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2011年1月28日00時04分 〜
コメント [経世済民70] 亀井静「国家の基本は防衛と関税自主権だ」TPPを関税自主権回復(1911年)から100年目にぶつけてきたアメリカの悪意 クルテクと森の仲間たち
07. 2011年1月28日 00:04:32: Wpa39bsErw
<TPPに関して実務者レベルで日米協議が始まり
1)郵政資金の運用への米企業参加、
2)自動車の安全基準を米国並みに引下げ、
3)BSE絡みで月齢20ヶ月の牛肉輸入制限廃止などが出てきているようです。
高額混合医療を解禁して米保険会社参入や、
公共事業の入札条件緩和で外資参加も出てくるでしょう。>

TPP規制改革24分野
1主席交渉官協議
2市場アクセス(工業)
3市場アクセス(繊維・衣料品)
4市場アクセス(農業)
5原産地規制
6貿易円滑化
7SPS(衛生植物検疫措置)
8TBT(貿易の技術的障害)
9貿易救済措置
10政府調達
11知的財産権
12競争政策
13サービス(クロスボーダー)
14サービス(電気通信)
15サービス(一時入国)
16サービス(金融)
17サービス(e-commerce)
18投資
19環境
20労働
21制度的事項
22紛争解決
23協力

農業を潰されて、食の安全と自給が崩壊し、その上アメリカの要求ばかり。
これは亡国だにゃ。日本の最大の危機じゃ。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/727.html#c7

コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
10. 2011年1月28日 00:19:29: Pj82T22SRI
>○一商品先物会社と先物、あるいは金現物取引

○一商品の営業は無責任なのが多い
また中国のバブルが潰れると暴落するから
よほど自信がなければ、先物は余裕資金で遊びでやる程度にした方が良い

あ若いうちは全財産失うのも良い経験かもしれない

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c10

コメント [マスコミ・電通批評11] 年130億円の税金を喰らう記者クラブ幹事社のヒウラ記者、フリーの白石氏の髪を掴み「皆さんこんなことしちゃダメですよー」 むにゃ
05. 2011年1月28日 00:21:30: E72TgsGMSA
朝日もほんとに落ちたと思ったら記者までも下劣な行為をしている。まともじゃないですね。
 検察も検察審査会も、裁判官も、そこに付随している弁護士、マスコミみんな勝手に威張っているだけの世の中、何をしても俺たちは偉いんだとふんぞり返っている姿が見えるようですね。これだもの国会議員はまともでなくなり、官僚はやりたい放題。これが日本。
 こういう連中はアメリカにはワンと吼えるのでしょう。


http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/505.html#c5

コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
11. 2011年1月28日 00:23:38: 2SsZ3SmTYY
なにがスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)どすのん? 米国と何んら関係の無い国の格付け会社が言うてるのならイザ知らず、散々っぱらインチキなことをやらかしてくれてはる大本山である米国の尖兵が、キャンキャンと吠えているだけのことやおへんかぁ。 6京円(60000兆円)もの大穴を開けて大騒ぎしてはる米国の国債の格付けがAAAの最高位にあるっていうこと自体が、スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)なるもんのイカガワシサを端的に表しているというもんどす。 我が国の国債が、こんなイカガワシイ国の、それも一民間企業の評価で乱高下するんなら・・あぁ、どうぞどうぞ、なんぼでもやっておくれやす〜。 お蔭様で円安になって、こんな有難いこともおへんわぁ。 まったくもって中立な国にある格付け会社が言うてはるんならイザ知らず、ずぶずぶのグルやと疑われるもんの評価に大きく反応する我が国のマスコミも、これまたグルなんどすわぁ。国会の代表質問をしているこのタイミングで、財政再建論者である与謝野はんへの援護射撃。まさに出来すぎの100点満点どすなぁ。・・・そんでもって、ウチの指摘と同様の事を主張してはるマスコミが無いんなら・・こりゃ、ほとんどウチの読みが図星なんとちゃう??
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c11
コメント [議論30] リチャード輿水氏の重要性 my.test.done
02. 2011年1月28日 00:27:45: ksfkQE5Z1k
輿水さんは、正直な方でしょう。
怪しいなんて、適切な表現ではなく、小説より奇なりを暴露してくれる。
感情の起伏が激しいという一面も吹聴されているが、本音で行動しているからでしょう。ネコ撫で声で信者を騙している某学会、信じ切っている心清き会員、そういった連中とは違うってことだ。
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/370.html#c2
コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
12. 2011年1月28日 00:29:15: Pj82T22SRI
S&Pが日本国債格下げ あまり意外性は無いが、投機筋の円ポジションの整理には使えたということか
今後は、この決定の背後にある前提条件自体が、どう変化するかだ

2011年 01月 27日 18:45 JST
 
日本のソブリン変更のタイミング、予算提出や内閣改造を考慮=S&P
訂正:首相の「疎い」発言に市場冷ややか、国債格下げで気迷いも
日本格付け、財政戦略に迷走の兆候ならマイナス圧力=フィッチ
事故の危機管理とは違う=格下げに対する首相発言で官房長官
 
 S&Pによる日本国債格下げに関する識者の見方は以下の通り。

●為替は円売りで反応、円キャリーが拡大すれば一段の円安も

<クレディ・スイス証券 外国為替調査部長 深谷 幸司氏>

 以前から日本国債(JGB)がいつ格下げになってもおかしくないとの見方があったので、格下げ自体に驚きはない。ただ、為替市場は欧州のソブリン問題で敏感になっていることもあり、JGBの格下げについては、円売りで反応している。

 構造的には、外国人投資家のJGB保有比率が低いため、格下げをきっかけに、外国人がJGBを売却したとしても、相場に直接的なインパクトをもたらすかは疑問だ。

 現時点では、投機筋が依然、円ロングのポジションを抱えている。今後、こうした投機筋が円ショートに傾いたり、個人を含む資本筋が円キャリー取引を拡大するという流れになれば、一段の円安が進む可能性がある。

●日本財政規律に警鐘を鳴らす役割

<BNPパリバ証券東京支店 島本幸治・投資調査本部長>

 一般的には消費税の議論も含めて6月中に判断するという政府方針を示しているので、その行方を見極めてから、格付けの方向を決めるのではないかと思っていたので、今回の格下げのタイミングにはやや意外感がある。

 日本の財政規律に対して警鐘を鳴らす役割になったと受け止めている。もっとも、今回の格下げで長期金利が大きく上がることにはならないとみている。こうした警鐘を受けて、日本の政策が今後どのように変わるか見極めて相場は動くと思う。つまり、「急速な高齢化が日本の財政・経済を圧迫している」ことに対応した「税制と社会保障の一体改革」に先んじてS&Pが警鐘を鳴らす意味で格付けを引き下げた。実際に政策が打ち出されるかという点に円債相場は反応してくるとみている。

●円売り反応は一過性、84円を上抜けする可能性は低い

<住友信託銀行 マーケット・ストラテジスト 瀬良 礼子氏>

 円売りで仕掛けたいと思っていた短期筋にとって、日本国債(JGB)の格下げは、待ち焦がれていたニュースだろう。ただ、過去にもJGBは格下げされているが、円相場は結局、元の水準に戻っており、現在の市場の反応(円売り)は比較的早期に落ち着くと見ている。 

 今年に入ってドル/円相場は84円の手前で折り返している。日本のアウトルックが安定的なことや、84円台にはドル売りを待っている本邦勢が控えている事を考慮すれば、今回の格下げのニュースで、ドル/円相場が簡単に84円を突破できるとは思えない。このまま円売り局面に突入することはないと思っている。

●長期金利上昇には懐疑的

<みずほ証券 チーフストラテジスト 高田創氏>

 米格付け会社スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)が、日本の長期国債格付けを現在のAAからAA─に引き下げたのは、「財政状況の悪化」を理由にしている。これまでの1年は、世界で“ソブリンワールドカップ”のような状態だったが、市場での評価は、財政赤字というより経常収支の状況に左右されていた。

 ポルトガルやイタリア、ギリシャ、スペインを指すPIGS問題では、財政赤字の問題であると同時に、より悪影響を及ぼしていたのは経常収支の赤字だった。

 日本の財政状況は、潜在的な問題を内包している。しかし、今回の格下げにより、長期金利の指標10年債利回りが上昇基調をたどるかどうかは懐疑的だ。2002年にシングルAまで格下げされた際には、逆に長期金利は低下した。長期金利は年度末にかけ1%ちょうどから1.4%前後で推移するのではないか。

●初期反応は円安も、トレンド形成には至らず

<明治安田生命・運用企画部 チーフエコノミスト 小玉祐一氏>

 スタンダード&プアーズ・レーティングズ・サービシズ(S&P)が日本国債を格下げしたことに伴う初期反応として、外為市場では円安に振れたが、円安トレンドの形成には至らないとみている。

 日本の財政が危機的な水準にあることは、ほとんどの市場参加者の共通認識であり、いずれ格下げがあると予想されていた。実態をみると格下げはある意味当然で、さらに格下げされても不思議ではないのが日本の財政の現状だ。

 日本経済はまだデフレが続いており、これが金利低下圧力になるほか、日本国債の95%前後は国内で保有されていることから、このまま財政リスクをどんどん織り込むことはないだろう。

 今回の格下げがカンフル剤のように目覚まし効果となり、政府が財政再建に本腰を入れるきっかけになれば良いと受け止めている。

●財政リスクだけで長期金利1.5%超は考えづらい

<日興コーディアル証券 チーフ債券ストラテジスト 野村真司氏>

 政府は6月までに消費税を含む税制と社会保障の一体改革についての基本方針を示すことになっているが、期待できないと判断しているのかもしれない。円債市場への影響については、基本的には日本人が9割以上を保有しているので、財政リスクプレミアムだけで長期金利が1.5%を超えていくような状況は考えづらい。実体経済の回復などを伴えば1.5%を超える局面があるかもしれないが、今の状況ではその前に押し目買いが入るだろう。

 いずれにせよ、6月に方向性が出たとしても、2012年度予算編成を考えた時に、非常に厳しい財源状況にあるのは間違いないので、今回の格下げに限らず、常に財政赤字に関するリスクを意識せざるを得ないという状況は当面続く。もっとも、最初に述べたように、これだけでどんどん売られるという展開は想定しにくい。

●CDSワイド化も、政策実行にスピード感必要

<野村証券 チーフ・クレジット・ストラテジスト 魚本敏宏氏>

  深刻化する日本の財政問題は中長期的に大きなメスを入れなくてはならないテーマであるため、予備的な措置による日本国債の格下げは自然な流れだ。ただ、タイミングを読み切れない中での格下げで、クレジット市場にとって若干サプライズだ。

 今後はS&Pが付与している銀行債や事業債にも格付けの下方圧力が強まりやすい。新発債市場でもスプレッド拡大などを通じて資金調達コストの上昇につながる可能性も否定できない。

 CDS市場は年明け後、日本ソブリンとともに、コーポレートのプレミアムも広がっている。その背景には、中国経済の悪化と日本財政問題の暴発という中長期的なマクロビューに基づいた仕掛け的な動きがあるとみている。国債格下げはこうした仕掛け的な取引に拍車をかける可能性があり、CDS市場にとってかく乱要因だ。

 菅政権は政策として掲げる社会保障コストの低減と消費税引き上げ、規制緩和をよりスピード感を持って実行に移さないと、日本国債の消化に対しても懸念が出てくる可能性もある。


S&Pが日本国債を格下げし、外為市場は円安に振れた。「格下げは当然で、さらに格下げされても不思議ではないのが日本の財政の現状」との声も。

政府・日銀、国債格下げ契機に財政再建本腰が急務との声 2011年 01月 27日 22:37 JST
トヨタ2010年世界生産3年ぶりに前年上回る、ピークからは1割減 2011年 01月 27日 22:09 JST
日本政府の財政再建の取り組みは真剣だ=与謝野経済財政担当相 2011年 01月 27日 21:56 JST

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c12

記事 [雑談専用39] 良いビジネス文書の条件 (文筆劇場)
http://hiroya.web.infoseek.co.jp/john2875.htm
「文筆劇場」から「良いビジネス文書の条件」を下記のように転載投稿いたします。

=転載開始=

今更ながら、「ビジネス文書には優劣がある」と気付きました。

 それでは、良いビジネス文書の条件とは何か。

 1.必要な情報が過不足なく記載されている。

 2.読んですぐに理解できる。

 つまるところ、大切なのはこの2点であるように思います。

 報告書であれ、提案書であれ、"書くネタ"は予め決まっているものです。問題はその素材を活かして「どう書くか」と点にあります。

 "文書を書く目的"を踏まえた上で、要約すべきところは要約し、補足すべきところは補足する。

 実はこれは、"文章指導"が成り立ちやすい環境です。なぜなら、文章を書く側と添削をする側が、"目的と情報"を共有しているからです。

 好き勝手なテーマで、好きなように書いた文章というのは、優劣がつけにくい。「これが、個性です」と言えば、そこで話が終わってしまうからです。

 書く側と添削する側が、手持ちの札と目的を共有しているからこそ、より効果的な"文書の書き方"を指導できる。そこには、明確な優劣があります。

 必要な情報の記載であったり、一語一句のよりより簡素な表現であったり、ややもすると見逃してしまうような部分です。

 実務の世界で何十年もやってきた人と、僕のような駆け出しでは、それこそ配慮のレベルには雲泥の差がありました。僕に関して言えば、「無駄な情報を削ぐ」という部分が不十分です。

 文章修業をするのであれば、小説家志望者向けの文章教室に通うよりも、「これは」と思う実務家に企画書や報告書を指導・添削してもらう。その方が効果が高いと考えています。

 あくまで書くテーマと目的が制約されているからこそ、表現技巧の部分に焦点があたり、優劣が明確になる。これは見逃せない点です。

 「必要な情報が過不足なく記載された、わかりやすい文章」。言葉にすれば随分と簡単なものです。しかし、これを体得するためには、何十年にも渡る研鑽が必要なのだと、痛感した次第です。

=転載終了=


http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/189.html

コメント [お知らせ・管理19] 亀ちゃんファン さん、2重投稿をしないために何をしているか教えてください。 管理人さん
02. 管理人さん 2011年1月28日 00:37:32: Master
了解です。

よろしくお願いします。

今後とも阿修羅掲示板を大活用してくださいませ。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/529.html#c2

コメント [お知らせ・管理19] taked4700 さん、投稿規定をご理解いただけるまで投稿可能数を0にしておきます。 管理人さん
09. 管理人さん 2011年1月28日 00:40:08: Master
板違いです
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/511.html#c9
コメント [お知らせ・管理19] 管理人殿、二重投稿の為、削除ください。 小沢内閣待望論
03. 管理人さん 2011年1月28日 00:42:38: Master
>>01 よくわかたったので、消しておきました。

>>02 私も聞きたいです。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/526.html#c3

コメント [ペンネーム登録待ち板6] 管理人さんへ gikou89
01. 管理人さん 2011年1月28日 00:44:15: Master
投稿可能数を元に戻しておきました。

今後とも★阿修羅♪掲示板を大活用してくださいませ。
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1103.html#c1

記事 [お知らせ・管理19] 小沢内閣待望論さん、タイトル規定違反の投稿が多数あります。どうしますか?
02. 2011年1月26日 19:50:40: qRUVJlMZAs
タイトル投稿違反です。
小沢関係の捜査は実質的には前田が主任検事・智恵袋(米国が検察やマスゴミや空き缶を動かしているのはバレバレです)
http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/615.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 1 月 26 日 18:54:11: 4sIKljvd9SgGs

元記事タイトル
小沢関係の捜査は実質的には前田が主任検事として先頭に立ってやったそうですね。...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1252009627


検察審査会は”実質的”には検事が指導しているのですか・智恵袋(多分、米国が指揮・命令しているのだと思います)
http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/618.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 1 月 26 日 19:20:07: 4sIKljvd9SgGs

元記事タイトル
検察審査会は”実質的”には検事が指導しているのですか、それともヤメ検弁護士が指...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1153360501

◆投稿規範
<ニュースや他サイトを引用師、引用がメインの場合>には、
●投稿の【件名の頭から30桁以上は、元記事のタイトル】を使ってください。

小沢内閣待望論さんは自分の意見を書くために元記事タイトルを途中で省いているものと思われます。



03. 2011年1月27日 15:17:16: qRUVJlMZAs
>02に続きます。
タイトル投稿違反です。

弁護士出身の政治家って、ロクなのいませんね・智恵袋(福島は「前田調書撤回」「石川恫喝録音」を無視する卑怯者です)
http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/656.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 1 月 27 日 11:14:05: 4sIKljvd9SgGs

元記事タイトル
弁護士出身の政治家って、ロクなのいませんね。仙谷由人とか千葉景子とか福島瑞穂...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1049321065


特別会計について教えてください・智恵袋(これをガラス張りにしない限り、増税どころか消費税自体もTPP参加も不必要です)
http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/659.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 1 月 27 日 11:51:41: 4sIKljvd9SgGs

元記事タイトル
特別会計について教えてください。 特別会計の大きさにはびっくりしました。一般...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109525470

小沢内閣待望論さんのタイトル投稿は規定に明確に違反するものです。
この種の投稿はこれまではなかったのですが昨日から繰り返されて既成事実化が計られています。タイトルは可能な限り全文投稿が大原則であるべきです。

◆投稿規範
<ニュースや他サイトを引用師、引用がメインの場合>には、
●投稿の【件名の頭から30桁以上は、元記事のタイトル】を使ってください。


http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/530.html

コメント [お知らせ・管理19] 二重投稿なので削除申請します 吐息でネット右翼
07. 管理人さん 2011年1月28日 00:51:01: Master
>>06 消しておきました。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/508.html#c7
コメント [マスコミ・電通批評11] 誰でも参加できる会見を――「自由報道記者クラブ協会」設立へ ITmedia News ダイナモ
01. 2011年1月28日 00:52:30: NGBewEd6ak
第1回目は空き缶の無駄な国会のために時間短縮となり、小沢さんにたくさんの質問をする時間が無くなりましたね。
これもすべて空き缶のせいです・・空き缶が足を引っ張ったとしか思えない。

http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/510.html#c1
コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
13. 2011年1月28日 00:54:08: 2SsZ3SmTYY
日米共謀の国債格下げではないかと勘ぐってしまいます。なぜなら、国債格下げのタイミングが良すぎるからです。

まず、日本ではこれから増税論議が大々的に始まります。格下げは増税を正当化しうる援護射撃となります。

また、日本では円高対策の必要性が叫ばれていますが、それに対する(本当に)一時的な対処療法となります。

もし日本が破綻すると、日本を救済できる国はこの地球上には存在しません。ギリシャなどとは桁違いの経済規模だからです。

そして破綻すると、各国経済は大きなダメージを受けます。もちろんアメリカも。だから日本に倒れてもらっては困るし、最低でも延命してもらう必要があるのです。

以上のことから、日米共謀の格下げ劇に私には見えてしまいます。

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c13

コメント [マスコミ・電通批評11] 誰でも参加できる会見を――「自由報道記者クラブ協会」設立へ ITmedia News ダイナモ
02. 2011年1月28日 00:54:18: Sx4BKLXNCo
自称大手メディアの連中が、早速恨み言と言いがかりをつけているぞ。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/510.html#c2
コメント [近代史02] 竹中平蔵物語 中川隆
08. 中川隆 2011年1月28日 00:59:33: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

01. 2011年1月26日 02:48:11: Fsz3AOg6Vo

アメリカの大学院入学はGREという共通一時みたいなのが、ほとんどの大学入学基準として使われてるが、英語と数学と英作文からなる。

で、アジア人は数学で満点近くを皆とるが、英語試験が恐ろしく難解なボキャブラリーの現地人しかできないしろもので、落ちる外国人が多い。

もし、数学だけだったら、アイビーリーグや名門はほとんどアジア人留学生だけになってしまうだろうね。

で、英語帝国の興隆とともに、経済学はもとより科学の発展も止まってしまったんじゃないか?だいたい発明のような直感は自国語でしか出てこないだろ?

アメリカの戦後の発明なんて何がある?ロケットなんてv2そのものだし、ジェット機もコンピューターもヨーロッパ人が発明した。もう、0にちかい。

ようするにアメリカは英語を武器に戦後の科学覇権(社会科学の含む)を維持してきたんだ。

まあ、本当の天才を育てたいんだったら、英語を勉強させたとしても教育は自国語ですべきだ。

http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/471.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/301.html#c8

コメント [経世済民70] 日本国債格下げ詐欺(ネットゲリラ) サブプライムの反省のない格付け会社が何を言っても無駄のようです。 百済観音
01. 2011年1月28日 01:03:14: Cbzhr6XGnM
エコ詐欺を強行しようとする犯罪者集団。
ある意味 彼らは 手負い獅子。
活路を求めて 遮二無二 襲い掛かってくる。
日本国民が詐欺だと認識するに至った今日,
政府だけでも 脅しすかし 実現化のテーブルに着かせようとの戦略。
しかし政府は既に国民からの信頼を失っている。
日本国民よ 防衛感覚を磨きつつ 敵のアキレス腱を 確実に狙うべし。
その時が熟した。

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【日本国債格下げの真相】(3)
[金融マフィアに牛耳られた日本] 2011年01月27日 23:29 / CLUB G-1
 http://eagle-hit.com/

今回の日本国債格下げは“脅し”であり“予行演習”である。
つまり、「金を出さなければ、潰すぞ」という脅しであり、その小手調べである。
円売り、債券売りに張っていた海外投資家(ヘッジファンドら金融マフィア)は、
これで儲け、報酬を受け取ったろう。次なる戦略のための餌である。

そして、管首相は、ダボスを牛耳る一味から呼び出されていた。
ダボスという栄誉を餌に、日本に“第三の開国”を体よく迫ったのである。
その結果が、本日未明深夜3時の報道である。

【菅首相、米投資家ソロス氏と森林保全基金を協議へ】--------------------

 菅直人首相が世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)に出席するため訪問する
 スイス・ダボスで、29日(現地時間)に
 著名な米国人投資家ジョージ・ソロス氏と会談することがわかった。
 地球温暖化防止に貢献するため、開発途上国の森林保全事業を支援する基金(ファンド)を
 共同で立ち上げる構想について協議する見通しだ。
 両氏がファンド構想で合意するかどうかは不明だが、
 もし実現すれば、森林保全をめぐり日本が関与する途上国支援のモデル事例になる可能性がある。
 (中略)
 ソロス氏は慈善事業家としても知られ、資金力とともに民間からの資金調達ノウハウが長所だ。
 一方、日本は資金力や国の信用力、環境分野での技術力が強みで、ファンドを立ち上げる場合、
 2009年に鳩山由紀夫前首相が表明した150億ドルの途上国支援から財源を生み出す考え。
 国際協力銀行(JBIC)の資金経由なども念頭に置いている。

 日本政府は二酸化炭素排出削減の多国間枠組み[REDD+パートナーシップ]の主要メンバーでもある。
 同パートナーシップは先進国が途上国に資金や技術を提供し、
 森林保全による排出量削減分を排出枠として売買することで、
 先進国や投資家が資金回収できる仕組みを目指す。

 昨年10月に開かれた同パートナーシップの閣僚級会合で
 前原誠司外相は「活動拡大のため、民間資金活用の方策を検討すべきだ」と表明した。
 日本政府はファンドができれば、この仕組みづくりにも活用したい考えだ。
 一方、首相はダボスで日本の将来像を議論する[賢人会議]も主催する。
   ノーベル賞経済学者のジョセフ・スティグリッツ氏や
   コフィ・アナン前国連事務総長、
   国際協力機構(JICA)の緒方貞子理事長らが
 出席する予定。
 首相が内閣最大の課題に位置づける[平成の開国]について、有識者の知恵を借りるのが狙いだ。

【朝日新聞 2011年1月27日 3時0分】---------------------------------------

官民一体の政府系ファンドをつくるということは、税金と企業の資金が投資資金となる。
しかも[地球温暖化]と[排出権]という国際金融資本家らが得意とする[まやかしファンド]である。
これまでのポイントをまとめると、次のようなことである。

1)国債格下げという“脅し”による財政再建、つまり増税路線の迅速な強化
2)[第三の開国]という外圧による資金収奪
3)最悪のインフレ=スタグフレーションの襲来

これらがセットになって私たちの生活を襲ってくるのだ。
もはや、政府、企業、個人もお金が尽き、非常事態となることは必至である。
そして、このような事態に陥るのは、3年後などという遠い話ではない。
我々の入手した機密情報によれば、後6ヶ月内に起きるのだ!
一刻も猶予ならない緊急時が迫っているのである。

だが、いったいどうすればよいのか?

-----------------------------------------------------------------------------------

米国では ロスチャイルドのエコ詐欺が 罵倒されている。
下記は1年前のVideo

 [クライメイト・ゲート事件(ClimateGate)/地球温暖化詐欺−グレン・ベック]
  http://www.youtube.com/watch?v=OIVAhIjRYHE&feature=player_embedded (5分14秒)

 [COP15のオープニングで各国首脳が見せられていた脅迫ビデオ]
  http://www.youtube.com/watch?v=IpA4YLGJtJ4&feature=watch_response (6分56秒)

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/782.html#c1

記事 [経世済民70] 過疎地の利用  天地の境消え、灰白色に沈む街並み 新燃岳噴火
火山帯の人々は地熱や温泉、観光など資源として使えるのは良いが
こういう時は、大変だ

地域の自助努力だけで賄えるとは考えにくいから
外部から税金を使って救済する必要が出てくる

離島や豪雪地帯などリスクのある過疎地でのトータルでの長期的な居住メリットは、
人々の生活水準が上昇するほど低下することになり、
無人化し一時的に使用する方が集団としては得になるか

asahi.com
2011年1月27日23時0分
 

写真:降灰でかすむ中、県道を走る車両=27日午後4時32分、宮崎県都城市、山本壮一郎撮影降 

写真:農作物に降り積もった火山灰=27日午後5時8分、宮崎県都城市、山本壮一郎 
図:  拡大  

 新燃岳の噴火による大量の灰は上空を覆う噴煙と一体化し、天地の境が消え、中心市街地のビル群は白くかすんだ。硫黄臭は消えない。都城市の全域が灰白色に沈んだ。

 27日の未明から明け方にかけて、建物のガラス戸がガタガタと音を立て続けた。風のせいではなく、空振と後で知った。夜になっても、軽い衝撃や揺れが時折届いてくる。

 霧島連山に向かう県道御池都城線を北上すると、所によって灰は4〜5センチも積もり、車が通るたびに白いほこりがわっと舞い立つ。積み重なった灰で路面は波打ってしまい、センターラインは見えない。車はライトを点灯させ、速度を落として行き交った。

 市北部の夏尾町一帯は、田も畑も樹木も民家も灰に埋もれていた。「もう、どうにもならん」「雪と違って大変」。家の屋根やビニールハウスなどに積もった灰の除去作業に追われる市民は徒労感を深くしていた。

 霧島連山に近づくにつれて路上には火山れきが目立つようになり、車の底をカンカンと鳴らした。

 県道から国道223号(霧島バードライン)で高原町に入ると、様相は一変した。霧島の山容が迫り、青い空に噴煙が黒々と染みをどんどん広げていた。

 降灰はない。代わりに、新燃岳の火口から高々と噴き上がる黒い噴煙が頭上に広がる。両手を大きく広げてぐいぐいと迫ってくるようで、まがまがしさを覚える。新燃岳が吐き続ける黒煙は高空に達した後、長い帯になって都城市のある南東の方角に流れていく。

 新燃岳を眼前にする高原町には、都城市とは別の恐怖感と圧迫感が漂った。(知覧哲郎)

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/785.html

コメント [マスコミ・電通批評11] 誰でも参加できる会見を――「自由報道記者クラブ協会」設立へ ITmedia News ダイナモ
03. 2011年1月28日 01:06:47: Z7teuTss9s
 日本自由報道記者クラブ協会の設立趣意書は既存の記者クラブの声明(建前)にも合致した反論の余地のないものだ。 既存メディアは排除されたなどと屁理屈をこねず、全面的に賛同すべきだ。 上杉氏の尽力もすばらしい。

ただ、キャパシティを理由にネットメディアの記者を優先したことには疑問が残る。設立趣意書の謳うフリープレスの原則と矛盾した印象を与えてしまうからだ。

既存メディアにも招待状を送りつけて席を用意しておき、恥ずかしげもなくのこのこ現れて、空気を読まずに政局の質問をする様子を中継する方がパフォーマンスとしても面白かったはずだ。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/510.html#c3

コメント [Ψ空耳の丘Ψ59] グーグルマップで「西都市」が延岡市の数キロの地点に表示されている。明確な間違えだがなぜか?確認をお願いしたい。 taked4700
07. 2011年1月28日 01:12:43: Zy4tpFzBtU
昨日、政治版の方に貼ったのですが、投稿自体が削除されたようなので再度貼ります。

引用ここから

http://maps.google.com/support/bin/answer.py?hl=ja&answer=98014

Google マップ上のオブジェクト (都市、通り、公園など) のラベルや住所検索の場所が誤って表示される場合があります。

Google マップは、プロバイダーから地図データの提供を受けています。Google は プロバイダーと協力して常に地図を更新していますが、見落としているラベルがあるかもしれません。ラベルの表示が間違っている場合、こちらからご連絡ください。検索した住所の場所が間違って表示されたり、検索できない場合、こちらからご連絡ください。

Google マップの改善にご協力いただきありがとうございます。

引用ここまで

昨日、メールしておきましたので、そのうち訂正されると思います。

http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/292.html#c7

コメント [マスコミ・電通批評11] 年130億円の税金を喰らう記者クラブ幹事社のヒウラ記者、フリーの白石氏の髪を掴み「皆さんこんなことしちゃダメですよー」 むにゃ
06. 2011年1月28日 01:14:17: QMhnaif8Qg
ひうらという人間がやってることは犯罪じゃないですか。

こんなどっちんけな小僧になめられてないで、
正当防衛で、反撃すればいいですよ。

告発して、不起訴にしたら、次は、検察審査会に頼めば?
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/505.html#c6

コメント [マスコミ・電通批評11] アナログ放送の終了どうしてスカイツリーの完成まで待てないのでしょう 山田の案山子
28. 2011年1月28日 01:18:13: FxkrT833rk
無駄無駄。

通信が放送を飲み込むんだから、ジデジ不要。これだけ国家挙げてやるなら、ブロードバンドの方が安上がりで、選択があるだろ。

もうテレビなんてみるな。

ジデジに90%が変えたそうだが、この国民がいかに情報統制の風土に生きてるか判る。ほんと、情けないぜ。くだらない番組しかないのによ。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/483.html#c28

コメント [マスコミ・電通批評11] アナログ放送の終了どうしてスカイツリーの完成まで待てないのでしょう 山田の案山子
29. 2011年1月28日 01:39:28: FxkrT833rk
小生は今、CSみたいなのをパソコンのUSBにさして世界中のテレビを見てるんだけど、無線ランからワンセグとかラジオ放送等を取り入れないんですかね。

双方向性を断念することになるが、ただでパソコンでチャンネルサーフも出来るようになるんじゃないですか。ようはジデジのキー局以外の映像放送が独占されない方法がないんですか。

あと民法BSでラジオチャンネルみたいなんだけど、天気予報とかのチャンネルで、ちゃんと動画を放送してるのがある。あれは何なんでしょう。

だれか、教えて。

まあ、こんなジデジは実はケーブルテレビの一地区一社制という統制・規制の上に導入されるものだ。

もし、20年前にケーブルが自由化されてたら、今頃、ほとんどの日本人が250チャンネルの番組を楽しんでいたはずだ。おまけにNTTのブロードバンド半独占によらず、すでに全家庭が高速でインターネットを楽しんでいただろうね。

まあ、皆さんここは意地でジデジを見ないようにしましょう。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/483.html#c29

記事 [国際5] New Japanese Ambassador to Bulgaria with highlights of 2011
Monday, January 24, 2011 3:03 PM Radio Bulgaria Life Bulgaria and the world

New Japanese Ambassador to Bulgaria with highlights of 2011 Japanese embassy's programme

http://bnr.bg/Audio.aspx?lang=1033#http://bnr.bg/sites/en/Lifestyle/BulgariaAndWorld/Pages/24012011NewJapaneseambassador.aspx

Earlier this week Japan´s new Ambassador to Bulgaria Makoto Ito gave his first press conference for Bulgarian mass media at the Japanese embassy residence. He presented his credentials to Bulgaria’s president Georgi Parvanov 29 November last year. At the conference he outlined the highlights of the embassy’s economic and cultural programme for 2011.

Among the most significant events in the programme calendar is the current working visit of Bulgarian PM Boyko Borissov to Japan 22-26 January. Premier Borissov is expected to meet with his counterpart Naoto Kan to exchange opinions on bilateral relations and international affairs.
In April the Japanese embassy will carry out a Japanese Public Speech contest, it also emerged. Over the last few years, the Bulgarians who study Japanese have reached 1000 across Bulgaria. “I sincerely hope that the competition will encourage the perseverance of those dedicated to the Japanese language”, Mr. Ito commented.
He also highlighted the opening of an exhibition by contemporary Japanese photographers at the Sofia-based National Art Gallery in April, as well as the 22nd Days of Japanese Culture that usually take place in late Autumn. The Japanese government will provide grants to the National Art Gallery in the form of new digital cameras and new audio and restoration equipment, the ambassador said further.

Despite the prevailing number of cultural events in the Japanese programme, the main topic seemed to revolve around Bulgarian-Japanese economic relations. Since Bulgaria's transition to democracy, Japan has granted the country about EUR 800 million for infrastructure and technical support, Mr. Ito said and added:

“When Bulgaria joined the EU the character of Japanese-Bulgarian bilateral relations changed and from relations in which economic assistance was of primary importance, we moved to relations of mutual cooperation at different levels. I hope that in the future our two countries will keep enhancing cooperation and friendship as equal partners and on the basis of mutual respect and good will. Along with the governmental dialogue, the Japanese side will boost industry, the private sector, as well as projects at regional and other levels. In this sense, I will do my best to strengthen economic cooperation in the spheres of business, direct investment and others”, Japanese ambassador to Bulgaria said.

Over recent years, Japan’s major investment interests have been in energy, healthcare and auto parts. So far, the country has invested in the construction of a wind farm on the Northern Black Sea coast, Tokuda Hospital in Sofia, which is equipped with the latest medical technology, as well as the Yazaki auto part factories. Here is again Ambassador Ito speaking on Japan’s investment interests and the necessary business environment in Bulgaria:


“When we speak of Japanese investments we mean in most cases long-term and large-scale commitments, such as initial investments in capacities and equipment, opening new jobs, etc. Therefore, Japanese investors look for good investment solutions and to that end Bulgaria needs reliable business environment, as well as transparent, predictable and effective administration. In this sense, the Japanese embassy will work for more active exchange of business representatives from both countries and the exchange of information between them in an attempt to bolster mutual cooperation and economy-wise activities.”
Although some Japanese companies have moved away from Bulgaria for financial reasons, there are now companies working towards several concrete projects and the utilization of renewable energy sources. It is very important that Bulgaria passes laws to regulate the use of alternative energy sources, Ambassador Ito pointed out.

“When we talk about the enhancement of Bulgarian-Japanese economic relations I hope that there will be more trading between the two countries, as well as more investors and tourists, Makoto Ito went on to say. This is a task of the private sector and so the Japanese government is limited in its actions. Yet, as an ambassador, I would like to lend indirect support in furthering the economic ties between Japan and Bulgaria”, Mr. Makoto Ito said in conclusion.

In 2009 Bulgaria marked the 50th anniversary of Bulgarian-Japanese diplomatic relations. According to the new ambassador Japan has a friendly attitude towards Bulgaria, sharing common values with it. Bulgaria on its part is becoming an ever more important partner of Japan.

written by: Vyara Popova

http://www.asyura2.com/10/kokusai5/msg/315.html

コメント [お知らせ・管理18] 阿修羅♪運営費・システム開発&メンテナンス費カンパのお願い。 管理人さん
124. 管理人さん 2011年1月28日 01:44:10: Master
みずほ銀行にて
1月19日 HK様より 2000円
1月24日 AK様より 50000円
1月24日 AK様より 50000円
1月26日 MH様より 2000円


ゆうちょにて
1月25日 IK様より 1400円
1月25日 HY様より 2000円
1月25日 YT様より 5000円

カンパをお預かりしました。ありがとうございます。本当に助かります。
眠気もぶっとぶカンパ、気合が入ります。

引き続き阿修羅掲示板を頑張って運営していきます。

大活用してくださいませ。

http://www.asyura2.com/09/kanri18/msg/759.html#c124

コメント [Ψ空耳の丘Ψ59] 新聞消滅大国アメリカ。 報道機関 NPO化。 kokopon
02. 2011年1月28日 01:46:29: FxkrT833rk
新聞の情報操作に大衆がうんざりしたからだ。

知識人気取りの記者に踊らされるのがもういやになったんだ。

そのうちジャパンでもかつてのプラウダみたいに新聞なんて読むのは教師と公務員だけになるだろう。
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/280.html#c2

コメント [経世済民70] 日本国債格下げ詐欺(ネットゲリラ) サブプライムの反省のない格付け会社が何を言っても無駄のようです。 百済観音
02. 2011年1月28日 01:50:03: FxkrT833rk
でもイギリスポンドの対円さがりぶりはすごいね。
一時の半分だよ。

今がイギリス留学に最適だ。3年前には250万が今は120万ぐらいになっちまったんだ。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/782.html#c2

コメント [経世済民70] 首相、ダボス会議出席へ…TPP参加意欲表明 天空橋救国戦線
06. 2011年1月28日 01:53:48: Cbzhr6XGnM
食糧難と高失業率。国民は黙ってはいない。
大手メディアは[民主化要求デモ]と伝えるが, それだけではないのです。
アグフレーションによる生活困窮, せめて仕事があれば...

下記の34枚の[Photo Data]が全てを語る。

[Protest spreads in the Middle East] January 26, 2011 / The Big Picture
 http://www.boston.com/bigpicture/2011/01/protest_spreads_in_the_middle.html
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/777.html#c6

記事 [カルト7] 大川きょう子氏、文春・新潮で大川隆法総裁の私生活を暴露!
大川きょう子氏、文春・新潮で大川隆法総裁の私生活を暴露!

http://dailycult.blogspot.com/2011/01/blog-post_27.html

やや日刊カルト新聞

昨年10月、幸福の科学・大川隆法総裁の妻・きょう子氏が教団から事実上追放。隆法氏および教団から「悪妻」「悪霊」と罵られたきょう子氏が、本日発売の『週刊文春』『週刊新潮』でインタビューに応えています。そこで語られているのは、隆法氏の教団内「女性関係」や収入の金額。離婚調停の経緯も詳しく説明されている上に、訴訟宣言まで……。

 きょう子氏への取材をもとに、大川夫妻の現状や隆法氏の“素顔”をリポートしているのは、1月27日発売の『週刊文春』と『週刊新潮』(ともに2月3日号)です。『週刊文春』は、<大川隆法総裁夫人 ついに明かした「教祖の私生活」カネと女>とする4ページの記事。『週刊新潮』は3ページで、<「幸福の科学」の不幸すぎる離婚歴 捨てられた「大川きょう子」総裁夫人の嘆き>。

 以下で紹介するのは、それぞれの記事のごく一部分です。ぜひ雑誌を買って読むことをお勧めします。どちらも非常に興味深い内容で、ボリュームもたっぷりです。

■教団の収入はお布施だけで年間300億円

 『週刊新潮』によると、きょう子氏が隆法氏と別居状態になったのは、08年4月から。その4カ月後にきょう子氏は、教団の役職を全て剥奪されたとのこと。その原因は、07年6月頃から隆法氏がある女性秘書を寵愛し「彼女は過去世の妻だ」とまで言い出したことだそうで、記事中、きょう子氏は隆法氏から「エル・カンターレ系の基本は一夫多妻制だ」と言われたとも語っています。

 09年の衆院選についても言及しています。実は教団内では会員数をもとに票読みを行い、「45万票」と予測していたそうです。結果は、ほぼこの予測通り。供託金だけで約11億円が水の泡となりましたが、きょう子氏によると教団にはお布施だけで年間300億円も集まるので、11億円くらいは大した金額ではないのだとか。もっとも、書籍販売による収入は書籍の宣伝費用で消えてしまって、実はあまり儲かっていないそうです。

 『週刊新潮』の記事は、大川夫妻の不仲の原因から、きょう子氏が教団から事実上追放されるにいたった経緯を詳細にリポートしています。

■隆法氏の年収8億円、高級腕時計コレクションは30本

 一方『週刊文春』は、隆法氏の女性関係を含めた「私生活」をかなり具体的に掘り下げています。

 きょう子氏は97年にも、隆法氏の身の回りの世話をする若い女性職員らと隆法氏との中を疑って、隆法氏と口論になったことがあるとのこと。このとき隆法氏は、女性職員らを連れて軽井沢の教団施設で女性秘書らを夜勤にさせ、総裁用のロッジに毎晩1人ずつ交代で泊めていたといいます。

 隆法氏はお気に入りの若い女性を「過去世の妻」と言ったり、大川姓を名乗らせたりしているという話のほか、お気に入りの女性相手に隆法氏が「○○ちゃん、ボクこれどうすればいいの?」と赤ちゃん言葉のような口調で会話していた、といった話も出てきます。

 お金の話も出てきます。隆法氏は04年に心不全で倒れて一命を取りとめて以降、金遣いが荒くなったとか。1着約60万円のジャケットを買ったり、600 万円から中には2000万円もする腕時計を買ったり。高級腕時計は30本以上持っているそうです。収入は、本の印税を含めて8億円。

 『週刊文春』は幸福の科学グループ広報局のコメントもかなりの分量で紹介しています。広報は、「女性問題」はきょう子氏の誤解であり「一夫多妻」の教義もないとしており、女性信者に与えられた大川姓は「法名」だとしています。

■離婚調停は不調、舞台は法廷へ?

 離婚調停の経緯について詳しく書いているのは『週刊新潮』。これによると、昨年10月19日にはすでに、双方の弁護士による1回目の話し合いが行われていたとのこと。しかし財産分与の内容で折り合いがつかず(教団の提示は5000万円だったとか)、11月9日にきょう子氏が離婚調停を申し立て。1月11 日に2度目の調停を行ったものの、それで打ち切りとなったとのこと。きょう子氏は今後、子どもの親権も含めた「配偶者の権利」を裁判で争うとしています。

 一方『週刊文春』の記事では、きょう子氏は「一連の誹謗中傷についても今後は大川と教団を名誉棄損で告訴するつもり」と語っています。親権・財産分与をめぐる訴訟のほかに、名誉棄損に関する訴訟も起こされる可能性があるようです。

 幸福の科学では、隆法氏がきょう子氏の霊の言葉「霊言」であるとして、きょう子氏がいかにワガママでヒステリックな女であるかを教団信者に向けて発信し、信者たちが「悪妻封印祈願」を唱和するなどしています。

 きょう子氏がこれを「名誉棄損」であるとして裁判を起こすなら、「霊言」が名誉棄損に当たるかどうかが争われることになるのかもしれません。幸福の科学は、これまできょう子氏以外に何人もの存命中の人物の「霊言」を発表してきています。これが果たして、名誉棄損にあたるのか。きょう子氏が語る隆法氏の素顔にも興味が尽きませんが、「霊言裁判」も興味深いものになりそうです。

■教団のメディア対応にも注目

 幸福の科学は、1991年に有名な「フライデー事件」を起こしています。隆法氏を「分裂症」などとした講談社の『フライデー』の記事について、教団は講談社にFAXや電話を使って抗議をしまくり、講談社の通信を全社的にマヒさせました。また、全国で訴訟も乱発しました。

 こうした行為を幸福の科学は「希望の革命」と呼んで正当化し、いまだに反省していません。

 今回の『週刊新潮』『週刊文春』の記事は、大川市の女性関係や私生活に大きく踏み込んでおり、夜中に寝室で突然、霊言を語りだしたりする隆法氏について「彼を病院で一度診てもらった方がいいのではないかと思った」というきょう子氏のコメントを紹介したりしています。幸福の科学における最高神「エル・カンターレ」である大川隆法氏の人間性や精神面の健康が疑われるような内容になっています。

 この記事に幸福の科学がどう反応するのかも、注目したいところです。
投稿者 藤倉善郎 時刻: 8:00:00
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/800.html

コメント [カルト7] コシミズの妬みが大爆発、かつてない執念の猛攻撃を開始 チベットよわー
67. 2011年1月28日 02:00:07: qqd2cfZBes
>64

なんでもいいけど、お前コシミズのブログでも勘違いのコメントつけて独立党に迷惑かけてるな。
子供じゃないんだから、自分の思い通りに周囲が変わってくれることを期待するな。
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/796.html#c67

コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
14. 2011年1月28日 02:23:47: TaWDwqOwMg
これ、みんな日本のカネを外に持ち出させようという企みからだからね。殆ど国内で消化されている(約95%)日本国債の評価を下げることによって、少しでも外債(中でも米国債)へシフトさせようという算段見え見え。ごく近い将来、紙クズになることがほぼ確実視されている、米ドルによる換金しかできない米国債を買って頂戴ってこと。日本はボツアナ並みの評価でも構わないから生き残る事が大事。トリプルAのまま崩れていく米国を眺めておればよろし。米国とともに国内の地獄を見たくなかったら、いまの菅隷米政権を一刻でも早く引きずり下ろすこと。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c14
コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
15. 2011年1月28日 02:23:52: Pj82T22SRI
>もし日本が破綻すると、日本を救済できる国はこの地球上には存在しません。ギリシャなどとは桁違いの経済規模だからです。

このまま国内の比較優位産業の衰退と企業の空洞化を続け、社会保障を拡大し、GDP累積比債務膨張の放漫財政を続けても、国債のデフォルト自体は日銀法改正で避けることはできるが、
国内生産力以上の消費は不可能なので、本当のハイパーインフレが起こりジンバブエ化する。

だから一般には、部分的にデフォルトさせ、IMF管理化で超緊縮財政にすることになる。

そうなるには5〜10年程度かかるだろうし、インフレが悪化した時点で引き締めや増税に転じることになる。

それよりも、普通は、企業の国内投資を増やすための成長戦略と、個人向け増税・緊縮財政を行い、同時に金融緩和を行うというのが、過去の国家が採用してきた戦略だ。
かって英国も、それによって復活しているし、現在、多くの先進国は、既得権層と戦いながら、それを行いつつある。


>日米共謀の国債格下げではないか

長期的には明らかに持続不可能だからAAAは、おかしいというのは正しい判断だが、問題は、他にも危ない債券があるのにAAAを与えているということだな

S&P自身が言っているように、所詮、格付けなどは、ただの目安に過ぎないことは
投資家は皆わかっているし、ファンドマネジャーも投資家に対する自分の意思決定の言い訳に使っているだけだ。

今後はマスコミや大衆が、どのように反応するかを注目すればいい
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c15

コメント [雑談専用39] 国際金融資本よ!早くオレを殺しに来い! 地には平和を
10. 2011年1月28日 02:24:34: FxkrT833rk
ばかや朗。
血に平和。おまえこそCIAの犬だ。

これだけ、0金利でジャブジャブにしてもインフレにならないのは日本人が最大の謙虚さを発揮してるからだが、もし政府が自由な通貨発行権を獲得したら、そのときは官僚の借金チャラにする謀略が発動するときだ。

そのためにお抱え経済学者を総動員して今、大洗脳しているが、お前はそれに知らずにのっかっている政府の犬だ。

今はアメリカのドルは3割がた減価し、ポンドにいたっては一時の半分だ。だめな日本経済でも、英米のいんちき経済覇権よりは延命しそうなのに、お前はアメリカ抱きつき心中を煽っているんだよ。

閲覧者さん、もうこんな狂人に耳を貸さないでください。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/182.html#c10

記事 [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P
時事通信 1月27日(木)17時4分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110127-00000096-jij-bus_all

 米国の格付け会社スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)は27日、日本国債の長期格付けを従来の「AA」から「AAマイナス」に1段階引き下げたと発表した。財政の悪化懸念を理由に挙げた。同社による日本国債の格下げは2002年4月以来8年9カ月ぶり。

 上から4番目のAAマイナスは信用力には問題ないとされるが、財政不安が取り沙汰されるスペインを下回る。財政再建の行方によっては、国内の長期金利に上昇圧力がかかり、景気回復の足を引っ張る危惧がある。

 S&Pは「日本の財政赤字が今後数年にわたって高止まりし、財政の柔軟性がさらに低下する」と予想。大規模な財政再建策が実施されない限り、「20年より前に基礎的財政収支の均衡は達成できない」とし、20年度の黒字化を目指す政府目標の実現は困難との見方を示した。

 また、菅直人首相率いる民主党政権の政策運営を「債務問題に対する一貫した戦略が欠けている」と批判。首相が優先課題に掲げる消費税を含めた税制と社会保障制度の一体改革をめぐっても、「これにより、政府の支払い能力が大幅に改善する可能性は低い」とし、財政再建への貢献に強い疑問を呈した。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html

記事 [経世済民70] 国債格下げ「消費増税の催促」=与謝野経財相
時事通信 1月28日(金)0時2分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110128-00000001-jij-pol

 与謝野馨経済財政担当相は27日夜、BSフジの報道番組に出演、米国の格付け会社が日本国債の長期格付けを引き下げたことについて、「(消費増税を)早くやれという催促だ」と語った。同相は「日本の消費税はたった5%。スウェーデン25%、ドイツも20%。(日本には)まだ消費税という使ってない武器があると(世界の人は)今まで思っていた」と指摘、財政再建に向け消費税率引き上げが必要との考えを示した。 

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/787.html

コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
16. 2011年1月28日 02:34:56: Pj82T22SRI
>日本のカネを外に持ち出させようという企み

実際、そうなった方が円安になって、株価も上がり、輸出企業の採算も高まる
(別に良いことではないが)コストプッシュインフレでデフレも解消する

円を売った人(内外投資家=富裕層)がリスクを負うだけで、特に問題はない
現時点では、既に持ちだした人は利益を得ているし、
成長株など米国債以外にも、海外には資産はいろいろある。
投資は自己責任で、というだけの話

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c16

コメント [中国2] 「沖縄では住民75%が日本からの独立希望」と中国紙報じる(ポストセブン) ←沖縄現地の方証言お願いします 木卯正一
05. 2011年1月28日 02:39:09: FxkrT833rk
04さん。心配なさるな。

沖縄独立後、日本中の立志が沖縄に集まることであろう。一民族内に複数の制度があることは民族の政治的進化にはいいことなんだよ。

経済的にも東京のばか官僚の手から逃れれば、韓国、台湾、香港、あるいは目と鼻の先の上海の投資を受け入れてアジアの金融の中心にさえなれる。

独立してもいいことだらけだ
http://www.asyura2.com/09/china02/msg/735.html#c5

コメント [議論30] リチャード輿水氏の重要性 my.test.done
03. 2011年1月28日 02:43:50: I6ZM8PRu0c
出た―!本人登場!!!!!
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/370.html#c3
コメント [経世済民70] 国債格下げ「消費増税の催促」=与謝野経財相 めっちゃホリディ
01. 2011年1月28日 02:49:15: Pj82T22SRI
あまりに予想通りで、わかりやすい反応だw
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/787.html#c1
記事 [経世済民70] <国債格下げ>迫られる財政再建 経財相「増税への催促」 
毎日新聞 1月27日(木)23時51分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110127-00000135-mai-bus_all

 米格付け会社スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)が日本国債格下げに踏み切った背景には、菅直人政権が目指す税制抜本改革の実現性に対する強い不信感がある。

 格下げの発表された27日夕、政府関係者は「民間の会社の評価なので(直接の)コメントは控える」(野田佳彦財務相)と平静を装ってみせた。国債の95%が国内で購入されていることから、政府内には「ただちに国債急落(長期金利は上昇)することはない」との見方も根強い。

 だが、今回の格下げでS&Pは、民主党政権が昨年6月に打ち出した「20年度までに基礎的財政収支を黒字化する」との財政健全化目標や、11年度内の法案提出を目指している「税と社会保障の一体改革」の実現性に疑問符を突きつけた。参院で与野党が逆転する「ねじれ国会」下、消費税増税を含む財政再建に向けた超党派の合意を取り付けるめどが立っていないためだ。

 一方、与謝野馨経済財政担当相は27日夜、BSフジの番組で「格下げは(消費税増税を)早くやりなさいという催促だ」と指摘。S&Pによる「外圧」を、消費税率引き上げの必要性を訴える材料にしたい考えも示した。

 ただ、今回の格下げが、税と社会保障を巡る与野党協議を始めるきっかけになるとの見方は少ない。財政再建への取り組みが停滞し続ければ、ムーディーズなどほかの格付け会社にも格下げの動きが広がり、国債の信認は大きく揺らぐことになる。

【坂井隆之】
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/788.html

コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
17. 2011年1月28日 02:57:40: Pj82T22SRI
>他にも危ない債券があるのにAAAを与えている

現在の格付け法は、バブル崩壊のリスクを適切に取り入れていないから
価格の歪みがあり、そこがヘッジ・ファンドの餌食になるということかな

まあ、長期的に持続不可能なもの(昔なら日米不動産、今なら中国不動産、日本国債・・)を買い続けた方に問題があるとも言える
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c17

記事 [国際5] イエメンでまた反体制デモ、1万6千人参加
読売新聞 1月27日(木)19時58分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110127-00000819-yom-int

 【カイロ=長谷川由紀】イエメンの首都サヌアの各所で27日、サレハ大統領の退陣などを求めるデモが行われ、ロイター通信によると、全体で約1万6000人が参加した。 サヌアでは、チュニジア政変に触発される形で、今月22日にも学生ら2000人以上がサヌア大学で反体制デモを行った。

 イエメンは中東で最も貧しい国の一つ。国民の間には、1990年に就任したサレハ大統領や大統領の出身部族による政治・経済の寡占への不満も根強い。

 デモは当初、物価高などに抗議して始まったが、徐々に体制変革を求める反体制デモの色彩を増している。
http://www.asyura2.com/10/kokusai5/msg/316.html

コメント [経世済民70] 日本国債格下げ詐欺(ネットゲリラ) サブプライムの反省のない格付け会社が何を言っても無駄のようです。 百済観音
03. 2011年1月28日 04:09:24: mOBhm84jvQ
インチキ格付け会社…アメリカ得意の諜報活動の一端!

もはや米政府の一部の感あり

まあ、サブプライム以降は、効力も影響力も急低下。

バカ正直に伝えているのは、大メディアだけでしょう。

円が安くなれば調度良いのでは。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/782.html#c3

コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
01. 2011年1月28日 04:20:32: ibwFfuuFfU
もちろん事前にお友達のヘッジハンドや何かには情報が筒抜けで、そいつらはショートをやってしこたま儲けたんだろねえ。世にも簡単な金儲けだ。うらやましい。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c1
コメント [雑談専用39] 賢そうだけど全然動かないヤツはほぼ敵だろう。 地には平和を
29. 2011年1月28日 04:33:13: qbkCr5Yp8Y
阿修羅のツイッターは、このサイトの主催者がやっていないものなのか、なぜあんなに、覇気がなく、説得力がbないのか、それが私は心配です。

まったくひろまるけはいがない。
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/169.html#c29

コメント [お知らせ・管理19] 小沢内閣待望論さん、タイトル規定違反の投稿が多数あります。どうしますか? 管理人さん
01. 2011年1月28日 05:17:08: 6i6nfKaEow

小沢内閣待望論さん、投稿規定をご理解いただけるまで投稿可能数を0にしておきます。

山ほどの違反投稿をしても彼にはこの言葉がないですよ(管理人さんへ)
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/530.html#c1

記事 [経世済民70] 子ども手当も消費税で 与謝野氏が示唆
産経新聞 1月28日(金)0時35分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110128-00000504-san-soci

 与謝野馨経済財政担当相は27日夜、BSフジの番組で、子ども手当について「本当の財源が手当てできていない。来年以降、重大な問題になる」と指摘。その上で、税と社会保障の一体改革の一環として、福祉目的税にする消費税が子ども手当の財源になる可能性を示唆した。

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/789.html

コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
02. 2011年1月28日 06:04:02: Q989F1ZMa6

アメ公の菅援護射撃だろう。


http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c2

記事 [国際5] エルバラダイ氏が帰国=エジプト
時事通信 1月28日(金)6時2分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110128-00000018-jij-int

 【カイロ時事】エルバラダイ国際原子力機関(IAEA)前事務局長が27日夜、ウィーンから空路、故郷のエジプトに帰国した。ムバラク大統領の独裁政権打倒を訴える28日の大規模デモに参加すると表明している。AFP通信が伝えた。 

http://www.asyura2.com/10/kokusai5/msg/317.html

コメント [マスコミ・電通批評11] スタッフ半減の衝撃 産経が大ナタ振るう夕刊フジ大リストラ(週刊文春) 赤かぶ
02. 2011年1月28日 06:26:57: K35eP7hn6Q
いまから小沢擁護キャンペーンやったらどうですか。売上倍増間違いなし。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/508.html#c2
記事 [国際5] 同性愛活動家を惨殺=大衆紙が「処刑」呼び掛け−ウガンダ
http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2011012800068

 【カンパラAFP=時事】アフリカ中部ウガンダで26日、同性愛者の人権擁護活動家として知られたデービッド・カト氏(43)が首都カンパラの自宅で惨殺された。警察や弁護士が27日、明らかにした。

 カト氏は自宅に侵入してきた男によって頭を殴られ殺された。昨年、反同性愛の大衆紙によってカト氏は実名と写真を公開された上「処刑しろ」と呼び掛ける記事を掲載されていた。

(2011/01/28-06:37)

http://www.asyura2.com/10/kokusai5/msg/318.html

コメント [お知らせ・管理19] 二重投稿してしまいました。削除申請いたします。 大自然
03. 2011年1月28日 06:50:22: qRUVJlMZAs
三重投稿です。

「週刊朝日」山口一臣編集長──タブー破りの“検事実名報道”で「週刊現代」にも怒られた!?
http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/699.html
投稿者 めっちゃホリディ 日時 2011 年 1 月 28 日 04:31:53: ButNssLaEkEzg

二重投稿です。
「週刊朝日」山口一臣編集長──タブー破りの“検事実名報道”で「週刊現代」にも怒られた!?
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/447.html
投稿者 尾張マン 日時 2011 年 1 月 12 日 14:30:14: YdVVrdzAJeHXM

先行投稿
「週刊朝日」山口一臣編集長──タブー破りの“検事実名報道”で「週刊現代」にも怒られた!?(サイゾー)
http://www.asyura2.com/11/senkyo104/msg/250.html
投稿者 赤かぶ 日時 2011 年 1 月 11 日 07:07:00: igsppGRN/E9PQ

まったく検索していないようです。

http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/515.html#c3

コメント [ホロコースト6] ナチス政権下で虐殺されたユダヤ人、4百万人の身元確認…ホロコースト記念館 ジオン兵士
03. 2011年1月28日 07:09:40: jcYQtkNpLQ
アメリカによる原爆投下を盲信している日本人は20万人確定に使われた日本人の定義をまず提示すべき。
そして個々の全ての日本人の死因を全て明らかにし、国際社会に遺体を公開すべき。
さらにその核兵器が本当に日本の自作自演ではなくアメリカによるものなのか、アメリカの主張は信用できないのでアメリカの自白以外の証拠を出すべき。
どっちにしろ20万維持に固執して印象操作辻褄合わせをする時点で破綻しているのは明らかなのかもしれないが。
曖昧にしてぼかしておく方がかえって破綻しにくいかもしれないのにな。
http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/175.html#c3
コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
03. 2011年1月28日 07:13:14: PPAJr6WqwQ
こうなってほしいという金融投資家たちの願望にすぎない。

消費税を上げるという財政再建をすれば経済がめちゃめちゃになり本当にこうなってしまう。

格付け会社の格付けはが当たったためしはない。
 サブプライムローンで紙屑を売り付け
 どんなに格下げしても続く円高

占い師より悪質な輩である。

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c3

記事 [テスト21] Re: test
http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2011/01/post_1961.html 
2011年1月27日

小沢批判だった週刊誌も急ターン 〜変り身が早いゲンキンなものたち


【 追記:ユーストリームでも中継の予定 フリーランスライター「畠山理仁の永田町記者」 】

 自らを省みることもなく、自滅に向うマスゴミたち(大新聞、NHK、テレビ)、そして記者クラブ。
ネガキャン・プロパガンダも厭わず、目的のためならなんだってやる・・・
世界最大の広告代理店・電通に首根っこを抑えられまま、どうすることもできないでいる旧態依然のそんな連中たち。

 
「 勝手に言わせとけっ! 」と、ネットが進化しつづけている。
 ホームページ、ブログ、ツイッター、ユーチューブ、ユーストリームなどなど

小沢一郎が、またまたニコ生に登場する・・・

小沢一郎氏記者会見を、ニコニコで生中継

1月27日(木)の16時30分 ※開始時間が変更とのこと。17時から
「民主党小沢一郎元代表の記者会見」が開催されます。
この会見はフリーランス・雑誌・ネットメディア有志の会の主催によるもので、
これまでに類を見ない、珍しい形の会見です。

ニコニコ生放送では、この会見の模様を生中継でお送りいたします。
  ■ ニコニコ生放送はこちらからどうぞ( 只今、録画も見られる ) ↓
(アカウント登録しなくても視聴可。国会が伸び、39:30〜小沢一郎氏登場。1時間31分)


◯ ユーストリームでも中継の予定だそうです。
   フリーランスライター「畠山理仁の永田町記者」 左下の右向きボタンでスタート







Live Videos by Ustream

  フリーランスライター畠山理仁(はたけやま みちよし)の「永田町記者会見日記」はこちら↓


で、「ネットから置いてけぼりは叶わん」とばかりに週刊誌が軌道修正を始めてきた。
売上を伸ばすには旗色がいい方につくのが一番、とゲンキンな週刊誌たち。

週刊文春2011年2月3日号 
http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/ 

小沢一郎がすべてに答えた
批判の急先鋒「週刊文春」にあえて登場!
http://img.asyura2.com/us/bigdata/up1/source/3345.jpg「証人喚問」「菅と与謝野」「TPPとアメリカ」から「尖閣問題」「習近平と天皇」まで
上杉 隆


【小沢一郎を支持する他の週刊誌】
◇ 今週号2011年1月31日号のアエラ(石川知裕インタビュー第2弾)
アエラ2011年1月31日号

◇ 週刊朝日は以前から小沢を援護してきた。


強制起訴のウラでまた検察の無法捜査が・・・
「小沢起訴 だからなんだ!」
発端は、検事が自らの既得権益を守るために「政治とカネ」と称する"事件"をデッチ上げたことだった。
菅・仙石がその尻馬に乗って"小沢叩き"に血道を上げている。国民生活をそっちのけに--
石川議員に「供述」を強要
驚愕の「取り調べ内容」の全貌!
調べてみたら矛盾だらけ
やっぱり怪しい"検察審査会"の秘密週刊朝日2011年2月4日増大号

あとは週刊現代らが、い・つ・寝返るか?・・だが。
週間ポストとともに「内部抗争」を膨らませて盛り上がっているが、大局はそこではないんだけど。

◇ フラッシュFLASH 2011.2.8号
「小沢殺しは米国の謀略だった。菅首相はオバマの犬。ウィキリークスが暴露した外交機密 文書!」
詳細は『杉並からの情報発信です』「大手マスコミがようやく「小沢バッシング」の真相を伝え始めた 」 --> こちら


投稿者 hal : 2011年1月27日 05:08



http://www.asyura2.com/10/test21/msg/446.html

コメント [議論30] リチャード輿水氏の重要性 my.test.done
04. 2011年1月28日 07:39:26: DyU3A1kkvg
がけっぷち社長か、あのおっさんの話は長いからなw

でも、「うはははは、メチャクチャハイになってきたぜ!」は傑作だと思うな
http://www.asyura2.com/10/senkyo94/msg/866.html
http://kagiwo.blog18.fc2.com/blog-entry-320.html

http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/370.html#c4

記事 [戦争b7] [CML 007360] Fwd: QAB報道部へメッセージをお送り下さい。(辺野古浜通信)
http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-January/007243.html

[CML 007360] Fwd: QAB報道部へメッセージをお送り下さい。(辺野古浜通信)
TERAO Terumi teraoter at mint.ocn.ne.jp
2011年 1月 27日 (木) 00:13:03 JST


寺尾です。

田場さんからの辺野古浜通信の転送です。

重複して受信された方には大変申し訳ありません。
お手数をお掛けしますが、削除してくださることでお許しください。

転送・転載歓迎。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以下転送 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

Subject: [appeal2005][03767] QAB報道部へメッセージをお送り下さい。 
(辺野古浜通信)
From: "SachikoTaba"
Date: 2011/01/26 23:22
To:

田場祥子です。

辺野古浜通信をお届けします。

今日の高江の裁判の最中に高江で工事が強行されてことを
QABがきちんととらえて報道しています。

まさにジャーナリストです。
私たちの地元にもこうしたジャーナリストがほしいですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日、高江の裁判のまさにそのさなか、防衛局は高江での
工事を強行しました。裁判所が和解をしなさいと勧めている
裁判に、高江の住民が口頭弁論のために那覇に行っている隙を
狙ったとても卑劣な行為です。

今回、この2つの出来事を関連付けて捉え報道を行ったのはQAB
(琉球朝日放送)だけでした。
どうぞ、称賛と共感のメッセージをQAB報道部にお送りください。
Fax番号は、098−861−1000 です。

QABニュース・キャスターは、映像ニュースの締めくくりに
あたり、この裁判を「スラップ訴訟 *」として明確に位置づけ、
わかり易く丁寧に説明をしてくださいました。
・彼らが高江と裁判所、ふたつ現場にきちんと足を運びそこに
居たこと
・防衛局が何の目的で訴訟を起こしたのかを明確伝えたこと
・その上でスラップ訴訟とは何かを分かりやすく解説したこと
・沖縄の人にとって「伝えるべき重要な出来事とは何か」が
真剣に考えられた内容であったこと
に、大変感銘を受けました。

真実大切な事を伝えるには、時として、たいへんな勇気を
必要とします。特にこのように小さな会社が、国に対して
きちんとした報道を行おうとしたとき、いろいろな軋轢も
あることでしょう。
東京の報道大手は、とっくの昔に、その軋轢に負け、辺野古に
基地は作るべきだという論調に変わり、まして高江のことは、
ほとんど取り上げてきませんでした。

その意味で、今回のQAB報道は高江の環境を守ると同時に、
沖縄において市民が意見表明、意思表明を行なうことを
保障するためにも重要な意味を持つものとして、たかく、
たかく評価されるべきものでした。
三上智恵さん、棚原勝也さんのお二人をはじめとする
スタッフに敬意と賞賛、支持の気持ちを贈りたいと思います。
どうか、みなさんも応援のメッセージを!

もう一度いいます。FAX番号は
098−861−1000です。

残念ながら、web上でお二人がスラップ裁判について話し、
怒りを持って締めくくった部分は映像として、また文章でも
アップされていませんが、ニュース映像はこちらから
ご覧になれます。
http://www.qab.co.jp/news/2011012625142.html
(もし、お持ちの方でデータアップできる方いれば
お願いします)

*スラップ訴訟とは「公に意見を表明したり、請願・陳情や
提訴を起こしたり、政府・自治体の対応を求めて動いたりした
人々を黙らせ、威圧し、苦痛を与えることを目的として
起こされる 報復的な民事訴訟のこと」です。

詳しいことをお知りになりたい方は、こちらをご覧ください。
http://slapp.jp/slapp.html (SLAPP訴訟情報センター)

----辺野古浜通信



http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/232.html

コメント [文化2] 赤川次郎 「三毛猫ホームズと芸術三昧!」/秘められた毒 芸術のつやに gataro
19. 2011年1月28日 08:35:39: DZ9CKn574A
ちょっと話が違う部分があるけど
マツコ・デラックスさんが東京都青少年条例と石原知事の同性愛者について、「やっぱりどこか足りない感じがする」発言についてコメントしてる

http://www.youtube.com/watch?v=XJW0CdGe2UQ
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/466.html#c19

コメント [マスコミ・電通批評11] 佐藤優氏 テレビ出ないのは「テレビの取材文化が嫌い」だから(SAPIO2011年1月26日号) SOBA
10. 2011年1月28日 08:44:16: tYHkjAw4fs
>04
>別に取材の加熱が悪い事とは思わないよ。
そこまでして追求する姿勢くらいないと暴けないものは結構多い。

 ならば、追求した結果をまともに報道していないのはどうしてか?
どうして情報操作をやっているのか?
取材で「加熱するのは仕方ない」?
そんな情熱が、日本のマスコミから全然伝わってこないが、どうして?
記者クラブが有るのはどうして日本だけか?
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/481.html#c10

コメント [マスコミ・電通批評11] 年130億円の税金を喰らう記者クラブ幹事社のヒウラ記者、フリーの白石氏の髪を掴み「皆さんこんなことしちゃダメですよー」 むにゃ
07. 2011年1月28日 08:50:23: Rg4e8kYURI
この ひうら とか抜かす朝日の輩をとことん追い込んでヤレ!
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/505.html#c7
記事 [医療崩壊3] ワクチン接種で自閉症はでっちあげ、英医学誌が結論 CNN
http://www.cnn.co.jp/world/30001444.html


2011.01.08 Sat posted at: 11:41 JST

英医学誌ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル(BMJ)は、1998年に英国で発表された、幼少期のワクチン接種と自閉症の発症の関連性を指摘した論文は「巧妙なでっちあげ」と指摘した。

BMJは独自の調査結果を発表し、同論文の著者であるアンドリュー・ウェイクフィールド医師が調査対象の12人の患者全員の病歴を偽ったか改ざんしたと結論付け、ウェイクフィールド氏の責任は「疑いない」とした。

ウェイクフィールド氏は5日、CNNの番組に出演し、論文は「大幅に歪曲された」と述べた。他方、BMJ掲載記事を執筆したジャーナリストのブライアン・ディアー氏は6日、ウェイクフィールド医師に刑事責任を問うべきだと指摘している。

この論文が原因で、はしか、おたふくかぜ、風疹の新3種混合(MMR)ワクチンの接種は大幅に減少した。英国では論文の発表後、ワクチンの接種率は2004年までに8割まで減少し、その結果、はしかの発症率が近年急増している。

ディアー氏は、ウェイクフィールド氏はワクチンメーカーの提訴を目論む弁護士らの依頼で調査対象の子供たちの病歴を改ざんしたと指摘。ウェイクフィールド氏は弁護士らから43万5000ポンド(約5600万円)以上の金を受け取ったとされる。また、BMJのゴドリー編集長によると、ウェイクフィールド氏が論文を執筆する際に調査対象とした12人の患者のうち5人にはワクチン接種前から発達障害があり、3人は自閉症ではなかったという。

しかし、ウェイクフィールド氏はMMRワクチンと自閉症の関連性は子どもの親たちの主張であって自分の主張ではないとし、さらに同氏の論文はメーカーに対する訴訟とは無関係だと主張している。

http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/399.html

記事 [音楽3] Blue Diamonds - Sukiyaki 1963
60年安保闘争 - 1960

今年で「上を向いて歩こう」(1961年)から丸半世紀であります。
ナガサキで出会った「スキヤキ」という名のアーモンドアイの女性へのラブソングらしいです。
スキヤキとナガサキで韻を踏んだ歌詞がナイスですね。決して分かり合えない世界好きです。

Blue Diamonds - Sukiyaki 1963

BLUE DIAMONDS SUKIYAKI LYRICS
(H. Nakamura; ?)

The charms of Sukiyaki
The arms of Sukiyaki
Are all I long for since I left old Nagasaki
Why did I roam
Far away from home
I hope that she will wait for me

Her smile can not deceive me
Sweet almond eyes don't leave me
My whole life through I'll be true, darling please believe me
That if I say
I'll be back someday
Promise that you will wait for me

When orange blossoms are starting to bloom
We'll be united at bride and the groom

I'll take my Sukiyaki
And make my Sukiyaki
The only queen to be seen in old Nagasaki
And from our home
We will never roam
When I make Sukiyaki mine

Why did I roam
Far away from home
I hope that she will wait for me

When orange blossoms are starting to bloom
We'll be united at bride and the groom

I'll take my Sukiyaki
And make my Sukiyaki
The only queen to be seen in old Nagasaki
And from our home
We will never roam
When I make Sukiyaki mine

And from our home
We will never roam
When I make Sukiyaki mine
When I make Sukiyaki mine
All mine


http://www.asyura2.com/10/music3/msg/448.html

記事 [地域13] 橋下「行革」の現場を行く 9/共産党府議団/住民目線ブレない(しんぶん赤旗)
橋下「行革」の現場を行く/9/共産党府議団/住民目線ブレない
「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年1月21日 3面 

 小学5年の次男(10)が障害学級に通う佐藤幸さん(45)=大阪府高槻市=は今も憤りを隠せません。

 「同じ子育て中の親なのになぜ…」。橋下知事が就任後すぐ、小学1、2年生での35人学級の廃止を打ち出したからです。しかし、PTAなどの運動や日本共産党府議団(宮原たけし団長、10人)の論戦で廃止断念に追い込みました。佐藤さんは「いつも住民目線でぶれない党だ」と信頼を深めています。

 党府議団は、「財政再建」を口実に府民生活を犠牲にする橋下知事と対決してきました。暮らしの隅々にわたる住民の声や意見を議会でとりあげ、ひとり親や高齢者の福祉4医療費助成制度の維持、障害児が通う府立支援学校の新設を10年ぶりに決定させる(4校)など、府民の運動・世論と力を合わせ実現させてきました。府営水道料金の値下げ(昨年4月から)も長年の論戦の成果です。

 府内の完全失業率は全国最悪の7・7%(2010年7〜9月)。続落する大阪経済の打開へ、党府議団は「府民の暮らしと地域経済の主役である中小企業を応援すべきだ」と追及し、昨年の2月議会では「中小企業振興基本条例」が全会一致で採択されました。なのに、知事は商工関連予算を削減し続けています。

 ムダ切り込む

 府政に求める施策のベスト3は、「地域医療・救急医療の充実」、「高齢者・障がい者・子育て支援の充実」、「雇用対策の拡充」−。大阪自治労連などが昨年4〜8月に実施した住民アンケートの結果です。4172件もの回答を得ています。府民の切実な願いから、知事が大きく逆行しているのは明瞭です。

 共産党府議団は、府政のムダ遣いやゆがみを住民目線で厳しくチェックしてきました。需要が見込めない関西空港2期事業(府負担約1200億円)や、「りんくうタウン」事業(同約3000億円)など、不要不急の大型開発に反対してきたのは共産党だけです。

 議会が本来の役割を発揮し、府民に開かれた議会になるよう先頭に立ってきたのも共産党です。多額の税金を使うムダな海外視察には14年前から参加せずに中止させ、政務調査費の全面公開や議員報酬削減など、議会改革をリードしてきました。

 ほとんど自民

 4月のいっせい地方選では、橋下知事が代表の「維新の会」が府議会、大阪市議会の過半数獲得を狙うため、メディアなどは「維新の会VS既成政党」と描こうとしています。しかし、維新の会の議員はほとんどが元自民党議員です。

 宮原府議団長は「府の解体路線を進める『維新の会』の中身は、開発優先で住民福祉を切り捨ててきた『オール与党』の自民、公明、民主各党と一緒。道州制というゴールも一致している」と指摘します。自公民は知事提案のほとんどに賛成しています。選挙戦の真の対決軸は、地方自治を破壊し、大企業利益第一の「古い政治」を推進する維新・自公民か、「住民が主人公」の「新しい政治」をめざす日本共産党かです。

 宮原団長は語ります。「府民要求を第一に橋下府政を押し返してきた共産党の姿と、知事や『オール与党』の危険な実態を府民に丹念に伝えたい」 (おわり) (この連載は佐久間亮、松田大地が担当しました)



http://www.asyura2.com/09/ishihara13/msg/450.html

記事 [お知らせ・管理19] 管理人殿、タイトル違反等失礼致しました、以前書きましたように、トラさん型を目指す機会にしたいと思います。
まず、事務的なご報告から。
・タイトル違反について「頭から30桁」をずっと「20桁」と思い込んでいました。
・二重投稿について、直近の投稿はグーグル阿修羅だけではカバーできない事を89さんへの
 連絡を読んで初めて分かりました。
不注意と無知から生じました投稿ミスををお詫びします。

次に、初参加以来の総括です。
参加当初は新聞社の良質記事を貼り付けるのが楽しくて仕方がありませんでした。
しかし、内容とタイトルが一致しない記事が増えてきて、タイトルの脇に苦情を書くようになっていきました。
最近では、タイトルどころか内容も劣化してきており、新聞記事の紹介すらする気になれなくなって、良質のブログを紹介する事に専念していましたが、タイトルが無かったり、ペンネームが
文章的だったりして、毎回、タイトルの書き方に迷っていました。
また、紹介ブログと自分の意見の微妙な違いもタイトルの脇に添えたいと考えて投稿してきましたが、スペース的に無理な事が多く困っていました。

最後に、今後の進め方です。
私が昼休み板で遊ばせて頂いている間に、政治板に貼り付け屋さんが多数登場し、それにレスポンス投稿する事で楽しませて頂いています。
これから投稿する際は、徐々にトラさん型の「引用プラス自作文章」にシフトしていきたいと思います。
そして、時には月と星さん型の「全文自作」の投稿ができるように精進していきたいと思います。
(その過程でヘンテコな投稿も生じるかもしれませんがご指摘下さい)
                                        以上
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/531.html

コメント [お知らせ・管理19] 小沢内閣待望論さん、タイトル規定違反の投稿が多数あります。どうしますか? 管理人さん
02. 2011年1月28日 09:55:27: YswsO4cGGQ
>>01
赤カブ氏や木卯氏に対しても同じ対応です。
問題はないと思われます。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/530.html#c2
コメント [経世済民70] 子ども手当も消費税で 与謝野氏が示唆 めっちゃホリディ
01. 2011年1月28日 10:10:00: z6FPymHZG6
そういって増税しといて法人税減税の財源ですね、わかります。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/789.html#c1
コメント [経世済民70] 厳しい就職戦線の下で2011年の就職率は過去最低を更新し 大企業の求人倍率は0.5以下だが tea
13. 2011年1月28日 10:11:25: cqRnZH2CUM
日経ビジネス オンライントップ>企業・経営>御立尚資の帰ってきた「経営レンズ箱」
アフリカで見た教育への希望とそれが失われた日本
認識ギャップを埋めない限り、「就職難」は解消しない

* 2011年1月28日 金曜日
* 御立 尚資

貧困  先進国  教育  大学生  工業化  産業革命  就職難  イノベーション  成長  中流化  新興国  アフリカ  難民  支援  感染症  ケニア 

 以前、ケニアに行く機会を得た。国連のWFP(世界食糧計画)のお手伝いをしている関係で、食糧援助の現場に行くことになり、ソマリアとの国境にある難民キャンプ、干ばつが続いて家畜を失った遊牧民の仮居住地、そして首都ナイロビにある世界最大のスラム、キベラの3カ所を回った。

 その際に感じたエイズをはじめとする感染症の問題については、一度このコラムの前身(関連記事:アフリカで見たもの)でも触れたので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれない。

 今回は、今振り返ってみても、ケニアで見聞きしたことの中で一番ガツンと衝撃を受けたことについて書いてみたい。極度の貧困や生命の危機に囲まれた状況での、「次世代の将来をつくるもの」への熱情ということについてである。

援助物資よりも教育を望んだケニアの人々

 ケニアで回った3カ所それぞれで、同じ質問をしてみた。食糧援助の現場なので、「食糧以外に、どのような援助を期待しますか」という内容だ。

 日本人からのこういう質問に対して、もし読者の皆さんが次のような立場に置かれていたら、どういう答えをすると思われるだろうか。
・ 内戦で国を追われ、数百キロメートルにもわたる距離を、ゲリラや強盗の襲撃の恐怖に襲われながら逃げてきた難民
・ 生活の糧であり、さまざまな文化の中核でもある家畜たちを相次ぐ干ばつですべて失ってしまった遊牧民
・ エイズで両親をなくし、思春期の10代から小学生までの4人だけで、段ボールとほんの少しの板切れを組み合わせたスラム街の家で暮らす子供たち

 その場にいた私は、大変恥ずかしながら、「衣類や医薬を欲しがるかな、あるいは日本人ということで、何か家電製品が欲しいと言うのだろうか」と浅薄なことを考えていた。

 ところが、返ってきた答えは、3カ所とも同じ。何と「教育を援助してほしい」というのだ。

 難民キャンプでは、次のような答えが返ってきた。

 「自分たちの国は、自分たちの世代ではきっと復興に至らないだろう。ただ、ここにいる子供たち、ここでこれから生まれてくる子供たちの世代が、平和になった国に帰れるようになった際に、ソマリアの復興に役に立ち、かつ暮らし向きの良い生活ができるようにしたい」

 「ついては、難民キャンプの中での初等教育だけでは不足なので、中学、高校を作る、あるいは外の学校に優秀な子だけでも行けるように奨学金制度を作る、といったことを、是非お願いしたい」

 自らは読み書きのできない遊牧民は、次のように語った。

 「遊牧をしている限りは、学問というのはあまり意味があるとは思えない。(部族のしきたりや遊牧の中での伝承を通じて)必要なことは自然と覚えられるから。ただ、村に定住するとなると、子供たちは、村の子供たち同様に、読み書きができ、数字を操れるようにならないと、対等に暮らしていくことができない。仮住まいの定住地ではあるが、何とか、小学校の教育を提供してもらえるよう助けてもらえないか」

 スラムに住む4人兄弟の2番目の男の子は、中学レベルの学校で優秀な成績を上げているらしいのだが、自分もエイズに感染しており、既に腹水がたまって大きくお腹がふくれている。

 そういう状況で、「自分は勉強が好きなので、上の学校に行きたい。そして、キベラ(スラム地区)に住んでいる、自分と同じような境遇の子供たちを教える教師になりたい」と夢を語り、はにかみながら、それを助けてもらえるとうれしいと答えた。

 正直なところ、私自身には、とても考えが及ばなかったような答えが、3回続けて返ってきた。

 「今現在の飢餓すれすれの状況から抜け出すのに、食糧を援助してくださって本当にありがとう。でも、これからのことを考えると、『教育』を助けてもらえることが、もっともありがたい」

 要約してしまえば、こういうことだろうが、同様の問いを先進国で貧困に苦しんでおられる方に投げかけてみたら、どういうふうに返ってくるだろう。逆に、さまざまな支援活動に携わる側に聞いてみたら、どうだろうか。

 就業訓練の話はきっと出てくるような気がするし、何人かの方は「子供たちの教育」に触れられるだろう。ただ、ケニアで聞いたような「初等・中等教育さえきちんと受けられれば、子供たちの将来は、きっと今より良いものになるはずだ」という、未来に向けた強い気持ち、教育に対する深い信念と熱意、というものは、同じレベルでは返ってこないような気がしてならない。

 いったん、ちょっと引いて考えてみよう。

 初等・中等教育が行きわたり、軽工業から少しずつ工業化が始まる。それに伴って、工業社会型の流通業やサービス業も整備されていく。

 社会経済全体の生産性が上がり始め、ある段階から労働者の賃金も上がっていき、工業社会の勤労層が、中流階級の仲間入りをし、社会の中で大きな割合を占めるようになる。

 産業革命以降、多くの国の発展は、上記のようなパターンをたどってきた。

 もちろん、国の経営の巧拙、資源価格の乱高下や戦争といった大きな変化、さらには「地の利」や、恐らく「運」という存在もあって、うまくいった国、それほどでもない国、いろいろとある。だが、大きく言ってしまえば、「初等・中等教育充実→工業化→中流社会形成」というのが典型パターンだといってもよいだろう。

 ケニアのように、このパターンに入りかけている国、あるいは昨今大きく伸びてきている大部分の新興国のように、このパターンの真っ只中にいる国。こういった国では、教育に対する信仰的なまでの信頼と熱意が、素直かつ自然に醸成されやすい気がする。1970年代ぐらいまでの日本も同様だったかもしれない。

先進国になると教育が成長に直結しなくなる

 ところが、1人当たりGDPが3 万ドル(約246万円)あたりを超え、いわゆる先進国の仲間入りをした後は、事はそう単純ではない。初等・中等教育の義務化は何年も前に終わっており、また、生活レベルを向上させ、国を発展させるということと、教育投資をすることとが、目に見えるような形でリンクしにくくなる。

 イノベーションを生み、企業競争力を上げるうえで、高等教育の重要性が高まってくるが、一方で、中流社会の中での進学ブームは、高等教育自体をマス化してしまう。

 大学卒の希少性が次第に失われ、また、(大学教育が企業ニーズに合わせる形でよほどの自己変革を行わない限り)大学卒というだけでは、過去には大学卒だから就くことができていた職種に就けなくなってくる。

 今、日本で起こっていることは、こういった工業化・中流化を数十年前に達成してしまった国ならではの、さまざまなミスマッチの顕在化だろうと思える。

 これが最も顕著に表れているのが、現在の大学生の「就職難」だと思う。就職氷河期論が叫ばれて久しいし、実際に正社員の職に就けない大卒者も多数存在して、社会問題化していることはご存知の通りである。

 文部科学省の学校基本調査を見ると、大学卒業者の就職率は、いわゆる失われた20年の間に、大きく低下している。

 しかし、気をつけて見てみると、同じ期間の大学卒業者数は、大きく増加していることに気づかされる。

 この2つの数字を掛け算してみれば明らかなのだが、この間の大卒就職者数は30万人台で増減しているものの、実は大きな変化を見せていない。

 確かに、年によって「大卒採用数」あるいは「大卒募集数」はある程度変化する(従って、卒業年による運不運は一定程度存在する)ものの、そのこと自体よりも、1990年から2005年までの間に、大学卒業者数が15万人、3割以上も増えたことの方が、就職難により大きなインパクトを与えているといってもよいだろう。

 少子化と言われつつも、大学の定員大幅増、進学率の高まりから、大学卒業者数が増え続けた。このため、求職者数と採用者数のミスマッチが起こっているのだ。

 さらに、卒業生本人も、その親も、過去の大卒者の就職先・職種のイメージを引きずり、大企業のホワイトカラー中心の就職を当然視している可能性が高く、それがパーセプション(認識)上のミスマッチを引き起こしていそうだ。

 リクルートワークス研究所の調査によれば、2011年3月卒の大学生に対する民間企業の求人総数は、58万2000人。これに対して、民間企業への就職希望者は、45万6000人。求人総数の方が求職者よりも多いらしい。

 一方、企業の規模別の求人倍率を見てみると、従業員数5000人以上の大企業では0.47、1000人以上では0.63と、求職者数の方が上回る狭き門なのだが、300人未満の中小企業では、これが4.41となり、圧倒的な売り手市場になる。

 大卒者が、企業規模や職種にこだわらず、中小企業も含めて、職を求めれば、全体としては、募集人数の方が卒業生より多い。にもかかわらず、皆が限られた大企業を志望するため、就職難が起こっているということだろう。

 大変ドライな物言いになってしまって恐縮だが、親の世代と同じ感覚で、「大卒の就職は、大企業のホワイトカラー」という思い込みがある限り、景気の良し悪しにかかわらず、現在のような「就職難」は解消しない。

 大卒者全般を取ってみれば、中小企業や現場の仕事も含めて、もう少し幅広くキャリア形成を考えていかない限り、出口がないのではなかろうか。

 もっと言えば、これは大学生の側だけでなく、企業の側にも、パーセプションギャップ解消の責任があるように思える。人口減少、デフレ経済という状況の中でも、従来型の大卒求人は何とか同程度続けてきているものの、どこかではっきりと「従来のような大学を出た新卒の仕事、というだけでは、大部分の大学卒業者に職を提供することはできない」ということを率直に伝えることが必要だろう。

企業はほしい人材について本音を語るべき

 これは、単純に、「現在の大卒の多くは、過去の高卒者の仕事についてもらうしかない」ということではない。これからグローバル展開の度合いをさらに強めていく多くの企業は、海外人材をどんどん採用していくことになろう。しかし、必要な能力を有する日本人大学卒業者がもっと多く出てくれば、彼ら、彼女らを(日本人の採用数を増やしても)採用する企業は数多いはずだ。

 例えば、議論してみると、本音では次のように思っている企業がいくつも存在する。

 「新興国への事業拡大、あるいはイノベーション拡充によって、企業の成長、そして日本人の雇用維持は可能である。逆説的に言えば、こういう方法でしか、日本の経済と社会を元気にしていくやり方はない」

 「従って、学歴にかかわらず、異文化・言語について深く学んだ人材、あるいは異分野の人とチームで働きイノベーションに貢献できる人材を強く求めるので、それに向けて、(大学在学中に)自らを鍛えてきてほしい」

 「教育によって、自らの生活を向上し、さらにより良い社会・国づくりにも役立つ」という熱気を取り戻すためにも、企業側はこういった本音を語っていき、大学教育、そして大学生の自らのキャリア設計を進化させていく手助けをすることも不可欠だと考える。

 ケニアやその他の新興国の「教育」信仰は、一面うらやましいところがある。しかし、彼らから見れば、もっとうらやましいレベルまで社会・経済を進歩させてきた我々は、現在の日本および日本企業のニーズに応じた形で、新たな「より良い社会づくりにつながる教育への熱意」を、意思をもって構築していく時期にある。

 「昔は良かった」とか「最近の大学生は…」といった出口のない堂々巡りの教育論が目立つけれども、もっと前向きの「新しい日本の教育論」を戦わせ、そして何よりも、学ぶ内容、自らのパーセプションの両面のギャップから、暗い気持ちになりがちな学生の皆さんを元気づけていく方が、建設的だと思っている。

 読者の皆さんは、どうお考えになるだろうか?
このコラムについて
御立尚資の帰ってきた「経営レンズ箱」

コンサルタントは様々な「レンズ」を通して経営を見つめています。レンズは使い方次第で、経営の現状や課題を思いもよらない姿で浮かび上がらせてくれます。いつもは仕事の中で、レンズを覗きながら、ぶつぶつとつぶやいているだけですが、ひょっとしたら、こうしたレンズを面白がってくれる人がいるかもしれません。
【「経営レンズ箱」】2006年6月29日〜2009年7月31日まで連載

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著者プロフィール

御立 尚資(みたち・たかし)
御立 尚資

ボストン コンサルティング グループ日本代表。京都大学文学部卒。米ハーバード大学経営学修士(MBA with High Distinction)。日本航空を経て現在に至る。様々な業界に対し、事業戦略、グループ経営、M&A(合併・買収)などの戦略策定、実行支援、経営人材育成、組織能力向上などのプロジェクトを数多く手がけている。著書に『戦略「脳」を鍛える』(東洋経済新報社、2003年)、『使う力』(PHP研究所、2006年)、『経営思考の「補助線」』(日本経済新聞出版社、2009年)など。

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/742.html#c13

コメント [経世済民70] 失われた20年と金融政策失敗がなければ、我々の給料は今の2倍になっていたのだ! 高橋洋一 八田利也
02. 2011年1月28日 10:11:34: z6FPymHZG6
所得倍増計画でぐぐれ
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/783.html#c2
コメント [マスコミ・電通批評11] アナログ放送の終了どうしてスカイツリーの完成まで待てないのでしょう 山田の案山子
30. 2011年1月28日 10:13:36: QXVaulDOhs
>26 ツリーとタワーのアンテナ角度が大きく変わる地域は逆にいえば新しい塔から見れば指向性など問題にならないほどの圧倒的な強電界地域に入ることになるだろう。

現在のアナログ電波では、強電界地域なら屋外にアンテナ建てる必要はないでしょうか。室内アンテナで十分でしょうか。電界が強ければ室内アンテナの向きなんてどうでもよく鮮明な画面が見られるでしょうか。

実際には電界強度の高い地域の方も、多くの方は屋外にアンテナ上げています。電界強度が高ければ、室内アンテナで見られないことはないでしょうが、室内アンテナの向きが悪ければゴーストが出ますから、室内だから調整は簡単ですが、向きは調整しているはずです。

向きがデタラメならゴーストが出るのは室内も屋外も同じです。中には運がよくアンテナがあっちゃ向いても地デジが問題なく受信できるケースもあるかもしれませんが、基本的にはアンテナの向きは重要です。

アンテナの前後の感度の比率は10db〜30dbありますが、これはエネルギーにして10倍から1000倍に相当します。御本尊の電波の10〜1000倍の感度でビルの反射波など邪魔な電波拾ったら、御本尊の電波つまりスカイツリーからの電波がいくら強くてもトラブルを防ぐことが出来ません。御本尊の電波が強くなれば、反射波など邪魔な電波も強くなりますから。

更に、アンテナは前方の感度が良くて後方の感度が悪いのですが、原理的に直角方向の感度は更に悪いのです。アンテナがぴったり直角方向だったら最悪です。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/483.html#c30

コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
04. 2011年1月28日 10:14:49: LyRjt1dINI
masaru_kaneko:S&Pが日本国債を格下げしました。確かに日本の財政は将来的な持続可能性が失われているけど、世界金融危機を引き起こすのに一役かった格付け機関の性格を不問にして、公共機関のように大々的に報道する姿勢って問題ないの?誰の金で誰の利益のために格下げなんでしょう?米国債がAAAで大丈夫? [http://twitter.com/masaru_kaneko/status/30783372632522753]

YoichiTakahashi:国債格下げ話。まあ格付け機関の話なので話半分。マスゴミと同じでかなり適当な会社だからね。しかし「疎い」とかあ「増税催促」とかくると、最凶・増税オールスターズの面目躍如だな。デフレ脱却してノーマル経済にすればいいだけ [http://twitter.com/YoichiTakahashi/status/30789163594813440]


http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c4

コメント [経世済民70] 亡国経済-日本人を捨てて中国人を獲る日本企業-桜H23/1/21 関岡英之 gikou89
17. 2011年1月28日 10:25:08: IV8vpzxuiI
バブルの頃日本人は世界中を豪遊し、人種差別のある南アメリカで白人とテニスをし、アジアで仕事していた海外勤務の家族は運転手、お手伝いつきのセレブ生活。ヒッピーとやらでアメリカ遊学。そんな親の子供が現在就職難。大阪大学教授の山崎正和氏が、学校は平等を追求するあまり、小中学校の落第、留年を一切なくし、分数の足し算ができず、常用漢字が読めない大学生を大量に生んだ。日本は「知識基盤社会」を目指すべきだ。」と読売に書いてあった。若者を見ると政治家と同じような口先ばかりで言い訳ばかりがうまい。日本は市場経済を小泉、竹中路線で選択したのだから、相手を潰すか、潰されるか。大学卒業し就職できない若者は親から金を出してもらい日本脱出するか、スキルをつけるか、キャリアを積みチャンスを掴んで外資に就職するか、起業するかしかないと思う。まだ20代、30代は遅くはない。まりり日本の経済界、政府に期待しないで自立しよう!
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/730.html#c17
コメント [中国2] 「沖縄では住民75%が日本からの独立希望」と中国紙報じる(ポストセブン) ←沖縄現地の方証言お願いします 木卯正一
06. 2011年1月28日 10:29:06: 7WZekNACgc
チベットでは住民100lが中国からの独立を希望 と言ってやれ
http://www.asyura2.com/09/china02/msg/735.html#c6
コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
05. taked4700 2011年1月28日 10:32:34: 9XFNe/BiX575U : YqC8Mi93FM
>誰の利益のために格下げなんでしょう?

 そりゃ、アメリカの資本家のためのアメリカの資本家による格下げででょう。

 具体的には、日本国債を多量に保管している金融機関の評価を下げ、そういった金融機関を乗っ取るためでしょうね。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c5

コメント [経世済民70] 政府・日銀、国債格下げ契機に財政再建本腰が急務との声(ロイター) 会員番号4153番
02. 2011年1月28日 10:51:50: fxYrP3WADA
ダボス会議と機を一にした国債格下げ!
記者の質問にも「しどろもどろ」で
あわてて、へっぴり腰で、ダボスへ出かける首相!

待ちかまえているのは、国際金融マフィアの威嚇!
日本国家壊滅へ向けた「直接指図」を受けてくるのだろう。

愈々、日本国の消滅が近づいている。

がんばれ、大和民族!
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/784.html#c2

コメント [マスコミ・電通批評11] スタッフ半減の衝撃 産経が大ナタ振るう夕刊フジ大リストラ(週刊文春) 赤かぶ
03. 2011年1月28日 11:22:04: swlnfR07HU
<産経新聞>談話無断改変で謝罪 「人体の不思議展」記事で
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110128-00000010-mai-soci

http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/508.html#c3
記事 [ペンネーム登録待ち板6] 小沢一郎の[熊野詣]は国家国民への政治思想的なメッセージである。
これは、今までの欧米寄りのスタンスから独自の文化・宗教に軸足を置いた新しい国造りを目指す動きである。近代主義一辺倒の方針を静かに捨てる意思でもある。
戦後の近代化を主導した潮流は親米ユダヤ系という面を見ても、その世俗的戦後というのは非宗教・物神崇拝ということであり、あのロシア革命の無神論・社会主義革命と皮一つで繋がる流れであったのだ。
因みに、ユダヤ・トロッキー党派が主導したロシア革命によって旧ロシアではロシア正教は徹底的に殲滅させられ無神論国家となった。 (ロシア近代の歴史的変遷を戦後日本の民主化?に重ねてみると、他岸視はできまい。)
ユダヤ人党派が進めた左翼思想・トロッキズム・拝金世俗主義(西欧モダニズム)とは、世界から民族固有の文化や神々を捨象し、各国のナショナル・アイデンティテーを簒奪し、ワンワールドを確立する動きであった。
古来、日本人の汎神論的集合意識に在る仏教・神道とは水と油の、アングロサクソン・キリスト教文化は神と個人とのギブアンドテーク、即ち、ビジネスライクな酷薄な個人主義文化である。
その異質な文化を無節操に草莽野合させれば・・畸形近代主義、畸形民主主義(マスコミ)、畸形政治国家が出現するのは道理である。
西洋文明=近代思想とは何か?汎アジア日本の思想文化と整合すべき国造りを視野し! 自主防衛を構築し、自立国益を視野すベき歴史の転換期に日本は際会しておる。
文明史的批判に晒されている金融イデー(新自由市場原理主義)価値観を止揚して、禅攘老荘的な共生価値観と照応して辺境最深部から日本を見直す時なのだ!
世界に冠たる[先進衰亡国家=日本破産]を招いた根幹は過激な米国信仰にあった。その提灯報道機関であるマスコミは、あたかも国難かのごとく[小沢と金]を絶叫しておる。
そのような境涯のなかで、日本人の集合意識の源郷である、神仏習合・本地垂迹の地=【熊野】に足を運んだ政治家は小沢一郎を措いてはいない。その所為は小沢の政治思想的なメッセージであろう・・
小沢の意志する、民族意思と文化意識に裏打ちされた国家観(共同幻想)を、近代功利主義思想との桎梏のなかでアウフヘーベンすべき弁証法をすら知り得えていない、マスコミ・ユダヤインテリジェンスに先導される近代主義者=菅直人のお遍路詣とでは想像を絶する径庭がある。


http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1108.html

コメント [近代史02] 小沢一郎先生を襲った恐怖とは 中川隆
08. 中川隆 2011年1月28日 11:36:13: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

アメリカに逆らった政治家の運命 _ 橋本龍太郎


日本も中国も外貨準備高では世界第2位と1位をキープし続けている。

中国の外貨準備高は2兆4千4百71億ドル・日本1兆961億8千5百万ドルで日本は中国の約半分です。1兆ドル以上の外貨を持つ国は他にはありません。

(ウイキ引用)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%84%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%A4%96%E8%B2%A8%E6%BA%96%E5%82%99%E9%AB%98%E4%B8%80%E8%A6%A7

3位のEUでも5千569億6千5百万ドルです。以下4位ロシア・5位台湾・6位インド・7位韓国

8位シンガポール・9位香港・10位ドイツ・11位フランス・12位タイ・13位マレーシア・14位イタリアと言う順位になっていまして、アメリカはなんと21位で716億1千3百億ドルしか保有していないのです。つまり、アメリカの富は中国と日本に集中してしまっているのです。

世界全体の外貨準備高は7兆2千86億9百万ドルだそうで、中国と日本の保有外貨の合計は世界中が保有する外貨全体の半分にもなります200近い国が存在する地球の富の半分を日中2国が保有しているのです。日本は中国の半分しか外貨を持っていないと言っても、人口13億とも15億ともいわれる中国に比べ日本の人口は10分の1です。国民一人当たりので割れば日本の方が遥かに金持ちのはずなのです。

日本が現在保有する1兆961億8千5百万ドル、これを日本円82〜84円で換算すると89兆円〜から90兆円くらいでになるのでしょうか。

これだけの外貨がありながら金が無いから消費税を上げる。消費税を上げなければ年金、保険、すべての社会保障制度が壊れると大騒ぎする財務省にせっつかれ、管総理は民主党のマニフェストを根本的に削除して、自民党の怨霊が乗り移ったような与謝野を金融大臣に据えて消費税の大幅増税と、福祉サービスの切り捨てを画策しています。

中国は自国が保有する外貨(ドル)が紙切れになる前に売る、と言うより、投資と言う形でEUをはじめ世界各国にばら撒いて、親中国政権を増やし、農地やあらゆる資源の獲得に奔走しています。ドルが使えなくなる前に使いきれという国を挙げての大散財です。

ところが、日本はこの金には絶対手をつけないのです。国民全部が飢え死にしても財務省はこれを死守するつもりです。これは彼らが自らの組織を守るための軍資金のようなもので、これを売り払うのはアメリカが許さないからです。


橋本龍太郎総理がアメリカのコリンビア大学で演説し、


「バブルがはじけて日本は大変なことになっている、今まで沢山買ってきたアメリカ国債をこのあたりでうりたいあな、などと言う誘惑に駆られることがあります」


とユーモアの積りで逝ってしまったのですが、その仕返しはすぐに来ました。19
97年6月23日、アメリカのコロンビア大学での講演で、聴衆から

「日本が米国債を蓄積し続けることが長期的な利益とは何か」

という質問にたいして、橋本は

「正直、日本は経済的に苦しくなっています。大量の米国債を売却しようとする誘惑にかられた ことは、幾度かあります。」

とユーモアで返した積りでした。しかし慌てて

「米国債を売却し、外貨準備を金に変えようと したい誘惑に、屈服することはない」

と続けましたが、後の祭りでした。大量の米国債を保有する日本の首相が「米国債を売却」への言及をしたとマスコミが大騒ぎしたものですから、ウオール街の株価が一時急落すると言う事件がありました。

その仕返しはすぐにやってきます。

1998年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席と惨敗。橋本内閣は総辞職しました。矢張りこの時も税収不足を補うために橋本は消費税を導入することを大蔵省から勧められていたようで、

仄聞するに「橋本元首相は財務官僚の言いなりになったことを亡くなる間際まで悔いていた」と側近の話があります。橋本がアメリカのご機嫌を損ねる理由はまだあります。北方領土返還に熱心でロシアのアル中大統領エリツインと「リュウ・ボリス」の仲になっていました。これがまたアメリカの気に入らなかったようで、やがて中国人「女スパイ」と「情を交わし国家秘密を中国にリークさせた」たとか何とか、ごたごた騒がれていましたが、2006年7月1日 東京都新宿区の国立国際医療センターで腸管虚血を原因とする敗血症性ショックによる多臓器不全のため死去しました。

享年69歳でした。告別式は東京高輪の高野山東京別院で営まれましたが、8月8日には、内閣・自由民主党合同葬が日本武道館で行われました。その時の葬儀委員長は、なんとあの小泉純一郎総理大臣でした。

なお、橋本龍太郎氏の死因は「腸管虚血」と言われていますが「多臓器不全」とも言われ死因がよくわからないこともあり、死後、病院側の意向により、遺体は病理解剖に付されたそうですが、結論は闇の中です。

政官財マスコミのトップはこの闇の奥をみんな知っているのでしょうが、巷には絶対流れてきません。政権が民主党に移り小沢一郎、鳩山由紀夫がどうも親米ではないと見るや、すぐに小沢一郎氏に西松建設や、不動産習得に関する不実記載などの「政治とカネ」の問題が起き、鳩山由紀夫氏にはお母様からの「お小遣い月1500万円」が起きこれも怪しからんと言うことになって二人とも民主党トップの座を降ろされました。

残った管直人はこれで痺れあがってしまい、口もきけなくなってしまったのです。まさに顔は能面、目はビー玉。見るもの見えず、聴くもの聞こえず、ただもうCIAの命令通り動く財務省の言うままマリオネットになってしまいました。

殺されないようこれまで掲げてきた「マニフェスト」は全部破り捨て、自民党政権と全く同じ状態にひねり戻されてしまいました。


ですから日本は、中国のような大胆な外貨の活用ができないのです。江戸時代の守銭奴が甕にビタ銭を沢山貯め、床の下の土深く埋めたまま死んで忘れ去られ、昭和になって工事現場から掘り出されたなんて話がよくありました。この90兆円の外貨も恐らくそんな状態で塩漬けになるのか、はたまた、アメリカに巻き上げられるのか、解りませんが、少なくともこれを国や国民のために使う積りは全くなく、財源が無ければ貧乏な国民を騙して税金を取り上げると言う事しか考えないのです。

偉そうに「孫子の代に大きな借金は残せないのです」などという糞のような政治屋を次の選挙では絶対当選させてはなりません。ブログ・フェイスブック・ツイッター、PCでもケータイでも真実を語るツールは沢山あります。マスゴミの嘘と面の皮をひんむいてやりましょう。政官財マスゴミの中枢にいる憂国の士は、どんどん内部の腐敗をリークしてください。

最後に私のアイデアをお聞きください。政府がこの90兆円の外債を直接売れないのなら、半分でも地方交付税として都道府県に分配して、地方自治体に使い道を考えていただくと言うのはどうでしょう。

きっと頭の良い方々が沢山いらっしゃるでしょうから、財務省が考えるより遥かに有効な使い道が発見できるのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/k1491n/20110126/1296035696


竹下登元首相は平成元年(1989)春、首相の座を降りた後も、依然として政治の実権を握り、政界最強の実力者として「院政」を敷き、「闇将軍」の異名をとり、事実上の日本の舵取りをしていた。米国と窓口役を引き受けながら、その立場により、キングメーカーと言われて権勢を誇っていた。

米国にとって竹下元首相が使いやすい政治家あったのは、米国が竹下元首相の弱みを握っていたからである。それが日本国民にバレたら大変なスキャンダルになるところであった。

竹下元首相は、中曽根康弘元首相時代、3期にわたり蔵相を務めていた。その在任中、新札を発行した。その際、米国FRBから監視役が1人、日本銀行に派遣されてきていた。このとき、30兆円分の新札(旧福沢諭吉紙幣)を刷らせたのだが、竹下元首相は、同じ番号の新札を別30兆円刷らせ、これを戦後補償金として台湾に渡した。このことが後に、米国レーガン政権(当時)にバレてしまい、米国にとって脅しの材料として利用され、米国の要求には、どんな難題でも聞かざるを得ない立場に置かれたのだという。まったく、情けない失態である。

◆早稲田大学出身の竹下元首相はキングメーカーと言われながら、それは本当のところは、米国の命令に従ったにすぎなかった。橋本龍太郎首相が退陣したときは、そのことがはっきりと表れた。

慶応大学法学部出身の鼻っ柱の強い橋本首相は、訪米した際、クリントン政権から、「日本版の金融ビッグバン」を強要された。それまでの間、クリントン政権は、日本がバブル経済崩壊により苦難の状況のなかにあるのを知りながら、「超低金利政策」の実行を強要していた。米国の要求があまりにも理不尽であると感じた橋本首相は、思わず口走ってしまった。
 

「ひどいことを言い過ぎると、日本が買っている米国債を売ってしまいますよ」。


米国ディビッド・ロックフェラーが、この発言に怒った。直ちに、竹下元首相に連絡してきた。

「橋本を総理大臣の座から降ろせ」。 

「分かりました。辞めさせます」。

◆これをキッカケに、一時沈静化していた米国の日本バッシングが、また再び始まったのである。橋本首相の不用意な発言は、竹下元首相の逆鱗に触れた。この結果、橋本首相は、以前のようには、竹下元首相に会えなくなった。面会を申し込んでも、門前払いされたという。竹下元首相は

「アメリカとの間に、折角、良好な関係を築いていたのに、何ということをしてくれたのだ」。

という思いがあったのであろう。竹下元首相は「橋本降ろし」を決意していたのである。長引く不況のなかで、橋本政権の支持率は、20%を割り、さらに低下の一途を辿っていた。竹下元首相は、橋本降ろしの準備を始めた。「龍ちゃんを降ろすにしても、花道だけはつくってやらねば」。そうした状況のなかで、橋本退陣をいち早く察知した小渕恵三外相が、内心ほくそえんでいた。地雷撤廃条約をめぐる国際会議出席のため、カナダを訪問した岐路、ニューヨークに立ち寄り、ディビッド・ロックフェラーを訪問し、挨拶した。

「橋本の次は、わたし、小渕恵三が首相をやらせてもらいます。何卒、よろしく」。

http://www.asyura2.com/11/senkyo104/msg/184.html

CIAに暴露された橋本首相のスキャンダル(?)については

中国美女も日本男性が大好き
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/290.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/296.html#c8

コメント [マスコミ・電通批評11] 佐藤優氏 テレビ出ないのは「テレビの取材文化が嫌い」だから(SAPIO2011年1月26日号) SOBA
11. 2011年1月28日 11:37:36: E32BxHozjC
佐藤 優氏、外務省の組織犯罪について語る。


「真紀子議員追放と宗男議員失脚の組織犯罪」

http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-1122.html
                         (和順庭の四季おりおり)
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/481.html#c11

コメント [議論30] リチャード輿水氏の重要性 my.test.done
05. 2011年1月28日 11:38:26: L0TE8cTeWY
コシミズ氏には強い妄想癖があるから、そういうトンデモな人を見て楽しむという用途以外にはおすすめできませんよ。

彼はネットで流れる色んな陰謀論をパッチワークして「ユダヤが全部悪い」という陰謀論に焼き直しただけです。判りやすいのも当然。教義は一つ「ユダヤが全部悪い」ですから。

意味不明なことに、コシミズ氏本人は自身の主張について「根拠など要らない」と明言しています。
つまり彼は「なんとなくそう思う」だけで、「世界のすべては『ユダヤが悪い』で説明できる」としているわけです。普通、こういうのはただの『妄想』といいます。

その『妄想』も笑って済ませられるものばかりではありません。
政治家・宗教家・活動家から一般人にいたるまで、その人が「『ユダヤ側の人間』なのか、そうでないのか」というのはコシミズ氏の妄想判断によるわけです。

例えば彼は2007年まで小沢氏を「ユダヤ側」の人間だと言っていました。
コシミズ氏は小沢氏を売国奴として誹謗し、おかしなコラ画像を作ってまで中傷を重ねていたのです。
ところが政権交代間近になり、彼は突然小沢氏を「国士だ」と持ち上げだしました。
別段「ユダヤ側だ」と判断したのに根拠もなく、「ユダヤ側ではない」と判断したのにも根拠は説明されません。全て彼の妄想に依るだけです。

さらに恐ろしいのは、その妄想に依る決めつけは一般人にまで及ぶことです。
コシミズ氏はこれまで身近な人間を、突然「自分を殺害しようとしている!」と決めつけ、誹謗中傷して追放したりしています。
一例では、理由は「○○が自分に飛行機の便を指定してきた」からだそうですが、こう言うのは「被害妄想」と言います。要するに病気です。


彼の主張に共感を感じる人がでるのは、彼の主張がネットに広がる「真実を主張する人たち」の言動を寄せ集めたものだからです。
小沢氏を支持する人たちは最近のコシミズ氏の主張には共感を感じるでしょうが、小沢氏を誹謗中傷していた時期の主張をみれば、彼の根幹は妄想であることに気づくのではないでしょうか。


■資料
「偽装国士、小沢済州島一郎の化けの皮」について(コシミズブログ)
http://richardkoshimizu.at.webry.info/200712/article_26.html
参議院選挙がどうしたってぇ? (コシミズブログ)
http://richardkoshimizu.at.webry.info/200708/article_2.html
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/370.html#c5

コメント [お知らせ・管理19] 管理人殿、タイトル違反等失礼致しました、以前書きましたように、トラさん型を目指す機会にしたいと思います。 小沢内閣待望論
01. 2011年1月28日 11:45:15: l5MqvMXGMI
 リチャード・コシミズ・ブログでもいかがですか。昼休み板なら許可不要。タイトルの文字数が少ないので「紹介ブログと自分の意見の微妙な違いもタイトルの脇に添え」ることも大概労なくできますよ。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/531.html#c1
コメント [戦争b7] 石井紘基氏資料より! 日米経済戦争の敗北は、1984年からのCIAによる日本の政治家・官邸の通信傍受からはじまっていた! hattariya
25. 2011年1月28日 11:45:38: E32BxHozjC
石井紘基事件についてまとめてあります。


『「菅 直人・小宮山洋子」の正体見たり!』

http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-1110.html

                   (和順庭の四季おりおり)
http://www.asyura2.com/10/warb7/msg/198.html#c25

コメント [国際5] ジャスミン革命が拡散中 まりお
01. 2011年1月28日 11:48:30: FxkrT833rk
アメリカは本心、サウジ等、新米アラブ国家への飛び火を懸念しているが、情勢の展開を見て親革命に急遽切り替えた。

でも民衆はお見通しだ。

これで新米アラブ独裁政権は軒並み崩壊。これがイスラム急進派とどう絡むかわからんが、その次はアラブからのアメリカ退去運動につながるだろう。

面白くなってきた。
http://www.asyura2.com/10/kokusai5/msg/307.html#c1

コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
18. 2011年1月28日 11:51:09: EOOALytWAw
今日の長期国債は上がっているな(笑)。
ということは、昨日のニュースは、株売り、債券買いの裁定取引をしているところの
株の売仕掛けのためのネタだったということだね。

おそらく、これから2月にかけて株は暴落するだろう。


http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c18

コメント [マスコミ・電通批評11] 地デジの無意味・心に青雲(6大マスゴミが「地デジ関所」を作っても、視聴者はネットテレビの世界に羽ばたいてしまいます) 小沢内閣待望論
05. 2011年1月28日 12:01:15: FxkrT833rk
ジデジってのは民法BSが失敗したころから急に政策化したね。

そこにテレビ不況で電通はじめ電波強盗は政治家官僚に果敢なロビー活動を展開したに違いない。

で、法制化で国民全体にさらなる情報統制と情報への支出を強制する策に出たのがジデジだ。

結局、チャンネル数の制限とコンテンツの低劣さから、BS、CS、インターネット動画に軍配が上がるだろう。

ようするに情報独占維持を目指したジデジ政策が逆に敗退する要因となるのだ。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/498.html#c5

記事 [マスコミ・電通批評11] テレビ朝日、サッカー日韓戦の猿真似問題で旭日旗を捏造報道 (自主投稿)
テレビ朝日ワイドスクランブルで捏造か?

問題の旭日旗のシーンです!
7分40秒から 何故か日本対オランダの画像を使用
 http://www.youtube.com/watch?v=8Djz1KdyubA#t=7m40s

http://www.tv-asahi.co.jp/onair/list.php?b=scramble
 テロ朝、25日と27日の間を削除w
 1月26日の問題部分を隠蔽


奇誠庸「日本戦は戦争だ」とやる気マンマン
 http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=136898&servcode=600§code=610
    ↓
 奇誠庸「累積警告が消えたから故意反則で本田を潰す」と殺人タックルまで予告
http://www.nikkansports.com/soccer/japan/asiancup/2011/news/p-sc-tp2-20110125-728575.html
    ↓
そして、奇誠庸の“猿パフォーマンス” 「旭日旗にカッとなった」と日本への差別行為と認める
 http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=136982
    ↓
●ここで韓国メディアは「確かにスタンドに旭日旗があった!」「むしろ日本が悪い!」と主張
  テレ朝もそれに乗っかりオランダ戦の画像を日韓戦の証拠画像としてテレビで放送
    ↓
スポーツでの人種差別はご法度 FIFAからの処分の可能性が出てくる
http://www.sanspo.com/soccer/news/110127/scd1101270503001-n1.htm
    ↓
あわてた奇誠庸「猿マネは日本向けでなかった」「欧米人へのあてつけ」と不可思議な弁解
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110127-00000004-jct-ent
    ↓
ともかく、奇誠庸が事情説明して謝罪したので日本側は公式抗議をせずに一件落着
 http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/01/27/0003766380.shtml
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110127-00000797-yom-socc
    ↓
●そしてハシゴを外されたテレ朝の捏造報道だけが残った…     

>猿パフォーマンスをしたのにはこの旭日旗を見たという事なんですけれども
>旭日旗と言うのは、確かに (ここでオランダ戦フリップを出す)
>その日韓戦にあったと韓国のメディアも報道しています
>この部分です (そのフリップを指差す)
>日本の応援席のココの部分に この旭日旗が えー見えます

Q
捏造してなんかメリットあるの?

A
世論操作 です!


嫌悪感煽って日本のナショナリズムを押さえる。
という側面はあるかもしれない。
でも、バレる様な嘘をついたら逆に人種差別ネタに火がつく気がする。

ちなみに世論操作の目的は嫌韓を増やさないためのもの

Youtube削除されたときのために補完しといた
http://www.megavideo.com/?v=NMIPM8I7

動画
【猿マネ問題】テレ朝川村「健全なナショナリズムの範疇」
http://www.youtube.com/watch?v=bydVppA3zm8&t=7m40s

この7:40で間違いない?
確信犯だぞこの捏造


http://blog-imgs-36-origin.fc2.com/w/o/r/workingnews/vlippan182606dfwe.jpg
 
 ↓拡大

http://blog-imgs-36-origin.fc2.com/w/o/r/workingnews/4744999825_f5a8294580_b.jpg


そもそも中田はもういないし、


旭日旗が無いけどどこにあるの?

http://blog-imgs-36-origin.fc2.com/w/o/r/workingnews/vlippan182703.jpg
http://blog-imgs-36-origin.fc2.com/w/o/r/workingnews/vlippan182704.jpg
http://blog-imgs-36-origin.fc2.com/w/o/r/workingnews/vlippan182705.jpg


(改めてまとめ)

ココまでの流れ

奇誠庸「日本戦は戦争だ」と殺る気マンマン
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=136898&servcode=600§code=610



奇誠庸「累積警告が消えたから故意反則で本田を潰す」と殺人タックルまで予告
http://www.nikkansports.com/soccer/japan/asiancup/2011/
news/p-sc-tp2-20110125-728575.html

そして、奇誠庸の“猿パフォーマンス” 「旭日旗にカッとなった」と日本への差別行為と認める
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=136982


●ここで韓国メディアは「確かにスタンドに旭日旗があった!」「むしろ日本が悪い!」と主張
  テレ朝もそれに乗っかりオランダ戦の画像を日韓戦の証拠画像としてテレビで放送

スポーツでの人種差別はご法度 FIFAからの処分の可能性が出てくる
http://www.sanspo.com/soccer/news/110127/scd1101270503001-n1.htm

あわてた奇誠庸「猿マネは日本向けでなかった」「欧米人へのあてつけ」と不可思議な弁解
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110127-00000004-jct-ent

ともかく、奇誠庸が事情説明して謝罪したので日本側は公式抗議をせずに一件落着
http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/01/27/0003766380.shtml
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110127-00000797-yom-socc

>日本人をバカにする行為として韓国内で話題となり、奇自身も

>「観客席に旭日旗を見たため」と説明。日本にも飛び火した“猿まね騒動”となっていた。
>協会は26日に韓国協会に対して、奇への事情聴取を要求。「セルティックでアウェーチームの

>サポーターからサル呼ばわりされていたため、差別発言に対するメッセージ」という弁明と、
>韓国協会からの「結果的に誤解を与えて申し訳ない」という言葉を受けて不問とすることになった。

仕掛けてきたのは向こうなのに何も無かったことにする気な協会のヘタレぶりに呆れるばかり
過去に工作員が帰化して五輪代表になったこともあるから、どうにかしておかないとまずいかもね

それとも、

韓国協会に対して>
「パフォーマンスは日本人に対してではない。
セルティックでプレーしていて、相手のサポーターからサル呼ばわりする人たちに向けてやった」

韓国記者に対して>
奇選手はツイッターで「観戦席の日旗を見て、私の心の中で涙が出た」
と胸中を告白
「弁解ね…私は選手である前に大韓民国の国民だ」とつづった。


責任追及逃れの二枚舌?



●そしてハシゴを外されたテレ朝の捏造報道だけが残った…        ←今ココ

(コメント)

今はネットがあるから、
こうしたTV局の捏造もあっさりバレちゃうのね〜
良い時代になったものだね〜
しかしネットやってない人は、捏造だって気づけないのね〜><

こんな捏造放送を公共の電波に流して恥ずかしくないのかね?
テレビ局の放送倫理の基準を疑うわ・・・

朝日が捏造したのはわかったけど
結局旭日旗はあったの?
あと、なんであっちゃいけないの?
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/511.html

コメント [経世済民70] 国債格下げ「消費増税の催促」=与謝野経財相 めっちゃホリディ
02. 2011年1月28日 12:04:01: fxYrP3WADA
「早くやれという催促だ。」

とても一国の担当大臣の言葉とは思えない!
そこには、まったく、国民目線、自分の思想、意志が感じれれない!
「ご主人様が、こうおっしゃっているから、やらねばならない。」
と聞こえる。
「首相がダボスから帰ったら、やりますよ。」
ということだろう。
売国奴め達が!
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/787.html#c2

コメント [医療崩壊3] ホメオパシーは怪しい医療ではない。西洋医療との価値観のすり合わせが大切。 Part2 えいちゃん
15. えいちゃん 2011年1月28日 12:24:05: 3nXmY9rECRG2s : 8EAXkFAMwk
08さんへ。

>医学では無くて認識論ですか、それも相当に程度が低いなぁ。

それでは、あなたの高尚なお考えを簡潔に教えてください。


>そうすると、えいちゃんさんが患者を診るから、その人は病人になるのですね。
>えいちゃんさんが診ていない時、患者は健康そのものかもしれませんね。

いいところまでお気づきの様ですが、もうあと一歩です。
あなたの現実は、すべてあなたの意識の中の波動やイメージが映像化されたものです。

毎日当院に、さまざまな患者様が相談にきてくださるのも、私が(無意識に)招いた結果(責任)でもありますから、いつも患者様が治ったイメージを抱いて治療にあたっています。

一見、他人の訴えや症状にみえても、相談いただいた事柄は、私(医者)自身が解決できる問題として捉えておりますので、みなさまに快方に向かっていただいているのだと思います。
(しかし、病気はけっして医者や薬が治しているのではありません。
治療家は患者自身が治るための、最大限のサポートをしているにすぎません。)

一方、自分が患者である場合はもちろん、病気は自分自身の問題です。
自分の病気は偶発したものではなく自分自身がつくったものであり、最終的には自分自身で解決できる問題であるという意識が大切です。


あなたが友人に相談を持ちかけられたり、他人の事を意識していろいろな感情を抱いたとしても、それは他人の問題ではなく、すべてあなた自身の自分の中の問題なのです。


10さんへ、

仮にあなたのお好きな「純水」や「蒸留水」で、レメディーを希釈・製造されている他の会社があったとしても、ホメオパシーの本質は変わらないと思いますよ。

それより、あなたはなぜ、超純水や不純物にこだわられて、いっこうに前に進まないのでしょうか。
御自分の頭の中の「不純物の概念」を、じぶんのことばで表現されないかぎり、あなたのお考えをみなさんと分かち合うことは、永遠に出来ませんよ。


14さんへ

貴方も知識に埋もれるだけではなく、常識を越えた知恵(智慧)を発想し行動しなければ、ブラックホールやビッグバン仮説とやらを天動説の如く崇拝されておられる11さんと同類で、「その時代だけの常識」に囚われたまま一生を終わってしまいますよ。


http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/396.html#c15

コメント [マスコミ・電通批評11] テレビ朝日、サッカー日韓戦の猿真似問題で旭日旗を捏造報道 (自主投稿) 木卯正一
01. 2011年1月28日 12:33:13: 1vh2fQcCEg
しかも、テレ朝で報道されたものは到底旭日旗と言えないものだしな
これで駄目なら大漁旗もNGなレベル
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1387313.jpg
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/511.html#c1
コメント [医療崩壊3] ホメオパシーは怪しい医療ではない。西洋医療との価値観のすり合わせが大切。 Part2 えいちゃん
16. 2011年1月28日 12:37:05: FBQftpA6lA
07は無視ですか。

御自分の頭の中の「ランセットの呪縛」「ランセット呪縛」を、じぶんのことばで表現されないかぎり、あなたのお考えを07さんと分かち合うことは、永遠に出来ませんよ。
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/396.html#c16

記事 [経世済民70] 始まった食料高騰=「世界は前代未聞の食料不足に直面する可能性があります」、 ジム・ロジャーズは述は述べた(朝倉慶)
http://www.funaiyukio.com/money2/


 「世界は前代未聞の食料不足に直面する可能性があります」、投資家、冒険家として有名なジム・ロジャーズは述べました。
 「今後食料の価格は幾らまで上がりますか?」の質問に対しては、
 「悪天候が相次げばどんな酷いことになるか、そうなれば穀物価格はうなぎ登りに上昇します。幾らまで、ですか? 思いつく限りの高値を更新するような、未体験のゾーンに陥るかもしれません。」
 未体験のゾーンとはいったいどのくらいか? 実際世界の主要穀物である、小麦、トウモロコシ、大豆の値段は昨年夏から急上昇をはじめ、わずか半年で1.5倍から2倍に急騰、まさに相場はとてつもない高値に向かって上昇していくような不気味さを醸し出しています。すでにトウモロコシの在庫率は5.5%、15年ぶりの低水準、また大豆の在庫率は4.2%、何と46年ぶりの低水準なのです。

食料価格暴騰で、世界各地で起こる暴動
 国連食糧農業機関(FAO)のジャック・ディエフ事務局長は危機感を強めています。
 「世界は新たな食料危機に近づいている。」悲壮感を持って訴えているのです。各種食料の輸出価格をもとに算出するFAO食料価格指数(2002−2004年=100)は、昨年12月、214ポイントに到達、ついに史上最高値を更新。あの2008年夏の狂乱した異常値213ポイントを抜いたのです。当時、エジプトやハイチ、カメルーンをはじめ世界中で暴動が発生、食料を求めて世界中で混乱が拡大しました。それを上回る危機が迫っているというのです。ディエフ事務局長は焦っています。
 「世界中で農業に投資する必要がある。今後世界で70%増産しなければいけない」と述べました。しかしもう世界の農業生産は限界と言われているのです。また世界は水不足で、そんな増産に対して水を供給することもできません。逆に地下水は枯渇に近づいているのです。ディエフ事務局長は、現状に対して、もし農業投資を増やさなければ「食料価格高騰が数年にわたり続き、各国で政情不安を招くことになる」と指摘したのです。
 ところが、そんな警告はもう遅いのです。すでに暴動の走りは世界のあちらこちらから始まってきたのです。チュニジアでは食料価格の高騰から激怒した市民がデモをはじめ、何と23年に及び独裁を続けた大統領が逃げ出す始末に発展、今でもデモの規模は数千人に拡大、政情不安で先が見えない状況です。チュニジアだけではありません。アルジェリアでも牛乳や小麦粉の大幅上昇を受け暴動が発生、治安部隊と衝突して420人が負傷、3人の死者が出ています。モザンピークでは昨年10月にパン価格を3割値上げ、やはりデモが発生して13人死者が出ました。結局モザンピーク政府は値上げを撤回したのです。
 またヨルダンでも5000人規模の反政府デモ、さらにイエメンでは2500人以上が大学に集結、大統領に対しての名指しの非難が始まりました。そしてついにエジプトでも全土で大規模なデモが発生、参加者は数万人に達した模様です。死者4人、負傷者250人と報道されています。
 中東、アフリカ地域では食料は輸入に頼っています、まさに値段の高騰に庶民が耐えられなくなってきているのです。庶民のこのような過激な行動は強権政治を続けていた中東諸国ではありえなかったことで、まさに食料の高騰から政権転覆へと民衆の不満が爆発しつつあるのです。しかも今暴動が起こっていないケニアやナイジェリア、ウガンダなどの諸国は食料の在庫を取り崩して値段を抑えている状態でいつ限界が来るかわからないのです。中東だけではありません、南米ボリビアでは5000人規模のデモが発生、一部暴徒化した鉱山労働者や農民が商店を襲撃、食料の略奪が始まったのです。まさに政情不安は世界中にあっという間に伝播、食料を求める暴徒が次から次へと出現です。

今後、食料価格の高騰が収まることは期待できない!?
 いったいこれから食料価格はどうなっていくのか? 本当に高騰は収まらないのでしょうか? 残念ながら収まることはないでしょう。まだ食料の高騰は始まりにしか過ぎません。これから驚くような展開が待っているのです。
 まず価格というものを考えてください。当然需要と供給のバランスで決まるわけです。
日本が今、デフレなのは生産年齢人口(15−64歳)が減り、需要が落ちているという構造的な問題があります。ですからいろんな物の値段が下がるわけです。
 しかし世界はどうですか? 今年はついに世界の人口は70億人になろうというのです。世界の人口は減ることはありません。増え続けているのです。しかも新興国を中心として食生活はかなり裕福になってきています。肉も食べれば、甘い物も食べる、コーヒーも飲む、あらゆる食料品が足りなくなりつつあるのです。まさに供給が不足しているから値段が上がるのです。昨年夏、日本でも暑さで海面の温度が上がりサンマの供給が不足したとき値段がどうなったか? 短期で値段が10倍にまでなったのです。かように供給が無くなるということは値段の高騰を引き起こすのです。真性インフレです。
 そこに持ってきてこの異常気象です。気象が今までと全く違っては農作物などできません。まさに供給がなくなるとはこのことです。オーストラリアでは洪水で日本の国土の3.7倍の地域が被害を受けたのです。日本の国土の3.7倍ですよ。日本での洪水を考えてください。酷い洪水でもせいぜいある県の一地域ですよね。新潟県のどことか、熊本県のどことか、ある一定の地域での洪水や山崩れが問題になるわけです。
 ところが今回のオーストラリアのケースは日本の国土の3.7倍が一度にやられたわけです。日本国のおよそ4個分が一度の洪水でやられる、想像できますか? 一度に日本全土が洪水の被害を受けるというケースが想像できますか? そんな大規模な地域に渡る洪水がオーストラリアでは現実に起きているのです! 
 また同じくブラジルでの洪水の被害を見てください。これからオリンピックも開かれるリオデジャネイロ近郊で起ったケースですが、何と死者は確認されただけで800人弱、行方不明者は400人以上、推定では1000人以上の死者が出ているというのです。これも日本の事と想像してみてください、仮に洪水の災害で日本のある地域で1000人以上の死者が出たらどうですか? 連日朝から晩までニュースで大変な騒ぎでしょう。
 そしてスリランカでも洪水で100万人が避難しているというのです。これら今南半球で起ってきていることは異常ではないですか? 昨年はロシアや欧州の熱波、日本でも前代未聞の暑さでした。昨年北半球から始まった異常気象は続いているのです。この日本の寒さは何でしょう? 欧州では昨年12月、100年ぶりの寒波、空港閉鎖が相次ぎました。同じくニューヨークでも60年ぶりの大雪だったのです。暑さ寒さのこの激しさ、一体地球はどうなっていくのか? この異常気象が収まると思いますか? おそらくこのコラムを読んでいる読者のみなさんは感覚的に思っているはずです。「この世界的な異常気象は収まらない、さらに拡大していくだろう」と。
 ではどうなります? 世界の穀物、農業の状況はどうなります? 今回オーストラリアの洪水で穀倉地帯は壊滅、このクイーンズランド州の小麦は半分以上は水びたしです。さらにこの地域は鉄鋼の原料となる原料炭の生産で世界の50%を占めているのです。当然石炭の価格は高騰していますが、小麦の値段も高値を更新中、小麦は世界中で作っているのに今や1ブッシェル8.3ドル、昨年6月は5ドルだったのです。6割以上の高騰です。
 日本では2月には農水省が小麦の売り渡し価格の引き上げを通知します。いったいいくら値上げされるのか? 今や値上げ幅をどの位にするのか、ということが焦点です。引き上げ幅によっては一気に小麦粉やパンやそばをはじめとする価格の高騰が始まるでしょう。
 いよいよ私がかねてから指摘してきた諸物価の高騰の始まりです。

私たちはデフレではなく、インフレに備えなければならない!
 「問題はデフレの克服だ!」菅総理をはじめ、日銀や日本の識者は総じてこのデフレを問題にしてデフレ克服を第一に考え、役にも立たない不毛な議論を続けています。
 しかしそんな事は問題ではない! インフレが迫っている! 大きな困難に備えなければならないのです。デフレで物の値段が上がらないということは実は暮らしやすいのです。しかし物の値段が急騰したら暮らせなくなります。そのような危機が迫りつつあるのです。
 食料とエネルギーを輸入に頼っている日本国は国際価格で購入するしかありません。世界的に食料が不足する、エネルギーが高騰するとなれば実は一番影響を受けるのです。ないしはお金を積んでも手に入らない時が来る可能性すらあるのです。それが始まりかけているのが今です。
 「物価高に備えよ」「インフレに備えよ」、私はドンキホーテのように言い続けるだけです。すでに砂糖は値上がりが始まっています。またコーヒーの値上げが始まりました。春にはUCCもキーコーヒーも値上げです。コーヒーなどは植樹してから5年経たないと収穫できません、すぐに増産は不可能なのです。さらに綿花の高騰で医療品に使うガーゼや脱脂綿は今春50%値上げの予定です。同じくタオル業者も値上げを要請しています。綿花の価格は全く下がる気配はありません。衣料品への波及も時間の問題でしょう。ユニクロは値上げの予定はないと言っていますが、いつまで体力勝負が続くでしょうか? 原料高を見て収益が落ちることがわかっている株式市場では株価がはっきりと先行きを読んでいます。円高還元ということで3ヵ月ごとに商品の値下げを行ってきた家具販売のニトリも昨年末ついに値下げを見送りしました。また大豆の高騰から食用油は値上げです。また今年は石油価格の高騰からガソリンは昨年11月から5%上昇、さらに灯油は昨年同時期に比べて2割高です。
 これらは単なる始まりです。日本はデフレだから値上げはできないといいますが、企業は赤字では販売しない方がいいわけで、いよいよ限界がくるのです。好んで値上げするのではありません、生き残りをかけて値上げに走るのです。

 今年のはじめ、マグロの初セリで1匹、3,249万円という驚くべき値段がつきました。これは新春のご祝儀のように景気のいい話として報道されました。2002年には200万円足らずだった1匹の値段が15倍にもなるとは? これこそが典型です。マグロは環境保護ということで世界中で捕ることが難しくなってきています。日本はクロマグロの4割を地中海から捕っています。そのクロマグロは地中海で捕獲の禁止は免れたものの漁獲量は昨年に比べて6割削減です。しかももう元には戻りません、本当の意味での供給不足が続くのです。さらに以前はマグロは日本人だけが食べていたものを今や中国をはじめとして寿司ブーム、世界中の人達がマグロを求めているのです。
 供給はどんどん減る、需要は世界中で増える一方、日本人1億人の需要しかなかったマグロが世界の30億人以上が目を向けてきたのです。しかも中国をはじめとする新興国の勢いは凄く、今や巨額のマネーを保有しているのです。彼らと争って買うのですからマグロの値段が急騰しないわけがありません。まさにこれこそが日本の置かれた食料事情です。今は余っているコメもやがて他の食料価格が上がってくれば玉突きのように上がってくるでしょう。
 ビル・ロジャーズは講演で「私の講演の聴衆は金融関係者や個人投資家がほとんどですが、いずれ農家の人々が高級車で乗り付け、会場を埋める日がくるかもしれません」と話したのです。供給不足から起きるインフレの速度は驚くほど早い、人間は食べなければ生きることはできない、食料価格に本格的に火がつけば値段はロケットのように上昇するのです。デフレから一転、いよいよ<本当の危機>が始まりつつあるのです。

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/790.html

コメント [お知らせ・管理19] 管理人殿、タイトル違反等失礼致しました、以前書きましたように、トラさん型を目指す機会にしたいと思います。 小沢内閣待望論
02. 2011年1月28日 12:37:40: qRUVJlMZAs
>・タイトル違反について「頭から30桁」をずっと「20桁」と思い込んでいました。

特別会計について教えてください・智恵袋(これをガラス張りにしない限り、増税どころか消費税自体もTPP参加も不必要です)
http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/659.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 1 月 27 日 11:51:41: 4sIKljvd9SgGs

元記事タイトル
特別会計について教えてください。 特別会計の大きさにはびっくりしました。一般...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109525470


小沢内閣待望論さん、投稿規範は新規投稿フォームに明示されています。
上記のタイトル投稿は元記事の20桁以下です。まさに語るに落ちるです。小沢内閣待望論さんの思い込みや勘違いという言い訳は通用しません。

>私が昼休み板で遊ばせて頂いている間に、政治板に貼り付け屋さんが
>多数登場し、それにレスポンス投稿する事で楽しませて頂いています。

小沢内閣待望論さんのレスポンス投稿は過去ブログの貼り付けで自分の意見をタイトルに書き込む便乗投稿です。また、小沢内閣待望論さんのフォローアップは投稿者に対する嫌がせ投稿がほとんどで悪質なストーカー投稿そのものです。
そのレスポンス投稿で掲示板がだいぶ乱れているのも事実です。
小沢内閣待望論さんの楽しみのためにレスポンス投稿を繰り返されてはたまったものではありません。

私の個人意見ですが小沢内閣待望論さんは以前のように昼休み板で楽しまれてはいかがでしょうか。
管理人さんには厳正な対応をお願いいたします。


小沢内閣待望論さんへの管理人さんの警告関係

小沢内閣待望論さん、タイトル規定違反の投稿が多数あります。どうしますか?
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/530.html
投稿者 管理人さん 日時 2011 年 1 月 28 日 00:47:31: Master

管理人殿、読み返しましたら、私も同感なので、恐れ入りますが、削除下さい。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/387.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2010 年 12 月 03 日 12:42:03: 4sIKljvd9SgGs

小沢内閣待望論さん、投稿規定の理解が確認できるまで投稿可能数を0にしておきます。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/351.html
投稿者 管理人さん 日時 2010 年 11 月 27 日 20:36:12: Master

小沢内閣待望論さん、URLだけの投稿は投稿違反です。今後の投稿姿勢を確認するまで投稿可能数を0にしておきます
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/348.html
投稿者 管理人さん 日時 2010 年 11 月 26 日 23:05:35: Master

小沢内閣待望論さんの投稿可能数を0にしておきました。タイトル規定違反のため。今後の再発防止処置を教えてください。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/342.html
投稿者 管理人さん 日時 2010 年 11 月 22 日 12:42:34: Master

小沢内閣待望論さん、投稿規定違反があります。早急な対処と、今後の方針を教えてください。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/337.html
投稿者 管理人さん 日時 2010 年 11 月 20 日 12:45:44: Master

小沢内閣待望論さん、間違え投稿が多発しています。状況報告をお願いします。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/321.html
投稿者 管理人さん 日時 2010 年 11 月 07 日 00:44:27: Master

http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/531.html#c2

コメント [医療崩壊3] ホメオパシーは怪しい医療ではない。西洋医療との価値観のすり合わせが大切。 Part2 えいちゃん
17. 2011年1月28日 12:48:42: FBQftpA6lA
ブラックホールやビッグバン仮説は「その時代だけの常識」であり、実は間違っているということでしょうか。新たな説があるということですか?
それでは、あなたの高尚なお考えを簡潔に教えてください。
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/396.html#c17
コメント [マスコミ・電通批評11] テレビ朝日、サッカー日韓戦の猿真似問題で旭日旗を捏造報道 (自主投稿) 木卯正一
02. 2011年1月28日 12:50:05: V4cUYzrtVg
よくもまぁ、
韓国戦、アル・ガラファ・スタジアムには無いはずの2階席
チラリと見えるオランダ国旗を無視してまで
韓国選手をヨイショしようとしましたねぇ
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/511.html#c2
コメント [経世済民70] 日本は資源大国? 300兆円 tea
03. 2011年1月28日 13:11:19: um5TQhTtl2
>01.

>冷蔵庫のたとえ

あのー、海底油田とか普通にもっと難しい採掘してるんですけど。

なによりも日本海側のメタンハイドレートは海底表面に露出&自然に湧出してるので、採掘(と言うか採集かな?)が楽で環境への影響も非常に少ないですし、採掘反対派の主張する地層への影響も皆無です。

>生産性のある人数

機械化も進んでますからリグ一基で数十人から数百人で十分ですよ。
それよりは輸送が問題ですが

福田政権時代に東シナ海ガス田交渉で中国に敗北した理由が、日本側に採掘したガスを輸送する手段がないこと。

だから共同開発というのはウソで、日本だけが開発資金を出すよう強要されて、日本の取り分のガスは「日本に輸送できないので、中国様に格安で買い取っていただく」ことになる。

>国家として、そういった生産性があるかどうか

ありますよ。
メタンハイドレートをはじめとする天然ガスを開発すれば、低コストであっという間に実用化できることはすでに証明されてます。

何故かというと、戦前の日本軍がすでに実用化してましたから。

天然ガスからガソリンを合成する技術なんて、日本じゃ戦前の技術ですよ?
約70年も前の技術なのに、いまだに「実用化は難しい」とか言う人が多くてビックリします。


あと、なんで原発の話になったの?
資源開発やめて原発もやめたら、電気も水道もガスも止まっちゃうじゃん。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/749.html#c3

記事 [Ψ空耳の丘Ψ59] 意外なところで覗かれる個人情報/俺様メモ。(デジカメ画像 Exif情報 GPS位置 漏洩)
>阿修羅に既載の古写真の数々は?
>画像を添付した時にデータ付帯?
>あちこちに載せてるなら、それら写真を
>ソフトで再確認してみれば安心できそう

 検索→ Exif情報 GPS      ・画像を表示
 検索→ Exif情報 危険     ・携帯多用の子供達に
 検索→ Exif情報 漏洩     ・研修で教えている?
 検索→ Exif情報 確認ソフト
 検索→ Exif情報 削除ソフト

意外なところで覗かれる個人情報/俺様メモ
http://pekestyle.net/2007/07/exif.html
【注意喚起】iPhoneから個人情報が漏洩している可能性アリ!
http://rocketnews24.com/?p=15599

--部分転載--
基本的にはOfficeのメタデータと同じで、デジカメの機種名だとか
撮影日時が保存されるんだけど、最近のGPS対応の携帯電話では
位置情報まで保存できるらしいんだ。

研修で教えてくれない!:第22回「デジカメ画像のExif情報を消す方法」
http://bizmakoto.jp/bizid/articles/0711/06/news009.html
デジカメ写真から当時の年齢・学年・経過年月を一覧表示「早幾年」 月
http://www.forest.impress.co.jp/docs/serial/okiniiri/20110126_422729.html
簡単な操作で写真に写った人物を美しくできる「Glamour」
http://www.forest.impress.co.jp/docs/review/20110125_422385.html

 おまけ
マナー改善のため、中国の学校でマナー授業を必須科目に
http://labaq.com/archives/51581453.html
子どもの知能:遺伝と環境と経済レベルの影響  wiredvision
http://wiredvision.jp/news/201101/2011012721.html
瀕死のワニを助けて仲良しに、体長5メートルの“相棒”と戯れる男性。
http://www.narinari.com/Nd/20110114948.html
amzing crocodile friend
http://www.youtube.com/watch?v=cYb3V1A87C4

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http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/296.html

コメント [マスコミ・電通批評11] スタッフ半減の衝撃 産経が大ナタ振るう夕刊フジ大リストラ(週刊文春) 赤かぶ
04. 2011年1月28日 13:26:55: QKagFAt0Qo
夕刊フジなんて、本当に読むところないじゃん
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/508.html#c4
記事 [日本の事件29] 国旗国歌強制、二審は合憲 東京高裁、教職員ら逆転敗訴(東京新聞 TОKYО Web)
国旗国歌強制、二審は合憲 東京高裁、教職員ら逆転敗訴
2011年1月28日 13時37分
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011012801000468.html

 東京都立高校などの教職員ら395人が、都と都教育委員会に対し、入学・卒業式で日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱する義務がないことの確認や損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁(都築弘裁判長)は28日、起立、斉唱の強制を違憲とした一審判決を取り消し合憲と判断、請求を全面的に退けた。教職員らの逆転敗訴。

 原告は都立高校、盲・ろう・特別支援学校の教職員やその退職者。日の丸を「国旗」、君が代を「国歌」とする国旗国歌法を受け、教育現場での起立、斉唱の強制が憲法に反するかどうかが最大の争点だった。

 2006年9月の一審東京地裁判決は、懲戒処分してまでの強制を「思想良心の自由を侵害する」として違憲、違法と判断。原告全員に1人3万円の支払いを都に命じ、在職中は義務のないことや処分の禁止なども認めたため都側が控訴した。

 一審は、日の丸、君が代を「宗教的、政治的にみて、国民の間で価値が中立的と認められるまでには至っていない」と指摘。都教育長の通達や各校長による職務命令は、教育基本法で禁じられた「不当な支配」とした。

 一審判決によると、都教育長は03年10月、入学・卒業式時に国旗に向かっての起立や国歌斉唱を求める通知を各校長に出し、従わなかった教職員が懲戒処分を受けた。

(共同)
http://www.asyura2.com/09/nihon29/msg/697.html

コメント [マスコミ・電通批評11] テレビ朝日、サッカー日韓戦の猿真似問題で旭日旗を捏造報道 (自主投稿) 木卯正一
03. 2011年1月28日 13:47:53: sNdrwBpvYc

すでに死んだも同然。
惨刑うそつき新聞(笑)
   ↓

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110128-00000010-mai-soci


<産経新聞>談話無断改変で謝罪 「人体の不思議展」記事で

毎日新聞 1月28日(金)2時32分配信
 「人体の不思議展」の人体標本展示が死体解剖保存法に抵触する恐れがあることを指摘した産経新聞の記事で、同社の記者が2カ月も前に取材した内容と過去の論文を組み合わせるなどして識者談話を書き、本人に断りなく掲載していたことが27日、関係者への取材で分かった。掲載された識者は末永恵子・福島県立医大講師で、記事の一部は発言したことのない内容だとしている。産経新聞社は26日、本人からの抗議を受けて謝罪した。

 同展は遺体を特殊加工した標本などを展示したもので、02年から全国を巡回。これまで約650万人が入場し、京都市でも23日まで開かれた。

 産経新聞は19日朝刊で、厚生労働省が「人体の不思議展」の人体標本は「遺体」に当たるとの見解を示し、京都府警が違法性の有無を捜査する方針を固めた−−との記事を掲載した。談話は「人の死には尊厳があり、遺体を安易に利用することはできない。開催自体が死者への冒涜(ぼうとく)ではないか」との内容で社会面に掲載された。

 末永講師は「『人体の不思議展』に疑問をもつ会」に所属しており、メンバーらのメーリングリストに22日、「(2カ月前の取材後は)直接取材を受けていない」と書き込んで問題が浮上。記事にある「標本はすべて中国人ということだが、もしこれが日本人だったらどう思うか」という発言はしたことがないと主張し、「創作された文章で、中国人に対して差別的な印象もあり、多くの人から真意を問う連絡を受けている」と困惑している。

 産経新聞大阪本社総合企画室によると、京都総局の記者が昨年11月、同展について末永講師に取材し、メモを大阪本社社会部へ送付。執筆に当たった記者は内容が不足していると感じ、末永講師の論文などで加味した。しかし、両記者が互いに本人へ連絡していると思い込み、確認や掲載の通告を怠ったという。

 執筆した社会部の記者と上司は26日、電話で謝罪し、末永講師はこれを受け入れた。同総合企画室は「確認を怠ったミスはあったが、非常識な取材はしていない」とし、講師が発言していないとする内容が盛り込まれた経緯は「取材過程については答えかねる」としている。

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http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/511.html#c3

コメント [経世済民70] 消費税の逆進性とその対策とは? 最大多数の最大幸福
09. 2011年1月28日 13:53:29: FHVyh15Kso
どうして複数税率制を論議しないのだろう。
食料品、医療・介護、義務教育、紙おむつに関しては税率を「0」
国内の公共交通機関、郵便、通信は低減税率。
それ以外には、ガーンとかける。

消費税導入の際には、食料品などは無税にしろ、という意見はあったが、「複雑になる」という理由で、却下された。
所得税という型で高額所得者からとり多く徴税できないのであれば、
消費税を「できるだけ富裕層に多く負担してもらえる仕組み」に変更すれしかない。
そのためには、「富裕層しか消費しないもの」に負担割合を高くする。
逆に言えば、「低所得層も否応なしに消費せざるを得ないもの」には低く(あるいはゼロ)する。
富裕層にすれば、冗談じゃない、という事だから「イギリスで成立している複数税率制」の議論が、現時点で持ち出されないのだろう。
しかも、外国人観光客の日本で消費からも「取る気」になればしっかりと取れる。
これも案外大きいのではないだろうか。

難癖はつくと思う。でも、最後は国民の意思だろう。
どうして共産党などが言い出さないのか不思議だ。それとも致命的な欠陥があるのだろうか。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/524.html#c9

コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
06. 2011年1月28日 13:57:37: xLO8ouUCjo
格下げで円が下がると、円に投資していた外資は損するんですけど
それのどこがアメリカの陰謀なんでしょう
むしろ他通貨に円から投資していた日本人が儲かるんですね

円が自国通貨な日本人が儲かる事のどこが
アメリカの陰謀なんでしょう
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c6

コメント [お知らせ・管理19] 管理人殿、タイトル違反等失礼致しました、以前書きましたように、トラさん型を目指す機会にしたいと思います。 小沢内閣待望論
03. 2011年1月28日 13:58:35: sNdrwBpvYc
小沢内閣待望論さんが、すでに阿修羅に投稿されているはずの
小沢関係の過去記事を、川底の泥をかきまわすみたいに
どんどん無秩序に投稿しつづけるので、政治板はマスゴミ報道の
動向をチェックする機能さえ失ってしまいました。
もはや阿修羅は、キチガイがお気に入りのネタを貼り付けてオナニーする
ゴミ箱に成り果てました。

2ちゃんねるでさえ、スレ立てに関する投稿ルールは厳格で、
重複投稿は原則的には立たないことになっていますし、
古いネタでのスレ立ても即刻却下されます。
そういう最低限の秩序さえ、阿修羅では確保できていないわけで
阿修羅の投稿者のリテラシーは、2ちゃんねるにはるかに及ばぬ低劣
きわまるものになってしまいました。

オナニーの露出狂掲示板で「社会を変える」「政治を変える」「デモだ!」とか
気負ってる連中はアホですね。もはや苦笑を通り越して哀れです。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/531.html#c3

コメント [マスコミ・電通批評11] テレビ朝日、サッカー日韓戦の猿真似問題で旭日旗を捏造報道 (自主投稿) 木卯正一
04. 2011年1月28日 14:07:54: VSQT1xOC72
テレ朝アジア杯「猿真似パフォ」で捏造報道 まとめ

http://supportista.jp/2011/01/news28013305.html
http://surounin777.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html
http://zarutoro.livedoor.biz/archives/51606184.html
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/511.html#c4

コメント [マスコミ・電通批評11] テレビ朝日、サッカー日韓戦の猿真似問題で旭日旗を捏造報道 (自主投稿) 木卯正一
05. 2011年1月28日 14:10:52: sNdrwBpvYc
日本最低!「旭日旗」に「キム・ヨナの悪魔の仮面」など、度の過ぎた日本サポーターに韓国ネチズン怒り[01/26]
http://mystar.mdtoday.co.kr/mystar/index.html?no=438767

その「度の過ぎた日本サポーター」とやら(横襟から覗く赤シャツ(韓国ユニフォーム)と手に持つ太極旗(韓国国旗)は…)
なんと在日朝鮮人の工作員が日本人になり済ましていた!
http://imgnews.naver.com/image/076/2010/10/12/2010101201001245800052111.jpg
http://file.mdtoday.co.kr/join/news/2011/0126/20110126134004_4d3fa5a4ba6c7_1.jpg
http://imgnews.naver.com/image/241/2010/10/12/htm_201010122232550107000001070100-001.jpg

「日本サポーターが作った」とされるお面は、現地売店で誇らしげに販売されている韓国チームの応援グッズ
http://loda.jp/siofigure2/?id=9390.jpg
http://blog-imgs-42-origin.fc2.com/c/h/e/cherio199/P1050824.jpg
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/511.html#c5

コメント [医療崩壊3] ワクチン接種で自閉症はでっちあげ、英医学誌が結論 CNN ダイナモ
01. 2011年1月28日 14:11:22: CIaIZixnXg
ワクチンの中の有機水銀が自閉症の原因のひとつだとするのではなかったのか。

この報道はおかしな言い方をしてるが。

何が問題かをわかってるのかな。

その他、ワクチンにはいろいろな物質や多種の遺伝子も含まれてるとかの関連も言ってない。

人間の免疫系についての影響などを別にいってるのかな。

これだけなら偽情報の可能性もある。人口削減のアジェンダは神話だといいたいのだろうな。
http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/399.html#c1

コメント [雑談専用39] なるほどそうかも知れませんね。 地には平和を
01. 2011年1月28日 14:23:49: CIaIZixnXg
小沢のオッサン『私はこの人間を信用はしてないが』が記者会見でいってたぞ。

この程度の国民だからこの程度の政治家だとね。

国民は自分達と同じ程度の政治家を選ぶとね。笑。

つまらん当たり前の愚痴を言うオッサンだね。

そうだろうね、幾ら戦後から60年洗脳されて愚民化してると言ってもね滅びの基は自分達の中にあるのだろうなあ。所詮日本人は多くが風來だから隠遁厭世だろう
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/188.html#c1

記事 [経世済民70] 年金支給額、0.4%引き下げ=来年度、物価下落に対応―厚労省
時事通信 1月28日(金)11時30分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110128-00000072-jij-pol

 厚生労働省は28日、2011年度の公的年金支給額を0.4%引き下げると発表した。物価下落に伴う措置で、引き下げは06年度以来5年ぶり。国民年金は月額6万5742円(266円減)、厚生年金は同23万1650円(標準的な夫婦2人世帯、942円減)となる。

 公的年金は年金法の規定に基づき、支給額に物価変動を反映させる「物価スライド」が適用される。10年の全国消費者物価指数(CPI)が05年比で0.4%下落したため、同率分引き下げる。 
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/791.html

コメント [日本の事件29] 国旗国歌強制、二審は合憲 東京高裁、教職員ら逆転敗訴(東京新聞 TОKYО Web) 大自然
01. 2011年1月28日 14:39:04: sNdrwBpvYc
「民主主義の質」 日本は下から5番目で“アフリカ並”…日本人に民主主義は無理なのか
1 名前: PAO(福島県) 2011/01/28(金) 14:12:54.08 ID:cqSg/yxm0 ?PLT(13100) ポイント特典

チューリッヒ大学の社会科学者たちにより民主主義国家30カ国の
「民主主義の質」が評価され、そのランキングが発表されています。
1位はデンマークとのことですが、日本は何位だったのでしょうか?

ランキングは、チューリッヒ大学とSocial Science Research Center Berlin
(ベルリン社会科学研究センター)が共同で開発した新しい
民主主義評価法により、民主主義国家30カ国の「民主主義の質」を評価し、
1995〜2005年の期間の平均スコアにより比較したもの。

この評価法では「個人の自由の第三者(特に政府)による侵害からの保護」
「法の支配」「積極的社会参加」「透明性」「政治参加」「代議制度」「政治的競争」
「抑制と均衡のシステム(三権分立)」「民主主義的に決定された事項を実行する
能力」の9つの指標を数値化し、合計点が高いほど「質の高い民主主義」ということに
なっています。評価対象となった30カ国の順位は以下のとおり。

1位:デンマーク(88.3点)
2位:フィンランド(87.7点)
3位:ベルギー(85.1点)
〜中略〜
25位:日本(45.8点)
29位:南アフリカ共和国(39.8点)

http://gigazine.net/news/20110128_quality_of_democracy/より抜粋

http://www.asyura2.com/09/nihon29/msg/697.html#c1

記事 [経世済民70] 室蘭市内のGS、止まらぬたまらぬ…灯油値上げ
【2011年1月28日(金)朝刊】 室蘭民報

http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2011/01/28/20110128m_03.html

 原油相場の価格高騰と全国的な寒波の影響で、今冬は灯油価格の上昇が止まらない。「道内価格のプライスリーダー」ともなっている生活協同組合コープさっぽろ(本部札幌市)では、30日給油分から1リットル当たり一律3円の値上げを発表した。室蘭市内の灯油販売業者も、卸値上昇を受け値上げに踏み切っている。度重なる灯油価格上昇は市民生活にじわりと影響を与えている。

 コープさっぽろは25日から灯油の定期配達価格について、1月30日給油分から1リットル当たり一律3円を値上げした。これを受け、室蘭や苫小牧両市では、現行の1リットル当たり84円から87円に値上げされる。価格の上昇は、昨年11月2週から11週連続となる。

 室蘭消費者協会によると、室蘭市内9業者における今年1月初旬の灯油小売価格(消費税込み)は、高値85円〜安値75円で、平均価格79・84円。昨年11月初旬の価格(高値76円〜安値71円、平均74・50円)と比較すると、わずか2カ月の間で、平均価格が5・34円も値上がりした格好だ。

 価格上昇が続く時勢に「さらに価格が上昇している。年金生活者の中には、ストーブを微少にしたり、睡眠時にはストーブを消すなど、早くも生活への影響が出ている」(山本孝子会長)。室蘭でも、高齢者を中心に家計への影響を懸念している。

 現在は、世界的な金融危機となったリーマン・ショックの影響を受けた「平成20年10月以来の価格水準」(コープさっぽろ)。今後も「寒波の影響で、先物・スポット相場では、灯油はガソリンよりも高い独歩高になっている」と、当面は価格上昇が続きそうな様相だ。

 同協会では、野菜も高値が続いている状況から「灯油の値上がりが続くと、生活弱者への影響は、さらに多大だ」とし、石油元売り各社に対する行政からの値上げ抑制指導の必要性も訴えている。

(松岡秀宜)

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/792.html

記事 [経世済民70] 日本国内の値上げラッシュは中国やインドの経済成長も原因
NEWS ポストセブン 1月22日(土)17時5分配信

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110122-00000005-pseven-soci

 近ごろ、玉ねぎ、じゃがいもといった国産野菜の値上げが続いている。 “物価の優等生”といわれた卵も12月に前年比13%値上がりし、5年半ぶりの高値水準となった。さらに2月以降にも多くの商品で値上げが予想され、2011年は怒涛の“値上げラッシュ”に見舞われそうだというが、どういう理由で値上がりしているのだろうか。

 農林水産省生産流通振興課によると、国産野菜の高騰は“30年に1度”といわれた昨夏の猛暑による影響が大きいという。

「いま売り場に出ているじゃがいもや玉ねぎは夏から秋にかけて収穫され貯蔵されているものです。あまりにも暑かったため、成長が遅れ出荷量が少なくなっています」

 秋以降に栽培されているものが出荷されるのは3月ころから。それまでは高値傾向が続きそうだ。また、卵の高騰も夏の猛暑と秋冬の寒波が主な原因。ニワトリが体調を崩して、例年より生産量がダウンしている。

 一方、果物は異常に寒かった昨年春先の気候が影響した。

「みかんやりんごは春先の低温で生育が遅れたり小玉になるなど収穫量が減りました。収穫はほぼ終わっているので価格は来シーズンまで高止まりしたままになりそうです」(前出・農林水産省)

 野菜や卵だけではない。現在、国内の砂糖の卸売価格は実に24年ぶりの高値。また、コーヒー豆価格の指標となる米ニューヨークのコーヒー相場でも前年比53%に急騰するなど十数年ぶりの高値が続いている。背景には、中国13億人、インド11億人などの“胃袋”が関係しているという。節約アドバイザーの丸山晴美さんはこう説明する。

「経済成長で豊かになった新興国の国民の食卓に、多様な食品が並ぶようになりました。その影響もあり、世界的に食料が不足するようになりました」

 もやしの原料である中国産の緑豆は年間収穫量45万〜50万トンに対して、いま中国国内だけで年間50万トンの需要があるとされる。このため2009年に比べて緑豆の価格は1.5倍近くにアップ。日本のスーパーでももやしの店頭価格が上がり始めている。さらにえび、鮭などの輸入水産物も新興国で需要が高まっており、今後さらに値上がりする可能性が高い。

※女性セブン2011年2月3日号

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/793.html

コメント [Ψ空耳の丘Ψ59] IPアドレスから住所を特定してGoogleマップで表示するフリーソフト「IP Locator」 kokopon
02. 2011年1月28日 14:53:35: 5xiTWJnzmk

インドネシアが海に沈んでいるようです

http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/295.html#c2
コメント [お知らせ・管理18] コメントの2重投稿は禁止です。 別の投稿に対しての、同じコメントの投稿は2重投稿です。禁止です。 管理人さん
19. 2011年1月28日 15:09:07: PNOiKqJv7w
16>さんは誤解しています。スパム対策画像認証番号は皆同じです。18>さんのハッキングに関しては分かりません。安心安全な投稿が出来る事を願います!
http://www.asyura2.com/09/kanri18/msg/744.html#c19
コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
07. 2011年1月28日 15:09:35: RD6ogOlzKA
>誰の利益のために格下げなんでしょう?

官僚と経団連、資本家のためでしょう。

彼らは日本を緊縮財政にすることによってプロセスを楽しんでいるのです。

国民がデフレと円高で苦しみながら働き続けるのを喜んでいるのです。


http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c7

コメント [経世済民70] 始まった食料高騰=「世界は前代未聞の食料不足に直面する可能性があります」、 ジム・ロジャーズは述は述べた(朝倉慶) Orion星人
01. 2011年1月28日 15:10:23: Pj82T22SRI
新興国バブル崩壊の前に、今年あたりからインフレで世界は騒ぐことになると
以前から多くの投資家が予想していたが、その通りになりつつあるな
今回は、日本経済が大分弱っているから、円安とダブルになれば
かなり食糧とエネルギーは上昇する可能性がある

貧困層にとって、インフレと失業(比較優位産業=高賃金産業の消滅)が一番痛いという当たり前のことが
やっと実感できるだろうから、関税の廃止など既得権層の淘汰に向かうなら
それほど長期的には悪いことではない


>人間は食べなければ生きることはできない、食料価格に本格的に火がつけば値段はロケットのように上昇する

例えば需給関係で肉が高くなれば、肉の需要が減り
穀物など安いものに需要は移っていくから、そうはならない

そして需要が増え、価格が上昇すれば生産量も増加するし
毎年異常気象ということは確率的に低い

また世界の大部分は貧困層であり、新興国の中流以外は賃金は上がらないし
既に投機資金でかなり高くなっているから、需給要因で
今後、全ての食糧が毎年倍倍といった急激な高騰になる可能性は低いだろう


>まだ食料の高騰は始まりにしか過ぎません。これから驚くような展開が待っているのです。

高値を追った投機家は確かに、驚くことになるだろうな
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/790.html#c1

コメント [経世済民70] 日本国内の値上げラッシュは中国やインドの経済成長も原因 あややの夏
01. 2011年1月28日 15:13:38: o6KQvlPotw
来ました ...朝倉慶さんの[1月号]
のっけから アグフレーションねた。
今や世界の最大関心事なんですね。

[始まった食料高騰] 2011年1月 / 朝倉慶
 http://www.funaiyukio.com/money2/index_1101.asp

 「世界は前代未聞の食料不足に直面する可能性があります」
投資家、冒険家として有名なジム・ロジャーズは述べました。
 「今後食料の価格は幾らまで上がりますか?」
の質問に対しては、
 「悪天候が相次げばどんな酷いことになるか、そうなれば穀物価格はうなぎ登りに上昇します。
幾らまで、ですか? 
  思いつく限りの高値を更新するような、未体験のゾーンに陥るかもしれません。」
 
未体験のゾーンとはいったいどのくらいか? 
実際世界の主要穀物である、[小麦][トウモロコシ][大豆]の値段は昨年夏から急上昇をはじめ、
わずか半年で1.5倍から2倍に急騰、まさに相場はとてつもない高値に向かって
上昇していくような不気味さを醸し出しています。
すでにトウモロコシの在庫率は5.5%、15年ぶりの低水準、
また大豆の在庫率は4.2%、何と46年ぶりの低水準なのです。

【食料価格暴騰で、世界各地で起こる暴動】

国連食糧農業機関(FAO)のジャック・ディエフ事務局長は危機感を強めています。
 「世界は新たな食料危機に近づいている。」
悲壮感を持って訴えているのです。
各種食料の輸出価格をもとに算出するFAO食料価格指数(2002-2004年=100)は、
昨年12月、214ポイントに到達、ついに史上最高値を更新。
あの2008年夏の狂乱した異常値213ポイントを抜いたのです。
当時、エジプトやハイチ、カメルーンをはじめ世界中で暴動が発生、
食料を求めて世界中で混乱が拡大しました。それを上回る危機が迫っているというのです。

ディエフ事務局長は焦っています。
 「世界中で農業に投資する必要がある。今後世界で70%増産しなければいけない」
と述べました。
しかし もう世界の農業生産は限界と言われているのです。
また世界は水不足で、そんな増産に対して水を供給することもできません。
逆に地下水は枯渇に近づいているのです。
ディエフ事務局長は、現状に対して、もし農業投資を増やさなければ
 「食料価格高騰が数年にわたり続き、各国で政情不安を招くことになる」
と指摘したのです。ところが、そんな警告はもう遅いのです。

すでに暴動の走りは世界のあちらこちらから始まってきたのです。
チュニジアでは食料価格の高騰から激怒した市民がデモをはじめ、
何と23年に及び独裁を続けた大統領が逃げ出す始末に発展、
今でもデモの規模は数千人に拡大、政情不安で先が見えない状況です。
チュニジアだけではありません。
アルジェリアでも牛乳や小麦粉の大幅上昇を受け暴動が発生、
治安部隊と衝突して4,200人が負傷、3人の死者が出ています。
モザンピークでは昨年10月にパン価格を3割値上げ、やはりデモが発生して13人死者が出ました。
結局モザンピーク政府は値上げを撤回したのです。
またヨルダンでも5,000人規模の反政府デモ、
さらにイエメンでは2,500人以上が大学に集結、大統領に対しての 名指しの非難が始まりました。
そしてついにエジプトでも全土で大規模なデモが発生、参加者は数万人に達した模様です。
死者4人、負傷者250人と報道されています。
中東、アフリカ地域では食料は輸入に頼っています、
まさに値段の高騰に庶民が耐えられなくなってきているのです。
庶民のこのような過激な行動は強権政治を続けていた中東諸国ではありえなかったことで、
まさに食料の高騰から政権転覆へと民衆の不満が爆発しつつあるのです。
しかも今暴動が起こっていないケニアやナイジェリア、ウガンダなどの諸国は
食料の在庫を取り崩して値段を抑えている状態で いつ限界が来るかわからないのです。
中東だけではありません、南米ボリビアでは5,000人規模のデモが発生、
一部暴徒化した鉱山労働者や農民が商店を襲撃、食料の略奪が始まったのです。
まさに政情不安は世界中にあっという間に伝播、食料を求める暴徒が次から次へと出現です。

【今後、食料価格の高騰が収まることは期待できない】

いったいこれから食料価格はどうなっていくのか? 本当に高騰は収まらないのでしょうか? 
残念ながら収まることはないでしょう。まだ食料の高騰は始まりにしか過ぎません。
これから驚くような展開が待っているのです。

まず価格というものを考えてください。当然需要と供給のバランスで決まるわけです。
日本が今、デフレなのは生産年齢人口(15〜64歳)が減り、需要が落ちているという構造的な問題があります。
ですからいろんな物の値段が下がるわけです。
しかし世界はどうですか? 今年はついに世界の人口は70億人になろうというのです。
世界の人口は減ることはありません。増え続けているのです。
しかも新興国を中心として食生活はかなり裕福になってきています。
肉も食べれば、甘い物も食べる、コーヒーも飲む、あらゆる食料品が足りなくなりつつあるのです。
まさに供給が不足しているから値段が上がるのです。
昨年夏、日本でも暑さで海面の温度が上がりサンマの供給が不足したとき値段がどうなったか? 
短期で値段が10倍にまでなったのです。
かように供給が無くなるということは値段の高騰を引き起こすのです。真性インフレです。
 
そこに持ってきてこの異常気象です。気象が今までと全く違っては農作物などできません。
まさに供給がなくなるとはこのことです。
オーストラリアでは洪水で日本の国土の3.7倍の地域が被害を受けたのです。日本の国土の3.7倍ですよ。
日本での洪水を考えてください。酷い洪水でもせいぜいある県の一地域ですよね。
新潟県のどことか、熊本県のどことか、ある一定の地域での洪水や山崩れが問題になるわけです。
ところが今回のオーストラリアのケースは日本の国土の3.7倍が一度にやられたわけです。
日本国のおよそ4個分が一度の洪水でやられる、想像できますか? 
一度に日本全土が洪水の被害を受けるというケースが想像できますか? 
そんな大規模な地域に渡る洪水がオーストラリアでは現実に起きているのです! 

また同じくブラジルでの洪水の被害を見てください。
これからオリンピックも開かれるリオデジャネイロ近郊で起ったケースですが、
何と死者は確認されただけで800人弱、行方不明者は400人以上、推定では1,000人以上の死者が
出ているというのです。これも日本の事と想像してみてください。
仮に洪水の災害で日本のある地域で1,000人以上の死者が出たらどうですか?
連日 朝から晩まで ニュースで大変な騒ぎでしょう。
そしてスリランカでも洪水で100万人が避難しているというのです。

これら今南半球で起ってきていることは異常ではないですか? 
昨年はロシアや欧州の熱波、日本でも前代未聞の暑さでした。
昨年北半球から始まった異常気象は続いているのです。
この日本の寒さは何でしょう? 欧州では昨年12月、100年ぶりの寒波、空港閉鎖が相次ぎました。
同じくニューヨークでも60年ぶりの大雪だったのです。
暑さ寒さのこの激しさ、一体地球はどうなっていくのか?
この異常気象が収まると思いますか?
おそらく このコラムを読んでいる読者のみなさんは 感覚的に思っているはずです。
「この世界的な異常気象は収まらない、さらに拡大していくだろう」と。
ではどうなります? 世界の穀物、農業の状況はどうなります?
今回 オーストラリアの洪水で穀倉地帯は壊滅、このクイーンズランド州の小麦は半分以上は水びたしです。
さらにこの地域は鉄鋼の原料となる原料炭の生産で世界の50%を占めているのです。
当然石炭の価格は高騰していますが、小麦の値段も高値を更新中、
小麦は世界中で作っているのに今や1ブッシェル8.3ドル、昨年6月は5ドルだったのです。
6割以上の高騰です。
 
日本では2月には農水省が小麦の売り渡し価格の引き上げを通知します。
いったいいくら値上げされるのか? 
今や値上げ幅をどの位にするのか、ということが焦点です。
引き上げ幅によっては一気に小麦粉やパンやそばをはじめとする価格の高騰が始まるでしょう。
いよいよ私がかねてから指摘してきた諸物価の高騰の始まりです。

【私たちはデフレではなく、インフレに備えなければならない】

 「問題はデフレの克服だ!」
菅総理をはじめ、日銀や日本の識者は総じてこのデフレを問題にしてデフレ克服を第一に考え、
役にも立たない不毛な議論を続けています。
しかしそんな事は問題ではない! インフレが迫っている! 大きな困難に備えなければならないのです。
デフレで物の値段が上がらないということは実は暮らしやすいのです。
しかし物の値段が急騰したら暮らせなくなります。そのような危機が迫りつつあるのです。
 
食料とエネルギーを輸入に頼っている日本国は国際価格で購入するしかありません。
世界的に食料が不足する、エネルギーが高騰するとなれば実は一番影響を受けるのです。
ないしはお金を積んでも手に入らない時が来る可能性すらあるのです。それが始まりかけているのが今です。
 「物価高に備えよ」「インフレに備えよ」
私はドンキホーテのように言い続けるだけです。
すでに砂糖は値上がりが始まっています。
またコーヒーの値上げが始まりました。
春にはUCCもキーコーヒーも値上げです。
コーヒーなどは植樹してから5年経たないと収穫できません、すぐに増産は不可能なのです。
さらに綿花の高騰で医療品に使うガーゼや脱脂綿は今春50%値上げの予定です。
同じくタオル業者も値上げを要請しています。綿花の価格は全く下がる気配はありません。
衣料品への波及も時間の問題でしょう。
ユニクロは値上げの予定はないと言っていますが、いつまで体力勝負が続くでしょうか?
原料高を見て収益が落ちることがわかっている株式市場では株価がはっきりと先行きを読んでいます。
円高還元ということで3ヵ月ごとに商品の値下げを行ってきた家具販売のニトリも
昨年末ついに値下げを見送りしました。
また大豆の高騰から食用油は値上げです。
また今年は石油価格の高騰からガソリンは昨年11月から5%上昇、
さらに灯油は昨年同時期に比べて2割高です。

これらは単なる始まりです。日本はデフレだから値上げはできないといいますが、
企業は赤字では販売しない方がいいわけで、いよいよ限界がくるのです。
好んで値上げするのではありません、生き残りをかけて値上げに走るのです。

今年のはじめ、マグロの初セリで1匹、3,249万円という驚くべき値段がつきました。
これは新春のご祝儀のように景気のいい話として報道されました。
2002年には200万円足らずだった1匹の値段が15倍にもなるとは? これこそが典型です。
マグロは環境保護ということで世界中で捕ることが難しくなってきています。
日本はクロマグロの4割を地中海から捕っています。
そのクロマグロは地中海で捕獲の禁止は免れたものの漁獲量は昨年に比べて6割削減です。
しかももう元には戻りません、本当の意味での供給不足が続くのです。
さらに以前はマグロは日本人だけが食べていたものを
今や中国をはじめとして寿司ブーム、世界中の人達がマグロを求めているのです。
供給はどんどん減る、需要は世界中で増える一方、
日本人1億人の需要しかなかったマグロが世界の30億人以上が目を向けてきたのです。
しかも中国をはじめとする新興国の勢いは凄く、今や巨額のマネーを保有しているのです。
彼らと争って買うのですからマグロの値段が急騰しないわけがありません。
まさにこれこそが日本の置かれた食料事情です。
今は余っているコメもやがて他の食料価格が上がってくれば玉突きのように上がってくるでしょう。

ビル・ロジャーズは講演で
「私の講演の聴衆は金融関係者や個人投資家がほとんどですが、
 いずれ農家の人々が高級車で乗り付け、会場を埋める日がくるかもしれません」
と話したのです。
供給不足から起きるインフレの速度は驚くほど早い、人間は食べなければ生きることはできない、
食料価格に本格的に火がつけば値段はロケットのように上昇するのです。
デフレから一転、いよいよ[本当の危機]が始まりつつあるのです。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/793.html#c1

コメント [経世済民70] 失われた20年と金融政策失敗がなければ、我々の給料は今の2倍になっていたのだ! 高橋洋一 八田利也
03. 2011年1月28日 15:13:42: RD6ogOlzKA
>そんなにいいことなんでしょうか。誰か教えて下さい。

少なくとも、現在のような不況、内需縮小は起きていなかったでしょうし、
そもそも物価が全く上がらずに経済成長を国内主導で行うというのが不可能なのです。

2007年には大企業の多くが史上最高益を出しましたが、ほとんどが外需によるものであり、そして給料には還元されませんでした。

日本の企業と言ってもその企業を動かしているのは日本国とのかかわりが浅い人ばかりだと思います。

搾取するだけしておいて、何にも還元していない。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/783.html#c3

コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
19. 2011年1月28日 15:18:02: RD6ogOlzKA

05さんへ

>円売り殺到?
>いい加減にしてよね。
>83円になっただけだよ。
>130円になったなら分かるけど。

130円になったらデフレから脱却できますね。
でも、そうはならないところが実態をよくあらわしている。

これは消費税を上げさせて、日本をいつまでもデフレと円高に苦しみ続ける策謀なんですね。で、日本は財政危機という演出の一環でもあり、官僚はこれを主張し続けるでしょう(本当は資産持ちすぎなのに)。

というか、格付けほど信用できないツールは無い。

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c19

記事 [テスト21] Re: テスト
(注目)2011年1月31日月曜ゴールデン特別企画 『私は屈しない〜特捜検察と戦った女性官僚と家族の465日』


Gコード:207122

(クリックで拡大)

20110131_465_2

2011年1月31日OA(←SOBA:オンエアーだと思うが、放送じゃまずいのか、笑)
月曜ゴールデン特別企画 『私は屈しない〜特捜検察と戦った女性官僚と家族の465日』
http://www.tbs.co.jp/getsugol/20110131/drama_point.html

ジャーナリスト江川紹子の取材記事を元に、田中美佐子の主演で描く
信念を貫き通した女性と、その家族愛をヒューマンタッチで描く感動作

みどころ

20110131_465_3


大阪地検特捜部が逮捕起訴したものの無罪が確定した厚生労働省女性元局長の事件。これを機に明らかになった捜査や取調べの実態は、特捜検察のあり方そのものを見直すきっかけとなった。

 「最強の捜査機関」と信じられてきた特捜検察の標的となった女性は、30年勤めてきた公務員であると共に、共働きに汗する妻であり、2人の娘の母親でもあった。なぜ、彼女は、強大な力に屈さずに、無実を貫けたのか。そこには知られざる人間物語があった。

 このドラマは、多くの人々の記憶に新しいこの事件の法廷傍聴を続け、当事者に長時間にわたるインタビューをしたジャーナリスト江川紹子氏の取材構成記事「私は泣かない 屈さない」(月刊文藝春秋2010年10月号掲載)を原案として、新たな取材も加えて創作したオリジナルドラマである。

 主人公中井章子(田中美佐子)が、無実を主張しながらも逮捕され、不当ともいえる取調べや、長期の拘束に耐えながら、家族や仲間の温かな愛情と信頼に支えられ、戦い抜いた465日間を、ヒューマンなタッチで描く、社会派ドラマをお送りする。

(以上転載終り)

関連:
2010/09/23 郵便割引制度をめぐる偽の証明書発行事件で、大阪地検特捜の証拠改ざん、朝日の第一報から今日までの記事を採録。
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2010/09/post-a5e2.html#top

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2010_2雑談日記でエントリーアップ翌日2010年9月24日朝日の改ざん(スクロールして見るなら←鮮明です)
 
 
 
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コメント [ニュース情報8] 「大逆事件百年後の意味」を問う院内集会 (1/24) (東京新聞) black9
01. 2011年1月28日 15:19:57: AQqyLULhMc
(東京新聞)と書いてあるが、リンク先は東京新聞ではない。
リンク先の記事には(東京新聞)という記述はない。
本当に東京新聞の記事なのか?

この投稿だけではわからないがリンク先を読むと、この集会
問い合わせ:福島みずほ事務所
だし、一緒に紹介されている大逆事件刑死100年墓前祭の元記事
は赤旗で、志位がメッセージを寄せたそうだし、
小沢さんの件では冤罪だと言わない人たち主導みたいだ。

http://www.asyura2.com/09/news8/msg/444.html#c1

コメント [経世済民70] 室蘭市内のGS、止まらぬたまらぬ…灯油値上げ あややの夏
01. 2011年1月28日 15:21:57: Pj82T22SRI
もうそろそろ、冬に寒冷地や豪雪地帯で分散して住み、移動や暖房で化石燃料を浪費するという、
資源と労働力の非効率な生活スタイルは無理になりつつあるということなんだろう

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/792.html#c1
コメント [マスコミ・電通批評11] テレビ朝日、サッカー日韓戦の猿真似問題で旭日旗を捏造報道 (自主投稿) 木卯正一
06. 2011年1月28日 15:21:58: V4cUYzrtVg
しかも日本サポーター云々は『昨年の親善試合の写真』と同一のものだというね
一から十まで捏造でなにがなにやら

http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/511.html#c6
記事 [テスト21] Re: テスト
(注目)2011年1月31日月曜ゴールデン特別企画 『私は屈しない〜特捜検察と戦った女性官僚と家族の465日』


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月曜ゴールデン特別企画 『私は屈しない〜特捜検察と戦った女性官僚と家族の465日』
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ジャーナリスト江川紹子の取材記事を元に、田中美佐子の主演で描く
信念を貫き通した女性と、その家族愛をヒューマンタッチで描く感動作

みどころ

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大阪地検特捜部が逮捕起訴したものの無罪が確定した厚生労働省女性元局長の事件。これを機に明らかになった捜査や取調べの実態は、特捜検察のあり方そのものを見直すきっかけとなった。

 「最強の捜査機関」と信じられてきた特捜検察の標的となった女性は、30年勤めてきた公務員であると共に、共働きに汗する妻であり、2人の娘の母親でもあった。なぜ、彼女は、強大な力に屈さずに、無実を貫けたのか。そこには知られざる人間物語があった。

 このドラマは、多くの人々の記憶に新しいこの事件の法廷傍聴を続け、当事者に長時間にわたるインタビューをしたジャーナリスト江川紹子氏の取材構成記事「私は泣かない 屈さない」(月刊文藝春秋2010年10月号掲載)を原案として、新たな取材も加えて創作したオリジナルドラマである。

 主人公中井章子(田中美佐子)が、無実を主張しながらも逮捕され、不当ともいえる取調べや、長期の拘束に耐えながら、家族や仲間の温かな愛情と信頼に支えられ、戦い抜いた465日間を、ヒューマンなタッチで描く、社会派ドラマをお送りする。

(以上転載終り)

関連:
2010/09/23 郵便割引制度をめぐる偽の証明書発行事件で、大阪地検特捜の証拠改ざん、朝日の第一報から今日までの記事を採録。
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2010/09/post-a5e2.html#top

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記事 [テスト21] Re: テスト
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コメント [Ψ空耳の丘Ψ59] 意外なところで覗かれる個人情報/俺様メモ。(デジカメ画像 Exif情報 GPS位置 漏洩) kokopon
01. 2011年1月28日 15:45:28: wIcpB1Tc7I

>ネットなしで国家は動かせない、では方法は1つ、ですか。
↓国内全パスワードを盗み出す前代未聞の計画が進行していた
独裁政権とFacebookの戦い...いかにして検閲からプライバシーは守られるのか?
http://www.gizmodo.jp/2011/01/facebook_7.html
米国務長官「ネット上のやり取り妨害するな」 ←検索で関連
http://www.asyura2.com/10/kokusai5/msg/314.html
「20の経済悪夢」|ニューノーマルの理。 聞けば怒りたくなる (→No.20?)
http://ameblo.jp/eiichiro44/entry-10782032444.html
「ネット海賊」の実態調査 wiredvision (膨大な数の楽曲を収集)
http://wiredvision.jp/news/201101/2011012820.html

>日常のネット生活でも凡ミス多発、それを忘れる恐さ。
飛行機を飲酒操縦したパイロット、どこへ飛ぶ予定だったかを忘れる
http://labaq.com/archives/51581395.html
-

http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/296.html#c1

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コメント [マスコミ・電通批評11] 年130億円の税金を喰らう記者クラブ幹事社のヒウラ記者、フリーの白石氏の髪を掴み「皆さんこんなことしちゃダメですよー」 むにゃ
08. 2011年1月28日 15:57:03: S7VWLgfzYU
記者クラブに税金が使われているのがはらだたしい!
国民には何の利益もない!

記者クラブ廃止とともに今までの経費を払え!
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/505.html#c8

コメント [ニュース情報8] 「大逆事件百年後の意味」を問う院内集会 (1/24) (東京新聞) black9
02. 2011年1月28日 15:58:48: AQqyLULhMc
01です。
> リンク先の記事には(東京新聞)という記述はない。
> 本当に東京新聞の記事なのか?

失礼、リンク先に、東京Web 1/25 とあった。
これは東京新聞のTOKYO Webだということらしいのだが、リンクが
張ってないし、検索してみたが、「大逆事件百年後の意味」を問う
院内集会、の記事が出ない。
どこにあるのか?

http://www.asyura2.com/09/news8/msg/444.html#c2

コメント [マスコミ・電通批評11] テレビ朝日、サッカー日韓戦の猿真似問題で旭日旗を捏造報道 (自主投稿) 木卯正一
07. 2011年1月28日 16:03:55: WWJTCGO8kU
これは、日本の記者クラブ談合メディアの典型的なやり口です。
つまり検察特捜の捏造と全く同じ、最初にストーリーありきの傲慢報道なのです。
日本の記者クラブ談合メディアは自分達がこの国の主人であり最高権力だと思い上がっているのです。

従順でナイーブな国民を自分達の意のままに誘導しこれからも蔭の最高権力の美酒に酔いたい。
その為には、既得権益仲間と談合し、真実よりもより都合の良いストーリーを報道してゆく・・・
この数十年間続く一貫した手法です。
戦争報道も安保もロッキードもリクルートも堀江も鈴木も小沢も・・・
みんなみんなもっともらしい「忠臣蔵」として都合の良く仕立て上げられていったのです。

全くいつまで騙されてゆくんでしょうねえ

http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/511.html#c7

コメント [経世済民70] バルチック海運指数、昨年11月から下降の一途−中国経済の悪化− [ チャート } DOMOTO
02. 2011年1月28日 16:10:54: ED3CUfV43I
昨年の中国の1回目の利上げのあった翌週から下げ始めたのは、単なる偶然
とは思えないんだけどね。

http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/772.html#c2
コメント [社会問題8] 高齢者の万引、約2万7000人で過去最多「動機は経済苦」 天空橋救国戦線
05. 2011年1月28日 16:15:59: AQqyLULhMc
お年寄りの数が増えているのだから、過去最高を更新するのはあたりまえ。
http://www.asyura2.com/10/social8/msg/306.html#c5
コメント [お知らせ・管理19] 管理人殿、タイトル違反等失礼致しました、以前書きましたように、トラさん型を目指す機会にしたいと思います。 小沢内閣待望論
04. 2011年1月28日 16:23:31: qRUVJlMZAs
投稿違反です。

産経新聞殿、間違っているのはノーパンしゃぶしゃぶ長官と誤ったニュアンスで報道するテレビ局と新聞社です。
http://www.asyura2.com/11/senkyo105/msg/728.html
投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 1 月 28 日 12:54:34: 4sIKljvd9SgGs

この投稿は引用が主でありタイトル投稿違反です。

元記事タイトル
2010-09-04 偏向マスコミよ、ふざけるな!
狂ったように小沢攻撃を続ける偏向マスコミ
http://d.hatena.ne.jp/pompom20/20100904/p1

http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/531.html#c4

コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
08. 2011年1月28日 16:29:43: UtvRgamVe6
緊縮財政にすると、御用商人に近い資本家は儲けが減るんですけど
それのどこが「官僚と経団連、資本家のため」なんでしょうか?
というか阿修羅はもう駄目だな
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c8
コメント [経世済民70] 日本国内の値上げラッシュは中国やインドの経済成長も原因 あややの夏
02. 2011年1月28日 16:47:03: ibwFfuuFfU
吸血投機集団があくどい投機でつり上げているだけなのに、そういうときは必ずこの種のインチキ援護射撃記事がでるね。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/793.html#c2
コメント [雑談専用39] 賢そうだけど全然動かないヤツはほぼ敵だろう。 地には平和を
30. 2011年1月28日 16:53:18: 1bI51T5To6
>27さんへ 
ユダヤ・ロスチャイルド世界冷酷支配年表
アンドリュー ヒッチコック (著), 太田 龍 (監修) 成甲書房
をみてください。
ロスチャイルドとかイルミナルティーとかホントですよ

http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/169.html#c30
記事 [テスト21] Re: テスト
マスゴミ造語「強制起訴」を粉砕し、素直な表現「検審起訴」「検察審査会起訴」を広められるかが小沢氏守れるかどうかのカギ。

マスゴミ造語「強制起訴」を粉砕し、我々の素直な表現「検審起訴」「検察審査会起訴」を広められるかが小沢氏守れるかどうかのカギ。

イ

イ

イ

1月27日民主党小沢一郎元代表の記者会見主催:フリーランス・雑誌・ネットメディア有志の会 - ニコニコ生放送
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2011/01/127---8f57.html

人気ブログで「強制起訴」「検審起訴」「無理やり起訴」のキーワード3点セットを書いてくれたところが現れた。
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2011/01/post-8d7c.html

マスゴミ造語の「強制起訴」ではなく、これからは素直に我々の言葉で「検審起訴」あるいは「検察審査会起訴」と言おう。
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2011/01/post-15b2.html#top

米が望んだ菅首相? 漏えい公電“お墨付き”裏付け(東京新聞、2011年1月20日朝刊、こちら特報部)テキスト完全版。
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2011/01/post-0893.html#top


 ま

http://www.asyura2.com/10/test21/msg/453.html

コメント [お知らせ・管理19] 管理人殿、タイトル違反等失礼致しました、以前書きましたように、トラさん型を目指す機会にしたいと思います。 小沢内閣待望論
05. 2011年1月28日 17:10:02: 3HuaZMKpY2
上記投稿は違反ではないと思います。
自分の意見を最初に書き、参考ブログを下に転載している訳で普通の投稿です。
http://www.asyura2.com/10/kanri19/msg/531.html#c5
コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
09. 2011年1月28日 17:17:56: nNPddbW4SY
アメリカの格付会社はでたらめ。

アメリカ国債をAAAにしている(笑)

エンロンAAAのままで破綻(笑)

サブプライムロ−ンを組み込んだCPもAAAのまま紙くず(笑)


http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c9

コメント [マスコミ・電通批評11] テレビ朝日、サッカー日韓戦の猿真似問題で旭日旗を捏造報道 (自主投稿) 木卯正一
08. 2011年1月28日 17:31:52: Rg4e8kYURI
で、この件について謝罪はあったの??

もし無いなら騒ぎ立てなきゃ。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/511.html#c8

コメント [マスコミ・電通批評11] テレビ朝日、サッカー日韓戦の猿真似問題で旭日旗を捏造報道 (自主投稿) 木卯正一
09. 2011年1月28日 17:34:53: 4eGCnAy74I
今日も朝日は正常運転ですね。
もはや慣れてしまいました。
http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/511.html#c9
コメント [医療崩壊3] ワクチン接種で自閉症はでっちあげ、英医学誌が結論 CNN ダイナモ
02. 2011年1月28日 17:36:03: KhC2UUxlXk
その後談ですが、少し面白い展開になっています。

BMJ側、ディアー氏側、双方ともにこれか元で逆に窮地に陥ってしまったようですね。

この辺りのブログが詳しく取り上げています。
http://childhealthsafety.wordpress.com/2011/01/16/the-big-lie-ii/

"The BIG Lie II – British Medical Journal Caught Out – Wakefield Fraud Allegations Based On Incorrect Information"
「大嘘 その2− BMJ 窮地に – 誤った情報に基づくウェイクフィールド医師を不正とする主張」

「BMJ独自の調査」の不備と矛盾点、またジャーナリストのブライアン・ディアー氏については、医学専門用語の意味の取り違えによる誤った情報に基づく主張などを指摘され、BMJ側は現在沈黙、またディアー氏も突きつけられた質問に答えられない状態ですね。

常に冷静公平なダイナモさんのこと、そのあたりの記事も必ず投稿してくださることでしょう。

http://www.asyura2.com/09/iryo03/msg/399.html#c2

コメント [経世済民70] 日本格下げで円売り殺到 S&P:日本の長期ソブリンを「AAマイナス」に格下 tea
20. 2011年1月28日 17:41:44: EOOALytWAw
やっぱりな。
今日CTAが日経先物を大量に売っていた。
株持ってる人は、来週月曜日の寄り付きで叩き売った方がいいですよ。
2月に大暴落する可能性が高い。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/781.html#c20
コメント [議論30] リチャード輿水氏の重要性 my.test.done
06. 2011年1月28日 17:44:32: FFIErVvouc
コシミズ氏は、なんでもユダヤのせいにする、というのは確かにそうだけど
既存のメディア情報は

何かがおかしい
矛盾がある

という点に気がついてもらうにはうってつけ。
それが本当にユダヤが原因なのかは知らないけど矛盾があることはだけは確かなんだから。
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/370.html#c6

コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
10. 2011年1月28日 17:49:07: ZO6XaJsUFo
格付けとは、差別の事である。
人や会社や国を差別してはいけない。みんな同格である。
グローバリズムとやらに反するのでは。
グローバリズムを目指すのならこんな機関は必要ない筈。
シティバンクも、三菱銀行も、足利銀行もみんな同格。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c10
コメント [経世済民70] 日本国債格下げ=財政悪化を懸念―スペイン下回る「AAマイナス」・米S&P めっちゃホリディ
11. 2011年1月28日 18:07:59: RD6ogOlzKA

>緊縮財政にすると、御用商人に近い資本家は儲けが減るんですけど
>それのどこが「官僚と経団連、資本家のため」なんでしょうか?

儲けが減るですって?

とんでもない。通貨高を最大限に利用するんですよ(売国大企業、金融資本家は)。

資本家は、お金を使わずに(廻さずに)持っているだけで利益が入ってくるんですよ。
そしてそういう状況が相対的に有利な状況を形成するんです。

使わないお金が権力となることがお分かりですよね。

官僚は、財政危機の演出と、増税で国民からお金を巻き上げることを正当化しようとする。日本国政府にはお金がない、財源が無いという間違った印象を植え付けることができる。

経団連売国企業は、日本国民の労働や中小企業をどこまでもこき使う。

お金が国民生活の場に廻らなけらば余計に仕方なく奴隷として働きたがる人が当然増える。

だから給料を上げる必要が無い。それほど得なことはないでしょう。


要するに、搾取を正統化、必然化する手段にしているんですよ。

日銀も共謀して(国債より日銀券を刷らねばならないのにデフレと円高をわざわざ放置)。
http://www.asyura2.com/10/hasan70/msg/786.html#c11

記事 [ペンネーム登録待ち板6] 修善寺温泉「あさば」 _日本最高の旅館だけど、客によって扱いがガラッと変わるのは何故?

修善寺温泉「あさば」  

世界に誇る日本の湯宿  西日本の方にはこの上質さは衝撃かも

 大分や熊本の人気の温泉は素敵、素晴らしいという声はよく聞く。確かに、中九州の大分・熊本の温泉地は、旧来の温泉旅館のイメージを壊し、そこにあった欠点を全て払拭している。 団体旅行専用宿を排除し、かけ流しを基本とした小さな浴槽を用意し、個に籠もる客の意識に配慮して個室露天風呂をもうけている。

「カニ足、茶碗蒸し、天ぷら」という本倶楽部非お薦めの日本旅館三悪料理も極端に少ない。上等な田舎を意識した凝った内容に外観、始めていった客は誰もがあっと言う演出だ。

 しかし、中九州に通い続けると急速に飽きてくるのも事実。

よく見ると、どこも金太郎飴のように同じ。

黒く塗った木材に白い壁、焼き杉の内装材、掃いて捨てるほどの地鶏地鶏のオンパレードに創作懐石と銘打った茶道を無視した懐石、内湯を無視し体まで洗わなければいけない凝った露天風呂、売店で売る地元生ジャムや無農薬野菜・味噌。

何故こうなるかというと、由布院御三家などをのぞいて、かなり多くの宿に同一の温泉宿コンサルタントがついているからだ。

都会では、暴走族のごとき当て字漢字の創作懐石店が若い女性に流行っている。陳腐な安い素材を如何に「いい感じ」に見せるかは、全てお籠もり感の内装とメニュー造りによるが、これはほとんどがコンサルタントの知恵の結集。だから、どこも同じような中身になる。

そんなものに、飽き飽きしたら是非とも伊豆箱根の高級宿をお薦めする。

特にお薦めなのが伊豆修善寺の「あさば」。

350年の名旅館としての歴史と伝統は、内装一つ従業員の動き一つに現れており、失礼だが中九州のの宿が束になっても足元にも及ばない。

そこにあるのは、まさに引き算の美学。凝った演出などどこにもない。あるのは、本物だけが持つ安心感だけだ。


 エントランスは、とても旅館とは思えない重厚な門と唐破風の屋根を持つ玄関。見る物誰をも圧倒し、やがて取り包まれるような安心感を抱かせる。

ぴしっと掃き清められた砂利も見事。もちろん、自動ドアというしゃらくさい物はない。従業員が流麗にドアをあけしましてくれる。

ロビーにはいるが、内装には無駄な演出は何もない。小さなレシェプションデスクがあるだけ。

今では絶対に手に入らない本物の木材が持つ重厚荘厳なロビーの向こうにあっという演出がある。

600坪の池の向こうに前田藩より寄進された能舞台「月桂殿」が鷲の翼のように広がっている。


 早速通された部屋「雨月」の前にも、この能舞台は羽を広げていた。

見る物を幽玄の世界に引きずり込むとともに、今からこの旅館で始まる風雅な世界にも誘ってくれるような期がする。

風呂は、男女別の檜の内湯と男女共同の露天風呂(時間帯によって男女別と混浴がある)、貸し切り風呂が一つある。

温泉ディズニーランドのごとき最近の旅館と比較すると、ここの風呂はどう見てもミニマム。でも、それで良いのだ。

小さな浴槽にたっぷり注がれた源泉は大量に掛け流されていく。

凝った演出は何もない。ただ、備え付けのアメニティー・タオル一つ一つが本当に上質かつ清潔である。

 修善寺の泉源は、集中給湯の混合泉。成分総計0.35gのアルカリ性単純温泉で無味無臭。個性は何もない。

ただとにかく柔らかい湯である。清潔さと大量のかけ流し、絶妙の湯温・・・・それでいい。これこそ湯の引き算の美学だ。

当日の夕食のメニューは

 ・竹の子 菜海苔揚げ
・季節の盛り合わせ(鯛の南蛮漬け、空豆、鯛の子、金柑煮、煮こごり)
 ・沢煮椀
・平目 あおり烏賊造り
 ・鰆塩焼
 ・伊勢海老唐揚
 ・蕪むし
 ・穴子黒米鮨
 ・天城軍鶏たたき鍋
 ・上記の玉丼
 ・ブラマンジェ
 ・3種のアイスクリーム(ジンジャー、グランマニエ、かぼちゃ)

なお、このメニューは、事前に予約客に詳しい調査があり、各人の好みに合わせて変化する。

特に、この宿は外国からの賓客も多く、その国の宗教や風習、個人の好みに合わせて、素材から変更する。もてなしの心は、この宿では細部にわたるのだ。


 目を見張るメニューは何もない。ただ、いずれも、素材は超一級、もの凄いという表現がぴったりの味付けであった。

熊本直送の竹の子はびっくりするほど新鮮、沢煮椀には、ウドや竹の子などの野菜と全く同じ太さに切った豚の背脂が衝撃的だった。

この時点ではもの足らなさの残る塩味だ。平目の熟成も完璧。焼き物・揚げ物の火の通し方も絶妙で、実にジューシー。

蕪蒸しは、まったく魚をつかっておらずキクラゲと銀杏のみ。それで居てこのコクなので、よほどの出汁なのだろう。穴子鮨の穴子は東京湾の物で、江戸前の仕事。クリーミーさは完璧。鮨といいながらほとんど酢は使っていない。

そして、何とも記憶に残りそうなのがたたき鍋と玉丼。恐らくこれを食べるために、また仕事をがんばろう。

ディセールは一転して洋の上質。食後にオーダーして選択することができる。

実はこの宿には、デザート専門のシェフが居るという情報は掴んでいた。さも当然の如く流れるように客の要望をくみ取っていく仲居の技術も素晴らしい物があった。

御飯の炊き方も素晴らしく、失礼ながら由布院や黒川は遠く彼方にかすんでいく。


 朝起きると、絶品の朝食が待っていた。菜のおひたしはごまクリームとお出汁の割合が絶妙。

衝撃的なのはだし巻き。今まで回った宿で最高、いや料理屋を含めて最高だ。金目鯛の西京焼きに絶妙の塩加減の浅漬けにシジミのみそ汁。決して派手な演出はないが、一切の手を抜いていないのが分かる。
 朝食後、能舞台を脇から眺めるサロンに通された。ダニエル・ビュレンヌの作品。日本旅館にして、実にセンスの良いサロン。ジャズのスウィング。飾られている花は全て伊豆の山葵の花。

 旅立つとき、靴は人肌に温められていた。

一生、この宿から離れたくない。そんな思いをさせるあさばの一日であった。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~umayu/page156.html

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2. 修善寺の名旅館 能舞台がある「あさば」  

古くからの温泉地で古い木造の宿が温泉街を形成している修善寺温泉。
その中でも屈指の格式と立派さを持っている「あさば」に訪問した。
池を眺める各室の展望も良く、部屋ごとに違う内装やしつらえも上品である。
また料理も上等で修善寺でも最上の宿に入るであろう。

@ 立派な門構えの宿
A 能舞台を池の対岸に配した庭の造り
B湯は共同源泉ながら掛け流しで新鮮。


玄関前の立派な門構え
唐破風の玄関は堂々としている
池の対岸にある能舞台。

あさばは修善寺でも屈指の名旅館である。
寺院のような門構えを入るとエントランスがあり、ロビーに入ると対岸は大きな池である。
山の斜面が背景で緑が美しい。
その池の対岸に能舞台と渡殿、控えの間がある。
凝った造りではなく、シンプルな和風旅館である。

各室から池と能舞台を眺められる

一泊4万円以上もするので以前、入浴をお願いしたが断られた。
さて今回は平日で各室の造りも見学できた。

凝った造りの客室の一つ
次は夜の露天風呂と樽風呂の内湯など
http://allabout.co.jp/gm/gc/80523/

どの部屋もシンプルながらスマートな造りで、和風宿の部屋としてはいままで各所の温泉宿を見てきたがかなりのレベルの高さである。
浴室は大きな池に面した露天風呂と扇型の内湯および、楕円形の樽風呂である。
修善寺共同源泉を掛け流しで使っている。

幽玄な雰囲気を醸し出す夕景
背景を照明した露天風呂夜景
扇形の内湯は木枠と石造り
樽の小判型の浴槽も清々としている

透明、無味、無臭であるが欲を言えば独自源泉で匂いがあるとさらに良い。
新井旅館でも言っていたが独自源泉はあるが使えないとのことで、ここも同じく独自源泉はあるらしい。
いっそ集中管理をやめてしまえば良いと思った。
食事がここの白眉であるとのことだが、私にはわからなかった。
http://allabout.co.jp/gm/gc/80523/2/

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プリマベラさん [ 10/03/09 21:05 ]
ここでの評判におそれをなしながら、泊ってきました初「あさば」。
結論からいうと最高です。
シンプルモダンの極み。
ものすごく「おしゃれ」な宿ですね。
今はやりのありがちな「和モダン」などには到底叶わない、時を重ねたものを研ぎ澄ましたおしゃれさ。
もうびっくりしました。

今まで少ないながらも「亀の井」「玉の湯」「天童荘」など高級とされる宿にも泊ってきましたが、、「あさば」が最高峰とされる理由がよくわかりました。

ダサいところが一つもないんですよね。
ここまでくるともはや「宿泊芸術」。
海外の方や日本のクリエイターに愛されるのも納得です。

年を重ねた方だけでなく、「今」を生きる若い人にもちゃんと照準が合っている。
最高の宿でした。

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uchacoさん [ 08/12/10 17:01 ]
2008年10月「巻絹」に宿泊。
旅グラを見てどうしても一度行ってみたいと思いながら、修善寺温泉にあまり良い印象が無かったため躊躇していたのですが、行って良かった。
全てにおいて期待以上でした。

あさばを言葉で表現するとしたらどのように言ったら良いのか迷います。
計算されたマイナスの美学、無駄な物を一切省いた空間、設え、料理。それでいて圧倒される存在感。
茶道をされる女将と主人のこだわりが随所にさりげなく生かされており感動です。

特に料理は圧巻。
どの料理も決して豪華ではないが、あまり手をかけすぎず素材の味がしっかりと引き出されており大変美味。
しじみを普通の倍は使うという味噌汁は絶品。
さらに香の物が一品として菓子器に盛られ両細が添えられて出て来た時にはこれぞ”あさば”と思いました。
能舞台だけでなくこの料理があるからこその”天下の名旅館あさば”なのだと納得。
料理長さんに脱帽です。

源泉かけ流しの風呂は肌に良くなじみ、広くはないが高野槇のいい香りがしてとても気持ちよく快適。

また違う季節においしい料理を食べに行きたいものです。
それと部屋係のふみこさんとても感じが良かったです。
またお願いしようと思っています。
http://ryokan-gp.com/srk/1399-rac


高級ではなくて上質 '08/12/19 ('05/02 訪問)

ル・クレジオ (36) さんの口コミ ( 40代後半・男性・神奈川県 / 標準点:3.0 )

夜の点数:5.0
(料理・味 5.0 | サービス 5.0 | 雰囲気 5.0 | CP 5.0 | 酒・ドリンク 5.0)
昼の点数:5.0
(料理・味 5.0 | サービス 5.0 | 雰囲気 5.0 | CP 5.0 | 酒・ドリンク 5.0)
使った金額/1人(夜) ¥30,000〜 / (昼) -


重厚な門をくぐったときから日常とはかけ離れた異空間であることがわかる。
この宿の全てに共通する、高いレベルの空気感(波動)を感じる。
それは、能舞台はもちろんのこと、部屋の内装、ラウンジ、廊下、存在を感じないのに呼びたいときに常にそばにいる仲居さん。
アメニティ、ふわふわの布団。そしておしぼりやお茶、食事。
それは、けして高級や豪華とは違う本物のおもてなしの心を持った上質なサービスだ。

本物の上質とはお金のかかるもの。
金額が高いからといって高級な宿を期待する人はここに来ない方がいい。
絢爛豪華な極彩色も、高級調度品も、リムジンの出迎えも、高級和牛も、伊勢海老もここにはない。
上質なものとは、高額なものもあるが時代や価値観で評価が変化しない高品質なもの。
高級なものとは、流行やデザイン、付加価値、希少性により金銭的価値が高いもの。

あさばが提供しているものはあくまでも上質なおもてなし。
それは特に食事に表れている。
食材の旬と鮮度を最重視し、その中でも最上品の最良な部分をベストな方法でシンプルに調理し、出来立てを迅速に提供し、すぐに食べてもらう。
それが最もおいしいからだ。
調理場から客室までの距離があるので仲居さんがばたばたするのは仕方がない。

用は何を最優先するかということ。
だから、食材が家庭料理と大差なくても、その差は食べれば歴然とするはず。

世界的な金融恐慌で莫大な利益を出してきた投機的資金が縮小し、高級なものが持て囃された時代は終わり、本質的なものへ価値観が変化していく中、あさばの評価がさらに高まるのは明らか。
今までも、そしてこれからも、日本旅館の基準であることに間違いはない。
http://r.tabelog.com/shizuoka/A2205/A220504/22000220/dtlrvwlst/779203/


夢かうつつか '10/02/24 ('10/02 訪問)
ある日のそのちゃん (116) ( 東京都 / 標準点:3.0 )

夜の点数:5.0
(料理・味 5.0 | サービス 5.0 | 雰囲気 5.0 | CP 5.0 | 酒・ドリンク 5.0)
昼の点数:5.0
(料理・味 5.0 | サービス 5.0 | 雰囲気 5.0 | CP 5.0 | 酒・ドリンク 5.0)
使った金額/1人(夜) ¥30,000〜 / (昼) ¥30,000〜

もう2週間くらい前からニコニコしてしまうの。
いつかの道を通っていつかの赤い橋を渡ったあたりからもうクラクラして倒れそうなの。
そして・・・ジャァーン!!!のあの立派な御門。
ここで一度リアルに立ち眩み。
ちょっとぉ〜!
おま〜!!(笑)
キャー!!また来れた(感動)
生きててよかった(泣)

あとはもう、なんていうか、ものすごく濃密に、ものすごくゆっくりと、あさばの時間が流れていく。
清々とした空気は、神レベルに行き届いた清掃から生まれる。
ドラマのお姑さんみたいにそっと鴨居の上指でなぞってみるといい。
びっくりするから。
あさばに来てそんなことやってる自分にもびっくりしたもの(笑)

16室だかの客室に何人いるんだって清掃の方々。
ちなみに厨房には10人いるらしい。
16室に10人。
儲ける気ないのか。

お風呂なんか魂抜かれそうな塩梅。
野天の洗練された野趣と内風呂の完璧なホスピタリティ。

食べログだから料理のことも。
名物の料理を軸にすえて、季節の香りと味わいを盛り込んでいく。
他にはない、あの場所でしか食べられない料理。
割烹でも料亭でもない旅館の料理の最高峰。
お風呂に入った後に、すっかりくつろいだ気分になったときに一番おいしく感じるように仕立てた
料理。

町おこしのための穴子の黒米の寿司。
天城しゃものたたき鍋。
鮎。
伊勢えび。

いやーすごい。
あーやばい。
朝食も素晴らしい。
漲るものが感じられる料理。
あの夕食にあの朝食食べてあのお風呂入って、あのお部屋に泊まって。
あの支払いにオサマルことの不思議。
ここ知らないで死ななくてよかったぁ〜!
時々でも来れる自分であり続けるためにがんばろー!
お家かえって来てさ、また2週間くらいニコニコしてるの。
4週間楽しめる一泊二日。
他にはないなー。。。
http://r.tabelog.com/shizuoka/A2205/A220504/22000220/dtlrvwlst/


3.


徐々に応対に変化が・・・ '10/08/31 ('09/01 訪問)

acco-n (7) さんの口コミ ( 女性・千葉県 / 標準点:3.0 )
2004年の夏から毎年1〜2回は宿泊するほどお気に入りのお宿でしたが、ここ1年半遠退いてます。

宿の雰囲気、料理、布団の寝心地、貸し切り風呂のシステムは私たち夫婦の気に入っているところです。
ただ、一昨年前からか徐々に???と、なることが重なりました。

まず仲居さん。
当たりはずれが大きい。
これは好みもあるのかもしれませんが・・・。
部屋食で一品ずつ温かいものは温かく、冷たいものは冷たい状態で持ってきていただけるのは何よりなんですが、お部屋の入り口を開けっ放しにされるので他の部屋へ行き来される仲居さん達の足音が耳障り。
「テッセン」という一番奥のお部屋を良く使わせてもらっていたので気にならなかったのですが、一度、能舞台の見えるお部屋に泊まったときはかなり気になりました。

あとは大変失礼だとは思いますが、若女将さん。
どうやら他のお客様と勘違いされたらしく、ずっとそのお客様に合った話題ばかりを話しかけられて。
こちらとしてはよくわからない話題だったので首をかしげていてもなかなか察知してもらえず、結局そのまま。
こちらからきっぱり『人違いです。』って伝えれば良かったのですが・・・。
まだ慣れていなかったのでしょうか?

終いに帰り際、ラウンジで飲み物をいただいてチェックアウトの支払いをする時のこと。
いつもなら席に着くとすぐ係の人が「飲み物はコーヒー、紅茶、お茶から選べますが。」と、訪ねにきてくれるのですが一向に来ず。
能舞台を臨めるわかりやすい席に座っていたのに20〜30分忘れられました。

また鮎ごはんやら天城軍鶏やら穴子寿司が恋しくなった頃に伺いたいとは思いますが、経済的にもキビシイので果てさていつになることやら。

お料理のことで1つ。
いつからか最後のジェラードが3種類から2種類に減っていた。
そのことについても特に何の説明もなく、残念。
以前は目の前で取り分けてくれたんですけどね。

このご時世、変化は仕方ないのかもしれませんが。
http://r.tabelog.com/shizuoka/A2205/A220504/22000220/dtlrvwlst/1966312/

ひろ爺さん [ 09/10/23 14:54 ]
今回で4回目の宿泊です。
松風の間でしたが、女房は控えの間へ入った途端に咳き込み、止まらなくなってしまいました。正室の方は だいぶましでしたが、滞在中 窓を開けっ放しで過ごしました。
何故かは判りませんが、これまで泊った他の部屋ではそんなことは有りませんでしたけれど・・・。 

食事もこれまでは満足していましたが、今回は不満足でした。
椀物は塩辛すぎて食べられず、味噌汁は逆にうすすぎてダシもあまり効いておらず飲めませんでした。

美味しかったのは、ブラマンジェと出し巻きだけだったとは言いすぎか。

泊った時期が悪かったのかなあ。
(因みに御品書の用紙もこれまでとは異なり ごく普通の白紙でした。) 
気に入った宿だっただけに今回は残念でした。

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北斗七星さん [ 09/10/13 01:38 ]
2006年10月 雨月の間に宿泊。
豪壮な門や屋根が狭い道路に窮屈そうに面してたのは意外。
能舞台を始め、館内の全てが素晴らしい雰囲気に包まれていた。
客室の広縁から眺めるライトアップされた能舞台は、まさに息を呑むような美しさ。
予約不要の貸切風呂が二つあるのも嬉しい。
池を眼前に入る野天風呂の解放感と修善寺の柔らかい湯に感激。

伊豆・箱根方面に行く時、定宿として使って今回で4回目になるが、食事の質の低下に驚いた。

ひろ爺さんのコメントにも半信半疑だったが、本当にダメ。
普通の老舗旅館の味に成り下がってしまった。
出汁感なく水っぽく、しょっぱさも気になった。
思わず「料理長、変わりました?」と妻が聞いたほど。 

30年ぐらい変わってないそうだが、いったいどうしたことか?

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yokoママさん [ 09/01/24 11:26 ]

九州の友人がこの旅館に行きたいというので、止めさせました。
それほどここはソフトは最悪。
ここの掲示板にこれほど書かれているのに経営者は何をしているかと思案投げ首。

ハードに頼りすぎているのではないでしょうか
08年ViSAから人間国宝の新内の案内で来たので問い合わせした処、無愛想なことこの上無し。
しかも一人1泊8万ですぞ。
その部屋を聞いても、私が昔泊まった部屋は改造して無いとのこと。
部屋の案内をするにも、名前を早口で言うので理解不能。

そんなに人気の御宿でしたら結構と思っていたら、キャンセルがありましたのでいかがですかの電話。
誰が行くものか。
あの景色を見て行きたくなるでしょうが、料理なら鬼の棲と変わらず。
サービスは当たり外れあり。
これが問題。 

総括、CPはギャンブル。
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こまめさん [ 09/03/04 01:41 ]
何度も泊まっていますが、関東であれば指月が閉館後、CP抜きにしても料理の安定度は一番でしょうね。
ソフトが悪いとの声もありますが、それは泊まる人の態度の問題。

確かに本来は、そうあってはいけないのですが、所詮サービスとは、人と人。
特に日本はそうですね。
旅行は、泊まる人とサービスする人お互いの気遣いがあってこそ。
いかに、旅館といい関係を築けるかは、その人次第。

私はいつも、そう高い部屋には泊まりませんが常に安定して最上質なサービスを受けています。
ただし料理は京懐石ではないです。
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iyashinnboさん [ 09/06/16 17:41 ]
こまめさんのコメントGOODですね。

私もそう思います。
私も以前よく利用しました。
確かにソフトの面は色々聞きます、でも、旅館関係や従業員の方の話が私の耳によく入ってきます。
お客様はどう思っていらっしゃるのでしょうね。
食事は京懐石では確かにないですね。
私は好きなのですが嫁は何時も同じテイストで面白くない、とあまり良い評価はだしません。

ただ部屋や風呂景観は素晴らしいです。

ただ残念なのはお客さんによってサービスが違います。
具体的にはロールスロイスで行く時とクラウンで行くときとでは全然違います。
芸能人や政治家の方が良く利用されるのである意味仕方がありませんが、もちろんクラウンは私でしたけど(単なるやっかみかな、すみません)
http://ryokan-gp.com/srk/1399-rac


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中伊豆旅行のお宿「あさば」さん '10/09/20 ('10/09 訪問)

牛泉 牛 (200) さんの口コミ ( 40代前半・男性・神奈川県 / 標準点:3.0 )

夜の点数:4.0
(料理・味 3.5 | サービス 4.0 | 雰囲気 4.5 | CP 3.5 | 酒・ドリンク 3.0)

昼の点数:4.0
(料理・味 3.0 | サービス 4.0 | 雰囲気 4.5 | CP 3.5 | 酒・ドリンク 3.0)

使った金額/1人(夜) ¥30,000〜 / (昼) -


「あさば」さんは食事良し、温泉良し、接客も良しと3拍子揃ったお宿と友人も勧めてくれ、各種雑誌などでもかなりの高評価

平日だったためか、10日前の予約もすんなり取れ、取れた後の10日間はウキウキワクワクでした

さて私の寝坊と店探し等で時間をくい、14時半のチェックイン時間を過ぎ、宿の玄関前に愛車をつけたのは16時前でした

玄関で若女将らしき方に挨拶を受け、そのまま今夜泊まる部屋に案内されました

その後部屋でチェックインしながら、お茶とおまんじゅうのおもてなしは昔ながらで早速好印象です

しかもネットでは8畳+踏込みとありましたが、実際は10畳+6畳弱の次の間?+踏込みと意外と広いのも良い印象です

チェックインを済ませ早速温泉ですが、こちらは露天風呂が一つで時間に寄っての男女入れ替え制で、他内湯が男女それぞれ一つずつあり、更には貸切風呂(無料)が二つもあります

まずは貸切風呂で朝から焦りまくってかいた嫌な汗を洗い流し、高野槇の浴槽に浸かります

こちらの温泉はアルカリ性単純泉で無色無臭透明で、とても滑らかな肌触りのお湯で、これまた好印象!

お風呂からあがり修善寺まで散歩した後、こちらのテラスで生ビールを飲みました

この生ビールがまた旨いのなんの!喉越し滑らかで、ゴクゴクといくらでも飲めちゃいそうです


その後部屋で寛ぎ夕食(部屋食)の時間です


☆豆あじ素揚げ、菊酒
 菊の花をあしらったお酒に秋を感じさせてくれます

☆茶豆すり流し
 ここからまた生ビールで喉をうるおします

☆長月盛肴
 イクラおろし、姫サザエ、鞘巻海老、ゼンマイ、鶏大葉焼、椎茸・クラゲの菊花和え

 中でも菊花和えがことのほか美味しく、また晩夏から初秋への季節の移ろいも味わえました

☆鱧(和歌山産)松茸吸鍋
 松茸の香りに乏しく、鱧の旨みのみ引き立ちバランスが悪かったですね

☆めいち鯛、赤いか造り
 旬から少し外れているせいか旨みに欠けるめいち鯛でしたが、赤いかは申し分の無い甘み十分の物でした

☆かます(千葉産)炭火焼、蕪のあちゃら漬け
 脂ののり、旨み風味など素晴らしい魳で、蕪のあちゃら漬けが程良く脂を切ってくれます

☆白だつ、防風、ゆば辛子醤油
 生ビールから私だけ鄙願を冷で頂きました

☆床ぶし、石川芋揚物
 肝をまとったままの床ぶしを揚げることにより、その旨みを一層引き立たせてあり美味しかったです
  
☆穴子黒米ずし
 こちらの名物だそうですが、柔らか過ぎて、味付けも口に合いませんでいた

☆冬瓜、白金豚炊合せ
 上質の白金豚の旨みを残さず冬瓜に沁み込ませてあり、お腹もいっぱいになりました

☆松茸ごはん、味噌椀(鮎、ささがき牛蒡)、漬物(胡瓜、人参など)
 松茸は先述したとおり香りが乏しく残念でしたが、味噌椀がとても風味良くご飯も進みました

☆葛切り

☆大葉と生姜のシャーベット
 シャーべットと言うよりアイスに近く、好みの味ではありませんでした

かなり期待して来ただけに、少し残念な結果の内容でした

確かに温泉旅館の料理としては素晴らしく上質な料理だと思いますが、この料理を日本料理のお店で頂いたとしたら☆3.5で基準よりやや上ってところですね

味で言えば可もなく不可もない無難な料理の数々で、これだ!と言った印象に残る物が少なかったように思います

それに料理の運ばれてくるタイミングも、かなり早く食べ終わりそうな頃に次の料理が出ると言った忙しない感じでした

また料理の趣向も大きな鍋や炭火の入った七輪で目の前で調理して下さるのですが、全て形だけで出来上がっている物をまた再度温め直すと言った感じに見受けられるようなものでした

おそらくこの料理だとどこでも食べられるように思えてしまう所に、やや難点があるのではないでしょうか?

ただ伊豆と言う土地柄でそう言うことも難しいので、格別に美味しいお店と言うより、普通に料理の美味しいお宿と思えば良いのかも知れません

ま、少し辛口すぎましたが変に期待を高めた自分達も悪いのかもしれませんw

食後しばらくして布団を敷きに来て下さり、また温泉に入った後ふかふかのお布団でゆっくり安眠できました

こちらのお宿は廊下はスリッパで歩くのですが、人の気配がほとんどしないためすごく静寂な一夜で明るくなるまで一度も起きませんでした

朝食は前夜のこともあり期待はせず、ごくごく普通に頂きました(ま、美味しかったですよ)

食後のコーヒーはチェックアウトまでの間にサロンでも頂けるようですが、今夜中の仕事の電話も掛かってきたため早々に帰路につきました

もっと良い部屋に泊まったり、私達の様に過度に期待しすぎなければもっと良い感想を持つことが出来るかも知れません

料理の評価はお宿としてではなくお店としての評価で、夜は夕飯、昼は朝飯の評価になります

お宿としての料理・味の評価でしたらそれぞれ☆0.5ずつアップしますが、他の宿の方がその土地の旬を味わえる料理で満足度は高いですね

伊豆箱根はやはり都心に近い分料理で宿選びするよりは、お湯やロケーションなど他の要素で選んだほうが私達には良いのでしょう

食事以外の満足度はかなり高く、また泊まりたいとは思いますが・・・・しばらくはいいかな?
http://r.tabelog.com/shizuoka/A2205/A220504/22000220/dtlrvwlst/1999145/

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5. あさばの系譜

渡辺
「あさば」と言えば、やはり能舞台は有名だけど、少し話してくれませんか。


浅羽
今日、先生と楽しい話をしたいと思いまして、それなら能舞台だと、私も思っていました。

この舞台は、移築して来年で100年になります。そして、私がお嫁に来て50年になるんです。


渡辺
じゃあ移築した時は見ていないんだ。


浅羽
そうなんですよ。7代目が25年、8代目が25年、9代目の私が50年、お守りをさせていただきました。なんと、もったいない。私って、欲張りなのね。(笑)


渡辺
女将さんは、ここの家の娘じゃないんだ、お嫁さんなんだね。


浅羽
それがね、前に大磯で和久傳さんと蓬莱さんと3人でお話したとき、3人とも家つきじゃなくて、嫁に来てみんな苦労した。でも、みんな家つきだと思われているの。おかしいですよ。(笑)

渡辺
家つきだと思うぐらい、馴染んじゃってる。(笑)


浅羽
馴染んじゃって。うちの亭主が「しかし女ってすごいね」って言うの。「何で?」って言ったら、「だってさ、自分が生まれた家じゃないのに、気が付いたら自分の家みたいな顔をして住んでいるんだもんな」って。


渡辺
それはそうだよ。家にいついた女って書いて、嫁って言うんだから。


浅羽
そうですよね。お嫁にきて、ずっと子どもが生まれなかったんです。

3年経った時に7代目の姑が、「ちょっときなさい」って。部屋に入って行ったら、「兆候があるかね」って言うから、「何でしょう」と聞くと、「子どもよ」って言うのね。

「いいえ」と答えると、「稼して5年、子なき去る。来年になったら、こちらも考えますから」って申し渡されました。で、おまじないをしたりして、やっとできたの。


渡辺
今、考えると、ずいぶん古風というか勝手で。


浅羽 それで東京でお産をして、息子を連れて東海道線で帰ってきたら、門のところで四十何年いた番頭が、真新しい仕立て下ろしのはっぴを着て、打ち水して、「御隠居さんが、こちらから入りなさい」とおしゃってます、と言われて。私、子どもを抱きながら恐る恐る端の方を歩いて入っていったの。


渡辺
子どもを産んだので、「でかした」というわけだね。


浅羽
そうなんです。7代目と8代目の姑が、黒の紋付の羽織を着て、板の間にひざまずいて、「ご苦労であった」って。私にじゃないんですよ、息子に。

「どう?」とか言うから、私が息子を渡すでしょう。そして茶の間に行ったら布団が引いてあって、そこに息子を寝かせて、「あのね、私はこれで今日3回目の顔をあたりました」って言うのね、7代目が。

最初は生まれた時、次は嫁に来る時、次は今日、3回顔をあたりました、って。

渡辺
あたるっていうのは、剃ったっていう意味?


浅羽
襟を正して、奇麗にしましたという意味かしら。そういうことから始まって、やっと私も嫁として認められたんだなと思ったけど、この子を置いたら、とにかく暇をもらって帰ろうと入院中にずっと思っていたんです。でも、そうなると出るに出られないし、離縁もしてもらえなくなって。


渡辺
そのころは、柳沢厚労大臣が言ったように、女は産む機械としか考えていなかったんだね。


浅羽
そうですね。でも、おかげさまで、ここまできました。


渡辺
今やあなたが総支配人で、「あさば」の女将。

こういう高級旅館は、女将さんの存在が一番。あなたの息子さんがどうこう言ったって、あなたに勝てない。息子さん、お一人だった?


浅羽
息子一人に娘一人。


渡辺
お嬢さん、どこに行っているの?


浅羽
結婚して、ここにいます。婿は、ホテルのフロントで働いています。娘はJTBに勤めていて、彼と偶然知り合って、結婚したいって言い出したんですけど、初めは私が反対していたんです。でも、あまり反対してもと思って結婚させました。

渡辺
もう修善寺に住んでいるの?


浅羽
修善寺にくるなら許す、娘が行くなら許さないと。そうしたら向こうがくるというの。しょうがない、じゃあ、まあ許しますって。


渡辺
長男のお嫁さんもいるんでしょう。


浅羽
そうです。


渡辺
何年前に結婚したの?


浅羽
3年前。やっと、男の子が生まれました。嫁はホテルオークラに勤めていたんです。


渡辺
オークラのどこに?


浅羽
あそこの「山里」で働いていて、副社長さんが、「女将、こういう娘がいるから見て」と紹介してくださって。


渡辺
ご主人は何年前に亡くなったの?


浅羽
もう13年になります。

渡辺
その後、ずーっと一人で頑張ってきたんだね。


浅羽
そう私は、姑二人でしょ。舅でしょ。で、主人でしょ。主人の弟に五人送ったの。ここにきて何だか知らないけどね、法事だのお葬式だのばかりやってたわ。だから、何だか整理しにきたみたい。

もうあと何もしなくても大丈夫、「あなたたち、送るのは私だけじゃない」って言ったのね。そうしたら息子が「整理したって言うけど、自分の亭主も整理しちゃったね」って。

http://www.ikyu.com/magazine/hyaku/3/h1.htm


女将は六本木族


渡辺
そもそも、こんな老舗にお嫁さんにきたわけは?

浅羽
先生、望まれたんですよ。

渡辺
そうだと思うよ。よほど可愛かったんだろうな。

浅羽
そうじゃないの。うちの亭主が言いましたよ。

「君みたいな雑草のように強い女の人が望みなんだ」って。

主人ね、南部忠平さんのお嬢さんで、走り幅跳びか何かの選手の方と……。


渡辺
南部さんね。

昔、三段跳びのオリンピック選手だった。
その人のお嬢さんと結婚する予定だったの?

浅羽
そうなんです。「あさば」の父も陸上をやっていたんですね。

それが、君の雑草のようなのがいいって。(笑)


渡辺
しかし女将さんは、そう言ってはおかしいかもしれないけど、顔が可愛いいよ。

美人っていう顔ではないけれど、愛嬌のある顔で。


浅羽
昔は、もっと愛嬌よかったんですけど。(笑)

渡辺
そういう顔はね、長持ちするんだ。

どこかとぼけた可愛い感じで。

目鼻立ちのくっきりしたギリシア美人みたいなのは、後半あっという間に老けるから。


浅羽
やっぱり秋田でしょ、私。


渡辺
秋田美人だよ。


浅羽
でもね、うちのお嫁さんもね、私によく似ていて、「お嬢さんですか?」なんて言われます。

やっぱり、そんな感じかしら。


渡辺
男に安らぎを与える顔だよ。

浅羽
じゃあ、まあいいのかしら。いいことにしておこう。


渡辺
秋田から、どうしてこっちにきたの?


浅羽
私ドレメに通っていたんです。

それで、うちの亭主は慶應でしょ。


渡辺
じゃあ、目黒にいたんだ。


浅羽
私は目黒。亭主は三田。それでグループで遊んだりして。


渡辺
今でいう、合コンだね。


浅羽
本当に合コンですね。
慶應ボーイとダンスホールでダンスしてたの。

渡辺
ダンスパーティ、真っ盛りの頃だね。


浅羽 券もいっぱい出回っていて、私たちはそういうのに、いつも行っていた時代で。


渡辺
あの頃、女子大学があまりなかった。
ドレメは、最先端のおしゃれな女性がいっぱいいたから。


浅羽
そんな時代だったんですよ。
それで、もう遊んで遊んで。後に六本木族なんて呼ばれた。


渡辺
それでよく、修善寺に引っ込んで落ち着いていられたね。

浅羽
秋田の人間だから、よかったんです。

うちのお嫁さんも田舎の子で、東京でちょっと暮らした子がいいと思っていたら、岐阜の大垣の出身で。


渡辺
大垣あたりも古いよね。


浅羽
ですから餅をついて送ってきたり、今ごろだと山菜を送ってきたり。大垣の奥ですから。


渡辺
以前、話したことがあるけど、誕生日が僕と1ヵ月か、2ヵ月の差だったよね。


浅羽
昭和9年だから、私は。先生8年?


渡辺
8年の末だから、女将さんの兄さんだよね。

浅羽
でも何ヵ月ですよね。私は2月だから。


渡辺
お嫁に来た頃の話を、少しききたいな。


浅羽
最初の頃の苦労話をすると、風邪をひいて寝ちゃうじゃないですか。

すると7代目のお姑が、上草履でパタパタ音をたててきてね。

「ごきげんよう」って声きくと、もうドキっとしてね。

「すみません」っていって、布団の上に正座して。

「あなたはね、いくじがない。寝るから寝込むんです。

少々のことでは起きていなきゃ」って小言をいわれましたよ。

寝るから寝込む。寝ると寝込むは違うって。


渡辺
昔の姑は、そういうタイプが多かった。


浅羽
もうすごい家だなと思いましたね。

でも、子どもが生まれて、本当にお乳をやらなきゃならないし、やっぱり寝てもいられないでしょ。

我慢して起きていると、寝込まないんですね。

なるほど寝ると寝込むは違う、と。

廊下の歩き方、お客さんの接し方など、いろいろ厳しく育てられましたね。


渡辺
ところで、「あさば」は意外に部屋数が少ないのでびっくりした覚えがあるけど。


浅羽
うちは18部屋でやっています。

間口を広げちゃいけない、増築しちゃいけないって言われ続けてきましたから。

そうして修善寺の門前町であることを忘れないで、自覚していれば、代々食べていける。それが家訓です。


で、別にいつも思っているわけじゃないんですけど、うちの息子が、

「お金持ちじゃなくて、よかったね」って。
「もし、うちにたくさんお金があったら、今ごろ鉄筋に建て替えて、すごいホテルを作っちゃって、どうにもならなかったかもしれない」って。

いい方がおかしいけどね。


「だから、僕があちこちいじったり、直したり、自分なりに、こうしたらいいということができるんで、もしお金があっていろいろなことをしていたら、もう手も足も出なかったよ」って。

ああそういうことかって、代々いい伝えられてきたことは、やっぱり真理なんだなと思いました。


渡辺
バブルの全盛期に一番損したのは、お金を持っていた人だから。


浅羽
そうなんですね。本当にそう思います。


渡辺
お金がなくて損をしなかった。結果として一番得したんだ。


浅羽
そういわれて、なるほどそういうものかな、と思いましたね。

だから、今も18部屋のままでやっています。


渡辺
女将さんが引き継いで、これだけはきちんとやりたい、原則としてこれだけは守ってきたというのは何ですか。


浅羽
間口を広げないっていうことと、お寺があって、温泉があって成り立つことだけは忘れない。

もうそれだけですね。
http://www.ikyu.com/magazine/hyaku/3/h2.htm


神楽殿は守り神


渡辺
時々、それぞれに象徴的なできごとがあったでしょう。

好景気が続いたわ、バブルはあった。でも不況がきたわ、と。


浅羽
その時々に、悲しいことがいっぱいありましたよ。

旅行エージェントは、要するに鉄筋で何階もあって、大広間があって、そういうところには、お客さんを入れやすいわけですよ。

バスでどんどんピストン輸送できるでしょ。

うちみたいに、こんな部屋があったり、あんな部屋があったり、継ぎ足し継ぎ足しだから、お客さんをたくさん入れたいけれども、入れにくいわけですよ。

例えば50人とか100人のまとまったお客さんが入れない。

だから、採算として合わない、と。

渡辺
でも、そんな団体が、ここへ入ったらイメージが崩れる。


浅羽
要するにうちは、この人はあんな部屋に入れて、あの人はこんな部屋にって、入れにくいわけです。

営業で旅行エージェントを回ると、

「『あさば』はやりにくいわ」「売りにくいわ」ってよく言われてね。


渡辺
そういう客、始めから相手にする気はなかったんでしょ。


浅羽
若い時は、お客さんがほしいから、何とかお願いしますって、いっていましたね。

で、そんな時に、何かいつも、この能の舞台が守ってくれました。

やっぱり能舞台があるから、ここにいられたみたい。


渡辺
能舞台で癒された?

浅羽
そうなんです。

何かこういうことを継続していくっていう重しがいつもある。

能は私、何も知らなかったんです。

ただ秋田ってね、近所に神社があって、神楽殿があったので、そういう神楽は知っていましたけど。

昔は浴衣ざらいといって、夏になると、お能をやっているお客様が浴衣を着ておさらいをやる。

そういう人たちばっかりだったんですね。

時々、面をつけたり、お笛が入ったり、鼓が入ったりすることもありましたけど。

おおよそ20人ほどで、きちんと装束を着けて一番の能を演じるお舞台は、全然知らなかったんです。

で、それをやり出してから、面白くなって、どんどん次から次へと興味が出て。


渡辺
能舞台の存在で、「あさば」は高級旅館、というイメージが基本的にあるよ。

浅羽
お能をやり始めてから、琉球の舞いとか、文楽もやったし。

知らぬが花でどんどんエスカレートしていって、あれもこれもやりたくなっちゃった。

沖縄に行ったり、あっちへ行ったり、こっちに行ったり、フラメンコもやりました。

そのたびにお客様の層がどんどん変わっていくんです。

お能が好きなお客様と、文楽のお客様と、それから琉球の舞いのお客様がいらっしゃるでしょ。


渡辺
文楽もやったの?


浅羽
はい、吉田蓑之助さん。佐藤多圭子さんの琉球の舞い、私好きで4回催しました。

それからね、シェークスピアの『リア王』も3年間で9回やりました。

ある時『リア王』を見て、絶対にこの人の『リア王』をやってみたいと思って。

鈴木忠志さんという演出家の方にお願いしますといったら、何もそんな「あさば」でって。

私、口説きに、利賀村に行きましたよ。

とうとうやることになって、やったら面白いじゃないですか。

それでね、9回やって。

ほかにも、勅使河原宏さんが竹をアーチに組んで、花を活けてくださって、一柳彗慧さん作曲で、観世栄夫さんが石の舞台で「花と音と舞い」をやったんです。

お囃子と篠ア史子さんのハープ、みやたまゆみさんの笙で。

お客さんと一体感があって、よかったですね。

ものすごくたくさんの人がきてくださいました。

泊まられる方と鑑賞だけの方。

だいたい250人から300人、入るわけです。

でもそんなに入っても、うちは劇場じゃないから、何が困るかって、お手洗いとか休憩室がないわけね。

たくさん入ると、何か荒れていくでしょう。

だから何でも、ほどほどにですね。


渡辺
その辺のわきまえは、なかなか立派なものだね。

すぐ調子に乗って、図に乗る人が多いけどね。

浅羽
回数を減らしたのは、県とか、第三セクターとかで、能舞台を作ったり、各地で日本の古典芸能をやり始めているでしょ。

私の役目は終わったんですし、365日のうちのどんなにやっても40日ぐらいが精いっぱいなんですよ。

そうすると、その40日ほどのイベントのために、あさば旅館に泊まる三百二十何日のお客様に、ご迷惑をおかけします。

本当は宿屋で成り立っているのに、影響するので、やっぱり縮小しました。

だから、最近は大きいのはやりません。

しかし、何か奉納という意味も大事にして、能、狂言を基本として古典芸能をやっています。


渡辺
それは大事だね。

浅羽
姑たちから「やめなさい、そんなのは」っていわれました。

でも、これでお能をやめたら、今まで能舞台の「あさば」といわれてきたのに、駄目になったと思われるでしょ。

だからやめることはできないの。

今までお能だけで年間8回ぐらいやって、その他に文楽とか、新内とかいろいろなものをやっていたけど、だんだん減らしています。


渡辺
そうか。たがを緩めたり締めたりね。

そういうのは理屈よりも感性だろうね。

浅羽
舞台の時、お客様が見ているのを後ろで見ているじゃないですか。

そうしたら、石の舞台を作った流政之さんにいわれたんです。

「女将、何でおまえさん、後ろで見ているの?」って。

だってお客様が寒いかしら、暑いかしら、大丈夫かしらと思って、

「お客は横から見ていなきゃ駄目だよ。

舞台の袖っていうのはそういうものだよ」って。

「なぜって? お客が反っくり返るような役者は呼んじゃだめだよ。

前へ、前へと行くような役者を呼ばなかったらだめなんだ」っていうのね。


渡辺
出演者と客の様子を観察するわけだね。


浅羽
それに襟元にマイクを付けるでしょ。

「それ何だ」

「先生、声が聞こえないの」

「おまえさんね、聞こえないようだったら、ここに出る資格はない。

客はここに金を払ってくるんだよ。

それなのに聞こえないんだったら、おまえさん、資格ないよ」って。


渡辺
いろいろ面白い人もいたでしょう。

浅羽
亡くなった8世の観世銕之丞さん、昔は2日間1泊でやっていたのね。

終わると翌日のためにみんな、ものすごく飲むんですよ。

終わった、終わったって、飲むは吸うわ、飲むは吸うわ、すごいんですね。

「先生、そんなに飲んだり吸ったりして、大丈夫ですか」っていったらね、

「おやじにいわれたよ。能楽師が飲んで、たばこを吸って声が出ないならやめちまえ。

それよりも、今日は西、今日は東と、あちこち歩いていることのほうが、どれだけ芸に影響するかって。

だからいいんだよ、女将。

吸ったって、飲んだって」ってそんな面白い話がいっぱいあるのね。
http://www.ikyu.com/magazine/hyaku/3/h3.htm


女将は24時間エクサイティング


渡辺
修善寺は東京からの距離も、そんなに近いわけじゃない。

熱海からさらに修善寺まで引き付けるのは、やはり魅力がないとね。


浅羽
昔は、「修善寺? 遠いんだよね」ってよくいわれました。


渡辺
今の人もそう思っているよ。


浅羽
熱海は近いんですよね。

だから私いつも

「温泉は、少々離れて、都会から遠いほうが、静養できますよ。

いわゆる温泉場にいらしてください」って。

それで長岡はいいけど、修善寺は田舎だっていわれるわけ。

昔は長岡って、奇麗な芸者さんがいて、楽しく遊ばせてくれるところだったんですね。

「長岡は楽しいけど、修善寺は、じいさんとかばあさんばっかり行くところだからなあ」ともいわれて。

渡辺
いや、長岡よりは修善寺のほうが変化があると思うけど。


浅羽
電車で、三島から乗り換えるのが大変なんです。


渡辺
乗り換えて、電車に乗ってみると、これはこれで面白いんだけどね。

東京にいるとちょっと分からないかも。


浅羽
その雰囲気が。


渡辺
2年前かな。新橋にいた女性だけど、伊豆のある旅館で女将をやってくれって、誘われて行った女性がいるの。

また最近、銀座にいた女性が、伊豆下田の旅館に誘われて行ったけど、素人が女将業をやるのは、結構大変でしょう。


浅羽
そんなに旅館の女将って、魅力があると思われているのかしら。


渡辺
表だけ見ていると、よさそうに見えるけど。

浅羽
なかなか、男の中の男じゃなきゃできないかも。


渡辺
でも、女は男より強いから、女の本当の地を出せば頑張れるかも。

でも、女将は相当な仕事で、そんじょそこらの人じゃできないんだよね。


浅羽
お客さんに笑顔でね、

「いらっしゃいませ」「どうもありがとうございました」ってね、

着物着て、笑顔でいればいい、という問題じゃなくて、先生。

こういう旅館は、滞留時間が24時間ですもの。


渡辺
気が休まる時間がないよね。


浅羽
だから、それが本当に好きで、次から次へと、ああしたら、こうしたらって楽しめないとできないですよ。

そういうことにエキサイトできる人じゃないと駄目ね。

寒い時に新内やると、みんな寒いと思うから、下に電気カーペットを引いて、ひざ掛けを一人二枚ずつ渡そうとか。

ホカロン出したり、間に甘酒を作ったり。

新そばの頃にはそばを練って、お汁粉を作って、合間に振る舞ってみたり。

夏は、かき氷をして、うちわを配って、蚊やりをやったり。

次から次へと、ああして、こうしてって考えて、それをやることが楽しいわけね。

で、お客さんが喜んでいるかどうかはまた別なの。


渡辺
客の立場で考えることが大事だね。


浅羽
それで喜ばれると嬉しくなって、どんどん、どんどんテンションが上がっていくわけなの。


渡辺
舞台の演じものもね。


浅羽
一つの舞台が始まると同時に、もう次の舞台のことを考えるの。

今度は何をやろうかって。

ポンとお調べの鼓の音が聴こえると、

「あ、やっと幕が開いた。次は何をしようかしら?」って。

演目によっては、2、3年前から計画して、アタックしているものも結構あるんです。

何も知らなくて、イメージで。

沖縄の舞いも、琉球の紅型って奇麗な衣装が、あの橋掛を摺り足でずっと歩いてきて、舞台の上で舞っていたら、所作が奇麗だろうな、という想像だけで、私は沖縄に行っちゃうのね。

「琉球の舞いを見たい、誰かいないかしら。

一番素晴らしい人を紹介してください」って、つてを頼って沖縄に行きました。


渡辺
先へ先へとやっているんだ。

それね、すごいことなんだよ。

兼行法師の『徒然草』に

「夏過ぎて、秋が来るにはあらず、夏のうちに、すでに秋の気配あり」

という一文があるけれど。

わかりやすくいうと、

「夏が過ぎて秋になるのではないと。

夏のうちにね、すでに秋の気配はあるんだ」

といっているんだよ。

これ、なかなか意味深い言葉でね。

夏の最盛期に、これでいいと思っていてはいけないと。

夏の中に、すでに秋の気配があるんだから、その秋に対処する方法を、事前に、夏のうちに考えておきなさい、といっている。


浅羽
まさにそのとおりですよね。
http://www.ikyu.com/magazine/hyaku/3/h4.htm

http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1109.html

記事 [ペンネーム登録待ち板6] 釈迦の悟りとは何であったのか? _ 3

1. 釈迦の悟り


釈迦は森林に住まう修行者の群に身を投じ、教えを求め、様々な師を訪ね歩きます。

しかし、満足することはできず、6年間の激しい苦行の生活を行います。死にギリギリまで近づき、断食で皮と骨だけになるほどの修行でした。

釈迦は限界まで苦行を極めましたが、結局は苦行では悟りは開けないことを知り、苦行を捨てることにします。

釈迦は当初、2人の仙人のもとで思想を学んだが、どの教えも彼を満足させず、釈迦は5人の修行仲間と共に苦行に突入した。

しかし、体を痛めつけたり断食をしても悟りに至る事はなく、“何事も極端に走るのではなく中道が肝心”と苦行の無意味さに気づき、35歳で6年続けた苦行を止めた。

他の苦行者は彼を脱落者として嘲笑した。

釈迦はネーランジャラー河の岸辺で村娘スジャータが作ってくれた“牛乳がゆ”を食べて体力を回復させると、ガヤー村の菩提樹の下で静かに座禅を組んで瞑想に入った。

悪魔が悟りを妨害する為に大軍を送ったが、釈迦はこれをことごとく調伏し、瞑想開始から49日後の12月8日未明に悟りを開き、彼は「菩薩(修行者)」から「仏陀(覚醒者)」となった。

ガヤー村は後に仏陀が悟った場所として“ブッダガヤ”と呼ばれるようになる。

釈迦はブッダガヤで悟った後、さらに49日間禅を組んだまま悟りの法悦の余韻にひたり、人生はここに極まったとして何も食べず死を選ぼうとした。

するとインド神話の創造神・梵天が目の前に現れ、彼に「悟りの内容を人に伝え広めなさい」と3回告げたという。

釈迦は伝道にあたり、最初に5人の苦行仲間がいるバラナシ郊外へ向かい、サールナートの鹿野苑で初の説法“初転法輪”を行なった。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic24.html


仏教の創始者であるブッダは菩提樹の下で命がけの座禅をした。

何日も何日も断食をし、不眠不休の座禅。

彼は精神と肉体を極限まで追い込んでいた。

それもこれも悟りを開き、人類を救済しようという大義のためだけに。

座禅瞑想の果てにブッタは遂に魔境にたどり着いた。

そこには魔羅というとてつもない力を持つ魔界の王が居たのである。

実はブッタは悟りを開く前に魔境の支配者である魔羅(マーラー)と戦っている。

一説によれば魔羅はブッタの闇の部分と言われているが彼は見事に魔羅に勝利し己の闇を克服した。

そしてブッタは深い瞑想状態から覚醒し、見事に悟りを開いたのである。

このように悟りを開こうとするものは己の中にいる魔物と戦わなければならない。

精神分析者のユングは己の中にいる魔物をシャドー(影)と言っていた。

つまり涅槃の境地を体得したいのであれば己の中に潜む魔を退治しなければならないのである。
http://religion.dot.thebbs.jp/1070291638.html

釈尊がさとったあと、榕樹のもとで瞑想していたとき、次のような想念が浮かんだという。

  『わたしによって証得された(adhigata)この法は、甚深であり、理解しがたく、さとりがたく、寂静で、すぐれており、分別の領域を超えており、微妙であり、賢者によって知られるべきものである。』(ヴィナヤ)
即ち、『さとり』に現れる『法』は、直感的、瞬間的な感得するようなものであって、いわゆる、思考によって得られるものではない。
そういう意味で、主体的(その人だけに現れるという意味で)であり、『さとり』で得られたものは、本来、言葉で表現しがたいものであり、概念によって(言葉によって)表現し、考える(思惟する)対象にはなりがたいものである。
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shotenporin.htm


ウパニシャッドにおいては、ブラフマン・アートマンが真実であった。
ウッダーラカは、サットを『この一切は、それを本性とする。それは真実(satya)である。」と説いた。
釈尊にあっては、真実とは、すなわち、法である。
個人、個物は、それを成り立たしめている諸法という存在根拠において真理性をになっている。
生成流転する現象世界が、そのままで、真理の世界(法界)である。
もし、不動の「われ」という静止点から、その流転する世界を見るとするならば、法界は対象的思惟の領域にあるといえよう。
しかし、「われ」も、その存在根拠を諸法にもつ。
したがって、「法を見る」とは、きわめて主体的な事柄であり、それは、換言すれば「法と即一なる自己」を見いだすことである。
ちなみに、法のこのような主体的側面は、原始仏教から部派仏教への展開の過程で失われていった。
_____________________________________

ゴータマ・ブッダは、それまで輪廻的な生存の最終原因であるとされていた欲望(貪と瞋)のさらに奥に、自覚しがたくコントロールしがたい根本的な生存欲(無明、癡、渇愛)を発見し、
それを智慧によって滅ぼし、そして苦である輪廻的な生存を終結させ、目覚めた人、ブッダとなった。

根本的な生存欲を滅ぼしたということは、とりもなおさず輪廻的な生存の直接の原動力である善悪の業をも滅ぼしたということである。
善悪というのは、人間が生活世界で生きるために欠かすことのできない価値である。
逆にいうと、ふつうの人間が、この世で生きることに意味を見出せるのは、善悪の価値を判断することに、何の疑いもなく意義を憶えるからにほかならない。・・・。
ところが、ゴータマ・ブッダのように最終的な心の平安(涅槃、寂静)にいたった人は、当然のことながら善悪を超越し滅ぼしているのであるから、価値判断に何の意義も見出すこともなく、したがってまた、この世に生きることに何の意味も見出すことがない。
ゴータマ・ブッダは、この世のものはすべて虚妄であるとか、空であるとか、幻であるとかいっている。
これは、そうしたことからの自然の帰結である。
ただ、誤解を避けるためにいっておくと、ゴータマ・ブッダは、・・・、シャンカラが唱えたような幻影論を唱えているわけではない。
ゴータマ・ブッダは、ここで「本質論的に(あるいは存在論的に)世界は虚妄である」といっているのではなく、
『目覚めた人、ブッダとなったみずからの実存にとって世界は虚妄である』
といっているのである。・・・。
根本的な生存欲を滅ぼした人にとって、世界のいかなるものも意味をなさないというのが、ゴータマ・ブッダが成道で到達した境地である。
このように、生の根源を断ち切ったゴータマ・ブッダには、まことに微妙な問題がつきまとう。
そもそも、根本的な生存欲がなくなるということは、とりもなおさず、生きようとは思わなくなるということである。
したがって、そのような状態にいたった人が、そのまま朽ちてあとは死を待つばかりという心境になっても不思議はない。
たとえば、仏教と同じ地域に同じ時代に興ったジャイナ教では、サッレーカナーというが、涅槃にいたった人はただちに完全な断食に入り、そのまま死ぬのである。」
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shotenporin.htm
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「アートマン(永遠不滅で常恒 = 変化しないので、病気にもならない、死ぬこともない、完全無欠な存在)」

と古代インド人が呼んだモノが有るか無いかということは、出家した当初のお釈迦様にとっては最も重要な問題だったと思います。
それは、

@お釈迦様が苦行をしたという伝承や経典の記述と
A古代インド人が解脱や悟りは「アートマン」によって存在しているに過ぎない体の不完全性を苦行によって改善すれば達成されると考えた

ということとを重ねれば納得できます。 しかし、苦行をいくら重ねても苦を止滅させ(苦しみから解放される=涅槃を成就させ)ることができなかったため、「アートマン」に頼るのを止めました。

それが五蘊のどこにも「アートマン」を見つけることが出来ないという有名な初転法輪の説法となったのでしょう。
五蘊非我とも五蘊無我とも言います。 この発見あたりがお釈迦様自身の預流果入りだったのでしょう。

したがって、非我(無我)というのは、存在論ではなく、認識論となります。 有るか無いかを論じても、証明はきわめて難しい、或いは、不可能です。 一歩譲って、仮に、悟り体験によってお釈迦様が如実に「アートマン」の欠如を知っていたとしても、「四諦」の実践には不要な知識です。 「四諦」は、アートマン論を必要としていません。

個人的には、五蘊非我を知った時に、お釈迦様はアートマン論を捨てたと思っています。

悟った人を阿羅漢とします。阿羅漢の見る世界は、悟る以前とは様変わりしているはずです。見るものすべてがただ見えるだけであって、美しいとも汚いとも愛しいとも何とも思えないのですから、私たちにとっては何とも味気ない世界です。
恐らく、花は紅と見えるのでしょうが、そこに価値観が介入しないのですから、阿羅漢にとっては以前と同じ紅ではないでしょう。
私たちから見たご馳走と糞と反吐とに何の区別もなくなるのだと思います。
無常・苦・無我とセットで説かれる無我とは、自己の五蘊に対する観察結果です。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/60045184.html

釈迦の言う悟りというのは誰にでも困難無く達成できるものだった:

阿羅漢と言う言葉がありますが、インドの宗教一般で、「尊敬されるべき修行者」をこのように呼んだようです。

初期仏教では修行者の到達し得る最高位をこのように呼び、学道を完成しこれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を「無学位」ともいいます。

それ以下は、不還果・一来果・預流果を「有学」(うがく)位といいます。

この阿羅漢果を得た人はお釈迦様と同等の悟りを得たものと考えてよいはずです。

 サンスクリット語経典の中でも初期に書かれたものは、

お釈迦さまもガヤでの成道(悟りを開かれたこと)のあとサルナートに向かい、
つい最近まで苦行を共にしていた五比丘を訪れ、
初転法輪(初めての説法)によって五人の比丘は「釈尊と同じ悟りに入った」とされます。

ただ説教しただけでなく、それによって五比丘はお釈迦様と同等の悟りを得たと表現されている場合があります。

 また、釈迦の十代弟子といわれる人のほとんどは、釈尊のお墨付きをもらっています。

 有名な話は説法第一といわれる 富楼那という仏弟子がいました。

彼は、弁舌巧みな布教者でした。

あるとき、気性が荒々しく、粗暴だといわれる地方へ布教に行くことになり、旅立ちにあたり、お釈迦様が質問しました。


「富楼那よ、その地の人々にののしられたり、あざけられたりしたらどうするつもりか?」

「世尊よ、『この国の人たちは、私を手をあげて打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」

「富楼那よ、手をあげてお前を打ったらどうするつもりか?」

「世尊よ、『この国の人たちは、私を棒で打ったりしない。とてもよい人たちだ』と思うことでしょう」

「富楼那よ、その地の人々がお前を殺したら、どうするつもりか?」

「世尊よ、『世の中には自ら命を絶つものもあり、誰か自分を殺してくれないかと願うものさえいる。願わなくとも殺してくれた』と思うことでしょう」


 これは、原始仏教聖典である『阿含経』の一部『相応部経典』にある一節です。

辺境の地での布教は、これほどの覚悟が必要だったということでしょう。

こうした問答の後お釈迦様は、富楼那の悟りを認め旅立つことを許したといわれます。
 
 しかし、釈尊滅後それではだんだんと都合が悪くなってくるようです。

お釈迦様を特別な存在にしておきたい人々が現れます。

それが大乗仏教のと呼ばれる仏教を提唱する人々です。

その時に大乗仏教たちがそれ以前の仏教にたいして「小乗(劣った乗り物)仏教」と呼びはじめたのはご存知だと思います。

大乗仏教教団ができる以前は、お釈迦様以外悟っていなかったということはなかったはずです。

お釈迦様が悟りにオッケー出してるんだから「阿羅漢」が仏と同等ということに文句の付つけようがありません。


 しかし、大乗仏教では「声聞」を阿羅漢と呼び、批判的に仏と区別しています。

大乗の修行者を「菩薩」と呼び悟りを得ることはできるが、

小乗の「阿羅漢」と自然との対話の中で独自に悟りを得る「独覚(どっかく・または縁覚ともいう)」は仏になれないとされ、

さらには「地獄」へも堕ちることができず、その位のまま輪廻が繰り返される
とする論書さえ存在しているようです。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3288558.html

中村氏は、コーンダンニャの目覚めを<さとり>と訳している。
「ああ、コーンダンニャはさとったのだ! ああ、コーンダンニャはさとったのだ!」
と言うゴータマ・ブッダのことばがそれである。
宮元氏が「了知した」と訳しているが、二つの訳は日本語で読む限り別な意味を持つように思える。
もっとも、中村氏の「さとった」という訳語を「さとった=理解した=解かった」というふうに読めば、宮元氏と同じ意味合いになる。

 だが、中村氏は同じ本の中でも、また、別な本の中でも、「さとった」を解脱を意味する「さとり」としている。

  「ともかく右の文からみるとコーンダンニャが最初にさとりを開き、他の四人は釈尊の教えを受けて遅れてさとりを開いたのである。」
(ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯)

  「(688の註より)アンニャー・コンダンニャは、最初の説法を聞いて弟子となった五人のうちの一人として最初に挙げられる。・・・。
ブッダが鹿野苑で五人の修行者にたいして、最初の説法をしたとき、最初に阿羅漢のさとりを開いた人である。
ブッダが「ああ、実にコンダンニャは悟った」とたたえたので、アンニャーとかアンニャータと呼ばれるようになった。」(仏弟子の告白 テーラガーター)

 この、五人の最初の弟子たちの「さとり」は、いろいろな意味で重要なものであろう。
というのも、ゴータマ・ブッダの入滅後(死後)、「さとり」をだんだん難しく考えるようになり、容易に達することのできない境地としていくからである。
部派仏教では、次第に、「さとり」「解脱」「涅槃」という仏教教団での修行の一番の目標をどんどん高く難しくしていったようです。http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shotenporin.htm

142 名前:名無しさん@3周年:2006/08/28(月) 23:51:26 ID:L6V0iys+

ブッダという呼び名を釈尊にしか使わないだけで、悟った弟子はたくさんいました。

ブッダが悟った後、かつての修行仲間4人に教えを説きます。

その4人が最初の弟子です。 で、その4人も悟りを開きました。

その時ブッダは喜んで、 「ここに5人の阿羅漢が誕生した」 と言ったそうです。

ブッダ自身も含めて5人の阿羅漢。


240 名前:名無しさん@3周年:2006/09/05(火) 22:18:32 ID:hu3AQYw8


本経(転法輪経)の説時はアーサーラ月の十五日(日本では八月二十二日に当たる)であった。

コンダンニヤ長老は転法輪の終了時に、
ヴァッパ長老は十六日に、
バッディヤ長老は十七日に、
マハーナーマ長老は十八日に、
アッサジ長老は十九日にそれぞれ預流果に達し、

二十日無我相経の終了時に五人全員阿羅漢果に達した。


244 名前:釈迦原理主義者:2006/09/06(水) 08:48:39 ID:ggnk6gBu

 最近思うのですが、仏教の目標である解脱者となることをあまりにも難しい大事業のように捉えるのは間違いではないか、と。

先ず最初から軽く且つ硬く「できる」と思い込む事が大事だと感じます。

人生何事もそうですが、できると思う人はでき、できないと思う人はできないのです。

 ゴータマブッダ御存命中は多数の阿羅漢がでました。
ブッダという先生・お手本が目の前にあったからです。
ところが、大乗と称する人たちは仏教をえらく難しく神秘的にしてしまいました。
権威付けという賎しい動機もあったでしょう。

だから、反動で念仏を唱えるだけで成仏できるとする八正道無視の超単純ワープ論が跋扈してしまいました。
明らかにゴータマブッダの仏教ではありません。
 
 だから、先ず「できる」と積極的に気軽に捉えましょう。
http://um.denpark.net/1155998054.html


Q:  阿羅漢の人数

お釈迦様の時代には、阿羅漢は何人いたのでしょうか。第一回仏典結集の時には500人の阿羅漢が集まったといいますし、日本各地には500羅漢像などがあります。一説には1250人と経典にでているとも聞きました。

A: これは本当にわからないんですよう。Yasaという若い方の出家とともにたちまち阿羅漢たちは60人でしたし、それは釈尊が悟りを開いて一年足らずでしょう。それから、伝道に行きましたが、釈尊はJatila行者の三兄弟に説教するために出かけた。そちらの弟子たちはまとめて1500人でしたそうです。皆、阿羅漢になったのです。

Sariputta, Moggallana両尊者の活躍も並大抵のものではなかった。経典では釈尊の説法会を説明するたびに沢山の人々は阿羅漢になったとrefrainでかくのです。

阿羅漢になったら、出家するでしょうし、これについてお釈迦様が、「家を破壊するために」くるのだと批判を受けたこともあった。当時の仏教界には悟りは決して珍しいことではなかったのです。在家の方々は中に第一段階の預流果に達した人々も沢山いました。

とにかく、現代私たち知っているのは記録に残している方々の情報だけです。
食事や住むところなどの問題も出てきますから、出家皆釈尊と一緒に旅をしたわけでもない。阿羅漢たちはほとんど一人でいるか、伝道して回るかでした。出家したばかりの人々は少々時間仏陀と一緒に旅をするが、仏教を十分理解したところで悟りに励むのです。ですから、一人で生活をする。 たまに、釈尊も大大会行います。そのときですね、大阿羅漢たちは一箇所に集まるのは。

仏典に記録してあるのは全てサンプルになる人格者です。知識の頂点に達していたSariputta尊者や、殺戮者のAngulimala,(極端的な例ですが)などです。平の一般の出家者について記録するほどではなかったみたい。記録されている阿羅漢や在家信者の話は、すべて後輩に対するアドバイスと模範なのです。人類の性格のcross cutのようなものです。勉強になります。

阿羅漢の数はわかりません。結集のときも特別に選ばれた方々だそうです。阿羅漢なら皆OKではなかったのです。その特定の仕事に対して能力あるかないかは基準でした。「一説にある1250人は」そのときの集会に集まった方々の数でしょう。沢山いる、数えられない、旺盛、などの意味を語るためにPali聖典によく使う数字があります。84000です。かるがるく、仏陀の時代では阿羅漢たちは84000以上でしたと記録するのです。


Q:  ところで、次の質問ですが、お釈迦様の時代には、なぜそんなに大勢の人々が阿羅漢に悟れたのでしょうか。なぜ、現代では阿羅漢は大変珍しい存在になってしまったのでしょうか。それとも、現代でも阿羅漢は結構たくさんいるのでしょうか。
A: 
  > 次の質問ですが、お釈迦様の時代には、なぜそんなに大勢の人々が阿羅漢に悟れたのでしょうか。
@時代的に、同じ時代の人々はほとんど似たような興味をもっているのです。現代でもそうなんです。釈尊の時代では「食い物よりも精神の探検」だといえるような流行でしたし、Siddhatta王子も「なぜ皆探しているのに真理を発見しないのか」と言う疑問ももっていました。お釈迦様に出会った探求者たちは、もともと大物たちで、方法は変わっても「瞑想」などは日常的な当たり前のことでした。「お釈迦様がラッキーでしたとしか言いようがない。

A発見者自信の発表は生き生きして力強いでしょう。仏陀から直々説法聞くことと、仏陀に学んで伝えることはレベルは違います。自然の流れで仏法を伝統的に伝えられていくと、「あの説得力」は徐々に減ります。

B仏陀の方法論、指導法、言語力、影響力などは最高のレベルでしたし、それに大弟子たちの力も加えると。Purisadamma saarathiiとは仏陀の9徳の一つ、人々を導くことにおいて御者・リーダーと言う意味です。

C社会は限りない贅沢を欲しがってもいなかった。日々の食べ物ぐらいあれば、満足でした。それにインドはそれなりに豊かでした。どこまでも欲を目指す現代人と違って、現在は豊かでいるなら、「あの世の幸福に挑戦するそう」というのは一般常識でした。

D豊かであっても、悩み苦しみは常に目の前にあった。民主主義的な共和国家は壊れて、独裁国家(王政)があらわれる変換時期でした。国は滅びる、親戚が殺される、自分の財産まで、隣国の軍人に奪われる。俗世間は空しくてたまらなかったのです。

Eそれに対立して、現れたのは、宗教と哲学。知識人も一般人もそちらに居場所をみづけたのです。宗教も、論理学も、弁証方法もピンからキリまであったので、人々の基礎ができてあったので、お釈迦様が「ラッキー」でした。

  また、色々と理由がありましが、省略します。要するに「時代のながれ」かなぁ?皆、興味があったのです。

   > なぜ、現代では阿羅漢は大変珍しい存在になってしまったのでしょうか。
     それとも、現代でも阿羅漢は結構たくさんいるのでしょうか。
 お釈迦様の時代のようにざらにいるとは決していえないのです。いるともいないとも、私個人としてはいえるものではない。修行して経験に達した方々はいることはいるが、皆、それを大秘密にしているのは普通の決まりになっているようですね。ですから、私に報告をした方々のことも、公にしてはいけませんし、全然そんな気にもなりません。解脱を真剣に捜し求めている方々に簡単にみつかることだけは確かです、現代でも。
仏陀がいてもいなくても真理は真理ですから、その真理を発見する人は覚者なのです。悟る方法を教えているから、その通りにやればだれにでもできるというのは決まりです。
現代人の社会関係は価値観的に乏しい、豊かなのに、金儲かることにしか興味がない。(精神的貧乏)「将来は不安」といっても、結局は金のこと。開祖さまになって、新興宗教をつくっても、それは結局、金と権力を儲かる手段。宗教から人々は求めるのは人格向上ではなく、ただの「ご利益」。(どこまで、貧乏で、ケチか神のみしらずです)教育も金を儲かるためだけの勉強。真理・道徳・人生論などは毒物。娯楽などの誘惑はあり過ぎ。宗教は会社失敗する人の、人生を失敗する人の、精神的な問題あるひとの駆け込み寺と現代のバカモノたちが思っている。
従って、瞑想なんかは「格好悪い」に決まっている。修行する人さえもなんとなく後ろめたさをかんじる。これらは現代人にとってはハンディですがやればできる。何時の時代でも悟られると釈尊が説かれました。(女性の出家で、教えの寿命は半分になったとおっしゃっていたのにも関わらず)仏陀の教えは流行になるならば、覚者たちはいくらでも現れる。確か。価値観、興味などで汚染しているからといって人間の(こころの)能力は昔も今も同じ。 
http://www.j-theravada.net/qa/qahp72.html

悟ったからと言って人間的に成長した訳ではない:
悟りの体験を何度も繰り返し得て、生きている間に、それを究極まで徹底できたとしても、その人は「その人のまま」、ごく普通の人間である。
ユング派分析家のウォルター・オダージンク著『瞑想とユング心理学』では、禅が特徴として、純粋意識、というべきセルフのウロボロス元型だけを活性化する。
個人的無意識を無視するために、悟りの体験を持ちながら、幼児的、暴力的な個人的心を持つことさえある。

プロセス指向心理学の創始者アーノルド・ミンデルは『自分さがしの瞑想』において悟りの落とし穴について述べています。
悟りを最終目標として、それに到達すればすべての問題が解決する考えは、東洋の瞑想の誤解であり、そこから、うぬぼれが出てくることがあります。
他人をレベルが低いとか、幼稚とかみなす傾向があるといっています。

オダージンクさんとミンデルさんがいっていることは、まさしくそのとおりではないかと思うのです。

大乗経典においても、悟りの体験者に対して慢心の罪は五逆の罪よりも重いとまでいうほど厳しく戒めています。

その矛先は自身にも、もちろん向けられているでしょうが、主に小乗の阿羅漢たちに向けられているようにも感じられます。
他人のそれには敏感であっても、自身のそれには気づかないことは大いにありうることです。

個人的な心の問題については手付かずのままということになるのではないでしょうか。
幼児的、暴力的な個人的心を持っていないなどとはいえない。また、対人関係の問題についても、葛藤を抱えたままであるでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/jd6j5rlure09f3/e/abddfac859553290baa3a16b86c396b0

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__________

9. 釈迦の言葉

@ ブッダの悟りについて

ブッダによれば、その悟りの内容は「縁起」(ものごとは縁って起きるということ)でした。

すなわち、人間の悲苦にはそれを生じさせている原因や条件があり、その原因や条件をなくせば人間は悲苦から解放される、というものでした。

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かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、ウルヴェーラーのネーランジャラー河のほとり、菩提樹のもとにあって、初めて正覚を成じたもうた。

そこで、世尊は、ひとたび結跏趺坐したまま、七日のあいだ、解脱のたのしみをうけつつ座しておられた。

そして、七日を過ぎてのち、世尊は、その定座よりたち、夜の後分のころ、つぎのように、順次にまた逆次に、よく縁起の法を思いめぐらした。

「これがあれば、これがある。
これが生ずれば、これが生ずる。
これがなければ、これがない。
これが滅すれば、これが滅する。

すなわち、無明によって行がある。

行によって識がある。
識によって名色がある。
名色によって六入がある。
六入によって触がある、
触によって受がある。
受によって愛がある。
愛によって取がある。
取によって有がある。
有によって生がある。
生によって老死・憂・悲・苦・悩・絶望がある。

この苦の集積のおこりは、かくのごとくである。

また、あますところなく、無明を滅しつくすことによって行が滅する。
行がなくなれば識がなくなる。
識がなくなれば名色がなくなる。
名色がなくなれば六入がなくなる。
六入がなくなれば触がなくなる。
触がなくなれば受がなくなる。
受がなくなれば愛が無くなる。
愛がなくなれば取がなくなる。
取がなくなれば有がなくなる。
有がなくなれば生がなくなる。
生がなくなれば老死・憂・悲・苦・悩・絶望がなくなる。


この苦の集積の滅尽は、かくのごとくである」と。

(ウダーナ 3、増谷文雄訳『仏教の根本経典』大蔵出版、25〜26頁)

A 信仰について

ブッダは、人間の悲苦にはそれを成立させている原因や条件があり、その原因や条件を知り取り除くことが、悲苦からの解放をもたらすと考えた(縁起の思想)ために、神秘的な力に寄りすがる信仰などは、これを捨てよ、と説きました。

_______________________________

ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
そなたは死の領域(死王が支配する世界=悲苦にさいなまれる煩悩の世界)の彼岸にいたる(超克する)であろう。
ピンギヤよ。
(スッタニパータ 1146、中村元訳『ブッダのことば』岩波書店)


B 世界について

ブッダは、人間苦を成立せしめる原因となり条件となっているものに対する無明(無知)を克服すること(知)こそが救いの道であると考えた(縁起の思想)ため、形而上学的見解(空想的ことがら)については、それは知ではないとして認めませんでした。

そのため、人間にとって有意義な「一切」とは、人間の知の及ぶ世界と内察できる心だけであり、それ以外の「一切」を説こうとすると、根拠がないので単なる言葉だけに終わるであろうと説きました。

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比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。

よく聞きなさい。「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。

それは、

眼と眼に見えるもの、
耳と耳に聞こえるもの、
鼻と鼻ににおうもの、
舌と舌に味わわれるもの、
身体と身体に接触されるもの、
心と心の作用、

のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。

誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、
それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。

さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。

何故か。
何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。

(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)

C 無常と恒常について


ブッダは、世界については、すべては無常で変滅し恒常不変なものはない(諸行無常)と理解しており、例外はいっさい認めませんでした。

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かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。

その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。

「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」

「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」

そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。

「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には
存しないのである。」

(サンユッタ・ニカーヤ 22:97)

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。

その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。

「大徳よ、世間、世間と称せられるが、一体どのような意味において世間と称せられるのであろうか。」

「比丘よ、破壊するがゆえに世間と称せられるのである。

比丘よ、眼は破壊する。鼻は破壊する。舌は破壊する。身は破壊する。意は破壊する。

また、それらの触(感官)を縁として生ずるところの感受は、楽なるものも、苦なるものも、あるいは非楽非苦なるものも、すべて破壊するのである。

比丘よ、このように、すべてが破壊し遷流するがゆえに、世間と称せられるのである。」

(サンユッタ・ニカーヤ 35:82)

アーナンダよ、やめよ。悲しむな、泣くな。

アーナンダよ、わたしはかつて説いたではなかったか。

すべて愛し親しめる者も、ついに生き別れ、死に別れ、
死してはその境界を異にしなければならぬ、と。

アーナンダよ、一切は壊れるものであって、
ひとたび生じたるものがいつまでも存することが、どうしてありえようか。

(ディッガ・ニカーヤ 16)

D ブッダの教え(仏法)について


ブッダは、すべては無常であり永遠不変なものはないという理解にそって、自分自身の教え(法)でさえ、それを絶対視して執着してはならないことを弟子たちに教えました。


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比丘たちよ、教え(法)というものは筏のようなものであることをなんじらに示そう。・・・

譬えば街道を歩いて行く人があって、途中で大水流を見たとしよう。

そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。

しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。

そのときその人は、草、木、枝、葉を集めて筏を組み、その筏に依って手足で努めて安全に彼方の岸に渡ったとしよう。

かれが渡り終わってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。すなわち『この筏は実にわれを益することが多かった。われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう』と。

なんじらはそれをどうおもうか?
そのひとがこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをしたのであろうか?

そうではありません、師よ。

・・・比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。
(マッジマ・ニカーヤ 22)

E 拠り所について

ブッダは八十歳で死にましたが、死ぬ少し前に、師を失うことに心を痛めていたアーナンダやその他の弟子たちに対して、これからは、各自が自己と真理だけを拠り所として生きてゆけ、と説きました。

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アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに八十となった。たとえばアーナンダよ、古き車が革ひもの助けによって行くがごとく、そのごとくアーナンダよ、思うに、わたしの身体は、革ひもの助けによって、わずかに保っているに過ぎない・・・。
それゆえ、アーナンダよ。なんじらは、これからは、自己を燈明とし、自己を拠り所として、他人を拠り所とせず、真理を燈明とし、真理を拠り所として、他を拠り所とせず、生きていきなさい。
(ディッガ・ニカーヤ 16:2.25-2.26)


アーナンダよ。このようにして、修行僧は自己を灯明とし、自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。

アーナンダよ。今でも、また私の死後にでも、誰でも自己を灯明とし。自己をたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、彼らは私の修行僧として最高の境地にあるであろう、−誰でも学ぼうと望む人々はー。
(二十六)(大パリニッバーナ経』二)


F 死後の世界について

ブッダは、人間が死後も存在するかどうかというような人間の知識を超えることがらについては、それは独断にすぎず、無益なものであると考えて、沈黙を守りました。
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滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか。世尊よ、どうかそれをわたしに説明してください。あなたは真理をあるがままに知っておられるからです。

師は答えた。ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準がない。かれを、ああだ、こうだと論議する根拠がかれについては存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、すべての論議は絶えるのである。
(スッタニパータ 1075〜1076)

尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。

「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち ---

世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか・・・、

これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ 参って、この意味を尋ねてみよう・・・。

もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)

「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのように説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを
征服することをわたしは教えるのである。
(マッジマ・ニカーヤ 63)


ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマ・ニカーヤ 72)

弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」

「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマ・ニカーヤ 22)


G「宇宙即我」について

ブッダは、「世界(宇宙)と我はひとつである」などという主張は、実証できない空想的独断に
すぎないので、まったくおろかな見解である、と説きました。

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弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」

「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマ・ニカーヤ 22)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/okawa.html


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10. 仏教が釈迦の教えを無視した理由


伝承者達はゴータマ・ブッダの言説をそのまま記録して伝承していると主張する最もゴータマ・ブッダの言説に近いものを含んでいるとされるパーリ語の経典・阿含経でさえ、考え方の大きな振れや用語の多用さや不統一性を見ることができますし、教えにも矛盾らしきものを感じられる。

 現存の阿含経は、ゴータマ・ブッダ滅後二十ほどに分裂した仏教教団(部派)がそれぞれに解釈しなおして伝承保存していた各部派の阿含経のうちの、上座部という部派が保存していたものである。
極端な言い方をすれば、部派の数だけの、内容の異なった阿含経が存在した可能性もある。
http://www.geocities.jp/avarokitei/bukkyo-nenpyo/bukkyo-nenpyo-1.htm
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1225520767

もし、
@ ゴータマ・ブッダの「さとり」と「解脱」が永遠の真理であり、人間が存在する限り、疑う余地のないものであったなら、
A ゴータマ・ブッダが正確に弟子(比丘)たちに、その真理を伝授出来ていたなら、
B 比丘たちや仏教の行なわれる所(社会、世間)の住人(信者たち)が、ゴータマ・ブッダの教説を真理であると理解し(信じ)、その教説の曲解を認めないなら、
C ゴータマ・ブッダの言動が一致していたなら、
D そしておそらく最も根本的な事柄、目指す境地の食い違いがないなら、

仏教はいかなる変化も有り得なかったはずである。

 ところが、今、私は、日本においてそれこそ星の数ほどの多様な仏教と自称するものを見聞きする。
中国においても同様であったらしいと知る。
それどころか、原産国インドにおいてさえ、すでにゴータマ・ブッダ滅後二世紀ほどでゴータマ・ブッダの弟子達が分派を始めている。
そして、如来蔵思想や呪術を主体とした密教がインドで起ったらしいのだ。 図書館に行っても、書店に行っても、目にする仏教関係の本は、どれもさまざまな解釈を展開している。 要するに、@〜Dのいくつかがその通りでなかったのだ。
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-satori.htm


スッタニパータ(パーラーヤナ篇、アッタカ篇を含んだ)とマッジマ・ニカーヤ(中部経典)とは、ともに阿含経と呼ばれる経典群のひとつであり、阿含経はゴータマ・ブッダの教説が口伝で師から弟子へと教え継がれ、やがて成文化したものであって、阿含経以外には同時に同じように伝え残された律蔵しか、直接ゴータマ・ブッダの教えに迫れるものはない。
その阿含経の記述が大きく食い違っているということは問題である。
疑えば、阿含経全体がゴータマ・ブッダの教えを正しく伝えていないと推量することも出来ることになる。
ゴータマ・ブッダの教団が分裂した後、現在の阿含経を伝承した教団・上座部の人たちに都合の良い教えだけ、あるいはその人たちの思想を織りまぜて伝承したのではという疑いである。http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shugyo.htm

あまねく人々に対して教えを説くということは、当時のインドとしてはまさに未曾有のことであった。
これがウパニシャッドの哲人の場合と比較してみると、よく解かる。
これらの哲人は、教えを授ける相手を狭く限って、自分の子とか、或いは教えを受ける資格のあるすぐれた人々に対してのみ教えを説いた。
ところがゴータマ・ブッダはこの制限を破ってしまった。
http://www.geocities.jp/avarokitei/go-tamaryakuden/go-tama-shotenporin.htm

 初期仏教から7、8世紀頃までの仏教は、その最大の手段は、業と煩悩の止滅を追求する<止滅の道>であった。
この多分に都会的な形而上学的、自己探求型の宗教は、当時の豊かな商業経済に裏付けられた都市型の文明に支えられていた。
シッタータ王子も生まれてから青年に達するまで宮殿をほとんど出たことがない。
仏教は、アーバンな衒学的な色彩を有した貴族の宗教たり得たのである。

ところが、貿易相手の西ローマ帝国の滅亡とともに、社会のあり方が、重商経済国家から、帰農国家に様変わりしていったのだ。
農村中心の社会が再構成されるに従い、仏教も土臭い庶民の心に対応していくことになる。
つまり、出家僧個人の精神的至福の追求から、在家信徒の現世利益追求型へのゆるやかな転換である。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/3posss.html

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4. 部派仏教の段階で既に否定された釈迦の教え

説一切有部・経量部、竜樹・中観派、唯識派、インド哲学関係年表

仏陀滅後100年後? 部派仏教(上座部系と大衆部系)時代始まる。

 第二回結集(経典の再編集→経蔵・律蔵成立)
 アビダルマ論書始まる。
  「阿毘達磨発智論」カーティヤーヤニプトラ著。
 枝末分裂進む。

西暦前160頃 メナンドロスの北インド統治。
   ギリシャ哲学流入。

西暦前100頃 ミーマーンサー学派「ミーマーンサー・スートラ」。
   ヴァイシェーシカ学派。
西暦前後? 般若経などの大乗仏典成立。 
  「ヴァイシェーシカ・スートラ」。

100年頃 「阿毘達磨大毘婆沙論」(説一切有部の論書注釈)成立

200年頃 竜樹(ナーガールジュナ)の「中論」など成立。
   ニヤーヤ学派。「ニヤーヤ・スートラ」。

300〜400頃 中期大乗仏教。「大般涅槃経(大乗系)」「解深密教」。
  ブッダゴーサ「清浄道論(ヴィスッディマッガ」。
  ナーランダー僧院。
  弥勒(マイトレーヤ)「喩伽師地論」など。無着が続く。
  サーンキャ学派の綱要書「サーンキャ・カーリカー」。
  世親(ヴァスバンドー)「阿毘達磨倶舎論」(本論の注で経量部の立場示す)
  説一切有部のサンガバドラ「阿毘達磨順正理論」。
  ヴァスバンドー「唯識二十論」などで唯識派に移る。
  「ヨーガ・スートラ」。
500頃 ディグナーガ、仏教論理学(印明)。
  中観派分裂(帰謬論証派と自立論証派)。
  ブッダパーリタ、パヴィヤ(バーヴァヴィエーカ)、アスヴァバーヴァ、スティラマティ、ダルマパーラ、パラマールタなど。
600頃 チャンドラキールティ。
  チベットに仏教伝わる。
  玄奘、インド旅行。
  経量喩伽派。
  ダルマキールティ。
  義浄、インド旅行。
700頃 喩伽行中観派(中観喩伽派)。
  シャーンタラクシタ、カマラシーラ、ハリバドラ。
  チベットでカマラシーラと中国禅僧、論争。
900頃 密教隆盛。
1203年 ヴィクラマシー寺院焼け落ちる。インド仏教急速に衰亡。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59193287.html

「中観」の後に「唯識」が出て来ますが、やはり釈尊の仏教の正統は「中観」だと思っています。 つまり
「唯識」は、実質、アートマンを認める神秘主義に堕していく、
「密教」は、完全に、ヒンズウー教に飲み込まれたもので、インドでは、存在理由がなくなり、自滅して行った。
2010/3/7(日) 午前 1:16 [ sat*atu**200* ]

竜樹を初期中観と呼べば、その後に経量部や唯識派が教勢を拡大したため、初期・中期中観派は遅れをとったようですね。弟子が集まらず、論争にも負けたということでしょうか。そのために、経量部・唯識派の教理を咀嚼して取り込んだ後期中観派(上の年表では700頃 喩伽行中観派(中観喩伽派というのがそれだと思います)が誕生し再び教勢を復活させたと書いてありました(梶山雄一著「空の論理<中観>」)。
それにしても、どうしてお釈迦様の仏教(だけではないのですが)はどんどん変容するのでしょうね。
どうして、お釈迦様のままではいけないのでしょう。
2010/3/7(日) 午前 11:59 [ avarokitei ]

『それにしても、どうしてお釈迦様の仏教は、どんどん変容するのでしょうね。』

末法思想といいますが、<我・エゴ>が、人間を引きずり込むのでしょう。

「唯識」は<アラヤ識、実質は我>を生み出し、
「密教」はヒンズー教に飲み込まれ<大我>を生み出しました。
結局、アートマンを認めてしまっているのです。
(実際の人間の行動のレベルでは、差異はなくなったのです) これは、末法そのものです。
2010/3/8(月) 午後 3:33 [ sat*atu**200* ]

おっしゃるように、唯識や密教が我を呼び戻してしまったとすれば、残念なことだと思います。
我を復活させたということは、普通の人のレベルに合わせてしまったということでしょうから、元の木阿弥だということでしょうか。ただ、般若経典を作成し、衆生の成仏を目指した大乗の人々の願いと、お釈迦様の涅槃というものが本当に一致するのかどうか、私は、一致しないと感じます。
2010/3/8(月) 午後 11:22 [ avarokitei ]
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59193287.html

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上座部仏教

1.歴史
釈迦の没後、約500年を経て、弟子達の間で教義や実践を巡る『根本分裂』が起こり、原始仏教(初期仏教)の仏教教団は、大乗仏教、上座部仏教)に分かれた。

出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけがさとりを開き救われ、修行をしたわずかな人しかが救われない。このため、一般の人々は救われないというのが、釈迦の没後、長い間この思想が定着した。この思想を遵守しいたのが上座部仏教である。上座部がさらに分派したが、説一切有部が大きな勢力になり、現時点の上座部仏教はこれになる。

上座部仏教はマウリア朝アショーカ王の時代にインドから主に南方のスリランカに伝播した。スリランカ王デーヴァーナームピヤティッサ(前250−210年在位)は王都アヌラーダプラに後世「大寺」といわれる寺院を建設した。その後、5世紀に入って、スリランカの外からブッダゴーサという僧が大寺にやってきた。彼はパーリ語で『ヴィスッディマッガ』という書を著すと共に、シンハラ語に翻訳されていた古注釈をもとにパーリ語の仏典注釈を作成した。彼の活躍により以後上座部仏教の著作はパーリ語で書かれるようになった。

ミャンマーは古い時代からインドと交流があり、上座部を含めて様々な仏教が伝わってたが、11世紀のアノーラータ王の時、上座部は王の信奉を受け盛んになる。スリランカ王ヴィジャヤバーフ一世(1055−1110年在位)の時代にはミャンマーからスリランカへ、15世紀にはスリランカからミャンマーへ上座部が互いに移植しあい、結果スリランカの大寺派に統一された上座部がミャンマーに伝わる。
17世紀には二度ミャンマーからスリランカへ上座部が逆移入されてる。

タイにも11世紀に上座部は伝わるが、スリランカの大寺派上座部が
伝来したのは13世紀半ばだ。そして14世紀末までには、タイの諸王
に保護され、タイは大寺派一色になった。タイからも18世紀にスリ
ランカへ上座部の逆移入がなされた。カンボジアは、インド文化の
影響をうけヒンドゥー教や様々な仏教が伝わったが、 14、5世紀に
タイの侵攻を受けて大寺派の上座部が伝来し、次第にそれ一色にな
った。ラオスも同様にタイのバンコク朝に支配されて大寺派上座部
が盛んになった。

そして、日本へは鑑真和上という方が携えてきた仏教を、律宗とい
うが、これは上座部仏教とほぼ同じものだったはずだ。が、日本で
は律宗は広まることはなかった。

2.修行方法
ヴィパッサナー瞑想は、上座部仏教の観行瞑想のことである。
仏教において瞑想(漢訳「止観」)は、サマタ瞑想(止行)と、ヴ
ィパッサナー瞑想(観行)とに分けられる。前者が心を静めること
を中心とし、仏教以前にもインドにおいて広く行なわれてきた瞑想
方法であるのに対し、後者では観察することを中心とし、釈迦が新
しく開拓しそれによって悟りを開いた仏教独自の瞑想方法とされる。

ヴィパッサナー瞑想は、「今という瞬間に完全に注意を集中する」
ということである。何をしていても「今・ここの自分」に気づいて
いく。この「気づき」(サティ)が、この瞑想のもっとも大切な技
術である(したがって、「気づきの瞑想」とも呼ばれることがある
)。このようにして自分を客観的によく観ていく実践によって、心
を成長させることを目指すのである。


いつも自分があるところが、説一切有部である。自分がどう思うか
が重要ということである。

これに対して、大乗仏教は自分を無にすることで、説一切無である。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/230140.htm


1) 説一切有部の所説

@) 五位七十五法

説一切有部の五位七十五法の一覧です。

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<説一切有部 五位七十五法>

 説一切有部によると、実体としての個人というものは存在しない。真に存在するものは、個人を構成しているもろもろのダルマdharmaと呼ばれる要素―その大部分は心理現象である―だけである。個人pudgalaというものは、もろもろのダルマによって仮に構成されている虚構にすぎない。その構成要素は七十五種あり、それは大きく二つに区別される。その一は、つくり出されるもの(有為法)、その二は、つくりだされないもの(無為法)。

(一) 有為法samskrta-dharmah---創りだされるものとは、変化するものとなって現われ出る諸要素のこと。

1.色法rupani---物質的なもの。場所を占有して他のものを入らせない性質を持っている。

   @眼根caksur-indriya---視覚器官
   A耳根srotra-indriya---聴覚
   B鼻根gharana-indriya---嗅覚
   C舌根jihva-indriya---味覚
   D身根kaya-indriya---触覚。触覚は身体全体にわたって存在するので、身体による器官とする。
   E色境rupa-visaya---いろかたち、眼に対応するもの
   F声境sabda-visaya---音声、聴覚に対応するもの
   G香境gandha-visaya---香り、嗅覚に対応するもの
   H味境rasa-visaya---味、味覚に対応するもの
   I触境sparsa-visaya---触れられるもの、触角に対応するもの
   J無表色avijnapti---表示されることのない物質、感覚器官では知覚されない特殊な物質。善悪の行為が心に潜在的影響を残し、未来に報いを生ずる、そのための媒体となるもの。

2.心法cittam---人間の精神作用の中心となる機能。心・意・識は、同一の機能を指す。

3.心所有法citta-samprayukta-samskarah---心作用。心と結びついている精神作用。心理現象のこと。これらは心と結びついてはいるが、心とは別のダルマであり、それぞれの精神作用が個人を構成する独立の要素となっている。個々の精神作用は心の属性でもないし、また、心の現象でもない。

   @遍大地法mahabhumikah[dharmah]---あまねくゆきわたる心作用、意識のいかなる瞬間にも現存するはたらき。
      (1)受vedana---感受の働き。快感・不快感・快でも不快でもないの三種。
      (2)想samjna---表象作用。対象の特殊な特徴を把握すること。
      (3)思cetana---意志作用。心を起動させる働き。
      (4)触sparsa---接触作用。感官と対象と心の三つが合すること。根境識の和合。
      (5)欲chanda---欲望の働き。行為主体が何ものかを欲すること。
      (6)慧mati---知慧。もろもろのダルマを区別して知る知恵。これがやがて解脱をもたらす。
      (7)念smrti---記憶。ぼうっとしないではっきり思い続けること。
      (8)作意manaskara---注意。気をつけること。
      (9)勝解adhimoksa---明確に認めること。対象を確認すること。
     (10)三摩地samadhi---精神統一。心の統一作用で、精神を一点に集中し続けること。三昧。
   A大善地法kusala-mahabhumikah---心が善である場合に常に現存する心作用。
      (1)信sradha---心の澄みきって喜びに充ちている状態。教えを説かれたままに認めること。仏教では、信仰が最も重要なものではなくて、信はさとりを得るための入り口なのである。
      (2)勤virya---勇気。努め励み、善の行為をなすための勇気。
      (3)捨upeksa---心の平静。心が落ち着いて乱されないこと。
      (4)慚ザンhri---慚じること。自ら自分を省みて恥じること。
      (5)愧apatrapa---愧じること。他人の悪行をみて、嫌悪を感じて愧じること。
      (6)無貪alobha---貪りのないこと。
      (7)無瞋advesa---怒らないこと。怒り、憎しみのないこと。
      (8)不害ahimsa---不傷害。他人を傷つけ、悩まさないこと。
      (9)軽安prasrabdhi---軽やかさ。心が軽やかで快適なこと。
     (10)不放逸apramada---不怠惰。怠けないで、善い性質を体得しようと努めること。
   B大煩悩地法klesa-mahabhumikah---あまねく煩悩にゆきわたる心作用。煩悩が起こったとき常に現存する心作用。
      (1)無明moha---無知、迷い。知慧の反対、すなわち、迷いの生存の根源。
      (2)放逸pramada---怠惰。なおざり。善の実行を怠けること。不怠惰の反対。
      (3)懈怠kausidya---勇み立たぬこと。勇気のないこと。勇気の反対。
      (4)不信asraddhya---心のにごり汚れていること。信の反対。
      (5)こん(リッシンベンに昏)沈styana---身心の物憂いこと。善を行なうのに軽やかでないこと。
      (6)掉挙ジョウコauddhatya---心が浮つくこと。心が静まらないで軽躁であること。
   C大不善地法akusala-mahabhumikah---悪心にあまねく存する心作用。善の反対の悪、悪心が起こったときに常に存する心作用。
      (1)無慚ahrikya---慚じないこと。慚じることの反対。
      (2)無愧anapatrapya---愧じないこと。愧じることの反対。
   D小煩悩地法upaklesa-bhumikah---付随的な煩悩にともなって起る心作用。これらの心作用は、悪心および有覆無記心ウブクムキシン(善でも悪でもないが、煩悩に覆われている心)に結びついて起り、それぞれ別々に現われる。
      (1)忿krodha---いかり。心に憤りを起こすこと。
      (2)覆mraksa---みずからの罪を隠すこと。
      (3)慳matsarya---ものおしみ。他人に教えを授けるのを惜しみ、財を与えることを惜しみ、など。
      (4)嫉irsya---ねたみ。嫉妬。他人の幸運、繁栄を喜ばないこと。
      (5)悩pradasa---かくたくなに悪事に固執すること。他人の道理にかなった諫言を容れられない。悪事に執着して心身をを悩ます。
      (6)害vihimsa---害すること。この心作用が起ると、他人を殴打し罵ったりする。
      (7)恨upanaha---恨み。忿りの対象となることを思い起こして怨みを結ぶ。
      (8)誑(タブラかす)maya---欺く。だます。
      (9)諂テンsathya---心が曲がっていて、自分をあるがままに顕わさず、偽り、つくろったり、手段を弄したりして、誤魔化すこと。
     (10)きょう(リッシンベン+喬)mada---驕り高ぶること。
   E不定地法aniyata-bhumikah---いずれの心作用とも結合しうる心作用。
      (1)悪作kaukrtya---後悔。後で後悔すること。
      (2)睡眠middha---放心させる働き。心をぼおっとさせる働き。
      (3)尋vitarka---粗雑な思考作用。
      (4)伺vicara---微細な思考作用。
      (5)貪raga---快適なものを貪り愛すること。
      (6)瞋pratigha---嫌悪。不快なものを嫌う。他のものを恨み嫌う。
      (7)慢mana---慢心。自分が高く構えて、自分が他人より優れていると思いなすこと。
      (8)疑vicikitsa---疑い。疑うということは、善い場合も悪い場合もある。だから不定。

4.心不相応行法citta-viprayukta-samskarah---心と結びつかない要素。物質でもなく、心作用でもない原理(ダルマ)。

   @得prapti---もろもろのダルマを身に得させるダルマ。人が修養をして心を清め澄ませるというような善い性質を身に体得する場合には、この得させるという原理が働くと言うのである。
   A非得aprapti---前述と反対。もろもろのダルマを身から離れさせるダルマ。人が善い性質を体得しない時は、この得させないという原理が働いているとする。
   B同分sabhagata---生きものの同類性。犬なら犬が、同類の生物として生まれ育つのは、そこに、生きものの同類性という原理が働くからと考える。
   C無想果asamjnika---外道のニルヴァーナ。無想天という境地に生まれること。
   D無想定asamjni-samapatti---外道の瞑想法。外道が無想果を得るための瞑想。そこにおいては、心も心の働きも全くなくなる。
   E滅尽定mirodha-samapatti---聖者がしばらく休息するために入る無心の精神統一(禅定)。個々では心や心の働きを全く滅し尽くしている。
   F命根jivita---生命原理。寿命。生きものがいきているかぎり、そこに生命原理が働いている。それは、体温と意識作用のよりどころとなっている。
   G生jati---GからJまでは、四有為相。生は、ものを生ぜしめる原理。
   H住sthiti---ものをとどまらせる原理。
   I異jara---ものを変化させ、衰えさせる原理。
   J滅anityata---ものを滅びさせる原理。
   K名身nama-kaya---以下三つは、言語表現の要素。名身は、名称の集合。概念自体。
   L句身pada-kaya---文章の集合。命題自体。
   M文身vyanjana-kaya---音節の集合。字母自体。

(二)無為法asamskrta-dharmah---創られたものではない原理。変化することのない原理。

   @虚空無為akasa---場所一般。もろもろのダルマが現われるためには、それらに妨げを与えない場所の存在が前提される。
   A択滅無為pratisamkhya-nirodha---正智の明確に知る力による消滅。われわれが正智に達すると、その明確に知る力(簡択力ケンチャクリョク)によって、ひとつひとつのダルマの本性を知ると、その「知る」働きの不思議な力により、個々のダルマが起らなくなる。そうしてすべてのダルマが消滅すると、やがてニルヴァーナに達する。
   B非択滅無為apratisamkhya-nirodha---明確に知る力によるのではない消滅。あらゆるものごとは因縁によって生ずるのであるが、生ぜしめる縁が欠けると、もろもろのダルマも生じないで滅びてしまう。この消滅そのものを実体視して、こう呼んでいるのである。それは明確に知る力によって消滅するのではないから、「非択滅」とよぶ。簡単にいえば、ものや現象がひとりでになくなることである。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59183855.html


A) 有について

 説一切有部の名称は、一切が有るというこの部派の主張に由来するそうですが、現在一切が有るといきなり言われれば、一切のものがある、すなわち、宇宙にある一切のものを構成するものの実在を考えると思います。
 自分を考えると、自分の身体は確かに存在する・実在すると感じられます。
 ところが、説一切有部は私たちが実在する・有ると考えているもののほとんどを実在するものとは考えなかったようです。 普通実在する・有ると思っているもので説一切有部が有ると認めなかったものを挙げています。
 
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<説一切有部  実有  「有」の分類と意味>

 このように「実有」とは「有sat」という類genusの中のあるひとつの種speciesであり、「有」よりも外延は狭いが内包は豊かである。この類である「有」という概念は、範疇の範疇とでもいうべきもので、他の概念によって解釈することはできるかもしれないが、定義することのできない性質のものである。ゆえに「実有」の意味は「実dravya」の分析から得られる。
 実有が「有」の他の種と対立しているという事実に注目するならば、さらに多くの規定が得られる。「有」の他の種のもつ内容の否定、すなわち他の「有」との種差が実有の内容である。いま、上に引用したところの「有」に関する種々の説を要約すれば、次のようになる。
 まず第一に、実有は、男、女、瓶、衣、車乗、軍、林、舎などの仮有ケウまたは施設有セセツウから区別される。すなわち瓶とか車とか言うような自然的存在は実有ではなくて仮有である。これに反して、「随触を領納すること一般」「像をとること一般」という「ありかた」としての「受」「想」のごとき法のみが実有であるとされている。実有とは法に関してのみいいうることであるから、有部は法の実在を説いたのであって、自然的存在の実在は説かなかった。したがってローゼンベルク、つづいて和辻博士が主張されるように、有部は単なる実在論ではなく、むしろ観念論的傾向さえもそなえているというのは一面の真理である。
 第二に、実有は相待有ソウタイウと区別される。相待有とは「長」と「短」、あるいは「これ」と「かれ」とのようにたがいに相関関係において存する「有」をいう。すなわち甲は乙に待するときには「有」であるが、丙に待するときには「無」である場合、たとえば具体的にいえば、甲は乙に待すれば「長」であるが、丙に待すれば長ではなく、短である場合のごときをさしている。
 なお、『大毘婆沙論』に紹介されている「和合有」とは「此処にありては有なれども彼処にありては無なるを謂う』とあるから、これは相待有をとくに空間的に限定した場合であり、「時分有」とは『此の時分には有なるも彼の時分には無なるを謂う』とあるから、これは相待有をとくに時間的に限定した場合であり、結局論理的には相待有の中に含められる。また『阿毘達磨順正理論』に紹介されている「因性有」とはこの「相待有」の同意義である。
 この相待有の概念は中観派の主張と密接な関係があうから、のちに考察するが、相待有に対する有部の批判をみると、サンガバドラは、相待有というのもけっきょくは実有と仮有との二つのなかに含まれてしまうし、また経典に「唯だ二有のみあり」と説かれているから、そのほかに相待有を立てる必要はない、といって排斥している。
 有部によれば、法はそれぞれ「それ自身の本質をもつ」がゆえに法として成立するのであり、その本質を「もの」として実体化したのであるから、法と法とはまったく別の実体とみなされている。すなわち『唯だ自性を摂して、他性を摂せず』であり、「此は彼と離れ」「他性と恒に相離れ」ているのである(倶舎論第一巻)。『中論』についてみても、『<それ自体>(自性)は<つくり出されたのではないもの>(無所作のもの)であって、他のものに依存しないものだからである。』(中論第十五章・第二頌)とあるように、本性は他に相待せずparanirapeksa、他に依存せずに成就しているものanapeksya siddhaであり、そうしてすでに述べたように法は本性と異なるものではないから、したがって「もろもろの法はそれぞれ別のものである」(法々別体)と説くのである。
 第三に、実有は「名有」と区別されねばならない。名有とは亀の毛、石女ウマズメの児などのような、それ自身に矛盾を内含し、自然的存在の領域においてその対象を見出しえない概念である。ところが実有とはこれに反して、自然的存在の領域において有りうる存在のありかたとしての「法」に関してのみいいうる。
 第四に、実有はプドガラpudgala(補特伽羅)すなわち連続した個人存在のような和合有と区別される。有部はプドガラの実有を認めなかった。個体を構成する五つのあつまり(五蘊)の和合を仮りに施設してプドガラとみなすにすぎないという。実有とは法に関してのみいわれることであり、プドガラは法ではないから、実有とはいわれない。
 なお『阿毘達磨順正理論』には「成就有ジョウジュユウ」と「縁合有」との二つに言及している。この二つは詳細は不明であるが、経に「…有りasti」とある場合の特殊な一例に名づけたのであり、「実有」と対立する哲学的な概念ではないからここでは省略する。
 以上を要約すれば次のようにいいうる。
 第一、実有とは、時間的空間的規定を受けている自然的存在を可能ならしめる「かた」としての法に関してのみいわれうる。この点で自然的存在たる「仮有」と区別されるし、また自然的存在の中に対象を見出しえない「名有」とも区別されるし、また実有なる五つのあつまり(五蘊)の仮りの和合に名づけたところのプドガラなる「和合有」とも区別される。
 第二、法は自然的存在の「ありかた」であるがゆえに、他に依存せず、独立している。したがって実有は「相待有」と区別される。有部は実有なる概念をさらに分類して詳細に説明しているが、いまは本質的な問題を検討しただけにとどめておく。
 ところで、男または女というのは仮有であり、個人存在は和合有であるという思惟は、重大な問題を提供する。ここでは「われ」と「汝」の対立は無視されている。そうして人間が「ひと」であるかぎり、男か女かである。人間生活にとってもっとも重要な問題、―-それが撥無されているのである。
 説一切有部の学僧たちは、ただダルマの実存だけを問題としていた。これらのダルマの実在性を否定するならば、ただちに大乗仏教の空観に入ってしまうのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59183876.html


B) 実践論

この説明は、説一切有部などの部派仏教の実践法すなわち解脱に至る道を説明しています。
 この説明の中で、簡単に説一切有部が抱えていた問題点が指摘され、その問題点を突くことで大乗仏教が現れたことを指摘しています。
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<説一切有部  実践論>

 説一切有部などの思想によると、衆生は煩悩(または惑)に束縛されているために、それに促されてもろもろの行為をなし、身・口・意の三業をつくり、その果報として苦を享受している(惑・業・苦の三道)。身業と口業とには、それぞれ表業(外に表れて他人に知られる業)と無表業(外に表れることなく他人に知られない業)とがあるが、意業は無表業のみである。
 われわれの迷いの結果として現れている世界は、有情世間(生けるもの)と器世間キセケン(物理的自然世界)とに分かれる。有情世間はわれわれの身心であり、正報(過去の業の直接の報い)である。器世間は生けるものどものおさめられている外的環境であり、われわれのよりどころである。それは依報(過去の業の報いとして与えられているよりどころ)である。
 生存する者各自のすがたは各自の業のもたらしたものであるが、物理的自然世界もまた多数の生存者の過去の業が重なり積もった結果として作りだされたものである(共業所感グウゴウショカン)と考えた。器世間は成・住・壊・空ジョウ・ジュウ・エ・クウの四劫によって循環する。すなわち物理的自然世界は、成立し、存続し、破壊され、空無に帰するという四つの長い時期kalpa(劫)を経過し、そののちまた空無の中から成立しまた四つの時期を経過し、この過程を無限に繰り返すというのである。
 生類は生有・本有・死有・中有という四種の存在状態をもち、十二因縁の次第によって輪廻転生する。生存の範囲は欲界・色界・無色界の三界にわたっている。
 さて、この苦しみの生存から離脱するためには煩悩が起らないようにしなければならない。もろもろの煩悩のはたらきが起るのは、もろもろの法がはたらいて、その作用が現れているからである。ゆえにもろもろの法のはたらきを静止させなければならないが、そのためには一切の欲望を制し、執着を離れ、戒律を守り、禅定を修して、そのうえでもろもろの法の自体を観じてもろもろの法の真相に通達しなければならない。
 有部の学者は、法の真相を観ずる智慧には特殊なすぐれた力があると考えた。しかし、実在する法を滅することがいかにして可能であるかということは、依然として大きな難点であり、この難点をついて空観が現われ出たのである。また禅定に関しては生得と修得との別があり、それぞれに四禅と四無色定との区別が立てられている。
 修行の究極の境地に達した人は阿羅漢arhatと呼ばれる。その究極の境地を阿羅漢果と称する。「阿羅漢」とは、「尊敬さるべき人」という語義であり、一切の煩悩を断じた人であるが、肉体の存する限りはまだ完全な状態に達していない(有余涅槃ウヨネハン)。肉体的生命のなくなったときに、身心がすっかり滅びて完全な解脱の状態に到達する(無余涅槃ムヨ)。ところで、そこに到達するためには幾生涯にわたって修行を続けなければならない。その過程として多数の修行の階梯が立てられた。
  1.賢位
    @三賢---五停心・別相念住・総相念住
    A四善根---煖ダン・頂・忍・世第一法
  2.聖位
    @有学---預流・一来・不還
    A無学(=阿羅漢)
 このような実践論は結局、積極的な活動を制止し、心を寂静に帰することを目的とする。そのためには、山林あるいは僧院の中に隠棲して、能うかぎり他人との交渉を断たねばならない。そのような生活態度は単に自己一身の利をはかるものにすぎない。そこには利他的活動が欠如している。大乗仏教はこの点を激しく非難した。大乗的と小乗的との区別もここから出てくるのである。
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大乗仏教が部派仏教の何を批判して自分たちの立場を固めたのかという疑問に対する答えが二つ示されています。

@「有部の学者は、法の真相を観ずる智慧には特殊なすぐれた力があると考えた。しかし、実在する法を滅することがいかにして可能であるかということは、依然として大きな難点であり、この難点をついて空観が現われ出たのである。」
A「このような実践論は結局、積極的な活動を制止し、心を寂静に帰することを目的とする。そのためには、山林あるいは僧院の中に隠棲して、能うかぎり他人との交渉を断たねばならない。そのような生活態度は単に自己一身の利をはかるものにすぎない。そこには利他的活動が欠如している。大乗仏教はこの点を激しく非難した。大乗的と小乗的との区別もここから出てくるのである。」

@は純理論の問題であるから、本質的な問題であり、説一切有部はこの難問を明解に説明できなければ他派に席を譲る他なくなるでしょう。ただし、この問題を他派が解決するのも難しいことでしょう。法を滅するのは、解脱・涅槃達成のためですが、有部以外の誰が問題解決を目指そうとも、解脱・涅槃とは何かという難問が立ちはだかるからです。現在、上座部仏教、大乗仏教がいろいろなセクトに分派して並立していますし、修行法も多種多様主張されています。これが解脱・涅槃とは何かという問題の難しさを証明していると思います。
Aは、価値観の問題であるから、二者並立があり得ると思います。現に、部派仏教の伝統を引き継いだ南方上座部仏教(テーラヴァーダ仏教)は、南アジア・東南アジアで今も盛んであるし、日本にも次第に浸透してきています。また、この非難は、単に説一切有部の学僧たちの学究や修行に対する姿勢だけを糾弾しているのではなく、丁度日本の奈良・平安を絶頂期とする巨大な仏教教団組織のあり方に通じる部派仏教のあり方、その世俗性に対する批判もあったような気がします。

部派によっては、莫大な資産を保有し、それこそ托鉢などせずとも、使用人に田畑を耕作させ、衣食住の世話を任せ、ひどい場合は高利貸にまで成り下がって資産を増やしたとされ、自分たちはただひたすら研究・修行に専心できたようです。
小乗という名称は不適切であり、現在は使用しないのですが、このテキストは歴史的経過を述べるために歴史的な用語法に従ったまでであると思います。
大乗仏教側の批判については@Aの他に同じ本に、説一切有部の主張する法(ダルマ)の実在する(本体である)という主張の難点を突いて「空」を主張できたことに触れて以下のように述べています。

B「ところで、男または女というのは仮有であり、個人存在は和合有であるという思惟は、重大な問題を提供する。ここでは「われ」と「汝」の対立は無視されている。そうして人間が「ひと」であるかぎり、男か女かである。人間生活にとってもっとも重要な問題、―-それが撥無されているのである。
 説一切有部の学僧たちは、ただダルマの実存だけを問題としていた。これらのダルマの実在性を否定するならば、ただちに大乗仏教の空観に入ってしまうのである。」(当ブログ所収「説一切有部の所説を理解するために 参考論説A有について」)

著者が指摘しているのは、説一切有部が分析にのめり込み過ぎて、肝心の生きている人、苦楽の渦中にいる人を置き去りにして、理論の整合性ばかりに熱中しすぎたということなのでしょうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59185526.html


説一切有部の所説を理解するために 参考論説C三世実有、法体恒有

一時期インド仏教で最有力であった説一切有部に代わってインド部派仏教を代表したのが、経量部Sautrantikaだそうですが、経量部は、「経典のみを典拠とし、有部の所説を批判的に改め、色法のうちの四大のみと心との実有を説き、心所有法・心不相応行法・無為の実有を否認した。心所有法などは人間の想定したものであって、実在するものではない、という。また、経量部は現在実有・過未無体(現在のみが実在であり、過去と未来は存在しない)という説を唱えた。」そうです。
 では、説一切有部はどのように法(ダルマ)が恒有である、過去・未来・現在に実有であると説明したのでしょうか。出典名は記録しておかなかったため不明です。申しわけありません。出典名を明示せず引用させていただきます。
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<説一切有部  恒有の意義>

1.三世の区別の成立

 有部の根本思想はシナ、日本では昔から「三世実有、法体恒有」とまとめられているが、これはきわめて不明瞭な表現であるから、「てにをは」を補えば「三世において実有なる法体(法そのもの)が恒に有る」という意味である。
 過去・現在・未来の三世において有るならば、三世の区別はいかにして成立するか、という問題に関して、「大毘婆沙論」ではダルマトラータ(法救)、ゴーシャカ(妙音)、ヴァスミトラ(世友)、ブッダデーヴァ(覚天)という四人の学者の間に異説のあったことを伝えているが、「大毘婆沙論」「雑阿毘曇心論」「倶舎論」などによれば、第三のヴァスミトラの「位の不同」によると解する説が正統説(正義)であるとされている。すなわち作用の異なるにしたがって三世の区別が立てられる、という説である。
 なお「倶舎論」では尊者ダルマトラータの「類の不同」という説はサーンキャ説に類似しているといって斥けられているが、サンガバドラによればその説もけっして有部の正統説と矛盾せず、ヴァスミトラの説と同趣意であるという。「大毘婆沙論」からみても、元来有部はサーンキャ説のような現象的存在の本質の変化である自体転変を否定しているが、はたらきによる変化である作用転変または可能力による変化である功能転変クノウテンペンは承認している。
 したがって、ダルマトラータの説が、作用転変または功能転変の意味ならば、サンガバドラのいうようにかならずしも排斥する必要はないであろう。ようするに有部としてはヴァスミトラの説を正統説とし、ダルマトラータの説をこれと同趣意に解してよいかどうかに関しては後世の諸学者の間に二説があったのであろう。
 ただいずれの説についてもいえることであるが、ここではもろもろの事象の生起および消滅を意識の流れにおいてとらえているのであって、輪廻の問題からは切り離されている。ここではもろもろの法が時間的様態において存すると考えられているのである。

2.三世においての恒有

 次にしからばなにゆえに三世において恒有であるかという理由に関しては、有部の諸論書に種々説明されている。これを根拠づけて主張しているのはおそらく「識身足論」が最初であろう。同論巻一では、マウドガリヤーヤナ(目乾連)が唱えた、過去と未来とは無であり現在と無為とは有であるという説を、ほぼ九節に分けて排斥している。そのうち種々の理由によって「三世実有法体恒有」を主張している(「大毘婆沙論」第七十六巻、「倶舎論」第二十巻、「順正理論」第五十巻、「顕宗論」第二十六巻など)。いまその理由をいちいち検討する余裕はないが、それぞれの理由に共通な根本的論拠は次のようにまとめられると思う。
 すでに述べたように法とはわれわれが経験的に知覚するものではなく、したがって自然的存在ではなく、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」である。自然的存在としてのものは現在一瞬間でなくなってしまうが、われわれの意識において志向されているありかたは決してなくならない。すなわち「かた」としての純粋の法が先になくて後にあり、先にあって後になくなるということはありえない。自然的存在は過去未来においては存在しないが、「法」は三世において存する、という意味であろうと思われる。
 このように解釈すれば、「三世実有法体恒有」の証明のために用いられているあらゆる論拠をことごとく説明しうると思うが、いまここでは余裕がないので省略しておく。
 「三世に実有である」ということに関して日本では古来、体滅説と用滅説とが行なわれた。両派ともにそれぞれ有部の論書から典拠を集めてきて論じているが、これは「体」という文字の解釈いかんによる。漢字の「体」のインド原語は一定していないので、多義的解釈を可能ならしめる。「体」を抽象的一般的な「ありかた」「本質」と解するなら、それは滅びないが、時間的制約を受けているのものであるならば滅びざるをえない。ともかく体滅説も用滅説も有部の思想の一面をとらえているということが出来るであろう。
 ところで経量部は、有部の「三世実有」説を批判して、現在実有・過未無体(現在のみが実在であり、過去と未来は存在しない)という説を唱えた。すなわち現在のみが存在するものであり、過去も未来も現在を出発点として考えられるものである。かつて実在したものを過去といい、後に実在しうべきものを未来というのだと考えた。
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 私は、「三世実有・法体恒有」という説に囚われることなく自由に考えられるが、かつて、仏教教理の伝来を受けて研究に従事した日本の学僧たちは大変であったろうと思う。
 体滅説とか用滅説とかいう用語は初めてお目にかかったが、日本の学僧は発信地インドの事情を知らないままに与えられた経典・論書だけで研究するのだから、その困難さは想像にあまりある。
 「すでに述べたように法とはわれわれが経験的に知覚するものではなく、したがって自然的存在ではなく、自然的存在を可能ならしめている『ありかた』である。自然的存在としてのものは現在一瞬間でなくなってしまうが、われわれの意識において志向されているありかたは決してなくならない。」という解釈の立場があるように、説一切有部の法の概念そのモノが一種の解釈なのですから、これを確固たる真理であると受け取って研究するとなると、これはもう想像を絶する難行苦行でしょう。
 「法(ダルマ)」とは何かという問題の立て方ではなく、説一切有部がどうして「法(ダルマ)」の概念を立てたのか、それは妥当なのか、...という問題の立て方をしない限り底なし沼に沈んでいってしまうような気がします。
 研究するためには、歴史の縦糸横糸を縦横に手繰り寄せ解きほぐしていく必要があるでしょう。気の遠くなるような作業です。学者や研究者の先生方のご努力に深い敬意を表します。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59185680.html


C) 心・心作用

桜部建著「存在の分析 アビダルマ」(仏教の思想2 角川書店)から引用させていただきます。
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右のように、「倶舎論」の中では、46種の心作用は、心と”倶生クショウ(ともに生起する)”するしかたの差別によって六種類に分けられている。しかしこのように六類・46種の心作用の説が定まったのは、説一切有部アビダルマの歴史の中で比較的後代のことである。六種のうち早くから固定していて変わらないのは十「大地法」だけで、「マハーヴィバーシャー」の書かれたころ(一、二世紀ごろか)までは六類の分け方すらまだ定まっていなかった。・・・。さきに記したように、煩悩はすべて心作用である。業もまた、その中心となるものは心の業であって、それはすなわち心作用の一種、思である。煩悩を断つ正しい智慧もまた心作用の一種、無漏ムロの「慧」である。したがって、極論すれば、業・煩悩の世界、迷いの世界もそれを超出してさとりの領域に入るための道も、すべてこの心と心作用との”倶生”の関係のいかんによって成り立っており、すなわち広い意味の心の世界の中での事実にすぎないといえる。その意味では、アビダルマにおいては煩悩論にしても修道論にしても、すべてが心・心作用の問題に帰するわけである。(p100)
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説一切有部の謂れとされる、「三世実有サンゼジツウ・法体恒有ホッタイゴウウ」と称される法(ダルマ)は、大きく5つに分類され、さらに細かく75に分類されるそうです。それが5位75法(ダルマ)であり。心、心作用は共に5位の一つなのだそうです。
5位とは、@色シキ、A心、B心所シンジョ(心作用)、C心不相応行シンフソウオウギョウ、D無為ムイの五つ。
75法とは、@色に11種の法(ダルマ)が含まれ、A心は心法(ダルマ)一つだけが含まれ、B心所には46種の法(ダルマ)が含まれ、C心不相応行には14種の法(ダルマ)が含まれ、D無為には3種の法(ダルマ)が含まれるそうです。
上の先生の説明を読むと、アーガマに忠実にしかも彼等が納得できる説明をしようとしていろいろ工夫した様子が良く分かります。

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 さて、心が生起するときは、かならず心作用とあい伴う。だから心作用を「心相応法」ともいう。心とあい伴うダルマという意味である。「心相続」の中のどの瞬間をとらえてみても、そこに心だけがひとり生起していることはなく、心と心作用の幾種類かがかならずあい伴って存在するのである。すなわち、「大地法」と呼ばれる十種の心作用はいつの場合にも心と”倶生(ともに生起する)”しており、さらにたいていの場合にはなお数種あるいは十週種の心作用が同様に”倶生”していて、心を中心にして心的ダルマの束を形づくっている。厳密にいえば、そのうえになお、心と心作用とが”倶生”の関係に結びついているところに作用する特殊なダルマ(心不相応行の一種で「得」と呼ばれる)や、どんな有為ウイのダルマにもかならずあい伴う四つの相状を示すダルマなどが”倶生”していて、それらのすべてによって、いわば一個体の精神面が構成されるのである。さらにそれらに、肉体を形づくる「色(広義)」のダルマや、その行為動作、すなわち業、のダルマなどが加わって、その全体の組み合わせの上に、有情ウジョウと呼ばれる個体的生のorganismが成り立つ。
 それらのすべてのダルマがそれぞれ、瞬間に滅して過去へ去るとともに、新たなダルマが未来から生起してきてそれを継承し、あるいはそれを変異せしめる。そのあいだに種々なそして重畳した因果関係が結ばれながら、個体の生存は引き継がれ、持続されてゆく。個体的生はただこのようなダルマの「相続」の上にのみありうるものである。だからそこに不変で常一な「我(自我)」のありえようはずがない。
 ・・・。たとえば、Aの人が怒るということは、Aの心が怒ることによって、あるいはその心の主体であるAの「我(自我)」が怒ることによって、生ずるのではなくて、Aという個体を構成している無数のダルマの「相続」の上で「心」のダルマと怒りの「心作用」のダルマ、すなわち「忿フン」あるいは「瞋シン」とがあい伴って生起することによって生ずるのである。(p94-95)
     ____________


「三世実有・法体恒有」なのだから、これらのダルマは未来から因果関係によって現在に呼び出され、一瞬前のダルマたちは過去に移る(刹那滅)。未来にも、現在にも、過去にもこれらのダルマは有る(一切が有る)ということになります。
上の説明で、説一切有部がダルマの理論によって無常・無我を説明(証明)できると考えたらしいことが分かります。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59160123.html


なぜ、このような考え方をするようになったのか、そのきっかけは何だったのか、そこにちょっと興味があります。
過去はもうない、未来はまだない、あるのは、常に変化する今だけである、で十分な気がするのですよね。今の変化が、なぜ起きるのか、それを説明したかったのだろうか、という気がしました。
時の経過、時間というのは、何だろうか、どういうことだろうか、とそれを解明したかった、ということだろうか、とそんな気もしました。
2010/2/24(水) 午後 0:53 [ mag**iok ]


非我(或いは、無我)と無常(実体あるいは本体の恒常性を持たないこと)を何によってどのように確認するのかということがきっかけだったような感じです。無我、無常を証明しようとしたと説明されています。
恐らく内部の事情というより、他の哲学・宗教・論理学・科学(?)との関係のような説明もあります。
古代インドの思想界は、仏教以外すべて実体論・本体論だったと、宮本先生の本にありました。
教団を維持するために理論武装しようとして始めたら、どんどん分析が細かくなって、最後には、モノの実在(本体論)を無視できなくなった、ということのようです。怒りのダルマが三世に実在するなんて無茶苦茶です。これを文字通りに理解しようとしても意味ないでしょう。
とにかく、「説一切有部はどう考えたのか」という視点で勉強しています。
2010/2/24(水) 午後 4:03 [ avarokitei ]
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59160123.html

D) 阿羅漢と仏の区別

@に続き、桜部先生の同じ本から引用させていただきます。

アビダルマは説一切有部に限らず、阿羅漢への道(普通の修行者が目指す境地)と仏への道(お釈迦様などの諸仏の到る境地)との違いを説いているようです。

次に引用する部分は、上座部部のどの部派のアビダルマにも共通する説と説一切有部特有の説に見られる阿羅漢の道と仏の道の違いです。
「倶舎論」では、分別業品第四(第四章業の解説)、分別智品第七(第7章智の解説)などで説明されているようです。
]
<らかんへの道、ほとけへの道>

 「らかん」ということばはアーガマ以来「ほとけ」と同義に用いられている。それはもとより当然のことである。「ほとけ」とは真の自覚者を意味する。”ありのままに知り見る”正しい知恵によってすべての煩悩を断ち切った人はみな「ほとけ」であり、その人こそは”供養を受けるにふさわしい”「らかん」である。・・・。はるかいにしえの「ほとけ」たちもかつてこの道を歩んで涅槃に達したのであるし、近くシャカムニ・ブッダも久しく雑草に埋もれていたその”古仏の道”を再発見してそれによって涅槃の”古城”に至った。われらもまたシャカムニの示された教えの導きによってその道をたどって、まったく正しい知恵を得るならば、同じ涅槃に至り、同じく「ほとけ」となり「らかん」と呼ばれるはずである。
 われらが「ほとけ」の境地に達するまでには、もとより道ははるかであり、われらはただ一歩二歩それに踏み入ったばかりであるけれども、しかしわれらがいま歩みつつある道はかつて「ほとけ」によって歩まれた道でなければならないし、またそれがそのままわれらの「ほとけ」となる道でなくてはならない、というのが初期仏教者の信念であったと思われるし、またそれは禅から浄土教までを通じてすべての大乗仏教者のいだく願いであるといえよう。
 しかしアビダルマ論師たちが説くところは明瞭にそれと相違する。論書が示すところの、平常的人間(凡夫)から貴い人(聖者)へ、そして「らかん」へという「さとり」の道は、「ほとけ」となるべき人、すなわち菩薩、によって歩まれる道とは別である。凡夫から「らかん」への道はただもっぱら煩悩を断ち切ろうとする修行の道であったが、菩薩から「ほとけ」への道はそれ以外になお大きな課題をもっている。すなわち慈悲をもって有情を利益リヤクするという利他の行である。凡夫から「らかん」への道は広く人々に解放されているけれども、菩薩から「ほとけ」への道はきわめて限られている。もっとも、凡夫から「らかん」への道は広く解放されているといっても、在家者はその道の中途までしか、すなわちせいぜい不還フゲンまでしか、至りえないとされるから、それ以上に進むためには出家することが必須の条件となるのである。
 説一切有部論書の説によれば、菩薩たる人は、まず三アサンキャ・マハーカルパのあいだ、六波羅蜜(@他に与え、A生活を整え、B苦難に耐え、C善をなすに敢為であり、D心を動揺させず、E完全な知恵を得る)の修行を積み、多数の「ほとけ」たちに供養する。それによって、「ほとけ」の「さとり」を得て他の有情のために大慈悲の行いをするための無量の徳がたくわえられるのである。次にジャンブー州に生まれて100マハーカーシャパのあいだ、さらに別種の修行を重ねる。それは三十二相、すなわち「ほとけ」になった人だけにそなわる三十二のすぐれた肉体的特徴、を具備するのに必要な徳を積むためである。以上の二種類の修行を終えた菩薩はもはやけっして三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)に堕ちることがない。すなわち人間か天の境遇にしか生を享ウけない。そしてつねに富貴の家に生まれる。彼は有情を利益し大慈悲を行って倦ウまず、人のために”無給の使用人”になるという。
 ここに描かれる菩薩のすがたは、その利他性と自己練磨性とにおいてほとんど無限である。この菩薩の道は、三千大千世界の中に同時に二人が並んで出現することのないという「ほとけ」となるために、選ばれたまれな人の道であって、ふつうの声聞、すなわち「ほとけ」の教えを聞く弟子たち、の踏む「らかん」への道とはまったく懸絶しているのである。

<「ほとけ」の偉大さ>
 
 説一切有部論書はまた「ほとけ」の偉大さを説くことにもすこぶるねっしんである。・・・。「ほとけ」の偉大さを語る点においてアビダルマ論師たちは大乗経典の作者に比してすこしも劣るものではない。
 これらの事実は、伝統的出家僧団の人々の師主シャカムニを仰ぐ心がいかに深かったかを物語る以外のなにものでもないと思われる。・・・。(p138-141)
  
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 先生の説明を読むと、なんだこれは、大乗仏教の主張と同じじゃないかと思えます。
 アビダルマのように「ほとけ(仏)」を解釈すれば、「ほとけ(仏)」への道が厳しいのは当たり前で、誰でもアビダルマに説かれるような大慈悲の「ほとけ」になれるなどと唱える方がよっぽどおかしいと思うほどです。
 大乗仏教やナーガールジュナが説一切有部の説の何に異を唱えたのか、こうして説一切有部の概説を読むだけでも少しずつ分かってきます。
 それにしても、桜部先生が分かりやすく解説してくれるので分かるような気がするのであって、これを直接「倶舎論」その他の有部の論書から読み取るのは容易ではないと良く分かります。
 手元にある「倶舎論」(本論すなわち偈だけ)や「倶舎論の原典研究(智品・定品)」から読み取るのは大変難しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59166863.html


テーラワーダでは、ブッダと阿羅漢は、基本的には同じとしていますが、釈尊だけをブッダ(覚者)と呼ぶ理由として、ひとつの世界で最初に覚った人を、ブッダと呼ぶのだそうです。(出典:悟りの階梯)
2010/2/25(木) 午前 0:13[ 析空 ]

説一切有部は、テーラワーダと同じ上座部系ですが、しかし、テーラワーダは、説一切有部とは別で、上座部系の中の上座部、つまり、保守本流であると自負しているようです。初期経典に忠実であり、釈迦本来の教えを守っている、ということのようです。
だから、説一切有部の教義でもって、それとテーラワーダが同じである、というふう一般の人は理解しているのだと思います。そこが、間違いの根本でしょうね。
2010/2/25(木) 午前 4:37[ mag**iok ]

析空さん、今晩は。
<釈尊だけをブッダ(覚者)と呼ぶ理由として、ひとつの世界で最初に覚った人を、ブッダと呼ぶのだそうです。(出典:悟りの階梯)>
「悟りの階梯」という本にこういう解釈があることはわかるのですが、この解釈があなたや私にどういう意味があるのかが分かりません。
ぜひ、析空さんの解釈をお聞かせください。
2010/2/25(木) 午後 9:17[ avarokitei ]

1.この世界で最初に覚った人を、尊敬の念をこめて、ブッダと呼ぶ。
2.二人目から、覚った人は、すべて阿羅漢と呼ぶ。
3.ブッダと阿羅漢の悟り、境地は同じ。

意味は?
→大乗仏教や説一切有部では境地に違いがあるかの話が出ているが。
→ブッダと阿羅漢の違いは、一人目か、それ以降かの違いというだけである。
2010/2/27(土) 午前 0:12[ 析空 ]

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阿羅漢についてのテーラワーダの解説がありました。
http://www.j-theravada.net/howa/howa31.html

「sati を完成した阿羅漢の場合は、行動のじゃまになる悩み苦しみもないし、行動によってストレスもたまらないし、行動を制限するよりどころ(home)もないので、最高に自由な行動人間になるのです。その行動も、決して自分のためではなくて、生きとし生けるものの幸福のために、亡くなるまで、絶えず止まることなく続くのです。」
2010/2/25(木) 午前 9:23[ mag**iok ]

maga**iokさん、引用有り難うございます。うーん、ただ坊さんの説教というのは「どうも...」ですね。 どうしてそう感じてしまうのでしょうね。困ったものです。
<生きとし生けるものの幸福>って、なんでしょう。本当の幸福は涅槃だけでしょう。涅槃は人だけに可能です。もし、涅槃以外に幸福があるのなら、釈迦が説いているはずですから。これも屁理屈でしょうか?
2010/2/25(木) 午後 10:04[ avarokitei ]

それは、我執が原因ということなのでしょうね。
幸福については、スッタ・ニパータの、第2章「こよなき幸せ」が参考になると思います。
2010/2/26(金) 午前 4:35[ mag**iok ]

悟っていない我々に我執があるのは、当然ですから、要は、その影響を小さくするように努力する、ということなのですよね。 そのためには、何に対して自我が抵抗しているのか、その原因に「きづく」ということだと思います。
厳しい修行をして、現在も引き続き厳しい生活をしている、そういう人の発する言葉でないと、受け入れられない、信じられない、というのは、誰にもある感情だと思います。
2010/2/26(金) 午前 4:43[ mag**iok ]

我執も有るでしょうね、しかし、それだけではないと自分では感じます。
mag**iokさんの言葉を借りれば、私の合理性が納得しないというのでしょうか。
テーラワーダの決まり文句「生きとし生けるものの...」に、私と同じ疑問を持った方が居ました。
このページにコメントしてくれた析空さんです。

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スッタ・ニパータ 第2章「こよなき幸せ」

実は、ずっと前から、この章の読み方に関して私の独自の読み方が出来ているのです。
簡単に言えば、これは世俗的な慈悲を説いているのではないという読み方です。

「Sn262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。

Sn263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。」

そういう世俗の幸せのために、法を説くことも、慈悲だと思います。

「Sn265 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、──これがこよなき幸せである。」

そして、俗世の人に悟りの真理を知らしめること、それも、慈悲だと思います。

「Sn267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。」

「Sn389 もしもかれが、教えを聞く人、或るは他の修行者とともに語る場合があるならば、その人にすぐれた真理を示してやれ。かげぐちや他人を誹謗することばを発してはならぬ。」

「Sn35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

Sn145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

人は生きている限り、他の生きものに迷惑をかけることになります。

でも、自分が悟るためには、いっさいの生きものの安楽を願う、という想いと、それに基づく行動が必要なのである、それが、悟るための修行のひとつである、と私は理解しています。
そういう修行の果てに悟った人が、阿羅漢が、自分の悟りに満足して他者に全く関わらない、教えを説かない、ということは、ありえないですよね。もし、そういう阿羅漢がいたとしたら、それは、偽者の阿羅漢である、ということだと思います。
2010/2/26(金) 午後 3:52[ mag**iok ]

慈経を全部私の解釈で読めるかどうかまでは確かめていないので、要点だけ言いますと、

釈迦の説法は、
@常に涅槃を目指しているものである、
A従って、あらゆる説法は涅槃に結び付けて読んで良い。
B一般人も、釈迦が確信を持って説く涅槃の可能性を聞いて、拠り所を見つけられ安心できた。
Cそもそも、世間的生活を忌避して、涅槃を見つけた釈迦が世間的な生活に幸せを見つけていたというのは筋が通らない。
こういう視点で読むと、私の読み方を適用するのが一番難しい詩句、「Sn262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。」は、一見、世俗的な良識を説いているように見えますが、慈経の中の一節として読めば、行いを正しくすること(八正道の一つ)に当たると読めます。
戒→定→慧の修行として読めるのです。釈迦は、世俗の人も、少しでも涅槃に近づくように生きるべきだと考えていたと読むべきかなと。
2010/2/27(土) 午前 10:08[ avarokitei ]

善業を積んで、天に至る。これが世俗の目標だとされているが、本当に釈迦は、善業を積むこと、天に至ることが実際的なことだと考えていたのか疑問になり、調べました。
涅槃は、釈迦自身が体験したことなのですから、確信があったでしょう。
しかし、釈迦が天に行ったかどうかは不明です。
そう考えれば、釈迦は一般人にも涅槃を説き、涅槃を目指す生活の仕方を説き、道も説いたと考えて良いような気がするのです。
これなら、ダブルスタンダードにならないでしょう。
2010/2/27(土) 午前 10:14[ avarokitei ]


avarokiteiさんは、自分の感性に照らして、釈迦が、自らが悟ったと宣言したことは、真実として受け入れたけど、釈迦が、天界の存在を説いたことは、それを真実としては受け入れられない、ということだけのことだと思います。釈迦が悟ったことも、天界について説いたことも、どちらも、ただ、経典にそう書いてあるだけで、確証のないこと、ですよね。
しかし、釈迦は、悟ったと思うけど、天界のことは、方便である、と考えるのも、もちろん、悪いことではないと思っています。私も、天界のことは、方便ではないか、という思いを持っています。
2010/2/27(土) 午前 11:11[ mag**iok ]


天界は、方便かもしれません。それが、信じられない人は、それを信じなくても、釈迦の説いたことを実践すれば、この世で苦しみの軽減は経験できると思います。
また、そんなものを説く教えには共感できない、という人は、それは、もう仕方のないこと、だと思います。
仏教は、強制するものではない、理解して、納得できたら、やってみてください、というものである、とテーラワーダの僧侶は言っています。
釈迦に、救ってくださいと頼みに来た人に対して、釈迦は、私は救ってやれない、私のできることは、自らによって自らを救うための方法を教えるだけである、と言っている経典があるそうです。
2010/2/27(土) 午前 11:16[ mag**iok ]


天界や、神々のことについて、どうしても分からない、それは真実なのだろうか、と質問した人に対して、テーラワーダの僧侶は、それは、分からなくて当たり前である、それは、修行が深まった人にしか分からないのだから。分からないことは、分からないでいいから、分かることだけを実践しなさい、と言っていました。
さて、それは、真実か、方便か。
修行が深まらないと分からないことである、ということなら、分からないことは、それ以上考えても仕方ないですよね。分からないことが、分からないことだと分かることが、分かることである、と言っている仏教学者がいます。
2010/2/27(土) 午前 11:24[ mag**iok ]

ちなみに、悟りの階梯によると、預流果に到達した人は、以後、7回生まれ変わるまでには悟ることが確定なのだそうです。 そして、一来果に到達した人は、天界に生まれ変わった後に、人間界にもう1回だけ生まれ変わって、そこで修行して悟れる、ということのようです。
不還果に到達した人は、天界のさらに上の梵天界に生まれ変わって、そこでの修行によって悟ることが確定なので、もはや人間界に戻ることはない、ということになっているようです。
なんとも、うまくできている、と思います。
さて、これは、真実か、方便か。
それは、やってみなければ分からない、そういうことなのですよね。
死後の輪廻が真実だろうと、方便だろうと、この世でやるべきことには、変わりがない、結局は、そういうことになると思っています。
2010/2/27(土) 午前 11:48[ mag**iok ]

<それは、やってみなければ分からない、そういうことなのですよね。>
そういうことだと思います。
実践し、自分で体験する。
これだけが釈迦の悟りを知る、言い換えれば、涅槃を達成する唯一の手段だと思います。
実際、涅槃を体験しなければ、苦も死の恐怖もなくならないし、本当の心の安らぎもありません。
繰り返し煩悩は攻め立てるし、どうしようもない問題が私を悩ませます。
竜樹の空も、結局は、艱難辛苦して悟らなければ単なるお題目に過ぎないと思うのです。
「体験せよ」、これに尽きると思いませんか?
2010/2/28(日) 午後 1:05[ avarokitei ]
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59166863.html


E) 説一切有部の教理における「涅槃」

私は、涅槃という体験を分割できるものだなどと考えたことはない。
ところが、桜部先生の説明によれば、説一切有部は涅槃も細切れに出来る(これは先生の説明を読んだ私の感想で、先生の説明ではない)としているようだ。再び先生の説明を引用させていただきます。引用先は桜部建著「存在の分析 アビダルマ」(仏教の思想2 角川書店)です。
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すべての煩悩を断ち尽くすとき、はじめて「さとり」が得られる。それがすなわち涅槃の境地である、と常識的には考えられる。ところが、説一切有部では、一つ一つの煩悩が断たれて、有情の相続がその煩悩の拘束から離れる、すなわち離繋リケするごとに、一つ一つの涅槃があると考える。涅槃は「択滅チャクメツ」と呼ばれる。「択チャク」とはダルマに対して正しい弁別判断をなす洞察力という意味で、無漏の知恵をさす。知恵による煩悩の止滅「択滅」である。それはダルマの体系の中では、無為のダルマの一つとして数えられる。そこで、ある有情の相続(avaro註:刹那滅の原理により、現在のダルマが過去に去り、それとの関係性すなわち六因・四縁・五果により未来から新たなダルマ群が現在に呼び込まれ再び有情を構成すること、と理解しました)の上において、一つ一つの煩悩が無漏の知恵によって断たれ離繋される(煩悩の拘束から解放される)ごとに、「択滅」という無為のダルマが一つ一つ、その有情の相続と結びつけられる、と考えるのである。こうして一つ一つの煩悩を断ち切って一つ一つの涅槃を得てゆき、ついにすべての煩悩が断ち尽くされたのを般涅槃ハツネハン、すなわち完全な涅槃という。(p124)
________

 この説明に引き続いて、「離繋された煩悩はかならず断たれているけれども、煩悩が断たれても相続はかならずしも離繋しているとはいえないのである。・・・」という説明がついているが、煩雑なので省略します。

 先生の説明にあるように、説一切有部は涅槃もダルマの一つと考えたようです(「択滅」という無為のダルマ)。本当に徹底的に分析し、範疇の体系を作った(分別した)わけです。
 なんとなんと、(108の煩悩に対応する108の)涅槃esが三世実有・法体恒有として実在するというのです。
 あれ、これ竜樹の説と似ていないかな?
 *煩悩の総数は、108ではないかも。先生の説明によれば、離繋される煩悩は、見所断で八十八、修所断で十の煩悩を断ずるそうだから、計98煩悩となります(p128)。また、98の煩悩とそれに対応する98の涅槃という風に単純に考えてはいけないようです。なぜなら、説一切有部が承認した三世実有・法体恒有な法(ダルマ)は、全部で75あるだけですから。しかも、そのうちの三つ(虚空・択滅・非択滅)は、五位の最後の無為(煩悩と無関係のもの)に分類されるので、煩悩に関わる法(ダルマ)は残りの73ということになります。これはどういうことかというと、五位七十五法のダルマの分類は、根本原理的なものの在り方を言語表現したものと考えられるから、難しい構造はさて置けば、私に関する一切は、この75のダルマによって構成され、説明できるということです。例えば、煩悩は98に分類されましたが、この98の煩悩は、五位七十五法のダルマのうちの六つ(貪、瞋、痴(無明)、慢、疑、見(慧に含まれるダルマ、つまり、慧)なのであり、98の煩悩はこの六つのダルマの現れ方なのだと考えて良いのではないか。分析とは、明解な説明をするための過程であると言えそうです。説一切有部は当時の知識を総動員してとにかく完璧に説明しようとしてこういうややこしい構造を考え出したのだと思えば、本当に良くやったご苦労様と賞賛するほかありません。

 確かにこの考え方に従うと、説一切有部の教理・教説を一つ一つ確実に理解し咀嚼し記憶しなければ修行を行えないことになりそうです。
 世俗の家業に忙しい在家にはとても取り付く島もないでしょう。

 批判者の気持ちを理解できます。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59175042.html


F) 実際の修行法 1-準備段階

説一切有部は決して哲学学派の一つではない。
範疇論を展開はしたが、その分析はあくまでも解脱を確実にするための作業であったようだ。
 だから、当然、修行の方法・道も説いている。
 しかし、分別が身上の部派であるから、修行法(道)についても実に分析的であるようだ。

 その道は、「見道・修道・無学道」の三道であると桜部先生は言われる。
ご存知のように、初期仏教・部派仏教では、無学とは涅槃を達成した者(修行を完成した者)を指す言葉である。従って、無学道は修行法の対象ではない。実質的な修行法は、「見道」と「修道」である。
 「倶舎論」では、第六章分別賢聖品・第七章分別智品・第八章分別定品で説かれているようだ。

 ところが、実際の修行法の説明では、「見道」の説明の前に、「見道」の準備的段階の修行に関する説明があるようです。つまり、説一切有部の修行法は、「準備的期間の修行」「見道の修行」「修道の修行」の三段階となるようです。

 まず、「準備的段階の修行」について、また、桜部先生の説明を引用させていただきます。引用先は@-Bに同じです。

 _______

 であるから、三道といっても事実上、煩悩を断ち切る修行の道は見・修の二道である。ただその前に長い準備的段階がある。三道についての学説は説一切有部のアビダルマにおいて早くから成立し固定していたが、この準備的段階に関する説明は論書を追って展開がある。今は「倶舎論」に見えるそれをあげることにする。
 道に志を起こした者は、まず戒(修行者の生活上の自律)を守ってその生活を正しく、節度あり、きよらかに保つよう努めるところから出発する。次には、良い教えを聞くこと、みずから思索すること、三昧サンマイを修めることによって、知恵(有漏ウロではあるが善である知恵)をみがく。そのためには、衆人の中にまじわり住むことを避け、善からぬ心の動くのを避けねばならぬ。もし修行者が欲望の旺盛でない、みずから足るを知る人であったなら、そのような生き方を持することが容易であろう、と論書は教える。こうして修行者は”法の器”となる。次に、彼がもし肉体的欲望の強い人であったら「不浄観」を修めるべきであるとし、もし心の動揺の多い人であったら「持息念」を修めるべきである。「不浄観」とは、死屍シシがしだいに腐散してついに白骨化するまでのすがたを心中に観想することである。性的欲望---異性の顔色や肌の美しさ、容貌の美しさ、はだざわりの快さ、起居動作の美しさ、などに対する欲望---を制するためである。「持息念」とは呼吸法の修練である。出入の「いき」を数え、呼吸を無理なく自然にし、心をおのれの鼻の尖端や眉間にとめて身内の「いき」を観想し、さらに広くすべてのものを心中に観想することによって、しだいにいっそう高い精神的境地にみずからを導くのである。
 次には、「四念住」の修行に進む。「四念住」とは、身体は不浄である、感受は苦である、心は無常である、すべての事物は無我である、という四つを観想する(心に思い浮かべる)修練である。はじめはその四項をそれぞれ別に観念し、次にそれらを一つにして、身体・感受・心・すべての事物は不浄である、また苦である、無常である、無我である、というふうに観念する。
 準備的段階の最後は「四善根」とよばれる。苦・集・滅・道の四諦を、有漏の知恵をもって、分析的にそしてくり返しくり返しさまざまに、観察することである。その無数にくりかえされる観察のあいだに、修行者の心はしだいに養われ高められて、無漏の知恵を起こしうる状態に近づいてゆく。そして、その極点において、ついに修行者は無漏の知恵を起こすことを得て、より説一切有部的にいえば、修道者の心相続の上に有漏の知恵を等無間縁トウムケンネンとする無漏の知恵がはじめて生起して、「見道」にはいるのである。(p127-128)
____

 先生の説明文中の有漏とは、煩悩を持つ者のことである。無漏が煩悩の無いもの、すなわち悟りを開いた者ということになる。
 先生の説明を引用すると、「説一切有部的にそれを表現すると、凡夫の世界においてはすべての存在が『煩悩の対象(厳密にいえば煩悩である”心作用”とあい伴う”心”の対象)となり、あるいは煩悩とあい伴う』のである。」(p39)というちょっとややこしい話になります。

 ここまでの説明は、恐らく、現在南アジア・東南アジアで行われているテーラヴァーダ仏教の説明と重なると思います。

 等無間縁は、四縁の一つなんですが、よく分かりません。等無間とは、直接のというような意味だと註にあります。要するに、準備的段階が進んで有漏の知恵が閾値に達するとこの(高まった有漏の)知恵が直接の因となって未来から無漏の知恵がやってくるとでも読んでおけばいいかなと思います。

 一言追加すると、ここまで読んだ説一切有部の実に細かな分析・説明の仕方はホントにうんざりするほど細かいものです。しかし、有部は、仏教以外の哲学や宗教のこういう分析的傾向と対抗するために、アーガマに説かれたお釈迦様の涅槃を明解に説明しようとしたのだと考えれば、今私がやっているこの作業と質的には同じものなのだと考えられます。涅槃に至る過程は、一般の人は(修行中の比丘も仏教以外の哲学者なども)体験していないから、共有できる経験も無ければ、当然ながら、お互いに理解しあえる概念も無かったので、とうしても、神秘的な表現で説明されました(比ゆ的な表現)。説一切有部は、そういう神秘性を出来るだけ排除しようとしたとも考えられないでしょうか。
 説明というのは、自分や相手を納得させるためのものです。ここに、説明というものが負う時代的な制約が現れると思います。ある時代には、ほとんどの人を納得させ得た説明も、次の時代になると受け入れられなくなる。そこで、新しい説明を工夫するということです。ちょっと読んだだけだと、説一切有部や竜樹の説明が奇異な説明の仕方だなぁと感じさせるものは、その説明をした人たちとそれを受け入れた人たちの知識や思想、その根底にある考え方などが今と著しく異なっていたからでしょう。私たちは経験を非常に重んじます。科学の実証性も経験に裏づけされます。病気が祟りや憑き物が原因では無いということは実際に祈祷師の施術と医者の施術をやって較べればほぼ実証されます。しかし、説一切有部や竜樹の時代のインドでは、霊魂や本体が確信されていて、五位七十五法のダルマの観念のように、精神的なものが実体として多くの人に納得されていたという時代背景があるようです。現代では、出来るだけ実証しつつ論じようとします。理論が経験と密接に結びついています。しかし、当時のインドでは、言語が実体として承認されていたのですから、むしろ、言語の理論の方がより説得力を持った可能性がありそうです。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59175178.html


G) 実際の修行法 2-見道

準備的段階の終点は、「ついに修行者は無漏の知恵を起こすことを得」ることだと、桜部先生が説明しております。無漏の知恵とは、ルアンポル・ティエン師が説く「Panna」に相当すると思います。ルアンポル・ティエン師によれば、Pannaが生じると、それによってありのままの真実を見ることができるのだそうです。ありのままの真実とは、大乗で言う「空」だと考えて良いと思います。(興味がある方は、目次にある「自己への気づき手引書」のpart twoをお読みください。説一切有部のこみいった説明と正反対の読みやすい説明があります。ただし、ルアンポル・ティエン師の瞑想法においても、このPannaが生じてくるまでは大変だと思います。もし、Pannaが生じれば、後はスムーズにいきそうな感じを持っています。
では、説一切有部の説明はどうなっているのでしょうか。
桜部先生の説明を引用させていただきます。出典は、同じです。

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 「見道」に入って以後は、まさしく無漏の知恵によって煩悩を断ち切ってゆく過程である。まず、苦・集・滅・道の四諦を観知することによって八十八の見所断の煩悩を断ち、ついで「修道」に入って残りの修所断の煩悩を断ち捨てる。「見道」に入ってから修行者はもはや平常の人(凡夫)ではなく、貴い人(聖者)である。見・修・無学の三道は聖道(聖者の道)とも呼ばれる。
 見所断の煩悩は、さきに述べたように理知の面での煩悩であるから、四諦の観知から生起する無漏の知恵によってたちまちに断ち切られる。ひとたび四諦の真理性を認識することは、それがそのまま見所断の煩悩を離れることにほかならないからである。知ることがすなわち断つことである。だから見所断の煩悩は、ハンマーで石を打つと石がぽっくり割れるように、一挙に断たれるのである、という。
 これらの煩悩を断つためにはたらく無漏の知恵に二種類があって「忍」と「智」と呼ばれる。「忍」とは奇妙な呼称であるが、仏典の中でこの語は忍谷の意味でなく用いられる場合があり、そのときはある特殊な知恵のj働きを意味するのである。いまもその用例であって、まず「忍」によって煩悩を断ち、すなわち煩悩と心相続との”倶生クショウ”の関係を離れ、次に「智」(これもまた一種の知恵のはたらきである)によってその煩悩の断絶を確証し離繋リケを得る。それは一人がまず盗人を捕らえて家から引き出し、他の一人が彼をふたたび入れないように扉を閉ざすようなものであるという。だから、一挙に断たれるとはいっても、無漏の知恵が「忍」としてはたらくのに一瞬間を、「智」としてはたらくのにも一瞬間を要するから、見所断の一種類の煩悩が断ち切られるのには二瞬間かかるとしなければならない。
 ・・・。
 欲界の煩悩に対してはたらく「智」を法智といい、上界(色界・無色界)の煩悩に対してはたらく「智」を類智というから、見所断の煩悩の断たれる過程を無漏の知恵の側から見ていえば、苦法智忍が生起する(苦法智忍の生起する瞬間が見道に入るときである)ことから始まって、次に苦法智が生起し、ついで苦類智忍が・苦類智・集法智忍・集法智・集類智忍・集類智という順序に生起し、最後に道類智忍・道類智の生起に至る。苦法智忍の生起から道類智の生起まで十六瞬間を要するが、道類智によって最後の見所断の煩悩が断ち切られた瞬間に、その人は「修道」に入るから、この第十六瞬間はもはや「修道」に属するものと見なして除き、見道十五心という。このきわめてわずかな時間のあいだに次々と”石を割る”ように八十八の見所断の煩悩は断ち切られるのである。(p128-130)
 *avaro註:無漏ムロの知恵=無漏とは有漏ウロの反対概念です。有漏とは、煩悩を持つものという意味であるとされます。無漏はその反対概念ですから、煩悩を持たない、煩悩に汚されない、悟りの領域に属するものということになります。無漏の知恵とは、悟りの領域に属する知恵ですから、煩悩を断ち切ることが可能なのでしょう。
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文中の「瞬間」というのは、刹那(1/75秒)のことのようですので、それこそあっという間に、自動的に見所断の煩悩が断ち切れれるということになります。
ルアンポル・ティエン師の説明でも、Pannaが生じると、後は自動的に次々とありのままの真実を見ていくといった感じです。
このような切れ味鋭い知恵のことをダイヤモンドのカッターに例えるのがはやっていたようです。
初期大乗の仏典「金剛般若経」の金剛もダイヤモンドのような切れ味鋭いカッターというような意味にも解されるそうです。般若は知恵のことのようです。
ルアンポル・ティエン師のPannaも英訳では”panna= Knowing, understanding, wisdom; insight, intuitive wisdomなどとなっています。

読んでいて何か得心が行かない”もどかゆさ”を感じないでしょうか?
桜部先生の説明は明快です。
もどかゆさの原因は、原典すなわち「倶舎論」にあるようです。
説一切有部は、徹底的に分析を行い、いわば合理的な説明をしたはずですが、どうして無漏の知恵が見所断の煩悩を断ち切れるのか、その原理はイマイチ明確になっていない気がします。
どのように、何処まで分析し解明すれば納得できるのかという基準が明らかに私の基準と、有部の基準では異なっているようなのです。
有部は説明したと思っているようですが、私にはまるで説明が足りないと感じ、山ほど質問が生じるのです。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59181863.html


H) 実際の修行法 3-修道

説一切有部の教理を考えるシリーズの、E) 説一切有部の教理における「涅槃」、で引用させていただいたように、桜部先生の説明では、阿羅漢(アルハト、アラハット)となり、涅槃の境地に至るためには、

「一つ一つの煩悩が無漏の知恵によって断たれ離繋される(煩悩の拘束から解放される)ごとに、『択滅』という無為のダルマが一つ一つ、その有情の相続と結びつけられる、と考えるのである。こうして一つ一つの煩悩を断ち切って一つ一つの涅槃を得てゆき、ついにすべての煩悩が断ち尽くされたのを般涅槃ハツネハン、すなわち完全な涅槃という。」
とされています。
そのための修行過程は、見道・修道・無学道の三道であるが、実際的な修行は、見道と修道の二道であるとされます。
従って、修道は修行の最終段階ということになります。

桜部先生の本より引用をさせていただきます。出典はこれまでと同じ本です。

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 (見道において八十八の煩悩を断ち切る方法と比較して)修所断の煩悩の場合はまったくこれと異なる。これは情・意の面での煩悩であるから、単にその不当なことを理性の上で了解しただけではそれを離れることにならない。ここでは知ることと断つことは別である。わかっていてなおやめられないというのが、情・意の面で起こる煩悩に共通な性格である。そこでそれを断ち捨てるには、三昧を修め四諦の真理の観知をくり返し行うことによって、倦まずたゆまず心を養い高めて、断ちがたい煩悩を徐々に断ち切ってゆかねばならない。
 修所断の煩悩は、先に図示したように、三界に分かって十種であるが、見所断の煩悩と違って情意的な煩悩はその一個一個を弁別して断ち切ってゆくというわけにはいかないので、煩悩の種類によっては差別を立てない。ただ、その力の強弱によって上上・上中・上下・〜下上・下中・下下の九種(九品クホン)に分ける。また、色・無色の二界に属する煩悩はそれぞれさらに次下に述べるような四段階に分けられるから、それによって八段階の区別が立てられ、その上に欲界と合わせて三界において合計九段階(九地クジ)に分けられることになる。結局、九品・九地によってすべての修所断の煩悩を八十一に分類するのである。・・・。修所断の煩悩を断ち切る順序は、欲界の上上の煩悩から始めて下下の煩悩に至り、次に色界初禅地の上上の煩悩に進むというようにして、最後に無色界非想非々想処地の下下の煩悩に至るのである。
 色界と無色界とをそれぞれさらに四段階ずつに分けることは、いずれももともと三昧に入ったときの精神的境地に深浅の差別を立てたのによるのである。色界において初禅から第四禅までの四つの段階的境地(四禅)を立て、無色界において空無辺処から非想非々想処までの四つの段階的境地(四無色定)を立てる。この二組みのものは、ともに三昧の境地を示す名称として、アーガマにもしばしば現れる。しかし二組は本来相互に関係のないものであったし、それらと欲・色・無色の三界説ともまた関係のないものであった。それがいつか「四禅」と色界とが、「四無色定」と無色界とが、固く結びついて、三界九地の説が成立したのである。説一切有部アビダルマはことにその学説の中に三界説を重要なものとして取り入れているので、その煩悩論にも、修道論にも、世界論にも、この三界の分類が密接に関連して議論をすこぶる複雑にしている。
 まず初禅と呼ばれる三昧の境地においては、心は(もちろん「定」の心作用と倶生するがそのほかに)「尋(推究的な粗大な心の動き)」と「伺(観察的な微細な心の動き)」の心作用を伴い、肉体的な快さと精神的な快さとの両感受がある。初禅から進んで第二禅の境地に入ると、「尋」も「伺」もはたらかなくなるが、三昧から生ずる肉体的・精神的な快さは感じられ、心のきよらかさが増す。さらに三昧の境地が深まって第三禅に進むと、もはや絶妙な「楽」の感受だけがあり、第四禅に入ればそれすらもなくなって、心はなにものにも乱されずただ動揺のないきよらかさだけがあるという。だからこれは明らかにしだいに深まってゆく三昧の段階を示したものなのである。ところが四禅説が宇宙論と結びつくと、・・・。またこの四禅説が修道論に結びつくと、そこに、四階層のそれぞれに属する煩悩とその滅却が考えられることになった。いずれも修行者の三昧の体験とアビダルマの分析的学風との結合の所産にほかならない。
 四無色定についても、・・・。そしてそれぞれの階層に属する煩悩があり、その断滅があるという。
 このように、説一切有部アビダルマの中では、無色界の四無色定地と色界の四禅地と欲界地という三界・九地の段階的分析が煩悩の種類や質の分析と重なって、修行の道についての論議を形式的に整えてはいるけれどもいたずらに複雑なものにしているのである。(p130-133)
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 「修所断の煩悩を断ち切る順序は、欲界の上上の煩悩から始めて下下の煩悩に至り、次に色界初禅地の上上の煩悩に進むというようにして、最後に無色界非想非々想処地の下下の煩悩に至るのである。」という風に説明されているように、順序良く一段階、一段階煩悩を断ち切ってゆくようです。
 
 参考資料:「倶舎論の原典研究 智品・定品」(桜部建、小谷信千代、本庄良文共著 大蔵出版)の序文の一部を引用させていただきます。
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 実践の道を戒→定→慧の進み行きによって説く代表的論書に南伝の「ヴィスッディマッガ」がある。この論では戒の清浄・定の清浄・慧の清浄という三つの清浄(visuddhi)の次第をもって全篇の実践論が構成されている。それに比して「倶舎論」の場合、第六章に説かれる実践道のプロセスの中で順解脱分が戒→定に当たり、順決択分が定→慧に当たり、そして聖道(見・修・無学道)は慧によって解脱に至ることを示す、と一応理解することはできようが、「ヴィスッディマッガ」ほどはっきりした戒→定→慧の形をとっていない。それは、説一切有部の説く「道」論が、無漏の慧による煩悩の断滅という一点に強く収斂されているからである、と思われる。
 「道」は有為にして無漏であるから、実質として、それは無漏の慧とそれに相応する心・心所(およびそれと倶起する心不相応行・無表業)に尽きる。つまり、道の本質は慧にほかならない、と言える(もっとも「ヴィスッディマッガ」においても、蘊処界等は慧の「地bhumi」であり、戒の清浄・定の清浄は慧の「根mula」であり、慧の清浄は慧の「体sarira」である、と説かれる(vism、p.443)から、慧をもって道の実質と見る考え方はそこに見られる)。
 慧は諸法の知的弁別(pravicaya=pratisamkhya)であり、それこそが煩悩を静めるためのすぐれた手だてである。いっぽう、涅槃とは煩悩の断により苦の断を得ることであるといい、涅槃はすべての苦の静まりであるという。涅槃、すなわち滅、とは苦の静まり、煩悩の静まり、であり、それは無漏の慧による苦の断、煩悩の断(「断」とは、煩悩法と行者の相続santatiとの繋がりの断ち切り、)がもたらすところである。ただ、その滅(慧による滅、すなわち択滅)を、単なる(煩悩)法の不生起(行者の相続の上に続いてその法の生起することはもはや無くなったこと)でるとは見ず、いちいちの煩悩法の不生起が契機となって行者の上にあらわれるところの「離繋」(繋縛からの離脱)なる無為の別法(dravyantara)であると捉える所に、説一切有部独特の理解がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/avaroikite/59183434.html

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11. 釈迦の教えが受け入れられなかった理由

 仏教は宗教ではない。という見解がある。

 宗教とは、人間と神の関係を<信仰>を軸に構築したものである。
そこにおける神とは、ユダヤ教や、イスラム教のように創造神であったり、キリスト教のように創造神/聖霊/メシアの統合体(三位一体)、クリシュナ教徒のように近代化された古代神だったりするが、ある種の霊的超越者であり、多くは宇宙創造神である。

 ところが、仏教は成立の初期において、教祖自身にこの種の信仰心が希薄なのである。
教祖シッタータ王子は、人間として真理に到達したが、自分が神であると宣言した訳ではないし、神の預言者であった訳でもない。

 そもそも釈迦族のシッタータ王子は、クシャトリア階級の出目であるからバラモン階級のように精神世界に没入する訳にはいかなかった。
インドのカースト制度において伝統的な神事は、バラモン階級の専売特許であった。
そこで、かれは当時流行の精神世界ヒッピーである「沙門」になる道を選んだ。
沙門になるのは、簡単である。 身分も問われない。
「わたしは、沙門になった。」
と宣言し、林住期や遊行期の老バラモンのように無一文で修行三昧の生活に入れば良いのだ。


 かれは様々な行者に倣い瞑想を深め、宇宙と人のあり方を追求した。
その意味で、シッタータ王子は宗教家と言うよりも実践的哲学者、精神修行者であった。
かれが求めたのは宇宙構造、なかんずく人間(小宇宙)と大宇宙の関係に関する真実(真理)であり、輪廻という循環構造からの自己の解放であった。
最近のひ弱な修行者のように精神的な安寧や、既存の神話体系を借定したヌミノース体験を追求した訳ではない。

 その意味で、かれはニューエイジ・サイエンスを極めたと言っても良い。

 そして、<12因縁の順観と逆観>という瞑想法を経て<成仏>したのである。

 シッタータ王子が悟りを開いた後、その悟りを開くプロセスを<現法的梵行>と呼んだ。
現法的梵行とは、津田博士の言を借りると

「八正道の本質というのは、<現法的梵行>、すなわち、
一生の間性的貞潔を守る、要するにセックスをしないということです。」

ということだ。
つまり、仏教において、最大の戒律は、<不犯>であった。 
もちろん、これは人間の本能に著しく反する行為である。
インド人にとって、性生活を営むことと生きることはほとんど同義語であり、<現法的梵行>に従うことは、生きることを放棄せよと命令するのに等しい。

 悟達したシッタータ王子、いや釈迦無二仏陀は、この非人道的なシステムに人間が耐えられる訳がないと判断し、教えを伝授するのを断念(これを<不説>という。)し、そのまま涅槃に入ろうとした。
いかに真理であろうと、多数の人間が賛同できるか、少なくとも甘受できるシステムでないと、衆生の絶望を深めるだけだからだ。
このときのシッタータ王子の判断は、良く理解できる。
かれは衆生のために真理探究の道に入った訳ではない。
深刻な実存的疑問を味わって、その解決のために天才的な能力を傾けた青年なのである。
大宇宙と小宇宙に通底する真理を会得したからには、それを理解できず、まして、実践するなどおよそ不可能であろう大多数の人間に、無理な教えを提示するよりは、自得した理法を用いて、存在の次の位相に転移し、先を探ろうとするのは、探求者としては自然な成行きである。


 仏陀の生存中の教団は、その哲学を科学的正確さで追求した。
理法の内容からして、一般の社会人が、たとえ王侯貴族であろうと、身分を保持し、社会生活を営みながら<最初期の解脱プログラム>を履修できるものではない。
そのためには社会生活と肉親の全てを犠牲にし、出家する必要があった。
仏陀が懸念したように、ほとんどの人間には実修できるものではない。
大多数の衆生は、仏陀の教え、最終的な解脱からは切り離されていた。
仏陀の教団についていける者たちは小数のエリートだったのだ。

 従って、当然のことだが、カリスマ的指導者である仏陀の没後に、教団は崩落した。

 それは<神秘哲学の閉鎖的実践集団>から、<教祖を神格化した布教集団>への変貌、或いは教えの民衆化という運動に現れた。
これを追求した者たちは、自分たちの運動を<大乗>と呼び、仏陀の本来の教えに忠実な者たち(上座部仏教)を侮蔑の念をこめて<小乗>と呼んだ。
「乗」とは<乗り物>の意味であり、<大乗>の方が多くの民草を救えるという自負が呼ばせたものだ。

 しかし、仏陀の発見した真理の本質的部分が変化した訳ではない。
大乗仏教の僧侶は、トリックを使ったのだ。
釈迦の方法論は、人間の業や煩悩を無くすために否定的な努力を重ねる<止滅の道>(ニヴリッティ・マールガ)と、世間的活動を積極的に行い心活動を活発にする<促進の道>(プラヴリッティ・マールガ)という二つの相反する方法論に集約できるが、上座部仏教では主として<止滅の道>を、大乗仏教では主として<促進の道>を励行した。
正しい行為を積み重ねれば、仏陀への信仰心を維持し、「やがては安心往生できる」というのは<促進の道>としても、かなり欺瞞的な教えである。
単なる善行のレベルで、修行もしない衆生が輪廻の枠の外に出ることはないからだ。

 大乗仏教の僧都が、衆生の目から真理を隠して、道徳性で埋めて教えた動機は、あまりにも残酷な真理(在家信徒は所詮、解脱できない。)から目をそらす<大慈悲>であっただろう。
しかし、哲学的立場から見れば、嘘は嘘である。

 性を否定した仏教が、インドにおける最後の発展形態である後期密教において、性を肯定するがごとき教義に変化していったのは、興味深いものがある。

 チベット仏教のサキャ派の碩学サチェン・クンガーニンポは、著書『密教概論』において、大乗仏教の顕教と密教の違いを次のようにまとめている。

 顕教は、愛欲などの煩悩を打ちきる必要があり、<法身>と<色身>を成就するための菩薩としての修行期間が長い。それ故に<因乗>と呼ばれる。

 密教は、愛欲を立つ必要がない。短い期間で果を得るので、<果乗>と呼ばれる。

 つまりは、シッタータ王子が反自然的かつ直線的な技法で得た果を、自然かつ迂回的な技法で達成しようとするのが密教であるとも言える。
システムは常に進化するのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/1anti.html

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12. 経典結集の歴史

◆ 釈尊の口伝
「お釈迦様は当時何語でお説法されていたのでしょうか?」というご質問ですが、結論から申しますと<マガダ国を中心とする東方方言>であったことがほぼ確実視されています。しかしこの方言を正確に伝える経典は現存しません。
 実は <パーリー語聖典>は(西暦)19世紀末、ヨーロッパの学者たちから注目を集め、「これこそが最も古い経典で、釈尊の教説を事実に近い形で伝えている」とする説が有力になりました。
 一時はその説に日本の仏教者たちも惑わされ、漢訳の経典をないがしろにする学者も多数出ましたが、研究が進むにつれ、パーリー語聖典はインド西北部の方言に近く、しかも現存する経典は比較的新しいもの(5世紀以後)であることが分ってきました。
 今では欧米の学者たちも、質・量・完成度ともに漢訳経典こそが第一で、古さの点でも漢訳は1世紀から始まっている上、内容的にもパーリー語経典と同様に釈尊在世当時の要素が含まれていることを認めています。
 <サンスクリット語聖典>については、敦煌やバーミヤン等の地で発見された断片も含め、古いものでも4世紀後半で、大部分は7世紀から10世紀に書写されたものです。またネパールには大乗仏教と関連の深いサンスクリット語の写本が数多く発見されていて、研究のためには非常に貴重な資料ですが、古いものでも11世紀後半で多くは17世紀以後のものです。
 なお、「当時は口伝で教えを伝えられていたとお聞きしたことがあるのですが、事実ですか?」というご質問ですが、これはまさに仏教の特徴で、当時も文字は存在していたのですが、宗教的な内容を文字で記すことはせず、口伝(もしくは以心伝心)による指導が中心でした。これは、<教えを文字で固定することを拒む何らかの宗教的習慣・文化が存在した>とも考えられますが、釈尊の行動範囲は広大であり、精力的な布教活動のさなか、教えをすぐ文字化することは物理的に困難だった、とも考えられます。そして釈尊滅後、経典を結集する際も、その慣わしに従い数百年間文字化することを避けていました。

◆ 他国の言語に訳された経典
 次に「現在ある経典は、日本では音読みと訓読みがあるそうですが、他の国の言語に訳された経典はどれぐらい存在するのでしょうか」というご質問について――
 歴史的にみますと、『パーリー語』『サンスクリット語』などインドの標準言語で書かれた経典や、『アパブランシャ語』『古ベンガル語』などのインド方言で書かれた経典、新疆の古代死語(コータン、クッチャー、ウイーグル、西夏など)で書かれた経典も発見されていますが、前述のように質量ともに『漢訳』の大蔵経が圧倒していて、続いて『チベット語訳』は量としては漢訳に匹敵しています。
 日本の状況としては、漢訳の音読み(ただし呉音と漢音がある)が主として法要に用いられ、訓読み経典は教学として活用されてきました([訓読みのお経について] 参照)。また現代語訳も盛んに行なわれていますが、全宗旨宗派で統一した訳というものは作られておりません。ただ大正14年、木津無庵氏が中心となって編集した『新訳仏教聖典』は、縮訳ながら宗旨宗派を超えて好評を得、この訳を下地として『仏教聖典』(仏教伝道協会)が作られ、一般にも普及するようになりました。
 
◆ 経典結集の歴史
 最後に「お経はもちろんお釈迦様によって説かれた内容を、釈尊滅後に後の僧侶達によって編纂され、莫大な数の経典が作られ、現在に至っているのですよね」という初めのご質問にお応えしますが、この問題はとても複雑で長い仏教の歴史を見定めて述べなければなりませんが、ごく短くまとめてみます。
 経典の結集状況は学者によっても説が分かれ、方程式のように答えは出せません。しかしひとまず歴史的事実として以下のことが言えると思います。
• 釈尊の宣教活動は非常に広範で、成道から45年間と期間も長く、出家・在家あらゆる階層の人々に教えを説かれた。
• 経典を文字にしたのは釈尊滅後3〜4百年後。
• 文字化によって経典は膨大な量となる。
• 現存する部派(小乗)経典・大乗経典はともに何度も編集が繰り返されていて、部派経典が大乗経典より古いという訳ではない。
• 釈尊の言葉かどうかの判別はほぼ不可能だが、それが覚った人の言葉かどうかの判別は、覚ってみれば解る。
• 経典は釈尊の言動が基本にあるが、<過去仏>も存在していて、大乗仏教はそれを積極的に取り入れた。

 こうしたことを踏まえ、ごく一般的な説として結集の様子を以下のように伝えています。
釈尊在世中は直接釈尊に確かめられたが、没後は記憶を成文化する必要にせまられた。教えの散佚を防ぎ、教権を確立するために、仏弟子が集まって口から口へと伝えられた教えを整理する編集会議が行なわれたのである。
(一)第一回結集(五百結集)。マハーカーシャパ(摩訶迦葉)が会議を招集し、五百人の有能な比丘がラージャグリハ(王舎城)郊外の七葉窟で、ウパーリ(優婆離)が律の、アーナンダ(阿難)が経の主任となり、読誦する本文を検討し、教団の名において編集決定された。これが現存のパーリ聖典であると南方仏教では信じているが、この伝説に対して種々の異論や批判がある。

(二)第二回結集(七百結集)。釈尊滅後100年のころ、戒律について異論が生じたので、ヴァイシャーリー(毘舎離)でヤシャス(耶舎)が主任となり、七百人が集まって律蔵が編集されたと伝えられている。

(三)第三回結集(千人結集)。釈尊滅後200年のころ、アショーカ王のもとで、首都パータリプトラ(華氏城)において、モッガリプッタ・ティッサが主任となり、千人の比丘が集まって、経・律・論蔵全部を集成したという。第一・二回は北方・南方の両仏教に伝えるが、第三回は南方仏教にのみ伝えている。

(四)第四回結集。二世紀のころ、カニシュカ王のもとで、パールシュヴァ(脇尊者)・ヴァスミトラ(世友)が中心となってカシュミール国の比丘五百人が集まって、三蔵に解釈を付し、それが『大毘婆沙論』となったというが、南方の仏教徒はこれを信じない。
『佛教語大辞典』(中村元著)「結集」より

 では、『第一回結集』においてまとめられた経典を最も正確に伝えている経典は、現存する経典の中でどれなのか? もし複数存在するのであれば、どの経典のどの部分とどの部分をつなげればより事実に近づけるのか? 後世の記述であるという特定はどこでするのか? ・・・等々の疑問が出ます。
 19世紀末の欧米や日本の研究者たちは、<論証を積み重ねていけば釈尊の説かれた教説の真実にせまることができる>という信念のもと、果敢にこの命題に取り組んでいきますが、結果としてその全てが失敗に終りました。これについて、<基本的な仏教教団の成り立ちが、現在我々が考えている組織とは随分隔たりがあるのではないか?>という視点から、以下のような説も出されています。
 ある時期にはぜんぶで二十ほどの部派があったといわれる。パーリー語、漢文、チベット語などのさまざまの文献で、それらの部派の発生の歴史を述べている。ところが発生の順序や系統や名称は書物によってかなりの差異がある。これらの文献に共通するところによると、仏陀の入滅後ある時期(およそ百年のあいだ)を経てのち、大衆部と上座部との分裂がおこり、それから内部の分裂をくりかえして、このように多数部派ができたという。

 こういう文献にもとづき、近代の研究者たちも、仏陀の残した教えはその入滅後ある時期まで(百年ほど)は統一ある形で伝えられていた、と推定することが多かった。原始仏教とか根本仏教とかいう区分はこの推定を根拠とする。
<中略>
 こういうふうに多くの学者は考えてきた。そしてこれらの部派がいわゆる小乗仏教(または部派仏教)であり、その後しばらくして、おそらく紀元後になってから、これらとは別に、大乗仏教という新しい運動がおこった、とこう言う。

 しかしこれらの点には問題がある。問題点を要約すると次のようになるであろう。

 第一に、仏陀の入滅後百年ほどのあいだ統一見解が仏教教団ぜんたいを支配したということは疑わしい。仏陀の在世当時ですら、教理の統制は実際に強制されていなかったし、入滅後の第一回の会議の結果もすべての仏教者によって無条件に承認されたのではなかった。

 第二に、部派の区別は仏陀の入滅後百年たってから始めて現れたのではない。仏陀の在世当時から地域別、または中心人物に別によって事実上の支部が存在していた。布教の地域が拡大するにしたがって、この傾向もいっそう盛んになった。

 第三に、大乗は小乗よりも新しいと一概に断定することはできない。大乗が教団組織として固定し、その聖典を編集したのはかなり後であるが、大乗的傾向の活動はずっと以前からあった。その具体的な証拠は、紀元前二〜三世紀までさかのぼるサーンチー、バールハトその他に残る美術品からも推定される。また“説一切有部”や“経量部”などの小乗部派の教理はきわめて複雑なものであって、これらが大乗の興起以前にすでに成立していたと推定できる根拠はない。

 第四に、前に紹介した部派の分裂の歴史は必ずしも客観的な記述ではないことも注意すべきであろう。書物によって記述が異なることからみても、このことは明らかであるが、これらはみなそれぞれの部派が事実上成立してからあとでおのおの自分の部派を権威づけるために作られた系図である。自分の部派が仏陀の真説にもっとも近いことを証明する意図によって書かれたものである。
『お経のはなし』(渡辺照宏著/岩波新書)「お経の成立」より
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/01_06_28.html


ヒンズー教と仏教

インド旅行で、ヒンズー教と仏教は、非常に近いと実感した。お題目の唱和も鈴で拍子を取るのと、木魚などで取る違いはあるが、同じような感じである。お題目も南無シバ神であり、南無妙法華教や南無阿弥陀仏などと同様である。密教寺院では、声明で読経を1つの音楽のような印象を受けるが、それと同じ声明をヒンズー寺院で聞く。このように宗教を取り巻く雰囲気が非常に近い。

ガンジス川の沐浴も、日本でも冬に川に清めで行う沐浴と同じ雰囲気を感じた。感覚的に近い。全然違うものとは感じない何か懐かしさを感じる。ガイドさんによると、仏教はヒンズー教の1分派であるというが、その意味は分かるような気がする。

また、街中でののら牛、のら犬、のらヤギなどが、人間を恐れないで近づいてくる。サルも街中にいる。物乞いも物売りもいる感じが異空間であるが、人間と動物が同一平面で生きている仲間という感じがした。釈迦が動物に説教をする場面があり、その場面が本当のことだと実感できる。このように今のインドは懐かしさとある意味の理想郷でもあると感じた。

この原因を日本に戻ってから調べる必要があると、旅行中に感じていた。  ウイキペディアによると、
ヒンズー教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて世界で第3番目の宗教である。

ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。 紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。彼らは前1500年頃ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。

紀元前400年頃にバラモン僧の腐敗の元、宗教改革で出来上がったのがジャイナ教と仏教だ。ジャイナ教は商人層に拡がり、仏教は支配階級層に拡がった。

このため、バラモン教は変貌を迫られた。その結果 バラモン教は民間の宗教を受け入れ同化してヒンドゥー教へと変化して行く。ヒンドゥー教は紀元前5 - 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 - 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになった。この頃のヒンズー教や仏教やジャイナ教の区別は殆どない。大きな違いはヒンズー教がカーストを認めるのに対して残り2つはカーストを認めないことである。

しかし、その後インドの民族宗教としてヒンズー教が民衆に信仰され続けてきた。仏教はインドでは根付かなく、東南アジア、東アジアで盛んになる。

ヒンズー教は三神一体(トリムルティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわち

ブラフマー:宇宙の創造を司る神
ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神
シヴァ  :宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神

は一体をなすとされている。しかし現在では、ブラフマー神を信仰する人は減り、ヴィシュヌ神とシヴァ神が二大神として並び称され、多くの信者がいる。その中でブッダはヴィシュヌ神の生まれ変わりとして描かれた。ヒンズー教での仏陀は、第9番目の聖人としている。

また、輪廻はインドにおいてサンサーラと呼ばれる。サンサーラとは、生き物が死して後、生前の行為つまりカルマ(karman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わることである。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない解脱を最高の理想する。

輪廻教義の根幹に、信心と業(カルマ、karman)を置き、これらによって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。

業(行為)にもとづく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。

このように輪廻と業は、仏教もヒンズー教も同じ思想である。

また、ヒンドゥー社会において牛は崇拝の対象となっているが、ヒンドゥー教は不殺生を旨とし、そのため肉食を忌避するので菜食主義の人が多い。しかし、身分やしきたりによってその度合いが異なる。一般的な菜食は植物に加えて鶏卵も可とする人と、鶏卵を不可とする人がいる。また上位カースト階級には、収穫の際に地中の生物を殺す惧れのあるタマネギなどの根菜類を不可とする人もいる。
いずれの場合も牛乳および乳製品は良く食べられる。

このため、ヒンズー教徒は動物を殺さないことで、動物が人間に近づいてくるのだ。また、今回の旅行で見た日本女性の1人旅が多いのも、安全だからであろう。

また、7世紀に入って大乗仏教も密教へと変化するが、密教とは仏教のヒンズー化である。仏教はヒンズー教一派であるタントラ教の教義を取り入れて密教となった。

4世紀にインドのグブタ朝はヒンズー教を国教と定め、ヒンズー教のバラモンを厚く保護した。これによりヒンズー教は圧倒的な勢力を持つようになった。ヒンズー教の発展と富豪商人の衰退が仏教をヒンズー化へと向かわせたのであった。

13世紀を過ぎると、ユダヤ教、キリスト教の後を受けて成立した一神教のイスラームが、インダス川を越えてインドに入り込んできた。多神教のヒンドゥー教と一神教のイスラームは、根本的に異なる宗教で、2つの宗教の信者はおたがいに対立することが多くなる。
この対立は、20世紀のインド(ヒンドゥー教徒多数)とパキスタン(イスラーム教徒多数)の緊張の背景にもなっている。仏教は、13世紀のイスラム教の侵攻で、インドから出て行く。この最後のインド仏教の逃げた場所がチベットであり、現在のチベット仏教になる。

日本に中国経由で伝来した密教は8世紀の密教であり、チベット仏教は12世紀の密教である。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/230108.htm

中国儒教文化の中で独自に発展した大乗仏教


大乗仏教は、東アジア儒教文化圏において、儒教にない部分(呪術)が受けいれられました。そして、思想としては、儒教があったために、大乗仏教としては、体系化されることがなかった。 また、中国人に受けいれてもらうために、インド式の輪廻転生から、儒教の祖先崇拝の死生観に宗旨変えした。つまり、仏教として名乗っているが、実は、儒教的死生観にもとづいている、儒教を補完するものであったという試論です。

大乗仏教論 : 中国儒教文化の中で独自に発展した大乗仏教


(1) はじめに: 東アジアの独自宗教


釈尊の説いた仏教は、法(ダンマ)を知り、ダンマに従って生きなさいという生活の道徳を論じるものだった。

このダンマ主義の生活哲学は、仏教にとっての聖書をめざして20世紀半ばに著されたインドの法律家アンベードカルの「ブッダとそのダンマ」を読むかぎり、現代仏教にも受け継がれている。

これに対して、大乗仏教の特徴とはなんだろうか。


大乗仏教は、発祥の地インドには残っていない。5世紀の仏教迫害以来、あるいは13世紀初頭に密教が終焉して以来、インドにおいて大乗仏教の信者はいないという。

「ブッダとそのダンマ」においても、大乗的な思想は紹介されていない。例外的に、「空」について、「総ての事象は一時的で儚いと確信することがダンマである」というダンマが後に「空観」を生み出すという説明が行われている。浄土や本覚についての記述はない。

現在の大乗仏教は、中国や日本など東アジア儒教文化圏に地域的に限定して、漢訳された仏典を経典として独自に発展したものである。形式的にはインド由来とするが、内実は「漢訳以後の仏典にもとづいた東アジア儒教圏の独自宗教」として受け止めるべきだというのが私の結論である。

その特徴は、

・ 呪術性が非常に強い
・ 宗教概念があいまい(内容理解不十分なままに輸入された概念であり、それを究明する切実さが欠如していたため)
・ 儒教的死生観を取り込んだ


である。20世紀にインドで復興した仏教と、東アジアの大乗仏教は、21世紀にどのような対話を行うのか、興味深い。

(2) 呪術性が非常に強い


・ 原典の不確かさ

インドにおける大乗仏教は、釈尊が寂滅して数百年後の時代に、仏陀崇拝、仏伝文学、菩薩思想などが広まった結果として、紀元後1〜3世紀の時代に、般若経、法華経、華厳経、浄土経など初期大乗経典が生まれ、紀元後3〜5世紀には如来蔵思想や悉有仏性・法身常住思想、唯心などの思想が生まれ、さらに紀元後 7〜12
世紀に大日経・金剛頂経などの密教経典が成立したとされる。

奈良先生の「釈尊との対話」によれば、「5世紀に仏教弾圧があり、インドの仏教人口は皆無にひとしくなった」ということなので、インドで大乗仏教が信仰された時期はそれほど長くはなかったようだ。

そして法華経ひとつとっても、それが「いつ、どこで、どのような社会に成立したか、これまでに特にわが国の多くの学者が関心を示したにもかかわらず、未だ明確にされていないのが実情である」(岩波文庫「法華経」上、「解題」P429)。本家の大乗仏教については詳しいことはわからないのである。

・呪術師のような三蔵法師

原典も不確かなこれらの大乗経典は、鳩摩羅什(350-409)や玄奘(602-664)をはじめとする、三蔵法師たちによって漢訳された。シルクロードを横断し、インドと中国の両方の文化に通じた彼らの勇気と情熱と能力と幸運とによって、とくにインドと中国両方の文化に対する理解度の高さ、仏教に対する造詣の深さと類まれなる言語能力によって、漢訳大乗仏典が生まれたのであった。

「中国文化思想事典」(東大出版会、2001年)の「仏教」の項によれば、「インド・西域から渡来した訳経僧(三蔵法師)は、たんに経典の翻訳者として活躍しただけでなく、不思議な術を使う呪術者としてあがめられ、また軍事に関する予言者として重用された。最初期の訳経僧である安世高はあたかも魔術師のように描かれ」、鳩摩羅什も「翻訳僧としてよりも呪術者あるいは予言者」として『晋書』に描かれている。経典の漢訳よりも、経典を誦して祈りを捧げる呪術行為によって、彼らは名を上げたのだった。

 呪術性という点では、現代においても大乗仏教は、護摩を焚いたり、念仏行が中心であり、呪術的性格は根づよい。むしろ、中国に存在しなかった呪術的性格ゆえに、大乗仏教は東アジアで受け容れられたのではないだろうか。


・儒教と似ていた原始仏教は忌避?

これはあくまで試論であるが、釈尊の説いた原始仏教が中国で受容されなかったのは、ダンマ主義の道徳・哲学が、孔子の説いた儒教の教えと重複しているところが多かったからではないか。また、道徳教義としては、孔子の教えのほうが馴染みがあってわかりやすく、体系化されていたので、中国人は原始仏教に見向きもしなかったのではないだろうか。

たとえば孔子についての表現や孔子本人言葉の中で、


「子、怪力乱神を語らず(怪異、怪力、無秩序、神を孔子は議論しなかった)」、

「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん(生の意味さえつかめていないのだ。ましてや死など)」


というのは、原始仏教の教えに近くないか。

孔子の死後、弟子たちが集まって「論語」をまとめたように、釈尊の死後、弟子たちが結集して釈尊の言葉をまとめたところも、仏教と儒教は似ている。


・漢訳の難しさ

インドの仏典を漢訳するというが、宗教理論や概念という形のない、抽象的な内容をさす異言語は、そうやすやすと理解し、翻訳できるものではない。ましてや、翻訳した概念を、その概念がもともと存在していない言語空間に住む人間に理解してもらおうというのは、土台無理な話である。

インドと中国両方の思想や宗教などの精神活動に関わる概念を体得し、理解したり、比較できる人間の数は当時少なかった。そもそも、両方の文化によほど精通していなければ、出来上がった翻訳が正しいかどうかを判断することすらできない。仮にうまく翻訳できたとしても、読む者がその概念を理解できる保証はどこにもない。五官で感じることのできる食べ物や樹木のような具体的な事物であれば、インドから中国に持ち込むことによって体験させることもできるが、「悟り」や「空」といった抽象的な宗教概念の場合、それを指し示して見せることも、触れさせたり、味わわせてみることもできないからである。

さらに仏教が持ち込まれたときの中国にはすでに儒教や老荘の思想が存在していたために、抽象概念を受容する行為そのものは容易であったが、それが既存の抽象概念に訳出された場合、理解や翻訳が正しいかどうか、確かめる術もなかったのである。


「初期の翻訳経典には儒教や老荘などの思想用語が多く援用され、外来の宗教・思想である仏教を中国人が理解し受容するために役立ったが、逆に仏教をきわめて中国的に理解してしまうという欠点をもっていた」

(中国思想文化事典)というのも、もっともなことである。

・土着思想の格子(パラダイム)で取捨選択


中国思想文化事典によれば、インドで生まれた仏教の思想は、中国土着思想の思考枠組によって、意識的・無意識的に取捨選択されて受容された。

「中国固有の伝統思想にもとづいて仏教を理解することを『格義仏教』といい、これが四世紀後半に活躍した釈道安によって批判されてのち、仏教は仏教そのものとして理解されていくようになる。ただ、格義的解釈の前提として、格義的翻訳とでもいいうる翻訳段階での中国化があった」。

その結果「中国的に潤色された漢訳仏典は、漢字文化圏のなかで中国固有の経典と同様に絶対的な価値をもつものとして組みこまれていき、原典は顧みられることがなかった。

インド仏教が伝来する以前、中国固有の思想にすでに類似した思想があった場合(利他行と経世済民、兼愛など)は、類似しているがゆえに共感し受容されやすかったと推定することも可能であるし、類似しているがゆえに受容する必要がなかったと結論づけることもできる。

また、逆に類似する思想がなかった場合(宗教的悟り、絶対者による救済、輪廻思想など)、ないからこそ学び受容した場合もあるし、類似した思惟がなかったため理解されずに反発され、あるいは関心さえ示されずに受容されなかった場合もある。」

3 宗教概念があいまい


・翻訳文化の限界の例

奈良康明著「釈尊との対話」(NHKブックス、1988年)は、仏教概論のレポートを書くために読んだが、異文化理解がいかに大変であるかを感じさせる逸話があるので、紹介したい。

奈良先生がインドに留学しておられた「ある時、指導教授の家に招かれ、お茶をご馳走になったことがある。奥さんがだして下さったのが、ミルクの中に米粒がはいっている食べ物だった。甘くて、スパイスがたっぷりきいていて、良い匂いがして、いかにも滋養がありそうで、まことに美味しいものだった。名前を聞いたら、パヨシュだという。

『美味しいものですね。初めて食べました』、と私は言い、何げなしに昔からある食べ物かと尋ねた。
先生は教えてくれた。釈尊が苦行を中止した時、村娘のスジャーターが捧げ、それを食べて釈尊が元気をつけ、菩提樹下に赴いて悟りを開いたのが、このパーヤサではないか、お前は仏教を勉強していてそんなことも知らなかったのか!」

乳粥という名前を知っていても、その味は体験することができない。インドに留学していても、インド人の家庭に招待されなければそれを味わう機会すらなかった。そしてそれを実際に自分で食べておいしいと思っても、その感動を表現し、『昔からある食べ物か』という何気ない質問を幸運にも思いついて、相手をあきれかえらせるまで、それが釈尊が悟りの直前にスジャーターに捧げられた食べ物であることに気づくことはないのである。文化の壁というのは、意外に高いということがこの逸話によって確かめられる。おそらく何年インドに暮らしても、パーヤサを食べる機会のない留学生もいるだろう。異文化が、いかに盲点に隠されていて見えにくいかを、あらためて実感した。誰もがその名を知っている「乳粥」であっても、それを体験すること、それを自分の知識と結び付けることが、これほどまでに難しいのである。抽象概念の「悟り」や「空」を理解することが、いかに難しいかについて、想いを馳せてみるとよい。

・ 本家インドを顧みない伝統

大乗仏教は、仏教発祥の地とは異なる言語空間、異なる文明領域で、異なる死生観や家族観の支配する土地で発達した。世界に広がるキリスト教教団の中心にバチカンが位置して、世界各地で繰り広げられている宗教活動や教義内容をチェックするシステムはなかったし、幸か不幸かインドで仏教が消滅してしまったために、本家の教義や実践のことを気にすることなく自由に解釈し実践することができた。

外来思想をいいことに、あるいはより一層呪術めかして見せるために、翻訳の難しいところや雰囲気のあるところは、意味をまったく問わないで音だけを味わう「呪文」にしておくという寛容さ、いいかげんさも持ち合わせていた。

たとえば般若心経の最後の部分、「ギャーテイ、ギャーテイ」以下は、呪文扱いされている。訳出が難しかったのかもしれないが、呪文のほうがありがたいと思われたのかもしれない。儒教という大理論体系があったために、東アジアの人々はそもそも仏教に理論や意味を期待しなかったということもある。「まるでお経だ」という表現は、「おまじないみたいで、さっぱりわからない」という意味で通用するが、それが許されるのである。

一方で、般若経典において重要な意味をもつ「Sunnyata (sunya)」を理解するにあたって、インド仏教においてそもそもSunnyataがどう理解されているかということはあまり議論されることはなかった。すでにインドにおいて仏教が終焉していたこともあっただろうが、我々の頭は、原語であるSunnyataよりも、漢訳語で
ある「空」とは何かに興味が向いていた。


漢訳された後の概念である「空」とは何かについて議論すると、「空」という漢字が合わせもつ「空しい」とか「空っぽ、空虚」という意味に、本来それらの意味とは無関係であるかもしれない仏教概念Sunnyata理解が影響を受けることになりかねない。

大乗仏教の「Sunnyata」という概念が、たまたま「空」という文字で翻訳されたからといって、必ずしも「むなしい」とか「空っぽ」という意味と結びつくわけではないはずである。しかしながら、我々の頭はどうしても、漢字の「空」の併せもつ意味に引きづられてしまう。巷で売られている般若心経の解説書は、そのような説明が一般的である。

これは「空」を理解する上で不毛な混乱を招くことになった。「色即是空」の「空」を理解するためには、可能であったならば、なぜSunnyataは「空」として訳出されたのか、翻訳者はどういう意味として訳したのかも、問題にしたいところである。

そして、国際交流が可能となった現代、オリジナルのインドで、「Sunnyata」がどんな意味をもつのか、どんな文脈で使われているのかということに、もっと関心を示してもよいと思う。 

・議論を不明快なまま放置


議論が収束しないのに、混乱したままで放置されていたことも問題ではなかったか。

中村元博士は、1994年に書かれた「空の論理」という本の中で、「<空>は大乗仏教の根本概念であるということは、だれでも知っている。では、<空>とは何か、ということになると、なかなか答えが簡単には出て来ない。<空>を説いた文献に関する研究は、毎年無数に多く刊行されている。しかし「<空>とは何か?」とい
う端的な問題にたいしては、かならずしも答えが与えられていない。学者はとかく避けて通っているという傾きがある。」という。

そういいながら、中村博士は、大乗仏教における「空」の概念は、「実体がない」という意味だと断定して、般若心経の説く最上のさとりとは、

「<一切空>を体得することに他ならない。智慧の完成というのは、あらゆる現象が実体性をもたないという道理をさとることにある」

と書いておられる。あるところでは「答えがない」と書き、別のところで「実体がない」と言い切るのはいかがなものか。まじめな読者が混乱しないだろうか。そもそも、「あらゆる現象が実体性をもたない」ということは、私の理解を超えている。実体とは何のことなのだろうかといぶかってしまう。

このように議論が混乱し錯綜したままで放置されているのは、中村博士一人の責任ではない。おそらく東アジアにおいては、すでに儒教や老荘の思想によって、独自の宇宙観・人間観が確立されていたために、誰も仏教に体系だった思想や哲学を求めなかったのだ。

人々が仏教に期待したのは呪術性であった。だから<空>が何であろうと、誰も困らなかったのだ。そのため、中途半端なわけのわからない説明であろうと、「答えはない」などと無責任に放り出されてしまっても、鷹揚に受け止め、問題にする人間がいなかったのではないだろうか。

法事でお坊さんの話の内容がよく理解できなかったとしても、悩み、落ち込む必要はない。おそらくお坊さんだって、よくわかっていないのだ。

4 儒教的死生観に変容

大乗仏教は、東アジア儒教文化圏において、釈尊の説いた生活や道徳に関する法の教えとは異なって、より呪術的な行、あるいは禅の精神集中法として、独自の発展をとげた。

また、死生観を異にする中国人に受け入れてもらうために、仏教は自ら中国に固有の儒教的死生観・祖先信仰を取り込んだ。その結果、インド仏教には存在しない位牌や墓地や年次法要が始まった。この点については、加地伸行著「沈黙の宗教―儒教」(筑摩書房、1994年)が詳しい。


・インドは輪廻転生の死生観

そもそも、中国とインドでは、気候風土が異なる。インドは「暑さの上に、雨が少ない。(略)村から1キロ、時には10キロも離れた井戸へ水を汲みに行く。それを何回も往復し、午前中はそのことで時間がつぶれ」る。「釈尊の時代の前六世紀ごろのインドでは、子供はたいてい乳幼小児期に急性罹患で倒れ、母親も産褥熱でよく死亡し、25歳を超えた成人は少なく、40歳ともなれば灼熱の地における体力の消耗で老化し、諸々の感染、脱水などで死亡したであろうと言う。すなわち老いと病と死とは同時に出現したであろう」。

「仏教のみならず他のほとんどすべてのインド諸宗教が、人生そのものが苦であると言うのは、インドの現実の上に立っての考え方であろう。生・老・病・死 この四苦は、インドにおいて現実であった。」

「せっかくこの世に生まれてきたのに、苦のままに寿命も短く死んでゆくというのはいやなことだ、つらいことだと考えるのがふつうであろう。(略) 儚い人生ながら、なにか希望を与えてほしいと願うのが自然である。短い人生を生きる者のための安心できる死生観を宗教者に説いてもらい、死の不安や恐怖を取り除いてほしいという要求」に「応えたものが、インド諸宗教を貫く輪廻転生という死生観であった。」(pp22-23)

・中国は招魂再生の祖霊信仰


一方、「中国人には、仏教が伝来するまで輪廻転生という考えかたはなかった。輪廻転生とは全く異なる死生観をもっていたからである。」

「中国人はインド人と異なり、この世を苦と考えず、楽しいところと見る。五感(五官)の楽しみー美しい物を目で見て楽しみ、心地よい音を聴いて楽しみ、気持のよい物に触れて楽しみ、おいしい物を食べて楽しみ、芳しい物の香りを楽しみ、それらを大切にする。」

現実的で即物的な中国人の死生観は儒者が説明した。

「人間は精神と肉体とから成り立っているとし、精神を主宰するものを<魂>、肉体を支配するものを<魄>とした。(略)この魂・魄は、人間が生きているときは共存して蔵まっているが、死ぬと分裂」して「魂は天へ浮遊し、魄は地下へ行く」。

天地に分裂した肉体と精神を再び結びつける儀式を行うと、死者は<この世>に再び現れて、なつかしい遺族と対面することができるのである。

「儒教の発生はシャマニズムにある。死者の魂降しである。しかも魂(精神)降しだけではなくて、魄(肉体)も呼びもどす。そして神主に依りつかせ<この世>に死者を再生させる。招魂(復魂)再生である。」

・儒教の大理論体系

シャマニズムは世界各地にあるが、「儒教は後に天才孔子の手を経て家族道徳につながり、さらに中国に皇帝制が確立した前漢王朝時代に政治理論を作るまでに大成して、以後、内部発展を続けながら、中国を支える大文化として存続した。このようにシャマニズムを基盤にして歴史を動かす大理論体系を作ったのは、世
界においておそらく儒教だけであろう。」(p44)


「死者の魂・魄をその命日の日に招き寄せるとき、依りつくべき場所が必要である。そのために儒教は神主を作った。こうして依りついた魂・魄は、その儀式が終わると、神主から離れて元の場所に帰る。魂は天上へ、魄は地下へと。天は広く、魂はそのまま浮遊しているが、魄は管理場所である墓へ帰る。残った神主は宗廟へ、あるいは祠堂や住居内の祠壇へ移し、安置する。これが儒教の祖先祭祀の大筋である。」(pp46-47)


「儒教が東北アジアにおいておそらく普遍化していた1〜2世紀ごろ、仏教が中国に伝来した。この仏教を生んだ南アジアのインドと、儒教を生んだ東北アジアの中国とは、イデオロギー的に共通するものはない。当然、仏教と儒教との両者は衝突した。」

・仏教が儒教的死生観を取り込む

だが、やがて「仏教側としては、儒教と抗争するよりも、すでに普遍化している儒教の本質的なものを取り入れることによって、儒教信奉者の自分たちに対する抵抗感をなくしてゆこうという考えかた」をとった。

すなわち、「祖先祭祀の導入 − その具体化とは、

1 神主を建て、招魂するシャマニズムを認めること(すなわち神主をまねて位牌を作った)、

2 墓を作り、形魄を拝むことをなんらかの形で認めること(仏教においては、遺骨を拝むことなどはありえない。釈迦の遺骨だけは特別に神聖視しているが、それは偉大なシャカの想い出、敬慕を表しているだけである)、

3 儒教式喪礼を取り入れた葬儀を行うこと、などである。」(p50)


ただし、インド仏教にはない考え方を、『盂蘭盆経』という偽経、インドに原典がなくて、中国において作り出された仏典で、祖先祭祀の理由を説明した。

「釈尊の弟子の目蓮は、神通力をもっていたのでいろいろな世界を見ることができた。或るとき、自分の母親が、輪廻転生をしているうちに、あろうことか餓鬼の世界で苦しんでいるのを見た。その母親を救い出す方法を釈尊に問うたところ、僧侶によって盛大に経典を読誦することを教えられたので、そのとおり行なうと、母は救われたという。これは目蓮の孝心に基づくものだとし、ここから先祖を供養する<お盆>という行事が行なわれるようになった。」 (p51)という話になっている。

だが、よくよく考えてみると、これでは毎年お盆の行事を行なうことの説明にはならない。これは後からつけた苦し紛れの説明だからで、実際は、儒教の祖先祭祀をやっているにすぎないからだ。


「先祖供養・墓という儒教風を取り入れ、その様式化を徹底した日本仏教は、葬儀もまた儒式を取り入れていることは言うまでもない。葬儀のときの祭壇を見るがいい。柩を置き、白木の位牌を建て、死者の写真を添える。それは事実上は死者のための設営である。仏教者として拝すべき最も大切な本尊は、最奥部に、あ
たかも飾りもののように置かれているだけである。(略)

大半の参列者は本尊を拝まず、死者の柩を、位牌を、特に写真を拝んでいる。それは、亡き人を想うことであり、ことばを換えれば儒教流の招魂再生をしているのである。」(p55)

・インドと中国の併存する日本の仏壇

儒教的な祖霊崇拝や死生観が取り入れられたからといって、もちろん全面的に中国化しているわけではない。
日本の仏壇は、「最上段の本尊に対して花を捧げて祈り、中段の位牌に対しては、灯明をもって祖先を幽暗のところからこの世に導き、線香をあげて位牌に依りつかせ、回向をする。すなわち、(インド仏教の)<本尊と花と>、(中国儒教の)<位牌と灯明・線香と>、という組み合わせである。われわれの日本仏教は、こういう形で、輪廻転生のインド仏教と招魂再生の儒教とを、仏壇においてみごとに併存させているのである。

われわれは仏壇に向かって、毎朝、仏に祈り、そして祖先と出会っている。毎朝―ここには、大きな意味がある。それは、家族の連帯を知らしめる行動だからである。」(p81)

5 さいごに:インド仏教とどう付き合うか


・現代インド人による「空」の説明

日本人や中国人は、大乗仏教の理論のなかで重要である「空」を「空」として明らかにしようとするが、インド人は”Sunnyata”とはなにかと考える。グローバル化の進んだ21世紀に、この二つの概念の摺りあわせを行ってもよいのではないだろうか。

インドが独立当時のネルー政権で法務大臣の任にあり、インド憲法を起草したビーム・ラオ・アンベードカルは、不可触民だった。アンベードカルは、1920年代から、宗主国英国とインドの各社会集団(ヒンズー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、不可触民)が行ったインド独立交渉にかかわった結果、ヒンズー教徒であるかぎり、不可触民は救われないことを確信し、20年以上さまざまな宗教を吟味したあげく、1956年10月に改宗して仏教徒になった。

仏教がなかなかインドで広まらない原因のひとつは、聖書がないからだと考えたアンベードカルは、1956年12月の彼の死の直前まで「ブッダとそのダンマ」という本を書いた。本は彼の早すぎた死の後に出版された。
これはブッダの生涯と、主だった教えを、一冊にまとめたものである。

本書の「第3部 ブッダは何を教えたのか」の「第3章 ダンマとは何か」の「(5)総ての事象は一時的で儚いと確信することがダンマである」では、「空」について記述がなされている。

・空=Δt

「一時性の側面は普通人にはいささか理解し難いところがある。総ての生きものはいつか死ぬだろうということは容易に理解できる。だが、人は生きていながらいかに変化しつづけ生成してゆくかを理解するのは容
易くない。

『これはいかにして可能か? 総てが一時的であるが故に可能なのだ』

とブッダはいう。これが後に“空観”と呼ばれる理論を生み出したのである。仏教の“空”はニヒリズムを意味してはいない。それは現象界の一瞬毎に起る永久の変化を意味しているにすぎない。

総てのものが存在しうるのはこの“空”故であることを解するものは極めて少ない。それなくして世界には何ものも存在しえないのである。一切のものの可能性が依拠するのは正にこのあらゆるものの姿である一時性なのだ。“空”は広がりも長さもないが内容のある点のようなものである。(略)

“空”は、時間概念であり、「広がりも長さもないが内容のある点のようなもの」としてアンベードカルは説明する。数学的に評点すると「空とはΔt (時間の最小変化量)」ということができる。
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k8/181005.htm

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5. 釈迦がエロスの世界を遠ざけた理由

エロスとは古代インドでヴェーダの究極の悟りとされている梵我一如の世界そのものなんですね。
そして釈迦が本当に否定したかったのはエロスではなく、梵我一如の概念の方だったのです。
即ち、釈迦はアートマンの存在をどうしても否定したかったのです。
しかし、アートマンを抹殺するとエロスまで一緒に消えてしまうのですね。
大乗仏教が生き残った理由は釈迦が否定したアートマンを無という概念で言い換えて、エロスの世界を認めたからなのです。
アートマンというのは死後も生き続ける個人の魂ではなく、単に無意識をイメージ化して出てきたものに過ぎないのです。

釈迦がその存在をどうしても否定したかったアートマンは心の中に確かに存在します。

それはヴェーダではプルシャ(神人)としてイメージ化されています。
大乗仏教や密教では眩い光に満たされた空なるものとしてイメージ化されます。
無意識の浅い層をイメージ化すると人間の姿をしたプルシャ(神人)になり、深い層をイメージ化すると眩い光に満たされた空なるものになるのです。
これはユダヤ教の人格化されたヤハベの神と新約聖書の人間にはその姿が見えないキリスト教の愛の神の関係と同じです。

但し、釈迦が本当に否定したかったのは眩い光に満たされた唯一なるアートマンではなく、個々の人の魂としてイメージ化されたプルシャだったのです。

眩い光に満たされた唯一なるアートマンは誰が体験しても同じ様なイメージで現れますから、ヴェーダに書かれている様に、人間の死後もアートマンは永遠に生き続けると言えない事もないです。
一方、人間が死んで脳が溶けてしまえば、個々の人のプルシャも地獄や極楽と一緒に消えて無くなってしまいます。
従って、釈迦の「永遠不変なものはない」という言葉もまた真理なのです。

エロスに関係するのは勿論、個々の人のプルシャではなく、眩い光に満たされた唯一なるアートマンの方です。

仏教が一般人に正しく理解されないのは
個々の人のプルシャと 眩い光に満たされた唯一なるアートマンとを区別せずに ごっちゃにしている事が原因なのです。

釈迦が実在を否定したのは個々の人のプルシャと死後の世界・輪廻転生
大乗仏教で空と呼んでいるものは眩い光に満たされた唯一なるアートマン

と考えればいいと思います。

釈迦の悟りというのはそんな大層なものではなく、
個々の人のプルシャが唯のマーヤ(幻妄)であると認識する
という内容でしょう。

個々の人のプルシャが唯の幻影なら、地獄・極楽も輪廻転生も又すべてマーヤ(幻妄)で、単なる心の中のイメージに過ぎないという事になります。
よくある臨死体験と同レベルの体験です。

梵我一如というのは眩い光に満たされた空の世界を実体験するという事でしょう。
一般人には密教の様に麻薬を使わない限り体験できない世界です。

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ウパニシャッドの中心となる教えは、ブラフマンはアートマン(個我)だということであり、この教えの目標は、ブラフマンはアートマンという、この真実を理解することによって到達する解脱(モクシャ)である。

ブラフマンが、すべての現象の背後にある永遠にして最高の実在であり、無限かつ絶対的唯一のものとして神聖であるならば、はかなく有限の現象は神聖にあらざるものである。ウパニシャッドの教義では、目的は聖なるものへの没入であり、人間世界(あらゆるものがブラフマンであるなら、人間世界は聖なるものからの放射物なのかも知れないが)からの解脱であり、自然界もしくは客観世界からの解脱である。

ウパニシャッドの理解によって得られる解脱には二つの主要な方式が設けられている。その一つであるサーンクヤ方式ではプラクリット、もう一つのヴェダーンタ方式ではマーヤーと呼ばれるものが、この人間世界、自然界、客観世界にほかならない。
http://www.geocities.jp/poetjayadeva/03.htm


インドの伝統では、個体、すなわち個人の性格の本質的原理である個性を包含する自我は、知性(ブッディ)と意識(マナス)と自性(アハム・カーラ)の集合体であり、物質的資質であり、プラクリティの一部と考えられており、個としての存在の窮極の基体、本質とは考えられていない。

言い換えれば、西洋世界の伝統のなかで一般に魂と考えられているものは、インド文化の伝統では、現世の
、俗世の、身体的存在の一面である。

人間のなかの永遠で「精神的」な原理は、つまり経験的存在を超える「魂」は、アートマン、またはジーヴァ、またはプルシャである。

人の本質的な「魂」であるアートマンは、ウパニシャッドやヴェーダンタ哲学の教典では、絶対的な一なるものであり、空間をもたず、、永遠であり、資質がない、触って知ることのできない、二重性を欠いた、ブラフマンと同じものと考えられた。

サーンキヤ体系は、ウパニシャッドが立てた概念、プルシャを発展させた。それは、数において無限で、破壊することのできない、永遠の実在、純粋な精神であって、しかも人のなかで、プラクリティ、すなわち自然と結びついた個々人の魂である。
http://www.geocities.jp/poetjayadeva/13.htm


サーンキヤ学派
インド哲学の学派。 六派哲学の1つに数えられる。その思想は精神原理と物質原理を分ける二元論である。

精神原理であるプルシャは永遠に変化することない実体である。
物質原理であるプラクリティは第1原因とも呼ばれ、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(翳質)という、
相互に関わる3つの構成要素からなる。 これら構成要素が平衡状態にあるときプラクリティは変化しない。

しかしプルシャの観察を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開してゆくことになる。

プラクリティ → 理性 → 自我意識

という順序で原理が現れ、自我意識からは思考器官、知覚器官、行為器官が生まれる。
知覚器官には耳・皮膚・眼・舌・鼻があり、行為器官には発声器官・手・足・排泄器官・生殖器官がある。
また、自我意識は他方では素粒子(音・触感・色・味・香)を生み、素粒子は五大の要素(虚空・風・火・水・土)を生む。これらの対象は知覚器官に対応している。

プルシャはこのような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない。
人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが、本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE

「サーンキヤ思想」における「プルシャの独存」

「プルシャ」というのは、純粋精神とも言えるもので、これは或る意味でアートマンの言い換えでもあるのです。

つまり、精神の現象と世界などの物質現象の現れについて、これを理論的に説明する思想がサーンキヤ思想なのです。
そしてサーンキヤ思想では、「プルシャの独存」という仏教だと「解脱」に対応するような、純粋精神の実現の課題を考えます。

どのようにプルシャの純粋性を達成するか。

実は、サーンキヤ思想のこのような課題に対応する「実践的修行体系」として、古典ヨーガの瞑想修行や思想のシステムが構想され築かれています。
つまり、古典ヨーガでは、プルシャの独存の達成のための修行の段階を説明し、
最終の「独存」に至るまでの瞑想修行の過程が解説されているのですが、
このような古典ヨーガの瞑想修行過程において、「得られる体験」が、梵我一如の真理の確認体験の一つだとも言えます。

なぜなら、先にプルシャとは、アートマンの言い換えだとも言いましたが、
「プルシャの独存」とはどういう事態なのかを考えると、これが「梵我一如」と密接な関係を持つことが分かります。

「プルシャの独存」は、マーヤーの幻からの「完全な離脱」を意味します。

このとき、個々の人のプルシャは、その「本質」が明らかになる訳で、

独存状態においては、プルシャは「誰かのプルシャ」ではなくなり、
個々人の精神の根柢にある、原型としてのアートマンそのものに一致し、

アートマンはこのとき、個々人のアートマンではなく、本来の「唯一なるアートマン」となり、
この「唯一のアートマン」とは則ち、「ブラフマン」に他ならないからです。


ブラフマンがマーヤーにおいて現象を展開してゆくことにおいて、
わたしとかあなたなどの「個人」の区別が生まれ、
その個人の主体精神の本質としてアートマンが考えられているのであって、
マーヤーから脱した純粋なアートマン、つまり「独存のプルシャ」は、結局、ブラフマンと一致することになるのです。


インドにおいては、古典ヨーガの瞑想修行を通じて、梵我一如の真理が体感されるのだとも言えます。
(古典ヨーガとは、『ヨーガ・スートラ』に述べられている瞑想修行体系とその実践思想で、ヨーガはこの後、様々に展開し多様なものとなりますが、しかし、根本には、古典ヨーガの思想が流れています。

ヨーガ一般の最終目標は、マーヤーからの離脱、
従って、プルシャ、アートマンの独存なのです。
従って、ヨーガの瞑想修行を通じて、梵我一如の真理の確認が試みられるとも言えます)。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1094165.html

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釈迦がプルシャ(神人)としてイメージ化されたアートマンをどうしても否定したかった理由

(1)「無我」の思想
ブッダが、インドの伝統的な信仰であったバラモン教(後のヒンズー教)の中心的概念であった、
輪廻転生しながら永遠に生き続けるというアートマン(atman 個我=魂)
を否定して、アン・アートマン(anatman 無我)を説いたことを疑うのは極めて困難です。

それは、あまりにも多くの文献において書き残されており、しかも、仏教徒の書いたものだけでなく、彼らの宗教的・思想的ライバルたちによっても、仏教徒たちがアートマンを否定していることに対するさまざまな批判が、書き残されているからです。
もし、ブッダが魂の否定としての無我を説かなかったとすれば、たとえば、『ミリンダ王の問い』に書き残されているような、
「もしアートマンが存在しないのなら、改組・回帰(輪廻転生)していく、当のそのものは、なにものか」
というような問いに仏教が明確な解答を与えようと大変苦労した思想史的事実が説明できなくなってしまうでしょう。

また、「アートマン」という概念はバラモン教の哲学(ウパニシャッド)にとって本質的なものであって、
それなくしては、ウパニシャッドの語る宗教的救い(ブラフマンとの合一)がなくなってしまいますが、
そのような重要な概念を真っ向から否定する「アン・アートマン」という概念を使用したことは決して軽く見るわけにはいきません。
単に、「自己中心的な生き方を否定する」、といったような凡庸な教えにすぎないのなら、バラモン教・ヒンズー教にもあるのであって、わざわざ「アン・アートマン」という概念を持ち出す論理的な必要がありません。
なぜブッダはアートマン(永遠の魂)を否定したのか、この問いは、大変重要な問題なのです。


(2)「目覚め」の思想
死を恐れ、永遠の生命を望むのは、古今東西、どこでも見られる現象です
そのため、古代人はさまざまな空想を駆り立てて、死後も生き残る自己の物語(エジプトのミイラ、中国の仙人、キリスト教の復活、インドのアートマン、日本の魂、など)を創造してきました。
さいわいなことに、古代インド人は彼らの思想を伝達することにきわめて熱心で、たとえば、リグ・ヴェーダ経典は世界最古(おそらく西暦前1200年頃成立)の残存する経典となっています。
そこで、彼らの古代の経典を調べることによって、どのようにして、古代インド人がアートマンというものを信じるようになっていったか、その初期の状況をかなりくわしく知ることができます。
たとえば、『ブリハッド・アーラヤヌカ・ウパニシャッド』には、アートマンが次のように説明されています。
「アートマンとはどのようなものか」

「認識からなり、諸機能のうちに、(また)心臓に存在する内部の光であるこのプルシャ(神人)であります。

彼は(かなたの世界とこの世界に)共通ですから、両世界を往来します。
(かなたの世界では)沈思するかのようであり、(この世界では)動き回るかのようであります。

彼は夢となって、この世界…、死のさまざまな形を超え出ていくのです……。

まさしくプルシャ(神人)には、実際には二つの状態があります。
(目覚めて)この世にあることと、(熟睡して)かなたの世界にある状態とであります。

夢の状態は(両者の)つなぎ目になる第三のものであります。
そのつなぎ目の状態にあるとき、彼はこの世に在ることと、かなたの世に在る状態という、この二つの状態を見るのです……。

彼は眠っているとき、万物を包蔵するこの世界から物質素材をとり、自ら破壊し、自ら創造し、自らの光輝により、自らの光明によって夢を見るのです。
この場合、神人は自らを光明とするのであります……。

その点について次のような詩節があります。

黄金の神人、一羽の鷲鳥は、
眠りによって、身体にかかわるもの(この世)に打ち勝ち、
自らは眠らず、眠った者たちを観察する。

彼は光を得て(目覚めて)、もとの位置に戻る。

黄金の神人、一羽の鷲鳥は、
下方の巣(身体)を、気息によって守りつつ、
不死となって、巣(身体)から外に歩み出で、
望むところに、不死のものとしておもむく、

夢の中で、あるいは上昇しあるいは下降し、
神として、さまざまな形像をつくり出す。

……

人々は彼の巣である園林を見るが、
だれひとり彼を見るものはいない。

……彼は、実に、この安全な安息(熟睡状態)のなかで楽しみ、徘徊して、善いこと悪いことを見た後に、もとのところへと進路を逆にたどり、夢へと馳せ戻るのです。」
(長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』より)

アートマン(永遠の魂)という概念が、ここでは、夢の中で自由に行動する自己と同一視されています。

そして、夢の中の世界や熟睡状態の世界をもう一つの事実の世界であると見なしています。

このような夢の内容をそのまま事実の世界と思い込む現象は、決して、古代インド人だけに特有のものではなく、現代人のなかにもしばしば見られるものです。

たとえば、「ベッドに横たわる自分の姿を上から見ていた」、という内容の夢を見た人が、夢を事実と取り違えて、

「身体から抜け出した魂が抜け殻の身体を上から見ていた」、

というふうな解釈したりする話を、今日でもときどき聞きます。


上記の「自らは眠らず、眠った者たちを観察する」という表現も、そういうことを意味してるのでしょう。
しかし、古代インド人の特徴は、夢の中の体験を、目覚めているときにも体験しようと執拗に試みたところにあります。
それが、ヨーガ(瞑想)だと思われます。
ヨーガ(瞑想)に関する教典から、古代インドのバラモン教の実践者たちが、現実の世界よりも夢(空想)の世界の内容を「より真実の世界」であると思い込んでいたことがうかがえます。
夢における知は、夢の中で拝んでいた、神の美しいすがたを対象としている。

目覚めたときの静かな心で同じ神の姿に凝念すれば、ヨーガ行者の心は安定に達する。
(「ヨーガ・スートラ」、同上)
このように、ヨーガ行者は夢の中と同じ体験を瞑想のなかに求めます。

さらに、夢の中で自由に徘徊する自己、という考えをエスカレートさせて、

ヨーガ行者は水上を歩き、蜘蛛の糸の上を歩き、光線の上を歩き、さらに虚空を自由に行くことができる。(同上)
とか、
心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである。
この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る。(同上)


などともいわれます。

夢のなかで「自己」が身体を離れてゆく現象を、目覚めているときに意図的につくりだす心理的テクニックが本来のヨーガ(瞑想=夢想)の目的だったろうと思われますが、

後には、身体を持ったまま空中を飛ぶ、いわゆる「空中浮遊」などが信じられるようになります。

いずれにしても、夢や空想を現実から区別をしようとしない独特の宗教的習慣が古代インド人の間にあったことは否定できません。

このような考え方の中で、死後、身体を離れてゆく永遠の魂(アートマン)を想定することは、何でもないことです。

つまり、アートマン(永遠の魂)の思想は、もとをたどれば、古代のインド人たちが、身体とは別に夢の中で自由に徘徊する自己を「真実の自己」と思い込んだところから、生まれてきたものと考えられるのです。

このような歴史的背景を知ることによって、シッダータ・ゴータマが、「無我」の思想を真理として発見した自分のことを、「ブッダ=目覚めた者」と呼んだことの歴史的な意義が明確になると思います。
ブッダの思想家としてのデビューと考えられる、いわゆる「第一説法」において、瞑想・苦行にいそしむ旧友に対して彼は
なんじらは、わたしを名をもって呼んではいけない。

また「友」と呼んでもならない。

わたしはもはや如来である、最高の「目覚めたもの」である。
(『マジマ・ニカーヤ』26)


と宣言します。すなわち、

「buddh =眠りから醒める」

という言葉を用いることによって、

彼の真理の特徴が夢想的なバラモンの思想の否定

にあることを主張したのだ、と考えられます。


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(3)「知の領域」の思想

もし、真理の根拠を、夢や空想にではなく、目覚めて生きるこの現実の事実の世界のみにおくとすると、わたしたちは、たちまち、知識の限界に突き当たります。
宇宙の始まりのその前はどうだったのか、宇宙の果てのその向こう側はどうなっているのか、死後の我はどうなるのか、等々、数え上げれば切りがありません。
それでもわたしたちは執拗に、これらのことを知りたいと欲し、そのようなわたしたちの要求に応えて、人類の無知を克服したと豪語する宗教家・空想家の出現は、あとを絶ちません。
ブッダは、このような問いに、どのように応えるのでしょうか。
さいわいに、人間の知りたいと思うことは、昔も今も、あまり変わらないようで、まさに、わたしたちが問いたい問いをブッダに訊ねた人がいました。
その名をマールンキャプッタ(摩羅迦)と言います。

ひところ世尊は、サーヴァッティの郊外、ジェータヴァナのなかのナータビンディカの園におられた。

そのとき、尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。
「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち ---

世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、

世界は有限であるとか、世界は無限であるか、

魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、

人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、


これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。

世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。

だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう……。

もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」


そこで尊者マールンキャプッタは、夕方、静思の座から立ち上がって、世尊のところへやってきた。
やって来て、世尊に挨拶をして、片隅に座った。
片隅に座った尊者マールンキャプッタは世尊に言った。

「師よ、わたしが人影のないところへ行って静思しておりましたら、こころに次のような考えがおきました。
すわなち、これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。
世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか…、
これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。
世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。
だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう……。
もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう、と……。」

「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」
「師よ、そのようなことはありません。」
「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)
マールンキャプッタよ、世界は永遠であるという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また世界は永遠ではないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、世界は永遠であるという考え方があろうと、世界は永遠ではないという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。

マールンキャプッタよ、世界は有限であるという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また世界は無限であるという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、世界は有限であるという考え方があろうと、世界は無限であるという考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。

マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。」

以上のことを世尊は語られた。
尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。
(『マジマ・ニカーヤ』63抄訳、同上)

これは、有名なブッダの「毒矢のたとえ」の初めの部分と終わりの部分です。

それは、何が大切な問いであり、何が大切な問いではないかを語ったものですが、注目すべきは、ブッダが、

「わたしが説かないことは説かないと了解せよ」

と、あえて語ることを拒否した事柄がすべて、人間の知の及ばない領域に関するものであることです。
そして、そのようにしてブッダが応えることを拒否した問題のひとつが、

「人間は死後も存在するかどうか」

という問いです。

なぜなら、そのような領域に関するわたしたちの詮索は、結局、空想にしかすぎず、したがって、何の役にもたたないからです。

事実に基ずく真理(知の領域)以外は真理として認めなかったところにブッダの思想の特徴があると言えるでしょう。

(4)権威ではなく事実に徹する

どんなに素晴らしい理想を心に思い描いても、それが事実に基づかず、空想にすぎないなら、ふくれあがったバブルのごとく、やがてはじけて消滅してしまうでしょう。
いかに若さを誇っていても、老衰と死が、必ずわたしたちを襲います。
そのために、古今東西、世界中の人々は永遠に生き延びる自己を空想して慰めを得ようとしましたが、一人、ブッダは、峻厳なる事実から眼を背けることなく、老衰と死を克服する方法を説いたのです。


カッパさんが尋ねた、

「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(非難所、よりどころ)を説いて下さい。

あなたは、この苦しみがまたと起こらないような洲(非難所)をわたくしに示してください。
親しき方よ。」

師は答えた、
「カッパよ、極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(非難所)を、わたしは、そなたに説くであろう。
いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと ---
これが洲(非難所)にほかならない。
それをニルヴァーナと呼ぶ。 それは老衰と死との消滅である。」
(『スッタ・ニパータ』1092-1094 中村元訳)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul02.html

アートマン(死後も存続する永遠の魂)の否定

仏教はアートマンを否定しました。
そしてそれをしばしば「無我」(アナートマン、アナッタ)ということばで表現しました。
それは決して、たんに「我執を去る」というような教えではありません。
また、食ったり歩いたり寝たりする日常的「わたし」を否定したわけではもちろんありません。
そうではなく、人間やものに内在していると信じられている恒常な本体、つまり、(人間で言えば)「死後も存続する永遠の魂」を否定したのです。
わたしたちは、無我の思想に出会わずして仏典を読み進むことはできません。
いたるところで、仏典は無我の思想を語るからです。
仏教がなぜ無我を主張したかといえば、仏教の思想の前提に無常の思想、つまり、

「常住するものはない」、
「永遠不変なものはない」、
「ものはすべてうまれ、変化し、滅亡する」、

という思想があるからです。
「無常(常住するものはない)」という概念と「永遠に存続する魂」の概念は矛盾すると考えられたのです。
原始仏典の中では、無常ということがすべての教えの前提になっている。

「すべては無常であり、すべては苦であり、すべては無我である」

という文句は、原始仏典のいたるところでお目にかかる。

無常・苦・無我という概念は、直前の表現のように、いつでも並列されているというわけではない。
三つの中でも無常は、苦と無我の根拠とされていることも多い。

すべてが無常なのだから、すべては苦しみであり、そのように無常と苦にさいなまれている自分と世界の中に、絶対者としての自己、恒常・不変・自在な自我などあるわけはない、というようにである。
(梶山雄一、『空の思想 仏教における言葉と沈黙』、8頁)

仏典を読むものはどうしてもこのような無我の思想にぶつかるのです。
つまり、わたしたちの経験世界は見渡すかぎりすべて、わたしたちの肉体も意識もすべて、変滅しており、常住不変なるものはどこにも見つけることはできない(諸行無常)、
だから、常住不変であるとされているアートマンなるものはわたしたちの経験世界にはどこにもない(諸法無我)、
という主張です。
これが、仏教のアートマン否定の一つの側面です。
仏教のアートマン否定のもう一つの側面は、わたしたちの経験を越えた世界に関する主張の否定です。
たとえば、
人(如来)は死後も存続して永遠に生き延びていく(いかない)、
というような主張を、ブッダは「おろかな考えである」として否定したのです。
「弟子たちよ、『我』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、

『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』

というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」


「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ、22:25)


ブッダ自身は、死後の世界とか、世界の始まりだというような、経験を越えた世界に関する問いには、沈黙をもって応えました。

経験を越えた世界に関してはだれもなにも知らない(「真実として捉えられるものではない」)のだから、経験を越えた世界に関する主張はすべて独断(「おろかな考え」)にすぎず、修業の目的(解脱、ニルヴァーナ)の為には、何の役にも立たない、と考えたからです。

これが有名なブッダの沈黙(無記、捨置記)です。 例をあげておきましょう。

ヴァッチャというある修行者がブッダを訪ねて、

「世界は常住であるかどうか」
「世界には辺限があるかどうか」
「霊魂と身体は一つであるかどうか」
「人は死後にもなお存在するかどうか」

などの質問をしますが、これらの問いに関してはブッダは意見を持たないことをヴァッチャに告げます。
そこで、ヴァッチャは、
「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか」
と問います。 そこで、ブッダは答えます。
ヴァッチャよ、そのような種類の問いに対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。

それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ72、アングッターラニカーヤ34)


このように、「死後、我は永遠に生きるかどうか」というような(答えのでない)問いに対する見解は独断に過ぎず、修業の目的の為には何の役にも立たない、というのがブッダの立場であり、それでも、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」と主張するものに対しては、ブッダは実に端的に、「おろか」であると戒めています。


ヴァッチャは、さらに、尋ねて聞いた。

「世尊よ、では、執着を離れて解脱した者は、いずこにおもむいて生れるのであろうか。」

「ヴァッチャよ、おもむいて生まれるというのは、適当ではない。」

「では、どこにもおもむいては生まれぬというのであろうか。」

「ヴァッチャよ、おもむいて生まれぬというのも、適当ではない。」

「世尊よ、それでは、わたしはまったくわからなくなってしまった。

以前に世尊と対座問答することによって、わたしの得た深い確信すらも、すっかり消えうせてしまった。」

すると世尊は、彼のために、このように説明せられた。


「ヴァッチャよ、なんじがまったく解らなくなったというのは、当然であろう。

ヴァッチャよ、この教えは、はなはだ深く、知りがたく、すぐれて微妙であって、智慧あるもののみが知りうるところのものである。

他の見解にしたがっている者や、他の行をしている者には、とうてい知られがたいものであろう。

だが、ヴァッチャよ、わたしはさらに、なんじのために説こう。

いまわたしが、なんじに問うから、思いのままに答えるがよい。


ヴァッチャよ、もしなんじの前に、火が燃えているとしたならば、なんじは、火が燃えている、と知ることができるか。」

「むろんである。」

「では、ヴァッチャよ、この火は何によって燃えるのであるかと問われたならば、なんじは何と答えるか。」

「それは、この火は、薪があるから燃えるのだと、わたしは答える。」

「では、もしなんじの前で、その火が消えたならば、なんじは、火は消えた、と知ることができるか。」

「むろんである。」

「では、ヴァッチャよ、かの火はどこに行ってしまったかと問われたならば、なんじはいかに答えるか。」

「世尊よ、それは問いが適当ではない。

かの火は、薪があったから燃えたのであり、薪が尽きたから消えたのである。」

そこで、世尊は、うなずいて、説いていった。


「ヴァッチャよ、まったくその通りである。
そしてそれと同じように、かの色をもって人を示す者には、色が捨てられ、その根は断たれる時、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。

その時、ヴァッチャよ、人は色より解脱したのである。・・・

そして、ヴァッチャよ、受についても、想についても、行についても、識についても、また同じである。」
(同上、増谷文雄訳)


ヴァッチャは、古代インド人の常識として当然のごとく、バラモン教・ヒンズー教・俗信の伝統にしたがって、執着を離れて解脱したものはどこか善いところ赴いて生まれると思い込んでいたのです。

そのために、ブッダにつまずいてしまったわけです。

ブッダの思想には、どこかに赴いて生まれる(赴いて生まれない)とか、よい世界に生まれ変わる(生まれ変わらない)とかいうような問いは、「いままで燃えていた火はどこに行ったのか」と問うことがまったく見当違いの問いであるように、まったく見当違いの問いだったからです。

ブッダは、比喩を用いて、火が消えるのはただ薪が燃え尽きたから消えたにすぎないのであって、火がどこか別の世界に赴いて行ったのではない、というのです。

ヴァッチャは、これを聞いてブッダの意味するところを理解することができ、ブッダに帰依します。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism20.html

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以上を簡単に整理すると

釈迦の悟りというのは、輪廻転生とか霊界・死後の世界と言われているものが、実際には人間の無意識の中で生起している現象に過ぎないという事に気付いた事なのです。神や悪魔というのも人間の心の中にしか存在しない、そういう事がわかったという事です。

俗に死後の世界とか霊界とか言われているのは心理学の言葉で言えば無意識の事です。人間が死ねば脳が溶けて、意識も無意識も一緒に消えてしまいます。従って、極楽も地獄も人間の死と共に消えてなくなるのですね。

輪廻転生というのも生きている人間の脳内で生じる virtual な経験なんです。そして、その事に気付いたのが釈迦の悟りですね。

ウパニシャッドにおいては、ブラフマン・アートマンが実在する事が真実だったんですね。アートマンというのは人間の魂なので、魂が実在すれば、肉体が滅びてもまた生まれ変わってくるという輪廻の考え方になってしまうのですね。

しかし、輪廻は当時のカースト制を維持する為に悪用されていた考え方なんです。

低いカーストの人間は前世で悪行をした報いだから、上のカーストの人には逆らわず、文句を言わず、がまんして苦しい労働に耐え、来世で高いカーストに生まれ変わる様に努力しなさいという上の人間に都合のいい考え方を押し付けていたのですね。

しかし、釈迦はカーストというのはアーリア人がドラビダ人を征服したから生じたもので、人間の価値とは関係ないとわかっていたんです。

それでカースト制を支えている輪廻転生、アートマンの存在を否定する考え方を探し求めたんです。

そしてその答えとして


アートマンは存在しない(無我説)

生き物はすべて、さまざまな物質的要素(地・水・火・風・空)と心理的要素(感覚器官・感覚・印象・思惟・判断力など)の集合体であり、しかもそれらすべての要素が一瞬ごとに生滅・変動していると考えました。

そうであれば、そこには輪廻の主体となる不変の「我」はどこにも見いだすことができないということです。これが「無我」といわれる考え方です。


を思いついたのです。

釈迦の悟りというのはこの無我説を実際の瞑想体験で確認するという事ですね。

神や悪魔や地獄の様な悩みの元になるものは普遍的無意識の浅い層にあるもので、そこからさらに深い所まで下りて行けば普遍的無意識の深い層(涅槃・空の世界)が広がっている。

従って、魂や死後の世界というのは幻影で、涅槃の世界からすべてを見る事ができる様になれば、苦しみもなくなるというのが釈迦の教えです。


ブッダというのは目覚めたる人間という意味ですが、目覚めるというのは魂や死後の世界というのが幻影だと悟るという意味なのですね。

仏教史を整理すると


@ 釈迦は輪廻転生や死後の世界が深層心理に基づく virtual なものだというのに気付いた。

A しかし、当時の人は魂の存在、輪廻転生や死後の世界を信じていたから、真理をそのまま教えたらパトロンの王侯貴族からお布施が貰えなくなる。

B それで、対機説法というのを考えて、魂の存在、輪廻転生や死後の世界を信じている一般人には真理を伝えないで誤魔化す事にした。

C 釈迦の弟子もお布施が貰えなくなると困るから、釈迦の対機説法を釈迦の教えとして仏典をまとめた。 スッタニパータで釈迦が否定した筈の天界や輪廻転生が語られるのにはそういう事情があった。


D 大乗仏教になると、さらに釈迦の対機説法を当時の一般民衆に人気のあったヒンドゥー教に置き変えて、宗教ビジネスとして完成させた。 大乗仏教の空というのは本質的にはアートマンと同じものを指している。 その結果、大乗仏教での悟りも釈迦の悟りではなく、バラモン教・ヒンドゥー教の悟り、即ち梵我一如と輪廻転生からの解脱と本質的には変わらなくなってしまった。

E 日本に渡来した大乗仏教ではさらに、仏教の外見だけ残して中身を完全に自然神道に置き変えて、それまで村の古老がやっていた儀式を殆ど引き継いだ。 日本のお坊さんが本来の仏教では絶対にやらない葬式やお盆で稼いでいるのはこういう事情なのです。


http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1110.html

記事 [ペンネーム登録待ち板6] 釈迦の悟りとは何であったのか? _ 2

1. 極楽浄土とは何か?

ヘロイン (heroin, diamorphine) は、アヘンに含まれるモルヒネから作る麻薬。

塩酸モルヒネを無水酢酸で処理し、生成する。

依存性の極めて強い麻薬であり、麻薬及び向精神薬取締法で、その製造・所持・医療目的を含め、規制対象になっている。

現存するあらゆる薬物の中で「快」の面でも「悪」の面でも最も高峰に位置するものとして、「薬物の女王」(The queen of drug) の代名詞を持つ。

使用法はスニッフィング(鼻からの摂取)、経口摂取、静脈注射など様々であるが、この中でも特に、静脈注射をもって摂取した直後数分間にわたって続く

「ラッシュ」と呼ばれる強烈な快感は何物にも代えがたいものといわれ、時には
「オーガズムの数万倍の快感を伴う射精を全身の隅々の細胞で行っているよう」、

また時には

「人間の経験しうるあらゆる状態の中で、ほかの如何なるものをもってしても得られない最高の状態」
とも表現される。

常態の人間が一生のうちに体感し得る全ての「快感」の合計を上回る快感を瞬時に得ることに等しいといわれるその至福感は、しばしば「約束された安堵」などとも表現される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%B3

人間の脳には主に3系の神経節に分かれております。
そうA・b・cといった具合にです。

A10というところは快楽(ドパミン)
B系は鬱と深くかかわる(セロトニン)
C系は憤怒系(アドレナリン・ほか)

Aに作用させたものが主に「覚せい剤」といわれるもので、
その他モルヒネ・ヘロイン・大麻(THC)などはダウナー系であり
覚せい剤とはまったく異質なものである。

特に最近麻薬指定を受けた「マジックマッシュルーム」(私も数年前まで栽培してた)などはB系のセロトニンという神経伝達物質受容体(シナプス)に結合しガキのころに恋愛したようなホンわかしたいい気分にさせてくれる。

もちろん幻覚は強烈です!

LSD(リゼルグサンジエチルアミド)も同様な状況になる。

覚せい剤はその瞬間的な強烈な効き目とトリップ中の性感覚の急増に伴い女性が常用するとなかなか抜け出せなくなってしまいます。

精神的依存はかなり強烈であるといえます。

最強な依存度を誇るのは「ヘロイン」です!

ダウナー系最強で、禁断症状が一番強烈で骨がきしむような痛みを伴いヘロインなしでは生きてゆけないくらいの禁断症状に見舞われます。

上記2種類に比べればL・きのこ・大麻(THC)などは健康食品程度のもんです(笑)

____________


ドラッグと人類のかくも永き交わり


かつてドラッグは神に近づくための道具だった。

「源氏物語」に、アヘンの吸引を暗示する場面が出てくるのを、ご存じだろうか。

「葵」の巻で、出産を控えた光源氏の妻・葵の上が、物の怪に取り憑かれる場面である。苦しむ葵を救おうと、光源氏は祈祷師を呼ぶ。場面変わって、離れた場所にいる源氏のかつての恋人・六条御息所は、葵を苦しめている霊が、自分の生霊であることを知る。髪を洗っても着物を替えても、体から芥子の匂いが消えないからだ。それは、祈祷師が護摩を焚く炎に投じた芥子の匂いだった。

当時、密教僧が祈祷の際に護摩焚きの炎に芥子や胡麻などの「焼供」を投じる習慣があったことは知られている。この芥子の実とは、何を隠そうアヘンやヘロイン、モルヒネの原料である。
かつての祈祷師たちは、アヘンの煙を吸って恍惚状態になり、病気治療に超人的な「霊力」を発揮したのではないか。国際日本文化研究センターの山折哲雄教授(宗教学)は、そんな仮説を持つ。

「幻覚剤の使用は、世界の宗教に普遍的に見られる現象です」

山折教授はそう説明する。

「古来、幻覚剤は神や天国に近づくための手段だった。ところが科学が発達して神の存在が否定され、幻覚剤は快楽のためだけの『悪魔の薬』になってしまった」

インド最古の神話「リグ・ベーダ」には、祭礼参加者が飲む幻覚剤「ソーマ」が出てくる。このソーマの正体には、大麻、幻覚キノコなど諸説がある。中南米では、幻覚キノコや幻覚サボテンが祭礼に使われた。

十六世紀にメキシコのアステカ王国を侵略したスペインの従軍僧サワグンは、ペヨーテというサボテンや、テオナナカトルというキノコを食べると「ものすごい色のついた幻覚に襲われる」と記している。先住民族は、これらを死地に赴く兵士や、神への生け贄に捧げる人間に与えたという。

民族薬理学者で、名古屋学院大学教授だった石川元助氏(故人)は、六五年にメキシコ先住民の「聖なるキノコの祭典」で幻覚キノコを食べた時の様子を次のように記している。

「私は完全に意識を失い、色彩だけのあの世へ行った。金、銀、赤、オレンジ、ブルー、緑、黒など美しい七色が、渦を巻いたり滝のように流れたりした…」

先住民族は「神の声を聞くために」このキノコを使っていた。

日本文化にも似た現象はある。「今昔物語」には、山中でキノコを食べ、恍惚と歌い踊る尼僧たちの話が出てくる。このキノコは、食べると幻覚に陥り、踊り狂うので「マイタケ」と呼ばれたが、今では「ベニテングタケ」らしいことが分かっている。 北欧ラップランドやカムチャッカ半島の先住民族にも、ベニテングタケを宗教儀式に使った形跡があるそうだ。

ドラッグが文学に残した貢献も計り知れない。ギリシア時代の詩人ホメロスの「オデッセイア」には「すべての苦しみ、怒り、悲しみを忘れさせる」アヘンらしき陶酔剤が歌われている。
http://ugaya.com/private/repo_32.html


幻覚剤で自我が消滅して共有感が生ずる
以下はNYタイムズからの引用である、60年代に一時ブームになり、そしてタブー化した幻覚剤の医療目的使用が今回また注目されているという話である。その幻覚剤を服用することで自我への執着が喪失して、全体的な共有感が醸成されるという。そうすることで癌患者のうつ、強迫神経症、寿命末期不安、外傷後ストレス症候群とドラッグかアルコール依存症を治療することができるという。この話を読んで私は宗教にもそのような兆候があるのではないかと思った、それは生と死の境を不透明にして、人々が生死を峻別することを妨げた。そうすることで人々の死への恐怖を緩和した。そして自分の人生を神と共有することで自我を曖昧にして、自己責任を軽減した。また話は古代に飛ぶが、邪馬台国の卑弥呼が国を統一できたのも、各部族長にたまに秘密の幻覚剤を提供して我の消失と全体的共有感をもたらしたのではないかとも想像できる。卑弥呼が滅亡して男性王が君臨したら国が騒乱状態になったこともそれを肯ける。世界が乱れないようにするには、自我を忘れさせるある程度の世界的統一宗教ないしは幻覚感が必要なのかもしれない。
退職した臨床心理士として、クラークマーチンはうつ病に関する伝統的治療に詳しかったが、彼が腎臓癌で化学療法と他の激しい養生法を苦心して切抜けたとき、彼自身の場合治療不能に見えた。 カウンセリングは彼にとり空しく思えた。 彼が試みた抗うつ剤もそうであった。65歳のとき彼に最初の幻覚体験があったとき、どんな永続的効果もなかった。彼は、精神活性成分としてあるきのこにあることがわかっているサイロシビンにかかわるジョーンズホプキン医学校の実験に参加するためにワシントン州バンクーバーの家を出た。
科学者はティモシーリアリーのような熱狂者が1960年代に「スイッチオン、波長同期、スイッチオフ」スローガンで促進した後に監視委員中でタブーになった幻覚剤における最新型を調べている。現在、厳密なプロトコルと安全装置を使用して、科学者はもう一度精神的問題の治療のために薬物の可能性と意識の本質を照らすことを研究する許可を得た。
幻覚剤を飲んだ後マーチン博士はアイマスクとヘッドホンをつけ、彼が宇宙を熟考してクラシック音楽を聞きながら寝椅子に横たわった。「突然、全てのなじみ深いことは気化し始めた。外洋でボートから落ちると想像する、あなたは振り向く、そしてボートがない。そして水がなくなる。そしてあなたが消える」と彼は思い出した。今日1年以上後にマーチン博士は、その6時間の経験がうつ病の克服を助けて、彼の娘と友人との関係を大きく変えると信じた。 彼は人生の最も重要な出来事の中にそれを格付けし、彼を実験の被験者の増加しているクラブのかなり典型的なメンバーにした。
世界の研究者は合衆国に40年間保持された幻覚剤科学の最大会議のために、今週カリフォルニア州サンノゼに集まる。彼等は、癌患者のうつ、強迫神経症、寿命末期不安、外傷後ストレス症候群とドラッグかアルコール依存症を治療するためのサイロシビンと他の幻覚剤の研究について議論するのを計画している。 今までのところ結果は奨励にもかかわらず準備段階であり、これらの小規模研究から多くを読み取ることに対して研究者は警告している。 彼等は幾人かの伝道師になった科学者が薬物のリスクと効能の理解を誇張した1960年代の誤りを繰り返したがってはいない。
幻覚剤への反応が設定により非常に異なることができるので、実験者と再調査委員会は拒絶反応に対処できる部屋で専門モニターによる快適環境をセットアップするためにガイドラインを開発した。彼等は、より正確に薬物効果を測ることができるように標準プロトコルを確立し、そしてまた幻覚剤の影響を受ける人々の脳をスキャンすることにより直接薬物効果を観測した。科学者は幻覚剤の経験と信心深い神秘主義者と黙想する人による歴史をくまなく報告する人生を変える暴露間の類似性により特に好奇心をそそられている。これらの類似性はスイス人研究者により行われた神経の画像研究とジョーンズホプキンの行動の生物学の教授ローランドグリフィスにより率いられた実験で特定された。
重大な肉体的或いは感情的な問題がない36人にかかわるグリフィス博士の最初の研究では、彼と同僚は、サイロシビンが実験被験者の大部分のために永続的で明白な効果の深遠な霊的体験を記述することを引き起こすことができるのがわかった。誰も幻覚剤の少しも事前経験を持っていなかった、そして誰もどんな薬物が与えられていたかがよくもわかっていなかった。実験を二重盲式とするために、対象者も彼等をモニターする2人の専門家も対象者が偽薬、サイロシビンまたはリタリン、ニコチン、カフェインまたはアンフェタミンのように別の薬物を摂取していたかどうかを知っていなかった。60年代の幻覚剤文化がある経験者はそれを信じることに苦労するかもしれないが、グリフィス博士はモニターでさえしばしば反応から人がサイロシビンかリタリンを取ったかどうかわからないと言う。
モニターは不安な期間を通して時々人々を慰めなければならなかったとグリフィス博士は言うが、一般にはそれは短期間であり、そして人々の誰もが何ら重大なマイナス効果も報告しなかった。 2カ月後に行われた調査では、サイロシビンを受けた人々は、彼等の一般的な気持と行動において対照群メンバーをしたよりかなり多くの改良を報告した。調査結果は実験の14カ月後に行われた別の追跡調査でも繰り返された。 その時サイロシビン対象者の大部分は、彼等の人生に一度より多くの満足の意を表して、5人に1人に割合で経験が彼等の人生でほとんどの重要な出来事であると評定した。
2008年に発表されたその研究以来、グリフィス博士と彼の同僚は、バンクーバーからの退職した心理学者マーチン博士のように癌とうつ病に対処する人々にサイロシビンを与え続けている。グリフィス博士は、マーチン博士の経験がかなり典型的であると言う: 自己と他者間の境界が見えなくなる経験後の改良された人生観。インタビューでは、マーチン博士と他の対象者はそれらの個人的な心配と不安が消え失せた意識のあるより大きい状態の一部を感じたとき、消え失せる彼等の自我と身体について説明した。彼等は自分達のために感情移入の新感覚がある恋人と親類との関係を超えた論評を見つけた。
「それは私のための全人格シフトであった」とマーチン博士は言う。「私はもう私の実績に基づいて、物事を制御しようとしなかった。私は、誰しもただ現れて自然な熱意を人々と共有するなら人生における本当に良いことが起こるのを見ることができるであろう。誰でも他の人々との同調感を持つことができる」対象者の報告が非常に密接に宗教神秘的な体験アカウントを反映したとグリフィス博士は言う、人間の脳がおそらく何らかの進化上の利点となるこれらの「結合的」経験を受けるために配線されるのがありそうに思える。
「私達が全て一緒にいるというこの感じは、相互的な寛大さを奨励することにより、共同体のためになったかもしれない」とグリフィス博士は言う。「他方では普遍的な愛はいつも適応型であるというわけではない」 連邦政府の監督機関は、管理された幻覚剤実験の承認を認めるのを再開したが、ホプキン、アリゾナ大学;ハーバード;ニューヨーク大学;カリフォルニア大学ロサンゼルス校; そして他所で行われている調査には公共資金はほとんど与えられていない。仕事はヘフターリサーチ協会とMAPSのようなNPOグループにより支援されている。
「これは科学と精神性を一緒にすることである」とMAPS専務リックデープリーンは言う。「主流と幻覚剤共同体が中央で出会い、別の文化戦争を避けることができることを願っている。ホスピス運動、ヨーガと思索の社会的受容におけるここ40年間の変化のお陰で私達の文化は現在はるかに受容的である、そして私達はこれらの薬物が現在治療の提供できない利益を提供できるのを示している」
研究者は、予備試験の成功がサイロシビン使用で末期疾患を伴う患者の心配を緩和すると報告している。 UCLAでの実験にかかわる精神科医チャールズSグロブ博士は死にかかっている人々が恐怖、パニックとうつ病を克服するのを助ける「実存的薬」としてそれを記述している。グロブ博士は「幻覚剤の影響で、個人は身体で第一の識別を超えて、それらの実際の肉体的終焉時の前に無自我状態を経験して、不変人生の新見解と深遠な承認に帰する:変身」と書いた。
以下は仏教というテーマで以前ブログに掲載した一部であるが、今この内容を読んでブッダが悟りを開いた瞬間はまさしく幻覚状態であったことが理解できる。宗教の根源にやはり幻覚が存在することのこれは証である。後世神学者が宗教に神学的要素を加えてわけのわからないぼやけた状態にしたが、初期の宗教は明らかに幻覚から誕生していた。
個人としての絶対的自由と真理を得る理想は、ヨガにより体験できるとし、家族から去り、悟りを求めて全ての社会的絆と責務を放棄し、隠遁生活に入ることであった。紀元前538年頃シッダッタ ゴータマという青年は、ベナレスの北160kmにあるカピラヴァストゥにある豪奢な屋敷や美しい妻や息子を捨てて、托鉢行者になった。煩悩の惨状に驚愕しながら、彼の周囲の全てに見ることができる苦痛の存在を終わらせることができる方法を必死に探し求めた。6年間ヒンズー僧達を訪問し、贖罪に身を置いたが、得るものは何もなかった。高僧の教義も彼に訴えるものがなく、苦行は絶望をもたらすだけであった。ある夜 実行すべき方法がすっかりなくなり、自立心を捨て無我の状態になっていたら、忽然と悟りの境地が見えてきた。それは全宇宙が退けられ、地球が揺れ動き、天国から花々が落下し、何とも言えぬ芳香が漂い、天国にいる仏達が歓喜している世界だった。それは仏達と自然と人類が大慈悲によって一体になった世界であった。これは煩悩からの解放に対する新たな希望であり、涅槃への到達による煩悩からの解脱であった。そしてゴータマはブッダになった。早速悪魔マーラがやって来て新しくできた楽園で楽しく過ごすよう勧誘した、そうすれば誰も彼を信仰することができないため、彼の教義は広がらないと。しかしながら二人の有名な英雄が仏の使者としてやって来て、彼の教義を世界に布教するよう懇願した。ブッダは了承し、45年間インド全域をくまなく歩き回り、この煩悩の世界でただ彼の教義のみが安定で堅固であると伝道していった。それは苦痛から脱却できる唯一つの、正しい生活に内在する真理すなわち法(Dharma)である。
http://meimai.cocolog-nifty.com/twgt/2010/04/post-bf1b.html

臨死体験 鈴木秀子「神は人を何処へ導くの」(クレスト社)

鈴木秀子さん (国際文学療法学会会長。文学博士。)が1977年不慮の事故で臨死体験をした時の
 描写です。 鈴木秀子さんは 愛の極致と至福感に包まれながら 生きた光からメッセージを受け取ります。


★限りない解放感と喜びが胸に溢れてきました。

一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、一面光の世界にいたのです。まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。

それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていました。

不思議なくらい、五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたっています。オリンピックの選手がベストコンディションで世界記録を破る瞬間とは、こんな状態なのでしょうか。

からだの全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされているのです。

その冴えわたった意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。

「この命そのもの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受け入れられ、許され、完全に愛しぬかれている」

これが愛の極致なのだと。

心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和しています。
そんな至福感に包まれていたとき、どこからか声が聞こえてきました。

「癒してください。癒してください」

その声には、少しつたない感じのアクセントがありました。


★その声が聞こえてきたとき、光であり命そのものの主が、「現世に帰りなさい」と言いました。そしてさらに、「現世に戻ったとき、一番大切なのは、知ることと愛すること、その二つだけが大切なのだ」というメッセージを受け取ったのです。


★あの光に包まれる体験をしてから、まるで別次元の境地に達したように、私の中ですべてが変化していきました。

それまで悩んでいたいろんなことが、とても小さく見え、いっせいに霧が晴れたように、私の人生はすがすがしく晴れ渡っていました。そして、私の心の中には、ある言葉が、美しい鐘の音のように響きわたっていました。

「大切なことは、知ることと愛すること。それだけが大切なのだ」
「知る」とは「叡智」、「愛する」とは「慈悲」の意味のようでした。


★あの光との出会いが夢や幻覚ではなかったことを、その後の、私の身に起きた数々の不可思議な出来事が裏づけてくれました。

事故の後、後遺症が残るといけないので、当時通院していた国立医療センターに検査のために入院することになりました。

私は、その事故の5~6年前から膠原病を患っており、ついでにその検査もしてもらうことにしました。

担当のお医者さんが首をひねりながら私の病室に入ってきました。

「鈴木さん、不思議ですねぇ。全部きれいに治っていますよ」

検査の結果、長年わずらっていた膠原病がすっかり治っているというのです。
私もお医者さんも驚きました。

「光に出会った人は超自然的な力をもらう」

その言葉が胸に響きました。 難病が突然治ってしまったのも、光の体験がもたらした奇蹟なのでしょうか。 自分の身に何か変化が起きている・・・・・。


★あの生きた光は、私の人生を無限の輝きで満たしました。

そしてその光は、私だけでなく、私と出会った人々にも、降り注ぐようでした。

それからというもの、誰かに会っているとき、突然、暖かい予感に満たされるようになったのです。
「あ、この人は幸せになる」と。

次の瞬間、「あなたはきっと、来週の水曜の何時ごろにいいことがありますよ」

とふっと口にします。

それを聞いた相手は何日後かに、「先生の言ったこと、本当でしたよ」と、喜びの報告に来てくれます。


★あの光との出会いを思い出だすたびに、頼りなく思える肉体の奥に、こんこんと湧き出る泉のように、命の輝きがほどばしっているのを感じます。 しかも、それは、尽きせぬ泉であり、永遠の輝きなのです。私が出会った光の中に、時がなかったように。

永遠なる生命の光の中に、例外なくすべての人が受け入れられている。その圧倒的な愛の力を感じることができたら、大宇宙の気にぱっと入ることができて、病気も治ってしまうし、奇蹟だって起きるのでしょう。

そもそも生きていること自体が,何よりも素晴らしい奇蹟なのですから。


________


私の周囲にも臨死体験をされた方がおられますが、何れも同じような体験で、皆さん善い方向に進んでいます。

臨死体験の意義は「死後生」の絶対把握、これにより人生の意味付けが霊格の向上へと向かう事です。鈴木先生も体験されていますが「絶対的な無条件の愛」、これが直接心に響きますので、もうそれこそ

「それまで悩んでいたいろんなことが、とても小さく見え、いっせいに霧が晴れたように、私の人生はすがすがしく晴れ渡っていました。」

と言う心境になり、全ての「恐れ」が雲散してしまいます。素晴らしいですね。

ここに至って人間は本当の自由となり、束縛を超え、ご自身の力を取り戻す事が出来ます。勿論、全ての体験者がこのようになる訳ではありませんが、多くの場合、死に対する関門を突破し、人生の意味を悟る方が多いようです。

臨死体験による絶対直覚は所謂「奇跡」が起る事がありますね。これは間々ある事で、巷の宗教団体でも同じような事が起きますが、病気が治った事に意味がある訳ではなく、人間本来仏子(神の子)としての自覚が臨死体験の意味です。

今回の鈴木先生はカトリックのシスターですので、宗教的な素養は十分あり、臨死体験をされた事によりさらに神への認識が不動のものとなりました。正に「鬼に金棒」と言う所ですね。また「光に出会った人は超自然的な力をもらう」とは、これもまたよくある話ですが、要はその使い方が重要になり、能力を持った方はその責任が伴う事を忘れてはなりません。

この辺は勘違いされる方が多く、何か人と違う力、所謂「超能力」が身に付きますと、偉くなったような錯覚を持ち易く注意が必要です。サイキックとスピリチュアルは全く次元が違う話で、この辺が曖昧になりますと危険ですね。

本当に大切なものは能力ではなく、人生に於いて「何を思い、何を語り、何をなしたか」で、どんなに能力がありましてもその使い方いかんでは地獄にもなり、また極楽にもなりますね。
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51655830.html
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51656333.html

 昨年の大晦日、私は横須賀の本屋で何気なく一冊の本に引き寄せられました。
「臨死体験 生命(いのち)の響き」(鈴木秀子著 大和書房)


 「私は一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、それまでに見たことがないような美しい光に
 包み込まれました。そこは、白っぽい金色の輝きに満ちた、一面の光の世界でした。
 まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。 それは、生命(いのち)の
 深い部分で自分とつながり、交流している、生きた光だと感じていました。これこそ至
 福の境地なのだ。完全な自由なのだ−−−。 この生命そのものの光の主に、私はす
 べてを知りつくされ、理解され、受け容れられ、許され、完全に愛されている。」


鈴木秀子さん (国際文学療法学会会長。文学博士。)が1977年不慮の事故で臨死体験をした時の
描写です。 鈴木秀子さんは 愛の極致と至福感に包まれながら 生きた光からメッセージを受け取ります。

「現世に帰りなさい。」
「現世に戻ったとき、いちばん大切なのは、知ることと愛すること。その二つだけが大切なのだ。」


  この文章を読んだ時 1977年に出版された「かいまみた死後の世界」(レイモンド・Aムーディ著) を思い出しました。ムーディ博士は 沢山の臨死体験者の不思議な体験の共通点に気づき 臨死体験の標準モデルをまとめていますが鈴木秀子さんの体験は それと全く同じであることに気づいたからです。

このような体験をされた方は 生きかたが根底から変わります。鈴木秀子さんも例外ではありませんでした。

もともと修道院で修業生活を送っていたこともあり信仰の道を歩んでいましたが 頭ではなく魂で至高の存在を理解し 本当の幸せに気づきます。 また目に見える世界から目に見えない世界への価値観の転換が起こります。 すなわちDoing(すること)からBeing(あること) へのシフトです。


臨死体験をしなくても価値観の転換、意識の変容は可能です。 それを鈴木秀子さんはある雑誌のインタビューで次のように答えています。


  「Beingの三つのメッセージを深く受けとめ、それを根拠に置いて、今日一日を生き抜いていくこと。すなわち・・・ 一つ『あなたは大切な、かけがえのない存在として、深く愛されている』ということ。 二つ『たとえあなたが後悔や自己嫌悪で自分を苦しめているときも、あなたは許され、温かく見守られている』ということ。 三つ『あなたは、たとえ自分に
 は価値がないと思っているときも、生きている価値がある』ということ」

       

T 臨死体験から

 鈴木秀子先生は、事故で臨死体験をされた際、生命の光に包まれ、次のメッセージを受け
取ったそうです。「現世に戻ったとき、いちばん大切なのは、知ることと愛すること。その二つだ
けが大切なのだ」と(17頁)。
 臨死体験に興味を覚えた鈴木先生は、病院のお医者さんや看護婦さんたちに、患者さんが
亡くなる時の様子を聞いてまわられたようです。すると、「どのお医者さんや看護婦さんも、直
前までどんなに苦しんでいても、死ぬ瞬間には深いやすらぎの中に入り、とてもいい心地で、き
れいなものを見たりするようだ」と話されるとのことです(27頁)。
 鈴木先生は、「私は臨死体験によって全宇宙との一体感を感じてから、人間一人ひとりが、
神に愛されたかけがえのない大切な存在で、世の中に起こるすべてのことが偶然でなく必然な
のだと感じるようになりました。かりにそれが病気という、自分にとっては不幸な出来事である
かもしれないけれど、すべては意味があって起こるのだ」という深い摂理を人生から学びとって
いくことが、私の生きがいになっていたと述べられています(40頁)。


U エニアグラム―『「9つの性格」人間判断法』―

 鈴木先生は、1980年代後半に日本に始めてエニアグラムを紹介されたことでも知られていま
す。エニアグラムは、中近東のアフガニスタン地方で生まれ、その後、イスラム社会に受け継
がれ、スーフィー教の指導者が人を活かす知恵として使っていたといわれます。エニアというギ
リシャ語の意味は9種類ということで、グラムは図を意味するところから、エニアグラムは全人
類は九つの性格から成り立っている考えに基づいているようです。
 鈴木先生は、エニアグラムを「口伝(くでん)により、五千年にわたって中近東に伝えられた人
を育てるための知恵です。一人ひとりをあるがままに受け容れるところからはじまり、行動を引
き起こす無意識の動機に着目しながら、人間洞察や自己探求を身につけていこうとする実践
的な人間学」と位置づけられています(47頁)。
 なお、エニアグラムに関して詳しくは〔鈴木秀子『「9つの性格」人間判断法−エニアグラム活
用術』講談社、2004年〕を参照して下さい。


V 聞くことの大切さ―『心の対話者』と『愛と癒しのコミュニオン』―

 このエニアグラムの教えを踏まえて、鈴木先生は、聞くことの大切さを強調されています。『心
の対話者』という著作のなかで、鈴木先生は「"神は、口は一つしかつくられなかったが、耳は
二つつくられた"という格言がある。"聞く(聴く)"ことの重要性を知り、"聞く"技能を高めていく
と、人間関係は良好になり、新しい出会いが生まれてくる。その結果、ビジネスにおいても飛躍
的な成果をあげることができるようになる。"聞く"技能が高まると、コミュニケーションにおける
摩擦やギャップ、混乱が解消されるからである」と述べられています(21頁)。
 ここで聞くというのは「ひたすら聴く」ことで、"アクティブ・リスニング(能動的な聴き方)"と呼ば
れるものです。アクティブ・リスニングの重要性を強調したのは、ドイツの思想家のルドルフ・シ
ュタイナーといわれます。すなわち、シュタイナーは、「特定の修行を通して高次の認識を獲得
する能力を人間はすべてもっている」と主張して、『いかにして超感覚的世界の認識を獲得す
るか』という著書を、1909年に出版したとのことです(95頁)。
 鈴木先生は、『愛と癒しのコミュニオン』という著作のなかでも、"聞く力"が必要として、シュタ
イナーの次の言葉を引用されています。「人間は、自分をまったく無にして他者の言葉を聞け
るようになる。自分のこと、自分の意見や感じかたを完全に排除して。自分と正反対意見が出
されるとき、いや"およそひどいこと"がまかり通るときですら、没批判的に聞き入る練習をして
いくと、しだいにそのひとは他者の本質と完全に融けあい、すっかりこれと合体する。相手の言
葉を聞くことによって、相手の魂のなかにはいりこむ」(7頁)。
 『愛と癒しのコミュニオン』の「コミュニオン」とは、「愛による魂の絆」を意味し、「人間の奥深く
にある人間の存在そのものでつながり、調和して一つとなることである」といわれます(4頁)。
本著作の第4章「大宇宙に聞く」のなかには、傾聴すべき数々のメッセージがみられます。
 たとえば「目標や条件から自由になり、知恵を獲得する唯一の方法、それが、他者に、自分
に、自然に、大宇宙に"聞く"ことなのである」(170頁)。「神という言葉に、何か胡散臭さを感じ
る人もいるかもしれない。そこで神とは、"人知を超える素晴らしい計らいをしてくれる大いなる
存在"と考えてみよう」(171頁)。「神という存在は、人を罰することがないし、甘やかすこともな
い。ただ愛するのみなのだ」(181頁)。「平凡なことの中にこそ、その幸せはひそんでいるので
ある。何気ないことの中に秘められている良いものを見出す人は、自然と人の心の奥に響く波
動を出すのだ(185頁)。「どんな時にも、あなたは愛され、許され、価値を認められている。そ
の根拠は、あなたが神、そして大宇宙に愛され、生かされているということだ。この"愛の気づ
き"こそ、すべての根源なのだ」(193頁)。「自らの意識を大宇宙と結びつける。21世紀は、まさ
にそういう意識の時代になるといわれている。あなたの中にある"宇宙との絆"の現われとして
あなたがいる。この宇宙のエネルギーの現われとして、いまあなたが生きているということを実
感するのだ」(216頁)等々。
 鈴木先生は、「他者は変えることはできない。過去も変えることはできない。変えることができ
るのは自分自身と、自分のものの見方だけなのだ。変えられるはずのないものを変えようとし
て苦しむのは、愚かである」として、御自身の好きな次の祈りを紹介されている。「変えられるこ
とを変える勇気と、変えられないことを受け入れる心の寛さと、変えられるものと変えられない
ものを見分ける叡智を与えて下さい」(220頁)。


W 自分の内面の声を聴く

 鈴木先生は、相手の言葉を聞くことから、大宇宙や自分の内面の声を聴くために修行された
御自身の体験を語られています。
 すなわち、修行が進むと「沈黙も、言葉の沈黙から、サイレンス・オブ・マインドという頭の沈
黙、シアレンス・オブ・ハートという心の沈黙へとおよんでいく」(95頁)ようです。修行の初期の
段階では、聖書と修道会の会憲(会則)だけで、文字をいっさい見てはいけないとされたとのこ
とです。これは活字から遠ざかることで、人間の神経系統をつかさどる間脳を鍛えるための訓
練であるといわれます(96頁)。そして、「言葉も視線も音も拒絶し、いってみれば気配だけを感
じる世界で生きていると、うわべだけではわからないことが見えてくる」(100頁)そうです。
 鈴木先生は、(蚊に刺されたときの例で)「人間の不快感というものは、ある極限までいくと、
ぱっと快感に変わるときがある」と語られています。また注目されている心理療法の一つに、"
フォーカシング"があり、それは、先入観なしに自分を受け容れ、自分の内面の声を聴くこと
で、永続的な変化を経験するという療法である」(105頁)と述べられています。


X 神と宗教

 それから、鈴木先生は、「神とは何か」というテーマで、次のように語られています。「聖人と
認められる人は、どの人も、自分自身を罪人とみなしています。こんな罪人の私でも、神に愛し
つらぬかれている。だから神と隣人のために自分の生命も投げだしたい」という希望に燃えて
いる人たちがおり、「神の愛が自分を通して広がっていく、あるいは自分の行為や存在が、少
しでも相手を活かすということが大切」(117頁)とされます。また「他の人のために、自分の時
間も大切なものも捧げられることが己の喜び、他の人を活かすという高い自己実現の喜びが
あれば、そのもとにある自己保存本能を切り捨ててもかまわないという生き方」(119頁)を説か
れています。
 これに関連して、大学教授のシスターが、ハイチの子どもたち(その75%がエイズにかかっ
ている)の世話をするために大学を辞め、自分もエイズで死ぬ覚悟をしてハイチに渡ったという
感動的な話を紹介されています(112頁)。
 それはさておき、鈴木先生は、「人間の本質とは、"生きたい"という生存本能と同じくらい強
い、いやもっと強い、"お互いに助けあいたい"という人間同士の連帯感である」(124頁)といわ
れます。そして、インドの詩人タゴールの詩の一節「起こってくることを受け入れ、それをよいも
のにしていく精神こそ、人生の達人のものである」(149頁)を引用されています。また、「仏教の
世界では、いわゆるあきらめることを"明らめる"と書き、事実を明らかにみるということで、そ
れをありのままに受け容れるという意味」(159頁)であると指摘されています。
 なお、このテーマに関しては、玄侑宗久氏との対談がありますので、それを参照して下さい
(『仏教・キリスト教―死に方・生き方』講談社、2005年)。本著作のなかには、次のような指摘
がみられます。それは、前述したこと(人間の不快感というものは、ある極限までいくと、ぱっと
快感に変わるときがあるということ)とつながるように思われます。すなわち、自殺をした人たち
を思うたびに、鈴木先生はかならず思い出す詩があるそうです。それは、リルケの『鎮魂歌』と
いう詩で、「なぜ、君は待たなかったのか。その重みが、耐えられぬものとなるまで。その時、
その重みは逆転するのだ。それはただそんなに純粋だから、そんなに重たいのだ・・・」という
一節です。また「人に教えてもらうのと、自分で考え出すのとでは、結果は同じでも体験として
は雲泥の差がある」という指摘は、私が提唱している"スーパーISO"による意識マネジメントの
実践とつながるように思われます。それはともかく、鈴木先生は対談の最後を「人生にはいろ
いろなことがあるけれど、どんなことも意味があって起こること。どんな意味があるのか、今は
わからないかもしれないけれど、いつかわかるときが来るんですよ。そう思えば、ほんとうに楽
しみですよね、生きていくのは」(211頁)という言葉で結ばれています。


Y スピリチュアルな時代と"生きる意味"

 上述のような人間観を提示された上で、鈴木先生は、スピリチュアルな世界を視野に入れ
て、"生きる意味"について語られています。
 まず「21世紀はスピリチュアル・エイジ(霊的時代)といわれる。物の時代から意識の時代へ、
私たちはいまそういう感覚を養う時期にきているのではないか」(170頁)と問いかけられていま
す。そして、「人と動物をつなぐ絆」として、スマトラ沖地震が起こった瞬間、観光用に飼われて
いた八頭の象が鎖を切って浜辺にいた人間を助けて避難させた出来事を紹介されています
(181頁)。つまり、「根源的な状況の中で、生命が響きあい、チャンネルが合ったときには、見
知らぬ人間同士が助けあったり、人が犬や象に助けられたりするということも起こってくるわけ
です。そして、それこそ、万物が深いところで一つにつながっている証拠といえるのではない
か」(184頁)と指摘されています。
 その上で、"生きる意味"に関して、「この世を生きていく、この地上を旅するというのは、お互
いを大切にし、愛を深めるための試練なのかもしれません。自分が自分自身であり、自分の
弱さも受け容れ、他人とも愛でつながり、その愛を深め、自分を大切にし、相手をいつくしむ。
人間性を深めていくように、ともに援助しあい、エネルギーを出しあうことが、生きていくというこ
との意味ではないかと、私はしみじみ感じている」(193頁)と述べられています。
 だから、鈴木先生は、「一人ひとりはみな個性があって違いますから、それをありのままに受
け容れ、自分の欠点をも受け容れ、自分のいやなところも受け容れ、その人が人間らしく成長
するようなあたたかい刺激を自分が出せるように、自分も成長していくというのが、ほんとうに
生きていくということの意味ではないでしょうか」(195頁)と語られています。


Z 結びに

 上述の見方とつながるものとして、鈴木先生は、アーヴィン・ラズロ(『叡智の海・宇宙』)か
ら、次の引用をされています。「私たちは痕跡を残さずに世界から消えてしまうことはない。私
たちが経験することのすべてが、人類の集団的な記憶装置の一部となるのである。私たちは、
現在生きている人々と、未来のすべての世代の人々の脳や意識のなかで生きつづけるのだ」
(202頁)。
 このような見解にたどりつく芽は、1994年、スタンフォード大学での人間学の学会で、新しい
意識の時代とは、人類として宇宙意識に目覚めることを意味するといわれた、次のメッセージ
にみられるようです。
 「いま、人類は、新しい意識の時代に入っています。それは自分の外の世界に目を向けつづ
けてきた人類が、歴史上初めて、人間の内部に目を向けはじめたことを意味します。つまり、
人類として、人間の深みに、人間の存在の深みに焦点を合わせはじめたのです」(203頁)。
 最後に、本書(『臨死体験・生命の響き』)の終章「愛に満たされるということ」から、次の言葉
を引用して、結びとします。「生きるというのは、聖なる一人ひとりから、その聖なるものを引き
出しながら、それを大切にしあって、人間関係にやすらぎをもたらすこと、平和を築くこと、それ
につきます」(205頁)。

http://homepage3.nifty.com/ishii2004/page034.html


鈴木秀子さんが見たのは麻薬常用者が体験する天国・極楽浄土の世界で、ウパニシャドの梵我一如や釈迦の涅槃の世界にまでは到達していないと思いますが、何れにしろ日常的にどういう信仰生活を送っているかで、無意識の世界に入った時の到達点も全く違う様ですね:

・クリスチャンは無意識の世界で愛の神に出会う
・ヒンドゥー教の信者は無意識の世界でアートマンに出会う
・密教の信者は無意識の世界で大日如来に出会う
・浄土教の信者は無意識の世界で極楽浄土を見る
・禅宗の信者は無意識の世界で静寂な空の世界に入いる


釈迦は涅槃の世界でいったい何を見たのでしょうか?


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2. バラモン教・大乗仏教の悟りとはどういうものか?


悟ったからと言って人間的に成長した訳ではない:
悟りの体験を何度も繰り返し得て、生きている間に、それを究極まで徹底できたとしても、その人は「その人のまま」、ごく普通の人間である。
ユング派分析家のウォルター・オダージンク著『瞑想とユング心理学』では、禅が特徴として、純粋意識、というべきセルフのウロボロス元型だけを活性化する。
個人的無意識を無視するために、悟りの体験を持ちながら、幼児的、暴力的な個人的心を持つことさえある。

プロセス指向心理学の創始者アーノルド・ミンデルは『自分さがしの瞑想』において悟りの落とし穴について述べています。
悟りを最終目標として、それに到達すればすべての問題が解決する考えは、東洋の瞑想の誤解であり、そこから、うぬぼれが出てくることがあります。
他人をレベルが低いとか、幼稚とかみなす傾向があるといっています。

オダージンクさんとミンデルさんがいっていることは、まさしくそのとおりではないかと思うのです。

大乗経典においても、悟りの体験者に対して慢心の罪は五逆の罪よりも重いとまでいうほど厳しく戒めています。

その矛先は自身にも、もちろん向けられているでしょうが、主に小乗の阿羅漢たちに向けられているようにも感じられます。
他人のそれには敏感であっても、自身のそれには気づかないことは大いにありうることです。

個人的な心の問題については手付かずのままということになるのではないでしょうか。
幼児的、暴力的な個人的心を持っていないなどとはいえない。また、対人関係の問題についても、葛藤を抱えたままであるでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/jd6j5rlure09f3/e/abddfac859553290baa3a16b86c396b0

脳を分析しても”真我(アートマン)”の実体(実態)は出てこない。
出てくるのはせいぜい脳の一部の刺激によって記憶が消えたり(”私(自我)”という記憶が消えたり)現われたり、色や音を感じたり、幻想を見たり、怒ったり、泣いたり、不愉快になったり、快楽を感じたり、等、生命の個々の属性が現われたり消えたりするだけだ。
瞑想や荒行、座禅、護摩、加持祈祷、他力、等で”悟り”といわれるもののほとんどはこの手合いで事前に本や教科書や先輩や師匠などから吹き込まれた段階的な”悟り” と称するイメージを幻想として見て、”私(自我)”も悟ったと錯覚しそれをまた後輩に吹き込むということを繰り返して広まってゆく。

特にこれらで得られる快感は脳に対する無理で不自然な刺激よるので薬や催眠の中毒と同じように慢性化し (癖になり)、特定の音楽を聴いたり特定の匂いや視覚やしぐさ等で容易にはまり込んでしまうし、その快感を求めて再びはまり込みたくなってしまう (常習化する)。

極端になるとヨガ等の経典に出てくる空中遊泳とか物体の素通りだとか透明になるとかのいわゆる荒唐無稽な”通力”を本当に信じこむようになり極度のトランス状態(脳の痙攣)にまでなって、飛び跳ねたり手足をバタバタさせて、はたから見ると異常だが当人にとっては快感となっている。

この快感は極度の運動 (祭りやスポーツ等)などで得られるもの(いわゆる”真っ白になる”)と何ら変らないものだが、極度のトランス状態のもとでは脳に対する無理な作用、不自然な刺激によるものなので薬物と同様、後遺症、精神的副作用(人格、精神異常、意識障害等)などを伴う。
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何処までが正気でどこまでが狂気なのか、この判断はむずかしい。
まるでメビウスの輪のように、正気と思って走っているうちにいつのまにか、狂気になっていたり、狂気な行動が後世に正気として評価されたりするからだ。
狂気を演出する、これは正気でなければできない。正気と思いつつも、いつのまにか狂気の世界に入り込んでしまうこともある。一般大衆の思考から離れてしまう。
それが、100年先の考えであれば天才であり、単に少し離れただけなら変わり者か変態で終わるが、接点が無くなるほど離れてしまい一般大衆と永遠に交われなくなれば、人はその人を狂人と呼ぶ。
信仰というのは怖いもので、最初正気ではじめたのが信仰がすすむにつれていつしか強信ならず狂信の世界に突入する。
やがて拝んでいるうちに祈祷性精神病になる。

教祖が”気違い”の場合その信者は確実に”気違い”になる。
”気違い”はウイルスよろしく伝染する。
オーム真理経の麻原彰晃、人民寺院のジム・ジョーンズ(1978年11月18日900名以上集団自決)一人一殺の血盟団の井上日召(1886〜1967)いずれも、教祖の狂気が伝染し弟子を殺したのである。
ゲーテの若き「ウエルテルの悩み」という小説が流行した時に多くの若者が主人公よろしく黄色いチョッキを着て自殺したらしいが、是も狂気のあらわれであろう。

真言密教の坊主には頭の狂ったのが圧倒的に多いがその理由は不思議な超能力を身につけるべく行う、求聞持聡明法・日輪観・月輪観・加持祈祷などにある。
祈りをかけて祈りを叶えようとすると、祈りが叶えばそれでよいが、もし叶わざる場合には自分が壊れてしまうのだ。
熱心に祈り続けると、あるとき突然にお客様が”おいで”になる、
そうすると一人で泣き出す者、飛び跳ねる者、にやにや笑い出す者、
もうあっちの世界に飛んでしまったのだ。
こっちの世界にそれでも、もどれる者もいるが戻れなくなる者もいる。

禅の修業でも勝手に座禅などやると、現実と空想の区別がつかなくなり、あっちとこっちの世界の間に彷徨うことになる。これを空病という。
導師とはこのことを良く知り、現実に引き戻してやるための存在なのだ。
現実に戻さないでさらに背中を押してあっちの世界に追いやるのが悪の宗教であり、邪教なのだ
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/53904826.html


脳にはA10と呼ばれる神経があります。
医学的には、恍惚神経とか快楽神経と呼ばれているそうです。
動物のA10神経はとても貧弱ですが、人間はこれがものすごく発達していて強力です。
わくわくしたり楽しくなったりするときには、この神経が興奮します。

実は麻薬でもこの神経が興奮することが知られています。
麻薬でこの神経が興奮して「意識の拡大」という色々な神秘的な現象が起きます。
でも、麻薬を使用し続けると、神経がボロボロになってだんだん楽しくなくなり、やがて廃人になってしまいます。
瞑想を行うと、脳内麻薬物質がこの神経の周りに分泌されます。
20種類以上ある脳内麻薬物質のうち、「β−エンドルフィン」は、なかでも非常に強力で、鎮痛作用はモルヒネの6.5倍もあるそうです。
「β−エンドルフィン」は死ぬときにも分泌され、おそらく苦痛を和らげるために出るのではないかと言われています。
ランナーズハイでも分泌され、マラソン選手が走っていて突然苦しさがなくなり恍惚とした状態になる・・・というのは、脳内麻薬物質が分泌されているからです。

麻薬は分解されませんが、脳内麻薬物質は完全に分解されるので一切害はありません。
脳内麻薬物質は普段大量に分泌されることはありません。
死ぬときとか、マラソンですごく苦しかったときに分泌されるのですが、それ以外で大量に分泌されるのが瞑想です。
瞑想をして修行が進むと大量に分泌され、とても気持ちがよくなるそうです。

でも、もっと修行が進むと、前回お話したように、鬼が出てきたり、悪魔が幻覚として出てきたりして、怖い目に逢うことがあるようです。
逆に、神様や天使、精霊などに逢うこともあります。
幻覚の中で、神様や仏様に出会って会話をしたりすると、けっこうまともな会話になったりするそうです。
現実の生活の悩みが解決されることもあるそうです。
ここで気をつけなければいけないのが、「自分はすごいレベルまで到達した!」とか「ついに「悟り」を開いた」と思ってしまうことです。

修行を極めた方々が一様に言うことは、「幻覚が出てきて神様や悪魔に会うという状況は、まだまだものすごく低いレベルの話で、「悟り」などよりはるかに遠いレベルだ」ということです。
それを知らない人は、「悟り」を開いたと錯覚して舞い上がってしまうのだそうです。
本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。
ですから、それは脳内麻薬物質による幻覚なのですから、冷静に落ち着いて映画でも見るような気分でグッドトリップを楽しむ必要があるのです。

瞑想法、呼吸法、座禅などのごく普通の修行法も、やり方を間違えると大変危険なのだそうです。
やり方を間違えて、廃人や精神病になった例は数多く報告されています。
ですから、これらの東洋的な修行法は、必ずしっかりとした指導法にもとづいて、確かな指導者について十分注意して実行することが必要だと思います。
気功法では、このような危険な障害を「偏差」というそうです。
禅では、幻覚の中で悪魔が出てきたり鬼が出てきたりすることがあるようですが、これらを「魔境に入る」という呼び方をしています。
ですから、これらの偏差を体験したり、魔境に入ったことを、精神的なものではなく、神秘体験だと錯覚する方も多いようです。
http://72.14.235.104/search?q=cache:awrxoWDLDRYJ:clover.h555.net/u/stone-field/%3Fy%3D2006%26m%3D2%26d%3D%26ca1%3D+%E9%AD%94%E5%A2%83+%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85&hl=ja&ct=clnk&cd=10&gl=jp

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ドラッグの場合、幻覚にすぎないと本人も自覚していますが、「瞑想」の場合には、自分が「悟り」を開いた、と勘違いをして舞い上がってしまう人がおおぜいいます。
・・・・・・これは、とても危険な状態です。・・・・・・
 本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。
 新興宗教の教祖には、この程度のレベルで徹底的に舞い上がって、しかも精神がおかしくなっている人がおおぜいいます。
そんな教祖でもそれなりにカリスマ性があり、常人より「超能力」が高く、たとえば「手かざし治療」ができたりしますが、入信した人はえらい目にあうのがオチでしょう。

 ユングは、この危険性について、次のように述べております。

――― 人間が「無意識」を経験することは、本当に素晴らしいことなのですが、そこにはひとつの大きな危険性が立ちはだかっております。

 ヨーガの修行が進むと、人はいろいろと不思議な体験をします。
こういった体験を自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかのように扱うのが賢明でしょう。
 もし同一化すると、あなたは魂の膨張(一種のエクスタシー的昂揚状態)に陥り、まったく道を誤ってしまうでしょう。
膨張というのは、まさしく小さな形の狂気、狂気の緩和された形なのです。

 そして、もしあなたが、完全な膨張状態まで燃え上がってしまうと、精神分裂病になります。 

瞑想によって見えるものも、また霊能力によって見えるものも、その見えたものに固執することはとても危険なことである。
http://sakuragainouta13.seesaa.net/archives/20060819-1.html

坐禅をして禅定に入ると、脳波が平常のβ波からα波になり、さらに禅定が深まるとθ波になると言われています。
精神の安定した、リラックスした状態の時の脳波はα波であると報告されています。

坐禅は安楽の法門とも言われていますが、身も安定しますし(調身、調息)、精神も安定します(調心)。
ですから脳波も当然そうなるのでしょう。

古来、投機の偈には自然と共鳴したものが多いようです。
宇宙意識と言うか、自分の境界や垣根が取れて隔てがなくなり、自然と一体になるということです。
梵我一如と言います。
「天地我と同根、万物我と一体」と詠ったのは肇法師です。

香厳は竹に石が当った音を聞いて悟り、霊雲は桃の花を見て悟り、蘇軾は渓川の音を聞いて悟りました。
その聞いたり見たりしたものと自分との隔てが何もないのです。
その時自分は空じられている、無になっているのですから。

平生の私たちは自分というものがあるというふうに感じています。
自分の境界、垣根を作っています。
そして自分というものに執着しています。
それは本来の自己ではありません。
作られた、抑圧された、捉われた自己にしか過ぎないのです。

「放てば手に充つ」(道元)と言います。
手を放せば、執着がなくなれば、自己が無になれば、全世界、全宇宙が自己です。
本来の自己、宇宙的な自己です。
http://www3.tokai.or.jp/counseling-zen/link2.htm


坐禅(ざぜん)のすすめ 〜自然治癒力で心身を癒す〜

 坐禅を科学的に分析したパイオニアといえば、東京大学医学部教授の笠松章と、東大医学部付属病院分院神経科医長の平井富雄である。
平井は、精神病やノイローゼにかかった患者の診察である。
 1955年7月初めから9月の終わりまでの3カ月、笠松と平井は、修行年数20年以上になる曹洞宗の僧侶14名を対象に、坐禅をしているときにどういう脳波が出るかという実験を行う。
そして、その研究成果は1960年に「坐禅の脳波学的研究」という論文で発表された。
 脳波の単位はヘルツでの表示。
1ヘルツは「1秒間に1回の周波数・振動数」があることを指している。
一般人が起きて日常生活を送っているときに出るのはベータ波で、波の振動は20〜30ヘルツ。
目を閉じて平静な状態で出てくるのがアルファ波で8〜13ヘルツの波で、ベータ波よりゆっくりしている。
アルファ波が出ているとき、人は心身共にリラックスした状態にあり、「癒しの脳波」といえる。
そして、それよりも遅いのが4〜7ヘルツのシータ波で、中程度の睡眠の時に表れる。

 笠松・平井の実験では、僧侶に目を開けた状態で坐禅をやらせている。
僧侶たちは坐禅を始めると数分でアルファ波が出てきて、時間が経つにつれ振動はゆっくりとしていしてき、中にはシータ波が出る僧侶もいた。
比較として、坐禅をやったことのない人に同じように坐禅をやらせてみたが、ベータ波が出るだけであった。
 坐禅を長く実践すると、緊張を解きほぐし人々を癒すアルファ波が生じ、それ以上のリラックス効果を与えるシータ波が出る場合もある――
ということを実験は示している。
平井は、坐禅こそが神経症(ノイローゼ)など、心の病を癒す精神療法になると結論づけた。

 神経症の人は日ごろ非常に強い精神緊張の状態にあり、そのために日常の生活が上手くいかない。
坐禅の実践は精神緊張を解きほぐし、その結果、神経症の治癒につながる。
平井は坐禅の効果を「根源的な生命力というものをときはなつ」と形容した。
 最近では、脳生理学の専門家で東邦大学教授の有田秀穂氏が坐禅の効用に関する研究を発表している。
坐禅を20〜30分間続けると、脳幹のセロトニン神経が活性化され、脳全体を覚醒させる神経伝達物質のセロトニンが増加するという。
セロトニン神経とは脳内にある150億の神経細胞の1つで、セロトニンを合成し、それを神経の情報伝達に利用する。
 精神医学の通説では、うつ病はセロトニンが不足して起こるといわれている。
坐禅をすることでセロトニンが増加すると、頭はすっきりし、不安感も取り除かれた壮快な精神状態になれる。身体的にも、顔つきも締まって背筋が伸び、腰が据わる。
 大学でも坐禅の効能に目をつけたところがある。
2006年2月、花園大学(京都府)は社会福祉学研究科に臨床心理士養成課程を設置、それに併せてカウンセリングセンターを開設した。
座禅を採り入れた心理療法をするために8畳の和室を用意されている。
坐禅に関心が高まっている一例とも言えるだろう。
どうすれば坐禅をできるか。方法はいたって簡単だ。
まず、座布団の上にすわり、足をくむ。
足のくみ方には、ももの上に両足をのせる結跏趺坐(けっかふざ)と、片足をのせる半跏趺坐(はんかふざ)がある。
体のかたい人は後者をやればいいだろう。
背筋は伸ばしてあごを引き、重ねて輪をつくった手はへその前に置く。
視線はおよそ1メートル前方、約45度の角度におとしたままにして、深々と息を鼻から吸い込み、これを徐々に口から吐き出す。
この深呼吸を数回行った後は、自然と鼻からの呼吸にまかせる。

 坐禅において、大切なのは「調身」「調息」「調心」だ。
姿勢を正し、呼吸を整え、雑念を払う。
ストレスを多く抱えている人は、坐禅をして気持ちを整え、心を癒すといいだろう。
http://www.pot.co.jp/oikenparis/%e5%9d%90%e7%a6%85%ef%bc%88%e3%81%96%e3%81%9c%e3%82%93%ef%bc%89%e3%81%ae%e3%81%99%e3%81%99%e3%82%81.html

【一】〔脳波をコントロールする坐禅〕

「脳」という闇の箱の中で行われる精神活動を、なんらかの形で人間の目で見えるものに置き換えてくれるのが「脳波」です。
この脳波の存在に最初に気付いたのは1924年ドイツの精神医学者ハンスベルガーであり、人の頭から波型の電位変動が記録される事を確認しました、彼はこの歴史的発見から5年後論文を発表しました。

その後アメリカのブレーメ、フランスのリンズレイ、などの学者によって精神の働きに従って、脳波がどの様に変化するのかという関係がその微細な脳波のパターンによって解明されてきました、
人間の精神活動に応じて時々刻々移り変わる姿そのままの形で、全く忠実に表現する現象であるのです。

要するに精神活動がだんだんに強くなるに従って、

緊張の度合いにあたかも比例するように、脳波がベータ−波からさらにガンマ波へという、速い周波数(高サイクル)をもった波形に移り変わっていくのです。
ではその脳波をサイクル別に説明しますと。

@ ガンマ波(30〜50サイクル)
人がカーとして大喧嘩するなど、精神が非常に興奮したとき出る波


A ベータ波(20〜30サイクル)
正常な人が眼を開けて、活発に日常活動するとき出る脳波  別名活動型脳波という


B アルファ波(10サイクル)
最も基準になる脳波とされる。
この波は正常な人間が、心身ともに安静な状態で眼を閉じて、くつろぎリラックスしたとき、脳が安静に向かうときに現れる脳波であり、坐禅中は眼を開けていても現れ、これを安静型脳波・ 坐禅型脳波という。
このアルファ波は眠りに移行するにつれて次第に遅くなり、精神活動が緩慢になるほどゆったりとした大きな波に変わって行く、別名〔幸福の脳波〕


C シータ波(4〜7サイクル)
寝入りばなのウトウトとしたとき出る波、
超能力はこの状態のとき出るといわれる、
坐禅の熟練者になると目をあけていてもこの状態になる。


D デルタ波(0,5〜3サイクル)
非常に深い眠りの状態のときの波です。


さて以上をふまえ、宗教的方法の対極の位置にある、現代科学の先端技術を扱う科学者である 平井富雄博士が、なぜ坐禅に興味を持ったかといえば、
一番目として、過去多くの実例から坐禅の経験者は、悩みや心配から解放され、運命に打ち勝ち、安心立命を得ることを身をもって体験している事実があることです。

例えば、明治維新の立役者であった勝海舟は「自分をつくったのは禅と剣だけだ」と言い切りましたし、
また海舟と親交があり、同じく維新で活躍した有名人・無刀流の創始者で剣豪の山岡鉄舟は、坐禅によって・縦横自在・活殺自在の働き、つまり〔禅気〕という気合を会得し、師匠であった浅利又七郎も及ばない境地に達した話は有名なエピソードです。
熟練者になると、精神の絶対安定状態「悟り」を開き、「解脱」という理想の心の境地に達するのです。

今一つの理由として、平井博士が各種の患者の脳の病気を治療する過程において、
精神障害患者の脳波が正常人との違うことに疑問を持ったこと、
それ以外に、健康な人でも例えば睡眠に陥ると、脳波が目覚めているときとは全く違うということ、
よく聞く話として坐禅のとき「無念無想」の意識になるといわれるが、それもきっと脳波に現れるに違いないと思われたからです。


坐禅は眼を開けて行います。
しかし坐禅中は眠っている時よりも心が深く安定しています。
それならこの様なときの脳波は、どの様な現われ方をするのだろうか?
脳の中の機能・働きを忠実に波形の曲線として記録できる脳波が、坐禅のとき変化しているのであれば、神秘のベールに包まれていた坐禅を、現代科学の土俵に引き出すこととなり、そしてそれがハッキリと証明されれば、すごい発見になるのではないか・・・・・

そしてこのとき発生する脳波が、脳生理学的理論に合致するのであれば、坐禅こそ他に類を見ない精神操縦法として科学的に確たる普遍性を持つこととなり、「健康」に坐禅がほんとうに役立つことが証明できるのではないかと考えて、坐禅中の脳波変化の研究を思い立ったのです。
さていよいよ禅の長い歴史始まって以来の大事件である実験が開始されたのであります、
(このときの記録ビデオはNHKテレビで放映され大きな反響を呼びその後世界中の精神医学会に大きな影響を与えました。
私も当時大きな感銘を受け我が事のように嬉しく坐禅の力を納得しました。)
さて1955年平井博士は、同じ東京大学の精神医学者である、笠松章博士と研究スタッフともども、東京都港区の青松寺という由緒ある寺院において、脳波測定の機械を搬入し禅僧が14名が協力し、その歴史的な実験は始められました。
(同年6月には再度横浜市にある曹洞宗大本山・総持寺においてベテラン禅僧18名の協力のもと坐禅中の脳波をより高度な測定器において実験された)


実験結果は驚くべき発見の連続であった。

坐禅中は目を開けているから、当然ベータ波が記録されるだろうとの予測は完全に裏切られた。
坐禅を始める前は当然ベータ‐波が現れた。

しかし坐禅が始まり1分もしないうちに、目を開けているにもかかわらず、きれいなアルファ波が現れた。
目を開けていながら、外部の世界とのあいだに緊張した関係が無い、ゆったりした精神状態が続き、
外部世界を見ているようで、しかしそれにとらわれない状態、
すなわち、自分の外部環境にそのまま囲まれていても、決してそれらに支配されていない心の状態といえる。
まさに驚くべき結果であり、しかも

坐禅が始まって2〜3分後にはシータ波(7〜8サイクル)が定期的に出現している、


このシータ波はアルファ波よりゆっくりした波形で、寝入りっぱなのうとうとした状態でないと絶対現れないものであり、
この精神状態は深い安定、幸福な気分や大変深いリラックスのときにしか現れない、
目を開けての坐禅中であり、もちろん彼らが眠っていない事は臨床的には明らかである、

さて30分経過し坐禅が終わっても坐禅の余韻が残りアルファ波が出現したまま残り、実に5分間も続いた人も居た。
この結果坐禅が意識の変化をもたらし、人間の精神状態を自由にコントロールできることが科学的に証明されたのです。
しかももっと驚いたことは坐禅の効果が、坐禅が終了し、組んでいた足を解いたあとも、歴然と残存している事実をつきつけられたことです。

ではこの様な事実は、専門的なプロの坐禅修行者だけに現れる現象であるのか?
そうで無ければ誰にでも起こる現象なのか?
この問題を究明するため、同じ場所、同じ条件で坐禅の全く経験の無い若い人たちに正しい姿勢、や呼吸のしかたを教えて坐禅をさせた結果、

最初はやはりベータ−波が多かったが、しかし1〜2秒続くアルファ波がときどき現れていることが、確認されたことは驚嘆に値することであった。

ここで平井富雄博士は大変貴重な資料を得たこと、それは専門化の坐禅の熟練者が、味わった無念無想の境地は、彼らだけの専売特許ではないということであります。
坐禅の経験を一度も経験した事が無い人達も、坐禅で行う正しい姿勢と、正しい呼吸法を練習すれば、
誰でも禅僧のような無念無想の境を一時的にしろ味わい、
又継続すれば誰でも禅僧と同等の〔三昧の境〕(心が集中統一された精神の絶対の安定状態)になれることが脳波が教えてくれたのです。
坐禅は人間の精神状態を自由にコントロールできるという事実が、近代科学で証明されたのです。


【二】〔精神電流現象〕

さて平井富雄博士らは、坐禅と睡眠の両者の相違を確認し、脳の機能的変化の差を知る為に、今度は脳波を離れて、別の識別法によって、坐禅の脳科学的解明の研究がなされた。
それが精神電流現象(GSR)です。
これは人が精神的に動揺すると、皮膚の汗腺が影響を受け、電気抵抗が変わる現象です。
よく警視庁で犯人を取り調べに使うウソ発見器は、この原理を応用したものです。


ウソをつくと、態度や表情は平然としていても、ウソをついたという心理的動揺が起こるので、その反応がポリグラフ上に現れるのです。
犯行を否認する犯人も、色々攻められるとやはり精神的に動揺し、手のひらの電気抵抗が変化し、その変化がポリグラフにハッキリと描かれます。

よく「手に汗握る」といわれますが、やはり測ってみれば精神電流現象が認められます。
この精神電流現象は、人が起きて日常生活の活動をしているときは、ひんぱんに起こる現象です。
しかし睡眠中は起こりません。
ですから座禅中に、アルファ波やシータ波など睡眠に良く似た波があるときに、この現象があるかどうかを調べれば、坐禅と睡眠の極致を比較できると平井博士は考えられた。

実験は坐禅中の禅僧に刺激装置から(カチィ)という音を自動的に流して聞かせ、その音に対する反応を脳波でみるのです。
その結果ハッキリと音に気付いており、眠っていない事が確認された、
しかしもっと大きな発見があったのです。

たとえば坐禅に関係なく、普通の人を寝かせ、目を閉じさせて、ゆったりとさせてから、刺激装置から定期的に刺激を与え、精神電流現象を出させても、2〜3回続くとその刺激に慣れや、習慣性が出て、あとはいくら刺激しても反応がなくなってしまいます。
これが普通の常識的な人間の生理現象です。
ところが坐禅はこの「慣れが起こらない」のです。

これは非常に重要な事なのです。
この「慣れ」がなく、常に刺激に反応するということは、脳波から見ると睡眠に等しいほど、精神がすごく安定したアルファ波、シータ波などの平穏な波型を示しながら刺激に対しては常に新鮮な反応を持続する、
すなわち意識は休息していながら、活動しているという、とても驚くべき離れ業を演じている事です。

坐禅とよく似ている「催眠」=「催眠術」でも決してこんな複雑な形にはなりません、

人は「催眠」の暗示に掛かれば眠ってしまい、
シーター波を示した段階で、外部より刺激を与えても全く無反応になってしまいます。
医学的に強調しますと、実は坐禅のこの「矛盾した脳活動」こそ人間の「健康」に非常に有益で大変役立つ生理現象なのです。

〔外部からの刺激には平時より反応は鋭いが、精神状態は絶対の安定を保たれている〕、

〔脳活動が新鮮で長く持続されいるが、意識は絶対の休息状態にあるという、〕

一見矛盾した脳活動こそ、俗にいわれる

(融通無碍)=
(心と体はゆったりと安定し、何ものにもとらわれないが、どんな事態が起きても最善の対応できる)

という仙人や超人的な心の境地なのです。
坐禅を行えばストレスが消え、精神力は強くなり、能力がアップし、どんな事態にも沈着冷静で、能力を全てだしきれる精神状態にあるといえる意味が徐々にお分かりになってきたと思われます。

【三】〔動静一如〕(どうじょういちにょ)とは

さて禅の言葉に「剣禅一如」(けんぜんいちにょ)とか「弓禅一如」(きゅうぜんいちにょ)とがあります。
「動静一如」とは、動と静とが全く差別なく一つになって、人間の心の中で一体化している状態の事です。
静とは眠ったような状態、動とは意識が緊張している状態ですが、互いに矛盾した状態の共存は、けっして超論理の世界のことではなく、脳波を見れば、誰でも納得のいく事です。

安静型のアルファ波が出ているとき、外部から刺激を与えると、精神電流現象が起き、脳波は活動型のベーター波にすぐ変わります。
医学用語では静的な脳波が動的な脳波に変わることをアルファ抑制(アルファ・ブロッキング)と言いますが、
座禅中はこのアルファ抑制に対して「慣れ」が起こりません。
医学的な常識では、普通何度も刺激を繰り返していると、いつの間にか慣れてしまって、アルファ抑制の効果がなくなるものですが、坐禅ではそれが無く、安静と動が、常に共存しつづけます。
これが禅マインドとして知られる動静一如の科学的な説明になります。
他の表現を用いれば、

さざ波一つ立たない青い水をたたえた湖のように、
妄想の無い静かな心と、大海のようにどんなものでも飲み込んでしまう心
とが同居しているわけで、矛盾のある見事な包含を表現しています。

仏教でみる「色即是空」(しきそくぜくう)「空即是色」(くうそくぜしき)とか「無心有心」「明鏡止水」なども相反した矛盾がバランスをとって一如として体得される状態であり、科学的にも納得のいく事なのです。
言い換えますと、「極めて高度な精神と肉体の調和状態といえるのではないでしょうか。」

【四】〔自律神経〕
私たちの体は、自分の意思に関係なく、休み無く働いています。
心臓を動かしたり体温を維持したり、運動をすると心拍が高まり、物を食べれば消化します。
これは私たちが意識して行っているのではありません。全ては自律神経の働きによるものなのです。

すなわち自律神経とは人間の意志とは無関係に、その神経自体の自律的な働きで動いています。
血管、心臓、胃腸、子宮、膀胱、内分泌線、汗腺、唾液腺、膵臓などを支配し、これらの機能を自動的に調節する神経であります。
自律神経には交感神経と副交感神経とがあります。
この神経のやっかいなところは、人間の意志になかなか従ってくれないところにあります。

言い換えますと「人間」の生命維持という目標には従っても、各個人の意思には従はないのです。
さて自律神経のうち、交感神経は心臓の働きを促進し、血管を収縮させたり血圧を上げたりします。
主に昼間働いて、体を活動的にする神経であります。
一方の副交感神経は、血管を広げ血行を促し高い血圧を下げ、栄養と休息を与えてくれます。

主に夜働いて体を休める神経です。

平井博士は脳波と平行して調べられた、皮膚の電気抵抗の度合いを示す、精神電流現象は感情の変化や精神の動きを伝えるだけでなく、じつは自律神経とひじょうに密接な関係があることが、大脳生理学で明らかになってきました。
坐禅中に脳波が安静型に移行し、脳の働きが平静になった時、精神電流現象は逆に活発になったこと。
これはすなわち自律神経の活動のレベルが上昇する事が確認さたことであり、
このことは自分の意思ではどうにもならなかった自律神経が坐禅によって自由にでき、鍛えれれたたことであります。
平井富雄博士らは実験中、大胆にも、坐禅中の禅僧にお願いし、数ミリリットルの血液を坐禅中に採らせてもらい調べてみました。

確かに酸素消費量は、それほど目立って増加していませんでした、
しかし、乳酸の量は減っている事実が確認されました。
このことから、坐禅により、交感神経から神経転移がおこり、副交感神経が優位の状態で活動していることが証明されたのです。
詳しくいいますと、坐禅を行う事により、活動型で刺激に反応して肥満の原因となる食欲を抑制したり脂肪燃焼を促すなど、刺激に敏感に防衛機制をとる交感神経が鎮静し、抑制型で精神の安定と休息を与えてくれる、副交感神経の働きが活発になるのです。
脳波をコントロールできた坐禅はそれにも増して、人間の意志ではなかなかコントロールしにくい自律神経の働きまで変えることが証明されたのであります。
昔から坐禅は「人類の宝」と言われてきましたが、坐禅の偉大な効能を世界的に証明した研究成果といえるでしょう。

【五】〔坐禅で行う腹式呼吸法は精神力と健康を大いに高める〕 

 呼吸が速くなればそれだけ多く酸素が得られるのでしょうか?
いいえ全く逆であります。
かえって呼吸が浅くなる為に、せっかく吸い込んだ空気が肺の奥にある肺胞まで達することなく、気管支の周辺で出たり入ったりしているだけであり、
一回の呼気で、肺から出てゆく空気の量が少なくなり、炭酸ガスを含んだ悪い空気がそのまま肺に残留する事になる。
この様な状態では、新しい酸素を多く含んだ空気を吸い入れる余地が無くなり、しかもこれでは無理をしなければ息が吸い込む事ができません、
反対に、はく息をゆっくりすることは、じつは効率的な呼吸法であり、ゆっくりと、肺の底に残留する空気までしぼりだすような感じで息を吐ききると、空っぽになった肺と外の空気との間に気圧の差が生じ、無理に息をしなくとも、空気が自然に肺の中にドット流れ込んできます。

このように呼吸をゆっくりさせ、普通の人の呼吸数は安静時一分間に約18回ですが、
これを坐禅中に行うと一般人でも呼吸数は一分間に、4〜5回となります。


呼吸法を生理的にみますと、大きく二種類の方法があります。

一つ目は、普段私たちが無意識に胸で行う胸式呼吸です。これは胸で息をするやり方です、
肺は肋骨で囲まれているため、胸式呼吸は肺が大きく広がらず空気を大量に取り入れることが出来ません。

二つ目は坐禅で行う腹式呼吸です。
生まれたての赤ちゃんはみんな腹式呼吸をしています。
しかし成長するに従い、胸式呼吸に変わってきます。
腹式呼吸法の、空気を取り入れる量は、胸式呼吸より約5倍ほど多くなるといわれます。
腹式呼吸は一言でいうと、腹が出るように息を吸うことです。なぜ腹が前に出るかというと、横隔膜(胸部と腹部を隔てるドーム形の筋肉の膜)が下方に下がるから腹が出るのです。

横隔膜が下部に下がれば胸の中の容積が下方に広くなります。
また息を吐くときはお腹を引き込ませて背中の方に引きつける。
このときには横隔膜は上方に押されて上がる。
横隔膜が上に上がると、肺に残った悪い空気が全部外に押し出される。
このために腹式呼吸が酸素供給面から見ても、一番よい呼吸法といえます。
腹式呼吸は横隔膜運動によって行われており、この運動はその下部に位置しているすなはち、へその下の下腹部は太陽神経叢と呼ばれ、ここの活動を促し、その結果、自律神経の働きも活発になります。
これはまた全ての内臓の活性化に直結します。
又腹式呼吸は横隔膜の筋肉と丹田=(臍下丹田=せいかたんでん=へその下の下腹部=へその下5センチ)の筋肉を強化させます。
これは健康に必要な強い腹圧(腹の力)をつくります。腹圧が強くなければ坐禅のときの、細く長い呼吸はできません、

私たちの肺には筋肉が一筋もありませんが、腹式呼吸によって横隔膜の上下運動による、この横隔膜の上下運動をさせる主な筋肉が丹田(たんでん)に繋がっています。
結局私達が意図する静かな坐禅の呼吸は、「丹田」=「臍下丹田」強化の運動だということです。
じつはこの「臍下丹田」=(へその下5センチ)こそ最も重要な人間の中心であり、私たちが坐禅をするときに精神を集中するところなのです。
武道などでよくいう「腹が坐る」とか「胆力がつく」というのはここのことです。

このように坐禅で行う腹式呼吸は単に肺活量が大きくなるだけでなく、体中の細胞に胸で行う胸式呼吸より何倍もの酸素を行き渡らせ、又新鮮な栄養を細胞に供給します。


【七】「エネルギー代謝」(基礎代謝)の減少(極めて高度な心身の統一状態)

人間の体のエネルギー代謝のうち、最も最低と考えられているものが基礎代謝です。
この基礎代謝は、朝眼を覚まして朝食を取らずにそのままベッドに静かに寝ている状態のときはかります。
つまり人間が生きて行くのに、最低必要なエネルギー量を算出するわけです。
さて坐禅中のエネルギー代謝を、平井富雄博士とそのグループが実験計算したところ、またもや大変な結果が出ました。
坐禅中のエネルギー代謝は基礎代謝より、20パーセントも下っていたのです。
つまり朝目覚めて朝食を取らず、そのままベッドに静かに寝ている状態よりもエネルギーが消費されない状態ということになります。
何と驚異的なことでしょう、
眼を開いて坐禅をしているのですから、当然使われるエネルギーは基礎代謝より多くなると予想していたのですが

事実はこれとは全く逆だったのです。
http://honmono.co.jp/zazen_chair/uraduke.html

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3. ヒンドゥー教・密教の悟りとはどういうものなのか?

1) 梵我一如はエロスの世界

「輪廻」というのは、サンスクリット語で「サンサーラ」と言い、元々ウパニシャッド思想(紀元前8世紀から6世紀頃)において、梵我一如(「ブラフマン=梵」と「アートマン=我」は本質的に同一であるという思想)の原型と共に、輪廻の思想も形成されました。

ウパニシャッドの輪廻の考え方では、「太陽の道」と「祖霊の道」というものが考えられ、後者は、「転生」の概念にほぼ近い考えで、
死んだ後、魂は、雨水などと一緒になって、天から下りてきて、また女性の胎内に入り、生まれて来るというような考えです。

「太陽の道」は、「祖霊の道」を歩むと、どこまで言っても、転生を繰り返すに対し、死後、ある方法で、太陽の道に進ことができると、もはや、この世には、再び転生して来ない道があるという考えです。

「輪廻」とは、
転生のなかで、「業(カルマ=行い=生前にどういう行動・生き方であったか)」によって、次の転生先や転生のあるようが決まり、
この決定規則は厳密なもので、機械的に起こり、
動物をむやみに殺していると、転生先は、殺していた豚や牛になるとか、
ブラフマ階級の者は、儀式を行っている限り、転生してもブラフマ階級であるとか、
非常に細かく規則が決まって来ます(それには、長い時間がかかりましたが)。

ヒンドゥー教、ヒンドゥー思想では、この運命決定論的「輪廻思想」が正しいとされています。
その一方で、
「不二一元論=ブラフマンとアートマンは本質は一つであるという思想」
もヒンドゥー思想の中核にあり、輪廻論と、不二一元論は、どう調和するのかは、結局、輪廻もこの世の生も、すべて「幻(マーヤー)」であるということになります。

マーヤーから脱し、個人のアートマンが覚醒して、ブラフマンと一致するとき、輪廻の幻からも脱出するのであり、これを、「独存」とも言います
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa503252.html


今、テレビや雑誌などで、ヨガや瞑想が取り上げられ、若い女性を中心に流行っていますが、何も知らずに興味本位や健康法、趣味などで生活に取り入れると、取り返しのつかないことになります。

 何故、ヨガや瞑想が危険かと言うと、これらの起源は一般には良いこととしてしか知られていませんが、およそ健康法などとは全く関係の無いものだからです。
もともと、ヨガや瞑想は一般の人たちには縁の無い、インドやチベットなどの行者が「悟りを開く」と言う目的で行なっている修行法です。


 ヨガの起源はインドにおける「尸林(しりん)の宗教」にあります。
「尸林」とは中世インドの葬儀場のことで、大きな都市に隣接してこの尸林が存在していました。
死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ、荼毘にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられました。
しばしば尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていました。


これらはまともな神経の人間には実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈する危険な場所であり、しばしば魑魅魍魎が徘徊する場所として恐れられていました。

 この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあり、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な秘儀を行なっていたのです。
尸林の土着の女神たちは、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていました。
それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術を生業としていました。
その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)と言いました。

シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。

その聖地(墓場)に土着の女性たちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人)の出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていました。

彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式です。
ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は曼荼羅制作、護摩、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)などです。


 ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼です。


天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズはこの性行為の秘儀が元になっています。)します。
この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女の転移)(サンチャーラ)と言います。
女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない女性)を1名加えた9名と言う説もあります。
その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります。
この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになります。

 この儀式はインドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっています。
ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。


星辰の回転を象徴しながら、都合8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は「大楽(マハースーカ)」と呼ばれ、子の大楽が行者を「梵我一如」の境地に連れ去ると言われているようです。

 梵字はこの瑜伽(ヨガ)のポーズを記号化したものであることから、ヨガのポーズや梵字には多くの憑依霊や狐などの動物靈を呼び寄せる大変危険なものなのです。

 上記の尸林に集まる巫女の内、ダーキニーと呼ばれた人たちは、空海が日本に密教を持ち込んだ時に茶吉尼天(ダキニテン)という女神として現在の稲荷神社に祀ってしまいました。
稲荷神社でキツネを眷族として祀っているのは、このダキニテンからきています。


 というのは、もともとダキニテンはインドの墓場、尸林で性行為を伴う黒魔術をおこなっていたダーキニーであり、インドでは人肉を食らいながら裸で踊り狂い、左手には人の腎臓(もしくは心臓)、右手には人からもぎ取った手足を持っている姿で描かれていますが、何と日本の稲荷神社で茶吉尼天となったダーキニーは優しい姿で左手には宝玉、右手には剣を持って描かれています。

 そして、何故キツネかと言えば、もともとダーキニーは夜になると死肉をあさるゴールデンジャッカルの変身した姿だと言われていたり、ゴールデンジャッカルを人食い女神の眷族(けんぞく・使いっ走り)として使っていた、と言うことから来ていますが、日本にはジャッカルが存在しないため、ダーキニーとジャッカルのコンビが茶吉尼天とキツネのコンビに変容してしてしまったようです。

ヨガや瞑想が危険であるのは、健康法などとごまかしてヨガのポーズをとったり、瞑想したりしている内に、知らず知らずに黒魔術の儀式を行なっていることになり、そこに数多くの悪霊を呼び寄せ、額にある霊的な目(第三の目)を横目(正しくは縦目)に開き、サタン(悪魔)との契約を結ぶことになり、悪の強靭なエネルギーを得て、自らの体内に取り入れて、魂を悪魔に捧げることとなり、それが密教で言う「悟り」であるとされていますが、ヨガや瞑想に関わり続けることで、人生を台無しにし、魂をも堕落させ、取り返しのつかない過ちを犯すことになるからです。 
http://www2.tba.t-com.ne.jp/onmyoukai/newpage109.html

尸林の土着信仰
 尸林(しりん)、シュマシャーナとは中世インドの葬儀場のことである。
大きな都市に隣接して、この寂しい尸林が存在する。
死者の遺骸は、都市部から尸林に運ばれ、荼毘に付されるか、そのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられた。
しばしば、尸林は処刑場をかねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていた。
 これらは、まともな神経の人間には、実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈する危険な場所でもあった。
そして、しばしば、魑魅魍魎が徘徊する場所として、恐れられていた。
インドの尸林には、嘗て女神が祀られていた。
そして、尸林自体もバドラカーリーなどのように女神の名前がつけられていた。
これらは土着宗教の女神たちであり、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か、仏教の女神(守護女尊)として崇拝されている。
それぞれの尸林の女神の祠には、巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術(Necromancy)を生業としていた。
その巫女は、苦行母(ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)という。
大神シヴァの神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に、彼女たちは、侍女兼巫女として仕えている。
その聖地(ピータ)に土着(クセトラジャー)の女性たちは、多くはアウト・カーストの出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていた。
彼女らは一年の特定の祭日、または、月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物(<三昧耶>(サマーヤ))をとり、酒を呑み、歌舞音曲を楽しむというオルギアを行った。

古代のディオニュソスの祭儀か、どちらかと言うとキリスト教によりディフォルメされた魔女のサバトに似た狂乱の宴である。
もちろん、この土着の「尸林の宗教」は、文献も残さず、伝承も不確かな存在であり、ヒンドゥー教や、仏教サイドの文献から存在そのものを再構築するしかない。
しかし、その痕跡は現代にも残されている。
津田博士が1975年にカルカッタのカーリー寺院を訪れたときは、暗い回廊の下に黒衣をまとったダーキーニーが、黒い羊の首、四、五体を並べた前にひとり座していたという。


 もちろん、多かれ少なかれ性的儀礼を含む自然崇拝的宗教は、世界中に伝播している。
『旧約聖書』においても、IHVH神はバアル神と鋭く対立した。

何故なら、バアル(男性原理)及びバアラテ(女性原理)とは大地の豊饒を司る精霊で、その集合体が神格化、宗教化したバアル神だったからだ。
夫婦の神の交わりにより、土地を肥やし、作物を生む。
農民は、その神々に帰依する者となり、神々の交わりを模倣して神聖な性交を行うことで豊饒を祈る。

遊牧民の神であるIHVH神は、この性的な豊饒儀礼とは無縁であった。
性的祭儀はハムの子孫であるカナン人が発展させ、イスラエルに教えたのである。
聖書は、これを避難して<アモリ人の悪>(『創世記』15章16)と呼び、その祭儀に参加する者を「高きところでバアルと頸城をともにする者」と呼んだ。
潔癖主義のユダヤ教は、カナン人の信仰だけでなく、神殿娼婦を置き性の崇拝を織り込んだ古代の有力な宗教と対決を続けてきた。


 しかし、農耕神の素朴な性的儀礼と尸林の宗教は、かなり異なる。
バアルの聖なる交合は、大地の実りをもたらす開放的な営みであるが、墓所における性の儀礼は、人間の心の深奥部へ辿り着こうとする閉鎖的な営みだからだ。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式である。
中世インドまでの中期密教において、九想観等の死体が崩壊する様を瞑想する技術はすでに確立しており、宗教者が修行のためや、純粋に供犠のために尸林を訪問する機会はあったのである。
インドにおいて宗教者とは常に男性であり、タントラ行者は、土着宗教の巫女たちと性交を含む儀式を行ったと考えられている。

 ガナチャクラの構成員は9名である。 つまり、
破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神パイラヴァを召喚した男性行者が1名、
そして、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名
の計9名で行う儀礼である。
天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽する。
この位置変換を<瑜伽女の転移>(サンチャーラ)という。
女性行者が8名に臨時のメンバー(行者ではない女性)を1名加えた9名という説もある。
その場合は、中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女一組に対して、円形に8名の女性行者が並び、曼陀羅が常時成立することになる。
この結果、中央の男性行者は、すべての女性行者と平等に和合することになる。
この儀式は、インドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっている。

 星辰の回転を象徴しながら、都合、8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は、<大楽>(マハースーカ)と呼ばれ、この<大楽>が行者を<梵我一如>の境地に連れ去るのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/2smshna.html

クンダリニー・ヨーガの瞑想においては、骨盤下部で覚醒したクンダリニーという蛇が脊柱に沿って上昇していくさまを観ずるのだが、この蛇の通り道には七つの中継点がある。
それらをチャクラと呼ぶ。
チャクラは神秘的な眠れるエネルギーの貯蔵センターである。

 クンダリニーは各チャクラを通過するとき、ひとつひとつに特有なエネルギーを解放していく。
すると、行者は身をもってそれらの働きを経験することになるのである。

主要なチャクラは七つあり、各々がクンダリニーの通り道、つまり脊柱沿いに位置を占めている。
これはもちろん目には見えないが、多くの先人のイマジネーションによって、たしかにその通りの造りになっていると認められてきた、からだの元型的内部構造なのである。
  http://www.transview.co.jp/02/text.htm

クンダリニーは、悟りを得るために必要なシャクティ(性力)のこと。
クンダリニーの活性化を念頭においたヨーガは、「クンダリニー・ヨーガ」と呼ばれる。
クンダリニーを象徴化したものとしては、密教の軍荼利明王がある。

クンダリニーは、普段は尾てい骨付近のムーラーダーラチャクラに眠っているが、ヨーガの実践や宗教の各種修行によって活性化し始め、生涯をかけ各チャクラを開花させグランティ(=結節。ブラフマー結節、ヴィシュヌ結節、ルドラ結節の3種類がある)を破壊し、最終的には頭頂のサハスラーラを押し開け解脱に至る。
今世で解脱できる魂は極一部といわれている。
性欲を昇華させたものがクンダリニーとなるため、梵行(性的な事柄を避ける)修行が重要となる。


クンダリニー・ヨーガ (Kundalini yoga)
ムーラーダーラに眠るというクンダリニーを覚醒させ、身体中の気道やチャクラを活性化させ、悟りを目指すヨーガ。

ナーディとの関係
ナーディとチャクラの位置を表した図体内(霊体)にあると言われるナーディ(管)の中でも代表的なものは、
動的で男性的性質のピンガラー・ナーディ(別名・太陽の回路)、
静的で女性的性質のイダー・ナーディ(別名・月の回路)、
そして身体の中央を貫いており、調和をもたらすスシュムナー・ナーディ

の3つがある。ピンガラー・ナーディとイダー・ナーディの調和のとれた活性という条件の下、瞑想時にスシュムナー・ナーディ内をクンダリニーが上昇した結果訪れるサマーディに入定することが、サマーディより出定後も安全に高い霊性を維持していくための条件となる。

クンダリニー症候群

クンダリニーを思い通りに、意図的に上昇させようとするクンダリニー・ヨーガを実践する場合、その「思い通りに、意図的に」とは真我ではなく個我にとってのそれであるため、クンダリニーが動的なナーディであるピンガラー・ナーディのみを通ってサマーディに入定してしまうことがある。

そうなるとサマーディから出定後、クンダリニー症候群(英:Kundalini syndrome 中:走火入魔)と呼ばれる症状が現れ、程度の深浅こそあれ、自律神経系のうち交感神経系の暴走からくる自律神経失調症を呈し、そこから全身の激しい脈動、心拍数の増加と血圧の上昇、片頭痛、慢性疲労症候群、統合失調症、うつ病、神経症などを発症するおそれがあり、最悪のケースでは脳溢血や自殺などを招いてしまうという説もある。

よってイダー・ナーディを強力に活性化させる技法を知らぬままクンダリニー・ヨーガを行うことは無謀ということができる。
また、クンダリニー・ヨーガを実践するつもりでなくても、急進的な解脱願望を抱いた状態または神への絶対帰依を欠いた状態での修行の継続の結果や、さらには交通事故や出産時のショックなどによっても上記のような現象が起こる場合が稀にある。
このため、クンダリニー覚醒を目指す実践者はベジタリアニズムを実践し、刺激物の摂取を避け、過食、不規則な食事、わがままで否定的な態度を避けるべきである。
安全な隠遁生活がなかなか難しい現代社会において、社会生活を営みながら安全にクンダリニー覚醒を得るためにはどうしたらよいか、霊的潜在能力覚醒における課題である。

イマジネーションの拡大

クンダリニー覚醒が一定のレベル以上に達すると、人間に果てしない「イマジネーション」の拡大がもたらされるといわれており、実際その事例を見ることも多い。
クンダリニーの覚醒者と自称する人(その多くは覚醒者とはいえないレベルではあるが)は多くいるが、彼らの中の一部に「空想的世界観」を見ることができる。

人間が自分を”実際以上”のものである(あるいは実際以上のものでありたい)と思うたびに、イマジネーションの力がそこで働いている。
イマジネーションの力は、過去において不可欠であったのであり、さらに人類にとって今後もまだまだ必要な力である。
あまりに現実を見てしまうと、世界の進歩が阻害されてしまうのであり、クンダリニーにより神の夢を個々の人間の器に応じて実現させることができるのである。
しかし、修行者がイマジネーションの拡大に溺れてしまい、それを自分の力だと思い込み「欲望」のままに行動してしまうならば、「悟り」への道を逸脱することになってしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%BC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC#.E3.82.AF.E3.83.B3.E3.83.80.E3.83.AA.E3.83.8B.E3.83.BC.E3.83.BB.E3.83.A8.E3.83.BC.E3.82.AC_.28Kundalini_yoga.29


クンダリーニ・ヨーガと云う言葉は、今日多くの人に浸透しているように思えるが、人体におけるクンダリーニの役割や機能について、また、その現実的な活用についての理解・実践となると、まだまだ、実際には普及していない印象がある。
 そもそも、クンダリーニ自体の存在が、手足や内臓などのように、物理的に確認出来る人体の部位ではない。
 活動する人間の精神や魂が、聖なる事業の実現のために、肉体に生成されるエネルギーと結びついて、聖霊が住む高次な世界の扉を開こうとするとき、クンダリーニの覚醒が重要なプロセスとして存在する。
そして、その手段が、ヨーガであり、瞑想である。
 C.G.ユングが提唱したアクティヴ・イマジネーションの実践は、ミトラ教の大いなる時の神、デウス・レオントケファルスを彼自身に感得させた。
その姿は、巨大な光を放射する身体、炎の弓を持って振り上げられた腕、下半身は蛇で、下(しも)は大地を裂いて地獄にまで至り、上(かみ)は不思議な魔力で空から星を降らせた。
密教の甘露軍荼利もまた、星を降らせ、炎の光輪(大威日輪)を戴く。
三股金剛杵や輪宝を執って腕を振り上げ、全身に蛇を巻き着けている。
青蓮華を用いて盤石の上に立ち、或いは座して、毘那夜迦(魔族)の地上への出口を塞いでいる。

ユングは、1932年10月12日の「クンダリーニ・ヨーガの心理学」の講義の中で、チベット密教の曼荼羅の象徴学を熱心に語る傍ら、クンダリーニの覚醒法に関する興味深い見識を述べている。
 「クンダリーニは、正しい行ない(修行)に拠らなければ覚醒させることが出来ない。
私の心理学でも、無意識に対するはたらきかけはたったひとつだ。
それは、正しい行ないによって心を浄化させて、天の恵みを待つこと。
それが、クンダリーニなのだ。」と。
 
ユングがヨーガの取組み方について、
「自らの心の闇を避けて通っていくような始め方をするなら、ヨーガは何も実を結ばないし、無益である。」
と語ったのは、神仏の信仰による心の浄化が前提にある。

当たり前のことだが、ヨーガは元来、エクササイズではないし、美容と健康のためのお手軽な体操でもない。
スワミ・ヴィヴェカーナンダの米国でのヨーガの普及活動について、カイザーリングは、米国人を高次な世界に同通させるどころか、かえって病院や療養所行きになった者を多く出したと批判している。
さらに、本場のインドにおいても、クンダリーニ症候群が古代から現代まで連綿と後を絶たない。
その原因は、ユングが指摘するように、正しい行ないの認識不足によるものだ。

 空前のヨーガ・ブームを引き起こした日本でも、信仰を持たず、神秘思想を学ばずにいい加減なアーサナを指導した者や、また、その指導の下に、エクササイズだと思って神の姿を真似た人々は、今、米国やインドで起きている同じような大きな付けをやがて支払わなくてはならないときが必ずやって来る。
その時、心身の不調を訴えても、異常を裏付ける医学的な根拠がないため、誰も責任を取る者はいないだろう。
ヨーガを通じて幸福を与えると云うヒンドゥー教のドゥルガーやカーリーは、信愛厚き者の心の覚醒や人生の繁栄をもたらすと同時に、不信心なヨーガ行者を容赦なく殺戮してやまない。
彼女たちこそ、世界で最も恐ろしい血を好む女神たちであることを決して忘れてはならない。

 ユングが西洋人に対してヒンドゥー・ヨーガを積極的に奨励しない背景は、こうしたインドの女神たちの激しい気性を、彼自身が体験しているからだ。
 ユングは、1937年にインドを訪れた折、知らずに神殿儀礼を欠いたことで、カーリー女神の怒りを買ってカルカッタで赤痢に罹っている。
地元インドの敬虔なヒンドゥー教徒でさえ、女神の威光を畏れて、生きた動物による血の生贄の供養を現在も怠らない。
最近では、旅行気分でいそいそとわざわざインドにまで出向いて行って、形式ばかりのヨーガを少し修しただけで、さも深遠な教えを体得した気になって箔が付いたと思っている輩が多い。
全く救いようのないお馬鹿たちだが、こうした人は、むねに手を当ててよく考えて欲しい。
自分が本当に悟っているのかどうか。
ヨーガによって人を導く資格があるかどうかを…。

 それでは、クンダリーニ・ヨーガにおける正しい行ないとは何んであろうか? 
インドから中国に伝わった密教は、三武一宗の法難によって廃れた。
また、朝鮮半島の仏教も李氏朝鮮時代の弾圧によって壊滅状態になり、スリランカや東南アジアは上座部仏教が主流になって、密教の体系は失われた。
辛うじて、ひとりチベット密教だけがモンゴル帝国の庇護の下に無上ヨーガを完成させたが、クンダリーニ・ヨーガについては、トゥモのヨーガの断片的な発展を除いて、専門的な研究を進められないまま動乱の時代を迎えている。
わが国においても、内乱の世にいくつかの迫害や打撃を経験したが、比叡山や高野山は、民衆による法灯擁護の兵力を備えて果敢に危機を乗り越えてきた。
したがって、クンダリーニ・ヨーガが無傷のまま整然と体系化されるに至ったのは、日本密教のみである。

 さて、秘密仏教は概ね二つの修行形態が存在する。
一つは清浄ヨーガ(日本密教)の教理に基づくものであり、
もう一つは性ヨーガ(チベット密教)の教理に基づくものである。
前者は心身の霊的磁場を単身で樹立する瑜珈であり、後者は心身の霊的磁場を双身で樹立する瑜珈である。
清浄ヨーガの体系(ヨーガ・タントラ)の体現者を金剛薩埵(ヴァジュラサットヴァ)とし、
性ヨーガの体系(無上ヨーガ・タントラ)の体現者を持金剛(ヴァジュラダラ)及び金剛界自在母(ヴァジュラダートゥヴィーシュヴァリー)
としているが、修法の違いこそあれ、法界における悟りの境涯は同等である。
 
 クンダリーニ・ヨーガを何れの修行形態で実践するにしても、注意しなければならないのは、『ギュー・シ』や『アーユルヴェーダ』などのタントラ医学の修得が必須条件であることだ。

法華経などに説かれている文殊菩薩の女人成仏における五障を克服するサトル・ボディの救度法は、神変加持やクンダリーニの覚醒のプロセスで、女体に現れる無月経などの症状に対して、修道に則した解決法が時の医学や法律の良識にそぐわない点が懸念されるため、無上ヨーガを宝珠に譬えて悉地を与える法門が秘密裏に伝承されてきた。
ただ、そうした事例は現代において極めて稀であり、相当な法器に限られる。
女人への秘密仏教の伝授は、女体がこのような胎生のメカニズムを保有する性質上、クンダリーニ・ヨーガではなく、専ら桜閣生起(巫女型)の儀軌によって霊道を開かせることが多い。
女人成仏のメリットはまことに大きいが、無上ヨーガが如法によらず、あまりに世俗的な方向に傾くと、行に停滞が生じてデメリットが多くなり成就が得られない。
これが、釈迦仏教や高野山が教団発足当初、女人禁制とした決定的な理由である。
http://star.ap.teacup.com/senokublog/6.html


密教には 仏教には存在しない多くの呪法が数多く存在する。

それらは タントリズム行者たちが執り行った呪法をそのまま採用したものが大部分であり 硬直法・隠身法・招入法・恫喝法・粉砕法・呪殺法・解毒法・治病法といったこれら呪法は 本来仏教とは無縁ではある。

しかし実際仏教タントリズムが誕生する以前の初期仏教において呪法への依存から人々を遠ざけようとしたこと自体 密教時代 俗信・呪法が仏教の中に流れ込んでいた証拠と考えられる。

呪法自体はタントリズム以前の初期密教の時代から存在するものであり 遙か太古に遡る原始的心性に基づくシャーマニズムだ。

それら過去における禁止された呪法は 仏教タントリズム展開の過程で世間的・実践的重要な部分に値し 大衆の要求に合致したタントラ密教の思想の下敷きであることは間違いない。

こうして タントラ密教は 俗信や白魔術・黒魔術的な呪法を取り入れた新たな組かえと編集により変化してゆく。

密教には 仏教には存在しない多くの呪法が数多く存在する。

それらは タントリズム行者たちが執り行った呪法をそのまま採用したものが大部分であり 硬直法・隠身法・招入法・恫喝法・粉砕法・呪殺法・解毒法・治病法といったこれら呪法は 本来仏教とは無縁ではある。

しかし実際仏教タントリズムが誕生する以前の初期仏教において呪法への依存から人々を遠ざけようとしたこと自体 密教時代 俗信・呪法が仏教の中に流れ込んでいた証拠と考えられる。

呪法自体はタントリズム以前の初期密教の時代から存在するものであり 遙か太古に遡る原始的心性に基づくシャーマニズムだ。

それら過去における禁止された呪法は 仏教タントリズム展開の過程で世間的・実践的重要な部分に値し 大衆の要求に合致したタントラ密教の思想の下敷きであることは間違いない。

こうして タントラ密教は 俗信や白魔術・黒魔術的な呪法を取り入れた新たな組かえと編集により変化してゆく。


ガナ曼荼羅は,定まった日 ある特定の場所を選んで行なわれる集会(儀礼)である。

八人の瑜伽(ヨーガ)女と釈尊の役を演じる阿闍梨の合計九名が最少必要人員とされ現実態としての曼荼羅を実践する。

入檀希望の新たな弟子との飲食と性の饗宴をもってその実態とする。

動員される八人の女性はヘーヴァジュラ曼荼羅の八女尊に相応する生身の瑜伽女である。


阿闍梨が弟子を曼荼羅に引き入れ目を布で覆う。

次に弟子に曼荼羅を見ることが許される。

ガナ曼荼羅では 弟子は金剛阿闍梨によって受認される。

▼人身供犠

ところで中世インド社会では特異な儀礼内容の集会を行う瑜伽(ヨーガ)女たちの魔女集団が存在した。

へーヴァジュラの徒、瑜伽女たちは 節会をもち人身供犠を行う儀礼の集会日を月の満ち欠けによってを定めた。

ヘーヴァージュラ瑜伽女集団にとって人身供犠 つまり人間の殺害儀礼において 輪廻転生を前提とする仏教タントリストの論法により 「犠牲の合意のもと」集会へ招待する。

自己犠牲となったものから提供される丸薬は成仏の因として扱われ犠牲となった者は 輪廻転生から逃れ最終解脱を果たす。


また人身供犠の犠牲七生人(7回目の輪廻転生)の選別では 男女問わず話す声が麗しく 切れ長の眼に濁りなく麝香か樟脳のごとき芳香を持ち 同様に大いなるオーラの具え 影が7つとして存在するものである。

これを七生人と印づけ 吟味した上で丸薬を作りそれを食することで「虚空行」を果たす。(虚空行=空中飛翔)これらの儀礼は、ヨーロッパ古代ギリシア ローマへ入ったオリエントの密儀宗教の崇拝を想起させる。

瑜伽女たちの集会が人身供犠を伴うことは仏教徒外部からの影響と考えられるのではないだろうか。

以上後期密教としてのタントラ密教は その後ヒンドゥー教の隠された異端によって受け継がれていく。
http://d.hatena.ne.jp/mminazuki/20050619/1119188314

中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した後期密教が誕生した。
後期密教では仏性の原理の追求が図られた。
ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰から影響を受けて、
男性原理(精神・智・方便・金剛界)と女性原理(肉体・感・般若・胎蔵界)との合体(性交)
を修行する無上瑜伽も後期密教の特徴であり、
男尊(男性原理)と女尊(女性原理)が性交する歓喜仏も多数登場した。

ヨーガ・タントラの修行方法が探究されるにつれて、下半身のチャクラからプラーナを頭頂に導くこと(ジョル)が最上とされ、性交がその最も効果的な方法とされた。
しかし男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてセックスを強要したため、仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教(上座部仏教)への回帰もみられた。
また僧侶の破戒に対する批判を受けて、無上瑜伽も実際の性行為ではなくクンダリニー・ヨーガによる性的な瞑想へと移行する動きも生じた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99


中世のインドでは、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教という宗教の枠を超えて、性を重要なテーマとする宗教「タントリズム」が爆発的に流行した。
つまり後期密教がこの方向に走ったのは時代の潮流がその背景にあったということだ。

性的ヨーガ
仏教徒が輪廻からの解脱を実現する方法として、努力して少しずつ煩悩を排除してゆくという一般的方法をあえて採らず、ある秘密の技法によって一気に解脱に達しようとする方法が性的ヨーガ。
タントラとは、密教経典、とくに性的ヨーガの実践を主張する経典のこと。
それはつまり、「無上瑜伽タントラ」のことだ。
ある高名なタントラの成就者は、タントラの道について、それは選ばれた者だけが知ることができるのであって、余人に知らしめてはならぬという意味の文を書き残したそうだ。

「無上瑜伽タントラ」は「父(ふ)タントラ」「母(も)タントラ」「双入不二タントラ」に分けられ、それぞれにまた複数のタントラが存在する。
父タントラには敵を調伏する修法が多く、母タントラは性的ヨーガの実践に積極的だった。
双入不二タントラは父・母両タントラを統合止揚しようとするもの。

後期密教では、人間の体の中に「霊的な器官」があると思われていた。


身体論を導入したものとして大日経の「五字厳身観」がある。
これは、地水火風空を象徴するア・ヴァ・ラ・ハ・カの5字を身体の5箇所に観想する。
この5字に加持された行者の身体は大日如来の五輪塔となり、清浄な仏の身体に転化する。
このような身体の中の特別な場所は、後期密教ではチャクラと呼ばれるようになる。

「ヘーヴァジュラ・タントラ」では4つのチャクラが説かれ、それらは身体の臍・心臓・喉・頭頂にあり、そのうちの3つが如来の応身・法身・報身に対応する。
チャクラは蓮華の形をしていて、花弁の数はチャクラによって異なる。
また身体にはチャクラの他に脈管がある。
脊髄のそばに1本、その左右に各1本。
並行して走るこの3本は、上端・下端とチャクラの部分でだけ接合している。
これが当時のインドの生理学説で、「四輪三脈」説という。
脈管の中はそれぞれ精液、血液、その混合物が通る。

母タントラでは精液が「世俗の菩提心」と呼ばれ重視された。
精液は快感の源であり、これを脈管の下端から次第に上のチャクラへと送る。
それぞれのチャクラで得られる快感には名前が付けられ、4つ目の「倶生歓喜」を成就することが生理学的ヨーガの課題とされた。
前述のように精液は菩提心なので、射精は菩提心の放棄でありタブーだった。
行者は睡眠中の夢精すら許されなかった。
なお、上述の快感が下から上へ行く説の他に、上から下へ降りるとする説もあった。

一番下のチャクラは会陰部にあり、これはまだ性的な力にすぎない。
この力を順次上のチャクラに送り、次第に浄化し、頭頂にある最上のチャクラに送ると修行者は解脱するという。
現代では実際に性的な行為をするのでなく、観想によって精神的に修行するそうだ。
しかし8−10世紀頃のインドでは修行者が実際に女性と性交することでヨーガを実践していたらしい。


後期密教の灌頂はそれ以前のものよりも複雑になっている。
それは4つに分かれていて、まず瓶灌頂は、瓶から香水を取り出し受者の頭頂に灌ぐのでこの名が付いている。
この瓶灌頂では受者の本尊も決める。
またそれ以外にも複雑な儀礼が付加されている。
瓶灌頂は中期密教の灌頂の内容を継承したものになっており、もともと国王の即位式を真似たものだった。
そういえばキリスト教の洗礼ともどこか似ている。ここまでなら私にも納得できる。
ところが後期密教は、この国王の即位式を真似た最高の儀礼であるはずの瓶灌頂を格下げして灌頂の第1段階とし、その先におぞましいものを持ってきた。

第2の灌頂である秘密灌頂から先は、後期密教になって付け加えられた灌頂だ。

秘密灌頂では受者が阿闍梨に女性を献ずる。
あるいは阿闍梨が瞑想に入り女性を観想する。
阿闍梨はこの女性と交わり、「金剛杖の中の菩提心」つまり精液を取り出し、指でつまんで受者の口に入れる。
これで「菩提心を授けた」ことになる。
なお、精液だけでなく赤白二滴(経血と精液の混合物)を授けるとする文献もある。

次の般若智灌頂では、こんどは受者は阿闍梨から与えられた女性と交わる。
女性と交わりつつ受者はヤブユムの本尊の境界を悟る。
受者は射精を我慢して究竟次第の4つの歓喜を体験しなければならない。
そして受者が射精を我慢できなくなった時は女性の体内に菩提心を放出し、赤白二滴(経血と精液の混合物)を服用する。
最後の第4灌頂は、阿闍梨が受者に「言葉によって」大切な教えを授ける。

人は死ぬと「中有」になる。 最大で四十九日間。
中有はやがて未来の父母の性行為の場面に遭遇する。
それを見て失神し、赤白二滴(経血と精液)の中に吸着される。
父母の性行為をまのあたりにして
父に愛欲を起こして母に嫉妬すると中有は女になり、
母に愛欲を起こして父に嫉妬すると男になる。
http://blueclouds.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300688127-1


[3.85 射精し終わるや、ゆっくりと、適正に精液を吸い上げることを習熟すべし。

男性はもちろん、女性でもヴァジローリーに熟達することができる。]
(『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』より。)


ヴァジローリー(性器による吸引)に関しては「実際見せてもらったことがある」というスナックのママさんの話を聞いたことがあります。

曰く、温泉場で同伴した長年ヨーガを実践している女性が性器から湯を吸い上げたり、吐き出したりすることを自在にやって見せたそうです。

私は当時沖正広師の著作を読んでいたので、周囲の人ほど驚くこともなく聞いていましたが、ほとんどの人は話そのものを信じていない様子でした。

ただし、この女性はおそらくこれを「性技」として活用しているのだと思われました。

私の考えでは、ヴァジローリーとは、修練すれば性器でさえ自在にコントロールすることができる証しなのだと思うわけです。

もう少し突っ込んでいうなら、交接時に「受け身」である女性は性器を巧みに絞ったりゆるめたりすることで、男性の射精を適宜操ることができるのです。そしてこれは「女性の修行法」に相当します。

[3.88 ヨーガの道を心得た人は、かようにしてビンドゥを保全して、死を克服する。ビンドゥを漏らすことによって死があり、ビンドゥを保全することによって生がある。]

[3.90 人間の精液は心に依存し、生命は精液に依存する。それ故に、精液と心の保全につとめなければならない。]


「ビンドゥ」は精液と同義のようです。

「接して漏らさず」的な考え方がここにも表れています。


[3.98 ヨーギニー:男子が適正な行法を巧みに行なってビンドゥを回収した時、婦人がヴァジローリーをもってラジャスを保全するならば、彼女はヨーギニー(女行者)である。]


「ラジャスとは、ここでは交接時の女性の分泌物であろう」

との佐保田師の解説があります。

3.101には「ラジャスを回収し保全するならば、空中を歩むことができる」という記述もあります。

そしてこの部分も「女性の修行法」に相当すると思われます。

これはこの著作の際だって特異な記述です。

つまり、ヴァジローリーはともかくとして、女性も男性同様に「もらさない(下世話にいえば、イカナイ。多量の愛液をもらさない)」ことが健康法レベルでの禁欲的な実践になるのでしょう。

そしてヴァジローリーができない限りは、「絶頂感」は男女ともに慎んでおくべきなのです。
http://redsnake.seesaa.net/article/94566521.html

性的パートナーと性的ヨーガ 2008年 10月 27日

チベット仏教に精通している人っておられますか?
もち、密教は仏教のなかの一部なんだけど、歴史的にインド仏教が後に興隆したヒンドゥー教に押されてしまいインド仏教の高僧が人里はなれたチベットに移り住みそこでインド仏教を根付かせた。
チベット密教の本を手に取ればそこには性的パートナーっていう、俗に言うセックスフレンドというかセックスパートナーを公認している。
そのセックスパートナーとは性的ヨーガによりつながり互いの性の力の高まりにより悟りを開くというものだから、、、ちょいと驚くよね。

このセックスパートナーって言うのは夫婦関係以外のことも多いからよけい驚く。
インドの仏画をみたりしたら男女が裸体で性器を突き入れているっていう感じのものがよくあるよね。
それが性的ヨーガを一部現したようなものなんだそうな。

ただし注意しないといけないのは、この性的ヨーガをするならばチベット密教の密教的原理だけを理解していて実践するのは絶対にダメだということ。
釈迦が説いた数多くの説法を読み込んでからにしたほうがいい。
そうじゃないと女性がいいように他人に操られるようになってしまう。
おそらくしっかり仏教経典を読み込んでいれば人間の生命場をあらわした超能力的な不思議な目に見えないような世界の話もでてくることがわかるだろう。
だがそれだけじゃなくて仏教の土台を理解してそのうえにひとつの教義としてチベット密教の考え方がある、そう受け止めちゃえば変ないかがわしい人間の甘言や脅しなどにも抗し得るだろう。
そうやって仏教に対してのバランス感覚がよくなった人ならば安心だろう。
チベット密教はやはり私たちの常識では計り知れない叡智がある。
性的ヨーガで得られる悟りを開けるほどのトランスとエクスタシーはそれを我が身で体験した女性は性的に熟練し若さを保て魅力的になるにとどまらず人生観までも転機するといったような。。。。。。。

ぞくぞくっとするような。あのチベット密教の寺院にこだまする読経の声こそ深くこの世の世界から天界へと意識をトリップさせるためのマントラのパワフル極まりないエネルギーに満ちたものだった。
そのことは僕が実際に女性とのセックスをしたときにBGMがチベット密教の寺院で読経された音源だったからこの身をもって体感した。
だけどもチベット密教での性的ヨーガはヨーガの修行体系のひとつでもあり瞑想の行でもあるわけだから、それなりに男女とも修行って言うものがひとしきりする覚悟がないといけない。
そこは安直な簡単で短時間にとかいったような浅薄なことに慣れて面倒なことをしたくないっていう人には向かないよね。
それにチベット密教の行をする過程でリンガといった男性性器が力をつけていくしヨーニという女性性器も変わっていくのを感じた。
セックスのとき極々従順にすべてを受け入れてくれる女性が、セックスの回数を重ねるたびに美しくなっていくっていう秘密のひとつがこういったものなんだよね。
性的パートナーとして整体師さんである僕の性技を味わえば、セックスで整体していく感覚を持てるのかもしれない。
http://sexbody.exblog.jp/8834718/

 初期仏教から7、8世紀頃までの仏教は、その最大の手段は、業と煩悩の止滅を追求する<止滅の道>であった。
この多分に都会的な形而上学的、自己探求型の宗教は、当時の豊かな商業経済に裏付けられた都市型の文明に支えられていた。
シッタータ王子も生まれてから青年に達するまで宮殿をほとんど出たことがない。
仏教は、アーバンな衒学的な色彩を有した貴族の宗教たり得たのである。
ところが、貿易相手の西ローマ帝国の滅亡とともに、社会のあり方が、重商経済国家から、帰農国家に様変わりしていったのだ。
農村中心の社会が再構成されるに従い、仏教も土臭い庶民の心に対応していくことになる。
つまり、出家僧個人の精神的至福の追求から、在家信徒の現世利益追求型へのゆるやかな転換である。


 その過程において、4、5世紀頃から徐々に7、8世紀頃にかけて、護摩祭などの集団的祭礼、血骨皮を用いる土着信仰儀礼の浸食、性的オルギア、そして、憑依現象の利用などが顕著になってきた。
ただし、こと憑依に関しては、完全な忘我状態にあるのではなく、自意識を有して観想状態に入るというというという優位性を主張できたのではあるが。


 チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパは、ラマ行者ウマパに師事し、<成就法(サーダナ)>を収めて、文殊菩薩に会い、その姿をいつでも目の当たりにすることができたと言う。
のちに、かれは『大真言道次第』(ガクリムチェンモ)という著作のなかで、生起次第を本格的に履修してから約1年ほどで「神々が面前にはっきりと現れる」ことを示した。
かれは文殊菩薩から直接教えをもらっていたのである。
これは現代風に言えば、チャネリングになるのだろう。
心霊科学では<憑依>と呼ばれる。
ある精神回路が開き、かれの心は見神状態で固定されたのだ。
この種の宗教体験は珍しいものではない。
ラーマクリシュナは、いつでも母神カーリーを現前に見ることができた。
主イエス・キリストの花嫁として恍惚状態に陥る尼僧ヒルデガードの例など枚挙に暇はない。
しかし、チベット仏教の場合は、その手段をシステム化することに成功している。

たとえば、後世のゲルク派は、<ヤマーンタカ成就法>を完成させた。
<閻魔を殺す者>(ヤマーンタカ)とは、宗祖ツォンカパの<守護尊>(イダム)となった神であり、ヒンドゥー教の破壊神シヴァが憤怒の相を表したときの神格ヴァジュラ・パイラヴァと同一視されている。
また、ヤマーンタカはゲルク派自身の守護尊とも呼ばれ、後世のゲルク派の<三密教>(サンデジクスム)とは、父タントラに属する<秘密集会>、母タントラに属する<チャクラサンヴァラ>そして、<ヤマーンタカ>である。

さて、その修行法は、次の三段階に区分される。

 その1は、<初加行三摩地>である。
この段階では、本尊であるヤマーンタカを観想し、修行者がヤマーンタカ神そのものにほかならないことを体得する。
このとき<死の光明>を通過し、歓喜とともに<空性の智>の体験が得られる。
さらに<中有>において、身体が浄化されると<幻身>が構成される。
その後、月輪観及び日輪観を経てヤマーンタカが種字から顕現する。
そして、ヤマーンタカが単体ではなく本尊(ヤプ)と明妃(ユム)になり、種字が性器となり交合するさまを観想する。
修行者は双子のアンドロギュノス的体験をする。
明妃を貫く本尊の男性的快楽と、本尊に貫かれる明妃の女性的快楽の双方を<大楽>として感じるのである。
しかも、それら全てが万物の空性の故であると悟らねばならない。
むろん、神格と自己の融合は、一種の憑依現象であるが、修行者は手綱を放すことなく、憑依をコントロールしている。


 その2は、<曼陀羅最勝王三摩地>である。
ヤマーンタカの十三尊からなる曼陀羅全体を観想する。
その曼陀羅は修行者の心臓のなかに置かれる。
交合する本尊(ヤプ)の全身から光明が発せられ、そのなかに万余の仏と菩薩が招来され、本尊の口から呑み込まれて凝集されひとつの滴(ティクレ)となる。
ティクレは、喉から、心臓へ、そして男性器へと下降し、明妃(ユム)の女性器のなかに射精される。
ティクレは女性器から明妃の心臓へと上昇し、そこで2分割される。
片方のティクレは、宮殿と座を表象する種字となり、もう一方のティクレは、十三対の歓喜仏となり、先の座につく。
<生起の門>の完成である。
この曼陀羅となってティクレは、心臓から女性器に再度降下し、本尊の男性器に吸い込まれて本尊の心臓に戻る。
そこで、修行者は曼陀羅を身体の外に放出する。
<放出の門>である。
曼陀羅は虚空に無限に拡散し<行為の門>となり、極微に収斂し点となり<集約の門>となり、再度、拡大し正しい位置に戻り<安住の門>となる。
これが五門の成就である。
魔術の召喚技法において、神格を纏った術者が、神の権威で下位神格や、霊を統制する場面を想起してもらいたい。
また、I∴O∴S∴の神殿儀式における精密なアストラル・ライトの投射も、同様の(性魔術部分は、通常の祭儀には執行されないが)プロセスを辿る。


 その3は、<羯摩最勝王三摩地>である。
細部を記述するときりがないが、<外供養>、<内供養>、<秘密供養>の三つの供養を行い。微細な生起次第を学び。
生起を思念し。念踊を行い。ヤマに供物を捧げて謝し、曼陀羅を収斂させて終える。
技術的には豪華絢爛な儀軌の連続であり、いかに視覚的な細部を固めながら人間の精神を変質させていったかが理解できる。
住する段階を越えるダイナミックな変化を<変容>というが、まさしく儀典による精神の変容を目的としている。


 これまで見たとおり、召喚の根源となる仕組みは<憑依>のプロセスであり、それは世界の主要な宗教のなかに変質して潜んでいる。
チベット密教は、その<憑依>のプロセスを応用、改善し、より高度な意識変容システムを完成させた。
そして、<憑依>のシステムに力動的な推進力を与えているのが、初期の古怪な性魔術(尸林の儀軌)とは、一線を画する精密な性の哲学と技術である。


 むろん、他のシステムにも性の密儀は存在する。
カバリストは、完全な性的結合の上にシェキナーが訪れることを知っていた。
ハシドたちによって発展した<神聖なる交わりの奥義>は、ラビ・フリッシュが「・・・家庭を神殿とし、寝室を至聖所となす。
・・・低き交わりと高き交わりをともに完成させるために、性愛のさなかに・・・」
と語り、ラビ・ヴィダスが
「男女が性の交わりにおいてひとつの霊魂とひとつの身体になり、ついに一個の人格に融合するとき、聖なるかな、誉むべき主はその上に宿られる。」
などと語ったことなどが含まれている。

 その本質は、性の喜びをシェキナーに帰することであるが、性愛の前後の複雑な手順と最中の瞑想を含んでいる。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/3posss.html


大印契(ザ・グレート・ライト)
 チベット仏教がインド後期密教からその精緻な教えを伝承したとき、当然のことだが、大印契(マハー・ムドラー)などの教義に融合した尸林の土着信仰の残滓を飲み込むこととなった。
密教が象徴主義による直接的な悟りを得る技法を追求した段階で、人間の営みの全てを捧げることになるのは、ある意味で自然の流れである。
むろん、宗祖である釈迦の<現法的梵行>という枠を大きく逸脱しているのは事実であるが。

 尸林の宗教において、性交を伴う儀式集会(メーラー)が行われたことはすでに述べた。
その儀式に召喚される主神は、パイラヴァ神であったが、これがチベット化してヘールカ神となり、同様の儀式構成を取るようになったのが<ヘーヴァジュラ・タントラ>である。

 ガナチャクラは、通常のパターンのほかに、儀式の施主を招いて灌頂を授けるという参入儀礼スタイルのものも実施されていた。
中央の阿闍梨を囲む8人の女性たちは<印>(ムドラー)と呼ばれる。
<印契女>たちは、性ヨガの経験を積んだ在家信者たちであるが、入門儀礼のために初めて参加する<大印>(マハー・ムドラー)と呼ばれる「月経期間中の16歳の美しい処女」が準備される。
彼女が祭礼の中心になる。
8人の<印契女>たちは、女尊を召喚し、独自のヨガに入る訳だが、この霊威が円の中心において最初に阿闍梨と交わる<大印>にすべて集中する。
従って、すべての<印>を束ねる<大印>たりうるのだ。
入門儀礼でなければ、阿闍梨は、<印契女>たちを転移させながら、都合8回和合することになるか、さらに複数の侍僧が円の外周で同時に<印契女>と和合するという次第になるが、入門儀礼では転移するのは阿闍梨の側である。


 入門儀式は、いくつかの段階に分かれる。

 第1の段階では、先に述べたように阿闍梨自身が性魔術を実践する。

 阿闍梨は、<大印>と交わる。
このとき般若波羅密を体現する処女(大印)と阿闍梨の和合により生じた体液の混合物(アレイスター・クロウリーならば、「Birth of Elixir(精液)とElixir Rubaeus(月経血)の混合物」と呼ぶであろう。)を<菩提心>と呼び、この液体を志願者の口に含ませる。
いや、植え付けるのである。
これが<秘密灌頂>である。


「みめ美しい一六歳になる女を得て、加持の三句をもって秘密裡に供養を始めるべし。
如来の大いなる妃であるローチャーナー等として観相すべし。
二根交合によって、仏(となる)悉地を得ることになろう。」


 第2の段階では、阿闍梨は脇に移動し、志願者は先ほどの16歳の乙女と和合する。
志願者は、射精しないように自己をコントロールしながら、性魔術ではカレッアと呼ばれる技法であるが、菩提心を下から徐々に頭頂に導き、サンスクリットの種字に変成し、いわゆる<ポワ>を完成させる。
これが<般若智灌頂>である。

 ここまでで精緻な象徴主義により、構築された入門儀礼は終了する。


 だが、さらに、第3の段階がある。
<第4灌頂>と呼ばれるその儀軌は、逆説的に言葉で伝授される。
これまでの課程が、性エネルギーによって活性化された自己の変容であるとすると、言葉での伝授は即時性はなく、その意味が志願者の心に徐々に染み込んでいくまで完成はしない。
津田博士は、<第4灌頂>を密教の自己否定、つまり。<反密教>と捕らえている。
密教の方法論を自ら否定することで、自らを完結させる。
このとき伝授される秘密の言葉は公開されていない。
しかし、『ヘーヴァジュラ・タントラ』の末尾にある次の偈のようなものであろうと推測される。


「この智慧はきわめて微妙であり、金剛曼陀であり、

 虚空のごとくである。

 離塵であり、静寂であり、解脱をもたらす。

 『汝は自ら、汝の父である』。」

 これが象徴化され洗練されてチベットに導入された。

 ゲルク派の『大印契の滴』(チャクチェン・ティクレ)によると<大印契>とは、四灌頂を正しく授かり、生起次第の修行を満了した後に収める行である。

「『手(チャク)』とは空性の智慧であり、

 『印(ギャ)』は輪廻の在り方から解放されることである。

 『大いなる(チェンポ)』は、二つのものが合一することであり、

 『大いなる手印(チャクチェン)』と呼ばれている。」


 その技法には、金剛身たる修行者の外的な手段、つまり、儀軌、呼吸、その他の条件付けなどによる環境整備を行い、修行者の内的手段、主として観想技法により、<風>(ルン)を中央脈管に導き、停止させ、溶解していく。
この過程で生まれるのが純粋な歓喜、性的歓喜を超越するとも呼ばれる<大楽の光明>である。
しかも、この<光明>を通じて<空性>をイメージとして理解することが必要とされている。
ゲルク派は、サムィエーの宗論のカマラシーラの末裔とも言える立場にあり、かれらは中観思想の立場を発展させ、<無自性>を中心に組み立てていく。
従って、<大印契>の行においても、光明によって空性を直接自覚することが重視されている。

 このとき方便(手段)である<大楽>は、智慧である<空性>と不可分一体になるのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/4gtrite.html


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10. ユングのマンダラと密教の曼荼羅

――西洋と東洋の深層心理比較,自我と無我について――

人間のこころの探究を無意識の領域にまで広げたユング(1875〜1961)は,東洋思想の内面性,特に仏教思想に強い関心をもち,私たちは多くのユングの著書からもそのことを感じ取ることができます。
しかし残念なことに,実際には仏教のもつ多様性,ならびに両者の基本的なコンテクストの相違については,当時ユング自身あまり理解していたとは言えないようですし,その後のユンギアンもほとんどこの基本的問題には触れてきませんでした。
他方仏教サイドのほうはと言えば,伝統的に西洋心理学の無意識に対して無関心であったこともあって,結果として両者の間で根本的なカテゴリーの相違について,客観的検証がなされていないのが現状です。
一方,1960年代から70年代にかけて,一部ユング心理学の流れを受け,東洋思想を取り入れたカウンターカルチャー運動,いわゆるニューエイジ,ニューサイエンス運動がアメリカ西海岸を中心に広まりました。
この運動自体は現在ではほとんど姿を消しましたが,この流れの延長線に位置するのが,東西思想の統合を唱えるウィルバー(1949〜)に代表される,トランスパーソナル心理学です。
しかしこれもユングの場合と同様と言うか,さらに両者のコンテクストの違いを不明確にしたまま,安易にいいところ取りをした考え方のように思われます。
そうした背景を踏まえた上で,よくユングと仏教の類似性の例として一般的に挙げられるのが,「ユングのマンダラと密教の曼荼羅」および「ユング心理学と唯識思想」です。
本文では,これらの例を通して両者の本質的な相違点を,東西比較思想の視点に立って比較検証してみたいと思います。
さらに両者のコンテクストの底流にある「自我と無我,空の思想と実在論」「仏教思想史の釈迦仏教と大乗仏教」の問題も併せて考えてみたいと思います。

1) ユングのマンダラと密教の曼荼羅

(1)ユングのマンダラ

苦難のナチ時代,ユングは
「その時の自分の内的状態にふさわしいと思われる小さな円と四角の図形」
を描いていましたが,当時彼が知っていたチベット密教の瞑想道具の曼荼羅に似ていたことからこれをマンダラと名づけました。
最初は図形の意味が分かりませんでしたが,そのうち「自己の中心」「人格の全体」を表していることに気がついたということです。
こうしたユングのマンダラの特徴は,第1に自分の心の投影ですので,密教の曼荼羅と異なり決められた形式がないということです。
第2にはマンダラの構成としては,周囲の円または四角形,中身の図形,ならびに核となる中心の3つからなっています。
そしてマンダラ全体は,自我(意識)または自己を表しているということになります。
したがって周囲の円または四角形は,自我(意識)を外部(無意識)から守る防御柵に当たり,通常ははっきりした境として,城壁あるいは堀などとして図示されています。
中身の図形は,
安定した全体性を象徴する円,四,四の倍数の角形や放射線
で仕切られており,
上下,左右,白黒,明暗,昼夜,太陽と月,善悪,男女などを象徴する対立物
が調和して配置されています。

中心は,対立物の統合の象徴として,星,宝物など最も貴重なものが描かれ,
自我の中心,価値観の中心となっています。

マンダラの外側は無意識の大海を表し,
防御柵に守られた内側は自我意識となっており,
全体として個体または個性の秩序の確立を象徴しています。

外部(無意識)と神秘的融即して自我を喪失することのないよう,
separated,but undivided personality(individuality)を育てること,
これがユング心理学の目標である「個性化」概念であり,
それを集中的に表現したのがマンダラと言えるのではないかと思います。


(2)真言密教の曼荼羅
7世紀インドの密教経典,大日経,金剛頂経から生まれ,
大日如来を中心に四仏,多くの菩薩,明王,天部などの眷属をまとめて描いた図形
が,胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅の両界曼荼羅です。

その中の胎蔵曼荼羅を取り上げてみます。
そもそも曼荼羅という言葉は,サンスクリット語のmandala の漢訳語です。
語源から言うと「本質を得る」で,一般には円とか円壇を意味しています。
曼荼羅には時代場所によってさまざまなものがありますが,この胎蔵曼荼羅は中期密教(純密)のもので,ほかに初期密教(雑密)のもの,後期密教にはシャクティ(女神信仰)が入った官能的なチベット密教の曼荼羅などもあります。
この曼荼羅には,大日如来を中心とした仏の世界であるとともに,仏性をもつ人間の心の世界でもあるとの考えから,
手に仏の印を結び,口に仏の真言を誦し,心を三昧の境地に置いて,曼荼羅(仏)の世界と一体になる修行,
つまり三密加持の密儀によって,空海のいう「秘密荘厳住心」(十住心論の10番目のレベル)の境地に即身成仏する法具としての役割があります。
密教の曼荼羅は,ユングのマンダラが自我または自己の小宇宙であるのに対し,大日如来を中心とした大宇宙です。
ユングのマンダラが自我の確立にあるのに対して,
密教の曼荼羅は無我になって大宇宙あるいは仏の世界に,自身を投入または神秘的融即することにあります。
したがって両者の図形は類似していても,内容と役割はまったく正反対です。

2) ユング心理学と唯識思想の心のしくみ

(1)ユング心理学の心のしくみ
人間のこころは,自我意識と無意識からなり,

無意識には,幼児体験とか忘れた過去の体験などの個人的無意識と,
遺伝的本能的なものも含めた人類の普遍的無意識または集合的無意識があります。

両者の関係は,大海が集合的無意識だとすると,浮き沈みする小島が自我意識というイメージになります。
この場合,小島の周囲の沿海が個人的無意識ということになりますね。

ユング心理学の核心は,あくまで価値体系の主体である自我の確立です。
これは自我(光)が,影の個人的無意識とうまく補償関係を保ち,
闇の集合的無意識の奔流から自らを守りながら必要なものだけ取り入れ意識化(個性化)する
ことにより,自我を完成すること,つまり自己になることが目標になります。

基本的には,マンダラと曼荼羅におけると同様,自我のユング心理学は無我の仏教とは正反対の立場にあるといえます。

(2)唯識思想の心のしくみ
唯識とは「すべては心が生み出した表象にすぎない」という意味で,このことをヨーガ修行によって実証しようとするのが,大乗仏教の唯識・瑜伽行派の思想です。
心のしくみに関するユング心理学との用語の対比は次のとおりです。

唯識思想の表層意識は六識(眼,耳,鼻,舌,身,意)あるいは視覚,聴覚,臭覚,味覚,触覚,感覚の六感覚からなり,これはユング心理学の自我意識に対応します。

唯識思想における潜在意識はユング心理学の無意識で,その内訳であるマナ識は個人的無意識,アーラヤ識は集合的無意識に対応します。

さらに言えば,唯識の梵行はユングの個性化で,唯識の円成実性の境地(悟り)はユングの自己に当たると言えます。
しかし,前述のように内容のほうは大違いです。
ユング心理学では,自我意識が実在の中心であるのに対して,
唯識では意識は仮象(したがって当然無我となる)であり,すべては仮の唯一の実在であるアーラヤ識から生起すると考えますが,
円成実性のレベルになると仮の実在であるアーラヤ識も消えてしまうという,空の思想(非実在論)になってしまいます。

心のしくみの名前は対応していても,中身は,
自我と無我,実在論と空の思想
という基本的にクリティカルな関係にあるので,無理に両者を結びつけようとするとカテゴリーエラーに陥る危険性を常にはらんでいます。
しかし現実には,こうした前提を無視した統合の議論が多くみられます。


3) 自我と無我,空の思想と実在論

仏教の自我と無我について,ここでまとめて考えてみましょう
西洋の自我に対し,仏教の基本的な考え方は無我の立場であるといちおう言えると思います。

次に問題は,日本の仏教学が「有」すなわち実在論に立っているか,「空」すなわち非実在論の世界観に立っているかということです。

大乗仏教が成立する前の部派仏教の時代では,説一切有部の名のとおり法(事物)は実在するという立場でした。
ところが3世紀になって大乗仏教中観派の竜樹が書いた『中論』の中の,いわゆる「空」の思想が,従来の実在論を大きく転換させる契機になったと言われています。
それでは,こうした「空」の思想が,当時どう理解され,その後どのように伝えられていったかを考えてみたいと思います。
まずこれに関連する中論の中の3つのキーワードを取り上げてみます。
それは,
空(シューニア),無自性(ナスバータ),縁起(プラティティアサムツパーダ)
で,4世紀に鳩魔羅什が,括弧内のサンスクリット語を現在の漢字に翻訳し,それが日本で通説の「空」論,あるいはダルマ(諸法=事物)非実在論の根拠になっています。

それでは,これらのサンスクリット語の漢訳ははたして正しい訳であったかということが問題になります。
これについて日本の仏教学界には,シューニアを空としたのは羅什の世紀の誤訳であったとする少数学説があります。

当時,竜樹はサンスクリット語のシューニアを仏教の最高のレベル状態と考え,
中国で主流であったタオ思想の最高のステージである玄あるいは無に準えて,空と漢訳した
という見解です。

確かにシューニアには,空のほかに諸法実相つまり「ありのままである」との意味もあるということから,もし後者のラインでいけば,

無自性は「すべてのものには実在がない」
ではなく
「ダルマの主観的な独自性を否定した」

だけと言えるし,また

縁起は「すべては相互的依存関係であって実在がない」ではなく,
本来の意味の「眼に見える総合的関係」

と考えるのが適切と言えるというものです。
特に日本の仏教学会で空の思想が多数説になったのは,明治以降の圧倒的な西洋の実在論に対抗するために,独自の世界観を求めたことにあったからだとも言われています。


4.仏教思想史における釈迦仏教と大乗仏教<仏教はひとつではない>

仏教というと,インドを連想しますが,現実にはインドの仏教徒は1%程度で,大多数がヒンズー教徒,次にイスラム教徒となっています。
紀元前15世紀のアーリア民族の侵入から現在まで3500年のインド思想史から眺めてみても,その仏教の盛んだったのは紀元前3,4世紀からせいぜい500年くらいの期間で,それもそれまでのバラモン教と共存していたと考えられます。
つまりインド思想史の大勢は,バラモン教とヒンズー教を通して業・輪廻・解脱・梵我一如のラインにあるアートマン(我)思想,現世肯定の実在論(有の思想)であるといってもよいと思います。

こうした流れの中で誕生した釈尊の悟り(四諦=苦集滅道)とは,

前世を含むバラモン教徒であったそれまでの自身の生き方(自利利他の現世主義)を,しょせん無駄であったと言って全面否定して,
梵行により煩悩(渇愛)を断ち,出家主義によって自利を求めたものと思います。

つまりは釈迦仏教(原始仏教)は,本質的に現世を否定した宗教と言えると思います。
現世否定の当然の流れとして,無我を標榜し,その延長線上には空の思想への土壌があったと考えても不思議ではと思います。

悟りの内容は,言葉では言えないし,言えたとしても煩悩が好きな衆生は受け入れない
と言って,当初梵天勧請を断った釈尊の予想どおり,本国インドの釈迦仏教は現世肯定のヒンズー教に取って替わられました。

しかし,国外では仏教自身が自利利他の現世主義に大変容することによって,大乗仏教,密教として中国,日本,チベットで受け入れられたと考えられます。
この大転換と釈尊との関係は,一言で言えば,
原始仏教が釈尊の悟りの四諦を即実践しようとするのに対して,
大乗仏教では,釈尊自身が前世を含めて仏陀になる前までバラモン教徒としてやってきた利他行(菩薩行)のプロセスを追体験しようとする宗教と言えるかと思います。

仏教思想史をこうした視点でみると,
大乗仏教の中でも,竜樹の空・中観派,
その流れの無着・世親の唯識・瑜伽派の,生きている間には到底達成できない三劫成仏の菩薩行に対し,
誰でも仏性(本覚思想)ありとする如来蔵派(以上を大乗仏教三派と言います。),現世利益的色彩の強い即身成仏の密教への流れを考えれば,
日本の近代仏教学の多くの学者が,無我論はともかくとしても,いまだに非実在論あるいは空の思想に固執しているのは,いったいどうしたものでしょう。
しかしいずれ近い将来には日本仏教学も,これらの問題を乗り越える時期が来るでしょうが,その時こそはじめて西洋の宗教,心理学とカテゴリーを共にした真の研究がスタートのではないかと期待するところです。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/u-jung/page7/page7.htm


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10. 光が乱舞する心の深層の世界

仏教タントラではブラフマン(創造神)とアートマン(真我)の合一を体験することをサマジー(三昧耶)・・・暝想の極致という。
ダンマ(真理)に接近しこれと合一する(即身成仏)ことを目的にした、究極的な高度で、深い暝想のはてに、浄化がある。


○想像力は目にみえないものを見させる

 ハワイのフラダンスは、もともと神に奉げれていた神舞であった。
フラの巫女には、女神ペレのマナ(霊力)が感応してくる。
ハワイ語でマナとはスピリチャル・パワーのことだという。
そこで、もともとフラは神霊との交流の儀式であった。

 始めに、詔(みことなり)や、リズムと歌で、神々しい雰囲気と聖なる場を整える。
「真如」の導入である。

次に、フラのダンサーは、そのリズムで踊りながら陶酔し、やがて「没我」となる。
そこに、神霊が「感応」する。
恍惚が踊り手を支配する。
すると、神からの返答が現れ、「天恵」が現象化する。

こうしたプロセスをもつ古代儀式は、世界中に普遍的にある。
ダンスがそもそも交霊術であることを示してくれる明確な例はスーフィのダンス、鎌倉時代に起きた一遍の「踊念仏」などが上げられよう。
不乱の舞は、「没我」に至るには欠かせなかったのだろう。


 古代的な交霊は、表面的にしか物事を見ない人々には理解できない。
エンタテインメント化されたショウとしてのフラよりも、マナ(スピリチャル・パワー)と一体になったフラは偉大で神聖である。
ハワイ島では、古代と同じ”のり”で女神ペレへの感謝のフラが、今でも行われている。
これが奇跡なのだろう。

 なんであれ、音楽とダンスとは一体であり、それは神楽(かぐら)だった。
日本の祭の神輿(みこし)の”のり”が、それなのだろうか。
洸惚感、あの陶酔感は、御輿(御神体)を担ぐことによって、はじめて感じることができる。
神輿を担ぐことは、スピリチャル・ダンスだった。
真の芸能には、「真如」「天応」「没我」「天恵」の4つのプロセスが必ず組み込まれている。
だからこそ喜びと生きる力を与えていた。
現代では、真のイベントは少なく、その一部か、残り物だけとなってしまっている。
それは、大音響のロックの陶酔感とはあきらかに違うものである。

http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/008.html


○男性原理と女性原理


 マンダラは金剛界マンダラと胎蔵界マンダラと2つのマンダラが常に一対のものとして見られている。
般若とは完全な知恵という意味があるが、ヒンズータントラでは、般若(プラジニヤ・ー)といい、女性原理(シャクティ)を示し、行動と知恵であり、男性原理は方便(ウ・パーヤ)シヴァといい、自らは何の活動もしない。

方便(シヴァ)と般若(シャクティ)が一体になったときをアーナンダ(恍惚たる喜び)という。

後期のチベット密教の無上ヨーガタントラは性的技法が説かれている。

タントラの根本は男性より女性のほうが多量の霊的エネルギーをもっていると信じられ、このため男性は女性との性的結合によってはじめて悟りの境地に到達し、神的なるものを認識するという後期のタントリズムを生んだ。
基本的には男性は射精によって精力を費やすことなく、女性のオルガスムスによって生じた液体を吸収し、長時間性交を保ち、大楽の観相をする生理的ヨ−ガである。

女神との合一している神仏の当体のごとくなろうとする儀式の体系を秘密灌頂という。

 後期の無上瑜伽タントラはヒンズー教、梵教の神母信仰と習合したもので、本来、禁欲的な仏教とは相容れないので、「タントラ密教」として本来の仏教と区別する。

 インドのカジュラーホーのヒンズー寺院群、コナーラクの太陽寺院の外壁を飾る男女の交歓像(ミトナ像)は、けた外れに官能的な浮き彫りで、おびただしく曝している。
リンガをヨーニに結合し、女性は永遠のオルガスムスに至福の笑みを浮かべている。
シヴァ神とカーりー女神の合一を表すリンガ(男根)・ヨーニ(女陰)がそもそも神体であるので、ヒンズータントラは性的結合が万物の根本であるという原理にたったものである。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html


○マンダラの普遍性
 
 マンダラはタントラ(仏教教典)によった仏界の見取り図といわれている。
しかし、単に「金剛頂経」のから生まれ出た産物なのではない。
この幾何学的な構図や色彩は、真実の仏界と心のリアリティ=元型(イデア・プリンシパル)の像であり、かつ普遍的なものである。
だからこそ、太古からその像は連綿と描かれてきた。
そもそも、マンダラは意図されることなく、始まりのない宇宙そのものであった。

ところで、瞑想ってなんだろう? 
チベットの僧侶たちは、「マンダラ」に対座して暝想をする。
チベットの密教では暝想が必須の行だ。
暝想を実践しなくては、生ある間に、どんな人間も聖なる領域へつながることはない。
チベットの僧侶の暝想は、朝、昼、晩、夜にと、各時間帯に継続して行なわれている。
ゴンパ(寺)の中は暗く、蝋燭の火で灯す。
すると、マンダラは眼前に迫るように浮き上がり、揺らめく炎が煙のようにその前を立ち昇る。
その煙は、自分の体から立ち昇る気の炎であることに気づく。
と、やがて、目の前は青紫色に、やがて黄金色に輝き始める。 
それは、次元を透過する超越した偉大なる光だ。
「空性」の体験はこうして現われる。
大空の世界からの橋渡しが為されており、それは、この幻の光に他ならない。


 マンダラは超越しており、特定の人間のものだけではない。
マンダラを外なる図画として語るだけでは、マンダラに近接できないと言ったのは、実は、こうした体験こそ大切なことだからだ。
マンダラは内なる存在として、すべての俗的な権威を越える至高の存在であり、それは、同時にあなた自身であるからだ。
マンダラは「空」の世界の究極の「相」であり、空の本質であり、円く輝くさまざまな色彩に満ちた光の像となって顕れる。
永遠なるもの、マンダラの本質、それは、同時に一人一人の「魂」に輝き、万物に平等にある。
生あるものは、それがマンダラなのだ。

 暝想は誰もが大悟を得るために通らねばならない偉大なステップだ。
宇宙原理(ブラフマン)と個我(アートマン)とは本来、同一であるという考え方は、バラモン正統派の伝統的な疑いえない真理なのだ。
アートマン、その表れはあくまで肯定的な「有」の存在であり、肯定的な有産力をもった力となって表れる。
さまざまなトーンをもち、色彩をもち、形をもって存在し、あらゆる存在するものなかをつらぬいて全空間をおおいつくしている。
それゆえに、アートマンは現象のすべてを包み、生産するむシャクティ(母性)の役割を担う。
それは、空域と物質界がもともと一つである事の確証であり、2つの領域は別物ではないことを示している。
そして、それと不二だと思うとき、彼は至福をえるのである。
彼の外からけっして来るものでなく、それははじめから内蔵されていたものであった。


 さて、インドでは仏教はヒンズー教に、また、イスラム教に圧倒されてしまったが、チベットにはタントラ仏教(ラマ教)がいまでも残されている。
そして、チベットには数々のゴンパ(寺)があり、なかでもリンチェンサンポ方式の堂は、ただ、ひたすら暝想を行なうための場とされている。

とりわけ堂内の壁にはマンダラが所狭しと描かれ、そのなかで、独り、宇宙と自分の合一を体感するために暝想に耽る。

宇宙のエネルギーが彼自身を全く貫いている。
すべては、原初仏のもとに一つなのだと・・・。


 密教タントラのあらゆる実践は、ラマによって灌頂、直接伝授されなければ成就できないとされる。
また、タントラ密教の三帰依戒は、導師(グル)、守護神(デーヴァ)、ダーキニーで、仏教とは出発から異なっている。
仏教の三宝帰依は”仏法僧”である。

 チベットの修行で、導師は一人とは限らない。
はじめは何人もの導師に教えを乞う。
しかし、最終的な悟りに導く導師を根本導師といい、グルに絶対的に帰依する。
口伝だけでなく、あらゆる動作を含めて、それらは書物だけでは伝えることができない。


 ヨーガとはサンスクリット語で、馬をくびきに「縛りつける」といった意味だ。
肉体の感覚器官を暴れる馬にたとえると、その統御を意味する。転じて、暝想という意味の言葉になった。
荒々しい五感煩悩に、手綱をつけるという伝統的な意味をもっている。
それが、ヨーガである。
 タントラとは、[tantri]が語源で「縦糸、織物」を表し、転じて、「知識を広める」という意味。
自らに目覚めるための知識、体験の体系を意味し、単純に教典をさすようになった。
タントラのうち、第4の無上ヨーガ(最高のヨーガ)は中国・日本には伝わらなかった。
一方、いわゆる後期の密教がチベットでは一世を風靡し、土着的ボン包含しながら発展したといわれる。
チベットでは、タントラヨーガに、無常の魂の励起が約束されており、多くの人々を高い境地に導く実践がいまでもなされている。
日本の密教は、中期の密教に属している。

 瞑想のビギナーは、瞑想中に不思議な挙動をしめす光にでくわす。
それらは、ブラフマンを顕す兆候だ。
なぜなら、その光はまさしくわたしの意志によらない挙動をしめし、わたしはただ感動しているからだ。
禅では、これと魔境(雑念、妄想)と区別しない人が多い。
しかし、これらは、たいへん良い瑞兆なのである。

「密教は4つの段階に別れている。
一、所作タントラ 
二、行タントラ 
三、ヨーガタントラ 
四、無常タントラ。 

第1の「所作タントラ」は、呪文、陀羅尼、諸仏の供養の仕方、壇の作り方、手印の結び方などの作法を主要な内容とする。「蘇悉地経」、「蘇婆呼童子経」、「不空絹索経」などがある。 

第2の「行タントラ」は7世紀の成立と言われる「大日経」で、マンダラをつくり、悟りを中心にした観想法を発展させた。観想法とは、精神集中によって眼前に神仏をありありと描くことである。しかし、この行タントラの大日マンダラはほんのわずかの点数が残されていること以外、あまり知られていない。 

第3の「ヨーガ・タントラ」は「金剛頂経」である。この教典の出現は8世紀で、行者はこの金剛界曼陀羅と一体になる暝想を行じる。 第4の「無上ヨーガ・タントラ」は精神・生理学的なヨーガの技術を用いる。さらに、奥深い秘密を残しているが、この暝想は、ある観相マンダラを持ちいて直接、光の場に降り立とうとする。 

 チベットの観相修業にもちいる第4段階以降のマンダラは、日本に知られていなかった。
「悟り」の第一段階は、シューニャータ(空)の光とエネルギーが、いつも真我に透過しているという真実を見ることからはじまる。
それが透過しているゆえに、万物がマンダラの(構成の)一部であり、わたしたちもマンダラの元型を刻印された「仏」に他ならないことを感得することができる。

○チベット・ゾクチェン密教
「無意識をさらに突き抜けたところに光の領域があらわれる。この光の領域こそ、意識の原初の場を示している。

これは、『ダルマ(法)の本性』ともいうべき(光の)場、精神現象の「法」すべてが、この『法の本性』の場に立ちあらわれる。

『法の本性』という光の場において、輪廻する現象界のすべてと、それを抜け出した解脱の状態を示すものすべてがあらわれである。

したがって、この『法の本性』とは違うところからあらわれでるものはなにひとつとしてない。

すべては、とぎれることなく、『法の本性』という場の中にあり、その場から立ちあらわれる。だからこれを、一切の土台と呼んでもいい。

仏教の修業は最終的には、ここに直接おりたとうとする。

 経験的な知覚意識よりもさらに奥深く、光の領域がある。
この光の元型がマンダラである。
そのマンダラはまさに「ダルマ」の本性であり、さまざまに呼ばれるているが、もともと一つのものだ。
この他に、「空」とも「中道」とも、さらに「縁起」とも名づけられる。
これらも、そう名づけられているが、皆、一つのものを言い表している。
マンダラは光の領域、または、光の場にあり、自然(じねん)的で、なにものにも影響されない(無碍)ばかりか、いっさいの精神現象のエネルギーの源になっている。
つまり、ここから、無限の生命力が絶え間なく供給されている。すべてのエネルギーがそこから流出している。
ダルマカーヤ(法身)とはマンダラにほかならない。
マンダラは永遠で無限の光を、他からエネルギーを与えられずに活動する超越的な存在である。
つまるところ、原初の太陽といってもいい。
この太陽は、なにものにも影響されず、消滅せず、また、なにものにも汚されない純粋な光を放つ性質をもっている。
その存在する領域は空性であり、永遠で、清浄で、破壊されず、減ることも増えることもない。終わりなく、始まりもないので、創造した、あるいは創造されたということもない。

 この永遠の光の領域は、3つの純粋な光に分かれ、それらは堅く結び合わされている。
そして、図画としてのマンダラもまた、光の法身を直接顕そうとする。
マンダラがパンテオンのようでもあるが、実は、一つである。
したがって、マンダラはわたしたちに秘密をもって立ち表れる。

自己の内部には、必ず光り輝く空性の領域(仏の世界)がある。
外なるマンダラは、内なるマンダラを招来するための聖なる像であり、同時に伝法の手段である。 

そもそも、マンダラを自己のものとしてとらえるのには暝想する以外にない。
暝想はマンダラを捉える最上位の手段である。マンダラが描かれた訳はたとえていうなら、図画は多くの情報を瞬間的に訴えることができるからといえる。
無意識の内奥に刻印された形は、文書で説明するのは極めて難しい。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html


仏の世界は「空」の場、そのものなのだ。
般若心経の解釈では「空」は「実体がない」つまり、相がないと学者は解釈するが、実は心の目で見ると全く反対となる。
空は、全く形なきものではなく、「光」(クリアーライト)で成り立ち、実は形もあり、動き回わる。
それがマンダラなのだ。
無と空 そもそも、「無」を対象として、それと合一することはできない。
「無」とは、主語ともなりえず、また、一切の形容を受けつけない。
空性はわれわれの意識と連続しており、万象がまた連続しており、一切が一つの空性(マンダラ)のなかに息づいている。
なにもないことを無というのでない。
存在のなかに無がある。

彼は、はっきりと実在の「光」を観相する。
それは現実の光線ではない。
そして、しばし己れを忘れる。
そういった体験から、空性は「無」ではなく、輝き、あるがままに自在に運動する実体なのである。
激しく活動する光り・・・マンダラは、その所在地を「空」の場に置く。
空界がイコール、そのままマンダラなのだ。 


マンダラはわたしたちをも包含した神仏の世界、それは広大なる、「空」である。
そこには、実在の「光」があり、それは振動の乱舞であり、エネルギーに満ちている。
無限のエネルギーの波動であり、永遠に尽きず、宝石のような美しさに溢れている。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html


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3. 魔境とは何か?

脳を分析しても”私”の実体(実態)は出てこない。
出てくるのはせいぜい脳の一部の刺激によって記憶が消えたり(”私”という記憶が消えたり)現われたり、色や音を感じたり、幻想を見たり、怒ったり、泣いたり、不愉快になったり、快楽を感じたり、等、生命の個々の属性が現われたり消えたりするだけだ。
瞑想や荒行、座禅、護摩、加持祈祷、他力、等で”悟り”といわれるもののほとんどはこの手合いで事前に本や教科書や先輩や師匠などから吹き込まれた段階的な”悟り” と称するイメージを幻想として見て、”私”も悟ったと錯覚しそれをまた後輩に吹き込むということを繰り返して広まってゆく。

特にこれらで得られる快感は脳に対する無理で不自然な刺激よるので薬や催眠の中毒と同じように慢性化し (癖になり)、特定の音楽を聴いたり特定の匂いや視覚やしぐさ等で容易にはまり込んでしまうし、その快感を求めて再びはまり込みたくなってしまう (常習化する)。

極端になるとヨガ等の経典に出てくる空中遊泳とか物体の素通りだとか透明になるとかのいわゆる荒唐無稽な”通力”を本当に信じこむようになり極度のトランス状態(脳の痙攣)にまでなって、飛び跳ねたり手足をバタバタさせて、はたから見ると異常だが当人にとっては快感となっている。

この快感は極度の運動 (祭りやスポーツ等)などで得られるもの(いわゆる”真っ白になる”)と何ら変らないものだが、極度のトランス状態のもとでは脳に対する無理な作用、不自然な刺激によるものなので薬物と同様、後遺症、精神的副作用(人格、精神異常、意識障害等)などを伴う。
__________
何処までが正気でどこまでが狂気なのか、この判断はむずかしい。
まるでメビウスの輪のように、正気と思って走っているうちにいつのまにか、狂気になっていたり、狂気な行動が後世に正気として評価されたりするからだ。
狂気を演出する、これは正気でなければできない。正気と思いつつも、いつのまにか狂気の世界に入り込んでしまうこともある。一般大衆の思考から離れてしまう。
それが、100年先の考えであれば天才であり、単に少し離れただけなら変わり者か変態で終わるが、接点が無くなるほど離れてしまい一般大衆と永遠に交われなくなれば、人はその人を狂人と呼ぶ。
信仰というのは怖いもので、最初正気ではじめたのが信仰がすすむにつれていつしか強信ならず狂信の世界に突入する。
やがて拝んでいるうちに祈祷性精神病になる。

教祖が”気違い”の場合その信者は確実に”気違い”になる。
”気違い”はウイルスよろしく伝染する。
オーム真理経の麻原彰晃、人民寺院のジム・ジョーンズ(1978年11月18日900名以上集団自決)一人一殺の血盟団の井上日召(1886〜1967)いずれも、教祖の狂気が伝染し弟子を殺したのである。
ゲーテの若き「ウエルテルの悩み」という小説が流行した時に多くの若者が主人公よろしく黄色いチョッキを着て自殺したらしいが、是も狂気のあらわれであろう。

真言密教の坊主には頭の狂ったのが圧倒的に多いがその理由は不思議な超能力を身につけるべく行う、求聞持聡明法・日輪観・月輪観・加持祈祷などにある。
祈りをかけて祈りを叶えようとすると、祈りが叶えばそれでよいが、もし叶わざる場合には自分が壊れてしまうのだ。
熱心に祈り続けると、あるとき突然にお客様が”おいで”になる、
そうすると一人で泣き出す者、飛び跳ねる者、にやにや笑い出す者、
もうあっちの世界に飛んでしまったのだ。
こっちの世界にそれでも、もどれる者もいるが戻れなくなる者もいる。

禅の修業でも勝手に座禅などやると、現実と空想の区別がつかなくなり、あっちとこっちの世界の間に彷徨うことになる。これを空病という。
導師とはこのことを良く知り、現実に引き戻してやるための存在なのだ。
現実に戻さないでさらに背中を押してあっちの世界に追いやるのが悪の宗教であり、邪教なのだ
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/53904826.html
脳にはA10と呼ばれる神経があります。
医学的には、恍惚神経とか快楽神経と呼ばれているそうです。
動物のA10神経はとても貧弱ですが、人間はこれがものすごく発達していて強力です。
わくわくしたり楽しくなったりするときには、この神経が興奮します。

実は麻薬でもこの神経が興奮することが知られています。
麻薬でこの神経が興奮して「意識の拡大」という色々な神秘的な現象が起きます。
でも、麻薬を使用し続けると、神経がボロボロになってだんだん楽しくなくなり、やがて廃人になってしまいます。
瞑想を行うと、脳内麻薬物質がこの神経の周りに分泌されます。
20種類以上ある脳内麻薬物質のうち、「β−エンドルフィン」は、なかでも非常に強力で、鎮痛作用はモルヒネの6.5倍もあるそうです。
「β−エンドルフィン」は死ぬときにも分泌され、おそらく苦痛を和らげるために出るのではないかと言われています。
ランナーズハイでも分泌され、マラソン選手が走っていて突然苦しさがなくなり恍惚とした状態になる・・・というのは、脳内麻薬物質が分泌されているからです。

麻薬は分解されませんが、脳内麻薬物質は完全に分解されるので一切害はありません。
脳内麻薬物質は普段大量に分泌されることはありません。
死ぬときとか、マラソンですごく苦しかったときに分泌されるのですが、それ以外で大量に分泌されるのが瞑想です。
瞑想をして修行が進むと大量に分泌され、とても気持ちがよくなるそうです。

でも、もっと修行が進むと、前回お話したように、鬼が出てきたり、悪魔が幻覚として出てきたりして、怖い目に逢うことがあるようです。
逆に、神様や天使、精霊などに逢うこともあります。
幻覚の中で、神様や仏様に出会って会話をしたりすると、けっこうまともな会話になったりするそうです。
現実の生活の悩みが解決されることもあるそうです。
ここで気をつけなければいけないのが、「自分はすごいレベルまで到達した!」とか「ついに「悟り」を開いた」と思ってしまうことです。

修行を極めた方々が一様に言うことは、「幻覚が出てきて神様や悪魔に会うという状況は、まだまだものすごく低いレベルの話で、「悟り」などよりはるかに遠いレベルだ」ということです。
それを知らない人は、「悟り」を開いたと錯覚して舞い上がってしまうのだそうです。
本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。
ですから、それは脳内麻薬物質による幻覚なのですから、冷静に落ち着いて映画でも見るような気分でグッドトリップを楽しむ必要があるのです。

瞑想法、呼吸法、座禅などのごく普通の修行法も、やり方を間違えると大変危険なのだそうです。
やり方を間違えて、廃人や精神病になった例は数多く報告されています。
ですから、これらの東洋的な修行法は、必ずしっかりとした指導法にもとづいて、確かな指導者について十分注意して実行することが必要だと思います。
気功法では、このような危険な障害を「偏差」というそうです。
禅では、幻覚の中で悪魔が出てきたり鬼が出てきたりすることがあるようですが、これらを「魔境に入る」という呼び方をしています。
ですから、これらの偏差を体験したり、魔境に入ったことを、精神的なものではなく、神秘体験だと錯覚する方も多いようです。
http://72.14.235.104/search?q=cache:awrxoWDLDRYJ:clover.h555.net/u/stone-field/%3Fy%3D2006%26m%3D2%26d%3D%26ca1%3D+%E9%AD%94%E5%A2%83+%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85&hl=ja&ct=clnk&cd=10&gl=jp

____________
ドラッグの場合、幻覚にすぎないと本人も自覚していますが、「瞑想」の場合には、自分が「悟り」を開いた、と勘違いをして舞い上がってしまう人がおおぜいいます。
・・・・・・これは、とても危険な状態です。・・・・・・
 本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。
 新興宗教の教祖には、この程度のレベルで徹底的に舞い上がって、しかも精神がおかしくなっている人がおおぜいいます。
そんな教祖でもそれなりにカリスマ性があり、常人より「超能力」が高く、たとえば「手かざし治療」ができたりしますが、入信した人はえらい目にあうのがオチでしょう。

 ユングは、この危険性について、次のように述べております。

――― 人間が「無意識」を経験することは、本当に素晴らしいことなのですが、そこにはひとつの大きな危険性が立ちはだかっております。

 ヨーガの修行が進むと、人はいろいろと不思議な体験をします。
こういった体験を自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかのように扱うのが賢明でしょう。
 もし同一化すると、あなたは魂の膨張(一種のエクスタシー的昂揚状態)に陥り、まったく道を誤ってしまうでしょう。
膨張というのは、まさしく小さな形の狂気、狂気の緩和された形なのです。

 そして、もしあなたが、完全な膨張状態まで燃え上がってしまうと、精神分裂病になります。 

瞑想によって見えるものも、また霊能力によって見えるものも、その見えたものに固執することはとても危険なことである。
http://sakuragainouta13.seesaa.net/archives/20060819-1.html

瞑想には大きく二種類があり、すなわち、
サマタ(奢摩多、止、ヨーガ、瑜伽、)
ヴィパッサナー(毘婆沙那、観、念、念処、念住)

両者の違いは一言で言うと、
サマタ:精神集中
ヴパッサナー:観察
です。精神集中に関しては、間違った物に精神を繋ぎ止めたり集中させるととんでもないことになるのは容易に想像がつくと思います。
また、念住は心のくせを開放する方向に働きますが、サマタは底に押し込めるように働きますので、心のくせが悪すぎると、
現実感覚が希薄になる、
幻覚が現れる、
神経症を悪化させる
などのマイナスの効果になります。
禅とかでは、「魔境」と呼ばれる「妄想」が出てきて、それに「とらわれ」てしまう危険な状態になります。
「妄想」「魔境」はどうしても出ます。
それに「とらわれる」のが危険なのです。
大は神や悪魔、仏菩薩の妄像が出てきて惑わし、一般的なところではとんでもない屁理屈を思いついて自分は天才だとうぬぼれたり、高慢になって他人を見下したりします。
総じての特徴は「実体がない」ということです。
実体がないから実生活には何ら好影響を及ぼしません。
ですから、妄想魔境に振り回されてしまうと、実生活を破壊的な方向に持っていってしまうのです。
例えば、妄想の世界で天才になっても、実体がありませんから、類友でもない限り他人は誰もそれを認めません。
それでも自分は天才だと思い込んでいて、そのように振る舞ったり、処遇を要求したりしてたら他人にはどう映るでしょうか?
オウムの一連の事件など、このあたりに本質があるのがお判りになると思います。
「魔境」に捕らわれない様にするには「師」は選ばなくては、と思います。
それこそ万に一つの確率で「麻原彰晃」のような人物を「師」としてしまえば、あのような結果になるんでしょうね。
「師」をどのような基準で判断するかですが、一般社会人として尊敬できる、相性、教養(知)に価値を置いている、科学的視点を用いながら指導してくれる、宗教色がない、金銭感覚・・・というところでしょうか。
一番肝腎なのは瞑想経験により「ある意識レベル」に達していて、その事で弟子を指導出来得るか、ということですが、このことに関しては経験がなければ判断出来ないし、「実際はそのような能力がなくても、それを装っている人」もいます
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa84337.html

脳を分析しても”私”の実体(実態)は出てこない。
出てくるのはせいぜい脳の一部の刺激によって記憶が消えたり(”私”という記憶が消えたり)現われたり、色や音を感じたり、幻想を見たり、怒ったり、泣いたり、不愉快になったり、快楽を感じたり、等、生命の個々の属性が現われたり消えたりするだけだ。
瞑想や荒行、座禅、護摩、加持祈祷、他力、等で”悟り”といわれるもののほとんどはこの手合いで事前に本や教科書や先輩や師匠などから吹き込まれた段階的な”悟り” と称するイメージを幻想として見て、”私”も悟ったと錯覚しそれをまた後輩に吹き込むということを繰り返して広まってゆく。

特にこれらで得られる快感は脳に対する無理で不自然な刺激よるので薬や催眠の中毒と同じように慢性化し (癖になり)、特定の音楽を聴いたり特定の匂いや視覚やしぐさ等で容易にはまり込んでしまうし、その快感を求めて再びはまり込みたくなってしまう (常習化する)。

極端になるとヨガ等の経典に出てくる空中遊泳とか物体の素通りだとか透明になるとかのいわゆる荒唐無稽な”通力”を本当に信じこむようになり極度のトランス状態(脳の痙攣)にまでなって、飛び跳ねたり手足をバタバタさせて、はたから見ると異常だが当人にとっては快感となっている。

この快感は極度の運動 (祭りやスポーツ等)などで得られるもの(いわゆる”真っ白になる”)と何ら変らないものだが、極度のトランス状態のもとでは脳に対する無理な作用、不自然な刺激によるものなので薬物と同様、後遺症、精神的副作用(人格、精神異常、意識障害等)などを伴う。
__________
何処までが正気でどこまでが狂気なのか、この判断はむずかしい。
まるでメビウスの輪のように、正気と思って走っているうちにいつのまにか、狂気になっていたり、狂気な行動が後世に正気として評価されたりするからだ。
狂気を演出する、これは正気でなければできない。正気と思いつつも、いつのまにか狂気の世界に入り込んでしまうこともある。一般大衆の思考から離れてしまう。
それが、100年先の考えであれば天才であり、単に少し離れただけなら変わり者か変態で終わるが、接点が無くなるほど離れてしまい一般大衆と永遠に交われなくなれば、人はその人を狂人と呼ぶ。
信仰というのは怖いもので、最初正気ではじめたのが信仰がすすむにつれていつしか強信ならず狂信の世界に突入する。
やがて拝んでいるうちに祈祷性精神病になる。

教祖が”気違い”の場合その信者は確実に”気違い”になる。
”気違い”はウイルスよろしく伝染する。
オーム真理経の麻原彰晃、人民寺院のジム・ジョーンズ(1978年11月18日900名以上集団自決)一人一殺の血盟団の井上日召(1886〜1967)いずれも、教祖の狂気が伝染し弟子を殺したのである。
ゲーテの若き「ウエルテルの悩み」という小説が流行した時に多くの若者が主人公よろしく黄色いチョッキを着て自殺したらしいが、是も狂気のあらわれであろう。

真言密教の坊主には頭の狂ったのが圧倒的に多いがその理由は不思議な超能力を身につけるべく行う、求聞持聡明法・日輪観・月輪観・加持祈祷などにある。
祈りをかけて祈りを叶えようとすると、祈りが叶えばそれでよいが、もし叶わざる場合には自分が壊れてしまうのだ。
熱心に祈り続けると、あるとき突然にお客様が”おいで”になる、
そうすると一人で泣き出す者、飛び跳ねる者、にやにや笑い出す者、
もうあっちの世界に飛んでしまったのだ。
こっちの世界にそれでも、もどれる者もいるが戻れなくなる者もいる。

禅の修業でも勝手に座禅などやると、現実と空想の区別がつかなくなり、あっちとこっちの世界の間に彷徨うことになる。これを空病という。
導師とはこのことを良く知り、現実に引き戻してやるための存在なのだ。
現実に戻さないでさらに背中を押してあっちの世界に追いやるのが悪の宗教であり、邪教なのだ
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/53904826.html
脳にはA10と呼ばれる神経があります。
医学的には、恍惚神経とか快楽神経と呼ばれているそうです。
動物のA10神経はとても貧弱ですが、人間はこれがものすごく発達していて強力です。
わくわくしたり楽しくなったりするときには、この神経が興奮します。

実は麻薬でもこの神経が興奮することが知られています。
麻薬でこの神経が興奮して「意識の拡大」という色々な神秘的な現象が起きます。
でも、麻薬を使用し続けると、神経がボロボロになってだんだん楽しくなくなり、やがて廃人になってしまいます。
瞑想を行うと、脳内麻薬物質がこの神経の周りに分泌されます。
20種類以上ある脳内麻薬物質のうち、「β−エンドルフィン」は、なかでも非常に強力で、鎮痛作用はモルヒネの6.5倍もあるそうです。
「β−エンドルフィン」は死ぬときにも分泌され、おそらく苦痛を和らげるために出るのではないかと言われています。
ランナーズハイでも分泌され、マラソン選手が走っていて突然苦しさがなくなり恍惚とした状態になる・・・というのは、脳内麻薬物質が分泌されているからです。

麻薬は分解されませんが、脳内麻薬物質は完全に分解されるので一切害はありません。
脳内麻薬物質は普段大量に分泌されることはありません。
死ぬときとか、マラソンですごく苦しかったときに分泌されるのですが、それ以外で大量に分泌されるのが瞑想です。
瞑想をして修行が進むと大量に分泌され、とても気持ちがよくなるそうです。

でも、もっと修行が進むと、前回お話したように、鬼が出てきたり、悪魔が幻覚として出てきたりして、怖い目に逢うことがあるようです。
逆に、神様や天使、精霊などに逢うこともあります。
幻覚の中で、神様や仏様に出会って会話をしたりすると、けっこうまともな会話になったりするそうです。
現実の生活の悩みが解決されることもあるそうです。
ここで気をつけなければいけないのが、「自分はすごいレベルまで到達した!」とか「ついに「悟り」を開いた」と思ってしまうことです。

修行を極めた方々が一様に言うことは、「幻覚が出てきて神様や悪魔に会うという状況は、まだまだものすごく低いレベルの話で、「悟り」などよりはるかに遠いレベルだ」ということです。
それを知らない人は、「悟り」を開いたと錯覚して舞い上がってしまうのだそうです。
本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。
ですから、それは脳内麻薬物質による幻覚なのですから、冷静に落ち着いて映画でも見るような気分でグッドトリップを楽しむ必要があるのです。

瞑想法、呼吸法、座禅などのごく普通の修行法も、やり方を間違えると大変危険なのだそうです。
やり方を間違えて、廃人や精神病になった例は数多く報告されています。
ですから、これらの東洋的な修行法は、必ずしっかりとした指導法にもとづいて、確かな指導者について十分注意して実行することが必要だと思います。
気功法では、このような危険な障害を「偏差」というそうです。
禅では、幻覚の中で悪魔が出てきたり鬼が出てきたりすることがあるようですが、これらを「魔境に入る」という呼び方をしています。
ですから、これらの偏差を体験したり、魔境に入ったことを、精神的なものではなく、神秘体験だと錯覚する方も多いようです。
http://72.14.235.104/search?q=cache:awrxoWDLDRYJ:clover.h555.net/u/stone-field/%3Fy%3D2006%26m%3D2%26d%3D%26ca1%3D+%E9%AD%94%E5%A2%83+%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85&hl=ja&ct=clnk&cd=10&gl=jp

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ドラッグの場合、幻覚にすぎないと本人も自覚していますが、「瞑想」の場合には、自分が「悟り」を開いた、と勘違いをして舞い上がってしまう人がおおぜいいます。
・・・・・・これは、とても危険な状態です。・・・・・・
 本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。
 新興宗教の教祖には、この程度のレベルで徹底的に舞い上がって、しかも精神がおかしくなっている人がおおぜいいます。
そんな教祖でもそれなりにカリスマ性があり、常人より「超能力」が高く、たとえば「手かざし治療」ができたりしますが、入信した人はえらい目にあうのがオチでしょう。

 ユングは、この危険性について、次のように述べております。

――― 人間が「無意識」を経験することは、本当に素晴らしいことなのですが、そこにはひとつの大きな危険性が立ちはだかっております。

 ヨーガの修行が進むと、人はいろいろと不思議な体験をします。
こういった体験を自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかのように扱うのが賢明でしょう。
 もし同一化すると、あなたは魂の膨張(一種のエクスタシー的昂揚状態)に陥り、まったく道を誤ってしまうでしょう。
膨張というのは、まさしく小さな形の狂気、狂気の緩和された形なのです。

 そして、もしあなたが、完全な膨張状態まで燃え上がってしまうと、精神分裂病になります。 

瞑想によって見えるものも、また霊能力によって見えるものも、その見えたものに固執することはとても危険なことである。
http://sakuragainouta13.seesaa.net/archives/20060819-1.html

瞑想には大きく二種類があり、すなわち、
サマタ(奢摩多、止、ヨーガ、瑜伽、)
ヴィパッサナー(毘婆沙那、観、念、念処、念住)

両者の違いは一言で言うと、
サマタ:精神集中
ヴパッサナー:観察
です。精神集中に関しては、間違った物に精神を繋ぎ止めたり集中させるととんでもないことになるのは容易に想像がつくと思います。
また、念住は心のくせを開放する方向に働きますが、サマタは底に押し込めるように働きますので、心のくせが悪すぎると、
現実感覚が希薄になる、
幻覚が現れる、
神経症を悪化させる
などのマイナスの効果になります。
禅とかでは、「魔境」と呼ばれる「妄想」が出てきて、それに「とらわれ」てしまう危険な状態になります。
「妄想」「魔境」はどうしても出ます。
それに「とらわれる」のが危険なのです。
大は神や悪魔、仏菩薩の妄像が出てきて惑わし、一般的なところではとんでもない屁理屈を思いついて自分は天才だとうぬぼれたり、高慢になって他人を見下したりします。
総じての特徴は「実体がない」ということです。
実体がないから実生活には何ら好影響を及ぼしません。
ですから、妄想魔境に振り回されてしまうと、実生活を破壊的な方向に持っていってしまうのです。
例えば、妄想の世界で天才になっても、実体がありませんから、類友でもない限り他人は誰もそれを認めません。
それでも自分は天才だと思い込んでいて、そのように振る舞ったり、処遇を要求したりしてたら他人にはどう映るでしょうか?
オウムの一連の事件など、このあたりに本質があるのがお判りになると思います。
「魔境」に捕らわれない様にするには「師」は選ばなくては、と思います。
それこそ万に一つの確率で「麻原彰晃」のような人物を「師」としてしまえば、あのような結果になるんでしょうね。
「師」をどのような基準で判断するかですが、一般社会人として尊敬できる、相性、教養(知)に価値を置いている、科学的視点を用いながら指導してくれる、宗教色がない、金銭感覚・・・というところでしょうか。
一番肝腎なのは瞑想経験により「ある意識レベル」に達していて、その事で弟子を指導出来得るか、ということですが、このことに関しては経験がなければ判断出来ないし、「実際はそのような能力がなくても、それを装っている人」もいます
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa84337.html

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4. 魔境に囚われると…

あの世には行けず,この世にも戻れず,永遠にその境界を彷徨い続ける事になります。
こういう状況を想定して下さい:

晩年、植物人間になられた写真家の土門拳さんを看病された奥さまが、<文芸春秋>に書いておられます。
「『植物人間になっているのに、看病しても同じだろう』
と、おっしゃる方もありましたが、主人の死後、医者の解剖所見で、主人の脳はちゃんと働いていたことがわかりました。
こちらに意思が通じなくとも、主人には、判っていたのです」

「・・・同年(1979)、土門先生は今度は脳血栓を起こした。
以来、十一年間、土門先生は意識不明の植物状態となってしまった。
そして平成二(1990)年九月、意識が戻らないまま八十年の生涯を閉じることになる。

日本の写真界をリードした二人の巨匠の死に接して、私はこんなことを思った。
山形県酒田市生まれの土門拳と生粋の東京っ子だった木村伊兵衛。
粘り強い東北人と何事にもあきらめの早い東京の下町人。
その作風にも感じられる気質の違いが、両人の死にも表れていたように思えてならないのだ。」

(木村先生が一週間ほどで逝ってしまったことを述べたあと)
「それに比べて土門先生は、死の淵にいてなお生への執着を見せ続けていたように思えた。
こんなことがあったという」

「土門先生の夫人とは結婚前から知己であったデザイナーの亀倉雄策さんから聞いた話だ。

土門さんの枕元で夫人と亀倉さんが、
「みんな困っているんだ.早く死んで呉れよ・・・」
と言った。
すると、土門先生の目頭から涙が流れたという。」

「・・・わずかでも土門先生の意識が残っていたとすれば、その無念さはいかばかりのものだっただろう。
病床でも土門拳、その人であり続けた晩年であった。」
http://crishiri.exblog.jp/5426915/

19年間植物状態に陥っていたポーランドのヨウ・グラフスキンさんは、2007年4月12日、奇跡的に目覚めた。しかも驚いたことに、植物状態であった19年間に聴覚、視覚、思考、記憶など大脳の機能はすべて正常に働いていたというのだ。
ただ動くことが出来ず、自分の感覚、感情を表現することはできなかった。
 ヨウ・グラフスキンさんは、ポーランド鉄道部門の労働者だった。
1988年、仕事中に電車にぶつかり、頭部に損傷を受けた後、植物状態になったが、奥さんの献身的な介護で19年後、奇跡的に意識が戻った。
 ヨウ・グラフスキンさんは、自分が植物状態に陥っていた間の様子について、次のように語った。
「動くことが出来なかったとき、私の身の回りで発生したことは全部分かっていました。
ただ体を動かすことができず、話すこともできなかったので、毎日寝たきりで、気持ちがとても焦っていました。
私を献身的に介護している妻の姿を見て、学校から帰ってきた子供たちが私の周りでうろうろしている様子を見て、隣の部屋で子供達が結婚式をあげた時の嬉しい笑い声を聞いて、孫達の可愛い顔を見て、私はとても焦っていました。
言いたい事が何も表現できなかったからです。
今、私は少しずつ昔のことを思い出しています」。
http://www.asyura2.com/07/bd49/msg/502.html
植物状態の男性とのコミュニケーションに成功、脳の動きで「イエス」「ノー」伝達 (AFP)

【2010年2月4日 AFP】5年前に植物状態と診断された男性が、質問に対する脳の反応によって「イエス」や「ノー」などの意思疎通ができるとする研究結果が、3日の医学誌「ニューイングランド医学ジャーナル(New England Journal of Medicine)」に発表された。
 この男性は現在29歳で、2003年に交通事故で脳に深刻な外傷を負った。
身体的な反応はなく、植物状態と診断されていた。
 英ケンブリッジ(Cambridge)にあるウルフソン脳イメージングセンター(Wolfson Brain Imaging Centre)のエードリアン・オーウェン(Adrian Owen)博士率いる英・ベルギーの研究チームは、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を使い、男性に「イエス」「ノー」で答えられる質問をしたときの脳の動きを撮影した。
その結果、男性の脳が正しく反応していることが確認できたという。
 この技術は、健常者に対しては100%正確に脳の反応を復号化することができるが、話したり動いたりできない植物状態の患者に対して試されたのは今回が初めて。
過去3年で植物状態の患者23人に対して実験を行い、4人から反応が確認されたが、「イエス」「ノー」のコミュニケーションができたのはこの男性1人だけだった。
 ベルギー側の代表、リエージュ大学(University of Liege)のスティーブン・ローレイズ(Steven Laureys)博士は、「この技術はまだ始まったばかりだが、将来的には患者が感情や思考を表現することで、自ら環境をコントロールして生活の質を高められるようにしたい」と抱負を語っている。(c)AFP
 http://www.asyura2.com/09/health15/msg/230.html
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5. 邪教とは
124:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 17:52:41 ID:otuwJkA3
気功やヨガは自己流でやるのは本当に危険だ。
私は脳波の研究で、健常者や精神分裂病、気功前と気功後の脳波の違いを比較する作業を行っていた
(苦痛で1年でやめたけどね)
禅病(瞑想時の魔境)にかかっている人の脳波は、精神病患者の脳波に限りなく近くなっている。
指導者が偏差や禅病の知識と対処法を教えることが必要だ。
ヨガにいたっても同じこと。
身体と精神面での準備が出来ていない状況でクンダリニーが上がってしまうと着実に精神異常をきたすよ。
http://2chnull.info/r/kampo/1149962009/101-200

熱心に祈り続けると、あるとき突然にお客様が”おいで”になる、
そうすると一人で泣き出す者、飛び跳ねる者、にやにや笑い出す者、
もうあっちの世界に飛んでしまったのだ。
こっちの世界にそれでも、もどれる者もいるが戻れなくなる者もいる。

禅の修業でも勝手に座禅などやると、現実と空想の区別がつかなくなり、あっちとこっちの世界の間に彷徨うことになる。
これを空病という。
導師とはこのことを良く知り、現実に引き戻してやるための存在なのだ。
現実に戻さないでさらに背中を押してあっちの世界に追いやるのが悪の宗教であり、邪教なのだ
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/53904826.html

世界真光文明教団 “悪霊だ” とすまし顔

「霊光によって悪霊を取り除く」
をうたい文句にしている東京都内の心霊教団の道場に一年間通った女性が狂乱状態になり、この八月下旬精神病院に入院したことが六日、被害者の家族からの訴えで明らかになりました。
先月末には広島市内の女子高生が文化祭で同じ教団の“真光の業”にかけられて術がとけなくなり”三日間も半狂乱”になるという事件が起きており、心霊宗教のあり方が大きな問題になっています。
問題の道場は東京・杉並区永福三丁目の宗教法人「世界真光文明教団」東京の大 修験道場(平塚林司道場長)。
被害にあったのは東京・杉並区下高井戸の主婦、A子さん(三四)。
四歳のときから両目がほとんど見えず、近所の人に誘われて道場に通うようになったのは昨年五月のこと。
導師が片手に“霊光”を集め、約十分間、この片手を対象者の額から約三十a離れた場所に呪文をとなえてかざせば“悪霊”を追い出すことができ、同じように病気やケガの患部にかざせば治るという道場の話を信じたA子さんは、通いだして一週間ほどで「片目がみえてきたようだ」と大喜び。
同じ年の六月には三日間の研修会にも参加し、以後、毎日のように道場に通うようになりました。ところがことしの六月にはいってから、突然「霊が動き出してきた」と、七転八倒し、狂乱状態におちいるようになりました。
四、五日おきに起こる発作に、導師がなん度かA子さんの自宅にやってきて「鎮まれ! 鎮まれ!」と叫んでも、様態は悪くなる一方。
その後、狂乱症状は慢性化しあちこちの病院をまわった末、八月二十九日、医師の診断で、A子さんは都内の精神病院に入院、いまだに面会謝絶です。
母親は道場で、手かざしで効果がないと、「もっと寄付を出せ」との言葉。
これには呆れてしまった。娘をもとのようにして返してほしい」
と訴えています。(新聞赤旗 より引用)

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ウォーンと口走り 広島:文化祭で“危険な実演”

広島市内の私立高校の文化祭で心霊術が“出し物と”して取り上げられ、実演披露で見物に訪れた他校の女子生徒が術にかかり、解けないまま半狂乱状態が三日間も続いた。
学校側は心霊術関係の展示だけということだけで許可していたが、生徒たちが実演として心霊術をかけていたらしい。
教団は「悪霊を追っ払う過程にすぎない」と、”異常”を認めないが、オカルトブームに名を借りた、”危険な遊び”に警告の声が上がっている。
騒ぎが起きたのは、広島市楠木町4、私立崇徳学園崇徳高校(西田早苗校長、生徒数2200人=男子のみ)。
同校には広島市土橋町、宗教法人「世界真光文明教団」広島小修験道場(稲留左治道場長)で“心霊術”を修行している生徒が十人近くおり、この生徒たちが9月28日開かれた学園文化祭で教室を借り「心霊研究会コーナー」を設け、写真、説明書などの展示や、術のかけ方の実演をした。
午後3時ごろ高校生たち5人に術をかけた。このうち4人は一時もうろう状態になったが間もなく術がとけ、もとに戻った。しかし、他校の女子高校生から術をかけられた同市内の私立女子高校一年A子さん(16)だけは元の状態に戻らなくなった。
約5時間後の午後8時頃、道場からの連絡でA子さんの両親が駆けつけたが、A子さんは両親にも反応を示さず “ウォーン”“ウォーン”と動物のような声でどななったり、
「わらわは」「父上」などの言葉を口走るばかり。

家に連れ帰っても、突然倒れたり、わけのわからないことを口走る状態が続き体温も40度以上になった。
睡眠薬を飲ませやっと寝かせ、無理やり口に押し込んだ食事をかまずに飲み込むなど、半狂乱状態が30日まで続き、やっと1日になりほぼ元に戻ったものの、まだ当分学校を休み静養をしなければならない状態だという。A子さんの父は
「A子が術にかかって解けないのに崇徳高の先生たちが何ら適切な措置をとらなかったのは納得できない。
生徒の指導が十分に行われておればこんな危険なことは避けられたはずだ。
精神や肉体に関することだけに、高校生に中途半端な教え方をする道場も許せない」
と怒っている。
◎「悪霊払い、心配ない」と世界真光文明教団
ところが道場側は
「A子さんに宿っていた祖霊が術によって呼び出され、A子さんの心と肉体を一時的に借りたため、あんな状態になった。再度、術によって祖霊を追い払えばもとに状態に戻り、心配はない」
道場の話では、この心霊術は術者が手に”霊光“を集め、約十分間、この霊光を集めた片手を対象者の額から約30センチ離れた場所にかざし、悪霊を追い出すというもので、呪文などは唱えないという。
毎日新聞縮刷版:昭和49年10月2日夕刊9面

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私は崇教の組み手でした。
確かに真光をやると精神を蝕まれると思います。 なぜなら私がそうだからです。
13歳の時に組み手になって、症状が出たのは17歳くらいだったかな?
暫くしてから自分がすこしずつ狂ってきた。
また教えの
「怒ると人を80人殺すだけの威力が出るから怒るな。」
「人を批判するな。」
を忠実に守ろうとしていた為、私は、真光や家庭内だけでなく学校でも感情が出せなくなり、いつも無理矢理笑っていました。
その他御神業の為に我慢をし過ぎたのも原因かもしれない。
恋愛・お洒落・おいしい物を食べる・旅行・コンサートなどなどどれだけ我慢を強いられたか解からない。
20歳の頃、夜眠れない日が続いた。
まだ洗脳される前の楽しかった日々を思い、眠れなかった。
もう、不安で不安でとにかく眠れない(不眠症?)
夜寝付くまで不安で涙を流し、寝付けば真光の御神体や教祖が冬眠する私を叱り付ける夢を見ては悲鳴をあげて何回も自分の悲鳴で夜中に目がさめた。
この頃、ある疾患で内科にかかると「自律神経失調症」と診断された。
こんな疾患が出る自分はいたらないんだと、もがけばもがくほど自分らしくなくなっていった。
24歳で結婚して真光から逃亡。
逃げた直後(婚家でも色々あり)異常をきたしました。

この時、肉体的には目が見えなくなる症状が出たので、眼科で眼精疲労と診断を受けましたが
「精神的にやられてる。」と言われて大病院の精神科に紹介状を書かれたので診て貰いに行くと
「パニック障害」と診断されて大量に薬を貰いました。

26歳の時に「精神分裂症の疑いがある」と診断されました。
それから検査を続けて行き、28歳の時「一種のPTSD」と診断されました。
激しいトラウマと自我が発達する時期に、慢性的な恐怖や抑圧を受けた事で感情を出せなかった事に原因があると言われました。
それから2年経ちますが、未だに感情を出すのは苦手で素直に出せるようになったのは悲しみと怒りだけです。
うまく感情を流せなくなると、発作を起こします。
そして、まだ人間不信です。
真光で精神病になるのはあまりに自分を殺しすぎるからだと思います。
足の指先に怪我をして、そこから黴菌が入り腫れあがってしまい、幹部に病院に行きますと、言ったところ猛反対をされました。
「私の心がいい加減というのです。
本当に神様を信じ、人救いに励んでいないから、このような目に遭うのです。」
と散々けなされました。
やがて、足の裏からコーヒー色した膿が出始めました。
幹部はそれをみて、
「神様が汚いものを出してくれているのだから感謝しなさい」
と言ったのです。

ところが、痛みが酷くなり、幹部には内緒で病院に駆け込みました。
すぐに手術に入りました。危ういところでした。
もし数時間遅れていたら黴菌が血管に入り死ぬとこでした。
2ヶ月の入院となりました。
退院して幹部に結果を報告すると、これは神様のお仕組みだというのです。
感謝しなさい。
ご守護お礼を書いて、お金を添えてすぐに出し下さいと要求されました。
私は呆れ返って御み霊をその場でお返ししました。
崇教真光はインチキ宗教です。
そもそも、御神体を輸送している 「導士が事故に遭い死ぬ」 なんておかしな話じゃないですか。
私が、8年ほど信じていた崇教真光を辞めたのは、ある日突然原因不明の足痛に襲われ、40度近い熱が続き。
他の信者は「それは霊障に違いない」。
だから病院で治療を受けても治らない。
身体の中に悪い毒が蓄積されているから、オキヨメして治さなければ命取りになる
と言って、それは熱心に手かざしをしてくれました。

原因不明で動かなくなった足の痛みを我慢し病院にも行かず、ひたすら信心に没頭する毎日でした。ところが痛みが治るどころが、身を切り裂かれるような激痛と高熱が続き、まったく動けない状態になり担架でやっと病院へ運び込まれました。
病院で検査を受けた結果、白血球が異常に増え、どこかに炎症を起こしているといわれ、脊椎に痛み止めの注射を打ったり熱さましの注射を打つやら、私の気がつかない間に医者と家族が心配して大騒ぎしたようです。 
医者の懸命な治療によって、病気も完治し退院することができました。
そのときほど医者の治療を心からありがたいと思ったことはありません。
あとで家族に聞いたが、もう少し治療するのが遅れていたら熱による脳障害が起きていたかもしれなかったし、神経をやられ動けなくなったかもしれないと言われたそうです。
私はそれを機会に真光をやめました。

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@ 崇教真光のような団体を「セクト」と言いますが、セクト入信の後遺症に詳しい精神科医の斎藤環氏が、
「僕の患者さんにもやたら「真光」系が多いのはなぜなんでしょう?
彼らの多くが 決まって口にするのは・・・」
と言うように、精神衛生上大変危険な団体なのです。
A 精神病に真光は危険ですよ。
同じ時期に組み手だった人で統合失調症気味の方がお二人お見えになりましたが
どちらも病気が悪化して廃人の様になってしまわれました。
B 私の地区の人は真光に入ってから2人躁鬱病になりました。
一人は薬が手放せず入退院を繰り返しています。
C 精神障害の実例は多いですよ。
私は何人も正常な人が廃人同様になる所を見てしまいました。
D 真光の人は、精神疾患がおおいです。
私の友人は6人とも真光をしていましたが、みんなおかしくなりました。
精神分裂症、ノイローゼ、自律神経失調症、うつ病、不眠症などです。
みんな通院しています。
一人くらいなら違うと思いますが、みんな精神疾患になりました。

E 組み手の鬱病による自殺が増えています。 
         
鬱病の知識のない幹部や世話係が“霊障”と考え、服薬を止めたり、
御奉仕などをさせて『がんばって』と鬱病患者に、してはいけない事をして病状を悪化させています。          

F 精神障害の実例は多いですよ。
私は何人も正常な人が廃人同様になる所を見てしまいました。
「浮霊」から始まります。
教団の幹部はアガナイの結果だなんて言いますがとんでもないです。
オキヨメは精神疾患を確実に悪化させます。
まともな求道者、修行者からすると、浮霊させるなんて危険なことやってるのが
信じられないと思うよ。
浮霊させたあと、じゃあ鎮魂出来るのかといえば手段を持ってないわけだし。
医学に例えるなら、未病だったものをわざわざイジッて発病させて、
ワクチンは持ってないみたいな事を平気でやってるんだよね。
素人の宗教ごっこですわ。
G 自殺者急増中
組み手の鬱病による自殺が増えています。 
         
鬱病の知識のない幹部や世話係が“霊障”と考え、服薬を止めたり、御奉仕などをさせて
『がんばって』と鬱病患者に、してはいけない事をして病状を悪化させています。          
自殺の場合は、幹部は本部に書類を提出しなければならないので、
教団側は把握していますが、組み手には秘密にします。
しかし完璧に隠蔽出来ずにいます。          
信者を自殺に追い込む教団って、まともな教えではない証拠です。


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危険な霊動

出口王仁三郎(わにさぶろう): 大本教 第2代教祖
岡田茂吉: 世界救世教 初代教祖

日本における手かざしは、もともとは幕末黒住教の黒住宗只氏から始まり、それが大本教の幹部の一人だった岡田茂吉氏によって再発見された。
その頃、大本教が政府の弾圧によって分解したのをきっかけに、
岡田茂吉氏によって世界救世教が独立した。
世界救世教では、手かざしは「浄霊」と呼ばれた。

福田くら: 「真手(まなて−手を当てる治療法)」p.129から
霊動ほど恐ろしいものは無いのです。
この霊動に興味を持つくらい危険なことはありません。
霊動に興味を持ったら、すでにその人は、魔界の生物に狙われていると考えて差し支えありません。
私にさえ、神々は、霊動への興味は持ってはならぬ、と折にふれて戒められます。
大本教でも、教祖や聖師は立派な人々であるのにもかかわらず、
昔、幹部の先走りがあって、霊動(鎮魂帰神)現象で、多くの人が発狂したということです。
手が動いても、何が動いても、何にもなりません。
霊動などはあっても無くてもよろしいのです。
特に女性は、男性よりも遥かにそういう魔界の生物に憑依されやすく、自由にされやすいものです。
実際に、多くの道場が魔界の生物の巣窟になっているという現象があちこちに起こっています。
私はそういう実例を一つならず知っています。
神霊方からもお聞きしています。...

過去に、「霊を出させる業は危険」であるから、行われなくなったという歴史が、真光の先祖に当たる宗教団体に存在していました。
大本教では、鎮魂帰神で発狂したし、救世教ではオヒタイお浄めを禁じていました。
大本教では鎮魂帰神によって幹部が発狂したこともありました。
大本では、発狂した信者が出てしまうことで問題になった「鎮魂帰神」は、以後危険なので行われなくなり、世界救世教では、危険だと認識されていたので、はじめから信者に伝承されていません。
大本教を辞めて救世教を作った岡田茂吉は「祈言を唱えながらの額に手かざし」霊動(浮霊)して危険だとして禁止していました。
救世教では、おきよめをする時に浮霊をさせてはいけない、浮霊しても相手にしてはいけない とされています. 

真光の業は、鎮魂帰神とオヒタイお浄めをブレンドした危険極まりない代物。

救世教では、おきよめをする時に浮霊をさせてはいけない、浮霊しても相手にしてはいけない? 
と言う教えで、それに対して、真光の開祖 岡田光玉は浮礼させる事に興味を持って、救世教破門されたのです.
手かざしは、世界救世教の浄霊から取り入れた業で、
「真光の業」とは、信者がシャ-マンとなり、救世教で禁止されている、呪文(祈言)を唱えオヒタイお浄めする、呪術信仰で、祈祷師、呪術師、と同じです。
霊査などはイタコと何ら変わらない代物です。

救世教を解雇された岡田光玉は、大本の「鎮魂帰神」と救世教の「祈言を唱えながらの額に手かざし」をブレンドしたのが「真光の業」だから、如何に危険かと解るでしょう。
それほど、真光は精神病者を量産できる、手かざしテロもできる危険なワザなのです。
もし真光のように、霊を出す(浮霊)させる宗教であるなら、本来は、そういった過去の歴史を解説し、「真光の業ではその危険性を克服した」という、「新たな御教えによる解説」をしなければならないのです。

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6. 宗教体験とは…

1) 爬虫類脳の奇妙なリアリティ
「脳幹」・・・少し前のことですが、“ジュラシック・コード”と題したテレビの番組で脳幹について面白い解説がありました。
脳幹は地球上の生命体が進化の過程で恐竜等の爬虫類まで進化した時点で手に入れた脳とのこと。
そのあと発生した哺乳類も霊長類も爬虫類時代の脳を機能も形もそのまま継承していてそれが脳幹とのことでした。
で、つけられた別名がなんと「爬虫類脳」。
人類の脳はその脳幹の周りを大脳辺縁系とか新皮質でオーバーレイして成り立っている。
爬虫類脳(脳幹)は本能をつかさどり生命の源であるが何をしでかすかわからないところもあり、大脳の意識作用によるコントロールとの勢力バランスが大事とのこと・・・
ところで・・・意識が大脳の働きだとすると脳幹が担うものは無意識ということになるのでしょうか。
意識作用との勢力バランスが大事というのもなんとなく無意識を感じさせます。

無意識が太古を継承した脳幹の作用だとすると・・・“ユングの普遍的無意識”に太古に通じるものがたっぷり含まれているのも無理からぬことなのかも・・・などと冗談めいたことを思ったりもするのですが。
もっともユングの元型に出てくる太古はせいぜい神々の棲む神話の時代・・・爬虫類が闊歩するジュラ期まで遡るとなると・・・ちょっと古代過ぎますよね。
http://cmann3.exblog.jp/3628218/

ポール・マクリーンの脳の三層構造仮説
アメリカのポール・マクリーン(Paul MacLean, 1913-)は、人間の脳の構造と行動様式を、“生物の進化の過程”と“動物の原始的な本能”から説明することを試みて、“脳の三層構造説”の仮説を提示しました。
ポール・マクリーンによれば、人間の脳は
『爬虫類脳 → 旧哺乳類脳 → 新哺乳類』
の順番で進化し、機能を複雑化させ高度化させてきたことになります。

@爬虫類脳(reptilian brain)
進化の時間的過程において最も古い年代に発生した脳器官であり、自律神経系の中枢である脳幹と大脳基底核より成り立つ。
心拍、呼吸、血圧、体温などを調整する基本的な生命維持の機能を担い、爬虫類に特徴的な自分のテリトリー(縄張り)の防衛意識などを発生させる。
種の保存というよりも自己保全の目的の為に機能する脳の構造部位である。
A旧哺乳類脳(paleomammalian brain)
爬虫類脳に次いで進化した脳器官で、海馬、帯状回、扁桃体といった“大脳辺縁系(limbic system)”から成り立つ。
個体の生存維持と種の保存に役立つ快・不快の刺激と結びついた本能的情動や感情、行動につながる動機を生起させる機能を担い、危険や脅威から逃避する反応、外敵を攻撃する反応を取る原始的な防衛本能を司る脳の構造部位である。
大脳辺縁系は、本能的に遂行される“種の保存の目的=生殖活動”を司る部位であり、自己の遺伝子を継承する為の情動的評価に基づく社会的活動や集団行動を行い、無力な子の育児や保護を行う母性的な欲動・本能の源泉でもあるとされる。
B新哺乳類脳(neomam-malian brain)
最も新しい年代に発生した脳器官であり、大脳新皮質の両半球(右脳・左脳)から成り立つ。
言語機能と記憶・学習能力、創造的思考能力、空間把握機能などを中軸とする高次脳機能の中枢であり、ヒトと高等哺乳類において特に発達した知性・知能の源泉でもある。
マクリーンの仮説では、新哺乳類脳は、最も高次の階層構造として最も高度で複雑な情報処理を行う部位であるとされるが、大脳新皮質単独では高度な情報処理を行うことはできず、大脳辺縁系や脳幹、小脳などと相補的に協調し連動しながら高次な精神機能を実現していると考えられる。
私たちの幸福と苦悩に関連する“情動の中枢・大脳辺縁系”で作用する脳内の情報伝達物質(神経伝達物質)には、以下のようなものがあり、大まかな情緒作用と化学物質について記述しておく。
■興奮・歓喜・陶酔・恍惚などの強い情動作用
PEA(フェニルエチルアミン)
■興奮・興味関心の促進・気分の高揚・意欲などの情動作用
ノルアドレナリン(ノルエピネフリン)、ドーパミン、セロトニンなど
■情緒安定・落ち着き・安らぎ・信頼と安心などの情動作用
エンドルフィン・セロトニンなど
■不安・恐怖・不快・攻撃性などの情動作用
コルチゾール、アドレナリンなど
それぞれの神経伝達物質の作用を厳密に分類し記述することはできないが、おおまかに神経活動を促進し高揚させる物質と神経活動を抑制し鎮静させる物質があり、前者は躁状態や幸福感、爽快感を導き、後者はうつ状態や意欲の減退などを導く。
また、脳内モノアミン仮説では、脳内のセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンなどの不足・枯渇が神経細胞間の情報伝達活動を障害して、うつ病をはじめとする気分障害・感情障害の原因となるとされている。
神経活動を覚醒させて活発化させるドーパミンの分泌過剰は、統合失調症(旧・精神分裂病)の生物学的原因であると考えられている。
http://charm.at.webry.info/200506/article_5.html
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2) 幽体離脱とは

幽体離脱! 右脳の電気刺激、肉体の外に意識出た感じ

・右脳のある部分に電気刺激を与えると、意識だけが肉体の外に出たように感じる「幽体離脱」を引き起こすことを、スイスのジュネーブ、ローザンヌ両大学病院の研究チームが発見した。  
2002年9月19日発行の英科学誌ネイチャーに発表した。
 チームは、43歳の女性のてんかん患者の治療のため、発作の原因となっている部位を特定しようと脳に電極を差し込み、電気刺激を与える実験をした。
 右側頭葉にある聴覚野の後ろを刺激すると、患者は「ベッドの中に沈んでいるような」感覚を訴えた。
刺激を強くすると、「横たわっている自分の下半身を上から見ている」
「ベッドの上2メートルほどのところに浮かんでいるような感覚がする」
と話した。
 腕を伸ばしていた場合には、左腕だけが短くなったように感じたという。
 こうした結果から、チームでは、平衡感覚と自分の体の部位をイメージする感覚を脳でうまく処理できない時に、「幽体離脱」を感じるようだとしている。

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臨死体験、脳のここが働いていた スイス研究 2002.09.28
(CNN) 
「自分が死んだときに、体から魂が抜けるのを見た」などという「臨死体験」は、関心を呼ぶことが多いが、医学的にどんな現象なのかはほとんどわかっていない。
しかし、スイスの研究チームがてんかん患者の脳のある部分を刺激すると、患者が臨死体験することを偶然見つけ、英科学誌ネイチャーに発表した。
スイス・ジュネーブ大学病院神経科のオラフ・ブランケ博士は、てんかんの女性患者(43)を治療中、右大脳皮質の「角状回」と呼ばれる部分を電極で刺激したところ、必ず患者が「自分の体から抜ける」ような情景を体験したことを確かめた。
この患者は、過去11年間てんかんに悩まされ、ブランケ博士らは、てんかんの原因になる脳の場所を突き止めようとしていた。
患者の脳には100個以上の電極がセットされ、場所を変えて次々に刺激が与えられたため、チームは「患者が脳の特定の場所の刺激によって臨死体験を見た『ふり』をした可能性はほとんどない」と考えている。
角状回は、体や空間の認識、論理的な順序づけを統御する、脳の中でも複雑な部分。
クリーブランド医療財団のシンディー・クブ博士によると、角状回に異常がある患者は、ズボンをはいてから下着をはこうとし、そして「何かおかしい」と気づいたりするという。
また、手や足が体とつながっていないと感じたりするという。
臨死体験は、脳のどこかの神経細胞で、情報伝達の途切れや誤りが起きているのが原因ではないかとみられているが、特定の部分が関与していることを示唆する「結果」は珍しい。
今回の結果は、臨死体験を研究しようとして得られたものではなく、偶然発見された。
比較されるべき対照患者グループも用意されていない研究だが、この分野の専門家は「説得力があるものだ」と評価している。
http://www.asyura2.com/2002/health1/msg/485.html
脳内に電極を埋め込んだ男性、体外離脱を経験
2007年 11月 2日 17:08 JST
 [ボストン 31日 ロイター] 耳鳴り治療のために脳内に電極を埋め込まれた男性患者(63)が、その影響で体外離脱を経験していたことが分かった。
 ベルギーのアントワープ大の研究者らが31日、学術誌「ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」に論文を発表した。
 電極に刺激を与えたところ、この患者は15秒間と21秒間の2回にわたって自分が体外に離脱したような感覚を覚え、医者がCTスキャンによって脳内のどの部分が活発になっているかを調べたという。
 心停止から生還した人などから報告される体外離脱の感覚について、一部の人は死後の世界がある証拠だと論じている。一方、科学者の多くはその見方に懐疑的で、脳が錯覚を起こさせる現象だと指摘している。
 アントワープ大の研究者らは、患者の耳鳴り治療に脳内電極を試していたが、その成果は上がらなかった。その代わり、患者は自分の肉体から50センチほど後ろに離れ、左側に行く感覚を経験したという。
http://www.asyura2.com/07/bd51/msg/199.html
(2007/8/30) 人工的「体外離脱」体験に成功
「体外離脱(幽体離脱)」を疑似体験させる2研究がヨーロッパで実施され、米科学誌「Science」8月24日号に掲載された。
「体外離脱」とは、肉体を離脱して自分の体を離れたところから見ているような感覚のことで、ストレスにより視覚、触覚、自分が自分の肉体にあるという固有受容感覚などが分断されたときに生じるという。
時に外傷を受けた人が臨死体験として報告している。
臨死現象研究専門家であるKevin Nelson博士によると「体外離脱」は珍しくはなく、20人に1人は体験しているが、自然発生的でコントロールできないため、これまで詳しく研究することが難しかった。
 今回の研究の一つは、英ロンドン大学(UCL)神経学研究所のHenrik Ehrsson博士らによるもの。
被験者にハイテク3Dゴーグルを装着させ、約6フィート(約1.8m)離れた位置から撮影した自身の体をリアルタイムの3D映像で見せた。
プラスチック棒で被験者自身の胸部(本人には見えない)に触れると同時に、映像の同じ部位にも触れたところ、被験者は自分の肉体を6フィート離れた後ろから見ているような感覚を覚えたという。
さらに、幻影の体をハンマーで打とうとすると、被験者に発汗の増大がみられ、その恐怖を現実のものと感じていることが示された。

もう一つの研究は、スイス連邦工科大学ローザンヌ校Ecole Polytechnique Federal de Lausanne(EPFL)のOlaf Blanke氏らが実施したもの。
被験者に、自分自身の体、人体模型、四角形をしたブロックのホログラフィ映像の一つを見せ、映像の「背中」をブラシでなで、時々は同時に被験者自身の背中もなでた。
その直後、目隠しをして後退させ、自分がいた元の位置まで戻るよう指示すると、模型またはブロックを見ていた被験者は正確に元の位置に戻ったが、自分自身の映像を見ていた被験者は幻影があった位置まで進んだという。
 専門家の一人は
「興味深い研究。
体に触られた感覚を、まるで別のところにある自分の体を“見て”いるように感じている。
これは、車を運転するビデオゲームで、運転する車の映像は自分の前に見えているのに、
あたかも自分が車の中にいるように感じる人がいることにも似ている」
と述べている。
 Nelson氏によると、どちらの研究も「体外離脱」を完全に再現したわけではないが、空間の中で自分の存在を認識する上で視覚が重要であることを示すものだという。
通常、脳で行われている視覚と触覚や固有受容感覚との統合が、幻影により混乱させられ、その結果、一時的に自分の肉体が隔絶しているような感覚を覚えるのだという。
同じことが睡眠−覚醒の過渡期や、脳が死に近い状態にあるとき、特定の病状にあるときに起きている可能性もあるという。
 ただし、視覚だけが最も重要というわけではなく、ほかの感覚についても実験方法があれば同様の結果が得られるはずだという。
この知見は、神経化学分野にとどまらずテレビゲームや遠隔手術などに応用できる可能性もあるほか、神学や哲学の核心に踏み込むとも思えるものだが、霊的なものとを混同するべきではないとNelson氏は指摘している。
原文[2007年8月23日/HealthDay News]
http://health.nikkei.co.jp/hsn/news.cfm?i=20070830hj000hj
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 3) 臨死体験=脳内現象説

 臨死体験=脳内現象説は、臨死体験は死ぬ間際の人間が脳の作用によってみるただの幻覚の一種だという主張です。
 これに関して、1920〜1940年代にアメリカの脳神経学者ペンフィールドが行った興味深い実験があります。
ペンフィールドはてんかん患者を治療するために頭蓋骨を切り開き、どこの部位を切除すれば機能が回復するかをテストしようとしました。
 このとき、ペンフィールドは
電気で側頭葉を刺激すると、患者が「自分の体が浮かび上がっているように感じる」
などということに気がつきました。
これを聞いて学術的興味深々のペンフィールドさん。
「面白いオモチャを見つけた」とばかりに患者の脳をいじくりまくります。
ぐりぐりぐりぐり。
てんかんの治療はどうしたんでしょうか?

 まず、側頭葉のある部位を刺激すると、「浮遊体験」が感じられ、
別の部位を刺激すると、「自分の魂が体から離れていっている」という感覚に襲われる
ことが判明しました。
もしかしたらこの患者だけなのかもしれないので、念のためとばかりにペンフィールドは、同様の実験を他の患者にも試し、脳をぐりぐりぐりぐり。
同じような言動をすることを確認。
 また、側頭葉のシルヴィス溝を刺激された者の中には対外離脱だけではなく、神に逢ったと主張する者もいました。
 そういえば、日本で「悪魔を祓うために体を清める」と称し、いとこを殺害して体を塩で清めたという悪魔祓い殺人事件では、側頭葉てんかんを持った男が「神の声を聴いた」と主張したのが始まりでした。
側頭葉には神様が住んでいるのかもしれません。
 臨死体験=脳内現象説の理論はこれだけではありません。
 もしあなたが自転車に乗っていたら、ドカンと車にぶつかってみましょう。
あなたの人生が一瞬にして早送りで再生されるはずです。
そうです、走馬灯です。
 この別名「映画フィルム式思考」と呼ばれる、死に直前で自分の一生が一瞬で思い出されるという体験は、クスリの服用でも体験できます。
 クスリの名前はセントロフェノキシンという、スマートドラッグとしてアメリカでかなり出回っている代物。
これを服用すると、突然数十年前の思い出が鮮明に甦ってくることがあるのです。

 他には、LSDなどの麻薬で体験する幻覚には、
長いトンネルの映像、
まばゆい光、
別世界の住人、
生死を問わず様々な友人や家族
が登場します。
 いくつかの薬物が臨死体験に酷似した幻覚を生み出すことは以前から指摘されていました。
臨死体験が脳内物質や脳内現象による幻覚であると仮定するならば、それと同様の薬物を投与することで臨死体験と同様の体験ができ、そのメカニズムと解明されることになります。

 1980年の時点で既に、精神薬理学者のロナルド・シーゲルにより、臨死体験と薬物による幻覚の類似性が指摘され、亜酸化窒素やエーテル、ケタミン、フェンシクリジン(PCP)、ヘロインなどの薬物の名が挙げられています。
 さらに、オークランド大学のイェンセン教授は、
「人間が死に瀕したとき、脳内の神経細胞を酸欠状態から防ぐために、エンドサイコシンという物質が大量に放出される。
これが臨死体験を引き起こすのだろう」
という説を発表した。
この説はあくまでも仮説であり確証はありませんが、人間が極限状態に陥ると、脳内麻薬が発生することは昔から知られていました。
死の直前というのは究極の極限状態ですから、脳内麻薬が大量に発生し、それが脳内に幻覚を生み出すのは十分に考えられます。

 大脳酸素欠乏症説というのもあります。
 肉体が危篤状態になったり、ほんの一瞬でも心臓が止まると、大脳の酸素が欠乏します。
この大脳酸素欠乏は、短時間であっても重大な損害を脳に与えます。

 この大脳酸素欠乏状態に陥ったとき、最初に幸福感や全能感がやってきて、
さらに酸素欠乏が進むと現実判断能力が失われ幻覚が生じます。

 日本の武道の場合、柔道の絞め技などで「おちる」瞬間は非常に気持ちいいと言われています。
 これらは、直接 臨死体験=あの世 を否定するわけではありませんが、
人間の脳に刺激を与えたり、ドラッグを服用することで擬似的な臨死体験をすることができるのは事実です。
http://psychology.jugem.cc/?eid=19

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/443.html

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4. クンダリニー覚醒とはどういうものか?

女性の〈オーガズム〉と〈クンダリニー覚醒〉

女性のオーガズムには、何かスピリチュアルと関係があるのではないかと予想しています。
脳とスピリチュアルは、切っても切れない関係ですから。
女性のオーガズムを経験することを一部の神秘家(ほとんど男)は、目指していたのではないだろうか。
「神との一体化」を語るような、クンダリニー覚醒といわれている状態も、実は女性のオーガズムを男が数秒体感したものじゃないかと。
女性のオーガズム(俗にいう「イク」)を感じる状態…かもしれない(?)。

そこで、女性がオーガズムを感じた時の脳波は、どうなのだろうかと思い現代の研究に頼って調べてみました :

セックスの際にはオーガズムに達した時にシータ波が観測されます。
この脳波はマラソンなどいわゆるランニングハイでも認められています。
シータ波が快感の尺度であるとしたら、女性はオーガズムに達している間、脳全体がシータ波を発しており、男性に比べても10倍近くに及んでいます。
したがって、このシータ波がオーガズムの強さに比例しているとするならば、女性は男性とは比べようにならないほどの快感を味わっていることになります。
卑近な言い方をすれば、仮に女性のオーガズムをそのまま男性の脳に伝えれば男性はショック死する危険すらありますが、今までそれを実践して亡くなった男性はいません。
それはそうでしょう。男性は決して女性にはなれないのですから。

金子氏は性同一性障害(脳は男性でも体は女性、あるいは脳は女性でも体は男性)の方が性転換手術を受けた後の体験を例に、女性の快感の凄さを説明しています。

「仮に女性のオーガズムをそのまま男性の脳に伝えれば男性はショック死する危険すらあります」
仮ではありません。
実際に『ヨガの真義』などの実践者でクンダリニー・ヨーガで覚醒をしたと自称していた日本人男性が怪死をしています。
それらの事実を知っている彼の弟子(?)や信奉者は、ホームページ上で「クンダリニー・ヨーガは自己責任で」と正し書きを行なうようになりました。
しかし、クンダリニー・ヨーガでの覚醒状態が、女性のオーガズムと同程度だとしたら、どうなのでしょう。
たしかに肉体的な快感や一体感を感じられる時間をクンダリニー・ヨーガで実際に感じることができるかもしれませんが…
クンドゥン(ダライ・ラマ14世)やその他の方が仰るには、日常的に目覚めて温厚な人柄で生きていなければ、簡単にいえば菩提心を持たなければ「クンダリニー・ヨーガ」や「覚醒体験」は、子供に駄菓子を与えるようなものと同じかもしれないと思います。

女性にバカにされそうですが、
「あぁ、昨夜体験した状態が覚醒なわけね」
「私なんて何回でも体験してるよ」とか言われちゃって。

女性は凄いなと思うわけです。子供も産めますし、女性は神秘的であります。

オーガズムを日常的に感じてしまう病気もあるそうで、セックスとは関係なく、どんな時でも、どんな場所でもオーガズムの状態に陥ってしまうという病気らしいです。
これは性的興奮、生殖器の充血とは全く無関係に、自然発生的かつ持続的な性的快感を受けるもの、らしいです。

・ 日常的に性交の快感が続く”持続性性喚起症候群”とは
・ 一日に200回オーガズムを迎える英女性―持続性性喚起症候群

インドの人のなかに、これと似たような人いませんでしたか。
脳波がいつもシータ波状態ってことは、すごい恍惚とした表情で生活しているわけですから、いっけんアホっぽい男性とか(?)。
キチガイの悟りって状態でしょうか。 病気の場合は、可哀想ですが。

持続性性喚起症候群の原因は様々である。
例えば塩酸トラゾドン(トリアゾロピリジン系抗うつ剤)の副作用として発症する場合もあり、その場合は摂取をやめることで症状が消えたと言われる。
またある報告によれば、原因は骨盤の血管(ペニスやクリトリスに分岐する血管)の異常であったため、その患者は外科手術によって治療されたという。

あと、クンダリニー・ヨーガでの覚醒を目指した性欲を抑えた激しい禁欲状態でも、この病気と同じようになるという記事もありました。
クンダリニーって精神的か肉体的な病気なのかもしれない部分も捨て置けません。

女性がオーガズムを感じた瞬間の状態が「クンダリニー」に似ているので、その状態を列挙しますね。

● 眼球の動きが止まる
オーガズムに達したときは、ほんの数秒だけ、眼球の動きがとまります。
眼球は、ふだん必ず動いているものだから、彼女の目があいていれば、相手の眼球が急にとまり、放心状態になります。

● 呼吸が止まる
一、二秒ですが、エクスタシーの瞬間に呼吸がとまります。
よく、映画などでは、ベッドシーンにあえぎ声がつかわれますが、実際は、その瞬間に、息の音が聞こえなくなるものです。

● 汗をかく
オーガズムに達するとき、体全体がカッと熱くなり、汗をかきます。
セックスはスポーツと同じ運動だから汗をかくのかというと、それは間違いです。
性中枢が視床下部にあり、発汗中枢が近いため、といわれています。
しかも汗のかき方には特徴があって、全身にうっすらとかいていれば確実に達した証拠です。

● 筋肉が堅くなった後に訪れる
エクスタシーの直前に、女性の筋肉は急に緊張します。
そしてその後、エクスタシーに入るやいなや、緊張が緩みます。
彼女が力を入れると、イッたかと思っている男性がいるようですが、実はその後の脱力状態の数秒がエクスタシーを感じている瞬間なのです。

● 顔の表情は放心したようで、必ず左右対称
筋肉の緊張と緩和は、顔の表情にも表われます。
その瞬間は、緊張がとれ、放心状態で声はでないものです。
また、顔の表情は、その瞬間なら、意識的に左右を変えることなんて不可能です。
顔を片方だけ歪めていたら、それは間違いなくイッたフリです。
自然に左右対称で、止まったような表情をしていれば、絶対に感じているはずです。

このほとんどが、クンダリニー覚醒といわれているものと、ほぼ同程度というわけで、クンダリニー覚醒などはあまり…という感じの記事でした。
男の方は、奥さんや彼女に聞いてみてください。
女性の場合は、いつでも模擬体験することができるんですから、
「これが一体感で覚醒した気なのね」とか。
そのようなものかもしれません。
女性の神秘家って少ないですが。何ででしょう?
http://teruterulog.jugem.jp/?eid=449


http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1111.html

コメント [マスコミ・電通批評11] ウィキリークスWikiLeaks 暴露(動画)特集 耳ラッパ shiryu星
01. 2011年1月28日 18:25:52: dSZR7EKq7I
(下記に Wikileaks Twitter リスト他 動画を中心に第2第3弾その他関連 まとめてあります よろしければそちらもどうぞご覧ください)

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(Wikileaks 最新参考情報 ページ左リストBrowse latest releases に毎日更新公開中)  
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(ブログに動画を中心に第2第3弾 その他関連まとめてあります よろしければこちらもどうぞ )
ウィキリークスWikiLeaks 暴露(動画)特集 第3弾 耳ラッパ
http://blog.livedoor.jp/torusreflector/archives/51763830.html
ウィキリークスWikiLeaks 暴露(動画)特集 第2弾 耳ラッパ
http://blog.livedoor.jp/torusreflector/archives/51761370.html
ウィキリークスWikiLeaks 暴露(動画)特集 耳ラッパ
http://blog.livedoor.jp/torusreflector/archives/51760551.html
Twitter革命 マスメディア&サイバーメディア戦 WikiLeaks Release再考特集 耳ラッパ http://blog.livedoor.jp/torusreflector/archives/51759252.html

http://www.asyura2.com/10/hihyo11/msg/482.html#c1

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