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2011年9月15日00時02分 〜
コメント [原発・フッ素16] 奥州市の下水道でのヨウ素131検出の件で病院に直接確認してみました 鳥の目と虫の目
15. 浅見真規 2011年9月15日 00:02:44: AiP1TYI88G3dI : gW3lZJ3Id6
>>13
奥州市内の病院に電話しても、帰省してる患者の分はわからない。


福島県も宮城県も山形県も空間線量値が特に高くなってないのに、
離れた岩手県と秋田県の空間線量値が8月18日に高くなって下水汚泥から
放射性ヨウ素が検出された事は、緯度がほぼ同じ北朝鮮から偏西風で
放射性ヨウ素が飛来した事を合理的に説明するのは北朝鮮の秘密核実験か
日本海北部での原子力潜水艦事故の方が説明がつきやすい。

逆に福島第一原発から放出されたとする方こそ妄想だ。
福島県や山形県や宮城県の空間線量値が特に変化が無いのは説明困難だ。
*****
地下核実験を行えば、常に地震波で発覚すると考えるのはシロウトである。
大きな空洞で核実験を行えば地震の規模を非常に小さくできるからである。
(ブルース・A・ボルト著・小林芳正 監訳・「地下核実験探知」古今書院 参照)

そして、第一回・第二回の核実験により核実験場の地下には大きな空洞が
存在するので、以前より小型の核爆弾なら発生する地震の規模を大幅に
小さくできるのである。

さらに、3月11日に日本で発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の
余震が頻繁に発生しているので、それがノイズとなって地震波探知を困難
にしているのだ。

また、8月10日当時は北朝鮮の少なくとも西岸では濃霧が発生しており、
東岸でも8月に濃霧が発生していれば、水と反応して溶けやすいセシウムは
ほとんど日本に飛来しないはずだ。

尚、北朝鮮が核実験すればヨウ素131だけでなくキセノン133も飛来したはず
だが、高崎CTBT放射性核種探知観測所は8月半ばには、CTBTO準備
委員会技術事務局の出張者により測定器の放射性物質による汚染状況評価作業が
行われたため、通常の測定を実施していない。
また、千葉の日本分析センターと奥州市前沢下水処理場は約385km離れており
千葉の日本分析センターには微量しか飛来しなかった可能性もある。

*****
>>12の補足

奥州市は人口が少ないので一人でも放射性ヨウ素131医薬品を投与された患者が
いれば下水のヨウ素131濃度は大幅に上昇する。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/509.html#c15

記事 [テスト23] テスト

「外敵を作って社会を安定させる」

現代では

中国と朝鮮が

日本を敵にして

この政治手法をとり続けています

怒り・不満の矛先を

こちらに向けて

国内の社会を

できるだけ安定させるためです

でも それが上手くいってるんだか

いってないんだか

冷戦時代は

上手くいってたんです

このときは

意図して

そうしてたわけじゃないですが

米国とソ連

西側諸国と東側諸国

ようするに この政治手法は

互いの国の力が

対等でないと

上手くいかないのです


http://www.asyura2.com/11/test23/msg/319.html

コメント [原発・フッ素16] 勝手に放射線量測るんじゃねぇっ!!国民生活センターが放射線測定器9製品の調査結果を公表(暗黒夜考 崩壊しつつある日本を考 こーるてん
18. 2011年9月15日 00:07:07: ButmeIcAso
ユーザも下級役人も「正確な値を知ること」が目的であると勘違いしている印象があるね。
だからこういう発表が出るのは当たり前といえば当たり前。
そこに上級役人に浸け込まれる隙があると云えばそうかもしれない。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/507.html#c18
コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
31. 2011年9月15日 00:07:11: OnuQzhq0wA
 これはデマ?
 茨城で今、出荷停止になっているって話はあまり聞きません。

茨城県のホームページ
http://www.pref.ibaraki.jp/important/20110311eq/nousanbutsu/20110905_01/
主要農産物の検査結果「次のとおりすべて暫定規制値を下回っていましたので、お知らせします」

 茨城産を埼玉産にしても、そんなに売れないでしょう。
 もし、本当なら、どのような状況なのかはもっとはっきり書いてくれないと真偽が分かりません。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c31

コメント [原発・フッ素16] セシウム:地表付近と樹木の葉に多く 福島の森林調査 (毎日新聞)  赤かぶ
05. 2011年9月15日 00:07:20: XlMDG22KoA
04さん、過敏杉。
チェルノブイリのドキュメンタリー、NHKで見たけど、動物には「セシウム耐性」が出来てくるそうです。
人類も日本も初めての「セシウム汚染」ではないでしょう。中国の核実験で随分と日本にセシウムやら何やらが飛んできましたから。降雨により日本国土に沈着しました。
ヨーロッパ全土がもうすでにチェルノブイリからの放射能で汚染されているのです。
セシウム牛もセシウム牛乳も市場に出回っていますから多くの日本人の体に微量のセシウムが取り込まれているのでは。
「セシウムセシウム」と大騒ぎする段階は過ぎたのでは。これからは科学的データで実態を正しく把握・検証していくしかありません。
地域住民はもちろん圏外でも多くの福島県民は内被ばくしていると思います。多分ごく微量の。問題は放射能による遺伝子破壊ですが、もともと遺伝子には自己修復能力がありますし・・・。
大部分は尿となって体外に排出されますし。
福島県民が煽りに乗ってやみくもに西日本に脱出したら大混乱ですよ。私らはやはり県内に留まって対処の仕方を考えて行くしかないのです。発病までは10年20年30年のスパンですから私ら高齢者はあわてる事はありません。
子供に関してはやはり問題です。「0.5%」の発がん率アップをどうとらえるか、これが論争を呼ぶところだと思いますが・・・。
同世代の友人(福島市)などは「毒食えば皿まで」ガハハハハと開き直っていますが。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/494.html#c5
コメント [原発・フッ素16] セシウム放射能!―やっぱりそうだった!あのニュースの不可解さが解けた (クマのプーさん )  赤かぶ
33. ケロリン 2011年9月15日 00:07:43: 6aICm6xzPa6aE : BW6GTQviU6

もっとも事実を歪曲隠ぺいする、<WHO>。そこを根拠にすれば・・・必然的に、
>放射性ヨウ素の健康被害だけが顕著なのだ(WHO 2006レポート)。

・・・と、帰着するのは自然なところだろう。

ウラ側で、実際に起こっている放射線障害の悲惨な現実を、「因果関係は認められない」とすれば、事実調査からも一瞬で外される、『御用レポート』の数々。1950年当時から始まった、世界中にバラまかれた放射能核種と、世界的なガン被患率の急上昇など、因果関係すら調査なく、ただの「高齢化」で済んでしまう、ということだ。

何回も言うようだが・・・、
最も検出しやすい、セシウムやヨウ素などは、全体を観察する際のただの<目安>にしか過ぎない。放射線スペクトル観察で、原子炉から放出される、<ヒカリが遠くへ飛ばない>アルファ&ベータ線量こそが、大きな障害になっているにも関わらず、遇えてかどうか、一言も言及しない、御用報道、あるいは、WHO、あるいは、御用防護なんとか談。
放射線障害は、なにも、「甲状腺がん」だけに限ってはいない、ということだ。DNAがからんでいる、全身病に関わる問題なんだ。DNAは、次世代を繋ぐ運搬船だ。セシウム137が大したことなどない、と、10年そこらの研究で、何が解るというんだ???・・・典拠が<WHO>なら、その程度だろうが・・・。

自分自身(なんとか防護談)が、実際に調査できた範囲と、
次々と大本営発表のみならず、数々のそれこそ、<現場報告>との線量に、何ゆえそんなにも開きがあるんだ???
そもそも、そこからが、大きく乖離してるのは、なぜなのか?・・・ということだ。

※それと、あまり現実離れした思い込みは、研究の障害になるゼ・・・。
>3)日本人は日頃から安定ヨウ素剤を含む昆布などの海藻類などの食品を採ってい ・・・
ないのが、現実だ。パンやファースト・フードまみれだ。
※日本の原子炉は<科学的に絶体安全>だったハズだ。
御用情報とは、その程度の科学的信頼性しか、無い、ということだ。
・・・科学が泣くゼ。
※半減期が長いセシウム137は<科学的に絶体安全>か、今度は???


『死なないから大丈夫だ』、という訳にはいかないんだよ。
当たり前に、<健康的に生を全うしたい>、というのが、
別段、ゼイタクでも何でもない、通常の希望だ。

科学のために生きてるんじゃねぇ〜んだよ、
生きるために科学を活用してるんだよ・・・。
<勘違いするな>、ということだ。


電磁推進機構研究者談・真相究明班



http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/437.html#c33

コメント [原発・フッ素16] 奥州市の下水道でのヨウ素131検出の件で病院に直接確認してみました 鳥の目と虫の目
16. 2011年9月15日 00:08:41: VficuyHNLs
山梨で6月1日に1,500Bq/kg出たのもそうなんですかね??

http://www.pref.yamanashi.jp/gesuido/odei.html
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/509.html#c16

コメント [原発・フッ素16] 福島第1原発:4号機爆発、水の放射線分解も一因か (毎日新聞)  赤かぶ
02. 2011年9月15日 00:10:44: P8URAyvZr2
4号炉、蓋開いたまま、一部制御棒落ちで再臨界(前科あり)、
大気圧沸騰+放射線のファントム放射効果で水分子イオン化・・・。
モデルさんはスマートで美しい。

けどな、4号炉建屋は屋上から爆発してたぞ!

  電磁推進機研究者談


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/490.html#c2

コメント [原発・フッ素16] 奥州市の下水道でのヨウ素131検出の件で病院に直接確認してみました 鳥の目と虫の目
17. 浅見真規 2011年9月15日 00:14:05: AiP1TYI88G3dI : gW3lZJ3Id6
>>13 (>>15の補足)
日本海北部にはロシアの原子力潜水艦基地がある。
そして、・ロシア(旧ソ連を含む)の原子力潜水艦は過去にも何度か事故を
起こしている。
よって、日本海北部で原子力潜水艦の小規模な原子炉事故が起きる事は
別に珍しい事でなく、空想・妄想ではなく現実的想定だ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/509.html#c17
コメント [原発・フッ素16] フランス原発 また 爆発か マルクール原発 (BBCニュース) 宮島鹿おやじ
45. 宮島鹿おやじ 2011年9月15日 00:14:15: NqHa.4ewCUAIk : DJdWHSVG5E
あっしらさん、恵也さん、taked4700さんをはじめとする、阿修羅の先輩の皆さんに、拙い投稿をフォローしていただけて、まことにありがたいです。

今後ともよろしくお願いいたします。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/454.html#c45

コメント [経世済民73] 米共和党幹部、オバマ大統領の増税案に反対 CBO米成長率見通しを2011年は約1.5%・2012年2.5%に下方修正 sci
04. 2011年9月15日 00:15:56: Pj82T22SRI
1か月以上前から、趨勢は、ほとんど変わっていない

>>04 欧州とアメリカに互いに伝播する“間違った考え”
2011-08-05 A Contagion of Bad Ideas
【第18回】 2011年9月15日 
ジョセフ・E・スティグリッツ [Joseph E.Stiglitz] 


 2008年のグレートリセッションは北大西洋リセッションへと姿を変えている。低成長と高失業にはまり込んでいるのは主要新興市場ではなく、主としてヨーロッパとアメリカだ。

 しかも、壮大な崩壊という終局に向かっているのはヨーロッパとアメリカだけだ。バブルの崩壊が巨額のケインズ流景気刺激策につながり、それは景気後退がはるかに深刻になるのを防ぎはしたが、かなりの財政赤字を生み出すことにもなった。それへの対応、すなわち大幅な歳出削減により、受け入れがたいほど高水準の失業(莫大な資源のムダと苦しみの過剰供給)が――場合によっては何年も――続くことが確実になっている。

 欧州連合(EU)は、財政危機にある加盟国を支援することをようやく決意した。EUに選択の余地はなかった。財政不安がギリシャやアイルランドのような小国からイタリアやスペインのような域内の大国に広がる恐れが出てきて、ユーロの存続そのものが次第に危うくなっていたからだ。ヨーロッパの指導者たちは、財政危機に陥っている国々の債務はその国の経済が成長しない限り対処できないこと、そしてその成長は支援なしでは実現できないことを認識したのである。

 だが、彼らは支援を約束すると同時に、非危機国は歳出を削減しなければならないという考えをさらに強めた。その結果取られる緊縮政策は、ヨーロッパの成長を妨げ、したがってその最も困窮しているメンバーの成長を妨げるだろう。なんといっても、貿易相手国の力強い成長ほど、ギリシャを助ける効果のあるものはないからだ。低成長は税収を悪化させ、緊縮政策が目指す財政再建という目標を損なうだろう。

 危機の前の議論は、経済のファンダメンタルズを立て直す策がほとんど取られてこなかったことを示していた。あらゆる資本主義経済に欠かせないこと――破綻した、すなわち支払い不能になった経済主体の債務の再編――に欧州中央銀行(ECB)が猛反対したことは、欧米の銀行システムが依然として脆弱であることをはっきり物語っていた。

ECBが読み違えたギリシャの債務問題

 ECBは、ギリシャの不良ソブリン債務は全額納税者が肩代わりするべきだと主張した。民間部門の関与(PSI)はいかなるかたちのものであれ「クレジットイベント(信用問題)」を引き起こし、それはクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の巨額の支払いを余儀なくさせて、金融不安をさらに悪化させる恐れがあるという懸念からだ。だが、それがECBにとって真の懸念事項であるなら――ECBが民間の貸し手の代理を務めているだけではないのなら――ECBは当然、銀行の資本増強を要求するべきだった。

 また、銀行が高リスクのCDS市場に参加するのを禁止するべきだった。CDS市場では、銀行の運命は、何をもってクレジットイベントとするかという格付け会社の判断に左右される。実際の話、先頃のブリュッセルでのサミットで、ヨーロッパの指導者たちが達成した前向きな成果は、ECBとアメリカの格付け会社の両方を制御するプロセスを開始したことだった。

 実際、ECBの立場で最も奇妙である点は、債務再編はクレジットイベントに該当すると格付け会社が判定した場合には、再編後の国債は担保として認めないと脅しをかけたことだ。再編の目的は、ひとえに債務を一部免除して残りの債務をより対処しやすくすることにあった。国債が再編前に担保として適格であったなら、再編後はより安全になっているはずであり、したがって等しく適格なはずだった。

 このエピソードは、中央銀行が政治課題を持つ政治機関であること、また独立性を保っているはずの中央銀行が自身の規制対象である銀行に支配される傾向があること(少なくともそう「認識」されること)を、あらためて思い知らせるものだ。
アメリカの収縮不安

 大西洋の向こう側でも事態は似たり寄ったりだ。アメリカでは極右勢力が連邦政府を閉鎖させると脅しをかけており、ゲーム理論が主張していることを裏づけている。つまり、自分たちの主張が通らなければ見境なく破壊に情熱を注ぐ人びとが分別のある人びとと対決したら、前者が勝つということだ。

 そのため、バラク・オバマ大統領は、増税をまったく伴わないバランスを欠いた債務削減策に不本意ながら同意した。過去20年間大儲けしてきた億万長者に対してさえ増税せず、経済効率を損ない環境悪化を助長している石油会社への税制優遇措置を廃止することさえしない策である。

 アメリカはソブリンデフォルトを防ぐために債務上限を引き上げたが、楽観論者たちは短期的なマクロ経済への影響は限定的――来年度の歳出削減額は約250億ドル――と主張している。だが、(1000億ドル以上のカネを普通のアメリカ人の懐に戻した)所得税減税は延長されなかったし、金融機関は間違いなく、将来の収縮的影響を予想して融資をさらに渋るようになるだろう。

 景気刺激策の終了自体が収縮的影響をもたらす。加えて、住宅価格が引き続き下落し、GDP成長率が低下し、失業率が依然として高止まりしている(フルタイムの仕事を望んでいるアメリカ人の6人に1人が、いまなおそうした仕事に就けないでいる)なか、必要なのは――財政再建のためにも――緊縮政策ではなく、さらなる景気刺激策である。赤字を増大させる最も重要な要因は経済成長の弱さによる税収の伸び悩みであり、したがって最善の処方はアメリカを成長軌道に戻すことだ。債務問題に関する先頃の合意は、間違った方向への動きである。

 欧米間の金融危機の伝播についてはずいぶん懸念されてきた。なんといっても、アメリカの金融不始末がヨーロッパの問題を引き起こすうえで重要な役割を演じたのであり、ヨーロッパの金融不安は――とりわけアメリカの銀行システムの脆弱さと不透明なCDS市場に銀行が引き続き参加していることを考えると――アメリカに好影響はもたらさないだろう。

 だが、真の問題は別の伝播から生じる。間違った考えは簡単に国境を越えて広まるもので、大西洋の両側の間違った経済政策は互いに補強し合ってきた。それらの政策がもたらす停滞も同様に補強し合うことになるだろう。

(翻訳・藤井清美)

I dissent:A Contagion of Bad Ideas Joseph E.Stiglitz:Project Syndicate,2011
http://www.project-syndicate.org/commentary/stiglitz141/English
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/255.html#c4

コメント [経世済民73] 枝野経産相さっそく“爆弾発言”東電株 再び暴落まっしぐら (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
03. 2011年9月15日 00:16:18: 9ySmpXugwk
ゲンダイは、東電の犬か?
ほんと最近のゲンダイの堕落は著しいな。
東電からカネでももらったのか?

破綻処理は当然だ。


東電を解体せよ!
■東電はパンツ一丁になっても賠償金を支払え
■資産6000億円売却案は大甘だ。
■子会社169社、 関連会社89社を擁し、送電設備も含めると資産14兆円とも言われる大帝国に、血税投入は必要なし
独占事業で得たカネで買った豪華な服を脱ぎ去り、パンツ一丁になってでも賠償金を支払う---。
東電が罪を贖うには、すべての財を吐き出す覚悟が必要だ。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/7669
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/266.html#c3

コメント [Ψ空耳の丘Ψ60] マシュー君のメッセージ(49) 一寸法師
02. 2011年9月15日 00:17:27: P8URAyvZr2
情報が拡散する事によって、

恐怖・驚愕の事象を阻止することが出来るなら、

「起こらないこと」は「いいこと」なのさ。

  電磁推進機研究者談


http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/142.html#c2

コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
32. 2011年9月15日 00:20:12: SKWQ96qe5U
>26さん
その土壌を運ぶ宅配のお兄さんも不憫だな。仕事中に被爆する。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c32
コメント [原発・フッ素16] 放射能汚染列島を生き抜く味噌、ビール、乳酸菌の効能 船瀬俊介マスコミのタブー100連発月刊「ザ・フナイ」9月号より kanegon
15. 2011年9月15日 00:20:18: ssV8pSUttw
↑飯山一郎教信者?

東京は頭狂であり、本当の上京とは北京に行くことである、とか言ってる自称老人。

以前、米のとぎ汁肥料が健康にも良いと主張していたが、
原発事故以降、放射能にも効くと主張し始めて、一気にHPの閲覧数を増やした。

氏は藁にもすがりたい状況だった福島県民にゴミ情報をまいた。

氏のHPの質問コーナーをみると、これまた、カルト教祖としか思えない言動。
「旦那にやめろ」と言われるのですが、という相談に対し、
「内緒でやりなさい」とか、「旦那の話には耳を傾けるな」などと回答。

これをカルトと呼ばずして何がカルトだと言えるのだろうか?
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/419.html#c15

記事 [お知らせ・管理20] 管理人様 投稿規定を読みました

200文字以上の文を入れないと駄目だったんですよね
忘れていました
申し訳ありませんでした

それで、200文字以上の文が入った新しい記事を作り直しました

規定違反のこちらの記事は削除して下さい
http://www.asyura2.com/11/senkyo119/msg/471.html


http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/303.html

記事 [原発・フッ素16] 放射性物質付着相次ぐ=内部被ばくは確認されず−福島第1 (時事通信) 
放射性物質付着相次ぐ=内部被ばくは確認されず−福島第1
http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2011091400576
2011/09/14-21:16 時事通信

 東京電力は14日午後、福島第1原発の放射能汚染水処理システムの機器交換作業を行った協力企業の作業員4人の防護マスク内に放射性物質が付着していたと発表した。内部被ばく量を調べるホールボディーカウンター(WBC)による測定の結果、内部被ばくは確認されなかった。同社は、マスクの性能劣化の可能性や装着状況などを調べる。
 東電によると、作業員らは同日午前、6人でフランス・アレバ社製の凝集沈殿装置にある攪拌(かくはん)機の交換作業を実施。作業後の汚染検査で、4人の防護マスクのフィルター内面に汚染が見つかった。6人のガンマ線の被ばく量は最大10.01ミリシーベルトで計画以下だったが、ベータ線被ばく量は最大9.5ミリシーベルトで、6人中4人が線量計の警報設定値(5ミリシーベルト)を超えていた。
 また東電は14日、同原発内のパトロールをしていた同社社員のあごに放射性物質が付着しているのが見つかったと発表した。WBCによる検査で、内部被ばくは確認されなかった。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/514.html

コメント [原発・フッ素16] 奥州市の下水道でのヨウ素131検出の件で病院に直接確認してみました 鳥の目と虫の目
18. 2011年9月15日 00:23:51: oWbillhalg
>>13

12の無理矢理寝言など相手にするなよ。笑
同じタイミングで奥州と長野で患者が出したヨウ素など起こるわけはない。夏休みは企業でまちまちで20日間あるとこもある。さらに時間差休暇はいくらもあるから夏休み期間など1ヶ月間以上もある。今は日本中が汚泥を監視している。つまり休みのせいで患者由来なら1ヶ月間以上の間、日にちも場所もまちまちで日本中北海道から沖縄まで頻繁に検出されるのである。したがって12はまったく詭弁。

出たのは奥州と長野のみ。奥州も長野も福1の完全なテリトリー。この度のヨウ素発見は確実に福島の臨界である。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/509.html#c18

コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
33. 2011年9月15日 00:25:04: SKWQ96qe5U
>01さん
こちらに通報を。福島の人々の健康状態を調査し健康相談を受けているNPOがあります。
http://www.youtube.com/watch?v=kNnZ6Lb_06s&list=PL9AB36599850D1373&index=1

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c33
記事 [原発・フッ素16] 農地、削り取りで除染=セシウム低減へ福島県で−農水省 (時事通信) 
農地、削り取りで除染=セシウム低減へ福島県で−農水省
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011091400814
2011/09/14-19:54 時事通信

 農林水産省は14日、高濃度の放射性セシウムに汚染された農地の除染について、表土を削り取る方法が最適とする試験結果をまとめた。同省は今回の結果を踏まえ、2011年度予算の予備費などを活用し、原発事故で汚染された福島県内の農地の除染を進める方針だ。
 農水省は同県飯舘村などの農地で、実証試験を実施。具体的には表土を削り取る方法に加え、水を使った土壌除染、セシウムの吸収効果が高いとされるヒマワリの栽培などの研究を進めてきた。
 最も効果的とされた表土を削り取る方法では、深さ4センチまでの土を取り除くと、土壌のセシウム濃度が75%低下。土壌の固化剤も利用すると、3センチの削り取りで濃度が82%低減した。
 また、水を使った除染では36%低下した。これに対し、ヒマワリでの除染は吸収率が低く、時間がかかり過ぎることなどから、農水省は「実用的ではない」と結論付けた。
 農水省は今回の結果から、セシウムが土壌1キロ当たり1万ベクレル以上検出された農地では、表土を削り取る方法が最適と判断。5000〜1万ベクレル未満のところでは、水による除染なども効果があるとしている。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/515.html

コメント [原発・フッ素16] 盗品フルーツ 放射能風評被害による産地偽装が増加 めっちゃホリディ
14. 2011年9月15日 00:27:48: vYaTE3dzKU
これ以上の偽装は許さん。
皆で放射NO! と叫ぼう!
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/508.html#c14
コメント [原発・フッ素16] 上杉隆による大批判!朝日読売掲載・菅直人前首相インタビュー記事が異常(1/2)(文字おこし) (ざまあみやがれい!)  赤かぶ
70. 2011年9月15日 00:28:00: FyNfTHU5rE
上杉何が言いたいんだ。

すべての原発を即刻止められなかった菅のリーダーシップが欠けていたことを問題にしているのか。
それとも、浜岡やら、玄海の再稼働を止めたり、ストレステストで次々原発停止に追い込みかねないことを問題にしているのか。

福島第一のマーク1は、GEの技術者も警鐘を鳴らした欠陥原発だし、東芝の技術者もベントを何とか東電に付けさせたが、事故など起きないから放射能フィルタ取り付けることはできなかった、と反省している。ベントまでなかったら、核燃料まで飛散する爆発事故になって首都圏まで人が住めなくなっていただろう。
NHKの報道の方が上杉のグダグダよりよっぽどマシ。

過去の責任を問われると、鳩山邦夫の元で原発を推進し、欠陥も見逃してきた自分まで追求されかねないから、政府の事故対応の拙さに責任を押しつけたい、これが、本音なのだろう。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/347.html#c70

コメント [原発・フッ素16] 放射能汚染列島を生き抜く味噌、ビール、乳酸菌の効能 船瀬俊介マスコミのタブー100連発月刊「ザ・フナイ」9月号より kanegon
16. 2011年9月15日 00:31:07: Rs3YdrTZuI
>>14&15

はい。はい。

飯山氏が唱える乳酸菌を実践して5ヶ月も経たが、肺炎の兆しすらありませんので《大きなお世話》は止めなさい。

飯山一郎は疑問にも応えてくれる筈だから電話でもしてみなさい。

出処進退を明言している当人に詰問の真似事もできない輩は在特会みたいなものじゃないのか。



http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/419.html#c16

コメント [原発・フッ素16] 奥州市の下水道でのヨウ素131検出の件で病院に直接確認してみました 鳥の目と虫の目
19. 2011年9月15日 00:32:35: oWbillhalg
18追加
>>13

13さん、12は「ああいえば上裕」で必ずああだこうだ言うよ 笑
仕舞いには、騒ぎを起こす目的で、誰かがヨウ素を汚泥近くに意図的に投入れたとでも言うかもしれんね。笑
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/509.html#c19

コメント [原発・フッ素16] セシウム放射能!―やっぱりそうだった!あのニュースの不可解さが解けた (クマのプーさん )  赤かぶ
34. ケロリン 2011年9月15日 00:32:40: 6aICm6xzPa6aE : BW6GTQviU6

追加だ・・。


ホールボディーカウンターについては・・・、

<ヒカリが遠くへ飛ぶ>ガンマー線量は計測し易い、
ということだ。ガイガーカウンターなどが主に
ガンマ−線量計なのは、そこに起因している。

<ヒカリが遠くへ飛ばない>
ベータ&アルファ線量は、対象物を粉砕・撹拌して計測する。
生きている人間を粉砕・撹拌するわけにはいかないので、
ホールボディーカウンターを使うんだが、
それでも現実的には、ベータ&アルファ線量は、計り難い。
何しろ相手は、紙1枚でも遮蔽されてしまう放射線量しか出さない。
しかしながら、細胞に付着した近距離では、ガンマ−線の、
数百倍から数千倍の破壊線を出す。

ホールボディーカウンターは現実的には、”おもちゃ”だ、
というのは、そういう意味だ。
莫大な時間と労力とコストを掛けて、
ほとんど、何の計測効果も期待できない、というのは
どこか、利権ガラミのゲンパツとそっくりな、
計測機器ということになる。

セシウムやヨウ素は、
ある意味、ベータ&アルファ線量を隠す、
仮面の役割を果たしている、ということだ。
<WHOレポート>には、染色体異常に関わる
報告など、どこにもないことから、
全てが、透けて見えてくるだろう???

洗脳されきった<猿のアタマ>では、見えてこんか?
「なんとか防護研究者談」よ・・・。

もう一回、飯館村やフクイチ正門前まで足を運んで、
今度は、放射線のスペクトラム調査をしてこい。

電磁推進機構研究者談・真相究明班


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/437.html#c34

記事 [原発・フッ素16] ヒマワリは除染効果なし 農水省が実験結果公表 (朝日新聞) 
ヒマワリは除染効果なし 農水省が実験結果公表
http://www.asahi.com/national/update/0914/TKY201109140656.html
2011年9月14日23時17分 朝日新聞

 放射性物質によって汚れた農地をどのように除染するのが効果的かを福島県内で検証してきた農林水産省は14日、これまでの結果を発表した。表土を削り取る方法が有効と確認できた一方、ヒマワリを植えて放射性セシウムを吸い上げる方法には、ほとんど効果がないことがわかった。

 農水省は5月下旬から、東京電力福島第一原発に近い飯舘村と川俣町の6カ所の田畑を使い、除染方法を実証実験してきた。

 表土を削る方法のうち、最も効果が大きかったのは、根の浅い牧草ごと約3センチはぎ取る方法。セシウムの減少率は97%と高かった。ふつうに表土を削り取る場合は深さ約4センチで75%の減少。化学物質の固化剤を使って表土を固めてから削ると82%減と、より効果が上がった。


土壌汚染の効果は?
記事「ヒマワリは除染効果なし 農水省が実験結果公表」より
http://www.asahi.com/national/gallery_e/view_photo.html?national-pg/0914/TKY201109140676.jpg
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/516.html

コメント [経世済民73] 戦慄!ゴールドマン極秘文書の中身を暴く zakzak gikou89
10. 2011年9月15日 00:34:13: 62K8nDnJes
窪塚洋介氏の勉強会[地球維新]での古歩道氏の発言に注目。
上記 04,05 と下記動画[*]の情報が符合している。

----------------------------------------------------------------------------

[地球維新] 窪塚洋介 * ベンジャミン・フルフォード

[1] 地球維新 vol.1 ベンジャミン・フルフォード No.1 (13分54秒)
  http://www.youtube.com/watch?v=aRJ02-2Vw9c&feature=related
  
  パパ・ブッシュが政権を取ってから米国の対日戦略が劇的に変化した。
  イナガワ会の本部にパパ・ブッシュの写真が飾ってある。
  政府は住専に13兆円を投入したが, 住専の不良債権の借り手はヤクザだった。

[2] 地球維新 vol.1 ベンジャミン・フルフォード No.2 (12分27秒)
  http://www.youtube.com/watch?v=VIrP1jO2pfI

  拉致と日債銀の関わり
  暗殺を回避するための バクダン・ファイル
  天皇陛下の“いとこ”からの忠告

[3] 地球維新 vol.1 ベンジャミン・フルフォード No.3 (14分41秒)
  http://www.youtube.com/watch?v=Wf4yt7zuzF4

  タケナカ氏 と シラミネ氏
  図らずも見せられた 思いもしなかった闇の世界

[4] 地球維新 vol.1 ベンジャミン・フルフォード No.4 (10分34秒)[*]
  http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=kGcmNoms_aE

  中国政府は“米ドルは阿片以下の代物だ”となじり,
  現物購入に走った。

[5] 地球維新 vol.1 ベンジャミン・フルフォード No.5 (13分14秒)
  http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=ymthk0pne4Q

  核兵器の移動経路
  [原潜クルスク]→[九州]→[日の出町]→[朝鮮総連]→[地球丸]
  日本政府の方針としては, 戦争を避け, 相手の崩壊を待つ。

[6] 地球維新 vol.1 ベンジャミン・フルフォード No.6 (9分44秒)
  http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=VVXZTWYGgeY

  原発事故は津波によるものではない。
  パニックを煽るための工作活動
  イスラエルのネタニヤフ首相

[7] 地球維新 vol.1 ベンジャミン・フルフォード No.7 (12分52秒)[*]
  http://www.youtube.com/watch?v=tJEoAcb8DJk&NR=1

  米連銀が印刷した米ドルは2008年以降, 米国外では流通させていない。
  米ドルの二重構造。
  通貨に関わる[高度な暗号]の取り合いで, 発砲事件まで発生している。

[8] 地球維新 vol.1 ベンジャミン・フルフォード No.8 (12分59秒)[*]
  http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=UcqnawdkkeA

  JPモルガンとタイタニック号の悲劇
  
  FRB(連邦準備銀行)は 公的機関などではなく 単なる私企業である事は もう周知の事。
  単なる私企業が勝手にドルを発行してきた。
  米国憲法第18条8節5項には「合衆国議会のみが通貨発行権を有する」と明記されており、
  FRBの存在そのものが憲法に違反している。
  連邦準備法によって FRBが違法にも強行し 100年間続けてきた 通貨発行権利が 来年12月 失効する。

---------------------------------------------------------------------------------

下記の 古歩道(ベンジャミン・フルフォード)氏のブログでは X氏とB氏と接触済みとの事。
上記 04,05 の情報元も この筋からでは?(違っていたら ごめんなさい)
GSのオーナーであるジェイ・ロックフェラー氏の動静も伝えられています。

----------------------------------------------------------------------------------

[モナコ公国で極秘に行われた国際金融会議の裏側] 2011.09.05 / ベンジャミン・フルフォード
 http://foomii.com/00006/201109050727055391

【モナコの金融会議】

世界の指導者階級の間の喧嘩が激しくなっている。
これに伴い、旧世界支配体制の崩壊は急速に進んでいる。

この状況が加速した 切っ掛けは、
先々週スイス政府の働きかけで 世界57ヶ国の代表がモナコ公国に非公式に集まり行われた
国際金融会議の場で起こった。
その会議に出席した3名からの証言によると、
 イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・米連銀(サバタイ派)・日本
からの代表は、その会議への出席を認められなかったのだという。
この当時総理だった菅直人やIMF専務理事:クリスティーヌ・ラガルドも参加を希望したが断られている。
また、日本に存在する多くの闇組織の親分でもある
J.ロックフェラーが警備員を連れて会場に入ろうとしたところ、
彼も力ずくで追い帰されたのだという。

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[Neil Keenan and Keith Scott について]
(全ての個人名はその方の仕事と/あるいは生命を守るために伏せてあります)
 http://benjaminfulford.typepad.com/benjaminfulford/2011/09/neil-keenan-and-keith-scott%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E5%92%8C%E8%A8%B3.html

親愛なるベンジャミン様

あなたは私のことはご存じないとおもいますが、私はAと申します。
金融(銀行)業界における多大な詐欺行為を終わらせようとする、
あなたの長い期間に渡る努力と尽力を賞賛いたします。
詐欺行為あまりにも巨大なので、近代金融(銀行)制度がそのものが詐欺だといえるほどです。

先週モナコで、X氏は会議の出席者の前で彼自身ケースについて発表をしたのです。
私はそこにいたので、いまでも高揚感が続いています。
私はどの国の大臣が出席したか、どの組織が会議に参加したかはお伝えしません。
本当に ついに、銀行や主要な仲介業者によってなされた詐欺行為が終わりに近づいていることを
具体的な証拠を見ることが出来たのです。
あなたがおっしゃる通り、57カ国の政府の代表が会議に参加していました。

現在、数百万の家族から財産の略奪に対する責任を取る日が近づいていることが見ることがでいます。
彼らは、誠実なビジネスではなく、詐欺、ごまかし、窃盗を通じて、
彼らの利益を拡大させ、銀行家の莫大なボーナスを増加したのです。
この数々の窃盗行為を目の当たりにしながら、
沈黙を強制させられてきたグローバルアカウント(*)の保護者の一人として、大変うれしくなり、
新しい日がやってくると声と上げたいのです。

 訳注:(*)International Treasury Control (IOTC) 関連のことだと思われる

当初、予定されていた会議が始まり、
ジェイ・ロックフェラー氏は会議への出席を要求しました。
彼は招待をされていませんでしたし、これは招待者のみの会議だったのです。
X氏はロックフェラー氏に会議に来ないように告げていたが、二人はここで直面したのです。
  ロックフェラー氏は地面を踏みつけ、いらつきながら、
  「私が誰か知っているのか?」と言いました。
X氏は、「知っています。あなたは誰でもありません」と、返事をしたのです。
  ロックフェラー氏は怒鳴り声をあげ、怒り狂ったあとで、
X氏は「古い世界秩序は終わり、新しい世界秩序が始まろうとしている」と話したのです。
その後、X氏はロックフェラー氏に
若い世代のための勇敢な新しい世界で、彼のようなミイラはチリとなって消え去れと告げました。
  ロックフェラーはいったんその場を離れて、
  彼のセキュリティとともに戻ってきて、無理やり会議に参加しようとしました。
X氏は彼のセキュリティを呼び、
  ロックフェラー氏は文字通り放り出されたのです。
私はそこにいて、それを見ていて、何がおきたのか分かりました。

会議は延期され、海上は船上に変更されました。
船は国際水域上に移動したところで、二つのヘリコプターが突然現れ、
明らかに会議の妨害を意図していました。
数分以内に軍用機が現れ、尾翼を数回下げました。
ヘリコプターは明らかに威嚇を受けて、その場を去りました。
私たちは軍用機がヘリコプターの背後から、攻撃的な態勢をとっているのを見て、
その場を離れないと、打ち落とすといっているのだと理解しました。

それ以上に、その会議において、合意されたことは、あなたが長い間、
言い続けてきたことが証明しているように見えます。
  ビルダーバーグ関係者、
  三百人委員会、
  ハザール人、
  CFR(外交問題評議会)など、
  BIS(国際決済銀行)、
  IMF(国際通貨基金)、
  そして、おそらく世界銀行は
時代遅れになります。
それ以上のこととして、もしも会計監査が実施されれば、
5万人以上の銀行上層部に位置するような人々が逮捕されるでしょう。
私は全世界では逮捕者数は10万人近くなると信じています。
一所懸命働く人々に騙して、彼らからお金を盗んできた嘘つき、泥棒銀行家連中が捕まると思うと
私は自分ひとりだけで喜ぶことはできません。

X氏はブルドッグのようにたくましく、この男性は特別なものを持っています。
(X氏以外に)一体だれが 銀行による また一つの横領、
つまり1,335億ドルの債券の横領が行われているだと考えられたでしょうか?
(X氏以外に)一体だれが世界に この債券をありかを突き止められるでしょうか?
彼らはこの債券は本物ではないと主張し、
イタリア政府は言いたい放題主張していますが、これらの債券はイタリア財務省に入金記帳され、
それから、アメリカの(最近公開された、未使用金の)TARP資金と呼ばれている口座の存在しています。

X氏の背後にはよく確認されているように、主要なアドバイザーとしてB氏がいます。
X氏はB氏を採用したことは賢いことです。
私が知っている限りB氏ほどこれらのグローバル口座と、これらの口座と銀行の詐欺行為の関係について理解している人いません。
B氏は今日最も興味深い人物です。B氏は Ray C. Dam とは全く別の次元の人間です。
X氏とB氏による世界をよりよくする挑戦が待っています。
彼らは実現するために必要な知識、技術とリソース(ball)を持っています。
それ以上に彼らは非常に高潔な人たちであるということです。
ハザール人たちはこの世に逃げ場所がないことがわかるでしょう。
彼らがどこに行こうとも、何をしようとも彼らは捕らえられ、追跡されます。
世界は目を覚ましています。
世界はこれらの嘘つきの泥棒どもに対して、同じひどい復讐を望むでしょう。
何よりもまず、真実が明らかにされて、この泥棒ねずみたちの隠れ場所がなくなるのです。
彼らの友人や知り合いも誰一人として、手助けしないでしょう。
ねずみのように彼らはお互いにののしりあい、大衆の激怒から逃れようとするでしょう。
あなたは彼らがどうやって、ずるをして、盗んできたかを明らかにすることを助け、
多くの人たちをびっくり仰天させるでしょう。

このことがあなたにメールをした趣旨です。
B氏に接触する方法を探してください。
この人間の持つ金融詐欺に関する知識は膨大なものです。
彼は銀行が何をしているか、そしてどうやって解決するかを知っています。
銀行は単に人々だけではなく、政府債権も盗み、多くの国家を倒産させています。
止めなければなりません。これが止められることができるということがわかりました。
もしも B氏について疑問があるのであれば、X氏に聞いてください。
私はあなたがX氏と話をしていることを存じています。

上級財務担当 V より

[注意]
悪魔連中を転覆させようと勇気をもった多数のトップレベルの内部担当者が
私(ベン・フルフォード)に接触を持っています。
X氏とB氏はその中の二人で、私(ベン・フルフォード)とすでに接触しています
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/217.html#c10

コメント [原発・フッ素16] 奥州市の下水道でのヨウ素131検出の件で病院に直接確認してみました 鳥の目と虫の目
20. 2011年9月15日 00:36:12: SKWQ96qe5U
>12
じゃ、自分で一軒一軒病院に電話しろよ。帰省している患者の数を調べてどれぐらい増えたのか統計とれよ。「病院がある」ってだけじゃ情報価値ゼロ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/509.html#c20
コメント [Ψ空耳の丘Ψ59] これからの地震、惑星直列、エレニン彗星、マヤカレンダー、ポールシフト等(ヤスの備忘録より) Orion星人
14. 2011年9月15日 00:36:44: dSXkriFX1g
>>13

確信の持てない話は 投稿しない。

★ 第二次世界大戦のシナリオ ★

ユダヤは 全宗教を支配し 御金と軍事戦争で世界を支配している。
第二次世界大戦のスタートは 29年10月のBlack Thursadyに始まる世界恐慌策。

自衛隊内部でも 何故 日本は無謀な太平洋戦争を引起したかが解ってないそうだ。
NHKニュース解説では NHKの解説番組では 日本海軍も手柄を立てたい為 米国への宣戦布告をしたと報道していました。
満州国を始め 領土拡張を行ったのは 日本陸軍。 海軍も太平洋の米国領の小さな諸島(名前を忘れました)を
手に入れ 手柄を立てたいと言う 単純な理由だったとか。

資源の少ない日本ですし ユダヤからの融資もストップ状態で始めたので
それまでは 満州国政府以外の東南アジア各国の占領地でも むしろ歓迎されている面もあったそうなのですが
無理が生じ始めて ずたずたになり始めたようです。

一般には 日華事変がキッカケで参戦。 首謀者は ユダヤ思想(最終戦争後に理想郷を作る)に
感化された石原莞爾将校(立正佼成会&フリーメイスン会員)と言われます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000230/files/1154_23278.html

米国は ユダヤによって引起された Black Thursdayの世界恐慌で
不況に喘ぐ国民を救うと称して ユダヤ人&フリーメイスン会員のルーズベルト大統領は
真珠湾攻撃を 今か今かと 待ち続けたと言われます。
ハワイを捨て駒にして 日本を叩く口実を 待ち続けていた訳です。

日米共に ユダヤに嵌められた戦争でした。
石原莞爾将校個人の描いた理想郷とは 少しずれてますが 天皇制は正しい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000230/files/1154_23278.html

ユダヤの描く理想郷とは 白人至上主義。

★第三次世界大戦のシナリオ★
石原莞爾の予想した最終戦争は 1990年頃。

87年10月のBlack Mondayで世界恐慌。
日本は 反日感情の激しい中、半島勢力を使い 再バブル化させ
反日感情を煽りに煽って バブル崩壊させ
オウム先発の日本乗っ取り計画を予定していたと判断する。

でっちあげの湾岸戦争を火種に 世界大戦へ。

そうすると、神や宇宙人は、地球再生プログラムを発動する予定だったと判断する。
ここで、ユダヤは ノアの洪水の時の様に 神々に救って貰えると勘違いしていたので
全人類が 殲滅させられる。 神や宇宙人は 新たなる人間を作る予定だったのだろう。

これが 500年ほど前に ノストラダムスが予言した世界の終わり。
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/656.html#c14

記事 [原発・フッ素16] セシウム検出:下水汚泥焼却灰、埋め立てを凍結 横浜市 (毎日新聞) 
セシウム検出:下水汚泥焼却灰、埋め立てを凍結 横浜市
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110915k0000m040085000c.html
毎日新聞 2011年9月14日 20時39分

 各地の下水処理場の汚泥や焼却灰から放射性セシウムが検出されている問題で、横浜市が横浜港にある廃棄物処分場に焼却灰を埋め立てる方針を決めたことに対して地元住民らが抗議し、横浜市の林文子市長は14日、当面の間、埋め立てを凍結することを明らかにした。林市長は会見で「市民に不安を与えたことをおわび申し上げたい」と謝罪した。

 市は今月9日、市内2カ所の下水処理場で保管している約2700トンについて、安全性が確保されたとして、15日以降に南本牧廃棄物最終処分場(同市中区)で埋め立て処分すると発表。政府は放射性セシウムが1キロ当たり8000ベクレル以下であれば処分場に埋め立て可能とする「当面の考え方」を示しており、横浜の下水処理場で保管中の焼却灰は最大で6468ベクレルだった。

 だが、地元住民らが13日に「環境汚染に加担する」と抗議文を市に提出。林市長は「もっと時間をかけてご理解いただかなくてはならない。説明不足だった」と陳謝し、関係部局に他の処分方法も検討するよう指示したことを明らかにした。【武本光政】


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/517.html

コメント [経世済民73] 法人税、5%減税後に4%強臨時増税 政府税調が方針 めっちゃホリディ
08. 2011年9月15日 00:39:31: 9ySmpXugwk
>>07
お前こそ、オツム大丈夫?
人が言ってもないことを勝手に捏造して発狂するなよw

「消費税を廃止すべき」という人が言うから、
もし廃止するならば、
むしろ、より貧乏人に厳しい“人頭税”を廃止するべきだと言ってるんだよ。
「所得税を上げるべきとか下げるべき」とかそんなことは一言も言ってない。

■貧困層をより貧しくする日本の歪んだ所得再配分
その理由は、国民年金や国民健康保険の逆進性が高いことにある。
http://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/a7a46973b48f0cf47a3a4b47e7024ac5/page/2/

国民年金や介護保険などの保険料は、一定の条件下での免除規定を除けば実質的に人頭税になっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%A0%AD%E7%A8%8E
消費税でも逆進性は問題になりましたが、国民年金保険料は、担税能力をまったく考慮しない点で、
逆進性以前の、中世の人頭税とまったく変わらない前近代的税制です。
http://www.lint.ne.jp/~kyuma-ao/h-whyfix.htm
国民年金は史上最悪の人頭税
http://www.unkar.org/read/namidame.2ch.net/eco/1223157235
国民年金保険料はサッチャー政権でさえできなかった人頭税である。

国民年金はサッチャー政権でさえできなかった人頭税である。
http://news.livedoor.com/article/detail/5000699/
NHK受信料も、担税能力をまったく考慮しない点で、人頭税に近いな。
(ただ、いまのところ強制徴収がないから、完全に人頭税とはいえないが)

◎社会保障の企業主義と保険料の逆進性こそ大問題
消費税の逆進性=所得が低い人ほど負担割合が重くなる=はよく指摘されています。
それはもちろん、問題です。消費税増税が庶民ほど直撃し、消費を冷え込ませかねない。
しかし、もっと大問題は年金、介護、医療の保険料の逆進性です。
わたくし、さとうしゅういちのことで恐縮ですが、御紹介します。
わたしは、新たな挑戦のため、民主党を離党させていただきたました。
さらに、正規公務員をこのたび退職させていただきます。
今までは、健康保険も、事業主と折半で保険料を負担してきました。
税引き前年収440万円前後で月額の医療保険料が14500円程度。そういう状態でした。
ところが、これからはそうはいきません。
国民健康保険に入るか、いままでの地方職員共済組合を任意継続するかしなければなりません。
任意継続の場合も現役時代には事業主が負担していた部分を自分が払わなければなりませんから、負担は倍増します。
一方、国民健康保険税は前年の所得で決まります。
わたしが、計算してみたところ、どちらにしても、現役時代の二倍(三万円)程度の負担になることがわかりました。
わずかに、「任意継続」のほうが月額千円ばかりお得なのでこちらを選ばせていただく予定です。
所得が激減したのに、保険料は激増する。
ギャグのような話ですが、こういうところから貧困に落ち込んでいくことがよく実感できます。
もちろん、2010年度からは、会社都合で失職した方については、
「前年の所得を30%だったという前提で計算した保険料(税)」に減免する制度がスタートしています。
しかし、自己都合退職は対象外です。
多くの企業では、実質的な解雇でも自己都合ということにさせてしまう場合が多いのではないでしょうか?
「嫌がらせがあっても、自分から辞表を書いてはいけない」というのはこういうところでもいえると思います。
(あとで争う手段はありますが、面倒なのも事実です)。
介護保険料もひどい。大金持ちと生活保護ぎりぎりの人で、3倍しか違わないのです。
年金にしても基礎年金部分は一律の保険料です。
消費税の逆進性はもちろん問題です。しかし、もっと大問題は、保険料の逆進性です。
そして企業のセーフティネットから落ちこぼれた人は悲惨なことになるという点です。
消費税をいま、増税したら大恐慌は間違いない。しかし、「消費税増税反対だけ」を言えば良いわけではない。
「逆進性反対」こそ言わねばならない。そのように思います。
いい加減、福祉の企業中心主義を日本はやめねばならない。
それを民主党政権に少なくない人は期待していたのに裏切られたのではないか、とも思うのです。
ただ、一方で、民主党へのアンチテーゼとしてウケている河村たかし前名古屋市長の『庶民革命』も眉唾ものです。
本当に庶民革命をいうなら、住民税減税より前に介護保険料や国保料軽減などを打ち出すべきでしょう。
http://www.janjanblog.com/archives/30016

●貧困層をより貧しくする日本の歪んだ所得再配分
その理由は、国民年金や国民健康保険の逆進性が高いことにある。
所得移転には、年金給付や生活保護、児童手当などプラスの移転もあれば、
社会保険料や消費税のようにマイナスの移転もあるが、日本では生活保護の補足率が低いため、
最低生活水準の年収であっても、社会保険料や税を負担しているケースが多い。
独り親世帯に限らずとも、日本における所得再配分の貧困削減効果は、欧州先進国に比べかなり低い。

こうした日本の歪んだ所得移転を是正するには、「給付付き税額控除」と呼ばれる政策が一つのヒントになるだろう。
課税所得がなく、税金控除の恩恵を受けられない人に給付を行うことで、所得再配分を強化する仕組みだ。
日本ではまだ聞き慣れない政策だが、米国や英国、カナダ、オランダなどでは、すでに導入が進んでいる。(下の図表)
日本でも、中央大学法科大学院の森信茂樹教授を中心とする研究者グループが、
子育て世帯を対象にした「給付付き児童税額控除」を提言。
財源や税収が中立であっても効果をもたらす、とのシミュレーション結果を得ている。

貧困問題に対応するには、税制にまで踏み込んだ改革も避けて通れないようだ。
http://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/a7a46973b48f0cf47a3a4b47e7024ac5/page/2/

●国保滞納差し押さえ倍増/分割納付中に 年金・子ども手当まで/生存権脅かす非道/06年度→09年度
国民健康保険(国保)の保険料(税)を払いきれず滞納した人の「財産」を、
容赦なく差し押さえる動きが全国の自治体に広がっています。
厚生労働省の調査では、2009年度に全国で実施された差し押さえの件数は18万2583世帯に上り、
06年度と比べてほぼ倍増しています。

国保の保険料の収納率は08年度に初めて9割を切りました。
09年度も88・01%に続落し、過去最低を更新しています。
保険料が年々高くなり、払いたくても払いきれない世帯が増えているのが実情です。

ところが政府は保険料引き下げの手だてを講じないばかりか、「収納率向上」の取り組み状況を毎年示し、
自治体を競わせて過酷な徴収に駆り立ててきました。
06年度以降、滞納者の財産調査、財産の差し押さえ、
差し押さえ物件のインターネット公売などを実施する自治体が急増しています。(表)【略】

こうした非道な差し押さえが全国で横行しています。

国保の保険税滞納分を月3万円ずつ返済してきたのに、振り込まれた年金を全額差し押さえられた(群馬県前橋市)。
銀行口座に振り込まれた給与、子ども手当、国からの訓練・生活支援給付金などを予告なしに100件差し押さえ、
預貯金をゼロにされた人もいた(大分県宇佐市)。
09年度に883世帯の預貯金、給与、年金など2億2581万円を差し押さえた(島根県の21市町村)―。

自治体と面談して保険料を分割納付してきた人まで差し押さえの対象にするのは、従来の対応を逸脱する異常事態です。
給与・年金の生計費相当額や子ども手当などは法律で差し押さえが禁止されています。
にもかかわらず、銀行口座に振り込まれた途端に「金融資産」とみなして差し押さえる脱法的手口まで広がっています。
生計費を奪い、生存権を侵害するやり方です。
http://news.livedoor.com/article/detail/5324529/

●国保証とりあげ7万世帯増/収納率は最悪
http://news.livedoor.com/article/detail/5321448/
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/257.html#c8

コメント [原発・フッ素16] 放射能汚染列島を生き抜く味噌、ビール、乳酸菌の効能 船瀬俊介マスコミのタブー100連発月刊「ザ・フナイ」9月号より kanegon
17. 2011年9月15日 00:39:44: 4VVndPuiIU
カルトというなら、原発安全論信者こそ害悪を垂れ流すという基準で言えば「最悪のカルト」だよな。そっちには言及なしかい?

>>12. 2011年9月14日 17:46:37: GqY2jbL1UH
>>15. 2011年9月15日 00:20:18: ssV8pSUttw

今や某ちゃんねるですら、原発安全神話・原発推進論は「トンデモ」「オカルト」「似非科学」呼ばわりされてけちょんけちょんにバカにされているご時世だというのに。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/419.html#c17

記事 [経世済民73] 復興が必要なのに投資が増えない
空洞化の進展で民間設備投資が減少し、外需も減少している
S&Pも指摘しているように復興投資は遅れ、GDPは伸び悩んでいる

野口悠紀雄が指摘するように
資源価格高騰が収まり、超円高で、内外需が縮みつつある今こそ
財政支出を増やし、世代インフラ整備の好機であることは間違いない

十分な投資が行われるのであれば、多少の増税はキャンセルされるのだが
その辺のシミュレーションが財務省できちんと行われているのかは非常に怪しい

http://diamond.jp/articles/-/14029
野口悠紀雄 [早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問]

復興が必要なのに投資が増えない

 4−6月期のGDP統計の改定が発表された。
 ほとんどすべての需要項目が対前期比でも、対前年同期比でも減少している。
 実質GDPは、対前年同期比では1.1%の減、前期比年率では0.54%の減となった。
 対前年同期比を項目別に見ると、【図表1】のとおりである。

 純輸出の22.6%減が際立っている。これは、輸出が5%減少し、輸入が3%増加したためである。
 内需項目では、公的資本形成の4%減と設備投資の1.3%減が目立っている。
 これは、今回の復興過程の特性を明確に物語っている。復興過程が始まっているのであれば、これらの項目はかなり高い増加率を示していなければならないからだ。実際、阪神淡路大震災の時にはそうしたことが生じた(【図表1】の下段参照)。
 なお、住宅と公的資本形成は、前年同期比で見るか、前期比年率で見るかで違う。住宅投資は、対前年比で見れば増加したが、前期比では減少した。公的資本形成は、対前年比で見れば減少したが、前期比では増加した。
 なぜ復興投資が増えないのであろうか。
 民間設備投資が増えないのは、日本企業が国内投資でなく、海外移転を進めていることの結果であろう。
 公共事業が増えないことについて、政治の責任は、否定しようがない。これまで補正予算は2回編成されたが、いずれも本格的な復興事業を含むものではなかった。「復旧でなく復興」と言われたのだが、復旧さえ行われていないのが実態なのである。
 3次補正が10月中に編成されることとされており、事業規模は10兆円などと言われている。しかし、財源手当てについて、いまだに方向付けさえできていないのが実情だ。
 住宅投資の遅れは、都市計画の遅れが大きな原因と考えられる。これも政治の責任である。
阪神大震災時との違い
 阪神大震災時の状況はかなり違った。
 震災にもかかわらず、日本全体の輸出は増えていた。神戸港がプサンに取って代わられたというようなことはいわれていたが、この時には、日本の全体としての生産力はほとんど影響を受けなかったのだ。そして、貿易にも影響は出なかった。
 企業設備も4%という、いまから見ればかなり高い成長率で増加していた。
 住宅投資は減少している。しかし、阪神大震災は、地域的にみて日本全体のごく一部の災害であった。この時、全国的な状況としては、バブル崩壊によって地価が下落を続け、住宅投資は減っていたのである(次ページの【図表5】を参照)。そのことの影響が大きく影響している。
 2つの震災は、もちろん、被害の地域的広がりや、原発事故の有無などの点で大きく違う。
 しかし、それだけでなく、日本経済の全般的状況がかなり変わったのである。変化の多くは日本経済の衰退を示すものであり、われわれを失望させるものだ。
 しかし、そうした方向ではないものもある。それは、対外資産である。
 【図表2】に示すように、資産残高は1995年末から2010年末の間に、約2倍になった。純資産は、3倍以上になった。日本は、この15年の間に豊かになったのだ。
 他方で、震災とは富が失われたことを意味する。だから、本来なら、それを利用してインパクトを最小化できる。それを活用しようという考えが出てこないのが問題である。

日本経済は長期的な投資支出減少を外需で補ってきた
 長期的に見るとどうだろうか? 図表3〜5は、1980年代からの実質GDPの需要項目の推移を示したものである。
 【図表3】に示す実質GDP(季節調整系列)の推移を見ると、80年代末まで 急成長、90年代半ばから停滞。2003年頃から輸出主導成長、そして経済危機で挫折、という経路をたどってきたことが分かる。その後少し回復したが停滞 した。このように、GDPの長期的な推移の中で見れば、阪神大震災のあった90年代半ばは、すでに成長期を過ぎて停滞時期に入っていたことに注意が必要 だ。
 設備投資の推移は、【図表4】に示すとおりである。80年代末までのGDP急成長は、設備投資の急激な増加に支えられていたことが分かる。
 しかし、不動産バブルの崩壊とともに設備投資は減少した。その後、傾向的な増加を示すことはなく、一定の範囲内での増減を繰り返すパタンになった。
 しかし、阪神後には、長期的な増加トレンドには至らなかったものの、設備投資が増えていることに注意が必要である。96年最初に落ち込んだことを除くと、98年半ばまで設備投資は増え続けたのである。
 住宅投資と公共投資の推移は、【図表6】のとおりだ。

次のページ>>いまは社会資本整備を進める好機
 住宅については、80年代後半から90年代前半に不動産バブルによって高水準になったが、バブル崩壊後は、長期的な下落が続いている。そして、経済危機後に減少が加速し、その傾向が反転していないわけだ。
 公的資本形成は、80年代後半から90年代前半にかけてはかなり高水準になった。しかし、90年代後半からかなり顕著な下落を示した。震災後に一時的な増加があったものの、水準は低いままだ。
 日本経済は、以上で見たような投資支出の減少に対して円安政策をとって輸出を増やしてきた。だから、外需はいまでも高水準なのだ。ただし、輸入も増えている(ここで見ているのは実質値なので、原油価格高騰の影響は反映されていないことに注意が必要だ)。
いまは社会資本整備を進める好機
 以上で見たように、90年代以降の衰退過程とは国内投資の減少によるのである。しばしば人口高齢化による消費の減少が経済停滞の原因だと言われる のだが、図はほぼGDPに比例している。2011年4−6月期を1980年1−3月期と比べると、GDPは1.896倍、民間最終消費は1.829倍で あって、ほとんど差がない)。
 住宅投資が減るのは人口減少から止むをえないが、公的資本形成がこのように減るのは問題だ。これは、政策的に増やせるものである。日本の都市にお ける生活基盤投資は貧弱なので、これを増やす必要性はいままでも高かった。小泉内閣が公共事業を圧縮した。その方向付けは、民主党内閣の「コンクリートか ら人へ」に受け継がれている。しかし、そうした方向は間違いと考えざるをえない。
 大震災からの復興過程は、社会資本投資を増やせる機会である。上に述べたように、日本の対外資産は巨額なので、それを財源とすればよいのだ。


日本は生まれ変われるか?『大震災後の日本経済』野口悠紀雄著、5月13日発売、1575円(税込)
大震災によって、日本経済を束縛する条件は「需要不足」から「供給制約」へと180度変わっ た。この石油ショック以来の変化にどう対処すべきか。復興財源は増税でまかなうのが最も公平、円高を阻止すれば復興投資の妨げになる、電力抑制は統制でな く価格メカニズムの活用で…など、新しい日本をつくる処方箋を明快に示す。
「第1章 復興にかかる厳しい供給制約」の全文を掲載した連載はこちら→【野口悠紀雄 大震災後の日本経済】

http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/268.html

コメント [原発・フッ素16] 原発コスト、火力より割安=賠償費用抜きで試算−エネ研(時事):噴飯ものの経済理論と原発マフィア 会員番号4153番
10. 2011年9月15日 00:43:39: C1BeJj7gYE
この研究所も含めて、原発関連の何十もある天下り団体(何をやっとるかわからん組織)へどれだけ金が流れていることだろうか。
当然、試算には含まれないだろう。

原発は発電コストが低いと言っているのだろうが、法律により、
初期の建設コストが非常に高いため、電気料金を高く設定できる仕組みであり、
東電がぼろもうけしていることを間接的に言っている。馬鹿では。。。

あと、使用済みの放射性物質の最終処分方法・処分費も判らず、どんどん貯めて、維持費だけでもとんでもない金を使っているんじゃないのか。

何の試算しているのかわけがわからん。

都合のいい数字だけをつかうな。

最後に、ふるさとや命を奪われることは、金では到底解決できない。
この期に及んで金のことしか頭にない税金無駄使いの馬鹿組織の出る幕ではない。

メディアはちゃんと批判しろ!

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/503.html#c10

コメント [原発・フッ素16] 盗品フルーツ 放射能風評被害による産地偽装が増加 めっちゃホリディ
15. 2011年9月15日 00:44:32: oWbillhalg
>>09

>産地偽装を罪にしてほしい。

罪に決まってるじゃん 笑。 偽って金を取るのだから正真正銘の詐欺罪だ。

産地偽装摘発の所管省庁はどこかな? 農水省かな、消費者庁かな? 

そこに国民が厳重監視し摘発しろとみなで圧力かけよう!
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/508.html#c15

コメント [経世済民73] ギリシャデフォルト市場は確率98%を織込 PIMCO欧州で本格的な銀行危機近い−即時の行動を  GSなどは強気 sci
03. 2011年9月15日 00:46:25: Pj82T22SRI
>>03ドイツに期待しても無駄だと思うが。。

 ユーロ圏を救う唯一の道 ドイツが運命を決する選択をする時が来た

2011.09.15(木)(2011年9月13日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
「祝!定年生活」、通行人に1ユーロ配る ドイツ

ユーロには当初から設計に欠陥があった〔AFPBB News〕

「もしかしたら未来の歴史家たちはマーストリヒト条約を、欧州全域にまたがる安定した勢力圏の誕生に向かう決定的な一歩だったと考えるかもしれない。だがそれとは違う、もっと暗い展開になる可能性もある」

 「複数の国家を束ねようとする試みは、狙いに反して各国間の摩擦の激化をもたらす可能性がある。だとすれば、その出来事は典型的な悲劇の定義を満たすだろう。すなわち、ヒューブリス(傲慢)、アテ(愚行)、ネメシス(破滅)だ」

 筆者がフィナンシャル・タイムズ紙にこう書いたのは、20年近く前のことだ。今、恐れていた事態がまさに実現しつつある。

 今回の危機は、ユーロ圏の設計には(当時の聡明なアナリストたちの大半が気づいていたように)最初から欠陥があったことを白日の下にさらした。

 それだけではない。今では不都合なものになってしまった婚姻関係にある国々には、アイデンティティーを共有しているという感覚どころか、互いに信頼し合う気持ちもないことも、この危機は明らかにした。そして、そうする過程で、この傾向をますます悪化させていった。
「30年も痛みに耐えるくらいなら離脱した方がまし」

 この結婚がいかに破綻しているかを筆者が思い知ったのは、ある1つの出来事に接した時だった。

 といっても、その出来事とはドイツ出身のユルゲン・シュタルク欧州中央銀行(ECB)専務理事による辞意表明でもなければ、ギリシャのデフォルト(債務不履行)の可能性が高まっていることでもなく、ドイツの憲法裁判所が新たな制約を課してきたことでもない。事態を痛切に思い知ることになったのは、ローマ訪問の経験だった。

 筆者はイタリアのある政策当局者から次のような話を聞かされた。「我々は、金利水準の低下と引き換えに、インフレと通貨切り下げという昔ながらの安全弁を放棄した。ところが今や、その低金利さえなくなってしまった」「我々がカレンシーボードに加わったと考えている向きも一部にいるようだが、イタリアはラトビアとは違う」

 極めつけはこれだ。「30年も痛みに耐えるくらいなら、離脱する方がましだ」

 これらはすべて、単一通貨というプロジェクトとそのパートナー諸国の両方に対する信頼が失われたことを物語る発言にほかならない。

退任間近のジャン・クロード・トリシェECB総裁は先日の記者会見で、ECBがインフレ抑制でドイツ連銀をはるかに上回る輝かしい成績を上げてきたと指摘した。しかし、その低インフレはユーロ圏内で深刻な不均衡が生じていること、そしてそれを解決する手段――あるいはその意思――がないことを覆い隠していた。

 その結果、大国の政府によるデフォルト(債務不履行)、ユーロ圏の解体、あるいはその両方があり得ない話ではなくなってしまっている。その結果生じる安全地帯への逃避(本来統合されているはずの通貨圏内で外国への投資をヘッジするという試みも行われるに違いない)は、メルトダウンの兆候を示している。
致命的な相互作用

 我々は今、国家が支払い不能状態に陥るかもしれないという恐怖感、国債の流動性の低下、そして金融市場のストレスという3要素の致命的な相互作用を目の当たりにしているのだ。

 当初の設計通り、ユーロ圏には絶対に必要な機関と制度がいくつか欠けていた。そのうち最も重要なのは、重要な市場のすべてで最後の貸し手として行動する能力と意志を持った中央銀行、ソブリン債市場の流動性を保証するのに十分な大きさがある救済基金、そして国家の支払い不能状態と銀行危機が絡み合った状況を効果的に管理する手段という3つの機関・制度である。
独BMW、風力発電で生産ライン稼動へ 13年末めど

ドイツの工業製品は素晴らしいが・・・〔AFPBB News〕

 強力な機関や制度がないために、最大の中核国の態度と政策が非常に重要になった。

 誰しもそうだろうが、筆者もドイツの第2次大戦後および東西再統一後の政治・経済の復興には称賛を惜しまないし、経済を安定させようという取り組みや輸出される第一級の工業製品も素晴らしいと思っている。

 残念ながら、それだけでは不十分だ。ドイツの政策当局者たちは、比較的小規模で、開放的かつ競争力の高い経済のレンズを通して世界を眺めることに固執している。しかし、ユーロ圏は小規模で開放的な経済ではなく、大規模で比較的閉じられた経済だ。

 そのような通貨同盟の中核国は、域内にある信用力の劣る国々が赤字を埋められなくなったら自国の活気ある市場を提供しなければならないし、それができないなら資金を貸し出す必要がある。もしその資金を民間部門が提供しようとしないのであれば、公的部門がその役目を果たさねばならない。

 もし公的部門がその場面で行動しなければ、民間部門と公的部門のあちこちでデフォルトが発生するだろう。そうなれば、最大の中核国自身の金融セクターや輸出にもダメージが及ぶことは確実だ。

 こうした事実をドイツの指導者たちが国民に説明しなければ、足元の危機を解決することはできない。だが当の指導者たちは、全員が同時に資金の貸し手になれるという空想にふけっている。

 ラトビアやアイルランドのような小規模な開放経済なら、デフレを通じて競争力や経済成長を回復させるというやり方が成功する可能性もある。だがイタリアのような大きな国では、そのようなやり方は痛みが強すぎて当てにならない。

 ドイツのヴォルフガング・ショイブレ財務相はその種の緊縮措置を要求するかもしれないが、実現しないだろう。

 今やらねばならないのは、燃えさかる火の手を消すことである。これを消して初めて、ユーロ圏の耐火性能を高める試みを始められるようになる。
ECBによる無制限の流動性供給で火を消せ
欧州4か国で株の空売り禁止へ

政治家は今、ECBを支持しなければならない〔AFPBB News〕

 その際の最も悪くない選択肢は、支払い能力のある政府と金融機関に流動性を無制限に供給するとECBが約束することだろう。

 実際、ユーロ圏では広義のマネーサプライの伸び率が前年比2%という低水準にとどまっており、国債の買い入れと金融市場の安定継続は両立するという主張は、高度な知性を要する難しい話ではないはずだ。

 確かに、政治的には難しい話である。マリオ・ドラギ次期ECB総裁にとっては特にそうだろう。

 しかし、これまでよりも大きな国の救済を求められた場合、現在の欧州金融安定機関(EFSF)の規模では不十分であることを考えれば、ECBは流動性の無制限供給を約束しなければならない。そして、そうした行動を、政治家はひるむことなく支持しなければならない。

ドイツ政府がそんな大胆な施策は支持できないという判断を下したら、一体何が起こるだろうか。

 その場合でも、ECBは事態が次々に悪化していくのを放置せず、とにかく前に進むべきだ。そうすれば、ドイツがユーロ圏を離れるかどうかはドイツ次第となる。離脱する場合は恐らく、オーストリアやオランダ、フィンランドも行動をともにするだろう。
ドイツがユーロから離脱すれば・・・

 その際にドイツの国民は、ユーロ圏を離れれば、ドイツの為替レートは急騰し、ドイツの輸出産業の利益は激減し、大変な金融ショックと国内総生産(GDP)の急減に見舞われるということを承知しておくべきである。さらに言うなら、ドイツを軸として強固な欧州の枠組みを構築しようという2世代にわたる努力も失敗に終わることになる。

 ドイツは、公的な財政支援の拡大に対して、拘束力のある拒否権を持っている。しかし、中央銀行に対する支配力は失いつつある。

 欧州と世界全体に大変な脅威をもたらす危機に直面している以上、ここは必要な規模の対策を講じられる欧州唯一の機関が、思い切って行動すべきである。そのような行動を取らないために生じるコストは、恐ろしく大きなものになると見て間違いないからだ。

 確かに、行動を起こせば政治的な危機が生じるだろうが、行動を試みないために生じる金融危機に比べればましだろう。

 つまりドイツは、かつて思い描いていた大きなドイツとは似ても似つかぬユーロ圏か、ユーロ圏など存在しない世界か、どちらかを選ばなければならない。そのような選択を強いられる状況に追い込まれたことを、ドイツの指導者たちや国民はとても苦々しく思っているに違いない。

 しかし、ドイツが直面しているのは、まさにその選択肢なのだ。アンゲラ・メルケル首相は勇気を持って、明快にかつ堂々と、その決断を下さなければならない。
By Martin Wolf
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/254.html#c3

記事 [原発・フッ素16] 保安院:3月12日にベント失敗時大量の放射線放出を予測していた・・・〔問題はそれを発表しなかったこと〕 ぼちぼちいこか。
保安院:3月12日にベント失敗時大量の放射線放出を予測していた・・・【問題はそれを発表しなかったこと】
http://bochibochi-ikoka.doorblog.jp/archives/3033808.html
2011年09月14日23:46  ぼちぼちいこか。。。

「ベント不成功なら致死量の被曝」保安院、震災翌日想定
朝日新聞社 2011年9月13日17時30分
 東京電力福島第一原発1号機の格納容器の圧力を下げることができなかった場合に発生が想定される事象として、原子力安全・保安院が、敷地境界での被曝(ひばく)線量が「数シーベルト以上」に達すると見込んでいたことが、情報公開法に基づき開示された同院の内部文書で分かった。7シーベルトが全身被曝の致死量と言われており、敷地内では人が生きていられない状況になる可能性が政府部内で検討されていたことになる。

 この文書は「1号機において耐圧ベントができない場合に想定される事象について(案)」と題され、保安院が3月12日午後1時ごろに作成した。
 当時、1号機の格納容器の内部の圧力は750キロパスカルで、設計上の使用圧力を大きく超えていた。格納容器の破裂を防ぐため、東電は午前中から、内部のガスを外部に放出する「ベント」と呼ばれる作業を始めたが、弁を開けるのに手間取っていた。
 保安院の文書は「ベントができない状態が継続する場合、約10時間後(午後11時)に大量の放射性物質が放出される」「気象条件によっては、発電所から3〜5キロの範囲において著しい公衆被ばくのおそれがある」としている。
http://www.asahi.com/national/update/0913/TKY201109130265.html

ベント失敗なら、敷地境界で致死量近くとの試算
読売新聞 9月14日(水)10時40分配信
 経済産業省原子力安全・保安院は13日、東京電力福島第一原子力発電所の事故翌日の3月12日午後1時ごろに、格納容器の圧力を下げることができなかった場合、格納容器が破損して、敷地境界の被曝(ひばく)線量が、「数シーベルト以上に達する」と試算していたことを明らかにした。
 試算が記されたのは「1号機において耐圧ベントができない場合に想定される事象について」と題された文書。当時、1号機格納容器の内部圧力が高まり、東電は、圧力を下げるため蒸気を逃がす「ベント」を同日午前10時ごろ始めていた。しかし、成功したかの確認に手間取っていた。
 文書には「格納容器圧力が設計圧力の3倍になった場合、10時間後(12日午後11時)に大量の放射性物質が放出される」「気象条件によっては発電所から3〜5キロの範囲で著しい公衆被ばくのおそれがある」との想定を盛り込み、対応策として、消防車による注水などを掲げていた。
 ※1シーベルトは1000ミリ・シーベルト。7〜10シーベルトを浴びるとその場にいる全員が死亡するとされている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110914-00000242-yom-sci

また今頃になって、こんなことを言っています。
今現在現実として、福島第一原発には、10Svの放射線が出ている地点が2箇所、5Svが1箇所、3Svの箇所もあります。
東電は、先日ようやく原子炉建屋内の線量計測を始める旨、発表しました。それまでは、必要がないということで計測してきませんでした。

【参考記事】
9月9日10日 東電会見:保安院に事故全体の報告書を提出、原子炉建屋の線量検査実施へ、九電:川内原発の火災・・・。
http://bochibochi-ikoka.doorblog.jp/archives/3027269.html

ベントに関しては、当時現地に居た人数、連絡・指示の混乱など、様々な要因があって、結果こうなってしまったのかどうなにか、今はまだわかりません。
ただ「そういうことが考えられる」ということを公表しなかった姿勢が一番問題があると思います。

もう被曝は起きてしまい、今現在も進行中なんですから、国民を守る方法を考えていかないといけませんね。


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/518.html

コメント [マスコミ・電通批評12] リニア中央新幹線、排ガスをゼロに JR東海が新技術(朝日) 排ガスを出す新幹線の方がおかしい。新技術という方がおかしい スカイキャット
02. 2011年9月15日 00:48:01: fgKdYi5Js6
そんなに無知をひけらかさないでもいいと思うな^^;
記事一覧で
強制的に何か恥ずかしい物を見せられてる気分です
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/328.html#c2
コメント [経世済民73] 高額報酬の9億円、ムダな宣伝費269億円、料金踏み倒し補填21億円まで原価に計上(「日々担々」資料ブログ) メジナ
04. 2011年9月15日 00:48:02: ezqPTG9DzU
長年自民党政府に守られてきた独占企業は大抵こういう状態になる
日本中ありとあらゆる独占業界は似たようなもの
これでまた自民党に政権が戻れば元に戻る
それは日本が破たんするまで続く
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/216.html#c4
コメント [カルト8] Re: 副島隆彦重掲より今頃になって、NHKまで使って、アポロ月面着陸はあったのニューズを流したそうです ペリマリ
08. 2011年9月15日 00:49:34: 1qmOy4Hy0U
>>07 当方>>03>>04>>06

情報サンクス。すごく参考になりました。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/534.html#c8

コメント [戦争b8] 露爆撃機、日本1周 「前代未聞」露骨な挑発 めっちゃホリディ
14. 2011年9月15日 00:49:47: P8URAyvZr2
ボーイングB‐17と三菱一式陸攻を比べて下さい。
どちらもソヴィエト・日本・アメリカ交戦前の設計です。
シコルスキーはイムリヤメツの設計者で、アメリカ在住のソヴィエトからの亡命者。
ハインケルの初期の飛行機とスーパーマリン・スピットファイアーの主翼。
ハインケルHe‐111とB−29の機首、これは交戦後の設計、ハインケルはナチに批判的。
P‐51・マスタングの設計者シュミード、ドイツより亡命、B‐29の主翼は多分彼。
主翼が似ているのは「影響を与え合っている」なら「主翼の設計は簡単であろう」。

  電磁推進機研究者談

PS.今のSSJとMRJてのも在る。

PS2.>>13氏、オジン軍と阿呆軍。

http://www.asyura2.com/11/warb8/msg/159.html#c14

コメント [経世済民73] ギリシャデフォルト市場は確率98%を織込 PIMCO欧州で本格的な銀行危機近い−即時の行動を  GSなどは強気 sci
04. 2011年9月15日 00:50:10: Pj82T22SRI

>>04 テフロン加工のユーロに襲い掛かる投資家

2011.09.15(木) (2011年9月14日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
欧米6中央銀行、0.5%の協調利下げ

9月初め以降、ユーロは対ドルで6%下落した〔AFPBB News〕

随分時間がかかったが、単一通貨ユーロはついに、金融不安の夏の間ずっと安定していたレンジの下限を割り込んだ。

 ストラテジストらは、欧州中央銀行(ECB)が金融政策の手綱を緩めるため、ユーロは今後、一段安に見舞われる可能性が高いと見ている。

 ユーロは今年1月から4月にかけて対ドルで大幅に上昇した後、5月以降は1ユーロ=1.40〜1.45ドルのレンジで推移してきた。だが、9月初め以降は相場が急落。対ドルで6%下げ、1ユーロ=1.3499ドルという7カ月ぶりの安値をつけた。
主要通貨に対して急落するユーロ

 対円でも6%下げて1ユーロ=103円86銭という10年ぶりの安値を記録する一方、対ポンドでは4%近く下落し、1ユーロ=0.8529ポンドという半年ぶりの安値をつけた。FXプロのチーフエコノミスト、サイモン・スミス氏は「この1年間、ユーロをしっかり守ってきた『テフロン加工』が急速に剥げ落ちてきたようだ」と言う。

 最近のユーロ安の背景には、いくつかの要因がある。特に大きいのは、ギリシャのデフォルト(債務不履行)の可能性と通貨同盟であるユーロ圏の解体に対する懸念だ。

 数日前までは、次第にエスカレートする欧州のソブリン債務危機に対するユーロの強さが際立ち、投資家の不安をはっきり示すイタリア、スペインの国債利回り急騰も、ユーロを大幅に下落させることはなかった。

 一部のアナリストは、転換点となったのは、ECBが先週、金利に対するタカ派のスタンスを放棄したことだと見ている。

 他の主要国の中央銀行とは対照的に、ECBは今年、ユーロ圏内の物価安定を維持し、インフレを抑制するために4月と7月の2度にわたって金利を引き上げた。

 米国と日本の超低金利が続くと見られる限り、ECBの利上げ観測はユーロを支える要因となっていた。

 だが、9月8日にECBのジャン・クロード・トリシェ総裁がユーロ圏経済の下振れリスクが高まったと発言すると、流れが変わった。総裁はユーロ圏の物価上昇率は2012年に2%を下回るだろうと述べた。

 ECBによるイタリア国債、スペイン国債の買い入れ策に反対していたドイツ出身のECB専務理事、ユルゲン・シュタルク氏の突然の辞任も投資家を動揺させた。
利下げ観測でユーロ安に賭ける投資家

 ディーラーたちは既にユーロ安に賭けていた。一般にヘッジファンドの活動の代理指標とされるシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)のポジション統計によると、投資家は9月6日までの1週間で、ユーロの売りポジションを1月以降最大となる64億ドルまで積み上げた。

 7億ドル規模の通貨ファンドを運用するメルク・インベストメンツ最高経営責任者(CEO)のアクセル・メルク氏は、8日遅くにユーロを売り、ユーロに対する投資配分をアンダーウェイトに切り替えたと言う。

 同氏の見るところ、トリシェ総裁の後任となるマリオ・ドラギ氏が就任早々に利下げを始めなくても済むよう、ECBの利下げは早ければ来月にも実施される可能性があるという。

 UBSの外為戦略部長マンスール・モヒウディン氏は、タカ派のシュタルク氏の辞任で、ECBの金融政策の運営を巡る不確実性がさらに高まると指摘する。

ユーロに重くのしかかるギリシャ懸念

 モヒウディン氏は、トリシェ総裁は今、ジレンマに直面していると言う。悪化するユーロ圏の経済統計が利下げを正当化するようであれば、総裁は来月利下げに踏み切るのか。それとも、シュタルク氏の辞任後、ECBはインフレをあまり気にしなくなったと投資家に思われるのを恐れて利下げを待つのか――。

 一方で、ユーロに最も重くのしかかっているのは、ギリシャ懸念であり、同国がユーロ圏から離脱する可能性だと考える向きもある。

 バンク・オブ・ニューヨーク・メロンの為替調査部門の責任者、サイモン・デリック氏は「ECBはユーロの情勢を多少変化させたかもしれないが、常に圧力の源となってきたのはギリシャに関する不安であり、それが今ではトレーディングの最重要テーマになろうとしている」と言う。

 もう1つの懸念は、ECBは危機の伝染を防ぐために、何らかの量的緩和策を通じて紙幣を増刷せざるを得なくなる、というものだ。
景気減速でECBも量的緩和?

 「量的緩和に至るのはまだ先のことだと思うが、ECBはいつか、選択肢がほとんどなくなるかもしれない」。ストラテジック・アルファのCEO、モーリス・ポメリー氏はこう話す。「ユーロはまだ相当下げるだろうし、市場ではもうすぐ1ユーロ=1.30ドルの節目を試す攻撃が見られると思う」

 ただし、米連邦準備理事会(FRB)が追加の量的緩和に踏み切り、その結果、ドルが急落した場合は話は別だとポメリー氏。「我々は今、底辺を目指す競争を繰り広げている」と同氏は話している。
By Peter Garnham

http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/254.html#c4

コメント [原発・フッ素16] 原発コスト、火力より割安=賠償費用抜きで試算−エネ研(時事):噴飯ものの経済理論と原発マフィア 会員番号4153番
11. 2011年9月15日 00:51:38: C1BeJj7gYE
原発は、非常に非効率なエネルギーで、発熱エネルギーの7割くらいは、
海に垂れ流して海水を温めているんだったかな。
温められた海水により、結局はCO2が増えているんじゃないのか?

しょっちゅう事故が起こっているし、放射能ばらまくし、

原発って何かいいことあるのかな?
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/503.html#c11

コメント [原発・フッ素16] 長編動画 国際専門家会議:放射線と健康リスク 世界の英知を結集して福島を考える SaveChild厨
05. 2011年9月15日 00:51:56: oWbillhalg
>>04

そういうことです。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/496.html#c5

コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
34. 2011年9月15日 00:52:27: ORhQSsK3dk
那須に住んでいる友人が
農家の人は農協を通して検査で引っかかると
全て出荷出来なくなるので
直接買い取りで農家を回っている業者に出していると言っていました
でも食べて応援で福島の野菜を買う人
安ければそれでいいと産地は気にせず買う人
が沢山いるわけで
自分の選択だから別にいいのでは


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c34

コメント [経世済民73] YouTubeが韓国アクセスを遮断…ツールを使い、国家ぐるみでK-POP人気を捏造したため : デジログ! 不動明
01. 2011年9月15日 00:52:35: ipPtBFeYPs
韓流・K-POP がマネーロンダリング ビジネスだという記事を見たのですが
本当でしょうか?

ご存知の方は、教えて下さい。

http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/239.html#c1

コメント [原発・フッ素16] 奥州市の下水道でのヨウ素131検出の件で病院に直接確認してみました 鳥の目と虫の目
21. 2011年9月15日 00:55:22: enDMyZTef6
2300ベクレル/kgか。「微量」だな。
で、燃やしたの?埋めたの?

国の埋立基準濃度(8,000ベクレル/kg)以下なら、コンクリで固めたりせずに、バンバン埋めてますよ。
埋立ては、内陸だけでなく、いよいよ海洋投棄も始まる。
法的には「埋立て処分」なので違法ではありません。
でも、実質は海洋投棄ですな、どう考えても。
ま、コンクリで固めても漏れますけど。

【横浜市】全国初、放射性廃棄物を海面投棄する「南本牧処分場」への下水汚泥焼却灰処分
http://savechild.net/archives/8680.html

もう終わりです。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/509.html#c21

コメント [原発・フッ素16] 昨日の菅前首相のテレビインタビューは、けっこう衝撃的だったと思うのだが。もっとゴールデンタイムとかでも放送しろ。 最大多数の最大幸福
35. 2011年9月15日 01:01:28: WzStp76KDs
>34

東電値上げは、
自民党が飲まないと法案を通さんぞって脅して加えさせた文言が元になっとるがな
民主案では元々はなかったんやで

天下りを潰そうとしても、その法律を何ら審議せず、政治と金だの解散解散とだけ
叫んで復興まで邪魔してるのは自民公明やんけ
で何すんのと言えば何も無いのが奴ら
結局は復興で自分らの建設族や電気族が丸々と太ろうと言う魂胆が見え見えやん

しかし、マスコミの質の悪さは日本の汚点といえる状況やな
出鱈目、虚偽、全部が全部そうやん、新人の言葉の意味も解らん連中が
端々だけ取って批判すれば受けるって考えやからたちが悪い
最初の頃、管氏が東電に怒鳴り込んだんで対応がむちゃくちゃになったと、どの放送もいうとった
事実は原発から撤退なんて言って来たんで、社長だけでは埒が明かんので乗り込んで叱責したんやん
マスコミの報道が虚偽やたんやから、マスコミは少なくとも眉唾で聞いてたほうが無難やなと、この頃オモトル

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/443.html#c35

記事 [原発・フッ素16] 福島原発事故の「被害」とは何だったのか 賠償や除染の前に被曝限度の再検討が必要だ
今では少数派になってしまって、
ネットで叩かれながらも、まだ頑張っている 池田 信夫
元々は東電の敵の、解体主義者だが、
今では多くの識者が裏切ったため、数少ない原発の味方か 
また、これで大分、攻撃されることになるだろう

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/22360
福島原発事故の「被害」とは何だったのか 賠償や除染の前に被曝限度の再検討が必要だ

2011.09.15(木)
池田 信夫 

東日本大震災から、半年がたった。死者・行方不明は約2万人という大災害だが、そのほとんどは津波による犠牲者である。福島第一原発では、放射線で死んだ人も致死量の放射線を浴びた人もいない。

 福島県は9月12日、原発の周辺に住んでいた住民の内部被曝についての検査結果を発表した。それによれば、8月末までに検査した3373人のうち、被曝線量が最も高かったのは浪江町の子供2人で、いずれも70歳までの生涯被曝量で2ミリシーベルト台。ほとんどは生涯1ミリシーベルト未満で、ICRP(国際放射線防護委員会)の定める年間20ミリシーベルトをはるかに下回る。

 4月に現地調査を行った高田純氏(札幌医科大学教授)によれば、原発の周辺でも被曝量は3日間で0.1ミリシーベルトで、年間に換算しても12ミリシーベルトだ。農産物などの残留放射能も5000ベクレル/キログラム程度で、これはシーベルトに換算するとキログラムあたり0.1ミリシーベルト程度だ。世界の被曝地を現地調査した経験から、高田氏は「被災者は今すぐ帰宅してもよい」という。

 したがって半年近く避難した人々への補償は必要だが、農産物などの風評被害をどこまで賠償するかは慎重に考えるべきだ。

 東海村のJCO事故の時は、風評被害を無条件に認めたため、150人が退避しただけなのに賠償額は150億円に上った。今回、それと同じ基準で賠償すると10兆円を超える。福島県の農産物の年間出荷額2500億円に対して、あまりにも大きい。
微量放射線の影響には科学的根拠がない

 さらに問題なのは、ICRPの決めた被曝限度に科学的根拠がないことだ。広島・長崎などの被爆者の調査では、累積で100ミリシーベルト以下の放射線で発癌率が増えたというデータはない。ICRPの基準については、多くの科学者が批判している。

 特に問題なのは、どんなに微量の放射線でも発癌率を高めるというLNT仮説(線形閾値なし仮説)である。

 これは1958年に、医学界の反対を押し切って決められたものだ。学問的には、LNTは仮説というほどのものではなく、100ミリシーベルト以下では発癌率が高まったというデータがないため、線形(比例配分)で外挿しただけだ。

 100ミリシーベルト以下では、他の要因の影響の方がはるかに強いため、放射線の影響は問題にならない。例えば喫煙によって癌で死亡するリスクは16倍ぐらいに上昇する。これは放射線に直すと2000ミリシーベルトの被曝に相当する。飲酒や肥満などの生活習慣によっても発癌リスクは上がるので、微量放射線の影響は問題にならない――と中川恵一氏(東大医学部准教授)は指摘している。

 ICRPの基準では、緊急時には20ミリシーベルト、平時には1ミリシーベルトという被曝限度を決めているが、1ミリを基準にすると、世界の平均線量は年間2.4ミリシーベルトなので、世界中が危険地帯という奇妙なことになる。

 微量放射線が健康に影響を及ぼさないのは、人体に微細な遺伝子の傷を補修する機能があるからだ。生物は38億年の進化の中で、そういう防衛能力を身につけており、わずかな放射線を浴びたぐらいで死ぬような個体は今まで生き残っていないだろう。

 例えば耳のすぐ横で爆竹を爆発させたら難聴になるが、100メートル先で爆竹が鳴っても鼓膜は傷つかない。このように外部からの刺激による傷には一定の閾(しきい)値がある。放射線のようなありふれた刺激に閾値がないということは考えにくい。
過剰な放射能騒動は被災地の復興を阻害する

 安全のコストがゼロなら基準は厳しいに越したことはないが、安全はタダではない。過剰な安全基準によって原子力施設のコストは数百倍になり、立地は極めて困難になっている。

 原発のみならず、放射性廃棄物の再処理施設や貯蔵施設にも厳重な防護設備が必要だ。例えば貯蔵施設の安全基準は、施設の中に住み続けたら発癌率が1%ほど上がる程度の非常に厳格なものだ。

 安全基準を別にして考えれば、原子力は重量あたり石炭の1万倍以上のエネルギーを出すことができ、備蓄が容易で、エネルギー安全保障にも有利だ。

 それを捨てることは、日本経済にとって大きな損失になる。中国は安全で効率的な第3世代原子炉を60基発注し、発電量で日本を追い越そうとしている。

 問題は建設費だけではない。ICRPは「LNT仮説は放射線管理の目的のためにのみ用いるべきであり、すでに起こったわずかな線量の被曝についてのリスクを評価するために用いるのは適切ではない」と書いているのに、事故後の補償や除染にもLNTを適用すると、莫大なコストが発生する。

 例えば年間1ミリシーベルト以上の表土はすべて除去するという基準を適用すると、ほとんどの学校の砂場の砂を除去しなければならない(東京ではそういう作業が始まっている)。ソフトバンクの孫正義社長は「福島県内の土をすべて掘り起こすと800兆円かかる」と言っているが、これが現在の基準がいかに非現実的かを物語っている。

 このような過剰な安全基準によって、10万人以上の避難住民はいまだに帰宅できず、彼らに対する差別も生まれている。「放射能をつけるぞ」と言って更迭された鉢呂吉雄前経産相は、その一例だ。被災者が半年以上も避難所生活を続けることはストレスを増やし、かえって健康に悪い。

 過剰な安全基準によって賠償や除染を行うと、東京電力の経営が破綻するばかりでなく、最終的には電気代に転嫁され、最悪の場合には納税者が負担しなければならない。

 賠償や除染を行う前に被曝限度を再検討し、科学的根拠に基づいて合理的な対策を取るべきだ。


http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51741689.html
2011年09月14日 11:45
放射能汚染 ほんとうの影響を考える: フクシマとチェルノブイリから何を学ぶか

(DOJIN選書)福島第一原発の周辺住民3373人を対象に行われた福島県の内部被曝の線量検査の結果、最大の被曝量は生涯にわたって3mSv未満が2人だけで、大部分は1mSv未満だという結果が出た。チェルノブイリを現地調査した高田純氏もいうように、今回の事故による被曝線量はチェルノブイリとは比較にならないほど低く、健康に影響はない。チェルノブイリ事故について放射線医学の専門家が調べた本書の結論も同じだ。

チェルノブイリ事故の結果、増えた病気は子供の甲状腺癌だけだった。
これは周辺で出荷された牛乳に沃素131が混じっていることを旧ソ連政府が警告しなかったのが原因である。ソ連の出荷制限基準は3700Bq/kgであり、日本の基準は300Bq/kgなので、日本では同じことは起こらないだろう。
チェルノブイリ事故のあと、周辺では18歳以下の6848人が甲状腺癌と診断されたが、死者は15人。99.8%は治癒した。
先天性奇形も、明らかな増加はなかった。
チェルノブイリ事故の最大の被害は、放射能の不安や長期にわたる避難のストレスによる精神疾患である。特に幼児には思春期までトラウマが残り、知能の低下や適応障害が増えた。

政府が過剰な安全基準を設定してマスコミが騒ぐため、被災者が精神的に不安定になることが原発事故の最大の被害である。これは他の事故でも共通に指摘される現象であり、被災者を長期にわたって避難させることは好ましくない。福島で今まで観察されている線量は健康に影響の及ぶレベルではないので、除染もほとんど必要ない。政府は早急に安全基準を決めて、被災者をなるべく早く帰宅させるべきだ。

ただ、こういう科学的に正しい事実をのべることは、政治的に正しくない。反原発派から「人命軽視だ」などと攻撃されることを恐れて、専門家も事実を語らない。きょうも自民党の総合エネルギー政策特命委員会で、多くの議員から「私の考えは池田さんと同じだが、選挙区ではいえない。ぜひ客観的真実を語ってください」と妙な励ましを受けた。

このように専門家の認識と世間の認識の間に大きなギャップがあることが、原子力の問題をややこしくしている。このギャップを是正するためにエネルギー問題についての研究をサーベイし、正しい科学的知識を広めるための政策シンクタンクを、ビル・ゲイツと共同で設立する予定だ。ご協力いただける方は、右上の連絡先までぜひご連絡ください。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/519.html

コメント [原発・フッ素16] 長編動画 国際専門家会議:放射線と健康リスク 世界の英知を結集して福島を考える SaveChild厨
06. 2011年9月15日 01:09:50: oWbillhalg
05追加

幸い会議参加者の名前が出ているので、逆にこの者たちが原発マフィアの御用学者ということが判ったという素晴らしいブラックリストです 笑

主催の日本財団とズブズブのキチガイ山下が参加者の人選に関わったことはほぼ確実です。したがって会議を中立に見せかけるため、上手く利用された参加者もごく一部はいるかも知れませんが、ほとんどは原発マフィアのお仲間というのは間違いないので、是非連中の所属と名前を覚えておきましょう。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/496.html#c6

コメント [経世済民73] なぜ円高で大騒ぎするのか。そこに財界の時代遅れの発想が見え隠れする sci
08. 2011年9月15日 01:10:01: EyFfrHrH3A
日銀工作員が多いな。円高デフレと失業はセットだろう。円高で人件費が相対的に高くなるのに、呼び込みしたところで海外企業が来るわけがないだろう。来るとしたら、どんな分野を想定しているのか。破綻したアイスランドのように金融立国でもするつもりなのか。
そもそも日本の何を期待して円を買うのか。日本を潰して新興国を発展させたいからだとしか思えない。
製造業の高品質化、付加価値化を求める、ある程度お金を持った消費者は世界では少数で、新興国の大半の消費者、先進国の落ちぶれつつある中流層は安くてそこそこ使えればいいという消費者心理に基づいて、コストダウンを図るために過剰品質は見直し、壊れやすく作ってまた買わせ、利益を上乗せするというビジネスモデルに日本企業を転換させたのはどこの誰なんだろうね。
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/243.html#c8
コメント [お知らせ・管理20] 管理人様 投稿規定を読みました matuo
01. 管理人さん 2011年9月15日 01:12:09: Master
消しておきました。
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/303.html#c1
コメント [原発・フッ素16] 盗品フルーツ 放射能風評被害による産地偽装が増加 めっちゃホリディ
16. 2011年9月15日 01:16:33: ORhQSsK3dk
事故が起きる前から生産者の顔が見える物を
使うように心掛けてきたけれど
京都に避難した今、やはり農家を見つけそこから季節の野菜を分けてもらっている
もちろん種類は少ないけれど
それでも工夫次第で飽きることなく食べられる
スーパーにいけば季節外れの野菜でも何でも手に入る
でも生産者の顔は見えず
そんないままでの消費スタイルがおかしかったのでは


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/508.html#c16

コメント [原発・フッ素16] 奥州市の下水道でのヨウ素131検出の件で病院に直接確認してみました 鳥の目と虫の目
22. 2011年9月15日 01:17:49: VficuyHNLs
23・24日だけど、奥州市で測定した線量は特に変わりないみたいだね。

http://www.city.oshu.iwate.jp/www/contents/1309840851362/files/5kai.pdf
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/509.html#c22

コメント [原発・フッ素16] 子どもたちの内部被ばくが止まらない−日経ビジネスオンライン−フクシマの視点 axioms123
08. 2011年9月15日 01:19:59: ORhQSsK3dk
高濃度に汚染された地域に子供を置いといて
セシウムがでた〜て騒ぐほうがおかしいよ
出るに決まっているじゃない
アホじゃ
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/506.html#c8
コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
35. 2011年9月15日 01:21:42: rGe4o0tIEE
茨城の農家で裏から出荷してるひとも。
県外の流通業者のひとも。
子供いないか、放射能の内部被曝のこと安全と思っているか、・・だね。


政府や県知事、農協なんかが全く方向違いの行政してるからしょうがない。
茨城のひと。ほんとはこんなときはこう書くんじゃない。

うち茨城の農家だけど、  
組合の検査が厳しくてほんと安心する。
子供に放射線の入っている農作物を食べさせたら、東電と同じ。
加害者になるから、おれは出荷しないよ。
3月15日以前にくらべ5000倍の放射線量を暫定規制値にしているからね。
暫定が全部が500ベクレルとして子供に与えたら累積で大変なことに
なる可能性があるからね。

先月からまったく野菜を出荷できない状態だから  
県外の農家とも相談して、農協の協力を得て東電に行こうと思うんだ。  
だって、危険なものを撒いたのは東電だもの、全部補償してもらおうと思う。
国民の皆さんには東電救済スキームが決まって、税金や電気料金で迷惑かける
けど申し訳ないけど。  

とにかく悪いのは分かってるけど、出荷するなんてことは俺にはできね。
男として絶対できねえな。
このままでは、我々も生きていけない。
東電にあくまでもこだわるよ。おれは。

もっとおこっていいだろうか。
近所の農家にも東電に交渉に行くように勧めようと思っている。
みなさんにも、何とか援護お願いします。

ちなみにみんな出荷してないから、全国のみなさん。
出荷出来るまで除染したら、また茨城の野菜買ってくれねーかな。
お願いいたします。

ってね。

実際、宮城県の農家はこの様に言っている人もいます。
30ベクレルまで下げるまで出荷しないし、県に測定は任せられないので
自分で測定機を購入して計測する場所も開設するように動いているそうだ。

人間いろんなひとがいるね。
農業に対する自信、とか信念とかないんだね。
こんなん人にはなりたくない。

汚染物質出荷して、全国で火葬場のフィルターで集める
「生体濃縮プロジェクト」であつめるんだね。
最近ほんとにそう思っている。


 
   
 
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c35

コメント [原発・フッ素16] 農地、削り取りで除染=セシウム低減へ福島県で−農水省 (時事通信)  赤かぶ
01. 2011年9月15日 01:22:12: pwEwqsHAXo
無理。

森林から水を引く以上、農地だけを除染しても無駄。すでに樹木の葉も表土も汚染されている森林が雨水を保水し、やがて流出し河川となり田畑に流れ込む。

農水省もどうせバレる除染が可能などとのウソを刷り込まない方がいい。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/515.html#c1

コメント [カルト8] 太田龍の偉業に敬意を表して捧げます ペリマリ
54. 2011年9月15日 01:23:05: BBPPXCTbbo
LEGACY of ashuesのtatujin様のようにシスコ・ウィラーさんなどが情報源というように情報源を明かしている方も信用できますが時々その情報源が自分に都合のいいように情報を流す可能性がある場合(特に諜報員の場合)が要注意だと言いたいのです。

という意見ですが・・・・・ある関係者の話によると シスコ氏はイルミナティとの関係が切れていません。そういでなければトッド氏のように暗殺されたいるでしょう。
達人に関しては 頭はそれなりに良いんでしょうが ブログでとやかく引用 弁証法を使い誘導してますが 恐喝してみたり 人間性に問題があり 実際 誰からも(関係者から)相手にされてません。唯の嫉妬狂です。
 http://ameblo.jp/minnano-shiawase/entry-11018015356.html 
 
以前、ロスチャイルドが最後の目的としているのは人類の理想郷を創る為だと持ち上げている記事を書いていましたよ。

理想を実現する為の残虐行為であり、嘘の積み重ねだと。

理想の為に最後まで嘘を突き通すのがロスチャイルドだと。

私はコメントで「理想の為と謂う話も嘘では?」と揶揄したら数日後にそのコメントは削除。


http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/318.html#c54

記事 [原発・フッ素16] 東電が抗議したTBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」(動画)  (ざまあみやがれい!) 
東電が抗議したTBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」(動画)
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65763678.html
2011年09月14日07:12  ざまあみやがれい!


2011年9月11日、TBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」が報道された。この報道に対して、東京電力は抗議している。その番組動画が動画サイトに掲載されていたので、抗議文と共に紹介する。

動画
20110911 原発攻防180日の真実 故郷はなぜ奪われたか(1)
http://www.dailymotion.com/video/xl2g3h_20110911-yyyy180yyyy-yyyyyyyyyy-1_news?start=11#from=embediframe

20110911 原発攻防180日の真実(2)
http://www.dailymotion.com/video/xl2gpx_20110911-yyyy180yyyy-2_news?start=24#from=embediframe


この番組への東京電力の抗議は以下のとおり。
http://www.tepco.co.jp/cc/kanren/11091301-j.html


『9月11日放送 TBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」における報道について

平成23年9月13日
東京電力株式会社

 福島第一原子力発電所に関する題記報道について、事実と異なる内容や誤解を招くおそれのある内容が報じられております。事実関係は以下のとおりです。

1.「ICの操作も含め、停電しても適切に対応すればメルトダウンも水素爆発も防げた」と断じていますが、これらの原因やメカニズム、ICの操作等の詳細などについては、現在、国の事故調査・検証委員会などで調査が進められております。
 そうした中で、事実の解明を待たずに、推定や憶測などによって、「人災」と結論づけた報道がこのたびなされたことは甚だ遺憾であり、誤解につながる可能性が大きいと言わざるをえません。

2.「ベント弁の手動操作の指示が遅かったことにより、ベント実施に時間がかかった」との報道がなされていますが、3月11日午後11時50分頃、全電源喪失により不明となっていた格納容器圧力を小型発電機の接続により把握できるようになった後、速やかに発電所長は現場での手動操作を含めたベントの準備を進めるよう指示しており(3月12日午前0時6分頃)、指示が遅かったということはありません。ベントの現場操作のために出発するまでの間は、国にベントを提案し、了解を得るとともに、作業手順や現場線量、作業時間の確認、周辺被ばく線量評価の作成・連絡、住民避難状況の確認を行っており、時間を要しました。すなわち、ベント操作を実際に開始したのは、大熊町(熊地区)の避難完了を確認した後の12日午前9時過ぎでした。また、現場の作業は、大変高い放射線量の下であったため、作業員が交代で作業しなければならず、また、電源が喪失しているため暗闇での作業を強いられることとなりました。さらに通信機能も喪失しており、作業員相互あるいは作業員と本部との連絡が極めて困難な状況であり、そうした中で全力を傾けていました。

3.当社が現場からの全面撤退を考え、それを国に伝えたという報道がなされていますが、そうした事実はありません。すなわち当社が国へ申し上げた趣旨は「プラントが厳しい状況であるため、作業に直接関係のない一部の社員を一時的に退避させることについて、いずれ必要となるため検討したい。」ということであります。
 なお、この点について、4月18日と5月2日の参議院予算委員会で、菅総理(当時)は「社長にお出ましをいただいて話を聞きました。そしたら社長は、いやいや、別に撤退という意味ではないんだということを言われました。」(4/18)、「ある段階で経産大臣の方から、どうも東電がいろいろな状況で撤退を考えているようだということが私に伝えられたものですから、社長をお招きしてどうなんだと言ったら、いやいや、そういうつもりはないけれどもという話でありました。」(5/2)と発言されています。これは、当社が認識している事実関係と一致するものと考えています。

以 上』

       ◇

東電が福島原発事故「人災」ではないとTBSに抗議 国民『どう考えても人災だろ』『まだ言うか』の声多数
http://hibi-zakkan.sblo.jp/article/47905539.html
2011年09月13日  日々雑感

東電が「人災」ではないとTBSに抗議

2011年09月13日 17時10分

 東京電力福島第一原発の事故で、TBSが人災だと報道した内容について、東京電力は13日、「推定や憶測などによって、人災と結論づけた報道がこのたびなされたことは甚だ遺憾」だと発表した。

 報道は9月11日にTBSで放送された「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」。東京電力によると、次のように3点で誤解を招くとしている。

 1.「ICの操作も含め、停電しても適切に対応すればメルトダウンも水素爆発も防げた」と断じているが、原因などは国の事故調査・検証委員会などで調査中。人災と結論づけた報道は甚だ遺憾。

 2.「ベント弁の手動操作の指示が遅かったことにより、ベント実施に時間がかかった」と報道されているが、指示が遅かったということはない。

 3.現場からの全面撤退を国に伝えたという事実はない。趣旨は「プラントが厳しい状況であるため、作業に直接関係のない一部の社員を一時的に退避させることについて、いずれ必要となるため検討したい」ということ。
http://media.yucasee.jp/posts/index/8899

このような時だけ対応が早い


東電『人災と結論づけた報道がこのたびなされたことは甚だ遺憾』


↓↓↓

福島第一原発事故は、天災でも地震でも津波でもなく、人の失敗、ヒューマンエラーで起きた事故

福島第一原発のオペレーターが人為的に緊急冷却装置の電源を切っていた。3回です、これ。でその結果当然ですが、緊急冷却装置は働かずに、3回にわたって、つけたり消したり、つけたり消したりと。その間に、メルトダウンが進んでしまったと。

上杉隆「メルトダウンのきっかけ」20110901
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=lpTMAU4pYlM

さらに

専門家チーム『適切に対応していれば、メルトダウンなどの深刻な事態には至らなかった』

初動段階で致命的ミス

原子力に詳しい学者やメーカーのOBらの専門家チームが、福島第一原発のデータを分析し、見解をまとめました。その内容は、「津波によって停電しても、適切に対応していれば、メルトダウンなどの深刻な事態には至らなかった」というものでした。

 福島第一原発を襲う巨大津波。1号機でも全ての交流電源が無くなりました。
危機的状況の中、最後の頼みの綱の出番の筈でした。その名も、非常用復水器、通称IC。原子炉内の蒸気をタンクに溜めた冷却水の中を通して水に変え、炉に戻す、いざという時の装置です。

 北海道大学の奈良林直教授やメーカーOBら全国34人で作る専門家チームは事故後、国や東京電力から公表されたデータを独自に分析。その結果、この1号機のICで次の事態が起きていたと分析しました。

「津波によって制御盤がダウンし、その際、誤った信号を出したため、機能が停止してしまった」
「停止に気付き、再び午後6時過ぎに再起動するまで2時間以上かかり、この間に炉心が損傷し、メルトダウンが始まってしまった」。つまり、頼みの綱がうまく機能していなかったのです。

 現場の責任者である福島第一原発の吉田所長は、ICが停止していることを知らずに復旧計画を立てていたことが明らかになっており、初動段階でのミスが致命的になったと専門家チームは見ています。


「メルトダウン防げた」専門家チーム分析
http://www.youtube.com/watch?v=Ce6WDFPtZzU&feature=player_embedded

東京電力の大罪
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0052N4O02/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B0052N4O02

まだ“自分たちのせいではない”と主張する東電・・・


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/520.html

コメント [原発・フッ素16] 勝手に放射線量測るんじゃねぇっ!!国民生活センターが放射線測定器9製品の調査結果を公表(暗黒夜考 崩壊しつつある日本を考 こーるてん
19. 2011年9月15日 01:25:03: Nf9QSSIWeg
大東亜戦争時の短波ラジオの禁止令と同様だね。

臣民は、大本営発表を聞いていればいいのだ。

余計なことをすれば、スパイとして特高にしょっ引かれるぞ。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/507.html#c19

コメント [お知らせ・管理20] 削除報告。規定違反かも?報告はこちらにコメントしてください。2011/9/1- 管理人さん
27. 2011年9月15日 01:32:48: WMVDQOGJjk
タイトル規定違反です。しかも2重投稿でURLが記載されていません。

「隠し録音」証拠で再生へ 小沢氏公判
http://www.asyura2.com/11/senkyo119/msg/490.html
投稿者 天の網島 日時 2011 年 9 月 15 日 01:09:37: roto1wtJR0WMQ

元記事タイトル
元秘書取り調べ「隠し録音」、証拠で再生へ 小沢氏公判
http://www.asahi.com/national/update/0914/TKY201109140236.html

先行投稿
元秘書取り調べ「隠し録音」、証拠で再生へ 小沢氏公判 (朝日新聞) 「調書の信用性を判断する上で必要」指定弁護士 
http://www.asyura2.com/11/senkyo119/msg/482.html
投稿者 赤かぶ 日時 2011 年 9 月 14 日 17:37:14: igsppGRN/E9PQ

http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/264.html#c27

コメント [原発・フッ素16] 奥州市の下水道でのヨウ素131検出の件で病院に直接確認してみました 鳥の目と虫の目
23. 2011年9月15日 01:33:38: 03bw0jfJsI
21>さん  しょっちゅう寄港している、アメリカの原潜のことは、どうしてかかないのですか? ガンダーセン(米国)は8000b/kgは鉛とコンクリートで固め1000年管理の数値と話している。日本の基準は信じがたいと言っていた。
いい加減だわ。


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/509.html#c23

コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
36. 2011年9月15日 01:37:37: xsIKKcdER2
アハハ・・・・┐(´-`)┌

政府も東電も学者もマスコミも、挙句に被災地の農家も・・・
余りに酷すぎます。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c36

コメント [原発・フッ素16] 原発コスト、火力より割安=賠償費用抜きで試算−エネ研(時事):噴飯ものの経済理論と原発マフィア 会員番号4153番
12. 2011年9月15日 01:37:58: hUzYiEXnRZ
どこかで見たけど最近は年間2400億KW/hか、
コストが×7.2円(これは大嘘)で 17280億円/hね

10年で10兆償却だと、年間27280億円/h=11.36円KW/hか
45年で10兆償却だと、年間19502.2億円/h = 8.126円KW/hか
どうせこの程度の計算だろうけど、
過去に、ではなく、今後に換算しなきゃいかんのでしょうね。

今までは(大嘘だけど)7.2円、
今後10年間2400億KW/h発電できたら(この時点で既に嘘)10年間は11.36円KW/h
もし仮に1基(100万*24h*365*100%:ありえんが) 87.6億KW/hなら、
年間630.72億円/年のはずが 10630.72億円/年 =121.355円KW/hになっちゃうw

今後稼働できるのですか?保障は10兆ですむのですか?
これが稼働させたい理由ですか?保障はこれ以上する気が無いのですか?

私が大馬鹿なのでしょうか?

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/503.html#c12

コメント [原発・フッ素16] 「ミスター大丈夫」山下俊一教授がまたしでかしたトンデモ発言 (週刊現代)  赤かぶ
36. 2011年9月15日 01:46:46: CjXIqD6hcE
この人の講演動画とかいくつかみてみたけど、
ここまで酷評される様な内容とは思わないね。
それを信じるかどうかはそれぞれの判断でいいんだが。
結論先にありきじゃなく、ニュートラルな気持ちでとりあえず話を聞いてみた
上で議論されるべきだと思うね。
特に阿修羅の伝統である、冷静で、様々な独自のコメント等を
大事に思う一阿修羅ファンとしては。
最近の阿修羅じゃこういう事書くと血祭りに会いそうだけど・・。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/468.html#c36
コメント [原発・フッ素16] 福島原発事故の「被害」とは何だったのか 賠償や除染の前に被曝限度の再検討が必要だ sci
01. 2011年9月15日 01:48:52: ssV8pSUttw
だから 池田 信夫 だと言われるんだよ。
1ミリシーベルトが過剰な安全基準ならIAEAは過剰だということになる。


 「事故後の補償や除染にもLNTを適用すると、莫大なコストが発生する」


この言葉に、池田氏がなにを基準に原発問題を論じているかが示されている。
除染費用を減らすための基準が正しく、
健康を守るために許容される基準ではないのである。

墓穴掘ったな。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/519.html#c1

コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
37. 2011年9月15日 01:50:52: oWbillhalg
>34

>自分の選択だから別にいいのでは

問題はそういうことじゃないよ。
農協も犯罪政権に基本的に従っている組織なので信用はもちろん出来ないが、非正規ルートの流通業者は、新鮮で良い品をという良心的なのもあれば、一方端から不正規品など安く買いたたき売りさばくことが目的にしてるのも多いから、産地偽装する可能性も極めて高いんだということだよ。

そうなると、福島、茨城、埼玉、宮城、山形、群馬、千葉、栃木、神奈川、新潟、長野、岩手のを避けようとしている人の口にも入ってしまう恐れが大きいので、事故を契機に農家から直接買い付け売りさきが行われてる話は問題だと言ってるのだよ。


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c37

コメント [原発・フッ素16] 東電が抗議したTBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」(動画)  (ざまあみやがれい!)  赤かぶ
01. 2011年9月15日 01:51:13: xsIKKcdER2

自殺が良いと言う訳ではないです。

でも、JR北海道社長の何十分の一でも良心があるのでしょうか?

東電がしでかした福一事故以上に、東電上層部が恐ろしいです。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/520.html#c1

コメント [原発・フッ素16] 農地、削り取りで除染=セシウム低減へ福島県で−農水省 (時事通信)  赤かぶ
02. 2011年9月15日 01:52:16: enDMyZTef6
住民を救うことを、最優先に出来ないのかね、この国は。
あ、自分を守ることが最優先だったか、あいつらは。
俺もまだまだ人が良すぎるな。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/515.html#c2
コメント [戦争b8] 20110910 監視社会への道 〜愛国者法とアメリカ〜 gataro
01. 2011年9月15日 01:53:26: qW4V8khzBA
チャウシェスク政権みたい。て事は、今後アメリカでまた独立戦争でも起きるのかな?。大規模な革命戦争とかが。
http://www.asyura2.com/11/warb8/msg/174.html#c1
コメント [原発・フッ素16] 今朝9/11のNHK日曜討論、自民党石原伸晃「市民に線量を計らせないようにしないといけない」と発言 (日々雑感)  赤かぶ
115. 2011年9月15日 01:55:38: rGe4o0tIEE
4号機の原子炉に燃料があるんじゃね?
どうもおかしい。プールも余震で崩壊しかねない状態。
細野がプールが崩壊しないように真っ先にしたことは良かった
といってたけど。どーかな、このままだと相当危ないけど
もう、近寄れもしないでしょう。

石原。
国民が放射能計っちゃいけねーって。
この国には自由はないのか。
東電が放射能毎日自由にばら撒いているのに。
国民が放射能計る自由はないのか。

お前に計るなと言われる筋合いはねえ。
東電からいくら貰ったらそんな口がきけるようになるんだ。
どーなんだよ。
石原。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/432.html#c115

コメント [Ψ空耳の丘Ψ59] これからの地震、惑星直列、エレニン彗星、マヤカレンダー、ポールシフト等(ヤスの備忘録より) Orion星人
15. 2011年9月15日 02:09:03: dSXkriFX1g
米国のデフォルト回避は、ユダヤ VS 米国の経済戦争の終焉を意味するのですが
日本のバブル化に加担し 半島系暴力団に騙され大損したので ヤクザの資産凍結を開始。
http://yakuzataiho.seesaa.net/article/216866883.html


また 米国も ユダヤの実験国なのですが
政党は 二つだけで 大統領が取り纏める 巴柄(勾玉が 三つ)はベストな形態。
中国の太極(タイチ)マークも勾玉二つの調和を意味する。

日本は そうさせまいと ミニ政党が存在する。
私ら日本人には 誰が在日朝鮮人で 誰が日本人かが解らない。
まず、日本人と在日朝鮮人に分かれて貰えると解り易い。
また、在日朝鮮人も 北朝鮮派 VS 韓国派に分かれて貰えると さらに解り易い。
在日朝鮮人同士の派閥争いに見えるので 誰が首相になっても何も変わらない。

しかし・・・メディアの王様・電通の会長も 朝鮮人なので マスコミ操作も反日なので
無理があるようです。

電通の正体
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/313.html

反日マスコミの本丸は電通!〜メディアをウラで操る電通を攻撃すべし
http://whisper-voice.tracisum.com/?eid=74

http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/656.html#c15

コメント [原発・フッ素16] 川内村“全村民を来春戻す” めっちゃホリディ
25. 2011年9月15日 02:11:17: ORhQSsK3dk
除染予算の1200億円の分捕り合戦の始まりです
予算さえ手にすれば後はどうでもいいのです。

ところでホットスポットの那須塩原だけど
家の中で0,3〜0,4マイクロシーベルトは普通
庭での空間線量は0,7〜0,8マイクロ普通
分捕り合戦に参加しないのかな?
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/476.html#c25

コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
38. 2011年9月15日 02:14:35: ZD0DhDvQF6
外国作物を欲しい人々の間でTPP推進派が増えるでしょう。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c38
コメント [お知らせ・管理20] 七転八起さん固有の投稿規制を今つくりました。あしからずご了承ください。 管理人さん
423. 七転八起 2011年9月15日 02:16:39: FjY83HydhgNT2 : qqCNcK3o9g

 阿修羅掲示板、素晴らしい掲示板です。

 管理人さん、 

  When in doubt, tell the truth.

今でも応援しております。
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/137.html#c423

コメント [原発・フッ素16] 核兵器自爆!やはり大量のプルトニウム等が大気中に放出か? − 反原発専門家の見解と整合 (先住民族末裔の反乱)  赤かぶ
10. 2011年9月15日 02:17:22: tGZzOYPYng
>>09さまの仰るとおりだと思います。

ストロンチウム90の生物学的半減期は49年(実効半減期約18年)で、一旦取り込んでしまったら一生のつき合いとなります。
−−−−− −−−−− −−−−−
投稿文にある
>・ヨウ素121 
>◎アメリシウム741
は、ヨウ素131と、アメリシウム241の事ですね。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/510.html#c10

コメント [原発・フッ素16] セシウム「問題レベルでない」=子どもの尿再検査で―中川文科相 めっちゃホリディ
13. 2011年9月15日 02:17:41: ORhQSsK3dk
>11
5年の我慢だ。

5年我慢しても
日本人は
「隣の人がんで死んだわよ」
「あ〜ら気の毒に」
で終わり
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/474.html#c13

コメント [原発・フッ素16] セシウム検出:下水汚泥焼却灰、埋め立てを凍結 横浜市 (毎日新聞)  赤かぶ
01. 2011年9月15日 02:18:57: HYHUspnQ6g
横浜市は、セシウム牛肉を子どもに食べさせるわ、横浜市立大医学部の御用学者をかついで、放射能は安全ですとかいう無茶苦茶なパンプレットを作るわ、キチガイじみたことをやっている。東京湾を殺す一歩手前でやっと留まったか。東京湾の漁業関係者は猛烈に反対すべきだ。高濃度のセシウム入りの汚泥を海面埋め立てするなんぞ、狂気の沙汰だ。全教員に任期制を導入して横浜市立大を破滅させるだけではもの足りず、今度は、東京湾を死滅させる計画を立てていたとは恐れ入る。狂った自治体は逝ってよし。もう横浜市民は、港北区にみんな移住して、その後、港北区を東京都に編入してもらおう。横浜市に税金を納めること自体がナンセンス。そもそも、横浜市は、美術館だって充実させることができず、健康で文化的な都市を作るような地方自治ができない。横浜に何の魅力もなくなったのは、おまえら小役人のせいなんだよ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/517.html#c1
コメント [原発・フッ素16] 東電が抗議したTBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」(動画)  (ざまあみやがれい!)  赤かぶ
02. ケロリン 2011年9月15日 02:19:38: 6aICm6xzPa6aE : BW6GTQviU6


<社長様をお招きして>・・・だとよ。

社内天皇さま、ということだ。
どうだ、このあからさまな<奴隷体制>は・・。
強いものにはヘコヘコ、弱いと見るや否や威丈高に豹変する。
サラリーマン<犬>根性が、この国の体制を作っているんだ。
JR、東電、・・国内インフラ企業の大半が、
この調子だろう・・・。



http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/520.html#c2

コメント [原発・フッ素16] 9月12日 フランス核施設爆発事故の続報まとめ・・・。 (ぼちぼちいこか。。。)  赤かぶ
05. 2011年9月15日 02:21:56: EyFfrHrH3A
なんで原発関連の事故が立て続けに起こるのか。日本、アメリカ、中国と来て今度はフランスか。世界恐慌の最中に起こるなんて単なる偶然ではないだろう。裏がありそうだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/493.html#c5
記事 [議論30] 正常性の罠
正常性の罠

 「多数派同調バイアス」とか「正常性バイアス」というものがあるそうだ。列車事故で、煙が流れてきても他の乗客が騒ぎ出さないと自分も逃げようとはしないというやつだ。僕の周りで、僕が買い物をするときに下剤や何らかの毒物が仕掛けられた食品を店員さんが絶対に知っていながら平気で僕に売りつけるのも、そういう行為をやっている、またはやっていいとする人たちがほぼ普遍的に存在するからだ。もう2年かそのくらい前だったが、あるコンビニで、「なぜこんな毒入りを売るんだ。おかしいだろう」と言ったら、その店長は「他の店もみんなそうだろう。」というようなことを答えたものだった。日本人はこのように同調意識というか協調圧力というか、そういったものが非常に強いとよく言われる。しかし、多分、アメリカも中国もインドも同じ人間が住んでいるわけで、多くの国々でこういったことはほぼ普遍的に見られるはずだ。

 ただ、列車事故で煙が立ち上ってきたら火災が発生しているはずで、逃げなければ焼け死んでしまう。同様に、放射能汚染された環境で本来の対策をしないで生活していれば、やがて健康を壊すことになる。

 問題は単に偶然に異常に気がつかない人が多数派であるのか、それとも故意に正常性が装われているかなのだ。

 単に多くの方が異常に気がつかないだけなら、被害がある程度積み重なった段階で学習効果が働き、そういったことを繰り返さないように何らかの対策がうたれる。

 しかし、故意に正常性が装われている場合、大きな問題が生じる。故意に正常性を装うのだから、基本的に社会全体にとっては正常ではない事態が正常だとされていくわけで、結局、その社会全体が劣化していくからだ。

 今日本も含めて世界中の国々で進められている植民地化は、多くの場合、いかにも正常なことだという装いをしている。またはその本当の意図を表すことをしないで、別の意図があるように偽装をしている。

 日本でここまで財政赤字が積み上がったのも、地震国日本に50基以上の原子炉が作られたのも、正常なことなんだと多くの市民、または政治家に思わせてきたからだ。

 ただ、何が本来のことなのか、または、何が現実に起こりつつあるのか、現在の状況が続いた結果例えば5年後10年後どうなるのかといったことは判断が難しい。被害が実現化していないから、どうしても現実にある利害関係にこだわってしまうからだ。10年後に糖尿病にならずに健康でいるのと現在ビールを飲むのと比べると、どうしても現在ビールを飲み、10年後の糖尿病リスクは無視してしまいがちだ。

 少なくとも今の日本で進行している放射性物質による環境汚染は、故意にその程度が軽く見せられていると思う。いろいろな理由があるだろう。会社存続のため。株主保護のため。その他その他、多分大きな要素だけでも10や20はあるのだと思う。しかし、最も隠れたところで今回の福島第一原発事故を小さなものに偽装しようとしている人たちがいて、彼らにとって「会社存続のため」とか「株主保護のため」という理由はある意味便利な隠れ蓑でしかない。そうやって関係者の一部を使いながら、やがては関係者全員を滅ぼそうとしているわけだ。

 10年前911のテロをきっかけに広まったイスラムへの嫌悪も全くの偽装であり、一部の権力者が始めた地球人口抑制計画の一部なのだろう。

 ただ、皮肉なのは、あまりにこういった偽装が上手く行きつつあるので、仕掛けている側自身が、自分たちは正しいことをやっていると思い込みつつあるように見えることだ。本来なら、全く別の方法で、誰かを騙したり犠牲にすることなしに成し遂げられるはずのものを、あまりに偽装がうまく行くので、偽装した方法でしかやれなくなってしまうのだ。こういった状態を正常性の罠と呼んでもいいように思う。

 ノルウェーで今年7月に起こった連続テロではその後宗教間の寛容さが増す方向で事態が動きつつあるという。多分その背後には「誰であれ自分と同じ人間なのだ」という平等意識に裏付けられた理性があるのだと思う。

*6月8日の記事「近づく戦争・テロ社会、これらの動きを止めるべきでは?」から一連番号を付しています。<<708>>


http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/493.html

コメント [お知らせ・管理20] 七転八起さん固有の投稿規制を今つくりました。あしからずご了承ください。 管理人さん
424. 七転八起 2011年9月15日 02:40:40: FjY83HydhgNT2 : qqCNcK3o9g

 管理人殿よりの真摯なメッセージを戴けなければ、

琉舞さんのコメントをお送りいたします。
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/137.html#c424

コメント [原発・フッ素16] 東電が抗議したTBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」(動画)  (ざまあみやがれい!)  赤かぶ
03. taked4700 2011年9月15日 02:41:03: 9XFNe/BiX575U : dgbiZdzLj6
確かに人災の面があったのは本当だと思う。ただ、地震でICが壊れたということがあるはずで、今回の事故の本当の原因は地震対策が原発は不完全であり、現状では日本のような地震国だけではなく、世界中どこでも究極的な意味での100%安全を保障するような耐震性をもった原発は作れないということだと思う。

だから、本当の意味での耐震性がないものを作ったという人災ではあるが、オペレーションを間違ったという人災があまりに強調されると、「世界中どこでも究極的な意味での100%安全を保障するような耐震性をもった原発は作れない」というより大きな本質的な事実が忘れ去られてしまうと思う。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/520.html#c3

コメント [経世済民73] 誰のために? なぜ? 農業を保護するのか?  sci
04. 2011年9月15日 02:45:07: NoB4T4uYVg
阿修羅さんへ
日本円を安くすれば解決する。
しかし為替への介入は、輸出企業へ金をやるのと同じことになる。
方法はただ一つ。
バラ撒きである。
子ども手当てでバラ撒くのは日本にとって「良い」
生活保護でバラ撒くのは、本当に探しても仕事の見つからない人に渡す分は、日本にとって「良い」
生活保護を下回る年金の補填にバラ撒くのは、日本にとって「良い」
生活保護より低い最低賃金をなくすためにバラ撒くのは、日本にとって「良い」
なぜ良いのか理由の分からない人は、反論してはイケナイ!

財源は……政府の保有するアメリカ国債を担保にして日銀から引き出す!!
(100兆行けます!)

http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/154.html#c4

コメント [経世済民73] 日銀による国債引き受けは一度使うと止まらない“麻薬” sci
11. 2011年9月15日 02:48:29: NoB4T4uYVg
阿修羅さんへ
何らかの歯止めを作っておけば大丈夫。
例えば、国債で金を調達するのではなく、政府保有の米国債を担保に(って日銀に米国債を買い取らせるってことですけど)日銀券を引き出せばOK!

どうせ米国債は紙切れになるんだから、早いとこ始末した方が御国のためですよ。
(2年以内と見てます。)

http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/155.html#c11

コメント [原発・フッ素16] 『安全性の考え方』武谷三男編「放射線というものはどんなに微量であっても人体に悪い影響をあたえる ジャック・どんどん
07. 2011年9月15日 03:00:17: xYwNchGckY

大変面白く、しかし、いまなお、ムツカシイお話です。

>公共とか公衆とかいう感覚のない人、足りない人に、
>どうすればそういう感覚を植えつけることができるかということが、
>これからの大きな問題である。

>これからの(!!!)

!!!日本が日本人の遺伝子ごと終末をむかえつつある今日、なんと響き渡る言葉であることよ。
放射能を日本中に拡散する国・都県の官僚とそのモウジュウ人間ども!

武谷さんはどう考えたのでしょうか。

c、公共とか公衆とかいう感覚のない(状態)、足りない(戦後一時点の状態)
↑↓
b、日本には公共という概念が完全に欠如している。
  日本で公共というのは、お上、国家と同義語だった。(日本の歴史)
↑↓
a1、憲法の”基本的人権”をちゃんと守るということだ。(戦後の課題)
a2、高い立場の哲学;公共

こういう整理をしてしまうと問題ありだが、実際はどう考えておられたのだろうか?

上記c、は a、の単純な否定にすぎず。

b、とc、とはここでそう言ってるだけ、
けっして根拠でも原因でも実体でもない。

a、にいたっては、同じ文言を追い求める集団が互いにその内容を相手に与えまいとさえ、した。日本では戦後もどんどん分裂していった。つぶしあった。手玉に取られた。
c、はしかし、たんなるc、ではない。ポチとポチの飼い主とによって造り出されたところの、ポチの正体も知らず負け続けずっと手玉にとられてきて出来た(c´)である。
いまや、分裂しない組織、官僚が、福島県人より始めて日本人を、遺伝子からオシマイにしようとしている。
a、は与えられただけの物だから日本人はわかっちゃいないなどとも評された。
c、が現れたのは偶然でもたまたまでもない。必ずある。始めからある。
c、の中にありながらc、をa、に発展・媒介する項は何だろう?
c、→poti→(c´)

武谷さんも歴史を出してきたので、公共の公と私利の私の字源について雑学して見たらおもしろかった。私とはノギヘン【禾】(カ)(いね)を【ム】(シ)(わたくし)すること、
公とは【ム】(わたくし)に【ハ】(そむく)ことだというのが韓非子の説だそうだが、これにたいして、さきごろ亡くなられた白川静大博士は、その中国古代的の「公ー私」の政治理念の発生する以前の社会を字の用例から探り考えることによって、韓非子の一説を否定し且つ肯定してほりさげた。即、公とは祭祀儀礼の行われる場の象形だが、ひいて族長貴族をあらわし、私とはその私属する隷農であると、
「字統」のなかで論証なさっている。(委細省略)
漢字が成立した時は中国古代的の階級社会だった。そのなかから公@を別の意味に作り変える蠢き、公@を制限する公Aの思想と闘争が苦闘されたのであろうといえようか。

原爆二発で始められた戦後に、与えられた公共は、日本人とポチとによってついに四原子炉が火を噴いて暴走しても「安全です」ただちには・・・と、数百万人を被曝地に留め置きつつさらに拡大させつつ日本人を列島とともに終わらシムる「公」に成り果て終わった。

子孫のため、放射能を汚染拡散させるな、原発をもうやめろ、汚染地から避難させろ、非汚染の安全な食料を与えよ。この声のもと果たして何十年も分裂してきた日本人とその各組織が果たして、妨害・圧力をこえて、相互のあいだに媒介しつつ新しい日本人の公共関係を公Bを、互いに紡ぎだせるか、滅びるかだ。

投稿者さんの宿題 楽しみに期待します。


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/504.html#c7

コメント [カルト8] フジテレビ『それでも、生きていく』で「JAP18」の表記・claimant(米韓両国の311への関与を疑わせる事件です) 小沢内閣待望論
02. 2011年9月15日 03:06:14: j8DlsR41DQ
ウジテレビは日本人に討ち取られるというより、韓国と在日は日本に戦争を仕掛けてきてるから、最期の一人になるまで戦うことになるだろうね。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/533.html#c2
記事 [近代史02] 中国最後の皇帝 毛沢東 _ 共産革命とは一体何であったのか?

極まりない慈愛をもったキリストは、十五世紀前に三十三年のあいだ、人類のあいだを歩き回ったときと同じ人間の姿をかりて、もう一度、民衆の中へ現われたのだ。彼は南方の市の『熱き巷』へ降臨したが、それはちょうど、『華麗なる火刑の庭』で、ほとんど百人に近い異教徒が、 ad majoriam Dei (神の栄光を大ならしめんがため)国王をはじめ、朝臣や、騎士や、僧正や、艶麗な女官や、その他セヴィリヤの全市民の眼の前で、大審問官の僧正の指揮のもとに、一挙に焼き殺されたあくる日であった。

大審問官である僧正は群集の前に立ち止まると、遠くから様子を眺めていた。彼は何もかも見てしまったのだ、キリストの足もとへおろされて女の子がよみがえったのを見たのだ、そして、彼の顔は暗くなった。その白い濃い眉はひそめられ、眼は不吉な火花を散らし始めた。彼はその指を伸ばして、警護の士に向かい、かの者を召し捕れと命令した。

彼はそれほどの権力を持ち、群集はあくまでも従順にしつけられ、戦々恐々として彼の命に服することに慣らされていたので、さっと警護の者に通路をあけた。そして、急にしいんと墓場のように静まり返った沈黙の中で警護の者はキリストに手をかけて引き立てて行く。

群集はまるでただ一人の人間のように、いっせいに土下座せぬばかりに老審問官の前にひれ伏す。彼は無言のまま一同を祝福しつつ通り過ぎて行く。警護の者は囚人を神聖裁判所の古い建物内にある、陰気で狭苦しい丸天井の牢屋へ引きたてて来ると、その中へ監禁してしまった。 その日も暮れて、暗い闇の中で、不意に牢獄の鉄扉があいて、老大審問官が手に明かりを持って、そろそろと牢屋の中へはいって来た。彼はたった一人きりで、扉はすぐに閉ざされた。彼は入口に立ち止まると、しばらくのあいだ、一分か二分、じっとキリストの顔に見入っていた。とうとう静かにそばへ近寄って、明かりをテーブルの上に載せると、口をきった。


『そこに御座るのはキリストかな? キリストかな?』

『返事はしないがいい。黙っておるがいい。それにおまえは何を言うことができよう? 

わたしにはおまえの言うことがわかりすぎるくらいわかっているのだ。

それにおまえは、もう昔、言ってしまったことよりほかには何一つ言い足す権利も持っていないのだ。

それにしても、なぜおまえはわしらの邪魔をしに来たのだ?

おまえはわしらの邪魔をしに来たのだ。

それはおまえにもわかっておるはずだ。しかし、おまえが明日どんなことが起こるか知っておるかな? 

わしにはおまえが何者かは知らぬ、また知りたくもない。おまえは本当のキリストか、それとも贋者か、そんなことはどうでもよい、とにかく、明日はおまえを裁判して、邪教徒の極悪人として火烙りにしてしまうのだ。

すると今日おまえの足を接吻した民衆が、明日は、わしがちょっと合い図をしさえすれば、おまえを焼く火の中へ、われ勝ちに炭を掻きこむことだろう、

おまえはそれを知っておるのか? おそらく知っていられるであろうな』

と彼は片時も囚人から眼を離そうとしないで、考えこむような風に、こう言い足したのだ

 『もうおまえはいっさいのことを法王に任せてしまったのじゃないか、今はいっさいが法王の手に握られているのだ、だから、今ごろになって、のこのこ出て来ることだって、よしてもらいたいものだ』

『いったいおまえは、自分が出て来たあの世の秘密を、たとい一つでもわれわれに伝える権利をもっておるのか?』

『いや、少しも、もっていない。

それはおまえが前に言ったことばに、何一つつけ足すことができないためだ。

それは、おまえがまだこの地上におったころ、あれほど主張した自由を、人民から奪わないためだ。

人民の自由は、まだあのころから、千五百年も前から、おまえにとっては何より大切なものだったではないか、あの当時、《われなんじらを自由にせん》と、よく言っていたのはおまえではなかったか、

『だが、今われわれはおまえの名によって、この事業を完成した。十五世紀のあいだ、われわれはこの自由のために苦しんできたが、やっと今は完成した。

人民は今、いつにもまして、現に今、自分たちが完全に自分になったと信じておるのだ。

しかも、その自由を、彼らはみずから進んでわれわれに捧げてくれた。

そして、ねんごろにわれわれの足もとへそれを置いてくれたのだ。』


『なぜなら、今はじめて人間の幸福を考えることができるようになったからだ。

人間はもともと反逆者にできあがっておるのだが、反逆者が幸福になると思うか? 


おまえはよく警告を受けた――おまえは注意や警告を飽くほど聞かされながら、それに耳をかさないで、人間を幸福にすることのできる唯一の方法をしりぞけてしまったではないか。しかし、仕合わせにも、おまえがこの世を去るときに、自分の事業をわれわれに引き渡して行った。おまえはその口から誓って、人間を結びつけたり解いたりする権利をわれわれに授けてくれた。

だから、もちろん、今となっては、その権利はわれわれから取りあげるというわけにはいかぬ。

なんのためにおまえはわれわれの邪魔をしに来たのだ?』


われわれには弱い人間も大切なのだ、彼らは不徳感で反逆者ではあっても、最後にはかえってこういう人間が従順になるのだ。彼らはわれわれに感嘆して、神とまで崇めるに至るだろう。

なぜならば、われわれは彼らの先頭に立って、彼らの恐れている自由に甘んじて耐えて、彼らの上に君臨することを諾うからだ。

かくして、結局、彼らは、自由になることを恐ろしいと感じだすに違いない! 


しかしわれわれは彼らに向かって、自分たちもやはりキリストに従順なものだから、おまえたちの上に君臨するのはキリストの御名によるのだ、と言って聞かせる。こうしてわれわれはまた彼らを欺くが、もはや断じておまえを自分たちのそばへ近づけはしないのだ。この偽りのなかにわれわれの苦悩がある。しかもわれわれは偽らざるを得ないのだ。

自由になった人間にとって、最も苦しい、しかも絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇むべき者を捜し出すことである。

しかし、人間という者は議論の余地なく崇拝に値する者を求めている、万人ことごとく打ちそろって、一時にその前にひざまずき拝し得るような、絶対的に崇むるに足る対象を求めているのだ。

これらの哀れな被造物の心労は、めいめい勝手な崇拝の対象を求めるだけではなく、万人が信服してその前にひざまずくことのできるような者を捜し出すことにあるのだ。どうしても、《すべての人といっしょ》でなければ承知しないのだ。


人間というものは弱くて卑しいものだ。今彼らはいたるところで、われわれの教権に反抗して、それを誇りとしているがそんなことはなんでもない。

それは赤ん坊か小学生の自慢だ。それは教室で騒動を起こして、教師を追い出すちっぽけな子供なのだ。

しかし今にそんな子供らしい喜びは終わりを告げて、それに対して彼らは高い支払いをしなければならない。

彼らは寺院を破壊して地上に血を流すことだろう。しかし、結局はこの愚かな子供たちも、自分らは暴徒とはいっても、最後まで反抗を持続することのできない、いくじない暴徒にすぎないことを悟るだろう。

やがては、愚かな涙を流しながら、自分たちを暴徒として創った者は、疑いもなく自分たちを冷笑するためだと自覚するだろう。


われわれは、おまえの事業を訂正して、それを奇跡と神秘と教権の上にすえつけたのだ。すると民衆は、再び自分たちを羊の群れのように導いてくれる者ができ、それほど彼らに苦痛をもたらしたあの恐ろしい贈り物を。ついに取りのけてもらえる時が来たのを喜んだのだ。

われわれが優しく人間の無力を察して、情をもって彼らの重荷を減らしてやり、弱い彼らの本性を、たといそれが悪いことであっても大目に見て許してやったのが、はたして人類を愛したことにならぬのだろうか? 

われわれの仕事仲間はおまえでなくてやつ(悪魔)なのだ。

これがわれわれの秘密だ! 


われわれはすでにずっと前から、もう八世紀のあいだもおまえを捨てて、やつといっしょになっているのだ。

その目的を貫徹してわれわれは皇帝となり、やがては人類の世界の世界的幸福を企てることができるのだ。

自由だとか、自由な知恵だとか、科学だとかは、彼らをものすごい渓谷に連れこんで、恐ろしい奇跡や、解きがたい神秘の前に立たせるため、彼らのうち頑強で獰猛な者は自殺してしまうし、頑固であっても弱い者は互いに滅ぼし合うだろう、その他のいくじのない不仕合わせな者たちは、われわれの足もとへはい寄って、こう叫ぶのだ、


《あなたがたは正しゅうございました。あなたがたのみがキリストの神秘を持っていらっしゃいます。でありまするから、わたくしどもはあなたがたのところへ帰ります。

どうか、わたくしどもを自分自身から救ってくださいまし》


そこで、われわれは彼ら自身の得たパンをその手から取り上げると、石をパンに変えるというような奇跡などは何も行なわないで、再び彼らにそれを、分配してやる、彼らはパンを受け取る時に、このことをはっきり承知しているけれど、彼らが喜ぶのはパンそのものよりも、むしろ、それをわれわれの手から受け取るということなのだ! 


なぜならば、以前われわれのいなかったころには、彼らの得たパンがその手の中で石ころになってしまったが、われわれのところへ帰って来てからは、その石がまた彼らの手の中でパンになったことを、悟りすぎるくらい悟っているからである。

永久に服従するということがどんな意味を持っているかも、彼らは理解し過ぎるほど理解するに違いない! 


羊の群れもまた再び呼び集められて、今度こそ永久に服従することだろう。

その時になって、われわれは彼らに穏やかなつつましい幸福を授けてやる。

彼らの本来の性質たるいくじのない動物としての幸福を授けてやるのだ。

おお、われわれは最後に彼らを説き伏せて、けっして誇りをいだかないようにしてやる。


つまり、おまえが彼らの位置を高めるために、彼らに誇りを教えこんだからだ。そこでわれわれは彼らに向かって、おまえたちはいくじなしでほんの哀れな子供のようなものだ、そして子供の幸福ほど甘いものはないと言い聞かせてやる。

すると、彼らは臆病になって、まるで巣についた牝鶏が雛に寄り添うように、恐ろしさに震えながら、われわれのほうへ身をすり寄せて、われわれを振り仰ぐに違いない。


彼らはわれわれのほうへ詰め寄りながらも、同時にわれわれを崇め恐れて、荒れさわぐ数億の羊の群れを鎮撫することのできる偉大な力と知恵とをもったわれわれを、誇りとするに至るだろう。

彼らはわれわれの怒りを見て、哀れにも震えおののいて、その心は臆し、その眼は女や子供のように涙もろくなるだろう。


しかし、われわれがちょっと合い図さえすれば、たちまち身も軽々と、歓楽や、笑いや、幸福の子供らしい歌へ移るのだ。


むろん、われわれは彼らに労働を強いるけれど、暇なときには彼らのために子供らしい歌と合唱と、罪のない踊りの生活を授けてやる。ちょうど子供のために遊戯を催してやるようなものだ。


もちろん、われわれは彼らに罪悪をも許してやる。

彼らは弱々しい力ない者だから、罪を犯すことを許してやると、子供のようにわれわれを愛するようになる。

どんな罪でもわれわれの許しさえ得て行なえばあがなえる、とこう彼らに言い聞かせてやる。


罪悪を許してやるのは、われわれが彼らを愛するからだ。その罪悪に対する応報は、当然われわれ自身で引き受けてやるのだ。

そうしてやると、彼らは神様に対して自分たちの罪を引き受けてくれた恩人として、われわれをますます崇めるようになる。

したがってわれわれに何一つ隠しだてをしないようになる。彼らが妻の他に情婦と同棲することも、子供を持つことも、持たぬことも、すべては彼らの従順であるか従順でないか、したがって、許しもすれば、とがめもする。

こうして彼らは楽しく喜ばしくわれわれに服従してくるのである。

最も悩ましい良心の秘密も、それから――いや、何もかも、本当に何もかも、彼らはわれわれのところへ持って来る。するとわれわれはいっさいのことを解決してやる。この解決を彼らは喜んで信用するに違いない。

というのは、それによって大きな心配を免れることもできるし、今のように自分で勝手に解決するという恐ろしい苦痛を免れることができるからだ。

かくてすべての者は、幾百万というすべての人類は幸福になるだろう。 彼らはおまえの名のために静かに死んでゆく、静かに消えてゆく。

そうして、棺のかなたにはただ死以外の何ものをも見いださないだろう。

しかも、われわれは秘密を守って、彼ら自身の幸福のために、永遠の天国の報いを餌に彼らを釣っていくのだ。

なぜといって、もしあの世に何かがあるにしても、とうてい彼らのごとき人間に与えられるはずはないからだ。


今わしの言ったことは実現されて、われわれの王国は建設されるだろう。

明日はおまえもその従順な羊の群れを見るだろう。

彼らは、わしがちょっと手で合い図をすれば、われがちにおまえを焼く炬火へ炭を掻きこむことだろうよ。


それはつまり、おまえがわれわれの邪魔をしに来たからだ。

実際、もし誰が、最もわれわれの炬火に焼かれるにふさわしい者があるとすれば、それはまさしくおまえだ。

明日はおまえを焼き殺してくれるぞ。

http://www013.upp.so-net.ne.jp/hongirai-san/pro/pro3.html
http://www013.upp.so-net.ne.jp/hongirai-san/pro/pro4.html

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1. 秦の始皇帝や随の煬帝に憧れた毛沢東

 林彪 クーデタ計画書 「五七一工程紀要」


「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・

彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


毛沢東の愛読書は歴代王朝の歴史を紀伝体でしるした「二十四史」だった。 毛沢東がもっとも賛嘆を惜しまなかったのは、悪名高い殷王朝の皇帝紂王だったという。

<毛の歴史観は大多数の中国人とはなはだしく異なるものであった。彼の政治観には道徳など入りこむ余地はなかった。その毛沢東が中国の歴代皇帝におのれを擬すばかりか、最高の敬意を史上最悪の無慈悲残忍な暴君のためにとっておいたことを知って、私は非常な衝撃を受けた。目的を達するためならば、どんな冷酷かつ専制的な方法も辞さない気だった>

 毛沢東の最大のお気に入りのもう一人の皇帝は、秦の始皇帝だった。ほかには則天武后や随の煬帝、西欧ではナポレオンが毛沢東のお気に入りだったという。いずれも多くの民衆に無慈悲な死をもたらした絶対権力者たちである。李志綏は著書の中で、次のように書いている。


<中国古代の宮廷における権謀術数は、マルクス・レーニン主義よりもはるかに強い影響を彼の思想におよぼしたのではないかと私は信じて疑わない。たしかに毛沢東は革命家であった。中国を作り替えてふたたび富国強兵の国家にするのが目的だった。ところが、どうやって統治すべきかの教えを、つまり最高指導部にはびこる謀議をどう操作したらよいかというガイダンスを過去に求めたわけである>

 こうした思想を持つ毛沢東だからこそ、

「自分は3億の人民を失うことも辞さない」

と演説することができたのだろう。じっさい、毛沢東が権力を握っていた時代、「反革命分子」として処刑されたのが、87万3000人余になることが中国共産党の公式記録路して残っている。

<後年の大躍進になってはじめて、つまり数百万の同胞が餓死しはじめたときになって、毛沢東が日ごろ賛嘆した無慈悲な皇帝たちにご当人がいかに酷似してきたかを、私はやっと思い知らされることになるのだ。主席は人民が数百万も餓死しつつあるのを知っていた。毛はそんなことを少しも意に介さなかったのである>


<文化大革命の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は皇帝ばりの生活をむさぼりつづけ、大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいたのである>


 このように主治医としていつも身近に仕えていた李志綏は書いている。なお、もう少し統計を補足しておこう。「大躍進」での餓死者は2215万人、「文化大革命」では13万5000人が処刑、172万人が異常な死を遂げたという。

 異常な死を遂げた中には、国家主席であった劉少奇その人までが含まれている。明日の日記で、劉少奇が紅衛兵たちにどのようなひどい待遇を受け、なぶり者にされたか報告しよう。現場を目撃した李志綏の文章を読むと、その非道さが実感される。 (李志綏 毛沢東の私生活)

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

毛沢東の私生活 李 志綏 (著, 原著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E3%81%AE%E7%A7%81%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%8E-%E5%BF%97%E7%B6%8F/dp/416730970X


この本は、22年間(1954-1976)付き添った主治医(李志綏・生家は代々清朝の主治医を勤めた)が「半神半人」と言われた独裁者・毛沢東の知られざる人間像を初めて赤裸々に描いた回想録である。

共産革命後の中国で何千万人と餓死する人間が出ようと、ぜいたくな暮らしを続けた党幹部たち。やりたい放題の生活と政治の内奥を詳しく記したものだ。


「究極のひねくれ思考」とでも、言いたくなるほど読み進むたびに、気分が悪くなる。


なんと、毛沢東は物事をすべて悪くわるく解釈して相手を陥れる。

人間らしい情の感じられない毛沢東や、妻・江青のあまりの人間的レベルの低さに読むに堪えない気持ちが大きく、途中で何度も読むのをやめようと思った。

最初にアメリカで出版されたとき、世界に大きな衝撃を与えたという。もちろん中国では発禁本である。その理由のひとつは、中国内で神格化される続ける毛主席の秘められた皇帝ぶりを白日のもとにさらしたこと。

それも死人の山を築こうとも動じない権力闘争、稚拙な経済政策、原爆戦を辞さない対外戦略などを通して覗かせた独裁者の人間性を語りつくした回想録だったことだ。


毛沢東が評価していた中国歴代帝王をみると、彼の残虐さがわかる。


殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝と言えば中国史上暴君として有名だ。
毛沢東による王者の評価基準は、殺した人数ではなく中国の統一と強大化にどれだけ貢献したかにあるらしい。

あの文化大革命で、あらゆるものが「ブルジョア的」「反革命」と標的に合い、攻撃され破壊されるなか、毛沢東の屋敷の中ではアメリカ映画が上映されたりダンス・パーティも毎週のように行なわれていた。

中国全土から選ばれた美女達が毛沢東の相手をするために集められるのだ。

気に入った女性を、料理の日替わりメニューのように寝室に連れ込む。

それが毛沢東の日常だった。


これを読むと、いったい「人民のための革命」とは何だったのか?と政治に疎いわたしも歯ぎしりし、憤懣やるかたない思いになる。


「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」の言葉を残しこの著書が発売された3か月後に、李志綏はシカゴの自宅浴室で遺体となって発見された。亡命して6年後に米市民権を得た直後だった。他殺の疑いが濃く、いまだに急死は疑問視されている。


日本人は、李白や杜甫を代表とする漢詩の世界から中国人を『文人墨客』と永年想ってきた。しかし、それは大変な誤解だったのではないかと思う。

http://d.hatena.ne.jp/mursakisikibu/20110806/1312613829


毛沢東は中国人民共和国という国家の主席というより毛帝国の皇帝という感じですね。
特製の木製の大型のベットで臥し好きな歴史書を読み耽りながら政敵の追放を画策し、気分転換にプールで水泳を楽しむのが日常のパターン。 身の回りにはお気に入りの若い女性を侍らせ、豪勢な地方巡視旅行の際にはダンスパーティ会場から気に入った女性を予め用意していた部屋に連れ込むという漁色家。

興味深いのは、毛沢東は殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝という中国史上暴君として有名な人物を評価し、李志綏に自分は聖人君子、坊主になるのはまっぴらだと普段から広言していたんですね。

江青は神経経衰弱の持ち主でお付きの看護婦には威張り散らし嫌われ者、猜疑心も強く文化革命の際には毛沢東に忠実な周恩来首相の追放まで画策するですね。面白いことに江青は毛沢東を和ますという名目でアメリカ映画を日夜上映していたんですね。

本の題名は『毛沢東の私生活』ですが、毛沢東が推進した強制的な農業集団化の人民公社推進とか農家の庭先での裏庭鋼炉設置とかの大躍進政策やのちのプロレタリア文化革命等の政治動向についても著者の知る範囲で詳述しています。性急な大躍進政策の失敗による膨大な餓死者やフルシチョフのスターリン批判を受けて政府幹部の中でも彭徳懐元帥や劉少奇、ケ小平らが大躍進政策を批判し毛沢東個人崇拝に代わる集団指導制や農民のやる気を起こさせる農業請負制の導入等が検討されるが、毛沢東がいわゆる紅衛兵を動員し江青らの四人組を指揮し文化革命を推進し清廉な彭徳懐元帥や実務能力のある劉少奇、ケ小平らを反革命主義者として糾弾していく過程を活写しています。

民主主義国家の日本の国民の一人の私としては、到底理解に苦しむイデオロギー闘争、というよりはイデオロギーに名を借りた権力闘争が行われ何千万人とか言われる多数の人々が処分処理されていったかを、知らされると唖然としたものを感じざるを得ませんね。

そして現代の中国で国民的人気のある周恩来については、李志綏は毛沢東に対する卑屈なまでの忠誠ぶりを皮肉をこめてコメントしています。

http://blogs.yahoo.co.jp/saitou602002/59466398.html

毛澤東は始終、「わしや“和尚打傘" の男じやよ」と言つてゐました。   これは闕後語 (ケツゴゴ) と言ひ、言葉遊びの一種で、言ひたい言葉の前半分だけを擧げたものです。


「和尚が傘さす」類の男だ、といふのです。

「和尚が傘をさせば」→「無髪 (=無法) 無天」


つまり、法律にも道コにも縛られぬ男だ、といふ意味です。


正しい譯語=「わしや無法者だよ」

毛澤東は 1965年 1月 9日、スノーにかう語りました。 ところが通譯はこれを直譯し、

「私は傘を持つ僧侶」とやつたものですから、


「毛澤東は、自分は破れ傘を手にした修道士だと言つた」


と傳はり、その謙虚さに、世界中から尊敬の念を集めました。  何のことはない、

「わしや無法者、これから文革で中共をひつくり返すよ」

と 文革の豫告をしただけなのに。  毛澤東は


  「少年時代には二百年生き抜き、洪水の勢ひで三千里を壓倒しようと夢想」して、 先づは真面目な  儒教的理想主義青年として思想形成し、多くの友から尊敬されますが、 禮儀正しく行動するだけでは權力は得られぬと悟り、 權力獲得に手段を選ばなくなります。

平氣で人を踏み台にしてより大きな權力を追求するのです。 
1936年作の「沁園春・雪」では、


  「秦の始皇帝もジンギスカンも何する者ぞ。 

「中國史上の眞の英雄はこの俺樣だぞ!」

と胸を張ります。  そして、權力獲得後も政治家(建設者)に轉身せず、革命家(破壞者)であり續けました。 自分の權力慾のために何千何萬もの同志をいびり殺し、何千萬もの人民を飢死させた奸雄! 

http://www.jas21.com/athenaeum/athenaeum181.htm


毛沢東主席は「皇帝であり教主」で、「思うままに人を殺した」。

文化大革命時代の青少年の熱狂と本人の満足ぶり

「皇帝はみんな、そうだった」。


「ヒトラーは外国人を殺戮」、

「スターリンは自国民を殺戮。ただし、法律的手段を用いた」

「毛沢東は、殺したいと思っただけで、自国民を次々に殺した」。

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0511&f=national_0511_025.shtml

産經新聞1994年7月18日付

 【ワシントン17日=熊坂隆光】中国で毛沢東主席が実権を掌握していた1950年から76年の間に、急進、過激な経済政策の失敗により伝えられるよりはるかに多数の人民が死亡し、文化大革命の犠牲者などを合わせると死者数は8千万人にも及ぶことが明らかになった。17日のワシントン・ポスト紙が報じたもので、毛主席にその責任があると論評している。

同紙は、この数字について中国や西側学者の研究と同紙独自の調査を総合した結果としており、具体例を挙げて数字の正確さに自信を示している。経済政策の失敗や文革の犠牲についてはこれまでも研究や報道があったが、大幅に塗り替えられることになる。

 同紙によると、死者の多くは「人災」と断定できる飢きんによる犠牲者。原因のほとんどは大躍進政策を強引に推し進め、西側に追い付こうと農業生産より工業生産を重視した毛主席の誤りとしている。プリンストン大現代中国研究センターの陳一諮氏によると安徽省の飢きん(59−61年)では、4300万人が死亡したという。

 中国社会科学院が89年にまとめた581ページに及ぶ調査資料によると、この飢きんでわが子を殺して食べてしまった例や人肉が商品として取引された例などが記録されているという。このため中国政府自身がある程度実態を把握しつつあるのではないかとみられる。

 こうした数字が事実とすると、毛主席はスターリンなどを上回る史上まれにみる残酷な指導者ということになるが、同紙は、毛主席が依然として中国で尊敬され評価されていることに疑問を呈している。


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毛沢東が共産党のリーダーになれたわけ

 こんな毛沢東が、どうして共産党のリーダーになれたのでしょうか。

 ソ連の命ずることに忠実に従う犬であったが故に、ソ連のお眼鏡にかなったためです。 そもそも、中国共産党は、ボルシェビキ(ソ連)がつくったのであり、当時の中国共産党は、ソ連の資金で運営され、あらゆる決定はソ連が行っていました。

 1920年1月にソ連が中央シベリアを確保し、支那への往来ができるようになると、ソ連はエージェント(Grigori Voitinsky)を上海に送り込み、5月に陳独秀(Chen Tuhsiu。1879〜1942年)に中国共産党を設立させます。

 この時の8名の創設メンバーの中に毛は入っていません。 毛は陳独秀の取り巻きの一人ではありましたが、まだ共産主義者ですらなかったのです。 このため、毛は後に歴史を改竄し、自分が最高幹部の一人となった翌年の1921年7月に中国共産党が創設されたことにしたのです。(以上PP19による。)

 この1921年7月は、ソ連が新たに2名のエージェント(ソ連の軍事諜報員のニコルスキー(Nikolsky)とオランダ共産党員のマーリン(Maring))を送り込んできた月です。彼らは公式に中国共産党を発足させるために、第一回共産党大会を開催させます(PP25)。

 1921年10月から1922年6月までの9ヶ月間の中国共産党運営経費の94%はソ連からのカネで賄われています(PP27)。 毛にも潤沢な資金が流れてきて、この頃から毛は豪奢な生活を送るようになり、それは生涯変わりませんでした。

 ソ連が中国共産党を設立した目的は、ソ連が奪取した外モンゴルの「独立」を認めない当時北京政府を打倒することでした。 しかし、設立されたばかりの中国共産党は力不足であったため、ソ連は中国国民党に接近し、リーダーの孫文(Sun Yatsen。1866〜1925年)に外モンゴルの「独立」を認めさせ、引き続き国民党を意のままに動かすため、中国共産党員達に国民党への加入を促します。 当然、共産党の中からは強い反発が起きます。

 しかし、この指示に忠実に従ったほとんど唯一の共産党幹部が毛だったのです。

 1923年、国民党と共産党を指導するためにソ連はボロディン(Mikhail Borodin。1884〜1951年)を送り込んできます。 ボロディンは国民党を共産党のような組織に作り替え、1924年、最初の党大会を開かせ、毛を始めとする多数の共産党員を送り込みます。そして、国民党にもソ連の資金を潤沢に投入し、国民党軍を錬成し、士官学校を設立します。

 毛は例によってボロディンに取り入ることには成功するのですが、共産主義理論に大した関心を示さず、しかも、教宣活動を全くといってよいほど行わず、他の共産党員と同志的な対等な関係を築こうとするどころか、常に独裁者然としていた毛への反発が強まり、毛は、1924年から25年にかけて、党中央を逐われてしまいます。 この時のことも、毛は中共の公式史から抹殺しています。 (以上、PP31〜34による。)

 その毛を救ったのが、国民党幹部であった、そして日華事変の時に親日政府を樹立することになる、あの汪兆銘(Wang Chungwei。1883〜1944年)であったのは、歴史の皮肉以外のなにものでもありません(PP37)。

http://blog.ohtan.net/archives/51115860.html
http://blog.ohtan.net/archives/51116597.html


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新たな毛沢東の伝記の出版


1991年に上梓されたワイルド・スワン(Wild Swans)という世界中で1000万部以上売れたベストセラーの自伝本の著者であるチャン(Jung Chang。支那出身)と彼女の夫のハリデー(Jon Halliday。英国人で歴史学者)の共著、Mao: The Unknown Story, Jonathan Capeが、7月2日に発売された。 この本の内容のさわりをご紹介しましょう。


 毛沢東はヒットラーやスターリンに匹敵する悪党であり、この二人以上の惨害を人類にもたらした。にもかからわず、世界はこの人物について余りにも無知であり続けた。 毛沢東伝説をつくったのは、毛沢東にインタビューしてそのほら話を額面通り信じたエドガー・スノー(Edgar Snow)だ。彼が1936年に上梓した毛沢東の半生の伝記である「中国の赤い星(Red Star Over China)」の内容は殆どがウソであり、スノーの責任は大きい。

 毛沢東が支那の最高権力者であった27年間に彼のために命を落とした人は少なく見積もっても7,000万人をくだらない。しかも、この数字には朝鮮戦争における人民解放軍がらみの死者を含まない。平時において7,000万人を殺すなど、人類史上空前のことだ。

 毛沢東は、ゲリラ戦略家でも共産主義思想家でも貧農の友でも先見の明のある政治家でもなかった。それどころか、決して雄弁家ではなかったし、オルグとしても凡庸だった。彼が支那における共産主義の父であるなんて悪い冗談だ。

 彼は、ソ連の意向に添うことに汲々とし、ソ連の全面的な支援のおかげで支那の最高権力者になることができたのだ。(そもそも、中国共産党自体、ソ連の工作でできたものだ。)

 毛沢東は、いかなるイデオロギーも全く信じておらず、支那に社会主義のユートピアを建設しようなど露ほども考えたことがない。彼にとっては、平等主義は唾棄すべきものであり、彼が口先だけでは称えていた貧農に対し、破壊的政策を繰り返し行って恥じなかった(注4)。彼が関心を持っていたのは、自らの個人的権力の追求だけだった。支那も支那の住民も彼にとってはその手段以外の何ものでもなかった。


 (注4)一回目は、1920年代末から1930年代初にかけて、毛沢東が農村地帯でゲリラ戦を行っていた時のことだ。当時共産党ゲリラの食糧は貧農達からの徴発でまかなっており、貧農達を塗炭に苦しみに陥らせた。


彼は、人がいくら死のうと無頓着であり、自らの個人的権力を追求する過程で殺人を厭わず、人々の死への恐怖心をもてあそんだ。彼は、人々が拷問されたり虐殺されたりするのを見物するのが趣味であり、文化大革命当時には、文革における暴力的衝突や拷問の場面を撮影したドキュメンタリーを好んで鑑賞した。人の弱みを握ってその人物を意のままに動かすこともまた彼の得意とするところだった。

毛沢東がいかなる人物であるかは、彼が密かにある本の余白に書き記した以下の文章が物語っている。

「他人のためを考えて自らの行動を律せよ、といった道徳観などクソ食らえだ。

私のような人間は、・・自分の欲求をとことん満たそうとする。それこそが最高の道徳律だ。

この世界には様々な人やモノがあるが、それらはことごとく私だけのために存在しているのだ。・・

私のような人間は、義務は自分達に対してだけ負っているのであり、他人に対しては何の義務も負っていない。」


こんな毛沢東の人類へのユニークな「貢献」は、全く新たな恐怖統治手法を編み出したことだ。

延安時代(後述)に彼は、人々に自己批判や他人の批判を強要し、「悪行」の告白や告発を導く、という手法を始め、後にこれを支那全土に広めた。

毛沢東は、全支那の権力を掌握すると今度は世界の制覇をねらい、そのためにいかなる犠牲をも厭わずひたすら核兵器の獲得を追求した。


 毛沢東は支那の最高権力者であった間、酒池肉林の生活を送った。

(風呂嫌いで25年間風呂に入らなかったが、)彼は中共各所に50箇所以上専用別荘を持っていた。もっとも、これは臆病者の毛沢東が、米国やソ連による爆撃を恐れ、居場所を隠したかったからでもある。

 グルメの彼は、1000キロ離れている揚子江沿いの武漢から北京の本宅まで、せっせと新鮮な川魚を運ばせていた。

相次いで4人の妻を娶った彼は、高齢になってもなお無数の情婦や一夜妻と情交に勤しんだが、これらの妻や情婦及び自分の息子や娘に対し、一欠片の愛情も懐いていなかった。毛沢東は、長征(Long March)の途次、生まれたばかりの彼の息子を放置して殺すように命じている(注5)。

 (注5)ヒットラーだって、自分の飼っていた犬や他人の子供には優しかった。金正日だって自分の子供達はかわいがっている。毛沢東が人並みの家族愛を持っていたら、恐らく「皇帝」毛沢東(コラム#204)は毛王朝の創始者となっていたことだろう(太田)。

 毛沢東は中国共産党ができてから一年後の1921年に共産党に入党した。

 スターリンによってゲリラ戦をやれと命ぜられた中国共産党は、襲撃による金集めをしながら、国民党相手のゲリラ戦を始め、その中から毛沢東は頭角を現わす。

 国民党軍に敗れた共産党軍は1934年に長征を始めた時点で80,000人(公式には90,000人)の兵力だったが、延安に到着して長征が終わった1936年には4,000人(公式には20,000人)に減っていた。その減耗分の少なからざる部分が毛沢東が行った物理的粛清によるものだった。

 長征が成功したのは、一にかかって蒋介石(Chiang Kai-shek)のおかげだ。蒋介石は、共産党軍を深追いして、国民党支配が確立していない地域で軍閥と衝突することは得策ではないと考えた。しかも、蒋介石は、息子の将経国(Chiang Ching-kuo)がソ連国内で実質的に人質とされていたことからも、共産党軍を壊滅させてソ連の逆鱗に触れることは避けようとした。それどころか、蒋介石は、長征路の所々に食糧を満載した付近の詳細地図つきの無人トラックを配置し、共産党軍を手助けした(注6)。


 (注6)中共の公式説明:「共産党の紅軍は戦力保持のため、十数倍もの敵の包囲を振りきって、根拠地の江西省瑞金や福建省西部から、戦略的な大移動を行いました。まず西進、そして北上と迂回曲折して、11の省を通過、2万5000華里(1万2500キロ)を踏破して、ちょうど一年後の35年10月、陝西省北部に到達し、新たな根拠地を建設したのです。」


 長征の過程における有名な、大渡河(Dadu River)渡河英雄譚は、事実と違うどころか、全くの捏造だ。瀘定橋での戦いなどはなかったし、そもそもその付近に国民党軍は一兵もいなかった(注7)。


 (注7)中共の公式説明:「長江の支流・大渡河での話です。怒涛さかまく大渡河を迅速に渡るには、一刻も速く瀘定橋を奪い取らなければなりませんでした。瀘定橋は大渡河を渡る唯一の橋でもあったのです。そこで紅軍は瀘定橋の奪取作戦に出ました。しかしその橋とは?それは、16本のチェーンをかけ渡しただけの、長さ百メートルあまりの吊り橋でした。橋げたにはもともと横板が敷かれていたのですが、橋の中心から半分はすでに敵に取り払われた後でした。瀘定橋を渡った敵が、横板を外して逃げたのです。東岸の橋のたもとには機関銃を装備した敵の陣地があり、その後方を増援部隊が守っていました。上空には敵機が飛び交い、命懸けの作戦でした。しかし、25歳にも満たない兵士22人が、突撃隊を志願したのです。そして激戦の末、瀘定橋を奇跡的に奪取したのでした。」(peoplechina上掲)


 そうは言っても長征は共産党軍の一般兵士にとっては過酷極まる行軍であり、だからこそ前述したように粛清とあいまって大部分が命を落としたのだ。  しかし、毛沢東を初めとする共産党幹部達の中に、長征の過程で命を落とした者は一人もいない。それもそのはずだ。彼らは一般兵士に担がせた籠に乗って移動したからだ。

 延安で毛沢東は、資金調達のためにケシを栽培して麻薬の製造と共産党支配地域外への販売を盛んに行い、現在のドル表示で6億4,000万米ドル相当の売り上げを達成している。

 1936年の西安事件(コラム#178、187、234、256、290、292、353)は、張学良(Chang Hsueh-Liang)が蒋介石に代わって国民党の主席になろうとして起こしたクーデターであり、毛沢東は張学良に蒋介石を殺せと言ったが、国民党が弱体化し、日本が後顧の憂いなくソ連に対峙することを恐れたソ連が介入し、蒋介石は命を長らえ、毛沢東の意に反して国共合作がなった。

 毛沢東は日支事変勃発を喜び、日本軍と国民党軍とを戦わせて国民党軍を消耗させる一方で共産党軍は日本軍と基本的に戦わせず、共産党軍の温存を図った。それどころか毛沢東は、日本の諜報機関と密かに長期にわたって協力し、日本軍に国民党軍を叩かせた。だからこそ、中共が支那の権力を掌握した後、毛沢東は日本からの訪問者達に対し、仮に日支事変が起こっていなかったとしたら、まだ共産党は山奥を彷徨していただろう、と彼らに謝意を表明したのだ(注8)。


 (注8)毛沢東は、日本軍が引き起こした1937?38年の南京事件に対し、一貫して何の関心も示していない


さて、そもそも共産党が長征で陝西省をめざしたのは、ソ連の近くを根拠地にして、ソ連の大規模な支援を得るためだったが、これに完全に成功したのが、日本の敗戦後の1947年から1948年にかけて満州においてだった。

 ソ連は日本の残した満州の重工業施設を中国共産党に引き渡し、更に日本軍捕虜数万人を中国共産党に送り込み、共産党軍の訓練にあたらせるとともに、共産党軍の空軍の設立を手伝わせた。日本軍捕虜の中には、共産党軍とともに国民党軍と戦わされた人々もいる。

 1946年の夏に米国が国民党と共産党との間に入って4ヶ月間の休戦を実現したことが、共産党の最終的な勝利につながった。この間共産党軍は、ソ連から大規模な軍事物資等の支援を得て、態勢を全面的に整備することができたからだ。

 こうして1948年までには中共は1億6,000万人の人口を支配するに至った。富農や地主は抹殺されなければならないものとされ、その時点までに、数十万ないし100万人の富農や地主が殺害されるか自殺に追い込まれた。

 1950年1月の中共軍のチベット侵攻・占領とそれに伴う強制的同化政策は、チベット人男子半分に死をもたらした。

 また毛沢東が、同じ年の10月に中共軍を朝鮮戦争に介入させたのは、米軍との戦いで中共軍に天文学的な損害が生じることを承知の上で、スターリンにゴマを刷り、中共の軍需産業建設にソ連の一層の支援を取り付けることを目論んだためだ。

 1958年8月の金門(台湾)攻撃は、中共のために米国との間で核戦争に引きずり込まれることを回避したいソ連から核兵器技術を獲得するためだった(注8)。

 (注8)毛沢東は金門攻撃の折りに主治医李志綏に「台湾の存在は国内の統一の維持に役立っており、金門、馬祖も奪う必要はない。」と語っている。


 また毛沢東は、ベトナムに対米戦争をエスカレートさせることを促したが、これは米国をベトナムにかかりきりにさせることで、中共の核施設に対する米国の攻撃を回避するためだった。

 毛沢東の号令一下で始まった大躍進政策(Great Leap Forward。1958?59年)は未曾有の大飢饉をもたらし、4年間で3800万人の餓死者を出した(注9)(注10)。


 (注9)毛沢東は、「当時世界第2位の経済大国であったイギリスを追い越すという壮大な計画を立て、市場原理を無視して人民に厳しいノルマを課し、ずさんな管理の元で無理な増産を指示したため却って生産力低下をもたらした。この時、無理なノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増した成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていったのである。また・・経済や生態系のシステムを無視した、単純かつ一面的な計画を押し付けたことも、甚大な被害を招いた。・・


有名な失敗例を挙げると、鉄鋼の大増産を目指して原始的な溶鉱炉を用いた製鉄が全国の農村で展開されたが、使い物にならない粗悪品しか産出されず、資源を無駄に浪費する結果となった。しかも農民が大量に借り出されたため、管理が杜撰となった農地は荒れ果ててしまったし、ノルマ達成のために農民の保有する鍋釜、農具まで供出されたために、地域の農業や生活の基盤が破壊されてしまった。

さらに、農作物を食い荒らすスズメは悪者だとして、大量捕獲作戦が展開されたが、害虫が大量発生し、農業生産は大打撃を被った。スズメは、農作物を食べるが、同時に害虫となる昆虫類も食べ、特に繁殖期には雛の餌として大量の昆虫を消費している。生態系のバランスを無視した結果であった。・・

また、ソ連からの借款(ソ連からの武器の購入や核兵器の開発のためのもの(太田))の返済に農作物を充てていたことも、極端な食糧不足につながったという指摘もある。」毛沢東は大躍進政策失敗の責任をとって1959年、国家主席を辞任した。大躍進政策については中共の教科書には一切書かれおらず、また、大躍進政策関係の用語はインターネットで検索できないような措置がとられている。


 (注10)大躍進政策を始める直前の1957年には毛沢東は百花斉放(Hundred Flowers Campaign)を唱え、検閲を緩和し、中共権力への建設的批判を許した。しかし、批判の噴出にたじろいだ毛沢東は、再び弾圧に転じ、300,000人もの知識人が殺害・投獄・解雇・再教育の対象となった。

 
 毛沢東の生涯の最後を飾るのが、文化大革命の破壊と大殺戮であったことはご承知の通りだ。


トウ小平が、ああも簡単に共産主義を投げ捨て、資本主義へと舵を切れたのは、毛沢東同様、トウ小平自身、イデオロギーなど全く信じておらず、あるのは自らの権力追求欲だけだった、と解すれば不思議でも何でもなくなります。

ですから、そのトウ小平が指名した江沢民や、トウ小平の遺志により江沢民の跡を襲った胡錦涛ら中共の独裁者達には、われわれは一切幻想を抱かない方がよさそうです。いずれにせよ、毛沢東という人物がわれわれに物語っているのは、一つには絶対的な悪が勝利することがあるということです。

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我こそが真の皇帝なるぞ!

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毛沢東の中国:大いなる実験

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1872962
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1873005
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1873039
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1873098
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1873128


民衆が語る中国 紅衛兵誕生へ

http://www.youtube.com/watch?v=6pdb9fLdPqc
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=52DwLVNJAYA
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=iyn1hXKj810
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=D2cKzkMSAy8
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=O10opr8Z0C4

民衆が語る中国 造反有理の嵐

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民衆が語る中国 下放・若者大移動

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http://www.youtube.com/watch?v=CSGwpkvTrXo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=HbpDKFSvdUs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=khNHmTGKMC0&feature=related


民衆が語る中国 改革開放への胎動

http://www.youtube.com/watch?v=yQANaEcqRPE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=f2shYnaBtWg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Ih8SC0WVMVc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=D8PdarQDLYE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=YF4Zj-C5ZGQ&feature=related


毛沢東・建国 そして 大躍進

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3319408
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3320602
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3321437
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3321503
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3321576


文化大革命 40年後の証言

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244002
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244026
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244047
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244069
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244086
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244108
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244136
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244160
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244181
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3244202


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毛沢東は呪われたものとなった


芙蓉鎮

http://www.amazon.co.jp/%E8%8A%99%E8%93%89%E9%8E%AE-%E5%85%A8%E9%95%B7%E3%83%BB%E5%85%AC%E9%96%8B%E7%89%88-DVD-%E8%AC%9D%E6%99%8B/dp/B000GETXR6

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8807762
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8809932
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8814407
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8816141
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8816911
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8818644
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8821276
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8825013
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8825693


言わずと知れた中国映画の最高傑作で,文革の悲劇を正面から描いた初めての作品。文革という狂気の嵐が地方の小さな町で如何に荒れ狂い,善良な人々を悲劇のどん底に落としていったかを,小さな料理屋を営んでいた一人の女性・胡玉音の受けた幾多の苦難を通して描く。その嵐の中を耐え忍びながら生き抜いた彼女の感動の物語でもある。

1963年(文革が始まる少し前),芙蓉鎮という小さな町。市が立つ日に玉音(ユイイン)が夫の桂桂と開く米豆腐屋は大繁盛し,彼女は町の男たちの人気の的にもなっていた。国営食堂の女店主・李国香はそれをずっとねたんでいて,その後,しばらく町を離れていたが,県の政治工作班長に昇格し「四清運動」の指導のために再びこの町に戻って来たときに,国香(グオシアン)は集会で玉音夫婦をブルジョア分子と決め付け,玉音を援助する仲間たちをも批判の対象にするのだった。

玉音は,汗水流して一生懸命働いて貯金もし,家も新築した自分たちがなぜ非難されなければならないのか納得がいかず,「ひき臼の柄がすり減るほど,鍋底に穴があくほど働いたのよ。私たち人を搾取した?」と夫に泣きながら訴える。

難を逃れるため一時,田舎に避難していた玉音が町に戻ってみると,夫は処刑され,玉音を支援してくれていた仲間たちも職を奪われたり自己批判させられていた。さらに,新築の家と1500元の貯金も没収されていた。
そして1966年に文革が始まると,「新富農」と認定されていた玉音は,労働改造のため右派分子の秦書田と一緒に早朝の道路掃除をさせられることになる。

秦(チン)と玉音は雨の日も雪の日も毎日毎日,朝早くから石畳の道を竹ボウキで掃除し続ける。玉音は党の命令に従い決められた掃除をして,毎日を耐え忍ぶことしかできない。一方,秦は”♪1,2,3・・ ♪1,2,3・・”と踊りながら道を掃く。これが秦のできる,文革に対しての唯一の「反抗」だった。玉音は秦の人柄をだんだんと理解し,いつしか二人の間に愛が芽生える。

しかし,文革は愛し合う二人の間をも容赦なく引き裂く。玉音が身ごもったため秦は党に結婚嘆願書を出すが受け入れられず,逆に反革命分子として裁判にかけられ,秦は懲役10年の刑に処せられることになった。判決のシーンがこの映画のハイライトで,絶望した玉音を勇気付けるために秦があの有名なセリフを言う。「生き抜け。ブタのように生き抜け。牛馬となっても生き抜け。」と。文革当時,身に覚えのない理由で投獄されたり迫害された数多くの人たちは,本当にこう思いながら耐え忍んだのだと思う。

その後,玉音は前と同じように道路掃除をしながら,秦の帰りを待ち続ける。そして,1979年,文革が終了して3年経ち,玉音と秦の名誉も回復され,玉音は新築の家と貯金を返してもらい,また元と同じように米豆腐屋を今度は秦と始めるのだった・・

ハッピーエンドで終わったかに見える転回に,謝晋監督が皮肉を入れている。秦が,出所して町に帰るために乗り込んだフェリーボートの中で偶然国香に出会うところだ。文革前や文革中に,町の革命派のリーダーとして好き勝手に人々を苦しめた国香は,文革後も,失脚することなく,逆に県の幹部から省の幹部に昇格していた。きまり悪そうな国香は秦に「同志」と呼びかけるが,秦は「私も同志ですか?そう呼ばれちゃ面食らっちゃうな」と笑い飛ばす。文革の責任の所在,本当の総括はまだ終わってないよと謝晋監督は当局に訴えたかったのだろう。

(1987年上海映画製作所/監督:謝晋/出演:劉暁慶,姜文,徐松子(李国香),劉利年(桂桂)/サロンシネマ,2000.12.8renewal)

http://www.enjoy.ne.jp/~shinji-n/eiga-3.htm

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    `/l ̄V''ーv l_ し'"V   / ヽ
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      |       rニヽ,       |   < 何故かって?
     |     lニニニl      /      最後の皇帝 毛沢東を見れたからです
      \           /       
         `ーァ---──'''"ヽ,        ハッピー
        / / l,  i ヽ ` \

THE LAST EMPEROR 1987年

監督 ベルナルド・ベルトルッチ

キャスト

ジョン・ローン(男優) 愛新覚羅溥儀
ジョアン・チェン(女優) 婉容
ピーター・オトゥール(男優) レジナルド・ジョンストン
坂本龍一(男優) 甘粕正彦
リック・ヤング(男優) 戦犯収容所尋問官
リサ・ルー(女優) 西太后


http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88-%E5%88%9D%E5%9B%9E%E7%94%9F%E7%94%A3%E9%99%90%E5%AE%9A%E7%89%88-DVD-%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%81/dp/B0015L8744/ref=pd_cp_d_0


http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848058
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848416
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3848887
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3849043
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850745

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3850827
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851394

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851544
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851686
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3851887

ベルトルッチか。

2人の后とベッドで戯れる…紫禁城の衛兵にダンスパーティー〜実に絢爛豪華。阿片を吸って足を舐められる婉容の絵は妖しい…ってか、いきなり収容所で自殺未遂なのだが…

ラストエンペラーが突然消えて、幼い頃の虫籠から生きたクリケットが出てくる…実にファンタジーな幕引き。

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=24562#2


ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『ラスト・エンペラー』を見た時、終わりの方で意味不明なシーンに出くわしました。

1945年8月9日、ソ連が日本に宣戦布告。8月15日、日本は無条件降伏します。ソ連軍は満州に殺到し、日本へ脱出しようとしたラストエンペラー「溥儀」は、長春の空港でソ連軍兵士に捕えられ捕虜となりました。中華人民共和国建国後、その身柄はソ連から中国に引き渡され、撫順の戦犯管理所に入れられ思想改造を施されます。10年間の収容所生活を送った後、1959年に特赦を受けた溥儀は、皇帝から一市民となり、園丁として北京植物園に勤務することになりました。 問題のシーンはここからです。

1967年、町へ出た溥儀は若者達のデモを見かけます。人民服を着た若者達は腕に赤い腕章を巻き、赤い手帳を掲げて何やらシュプレヒコールをしています。中には、毛沢東の大きな肖像画を掲げている者、赤い旗を振り回している者もいます。

行列の半ばに、白い紙で作った三角帽子を被せられ、反革命分子と書かれたゼッケンをつけて連行されている人々がいました。溥儀は、その中に撫順の収容所所長の姿を見つけます。思わず走りよって、連行している若者に

「同志よ、何かの間違いだ。彼は善良な人だよ。何をした?」

と問いかけます。周囲の若者が

「犯罪だ」
「皇帝に追従した」
「反動だ」
「罪を告白しろ」
「毛主席に礼を」


と口々に叫びながら所長を跪かせようとします。割って入った溥儀は

「この人はすばらしい教師だ。ひどい仕打ちだ。いいか、立派な先生なんだ」

と食い下がりますが、若者達に突き飛ばされて道端にうずくまりました。

http://home.catv-yokohama.ne.jp/cc/hitomi/100satu/wairudo/wairudo.htm

            _ -‐ァ                   __
       (三ニニL.                   _j‐-.三)
       {:::rj  !                   `ト、::::::j
      _ノ==-く                     ,)ーヘ、
     / {    _,.)                    r=, ̄ ̄ヽ、
.     L-!     | (|                     | |    ハ
    丁 |    Lニ|                /、_j  i   L.|
     | ,ハ____l l                    !`7′ !  |「 |
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     ` !:::::i:::::::i|                    〉′l:::::::::i::::::| L!
.        |:::::i:::::::::!      ξノノλミ      | . |:::::::::!:::::|
      l::::::〉:::::/     ξξ`Д)     |   !::::::::!:::::!
      |:::/:::::/         {    ` ヌ.___ノ    !:::::::i:::::|
      |/:::::/        |i   「`´          |:::::::i:::::|
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      `ー一′        | l 〈_         |:::::::ト-′
                  `'ー′         └‐┘

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    く/二二,'ヽ>
    ((ハイ))|l|
    从`Д´iリ|
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2. 中国最後の皇帝 毛沢東のした事


中国の現代史を振り返ってみて、そこに浮彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。

平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」によると、中国共産党の専制支配による犠牲者は6500万人だそうだ。  これはヒトラー・ナチズムによる犠牲者2,500万人をはるかに上回って、断然人類史上最悪の数字だと言える。ちなみに悪名たかいカンボジアのポルポトによる犠牲者は200万人だから、その30倍をこえている。  毛沢東は、

「1949年から54年までの間に80万人を処刑した」


と自ら述べているが、周恩来もこれを受けて、1957年6月の全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと公式に報告している。その後、悪名高い大躍進運動や文化大革命が起こって、2000万人以上が死に追いやられ、その間の失政で、2,000万人から4,300万人がさらに餓死しているらしい。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


中国共産党が殺した中国人の数は実に8千万にのぼる。間違いなく中国共産党は人類史上最悪の殺人集団といえよう。

 1949年10月1日に中華人民共和国が建国されたとき、多くの人民は期待と希望に胸を膨らませたことであろう。だが建国とほぼ時期を同じくして、6億の人民の淡い期待はたちまち恐怖へと変わる事になる。

 中国共産党は政権を握ると早速土地改革を実行に移した。土地改革はすでに抗日戦争や国共内戦時代から根拠地で行われていたが、政権獲得後は全国で虐殺と略奪の嵐が荒れ狂った。土地改革とは表向き地主や富豪から土地と財産を没収し、貧しい農民に分配するというものだ。中国共産党は土地改革により、暴利を貪る地主の搾取から農民たちが解放されたと自画自賛しているが、実態はどうであったかを以下に見て見よう。

 共産党は土地改革を行うにあたり、破落戸たちから積極的に情報提供などの協力を得ることにした。破落戸とは日本語では「ごろつき」という読ませ方をする(ほかにも「ならずもの」とも読む)。要するに素行が悪く、人間性の欠如したチンピラのことだ。そして破落戸は、生活が豊かで、財産と文化的教養を身に付けた地主や裕福な家庭に憎しみを抱いている。そういうこともあり、毛沢東は破落戸こそが農村革命の勇敢な参加者と位置づけたのだ。

 土地革命は次のような手順で行われた。家族が朝食をとる時間を見計らって共産党軍が地主の家に乱入し、家族全員を一箇所に監禁し、金銭、金品、土地の所有証書などを徹底的に略奪。見つからなければ地主を拷問して場所を聞き出す。奪うだけ奪いつくすと、地主及びその家族を広場に引きずり出して、村人たちに裁判を開かせる。この裁判でも破落戸たちが協力している。破落戸たちは地主の罪状を次々とでっちあげて糾弾する。そして死刑判決が下される。地主を地面に跪かせてライフル銃で射殺する。脳みその半分は飛び散ってしまう。

このような殺戮が中国国内のありとあらゆる村で行われた。中国共産党が掲げた「一村一焼一殺」という方針により、1952年までに240万人の地主や富裕層が虐殺された。命は助かったが財産と家屋を略奪されたものも400万人近くにのぼった。建国前に革命根拠地で行われていた土地改革では地主の家屋までもが破壊されたが、建国後の土地改革では地主の家屋は共産党の支部として利用するために温存された。

 こうして土地改革により、中国共産党は全国に共産党の支部を設立し、地主から金品や財産を略奪し、6億の人民に恐怖心を植え付けるという成果を収めたのである。


 土地改革と同じ時期に鎮反運動、いわゆる「鎮圧反革命分子運動」が開始された。1950年10月10日、毛沢東は「反革命活動鎮圧に関する指示」を発令し、それに基づき1951年2月21日、中国共産党は「懲治反革命条例」を制定した。「匪賊、悪党、スパイ、国民党員、反動的団体の幹部、反動的セクト組織のリーダー、麻薬反」などが鎮圧の対象とされた。だが裁判や刑執行に関する法律が全く不明確で、なおかつ
毛沢東は全国に殺害のノルマを制定した。

「人口の千人に一人以上」

というものだ。なぜ千人に一人という数字なのかは不明であるが、毛沢東が気まぐれで、これだけ殺しておけば人民に恐怖を受え付けることができると判断したとしか解釈しようがない。こうして中国全土で殺人の嵐が吹き荒れた。まず各地の共産党組織が人民代表連合大会という動員大会を開き、群衆たちに反革命分子を告発させる。それに基づき公安が告発された反革命分子を一斉に逮捕する。即座に人民法廷が開かれ、その場で死刑を言い渡し、即座に銃殺する。

 処刑された人たちの罪が、死刑に価するかどうかなどは、中共にとってどうでもよい問題である。《中華人民共和国反革命分子を懲罰する条例》によると、「デマを飛ばす」ことさえも、即時死罪にすることができるのだ。実際のところ、千人に一人の犯罪者を探すことなど容易なことではなく、ほとんどの人々は匪賊にもスパイにも反革命活動にも心当たりがないまま告発され、処刑された。

 1951年10月まで続いた鎮反運動により、71万人が虐殺され、そのほかに129万人が逮捕された。中華人民共和国建国からわずか2年で、中国共産党は土地改革と鎮反運動によって300万人の大虐殺を行ったのである。

 鎮反運動と土地改革が一通り終わってからわずか3年後の1955年、中国共産党は粛反運動(粛清反革命分子運動)を繰り広げた。実態は鎮反運動とほぼ同じである。この運動で逮捕されたのは130万人。そのうち処刑されたものは8万人に上った。普通の国であれば短期間で8万人が虐殺されれば、その国の歴史にとって最も暗黒な時代として記憶されることであろう。しかし中国共産党暴虐独裁政権にとって8万人の虐殺ぐらいは日常茶飯事であり、大きく取り上げるほどのことではないのである。

 人民を恐怖に落としいれ、全国で虐殺の限りを尽くした中国共産党の残虐行為はこの程度で留まることはなかった。さらに大規模で残虐な無差別大量虐殺が中国全土を襲うことになる。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui06.htm

 1953年にスターリンが死んだ後、その後継者となったフルシチョフは1956年2月のソ連共産党第20回大会で、スターリン支配下の個人崇拝と不法な抑圧や処刑を批判した。いわゆる有名な「スターリン批判」の始まりである。

 毛沢東はこれに驚いた。なぜなら、彼こそ中国のスターリンであり、スターリン批判は、そのまま毛沢東個人崇拝への痛烈な批判になりかねないからである。事実56年9月の八全大会は、基本的にソ連共産党第20回大会の新政策を是認し、党規約からは「毛沢東思想」という言葉が消えた。これを主導したのは、党内序列のNo2とNo3を占めていた劉少奇とケ小平である。

 焦りを覚えた毛沢東は先手を打って、人々から自由な意見を求めるとした百家争鳴・百花斉放運動を始める。ところがこれが裏目に出た。中国共産党や毛沢東に対する批判がさらに吹きだしてきたからである。これに不安を覚えた毛沢東は、態度を一転して、彼を批判する者はプロレタリア革命に対する敵対者だとして、「反動者」のレッテルを張り、弾圧した。これが有名な「反右派闘争」と言われるものである。

 さらに1958年、毛沢東はソ連やアメリカに対抗するため、中国の国力の「大躍進」を掲げて、急激な工業化・農業の集団化など無理な政策を推し進めた。その結果、食糧生産力が破局的に低下、中国全土に大飢饉が発生。この飢饉による死者は何千万と言われ、日中戦争(約2000万)を数倍する被害を出した。

 これにはさすが身内からも多くの批判が起こった。1959年4月、毛沢東は国家主席および国防委員会主席を退き、党務に専念することとなった。フルシチョフのスターリン批判から3年を経て、中国共産党も毛沢東の個人崇拝からおもむろに劉少奇、ケ小平、周恩来を中心とする「集団指導体制」へと、政治機構の近代化を遂げるかに見えた。

 ところが、毛沢東はこの変化をよく思っていなかった。59年から62年にかけては新国家主席劉少奇を中心に、経済復興がはかられ、ようやく安定化へ向かいかけており、劉少奇の現実路線を支持する人々は、ケ小平をはじめ、党中央、政府機関のなかでも圧倒的多数をしめていた。これが毛沢東の孤立感をさらに深めた。

 そこでこれに対抗するために、毛沢東は65年10月北京を脱出し、上海において「プロレタリア文化大革命」を発動した。劉少奇路線のなかにソ連におけるような党官僚主義、専門家尊重、経済主義的偏向があるというのである。その後、中国がどんな悲惨なことになったか、説明するまでもないだろう。

 こうした中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


毛沢東の復讐


 フルシチョフのスターリン批判は中国共産党をもゆさぶった。その直後、1956年9月に召集された第8会党大会で、集団主義指導体制、個人崇拝の禁止などが確認され、中国はようやく近代国家としての歩みを始めるかに見えた。 そして、この新しい中国を主導する星は、この大会で国家主席に選ばれた劉少奇と、党総書記に選ばれたケ小平であった。この二人を両輪として、中国は近代化の道を歩もうとしていた。しかし、これをよく思っていなかったのが毛沢東だった。

<フルシチョフ演説にならった集団指導体制の賛美は、とりわけおだやかならざるものがあった。もし党が集団指導体制の原則に固執すれば、全党員は対等の関係になり、重要問題はすべて合議制で決定しなければならなくなる。そうなると、いきおい毛沢東の役割は縮小されていく。が、当の毛はあくまで最高指導者としてのポストにとどまりたかった。そのためには個人崇拝がどうしても不可欠だった>(李志綏「毛沢東の私生活」より。以下同じ)

 この決定に侮辱を感じた毛沢東は、これに反撃すべく行動を開始する。その手始めに考えたのが、「百花斉放・百家争鳴」運動だった。これは知識人を使って党を自由に批判させ、劉少奇とケ小平が指導する党指導部を解体しようという作戦である。

 多くの知識人はおそらく自分の意を汲んで、党の指導部を攻撃するにちがいないと毛沢東は読んでいた。ところが結果は思わぬことになった。知識人の攻撃は党の指導部だけではなく、党そのものの存在に向けられ、ついには毛沢東そのものに向けられ始めた。共産党は僧院のようなもので、毛沢東はその僧院長だというのである。知識人を使って政敵を打倒する作戦は完全に裏目に出た。

<毛沢東はむろん衝撃を受けた。批判が自分に向けられるようにした覚えが全然なかったからであった。また機関として党が攻撃されるようにし向けたつもりは毛頭なかった。会う人ごとからお追従をいわれるのに慣れていたし、真の敵は抹殺されるか投獄してあると確信していただけに、毛は知識人がいだく不満の深さに気付いていなかったのである>

<毛沢東は大変な計算違いをしたのだった。ベッドに伏せたきりふさぎこみ、どうやら行動の自由を失っているうえ風邪もひいていたし、外部の攻撃が激化しつつある最中に私が呼び戻されたのだ。毛沢東は戦略を練り直し、復讐の手だてを思い巡らしつつあった。毛は憤懣やるかたなかった>

 1957年6月8日、人民日報は「これはどうしたことか」という毛沢東の文章を社説に掲げた。知識人に期待することが出来ないと気付いた毛沢東は、自分の作戦を遂行することができるのは、大衆のみだと気付いた。この社説で、ひとにぎりの分子が社会主義政権の転覆を計ろうとしていると非難した。そして、彼等に対する反撃を開始するようにと人民大衆に訴えた。

 知識人を使った作戦が失敗に終わったことを知った毛沢東が次に考えたことは、一般大衆を使うことであった。彼等の間に毛沢東にたいする個人崇拝を根付かせ、熱狂を呼び覚ますこと。この作戦はまんまと成功した。それが「文化大革命」だった。
<全土は毛沢東のバッジをつけて「毛沢東語録」をたずさえ、小冊子にある言葉を暗唱した。商店での単純極まりない買い物をするときでさえ毛沢東語録の暗唱を要した。毛の肖像画はいたるところにあった。全土の何千万という人々が肖像画の前で礼拝し、日々の指示を仰ぐことで一日をはじめた。・・・・

 毛沢東の「大躍進」政策は人類史上でも最悪の飢餓をもたらした。今日ではその期間中に少なくとも2千5百万か3千万人、もしくは4千3百万人が死亡したといわれている。さらに毛沢東の「文化大革命」は中国を大混乱におとしいれ、生命も家族も友情も、そして中国社会の骨組みまでも破壊してしまったのである。

 国家主席の劉少奇は、毛沢東が第8回党大会の誤りとみなす責任をそっくりおしつけられ、1968年10月に追放されたばかりか、党を除名されたうえ虐待の限りをつくされた。翌年4月の時点で、劉少奇の消息は一切わからなくなっていたし、知ろうにも怖くてだれにも聞けなかった。第9回党大会が終わってからずっとあとに彼が同年の10月、開封に送られて重病になり、治療も受けないまま11月に亡くなったと知った。

<ケ小平もまた追放されたのであった。党の中枢機関である政治局は壊滅状態にあった。各省の党の指導者の大半が職を失っていた。各省の行政はいまや人民解放軍が支配する「革命委員会」の手中にあった。第8回党大会で選出された中央委員は大多数が追放されていた。第9回党大会は毛沢東にとって、13年にわたる取り組みの総仕上げであった>


<私の気分は落ち込んだ。毛沢東がねらった第8回党大会の原則の破棄は達成された。13年間にわたる闘争が成就したのだった。私がもっとも敬愛していた党の代表たちはことごとく追放され、80パーセントの旧中央委員が解任され、新顔は私にとって馴染みの薄い、江青派か林彪派のメンバーであった。そんな支持者が中国のリーダーシップを引きつぐとあっては、私は祖国の前途に絶望した>


 こうして毛沢東は勝利した。もはや彼の前にたちふさがる目障りな人間はだれもいなかった。彼は彼を権力から遠ざけようとした大量の有能な人物をこうして完全に粛正したのである。そしてさらには林彪一派が粛正されて、最後に残ったのは、身内の江青であり、彼の従順な召使いでしかない周恩来その人だった。

 こうして江青の野心と周恩来の服従を利用し、大衆の心を操作することで、毛沢東の野望は成し遂げられた。彼の絶対権力者としての地位は揺るぎないものとなり、個人崇拝はついに完成したのである。しかし、李志綏が書くように、それは何千万という人々を死の淵においやり、人々の友情と家族を崩壊させ、中国社会の骨組みまでも破壊する悲劇とひきかえであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm


1956年4月25日、中国共産党は「百家斉放 百家争鳴」という新たな政治運動を開始した。しかしこの運動は過去の土地改革、鎮反運動、粛反運動とは全く趣旨が異なるものだった。文学、芸術、科学技術に従事するものたちの独立した思想の自由、弁論の自由、創作や批評の自由、意見を発表する自由、自らの意見を堅持することなどである。だがこの運動は予想に反して盛り上がりを欠いていた。そこで毛沢東は1957年2月、党外人士や知識人が積極的な批判を歓迎すると表明した。毛沢東や人民日報からは


「如何なる幹部であろうと、如何なる政府であろうと、その欠点や誤りについて批判を受けるべきである」

「言う者に罪無し」

「党外人士はもっと大胆に党の欠点を暴きだしてほしい。党は党外人士を粛清しようとは決して思ってはいない」

という発言が飛び出し、1957年5月から熾烈で容赦ない意見が一斉に提出されるようになった。 問題は毛沢東はそもそも本気で党外人士や知識人の批判に耳を傾けるつもりがあったのか、それとも始めから「右派分子」を弾圧するために百家斉放、百家争鳴運動を開始したのか。

どう考えても後者である。すでに中国共産党は300万人の無実の人民を虐殺しているのだ。大虐殺の悪夢が過ぎ去ってからまだ1年足らずである。人民に強烈な不満がないはずがない。自由な言論を認めれば政権を揺るがすほどの批判が殺到するのは分かりきっている。この後の運動は血に飢えた毛沢東が更なる大粛清を楽しむためにしかけた運動とみなして間違いない。

 1957年6月8日、毛沢東「組織的な力で右派分子の狂気じみた攻撃に反撃せよ」という指示を出し、『人民日報』は社説で「右派への容赦なき批判」をよびかけた。反右派闘争の発動である。中共はただちに全国各地で右派分子の取り締まりを始めた。もともと組織の基盤が弱い党外人士はたちまち壊滅状態に陥った。1957年末までになんと55万2877人が右派分子という無実の罪を着せられた。今回は集団大量虐殺は発生しなかったものの、彼らはみな市民権を剥奪され、辺地での強制労働に駆り出され、生き地獄を経験することとなった。

 毛沢東自身は1958年5月8日の会議で次のように述べている。

「秦の始皇帝が(焚書坑儒で)何をした?彼は460人を処分したに過ぎない。

私は始皇帝の数百倍の知識人を処分したのだ。

私のことを始皇帝みたいだと言って罵るのでは不十分なのだよ」

と言って自ら大笑いしたという。 反右派闘争によって当に対して反対意見を持つ知識人や党外人士が一掃されたことから、中国共産党の独裁は大幅に強化された。それと同時に党内でも毛沢東の絶対的な権力が強化された。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui07.htm


大躍進運動


1957年の反右派闘争をきっかけに毛沢東の権力は絶対的なものとなり、ほとんど異論を唱えられない雰囲気が醸成されていた。それ故、反右派闘争から1年を待つことなく、人類史上中国以外では例のない悲劇が幕を開けることとなった。

 1957年11月に毛沢東は訪ソし、フルシチョフと会談した。フルシチョフが掲げた目標は15年で米国を追い越すというものだった。前月に人類史上初の人工衛星打ち上げに成功して宇宙開発でアメリカをリードしたソ連は、国力においてアメリカに追い越すという自信が確かにあったのかもしれない。だが毛沢東は挑発に乗るかのように「中国は15年で鉄鋼などの主要工業生産高で英国を追い越す」という目標を掲げてしまった。何の実現性もない毛沢東の気まぐれが、全ての悲劇の始まりとなった。

 翌年、中共政府は鉄鋼生産量年間2億7千万トンという前年比2600%(260%や26%の誤記ではない)増の生産目標を発表した。その前段階として、中共は農民を鉄鋼生産に専念させるため、とりあえず1958年は穀物生産高年間5億トンという目標を掲げて邁進することになった。前年比100%増、つまり2倍である。

 穀物生産高倍増のための効果策があるわけではなかった。効果策はなかったが具体策はあるにはあった。1958年2月に中共政府は蝿、蚊、鼠、雀を駆除することを目的とした四害駆除運動を開始した。特に農作物を食い荒らす雀に対する徹底的な捕獲作戦が実施された。だが雀は農作物を食うだけでなく、害虫も食べるのであり、生態系バランスを完全に無視した中共の政策により蝿、蚊、いなご、ウンカなどの害虫が大量発生し、農業生産に大打撃をもたらすこととなった。

 さらに、同じ種であれば互いの成長を阻害しないという誤解に基づく極度の密植、深く埋めるほど根が発達するという誤解に基づいて2メートル以上の深さに種を埋めるなど、農業理論を完全に無視した農業政策が実行に移された。

 目標が達成できないことは目に見えていた。だが中国共産党の地方幹部にとって、毛沢東が掲げたノルマの未達成は生命の危険に関わる大問題であった。1958年秋、地方幹部や人民公社の幹部は一斉に党中央に対してノルマ達成を報告した。そして党中央は全国の人民公社に穀物の公糧供出量の倍増を命じた。実際には生産倍増などできていないのだが、水増し報告をしている以上命令に従わざるを得ない。必然的に人民の食糧が欠乏することになる。

 そのような状況で1959年を迎えると、毛沢東はこの1年間は農業生産はほどほどにし、全農民を動員して鉄鋼大生産に全力を挙げるよう命じた。だがそもそもが農民を総動員して鉄鋼生産をさせるという手法に根本的な無理があった。金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、生産された鉄の大半は全く使い物にならない粗悪品であり、膨大な資源を浪費する結果となった。また、この時の製鉄事業により大量の木材が伐採された為、特に中国の北部は禿山だらけとなってしまった(そのため今でも中国では毎年洪水が発生している)。

 そして1959年の夏にはついに大飢饉が全国を襲った。秋の収穫も全くの不作で飢饉をさらに深刻化させた。早くも1959年7月の中国共産党政治局拡大会議(いわゆる廬山会議)で彭徳懐国防部長が大躍進運動の失敗を取り上げ、他の出席者も支持を表明するものが少なくなかった。しかし毛沢東は7月23日の演説で、彭徳懐の主張を党に対する攻撃、右傾機会主義として激しく批判した。彭徳懐を支持していた出席者も一転して彭徳懐を批判するようになった。すでに毛沢東に逆らえるものは誰もいなかった。

 8月2日から始まった中国共産党八中全会で毛沢東は彭徳懐ら4人を「彭徳懐反党集団」として激しく非難し、彼らを失脚に追い込んだ。毛沢東は自信を持って大躍進に誤りなど全くないと主張し、彭徳懐反党集団との闘争を20年でも50年でも続けなければならないと発言した。そのため、1960年まで彭徳懐反党集団との闘争が続けられることとなった。毛沢東は自らの正当性を主張するため、さらなる鉄鋼大増産政策の貫徹を全国に命令した。

この廬山会議で毛沢東の間違った政策を修正することができれば、大躍進運動による悲劇は1年ほどで乗り越えることができたであろう。しかし誰もが間違いに気づいていながらもはや誰も毛沢東に逆らうことはできず、悲劇はますます深刻化、長期化することとなった。一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。そして、その報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていった。

 こうして大飢饉は1960年も1961年も継続し、少なく見積もって3千万人という人類史上最大規模の餓死者を発生させた。(大躍進運動による餓死者の数は4000万、5000万、6000万という説もあるが、私は批判をするときはできるだけ控えめな数字を取り上げる方針であるので、3000万という数字を用いている。実際にはもっと多い可能性が十分にあることを留意していただきたい)。餓死者3千万ということは、当然ながら飢餓線上にいたものは数億人に及んだはずである。

 一般的に大躍進運動は、政策の失敗のほか、ちょうどこの時期に旱魃が発生したことが被害を拡大させたと言われている。だがその後の研究により、この時期に自然災害など発生していないことが現在では明らかになっている。数千万人規模の餓死は明らかに毛沢東ならびに中国共産党による人災なのである。

 驚くべきことに、数千万規模の餓死者が発生していたにも拘らず、中共政府は3年連続で穀物を大量に輸出していた。1958年に266万トン、1959年に419万トン、1960年は265万トンである。1960年といえばすでに中国共産党は国内における大飢饉の発生を把握していたにも関わらずである。ここまでくると大躍進運動は中国共産党による人民への大量虐殺といっても過言ではなかろう。

 飢餓に襲われた人民の境遇はこの世のものとは思えない、それどころか映画の世界でもあり得ないような悲劇的なものであった。食糧不足が深刻化した1959年夏ごろ、当初はご飯をお粥にすることで何とか凌いでいたが、お粥にするほどの米も底を尽きると、人々は籾殻も稲の藁もとうもろこしの茎さえも食べるようになった。それさえも尽きるようになると、樹や草の根を掘り出して食べるようになり、中毒死する人が続出した。ついにあちこちの家庭で餓死者が続出するようになり、埋葬しきれないほどであったので、遺体の多くは雑木林に捨てられた。遺体が捨てられるとすぐさま尻や太ももの部分が誰かによって切り取られていった。すでに事態は食人にまで及んでいたが、悲劇はまだ終わらない。

 口にできそうなあらゆるものが底を尽いたときに人間がとる行動とは、平時の人間には想像をすることさえ困難である。人々は自分の子供を他の家庭の同じ年頃の子供と交換するようになった。自分の家庭で養育するためではない。いくらなんでも自分の子供を食すことはできないので、他人の家庭の子供と交換して食すのである。家に持ち帰った交換物は台所で調理される。脳みそと内臓を取り出し、あとは取れるだけの肉と脂肪を切り取るのである。そして脳みそでスープを作り、内臓や肉を炒め物や煮物にする。こうしてなんとか1週間ほど凌ぐことができるのである。

 家庭によっては自らの子供を食す親もいた。ある農家では家族はすでに父親と息子一人と娘一人しか残っていなかった。あるとき、父親は娘にしばらく外出するよう命じた。娘が戻ってくると、弟がおらず父親が台所で料理をしていた。鍋には油が浮いており、何やら白っぽいものが入っていた。鍋の横には骨が放り出されていた。それから1週間ほど後、父親は再び鍋で料理の準備を始めた。そして娘を呼び寄せた。娘は号泣しながら父親に、

「お願いです、お父さん、私を食べないでください。私は芝刈りをし、火を炊いてあげます。私を食べたら、誰もお父様の面倒を見る人がいなくなります!」

と叫んだという。

 1962年に開かれた中国共産党拡大工作会議で、毛沢東は大躍進運動の失敗に対する自己批判を余儀なくされた。これ以降、劉少奇とケ小平が中国の経済再建へ向けて舵をとるようになる。中華人民共和国建国から13年、すでに中国人民は人類史上経験したことのない悲劇を味わってきた。過去に中国が経験した列強による侵略も、抗日戦争をもはるかに上回る悲惨さであった。にも関わらず、悲劇は終わらなかった。大躍進運動という人類史上他の国では例がないような悲劇を経験しておきながら、さらに悲惨でさらに長期間に及ぶ悲劇が待っていた。毛沢東は健在だった。低下した影響力を取り戻すための機会を虎視眈々と窺っていたのである。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui08.htm


毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 フランク・ディケーター (著),
  http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794218400/asyuracom-22/

毛沢東は1957年5月17日の党大会で「世界大戦だといって大騒ぎすることはない。せいぜい、人が死ぬだけだ。人口の半分が殲滅される程度のことは、中国の歴史では何度も起こっている。人口の半分が残れば最善であり、3分の1が残れば次善である」と言っている。これが毛沢東の誇張表現なのか、中国共産党の統治意識なのか、中国人の宇宙観なのか、不明というしかない。

ともあれ、死者4500万人という数だけが問題なのではない。あとに紹介するように、文字通りの愚策・愚行によって耕作地、木、鉄、住居、衣服、生産物まで、あらゆる資源が無駄に浪費されたため、大飢饉後には中国の多くの農村は、比喩ではなく石器時代の生活に戻ってしまったのだ。その後の文化大革命でも中国は大打撃を受け、20世紀中は米欧の資本主義国も近隣諸国も中国の脅威を気にする必要がなくなった。日本が近隣防衛まで米国任せにすることができ、それゆえに資源を経済に投入することで、高度成長できたことは毛沢東によって担保されたといっても良いかもしれない。

ほとんどの中国共産党幹部は周恩来もケ小平も趙紫陽も唯々諾々としたがった。彭徳懐と劉少奇だけが反対の立場であった。毛沢東は「大躍進」で失脚したが、7年後に「文化大革命」で復活し、彭徳懐と劉少奇に復讐することになる。文化大革命中に彭徳懐は紅衛兵に肋骨を折られ、末期癌であるにも関わらず痛み止めの注射はされず、窓を完全に塞がれた部屋で下血と血便にまみれて死んだ。劉少奇もやはり恥辱の中で亡くなっている。

著者はオランダ生まれの香港大学教授だ。著者は北京の外交部をはじめ、各省の党档案館などから1000点を超える資料を収集した。档案館とは国公立の公文書資料館のことである。1999年に档案法が改正され、50年を超える文書が公開されることになったのだ。そのなかから驚くべき事実を知ることになる。

1957年11月、毛沢東はソ連のフルシチョフに張り合うため、中国は15年以内にイギリスを追い抜くと宣言した。しかし、その後それなりに発展したソ連とは異なり、中国は愚か極まりない思いつきと狂気じみた統治組織で、大量の労働力と資本を使い、計画が成就しなかっただけでなく、将来にわたる巨大な負の資産を残したのである。大躍進で行われた複数の巨大プロジェクトのすべてがそうだった。

たとえば、農産物の生産量を増やそうとして、無謀な肥料作りを始める。糞尿だけでなく女性の髪まで切って使われる。泥と藁で作った建物も肥料にされる。麻城県というところでは肥料にするために何千軒もの家が解体されたのだが、『人民日報』が成功例として紹介したため、気を良くして、年末までに5万軒の家屋や牛舎、鶏舎が壊された。しまいには肥料にするといって農地に白砂糖を撒くという倒錯ぶりだ。

中国共産党は愚かにも、土地を深く耕し、作物を密集して植えると収穫が増えると思いこんだ。何千万人もが自分の家を燃やして暖を取りながら夜を徹して掘り続けた。最大3メートルもの深耕は無駄であっただけでなく、結果的に表土が損なわれるという事態にも陥った。飢饉の真っ最中にもかかわらず、食糧でもある苗や種を密集して植えつけ、苗が呼吸できずに枯らしてしまうことも行った。

いっぽうで、鉄を増産しようとして「土法高炉」なる手製溶鉱炉を作りはじめた。全国4000万人の労働者を使い50万基を建設した。所詮鉄器時代に近い製法である。クズ鉄だけでは足りず、鍋釜、農機具まで原材料として投入されたのだが、出来上がったのはやはりクズ鉄だった。クズ鉄を使って作った農機具は1年も持たなかったため、農家は文字通り素手で耕作することになる。それ以上に深刻なのは燃料だった。国内の山々は丸裸になり、しまいにはなぜか果樹まで燃やしてしまう。南京では7万5000本の果樹が倒された。

これらの愚行で餓死者がでているにも関わらず、地方政府や官僚は毛沢東に水増しした生産量を報告していた。そのために毛沢東は大豊作だと思い込み、休耕地を増やすように指令する。余剰物は輸出に回そうということになり、農産物や木綿などの繊維製品まで輸出した。結果的に農民たちは衣服まで手に入らなくなってしまう。驚くことに千万人単位の餓死者が出ているにも関わらず、毛沢東の国際的な対面を保つために輸出は続けられ、他国からの援助は断りつづけた。

三門峡ダムを始めとして多数のダムが作られたが、ほとんどが欠陥工事だった。1961年までに40万個の小さなダムが破損した。115の大型ダムが洪水を引き起こし、1975年には時限爆弾となったこの時期に作られたダムが決壊し、23万人が亡くなっている。

バカバカしいことに害鳥だとしてスズメを全国一斉に退治した。当然のことながら害虫が増えた。空が暗くなるほどのイナゴに襲われ、南京付近では農地の60%が虫害にあった。やっと気づいたときにはすでに遅く、スズメが絶滅しかかっていたため、あわててソ連からスズメを輸入するという始末だ。

自然に対してこれほどのことをやってのけた毛沢東と中国共産党である。当然、国民に対しての仕打ちは過酷を極めていた。農家は肥料や燃料として家を燃やされ、人為的な飢饉が起こっているうえに、鍋釜にいたる鉄器も取り上げられ、布団どころか衣服もないのである。文字通り石器時代に戻ったのである。その結果人々がどうなったのかは本書を読んでみてほしい。4500万人が死亡したということはその数倍以上が死の淵をさまよったはずである。当時の中国の人口は6億5千万人だった。

http://d.hatena.ne.jp/founder/20110823/1314083823

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3. 毛沢東の学歴コンプレックスが引き起こした文化大革命


1) 文化大革命は何故起きたか


 まず文化大革命は中国にその後どんな影響を与えたかですが、結論から言って中国はこの文化大革命によって発展が三十年は遅れたとまで言われております。中でも最大の損失ともいえるのが知識人で、ちょうど日本での団塊の世代に当たる年齢に、中国の大学では教授などの人間がすっぽり抜けてほとんど存在しません。これはこの世代がまさに文革で排斥される対象となった世代で、文革期に殺されるか、社会的に抹殺されたかのどちらかで存在していません。

 文革期には中国でも知識人が文字通り根絶される勢いで摘み取られていきました。ここでちょっと想像してほしいのですが、たとえば今、当たり前のようにいる設計士、技術者、熟練工といった人たちがこの社会から突然いなくなってしまうとしたら。もちろんそうなればあらゆる工事から工場の作業、開発製造といった行為がすべてストップしてしまいます。しかも、いざそういった人材をまた育てようと思っても、技術や知識を一から教えてくれる教員すらいない状況であればなおさら悲惨です。

 70年代の中国はまさにこうでした。一度は育てたあらゆる人材がいなくなり、技術や知識の継承をまた一からやり直す羽目となったのです。ただ中国はこれを奇貨として文革後に優秀な学生を選抜して、一気に東大など海外の大学へ留学させて建て直しをはかったりしています。今、中国の経済界ではそのような留学帰りの人たちが大きな力を持っているらしいです。

 中国が文革から受けた損失はなにもこの人材だけではありません。連載中にも書いていますけど何の計画もない土地開発のために自然環境は徹底的に破壊され、また歴史的遺物も「過去の残滓」として数多く破壊されています。

 そして元紅衛兵だったたくさんの若者たちも地方に下放されたまま、故郷へ戻ることすら叶わなくなりました。

 こうしてみると、何故これほどの悲劇が繰り広げられたのか、誰も止めることが出来なかったのかと疑問に思えてきます。この文化大革命は毛沢東の手によって引き起こされたものの、中期以降は一般民衆もむしろ率先してこの混乱を加速させ、いうなれば集団パニック、もしくは集団ヒステリーのような現象だったと思います。日本も戦前は教育上は軍部が国民を扇動させたことになっていますが、実際にはかなりの部分で国民も戦争へ突入するのを応援していました。何でも、朝日新聞が当時に反戦の記事を書いたら部数が一気に5%にまで落ちて、慌てて戦争賛美へと論調を変えたほど民衆も戦争一色だったらしいです。

 よく集団ヒステリーというと、大体二、三十人くらいの小集団で起こるもの、大きさにすると学校のクラス単位くらいなものと思いがちですが、歴史的に見ると日本を始めとした国家単位でも起こっていますが、さすがに中国という巨大人口国でも起こるというのはなかなかに驚きです。まぁ実際、集団ヒステリーに人数は関係ないのかもしれませんけど。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_05.html

文化大革命が起こる前の、中国が置かれていた状況について解説します。

 まず第二次大戦後、現中国を支配している中国共産党と現在台湾を支配している国民党との間で戦闘が始まりました。当初は双方共同で国を治めようという話もあったのですが、もともと戦闘しあっていた者同士で、目下の敵の日本軍がいなくなるやすぐさま内戦を始めました。因みに、その際の戦闘に使われた兵器の大半は日本軍が置いていった兵器だったようです。北京にある軍事博物館によると、中国で初の戦車は日本軍からの分捕り品だったくらいですし。

 そうして戦い合う中、恐らく組織戦としては相当早い段階でゲリラ戦を確立した共産党の人民解放軍が徐々に勝利していき、最終的に国民党を台湾へ追い出して1949年に現在の中華人民共和国が成立します。戦争に勝利後、文化大革命の主役である毛沢東は天安門広場にて「中華人民共和国、成立了!」と宣言して、この時を持って正式にこの国は建国されたとされます。 

 もっとも建国直後に朝鮮戦争が勃発し、当初はソ連一辺倒ではなくアメリカとも交流を続けようと考えていた指導部は悩んだ末に北朝鮮に味方してアメリカと袂を分かつ羽目になるなど、いろいろと困難もありましたが、当初は共産党内部の高い士気とともにそこそこうまくやっていきました。この歯車がおかしくなり始めるのは1950年代の後半からです。

 この時期から中国はソ連の「五ヵ年計画」を真似た、あの悪名高き「大躍進政策」を行い始めます。これはその名の通り、数年の期間内に農業や工業の分野で一気に先進国に追いつくという国家政策のことです。ソ連の五ヵ年計画も内実は結構ひどかったらしいですが、一応は工業面で大幅な前進が見られて二次大戦でドイツと戦うだけの土台ができたのに対して、中国のこの大躍進政策は破壊と荒廃しかもたらしませんでした。 ソ連では「コルホーズ」といって、農民を一箇所に集めて強制的に作業をさせる集団農場を作りましたが、それに対して中国では「人民公社」といって、事実上個人の自由を奪う集団体制へと国を整えていきました。

 この大躍進政策の中で工業政策では鉄鋼の生産量でイギリスを追い抜くという目標があったのですが、各地域の責任者には目標生産高の達成が義務付けられたため、実際には鉄を作ろうにも鉄鉱石が不足するもんだから、片っ端からまだ使える鉄製の農具などを溶かして粗鋼を作っていき、確かにイギリスの鉄鋼生産量を追い抜いたものの、その作られた鉄のほとんどは役に立たないくず鉄ばかりだったそうです。更に鉄の精製技術も低いものだから延々と土方高炉という、原始的な精製方法でその燃料として木材を燃やし続けたため、今に至る中国の水不足、環境破壊という問題を作る羽目となりました。

 農業政策でも、なんと言うか今の北朝鮮のように明らかに農業について知識がないにもかかわらず、素人の浅知恵のような政策が強行されてしまった例があります。最も有名なのは燕の駆除で、燕は稲穂をついばむから害鳥だといって毛沢東の指示の元、中国全土で一大燕駆除キャンペーンがこの時期に行われました。これなんか私も中国の博物館で見たことがあるのですが、燕を驚かしたり追い詰めたりするわけのわからない器具が全国に配られ、結果的に燕の大幅な駆除に成功するのですが、その代わりに燕が食べていた害虫が異常繁殖してしまい、収穫期になるとすべての作物が大不作になるという事態を引き起こしてしまいました。

 一説によると、この時の大飢饉で数千万の人間が餓死したと言われています。昔読んだ記事によると、誰だか名前を忘れましたが、確か李鵬だったけな、子供の頃は夢の中で満腹になるまでものを食べては目を覚ますという事がこの時期何度もあったと言ってました。

 「ワイルドスワン」の作者によると、当時の人間でもこの大飢饉が天災によるものではなく、明らかに人災によるものだとわかっていたそうです。それでも共産党政権の転覆、そこまでいかなくとも民衆の反乱が起こらなかったのは先ほどの作者によると、この飢饉の時期には共産党員も一般民衆同様に飢えていたからだと分析しています。

 なんでも、国民党がブイブイ言わせていた時代は飢饉だろうと何だろうと、国民党の人間は毎日大量のご馳走を食べて贅沢な暮らしをしていたそうです。それに対してこの時期の共産党は先ほども言ったとおりに士気は高かったらしく、横領や独占が非常に少なかったそうです。もしかしたらそんなことをするほどの食料すらなかったのかもしれませんが、今の共産党からするととても信じられない話ですがそうらしいです。

 このようにシャレにならないほどの政策の大失敗を犯してしまい、さすがの毛沢東もしょげていたそうです。自身の食事にも国民が飢えているのだからといって豚肉の量を減らしたそうですが、これは確かアメリカの記者の評論ですが、国民が飢える中で毛沢東は個人的なダイエットをしていたと、何の問題の解決になっていないことを指摘されていました。
 そして共産党の幹部も、この惨状に対して毛沢東を追及するに至りました。後に実権派として名を馳せる劉少奇が、この時に毛沢東に対して、


「地方では人肉を食べて飢えをしのぐ者まで現れたことを記録に残せ」


と詰め寄ったらしいです。 こうして毛沢東は実権を追われることになり、その代わりに経済政策などに実績のある劉少奇とケ小平が政権の中枢に立つことになりました。彼ら二人のコンビの活躍もあり、大飢饉の後は穏やかではありますが、比較的政治的にも社会的に安定した時期が過ぎていったのですが、それを毛沢東が快く思うわけありません。

 これは陳凱歌やその他大勢の人間が評していますが、毛沢東というのは生まれながらの反逆児で、常に何かに抵抗しなければ気がすまない性格だったそうです。歴史的に見ても、最初は両親、次に初期共産党内のリーダー、そして日本、国民党と抵抗相手を変えていき、最後には自らが関わった共産党を抵抗相手に選んだと見るべきでしょう。

 この時期、毛沢東は政界を引退して中国の南方で優雅な年金生活のようなものを表面上は送っていました。しかしその間、未だ中央に残る腹心を使って徐々に、それも目立たずに工作を続けていました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_18.html

失脚後、毛沢東は南方で趣味の釣りにいそしんでいると言われ、毛沢東のかわりに実権を握った劉少奇とケ小平が実質的に中国の指導者となりました。彼らちゃんとやり方のわかっている指導者の行政手腕により、大飢饉によって混乱した中国経済は徐々にではありますが立て直されていきました。

 しかしそうして経済が立て直っていく一方、ある言論がまことしやかに全土で語られるようになってきました。その言論というのも、「今の共産党指導部は修正主義者たちに乗っ取られている」という、今見ても不穏当な言論でした。

 この時期、ソ連はスターリンからフルシチョフの時代を経て、中国との蜜月関係も終わりを告げていました。中国共産党はこのフルシチョフによるソ連の第一次デタント(雪解け)といわれる、西側国家との協調路線を打ち出す外交政策を共産主義の精神を根幹から覆す愚挙だとして「走資派」や「修正主義者」と呼んで激しく非難しました。

 恐らく当時の考え方としては、共産主義国家の建設は非常に困難が伴うものであるため、この困難から抜け出すためとか、自分だけいい思いをしようと安易に資本主義に走る卑怯な輩がいるという具合で憎悪をたぎらせたのだと思います。この「修正主義者」という言葉が、1960年代の中国の流行語であったのは間違いないでしょう。

 当時、中国に流布したのはこうしたソ連の輩のような裏切り者が中国共産党内部、それもかなりの上位階級に潜りこんでいるという言質でした。彼ら修正主義者は謀略をめぐらし、偉大なる指導者である毛沢東を追放したのだ、と毛沢東の政治失脚は彼らに原因があるというような言葉が共産党の機関紙である「人民日報」などのメディアで激しく展開されていきました。

 もちろん劉少奇を初めとする指導部はそんなはずはないと否定しつつ、このようなデマがどこから出ているのかなどと調べたそうですが、一向に確たる根源が見つからずにいました。元ネタを一気に明らかにすると、このような言論を広めたのは毛沢東の指示で動いていた彼の腹心たちで、後に四人組と呼ばれる幹部たちでした。皮肉なことに、内からの敵に当時の指導部は気づかなかったのです。

 こうした言論を一番真に受けたのは当時の大学生たちでした。北京大学では壁新聞が張られて公然と指導部が批判され、精華大学では孤立無援の毛沢東閣下を救えとばかりに、後に中国全土で猛威を奮い、この文化大革命の代名詞となる「紅衛兵」という、青年たちによる私兵団が全国で初めて組織されました。
 
 こうした中、これは出所が明らかでなくちょっと確証に欠けるどこかで聞いた話ですが、何でも劉少奇らが北京にてこうした動きに対し、自分たちは決して修正主義者ではないということを説明する一般人を交えた会合を開いて弁舌をしている最中に、なんとその場に南方にいるはずの毛沢東が予告なしで突然現れたそうです。

このような演出はこれだけでなく、これは陳凱歌の「私の紅衛兵時代」で書かれていますが、北京四中での会合の際も、毛沢東は劉少奇が弁舌を終えていないにもかかわらず突然壇上に出てきたそうです。そうなってしまうと観衆は大喝采してしまいますので、まだ弁舌を終えていない劉少奇はどうすることもなく、かといってそそくさと壇から降りるわけにも行かなくなり、このように毛沢東は相手を追いつめる演出が非常にうまかったと陳凱歌は評しています。

 そのうち毛沢東も公然と、

「共産党の指導部内に裏切り者がいる」

と主張するようになり、先ほどの紅衛兵という少年少女らで組織される私兵団も毛沢東の応援を受けて各学校ごとに作られて増加の一途を辿り、事態は徐々に深刻化していきました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_20.html

『文化大革命』とは、その原因を言うならば『太平洋戦争(対日戦争)』後の、中国共産党の政策失敗にあるとも言えます。 中国共産党は内戦の果てに『国民政府』を台湾に追い、『社会主義国家』を建国しますが、その後、国家主席であった『毛沢東』が信奉する『マルクス・レーニン主義』の理論の下に、『数年間で米英を追い越す』として、1958年から1960年まで『大躍進政策』と銘打って農工業の大増産政策を行います。 
しかし、この政策は農業現状の無視の上に行われたと言え、自然災害も重なったこともあり、結果的に2000万人から2億人と言われる餓死者を出して終了を見たという事なのです。

 この失敗の原因は『マルクス主義』そのものとは無関係な物であり、具体的な経済の発展方法にあるとして、国民に謝罪すると共に『毛沢東』は『自己批判』を行って国家主席を辞任する事になったと言うのです。 つまり。国家主席の座を、当時NO2であった『劉少奇1898〜1964)』に譲る事に成ったのです。
 
 つまり、『文化大革命』は『毛沢東』のこの様な失敗からの回復を目指して行われた物であった様なのです。 なんと言っても、『毛沢東』の存在意義は、かっての『日中戦争』の折りに、中国人民に向かって呼びかけたところにあったと言える様なのです。 言わば、中国共産党の存在意義を示す物とも言えますが、

 『戦争と言う巨大な力の最深の根元には、人民が存在するのである。日帝が我々を迫害しうる大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ、この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、我等数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放たれた如く、我等の恫喝により彼等は飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ。』

と言う物であると言います。 これが、後の『毛首席語録(毛沢東語録・毛語録)』の根幹ともなって行った様なのです。

 ところが、1960年当時の世界は、『社会主義国』と見られる国々でも、その基本たる『マルクス・レーニン主義』は、その理論にも『変革』を求められる時代にも入っていたと思われます。 勿論、その『変革』を行う事は、本道を自負する人達から『修正主義』とも非難され、その論争は国間でも深刻な問題ともなっていたのですが、『中国』も否応無くその洗礼を受ける事に成ったと言えます。 その発端は、1960年代に行われた『中ソ論争』にあったと言うのです。

 『中ソ論争』と言うのは、1956年に起きたソ連首相『フルシチョフ(1894〜1971)』の『スターリン(1878〜1953)批判』が発端で起きた『平和共存路線』を『修正主義』と批判する中華人民共和国の『毛沢東(1893〜1976)』等によって起こされた物とも言える様なのです。 この事は、1960年に至り『人民日報』や『紅旗』等が『レーニン主義万歳』を記載するに及び、決定的なものとなります。 ソ連指導部は中国に派遣していた『技術専門家』を引き揚げる事になり、両国の関係は悪化の一方を辿るようになります。 ともあれ、1962年には『中印紛争』『キューバ危機』等が起こり、中国・ソ連の対立は理論的にも決定的なものとなり、1964年には『フルシチョフ』の失脚を見るものの、両国の関係に回復を見る事は無く、対立は深刻化して行ったと言う事なのです。

 『劉少奇』が国家主席となった1959年の中国にとっても、『毛沢東思想』の信奉だけでは、既に遅れを見る時代に成っていたと言わざるを得ないとも言えます。 『劉少奇』はこの後、市場主義を取り入れた経済調整政策を実施、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めたと言う事なのです。 此れに対して『毛沢東』は

『矯正し過ぎて、右翼日和見の誤りを犯している』

と批判したそうなのです。飽くまでも『毛沢東思想』の貫徹を要求した様でもあるのです。 つまり、見方によっては『文化大革命』とは、『毛沢東』が現状を『修正主義』に占拠されると感じた結果起こした運動でもあった様なのです。 しかし、単に『劉少奇』を放逐する為に起こした運動ではなかったかと評する人も多いのです。 

 確かにその頃『劉少奇』には、中国の状況を憂い、彼に組する人も多かった様で、『毛沢東』は『毛語録』などに見られる人気、思想的背景は持っていたものの、『毛沢東』の意に従う者は、共産党幹部には決して多くはなかった様なのです。 まして、『劉少奇』には『フランス語』『英語』『ロシア語』を話す夫人『王光美(1921〜2006)』がいたと言うのです。 彼女は、物理学を専攻し理学博士でもあった人であったというのですが、その語学の才能をかわれ、1946年頃から中国共産党の中でも重要な仕事をして来た人でもあった様なのです。

 『劉少奇』とは1947年に結婚し、『劉少奇』が首席となった1959年からはその『ファーストレデイ」として国際的にも注目を浴びた人でも有った様です。 この様な状態を見るにつけ、おそらく『毛沢東』には、焦りが募る毎日でもあったのかも知れません。 すなわち『毛沢東』は大衆の前でこそ絶大なる指示を受けていたと言えますが、彼の取った政策の失敗は、目を覆うばかりで共産党の内部等には信用は失墜、『劉少奇』等の『実権派』が取って代わろうとしていたのです。 その対抗策として『毛沢東』が取る事に成ったのが、『文化大革命』でもあったのです。

 具体的には、当時軍の実験を握っていた『林彪(1907〜1971)』を擁し、行動に出る事であったというのです。 つまり、『林彪』は1959年に『解放軍向け』として『毛首席語録』の編集・刊行にかかります。 そして、1966年の『文化大革命』の発動と共に、一般向けにも大量に発行されたという事なのです。記録によれば1966年3月から1976年8月までの約十年間『毛沢東語録』の印刷部数は、『文化大革命の象徴』として、実に65億冊を越えたと言うのです。
 
『毛沢東』は腹心とも言える『上海組(四人組)』を使い、1966年以降『紅衛兵』と呼ばれる団体を結成し、其れを行って行ったと言うのです。 すなわち彼は、彼の理論の推進者として、抵抗感の少ない学生・少年少女を選んで、その推進力と仕様とした事になるのです。

 この『紅衛兵』とは、よくドイツの『ヒトラーユーゲント』の引き合いに出される物である様なのですが、確かに、狂信的でその目的は似ているとも思いますが、実体はかなり違うようなのです。 つまり、レベルがかなり違うと言わざるを得ないのです。 

『紅衛兵』に、特に資格と言ったものは無かったのです。 其れが『無知』とも言える暴走を生んで行ったと思われます。僅か10代の少年少女達が『毛語録』を手にしただけで、続々と加入し拡大を続けたと言うのです。

 『毛沢東思想』を権威として暴走する事になった彼等は、多くの派閥に別れ、互いに『反革命』とのレッテルを張り合い、武闘を繰り広げて行ったと言うのです。 つまり、指導者の不足が如実に『統制不可能』な現象を起こして行ったのです。


 結果的とは言え、無知なる青少年が『国家政策』を専横して来る様になったと言うのです。共産党幹部ですら其れを防ぐ事は出来ず、その時既に党幹部でもあり、後の中国共産党の重要な指導者となった『トウ小平(1904〜1997)』は『紅衛兵』の暴行を直接身に受けているのです。 言わば、『思いつき』に似た行動が多かった様で、

『農村から学ぶ必要がある』と成れば、どんな人達も、『上山下運動』に狩り出されたと言いますし、

『孔孟の匂いのある物』と成れば、すぐ破壊されたと言うのです。 

事情は一切顧みられる事は無かったと言うのです。

 つまり、この様な事が頻発した為に,中国の高等教育は機能を停止したと言われ、中国の進展は、この『文化大革命』で20年は遅れたと言われているのです。 この世代は教育、及び倫理的に大きな影響を受けた世代と言われ、その影響は今も尚、大きなものを残していると言うのです。 すなわち、『文化大革命』は当初、政治・社会。思想・文化の全般にわたる『改革運動』として企画された物であったと言うのですが、結果的には『粛清』『破壊』その物であった様なのです。 

実体は、単に彼等の『勧善懲悪』的な指導の下に行われた様なのです。


 つまり、『善人』とされたのは、

『少正卯』
『呉起』
『商鞅』
『韓非』
『荀況』
『李斯』
『秦の始皇帝』
『漢の高祖』
『漢の文帝』
『漢の景帝』
『曹操』
『諸葛亮』
『武則天』
『王安石』
『李卓呉』
『毛沢東』

などであり、それにつながるものは『善』であったのです。

 『悪人』とされたのは、

『孔子』
『孟子』
『司馬光』

等であったと言うのです。


 つまり、中国の思想家の内

『法家を善とし、儒家を悪として、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされた』

と言うのです。 すなわち、この後は、これらの人々になぞらえても、『紅衛兵』の行動は激しさをまして行ったと言うのです。

 何でも彼等の携帯する『毛語録』には


『革命は客を招いてご馳走することでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりする事でもない。

そんなにお上品でおっとりしたり、雅やかな、そんなに穏やかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、控え目な物ではない。

革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。』


とあり、

『革命には犯罪は無い』

としたと言うのです。 

これが、『無知なる少年少女』達の『粛清運動』ともなり、結果的に約1000万人〜3000万人の『大量虐殺』を産み、結果的に犠牲者数億と言う、数字も定かならぬと言う『内戦』とも言える惨状を多分に示した運動ともなって行ったのです。 

この『文化大革命』のエピソードを拾ってみれば、其れは更に容易に想像がつくかとも思えますので列挙してみます。 


 *『紅衛兵』は『赤は革命に色であるから赤信号で止まるのはおかしい、赤信号で進んで青信号で止まるべきだ』

 *『寝室に毛沢東の写真を飾っていた新婚夫婦』に『首席の前でセックスをした』と非難した『紅衛兵』に、『その時は電気を消していた』と反論した。

 *ある『紅衛兵』は『富農家』や『官僚』批判が絶頂だった頃、彼らに対する迫害を多くしたと言うが『毛沢東』の実家も『富農』であった事で候補に上げた。

 *中華人民共和国の新聞には、その頃多くの毛沢東の写真等に占領されていたが、その新聞を尻に敷いたり、たきつけに使った事で吊るし上げられた者が多数いた。

 *旧思想・旧文化の否定がスローガンとされた為、陶磁器や金魚・月餅等古い歴史を持つ商品の製作や販売まで旧文化とされ、それに携わるだけで、職人や関係者は『帝国主義者』と認定され、つるし上げの対象者でもあった様なのです。


 
 この様に見ていけば、実際はその行動に『思想』や『展望』の一切なかった事が、偲ばれるものとも言えます。 『無軌道』とも言える『紅衛兵』の産物でもあったと言えますが、この結果どれだけの犠牲が払われているかは想像できない事である様なのです。

 ところで、『文化大革命』は1970年代に入ると、内戦状態とも言える経済的疲弊等から、それに伴って終息に対する雰囲気も高まって来たと言われ,1972年のアメリカのニクソン大統領訪中等が契機となり、沈静化して来たと言うのです。 1976年には『毛沢東』が死去した事もあり、1977年8月には『共産党声明』として『文化大革命の終結』を宣言する事に成ったのです。 その後始末として、1981年には『紅衛兵』の指導に大きな影響を与えたと言う『林彪グループ』や『上海組』の要人には死刑から懲役刑の判決が下される事に成ったと言う事なのです。

 すなわち、『林彪』は『劉少奇』追放後の1966年の党大会に於いて『毛沢東』に次ぐ序列第2位の席に昇格し『毛沢東』の後継者と公式に認定されていたとも言うのですが、『毛沢東』が『劉少奇』の失脚によって空席に成っていた『国家主席』の廃止案を提案すると、それには同意しなかったと言うのです。 1970年になり『林彪』は毛沢東の首席就任や毛沢東天才論を連発し、毛沢東の持ち上げにかかったと言うのですが、其れが逆に『毛沢東』の疑心を呼ぶ物ともなり、『毛沢東』の批判論を呼び起こす元ともなったと言うのです。

 この様に見れば『毛沢東』と言う人が、『権力の座』にこの上なく執着した人である事は疑いの余地の無い人とも思えます。

 かくて、1971年9月『毛沢東』との決別を覚悟した『林彪』は『毛沢東の暗殺』に動いたと言うのですが、失敗しソ連への逃亡を図り、モンゴル上空で事故死したと言う事なのです。 この『暗殺事件』をして、『毛沢東』は

『雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ、好きにさせれば良い』

と言ったとされている様だが、それ程余裕があったかは定かで無いとも言えそうである。  

 この『林彪』と同じ時期に、頭角を表わしたのが後に『四人組』と呼ばれた『上海組』の人達でもあります。 彼等は逮捕された後『四人組』と呼ばれる様になりますが、実体は『毛沢東』の四番目の夫人『江青(1914〜1991)』と、その取り巻き連中であった様なのです。
 
当初は『劉少奇』の追放を目論む『毛沢東』に従って『林彪』と共に『紅衛兵』の指導に当たり、『林彪』失脚以後は『プロレタリア独裁』『文化革命』を隠れ蓑に、極端な政策を実行し、反対派を徹底的に弾圧して行ったと言うのです。
 
『王洪文』『桃文元』『張春橋』と言う政治局員の名前が見えますが、言うなれば彼等は『毛沢東夫人』の付き人みたいな者であったようです。

http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24


毛沢東は反骨の士でした。これはどの評論家からも、この文革の時代を生きた人間の目にも共通した認識です。とにかく何かあったら何でもいいから反抗したい、まるで反抗期の中学生がそのまま大人になったような人間でした。

 特に彼が生涯強く反抗し続けた代表的な対象というのが、知識人でした。これは彼の学歴コンプレックスが影響しているといわれており、なんか今詳しく確認できないのですが、毛沢東は若い頃に北京にて滞在した際にどうもどっかの大学(確か北京大学)の入学試験の面接に受からなかったそうなのです。かといって全く勉強ができなかったというわけではなく、読書量や詩の創作技術では歴代中国君主の中でもトップクラスと、「中国の大盗賊」という本の著者で中国研究家の高島俊夫氏は評しております。

 できたばかりの中国共産党に入党した後も、当初の指導部はソ連からの留学帰国組によって幹部席が占められたのを恨めしく思ってたらしく、抗日戦争の最中に自分が主導権を握ってくると、最終的に周恩来を除いて留学組をほぼすべて指導部から追い出しております。ちなみに周恩来は言い方は悪いですが、毎回絶妙のところで味方を裏切り毛沢東に従っております。だから長生きしたんだけどね。

 このように、毛沢東は徹底的に知識人を否定し、それが毛沢東思想の大綱となっている「実事求是」につながっています。この実事求是というのは、「現実から理論を作れ」という意味で、机上で理論を組み立てても現実には適用できない理論が出来上がるので、それよりも実際に自ら農場や工場で働いて物事の実感を積んで正しい理論を作るべきだという主張で、大学等にいる知識人は手を動かさないで労働者をこき使っているから悪だと、文革時に効力を発揮した大綱です。

 毛沢東は個人的な感情で知識人の締め出しを行ったのでしょうが、この主張を正当化した言い訳というのはいくつかあり、まず一つは先ほども言ったとおりに手を動かさずに頭だけ働かすというのは現実から乖離した理論を作ってしまい誤りを犯すというもので、もう一つがこの次に説明する永久革命の必要性からだと考えています。

 この「永久革命」という考え方が、ある意味毛沢東思想の最も危険な箇所です。毛沢東は生前にも前漢の劉邦や明の朱元璋といった、一農民という出身から才気一つで中国を支配した君主を誉めそやしており、世の中というのは常に古い既成概念に対して新しい改革的思想が打ち破ることによって徐々によくなるというようなことを主張していました。この概念を応用し毛沢東は、知識人というのは基本的に既成概念を守る保守主義者であって、新たな時代を作るのはかえって古い既成概念に染まっていない無学の意欲ある徒、つまり農民であると説明したのです。なので、劉邦や朱元璋が天下を取ったのは自明であるとまで説いたのです。

 この考え方を毛沢東はさらにさらに援用し、共産主義思想では労働者VS資本家という二項対立の構図で物をすべて考えますが、これを農民VS知識人にすげ替え、労働者が資本家を打ち倒すことで理想の共産社会(ユートピア)が達成されるという理論を先ほどの劉邦、朱元璋の例を持ち出してやはり正しいのだと証明された……的なことを言っているのだと私は思います。

 なので、世の中というのはザリガニの脱皮みたく農民(労働者)による革命を繰り返すごとにどんどんよくなるという、「永久革命」を維持することが社会の発展につながると主張したのです。通常の共産主義思想でも確かに「労働者による社会主義革命」の必要性が強く叫ばれていますが、基本的に革命が成功した後はもうそれで万々歳、後は他の国へも革命を支援せよ言っているくらいで、「革命で作ったものをまた新たな革命でぶっ潰せ!」みたいなこの毛沢東思想ほど過激ではありません。

とまぁこんな具合に毛沢東は教育をあまり受けていない農民や中高生のやろうとしていること、考えていることの方が下手な知識人、果てには既に教育を受けてしまった大人より正しいのだと後押ししたのです。その結果が、次に詳しく説明する紅衛兵などの悲劇歴史を生んでしまうのです。ちなみにこういった考えは、今のフランスの教育制度における積極的自由論にもなんだか近い気がします。シュルレアリスムとでも言うべきか。

私に言わせると毛沢東の思想の最大の欠陥は劉邦と朱元璋を過大に見たという点にあると思います。朱元璋はあまり詳しくありませんが、劉邦の場合は確かに彼自身は特に教育を受けたわけじゃなく無学でありましたが、彼の傍には軍師の張良や策士家と呼ばれた陳平、そして国士無双と謳われた韓信が控えておりました。また三国時代の劉備もまた農民出身ではありましたが、諸葛亮や法正といった知識人を保護し、活用しております。このように、知識人というのは確かにそれだけだと古今東西の官僚制度のように腐敗する恐れもありますが、全くいないというのもまた問題なのです。この知識人の軽視がこの思想の欠陥、ひいては文化大革命やカンボジアのポルポト派による虐殺という悲劇を引き起こしてしまったのだと、私は解釈しております。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_22.html

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          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
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          |! |  \   ゚       /  |  .!
          {  |  | | ゙ヽ、    /  |   |  | 低学歴者をバカにすると
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2) 煽てればガキンチョは何でもしてくれる


悪事を成功させようと思ったら、ガキンチョを集めて、うまく煽てて女と飴を適当にあてがっておけばいいんですね:


毛沢東は中華人民共和国が成立して以降、一貫して権力者であったかのように誤解されがちなのですが、実際には彼は一度失脚しています。何故失脚したかというと、農業政策や社会政策などで明らかな失政を犯してしまい、一度ケ小平といった経済政策などに明るい政治家らに引退を迫られ、一旦は政権の中枢から降りています。しかし彼自身は未だ引退する気はさらさらなく、表面上は穏やかに政権の座を譲ったかのように見えましたが、その後自らは隠遁したふりを見せ、未だ政権に残っている自らの腹心を使い徐々に世論を誘導して、

「ケ小平らは毛沢東を騙して政権から追い出した」、

というような世論を作っていきました。

 以前に大学の授業にて中国政治の先生がこの文化大革命のことを、毛沢東が権力を奪回させるために敢えて社会を混乱させたところ、終いには自分にも手がつけられなくなったと評しましたが、まさに的確な表現でしょう。

毛沢東は民衆、特に精神的に純粋な十代の少年少女らを使い、自らを神格化させることによって見事ケ小平を追放し、政権の奪回に成功します。 しかし少年少女らを扇動する際に毛沢東は、

「お前たちが正しい。しかし大人は間違っているから、お前たちが修正してやらなければならない」

 といったような言葉で動員し、この言葉を真に受けた若者たちは一切権威を信じず、自らが組織した団体の決定を強引に推し進め、更には本来それを取り締まる警察や軍隊は毛沢東らの中央政府の命令によって鎮圧ができずに静観するだけという、悪循環な環境を生んでいくことになります。

 この時代について私に中国語を教えてくれた中国人教師の方などは、当時は軍隊が全く機能しておらず、子供だった先生は勝手に基地の中に忍び込んでは手榴弾を取ってきて投げて遊んでいたというくらいですから、その混乱振りがうかがえます。 このように、ごくごく一般の社会機能がほぼすべて失われ、当時の中国はさながら無政府状態のように、殺人があっても誰も気に留めず、また好き勝手に泥棒や強奪が頻発したらしいです。

文化大革命中、少しでも学識のある人間は「知識分子」と呼ばれ、激しい批判や暴力を受けて社会的にほぼすべてが抹殺されたと言われ、ちょうどこの年代に当たる知識人層が何十年も立った今でもすっぽりと抜けているということを知った時、寒気にも似た気持ちを覚えました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_6756.html

1962年1月の中共中央拡大工作会議でついに毛沢東は大躍進運動の失敗を認めて自己批判を行った。毛沢東は依然として中国共産党主席の地位にいたが、影響力は後退し、劉少奇、ケ小平などが実権を握るようになった。

劉少奇は政治運動や思想闘争を後回しにし、生産と生活向上を重視する政策を採り、1963年から65年にかけて中国経済は目覚しい回復を見せていた。

 だが毛沢東は再び権力奪還の機会を窺っていた。 1966年 8月1日から中共十一中全会が開催され、8日に「プロレタリア文化大革命についての決定」が採択された。この決定では「資本主義の道を歩む実権派を叩き潰すこと」と「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」という二つの目標が掲げられた。この会議では劉少奇の党内序列が2位から8位に格下げされ、ケ小平は平の党員なみに格下げされた。その一方で林彪が序列2位に急上昇した。

 これ以降劉少奇、ケ小平打倒のキャンペーンが本格化し、二人を名指し批判する壁新聞が大量に貼り出され、劉少奇、ケ小平は自己批判文書の提出を強要され、事実上の軟禁状態に置かれた。

11月以降は他の古参幹部に対する公開批判闘争が紅衛兵によって大々的に進められるようになった。1967年に入ると批判闘争はますます激化し、各地で実権派打倒の集会が行われた。すでに劉少奇は執務不能状態に陥っていた。1968年10月、劉少奇の党からの永久除名、ケ小平の留党観察処分が決定された。

劉少奇は病におかされるようになるが、散髪や入浴も着替えも許されず、警備員や医師から執拗な暴行を受け続けた。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになっていた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された、高熱をだしても治療も受けられぬまま放置された。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達していたという。

 毛沢東がけしかけた権力闘争は劉少奇、ケ小平ら実権派の打倒に留まらず、大学教授や学校の教師、作家、芸術家、旧家の出身者や旧地主・資本家の子孫、医師、技術者など、要するに社会でありとあらゆる一定の知識や技能、地位と名声をもつ人たちが批判の対象となった。

中学生によって組織された紅衛兵は教師たちを軟禁し、毎日十時間以上の重労働を課した。わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いとすぐさま木刀や革靴で殴りつけた。夜になると教師たちを監禁して夜通し尋問とリンチが行われた。ある女子中学校の女校長は3夜連続で拷問を受けた後、1966年8月22日に死亡した。場所は校内のトイレで、遺体は全身傷だらけで、髪の毛はほとんど抜かれ、口には汚物が詰め込まれていた。

 文化大革命中、共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの祝日には全国各地で群集を集めての公開処刑大会が行われた。とはいっても建国以来十数年、中国共産党はひたすら虐殺に次ぐ虐殺を繰り返していたので、反革命分子などそう簡単に見つかるはずもなかった。そのため、毛沢東の政策に少しでも疑問を述べたり、毛沢東語録を不注意で汚してしまったり、毛沢東の顔写真が移った新聞紙を使って野菜を包んだり、太陽を貶める発言をしたり(毛沢東は人民の太陽と称賛されていたため)するだけで悪攻罪として死刑になった。

 紅衛兵による無差別大量虐殺も頻発した。1966年8月に紅衛兵は五類分子(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子)を打倒すべく、北京市大興県を襲撃し、325人を虐殺した。死亡者のうち最年少は生後1ヶ月であった。1967年8月には湖南省道県を紅衛兵が襲撃し、4139人を虐殺した。虐殺方法には銃殺、斬殺、爆殺、生き埋め、撲殺、焼殺など多様な手段が採られた。幼い子供を殺すときは投げ殺しが好んで行われた。

 1967年から1968年にかけて内モンゴル自治区ではモンゴル族に対する大量虐殺が行われた。34万人が逮捕、監禁され、少なくとも5万人が虐殺された。殺害方法も残虐さを極めた。歯を一本一本抜き取られたり、鼻と耳をねじ切られたり、体中をナイフで切り裂かれて傷口に塩を揉みこんで焼き鏝をあてたり、女性であれば輪姦された挙句生殖器に火掻き棒を差し込まれて腸を引きずり出されたりした。

 虐殺は紅衛兵が無実の人たちを虐殺するというパターンに留まらない。紅衛兵はいくつかの派に分裂し、互いに相手を反動派、反革命分子と罵って自らの正当性をかけて激しい武装闘争を行った。1967年3月から6月にかけて江西、青海、浙江、湖北、山西、河南、安徽、内モンゴル、陝西、復建、広東、寧夏などで、紅衛兵に限らず労働者、農民、軍隊をも巻き込んだ主導権争いのための激しい武装闘争が展開された。まさに中国全土が内戦状態であった。

 こうした中で全ての中国人民は恐怖におののいていた。いつ反革命のレッテルを貼られて粛清されるか、いつ誰かに裏切られるのか恐怖と猜疑心がつのり、ひたすら狂信的に毛沢東を崇め奉ることが救いの道であるかのような雰囲気が生まれた。毛沢東に対する極端な個人崇拝、神格化がますます強化されていったのである。

 中国共産党が文化大革命の時期に行った犯罪行為のひとつに文化遺産の破壊がある。宗教は阿片と看做していた中共は、寺廟などの宗教施設を徹底的に破壊した。例えば後漢時代に建立され、文革当時現存する中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の白馬寺、及び後漢時代から残る貴重な文物の数々はことごとく破壊された。山西省代県にある天台寺の1600年前に作られた彫刻や壁画も破壊された。四川省成都市にある蜀時代の城壁は現存する世界最古の城壁であったがこれさえも破壊された。明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却された。中国屈指の書道家王羲之が書き残した書も破壊された。あらゆる仏像が破壊され、経典が燃やされた。

チベットでは6千箇所の仏教寺院がことごとく破壊され、文革が終わったときには8箇所しか残っていなかった。こうして中国人や周辺諸民族が数千年かけて築き上げてきた文化遺産はことごとく破壊されてしまった。

 宗教に対する弾圧はことのほか激しかった。イスラム教徒に強引に豚肉を食べさせ、チベットのパンチェンラマには人糞を食べさせた。ハルビンの極楽寺の三名の僧侶は

「何が佛教経典だ。全部でっちあげだ!」

と書いた看板を持たされた。多くの僧侶が強制的に還俗させられた。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui09.htm


毛沢東は、共産党内部に修正主義に走った裏切り者がいると発言し、中国全土でまだ何の悪い教育に染まっていない末端の人間らに下克上を促しました。 その中で最も狂信的に毛沢東を支持したのが、「紅衛兵」でした。これは都市部の中学校かから大学に至るまでの各学校ごとに、少年少女らが自発的に組織した団体のことを指します。

 彼らは

「孤立無援の毛首席を救え」

とばかりに、片っ端からこれという大人を攻撃し始めました。具体的にどんな風に攻撃するかというと、文字通り殴る蹴るのリンチです。いちおう名目は自分の間違いを改めさせることですから「反省大会」と称し、攻撃対象を大衆の前まで無理やり引っ張ってきて、額から血が出るまで地面に頭をこすり付けたりさせることもざらだったようです。

 何故こんなことが十代の少年少女らにできたかというと、まずは最初にも言っているように毛沢東のお墨付きがあったことと、本来このような混乱から治安を守るべき軍隊が逆にこの動きを後押ししたからです。

 何故軍がこれら紅衛兵の活動を後押ししたかというと、この時に一挙に軍隊内で地位を向上させた林彪の存在が原因でした。彼は文革当初は軍隊内でも中途半端な位置にいたのですが、いち早く毛沢東への支持を表明することによって軍隊内のライバルを裏切り者だと密告することによって根こそぎ追放し、最終的には最高位の元帥にまで昇進しています。林彪自身が毛沢東の強烈な支持者で毛沢東の権勢を利用して下克上を実行したのもあり、軍隊は紅衛兵の活動を逆に応援するようになったのです。

 こうして、無茶なことやら法律を守っても軍や警察がなにもしないとわかるや紅衛兵はますますその行動をエスカレートしていきました。彼ら紅衛兵は具体的にどんな大人を対象に攻撃していたかですが、単純に言って明確な基準は一切ありませんでした。言ってしまえば、

「あいつは反革命的なことを言っていた」

とか、毛沢東選集の中に入っている毛沢東の言葉と何かしら矛盾した発言(行動)をあげつらうか、それでも見つからないなら適当なレッテルを貼り付ければいいだけです。後は反撃できないように集団で取り囲むだけで舞台は整います。ようは気に入らない人間がいれば、好きなだけ集団で攻撃できたということです。

 陳凱歌氏の「私の紅衛兵時代」によると、彼のいた中学校でも紅衛兵が組織され、真っ先にターゲットにされたのは嫌われていた担任の教師だったそうです。その学校の中学生たちは教師を無理やり教室の一番前に立たせると、


「貴様は毛首席の指導と別の指導を生徒に行っていただろ!」

「この場で俺たちに謝れ!」

「思想を洗い直し、真っ当な人間へなるのを俺たちが手伝ってやる!」


 といったように、激しい言葉で糾弾されたと書かれています。毛沢東は若者らを煽動する際に、

「知識のある人間は間違った教育に毒されている。何も教育を受けていない君たち若者らが思うことこそが正しいのだ」

と吹き込んでいるので、一見無茶苦茶とも思えるこれらの発言が出てくるのです。

 それにしても、もし私がこの場にいたらどれだけ気持ちがいいのだろうかと考えずにはおれません。私も、一人や二人はこれくらいの年齢の頃には嫌いな教師が学校にいました。そうした人間に反論を許さず一方的になじり、ののしり、吊るし上げられるのであれば、見境がない反抗期だった頃の自分だったら嬉々としてやったと思います。恐らく紅衛兵たちも、同じような感情だったのではないかと思います。先ほどの毛沢東の言葉である、

「大人は間違っている、君たちこそ正しいのだ」

というようなことを反抗期の中学生なんかに聞かせたら、尾崎豊じゃないけどそりゃあ崇拝するようにもなると思います。

 この吊るし上げは徐々にエスカレートしていき、先ほども言ったように取り締まる人間がいないために法律は事実上機能しなくなり、証拠もなくともレッテルを貼る、つまり密告さえすれば誰でも集団で攻撃することができるので、当初からそうでしたが次第に本来の目的とはかけ離れた感情の捌け口だけのものへと固定されていきました。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」の作者のユン・チアン氏の作者の父も、共産党の地方幹部であったために紅衛兵らから激しく攻撃されたと書かれています。この時代は何度も書いているように下克上が学校から職場、果てには共産党や軍隊内部でも奨励され、基本的に階級の高い人間ほど密告の対象になりやすく、一方的に攻撃を受けました。それは建国の元勲からほんの少し前までの最高権力者でも変わりがなく、抗日戦争から国民党との戦争にて共産党を勝利に導いた彭徳壊、と毛沢東の後に国家主席となっていた劉少奇の二人は、紅衛兵から激しい身体麻痺に至るまで暴行を受け、医者にもかからせてもらえず粗悪な部屋で死に絶えています。二人とも毛沢東にひどく嫌われていたのが原因です。

 この一連の吊るし上げは、恐らく言語に絶するまでに激しかったというべきでしょう。延々と自分の子供くらいの十代の若者に殴られ、

「謝れ!」 とか

「自分がろくでなしであることを認めろ!」

などと言われ続け、自分が間違っていたと言葉に出しても暴行され続けるのですから、考えるだに絶望する気持ちがします。リンチで死んだとしても、殺人として扱われないのですからやりたい放題だったのでしょう。 またこの時代の知識人はその属性ゆえに粛清対象に選ばれやすく、一流の学者でありながら自殺した人間も数多くいました。有名な作家の老舎もその一人です。

 これら紅衛兵の一連の行動は日本で言うとあの「浅間山荘事件」に酷似しています。何故酷似したのかというと、それは言うまでもなく密告合戦の上にリンチになるのが共産党のお家芸だからです。ですからこの後に起こる紅衛兵となった若者らの運命も、「浅間山荘事件」と同じ末路となったことに私は疑問を感じません。その末路というのも、いわゆる内ゲバです。

 またまた「私の紅衛兵時代」の記述を引用しますが、紅衛兵をやっていた陳凱歌氏も、同じ学校の生徒に密告されたためにある日突然多勢の紅衛兵に自宅に押しかけられ、昨日まで仲のよかった同級生らに反革命的だという理由の下に片っ端から家の中の本を焼かれ、家具なども滅茶苦茶に壊されたと書いています。陳氏はそうやって密告しあったり、仲の良かった同士で暴行しあった行動に何故自分も加担したのかというと、加担しなければ自分が仲間はずれに遭うという脅迫感があったからだと述べています。いうなればいじめと一緒で、一緒にやらなければ自分が攻撃の対象に遭うというのが、こんな密告社会を生んだ理由だと私は考えています。

 こうして片っ端から年齢を問わずに中国では攻撃し合い、知人を含めて全員無事でいるものなど誰もいないほどに中国人は互いに傷つけ合いました。大人に至っては思想改造をするために家族を置いて僻地の労働作業場へと無理やり送られ、死ぬ間際になるまで酷使されるかそのまま衰弱死に追い込まれる者が多く、ユン・チアン氏の父親も陳氏の父親も、ボロボロの状態になって帰ってきて、前者はそのまま息絶えることとなりました。

 しかし、こうした混乱をよしとしない者が現れました。何を隠そう、この混乱によって自らの権力を奪回した毛沢東でした。

 若者から絶対的な崇拝を受けていた毛沢東でしたが、これら暴力的な若者たちがいつ自分へと牙を剥くか、またその際に攻撃を防ぎきることができるかと次第に不安に感じたようで、途中からは逆に紅衛兵の解散を自ら説得するように活動し始めました。実際に派閥抗争といった内ゲバが激しくなり、この時の北京は事実上無政府状態と言っていい状態だったので、毛沢東が不安に感じた気持ちも良くわかります。

 そうして、最終的に毛沢東はある名案を思いつくに至ったのです。こうした若者を思想改造の名の下に農村へ追い出すという、文化大革命の中で最大の悲劇となる「上山下郷運動」、通称「下放」を推し進めるに至るのです。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_24.html

自分の権力奪還のために散々若者を煽り、あまりに運動に熱を帯びて毛沢東も危機感を感じ始めたところまで解説しました。 田中角栄が日中共同声明のために北京に来た際、会見場には厳戒警備をしいていたそうらしいです。あれほど崇拝された毛沢東ですら、この時期にあまりにも熱を持ってしまった若者を自分の権勢だけで押さえつけられる自信はなく、散々若者に敵視させた日本の首相と会う際には慎重にならざるを得なかったそうです。

 そんな具合で紅衛兵に代表される若者が邪魔になってきた毛沢東は、ある政策でこの問題に片をつけようとしました。その政策というのも「上山下郷運動」、通称「下放」です。

 ある日、毛沢東はこんな声明を発表しました。

「若者は直に地方の農村で働き、農民の生活を直接学び革命に役立てるべきである」

 もともと毛沢東は自分の権力の基盤を常に農民においており、日本の安藤昌益のように「万人直耕」みたいなことを昔から言っていました。何もこの文革の前から農村で学び、考えることの重要性を訴えていたので政策自体は突然ぱっと出したものではないと私は思っています。

 しかし、この下放には明らかに別の意図がありました。この時代ごろから今の中国にとっても最大の懸案である人口問題が起こり出し、都市部の人口密度が桁外れなものにまで膨れ上がってきていました。こうした人口を外に分散させるとともに、手を焼かせる若者を一挙に片付ける一石二鳥の策としてこの下放が実行されたのです。若者も、毛沢東の言葉と新たな大地を自分が拓くのだという強い意欲とともに、この下放政策を受け入れ率先して地方へと下って行ったようです。

 さて農村で働くといって、日本の田園風景の中でのどかな生活を送る、みたいなのは想像してはいけません。日本でも最近になって問題化してきましたが、基本的に日本の農家は世界的にも裕福な方です。中国や韓国の農村は日本とは比べ物にならないほど貧困が激しく、以前の時代ならばなおさらのことです。なのでこの下放もイメージ的にはシベリア抑留みたいなものの方が近いと思います。都市部の近くの農村に行けた者は幸運だったらしく、大半は西南の密林地域や、東北の極寒地域に放り込まれていったそうです。

 「私の紅衛兵時代」の作者である陳凱歌は雲南省の密林地帯へと十六歳の頃に行き、そこで七年も過ごしたそうです。行った先にはもちろん電気などなく、鍬と鉈と毛沢東選集だけを現地の事務所で受け取り、掘っ立て小屋にて他の下放者と一緒に暮らし、毎日延々と密林の木を切り倒していたそうです。 この本によると、下放者の中には過酷な労働で病気になる者も多く、作業中に木に潰されて亡くなった者も数多くおり、そして発狂する者までもいたそうです。 下放されたのは何も男子だけでなく、たくさんの女子も同じように下放されています。資料ではある女子の発狂するに至る過程が描かれていますが、あまりの生々しさにここでは紹介することを遠慮させてもらいます。

 陳氏はこの下放を振り返り、何が一番印象的だったかというと木を切り倒したことだと述べています。結局、自分たちは大いなる自然に対して一方的に攻撃を加えていただけなのではと、成人後に現地へ赴いた際に強く思ったそうです。なにも木を切り倒すだけでなく焼き畑も数多く行い、あれだけあった密林もほとんどなくなってしまったことに強い後悔の念を抱いております。

 もう一つの資料の「ワイルドスワン」に至っては、この下放についてより生々しく描かれています。作者のユン・チアンも南方の密林地域に下放されたのですが、現地の農民とは言葉が全く違っていて何も会話することができず、これまで農作業など全くやってきていないのに突然農村へ放り込まれ、慣れない作業に体を何度も壊したり、病気になる過程が事細かに書かれています。

 その上でユン氏は、資本主義の国ではブルジョアとプロレタリアートの間で格差が広がり地獄のような世界が広がっていると教えられてきたが、果たしてそれは本当なのか。それよりも、この国の現状以上の地獄があるのだろうかなどと、これまで教えられてきたことや自分が紅衛兵として行ってきた事に対して疑問を持ち始めたと述べています。しかしそれでも、ユン氏も強調していますがそれまでの教育の成果というべきか、とうとうこの時代には毛沢東を疑うことはなかったそうです。

 前回の記事で、この下放こそが文化大革命の最大の悲劇と私は評しましたが、実はこの下放問題は現在進行で未だに続いている問題なのです。どういうことかというと、この後に文革は終了するのですが、下放された若者たちは下放された時点で都市戸籍から農村戸籍へと変更されてしまい、故郷へ帰ろうと思っても帰ることができなかくなった者が続出したのです。

 ちょっと簡単に説明すると、中国では「都市戸籍」と「農村戸籍」と分けられ、都市の人口をむやみに増やさないためにも農村戸籍の人間は都市に引っ越すことができないようになっています。つまり先ほどの下放された若者らは、事実上この時期に都市から追い出されて二度と故郷に住むことができなくなったのです(短期滞在は可能)。

 先ほどの両氏によると、無事故郷に戻ることができた人間は非常に幸運だったそうです。下放された者の中には現地で死亡した者も多く、また下放者同士で子供を作ってしまった者はそれがネックになって帰郷が許されなかったり、それがために子供を現地に置いて帰郷するものもいたりなどと。

 現在でも、この時期に下放された人の多くが地方に取り残されたままでいるそうです。 陳氏などは軍隊に入ることで帰郷が叶ったそうですが、彼の友人などは東北部で凍死したなどと書かれています。それがため、この時代に若者だった中国人の大半は世にも凄惨な歴史に翻弄されて今に至ります。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_26.html

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毛沢東の死と文革の終わり

 毛沢東は死の間際、数年前から中央指導部に引っ張り側近に取り立てた華国鋒を次の後継者として指名していました。何故この華国鋒が毛沢東によって突然の抜擢を受けたかというと、それも今のところよくわかっていません。ただ中央指導部に抜擢されたのは派閥人事のなかでバランスを取るためだといわれており、事実この人はどうにもキャラが薄く、これというはっきりした政策案とか色を持っていなかったようです。

 それがために死後に混乱を恐れた毛沢東が、どこにも派閥に属していないという理由だけで華国鋒を取り上げたのかもしれませんが、毛沢東の死後、残った華国鋒はたまったもんじゃなかったと思います。というのも権謀術数渦巻く中央政界において何の後ろ盾も持たない自分だけが形だけの最高権力者として放り込まれ、案の定毛沢東の側近として文革を推し進めた「四人組」がより大きな権力を求め(四人組の中の一人である毛沢東の妻の江青は国家主席の地位をねらってたと言われている)、華国鋒の追放を画策し始めてきました。

 そんな状況下で、華国鋒には恐らく二つ選択肢があったと思います。一つは四人組に従い、国家主席の地位を投げ出すか、四人組に唯一対抗できる「猛虎」を自分の下へ引っ張り込むかという選択肢です。結果から言うと、彼は後者の選択肢を選び、第一次天安門事件にて再び追放されたケ小平を招聘するに至るのです。

時系列的には華国鋒は先に四人組を軍隊の幹部である葉剣英と組んで毛沢東の死から一ヵ月後に電撃的に逮捕、死刑宣告を行って一掃し、その後にケ小平を中央指導部へ招聘しています。恐らく彼はケ小平の力を借りながら自らの地位を守っていこうと考えたのだと思いますが、虎はやはり虎で、案の定自ら招聘したケ小平によって失脚させられます。

 事の次第はこうです。四人組の逮捕後、恐らくケ小平への牽制として華国鋒は自分の新たなスローガン、その名も「二つのすべて」を発表します。これは単純に言って、「毛沢東の言ったこと、やったことは何一つ間違いがない」という内容で、要するに毛沢東の目指した路線を守っていこうという政治信条で、これを発表することによって毛沢東の支持層を取り込もうと考えたのだと思います。しかしこれに対して毛沢東がいなくなって怖いものがなくなったケ小平は猛然と真っ向から否定し、こう言いました。

「毛沢東の言ったことにも、中には間違いもある」

 華国鋒はあくまで毛沢東路線を引き継ごうとしたのに対し、ケ小平ははっきりと毛沢東の後年に行った文化大革命などの一連の政策は間違いだったと主張したのです。しかしここがケ小平のうまいところで、彼はそれに加えて、「毛首席は確かに間違ったことをした。しかしそれでも功績七割、失政三割で、やはり彼は偉大な指導者であった」と毛沢東を全否定せずに文革のみを否定し、毛沢東の支持層を含めて民衆を大きく取り込んだのです。

 この論争は民衆の感覚をどう捉えていたかの両者の違いがはっきり出ています。華国鋒もケ小平も文革の混乱をどうにかせねばと考えていたのは間違いありませんが、民衆がどれだけ毛沢東に傾倒しているか、文化大革命にどれだけ憎悪を燃やしているかを華国鋒よりもケ小平の方がしっかりと計算できていたようです。「ワイルドスワン」のユン・チアンもこのケ小平の打ち出した路線を知った時に、地獄に仏のように思ったとつづり、だからこそ後年の第二次天安門事件で虐殺を行ったとは信じられなかったと述べています。

 その後、華国鋒はケ小平の批判を受けて次第に権力がなくなり、最終的に指導部からかなり早くに追い出されることになりました。しかし文革期のように集団リンチを受けたり強制労働をされるわけでもなく、一定の地位と収入をもらって余生を過ごしていたようです。その一つの証拠として、この華国鋒は87歳で、つい先月の八月二十日に天寿を全うして亡くなっています。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_8107.html

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3) 林彪 _ 中国皇帝の恐ろしさがわからなかった策士の末路


 文化大革命初期に、これら元勲メンバーの中でいち早く毛沢東支持を表明したのが林彪でした。彼は抗日戦争の頃から活躍した将軍でしたが、年が他の元勲より若いということもあってこの時期には軍隊内で元帥とは言っても最高権力者にはなれずにいました。そんな時、毛沢東が文化大革命を引き起こし、それに乗ずる形で毛沢東に接近し、彼の威光を使うことによってライバルたちを次々と引きずりおろして軍隊内での地位を固めていきました。

 毛沢東が何故文化大革命を引き起こせたのか、その最大の要因となったのは軍隊、この林彪が毛沢東の行動を支持、協力したのが大きいといわれています。そのせいか毛沢東の林彪への信任は厚く、生前にははっきりと自分の後継者だと明言しております。

 そんな林彪が、文革末期の1971年に突然亡くなります。しかも、暗殺でです。事の起こりはこうです。この年のある日、中国とソ連の国境付近で飛行機が墜落しました。墜落現場をソ連の調査団が調べたところ、現場にある焼死体のうちの一つが林彪のものだと確認されたのです。

 この事件が発覚した際は各所で大きく事件が取り上げられました。何故毛沢東の後継者とまで呼ばれている林彪が墜落死したのか。しかも墜落したのが中ソの国境付近ということから林彪ががソ連への亡命を行おうとしていたことがわかります。

 この事件の最大の謎は、毛沢東の後継者として思われていた林彪が何故ソ連へと亡命を謀ったのかです。それについては諸説あり、まず一つが毛沢東の暗殺を謀ったためという説が今現在で最も強いです。

毛沢東との関係は非常に深かったものの、猜疑心の強い毛沢東に次第に疑われこのままでは遅かれ早かれ他の幹部のように殺されると考えた林彪が、逆に相手を討ち取れとばかりに暗殺計画を練ったのが毛沢東にばれ、亡命を図ったもののその途中で毛沢東の追っ手によって飛行機が打ち落とされたというのがこの説です。また林彪自身は暗殺を計画しなかったまでも、息子の林立果が計画し、それが漏れたという説もあります。


 この説に対する対論として、暗殺を謀ったのが林彪ではなく毛沢東だったという説があります。なぜなら林彪は既に毛沢東の後継者として指名されてあるので、遅かれ早かれ何もしなければ最高権力者につけるはずなので、毛沢東の暗殺を謀るのは矛盾しているという説に立ち、一方的に猜疑心の強い毛沢東が林彪に対して暗殺を謀り、それから逃亡しようとしたところを結局打ち落とされてしまった、という説です。

 この事件については現状でもまだまだ明らかになっていない事実が多く、真相が明らかになるにはまだまだ時間がかかると思います。ただ一つ明らかなのは、この事件がきっかけで毛沢東はその後急速に方針を転換するに至っています。

 残っている記録によるとこの事件は毛沢東にとっても相当ショックだったようです。真偽はどうだかわかりませんが林彪機墜落の報を受けて毛沢東は、「逃げなければ殺さなかったものの」とつぶやいたという話があります。

 恐らく、毛沢東としては文化大革命の初期からの自分の支持者だった林彪の、少なくとも亡命にまで至る裏切りは相当堪えたようです。またこれまでの自分の採ってきた政策にも疑問を持ったのか、一度は自らの手で追放した実務派のケ小平をわざわざ復権させて政務を取らせるようになっています。

 私の考えを述べさせてもらえば、その後の毛沢東の慌てぶりを見ると彼が率先して林彪を殺害しようとしたとは思いづらいです。とはいえ林彪を廃した後、毛沢東は急速にアメリカ、ひいては日本と急接近するなど外交路線でも大きな転換をしており、この事件が彼の政策を転換するに至る象徴的な事件であることは間違いありません。
 文化大革命全体を通しても、この事件が果たした役割は非常に大きいといわれております。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_27.html

 
 文化大革命のなかで、一人の人物がのしあがってきた。林彪(1907年〜1971年)である。

彼は1969年4月の第九回党大会で毛沢東の後継者としての地位を手に入れ。毛沢東の親密な戦友と讃えられた。ところがその2年後、71年9月に毛沢東暗殺に失敗し、飛行機で逃亡中にモンゴル領内で墜死した。この事件の背後に何があったのか。

 毛沢東のすすめた「大躍進」をもっとも痛烈に批判したのは、当時国防部長の要職にあった彭徳懐だった。1959年の夏廬山会議で毛沢東は周恩来と謀って彭徳懐を失脚させ、のちに惨殺させた。そして、その後釜に林彪を据えた。林彪は革命活動の初期から毛沢東のもとで働いており、毛沢東にとっては安心できる腹心だった。

 こうして軍事委員会を牛耳るようになった彼は、毛沢東個人崇拝をおしすすめ、毛沢東の庇護のもとに異分子を排除し、軍部を自分の息のかかった部下で固め、実力をつけていった。大躍進路線の失敗が追求された1962年の七千人大会では、

「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」

と最大限毛沢東を擁護し、周恩来とともに毛沢東を窮地から救った。  1966年5月、政治局拡大会議の席上、林彪は反革命のクーデター計画があると発言し、その首謀者として、彭真(北京市長)、羅瑞卿(総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長)、陸定一(中央宣伝部部長)、楊尚昆(機密、情報、連絡担当、中央弁公庁主任)らの名前を挙げた。

 この頃林彪は紅青(毛沢東夫人)など四人組と組んで文革路線を押し進めようとしていた。そのため、その障害になる反文革派のこの4人をまず粛正する必要があった。とくに彼の部下でありながら文革に批判的な羅瑞卿の粛正は、彼が副総理として軍部の実権を握っていただけに絶対に必要なことだった。 羅瑞卿は逮捕された後飛び下り自殺を図り、重傷を負った。 羅瑞卿の粛清は林彪を勢いづかせた。軍内の掌握を完全にしただけではなく、他の指導者たちにも恐怖心を与えることができた。羅瑞卿が勢力を持っていた公安部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座し、その職はことごとく林彪の一派で占められていく。

 林彪はクーデター計画をねつ造して、その他の有力者も一掃した。そうすると、あと残るのはただひとつである。いうまでもなく、劉少奇国家主席を失脚させることだ。 1966年7月29日人民大会堂で文化大革命積極分子による一万人大会が開かれ、劉少奇はこの大会でこう述べた。

「文化大革命をどうやるのか、君たちが知らないならば、われわれに聞きに来給え。私は正直に言うが、実は私も知らないのだ」

 劉少奇国家主席として毛沢東につぐNo2の位置にあったが、決して野心家ではなかった。毛沢東を尊敬することでは他にひけをとらなかった。だから、文化大革命についても、その理想を額面通り受け止めていた。

彼が文化大革命が実は毛沢東個人崇拝を復活させ、自分たちを失脚させるための権力闘争だと気付いたとき、彼はすでに完全に武装解除されて包囲されていた。
 
1966年8月、八期一一中全会が開かれた。毛沢東は

「司令部を砲撃しよう──私の大字報」

を書いて会議場に掲示させた。砲撃されるべき司令部が劉少奇であることはいうまでもなかった。劉少奇はナンバー2の地位からナンバー8に落ちた。実権派と認定され、実質的にポストを外された。

 劉少奇に代わって、No2に昇格したのは、No6の林彪だった。彼には党副主席の肩書きが与えられた。一気に、朱徳、周恩来、陳雲を飛び越えて、59歳の林彪がこの栄誉を手にすることになった。その背景に、彼の熱烈な毛沢東崇拝と、軍事力があった。しかし、かれの毛沢東崇拝がまっかな偽りであったことがやがてあきらかになる。

 No2に昇格したとはいえ、彼の権力基盤はまだ盤石とはいえなかった。軍隊の内部にも実務派を支持する勢力はあった。地方の軍司令官もまだ多くはゆれていた。その象徴は1967年5月13日の武闘と7月20日の武漢事件であろう。いずれも実権派と造反派の武力衝突だが、なかでも武漢事件では毛沢東が実権派の軍隊に軟禁されるという不祥事が発生し、周恩来の説得で毛沢東はようやく解放されてことなきを得た。この数年間の中国は、たしかに内乱状態一歩手前といってよかった。

 しかし、こうした小刻みな闘争を経て、林彪は確実に勢力を拡大していった。そして、1969年4月の第九回党大会で、彼は生涯の絶頂期を迎える。林彪は軍内を基本的に掌握し、党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルでも、林彪グループに鞍替えするものが続出した。党大会で採択された党規約のなかに毛沢東の後継者として林彪の名前がはっきりと書き込まれた。

 八期の中央委員195人のうち、九期中央委員として留任したのは53人にすぎず、わずか27%である。陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮らは大会にさえ出席できなかった。

 第九回党大会でかっての国家主席劉少奇は正式に党を除名された。党内で幹部の審査工作を行ってきた江青グループの康生が、劉少奇が活動中に当局に逮捕されたあと釈放された経歴があることに注目し、これをもとに彼を当局のスパイにデッチ上げた。中央委員会がこれを認め、1969年年11月12日劉少奇は裏切り者の汚辱を着せられたまま惨死した。

 これによって、実権派はすっかりなりをひそめた。しかし、実権派が後退した後、林彪の前に、江青グループというあらたな敵が立ちはだかった。そして、このあと彼と彼のグループはアッという間に、権力闘争の罠に落ちて、奈落の底へ転落していくのである。

 1969年末の段階で、林彪グループは軍隊を直接掌握するほかに、中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青グループは政治局に張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持っていなかった。  しかし、江青はすぐに巻き返しに入った。きっかけは林彪が憲法のなかに、

「毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させた」

とする記述を書き込もうとしたことだった。これを「毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦」と考えた江青は、この改正に断固反対した。 1970年8月23日の二中全会の冒頭で、林彪は予定どうり毛沢東天才論をぶち、翌日の分科会では、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作がそれぞれれ天才論を支持するとともに、これに反対する江青グループを攻撃した。さらに林彪を国家主席にすることが決議された。

 これに対抗して25日、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会い、これが林彪が権力を独占するための野心と陰謀だと訴えた。林彪一派の勢力拡大に脅威を感じていた毛沢東は、すぐに政治局常務委員会拡大会議を召集し、二中全会の休会を提起した。その一方で周恩来と協力して、林彪グループの追い落としに着手した。

 31日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。これをうけて、再会された会議で、陳伯達が批判され、さらに呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。こうして9月6日二中全会が閉幕したとき、わずか10日間で情勢は劇的に変わっていた。

 合法的、平和的に毛沢東から権力を奪取することに失敗した林彪は、このあと軍部によるクーデタを画策するようになる。一方毛沢東も林彪一派に対する警戒を深め、彼らを名指しで批判するようになる。 翌1971年9月5日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。9月8日、毛沢東は南方巡視中に林彪一派の異様な行動を報告され、旅行中に謀殺される危険があることに気付いた。そこで専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。こうして謀殺計画をはぐらかして、12日には北京に無事戻った。 12日に謀殺計画の失敗に気付いた林彪は、翌日広州に飛ぶべく12日夜256専用機を秘密裡に山海関空港に移させた。北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果と合流して、翌13日、広州へ飛ぶ予定だった。そこで体勢を立て直して、反撃しようと考えたようだ。

 ところが、その夜10時過ぎに、他でもない林彪の娘林立衡が、この逃亡計画を周恩来に密告してきた。周恩来は空港を管理する部隊に256号機の離陸をさしとめるように指示するとともに、毛沢東にこのことを知らせた。 異変に気付いた林彪は予定を早めて、その夜零時ごろ、空港へ向かった。そして、前に立ちはだかる武装部隊の制止をふりきって、256号機を飛び立たせた。飛び立った飛行機は一旦北京に向かったが、すぐに進路を変えて西北をめざした。そして1時55分、256専用機はモンゴル共和国内に進入し、やがてそこに墜落した。

 確認されたのは9つの遺体で、林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員3名。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定されるという。

 林彪とその一派は、権力掌握を寸前にして、あえなく費え去った。林彪の権力争奪の企みは紅青グループ、周恩来らの抵抗によって失敗したが、彼らはこれをどのように位置づけていたのか。彼らが残したクーデタ計画書「五七一工程紀要」から一部を引用しておこう。

「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・

彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」

 この文章を読むと、林彪が毛沢東の暴政をかなり正しく認識していたことがわかる。しかし、わずか1年前に林彪は毛沢東を天才的なマルクス主義者だと讃えていた。毛沢東をもっとも極端に神格化し、個人崇拝をあおっていた元凶が林彪である。それもこれも、ただ自分が権力を握るための企みであったことがよくわかる。クーデターを警戒せよと主張した彼自身が、最後はクーデターを敢行し、毛沢東を抹殺しようとした。
 林彪は毛沢東を賛美し、文化大革命を押し進め、修正主義者のレッテルのもと多くの党員幹部を粛正した。そして中国を恐怖と不安のうずまく恐るべき密告社会にした。しかし、最後、彼の野心を砕いたのは、皮肉にも彼の娘による密告だった。林彪は自らが仕掛けた罠に、自ら落ちて自滅した。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

林彪の功績


文化大革命のなかでも、最もドラマチックなのは、林彪の躍進と墜死事件であろう。六九年四月の第九回党大会では毛沢東の後継者としての地位を約束され、毛沢東の親密な戦友と讃えられたが、七一年九月には毛沢東暗殺に失敗し、ソ連に逃亡を図り、モンゴル領内で墜死するという奇怪な事件を引き起こしているのであるから、興味をそそられないわけにはいかない。

林彪(一九〇七年〜一九七一年九月一三日)は、北伐戦争(一九二六〜二七年)と南昌蜂起(二七年八月一日)を経て、最初のゲリラ根拠地である井岡山(江西省西部の山岳地帯)に立て籠もった。

三五年夏以来の江西省を中心とするゲリラ地区から陝西省北部への二万五〇〇〇華里の大長征に参加し、延安時代には紅軍大学、抗日軍政大学の指導者として幹部養成に貢献した。

日中戦争期には平型関戦役(三七年九月二五日)の勝利にも功績があった。
遼瀋戦役(四八年九月〜一一月)、平津戦役(四八年一二月〜四九年一月)の主要指揮員の一人でもあった。

その後第四野戦軍を指揮して南下し、武漢を解放し、広東、広西に到り、一九五〇年に海南島を解放した──

これが中国革命のなかでの林彪の功績である。革命活動の初期から毛沢東のもとで働いたために、重要な役割を与えられたわけである。

出世術、クーデタ術を研究


林彪は戦闘中に重傷を負った。モスクワに送られ治療したが完治しなかった。そこで建国以後、林彪はずっと病気療養していた。 しかし一九五九年夏廬山会議で彭徳懐が国防部長を解任され、林彪が後を襲うようになるや、政治的野心が頭を擡げてきたといわれる。

林彪は戦傷を癒すために、「吸毒」(モルヒネ注射)の習慣があった。毛沢東はかねてこの事実を知っており、五〇年代に曹操の詩「亀雖寿」を書き贈り、戒めとするよう忠告していた。

しかし、林彪秘書の記録によると、悪習はやまず、たとえば七〇年五月二〇日、天安門広場の百万人集会で毛沢東声明を林彪が代読したが、これはパレスチナをパキスタンと読み誤るなどシドロモドロであった。これは当時は睡眠薬を過度に服用したためと説明されたが、実はモルヒネが切れたためではないかと示唆されている。

毛沢東の親密な戦友にして後継者がアヘン中毒であったという事実は、やはりわれわれに衝撃を与えないわけにはいかないであろう。

一九六〇年から六四年にかけて、林彪は内外の歴史書、各王朝の演義、軍閥混戦の資料などを少なからず読み、曽国藩、袁世凱、張作霖などを研究した。要するに、出世術、クーデタ術を研究したのであろうか。

一九六六年五月一八日、林彪は政治局拡大会議でクーデタ問題を大いに論じている。たとえば一九六〇年以来六年間に世界で毎年平均一一回のクーデタが発生した、と述べ、また中国歴代王朝から蒋介石までの政変を一気にまくしたてている。

一九六〇年以後、林彪は四つの第一、三八作風、政治の突出、政治はその他の一切を撃つことができる、活きた思想をつかむ、四つの立派な中隊などの毛沢東思想活用運動をつぎつぎに提起して、毛沢東から賞賛された。

毛沢東が大躍進の責任を自己批判せざるをえなかった一九六二年一月の七千人大会では、毛沢東を支持してこう発言している。

「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」。

大躍進・人民公社政策の失敗によって四面楚歌に陥っていた毛沢東にとって有力な援軍となったはずである。こうして林彪は毛沢東が個人崇拝を最も必要としたときに、巧みにそれを行って毛沢東の信頼を固めたわけである。

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腹心で固めたセクト


林彪の権力への道の第二戦略は、セクト作りであった。林彪は元来第四野戦軍の指導者として、一つの派閥をもっていたわけだが、軍事委員会を牛耳るようになってから、林彪派の形成を意識的に行った。「双一」(すなわち紅一方面軍、紅一軍団)にかつて属したことがメンバーの条件であった。「双一」こそが後の第四野戦軍の源流である。黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作、いずれもその資格を備えていた。

林彪の第三戦略は、異分子の排除である。

一九五九年に軍事委員会を牛耳るようになってまもなく、総政治部主任譚政を解任した。

元総政治部主任羅栄恒(一九〇二年〜六三年一二月)は林彪のやり方を毛沢東思想の俗流化と批判していたために、文革期に羅栄恒未亡人林月琴を迫害している。
国防部長になった一九五九年以来、五〜六年で腹心の配置に成功している。まず邱会作を総後勤部部長、党委員会第一書記とし、六二年には海軍の指導強化の名目で李作鵬を海軍常務副司令員にした。六五年には空軍司令員劉亜楼の死去に乗じて呉法憲を任命している。

このように腹心で固め始めた林彪にとって、軍の指導権を奪取する上で、直接的障害は羅瑞卿であった。彼は軍事委員会秘書長、総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長、国防工業弁公室主任の六つの要職を兼ねていた。


羅瑞卿を解任


羅瑞卿は元来は林彪の部下であった。 林彪・羅瑞卿の関係は当初の一、二年はまずまずであったが、羅瑞卿はまもなく林彪とソリが合わなくなった。両者の破局がやってきた。しかもそれは大きな悲劇の序幕でもあった。

一九六五年一一月末、林彪は毛沢東宛に手紙を書き、報告するとともに葉群を派遣して羅瑞卿関係の資料について口頭で報告させた。葉群は杭州で毛沢東に対して六、七時間報告した。六五年一二月八〜一五日、上海で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。葉群はここで三回発言し、羅瑞卿の罪状を暴露した。会議が始まって三日後、羅瑞卿のもとに飛行機の出迎えがあり、上海に着くやいなや隔離された。会議が終わるや羅瑞卿の軍における職務が解任された。

一九六六年三月四日〜八日、北京で羅瑞卿批判の会議が開かれた。同時に「羅瑞卿の誤りについての報告」が起草され、一九六六年五月、政治局拡大会議で承認された。
この間三月一八日に羅瑞卿は飛び下り自殺を図り、重傷を負っている。

羅瑞卿の最大の罪状は、葉群の説明によると個人主義が野心家の地歩にまで達して、国防部長の地位を林彪から奪おうとしたことである。その証拠として挙げたのは劉亜楼(元空軍司令)の証言であり、死人に口なし、反駁のしようのない証拠であった。


党内の敵を摘発


羅瑞卿の粛清は林彪派にとっていかなる意味をもったであろうか。

第一に林彪の権力獲得にとって直接的障害が排除された。軍内の掌握に有利となったばかりでなく、羅瑞卿の黒幕追及の名において、他の指導者たちにも脅しをかけることができるようになった。上海会議の際に葉群は羅瑞卿が賀竜と密接であったとして、軍事委員会副主席である賀竜を自己批判させようとした。羅瑞卿は公安部で他年工作していたので、同部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座する者が少なくなかった。

要するに、羅瑞卿粛清を一つの突破口として、奇襲攻撃により、党内の敵を粛清するモデルを作ったことになる。


第二に、呉法憲、李作鵬、邱会作らは羅瑞卿粛清を通じて、それぞれの任務を分担し、林彪派の核心としてより結合を深めていった。

第三に林彪は党内に潜む野心家を摘発することによって、毛沢東に忠実な戦友、学生としてのイメージを固めることになった。

一九六六年五月、政治局拡大会議が開かれた。林彪は五月一八日クーデタについて大いに語り、彭真、羅瑞卿、陸定一、楊尚昆らがクーデタをやろうとしているとし、彼らを摘発することが修正主義者による奪権を防ぐことになると力説した。

羅瑞卿が軍権を握り、彭真(北京市市長)はいくつかの権力を握り、文化思想戦線の指揮官は陸定一(中央宣伝部部長)であり、機密、情報、連絡担当が楊尚昆(中央弁公庁主任)である。

文武相結合して、反革命クーデタをやろうとしていると林彪は述べた。

この四人は文革初期に四家店として集中的に攻撃されたが、彼らは文革を発動するうえで直接的障害となっていた四つの部門の代表であった。 林彪が毛沢東の権威を利用して、自らの権威を高めようとしているのを知りながら、毛沢東もまた林彪を利用して、自らの鬼を打とうとしていたのであろう。


林彪昇進の背景


一九六六年八月一日〜一二日、八期一一中全会が開かれ、林彪は唯一の党副主席、毛沢東の後継者の地位を確保した。ナンバー6からナンバー2への昇格である。このような急激な昇進が可能であった背景としては、つぎの事情がある。

第一に文化大革命を進めようとした毛沢東が林彪の軍事力を必要としたことである。

第二に、林彪は十大元帥の一人として軍功があるばかりでなく、毛沢東に対する個人崇拝の演出者として、政治的資本も手に入れていた。

第三に選挙前の政治局常務委員七名のうち、劉少奇、Deng Xiaoping は路線の誤りのゆえに批判されており、朱徳は老齢であった。毛沢東は周恩来、陳雲に対しては、その穏健路線が不満であった。林彪は当時五九歳の若さであり、後継者として有利な条件を備えていた。


林彪は文革の推進者として毛沢東によって抜擢された以上、毛沢東の期待に応えなければならない。それはまた自らの野心を満たすことでもあった。六六年八月八日、林彪は中央文革小組を接見して、天地を覆さなければならない。ブルジョア階級もプロレタリア階級も眠れないほどの騒ぎとしなければならないと述べた。
一九六六年八月中旬、林彪は葉群を通じて、劉少奇誣告の資料を雷英夫(解放軍総参謀部作戦部副部長)に書かせた。林彪はこれを江青を通じて毛沢東に届けた。
八期一一中全会およびその後の会議で林彪は幾度も劉少奇、Deng Xiaoping を名指し批判した。一九六八年九月二九日、林彪は劉少奇専案組の「罪状審査報告」にコメントを書いて、劉少奇には五毒が備わっており、罪状は鉄のごとく硬い。出色の専案工作を指導した江青同志に敬意を表すると述べた。

林彪と江青が結託して集中的に老幹部を粛清しようとしたのは一九六七年春から八期一二中全会にかけてである。

林彪グループと江青グループとは、文革を収拾し、第九回党大会を開く上では、結託したが、大会前後から仲間割れが生じ、九期二中全会(七〇年八月)までには鋭く対立するに至った。

表向きの論争テーマは憲法改正問題である。憲法のなかに毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させたとする三つの形容句をつけるか否か、国家主席を設けるかどうかなどがポイントであった。前者は毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦であり、後者は林彪が国家主席という名の元首となることによって、後継者としての地位を固めようとするものであった。

林彪の陰謀と野心に気づいた後、毛沢東は周恩来と協力して、林彪グループ批判に着手した。こうして二中全会を契機として、林彪グループの勢力が削減され始めたことは、江青グループの勢力を増大させることになった。


警戒を深める毛沢東


では九期二中全会の争いのポイントは何であったのか。毛沢東はのちに、五人の(政治局)常務委員のうち、三人が騙されたと語ったが、これは林彪、陳伯達が毛沢東、周恩来、康生を騙したという意味である。林彪は国家主席を設けるという合法的な手段で後継者としての地位を固めようとしたが、これが阻まれるや、毛沢東から林彪への権力の平和的移行を断念し、クーデタを追求するようになった。

毛沢東が林彪への危惧を感じたのは、江青への手紙によれば、六七年夏のことだが、いまや林彪への不信は動かしがたいものとなり、その勢力を削減する措置を講じ始めた。
七一年八、九月、毛沢東は南方を巡視した。彼は五大軍区、一〇省市の責任者と話をし、林彪とそのグループを名指し批判した。

毛沢東は八月末に南昌に着くや、それまでは林彪にすり寄っていた程世清から葉群や林立果の異様な行動を報告され、警戒を深めた。

九月八日深夜杭州では専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。九月一〇日、杭州から上海に向かった。しかし、下車はせず、一一日、突然北京へ向かった。一二日午後、豊台に停車し、北京軍区と北京市責任者と話をして、夕刻北京駅から中南海に戻った。

毛沢東は林彪の謀殺計画を察知し、ウラをかいて行動したものであろう。

林彪グループは上、中、下、三つの対策を検討した。

上策は毛沢東を旅行途中で謀殺したあと、林彪が党規約にしたがって合法的に権力を奪取するものである。

中策は謀殺計画が失敗した場合、黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作らと広州に逃れ、割拠するものである。

下策は以上の両策が失敗した場合、外国に逃れるものである。

毛沢東暗殺計画


一九七一年九月五日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。

九月八日、林彪は武装クーデタの「手令」を下している。しかし、毛沢東は九月一二日夕刻無事に北京に戻り、謀殺計画の失敗は明らかになった。

一二日林彪は翌日広州に飛ぶべく飛行機八機を準備させようとした。一二日夜トライデント機256号は秘密裡に山海関空港に移され、北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果が翌一三日、広州へ飛ぶ予定であった。

これらの秘密は林彪の娘林立衡によって、周恩来に通報されたことになっている。すなわち九月一二日夜一〇時過ぎ、林彪の娘林立衡からの通報は北戴河8341部隊を通じて周恩来のもとに届いた。

周恩来は256号機を北京に戻すよう指示するとともに、追及を始めた。これを知った林彪は一三日午前零時三二分、山海関空港で強行離陸し、ソ連に飛ぶ途中モンゴル共和国のウンデルハンで墜落した。

九月一二日の経過はこう描かれている。

林立果、劉沛豊は北京から256機を山海関空港に飛ばし、九時過ぎに北戴河の林彪の住まいに着いた。

一〇時過ぎに翌朝出発することを決定した。

林立衡は林立果から広州へ飛ぶことを知らされ、これを密告した。

8341部隊からの通報を受けて、周恩来は呉法憲、李作鵬に256の情況を調べさせ、周恩来、黄永勝、呉法憲、李作鵬四人の連名の批示がなければ、同機の離陸を許さぬと指示した。
夜一一時半頃、林彪はボデイガードの秘書に対して、大連へ飛ぶと電話させた。

一一時五〇分頃、葉群、林立果、劉沛豊は打ち合わせをしたのち、一二時近く北戴河九六号の住まいを出発した。

8341部隊はこれを知って、道路を塞いだ。ボデイガードの秘書は大連ではなくソ連に飛ぶことを知って、林彪の車から飛び下りた。

このとき左の肘を打たれたが、彼も二発発砲した。8341部隊も林彪の車めがけて発砲したが、防弾ガラスに弾き返された。

車は零時二〇分、空港に着いて、三二分に強行離陸した。

モンゴルで墜落死


林彪の車が8341部隊の制止を振り切って空港へ向かったとき、周恩来は人民大会堂から中南海へ行って毛沢東に報告した。

まもなく二五六専用機は離陸し、まず二九〇度をめざし北京に向かったが、すぐ三一〇度に向きを変えて西北を目指した。これは北京──イルクーツク航路である。
周恩来は華北地区のレーダー基地に監視を命ずるとともに、全国に対して飛行禁止令を出した。午前一時半ころ、呉法憲が電話で飛行機は国境を出るが、妨害すべきかどうか指示を求めてきた。周恩来が毛沢東の指示を仰ぐと毛沢東曰く

「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。どうしようもない。行くにまかせよ」。


一時五五分、二五六専用機はモンゴル共和国内に進入し、レーダーから消えた。

一三日午前二時半ごろ、ヘンティ省イデルメグ県ベィルフ鉱区南一〇キロの地点に墜落した。

九つの遺体は林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員三名であった。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。このため、燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定した。機内で格闘した形跡は見られなかった。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge140.htm


林彪は毛沢東の14歳下で、1956年に初めて中央政治局委員に選ばれた。それからわずか10年で、並み居る先輩を追い抜き、No2の座を獲得するのだが、その出世の手段は要するに「よいしょ」である。トップである毛沢東を徹底的に持ち上げることで、その座をつかんだのである。

 1962年1月に拡大工作会議、いわゆる「七千人大会」が開催された。これは、毛が提唱した「大躍進」等の失政について総括することが目的であった。「当時毛沢東本人は〜話したいことは全て話して『鬱憤晴らし会』を開くように求めた」とある。林彪が巧みなのは、そこでも

「現在の困難は『われわれが毛主席の指示に従って行わなかったがためにもたらされたものだ』」

と発言した点だ。 権勢を振るっている最中は、誰しもがお追従を言う。それであれば、多数の中の一人に過ぎず、「よいしょ」が与えるインパクトも小さかろう。ところが、失意の中、周りがきつい言葉を吐く中で、一人変わらず支持を続けたとしよう。毛も失地回復の最中は周りを見る余裕もなかったが、何とか態勢を回復すると、ふと思い出す。そういえば、林彪はあの七千人大会でも鬱憤晴らしをしなかったな、と。林彪が本格的に毛に取り入ったのは、そこがターニングポイントだったのではないだろうか。


 林彪のもう一つの手段は、ライバルを容赦なく蹴落とすことであった。本書で紹介される粛清の記録を読んでいると、卒塔婆が立ち並ぶ墓地を見ているような気になる。

 羅瑞卿(らずいけい)は、毛沢東の忠実なガードマンとして有名な人物である。毛が黄河などを泳ぐ時、近くで泳ぎながら見守っていた姿が印象深い。

 彼は毛に厚い信頼を受け、総参謀長の要職にあった。

 羅は、「毛思想は『最高』というが、最高ではそこで停滞してしまうのではないか」と林の考え方を批判した。

 また、羅は、軍服を要求した江青に対し、軍服は支給するが襟章などは貸与しないとした。

 そのうえ、葉群(林の妻)が要求した准将の地位を拒否した。一人でも危ないのに、三人とも敵に回してしまい、羅はとことんまで追い詰められた。

 悲惨なことに、羅は飛び降り自殺を図る。ところが、さらに悲惨なことに大腿骨を折ったものの「生き残って」しまうのだ。 瀕死の重傷を負ったというのに、批判集会には「かご」に乗せられ、無理やり担ぎ出される。暴力を受け傷はいつまでも癒合せず、病院で転倒し、さらに骨折する。 

「治療してくれ。さもなくば、この脚を切断してくれ」

という悲痛な訴えも、尋問が済むまで治療は延期され、結局羅は命を落とすのである。

 賀龍といえば、長征の時の第二方面軍のリーダーだ。

 ところが、1966年7月に、ごくつまらないことで「二月クーデター」なる陰謀を企てたとでっち上げられる。

 周恩来は、ほとぼりをさます意味で、賀龍を郊外の病院に入院させる。しかし、67年1月、林によって、別の場所に移送され、適切な医療はおろか、必要な水や薬さえ与えられない状態が続いた。

 67年6月9日、国民党が10万元の賞金首としてまで命を狙った英雄は、同じ共産党の林の陰謀によって重度の糖尿病による昏睡状態に陥り、還らぬ人となった。


 彭徳懐は、59年の廬山会議で、毛沢東の大躍進政策について諫言したため毛の不興をかい、失脚する。しかし、政治局委員の地位は留任していた。林は彭徳懐にも目をつけ、追い詰めていった。

 62年6月16日、彭は毛に真情を訴える手紙、いわゆる「八万言の書」を出す。

 毛は彭に面会に来るよう自ら電話をかけ、「君というやつは、普段は全然顔を見せないで、手紙は書くとなったら何万字も書くんだからな」とユーモア交じりの暖かい言葉をかける。「ああ、やっぱり主席はわかってくれている」。そう安心した彭を待っていたのは、さらにエスカレートする吊し上げだった。

 本書P65には、批判集会でいわゆる「ジェット式」に腕をねじり上げられている彭徳懐の写真が載っている。

 周恩来は、彭徳懐に対しても必死に病院を手配したが、やはりそこにも江青らの魔手が及び、74年11月29日に彭徳懐は死亡した。


 陳毅の例も印象深い。

 批判集会でも陳毅は毅然としていた。発言冒頭には毛語録から一節を読み上げるのが当時の習慣だったという。陳毅は言った。「語録271P!」自分の語録のページをめくる聴衆。そして会場がざわめいた。語録は270Pまでしかないのだ。

 さらに、陳毅は声を張り上げた。「陳毅は良き同志なり!」

 会場の周恩来が、毛主席が以前、実際にそうおっしゃったのだと解説したため聴衆は感心し、批判集会でありながら陳毅の言葉に真剣に耳を傾けたという。

 67年8月26日、林彪らに煽動された群集は周恩来を取り囲み、批判集会に陳毅を連れ出すと怒号した。その時の周のセリフが泣かせる。

「君たちが陳毅を吊るし上げると言うなら、私が立ちふさがる。それでもやると言うなら、私の体を踏みつけて行け!」

 さまざまなでっち上げ、言葉尻をとらえた告発は枚挙に暇がないので、一番くだらないな、と思ったのを一つだけ紹介する。

 風下にいて煙突の煙にむせた人が「西風が吹けばいいのに」ともらしたのを、毛主席の「東風は西風を圧倒する」(中国の革命は西欧資本主義を駆逐する)を批判したものだとされて、7年間もぶち込まれたそうである。

 文革関係の記述を読んでいると、本当に、もっと古い時代の史書を読んでいるような気分になる。林立果は、林彪の息子である。立果は空軍に入ったのだが、林彪の取り巻きたちは、ことあるごとに「彼は副主席の代理だ。空軍は彼に指導されるべきだ」と持ち上げた。

 林彪は、息子に何か実績をあげさせようと考え、ブレーンに命じて毛思想の解説書をこしらえ、息子にその解説を空軍で講演させ、しかもその講演録を大量に印刷させ配布したという。「親バカ70万冊」である。

 しかも、林彪や葉群は、息子の嫁選びのため全国から美女を選抜する大会を開いたという。将来の「皇后」候補という訳だ。

 周知のように、九全大会において、林彪は正式に「後継者」と決定した。前代未聞だが、党規約に明記されたのである。続く九期一中全会で、林彪は自分の取り巻きで人事を固めた。

 69年末に、劉少奇が死亡する。林彪は、ここで一気に自分が後継者に!と思ったのだろうか。

 その機先を制するように、毛は、70年3月に国家主席のポストは設置しないように提案した。しかし、あえて同年4月、林彪は毛沢東に、国家主席を設け、就任してくださいと提案する。言うまでもなく、国家主席のポストがなければ、自分がその座につけないからである。肩書きの有無など問題にしない毛沢東のようなカリスマ性は自分には皆無だと知っていたのだろう。

 その時の毛の言葉が痛烈だ。

「私は曹操になりたくない。諸君も孫権になるな」

 孫権は、後漢を擁立していた曹操に、自ら帝位に即くようすすめた。曹操は、自分に即位を勧める孫権自身が帝位に即きたいのだろうと皮肉った訳だ。 笑顔で話しながら背後で剣を振り被っていた林彪は、気が付くと逆に自分の喉元に剣が突きつけられているような気分になったのではあるまいか。

 70年8月23日の9期二中全会で事態はさらに風雲急を告げる。林は、陳に命じ「主席設置」議事を強行しようとするが、8月25日、毛ははっきりと討論停止を命じた。

 林彪の平和的奪権は失敗した。次の奪権の機会まで、毛がこのまま安穏と林を見逃し続けてくれる筈はない。

 71年3月27日、林らは「五七一工程」を起草する。毛沢東暗殺計画書である。自ら招いた事態とは言え、最早「殺られる前に殺る」しかないのである。

 71年8月14日、毛は南方へ、「謎の」視察に出かける。クーデターに失敗し、いわば「窮鼠」になった林らが不穏な動きをすることは予想できたであろうに、なぜ、北京を離れたのか。

 視察先で毛は引きこもっていた訳ではなく、多方面の人物と接触した。林彪サイドの人物にも、毛が林を厳しく批判していることが伝わった。危機は近い。林は凶行の実施を決意した。

 ここで私は思った。毛は、かつて戦術論としてこう語っている。「蛇」は顔を出した所をすぐに叩いたのでは、また穴に潜ってしまう。しばらくはほって置いて、完全に姿を現した所でこっぴどくやっつけるのだ、と。

 また、豊臣家を完膚なきまでに叩き潰すため、恭順の意を表しようとしていた豊臣側をさかんに挑発し、関が原、冬の陣、夏の陣に追い込んでいった徳川家康の手口(もちろん、これは豊臣びいきに偏った見解だが)も想起した。

 林らが毛暗殺の総指揮者に指名した江騰蛟(こうとうこう)は、71年9月9日に「毛の列車が上海で停まったら決行」すると内部で宣言した。

 71年9月11日、停車中の毛は、許世友と会うが、王維国の乗車は許さなかった。実は、林らが計画していた暗殺方法には、

(1)火炎放射器とロケット弾で列車を襲撃する、

(2)高射砲で列車を水平砲撃する、という方法のほかに、

(3)王維国が毛と接見する際、車内で銃撃する


という方法も含まれていたから、もし、王が乗車していたら運命はどうなっていたかわからない。 思うに、毛沢東のことであるから、スパイを忍ばせていて、林らの計画はほとんど筒抜けだったのではあるまいか。単に強運、天性のカンだけなのだろうか。

 同日、昼食後、毛は密かに列車を北京に出発させる。同日夜、王維国は「列車は上海を出た」と電話した。林らは目の前が真っ暗になったことであろう。 途中の鉄橋での爆破計画もあったのだが(関東軍の張作霖爆殺事件にならったものである)、毛は途中駅にも一切停車させず、12日夕方に無事北京に帰り着いた。毛の完全勝利だ。


 71年9月12日に林一派の中では「林副主席は広州へ行き、南北朝のように割拠」するのだという話が取り沙汰されたと言う。やはり大時代な話だ。

 ここからは分刻みのサスペンス。9月12日午後8時15分に林立果は、山海関空港から北載河へ向かった。

 12日午後10時30分、周恩来は、北載河の異常を知った。周は、捜索を開始する。

 12日午後11時、周宇馳(しゅううち)は仲間に「ばれた、中止だ」と電話をする。

 午後11時22分、事態を糊塗するため葉群は、周恩来に平静を装って「林が空路で移動します」と連絡した。

 午後11時40分、林は葉群に「すぐに出発だ」と告げる。

 林らは、車を100km以上で疾走させ山海関空港へ急ぐ。

 9月13日午前0時22分、林一行は、トライデント256機のもとに到着する。

 13日午前0時32分、副操縦士らも揃っていなかったが、林たちは離陸を強行する。

 午前1時50分、周恩来は怒りを込めて毛に報告した。毛はこう答えたという。「雨は降るもの、娘は嫁にゆくもの。好きにさせるがいい!」

 これは毛の達観か。それとも、予想された結末だったのか。

 9月13日午前2時30分、林らを載せたトライデント機はモンゴルで墜落し、全員が死亡した。あまりの準備不足のため、燃料切れを起こし、副操縦士もいないため不時着に失敗したのではないかと考えられているそうだ。


 後継者として信頼していた林彪に命を狙われ、毛はその後、一気に老け込んだという。


http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

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4) 終生、呂后、則天武后や西太后を演じ続けた名女優 江青女史

江青 1914.3.−−1991.5.14

 悪女、妻、女優、野心家、愛人、グレタ・ガルボ信奉者、イプセン愛読者、共産主義唱導者−−江青の異名だ。

 江青の一生は「復讐と野望」に彩られている。

まず、幼いころの貧困と搾取への復讐。 江青は、女優を目指すが、「スターダムに乗れるところだったのに、国民党の宣伝映画に出ることを強要されたので断念した」のだった。

「これを画策したのが、四人組の悪党ども。そのために、あらぬ中傷を書き立てられた」と江青は復讐心に燃えた。

 江青の生涯には何人もの男が登場するが、毛沢東の存在は大きい。彼との間には、李納という娘をもうけた。

 一九三七年、日中戦争が激しくなり、戦火は上海にまでおよんできた。その上海を江青は脱出し、西安にたどり着いて、さらに洛河に沿って北上して延安を目指した。そこには、共産党の首都があった。

「ずっと歩き通しでした。一文なしで、何度か危ない目に遭ったけれどなんとか生き長らえたわ」
 
江青は細い足がむくんでいるのが気になった。若い共産党員たちが全員出て彼女を歓迎した。ほっそりとした若くて美しい女優だ。上海からきた売り出し中の新進女優に男たちの眼が輝いた。

 江青は男好きのする顔に、もって生まれた性的魅力がある。上眼使いに話して男に媚を売る方法も身につけていた。
 
そんな女性が中国共産党の最高指導者、美男で権力もある人気絶大な毛沢東と出会った。

「もの静かで、知的な美人」が好みという毛沢東にぴったりとあっていたのが当時の江青だ。女好きな彼が見逃すはずはなかった。

「彼は美男で、大学教授みたいだった」

 講演する毛沢東に積極的にアプローチして、疑問点があれば押しかけて行って質問をする彼女の行動力が二人を急速に近づけた。 ときに江青二十三歳。毛沢東は四十五歳。二十二歳の年齢差は、まったく問題とならず、二人は熱愛した。 当時毛沢東には賀子貞という妻がいたが、夫妻の間は冷えきっていた。江青と毛が愛人関係になるのに時間はかからなかった。

 毛沢東の愛人になった江青は、やがて正妻になることを望んだ。 問題は党の承諾である。江青は男性遍歴が多いうえ、結婚する相手が自殺未遂までしてスキャンダルを起こしている。その女性を正式な毛沢東夫人として認めるわけにはいかない。それに当時、女優の地位は著しく低かった。評判のよくない映画女優、江青が認められないのは当然だろう)。

 この二人の間を取りもったのは、周恩来と江青の同郷である康生だ。 毛沢東夫人とは呼ばず、江青同志と呼ぶこと。江青は党の職務には関わらず、毛沢東の身辺の面倒だけを見る。しぶしぶながら、江青はこの条件をのんで結婚した。

「私はファーストレディよ、こんな屈辱的な条件を絶対に許すものですか」

 当時は毛沢東を愛していたが、このお返しはいつかすると決めた。 賀夫人と別れる前に、毛沢東には数人の女性がいた。 江青は後年、毛沢東との関係を述懐している。

「セックスは、最初は重要な要素になるけれど、その後は男に権力があるかどうかが大切なの」

 江青の本名は李青雲(李雲鶴という別名あり)一九一五年三月、中国山東省の諸城生まれ(一九一二年、一四年説もある)。その町の中流家庭に生まれたが、両親が離婚したため、貧乏な少女時代を送っている。(父が死亡したとも)貧しい大工の家庭だったともいわれる。  最初、親類のもとに引きとられたが、母は住みこみの職を見つけて最低の生活をなんとか維持してきたのだった(母が身を売っていたという噂もある)。

「いつも腹をすかしていたし、汚い身なりなので、苛められてばかりいたけれど、泣きはしなかった」

 そんな江青は、やがて済南の小学校を出ると、山東省立の演劇学校に入った。授業料も食費も無料で、多少だが、手当てもくれるというのが何より嬉しかった。当時の世相は不安定で、辛亥革命で清王朝が倒れ、中華民国として生まれ変わったばかりだった。
 一九二九年に、江青は巡回劇団に加わる。三三年には、青島で入党。一九一五年生れ説をとると、当時まだ十八歳だ。

 女優グレタ・ガルボに心酔していて、映画好きな江青は女優になる決心で上海に出る。諸城という小さな田舎町から大都会に出るのは勇気がいった。女優になって有名になるという女心と、共産党員として忠実であろうとする彼女の葛藤が始まったのもこのころだ。 青島で最初の結婚をし、上海では唐納(監督であり、著名な批評家でもあった)と再婚した。

 一九三〇年代の上海は東洋のパリと呼ばれた国際都市。この魔都上海は、あらゆる人間の欲望がうずまく場所で、彼女は生きた。  彼女は、貧しいが野心をもった女性で、いい役を得るために上海の映画会社に足しげくかよった。

監督で共産党幹部の張健の情婦だったとか、手段を選ばない「淫乱な女」とも噂された。(当時江青は、藍ぴん=青い林檎と名乗っていた)。

 江青が二人の子どもを残して唐納を捨てると、彼は自殺すると脅した。新聞はその話を煽情的に取りあげ、藍ぴんに罪をかぶせ、悪意のある醜聞を書きたてた。

 そして毛沢東と出会うのは、先に述べた一九三七年のことだ。  一九三九年、毛沢東と結婚した後、江青は平凡で従順な主婦となった。それが党の指導者たちが取り決めた結婚の条件だった。  一九四九年、共産党は国民党を打ち破り、ついに中華人民共和国を成立させた。毛沢東の時代になるが、それに比べて江青との愛は急速に冷めていく。

 毛沢東は新しい女を見つけた。

それを黙認する代わりに、江青は四人組を組織して、政治の表舞台に出始めた。

まるで、嫉妬に狂った女が片端から「恨みつらみ」を何かにぶつけるように、ヒステリックで残酷な行動に出た。

 文化大革命(一九六七年)の主役として、ふたたび政界に浮上したのである。 京劇に現代的なレパ−トリ−を演じさせようとした。そのレパ−トリ−は、いつも共産革命の讃美をテ−マにしていた。


 紅青は粛清の陣頭に立ち、旧幹部の吊るしあげをした。

 過去を知る邪魔者は無差別に殺した。その数は、「十人や二十人ではないだろう」といわれる。

すさまじいばかりの殺戮を断行した。これには年老いた毛沢東には手がつけられなかった。

 しかし、一九七六年に毛沢東が死ぬと江青は四人組とともに捕らえられ、投獄された。四人組の裁判はテレビで公開されたが、三人の男たちが、憔悴しきっているのに対して、江青だけは怒鳴り散らしながら自己を正当化し、最期まで闘い続けたのだった。

http://www.ainoue.com/ai/71-80/75.html

“四人組”のメンバーは、江青、張春橋、姚文元、王洪文である。このうち最重要人物は江青であり、他の三人は江青夫人の指図で動く形で政治局委員にまで昇格した印象が強い。つまり“四人組”といっても実は、江青プラスその他なのである。

迫害狂−−江青


毛沢東個人崇拝の高まるなかで、毛沢東夫人の地位は単に虎の威を借りる狸にとどまるものではなく、神格化された毛沢東から出される最高指示、最新指示の伝達者として否応なしに重要なものとならざるをえなかった。江青はまた元女優として、この政治的舞台で自らの役者としての武器を最大限に利用して、文革を推進して行ったのである。
江青を中心とするグループは当初は「海瑞罷官」批判、“三家村”批判、周揚批判などから知られるように、文革理論のスポークスマン的役割を果たしたが、陶鋳批判前後から文革が高度に政治的な奪権闘争に発展するに及んで、打倒すべきブラックリストを紅衛兵組織に指示して、紅衛兵運動の一部を操り人形のごとく操作するようになった。

こうして一見大衆運動的偽装のもとに、実は中央文革小組──首都紅衛兵第三司令部(略称三司)という秘密のホットラインが運動を操作するというカラクリができたのであった。 “四人組”裁判の起訴状公表に合わせて書かれた『解放軍報』(八〇年一二月九日)のルポは「迫害狂──江青」と題して主な迫害ケースを紹介している。たとえば六八年七月二一日、康生(中央文革小組顧問)が絶対秘密の手紙(原文=絶密信)を江青に届けた。

その手紙は、第八回党大会で選ばれた中央委員のブラックリストであった。

それによると、中央委員一九四名のうち、すでに死去した者、病弱な者三一名を除いて、九六名すなわち六割弱が×をつけられていた。罪状は「叛徒、特務、外国と結託した分子」などであった。

このリストに基づいて、一方では実権派たたきを拡大し、他方では第九回党大会の中央委員リストを作成したのであった。


毛沢東夫人としての強力な権限


かつて魯迅は「暴君のもとでの臣民」と題したエッセイを書いて、

暴君は「残酷さをもって娯楽となす。他人の苦悩を賞翫し、〔自らの〕慰安とする」

と書いたことがある。江青はまさに魯迅の書いたような暴君であり、六七年七月一八日、中南海で劉少奇、王光美を闘争にかけ、六九年一〇月一七日に劉少奇を開封に護送したのは、江青の直接操縦するグループであったという。

江青はまた劉少奇冤罪事件をデッチ上げるために、解放前に王光美の学んでいた輔仁大学教授であった楊承祚、同大学の代理秘書長であった張重一などを迫害して死に至らしめ、さらに劉少奇が華北局書記であった当時の連絡部長王世英を死なせている。これらの事件について、

「人面獣心の江青」は「冷酷残忍」であった。

随意に他人をして死に至らしめることを無上の権力の象徴であると彼女はみなしていたと告発されている。


このルポに代表されるように、“四人組”裁判当時の江青非難は、彼女を「迫害狂」だとし、彼女の性格が「冷酷残忍」だから、こうした悲劇がもたらされたのであるかのごとく説明している。何が彼女をそうさせたのか。

彼女が生来、迫害狂なのかどうか、冷酷残忍なのかどうかは調べる手立てがない。しかし、おそらく問題はそこにはない。毛沢東夫人であるというそれだけの理由で、彼女は中央文革小組の副組長になることができたこと、この中央文革小組がまもなく政治局の機能に代替するほどの強力な権限をもつに至ったこと、がポイントであろう。そしてこれはまさに文化大革命を発動したためなのであり、おそらくほとんどの責任は毛沢東にあるといえよう。


文革のテロリズムと先祖返り現象


もう一つは中国の権力者がほとんど無限に近い権力をもつことである。

私的なリンチは別として、正式に投獄し、裁判にかけるとすれば、その処理は司法当局に委ねられなければならない。しかし、中国共産党の支配のもとでは、「共産党の指導」「プロレタリア独裁」の名において、共産党が直接的に裁判に介入する。共産党の指導にしても、プロレタリア独裁にしても、革命の過程での一時的措置として、やむをえず採られたものであるはずだが、こうした革命時の非常手段がほとんど抵抗なしに受容されたことに中国社会のしたたかな古さを痛感させられる。

革命的暴力が許されるという雰囲気が文革を包む中国の「小気候」であったわけである。

明朝の宦官独裁の時代には、東廠や錦衣衛といったテロ組織が体制を批判する者を手当たりしだいに殺害した。文革はこうした政治の先祖返り現象でもあるとする見方もある(『沈思』二巻、三三四頁)。

ただし、スターリンの粛清が秘密警察を用いた国家テロであったのに対して、文革は大衆独裁はいう大衆によるテロであった事実に注目する必要があろう。ここでは中国共産党の誇る大衆運動は大衆操作に堕落したのであった。

林彪派と江青派


“四人組”は林彪グループの目から、見ると単なるモノカキにすぎなかった。林彪派の「五七一工程紀要」は、自らのグループに対して銃をもつ者(原文=槍杆子)を自称し、江青らをペンを持つ者(原文=筆杆子)と表現していた。江青グループがモノカキの理論家中心であったことは確かである。そして、これはまさに文化大革命の初期、中期においては重要な役割を果たした。しかし毛沢東の支えを失ったときに一挙に瓦解せざるをえなかった。彼らは毛沢東の文革理念を論文にまとめる側近グループ、あえていえば皇帝毛沢東の宦官としての役割を果たしたのであった。

では銃をもつ宦官たる林彪グループとペンをもつ宦官江青グループの関係はどうであったのか。

張雲生の『毛家湾紀実──林彪秘書回憶録』(邦訳『林彪秘書回想録』)は、興味津々の事実に溢れている。林彪の妻葉群はしばしば釣魚台一一号楼の江青宅を訪れ、密談しているが、林彪自身は江青に対して、かなりの警戒心を抱いていた。六七年二月には毛家湾で林彪と江青が激論していことを林彪秘書が証言している。

葉群は江青との連絡を密にするだけではなく、中央文革小組顧問陳伯達宅もしばしば訪れている。七〇年秋の九期二中全会で、陳伯達は林彪グループの尖兵の形で処分されるが、イデオローグの陳伯達と林彪グループを結合させたのは、葉群なのであった。
葉群は延安時代に教わったとの理由で、釣魚台一五号楼の陳伯達宅を訪れたが、寝室に押し掛け、ベッドで密談したことまで秘書に広言している。これが理由で陳伯達夫妻が別居する騒ぎになった。

武漢事件(六七年七月)で王力、関鋒、戚本禹らが隔離処分された後、中央文革小組内で孤立し始めた陳伯達は林彪の助けを借り、林彪もまた理論家陳伯達の力を必要としていた。そこで葉群は空軍機を飛ばして上海蟹を運ばせ、陳伯達に届けてごきげんをとり結んだりしている。


権力者たちのプライバシー


林彪は康生(中央文革小組顧問)を当初は警戒していたが、六八年初夏あたりから、林彪と康生の関係が改善された。これを陳伯達が嫉妬するようになったと林彪秘書が書いている。葉群自身は陳伯達に親しみをもち、「先生」と尊敬していたが、康生に対しては親しみよりは畏敬していた。陳伯達は康生の関係は必ずしもよくなかったが、葉群は極力バランスをとってつきあおうとしていた。

第九回党大会以後、毛家湾と釣魚台との関係はますます複雑微妙になった。互いに騙し合いこそすれ、譲り合うことはなくなった。政治的傾向としてはどちらかというと釣魚台に不利だったが、彼らは他の人々の近寄ることのできない特殊な条件(毛沢東夫人としての立場)をもっていると自負していた。毛家湾と釣魚台との緊張関係は九期二中全会(七〇年八月二三日〜九月六日)のころには白熱したものとなった。このバカ騒ぎの内幕はすでに世に知られたものよりもはるかに複雑である、と秘書が書いている。

なお、、葉群が秘書の張雲生に肉体関係を迫ったいきさつも、生々しく描かれている。葉群と総参謀長黄永勝とのアイマイな関係については、七〇年秋に二人が交わした愛の電話を葉群の長男林立果が盗聴録音したというエピソードも伝えられている(『在歴史的档案里──文革十年風雲録』)。

中国権力者たちの私生活にも、奇々怪々なプライバシーがあったことがよく分かるが、私がもっと興味を抱くのは、失脚後にこれらのプライバシーが容赦なく暴露されることである。逆に権力を握った者たちは、その権力を用いて、歴史を改竄することはもちろん、真実を知る者の口を封じるために、殺害することさえ行っている(江青は上海時代の友人を迫害致死に至らしめた)。

これが文化大革命のもう一つの側面であった。

周恩来、ケ小平 批判へ


概していえば、文の宦官と武の宦官との関係は、実権派の勢力が強かった初期段階では相互扶助であった。林彪は江青に「部隊文芸工作座談会紀要」のとりまとめを委託し、江青は中央軍事委員会文革小組の顧問となり、のちには解放軍文化工作の顧問も務めた。六七年一一月に第九回党大会についての意見を集めた際に、林彪が毛沢東の「親密な戦友」であり、「後継者」であると大会決議に書き込むよう強調したのは、江青であった。彼らはこうして林彪グループを支持し、その見返りを期待していた。しかし、第九回党大会以後は「権力の再配分」の矛盾が熾烈となった。九期二中全会で陳伯達が失脚し、葉群らが批判されたのは両者の権力闘争が爆発したことを示している。

ところで、林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青らライバルは周恩来を中心とする実務派になる。

江青らは「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。

一九七四年一月二四日および二五日、軍隊系統の「批林批孔」動員大会と党中央、国務院直属機関の「批林批孔」動員大会が開かれた。これは“四人組”裁判の前後に江青が毛沢東の意思に背いて開いたものとする解釈も行われたが、この会議の前後の毛沢東発言を点検した金春明は、毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていたと書いている(金春明『論析』二〇〇〜二〇二頁)。

事柄は「ケ小平 批判、右傾巻き返しへの反撃」闘争も同じであり、毛沢東はケ小平 を得難い人材と評したわずか一〇カ月後に、悔い改めない実権派として再び批判している。しかも、これは明確な批判であり、江青への暖かい忠告とは異なると解している。つまり文化大革命の正しさを確信する毛沢東からすると、ケ小平の反文革的な整頓は許しがたいものであり、これを批判する江青らの活動を文革路線の堅持の観点から支持したわけである。

この意味では、まさに“四人組”グループは最初から最後まで毛沢東の手足であったと見てよいのである。つまり“四人組”ではなく、実態は毛沢東を含めた“五人組”なのであった。

その事実を率直に広言できなかったのは、むろん中国共産党にとっての毛沢東の占める位置の大きさのためにほかならない。

もっとも、一〇年にわたる江青グループのすべての行動を毛沢東が支持していたということではない。たとえば江青は一九三〇年代の自らの醜聞をもみ消すために、趙丹ら関係者を少なからず死地に追いやったが、これは醜聞が実権派の手を通じて毛沢東の耳に入ることを恐れたものであろう。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge126.htm


 『江青』と言う人は、今では『中国四大悪女』の一人と言われている人でもありますので、如何しても、その悪行を書き連ねる事になります。 結果的に言えば『江青』は1976年の逮捕後1981年の『最高人民法院特別法廷』で『クーデター計画』や『幹部及び大衆の迫害』等の四つの罪で『死刑判決』を受け、その後減刑されるも1991年首吊り自殺をしたのです。

 それにしても、その行状を視てみると、『女って此れほど陰湿』なのかと思わされる物が多いのです。

 その伝聞によりますと、彼女は当初は図書館で副司書をしながら演劇を勉強していた『女優志願者』であったと言うのです。つまり、器量もそれなりのものであったようで1931年に最初の結婚をしたと言うのですが約2ヶ月で離婚、その後学生運動家と知り合い同棲,これが契機で1933年『共産党入党』、しかし同年、その運動家逮捕されるに及び『上海』移住、その後『女優』を始め1994年に映画監督と結婚するも2ヵ月後には他の男性の元へ走り、『上海芸能界』から去り、当時『中国共産党』の本拠地であった『延安』に逃げる形になったと言うのです。

何でも、この時から『江青』と名乗るようになったと言います。 この事が、彼女にとって大きな転機にもなって来た様なのです。

この時『江青』25歳、ここで20歳も年上の『毛沢東』と知り合う事となるのです。 しかし、『毛沢東』は当時三番目にはなりますが妻がいる身であったのです。 『毛沢東』は前妻と離婚し、『江青』との結婚を決意するに至ったと言うのですが、共産党の指導的立場にあった『毛沢東』には、『不倫』を噂される結婚は似合わないとして党の反対を受けた様なのです。

 党幹部であった『朱徳(1886〜1976)』や『周恩来(1898〜1976)』にとっては『毛沢東』のイメージダウンを招きかねないと言う危機感から、『江青』との結婚に反対の意見が続出し、最終的には『江青』を政治の表舞台には立たせない約束をさせられたと言うのです。 果たして、見直してみれば、これらの事が後に『江青』の報復となって現われて来たのかも知れません。 何れにせよこの様な事が起きたと言う事は『毛沢東』の存在が絶対的なものではなかった事を意味してると思いますが、『毛沢東の絶対的な支配』へと志向したものが『文化大革命』でもあったようです。 

ともあれ『江青』と『毛沢東』は『日中戦争』の真っ只中の1939年に正式に結婚したと言うのです。 『国共内戦』を経て、『文化大革命』の実行へと、その挙に出て来たと思われるのです。 

つまり、大筋では『毛沢東』がその目的を示し、具体的には『江青』が手を下したと言えそうなのです。『江青』をして『文革の女帝』と呼ぶ謂れがそこにあった様なのです。 1991年5月14日『江青』は自殺に及んで


『毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が 今・・・・会いに行きます』
と書き残したそうです。

http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24


 江青は王世英という人物を糾弾している時、重病になった王に

「もっと審査しなさい。死んだって構やしない」

とか

「もっと厳しく闘争にかけ〜場合によっては死ぬかもしれないが〜閻魔さまの別れの酒でも飲ませてあげるさ!」

と言い放ったという。 本書には四人組一派による自供捏造の「テクニック」?が描かれている。いや、テクニックと呼べるようなものかどうか。

「アメリカ特務機関の住所は東四六条の何号だ?」

と聞く。知らないのだから当然答えられない。

「では、一から順番に数を数えよ」

仕方なく、「一、二、三・・・」と読み上げていく。そして「・・二十八」

「やはり知ってたのか!」

と突然周りの人間が取り押さえ、「東四六条の二十八号である」と自供したことになるというのだ。実にグロテスクな茶番劇。


 康生は、こうした尋問に長けていたそうである。「かもしれない」、「類推する」といった用語をつなぎ合わせ、仮定に仮定を掛け合わせれば、どのような状況もでっち上げることができる。 たしか宋代の岳飛も、秦檜に「莫須有」(謀反の可能性があったかもしれない)だけで謀反の罪が確定されてしまったのだが、思わずそれを想起した。

 江青には、1934年に国民党政府に逮捕され、「これまで共産党に参加したことはなく、これからも決して参加しない」という声明を出して、はじめて保釈された。 江青は自分の触れられたくない過去を知っている30年代の同棲相手であった鄭君里を捕らえ死に追いやった。まさに死人に口なしである。

 孫維世(周恩来の養女)も殺した。これは『毛沢東最後の女』の書評(04年2月の「書評」)の中で少し紹介してある。

ロシア語通訳として毛沢東専用列車に同席していた孫を毛沢東が乱暴した。
養父周も泣き寝入りせざるを得なかった。しかし江青は毛でなく孫の方を逆恨みし、文革で権力を握った後あらゆる酷刑を与えて虐殺したとあり、いくら何でもそこまで・・・と思ったが、事実だったようである。

 もっとも本書ではそうした男女関係ではなく、孫が江青と同じ反日劇に出演したのだが、孫の方が人気を博してしまい恨みをかったとか、孫に演技上のアドバイスをしてやるから会いに来いと言ったのに孫が行かなかったとか、養父である周恩来や兄の孫央(彼は打倒の対象である朱徳の秘書だった)に対する敵意などが迫害の理由として挙げられている。

 その他にも、『賽金花』という芝居の主役をさらわれた王瑩という俳優を意趣返しで逮捕し、王瑩は恨みをのんでこの世を去った。

 他にもセーターを受け取らなかったためスター女優の趙燕侠は大部屋入りとなり、白叔湘という女優は、ドーランの使い方で江青と意見が違ったため、「反革命の現行犯」という汚名をきせられるなど、実にくだらない理由で多くの人が手ひどい復讐を受けている。

 根っからの「武闘派」である毛は、1927年に「革命は暴動である」と宣言したが、自らの奪権闘争でもある文革において原点回帰をした。文革が血腥い臭いに包まれたのは毛のこの言葉と決して無縁ではない。 王洪文は「文攻武衛」というスローガンを打ち出した。文革で攻め取ったものを武力で防衛するということだ。「暴力」がますます加速する。

 これも文革におけるグロテスクなユーモアの一つと思うが、頭上開花、面部掛彩といった言葉がある。中国人はなぜこのような巧みなネーミングをするのだろうか。煎じ詰めれば、脳天が砕ける、顔面が血に染まるという、反対派へのリンチの名称なのだが。

 中巻でも触れたが、奪権が失敗し逃亡を決めた林彪と葉群は時間稼ぎのため江青を利用した。9・13事件の前日、林彪はわざわざ西瓜を江青に届けさせている。 江青は、周囲に、林彪副主席から手土産をもらえるほど親密であることを自慢したが、事件が明らかになるや、これまで私は林彪から迫害を受けていたと鉄面皮にも言い募ったとのことである。

 江青は自らを呂后にも則天武后にもなぞらえた。

 江青ワンピース、太后靴というものがあるそうだ。「黄袍」は皇帝しか着用を許されない。江青はそれを意識していたのだろう。また、68年9月に呂后の所持品と目される玉璽が出土した。江青は目の色を変え、急いで北京に取り寄せたとのことである。それがあれば、女帝に即位できると考えたのであろうか。

 毛は「江青は野心を抱いている」とか「私が死んだら江青は騒ぎを起こすだろう」と語っていたそうだ。 その予言のとおり、76年9月8日には、周りの制止を無視して、江青は重態の毛の身体を動かして、病状の悪化を招いた。遺言状の所在を探ったようだ。自分の名前が出ていれば大々的に騒ぎ立てただろうし、もし都合の悪い内容であれば握りつぶそうとしたのであろう。

 翌9日の午前0時10分に毛沢東は死去した。時間の問題であったのだろうが、タイミング的には江青が殺したようなものであり、しかも、死の直後に張玉鳳(「毛沢東最後の女」とも呼ばれる、毛の秘書)に毛に関連する文書を提出するよう強要した。意図は同じであろう。

江青は、「党主席に就任したくてうずうずしており」、周囲の者に「このリンゴは、私が女帝に即位した時のお祝い用に取っておきましょう」というような発言をしたそうだ。

 しかしながら、毛から後事を託された華国峰は、葉剣英ら古参幹部と図って76年10月5日に四人組逮捕を決定し、翌6日には一網打尽にした。 ところで、華国峰は四人組逮捕に関しては果断であったが、それ以外の点では結局ケ小平の敵ではなかったようだ。

 華は自分の権力を守るために「二つのすべて」という手法を取った。これは過去の毛主席の決定、指示をすべて厳守するというもので、その解釈権を握ることで自らの権力を維持しようとするものだが、これでは林彪の毛個人崇拝と変わらないのである。 76年6月に華は、毛に報告したいことがあったが、身の周りの世話をしている張玉鳳が起きてくれず、2時間あまり待ったが、結局そのまま退出したというエピソードがあるそうだが、実に象徴的だ。いわゆる「押しが弱い」タイプだったのだろうか。

 本書には、権力が世襲されなかった点以外は毛は「皇帝」そのものだったと書かれている。嫡男というか「皇太子」がいれば、世襲されていたかもしれないと私は思うのだが。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm


 『周恩来』の養女『孫維世(1922〜1968)』


文化大革命時代には、女優としての名声の高さと毛沢東との男女関係から江青の嫉妬を買い、迫害を受けた。

孫維世は養父である周恩来が署名した逮捕状を以って、北京公安局の留置場に送られ、1968年10月4日に獄中で死亡した。

遺体は一対の手枷と足枷のみ身に付けた全裸の状態であった。

江青は刑事犯たちに孫維世の衣服を剥ぎ取らせて輪姦させ、輪姦に参加した受刑者は減刑を受けたと言う。

また、遺体の頭頂部には一本の長い釘が打ち込まれていたのが見つかった。

これらの状況から検死を要求した周恩来に対し、「遺体はすぐに火葬する」という回答のみがなされた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E7%B6%AD%E4%B8%96

 『孫維世』は1946年当時『延安四大美女』の一人とも言われる『女優』であり、人気も格別なものであったと言う事なのです。 女優としての略歴もしっかりした物であった事から1935年以来『周恩来』の信頼も受け、16歳で中国共産党に入党していた事から彼の養女ともなった様なのである。 美人な上に幹部の信頼も厚かったことから、『毛沢東』の1949年の『訪ソ』の際には『毛沢東』の通訳を務めたと言うことである。

 彼女を知る人の話では、『彼女の美しさは尋常の物ではなかった』らしく、彼女にプロポーズした幹部は『林彪』を始め多くいたそうである。 『毛沢東』もこの『訪ソ』の際、彼女と関係を持ったのではないかといわれているそうである。

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  _    `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.|  周恩来の養女 孫維世です。
彡三ミミヽ        i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠| 
彡'   ヾ、    _ノ i!::: ̄二ー:: : ::::ソ ・ ,| 本日はご指名頂きまして
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ミ三彡'        /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|
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      ィニ=-- '"  /  ヾヾiiヽ、 :.:.:.:.::::|
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   ノ     _/   /   /  |:. :.:.:.:.:.:.:|


 『江青』にすれば、総ての恨みが迸り出たのかも知れない、1968年『江青』は『周恩来』の署名の入った逮捕状をもって、彼女の元へ乗り込み彼女を逮捕したと言うのです。

 『孫維世』は10月4日死亡したとされていると言うのですが、その時の彼女の死体は全裸の状態であったというのです。 『江青』はその時、刑務所の刑事犯に彼女の衣服を剥ぎ取らせ『輪姦』をさせたと言うのです。 『輪姦』に参加した刑事犯を減刑する措置もとったという事なのです。
 
http://shuho-terakoya.blog.so-net.ne.jp/2010-11-24


 江青は孫維世(周恩来の養女)も殺した。

ロシア語通訳として毛沢東専用列車に同席していた孫を毛沢東が乱暴した。養父周も泣き寝入りせざるを得なかった。しかし江青は毛でなく孫の方を逆恨みし、文革で権力を握った後あらゆる酷刑を与えて虐殺したとあり、いくら何でもそこまで・・・と思ったが、事実だったようである。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

1949年、ソ連に向かう中共代表団付きのロシア語通訳が、周恩来の養女である彼女であった。

 毛沢東は「自分専用の書斎兼寝室の車両で美しい孫維世からロシア語を教わ」る毎日であったが、

「ある晩のこと〜『主席』はしっかりと握った手を放そうとしなかった。

〜次の日の朝、目覚めた孫維世はここがどこで、何がおこったのかをようやく理解した。

『偉大な人物』は大きな鼾をかいて寝ていた」。

「娘のことで周恩来はひどく心が痛んだが、慰め、我慢し、泣き寝入りするしかなかった」。


 よくドラマで夫の浮気現場に踏み込んだ妻が、夫ではなく愛人に対して「この泥棒猫!」なんて言ってつかみかかるシーンがあるが、江青も、毛ではなく、彼女を深く憎悪した。

 文革で権力を握った江青は存分に恨みをはらした。

「北京のある監獄に一人で監禁された彼女は、あらゆる酷刑をうけた。
〜素っ裸にされた彼女の身体は傷だらけで、一糸まとわぬ姿のままこの世を去った」。

 何か、呂后や西太后の凶行を連想させる。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-04-02.htm


摺醴霾醴髏蠶蠶鸛躔か                    ベ∃壮鎧醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
勺儲靄靄醴醴醴蠶體酌偵Auru山∴          ベヨ迢鋸醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
∃儲霾ヲ露繍蠶髏騾臥猶鬱h  ご笵此∴        ∃f謳廱躔騾蔑薺薺體髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶
ヨ儲諸隴躇醴蠶歎勺尓俎赴  f蠶蠶蠢レ      ∴f醴蠶鬪扠川ジ⊇氾衒鑵醴蠶蠶蠶蠶蠶  
ヨ鐘諸薩讒蠢欟厂  ベ状抃  傭蠶蠶髏厂      .ヨ繍蠶蠶臥べ泣澁価価櫑蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶   
f罐諸醴蠶蠶歎      マシ‥…ヲ冖        .∴瀦醴蠶襲jJ鶴門門攤蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶    
加罐讒蠶蠶欟厂        ヘ              ∴f醴醴蠶甑欄鬮°f蠢蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶    
溷霾醴蠶蠶勸                        ∴ヨ繍醴蠶蠶鬮狡圷し醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶     
醴蠶蠶蠶蠶髟                        ベ湖醴醴蠶蠶蠶庇⊇⊇體髏髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶     
蠶蠶蠶蠶欟                          f繍蠶蠶蠶蠶蠶曲三三巛憫髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶        
蠶蠶蠶蠶歉                  澁畄_迢艪蠶蠶蠶蠶蠶蠶甜川⊇川川衍捫軆髏髏蠶蠶蠶蠶        
蠶蠶蠶蠶髟                コ醴蠶奴繍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶齡辷シジ⊇川介堀醴醴蠶蠶蠶蠶       
蠶蠶蠶鬮か                .ベ苛ザベ繍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶醯己に⊇三介f繙醴蠶蠶蠶蠶蠶       
蠶蠶髏鬮シ                        尽慵蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶自辷三沿滋鐘醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶       
蠶蠶醴勸                            氾隅髏蠶蠶蠶蠶蠶靦鉱琺雄躍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶醴訃                      ∴∴∴沿滋溷醴髏蠶髏髏韲譴躇醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶髟              _山辷ムf蠡舐鑓躍醯罎體體體驩讎櫑蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶a            f躍蠶蠶J蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶醯註珀雄醴醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶廴          f醴蠶欟閇憊體醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶靦錐讒醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶欟シ          禰蠶蠶蠢螽螽蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶躍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶監シ          ∵ヴ門夢曠髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶a                ∴シ∃愬嚶髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶診            ベ沿u旦以迢u讒醴髏曠醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶髏蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶甑シ            .げ隅艪蠶蠶蠶蠶蠶蠢J蠶髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶鬮ヒ               ベ状隅髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶蠢テ∴              ベ川捍軆髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶蠶ルシ              ∴∃氾据醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶蠶蠢此            ∴⊇以f繙醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶蠶蠶ル∠∴  .∴∴∠ヨ旦滋躍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶蠶蠶蠶蠶醢山ム沿当u錙躍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶

孫維世さんの遺体の状況はこれに近かった様ですね:


台湾のアイドル白暁燕


1997年4月14日、私立醒吾高級中学 2年に在学中の暁燕は日系を嫌悪する外省人系のマフィアにとって、格好の標的となり通学途中に誘拐された。

犯人グループは、直後から輪姦・暴行を加えるとともに、左手小指を切断した。
さらに、母冰冰の元に暁燕の半裸の写真と、彼女の切断された小指を送りつけ、500万アメリカ合衆国ドルの身代金を要求した。

冰冰はなんとか身代金全額は揃えたが、行政院長連戦の差し金で警察からマスコミに情報が漏れ、中華日報と大成報が報道したため、引き渡し現場に記者が殺到する事態となり、犯人グループは身代金受け取りを断念する。

現金が渡れば家に帰れると信じていた暁燕は、戻ってきたグループの一味から身代金受け渡しの失敗を聞いて泣き叫んだが、激昂した犯人グループは、腹いせにさらに凄惨な輪姦・集団暴行を加えて暁燕を惨殺し、遺体の手足を角材で縛ったうえ、重しをつけて台北近郊のドブ川に遺棄した。

4月25日に犯人グループのアジトを急襲し4人が逮捕されたが、3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を捕り逃がしてしまった。

4月28日、暁燕の原形を止めぬほどにボロボロになった無残な全裸の遺体が発見された。
発見者は、最初はブタの死骸と思ったという。

直接の死因は窒息だったが、

暴行による打撲で肝臓が破裂しており、

その内出血で腹腔は大きく膨張し、

肋骨もほとんど折れており、

両手両足の爪も全て剥がされていた。


顔も髪の毛はまばらにされ、

両目はえぐり取られ、

舌は引き伸ばされ、

両耳の鼓膜は爆竹で破られ、

前歯は上下三本しか残っていなかった。


報告書に「処女膜断裂」とあるように激しい強姦の痕跡も歴然としており、あまつさえ


膣と肛門に鉄パイプが2本突き刺され、

子宮内には釘が48本も打たれていた。


長年にわたり多くの死体を検分した検視係官が「これほど凄惨な遺体を目にしたことはない」と衝撃をうけるほどだった。

さらに、遺体発見時の写真を一部のメディアが掲載したため、マスコミへの批判が高まり、白母娘の住んでいた家の付近に、周辺の住民が「記者有罪」と書いた抗議の垂れ幕を下げた。暁燕の葬儀では、顔にかつらと生前の顔を模した面を着けて納棺された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9A%81%E7%87%95
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/3730785.html

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5) チベットでも行われた文化大革命


* 1959年の3月チベットの首都のラサで「改革解放」の名のもと「民族浄化」が開始、殺戮・破壊・強奪・強姦が行われた。


* 15万人の僧侶と尼僧は公開虐殺によって1400人に減らされた。

僧侶に対しては、滑車を使い仏像の重みによる絞首刑や、

尼僧に対し警棒の形をした5万ボルトのスタンガンを性器に入れて感電死させ彼女の死体は裸のまま路上に捨てられた。


* 一般民衆の犠牲者は120万人におよぶ。中国は

「強制断種(チベット男性の生殖機能を手術によって奪う事)」や

「強制交種(チベット女性を中国男性と交わらせ民族の血統を絶つ事)」

等の民族浄化に力を入れた。

* 生き残った証言者によると、親の死体の上で子供に泣きながらダンスをさせ、人民解放軍はそれを笑いながら銃殺した。


「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。」

特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。

拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、

「仏陀に腕を返してもらえ」

と嘲笑された。 大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。

アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。 さらに高僧たちは

「霊力で穴から飛び上がって見せろ」

と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。


おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。

貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。

僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。

リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。 何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。

僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、

「仏陀はどうしたんだ?」

と中共兵に嘲られた。


* 「ジュネーブ法律家国際委員会」が受理した供述書によると

「何万というわが国民が殺された。軍事行動においてばかりでなく、個人的に、また故意に殺されたのである。彼らは銃殺されたばかりでなく、

死ぬまでむち打たれたり、磔にされたり、生きながら焼かれた。

ある者は生き埋めにされたり、はらわたを取り除かれたりして殺された。


こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。

犠牲者の同じ村人、友人たち、隣人たちは、それを見物するよう強いられた。自分の家族のものが強制されて見ているその目の前で、ゆっくりと殺されていったのである。さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制された」

とある。 -- (東亜から転載) 2008-03-19 10:46:18

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル ダナム著

妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。

尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。

拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、

「仏陀に腕を返してもらえ」

と嘲笑された。

大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。 さらに高僧たちは

「霊力で穴から飛び上がって見せろ」

と嘲られ、挙句に全員射殺された。 おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれた。

http://www.tchrd.org/press/2008/pr20080318c.html

   ( . .:.::;;;._,,'/ __:::::ヽノ::::/´>  )
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(..::;ノ )ノ__.  _  | ::/  _ ):::: )_  キャー .__       _ 
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1966年5月にはチベットにも文化大革命の嵐が吹き荒れた。8月には紅衛兵の数は1万人に達し、最盛時には十数万に達した。

紅衛兵は「四旧」を打破し、「四新」を建設しようというスローガンの名のもとに、数少なくなったチベットの寺院、文化施設を徹底的に破壊し、通りの名称を変更し、個人の家に入り込んで祭壇や民俗家具などをかたっぱしから壊しまわった。
民族衣装を着ることもペットを飼うことも屋上で香をたくことも、伝統の模様を描くことも全て禁止された。

宗教文献、写本、彫像などはあとかたもなく破壊された。

チベット語も弾圧の対象となり、会話以外ではありとあらゆるチベット語の書物、教科書、が廃棄された。チベット語で印刷されたものといえば毛沢東語録と共産党の宣伝文書ぐらいになってしまった。

全ての僧侶は「反動分子」として扱われ、罪名を書いた板を首かけられ、市内を引き回された。6000箇所以上あった寺院はことごとく破壊され、完全な破壊を免れたのは8箇所であった。

チベットのありとあらゆるものが破壊された大混乱の10年間であった。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui03.htm


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          / / ∠三ミレ-- 、      ヽ
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         ゙、 ', | |   | `l'"´    ゙、|  |i   | 下手な時代劇だったのよ
         ヽ ヽ | |   レ'′      \ || /
           /ヽ \!  |  ̄ ``   r'´ ` ̄``ヽ
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        |     〉 V              |   |
        |    /  /       \       ヽ、 |
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4. 劉少奇 _ 皇帝に逆らった義人の運命


劉少奇〔Liú Shàoqí リウ・シャオチー/1898.11.24-1969.11.12〕は、中国共産党が結成された年に、中国共産党へ入党した創初期からのメンバーである。1937年、盧溝橋(マルコポーロ橋)事件(日中戦争発端の事件)の首謀者(劉自身が自分の手柄話として語っている。)1945年に中国共産党の2となり、1959年には毛沢東に代わり、「国家主席(国家元首)」となる。ま、「国家主席」とは言え、中共は毛沢東の独裁政権であったので、2のままではあったが・・・

毛沢東の「大躍進」・・・と、云う実質「大後退」に等しい大失策によって、中国全土で数千万の餓死者が続出し、国家の荒廃を憂いたが、「大躍進」に異を唱える事は、毛沢東独裁の中では、確実に粛清の対象になるのも知りながら、国家の退廃と民衆の窮乏を救う為に、敢えて自己犠牲の精神を以って、毛沢東に敢然と立ち向かった。

しかし文化大革命の中で、権力強化を図る毛沢東の標的とされ、“実権派(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者”として徹底的な批判に晒され、1968年に除名、失脚へと追い込まれ、1969年に開封市の監獄で獄死した。 劉少奇と王光美の子供の何人かは獄死した。

1958年、毛沢東は「大躍進」と云う政策を打ち出したが、実際には「大後退」・・・と、呼ぶに相応しい、惨憺たる大失策で、経済・生態系システム無視し合理性を全く欠いた、大躍進政策は結局として産業・農業基盤は崩壊、生態系を破壊し、発生した大飢饉は日に日に深刻さを増していった。

国家主席の劉少奇は大飢饉に深く憂慮しており、1961年初頭迄に全土で3000万人が餓死したことも承知していた。 1961年4〜5月に、劉少奇は故郷の湖南省を視察した折に、自分が関わった政策が齎した惨劇の結末を直接目にした。

※最終的には「大躍進」では最大推計5000万人余りが餓死した。

劉少奇は、視察中に姉の家に立ち寄った。姉は「地主」の家に嫁いでいたので、共産党政権下で「階級敵人」に分類されていた。其の為に、国家主席の姉弟であっても特別扱いされずに、迫害を受けたし、1959年に発生した飢饉のことを訴える手紙を姉の夫(義兄)が劉宛に書いたが、途中で検閲に引っ掛り、義兄は懲罰として、凍死寸前になるまで木に縛り付けられ、その後間もなく亡くなった。 体が弱っていたのに、ふすまで作ったパンを食べた(その様なものしかなかった)のだが、弱った胃腸は消化の悪い物を受け付けず、医者を呼ぼうにも医者もおらず、苦しみ続ける病人を運ぶ病院すらなかった。

行く先々で、劉は胸を引き裂かれるような光景ばかりしか目にする事が出来なかった。そして、多くの悲惨な話を耳にした。共産党・・・ひいては自分自身に対する人民の憎悪を感じざるは得なかった。故郷の村では12歳の少年が劉の実家に 「打倒劉少奇」 と、書いた。この少年は、1年の間に家族6人が病気で死ぬのを目の当たりにして来た。最後に死んだのは一番下の弟だった。少年は幼い弟に母乳を飲ませてくれる人を探している最中に、弟は少年の腕の中で亡くなった。何故なら、少年の母は其の少し前に亡くなったばかりだった。劉は地元の党幹部に命じてこの少年を罰しないように命令した。劉は、地元当局が食物を盗んだ罪で農民を罰するのをやめさせ、村人に対して、

「寧ろ、政府が農民から食物を強奪しているのだ」

・・・と、衝撃的な発言をした。更に

「そっちがわしらから取るなら、なんでわしらがそっちから取ってはいかんのか?
そっちが沢山取っていくのに、なんでわしらが少しばかり取ってはいけないのか??」

と、農民を代弁する発言をし更に前例の無い事をした。劉少奇は共産党政権の失政について農民に謝罪したのだ。

「同郷の皆さんが此れほど過酷な暮らしをしているのを見て、私はショックを受けました・・・・・

皆さんにこれほどの苦しみを与えてしまったことに対して責任を感じます。謝らなければなりません」

――ーと。


北京へ帰った後、劉は共産党最高幹部たちに

「このまま(大躍進政策を)続けるわけにはいかない」

―――と、語った。 8月には、周恩来が河北省視察の結果、毛沢東に対して

「人民の食べ物は、木の葉、野菜の漬物、野草だけで他には一切無い。穀物は一粒たりとも残っていない」

・・・と、報告したが、毛沢東は

「何をそう大騒ぎすることがあるのか??」
―――と、吐き棄てた。

そして劉少奇は毛沢東に対して叛旗を翻し、大躍進政策を事実上中止させ、ケ小平と共に経済原理を取り入れた政策を実行して、経済再建を図った。しかし、権謀術数の鬼である毛沢東が、指をくわえて見ている訳は無かった。 1965年、実権奪還を果たすべく、毛沢東は悪名高い「文化大革命」を実行。強情に自らにひれ伏そうともしない劉少奇の粛清を決意。

「劉少奇は資本主義に走った最高指導者」

―――と、徹底的な糾弾に遭い失脚。 勿論、毛沢東の劉に対する復讐の意味も込められいる。 劉少奇は自宅軟禁され度々晒し者にされた。 1967.08.05に中南海で行われた、公開見せしめ裁判の時に劉少奇夫婦揃って引きずり出された時だった。 劉少奇が見せた覚悟と英雄的行為と夫妻の真実の愛は素晴らしいものだった。劉少奇は、幾ら批判され弾劾されようとも、自分の主張を一個も曲げる事はしなかった。

劉少奇が更に言葉を続けようとすると「毛沢東語録」を手にした群衆から殴られ、劉の声は罵声に掻き消された。夫妻は殴られ、蹴られ、両腕をねじ上げられ、後ろから髪を乱暴に引っ張られ、カメラマンや映画撮影班に顔がハッキリと見えるように上を向かされた。

(残忍な毛沢東は自らに楯突いた人物の末路を見て楽しむために、度々この様な撮影をさせている。)

しかし、

「痛めつけ足りない」

「もっと、良い(残忍な)映像を」

―――と、毛沢東の側近が指示をしたので、この後の映像は、劉少奇が地面に倒れ踏みつけにされている映像が含まれ、劉夫妻に最大の精神的苦痛を与える為に、夫妻の6歳になる娘をはじめとする子供達が

「かつて国家の最高権力者であった両親が、群衆に痛めつけられている姿」

・・・を、見学されられた。 しかし、夫妻は最期まで、毛沢東に屈服する事を拒み続け、劉少奇は、死の目前まで、毛沢東を糾弾する書簡を書いた。しかし老齢を迎え、獄中で3年もの間、数々の肉体的・精神的な拷問を受けながらも、尊厳を棄てず、毛沢東への屈服を拒んだが、遂には力尽きた。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51570818.html


『文化大革命十年史(上)』(著:厳家祺(げんかき)・高皋(こうこう)。監訳:辻康吾。岩波現代文庫)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%8D%81%E5%B9%B4%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB%E2%80%95%E5%AD%A6%E8%A1%93-%E5%8E%B3-%E5%AE%B6%E7%A5%BA/dp/4006000723/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1314366635&sr=1-1


 文革は、いったいいかばかりの損害を中国に与えたのだろうか。

 本書では「経済的損失は五千億元に達した」という記述があるが、金銭に換算できるものばかりではないだろう。

 各書でもそうだし、本書でも、文革の根本原因として、スターリンを貶めたフルシチョフ体制を目の当たりにして毛沢東が不安になった、ということが挙げられている。きっかけとなったのが、三面紅旗の失敗を彭徳懐が指摘したことだ。

「この批判を認めてしまうと、毛沢東の党内での最高権力が動揺するのは必至」

とある。気にしていることをズバリと指摘されたので、彭徳懐は毛沢東の不興をかって失脚した。彭は、「文革」の最も初期の犠牲者と言ってもよいかもしれない。

 1965年11月10日、上海の『文匯報』に有名な、姚文元(ようぶんげん)の「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」という論評が発表された。 どこが逆鱗に触れたのかよくわからないのだが、とにかく江青が、この作品(『海瑞免官』)には腹を据えかねたようだ。しかし、北京では「海瑞」批判の動きを起こすことに失敗した。

 彭真は、毛に「呉ヨ(ごがん)と彭徳懐は無関係」と訴えている。本書の注によると、時期的に見て、呉ヨが、この作品に彭徳懐擁護の意図を秘めることは不可能だったようだ。(作品ができたのが1959年6月。彭が毛を批判したのは同年7月)

 66年5月25日、聶元梓(じょうげんし)らは党委員会に反旗を翻した。それを知った大衆はもちろん深く驚きもしたろうが、反面カタルシスというか、心中快哉を叫んだ者も多かったのではないだろうか。

 66年5月30日、文革小組の一派は、「人民日報」を手中にしたそうだ。これで今後の世論操作が可能になったのだから、この重要性は大きいのではないか。

 その後、反工作組の動き、つまり、従来の「権威」に対する動きが出てきた。

 例えば66年6月18日、陸平ら「黒い分子」を吊し上げたいわゆる北京大学「六・一八事件」である。固定的な(ある意味、安定した)時代であれば、党中央が派遣した工作組の指示には素直に従うことになっていただろう。

 本書には、風向きがおかしくなってきた劉少奇が毛に事情を説明しようとして66年7月18日に家を訪ねたが、(電気はついており、誰かと会っている様子なのに)門番から「主席はもう寝ているから帰れ」とすげなく追い返されたとある。いかにも象徴的なエピソードである。

しかし、劉は、まだ自分の陥っているピンチを正確には理解していなかっただろう。むしろ、理解したくなかった、直視しようとしていなかったという方が近いかもしれない。


 文革は暴力的で残酷なのだが、その中でふとグロテスクなユーモアを感じさせることがある。

 本書でいうと、例えば、江青が、反工作組(=反劉少奇)を叫び、自分が最も「革命」的であるとアピールするための66年7月26日の大会の中で、興奮のあまり私怨を絶叫したというあたり。

「興奮のあまり訳が分からなくなり、われを忘れた江青が毛沢東の前妻の〜息子〜の妻との間に起こった衝突のことまで持ち出し、毛家はこの嫁を認めない、と声の限りに叫んだとき、人々の心にこの革命に対する一抹の不安がよぎった」

とある。会場の聴衆は「なに、関係ないことゆうとんねん、このおばはん・・・・」と思ったやろうねえ。

 また66年8月19日から始まる「四旧打破」の大キャンペーンの中で、紅衛兵が信号表示に異議を唱え、革命の象徴たる「赤」は「進め」を表わすべきだと言い出したそうだ。紅衛兵たちがむりやり

「青で停まれ、赤で進め」

と命令し、数え切れぬほどの無意味な交通事故を引き起こしたあげく、周恩来総理が自ら

「信号は全世界の統一規定で、赤は人の警戒心を呼び起こしやすいという光学的な効果がある」

と説得したというくだりも非常に馬鹿馬鹿しい。


 有名な写真で、劉少奇の妻王光美がネックレスをつけた状態で吊るし上げをくらっているものがあり、本書にも載っている。これも、何と63年の「ネックレス事件」が根本原因らしい。しかし中味といえば、外遊する王に江青が「ネックレスはつけるべきでない」とアドバイスしたのに、ネックレスをつけた姿をニュース映像で見て以来、宿怨を抱いていたという実にせこいもの。

 しかしながら、67年4月10日王光美批判集会では、

「紅衛兵が勝手に持ち出したシルクのストッキングとハイヒールを履かされ、体に合わなくなった細身の旗袍(チーパオ)を着せられて、さらに、このためにわざわざ作ったピンポン玉のネックレスまでつけさせられ」たのである。

 劉少奇への迫害は目を覆いたくなるものがある。67年1月6日に、王光美は

「娘平平が下校途中に脚を折り切断しなければならず、保護者のサインがいる」

という電話を受けた。王は「絶対に中南海を離れるな」という周恩来の再三の忠告を思い出し、すぐに出かけようとする劉少奇を止めたが、

「あんな小さな子が私たちのせいでひどい目にあったのだ」

と迷うことなくきっぱり言ったそうだ。(しかし、やはりこれは罠だった)


 67年7月18日、劉少奇糾弾集会が開かれ、陶鋳、ケ小平にも暴力がふるわれた。

 8月5日、毛が壁新聞「司令部を砲撃しよう」を貼り出してから1周年にあたるこの日、劉少奇批判集会はさらにエスカレートした。

「劉少奇の顔は腫れ上がり鼻には青アザができていた」そうである。


 劉少奇は家族から引き離され一人で監禁された。適切な医療も食事も水も与えられなかった。

 69年10月17日、劉少奇は河南省開封に移送された。
11月12日午前6時45分、彼の心臓は鼓動を停止した。救急チームが来たのは、その2時間も後だったそうだ。

 「人民共和国の主席はこうして誰にも知られずひっそりとこの世を去った。彼が黄泉の国へ持って行ったのは彼に押し付けられた『劉衛黄』という仮名と『無職』の肩書きであった」という。

http://homepage3.nifty.com/alacarte/hitokoto-05-03.htm

劉 少 奇 の 晩 年 99/11/12 半島震報 王小岩 


 今年は劉少奇が亡くなって30年目。1969年11月12日6時45分、劉少奇同士は河南省開封に於いてこの世への深い恨みの辞世の句を残し死んだ。

当時は特殊な社会状況で、そのころ劉少奇の警備を担当していた警備隊長が中国領袖の深刻な晩年を語ってくれた。 これを語ってくれたのは現在審陽市沈河区の中国特有のマンションに住む張兵武老人で、”中南海”の煙草を吸いながら30数年前の、今では消えそうな想い出を静かに語ってくれた。


 警備役から監視役へ

 1996年、歴史上最大の台風「文革」が吹き出した。中南海と言えどその圏外に逃れ出るわけにはいかなかった。李富春、潭震林、と小平、陳毅などが次々と身分を取り上げられた。

 1967年7月、毛沢東のお墨付きを貰ったと自称する「造反派」達が天下を取ったような勢いで「劉少奇」の家に襲いかかった。 その中の数十人が自宅に押し入った。警備担当の者達が必死になって「主席」を守ろうとした。警備士達は人垣を創り進入を阻止しようとした。「造反派」達は

「黒は黒を守る」とか
「お前らが悪魔を守れるのか」

とか言いたい放題であった。 警備士達は懸命に進入を阻止しようとしたが、当時「造反派達の反動分子一掃闘争に対しては手を出しては成らない」と言う指示が降りていたので抵抗にも限界があった。揉み合うこと10分ほどして内側から電話があり「造反派」を入れなさい、と言う連絡が来た。


劉少奇は何事にも驚かないかのように毅然としていた。

造反派達は手に手に「毛主席語録」を持ち批判闘争を開始した。 彼らは言う。

「これから毛語録を暗記しているか調査する。もし暗記していなければ即ちそれ”不忠”の証だ」

と叫んだ。劉少奇は平然として、どの章も私は暗記している、何処でも聞いてみなさい、即答して見せよう、と大声で応えた。

 こうして造反派達の批判闘争は何度も主席の家を襲った。96年7月、劉少奇と妻”王光美”の隔離を強請された。両人は同じ中南海には居たが、その後二人は面会することなく人生を終える。 こうして警備士達はその役割を「監視」に変更された。


訳注:中南海は建国後北京城内に高級幹部が住まいとしたところ。大衆の接近を禁じた。当然毛沢東もそこに居た。つまりこの闘争の時、肩書き無しの毛沢東が劉少奇「国家主席」の傍にいてこの事態を全て聞いていた。

 王光美には4名の監視役が中央政府の命令として派遣された。彼女には毎日”忠”の検査が行われ、便所掃除や雑益の仕事をさせ、それは「労働改造」と名付けられた。 

 警備担当だった「陳兵武」さんは毎日何をすべきか解らず悶々とした日々が続いた。ある日彼が王光美に対して思わず同情の声を掛けたため、それが発端となって主席夫婦にさらに大きな重圧がかかった。

 ある日、それは酷暑の日で太陽がかんかんと照っていた。王光美が庭掃除をしていると4人の監視役の女性達が王光美の目の前にさらに余所からゴミを持ってきてばらまいた。王さんは当時健康状態が思わしくなかった。彼女はそのゴミを掃くのに懸命になり、汗みどろだった。これを見た張さんは、思わず声を掛けた。

「少しづつしなさい、一度に無理をしては行けません」

と言った。 その夜副中隊長がやって来て、「お前は昼間王光美に何を話したのか」と聞きに来た。 そして隊長は

「お前は自分の立場が解っているのか、敵に同情するとどうなると思っているのか」

と恫喝した。張さんは情けなくなって怒りと悲しみで一杯になった。しかしその隊長は何度も張さんの所へ脅迫に来た。 その後中央政府の副主任、王東興が調査に来た。事情を聞き副主任は「誰もが過敏になっているのだ」と真実を理解してくれた。 その直後、王光美は中南海から他へ移された。

 劉少奇を厨房に立たす


 67年5月、劉少奇同士は厳重な誤りがあった、と言う決定が下り、18年間厨房で働くと言う労働改造命令が出た。

中央隊長の命令によると、張さんを厨房班長とし、劉少奇を厨房で働かせる。この命令は中央からのもので”その後の改造の様子を見る”政治的判断だという。 劉少奇は半熟の卵が好きで、張さんはこれを作るのが得意であったので、出来る限りそれを上手く作り劉少奇が喜ぶ顔を見たかった。

 この任務に就いて以降、劉少奇の健康は日に日に弱まっていった。毎食にこの半熟卵と果物一品があったが、それだけを食べて、他のものは口に入らなくなっていった。張さんはその様子を見て慌てた。自分の責任でもあった。そこで張さんは上級に頼んで卵と果物を追加して貰った。その要求は許可された。こうして張さんは68日の間劉少奇と一緒の生活をした。そこで中隊長が張さんと交代の人間を寄越し班長とした。その人は”馬”と名乗った。

 晩年の劉少奇は床を立てず

 長期の軟禁生活で劉少奇の精神的苦悩が蓄積していったのだろう、健康が急速に悪化した。 中国建国に巨大な貢献をしたこの劉少奇国家主席が倒れるときが来た。劉少奇は妻にも息子・娘にも会うことが許されなかった。頭だけは冴えていたようだが、やがて床から立てなくなった。目も開かず口も閉じたままの日が続いた。やがて劉少奇は食事も拒絶するようになった。

 中央は「様子見」の彼に倒られるのも困るということになり、医者をよこした。中央政府所属の医者と、上海医学専門家など数人が検診に来た。その結果は糖尿病と言うことだった。北京人民医院から二人の看護婦が来た。

 劉少奇は素裸で床に入ったままの日が続いた。流動食を鼻から入れる日が続いた。

 劉少奇は自ら健康法として瓶を両手に持って上げたり下げたりしていた。 ある時看護婦がその瓶をそっと隠してみた。すると劉少奇は両手でそれを探し、ニコッとした。その笑顔は、この数年の深い陰鬱な表情の中に始めて見せた笑みだった。


 悲惨な別れ

 69年10月のある日、上からの指示で張さん以外誰も居なくなり、そこへ警備大隊長と名乗る男が来て「中央の指示で劉少奇を移動する」と言う。そして「このことは絶対他人に漏らすな」と言った。張さんは劉少奇の運命を考えて涙が出てきた。彼らは寝台ごとワゴン車に乗せて連れて行った。

 その時の劉少奇の姿は、頭髪がぼうぼうで、身体は痩せ、顔は真っ青、目だけは上に向け口は堅く閉じていた。ワゴン車は埃を立てて突っ走っていった。その24日後、張さんは河南省開封で劉少奇が亡くなったことを知った。69年12月、劉少奇警備隊は解散した。

 今でも張さんは劉少奇のことを想い出せば涙が出てくるという。誰もが普通にはあり得ない方法でこの世を去った。かっては人生を奮闘し、中国のトップに登りつめた良き日々を残し、このような形で去っていった。


 訳者注:これが中国国家主席が如何に世を去ったかの顛末です。即ち、如何に国家が転覆されたかの顛末です。
 
文革の始まる前の1959年、毛沢東は「大躍進政策」で道路から鉄釘を拾い鉄鋼生産大増産を呼びかけます。農民がもっともこれに忠実に従い農業の手を休め鉄拾いをします。又同時に「共産主義」に早く近づく方法として共同生活を強制します。これにもっとも忠実に従ったのも農民です。

 こうして年末から餓死者が続出します。農民の餓死者が最大ですが都市部でも子供達の顔が膨れていたことが記事に出てきます。道路から拾った鉄釘は役立たないことを毛沢東もやがて知ります。そうして餓死した人は4千万人と現中国政府も認めています。

 この巨大な政策上の失敗の責任を取って毛沢東が国家主席から降り、劉少奇がトップに立ちます。がこのように毛沢東は「文革」の名を借りてクーデターに成功します。

 国家主席が当に死を迎えようとしているとき、すぐ横の家に住みながら、同じく中国の独立のために闘ってきた同士をこのように平気で死に追いやります。最後に河南省に瀕死の病人を車で搬送させる機密命令ももちろん毛沢東以外に誰も出しようがないでしょう。

 これが劉少奇の生命を抹殺する最後の手段だったのでしょう。

 何と言うことか、中国政府は「文革は毛沢東の妻、紅青ら4人組の責任」と言う形で終了します。これほどふざけた歴史の塗り替えも人類史では他に例がないでしょう。

http://www.ne.jp/asahi/cn/news/text/05/shouki.html

劉少奇は病におかされるようになるが、散髪や入浴も着替えも許されず、警備員や医師から執拗な暴行を受け続けた。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになっていた。1969年10月開封市に移住。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま暖房もない小部屋に幽閉された、高熱をだしても治療も受けられぬまま放置された。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達していたという。

http://dadao.kt.fc2.com/fanzui09.htm

劉少奇・王光美夫妻 真実の愛とは? 人間の強さと美しさとは??


王光美
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%85%89%E7%BE%8E


劉少奇は毛沢東に対して叛旗を翻し、大躍進政策を事実上中止させ、ケ小平と共に経済原理を取り入れた政策を実行して、経済再建を図った。しかし、権謀術数の鬼である毛沢東が、指をくわえて見ている訳は無かった。 1965年、実権奪還を果たすべく、毛沢東は悪名高い「文化大革命」を実行。強情に自らにひれ伏そうともしない劉少奇の粛清を決意。

「劉少奇は資本主義に走った最高指導者」

―――と、徹底的な糾弾に遭い失脚。 勿論、毛沢東の劉に対する復讐の意味も込められいる。 劉少奇は自宅軟禁され度々晒し者にされた。 王光美の回想による

―――私は

「今度こそお別れになるような気がします〔最近、末日的||感觉好象被分别。〕」

と、云いながら、涙を止める事が出来なかった・・・。

・・・一緒に暮らした日々の中で初めて、少奇は私の荷造りをしてくれるといって、私の衣類をキチンと畳んでくれた。

最後の数分間 私達は互いに見つめ合ったまま座っていた。 其の時、滅多に冗談を口にしない彼が云った。

「なんだか、君を迎えに来る花かごを待っているみたいだね!

〔是什么吗、来接你好象正等待花“車喬”!〕」

―――私達は笑い出してしまった。


その後、二人は別々の場所で独房監禁状態に置かれ、その後二人が顔をあわせたことは一度だけあった。

・・・それは、1967.08.05に中南海で行われた、公開見せしめ裁判の時に夫婦揃って引きずり出された時だった。しかし、劉少奇が見せた覚悟と英雄的行為と夫妻の真実の愛は素晴らしいものだった。劉少奇は、幾ら批判され弾劾されようとも、自分の主張を一個も曲げる事はしなかった。

劉少奇が更に言葉を続けようとすると「毛沢東語録」を手にした群衆から殴られ、劉の声は罵声に掻き消された。夫妻は殴られ、蹴られ、両腕をねじ上げられ、後ろから髪を乱暴に引っ張られ、カメラマンや映画撮影班に顔がハッキリと見えるように上を向かされた。

(残忍な毛沢東は自らに楯突いた人物の末路を見て楽しむために、度々この様な撮影をさせている。)

しかし

「痛めつけ足りない」

「もっと、良い(残忍な)映像を」

―――と、毛沢東の側近が指示をしたので、この後の映像は、劉少奇が地面に倒れ踏みつけにされている映像が含まれ、劉夫妻に最大の精神的苦痛を与える為に、夫妻の6歳になる娘をはじめとする子供達が

「かつて国家の最高権力者であった両親が、群衆に痛めつけられている姿」

・・・を、見学されられた。

裁判の途中で、王光美は、群集の手を振り解き、数分の間、夫の服の端にしがみついた。その間、群衆は殴る蹴るの暴行を夫妻に喰らわせる中、夫妻は手を堅く握り合い、真直ぐ立ち続けようと抵抗した。この勇敢な行動には、恐ろしい報復が待っていた。王光美は米国・日本・蒋介石のスパイと云うレッテルを貼られ、12年の間、最も厳しい刑務所に収監され、立って歩くことすら許されず、刑務所から釈放後、数年間は歩く事すら出来なかった。

また親兄弟が悉く投獄され、70歳を超えた王の母は獄中死し、夫妻の子供達は孤児となり、劉の息子(母は前妻)は自殺した。刑務所に収監されたとしても、日々、聞くに堪えない罵声や暴行を浴びせられ、病気になっても薬は与えられず・・・刑務所とは名ばかりで、強制収容所と何も変わらなかった。

しかし、夫妻は最期まで、毛沢東に屈服する事を拒み続け、劉少奇は、死の目前まで、毛沢東を糾弾する書簡を書いた。しかし老齢を迎え、獄中で3年もの間、数々の肉体的・精神的な拷問を受けながらも、尊厳を棄てず、毛沢東への屈服を拒んだが、遂には力尽きた。

夫妻を見て思うのは、毛沢東に叛旗を翻さず、毛沢東に服従していれば、享楽的な生活を営めたのにも関らず、指導者として成すべき事を確固たる信念を以って、対峙し、そして幾ら非道な仕打ちを受けても、絶対に毛沢東に屈しなかった。王光美は夫と共にあることを望み、王も毛沢東に屈服しなかった。

http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51570818.html


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江青に妬まれた故の悲運


 元々『女優』としての経歴のあった江青は、とても『嫉妬深い女性』でもあった様で、一定の評価はされていたと言うものの、その評価には至極不満であったらしく、『演劇界』には恨みを抱いていたとも言われます。 特に、伝統芸能と言われていた『京劇』や自分より評価の高かった『女優』等には特に異常とも言える敵愾心を燃やしていたと言うのです。


 先ず、『劉少奇』失脚事件です。
1966年『劉少奇』は『毛沢東』によっ
て『トウ小平(1904〜1997)』等と共に『修正主義』と批判され、『自己批判』の上、政治局員の地位は保全された物の、自宅に幽閉されたと言うのです。 その後、スパイ容疑等の名目で紅衛兵などの襲撃を受け何度も『つるし上げ』の標的ともなり、1968年夫人の『王光美』も逮捕されると共に一人軟禁状態となり病の床に着くことになったと言うのである。

 『江青』は、彼の完全失脚を狙い、様々な事を仕掛けたと言うのであるが、その時既に彼の病状は見る影も無いほど悪化していたと言うのである。 にも拘らず、彼女は彼から薬をも取上げ、ベッドに縛り付けた状態で、コンクリートむき出しの部屋に閉じ込めたと言う事なのです。 かくて彼は1969年11月、放置された常態で死を迎える事になりますが、その惨状は余りにも物凄く、直ちに『火葬』されたと言う事なのです。

 一方、夫人の『王光美』も、その容貌が華やかで知性に溢れていた事から『江青』の嫉妬心を刺激したらしく、執拗な攻撃を受けたと言うのです。 『劉少奇』の夫人であった事もあり、『劉少奇』や子供達の何人かはその迫害の下に死んでいったのですが、彼女はそれに耐え抜き約12年間の獄中生活の末、中国共産党の職務に復活していると言うのです。

 聞く所に拠れば、『江青』は彼女を死刑にする為に案件を捏造し、結果『死刑』と判決させたと言う事なのですが、『毛沢東』は此れを聞くに及び『暫くは死刑にしない』と言ったそうなのである。 彼にすれば、運動の初期から一緒に働いてきた同志でもあり、『劉少奇』死した今、『美人』でもあった事から『殺す』には忍びない女性であったのかも知れません。

王光美は、中国国家主席劉少奇の5番目の妻です。 王光美は、カトリック系の大学を主席で卒業し、中国共産党の軍事調処執行部で英語通訳を務めていました。延安の共産党本部で劉少奇と出会いました。 王光美の父親は、4度も離婚歴のある男との結婚を反対し、彼女を勘当しています。劉少奇の最初の妻は、共産主義者として国民党に銃殺されるという悲運に遭いました。その後、2番目から4番目の妻までは、すぐにくっついては別れる、を繰り返していました。

しかし、5番目の妻である王光美人は、26歳で結婚後、劉少奇が出世街道を進んでいく過程から非業の死を遂げるまでの20年間を、妻として、秘書として彼に連れ添うのでした。 王光美は、聡明で模範的な妻でした。結婚した瞬間から、前妻たちが産んだ5人の子の母親になりました。

一番始めの妻の子供たちは、すでに成長してソ連に留学していましたが、 三番目の妻が産んだ子は、まだ2歳と4歳でした。王光美は、生さぬ仲の2人の子供たちを愛情を持って接しました。その後、王光美は、一男三女を生みますが、一切わけ隔てなく育てます。 前妻の子を虐待していた江青(毛沢東の4人目の妻)とは、雲泥の差だったのでした。
江青は、後に、王光美をひどく憎むようになりますが、自分と比べて評価の高い王光美人に嫉妬していたためだと言われています。

1962年に毛沢東が文化大革命を行なった時、劉少奇も自己批判を強いられ、殴る蹴るの暴行を受け傷だらけになった様子がテレビで実況放送されました。 党籍も剥奪され、1969年獄死しました。 何の罪も無い王光美も、逮捕されてしまいました。 美貌も知性も人望も何もかも自分より優れていた王光美を許せなかった江青が、 「彼女はアメリカ中央情報局のスパイよ!」とでっちあげたのでした。

http://www.deaik1.com/01829.html

「文化大革命」で粛正された劉少奇は毛沢東をどう思っていたのだろう。

おそらく、その死の間際まで、毛沢東を信頼していたのではないだろうか。そして自分をこの苦境から救ってくれる唯一の救世主として、毛沢東に一縷の望みを託していたのではないか。毛沢東がこの陰謀の張本人だとは思いもしなかっただろう。李志綏は「毛沢東の私生活」のなかで、1956年7月下旬、主席とともに河北省にある北戴河に保養に行ったときのエピソードを印象深く書いている。

<劉少奇は背が高くて華奢、白髪、こころもち猫背だったけれど、毛沢東が浜辺にいるとよくたずねてくる唯一の党最高幹部だった。たいてい午後三時か四時頃姿をあらわす。控えめで威厳があるうえすこぶる慎重な劉少奇は当時、毛主席の後継者に指名されていた。党内の序列は毛沢東についで第2位、内政問題の日常業務に責任があった。・・・

 劉少奇のいちばん新しい妻、王光美はたいてい夫に同行して北戴河にやってきた。党最高幹部の通例にもれず、妻たちは多くが夫よりもはるかに年若かった。王光美は当時、およそ30歳くらい(夫は58歳)、ふさふさとした黒髪に卵形の顔だち、いささかそっ歯の感があった。美人ではなかったが、魅力にあふれて人ずきあいもよく、次期主席夫人としての脚光を楽しんでいた。

 王光美は毛沢東の姿を見かけるとかならず主席にあたたかい言葉をかけ、ときには主席と一緒に筏まで泳いでいった。江青は劉夫人への不快感をあえて隠そうともしなかったが、これはあきらかに江青の嫉妬心だと思われた。

 王光美は江青よりかなり年下で、はるかに態度がくつろいでおり、社交性もゆたかだった。江青は浜辺でいつも落ち着きがないように見えた。決して泳ぎを習おうとしなかったし、右足指が6本あるのを気にやんでいた。浅瀬を歩きまわる際には両足にかならずゴム靴をはいていた。

 劉少奇はなんどかの結婚で子だくさん、その夏は何人かの子供を北戴河につれてきた。前妻・王前とのあいだにもうけた16歳か17歳の娘・劉濤もなかなかに活発で社交的、毛主席にも親しげに近づいた。娘もときたま主席とならんで筏まで泳いでいったり、週二回のダンス・パーティでは主席にしきりに相手をせがんだ。主席のほうも多くの若い娘なみにつけいるような真似は決してしなかった。にもかかわらず、江青は若い娘のあけっぴろげで馴れ馴れしいたちに腹を立てた。

 もっとも、江青はしょっちゅう怒りっぽかったし、そのつど私は彼女の立腹ぶりに自分を馴らそうとつとめたのであった。この牧歌的な魅力ある北戴河の地で、私は夢にも考えたことがなかった。十年後に江青のいじましい嫉妬心や不安感が彼女をかりたてて劉少奇一家をことごとく抹殺しようとする邪悪さと復讐心に導いていくことになるとは>


毛沢東と劉少奇はその家庭的幸福という点で好対照をなしていた。

陰惨な陰謀家で、不平不満の固まりのような江青、そして

若い女にうつつを抜かし、家族を顧みない毛、

これに対して劉少奇は快活でユーモアのある妻や娘に恵まれ、彼自身温厚で高潔な人柄だった。

この高潔な人柄と家庭的幸福が、毛沢東と江青にどう映っていたか。おそるべきは人間の嫉妬心である。不幸な人間が権力者であるとき、人々がその災いから逃れることは難しい。

 動機なき殺人などという言葉もあるが、犯罪を犯すにあたって、何らかの動機はあるのではないだろうか。生活苦、金銭欲、怨恨、英雄願望、退屈しのぎ、憂さ晴らし、自殺願望、嗜虐趣味、社会的不満、性欲に駆られてなどなど、さまざまなものが考えられる。

 犯罪そのものが目的である犯罪もある。何かの手段として人を殺すのではなく、人殺しが楽しいので、それ自身の目的のために人を殺すという訳だ。本能が壊れている人間には、こういうたわけた動機の犯罪も考えられる。

 いずれにせよ、犯罪を犯す人には、<自我の構造にゆがみ>がある。たとえば、幼い頃に虐待などにより自我に傷を受けている場合、劣等感やコンプレックスがその人格を支配し、その劣等感の反動として、権力に異常な執着を示すことがある。

 脆弱な自我を偽装するために、自分は強者であるという妄想にしがみつき、そしてこれを証明するために実際に殺人行為に走る。いわば<自己の存在証明のための犯罪>である。こうした劣等意識の強い人間は実際、自己の力を誇示することに熱心なので、犯罪者にならない場合でも、人を支配する地位を求めて、権力者になる可能性はある。

 犯罪がゆがんだ自我のありかたに関係があるのだと分かれば、犯罪を防止するための対策も浮かんでくる。たとえば幼児教育の充実などだ。強くたくましい自我を育てる条件は何か。それは植物を育てるのと同じく、充分な栄養と日光だろう。つまり、「愛情」が大切だということだ。犯罪の温床は「愛情の欠如」である。自我の健全な社会化は「愛情」という滋養なくしてはむつかしい。

 毛沢東の主治医が書いた「毛沢東の私生活」という本のなかに、権力者たちの意外に幼く女々しい幼児的な振る舞いが描かれている。たとえば、毛沢東は特性の木のベッドで一日のほとんどを過ごし、不安でそこから離れることができず、不眠症のあまり極度の薬物依存に陥っていた。妻の目を盗んで若い女をベッドに呼び込み、ときには若い男性の護衛兵にまで自分の性欲の処理をまかせている。

 そして文化大革命を遂行し、毛沢東に続くNo2として粛正恐怖政治を実行し、後には毛沢東暗殺未遂まで企てた林彪は、歯が痛いといってベッドですすり泣いて、妻に子供のようにあやされている。 李博士はこれらの様子を見て、国家の将来に暗澹たる不安を覚えたという。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

■王光美さんといえば、真っ先に思い出すのが、チャイナドレスを着せられピンポン球をつなげたネックレスをぶら下げられ紅衛兵とりかこまれ吊し上げにあっている報道写真。1967年4月10日の清華大学キャンパスの大批判大会である。ファーストレディとして夫・劉少奇とともにインドネシアなど歴訪時、彼女はがまとった白い絹のチャイナドレスやネックレスが「ブルジョア分子の動かぬ証拠」とされ、辱めに着せられたのだ。王さんは、紅衛兵のいたぶりに、

「私は反動的ブルジョア分子ではありません。毛沢東の共産党です」

と反論。「恐いだろう」と脅す紅衛兵に、「恐いことなんかないわ」と言い切ったという。

 ■王さんが譚さんに語ったところによると、江青が王光美に言ったのは『ブローチなんかつけたらやぼったい』というセリフで、首飾りではなくブローチだった。それが文革のときに走資派として糾弾される材料として、江青の忠告をきかずに、ネックレスをつけた、という物語がでっち上げられたそうだ。いずれにしろ、江青は王光美が憎くって、うらやましくって仕方なかったことは間違いない。

 ■なぜか、それは王光美が「愛を知る人」で、江青が「愛を知らない人」だったからだと思う。


 ■王さんは革命第一世代の中で最年少の部類に入る。1921年9月26日生まれの生粋の北京っ子。ちょうど父親の王治昌(当時北京の高級官僚)がワシントンに仕事で滞在中で、アメリカの中国表記、美国の美の字をとって名付けられたという。母は天津の裕福な商家の出身。兄弟姉妹が王さんを含め11人(のちに長男は夭折)。じつはこの兄弟のうち上から3人は、王さんの異母兄にあたる。王さんの母親は、病死の先妻の子供を引き取って、自分の子供と分け隔てなく育て、王さん自身も異母兄弟であったことをあとになって知ったくらい仲が良かった。大家族で裕福でみんな仲良し。そんな恵まれた環境ですくすく育った娘、それが王さんだったのだ。


 ■そんなお嬢様の彼女がなぜ、革命に身を投じたのか。1946年の当時、彼女はミッションスクールの輔仁大学物理学部(後に北京師範大学に吸収)に入学し、成績優秀で英語はぺらぺら。大学院をへて奨学金をへて米国に留学することになっていた。しかし、その英語のうまさを見込まれて、知り合いの共産党員から会議通訳を頼まれたことが、彼女の運命を大きく変える。


 ■彼女は、米国留学をけって、延安にいくことを決意したのだ。その理由は不明なのだが、彼女を直接インタビューした譚さんは「お嬢様にとって、泥臭い共産党エリートが異質ながらも魅力的にうつり好奇心が刺激されたのでは」とみている。このとき、米国留学していれば、王さんの人生はまったく変わった。あるいは中国の歴史もちょっとは変わったかもしれない。文化大革命があそこまでエスカレートしたのは江青の暴走が指摘されるが、江青の暴走は、王光美の存在が刺激した、とも言われるから。

 ■美しく、有能なわかき共産党員、王光美は育ちの良さからくる性格の良さもあって誰からも愛され、やがて最高幹部のひとり劉少奇(当時は共産党中央の臨時主席)に見初められる。1948年8月21日、二人は党の仲介で結婚した。ロマンス、というより、歳で結婚に四度も失敗し、子供抱えてこまっている五十路男の劉少奇にちょっと同情したところもあったようだ。ちなみに結婚当時、劉少奇はすでに五人の子持ち。26歳の新妻はいきなり子だくさんの母親になったのだが、そのことをまったく屈託なく受け入れてしまう。その懐の深さは、彼女の母親の子育て姿勢の影響を受けたためだそうだ。


 ■美人で育ちがよく、頭脳も優秀(スポーツも万能、大学時代は卓球の選手だった)、なおかつ良妻賢母の慈愛にみちた完璧な女性、王光美。その完璧さがどうしても許せない女がいた。もうひとりのファーストレディ、毛沢東の妻、江青である。

江青は1914年(?)、山東省の諸白県で妾の子として生まれ、12歳に父親と死別。母とともに天津で行ったものの貧困をきらい、女優になる夢を抱いて上海にいく。日中戦争で戦火が上海までに及んだため、共産党の首都、延安をめざし、そこで毛沢東と出会うのだった。


 ■江青は男好きのする美人。しかし彼女は愛を知らず、美しさを出世に利用するタイプだろう。夫がいながらも、いい役をとるために共産党幹部と寝る。捨てられた夫は、自殺すると騒いでスキャンダルにもなった。毛沢東との関係に本当に愛があったのか?文革時代の江青の暴走は、毛沢東の江青への愛情が失われ、新たな女性を作ったことへの恨みが爆発した、といわれているから、一時的には多少の愛はあったのかもしれない。が、思うに二人とも本当の愛を知らない。その点で、いいコンビだったのではないか。二人とも愛したのは権力だったのだ。


 ■譚さんの著作の中に、江青の足についての推察がある。江青はプールサイドでもいつも靴下をはいていた。泳ぐときも靴下をはいていた。彼女の足は「解放脚」との噂があった。「解放脚」とは纏足を途中でやめた足で、親指以外の足の指が全部内側に折り曲がっているという。纏足とは清朝に流行した悪習で、足を布で強くしばり、小さいまま成長させないようにする。こうすると、歩くとき内股の筋肉をよく使うので、閨房で男性をより喜ばせることができる、という。


 ■かたや前時代の悪習のなごりを身に残しながら性的魅力をフルに使い権力の階段をはいのぼってきたファーストレディ。かたや欧米の先進教育を受け柔軟な頭脳と快活な人柄と優しさを見込まれて、迎えられたファーストレディ。この二人が相容れなかったのは当然とえいば当然。毛沢東が真に人望のある有能な政治家・劉少奇を許せなかったように、江青も真にエレガントなファーストレディの王さんの存在を看過できなかった。

 ■王さんは清華大学の大批判大会のあと、67年9月逮捕され12月までの間に34回、殴る蹴るの暴行をともなう激しい訊問(拷問)を受け、拷問の結果の供述による調書をもとに「死刑」の決定が下された。下したのは江青の主導で作られた「王光美専門案件小組」である。江青は王光美を死刑に追い込むためにわざわざ専門の審査機関まで作ったのだ。この報告が毛沢東にあげられたとき、毛沢東は「暫時死刑はせず」とこの決定を覆し、紙一重のところで命を助けられた。だからなのか、王さんは決して毛沢東の批判を口にすることはなかった、と譚さんは言っている。

 ■王さんは北京の秦城刑務所で12年間を過ごした。その間に、夫・劉少奇は非業の死をとげる(1969年)。それを知らされたのは72年だったという。窓ひとつの独房で日付のわからぬ毎日が繰り返され、食事といえばウジのわいた漬け物や薄い野菜のかけらが浮いたスープ、マントウ。こういう仕打ちの中、精神を病んだ人も多かったのに、彼女は耐えきった。その強さを支えたのは、やはり家族を思う心、愛ではなかったかと思う。王さんの子供たちは八方手を尽くし両親の消息を捜し、毛沢東に手紙を書き宋慶齢経由で渡してもらったりして救出の努力をしていた。親子の愛はどこかで通じていたに違いない。


 ■文革終結後の1979年に劉少奇の名誉も回復され、王さんもは釈放された。80年には劉少奇の海に散骨し、夫の遺言をかなえた。王さんが江青に再び対面したのは1981年、「林彪、江青反革命集団10名」を裁く特別裁判の傍聴席からだった。王さんが江青の後ろ姿を凝視していると、ふと江青が振り向き、一瞬視線があったという。江青はそのまま、表情を変えずに正面を向き直ったという。

 ■王さんの老後は充実していた。大きな功績として知られるのは農村の貧しい母親を支援する「幸福工程」への参加である。彼女は家伝の骨董品をオークションにかけその収益を率先して寄付したことで大きな慈善事業運動に発展した。この活動(1995−2005年)の様子をまとめた冊子は、弔問客に配られていた。ちなみに、弔問は入院先の解放軍第305病院の一角で行われていたが、花輪の山で弔問客はひっきりなしだった。王さんがいかに敬愛されていたかうかがえた。


 ■死刑判決を受けた江青はその後無期懲役に減刑され、王さんが入っていた秦城監獄で十数年服役。70歳をすぎて病気がちになったことから監獄外で療養生活を送るようになったあとの、1991年5月日、北京の自宅でナイロンストッキングをベッドに結びつけ首をつって自殺。今、彼女のことをよく言うひとはいない。誰も愛さなかった人は誰からも愛されなかったのか。そして愛を知らぬ人は、最後には自分すらも愛せず、自らを殺すしかなかったのか。


 ■今年、文革終結後30周年。いまだに正面からの検証を許されないあの凄惨な時代を耐え抜き、「過去のことは何も後悔していません」と言い切った王さん。その生涯を、より多くの人に知って欲しいと思い、少々ながめのエントリーになった。彼女のことを考えると、本当の人間の強さも幸福も、権力を掌握することではなく、愛を知っているか否かで決まるのだと思う。

http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/58218

毛沢東も美女にだけは優しかったんですね。

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5. 世直しの為に毛沢東思想を忠実に実行したポル・ポト

「共産主義」とは何だったのか


 ところで、ポルポト氏はなぜ、当時のカンボジア国民の4分の1にあたる170万人もの人々を、死なせてしまったのだろう。 ポルポト氏は本名をサロト・サルといい、1928年(一説には1925年)に生まれ、農家の9人兄弟の8番目だった。6歳の時、プノンペンの宮廷に勤める兄の家に預けられ、国民のほとんどが農民という当時のカンボジア社会の中では珍しく、都会の空気を吸って育った。 20歳の時、政府の勤労学生留学制度の奨学金をもらい、宗主国フランスに3年間留学し、そこで共産主義運動に首を突っ込んだ。中国のトウ小平やベトナムのホーチミンと同じコースである。クメールルージュの要人たちの多くは、フランス留学時代からのポルポト氏の仲間だった。

 帰国後、フランス語の教員をしながら地下活動を続け、1960年にベトナム主導のインドシナ共産党から独立したカンボジア共産党(のちのクメールルージュ)を作り、リーダーとなった。  1965年頃には、文化大革命が始まろうとしていた中国に招かれ、毛沢東が農村を重視した社会主義政策を展開し、知識人など都市住民を弾圧していく様子を見た。都市住民を農村へと追い出し、知識人を大量処刑したポルポト氏の政策は、この時に中国から学んだといわれている。

 1965年にベトナム戦争が始まると、カンボジアは米ソ対立の中で中立を保っていることが難しくなり、1970年にはアメリカの支援で親米派のロンノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク国王は北京に亡命した。 ポルポト氏は反政府ゲリラ活動を活発化した。1975年には、アメリカがベトナムから完全撤退するとともに、カンボジアのロンノル政権も崩壊し、クメールルージュが政権をとった。

●エリートは自分たちだけ、という共産主義者の本質


 首相となったポルポト氏はこの直後から、かねて考えていた祖国の農村共産主義化を急速に進めた。

 都市住民は、植民地時代からの支配構造の上に乗っている社会の寄生虫であるとして、全員を農村に強制移住させた。医者、教師、技術者などは、ブルジョア思想を持っているとして弾圧した。眼鏡をかけているだけで知識人とされ、処刑された人もいる。

 また、通貨や、町々にあった市場を廃止し、企業もすべてつぶされた。
休日はなくなり、余暇の音楽や映画、それから恋愛も禁止された。

人々に許されたのはただ、毎日朝から晩まで農作業や機械を使わない土木工事にたずさわり、働くことだけだった。

ポルポト氏が政権をとって2-3ヶ月もしないうちに、何万人もの人が処刑され、飢えや病気で死んでいった。

ポルポト氏が目指したのは「人間の改造」だったとされる。腐敗しがちな従来の人間を「労働」によって改造することで、共産主義にふさわしい存在に変え、豊かな社会を作る、という考え方だったのではないか。最初からただ多くの人々を殺そうと思っていたわけではないはずだ。

 そして、知識人は余計な知識が多すぎるし、金持ちは財産に未練があるので「改造」には適さない。最も改造しやすいのは、捨てるものが何もなく、知識もない、貧乏で純粋な農民や底辺の労働者だ、という理由で、「まず全員を貧農にする」という政策が実行された、と筆者は考える。この点で、中国の文化大革命も同じ手法をとった。

 だが実は、こうした理論を考えたポルポト氏自身、6歳の時から首都で育った都会っ子であり、フランスに留学した幸運なエリートで、帰国後は教師をしていた。ポルポト氏は、自分と同じような存在に「ブルジョア」などのレッテルを貼り、何万人も殺していたのだ。  ポルポト氏だけでなく、当時のアジアの共産主義者の多くが、フランスやソ連留学の経験者である。(こうした歴史とはまさか関係ないと思うが、日本共産党の幹部に東大卒が多いことも気になる)


 クメールルージュが政権の座にあったのは、1975年から79年までの、わずか5年間だった。目茶苦茶な政策によって国内が疲弊し、隣国ベトナムの軍事進攻を招くことになった。クメールルージュはプノンペンを追われて西部のジャングルにこもり、代わって現在まで続く親ベトナム政権が打ち立てられた。  放っておけば、クメールルージュはこのときに壊滅したかもしれないが、歴史はそうならなかった。ベトナム戦争に負けたアメリカが、ベトナムを憎むあまり、カンボジアにできた親ベトナム政権を敵視し、クメールルージュを支援したのである。ソ連と鋭く対立していた中国も、親ソ連だったベトナムに敵対する意味で、クメールルージュを支援した。

 そしてクメールルージュは、アメリカの支援を受けやすくするために、「もはや共産主義を信奉していない」と表明したりした。保身のための変わり身の早さは、どこか日本の「全共闘世代」と共通するものがある。  こうした状態は、冷戦が終わる1990年代まで続いた。アメリカ政府の政府要人は、個人的にはクメールルージュの虐殺行為を嫌悪しながら、政府としては虐殺を無視するかたちでテコ入れしていた、とされている。

http://tanakanews.com/980420polpot.htm

 


 話は毛沢東が生きていた時代、そしてベトナム戦争が行われていた時代です。当時のカンボジアはシアヌーク国王による王政国家だったのですが、国王が外国に出ている隙に親米派のロン・ノルがクーデターを起こして政権をとりました。当時はベトナム戦争真っ只中ということもあり、ロン・ノルは国内にいるベトナム人や共産主義勢力に弾圧を加えた(カンボジアとベトナムは国境を接している)のですが、それに対して反動が大きくなり、最終的にはポル・ポト率いる共産主義勢力であるクメール・ルージュがゲリラ戦を展開して内戦を起こし、逆にロン・ノルを国外へ追い出すことに成功しました。

 まぁなんていうか、ここで話が終わればそれなりによかったのですが、皮肉なことにこの結果が後にカンボジア、ひいては20世紀の一つの悲劇を生むことになります。この時政権を奪取したクメール・ルージュですが、これはフランス語で「カンボジアの真紅」という意味で、カンボジア共産党ともいう意味です。この時の指導者はフランスへの留学帰りが多く、それから名づけられた名前です。 

 それでこのクメール・ルージュですが、内戦時に主に支援を受けていたのは中国からでした。中国としては共産圏を広がることでこの地域への発言力を強めようという意図があったのだと思いますが、この時に中国に影響を受けたことからクメール・ルージュの掲げる思想というのは毛沢東思想に準拠したものになりました。そしてそんな集団がカンボジア首都、プノンペンを占領すると、早速その思想を実行に移します。

 毛沢東思想の最も代表的な特徴というのは、

「知識人は搾取階級であり悪である」

ということです。そのため、この思想を掲げるクメール・ルージュが真っ先に行ったのは知識人の一方的な殺戮でした。聞くところによると、英語をほんのすこし話すだけでも、仏教を修行していただけでも知識人とみなされ一方的に殺戮されたそうです。またそうでなくとも、途方もなく極端な政策が無理やり実行されて強制労働が各所で行われ、文字通り死ぬまで人を酷使した上で逃げ出そうものなら容赦なく射殺していったようです。

 そうして知識人を社会からはじくかわりに持ち上げられたのが、まだ年端もいかない子供たちでした。

毛沢東思想の反復になりますが、まだ何の教育にも染まっていない子供たちこそ新たな時代が切り開けるという考えの下でクメール・ルージュは子供に銃を持たせ、政策への不満を漏らしていないかスパイ活動を行わせ、挙句に大人たちの処刑を行わせたのです。

このあたりは中国の文化大革命時の紅衛兵を想像してもらえばいいでしょう。

 その結果、このクメール・ルージュ政権時に虐殺された人数は200万人から300万人とも言われ、当時のカンボジア全体の人口の実に四分の一もの人間が殺害されたと言われています。これは一つの政権による虐殺としては過去最大で、あのナチスドイツのユダヤ人虐殺の人数をも越えます。

 最終的にこのクメール・ルージュは対立していたベトナムと戦争状態になり、実力に優れるベトナム軍にコテンパンにやられ国外から追放され、この虐殺の責任を追及されないことを条件にベトナムに従うという政府関係者によって新たに政権が作られることにより虐殺が終わりました。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_2756.html

ポル・ポトの大虐殺 〜総人口の1/3を殺し尽くした戦後最大級の虐殺〜


キリング・フィールド

ローランド・ジョフィ (監督) サム・ウォーターソン, ハイン・S・ニョール (出演),
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89-HD%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%89%88-DVD-%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%95%E3%82%A3/dp/B002XTKBL4/ref=pd_sim_d_1


http://www.youtube.com/watch?v=3eLVyIy3WFI
http://www.youtube.com/watch?v=5frVOEPPJQA
http://www.youtube.com/watch?v=-FCj9ufRk_w
http://www.youtube.com/watch?v=RCxT4pVb3vs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=_dnV9LxyeSU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=X2cMTo6yXTA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=x-I5qFvSuD8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=M1kVkoAgE8U&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=m9rrJocZVyU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=asOa23AufYA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=PAHP-vqgKEI&feature=related

 総人口800万足らずのこの小さな国で、実に、200万から300万近くの人間が虐殺されたのである。 革命が盛り沢山と言われた20世紀でも、これほど高い比率で虐殺が行われた例は、カンボジアを除いてどこにもない。この前代未聞の大量虐殺は、わずか4年間で達成されたのである。知識人と言われた人々にいたっては、実に6割以上が殺されたという。
   不条理で得体の知れない恐怖が、人々を襲い、悪魔にしかなし得ない残酷な行為が行われたのである。猟奇的とも言える大虐殺は、いかにして起こったのか?

 19世紀、カンボジアは、ラオス、ベトナムとともに、フランスの植民地であった。ところが、1953年にこれらの国々で独立運動が起こると、それは、第一次インドシナ戦争に発展した。フランスは、敗れ、カンボジアの独立をしぶしぶ承認することとなった。この時、この国は、シアヌーク王が国家元首となって政権を握り、やや左寄りの路線を歩もうとしていた。一方、隣国のベトナムは、共産党の指導する北と親米派の南に分断され、政権争いを始めていた。ラオスでも同様で、親米派と反親米派の対立が続いていた。特にベトナムでは、北と南の対立は、武力衝突にまで発展し、65年、南からの援軍要請を受けたアメリカが参戦すると、今度は、北を中国やソ連が後押しするという全面対決の様相を見せ始めた。

 ベトナム戦争は、その後、激化の一途をたどり、アメリカは、どんどんと泥沼に足を踏み入れて行くことになる。 追い詰められ余裕のなくなったアメリカは、北への大規模な爆撃を開始した。枯れ葉剤、ナパーム弾などありとあらゆる非人道的兵器を無差別に使用していったのである。 左よりの路線を歩むカンボジアは、この頃、中立的立場を取っていた。しかし、南ベトナムが勝利すると、自国が脅かされる恐れがあった。しかも、南ベトナムは、自由クメールと名乗る反シアヌーク派の拠点にもなっていたのである。

北への執拗な爆撃を繰り返すB52戦略爆撃機、日によっては、50回も出撃した。  そこで、シアヌークは、ベトナム国境寄りのカンボジア領内に北ベトナム軍の補給基地をつくり、軍隊の駐留、移動などを秘密裏に認めていた。 北ベトナム軍にとって、カンボジア領内は、安全地帯となった。ここに留まる以上は、爆撃を受ける心配はなく、同時に、カンボジアの米なども補給出来るのである。しかし、こうした一連の関係は、カンボジアをベトナム戦争に巻き込んでいくことを意味していた。
苛烈化するベトナム戦争、やがて、戦場は、カンボジア国内まで広がった。

 アメリカとしては、北ベトナムを完膚なく叩き潰すためには、カンボジアを手なずけ、この方面での爆撃を有利に展開させる必要があった。そこで、アメリカは、親米派のロンノル将軍に巨額の軍資金を提供し、バックアップをすることを約束して、シアヌークを追い出すことを画策したのである。1970年、シアヌークがフランス休暇旅行の最中、クーデターは起き、それは見事成功した。ロンノルは政権を樹立し、追放されたシアヌークは、そのまま北京へ亡命してしまった。

 カンボジアがロンノル政権になり、もはや、憂慮すべき事態もなくなったアメリカは、気がねなく、北ベトナム軍の補給基地に爆撃を行うことが出来るようになった。その結果、たちまち30万のカンボジア人が死に、200万以上と思われる避難民が発生することとなった。  一方、亡命したシアヌークは、国外からロンノル政権打倒を呼び掛けていた。これに賛同したのは、北ベトナムと国内に潜伏するカンプチア共産党、つまり後のクメール・ルージュだった。これによって、今まで、平穏だったカンボジアにもついに戦火が飛び火することになる。

ロン・ノル(1913ー1986)シアヌーク政権下では、国防相だった。 ベトナムでは、中国、ソ連などの援助を受けた北ベトナムが、頑強に戦い抜き、史上まれに見る苛烈な局地戦が展開されていた。これに対し、カンボジアでは、クメール・ルージュが国内でゲリラ活動を展開し、ロンノル政権を内部から揺さぶった。かくして、カンボジア国内は、熾烈な戦闘が至る所で繰り返され、5年越しの内戦状態に突入した。

 内戦によって、首都プノンペンは、物や食料の不足は深刻化し、民衆の不満は高まるばかりで、おまけに、テロと陰謀が渦巻き大混乱に陥っていた。国土の6割がたは、解放勢力の手に落ち、主要幹線は、いたるところで切断されている有り様だった。北ベトナム軍は、カンボジア領内に入り込んでいたので、それを追撃してきた南ベトナム軍、アメリカ軍と間で猛烈な戦闘を展開していた。大被害を被ったのは、カンボジア人で、彼らの中には、ベトナム人への憎悪が高まり、ベトナム追い出し政策に火をつけることになった。クメール・ルージュとベトナム共産軍との間でも、何度も武力衝突が起こり、もはや、決裂は明らかとなった。

 やがて、膨大な軍事費と甚大な被害に疲弊したアメリカは、ベトナムから完全撤退することを決定してしまう。これは、言わば、敗北宣言にも等しいものであった。1975年、アメリカ軍が撤退してしまうと、後ろ楯を失ったロンノル政権はたちまち崩壊していった。  そして、これに代わるように政権を握ることになったのが、クメール・ルージュ(赤いクメール)と言われるポル・ポト派だった。かくして、恐るべきパンドラの箱は、開かれたのである。ギリシア神話で、女神が、誘惑に負けて開いた瓶からは、ありとあらゆる災いが放たれ人々を不幸のどん底に追い落とすという話が現実のものとなったのだ。      

 1975年、4月17日、その日が恐怖政治の始まりだった。この日から丸4年間、狂気と破壊、殺戮と憎悪の嵐がこの国に吹き荒れるのである。 今まで常識と思われたことが一切通用しなくなっていくのである。この時、まもなく、空前絶後の大虐殺が始まることになろうとは、誰が予想し得たであろうか?

 この日、彼らは、トラックに乗って首都プノンペンに入って来た。彼らは、すべて、十代かそこらの兵士で、黒の農民服姿のまま銃を片手にしていた。 ついに、内戦が終わったと信じた民衆は、歓声を上げて彼らを笑顔で迎えた。しかし、勝者のはずの彼らには、笑いも開放感もなく、何が気に入らぬのか不機嫌そうに押し黙っているだけだった。

しかし、まもなく、民衆も歓声どころではなくなった。全市民を都市から強制退去し農村に移住させるというのである。その理由にしてもバラバラで、B52の爆撃があるから疎開させるのだとか、都市では食料が足りないから農村に移すだけだとか、退去は、一時的なものですぐに帰って来られるとかいう支離滅裂な説明がなされるだけだった。民衆は、着の身着のままで農村部に追い立てられることになった。これらは、実に迅速に実行されたので、ほとんどの人は国外に逃げることも出来なかった。そのうち、強制退去の実行それ自体が冷酷極まりないものになっていった。

 問答無用となり、もし、少しでも逆らえば、容赦なく殺され出したのである。病院に入院している患者でさえ、ただちに、出て行くように命令された。 何千という病人が容赦なく追い出された。中には、瀕死の重病人もいたが、彼らは、輸血用の血液や点滴の袋をぶら下げながら運ばれていった。 瀕死の子供を抱き上げ、泣きながら歩いてゆく父親、両手両足がなく、もがきながら連れて行かれる病人たち・・・それは、まさに絶望的で信じられない光景であった。

クメール・ルージュの兵士たち、ほとんどが、13才程度の子供ばかりだった。

 彼らは、わずかな食料と身の回り品だけを携えて、徒歩で移動せねばならなかった。それは絶望的な行進であった。中には、一か月以上も歩かされた集団もあった。こうした無理がたたって、体の弱い赤ちゃんや老人などが、次々と死んでいった。
 それと、同時に クメール・ルージュがしたことは、新国家建設のための協力者を集めることだった。前体制下の将校、医師、教師、技術者、僧侶などは名乗り出るように命じられた。また、海外に留学している学生にも呼び掛けられたのである。カンボジアを理想の国家にするために、君たちの知識、技術力が必要だとかいうスローガンが掲げられ、その言葉を信じ共感した人々が続々とポルポトの元に集って来た。

 これら集まって来た人々は、プノンペンに帰って国家建設のため働いてもらうとか言われトラックに乗せられた。しかし、これはひどいペテンであった。彼らは、途中で、道路上で機関銃で蜂の巣にされる運命にあった。留学半ばにして、海外からわざわざ帰国した女子学生も殺された。彼らは、処刑されるために帰って来たようなものであった。男女の教員を、ひとり残らず、高い絶壁から突き落として殺してしまったこともある。

 休日のレジャー・音楽・映画、恋愛などは、資本主義的行為とされ全面的に禁止された。貨幣もなくなり、米がそれに代わるものとなった。

クメール・ルージュは、人々の心に安らぎを与えている仏教すら潰そうとした。宗教は全面的に禁止され、かつて、大事にされていたお坊さんは、寄生虫とか黄色い衣装を着た怠け者とか蔑まれた。

僧侶は、強制的に還俗させられ、農作業やダムの工事現場に追いやられた。そして、
寺院は、ことごとく、豚小屋や集会場に早変わりしてしまい、モスクは倉庫と化した。
押収したコーランは、トイレットペーパーの代用になった。

教育も一切必要なかった。授業は、あるにはあったが、一日30分程度、それも革命の歌やスローガンを連呼するための時間だけだった。国民に課せられた使命は、農作業や土木工事など、ただアリのように黙々と働き続けることだけだったのだ。




 ポル・ポトの目指したものは、一体何だったのか?

 
彼は、フランス留学中に、極端な左翼思想に染まっていったと言われている。 彼が入党したフランス共産党は、ヨーロッパの数ある共産党の中でも、最も過激でスターリンの思想に傾倒していたものであった。 絶対的な権力による政治支配、異端者の完全抹殺と有無を言わさぬ政策の押し付けなどは、スターリン特有のものである。スターリンは、1930年代に2千万人という血の粛清を行い、恐怖の政治を現出した独裁者としても知られている。

 ちょっとした反革命的言動、根も葉もない噂、果てはスターリン個人の好き嫌いのみで、多くの人間が深夜に引き立てられ銃殺されたのである。当時、人々は、秘密警察による深夜のノックに震えおののいたという。それは、あたかも、中世ロシアのイワン雷帝のオプリーチニク(親衛隊)の伝統を受け継いでいるようにも見えた。

 過去からの一切合切を切り離そうとしていたポル・ポト政権にとって、旧体制文化の名残りでもある人間は、すべて病原菌なのであった。  病原菌は、速やかに駆除しなければならないというのが彼らの理論だった。踊り子や歌手を始め、僧侶、医者、看護婦、教師、芸術家に至るまで、技術を持つ者、知識人は、すべて処刑の対象となった。 都市に住みメガネをかけているだけで知識階級と見なされ殺されたのだ。それは、まるで、腐った果実は、まとめて処分するように、無造作に一カ所に集められて殺されたのである。

 その結果、頭の中に旧来の知識を全く持たない子供だけが重視されるようになっていった。大人は、信用出来ず、信じられるものは、子供だけになった。 子供は、大人よりも重大な仕事につくことになり、子供兵士、子供看守、子供医師という特異な存在が次々と生み出されていったのである。

 中には、全く字も読めないような医師さえもいた。彼らは、名目だけの3か月程度のにわか仕込みの教育を受けて、医療業務をまかされたのである。子供医師にかかり注射を受けた者の多くは、傷口が化膿した。腫瘍が腫れ上がり体全体に広がり命を落とす者が続出した。多くの者は、医療の知識もなく、ろくに消毒もせず注射をしようとする子供医師を恐れた。彼らは、手術すら行うこともあったが、しかし、その実体は、人体実験に等しいものだった。生きたままを柱にくくりつけられ、大きな切り口をつけられ、傷口を両側に押し広げられて即死した哀れな患者もいたのだ。

 子どもは、スパイとしても使われた。近くに子供しかいないと油断して、革命への不満を漏らそうものなら命取りとなった。また、小さな子供が家の床下などに潜んで聞き耳を立てていることもあった。うっかり漏らした不平や不満、それを聞いた子供が、組織に通報しようものなら、例え、身に覚えがなくても一巻の終わりであった。

 死は日常の中に入り込んでいた。生活に死というものが密着していた。
なぜ? どうして? という疑問を感じないようにしなければならなかった。
うっかり、英語とかフランス語を口にしようものなら殺されるのである。じゃがいもの袋に入れられて川に沈められるかゴミのように銃の台尻で殴り殺されるかどちらかであった。正しきこと、常識あること、理性ある行いなど、もうどこにもなかった。

 ある男が、びっこの痩せた犬を見つけ、殺してその肉を食ったことがあった。男は、翌日、少年兵士たちに連行され二度と戻っては来なかった。彼は、犬の肉を一人だけで食ったという罪で、拷問を受けた挙句、銃の台尻で殴り殺されたのである。
 流行歌を歌っただけでも殺された。歌いたい時は、回りに誰もいないことを確認して、こっそり歌わねばならなかった。もし、子供や少年兵に聞かれでもしたら最後だった。有名な歌手や踊り子は、身元がばれ次第殺された。したがって、彼らは、野菜売りだったとか農民だったとかと偽って生き延びるしかなかったのである。

 ある踊り子は、過去を偽り、農作業やダム工事などに従事していた。彼女は、70年の大阪万博の際、特別公園したほどの舞踏の大スターだった。白魚のようになまめかしい細い指は、ひたすら荒れ土をいじったり、重い石を運び、砕いたりすることにのみ費やされた。飢えと疲労に悩まされながらも、生きるために必死になって慣れない重労働に苦闘し続けた。身元がばれそうになると、夜逃げを繰り返した。一度は、彼女の美しさに目をつけた革命幹部から逃れるために、弟を夫だと偽ったりしてかろうじて難を逃れたこともあったという。

 だが、ロン・ノル時代にすでに有名だった歌手には、もう、どこにも逃げ道はなかった。  多くのスター歌手や有名人は、ただそれだけで、殺されたのである。 ある女性歌手は、知っている歌を歌い続けろと命令されて死ぬまで歌わされたという話が残されている。彼女は、歌う歌がなくなると同時に処刑されたのである。

 ポル・ポトが支配していた4年間は、まさに、このような行為が日常茶飯事に起きていたのである。民衆はポル・ポトに従うしかなかった。そして、彼の手先となって殺戮を繰り返す少年兵士に怯えた。彼らはほとんどが13才程度の子供で、徹底的な洗脳によってポル・ポトを神とあがなう狂信的集団に変化していた。命令があれば肉親でも殺せる集団でもあった。

 この地獄は丸4年間続いた。しかし、ポル・ポトが政権を握って、4年目になろうとする頃、ベトナムとの戦争も最終局面を迎えていた。ポル・ポト打倒を目指すカンボジア救国民族統一戦線がハノイで結成され、この中には、仏教徒代表など知識人を代表する数多くのメンバーも顔を揃えていた。彼らは、最後の決着をつけようと、大規模な攻撃を画策していたのである。

 その日、ベトナム軍は、15万の大軍で、あらゆる方向から侵入して来た。ベトナム軍の進撃の前に子供兵士の多いポル・ポト軍は、とても持ちこたえることが出来ず、カンボジア国内の大部分は、たちまち占領されてしまった。侵攻開始から2週間目、1月6日には、早くも首都プノンペンが包囲され、翌日にはあっけなく陥落してしまうほどだった。

http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_d.html

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共産主義は呪われたものとなった


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6. 紅衛兵に一番近いのはこれかな

浅間山荘事件 _ ここでも江青女史が大活躍


実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6385901
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11924288
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11924489
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11924654
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11924914

http://www.nicovideo.jp/watch/sm11925136
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11925366
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11925610
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11925759
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11925945

http://www.nicovideo.jp/watch/sm11926270
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11926525
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11926815
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11927138


 
紅衛兵たちが大人やかつての権力者たちに対して、

「自分の思想、価値観が間違っていたことをここで認めろ」

と、反省大会を繰り返して根拠なき暴力を繰り返していた丁度この時期、海を隔てた日本でも全く同じような光景が各所で行われていました。その最も代表的な例といえるのが、日本の浅間山荘事件です。

 この事件は山中にて、左翼過激派に属す若者たちが内ゲバの果てに仲間を集団でリンチして殺害し、その後に浅間山荘に逃げ込んで人質を取って篭城した事件です。もともとこの左翼過激派は日本を共産主義社会にするために来るべき暴力革命に備えて軍事訓練を行っていました。その訓練過程で、この事件を象徴する言葉となる「総括」が行われたのです:


総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化していった。連合赤軍のリーダーであった森恒夫は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開し、仲間にも強いたが、絶対的上下関係の中でその思考は疑われることなく受け入れられていった。

総括はあくまでも「援助」であり、「お前のためなんだぞ」といいながら殴り倒した。「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。

後に、暴力はそれをふるう側にとっても「総括」であるとされ、自身の「総括」のためにもより一層の暴力をふるうことが要求されるようになった。リンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。 「総括」にかけられたメンバーの多くはされるがままに暴力を浴び続けた。中には自ら殴られることを願い出たり暴力に対して感謝の言葉を述べる者もいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/山岳ベース事件


 この「総括」、内容は文字通りこれまでの自分の人生を総括、反省を行ってこれまでの自分と決別することで革命戦士として自らを完成させることを言い、それを周りの援助を以って行うことを差します。この周りの援助、というか補助ですが、ここまで言ってればわかると思いますが罵倒と暴力です。

 この総括を指揮したのは実質的に森恒夫と永田洋子の二人で、二人はこの事件が起こる以前にあらかじめ自分たちは総括を終えて革命戦士として完成しているために、まだ完成していないものを指導する義務(権利)があるとして、一方的に総括対象者を選んでは私的なリンチを繰り返しました。


総括の対象者に選ばれる人間の根拠というのは妬みとか、接吻といった不純な行為、また伝え聞くところでは女性が指輪をしていただけでも覚悟が足りないといって殺されています。

この総括の内容が恐らく、共産主義者同士とはいえそれほど交流のなかったはずの中国で紅衛兵が行った行為と不思議なくらいに酷似しております。

 基本的なやり方は逆らえないように批判対象者を集団で囲み、その対象者に対して周りが一方的に批判します。

紅衛兵なら

「お前の報告書の出し方が毛首席の指導と違う」、

総括なら

「髪を伸ばして革命戦士としての心構えがない」

などなど、何を言っても批判するネタになります。それに対して対象者は否定しようが肯定しようが、基本的に暴行されます。まず、


「その通りだ、すまなかった」と言えば「反省が足りない!」と殴られ、

「いや、そのつもりはなかった」と言えば、「まだわからないのか」と言われ蹴られます。


 両者に共通するのは、何をどうすれば自己批判、反省が達成されるかという基準がないということです。紅衛兵も何が最も理想的な毛沢東主義者で、何が毛沢東主義に反しているかは毎回変わり、総括でも既に完成したという森と永田の二人の私的な感情が満たされるかどうかで、言ってしまえば批判対象者が何をどう言っても無駄だったと言うことです。

 暴行を加える側の理論からすると、自分たちは連中に真に反省を促すために愛の鞭を振るっている(恐らく、そういう気は一切なかっただろうが)という理屈を持っており、よくこの手の史料を見ていると「お前のためを思ってやっているんだぞ」という脅し文句が見受けられます。

 紅衛兵も総括も殴打による内臓破裂や失血によって批判対象者は次々と殺されましたが、一体何故交流のなかったこの二つの集団でこれほど酷似した暴行が行われたのか、個人的には興味が尽きません。まぁその答えというのは簡単で、単にこの暴力行為を行った集団が共産主義集団だったことに尽きます。

 共産主義の集団というのは基本的に教条主義で、既に理論は完成されているのだから余計な疑問、異論を持つな、持つ人間がいれば集団の統率が崩れるからそいつは叩き潰せ……という、比喩としては中世のキリスト教組織のような価値観を持っております。そのため組織は疑問を徹底して話し合う民主主義とは真逆の体制となり、異論派は徹底的に叩き潰されていきます。

共産主義組織はこのように破綻した構造を持っており、スターリン時代のソ連や北朝鮮の例を持ち出すまでもなく権力の暴走を必然的に招きます。またその暴走は基本的に暴力を伴っており、人権というのは徹底的に無視されることが過去の歴史から言って確実です。

最近「蟹工船」ブームで共産党の入党者が若者の間で増えていると言いますが、今時の若者は本当に馬鹿揃いだと毎日せせら笑っています。何を期待して入るかまでは知りませんが、共産党は彼らの考えている組織から最も遠い組織、福祉や人権に対して一切無視する組織であることに間違いありません。今の委員長の志位和夫も、かつての委員長に対して反旗を翻そうとした東大内の下部組織の行動を防いだ事から出世して今の地位についていますし、組織として完璧にいかれています。

http://imogayu.blogspot.com/2008/10/blog-post_5175.html


 70年安保をひかえ、急速に過激化しつつあった新左翼に刺激された日本共産党左派神奈川県委員会から、「思想問題も実践の中で解決していくべき」と強調する旧「警鐘」グループが委員会を解散させ、新しく「革命左派」として立ち上がった中に、このリンチ殺人の首謀者である永田洋子はいた。

 1969年9月、革命左派は外相の訪ソ訪米阻止のため、「反米愛国」の旗を掲げて羽田空港へ突入。当時の指導者であった川島豪は逮捕されたが、それと入れかわるように出所した坂口弘が革命左派の党員となり、やがてリーダー格にまでのし上がる。そして彼は永田の内縁の夫でもあった。

 1971年には栃木県の猟銃店を襲い、川島奪還のため十数挺の散弾銃と大量の弾薬を入手。これにより革命左派は武装化の一途をたどる。

 赤軍派は、本来は塩見孝也と田宮高麿というふたりのカリスマ的指導者を擁していたが、塩見が破防法で逮捕され、田宮が日航機ハイジャックで北朝鮮に渡った後は、森恒夫がそのあとがまに座る形となっていた。ただし森という男は元来は田宮の腰ぎんちゃくのような存在で、デモで初逮捕された際には警察で泣きじゃくって呆れられ、わずか2日で釈放されたり、明大和泉校舎衝突事件にいたっては、恐怖心にかられて土壇場で逃亡したりしている。

 革命左派は、中国亡命の可能性を探るため、そんな赤軍派と接触した。

 赤軍派は「女ぎらい」と言われたほど、女性党員が少なかった。その中の例外が、『ブンドのマタ・ハリ』こと、美しき才女、重信房子であるが、彼女はそのとき塩見の計画に従ってパレスチナへ飛んだあとであった。

 対する永田洋子は、週刊誌に「チビでブス」、「ぎょろ目で出っ歯の醜女」と書きたてられたような面相だった(永田はバセドー氏病をわずらっていたため、目が飛び出し気味であった)が、演説の才があり、ひたむきな革命への情熱は魅力的ですらあった。森は永田に「個人的な友情」を感じ、両派は合同計画を練りはじめる。

 のちに川島の進言もあり両派は「世界革命」を目指す『連合赤軍』として再結成することになる。なおこの頃には、永田と森の間には男女関係があったようだ。 やがて彼らは亡命をあきらめ、山岳アジトの設置をはじめる。主な目的は警察の手から逃れるためと、「学習・討論・兵士の訓練」のためである。

 1971年11月、赤軍派から9人、革命左派から9人の合計18人で、榛名山中に「榛名ベース」と呼ばれるアジトを設立。実質これが彼らの最後のアジトとなった。この日からわずか100日で、この18人から8人の死者が出ることとなるが、彼らはまだ知るよしもない。

 それに先立って、革命左派ではちょっとした問題が起こっていた。 メンバーの1人である向山茂徳が女性メンバーの早岐やす子を連れ、脱走したのである。しかも

「永田のやってることは甘っちょろい『革命ごっこ』だ」

と批判し、

「テロリストとしてなら戦えるけど、もう思想のために駆けずりまわるのは御免だね」、

「おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」

とまで言った。 森はそれを聞いて

「処刑すべきだ!」

と言い放ち、

「そういえば向山のアパートの近くに警官がたくさんいた。密告する気だぞ」

と根も葉もないことを永田に吹きこんだ。 永田は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じた。メンバーたちは向山と早岐を油断させて酔わせたあげく、ロープで絞殺し、死体を茨城県山中に埋めた。

 榛名ベース完成後、連合赤軍18名は共同生活をはじめる。指導者は森、中央執行委員は坂口、永田をはじめとする7名で、彼らはほかの兵士たちとは一線を画す特権階級であるとされた。

 12月20日、幹部会議で全員の「総括」を求めることが可決され、第一回目の総括が行なわれた。 まず永田洋子が赤軍派の遠山美枝子に対し、

「化粧したり、髪を櫛でとかしたり、指輪をしたり――彼女は革命戦士としては失格だ」

と批判。だがこのときは遠山が

「この指輪は困ったときに換金しろ、として母が与えてくれたものだから」

と反論し、森が彼女に味方したため、うやむやになった。

 12月26日、革命左派のメンバーである山本順一が妻・保子と赤ん坊を連れて榛名ベースへ合流。これは永田の承認を得てのことだったが、森はいい顔をせず、

「この点でいくらか手綱をゆるめた以上、ほかの点では厳しく鞭を入れなくてはならない」

 と主張した。永田もこれに賛同し、その夜中、総括が行なわれた。 ターゲットは××能敬という22歳の学生で、彼の弟2人も革命左派メンバーであった(この2人はのちに「あさま山荘篭城」のメンバーとなる)。彼が批判された点は、

「検察で完全黙秘を通さなかった」、
「官弁以外の食物を口にした」、
「合法派と接触した」

 といったたわいもないことばかりだが、彼がそれらの批判をすべて認めたため、森が「有罪」と断じた。

 次に、××と肉体関係になったということで小嶋和子をも断罪。ふたりを正座させ、全員で

「犬!」
「日和見主義者!」

と怒鳴りながら、気絶するまで殴った。長い山ごもりと粗末な食事に鬱積していたやり場のない感情がここで炸裂したと言ってもいい。

 失神したふたりは柱に縛りつけられた。顔面は変形してしゃべることもできず、失禁するほど衰弱していたが、彼らは食事も与えられずそのまま放置された。

 28日、21歳の尾崎充男が総括の対象となる。森は「対警官の実演演習」と称し、永田の元・夫である坂口を警官役に命じて、尾崎と戦わせた。 これは坂口をなぶるためでもあったのだろうが、実戦経験で勝る坂口は尾崎を叩きのめした。しかし尾崎は手当てもされず転がされたままで、彼は鼻血と折れた歯の出血で窒息しそうになり、

「紙をとってくれ、息が出来ない」

と訴えた。それを聞いた永田が

「寝たまま人をこき使うような神経で革命戦士たり得るか!」

と激昂。尾崎は柱に縛りつけられ、絶命するまで狂気のごとき暴行を受けた。

 尾崎は「日和った敗北者」と呼ばれ埋められた。××と小嶋は「臭くなってきた」という理由で屋外の木に縛りつけられた。

 1972年1月1日、21歳の進藤隆三郎が総括される。理由は

「プチ・ブル的言動」、
「女好き」、
「幹部への尊敬の欠如」など。


 まず「女の敵」として永田をはじめとする女性メンバーが彼を殴り、つぎに男性メンバーが殴りかかった。失神すると、××と小嶋のもとへ連れていかれ、同じく木に縛られた。翌朝、進藤はもの言わぬ死体となっていた。死因は暴行による内臓破裂である。

1日午後、小嶋和子死亡。死因は内臓内出血と、凍死であった。

2日、××は屋外から小屋の中へ移された。


 2日、以前に永田が批判した遠山美枝子と、22歳の行方正時が総括される。遠山の罪状は主に

「女を捨てていない。革命戦士らしくない」

というものであるが、彼女が重信房子を崇拝していたことも永田には気にいらなかったようだ。

 行方の罪状は「日和見主義」、「警察で組織の秘密をしゃべった」等々。
彼らは暴行を受け、柱に縛りつけられた。遠山は自慢の髪まで切られ、食事もなく放置された。

 4日、××能敬、死亡。顔は土左衛門のごとく膨れあがり、生前の面影はなくなっていたという。

 6日、あいつぐ死者の数にメンバーはほとんど狂気と化していた。彼らは恐怖と罪悪感から逃れたい一心で、遠山と行方への暴行を再開し、薪でぶん殴った。
薪は遠山の性器にも押しこまれた。

7日、母の名を呼びながら遠山、死亡。

9日、行方が死亡。


 18日、幹部のひとりであった寺岡恒一が「永田批判」、「合法派との接触」を理由に総括の場に引きずり出される。ただし彼は殴殺ではなく、ナイフで胸をえぐられ、アイスピックで首と胸を滅多刺しにされた挙句、絞殺された。

 19日、21歳の山崎順が総括の的となる。理由は「幹部批判」。彼もナイフとアイスピックで刺された末、絞殺された。

 26日、赤ん坊を連れてベースに合流した山本順一が総括される。理由はもはやあってなきがごとしで、「運転を誤まった」というものである。彼は殴られず、極寒の山中で一晩中の正座を命じられた。――が、のちに寒さで失神し、倒れたことによって「態度がなってない」と暴行を受け、木に縛り付けられた。

 同日、「美人でいい気になっている」という理由で大槻節子が総括にかけられる。
また、大槻をかばったことで、金子みちよも同罪となった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが、まったく容赦はされなかった。彼女たちは髪を切られ、歯が折れ顔が腫れあがるまで殴られた末、柱に縛られた。

 30日、山本死亡。苦悶のため、自分で舌を半分以上噛みきっていた。

 永田は

「誰かを総括してないと、みんな退屈してたるんで困るわ」

と公言。それを聞きつけ恐怖にかられたメンバーは大槻へのリンチを再開した。大槻は

「目が、目がまわる。水、水」

を最期の言葉として息絶えた。


 31日、森は

「金子は裏切り者だが、腹の赤ん坊は大切な未来の闘士だ。帝王切開して赤ん坊を『奪還』しよう」

と言い出した。が、技術者もいなければ器具もない。手をこまねいているうち、金子は死んだ。腹の子の父親は同じく連合赤軍のメンバーであった(あさま山荘に篭城した吉野雅邦)が、彼女が死ぬ直前、彼は永田の命令に従って金子を殴っている。また永田は金子が死んだ、と聞かされたとき、

「ちくしょう、赤ん坊まで死なせやがって!」

 とその死体を足蹴にしたという。


 2月2日、幹部のひとりである山田孝が総括にかけられ、13日まで生きのびたものの、両手両脚の凍傷による脱水症状を起こし死亡。最期の言葉は

「水、水。なにが革命だ、ああ、俺はきちがいになってしまう」。

 ここまでの死者は14人である。「革命の理想」のためにこの14の死は必要不可欠なものであったと、この時点でメンバーの何人が信じていたかは定かではない。 たださすがに一番冷静だったのは指導者の森で、「俺たちは捕まったら死刑だ」と言い、少なくとも自分たちがしていたのが「殺人」だということはわかっていたようだ。 だがそれを聞いた永田は、

「なんでそんなことを言うのだろう」

と驚いたという。彼らが死んだのは己の弱さに負けたせいであり、自分たちが殺したわけではない、と彼女は信じこんでいたのである。

 2月4日、森と永田は「敵地調査」のため下山した。東京で彼らを出迎えた同志は、彼らがあまりに臭いので仰天したらしい。10体以上もの死体と同居していたのだから当然なのだが、ふたりはこれを、「山に住む猪の匂いだよ」とごまかしている。 一方、指導者のいなくなった榛名ベースでは3人の脱走者が出た。坂口は追っ手を出したが、誰も捕まらなかった。 そうこうしている間に、彼らの山岳アジトは警察に次々発見されていった。森、永田と合流できないままに、残る9名のメンバーは榛名ベースを放棄して逃走。そのうち4名は買出しに下山したとき逮捕された。

 2月17日、警察の決行した山狩りによって、前日に東京から帰ってきていた森と永田は捕縛される。警察は永田のことは一目見てすぐわかったようだが、森のことはなかなかわからなかったという。逮捕に際しても、バセドー氏病で小柄な永田の陰に隠れようとしたり、森は一貫して「指導者の器にはほど遠い」男であったようだ。

 一方、残る5人のメンバー(坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、××次郎、三郎)は軽井沢の別荘地に迷いこみ、2月19日、あさま山荘に篭城。のべ10日間、219時間という長期戦の末、警察の突入により完全降伏した。

森は1973年の元旦、拘置所で首を吊って自殺した。

http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/lynch.htm


「我々は全ての人々が平等に暮らせる世の中をつくらなければならない! 
そのために革命を起こすのである!」

「革命は武力より生まれる! 銃のみが政権を生み出すのだ!」

「来るべき国家権力との戦いに備えて全員が革命戦士とならなければならない!」


森恒夫と永田洋子はこういった方針のもと、群馬県・榛名山ベースで厳しい軍事訓練を行った。登山でも遅れているものは殴り、射撃訓練で命中率の悪い者は容赦なく殴られ蹴られた。 この体罰が次第にエスカレートしていく。

射撃訓練で的をはずした同志に対し、

「弾丸の一発が外(はず)れて、それが原因で敗北するかも知れないのよ! 

革命戦士としての自覚が足りないわ! アンタは自己批判すべきよ!」

と永田が言うと、

「自分で自分の弱い精神を批判せえーい!」

と森も同調する。 自己批判とは、自分の過ちを自分で批判することで、大声で謝り反省の言葉を口にしても、

「本当に反省しているとは思えない。みんなで総括すべきよ!」

と永田が総括を要求する。総括とは体罰によって反省を促すことを意味する。総括にかけられた者は全員から殴られ蹴られ、気を失うまで続けられた。目が覚めた時には真の共産主義者の革命戦士として目覚めているはずだとの理論による。

暴行を加える者はみんな一様に

「お前のためなんだぞ!」

と言いながら殴り続けた。また、総括が終わった者は

「ありがとうございました。」

と礼を言う。 この総括は、最初は確かにメンバーを戦士として鍛え上げるための体罰であったかも知れない。しかし、この小さな集団の中で森と永田の権力はあまりにも強過ぎた。絶対的な上下関係が形成され、次第に些細なことでも

「総括すべきだ!」

との掛け声のもと、何人ものメンバーが総括というリンチにかけられることとなった。


総括によって初めての死者が出る


昭和46年12月31日(1人目)

連合赤軍の総括によって初めての死者となったのは尾崎充男(みちお)(22)である。尾崎はこれまで何度も総括の対象となっていた。交番を襲撃した時に積極的ではなかったとか、教えるべきではないメンバーにまで銃の隠し場所を教えたとか、他の者の総括の最中によけいなことを口走ったなどの理由でさんざんリンチを受けてきた人物である。

12月31日、この日も尾崎に対する総括がまた始まった。メンバー全員で全身を殴ったあげく、副委員長・永田洋子が他のメンバーに対して命令を下した。


「ここでやめたらまた同じ過(あやま)ちを繰り返すだけよ! 

革命戦士としての自覚が持てるまで外の木に縛りつけなさい!」


小屋の外は雪の降りしきる氷点下の世界である。木に縛りつけられ食事も与えられないまま、尾崎はこのまま凍死した。 死体となった尾崎を見て永田洋子は、

「彼は革命戦士となることが出来ずに自分から死んでいった。 敗北死したのよ!」

と、「敗北死」という言葉を使うことによって、決して決して自分たちが殺したのではないという意識をメンバーたちに持たせた。この方針は今後の殺人の際にも使われ、メンバーたちに罪の意識を持たせない人心操作であった。

総括によって次々と殺される


昭和47年1月1日(2人目)

尾崎死亡の翌日、進藤隆三郎(22)が総括のターゲットにされた。進藤が昔同棲していた女が逮捕され、今のメンバーのことを警察で喋ってしまったことや、進藤が組織の活動においていつも積極的ではないことに委員長の森恒夫が腹を立て、

「戦士として他のメンバーより遅れている! 総括すべきだ!」

と命令を下し、全員から暴行を加え、それは死ぬまで続けられた。

1月2日(3人目)

連合赤軍の中には恋人同士で参加していた者もいた。小嶋和子(22)と××能敬(22)である。二人が小屋の外で抱き合ってキスしているところを運悪く永田洋子に見られてしまった。 たちまちのうちに二人は総括にかけられる。永田洋子はメンバーの男女間の交際を異常なまでに嫌っていたのだ。


「この二人は活動の拠点を汚した! 
みんなが革命戦士となるべき場所でキスするなんて! 
二人に総括を求める!」


全員が「意義なし!」とすぐに同調した。 二人とも激しい暴行を全員から受け、小嶋和子は屋外に縛られて放置され、そのまま凍死した。

1月4日(4人目)

一方、××能敬の方もこの日本格的に総括が始まった。××には二人の弟・××倫教と××元久がおり、二人ともこの連合赤軍のメンバーだった。いわば××は自分の恋人と、二人の弟と共にこの連合赤軍に参加していたのだ。

「同士として総括の援助をする!」

と、委員長・森恒夫が叫び、蹴りを入れる。 「次!」「次!」の声のもと、全員が順々に××を殴り続ける。それは××の弟たちも同様であった。

「これは兄さんのためなのよ! 兄さんの総括をみんなで助けてやるのよ!」

と永田洋子が言い、

「総括をみんなで達成させてやろう!」

と森恒夫も叫ぶ。森と永田に逆らうことは出来ない。××の弟二人は泣きながら、そして兄さんに謝りながら兄を殴り続けた。総括は延々と朝まで続き、××は動かなくなった。死亡していた。兄に寄り添って泣きじゃくる二人の弟に永田洋子は

「兄さんは革命戦士になりきれず敗北死したのよ。頑張ってあなたたちは真の戦士になりなさい。」

と声をかけた。実の兄をリンチで殺されて正常でいられるわけがないが、ヘタなことを言えば今度は自分たちが殺される。二人の弟たちは泣くことしか出来なかった。


1月6日(5人目)

遠山美枝子が髪を伸ばしていることや鏡を見ていることなどに対して永田洋子が腹を立て、遠山の使っていた化粧道具を床にバラまき、

「こんなもの、革命戦死になるために必要ないでしょ!」


と因縁をつけ始める。

「あなた自身による総括を求めます!」

永田洋子が叫び、

「自分で自分を殴れ!」

と森も命令した。 遠山美枝子は、小屋の中央に立たされ、自分で自分の顔を何度も何度も殴らされた。それは30分ほど続き、顔は腫れ上がっていた。遠山美枝子は髪を全部切られて丸坊主にされ、身体を逆エビ状に縛られた。その上で全員から袋叩きにあい、翌日の7日夕方に死亡した。


1月9日(6人目)

1月3日の会議で、中央委員会が結成されており、序列は森恒夫・永田洋子・坂口弘・寺岡・坂東・山田・吉野の順で、この7人が、「行方正時(22)が不適切な発言を行った。」という理由で1月4日に行方を縛ることを決定した。

縛られた行方正時は連日暴行を受け、縛られてから5日目のこの日、死亡した。


1月17日(7人目)

上記の中央委員会に選ばれたばかりの寺岡恒一(24)が犠牲者となった。寺岡は、これまでの総括で次々と仲間が殺されていることに恐怖を覚え、一番親しかった坂口弘にこっそりと相談した。坂口弘はこの組織のNo.3の立場にある男で、寺岡恒一はNo.4だった。


寺岡
「総括っておかしいと思わんか? 
森と永田が因縁をつけては自分の気に入らない者を痛めつけてるだけじゃないか。」


坂口
「な、何言い出すんだお前!」

寺岡
「このままじゃ、俺たち全員あの二人に殺されるぞ。
親友のお前だからこそ言ったんだ。このままでいいのか。」

だが、「親友」とまで言ってくれた寺岡の気持ちを裏切り、No.3坂口弘はこの発言をそのまま森恒夫と永田洋子に報告した。報告を受けた森と永田は激怒し、すぐに寺岡を呼び出し、縛りつけて全員で囲んだ。


「アンタ、私たちのいないところで色々言ってるみたいね。」

と永田洋子に言われ、寺岡は、昨日相談した坂口がこの2人に密告したことを悟った。

「寺岡、俺は悲しい。同じ同士だと思ってたんだがな。」

と言いながら森恒夫がナイフで寺岡の脚を突き刺した。悲鳴を上げる寺岡。そして永田洋子が

「アンタは総括にすらかけない。死刑よ!」

と寺岡に死刑を宣告した。ここに至っては総括も死刑も同じようなものになっていたが、「死刑」とは最初から殺す目的で全員が標的に攻撃を加えるのだ。

「最後に何か言いたいことはあるか。」

と森恒夫が聞くと

「俺は最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや! 

お前らがリーダーなんてチャンチャラおかしいわい!」


と最後の抵抗を見せた。 次の瞬間、森恒夫が

「貴様は死ね!」

と叫んで寺岡の身体にナイフを突き刺した。

「全員で殺れ!」

という掛け声のもと、メンバーたちは次々とアイスピックやナイフで寺岡の身体を突き刺した。だが、なかなか死なない寺岡に対し、

「もういい! 絞殺しろ!」

と森恒夫が命令を下した。縛られている寺岡の首にロープを巻きつけ、その両端をメンバーたちが持って、綱引きのように寺岡の首を締め上げた。そしてついに寺岡は死亡した。


1月20日(8人目)

寺岡処刑の翌日18日、寺岡の処刑の時に加わらなかった山崎順(21)が森恒夫から厳しく追及される。そして翌日、そのことで山崎順も森恒夫から死刑を宣告される。

「死刑にされて当然です。」

と山崎順が反省の色を見せたため、即時の死刑は行われず、森恒夫の指示で縛られることとなった。だが、その後の暴行の最中、山崎順が「組織から逃げるつもりだった。」と発言したために、これが決定的となり、この日20日、死刑の執行が決まった。 寺岡処刑の時と同様、アイスピックなどで全身を刺され、肋骨6本を折られる暴行を加えられ、最後はロープを首に巻きつけてられて絞殺された。

榛名山ベースから新アジト「迦葉山ベース」へ


17日の寺岡処刑の後、一人の脱走者が出た。岩田半治(21)がこの榛名山ベースから逃亡したのである。脱走者とは即ち、警察に密告する恐れがある。 「この榛名山ベースはヤバイ。」と拠点を移すことに決めた。上記の山崎順の総括と並行して、森恒夫は他のメンバーにベースの移転先を探させていた。榛名山ベースは閉鎖された旅館の一部を改造して作ったものだったが、そうそう都合のよい建物が簡単に見つかるはずもない。結局新しいアジトは群馬県沼田市の山林にテントを張って、そこをアジトとすることに決まった。新アジトの名前は迦葉山ベースと命名された。

榛名山ベースで殺害した者たちの死体は、万が一警察に発見されることを考えて身元を隠すために全裸にして順次埋めておいた。そして移動の際には榛名山ベースには火を放ち、証拠品は全て燃やし、連合赤軍は榛名山ベースを後にした。この榛名山ベースは、赤軍派と京浜安保共闘が合体して連合赤軍が誕生した記念すべきベースであったが、結成当時29人だったメンバーも、総括と死刑によって8人死亡、1人逃亡で20人になっていた。

そして新しいアジトに移る際、連合赤軍はバスに乗ったのだが、これまでの山の中の生活で何日も風呂にも入らず着替えもしなかったため、彼らの放つ悪臭はすさまじかった。あまりにも異様で汚い集団であったため、同じバスに乗った人が後で群馬県警に通報している。

現地に着いてテントで生活しながらもメンバーは新しいアジトとしての小屋の建設に励んだ。完成と同時にテント生活を辞め、小屋に移る。改めて新アジト「迦葉山ベース」の完成であった。


更に総括による犠牲者は続く

1月30日(9人目・10人目)

この4日前である26日に、森恒夫が、山本順一(21)に対して

「妻の山本保子(28)に対する態度が偉そうだ。革命戦士としての意識が低い。」

などと因縁をつけ始める。山本保子とは、山本順一の妻であり、生後三ヶ月の子供を連れて夫と同じくこの連合赤軍のメンバーに参加していた。いわば山本順一は、妻と子供の三人家族でこのメンバーに参加していたのだ。

山本順一を総括することが決まり、暴行が始まった。山本順一は妻の見ている前でさんざん殴られた上に、終わると逆エビに縛られた。そのまま縛られ続け、新アジトの迦葉山ベースが完成した時には、縛られたまま運ばれ、新アジトの床下の柱につながれた。29日に山本順一は

「中央委員会の方が理論が矛盾している。」

と発言し、舌を噛んで自殺を図ったが、口に猿ぐつわを噛まされ、更に放置され、そして翌日30日に死亡しているのが発見された。

この日30日は2人死亡しているが、もう一人の犠牲者は大槻節子(23)である。大槻節子は、5日前に当たる25日に、60年の安保闘争に関する議論で、大槻が「敗北」という言葉を多用したことについて腹を立てた森恒夫から厳しく追求を受けた。そしてこれを理由に縛られることになった。縛られたのは、上記の山本順一と同じ26日である。
激しい暴行を受け、永田洋子に髪を切られ、山本順一と同様、29日に縛られたまま運ばれて床下の柱につながれた。ここでまたもや暴行を受け、翌日30日、遺体となっていた。


2月4日(11人目)

金子みちよ(24)が死亡した。金子みちよは、前述の山本順一、大槻節子と同じ26日に縛られていた女性である。

2人と同じように縛られたまま、床下へつながれた。金子みちよは妊娠八ヶ月でお腹も大きかったが、容赦はなかった。彼女が縛られたのは、永田洋子から

「アンタ、最近、森さんの方ばかり見てるね。
女であることを使って、森さんに取り入ろうとしてるんだろ。」


などと完全な言いがかりをつけられ、

「同士とヤッた(sexした)ことがあるだろ!」

「物に対する執着が強い!そんなことでは革命戦士にはなれない!」


などと更に因縁をつけられ、ここから総括が始まった。何日にも渡って暴行は続けられ、2月4日のこの日ついに死亡した。同じ26日に縛られた山本順一と大槻節子が30日に死亡してから、金子みちよはその後、4日間も生き地獄を味わった上、お腹の中にいる子供と共に死亡したのである。


2月12日(12人目)

2月1日に「この組織を脱退したい。」と申し出た山田孝(27)が最後の犠牲者である。翌日2日に山田は雪の上に正座させられ、反省を求められた。そして森恒夫に「食事抜きでマキ拾いして来い。」と命じられるが、作業が遅かったため、全員から袋叩きに遭う。

その後、縛られ暴行を受け、食事もほとんど与えられず、ついに12日のこの日衰弱して死亡した。山田は延々と12日間もリンチを受け続けた上に死亡したのである。

これまでのリンチで殺した者の死体は、榛名山ベースの時と同じ様に順次穴を掘って埋めていた。この時点で残りのメンバーは16人となった。連合赤軍のリンチで死亡した者は12人であるが、これ以前の京浜安保共闘時代にすでに2人を殺しているので、正確にはこの組織によって殺された者は14人ということになる。

http://ryoshida.web.infoseek.co.jp/jikenbo/036sekigun02.htm

独裁者タイプの上司はなぜできるのか


世の中には独裁者のような上司が多くいる。しかし、彼らは果たして生まれつきそういう人たちなのだろうか。それとも、環境がそうさせるのだろうか。

私がよく聞く上司のタイプの1つに、独裁者タイプがある。このタイプの上司は、恐怖と脅迫で支配し、部下を扱う際に残酷な振る舞いをする傾向がある。

 私はいつも1つ疑問に思っている。悪い上司というのは、もともと悪い人間だからそういう振る舞いをするのか、それとも彼らは基本的にはいい人であるにもかかわらず、権威を背負ったことによって心理的に変わってしまったのだろうか。言い換えれば、悪いボスは生まれつきのものか、それとも後天的なものかということだ。Acton卿の

「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」

という言葉は正しいのか。  私は以前、魅力があり話しやすい人物と仕事をしたことがある。彼は野心的な性格だったが、腹の立つようなことはなかった。しかし、一度権威のある地位についてから、彼はまるで違う性格になってしまったように見えた。彼は「言うことに従わない者は去れ」というタイプの人間になってしまった。私は、彼があるミーティングで、おおっぴらに部下を馬鹿にし、恥をかかせたと聞いた。彼はおそらく、権威を手にした瞬間から、一度も間違いを認めたことがないだろう。その後彼と社交的な会話を交わした時、彼はまだ私が以前知っていた魅力的な人物のように見えたが、彼の仕事場での顔を無視することはどんどん難しくなっていった。

 1971年に、スタンフォード大学の心理科学者がある実験を行った(スタンフォード監獄実験)。この実験では、彼らはなぜ監獄があれほど不愉快な場所になるのかを見出そうとした。具体的に彼らが知りたかったのは、そうなる理由が、監獄に集まるのがひどい人間ばかりだからか、それとも監獄が人々をひどい人間にしてしまうからかということだ。研究者たちは、「塀の中での振る舞い」の効果を調べられるような擬似的な監獄を作った。

 24人の大学生がこの実験の被験者となった。学生たちは全員、最初に面接と性格テストを受けた後、コイントスで無作為に2つのグループに分けられた。半数が看守の役を与えられ、半数が囚人役となった。看守への唯一の指示は、監獄の法と秩序を維持するために何でも必要なことをしろというものだった。

 実験は2週間の予定だったが、たったの6日間で中止された。なぜか?それは「看守役」があまりにも虐待的になり、「囚人役」が心的外傷を受けたためだった。看守役の中には、自分は平和主義者だと主張する者たちもいた。

 これは1つの実験に過ぎず、職場は監獄ではない。しかし、それでもこの結果は身も凍るようなものだ。私は、権威によって腐敗してしまう人たちの性格には、もともと心理学テストでは発見できないような、弱いところがあったのだと考えるようになってきている。私は確かにリーダーシップが人間を変えると考えているが、われわれすべての中に、権力によって芽を出す残虐さの種があるとは信じられない。

http://builder.japan.zdnet.com/off-topic/20379103/

権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験


権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが難しくなり、さらに、他者に厳しく自分に甘くなるようだ。

権力者が正しくない行動をするというニュースは大量にある。彼らが、自分より地位が下にある者に対して横暴にふるまい、権力をかさにとった性的行動をとったりすることは、気が重くなることではあるが、驚くことではまったくない。問題は、このようなひどい行ないはなぜ起こるのかということだ。権力はなぜ堕落するのだろう?

心理学者たちによると、権力者の問題のひとつは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなることだという。いくつかの研究によれば、権力的な地位にある人は、ほかの人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという。
ノースウエスタン大学の心理学者Adam Galinsky氏らによる最近の研究を見てみよう。研究チームはまず、自らが大きな権力を手にした経験、あるいは自分に何の権力もないと感じた経験のいずれかを、被験者たちに語らせた。

そしてその後、自分の額に「E」の文字を書くよう指示した。すると、権力を手にした経験を語った被験者のほうが、文字を(他人から見て)左右逆に書く傾向がはるかに強かった。この傾向は、権力の「視野の狭さ」が引き起こすものだと研究チームは主張する。権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが非常に難しくなるというのだ。

さらに、権力者は偽善的傾向も持ちやすい。Galinsky氏の2009年の研究(PDF)では、一方のグループには、仕事の交通費を不正請求する行為は、倫理的にどの程度の悪事にあたるかを、9段階で評価させた。もう一方のグループには、さいころを使ったゲームに参加させた。[被験者は他人に見えないところでさいころをふり、]さいころの出た目に応じて、決まった枚数の宝くじを各被験者がもらえるというゲームだ。出た目の数が多いほど、もらえる券のくじも増える。

http://www.kellogg.northwestern.edu/faculty/galinsky/Power%20Hypocrisy%20Psych%20Science%20in%20press.pdf


前者の実験では、権力を手にした経験を事前に想起していた被験者のほうが、交通費の不正請求に対する倫理的評価は有意に厳しかった。ところが、さいころゲームのほうでは全く逆の結果が出た。権力を想起したグループの被験者に、振ったさいころで出た目の平均値を申告させたところ、偶然のレベルを平均20%上回る(統計的にはありえない)数字を申告したのだ。それに対し、無力さを想起したグループが申告した数字は、偶然をやや上回る程度だった。この結果は、前者のグループの被験者が、実際の出た目ではなく虚偽の数字を申告して、宝くじ券を余計にもらおうとした可能性を強く示唆している。

人間は大抵の場合、正しい行ないは何か(ズルは悪だということ)を知っているが、自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。例えば、約束の時間に遅れてスピード違反をする行為について、両グループの被験者に評価をさせたところ、権力を想起したグループは、その行為をする当事者が自分ではなく他人であった場合に、より厳しい評価を下す傾向を一貫して示した。つまり、ほかの者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、スピード違反にも適切な理由がある、と感じやすいというのだ。


以上の研究結果については、実験室での研究にすぎず、説得的ではないという思う人もいるかもしれない。「権力者の堕落」に関するほかのs研究で私が気に入っているのは、スタンフォード大学ビジネススクールの心理学者Deborah Gruenfeld氏による研究だ。1953〜1993年に米連邦最高裁が下した判決を1000件以上にわたって分析したところ、判事の法廷における権限が強まるにつれて、あるいは判事が法廷の多数意見を支持した場合において、彼らの意見書の文言からは、複雑さや細かいニュアンスが失われる傾向が明らかになった。彼らが検討する視点はより少なくなり、判決から生じうる影響についての検討も少なくなった。そして問題は、こうした「多数意見」が実際の法律になっていくことだ。

ミシェル・フーコーが語っているように、権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響する。権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになる。自らの行動が及ぼす影響など気にかけず、お構いなしに実行するようになっていくのだ。

http://wired.jp/wv/2011/06/03/%e6%a8%a9%e5%8a%9b%e8%80%85%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%80%8c%e5%a0%95%e8%90%bd%e3%80%8d%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9a%e5%bf%83%e7%90%86%e5%ad%a6%e5%ae%9f%e9%a8%93/

独裁者の心理


NATOがトリポリを爆撃開始しても、ムアンマー・カダフィは相変わらず権力にしがみ付いている。シリアではバシャール・アルアサードが1000人以上の市民を殺しているし、イエメンでは今週には内戦状態になろうとしているのにアリ・アブドラ・サリーは辞任しない。何故、独裁者はこれほど権力に執着するのか。サウジアラビヤやベネズエラに逃亡して豪華に余生を過ごせないのか。最悪の結果が待っているのに彼等はそうしない。

誇りより欲が先立つということであろうが、独裁者は地位の維持にこだわる。独裁者の心理分析は難しいが、過去の有名な独裁者であるスターリンや毛沢東、サダム・フセイン、カダフィ等の得られる記録から、彼等の心理をある程度研究することができる。少なくても戦略局(今のCIA)がアドルフ・ヒットラーの心理分析を専門家に依頼して以来、独裁者の心理研究は進んできた。ここに最近の研究結果をもとに、独裁者の心を調べて見る。

1) 独裁者は変質者であると言う説


この説明が最も簡単で我々にも分かりやすいが、少し無理がある。変質者とは精神障害の診断と統計の手引き(DSM)によれば反社会的人格障害と記されている。その特性は犯罪の繰り返しと嘘、衝動的行動、自責の念の欠如とある。

多くの独裁者もこの傾向を持つ。彼等は民衆をだますが同時に自分をもだます。「もしスターリンが誰かを裏切り者と呼ぶとすれば、それは他人をそのように誘導していると同時に、実は自分自身をもだましている」とオックスフォード大学の歴史学者であるロバート・サービスは言っている。カダフィは、彼の体制に反対するものは国家リビヤへの反逆と言いつつ、「全ての人民は私の側にいるし、私を守るに命を惜しまない」とも言っている。

連続殺人犯のジョーン・ウェイン・ゲーシーの例を見ても本当の変質者は嘘つきでも冷酷な人間でもなかった。ゲーシーは被害者を各種の道具を使って苦しめ、気絶するとわざわざ起こして苦しめた後に殺した。多くの独裁者はそのような残酷なことを少なくても直接自分は実行していなかった。

ミシガン大学の心理学のスコット・アトランは、20年間、世界の独裁君主を調べている。彼はハマスのリーダーであるカレド・メシャール、東南アジアで活動しているジェマー・イスラミヤの以前の司令官であるアブバカ・アシール、ムンバイでテロを行ったラシュカレタイバのハフィズ・サイード、アメリカの白人至上運動の指導者であったウィリアム・ピース等と直接話している。

アトランが引き出した結論は、衝動的道徳の追求が独裁者の性格の背後にあることであった。ヒットラーの場合、オーストリアのユダヤ人が現在のお金で数百億円を支払う意思を示しているにも関わらず、要請を拒否してガス室に送り込んでいる。イランの政府も外国からの多額の援助の申し出にも関わらず、独立を保つという聖なる目的のために、核兵器計画を維持する決定をしていた。

2) 独裁者は極端な自己愛主義者


一般の指導者は部下を持ち、部下は指導者を批判することが許されるが、独裁者の部下は生命さえも独裁者に握られているために、批判は絶対出来ない。

「私が強く印象付けられるのは、独裁者が変質者であるかどうかより、絶対権力が如何に人間の性格を変えてしまうかだ」

と香港大学のディコッター教授は言う。

「毛沢東は権力の頂上に長くいて権力の濫用は年々増し、最後は自分の作ったマユの中で生活しているような状態であった」

と彼は言う。独裁者は自分自身と他者への関わりを現実的に見る視点を失ってしまう。2003年にPsychological Review誌で発表されたカリフォルニア大学バークレーのダッチャー・ケルトナー等の報告によると、強い力を持つものはその心理体質を変えていくと指摘している。権力のあるものは他者が成し遂げた業績を自分の手柄にできるし、自分を囲む世界を単純化して考える傾向があった。

しかし我々を囲む現実を無視すると神経学的代償を払うことになる。どの脳の部位もそうであるが、余り使われないと退化してしまう。特に旁辺縁系皮質は我々の感情と自己規制の中枢で、そこを使わないと機能は退化してしまう。

カダフィは数百から数千人のスパイを張り巡らして、彼の体制に歯向かう者を探して抹殺して来た。スターリンは人民委員会を使って彼に反対する者や、特に革命以前のエリートを根絶やしにした。このように聞くべき批判を全て封じてしまうと、独裁者は自ら自分の旁辺縁系を機能不全にしてしまう。ゆえに彼等の末期には傍から見ていても狂ったように見える。


3) 独裁者とは、絶対権力により心の病を発病した人


ジンバブエのロバート・ムガベ大統領は若い頃、至って禁欲的、礼儀正しい若者であった。ピーター・ゴールドウィンの著書「ロバート・ムガベとジンバブエの苦難」の中に、ムガベが若い頃は人の話を良く聞き、朝は早起きし腕立て伏せをし、決して酒を飲まなかったと補佐官が述べている記述がある。何故そんな若者があんな怪物になってしまうのか。

ここでロード・アクトンの言葉を引き合いに出して、”絶対権力がムガベを堕落させた”とする。では絶対権力が人を堕落させるメカニズムとは何だろうか。

新しく発表された”権力はどのように人を腐敗させるか”と題する論文で、コロンビア大学の研究チームは、権力は人間の心理を変えると言うより人の生理を変えるとしている。その論文の中でダナ・カーネイーは、権力を持つと人の日常のストレス・レベルは低下するから、ストレスの刺激で分泌されるコルチゾルのレベルも低くなるとしている。確かに権力者は車を運転する必要もないし、住宅ローンの心配もないからストレスレベルは低い。

一般に不道徳な行いをすればストレスレベルは高まる。

「例えば嘘を日常言う人間は、真実、道徳、社会のルール、結果がどうなるかと色々考察しながら、言葉を慎重に選ばないとならない。ストレスが余りに高まると気持は落ち込み、コルチゾルのレベルの上昇となって現われる」

とカーネイーは述べている。しかし、独裁者はコルチゾル・レベルが低いから、いざストレスに見舞われた時にも心に十分な余裕があり、悔やむ事なく何かを実行できる。この仮説が正しいかどうか調べるために、カーネイー等は心理実験をした。


被験者を2つのグループに分けて、最初のグループには大きな事務所をあてがい、貴方は管理職ですよと言う。

するとこの管理職のグループでは難しい決定も比較的簡単にやってのけた。

これに対して第2のグループは、狭い部屋を与えられ部下であると言われるが、彼等の反応は第一グループと反対の結果が出た。

管理職グループの人達は心理的にもストレスが低かったばかりか、唾液の中のコルチゾルのレベルも低かった。


このような理由があるから独裁者の犯罪が許されると言っているのではない。我々の脳は絶対権力を行使するようには出来ていないのだ。独裁者は自分の将来には色々の選択肢があると考えることが出来なくなっている。

カダフィも全てを失う前に辞任すべきだし、ムバラクも辞任を発表する数週間前にエジプトを出国すべきであった。ヒットラーは平和へ向けた交渉が可能だったかも知れないし、サダム・フセインも処刑を避け得た。しかし独裁者は軍事力に頼りすぎ、心理的にも柔軟性が欠けているため、全滅と言う結果になる。

http://mui-therapy.org/newfinding/psycology-dictatorship.html


 


保守政治家の亀井静香は連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。

今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。

自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/739472309fb34190d4e7768d8e002ba6


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7. 共産主義者とはどういう人間なのか?


1) 共産主義者は正義の味方 


ダメダメ家庭においては、「正しい」という言葉がよく出てきます。

それこそ、以前に取り上げた魯迅の「狂人日記」という作品においても、「あくまで問い詰めた。『正しいか?』」なる記述があります。自分で考えることから逃避する抑圧的な人間は、そんな「正しい」と言うことにこだわりを持つわけ。かと言って、

じゃあ、その「正しい」って何?
どういう意味なの?
その「正しさ」を、どうやって証明するの?

そんな話になりますよね?

数学の問題だったら、その正しさの証明だって可能でしょう。あるいは、物理学などの自然科学だったら、豊富なデーターを元にすれば、「この考え方が正しい。」ということが言えるでしょう。

逆に言うと、データーを取らないで、「正しい」なんて言えるの?

「正しい」という言葉は、排他的な意味を持つ言葉と言えます。
「正しく」ないものは、存在が許されないものでしょ?

「1たす1は2である。」という考えは正しい。だから、その考えと相反する「1たす1は3である。」という考えは存在が許されない。

そう言うものでしょ?

別の例だと、「地球が太陽の周りを回っている。」という考えが正しいのだから、「太陽が地球の周りを回っている。」という考えは存在が許されない。そんなものですよね?

間を取って、

「1月から6月までは、地球が太陽の周りを回っていて、7月から12月の間は、太陽が地球の周りを回っていることにしよう。」

と妥協しようとしても無理がありますよ。「正しさ」は排他性をその特徴としているわけです。


地動説なり天動説の「正しさ」の証明の際には、データーを取る事によって証明することが可能です。
しかし、一般社会における「正しさ」となると、その証明は簡単ではないでしょ?

「消費税率は、5%が正しいのか?10%が正しいのか?」

そう言われても、どうしようもない。むしろ、このようなことを考えるにあたって、「正しい」という言葉を使うことが不適切でしょ?

それらの考え方を取り入れた場合はどのようなことになるのか?それぞれをシミュレーションして、そのメリット,デメリットを考慮し取捨選択すればいいだけ。言うとしたら、

「消費税率は、5%と0%のどちらが適切なのか?」

という、「適切」とか「有効」とかの文言を使う方が、それこそ適切でしょ?
人間社会において、「正しい」ということは簡単ではない。だって人間なんて色々なタイプが居るわけでしょ?

「自分の考えはこれこれで、自分はこれで行く!」

ということならそれでいいじゃないの?
その考えが気に入らなければ、その人を避ければいいだけですよ。

「オマエの考えは正しくないからケシカラン!」

なんて言ってもしょうがない。だったら、その考えが「正しくない」という証明ができるの?

まったく面白いことに、「正しくないからケシカラン!!」なんてことをよく言ったりするような人間は、その「正しくない」証明って、決してしないものでしょ?

そんな人が往々にしてやるのは、

「権威者の○○先生がこう言っているのだから、これが正しいんだ!!」

そんなものですよね?

「正しい」という言葉は、権威主義と結びつく例が多いわけ。主張や要求が問答無用なんですね。双方の合意に基づいたものにはならない。そんな問答無用の権威主義者が、周囲から好意的に評価されたりする際に、よく使われるのが、「彼は正義感が強い!」というもの。

この言葉は、以前にこのメールマガジンで取り上げた民主党の(故)永田議員が、「偽メール事件」の際に、言われていました。彼の上司とも言える鳩山さんによると「永田議員は正義感の強い人」なんだそうです。

へぇ・・・そうなの?

しかし、

「自分は正しいことをやっている。」・・・だから、「自分と違っている人間は間違っている。」・・・

「彼らは存在すること自体が罪だ!」・・・だから、「彼らを抹殺すべきだ!」。


そのような発想の流れは、まさに「正しさ」なり正義感の「裏面」としては典型的なものと言えます。おまけに

「存在すること自体が罪」の相手を抹殺するために、多少「いかがわしい」方法も使うことが許される・・・

そう考えてしまうわけ。そんなものでしょ?

正義感が強いと、そのようないかがわしい方法も許容する精神的な土台ができてしまうんですね。それこそテロリストなんて典型でしょ?

「存在すること自体が罪」と判断したら、どんな方法も取っていいんだ!!

だって、「自分たちは正しい」のだから。

正義感というものは、ある種の「非人間的」な面を持っているんですね。だって、「正しい」ということは、どんな人間にも適用される考えでしょ?

個々の人間を超えた概念ですよ。人によって適用されたり、適用されなかったりしたら、「正しい」とは言えない。逆に言うと、

「正しく」ないことをしているものは、人間ではない・・・
「正義感」が強い人はそう考えたりするもの・・・

現実にそうでしょ?

民主党の永田議員は「正義感が強い」とのことでしたが、まさしく「それにふさわしい」行動のスタイルだったでしょ?

あのガセメール事件に限らず、様々な問題を起こしていたそうですが、

「自分以外のものは認めない!」

という意味では極めて正義感を持った人だったわけです。正義感の持つ排他的な部分を強く持っていたわけ。


話が変わりますが、よく援助交際のようなマターになって、

「無理強いはよくないけど、お互いの合意があればいいんじゃないかなぁ・・・」

と言っている人がいたり、逆に

『ルールはルールだ!そんなことはケシカラン!!』

と言っている人もいますよね?

まあ、確かにルールはルールでしょう。未成年を相手にするのは問題ありでしょう。だって、相手は判断能力が未発達なんですからね。しかし、面白いことに、現実社会で話をすると、「お互いの合意があればいいんじゃないの・・・」と、小声で、言ったりする人の方が、それ以外の話をしていて面白い。これって、ある意味当然のこと。

だって、「合意があればいいじゃないの・・・」と言えるということは、当人が「合意を取れる」何らかの能力があるということでしょ?話がやたら上手かったり、まあ、お金を持っていたり・・・と、色々なケースはあるでしょう。しかし、それなりに何かを「持っている」から、言えるわけ。世の中って、そんなもの。もちろん、実際にそんな行為をするかどうかは別問題ですよ。

逆に言うと、「ルールはルールだ!」と言ったりする人の方が話をしていて、つまらない。

そんな人は、往々にして問答無用だったりする。確かに正義感はあるのかもしれませんが、逆に言うと、「相手から合意を取れる人」ではないんですね。

「合意があればいいじゃないか。」と言う人は、現実的には、合意しなければ、何もしない。

「ダメなものはダメ。」と言う人は、他者との合意など平気で無視をする。


抑圧的な人は、そもそも合意というものに価値を見いださない。自分のやりたいことについて考えることから逃避し、何かを始めても最後に総括する習慣もない。そもそも判断というものから逃避しているんだから、判断の結果としての合意などは、むしろ「相手から判断を要求された」という形で、自分が被った被害として認識してしまう。

と言うよりも、合意の土台となる個々の判断や思考こそが、悪や罪に近いものと認識している。

それこそ、その代表例として、宗教改革のマルティン・ルターの言葉を引用してみましょう。


「神は我々の正義と知恵によってではなく、・・・・我々から出てくるのでもなく・・・・我々のうちに潜むものでもなく、どこか外から我々にやってくる正義によって、神は我々を救おうとし給う。・・・

言い換えれば、正義はもっぱら外部からやってくるものであり、我々とはまったく縁がないということが、教えられなければならない。」

このルターの言葉で示されているように、抑圧的な人間にしてみれば、人間の判断と正義と言うものは、対立し、いわば排他的な関係となっているわけです。

人間が判断したがゆえに、正義から逸脱し、人間にとっての罪であり、天国から遠くなってしまう・・・
そんな発想の人にしてみれば、合意などは、どんな分野においても、罪になるわけ。

判断や思考を抑圧しているんだから、人の気持が分からなくなり、一般論的な正義しか語るものがない。個々の人間の思考に依存するものではやり取りができない。非人間的なものを持ち出さないと、対応ができない。

達成したいものがなく、最後を締めるという発想がないので、語り続けることそれ自体が目的化されてしまう。それはまさに典型的なクレーマーの様相となる。クレーマーというのは、相手を嫌がらせしようとしてやっているのではなく、ただ自分の正義を狂信的に主張している、まさに正義感の強い人と言えるでしょ?

正義だからこそ妥協する必要もない。というよりも、自身が判断した時点で、それは罪であり悪となってしまう。逆に言うと、「どの点で妥協すればいいのか?」判断することから逃避するためにも、自分なりの正義を主張し続けることになる。

「あの人は、正義感があってすばらしい人だ!」

そのような評価は、ある意味において、もっともなことなんですが、その人の持っている考えと、別の人が持っている考えの間に不一致が起こった場合、その手の正義感の強い人は、逆上し、相手を攻撃するだけなんですね。
パステルナークの小説「ドクトルジバゴ」に登場していた正義感の強い人は、そんな感じだったでしょ?

正義というものは、問答無用の状態の反映であり、新たなる問答無用を作り出すもの。


たとえば、独裁体制において、自分の親の罪を告発する子供の例が、いわば美談として登場したりするものです。

それって、それだけ家族の間に会話がないということでしょ?

子供が主張したいことがあれば、それを親が聞いて、議論して、親なりの判断を示し、子供を説得すればいいだけ。逆に言うと、親を告発するのは、そんな対話もないことがわかるでしょ?

まあ、だからこそ告発されてしまうわけです。

ダメダメ家庭の子供としては、非人間的な概念である正義しか頼るものがない。
現実逃避の方法論としての精神論なんですね。権威主義的で問答無用の親に対する不満を、より大きな権威でやり返しているわけ。そして、そのまま成長してしまったら、どんな人間になるの?

正義というのは、基本的に「北の発想」と言えます。ヨーロッパの芸術作品だと南北問題をテーマにした作品が多くあります。それこそドイツでも、イタリアでも、スペインでも、精神的な北と、享楽的な南の間の対立が起こっているもの。北は戦争をすると南には必ず勝つけど、だからと言って人々が幸福かというと別問題。北の住人は、日々ノンキに暮らしている南の住人を見ると、憧れと侮蔑が入り交じった不快感を持ってしまう。

北の住人は、精神的だけど、それが「殻」になってしまって、人生を楽しめない。自分で作り上げた「殻」からどうやって脱却するのか?そんなことに悩んでしまう。だから放埒に生きる南に対して密かに憧れを持っている。その憧れを認めたくないものだから、なおのこと、南を侮蔑し、それを自分たちの成果や倫理で正当化する。
そんな北の住人を描いた作品は、結構あるんですよ。

精神的な豊かさも、ある種の閉塞感につながってしまうこともある。
自分の信念なり倫理観は、それ相応に誇ればいいでしょう。
重要なことは、それを相手にわかるように説明することでしょ?

正義というのは、倫理的に汚れがない状態といえます。
それはいいことなんでしょうが、そんな状態で人は生きられるの?
そもそも汚れなきキレイな状態の極限が死となることは誰でも分かること。
正義を突き詰めれば死になってしまう。曇りなき世界を追い求める宗教原理主義者が、死に近いことは、歴史上で常に起こっていること。

そして、その死も往々にして悲劇的な死であって、充足感に満ちた死ではない。充足感に満ちた死は、キレイなものでも純粋なものではない。ヘルマン・ヘッセの小説「ナルチスとゴルトムント(邦題 知と愛)」で、

「君には母がない。だから死ぬことができない。」

という言葉があります。文芸的に言うと、母親というものは、死を受け入れ、生を生み出す存在。だからその存在は、キレイなものとは言えない。母親というものは、心理的には「汚れ」を体現する存在と言えます。だから心理的に母親が不在の人は、汚れとの付き合い方がわからずに、実に純粋な人になってしまう。これは例えばパスカルなんてその典型でしょう。

罪を受け入れることによって、その罪を浄化する。そして再生へとつなげる存在となる。母親は、そういう意味で正義ではない。罪を受け入れる存在は、正義とは言えないでしょ?

正義感が強い人は、罪を受け入れてくれる大地から離れているがゆえに、必死で「いい子」としての存在証明をする。しかし、その必死さゆえに、実際にトラブルになってしまう。そして、そんなトラブルを受け入れてくれる存在を探し求め、周囲に更に要求し続ける。しかし、自分の親の問題はアンタッチャブル。だから自分の罪はまったく浄化されないまま。

正義感が強い人は、純粋に正義の中だけで生きているの?

そんな人は自分の中の不正義とどのように付き合うの?

当人は、その正義感ゆえに、自分の「不正義」な面を見つけて苦悩する。そしてそれを、全部破壊しようとする。正義感は破壊衝動と隣り合わせ。

歴史的に見ると、正義の名のもとに、数多くの殺戮が行われましたよね?
正義とは、個々の人間を超えた普遍的な観点であるがゆえに、問答無用で非人間的。だからこそ抑圧的な人間が頼りにする。

人の気持ちがわからないがゆえに、正義しか頼れない。

正義というものは、人の世に属していながら、人の世を超えたもの。本質的に矛盾を抱えた存在と言えます。
芸術だったら、もともと人の世を超えていて、人の世をさらに超えようとしているもの。ただ、その「おき場所」が、人の世だというだけ。

「正しい」という言葉は、芸術の、特に創作の領域では使われない。
音楽における演奏の分野では使われることもあります。しかし、作曲では使われないでしょ?

まあ、「正しさ」という言葉が飛び交う領域はそれだけ、創造から遠いわけ。


正義感が強いことが、悪いわけではありませんが、正義感が強いがゆえに、その排他性から

「アイツは存在すること自体許されない!」

なんて発想になってしまう。

正義とは「存在すること自体が許されない。」という危険思想と隣り合わせ。

それが他者に向くだけでなく、自分自身にも向いたりもするもの。

それは現実に生きる当人自身にとっても、周囲の人にとっても、見極めが必要な事態を暗示しているものなんですよ。正義感が強いといわれる人で、幸福そうに見える人って、あまりいないでしょ?

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/09-09/09-09-16.html


3) 共産主義者は悪を憎む


社民党の福島党首がおっしゃった発言である、

「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」

という発言を取り上げたます。私は別に、社会主義という理念云々を問題にしているわけではありませんよ。

というか、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」って、具体的にどんな社会なの?

現実的なイメージが私にはわからない。それとも福島党首は自分で説明できるとでも言うの?

そんな自分でもわかっていないようなことを「べき論」を使って相手に要求する・・・
こんなスタイルがダメダメの典型だと申し上げているだけです。

さて、その発言に接して以来、私は福島党首に注目していました。

「次はどんなボケをかましてくれるのかなぁ・・・」

「まったく、あの人はネタの宝庫だねぇ・・・」

福島党首は立場のある有名人なんだから、彼女が発する折々のコメントは、ニュースなどに登場したりしますよね?
そして気がついたのは、「悪(あく)」という言葉が実によく使われること。

憲法改悪阻止!悪法!悪政!

1分間の発言のうちに、3回くらいは、この「悪」なる言葉を使っている。皆さんも、今後は注目してみてくださいな。

ある人の考えや行動が気に入らないということはあるでしょう。自分だったらそうはしない、そう思うことだってありますよね?
しかし、自分と違うからと言って、それをいきなり「悪」なんて断定する・・・そんなことをする人って、いったいどんな人なの?って思うでしょ?

自分と違うから気に入らない・・・のはいいとして、じゃあ、自分の考えなり行動の方が、他の人にとっても適切なものなんだ!と、周囲の人にもわかるように説明するのが先でしょ?

たとえば憲法の問題だって、今までの憲法のいい点はこれこれだ、憲法の改訂をして、この点を取り入れると、このあたりが問題になってくる・・・だからワタシの考えの方がいいんだヨ!
そうやって、他者にわかりやすく説明することが重要でしょ?

「この私が『悪』だって言っているんだから、黙って従えコラっ!」

そんな感じでいきなり価値判断を押し付ける必要なんてないじゃないの?

さて、以前にこのメールマガジンで韓国の歴史教科書を取り上げました。あの教科書も、事件の具体的記述はそっちのけで、価値判断だけが書いてあった世にも珍妙な教科書でした。大きな事件があったのなら、「いつ」「どこで」「だれが」「なんの目的で」「どうやって」と、そんなことを記述するのが先でしょ?事件の価値判断は人それぞれですよ。

しかし、ダメダメ人間は、自分自身で考えたりはしない。権威者認定のありがたいご高説を、盲目的に受け入れているだけ。自分で考えたりはしないから、事実の詳細より、価値判断が先に来るわけ。

そして、自分と違っているからということで、「悪」と勝手に認定してしまう。

しかし、自分と違っているから、あるいは、自分の言うことを聞かないから、すなわち「悪」なんて、実に恐ろしい発想でしょ?

それこそヒトラーやスターリンや毛沢東となんら変わりませんよ。ホロコーストに至る典型的な発想じゃないの?あるいは、「子供が言うことを聞かないから殴った!」と語る児童虐待する親とまったく同じ。

福島党首の発想は、価値判断が先に来て、権威主義的で、問答無用。
実際にそうでしょ?

しかし、このような発想って、別の言い方をすると、軍国主義的ですよね?

「米英は悪だ!オレの言うことを黙って聞け!反論は許さんっ!!」

まあ、福島党首の実家・・・なかんずく、両親がどんな人なのか?
簡単に見当がつくでしょ?

問答無用で権威主義的な父親。グチばかり言っている母親。そして両方とも被害者意識が強い。

「悪いのは全部政治のせいだ!」そして「
いったい誰のためにこんな苦労をしていると思っているんだ?!」

そんな環境で育ってしまうと、「ああ」なりますよね?

このような被害者意識が強い人間は、被害者意識が強い同じような人間を呼び込んでしまう。しかし、お互い「親に迷惑を掛けられない!」なんて強迫的に思っているから、根源的な思考ができない。自分たち自身の問題として捉えられないわけ。そんな連中が、一緒になって、

「ああ!ワタシたちって、なんてかわいそうなの?!」

とグチ大会をするわけ。しかし、物事は簡単に行かない。被害者意識が強い人間は、被害者競争をしたりするもの。双方が不幸自慢をして、「どっちの側がより不幸なのか?」で競争するんですね。そして「より不幸」な方が序列が高いわけ。

「アナタより・・・ワタシの方がかわいそうな人間なんだから、ワタシの言うことを聞いてよ!」

社民党から離脱した人がいたりしますが、それって、政策論争や路線論争でもなく、このような不幸「抗争」に敗れた・・・という面もあるんじゃないの?

福島党首が何を目指しているのかはよくわかりませんが、彼女が目指しているものを彼女自身が自覚しているのかな?
その点が、そもそも、それが疑問ですし、もし、明確な目標があるのなら、今のような権威主義的で軍国主義的な手法だと、その実現は遠いだろうなぁ・・・と思っているだけです。

そもそも、じゃあ、頻繁に登場する「悪」って、どういう意味なの?

「アンタの言う、悪って、どういう意味?ちょっと教えて?」

と、こちらが尋ねたら、どう答えるでしょうか?
まあ、予想できるのは、これ。

『悪って・・・よくないこと・・・』

まさに、「ふつうって、どういう意味なの?」という問い掛けに対する回答とよく似ていますよね?

ちなみに、福島党首が掲げる「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会」に似た社会というか組織があることが最近わかりました。最近言及し続けていますウィリアム・スタイロンの小説「ソフィーの選択」の中での記述からです。その中に、第2次大戦中にナチスが作り上げた、アウシュビッツ収容所の記述があります。

アウシュビッツのスタッフには、いわゆる職業軍人はほとんどいません。一般の、それこそ「ふつう」の人たちが、あのような「作業」を行っていたわけ。あのような行為ができるためには、「考えないこと」が、絶対に必要でしょ?「考えていたら」やっていられませんよ、いくらなんでもね。だから「考えない」能力に長けている人たちが、スタッフとして集められ、「粛々と」作業したわけ。

まさに「ふつうの人が、ふつうに働いて・・・」そして、「考えない」から、自分は不幸だと思わない・・・そんな組織だったわけ。

そもそも、物言いの冒頭に「悪」なんて言葉を出すということは、それ以上は「考えなくてもいい」わけでしょ?

それこそ、アウシュビッツでも

「ユダヤ人は悪だから・・・」
「これがワタシの仕事だから・・・」

そんな言葉を持ち出し、自分で考えることに封印を施し、「粛々と」作業したわけでしょ?


悪という言葉は、倫理に直結している。

倫理というのは、言葉の上では結構なことですが、別の観点からすると、プラグマティックな視点が欠如していることと言えます。そもそも、プラグマティックに物事を見る人が「悪」なんて言葉を持ち出しますか?

プラグマティックな発想がないということは、自分で達成したい目標そのものがないということでしょ?

自分に確たる目標があれば、その実現のために、プラグマティックに行動することになりますからね。倫理的に考えているだけでは、自分の目標は達成できませんよ。目標が達成できない・・・というか、目標自体が存在しないので、むしろ、

「○○のせいで、上手くいかない。」

と犯人認定の論理を持ち出すことになる。その「○○のせいで上手くいかない。」という発想を、エーリッヒ・フロムは「○○からの自由」と記述しております。その「○○からの自由」にこだわる心理がナチスを呼び込んでしまうことになる。

「○○をする自由」を意識して、プラグマティックに発想すれば、それに協力してくれる味方がほしい。しかし、「○○からの自由」を意識して、倫理的に物事を見れば、敵がいた方がいい。「悪」を意識することによって、「善」vs「悪」の構図を作り上げるわけ。だからこそ、抑圧的な人間は、味方よりも敵が必要になってしまう。そして、自分の考えと違っている者を、「悪」と認定して、それを敵とすることになる。

敵なんだから、説得も必要はなく、一方的に糾弾するだけ。
逆に言うと、会話の能力は必要とされない。

ただ、敵を攻撃する言葉を繰り返し、権威筋認定のご高説を連呼するだけ。

あるいは、反論されにくい漠然とした言葉を持ち出すことで、説明や説得のシチュエーションから逃避する。まさに、「ふつうの人が、ふつうに働いて、幸せを感じられる社会を作るべき。」という言葉に結実することになる。その言葉はいいとして、

『で、結局は、アンタはどうしたいの?』

と聞かれてしまったら、どう答えるんだろう?
彼女としては、どうしてもやり遂げたい具体的なことがあるの?


倫理というのは外部的な体系であって、その裏面として自己逃避とつながりやすい。抑圧的な人間は、自分で考え、判断することが心理的に怖いので、その物言いに「学ぶ」という言葉が頻発することになる。その「学ぶ」という言葉は、その心理的な意味としては「従う」とか「縛る」という言葉に近い。まさに自分で判断することを否定している発想なんですね。自分で考えることを否定し、自分自身を否定しているんだから、相手のことを肯定するわけがないじゃないの?

いきなり「悪」なんて価値判断を押し付ける人間って、現実にいたりするでしょ?
そもそも「悪」なんて言葉が冒頭に登場したら会話にならないじゃないの?

つまり、最初に「悪」なる言葉を使うことによって、会話や思考から逃避できるわけ。そんな人間は、今までちゃんとした会話をして来なかったことがわかるわけですし、そんな人は被害者意識も持っているものなので、スグに逆上することになる。

「ああ!アイツの悪によって、私はかわいそうな目に!」

そう思ってしまうので、暴力的な手段を取ることに躊躇しない。自分と違っている発想や行動を持っている人を、いきなり「悪」と断罪するような人が、後になってどのように評価されるのかって・・・決まっているものでしょ?

まあ、この私が、福島党首と1対1のやり取りができる機会があれば、1時間あれば必ず泣かせられる自信があります。まあ、「泣かせてみせようホトトギス」ってところ。

そもそも、彼女に対しては、

「アナタのさっきの物言い・・・アナタのお父さんの物言いにそっくりでしょ?」

なんて言葉がチェックメイトになるわけですから、その前段階で、少しづつ相手を追い詰めていけば、実に簡単に泣かせられるでしょう。ちょっと興奮したりすると、「つい」、もっとも自分らしい言葉を言ってしまうもの。
それこそ

「ふつうって・・・ふつうのこと・・・」なんて言葉。

そのような言葉を多く引き出して、ニッコリ笑って、

「ああ!お父さんもそんな感じで言っていたんでしょ?」
「アナタはやっぱりお父さんの子だねぇ・・・」とやるわけ。

まあ、この時点で確実に泣くでしょうね。2時間あれば、首を吊らせることもできるでしょう。彼女はそれくらい「心が弱い」ことが歴然としています。まあ、この私が「いかにモノが見えるのか?」知っている人は知っていますので、これ以上は言いませんが・・・

だから重要なことは、自分自身で自分自身を見つめるということ。

人から突っ込まれるから逆上してしまう。自分自身で考えれば、そんな厳しいことにはならないでしょ?
普段から考える習慣を付けておけば、いざという時にも、大怪我はしないもの。

だからこそ、「悪」などの価値判断を最初に持ち出して、会話や思考から逃げるようではダメなんですね。

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/06-11/06-11-10.htm

3) 共産主義者は権威主義


ダメダメ家庭出身者の活躍分野 共産党員

第2次大戦中のイギリスの首相をされたチャーチルが、こんなことを言っていますよね?

「若い頃に共産主義にシンパシーを持たなかったら人間の心がない。
しかし、いい歳をして共産主義者だったらバカ。」


あるいは、私の個人的な知り合いが、よくこぼしていたものです。

「共産党の人は、勉強もしているし、正義感もあるんだけど、

『共産党員になって一緒にやらないとあなたたちには協力できない。』

と言われてしまうので、付き合いきれない・・・」


ダメダメ家庭の人間は、目の前の現実を直視して、その問題を一つずつ解決していく・・・と言った現実的な改善をしない。何かの問題に取り組む際にも、理念先行であり、
「悪いのは全部○○のせいだ!」

と、勝手に判断して、その○○への対抗心を膨らませてしまうことが多いわけ。


確かに、共産主義が掲げる「人類が皆平等で幸福」という状態は、誰も反論できませんよね?

しかし、現実にはダメダメ家庭というものが存在し、自分の子供をダメダメにしてしまう親だっているわけですから、そのようなダメダメ家庭で育てられた人間をどう扱って行くの?あるいは、どのようにサポートしていくの?

出身家庭は皆平等というか、同レヴェルというわけには行きませんよ。経済的には平等に近くなっても、まさに「心の貧しい」状態の家庭もあるわけ。そしてそのような「心の貧しい」家庭ほど、被害者意識を持っているもの。だから対抗心が強い。

そしてダメダメ家庭は、政治をあてにするもの。自分たちが当事者意識を持ってことにあたるという発想がなく、政治の力でいきなり解決してもらおうとするわけ。何かと言うと、政治の問題にしてしまい、そして、対抗心が強い家庭で育った人間が共産党に入党するのも、当然といえば当然といえます。

政治的な主義主張としてのマルクス主義がいいとか悪いとかは別として、

「目の前にいる困りごとを抱えている人間を、どのように助けるのか?」

と考えることも重要でしょ?

「困っている人が、自分と同じ共産党員だったら助ける。」

「困っている人が共産党員でなかったら助けない。」

そんな発想だったらねぇ・・・

しかし、ダメダメ家庭の人間にはグチの共有への渇望があるわけ。

「一緒になってグチを言い合いたい!」

常にそう思っている。だから一緒になってグチを言ってくれるような人間でないと、仲間とは言えないわけ。

「アンタ・・・さっきからグダグダ言っているけど、そんなことは、自分で何とかできるでしょ!?」

なんて言い出すような人間が身近にいては困るわけですね。

面白いことに、共産党のポスターが多く貼ってある地域は、空気がよどんでいる。なぜかなぁ・・・と思ったのですが、声が聞こえないんですね。何となく静か。それに風景の色自体がくすんだ感じ。ちょっと殺伐とした雰囲気なんですね。そんな環境で育ったら、やっぱり

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と考えるような人間になるのも当然でしょう。

マルクス主義を共有する集団なら、まだ救いようがありますが、往々にして共産党政権が行うのは被害者意識の共有という手法なんですね。

マルクス主義を肯定しているのか?
あるいは、現行の政治を否定しているのか?

言葉の上では共通していても、その心理の方向性は、肯定と否定で逆方向になっている。結びつきだって、肯定と否定は違うもの。
理想を共有しているのか?
敵を共有しているのか?
それによって、心理的にはまるっきり違うものでしょ?

それこそ、以前に京都府で共産党の長期政権がありました。そこでも「憎い!憎い!」と、東京への憎しみを掻き立てる政権運営がなされたそう。ちょうど今の北朝鮮と同じ手法といえるわけ。京都府民が東京への憎しみで一致団結している。当時の京都はそんな状態だったそう。だから共産党の長期政権になったわけでしょう。そんな精神風土が残っていると、確かにヘンな事件も起きちゃいますよね?

マルクス主義的な考えで取り入れられるものは、取り入れればいいでしょうし、選挙において共産党に一票入れるもの、ひとつの判断といえるでしょう。しかし被害者意識を共有する集団に入ると、抜け出すのも大変なわけです。形の上では抜け出せても、精神的には抜け出せない。ちょうどダメダメ家庭出身者が、自分の出身家庭の被害者意識から抜け出すことが難しいようなことが起こるわけ。常に自分の被害を考える習慣がついてしまうわけ。

現実で問題が起こってしまったら、自分の目で問題を認識し、人の話を真摯に聞いて、自分の頭で考える・・・現実を改善するのは、これが基本でしょ?

マルクス主義の考えを参考にするのは結構ですが、あくまで考える主体は自分自身なんですね。

しかし、共産党員になると自分で考える必要がなくなるわけ。それこそ上意下達の世界でしょ?

だからダメダメ家庭の人間には都合がいいわけ。自分で考えなくてもいいし、自分の被害者意識を満足させてくれるし、人と会話しなくてもいいし、明確な序列があり、権威主義的。

と、ダメダメ家庭の人間の「ツボ」を満足させてくれる集団といえるわけ。

面白いことに、「人類がみな平等」という主義主張のはずの共産党では、明確な序列があり、実に権威主義的でしょ?

会話ができないので、新たな縁を広げていくことができず、従来からの縁であう地縁血縁にこだわったりする。

それこそ、権威や血縁の集大成とも言える皇室に、妙にこだわったりするわけ。共産党員ほど、

「実はワタシの先祖は、遠く皇室につながっているんだ!」

などと自慢気に話したりするもの。そんな血縁自慢の共産党員って、いたりするものでしょ?

あるいは、共産党員の主義が統一されているのはともかく、その「話しぶり」も、全員同じようなものでしょ?

それってTPOに合わせた会話をしていないわけですよね?
あんな口調を聞かされたら子供はどう思うのかな?
あの話しぶりは、相手から合意を取るという発想ではなく、相手から反論を食らわないことが目的化した話しぶりでしょ?

共産主義そのものは、現在でも十分に参考になる考えでしょう。マルクスの指摘には有意義な点も多い。しかし、現実の共産党員で尊敬できるような人って、ほとんどいませんよね?

不平不満を、権威主義的な物言いで主張するだけ。結局は、会話ができない人間が、自分の被害者意識を主張しているだけでしょ?

だからダメダメ家庭の人間は、共産党員になってしまったりするわけ。
共産主義の理想というより、不平不満の体系化の方が主眼と見た方が理解しやすいもの。

それこそ読売新聞の渡辺さんが、昨年のプロ野球での騒動の際に、「たかが選手が・・・」と言ったそうです。渡辺さんは今は違っていますが若い頃は共産党員でした。まあ、「たかが選手が・・・」という物言いは「共産主義」の発想とは似ても似つかぬように思われるでしょ?

しかし、「まず最初に、自分の側の被害を考える。」あるいは、「権威主義」という「共産党」のメンタリティからは、結局は変わっていないわけ。彼もダメダメ家庭の出身なんでしょうね。

あるいは、以前に、年季が入った実際の共産党員の方と雑談をしたことがありますが、その方が「ウチの使用人が・・・」と言う言い回しをしたので、私も呆れてしまいました。「使用人」という言い方ではなく、たとえば「働いてもらっている人」とか、せめて「従業員さん」とかの言い回しの方が適切といえるのでは?
共産党の集会では、「使用人」という物言いをする人に対して、注意とか指摘はされないの?

共産党員さんも、主義主張は当人の勝手ですが、実際に働く労働者の方々に、もうちょっと敬意を持てないものなのか?

序列意識が強いダメダメ人間は、何でも序列で判断するので、逆に言うと、「格に対するセンシビリティ」がなくなってしまうことになる。格の違いというか、そもそも背負っているものが違うというか、そもそもの土俵が違うというか・・・もはや別の世界という存在もあるでしょ?

それを、格の問題ではなく、序列関係の枠組みで認識するわけ。


それこそ、皇室なんて、一般の人間にしてみれば、格が上とかの問題以上に、そもそも別の世界ですし、はっきり言ってしまうと、関係ありませんよ。だから、どうでもいい話といえるくらいでしょ?

しかし、共産党員は、格が違うというか、世界が違うという発想自体を持っていないので、それを序列関係で意識して、だから、皇室に対して妙に対抗したりする。しかし、無理に意識などはせずに、

「あの人はあの人、ワタシはワタシ。」

でいいんじゃないの?

しかし、序列意識が強く、対抗心が強いので、どうしても、意識してしまうわけです。

ちなみに、これらの記述は、基本的に「日本」の問題です。ただ、日本以外でもほとんど同じでしょ?

尊敬できる共産党員って、世界的に聞かないでしょ?


被害者意識の体系化と、組織化という点では、それこそ中国の共産党もその典型といえます。

昔の中国では、「大人(たいじん)」と称される「器の大きい」大人物がいたものでした。しかし、今の中国で、そんな大人物って聞きませんよね?

伝記を書きたくなるような大人物って、まあ、「トウ小平」さんが最後じゃないの?
あれだけ人口がいるのに、人物としてはどんどん「小さく」なっちゃっていますよね?

共産党治下の今の中国は、地縁と血縁を重視し権威主義的と、まさにダメダメ家庭の人間の「ツボ」を押さえたつくりになっているわけ。あと・・・中国人や中国政府の行動にやたら対抗心があるのも、共産主義というよりも、ダメダメ家庭のツボそのものでしょ?

私は別に共産主義に反対しているわけではありません。それこそ共産党員の問題を、以前触れた皇室の問題と同じ観点で考えているだけです。右とか左とかの分類で、わかった気分になること自体が、いかにもダメダメでしょ?

ちなみに、「被害者意識を体系化して、それを組織化する」というのは、宗教団体にも見られたりしますよね?
やたら自分たちの被害を主張する団体ってあったりするでしょ?

そんな人たちは、往々にして、自分たちが周囲に撒き散らしている「被害」については無頓着なもの。

「自分たちが一番の被害者だ!」

と、思っていると、自分以外の被害なんて無視するわけです。これもダメダメ家庭のお約束ですが。

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/05-12/05-12-23.htm


4) 共産主義者は人間の価値を社会的序列でしか判断できない

支配・被支配の構図 (統治と支配の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが命令と服従だけなので、

「どっちが命令を下すのか?どっちが命令を聞くのか?」

その立場を確定する序列が重要になってしまうわけ。序列が違うと言っても、格として見た場合には、それほど違いがありません。

「どっちが2番で、どっちが3番なのか? だからどっちが上の序列なのか?」

と言っても、順番が違うというだけ。逆に言えば、そんな「格の違いと序列の違いが区別できない」発想が問題になってしまうこともあるもの。

序列意識が強いダメダメ人間は、格の違いを序列の違いとして認識してしまうので、たとえば親子の関係も序列の違いとして認識し、格の違いとしては認識していないわけ。本来なら親子の間にある違いは序列の違いではなく、格の違いでしょ?

格の違いがあれば、「上の立場」の人間は、下の立場の存在に対し、保護したりする責務があるでしょ?

しかし、ダメダメ家庭の人間は、上の立場であっても、下の立場の存在を保護しようなんて考えてはいない。ただ、序列に基づいた命令の流れがあるだけ。

ダメダメ家庭においては、上の立場のものの責務として、下の立場のものを「保護し」「思いやる」なんて発想は持っていないわけ。

序列の違いと、格の違いは、質的に大きく違うもの。

このような「格の違い」以外にも、単なる順番の差で示される序列の差ということをもっと超えて、「立場が大きく違う」状況が存在する場合があります。そうなると、いわば「支配・被支配の構図」が誕生するわけ。

ここで、「支配・被支配」と言っても、支配であって、統治ではありません。

イギリスの王室を、「君臨すれども、統治せず。」なんて言われたりしますが、

ダメダメ家庭というものは、「支配すれども、統治せず。」

となっているわけ。


「支配すれども、統治せず。」となると、それこそ北朝鮮の金王朝が、まさにその典型でしょ?
金王朝は君臨して、北朝鮮の人々を支配しているけど、統治はしていないでしょ?

逆に言えば、ダメダメな人は、統治の責務を認識しないからこそ、何も覚悟もなく「支配」を目指すことになるわけ。

そして、支配を目的とすることで、自己逃避してしまう。本来なら、何かを統治というものは、その統治した人々を幸福にしたり、あるいは、統治の領域を拡張したりと、その立場を獲得すること自体は、最終目標とは言えないもの。どのように統治するのかが最重要の問題ですよ。

あるいは、統治の問題だったら「どうやって、みんなの富を増やしていくのか?」なんて問題も発生するもの。
しかし、ダメダメな地域ではそんな発想がないので、富の再生産がないことになる。それこそ、支配者が被支配者に対してワイロを要求するようになるわけ。それは支配者の役得かもしれませんが、統治者の義務からは外れているでしょ?

ダメダメな地域では、支配者は、得た地位によってお金を得て、そのお金によって、土地とか、宝石とか、お妾さんに出費しても、本来の統治者の役割である富の再生産に回すようなことはしないでしょ?
だから被支配者は貧しくなるばかり。それを指摘されると、

「悪いのは全部○○のせいだ!」

と他者を犯人認定。 中国とかロシアとか、韓国・北朝鮮とか、イスラムって、そんな感じでしょ?


ダメダメな領域ほど、支配者はラクだし、儲かる。だからこそ、支配者になりたがる。そのようなプラグマティックな意味ばかりではなく、ダメダメ人間の抑圧的な傾向からも、支配欲が発生するもの。自己逃避のダメダメ人間は、支配そのものを目的化することで、あるいは支配する立場を得ることを目的とすることで、自分自身の問題から逃避してしまうわけ。

そんな人は、支配を目的化した用語を使ったりするもの。たとえば「制圧」とか「征服」とかの、一般の社会では使わないような言葉を持ち出してくる。それこそ、大阪の芸能人が、よく「東京制圧!」とか言って喜んでいますよね?

あるいは、韓国の芸能人が、「日本制圧!」とか・・・
征服とか制圧はいいとして、じゃあ、その芸人さんは、東京や日本でどんな活動をするの?
本来は、それが重要でしょ?

しかし、それを考えることから逃避してしまい、征服とか制圧そのものが目的化されてしまうわけ。

そもそもダメダメ人間は、「勝ち負け」だけで判断するもの。

「ヤツラに勝って、制圧したぞ!」

そう言いたいわけ。支配が目的化されているので、それを確認するような物言いが多くなる。それこそ、

「誰がオマエを養っていると思っているんだ?!」

なんて物言いが頻発することに。あるいは

「教えてやる」とか「恵んでやる」とか「出演してやる」

なんて恩着せがましい物言いが多くなる。あるいは、

自分の支配下にある女性に対して「ご主人さま!」と言わせるとか・・・

そんな事件が実際にありました。そんな行為は、その人の出身となったダメダメ家庭の反映なんですね。


そんな環境に育ってしまうと、まさに親譲りで、相手を「支配」することをもくろむパターンになったり、逆に、「支配」に対して過敏に反応するようになるわけ。ちょっとでも力のあるものに接すると、

「この○○は、ワタシを支配しようとしているのでは?!」

と、警戒することになってしまう。


それこそ、「日の丸」とか「君が代」などにも過剰反応することになる。そんな過剰反応も、支配されることに対する過敏な恐怖感を理解していると、簡単に理解できるでしょ?

ダメダメな環境においては、「支配すれども、統治せず。」の状況。だから支配されることは、すなわち、死につながってしまう。ダメダメな地域では、そんな「支配・被支配の構図」で物事を見る人が多いでしょ?

韓国人の訳知りコメントって、「日本が我々を支配しようとしている!」なんて警戒感を主張した文章って多いでしょ?

日本だって、本来なら、そんな「しょーもない」連中など支配しても、ジャマくさいだけ。本来は、支配する際には統治も発生するわけですから、そんな連中の統治は面倒だし、価値もありませんよ。しかし、ダメダメと言うものは、「支配・被支配の構図」で相手との関係を設定し、その支配においては、統治する義務が含まれていないことを理解すれば、そんな警戒感を踏まえた主張も理解できるようになるわけです。


本来なら、そんな「支配・被支配の構図」で見なくても、対等の関係で

「お互いが迷惑にならない範囲で自由に行動し」

「自分のやりたりことを相手に的確に伝えればいいだけ」、

別の言い方をすると、双方の合意を積み重ねながら進めていけばいいと思ってしまうのはマトモな発想ですが、会話不全で自己逃避のダメダメ人間にはできないこと。他者の支配を目的化することで自己逃避できるわけだから、そんな支配欲に浸ることはダメダメ人間には、心休まるものと言えるわけ。つまり、支配対象の他者を凝視することで、自己逃避するわけです。

ダメダメ人間にとっては、支配欲というのが、自己逃避の具現化であって、目的達成のための統治とは結びついていない。そんな人間に実際に支配されてしまったら、とんでもないことになってしまうもの。

支配しても、しょーもない連中であるがゆえに、支配されてしまうとトンデモナイ事態になるわけです。


そんな支配欲を持つ人は、そもそも個人としての尊厳がないので、自分で自分を律する発想がない。
支配だからコミュニケーションが問答無用の命令だけ。そして、その支配関係を利用して

「オレに従え!」

「ワタシを好きになれ!」

と要求するようになる。そんな要求を受けても、実際に好きになるわけもなく、そして、なりようもない。だからこそ、支配下にある存在は、自分の感情を抑圧せざるを得ない。あるいは面従腹背状態になり、臥薪嘗胆を決め込むようになる。

「支配・被支配の構図」で物事を見る人間は、対等の関係では対処できないわけだから、強引に相手を支配しようとするもの。だから、そんな発想が通用する世界に行きたがる。序列に関わる領域において、自分の序列を上げることだけに熱心の人がいるでしょ?

そして、序列を上げて、最終的に頂点にたったら、もうやることがなくなってしまう。

逆に言うと、「その後」をイメージしていないので、どんなズルイことをしても、頂点に立ちたいと思うようになるわけ。トップに立った後でやることについて、何も考えていない状態。それこそ北朝鮮の金王朝ではありませんが、政治の世界なども、やたら「支配・被支配の構図」を作ろうとする人がいるでしょ?

政治の世界だったら、ある種の支配欲が必要でしょう。しかし、抑圧的な人間は、それが最終目的になってしまって、その後の統治のイメージが出てこないわけ。先ごろ辞任された小沢さんなんて、その典型でしょ?

小沢さんは支配のための方法論とか、支配を維持するための方法論には熱心ですが、統治のイメージは何も持っていないでしょ?

支配欲が強い人は、相手を支配しようとするわけですが、逆のパターンで「支配されたい」と思っている人もいるもの。ある種のマゾヒズムを持っている人もいるわけです。
なにせ、「支配されてしまえば」、自分ではもう考えなくてもいいでしょ?

自己逃避の人間にしてみれば、自己責任から解放されて、実にラクチン。そうして、トラブルが起こったら

「アイツのせいで、こんな事態に・・・」

と支配者を恨んでいればいいだけ。まさに韓国なんてその典型でしょ?

韓国人がその典型と言えるわけですが、シェークスピアの最後の作品である「テンペスト」に出てくるキャリバンが典型的にそのパターン。いわば隷属への意思を持ち、強き者に積極的に隷属しようとし、そして不都合な事態になると、

「悪いのは全部あの○○のせいだ!」

と言い出し、そして

「どうやって、あの憎い○○に報復しようか?」

と考えることになる。そんな発想の流れは、まさにキャリバンがそうであるように、「育ちの悪い」人間には、頻繁に発現したりするものなんですよ。そんなマゾヒズム人間は、自分を縛ってくれる存在を待ち望んでいるわけ。だからこそ権威主義的な性格を持つもの。

「我々は権威ある○○に黙って従っていればいいんだ!」

と自分に納得させ、周囲の人間に命令する。あるいは、

「あ〜あ、誰か、スゴイ力のある人がワタシを支配してくれないかなぁ・・・」

と念願することになる。支配を志向する人は、結局は序列志向であって、会話の能力がない。あるいは、自分の考えを説明する意欲も能力もない。だから、人から質問されないような、「立派な大義」を掲げたりするものです。

「我々は、こんな立派な正義を掲げているんだから、オマエたちは文句を言わずに我々に従っていなさい!」

そんなスタイルに持ち込みたがる。立派な大義による、問答無用で説明不要の支配関係を形成するとなると、ボランティアの連中なんて、その典型でしょ?

「オマエに恵んでやる!」という立場を作って、弱い立場の人間を支配する。そして、「アナタは悪くないわ!」などと言いながら、その支配体制を維持しようとする。逆に言うと、反論してくるような人間、つまり当人自身で考えることができる人間は、そんな会話不全のボランティア人間の相手などはしない。というか、ボランティア人間自体が、そんな会話が必要な相手から逃げてしまう。


支配に当たっては、言葉は不要。しかし、統治に当たっては、言葉は重要になるでしょ?

だから、会話不全のダメダメ人間は、支配止まりであって、支配自体を目的化するわけ。

支配欲はまさにサディズムであって、被支配欲はマゾヒズム。


お互い同士でくっつけば、まさにベストカップルと言えるわけですが、世界はそんな2人のためだけにあるわけではない。周囲の人間にしてみれば、思考停止のサド・マゾのカップルが巻き起こすトラブルに対して迷惑するだけ。結局は、マトモな人はそんな人から離れて行ってしまうし、残された人間は同類のダメダメばかり。そんな人間が一緒になって家庭を持ったら、その家庭はどんな状態になるの?

支配関係はあっても、家族を保護し、維持し、育成していくという統治の発想がない家庭となってしまうでしょ?

前にも書いていますが、ダメダメ家庭においては、親は子供の「保護者」ではなく、「支配者」なんですね。つまり、ダメダメ家庭においては、子供は保護者不在の日々を送っているわけ。そんな日々だったら、常に切羽詰った心理状態になってしまいますよ。

支配関係というものは、いったん、その関係が崩れたら、修復ができるわけがない。むしろ、次に会うときは敵となっている。それが支配関係というもの。民主党の小沢さんが、いつも、そんな感じですし、皆様が実際にご存知のダメダメ家庭というものも、そうなっているでしょ?

逆に言うと、いったん、その関係が崩れたら修復が効かない関係だったら、その関係が、相互理解に基づいた信頼関係ではなく、「支配・被支配の関係」だったことがわかるわけ。

支配と統治は、似て非なるもの。外から見る行動とか状態においては、「重なる」ことが多いわけですが、ダメダメの領域では、しっかり区別する必要があるわけですし、その区別によって、見えてくるものも多いものなんですよ。

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/09-05/09-05-18.html

5) 共産主義者には格と序列の違いが理解できない


格に対するセンシビリティ (格と序列の違い)


ダメダメ家庭の人間は、序列意識が強い。コミュニケーションが「命令と服従」しかないので、

「どっちが命令を下す側なのか?」

そのようなことを常に意識するようになるわけ。


さて、ダメダメ家庭を考えるのに際し、「似て非なるもの」に注目する・・・
序列に対しては過敏にこだわるダメダメ人間ですが、「格」のようなものに対するセンシビリティは、意外にも、弱いものなんですね。

人間なり物事には「格の違い」というものがあるでしょ?
それが「命令と服従」につながるわけではないにせよ、そもそも別次元のようなものもあったりしますよね?

この「格の違い」というものを、別の言葉で言い換えると、「背負っているもの」「背負ってきたもの」の違いと言ってもいいでしょう。あるいは「土俵が違う」とでも言えるでしょう。

同じ格闘技と言っても、「お相撲」と「柔道」では、そもそも別物ですよ。お相撲さんと柔道家とで「どっちが上か?強いのか?」なんて、議論をすること自体がナンセンス。

しかし、無理に序列に巻き込むダメダメ人間は、何でもかんでも序列の中に位置づけてしまう。そもそも別物だったり、格の違うものも、強引に自分の脳内序列に当てはめようとするわけです。そうして、やたら、

「どっちが上なのか?」

なんて言い出したりする。逆に言うと、そもそも格の違うものも、序列としてしか理解できないので、「格の違い」や「土俵の違い」に対するセンシビリティがないわけ。

さて、このメールマガジンでは、以前に「背景を読む力」というお題で文章を配信しております。自分で物事を考えないダメダメ人間は、他者から見解が示されても、その見解がどんな背景から出てきたのか?そんなバックボーンまで見切る力がないし、そもそもそこまで考える発想がない・・・そんな文章でした。

バックボーンは、別の言い方をすると、文字通りに「背負っているもの」「背負ってきたもの」とも言えるでしょ?
過去において、体験してきたものも違うし、背負っている義務も違う。もちろん、背負っている能力も違う。
あるいは、将来において、解決したいもの、やり遂げたいものも、違っている。

そんなに違うんだから、強引に序列に当てはめるのは無理がある。そして、やり取りをする際には、そのお互いの「背景」なり「背負っているもの」なり「やり遂げたいもの」に対する配慮がないと、議論になりませんよ。

ただ、当事者意識がないと、そもそも「自分がやり遂げたいもの」自体が存在しない。

あるいは、常に被害者意識なので、自分が「背負っている」ものも存在しないわけ。ダメダメ人間に存在するのは「背負わされているもの」くらい。自分自身が背負っているものについて、無頓着なんだから、他者が背負っているものについても無頓着となってしまう。

だから、他者からの見解に接しても、どんな背景を元に、そしてどんな目的意識を元に、そんな考えになったのかについて何も考えない。背景に対するセンシビリティがないので、「格の違い」に対するセンシビリティもなくなってしまう。

「背負っているもの」の違いの代表例は、親と子の違いでしょ?

親は、子供より、多くの義務を背負っている。だから格が違う。そんなことは当たり前のこと。

しかし、ダメダメ家庭においては、そうはなっていないわけ。

ダメダメ家庭においては、親と子の「序列」は存在しても、「格の違い」は存在しないわけです。

だって、ダメダメ家庭においては、親も子供も、背負っているものは同じなんですからね。

「いくらダメダメ家庭でも、親は子供の養育義務を背負っているだろう?」そのように思われる方も多いでしょうが、ダメダメ家庭においては、親は子供の養育義務を「背負わされている」だけ。つまり被害と捉えている。当事者意識を持って「背負っている」のではないわけです。だから、その家庭にトラブルが発生すると、ダメダメ家庭の親と子は、同じものを背負っている同格のもの同士として、犯人探しが行われ、結局は子供が犯人と認定されてしまう。そして、ダメダメ家庭の子供は序列が低いので、親の見解には逆らえない。

本来なら、親と子では格が違うんだから、同じ土俵で議論すること自体が間違いでしょ?

しかし、格の違いに対する配慮がないんだから、何事も同格になってしまうわけ。
序列はあっても、格の違いはない。

それこそ、経済的なトラブルなどにおいても、親と子が同格で議論することになってしまう。

本来なら、親と子は経済的に格が違うものでしょ?
しかし、ダメダメ家庭においては、その家庭の経済的な苦境の解決に当たって、子供が率先してことに当たることになってしまう。だから子供が経済的な面まで「気を使う」ことになるわけ。

ダメダメな人間は、自分が被害者だと思っているので、自分自身を弱い、哀れんでもらう立場だと思っている。保護する側ではなくて、保護される側だと思っている。だからある意味において、子供と同格と思っている。だから、子供と同じ次元でケンカする。しかし、本来なら、同じ次元で親子でケンカしたら、どっちが勝つかわかりきったこと。

しかし、親子の間で、同じ次元でのケンカなんて、まさに虐待家庭では、よく起こっているでしょ?

あるいは、夫婦間においても、夫と妻では、肉体的に差がありますよ。格が違うといってもいいでしょ?
だから身体でケンカしたらどっちが強いのか?そんなことは判りきったこと。

しかし、格へのセンシビリティがないので、親子間なり夫婦間で、同格同士としてケンカして、序列を決定することになる。

このような「序列はあっても、格の違いが存在しない」状態は、ちょっとしたやり取りでも発生したりするものです。

「この人・・・ワタシに色々と言ってくるけど・・・
そもそも格が違うというか・・・土俵が違うんだから・・・
この人・・・いったい何を考えて、このワタシにこんなことを言っているの?」

そんな怪訝な思いになってしまうわけ。

「どっちが命令する側なのか?」

という序列には対応できても、

「そもそも背負っているものが違う。」
「そもそも土俵が違う。」
「目指しているものが違う。」

という格の違いに対するセンシビリティがないので、やりとりがトンチンカンになってしまう。それこそお相撲の土俵で、お相撲さんと柔道家が向き合っているようなもの。お互い、「どうすればいいのさ?」となるだけ。

格の違いは、命令とか服従には関係がない。
だからこそ、ダメダメ人間には認識されにくく、無視されやすい。

それこそ文章においても、書いている人の「背負っているもの」、「背負ってきたもの」が反映されるのは当然のこと。この私のもとにお便りのメールの文章もあったりしますが、読めば、その人の背景となっているものなんて、スグにわかりますよ。一つ一つの言葉の重みが違うものなんですね。
使われた言葉が100の言葉から選択したのか?5の言葉から選択したのか?
ちょっと話をしたり、文章を読んだりすれば、その背景がわかるものなんですよ。

よく「じっくり寝かせた文章」なんて言われたりしますが、十分に推敲をした文章と、書き流した文章は、読めばすぐわかるものですよ。文章の上手下手はあっても、背景となっている精神は、表象としての文章から見えてくるもの。ヘンな話ですが、「一気に読める文章」と、「一気に書いた文章」は、別物ですよ。

このような表現の問題ばかりではなく、ちょっとしたやり取りにおいても、その人の背景が見えてくることが多い。

当事者意識がない人間は、自分の現状や問題を見ようとしないので、自分に関係のないマターばかりに首を突っ込んだりする。他者に興味を持つのはいいとして、当人自身に解決したいことはないの?そのような当事者意識のない人からの質問を受けたりすると、

「それって、アンタが本気で解決したり、知りたいと思っていることなの?」

なんて怪訝に思ってしまうもの。そんな人は、質問の仕方なり言葉も、「ちょっとハズレて」いることが多い。だって、当人がどうしても知りたいと思っていることではないので、質問にもパワーがないものなんですね。いわば、質問のための質問に堕している。

格へのセンシビリティがない人は、そんなトンチンカンな物言いをすることが多いわけ。結局は自分自身の現状なり背景が見えていないわけ。自分が背負っているものを自覚していれば、それに伴う一貫した問題意識も発生するものですよ。逆に言うと、そんな一貫した問題意識がないということは、自らが背負っているものを意識して生きていないということなんですね。

あるいは、ちょっとした行動にも、それが反映されることになります。いわゆる貴族とか平民とかの身分においても、単に出生云々の問題よりも、背負ってきたものが反映されることになる。

「秀でたるもの義務多し」の積み重ねが、その身分の高貴さを生む訳でしょ?
単にDNAの問題ではないわけ。
背負っているものを自覚している日々だから、そんな人の行動は重みがあるわけでしょ?


しかし、バックボーンを自覚し見出す能力が、ダメダメ人間にはない。

稚拙な文章を書くのはともかく、そんな稚拙な文章の人間に限って、説教くさいもの。序列意識を元に、上からの物言いをしたがるわけ。

他者がどんな背景を背負って、その文章にしているのかわからないし、わかろうとしない。

たとえ、その分野で格が違っていても、「自分はこのようなものを背負っていて、このような目標があって、現状はこうなっていて、今はこの問題を解決したい。ワタシとしてはこのように考えている。だから、この点について、ちょっとアナタの見解を聞きたい。」とでも言えばいいだけ。

そのような問い掛けだったら、その分野での格の違いはあっても、自立した一個人同士のやり取りなんだから、スムーズに進むことになるでしょ?

まずは当事者意識が重要なんですね。当事者意識がある人なら、その分野はともかく、別の分野では「格」が高いことが推測されるわけ。

特定分野における格の違いの問題ではなく、格の違いが、そもそもわからないダメダメ人間は、持ち前の序列意識から、上からの説教くさい物言いだったり、下から媚を売るような物言いをしてしまう・・・
だからこそ、ますます人間の格が低くなる。

「序列意識」と「格の違いに対するセンシビリティ」の違いは、当人が「背負っている背景」に対する感応度の違いであって、それは自分自身が「背負っているもの」に対する自覚がないと、生まれて来ないもの。

その大元として、親と子の間で「格の違い」が存在しないダメダメ家庭の発想があるわけです。

そんな「格の違い」に対するセンシビリティがないと、それこそ学校における教員と生徒の間も、序列で捉えてしまうことになる。教員と生徒は、格が違うものであって、序列の問題ではないでしょ?

しかし、教員と生徒の間の違いも、ダメな教員は、序列で判断するし、ダメな生徒やその親も、序列で判断する。そんな学校は、どうなってしまうのか?まあ、お約束でしょ?

あるいは、以前に起こった自衛隊の船と漁船の衝突事故ですが、最新鋭の軍艦と、オンボロの漁船で、同格で議論してはダメでしょ?

それって、親子間で、同格でケンカするようなもの。

格が違いに対するセンスというものは、自分が背負っているものを自覚しているから、持っているわけ。当事者意識がないと、持てないセンスなんですよ。逆に言うと、そのセンスがないことから、自らが背負っているものを全く意識していない日々が見えてくるわけです。

「秀でたるもの、義務多し。」

という言葉でいうと、

「義務を自覚してない人」は、「秀でたる存在」ではないわけでしょ?

そんな人は、たとえ、その立場がそれなりではあっても、ダメダメな人なんですね。

格が上の人は、一般人とは、求められるものが違っていて当然。逆に言うと、その覚悟がない人は、そんな立場に立ってはダメなんですね。

本来なら、家庭内で、格上の存在であるはずの親というものも、ダメダメ家庭においては、子供と同格。逆に言うと、格上の責務について何も考えないから、簡単に親になってしまう。格上の存在として、子供を保護ずる発想もない。自分ひとりで何事も解決しようと、子供が無理をして、結果的に子供が問題行動を起こして、

「どうしてこんなことに?!」

と嘆く。ちょっと説明されれば誰でもわかることですが、何も考えないからこそダメダメ家庭ができてしまう。家庭内においては、親というものは、格上の責務があるものなんですよ。その責務を自覚してない親って、残念ながら多いでしょ?

そんな人は、別の面でも、今回の文章にある「格に対するセンシビリティ」がないものなんですね。

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/08-10/08-10-31.html

 早     /::::l:::l::、:::::、:::::ヽ::、::::::::::::\:::\::::::::ヽヽ::::::ヽ   駄
 .く      /:::!::::i:::!:::ヽ:::ヽ::::::ヽ::ヽ、::::::::::\:::ヽ:::::::ヽヽ::::::',   目 
 な.     /:l::::!::::ヽ!::ヽ:::::::ヽ:::::::\:::ヽ、::::::::ヽ:::ヽ::::::::!::i:::::::!  だ 
 ん   ハ:::l:::::、::::ヽ::::\:::::\:::::::\:::`ヽ、:::ヽ::ヽ:::::!:::!:::::l
 と   /:::::::l::::::!ヽ:ヽ::::、:::::ヽ:::、:\::::: \::::::\::::!::::ヽ:!:::i:::l:l  こ
 か  !:/!:::::!::::::!::ヽ:ヽ{:::\:::ヽ::::\:::\::ヽ:::::::ヽ!:::::::}!::::l::li|   い
 し  j/:::l:::::!:、:::!::ト、:、:ヽ:::::`ヽ{、::::::\::::\{、::::::::::::::::i::!::l:l !   つ
 な    l:i:l::::i::i:、:l::lテ=-、:ヽ、_、::\_,≧ェュ、_、\:::::::::i::li::!::リ   :
 い   !ハト:{:!:i:トN{、ヒ_ラヘ、{ >、{ 'イ ヒ_ラ 》\::l::!:ト!!:l::l!     :
 と     ヽ i、ヽ:ト{、ヾ ̄"´ l!\   `" ̄"´  |::!:l::! j:ll:!
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             リl::l゛、  `二¨´    /  |/:/
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        / ^ヽ  ヾ!  ヽ _,,、'´    /  j/

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8. 周恩来が夢見た共産社会とは…


周 恩来(ヂョウ・オンライ、1898年3月5日 - 1976年1月8日)

周恩来は江蘇省淮安の官僚地主の家に生まれた。

1917年に、日本に留学
1920年パリに留学

1924年、周恩来は帰国し、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石であった。翌1925年、五・四学生運動時代の恋人ケ穎超と結婚した。周恩来・ケ穎超夫妻の人気は中国国内でも高く「おしどり夫婦」として有名であった。夫妻の出会いの場所である天津南開大学の近くには周恩来・ケ穎超記念館が建設された。

子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。


中華人民共和国建国以来、毛沢東との人間関係においては、古来の中華帝国の形式に則るような「皇帝に従属する宰相」というスタンスを生涯貫き通した。 彼の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない謙虚な態度と中国革命への献身は、中華人民共和国の民衆から深い敬愛を集めていた。

周恩来の名が世界に知られるようになったのは、1936年の西安事件での活躍であった。これは当時「安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石を、東北軍の張学良と西北軍の楊虎城が西安で拘束、一致抗日を要求した事件である。蒋介石がこの要求に応じないことに困惑した張学良が、共産党に周恩来の派遣を求めた。周恩来は両者の間を調停し、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。妥協しない決意を固めていた蒋介石に開口一番「お久しぶりです。校長」と呼び掛けた周恩来の物腰と、その熱意の前に暗黙の了解をしたと言われる。

文化大革命(プロレタリア文化大革命)が勃発しても周恩来は毛沢東に従い続け、走資派(実権派)のレッテルを張られた劉少奇らの粛清に協力した。その一方で周恩来は文革の「火消し屋」として紅衛兵の横暴を抑えようとした。紅衛兵が北京の道路を「右派に反対する」と言う理由で左側通行に変えさせた為、交通が大混乱に陥った時も、周恩来が介入して止めさせた。また故宮を紅衛兵が破壊しようとした際にも、軍隊を派遣し文化遺産を保護した。更に出来うる限り走資派のレッテルを張られた多くの党幹部を保護しようと努めた。例えば1968年8月26日、外相の陳毅が紅衛兵に襲われそうになったとき、周は

「君たちが陳毅を吊るし上げるのなら私は前に立ちはだかる。それでもまだ続けたいのなら私の身体を踏みつけてからにせよ!」

と叫び、身を挺して守った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5

中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。

彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。

ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

林彪事件ではっきりわかることが一つある。それは、毛沢東が最後に頼るのはやはり周恩来だということだ。このことを知っていて、周恩来はつねに気前よく、自分の上位に人を置く。

 彼は毛沢東という皇帝に宰相として使えた。毛沢東あっての周恩来であり、周恩来あっての毛沢東である。しかし中国共産党の歴史を見てわかるのは、周恩来は党内序列がNo2であったことはほとんどなく、彼と毛沢東の間には、必ず人がいるのである。そして、その人物は結局毛沢東によって粛正されるということだ。

 このことを周恩来は知っていたのではないかと思う。彼はNo1はおろか、No2でさえ目差さなかった。人はこれを周恩来の謙虚さや野心のなさのせいにするが、私の見方はすこし違っている。毛沢東王朝にあって、一番危険なのはNo2であり、毛沢東の後継者と目されることだとわかっていたためだろう。

 林彪が粛正された後、いやがうえにも、彼はNo2の位置に立たされた。もはや他に、適当な人材がいなかったからだ。周恩来の前には、秦の始皇帝や随の煬帝を中国の偉大な皇帝だったと讃えて憚らない無慈悲な皇帝毛沢東が聳え、後ろには、さらに恐ろしい陰謀家の江青がいた。

 周恩来は苦境に陥り、健康を急速に悪化させる。 周恩来は1976年1月8日になくなった。周恩来は結腸、膀胱、肺を癌に冒されていたという。  しかし、癌に冒されていたのは、中国という国家そのものがそうだった。江青グループも元凶のひとつだが、最大の癌は、いうまでもなく毛沢東その人だった。そして癌をのさばらせた元凶は周恩来その人だった。彼の死後、意外な新人が首相の地位につく。華国峰である。1976年9月9日、毛沢東が死ぬと、彼は早速先手を打って江青グループを逮捕する。こうしてようやく、中国は再生へとその第一歩を踏み出すのである。

http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm

1976年、中華人民共和国建国以来国務院総理(首相)を務めてきた周恩来(1898〜1976)が毛沢東より一足早い1月に世を去っている。品格と知性と忍耐強さを兼ね備えた彼の人物に関しては欧米からの評価も極めて高い。廃帝と成った溥儀を気遣ったのも周恩来だった。

勿論、中国が文革の嵐に巻き込まれた時、彼が心を痛めながらも毛沢東に従った事は否定出来ない。しかし、彼が毛沢東とは常に一定の距離を置いていた事も確かで、民衆の人気は高く、その人徳故か、あまり彼の事を悪く言う人はいない。そして、死ぬ迄首相の座を保持した彼は「不倒翁」とも称されている。

http://homepage3.nifty.com/mahdes/asihe3c.htm


溥儀は1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。釈放後の1960年1月26日に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた周恩来首相と中南海で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、一般市民の生活に慣れることを目的に、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなった。その後は政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う。 1964年には、多民族国家となった中華人民共和国内において、満洲族と漢族の民族間の調和を目指す周恩来の計らいで、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。

毛沢東や多くの共産党幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であったものの、その後不幸な運命を辿った溥儀に対して常に同情的だったと言われている。

溥儀は中国を文化大革命の嵐が覆う中で癌に罹った。清朝皇帝という「反革命的」な出自であった溥儀の治療を行って紅衛兵たちに攻撃されることを恐れた多くの病院から入院を拒否されたが、周恩来の指示で北京市内の病院に入院することになった。
果たして病院に紅衛兵たちが現れて非難したため医師たちが溥儀の治療行為を行わず放置されたが、事態を聞いて怒った周恩来は院長に直接電話して溥儀の治療を行わせた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%84%80


溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮 中日友好協会副会長  王效賢


日本語の名通訳として知られる王效賢さんは、毛沢東主席や周恩来総理のそばで、長く仕事をしてきた。その中で忘れられない思い出の1つは、日本がつくった「満州国」の傀儡皇帝だった溥儀氏とその弟、溥傑氏の2つの家族に対し、周総理が心のこもった配慮をし、溥傑氏の日本人の妻子を遇したことであるという。


一市民となったラストエンペラー

1959年9月17日、中国の劉少奇国家主席は、毛主席の提案に基づいて、罪を悔い改めた戦争犯罪者に対する特赦を発布した。撫順の戦犯管理所で服役していた溥儀氏が特赦通知書を受け取ったのはこの年の12月4日である。

溥儀氏は、自分が戦犯の中で、自分がもっとも早く釈放されるとは、夢にも思っていなかった。12月9日、彼は34年ぶりに北京に帰り、家族と団欒した。清朝の末代皇帝(ラストエンペラー)は、北京市の普通の市民になったのである。


1961年6月10日、周恩来総理(前列右から3人目)は西花庁で、溥儀氏(左から2人目)、溥傑氏(右端)、嵯峨浩さん(右から2人目)らと会見し、宴会を開いた。左端は筆者、左から3人目は老舎

それからわずか1カ月半後の1960年1月26日、周総理は、中南海の西花庁で、溥儀氏とその親戚と会見し、宴会を開いた。そこで周総理は彼らと直接、今後の溥儀氏の生活や仕事、学習、思想改造問題について相談したのだった。

周総理は溥儀氏にこう言った。「身体検査をしてから3年計画を立て、自然科学を少し学び、技術を少し身につける。思想を改造するには、第1に客観的な環境が必要であり、第2に主観的努力が必要だ。現在、各民族は平等になった。各民族はともに発展している。満州族と漢族はもっとよく団結しなければならない。あなたはつとめて学習し、よい成績を出さなければならない。それはあなた個人にとっても、人民にとっても、満州族にとっても良いことだ」

これに対し溥儀氏はすぐに「私は毛主席と周総理の期待に決して背きません」と答えた。間もなく周総理は、郭沫若・全人代副委員長と相談して、溥儀氏が中国科学院に属する植物園で労働に参加するよう手配した。


中国行きを望んだ浩夫人


2005年7月、中日友好協会の招きで訪中したコ生さん(中央)と夫君の福永健次氏(右端)

溥儀氏の弟の溥傑氏も1960年に特赦され、北京で兄や妹と再会した。しかし溥儀氏とは違い、溥傑氏には、日本にいる妻子が中国に帰ってこられるかどうかという問題があった。

この問題をめぐって溥一族には意見の違いがあった。特に溥儀氏は、溥傑氏の婚姻は日本帝国主義が画策したものであり、溥傑氏は日本の妻子と一線を画し、古い関係を断ち切らなければならないと考えた。

周総理は、また西花庁で、溥儀、溥傑の両氏とその家族と会見し、宴会を催した。周総理は溥傑氏の心配をよく理解し、こう言ったのである。

「あなたの日本国籍の夫人、嵯峨浩さんが中国に帰って来るのを歓迎します。あなたは手紙を書いて、新中国の状況を彼女に知らせなさい。中国政府は、彼女が帰ってくるのを歓迎するし、中国での生活に慣れなければまた日本に帰ってもよい。

中国には皇族はなくなったし、社会主義の国となって、人々はみな同じ生活を送るようになり、人より身分が高いということはなくなった。彼女も1人の平民の立場に立って、人と人が平等な生活を送らせなさい」


1961年3月、許広平さん(魯迅の夫人)が率いる中国婦女代表団が日本を訪問した。私は団長の通訳として加わった。出発前、周総理は溥傑氏の書いた手紙を代表団の丁雪松秘書長(後に新中国で初の女性大使となる)に渡し、なるべく早く浩夫人に手渡すよう、廖承志・中日友好協会会長に言いつけた。

代表団が日本に滞在中、浩夫人は中国式の「旗袍」を着て、私たちの泊まっているホテルにやって来て、団長と秘書長に面会した。浩夫人は非常にかしこまって、完璧な中国語でこう言った。

「周総理と中国政府の寛大さとご配慮に感謝いたします。私は中国人です。必ず中国に帰らなければなりません。鶏に嫁せば鶏に随い、狗に嫁せば狗に随うといいます」

私は呆然とし、浩夫人の眼に浮かんだ涙を見ていた。その時の情景を、40年経った今も、私ははっきり覚えている。

この年の6月10日、周総理が嵯峨浩さんと彼女の母の嵯峨尚子さん、妹の町田幹子さん、娘のコ生さんらと会見するので、通訳として参加するように、という通知が来た。こんなに早く、浩夫人が中国に戻ってくるとは、と私は驚いた。

このときの宴会には、溥儀、溥傑の兄弟の一族ばかりでなく、満州族の傑出した人物である作家の老舎氏と夫人の胡巨ツさん、京劇俳優の程硯秋の夫人、日本の貴族出身で、周総理が「民間大使」と称えている西園寺公一氏らが招かれていた。

周総理はこう述べた。

「我々共産党の目的は、素晴らしい世界をつくりあげて、みなが生きてゆくことができ、良い暮らしができるようにすることにあります。今日この席には、かつての皇帝や皇族もいるが、今はみないっしょに生活しています」


そして周総理は、とくに溥儀、溥傑兄弟の3番目の妹が東城区の政協委員を、5番目の妹が会計を、6番目の妹が芸術家を、7番目の妹が小学校の教務主任で模範工作者であると紹介した。そして「かつての皇族、官僚、貴族はみな変わり、みんな平等である」とし、

「皆さん、考えてみてください。封建制度を覆し、共和国を打ち建てた後も、以前の皇帝がなお生き残り、平等な地位を与えられる国、そんな国が世界のどこにあるでしょうか。これは我々の国策なのです。もちろん本人が努力しなければならず、皆が協力しあわなければなりません」と述べた。

さらに周総理は浩夫人に対し「どうぞご安心なさって下さい。我々はあなたを差別扱いするようなことはいたしません。あなたの亡くなられた娘の慧生さんから手紙をいただいたことがあります。私は彼女が父親と手紙のやりとりをすることに同意しました。彼女は大変勇気のある若者です。彼女の写真があれば、記念に1枚いただけませんか」と言った。


来るのも自由、帰るのも自由


2005年7月、中日友好協会の招きで訪中したコ生さん(中央)と夫君の福永健次氏(立っている人物)。左端は筆者

会見の時間は、非常に長く、家庭の問題から民族問題、更に中日関係に話が及び、内容もきわめて豊富だった。

日本の問題に話が及ぶと、周総理はこう述べた。


「日本軍国主義は1894年から1945年までの50年間、中国人民に損害を与えました。解放後10年このかた、万を数える日本の友人が毛主席、劉主席と私にも会って、謝罪の意を表明しました。我々に言わせれば、中日両国は2000年近い往来の歴史があり、経済、文化の交流を発展させてきました。この2000年に比べれば、50年間という時間は、ほんの短いもので、しかもすでに過ぎ去ったことです。

我々は前向きに、中日両国の友好関係を促進し、国交を回復し、経済と文化の交流を発展させるために努力するべきです。毛主席は、日本軍国主義の侵略が中国人民を団結させたと言ったことさえあります。我々は日本人民に対し、いささかも恨んでおりません。

日本人民もまた日本軍国主義の被害者なのです。皇族、華族、ブルジョアジーでも勤労人民でも、ただ中国と友好を願うのであれば、我々は彼らとみな友好的に付き合います。日本の侵略政府に参加したメンバーでも、中日友好に賛成するなら、我々はやはり歓迎します」

こう語った周総理は、浩夫人に対し

「あなたは日本人ですが、中国人と結婚したので今は中国人になりました。我々はあなたを中国人として、中国の社会活動に参加するのを歓迎します。あなたは中日友好の事業に力を注ぎたいと思い、実際に中国に帰ってきたのですから、これこそ中日友好を象徴しています。中国での暮らしに合わないと感じたときはいつでも、日本に帰って結構です。日本に帰って比較してみて、やはり中国が良いと感じたら、また帰ってくることもできます。来るのも自由なら帰るのも自由。私が保証します。私がサインします。当然のことながら、私のサインが必要になることはないと信じますが」と話した。


周総理の話の中で、もっとも忘れられないのは、娘のコ生さんについて周総理が語ったことである。周総理はこう言った。

「彼女が日本に帰りたいなら帰らせるのがよいでしょう。無理強いして残すのは良くありません。若い人はよく変わります。後になって中国に来たいと思ったら、いつでも申請すればよいのです。日本人と結婚しても、どこが悪いのでしょうか」

コ生さんが帰るか留まるかという問題は、溥傑氏と浩夫人の悩みの種だった。コ生さんが中国に来てから、夫妻は朝な夕なに、唯一の娘が身近に留まってくれるよう説得した。しかしコ生さんには自分の考えがあり、両親のもとに留まることを承知しなかった。

このため父と娘は喧嘩になり、母と娘はともに泣いた。当時、浩夫人一家のお供をして中国国内を旅行した周斉さん(中国国際貿易促進委員会連絡部長)が会見前に周総理にこの模様を報告していたので、周総理は、溥傑一家のためにこの難題を解決したのだった。

コ生さんは日本に帰った後、日本人と結婚した。周総理の言った通り、しょっちゅう日本と中国を往来し、父母のそばで暫く住み、一家団欒するのが常だった。現在、コ生さんには幸せな家庭があり、4人の子どもの母であるばかりか、孫まである。

最近、コ生さんは、中日友好協会の招きで中国にやって来た。私たちは11年ぶりに再会し、ともにあの心のこもった周総理の話しを思い出し、懐かしんだのだった。(参考資料:『周恩来年譜』『周恩来選集』)(2005年10月号より)

http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm

母の死刑を無罪に変えたのは周恩来


崔鳳義さん(松田ちゑさんの息子)が自伝で告白


■ 2人の妻と異母兄弟

 1945年の冬から翌年春先にかけて、松田ちゑさんは方正で病が重く、生死の境をさ迷っていた。このままでは死を待つばかり、という状態で彼女は崔さんの父親に引き取られた。実は崔さんの父親には奥さんと男の子がいたのだが、男の子の母親はこの時、夫婦喧嘩の末、男の子を置いて実家に帰ったまま1年余りも戻っていない。彼女は夫がお金を持って謝罪に来るのを待っていたが、頑固でメンツにこだわる崔さんの父親は、意地でも頭を下げて彼女を迎えに行こうとは間違っても思わなかったし、彼女が戻って来るとは夢にも思わなかったのだ。そして松田さんと再婚したのである。ところがその後、この前妻がひょっこり戻ってきたのである。普通ならここでひと波乱起きるところだが、ここでは何事も起きなかった。同じ屋根の下で、一人の夫と二人の妻とそれぞれの男の子が同居するという、奇妙だが破綻のない家庭が維持されたのである。この信じられない家中のバランスが成り立った理由を筆者はこう書いている。

「私は自分の母親をママと呼び、彼女を叔母さんと呼んだ。叔母さんの性格は私の母親とはまったく逆で、口八丁手八丁、社交的で世話好き。そして私の母親は内向的な性格、中国語もうまく言えないし、言葉で自分の気持ちや考えを表現するのが苦手で、おとなしく、他人に逆らわない性格である」


■ 医師を目指した秀才

こうして貧しく、複雑な家庭環境に育ちながら、崔さんは聡明で学校では抜群の成績だった。中学、高校と方正県で最も優秀な学校に通い、成績は常にトップの3人の中にいた。大学進学が身近に迫ってきた時、彼の第1志望は北京医科大学へ進んで医師になることだった。文化大革命に遭遇しなければ彼は間違いなく優秀な医師になっていただろう。

 1966年、文化大革命が始まったとき、彼もまた紅衛兵として方正の仲間とハルピンへ出、黒竜江省の各地から来た若者と北京へ向かった。天安門広場で毛沢東に忠誠を誓った。

 だが方正に帰ったあと、彼をめぐる環境は思っても見ない展開をみせる。
母親・松田ちゑさんが日本のスパイ容疑で3年半も留置されたのだ。
スパイの息子は昨日まで彼を敬愛していた友人からも白い目で見られるようになる。一方、1968年、「知識青年は農村へ行け!中下層農民から再教育をうけよ」という毛沢東の指示で彼も方正県のはずれにある沙河子国営農場で豚の飼育やトラクター運転の明け暮れが続いた。

 それから半年後、崔さんにとっては永遠に忘れることができない日が訪れる。

「1971年11月25日、この特別な日を私は永久に忘れない。ここの日、母が無罪釈放されたのだ。この日、私の母は苦界から完全に脱し、3年6ヶ月にわたった獄中の苦しみから脱け出し、あの暗くじめじめした、地獄のような牢獄から出てきたのだ」
崔さんは、この時は知らなかった母親釈放の真相を、これから35年たって、すでに彼も日本に移り住んだ後、方正を再訪した時に、かつて方正県の公安局で仕事をしていたある退職者から驚くべき事実を知らされる。

「私の母が出獄でき、無実の罪を晴らすことができたことについて、私が誰よりも感謝しているのは、中国国務院総理周恩来である。周総理の指示によって母の命が救われたのだ。

母が無実で釈放されてから35年たって私が方正を再訪した時、私はかつて方正県公安局に勤め、現在すでに退職した知人からこのことを知らされた。当時、母は捕らえられ入獄したあと、1971年10月、解放軍中国人民方正県保衛部審判係(文化大革命の期間、公安局、検察庁、裁判所はすべてすでに軍の管轄下にあった)によって決定され、省の公安庁に上げられた書類には、私の母は死刑の判決だった。

この判決が省の公安庁から国家公安部に上げられ、この判決が国際刑事判決に関わるものであり、同時に日本との関係も考慮されたと考えられる。そのためこの材料はさらに周恩来総理のもとへ回された。

周恩来総理は1963年、方正県で「方正地区日本人公墓」建設を認可した材料の中で、私の母が日本人公墓建設の主唱者であり推進者であることを知っていた。

 「方正地区日本人公墓」は建設後、日本国内及び全世界で大きな反響を呼んだ。これは侵略された国が侵略者の死んだ遺族のために建てた公墓である。これは中国政府と中国人民の人道主義の精神を示すものである。中国政府のこの措置は日本人民及び全世界の人民の賞讃を受けた。しかし今回、中国人民解放軍方正県保衛部審判係りが私の母を死刑にするという材料の中で最も主要な罪が「方正地区日本人公墓」の建設の上で主導的な役割を果たしたということである。そしてさらに私の母に被せられた罪名は何の根拠もないものだった。このため周総理は材料を見たあとすぐ「無罪、即時釈放」の指示を出したのである。

 中国人民解放軍方正県保衛部審判組は、1971年11月15日、この密封された書類を受け取ったとき、誰もが省公安庁に上げた母に対する死刑の書類が承認されてきたものとばかり思った。ところが彼らが開封し、見たのは「無罪、即時釈放」の文字だったのである。

その場に居合わせた審判部のものは全員、驚き、わが目を信じられずに、みんな省公安庁が間違ったに相違ないと思った。書類はすぐ公安局長に渡され、公安局長は直ちに省の公安庁に電話をかけて尋ねた。

答えは、これは周恩来総理の指示である。書類のように実施するように、ということだった。公安局の役人たちは狼狽し、上部からの文書にしたがって進めるほかなかった。こうして1971年11月25日、私の母は無罪釈放となったのだった。

http://www.houmasa.com/newsletter4-4.html


もと陸軍中将、第59師団(衣部隊)の師団長だった藤田茂氏は、八路軍と戦った自分自身の体験から次のように述べています(季刊『中帰連』第16号)

俺は衣部隊の師団長をやっていたが、山東省の解放地区では八路軍にほとほと手を焼いた。当時の判断を言うと、俺はあと一年と山東地区では日本軍はもつまいと思っていた。衣部隊全滅を覚悟していた。

討伐に行くと八路軍は逃げてしまって、こちらの損害ばかり積み童なってゆく、とうとう旅団長一人は狙撃されて戦死だ。

(中略)実際問題として、ソ連相手の北進を命じられた時、私はほっとした。ゲリラ戦で次第に戦力を消耗させられるよりも、満蒙で大いに戦った方がすっきりするという感じだった


藤田氏は、八路軍と日本軍の違いについて、こう述べています:


日本軍に昔から苦しめられてきた住民にとっては八路軍はまるで後光がさしている軍隊に見えるわけだ。

家を出てゆく時には、瓶に水を一杯くんで、全部掃除をし、塵ひとつ残さんようにしてゆく、昨晩の泊まり賃も置いてゆく、食物代もいくらいくらと精算してゆく、子供はいたわる、老人は大切にする。

こんな軍隊を私は見たことがないわけだ。日本軍が行けば、銃剣で脅かして、米を出せ、麦を出せ、薪を出せ、出さぬと家に火をつける、女は強姦する、手がつけられない。当然、八路軍さまさまになってしまう。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/nicchuu-hachiro.htm


山極さんは、日本軍と八路軍の捕虜政策の違いについて触れ、日本軍は捕虜を否定し、捕虜になってはならない、捕虜になることは恥だとされ、日本軍捕虜は存在しないという前提になっていたのに対し、八路軍は優待政策をとり、日本兵捕虜を「尊重・優遇し、彼らを教育し、彼らを通じて他のものに影響を与え、反侵略統一戦線の樹立に努力させる」方針をとったこと、その結果、

1937年から43年までに、捕虜総数2407名のうち2085名が釈放され、八路軍は捕虜を殺さないで優遇することを日本軍に知らせ、日本軍内にもそれが次第に浸透し、自発的投降が増加したこと、しかし、日本軍は、釈放した捕虜を処罰したり、自決の強要も広がったことを話されました。

http://yamatea.at.webry.info/201101/article_17.html


日中友好協会 製作ビデオ第3巻上映

 2月9日(日)御南公民館で、協会製作の証言ビデオ「3」が、岡山県ではじめて上映されました。

中国人の生体実験にかかわった元軍医の証言、赤ちゃんを泥靴でふみ殺し、ずっと夢に出てきて悩んでいた元特務機関員の証言、

八路軍の捕虜となった元兵士の見たものは、負傷した日本兵を背おって山をのぼる八路軍軍医の姿だった……

40分のビデオは若者が問いかける侵略戦争、そんなことがなぜ?なぜ?に答えきれているだろうか。

 おそろしい日本軍の組織とは反対に、井上愛子さんの1時間のお話は、中国人民解放軍のやさしさ、心の広さにうたれました。看護婦として捕虜になった気がせず、東北三省をかけめぐり、にわか作りの病院で炭をおこし湯をわかすことからはじめ、中国人と朝鮮人と日本人がほんとにとけあって生命を大切にした青春でした。その時の赤ちゃん(長男雅俊さん)も会場に見えられ、紹介されました。 
 
http://rizhong.web.infoseek.co.jp/gangshanban030209.htm


戦後、シベリアに捕虜として収容された60万人の中の969人が、5年後の1950年に戦犯として中国に引き渡された。収容された「撫順戦犯管理所」には中将から二等兵まで、また溥儀も収容されていたが、此処は日本軍が作った監獄であった。当初、彼らは「なぜ戦犯!?、上官の命令」などと反抗していたが、管理所では一切の強制労働も学習もなく、ただ反省するのを待った。
 
 彼らは3〜4年経ったころから過去を振り返り自ら「認罪」して行った。56年の戦犯法廷では起訴された政府・軍高官の45人以外は起訴免除、起訴された45人もシベリアの5年と撫順戦犯管理所の6年が刑期に参入され、一人の無期も死刑もなく全員刑期満了前に帰国を許された。 

 この映像はその「撫順戦犯管理所」のドキュメンタリーで、当時の管理所生活などの記録映像を交え、収容されたご健在の元戦犯10人と、管理所側の医師、看護婦、教育、経理、人事、炊事係など8人の「証言」で構成したもので非常に貴重な記録である。

 この放送後、番組(映像)で証言した元戦犯のうち既に4人が鬼籍に入っている。彼らは「撫順戦犯管理所の6年に感謝している」とまで話しており正に「奇蹟」の体験である。この事実に一部から「洗脳だ、強制だ」との批判があるか、強制が無かったことはこの映像記録と証言が裏付けている。
 

 管理所は周恩来の直轄指示で

「戦犯といえでも人間であり、人格と日本人の習慣を守れ」

と徹底された。そして、戦犯への優遇措置に反発する管理所職員には

「復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後には解る」

と諭した。周恩来はワイツゼッカーの「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」

との全く同じ意の、

『前事不忘 後事之師』(前の事を忘れず、後の教えとせよ)

と言っていた。
http://www.janjannews.jp/archives/2600539.html

 訪中した際、周恩来総理は私に対して次のように述べられました。


「今度、日中両国の間に国交が回復したことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。

しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm

戦争が終われば勝者が敗者を裁く。アジア太平洋戦争の終了後東京軍事法廷やアジア各地の軍事法廷で多くの日本人戦犯が処刑された。BC級戦犯でも銃殺刑、絞首刑をうけたものが多くいる。中国の国民党政府(蒋介石政権)も北京・南京・上海など10カ所で裁判を行い、605件883人を裁き149人を死刑に処している。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/kunitomo_taiken.htm


私は日本から送られてきた週刊誌を読んだことがありますが、その記事の中に各国の軍事裁判の様子が載っておりました。ポツダム宣言第9条には、捕虜を虐待した者は厳罰に処すとあります。これによって1200余名の日本軍将兵が死刑に処せられているのです。私が師団長のとき行いました秀嶺1号作戦というのがあります。この作戦だけで私は捕虜86名を虐殺したという一項が起訴状に載っております。この一項だけでも私は当然死刑だと覚悟を決めたのであります。

 いよいよ6月9日より軍事裁判が開かれました。 被告第一号に対する証人の証言が始まったのです。この証人たちの証言の一言一句は本当に怒りと憎しみに満ち満ちておりました。その一人一人の眼光と一句一句の憎しみが、私の胸に突き刺さる思いでした。次から次へと立つ証人たちは異口同音に私を極刑に処すよう証言の最後を結んでおりました。


 その中でもっとも印象に残る証言について述べます。

 それは私が連隊長の時代、山西省安邑県に上段村という村がありますが、その部落に共産軍がいるという情報が入りましたので、「直ちに補足せん滅すべし」という師団命令をうけて、私は部下を指揮してその部落に向いました。夜明け前、折りしも移動しつつある敵50名と遭遇、ただちに戦闘に入りました。白々と夜が明けるころ戦闘は終わりましたが、私はまだ部落の中に敵が潜んでいるかもしれないと思い、部落の掃討を命じました。

 私は部落の城門付近に腰をすえて部落内の様子をうかがっておりました。あちらこちらで火の手があがる、単発的な銃声が聞こえる。私は「また何かやってるワイ」といった程度にしか思っていませんでした。

 しかし、このときの罪状によりますと、住民の老若男女140名を殺害したうえ、井戸に投げ込み、捕虜12名を殺害し、100余軒の民家を焼失させたのです。

 この時の証言に立った張葡萄という62歳になる老婆は、このため一家が皆殺しにされ、ただ一人生き残ったのです。老婆は当時の情況を話しているうちに段々興奮してきて、怒りのために体が震えだし、顔は汗と涙と鼻水とよだれでクチャクチャで、それは物凄い形相でした。老婆の白髪まじりの頭髪は憎しみで逆立っていました。

 私は元来、人の喜び、怒り、悲しみ、苦しみの表情を何度も見たことがありますが、この老婆のような凄い形相を見るのは初めてであります。なんと言いますか、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、恨み、これらの感情が一時に爆発したという表情であります。

 この老婆は髪を逆立てて、テーブルを乗り越え私に飛びかからんばかりの有り様なのです。証言という生やさしいものではありません。裁判長が幾度もなだめ、看守が、元の席へ引き戻してもすぐに私に飛びついてくるのです。また連れ戻す。また夢中で飛びかかってくる。

 私は本当にそこに立っていることができなくなりました。つらい、苦しい、まさに断腸の思いであります。心から呵責の念がわいてまいりました。もうどうでもいい、ひと思いにこの老婆に蹴るなり、噛みつくなり、打ち倒すなりして欲しいという気持ちで一杯でした。そこにからくも立ちすくんでいることで精一杯でした。

 私はこの老婆の怒りと憎しみでくしゃくしゃになった顔がまぶたに焼きついていて、生涯消えることはないでありましょう。

 このような証言を26人から聞きました。丸一日半、私はただ立ちすくんでおりました。その時間の長かったこと、これはとうてい言葉では表現できるものではありませんでした。

 私はいちおう死刑の覚悟をしておりましたが、証言を聞き終えたとき、心の底から死刑は当然だと思うようになりました。

 裁判長は「今の証言に対して被告はどう思うか」という質問をしましたが、私はもう弁解無用と感じておりましたので、「まったくその通りです。本当に申し訳ないことをいたしました」と素直に答弁いたしました。

 このようにして10日間で8名の軍事裁判は終わりました。そして6月19日、判決が言い渡されました。私に対する判決はまったく予想外でした。なんとただの18年の禁固刑だというのです。しかもこの18年は抑留の全期間を通算するというのです。日本敗戦後、ソ連での5年間、中国での今までの6年間を通算し、すでに11年が経過し、あと7年間の禁固刑というのです。7年たてば、この私を日本に帰すというのです。なんと夢のような話なのです。

 裁判長の「今の判決に対して被告は申し述べることがあるか」という質問に対して、私は「まったく予想外の寛大な判決でありただ感謝のほかございません。しかしながら、ここにおられる26人の証人は皆、極刑を望んでいます。こんな軽い刑では納得されないのではありませんか」と偽らざる心境を述べました。

 その後、弁護士が私の部屋にまいりました。「藤田さん、今日は本当に良かったですね。貴方が人民の立場に立たれたことを感謝します」というのです、それは証人の心情を充分汲みとり心から自分の罪行を反省し、判決に感謝していることを、喜んでくれているのです。

 この軍事裁判により、もっとも長い者で20年、短い者で13年の判決を受けたのです。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm


このような罪をはたらいた坂倉さんたち戦犯に対して、解放まもなく、管理所職員すらもコーリャンの食事に甘んじざるを得ない中国の食料事情の中でも、管理所は「日本人は米を食べるから」と、米飯を用意し、魚や肉を調達し食べさせたのです。

 また病人が出れば、当時は入手困難なペニシリンまで医師たちは手に入れて看病に専念しました。

職員の中には日本兵に家族を殺された者もいたにもかかわらず、です。「日本軍がおこなった『奪い尽くし(搶光)、殺し尽くし(殺光)、焼き尽くす(焼光)』という三光作戦のような行為とは真逆の、人間的な扱いだった」と坂倉さんは振り返ります。それは

「罪を憎んで人を憎まず」

「兵士も軍国主義の犠牲者」

との人道主義政策の実践でした。 釈放されて五〇年余過ぎた今も、二人は元職員を「先生、先生」と呼んで慕い、再会に感謝と喜びの涙を流します。それは撫順戦犯管理所で起きた人間回復の物語を象徴しているかのようです。

http://www.min-iren.gr.jp/syuppan/genki/2010/230/genki230-06.html

この管理所で戦犯の指導員をしていた崔(サイ)さんも出迎えてくれた。当時の指導員では現在ただ一人の生存者という。 サイさんの話によれば、中国共産党指導部は、戦犯を死刑に裁くより、平和な日常を尊ぶ“普通の人間”にして日本に帰す方が、将来の中国に有益という判断で、この管理所の運営にあたったという。

 が、日本軍への恨みは深く、そんな管理所の職員を喜んで引き受ける人はいなかった。当時、弱冠21歳の崔さんが戦犯指導員の任務に命じられた。崔さん自身もまた日本人への憎しみを抱く一人だった。気持ちの矛盾に悩みながら、戦犯には自分達よりおいしい食事を与えていたという。

http://www.geocities.jp/t111313/china-n-e/senpan.index.html


日本人戦犯に対する裁判は、1956(昭和31)年6月から8月の間に、瀋陽・太原・撫順市に設けられた最高人民法院の法廷において行われた。実刑を受けたものは、次の表にあるように生体のわずか4%に当たる45名であり、武器を持って直接に、目を覆うような殺人略奪破壊を行った陸軍関係で刑を受けたのはそのわずか1%であった。

判決に死刑ないし無期刑はなく、刑期は20年から13年の間であった。それも、この刑期から「ソ連と中国における抑留期間は差し引く」とされたので、実質的な刑期は9年から2年の間、という軽いものであった(その後に減刑があり刑期前に釈放されたものも多く出た)。同時にその他の者1017名に対しては起訴免除、即日釈放が言い渡された。

 第二次大戦後の連合軍による裁判は「仇を取る」「目には目を」という趣旨のものが多く、その裁判による刑は、全部で死刑971名、無期懲役479名が出ているのに比べると、この中国の日本人戦犯に対する裁判の刑は、非常に軽いものであり、その原因は基本的な考え方に大きな差があったことによっている。裁判の直前の6月に、中国の全国人民代表大会常務委員会において、日本人戦犯を寛大に処理することに関する決定事項が決められている。その要点は、


「…彼らの行った犯罪行為からすれば元々厳罰に処して然るべきところであるが、しかし、日本の降伏後10年来の情勢の変化と現在置かれている状態を考慮し、ここ数年来の中日両国人民の友好関係の発展を考慮し、また、これら戦争犯罪者の大多数が、勾留期間中に程度の差こそあれ改俊の情を示している事実を考慮し、これら戦争犯罪者に対して、それぞれ寛大政策に基づいて処理することを決定する」

という箇所であった。これを聞いた我々は、中には当然死刑を覚悟していた者もあり、そうでない者も認罪運動の過程で、戦争犯罪の重大性を身に泌みて感じていたので、皆等しく涙を流して、これを受け止めたのであった。

戦犯をソ連から受け取った時、管理所の職員が中央から受け取った指示は、その過去の罪行を追及してこれを罰することではなく、「その思想を憎んで人を憎まず」という精神で思想改造をさせることであった。中国政府が、管理所職員を通じて我々に教えたこの「認罪」「思想改造」とい、方法は、あの、ソ連から、日本人戦犯1000人を引き渡された時の、中国政府の、その場限りの、思いつきの方法ではなかった。

 少し歴史をさかのぼって日中戦争の頃、日本軍から当時の共産軍(紅軍とか新四軍、八路軍といっていた)に逃亡した(又は何かのはずみで紛れ込んだ)日本の兵隊に対し、その政治部員はどういう指導をしていたか、ということを振り返ってみればわかることである。

 彼らは日本兵にこう教えたのであった。


 「戦争をしている君たちが悪いのではない。君たちに侵略戦争を教えこんだ『日本軍国主義』が悪い。そのことに気がついて反省するなら、我が軍の中で働いてくれてもよい。またもう一度日本軍に帰りたいなら帰ってもよい」

(帰るわけにはいかなかったであろう。日本兵を待っているのは「軍法会議」か「処刑」であったろうから。)

サイマル出版会発行の『八路軍の日本兵たち』の著者は1938(昭和13)年7月に八路軍の捕虜になった人である。 この時この八路軍部隊の政治部員が、上級幹部から受けていた指示は、


「日本人捕虜に、危害を加えたり侮辱してはならぬ。帰りたいものは帰し、働きたいものには仕事を与え、勉学したいものにはその機会を与え……」

というものであり、これが戦争中からの基本姿勢であったことがわかる。 我々が管理所に入る時から十数年も前に、共産軍の中では、すでにこういう工作方法(思想対策)が確立されていたのである。何と我々が管理所で受けた指導とよく似ていることであろうか。「思想改造」の方法は紅軍以来の伝統であったのである。

しかし歴史の流れは容赦しない苛酷な面を見せる。我々が帰国した後の「文革」の時代には、我々を管理指導してくれた所長や指導員も、「右偏向した」として批判され、職場から追放されたと聞いた。 

 あの紅軍以来の伝統である、人道的な「思想改造」という方法によって、我々は教えられ、救われたと思っている。その、我々を救ってくれた尊敬する管理所職員が、「文革」では追放された。そして、あろうことか、我々の指導の時に使われたと、同じ言葉を使って批判され、「思想改造をせよ」と言われているのである。これを聞いて我々は戸惑った。

 これはどう考えたらいいのか。これはかつて、あの偉大な指導者が自ら築いた崇高なものを、自らの手で破壊しているという事ではないのか。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/01/sawada_kikokumade.htm


中国は侵略した日本に賠償請求をしていない。それは周恩来首相が日本に第1次大戦後のドイツの二の舞をさせてはいけない。賠償は結局侵略と関係のない次世代の若者たちが払いことになり、それをさせないために賠償請求を放棄した。

『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』石井明、朱建栄、添谷芳秀、林暁光(編) 、岩波書店


 驚いたのは、中共が日本に対する賠償放棄の意向を示すところ。これは密使となった竹入義勝公明党委員長に対して、いきなり周恩来から伝えたんですね。
周 毛主席は賠償請求権を放棄するといっています。賠償を求めれば、日本人民に負担がかります。そのことは、中国人民が身をもって知っています。

清の時代には二億五千万両、日本に賠償しました。清朝はこれを利用して税を重くしました。これを全部払ったかどうか知りません。八国連軍の賠償は四億〜五億両でした。
四億ドルど、今では大した額ではありませんが、負担を人民にかけることは良くない。賠償の請求権を放棄するという事を共同声明に書いても良いと思います。


竹入 お礼の言葉ももありません。

周 当然のことです。二十数年来の両国人民の友好によって、国交が回復するのですから、私たちは、これから次の世代を考えなくてはなりません。

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/21667/23829/67385764

戦争賠償の問題


日本側は、高島益郎・外務省条約局長が外相会議で意外にも

「蒋介石がすでに日台条約の中で賠償の請求権を放棄すると宣言しており、日中共同声明でこの問題を重ねて提起する必要はない」

と発言した。これに対し周総理は、首脳会議でとくにこうした主張に厳しく反駁した。

周総理: 日華条約につき明確にしたい。これは蒋介石の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという日本外務省の考え方を聞いて驚いた。

蒋は台湾に逃げて行った後で、しかも桑港条約の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。

我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。

我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。

最終的には田中首相が中国側の好意に感謝の意を表し、共同声明の本文に「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と明確に書かれたのだった。

http://www.peoplechina.com.cn/zhongrijiaoliu/2008-03/31/content_107971_3.htm
http://hyakka.seesaa.net/article/171605985.html

日中戦争証言 劉寨子 王さん


 1972年の日中友好国交回復に対して、この地域の人はみんな反対しました。私たちは、つらい経験したのに、どうして今更友好などという言葉を言い出して関係を回復するのか。政府は何回も説得して、

「当時は軍国主義のやったことで、日本人民、日本国民たちとは友好関係を持っていかなくてはだめだ。戦争は、普通の人民の責任ではない。」

と教えられた。しかし、今も気持ちとしては、今になってもやはり「日本」という二文字を聞いたら「憎む」という気持ちが湧いてきます。私の考え方では、このような歴史はいつまでも次世代、どんな世代になっても忘れてはいけないことです。

http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/ryujya.html


以前の日記の中で、「中国のマスコミが頻繁に南京大虐殺を始めとした日本の侵略の事実について報じるのは、国民の民族感情を煽る意図があるのではないか。中国政府と、純粋に日本の侵略に対して怒りを感じている一般の国民との間には差があるのではないか」といった内容のことを書いたことがあります。

 この点について、前回ふれたA先生にどのように思うか先日聞いてみました。A先生なら比較的客観的かつ冷静な見解が聞けると考えたからです。しかし、それに対する先生の見解は正直に言って意外なものでした。

「そのような意図はほぼないといっていいだろう。政府・マスコミは中国の国民の怒りをそのまま代弁しているに過ぎない。いや、それどころかむしろ抑制して表現しているとすら言える」

先生によると、日中両国の経済を始めとした関係がこれだけ密接になった今、中国政府は日本との関係をこじらすことなど望んでいないというのです。しかし、中国政府が何よりも恐れているのは、過去の日本の侵略、あるいはそれを否定・隠蔽するような発言・行為に対して弱腰の態度を取ることで国民から「売国」という目で見られることだといいます。つまり、五四運動の時のように、最初は外国に向いていた矛先が最後には自らに向けられることを最も恐れているというのです。

 僕はこれを聞いて、目からうろこが落ちたような気持ちになりました。なぜなら、これまで中国が事実上の一党独裁であることから、政府が国民の思想・意識・感情・行動などをコントロールしているという面、つまり上から下へという面ばかりに目が行き、逆に国民の意識が政府に与えている影響という面、つまり下から上へという面にあまり目が行っていなかったからです。考えてみれば、いくら一党独裁と言っても、国民を統制するばかりで、民意を反映することがなければ、しだいに支持を失い、その存在基盤を自ら掘り崩すことになります。

 NATOがユーゴの中国大使館を空爆(誤爆?)した時も、政府が学生らの運動を煽っているという見方が日本でもかなりありました。しかし、これについても先生は「反米の運動は学生の中から自然に起こったものだ。政府は運動を煽るどころか、むしろ学生の運動が急進化するのを恐れ、それをある程度秩序だった、抑制したものにするために介入したのいうのが現実だ」

 同じことは、最近起こった米中機の衝突事件についても言えるといいます。ニュースなどで「アメリカがついに謝罪した。これはわが民族の偉大な勝利だ」などとアナウンサーが言っているのを見ると、中国政府が国民の民族感情を煽っているように見えますが、国民の感情を代表して言っているだけで、実際には政府としてはあまりアメリカとの関係をこじらせたくないし、穏当に問題を解決したいというのが本音だと先生は言います。

 つまり、これらの流れを大きく規定しているのは決して中国政府ではなく、中国の国民だということです。

 話を日中関係に戻すと、先生は


「最近の歴史教科書問題を始めとした一連の問題の中で、中国人の日本に対する怒りはどんどん高まっている。そして、これは決して中国政府に煽られたものなのではなく、ごく自然の怒りだ。多くの人が、かつて周恩来が日本にからの賠償を放棄したことに疑問を持ち始めている。日本は「以怨報徳」(恩を仇で返す)だと多くの人が感じている」


 前回にも述べたように、A先生は自国・自民族に偏った見方を決していない人です。その先生が怒りを隠し切れない様子でこう言った時、僕はその言葉を重く受け取らざる得ませんでした。  最近、

「日本はODAで中国をこんなに援助しているのに、中国は少しも感謝しないどころか、さらに謝罪を求めてくる。けしからん」

といった類の議論がよく聞かれます。やはり中国は「恩を仇で返」していると言いたいのでしょう。ODAは日本政府も明言している通り、国益追求の手段で、日本もそこから多くの恩恵を受けているのであり、決してボランティアでやっていたわけではないことはここではおくとしても、このように主張する人たちは中国があれだけ多大な被害を日本によって受けながらも、全ての賠償を放棄したという「恩」などすっかり忘れてしまっているかのようです。

 日中両国がいう「恩を仇で返す」、この中身の違いは両国の間にある深い深い溝を象徴しているかのようです。

 A先生は、中国政府が中国国民の感情を代弁している以上、日本側が過去の歴史に対してしっかりとした認識を示していけば、この点では中国政府は引いていくはずだと言います。

 僕はA先生の分析がすべて正しいかどうかは分かりませんが、少なくとも、過去の歴史事実に対する中国政府の言い分を、単なる日本から金を引き出すための外交カードに過ぎないなどと見て、それに対して軽率な「反撃」を加えたりすることは、中国の国民の更なる怒りを招き、日本人と中国人の関係(政府間の関係に限らず)をどんどん悪化させていくだけで、何の良い結果ももたらさないことだけは確かだと思います。

http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/kangomei/


中国社会の本質について、その歴史を研究し見抜いてきた者なら、中国人の論理価値基準が誠意のやりとりであることを知っているはずだ。 すなわち、

「中国では善意、誠意に対しては善意で応える。悪意に対しては悪意で返す」

という原理こそ膨大な人口と長い歴史に貫かれてきた社会の価値観なのだ。 この意味で、中国人の心を掴み、理不尽な要求をさせず正義と良心をもって望むようにさせたいなら、それ以上の良心と誠意、善意を与えなければならない。

かつて日中戦争に敗北した日本に対して、周恩来は

「日本帝国主義が中国を侵略したのであって日本人民に罪はない」

とし、日本人のもの凄い負荷になる戦後賠償を求めなかった。 このときの恩義があるから日本は田中国交以降、対中5兆円の賠償ODAを続けているのだ。 我々は周恩来の恩義に誠実に応えなければならない。

http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           O 。
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|__|__|__|_   __((´∀`\ )< 周恩来が日本を救ってくれたのサ
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|_|_| 从.从从  | \__ ̄ ̄⊂|丿/
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林彪事件によって林彪グループが壊滅した後、江青のライバルは周恩来を中心とする実務派になる。

江青は「批林批孔」運動を通じて、現代の孔子すなわち周恩来批判に努めた。
毛沢東が周恩来の政治局工作、葉剣英の軍事委員会工作に不満を抱いていたことは明らかであり、矛先は彼らに向けられていた。

http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc5/wenge126.htm

 周恩来が膀胱ガンにかかっているということを知った毛沢東は、医師団に対し、周恩来へのガンの告知を禁じただけでなく、再度検診を行ったり手術をしたりすることまで禁じた。毛沢東は、10ヶ月後に周恩来に血尿が出た時点でようやく検診実施を認めたが、その時にはもうガンは全身に転移していて手遅れだった。

 毛沢東は、自分が殺害したに等しい周恩来の葬儀にあたって、あえて(祝意を表する)爆竹を鳴らすことを命じた。 要するに、毛沢東は中国の伝統に即した専制的な皇帝であり、周恩来は君主への絶対服従を旨とする儒教道徳に忠実な家臣だったということだ。

http://blog.ohtan.net/archives/50955629.html


周恩来の死


周恩来は田中角栄との日中共同声明に調印した人物として有名ですが、何気に戦前には台湾の李登輝元大統領と同じように京都大学に留学に来ており、帰国の際に嵐山に立ちよって詩を詠んだ事から現地に記念碑ができており、京都にくる中国人の観光スポットとしてそこが有名になっています。

 実は中国人からすると、この周恩来は今でも非常に人気のある人物です。毛沢東に対しては畏敬の対象として恐れ多いもの、なんと言うか天皇に対する右翼の態度みたいなものですが、周恩来へは日本人の萩元欽一氏への態度みたいに誰からにでも好かれています。私の友人の中国人(♀)なんて日本人だと玉木宏、中国人だと周恩来が一番好きだといって豪語してやみません。

 その周恩来、数々の建国時の元勲までもが追放された文革期において一度として毛沢東から迫害を受けませんでした。周恩来は建国以後ずっと政務院総理(現在の国務院総理)という行政の長、日本で言う内閣総理大臣の職に位置しました。何故彼だけが毛沢東に目をつけられなかったかというと、この職位が関係しているといわれています。

 どういう意味かというと、毛沢東自身も恐らくは大躍進政策の失敗から行政政策を執り行う能力が自分にないということを自認していた節があります。なので、どうしても外すことのできないこの職に限っては専門家、つまり行政手腕に長けた人材を囲っておかねばならないという必要性から、周恩来を追放しなかったのだと言われています。

 では、同じように行政手腕に長けた劉少奇とケ小平ではなく、何故周恩来だったのかというと、それは恐らく先の二人に比べて毛沢東の意のままに従う人物であったからだと私は思います。もともと毛沢東が抗日戦争の最中に党内部で権力を掌握するに至った遵義会議にてこれまでの幹部を裏切り毛沢東についたという経緯があり、また文革初期に至っても先の国家主席の劉少奇に対してスパイ容疑を出して、迫害に至る決定的な一打をぶつけています。その後も文革期は一貫として毛沢東の指示に従い続けました。

 しかし、こうした彼の行動については追放されたケ小平自身も理解を示しています。ケ小平に言わせると、あの時代は毛沢東に逆らえばどうしようもなかった時代で、敢えて毛沢東に従いながら文化大革命の被害を最低限に抑えようと実務面で周恩来は努力したのだと評価しています。実際に、あの文革期に国内の政務を一手に取り仕切っていたというのは実務家として大した手腕だと私も評価しており、取り仕切れるのが自分しかいないと自覚していたが故の行動だったのではないかと、好意的にみております。

 その周恩来ですが、とうとう1976年に死去することになります。ちょっと前に発売した「毛沢東秘録」という本によると、毛沢東は病気となった周恩来に対してわざと医者に診させないように手配して、暗に周恩来を死なせようと仕向けたと書かれています。それが本当かどうかはわかりませんが、この周恩来の死は当時の中国人も大いに悲しみ、その悲しみが第一次天安門事件につながることとなりました。

 日本人は「天安門事件」というと1989年に起きた民主化デモを中国政府が軍隊を使って押しつぶした「六四天安門事件」、私は「第二次天安門事件」と呼んでいますが、こっちの方しか思い浮かばないと思いますが、実は天安門事件は二つあって、一般に知られているほうが後で、最初のはこの周恩来の死の直後に起きています。

 その第一次天安門事件ですが、これは天安門広場前に民衆が死去した周恩来へ向けて花輪を捧げたところ、北京市当局によって即撤去されたことから起きた事件です。それ以前から文革を主導してきた毛沢東の腹心四人、通称「四人組」への批判が高まっており、周恩来の死によってますます彼らの専横が広がると考えた民衆らが花輪事件を契機に政府に対して四人組を批判するデモを大々的に行ったところ、これを危険視した政府によってその後の天安門事件同様に軍隊を使って強圧的に運動を押さえつけられました。

 その後、この事件の責任が問われ、林彪事件失脚後に復帰していたケ小平がまたも失脚することになります。なお「ワイルドスワン」の作者のユン・チアンによると、毛沢東が劉少奇を殺してケ小平は追放はしても殺しまではしなかったのは、最低限周恩来の代わりになる政治実務の担当者を用意しておく必要があったからだと分析しており、私もこの説に同意します。まぁ皮肉なことにいざ必要になったところでまた追放されちゃったんだけど。

 しかし、このケ小平の追放は今度のは比較的短期に終わりました。何故かというとそれから八ヵ月後、彼を追放した張本人がいなくなったからです。もはや隠すまでもありません、文化大革命の主人公、毛沢東がこの世を去ったからです。

http://imogayu.blogspot.com/2008/09/blog-post_9187.html


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http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/287.html

中国人も日本人が大好き
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/291.html

中国人が日本人を大好きになった理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/319.html

中国人のこういう所が大好き
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/289.html

台湾は中国ではないんだけど
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/288.html

これが中国 _ 漢民族は無数の民族の総称で川筋が違えば敵同士 _ これでは愛国心も道徳心も育たない
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/480.html

中国語は奥深い _ レイプは腕立て伏せ、暴行死事件は鬼ごっこ
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/482.html

(参考)
さてはてメモ帳(心臓の弱い人は読まないでね) 
http://satehate.exblog.jp/15342781/


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/537.html

コメント [カルト8] 此れは東歐のカラー革命謀略やアラブ民主化革命謀略と何等變はらない對日本破壞工作である 不動明
01. 2011年9月15日 03:16:33: j8DlsR41DQ
日本の武士団は外患誘致の米系在日カルとを根こそぎにするための内戦になるでしょうね。どっちが勝っても大幅に人口が減るからちょうど良い。半島土人とも戦争になるでしょうね。昔きた道の繰り返しですが、ここはひとつ米カルトの戦争誘導に乗ってやろうというものですね。戦いたいというひともいるからね。そうでないひとも犠牲になるのも人生の彩でいいのでは。人は不合理にどんどん死んでいくものだから、諦めるしかない。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/532.html#c1
コメント [マスコミ・電通批評12] リニア中央新幹線、排ガスをゼロに JR東海が新技術(朝日) 排ガスを出す新幹線の方がおかしい。新技術という方がおかしい スカイキャット
03. 2011年9月15日 03:17:52: IeXgFqPJ9M
原発の発電が無ければ動けないリニアなど必要ありません。
私はそう思います。

ご参考までに。

>リニア新幹線には浜岡原発の再稼働が必要(広瀬隆講演会)うーん、知らんかった
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/342.html
> 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2011 年 9 月 08 日


エネルギーをムダに消費するリニアって何?
速度を求めるあまり、燃費を無視したコンコルドをイメージしてしまった…



http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/328.html#c3

コメント [原発・フッ素16] 東電が抗議したTBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」(動画)  (ざまあみやがれい!)  赤かぶ
04. 2011年9月15日 03:20:21: FEoHOU0mco
今回の事故が「人災」なのは、現場で事故対応の判断ミスがあったというレベルでっはなくて、
@東電や原子力保安院ら当事者、関係者に、基準値以上のレベルの地震や津波が起こったら、その時は「仕方ない」という無責任な発想・感覚があったこと
A過酷事故は起きないという前提のもと、事故対応の準備をしていたので、今回のような状況のもとでは、正しい判断を下すための準備と訓練を受けた人間が、現場にいなかったこと。
の2点において、「人災」だったわけです。

「適切に対応」というけれど、そもそも過酷事故は真剣には想定されておらず、その準備も心構えも現場にはなかったのですから、適切な対応などできるわけないし、もしそこでミスがあったとしても、それを事故原因とするのは、問題の矮小化以外の何物でもありません。

しかも、東電の態度などをみるにつけ、彼らの体質は、事故前とまったく変わっていない。いいのがれと政治工作で当面のりきって、そのうち、原発利権を完全復活させようとしている。原発が絶対的に安全になりうるかの議論は別にして、彼らに原発を管理させ続けるのは、危険きわまりない暴挙だろう。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/520.html#c4

コメント [Ψ空耳の丘Ψ59] 日本人絶滅大作戦 マグロ
20. 2011年9月15日 03:23:59: AiChp2veWo
話がずれると思うが、・・・ある女性に神示があり、それに従って最上級の絹の反物をどこかの神社に奉納するというので、「どういう意味があるのでしょう?」とお聞きすると、「女性の子宮は、このように全く穢れのないものであることが必要なのです」、と言われた。たしかに、この世はいろいろあるが、人間は、精神や霊性の熱い貴さが先にあることが自然であるし、その後に物が従うのが道理だろう。簡潔に言えば色の乱れで精神が腐食し、国も民族も滅ぶと思う。複雑で不可解な思考、学問、行動で現代は非常に危ういが、清潔な精神性の復古で大方の諸問題は解決してゆくだろう。清くない水に不気味な大魚がいても、何も感動しないし純潔な高揚もない、よほどの飢えがなければこの大魚を食する必要もなく、好んでよどみの汚い水に住む不気味な大魚になる必要もない。
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/868.html#c20
コメント [Ψ空耳の丘Ψ60] 9.11から10年: マスゴミが自作自演テロの事実を表に流した マグロ
01. 2011年9月15日 03:26:27: j8DlsR41DQ
ますます米国を廃止さす条件を整えてきたね。

日本を廃止さす条件が放射能隠匿による大量殺戮だろうからね。政府にたいする怨嗟の声を日本国廃止に誘導していく。民主党は噛ませ犬だろうね。そのうちに国連の直轄地にされる予定だろうね。計画どうり米在日が動いてる可能性はないか。
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/141.html#c1

コメント [Ψ空耳の丘Ψ60] 9.11から10年: マスゴミが自作自演テロの事実を表に流した マグロ
02. 2011年9月15日 03:26:44: AiChp2veWo
精神が腐ると、万の知識があっても、真実は見えないし感じない。
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/141.html#c2
コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
39. ケロリン 2011年9月15日 03:36:50: 6aICm6xzPa6aE : BW6GTQviU6

>35. 2011年9月15日 01:21:42: rGe4o0tIEE

応援してるぞ、おっさんか、お兄さんか、
どちらか、知らんが・・。

>38.・・確かに・・、
>TPP・・・誘導のゲンパツ事故、とも考えられるわな・・。
しかし、利権構造を潰せば、一気に反転する・・。
これからだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c39

記事 [原発・フッ素16] ドイツの脱原発を実現したZDFフィルム動画第7回、解説(偉大なゲイのベルリン市長)、翻訳シナリオ。
投稿者msehi
http://d.hatena.ne.jp/msehi/

(解説)
第7回は原発テロへの安全性の審議から始まります。
本当に政治家の巧みな嘘の才能には、感心させられてしまいます。(実際はドイツではロビーイストが、日本では官僚が原稿を作っているわけですが。)
原発と再生可能エネルギーが同じコインの表と裏とするなら、すべての対立する議論もそのような論法で押し切ることができることになります。
もっともドイツでは、このような見掛け倒しの無責任な政治家ばかりではなく、このフィルムに登場する政権与党議員のヨセフ・ゲッペルのように、ドイツの未来のために脱原発をはっきりと主張する政治家も少なくありません。

またドイツで市民から最も愛されているベルリン市長ヴォーヴェライト(社会民主党)は、市民の公僕となって献身的に市民に仕えるだけでなく、トルコ人やアフリカからの移民の人たちの暮らしの困窮を、手厚い言語教育や職業教育で打開しようとしています。
ヴォヴェ(愛称)は2001年に市長に選出された際、「私はゲイであることを誇りにしています」と述べたことで、敬虔なクリスチャンに激しい反発に会いました。
しかし2005年の2期目の選出(現在は3期目)では、クリスチャンの人たちが熱狂的な支援者でした。
それはヴォヴェが休暇も返上して、ひたすら市民のために尽くしてきたからに他なりません。
彼は親の離婚のため貧しい母子家庭で育ちましたが、戦後の親の経済状態に左右されないドイツの民主教育制度によって、ベルリン自由大学の大学院にまで学ぶことができ、現在は学者でもあります。
そのような経緯を自叙伝『--und das ist auch gut so (ゲイもよいことです)』 で語っており、市民政治のために身を捧げたいと結んでいます。
日本では考えられないことですが、彼は日本の無責任な政治家とは違い、この10年間でベルリンの財政赤字を克服し、ベルリンの世界の教育都市、そして多民族文化都市としての長期計画を一歩一歩着実に実現しています。
もっともドイツでも、国民の8人に1人を相対貧困者に陥れたシュレーダー前首相(社会民主党)のように、退任後裏切り者と非難されるなかで、ロシアの天然ガス巨大コンツェルン(Gazprom),フランスの銀行(LazardFeres),大手出版社(Riegier)などの企業顧問に就任し、莫大な収入を得ている厚顔な政治家もいます。

次に政府顧問のオラーフ教授が風力発電の製造工場を見学します。
そして専門家が集まる環境事務局(環境省)は厖大な資料調査から、2050年までに風力発電、太陽光発電、そして水力発電からなる再生エネルギーだけでドイツの電力を賄うことができると報告します。
このように専門家が集い、政治に左右されることなく一つ一つの事実に基づき、結論もしくは目標を組み立てていくやり方は理想的と言えるでしょう。
しかも書類は常に公開されていることから、適正な世論形成にも役立ち、目先の組織利益で動こうとする政党政府や産業界も最終的には従わざるを得ません。

そして今回の終わりは、ドイツ最初の洋上のウィンドパークの操業開始を映し出し、政府顧問のオラウフ教授や企業の専門家は、原発がこのような再生エネルギー転換の架け橋となるというのは、真っ赤な嘘であると証言します。

(シナリオ)

(ナレーション)
社会はどのくらいのリスクを担わなければならないのか?
そして社会はどのくらい担うことができるのか?
古い原発は、益々故障や予測できないテロが脅かします。
政府は、安全性が審議できるものではないことを確認します。
(オラーフ教授 政府顧問)
安全性は審議できるものではないとする政府発言は、脱原発から全力で下車することにそぐわない。
何故ならもし安全性が審議できないものなら、明らかに原発はでき得る限り早く停止すべきという結論になるだろう。
(ナレーション)
首相の州知事たちとの危機会談。
何故なら政府は連邦参議院で過半数を失い、原発計画はぼた山の上に立っている。
連邦参議院の同意は必要か? 激しい議論の余地がある問題。
新しい大統領は決定しなければならない。
巨大企業の代表たちは、運転期間延長の実現をメルケル首相に迫る。
政府はエネルギー転換を約束する。
原発は太陽や風からの電力への架け橋を築くべきである。
(フォルカー CDU議員団代表)
私たちは地球温暖化の目標の達成を望んでいる。そのためには原発は時代の架け橋の技術として利用されねばならない。
(ライナー FDP連邦経済大臣)
再生エネルギー時代の架け橋として、原発の運転期間延長は必要である。
(ヨアヒム CDUエネルギー政策スポークスマン)
再生エネルギーと原発は矛盾していない。
それらは同じメダルの表と裏である。

(ナレーション)
ブランデンブルク州のラウフハマー市の巨大風力プロペラ製造所において。
ここではエネルギー転換に向けて働いている。
政府環境事務局の政府顧問でもあるオラフ・マイヤー教授が、製造現場を案内される。
およそ1600のロタープロペラが毎年工場を出て行く。
それは500機の風力発電基に達し、原発一基の出力に相応する。
(フランク・バイゼ ベスタス社の工場案内人)
私たちの需要は巨大であり、潜在能力は需要よりさらに大きいと考えています。
さらに発展することは確実です。
(ナレーション)
それは将来の安定した職場を意味している。
ラウフハマー市だけで530人の雇用がある。
ドイツ製のロタープロペラは世界的に引き合いがある。
ベスタス社はまさに今新しい製造施設に数百万ユーロ投資し、出力能力のある風力発電基を建設しようとしている。
(フランク・バイゼ)
製造、場所、地域、そして技術への巨大な投資です。
(ナレーション)
ここでは、ロタープロペラによるエネルギー転換と呼んでいる。
政府の環境省環境事務局は以下のように見積もっている。
将来のドイツは風力、太陽光、そして水力だけで電力を供給できる。
現在ドイツは年間およそ580兆ワット時間の電力を必要としている。
2009年の原発は、その内ちょうど150兆ワット時間の電力を発電している。
脱原発政策が維持されれば、電力製造の原発の割合は遅くとも2030年までにゼロになる。
そこからは専門家も言うように、ドイツは最早原発を必要としない。
石炭や天然ガスの電力に対しては、再生可能エネルギーが増加してくる。
すなわち再生可能エネルギーは省エネ技術もフルに利用して、2050年までに単独でドイツの電力を賄うことが可能である。

(ナレーション)
最も重要な供給源は、洋上の巨大ウィンドパークでの風力発電である。
数週間前北海で、ドイツ最初の洋上ウィンドパークが操業を開始した。
環境大臣ノルベルト・レットゲンは開始合図をした。
しかしながら彼は自ら管轄する環境事務局の予測計画を受け入れようとせず、原発を引きとめようとしている。
(ノルベルト)
私は、一定の期間原発の延長が必要であると思う。
原発の機能は明らかである。
原発はそれ自体目標ではなく、架け橋である。
(オラウフ教授)
政府が事実に即して必要であるものに着手するなら、現在の脱原発を実現することは可能である。
それは私たちが必要とする政治的な要請である。
そのことについて全く議論もなく、石炭による発電所を廃棄し、原発運転期間を延長する。
これは、全く馬鹿げたことである。
(ナレーション)
メルケル首相の政治顧問オラウフ・ホウフマイヤー教授は、原発は架け橋ではなく、再生可能エネルギーの拡大を妨げていると確信している。
今日既に風力発電は強制的に電力網から切り離され、風力エネルギーが浪費されている。
その理由は、古い巨大原発の電力が電力網を完全に塞ぐからである。
(ウェルナー・フロービター エネルギー供給企業の再生エネルギー専門家)
原発は電力網を塞ぎ、再生可能エネルギーの必要な拡大を妨げる。
原発運転期間の延長を要請するものは、それでもって再生可能エネルギーへの電力産業の差し迫った必要な建設を脅かす。


「大いなるこけおどし・・・政治の間違った約束」(33分9秒から38分49秒まで)

http://www.zdf.de/ZDFmediathek/beitrag/video/1090144/Frontal21-Dokumentation-Der-grosse-Bluff#/beitrag/video/1090144/Frontal21-Dokumentation-Der-grosse-Bluff

第一回http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/353.html
第二回http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/397.html
第三回http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/416.html
第四回http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/435.html
第五回http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/467.html
第六回http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/498.html


(Narartion)
Wie viel Risiko also muss die Gesellschaft tragen ?
Wie viel ist sie bereit zu trgen ?
Alternde Kraftwerke, immer mehr Störfall und unkalkulierbare Terror gefahren.
Die Regierung bekräftigt: Sicherheit sei nicht verhandelbar.
(Prof. Olav)
Eine Regierungsaußerung oder eine politische Äußerung, dass Sicherheit kein verhandelbares Gut ist, pass mit der ganzen Bemühung aus dem Atomenergieausstieg auszusteigen, nicht zusammen.
Denn wenn Sicherheit nicht verhandelbar wäre, wäre die klare Konsequenz daraus, die Meiler so schnell wie möglich abzuschalten.
(Naration)
Krisentreffen der Kanzelerin mit ihren Ministerpresident.
Weil Ihnen jetzt die Mehrheit in Bundesrat fehlt, stehen die Atompläne auf der Krippe.
Müssen die Länder zustimmen ? Eine heftig umstritten Frage.
Die neue Präsident muss entscheiden.
Die Konzernchefs drängen die Kanzlerin: Die Laufzeitverlängernung muss kommen.
Die Regierung verspricht eine Energiewende. Atomkraft soll nur eine Brücke bauen zu Strom aus Sonne und Wind.
(Volker)
Wir wollen unsere Krimaziele erreichen. Deswegen wird die Kernenergie als Brückentechnologie noch für eine Zeit noch eingesetzt werden müssen.
(Rainer Brüderle)
Als Brücke ins regenerative Zeitalter brauchen wir die Verlängerung der Laufzeiten für Kernkraftwerke.
(Joachim )
Erneuer Energien und Kernenergie sind kein Widerspruch.
Sie sind zwei Seiten der selben Medaille.

(Naration)
Lauchhammer in Brandenburg, bei einem großen Windradhersteller.
Hier arbeiten sie an der Energiewende.
Professor Hohmeyer Olarv, der Sachverständige der Regierung, lässt sich die Produktion zeigen.
Rund 1600 Rotorblätter verlassen jahlich das Werk.
Das reicht für gut 500 Windenergielagen.
Deren Strom entspricht der Leistung eines ganzen Kernkraftwerks.
(Frank Weise)
Wir sehen, die Nachfrage ist riesig.
Das Potenzial ist noch größer als die Nachfrage.
Es ist weiter wachsen.
(Naration)
Das bedeutet auch zukunftssichere Arbeitsplätze.
Allein in Lauchhammer sind es 530.
Rotorblätter “made in Germany” sind weltweit gefragt.
Die Firma Vestas investiert gerade Millionen in neue Produktionsanlagen, will noch leistungsfähigere Windräder bauen.
(Frankweise-Vestas Deutschland)
Riesige Investitionen in die Fertigung in den Standort, in die Region und in die Technologie Energiewende durch Rotorblätter heißt es hier.
(Naration)
Der Sachverstädigenrat der Bundesregierung hat ausgerechnet: Wind, Sonne und Wasser können Deutschland in Zukunft mit Strom versorgen.
Der Zeit braucht Deutschland pro Jahr rund 580 Terawattstunden Strom.
2009 produzierten Kernkraftwerke davon gerade 150.
Bleibt es beim Ausstieg aus der Kernenergie, fällt ihr Anteil an der Stromerzeugung bis spätestens 2030 auf Null Ab dann, so die Expaten, braucht Deutschland keinen Atomstrom mehr.
Zu Strom aus Kohle und Gas kommen zunehmend regenerativ Energie.
Die könnten zusammen mit modernen Stromspartechniken bis 2050 ganz Deutschland versorgen.

(Naration)
Wichtigste Quelle: Wind produziert in großen Windparks auf See.
Vor wenigen Wochen in der Nordsee: Der erste deutsche offschore-
Windpark geht in Betrib.
Unwelltminister Norbert Röttgen gibt das Startzeichen.
Doch den Prognosen seiner eigenen Sachverständigen wii er nicht so recht sorgen, er hält an der Atomkraft fest.
(Norbert)
Ich glaube, dass wir eine überschaubare Zahl an zusätzlichen Jahren von Kernenergie brauchen.
Die Funktion der Kernenergie ist klar. Sie ist nicht selbst das Ziel, sondern sie ist die Brücke um erneuerbare Energien zu erreichen.
(Olauv)
Wenn sie umsetzen, was sachlich notwendig ist, bleiben sie bei den Ausstieg aus der Kernenergie, wie er in Moment besteht.
Das sind die politischen Imperative, die wir brauchen.
Keine Debatte mehr darüber, bauen wir Kohle weiter aus, verlängern wir die Laufzeit für Kernenergie.
Das ist völliger Unsinn.
(Naration)
Hohmeyer Überzeugug: Atmkraft ist keine Brücke, sondern behindert den Ausbau der erneuerbaren Energien.
Fest steht: Schon heute werden Windkraftanlagen zwangsweise vom Stromnetz abgekkolt, wind Windenergie vergeudet.
Der Grund: Die Netze sind verstopft. Voll mit dem Strom der alten Großkraftwerke.
(Wener Frohwitter)
Kernkraftwerke blockieren die Netze und hindern so den notwendigen Ausbau, weiteren Ausbau der erneuerbaren Energien.
Wer Laufzeitverlängerung für Kernkraftwerke fordert, gefährdet damit auch den dringend notwendigen Umbau der Elektrizitatswirtschaft hin zu regenerativen Quellen.



http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/521.html

記事 [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞) 
除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算
http://www.asahi.com/national/update/0915/TKY201109140739.html
2011年9月15日3時1分 朝日新聞

 東京電力福島第一原発事故に伴い、放射性物質の除染対象になる可能性のある地域は、最大で福島県全体の7分の1に当たる約2千平方キロに及ぶことが専門家の試算で分かった。除染土壌の体積は東京ドーム80杯分に相当する1億立方メートルに上る計算だ。中間貯蔵施設の規模と建設費に影響することから、政府は今後、除染地域の絞り込みや技術開発などによる大幅な減量化を迫られそうだ。

 森口祐一東京大教授(環境システム工学)が試算した。森口教授は、除染の考え方や手順などを盛り込んだ除染基準をまとめるために環境省が14日に初会合を開いた有識者による「環境回復検討会」のメンバー。

 森口教授によると、年間の追加被曝(ひばく)線量を1ミリシーベルト以下に抑える目安として、毎時1マイクロシーベルト以上の分布域を、6月下旬に測定された空間線量のマップから抜き出した。警戒区域と計画的避難区域計1100平方キロを含む約2千平方キロにのぼった。その全体を、セシウムをほぼ除去できるとされる深さ約5センチまではぎ取ると、体積は約1億立方メートルになる。


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html

コメント [Ψ空耳の丘Ψ60] 日銀法改悪 マグロ
01. 2011年9月15日 03:44:45: j8DlsR41DQ
政府が潰れれば5000人全員が外患誘致により打ち首獄門となる可能性があるだろ。

怨嗟の国民感情が満ちてくるようロスにより誘導されてるのじゃないの。充分使ったので用済みとしてエライサンたちは全部始末されるのじゃないの。日本終了で用済みで始末。フランス革命とおなじよね。カダフィーとかムバラクやフセインやポルポトみたいにね。ロス一味はヤクザだろうからね。

学生のころ疑問だったのは何故日本銀行が円をするのかというものだった。公ではないのが変だと思った。で疑問に答えない先生とうやむやにして洗脳する教育に変だと思った。何十年かたって陰謀論で疑惑が解けて、先生も教育も今更ながらつまらんというのが思いだった。日本人も自分も含めて長い者には巻かれろでつまらんよ。解からんことも、そのままよね。自分も考え無いからね。
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/143.html#c1

コメント [経世済民73] 日本が「ギリシャ危機」から学ぶものは何か?:何はさておき、まず得られる教訓は「間違った増税の愚」 あっしら
05. 2011年9月15日 03:47:55: ezqPTG9DzU
ギリシャから学ぶものなど何もないでしょう
そもそもギリシャはEU入るためにゴールドマンの力借りて粉飾したんだから
最初からアメリカに爆弾仕掛けられていたんだよ
日本はもうデフォルトの準備完了してるよ
小泉竹中の時に
あとはギリシャのように爆弾が爆発するのを待つだけ
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/265.html#c5
コメント [原発・フッ素16] お母さんが子供を守るための武器(1) 暫定基準値は危険  武田邦彦  赤かぶ
06. 2011年9月15日 03:51:02: oWbillhalg
>>04

>横浜市の市長はどうなっているのでしょう。

私は神奈川ですが、横浜に限らず神奈川自体が、福島県佐藤雄平に負けない全国1.2を争う犯罪政治県です。元来、神奈川とくに横浜市は「市民中心行政」の考えで全国をリードした革新的な市を擁する県であり、環境県としても全国をリードしてトップを歩んできました。その指導者は全国の自治体に強烈な影響を与え全国首長会議をリードし、革新的な市の施策を次々実行し全国にその名を轟かせた、車椅子の障害者でもあった伝説的な飛島田一雄横浜市長でした。その理論家としても革新的施策の実績としても高い評価を受け、社会党から懇願され党委員長に引っ張り出されるほどでした。

そんな超一流の市を擁した先進県がどうして全国一の犯罪政治県に成り下がったか?それは暴力団住吉会と結びついた神奈川の小泉純一郎から大々的に始まりまった。した。犯罪のもとはすべてここから始まったのです。このときから全国でもっとも犯罪政治屋を擁する県になりました。その大量のしかも国家中枢に入り込み国政まで左右した神奈川が生んだ大犯罪者たちを、全国中知らない人々は最早いません。

小泉は言わずもがな、検察犯罪・暴走を意図的に見逃した千葉景子、ファッショ都知事石原慎太郎、国民に放射能測らすなの石原伸晃、自民別働隊みんなの党の江田けんじ、愛人スキャンダルで職務を放りだしたあとでも国民を搾取する市場原理推進の旗をふり各地の首長を扇動した中田宏前横浜市長、民主党に居ながら自民寄りの反旗を振りかざし除名された反乱者浅尾慶一郎、女優田中絹代が住んでいたりした由緒ある鎌倉山の景観重要建築物山椒洞を取り壊しそこに住んでいる、もろ犯罪政権の手先として国民洗脳するみのもんた、などなど神奈川が今の暗黒政治の立役者である国家的犯罪者の巣窟なのは証明済みです。

今の神奈川は横浜市に限らず、100%犯罪政権の施策と足並みを揃えてます。というより神奈川は上記のとおり犯罪政治を作り出してきた主役の巣窟であり、それらは石原伸晃の「放射能測らすな」や石原慎太郎、みのもんたなどの発言を見ても判るとおり今なお現役なので、むしろ神奈川が犯罪政権を裏から表から積極的にリードしてる一角と言っても過言ではありません。

この内実を知っていれば、横浜市が犯罪的施策を平気で行うのは何も驚く話でなく予定通りです。なので横浜市に良識を求めるのは無駄であり、国民の敵とみなし徹底的に糺弾し潰す以外ありません。



http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/511.html#c6

コメント [経世済民73] 枝野経産相さっそく“爆弾発言”東電株 再び暴落まっしぐら (日刊ゲンダイ)  赤かぶ
04. 2011年9月15日 04:02:31: j8DlsR41DQ
陰謀論の本で総ての金融機関を潰す命令がでてるのを読んだことがあるぞ。日本終了さすのにね。現実は終了さすのが大変だと思うがな

欧州でも銀行はロスのイングランド銀行1行だけにすると書いてあったが本当なのか。書いてあるのはアジアは上海商業銀行だけ残されるそうだしな。

多くが陰謀論は妄想なんだろうが、真実はわからんが、日本の銀行は全部廃止でカルとや在民主が政権進めてる可能性を調べないとね。調べる方法は無いが笑。陰謀がほんとうならば、反対していくんだよ。日本は不滅ですよね。
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/266.html#c4

コメント [原発・フッ素16] 放射能汚染列島を生き抜く味噌、ビール、乳酸菌の効能 船瀬俊介マスコミのタブー100連発月刊「ザ・フナイ」9月号より kanegon
18. ケロリン 2011年9月15日 04:02:58: 6aICm6xzPa6aE : BW6GTQviU6

おいおい・・、
>12. 2011年9月14日 17:46:37: GqY2jbL1UH ・・・よ。

別段、こっちは飯山教でもなんでもない。
おまえは、科学には実験がつきものだと、いうことさえ知らんようだな。
おまえが、ためしもしないコトに関して、ただの思い込みで発言していることを
指摘してるんだ。・・
いったいどこの誰が、「今ある科学を全て否定して、教祖の”なんとなく”を信じなさい」
などと、言ってるんだ?・・
おまえのその、<おカルト思考>をこそ、指摘してるんだゼ、こっちは。


反論するなら、それなりの体験かデータを示せと、いってるんだ。
日常生活の中での、<タンのはなし>など誰も聞いちゃいないよ。
それとも、おまえは、タンの教祖か???

気に入らなけりゃ、ココを読む必要もなければ、
その方法をおまえに強要するヤつなんざぁ〜
誰もおりゃセンよ。
心配するな。


科学のカの字も知らん素人が、科学教という宗教掲げて、
チョロチョロと、顔を出すな、ということだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/419.html#c18

コメント [経世済民73] コシヒカリ価格 大幅引き上げ めっちゃホリディ
03. 2011年9月15日 04:05:17: ezqPTG9DzU
西日本のコメのほうが安全で更に安い
ブランド米なんてもう流行らない
あんな殿様商売してたらJA潰れるだろうけど
ネットで直接農家から買えるから全然困らない
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/258.html#c3
コメント [経世済民73] 首都圏マンション供給、3か月ぶり増加 価格は2けた上昇 sci
01. 2011年9月15日 04:05:32: j8DlsR41DQ
どうして放射能が、いまだ収束するか判らんとこで子供を育てるのだよ。大人はいいが。せめて大阪にしておけ。
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/264.html#c1
コメント [原発・フッ素16] 脱原発デモで12人逮捕、機動隊員暴行などで(読売)←不当逮捕はデマでした 笑 木卯正一
21. 2011年9月15日 04:11:05: msaJyupoKE
>>20

統一教会で通用できなくなったら今度は「生長の家」ですか? 笑

あれが評価されたのは宗教による改正法に真っ先に賛成して
創価と比べクリーンであるというイメージがあったから良い印象
があったようですが、今はどうなんでしょうね? 笑
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/475.html#c21

コメント [原発・フッ素16] 脱原発デモで12人逮捕、機動隊員暴行などで(読売)←不当逮捕はデマでした 笑 木卯正一
22. 2011年9月15日 04:21:37: msaJyupoKE
>>13

こらこら!外人学校襲撃はお前さんの祖国が起源じゃないか 笑
こちらは児童が怪我おわされてんねんぞ? 分かってんのか?


韓国ソウル 日本人学校襲撃 平成15年1月29日午前10時に韓国ソウルで起きた事件 を無視するのは何故?

http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/732.html
投稿者 木卯正一 日時 2011 年 4 月 26 日 21:25:14: xdAt6v.ugMgqA

(回答先: 在特会、とうとう13人に減る[ネットゲリラ:在特会4名有罪判決下り、早くもネット上では手のひら返しが] 投稿者 皮肉屋 日時 2011 年 4 月 25 日 17:37:54)


ソウル日本人学校園児襲撃事件(そうるにほんじんがっこうえんじしゅうげきじけん)は、2004年1月29日に大韓民国ソウル特別市江南区で発生した事件。


2004年1月29日、日本人学校前で通学バスから降りた幼稚園児2人が待ち伏せしていた現地の男に襲われ、うち一人が斧で頭を殴られた。犯人は別の園児を襲おうとしたが、学校の警備員に羽交い締めにされ、取り押さえられた。頭蓋骨陥没骨折の重傷を負った園児は手術を受け回復した。

犯人が過去に精神疾患の治療を受けていたため、警察は犯人の精神鑑定を行う一方、殺人未遂容疑で身柄を拘束した。検察は殺人未遂罪で起訴し、同年4月1日ソウル地方法院は犯人に懲役4年の判決を言い渡した。判決では、「抵抗力のない幼稚園児の頭を攻撃したことから、殺意がなかったとは言いがたい」としながらも、心神耗弱状態だったことを認め、量刑を考慮したという。

この事件を受けて、翌日、文部科学省初等中等教育局国際教育課は海外各地の日本人学校と補習授業校に安全対策再確認の通知を送っている。[1] また、この事件がトラウマとなって心的外傷後ストレス障害を引き起こした子どもや親に対する心のケアが必要であると判断された。日本人学校側の要請もあったため、文部科学省は2月9日から13日の間カウンセリングの専門家を日本より派遣した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%83%AB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%92%E5%85%90%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6


30代の男が日本人幼児を鈍器で殴る
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/01/29/20040129000040.html
ソウル・水西(スソ)警察署は29日、日本人に殴られたとして日本人幼児2人を
鈍器で殴った疑い(殺人未遂)で朴某(36)容疑者の拘束令状を申請した。
警察によると、朴容疑者は同日午前10時ごろ、ソウル・江南(カンナム)区の
日本人学校前で幼稚園の通学バスから降りた日本人の女児(6)と男児(5)
2人の頭を用意していた鈍器で殴った疑いが持たれている。
襲撃男の供述、信用性低いと韓国警察
 ソウル日本人学校で29日に同校幼稚部の滝島大夢君(6)が男に襲われ大けがを負った事件で、
韓国警察当局は30日、現行犯逮捕した男の精神状態が非常に不安定で
「日本人に暴行されたことを恨んで犯行に及んだ」などとする供述の信用性は低いことを明らかにした。
 警察当局は31日にも現場検証を行う一方、刑事責任を問えるかどうか、近く男の精神鑑定を実施する方針。
男は過去に入院歴がある。
http://www.nikkansports.com/ns/general/f-so-tp0-040130-0028.html

被害の園児、手術の経過は順調
日本人幼稚園児がおので襲われた事件を捜査中のソウル水西(スソ)警察署は30日、
「11月にも日本人小学生が拉致されそうになる事件があった」と明らかにした。

 警察関係者は「当時、車に乗った女性が、ソウル日本人学校の前で、
小学生男児の腕を引っ張って連れて行こうとしていた」と述べた。

 02年11月には、ある男が保護者5人に
「われわれは日本人を殺す集団だ。お前たちを襲う」と、
たどたどしい日本語で脅迫電話をかけていたという。
記事:http://japanese.joins.com/html/2004/0130/20040130185113400.html


負傷の男児が退院=ソウル日本人学校
http://www.jiji.com/cgi-bin/content.cgi?content=040206124815X321&genre=int
ソウルの日本人学校幼稚部で1月29日、登園してきた園児がおのを持った韓国人の男に襲われた事件で、
頭部を殴られて重傷を負った滝島大夢ちゃん(6つ)が6日、入院していたソウル市内の病院を退院した。 


※リンク切あり
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/475.html#c22

コメント [原発・フッ素16] 福島原発事故の「被害」とは何だったのか 賠償や除染の前に被曝限度の再検討が必要だ sci
02. 潜艦トマト 2011年9月15日 04:21:39: yqV0JYBcORkm6 : wXxinWym6g
>福島原発事故の「被害」とは何だったのか

過去形で片付けていることからして、書き手自身が終ってる。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/519.html#c2

コメント [原発・フッ素16] 9月12日 フランス・マルクール原発関連施設・爆発事故、枝野経産相、除染、について 小出裕章(MBS) gataro
06. 2011年9月15日 04:23:14: NoB4T4uYVg
阿修羅さんへ
小出さんは、よく「あの日から変わってしまった」と言い、おそらくほとんどの人もそう思っているのでしょうが、残念ながら「あの日から変わってしまった」のではなく、「それ以前から変わり続けている」のが現実です。

あの日にそれが見えるようになっただけで、地震のエネルギーの蓄積はその前からずっと続いていましたし、原発の老朽化もずっと続いていたのです。
それ以前に原発の危険性を訴える人がいましたし、それを無視しつづけた東電及び経済産業省があるわけです。
こういう事象を目にして「無常だ」と言う人がいますが、それは無常を理解したことにはなりません。

これも長老の受け売りですけどね。

「無常」とは「変化を続けるこの世界」であって、1分1秒それよりも短い時間であっても、その前の時間とは違っていることなのです。
そんな無常のこの世(=前世、あの世)は、あなたの心の拠り所になるものは、一切ありませんよ。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/471.html#c6

記事 [ニュース情報8] 原発で主導的役割を期待=経産副大臣に米エネルギー長官
時事通信 9月14日(水)20時25分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110914-00000139-jij-int

 米サンフランシスコで13日(日本時間14日)行われた牧野聖修経済産業副大臣と米国のチュー・エネルギー長官の会談で、チュー長官は、日本が引き続き安全で確実な原子力エネルギーの平和利用で主導的な役割を果たしていくことに期待感を表明した。経産省が14日、会談結果を発表した。

 両者はまた、日米が原子力分野で技術協力を継続していくことを再確認した。

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の後、米エネルギー長官と経産省政務三役の会談は初めて。日米は2007年、原子力分野での協力内容を盛り込んだ共同行動計画をまとめている。 
http://www.asyura2.com/09/news8/msg/685.html

コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
40. 2011年9月15日 04:25:32: qpCSzGefv9
農家は農業従事者であり続けたいなら新天地を目指して過疎地の耕作放棄地を再開拓しに行って欲しい。

偽装表記をする流通業者はイオンと他にはどこが?
詳しく調べる必要がある。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c40

コメント [原発・フッ素16] 東電が「人災」ではないとTBSに抗議/ゆかしメディア ピノキ
27. 2011年9月15日 04:28:04: NoB4T4uYVg
阿修羅さんへ
ここは「某巨大掲示板」ではありません。
そのコピペはコメントを無駄に長くして邪魔です。

トップページの
>情報解析
>その情報が 誰によって 流されているか?
>なぜ今 流されているか?

>事象解析
>その事象・情報で だれが利益を得るか?
>歴史上、その事象の時何があったか?
をよく踏まえた上で、コメントなさることを希望します。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/484.html#c27

コメント [原発・フッ素16] 放射能汚染列島を生き抜く味噌、ビール、乳酸菌の効能 船瀬俊介マスコミのタブー100連発月刊「ザ・フナイ」9月号より kanegon
19. ケロリン 2011年9月15日 04:31:25: 6aICm6xzPa6aE : BW6GTQviU6

>12. 2011年9月14日 17:46:37: GqY2jbL1UH・・よ。
>15. 2011年9月15日 00:20:18: ssV8pSUttw・・よ。

誤解があるようだから言及するが、・・こっちは、
<カルト>レッテル好きな、<おカルト教レッテル信者>をこそ、
お掃除している、ということだ。

・・キミらのことだ。

何の根拠をも示さず、
「全部が証明できるんだぁ−」などと言う勘違い信者か?
まるで、中世の<何でも神様教>の神父と
同じ精神構造だと言ってるんだ。
<何でも神様教>が<何でも科学教>に変わっただけの
オカルト信者だ。
そのくせ、科学の方法や論理をサッパリ理解していない。
オモロイな?


●京大原子炉の小出助教
●浦上第一病院・秋月医師
●味噌治療の森下医師
●渡辺論文

上記は科学的な実験と体験データに素付いた報告だ。


キミらは、
『プルトニュウムは飲んでもだいじょぶ』
『プルトニュウムは重くて遠くへ飛ばない』
・・・の、
山下某、何とかと同じだ、ということだ。


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/419.html#c19

コメント [原発・フッ素16] うち茨城の農家だけど県外の流通業者と契約して全国にダダ流し もう国内産の野菜は食べない方がいいよ てんさい(い)
41. 2011年9月15日 04:37:02: vaUTLEvm5E
欧米でまかりなりにも官僚が無茶をしないのは過去に官僚が市民に首を切られた(ギロチン)歴史があるからである。日本でも戦前?まてよ、江戸時代まではあったが明治以降皆無である。以下シュミレーション
東北、関東の食の安全が保てないと立ち上がった全国の人々がアメリカ、中国、南米、オーストラリアから直接食料を輸入し外国産と表示し全国でNPOとして販売を開始した。路上販売が中心であったがネット販売を始め売り上げが急上昇し始めた。ただほとんどが税金のため非常事態なので関税撤廃を求めて政府と対立したが、既得権益側の強い要求もあり政府は禁止を決め弾圧を始めた。過去子犬を殺されて官僚トップに復讐した人がいたが、危機感を感じた人々は自分の子供を守るため規制側の人々を襲い始めた。政治家、官僚たちが主なターゲットである。ここで襲われた人が多いと革命と言うが残念ながら大きな勢力にならず次々と逮捕されていった。また死刑判決が次々と決まり国民的議論が沸き起こる。本来放射能被害者である被告が死刑とはおかしい。次第にこれは政府の無策が一番大きな原因であるとの考えが世論の主流になり裁判所への抗議が高まる。。。
ま!要するに自由な国、民主主義の国を目指すなら自然にはできない。市民は悪政をやったやつに対する暴力が必要でこの報復が立派な政治家、官僚および国家を作る。世界のリーダー国には必須であるが現状は楽観的な御用学者が存在し報復があると少しは立ち位置を考えるが無能なサイレント国民だからと安心して適当なことを言ってる。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/487.html#c41
コメント [原発・フッ素16] ヒマワリは除染効果なし 農水省が実験結果公表 (朝日新聞)  赤かぶ
01. 2011年9月15日 04:39:50: NoB4T4uYVg
阿修羅さんへ
条件によるでしょ。
効果有る(多少なりと土壌に大きな影響を与えずに吸収する)に決まっているのに、嘘垂れ流してくれるんですね。

表土を削る?
それをどこに持っていくんだ??
さらには、その表土の土壌としての損失はどれぐらいか分かっているのか???

農水省は、アブラナの自生と交配も嘘ついていたんだよ。
誰が農水省の言い分を信じるって言うんでしょうね。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/516.html#c1

コメント [原発・フッ素16] セシウム放射能!―やっぱりそうだった!あのニュースの不可解さが解けた (クマのプーさん )  赤かぶ
35. ケロリン 2011年9月15日 04:44:24: 6aICm6xzPa6aE : BW6GTQviU6

同じように、
多少は、マトモな研究機関もあるようだ・・・。
なんとか防護研究談の真似して、ウザイ長文だ。
しかし、こっちの主張と、同じだ・・。別板の・・・

『核兵器自爆!やはり大量のプルトニウム等が 〜〜』
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/510.html


原発被爆患者の被験事例を有する郷地秀夫医師の警告を取り上げた。その際同医師は、政府が認めた放射性物質より化学的に原子炉内の温度が2400℃以上に上がったことは確認されている。

福島原発4基で広島原発の600倍のウラン235、40倍のプルトニウム239があったと予想されており、これらが大気中または地下水に放出された可能性が高いと主張する。

その理由は大気中で観測された放射能物質はキセノン・セシウム・ストロンチウム・テルル・ルテチウム・セリウムそしてニオブである。

つまりセシウムやヨウ素汚染はこれら有害物質の大量放出を隠蔽するためのダミー報道にすぎないのではないかと推理を以前にも述べたが、これを裏付ける報道が週刊SPAよりなされた。その内容とは、匿名で飯舘村の青年と思しき人物からメールがありその中で次のように述べており、

「放射線測定を専門とする大学研究者に直接聞いたのですが、プルトニウムが核変する前のネプツニウムという核種が、少なくとも飯舘村や伊達市まで大量に飛んでいたそうです。今のγ線メインの測定方法ではどんなに頑張ってもセシウムしか検出できないため、本来の危険性が見逃されてしまう。α線核種を無視した今のやり方を続けていたら、飯舘村はまた“見殺し”にされかねない……」

実はそれ以前に同誌に、環境解析化学を専攻する学者が地元での講演で、
「ネプツニウム239とは、2〜3日でプルトニウム239にβ崩壊(核変)する核種のことで、つまり、これが大量に見つかったということは、かなりの確率で飯舘村において取り返しのつかないほど深刻な汚染が進んでいるという意味にほかならない。しかも、このネプツニウムは飯舘村に何千ベクレル/Kgという量で存在するという……。」
旨の意見を主張したという。

この記事の事実関係は定かではないが、仮に事実であれば、矢ケ崎教授、郷地医師らの主張が正に正当性を帯びてくる。だとすれば多数の核爆弾を自国内で自爆させたに等しい状況に福島、そして日々計り知れない拡散規模で国土を覆い尽くすと形容できよう。

御用学者や政府から繰り返し出された「海水冷却」など後の祭りで何の事態打開にはなっていなかったことや、「ベント」と称する大気・海洋への放射能廃棄物の垂れ流しが事故以前から頻繁になされていた事実を知るに至り、激しい憤りが再燃する。

前回選挙で不正も疑われた石原が「国民に放射線測定をさせるべきではない」旨の発言を行ったことが批判の的となっているが、これは異常事態を国民に知られることを恐れ、馬鹿なりに高圧的抑制を意図した発言ではなかったであろうか。

購読者が激減しカネに困ったマスコミヤクザをカネの力で利用して世論を誘導しようと画策したものの、今や日に日にネット等の情報で過去の犯罪や失態が明るみに出ることに、原発マフィアは内心は恐怖し戦くものと私は想像するのだが、未だ彼らから反省や後悔の弁が全く聞かれず隠蔽工作に終始し、被害の実態開示と避難など適切な対応がなされない現実に苛立ちは募るばかりだ。


<飯舘村で大量のプルトニウムを検出>
『週刊SPA!』9/13発売号「飯館村で大量のプルトニウムを検出」より

福島第一原発敷地内で「ごく微量のプルトニウムを検出した」と東京電力が発表オた3月28日以来、「プルトニウム放出」の疑惑をメディアはほとんど報じてこなかった。だが、ここにきて驚くべき情報が飛び込んできた。半減期2万4065年と言われるプルトニウムが、現在計画的避難区域に指定されている福島県の飯舘村に大量に見つかったというのだ。

「放射線測定を専門とする大学研究者に直接聞いたのですが、プルトニウムが核変する前のネプツニウムという核種が、少なくとも飯舘村や伊達市まで大量に飛んでいたそうです。今のγ線メインの測定方法ではどんなに頑張ってもセシウムしか検出できないため、本来の危険性が見逃されてしまう。α線核種を無視した今のやり方を続けていたら、飯舘村はまた“見殺し”にされかねない……」

ネプツニウム239とは、2〜3日でプルトニウム239にβ崩壊(核変)する核種のことで、つまり、これが大量に見つかったということは、かなりの確率で飯舘村において取り返しのつかないほど深刻な汚染が進んでいるという意味にほかならない。しかも、このネプツニウムは飯舘村に何千ベクレル/Kgという量で存在するという……。


●福島市立北沢又小学校の校門前で、存在する放射線の種類を調査結果
α線 :約 650 CPM ・・・年間被曝線量=約17ミリシーベルト
β線 :約 2700 CPM ・・・年間被曝線量=約73ミリシーベルト
γ線 :約 330 CPM ・・・年間被曝線量=約9ミリシーベルト
(330CPM ≒ 1.05μSv/hr )
いま現在は、上記のγ線(セシウム&ヨウ素)しか、問題にされていないということだ。
そして、年間被曝線量よりも、体内に取り込む
<内部被曝>が最大の問題になる。特に子供が、だ。

α線核種の中には自発核分裂を起こす物質がある。
自発核分裂では<中性子線>が放出される。
Amー241 Uー235 Pu−238、239、240、241。

β線核種候補としては、Ce−141、Ru−103、Zr−95、Cs−136
そして問題のNp−239は半減期2.3565日で
Pu−239になる。


電磁推進機構研究者談・真相究明班
長文邪魔したな、スルーしてくれ・・。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/437.html#c35

コメント [経世済民73] 首都圏マンション供給、3か月ぶり増加 価格は2けた上昇 sci
02. 2011年9月15日 04:46:44: wt6WHDKqEA
今売ってるのは、大震災前から計画、建設されたものだろうが、資金繰りの面から何時迄も寝かしておけるものではない。欧州発金融危機も懸念され、放射能リスクも軽減しないことから、早めに売り抜けた方が吉。むしろ、今頃都内で増改築している家屋を見かけるのが不思議でならない。自分なら、更地にしてさっさと売却、西日本の物件でも考えるけどね。時間との勝負だと思う。
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/264.html#c2
コメント [原発・フッ素16] 東電が抗議したTBS「震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実」(動画)  (ざまあみやがれい!)  赤かぶ
05. 2011年9月15日 04:53:03: tkfiuK65LE
東電の歴代経営陣、
東電に天下っている高級官僚連中、
みな死刑にする必要あり。

生きているだけで、悪。


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/520.html#c5

コメント [戦争b8] 「公式の9/11説明を信じているのは、公式の9/11説明を知らないせいだ」(マスコミに載らない海外記事) 誰がために金は成る
08. 2011年9月15日 04:56:53: ezqPTG9DzU
声をあげられないように
ブッシュは「愛国者法」を制定しサインした。
韓試写会アメリカの始まり
そして今に至る

自由の国アメリカはすでに死んだ!

「不自由な監視国家アメリカ」
http://www.asyura2.com/11/warb8/msg/166.html#c8

コメント [戦争b8] 「公式の9/11説明を信じているのは、公式の9/11説明を知らないせいだ」(マスコミに載らない海外記事) 誰がために金は成る
09. 2011年9月15日 04:58:08: ezqPTG9DzU
訂正・・・韓試写会→監視社会
http://www.asyura2.com/11/warb8/msg/166.html#c9
記事 [マスコミ・電通批評12] 疑惑の報道: 時事通信「米国は日本に原発での主導を期待」(低気温のエクスタシー)
http://alcyone.seesaa.net/article/226006367.html


【疑惑の報道】時事通信「米国は日本に原発での主導を期待」

☆原発で主導的役割を期待=経産副大臣に米エネルギー長官
(時事通信)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110914-00000139-jij-int

http://www.asyura2.com/09/news8/msg/685.html


米サンフランシスコで13日(日本時間14日)行われた牧野聖修経済産業副大臣と米国のチュー・エネルギー長官の会談で、チュー長官は、日本が引き続き安全で確実な原子力エネルギーの平和利用で主導的な役割を果たしていくことに期待感を表明した。経産省が14日、会談結果を発表
http://www.meti.go.jp/press/
した。


両者はまた、日米が原子力分野で技術協力を継続していくことを再確認した。

東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の後、米エネルギー長官と経産省政務三役の会談は初めて。日米は2007年、原子力分野での協力内容を盛り込んだ共同行動計画をまとめている。 


              ↓


Todaidon(在米の邦人医師)
https://twitter.com/#!/Todaidon/status/114045885129830400
リソースを見たら日米合意文書の一文を針小棒大に取り上げていたことが判明。

Todaidon(在米の邦人医師)
https://twitter.com/#!/Todaidon/status/114019427862855680
アメリカエネルギー省との覚書原文です。
(注:PDF)
http://www.meti.go.jp/press/2011/09/20110914004/20110914004-4.pdf 
これをみると、時事通信は項目3だけを強調して報道した模様。むしろ項目1ほかで自然エネルギーへの協力が強調されてます。大手メディアにご注意を。


《仮訳》

(注:PDF)
http://www.meti.go.jp/press/2011/09/20110914004/20110914004-5.pdf

1. 牧野副大臣とチュー長官は、クリーンエネルギー技術に関する開発と普及にかかる二国間協力について、両国の強い意志を再確認した。彼らは、2009年11月に策定された日米クリーンエネルギー行動計画と、2010年11月に発表したクリーンエネルギー政策対話の顕著な進展を認識した。彼らは、基礎科学、CCS(二酸化炭素の回収貯蔵)、省エネルギー、スマートグリッド技術、再生可能技術、原子力利用の分野において、両国の連携を強化することを確認した。彼らはまた、日本のエネルギー政策の見直しを考慮した上で、クリーンエネルギー技術の開発と普及に関する政策を議論するとともに、日米エネルギー政策対話を通じた協力プロジェクトを推進しその進捗を確認するために、専門家で集まることを再確認した。

特に、彼らは、経済産業省とエネルギー省による以下の方針について再確認した。


• エネルギーの生産と利用を改革する可能性のある革新的エネルギー技術に関する協力

• 実証プログラムと先進的自動車技術の普及促進の協力に関する経験の共有

• レアアース代替材料の開発とリサイクルを含むレアアースの代替に関する研究の実施

• クリーンで効率的なエネルギーの開発と普及に関する沖縄−ハワイパートナーシップにおける、他の島嶼国のモデルとなり得る両島におけるクリーンエネルギープロジェクトの推進

• 化石燃料のクリーンな利用の開発

• 信頼性が高く、安全で、クリーンな原子力エネルギー技術の開発に関する協力の継続

• スマートグリッドとエネルギー施設のサイバーセキュリティを含む国立研究所間の研究協力の深化

http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/329.html

コメント [原発・フッ素16] 放射能汚染列島を生き抜く味噌、ビール、乳酸菌の効能 船瀬俊介マスコミのタブー100連発月刊「ザ・フナイ」9月号より kanegon
20. ケロリン 2011年9月15日 05:01:43: 6aICm6xzPa6aE : BW6GTQviU6

>12. 2011年9月14日 17:46:37: GqY2jbL1UH・・よ。
>15. 2011年9月15日 00:20:18: ssV8pSUttw・・よ。

基本問題を、出してやる。タンの教祖よ。
答えてみろ・・。


<喘息患者には、蒸気吸引させて治療する・・>
なんでか、解るか???


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/419.html#c20

記事 [原発・フッ素16] [疑惑の報道]時事通信「米国は日本に原発での主導を期待」 (低気温のエクスタシーbyはなゆー)
低気温のエクスタシーbyはなゆー
http://alcyone.seesaa.net/article/226006367.html

【疑惑の報道】時事通信「米国は日本に原発での主導を期待」

☆原発で主導的役割を期待=経産副大臣に米エネルギー長官
(時事通信)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110914-00000139-jij-int

http://www.asyura2.com/09/news8/msg/685.html


米サンフランシスコで13日(日本時間14日)行われた牧野聖修経済産業副大臣と米国のチュー・エネルギー長官の会談で、チュー長官は、日本が引き続き安全で確実な原子力エネルギーの平和利用で主導的な役割を果たしていくことに期待感を表明した。経産省が14日、会談結果を発表
http://www.meti.go.jp/press/
した。


両者はまた、日米が原子力分野で技術協力を継続していくことを再確認した。

東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の後、米エネルギー長官と経産省政務三役の会談は初めて。日米は2007年、原子力分野での協力内容を盛り込んだ共同行動計画をまとめている。 


              ↓


Todaidon(在米の邦人医師)
https://twitter.com/#!/Todaidon/status/114045885129830400
リソースを見たら日米合意文書の一文を針小棒大に取り上げていたことが判明。

Todaidon(在米の邦人医師)
https://twitter.com/#!/Todaidon/status/114019427862855680
アメリカエネルギー省との覚書原文です。
(注:PDF)
http://www.meti.go.jp/press/2011/09/20110914004/20110914004-4.pdf 
これをみると、時事通信は項目3だけを強調して報道した模様。むしろ項目1ほかで自然エネルギーへの協力が強調されてます。大手メディアにご注意を。


《仮訳》

(注:PDF)
http://www.meti.go.jp/press/2011/09/20110914004/20110914004-5.pdf

1. 牧野副大臣とチュー長官は、クリーンエネルギー技術に関する開発と普及にかかる二国間協力について、両国の強い意志を再確認した。彼らは、2009年11月に策定された日米クリーンエネルギー行動計画と、2010年11月に発表したクリーンエネルギー政策対話の顕著な進展を認識した。彼らは、基礎科学、CCS(二酸化炭素の回収貯蔵)、省エネルギー、スマートグリッド技術、再生可能技術、原子力利用の分野において、両国の連携を強化することを確認した。彼らはまた、日本のエネルギー政策の見直しを考慮した上で、クリーンエネルギー技術の開発と普及に関する政策を議論するとともに、日米エネルギー政策対話を通じた協力プロジェクトを推進しその進捗を確認するために、専門家で集まることを再確認した。

特に、彼らは、経済産業省とエネルギー省による以下の方針について再確認した。


• エネルギーの生産と利用を改革する可能性のある革新的エネルギー技術に関する協力

• 実証プログラムと先進的自動車技術の普及促進の協力に関する経験の共有

• レアアース代替材料の開発とリサイクルを含むレアアースの代替に関する研究の実施

• クリーンで効率的なエネルギーの開発と普及に関する沖縄−ハワイパートナーシップにおける、他の島嶼国のモデルとなり得る両島におけるクリーンエネルギープロジェクトの推進

• 化石燃料のクリーンな利用の開発

• 信頼性が高く、安全で、クリーンな原子力エネルギー技術の開発に関する協力の継続

• スマートグリッドとエネルギー施設のサイバーセキュリティを含む国立研究所間の研究協力の深化
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/523.html

コメント [経世済民73] あえて言う、ロシアと「ウィンウィンの関係」になるべし・・バイカル湖経済フォーラムも熱視線 尚林寺
05. 2011年9月15日 05:08:28: NoB4T4uYVg
阿修羅さんへ
まだバカなこと言う人がいるんですね。
「うぃんうぃん」だなんて(笑)
それはダメダメです。
なぜなら、正しくは「売り手よし、買い手よし、世間よし」だからですよ。
世間様が認めないなら、最終的にダメになります。

http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/260.html#c5
記事 [社会問題8] 集団移転自己負担3000万円
09月14日 19時30分 NHK

http://www.nhk.or.jp/sendai/lnews/6005574871.html

仙台市は津波で壊滅的な被害を受けた沿岸部の住民に内陸への集団移転を促す方針ですが、市が用意する土地を買って移り住む場合、被災者の自己負担が3000万円前後になるとする試算=試みの計算をまとめていたことがわかりました。

仙台市は津波で壊滅的な被害を受けた沿岸部の住民について、国の「防災集団移転促進事業」を利用して内陸に集団移転するよう促す方針です。

この事業では、10世帯以上まとまって安全な土地に移転する場合、被災したもとの土地を国と市町村が買い上げるとともに、住宅ローンの利子が406万円を上限に補助されます。

仙台市では、市が用意した内陸部の土地に移り住む場合の被災者の自己負担について、集団移転を検討している地区別に試算を行いました。

それによりますと、およそ170人が亡くなった若林区荒浜地区の南丁では、400平方メートルの土地に住んでいた人が、市が用意した荒井地区の220平方メートルの土地を買って2階建ての標準的な住宅を建てて移り住む場合、2500万円から3300万円の自己負担が必要になります。

また、土地を購入せず借りる場合でも、住宅の建築に1200万円かかり、土地の賃料として月々1万7000円から2万2000円が必要です。

仙台市では、震災前の沿岸部の土地の評価が移転先の内陸部の土地の4分の1ほどであることに加え、いまの制度では、被災した土地は、もとの評価の30%から60%程度の値段でしか買い上げることができないため、自己負担額が3000万円前後に膨らむと説明しています。

仙台市は、今回の試算を受けて、土地の価格が低い別の移転先を用意する検討を始めるということです。

http://www.asyura2.com/10/social8/msg/466.html

コメント [経世済民73] 法人税、5%減税後に4%強臨時増税 政府税調が方針 めっちゃホリディ
09. 2011年9月15日 05:11:55: NoB4T4uYVg
阿修羅さんへ
5番8番そろって落馬しました。
ゴミはいらないよ。
(小学生でも順序立てて考えさせれば、それとは違う結論がでますよ。)

この掲示板のシステムを変えて、"go"ドメインは公開するようにしたほうがいいよ。

http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/257.html#c9

コメント [戦争b8] リビア国民評議会議長「憎悪や不正拒否を」 首都で演説 ダイナモ
01. 2011年9月15日 05:14:14: NoB4T4uYVg
阿修羅さんへ
国民評議会は政権に参加してはならないでしょうね。
なすべきことをなしたら、あとは静かに去るものです。
さもなくば「傀儡政権」の蔑称がつき纏うことになります。

http://www.asyura2.com/11/warb8/msg/175.html#c1
コメント [お知らせ・管理20] 申し訳ありませんがコメントの削除をお願いします。 kanegon
04. 2011年9月15日 05:18:06: 70f5M5GcXE
>>3

自分と同調しない意見のIDや特定人物の信用を貶めるコメントの削除をOKにしたら
kanegon氏とペリマリ氏のコメントは、概ね削除OKになってしまう。

これは、kanegon氏とペリマリ氏のコメントは、自分と同調しない意見のIDや特定人物の信用を貶めるものばかりだ。

そうした人物同士で、仲間のような相手だけを例外的に、信用を貶めたから削除してくれというのは身勝手

というkanegonへの皮肉だろ。
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/294.html#c4

コメント [戦争b8] シリア 戦車にも屈しない決起の波 反帝国主義の見せかけによる反動的専制維持はもう不可能  エリック・ルーダー ダイナモ
17. 2011年9月15日 05:18:36: NoB4T4uYVg
阿修羅さんへ
民意ねぇ…日本の売国右翼の妄想も民意だからねぇ…。

報道から垣間見えるのは、意外にも血気盛んなのは中年オヤジで、若者は冷静に事態を見ていることかな。

http://www.asyura2.com/11/warb8/msg/164.html#c17

コメント [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞)  赤かぶ
01. 2011年9月15日 05:19:16: oWbillhalg
こんな計算はとっくに判っている。今頃何を。。
こんな素人でも10分で計算出来ることは、除染の話が出た段階でもっと早く!

下記URLに書いた私の過去の試算では、文科省+米国航空機モニタリング地図による4月末時点での、チェルノブイリ移住義務区域(55万ベクレル/u以上)に相当する地域940km2(下記参照URLにある地図の赤色と黄色区域=原発から飯舘村にかけた話題の地域)だけでも0.0752km3(=7500万m3=底面直径1Km高さ300mの小山一つ分)だ。
55万ベクレルをわずか下回る移住予備軍の緑色区域(これもその後の蓄積で増えているだろうし4月末時点でも十分除染対象だ)を入れれば(総合計1390km2)、1.47倍の1億1100万m3となり、直径1Km高さ450mの小山が出来るほどだ。

更に言えば下記URLのコメントでも書いたが、実は掘削や鋤取りなど土工事における実際の出土量の積算では常識だが、計算上の実体積を1.3〜1.5倍するのである。なので土量は、7500万m3は9750万〜1億1250万m3に、後者は1億4400万〜1億6700万m3が実際の出土量である。

つまり実際の土のカサではチェルノブイリ移住義務区域相当で山の高さは390m〜450mに、移住予備軍区域まで入れれば山の高さは570m〜660mにもなる。ちょっとした自然の山の大きさだ。
私が下記URLのコメントで、山に見立てた計算は、底面直径を計算上978mにしてるので、山の高さは上の表記よりもう少し低くなるが、手に負えない巨大な小山になると言う意味でたいした違いはない。

記事の専門家とやらがどの地域を対象にしてるかまったく書いてないが、最小限地域でも1億m3どころではないのである。

こうして御用専門家や普通の専門家であっても常に過小評価する習性があるのである。専門家の話など鵜呑みにしてはいけない。ネガティブな問題についてだけは専門家の評価というのものは100%過小評価である。

すべての記事、専門家は素人が試算や論理の前提まで調査しないのをいいことに、条件を除外したり無視したりして必ず前提を都合良くしているので、報道や発表の数字はウソと判断し騙されてはいけない。

除染による出土量の試算
http://www.asyura2.com/11/genpatu15/msg/690.html#c17
http://www.asyura2.com/11/genpatu15/msg/783.html#c6
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html#c1

コメント [原発・フッ素16] 本当はヒマワリで放射能除染は出きないらしい!根拠のない風説の流布 かえって負担増との見解も (日々雑感)  赤かぶ
11. 2011年9月15日 05:27:54: QPAC8YyYPc
短期間で結果が出るわけねえだろ!!馬鹿じゃねえ〜政府!!
土を削れば良いって言ってたけど、その土はどうすんだよ!!
どうせ政府は、他県に持ち込むんだろ!?
短期間で、放射能無くそうなんて、神しかできんわ!!
まだ政府は、解っていない。
それだけの大きな事故を起こしたってことを・・・・

1パーセントでも可能性があれば、やればいいじゃん!!
復興をする気あんのか?

1パーセントでも結果が出れば、効果あるって事じゃねえの?

そもそも、依然放射能を出し続けてる原子炉をコンクリートで固めないことが
疑問。

まさか、再利用をするつもりか?

石棺に、するべきでは?


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/492.html#c11

コメント [昼休み50] お金は人を幸せにするか――お金と幸福の関係・2ch(老害への年金支給は、農地購入券という現物支給にすべきです) 小沢内閣待望論
01. 2011年9月15日 05:31:31: NoB4T4uYVg
阿修羅さんへ
うんこなうですか…unknownですか…。
金は単なる道具。
自分の子どもも道具。
結婚相手も道具。
会社も道具。

何の道具って「幸せになるための」に決まっているじゃないですか。
道具だから集めすぎると不幸になるんですよ。

http://www.asyura2.com/11/lunchbreak50/msg/556.html#c1

コメント [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞)  赤かぶ
02. 2011年9月15日 05:32:45: oWbillhalg
1追加
チェルノブイリの避難区域や実際問題として平時の土壌レベルから考えれば、福島県全土をやらなければ話にならない。私の試算の1億〜1億7000万m3の7倍は出ると言う話しだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html#c2
コメント [経世済民73] 復興が必要なのに投資が増えない sci
01. 2011年9月15日 05:36:26: n3LZkvj01I
復興復興言う前に東北のあのあたりに本来の意味での投資価値があったのかどうか
よく考えてみるべきだね
復興したあとに元が取れなくちゃ「投資」にならないでしょ
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/268.html#c1
コメント [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞)  赤かぶ
03. 2011年9月15日 05:46:54: oWbillhalg
度々01追加。失礼

記事の剥ぎ取り5cmなども過小評価もいいとこだ。すでに表土から10cm、15cmまでセシウムが潜り込んでるのは先般の福島の土壌調査で判明している。「これまでの説より想像以上に早く浸透している」という調査関係者のコメントさえ出ているのは周知のとおりだ。
おおざっぱに言っても最低10cmは剥ぎ取らなければ安全は保証されない。私の試算は10cmでやっているが記事の試算が5cmということは、私の試算の倍の広さを対象にしているということだから、その記事にならった対象範囲で私の試算を読み替えれば1億〜1億7000万m3ではなく、2億〜3億4000万m3ということになる。
記事の出土量は、1/2〜1/3以上も過小評価なのである。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html#c3

コメント [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞)  赤かぶ
04. 2011年9月15日 05:48:54: 7XzrrDw7Tw
確かに遅すぎる試算結果の発表だ、この手の数字は当初はかなり控え目に抑える感が有るけれど、 それでも東京ドーム80杯分ですと? どうしろと? これは無理、絶対無理! 銭の無駄! やめておけ!
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html#c4
コメント [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞)  赤かぶ
05. 2011年9月15日 05:53:11: oWbillhalg
訂正

× 記事の出土量は、1/2〜1/3以上も過小評価なのである
○ 記事の出土量は、実際の1/2〜1/3以下という過小評価なのである

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html#c5

コメント [経世済民73] ようやく報じ始めた日経 (国家破綻)・・半鐘すら打てないでいた大手経済紙が 尚林寺
04. 2011年9月15日 06:07:44: MZmjT3EqZc
そもそも最初からわかっていた話。

だいたい年金とか「払えたらいいなあ」がせいぜいで「払える」って言い張った時点で狂ってる(数が数えられない)=100%今の社会は滅びる。

10年前には戦争世代のじじいは皆、年金=ネズミ講だって言ってた。
そうは言っても貰ってた。なかなか死ねんもんですよ。痛いし。
=対策=
いきなり安楽死国営化は難しいので、まずは「団塊の世代死刑(罪状は殺人)」から入る。団塊に任せときゃそうなるようにし向けてくれる。間違いない。
あとは自由。全部うまくいく(むろん障害年金とかは別)。

明らかに市場原理も神の見えざる手も働いている。

何一つ問題ない。
人類は滅びたりしない。そもそも今、人類1万人くらいしかいないから。
うじゃうじゃいるのは人類じゃない何か。


http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/237.html#c4

コメント [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞)  赤かぶ
06. 2011年9月15日 06:18:09: oWbillhalg
まぁ、土壌除染は、誰もが納得出来る汚染出土の管理と税の無駄使いにならないことを十分検討したうえ、それが出来るならやらないよりやったほうがマシだが、住むことと破壊寸前のコミュニティの再建を考えた場合、なにより集団疎開や集団的な移動で新しい地域社会を作れるようなまとまった土地の提供を平行してやるのがなにより必要だ。
コミュニティを取り戻せるだけの十分な除染など出来もしないのに、そこに返すことだけを一方的に考えるのは間違っている。第2の悲劇と苦難を生むだけだ。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html#c6
コメント [原発・フッ素16] [疑惑の報道]時事通信「米国は日本に原発での主導を期待」 (低気温のエクスタシーbyはなゆー) 潜艦トマト
01. 2011年9月15日 06:18:18: qv02J3xCTA
国は阻止せよ
こんな事は許されない
本来なら、東京電力を送電線資産を切り離すくらいの処置があってもいいくらいだ。

http://blog.livedoor.jp/jyoushiki43/archives/51796620.html


【経済】東電、値上げ期間は3年間を想定 賞与半減終了も同時


1:西独逸φ ★ 2011/09/14(水) 05:48:12.37 ID:???0

来年度から15%程度の電気料金値上げを検討している東京電力が、値上げの期間を3年間と
想定していることが13日、分かった。

定期検査で停止中の原発が3年以内に再稼働すれば、火力燃料費の増加という値上げの
理由がなくなるため。値上げが終了する2015年度には、削減中の社員賞与の水準を元に
戻すことも検討している。

東電は、これらの意向を、原発事故の損害賠償に向けて同社の資産を調査している政府の
「東電に関する経営・財務調査委員会」に、非公式に伝えた。

調査委の会合では、東電のそもそもの電気料金の算定について「過去の電気料金の見積もりが過大」
と批判が出ている。

ソース
asahi.com http://www.asahi.com/business/update/0913/TKY201109130674.html



2:名無しさん@12周年 2011/09/14(水) 05:49:44.97 ID:5KfbrK4Y0


会長・社長・歴代役員を処刑しその家産を全て没収しろ。
社員の給与を5割カット・賞与なし・企業年金5割カットしろ。
話はそれからだ ばかやろー。

452:名無しさん@12周年 2011/09/14(水) 06:57:33.88 ID:x2LlMHcK0

>>2
それじゃ足りない。
東電社員元社員とその血族姻族の資産を全て凍結して、
かつ全員懲役刑ということで無償で業務に携わらせるべき。
手抜きさせないように完全監視状態下におき、
手抜きが発覚したら処刑で対応すればよい。

4:名無しさん@12周年 2011/09/14(水) 05:51:51.67 ID:aXw8gVIt0


東電の社員すべてに責任あることでもないのに
賞与半減っていうのはさすがに厳しすぎのような
住宅や車のローン持ってる社員だっているだろうに

6:名無しさん@12周年 2011/09/14(水) 05:53:20.87 ID:OBmWo4j40

>>4
ボーナス半減しても余裕で生活できるレベルじゃんwww
避難民よりはるかに良い生活できてるのに贅沢すぎ

5:名無しさん@12周年 2011/09/14(水) 05:51:53.98 ID:jPCIQnfo0


なめてるねぇ
家族なくして被曝した福島の人が
東電に自爆テロするくらいにならないと性根を入れ替えないんだろうなぁ

150:名無しさん@12周年 2011/09/14(水) 06:15:43.36 ID:SCZIw0W40

>>5
自爆テロなんかされたら、「東電も被害者だ」って威張るんじゃね?

東電の社員と役員が全員殺されたとしても、
殺した人をかばう動きが出るのは間違いないけど、
だからといって犯罪やっていいわけでもない。

7:名無しさん@12周年 2011/09/14(水) 05:53:28.96 ID:ATi3lbe50

だんだんあつかましくなってきたw

10:名無しさん@12周年 2011/09/14(水) 05:54:32.89 ID:gWhNOCVq0

いきなり値上げじゃなくてまずは給料ぎりぎりまで下げろよ。
事故後に出たボーナス返上させろ。
清水からは退職金5億も出たらしいがそれも返上させろ。
そもそもそれまで電気代ぼったくってたんだろ?


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/523.html#c1

コメント [原発・フッ素16] [疑惑の報道]時事通信「米国は日本に原発での主導を期待」 (低気温のエクスタシーbyはなゆー) 潜艦トマト
02. 2011年9月15日 06:20:20: qv02J3xCTA
日本はドイツの後を追いかけることだ
もう地上に太陽なんてあほらし

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/523.html#c2
コメント [経世済民73] 復興が必要なのに投資が増えない sci
02. 2011年9月15日 06:20:45: v0f1vdXQfw
原発がまだ収束もしてないのに復興復興って・・・バカの一つ覚えか。
今後住めるかどうかもわからないとこに投資するアホはおらんやろ。
10年後。東北北関東一帯はガンだらけ。
そんなんなったら回収できんわな。
http://www.asyura2.com/11/hasan73/msg/268.html#c2
コメント [原発・フッ素16] 保安院:3月12日にベント失敗時大量の放射線放出を予測していた・・・〔問題はそれを発表しなかったこと〕 ぼちぼちいこか。 赤かぶ
01. 2011年9月15日 06:26:18: qv02J3xCTA

http://news4vip.livedoor.biz/archives/51826837.html

【東電は】受けた屈辱的な仕打ちに反撃、原発作業員の食事無料支給を打ち切りなど【神】
2011年09月15日 コメント(134) 痛いニュース
1 依頼482(兵庫県) 2011/09/14(水) 20:39:44.57 ID:NyadBRkS0 ?PLT(12345) ポイント特典
節電の夏が終わり、東京電力が“逆襲”に転じている。原発事故を人災と断じたメディアに「甚だ遺憾」と抗議し、衆議院に対しては、事故時の操作手順書の大半を黒く塗りつぶして提出。来年度以降の電気料金を値上げし、半減した社員の賞与を元の水準に戻すことを検討しているとの情報もある。その一方で、福島第1原発で命がけで働く作業員に対しては食事の無料支給の打ち切りを決定。批判はますます強まりそうだ。

のど元過ぎれば…を地でいくように、東電は3・11以前の“殿様商法”に戻り始めている。福島第1原発で収束作業にあたる作業員に対し、「感謝の気持ちは変わらない」としつつ、これまで無償で提供してきたレトルト食品やパンを、13日から有償に切り替えた。

もともと食事の無償提供は、あまりに粗末だった作業員の食環境を改善するため、細野豪志首相補佐官(当時)の声かけで5月に始まったもの。今回の冷酷な仕打ちで、作業員のモチベーション低下が懸念される。

「東電が作業員に支払う日当は数十万円などといわれていますが、何重ものピンハネによって、実際に作業員が手にするのは1万円程度。この先、何十年も事故処理が続くかもしれないのに、こんな仕打ちで誰が命を張れますか。年収1000万円を超える東電の社員や、約5億円の退職金を受け取ったとされる清水正孝前社長以下、歴代役員は何も感じていないのでしょう」(同原発の取材を続けるライター)

東電の無神経は、作業員に対してだけではない。同社は衆院科学技術・イノベーション推進特別委員会の求めに応じて、過酷事故に対処する手順書の一部を12日に開示したが、機密などを理由に、開示したのは黒塗りの表紙と目次だけ。

(中略)

身内に甘く、作業員、利用者、被災者に厳しい東電の体質が徐々にあらわになってきた。

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110914/dms1109141147008-n1.htm

4 名無しさん@涙目です。(三重県) 2011/09/14(水) 20:41:08.31 ID:OAxQTo880
福島県さんが怒っちゃうだろ…

6 名無しさん@涙目です。(東京都) 2011/09/14(水) 20:41:39.37 ID:3gz5t1sf0
こういうのを報道するのが大マスコミの使命なのに

9 名無しさん@涙目です。(宮城県) 2011/09/14(水) 20:42:13.55 ID:U4/wJ7iL0 [1/2]
冬のボーナスもでるんだろ?
原発テロしといてなんつう優良企業だよ

13 名無しさん@涙目です。(東京都) 2011/09/14(水) 20:42:56.26 ID:nisGG/FO0
ふざけんな
東京ガス早く潰れろ!!

14 名無しさん@涙目です。(群馬県) 2011/09/14(水) 20:43:05.97 ID:JBmDsi9g0
マスゴミが全然叩かないからな。
公正な報道(笑)

18 名無しさん@涙目です。(WiMAX) 2011/09/14(水) 20:43:59.62 ID:uLcHsmMN0
死にたきゃ働きに行け。
労災もないし、下手すりゃ一週間で急性白血病だ。


236 名無しさん@涙目です。(不明なsoftbank) 2011/09/14(水) 21:07:39.72 ID:mB/Px/L80
>>18
(´・ω・`)・ω・`) キャー
/  つ⊂  \  怖いー
10 名無しさん@涙目です。(東京都) 2011/09/14(水) 20:42:30.54 ID:Zcl/6Usf0
東北、赤十字に寄付じゃなく、福一の作業員に寄付って出来ないもんかのう。

55 名無しさん@涙目です。(埼玉県) 2011/09/14(水) 20:49:25.06 ID:kR6G04L30
>>10
中抜きされます

15 名無しさん@涙目です。(関東・甲信越) 2011/09/14(水) 20:43:20.47 ID:bGwJwR37O
多分本気でなにも悪い事してないと思ってるよ
自覚がないぶん余計恐いわ

21 名無しさん@涙目です。(dion軍) 2011/09/14(水) 20:44:15.88 ID:kJvNfyRJ0
日本一のホワイト企業だな
羨ましかったら東電に入るべき

28 名無しさん@涙目です。(東京都) 2011/09/14(水) 20:45:42.19 ID:K0XwRX8B0 [1/7]
東電社員「日本中に放射能撒き散らしたから夏のボーナスは平均80万程度でしたwwチョーツレーwwww」

31 名無しさん@涙目です。(関東・甲信越) 2011/09/14(水) 20:46:06.40 ID:kU263ar3O
東電に対してケジメとれる政党ってどこよ?
共産党以外で。みんなか?

101 名無しさん@涙目です。(新潟県) 2011/09/14(水) 20:54:30.00 ID:jsvWEtcr0 [1/5]
>>31
ないよ。あれは独裁者だから政治家じゃ倒せない

33 名無しさん@涙目です。(千葉県) 2011/09/14(水) 20:46:14.10 ID:V3rcRcTR0
やはり組織解体と1時国有化は必要だわ。

http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/518.html#c1

コメント [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞)  赤かぶ
07. 2011年9月15日 06:37:06: h69tTYryng
チェルノブイリやベラルーシでは人口密度が低く土地を放棄した。
日本はフクシマといえども人口密度はこの100倍。
農水省の結果でも5cm除染すればかなり低減出来るのは確かのようだ。

フクシマの平均地価を1平方mで3千円と試算すると2千平方キロでは
約6兆円になる。
除染の費用も恐らく同じ程度になると思われる。
フクシマの収束には総額で今後数十兆円は必要と予想されているので
6兆円はまあ妥当な数字。
ただ01さんが言うように汚染土の置き場が問題。
チェルノブイリやベラルーシでは永久放棄を選択したがフクシマでは置き場がない。富山のカドミウムは今でも黒部の工場敷地に高さ20m、幅50m、長さ500mの
保存区域で保存している。
やはりフクシマ第一に高さ20m、幅1000m、長さ5000m中間貯蔵地域を
設置して数百年はそこで保存するしかないだろう。
当然被爆の危険性があるので半径20キロ以内は居住禁止区域となる。


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html#c7

コメント [原発・フッ素16] 再生エネルギーに舵を切れ 伊予次郎
07. 2011年9月15日 06:40:07: ACayQGlEcQ
 私も賛成です。現在すでに起きている火力発電用燃料の値上がりが将来も続くことを考えれば、火力発電だけで万歳と言うわけにはいかない。また、地球温暖化対策も考える必要がある。火力発電にまったく問題がないなら、太陽熱発や風力発その他を考える必要などないはずだ。

 しかし再生可能エネルギーや蓄電池の開発には何十年と言う期間がかかるだろう。それまでは、原発は危険だが、使わざるをえない。それに、何十年と言う期間があれば、その間に原発のより安全な管理技術、ロボットなどの原発事故への対処技術も向上し、より安全な原発も開発されるだろう。エネルギーは出来るだけ選択肢を広くし、いざという時の世界のエネルギー情勢の変化に対応できるようにしておくことが大切だ。

 再生可能エネルギーの開発に一つだけ心配な点を挙げれば、これらの技術にはそれほどハイレベルではない要素が多く含まれていて、生産拠点を中国やインドなどの後進国と言ってはなんだが、労働コストの安い国に取られてしまう恐れがあるという点である。つまり、賃金が高くて技術力も高い日本の労働者を使ったのでは、技術力も低いが賃金も低い後進国の製品に価格面で対抗できないということだ。それはそうでしょう。風車なんて、ドン・キホーテの時代だって作れたのだから。ヨーロッパ諸国も、そういう点で、苦慮しているらしい。多摩散人。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/477.html#c7

コメント [原発・フッ素16] フランス原発 また 爆発か マルクール原発 (BBCニュース) 宮島鹿おやじ
46. 2011年9月15日 06:41:48: ULnwgHGaF6
恵也 様

ありがとうございます。
安心しました。

でも、これでフランスも早く目を覚まして欲しい。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/454.html#c46

コメント [原発・フッ素16] ドイツの脱原発を実現したZDFフィルム動画第7回、解説(偉大なゲイのベルリン市長)、翻訳シナリオ。 msehi
01. 2011年9月15日 06:47:22: F4UwWMvzZA

原発報道と記者クラブ 田中康夫/上杉隆

http://www.youtube.com/watch?v=Edp3zOFXajs
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/521.html#c1

コメント [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞)  赤かぶ
08. 2011年9月15日 06:49:30: qv02J3xCTA
電力会社のために節電をお願い致します。
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html#c8
コメント [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞)  赤かぶ
09. 2011年9月15日 06:49:44: vm8v3hG2Cw
できない
http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html#c9
コメント [原発・フッ素16] 除染対象、福島全土の7分の1 専門家が最大値試算 (朝日新聞)  赤かぶ
10. 2011年9月15日 06:53:35: qv02J3xCTA
【経済】東電、値上げ期間は3年間を想定 賞与半減終了も同時


1:西独逸φ ★ 2011/09/14(水) 05:48:12.37 ID:???0

来年度から15%程度の電気料金値上げを検討している東京電力が、値上げの期間を3年間と
想定していることが13日、分かった。

定期検査で停止中の原発が3年以内に再稼働すれば、火力燃料費の増加という値上げの
理由がなくなるため。値上げが終了する2015年度には、削減中の社員賞与の水準を元に
戻すことも検討している。

東電は、これらの意向を、原発事故の損害賠償に向けて同社の資産を調査している政府の
「東電に関する経営・財務調査委員会」に、非公式に伝えた。

調査委の会合では、東電のそもそもの電気料金の算定について「過去の電気料金の見積もりが過大」
と批判が出ている。

ソース
asahi.com http://www.asahi.com/business/update/0913/TKY201109130674.html


http://www.asyura2.com/11/genpatu16/msg/522.html#c10

記事 [原発・フッ素16] 『福島の原発事故をめぐって』山本義隆著(Supersymmetry Brothers)原子力は人間に許された限界を超えている
長塚洋一さんのブログ Supersymmetry Brothers より転載

なかなか1000円で読めるみすず書房の本はお目にかかれませんが、
「熱学思想の史的展開」やったと思うんですけど、その著者の山本義隆さんの


Supersymmetry Brothers
@Rotsk / Yo1 Richard Otsuka(昼寝中)


2011年9月15日 (木)

『福島の原発事故をめぐって』山本義隆

みすず書房 2011

山本義隆さんは、先方は知らないだろうが、私の恩師である。確か、二年にわたって駿台予備校で授業を聞いた。物理学科に進みたい割には物理の成績がもっとも悪かった僕には実際、恩人みたいなもんです。そのため、最初に読んだ山本さんの著書は、駿台予備校の物理のテキストということになる。次が、名著『磁力と重力の発見』だ。この三分冊の書物は科学史をやることの重要性を教えてくれた。

本書は、みすず書房の雑誌『みすず』に寄せる予定の文章がおもわず長くなり、単行本で出す事になったのだという。本人が「あとがき」で触れているとおり、特別なことが書かれているわけではない。やはり、多くの人と同じように事故以降に関連する文献を集め、自分なりの理解をして意見をまとめている。ただ、科学史的な視点が提供されているところはさすが著者ならではだと思う。

「実際、原子力(核のエネルギー)はかつてジュール・ヴェルヌが言った「人間に許された限界」を超えていると判断しなければならない。

 第一にそのエネルギーは、ひとたび暴走をはじめたならば人間によるコントロールを回復させることがほとんど絶望的なまでに大きいことが挙げられる。石油コンビナートが爆発し火災を起こしても、何日かせいぜい何週間で確実に鎮火され、跡地に再建可能である。しかし、チェルノブイリにしてもフクシマにしても、大きな原発事故の終息には、人間の一世代の活動期間を超える時間を要する。そしてその跡地は何世代にもわたって人間の立ち入りを拒む。このような事故のリスクは個人はもとより企業でさえ負えるものではない。そのうえ、廃棄物が数万年にわたって管理を要するということは、どう考えても人間の処理能力を超えている。

 第二に、原子力発電は建設から稼働のすべてにわたって、肥大化した官僚機構と複数の巨大企業からなる”怪物”的大プロジェクトであり、その中で個々の技術者や科学者は主体性を喪失してゆかざるを得なくなる。プロジェクト自体が人間を飲みこんでゆく。」

どうですか。普通ですよね。ひらたく言えば、これは、人間の手に負えない、という感覚である。それを言うために、資料を集め、歴史を書かれている。一読しての感想は、ああ、普通の感覚だよな、というのにつきる。

僕は、山本さんの書かれる”怪物”的プロジェクトについては、巨大プロジェクトが”怪物”的になるのはどういう場合なのかについて、本当は、もう少し丁寧な議論が必要だと考えている。実行可能性の点では、日本における官民合同の巨大プロジェクトでも、例えて言えば、軍隊を動かすのに必要になるような規律と緊張がある政府組織が管理するなら何とかなるのではないかという気がしている。日本でも、原子力発電以外にも、たとえば銀行のオンラインだとかダム建設だとか空港建設だとかの巨大プロジェクトはあり、それらが全部だめだったかというとそんなことはもい。僕自身は、原発がなぜこのようなプロジェクトになってしまったかについては、もう少し先まで考えつもりなので、興味ある方は『新原発お節介学入門』のタイトルの過去記事をごらんください。本書についても、その第6回で、戦後の核エネルギー開発が核兵器開発できる技術の維持に力点がおかれていた政治的な背景を解説している参考書として例示している。

この本では、昔日の東大全共闘議長の面影も垣間見える。それだけ、怒りが深いと僕は受け取った。静かな抑制のきいたいつもの文体だが、否定の迫力が違う。この問題に向き合う一科学者の書物として参考に読むというよりも、連帯のために読みたいというような性質の本だ。1000円で買えるみすず書房の書物は少ない。というか、ない。出版社も気持ちを入れて作った本だと思う。本屋で見ても、凛として浮き立って見える。駿台生や物理好きだけでなく、多くの人に読まれる事を願う。

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