[ペンネーム登録待ち板6] 岸田内閣の支持率低下が止まらない
岸田内閣の支持率低下が止まらない
植草一秀氏ブログ「知られざる真実」2022年9月14日
9月11日に沖縄県知事選が実施された。
玉城デニー: 無 現:339,767(50.8%)
立民・共産・れいわ・社民・社大 推薦
佐喜真 淳 無 新:74,844(41.1%): 自民・公明 推薦
下地 幹郎 無 新:53,677(8.0%)の結果になった。
現職の玉城デニー氏が6.5万票の大差をつけて再選をはたした。
沖縄県民の良識に深く敬意を表したい。
岸田内閣にとっては極めて大きな痛手になった。
岸田内閣は米国の命令に従い、辺野古米軍基地建設を推進している。
しかし、沖縄県民は辺野古米軍基地建設に反対している。
地域のことは地域で決める、地域のことは地域の住民が決める。
これが地方自治の基本だ。
沖縄県民が米軍基地建設NOの意思を明確に示している。
今回選挙では佐喜真候補が辺野古米軍基地建設容認を明確に打ち出した。
玉城デニー知事は,辺野古米軍基地建設阻止の方針を明示した。
争点が明確にされたなかで沖縄県民が判断を下した。
岸田内閣は沖縄県民の意思を尊重すべきだ。
それにもかかわらず、岸田内閣は「辺野古移設が唯一の選択肢」と言い続けている。
地方自治も住民自治もない。中央が中央の意向を地方に強要する。
地方は中央の踏み台ではない。
政府は札束で沖縄県民のほおを叩き、ひれ伏すことを要求してきた。
沖縄県民が辺野古米軍基地建設を受け入れるなら沖縄への国費支出を増額する。
辺野古米軍基地建設を受け入れないなら沖縄への国費投入を削減する。
この姿勢で臨んできた。
カネの力で地方にひれ伏すことを強要するなど、最低の行動だ。
パワハラ、モラハラ、マネハラである。
しかし、沖縄県民は、こうした下劣な政府の対応を一蹴した。
札束でほおを叩いて相手を服従させる手法など命をかけても通用させぬ。この気持ちで岸田内閣の横暴を撥ねのけた。このことに喝采である。
沖縄の米軍基地集中は沖縄の安全を脅かすもの。
基地があるから狙われる。武装を拡大するから緊張が高まる。
戦乱が創作されるとき、被害を蒙るのは沖縄の市民なのだ。
戦争を推進する者は遠く離れた米国や永田町の安全な場所で戦乱を命令するだけだ。
ウクライナで戦乱が創作され、被害を蒙っているのはウクライナの市民と最前線の兵士だけ。
バイデンもゼレンスキーも我が身を安全な場所に置き、戦乱を遠い場所から命令しているだけだ。
今回の知事選では自公政権サイドが有利に選挙戦を展開してきたはず。
札束でほおを叩く戦術で県政を政権サイドが奪還する腹づもりだったと思われる。
ところが政権与党側候補は大差での敗北を喫した。
背景に岸田内閣に対する沖縄県民の厳しい評定がある。
最大の問題は安倍晋三氏の国葬を法的根拠なく決定し、実施に向けて暴走を続けていること。
その安倍晋三氏は旧統一協会と極めて深い関係を有していたと見られている。
自民党が絶縁宣言をした対象である旧統一協会。
その旧統一協会ともっとも関係が深い議員が安倍晋三氏と見られている。
ところが、岸田首相は安倍氏と旧統一協会との関係を明らかにすることもなく、自民党が絶縁した反社会的勢力と表現できる旧統一協会ともっとも関係が深かったとされる安倍晋三氏の国葬を実施する方向に暴走を続けている。
「過ちて改めざるを過ちという」
のだが、岸田首相は過ちを認めて改めることを拒み、正当性のない国葬実施に突進している。
沖縄県知事選結果はこの岸田首相に対する評定を含んでいる。
このまま進めば、岸田首相辞任の日は遠くないだろう。
閉会中審査に岸田首相が出席し、自民党議員へのアンケート結果を発表し、所得の少ない世帯への5万円給付案などを発表したが、内閣支持率低下に歯止めがかからない。
内閣発足当初に存在した幸運のメッキが剥がれて、岸田内閣の実力の地金がくっきり見えた。
内閣発足当初の幸運とは
1.前任者、前々任者のイメージの悪さから好感がもたれたこと
2.コロナ感染の急縮小期に内閣発足が重なったこと
3.ウクライナ戦乱が発生し米国に追従してロシアを非難したことを御用メディアが絶賛したこと
4.野党が自滅したこと
などだ。しかし、この幸運のメッキは剥がれた。
*玉城 デニー(たまき デニー、1959年〈昭和34年〉10月13日 - )は、日本の政治家、元タレント。沖縄県知事(公選第8代)。本名は玉城 康裕(たまき やすひろ)[2][3][4]。
衆議院議員(4期)、自由党幹事長兼国会対策委員長、沖縄市議会議員(1期)などを歴任した[5][6]。なお、知事業務上、法的効果を伴う行政文書には本名を使用している[7]。
来歴
米国統治下の沖縄、中頭郡与那城村(現・沖縄県うるま市)出身[8]。沖縄の米軍基地に駐留していた米兵の父と伊江島出身の母の間に生まれたアメラジアンである[9]。父の母国である米国に渡航することを前提に母親から「デニス(Dennis)」と名付けられるが、結局母は先に帰国した夫を追うことはなかった。小学校4年生のときに家庭裁判所に申し出て、「康裕(やすひろ)」に改名した。「デニー(Denny)」は子供の頃からの愛称であった[2]。母親は「基地特需」で沸く沖縄において、生活費を稼ぐために住み込みで働く。そのため玉城は10歳まで母親の友人宅に預けられ、そこで育った[10]。
与那城村教育区立与那城小学校、与勝事務組合立与勝第二中学校、沖縄県立前原高等学校、上智社会福祉専門学校(福祉主事任用課程)卒業[11]。福祉関係の臨時職員、インテリア内装業、音響関係の会社勤務などを経て、30歳のときにタレントとして独立。琉球放送ラジオ(現在のRBCiラジオ)の人気番組「ふれ愛パレット」のパーソナリティや[12]、1998年7月にスタートした沖縄市エフエムコミュニティ放送の「OKINAWAミュージック・タペストリー」の総合プロデュースとパーソナリティ[13]、イベントの司会などを務めた。ラジオでは沖縄語を駆使し、高齢者から絶大な支持を受けた[14]。
2001年12月、周囲から翌年4月に控えた沖縄市長選挙[15]への立候補を促される。選挙も政治も何もわからなかった玉城は琉球放送の職員に相談したところ、嗅ぎ付けた新聞社に翌日の朝刊に「玉城デニー、沖縄市長選挙出馬へ」と記事にされてしまう。当時玉城は月曜日から金曜日まで朝8時半から11時までの帯番組「玉城デニーのすまいるスタジオ」を担当していたが、その日で番組を降りることになった。母親からは「人の口車に乗って馬鹿だね」と言われ、鬱々とした日々を送る[2]。
2002年5月に一念発起し、その年の9月の沖縄市議会議員選挙への立候補を決意[2]。史上最多得票でトップ当選を果たした[16]。2004年6月には下地幹郎らが旗揚げした政策集団「そうぞう」に参加した[17](後に「そうぞう」が政策集団から政党そうぞうに改組された際は参加せず)。
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