[ペンネーム登録待ち板6] 野田民主党罪状認否が不可欠 !
野田民主党罪状認否が不可欠 !
植草一秀氏ブログ「知られざる真実」
2022年11月7日
次の衆院総選挙は,衆院解散がなければ,2025年秋だ。
参院選は,2025年夏だ。「空白の3年」が生じている。
選挙に向けての戦いの構図を,構築するのはいまだ。
時間があるときに何もやらずに、選挙が差し迫って,戦いを断念する。
この悪しき風習が,繰り替えされてきた。
同じ轍を踏まぬよう、いまこそ行動すべきだ。
2021年衆院総選挙、2022年参院通常選挙で,野党第一党の立憲民主党が大惨敗した。その要因を直視することが,立て直しの出発点になる。
立憲民主党が,大惨敗した理由は,単純明快だ。
立憲民主党が,共産党を含む野党共闘を,否定したことにある。
枝野氏は,2021年衆院総選挙期間中に,次のように述べた。
「『野党共闘』というのは,皆さんがいつもおっしゃっていますが、私の方からは,使っていません。
あくまでも,国民民主党さんと2党間で,連合さんを含めて,政策協定を結び、一体となって選挙を戦う」
野党共闘の対象は,国民民主党と連合であって、共産党、社民党、れいわ新選組は,共闘の対象ではないと明言した。
この姿勢が示されたことで、野党共闘を支持する主権者が,立憲民主党支持から一斉に離反した。
立憲民主党の凋落は,基本データに鮮明に表れている。
旧民主党=旧民進党の「立民+希望」「立民+国民」の比例代表選挙絶対得票率(全有権者数に対する得票数の比率)推移は,以下の通りだ。
2017年衆院選 20.0%
2021年衆院選 13.7%
(立民11.2%、国民2.5%)
2022年参院選 9.4%
(立民6.4%、国民3.0%)
とりわけ,立憲民主党の得票率激減が,顕著だ。
他方、自民党得票率推移は,以下の通りだ。
2017年衆院選 17.9%
2021年衆院選 19.4%
2022年参院選 17.4%
自民党得票率が,増加したわけではないが、絶対得票率は,安定的推移を示している。
衆議院総選挙では,小選挙区が、参議院通常選挙では,1人区が全体の勝敗を分けるキーファクターになる。
政権交代を実現するには,議会過半数議席を,確保することが必要だ。
小選挙区、1人区で大きな勝利を得なければ,政権交代を実現することは,できない。
しかしながら、数を合わせるために,政策を無視して糾合するのは,野合だ。政権を獲得しても,すぐに行き詰まる。
「政策を基軸」に,共闘体制を構築することが,必要不可欠だ。
立憲民主党が,共産党を含む野党共闘に背を向けたのは、連合が共産党との野党共闘を,否定したからだ。
連合に牛耳られる,立憲民主党のなれの果てが,現在の凋落である。
連合は,大企業御用組合と,本来の労働組合の寄り合い所帯だ。
現在は,大企業御用組合連合の「六産別」が,支配権を握ってしまっている。この「六産別」が,共産党との共闘を否定し、この指令に立憲民主党が隷従して,立憲民主党が大惨敗した。
連合は,「大企業御用組合」と「本来の労働組合」とに,分離・分割されるべきだ。
「政策基軸」が,重要だが,基本政策路線が,完全に異なるのだ。
「平和主義」「原発廃止」「消費税減税・廃止」と「戦争態勢構築」「原発推進」「消費税増税推進」という,相違が存在する。
いま必要なことは、「平和主義」「原発廃止」「消費税減税・廃止」を基軸とする,野党共闘を構築することだ。
立憲民主・維新・国民は,「隠れ与党勢力」に転じている。
共産党を含む,野党共闘勢力によって,直ちに政権を樹立することは,容易ではないだろう。
* 立憲民主党:泉健太代表のプロフールとは ?
来歴[編集]
生い立ち[編集]
出生[編集]
1974年(昭和49年)、北海道札幌市北区に生まれ[3](48歳)。石狩市花川で育つ[3]。
家族は7人で、4人兄弟の末っ子であった[6]。
小学校から野球を始め、甲子園を目指していた[6]。
政治家を志す[編集]
政治家を志した原体験は、小学生のときだった[7]。隣家に足の不自由な高齢女性が住んでおり、泉はその家の雪かきを代わりに行った[7]。すると、女性はお礼に自家製のヨーグルトを泉に与えた[7]。
「誰かが喜んでくれることの喜びが原体験になっている気がする」と後に語っている[7]。
政治が変わりうる実感[編集]
また、同じく小学生だった1983年(昭和58年)の北海道知事選挙では、既得権益によらない「横路孝弘と勝手に連帯する若者連合(勝手連)」という流行が起き、無所属の横路孝弘[注 2]が道知事に就任した[7]。
泉は「市民の力によって政治が変わる」ことを感じたという[7]。
父・泉訓雄[編集]
父親の訓雄(のりお、2011年3月12日に74歳で死去)[8]は保守的な政治風土のなかで町内会長のような役目を務めており、自宅の居間には地域の人々が集まって様々な雑談のほか、密議や謀議を行っていたという[7]。訓雄は2003年、2007年の石狩市議会議員選挙に当選した[9]。
泉は訓雄について「地域を回って相談に応じることには熱心だったが、政策力はほとんどなかったのではないか」と評し、反面教師として見ていたという[7]。
青年期[編集]
高等学校(札幌開成高等学校[10])では、生徒会長を務めた[11]。
京都府の立命館大学法学部へ進学し[10]、関西学生弁論討論交流会会長、全日本学生弁論討論交流会会長を務めた。
学生時代も政治に関心を持っていたが、泉が「正しい」と思う勢力が衆議院総選挙では負け続けていた[7]。「なぜこの国では自由民主党以外の政党が育たないのだろう」と考えていた[7]。
また、大学時代には「政治家以外にも世の中をよくする仕事はたくさんある」とも感じた[7]。市長選挙の公開討論会を実現する運動に関わり、投票率を上げるための活動も行った[7]。NPOやNGOの活動を行うことも模索したが、「仕事にするのは難しい」と感じて諦めたという[7]。
大学卒業後は、民主党の参議院議員であった福山哲郎の秘書を務めた。
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