1. 仏も生まれ変わる法華経[1] laeC4JC2gtyC6pXPgu2C6ZZAidiMbw 2021年12月20日 16:40:03 : HV5OehK4pk :TOR WC56NXpMUmRGakE=[100]
聖武天皇の時代光明皇后が信奉していたのは
確か「法華経」ではないだろうか
「法華経」によれば「釈迦」は確かに「宇宙」からの使い
であったが
使命を完全に果たすことが出来なかった未完成の「仏」が
「釈迦」であるという
衆生救済の為に「仏自身」も何度も生まれ変わり「この世」に
登場するという
なんだかウルトラマンシリーズ的子供だましチックな方便が
されているようである
「いろいろな姿」で登場するがそれは要は借り衣
すべては「仏」の被り物だということになろうか
以下適当にリンク
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法華寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある光明宗の本山の寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、1999年(平成11年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。
歴史
藤原不比等の邸宅跡に造られた光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる[1](門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。この宮寺を「法華寺」と称したことが文書で確認できるのは、2年後の天平19年(747年)からである。
治承4年(1180年)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。
鎌倉時代に入り、東大寺大仏殿の再興を果たした僧・重源は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊によって本格的な復興がなされた。
その後、明応8年(1499年)12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされると、永正3年(1506年)7月、再び攻め込んできた赤沢朝経によってまたも焼き討ちされた。そのうえ文禄5年(1596年)には慶長伏見地震にもあって、最終的には東塔以外の建物を失った。
法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、1999年(平成11年)に創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、光明皇后にちなんで「光明宗」と名づけ離脱・独立した。
https://ameblo.jp/duku510/entry-11783107807.html
日蓮の前から法華経を大切にしていた人が居るんですーその15
2014-02-27 07:57:22
日蓮の謎
前回は→その14 最初から→その1
前回のお話しの中で
「日本に来た景教徒の李密医(聖務天皇(しょうむ)・光明皇后の時代701〜760AD)は、新約聖書のマタイの福音書を持って、21隻の船の一つに乗り、韓国のある島を経て、日本に来たと9年前の毎日新聞の記事で報じられていました。
李密医は日本に来て、天皇から位を授けられています。
と阿刀氏がおっしゃってますが、実はこの医者が日本に来た時にこんなエピソードが有ったんです
【息子の病気が治った奇跡】
後継ぎになるべき息子が、白血病と思われる病気で生死を彷徨っていた。
その際に上の医者さんが関わって居ます。
皇后は通訳を道してマタイ八章を呼んだ。それはキリストによる病人の癒しが書いてあるところだ。
李密医は皇后に尋ねた。<弥師や(メシヤ)が彼を癒してくださることを信じますか><公にはできませんが信じます。>こうして李密医と皇后はともに祈った。
すると息子の病は奇跡的に癒されたそうだ。彼女の心は感謝で満ち溢れた。それで以後、光明皇后は慈悲の働きを積極的にするようになった。
〜以上〜
この様な出来事からも彼女は景教の教えに感激したとも容易に考えられますね。
そして彼女は、仏教に篤く帰依し
東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられています。
ウィキペディアより引用→こちら
実に信心深かった様子です。
また、彼女は、奈良の法華寺の開基で観音様信仰を持ってます。
法華寺(ほっけじ)→引用先はこちら
奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、平成 11年(1999年 )に同宗を離脱し、光明宗と称する。
※真言律宗とは真言密教の一派です。真言宗と言う事はどちらにしても景教の影響が有るという事でしょう。
東大寺についての記述です。
キリスト教のHP様よりお借りしました。元記は→こちら
景教に関連があると思われる史跡を見てきました。
以下の文は日本景教研究会のメンバーであり、研究会の運営委員でもあるハウディシェル・ブラッドフォード氏(高校英語教師<奈良の資料から参考にさせていただきました。
東大寺二月堂で行われるお水取りの儀式には、原始キリスト教で行われた大変よく似たものが多く見られる、とのことです。以下がその抜粋、要約です。
●天平勝宝8年に描かれた東大寺の古図には二月堂の図が無く、代わりに「神の地」と書かれている。
●昔のキリスト教の聖堂はみな東に向かって礼拝し、祭壇は東に、礼堂が西に位置している。奈良のすべての寺は南に向いている。東大寺、薬師寺、唐招提寺、法隆寺など全て南大門から北方に建てられている。しかし、二月堂だけは礼堂は西にあり、内陣が東に建てられている。
●修二会の行われる期間中には「六時」と称する観音様に対する祈りの時が六回(日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝)ある。更に昼の12時にも1時間の祈りの時間があり、1日7回の祈りをする。キリスト教の神父たちも昔から、毎日詩篇を教会や修道院で一堂に7回集まって祈りをする。
●その他に「神名帳」の朗読があり、「秦の大明神」というのが3回唱えられる。大仏建立の頃、中国から中臣名代が19人の外国人を連れて渡って来ており、その中に3人のペルシャ人がいた。
●3月1日の暮れ方に呪術(悪魔祓いの僧)が様々な種類の穀物の種を捧げて豊作祈願をする。キリスト教国では春の満月の後、即ち復活祭の後に全ての穀物がよく実るように祈祷祭が行われる。
●3月7日に行われる「小観音」の儀式では、「小観音の逗子」を礼堂の左側に運んで礼拝する。
キリスト教会では復活祭前の土曜日に、復活のキリストの蝋燭の儀式がすんだ後、外から厳かに水を教会に運ぶ儀式がある。
このように二月堂で行われる儀式では原始キリスト教の儀式と非常に似た側面がある。
〜以上です〜
この様に日蓮が出る前から、法華経を大事にしてた方々が居られると言う事ですそしてそれらを全て頭に入れて、とある物を見て行くと非常に面白い事が見えてきます(*^^)v
https://open.mixi.jp/user/738773/diary/1955507398
2016年09月16日07:33
古代日本の転換点15−光明皇后が恐れ憎んだ聖徳太子の正体
●無残に打ち砕かれた安宿媛の夢、失われた現実との絆-----------------
呪われた自分の宿命から救われるべく「金光明経」と「法華経」に光を見いだし、「13−聖徳太子の遺志を継ぐ聖武天皇と光明皇后」で見たとおり、まるで聖徳太子の手足となって働いた安宿媛。
それはまるで、聖徳太子を「代理父」となし、「金光明経」のエピソードに出てくる女性・福宝光明を「代理母」とみなし、自分はその子供であるかのように通称を「光明子」(光明の子)に代えてまで善行を積むことを自分に課した安宿媛。
特に、天然痘がはやりだしてからは、その害が一族に及ばないように法華経講読の法会や五千余巻の経論の書写という大事業を始めたり、法隆寺に施入したり・・・大車輪でした。
けれど、それまでの約20年に及ぶ努力の数々をあざ笑うかのごとく、その翌年、なんと藤原四兄弟全員が亡くなったのです(737)。この衝撃と無力感は、尋常ではなかったことでしょう。
716年に首皇子の皇太子妃となって以降、夫・聖武天皇とともに聖徳太子の手足となって教えを広め、持統&不比等が封印した神(アマテル&瀬織津姫)を蘇らせてきた20年。
ハンセン病者の膿を自ら口で吸い出したという伝説まで作られる程、その姿を(cが想定する誰かに)見せてきた20年。
それは、善行を積むことによって将来菩薩に生まれ変わりたいという悲願でした。その悲願の活動は、畿内七道地震によって激しく揺さぶられ、そして、藤原四兄弟滅亡によって無残に打ち砕かれたのです。
特に自分の後見人であった次兄・藤原房前の死は衝撃だったと思われます。親から愛を得られない子供達は、兄弟で親子をする場合がありますが、おそらく安宿媛にとって房前は代理父親だったでしょう。どれほど慕っていたのかが、翌年藤原房前の一周忌に法隆寺に施入したことでもわかります。
もしかすると、この虚構界で唯一リアルを感じることのできた“肉親の情”。それがあったからこそ、別人(光明子)となって頑張ることができたのかもしれません。そのかろうじて繋がっていた現実との絆を無慈悲に奪われ、自分を天涯孤独に突き落とした怨霊。
どんなに善行を積んでも無駄と言われているのか、こんなものでは足りないと神はまだ私を試されているのか・・・安宿媛は、凄まじい思いの中にあったのではないでしょうか。そして、そのやりきれない思いは、神ではなく怨霊に向かったことでしょう。
●不気味な聖徳太子等身像(救世観音像)---------------------
兄たちが亡くなった年、その4兄弟分とも言える経を納める箱を法隆寺に奉納していますが(737)、もし菩提を弔うなら国営となった立派な氏寺・興福寺があります。それを興福寺ではなく法隆寺に対して行っていることで、法隆寺におわす霊に対して捧げた、もしくは鎮魂の行為だとわかります。
けれど鎮魂するだけではありませんでした。739年には聖徳太子一族の斑鳩宮跡に法隆寺の東院(上宮王院)を造営したのです。表向きは聖徳太子の供養塔として建立され、その眼目が夢殿でした。
そこに救世観音像が安置されたわけですが、それは聖徳太子等身像と言われており、なぜか封印されました。そして、明治になってようやくのことフェノロサの手によって、その封印が解かれたのです。
その像は白布でぐるぐる巻きにされており(まるでミイラ)、フェノロサらがそれを開くときに、僧たちは恐れをなして逃げ出したという曰く付き。
開いてみると、なんと観音の頭の後ろの部分と心臓の後ろの部分に光背が釘で打ち込まれていました! まるでドラキュラ。
ドラキュラのように封じた後、さらにミイラのようにグルグル巻きにして、それを決して現実世界に出てこられないように「夢」殿に封じて・・・二重三重に結界を張り巡らせています。
まるで藁人形に五寸釘を打ち付ける「丑の刻参り」を、仏像でやったかのような・・・なんとも不気味ですね。
http://www.asyura2.com/21/cult35/msg/211.html#c1