株式日記と経済展望
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保護されるべき高齢者が家から出て行っても無関心。無関心のまま、
年金だけはもらい続ける、根性・性根の悪さが、はびこっている。
2010年8月15日 日曜日
◆不明「100歳以上」242人…読売全国調査 8月15日 読売新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100814-00000931-yom-soci
全国で「100歳以上」の高齢者が相次いで所在不明になっている問題で、不明者の数は14日現在、20都道府県(52市区町)で計242人に上っていることが、読売新聞の全国調査で判明した。
世帯構成が確認できた中で、住民登録上、家族と「同居」している世帯が過半数を占めた。所在確認の調査を継続している自治体もあり、不明者数はさらに増えるとみられる。
全国調査では、住民登録上の「現住所」に住んでいないか、家自体がなくなっていた「100歳以上」の高齢者で、親族でも所在を知らなかったり、親族とも連絡が取れなかったりしたケースを集計。自治体が「居住実態がない」として職権で住民登録を抹消した場合も含めたが、死亡が確認された人は除外した。都道府県別では、兵庫県の108人が最多。市区町村別では、神戸市の102人、大阪市45人、京都市18人と続いた。東北・北陸を含む27県での所在不明は判明していない。
神戸市で「125歳」の女性の不明が確認されたほか、大阪市の「119歳」男性や、いずれも大阪府東大阪市の「119歳」の女性と「115歳」の男性が相次いで所在不明となっていた。
厚生労働省によると、生存が確認されている国内最高齢者は佐賀県在住の113歳の女性だが、今回の調査では、この女性と同じ年齢かそれ以上の高齢者の不明が、少なくとも20人以上、確認された。
住民登録上の世帯構成と不明になったとみられる時期の居住実態についても、各自治体に調査した。判明した78人のうち、42人が妻や子供らとの同居で、36人が独居と、同居が過半数を占めた。
こうした同居家族の多くは、自治体の調査に対し、「(本人が)家を出て行ったまま、居場所は知らない」などと話していた。残る164人については、自治体が明らかにしないか未調査のケース。
調査結果を公表していない自治体を含め、多くの自治体が、「さらに詳しい調査を進める」としている。
◆明日ありと思う心のあざ桜夜半に嵐の吹かぬものかは 8月12日 釈勝叡
http://shakushouei.blogzine.jp/blog/2010/08/post_f6d7.html
明日ありと思う心のあざ桜夜半に嵐の吹かぬものかは
大阪府は、12日、住民登録されている100歳以上の高齢者64人の所在が確認できていないと発表した。
京都市では、100歳以上となる高齢者19人の所在が確認できていないことが、12日取材で分かった。
何故、100歳以上の括りで所在確認しているのか。
90歳以上、80歳以上の行方不明者はゼロとでも考えているのか。
70歳以上の高齢者の所在を確認するよう望む。
日本人の平均寿命が大きく変わる事態である。
御長寿大国日本から、高齢者行方不明大国日本への転換となる。
嫌な渡世である。
「子どもやお年寄り、立場の弱い人を護り大切にしましょう。」が、単なるスローガンに止まり、
子どもやお年寄りに冷たい日本。
年間3万人を超える自殺者に無関心な日本。
子どものいじめ問題を放置し、解決する方向に向かえず、小説や映画で、いじめ問題をネタにする日本。
就職難・ワーキングプアの若い社会人に「自己責任論」を、押し付け続ける日本。
パワハラ・セクハラがまかり通る日本。
弱い立場の者に、情け容赦の無い仕打ちを、平然と行うのが、
現在の日本の偽らざる実情である。
「心の貧困」問題が、社会に大きく暗く横たわっているのが、
現在の日本である。
平均寿命が、70歳でも80歳でも、
自分が平均寿命まで生きられると思うのは、
大きな大間違いである。
「明日、生きている。」「明日、死んでいる。」
どちらが、確実な事態だろう。
御開山・親鸞聖人は、出家得度される際に、
「今晩はもう遅いから、明日、お得度されたら如何か。」と言葉をかけられて、
「明日ありと思う心のあざ桜夜半に嵐の吹かぬものかは」と返答された。
今晩、大嵐が吹けば、嵐に吹き飛ばされ死んでしまうかも知れないのは、
親鸞聖人の時代も、現在も、同じことである。
仏教・仏法に出会うことが、現在人に必要なのである。
「死生観」を生活にどう取り戻すのか。
身近な人・家族の死から学ぶのである。
日頃は、他人ごととしか思っていなかった死という現実から、
私もまた、まぬがれることが出来ない者であること。
愛別離苦の苦しみ・悲しみから、形あるものは頼りに成らず、分かれていかなければならないことを教えていただくのである。
「生命の尊さ」を亡くなった方が、教えて下さるのである。
私にも生命がある。
生まれてから死ぬまでの一つながりの、世界にたった一つしかない生命であり、
途中で、取り替えたり、誰かと代わってもらう事の出来ない生命である。
だから、生命は尊いのである。
亡くなられた方が、身を持って示して下さる最後の教えである。
保護されるべき高齢者が、家から出て行っても、無関心。
無関心のまま、年金だけはもらい続ける、根性・性根の悪さが、はびこっている。
そんな社会で、どうやって自分の生命の尊さに気づくことが出来るのか。
自分の生命の尊さに気づくことが出来ない個人は、
他人の生命を尊重することなど出来ない。
何時までもカネを拝んでいないで、
仏様を拝んでみたらどうか。
阿弥陀様は、現在の日本の姿を見て、泣いてくださっている。
(私のコメント)
100歳以上の行方不明者が250人近くいたと言う事ですが、独居老人が行方不明になったということではなく78人のうち多くが家族がいたり同居者がいた。にもかかわらず行方不明になっても捜索願も出されず、年金や遺族手当てなどは受け取っていたと言うケースが多いのだろう。
読売新聞の記事によれば大阪府や兵庫県に集中しているのは異常なのですが、大阪や兵庫に親不孝者が多いのはヤクザがらみの組織的な犯罪でも隠されているのではないだろうか? これはあくまでも100歳以上の調査結果であり65歳以上の年金受給者全員を調べるべきだろう。
年金には年に一回ハガキなどで生存確認などが行なわれていましたが、家族が代筆してしまえば年金はそのまま振り込まれる。しかし健康保険や介護保険など調べればおかしいと気がつくはずだ。年金受給者本人が家を出て行ったまま家族がしらないと言うのは明らかにおかしい。70歳以上のお年寄りが家族に黙って家出すると言う事が考えにくい。
年金受給者は現在では4000万人いるそうですが、団塊の世代が受給するようになればもっと増える。110歳以上の年金受給者は50人から100人くらいいると言う事ですが、どういう事なのだろうか? 全ての年金不正受給者を調べれば数千人レベルで発覚する事もありえるだろう。親がなくなっているにもかかわらず年金だけは不正に受け取るのは犯罪行為ですが、とんでもない親不孝者でもある。
学校崩壊・家庭崩壊・地域社会崩壊は社会問題化していますが有効な解決手段が見つからない。昔の家族制度に戻す事も不可能だろうし学校も家庭も地域もバラバラになり弱いものが孤立して見捨てられている。全てが金銭で換算されて家族や学校や会社も金銭だけの繋がりでしかない。カネが無ければ誰も相手にしてくれない世界は新自由主義の世界でもある。
特に家庭は崩壊している事は高齢者所在不明事件や育児放棄事件などにニュースとして現れていますが、親子と言えども他人同然の家庭であり、家族の絆などテレビドラマぐらいしかないのかもしれない。だから老人たちも数千万円の貯蓄をしっかりと握りしめて使おうとはしない。子供といえども信用が出来ないからだ。
学校で道徳や倫理などは教えられていますが、学級崩壊が起きているような状況は将来社会人になって行けば社会崩壊が起きるということだ。だから親が子を殺し、子が親を殺して年金を不正にもらう不心得者が出てもおかしくはない。国家がセーフティーネットを充実させる必要がありますが、民主党はいつの間にか新自由主義政党に変わってしまったようだ。国民の生活が第一と言ったスローガンは忘れ去られてしまった。
孤立した社会では、たとえ近所で児童虐待が起きていても通報すらされずに児童が死んでいる。児童相談所もあまり機能しているとは言えず弱い立場の児童が虐待されていても救える人がいない。このような人心の荒廃は何が原因で起きているのだろうか? それは宗教の不在が人心の荒廃を招いているのだろう。
おかしな新興宗教やカルト宗教が蔓延るのも心の空白を埋めるためなのでしょうが、既存の仏教が廃れてしまった事も人心の荒廃に結びついているのだろう。東京のお寺の行事に時々参加することがありますが来ている人は60歳以上のお年寄りばかりで若い人はほとんどいない。若い人の家庭で仏壇のある家庭はどれだけあるだろう?
◆葬式仏教のバチあたり 4月14日 釈勝叡
http://shakushouei.blogzine.jp/blog/2010/04/post_544b.html
現在の子育ての困難をスピリチュアルで解決する事は出来ない。
学校崩壊・家庭崩壊・地域社会崩壊は、
それぞれ単独に存在するのではなく、
縁起の道理で、互いに寄り合い関連し合っている。
マスメディアが、教師バッシングを繰り返すことで、
「教育というモノ」全体が劣化してしまったのである。
そこで、釈勝叡は、「子育てには、宗教が必要である。」と、
子育てに宗教の知恵を取り戻す事を提案している。
教育評論家・マスメディアが教師バッシングを繰り返した行いと、
「葬式仏教」という言葉で、伝統教団を非難する行いは、
同質の行いである。
「葬式仏教」という言葉を多用すれば、
「宗教というモノ」の値打ち・有難さ・価値が低下する事態になる。
「葬式は、要らない」論が、世に広く受け入れられている事態が一つの証左である。
日本は、政治三流・経済三流・教育三流。
さらに、宗教三流の国に成り果てねばならないのか。
人間の叡智・能力を遥かに超えた大いなる存在がおられる。
人間の営みを超えた、森羅万象のあまねく存在を統べておられる大いなる存在を、
神仏と呼び、尊ぶのが、宗教の本質である。
「葬式仏教」という言葉で、神仏をビクともさせることは出来ない。
神仏は、大いなる存在であり、人間の言葉くらいでは、揺らぐことは無い。
しかし、「葬式仏教」という言葉は、日本社会を揺らがせる。
神仏を尊ぼうとする気風を低下させるのだ。
人間の発する言葉で、社会が、神仏の有り難味を見失っていく。
神仏に対する冒涜なのである。
これが、「葬式仏教」という言葉の現在的意味である。
神仏を冒涜する者には、罰が待ち受けている。
「葬式仏教」という言葉の使用者は、そこまで理解出来ているか。
(私のコメント)
今日は8月15日で終戦記念日ですが、武道館で宗教色のない慰霊式が行なわれている。これで死んでいった兵士や市民の霊が浮かばれるのだろうか? 靖国神社と言う戦死した兵士の為の慰霊の為の神社がありながら総理大臣も天皇陛下も靖国神社には参拝しない。それでは死んでいった250万人の兵士の霊は浮かばれないだろう。
信教の自由が誤解されて、政府の宗教的な行為が出来なくなってしまった。地鎮祭ですら宗教的行事だとして憲法違反になるそうですが、日本の仏教寺院や神社から国や地方は切り離されてしまっている。その一番の象徴が靖国神社ですが韓国や中国から批判されるとして首相や天皇も参拝できない。
「葬式仏教」と言う言葉は、仏教に対する侮辱であり信教の自由に対する違反行為だ。人間の生死を司るには宗教は必要であり、「葬式仏教」と言う言葉は死者に対する侮辱でもある。だから親が死んでも行方不明として年金を不正に受給するものも出てくる。まさに日本全体が仏罰によって崩壊の危機にある。