[ペンネーム登録待ち板6] 岸田内閣の終焉Xデーが接近している !
岸田内閣の終焉Xデーが接近している !
植草一秀氏ブログ「知られざる真実」:2022年11月14日,
2022年11月14日,岸田内閣の迷走が,加速している。
内閣支持率が3割を割り込んだ内閣は,10カ月以内に消滅する。
2006年発足の第1次安倍内閣以来、8代の歴代内閣で,例外は存在しない。岸田内閣の不支持率は,5割を超えている。
週末には,NHKが世論調査を実施する。
内閣支持率の続落が,避けられない。
岸田内閣の転換点になったのは,7月14日。
岸田首相は,安倍晋三元首相の国葬実施を決めた。
何も決めない、何も決められない岸田首相が,初めて独断専横で決定した。
この決定を契機に,岸田内閣の凋落が,つるべ落としに始まった。
国葬に法的根拠がない。
安倍晋三氏銃殺事件の背景に,旧統一協会問題がある。
旧統一協会と自民党との深く強い癒着関係の中核に,安倍晋三氏が位置していた。
国会での審議に付すこともなく、根拠法を整備することもなく、岸田首相は,安倍元首相国葬決定を強行した。
批判が拡大しても立ち止まることをしなかった。
8月10日に内閣改造を前倒しして、旧統一協会との関係遮断を印象付けようとしたが、旧統一協会と深く癒着した,山際大志郎経財相が,大臣ポストに居座った。
山際経財相を早期に更迭すべきだったが、岸田文雄首相は,最後まで山際氏の続投を,指向した。
葉梨康弘法相が,「法務大臣は,死刑のはんこを押すときだけ,ニュースのトップになる地味な役職」と発言した瞬間に、法相更迭を決断すべきだった。
岸田文雄氏は,葉梨法相の続投を国会で宣言したが、その直後に続投を断念した。辞任ドミノが,始動している。
政治資金問題が,明るみに出ている寺田稔総務大臣、事務所費問題が指摘されている,秋葉賢也復興大臣の辞任も,秒読み段階に移行している。
岸田内閣で,総務大臣政務官に起用された,自民党の杉田水脈議員は,10月26日に総務大臣政務官として,国会で初めて答弁した。
東京高裁が,10月20日に,ジャーナリストの伊藤詩織氏に対する中傷投稿に,杉田氏が「いいね」を押したことを,侮辱行為と判断して,55万円の賠償を命じたことに関して,質問されたが、
「係争中の案件であるため,回答は控えたい」
「今後の対応を検討している」と,繰り返した。
質問者が,「《枕営業の失敗》とか,《相手をレイプ魔呼ばわりした卑怯者》など、心ないツイートに,25回もいいねしているわけです。どういう気持ちを受けるか,想像できなかったのですか?」
と質問しても、「係争中であるので,答弁を差し控える」の1点張りだった。
質疑では、総務省が取り組んでいる、SNSの誹謗中傷対策キャンペーン「#NoHeartNoSNS(ハートがなけりゃSNSじゃない!)」について、「ご存じですか?」の質問が提示されたが、杉田氏は
「申し訳ございません。存じ上げません」と答弁した。
質問者が「大丈夫ですか? 総務省がやっているもので、SNSで誹謗中傷が広まらないようにというアクションです。政務官ですよね?」と追及すると、杉田氏は、「すみません。その質問、通告をいただいておりませんので」と答弁した。
杉田氏は、月刊誌で,LGBTなど性的少数者を,「生産性がない」と,寄稿したことについての責任も,問われている。
杉田氏を,総務大臣政務官に起用したのも,岸田文雄首相である。
問題が発覚するたびに岸田首相は,「任命責任を感じている」
と表明するが、「任命責任を感じている」なら、その責任をかたちとして,表さなければ意味がない。
* 岸田総理のプロフールとは ?
岸田 文雄(きしだ ふみお、1957年〈昭和32年〉7月29日 (65歳) )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(10期)、内閣総理大臣(第100代・第101代)、自由民主党総裁(第27代)、宏池会会長(第9代)。
外務大臣(第143・144・150代)、防衛大臣(第16代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、科学技術政策)(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、消費者行政推進担当大臣(福田康夫内閣)、宇宙開発担当大臣(福田康夫内閣)、内閣府特命担当大臣(再チャレンジ)(第1次安倍改造内閣)、文部科学副大臣(第1次小泉内閣)、建設政務次官(小渕第2次改造内閣・第1次森内閣)、衆議院厚生労働委員長、自由民主党政務調査会長(第58代)、自由民主党国会対策委員長(第52代)、自由民主党経理局長、自由民主党広島県支部連合会会長を歴任した[5][6][7]。
来歴
生い立ち
広島県出身の通商産業省(現:経済産業省)の官僚であった父・岸田文武の元に東京都渋谷区で生まれる[1][8]。親の教育方針もあり、文雄は東京で育てられた[9]。岸田家は広島の一族であるため、一家は毎年夏に広島に文雄を連れて帰省し、文雄は広島原爆の被爆者たちから当時の話を聞いた[10]。岸田一族も多くが被爆し、死に至った者たちもいた[10]。
1963年、父の仕事の関係でアメリカ合衆国ニューヨーク市に居住し、小学校1年生から3年生まで3年間、現地の公立小学校に通う[11]。 1963年秋から「PS 20」に通ったのち、1964年春からクイーンズ区の近隣住区エルムハーストに位置する「PS 13 Clement C Moore School」に通った[10]。
1964年春からクイーンズ区の近隣住区エルムハーストに位置する「PS 13 Clement C Moore School」に通った[10]。
1966年6月にパブリックスクール3年次を修了[注釈 1]して日本に帰国。7月に永田町小学校(現:麹町小学校)の3年次に転入。麹町中学校を経て、1973年に開成高等学校に入学[12]。野球部に入部し、高校生活を野球に捧げ、その傍らでロック/フォークの流行に影響を受けギターに打ち込む[12]。
早稲田大学法学部卒業。
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/16042.html
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