたのである。司馬氏は稲村賢敷著『琉球諸島における倭寇史跡の研究』(一九五七年)に読んだという。著者が出版元の吉川弘文館にきたら一九六二年に売り切れて、そのご重刷していないという。
稲村氏の踏査によると、と司馬氏は書いているが、倭寇遺跡は沖縄に多い。とくに先島である八重山諸島において痕跡がおびただしい。そして司馬氏は、「日本の中世末期から、中国の元・宋から明代いっぱいにかけて、倭寇は東シナ海の波涛を自分の家の座敷のようにかけまわった。この武装商人もしくは海抜の活動というのは明帝国の寿命を早めさせたほどのもので、中国側の資料を読むだけでも、その運動のはがしさはどうやら後世のわれわれの想像をよほど大きくしなければならないほどのものだったらしい」といっている。
海抜四八メートルの竹富島には倭寇の見張所がある。沖縄では倭寇のことをかわらと呼んだ。これは倭寇と同義語の甲螺のことで、倭寇は小部隊の大将のことを「頭」と呼び、かわらは竹富島の小波本御岳の祝詞にもあるという。
沖縄の先島では倭寇が住んでいた土地にはがーら(かわら)の名称がついているのが多いという。宮古島の上野村字中山「がーら原」という部落があり、倭寇の子孫の村だとされる。その氏神を「がーら殿御岳」と呼ぶ。倭寇の子孫だとされる家系では、子供に、多くの場合「がーら」という童名をつけた。
このような話を聞くと、胡宗憲が、尖閣列島を防衛区域に入れたということがうなずける。陳侃が琉球に使いする以前から、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは、福州から那覇への海の道であった。これは福州から那覇へと続く島の道であり、中国は個々の島に名を付けた。胡宗憲は倭寇との徹底抗戦の陣を敷いたのだから、釣魚島などを防衛区域にいれても不思議はない。胡宗憲が倭寇と対決したときには、琉球の安全は中国の安全にとって重要であるというような考えはなかった。中国では倭寇の進入について、気象、地理、軍事等の研究をし、倭寇の侵入海路が風の方向と強弱によって決まること、大陸に近付くと島を伝わってやってくることなどを知った。嘉靖年間の中国の防衛方法は「海を防ぐは会哨にあり」とした。会哨とは海上を哨戒する戦船が一定の決められた島で会合し、前後左右と組織的に連携して哨戒することである。と同時に陸上の築城をおこなった。その城の数は実に多い。
(3)清国領になろうとした宮古・八重山群島
島津の侵略により「日中両族」となった琉球
一三七二年、中国(明)の太祖が琉球の中山王察度に詔諭をあたえて以来、琉球の北山、中山、南山の三王は中国に朝貢し、一四○二年に中山王が三山を統一して、一四○四年には中国(明)の太祖の冊封使が琉球に来ている。尖閣列島は琉球と中国との交通路にあたり、また琉球王はシャム、パレンバン、マッラカ、スマトラ、アンナンなどと手広く貿易をやるようになると、尖閣列島は当時の海の銀座通りになったといってよい。潮流の関係で中国や南方諸国から帰る船は、尖閣列島を目標にかじをとった。琉球から中国へ行った船は、すべて福州にはいった。福州には「琉球館」が設けられた。だから尖閣列島は沖縄と福州とのあいだにある島なのである。琉球王朝は、朝貢貿易という名の中国との貿易で、栄えたのである。また南方との貿易でも多くの利を得た。一六世紀に中国(明)は、中国貿易船の日本渡航を禁止し、また一五四七年に中国の寧波港で、日本の細川船と大内船が大ゲンカししたので、中国は日本の朝貢貿易を禁止してしまった。このことによって、中国と貿易をしていた薩摩の島津も大打撃を受けた。琉球は中国とは十四世紀以来、朝貢冊封の関係にあって貿易で栄えていたので、島津義久はこれに目をつけ、琉球の中国との貿易を支配することによって、その利権を奪い「以って宿債を償なわん」としたのである。徳川家康から「琉球征伐」の許しをえた島津義久は、一六○九(慶長十四)年三月、一○○余隻の船に三、○○○余人の兵を乗せて琉球領の奄美大島を攻め、三月五日には運天港に到着、四月三日に首里城に迫り、尚寧王は降伏した。島津はこの侵略戦争で、琉球を付庸の国(植民地)とし、琉中貿易の利を独占的に収奪したのである。このときから、琉球は「日中両属」となった。琉中貿易は実に利益が大きかった。
「唐一倍」といわれたように、倍ももうかったのである。あるものは一○倍にもなった。この利益を保護するためには、琉球の中国に対する朝貢冊封の関係を維持させなければならないし、琉球が薩摩藩の付庸の国であることを中国に知られてはまずい。薩摩は十五条の掟で琉球をがんじがらめに縛ってしまったが、中国は琉球に対して全く内政干渉をしなかった。ましてや琉中間に領土問題などはありえなかった。琉球は三六島であり、福州とのあいだをひん繁に往復した琉球の官史や船員にとって、琉球と福州とのあいだに散在し、中国が島名も付けている釣魚台や黄色嶼
や赤尾嶼などは当然宋主国である中国のものであった。
琉球と日中交渉
幕藩体制を倒し、王政復古によって成立した明治維新政府は、一八六八(明治元)年十一月に、薩摩藩を通じて王政復古を琉球王尚泰に通告した。琉球王は、王政復古というからには、薩摩藩の島津に奪われた、奄美大島から与論島までの旧琉球領土を返してくれるのかと思ったほどに、天皇については知らなかった。明治政府は一八七二(明治五)年九月に琉球正尚健を東京に呼び、琉球王を琉球藩王にし、日本の華族にしてしまった。琉球王は宋主国である中国に助けを求めた。そこで中国(清)は琉球を助けるために、駐日公使何如璋に命じて日本政府と交渉させ,琉球は中国の属国だと主張した。
一八七四(明治七)年十二月十五日に大久保利通内務卿が三条実美太政大臣にだした「琉球藩所分方之犠ニ付伺」に、そのようすがよくでている。一八七一年十一月に琉球人五四人が、台湾に漂着して殺されたことを口実に、一八七四年五月十七日に,明治政府は将兵三、六五八人を派遣して台湾侵略をやった。幕藩体制のもとにあった下級武士の不平不満が激化して、明治政府政権崩壊の危機を感じた維新政府は、一方ではロシアの圧力で樺太から撤退し、他方では征韓か征台かを激論した。一八七四年二月に征台と決まった。台湾無主の地だという口実で出兵したら、中国から猛反撃をくった。中国と交渉のため出向いた大久保内務卿は,全く身の細る思いで「これまでの焦思苦心言語の尽くすところにあらず」「この日終生忘るべからず」といった。しかし,この交渉で大久保内務卿は中国か五○万両をせしめたので、沖縄の帰属問題は決着したと思った。ところがそうはゆかなかった。「琉球藩所分方之犠ニ付伺」のなかで、「曖昧糢糊として日,中何れの所属か決まらず、はなはだ不体裁とは思いますが」とボヤいている。
琉球王はあいかわらず中国との朝貢関係を続けていたので、一八七九年一月に松田道之内務大書記を那覇に派
遣し,琉球王に対して、これまで命令したことにしたがわないのはどういうわけか詰問し、「督責書」を手渡した。これ
に対して琉球王は、この問題は目下東京で清国大使と日本政府がはなしあっているから,その交渉が妥結するまで
は、命令にしたがうわけにはいかぬとハッキリ断った。松田道之内務大書記はすっかり頭にきて、「後日の処分を待
て」といっいてひとまずひきあげた。そして三月二十七日、松田道之内務大書記は歩兵四○○人、警官一六○人を
ひきいて首里城にのりこみ、病臥中の尚泰王の代理人今帰仁王子に対して、三条実美太鼓大臣の廃藩置県の達
示を読み上げた。二分ともかからなかった。武力を背景にした明治政府の断固たる処置に、琉球王は服さざるえなか
った。「古兵寸兵を治めず、専ら口舌を持って外交の衝に当たって」きた五○○年の歴史をもつ琉球王朝は亡びた。し
かし王族や支配階級のていこうは続いた。問題はすべて解決したわけではなかった。
明治天皇とグラント将軍の会見
アメリカの第一八代大統領グラント将軍は、大統領をやめてから世界漫遊の旅にでて中国を訪問し、恭親王と李鴻
章北洋大臣にあった。そのとき中国(清)側から琉球問題がだされた。一八七九年八月十日にグラント将軍は浜離宮
で明治天皇と会見した。このときの記録に「一八七九年八月十日浜離宮ニ於テ,聖上、ゼネラル・グランド御対話筆
記」がある。グラント将軍は中国の恭親王や李鴻章北洋大臣から琉球問題の話をきき、琉球の帰属問題について
日・中間の斡旋にのりだしたのである。グラント将軍は天皇に会う前に、ビンハム米駐日公使はすでに数回日本政
府と会談をおこなっている。グラント将軍は明治天皇に、要旨こういっている。
日本に来て話を聞いてみて、日本の主張することもわかるが、中国の考えも察しなければならない。中国は 昔
から琉球の関係があるのに、今回の日本政府の琉球処分を、和親の道ではないと考えており、また中国は台 湾事
件(筆者注一八七四年の台湾侵略)の屈辱を忘れられないでいる。日本が琉球を支配下におくことによっ て、日本
はふたたび台湾を奪って、中国と太平洋のあいだを遮断しようとする意図がある、という疑念を中国 はもっている。
中国の心情も察して、中国に一歩譲った方がよい。私が中国で聞いたところでは、琉球の諸島 間に境界線をきめ、
中国が太平洋にでる道をあたえるなら、中国も承諾するのではないか。
グラント将軍の助言と示唆で、明治政府がたてた政策は、宮古・八重山諸島を中国に渡して、中国から最恵国待
遇を手にいれようとしたことである。一八八○年六月に天皇は、中国駐在の穴戸?公使を駐清特命全権大使に任命
し、翌一八八一年二月には宮古・八重山諸島を中国に渡すことまで話しあわれた。沖縄諸島と宮古諸島のあいだの
約三○○キロメートルの海の中間に、境界線を引くというものであった。中国の考えでは薩摩藩が琉球から奪った奄
美大島を日本領とし,沖縄本島を中心にする諸島は元の琉球王の領地とし、宮古・八重山群島を清国領とするもの
であった。この日中間交渉は一八八六(明治十九)年に至っても解決しなかった。
(4) 尖閣列島とサバニ
沖縄の先島(筆者注 宮古・八重山群島)では、中国名の魚釣台と黄尾嶼は、古来からユクン・クバシマの名で親
しまれていた。ユクンとは魚島の意であるから,魚釣島が当時から両国(筆者注 日中両国)の好漁場として知られ
ていた(傍点は筆者)のであろう(奥原敏雄論文「尖閣列島」『沖縄タイムス』一九七○年九月二日号)。
逆風や逆流や台風などによって、列島への渡海や移住の試みが失敗したことはあったが、こうした事実は、尖閣列
島が日本に編入される以前の一時期、すなわち明治二十四(一八九一)年ごろまでであった。
彼らが列島への渡海や移住に失敗したのは、渡航の時期や季節風、自然環境などを無視したこともあったが、最
大の理由は、資本もなく、しかも伝馬船や沖縄で用いられているサバニといったくり船で船で列島に渡ろうと試みた
からであった・・・・・・。
基隆より台湾漁船が列島に赴き,操業をおこなうようになったのは、第一次大戦終了前後のころからのようである
(奥原敏雄論文「尖閣列島の領有権と『明報』論文」『中国』一九七一年六月号)。
奥原氏のこの二つの論文には、おかしな点がある。
第一のおかしな点は、奥原氏が「古来からユクン・クバシマの名で親しまれた……魚釣島が……両国の好漁場と
して知られていた」というが、それでは古来、先島諸島からどんな漁船で魚釣島に行ったのか。沖縄のなかでも特に
貧しい先島諸島の漁民たちは、小さなサバニしか持っていなかったと思う。彼らは人頭税と名子制度に苦しみ抜いて
おり、悲惨な生活を強いられていた。この人頭税は一九○三(明治三十六)年までも残されていた。また古来という
からには、五○年や一○○年前のことではあるまい。
第二のおかしな点は、渡航の困難なユクン・クバシマがどうして先人の人たちに親しまれたのかということである。
実生活と深いかかわりあいのない無人島に、どうして親しみをもったのか。親しみをもつからには、しばしばそれを見
て美しいと感じたのか。尖閣列島は決して美しい島ではない。では先島の人たちの生活に豊かさをもたらかしたの
か。尖閣列島が開発されるまではそんなこともなかった。では航路の目標として親しまれたのか。これはありうる。し
かし、そのような親しみをもった者は、朝貢船か南方諸国との貿易船の乗組員たちだけであったと思う。そして、それ
はどごく少数の人たちであった。宮古島の保良は海上交易が盛んなころの重要な港であ
ったが,朝貢船、貿易船のほとんどは、那覇からでて那覇に帰ってきた。薩摩藩が琉球の貿易を牛耳っていたからで
ある。牧野清氏は「八重山としては、十五世紀の末葉ころから始まった南蛮貿易業者や、沖縄航海に従事していた
一部の人々にのみ知られてたいと思われる。それが一般的にイーグンクバジマとして広く知られるようになったの
は、古賀辰四郎氏が魚釣島やクバ島で事業をはじめてからであるようだ」といっているが筆者もそう思う。それは決し
て古来からではない。一九六九年になっても尖閣列島は「交通の便がないために普通に人々が行くことができない、
彼方の夢の島」(「尖閣列島標柱建立報告書」一九六九五月十五日)であった。
第三のおかしな点は、尖閣列島への渡海や移住の試みに失敗したというのは、一八九一(明治二十四)年ごろま
でであったというが、一八九三(明治二十六)年には伊沢弥喜太氏が渡航したが、帰路台風に遭って福州に漂着して
いる。伊沢氏は汽船で渡ったわけでなくサバニか伝馬船で渡ったものであろう。
では、沖縄にはどんな船があったのか。
マーラン船=これは中国から造船技術を学んで造られた船で、朝貢や海外貿易に使われた三本マストの帆船であ
る。中国のジャンク船に似た船である。帆はガマを織ってつくったガマ帆であった。
山原船=近代になってから、沖縄本島の北部の山原から木材や薪を運ぶために、マーラン船の小型のものが造ら
れた。これが山原船である。一八七九年の廃藩置県後も山原船は国頭地方の住民にとって、唯一の交通機関、輸
送手段であった。
サバニ=これはくり船といわれる。一八九一(明治二十四)年までは、日本には動力付きの漁船は一隻もなかっ
た。そして全国の漁船のうちくり船は二・一%で、沖縄には二、三一九隻のくり船があった(全国のくり船数は六、二
五一隻)。糸満のサバニは船足は非常に速いが、ひっくりかえり易いものである。トカラのくり船は頑丈で安定してい
たが、そのかわり糸満のくり船のような操縦の軽快さを欠いていた(「九州・沖縄篇」『風土記日本』平凡社刊、九四
〜一○七頁)。沖縄に石油発動機ができたのは一九一一(明治四十四)年ごろからである。
フィリピン型漁船=長い棒を横に出して、船の安定を保つようにしたもの。
和風型=沖縄本島以外の島々で、初めて沖縄本島などを巡航できる船を造ったのは宮古島である。これは本土か
ら流れてきた船大工によて造られたもので、艫には舵もついており日本の帆柱をもっていた。宮古島から首里王朝へ
朝貢船につかわれた(司馬遼太郎著『街道をゆく6』一三二〜三頁参照)。
一八八二(明治十五)年以降、田代安定、赤堀廉蔵、笹森儀助氏らが沖縄探検をおこなっている。このうち田代安
定氏は三回探検し、一八八五年に第二回目の探検をおこなったが、西表島から与那国島に渡るのに、サバニでは
渡れなかった。やむなく彼は、西表から四〜五○キロメートルの波照間島に渡った。それにはサバニ二隻を横に並べ
て、これをくくりつけてようやく渡った。サバニでは、西表島から七○キロメートル離れた与那国には、渡れなかったの
である。だから宮古、八重山などの先島諸島から百数十キロメートルも離れた魚釣島に、魚をとりにゆくのは非常に
困難であった。また蛋白源としての魚貝類は、苦労して魚釣島まで行かずとも、島の近辺でとることができた。五月か
ら九月は扁南風が吹き、沖縄は台風の銀座である。そして十月から翌年四月までは「新北風」といわれる北東の季
節風が吹く。とくに二月風廻といわれる一月、二月は海の荒れる季節である。
司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』(朝日新聞社刊)に与那国の「小さな魚市」というのがある。
婦人が魚屋さんに「いくらですか」ときくと、若い主人は「一斤三百円です」と答えた。司馬氏が沖縄の一斤は何グラ
ムかと聞いてたら「この魚四匹です」というおおらかな答えだった。だから何グラムかわからないが、一ぴき七五円で
あるということはたしかである。しかし、商売にしているのかといえばそうでない。この島で
は、竹富島もそうであるように、魚屋という独立の商業は存在しないのである。農家の者でも釣りに行って、余分に釣
れれば臨時に魚屋になって、それを近所のひとに売ってやるという仕組みなのである。いかにもそれがのんきそう
で、いい眺めだったという。また貝は海岸で子供が拾えるから、一家の働き手が半日仕事を休んで採りにゆかなけれ
ばならぬようなしろものでなかった。
司馬氏のこの見聞は、一九七四年のことである。何も危険をおかして魚をとりに、尖閣列島まででかける必要はな
い。これは今も昔もおなじである。
一九六八年現在で、沖縄の一トン未満のくり船と一〜五トン級沿岸漁船との合計は、沖縄の全魚船数の九○
%五〜五○トンの近海漁船は八%、五○トン以上のものは二%である。(『日本の文化地理』講談社刊、第一七巻
二六六頁)。
ところが魚釣島周辺は、台湾漁民にとっては大きな利害関係がある。一九五○年代の末ごろから台湾漁船の数が
急激に増え、魚釣島周辺は台湾漁民の好漁場で、年間三、○○○隻の漁船が漁撈に従事しているという。台
湾漁民のうち、尖閣列島周辺に出漁しているのは宣蘭県の漁民がもっとも多く、宣蘭県にある一、三○○余隻のうち
三○○余隻が操業していた。尖閣列島周辺での台湾の水揚量は、一九五八年で一万七、○○○トンであったという
(一九六八年の沖縄全体の水揚量は三万三、四二三トン)。だから宣蘭県漁民にとっては、生活がかっている
わけである。台湾漁民は尖閣列島に夜間碇泊できなくなると、水揚げが激減することになるという。しかし最近でも沖
縄から尖閣列島周辺に出漁する漁船はいない。奥原教授は日本が台湾を支配していた当時の台湾漁民の魚釣島
周辺での漁撈は、国際法的には日本人としての行為であったといっている。しかし問題は、台湾漁民の方が
尖閣列島に深いつながりがあったということである。
たしかに、尖閣列島周辺海域には魚が多い。黒潮にのって北上するカツオ、マグロ、カジキ等は、必ずこのあ
たりを通り、またサメ類、サバ、アジなどもいた。しかし尖閣列島は、琉球人にとって古来から明治になって
も、小さなサバニで危険を冒し、何日もかけて、冷凍も発達していない時代に、魚とりにいかなければな
らない好漁場ではなかった。琉球人の生活にとって尖閣諸島は、あまり関係のない、まさに「夢の島」だったのであ
る。
(5) 尖閣列島の発見者はだれか
沖縄の人たちで、尖閣列島を発見したのは古賀辰四郎氏だという人がいる。それは、そのようにきかされてきたか
らだろうが、これは全くの誤りである。また、日清戦争直後に『熊本日日新聞』が報道したといわれる、伊沢弥喜太郎
が鳥島(尖閣列島のこと)を発見というのも誤りである。これらの発見というのは、彼らがはじめて尖閣列島を見たと
いうことで、この誤りは歴史がこれを証明している。
古賀氏や伊沢氏が、いまでも八重山の古老のあいだで、イーグン・クバ島といわれている尖閣列島に行ったときに
は、尖閣列島の島々には、すでに中国が島名が付けていた。そして、その島名は、中国や琉球の古文書にもはっき
り書いてある。一八八五(明治十八)年九月ニ十二日付けで西村捨三沖縄県令が山県有朋内務卿に提出した公文
書のなかでも釣魚台、黄色嶼、赤色嶼、の島名が使われている。
一三七二年、明の太祖が琉球の中山王察度に招諭を与えて以来、琉球の北山、中山、南山の三王は中国(明)に
朝貢し、一四○二年には中山王が三山を統一して、一四○四年には明の太祖の冊封使が琉球に来た。
尖閣列島は琉球と中国とのひん繁な往来の交通路にあたり、また一五世紀以来、琉球が東南アジア(とは当時は
いわなかった)のルソン(フィリッピン)、シャム(タイ)、マラッカ(マレーシア)、ボルネオ、スマトラ、スダン、ジャワ、サンプ
ツサイ(パレンパン)パタニ(ビルマ)などと手広く貿易をやるようになると、尖閣列島の辺りは、まさに海の銀座どおり
となった。福州から那覇へはいる船も、南方諸国との貿易船も釣魚嶼(また魚釣台あるいは釣魚山)―黄色嶼―赤
尾嶼(または赤嶼)そして久米島―那覇という航路をとったから、尖閣列島はこれらの人たちによく知られていた。琉
球から中国に行った船は、みな福州にはいった。福州には「琉球館」ができた。琉球王朝は貿易によって繁栄したの
である。沖縄の記録によると、「琉球から南方にでかけた貿易船は、シャムがもっとも多く五八船で、合計一○四隻と
なっているが、実際には一五○隻を下らなかったといわれている」(『日本の文化地理』講談社、第十七巻)。
琉球は中国に対して礼節を尽くしたので、中国は琉球を守礼の国とよんだ。琉球は中国に朝貢し、中国は琉球王を
冊封した。薩摩藩の島津義久は、琉球の対中国貿易の利権を手にいれようとして、豊臣秀吉とも話しをつけていた
が、あらためて徳川家康から「琉球征伐」の許しを得て得て、一六○九(慶長十四)年「琉球征伐」をし、琉球を「付庸
の国」(殖民地)にした。そして琉中貿易の利益を収奪した。
そればかりでなく、島津は琉球の産物を収奪した。薩摩藩が琉球に要求したのは、年貢米九、○○○余石、
芭蕉布三、○○○反、琉球上布六○反、下布一万反、ラミー(唐苧)一万三、○○○斤、い草のむしろ三万八、○○
○枚、しゆろ縄一○○方であった。八重山上布は美しい伝統的な布である。女たちは麻の繊維から糸を紡
ぎ、染めあげ、夜になると番所で役人の監視のもとで布を織った。昼は男とともにに野良で働いた女たちにとって、夜
も憩いの時ではなかった。一晩に一尺をおるのがせいぜいだった。美しい八重山布には、女たちの恨みが織り込ま
れていた。そのことは平凡社刊『日本残酷物語』に明らかである。
また、「久米島の仲里村の真謝部落は紬の里といわれており、いまでも織られている。琉球王朝はこの袖を中国と
薩摩に貢いだ。織り方がまずかったり、期限におくれたりすると織った布で体を縛られ、村じゅうを引き回されたりし
た」(『沖縄の孤島』朝日新聞社刊)。
琉球の税制は統一されておらず、税は現物納であった。とくに宮古、八重山の農民は人類税と名子制度に苦しめ
られ、過酷な労働を強いられた。このような、しいたげられ人々にとって、尖閣列島は全く関心の外にあった。だから
古賀辰四郎氏が尖閣列島を発見したときいても、別に興味をしめさなかった。日常生活に関心がなかったから、尖閣
列島をしらなくても、それですんだのである。
(6) 日清戦争とバカ鳥の島
古賀辰四郎という人
牧野清氏の「尖閣列島小史」によれば、古賀辰四郎氏は古賀門次郎氏の三男で、一八五六(安政三)年に福岡県
八女郡山田村に生まれた。ここは八女茶の産地である。実家は代々茶の栽培と製造をしていた中流農家だった。一
八七九(明治十二)年に二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開いた。
一八七九年といえば、明治政府が王制復古、廃藩置県の大号礼をだしても尚泰琉球王はどうしても従わず、従来
どおり中国との関係を断たなかったので、政府は四○○人の兵と一六○人の警察官を差し向けて、全く軍備をもって
いなかった首里城を接取し、武力を背景に琉球処分をやった年である。
琉球王は中国に助けをもとめた。前アメリカ大統領グラント将軍が、世界漫遊の旅にでて中国を訪問した際、李鴻
章北洋大臣から日本政府の琉球処分についてあっ旋を頼まれ、明治天皇と琉球問題について話した年である。 牧
野清氏は、古賀氏は生来進取の気性に富んだ人だったと書いているが、なかなか太っ腹の人だったようである。四
月に沖縄に廃藩置県が強行された直後に那覇に渡ったのだから冒険好きといえる。沖縄で燕尾服を着たのも、ドイ
ツ製の安全カミソリをもったのも、ピストルを手に入れたのも古賀氏が最初であった。古賀氏がピストルをもって台湾
探検をしたのは一八九七年であったが、彼はピストルを使わなかった。また彼は、二台の遠心分離機を買って分密
糖製造を始めたり、御木本幸吉氏と共同出資で石垣島名蔵湾で真珠養殖をしたりしている。またいちはやく大東島
の開拓にとりくんだが、のちにこれを玉置半右衛門氏に譲ってしまった。古賀氏は養殖興業の功によって一九○九
年に藍綬褒章を受けた。沖縄で藍綬褒章を受けたのは、慶良間のカツオ漁業の功労者松田和三郎についで二人目
であった。
牧野氏によると、古賀氏は石垣島に支店を出した翌々年の一八八四(明治十七)年に尖閣列島を探検して、その
有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲などの事業に着手し、その直後に仲御神島を探検して、同
島にも目標の事業を始めた、となっている。これはどうも手際がよすぎる。
上地龍典著『尖閣列島と竹島』では「石垣市で尖閣列島の話を聞いた古賀は、明治十七(一八八四)年人を派遣し
て列島の探検調査に当たらせ……無人島開拓に意欲を燃す』とあり、古賀氏自身は尖閣列島に渡っていない。
一九六八年の高岡大輔氏のリポートには「尖閣列島の開拓史についての詳細を知る由もないが、八重山歴史と島
の所有者……古賀善次氏の話とを総合するに、福岡県で茶舗を営んでいた故古賀辰四郎氏が山茶を求めて無人島
を探検している時に初めて開発したもので、明治十七(一八八四)年のことだったという」と書いてある。
ところが、新里金福・大城立祐『沖縄の百年』太平出版社刊、第一巻によると、「廃藩置県後に那覇に渡った古賀
は大東島やラサ島(沖大東島)、赤尾嶼、仲御神島などを探検した、そして彼が尖閣列島を発見したのは日清戦争の
直前である」と書いている。
『沖縄の百年』の書いてあることが正しいとすると、尖閣列島を最初にみたのは熊本県下益城郡河江村字住吉出
身の伊沢弥喜太氏だということになる。奥原敏雄教授は雑誌『日本及日本人』(一九七○年新年号)に記載した「尖
閣列島―歴史と政治のあいだ」に伊沢矢喜太と書いているが、これは伊沢弥喜太が正しい。奥原教授はこう書いて
いる。「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十年代の後半明治十七年ごろから古賀辰四郎が
魚釣島、久場島などを中心にアホウ鳥の羽毛、綿毛、べっ甲、貝類などの採取を始めるようになる。こうした事態の
推移に対応すべく沖縄県知事もまた明治十八年九月二十二日、内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸によ
る実地踏査を届けでた」、「その後明治二十四(一八九一)年伊沢矢喜太(熊本県)が魚釣、久場島に沖縄漁民とと
ともに渡航し、海産物とアホウ鳥を採集することに成功したが、長く滞まることなく石垣島にもどり、次いで翌々二十
六(一八九三)年花本某外三名の沖縄人が、永井・松村某(鹿児島県)に雇われ、久場島に赴いたが、食糧が尽き
て失敗する。同年にはさきの伊沢が再び渡航し、採取成功するが、岐路台風に遭い、九死に一生をえて福州に漂着
している。なお同年にはさらに野田正(熊本県)ら二○人近くのものも、魚釣、久場島に伝馬船で向かうが、かれらも
風浪のため失敗している」。
尖閣列島を日本領に編入させた日清戦争
古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六月号でこ
う語っている。
当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者が、
途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そ
こで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。明治十七年のことですが
ね。
この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。翌明治十八(一八八五)年、
父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、
まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。
ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独自に調査団を派遣しました。
調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に日
本領とするようしきりに上申しまた。
明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八(一八九五)年です。父の探
検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言に踏み切
らせた理由と思います。
そこで「沖縄県琉球国那覇西村二十三番地、平民古賀辰四郎」自身はどうなっているのかを、彼が一八九五年六
月十日付で野村靖内務大臣にだした「官有地拝借御願」によって見てみよう。
私儀国内諸種ノ事業ノ日ニ月ニ盛ニ赴キ候割合ニ大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラス水産業挙ラサルハ
予テ憂ヒ居候次第ナレハ自ラ帆楫ノ労ヲ取リ明治十二年以降十五年ニ至ルマテ或ハ琉球ニ朝鮮ニ航シ専ラ
海産物ノ探検ヲ致候以来今日マテ居ヲ沖縄ニ定メ尚ホ其業ニ従事致至候更ニ業務拡張ノ目的ヲ以テ沖縄本島
ノ正東ニ在ル無人島ニシテ魚介ノ群常ニ絶ヘサル大東島ニ組合員ヲ送リ一方ニ以テハ農事ヲ勤メテ日常食糧ノ
窮乏ヲ防キ一方ニ以テ大ニ其地海産物ノ捕漁ヲ為サントシ己ニ明治廿四年十一月廿日時ノ沖縄県知事丸岡莞
爾氏ニ同島開墾ノ許可ヲ得タル次第ニ御座候是ヨリ以前明治十八年沖縄諸島ニ巡航シ船八重山島ノ北方九拾
海里ノ久場島ニ寄セ上陸致候処図ラスモ俗ニバカ鳥ト名ノル鳥ノ群集セルヲ発見致候止マリテ該鳥ノ此島ニ棲
息スル有様ヲ探求仕候処秋来タリ春ニ去リ巣ヲ営ムヲ以テ見レハ全ク此期間ハ其繁殖期ニシテ特ニ該島ヲ撰テ
来ル モノナル事ハ毫モ疑無御座候予テバカ鳥ノ羽毛ハ欧米人ノ大イニ珍重スル処ト承リ居候間試ニ数羽ヲ射
殺シ商品見本トシテ其羽毛ヲ欧州諸国ニ輸送仕候処頗ル好評ヲ得其注文マテ有之候是ニ依テ考ヘ候ニ右羽毛
ハ実ニ海外輸出トシテ大ニ価値アルモノト信セラレ申候尤モ輸出品トシテ海外ノ注文ニ応スルニ足リル数量ナル
ヤ否ヤ ヲモ探究仕候処捕獲ノ方法ニ因リテハ相当ノ斤量ニ於テ多年間輸出致候ニ差支無キ見込有之候以上
ノ次第柄ニ付直ニ其捕獲ニ従事致度考ニテ候処甲乙ノ人々ニ聞知セラレ競フテ乱殺候様ノ事ニ立チ至ベク自然
多人数間ニ分チテ輸出ノ業ヲ営ミ候ハ相互ノ利益ニアラス所謂虻蜂共ニ獲ラレザル結果ニ成行キ可申恐有之候
間バカ鳥羽毛輸出営業ノ目的ヲ以テ久場島全島ヲ拝借候様出願ニ可及ノ処右久馬島ハ未タ我邦ノ所属タル事
判明無之由ニ承知仕候故今日マテ折角ノ希望ヲ抑制致居候是レ見本送達ノ際欧州ノ注文アリタルニ係ラス之ニ
応スル能ハ サリシ以所ニ御座候然ルニ這度該島ハ劃然日本ノ所属ト確定致候趣多年ノ願望ニ投ジ申候
古賀辰四郎氏はさらに、この「御願」のなかで、バカ鳥が多いといっても無限のものではなく、競争、乱獲ということ
になると繁殖保護も難しく採算も取れなくなるから、官有財産管理規則第七条二項の規定によって、全島を自分に貸
してほしいと述べている。 この「御願」は古賀氏自身が書いたものではあるまい。このような文書が書けるならば、古
賀氏の手になる探検記録があるはずである。ところが古賀善次氏のいっているように詳細な探検の記録は残ってい
ない。おそらく、この「御願」は役人の手を借りたものであろう。
古賀辰四郎氏と尖閣列島とのかかわりあいについては、何人かの人たちは一八八四(明治十七)年といい、古賀
氏自身は一八八五年といい、『沖縄の百年』第一巻では、日清戦争の直前というから一八九三年か一八九四年から
であったであろう。古賀氏が本籍を福岡から沖縄に移したのは一八九五年であり、彼は腰を据えて事業にとりくむこ
とになった。古賀氏は寄留商人ではなくなる。
とにかく、古賀辰四郎氏は福岡県からお茶の商売で那覇に渡り、捨ててある夜光貝などの貝殻をボタンの材料とし
て、神戸に売って(年間一八○トンから二四○トン)金をもうけて、石垣に支店をだし、ユクン・クバ島のバカ鳥という資
源に目を付けて、政府に開拓させてくれと何度も願いでたが、政府は「我邦ノ所属タル事判明無之」と許可しなかっ
た。ところが、日本が日清戦争に勝って、一八九四年十二月二十日には中国から、張蔭桓、邵友濂氏を講和全権と
して任命した旨アメリカ公使を通じて日本に連絡してきた。十二月二十五日に中国は、朝鮮の自主独立を認めると宣
言したのだから、朝鮮を支配するために、朝鮮から中国の勢力を一掃しようとした日本の戦争目的は、完全に果され
たことになる。そして時を移さずそれから二日後の十二月二十七日に内務大臣は外務大臣にバカ鳥の島を閣議にか
けることを協議した。野村靖内務大臣が陸奥宗光外務大臣にだした協議文書には「其当時(筆者注 明治十八年)ト
今日トハ事情モ相異候ニ付」とあり、外務大臣には異議はなかった。事情がどう異なったのか。それは日清戦争で勝
ったということ以外にはない。そして尖閣列島は、この日から「劃然日本の所属ト確定」した、というところに重大な問
題があるのであって、古賀辰四郎氏がいつ尖閣列島に行ったかということはさして問題ではない。翌一八九五年一
月十四日、伊藤博文内閣は、このバカ鳥の島を閣議にかけて、「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣
島ト称スル無人島」に標杭を建設することを認めた。日清戦争に勝ったとたんに待ってましたとばかりに、日清戦争の
処理で忙しい政府がバカ鳥の島を閣議にかけたことについてはどんな事情があったのか。これはどうにも理解に苦し
むところである。
一九一〇(明治四十三)年一月一日から九日まで、『沖縄毎日新聞』は藍綬褒章を受けた古賀辰四郎氏の業績を
たたえる「琉球群島における古賀氏の功績」を連載した。筆者はこれを見ていないが、井上清教授によればつぎのと
おりである。
明治二十七(一八九四)年(古賀氏は)同島(釣魚島)の開拓の許可を本県(沖縄県)知事に請願したけれども、当
時同島の所属が帝国のもなるや否や不明確なりし為に、却下せられしより、更に内務・農商務大臣に宛て請願書を
出すと同時に、氏は上京して親しく同島の実況を具陳して開拓を懇願したるも、尚ほ許可せられざりしが、時々に
偶々二十七、八年戦没(日清戦争)は終局を告げ、台湾は帝国の版図に帰し、二十九(一八九六)年勅令第十三号を
以て尖閣列島の我が所属たる旨公布せられたるにより、直ちにその開拓に就き、本県知事に請願し、同年九月初め
て許可を与えられ、茲に同氏の同島に対する多年の宿望を達せり(『歴史学研究』一九七二年第二号)。
ここに「勅令第十三号を以て尖閣列島の我が所属たる旨公布せられたるにより」とあるが、勅令第十三号には、そ
んなことは何も書いていない。おそらく沖縄県知事は勅令のでるのを待っていたのであろう。ところが勅令第十三号
は半年経っても一年たってもでない。沖縄県知事は内務省に、どうなっているのか照会したものと思う。ところが中央
では、台湾までわが国の版図にはいったのだから魚釣島、久場島などについて面倒な手続きなどはまったく必要な
いといわれたものであろう。
『沖縄毎日新聞』の記事でもわかることは、古賀辰四郎が親しく中央に働きかけたということである。室伏哲郎著
『汚職のすすめ』によると、バカ鳥を閣議にかけた野村靖内務大臣は、東京市の水道用鉄管の国産会社「日本鋳鉄
合資会社」の不正を一八九五年十一月に、東京市参事会が告発したとき、東京市会の解散を命じた人物である。日
本鋳鉄合資会社の創立者雨宮敬次郎は獄中から森検事を二、○○○円で買収し、証拠不十分で免訴となり出獄し
たという当時の情況があった。古賀辰四郎氏が親しく働きかけた内容は何であったのか、これはあきらかではない。
一八九一年七月二十七日の官報に載った大臣の年俸は内閣総理大臣九、六○○円、各省大臣六、○○○円、次
官四、○○○円であった。これに対して一八九六年三月現在の職業別の平均賃金は、機織女工は上等で月に四円
五○銭であり、下等で二円二○銭だった。農作の日雇労働者は上等で男は一日二○銭、女は一八銭であった。だ
から二、○○○円も積めば検事だって買収できたわけである。
それにしても、伊藤内閣のこの素早い反応は、古賀氏の働きかけのみによったのであろうか。当時の沖縄の政治、
経済、社会をもみなければなるまい(本書Zの(8)を参照)。
奥原敏雄教授はこの点に関して、雑誌『中央公論』一九七八年七月号の論文「尖閣列島の領有権の根拠」でこの
ように述べている。
わが国が尖閣列島を領土編入した明治二十八年一月十四日(閣議決定)という時期は、すでに日清戦争におい
て日本の勝利が確定的となり、講和予備交渉がまさに始まろうとしていた時期である。台湾を日本に割譲する
ことについて、列国の承認も取り付けていた時期である。政府がそうした時期に尖閣列島の沖縄編入を認める
に至った背景に、台湾をも失うことをみとめた清国が、無主地のごく取るに足らない尖閣列島の帰属をめぐって、まず
争うことはないであろう政治的判断があったことは想像にかたくない。
しかしながらそうした微妙な時期における領土編入が、ともすればわが国が尖閣列島の領土編入を見送ってきた
背景、あるいはそれを編入するに至った時期に、とかくの疑惑を生じさせ、日本は尖閣列島が中国領土であると思っ
ていて、ひそかに時期を狙い、日清戦争の結果として、日本が勝利を確定的なものとするに至った時期に、これを処
理したのではないかと疑問を持たせる余地を残すことになる。そしてこれは一般的にもっともな疑念だと思う。
奥原教授はこの論文で、「天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほかでもない、政府と大本営
が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと同時であった」とする井上清教授の見解(井上清著『尖
閣列島』)、「日清戦争での勝利を機会にし背景にして、日本がさらに戦争を拡大している情況のもとでなされた至極
あいまいな『先占』というものの実質は中国から奪った台湾省の一部を先取りしたことにならないか」(高橋庄五郎論
文「いわゆる尖閣列島は日本のものか」『朝日アジアレビュー』一九七二年第二号)という疑問に対して、一般的にも
っとも疑念としているが、奥原教授はあくまでも、尖閣列島は国際上の無主地であったと主張する。
バカ鳥と古賀辰四郎氏
尖閣列島には、どんな海鳥が、どのくらいいたのであろうか。
古賀辰四郎氏がバカ鳥と呼んだ鳥は、アホウ鳥ともトウクロウとも呼ばれ、またの名を信天翁ともいわれていた。尖
閣列島にはこのほか、クロアジサシ、セグロアジサシ、カツオドリ、オオミズナギドリなどがいた。
そして北小島にはセグロアジサシ(背黒鰺刺)、クロアジサシ(黒鰺刺)が、南小島にはカツオドリがいた。二○○メ
ートルしか離れていないのに海鳥が異なっていた。南小島と北小島の情況について黒岩恒氏はこう書いている。
余が着島の節は(五月)産卵の期節にして、南北の小島に群集するもの、幾十万を以て算すべし、これ英語に所謂
Ternなるものとして、尖閣の諸嶼にかぎり、釣魚黄尾等の諸嶼に見ず、其空中を飛翔するや、天日為めに光を滅する
の観あり、カンエイ水路誌(明治十九年刊行の海軍水路局の水路誌)記して、其鳴声殆んと人をして
聾せしむと云へるは、誠に吾人を歎かさるなり、若し夫れ閑を偸みて北小島の南角に上らんか、幾万のTernは驚起
して巣を離れ、「キャー、キャー」てふ鳴声を発して頭上を?翔すべく吾人若岩頭に踞して憩はんか、空中にあるもの漸
次下り来たりて吾か周辺に群集し、同類以外復怪物あるをしらさるものの如く、人をして恍然自失、我の鳥なるかを
疑はしむ、此景此情、此境遇に接するにあらされば、悟り易からさるなり(筆者注 ふりがなは筆者)。
古賀辰四郎氏」は、年間一五万羽も海鳥を捕獲した。
バカ鳥と古賀辰四郎氏がいなかったら明治時代に尖閣列島は問題にならなかった。
日清戦争のあとさき
一八九三(明治二十六)年十一月、過酷な税の負担に耐えかねて、宮古島の農民四人が上京し、宮古の悲惨な現
状を議会と政府に訴えた。中央の新聞は「明治の佐倉宗五郎」と書きたてた。政府はただちに内務書記官を沖縄に
派遣し調査させた。
一八九四(明治二十七)年一月十二日、貴族院に「沖縄県政改革建議」がだされた。
一月十七日、宮古島福里村の農民一六○人が署名した「宮古島島費節減及島政改革請願」が衆議院に上程され、
衆議院はこれを可決した。この年に名子制度だけは廃止されたが、人頭税は一九○二年まで存続された。
三月、大蔵省は祝辰巳氏を沖縄県収税長に任命し税法調査をさせた。
八月一日、日本は中国(清)に対して宣戦布告。
九月十五日、平壌大会戦、十六日未明平壌を占領。
九月十七日、黄海大戦、中国軍艦五隻を撃沈。この陸海の大戦ですでに勝負はついた。
十月八日、イギリスは日本の戦勝に驚き講和を勧告。
十月二十六日、第一軍(山県有朋)は鴨緑江を渡って九連城を占領。引続き第二軍(大山巌)は花園江に上陸開
始。
十一月十二日、中国(清)はアメリカ公使を通じて講和条件の基礎を提案、日本側は講和全権の任命が先決だとし
てこれを拒否。
十一月十三日、第一軍海城を占領。
十一月二十一日、第二軍旅順占領。
十二月二十日、中国(清)はアメリカ公使を通じて張蔭桓、圏F濂氏を講和全権に任命したと日本に通知。
十二月二十五日、中国(清)は朝鮮の独立自主を認めると宣言。これによって明治軍国主義の日清戦争の目的は達
せられたことになる。
十二月二十七日、内務大臣は外務大臣と釣魚島と久場島をたてたいという沖縄県知事の上申ついて協議。外務大
臣に異議なし。
一八九五(明治二十八)年一月十四日、標杭建設を閣議決定。
一月二十一日,沖縄県知事に通知(しかし、標杭建設は日本の主権下では実行されず、七四年後にアメリカの施政
権下の石垣市長命令で初めて建設)。
一月三十一日、中国講和全権広島に到着。全権委任状が不備だとして日本側は談判を拒否。
三月二十日、下関で、伊藤博文内閣総理大臣と李鴻章全権とのあいだで講和談判開始。
四月十七日、日清講和条約調印。
四月二十三日、三国干渉(独・仏・露)。
五月五日、三国の勧告を日本は受諾。
五月八日、日清講和条約批准書交換。
五月十日、樺山資紀海軍大将を台湾総督に任命
五月二十五日、台湾省民蜂起。
五月二十九日、日本軍台湾に上陸。
六月二日、中国(清)李経方全権と樺山台湾総督との間に、講和条約第二条第二項および第三項の台湾全島及び
その付属諸島嶼と澎湖列島の受渡しがおこなわれた。
六月十日、古賀辰四郎氏は「官有地拝借御願」を政府に提出。
一八九六(明治二十九)年九月、古賀氏は三○年間無償で魚釣島、久場島、北小島、南小島の借用に成功。
(1)伊沢弥喜太氏は、福州に漂着し救助され、中国の高官から陶器の花瓶をもらって帰った。
(7)尖閣列島の開発
どの島か
古賀辰四郎氏が尖閣列島が尖閣列島のどの島で開拓事業をおこなったかについては資料が乏しい。だから人に
よっていっていることが違う。たとえばこうである。
古賀辰四郎は明治三○(一八七九)年、沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島借区を願い出て三○年間無償借
地の許可をとると、翌明治三一年には大阪商船の須磨丸を久場島に寄航させて移住労働者二八名を送り込むこと
に成功し、さらに翌明治三二(一八九九)年には大阪商船の永康丸で男子一三名女子九名を送り込んだ。この年の
久場島在留者は二三名となり古賀村なる一村を形作るまでになった。これらの労働者がいつごろまでいたかは明ら
かでない。説によると大正の中期ごろまで続いたといわれる(奥原敏雄論文『日本及日本人』一九七○年新年号)。
古賀氏は数十人の労働者を同列島に派遣、これらの干拓事業に従事させた(注 明治三十「一八九七」年五十
人、明治三十一「一八九八」年同じく五十人、明治三十二「一八九九」年二十九人の労働者を尖閣列島に派遣、さら
に明治三十三「一九○○」年には男子十三人、女子九人を送りこんだ)・・・・・・。
大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ・・・・・・
事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八十人、剥製作りの職人七〜八十人(筆者注上地龍典氏によれば八八
人)が、魚釣島と南小島に居住していた(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖縄』第五十六号)。
明治三十(一八九七)年、二隻の改良遠洋漁船をもって、石垣島から三十五人の労働者を派遣し、翌三十一年に
は更に五十人を加えて魚釣島で住宅や事業所,船着場などを建設して、本格的に開拓事業を始めたのである(牧野
清論文「尖閣列島小史」)。
石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治十七(一八八四)年人を派遣して、列島の探検調査に当たら
せ・・・・・・翌三十(一八九七)年から、毎年、三○人、四○人と開拓民を送りこんだ。こうして最初の四年間に島に渡
った移住者は、一三六人に達しそのなかには女性九人も含まれていた。・・・・・・明治三十六(一九○三)年には内
地から剥製職人一○数人が移住し・・・・・・明治四十二(一九〇九)年の定住者は、実に二四八人に達し、九九戸を
数えた。・・・・・・南海の無人島・尖閣列島は、古賀氏の力によってすっかり変貌をとげた(上地龍典著『尖閣列島と竹
島』)。以上の移住の状況を書いている人たちのなかには,島名を挙げずに尖閣列島とだけいっている人がいるが、
それは魚釣島だったのか、あるいは久場島だったのか、どうもはっきりしていない。
尖閣列島研究会によれば魚釣島と久場島であるし、奥原教授によれば久場島である。また牧野清氏によれば魚
釣島である。黒岩恒氏のいったように、沖縄の人たちが魚釣島と久場島をアベコベにしていとするとどうなるのか。こ
の島名をアベコベにしていたことについては、奥原敏雄教授も井上清氏教授も知っている。一九四〇(昭和十五)年
になっても、沖縄県警察本部は「魚釣島(一名クバ島無人島)」といっている。古賀辰四郎氏が一八九五(明治二十
八)年に久場島といったのはじつは魚釣島ではなかったのか。古賀善次氏がカツオブシ製造と海鳥の剥製作りをし
たのは魚釣島と南小島であった。
また一九六八(昭和四十三)年に台湾の業者が起重機を二台ももちこんで一万トンの貨物船の解体作業をやって
いたのは南小島であった。また一九七〇年に、やはり台湾の業者が久場島で沈没船解体作業をやっていたが、これ
は台風で座礁して久場島海岸に打ちあげられた台湾の貨物船の処理のためであった。古賀辰四郎氏が事業を開始
されたのは,久場島からではなかったのかといっているが、その理由は、久場島は魚釣島ほど地形が複雑でなく、
地質も単純であり、土壌は肥沃のようで、島の南西面には数ヘクタールと思われる砂糖キビ畑も船から望遠され、同
行の者がパパイヤの木も見受けられたと言うし、古賀辰四郎氏は柑橘類も移植したといわれるからだとしている。
また正木任氏は魚釣島に飲料水があるから、古賀辰四郎氏は魚釣島を根拠地にして事業を始めたようだといって
いる。そして一九三九年現在、久場島に飲料用天水貯水槽が三つ残っていたという。
だが、よく考えてみなければならないことは、古賀辰四郎氏が久場島を借りたいと願いでたのは、じつは海鳥を捕ま
えて、これを外国に売るためだった。そして黒岩恒氏「恍惚自失、我の鳥なるか、鳥の我なるかを疑がわしむ」といわ
せたのは南小島と北小島の海鳥どもであった。南、北小島は魚釣島に近い。そして南小島の西側にひろがる平坦地
は近代工業の敷地になりそうだという(高岡大輔氏)しかし、それも水があってのことである。
どんな事業か
では古賀氏は尖閣列島でどんな事業をおこなったのか。これも、概略引用しただけでもまちまちである。
国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年の明治三十(一八九七)年以降大規模な資本を投じて、尖閣列島の開拓
に着手した。すなわちかれは魚釣島と久場島(傍点著者)に家屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構築するとともに、
排水溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などをおこなってきた(注 この功績によって政府は一九
〇九「明治四十二」年、古賀氏に対し藍綬褒章を授与している)(前掲尖閣列島研究会論文)。
開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ(筆者注 鳥糞)の採掘等の事業をおこなった(前掲尖閣列島
研究会論文)。
大正七(一九一八)年古賀辰四郎が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ、とくに魚
釣島と南小島で、カツオブシ及び各種海鳥の剥製製造、森林伐採が営まれてきた(前掲尖閣列島研究会論文)。
古賀善次氏が国から民有地として払い下げを受け戦前まで魚釣島にカツオブシ工場を設けて、カツオブシ製造をおこ
なったり、カアツオドリやアジサシその他の海鳥の剥製、鳥糞の採集などを営んでいた(奥原敏雄論文『日本及日本
人』一九七〇年新年号)。
古賀辰四郎氏及び善次氏によっておこなわれた事業は、この他フカの鯖、貝類、べっ甲などの加工、海鳥の缶詰製
造がある。・・・・・・
ただしアホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と猫害などのため大正四(一九一五)年以降、またグアノの採掘と積出しは、第
一次大戦によって船価が高騰し、採算が取れなくなり中止された。その他の事業も、太平洋戦争直前、船舶用燃料
が配給制となり、廃止された(前掲尖閣列島研究会論文の注)。
尖閣列島は古賀辰四郎さんの無人島探検によって明治十七に初めて開拓に着手されたわけです。その古賀さん
が労務者と共にまず黄尾嶼にわたって、羽毛、亀甲、貝類等の採取に着手し、その後魚粉の製造あるいはかつお節
工場を現地にたてて経営しましたけれども、大正の中ごろから事業不振のため全部引揚げ、その後現在にいたるま
でも無人島になっている(桜井×氏)
古賀辰四郎は明治十七(一八八四)年、労務者を久場島に派遣し、羽毛、べッ甲、貝類の採取を初め、その後、古
賀氏は日本政府から魚釣島、久場島に派遣し、羽毛、ベッ甲、貝類の採取を初め、その後、古賀氏は日本政府から
魚釣島、久場島、 北小島、南小島の四島を三〇年の期限付きで借地権を獲得した。そしてカツオドリ、アジサシな
どの海鳥の剥製、鳥糞の採集、カツオ業を拡張したが、それらの事業がいつごろまで続いたかについては明確な記
録もなく、善次氏の話によれば、大正の中期ごろから事業が不振になったらしい(高岡大輔論文「尖閣列島周辺海
域の学術調査に参加して」参照)。
大正(一九一九)年の冬・・・・・・当時古賀支店は魚釣島でカツオ漁業を経営していたので・・・・・・(牧野清氏)。
古賀辰四郎氏は魚釣島と久場島に家屋や貯水設備、船着場をつくった。さらにカツオ節工場、ベッ甲、珊湖の加工
工場も建設された。
そのほかグアノ採掘にも着手した(上地龍典氏)。
黄色嶼で明治四〇年代、古賀辰四郎氏は二年間燐鉱採掘したが、その後台湾肥料会社に経営権を渡した(正木任
論文「尖閣列島を探る(抄)」『季刊沖縄』第五十六号参照)。
古賀商店は戦争直前まで伐木事業と漁業を営み・・・・・・(琉球政府声明「尖閣列島の領土権について」)。
黄色嶼を古賀氏が開拓し、椿、密柑など植え,旧噴火口には密柑,分旦、バナナ等があった。さつまいもやさとうき
びは野生化していた。魚釣島の古賀商店の旧カツオ節製造所の跡に荷物を運んだ。魚釣島の北北西岸に少しばか
り平地があって、そこに与那国からの代用品時代の波に乗ってか、はるばるとクバ葉脈を採取のため男女五三名と
いう大勢の人夫が来て、仮小屋を作り合宿していた(前掲正木任論文参照)。
正木氏のリポートにある与那国の人たちは、古賀商店の多田武一氏が連れて行った人たちであろう。クバの葉脈で
ロープや汽船や軍艦のデッキ用の×(筆者注 ブラシという人もいる)をつくった。またクバの幹で民芸品などもつくっ
たといわれている。与那国にもクバはあったがそんなに多くなかった。戦争によって物資が不足してくると、クバの繊
維はシュロ椰子の代用品につかわれたのであろう。
多田武一氏は与那国の人であり,クバの葉を求めて家族とともに魚釣島に渡った。これが、琉球政府声明にある古
賀商店の伐木事業なのかもしれない。しかしこれは季節的一時的なもので、古賀善次が政府から四島を買いとった
ときには、四島はふたたび無人島になっていた。
一枚の写真
ここに一枚の写真がある。一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人島ではなかったという「証拠
の写真」を八枚掲載した。それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そのなかの一枚は筆者が一九七
一年に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写真は,一九〇一年二月に黄色尾島で生まれたとい
う伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そして、おなじ一枚の写真を古賀花子さ
んは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さんは黄色島(黄色嶼、久場島)のものだという。この写真には事務所の責任
者として、日の丸のポールのところに伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目のところに白い着物を着て帽子をかぶり、
ステッキをついているのが古賀辰四郎氏である。いったいどちらが本当なのか。辰四郎氏と弥喜太氏の二人が写っ
ているのである。古賀花子さんのもっていないもう一枚の写真(これは古賀辰四郎氏の自慢のカメラで写したもので
あろう)の中央に弥喜太氏が次女を膝の上に乗せているのがある。それには「黄尾島古賀開墾・・・・・・」と紙に書い
たものを門柱に貼り付けてある。これは写真をとるために書いたものであろう。なかなかよい字である。
ところが弥喜太氏や辰四郎が書いた日誌も記録もない。辰四郎氏は久場島拝借願いを出して借り受けたのに、ど
うして「黄色島古賀開墾・・・・・・」としたのだろうか。黄色島を島の固有の島名と考えたのであろう。しかし、黒岩恒氏
が書いていているように、当時沖縄の人たちが黄尾嶼と魚釣島(釣魚島)をアベコベに考えていたとしたらどうなので
あろうか。伊沢真伎さんは黄尾島では飲み水がなおので妻帯者は弥喜太氏一人であったといっている。写真にある
婦人労働者は、すべて独身で土佐のカツオブシ工場から連れてこられたものであり、子供労働者はとさや沖縄から
買われきたものであったという。
黄尾島で弥喜太氏の娘が二人生まれた。長女の真伎さんは久米村小学校に三年生までいて、一九一〇(明治四
十三)年に弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが、そのご、父弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが,その後、父弥喜太
氏とともに台湾に行き、そこで結婚し、敗戦で日本にかえった。大城立裕著『内なる沖縄』によれば、久米島の住人
は、中国からの帰化人の子孫で、旧王朝時代は中国語を常用していた向きもあったようだという。
古賀花子さんは夫の古賀喜次からきたことを話しているのであり、伊沢真伎さんは父弥喜太氏から昔きいたことを
話しているのだから記憶がうすれたことも誤りもあるだろうと思う。しかし正木任氏によれば黄尾嶼(久場島)には飲
み水がなく雨水を貯える水槽が三カ所つくられ、それでも飲料水が不足したときはサバニで魚釣島まで水取りに出
掛けたというから、真伎さんの生まれたのは確かに黄尾嶼であった。ではカツオブシ工場は魚釣島にあったのか。そ
れとも黄尾嶼(久場島)にあったのか。あるいはまた魚釣島と黄尾嶼の両方にあったのかどうもはっきりしない。しか
し伊沢真伎さんは黄尾地馬でカツオブシ工場をつくり、土佐から職人を入れて経営していたというし、また黄尾島で
は貝殻の採取とアホウ取の毛の採取をやっていたといっている。弥喜太氏は「八方ころび」とよばれたまん丸な真珠
を品評会にだして賞金三百円をもらい、皇后陛下に健常するために東京に行くのに支度金がかかり赤字をだしたとい
う。真水がなくともカツオブシがつくれるのかどうか宮城県気仙沼の古いカツオブシ業者にきたら、それはつくれると
いう。
辰四郎と弥喜太
二人がどこで、どのようにして知りあったのかはわからない。出資と経営についてどのような話があったのかもわから
ない。わかっていることは、古賀辰四郎氏は金をだしても細々したことはいわない太っ腹の人だったということであ
る。伊沢弥喜太氏は一八九一(明治二十四)年、漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡航した。このとき弥喜
太氏は海産物とアホウ鳥を採取して帰った。そしてまたこのとき、弥喜太氏は中国人の服装をした二つの遺体をほら
穴のなかで発見している。黒岩恒氏は一九〇〇年の尖閣列島探検記事のなかで、同行の人夫が山中に白骨ありと
いったが、夕方なので無縁の亡者を弔うことができなかったといっているが、それは釣魚島のことである。弥喜太氏
は一八九三年再度渡航している。石が井島に支店をだしていた辰四郎氏は当然、弥喜太氏と知りあったと思う。弥
喜太氏は読み書きのできる当時インテリであった。
一九〇〇年五月に古賀辰四郎氏は永康丸をチャーターし、宮島幹之助理学士(北里研究所技師を経て慶應大学
医学部教授)に頼んで久場島(黄尾嶼)の調査をしてもらうことにした。沖縄師範学校教諭黒岩恒氏(一八九二年に
沖縄に赴任)は校長の命令で同行し、また野村道安八重山島司も一諸に行った。
宮島幹之助理学士の黄尾嶼での調査は、風土病,伝染病、ハブ、イノシシその他の有害動物の有無や飲料水の
適否などであった。調査の結果、マラリヤ,伝染病はなく、ハブ、イノシシは棲息せず、また飲み水がないことがわか
った。
宮島理学士が黄尾嶼で調査をしているあいだ黒岩氏は、永康丸を釣魚嶼に向け、五月十二日午後四時、古賀辰
四郎、野村道安氏とともに釣魚嶼に上陸しただけで船にもどり、二日後に迎えにくるからといって黄尾嶼に帰った。黒
岩氏の釣魚嶼の探検記事には「教導(伊沢氏)一名、人夫三名」をもって探検隊を組織したとある。教導とは案内役
のことである。この伊沢氏というのは伊沢弥喜太である。弥喜太氏は釣魚嶼のことを知っていた。「午後尾滝谷に着
す、此地古賀氏の設けたる小舎一、二あり屋背屋壁皆蒲葵葉を用い」と黒岩氏は書いているが、ここは「秋来たりて
春に去る」アホウ鳥を捕獲するために設けられたもので、屋根も壁もみなクバの葉でつくられていた。
尖閣列島の仕事に実際に携わった責任者は弥喜太氏である。では、釣魚嶼の開発はクバの葉でつくった小舎から
どんな発見をしたのだろうか。
辰四郎は一九○一年には、沖縄県技師熊蔵工学士の援助を受けて、釣魚島に防波堤を築き、漁船が着岸できる
ようにした。辰四郎氏が描いた明治四十年代の魚釣島事業所建物見物配置図がある。(上地龍典著「尖閣列島と竹
島」教育社刊、五四頁)。この配置をみると漁師の住まい、カツオブシ加工労働者の住まい、婦人労働者の住まい、
子供労働者の住まい、カツオ切り場、カツオ釜などがあり、又火薬庫もある。
バカ鳥の乱獲と本土資本の進出で、弥喜太氏の経営はゆき詰まり、弥喜太氏は家族とともに台湾に行き一九一四
年に花蓮港で死んだ。
この年に第一次世界大戦が始まり、日本軍は山東省に上陸した。そしてその四年後に辰四郎が死んだ。この二人
が死んでしまうと、正確な記録がないために事実関係がよくわからない。辰四郎氏のあとを善次氏が継いだが、尖閣
列島の「黄金の日日」はそのころまでだったと上地龍典氏は書いている。
どうもややこしい問題である。しかし、そこには「天日ために光を滅する」ほどの海鳥がいて、北上するカツオ、マグ
ロ、カジキなどの回遊漁の一部は必ず尖閣列島海域を通過する。そして古賀辰四郎氏の尖閣列島開発事業があっ
たことは、まぎれもない事実である。古賀商店の一九○七年の産物価格は一三万四、○○○余円というから、これ
は当時としてはたいへんな金額である。この年の四月に三越百貨店があ食堂を開いたが、料理一食五○銭、洋菓
子一○銭、紅茶、コーヒーがそれぞれ一杯五銭であった。
これら開発事業は、すべて日清戦争で尖閣列島を日本領としたことであり、無主地を先占し有効支配していたとい
う裏づけにはならない。
(8)閣議決定と勅令第十三号および第十四号―
――その政治的、経済的、社会的背景
明治憲法における閣議決定
一九七二年三月八日に日本外務省がだした「尖閣諸島の領有問題について」という同省の基本的見解は『明示二
十八年一月十四日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することにしたも
のである』と述べている。また、一八九五(明治二十八)年一月十四日の閣議決定と勅令第十三号との関係につい
て、日本の一部の国際法学者たちは、つぎのようにいっている。
尖閣列島の領有主権についてであるが、日本の主張は、同列島がすでに一八九五年の閣議決定をへて、一八九
六年の勅令十三号により領土=沖縄県の一部として公式に編入された事実に基づいている。これは、どこの国の領
土でもないいわゆる無主地を取得する方法――――先占――――として国際法が予想しているものである(皆川洸
論文「尖閣列島」)。明治二十九年(一八九六)勅令第十三号によって日本政府が尖閣列島の領有宣言を行ってい
る(新城利彦論文「尖閣列島と大陸だな」)。
明治二十八(一八九五)年一月十四日、閣議は正式に八重山群島の北西に位する魚釣島、久場島(黄尾嶼)を沖
縄県の所轄と認め、沖縄県知事の上申通り、同島に所轄標杭を建設せしめることを決定し、その旨を同月二十一日
沖縄県知事に指令した。さらに閣議にもとづいた同列島に対する国内法上の編入措置は明治二十九(一八九六)年
四月一日、勅令十三号が沖縄県に施行されたのを機会ににおこなわれた(奥原敏雄論文「尖閣列島」『沖縄タイム
ス』)。
明治二十八(一八九五)年一月十四日、沖縄県知事に対して、その実施を指令した。沖縄県知事は、明治二十九
(一八九六)年四月、尖閣列島を、八重山郡に編入せしむることによって、国内法上の措置を完了した(尖閣列島研
究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖縄』第五十六号)。それでは、明治憲法(旧憲法)における内閣制度と閣
議とはどんなもであったのかということがまず問題になる。旧憲法下の内閣制度と現在のそれとは著しく異なるから
である。
新憲法においては、「行政権は内閣に属する」のに対して、旧憲法では行政の大権はあ天皇にあって、内閣は行
政権の主体としての天皇の単なる輔弼機関にすぎなかった。
すなわち、旧憲法では「国務閣大臣は天皇を輔弼し、その責に任ず」とあり、内閣は国務大臣が個別に天皇を輔弼
するにあたって、その責めを全うするための必要と便宜にもとづいて設けられたものにすぎなかった。旧憲法では国
務大臣が内閣という会議体を組織することは明らかにされておらず、内閣は憲法に直接根拠をもつ機関ではなかっ
た。だから、明治二十八年一月十四日の閣議決定は、そのままでは「正式にわが国の領土に編入する」ために国家
としての意思決定をしたことにはならない。行政の大権が天皇に属していたから、実際には、政策決定は内閣総理
大臣や各担当大臣によっておこなわれたけれども、国家としての意思表示は正式には勅令というかたちをとらなけれ
ばならなかった。
勅令第十三号および第十四号
いわゆる尖閣列島の無主地の先占を主張する一部の国際法学者は、一八九五(明治二十八)年一月十四日の閣議
決定と一八九六年三月五日の勅令第十三号を関連させて、先占の法理をくみたてようとしている。
朕沖縄県ノ郡編制二関スル件ヲ裁可シ?ニ之ヲ公布セシム
御 名 御 璽
明治二十九年三月五日
内閣総理大臣候爵 伊 藤 博 文
内 務 大 臣 芳 川 顕 正
勅令第十三号
第一条那覇首里両区ノ区域ヲ除ク外沖縄県画シテ左ノ五郡トス
島尻郡 島尻各間切久米島慶良間諸島渡名喜島栗国島伊平屋諸島鳥島及大東島
中頭郡 中頭各間切
国頭郡 国頭各間切及伊江島
宮古郡 宮古諸島
八重山郡 八重山諸島
第二条郡ノ境界若クハ名称ヲ変更スルコト要スルコトハ内務大臣
之ヲ定ム
附則
第三条 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム
朕沖縄県郡区職員及島庁職員に間スル件ヲ裁可シ?ニ之ヲ公布セシム
御 名 御 ?
明治二十九年三月五日
内閣総理大臣候爵 伊 藤 博 文
内 務 大 臣 芳 川 顕 正
勅令第十四号
第一条沖縄県島尻中頭国頭ノ各郡長一人及郡書記若干人ヲ置ク
第二条沖縄県宮古八重山ノ各郡ニ島司一人及島庁書記若干人ヲ置ク
第三条 沖縄県那覇首里ノ各区ニ区長及区書記若干人ヲ置キ那覇区長ハ島尻郡長を以テ之ニ充テ首理区長ハ中
頭郡長ヲ以テ之ニ充ツ
第四条 地方官官制中郡長ニ関スル規定ハ区長ニ適用シ郡書記ニ関スル規定ハ区書記ニ適用ス
第五条 沖縄県郡区書記ノ定員ハ沖縄県判任官ノ定員内ニおいて於
知事之ヲ定ム
附則
もともと、この二つの勅令は、いわゆる尖閣列島の日本領編入を目的としたものではなかった。だから外務省の基
本見解では勅令第十三号はもちだしてはいない。では、この二つの勅令がだされた政治的、社会的背景はどういう
ものであったのか。この背景について、新里金福・大城立裕著『沖縄の百年』大平出版社刊、「第三巻・歴史編」によ
ってその概略をのべるとつぎのようになる。
一八七九年に明治政府が武力を背景にした廃藩置県を沖縄に実施したとき、松田道之処分官は、租税はおいお
い軽減するが藩主や旧士族の身分家禄などはなるべくもとのままにして優待するから、各自安心して仕事にはげむ
ように、という格好のいいことをいって、新政府への協力を求めた(八二頁)。事実、明治政府は旧藩王尚泰に対して
は特別利付公債二○万円を、家禄もちの士族三六○余人には年額十五万余を与えた(八一頁)。同年四月に平民
にされた華士族の分家は録を失ったが、その年の十二月には旧慣どおり家禄を支給するということまでやった(八一
頁)。寄生的な士族階級に対する待遇は他府県よりもかえってよく、彼らの生活は前よりも楽になったといってよい。
これに比べて無縁であった下級武士の生活は何の保証もされず、急速に零落して都落ちしていった(八一〜八二
頁)。農民は農奴的立場から開放さされたわけではなく、農民の租税は少しも軽減されなかった。旧藩の法規、税制
はそのまますえ置かれ、改正されたのは各離島のにも駐在所が置かれて警察組織が整備され、また裁判は「裁判
事務の執行は旧藩の法を参酌して人情風俗に従い適宜裁判すべし」というものであり、県知事が判事を兼務すると
いう、まことにひどいものであった(八三頁)。とくに宮古、八重山などの先島はあいかわらずひどい差別を受けていて
た。
沖縄の農民は、首里王府の所有地を耕す農奴にひとしい立場におかれていた(六五、一三四、一四五頁)。首里
王府の所有地は全農地の七六%におよんでいた(一四八頁)。そしてそこには小作権というものも確立していなかっ
た。首里王府から賃与された土地の共有地とされ、納税義務は村にあった。農民は各戸ごとに村の共有地を割り当
てられた。この地割りは数年から十数年の周期で割り替えがおこなわれたから、おなじ土地をながく耕作することは
できなかった。これが地割制度である(一五一頁)。
ところが宮古、八重山の先島では、土地は家を単位とする個人所有であったが、そのかわり人頭税制と名子制度
があった(一五二頁)。
そしてこれらの制度は廃藩置県後も残った。人頭税制は島津が沖縄を殖民地とした、一七世紀のはじめからあった
もので、十五歳から五十歳までの全農民に、男には米、粟、女には上布を個人単位に例外なく賦課っするもので現
物納であった。また名子制度は、農民に対して旧士族のために、無償で労働を提供させたもにである。一八八八年
投じで約三、○○○人の名子が史員四百数十人に自由にこき使われていた(一三四頁)。琉球王朝時代から、三三
○キロメートルの海で沖縄本島からへだてられた宮古、八重山の士族階級の特権は、この人頭税制度と名子制度
の上に築かれたものである。
一八九三年十一月三日、宮古の農民の代表四人は東京に着き、宮古の現状を政府に訴えた。中央の新聞は四
人の代表を「明治の佐倉宗五郎」と書きたてた。一八九四年一月十二日、貴族院に「沖縄県政改革建議」が提出さ
れ、曽我祐準史は説明して「沖縄県諸島中には軍港とすべき処あり、わが東洋の関門というべき処なれば、もし今
日東洋に時変あらば沖縄に要塞を設くる必要なきあらず。これ実に諸君の熟考を請う点なり」と述べ、又重税負担に
あえぐ沖縄農民の惨状を知るものが少ないと欺いた(一三八頁)。明治政府は日清戦争に向かって体制を固めてお
り、沖縄は国境の島々であったわけである(一三九頁)。その直後の一月十七には宮古島福利村の農民一六○が
署名した「宮古島費節減及島政改革請願」が衆議院に上程された。
この請願の内容は島費節減と人頭税の改革を訴えたものである。衆議院はこれを可決した。四人の代表は政府に
も陳情して帰国した(一三八頁)。そしてこの年に名子制度だけは廃止されたが、人頭税は一九○三年まで残され
た。じつは一八九三年三月十八日に奈良原繁沖縄県知事は宮古島民の訴えをとりあげて、蔵元、村番所の機構改
革、史員定員の削減、名子制度廃止、予算協議会の設置などを吉村貞寛宮古島役所長に内訓し、吉村役所長は旧
改革にのりだしたが士族たちの烈しい抵抗にあって、改革計画は失敗したということがあった(一三五頁)。宮古の士
族階級が、廃藩置県に強く反対しなかったのは、人頭税と名子制度が存続されてたからであった。
一八九三年十一月に宮古農民の国会請願後、政府は直ちに内務書記官を沖縄に派遣して、「旧制度運用実情と
人心の傾向等調査」にあたらせた(一三九頁)。日清戦争という本格的外侵略戦争の準備をすすめつつあった政府に
とって、国境の島沖縄で紛糾がおこるのは、大きな痛手であったからである(一三八頁)。一八九四年には江木県治
局長を派遣して沖縄の地方制度の調整をさせ、また同年の三月二十八日には、大蔵省の祝辰巳氏を沖縄県収税局
長に任命し、税法調査させたが、祝氏の報告は「同県の制度は複雑にして、内地と同一の扱いはできぬ」というもの
で、工地整理の着手は先にひきのばされた(二二二頁)。
一八九五年七月には、目賀田種太郎大蔵省主税局長を沖縄県制度改正方案取調委員に任命して調査に着手、
そのご若槻礼次郎国税課長によって同調査はつづけられた(一四○頁)。政府が沖縄の土地に着手したのは、一八
九九年四月からである(二二二頁)。 その間、中央政府はわずかに郡区の編成を整理して、お茶をにごしたにすぎな
かった(二二三頁)。一八九六年三月五日付勅令第十三号および第十四号がそれである。この勅令は四月一日から
施行された。そしてこれは、中央政府の令達によっておこなわれた沖縄の地方制度の最初の改正であった。沖縄の
旧慣地方制は、間切・島の制度であるがこの制度は農村地域にだけ適用され、首里、那覇の支配階級移住には別
の制度があった。
この郡区編に関する二つの勅令によって、改正されたのはつぎの諸点である(二二三〜二二六頁)。
@首里、那覇の二地区に区制を施行した。この両区はこれまでずっと支配階級の居住区で民有地であるのに移住
者は一切の貢祖や民費を負担していなかった。改正によって首里、那覇両区は区税もはらわなければならなくなっ
た。そしてまた泡盛製造税と塩田税は国庫に納入されることになった。那覇区長には島尻郡長を首里区長には中頭
郡長を兼任させた。議決機関として区会を設けた。
A農村地区を島尻、中頭、国頭、宮古、八重山の五郡に分け久米、
慶良間、渡名喜、粟国、伊平屋、鳥島、大東島を島尻郡の管轄とし、伊江島を国頭郡の管轄とした。島尻、中頭、国
頭の三郡に郡長を置き、宮古、八重山の両群には島庁を開設し島司を置くことにした。
しかし沖縄県は、この二つの勅令による郡区編成によって,形式的には他府県と似た格好になった。沖縄県に徴兵
令が施行されたのは一八九八(明治三十一)年一月一日であるが、一八九七年六月二十四日に高島鞆之陸軍大
臣が松方正義総理大臣にだした、沖縄県及び東京府管下小笠原島に徴兵令を施行する勅令案ならび理由書には,
沖縄で廃藩置県後、十数年間も徴兵令を施行しなかったのは、当時の内政外交上の理由によるものであったが、い
まその理由を考慮する必要がなくなった。それに昨年から郡区制を施行して、制度も本土と似てきた。徴兵令を施行
するには好機である、といっている(二二五頁)。すなわち勅令第十三号、第十四号は、徴兵令を施行の役にもたった
ということになる。
このように勅令第十三号と十四号がだされた背景は、明治政府が内政外交上の理由から、沖縄の旧慣制度をそ
のままにしていたが、宮古農民の人頭税廃止運動がきっかけとなり、政府は沖縄の近代化すなわち土地制度の改
革に、手をつけざるえなくなったということである。沖縄の諸制度の改革は租税制度改革であり、租税制度の改革は
土地制度の改革は土地制度そのものの改革であった。しかし沖縄の制度は複雑である。そこでとりあえず,郡区編制
ということでお茶をにごすことになったわけである。
だからこの勅令十三号は、いわゆる尖閣列島とは全く関係なくだされたもので、関係あるかのようにいうことは誤り
である。
(1)法学協会編『注解日本国憲法』下巻、有斐閣刊。『図解による法律用語辞典』自由国民社刊。を参考文献とす
る。
(2)区長、郡長、島司は官選によって任命され、その俸給は従前どおり国庫負担であった。そして官選の実質は、そ
れまでの役所長の名所を変更したにすぎなかった。
(9)『ひるぎの一葉』より
岩崎卓爾氏は一八六九(明治二)年仙台にうまれ、第二高等学校を中退して北海道札幌測候所に勤務、中央気象
台をへて、一八九八(明治三十一)年十月石垣島測候所に勤務、一八九九年に石垣島測候所所長となり一九三二
(昭和七)年退官し、一九三七年後が五月に石垣島で没した。彼は一生を通じて、木綿の着物を着て、下駄をはき、
洋服、洋傘、靴をもちいなかった。そして彼は石垣島の人たちから「天文屋のうしゆまい(じいさん)」と親しまれた。
一九一三年以後は妻子を仙台に帰して、年に一度東京で開かれる測候所所長会議に出席のついでに家族と会って
いた。程順則の『指南広義』が中央の機関誌『気象集誌』に彼の手ではじめて紹介された。退官後、彼は石垣島の
登野城に居を構え「袋風荘」と名付けた(『沖縄の百年』太平出版刊)。
一九七四年六月に,伝統と現代社から『岩崎卓爾一巻全集』が出版されている。ところが、一巻全集に載っている先
覚列島はほんのちょぴりである。彼の著作『ひるぎの一葉』のなかに「与那国島と波照間島と尖閣列島」があるが、
尖閣列島について、要旨つぎのように簡単にふれている。
@尖閣列島(通称クバ島また大正四年十月刊の水路図に尖閣諸嶼と記す)。
A尖閣列島(黒岩恒先生の新称)
B列嶼は魚釣嶼、尖閣諸嶼および黄色嶼より成る。
C先代古賀辰四郎氏が企図した初めのころ、退屈をなぐさめよとして猫を連れて行った。ところが繁殖力さかんで野
猫と化し、アホウ鳥は鳥から逃げてしまうようになった。無人島を開拓しようとする人は慎まなければならない。
D島嶼付近のカツオが群集することが多く、現在六九人がすんで漁×をしており、燐鉱あり。
また「石垣島気候篇」には「八重山群島の周囲と面積」に、南小島、北小島、魚釣島、久馬島の四島をのせている。
石垣市に四○年も生活し、石垣島測候所に銅像まで建ててもらった岩崎氏氏は、一九○○年に宮島幹之助や古
賀辰四郎とともに尖閣列島に渡った野村道安八重山島司とは同居人(仙台)だから、当然黄尾嶼や魚釣嶼のことを
きており、古賀辰四郎や息子善次氏の事業についても知っていたとおもう。だが,岩崎氏の尖閣列島についての記録
はあまりにも少ない。岩崎氏は古賀氏の事業には興味がなかったようである。東京の中央気象台が、岩崎氏を東京
によびもどして技師にしてやろうと幾度も声をかけたのに、「実は、ここが日本一空がきれいなのですと」応じなかった
彼のことだから、バカ鳥を捕まえて羽毛をむしり、肉は缶詰にして金もうけるというよな、ナマグサイことには気をひか
れなかったのかもしれない。
(1)一九三七年『沖縄日報』に連載、一九六七年、琉球新報社刊。
(10) 下関条約と台湾の受渡し
下関講和談判
日清戦争の講和談判は、一八九五(明治二十八)年三月二十日から下関の藤野楼(春帆楼)でひらかれた。日本
側全権は伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣であり中国側は李鴻章筆頭全権であった。会談は七回おこなわ
れた。
日本側の講和条約案は「奉天省南部と奉天省に属する島嶼」、「台湾全島及其付属諸島嶼及澎湖列島」などの割
譲と軍費賠償として三億両(テール)を要求した。李鴻章全権はこの日本の要求に対して、「日本は今回交戦の初
め、清国と干戈を交うるに到りたるは朝鮮の独立を図り清国の土地を貧るに非ずと中外に宣言せしに非ずや」、「兵
費に就ては今回の戦争は清国先づ手を下したるに非ず、また清国は日本の土地を侵略せしことなし。故に論理上よ
りいえば、清国は公費を賠償すべきものに非ざるが如し」と主張した。中国側は、一八九四年十二月二十五日をもっ
て、すでに朝鮮の独立自主を認める旨を宣言している、だから日本は戦争の目的を達したことになる。それ故兵費の
賠償は十二月二十五日までとし、それ以後の分について要求するのは不当だ、ともいった。日本側が「台湾全島及
其付属諸島嶼及澎湖列島」を日本によこせと要求したとき、中国側は「澎湖列島に限る事」と修正案をだした。伊藤
博文総理と李鴻章全権とのやりとりの日本側の記録はこうなっている。
李 貴国が未だ占領せられざる台湾までも要求の条件とせられるは、少なくともその真意を解するに苦しむ所なり。
伊藤 現に占領すると否とは、敢て問う所に非ず。仮し未だ占領せざるも、要求の条件とするにおいて何の妨げあ
らんや。
李 現に占領せざる地を要求せらるるは、其当を得ずと思考す。
伊藤 若し然らば、直ちに兵を送りて占領せしめんが如何。
伊藤総理はわれわれの最大の任務は、一日も速く講和条約を結ぶことであるとして「広島に於ては出征の準備己
になり、何時を問わず×を解かんとするの運送船六十隻あり、現に昨夜以来今朝までの間に、当時峡を通過したる
運送船二十席に達せり、而してその向かう所は、天津を距る遠からざるべし」といって李全権に圧力をかけた。
伊藤総理の脅迫によって、李全権は台湾を日本に割譲することをのぞんだわけだが、台湾の受渡しついてのやりと
りはこうなっている。尖閣列島に関連して、これは非常に重要である。
李 条約批准の時は貴国よい其高官の為めに全権委員を簡派せられんか、其節を以て土地引渡に関する規定を
十分商議せんとす。而して貴国に割譲したる土地へは無論武官を派出せらるべきも、之と同時に文官をも派遣せし
められたし。然らば引渡細目を議するに於て、双方に便宜多し。又実際の引渡は、批准交換後六箇月と決定せられ
んことを望む。
伊藤 六箇月は長きに過ぐるを以て許諾し難し。
李 兔に角批准交換後引渡に関する事項を商議する為に、双方より特に全権委員を任命せられざるべからず。
伊藤 条約第二条第二項の実行に就きては、別に取極書を起草し置きたり。
李 批准交換後に於て此事(筆者 引渡のこと)を決定せられたし。
伊藤 条約第二条第二項の実力に就きては、別に取極書を起草し置きたり。
李 批准交換後に於て此事(筆者注 引渡のこと)を決定せられたし。
伊藤 交換後にて不可、必ず今日に於てえ決定せざるべからず。
李 実は台湾に関しては、余は同地総督に指揮命令する権力を有せず。因て批准交換の時、貴国より北京に簡派
せられる全権委員と、我総理衙門との間に於て商議せられんことを望む。然らば我総理衙門はその商議の結果を以
て、台湾総督に指揮するところあるべし。因て此事交換後、通商航海条約、陸路交通貿易に関する諸条約と共に商
議せらたし。
伊藤 其の如き遅緩の措置許さず。必ず今日に於て確定せざるべからず。
李 然れども批准交換の非ざれば,土地の引渡を得ざるは勿論なれば、交換後全権委員をして実行せしむるの外
なし。今日は単に其事の約束のめに止め置かれんことを望む。
伊藤 約束のめ止まるは不可なり。我は実際の引渡を受くる為に何時と雖も全権委員を簡派すべし。必ず今日に
於て確定する所なかるべからず。
李 然れども余は台湾総督に向い、何等指揮するの権力を有せざれば、今日に於ては如何とも名言するを得ず。
伊藤 批准交換後は台湾は我主権の及ぶ所なれば,其場合に於いて何
等商議するを要せず。
李 台湾の引渡は少なくとも六箇月の猶予を乞わざる得ず。現に我官史及土豪等をして、公私の事務をもまとむる
丈の余裕を与えられざれば、或は為めに不慮の変生ずるなきや得し難し。
伊藤 閣下は何故に今日此の取極書に同意すること能はざるか。
李 余の権力の及ばざる所なれば,今決定するを得ず。.結局批准
交換後、両国全権委員をして商議せしめられたしと乞うの外なし。
伊藤 然らば閣下は何れの日会同して、何の日まで決定せんとするか。
李 其期限は今明答するを得ず。
伊藤 とても承諾し難し。
李 既に台湾割譲の条約なりたる後のことなれば、両国全権委員が最後の引渡に付ての規定を商議するなれ
ば・・・・・・
伊藤 然らば一定の期間を確定せざるべからず。先批准交換一箇月と取極め置かん。
伊藤総理は「講和条約批准交換後、一箇月以内に双方の政府は台湾に委員を派遣し、同批准交換二箇月以内に
最後の引渡を遂行すべし」という案を李全権に示した。これに対して李全権は、平和回復ができれば両国官史は友
好的にやってゆくのだから、そんなに期限を厳しくする必要はあるまい。閣下は実にに多く望まる(You are too
hungry)といった。批准書交換についても伊藤総理は条約調印後10五日といい、李全権は一ヶ月と主張した。伊藤
総理は十五日から二十日と妥協したが、李全権は二十日では不十分だと反論した。結局講和条約には第五条で
『日清両国政府は本役批准交換後、直ちに書く一名以上の委員を台湾省に派遣し、該省の受渡を為すべし、而して
本役批准後二箇月以内に、右受渡を完了すべし』と規定した。
講和条約は一八九五年四月二十三日に駐日独・仏・露三国の公使が外務省を訪れ、林次官に,日清講和条約中
の「×東半島の割地につき重大なる異議を」申したてた。いわゆる三国干渉である。そのことによって中国政府部内
日清講和条約の改訂・批准阻止を主張する声が大きくなった。伊藤博文総理大臣も陸奥宗光外務大臣もすっかりあ
わててしまい、結局、四月三十日に御前会議を開いて×東半島を永久に放棄することにきめた。批准書交換は五月
八日におこなわれ、五月十日には×東還付の天皇の詔勅が出された。
大急ぎの台湾受渡し
台湾の受渡しについては、筆者の手元にある岩波書店刊『近代日本総合年表』にも、おなじく岩波書店刊『日本史
年表』にも、また中央公論社『日本の歴史』別巻5の年表にも載っていない。だが、外務省編『日本外交年表』(原書
房刊)には載っている。
明治二十八(一八九五)年六月二日,清国全権李経方と樺山台湾総督間に台湾及び澎湖列島受渡を了す。
下関の講和談判で李全権は,台湾の引渡しには六ヶ月かかるといい、伊藤総理は一ヶ月と主張した。結局は二ヶ
月以内ということになったのだが、実際には批准書交換の日から二五日目に台湾の受渡しは完了した。講和談判の
なかで伊藤総理は、批准書交換後は台湾はわが主権のおよぶところだから、受渡しについてなにも中国とのあいだ
に相談する必要はないといったし、下関条約の台湾割譲に反対する台湾省民の抵抗武装力は、五月二十五日蜂起
しているのだから、中国側としても公私の事務をまとめて引継ぐという状況ではなかった。だから李経方全権と樺山
資紀台湾総督とのあいだの受渡しは、至極おおざっぱなあものであったろうと思う。だから台湾の付属島嶼名までい
ちいちあげるというようなことはなかった。一八九六年五月に大阪で出版された新直×編、吉岡平助発行の『高等小
学科地理補習用「台湾地理小誌・全」』には「台湾本島のほか島嶼の挙具べきものは西部の澎湖島を第一とし、つ
いで小琉球島あり、頭部に紅頭嶼、火焼嶼あり、また東北海中に二島あり、一を亀山といい、一彭佳嶼という」ときわ
めて簡単に書いている。
奥原敏雄教授は台湾が中国領になったのは一六八三年であり、棉花嶼、花瓶嶼、彭佳嶼などが台湾に行政編
以下 18行抜け
[ 井上清教授と奥原敏雄教授の古文書をめぐる論争
(1) 尖閣列島は台湾の付属島嶼か無主地か
京都大学井上教授(日本史)は、その著書『尖閣列島』のなかで、「国士舘大学の国際法助教授奥原敏雄のほ
かは、あえて歴史的説明を公表したものはまだ一人もあらわれていない」と書いている。国士舘大学奥原敏雄助教
授(国際法)は、直接歴史的古文書に触れて、いかにして尖閣列島が無主の地であったかを立証しようとしている。
尖閣列島が無主の地でなければ、古賀辰四郎、善次氏親子の尖閣列島開発事業という実効的支配の証拠を何
百ならべてみても、それらはしょせん、領有権主張の根拠にはならないからである。
奥原教授はこのことについて、雑誌『中央公論』一九七八年七月号掲載の同教授論文「尖閣列島領有権の根
拠」のなかでこう述べている。
もし尖閣列島が中国領であったと仮定した場合、わが国の立場はたしかに不利になる。台湾の付属諸島として尖
閣列島を扱った場合、日清講和条約第二条は、台湾およびその付属諸島を日本に割譲しているから、第二次大戦
後わが国が台湾を放棄した結果として……(尖閣列島も)放棄したことになる……。
また仮に台湾の付属諸島として扱わなかったとしても、中国領である尖閣列島の領有権をわが国が取得するため
には、時効の法理による以外にないということになる。ところが時効の法理は日清戦争といった事実が存在しない場
合に使い得る議論であって、もし日清戦争の存在を前提として、この問題を考える場合に、この法 理によってわが
国が尖閣列島の領有権を取得したとする主張は論理としていいうるとしても、主張としてはきした時期に、わが国が
領土編入したという行為そのものが、日清戦争の結果として、そういった行為を可能ならしめたということになるから
である……少くとも尖閣列島が中国領であるという前提に立つ限り、それが台湾の付属諸島であろうとなかろうと、
日本が日清戦争の結果として、初めて取得が可能になった地域ということになるからである。
そしてまた同論文のなかで奥原教授は、尖閣列島の考え方として六つあげている。
(1) 尖閣列島をめぐる領土紛争は政治的紛争ではなく、法的な紛争である。
(2) 私的な紛争ではなく、中国と日本の国家間の紛争である。
(3) 国家間の法的紛争だから国際法に従って解決しなければならない。歴史的見地から尖閣列島の領有を主張
するということと、その主張が法的に認められるかどうかは一応別問題である。
(4) ただし、国際法が歴史的事実を無視するということではない。問題は歴史的古文書が、国際法上に意味のあ
るものかどうかということである。
(5) 実効的支配を要件とする先占の法理は、現代の国際法のもとでも有効である。
(6) 歴史的見地に立つ中国領有論の大部分は、これは法的な観点から分析するならば、いわゆる発見、命名、領
有意思の存在だけで領有権の帰属が決定されると主張するにひとしいことになろう。このような主張は初期の先占
の法理にも存在したものである。発見優先の原則(国家の意思による発見)は、ポルトガルとスペインが海上の支配
権を握っていたヨーロッパ近世初期から一八世紀の後半まで有効であった。ただし、この場合の発見というのは、大
陸の一部を発見したことにより大陸全体の領有権を取得し得るというものではない。
わが国が尖閣列島の領有権を主張するには、先占以外にはない。割譲とか征服とか併合とかのいくつかの領有
主張の根拠があって、そのなかから先占を選んだわけではない。南方同胞援護会の尖閣列島研究会が、一年もか
かってだした結論は先占であった。無主地の先占を立証するために、資料を集めたと考えられる。先占を主張するた
めには、尖閣列島は絶対に台湾の付属島嶼であってはならず、それは無主の地でなければならない。国際法におけ
る無主の地の先占が、新たな領土取得の方法として、欧州列強によって、アメリカ大陸やアフリカ大陸での植民地獲
得のために機能したのは十九世紀以降であり、それは国家の一方的行為でおこなわれた。ところが奥原教授は、一
五三二年の中国の琉球王に対する第一一回目の冊封使陳侃の記録や、一五六一年の郭汝の記録を、一九世紀
の国際法に当てはめて解釈しようとしているところにたいへんな無理がある。
中国(明)の太祖が琉球中山王察度に詔諭をあたえたのは、一三七二年であり、太祖の冊封使が琉球に来たの
は、一四〇二年である。以来、琉中間には国境問題も領土紛争も全くなかった。琉球国は三六島であり、琉球国と
中国とのあいだに第三国があるはずはなかったし、無主の地というものがあるなどという理屈は、思いもおよばなか
ったことである。陳侃が皇帝の使節として琉球に赴いたときには、尖閣列島にはすでに中国の島名が付けられてい
た。そして、一九三四年に発表された陳侃の『使琉球録』は、四〇〇年も後世の国際法の法理「無主地の先占」に
対抗するために書かれたわけではない。これは、国際法における無主地の先占というものを知っていて、デ・ロング
アメリカ公使やアメリカのル・ジャンドル前厦門領事などにそそのかされて、一八七四(明治七)年に、台湾を無主の
地として兵を送り、中国から厳重な抗議を受けて、大久保利道内務卿が自ら中国に赴かなければならなかった明治
政府とはわけが違う。中国でも琉球でも官吏や船員は、福州から那覇へつうずるこの海の道をよく知っていた。琉球
の船員は慶良間で養成され、海外へ渡航する船の船員の三分の二までは慶良間の出身者であった。那覇と福州と
のあいだにある島は、琉球のものでなければ宗主国中国のものだという認識であった。また当時の中国の領土意識
から考えてもそうであった。
2 『三国通覧図説』の図をめぐる論争
林子平(一七三八〜九三年)の『三国通覧図説』中の「琉球三省並三十六島之図」は、一七八五(天明五)年秋
に東都日本橋北室町三丁目須原屋市兵衛が出版したものである。この図は福州から那覇への航路上に、花瓶嶼、
彭佳山、釣魚台、黄尾山、赤尾山を、ほとんど直線上に描き中国本土とおなじ桃色の彩色をし、琉球三六島と区別を
している。
奥原教授の主張
『三国通覧図説』の地図の色は、決して領土の帰属を識別したものではない。仮に、同色に塗られているから中
国領と理解した場合、旧満洲と日本とがおなじ緑色、北海道と琉球はおなじ褐色、台湾はこのときすでに清朝の版
図に正式に編入されていたのに、朝鮮とおなじ黄色に塗られていたのはどういうわけか。色からだけ問題にすれば
旧満洲が日本領、北海道は琉球領、台湾は朝鮮領になってしまう。林子平が出鱈目な知識しかもっていなかった
か、地図の色が領土を識別したものではないかのいずれかでなければならない。もし出鱈目な知識しかもっていな
かったとすれば、釣魚台などを中国領としたことの信憑性もきわめて怪しいことになる。林子平が依拠した原典は徐
葆光の『中山伝信録』(一七一九年)であった。『中山伝信録』には二枚の地図が付されている。一つは「針路図」で
あり、いま一つは「琉球三十六島之図」である。林子平の「琉球三省並三十六島之図」がこの二枚の地図を参考にし
てつくられたことは、一見して、明らかである。『中山伝信録』からは、いかなる意味においても、釣魚台が中国領に
属することは明らかにされていない。『中山伝信録』は伝聞に依拠している以上、第二級の価値しかない。
井上教授の主張
釣魚島とそのならびの島々に関する明治以前の古い記憶は、日本にはただ一つしかない。林子平の『三国通
覧図説』の附図の「琉球三省並三十六島之図」のみである。林子平は一七一九年の冊封使徐葆光の『中山伝信』
の図によって書いたものである。だから価値が低いのではなく、価値はきわめて高い。徐葆光は琉球に渡るにあたっ
て、琉球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点や誤りを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、と
くに中国人専門家を連れてきたほどである。彼は琉球王城のある首里に入るとすぐ、王府所蔵の文献記録の研究を
始め、程順則と蔡温を相談相手として八ヶ月間琉球の研究をした。程順則は琉球人で、中山王の家来であり、清皇
帝の陪巨であった。彼は琉球の生んだ最大の儒学者であり、地理学者であった。また、蔡温は、福州に三年間留学
して、地理、天文、気象を専攻し、のちに琉球王府の執政官となった人で、程順則につぐ当時の大学者であり、琉球
の王国時代を通じて最大の地理の専門家であった。
徐葆光は『中山伝信録』を著わした。この『中山伝信録』は出版後間もなく日本に輸入され、日本の版本もでた。
そして『中山伝信録』は明治初年に至るまでのあいだ、日本人にとって琉球に関する知識の最高の源であった。だか
ら、一八八五年九月二十二日付で西村捨三沖縄県令が山県有朋内務卿に提出した「久米赤島(筆者注 赤尾嶼)
外二島取調ノ儀ニ付上申」には久米赤島、久場島および魚釣島は、古来沖縄でいうところの島名で大東島とは異な
り、『中山伝信録』に載っている釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものではないかとの疑いがある、としている。また
同年十一月二十四日付西村県令から山県内務卿への文書では「清国ト関係ナキニシモアラス」と書いている。
程順則は一七〇八年に『指南広義』を著わしたが、琉球人の文献に釣魚諸島の名がでてくるのは、一六五〇年
に琉球の支配層のなかの親日派向象賢の『琉球国中山世鑑』巻五と『指南広義』の「針路条記」の章および付図と
の二つしかない。向象賢は陳侃の『使琉球録』をそのまま引用している。程順則の本は、だれよりも清朝の皇帝とそ
の政府のために、福洲から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣
魚島などのことが書かれている「福洲往琉球」の航路記は、中国の記録に依拠している。だから徐葆光の『中山伝
言録』の図によって描いた林子平の「琉球三省並三十六島之図」の価値はきわめて高いものである。
両教授の主張は原文のままではなく、著者の研究ノートとして整理したものである。
(1) 両教授の論争は、林子平の図の色分けについておこなわれているが、その図は尖閣列島が福州・那覇間に
直線的に点在している。ところが林子平の図には幾種類かあって国会図書館の図は、第11図のとおり?籠山のもと
に、まとめて描かれている。?籠は台湾の基隆である。
この図も天明五年秋、東都日本橋室町三丁目須原屋市兵衛梓のものであるが、その下に仙台伊勢□□助□
□とあり、これは奥原教授や井上教授の見た地図とは違っている。版木の彫り方もうまくない。これは初版かあるい
は幕府に版木をとりあげられたあとのものではなかろうか。この図も奥原教授としては別の三十六島の図と同様に中
国領と断定できるものではないかもしれない。
(2 奥原教授は、林子平が、出鱈目な知識しかもっていなかったのではないかといっているが、これは林子平に対
する評価を誤っている。林子平自身決して出鱈目な人ではない。経世家としてじつに優れた人であった。彼は仙台か
ら江戸に遊学、一七七五年長崎に行き、オランダ人からロシアの南下の形勢をきき、 「日本国」としての防衛の緊急
性を痛感して,このことを日本民族全体にひろめなければと考え、地理学・兵学の研究をし『三国通覧図説』を著わ
し、また『海国兵談』(一七八六年)を出版した。林子平は一七七五年の長崎行きののち、二度長崎を訪れ、また江
戸で大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周らの蘭学者と交わり、海外の事情をきいている。彼が出鱈目な人間でないこ
とは、一七八八年にロシアのエカテリナ二世女帝の命を受けたラスクマンが根室に入港して以来、ロシアの南下政
策は続き、一八七四年三月にはロシアのあいつぐ暴力によって、日本は樺太から居留民四五八八人を北海道に引
き揚げさせ、一八七五(明治八)年に樺太・千島交換条約を結び、樺太はすべてロシア帝国に属することになってし
まった。このことを見ただけでも林子平が出鱈目な人でなかったことがわかる。彼はまことに先見の明があったとい
わなければならない。
(3) 林子平の『三国通覧図説』は、「三国通覧與地路程全図」、「朝鮮八道之図」、「琉球三省並三十六島之図」、
「蝦夷国全図」 (北海道) 、「無人島大小八十余山之図」 (小笠原) の五枚にわかれている。だから、奥原教授が、
北海道と琉球はおなじ褐色に、台湾と朝鮮がおなじ黄色に色塗りされているから、色わけだけからいえば台湾が朝
鮮領に、北海道は琉球領になってしまうといっているのは、それはへ理屈というものである。
林子平の『三国通覧図説』はイルクーツクを経て、一八三二年にはドイツ人の東洋学者ハインリッヒ・クラプトール
の手にはいり、パリでフランス語に訳され出版されている。その地図も色分けされている。小笠原諸島の帰属問題で
の日米交渉の際には、「無人島大小八十余山之図」(小笠原)は、日本にとって有力な資料となった。
(3) 赤尾嶼と久米島のあいだ
『使琉球録』と『重編使琉球録』
陳侃は一五三二年に琉球に来た第一一回目の冊封使であり、郭汝霖は一五六一年の第一二回目の冊封使であ
る。陳侃の記録に『使琉球録』があり、郭汝霖には『重編使琉球録』がある。陳侃の『使琉球録』は「使事紀略」と「群
書異質」の二部からなっている。
陳侃の『使琉球録』より
九日、隠隠見一小山、乃小琉球也。十日、南風甚迅、舟行如飛、然順流而下、亦不甚動。過平嘉山、過釣魚
嶼、過黄毛嶼、過赤嶼、目休暇接、一昼夜兼三日之程。……十一日夕、見古米山、乃属琉球者、夷人歌舞於舟、
喜達於家。
郭汝霖の『重編使琉球録』より
(嘉靖四十年五月)二十九日、至梅花所開洋。幸値西南風大旺、瞬目千里、過東湧、小琉球。三十日、過黄
茅。閏五月初一日、過釣魚嶼。初三日、至赤嶼焉。赤嶼者、界琉球地方山也。
奥原教授の主張
陳侃が「十一日夕、久米島を見る、すなわち琉球に属するもの」といい、郭汝霖が「赤尾嶼は琉球との境の」島だ」
といっても、それまで通ってきた赤尾嶼、黄尾嶼、釣魚嶼等の島々が中国領であることを示す、いかなる証拠も見出
だすことはできない。冊封使録は中国人の書いたものであるから、赤嶼が自国領であるとの認識があったとすれば、
はっきり中国領とわかるように記述できたはずである。尖閣列島が中国領か琉球領かを決定する前に、両国のいず
れにも属さない無主地である場合がありうることを、最初から無視しているところに問題があるといえよう。冊封使録
に釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などに触れているのは、主として航路の目標とての関心からである。
井上教授の主張
そもそも当時の中国人の領土意識からすれば、琉球全土も中国皇帝に臣属している中山王の国土であり、一種の
属領であった。だから明治政府が強権をもって琉球処分をしたとき、中国側はそれに反対し、琉球二分案について日
中間で交渉がもたれたが、この件は一八八六(明治十九)年に至っても解決しなかった。日清間の対立はそのまま
放置されて日清戦争となった。日本の琉球独占が確立したのは、日清戦争で日本が勝利したことによってである。
明・清が琉球に冊封使をだした当時、 「普天の下王土に非るは莫し」 という中国人の天下観念からいっても、琉中間
に無主の地があるなどと考えるわけがない。冊封使はまぎれもなく中国領の福州から出発し、まぎれもなく中国領の
台湾の北を通り、やはり中国領であることが自明の花瓶嶼や彭佳嶼を通り、やがて釣魚島、黄尾嶼を過ぎて赤尾嶼
に到ったので、感慨をこめて、これが琉球地方を界する島だと書いた、この文勢文脈は、赤尾嶼までが中国領で、こ
こから先が琉球領だと解するのが普通であろう。
奥原教授の井上教授に対する反論
井上教授は、陳侃や郭汝霖が赤嶼(赤尾嶼)と久米島のあいだが琉中間の界をなすとする前提として、台湾を
「まぎれもない中国領」 としている。しかし、一六九六年の高拱乾撰『台湾府志』 によれば、台湾が中国領になった
のは一六八三年で、綿花、花瓶、彭佳三嶼が台湾に行政編入されたのは一九〇五(明治三十八)年で、日清戦争
以後のことである。井上清教授が台湾を 「まぎれもない中国領」 とした前提は崩れてしまう。井上教授は鄭舜功の
『日本一鑑』の 「釣魚嶼は小東(台湾)の小嶼也 」 から釣魚嶼は台湾の付属諸島であることが立証されるとしてい
る。また井上教授は、小東は明朝の行政管轄では、澎湖島巡検司に属し、澎湖島検司は福建に属しており、鄭舜
功は釣魚嶼を台湾の付属の小島と明記しているから、それは中国のものであることは明らかだとしている。しかし、
澎湖の巡検司制度そのものが『日本一鑑』の一六八年前の一三八八(明の洪武二十一)年に廃止されていた。
巡検司制度は唐の時代に設けられ、元もその制度を受け継ぎ、明の巡検司制度も元の制度をすこし改めた程度
のものであった。澎湖島巡検司が廃止されても、巡検司制度そのものが廃止されたわけではない。倭寇の侵入を防
衛するために 「衛」、「所」、「巡検司」 が設置された。そこに軍隊が置かれ、また城が築かれた。一三八六 (洪武十
九)年から一三八七(洪武二十)年にかけて、明朝は大規模な倭寇防衛対策を打ちだしたが、それはまず海浜の防
衛であり、築城であった。浙江省(昔は浙西、浙東に分けられていた)には、洪武十九年から二十年にかけて五九の
城が築かれた。中国の倭寇防衛策からきりはなして、澎湖島巡検司制度が廃止されたと単純な考え方をしてはなる
まい。
「中外之界」
汪楫(康煕二十年、一六八一年の冊封使)の『使琉球雑録』につぎのような記述がある。
二十四日天明ニ及ビ、山ヲ見レバ則チ彭佳山也……、辰刻彭佳山ヲ過ギ、酉刻釣魚嶼ヲ遂過ス。船空ヲ凌グ
ガ如クシテ行ク……
二十五日山ヲ見ル、応サニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザル也、
薄暮郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ、風涛大ニ作ル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥を溌ギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラ
シ皷ヲ撃チ、諸軍皆申シ刃ヲ露ハシ、舷ニ俯シテ禦敵ノ情ヲ作ス、之ヲ久シウシテ始メテ息ム、問フ、郊ノ義
ハ何ニ取レルヤ、日ク中外ノ界也(傍点は筆者)、界ハ何ニ於テ辨ズルヤ、日ク懸揣ノミ、然レドモ頃者ハ恰モ
其ノ処ニ当リ、臆度ニ非ル也、之ニ食シ復タ之ニ兵ス、恩咸並ビ消スノ義也(井上清論文¬釣魚列島の歴史と
帰属問題」『歴史学研究』一九七二年二号)。
冊封使たちの使録にしばしば過溝の祭がでてくる。「水皆黒色」とか「黒溝」とか「黒水溝」とも記されている。井
上教授は汪楫の使録のなかの「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ、日ク中外ノ界也」というのは赤嶼と久米島のあいだが
「中外の界」であると主張する。これに対して奥原敏雄教授は、汪楫は舟子との問答をそのまま記述するかたちで
「中外之界」に触れているだけであって、汪楫自身の考えを述べたものではなく、「中外之界」をめぐる汪楫と舟子の
問答は、冊封船の往路でなされたもので、その時期に台湾は、まだ清朝の版図に入れられておらず、翌年汪楫が帰
国した年に版図編入されているから、「中外之界」は領海域を意味するはずがない、と反論する。
しかし、この過溝の祭は、赤尾嶼の現場の状況と一致している。高岡大輔氏は『季刊沖縄』第五十六号につぎ
のように書いている。
大正島(筆者注 赤尾嶼)は魚釣島より役一〇〇キロ東方にあるが、台湾東海から北上して来る黒潮は魚釣島附
近で大陸棚上の大陸沿岸流と遭遇して北東に転向し、更に大正島附近で再び北方に方向を転ずるが、それは南方
系植物の濁流物が、これら群島の沿岸に打ちあげれていることからも証明されるというが、その黒潮の速度は大正
島附近で四浬と言われ、この附近を小船で船行することは、時に危険であるいう(「尖閣列島周辺海域の学術調査に
参加して」)。
また岩崎卓爾氏はこう書いている。
島の人達自から孤島の裡に跼蹐して蒼海を怖るる陸の人となりしは「ミジュ―」(海の溝の意)の難を恐れたのであ
る。ソハ風なくして潮浪の浪、白馬の如く奔り、或は風浪風波の為め構造跪弱なる船?々破壊、流寓漂浪の身とな
り、空しく貴重なる生命を喪ふた歴史は、これが実例を以て充満するからである。
黒潮の事を中国人は黒溝とか落?とかいって居る。黒溝というのは黒色の水流という義で黒潮というのと意味正に
一致している。次に落?というのは洋上の一段低く流るる潮流という意味で黒潮の流れは他の洋上よりは少し低く流
れて居ると見ゆる。中国人は落?を恐るること最も甚だしく隋、唐、明、清の昔より深く之を警戒して居たということは
中国の史書に散見するところである(『岩崎卓爾一巻全集』二六六頁参照。)
そして奥原教授も、「中外の界」というのは、「東シナ海の浅海と、琉球の西方沖を南北に流れる黒潮との境にあた
る潮の流れの段差を示す部分を指すことは明らかである」と述べている。
魚釣島も南、北小島もそうであるが、赤尾嶼は水深二〇〇メートル以内の中国の大陸棚の縁にちょっとのっている
というかたちで、それから沖縄の島々とのあいだの南北に細長い沖縄舟状海盆へと急に落ちこんでいるのである。
南方同砲援護会の目的は東中国海の海底石油を日本のものとするために、尖閣列島の領有権主張の根拠を探すこ
とであった。だから、尖閣列島は台湾の付属島嶼でないことを証明しなければならない。無主地であることを証明しな
ければならない。だから赤尾嶼と久米島のあいだが琉中間の境(界)であってはならないのである。
また棉花嶼、花瓶嶼、彭佳嶼の三嶼が日清戦争以前に台湾に行政編入されていたのでは困るのである。こうな
ると国際法とはカントの道徳律みたいなものに思えてくる。一九世紀の国際法が先にあって、一六〜七世紀の歴史
に光を当てて、いいとか悪いとかいっているようなものである。歴史は書きかえられるということとはわけが違う。
(1)小琉球は台湾、平嘉山は彭佳嶼、黄毛嶼は黄尾嶼、赤嶼は赤尾嶼。古米山は久米島、夷人は琉球人のこと。傍
点は筆者。
(2)梅花所開洋とは福州から出発したという意。東湧はいまの東引島。井上教授は黄茅はいまの棉花嶼ではないか
といっているが、これは高草嶼とも呼ばれた彭佳嶼ではないかとも考えられる。傍点は筆者。
(3)潮流の沖縄方言。
\ 井上教授と筆者の見解の相違
(1) 軍事基地か石油か
井上教授が尖閣列島を、一八九〇年代にも一九七〇年代にも、軍事基地として重視しているのに対して、筆者
はバカ鳥、石油という資源を重視しているというところに、考え方の相違のひとつがある。井上教授は、これらの島を
明治政府が重視したとする根拠として、一八八六(明治十九)年三月の山県有朋内務卿の沖縄視察、一八八七年四
月に沖縄県知事に任命された福原実知事が予備役陸軍少将であったこと、そしてまたその年の十一月に伊藤博文
総理が、大山厳陸軍大臣や仁礼景範海軍軍令部長らをしたがえて、軍艦三隻をひきいて六日間の沖縄視察をした
こと、そしてこれらは対清戦争準備のためであったこと、また一八九五(明治二十八)年一月、貴族院で「沖縄県県政
改革建議」が可決されたとき、提案理由の説明でも「沖縄の地たる、東洋枢要の地」、「軍事上の枢要の地」というこ
とのみくりかえし強調され、その要地の県政を改革して「海防に備えねばならぬ」ことが力説されたことに、端的にあ
らわれているとしている。
井上清教授はさらに、著書『尖閣列島』で、「この列島はまた、軍事的にきわめて重要である。ここに軍事基地をつ
くれば、それは中国の鼻先に鉄砲をつきつけたことになる」、「またこの列島の中で最大の釣魚島には、電波基地を
つくるという。周囲一二キロメートル、面積約三六七ヘクタールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくる
こともできる。潜水艦基地もつくれる」といっている。
筆者は、沖縄は国境の島々であるから沖縄を重視したとは思うけれども、明治政府は尖閣列島を軍事基地として
重視したことはなかったと答える。事実、バルチック艦隊の最初の発見者は宮古島の漁師で、石垣島の電信所にサ
バニに乗って知らせに行った。尖閣列島に見張りをだしてはいなかった。
また、現在でも軍事基地としての価値はない。北朝鮮に侵入させたスパイ船の心臓部を、三沢基地から爆破すると
いう時代である。久場島(黄尾嶼)には水がないし、魚釣島を潜水艦基地にもできない。かつて日本も米国も、尖閣列
島を軍事基地としたことはなかった。
(2) 窃取か割譲か
つぎは尖閣列島が、下関条約第二条によって日本領にされたのかどうかという点である。
井上教授は、著者が『朝日アジアレビュー』一九七二年第二号に発表した論文「いわゆる尖閣列島は日本のもの
か」に対してつぎのように反論されている。
高橋論文によって、私は島名の重要性を教えられたのだが、その論文が、釣魚諸島は下関条約第二条によって清
国から日本に奪いとられたのではないか、としている疑問には、私は否定的に答える。高橋が指摘している通り、台
湾・澎湖諸島とその付属島嶼の受け渡しは、「実に大ざっぱな形だけの受け渡し」であったことにはまちがいない。そ
れゆえ私も、『歴史学研究』二月号にのせた論文を書いたときは、高橋と同じように考えていたが、いまは本文第一
二、一三節(著者注 「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った」、「日本の『尖閣』列島領有は国際法
的にも無効である」)に書いた通り、ここは台湾略奪と同時に、かつ台湾略取と政治的にも不可分の関連をもって、げ
んみつに時間的にいえば台湾より少し早く、法的には非合法に何らの条約にもよらず、清国から窃取したと考える。
もしこの島々が、下関条約第二条にいう台湾付属の島(地理的なことではない)として、台湾とともに日本に割譲され
たものであれば、どうしてこの島は台湾総督の管下になくて沖縄県に所属させられたのか説明できない。明治十八
年以来、天皇政府がこの島を盗みとろうとねらいつづけた全過程をみれば、この盗み取りが、日清戦争の勝利と不
可分ではあるが、下関条約第二条との直接の関係はないと言わざるをえない(同教授著『尖閣列島』現代評論社
刊、一四六頁)。
筆者も井上教授に対して否定的に答える。
尖閣列島は、本書で客観的にみてきたとおり、歴史的にも地理的にも台湾の付属島嶼であり、日清戦争の結果、中
国から割譲を受けて日本領となったのである。これよりほかに考えようがない。下関条約第二条によって日本に割譲
されたものであれば、台湾総督の管下になくてはならないというのは、あまりにもまともな考え方であり、明治軍国主
義は、後世のまともな学者が、まともに考えて理解できるようなことはやっていないのである。どうして台湾総督の管
下におかなかったのかといえば、水産取締りのために魚釣島、久場島などに標杭を建てたいと政府に上申したのは
沖縄県知事であり、バカ鳥の島を開拓させてほしいと政府に願いでていたのは、那覇在住の古賀辰四郎氏だったこ
とを考えれば、尖閣列島を日本領にした以上、沖縄県下に所属させたのは当然であり、何の不思議もない。もっとお
おざっぱに、もっと乱暴に考えた方が、伊藤内閣のやった現実に合致する。
井上教授は「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った」といわれるが、なるほど経過をみればそうと
もいえる。しかし事実ことの本質は、下関条約第二条によって、井上教授のいう窃取が割譲に変ってしまったのであ
る。この条約によって沖縄と台湾とのあいだに国境がなくなってしまったことにより、尖閣列島の日本領有は割譲によって確定したというほかはない。
http://senkakujapan.nobody.jp/page067.html
海上の道はあったか−琉球人−
日本人の源流を探す旅の出発点は、沖縄本島の具志頭村港川での“港川人”の発見であった。
そして旅の終わりもまた、その沖縄本島を含む、南西諸島を訪ねることとしたい。
それは、この旅の中で幾つもの課題が出来たからである。
1)琉球民族がどのように形成されたか。アイヌとの近縁性は事実か。
2)農学の佐藤洋一郎がいうように、熱帯ジャポニカは「海上の道」を伝って渡来したのか。
3)神話学が説く「古栽培民(芋などを主とする原始的な農耕民)」の渡来ルートは?。
4)日本語の語彙の多くがオーストロネシア語由来と言うが、オーストロネシア語を使う民族集団の大規模な渡来があったのか。
柳田国男が説いた「海上の道」が本当に機能し、以上のような疑問に答えうるのか、南西諸島にその痕跡を訪ねよう。
「海上の道」はあったか?- 南西諸島の地域別の歴史-
この項は、纏まった文献や解説がなく困っていたが、意外にもweb上に優れた論文が発表されていた。
小田静夫氏の「琉球弧の考古学 −南西諸島におけるヒト・モノの交流史−」と木下尚子氏の論文「貝交易の語る琉球史−発掘調査でわかったこと−」の二つである。
まず、小田静夫氏の「琉球弧の考古学 −南西諸島におけるヒト・モノの交流史−」をテキストとし、参照、引用させていただいた。詳しくは、下記のwebをご覧ください。)
http://www.ao.jpn.org/kuroshio/hitomono/
まず、次のランドサットの写真から、地政学的に俯瞰してみたい。
南西諸島とは、この写真で明らかなように、ユーラシア大陸の東端の比較的浅瀬に浮かぶ島々である。その更に東は、深い海溝となって沈んでいる。
したがって、氷河時代の特に寒い時期には何度も陸化し、台湾島を介して大陸と繋がっていたことは疑いない。その陸橋を伝って、3万2千年前に山下洞人が、1万8千年前に港川人が沖縄島にやって来たのであろう。
港川人の形態が、ジャワ島のワジャク人に近似し、且つ進化の延長線上に縄文人が位置することから、日本人の南方起源説や二重構造モデルが出来たことは、すでに説明して来た。
不思議なことに、人骨が出土するのに、彼らが使っていたはずの石器や骨角器などの考古学的資料がこれまで確認されていなかった。
しかし、山下洞穴の出土資料を再調査したところ、礫器1点・敲石(たたきいし)2点など旧石器遺物の可能性が指摘されるに至っている。
小田静夫(敬称略。以下同様)によると、この地域の旧石器文化は右図のように展開していたようである。
トカラ海峡を境に、九州では既に詳しく調べたナイフ形石器やその後の細石刃の文化が、南西諸島の中部地域と南部地域は、東南アジア、南中国、台湾島などの南方地域との関連で捉えられる「不定形剥片石器文化」が展開していた。
ただし、これは旧石器時代の話で、冒頭の諸課題に応えられる時代の話ではない。
その後の歴史は、北部・中部・南部のそれぞれの地域で、様々である。
沖縄県の埋蔵文化財センター発行の「いにしえ紀行」に記載の年表を改変して纏めると次のようになる。
まず北部の島々は、旧石器時代以来、一貫して南九州の文化圏に属し、九州の土器文化をストレートに受け入れ、西日本の文化と歩みを共にした。(したがって年表も本土の中に含めている。)
一方、中部の奄美や沖縄地域に、縄文文化が伝わるのは大幅に遅れた。上表の灰色の部分は歴史の空白部分である。
1975年、沖縄本島中部の渡具知東原(トグチアガリバル)遺跡で、中九州の曾畑式土器が発見され、さらにその下から爪形文土器が出土した。しかも爪形文土器が出土した層は、アカホヤ火山灰層の上層からの発見であった。
すなわち、この時、7000年前ごろ?(旧年代観で6000年前ごろ)、中部地域に九州の縄文文化が伝播したと考えられる。そして歴史の空白は停まり、本土の鎌倉時代近くまで続く、長い「貝塚時代」が始まる。
その後、本土が弥生時代に入り、水田稲作農耕が発展しても、沖縄で同時代、稲作が行われた形跡はない。(沖縄で稲作が導入されたのは、ずっと後のグスク時代に入ってからである。)
おそらく、南九州がシラスという火山灰や火砕流の噴出物の土壌であるため、水田稲作に適さず、稲作文化の南下を阻んでいたうえに、沖縄自体が珊瑚礁の土壌で、ここも稲作には適さなかったからであろう。
むしろ、石器の中に木の実などを摺り潰す道具(石皿、磨石)が多くあり、植物質食糧をよく調理していたことが看取されることから、ヤマイモのような根栽類の「栽培農耕」があった可能性が指摘されている。
また佐々木高明は、「日本史誕生」(p351)のなかで、
−−おそらく、この種のイモ類とアワなどを主作物とする、焼畑(畑作)農耕と漁撈とが組み合わされた生業の類型が、南島の基層文化の中に早くから定着していたと考えられる。・・・貝塚時代の前期から後期にかけて、アワや陸稲などの穀類の重要性が次第に大きくなっていったのではないか−−−
このように記述している。この陸稲という記述が、かすかに熱帯ジャポニカの栽培の可能性を暗示している。
九州の稲作文化を受け入れなかった沖縄諸島は、その後も生業形態を変えず、すなわち貝塚時代のまま、その後の存立基盤を、次に検討する“貝輪原料の供給基地”という南洋島的特性の方に置くようになる。
したがって、この地域は、本土で言えば縄文前期から平安末期までの長期に亘って、漁労、狩猟の原始生業形態を続け、12世紀ごろに突然、群雄割拠の戦国時代・グスク時代に入る、すなわち一足飛びに中世となり、琉球王国へと飛躍してゆくことになる。
南部地域、すなわち宮古・八重山諸島では、ピンザアブ洞穴から2万6,7千年前の、子供を含む数個体の化石人骨が出土し、旧石器時代に人がいたことが確認されているが、その後、空白の時代が長期間続く。
実は宮古島と沖縄諸島との間は290kmも離れ、「宮古凹地」とよばれる無島海域が広がっている。そのため中部地域と南部地域はお互いに望見することが出来ず、往来が断絶されていたからであろうか。
この南部地域(先島地域とも言われる)に新石器時代が訪れるのは、約4000年前のことである。
波照間島で下田原貝塚という遺跡が発掘されている。出土した土器は、紀元前1800〜1300年前ごろの、胎土の粗い、丸底の八重山式土器で、一方、石器のほうは、刃部だけを磨いた局部磨研石器で、台湾の巨石文化期のものと類似するとの見方がある。
石器類が耕作用とみられることから、当時、すでに漁撈と共に、イモやアワを主作物とする畑作農耕が行われていた可能性がある。
この南部地域は、その後不思議な動きをする。新石器時代後期といわれる紀元前後のころから、折角持った土器文化を忘れ(捨て?)、また「無土器文化」に逆戻りする。これは、この地域の衰退を意味するわけではない。
周りの珊瑚礁の海から得られる豊富な食料資源に支えられ、人口は増加し集落の規模は拡大しているのである。
土器を使わなくなった彼らは、いわゆる「ストーンボイリング」と呼ばれる調理用の石蒸し方法を多用し、その遺構も残している。
また、石斧に加え貝斧というシャコガイから作った特殊な道具を使ってる。
これはフィリッピン方面との繋がりが指摘されている。(右図参照。貝斧拡大サンプル)
このように南部地域は、考古学的資料からは、10世紀ごろまで南方の文化が卓越していたとみられ、北部、中部と違って、本土の文化の影響は受けなかった。
また、民族集団としても、縄文人や弥生人との交流がなく、むしろ台湾やフィリピンなど南方との繋がりを感じさせる。
この南方の文化は、神話の研究で課題として残した、「古栽培民」の文化であろうと思われるが、そうだとしても、本土への伝播はどういう経路を取ったのであろうか。
この南部地域が、北部・中部の地域と一体化するのは、与那國までグスク が築かれるようになるグスク時代においてである。
貝輪交易の供給基地として発展
(この項は、 熊本大学文学部・教授 木下尚子氏の論文「貝交易の語る琉球史─発掘調査でわかったこと」 をテキストとし、参照、引用させていただきました。詳しくは、下記のwebをご覧ください。)
http://homepage3.nifty.com/okinawakyoukai/kennkyuukai/146kai/146kai-1.htm
弥生、古墳時代を通じて、中部地域の沖縄諸島は貴重な貝輪の原料となる、ゴホウラやイモガイなどの産出地であり、供給地であった。
まさに木下尚子(敬称略。以下同様)が言うように 「沖縄では先史時代以来、貝交易が連綿と続いて、これが沖縄の古代史の大きな特徴となっている」。
それは右の図から明らかなように、弥生時代、古墳時代を通じて南海産の貝輪が日本列島を中心にいわば必需品であり、一部は朝鮮南部の王族に届けられるなど、根強い需要が持続したからである。
弥生時代の北部九州の出土状況を見ると、鏡や武器が副葬され、貴金属や玉類で着飾った人物は、政治的権力者であり、貝輪を嵌めて埋葬されていた少数の人たちは、儀礼にかかわる祭司者、宗教者であったのではないかと考えられている。
木下によると、さらに弥生末からは本土の台頭してきた地方豪族が、好んでこの南海産の貝輪をつかったことから、古墳時代のヤマト王権もこの風習を継続したと言う。
問題は、縄文時代を含めれば数千年に及ぶ貝の交易が、琉球人の形成にどう関わったかである。この点に関しても、木下尚子は極めて興味深い指摘をしている。すなわち、貝の交易は、“分業体制”で行われていたと言う。
弥生時代、需要者は勿論、北部九州の祭祀者層であったが、交易運搬に当たったのは、西北九州弥生人であったという。西北九州人が海上輸送能力に優れていたのか、言語面などで北部九州人より意思疎通がうまくいく歴史的背景があったのか、何らかの理由があってのことであろう。
西北九州人は夏の台風シーズンを避け、北風の吹く(すなわち順風の中を)秋から冬に沖縄島にやって来た。そして、暖かい島で冬を過ごし南風とともに黒潮に乗って西北九州に帰っていった。なんとも優雅な交易である。
木下は九州や琉球列島の弥生時代の遺跡から、以上のような事が想像できると言う。たとえば、沖縄諸島、奄美諸島、トカラ列島に点々と残された箱式石棺墓は、西北九州沿岸部の弥生人が好んで使った棺であり、貝の運搬の途中で落命したような仲間をみんなで葬ったものだろうという。
西北九州弥生人が冬の間、沖縄諸島に留まったり、そこに墓を造ったり、また琉球人と共同作業も考えられるから、当然、遺伝子の交流があったと考えて間違いないだろう。
その後、この貝の道は次第に合理化され、西北九州を経由しない、有明海・佐賀平野経由のルートが開発される(上図 黄色のルート)。そうなると交易に携わる人も変化し、西北九州人から肥後、薩摩の人々が中心になり、種子島人や奄美諸島人の役割も増大する。
当然、南九州人と奄美・沖縄諸島人との遺伝子交流も頻繁になったに違いない。
木下はその後の貝交易を含め、次の表のように纏めている。
(第4部08項-HLA遺伝子から見た民族集団の近縁度で、徳永勝士が、 大陸系の新しい遺伝子が沖縄集団に流入したと指摘しているのに対し、筆者は否定的な意見を述べたが、上の表のように7〜9世紀、唐との活発な貝交易があったならば当然、遺伝子の流入もあったであろう。ここに訂正しておきたい。)
以上、考古学的側面や文化・経済の側面から南西諸島について調べてきたが、西北九州人や南九州人が、沖縄諸島まで南下してきたことは確実となり、本土人と琉球人の均質化が進んだものと思われる。
しかし神話や言語から推測された南方からの、イモ栽培や雑穀栽培の文化の伝播や、大量の語彙をもたらすような文化の流入の痕跡を見出すことは出来ないでいる。
原アイヌ人が一気に南下した?-不思議なGm遺伝子の分布-
第1部08項でも検討したGm遺伝子の頻度について、もう一度確認しよう。
台湾の原住民、高砂族は、Gm遺伝子afb1b3を76%も保持している。afb1b3は南方アジア系民族の標識遺伝子であり、高砂族がインドネシア系の言語を使うこととも、きっちりと符合する。
それに対し、台湾から僅か100kmあまりしか離れていない与那國島をはじめ、宮古、石垣の住人は、ほとんど、その遺伝子を持っていない。
この信じられないような、断崖絶壁とでもいうような遺伝子頻度の格差の存在を説明するには、上述の考古学的知見から、10世紀ごろまでインドネシア系の言語を使う南方系の集団がいたが、グスク構築期に沖縄本島などから、強力な豪族が南下し、先住民を駆逐した。
こう説明するほか説明のしようがない。(それでも、afb1b3遺伝子が中部地域の半分に過ぎないという、低さの説明には不十分であるが。)
あえてそのafb1b3遺伝子の低さを説明する仮説を作るとすれば、4000年前ごろ、南部地域に新石器時代をもたらしたのは、南九州の縄文人か南西諸島北部の縄文人で、彼らが南部地域まで南下して住するようになった。その後も近隣の高砂族などと交流することなく現在に至った、というものだ。(この場合、南九州の縄文人と東日本の縄文人は人類学的には、同一と考えてよいほど縄文人は均一であった、ということでなければならない。一般的なアイヌ・琉球人同系論の立場の人は、そのように考えているのであろうか。)
あるいはもっと大胆に、丁度4000年前ごろに起こったと、以前から筆者が指摘して来た、東日本人の1万人規模での西日本地区への南下、そのうちの一団が南西諸島、それも南部地域まで一気に南下したとする。すなわち、東日本縄文人(原アイヌ人)が南西諸島全域に、且つその最南端まで移動した、そしてその後、その人たちに被さるように、弥生人や古墳人が南西諸島中部地域まで進出した。
こういう仮説を置けば、Gm遺伝子の不思議な分布も、アイヌ・琉球人同系説も無理なく説明することが出来る。
しかしこういう仮説で、遺伝子の分布はうまく説明できても、文化面からの知見、すなわちグスク時代以前までは南方の文化が卓越していたと言う事実との整合性がない。
アイヌ民族と琉球人の系統論-同系説と異系説-
日本列島の南端と北端に居住する沖縄の人々とアイヌの人々が、形態的に似通っているということは、明治のお雇い外国人医師、東京医学校のベルツも認めていた。この「アイヌ沖縄同系論」は、遺伝子からはどのように考えられるのか。
人類進化学の斎藤成也は、尾本恵市との共同研究成果として、次のグラフを提示する。
(この近縁図のブーツストラップ法による確率=85%)
この簡素に纏められた近縁図から、アイヌ人が他の集団から離れているが、沖縄人と結びついて一つのグループを形成していることが分かる。斉藤成也はこれを次のように説明している。
−−アイヌ人が独特な遺伝的特徴を濃く残しているのに対して、遠い過去には共通性の高かった沖縄人が、弥生時代以降の九州からの移住によって、本土人と遺伝的にずっと近くなった、ということを示唆している。さらに本土人の位置そのものが、韓国人を代表とするアジアの人類集団からの影響を強く受けていることを示している。−−と。
さらに斎藤はアイヌ沖縄同系論の立場に立って、日本列島の集団が、かなり複雑な時間的発展をしたと、次図のような展開を考えている。
筆者の日本人形成の詳細図は、この斎藤の図に啓発されたものである。
一方、ミトコンドリアDNAの分析からアイヌ沖縄異系論を支持するのは、宝来聡である。
宝来は日本の3集団(本土日本人、アイヌ人、琉球人)と韓国人、中国人の合計293人のmtDNA482塩基(Dループ領域といわれる)の配列を決定し、分析した。
その結果、293人から207種類のmtDNA配列のタイプが観察された。このうちの189タイプは、それぞれの集団に固有のものであった。つまりタイプの大部分、90%以上が一つの集団でのみ観察され、他の集団ではみられないという結果になった。
(これはmtDNAが、遺伝子の概念からいうと、極めて早い速度で変化し、したがって多様性を持つものだということを示していると、筆者は理解する。)
残りの18タイプだけが集団間で共通してみられるもので、このうち14タイプは2集団間で共通であり、4タイプは3集団にまたがって共通に見られた。これを図示したのが次の図である。
この図は宝来の原図から筆者が改変して作成したものである。
琉球人を例に見てみよう。琉球人と線で結ばれた集団は、本土日本人と韓国人のみである。アイヌ人とは結ばれていない。すなわち、琉球人とアイヌ人とに共通するmtDNAのタイプがない、共通する母親はいなかった、ということになる。
本土日本人との関係で言うと、3つのタイプで共通し、本土日本人、琉球人それぞれ8%ぐらいの人が共通のmtDNAを持っているということになる。
これらの結果は、アイヌ沖縄同系論を否定するものである。筆者もこの結果を肯定的に捉えている。
以上、思った以上に“琉球人”には苦戦を強いられた。しかもいろいろ逍遥したものの、最初に掲げた課題の解決には程遠かった。特に日本語の語彙にオーストロネシア語が80%も混じっている、という崎山理の主張の根拠を見つけ出すことは出来なかった。
「日本人の源流を探して」と題して研究してきた日本人の起源について、これで一応、草稿を完了したい。沖縄の検討を加えた、筆者の日本人の成立モデル完成図は次のとおりである。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn5/005_06kamigaminosisonn_ryuukyuujinn1.html
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/441.html#c4
02. 茶魔 2012年10月04日 21:29:28 : xWLiSM63uBbJc : 0EopofEgjc
まだ詳しく読んでいない(ななめ読みw)ので多くのことは言えないけど、「無国籍地帯」って法律とか管理とか治安とかどうなるの?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/713.html#c2
57. 2012年10月04日 21:32:50 : ZA5fXNvf26
>55.
何だかなあ、、、
>鄭若曾の琉球國圖
これって、単なる地図、「三国通覧図説」の様な所属を明らかにする為ではなく、どの島がどのような位置に在るのかという、配置図でしょう。
何故なら、もしもこれが琉球に所属する島々を示したものならば「小琉球」=台湾も琉球に所属することになる。
しかも、もしも鄭若曾の琉球國圖が領属関係を示したもので、中国の琉球認識となったのであれば、それ以後の冊封使にその認識は反映されていなければならないはず。
また他方、当該地域が琉球に属することが琉球人の認識になってるのであれば、当然、琉球の正史「中山世鑑」にそれは反映されていなければならないはず。
それ以後の冊封使の記録にも「中山世鑑」にもそれを覗わせる様なものは無いのだから、鄭若曾の琉球國圖は単なる地図(配置図)と観るのが正解だと思いますね。
>緑間栄
寡聞にしてその人の名前は存知あげないが、ネットで見ただけで、読むまでもないと思いましたなww
あの「正論」レベルってだけでね(嘲笑)
何せ、自ら検証もすることなく、「先占」手続きを取ってると断言する「国際法の専門家」だなんて、それこそ非常識ぶりが白日の下に曝け出された原子力ムラの連中と同じでしょう。
貴方もまた、言論の自由についての刷り込まれといい、良い勝負ではあるけど。w
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/264.html#c57
05. 2012年10月04日 21:34:15 : S6dNBJxrx2
米倉さんあんたが心配することではない、早く日本から中国に逃亡したほうが身の
為ではないか?
もう原発問題や日中のことなど若い世代に任せて楽隠居したほうが宜しいのでは?
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/718.html#c5
25. 2012年10月04日 21:34:20 : TtFI4lRQZc
・前立腺癌小線源療法 - Ustream
... 前立腺癌小線源療法:前立腺癌小線源療法に使うシードはI125で半減期は60日、植え 込まれるのは80個程度、1個当たりの放射能は2千万ベクレルです。
www.ustream.tv/recorded/13678824 - 55k
・前立腺放射線治療線量
米国NCCN clinical practice guidelineでは,低リスク群には前立腺(±精嚢の近位部)をターゲットとし,70〜75 Gy/35〜41回/ 7 〜9 週が推奨され・・・
http://www.kkr-smc.com/rad/guideline/2008/prostate_ex.pdf
・グレイ(Gy)とシーベルト(Sv)はどう違うのでしょうか?
Sv=放射線の種類による生物効果の定数×Gy
で表されます。・・・特殊な例を除いて、通常の被曝はX線、線が主ですのでGy=Svと扱ってかまわないことになります。
http://www.hicare.jp/09/hi03.html
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/681.html#c25
09. 2012年10月04日 21:34:21 : 7odGb1kFBM
根本は、国の持ち家政策自体が間違いってことじゃないの?
パリ市だったか、土地はパリ市のもの、とか。
土地が投機の対象になること自体、問題と思う。
夢のマイホームとか言って、庶民を躍らせ、家のローンを払うために人生の大半を費やし、家族団らんもままならぬ、あくせく働かざるを得ない状況に追い込んで、政府に反抗する気力を萎えさせるのが、日本の政策なんだろか。本来は、国が適正価格の優良賃貸住宅を提供すべきだろうね。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/793.html#c9
03. 茶魔 2012年10月04日 21:34:46 : xWLiSM63uBbJc : 0EopofEgjc
とぎれとぎれでゴメンw
>尖閣の問題は、いずれ起こることでした。
ってことは棚上げなんかやっぱ問題の先送りであってやっちゃダメってことじゃね?(昔であっても)
言ってることが理解できねぇ〜w
いやこれはオレの頭の問題も関係してるかも・・・
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/713.html#c3
69. 2012年10月04日 21:34:52 : MDURCTUJ7k
同和問題と同じ手法。
知らなくていいモノの見方で人心をあおり、
本来、東電、霞ヶ関官僚組織と原子力ムラを糾弾し、
闘うべきなのに、
おどろおどろした内省的なものに問題をすりかえようとしている。
汚いやり方だ。。。
江川女史って、何者なんだろう?
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/644.html#c69
「紅衛兵向け中国地図でも尖閣は日本」 返還時、米CIAが報告書(産経ニュース)
2012.9.28 21:56
【ワシントン=佐々木類】米中央情報局(CIA)が、沖縄県の尖閣諸島をめぐり、「領土問題は存在しない」とする日本の主張を裏付ける内容の報告書を作成していたことが27日明らかになった。
報告書は、日米両政府が沖縄返還協定を調印する直前の1971年5月に作成。当時の中華民国(台湾)が、米国の尖閣諸島を含む沖縄の施政権に注文をつけたのを受け、CIAが調査を行ったもので、米ジョージ・ワシントン大国家安全保障記録保管室に保管されていた。
■66年に刊行
報告書は、中国で文化大革命の担い手だった紅衛兵向けに66年に刊行された地図を例に挙げ、「尖閣諸島は中国の国境外に位置しており、琉球(沖縄)列島、すなわち日本に属していることを示している」と指摘。67年8月に北京で刊行された一般向け地図帳でも「尖閣諸島は琉球列島に含まれる」と表記されていると報告している。
台湾でも「尖閣海域が中国側の境界内にあると表示する地図はなかった」とした上で、旧ソ連や無作為に抽出した欧州の地図にもそうした表記はないとした。
報告書は、「尖閣海域に埋蔵資源の存在が明らかになった後、中華民国が領有権を主張し、これに中国共産党政権が続いて問題を複雑化させた」と指摘。歴史的にも国際法上も日本固有の領土であるとする日本の主張について「説得力があり、尖閣諸島の領有権の根拠を示す責任は中国側にある」とし、「尖閣諸島への中国のいかなる行動も、米国を日本防衛に向かわせるだろう」と結論付けた。
■台湾は改竄
これとは別に、都内の財団法人「沖縄協会」の調べによると、台湾当局は71年、中学2年生向け地理教科書「中華民国国民中学地理教科書」で、領土境界線を“改竄”し、尖閣諸島の呼称を「釣魚台列島」に改めていたことが判明している。
70年の教科書では「琉球群島地形図」で、同諸島を「尖閣諸島」と明示し、台湾との間に領土境界線を示す破線を入れ日本領としていた。だが、71年に呼称を「釣魚台列島」に変更、破線を曲げて沖縄県与那国島北方で止め、領有権の所在を曖昧にしていた。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120928/chn12092821580008-n1.htm
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/274.html
02. 2012年10月04日 21:35:33 : LhWoGB2aks
申し訳ありませんが、結論として何が言いたいのかわからない。
>日銀は何も富の創造ができているわけではない。
言い切れる程、否定されることではありません。
むしろ私はお金の創造から、富が生まれると思います。
お金という対価がなければ、人は働こうとしないでしょう。
たとえお金がただの紙切れでも、それが日銀の発行したお金なら、
人はそれを得ようとして働き、そこに富が生まれます。
働き口がない、働いても十分な対価が得られない、企業がその解散価値以下の評価しかされない。
それは市場を出回るお金が少ないということを反映しています。
大きな流れとして、お金が預金としてdead moneyになって経済に入って行かない。
だから政府が国債として吸い上げて戻してやらなければ、どんどん経済は縮小してゆく。
国債は所詮ゼロサムで、お金が増えることにはならない。
お金は、日銀が発行するか、人々の借金にたいして銀行が作り出すしか増えようがない。
デフレで借金をしようとする人が減っている現在は、日銀にのみ、お金を増やす力があるのです。
>単に貨幣の供給量を増やしてインフレ圧力を増すだけだ。
それが今、必要とされていることなのではないでしょうか。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/811.html#c2
http://www.minyu-net.com/news/topic/1004/topic3.html
5日に生乳の出荷が始まる福島市の「ミネロファーム」
東京電力福島第1原発事故に伴う避難で、生産休止に追い込まれた酪農家ら5人が中心となり準備を進めていた福島市松川町の「ミネロファーム」が5日、生乳の出荷を始める。被災酪農家が力を合わせた再挑戦が本格的にスタートを切る。
同牧場は被災酪農家の支援などに取り組むNPO法人「福島農業復興ネットワーク」(理事長・伊藤房雄東北大大学院教授)が運営。乳製品メーカーのダノングループや県酪農協同組合が支援する。牧場を切り盛りするのは飯舘村と浪江町から避難、酪農が続けられなくなった酪農家5人だ。
ファームは震災で休止した酪農施設を借り受け始まったが、当初は牛が1頭もいない状態だった。これまでに約90頭の乳牛を確保、11月中には当面の目標だった150頭の乳牛が集まるめども立った。
飯舘村長泥から避難、現在は福島市で暮らしながら同ファームで働く田中一正さんは、出荷の準備が整ったことに安堵(あんど)の表情を浮かべる一方で、「これからが大事」と気を引き締める。
(2012年10月4日 福島民友トピックス)
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原発・フッ素27
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/720.html
05. 2012年10月04日 21:41:28 : HNPlrBDYLM
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:. :. :.| ; ; ; ! ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;ヽ ; ; ; ; ; ;l! }ヽ | \ / {、__/; ; ; ;.N | |
尖閣列島あれこれZ
(1)藤田元治の削除
藤田元治氏は、一九三八年冨山房から出版した『日支交通の研究』『中近世論』のなかで、おおよそつぎのように述べている。
台湾の北富貴角を東にまわると、基隆港口に基隆嶼周囲二〇町(筆者注 約二、二〇〇メートル)の孤立せる黒岩がある。其の北に花瓶、綿花、彭佳の三嶼が鼎足の形をなしている。この彭佳嶼の東にさらに尖閣群島がある。
日本の多くの地図には載っていない。台湾の版図にも沖縄の版図にも、そこまで広く書いていないのが例であるからだが、日本総図ならば載せなくてはならぬ島である。もちろん沖縄県八重山郡に属する帝国領土で ある。尖閣の名は沖縄県師範学校教諭黒岩恒氏の実地踏査の時の命名で、明治三十三年の地学雑誌に同氏の報告がある。この諸島の中で最大のものを鉤魚嶼という。英国製の地図にピンナクル島 Pinnacle Is. と出てい る。
ところがこの島を沖縄県人はユクン・クバと呼ぶ。これは随書『琉球伝』に記されているところの義安すなわち広東から琉球に至る航路のうちに●●嶼の名残りである。●●は音クヒ、すなわちクバである。ユクンとは「ユークの」という語の約で、つまり「琉球のクバ」という意である。日本人は隋の煬帝の大業三年 (六○七年、聖徳太子摂政十五年)ころの名だということをしらないから鉤魚(ky y●)という字を誤って逆に魚 釣島ということにしてしまった。
それはともかくこうした記録によって一、三○○年来中国と日本との航路に は重要な島であったことがわかる。この島は実に台湾の北端を離れて、南風に乗じて東へ十更、西表島の北九○浬、基隆から一二○浬にあたり、沖縄島へ二三○浬であるが、陳侃使録には
「十日南風甚迅、舟行如飛、然順流而下、亦不甚動。過平喜山、鉤魚嶼過黄色嶼過赤嶼目不暇接、一昼夜兼三日之路、夷舟帆小、不能相及矣、相失在後、十一日夕見古米山」とあるところで、南風にあえば順流即ち黒潮にものるので三日の路を一昼夜で快走することが出来たと見える。平嘉山というのは彭嘉山であり、現在の彭佳嶼である。
ところが藤田元治氏は、十一日夕見古米山のつぎに、
「乃属琉球者、夷人歌舞於舟、喜達於家」
とあるのを削除してしまっている。陳侃の『使琉球録』は、古米山(久米島)を見て、これを「すなわち琉球に属するもの」としたのだから、久米島からが琉球だとしたので、久米島を見て夷人(琉球人)たちは舟の上で、ああ無事に家に帰ってきたと小おどりして喜んだのである。どうして、藤田氏はこのところを削除したのか。これを削除しないと尖閣列島が「八重山郡に属する帝国領土」といえなくなるからではないのか。「夷人歌舞於舟、喜達於家」のあとにまだ記述は続き、久米島を望見したのちに東風になり、「進寸退尺」の状態で二十五日ようやく那覇港に入ったわけだが、「喜達於家」までは当然引用すべきである。
そしてまた、藤田元春氏は「ユクン・クバ」は「琉球のクバ島」ということであるとして、尖閣列島を「琉球の島」であると論証しようとしている。しかし、八重山でイーグン・クバシマと呼んだイーグンは八重山方言で魚を突いてとる銛のことで、クバシマはクバの葉が繁茂しているからそのように呼んだのである。尖閣列島周辺は、各種の文献によって明らかなように、今も昔もサバ、カツオ、カジキマグロ、サメ等の魚の宝庫であり、釣魚台、釣魚嶼、魚釣島等の呼称が由来するユクンあるいはイーグンはこの島に関係しており、「琉球の」ということではない。
(2)倭寇と尖閣列島と沖縄
井上清氏教授は『尖閣列島』(現代評論社刊、一九七二年)の中で述べている。
おそくとも十六世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や 郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲が編纂した『籌海図編』(一五六一年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器の制・船艦の制などを説明した本である。
本書の巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が、現在のどれに当たるか、いちいちの考証は私はまだしていない。
しか し、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の巻一は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。
これに対し奥原敏雄教授は、『中央公論』一九七八年七月号の論文「尖閣列島領有権の根拠」でつぎのように反論している。
井上清氏は、鄭若曽の『籌海図編』巻一の「福建沿海山沙図」をもち出して、その中に釣魚台などの見出されることをもって、これらが中国領の島嶼とみなされていたとされる。しかし、『籌海図編』における右の事 実を中国の領有論拠だとすることは、陳侃、郭汝霖使録よりもさらに劣るといってよいであろう。大体、沿海図といった性格のものは、かならずしも、自国の領土だけでなく、その付近にある島々や地域を含めるもので あって、たとえば、日本の沿海図であれば、朝鮮半島の南端の一部が含まれることもあるし、台湾省の沿海図 では、与那国島や石垣島なども、示されるのが普通である。むしろ『籌海図編』を引用するのであれば、同書 巻一の十七「福建界」が当時の福建省の境界を示すものとして適当であるといえよう。だが、この地図に示されているのは、澎佳山までであって、少琉球(台湾)、釣魚台などは描かれていない。『籌海図編』は台湾が中 国の版図に編入された一六八三年よりも百二十一年前に書かれたものであるから、台湾が「福建界」の外に置かれていたのは当然であった。それだけでなく、釣魚台などが「福建界」のなかに描かれていないことは、魚 釣台などが当時中国領でなかったことを明らかにしているとさえいえるのであろう。
倭寇の歴史のなかで、倭寇がもっともひどく暴れ回ったのは、一五五三(中国の嘉靖三十二)年から一五五九(嘉靖三十八)年のあいだである。一五五三年王直が数十群の倭寇を糾合したが、これは最大の倭寇であった。この倭寇討伐のため、中国の明朝は一五五六年に胡宗憲を倭寇討伐総督に任命した。明朝はすでに何回も日本国王に対して倭寇を取締まってくれと使者をだしていた。胡宗憲の前任者揚宜は、鄭舜功を使者として日本に送った。このとき鄭は二年も日本に滞在した。胡宗憲も蒋洲と陳可願を日本に送り、王直と会談させた。胡宗憲と王直とは同郷人だ
ったのである。一五六○(嘉靖三十九)年に、うまく故郷におびきよせた王直を胡宗憲は処刑し、倭寇を征伐した。しかし、このことによって倭寇が滅びたわけではない。鄭舜功は『日本一鑑』を著わした。蒋洲は帰国して、明代第一の地理学者であった鄭若曽に、日本で調査した資料を提供し、鄭舜曽は『籌海図編』を著わした。『籌海図編』の実際の著者は胡宗憲でなく鄭若曽である。
この『籌海図編』は、中国人の日本に対する知識を一変させたものであった。司馬遼太郎氏は『籌海図編』はながい中国の歴史のなかで、最初に出現した日本研究書であるといっている。一六二一年(中国明朝の天啓元年)の茅元儀の『武備志』の日本に関する部分は、『籌海図編』からそのまま取られている。藤田元治氏によれば、中国では、倭寇が中国を侵略するようになってから、陳侃の記録や『籌海図編』、『広興図』などが書かれたもので、それ以前の中国は日本を辺境の地として重視していなかったといっている。
ところが倭寇の根拠地は、沖縄に意外に多いことを知った。一般に知られているのは、宮古島東端に近い城辺町の上比屋山の倭寇の根拠地であるが、司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』を呼んで驚いたのである。司馬氏は稲村賢敷著『琉球諸島における倭寇史跡の研究』(一九五七年)に読んだという。著者が出版元の吉川弘文館にきたら一九六二年に売り切れて、そのご重刷していないという。
稲村氏の踏査によると、と司馬氏は書いているが、倭寇遺跡は沖縄に多い。とくに先島である八重山諸島において痕跡がおびただしい。そして司馬氏は、「日本の中世末期から、中国の元・宋から明代いっぱいにかけて、倭寇は東シナ海の波涛を自分の家の座敷のようにかけまわった。この武装商人もしくは海抜の活動というのは明帝国の寿命を早めさせたほどのもので、中国側の資料を読むだけでも、その運動のはがしさはどうやら後世のわれわれの想像をよほど大きくしなければならないほどのものだったらしい」といっている。
海抜四八メートルの竹富島には倭寇の見張所がある。沖縄では倭寇のことをかわらと呼んだ。これは倭寇と同義語の甲螺のことで、倭寇は小部隊の大将のことを「頭」と呼び、かわらは竹富島の小波本御岳の祝詞にもあるという。
沖縄の先島では倭寇が住んでいた土地にはがーら(かわら)の名称がついているのが多いという。宮古島の上野村字中山「がーら原」という部落があり、倭寇の子孫の村だとされる。その氏神を「がーら殿御岳」と呼ぶ。倭寇の子孫だとされる家系では、子供に、多くの場合「がーら」という童名をつけた。
このような話を聞くと、胡宗憲が、尖閣列島を防衛区域に入れたということがうなずける。陳侃が琉球に使いする以前から、釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは、福州から那覇への海の道であった。これは福州から那覇へと続く島の道であり、中国は個々の島に名を付けた。胡宗憲は倭寇との徹底抗戦の陣を敷いたのだから、釣魚島などを防衛区域にいれても不思議はない。胡宗憲が倭寇と対決したときには、琉球の安全は中国の安全にとって重要であるというような考えはなかった。中国では倭寇の進入について、気象、地理、軍事等の研究をし、倭寇の侵入海路が風の方向と強弱によって決まること、大陸に近付くと島を伝わってやってくることなどを知った。嘉靖年間の中国の防衛方法は「海を防ぐは会哨にあり」とした。会哨とは海上を哨戒する戦船が一定の決められた島で会合し、前後左右と組織的に連携して哨戒することである。と同時に陸上の築城をおこなった。その城の数は実に多い。
(3)清国領になろうとした宮古・八重山群島
島津の侵略により「日中両族」となった琉球
一三七二年、中国(明)の太祖が琉球の中山王察度に詔諭をあたえて以来、琉球の北山、中山、南山の三王は中国に朝貢し、一四○二年に中山王が三山を統一して、一四○四年には中国(明)の太祖の冊封使が琉球に来ている。尖閣列島は琉球と中国との交通路にあたり、また琉球王はシャム、パレンバン、マッラカ、スマトラ、アンナンなどと手広く貿易をやるようになると、尖閣列島は当時の海の銀座通りになったといってよい。潮流の関係で中国や南方諸国から帰る船は、尖閣列島を目標にかじをとった。琉球から中国へ行った船は、すべて福州にはいった。福州には「琉球館」が設けられた。だから尖閣列島は沖縄と福州とのあいだにある島なのである。琉球王朝は、朝貢貿易という名の中国との貿易で、栄えたのである。また南方との貿易でも多くの利を得た。一六世紀に中国(明)は、中国貿易船の日本渡航を禁止し、また一五四七年に中国の寧波港で、日本の細川船と大内船が大ゲンカししたので、中国は日本の朝貢貿易を禁止してしまった。このことによって、中国と貿易をしていた薩摩の島津も大打撃を受けた。琉球は中国とは十四世紀以来、朝貢冊封の関係にあって貿易で栄えていたので、島津義久はこれに目をつけ、琉球の中国との貿易を支配することによって、その利権を奪い「以って宿債を償なわん」としたのである。徳川家康から「琉球征伐」の許しをえた島津義久は、一六○九(慶長十四)年三月、一○○余隻の船に三、○○○余人の兵を乗せて琉球領の奄美大島を攻め、三月五日には運天港に到着、四月三日に首里城に迫り、尚寧王は降伏した。島津はこの侵略戦争で、琉球を付庸の国(植民地)とし、琉中貿易の利を独占的に収奪したのである。このときから、琉球は「日中両属」となった。琉中貿易は実に利益が大きかった。
「唐一倍」といわれたように、倍ももうかったのである。あるものは一○倍にもなった。この利益を保護するためには、琉球の中国に対する朝貢冊封の関係を維持させなければならないし、琉球が薩摩藩の付庸の国であることを中国に知られてはまずい。薩摩は十五条の掟で琉球をがんじがらめに縛ってしまったが、中国は琉球に対して全く内政干渉をしなかった。ましてや琉中間に領土問題などはありえなかった。琉球は三六島であり、福州とのあいだをひん繁に往復した琉球の官史や船員にとって、琉球と福州とのあいだに散在し、中国が島名も付けている釣魚台や黄色嶼
や赤尾嶼などは当然宋主国である中国のものであった。
琉球と日中交渉
幕藩体制を倒し、王政復古によって成立した明治維新政府は、一八六八(明治元)年十一月に、薩摩藩を通じて王政復古を琉球王尚泰に通告した。琉球王は、王政復古というからには、薩摩藩の島津に奪われた、奄美大島から与論島までの旧琉球領土を返してくれるのかと思ったほどに、天皇については知らなかった。明治政府は一八七二(明治五)年九月に琉球正尚健を東京に呼び、琉球王を琉球藩王にし、日本の華族にしてしまった。琉球王は宋主国である中国に助けを求めた。そこで中国(清)は琉球を助けるために、駐日公使何如璋に命じて日本政府と交渉させ,琉球は中国の属国だと主張した。
一八七四(明治七)年十二月十五日に大久保利通内務卿が三条実美太政大臣にだした「琉球藩所分方之犠ニ付伺」に、そのようすがよくでている。一八七一年十一月に琉球人五四人が、台湾に漂着して殺されたことを口実に、一八七四年五月十七日に,明治政府は将兵三、六五八人を派遣して台湾侵略をやった。幕藩体制のもとにあった下級武士の不平不満が激化して、明治政府政権崩壊の危機を感じた維新政府は、一方ではロシアの圧力で樺太から撤退し、他方では征韓か征台かを激論した。一八七四年二月に征台と決まった。台湾無主の地だという口実で出兵したら、中国から猛反撃をくった。中国と交渉のため出向いた大久保内務卿は,全く身の細る思いで「これまでの焦思苦心言語の尽くすところにあらず」「この日終生忘るべからず」といった。しかし,この交渉で大久保内務卿は中国か五○万両をせしめたので、沖縄の帰属問題は決着したと思った。ところがそうはゆかなかった。「琉球藩所分方之犠ニ付伺」のなかで、「曖昧糢糊として日,中何れの所属か決まらず、はなはだ不体裁とは思いますが」とボヤいている。
琉球王はあいかわらず中国との朝貢関係を続けていたので、一八七九年一月に松田道之内務大書記を那覇に派遣し,琉球王に対して、これまで命令したことにしたがわないのはどういうわけか詰問し、「督責書」を手渡した。これに対して琉球王は、この問題は目下東京で清国大使と日本政府がはなしあっているから,その交渉が妥結するまでは、命令にしたがうわけにはいかぬとハッキリ断った。松田道之内務大書記はすっかり頭にきて、「後日の処分を待て」といっいてひとまずひきあげた。そして三月二十七日、松田道之内務大書記は歩兵四○○人、警官一六○人を
ひきいて首里城にのりこみ、病臥中の尚泰王の代理人今帰仁王子に対して、三条実美太鼓大臣の廃藩置県の達示を読み上げた。二分ともかからなかった。武力を背景にした明治政府の断固たる処置に、琉球王は服さざるえなかった。「古兵寸兵を治めず、専ら口舌を持って外交の衝に当たって」きた五○○年の歴史をもつ琉球王朝は亡びた。しかし王族や支配階級のていこうは続いた。問題はすべて解決したわけではなかった。
明治天皇とグラント将軍の会見
アメリカの第一八代大統領グラント将軍は、大統領をやめてから世界漫遊の旅にでて中国を訪問し、恭親王と李鴻章北洋大臣にあった。そのとき中国(清)側から琉球問題がだされた。一八七九年八月十日にグラント将軍は浜離宮で明治天皇と会見した。このときの記録に「一八七九年八月十日浜離宮ニ於テ,聖上、ゼネラル・グランド御対話筆記」がある。グラント将軍は中国の恭親王や李鴻章北洋大臣から琉球問題の話をきき、琉球の帰属問題について日・中間の斡旋にのりだしたのである。グラント将軍は天皇に会う前に、ビンハム米駐日公使はすでに数回日本政
府と会談をおこなっている。グラント将軍は明治天皇に、要旨こういっている。
日本に来て話を聞いてみて、日本の主張することもわかるが、中国の考えも察しなければならない。中国は 昔から琉球の関係があるのに、今回の日本政府の琉球処分を、和親の道ではないと考えており、また中国は台 湾事件(筆者注一八七四年の台湾侵略)の屈辱を忘れられないでいる。日本が琉球を支配下におくことによっ て、日本はふたたび台湾を奪って、中国と太平洋のあいだを遮断しようとする意図がある、という疑念を中国 はもっている。
中国の心情も察して、中国に一歩譲った方がよい。私が中国で聞いたところでは、琉球の諸島 間に境界線をきめ、中国が太平洋にでる道をあたえるなら、中国も承諾するのではないか。
グラント将軍の助言と示唆で、明治政府がたてた政策は、宮古・八重山諸島を中国に渡して、中国から最恵国待遇を手にいれようとしたことである。一八八○年六月に天皇は、中国駐在の穴戸?公使を駐清特命全権大使に任命し、翌一八八一年二月には宮古・八重山諸島を中国に渡すことまで話しあわれた。沖縄諸島と宮古諸島のあいだの約三○○キロメートルの海の中間に、境界線を引くというものであった。中国の考えでは薩摩藩が琉球から奪った奄美大島を日本領とし,沖縄本島を中心にする諸島は元の琉球王の領地とし、宮古・八重山群島を清国領とするものであった。この日中間交渉は一八八六(明治十九)年に至っても解決しなかった。
(4) 尖閣列島とサバニ
沖縄の先島(筆者注 宮古・八重山群島)では、中国名の魚釣台と黄尾嶼は、古来からユクン・クバシマの名で親しまれていた。ユクンとは魚島の意であるから,魚釣島が当時から両国(筆者注 日中両国)の好漁場として知られていた(傍点は筆者)のであろう(奥原敏雄論文「尖閣列島」『沖縄タイムス』一九七○年九月二日号)。
逆風や逆流や台風などによって、列島への渡海や移住の試みが失敗したことはあったが、こうした事実は、尖閣列島が日本に編入される以前の一時期、すなわち明治二十四(一八九一)年ごろまでであった。
彼らが列島への渡海や移住に失敗したのは、渡航の時期や季節風、自然環境などを無視したこともあったが、最大の理由は、資本もなく、しかも伝馬船や沖縄で用いられているサバニといったくり船で船で列島に渡ろうと試みたからであった・・・・・・。
基隆より台湾漁船が列島に赴き,操業をおこなうようになったのは、第一次大戦終了前後のころからのようである
(奥原敏雄論文「尖閣列島の領有権と『明報』論文」『中国』一九七一年六月号)。
奥原氏のこの二つの論文には、おかしな点がある。
第一のおかしな点は、奥原氏が
「古来からユクン・クバシマの名で親しまれた……魚釣島が……両国の好漁場として知られていた」
というが、それでは古来、先島諸島からどんな漁船で魚釣島に行ったのか。沖縄のなかでも特に貧しい先島諸島の漁民たちは、小さなサバニしか持っていなかったと思う。彼らは人頭税と名子制度に苦しみ抜いており、悲惨な生活を強いられていた。この人頭税は一九○三(明治三十六)年までも残されていた。また古来というからには、五○年や一○○年前のことではあるまい。
第二のおかしな点は、渡航の困難なユクン・クバシマがどうして先人の人たちに親しまれたのかということである。
実生活と深いかかわりあいのない無人島に、どうして親しみをもったのか。親しみをもつからには、しばしばそれを見て美しいと感じたのか。尖閣列島は決して美しい島ではない。では先島の人たちの生活に豊かさをもたらかしたの
か。尖閣列島が開発されるまではそんなこともなかった。では航路の目標として親しまれたのか。これはありうる。しかし、そのような親しみをもった者は、朝貢船か南方諸国との貿易船の乗組員たちだけであったと思う。そして、それはどごく少数の人たちであった。宮古島の保良は海上交易が盛んなころの重要な港であったが,朝貢船、貿易船のほとんどは、那覇からでて那覇に帰ってきた。薩摩藩が琉球の貿易を牛耳っていたからである。牧野清氏は
「八重山としては、十五世紀の末葉ころから始まった南蛮貿易業者や、沖縄航海に従事していた一部の人々にのみ知られてたいと思われる。それが一般的にイーグンクバジマとして広く知られるようになったのは、古賀辰四郎氏が魚釣島やクバ島で事業をはじめてからであるようだ」
といっているが筆者もそう思う。それは決して古来からではない。一九六九年になっても尖閣列島は「交通の便がないために普通に人々が行くことができない、彼方の夢の島」(「尖閣列島標柱建立報告書」一九六九五月十五日)であった。
第三のおかしな点は、尖閣列島への渡海や移住の試みに失敗したというのは、一八九一(明治二十四)年ごろまでであったというが、一八九三(明治二十六)年には伊沢弥喜太氏が渡航したが、帰路台風に遭って福州に漂着している。伊沢氏は汽船で渡ったわけでなくサバニか伝馬船で渡ったものであろう。
では、沖縄にはどんな船があったのか。
マーラン船=これは中国から造船技術を学んで造られた船で、朝貢や海外貿易に使われた三本マストの帆船である。中国のジャンク船に似た船である。帆はガマを織ってつくったガマ帆であった。
山原船=近代になってから、沖縄本島の北部の山原から木材や薪を運ぶために、マーラン船の小型のものが造られた。これが山原船である。一八七九年の廃藩置県後も山原船は国頭地方の住民にとって、唯一の交通機関、輸送手段であった。
サバニ=これはくり船といわれる。一八九一(明治二十四)年までは、日本には動力付きの漁船は一隻もなかった。そして全国の漁船のうちくり船は二・一%で、沖縄には二、三一九隻のくり船があった(全国のくり船数は六、二五一隻)。糸満のサバニは船足は非常に速いが、ひっくりかえり易いものである。トカラのくり船は頑丈で安定していたが、そのかわり糸満のくり船のような操縦の軽快さを欠いていた(「九州・沖縄篇」『風土記日本』平凡社刊、九四〜一○七頁)。沖縄に石油発動機ができたのは一九一一(明治四十四)年ごろからである。
フィリピン型漁船=長い棒を横に出して、船の安定を保つようにしたもの。
和風型=沖縄本島以外の島々で、初めて沖縄本島などを巡航できる船を造ったのは宮古島である。これは本土から流れてきた船大工によて造られたもので、艫には舵もついており日本の帆柱をもっていた。宮古島から首里王朝へ朝貢船につかわれた(司馬遼太郎著『街道をゆく6』一三二〜三頁参照)。
一八八二(明治十五)年以降、田代安定、赤堀廉蔵、笹森儀助氏らが沖縄探検をおこなっている。このうち田代安定氏は三回探検し、一八八五年に第二回目の探検をおこなったが、西表島から与那国島に渡るのに、サバニでは渡れなかった。やむなく彼は、西表から四〜五○キロメートルの波照間島に渡った。それにはサバニ二隻を横に並べて、これをくくりつけてようやく渡った。サバニでは、西表島から七○キロメートル離れた与那国には、渡れなかったのである。だから宮古、八重山などの先島諸島から百数十キロメートルも離れた魚釣島に、魚をとりにゆくのは非常に
困難であった。また蛋白源としての魚貝類は、苦労して魚釣島まで行かずとも、島の近辺でとることができた。五月から九月は扁南風が吹き、沖縄は台風の銀座である。そして十月から翌年四月までは「新北風」といわれる北東の季節風が吹く。とくに二月風廻といわれる一月、二月は海の荒れる季節である。
司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』(朝日新聞社刊)に与那国の「小さな魚市」というのがある。
婦人が魚屋さんに「いくらですか」ときくと、若い主人は「一斤三百円です」と答えた。司馬氏が沖縄の一斤は何グラムかと聞いてたら「この魚四匹です」というおおらかな答えだった。だから何グラムかわからないが、一ぴき七五円であるということはたしかである。しかし、商売にしているのかといえばそうでない。この島では、竹富島もそうであるように、魚屋という独立の商業は存在しないのである。農家の者でも釣りに行って、余分に釣れれば臨時に魚屋になって、それを近所のひとに売ってやるという仕組みなのである。いかにもそれがのんきそうで、いい眺めだったという。また貝は海岸で子供が拾えるから、一家の働き手が半日仕事を休んで採りにゆかなければならぬようなしろものでなかった。
司馬氏のこの見聞は、一九七四年のことである。何も危険をおかして魚をとりに、尖閣列島まででかける必要はない。これは今も昔もおなじである。
一九六八年現在で、沖縄の一トン未満のくり船と一〜五トン級沿岸漁船との合計は、沖縄の全魚船数の九○%五〜五○トンの近海漁船は八%、五○トン以上のものは二%である。(『日本の文化地理』講談社刊、第一七巻二六六頁)。
ところが魚釣島周辺は、台湾漁民にとっては大きな利害関係がある。一九五○年代の末ごろから台湾漁船の数が急激に増え、魚釣島周辺は台湾漁民の好漁場で、年間三、○○○隻の漁船が漁撈に従事しているという。台
湾漁民のうち、尖閣列島周辺に出漁しているのは宣蘭県の漁民がもっとも多く、宣蘭県にある一、三○○余隻のうち三○○余隻が操業していた。尖閣列島周辺での台湾の水揚量は、一九五八年で一万七、○○○トンであったという(一九六八年の沖縄全体の水揚量は三万三、四二三トン)。だから宣蘭県漁民にとっては、生活がかっている
わけである。台湾漁民は尖閣列島に夜間碇泊できなくなると、水揚げが激減することになるという。しかし最近でも沖縄から尖閣列島周辺に出漁する漁船はいない。奥原教授は日本が台湾を支配していた当時の台湾漁民の魚釣島周辺での漁撈は、国際法的には日本人としての行為であったといっている。しかし問題は、台湾漁民の方が
尖閣列島に深いつながりがあったということである。
たしかに、尖閣列島周辺海域には魚が多い。黒潮にのって北上するカツオ、マグロ、カジキ等は、必ずこのあたりを通り、またサメ類、サバ、アジなどもいた。しかし尖閣列島は、琉球人にとって古来から明治になっても、小さなサバニで危険を冒し、何日もかけて、冷凍も発達していない時代に、魚とりにいかなければならない好漁場ではなかった。琉球人の生活にとって尖閣諸島は、あまり関係のない、まさに「夢の島」だったのである。
(5) 尖閣列島の発見者はだれか
沖縄の人たちで、尖閣列島を発見したのは古賀辰四郎氏だという人がいる。それは、そのようにきかされてきたからだろうが、これは全くの誤りである。また、日清戦争直後に『熊本日日新聞』が報道したといわれる、伊沢弥喜太郎が鳥島(尖閣列島のこと)を発見というのも誤りである。これらの発見というのは、彼らがはじめて尖閣列島を見たということで、この誤りは歴史がこれを証明している。
古賀氏や伊沢氏が、いまでも八重山の古老のあいだで、イーグン・クバ島といわれている尖閣列島に行ったときには、尖閣列島の島々には、すでに中国が島名が付けていた。そして、その島名は、中国や琉球の古文書にもはっきり書いてある。一八八五(明治十八)年九月ニ十二日付けで西村捨三沖縄県令が山県有朋内務卿に提出した公文書のなかでも釣魚台、黄色嶼、赤色嶼、の島名が使われている。
一三七二年、明の太祖が琉球の中山王察度に招諭を与えて以来、琉球の北山、中山、南山の三王は中国(明)に朝貢し、一四○二年には中山王が三山を統一して、一四○四年には明の太祖の冊封使が琉球に来た。
尖閣列島は琉球と中国とのひん繁な往来の交通路にあたり、また一五世紀以来、琉球が東南アジア(とは当時はいわなかった)のルソン(フィリッピン)、シャム(タイ)、マラッカ(マレーシア)、ボルネオ、スマトラ、スダン、ジャワ、サンプツサイ(パレンパン)パタニ(ビルマ)などと手広く貿易をやるようになると、尖閣列島の辺りは、まさに海の銀座どおりとなった。福州から那覇へはいる船も、南方諸国との貿易船も釣魚嶼(また魚釣台あるいは釣魚山)―黄色嶼―赤尾嶼(または赤嶼)そして久米島―那覇という航路をとったから、尖閣列島はこれらの人たちによく知られていた。琉球から中国に行った船は、みな福州にはいった。福州には「琉球館」ができた。琉球王朝は貿易によって繁栄したのである。沖縄の記録によると、「琉球から南方にでかけた貿易船は、シャムがもっとも多く五八船で、合計一○四隻となっているが、実際には一五○隻を下らなかったといわれている」(『日本の文化地理』講談社、第十七巻)。
琉球は中国に対して礼節を尽くしたので、中国は琉球を守礼の国とよんだ。琉球は中国に朝貢し、中国は琉球王を冊封した。薩摩藩の島津義久は、琉球の対中国貿易の利権を手にいれようとして、豊臣秀吉とも話しをつけていたが、あらためて徳川家康から「琉球征伐」の許しを得て得て、一六○九(慶長十四)年「琉球征伐」をし、琉球を「付庸の国」(殖民地)にした。そして琉中貿易の利益を収奪した。
そればかりでなく、島津は琉球の産物を収奪した。薩摩藩が琉球に要求したのは、年貢米九、○○○余石、芭蕉布三、○○○反、琉球上布六○反、下布一万反、ラミー(唐苧)一万三、○○○斤、い草のむしろ三万八、○○○枚、しゆろ縄一○○方であった。八重山上布は美しい伝統的な布である。女たちは麻の繊維から糸を紡ぎ、染めあげ、夜になると番所で役人の監視のもとで布を織った。昼は男とともにに野良で働いた女たちにとって、夜も憩いの時ではなかった。一晩に一尺をおるのがせいぜいだった。美しい八重山布には、女たちの恨みが織り込まれていた。そのことは平凡社刊『日本残酷物語』に明らかである。
また、「久米島の仲里村の真謝部落は紬の里といわれており、いまでも織られている。琉球王朝はこの袖を中国と薩摩に貢いだ。織り方がまずかったり、期限におくれたりすると織った布で体を縛られ、村じゅうを引き回されたりした」(『沖縄の孤島』朝日新聞社刊)。
琉球の税制は統一されておらず、税は現物納であった。とくに宮古、八重山の農民は人類税と名子制度に苦しめられ、過酷な労働を強いられた。このような、しいたげられ人々にとって、尖閣列島は全く関心の外にあった。だから古賀辰四郎氏が尖閣列島を発見したときいても、別に興味をしめさなかった。日常生活に関心がなかったから、尖閣列島をしらなくても、それですんだのである。
(6) 日清戦争とバカ鳥の島
古賀辰四郎という人
牧野清氏の「尖閣列島小史」によれば、古賀辰四郎氏は古賀門次郎氏の三男で、一八五六(安政三)年に福岡県八女郡山田村に生まれた。ここは八女茶の産地である。実家は代々茶の栽培と製造をしていた中流農家だった。一八七九(明治十二)年に二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開いた。
一八七九年といえば、明治政府が王制復古、廃藩置県の大号礼をだしても尚泰琉球王はどうしても従わず、従来どおり中国との関係を断たなかったので、政府は四○○人の兵と一六○人の警察官を差し向けて、全く軍備をもっていなかった首里城を接取し、武力を背景に琉球処分をやった年である。
琉球王は中国に助けをもとめた。前アメリカ大統領グラント将軍が、世界漫遊の旅にでて中国を訪問した際、李鴻章北洋大臣から日本政府の琉球処分についてあっ旋を頼まれ、明治天皇と琉球問題について話した年である。 牧野清氏は、古賀氏は生来進取の気性に富んだ人だったと書いているが、なかなか太っ腹の人だったようである。四月に沖縄に廃藩置県が強行された直後に那覇に渡ったのだから冒険好きといえる。沖縄で燕尾服を着たのも、ドイツ製の安全カミソリをもったのも、ピストルを手に入れたのも古賀氏が最初であった。古賀氏がピストルをもって台湾
探検をしたのは一八九七年であったが、彼はピストルを使わなかった。また彼は、二台の遠心分離機を買って分密糖製造を始めたり、御木本幸吉氏と共同出資で石垣島名蔵湾で真珠養殖をしたりしている。またいちはやく大東島の開拓にとりくんだが、のちにこれを玉置半右衛門氏に譲ってしまった。古賀氏は養殖興業の功によって一九○九年に藍綬褒章を受けた。沖縄で藍綬褒章を受けたのは、慶良間のカツオ漁業の功労者松田和三郎についで二人目であった。
牧野氏によると、古賀氏は石垣島に支店を出した翌々年の一八八四(明治十七)年に尖閣列島を探検して、その有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲などの事業に着手し、その直後に仲御神島を探検して、同島にも目標の事業を始めた、となっている。これはどうも手際がよすぎる。
上地龍典著『尖閣列島と竹島』では「石垣市で尖閣列島の話を聞いた古賀は、明治十七(一八八四)年人を派遣して列島の探検調査に当たらせ……無人島開拓に意欲を燃す』とあり、古賀氏自身は尖閣列島に渡っていない。
一九六八年の高岡大輔氏のリポートには「尖閣列島の開拓史についての詳細を知る由もないが、八重山歴史と島の所有者……古賀善次氏の話とを総合するに、福岡県で茶舗を営んでいた故古賀辰四郎氏が山茶を求めて無人島を探検している時に初めて開発したもので、明治十七(一八八四)年のことだったという」と書いてある。
ところが、新里金福・大城立祐『沖縄の百年』太平出版社刊、第一巻によると、「廃藩置県後に那覇に渡った古賀は大東島やラサ島(沖大東島)、赤尾嶼、仲御神島などを探検した、そして彼が尖閣列島を発見したのは日清戦争の直前である」と書いている。
『沖縄の百年』の書いてあることが正しいとすると、尖閣列島を最初にみたのは熊本県下益城郡河江村字住吉出身の伊沢弥喜太氏だということになる。奥原敏雄教授は雑誌『日本及日本人』(一九七○年新年号)に記載した「尖閣列島―歴史と政治のあいだ」に伊沢矢喜太と書いているが、これは伊沢弥喜太が正しい。奥原教授はこう書いている。
「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十年代の後半明治十七年ごろから古賀辰四郎が魚釣島、久場島などを中心にアホウ鳥の羽毛、綿毛、べっ甲、貝類などの採取を始めるようになる。こうした事態の推移に対応すべく沖縄県知事もまた明治十八年九月二十二日、内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届けでた」、
「その後明治二十四(一八九一)年伊沢矢喜太(熊本県)が魚釣、久場島に沖縄漁民ととともに渡航し、海産物とアホウ鳥を採集することに成功したが、長く滞まることなく石垣島にもどり、次いで翌々二十六(一八九三)年花本某外三名の沖縄人が、永井・松村某(鹿児島県)に雇われ、久場島に赴いたが、食糧が尽きて失敗する。同年にはさきの伊沢が再び渡航し、採取成功するが、岐路台風に遭い、九死に一生をえて福州に漂着している。なお同年にはさらに野田正(熊本県)ら二○人近くのものも、魚釣、久場島に伝馬船で向かうが、かれらも風浪のため失敗している」。
尖閣列島を日本領に編入させた日清戦争
古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六月号でこう語っている。
当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者が、途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そこで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。明治十七年のことですがね。
この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。翌明治十八(一八八五)年、父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。
ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独自に調査団を派遣しました。
調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に日本領とするようしきりに上申しまた。
明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八(一八九五)年です。父の探検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言に踏み切らせた理由と思います。
そこで「沖縄県琉球国那覇西村二十三番地、平民古賀辰四郎」自身はどうなっているのかを、彼が一八九五年六月十日付で野村靖内務大臣にだした「官有地拝借御願」によって見てみよう。
私儀国内諸種ノ事業ノ日ニ月ニ盛ニ赴キ候割合ニ大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラス水産業挙ラサルハ
予テ憂ヒ居候次第ナレハ自ラ帆楫ノ労ヲ取リ明治十二年以降十五年ニ至ルマテ或ハ琉球ニ朝鮮ニ航シ専ラ
海産物ノ探検ヲ致候以来今日マテ居ヲ沖縄ニ定メ尚ホ其業ニ従事致至候更ニ業務拡張ノ目的ヲ以テ沖縄本島
ノ正東ニ在ル無人島ニシテ魚介ノ群常ニ絶ヘサル大東島ニ組合員ヲ送リ一方ニ以テハ農事ヲ勤メテ日常食糧ノ
窮乏ヲ防キ一方ニ以テ大ニ其地海産物ノ捕漁ヲ為サントシ己ニ明治廿四年十一月廿日時ノ沖縄県知事丸岡莞
爾氏ニ同島開墾ノ許可ヲ得タル次第ニ御座候是ヨリ以前明治十八年沖縄諸島ニ巡航シ船八重山島ノ北方九拾
海里ノ久場島ニ寄セ上陸致候処図ラスモ俗ニバカ鳥ト名ノル鳥ノ群集セルヲ発見致候止マリテ該鳥ノ此島ニ棲
息スル有様ヲ探求仕候処秋来タリ春ニ去リ巣ヲ営ムヲ以テ見レハ全ク此期間ハ其繁殖期ニシテ特ニ該島ヲ撰テ
来ル モノナル事ハ毫モ疑無御座候予テバカ鳥ノ羽毛ハ欧米人ノ大イニ珍重スル処ト承リ居候間試ニ数羽ヲ射
殺シ商品見本トシテ其羽毛ヲ欧州諸国ニ輸送仕候処頗ル好評ヲ得其注文マテ有之候是ニ依テ考ヘ候ニ右羽毛
ハ実ニ海外輸出トシテ大ニ価値アルモノト信セラレ申候尤モ輸出品トシテ海外ノ注文ニ応スルニ足リル数量ナル
ヤ否ヤ ヲモ探究仕候処捕獲ノ方法ニ因リテハ相当ノ斤量ニ於テ多年間輸出致候ニ差支無キ見込有之候以上
ノ次第柄ニ付直ニ其捕獲ニ従事致度考ニテ候処甲乙ノ人々ニ聞知セラレ競フテ乱殺候様ノ事ニ立チ至ベク自然
多人数間ニ分チテ輸出ノ業ヲ営ミ候ハ相互ノ利益ニアラス所謂虻蜂共ニ獲ラレザル結果ニ成行キ可申恐有之候
間バカ鳥羽毛輸出営業ノ目的ヲ以テ久場島全島ヲ拝借候様出願ニ可及ノ処右久馬島ハ未タ我邦ノ所属タル事
判明無之由ニ承知仕候故今日マテ折角ノ希望ヲ抑制致居候是レ見本送達ノ際欧州ノ注文アリタルニ係ラス之ニ
応スル能ハ サリシ以所ニ御座候然ルニ這度該島ハ劃然日本ノ所属ト確定致候趣多年ノ願望ニ投ジ申候
古賀辰四郎氏はさらに、この「御願」のなかで、バカ鳥が多いといっても無限のものではなく、競争、乱獲ということ
になると繁殖保護も難しく採算も取れなくなるから、官有財産管理規則第七条二項の規定によって、全島を自分に貸
してほしいと述べている。 この「御願」は古賀氏自身が書いたものではあるまい。このような文書が書けるならば、古
賀氏の手になる探検記録があるはずである。ところが古賀善次氏のいっているように詳細な探検の記録は残ってい
ない。おそらく、この「御願」は役人の手を借りたものであろう。
古賀辰四郎氏と尖閣列島とのかかわりあいについては、何人かの人たちは一八八四(明治十七)年といい、古賀
氏自身は一八八五年といい、『沖縄の百年』第一巻では、日清戦争の直前というから一八九三年か一八九四年から
であったであろう。古賀氏が本籍を福岡から沖縄に移したのは一八九五年であり、彼は腰を据えて事業にとりくむこ
とになった。古賀氏は寄留商人ではなくなる。
とにかく、古賀辰四郎氏は福岡県からお茶の商売で那覇に渡り、捨ててある夜光貝などの貝殻をボタンの材料とし
て、神戸に売って(年間一八○トンから二四○トン)金をもうけて、石垣に支店をだし、ユクン・クバ島のバカ鳥という資
源に目を付けて、政府に開拓させてくれと何度も願いでたが、政府は「我邦ノ所属タル事判明無之」と許可しなかっ
た。ところが、日本が日清戦争に勝って、一八九四年十二月二十日には中国から、張蔭桓、邵友濂氏を講和全権と
して任命した旨アメリカ公使を通じて日本に連絡してきた。十二月二十五日に中国は、朝鮮の自主独立を認めると宣
言したのだから、朝鮮を支配するために、朝鮮から中国の勢力を一掃しようとした日本の戦争目的は、完全に果され
たことになる。そして時を移さずそれから二日後の十二月二十七日に内務大臣は外務大臣にバカ鳥の島を閣議にか
けることを協議した。野村靖内務大臣が陸奥宗光外務大臣にだした協議文書には「其当時(筆者注 明治十八年)ト
今日トハ事情モ相異候ニ付」とあり、外務大臣には異議はなかった。事情がどう異なったのか。それは日清戦争で勝
ったということ以外にはない。そして尖閣列島は、この日から「劃然日本の所属ト確定」した、というところに重大な問
題があるのであって、古賀辰四郎氏がいつ尖閣列島に行ったかということはさして問題ではない。翌一八九五年一
月十四日、伊藤博文内閣は、このバカ鳥の島を閣議にかけて、「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣
島ト称スル無人島」に標杭を建設することを認めた。日清戦争に勝ったとたんに待ってましたとばかりに、日清戦争の
処理で忙しい政府がバカ鳥の島を閣議にかけたことについてはどんな事情があったのか。これはどうにも理解に苦し
むところである。
一九一〇(明治四十三)年一月一日から九日まで、『沖縄毎日新聞』は藍綬褒章を受けた古賀辰四郎氏の業績を
たたえる「琉球群島における古賀氏の功績」を連載した。筆者はこれを見ていないが、井上清教授によればつぎのと
おりである。
明治二十七(一八九四)年(古賀氏は)同島(釣魚島)の開拓の許可を本県(沖縄県)知事に請願したけれども、当
時同島の所属が帝国のもなるや否や不明確なりし為に、却下せられしより、更に内務・農商務大臣に宛て請願書を
出すと同時に、氏は上京して親しく同島の実況を具陳して開拓を懇願したるも、尚ほ許可せられざりしが、時々に
偶々二十七、八年戦没(日清戦争)は終局を告げ、台湾は帝国の版図に帰し、二十九(一八九六)年勅令第十三号を
以て尖閣列島の我が所属たる旨公布せられたるにより、直ちにその開拓に就き、本県知事に請願し、同年九月初め
て許可を与えられ、茲に同氏の同島に対する多年の宿望を達せり(『歴史学研究』一九七二年第二号)。
ここに「勅令第十三号を以て尖閣列島の我が所属たる旨公布せられたるにより」とあるが、勅令第十三号には、そ
んなことは何も書いていない。おそらく沖縄県知事は勅令のでるのを待っていたのであろう。ところが勅令第十三号
は半年経っても一年たってもでない。沖縄県知事は内務省に、どうなっているのか照会したものと思う。ところが中央
では、台湾までわが国の版図にはいったのだから魚釣島、久場島などについて面倒な手続きなどはまったく必要な
いといわれたものであろう。
『沖縄毎日新聞』の記事でもわかることは、古賀辰四郎が親しく中央に働きかけたということである。室伏哲郎著
『汚職のすすめ』によると、バカ鳥を閣議にかけた野村靖内務大臣は、東京市の水道用鉄管の国産会社「日本鋳鉄
合資会社」の不正を一八九五年十一月に、東京市参事会が告発したとき、東京市会の解散を命じた人物である。日
本鋳鉄合資会社の創立者雨宮敬次郎は獄中から森検事を二、○○○円で買収し、証拠不十分で免訴となり出獄し
たという当時の情況があった。古賀辰四郎氏が親しく働きかけた内容は何であったのか、これはあきらかではない。
一八九一年七月二十七日の官報に載った大臣の年俸は内閣総理大臣九、六○○円、各省大臣六、○○○円、次
官四、○○○円であった。これに対して一八九六年三月現在の職業別の平均賃金は、機織女工は上等で月に四円
五○銭であり、下等で二円二○銭だった。農作の日雇労働者は上等で男は一日二○銭、女は一八銭であった。だ
から二、○○○円も積めば検事だって買収できたわけである。
それにしても、伊藤内閣のこの素早い反応は、古賀氏の働きかけのみによったのであろうか。当時の沖縄の政治、
経済、社会をもみなければなるまい(本書Zの(8)を参照)。
奥原敏雄教授はこの点に関して、雑誌『中央公論』一九七八年七月号の論文「尖閣列島の領有権の根拠」でこの
ように述べている。
わが国が尖閣列島を領土編入した明治二十八年一月十四日(閣議決定)という時期は、すでに日清戦争におい
て日本の勝利が確定的となり、講和予備交渉がまさに始まろうとしていた時期である。台湾を日本に割譲する
ことについて、列国の承認も取り付けていた時期である。政府がそうした時期に尖閣列島の沖縄編入を認める
に至った背景に、台湾をも失うことをみとめた清国が、無主地のごく取るに足らない尖閣列島の帰属をめぐって、まず
争うことはないであろう政治的判断があったことは想像にかたくない。
しかしながらそうした微妙な時期における領土編入が、ともすればわが国が尖閣列島の領土編入を見送ってきた
背景、あるいはそれを編入するに至った時期に、とかくの疑惑を生じさせ、日本は尖閣列島が中国領土であると思っ
ていて、ひそかに時期を狙い、日清戦争の結果として、日本が勝利を確定的なものとするに至った時期に、これを処
理したのではないかと疑問を持たせる余地を残すことになる。そしてこれは一般的にもっともな疑念だと思う。
奥原教授はこの論文で、「天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほかでもない、政府と大本営
が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと同時であった」とする井上清教授の見解(井上清著『尖
閣列島』)、「日清戦争での勝利を機会にし背景にして、日本がさらに戦争を拡大している情況のもとでなされた至極
あいまいな『先占』というものの実質は中国から奪った台湾省の一部を先取りしたことにならないか」(高橋庄五郎論
文「いわゆる尖閣列島は日本のものか」『朝日アジアレビュー』一九七二年第二号)という疑問に対して、一般的にも
っとも疑念としているが、奥原教授はあくまでも、尖閣列島は国際上の無主地であったと主張する。
バカ鳥と古賀辰四郎氏
尖閣列島には、どんな海鳥が、どのくらいいたのであろうか。
古賀辰四郎氏がバカ鳥と呼んだ鳥は、アホウ鳥ともトウクロウとも呼ばれ、またの名を信天翁ともいわれていた。尖
閣列島にはこのほか、クロアジサシ、セグロアジサシ、カツオドリ、オオミズナギドリなどがいた。
そして北小島にはセグロアジサシ(背黒鰺刺)、クロアジサシ(黒鰺刺)が、南小島にはカツオドリがいた。二○○メ
ートルしか離れていないのに海鳥が異なっていた。南小島と北小島の情況について黒岩恒氏はこう書いている。
余が着島の節は(五月)産卵の期節にして、南北の小島に群集するもの、幾十万を以て算すべし、これ英語に所謂
Ternなるものとして、尖閣の諸嶼にかぎり、釣魚黄尾等の諸嶼に見ず、其空中を飛翔するや、天日為めに光を滅する
の観あり、カンエイ水路誌(明治十九年刊行の海軍水路局の水路誌)記して、其鳴声殆んと人をして
聾せしむと云へるは、誠に吾人を歎かさるなり、若し夫れ閑を偸みて北小島の南角に上らんか、幾万のTernは驚起
して巣を離れ、「キャー、キャー」てふ鳴声を発して頭上を?翔すべく吾人若岩頭に踞して憩はんか、空中にあるもの漸
次下り来たりて吾か周辺に群集し、同類以外復怪物あるをしらさるものの如く、人をして恍然自失、我の鳥なるかを
疑はしむ、此景此情、此境遇に接するにあらされば、悟り易からさるなり(筆者注 ふりがなは筆者)。
古賀辰四郎氏」は、年間一五万羽も海鳥を捕獲した。
バカ鳥と古賀辰四郎氏がいなかったら明治時代に尖閣列島は問題にならなかった。
日清戦争のあとさき
一八九三(明治二十六)年十一月、過酷な税の負担に耐えかねて、宮古島の農民四人が上京し、宮古の悲惨な現
状を議会と政府に訴えた。中央の新聞は「明治の佐倉宗五郎」と書きたてた。政府はただちに内務書記官を沖縄に
派遣し調査させた。
一八九四(明治二十七)年一月十二日、貴族院に「沖縄県政改革建議」がだされた。
一月十七日、宮古島福里村の農民一六○人が署名した「宮古島島費節減及島政改革請願」が衆議院に上程され、
衆議院はこれを可決した。この年に名子制度だけは廃止されたが、人頭税は一九○二年まで存続された。
三月、大蔵省は祝辰巳氏を沖縄県収税長に任命し税法調査をさせた。
八月一日、日本は中国(清)に対して宣戦布告。
九月十五日、平壌大会戦、十六日未明平壌を占領。
九月十七日、黄海大戦、中国軍艦五隻を撃沈。この陸海の大戦ですでに勝負はついた。
十月八日、イギリスは日本の戦勝に驚き講和を勧告。
十月二十六日、第一軍(山県有朋)は鴨緑江を渡って九連城を占領。引続き第二軍(大山巌)は花園江に上陸開
始。
十一月十二日、中国(清)はアメリカ公使を通じて講和条件の基礎を提案、日本側は講和全権の任命が先決だとし
てこれを拒否。
十一月十三日、第一軍海城を占領。
十一月二十一日、第二軍旅順占領。
十二月二十日、中国(清)はアメリカ公使を通じて張蔭桓、圏F濂氏を講和全権に任命したと日本に通知。
十二月二十五日、中国(清)は朝鮮の独立自主を認めると宣言。これによって明治軍国主義の日清戦争の目的は達
せられたことになる。
十二月二十七日、内務大臣は外務大臣と釣魚島と久場島をたてたいという沖縄県知事の上申ついて協議。外務大
臣に異議なし。
一八九五(明治二十八)年一月十四日、標杭建設を閣議決定。
一月二十一日,沖縄県知事に通知(しかし、標杭建設は日本の主権下では実行されず、七四年後にアメリカの施政
権下の石垣市長命令で初めて建設)。
一月三十一日、中国講和全権広島に到着。全権委任状が不備だとして日本側は談判を拒否。
三月二十日、下関で、伊藤博文内閣総理大臣と李鴻章全権とのあいだで講和談判開始。
四月十七日、日清講和条約調印。
四月二十三日、三国干渉(独・仏・露)。
五月五日、三国の勧告を日本は受諾。
五月八日、日清講和条約批准書交換。
五月十日、樺山資紀海軍大将を台湾総督に任命
五月二十五日、台湾省民蜂起。
五月二十九日、日本軍台湾に上陸。
六月二日、中国(清)李経方全権と樺山台湾総督との間に、講和条約第二条第二項および第三項の台湾全島及び
その付属諸島嶼と澎湖列島の受渡しがおこなわれた。
六月十日、古賀辰四郎氏は「官有地拝借御願」を政府に提出。
一八九六(明治二十九)年九月、古賀氏は三○年間無償で魚釣島、久場島、北小島、南小島の借用に成功。
(1)伊沢弥喜太氏は、福州に漂着し救助され、中国の高官から陶器の花瓶をもらって帰った。
(7)尖閣列島の開発
どの島か
古賀辰四郎氏が尖閣列島が尖閣列島のどの島で開拓事業をおこなったかについては資料が乏しい。だから人に
よっていっていることが違う。たとえばこうである。
古賀辰四郎は明治三○(一八七九)年、沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島借区を願い出て三○年間無償借
地の許可をとると、翌明治三一年には大阪商船の須磨丸を久場島に寄航させて移住労働者二八名を送り込むこと
に成功し、さらに翌明治三二(一八九九)年には大阪商船の永康丸で男子一三名女子九名を送り込んだ。この年の
久場島在留者は二三名となり古賀村なる一村を形作るまでになった。これらの労働者がいつごろまでいたかは明ら
かでない。説によると大正の中期ごろまで続いたといわれる(奥原敏雄論文『日本及日本人』一九七○年新年号)。
古賀氏は数十人の労働者を同列島に派遣、これらの干拓事業に従事させた(注 明治三十「一八九七」年五十
人、明治三十一「一八九八」年同じく五十人、明治三十二「一八九九」年二十九人の労働者を尖閣列島に派遣、さら
に明治三十三「一九○○」年には男子十三人、女子九人を送りこんだ)・・・・・・。
大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ・・・・・・
事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八十人、剥製作りの職人七〜八十人(筆者注上地龍典氏によれば八八
人)が、魚釣島と南小島に居住していた(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖縄』第五十六号)。
明治三十(一八九七)年、二隻の改良遠洋漁船をもって、石垣島から三十五人の労働者を派遣し、翌三十一年に
は更に五十人を加えて魚釣島で住宅や事業所,船着場などを建設して、本格的に開拓事業を始めたのである(牧野
清論文「尖閣列島小史」)。
石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治十七(一八八四)年人を派遣して、列島の探検調査に当たら
せ・・・・・・翌三十(一八九七)年から、毎年、三○人、四○人と開拓民を送りこんだ。こうして最初の四年間に島に渡
った移住者は、一三六人に達しそのなかには女性九人も含まれていた。・・・・・・明治三十六(一九○三)年には内
地から剥製職人一○数人が移住し・・・・・・明治四十二(一九〇九)年の定住者は、実に二四八人に達し、九九戸を
数えた。・・・・・・南海の無人島・尖閣列島は、古賀氏の力によってすっかり変貌をとげた(上地龍典著『尖閣列島と竹
島』)。以上の移住の状況を書いている人たちのなかには,島名を挙げずに尖閣列島とだけいっている人がいるが、
それは魚釣島だったのか、あるいは久場島だったのか、どうもはっきりしていない。
尖閣列島研究会によれば魚釣島と久場島であるし、奥原教授によれば久場島である。また牧野清氏によれば魚
釣島である。黒岩恒氏のいったように、沖縄の人たちが魚釣島と久場島をアベコベにしていとするとどうなるのか。こ
の島名をアベコベにしていたことについては、奥原敏雄教授も井上清氏教授も知っている。一九四〇(昭和十五)年
になっても、沖縄県警察本部は「魚釣島(一名クバ島無人島)」といっている。古賀辰四郎氏が一八九五(明治二十
八)年に久場島といったのはじつは魚釣島ではなかったのか。古賀善次氏がカツオブシ製造と海鳥の剥製作りをし
たのは魚釣島と南小島であった。
また一九六八(昭和四十三)年に台湾の業者が起重機を二台ももちこんで一万トンの貨物船の解体作業をやって
いたのは南小島であった。また一九七〇年に、やはり台湾の業者が久場島で沈没船解体作業をやっていたが、これ
は台風で座礁して久場島海岸に打ちあげられた台湾の貨物船の処理のためであった。古賀辰四郎氏が事業を開始
されたのは,久場島からではなかったのかといっているが、その理由は、久場島は魚釣島ほど地形が複雑でなく、
地質も単純であり、土壌は肥沃のようで、島の南西面には数ヘクタールと思われる砂糖キビ畑も船から望遠され、同
行の者がパパイヤの木も見受けられたと言うし、古賀辰四郎氏は柑橘類も移植したといわれるからだとしている。
また正木任氏は魚釣島に飲料水があるから、古賀辰四郎氏は魚釣島を根拠地にして事業を始めたようだといって
いる。そして一九三九年現在、久場島に飲料用天水貯水槽が三つ残っていたという。
だが、よく考えてみなければならないことは、古賀辰四郎氏が久場島を借りたいと願いでたのは、じつは海鳥を捕ま
えて、これを外国に売るためだった。そして黒岩恒氏「恍惚自失、我の鳥なるか、鳥の我なるかを疑がわしむ」といわ
せたのは南小島と北小島の海鳥どもであった。南、北小島は魚釣島に近い。そして南小島の西側にひろがる平坦地
は近代工業の敷地になりそうだという(高岡大輔氏)しかし、それも水があってのことである。
どんな事業か
では古賀氏は尖閣列島でどんな事業をおこなったのか。これも、概略引用しただけでもまちまちである。
国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年の明治三十(一八九七)年以降大規模な資本を投じて、尖閣列島の開拓
に着手した。すなわちかれは魚釣島と久場島(傍点著者)に家屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構築するとともに、
排水溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などをおこなってきた(注 この功績によって政府は一九
〇九「明治四十二」年、古賀氏に対し藍綬褒章を授与している)(前掲尖閣列島研究会論文)。
開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ(筆者注 鳥糞)の採掘等の事業をおこなった(前掲尖閣列島
研究会論文)。
大正七(一九一八)年古賀辰四郎が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ、とくに魚
釣島と南小島で、カツオブシ及び各種海鳥の剥製製造、森林伐採が営まれてきた(前掲尖閣列島研究会論文)。
古賀善次氏が国から民有地として払い下げを受け戦前まで魚釣島にカツオブシ工場を設けて、カツオブシ製造をおこ
なったり、カアツオドリやアジサシその他の海鳥の剥製、鳥糞の採集などを営んでいた(奥原敏雄論文『日本及日本
人』一九七〇年新年号)。
古賀辰四郎氏及び善次氏によっておこなわれた事業は、この他フカの鯖、貝類、べっ甲などの加工、海鳥の缶詰製
造がある。・・・・・・
ただしアホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と猫害などのため大正四(一九一五)年以降、またグアノの採掘と積出しは、第
一次大戦によって船価が高騰し、採算が取れなくなり中止された。その他の事業も、太平洋戦争直前、船舶用燃料
が配給制となり、廃止された(前掲尖閣列島研究会論文の注)。
尖閣列島は古賀辰四郎さんの無人島探検によって明治十七に初めて開拓に着手されたわけです。その古賀さん
が労務者と共にまず黄尾嶼にわたって、羽毛、亀甲、貝類等の採取に着手し、その後魚粉の製造あるいはかつお節
工場を現地にたてて経営しましたけれども、大正の中ごろから事業不振のため全部引揚げ、その後現在にいたるま
でも無人島になっている(桜井×氏)
古賀辰四郎は明治十七(一八八四)年、労務者を久場島に派遣し、羽毛、べッ甲、貝類の採取を初め、その後、古
賀氏は日本政府から魚釣島、久場島に派遣し、羽毛、ベッ甲、貝類の採取を初め、その後、古賀氏は日本政府から
魚釣島、久場島、 北小島、南小島の四島を三〇年の期限付きで借地権を獲得した。そしてカツオドリ、アジサシな
どの海鳥の剥製、鳥糞の採集、カツオ業を拡張したが、それらの事業がいつごろまで続いたかについては明確な記
録もなく、善次氏の話によれば、大正の中期ごろから事業が不振になったらしい(高岡大輔論文「尖閣列島周辺海
域の学術調査に参加して」参照)。
大正(一九一九)年の冬・・・・・・当時古賀支店は魚釣島でカツオ漁業を経営していたので・・・・・・(牧野清氏)。
古賀辰四郎氏は魚釣島と久場島に家屋や貯水設備、船着場をつくった。さらにカツオ節工場、ベッ甲、珊湖の加工
工場も建設された。
そのほかグアノ採掘にも着手した(上地龍典氏)。
黄色嶼で明治四〇年代、古賀辰四郎氏は二年間燐鉱採掘したが、その後台湾肥料会社に経営権を渡した(正木任
論文「尖閣列島を探る(抄)」『季刊沖縄』第五十六号参照)。
古賀商店は戦争直前まで伐木事業と漁業を営み・・・・・・(琉球政府声明「尖閣列島の領土権について」)。
黄色嶼を古賀氏が開拓し、椿、密柑など植え,旧噴火口には密柑,分旦、バナナ等があった。さつまいもやさとうき
びは野生化していた。魚釣島の古賀商店の旧カツオ節製造所の跡に荷物を運んだ。魚釣島の北北西岸に少しばか
り平地があって、そこに与那国からの代用品時代の波に乗ってか、はるばるとクバ葉脈を採取のため男女五三名と
いう大勢の人夫が来て、仮小屋を作り合宿していた(前掲正木任論文参照)。
正木氏のリポートにある与那国の人たちは、古賀商店の多田武一氏が連れて行った人たちであろう。クバの葉脈で
ロープや汽船や軍艦のデッキ用の×(筆者注 ブラシという人もいる)をつくった。またクバの幹で民芸品などもつくっ
たといわれている。与那国にもクバはあったがそんなに多くなかった。戦争によって物資が不足してくると、クバの繊
維はシュロ椰子の代用品につかわれたのであろう。
多田武一氏は与那国の人であり,クバの葉を求めて家族とともに魚釣島に渡った。これが、琉球政府声明にある古
賀商店の伐木事業なのかもしれない。しかしこれは季節的一時的なもので、古賀善次が政府から四島を買いとった
ときには、四島はふたたび無人島になっていた。
一枚の写真
ここに一枚の写真がある。一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人島ではなかったという「証拠
の写真」を八枚掲載した。それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そのなかの一枚は筆者が一九七
一年に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写真は,一九〇一年二月に黄色尾島で生まれたとい
う伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そして、おなじ一枚の写真を古賀花子さ
んは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さんは黄色島(黄色嶼、久場島)のものだという。この写真には事務所の責任
者として、日の丸のポールのところに伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目のところに白い着物を着て帽子をかぶり、
ステッキをついているのが古賀辰四郎氏である。いったいどちらが本当なのか。辰四郎氏と弥喜太氏の二人が写っ
ているのである。古賀花子さんのもっていないもう一枚の写真(これは古賀辰四郎氏の自慢のカメラで写したもので
あろう)の中央に弥喜太氏が次女を膝の上に乗せているのがある。それには「黄尾島古賀開墾・・・・・・」と紙に書い
たものを門柱に貼り付けてある。これは写真をとるために書いたものであろう。なかなかよい字である。
ところが弥喜太氏や辰四郎が書いた日誌も記録もない。辰四郎氏は久場島拝借願いを出して借り受けたのに、ど
うして「黄色島古賀開墾・・・・・・」としたのだろうか。黄色島を島の固有の島名と考えたのであろう。しかし、黒岩恒氏
が書いていているように、当時沖縄の人たちが黄尾嶼と魚釣島(釣魚島)をアベコベに考えていたとしたらどうなので
あろうか。伊沢真伎さんは黄尾島では飲み水がなおので妻帯者は弥喜太氏一人であったといっている。写真にある
婦人労働者は、すべて独身で土佐のカツオブシ工場から連れてこられたものであり、子供労働者はとさや沖縄から
買われきたものであったという。
黄尾島で弥喜太氏の娘が二人生まれた。長女の真伎さんは久米村小学校に三年生までいて、一九一〇(明治四
十三)年に弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが、そのご、父弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが,その後、父弥喜太
氏とともに台湾に行き、そこで結婚し、敗戦で日本にかえった。大城立裕著『内なる沖縄』によれば、久米島の住人
は、中国からの帰化人の子孫で、旧王朝時代は中国語を常用していた向きもあったようだという。
古賀花子さんは夫の古賀喜次からきたことを話しているのであり、伊沢真伎さんは父弥喜太氏から昔きいたことを
話しているのだから記憶がうすれたことも誤りもあるだろうと思う。しかし正木任氏によれば黄尾嶼(久場島)には飲
み水がなく雨水を貯える水槽が三カ所つくられ、それでも飲料水が不足したときはサバニで魚釣島まで水取りに出
掛けたというから、真伎さんの生まれたのは確かに黄尾嶼であった。ではカツオブシ工場は魚釣島にあったのか。そ
れとも黄尾嶼(久場島)にあったのか。あるいはまた魚釣島と黄尾嶼の両方にあったのかどうもはっきりしない。しか
し伊沢真伎さんは黄尾地馬でカツオブシ工場をつくり、土佐から職人を入れて経営していたというし、また黄尾島で
は貝殻の採取とアホウ取の毛の採取をやっていたといっている。弥喜太氏は「八方ころび」とよばれたまん丸な真珠
を品評会にだして賞金三百円をもらい、皇后陛下に健常するために東京に行くのに支度金がかかり赤字をだしたとい
う。真水がなくともカツオブシがつくれるのかどうか宮城県気仙沼の古いカツオブシ業者にきたら、それはつくれると
いう。
辰四郎と弥喜太
二人がどこで、どのようにして知りあったのかはわからない。出資と経営についてどのような話があったのかもわから
ない。わかっていることは、古賀辰四郎氏は金をだしても細々したことはいわない太っ腹の人だったということであ
る。伊沢弥喜太氏は一八九一(明治二十四)年、漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡航した。このとき弥喜
太氏は海産物とアホウ鳥を採取して帰った。そしてまたこのとき、弥喜太氏は中国人の服装をした二つの遺体をほら
穴のなかで発見している。黒岩恒氏は一九〇〇年の尖閣列島探検記事のなかで、同行の人夫が山中に白骨ありと
いったが、夕方なので無縁の亡者を弔うことができなかったといっているが、それは釣魚島のことである。弥喜太氏
は一八九三年再度渡航している。石が井島に支店をだしていた辰四郎氏は当然、弥喜太氏と知りあったと思う。弥
喜太氏は読み書きのできる当時インテリであった。
一九〇〇年五月に古賀辰四郎氏は永康丸をチャーターし、宮島幹之助理学士(北里研究所技師を経て慶應大学
医学部教授)に頼んで久場島(黄尾嶼)の調査をしてもらうことにした。沖縄師範学校教諭黒岩恒氏(一八九二年に
沖縄に赴任)は校長の命令で同行し、また野村道安八重山島司も一諸に行った。
宮島幹之助理学士の黄尾嶼での調査は、風土病,伝染病、ハブ、イノシシその他の有害動物の有無や飲料水の
適否などであった。調査の結果、マラリヤ,伝染病はなく、ハブ、イノシシは棲息せず、また飲み水がないことがわか
った。
宮島理学士が黄尾嶼で調査をしているあいだ黒岩氏は、永康丸を釣魚嶼に向け、五月十二日午後四時、古賀辰
四郎、野村道安氏とともに釣魚嶼に上陸しただけで船にもどり、二日後に迎えにくるからといって黄尾嶼に帰った。黒
岩氏の釣魚嶼の探検記事には「教導(伊沢氏)一名、人夫三名」をもって探検隊を組織したとある。教導とは案内役
のことである。この伊沢氏というのは伊沢弥喜太である。弥喜太氏は釣魚嶼のことを知っていた。「午後尾滝谷に着
す、此地古賀氏の設けたる小舎一、二あり屋背屋壁皆蒲葵葉を用い」と黒岩氏は書いているが、ここは「秋来たりて
春に去る」アホウ鳥を捕獲するために設けられたもので、屋根も壁もみなクバの葉でつくられていた。
尖閣列島の仕事に実際に携わった責任者は弥喜太氏である。では、釣魚嶼の開発はクバの葉でつくった小舎から
どんな発見をしたのだろうか。
辰四郎は一九○一年には、沖縄県技師熊蔵工学士の援助を受けて、釣魚島に防波堤を築き、漁船が着岸できる
ようにした。辰四郎氏が描いた明治四十年代の魚釣島事業所建物見物配置図がある。(上地龍典著「尖閣列島と竹
島」教育社刊、五四頁)。この配置をみると漁師の住まい、カツオブシ加工労働者の住まい、婦人労働者の住まい、
子供労働者の住まい、カツオ切り場、カツオ釜などがあり、又火薬庫もある。
バカ鳥の乱獲と本土資本の進出で、弥喜太氏の経営はゆき詰まり、弥喜太氏は家族とともに台湾に行き一九一四
年に花蓮港で死んだ。
この年に第一次世界大戦が始まり、日本軍は山東省に上陸した。そしてその四年後に辰四郎が死んだ。この二人
が死んでしまうと、正確な記録がないために事実関係がよくわからない。辰四郎氏のあとを善次氏が継いだが、尖閣
列島の「黄金の日日」はそのころまでだったと上地龍典氏は書いている。
どうもややこしい問題である。しかし、そこには「天日ために光を滅する」ほどの海鳥がいて、北上するカツオ、マグ
ロ、カジキなどの回遊漁の一部は必ず尖閣列島海域を通過する。そして古賀辰四郎氏の尖閣列島開発事業があっ
たことは、まぎれもない事実である。古賀商店の一九○七年の産物価格は一三万四、○○○余円というから、これ
は当時としてはたいへんな金額である。この年の四月に三越百貨店があ食堂を開いたが、料理一食五○銭、洋菓
子一○銭、紅茶、コーヒーがそれぞれ一杯五銭であった。
これら開発事業は、すべて日清戦争で尖閣列島を日本領としたことであり、無主地を先占し有効支配していたとい
う裏づけにはならない。
(8)閣議決定と勅令第十三号および第十四号―
――その政治的、経済的、社会的背景
明治憲法における閣議決定
一九七二年三月八日に日本外務省がだした「尖閣諸島の領有問題について」という同省の基本的見解は『明示二
十八年一月十四日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することにしたも
のである』と述べている。また、一八九五(明治二十八)年一月十四日の閣議決定と勅令第十三号との関係につい
て、日本の一部の国際法学者たちは、つぎのようにいっている。
尖閣列島の領有主権についてであるが、日本の主張は、同列島がすでに一八九五年の閣議決定をへて、一八九
六年の勅令十三号により領土=沖縄県の一部として公式に編入された事実に基づいている。これは、どこの国の領
土でもないいわゆる無主地を取得する方法――――先占――――として国際法が予想しているものである(皆川洸
論文「尖閣列島」)。明治二十九年(一八九六)勅令第十三号によって日本政府が尖閣列島の領有宣言を行ってい
る(新城利彦論文「尖閣列島と大陸だな」)。
明治二十八(一八九五)年一月十四日、閣議は正式に八重山群島の北西に位する魚釣島、久場島(黄尾嶼)を沖
縄県の所轄と認め、沖縄県知事の上申通り、同島に所轄標杭を建設せしめることを決定し、その旨を同月二十一日
沖縄県知事に指令した。さらに閣議にもとづいた同列島に対する国内法上の編入措置は明治二十九(一八九六)年
四月一日、勅令十三号が沖縄県に施行されたのを機会ににおこなわれた(奥原敏雄論文「尖閣列島」『沖縄タイム
ス』)。
明治二十八(一八九五)年一月十四日、沖縄県知事に対して、その実施を指令した。沖縄県知事は、明治二十九
(一八九六)年四月、尖閣列島を、八重山郡に編入せしむることによって、国内法上の措置を完了した(尖閣列島研
究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖縄』第五十六号)。それでは、明治憲法(旧憲法)における内閣制度と閣
議とはどんなもであったのかということがまず問題になる。旧憲法下の内閣制度と現在のそれとは著しく異なるから
である。
新憲法においては、「行政権は内閣に属する」のに対して、旧憲法では行政の大権はあ天皇にあって、内閣は行
政権の主体としての天皇の単なる輔弼機関にすぎなかった。
すなわち、旧憲法では「国務閣大臣は天皇を輔弼し、その責に任ず」とあり、内閣は国務大臣が個別に天皇を輔弼
するにあたって、その責めを全うするための必要と便宜にもとづいて設けられたものにすぎなかった。旧憲法では国
務大臣が内閣という会議体を組織することは明らかにされておらず、内閣は憲法に直接根拠をもつ機関ではなかっ
た。だから、明治二十八年一月十四日の閣議決定は、そのままでは「正式にわが国の領土に編入する」ために国家
としての意思決定をしたことにはならない。行政の大権が天皇に属していたから、実際には、政策決定は内閣総理
大臣や各担当大臣によっておこなわれたけれども、国家としての意思表示は正式には勅令というかたちをとらなけれ
ばならなかった。
勅令第十三号および第十四号
いわゆる尖閣列島の無主地の先占を主張する一部の国際法学者は、一八九五(明治二十八)年一月十四日の閣議
決定と一八九六年三月五日の勅令第十三号を関連させて、先占の法理をくみたてようとしている。
朕沖縄県ノ郡編制二関スル件ヲ裁可シ?ニ之ヲ公布セシム
御 名 御 璽
明治二十九年三月五日
内閣総理大臣候爵 伊 藤 博 文
内 務 大 臣 芳 川 顕 正
勅令第十三号
第一条那覇首里両区ノ区域ヲ除ク外沖縄県画シテ左ノ五郡トス
島尻郡 島尻各間切久米島慶良間諸島渡名喜島栗国島伊平屋諸島鳥島及大東島
中頭郡 中頭各間切
国頭郡 国頭各間切及伊江島
宮古郡 宮古諸島
八重山郡 八重山諸島
第二条郡ノ境界若クハ名称ヲ変更スルコト要スルコトハ内務大臣
之ヲ定ム
附則
第三条 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム
朕沖縄県郡区職員及島庁職員に間スル件ヲ裁可シ?ニ之ヲ公布セシム
御 名 御 ?
明治二十九年三月五日
内閣総理大臣候爵 伊 藤 博 文
内 務 大 臣 芳 川 顕 正
勅令第十四号
第一条沖縄県島尻中頭国頭ノ各郡長一人及郡書記若干人ヲ置ク
第二条沖縄県宮古八重山ノ各郡ニ島司一人及島庁書記若干人ヲ置ク
第三条 沖縄県那覇首里ノ各区ニ区長及区書記若干人ヲ置キ那覇区長ハ島尻郡長を以テ之ニ充テ首理区長ハ中
頭郡長ヲ以テ之ニ充ツ
第四条 地方官官制中郡長ニ関スル規定ハ区長ニ適用シ郡書記ニ関スル規定ハ区書記ニ適用ス
第五条 沖縄県郡区書記ノ定員ハ沖縄県判任官ノ定員内ニおいて於
知事之ヲ定ム
附則
もともと、この二つの勅令は、いわゆる尖閣列島の日本領編入を目的としたものではなかった。だから外務省の基
本見解では勅令第十三号はもちだしてはいない。では、この二つの勅令がだされた政治的、社会的背景はどういう
ものであったのか。この背景について、新里金福・大城立裕著『沖縄の百年』大平出版社刊、「第三巻・歴史編」によ
ってその概略をのべるとつぎのようになる。
一八七九年に明治政府が武力を背景にした廃藩置県を沖縄に実施したとき、松田道之処分官は、租税はおいお
い軽減するが藩主や旧士族の身分家禄などはなるべくもとのままにして優待するから、各自安心して仕事にはげむ
ように、という格好のいいことをいって、新政府への協力を求めた(八二頁)。事実、明治政府は旧藩王尚泰に対して
は特別利付公債二○万円を、家禄もちの士族三六○余人には年額十五万余を与えた(八一頁)。同年四月に平民
にされた華士族の分家は録を失ったが、その年の十二月には旧慣どおり家禄を支給するということまでやった(八一
頁)。寄生的な士族階級に対する待遇は他府県よりもかえってよく、彼らの生活は前よりも楽になったといってよい。
これに比べて無縁であった下級武士の生活は何の保証もされず、急速に零落して都落ちしていった(八一〜八二
頁)。農民は農奴的立場から開放さされたわけではなく、農民の租税は少しも軽減されなかった。旧藩の法規、税制
はそのまますえ置かれ、改正されたのは各離島のにも駐在所が置かれて警察組織が整備され、また裁判は「裁判
事務の執行は旧藩の法を参酌して人情風俗に従い適宜裁判すべし」というものであり、県知事が判事を兼務すると
いう、まことにひどいものであった(八三頁)。とくに宮古、八重山などの先島はあいかわらずひどい差別を受けていて
た。
沖縄の農民は、首里王府の所有地を耕す農奴にひとしい立場におかれていた(六五、一三四、一四五頁)。首里
王府の所有地は全農地の七六%におよんでいた(一四八頁)。そしてそこには小作権というものも確立していなかっ
た。首里王府から賃与された土地の共有地とされ、納税義務は村にあった。農民は各戸ごとに村の共有地を割り当
てられた。この地割りは数年から十数年の周期で割り替えがおこなわれたから、おなじ土地をながく耕作することは
できなかった。これが地割制度である(一五一頁)。
ところが宮古、八重山の先島では、土地は家を単位とする個人所有であったが、そのかわり人頭税制と名子制度
があった(一五二頁)。
そしてこれらの制度は廃藩置県後も残った。人頭税制は島津が沖縄を殖民地とした、一七世紀のはじめからあった
もので、十五歳から五十歳までの全農民に、男には米、粟、女には上布を個人単位に例外なく賦課っするもので現
物納であった。また名子制度は、農民に対して旧士族のために、無償で労働を提供させたもにである。一八八八年
投じで約三、○○○人の名子が史員四百数十人に自由にこき使われていた(一三四頁)。琉球王朝時代から、三三
○キロメートルの海で沖縄本島からへだてられた宮古、八重山の士族階級の特権は、この人頭税制度と名子制度
の上に築かれたものである。
一八九三年十一月三日、宮古の農民の代表四人は東京に着き、宮古の現状を政府に訴えた。中央の新聞は四
人の代表を「明治の佐倉宗五郎」と書きたてた。一八九四年一月十二日、貴族院に「沖縄県政改革建議」が提出さ
れ、曽我祐準史は説明して「沖縄県諸島中には軍港とすべき処あり、わが東洋の関門というべき処なれば、もし今
日東洋に時変あらば沖縄に要塞を設くる必要なきあらず。これ実に諸君の熟考を請う点なり」と述べ、又重税負担に
あえぐ沖縄農民の惨状を知るものが少ないと欺いた(一三八頁)。明治政府は日清戦争に向かって体制を固めてお
り、沖縄は国境の島々であったわけである(一三九頁)。その直後の一月十七には宮古島福利村の農民一六○が
署名した「宮古島費節減及島政改革請願」が衆議院に上程された。
この請願の内容は島費節減と人頭税の改革を訴えたものである。衆議院はこれを可決した。四人の代表は政府に
も陳情して帰国した(一三八頁)。そしてこの年に名子制度だけは廃止されたが、人頭税は一九○三年まで残され
た。じつは一八九三年三月十八日に奈良原繁沖縄県知事は宮古島民の訴えをとりあげて、蔵元、村番所の機構改
革、史員定員の削減、名子制度廃止、予算協議会の設置などを吉村貞寛宮古島役所長に内訓し、吉村役所長は旧
改革にのりだしたが士族たちの烈しい抵抗にあって、改革計画は失敗したということがあった(一三五頁)。宮古の士
族階級が、廃藩置県に強く反対しなかったのは、人頭税と名子制度が存続されてたからであった。
一八九三年十一月に宮古農民の国会請願後、政府は直ちに内務書記官を沖縄に派遣して、「旧制度運用実情と
人心の傾向等調査」にあたらせた(一三九頁)。日清戦争という本格的外侵略戦争の準備をすすめつつあった政府に
とって、国境の島沖縄で紛糾がおこるのは、大きな痛手であったからである(一三八頁)。一八九四年には江木県治
局長を派遣して沖縄の地方制度の調整をさせ、また同年の三月二十八日には、大蔵省の祝辰巳氏を沖縄県収税局
長に任命し、税法調査させたが、祝氏の報告は「同県の制度は複雑にして、内地と同一の扱いはできぬ」というもの
で、工地整理の着手は先にひきのばされた(二二二頁)。
一八九五年七月には、目賀田種太郎大蔵省主税局長を沖縄県制度改正方案取調委員に任命して調査に着手、
そのご若槻礼次郎国税課長によって同調査はつづけられた(一四○頁)。政府が沖縄の土地に着手したのは、一八
九九年四月からである(二二二頁)。 その間、中央政府はわずかに郡区の編成を整理して、お茶をにごしたにすぎな
かった(二二三頁)。一八九六年三月五日付勅令第十三号および第十四号がそれである。この勅令は四月一日から
施行された。そしてこれは、中央政府の令達によっておこなわれた沖縄の地方制度の最初の改正であった。沖縄の
旧慣地方制は、間切・島の制度であるがこの制度は農村地域にだけ適用され、首里、那覇の支配階級移住には別
の制度があった。
この郡区編に関する二つの勅令によって、改正されたのはつぎの諸点である(二二三〜二二六頁)。
@首里、那覇の二地区に区制を施行した。この両区はこれまでずっと支配階級の居住区で民有地であるのに移住
者は一切の貢祖や民費を負担していなかった。改正によって首里、那覇両区は区税もはらわなければならなくなっ
た。そしてまた泡盛製造税と塩田税は国庫に納入されることになった。那覇区長には島尻郡長を首里区長には中頭
郡長を兼任させた。議決機関として区会を設けた。
A農村地区を島尻、中頭、国頭、宮古、八重山の五郡に分け久米、
慶良間、渡名喜、粟国、伊平屋、鳥島、大東島を島尻郡の管轄とし、伊江島を国頭郡の管轄とした。島尻、中頭、国
頭の三郡に郡長を置き、宮古、八重山の両群には島庁を開設し島司を置くことにした。
しかし沖縄県は、この二つの勅令による郡区編成によって,形式的には他府県と似た格好になった。沖縄県に徴兵
令が施行されたのは一八九八(明治三十一)年一月一日であるが、一八九七年六月二十四日に高島鞆之陸軍大
臣が松方正義総理大臣にだした、沖縄県及び東京府管下小笠原島に徴兵令を施行する勅令案ならび理由書には,
沖縄で廃藩置県後、十数年間も徴兵令を施行しなかったのは、当時の内政外交上の理由によるものであったが、い
まその理由を考慮する必要がなくなった。それに昨年から郡区制を施行して、制度も本土と似てきた。徴兵令を施行
するには好機である、といっている(二二五頁)。すなわち勅令第十三号、第十四号は、徴兵令を施行の役にもたった
ということになる。
このように勅令第十三号と十四号がだされた背景は、明治政府が内政外交上の理由から、沖縄の旧慣制度をそ
のままにしていたが、宮古農民の人頭税廃止運動がきっかけとなり、政府は沖縄の近代化すなわち土地制度の改
革に、手をつけざるえなくなったということである。沖縄の諸制度の改革は租税制度改革であり、租税制度の改革は
土地制度の改革は土地制度そのものの改革であった。しかし沖縄の制度は複雑である。そこでとりあえず,郡区編制
ということでお茶をにごすことになったわけである。
だからこの勅令十三号は、いわゆる尖閣列島とは全く関係なくだされたもので、関係あるかのようにいうことは誤り
である。
(1)法学協会編『注解日本国憲法』下巻、有斐閣刊。『図解による法律用語辞典』自由国民社刊。を参考文献とす
る。
(2)区長、郡長、島司は官選によって任命され、その俸給は従前どおり国庫負担であった。そして官選の実質は、そ
れまでの役所長の名所を変更したにすぎなかった。
(9)『ひるぎの一葉』より
岩崎卓爾氏は一八六九(明治二)年仙台にうまれ、第二高等学校を中退して北海道札幌測候所に勤務、中央気象
台をへて、一八九八(明治三十一)年十月石垣島測候所に勤務、一八九九年に石垣島測候所所長となり一九三二
(昭和七)年退官し、一九三七年後が五月に石垣島で没した。彼は一生を通じて、木綿の着物を着て、下駄をはき、
洋服、洋傘、靴をもちいなかった。そして彼は石垣島の人たちから「天文屋のうしゆまい(じいさん)」と親しまれた。
一九一三年以後は妻子を仙台に帰して、年に一度東京で開かれる測候所所長会議に出席のついでに家族と会って
いた。程順則の『指南広義』が中央の機関誌『気象集誌』に彼の手ではじめて紹介された。退官後、彼は石垣島の
登野城に居を構え「袋風荘」と名付けた(『沖縄の百年』太平出版刊)。
一九七四年六月に,伝統と現代社から『岩崎卓爾一巻全集』が出版されている。ところが、一巻全集に載っている先
覚列島はほんのちょぴりである。彼の著作『ひるぎの一葉』のなかに「与那国島と波照間島と尖閣列島」があるが、
尖閣列島について、要旨つぎのように簡単にふれている。
@尖閣列島(通称クバ島また大正四年十月刊の水路図に尖閣諸嶼と記す)。
A尖閣列島(黒岩恒先生の新称)
B列嶼は魚釣嶼、尖閣諸嶼および黄色嶼より成る。
C先代古賀辰四郎氏が企図した初めのころ、退屈をなぐさめよとして猫を連れて行った。ところが繁殖力さかんで野
猫と化し、アホウ鳥は鳥から逃げてしまうようになった。無人島を開拓しようとする人は慎まなければならない。
D島嶼付近のカツオが群集することが多く、現在六九人がすんで漁×をしており、燐鉱あり。
また「石垣島気候篇」には「八重山群島の周囲と面積」に、南小島、北小島、魚釣島、久馬島の四島をのせている。
石垣市に四○年も生活し、石垣島測候所に銅像まで建ててもらった岩崎氏氏は、一九○○年に宮島幹之助や古
賀辰四郎とともに尖閣列島に渡った野村道安八重山島司とは同居人(仙台)だから、当然黄尾嶼や魚釣嶼のことを
きており、古賀辰四郎や息子善次氏の事業についても知っていたとおもう。だが,岩崎氏の尖閣列島についての記録
はあまりにも少ない。岩崎氏は古賀氏の事業には興味がなかったようである。東京の中央気象台が、岩崎氏を東京
によびもどして技師にしてやろうと幾度も声をかけたのに、「実は、ここが日本一空がきれいなのですと」応じなかった
彼のことだから、バカ鳥を捕まえて羽毛をむしり、肉は缶詰にして金もうけるというよな、ナマグサイことには気をひか
れなかったのかもしれない。
(1)一九三七年『沖縄日報』に連載、一九六七年、琉球新報社刊。
(10) 下関条約と台湾の受渡し
下関講和談判
日清戦争の講和談判は、一八九五(明治二十八)年三月二十日から下関の藤野楼(春帆楼)でひらかれた。日本
側全権は伊藤博文総理大臣と陸奥宗光外務大臣であり中国側は李鴻章筆頭全権であった。会談は七回おこなわ
れた。
日本側の講和条約案は「奉天省南部と奉天省に属する島嶼」、「台湾全島及其付属諸島嶼及澎湖列島」などの割
譲と軍費賠償として三億両(テール)を要求した。李鴻章全権はこの日本の要求に対して、「日本は今回交戦の初
め、清国と干戈を交うるに到りたるは朝鮮の独立を図り清国の土地を貧るに非ずと中外に宣言せしに非ずや」、「兵
費に就ては今回の戦争は清国先づ手を下したるに非ず、また清国は日本の土地を侵略せしことなし。故に論理上よ
りいえば、清国は公費を賠償すべきものに非ざるが如し」と主張した。中国側は、一八九四年十二月二十五日をもっ
て、すでに朝鮮の独立自主を認める旨を宣言している、だから日本は戦争の目的を達したことになる。それ故兵費の
賠償は十二月二十五日までとし、それ以後の分について要求するのは不当だ、ともいった。日本側が「台湾全島及
其付属諸島嶼及澎湖列島」を日本によこせと要求したとき、中国側は「澎湖列島に限る事」と修正案をだした。伊藤
博文総理と李鴻章全権とのやりとりの日本側の記録はこうなっている。
李 貴国が未だ占領せられざる台湾までも要求の条件とせられるは、少なくともその真意を解するに苦しむ所なり。
伊藤 現に占領すると否とは、敢て問う所に非ず。仮し未だ占領せざるも、要求の条件とするにおいて何の妨げあ
らんや。
李 現に占領せざる地を要求せらるるは、其当を得ずと思考す。
伊藤 若し然らば、直ちに兵を送りて占領せしめんが如何。
伊藤総理はわれわれの最大の任務は、一日も速く講和条約を結ぶことであるとして「広島に於ては出征の準備己
になり、何時を問わず×を解かんとするの運送船六十隻あり、現に昨夜以来今朝までの間に、当時峡を通過したる
運送船二十席に達せり、而してその向かう所は、天津を距る遠からざるべし」といって李全権に圧力をかけた。
伊藤総理の脅迫によって、李全権は台湾を日本に割譲することをのぞんだわけだが、台湾の受渡しついてのやりと
りはこうなっている。尖閣列島に関連して、これは非常に重要である。
李 条約批准の時は貴国よい其高官の為めに全権委員を簡派せられんか、其節を以て土地引渡に関する規定を
十分商議せんとす。而して貴国に割譲したる土地へは無論武官を派出せらるべきも、之と同時に文官をも派遣せし
められたし。然らば引渡細目を議するに於て、双方に便宜多し。又実際の引渡は、批准交換後六箇月と決定せられ
んことを望む。
伊藤 六箇月は長きに過ぐるを以て許諾し難し。
李 兔に角批准交換後引渡に関する事項を商議する為に、双方より特に全権委員を任命せられざるべからず。
伊藤 条約第二条第二項の実行に就きては、別に取極書を起草し置きたり。
李 批准交換後に於て此事(筆者 引渡のこと)を決定せられたし。
伊藤 条約第二条第二項の実力に就きては、別に取極書を起草し置きたり。
李 批准交換後に於て此事(筆者注 引渡のこと)を決定せられたし。
伊藤 交換後にて不可、必ず今日に於てえ決定せざるべからず。
李 実は台湾に関しては、余は同地総督に指揮命令する権力を有せず。因て批准交換の時、貴国より北京に簡派
せられる全権委員と、我総理衙門との間に於て商議せられんことを望む。然らば我総理衙門はその商議の結果を以
て、台湾総督に指揮するところあるべし。因て此事交換後、通商航海条約、陸路交通貿易に関する諸条約と共に商
議せらたし。
伊藤 其の如き遅緩の措置許さず。必ず今日に於て確定せざるべからず。
李 然れども批准交換の非ざれば,土地の引渡を得ざるは勿論なれば、交換後全権委員をして実行せしむるの外
なし。今日は単に其事の約束のめに止め置かれんことを望む。
伊藤 約束のめ止まるは不可なり。我は実際の引渡を受くる為に何時と雖も全権委員を簡派すべし。必ず今日に
於て確定する所なかるべからず。
李 然れども余は台湾総督に向い、何等指揮するの権力を有せざれば、今日に於ては如何とも名言するを得ず。
伊藤 批准交換後は台湾は我主権の及ぶ所なれば,其場合に於いて何
等商議するを要せず。
李 台湾の引渡は少なくとも六箇月の猶予を乞わざる得ず。現に我官史及土豪等をして、公私の事務をもまとむる
丈の余裕を与えられざれば、或は為めに不慮の変生ずるなきや得し難し。
伊藤 閣下は何故に今日此の取極書に同意すること能はざるか。
李 余の権力の及ばざる所なれば,今決定するを得ず。.結局批准
交換後、両国全権委員をして商議せしめられたしと乞うの外なし。
伊藤 然らば閣下は何れの日会同して、何の日まで決定せんとするか。
李 其期限は今明答するを得ず。
伊藤 とても承諾し難し。
李 既に台湾割譲の条約なりたる後のことなれば、両国全権委員が最後の引渡に付ての規定を商議するなれ
ば・・・・・・
伊藤 然らば一定の期間を確定せざるべからず。先批准交換一箇月と取極め置かん。
伊藤総理は「講和条約批准交換後、一箇月以内に双方の政府は台湾に委員を派遣し、同批准交換二箇月以内に
最後の引渡を遂行すべし」という案を李全権に示した。これに対して李全権は、平和回復ができれば両国官史は友
好的にやってゆくのだから、そんなに期限を厳しくする必要はあるまい。閣下は実にに多く望まる(You are too
hungry)といった。批准書交換についても伊藤総理は条約調印後10五日といい、李全権は一ヶ月と主張した。伊藤
総理は十五日から二十日と妥協したが、李全権は二十日では不十分だと反論した。結局講和条約には第五条で
『日清両国政府は本役批准交換後、直ちに書く一名以上の委員を台湾省に派遣し、該省の受渡を為すべし、而して
本役批准後二箇月以内に、右受渡を完了すべし』と規定した。
講和条約は一八九五年四月二十三日に駐日独・仏・露三国の公使が外務省を訪れ、林次官に,日清講和条約中
の「×東半島の割地につき重大なる異議を」申したてた。いわゆる三国干渉である。そのことによって中国政府部内
日清講和条約の改訂・批准阻止を主張する声が大きくなった。伊藤博文総理大臣も陸奥宗光外務大臣もすっかりあ
わててしまい、結局、四月三十日に御前会議を開いて×東半島を永久に放棄することにきめた。批准書交換は五月
八日におこなわれ、五月十日には×東還付の天皇の詔勅が出された。
大急ぎの台湾受渡し
台湾の受渡しについては、筆者の手元にある岩波書店刊『近代日本総合年表』にも、おなじく岩波書店刊『日本史
年表』にも、また中央公論社『日本の歴史』別巻5の年表にも載っていない。だが、外務省編『日本外交年表』(原書
房刊)には載っている。
明治二十八(一八九五)年六月二日,清国全権李経方と樺山台湾総督間に台湾及び澎湖列島受渡を了す。
下関の講和談判で李全権は,台湾の引渡しには六ヶ月かかるといい、伊藤総理は一ヶ月と主張した。結局は二ヶ
月以内ということになったのだが、実際には批准書交換の日から二五日目に台湾の受渡しは完了した。講和談判の
なかで伊藤総理は、批准書交換後は台湾はわが主権のおよぶところだから、受渡しについてなにも中国とのあいだ
に相談する必要はないといったし、下関条約の台湾割譲に反対する台湾省民の抵抗武装力は、五月二十五日蜂起
しているのだから、中国側としても公私の事務をまとめて引継ぐという状況ではなかった。だから李経方全権と樺山
資紀台湾総督とのあいだの受渡しは、至極おおざっぱなあものであったろうと思う。だから台湾の付属島嶼名までい
ちいちあげるというようなことはなかった。一八九六年五月に大阪で出版された新直×編、吉岡平助発行の『高等小
学科地理補習用「台湾地理小誌・全」』には「台湾本島のほか島嶼の挙具べきものは西部の澎湖島を第一とし、つ
いで小琉球島あり、頭部に紅頭嶼、火焼嶼あり、また東北海中に二島あり、一を亀山といい、一彭佳嶼という」ときわ
めて簡単に書いている。
奥原敏雄教授は台湾が中国領になったのは一六八三年であり、棉花嶼、花瓶嶼、彭佳嶼などが台湾に行政編
以下 18行抜け
[ 井上清教授と奥原敏雄教授の古文書をめぐる論争
(1) 尖閣列島は台湾の付属島嶼か無主地か
京都大学井上教授(日本史)は、その著書『尖閣列島』のなかで、「国士舘大学の国際法助教授奥原敏雄のほ
かは、あえて歴史的説明を公表したものはまだ一人もあらわれていない」と書いている。国士舘大学奥原敏雄助教
授(国際法)は、直接歴史的古文書に触れて、いかにして尖閣列島が無主の地であったかを立証しようとしている。
尖閣列島が無主の地でなければ、古賀辰四郎、善次氏親子の尖閣列島開発事業という実効的支配の証拠を何
百ならべてみても、それらはしょせん、領有権主張の根拠にはならないからである。
奥原教授はこのことについて、雑誌『中央公論』一九七八年七月号掲載の同教授論文「尖閣列島領有権の根
拠」のなかでこう述べている。
もし尖閣列島が中国領であったと仮定した場合、わが国の立場はたしかに不利になる。台湾の付属諸島として尖
閣列島を扱った場合、日清講和条約第二条は、台湾およびその付属諸島を日本に割譲しているから、第二次大戦
後わが国が台湾を放棄した結果として……(尖閣列島も)放棄したことになる……。
また仮に台湾の付属諸島として扱わなかったとしても、中国領である尖閣列島の領有権をわが国が取得するため
には、時効の法理による以外にないということになる。ところが時効の法理は日清戦争といった事実が存在しない場
合に使い得る議論であって、もし日清戦争の存在を前提として、この問題を考える場合に、この法 理によってわが
国が尖閣列島の領有権を取得したとする主張は論理としていいうるとしても、主張としてはきした時期に、わが国が
領土編入したという行為そのものが、日清戦争の結果として、そういった行為を可能ならしめたということになるから
である……少くとも尖閣列島が中国領であるという前提に立つ限り、それが台湾の付属諸島であろうとなかろうと、
日本が日清戦争の結果として、初めて取得が可能になった地域ということになるからである。
そしてまた同論文のなかで奥原教授は、尖閣列島の考え方として六つあげている。
(1) 尖閣列島をめぐる領土紛争は政治的紛争ではなく、法的な紛争である。
(2) 私的な紛争ではなく、中国と日本の国家間の紛争である。
(3) 国家間の法的紛争だから国際法に従って解決しなければならない。歴史的見地から尖閣列島の領有を主張
するということと、その主張が法的に認められるかどうかは一応別問題である。
(4) ただし、国際法が歴史的事実を無視するということではない。問題は歴史的古文書が、国際法上に意味のあ
るものかどうかということである。
(5) 実効的支配を要件とする先占の法理は、現代の国際法のもとでも有効である。
(6) 歴史的見地に立つ中国領有論の大部分は、これは法的な観点から分析するならば、いわゆる発見、命名、領
有意思の存在だけで領有権の帰属が決定されると主張するにひとしいことになろう。このような主張は初期の先占
の法理にも存在したものである。発見優先の原則(国家の意思による発見)は、ポルトガルとスペインが海上の支配
権を握っていたヨーロッパ近世初期から一八世紀の後半まで有効であった。ただし、この場合の発見というのは、大
陸の一部を発見したことにより大陸全体の領有権を取得し得るというものではない。
わが国が尖閣列島の領有権を主張するには、先占以外にはない。割譲とか征服とか併合とかのいくつかの領有
主張の根拠があって、そのなかから先占を選んだわけではない。南方同胞援護会の尖閣列島研究会が、一年もか
かってだした結論は先占であった。無主地の先占を立証するために、資料を集めたと考えられる。先占を主張するた
めには、尖閣列島は絶対に台湾の付属島嶼であってはならず、それは無主の地でなければならない。国際法におけ
る無主の地の先占が、新たな領土取得の方法として、欧州列強によって、アメリカ大陸やアフリカ大陸での植民地獲
得のために機能したのは十九世紀以降であり、それは国家の一方的行為でおこなわれた。ところが奥原教授は、一
五三二年の中国の琉球王に対する第一一回目の冊封使陳侃の記録や、一五六一年の郭汝の記録を、一九世紀
の国際法に当てはめて解釈しようとしているところにたいへんな無理がある。
中国(明)の太祖が琉球中山王察度に詔諭をあたえたのは、一三七二年であり、太祖の冊封使が琉球に来たの
は、一四〇二年である。以来、琉中間には国境問題も領土紛争も全くなかった。琉球国は三六島であり、琉球国と
中国とのあいだに第三国があるはずはなかったし、無主の地というものがあるなどという理屈は、思いもおよばなか
ったことである。陳侃が皇帝の使節として琉球に赴いたときには、尖閣列島にはすでに中国の島名が付けられてい
た。そして、一九三四年に発表された陳侃の『使琉球録』は、四〇〇年も後世の国際法の法理「無主地の先占」に
対抗するために書かれたわけではない。これは、国際法における無主地の先占というものを知っていて、デ・ロング
アメリカ公使やアメリカのル・ジャンドル前厦門領事などにそそのかされて、一八七四(明治七)年に、台湾を無主の
地として兵を送り、中国から厳重な抗議を受けて、大久保利道内務卿が自ら中国に赴かなければならなかった明治
政府とはわけが違う。中国でも琉球でも官吏や船員は、福州から那覇へつうずるこの海の道をよく知っていた。琉球
の船員は慶良間で養成され、海外へ渡航する船の船員の三分の二までは慶良間の出身者であった。那覇と福州と
のあいだにある島は、琉球のものでなければ宗主国中国のものだという認識であった。また当時の中国の領土意識
から考えてもそうであった。
2 『三国通覧図説』の図をめぐる論争
林子平(一七三八〜九三年)の『三国通覧図説』中の「琉球三省並三十六島之図」は、一七八五(天明五)年秋
に東都日本橋北室町三丁目須原屋市兵衛が出版したものである。この図は福州から那覇への航路上に、花瓶嶼、
彭佳山、釣魚台、黄尾山、赤尾山を、ほとんど直線上に描き中国本土とおなじ桃色の彩色をし、琉球三六島と区別を
している。
奥原教授の主張
『三国通覧図説』の地図の色は、決して領土の帰属を識別したものではない。仮に、同色に塗られているから中
国領と理解した場合、旧満洲と日本とがおなじ緑色、北海道と琉球はおなじ褐色、台湾はこのときすでに清朝の版
図に正式に編入されていたのに、朝鮮とおなじ黄色に塗られていたのはどういうわけか。色からだけ問題にすれば
旧満洲が日本領、北海道は琉球領、台湾は朝鮮領になってしまう。林子平が出鱈目な知識しかもっていなかった
か、地図の色が領土を識別したものではないかのいずれかでなければならない。もし出鱈目な知識しかもっていな
かったとすれば、釣魚台などを中国領としたことの信憑性もきわめて怪しいことになる。林子平が依拠した原典は徐
葆光の『中山伝信録』(一七一九年)であった。『中山伝信録』には二枚の地図が付されている。一つは「針路図」で
あり、いま一つは「琉球三十六島之図」である。林子平の「琉球三省並三十六島之図」がこの二枚の地図を参考にし
てつくられたことは、一見して、明らかである。『中山伝信録』からは、いかなる意味においても、釣魚台が中国領に
属することは明らかにされていない。『中山伝信録』は伝聞に依拠している以上、第二級の価値しかない。
井上教授の主張
釣魚島とそのならびの島々に関する明治以前の古い記憶は、日本にはただ一つしかない。林子平の『三国通
覧図説』の附図の「琉球三省並三十六島之図」のみである。林子平は一七一九年の冊封使徐葆光の『中山伝信』
の図によって書いたものである。だから価値が低いのではなく、価値はきわめて高い。徐葆光は琉球に渡るにあたっ
て、琉球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点や誤りを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、と
くに中国人専門家を連れてきたほどである。彼は琉球王城のある首里に入るとすぐ、王府所蔵の文献記録の研究を
始め、程順則と蔡温を相談相手として八ヶ月間琉球の研究をした。程順則は琉球人で、中山王の家来であり、清皇
帝の陪巨であった。彼は琉球の生んだ最大の儒学者であり、地理学者であった。また、蔡温は、福州に三年間留学
して、地理、天文、気象を専攻し、のちに琉球王府の執政官となった人で、程順則につぐ当時の大学者であり、琉球
の王国時代を通じて最大の地理の専門家であった。
徐葆光は『中山伝信録』を著わした。この『中山伝信録』は出版後間もなく日本に輸入され、日本の版本もでた。
そして『中山伝信録』は明治初年に至るまでのあいだ、日本人にとって琉球に関する知識の最高の源であった。だか
ら、一八八五年九月二十二日付で西村捨三沖縄県令が山県有朋内務卿に提出した「久米赤島(筆者注 赤尾嶼)
外二島取調ノ儀ニ付上申」には久米赤島、久場島および魚釣島は、古来沖縄でいうところの島名で大東島とは異な
り、『中山伝信録』に載っている釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一のものではないかとの疑いがある、としている。また
同年十一月二十四日付西村県令から山県内務卿への文書では「清国ト関係ナキニシモアラス」と書いている。
程順則は一七〇八年に『指南広義』を著わしたが、琉球人の文献に釣魚諸島の名がでてくるのは、一六五〇年
に琉球の支配層のなかの親日派向象賢の『琉球国中山世鑑』巻五と『指南広義』の「針路条記」の章および付図と
の二つしかない。向象賢は陳侃の『使琉球録』をそのまま引用している。程順則の本は、だれよりも清朝の皇帝とそ
の政府のために、福洲から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣
魚島などのことが書かれている「福洲往琉球」の航路記は、中国の記録に依拠している。だから徐葆光の『中山伝
言録』の図によって描いた林子平の「琉球三省並三十六島之図」の価値はきわめて高いものである。
両教授の主張は原文のままではなく、著者の研究ノートとして整理したものである。
(1) 両教授の論争は、林子平の図の色分けについておこなわれているが、その図は尖閣列島が福州・那覇間に
直線的に点在している。ところが林子平の図には幾種類かあって国会図書館の図は、第11図のとおり?籠山のもと
に、まとめて描かれている。?籠は台湾の基隆である。
この図も天明五年秋、東都日本橋室町三丁目須原屋市兵衛梓のものであるが、その下に仙台伊勢□□助□
□とあり、これは奥原教授や井上教授の見た地図とは違っている。版木の彫り方もうまくない。これは初版かあるい
は幕府に版木をとりあげられたあとのものではなかろうか。この図も奥原教授としては別の三十六島の図と同様に中
国領と断定できるものではないかもしれない。
(2 奥原教授は、林子平が、出鱈目な知識しかもっていなかったのではないかといっているが、これは林子平に対
する評価を誤っている。林子平自身決して出鱈目な人ではない。経世家としてじつに優れた人であった。彼は仙台か
ら江戸に遊学、一七七五年長崎に行き、オランダ人からロシアの南下の形勢をきき、 「日本国」としての防衛の緊急
性を痛感して,このことを日本民族全体にひろめなければと考え、地理学・兵学の研究をし『三国通覧図説』を著わ
し、また『海国兵談』(一七八六年)を出版した。林子平は一七七五年の長崎行きののち、二度長崎を訪れ、また江
戸で大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周らの蘭学者と交わり、海外の事情をきいている。彼が出鱈目な人間でないこ
とは、一七八八年にロシアのエカテリナ二世女帝の命を受けたラスクマンが根室に入港して以来、ロシアの南下政
策は続き、一八七四年三月にはロシアのあいつぐ暴力によって、日本は樺太から居留民四五八八人を北海道に引
き揚げさせ、一八七五(明治八)年に樺太・千島交換条約を結び、樺太はすべてロシア帝国に属することになってし
まった。このことを見ただけでも林子平が出鱈目な人でなかったことがわかる。彼はまことに先見の明があったとい
わなければならない。
(3) 林子平の『三国通覧図説』は、「三国通覧與地路程全図」、「朝鮮八道之図」、「琉球三省並三十六島之図」、
「蝦夷国全図」 (北海道) 、「無人島大小八十余山之図」 (小笠原) の五枚にわかれている。だから、奥原教授が、
北海道と琉球はおなじ褐色に、台湾と朝鮮がおなじ黄色に色塗りされているから、色わけだけからいえば台湾が朝
鮮領に、北海道は琉球領になってしまうといっているのは、それはへ理屈というものである。
林子平の『三国通覧図説』はイルクーツクを経て、一八三二年にはドイツ人の東洋学者ハインリッヒ・クラプトール
の手にはいり、パリでフランス語に訳され出版されている。その地図も色分けされている。小笠原諸島の帰属問題で
の日米交渉の際には、「無人島大小八十余山之図」(小笠原)は、日本にとって有力な資料となった。
(3) 赤尾嶼と久米島のあいだ
『使琉球録』と『重編使琉球録』
陳侃は一五三二年に琉球に来た第一一回目の冊封使であり、郭汝霖は一五六一年の第一二回目の冊封使であ
る。陳侃の記録に『使琉球録』があり、郭汝霖には『重編使琉球録』がある。陳侃の『使琉球録』は「使事紀略」と「群
書異質」の二部からなっている。
陳侃の『使琉球録』より
九日、隠隠見一小山、乃小琉球也。十日、南風甚迅、舟行如飛、然順流而下、亦不甚動。過平嘉山、過釣魚
嶼、過黄毛嶼、過赤嶼、目休暇接、一昼夜兼三日之程。……十一日夕、見古米山、乃属琉球者、夷人歌舞於舟、
喜達於家。
郭汝霖の『重編使琉球録』より
(嘉靖四十年五月)二十九日、至梅花所開洋。幸値西南風大旺、瞬目千里、過東湧、小琉球。三十日、過黄
茅。閏五月初一日、過釣魚嶼。初三日、至赤嶼焉。赤嶼者、界琉球地方山也。
奥原教授の主張
陳侃が「十一日夕、久米島を見る、すなわち琉球に属するもの」といい、郭汝霖が「赤尾嶼は琉球との境の」島だ」
といっても、それまで通ってきた赤尾嶼、黄尾嶼、釣魚嶼等の島々が中国領であることを示す、いかなる証拠も見出
だすことはできない。冊封使録は中国人の書いたものであるから、赤嶼が自国領であるとの認識があったとすれば、
はっきり中国領とわかるように記述できたはずである。尖閣列島が中国領か琉球領かを決定する前に、両国のいず
れにも属さない無主地である場合がありうることを、最初から無視しているところに問題があるといえよう。冊封使録
に釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などに触れているのは、主として航路の目標とての関心からである。
井上教授の主張
そもそも当時の中国人の領土意識からすれば、琉球全土も中国皇帝に臣属している中山王の国土であり、一種の
属領であった。だから明治政府が強権をもって琉球処分をしたとき、中国側はそれに反対し、琉球二分案について日
中間で交渉がもたれたが、この件は一八八六(明治十九)年に至っても解決しなかった。日清間の対立はそのまま
放置されて日清戦争となった。日本の琉球独占が確立したのは、日清戦争で日本が勝利したことによってである。
明・清が琉球に冊封使をだした当時、 「普天の下王土に非るは莫し」 という中国人の天下観念からいっても、琉中間
に無主の地があるなどと考えるわけがない。冊封使はまぎれもなく中国領の福州から出発し、まぎれもなく中国領の
台湾の北を通り、やはり中国領であることが自明の花瓶嶼や彭佳嶼を通り、やがて釣魚島、黄尾嶼を過ぎて赤尾嶼
に到ったので、感慨をこめて、これが琉球地方を界する島だと書いた、この文勢文脈は、赤尾嶼までが中国領で、こ
こから先が琉球領だと解するのが普通であろう。
奥原教授の井上教授に対する反論
井上教授は、陳侃や郭汝霖が赤嶼(赤尾嶼)と久米島のあいだが琉中間の界をなすとする前提として、台湾を
「まぎれもない中国領」 としている。しかし、一六九六年の高拱乾撰『台湾府志』 によれば、台湾が中国領になった
のは一六八三年で、綿花、花瓶、彭佳三嶼が台湾に行政編入されたのは一九〇五(明治三十八)年で、日清戦争
以後のことである。井上清教授が台湾を 「まぎれもない中国領」 とした前提は崩れてしまう。井上教授は鄭舜功の
『日本一鑑』の 「釣魚嶼は小東(台湾)の小嶼也 」 から釣魚嶼は台湾の付属諸島であることが立証されるとしてい
る。また井上教授は、小東は明朝の行政管轄では、澎湖島巡検司に属し、澎湖島検司は福建に属しており、鄭舜
功は釣魚嶼を台湾の付属の小島と明記しているから、それは中国のものであることは明らかだとしている。しかし、
澎湖の巡検司制度そのものが『日本一鑑』の一六八年前の一三八八(明の洪武二十一)年に廃止されていた。
巡検司制度は唐の時代に設けられ、元もその制度を受け継ぎ、明の巡検司制度も元の制度をすこし改めた程度
のものであった。澎湖島巡検司が廃止されても、巡検司制度そのものが廃止されたわけではない。倭寇の侵入を防
衛するために 「衛」、「所」、「巡検司」 が設置された。そこに軍隊が置かれ、また城が築かれた。一三八六 (洪武十
九)年から一三八七(洪武二十)年にかけて、明朝は大規模な倭寇防衛対策を打ちだしたが、それはまず海浜の防
衛であり、築城であった。浙江省(昔は浙西、浙東に分けられていた)には、洪武十九年から二十年にかけて五九の
城が築かれた。中国の倭寇防衛策からきりはなして、澎湖島巡検司制度が廃止されたと単純な考え方をしてはなる
まい。
「中外之界」
汪楫(康煕二十年、一六八一年の冊封使)の『使琉球雑録』につぎのような記述がある。
二十四日天明ニ及ビ、山ヲ見レバ則チ彭佳山也……、辰刻彭佳山ヲ過ギ、酉刻釣魚嶼ヲ遂過ス。船空ヲ凌グ
ガ如クシテ行ク……
二十五日山ヲ見ル、応サニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザル也、
薄暮郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ、風涛大ニ作ル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥を溌ギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラ
シ皷ヲ撃チ、諸軍皆申シ刃ヲ露ハシ、舷ニ俯シテ禦敵ノ情ヲ作ス、之ヲ久シウシテ始メテ息ム、問フ、郊ノ義
ハ何ニ取レルヤ、日ク中外ノ界也(傍点は筆者)、界ハ何ニ於テ辨ズルヤ、日ク懸揣ノミ、然レドモ頃者ハ恰モ
其ノ処ニ当リ、臆度ニ非ル也、之ニ食シ復タ之ニ兵ス、恩咸並ビ消スノ義也(井上清論文¬釣魚列島の歴史と
帰属問題」『歴史学研究』一九七二年二号)。
冊封使たちの使録にしばしば過溝の祭がでてくる。「水皆黒色」とか「黒溝」とか「黒水溝」とも記されている。井
上教授は汪楫の使録のなかの「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ、日ク中外ノ界也」というのは赤嶼と久米島のあいだが
「中外の界」であると主張する。これに対して奥原敏雄教授は、汪楫は舟子との問答をそのまま記述するかたちで
「中外之界」に触れているだけであって、汪楫自身の考えを述べたものではなく、「中外之界」をめぐる汪楫と舟子の
問答は、冊封船の往路でなされたもので、その時期に台湾は、まだ清朝の版図に入れられておらず、翌年汪楫が帰
国した年に版図編入されているから、「中外之界」は領海域を意味するはずがない、と反論する。
しかし、この過溝の祭は、赤尾嶼の現場の状況と一致している。高岡大輔氏は『季刊沖縄』第五十六号につぎ
のように書いている。
大正島(筆者注 赤尾嶼)は魚釣島より役一〇〇キロ東方にあるが、台湾東海から北上して来る黒潮は魚釣島附
近で大陸棚上の大陸沿岸流と遭遇して北東に転向し、更に大正島附近で再び北方に方向を転ずるが、それは南方
系植物の濁流物が、これら群島の沿岸に打ちあげれていることからも証明されるというが、その黒潮の速度は大正
島附近で四浬と言われ、この附近を小船で船行することは、時に危険であるいう(「尖閣列島周辺海域の学術調査に
参加して」)。
また岩崎卓爾氏はこう書いている。
島の人達自から孤島の裡に跼蹐して蒼海を怖るる陸の人となりしは「ミジュ―」(海の溝の意)の難を恐れたのであ
る。ソハ風なくして潮浪の浪、白馬の如く奔り、或は風浪風波の為め構造跪弱なる船?々破壊、流寓漂浪の身とな
り、空しく貴重なる生命を喪ふた歴史は、これが実例を以て充満するからである。
黒潮の事を中国人は黒溝とか落?とかいって居る。黒溝というのは黒色の水流という義で黒潮というのと意味正に
一致している。次に落?というのは洋上の一段低く流るる潮流という意味で黒潮の流れは他の洋上よりは少し低く流
れて居ると見ゆる。中国人は落?を恐るること最も甚だしく隋、唐、明、清の昔より深く之を警戒して居たということは
中国の史書に散見するところである(『岩崎卓爾一巻全集』二六六頁参照。)
そして奥原教授も、「中外の界」というのは、「東シナ海の浅海と、琉球の西方沖を南北に流れる黒潮との境にあた
る潮の流れの段差を示す部分を指すことは明らかである」と述べている。
魚釣島も南、北小島もそうであるが、赤尾嶼は水深二〇〇メートル以内の中国の大陸棚の縁にちょっとのっている
というかたちで、それから沖縄の島々とのあいだの南北に細長い沖縄舟状海盆へと急に落ちこんでいるのである。
南方同砲援護会の目的は東中国海の海底石油を日本のものとするために、尖閣列島の領有権主張の根拠を探すこ
とであった。だから、尖閣列島は台湾の付属島嶼でないことを証明しなければならない。無主地であることを証明しな
ければならない。だから赤尾嶼と久米島のあいだが琉中間の境(界)であってはならないのである。
また棉花嶼、花瓶嶼、彭佳嶼の三嶼が日清戦争以前に台湾に行政編入されていたのでは困るのである。こうな
ると国際法とはカントの道徳律みたいなものに思えてくる。一九世紀の国際法が先にあって、一六〜七世紀の歴史
に光を当てて、いいとか悪いとかいっているようなものである。歴史は書きかえられるということとはわけが違う。
(1)小琉球は台湾、平嘉山は彭佳嶼、黄毛嶼は黄尾嶼、赤嶼は赤尾嶼。古米山は久米島、夷人は琉球人のこと。傍点は筆者。
(2)梅花所開洋とは福州から出発したという意。東湧はいまの東引島。井上教授は黄茅はいまの棉花嶼ではないかといっているが、これは高草嶼とも呼ばれた彭佳嶼ではないかとも考えられる。傍点は筆者。
(3)潮流の沖縄方言。
\ 井上教授と筆者の見解の相違
(1) 軍事基地か石油か
井上教授が尖閣列島を、一八九〇年代にも一九七〇年代にも、軍事基地として重視しているのに対して、筆者はバカ鳥、石油という資源を重視しているというところに、考え方の相違のひとつがある。井上教授は、これらの島を明治政府が重視したとする根拠として、一八八六(明治十九)年三月の山県有朋内務卿の沖縄視察、一八八七年四月に沖縄県知事に任命された福原実知事が予備役陸軍少将であったこと、そしてまたその年の十一月に伊藤博文総理が、大山厳陸軍大臣や仁礼景範海軍軍令部長らをしたがえて、軍艦三隻をひきいて六日間の沖縄視察をした
こと、そしてこれらは対清戦争準備のためであったこと、また一八九五(明治二十八)年一月、貴族院で「沖縄県県政改革建議」が可決されたとき、提案理由の説明でも「沖縄の地たる、東洋枢要の地」、「軍事上の枢要の地」ということのみくりかえし強調され、その要地の県政を改革して「海防に備えねばならぬ」ことが力説されたことに、端的にあらわれているとしている。
井上清教授はさらに、著書『尖閣列島』で、
「この列島はまた、軍事的にきわめて重要である。ここに軍事基地をつくれば、それは中国の鼻先に鉄砲をつきつけたことになる」、
「またこの列島の中で最大の釣魚島には、電波基地をつくるという。周囲一二キロメートル、面積約三六七ヘクタールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくることもできる。潜水艦基地もつくれる」
といっている。
筆者は、沖縄は国境の島々であるから沖縄を重視したとは思うけれども、明治政府は尖閣列島を軍事基地として重視したことはなかったと答える。事実、バルチック艦隊の最初の発見者は宮古島の漁師で、石垣島の電信所にサバニに乗って知らせに行った。尖閣列島に見張りをだしてはいなかった。
また、現在でも軍事基地としての価値はない。北朝鮮に侵入させたスパイ船の心臓部を、三沢基地から爆破するという時代である。久場島(黄尾嶼)には水がないし、魚釣島を潜水艦基地にもできない。かつて日本も米国も、尖閣列島を軍事基地としたことはなかった。
(2) 窃取か割譲か
つぎは尖閣列島が、下関条約第二条によって日本領にされたのかどうかという点である。
井上教授は、著者が『朝日アジアレビュー』一九七二年第二号に発表した論文「いわゆる尖閣列島は日本のものか」に対してつぎのように反論されている。
高橋論文によって、私は島名の重要性を教えられたのだが、その論文が、釣魚諸島は下関条約第二条によって清国から日本に奪いとられたのではないか、としている疑問には、私は否定的に答える。高橋が指摘している通り、台湾・澎湖諸島とその付属島嶼の受け渡しは、「実に大ざっぱな形だけの受け渡し」であったことにはまちがいない。それゆえ私も、『歴史学研究』二月号にのせた論文を書いたときは、高橋と同じように考えていたが、いまは本文第一二、一三節(著者注 「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った」、「日本の『尖閣』列島領有は国際法
的にも無効である」)に書いた通り、ここは台湾略奪と同時に、かつ台湾略取と政治的にも不可分の関連をもって、げんみつに時間的にいえば台湾より少し早く、法的には非合法に何らの条約にもよらず、清国から窃取したと考える。
もしこの島々が、下関条約第二条にいう台湾付属の島(地理的なことではない)として、台湾とともに日本に割譲されたものであれば、どうしてこの島は台湾総督の管下になくて沖縄県に所属させられたのか説明できない。明治十八年以来、天皇政府がこの島を盗みとろうとねらいつづけた全過程をみれば、この盗み取りが、日清戦争の勝利と不可分ではあるが、下関条約第二条との直接の関係はないと言わざるをえない(同教授著『尖閣列島』現代評論社
刊、一四六頁)。
筆者も井上教授に対して否定的に答える。
尖閣列島は、本書で客観的にみてきたとおり、歴史的にも地理的にも台湾の付属島嶼であり、日清戦争の結果、中国から割譲を受けて日本領となったのである。これよりほかに考えようがない。下関条約第二条によって日本に割譲されたものであれば、台湾総督の管下になくてはならないというのは、あまりにもまともな考え方であり、明治軍国主義は、後世のまともな学者が、まともに考えて理解できるようなことはやっていないのである。どうして台湾総督の管下におかなかったのかといえば、水産取締りのために魚釣島、久場島などに標杭を建てたいと政府に上申したのは沖縄県知事であり、バカ鳥の島を開拓させてほしいと政府に願いでていたのは、那覇在住の古賀辰四郎氏だったことを考えれば、尖閣列島を日本領にした以上、沖縄県下に所属させたのは当然であり、何の不思議もない。もっとおおざっぱに、もっと乱暴に考えた方が、伊藤内閣のやった現実に合致する。
井上教授は
「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った」
といわれるが、なるほど経過をみればそうともいえる。しかし事実ことの本質は、下関条約第二条によって、井上教授のいう窃取が割譲に変ってしまったのである。この条約によって沖縄と台湾とのあいだに国境がなくなってしまったことにより、尖閣列島の日本領有は割譲によって確定したというほかはない。
http://senkakujapan.nobody.jp/page067.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/327.html#c5
02. 2012年10月04日 21:41:59 : 0ygxno0BxA
中国の経済にすがるのは、別に住化だけの問題でもあるまい。
日本経済は中国によってもっているといってもよい。
米倉が駄目なところは、丹羽大使(伊藤忠出身)が、尖閣所有に対する忠告諫言をしたときに、何も動かなかったことだろう。
経団連はその時動くべきだったのだ。
中国経済はそれほど巨大であり(経済力ではロシア、ブラジル、インド合計しても中国に劣る)日本にとって宝の山であることを忘れてはいけない。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/810.html#c2
01. 2012年10月04日 21:43:50 : jfsakuWTI2
北朝鮮 先月に黄海で短距離ミサイル発射 2012/10/04 19:54
【ソウル聯合ニュース】韓国政府高官は4日、北朝鮮が先月27日、平安南道西側の黄海に向け、地対艦ミサイル1発を発射したことを明らかにした。80〜90キロを飛行したという。
韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領はミサイル発射の前日、外交安保長官会議を開き、黄海上の南北軍事境界線と位置付けられる北方限界線(NLL)を北朝鮮漁船が相次ぎ超えていることを計画的な挑発と指摘、強力に対応する方針を示した。
同高官は北朝鮮のミサイル発射について、「日常的な性能改良の一環の可能性もあるが、(韓国)政府の動きに対応する意図が強い」と説明した。
北朝鮮はNLLから近い地域に射程距離46キロと83〜95キロの地対艦ミサイルを多数配置している。NLL以南の海上で哨戒活動を行っている韓国艦艇を狙い、ミサイルの性能を改良しているとされている。
別の消息筋は「北朝鮮は27日前も、黄海と東海で短距離ミサイルを4〜5回以上発射した」と述べた。韓国艦艇をターゲットに短距離ミサイルの射程距離を伸ばし、爆薬の性能も強化しているという。
kimchiboxs@yna.co.kr
http://japanese.yonhapnews.co.kr/northkorea/2012/10/04/0300000000AJP20121004003800882.HTML
http://www.asyura2.com/12/asia14/msg/170.html#c1
01. 2012年10月04日 21:44:49 : RjEnRjMMSg
阿呆かね三橋くん。安倍に消費税増税が阻止できるわけがないだろう。
だから君は原発推進賛成になってしまうのだよ。
誰がなっても同じどころか安倍は本音はゴリ右翼。ただ覚悟も度胸もない上ついでに下痢ピー。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/805.html#c1
06. 2012年10月04日 21:45:33 : 8eINxzDIHQ
そのコマーシャルは見つからんかったですw
カーリー・サイモンとは別れたんじゃね。
ちょっと適当な曲がなかった。
うつろな愛のほうが良かったかなー。
Let The River Run - Carly Simon
http://www.youtube.com/watch?v=cv-0mmVnxPA&feature=relmfu
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/596.html#c6
内部告発の受け皿機関もムラ人事のまま 原子力規制委員会
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2012100402000122.html
http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11371171416.html
2012年10月4日 東京新聞 こちら特報部 :大友涼介です。
「原子力施設安全情報申告調査委員会」。長い名称だが、原子力関連での内部告発の受け皿機関だ。有識者会議だが、委員には“原子力ムラ”の住人らが名を連ねる。この組織は、新設された原子力規制委員会の管轄下に入る。だが、委員の変更は当面ないという。看板を掛け替えても、中身は福島原発事故以前と同じなのか。規制行政の先行きを案じさせる。 (小倉貞俊・小坂井文彦記者)
◆原子力規制委傘下の調査委 名ばかり?内部告発の受け皿
「これまで委員にやっていただき、本年度いっぱいはそのまま継続する。新たな委員は次年度に選定し直すことにさせていただきたい」
先月十九日、東京・六本木の新庁舎で開かれた原子力規制委員会(規制委)の第一回会合で、田中俊一委員長は原子力施設安全情報申告調査委員会(調査委)のメンバーの据え置きを提案。残る四人の委員からは異議も出ず、了承された。
この調査委は、どのような組織なのか。目的は原発などの安全に関わる内部告発(申告)が寄せられた場合、指導や助言をすること。第三者委員会で、二〇〇二年、経済産業省原子力安全・保安院の中につくられた。
保安院にはそれ以前にも告発の受け皿はあったものの、同省の職員だけで構成されていたうえ、調査のスピードが遅いといった制度不備から、第三者委員会が新設されたという経緯がある。
今回、保安院が解消されたことで、調査委も規制委の管轄下に移された。告発の調査自体は、事務方である原子力規制庁が担うことになる。
従来、調査委の活動が活発だったのかと振り返ると、答えは疑問だ。〇二年から今年九月までに調査委が処理した件数は四十九件。そのうち、申告情報の事実確認ができたのが二十二件で、保安院が行政処分に踏み切ったのはわずか一件だ。
これは福島原発事故後の昨年十二月、九州電力玄海原発4号機の配管をめぐる検査漏れで、同社に厳重注意をしたというケース。他には不適切としながらも「法令違反には当たらない」と判断された例もあった。
そうした”消極性”はメンバーの人選と無関係ではないだろう。
現在の委員は慶応大商学部教授(国際経済システム論)の和気洋子委員長を筆頭に弁護士など九人だが、「原子力ムラ」の住人が三人はいる。
そのうちの一人は、関村直人東大大学院教授(原子力工学)。福島原発事故発生時の連日のテレビ出演でお馴染みだ。
「(福島第一原発の)1号機が爆発したのでは」という一報には「爆破弁を作動させた可能性がある」とコメントした。
経産省が昨年二月、同1号機が設計寿命(四十年)を超えて十年間の運転継続を認可した際、「審査基準に適合」と判断した総合資源エネルギー調査会のワーキンググループ主査も務めた。
茨城県の原子力安全対策委員だった一〇年度には、原発プラントメーカーの三菱重工業などから約四千二百万円の資金提供を受けていた。
◆どうなる国会の事後同意 信頼回復ほど遠く
東大大学院の大橋弘忠教授(システム量子工学)もメンバーだ。元東京電力社員で、原子力委員会の新大綱策定会議委員などを歴任した。
九電が〇五年十二月に開いた”やらせ討論会”に参加した際には「格納容器が壊れることは考えられない」「プルトニウムを飲んでもすぐに排出される。なにも怖いことはない」などと”迷言”を連発した。この後、九電玄海原発はプルトニウム混合燃料を使用した。
規制委の田中委員長が会長を務めた財団法人・高度情報科学技術研究機構(旧原子力データセンター)の石島清見理事もメンバーの一人だ。石島氏は高速増殖原型炉「もんじゅ」を運営する独立行政法人・日本原子力研究開発機構安全研究センター長だった。
いわば、原子力推進論者たちが内部告発の受け皿役の一部を担ってきた。近く新たに二人を加えた十一人体制にする見通しというが、大半を占めるメンバーの居残りと「本当の信頼を回復を回復する」(田中委員長)こととは、矛盾しそうにみえる。
居残りの理由について規制委事務局の担当者は「新組織に移行する混乱の中でメンバーをがらっと変えるのでなく、これまでの仕組みを熟知されている方を残した方がよいため」と説明する。
しかし、法政大学法学部の五十嵐敬喜教授(立法学)は「委員会や審議会では、人選こそが最重要の課題だ。看板を付け替えても中身が変わらなければ、従来の政策や運用にとどまる恐れは大きい」と指摘する。
「規制機関が経産省から独立したとはいえ、スタッフの官僚は横滑りしており、不安はある。ましてや委員がそのままの内部告発の受け皿機関に十分な役割を果たせるのか。疑問は拭えない」
◆原発担当相も消極的
今月中には臨時国会が開かれる見通しだが、国会同意が必要なのに「緊急事態」を理由に、首相権限で任命された原子力規制委員会の委員人事問題はどうなるのか。
内閣改造で原発事故担当相に就いた長浜博行氏は、記者会見で「早く国会を解散しろという状況で、人事問題を議論する時間があるのか」と後ろ向きの姿勢をみせた。
しかし、連立を組む国民新党の事務局は「国会にかけるべきだ」と主張する。自民党の政務調査会は「政府が同意を求めてくるのが筋。そうでない場合、どの程度、どう対応を取るかは不明」と回答。公明、社民、みんな、たちあがれ日本、新党きづなは「今後の対応は未定」とし、国民の生活が第一の事務局は「党所属の議員の多くがこのままでいいのか、と言っている」と答えた。
共産党国会対策室は「原発推進が前提の田中委員長の人事は撤回するべきだ」。新党大地・真民主は「スルーできない」。新党日本は「政府はベストの人選と言うのだから、同意を求めるのが当然です」と皮肉った。
超党派議連「原発ゼロの会」に参加する公明党の加藤修一参院議員は「国会軽視もはなはだしい」と憤る。「野田首相は昨年末、冷温停止状態で事故の収束を宣言した。緊急事態と言い訳するのは矛盾するのでは」
同会に所属する民主党の近藤昭一衆院議員は「本来は通常国会でやるべきだった。事後同意は必要。野党から追及されると、国民の反発を招くと思う」と懸念する。
同じく民主党の初鹿明博衆院議員は「党内でも人事の内容自体に反対する議員が多かった。国会の原発事故調査委員会で委員長を務めた黒川清氏らを委員にすればよいのに」と語っている。
※デスクメモ 「不十分でも福島事故の前よりは謙虚になったはず」と原発推進派の姿勢をみる人は少なくない。だが、逆の可能性も考えておくべきだ。つまり「あれほどの過酷事故でも、この程度の補償と手直しで済む」という悪しき前例が作られるという危険だ。関心が薄れつつある現在こそ、正念場といえる。(牧デスク)
26. 2012年10月04日 21:48:29 : TtFI4lRQZc
↑↑↑
ションベン出ない・・・手術したら、てめえのちんぽの近くに何と福島原発100基以上内蔵ってか?w
現実なんてそんなもんだ。1000万ベクレルの意味を体感してみろ、ボケども
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/681.html#c26
06. 2012年10月04日 21:48:45 : HVBP18IwL6
この数値、311以前より低いんじゃないかと思うくらい低いのですが、
もしかしたら牛乳にフィルターでもかけて(水道局ではどうやって放射能を減らしているのかよく知りませんが、同じような手段を利用して)放射能の多い生乳を利用してそれから故意に放射能を減らしている疑いはないのですか?
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/706.html#c6
12. 2012年10月04日 21:50:15 : 3Z3ELyI7PU
バンダジェフスキーの名前を出すと>10の様な反応しか帰ってこないが、セシウムに関してはいささか引っかかることがある。以下のような医学研究があるのだ
「セシウム誘発性心室頻拍の3次元高解像度マッピングシステムによる解析」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002659917
「長時間交感神経刺激によるセシウムの心室性不整脈誘発の抑制効果」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002624222
元が学会発表のようでネット上で公開されているのは概要だけだが、いずれも実験動物に塩化セシウムを静脈注射して意図的に心臓に異常を起こさせていることが読み取れる。類似の現象は塩化カリウムでも生じるようだがなぜわざわざセシウムを使ったのか?という疑問が生じた。
答えとして考えてみたのが、
1)カリウムよりも少量で容易に異常が引き起こせる。
2)カリウムの場合とは異なる挙動が生じる
3)カリウムと区別するためのトレーサー
公開されている概要では
1)については、2番目の概要に『2.25±0.5mM/kgの静注で異常発生』の旨が書いてある。mMは
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320634188
のベストアンサーから判断すると、単位"1/1000mol"を意味するようである。カリウムは人間の場合、
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1429559509
にある、
>(カリウムは)体内に約200g存在している。
という話に基づくと体内に約5mol存在することになり、体重が70kgとしてこれを割ると約70mM/kgとなる。溶液と生体、動物と人間の違いはあるがカリウムの存在濃度の1/10で影響を及ぼす可能性があるとすれば、1)は脈ありという話になる。この理解は正しいのであろうか?
2)については、これも2番目の概要に『Cs誘発性EAD』という成語のような記述があるもののそれ以上の手がかり無し。
3)については、いずれも心電図に注目した研究なので関連は薄い
さて、本当はどう理解すべきなのかcqRnZH2CUMにでも解説してほしいところだが、あてにできるか?
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/697.html#c12
58. 中川隆 2012年10月04日 21:50:33 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM
尖閣までわざわざ漁に行った沖縄の漁民は存在しなかった
琉球人で尖閣の事を知っていたのは中国と交易していた極一部の商人だけ。
従って尖閣は琉球の領土ではなく台湾の領土であるのは間違いない:
沖縄の先島(筆者注 宮古・八重山群島)では、中国名の魚釣台と黄尾嶼は、古来からユクン・クバシマの名で親しまれていた。ユクンとは魚島の意であるから,魚釣島が当時から両国(筆者注 日中両国)の好漁場として知られていた(傍点は筆者)のであろう(奥原敏雄論文「尖閣列島」『沖縄タイムス』一九七○年九月二日号)。
逆風や逆流や台風などによって、列島への渡海や移住の試みが失敗したことはあったが、こうした事実は、尖閣列島が日本に編入される以前の一時期、すなわち明治二十四(一八九一)年ごろまでであった。
彼らが列島への渡海や移住に失敗したのは、渡航の時期や季節風、自然環境などを無視したこともあったが、最大の理由は、資本もなく、しかも伝馬船や沖縄で用いられているサバニといったくり船で船で列島に渡ろうと試みたからであった・・・・・・。
基隆より台湾漁船が列島に赴き,操業をおこなうようになったのは、第一次大戦終了前後のころからのようである
(奥原敏雄論文「尖閣列島の領有権と『明報』論文」『中国』一九七一年六月号)。
奥原氏のこの二つの論文には、おかしな点がある。
第一のおかしな点は、奥原氏が
「古来からユクン・クバシマの名で親しまれた……魚釣島が……両国の好漁場として知られていた」
というが、それでは古来、先島諸島からどんな漁船で魚釣島に行ったのか。沖縄のなかでも特に貧しい先島諸島の漁民たちは、小さなサバニしか持っていなかったと思う。彼らは人頭税と名子制度に苦しみ抜いており、悲惨な生活を強いられていた。この人頭税は一九○三(明治三十六)年までも残されていた。また古来というからには、五○年や一○○年前のことではあるまい。
第二のおかしな点は、渡航の困難なユクン・クバシマがどうして先人の人たちに親しまれたのかということである。
実生活と深いかかわりあいのない無人島に、どうして親しみをもったのか。親しみをもつからには、しばしばそれを見て美しいと感じたのか。尖閣列島は決して美しい島ではない。では先島の人たちの生活に豊かさをもたらかしたの
か。尖閣列島が開発されるまではそんなこともなかった。では航路の目標として親しまれたのか。これはありうる。しかし、そのような親しみをもった者は、朝貢船か南方諸国との貿易船の乗組員たちだけであったと思う。そして、それはどごく少数の人たちであった。宮古島の保良は海上交易が盛んなころの重要な港であったが,朝貢船、貿易船のほとんどは、那覇からでて那覇に帰ってきた。薩摩藩が琉球の貿易を牛耳っていたからである。牧野清氏は
「八重山としては、十五世紀の末葉ころから始まった南蛮貿易業者や、沖縄航海に従事していた一部の人々にのみ知られてたいと思われる。それが一般的にイーグンクバジマとして広く知られるようになったのは、古賀辰四郎氏が魚釣島やクバ島で事業をはじめてからであるようだ」
といっているが筆者もそう思う。それは決して古来からではない。一九六九年になっても尖閣列島は「交通の便がないために普通に人々が行くことができない、彼方の夢の島」(「尖閣列島標柱建立報告書」一九六九五月十五日)であった。
第三のおかしな点は、尖閣列島への渡海や移住の試みに失敗したというのは、一八九一(明治二十四)年ごろまでであったというが、一八九三(明治二十六)年には伊沢弥喜太氏が渡航したが、帰路台風に遭って福州に漂着している。伊沢氏は汽船で渡ったわけでなくサバニか伝馬船で渡ったものであろう。
では、沖縄にはどんな船があったのか。
マーラン船=これは中国から造船技術を学んで造られた船で、朝貢や海外貿易に使われた三本マストの帆船である。中国のジャンク船に似た船である。帆はガマを織ってつくったガマ帆であった。
山原船=近代になってから、沖縄本島の北部の山原から木材や薪を運ぶために、マーラン船の小型のものが造られた。これが山原船である。一八七九年の廃藩置県後も山原船は国頭地方の住民にとって、唯一の交通機関、輸送手段であった。
サバニ=これはくり船といわれる。一八九一(明治二十四)年までは、日本には動力付きの漁船は一隻もなかった。そして全国の漁船のうちくり船は二・一%で、沖縄には二、三一九隻のくり船があった(全国のくり船数は六、二五一隻)。糸満のサバニは船足は非常に速いが、ひっくりかえり易いものである。トカラのくり船は頑丈で安定していたが、そのかわり糸満のくり船のような操縦の軽快さを欠いていた(「九州・沖縄篇」『風土記日本』平凡社刊、九四〜一○七頁)。沖縄に石油発動機ができたのは一九一一(明治四十四)年ごろからである。
フィリピン型漁船=長い棒を横に出して、船の安定を保つようにしたもの。
和風型=沖縄本島以外の島々で、初めて沖縄本島などを巡航できる船を造ったのは宮古島である。これは本土から流れてきた船大工によて造られたもので、艫には舵もついており日本の帆柱をもっていた。宮古島から首里王朝へ朝貢船につかわれた(司馬遼太郎著『街道をゆく6』一三二〜三頁参照)。
一八八二(明治十五)年以降、田代安定、赤堀廉蔵、笹森儀助氏らが沖縄探検をおこなっている。このうち田代安定氏は三回探検し、一八八五年に第二回目の探検をおこなったが、西表島から与那国島に渡るのに、サバニでは渡れなかった。やむなく彼は、西表から四〜五○キロメートルの波照間島に渡った。それにはサバニ二隻を横に並べて、これをくくりつけてようやく渡った。サバニでは、西表島から七○キロメートル離れた与那国には、渡れなかったのである。だから宮古、八重山などの先島諸島から百数十キロメートルも離れた魚釣島に、魚をとりにゆくのは非常に
困難であった。また蛋白源としての魚貝類は、苦労して魚釣島まで行かずとも、島の近辺でとることができた。五月から九月は扁南風が吹き、沖縄は台風の銀座である。そして十月から翌年四月までは「新北風」といわれる北東の季節風が吹く。とくに二月風廻といわれる一月、二月は海の荒れる季節である。
司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』(朝日新聞社刊)に与那国の「小さな魚市」というのがある。
婦人が魚屋さんに「いくらですか」ときくと、若い主人は「一斤三百円です」と答えた。司馬氏が沖縄の一斤は何グラムかと聞いてたら「この魚四匹です」というおおらかな答えだった。だから何グラムかわからないが、一ぴき七五円であるということはたしかである。しかし、商売にしているのかといえばそうでない。この島では、竹富島もそうであるように、魚屋という独立の商業は存在しないのである。農家の者でも釣りに行って、余分に釣れれば臨時に魚屋になって、それを近所のひとに売ってやるという仕組みなのである。いかにもそれがのんきそうで、いい眺めだったという。また貝は海岸で子供が拾えるから、一家の働き手が半日仕事を休んで採りにゆかなければならぬようなしろものでなかった。
司馬氏のこの見聞は、一九七四年のことである。何も危険をおかして魚をとりに、尖閣列島まででかける必要はない。これは今も昔もおなじである。
一九六八年現在で、沖縄の一トン未満のくり船と一〜五トン級沿岸漁船との合計は、沖縄の全魚船数の九○%五〜五○トンの近海漁船は八%、五○トン以上のものは二%である。(『日本の文化地理』講談社刊、第一七巻二六六頁)。
ところが魚釣島周辺は、台湾漁民にとっては大きな利害関係がある。一九五○年代の末ごろから台湾漁船の数が急激に増え、魚釣島周辺は台湾漁民の好漁場で、年間三、○○○隻の漁船が漁撈に従事しているという。台
湾漁民のうち、尖閣列島周辺に出漁しているのは宣蘭県の漁民がもっとも多く、宣蘭県にある一、三○○余隻のうち三○○余隻が操業していた。尖閣列島周辺での台湾の水揚量は、一九五八年で一万七、○○○トンであったという(一九六八年の沖縄全体の水揚量は三万三、四二三トン)。だから宣蘭県漁民にとっては、生活がかっている
わけである。台湾漁民は尖閣列島に夜間碇泊できなくなると、水揚げが激減することになるという。しかし最近でも沖縄から尖閣列島周辺に出漁する漁船はいない。奥原教授は日本が台湾を支配していた当時の台湾漁民の魚釣島周辺での漁撈は、国際法的には日本人としての行為であったといっている。しかし問題は、台湾漁民の方が
尖閣列島に深いつながりがあったということである。
たしかに、尖閣列島周辺海域には魚が多い。黒潮にのって北上するカツオ、マグロ、カジキ等は、必ずこのあたりを通り、またサメ類、サバ、アジなどもいた。しかし尖閣列島は、琉球人にとって古来から明治になっても、小さなサバニで危険を冒し、何日もかけて、冷凍も発達していない時代に、魚とりにいかなければならない好漁場ではなかった。琉球人の生活にとって尖閣諸島は、あまり関係のない、まさに「夢の島」だったのである。
(5) 尖閣列島の発見者はだれか
沖縄の人たちで、尖閣列島を発見したのは古賀辰四郎氏だという人がいる。それは、そのようにきかされてきたからだろうが、これは全くの誤りである。また、日清戦争直後に『熊本日日新聞』が報道したといわれる、伊沢弥喜太郎が鳥島(尖閣列島のこと)を発見というのも誤りである。これらの発見というのは、彼らがはじめて尖閣列島を見たということで、この誤りは歴史がこれを証明している。
古賀氏や伊沢氏が、いまでも八重山の古老のあいだで、イーグン・クバ島といわれている尖閣列島に行ったときには、尖閣列島の島々には、すでに中国が島名が付けていた。そして、その島名は、中国や琉球の古文書にもはっきり書いてある。一八八五(明治十八)年九月ニ十二日付けで西村捨三沖縄県令が山県有朋内務卿に提出した公文書のなかでも釣魚台、黄色嶼、赤色嶼、の島名が使われている。
一三七二年、明の太祖が琉球の中山王察度に招諭を与えて以来、琉球の北山、中山、南山の三王は中国(明)に朝貢し、一四○二年には中山王が三山を統一して、一四○四年には明の太祖の冊封使が琉球に来た。
尖閣列島は琉球と中国とのひん繁な往来の交通路にあたり、また一五世紀以来、琉球が東南アジア(とは当時はいわなかった)のルソン(フィリッピン)、シャム(タイ)、マラッカ(マレーシア)、ボルネオ、スマトラ、スダン、ジャワ、サンプツサイ(パレンパン)パタニ(ビルマ)などと手広く貿易をやるようになると、尖閣列島の辺りは、まさに海の銀座どおりとなった。福州から那覇へはいる船も、南方諸国との貿易船も釣魚嶼(また魚釣台あるいは釣魚山)―黄色嶼―赤尾嶼(または赤嶼)そして久米島―那覇という航路をとったから、尖閣列島はこれらの人たちによく知られていた。琉球から中国に行った船は、みな福州にはいった。福州には「琉球館」ができた。琉球王朝は貿易によって繁栄したのである。沖縄の記録によると、「琉球から南方にでかけた貿易船は、シャムがもっとも多く五八船で、合計一○四隻となっているが、実際には一五○隻を下らなかったといわれている」(『日本の文化地理』講談社、第十七巻)。
琉球は中国に対して礼節を尽くしたので、中国は琉球を守礼の国とよんだ。琉球は中国に朝貢し、中国は琉球王を冊封した。薩摩藩の島津義久は、琉球の対中国貿易の利権を手にいれようとして、豊臣秀吉とも話しをつけていたが、あらためて徳川家康から「琉球征伐」の許しを得て得て、一六○九(慶長十四)年「琉球征伐」をし、琉球を「付庸の国」(殖民地)にした。そして琉中貿易の利益を収奪した。
そればかりでなく、島津は琉球の産物を収奪した。薩摩藩が琉球に要求したのは、年貢米九、○○○余石、芭蕉布三、○○○反、琉球上布六○反、下布一万反、ラミー(唐苧)一万三、○○○斤、い草のむしろ三万八、○○○枚、しゆろ縄一○○方であった。八重山上布は美しい伝統的な布である。女たちは麻の繊維から糸を紡ぎ、染めあげ、夜になると番所で役人の監視のもとで布を織った。昼は男とともにに野良で働いた女たちにとって、夜も憩いの時ではなかった。一晩に一尺をおるのがせいぜいだった。美しい八重山布には、女たちの恨みが織り込まれていた。そのことは平凡社刊『日本残酷物語』に明らかである。
また、「久米島の仲里村の真謝部落は紬の里といわれており、いまでも織られている。琉球王朝はこの袖を中国と薩摩に貢いだ。織り方がまずかったり、期限におくれたりすると織った布で体を縛られ、村じゅうを引き回されたりした」(『沖縄の孤島』朝日新聞社刊)。
琉球の税制は統一されておらず、税は現物納であった。とくに宮古、八重山の農民は人類税と名子制度に苦しめられ、過酷な労働を強いられた。このような、しいたげられ人々にとって、尖閣列島は全く関心の外にあった。だから古賀辰四郎氏が尖閣列島を発見したときいても、別に興味をしめさなかった。日常生活に関心がなかったから、尖閣列島をしらなくても、それですんだのである。
(6) 日清戦争とバカ鳥の島
古賀辰四郎という人
牧野清氏の「尖閣列島小史」によれば、古賀辰四郎氏は古賀門次郎氏の三男で、一八五六(安政三)年に福岡県八女郡山田村に生まれた。ここは八女茶の産地である。実家は代々茶の栽培と製造をしていた中流農家だった。一八七九(明治十二)年に二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開いた。
一八七九年といえば、明治政府が王制復古、廃藩置県の大号礼をだしても尚泰琉球王はどうしても従わず、従来どおり中国との関係を断たなかったので、政府は四○○人の兵と一六○人の警察官を差し向けて、全く軍備をもっていなかった首里城を接取し、武力を背景に琉球処分をやった年である。
琉球王は中国に助けをもとめた。前アメリカ大統領グラント将軍が、世界漫遊の旅にでて中国を訪問した際、李鴻章北洋大臣から日本政府の琉球処分についてあっ旋を頼まれ、明治天皇と琉球問題について話した年である。 牧野清氏は、古賀氏は生来進取の気性に富んだ人だったと書いているが、なかなか太っ腹の人だったようである。四月に沖縄に廃藩置県が強行された直後に那覇に渡ったのだから冒険好きといえる。沖縄で燕尾服を着たのも、ドイツ製の安全カミソリをもったのも、ピストルを手に入れたのも古賀氏が最初であった。古賀氏がピストルをもって台湾
探検をしたのは一八九七年であったが、彼はピストルを使わなかった。また彼は、二台の遠心分離機を買って分密糖製造を始めたり、御木本幸吉氏と共同出資で石垣島名蔵湾で真珠養殖をしたりしている。またいちはやく大東島の開拓にとりくんだが、のちにこれを玉置半右衛門氏に譲ってしまった。古賀氏は養殖興業の功によって一九○九年に藍綬褒章を受けた。沖縄で藍綬褒章を受けたのは、慶良間のカツオ漁業の功労者松田和三郎についで二人目であった。
牧野氏によると、古賀氏は石垣島に支店を出した翌々年の一八八四(明治十七)年に尖閣列島を探検して、その有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲などの事業に着手し、その直後に仲御神島を探検して、同島にも目標の事業を始めた、となっている。これはどうも手際がよすぎる。
上地龍典著『尖閣列島と竹島』では「石垣市で尖閣列島の話を聞いた古賀は、明治十七(一八八四)年人を派遣して列島の探検調査に当たらせ……無人島開拓に意欲を燃す』とあり、古賀氏自身は尖閣列島に渡っていない。
一九六八年の高岡大輔氏のリポートには「尖閣列島の開拓史についての詳細を知る由もないが、八重山歴史と島の所有者……古賀善次氏の話とを総合するに、福岡県で茶舗を営んでいた故古賀辰四郎氏が山茶を求めて無人島を探検している時に初めて開発したもので、明治十七(一八八四)年のことだったという」と書いてある。
ところが、新里金福・大城立祐『沖縄の百年』太平出版社刊、第一巻によると、「廃藩置県後に那覇に渡った古賀は大東島やラサ島(沖大東島)、赤尾嶼、仲御神島などを探検した、そして彼が尖閣列島を発見したのは日清戦争の直前である」と書いている。
『沖縄の百年』の書いてあることが正しいとすると、尖閣列島を最初にみたのは熊本県下益城郡河江村字住吉出身の伊沢弥喜太氏だということになる。奥原敏雄教授は雑誌『日本及日本人』(一九七○年新年号)に記載した「尖閣列島―歴史と政治のあいだ」に伊沢矢喜太と書いているが、これは伊沢弥喜太が正しい。奥原教授はこう書いている。
「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十年代の後半明治十七年ごろから古賀辰四郎が魚釣島、久場島などを中心にアホウ鳥の羽毛、綿毛、べっ甲、貝類などの採取を始めるようになる。こうした事態の推移に対応すべく沖縄県知事もまた明治十八年九月二十二日、内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届けでた」、
「その後明治二十四(一八九一)年伊沢矢喜太(熊本県)が魚釣、久場島に沖縄漁民ととともに渡航し、海産物とアホウ鳥を採集することに成功したが、長く滞まることなく石垣島にもどり、次いで翌々二十六(一八九三)年花本某外三名の沖縄人が、永井・松村某(鹿児島県)に雇われ、久場島に赴いたが、食糧が尽きて失敗する。同年にはさきの伊沢が再び渡航し、採取成功するが、岐路台風に遭い、九死に一生をえて福州に漂着している。なお同年にはさらに野田正(熊本県)ら二○人近くのものも、魚釣、久場島に伝馬船で向かうが、かれらも風浪のため失敗している」。
尖閣列島を日本領に編入させた日清戦争
古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六月号でこう語っている。
当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た若者が、途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞いたんですね。そこで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。明治十七年のことですがね。
この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。翌明治十八(一八八五)年、父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。
ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独自に調査団を派遣しました。
調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西村は政府に日本領とするようしきりに上申しまた。
明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八(一八九五)年です。父の探検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、宣言に踏み切らせた理由と思います。
尖閣列島は、本書で客観的にみてきたとおり、歴史的にも地理的にも台湾の付属島嶼であり、日清戦争の結果、中国から割譲を受けて日本領となったのである。これよりほかに考えようがない。下関条約第二条によって日本に割譲されたものであれば、台湾総督の管下になくてはならないというのは、あまりにもまともな考え方であり、明治軍国主義は、後世のまともな学者が、まともに考えて理解できるようなことはやっていないのである。どうして台湾総督の管下におかなかったのかといえば、水産取締りのために魚釣島、久場島などに標杭を建てたいと政府に上申したのは沖縄県知事であり、バカ鳥の島を開拓させてほしいと政府に願いでていたのは、那覇在住の古賀辰四郎氏だったことを考えれば、尖閣列島を日本領にした以上、沖縄県下に所属させたのは当然であり、何の不思議もない。もっとおおざっぱに、もっと乱暴に考えた方が、伊藤内閣のやった現実に合致する。
井上教授は
「日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った」
といわれるが、なるほど経過をみればそうともいえる。しかし事実ことの本質は、下関条約第二条によって、井上教授のいう窃取が割譲に変ってしまったのである。この条約によって沖縄と台湾とのあいだに国境がなくなってしまったことにより、尖閣列島の日本領有は割譲によって確定したというほかはない。
http://senkakujapan.nobody.jp/page067.html
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/264.html#c58
01. 2012年10月04日 21:54:11 : 0ygxno0BxA
経済では米は中国にすでに負けている。
経済戦争をしかけられれば米は降参するしかない。
ゆえに、政治的協調と軍事的圧力を有効につかっていかざるを得ないが、
中国が尖閣と同様、経済面で「肉を切らせて骨を切る」政策を発動すれば困るのは米である。
尖閣をめぐる日中経済摩擦で、実際日本は完全に困っている。
だれも言わないがGDPでかなりのマイナス要因になろう。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/806.html#c1
08. 2012年10月04日 21:54:38 : 6wHogxckIg
コロコロコロコロコロコロと
肩書きと取り組みが変わっていている面白い人
次期総理は野田じゃなくて
原発推進総本山の安倍だろ
相変わらずだね
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/430.html#c8
01. 2012年10月04日 21:54:43 : Tj9BVCa6oE
順調に日本は暗黒国家になっとるなぁ。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/720.html#c1
94. 2012年10月04日 21:54:52 : HVBP18IwL6
ここの掲示板は平均年齢60〜70歳くらいだと思っていたが、
矢沢栄吉ファンが多いということは、50歳くらいの連中も多いのか。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/675.html#c94
05. あ〜いやだ78 2012年10月04日 21:55:52 : Dv.Rx6JOnNI6g : WrK3RE4eoM
福島以外の方はあそこは、生活に適さない皆様集団疎開すべきだと思っている
しかし、お家があるからあの場所を、離れられないの、事は目に見えないで
降り注ぐ放射能物質にある。油断している暇もないのに、その先に待つ手いるのが
体調の異常である。早く決断を!
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/700.html#c5
10. 2012年10月04日 21:58:02 : HVBP18IwL6
>>03
星浩という人は姓は「星」でも福島県出身なのでおそらく日本人ですね
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/674.html#c10
95. 2012年10月04日 21:59:05 : 6Q9o7ilm9g
かっこいいね!!
社会にアピールできるのが一流の証。
スポンサーの顔色うかがって、
映画撮って文化人のような顔つきで○○タックルとかに出てる芸人風情には
言えないお言葉。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/675.html#c95
学校給食食材 宮城県産の牛ひき肉からセシウム合計 18.2 Bq/kg 検出
http://ameblo.jp/misininiminisi/entry-11371293968.html
2012-10-04 21:00:41NEW まっちゃんのブログ
福島県二本松市の発表した資料によると
No 269
測定場所 安達中
測定機器 NAL
宮城県産牛ひき肉
セシウム137 12 Bq/kg
セシウム134 6.2 Bq/kg
セシウム合計 18.2 Bq/kg
ソース
http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/uploaded/attachment/12506.pdf
◇
東京都清瀬市竹丘の土壌からセシウム合計 13500 Bq/kg 検出
http://ameblo.jp/misininiminisi/entry-11371242978.html
2012-10-04 20:19:15NEW まっちゃんのブログ
東京都清瀬市竹丘の土壌(自宅コンクリート上のかき集め)から
セシウム合計 13500 Bq/kg 検出されました。
セシウム137 8692 Bq/kg
セシウム134 4808 Bq/kg
ソース 日暮里放射能測定所 各地の土壌測定結果
http://www.bq-check.jp/%E5%90%84%E5%9C%B0%E3%81%AE%E5%9C%9F%E5%A3%8C%E6%B8%AC%E5%AE%9A%E7%B5%90%E6%9E%9C/
日本を悪くしているのは偽ユダヤでその実行犯の殆どは偽キムチである。
偽キムチは慰安婦詐欺が売春婦詐欺である事がばれても相変わらずそれにしがみついているようだが愚かである。
既に国家間で不当にだが半世紀前に解決済みの事を更に不当に利用しようとする姿勢は偽ユダヤそっくりである。
売春婦詐欺の実態は悲しい事ではあるが貧しい親が風俗業者に娘を売り業者が日本軍に斡旋したという事のようで
政治がいけないのであるが親を恨むか親を恨めないならば業者を恨むしかないのでありその後行程を恨んでも仕方
ないし韓国政府が一緒になって騒いでいるという事は政府からは十分な補償を受けているという事でありそれ以上
の事を望むのは行き過ぎである。
百歩譲って気の済むまでやればいいとしても朝鮮戦争ではそれ以上の悲劇があった訳でそちらの被害者の殆どが
泣き寝入りだった事を考えると韓国国民の支持も得られない筈で慰安婦という言葉自体が偽キムチ朝日のでっち上げ
である事も考えると売春婦詐欺と考えざるを得ずこれ以上恥を晒したくなければ退くべきである。
日本に寄生している偽キムチは偽ユダヤの後ろ楯を得て慰安婦詐欺どころではない悪行を今日まで続けてきた事が
ばれて明博君の天皇侮辱と相俟って日本人はカンカンであり詐欺まがいの要求にとりあえず応じよて幕引きしよう
などという余裕はなく偽キムチを日本から追い出そうという勢いなのである。
それも当然で偽ユダヤが一番いけないのだがあらゆる破壊活動や凶悪犯罪や性犯罪のほとんどが偽キムチによるもの
である事が日に日に明らかになりもう共存のしようがない所に来ているのである。
そして日中は互いに足らざる所を補い合う関係で偽キムチ右翼と上海閥が泣こうが喚こうが今以上に国交を深める
べき関係にあるが日韓関係はあってもなくても同じでありむしろお荷物であり国交を断絶した方が偽キムチも追い出せ
て一石二鳥でありいい事尽くめでありそれを米国の被害者同士という事で我慢して付き合っている事に少しは感謝すべ
きである。
日本はこれから米国から独立するという大事な時機にあるのでありそれは世界にも好影響を与えるのでありそれを連中
の手先となって妨害するのであれば切り捨てられても仕方がない立場である事を自覚すべきである。
偽キムチのルーツを辿ると例によって強制連行詐欺に突き当たるがこれも百歩譲って不当ながら解決済みの帰国済みで
現在残っているのは身分差別を嫌って日本に不法入国した者と朝鮮戦争を逃れてきた卑怯者の二種類しかおらず本国で
も軽蔑されていると聞く。
つまり日本にいる根拠がなく戦争詐欺で不当に日本に居座っている偽ユダヤと同じで本来自国に戻るべき連中である。
連中の保護義務者は韓国であり世界標準である犯罪者の引き取りすら拒否して日本に迷惑をかけている国が半世紀前の
詐欺をもう一度繰り返そうなどというのは厚かましいにもほどがありいい加減にすべきである。
日本人は本格的な偽キムチ内閣の3年間にほとほと呆れ果てて以前ほど寛容ではなく怒るべき時には怒る国民に進化
したのでありたかり根性はもう捨てる事だ。
05. 2012年10月04日 22:03:47 : UonsJMRn5w
>> 阿修羅掲示板で「中川隆」なる通名を名乗る御仁だが、朝鮮半島絡みがプロパーの読者に読ませる気があるのかないのかやたら冗長な駄文コピペ貼りつけ専門の工作人士かと思いきや、何をトチ狂ったのか今度は尖閣問題にまで口出ししてきたのか。
尖閣が琉球(沖縄)圏に属さず台湾圏に属するなんて、どこからそんなトンチンカンな話を引っ張り出してきたのだ。はじめに日本を貶める意図ありきの投稿なりコメントなのだろうがそのプロパガンダが逆効果になっていること分らないのかね?
御仁が寄せ集めたパッチワークのコピペ全てに先行する関連資料として、明人の鄭若會(1503〜1570)が残した「琉球國圖」を挙げておく。ウィキぺディアでも[Fil:Ryukyu Koku zu.jpg]で確認できるはずだ。
http://no.wikipedia.org/wiki/Fil:Ryukyu_koku_zu.jpg
明人であった鄭若會が尖閣諸島の一つ「釣魚嶼」を琉球に属するものとして空間認識していたことが小学生でも分るだろう。なお図中で小琉球と記されているのが御仁が持ち上げている台湾である。
だが台湾は大陸から見て中華秩序の及ばない「化外の地」でしかなかった。こんな近距離の台湾島にすら支配を及ばせなかった大陸勢力がなぜ、遠く離れた琉球と通交を持てたのか。話は簡単で有史来外部勢力の支配を受けたことのない琉球側が実利を求めて渡海、自ら冊封体制に入ったからに過ぎない。越南や朝鮮とは全く事情が異なる。
「中川隆」御仁が朝鮮プロパーだから話を振るが、明・清朝からする接遇で琉球は常に朝鮮に比べ挌上だったが冊法秩序の建前上、藩王として李氏朝鮮と同格の八旈に拘わらず、明の後を襲った清代になると琉球王は十二旈、中華皇帝の被る冠を被って清の使者と会見したという。清使節は分ってはいたが自ら亡ぼした前代の慣習ゆえ、黙って帰国報告するだけであった。
沖縄を代表する観光名所である首里城入口にある「守礼之門」の扁額だが、中国使節団が来訪する毎に本来掛っていた「綾門」の扁額を外して掛け換えた。使節団が帰ったら元の「綾門」に戻していたという。どう見ても今で言うホテルの「○○御一行様歓迎」でしかない。世代降って掛け換えがめんどくさくなったらしく、そのままになったのが実情。李氏朝鮮の「迎恩門」とまったく意味合いが違う。
「中川隆」御仁、流石に尖閣が中国古来の領有地であるという路線では旗色が悪いと見えて、からめ手で台湾を引き合いに出してきたのだろうが、台湾漁民が尖閣諸島域で漁をし始めたのは、明治になり日本が台湾を植民地統治後、尖閣諸島を台湾の行政区分に組み込んでからのことだ。
それ以前の動力船のない台湾漁民の操る手漕ぎ小舟では、北方およそ170キロ離れた黒潮の奔流流れる尖閣海域に漁に出るのは生活圏どころか片道行の自殺行為でしかない。3本マストの大型帆船であった琉球交易船をもっても黒潮を乗り切り福州に赴くには北寄りの風に頼った位の、沿岸域の海面と全く様相の異なる黒々とした強い海流である。それが台湾の生活圏だったって?台湾人は不死身だったのか?
いくら「中川隆」御仁が海民の生活感覚がないとはいえ、海を知らない大陸民に比べ台湾先住民は相当剛毅だが、それでも命は惜しむぞ。
「中川隆」御仁は尖閣は沖縄圏ではなく台湾圏に属するなんてまだるっこしい手は使わず、いっそかつての冊封体制を持ち出して宗主国〜属国関係を持ち出し沖縄は中国に属するという路線に沿ってプロパガンダしたらどうだ(笑)
(山原鴉)
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/270.html#c5
04. 五月晴郎 2012年10月04日 22:04:41 : ulZUCBWYQe7Lk : mfxTdm8VZs
>>1
私も同じ見方です。ですから敢えてフォローアップ投稿したのですけど。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/713.html#c4
169. 2012年10月04日 22:05:55 : TGKQevJLEI
石波さんは安保破棄ですか、賛成ですか?どちらですか?
貴方はやはり破棄ですね。はやく憲法改正して核武装することを実現したら。いまそのためにどんな活動をしていますか? 実現の見込みはありますか?
他人のことはどうでもいいよ。まず憲法改正を実現することだよ
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/187.html#c169
05. 五月晴郎 2012年10月04日 22:06:19 : ulZUCBWYQe7Lk : mfxTdm8VZs
訂正:ですから敢えて(政治板のリンクで)フォローアップ投稿したのですけど。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/713.html#c5
67. 2012年10月04日 22:06:55 : 0EopofEgjc
>>エロ潜水
なんか風向き怪しくね?w
日本人でも最近「この問題は険悪になるのを避けて〜」みたいな腰使って体かわせって意見がちらほら見受けられるようになってきた。
そこに来て中国の艦船が沖縄の領海を航行したとか・・・w
もうここまで来たら、こっちから引いたら駄目だ。
くじ引きで決めるか、第3者(ICJしかねえだろうな)に決めてもらって「日本はその判断に従う」って言って意地の張り合いから抜け出すしかないってw
まるで筋モンの手打ちだなこりゃw
07. 2012年10月04日 22:09:19 : 8eINxzDIHQ
↑
キャリアウーマンっぽいのは痛々しい。
この頃のが好きかも。
Carly Simon The Right Thing To Do...for you Jack
http://www.youtube.com/watch?v=KiqcczYZnJ8&feature=fvwrel
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/596.html#c7
08. 2012年10月04日 22:10:00 : 0EopofEgjc
マジ?
離婚かぁ・・・
・・・・・・・・・・・・・・
13. 2012年10月04日 22:10:20 : 4tKEndQSz6
>>03
2011.3.23の朝、雨あがりに黄色い粉がそこかしこに降灰したのを
知らないのか。
酸化ウラン、塩化セシウム、硫酸ストロンチウム、みんな黄色い色だろう。
しかし、NHKかどこかは分からぬが、杉花粉とか放送したそうな。
見た瞬間、核燃料とすぐ分かったよ。JOC事故のイエローケーキが頭に
残っていたからね。
あれを杉花粉とか信じるほうがおかしい。うそを平気で垂れ流す放送局
もどうかと思うよ。もっともテレビは見ないのでどのように放送局が
放送したかは知らない。しかし、俺があれは核燃料だと友人に言ったら、
テレビで杉花粉とか言ってたよとか言って気にも留めていなかった。
しかし、核燃料という考えというか、信念は変わらなかった。
似たような粉末をその後数えきれないくらい見たから核燃料なのは間違い
ない。その粉末が付着した植物の葉はことごとく、枯死とか穴が開いたり
奇形になったからね。
杉花粉と放送したがどこかは知らないがNHKでなかったらすまないと思うが。
08. 2012年10月04日 22:12:47 : 0ygxno0BxA
正鵠を得た記事だが、
世界史的に見た場合、没落中の米のあせりのなかの一局面であろう。
まずはヨーロッパ、イスラム、中国に対するプレゼンスはすでに低下しつつある。
日本はローマに滅亡させられるカルタゴのようになるかもしれない。
その先には、アメリカの没落が待ち構えているだろう。
文化という意味では
アメリカ発の文化は陰りが出ている。
もともとアメリカの成り上がり文化など世界でほんとは評価されていなかったはずだが、
たとえば数十年前、ジャズやプレスリーや米映画は輝いていたが、昔日の面影はない。邦画が洋画を逆転するなど、びっくりするほどだ。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/803.html#c8
06. 2012年10月04日 22:13:11 : HNPlrBDYLM
要するに尖閣問題というのは
瀬戸内海の無人島に
『この島には有史以来日本人が住んだ形跡は無い』
と言ってアメリカ人が無断で1年間位居住して、100年後にここはアメリカの領土だと宣言する
というのと同じですね。
千島列島は日本の領土ではなくアイヌ民族の領土
尖閣列島は日本や中国の領土ではなく台湾原住民の領土
というのが正しい答えでしょう。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/327.html#c6
02. 2012年10月04日 22:13:44 : 66k5dXF2kw
ダノンが支援すると言うことは,ダノンに納入する可能性は大きいですね。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/720.html#c2
27. 2012年10月04日 22:15:02 : tX061sWnYY
AHAT(高湿分空気を利用したガスタービンシステム)が発電所で実用化されて、エネルギー効率の最高記録を出そうとしているんだから、この話もあながち眉唾ではないと思う。
http://www.asyura2.com/09/eg02/msg/207.html#c27
70. 2012年10月04日 22:15:06 : NZwW8M2VLs
今回の放射能による甲状腺がんはどう頑張ってもあと2〜3年はかかるぞ、人の違反する前に自分の脳ミソを何とかしろよ。どうせ都合のいいこと言ってる学者の話だけ聞いて都合の悪い話はブロックしてるんだろ?
マトモな科学者は反論すれば証拠なりをしっかりだすよ
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/644.html#c70
09. 2012年10月04日 22:15:18 : wreTGuAbV2
>>1 英語良く読めるようになったら、情報操作もされにくくなって。
英語が読める米英国人が実際に情報操作されてるから結局日本も同じと思う。
問題が明確化して理解出来ても、それを誰も止めることが出来ない事が一番の問題。
譲れないことにきちんとnoと言えないように主要国がグルになって二重三重に張り巡らされている状況が痛い。敗戦国の弱みか政治家の白痴か、日本の為に絵を描ける人が少なすぎる。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/803.html#c9
響灘ビオトープ内覧会
多様な野生生物の生態系が観察できる「ビオトープ」の中でも、国内最大級となる北九州市の「響灘ビオトープ」が6日、オープンするのを前に敷地内に完成した希少生物の学習施設などが公開されました。
北九州市若松区の「響灘ビオトープ」は、もともと廃棄物処分場だった場所を整備したもので、およそ41ヘクタールの敷地に湿地や草原が広がっています。
絶滅危惧種を含む希少な生物が見つかったことから北九州市がこれまで8年間かけて整備を進めてきたもので国内最大級となるビオトープです。
6日のオープンを前に4日、敷地内の学習施設などが公開されました。
学習施設では生息が確認されている500種類以上のビオトープの動植物の中でも希少なもののパネル展示が行われ、このうち環境省が絶滅危惧種に指定しているタカの仲間の「チュウヒ」は、国内の繁殖地の南限がここ響灘だということです。
また同じく絶滅危惧種の昆虫、「ベッコウトンボ」をはじめ24種類が生息しているトンボも紹介されています。
北九州市は年間およそ1万人の訪問を見込んでいて、市環境局の塚本祐嗣担当課長は「生物多様性を保全することの大切さなどを学べる場所だと思うので、子どもから大人まで足を運んでほしい」と話しました。
10月04日 20時49分
19. 2012年10月04日 22:18:36 : Mb76QMbPQY
なぜ今も住民が騙され続けるのか?
それは避難費用よりも賠償費用のほうが安いから。
(住民の数×甲状腺癌の発生確率×賠償金の平均額)が(住民の数×避難費用の平均額)を超えない限り国や自治体は危険だとは言わない。
例え1万件の甲状腺癌発症が予測されたとしても、住民の避難費用が高額である限り国や自治体は安全と言い続けるだろう。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/691.html#c19
05. 2012年10月04日 22:19:00 : HNPlrBDYLM
/l
___ 〉 〉 /l
ヽ ゙i_ 〉 __ヽ,_ r‐'" ノ
l、__ `l_,.-'く く_コ `'l ,ヘ、,ヘノ l~
l /ー-、ヽ─‐'"/.__\ /
`/l ̄V''ーv l_ し'"V / ヽ
| l、__/ ゙、__/ l あなた方は幸運ですね
| rニヽ, | 何故かって?
| lニニニl / 中国が滅びる所を見れたからです
\ /
`ーァ---──'''"ヽ, ハッピー
/ / l, i ヽ ` \
尖閣までわざわざ漁に行った沖縄の漁民は存在しなかった
琉球人で尖閣の事を知っていたのは中国と交易していた極一部の商人だけ。
従って尖閣は琉球の領土ではなく台湾の領土であるのは間違いない。
要するに尖閣問題というのは
瀬戸内海の無人島に
『この島には有史以来日本人が住んだ形跡は無い』
と言ってアメリカ人が無断で1年間位居住して、100年後にここはアメリカの領土だと宣言する
というのと同じですね。
千島列島は日本の領土ではなくアイヌ民族の領土
尖閣列島は日本や中国の領土ではなく台湾原住民の領土
というのが正しい答えでしょう。
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/441.html#c5
01. 2012年10月04日 22:20:48 : dw3WZXHjrw
日経,読売にかぎらず全国紙は似たりよったり。
しかし合計すれば2000万の人が読んでいる。(正確には眺めている)
一方、阿修羅はせいぜい2万。これでは太刀打ちできない。
せめい全国紙の100分の一ぐらいの人がみる情報源があれば
世の中はよほど変わってくると思うのですが。
http://www.asyura2.com/12/hihyo13/msg/419.html#c1
10. テニス狂 2012年10月04日 22:21:22 : /abeZdyeOupms : SZCBUzp6p6
全くこの通りだと思います。
海外旅行をすれば日本の産業の衰退ぶりがよくわかります。(アメリカへは行ってません)4〜5年前までは、世界中どこへ行ってもホテルのテレビは殆ど日本製。sharp、sonyが圧倒していましたが、ここ2年位ほとんどがsamsungです。日本製は全くありません。
自動車も、高級車はドイツ製(Benz、BMW、Audi・・)、後進国では今年は現代、起亜が猛烈に伸びています。
このまま行けば自動車はテレビの二の舞です。
日本にいれば、テレビも自動車も日本製が圧倒的なシェアーを持っているので真実が見えないのでしょうが、シャープ、ソニー、パナソニック・・・がテレビ事業で
数千億円の赤字を出しているのが真の姿です。
自動車メーカーさん頑張って下さい。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/777.html#c10
02. 2012年10月04日 22:23:15 : 8eINxzDIHQ
Matt Bianco - Cha cha Cuba
http://www.youtube.com/watch?v=EKBD0N2-nzQ&feature=related
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/600.html#c2
01. 海幸彦 2012年10月04日 22:24:27 : jY0c1QUHK1KaM : 16PfKDnvFw
ポスト米英がだ、一生懸命、一日3本、記事を書いて投稿してるのに、君は何だ?
06. 五月晴郎 2012年10月04日 22:26:55 : ulZUCBWYQe7Lk : mfxTdm8VZs
>>2
取り決め(treat)すりゃいいんじゃね。
その前に尖閣関連のtreaty(条約、協約)を確認しなくちゃいけないよね。
>>3
当時においては「棚上げ」が日中両国(そして台湾にとっても実質的に)最も合理的な取り決めだったんだよ。
その「棚上げ」(treat)を日本にとって最悪の形で日本側から壊したというのが俺の理解。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/713.html#c6
http://www.47news.jp/CN/201210/CN2012100301001591.html
米、プルトニウム保有最少化要求 原子力協定の「前提崩れる」
原発ゼロを目指す一方、使用済み燃料の再処理を継続する「革新的エネルギー・環境戦略」を打ち出した日本政府に対し、米政府が、再処理で得られる核物質プルトニウムの保有量を「最少化」するよう要求していることが3日、分かった。
核兵器に使用できるプルトニウムの消費のめどが立たないまま再処理路線を続ければ、核拡散上の懸念が生じるため、米側は、再処理を認めた日米原子力協定の「前提が崩れる」とも表明した。日米両政府の複数の当局者が明らかにした。
日本の核燃料サイクル政策の後ろ盾である米国が、整合性のない新戦略の矛盾を指摘した格好。
2012/10/03 19:07 【共同通信】
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/253.html
06. 中川隆 2012年10月04日 22:30:17 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM
アホの相手する気はないからこれ読め:
尖閣は中国人の言う通り中国の領土かもしれない
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/327.html
尖閣までわざわざ漁に行った沖縄の漁民は存在しなかった
琉球人で尖閣の事を知っていたのは中国と交易していた極一部の商人だけ。
従って尖閣は琉球の領土ではなく台湾の領土であるのは間違いない。
要するに尖閣問題というのは
瀬戸内海の無人島に
『この島には有史以来日本人が住んだ形跡は無い』
と言ってアメリカ人が無断で1年間位居住して、100年後にここはアメリカの領土だと宣言する
というのと同じですね。
千島列島はロシアや日本の領土ではなくアイヌ民族の領土
尖閣列島は日本や中国の領土ではなく台湾原住民の領土
というのが正しい答え。
30. 2012年10月04日 22:30:21 : 5hVObMfK4A
>>29
同感です。
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/212.html#c30
01. 2012年10月04日 22:32:15 : ZA5fXNvf26
同じコト貼るのなら、同じコメントも載せるよ。w
ところが、その一方で、1969年7月、CIAや軍部とも密接な関係にある米石油メジャーのガルフが蒋介石(台湾政府)に働き掛けて、ガルフ日本法人=パシフィック・ガルフ社が当該地域の大陸棚鉱区権を獲得したことを、大々的に世界に発信するようなこともやってる、中華民国の国旗「青天白日旗」を大きく背景にした写真入りでな!
それに対して、参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会で、当時の愛知外相は、尖閣列島はわが国南西諸島の一部であり、中華民国(台湾政府)とガルフ社との契約は無効と言明する(同年8月)。
これらを見ただけでも、アメリカの戦略には、明らかに、2面性があることが解るはずだ。
>>66年刊行紅衛兵向け中国地図でも尖閣は日本
ところが同じ66年、或いはそれまでに日本で刊行された地図帳にも「尖閣」は殆ど載っていないのさ(僅か数例のみ)。
当の日本も、沖縄返還と同時に起きた大陸棚資源問題が表面化する前まで、「尖閣」については殆ど知らされていず、外務省でさえ「尖閣」の位置付けが出来ていなかったのだから、中台と良い勝負だろう。
そもそも、「固有の領土」で「先占」の手続きを取ってるはずなのに、戦前の地図には出て来ない。 もしも「先占」した「日本の固有の領土」であったのなら当然載せるべきだったろうに。
その上、日本政府が「尖閣所有の根拠」を公的に明らかにしたのは、台湾より遅れ、1972年になってからだ。
それまでは、どのような経緯で入手したのか?如何なる根拠で「日本固有の領土」と主張出来るのか?さえ判らなかったし、決めていなかったのだ(『日本固有の領土』の根拠の薄弱性)。
その辺の所を、当時の日本のマスコミは承知の上で、次の様にからかっている。
「中国を硬化させるのを承知で、政府が日本領有の“つじつまあわせ”や“ツバつけ”にやっきとなるのはなぜか。そこには“石油があるから”といった海底資源への先取り意識は当然考えられる」(『中央公論』1972年5月号)
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/274.html#c1
07. 中川隆 2012年10月04日 22:34:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM
奥原氏のこの二つの論文には、おかしな点がある。
第一のおかしな点は、奥原氏が
「古来からユクン・クバシマの名で親しまれた……魚釣島が……両国の好漁場として知られていた」
というが、それでは古来、先島諸島からどんな漁船で魚釣島に行ったのか。沖縄のなかでも特に貧しい先島諸島の漁民たちは、小さなサバニしか持っていなかったと思う。彼らは人頭税と名子制度に苦しみ抜いており、悲惨な生活を強いられていた。この人頭税は一九○三(明治三十六)年までも残されていた。また古来というからには、五○年や一○○年前のことではあるまい。
第二のおかしな点は、渡航の困難なユクン・クバシマがどうして先人の人たちに親しまれたのかということである。
実生活と深いかかわりあいのない無人島に、どうして親しみをもったのか。親しみをもつからには、しばしばそれを見て美しいと感じたのか。尖閣列島は決して美しい島ではない。では先島の人たちの生活に豊かさをもたらかしたの
か。尖閣列島が開発されるまではそんなこともなかった。では航路の目標として親しまれたのか。これはありうる。しかし、そのような親しみをもった者は、朝貢船か南方諸国との貿易船の乗組員たちだけであったと思う。そして、それはどごく少数の人たちであった。宮古島の保良は海上交易が盛んなころの重要な港であったが,朝貢船、貿易船のほとんどは、那覇からでて那覇に帰ってきた。薩摩藩が琉球の貿易を牛耳っていたからである。牧野清氏は
「八重山としては、十五世紀の末葉ころから始まった南蛮貿易業者や、沖縄航海に従事していた一部の人々にのみ知られてたいと思われる。それが一般的にイーグンクバジマとして広く知られるようになったのは、古賀辰四郎氏が魚釣島やクバ島で事業をはじめてからであるようだ」
といっているが筆者もそう思う。それは決して古来からではない。一九六九年になっても尖閣列島は「交通の便がないために普通に人々が行くことができない、彼方の夢の島」(「尖閣列島標柱建立報告書」一九六九五月十五日)であった。
第三のおかしな点は、尖閣列島への渡海や移住の試みに失敗したというのは、一八九一(明治二十四)年ごろまでであったというが、一八九三(明治二十六)年には伊沢弥喜太氏が渡航したが、帰路台風に遭って福州に漂着している。伊沢氏は汽船で渡ったわけでなくサバニか伝馬船で渡ったものであろう。
では、沖縄にはどんな船があったのか。
マーラン船=これは中国から造船技術を学んで造られた船で、朝貢や海外貿易に使われた三本マストの帆船である。中国のジャンク船に似た船である。帆はガマを織ってつくったガマ帆であった。
山原船=近代になってから、沖縄本島の北部の山原から木材や薪を運ぶために、マーラン船の小型のものが造られた。これが山原船である。一八七九年の廃藩置県後も山原船は国頭地方の住民にとって、唯一の交通機関、輸送手段であった。
サバニ=これはくり船といわれる。一八九一(明治二十四)年までは、日本には動力付きの漁船は一隻もなかった。そして全国の漁船のうちくり船は二・一%で、沖縄には二、三一九隻のくり船があった(全国のくり船数は六、二五一隻)。糸満のサバニは船足は非常に速いが、ひっくりかえり易いものである。トカラのくり船は頑丈で安定していたが、そのかわり糸満のくり船のような操縦の軽快さを欠いていた(「九州・沖縄篇」『風土記日本』平凡社刊、九四〜一○七頁)。沖縄に石油発動機ができたのは一九一一(明治四十四)年ごろからである。
フィリピン型漁船=長い棒を横に出して、船の安定を保つようにしたもの。
和風型=沖縄本島以外の島々で、初めて沖縄本島などを巡航できる船を造ったのは宮古島である。これは本土から流れてきた船大工によて造られたもので、艫には舵もついており日本の帆柱をもっていた。宮古島から首里王朝へ朝貢船につかわれた(司馬遼太郎著『街道をゆく6』一三二〜三頁参照)。
一八八二(明治十五)年以降、田代安定、赤堀廉蔵、笹森儀助氏らが沖縄探検をおこなっている。このうち田代安定氏は三回探検し、一八八五年に第二回目の探検をおこなったが、西表島から与那国島に渡るのに、サバニでは渡れなかった。やむなく彼は、西表から四〜五○キロメートルの波照間島に渡った。それにはサバニ二隻を横に並べて、これをくくりつけてようやく渡った。サバニでは、西表島から七○キロメートル離れた与那国には、渡れなかったのである。だから宮古、八重山などの先島諸島から百数十キロメートルも離れた魚釣島に、魚をとりにゆくのは非常に
困難であった。また蛋白源としての魚貝類は、苦労して魚釣島まで行かずとも、島の近辺でとることができた。五月から九月は扁南風が吹き、沖縄は台風の銀座である。そして十月から翌年四月までは「新北風」といわれる北東の季節風が吹く。とくに二月風廻といわれる一月、二月は海の荒れる季節である。
司馬遼太郎氏の『街道をゆく6』(朝日新聞社刊)に与那国の「小さな魚市」というのがある。
婦人が魚屋さんに「いくらですか」ときくと、若い主人は「一斤三百円です」と答えた。司馬氏が沖縄の一斤は何グラムかと聞いてたら「この魚四匹です」というおおらかな答えだった。だから何グラムかわからないが、一ぴき七五円であるということはたしかである。しかし、商売にしているのかといえばそうでない。この島では、竹富島もそうであるように、魚屋という独立の商業は存在しないのである。農家の者でも釣りに行って、余分に釣れれば臨時に魚屋になって、それを近所のひとに売ってやるという仕組みなのである。いかにもそれがのんきそうで、いい眺めだったという。また貝は海岸で子供が拾えるから、一家の働き手が半日仕事を休んで採りにゆかなければならぬようなしろものでなかった。
司馬氏のこの見聞は、一九七四年のことである。何も危険をおかして魚をとりに、尖閣列島まででかける必要はない。これは今も昔もおなじである。
一九六八年現在で、沖縄の一トン未満のくり船と一〜五トン級沿岸漁船との合計は、沖縄の全魚船数の九○%五〜五○トンの近海漁船は八%、五○トン以上のものは二%である。(『日本の文化地理』講談社刊、第一七巻二六六頁)。
ところが魚釣島周辺は、台湾漁民にとっては大きな利害関係がある。一九五○年代の末ごろから台湾漁船の数が急激に増え、魚釣島周辺は台湾漁民の好漁場で、年間三、○○○隻の漁船が漁撈に従事しているという。台
湾漁民のうち、尖閣列島周辺に出漁しているのは宣蘭県の漁民がもっとも多く、宣蘭県にある一、三○○余隻のうち三○○余隻が操業していた。尖閣列島周辺での台湾の水揚量は、一九五八年で一万七、○○○トンであったという(一九六八年の沖縄全体の水揚量は三万三、四二三トン)。だから宣蘭県漁民にとっては、生活がかっている
わけである。台湾漁民は尖閣列島に夜間碇泊できなくなると、水揚げが激減することになるという。しかし最近でも沖縄から尖閣列島周辺に出漁する漁船はいない。奥原教授は日本が台湾を支配していた当時の台湾漁民の魚釣島周辺での漁撈は、国際法的には日本人としての行為であったといっている。しかし問題は、台湾漁民の方が
尖閣列島に深いつながりがあったということである。
たしかに、尖閣列島周辺海域には魚が多い。黒潮にのって北上するカツオ、マグロ、カジキ等は、必ずこのあたりを通り、またサメ類、サバ、アジなどもいた。しかし尖閣列島は、琉球人にとって古来から明治になっても、小さなサバニで危険を冒し、何日もかけて、冷凍も発達していない時代に、魚とりにいかなければならない好漁場ではなかった。琉球人の生活にとって尖閣諸島は、あまり関係のない、まさに「夢の島」だったのである。
尖閣列島は、本書で客観的にみてきたとおり、歴史的にも地理的にも台湾の付属島嶼であり、日清戦争の結果、中国から割譲を受けて日本領となったのである。これよりほかに考えようがない。
http://senkakujapan.nobody.jp/page067.html
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/270.html#c7
04. 2012年10月04日 22:38:21 : 8zdZeAoE5o
ウクライナ非常事態省の報告書(133ページ)にも、「今日、チェルノブイリ事故当時、0〜18歳までのハイリスク・グループにおける、甲状腺がんの有意の増加は証明された」とある。
136ページでは、「24年後でも、ハイリスクな人々の甲状腺がんにおいては、放射線の影響が見て取れる」と書く。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/714.html#c4
03. 2012年10月04日 22:38:39 : iSuEP0NMo2
再挑戦はいいのだけど、何故福島なのか?
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/720.html#c3
07. 2012年10月04日 22:39:21 : 3tvoCYMTEI
だから、創価学会や朝鮮総連の本部建物を自衛隊が砲爆撃すりゃあ、良いだけの事。60万人も、戦車で掃討すれば良いんだよ。戦車で街中を追い回してやれよ。難しく考えるなよ。エイリアンみたいなもんなんだから、奴らは。
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/833.html#c7
02. 2012年10月04日 22:39:26 : etzMj4JB1I
中国は強かにドル基軸の凋落を見据えている。
狙いは日本株だ。
バーゲンセールが始まるのを待ちきれない形で、じわじわと触手を伸ばしているという感じだ。
どちらにしても底値で買いたたく準備だけは、すでに出来ているというところだろう。
急ぐことはない。10年と待たずして、日本は完全に中国の経済圏に取り込まれる。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/806.html#c2
14. 2012年10月04日 22:40:18 : eT8vUiAbsw
>>03
すまぬ。
JOCじゃなく、JCOだったな。
ついでに硫酸ストロンチウムは白色だそうだ。
とすれば、その後に降った粒子には黄色と白色の粒子が混じっていたから
ストロンチウムもかなり、降ったということか??
06. 2012年10月04日 22:40:33 : 66k5dXF2kw
活断層の認定に,複数の専門家から,これだけの資料付きの異論が出ているのは,
異常事態ではないのか。
本来,原発立地の審査はすべて公開とし,委員の氏名と経歴・業績を開示した上で,異論をもつ者の質疑に応答させるべきなのだと思う。
質疑は専門家に限ってもよいが,質問がある限りは,答える義務があるのではないか。
さらに,後になって重大な事実が発覚した場合には,当時の審査委員を出席させた
上で,裁判の再審に相当する再審査をしてもいいのではないか。
活断層に関する審査委員の仕事が,活断層がないと思われる箇所の図面を提示されて,
「ない」と追認するだけでは,誰でもできる話だ。
電力会社は,活断層がないように見える図面しかもってくるはずがない。
それでは,活断層があると指摘された箇所の調査は永久に行われない。
「ある」と指摘する専門家が,相当の資料を提示した場合には,
それに答えさせる反対弁論の義務を設けるのが当然だと思う。
この審査を裁判にたとえれば,審査委員(裁判官)と電力会社側代理人がいるだけで,
地震や津波に対する安全性について指摘する住民側代理人が全く存在しない。
これでは住民の安全は守れるはずがない。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/708.html#c6
06. 2012年10月04日 22:42:34 : ASoliZlDAM
民主党に、政治は任されん!
松下政経塾生は、政治が分かってないようだ。
情けないわ、これが民主党だな。
原発稼働判断を、原子力規制委員会でやらそうなんて考えているから、決められない政治なのだ。
責任が取れる部署でないと、判断できないだろう。
万が一原発事故して、損害賠償払えるのは政府しかないであろう。
政府が決めるしかないのよ。
前原も口だけ番長とよく言ったものだ。
権限を持っているところが、決めて、その結果責任を取る事が出来るのよ。
分かった? 前原坊ちゃん。いい子だから、そうしなさい。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/718.html#c6
03. 2012年10月04日 22:47:08 : 8eINxzDIHQ
ちょびっと傾向が似てない?
Nicola Conte - Like Leaves In The Wind
http://www.youtube.com/watch?v=XIcx6hl0kV0&feature=related
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/600.html#c3
10. 2012年10月04日 22:49:33 : kFSBHHnrzo
>米国も世界中も影響を受けて?チェルノブイリだけでなく。
>まさか放射能が「水道のフッ素」の効果モドキになりつつ?
放射能の脳への障害(さてはてさんより)低線量でも影響は出てきます
http://www.asyura2.com/11/genpatu18/msg/762.html
◇一般に知られていない脳の症状について
危機感の大きな減退。
時刻感覚の減退。
食欲の増大。
ステップワイズな複雑な思考の回避。
味覚の変化。
感情の鈍化。
開放感(遊び)への欲求の増加。
転びやすい。
計画性の減少。
複雑な文の回避。
単純ミスの増加。
短期記憶力の減退。
長期記憶の取り出しの失敗。
甘えと自己主張の増加。
他人の感覚への共感の減退。
状況把握の鈍化。
滑舌がわるくなる。
おまけ(放射能のも欲しい)
米国の学者 石油流出事故が起こった時の万能な解決法発見
http://japanese.ruvr.ru/2012_10_04/beikoku-gakusha-sekiyuu-ryuushutsu-jiko/
米科学会の広報部によると、それは「スーパー吸収ポリマー」で、
ポリマーの重量の40倍以上の石油を吸収できるという。
原油流出事故対策、磁石を使って油と水を分離 新技術を開発(マサチュ工科大)
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52100567.html
本質的に単純な技術だが、単純だからこそ今まで思いつかなかったという。
この技術が実用化されれば原油流出などで汚れた海を短時間で低コストで
きれいにすることができるという。
22. 2012年10月04日 22:51:17 : jfsakuWTI2
◎FIFA U17 女子W杯 準々決勝 試合結果⁅Fifa U17 Women's World Cup Quarter-final Match Result⁆〘10/4〙
◎北朝鮮⁅North Korea=Korea DPR⁆ 2‐1 カナダ⁅Canada⁆(前半終了⁅ENDOFFIRSTHALF=HalfTime⁆:0‐0)
◎http://www.fifa.com/u17womensworldcup/matches/round=258211/match=300204225/lineup.html?intcmp=livecoverage_box_u17womensworldcup_en
http://www.asyura2.com/09/sports01/msg/418.html#c22
07. 2012年10月04日 22:53:07 : X9VZJIkJl6
国有化は関係ないでしょ。地権者は日本の法律に基づいて、尖閣を所有していたわかだからね。例えば、日本政府が、中国に屈して、地権者に売り戻したとしても、それは日本の法律に基づいて、所有権の移転が行われるわけだから。中国は、国有化以前から、尖閣への領有権主張を強めていたわけだからね。これは、規定の路線でしょ。それが、たまたま国有化であったというだけでね。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/713.html#c7
04. 2012年10月04日 22:53:16 : 8zdZeAoE5o
石巻地区
90万4000トン見込 → 7月段階で33万1000トンに圧縮 →
15万トンにまで減らす
亘理地区
当初22万7000トン → 7月段階で19万6000トンまで圧縮 →
5万9600トンまで減量
7月段階77万2000トン → 石巻、亘理両地区の圧縮分を差し引くと45万4600トン (他の地区も減量可能でしょう。もっと数字が下がります。)
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/10/20121003t11015.htm
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/715.html#c4
01. 2012年10月04日 22:59:12 : H9OwRTGkmY
宮内庁からの、サヨク天皇制(日本型教皇制度)を擁護する
しか脳のない狂信者の書き込み、ご家老さんwww
アンタ、石原や橋下がキライだからって、
ドイツやインドの大統領制度もロクに勉強してないで
「日本人は民度が低いから、大統領制度なんか導入したら
石原や橋下の軍事独裁政権になるのは間違いないから
天皇陛下支持デモをしよう」などと扇動する一味の一人なのかい?
身分の高い世襲の存在があるから(実際は違うのだが)
身分の低い存在のでっち上げが必要となることが理解できないの?
08. 五月晴郎 2012年10月04日 23:02:06 : ulZUCBWYQe7Lk : mfxTdm8VZs
>>7
>国有化は関係ないでしょ。
尖閣関連のtreaty(条約、協約)を確認しないと、そう言えないと思うけど。
01. 2012年10月04日 23:05:47 : SaicXeHmog
緊急
「あり得べき中東大戦争と日本」
音声ファイルです
http://www.nhk.or.jp/r-asa/watchwm08/1w1.asx
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/251.html#c1
03. 2012年10月04日 23:06:42 : SaicXeHmog
どうも風雲急を告げているようだ
「あり得べき中東大戦争と日本」
音声ファイルです
http://www.nhk.or.jp/r-asa/watchwm08/1w1.asx
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/811.html#c3
01. 2012年10月04日 23:07:32 : H9OwRTGkmY
五月様
あなたが、バラク=フセイン師を支持するホンネは別にあるのでは
ないのですか!!アメリカ史上最初のゲイ公認大統領ですから
(ブス専大統領は沢山おられましたが)
まさにSHOWATENOこと大室裕仁師の後継者!!
1945年8月の敵討ちが、2012年11月と
67年3ヶ月ぶりにできるワケだ。八切先生も両刀つかいだからこそ
女性の読者に人気があったワケだし。
01. 2012年10月04日 23:07:39 : RjEnRjMMSg
誰がどう判断するかは別として、そもそも
どうやって原発の安全性を判断するのだ。何を根拠に判断するのだ。
原発の専門家ごときに建築物の耐震性がわかるのか。原発の専門家ごときに建設に使った材料の耐用年数、脆性破壊についてわかるのか。
今の原発が危険だという疑問にまともに答えた専門家などどこにも存在しない。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/717.html#c1
157. 一隅より 2012年10月04日 23:11:15 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
>>153
>私が言うより↓のURLのほうが詳しい。
言われて見たら、何と wikipedia だった。
あなたが、自力で領土防衛とか愛国心とか言うものだから、正統な民族派・愛国派として「南北千島も正当な日本の領土だ」(=私はそう思う。根拠もある)、と言うのかと思ったが。
そんなことなら始めから勇ましいことを言わなければよかったね。
まあこの件は、wikipedia でしか答えられなかったということを確認しておくだけで十分だ。
>「八紘一宇の精神」の解釈を専門家に聞いてみたのですか?私はそこを気にしているのですがね。
で、専門家は何て言っている?(解釈=歴史認識の問題だから、専門家だって各々の立場でさまざまに言うだろうがね。「アジアは(日本を中心とした)一家兄弟」とでも、「日本のアジア侵略の教義」とでも。「防共目的」という解釈すらありうるね。)
あなたは専門家に聞かなければ自分の解釈というものを持てないのかね。
まあこの件も、あなたが自分では答えられずに、「専門家の解釈」を気にしている、ということを確認しておくだけで十分だ。
◇
本論。
>(辺野古基地建設なんか≪やめて、その金で≫独自防衛力整備、について)在日米軍の駐留経費は思いやり予算です。防衛予算とは別の予算編成です。
>オスプレイはこの事には無関係。
まず事実認識として間違っている。
辺野古基地建設につかわれる日本の金は、「在日米軍の駐留経費=思いやり予算」ではない。
辺野古新基地はオスプレイのためのものである以上、「無関係」ではない。
それにしても、あなた自身が、>「勿論、その予算を自衛隊にまわした方が国の防衛にいいと思いますがね」、と認めている。
だったら辺野古基地建設をやめて「その予算を自衛隊にまわして国の防衛に役立てる」ことに賛成ですか、反対ですか。
「沖縄の現状・・・(や)現地の経済や雇用に関わるから答えは簡単ではない」、では済まないだろう。
まず、大切な国の防衛よりもそれら(沖縄の事情)を優先させるわけにはいかない。ましてやあなたは(私も)、「国土防衛」をきわめて重要なことと考えるのだから。
(沖縄の経済や雇用のための方策はまた別だ。)
かりにあなたが辺野古基地建設に反対しないとしたら、なぜなのでしょうね。そして賛否を明らかにしないで(=できないで)、オスプレイは関係ないとか、沖縄の事情があるとか誤魔かそうとするのはなぜでしょうね。
やっぱり、本音は対米追随派なのだが、ある都合があって「国土の自力防衛」なんて勇ましく言ってしまったものだから、誤魔かすしかないのでしょうね。
(ある都合=「日米同盟:未来のための変革と再編」に、「日本は・・島嶼部への侵略・・への対処を含めて、自らを防衛(する)」、とある。)
それとも、真に民族の誇りをもって自主・自力の国土防衛を目指すなら、「辺野古基地建設に反対」と言ってみたらどうだ。
(私は、自主・自力の国土防衛を目指すから、辺野古基地建設に反対だが。)
http://www.asyura2.com/12/warb9/msg/762.html#c157
04. 2012年10月04日 23:12:40 : 8eINxzDIHQ
はい。
日本人なら、まあ、たぶん歌わんような歌詞なんでしょうねw
大甘のロマンチックな曲でした。
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/597.html#c4
170. 2012年10月04日 23:13:25 : cUqQ10tEi6
>石波さんは安保破棄ですか、賛成ですか?どちらですか?
本人に聞いてくれ。
>貴方はやはり破棄ですね。はやく憲法改正して核武装することを実現したら。いまそのためにどんな活動をしていますか? 実現の見込みはありますか?
石原都知事が総理大臣になったら、やってくれるんじゃない?
>他人のことはどうでもいいよ。まず憲法改正を実現することだよ
貴方が世の中を知る事が大事。
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/187.html#c170
07. 2012年10月04日 23:16:00 : 6kuobrWeYc
>>福澤諭吉
近代日本の癌、アジア蔑視・訪米崇拝思想の元祖(笑)
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/246.html#c7
09. 2012年10月04日 23:16:28 : 8eINxzDIHQ
てんてんてん・・は・・グサーっっっ、とか?
悪かった。
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/596.html#c9
208. 爺さん 2012年10月04日 23:18:08 : pkMRoq8j2xu8g : Xm2Ib1lmhk
雑談・独り言
パソコン回復の目処が立ったので、ファイルを復元しながら、気晴らしに原発・防護剤関係以外の文書を読んでいます。
さっきまではギリシャの科学者について、3.11から毎日空き時間のほとんどは、防護剤と放射線防護関係の英語文書を漁っていました。食傷気味です。
ヘレン・カルディコット女史の来日に合わせて、私はますますバーチャルなholy foolにされるでしょう。
何が違うのか?
私は正直に言って、昨年の初夏の段階で、福島市や郡山市の方々は、遺伝的に強い人しか生き残らないだろうと思っていました。
福島や群馬山間部に線量測定に行く方々が多発しても、私は仕事で群馬山間部に行かざるを得なかった2回以外、線量測定のために高汚染地へ行くことはありませんでした。物見遊山で沼田に行ったこともありません。
しかしなぜヘレンカルディコットはああまで言い切るのか。何もなすすべがないと。
私にはそれが2重の意味で許せません。
まずは、「科学的な」極端な単純化と、それと裏腹の極度の傲慢。
二つ目は、人は絶望的状況でどう振舞うべきかという、倫理面での、一貫した最高級の冷酷さ。
ここは、他人への批判を展開するスレではありませんから、これ位の雑談に自制しますが、私は心の底から悲しい。
あんなスブリティングの典型がもてはやされ、それに援護されてことを進めようという人たちが群れていることが。
そして、その人たち位しか、この危機的状況を軽減する全国的戦闘勢力が見あたらないことが。
私は、今回の来日を機会にどんなに揶揄され否定されようとも、この続きを止めません。
私にはあれは歪んでいるとしか思えない。
私にはあの歪みを断ち切るすべはありませんが、あれのごまかしを拒絶するためなら喜んでholy foolになりましょう。
では、次回はまた甲状腺関係の続きへ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu19/msg/911.html#c208
03. 2012年10月04日 23:20:55 : 6kuobrWeYc
>>02
近場(地の利)を生かせないで遠方に出て行ってもねえ。
打ち合わせで行って帰って一週間。時間の無駄。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/810.html#c3
01. 2012年10月04日 23:21:37 : LSbmAk8QFA
毎度毎度毎度毎度・・・
0.82ベクレル出ました!10ベクレル出ました!25ベクレル出ました!・・・
今の阿修羅年金組の老いぼれなんて、子供の頃、毎日新聞ラジオで「放射能雨に注意!」とか「放射能牛乳!」とか「ストロンチウム!」とか警告されても親も子もどこ吹く風、何も気にせず日々平気で100万ベクレルたらふく食ってきたんだろ?
おまえら棺桶片足組が、昨今のレベルの汚染食い物を1億ベクレくらい進んでくうなんぞ、屁でもなかろうが。小出も大いにそれを勧めているじゃないか。
あと、どっかのやばそうな土をひとつまみ、埃をちょいかき集めてKg換算してベクレル出してもありがたみないんでな。ましてやそれを65倍してベクレル/平方メートル でござい、チェルノブイリ超でございと言ってみたって情けないだけなんでな。
とにかく死にぞこないの年寄りは放射能をたらふく食え。そして早く死ね。それが子のため、孫のため、ひいては日本のためになる。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/722.html#c1
01. 2012年10月04日 23:23:29 : RjEnRjMMSg
なぜ遠い所まで運んでいく必要があるのかさっぱり分からぬ。
この国は金が余っているとしか思えない。予算の使いかたを見る限りそれ以外の結論はない。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/719.html#c1
06. 2012年10月04日 23:24:23 : Sg92oZ9rNY
【日本はプルトニウム保有最少化を】
米、新戦略の矛盾指摘 原子力協定「前提崩れる」 改定交渉に影響も
http://www.47news.jp/47topics/e/235060.php
アメリカが日本の核武装を恐れ始めました。
http://www.asyura2.com/12/genpatu21/msg/666.html#c6
02. 2012年10月04日 23:28:15 : LSbmAk8QFA
「そして早く死ね。」
これはただ言ってみただけな。明らかだろう。
おまえらのような似ても焼いても食えないような阿修羅村民が何ベクレル食ったところで脈一つ速くもならんわ。
11. 2012年10月04日 23:29:12 : iS8OrupHTG
整理整頓・過食を避け・勉学にいそしむ民族は滅びない。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/803.html#c11
05. 2012年10月04日 23:29:56 : 8eINxzDIHQ
若い時の演奏もええわ。
NHØP - Bill Evans Trio (Beautiful love)
http://www.youtube.com/watch?v=TlPv0szwxVw&feature=fvwrel
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/598.html#c5
07. 2012年10月04日 23:30:58 : XQBYkUSTiM
経団連の代表者であるお偉い会長さんの責任ある発言なら、当然に加盟企業の総意を言っていると考えるべき。
メリットを享受するための再稼動発言だけでなく、万が一にも原発事故が起きたときには、加盟する全企業が補償を含め全ての収束処理に必要な金を出すというリスクを負う決意も述べるべき。
再稼動したいのなら、事故が起きたときの責任の所在を明確にしてからだ。
甘い汁だけを吸おうとする金の亡者が再稼動賛成派だ。
福島を見ればわかる。現在は事故が起きれば全部税金投入だ。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/718.html#c7
20. 2012年10月04日 23:31:26 : 66k5dXF2kw
この調査を何のためにやっているかといえば,
「福島の甲状腺がんの発生確率は,被曝のない他地域と比べて,
統計的に有意な差がありませんでした,(またはありました)」
という結論を得るためでしょう。
しかし,不思議だと思いませんか。
「チェルノブイリでは,子どもの甲状腺がんが増えたのは被曝から5年後からだ。」
「原発事故後1年後に見つかった甲状腺がんは,原発事故の影響ではない。」
この委員会が言い切った見解です。
ならば,どうして,5年後から検査をしないのでしょうか?
原発事故から5年以内では,検査結果と被曝との因果関係を認められないのなら,
5年以内の検査は,医療資源的にも経済的にも無駄ではないのですか。
ただでさえ医師不足が続く福島で,原発事故の影響とは認定できない時期に,
自覚症状や不安のない者まで含めた全数検査を,なぜ公費でやるのか。
何のために,事故後できるだけ速やかに検査をして,それを他者の介入や脱落
を許さずに継続させるか。
たとえば,事故後1年後の検査で,嚢胞やがんが見つかったとする。
すると,チェルノブイリ等の知見では,被曝後1年で嚢胞やそのがん化が生じるには
早すぎる,と認定される。
つまり,この嚢胞やがん細胞は,原発事故前からあったものと認定されてしまうのです。
すでに,委員会は,発見された1名の甲状腺がんを,あっさりそう断定しています。
するとかりに,その嚢胞やがん細胞が,その後の検査で悪化したとしても,
もともとの原因は原発事故による被曝でない,という証明に使われてしまう
可能性があるわけです。
その場合,これから甲状腺腫瘍やがんの症例がかりに千人単位で集まったとしても,
事故から5年以内の調査ですでに嚢胞やがんが発見されていた人々は,
原発事故による被曝が原因ではないと認定されて除外されるかもしれません。
すると,問題となる症例のうち,相当程度は減ってしまうので,
被曝と腫瘍やがんとの間に統計的な相関関係は認められにくくなります。
結局,原発事故による被曝と,甲状腺腫瘍やがんとの因果関係はない,
と結論づけられやすくなります。
相関関係が統計的に有意でないという結論が出てしまうと,賠償費用はゼロです。
個別の症例の原因として,室外の暴露時間等の記憶から,いかに被曝を疑わせた
としても,因果関係が有意でなければ,科学的な証明はできません。
なお,「チェルノブイリで5年後から甲状腺がんが増えた」という事実は,
チェルノブイリでは事故直後から5年後まで,検査が不十分だっただけという可能性も,
すでに複数の専門家から指摘されています。
チェルノブイリでは,事故の深刻さが隠蔽され,汚染された農産物が流通され続け,
それを食べたから多数の甲状腺がんの発症をみたという指摘は,理解できます。
当初から食品を規制した福島は,チェルノブイリと違うという主張も,理解はできます。
ただし,チェルノブイリで事故直後に深刻さが隠蔽されたことを認めるなら,
チェルノブイリでの事故直後の甲状腺検査も十分だったはずがありません。
したがって,「甲状腺がんは被曝から5年は潜伏期間で,増えない」という
チェルノブイリの知見は,たんなるスクリーニング不足による可能性もあります。
つまり,「チェルノブイリでも,事後直後から甲状腺腫瘍やがんが増えていったたが,
事故直後は検査が不十分だったため,発症が認定されたのが5年後からだった」
という反論です。これが,この種の公的な会議で検討された形跡がありません。
そういう可能性を公開の場で議論する職責が,この委員会にあるはずなのですが。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/691.html#c20
01. 2012年10月04日 23:35:55 : HNPlrBDYLM
尖閣諸島や西表島は石器時代から台湾の文化圏だよ。
千島列島にも無人島がいくつもあるけど、誰もがアイヌの領土だと認めていた。
従って、尖閣は台湾原住民の領土に決まってる。
単に台湾原住民には発言力が無かったから何も言わなかっただけさ。
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/272.html#c1
10. 2012年10月04日 23:42:48 : 7uPtGleutM
愚民化政策をとってるからね戦後は。ghqからだな。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/793.html#c10
02. 2012年10月04日 23:44:57 : cK5FFxGCFU
1君、君は偽キムチ産経の偽キムチ山際のような馬鹿さ加減だがお相手致そう。
私は日本人の殆どが思っているように天皇個人にはまったく興味がないさ。
天皇が国民統合の象徴でありその天皇を明博くんが侮辱したつまりは日本国民を侮辱して謝罪がない事を
問題にしているのさ。
私の感覚で言えば地元の名士の家柄で町内会長を歴任しているという感じで近所の女の子曰く本家のおじい
ちゃんと言っていたがそんな感じだ。
歴代町内会長には徳のある人もいればボスタイプのワルもいるし尊敬される本家の長もいれば馬鹿もいるし
ミーハー的に言えば国民的アイドルという事でファンもいればファンでない者もいる存在という事だ。
石原と橋下は日本人のお年寄りや青年という感じがしないから嫌いというより違和感を感じるのだが評判
通り偽キムチという事だろう。
あのしつこい嫉妬心と自分の言葉に責任を取らないあたりどうにも日本人とは思えないのであり仮にいい事
を言っている部分があっても信用できないから連中の思想らしきものにも時間の無駄だから興味がない。
大統領制度は向いている国が導入すればいいがまだ日本人はそれがいいとは思っていないのではないか。
そんな事より偽ユダヤを追い出す方が先決だし偽キムチという傀儡を追い出すのが先でそれどころではない
だろう。
今導入した所で中間管理職の部長を大統領的に選ぶようなもので無意味だし常務や専務に悪用されるだけ
だろう。
http://www.asyura2.com/12/cult10/msg/231.html#c2
01. 2012年10月04日 23:45:29 : 8eINxzDIHQ
ありがとうございます。
正直言って、三番目の本家と、最後のキャロル・キングが好きでした。
どっちか決めろ、となると・・キャロルです。
http://www.asyura2.com/12/music9/msg/595.html#c1
02. 2012年10月04日 23:47:14 : 0ygxno0BxA
>「これまでのところ、中国による日本国債の購入は無視できる規模だが、この点で中国が日本への影響力を強める可能性は現に存在しており、認識すべきだ」
日本が国際収支上、黒字であれば、外国が日本国債を購入する事態にはならず、心配ない。
中国とことを起こして、貿易赤字、資本収支赤字→国際収支赤字に陥れば現実問題となる。
よって、中国との貿易、資本交流を後退させてはならない。
韓国に上手い汁をすわれることになろう。
わかりやすくいえば、現代がトヨタを駆逐し、韓国の国際収支にプラスに寄与し、日本の国際収支にマイナス寄与する。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/807.html#c2
08. 2012年10月04日 23:47:51 : ggEDTSgjLM
この記事は鈴置と言う人の想像だけであって、韓国と言っても一枚岩ではないだろうし、中国アメリカ日本だけじゃなく、北朝鮮やロシアも近くにあるのに、この記事が真実だと思い込んで語る人たちって単純だなぁ。
http://www.asyura2.com/12/warb10/msg/246.html#c8
06. 2012年10月04日 23:49:36 : pPJ5gJb78A
古くは関東大震災、最近では阪神大震災と、日本は大地震や津波による大きな被害が
何度も経験していますが、震災後にこんなに多くの人が亡くなるなど初耳ですね。
仮設住宅などで不便を強いられたのはいつでも同じです。
なぜ福島の場合だけ、震災後に人が亡くなり続けるのでしょうか?
しかもさらに増え続けるだろうと言っている。
なぜ対策を取らないのですか?取れないからでしょう。
これから被曝によりどんどん人が亡くなっても「震災関連死」の一言で済ますつもりでしょう。
この言葉も「冷温停止」と同様、福島事故マヤカシ語の仲間入りですね。
http://www.asyura2.com/12/genpatu27/msg/712.html#c6
03. 2012年10月04日 23:49:37 : 0ygxno0BxA
訂正
わかりやすくいえば、中国市場において、現代がトヨタを駆逐し、韓国の国際収支にプラスに寄与し、日本の国際収支にマイナス寄与する。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/807.html#c3
09. 茶魔 2012年10月04日 23:51:59 : xWLiSM63uBbJc : 0EopofEgjc
こっちからアヤつけて、いいだけおちょくられてイモ引いてー、で treat プリーズってか?
んでどんどん相手に押し込まれるわけだw
ヒンガモジャパ〜ンwww
ま、いいけどさw
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/713.html#c9
07. 2012年10月04日 23:53:27 : mfxTdm8VZs
コメント規定違反です。
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/840.html#c1
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/803.html#c7
27. 2012年10月04日 23:54:00 : UKcXARjkwU
2011年9月以降は福島第一原発からほとんど放射性物質は出ていないはずです。なぜなら、9月には福島第一原発の原子炉の冷却水の蒸発量がぐっと下がっているからです。これは原子炉の冷却に成功しているという事を表しています。やかんのお湯と同じで、水の温度が高くなると蒸発するので、冷却できないと放射性物質を含んだ冷却水がどんどん蒸発していきます。9月以降はその蒸発量が1000万分の1に減って、ほぼ無視できるくらいになっています。
41. 2012年10月04日 23:55:44 : HNPlrBDYLM
今の「日本政府」がいつまでも今の形で残っていると思ったら大間違いだ。日本政府はいずれ、単なる「日本支部」のようになっていく。
今の「日本の法律」がいつまでも今の形で残っていると思ったら大間違いだ。日本の法律はいずれ、世界(もっと具体的に言えばアメリカ)が決めることになる。
今の「日本の通貨」がいつまでも今の形で残っていると思ったら大間違いだ。日本の円はいずれ消え去り、世界共通の何か別の通貨がそれに取って代わる。
今の「日本語」がいつまでも今の形で残っていると思ったら大間違いだ。日本語はいずれ、単なる衰退言語となり、英語が公用語となって日本語が捨てられる。
今の「日本の文化」がいつまでも今の形で残っていると思ったら大間違いだ。食文化も、音楽も、映画も、伝統も、ファッションも、考え方も、日本固有のものは何もかもが消されていく。
■政治家は誰に忠誠を尽くしているのか?
端的に言えば、「政府・法律・通貨・言語・文化」の5つは世界標準に統合されて、日本固有のものは捨てられる。
なぜなら、グローバル社会の中では、日本固有のものなど消失してしまうことが「望まれている」からである。
もっとも、消されるのは「日本有の文化」だけではない。世界中から「独自の文化」が消されていくことになる。そのような動きが、加速している。
何が起きたのか。「共通化」、あるいは「統合」がそこに起きたのだ。誰もそれを奇異に思っていないが、多様性は圧倒的に消滅してしまっている。
「政府・法律・通貨・言語・文化」の5つも「共通化」「統合」していくと考えるべきだ。世界中で固有の文化が消されていく。
誰がそんなことをしているのか?
■政治家が忠誠を尽くすのは国民ではない
アメリカは韓国にFTA、日本にTPPを押し付けて来ている。これは事実上、アメリカによる日本・韓国の「植民地化」だ。その事実が徐々に認識されるようになってきている。
これを推進しているのは「アメリカ政府」なのだが、アメリカ政府はNFTC(全国貿易協議会)のロビー活動や圧力の結果として動かされている。
そして、このNFTC(全国貿易協議会)こそが、アメリカが代表する「多国籍企業」群の利益団体だ。(アメリカはイラクをあきらめ、日本を植民地化することにした)
ここから見えてくるのは、実にシンプルな構図だ。今、何が起きているのかというと、こういうことだ。
「アメリカの多国籍企業が、アメリカ政府を動かして、自分たちの利益を追求しやすいように、日本・韓国を変えようとしている」
オバマ大統領やクリントン国務長官はアメリカのために行動し、発言している。では、ここで言う「アメリカのため」というのは、アメリカの「誰のため」なのか。
「国民のため」ではない。
アメリカの国民は「ウォール街を占拠せよ」と叫び、「政府が国民のために動いていない」と暴動寸前のデモを起こした。
つまり、国民は政府が「大企業を優遇しすぎている」「政府は国民を軽視している」と不満を示していることになる。
ということは、アメリカの政治家が「アメリカのため」と言ったとき、それは「アメリカの国民のため」ではないことが分かる。
アメリカのみならず、政治家というのは、常に票を集めてくれる「組織票」に向いて活動しており、資金援助をしてくれる「組織・団体」に忠誠を尽くす。
組織票や資金援助をしてくれるのは「誰」なのか。
■オバマは、「多国籍企業」を優遇した
バラック・オバマは2009年の選挙では、インターネットで小口献金を積み上げたことが大きな驚きとして報道された。通常は、小口献金を集めても大した額にはならなかったのだ。
だから、政治家は「大口献金」で選挙資金を集める。
大型献金をする資産家が時おり新聞に載ることもあるが、それが新聞に載るのは、やはり珍しいからだ。
では、珍しくない通常の大口献金は「誰が」出しているのか。
そんなことは誰でも知っている。多国籍企業だ。大口の献金を受けて当選した政治家は何をするのか。
もちろん、これからも当選し続けるために、多国籍企業の要求する政策を進めるのだ。アメリカの政治家の背後には、アメリカの「多国籍企業」がいる。
ちなみに、バラック・オバマが当選したあと、オバマが小口献金で勝ち上がったというのは一種の誇張だったことが発覚している。
実はウォール街の投資銀行から30億円、保険会社からも30億円の献金を受けていたと小さな報告があった。
結局、オバマ政権になって量的緩和が行われてウォール街と保険企業は大いに利益を積み上げた。オバマもまた大企業を結果的に助けたことになる。
オバマは、「多国籍企業」を優遇したのである。
■NFTC(全国貿易協議会)
アメリカにはキラ星のごとく「多国籍企業」が揃っている。
これらがすべてNFTC(全国貿易協議会)に集結して、ロビー活動を通してオバマ政権に圧力をかけ、そしてTPP(環太平洋パートナーシップ協定)が日本に来襲してくる。
しかし、ひとつひとつの企業を見ると、特に凶悪なように見えない。いや、むしろそれらの多国籍企業はとても好ましいイメージがある。
「TPPは日本を破壊する!」と叫ぶ日本人も、マクドナルドでハンバーガーを食べ、コカコーラやペプシを飲む。
友人とアップル社のスマートフォンで話をして、会社ではマイクロソフトのOSの入ったインテル製PCを使って仕事をする。
よく考えて欲しい。
ここで名を上げた「マクドナルド、コカコーラ、ペプシ、アップル、インテル、マイクロソフト」は、すべてNFTC(全国貿易協議会)を通して、TPPを日本に押し付けている企業だ。
もうこれらの企業は十分日本に浸透している。
これ以上何を望んでいるのかというと、まだ日本に入りきれていない多国籍企業をさらに押し込むのである。
TPPで真っ先に問題になるのが「農業」だが、NFTC(全国貿易協議会)のメンバーである世界最大の穀物商社「カーギル」や遺伝子組換えの「モンサント」「ダウ・ケミカル」はまだ入り込めていない。
なぜなら、日本が関税を敷いて自国農業を守っているからだ。NFTC(全国貿易協議会)はそれが邪魔だと考えている。そして、その関税を「完全撤廃」させるのがTPPなのだ。
■抵抗すればISD条項の元に、損害を弁済させられる
当然、日本の農業は壊滅状態になる可能性もあるし、それを防御しようとすれば訴えられてISD条項の元に「損害を弁済させられる」ことになる。
NFTC(全国貿易協議会)のメンバーの中には「アボット・ラボラトリー」「イーライ・リリー」「ファイザー」「メルク」等の巨大製薬会社も混じっている。
彼らは特許を盾にしてジェネリック薬を許可しないので、日本で医療費が激しく上がる可能性も叫ばれている。これも抵抗すればISD条項の元に「損害を弁済させられる」だろう。
訴訟はアメリカの弁護士が行うが、NFTC(全国貿易協議会)には「U.S. Chamber of Commerce(米国商工会議所)」という何の変哲もない名前のロビー団体が含まれている。
これはアメリカでも最大のロビー団体のひとつだ。ここに多くの弁護団体が加盟しており、アメリカ式の訴訟を日本で行いたいと考えているのである。
日本に入り込んで儲け、抵抗したら訴訟を起こして、今度は弁護士が儲ける。そういう世界なのだ。
アメリカでは救急車が走っていたら、そのあとに弁護士の車がコバンザメのように付いてくると冗談のように言われる。
訴訟大国を担う弁護団が入ってくるのであれば、今まで何でも「穏便」に済ませていた日本も国が変わる。
日本に入り込みたいが入れないアメリカの多国籍企業が山ほどある。そのために、邪魔な日本政府と関税を無力化させるために、NFTC(全国貿易協議会)はアメリカ政府を動かしてTPPを仕掛けてきた。
■画一化で多国籍企業が恩恵を受ける
日本の公的文書を英語に、公用語を英語にする動きも、「U.S. Chamber of Commerce」を通して行われるのだろう。
言語や文化が統一されるのは、多国籍企業には非常に有利になるのは、それによって「情報のアクセスが増える」「乗っ取りがしやすくなる」「コストが削減できる」「文化を画一化できる」等のメリットがあるからだ。
「コスト削減」については、説明書や製品を現地語にローカライズさせる手間が省けることを考えても分かる。
また、NFTC(全国貿易協議会)には「米国出版社協会」やマグロウヒルが含まれているが、これはアメリカのほぼすべての出版物を扱う協会だ。
日本を文化破壊させて日本語を捨てさせ、全員まとめて英語を読み書きするようにすれば、1億人のマーケットがそこに生まれる。
多国籍企業は「画一化」を非常に好む。
言語が画一化されれば英語のメディアがそのまま世界中に売れる。味覚が画一化されれば、マクドナルドもコカコーラもペプシも世界中に売れる。美的感覚が画一化されればGAPもリーバイスも世界中に売れる。
★ローバル化とは人間をレンガのように画一化する仕組みになっていると以前にも指摘した。(今、人間をレンガのように画一化する仕掛けが作動している)
なぜ、そうなのかというと、画一化することによって、「多国籍企業」が恩恵を受けるからでもある。
今、世界各国の政府が弱体化していく流れになっている。あるいは、ユーロや、FTAや、TPPや、NAFTA(北米自由貿易協定)のように、ブロック化していこうとしている。
そして、世界は「グローバル化」しており、「多文化主義」に走っている。なぜ、そのような動きが誰の号令もなく進んでいるのか。
「多国籍企業」が、自らのビジネスのために、それを望んでいるからである。
・多国籍企業は「政府」が画一化(統合)して欲しい。
・多国籍企業は「法律」が画一化(統合)して欲しい。
・多国籍企業は「通貨」が画一化(統合)して欲しい。
・多国籍企業は「言語」が画一化(統合)して欲しい。
・多国籍企業は「文化」が画一化(統合)して欲しい。
だから、今の日本の「政府・法律・通貨・言語・文化」が、これからも存続すると思ってはいけない。長い時間をかけ、いずれ、すべてが消滅していく。それが望まれているからである。
http://www.asyura2.com/12/hasan77/msg/803.html
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/518.html#c41
01. 2012年10月04日 23:57:39 : LSbmAk8QFA
投稿者=半キチ、完キチどもが花咲かせる、阿修羅お花畑!あー、こりゃこりゃ!
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/839.html#c1
42. 中川隆 2012年10月04日 23:59:06 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM
2011年10月18日火曜日
近い未来に起きる2つのこと。給料の半減と、農業の絶滅。
TPP(環太平洋連携協定)の議論が割れており、これが日本の行方を左右する可能性が出てきた。
TPPとは簡単に言うと「国を完全にグローバル化するもの」という理解をして欲しい。参加国内で関税を一切取っ払って、自国産業が負けても政府は口を出さずに結果を受け入れるという協定である。
TPPはシンガポール・ブルネイ・チリ・ニュージーランドの貿易協定として始まった。そこに、ベトナム・マレーシア・オーストラリア・ペルー・チリが加わって、さらには米国が加盟し、日本も加盟しようとしている。
日本の資産を根こそぎ奪っていく
このTPPは現在、賛成派と反対派に分かれて激しい議論が応酬されているが、何が問題なのかあまりよく理解できない人も多い。
よく理解できなくても無理もない。なぜなら、TPPがどんなものなのか政府は資料を出そうとしないし、メリットもデメリットも説明せずにただ、「関税撤廃して自由な国にする」と言っているだけだからである。
TPPで扱うのは、工業製品、農産物、繊維・衣料品、金融、電子取引、電気通信、公共事業、物品、労働規制、環境規制等、かなり多岐に渡っている。
誰も全貌が分からないが、それは何をどう受け入れるのか細かい部分が日本では何も決まっていないからだ。
ただ、政府が猛烈にそれをやりたいという姿勢だけが伝わってくる。アメリカに圧力をかけられているからである。
アメリカがTPPをチャンスだと見ている。なぜチャンスだと思っているのかというと、「競争に勝てる」と思っているからだ。
アメリカには超巨大多国籍企業がキラ星のように揃っているが、それらの巨人が日本に入り込んで、片っ端から日本の企業や産業を飲み込み、叩き潰すことができると思っている。
自由貿易で競争に勝った国は、相手の資金をそのまま収奪することができる。
カネが尽きてきたアメリカが狙っているのは何か。それは日本の資産を根こそぎ奪っていくことだ。TPPがその「仕掛け」になる。
だから、アメリカは激しい圧力を日本にかけて、日本の政治家はそれに屈してTPP開国を進めている。
TPPは、日本と韓国を長期的に潰す為に行う。米国公電をウィキリークスが暴露
ニュージーランド外交貿易省のマーク・シンクレアTPP首席交渉官は「TPPが将来のアジア太平洋の通商統合に向けた基盤である。もし、当初のTPP交渉8カ国でゴールド・スタンダード(絶対標準)に合意できれば、日本、韓国その他の国を押しつぶすことができる。それが長期的な目標だ」と語った。(米国大使館公電から)
ウィキリークスの原文はこちら
http://wikileaks.org/cable/2010/02/10WELLINGTON65.html
菅首相以後、憑かれたようにTPPに突っ走っていく日本
今の給料の半分になってもまだ高い
TPPが入ってくると潰されると危機感を抱いているのは農業従事者なので、今のところは農業の話が中心になっている。
しかし、実際には24分野で「自由競争」が始まるのだから、日本人全員に影響があると考えたほうが自然だ。
どういう影響があるのか。まず、日本人の収入は「激減」する。今もらっている給料の半分になってもまだ高いと言われて削られるようになる。
なぜか。関税撤廃が行われ、自由競争が始まると、企業はコスト競争に巻き込まれるので、どうしてもコストを下げる努力をせざるを得ないからだ。
コストの最大の要因となるのは「人件費」である。この人件費を下げる方策が日本企業から出てくる。すなわち、以下のようなものだ。
・正社員をリストラする。
・従業員全員の給料を引き下げる。
・安い外国人を雇う。
・給料の高い日本人を雇わない。
・日本から出ていき、賃金の安い国に行く。
どれかが行われるのではなく、このすべてが行われる。
海外で安い労働者を使って安いものが作れ、かつ関税がないので右から左に税金ゼロで持ってこれると分かったら、企業はもはや日本人を雇わない。
だから、企業はさっさと海外に出ていくことになるだろう。「自由な貿易」「関税撤廃」を主とするTPPは、まさにグローバル化の加速である。
TPPであなたの給料は激減する
あらゆる観点から考えても、日本人の給料・賃金は下がる。すべての影響はつかみきれないけれども、これだけは確かだ。
しかし、日本人はというのは抽象的な言い方だ。このブログを読んでいる人間はほとんどが日本と関わりのあるところで働いているだろうから、もっとはっきり言おう。
TPPの参加が決まったら、他の誰でもなく、あなたの給料が激減する。あなたの給料が半分以下になってもおかしくない状態になる。これが第一の影響だろう。
日本企業が政府に「早くTPPに参加しろ」と言っているのは、企業は常にコストを下げて競争力を保ちたいからである。別に従業員のことを考えているわけではない。
あなたの給料が下がれば、それだけ企業はコスト削減できるから嬉しいのである。
このあたりの流れを、もっと分かりやすく説明すると、こういうことになる。
(1)自由化は、物の値段を下げる性質がある。
(2)TPPの関税撤廃によって自由化を目指す。
(3)すべての生産物が競争に巻き込まれる。
(4)コスト削減競争になる。
(5)コストの大部分を占めるのは人件費である。
(6)人件費(給料・賃金)を下げる動きになる。
日本人がTPPに対して激しい不信感を抱くのは、そのような流れを漠然と感じるからだろう。
自由貿易で日本が競争に勝つ分野が出てきても、「日本人が勝つ」わけではない。「日本企業が勝つ」だけである。
しかし、勝つためにコスト削減=給料下げが行われているので、日本企業が勝っても、あなたの給料が半減以下になっている。これがグローバル化の結末だ。
これだけでも日本人は真っ青になる必要があると思うが、誰も素知らぬ顔をしているのは、もう日本人はカネを失ってもいいと達観したのだと私は考えている。
これが中国なら政治家が暗殺されるレベルだが、日本では何も起きていない。給料が半減以下になるのに騒がない日本人はさすがに民度が高いものだと感心してしまう。
今までの傾向からすると、サラリーマンが一番何も行動しない。
仕事以外は何も考えられないロボットのようになってしまっている。
大震災・原発事故によって、すべては変わった
かつて、日本人は日本の農家を守るためにもTPPは認めたらいけないと考えていた。しかし、2011年3月11日の大震災・原発事故によって、すべては変わったと思う。
今、日本人は日本の農家を守りたいと思っても、もはや放射能汚染された日本の農作物が食べられない。日本の農作物が汚染されていけばいくほど、日本人は「日本産」を食べないだろう。
これは、日本を愛している人間でも同じだ。放射能入りの日本産と、放射能なしの海外産があれば、もはや選択の余地はない。子供がいる家庭であればなおさらだ。
3月11日以前は、「安い農作物が入ってきて、自給率がさらに悪化してしまう」というのが議論の俎上にあったはずだが、今の日本は自給率どころではない。
何もかもが放射能で汚染されて食べられないので、「海外産を食べるしかない」という状況に追い立てられているのである。
恐らく米も海外産のほうがいいということになって、日本の米は販売においても全滅していくかもしれない。そうなっても仕方がない。なぜなら、子供に放射能入りの食事を出すほうが罪深いからだ。
TPP参加が決定すると、恐らく瀕死の農業にとどめを刺す。
日本産が食べられず、いずれ日本産がなくなり、日本料理もなくなり、それによって日本の文化も死ぬ。
近い未来に起きる2つのこと。給料の半減と、農業の絶滅。国益を考えない政治家が適当な政治をしていれば、どこまでも堕ちて行く。
日本人はその現状を見つめながら、まだ何もできないでいる。
日本が坂道を転がり落ちながら衰退している姿をあなたは認識できているだろうか。
農家はTPPで日本の農業が死ぬことを最初から知っていた。
最後に日本の農業を殺すのは、TPPなのか、放射能なのか。
http://www.bllackz.com/2011/10/blog-post_18.html
2011年10月19日水曜日
食料危機が始まる。あなたの食べるものが消えてしまう理由
農業が自由化競争になったとき、日本の農業は全滅する。よく考えて欲しいのだが、どこの国が放射能まみれの日本の農産物が欲しいと思うだろうか。そんな国はどこにもない。
むしろ、日本人がこぞって放射能で汚染されていない海外の農産物を買うことになる。つまり、日本の農産物は競争力はなくなった。
日本は食料自給率が異様に低く、カロリーベースの総合食料自給率が39%だった。ここに3月11日の大震災・放射能汚染が加わって、自給率は最悪の事態に落ち込んでいくと思われる。
食べ物が大暴騰していく
今までは自給率が低くても「外国から買えばいい」という前提が成り立っていた。しかし、今後はその通りにいかない可能性が高まっている。
なぜなら、中国が食料を輸入に頼るようになっていったとき、中国13億人の胃袋を満たすだけの食料を世界が用意できないからだ。
それでも中国政府は中国人民を飢えさせるわけにはいかないから、どんどん世界中の食料を買い込むことになる。
中国は食料を輸出している国だという概念はすでに2010年で崩れている。国内で作っているが、それでも足りなくて食料を輸入に頼っているのである。
2010年にはトウモロコシも大豆も過去5年で2倍の量を輸入に頼るようになっており、さらには米の輸入も増えてベトナム産のコメは中国が軒並み買い上げていると言われている。
中国は肥沃な土地が少なく、しかも旱魃で水が不足している。自給率は99%だが、今後はそれが下がっていく可能性もある。
そうでなくても、中国では工業化の流れに乗って若者が都市に流れていき、農村が荒廃している事態もある。
農業離れによる食糧不足=中国社会の足元すくう可能性―中国紙
中国では、農業に前途を見出せない若い世代がどんどん都市部へ流入し、いまや農村は老人や病人・弱者の留守の地とさえなってしまっている。農業が廃れてきたのは、工業化を進める一方で、政府が産業としての農業を十分に重視せず、政策上の“犠牲者”としてきたことも原因の1つである。何を作っても、何を育てても大した収入にはならないことが農民の積極性を奪い、農業に壊滅的な打撃を与えてきた。
どんな国においても、農業の経済的な波及効果は第2次、第3次産業よりも劣るため、農業は脆弱な産業に属すると認識されている。しかしそれ故に、その国が長期的な展望を持っているのかどうかが、農業に対する取り組み姿勢によって判断できる。人口10億人以上のこの大国で、農地が荒れ、誰も農業に就かなければ、将来の食糧不足が社会の安定を失わせる大きな火種となる可能性さえある。
その結果どうなるのか。中国はますます食料の輸入に邁進していき、世界中の穀物を買い上げることになる。
数年前から、「世界は食料獲得戦争が起きる」「水の奪い合いが起きる」と警鐘が鳴らされてきているが、いよいよその2010年からそんな苛烈な時代に入っていった。
食料が明確に不足していく。
中国の旱魃と水不足はいまだに深刻な状態に
ところが、そんな不安な時代に、よりによって日本は肥沃な土壌が放射能に汚染されてしまい、農産物を作っても汚染物質にしかならない国になってしまったのである。
これだけでも農業は壊滅に等しいが、さらに政府はTPPによって関税を撤廃したがっており、安い農産物が提供されると日本の農業の壊滅は加速されて、どこかで止めを刺されることになる。
そして、日本の農業が崩壊した頃になって、世界は食料危機が深刻になっていき、食べ物が大暴騰していく。食べ物が欲しくても、あまりにも高くて手に入らない時代になる。
金持ちだけが生き残り、残りは「飢えた貧困層」になる。分かりやすく流れを書くとこのようになる。
(1)放射能で農産物が汚染された。
(2)農業が壊滅状態になっていく。
(3)TPPに加盟して関税撤廃。
(4)安い農産物が入ってくる。
(5)日本の農業が崩壊。
(6)世界が食糧不足に入る。
(7)食料が大暴騰して金持ちしか買えない。
(8)日本に飢えた貧困層が出現する。
すでに(1)まできて、政府は(3)を目指している。普通の人々が根こそぎ困窮した生活に放り込まれるだろう。
食糧危機に向けたプロローグ
食糧危機など本当に来るのか懐疑的な人もいると思う。しかし、その兆候はすでに2011年に私たちは目撃している。チュニジアから始まったアラブの民主化運動がそれだ。
チュニジア・エジプトの民主化デモがこれだけ大規模な国民闘争になったのは、国民すべてが「ある危機」に巻き込まれていたからだ。「ある危機」とは言うまでもなく「食料の高騰」である。
2011年に食料の高騰があったのは、アメリカが量的緩和を行なって市場にドルを大量に流出させたのが直接的な原因だ。
それが投資機関によってコモディティ市場に向かい、石油から食品までのすべてのコモディティを暴騰させてきた。
なぜ、投機資金がコモディティ市場に流れ込んで行ったのかというと、実は「小麦の収穫量が激減する」「だから小麦の先物市場が上がる」という読みがあったからだ。
なぜ、この当時、小麦の収穫量が激減すると投機資金は思ったのか。それは、ロシアの穀倉地帯が山火事で壊滅状態になったという事情があったからである。(2010年8月ロシアの大規模な山火事。観測史上類を見ない猛暑が襲ってきた)
ここ数年、異常気象がずっと続いてきていて、世界の穀倉地帯が軒並みやられてきている。2010年のロシアの山火事はまさにその典型的な例だった。
2010年8月のロシアの山火事がアラブ民主化の遠因になった。
だから、事象を時系列で言えばこのようになる。
・ロシアで大規模な猛暑・山火事で小麦が激減した
・投機資金がそれを見てコモディティに殺到
・その結果、食料価格が暴騰
・ロシアから小麦を輸入していたチュニジアで暴動
・食料高騰が原因で、中東・北アフリカが混乱
2011年から起きている事象は、今は誰も認識していないが、実は迫り来る「食糧危機」のプロローグでもある。世界中に「飢えた貧困層」が増えたことによって政治的混乱が加速している。
では、この異常気象はロシアだけの一時的な減少だったのだろうか。そういう見方もある。では、2011年だけ取り上げて、世界で何が起きていたのかもう一度確認してみたい。
2011年1月 欧米での大豪雪
2011年1月 オーストラリア同国最悪の大洪水
2011年2月 アメリカ中西部の大豪雪
2011年3月 タイ南部で大洪水
2011年3月 日本で大地震・大津波
2011年4月 スイス南部で干魃
2011年4月 ミシシッピ州の大洪水
2011年4月 ロンドン危険レベルのオゾン層破壊
2011年4月 コロンビアで大豪雨・大洪水
2011年4月 米ミズーリ州の連続巨大竜巻
2011年4月 テキサスで大規模火災
2011年4月 米オレゴン州で大雪
2011年4月 エジプトで強烈な砂嵐
2011年5月 中国過去50年で最悪の干魃
2011年5月 韓国でヒキガエルの大移動
2011年6月 中国来賓で大洪水
2011年6月 米アリゾナ州で史上最悪の山火事
2011年6月 インドで大豪雨
2011年7月 中国北西部で灼熱日(ロシアも30度超え)
2011年7月 米アリゾナ州フェニックスの大砂塵
2011年7月 韓国記録的大豪雨
2011年10月 タイで壊滅的な洪水
2011年10月 トルコでM7.3の大地震
タイの洪水は工業団地だけを直撃しているわけではない。
「穀倉地帯」をも打撃を与えているのである。
個人でサバイバルが必要に
もう分かっていると思うが、年を追うごとに異常気象の「異常」が度を超していく。2011年だけでもこれだけの「兆候」があって、穀倉地帯が崩壊していっているのである。
最初は地域の被害に過ぎなかったものが、地球規模の影響を及ぼすことになっていく。
穀倉地帯が崩壊し、自然が破壊され、ジャングルも消滅の危機にあり、それなのに人間の人口だけは過去最大の70億人に達して、さらに増えていく。
酷暑と酷寒も交互にやってきている。灼熱の夏と酷寒の冬が恒例になったら社会に影響を与えないはずがない。過酷な自然環境は、農作物に影響を及ぼすのである。
穀物価格・資源価格が高騰してグローバルに影響を与えていくのは当然だ。すなわち、恒常的な食品の高騰につながる。
食品価格が高騰していけば黙っている人は誰もいない。飢えは生存のための略奪や暴力を引き起こす。奪わなければ死ぬのなら、誰でも奪うだろう。
国が国民を食べさせることができない国、すなわち自給率が低い国がどのような末路に追い込まれるのか、私たちは真剣に考えているのだろうか。
放射能汚染と、TPPと、食糧危機と、国家崩壊は、ぜんぶ根っこでつながった問題である。それぞれ違う問題ではなく、全部が同時並行で動いている。
だから、今から日本人は何らかのサバイバルを考えなければならない。ただし、国は何もしてくれないので、個人でサバイバルが必要になってくる。
そんな時代が来るわけがないと思う人もいるかもしれない。では、あなたは1年前の今日、「日本の農作物が放射能で汚染されて食べられない時代が来る」と一瞬でも思っただろうか。
自然環境は悪化している。むしろ、どんな時代でも来ると覚悟しておいたほうがいい。
生きていくためには何でも食べる時代が来るのか?
http://www.bllackz.com/2011/10/blog-post_19.html
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/518.html#c42
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