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説明責任、推定無罪、問責閣僚の交代、参院改革――小沢問題とねじれ国会をめぐる4つのキーワードで考える「政治の自殺行為」 (上久保誠人のクリティカル・アナリティクス|ダイヤモンド・オンライン)
「説明責任」
――客観的な基準を明らかにすべき
小沢一郎元民主党代表が、検察審査会の起訴相当の議決に基づき強制起訴された。小沢氏は法廷で無実を主張する方針を表明し、離党や議員辞職を否定した。また、小沢氏の政治倫理審査会への出席はいまだに実現していない。野党、マスコミだけでなく、菅直人首相、岡田克也民主党幹事長など民主党政権内部からも、小沢氏が国会で「説明責任」を果たし、政治家としてのケジメをつけるべきだとの発言が相次いでいる。
「説明責任」は、いまや政局のキーワードだ。しかし「説明責任」という言葉の意味は明確ではない。嫌疑をかけられた政治家は、どこまで国民に対して説明をすれば「説明責任」を果たしたとされるのか、明らかではないのだ。
これでは、小沢氏が政倫審に出席してなにを話しても、野党・マスコミは「まだ説明責任を果たしていない」と批判するだろう。野党・マスコミは政倫審に臨む前に、小沢氏が果たすべき「説明責任」の基準を明らかにすべきだ。菅首相がその基準を明示するのでもよい。小沢氏の「説明責任」が客観的な基準で公平に評価されるのでなければ、政倫審を開催する意味はない。
ただ、「説明責任」の意味を明らかにしない野党・マスコミの姿勢を理解はできる。小沢問題を巡る政局の本質が「政治とカネ」の問題の根本的解決ではなく、民主党政権を打倒する権力闘争だからだ。しかし、政治学者に「説明責任」の意味を明確にせず、小沢氏に政倫審出席を要求する方がいる。言葉の定義を明確にすることが、学問の第一歩ではないのだろうか。
「推定無罪」――裁判が結審するまで
「政治的・道義的責任」はない
政治学者の立場から言えば、検察審査会による強制起訴に対しては、裁判が結審するまで起訴された政治家の「政治的・道義的責任」を問うべきではない(前連載第60回を参照のこと)。検察審査会自身が主張するように、「(検察審の制度は)公正な刑事裁判の法廷で白黒つけようとする制度」だ。これは政治家の疑獄事件を扱ってきた従来の特捜事件の裁判とは異なる。
従来、検察が起訴すれば裁判ではほぼ有罪となった。検察審査会の強制起訴は、この裁判制度のあり方そのものに挑戦している。検察審査会が謳う「公判中心主義」は、検察の判断で有罪・無罪が決められるべきではなく、たとえ検察が起訴できないと判断する事件でも、裁判という公開の場に上げて、有罪無罪を決着するべきだという考え方だ。
「公判中心主義」は、これまで権力の座にある(座を狙う)者をターゲットにして政治と駆け引きしてきた特捜検察の影響力を低下させる意味で、極めて意義が大きい。しかし、「公判中心主義」の定着には、「推定無罪」の徹底が必要だということを忘れてはならない。「推定無罪」の徹底のためには、裁判が結審するまでは、疑惑の政治家の「説明責任」を問うべきではない。国会での政治倫理審査会・証人喚問自体も、本来は行うべきではない。
「推定無罪」が不徹底だと、政敵がマスコミと組んでスキャンダルをでっち上げて「強制起訴」して、政治家を簡単に潰せるようになる。政治家は一旦起訴されると、仮に裁判で無罪になっても計り知れない社会的制裁を受ける。嘘でもスキャンダルを流せば政敵を倒せることになれば、政治は成り立たなくなる。小沢氏の証人喚問を求める政治家たちは、明日は我が身に降りかかってくることだと自覚すべきだ。国会が政治家の「指定無罪」を守らず権力闘争だけの場となることは、政治の「自殺行為」である。
「問責閣僚の交代」
――強すぎる参院をどうすべきか
参院で問責決議が可決した仙谷由人官房長官と馬淵澄夫国土交通大臣を内閣改造で交代させたことも、政治の「自殺行為」だ。
仙石官房長官問責の理由は「尖閣諸島沖中国漁船衝突事件における極めて不適切な対応」「国権の最高機関たる国会を愚弄する、暴言、失言の数々」「日本国憲法に抵触する発言を繰り返し、憲法順守の義務に違反」「国会同意人事案件に対する怠慢」「北朝鮮による韓国・延坪島砲撃事件における危機管理能力の欠如」である。
馬淵国交相問責の理由は「尖閣諸島沖で中国漁船が我が国海上保安庁の巡視船に衝突した際の映像がインターネット上に流出した事件での、政府の情報管理能力の欠如」「八ツ場ダム建設事業について、地元住民を振り回している」であった。
これらは、与野党の立場が違うと、さまざまな問題についての解釈が異なるということに過ぎない。国会で議論を尽くせばいいだけのことで、これで問責ができるなら、閣僚が野党と違う考えを持つことだけで問責の対象となる。それは、多様な考え方を前提に議論を尽くす民主政治を根底から否定することだ。菅内閣が問責された閣僚を交代させたことで、今後参院では意見の相違だけで問責が乱発される。まともな議論はできないだろう。
「参院改革」
――地域主権と併せて構想せよ
参院の改革が必要だと誰もが考えている。しかし、現在の参院の権限をただ削るだけでは、参院改革は与野党の権力闘争に巻き込まれるだけだ。参院改革は新しい日本の国家像を構想する機会にすべきだ。
参院改革は、世界各国の二院制の検証から始めねばならない。世界の二院制には、「貴族院型」(英国など)、「連邦型」(米国、ドイツ、スイスなど)、「民選議員型」(イタリアなど)がある。日本は「民選議員型」だが、元々「貴族院型」として制度が作られたために参院の権限が強すぎる(前連載第17回参照のこと)。
この歴史的経緯から、参院改革の方向性として、もう1つの「連邦型」の検討もあり得る。世界の連邦国家はすべて二院制を採用し、上院は地域代表だ。これを参考にして「道州制」「地域主権」と結び付けて参院のあり方を構想してはどうだろうか。
繰り返すが、参院改革は国会議員主導では政争の具になり難しい。橋下徹大阪府知事や河村たかし名古屋市長などの「地域主権」の動きと連携を模索してはどうか。彼らの既存政党を破壊する勢いに飲まれるだけでなく、彼らを利用して大きな改革を実現するくらいのしたたかさが、国会議員にはあってもいい。