23. 2012年9月07日 14:24:48 : JyTRQgs9L2
>アメリカ合衆国や日本では「リベラル」という用語は、
>この社会自由主義の意味で使われる場合が多く[2]、
>穏健な革新を目指す立場(中道左派)だとされる[3]。
>この「リベラル」に対して本来の自由主義的な側面を強調する表現が
>リバタリアニズム(libertarianism)で、特に経済的に古典的自由主義を
>再評価する立場を新自由主義(ネオリベラリズム、Neoliberalism)とも呼ぶ。
Wikiも適当なことを書いてるね。
たしかにA・スミスらの古典的な自由主義の思想から言えば、
自由な競争社会が好ましく努力は必須だが、しかしそれは十分条件ではない。
どんなに努力しても脱落者が出てくるのは必然であり、
とりわけ不況時にはその数や割合が高くなる。
だから本質的には社会統治の一部門である政治学としても
自由主義が発達し、後の社会権思想の高まりによって
福祉行政の一環としても発達したと。
学問的な流れから言うとこういう風になるだろ。
したがって経世済民の学たる経済学においても、
本来は、落ちこぼれや努力しても無駄な脱落者の救済も前提としていると。
※ちなみに阿修羅で評価の高い小沢一郎氏は
系統から言ってこの古典的自由主義に属する。彼が社会民主主義だというのは
左翼を利用する為の嘘臭いポーズに過ぎない。嘘だと思うなら
本人自身の書いた著作を読めばあきらか。
そもそもアダム・スミスの『道徳感情論』においては
「相互に共感できる社会的存在」としての
人間を前提にしているわけで、新古典派の合理的期待形成派が
モデルにしているような「自己利益のみに従って行動する完全に
合理的な存在(=ホモ・エコノミクス)」というような人間像は想定してない。
したがってアメリカの新自由主義者たちが見い出したと錯覚している
古典的な自由主義思想と、彼らの世界観は全く異なる。
新自由主義の経済学的基盤はミルトン・フリードマンらの新古典派経済学だが
彼らの多くは東欧系移民ユダヤ人であり、それ故に
「相互に共感できる社会的存在」などは全く念頭においてはいない。
世界中で差別され弾圧されて来た人種に共同体意識など
ある筈は無いからだ。
ユダヤ人にとっては競争有るのみ。
http://www.asyura2.com/12/senkyo135/msg/412.html#c23