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2011年2月18日21時55分 〜
記事 [お知らせ・管理19] クマのプーさん、タイトル規定をご理解いただけるまで投稿可能数を0にしておきます。
あり得ない情報を流し、世論を煽る!?―前原氏、トップ維持=次期首相にふさわしい人―時事世論調査
http://www.asyura2.com/11/senkyo107/msg/826.html

<ニュースや他サイトを引用師、引用がメインの場合>には、
●投稿の【件名の頭から30桁以上は、元記事のタイトル】を使ってください。

同じ記事を別の方が引用投稿するのを防ぐためにこの規定があります。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/571.html

コメント [お知らせ・管理19] 板を間違ってしまいました。削除お願い。 tk
03. 管理人さん 2011年2月18日 21:58:23: Master
消しておきました。

>>01 対応しておきました。
クマのプーさん、タイトル規定をご理解いただけるまで投稿可能数を0にしておきます。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/571.html
投稿者 管理人さん 日時 2011 年 2 月

>>02 板違いとはいえない。

いつも、各種のチェック報告ありがとうございます。
引き続き気になった投稿を教えてくださいませ。

http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/570.html#c3

記事 [お知らせ・管理19] 稲垣勘尚さん、文字数不足違反です。投稿規定をご理解いただけるまで投稿可能数を0にしておきます。
200文字未満の投稿規定違反です。

親愛畏敬の民主党「2・26⇒2・16将兵」殿・・
http://www.asyura2.com/11/senkyo107/msg/729.html
投稿者 稲垣勘尚 日時 2011 年 2 月 18 日 00:35:31: Je/tdYZdw47GA

このような投稿を政治板にすることは投稿規定違反です。
雑談、昼休み、などに投稿するならOKですが。

この投稿は削除しておきました。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/572.html

コメント [環境・エネルギー・天文板4] 太陽は太陽系内外から飛來するUFOの中繼基地なんだらうか 不動明
03. 2011年2月18日 22:02:13: nJF6kGWndY
人工衛星が映っているだけでは。。

>想像を絶する大陸や海をもった超弩級地殻天体

そもそも根拠がない上に
どんな物体が、核融合の膨大な高熱下で固体を保っているのかね
南極からUFOが出入りする地球空洞説とか、ヤマトの木星の浮遊大陸並みのトンデモだな

http://blogclub.livedoor.biz/archives/51497960.html
フォトン・ベルトの嘘と真相について完全解説します!

フォトン・ベルトが全くのガセネタであるという事実に関しては以前にも画像を紹介しながら説明した。日本でも数少ない不思議・謎学のまともな作家や、所謂アカデミズムの代表である物理学者や天文学者は鼻から相手にしないといおうかあまりに荒唐無稽で完全否定されている。当然なのだが、こうして取り上げる必要もない位馬鹿馬鹿しい話なのである。

ところが、たまに我がブログをアクセス解析すると、私の記事に未だにフォトン・ベルトというキーワードで検索してくる人々が多いのである。また友人の中にも私が否定しているのに信じてはいないだろうが、何か期待しているようであるそぶりを見せるのである。実に危険である。という観点から一般のこういうカテゴリーにあまり詳しくない方にも100%判る様に具体的な情報を提供しようと思う次第である。(しかし、打ち込むのが面倒臭いのである!)

それと未だに、フォトン・ベルトとマヤ歴を結びつけ2012年が・・・というインチキゲンチャー達、が多いのでそれに対する警鐘をも兼ねて懇切親切丁寧に解説しよう。

先ず、指摘しておきたいが、「フォトン・ベルト神話」を考え出した者と、広めた者が別々に存在し、いつの頃かフォトン・ベルト神話が一人歩きしだしたため、つまりさまざまな要因が重なり、世にその事実がはっきり伝わらない原因でもあった。

もっと判りやすく云えば、どこかの天文学者が重大な事例を発見し、それを学会に発表し、且つマスメディア等に持論を展開したり講演会などを通して主張している・・・という一貫した一般的な経緯では全く無い。

<<ペガサス座のメンカリナン銀河>>

フォトン・ベルト画像


★A、「フォトン・ベルトは1961年に、科学者ポール・オットー・ヘッセによって発見された?」
後で重複しますが、これからスタートしましょう!

回答ー1961年当時、プレヤデス星団方面を正確に観測出来る性能のハッブル宇宙望遠鏡の様な観測衛星や地上の天文台は存在しなかった。

 つまり、観測した年度の技術的な実情と、出回っている画像の存在は矛盾している。

回答ー科学者という肩書きのポール・オットー・ヘッセは実はSF作家であった。

★B、「フォトン・ベルトと太陽系の位置関係について!」

1、「私達の太陽系は、銀河系を2万4000年かけて一周する。この間に地球は1万1千年の闇の時代と、2000年間ドーナツ状のフォトン・ベルトを通過する光の時代があり、まさに1987年から突入し始めた?」<11000X2+2000=24000>

2、「太陽系が、アルシオーネという星を中心にして、6個の星を含むプレヤデス星団と、プレヤデス星団に対して縦にドーナツ(リング)状に存在するフォトン・ベルトを、アルシオーネを周回する際に通過するという?」

 ◆或る専門誌に載ったこの解説文の翻訳文が日本ではたらい回しにされている。そして、上記の解説文は若干私が判り易いように推敲したものだが、わざと矛盾部分を残している。

・・・この文章から正しい位置関係を推測できる人間は超天才か馬鹿のどちらかだ!はっきり云えば全く意味不明である。こんなものを堂々と印刷物で紹介する大人や出版社がいるのだから実に不思議である。「世界不思議発見」の草野さんに取材に行くように連絡しようか?

回答ー参考までに、太陽系が銀河系内を一周する時間は、2億2600万年です!

回答ー1と2の説明の矛盾については判りますかね!?

太陽系は銀河系全体を周回はしますが、銀河系の中のプレヤデス星団という小さいものを中心にして、公転・周回はしません。ましてやアルシオーネという星が銀河系の中心などではありません。滅茶苦茶ですね!

こんな単純な判りやすい出鱈目を文章を読んで理解出来ない人々がいること自体が驚きである。

因みに、私の知る限り我々の太陽系が周回している我が銀河系星雲の中心に位置する恒星、もしくは惑星の名称など存在しないし、どの星もしくは星の集団系が中心だという主張も聞いた事がないし。位置関係からも特定することは不可能だと想う。

尚、インターネット上、我が「銀河系星雲の中心の恒星、もしくは惑星、又は星の集団系」が「特定されていない」という着眼点に関しては私以外には皆無であるが、こうして記載するのも馬鹿々しい。

3、「ドーナツ状の形を維持したままのフォトン・ベルトの存在性について?」

回答ー物理学の観点から述べると、フォトン・ベルトと呼ばれる画像と、その説明文の様に、所謂光子は特定の位置に停止、留まることは出来ないのです。故に、ドーナツ状という形を維持したまま光が停留するという現象は考えられない。皆さんの家庭の照明は一度光ると、電源を切ってもそこに停留しますかね?もし、すれば地球は、この世は常に光だらけになるはずですよね。物理学上の光子の詳細は、『ウィキペディア』でもご覧になれば宜しいでしょう。(因みに、私は現代物理学を少し否定していますが!?笑い^^!)

★C、「フォトンベルト・ストーリーは誰が提唱したのか?」

回答ー1981年8月、オーストレリアの女子学生、シャーリー・ケンプが、オーストレリアのUFO研究会の機関会誌「オーストレリア国際UFO空飛ぶ円盤研究誌」(Australian UFO Flying Saucer Research Magazine)12月号に「フォトンベルト・ストーリー」というシームで掲載したのが原点である。

現在、彼女は有名な核施設の物理学者となっているらしい!?しかし、未だにその事実はつかめません!?シャーリー・ケンプの存在自体が怪しく、実在するという証明もされていないし、聞かない。

回答ーオーストレリアの天文台か学会にTEかFAXして職員名簿を確認すればよいのですが、お金が掛かるし、どうせ出鱈目なので私はしません。このガセネタでたらふく荒稼ぎした船井系の連中こそ責任を持って事実確認するべきである。彼らに取ってこの程度の通信費など安いものである。

★D、「誰が広めたのか?」

回答ーそして、10年後の1991年に、サウスオーストレリアの著名なUFO研究家が、有名なネクサス(Nexus)マガジンの2月号に「フォトン・ベルト物語」という記事で掲載紹介した訳です。二番煎じといおうか、焼き直しですね。

回答ー或る作家(クレア・ウィリアムス)が、そのUFO研究家から聞いた話によると、彼女の情報元について問うたがはっきりしなかったらしい。

「作中登場するホセ・コマス・ソラという人物が、1961年にプレヤデス星団の中に、局所的にフォトンエネルギーが集中している未知の高エネルギー空間域があり、それを「フォトンバンド」と名付けた。未知の高エネルギー空間域の導入には、反物質や反陽子などの名と著名な学者の名も引用されている。」

回答ーホセ・コマス・ソラという人物も以前日本では確認されていません。

極めつけは、あのエドモンド・ハレーが引用され、科学者ポール・オットー・ヘッセに引き継がれ歴史上初めてフォトン・ベルトを発見し、「ゴールデン・ネピュラ」と銘々したという。そして、彼はフォトンバンドに突入すると人類に大変な災害や氷河期などが迫ると主張した訳ですね。

回答ー因みに、フォトンは毎日太陽から地球に降り注いでいます。

回答ーエドモンド・ハレーが、フォトン・ベルトを発見したなどという実績・事実は報告されていない。(いちいち記載するのも面倒臭い!)

回答ー科学者という肩書きのポール・オットー・ヘッセは実はSF作家であった。

★E,「更に、拡大解釈や画像の引用など世界的に広がった原因と経緯は?」

回答ー経緯1、そして、更に10年後の1991年、所謂ニューエイジ系の活動家のロバート・スタンレーとバーバラ・ハンド・クロウという人物達が、「ユニカス」という専門誌に、「フォトン・ゾーン・地球の未来は輝く」という記事を投稿した。

回答ー経緯2、そこで、ロバート・スタンレーは、1996年にハッブル宇宙望遠鏡が捉えた画像の中の一枚、ペガサス座のメンカリナン銀河に縦に覆いかぶさる光の帯に注目したのである。そして、それこそがフォトン・ベルトだと発表したのである。

回答ーハッブル宇宙望遠鏡が捉えた都合のいい画像は、手前に別の銀河が重なって見えただけのものである。光って見えるのは塵やガスが背景となり照らされているからである。

回答ー経緯3、更に、相棒のバーバラ・ハンド・クロウは、何とチャネリングにより地球外知的生命体(本人曰く)からのテレパシーを受け、「プレアデス銀河の夜明け」を書き発表した。

回答ーこの辺りから、チャネリングなどが始まる!

回答ー経緯4、そして、どこかの工作機関の意図的な操作があっての事かどうかは私に証明する力はないが、あまりにこの出鱈目が世界的に同時期に提唱・引用される様になった経緯は怪しいと想う。
そして、現在いい加減な団体やインチキゲンチャー(作者の造語)や一部宗教家が、誠しやかに未だに引用し紹介している次第である。ずばりその広がった属性は、非常にオカルト的な経緯を持っているインチキ説である。

<< 昨今の状況解説!>>

◆ここから、完全にフォトン・ベルトが一人歩きし、ニューエイジムーブメントや、スピリチュアルや、アセッション、宇宙の法則、銀河連邦政府、チャネリングとまるで宗教のように未来の人類の姿に怯え、または過剰に期待する多くの無知な人々や空虚な若者達の魂の拠り所となって行くのである。まるでオカルト集団である。

これで、大体概要がお判り頂けたと想います。
現在、日本では、この大嘘を、出鱈目を、未だに吹聴する売国奴や、インチキゲンチャーであり詐欺師の集団が存在し横行しています。

◆まさにカルト教団と同じであり、純粋な人々、心の弱い人々、体に障害が有る人々、自己の確立の未成熟な若者達、社会的な弱者の人々、これ等の人々を意味のない全くの出鱈目で荒唐無稽な説を唱え、この世で真剣に生きる気力を奪い、金を奪い、母国を売るような思想を植え付けています。


◆日本でのそれらの元締めとも、中心的な役割を果たし、且つ未だにメッセージを発信しているのが船井総研の船井幸雄氏であり、そのまわりの金魚の糞たち、中丸薫、渡辺延朗、白峰由鵬>(自称、謎の国家風水師?)、その他という面々である。

◆エハン・デラヴィ氏は、船井幸雄ワールドの説くフォトン・ベルトの妄想からは数年前に逸脱したようである。がっ、彼も、ニューエイジムーブメント(I am 運動)の旗手であることに違いはない。

◆怪しい情報源とキリスト教原理主義者の側面を見せるのが、宇野正美氏と飛鳥昭雄氏である。

◆ベンジャミン・フルフォードなんかもキリスト教ありきの立場から考えるから、狭く偽物であるということになる訳です。太田龍先生との対談でも、その辺りのギャップがあり私なんか苛立ちましたね。

◆そして、更に問題と危険な考え方として、これは飛鳥昭雄氏やコンノケンイチ氏なども説いているが、<太陽の活動期>と<マヤ歴>の予言の2012年12月22日がクロスオーバーしているので、このフォトン・ベルトという糞出鱈目を同時に信仰す人々が後を絶たない点である

◆太陽の活動期に関しては、<新しい宇宙論>がかなり信憑性の高い説を提唱している(私的にはです!)が、アカデミズムはまだ認めようとはしない。
読者の皆さんには、これから数年以内、いや私などの民間の研究者(好き者)に取ってはもはや常識となっているが、<プラズマ宇宙論>というキーワードを覚えていて頂きたい。宇宙はプラズマで成り立ち、プラズマで満たされているというものです。
宇宙は巨大な雷現象と電気で成り立っているのです。これにより、地球と宇宙空間に時折放電現象が起きるのも説明できます。(私はようしませんが、可能性と理屈に合う訳です!)

つまり真実はまだまだ別のところにある可能性が高いということである。いつまでも偽情報に惑わされてはいけない。自分の第一印象と感性、これまで生きてきた経験と強い意志を持って、これ等の怪しい狐や蛇に化かされた人間の甘言と狂言に完全と立ち向かいましょう!!
惑わされそうになったら、我がブログが緊急避難所となり、僭越ながら正しい判断・アドバイスを提供出来ると思っている次第です。グッドラック!!

               <<注意!>>
◆御馬鹿な不思議大好きレトルトレベルの若者や作家が、2012年12月22日を語るのだが、仮にマヤ歴に乗っ取り世界に何かが起こるとしても、日本では 2012年12月22日ではありませんからね。日本では、1日早くといおうか遅くといおうか、表現としては早くかな??つまり、日本では、2012年12月23日ですから〜宜しくお願い申し上げます。

ユカタン半島付近と日本を地球儀で確認して下さい。

最後まで見てくれて読んでくれて有難うございます。そんなあなたに幸運が訪れますように!!この情報はお役にたちましたでしょうか?この記事の情報提供はダ・ビンチ・コードの解説のオリジナル記事によるものです。参考文献は、前述の飛鳥昭雄氏やコンノケンイチ氏の著作の一部が非常に参考になっていることを書きおきます。それでは、今日はここまでです。又お会いしましょう。ごきげんよう!グッドラック!!

               <<参考サイト>>
クレア・ウィリアムスの記事から!!
 「プレアデスの事実と虚構―フォトン・ベルト神話を打ち砕く」
☆The Pleiades in Fact & Fiction-- Exploding the myth of the Photon Belt

最後まで読んでくれて有難うございます。そんなあなたに幸運が訪れますように!!この記事の情報提供はダ・ビンチ・コードの解説のオリジナル記事によるものです。さて、この記事はお役にたちましたでしょうか?それでは皆さん今日はここまで、次回新記事の更新までのお別れです。グッドラック!!
http://www.asyura2.com/09/nature4/msg/577.html#c3

コメント [お知らせ・管理19] 純一さん、2重投稿回避のために、何をやっているのかを教えてください。 管理人さん
09. 管理人さん 2011年2月18日 22:05:36: Master
>>08 板違いのようにも思えますが、まぁ、これはよしとします。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/497.html#c9
コメント [経世済民71] TPPの目的は輸出拡大ではない(実は新植民地主義のため) 池田信夫/アゴラ スットン教
03. 2011年2月18日 22:17:41: 7OiGrHASBU
さっそく言い訳がアップされ始めた模様です。

経済統合の「懸け橋」に=TPP参加求める―経団連会長
時事通信 2月18日(金)21時1分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110218-00000134-jij-int

 【シンガポール時事】東南アジア歴訪中の日本経団連の米倉弘昌会長は18日、シンガポールで記者会見した。その中で、アジア太平洋地域の経済統合について「(日本は)『懸け橋』の責任を果たすことが必要だ」と述べ、日本政府は自ら主導する東アジア包括的経済連携(CEPEA)に加えて環太平洋連携協定(TPP)にも早期に参加し、地域経済統合の実現に貢献すべきだと訴えた。
 また米倉会長は、アジア地域の大規模インフラ整備事業について「日本の高い技術で支援してほしいとの関心が、各国から寄せられた」と語り、訪問したインドネシア、タイ、シンガポールがいずれも日本の参画を歓迎していると強調した。 

http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/143.html#c3

コメント [マスコミ・電通批評11] 受信料未払いでNHKの訴え棄却 全国で2例目(神戸新聞) 赤かぶ
01. 2011年2月18日 22:19:55: ZmJqMt33RQ
だいたいNHKだけを除外したテレビをなぜ作らないのか。
NHKなんて見なくても一切困らないのに。

http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/570.html#c1
記事 [雑談専用39] 対日謀略部隊の指揮系列
民間シンクタンク 『米戦略国際問題研究所(CSIS)』が対日謀略の指令塔だった! (訂正加筆版)
http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/36ff9392cc63d3631b4ee93750c21d8d
には、

(引用)(抜粋)
CIAではなく全く別組織の民間シンクタンク 『米戦略国際問題研究所(CSIS)』が対日謀略の指令塔だったのです。『米戦略国際問題研究所(CSIS)』はネオコンの牙城と言われるシンクタンク

対日謀略部隊の指揮系列
1)『米戦略国際問題研究所(CSIS)』の親玉はデビッド・ロックフェラー氏、その下にキッシンジャー氏とハーバード大学教授ジョセフ・ナイ氏 がいる
2)その下にリチャード・アーミテージ氏とCSIS所長のジョン・ハレム氏がいる
3)その下に米国務省のカート・キャンベル氏とマイケル・グリーン日本部長がいる
4)東京常駐は元海兵隊中将のジェームズ・R・ジョーンズ 前国家安全保障担当補佐官。この退役軍人が“小沢抹殺”の司令塔兼行動隊長で菅首相や仙谷官房長官をアゴで使う。
5)日本側エージェントのボスが前原誠司でサブが長島昭久。
(引用終)
とあり、「CSISの日本側エージェントのボスが前原誠司」となる。


日本を独立させるためには
この指揮系統を無力化するための対策が必要である。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/240.html

コメント [経世済民71] 国債集中投資の愚  増税分を飲み込む歳出増 「格付け会社を信じるな」は本当か  tea
07. 2011年2月18日 22:22:12: nJF6kGWndY
>"繰り返し"というのは、金融機関が、動乱の結果として、中央銀行から通貨を配ってもらうことになるのですが。今までの考え方と仕組みで潰せば、恐慌でしょう。

正しい突っ込みだ

不動産バブル崩壊の場合、過剰融資の金融機関は救済せず潰れるまま放置する
当然、連鎖倒産で厳しいデフレ不況になるが、政府は、失業者と貧困層にマネーを配るだけで金融機関も大企業も救済する必要はない
マネーゲームをしていた大企業は淘汰され、安値で買われるから
非効率な生産力が自然と縮小していき、デフレ不況は続かない


国債バブルの場合は、もっと、たちがもっと悪い。
本来は日銀は国債が暴落するに任せておけば、金利が急上昇し
国債保有者と金融機関が損をして、上と同じことになり、
激安になった国債をIMFなどの助けで安く買い戻せば影響は短期間で済む

ただこの場合、国の信用力が崩壊して、ギリシャのようになっている場合が多いから、
増税と過剰な社会保障をカットして大幅にリストラせざる得ないだろう
それも国の実力以上の非効率な財政支出を行ったツケということだ


しかし、政府・日銀は、これまでと同じように金融機関の破綻を引き延ばすために、国債を政府紙幣や日銀緩和で、さらにマネタイズしていこうとする可能性が高い。

その場合は、インフレ率を金利が下回るので、内外の投資家の信頼を失い、円が銀行から溢れでることで
激しく長期的なインフレによって、国民全体が大きな損失を被ることになる。


http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/139.html#c7

記事 [ニュース情報8] 豪雪対策、自衛隊活用に前向き=菅首相
時事通信 2月17日(木)12時45分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110217-00000076-jij-pol

 民主党豪雪災害対策本部長の鉢呂吉雄副代表らは17日午前、首相官邸で菅直人首相に会い、除雪作業に自衛隊を積極活用することなどを申し入れた。首相は「防衛相ともよく相談したい」と応じ、地方自治体への財政支援を検討していく考えも示した。

 首相は、屋根の雪下ろし作業中の転落事故で死傷者が相次いでいることを踏まえ、「東京の若い人を集めてボランティアで(雪下ろしに)出てもらうような、地域同士の助け合いが大いにあってほしい」と述べた。 
http://www.asyura2.com/09/news8/msg/498.html

コメント [マスコミ・電通批評11] 日本の政治報道を退屈にしたのは誰か――政治記者のみなさん、そろそろ本当の政治記事を書きませんか? (上杉隆) pochi
07. 2011年2月18日 22:29:27: j0yPRrFdlY
痴呆症の徘徊老人渡辺恒雄死刑囚をさっさと殺せばいいこと
いい手はないかなー
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/567.html#c7
記事 [テスト21] 試驗投稿
 
 
 
 
    
 
 
 
 
    伯家~道に傳はる豫言的言ひ傳へ

    「伯家に傳はる
    ”祝の~事”(はふりのしんじ)を授けられない
     天皇の御世が百年續くと
     日本の國體が滅亡する」
 
 
    關聯情報
    http://www.asyura2.com/0601/idletalk20/msg/715.html

    投稿者 石工の都仙臺市 日時 2006 年 11 月 05 日 07:46:50: Gsx84HOp6wiqQ
 
 
 
 
 
 
 
 
藤原鎌足が蘇我入鹿暗殺テロに據り~國日本を略奪、白村江の戰い・敗戰と、日本を滅亡へと追ひやつた。
此の流れは大陸での謀略から大東亞戰爭敗戰までの大日本帝國を滅亡へと追ひやつた流れとほぼ同じである。
(恐らく豐臣秀吉の文禄・慶長の役も、此の聯中が強い働き掛けがあつたがゆゑ
 あのやうな一見説明のつかない半島・大陸出兵と云ふ無謀な軍事作戰が起きたのだらう。
 結果、大東亞戰爭敗戰から大日本帝國滅亡へと云ふ流れと同樣に豐臣家も滅亡した)

蘇我入鹿暗殺に據つて日本を簒奪する計略を企てた
朝鮮半島系若しくは支那大陸系の集團の存在が伺へる。
こいつ等は一體何所から來て何時來たのか。
こいつ等とは一體何者なのか。
 
 
其處で鍵と成るのが佛教傳來となる。
此の佛教傳來と共に日月~示に出て來る佛魔が~國日本に入つて來た。
此の佛魔こそが此の蘇我入鹿暗殺を企て~國日本を半島・大陸侵略へと唆し
~國日本を狂気に驅り立て今現在も尚、此の~國日本に取り憑き續けてゐる
謀略邪惡靈能集團だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
    磐戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
    ナミの~が火の~を生んで黄泉國に入られたのが、そもそもであるぞ、
    十の卵を八つ生んで二つ殘して行かれたのであるぞ、
    十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
    五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、
    總て~界のこと、靈界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、
    それでちやんと道にはまつてゐるのであるぞ。
    一ヒネリしてあるのぢや、
    天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。
    夫~、妻~、別れ別れになつたから、
    一方的となつたから、磐戸がしめられたのである道理、判るであらうがな。
    その後、獨り~となられた夫~が三~をはじめ、
    色々なものをお生みになつたのであるが、
    それが一方的であることは申す迄もないことであらう、
    妻~も同樣、黄泉大~となられて、黄泉國の總てを生み育て給ふたのであるぞ、
    この夫婦~が、時めぐり來て、
    千引の磐戸をひらかれて相抱き給ふ時節來たのであるぞ、
    うれしうれしの時代となつて來たのであるぞ。
    同じ名の~が到るところに現はれて來るのざぞ、
    名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
    この二つがそろうて、三つとなるのぞ、
    三が道ぞと知らせてあらうがな。
    時來たりなば この千引の磐戸を倶にひらかんと申してあらうがな。

    次の磐戸しめは天照大~の時ぞ、
    大~はまだ磐戸の中にましますのぞ、
    ダマシタ磐戸からはダマシタ~がお出ましぞと知らせてあらう。
    いよいよとなつてマコトの天照大~、天照皇大~、日の大~、
    揃ふてお出まし近うなつて來たぞ。

    次の磐戸しめは素盞鳴命に總ての罪をきせてネの國に追ひやつた時であるぞ、
    素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の~であるぞ。
    天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであつて、
    よろづの天の~々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪~と誤つて了つたので、
    これが正しく磐戸しめであつたぞ、
    命(みこと)をアラブル~なりと申して傳へてゐるなれど、
    アラブル~とは粗暴な~ではないぞ、
    あばれ廻り、こわし廻る~ではないぞ、アラフル(現生る)~であるぞ、
    天ヶ下、大國土を守り育て給ふ~であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。
    このことよく理解出來ねば、今度の大峠は越せんぞ。
    絶對の御力を發揮し給ふ、ナギ、ナミ兩~が、
    天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御~であるぞ。
    素盞鳴の命にも二通りあるぞ、
    一~で生み給へる御~と、
    夫婦呼吸を合せて生み給へる御~と二通りあるぞ、
    間違へてはならんことぞ。

    ~武天皇の磐戸しめは、
    御自ら人皇を名乘り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。
    ~の世から人の世への移り變りの事柄を、
    一應、磐戸にかくして~ヤマトイハレ彦命として、
    人皇として立たれたのであるから、
    大きな磐戸しめの一つであるぞ。

    佛教の渡來までは、わずかながらもマコトの~道の光がさしてゐたのであるなれど、
    佛教と共に佛魔わたり來て完全に磐戸がしめられて、
    クラヤミの世となつたのであるぞ、
    その後はもう亂れほうだい、やりほうだいの世となつたのであるぞ、

    これが五度目の大き磐戸しめであるぞ。

                               日月~示 五十默示祿 碧玉の卷 第十帖
 
 
 
 
 
 
 
 
日本に佛教を齎した存在は百濟。
佛魔は百濟から渡來した者の中にゐる。
恐らく百濟滅亡に據り
其の特權的地位を奪はれた者の中にゐる。
となると亡命百濟王族周邊と佛教高僧集團こそが
日月~示が知らせて呉れた佛魔の正體と成るだらう。

南北朝の對立の本質とは畢竟、百濟王族に乘つ取られた天皇家を~國日本の天皇として
百濟勢力から取り戻す鬪爭だつたのだ。

日本の權力中樞がなにゆゑかくも朝鮮に對し親和的なのか
だうしてもすつきりしない、明確な納得出來る答えを見出せずに
モヤモヤした状態だつたのだが、此れではつきりと理解出來た。

日本の支配勢力は悉く百濟王族の血統の聯中だからだつたのだ。
此の國は、鎌倉・足利・徳川幕府の武家政治時代の權力中樞から排除された
中斷期間を挾んで、百濟王族の聯中に乘つ取られてゐたのだ。
 
 
 
 
百濟が危機
百濟を危機から救はねば
其の爲には日本を利用する
日本の人・物・金を百濟の爲に動員せよ
中大兄皇子、後の天智天皇と中臣鎌足
(其の實體は百濟王子・豊璋〔ホウシヨウ〕)、後の藤原鎌足に據つて
女帝皇極天皇の御前で蘇我入鹿を弑逆せしめる
其の殘虐な所業は日本人の其れでは無い
此の時點で最高權力機關である皇室を乘つ取る事に成功する
そして入鹿慘殺の首謀者、中大兄皇子は天智天皇となり
百濟支援の爲、朝鮮半島に軍隊派遣
白村江の戰い
そして敗戰
百濟王族と其の高僧集團が大量亡命
公卿階級と佛教界に百濟人脈が大量流入し
以前にも増してより一段と百濟勢力の影響力が増す
其の過程で既存の日本の公卿・豪族・高僧勢力に對する粛清の嵐が吹き荒れる
既存の日本の勢力の不滿がとうとう臨界點に達し爆發、壬申の亂が發生
一旦は百濟勢力を皇室の中心から排除する事に成功するも
此處から又徐々に百濟と云ふ衣を隱蔽して
既存の日本勢力に拒否反應が起き難い藤原姓を前面に打ち出し
日本勢力風に擬態した百濟勢力藤原家が
政略結婚や呪殺・毒殺等を驅使して
皇室と公卿勢力での影響力を再び擴大してゐく

此の百濟勢力藤原家に乘つ取られた危機的状況から~國日本を救はねば
遂に武家勢力が立ち上がり應仁の乱、南北朝の動亂が始まつた
そして北朝天皇を擁立して百濟勢力藤原家から~國日本を取り戻す

然し皇室・公卿勢力から百濟勢力藤原家を完全排除する事が出來ず
自分達の存在・權威を脅かす織田信長を本能寺にて自害に追いやり
成り上がりの田舎侍、豐臣秀吉に關白と云ふ地位・餌をちらつかせ
唆す事に成功し文禄・慶長の役に引き摺り出される
徳川治世と成り、此の慘劇をつぶさに見てゐた天才政治家徳川家康は
同じ過ちを再び繰り返すまいと、イエズス會の日本侵略から
日本を防衞すると云ふ理由と合はせて日本を鎖國すると云ふ
思ひ切つた政策をとり、管理貿易窓口を徳川幕府に一元化・獨占する事に據り
他藩の勢力を削ぎ徳川幕藩體制を磐石なものとしつつ
百濟勢力藤原家の野望をも封じ込める事に成功する

だが太平の世は長くは續かない
時代は再び動亂の時を迎える
幕末明治維新の動亂期に徳川家茂、皇女和宮を
藤原北家閑院流の嫡流三條實美と岩倉具視の手引きに據り
孝明天皇、睦仁親王を、長洲忍者黒手組上忍桂小五郎と
下忍伊藤俊輔等に據つて
立て續けに弑逆せしめ睦仁親王を南朝系統大室寅之佑
(實際は大室家と縁もゆかりも無い養子〔海賊家系地家の息子〕)
にすり替へ、南朝革命に據り再び~國日本の簒奪に成功
王政復古の詔の下、大日本帝國を建國する
明治新政府と其の陰の支配者百濟勢力藤原家は
ブリテン世界權力と半島・大陸利權で利害が一致
シテイの傭兵となり
清帝國と露西亞帝國の解體の爲
半島・大陸侵略に乘り出し
日清戰爭
朝鮮植民地化
日露戰爭
第一次世界大戰

一條家は南部家として靖國~社宮司として
二條家と九條家は西園寺家(元老西園寺公望や
太平洋問題調査會理事・外務省嘱託職員西園寺公一)を通じて
鷹司家は鷹司煕通・信輔・信熙の陸軍人脈を通じて
近衞家は近衞篤麿を中心とする大亞細亞主義を掲げる
東亞同文會を通じて
大陸侵略工作活動を活發化
大東亞共榮圏構想を國策とするに到り
遂に傀儡國家滿洲帝國建國を經て
大東亞戰爭開戰・敗北

そして現在
朝鮮總聯
大韓民國民潭
立正佼成會
創價學會
統一教會
日本會議
右翼團體
山口組等暴力團
電通等廣告代理店
マスメデイア各社
等々を通じて
工作活動繼續中

今に至る
 
 
 
何時の日か百濟再興を果たさん
其の爲には日本をとことん利用する
虎視淡々と其の機會を狙う
機會があれば何度でも同じやうな軍事侵攻を繰り返す
其れも此れも
 
 
百濟の爲に すべては百濟再興の爲に

百濟ぢやない
  ↓
百濟ない
  ↓
下らない
百濟に非ずんば人に非ず
 
 
平成の世
平ら成る
一八十成る
イワト成る
磐戸開きの時は來た
 
 
佛魔、百濟勢力藤原五攝家と邪惡靈能集團を 伐つべし
 
 
 
 
 
 
 
 
二人の兄弟王子を中心とする亡命・百済王族達数千人のその後: 成長するため、正しい地図を手にしよう
http://seiwagenjisinjituryu.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-ba87.html
 
 
 彼ら二人の兄弟王子を中心とする百済王族達が、百済王族天皇家と藤原氏(つまり貴族)の集団となって、武士に似た性質を持つ、日本の天皇家を中心とする日本古来の「豪族」達を脇へ押しのけて、日本の新たなる支配者=「貴族」になっていったと思われる。「貴族」とは、豪族=土着日本人とは違って、自分達の血筋は尊い、という傲慢な考えから、百済王族自身が自分用に作った呼名であろう。

 藤原氏つまり貴族が日本の支配層になってからしばらくして、百済王氏は日本の歴史上から名前がいつの間にか消え、天皇家は百済王氏の代わりに百済王家を密かに兼ねるようになったと、言われている。天皇家が百済王家を兼ねる必然性など全くないのに、である。そもそも、百済という国はなくなったので、ない国の王など天皇家が兼ねる必要はどこにもない。

 百済王族天皇家の事実上の初代である桓武天皇は、歴代の百済王達を、まるで自身が百済王氏であるかのように、自分の家の先祖として公然と祀った。また、桓武天皇は、自分の体の中を流れる百済王族の血を誇る気持ちの非常に強い天皇であった。

 また、百済王家に伝わっていた家宝の大刀契(だいとけい)は、百済の王統を継いだ百済王氏が持っているべきものであったが、桓武天皇の代から急に、三種の神器に次ぐ天皇家所有の家宝として、皇位継承に不可欠の王章の1つとして、践祚(せんそ:天皇の即位礼)の際に、新天皇に授受されるようになった。それは桓武天皇から平城天皇への受け渡しから始まった。

 なぜ百済王氏が引いているべき血筋を桓武天皇が引いていて、百済王氏が持っているべき大刀契を、桓武の代から天皇家が所有するようになったのか。

 百済王氏が新・天皇家になり、桓武がその事実上の初代であると考えると納得できる。桓武の父・光仁は、日本の天皇家に婿入りした形で天皇となり、実家の百済王氏は庶長子の桓武に継がせる予定だったのだろう。天皇家は、当然、日本の天皇家の血を引く皇后の井上皇女の子である皇太子が継ぐべき、と考えていたのだろう。しかし、それは果たせなかったのである。

 また、百済王族天皇家の事実上の初代である桓武天皇も、桓武の次の天皇である息子の平城天皇も、父が亡くなったとき、「アイゴー(哀号)」と朝鮮語で泣いた話は有名である。それも、日本の天皇家が百済王族の藤原氏によって滅ぼされ、桓武天皇の代から朝鮮民族の天皇家になってしまっていると考えれば、納得できる話である。

 また、現代の話では、「アイゴー(哀号)」と朝鮮語で泣いた平城天皇の「平城(へいぜい)」と名前の極めて良く似た「平成(へいせい)」の13年(2001年)12月18日、今上天皇が、翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、桓武天皇に百済王の血が流れていることを指して、「韓国とのゆかりを感じています」との発言をしたことが有名である。

 天皇の祖国の百済の都は、韓国の首都ソウルにあった。ソウルでの開会式に天皇が出席するよう韓国から要請され、天皇が出席するかどうかが取り沙汰されていた。結局、取りやめになったが、天皇は祖国百済の都のあったソウルへ、心惹かれる思いでいっぱいだったであろう。それが「ゆかり」発言に繋がったのであろう。

 桓武天皇も、平城天皇も、平成の今上天皇も、心が揺さぶられ思いが極まったときに、自分が日本人ではなく、朝鮮人であるヒントを思わずポロリと出している。これは偶然だろうか。

 特に、平城天皇と平成の今上天皇の「平城(へいぜい)」と「平成(へいせい)」は似過ぎている。これは洒落好きな日本人に対して、神から与えられたヒントではないだろうか。洒落―同音を利用した、気のきいた言い替え―である。同音、つまり、「平城(へいぜい)」と「平成(へいせい)」という「同音」を利用して、桓武以降の天皇家が朝鮮民族の血筋である証拠を、平城天皇の「アイゴー(哀号)」という朝鮮語の泣き声で表現し、次に、平成の天皇の「韓国とのゆかりを感じています」発言で言い替えているのではないだろうか。日本人が、今の天皇家の血筋が日本の本当の天皇家の血筋ではなく、朝鮮民族であることに気付いて欲しいと思って、神様は、平城天皇の発言と平成の天皇の発言という、同音を利用した、気のきいた言い替えをしたのであろう。神様は本当にすごいと思う。

 バナナとかたばみの入った清和源氏心実流の家紋を我々に与えて下さった神様が、我々にこの三天皇のうっかり発言という形で、ヒントを下さったのであろう。これは、こじつけではなく、ドンピシャであろう。

 桓武天皇、平城天皇、平成の今上天皇は、百済王族天皇家が日本の本当の天皇家の血筋ではなく、入れ替わって日本の天皇家のふりをしている、朝鮮王族の血筋であるヒントを思わず自白してしまった「朝鮮人自白三天皇」として、歴史に名を残すことになるのだろうか。

 今上天皇が「ゆかり」発言によって、今の天皇家が朝鮮民族であることを思わず自白してしまったのは、神によって定められた運命だったのだろう。

 なお、「ゆかり」発言については次のような意見もある。桓武天皇に百済王の血が流れていると言っても、桓武の母が百済の武寧王の十世孫位だと考えると、今上天皇は武寧王の五十五世孫位で遥か遠い子孫となり、今上天皇の血の中の百済王族の血の割合は極めて小さい。だから天皇家が朝鮮人なんてのは大袈裟だ、という意見である。計算するとおよそ(10の16.5566乗)分の1位しか百済王の血を引いていない。だが、そんな苦しい言い訳も、清和源氏の血を引く日本人である私には通用しない。

 私は清和源氏だから、清和天皇、桓武天皇の子孫だ。だから、私にも百済王族の血が流れている。しかし、私は韓国にはゆかりは感じない。懐かしくもない。

 なぜか。

 それは、私の血の中の百済王族の血の割合が0に近く、ほとんど日本人の血だからである。私は日本人だから、日本の初代天皇家には惹かれる。日本にいた同じ日本人同士だから親しみがある。でも、桓武以降の百済王族天皇家、特に先祖の清和天皇から流れが離れて行ってしまってからは惹かれない。ああ、百済王族天皇家の初めの方の、清和天皇が私の先祖か、と少し思う位である。しかし、日本人の武家政権なら、別に清和源氏でなくても、同じ日本人同士としての親しみはある。だから、私は韓国にもゆかりを感じない。自分の体の中を流れる日本人と百済王族の血の割合を考えれば、当然の感想だ。

 しかし、今の天皇は母系父系ともに百済王族の藤原氏と百済王族天皇家の血を貫いており、日本にいても、百済王族の血が極めて濃い。だから韓国にゆかりを感じるのだろう。631年に、二人の兄弟王子、豊璋と善光が百済から日本へ人質として出発する直前まで遡れば、今の天皇家や藤原氏の先祖の多くは朝鮮半島にいて、ほんの一部が日本にいた。清和源氏の私の先祖のほとんどは日本にいて、極めて、極めて、少数だけ、朝鮮半島にいた。先祖の割合の違いが、このような感想の違いになってくるのだろう。百済王族の血の割合が、百済王族である天皇家や藤原氏と、日本人の清和源氏とでは、全然違うから、このようになる。

 「ゆかり」発言は、まさしく、自らに朝鮮王族の血が濃いことを充分意識して誇りに思っている人の発言であろう。百済王族天皇家の事実上の第1代、第2代である、桓武天皇、平城天皇が、父が亡くなったとき、「アイゴー(哀号)」と朝鮮語で泣いたのと全く同様に、自らが朝鮮民族であることをうっかり自白してしまったのだろう。だが、本当に、超僅かだけ百済王族の血を引いている日本人の清和源氏の目はごまかせないのである。

 「ゆかり」発言は、日本人ならば言うはずのない、平成版の「アイゴー(哀号)」発言だと言えるだろう。
 
 
 
 
8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(4) | 八咫烏(ヤタガラス)陰陽道宗家賀茂一族の系譜
http://yatagarasu33.jugem.jp/?eid=89
 
 
2006.09.04 Monday
author : 大加茂真也
8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(4)

C藤原氏は百済王族だった!

 7世紀以来、千数百年にわたって日本の最高の名門貴族の座を手にした藤原氏とは何者なのだろう。藤原氏最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、未だにその出自がはっきりしていない、ということである。
藤原氏は『日本書紀』神話の、天照大神が盤戸隠から出た時に、注連縄を引き渡して、磐戸を「封印した」、中臣・忌部神を祖とする。その子孫と言うことで、藤原氏の出自と正当性は、『日本書紀』神話・磐戸開きに求められる。
しかし、関裕二氏によると、疑問点として3点が挙がるという。
第一に、中臣(藤原)鎌足の登場(645年頃)まで、中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。
第二に、その中臣(藤原)鎌足も、何の前触れも無く、唐突に歴史に登場する。しかも、正史・『記紀』にさえ、その父母の記載が確認できない。
第三に、中臣(藤原)鎌足の末裔・藤原氏はどういう理由か、常陸国(茨城県)の鹿嶋からやってきたと捉えていたと推定できる。正史・『日本書紀』の中で証明された正当性を、自ら疑ってかっかたのかが、証明できないという。
さらに、藤原氏の祖・中臣氏は、神事に仕えた氏族というのが定説である。しかし、歴史上、確認できる藤原氏の行動は、神道よりも、仏教の布教に力を入れている。実際、藤原氏による、蘇我氏の滅亡を機に、古墳は姿を消す。そして、神道は影を潜め、仏教が華を咲かせるのでる。『記紀』によると、蘇我氏は仏教派だったのではないのか。
実際に、天皇家が仏教を取り入れるようになったのはこの時期からである。事実、天智系天皇は天皇家の菩提寺に祀られるが、天武系の天皇は祀られていない。この件については後に詳しく触れる。
神道は天皇家の祖先を祀る宗教だったはずである。藤原氏登場以降、神道ではなく、仏教で、天皇の先祖を祀るように変更したという事実である。つまり、藤原氏以降・天皇は事実上、神ではなく仏として祀られていたということである。
 これらの確認出来る事実だけを見ても、藤原氏の言動は不自然なモノである。
井上辰雄氏らも著書『日本古代史の謎』の中で、中臣(藤原)鎌足の実像は意外に掴めない、と次のように指摘する
その理由は、藤原鎌足像の主な典拠である『日本書紀』と『家伝』(鎌足伝)にある。そして前者は正史であるから鎌足個人のことが必要に応じて断片的に登場することは当然としても、後者は個人の伝記であるにも関わらず前者と同じような一種の時代史であるという。さらに両者は様々に異なった事柄をあげながらも、その時代史という点では同一の資料によったと思われる程、酷似する。しかも両者の鎌足に関する記述はともに大化改新以前の蘇我大臣家の滅亡に至る事件史の中での自画自賛的な記載に重点が置かれているように見えるという。その為、大化改新以前の鎌足象もよほど、文飾に気をつけなければならない。そして、大化改新以後に到っては、鎌足が特別に何をしたかがよくわからない。という。
このように最新の研究の結果、藤原氏の出自とその正当性に疑問が投げかけられるようになって来ているのである。
その中臣(藤原)鎌足は大化の改新の折、唐突に歴史に登場する。
 『日本書紀』はいう。中臣(藤原)鎌足は、蘇我入鹿が君臣の秩序を乱し、国を傾けようとしていることを憎んでいた。この時、中臣鎌足は無位無冠の身であった。
そこで、皇族の中に入り込み、共に事を成す英傑を捜し求めていた。そして白羽の矢が立ったのが、中大兄皇子(後の天智天皇)であった。
無位無冠の中臣鎌足は、千載一遇の機を得る。飛鳥の中心・宝興寺(ホウコウジ)<元興寺・飛鳥寺>の槻の木の下で「蹴鞠(ケマリ)の会」が企された。
中臣鎌足はこの蹴鞠の輪の中に加わった。そして、中大兄皇子が鞠を蹴る拍子に靴を落とした時、すかさずこれを拾い上げて捧げた。中大兄皇子もこれに対し礼を述べた。こうして二人は出会い、意気投合していく。
『蹴鞠(ケマリ)』がきっかけで、無位無官の中臣鎌足は中大兄皇子の信任を得たということである。
そして、中大兄皇子と密かに、蘇我入鹿打倒を練り、準備を進めていったのだという。
だが、中臣(藤原)鎌足の他に、先の蘇我氏横行を非難する記録は全く見当たらないのである。つまり、蘇我氏の振る舞いに対し、横行だと主張したのは、中臣鎌足だけだったという事実である。
ちょうど同じ頃、百済王子・豊璋(ホウショウ)という人物が突如、日本古代史に登場する。
『日本書紀』によると、舒明3年(631年)3月、百済の義慈王の子・豊璋(ホウショウ)は人質として来日したのだという。
大化の改新・蘇我入鹿暗殺の14年前のことである。
大化の改新の記載が有る、『日本書記』皇極記には、中臣(藤原)鎌足とこの百済王子・豊璋(ホウショウ)、そして、上宮王家(山背皇子ら聖徳太子一族)の暗殺、大化の改新による蘇我一族の暗殺記事が会い混じって記載されている。
岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁
時の人前の謡の応を説きて曰はく、「岩の上に」といふえお以ては、上宮(聖徳太子一族)に喩ふ。「小猿」といふ以ては、林臣(蘇我入鹿)に喩ふ。「米焼く」といふを以ては、上宮を焼くに喩ふ。「米だにも、食げて通らせ 山羊の老翁」といふを以ては、山背王の頭髪斑雑毛にして山羊に似たるに喩ふ。又其の宮を棄捨てて深き山に匿れし相なり」といふ。
是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。
これによると、人質であったはずの百済皇子・豊璋(ホウショウ)が、聖地・三輪山で、蜜蜂を放して養蜂を試みたが、失敗したというのである。
『日本書紀』はこの記事に続き、3年の春正月1日、中臣(藤原)鎌足が神祇伯に拝さらるが、再三これを固持し、病と称して三嶋(大阪府三嶋郡)に侍ったと続くのである。
さらにこの歳の夏6月の記事として次のように記載する。
猿猶合眼りて歌して曰はく、
向つ嶺に 立てる夫らが 柔手こそ 我が手を取らめ 誰が裂手 裂手そもや 我が手取らすもや
 これは、三輪山の猿が、数年後の上宮(山背皇子等・聖徳太子一族)暗殺の兆しについて噂し合ったと記載するのである。
そして、『日本書紀』皇極記は、蘇我氏の横行、中臣(藤原)鎌足や中大兄皇子らによるクーデター・大化の改新の計画と実行の記事が記載される。
さして『日本書記』皇極記は次のように結ぶ。
上宮の王等(山背皇子等・聖徳太子一族)の性順(ヒトトナルユル)くして、かくて罪有ること無くして害されたり。
上宮の王等(山背皇子等・聖徳太子一族)は「罪なくして殺された」と言う。

済明6年(660年)9月、百済は使者をヤマトに遣わした。そして、この年の7月に新羅と唐の連合軍が百済を攻め滅ぼした事、君臣は皆捕虜となったが、鬼室福信が百済王家再興の為、奮戦しているということを知らせた。
そして、10月。その鬼室福信が、人質として来日していた豊璋(ホウショウ)を召還し、新たに王に立てたいと申し出た。加えてヤマトに救援を求めてきたのである。
これに応じ、翌年9月、中大兄皇子は織冠を豊璋(ホウショウ)に与え、本国に送り返したのである。
人質であったはずの豊璋(ホウショウ)であるが、白村江の戦いの直前、百済に帰国し、国家の再興を目指す。
そして、中大兄皇子は、何とこの豊璋(ホウショウ)一人を救うため、大国・唐を敵に回す決断をするのである。そして自ら軍勢を率いて白村江に軍を進める。
だが、大和・百済連合軍はここで決定的な敗戦を記す。
百済皇子豊璋(ホウショウ)は、こうして志半ばにして頓挫し、行方をくらますのである。
そして、この人物が日本を離れたとき、実は中臣鎌足も忽然と歴史から姿を消しているのである。それも白村江の戦いという国家の一大事に中臣鎌足は行方不明になり、そして敗戦後、突然歴史に姿を現すのである。
 衆知のように、中大兄皇子の側近中の側近であったと言う、中臣鎌足が、国家存亡の折、行方不明になったということ自体が理解できない。
関裕二氏は著書・『日本古代史の謎』・『藤原氏の正体』で、百済皇子・豊璋(ホウショウ)という人物と、中臣鎌足、つまり藤原鎌足は同一人物であるという。
 確かに、そう考えると、中臣(藤原)鎌足の唐突な日本史への登場、百済救済の為の白村江への無謀な出兵、後述する壬申の乱での韓国軍の到来、さらに天皇家ご自身の神道・道教から、仏教への移行。それに伴う道教の象徴・古墳の消滅など、すべての謎が解けてくるのである。
 『記紀』にもそれ以前の藤原氏(中臣氏)の記載が曖昧なのである。
 つまりは、日本古代史は彼の登場以前が謎になっているのである。 
 大国主の「国譲り」神話のモデルはここにあったと推定できる。
 いずれにしても、無位無官だった、中臣鎌足は、その死に臨んで「大織冠藤原内大臣」という前例のない栄誉の地位に登る。そして後の藤原氏の祖として、その繁栄の基礎を築く。百済皇子・豊璋(ホウショウ)も中大兄皇子(天智天皇)によって織冠をあたえられていたことには既に触れた。
 
 
 
 
 
 
 
 
此處にコメントつけてる聯中へ
スピンコメントやめれ

米國にとつて最強の敵は、~國日本を寄生・支配し續ける藤原五攝家と其の背後にゐる世界最兇の邪惡な靈能集團だ
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/326.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 2 月 12 日 23:49:08: yX4.ILg8Nhnko
 
 
 
 
おまけ
 
 
ネットゲリラ: ベトコン最強伝説
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2010/07/post_893e.html
 
 
16 :グリーンファイヤーテトラ(愛知県):2010/07/04(日) 14:55:51.54
米軍に貧乏神が憑いたからだよ。

17 :クサフグ(空):2010/07/04(日) 14:55:55.51 ID:goj+L1mw
勝ち           負け
唐         vs 日本+百済          (白村江の戦い)
イスラム帝国  vs 唐+高句麗人の総大将 (タラス河畔の戦い)
日本        vs 元 +高麗          (元寇)
明         vs 日本 +朝鮮         (文禄の役)
日本        vs 明 +朝鮮          (慶長の役)
清         vs 明 +朝鮮          (明滅亡)
日本        vs 清 +朝鮮          (日清戦争)
日本        vs 露 +朝鮮          (日露戦争)
ソ連        vs 日本+朝鮮          (シベリア出兵)
アメリカ      vs 日本+朝鮮         (大東亜戦争)
ベトナム      vs アメリカ +韓国      (ベトナム戦争)

47 :マグロ(大分県):2010/07/04(日) 15:01:06.82 ID:hzESXSAq
>>17
見事に法則どおりだわw

51 :アブラボウズ(愛知県):2010/07/04(日) 15:01:27.98 ID:FeoJhY8M
>>17
あの半島の人って戦争に勝ったことあんの?

52 :アブラツノザメ(岐阜県):2010/07/04(日) 15:02:04.91 ID:IpcgO1vy
>>17
呪われすぎだろwwwww

71 :タイワンドジョウ(千葉県):2010/07/04(日) 15:05:28.80 ID:ZkC1ixNM
>>17
オチも入れて置けよ
引き分け
北朝鮮       vs 下朝鮮           (朝鮮戦争)

118 :ツムブリ(福岡県):2010/07/04(日) 15:16:42.99 ID:qqFBW568
>>17
これだけ負けまくってるのに民族が滅んでいないのは結構凄いことだと思う
 
 
 
 

http://www.asyura2.com/10/test21/msg/601.html

コメント [経世済民71] 国債集中投資の愚  増税分を飲み込む歳出増 「格付け会社を信じるな」は本当か  tea
08. 2011年2月18日 22:36:00: nJF6kGWndY
結論として言えば、早目に重要な金融機関の資産内容は厳しい規制をかけて、単一資産の暴落による金融システムリスクを防ぐ必要がある

それが金融規制の強化ということであり、日本のメガバンクは大体、その方向で動いているし、
日銀も今の陣容であれば、個人的にはシステミックリスクはあまり心配していない

愚かな政治家と大衆が日本の最大のリスク要因だなw

http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/139.html#c8

コメント [戦争b7] 沖縄基地「完全撤去も可能」=米大使館幹部、日本側に助言(時事通信) 尾張マン
04. 2011年2月18日 22:46:04: 7ipjNVyyI6
うすら寝ぼけたことを言う輩がいらっしゃいますね。
ロシア外務省報道官は「日本とは領土交渉しない」から領土問題はありえないと言い出しかねない様相になってきました。
なぜ米国が、辺野古に固守し出したかと言えば、滑走路新設とは別に、原子力潜水艦が入港できる桟橋などの施設を建設するという隠された重要な目的があると言われています。
http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/302.html#c4
コメント [経世済民71] 国債集中投資の愚  増税分を飲み込む歳出増 「格付け会社を信じるな」は本当か  tea
09. 健奘 2011年2月18日 22:53:00: xbDm84QDmOFmc : FY4u2WPdes
返答、ありがとうございます。

> 政府・日銀は、これまでと同じように金融機関の破綻を引き延ばすために、
> 国債を政府紙幣や日銀緩和で、さらにマネタイズしていこうとする可能性が高い

↑は、ユーロでも、ドルでも、大差はなさそうです。

結局、望ましい姿と言うのは、金融資産の総額が、今よりかなり小さい、いわゆる実体経済の大きさに合うような規模になるしかない、というように読めますね。


http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/139.html#c9

記事 [雑談専用39] 日本の指揮系統を変えるために
少なくともこの範囲の指揮系統の下位3名の動向について
ゴシップも含めて、いつどこで何をしているか
まず国民みんなで監視を強化していくことが必要かと思います。
会合がいつ行われて菅総理の意見が変わったか
という情報蓄積が必要です。

指揮系統上部から指令を受けないで
独自に菅直人首相が政策をすすめることができる
環境を整えていくことが必要です。
他の人が総理大臣になってもこの構造がなくならなければ
政治は変わらないでしょう。

これまで何度総理大臣が変わっても何も変わらなかったのは
このような支配構造が続いているからでしょう。
明らかな米国支配、米国隷属の構造です。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/241.html

コメント [マスコミ・電通批評11] 受信料未払いでNHKの訴え棄却 全国で2例目(神戸新聞) 赤かぶ
02. 2011年2月18日 23:00:42: GW8PWaXaSs
01さん
そうですよね。地デジにもなりいくらでもやる気になればできることです。
BS・CSではいくらでも出来ますものね。
テレビ買ったら流してやるから金払えと言われても見たくもないものに
金は払えませんよね。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/570.html#c2
記事 [マスコミ・電通批評11] 社員と知りながら客と報道 日テレ、BPOが審議入り(共同通信)
社員と知りながら客と報道 日テレ、BPOが審議入り
http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011021801000907.html

 放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は18日、日本テレビの「news ever〓(外字、小文字のYの右下にピリオド) サタデー」が1月8日放送したペットビジネス特集で、ペットサロンなどを運営する会社の社員と知りながら女性2人を利用客と報じたとして、審議することを決めた。

 同委員会などによると、番組が取り上げたのは、ペットのマッサージや保険を扱う2社。番組側が客の取材を依頼した際に、会社側から「社員しか出せない」と言われ、承諾していたという。同局は1月10日の別のニュース番組でもこの特集を放送した。

 川端和治委員長は「(2009年に同委員会が勧告した)『真相報道バンキシャ!』でも誤った放送をし、再発防止に取り組んだはずなのに、同じようなことをした」と指摘した。同局は「公正であるべきニュースの取材対象として不適切だった」としている。

 また同委員会は、毎日放送(大阪市)のバラエティー番組「イチハチ」(1月12日放送)が、事実確認をしないまま米国の不動産を女性タレントの自宅と紹介した問題についても審議することを決めた。同番組は、虚偽のホテル買収交渉を事実のように放送した問題でも審議されている。

2011/02/18 22:43 【共同通信】
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/571.html

コメント [経世済民71] 連合、消費税上げ提案へ…20年度まで段階的に めっちゃホリディ
07. 2011年2月18日 23:04:58: DguwXLcs66
何度もコメントしているが今の情勢で消費税アップは最悪の選択。 落ち込んでいる個人消費を引き上げるためにも消費税は一旦ゼロのするのが良策。 現在は恵まれていない大多数の国民の利益を先行して考えるべきだろう。 N.T
http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/137.html#c7
記事 [テスト21] 試驗投稿
 
 
 
 
    
 
 
 
 
    「伯家に傳はる
    ”祝の~事”(はふりのしんじ)を授けられない
     天皇の御世が百年續くと
     日本の國體が滅亡する」

             伯家~道に傳はる豫言的言ひ傳へ
 
 
    關聯情報
    http://www.asyura2.com/0601/idletalk20/msg/715.html
    投稿者 石工の都仙臺市 日時 2006 年 11 月 05 日 07:46:50: Gsx84HOp6wiqQ
 
 
 
 
藤原鎌足が蘇我入鹿暗殺テロに據り~國日本を略奪、白村江の戰い・敗戰と、日本を滅亡へと追ひやつた。
此の流れは大陸での謀略から大東亞戰爭敗戰までの大日本帝國を滅亡へと追ひやつた流れとほぼ同じである。
(恐らく豐臣秀吉の文禄・慶長の役も、此の聯中からの強い働き掛けがあつたがゆゑ
 あのやうな一見説明のつかない半島・大陸出兵と云ふ無謀な軍事作戰が起きたのだらう。
 結果、大東亞戰爭敗戰から大日本帝國滅亡へと云ふ流れと同樣に豐臣家も滅亡した)

蘇我入鹿暗殺に據つて日本を簒奪する計略を企てた
朝鮮半島系若しくは支那大陸系の集團の存在が伺へる。
こいつ等は一體何所から來て何時來たのか。
こいつ等とは一體何者なのか。
 
 
其處で鍵と成るのが佛教傳來となる。
此の佛教傳來と共に日月~示に出て來る佛魔が~國日本に入つて來た。
此の佛魔こそが此の蘇我入鹿暗殺を企て~國日本を半島・大陸侵略へと唆し
~國日本を狂気に驅り立て今現在も尚、此の~國日本に取り憑き續けてゐる
謀略邪惡靈能集團だ。
 
 
 
 
    磐戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、
    ナミの~が火の~を生んで黄泉國に入られたのが、そもそもであるぞ、
    十の卵を八つ生んで二つ殘して行かれたのであるぞ、
    十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、
    五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、
    總て~界のこと、靈界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、
    それでちやんと道にはまつてゐるのであるぞ。
    一ヒネリしてあるのぢや、
    天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。
    夫~、妻~、別れ別れになつたから、
    一方的となつたから、磐戸がしめられたのである道理、判るであらうがな。
    その後、獨り~となられた夫~が三~をはじめ、
    色々なものをお生みになつたのであるが、
    それが一方的であることは申す迄もないことであらう、
    妻~も同樣、黄泉大~となられて、黄泉國の總てを生み育て給ふたのであるぞ、
    この夫婦~が、時めぐり來て、
    千引の磐戸をひらかれて相抱き給ふ時節來たのであるぞ、
    うれしうれしの時代となつて來たのであるぞ。
    同じ名の~が到るところに現はれて來るのざぞ、
    名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、
    この二つがそろうて、三つとなるのぞ、
    三が道ぞと知らせてあらうがな。
    時來たりなば この千引の磐戸を倶にひらかんと申してあらうがな。

    次の磐戸しめは天照大~の時ぞ、
    大~はまだ磐戸の中にましますのぞ、
    ダマシタ磐戸からはダマシタ~がお出ましぞと知らせてあらう。
    いよいよとなつてマコトの天照大~、天照皇大~、日の大~、
    揃ふてお出まし近うなつて來たぞ。

    次の磐戸しめは素盞鳴命に總ての罪をきせてネの國に追ひやつた時であるぞ、
    素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の~であるぞ。
    天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであつて、
    よろづの天の~々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪~と誤つて了つたので、
    これが正しく磐戸しめであつたぞ、
    命(みこと)をアラブル~なりと申して傳へてゐるなれど、
    アラブル~とは粗暴な~ではないぞ、
    あばれ廻り、こわし廻る~ではないぞ、アラフル(現生る)~であるぞ、
    天ヶ下、大國土を守り育て給ふ~であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。
    このことよく理解出來ねば、今度の大峠は越せんぞ。
    絶對の御力を發揮し給ふ、ナギ、ナミ兩~が、
    天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御~であるぞ。
    素盞鳴の命にも二通りあるぞ、
    一~で生み給へる御~と、
    夫婦呼吸を合せて生み給へる御~と二通りあるぞ、
    間違へてはならんことぞ。

    ~武天皇の磐戸しめは、
    御自ら人皇を名乘り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。
    ~の世から人の世への移り變りの事柄を、
    一應、磐戸にかくして~ヤマトイハレ彦命として、
    人皇として立たれたのであるから、
    大きな磐戸しめの一つであるぞ。

    佛教の渡來までは、わずかながらもマコトの~道の光がさしてゐたのであるなれど、
    佛教と共に佛魔わたり來て完全に磐戸がしめられて、
    クラヤミの世となつたのであるぞ、
    その後はもう亂れほうだい、やりほうだいの世となつたのであるぞ、

    これが五度目の大き磐戸しめであるぞ。

                               日月~示 五十默示祿 碧玉の卷 第十帖
 
 
 
 
日本に佛教を齎した存在は百濟。
佛魔は百濟から渡來した者の中にゐる。
恐らく百濟滅亡に據り
其の特權的地位を奪はれた者の中にゐる。
となると亡命百濟王族周邊と佛教高僧集團こそが
日月~示が知らせて呉れた佛魔の正體と成るだらう。

南北朝の對立の本質とは畢竟、百濟王族に乘つ取られた天皇家を~國日本の天皇として
百濟勢力から取り戻す鬪爭だつたのだ。

日本の權力中樞がなにゆゑかくも朝鮮に對し親和的なのか
だうしてもすつきりしない、明確な納得出來る答えを見出せずに
モヤモヤした状態だつたのだが、此れではつきりと理解出來た。

日本の支配勢力は悉く百濟王族の血統の聯中だからだつたのだ。
此の國は、鎌倉・足利・徳川幕府の武家政治時代の權力中樞から排除された
中斷期間を挾んで、百濟王族の聯中に乘つ取られてゐたのだ。
 
 
 
 
百濟が危機
百濟を危機から救はねば
其の爲には日本を利用する
日本の人・物・金を百濟の爲に動員せよ
中大兄皇子、後の天智天皇と
中臣鎌足(其の實體は百濟王子・豊璋〔ホウシヨウ〕)
後の藤原鎌足に據つて
女帝皇極天皇の御前で蘇我入鹿を弑逆せしめる
其の殘虐な所業は日本人の其れでは無い
此の時點で最高權力機關である皇室を乘つ取る事に成功する
そして入鹿慘殺の首謀者、中大兄皇子は天智天皇となり
百濟支援の爲、朝鮮半島に軍隊派遣
白村江の戰い
そして敗戰
百濟王族と其の高僧集團が大量亡命
公卿階級と佛教界に百濟人脈が大量流入し
以前にも増してより一段と百濟勢力の影響力が増す
其の過程で既存の日本の公卿・豪族・高僧勢力に對する粛清の嵐が吹き荒れる
既存の日本の勢力の不滿がとうとう臨界點に達し爆發、壬申の亂が勃發
一旦は百濟勢力を皇室の中心から排除する事に成功するも
此處から又徐々に百濟と云ふ衣を隱蔽して
既存の日本勢力に拒否反應が起き難い藤原姓を前面に打ち出し
日本勢力風に擬態した百濟勢力藤原家が
政略結婚や呪殺・毒殺等を驅使し
皇室と公卿勢力での影響力を再び擴大してゐく

此の百濟勢力藤原家に乘つ取られた危機的状況から~國日本を救はねば
遂に武家勢力が立ち上がり應仁の乱、南北朝の動亂が始まつた
そして北朝天皇を擁立して百濟勢力藤原家から~國日本を取り戻す

然し皇室・公卿勢力から百濟勢力藤原家を完全排除する事が出來ず
天下布武のもとに天下統一を間近に控えた織田信長を
自分達の存在・權威を脅かす存在と判斷し、本能寺にて自害に追いやり
成り上がりの田舎侍、豐臣秀吉に關白と云ふ地位・餌をちらつかせ
唆す事に成功し、文禄・慶長の役に引き摺り出される
徳川治世と成り、此の慘劇をつぶさに見てゐた天才政治家徳川家康は
同じ過ちを再び繰り返すまいと、イエズス會の日本侵略から
日本を防衞すると云ふ理由と合はせて日本を鎖國すると云ふ
驚天動地の大胆な政策をとり、管理貿易窓口を徳川幕府に
一元化・獨占する事に據り、他藩の勢力を削ぎ
徳川幕藩體制を磐石なものとしつつ
百濟勢力藤原家の野望をも封じ込める事に成功する

だが太平の世は長くは續かない
時代は再び動亂の時を迎える
幕末明治維新の動亂期に徳川家茂、皇女和宮を
藤原北家閑院流の嫡流三條實美と岩倉具視の手引きに據り
孝明天皇、睦仁親王を、長洲忍者黒手組上忍桂小五郎と
下忍伊藤俊輔等に據つて
立て續けに弑逆せしめ、睦仁親王を南朝系統大室寅之佑
(實際は大室家と縁もゆかりも無い養子〔海賊家系地家の息子〕)
にすり替へ明治天皇として践祚、南朝革命に據り
再び~國日本の簒奪に成功
王政復古の詔の下、大日本帝國を建國する
明治新政府と其の陰の支配者百濟勢力藤原家は
ブリテン世界權力と半島・大陸利權で利害が一致
日英同盟を締結してシテイの傭兵となり
清帝國と露西亞帝國の解體の爲
半島・大陸侵略に乘り出し
日清戰爭
朝鮮植民地化
日露戰爭
第一次世界大戰

一條家は南部家として靖國~社宮司として
二條家と九條家は西園寺家(元老西園寺公望や
太平洋問題調査會理事・外務省嘱託職員西園寺公一)を通じて
鷹司家は鷹司煕通・信輔・信熙の陸軍人脈を通じて
近衞家は近衞篤麿を中心とする大亞細亞主義を掲げる
東亞同文會を通じて
大陸侵略工作活動を活發化
大東亞共榮圏構想を國策とするに到り
遂に傀儡國家滿洲帝國建國を經て
大東亞戰爭開戰・敗北

そして現在
朝鮮總聯
大韓民國民潭
立正佼成會
創價學會
統一教會
日本會議
右翼團體
山口組等暴力團
電通等廣告代理店
マスメデイア各社
等々を通じて
工作活動繼續中

今に至る
 
 
 
何時の日か百濟再興を果たさん
其の爲には日本をとことん利用する
虎視淡々と其の機會を狙う
機會があれば何度でも同じやうな軍事侵攻を繰り返す
其れも此れも
 
 
百濟の爲に すべては百濟再興の爲に

百濟ぢやない
  ↓
百濟ない
  ↓
下らない
百濟に非ずんば人に非ず
 
 
平成の世
平ら成る
一八十成る
イワト成る
磐戸開きの時は來た
 
 
佛魔、百濟勢力藤原五攝家と邪惡靈能集團を 伐つべし
 
 
 
 
 
 
 
 
二人の兄弟王子を中心とする亡命・百済王族達数千人のその後: 成長するため、正しい地図を手にしよう
http://seiwagenjisinjituryu.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-ba87.html
 
 
 彼ら二人の兄弟王子を中心とする百済王族達が、百済王族天皇家と藤原氏(つまり貴族)の集団となって、武士に似た性質を持つ、日本の天皇家を中心とする日本古来の「豪族」達を脇へ押しのけて、日本の新たなる支配者=「貴族」になっていったと思われる。「貴族」とは、豪族=土着日本人とは違って、自分達の血筋は尊い、という傲慢な考えから、百済王族自身が自分用に作った呼名であろう。

 藤原氏つまり貴族が日本の支配層になってからしばらくして、百済王氏は日本の歴史上から名前がいつの間にか消え、天皇家は百済王氏の代わりに百済王家を密かに兼ねるようになったと、言われている。天皇家が百済王家を兼ねる必然性など全くないのに、である。そもそも、百済という国はなくなったので、ない国の王など天皇家が兼ねる必要はどこにもない。

 百済王族天皇家の事実上の初代である桓武天皇は、歴代の百済王達を、まるで自身が百済王氏であるかのように、自分の家の先祖として公然と祀った。また、桓武天皇は、自分の体の中を流れる百済王族の血を誇る気持ちの非常に強い天皇であった。

 また、百済王家に伝わっていた家宝の大刀契(だいとけい)は、百済の王統を継いだ百済王氏が持っているべきものであったが、桓武天皇の代から急に、三種の神器に次ぐ天皇家所有の家宝として、皇位継承に不可欠の王章の1つとして、践祚(せんそ:天皇の即位礼)の際に、新天皇に授受されるようになった。それは桓武天皇から平城天皇への受け渡しから始まった。

 なぜ百済王氏が引いているべき血筋を桓武天皇が引いていて、百済王氏が持っているべき大刀契を、桓武の代から天皇家が所有するようになったのか。

 百済王氏が新・天皇家になり、桓武がその事実上の初代であると考えると納得できる。桓武の父・光仁は、日本の天皇家に婿入りした形で天皇となり、実家の百済王氏は庶長子の桓武に継がせる予定だったのだろう。天皇家は、当然、日本の天皇家の血を引く皇后の井上皇女の子である皇太子が継ぐべき、と考えていたのだろう。しかし、それは果たせなかったのである。

 また、百済王族天皇家の事実上の初代である桓武天皇も、桓武の次の天皇である息子の平城天皇も、父が亡くなったとき、「アイゴー(哀号)」と朝鮮語で泣いた話は有名である。それも、日本の天皇家が百済王族の藤原氏によって滅ぼされ、桓武天皇の代から朝鮮民族の天皇家になってしまっていると考えれば、納得できる話である。

 また、現代の話では、「アイゴー(哀号)」と朝鮮語で泣いた平城天皇の「平城(へいぜい)」と名前の極めて良く似た「平成(へいせい)」の13年(2001年)12月18日、今上天皇が、翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、桓武天皇に百済王の血が流れていることを指して、「韓国とのゆかりを感じています」との発言をしたことが有名である。

 天皇の祖国の百済の都は、韓国の首都ソウルにあった。ソウルでの開会式に天皇が出席するよう韓国から要請され、天皇が出席するかどうかが取り沙汰されていた。結局、取りやめになったが、天皇は祖国百済の都のあったソウルへ、心惹かれる思いでいっぱいだったであろう。それが「ゆかり」発言に繋がったのであろう。

 桓武天皇も、平城天皇も、平成の今上天皇も、心が揺さぶられ思いが極まったときに、自分が日本人ではなく、朝鮮人であるヒントを思わずポロリと出している。これは偶然だろうか。

 特に、平城天皇と平成の今上天皇の「平城(へいぜい)」と「平成(へいせい)」は似過ぎている。これは洒落好きな日本人に対して、神から与えられたヒントではないだろうか。洒落―同音を利用した、気のきいた言い替え―である。同音、つまり、「平城(へいぜい)」と「平成(へいせい)」という「同音」を利用して、桓武以降の天皇家が朝鮮民族の血筋である証拠を、平城天皇の「アイゴー(哀号)」という朝鮮語の泣き声で表現し、次に、平成の天皇の「韓国とのゆかりを感じています」発言で言い替えているのではないだろうか。日本人が、今の天皇家の血筋が日本の本当の天皇家の血筋ではなく、朝鮮民族であることに気付いて欲しいと思って、神様は、平城天皇の発言と平成の天皇の発言という、同音を利用した、気のきいた言い替えをしたのであろう。神様は本当にすごいと思う。

 バナナとかたばみの入った清和源氏心実流の家紋を我々に与えて下さった神様が、我々にこの三天皇のうっかり発言という形で、ヒントを下さったのであろう。これは、こじつけではなく、ドンピシャであろう。

 桓武天皇、平城天皇、平成の今上天皇は、百済王族天皇家が日本の本当の天皇家の血筋ではなく、入れ替わって日本の天皇家のふりをしている、朝鮮王族の血筋であるヒントを思わず自白してしまった「朝鮮人自白三天皇」として、歴史に名を残すことになるのだろうか。

 今上天皇が「ゆかり」発言によって、今の天皇家が朝鮮民族であることを思わず自白してしまったのは、神によって定められた運命だったのだろう。

 なお、「ゆかり」発言については次のような意見もある。桓武天皇に百済王の血が流れていると言っても、桓武の母が百済の武寧王の十世孫位だと考えると、今上天皇は武寧王の五十五世孫位で遥か遠い子孫となり、今上天皇の血の中の百済王族の血の割合は極めて小さい。だから天皇家が朝鮮人なんてのは大袈裟だ、という意見である。計算するとおよそ(10の16.5566乗)分の1位しか百済王の血を引いていない。だが、そんな苦しい言い訳も、清和源氏の血を引く日本人である私には通用しない。

 私は清和源氏だから、清和天皇、桓武天皇の子孫だ。だから、私にも百済王族の血が流れている。しかし、私は韓国にはゆかりは感じない。懐かしくもない。

 なぜか。

 それは、私の血の中の百済王族の血の割合が0に近く、ほとんど日本人の血だからである。私は日本人だから、日本の初代天皇家には惹かれる。日本にいた同じ日本人同士だから親しみがある。でも、桓武以降の百済王族天皇家、特に先祖の清和天皇から流れが離れて行ってしまってからは惹かれない。ああ、百済王族天皇家の初めの方の、清和天皇が私の先祖か、と少し思う位である。しかし、日本人の武家政権なら、別に清和源氏でなくても、同じ日本人同士としての親しみはある。だから、私は韓国にもゆかりを感じない。自分の体の中を流れる日本人と百済王族の血の割合を考えれば、当然の感想だ。

 しかし、今の天皇は母系父系ともに百済王族の藤原氏と百済王族天皇家の血を貫いており、日本にいても、百済王族の血が極めて濃い。だから韓国にゆかりを感じるのだろう。631年に、二人の兄弟王子、豊璋と善光が百済から日本へ人質として出発する直前まで遡れば、今の天皇家や藤原氏の先祖の多くは朝鮮半島にいて、ほんの一部が日本にいた。清和源氏の私の先祖のほとんどは日本にいて、極めて、極めて、少数だけ、朝鮮半島にいた。先祖の割合の違いが、このような感想の違いになってくるのだろう。百済王族の血の割合が、百済王族である天皇家や藤原氏と、日本人の清和源氏とでは、全然違うから、このようになる。

 「ゆかり」発言は、まさしく、自らに朝鮮王族の血が濃いことを充分意識して誇りに思っている人の発言であろう。百済王族天皇家の事実上の第1代、第2代である、桓武天皇、平城天皇が、父が亡くなったとき、「アイゴー(哀号)」と朝鮮語で泣いたのと全く同様に、自らが朝鮮民族であることをうっかり自白してしまったのだろう。だが、本当に、超僅かだけ百済王族の血を引いている日本人の清和源氏の目はごまかせないのである。

 「ゆかり」発言は、日本人ならば言うはずのない、平成版の「アイゴー(哀号)」発言だと言えるだろう。
 
 
 
 
8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(4) | 八咫烏(ヤタガラス)陰陽道宗家賀茂一族の系譜
http://yatagarasu33.jugem.jp/?eid=89
 
 
2006.09.04 Monday
author : 大加茂真也
8:遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏(4)

C藤原氏は百済王族だった!

 7世紀以来、千数百年にわたって日本の最高の名門貴族の座を手にした藤原氏とは何者なのだろう。藤原氏最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、未だにその出自がはっきりしていない、ということである。
藤原氏は『日本書紀』神話の、天照大神が盤戸隠から出た時に、注連縄を引き渡して、磐戸を「封印した」、中臣・忌部神を祖とする。その子孫と言うことで、藤原氏の出自と正当性は、『日本書紀』神話・磐戸開きに求められる。
しかし、関裕二氏によると、疑問点として3点が挙がるという。
第一に、中臣(藤原)鎌足の登場(645年頃)まで、中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。
第二に、その中臣(藤原)鎌足も、何の前触れも無く、唐突に歴史に登場する。しかも、正史・『記紀』にさえ、その父母の記載が確認できない。
第三に、中臣(藤原)鎌足の末裔・藤原氏はどういう理由か、常陸国(茨城県)の鹿嶋からやってきたと捉えていたと推定できる。正史・『日本書紀』の中で証明された正当性を、自ら疑ってかっかたのかが、証明できないという。
さらに、藤原氏の祖・中臣氏は、神事に仕えた氏族というのが定説である。しかし、歴史上、確認できる藤原氏の行動は、神道よりも、仏教の布教に力を入れている。実際、藤原氏による、蘇我氏の滅亡を機に、古墳は姿を消す。そして、神道は影を潜め、仏教が華を咲かせるのでる。『記紀』によると、蘇我氏は仏教派だったのではないのか。
実際に、天皇家が仏教を取り入れるようになったのはこの時期からである。事実、天智系天皇は天皇家の菩提寺に祀られるが、天武系の天皇は祀られていない。この件については後に詳しく触れる。
神道は天皇家の祖先を祀る宗教だったはずである。藤原氏登場以降、神道ではなく、仏教で、天皇の先祖を祀るように変更したという事実である。つまり、藤原氏以降・天皇は事実上、神ではなく仏として祀られていたということである。
 これらの確認出来る事実だけを見ても、藤原氏の言動は不自然なモノである。
井上辰雄氏らも著書『日本古代史の謎』の中で、中臣(藤原)鎌足の実像は意外に掴めない、と次のように指摘する
その理由は、藤原鎌足像の主な典拠である『日本書紀』と『家伝』(鎌足伝)にある。そして前者は正史であるから鎌足個人のことが必要に応じて断片的に登場することは当然としても、後者は個人の伝記であるにも関わらず前者と同じような一種の時代史であるという。さらに両者は様々に異なった事柄をあげながらも、その時代史という点では同一の資料によったと思われる程、酷似する。しかも両者の鎌足に関する記述はともに大化改新以前の蘇我大臣家の滅亡に至る事件史の中での自画自賛的な記載に重点が置かれているように見えるという。その為、大化改新以前の鎌足象もよほど、文飾に気をつけなければならない。そして、大化改新以後に到っては、鎌足が特別に何をしたかがよくわからない。という。
このように最新の研究の結果、藤原氏の出自とその正当性に疑問が投げかけられるようになって来ているのである。
その中臣(藤原)鎌足は大化の改新の折、唐突に歴史に登場する。
 『日本書紀』はいう。中臣(藤原)鎌足は、蘇我入鹿が君臣の秩序を乱し、国を傾けようとしていることを憎んでいた。この時、中臣鎌足は無位無冠の身であった。
そこで、皇族の中に入り込み、共に事を成す英傑を捜し求めていた。そして白羽の矢が立ったのが、中大兄皇子(後の天智天皇)であった。
無位無冠の中臣鎌足は、千載一遇の機を得る。飛鳥の中心・宝興寺(ホウコウジ)<元興寺・飛鳥寺>の槻の木の下で「蹴鞠(ケマリ)の会」が企された。
中臣鎌足はこの蹴鞠の輪の中に加わった。そして、中大兄皇子が鞠を蹴る拍子に靴を落とした時、すかさずこれを拾い上げて捧げた。中大兄皇子もこれに対し礼を述べた。こうして二人は出会い、意気投合していく。
『蹴鞠(ケマリ)』がきっかけで、無位無官の中臣鎌足は中大兄皇子の信任を得たということである。
そして、中大兄皇子と密かに、蘇我入鹿打倒を練り、準備を進めていったのだという。
だが、中臣(藤原)鎌足の他に、先の蘇我氏横行を非難する記録は全く見当たらないのである。つまり、蘇我氏の振る舞いに対し、横行だと主張したのは、中臣鎌足だけだったという事実である。
ちょうど同じ頃、百済王子・豊璋(ホウショウ)という人物が突如、日本古代史に登場する。
『日本書紀』によると、舒明3年(631年)3月、百済の義慈王の子・豊璋(ホウショウ)は人質として来日したのだという。
大化の改新・蘇我入鹿暗殺の14年前のことである。
大化の改新の記載が有る、『日本書記』皇極記には、中臣(藤原)鎌足とこの百済王子・豊璋(ホウショウ)、そして、上宮王家(山背皇子ら聖徳太子一族)の暗殺、大化の改新による蘇我一族の暗殺記事が会い混じって記載されている。
岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊の老翁
時の人前の謡の応を説きて曰はく、「岩の上に」といふえお以ては、上宮(聖徳太子一族)に喩ふ。「小猿」といふ以ては、林臣(蘇我入鹿)に喩ふ。「米焼く」といふを以ては、上宮を焼くに喩ふ。「米だにも、食げて通らせ 山羊の老翁」といふを以ては、山背王の頭髪斑雑毛にして山羊に似たるに喩ふ。又其の宮を棄捨てて深き山に匿れし相なり」といふ。
是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。
これによると、人質であったはずの百済皇子・豊璋(ホウショウ)が、聖地・三輪山で、蜜蜂を放して養蜂を試みたが、失敗したというのである。
『日本書紀』はこの記事に続き、3年の春正月1日、中臣(藤原)鎌足が神祇伯に拝さらるが、再三これを固持し、病と称して三嶋(大阪府三嶋郡)に侍ったと続くのである。
さらにこの歳の夏6月の記事として次のように記載する。
猿猶合眼りて歌して曰はく、
向つ嶺に 立てる夫らが 柔手こそ 我が手を取らめ 誰が裂手 裂手そもや 我が手取らすもや
 これは、三輪山の猿が、数年後の上宮(山背皇子等・聖徳太子一族)暗殺の兆しについて噂し合ったと記載するのである。
そして、『日本書紀』皇極記は、蘇我氏の横行、中臣(藤原)鎌足や中大兄皇子らによるクーデター・大化の改新の計画と実行の記事が記載される。
さして『日本書記』皇極記は次のように結ぶ。
上宮の王等(山背皇子等・聖徳太子一族)の性順(ヒトトナルユル)くして、かくて罪有ること無くして害されたり。
上宮の王等(山背皇子等・聖徳太子一族)は「罪なくして殺された」と言う。

済明6年(660年)9月、百済は使者をヤマトに遣わした。そして、この年の7月に新羅と唐の連合軍が百済を攻め滅ぼした事、君臣は皆捕虜となったが、鬼室福信が百済王家再興の為、奮戦しているということを知らせた。
そして、10月。その鬼室福信が、人質として来日していた豊璋(ホウショウ)を召還し、新たに王に立てたいと申し出た。加えてヤマトに救援を求めてきたのである。
これに応じ、翌年9月、中大兄皇子は織冠を豊璋(ホウショウ)に与え、本国に送り返したのである。
人質であったはずの豊璋(ホウショウ)であるが、白村江の戦いの直前、百済に帰国し、国家の再興を目指す。
そして、中大兄皇子は、何とこの豊璋(ホウショウ)一人を救うため、大国・唐を敵に回す決断をするのである。そして自ら軍勢を率いて白村江に軍を進める。
だが、大和・百済連合軍はここで決定的な敗戦を記す。
百済皇子豊璋(ホウショウ)は、こうして志半ばにして頓挫し、行方をくらますのである。
そして、この人物が日本を離れたとき、実は中臣鎌足も忽然と歴史から姿を消しているのである。それも白村江の戦いという国家の一大事に中臣鎌足は行方不明になり、そして敗戦後、突然歴史に姿を現すのである。
 衆知のように、中大兄皇子の側近中の側近であったと言う、中臣鎌足が、国家存亡の折、行方不明になったということ自体が理解できない。
関裕二氏は著書・『日本古代史の謎』・『藤原氏の正体』で、百済皇子・豊璋(ホウショウ)という人物と、中臣鎌足、つまり藤原鎌足は同一人物であるという。
 確かに、そう考えると、中臣(藤原)鎌足の唐突な日本史への登場、百済救済の為の白村江への無謀な出兵、後述する壬申の乱での韓国軍の到来、さらに天皇家ご自身の神道・道教から、仏教への移行。それに伴う道教の象徴・古墳の消滅など、すべての謎が解けてくるのである。
 『記紀』にもそれ以前の藤原氏(中臣氏)の記載が曖昧なのである。
 つまりは、日本古代史は彼の登場以前が謎になっているのである。 
 大国主の「国譲り」神話のモデルはここにあったと推定できる。
 いずれにしても、無位無官だった、中臣鎌足は、その死に臨んで「大織冠藤原内大臣」という前例のない栄誉の地位に登る。そして後の藤原氏の祖として、その繁栄の基礎を築く。百済皇子・豊璋(ホウショウ)も中大兄皇子(天智天皇)によって織冠をあたえられていたことには既に触れた。
 
 
 
 
 
 
 
 
米國にとつて最強の敵は、~國日本を寄生・支配し續ける藤原五攝家と其の背後にゐる世界最兇の邪惡な靈能集團だ
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/326.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 2 月 12 日 23:49:08: yX4.ILg8Nhnko
 
 
 
 
おまけ
 
 
ネットゲリラ: ベトコン最強伝説
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2010/07/post_893e.html
 
 
16 :グリーンファイヤーテトラ(愛知県):2010/07/04(日) 14:55:51.54
米軍に貧乏神が憑いたからだよ。

17 :クサフグ(空):2010/07/04(日) 14:55:55.51 ID:goj+L1mw
勝ち           負け
唐         vs 日本+百済          (白村江の戦い)
イスラム帝国  vs 唐+高句麗人の総大将 (タラス河畔の戦い)
日本        vs 元 +高麗          (元寇)
明         vs 日本 +朝鮮         (文禄の役)
日本        vs 明 +朝鮮          (慶長の役)
清         vs 明 +朝鮮          (明滅亡)
日本        vs 清 +朝鮮          (日清戦争)
日本        vs 露 +朝鮮          (日露戦争)
ソ連        vs 日本+朝鮮          (シベリア出兵)
アメリカ      vs 日本+朝鮮         (大東亜戦争)
ベトナム      vs アメリカ +韓国      (ベトナム戦争)

47 :マグロ(大分県):2010/07/04(日) 15:01:06.82 ID:hzESXSAq
>>17
見事に法則どおりだわw

51 :アブラボウズ(愛知県):2010/07/04(日) 15:01:27.98 ID:FeoJhY8M
>>17
あの半島の人って戦争に勝ったことあんの?

52 :アブラツノザメ(岐阜県):2010/07/04(日) 15:02:04.91 ID:IpcgO1vy
>>17
呪われすぎだろwwwww

71 :タイワンドジョウ(千葉県):2010/07/04(日) 15:05:28.80 ID:ZkC1ixNM
>>17
オチも入れて置けよ
引き分け
北朝鮮       vs 下朝鮮           (朝鮮戦争)

118 :ツムブリ(福岡県):2010/07/04(日) 15:16:42.99 ID:qqFBW568
>>17
これだけ負けまくってるのに民族が滅んでいないのは結構凄いことだと思う
 
 
 
 

http://www.asyura2.com/10/test21/msg/602.html

コメント [雑談専用39] 対日謀略部隊の指揮系列 アミ
01. 2011年2月18日 23:07:41: NwnWqvxZZs
どうして氏を使われるのか。 野郎でいいのでは。 ジョセフの野郎と使いましょうや。腹が立つですよ。

どうして総理たるものがぺこぺこするのか。暗殺されるのがいやなら自衛隊1万人にまもらせればいいし、米大使館と横田基地を自衛隊に包囲させるべきだ。

死んでも一つの道をいくという気概を総理は持って死ぬのを覚悟してするべきだ。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/240.html#c1

コメント [戦争b7] 日本、中ロ韓連携に焦り 北方領土開発で中国紙 めっちゃホリディ
02. 2011年2月18日 23:12:33: ZmJqMt33RQ
中国もロシアもアメリカの軍産複合体と共謀していて日本をビビらせばアメリカ軍事企業からミサイル防衛以上のお金を巻き上げる事が出来るし日本を今以上の犬に仕上げる事が出来る。
アメリカにとっても良い事づくめ。
あとは、TPPで完全支配の完了。
これが同盟国の正体。
http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/300.html#c2
コメント [雑談専用39] 日本の指揮系統を変えるために アミ
01. 2011年2月18日 23:16:30: NwnWqvxZZs
総理が脅迫される理由はなんだ。もし、朝鮮人由来をバラスということなのだとしたら、理屈はあうよな。だから朝鮮人を総理にしてきた噂があるのだろうか。わからんよね。秘密が多すぎる。素性が全然わからん。

総理や閣僚の暗殺が頻繁に起こってるらしいという噂でも警察は動くんだろ。へんだよいな。幹部が殆んど朝鮮なのか。そういうことは無いだろう。何で米軍の言うとおりになるんだ。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/241.html#c1

コメント [雑談専用38] 日本の林業は見捨てられた産業 虹の仙人
02. 2011年2月18日 23:19:47: 1bI51T5To6
林業の活性化の動きがあります。もう少し耐え忍んでください。もう少しで光がさします。希望を持っていただきますように。
http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/537.html#c2
コメント [雑談専用39] 対日謀略部隊の指揮系列 アミ
02. 2011年2月18日 23:25:00: 1bI51T5To6
氏でよいと思います。
彼らもまた脅されていると思われるからです。
菅総理も何らかの脅しを受けていると思っています。
日本の原子力発電所が地盤の弱いところに立地していることや、ベクテル社によって仕掛けられたものがあるなど色々と説があります。
だまって従って被害を防ぐか、真実をぶちまけて直ちに殺されるかどちらかを選べと言われているのではと推測しています。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/240.html#c2
コメント [経世済民71] 武富士元専務への課税取り消し確定 2000億円還付 利子だけで400億円税金から tea
01. 2011年2月18日 23:28:10: NwnWqvxZZs
おかしい判決みたいだね。脱税の為に香港に移住したのは明白だろ。それなら脱税のためだから犯罪だよね。最高裁は移住意図を言ってないのじゃないか。今は日本に戻ってるにたいだからね。

一般の税務署では脱税意図があるものは多くが脱税だろ。金額多いから悪質じゃないのか。

最高裁の判決で税務署が困る可能性はないのか。

裏はないか。圧力とか。まあ、わからんが。
http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/146.html#c1

記事 [雑談専用39] 林業再生の研究は着々と進んでいます。希望をもってください。
http://www.newkast.or.jp/innovation/kenkyu_project/hara_project.html

http://www.newkast.or.jp/kisya/press_100423.htm


によると

セルロースの糖化は廃木材、農業廃棄物、雑草から再生可能な究極の液体燃料「バイオエタノール」を製造するためのキーテクノロジーです。

東京工業大学応用セラミックス研究所の北野 政明特任助教(神奈川科学技術アカデミー・原「エコ固体酸触媒」プロジェクト・元常勤研究員),原 亨和教授らは,神奈川科学技術アカデミーとの共同研究によって,酸化チタン(チタニア)をナノチューブにすると,熱を加えなくても高効率の革新的な触媒として機能することを発見しました。
チタニアナノチューブ(用語1)は簡単,安価に合成でき,室温で実用レベルの触媒機能を発揮するため,100度C程度に加熱が必要な従来の触媒を使った場合に比べ,化学反応のエネルギー効率が3倍以上に向上。このため燃料や樹脂,医薬品,洗剤などの化学品生産に要するエネルギーと地球温暖化の原因である二酸化炭素(CO2)排出量が1/3以下に低減できます。さらに,酸化チタンは資源量が豊富で安価に入手できるため,コスト削減効果も期待できます。世界トップレベルの化学学術雑誌,米国化学会誌「Journal of the American Chemical Society」に掲載されます。


目に見えませんが、着々と進んでいます。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/242.html

記事 [テスト21] 試驗投稿
 
 
 
 
では佛魔、謀略邪惡靈能集團の眞の本體、中樞部はどこなのだらうか。
藤原鎌足は興福寺に葬られてゐる。
此の事實は極めて重大な意味を持つ。
意味も無く興福寺に葬られてゐる譯が無い。
此の興福寺こそ佛魔邪惡靈能集團の總本山だつたのだ。

ところで興福寺と云へば國寶阿修羅像がある寺でもある。

あっはっはっはっはっはっはっー
こいつはたまげた!!
成る程、だから私を導き護つて呉れてゐる靈的守護勢力は、
此處阿修羅掲示板に投稿させてゐたのか。
何とユーモアのセンスのある我が守護靈團よ。
 
 
 
 
興福寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/興福寺
 
 
興福寺

五重塔と東金堂(共に国宝)
所在地 奈良県奈良市登大路町48番地
位置 北緯34度40分59.97秒
東経135度50分0.98秒
山号 なし
宗派 法相宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 天智天皇8年(669年)
開基 藤原不比等
札所等 西国三十三箇所9番(南円堂)
南都七大寺2番
西国薬師四十九霊場4番(東金堂)
神仏霊場巡拝の道16番
文化財 五重塔・木造弥勒仏坐像・乾漆八部衆像ほか(国宝)
南円堂・木造薬王菩薩・薬上菩薩立像ほか(重要文化財)
世界遺産
 
 
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺である。古代から中世にかけて強大な勢力を誇り、鎌倉・室町両幕府は大和国に守護を置くことができなかった。南円堂は西国三十三箇所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

歴史

創建

藤原氏の祖である藤原鎌足(614年 - 669年)夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659年−720年)は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

南都北嶺

興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。

鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士[1]と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は大和国に守護を置けなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土・桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1000余石とされた。

平重衡の兵火による焼失

興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった(南都焼討)。 東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。この時、興福寺再興に奔走したのは焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されずじまいであった。

廃仏毀釈による破壊

江戸時代は21000石の朱印を与えられ保護された興福寺だが、明治元年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は直接打撃をこうむった。子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。それにさきがけ、興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は奈良華族として還俗させられていた。

行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、興福寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、このとき残された傷跡である。

現在

1998年に世界遺産に登録され、1999年から日本国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。
中金堂再建中。南大門再建計画中。

門跡

かつて興福寺には「興福寺両門跡」と呼ばれる2つの子院があった。一乗院と大乗院である。

一乗院門跡

一乗院は、第6代門主覚信が関白藤原師実の子息だったことをきっかけに、代々、摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院のひとつとなった。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家・鷹司家)の子弟が門主となる例が多かった。ちなみに足利義昭は、もともと近衛稙家の猶子として法名覚慶を名乗り一乗院の門跡となっていたが、兄義輝の殺害にともない還俗し、織田信長の援助を得て将軍となったものである。大和の国衆でのちに戦国大名化した筒井氏は一乗院の衆徒の筆頭であった。江戸時代に入って後陽成天皇の皇子尊覚が門主となったのをきっかけに親王が門主をつとめるケースも増えた。たとえば、久邇宮朝彦親王は、もと一乗院の門主であったものが、その後青蓮院に移されたものである。摂家や親王家と同様に諸大夫以下の専属の家司もおり、摂家・親王家と同格の立場を誇っていた。また奈良だけではなく、京都今出川の桂宮邸と御所の間に「里坊」と呼ばれる屋敷を持っていた。

大乗院門跡

大乗院は、これも藤原師実の子息である尋範が門主となったのをきっかけに門跡寺院となった。こちらは九条家の管領に属し、九条流(九条家・二条家・一条家)の子弟が門主を務めるところであった。戦国時代には、日記『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊(一条兼良の子息)が出ている。また、足利義昭が将軍の地位を追われたあと、義昭のひとり息子が出家して法名を義尋と名乗り大乗院の門主となっている。一乗院が筒井氏を衆徒としたように、大乗院も古市氏を衆徒としている。諸大夫以下の家司や里坊を有し、摂家・親王家と同様の格式を誇ったことは一乗院と同様であるが、親王が門主となった例はない。

興福寺の最高職である別当は、一乗院門主と大乗院門主が交互に就任するならわしだった。また、興福寺がその権限を行使していた大和国守護職についても両院が共同で管理していた。江戸時代には世俗的権力を失い、幕府から一定の知行(一乗院が1,492石、大乗院が951石)を与えられた単なる寺院となった。両院とも明治の廃仏毀釈で廃寺となった。
 
 
 
 
興福寺について | 法相宗大本山 興福寺
http://www.kohfukuji.com/about/index.html
 
 
概要

 法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。

 その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。

 その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。

 さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたのです。

 天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。

 平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。

 文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれました。

 その後、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し新たな興福寺としてその歴史を刻み続けています。
 
 
 
 
春日社参式 | 一年間の行事 | 年中行事とイベント案内 | 法相宗大本山 興福寺
http://www.kohfukuji.com/event/festival/01.html

 
 
皆さまは、お正月にはお参りに行かれますか。そのときは何処にいかれるのでしょう。多くの人は、神社に行かれることと思います。また、お盆には何処にいかれますか。これは、まずお寺にいかれる方が多いと思います。この他にも、日本ではクリスマスを祝ったり、節分を祝ったりとすっかり本来の宗教的意義は忘れて風俗化しています。今回はそのルーツを興福寺の正月行事。春日社参式にからめ探ってみたいと思います。

 興福寺では、正月の2日に一山僧侶と寺に有縁の方々と共に、春日大社にお参りいたします。この日は春日大社の日供始(にっくはじめ)で、日々、神々にお供えをする1年の最初の日です。宮司をはじめ神官の方々と一緒にお参りをし、社頭において般若心経と唯識三十頌を読誦するのです。神社でお経を?と思われるかもしれませんが、興福寺と春日大社の密接な歴史的関係を除いても、明治時代までは一般的にもごく自然のことでした。

 仏教の日本への公伝は、欽明3年(538)といわれています。当初は外来の宗教で、しかも当時最先端の文化でしたから、咀嚼するには随分と時間がかかりました。そして、仏教が日本の国民的思想に同化するようになったのは、平安時代も末のことです。その結果が、本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説というものでした。本地垂迹説とは、無始無終たる絶対の仏様が衆生済度のために迹(教化・救済の姿)を様々な神の形をとって現わす。であるから、仏も神も帰するところは1つであるという思想です。この本地垂迹の語は法華経の如来寿量品からとられたものです。

 本地垂迹の思想の萌芽は既に奈良時代にも見られます。しかし、東大寺要録、元亨釈書等に見られる橘諸兄・行基菩薩創始の伝説は後世の作で、実際には神仏習合思想の域は出ていません。神仏習合思想とは、神も衆生の一で、人間と同じく迷界に流転する存在ですので、覚りを求め仏法を尊び擁護するという思想です。そこから、神様のためのお寺の建立(神宮寺)、納経、僧侶による神前読経、果ては神様に菩薩号(八幡大菩薩など)を付けるなどのことが行なわれました。神前読経にかんする史書における初見は、延暦13年(794)九州の3神社(宇佐八幡・宗形・阿蘇)に僧侶を派遣しての読経です。

 このように、神様は仏教の教えを受け、覚りを得て菩薩となったのですが、仏様同体になるには至りませんでした。その習合思想が発展して、神様と仏様が一体となる本地垂迹思想が、史書に現れる様になるのは平安時代中期の承平7年(937)です。以後ますます発達した本地垂迹思想は、ついに神々と仏様が一緒になったのでした。現在も続く興福寺の春日社参式は、仏教が日本に根付いた歴史でもあるのです。
 
 
 
 
此れは佛教に據る~道支配の何物でもない。
佛法の法力に據つて舊來の日本の~道の八百萬の~々の靈力を支配下に措き
封じ込めんとした事が此處にはつきりと現れてゐる。

なにゆゑ寺は戰亂の度に燒失してゐたのか。
其れは此のやうな背景があるがゆゑなのだつた。
佛法の法力に據つて封じ込められし~道の八百萬の~々の靈力の解放、
其れこそが寺を燒き拂う大きな理由の一つだつたのだ。
(徳川家康は此の~佛習合を
 逆に百濟勢力藤原家封じ込めに利用したのだらう)

謀略邪惡靈能集團は、遂に~道の總本山伊勢~宮をも牛耳つた。
各地にある元伊勢とは此の謀略邪惡靈能集團から逃れる爲
各地を放浪せざるを得なかつたと云ふ理由もあるのであらう。
だが、其れも遂に捕らえられて仕舞つたと云ふ譯だ。
伊勢~宮の~紋は、四辨の花菱で、別名
「唐花菱」或ゐは「唐花」とも呼ばれてゐる事からも其れが伺へる。
十六辯八重表菊花紋では無いのだ。
(そもそも伊勢~宮には以前は~紋が無かつたと云ふ情報もある
 また平安~宮は九条道弘、春日大社は近衞忠麿が宮司をしてゐる所から
 ~道勢力の主要な勢力はほぼ壊滅状態だらう
 望みの綱は物部系と出雲系と諏訪系
 其れと山岳脩驗道系統の猶太クムラン宗團の靈統を保持してゐる
 ~社や寺邊りだらうか)

江戸末期に平田篤胤等に據る古~道復興の流れや水戸國學からの
尊王攘夷運動から沸き起こつた末に誕生した明治新政府に據る
國家~道の動きから出た~佛分離令から廢佛毀釋運動への流れを見て、
リスク分散を圖る爲に、更に~道勢力に對する乘つ取り工作を進めて行つたのだらう。
(江戸末期の尊皇攘夷運動から明治維新に到る、名目上北朝天皇に據る
 王政復古の詔と云ふ背景上、百濟王族藤原家は佛教勢力の側から
 思ふやうな影響力を行使出來ず、公卿・皇室~道勢力からも
 思ふやうな影響力を行使出來なかつたやうだ)
 
 
 
 
    大きアジアの國々や、
    島々八十(やそ)の人々と、
    手握り合ひ~國の、
    光り輝く時來しと、
    皆喜びて三千年、
    ~の御業(みわざ)の時來しと、
    思へる時ぞ~國の、
    まこと危なき時なるぞ、
    夜半に嵐のどつと吹く、
    どうすることもなくなくに、
    手足縛られ縄附けて、
    ~の御子等を聯れ去られ、
    後には老人(としより)不具者(かたわ)のみ、
    女子供もひと時は、
    ~の御子たる人々は、
    悉々暗い臭い屋に、
    暮さなならん時來るぞ、
    宮は潰され御文(みふみ)皆、
    火にかけられて灰となる、
    この世の終り近づきぬ。
    この~示(ふで)心に入れ呉れと、
    申してある事わかる時、
    愈々間近になりたぞよ。
    出掛けた船ぞ、
    褌締めよ。

    十一月三十日、ひつ九のか三。

       日月~示 日月の卷 第三十八帖 (211)
 
 
 
 
御國の爲に戰つてこいと徴兵しておきながら、閣僚の誰も參拜に行かないなどと云ふ態度を採る現政權は英靈達に對して餘りにも無禮
http://www.asyura2.com/10/bd58/msg/504.html
投稿者 卍と十と六芒星 日時 2010 年 8 月 10 日 22:33:20: xsXux3woMgsl6
 
 
 
 
興亜会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/興亜会

 
 
興亜会

興亜会(こうあかい)は、1880年(明治13年)に日本で最初に設立されたアジア主義の総合機関。日本におけるアジア主義(興亜主義)の原点であり、源流である。

後期

1900年(明治33年)亜細亜協会は、1898年(明治31年)に近衛篤麿が創設した東亜同文会に吸収され、亜細亜協会の長岡護美、花房義質、渡辺洪基は東亜同文会の評議員に就任した。東亜同文会はその趣意書に「支那保全」を掲げているが、日清戦争を契機にしたこれ以降の団体は、興亜会とは質的に別のアジア主義団体となった。また、吾妻兵治は日中朝三国の対等提携を志向し、日清戦争後の1899年(明治32年)、岡本監輔と善隣講書館を設立し、和書や洋書を漢訳出版し中国へ輸出して文化交流を計画し実行している[12]。
 
 
 
 
東亜同文会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/東亜同文会
 
 
東亜同文会

東亜同文会(とうあどうぶんかい)とは、1898年(明治31年)から1946年(昭和21年)にかけて、日本に存在した民間外交団体及びアジア主義団体。上海に設立された東亜同文書院の経営母体であったことで知られる。現在の霞山会の前身である。

設立の経緯・概要

東亜同文会は、日清戦争・日露戦争後に清国に対して優越的立場を取り、なおかつ「支那保全(支那保全論)」を掲げて発足した、中期アジア主義の代表的な機関である。1896年から1898年にかけて清朝が欧米により勢力分割(いわゆる「瓜分」)され、それに続く戊戌の変法・戊戌の政変の騒動は、日本においても朝野の大きな関心事となった。これによって康有為・梁啓超らが亡命することになり、更には清朝打倒の革命を唱える孫文らが既に日本を拠点に活動していたことは、日本政府にとって二つの問題を同時に抱えることとなった。こうした問題を抱えながら、康・梁らの改革支援を主目標に掲げた「東亜会」と、大陸での事業経営などの活動を目的として発足した「同文会」という異なる二つの団体と、既存のアジア主義団体「興亜会(亜細亜協会)」や「東邦協会」、「善隣協会」の一部を吸収合併し、「東亜同文会」が発足した。

東亜同文会は支那保全を掲げていたが、義和団の乱後に登場した満州問題を廻って、対露強硬の姿勢を取る近衛篤麿と平和論を主張した陸羯南の対立などにより、東亜同文会の思想は次第に「アジア・モンロー主義」に近い新秩序を志向するものとなった。犬養毅が政府に活動資金を出すように働きかけ、外務省機密費で年に4万円が支給された。これにより、外務省の意向が会の役員人事にも影を落としていた半官半民の国策団体であった。日本政府は最初、康有為・梁啓超一派の亡命に対して協力的だったが、山縣内閣が北京政府の康・梁追放要求を求めたのに対して近衛篤麿がこれを受け入れ、康有為を自発的に離日させることとなった。この近衛の行為には陸実を始めとして会の中からも大きな批判があり、陸を始めとして数名の脱会者が出た。このようであったから、東亜同文会は孫文の革命派に対する支援にも消極的になり、広東支部の廃止なども相次いだ。このように会は徐々にその性質を変えながら、大東亜戦争まで存続することとなった。

組織
役員(創立時)
会長
近衛篤麿

合流団体

1898年、それまで別組織であった東亜会と同文会及び「興亜会(亜細亜協会)」を始めとする既存のアジア主義諸団体が合体して東京・赤坂溜池に設立された。

東亜会
東亜会

東亜会は福本日南の渡欧送別会の席上、この会に参加した陸實・三宅雪嶺・志賀重昂らによって提起され1897年に誕生した。会の事務所は政教社に置かれた。会員は政教社同人のほかに黒龍会の内田良平、および孫文らの中国革命を援助した宮崎滔天らであった。

同文会
同文会

同文会は東亜会設立の翌1898年、貴族院議長・近衛篤麿を中心に結成された。この会の事業綱領は以下のようなものである。
支那問題を研究するとともに各般の調査に従事し、各種事業の助成を図る。
上海に同文会館を設け、両国有志の協同を図る。
東京にあっては『時論』、上海にあっては『亜東時報』の両雑誌をもって通信機関とする。
上海における同文学堂をもって、両国人の教育機関とする。

亜細亜協会
亜細亜協会

亜細亜協会は1880年(明治13年)に設立された興亜会を前身に持ち、東亜同文会の設置にあたり、長岡護美、花房義質、渡辺洪基、榎本武揚・岸田吟香・恒屋盛服が合併を申し込み、東亜同文会に合流した。そのうちの長岡・花房・渡辺はそのまま東亜同文会の幹事となった。更に、日清貿易研究所の運営は東亜同文書院に引き継がれた。
東亜同文会

東亜同文会の設立

同文会設立の4ヵ月後、同会と東亜会の合併により設立された東亜同文会は「支那保全論」に基づき清朝を容認した。さらに洋務派官僚の劉坤一・張之洞らと関係の深い近衛が会長に就任すると孫文らの中国革命を支援する東亜会系の会員は次第に姿を消していった。
 
 
 
 
アジア主義 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/アジア主義
 
 
アジア主義

アジア主義(アジアしゅぎ)、または汎アジア主義(はんアジアしゅぎ、英語: Pan-Asianism)とは、日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗する方策として展開された。

人物・組織・思想
興亜会
1880年、海軍軍人で中国での情報活動に従事していた曽根俊虎などを中心に設立された。琉球処分や壬午事変などで日清関係が悪化していくなかで両国の提携論を標榜し、最初のアジア主義団体とされている。日清提携のための中国語での機関誌発行や語学教育に力を入れた。のち亜細亜協会と改称し、東亜同文会が設立されるとこれに合流した。
植木枝盛
『愛国志林』、『愛国新誌』などで独自の小国主義・アジア連合論を展開。清朝や朝鮮との戦争に反対し、アジアの被抑圧からの独立振興を主張した。
樽井藤吉
1885年、『大東合邦論』を執筆し、日本と朝鮮の対等合併による「大東国」建国を主張した。大阪事件に連座して下獄したため原稿(日本文)を散逸し、日清戦争直前の1893年に漢文で出版した。
犬養毅
頭山満の親友、盟友。中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまう。
玄洋社
頭山満が主宰。福岡県を拠点にし、中国の孫文や、朝鮮の金玉均を援助した。日露戦争時には、馬賊を編成し、ロシア軍の後方を撹乱した。在野の立場を貫き、日本政府の「大東亜共栄圏」構想に与しなかったため、のち迫害される立場になった。しかし広田弘毅は、正規のメンバーだったといわれる。
黒龍会
内田良平が主宰。朝鮮での甲午農民戦争時に東学と連携しつつ清軍を挑発するために派遣された玄洋社の別働隊「天佑侠」を起源としている。なお名称の「黒龍」とはブラック・ドラゴンではなく、黒龍江(アムール川)を指す。
宮崎滔天
梅屋庄吉
東亜同文会
戊戌の政変により日本に亡命した康有為・梁啓超の支援をきっかけに作られた政教社系の東亜会と、中国で商業活動を担っていた大陸浪人が組織した同文会の合併により1898年発足した。初代会長は近衛篤麿で、東亜同文書院の経営を主な活動とした。
岡倉天心
孫文「大アジア主義講演」
1924年11月、日本の神戸で講演し、「日本は西洋覇道の鷹犬になるのか。東洋王道の干城になるのか」と述べる。東洋の仁義道徳を、世界秩序の基本にすべきであると主張し、日本政府に対して中国との不平等条約を改正することを暗に求めた。カラハン宣言により不平等条約を破棄したソ連を王道の側に立つ国家とし、日・中・ソの提携を提唱している点に特徴がある。
汪兆銘
汪兆銘は国父孫文の大アジア主義の意思を継承した人物。1912年1月1日、南京で孫文は臨時大総統に就任し列国に向かって中華民国成立の宣言を発表したが、この宣言の起草を行った。日中戦争中には徹底抗戦を主張する蒋介石に対し日中の共存共栄こそ中国国民の幸せに至る道であると確信し、中国共産党や蒋介石とは異なる独自の道を目指した。「一面抵抗、一面平和」の哲学のもと日中和平を唱え奔走したがついに叶わなかった。
広田弘毅
岸信介
大川周明
松井石根
東亜協同体論
1930年代末(日中戦争初期)、東アジア地域において民族・国家を超克する協同体の建設を主張したもの。当時の近衛文麿首相のブレイン集団である昭和研究会を中心に構想され、三木清・蝋山政道・尾崎秀実・新明正道らが主要な論者となった。
スバス・チャンドラ・ボース
自由インド仮政府を樹立しインド独立を達成することで、東南アジアなどにその輪を広げ、アジア人によるアジア建設を目指した。
マハトマ・ガンディー
非暴力主義を掲げて、インドをはじめとする植民地支配民族の独立運動を展開した。
三浦襄
最後まで大東亜共栄圏を理想と信じて行動した日本人。
 
 
 
 
近衛篤麿 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/近衛篤麿
 
 
近衛篤麿
このえ あつまろ

近衞 篤麿
生年月日 1863年8月10日(文久3年6月26日)
出生地 京都
没年月日 1904年1月1日(満40歳没)
所属政党 火曜会
配偶者 近衞衍、近衞貞
第3代貴族院議長
任期 1896年10月3日 - 1903年12月4日
天皇 明治天皇

近衞 篤麿(このえ あつまろ、文久3年6月26日(1863年8月10日) - 明治37年(1904年)1月1日)は、明治時代後期の華族・政治家。号は霞山。近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長。本姓は藤原。

アジア主義の盟主として活躍

近衛篤麿の外交政策は、中国(当時は清朝)を重視したものであった。特に日清戦争後に積極的に中国をめぐる国際問題に関わっていく。1891年(明治24年)に東邦協会の副会頭に就任。日清戦争後、西欧列強が中国分割の動きを激しくしていく中で危機感を抱く。1898年(明治31年)に同文会を設立したが、同文会は、犬養毅の東亜会と合併して東亜同文会となり近衛篤麿は同会の会長に就任する。かくて、民間諸団体を糾合し国家主義、アジア主義大同団結運動を目論んだ。東亜同文会はアジア主義的色彩の強い立場に立脚し、中国・朝鮮の保護と日本の権益保護のため、外務省・軍部と密接に提携しながら、1900年(明治33年)に南京同文書院(後の東亜同文書院、その後身愛知大学)を設立するなど対中政治・文化活動の推進を図っていく。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官の劉坤一(両江総督)や張之洞(湖広総督)などにも独自に接近、日清の連携をもちかけた。

そうした中1900年(明治33年)6月、中国の華北や満州(現在の中国東北部)を中心に義和団の乱が勃発、これに乗じたロシアが満州を占領下に置いた。これに強い危機感を抱いた近衛は政府元老の伊藤博文や山縣有朋らにロシアに対して強硬な姿勢を取るよう持ちかけたが一蹴された。そこで近衛は犬養・陸羯南・頭山満・中江兆民ら同志を糾合して同年9月に国民同盟会を結成し、日本政府に対する批判をますます強めた。さらに長岡護美に書簡を託し、満州を列国に開放することで領土の保全を図るよう、劉坤一や張之洞に働きかけた。張が特にこれに大きく触発され、劉とともにこの近衛の案(根津一などがゴーストライターとして考えられるが)を清朝の中央に上奏し、採用を求めている。この時は却下されたものの、満州開放案はその後袁世凱も採用し、日露戦争後にはむしろ権益独占を図る日本に対する障害となった。また、1903年(明治36年)には対露同志会を結成。貴族院議長を辞任、枢密顧問官に任命された。

しかし、将来を嘱望されていた矢先、1904年(明治37年)1月1日に死去。享年42(満40歳没)。中国に渡航したさいに感染した伝染病が原因であった。近衛家の菩提寺である大徳寺(京都市北区)に葬られた。

死後、多額の借財があり、篤麿存命中に近衛家に出入りしていた者が手のひらを返すような態度に変わったため、長男近衛文麿は人間不信の念を強くしたとされる。

家族
前妻:衍(さわ。前田慶寧五女。明治2年-明治24年)
長男:文麿(貴族院議長、内閣総理大臣)
後妻:貞(もと。前田慶寧六女。明治4年-昭和20年)
長女:武子(公爵大山柏妻)
次男:秀麿(音楽家)
三男:直麿(雅楽研究者)
四男:忠麿(→水谷川家を継ぐ、春日大社宮司)
 
 
 
 
西園寺公一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/西園寺公一
 
 
生涯

戦前

明治39年(1906年)11月1日、公爵西園寺家の嫡男として神奈川県に誕生した。祖父は西園寺公望、父は公望の養子西園寺八郎(実父は旧長州藩主で・公爵毛利元徳)で、母は公望の娘・新である。

学習院初等科から東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を経てイギリスのオックスフォード大学へ留学。ここでマルクス主義の洗礼を受ける。昭和5年(1930年)、オックスフォード大学を卒業した。

1931年に日本へ帰国。父八郎から宮内省入りを勧められたが頑として拒絶。東京帝国大学大学院に在学中、外務省の試験を受けて失敗。「英語は素晴らしくよくできたが、日本式の答案にはまるで不慣れ」だったのが原因だったが、これを聞いた近衛文麿は「折角きてくれるというのに、なんてもったいないことをするんだろう」と外務省の官僚主義を嘆いた[1]。外務省嘱託職員を務めていたが、有資格者ではなかったため冷遇されて辞職し、1936年にはグラフ雑誌『グラフィック』の社長に就任。同年7月、カリフォルニアのヨセミテで太平洋問題調査会の第6回大会が開かれることとなり、オックスフォード時代の顔見知りで内閣書記官を務めていた牛場友彦の誘いにより日本代表団の書記として渡米。このとき、牛場から引き合わされて公一と同じ船室に入ったのが牛場の第一高等学校時代の同級生尾崎秀実だった。尾崎とは帰路も同室になっている[2]。

中国の秘密結社について研究しており、中国の共産主義運動に関心を持っていた。このため、のちにゾルゲ事件に連座した際にも、中国との交渉ルート確保のために許された可能性がある[3]。

1937年に近衛文麿内閣が成立すると、近衛のブレーン「朝飯会」の一員として軍部の台頭に反対し、対英米和平外交を軸に政治活動を展開した。また「汪兆銘工作」にも参画、「自立した新政権」の樹立を目指したが、結果としては軍部の意向が強く反映された政権となった。

昭和15年(1940年)9月には再度外務省嘱託職員となり、対米戦争回避のための努力を行った。この時期、松岡洋右外相に同行してヨーロッパを訪問、スターリンやヒトラーやムッソリーニとも会っている。昭和16年(1941年)7月には、内閣嘱託に。近衛首相より、日米交渉について、陸海軍の意見調整を図る、という任務が与えられた。

同年10月、風見章が主催する昼食会の席上で、尾崎秀実の逮捕を知る(ゾルゲ事件)。尾崎秀実とは共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていたため、それを「国家機密漏洩」であるとして、ゾルゲ事件に連座して禁錮1年6月、執行猶予2年の判決を受けた。このため嫡男としての爵位継承権を剥奪され、1946年に父・八郎が死去したあとの家督を弟の不二男に譲ると共に、西園寺家の相続権を放棄することとなった。

戦後

『グラフィック』誌の仲間と共に『世界画報』を創刊。また、新設プロ野球球団である「セネタース」(現在の北海道日本ハムファイターズ)のオーナーを短期間務めた。1947年には参議院議員選挙に出馬して当選。しかし肝臓ジストマに侵されていた公一は参院で欠席の記録を作り、議員としては見るべき活動ができず、2回目の参院選には落選。昭和29年(1954年)には京都市長選挙に出馬して落選する。1955年にはウィーンで開かれた世界平和評議会に日本代表として出席し、そのままウィーンの評議会の本部に書記として単身滞在、かの地で3年間を過ごす。この間、1957年に世界平和評議会の大会をセイロンで開くことになって中国に相談に立ち寄った際、中国から「人民交流」の日本側の窓口となる人物の推薦を頼まれたことがきっかけで中国の「民間大使」となる[4]。

日本に帰国してから間もなく、家族を連れて中華人民共和国へ移住、日中文化交流協会常務理事等として北京にて国交正常化前の日中間の民間外交に先駆的役割を果たした。アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長としての月給は500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの待遇だった[5]。

昭和33年(1958年)には日本共産党に入党するも、のちに日中共産党が不和となった結果、昭和42年(1967年)2月、北京滞在中に「日本人の勤労人民としての生活経験をもたず、中国においても、社会主義の政府によって与えられている特恵的な生活になれて」「特定の外国勢力に盲従して、分裂と破壊活動に狂奔するようになった」(『赤旗』)旨を以て除名処分となる。1970年8月、12年7ヶ月ぶりに日本へ帰国。

かつての文革礼賛者はその後新興宗教やカルト的団体に接近する者が少なくなかったが[6]、西園寺も晩年は子息とともに創価学会に傾倒。入会こそしなかったものの、外部の理解者の立場にあった[7][8]。 中国寄りの創価学会に賛同しなお影響力を誇示しようとしていたようであるが、一方の創価学会にとって、中国とのかかわりが深く名門の末裔でもある西園寺父子は組織の「権威付け」には重宝な人物であった[9]。
 
 
 
 
【門跡】旧皇族・旧華族の神社仏閣【別表】
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/kyoto/1146301498/

 
 
122 :120 :2007/03/02(金) 18:54:28
 大日本皇道立教会2代目会頭  四条隆愛(従二位勲三等)
 2代目副会頭 三嶋弥太郎(子爵・正三位勲一等)
 3代目会頭  四条隆徳(侯爵・正四位勲四等)
 3代目副会頭 秋月左都夫(正三位勲一等)
 その他重要人物
 一条実孝(公爵・従二位勲二等・大葬使祭管長)
 野村吉三郎(海軍大将・学習院院長)
 牧口常三郎(学校教員・後に『創価教育学大系』を著す)
 児玉誉士夫(後に国粋同盟東亜部長、海軍委嘱特務機関員)

 案外知られていないことだが、いまこの国の中枢部に存在している創価学会の前身は大日本皇道
立教会という右翼系の団体だったのだ。そしてまた、ここには日蓮が大きく関係していることがわかる。
■法難
>その後、戦時下の昭和18年(1943年)7月に牧口常三郎は、治安維持法違反、並びに不敬罪容疑で逮捕、
>投獄され、翌昭和19年11月18日に獄中で死亡している。
>また一部には、彼らの逮捕は、創価学会の前身であった「大日本皇道立教会」が南朝系天皇を奉る団体
>であったため弾圧されたとの説も流されている。
>ただ、もし仮に「大日本皇道立教会」が南朝系だったとして、なぜ「創価教育学会」のメンバーだけ
>が逮捕され、秋月左都夫(皇道立教会副会頭・読売新聞社長)や児玉誉士夫は逮捕されなかったのか?
>日本中の有名人を集合させた「大日本皇道立教会設立発起人」名簿。
>そして、会頭・副会頭として83歳の長老・宮内大臣に73歳の出雲大社宮司。
> 彼らを押し退けて、名も地位もない中山忠英が、なぜトップの座に就いたのか?
> しかも「大日本皇道立教会」は、中山忠英以降、中山忠英以外には誰も会長の座に就くことがなかった
>。「大日本皇道立教会会長」というポストは、中山忠英だけのために用意されたものだったのだ。
 
 
136 :名無しさん@京都板じゃないよ :2007/03/23(金) 10:07:19
大日本皇道立教会の会長;中山忠英
創価学会の前身であった「大日本皇道立教会」
明治天皇の生母は公家中山慶子である。以下引用
http://www.club-kamikaze.net/modules/sections/index.php?op=viewarticle&artid=19

48投稿者:;  投稿日:2007年02月26日(月)16時19分47秒

すなわち
1)オウム真理教事件も
2)北朝鮮拉致事件も
3)秋田の人間養殖殺人大学も
4)日蓮宗関係者石原莞爾日中戦争も
全て同じミームである模様だ。

これらは「自分たちと考え方が合わない者は
躊躇せずに暗殺しても良い」とする日蓮の立正安国論のミームが起源と
見られ、この日蓮宗のポアの概念こそが、創価学会の本質そのものなのである。
日本の謀略の大半はここから来ている。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/03(土) 18:42:22 ID:tJAfBaCL0
国家神道もオームも神のために殺人をする事を美化するのって嫌だよね

「在野神道」の吉田神道・水戸神道・大本教など。
特に大本教の出口は黒竜会の内田良平と仲が良かった。
戦前最大の在野神道勢力が大本教なんだが、内田を媒介にして在野神道が連合した。
政府はこれに弾圧を加えたということ。
 
 
 
 

http://www.asyura2.com/10/test21/msg/603.html

コメント [経世済民71] 国債集中投資の愚  増税分を飲み込む歳出増 「格付け会社を信じるな」は本当か  tea
10. 2011年2月18日 23:52:46: nJF6kGWndY
>望ましい姿と言うのは、金融資産の総額が、今よりかなり小さい、いわゆる実体経済の大きさに合うような規模になるしかない、というように読めますね。

経済は生き物だし、GDP比の金融資産(負債)に理想値があるとも思えないが

現状のように2倍以上に膨れ上がり、その借主の大部分が企業ではなく
国というのは、今後の日本の生産力や競争力、人口推定、財政状況見込み
などから考えると、かなり危険であると言わざるをえない。

特にその内訳が、現在世代の社会保障と投機の失敗(バブル崩壊)のツケである場合
莫大な借金返済を、将来世代から税金として強制的に徴収するというのは、将来世代の勤労意識やモラルに大きな悪影響を与えるだろう。

個人的には、将来世代ではなく我々現役世代と公務員、富裕層が、インフレや増税で負担し、少なくともプライマリーバランスは改善して禍根を絶っておくべきものだと考える。
http://www.asyura2.com/11/hasan71/msg/139.html#c10

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