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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100547
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[近代史5] 韓国のN番部屋事件 _ 性器に覚醒剤&虫、少女逆立ち性行為、男児強姦、母絶叫…報道規制かかる残虐実態! 中川隆
1. 中川隆[-13109] koaQ7Jey 2022年5月04日 07:32:54 : bIRA8dpGG2 : VkkvUzNkSjY1aC4=[4]
女性に性的暴行、身体に虫を入れさせる動画を…史上最悪のデジタル性犯罪「n番ルーム事件」、“懲役42年”の意味
菅野 朋子2021/10/19
https://bunshun.jp/articles/-/49385


 10月14日、韓国の最高裁判所はデジタル性犯罪「n番ルーム」事件で「博士ルーム」を運営していたチョ・ジュビン(26歳)へ懲役42年を宣告、刑が確定した。

 判決は、児童・青少年の性保護に関する法律違反、淫乱物を製作し配布及び犯罪団体を組織した疑いなどによるもの。10年間の身元公開、児童・青少年関連機関や障害者の福祉施設での就業制限、そして出所後30年間、位置追跡のための電子足輪を付着すること、1億ウォン(約980万円)あまりの追徴金なども科せられた。

残酷さが際立っていた、大規模なデジタル性犯罪事件
 韓国でのデジタル性犯罪史上、懲役42年の実刑は前例がなく、ネット上では「ようやく被害者にも目が向けられた判決が出た」「いまだに加害者中心主義だ。量刑はまだ軽い」などの声が飛び交っていた。


「n番ルーム」は大規模なデジタル性犯罪事件であり、その中でも「博士ルーム」は残酷さが際立っていた。

2020年3月25日、初めて公の場に姿を晒した「博士ルーム」の主犯格、チョ・ジュビン容疑者(当時)©共同通信社

 事件が公になったのは昨年(2020年)3月。主犯格のチョ・ジュビンが逮捕され、犯罪の詳細が報じられると、韓国社会は騒然となった。

 犯人の身元公開を求める声が高まり、3月25日、チョはソウル市内の警察署の正門で姿を晒した。悪びれる様子はまったくなく、「止められなかった悪魔の生き方を止めていただいて本当にありがとうございます」と言い放った。当時、プロファイラー(犯罪心理分析官)は、「まだ支配者を気取っている」と分析していた。

 チョはソウル市郊外の短大で情報通信を専攻。成績は優秀で保育園でボランティア活動もしていたことが分かっている。

「n番ルーム」とは、サイバー上に作られた複数のチャットルームの総称で、創設したのはチョとは別の人物だ。2017年1月頃から存在し、19年2月頃には8つの秘密のルームが開設されており、チョは「博士ルーム」を2020年2月頃まで運営していた。ルームでは女性の性的写真や動画を流布し、いずれも有料会員制だった。

女性に性的暴行を加えたり、身体に異物を入れさせる動画が
「博士ルーム」では、女性を「奴隷」と呼び、写真や動画を公開する前の待機画面は「奴隷たちが待機中です」だった。動画は女性を性的暴行したものや、さらには、便器の水を飲ませたり、身体に虫などの異物を入れさせたりする姿などを撮影した映像もあったという。

 セキュリティが高いといわれるチャッティングアプリ「テレグラム」を利用し、まず会員を無料の「お試しチャット」で誘引。その後、「もっと刺激的な内容を」という宣伝文句とともに入場料を20万ウォン(約1万8000円)から最大150万ウォン(約14万7000万円)に設定していた。入場料は映像を製作する“支援金”と嘯き、仮想通貨で取引。チョは数億ウォン(約数千万円)を稼いでいた。

 被害者は確認されただけで74人ともいわれ、確かな数字は公になっていないが、14歳から18歳までの未成年者の被害者が相当数含まれていたことが判明している。


チョ・ジュビン容疑者(当時、中央)。 「博士」という特別なニックネームをつけたのは、この犯罪では自分がトップであるという自信の表れ。支配欲、統制欲が高いとされる ©AFLO


組織的に運営されていた「ルーム」の実態
 チョは「博士ルーム」を組織的に運営していたとみなされている。組織は大雑把に「被害者誘引」、「性的搾取物の製作」、「性的搾取物の流布」、「映像収益金の管理」の4つに分かれており、まず、SNSに「モデルのお仕事」や「オンラインでのデートアルバイト募集」のような文言をアップし、問い合わせをしてきた女性に顔や手を撮影して送るように促した。

 写真が送られてくると、金銭をいったん振り込み、その後、採用契約書を作成するためと偽って連絡先を送らせた後、ハッキングや役所で働く“部下”を使って女性の詳細な身元を入手した。その後、性的な写真を撮らせ、これを拒絶されると、ネットに写真をばらまくなどと脅迫。生活費のために応募した被害者のひとりは、報復が怖くて両親には言えなかったと告白している。

 さらに女性たちのもとへ製作部隊を送り込み、性的に暴行するシーンなどを撮影。それらを有料会員に流していたのだ。情報漏洩を防ぐために会員にも身元を明らかにさせるという周到ぶりで、それでも博士ルームの会員数は重複している者も含めて1万5000名ほどいたといわれている。


被害に遭った後、自ら命を絶った被害者も
 流布されていた映像の中には、「女子中学生が拷問される姿や自傷行為を強要される映像も含まれていた」と韓国で犯罪心理学の第一人者として知られるイ・スジョン京畿大学犯罪心理学科教授は言う。

「博士ルームでは、“グルーミング”という、まだ幼い子どもたちの心理を利用して接近し手なずける方法を使って、中学生などを誘引し、身元を確認して脅迫に及び、性的搾取物を撮影していました。モデルの仕事といわれてもまだよく判断がつかない年齢です。被害に遭った後、自ら命を絶った被害者もいました。

 皮肉なことですが、n番ルーム事件の後、韓国では性犯罪における被害者への理解を高めることになりました。被害者の中に未成年者が相当数いた事実が分かり、韓国社会に未成年者は絶対的に保護すべきだという認識が共有されたのです。これまでは性犯罪事件では巻き込まれた未成年者も共犯者とみなされましたが、n番ルーム事件での被害者はひとりも処罰されずに支援を受けています」


懲役42年は「厳罰に処する」という裁判所の強い意志
 チョの逮捕からひと月後、検察は被害者への法律的な面からの支援に乗り出し、5月には、性的同意年齢(性行為の同意能力があるとみなされる年齢)もそれまでの13歳から16歳に引き上げられている。ちなみに同年齢は、米国では16〜18歳、英国、カナダなどで16歳、ドイツは14歳となっていて、日本にいたっては13歳と低い。

 チョは一審では無期懲役を求刑されたが、判決は懲役45年となり、控訴審では懲役42年に減刑された。これは、いわゆる加害者が裁判所に提出する反省文や奉仕活動などによるものだが、チョは、被害者へ脅迫も強要もしなかったとして被害者を証人として法廷に立たせることを要請したといわれ、減刑のための“加害者のための反省”だったことが分かる。イ教授は量刑についてこう説明する。

「無期懲役を宣告しても20年くらい過ぎると仮釈放の審査を受け始め、遅くとも30年くらいで釈放となります。懲役42年という無期懲役よりも軽いと思う人もいるようですが、チョ・ジュビンの犯行は組織的にルームを運営していた性犯罪であったという点から、裁判所が無期という曖昧な刑罰ではなく、厳罰に処するという強い意志を表したものだと思います」

海外では加重主義により懲役数百年、十数万年なども
 韓国ではn番ルーム事件を契機にデジタル性犯罪についての法改正と共に量刑についての論議も始まり、最高裁の量刑委員会は昨年末、デジタル性犯罪の量刑基準を最高懲役29年3カ月に引き上げることを決定していた。今回のチョへの懲役42年は、この新しい量刑基準に則ったものといわれている。

 ペ・サンフンソウルデジタル大学警察学科教授は今回の最高裁の判決は性犯罪における加重主義の先駆けとなったのではないかと話す。

「性犯罪事件においてもひとつひとつの量刑が軽すぎるのではないかといわれており、今回のチョ・ジュビンの場合は性犯罪において刑罰を合算する加重主義を補完するものになったのではないかと見ています」


 海外ではこうした加重主義により懲役数百年、十数万年なども珍しくない。

チョ・ジュビン容疑者(当時) 支配しやすい被害者を選んでいた ©AFLO
チョ・ジュビン容疑者(当時) 支配しやすい被害者を選んでいた ©AFLO
決して対岸の火事ではない
 チョ以外の「博士ルーム」の共犯者7人は、それぞれ懲役12年から17年、未成年者ひとりには長期で懲役10年、短期5年が確定し、有料会員だった2人についてもそれぞれ懲役7年と8年が確定している。

 また、n番ルームを最初に開設したムン・ヒョンウク(25歳)は控訴審で懲役34年が言い渡されており、最高裁の判決に注目が集っている。

 チョ・ジュビンへの懲役42年の意味について前出のイ教授は言う。

「懲役42年によってデジタル性犯罪が十分に抑えられるとはまったく思いませんが、この事件により、児童・青少年性犯罪において未成年者が保護されるべき対象となり、被害者にも目が向けられるきっかけになったと思います。性的同意年齢が16歳まで引き上げられたことの意味は大きいです」

 翻って日本の「性的同意年齢」は明治時代に制定されてから「13歳」のまま変わっていない。こうした議論はどこまで進んでいるのだろうか。デジタル社会にあってn番ルーム事件も決して対岸の火事ではない。


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[近代史5] 韓国のN番部屋事件 _ 性器に覚醒剤&虫、少女逆立ち性行為、男児強姦、母絶叫…報道規制かかる残虐実態! 中川隆
2. 中川隆[-13108] koaQ7Jey 2022年5月04日 07:37:09 : bIRA8dpGG2 : VkkvUzNkSjY1aC4=[5]
女性を「奴隷」にする卑劣な手口……韓国の残酷わいせつ動画配信「n番ルーム」のおぞましい実態
菅野 朋子2020/04/01
https://bunshun.jp/articles/-/36966


「止められなかった悪魔の生き方を止めていただいて、本当にありがとうございます」

 台本を読むかのような、淀みない口調だった。

 3月25日、「n番ルーム事件」の犯人のひとりの身元が公開された。もっとも残酷でおぞましいとされた「博士ルーム」を運営していたチョ・ジュビン(24歳)は鍾路警察署の正門に姿を現わすと、200人ほどの報道陣を前に質問には答えず、言いたいことだけを淡々と語った。性犯罪容疑者としては異例の身元公開だった。


 チョの容疑は、児童猥褻物制作と強制性交、脅迫、強要、詐欺など全部で7つ。

「n番ルーム」とは、サイバー空間に作られた複数のチャットルームの総称で、「博士ルーム」はその中のひとつ。チョの共犯として13人も検挙された。

警察署の留置場の洗面所に頭をぶつけて自害行為をしたと伝えられたチョ・ジュビンは、首にはギプスをはめ、頭には絆創膏を貼って現われた ©AFLO

 チョは2018年9月から「博士ルーム」を運営していたとされ、ここで、未成年者を含む女性の性的写真や動画などを流布し、閲覧させることで、数億ウォン(約数千万円)もの大金を稼いでいた。家宅捜索では、自宅から1億3000万ウォン(約1300万円)の現金が見つかっている。

「博士ルーム」では、女性は「奴隷」
「博士ルーム」の中は、写真や動画の内容別にさらに3つのチャットルームに分けられていた。「お試しチャットルーム」は無料だが、そこで好奇心をくすぐった後、各ルームに誘引。写真や動画の内容により、入場料は、20万ウォン(約2万円)から150万ウォン(約15万円)」と引き上げられていく仕組みだった。会員は1万人ほどといわれたが、その後の捜査で、チャットに参加した1万5000人ほどのハンドルネームを警察が押収している。

 被害女性は確認されているだけで74人。この中に未成年者は16人いた。

 手口は卑劣だった。チョは、SNSに「高額スポンサー、アルバイト募集」のような文言をアップし、問い合わせをしてきた女性に「簡単なアルバイト」と説明した後、顔と手が映った写真を送るよう促したという。

 写真が送られてくると、ハッキングや役所で働く人物を使って女性の身元を調査し、確認。その後、今度は性的な写真を送ることを要求した。相手が断ると、身元情報を入手していることをもとに脅迫。性的な写真を送るよう指示し、さらには、人を使って女性を暴行するなどした映像を撮影し、「博士ルーム」で流していた。

 会員は入場料をそうした映像製作の“支援金”と嘯(うそぶ)いていたという。「博士ルーム」では、女性は「奴隷」などと呼ばれ、蔑まれた。


マスコミ志望の大学生が暴いた
「博士ルーム」や他の「n番ルーム」もラインのようなチャッティングアプリ「テレグラム」を利用していた。「テレグラム」本部はロシアにあるともいわれるが、真実かは定かではない。

 韓国紙記者が言う。

「テレグラムは、ロシア政府が事件の捜査に協力するよう求めた際にそれを拒んだ逸話があり、韓国の若い世代には“反権力”の存在として、そして、セキュリティが高いという認識が広まって、人気が出たといわれています。


 今回、そのセキュリティが高いといわれたテレグラムからどうやって『博士ルーム』などの『n番ルーム』の存在が暴かれたのかにも関心が集まりました。デジタル性犯罪の撲滅を目的に活動している市民団体が会員を装って、ルームに入場し、会話などをキャプチャー。それを証拠として警察に捜査依頼を行ったことが捜査のきっかけだったといわれています」

 中でも、「博士ルーム」の存在は、マスコミ志望の大学生が暴いたことが報じられた。


 韓国のプロファイラー(犯罪心理分析官)の第一人者は捜査過程をこう解説する。

「警察はたれ込まれた情報をもとにまずIPアドレスを突き止めました。しかし、犯人は身元を追跡されないよう、自宅ではネットを使わず、ネットカフェやWi-Fiがある公共の場、移動中のバスの中などで投稿していた。警察はそれぞれの場所を特定し、出入りする人物を洗い出し、クロスチェックしながら容疑者を絞りました。

 容疑者が絞られてからは、携帯や自宅のパソコンのハードディスクにある動画などを押収して逮捕。また、今回は、入場料はビットコインなどの仮想通貨を使っていたものの、仮想通貨を現金に交換する際は、実名を用いなければならず、そこからも足がついたと聞いています」

サイバー空間では簡単に他人をコントロールできる
 逮捕されたチョは、ソウル郊外にある短大で情報通信を専攻。成績は優秀で大学新聞の編集長も務めた。幼い頃からの知り合いは、チョに元々女性を嫌悪するような傾向もあったものの、チョの家が貧しいため、今回の犯行の一番の目的はカネだったのではないかと韓国メディアに話している。前述のプロファイラーはこう分析する。

「チョの目的は、他人を支配することです。人をコントロールすることが目的で、権力志向でもある。自分が上に上って権利を掴むのなら良かったのかもしれませんが、他人を貶めて自分の権力を高めようとした。おそらく、サイバー空間では意外にも簡単に他人をコントロールできるということをある瞬間、知ったのだと思います。
サイコパスを支配するサイコパス「スーパープレデター」
 米国では2000年代になってスーパープレデターという概念が現われました。サイコパスを支配するサイコパスを指し、サイコパスを通して利益を得ようとする存在です。米国では警察も怖れるといわれる10代後半から20代前半のギャングのリーダー格を先生、教授、博士、ドクターと呼んでいました。『博士ルーム』の『博士』というネーミングがどういう概念からきたのかはわかりませんが、スーパープレデターという概念を知っていて使ったのであれば、自分をどう分析していたのか」

 チョは「博士ルーム」を運営しながら、実生活では保育園のボランティアなども行っていて、その二面性に注目する犯罪心理学者もいる。「博士ルーム」の実態は捜査が始まったばかりでまだ不明な点も多い。チョ・ジュビンが「博士ルーム」を運営していた「博士」だとされたが、別の犯罪心理学者は、「チームで動いていた可能性もある」と指摘している。


 チョは冒頭の身元公開で、“悪魔発言”の他にも、ケーブルテレビ局・JTBC社長や元光州市長らの名前を実名であげ、「迷惑をかけた」と謝罪した。JTBCは朴槿恵前大統領弾劾のきっかけとなったタブレットパソコンの存在を暴き、当時アンカーだった社長は一躍時の人となった。いずれもチョにより脅迫されたり、だまされたりしており、JBC社長は殺害までほのめかされたことが明るみにでた。ふたりとも、要求されるまま送金しており、JTBC社長は2000万ウォン(約200万円)を振り込んでいるが、詳細はまだ闇の中だ。


悪魔という表現も自己顕示欲を満たすため
「有名人の名を口にしたのはメディアや世論の関心を『n番ルーム事件』から逸らす意図もあったでしょうし、また、そうした誰もが知る人物でも簡単に操れる、意のままにできるという、自分の偉大さを誇示する目的もあったでしょう。悪魔という表現を使ったのも自己顕示欲を満たすためだった」(前出プロファイラー)

 異例の身元公開の背景には世論がある。青瓦台(大統領府)のHPにある国民請願の掲示板に書き込まれた「テレグラムn番ルーム(犯人を)身元公開およびフォトラインに立たせてください」には5日間で史上最高となる200万人あまりの賛同の声が集まり、文在寅大統領も署名に言及。警察も動かざるを得なくなった。


 掲示板には、「n番ルーム」の会員の身元公開を要求する請願も書き込まれており、こちらにも199万人あまりの同意が集っている。

 チョが逮捕された後、大手ポータルサイトの検索語で上位に上がっていたのは「テレグラム脱退」関連で、「n番ルーム」への入場手続きは複雑で偶然入場することはできないにもかかわらず、「偶然見てしまったが処罰されるのか」という書き込みも多くみられた。

 また、「n番ルーム」の運営者の中には一転、自警団と自称し、会員の名前を警察に提供し始めた者もいる。メディアは当初、そうした運営者らを単なる自警団として好意的に報じたりもし、事件の複雑さを際立たせている。


高額を稼いていたが、車も持たず、賃貸で暮しているなど、チョの暮しぶりは質素だったと伝えられている ©AFLO

法の空白をついたデジタル性犯罪
「n番ルーム」は過去にあったデジタル性犯罪の延長線上の産物という声も上がる。韓国ではこうしたデジタル性犯罪は1990年代後半から出現しており、チョはそうしたサイトと共に成長した世代といわれる。それを、さらに悪質に発展させたのが「n番ルーム」だったのだ。前出のプロファイラーはこう警鐘を鳴らす。

「韓国は、こうした犯罪を監視せず、捜査もしてこなかったし、逮捕されても量刑は軽かった。法の空白をついたデジタル性犯罪ともいえる。まずは法の整備が急務で、根絶できるとはいえないが、今の状況を改善していかなければならない」

 韓国で、過去、同じようなデジタル性犯罪で逮捕された中でもっとも重い量刑は懲役4年だった。これは日本も似たようなもの。一方、米国では終身刑になるケースもあるという。

 チョは検察に送致され、すべての容疑を認めており、「動機はカネだった」と告白したとも報じられた。裁判にも注目が集まる中、担当判事が亡くなった元KARAのメンバー、ク・ハラさんのリベンジポルノを担当し、相手の男性の量刑を軽くしたといわれる判事だと分かると世論はまた紛糾。結局、別の判事が担当することになった。


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[近代史5] 中国版N番部屋事件!_ 4歳幼女を強姦、小さい口で男の陰部を…会員数は本家の30倍以上の壮絶事件発生!
【閲覧注意・中国版N番部屋事件!】4歳幼女を強姦、小さい口で男の陰部を…会員数は本家の30倍以上の壮絶事件発生!
2020.04.04
https://tocana.jp/2020/04/post_150877_entry.html


 韓国「N番部屋事件」は、ネット犯罪史上、類を見ない凄惨さで世界に衝撃を与えた。そんな中、中国でも酷似した事件が発覚した。

参考:【N番部屋事件・閲覧注意】性器に覚醒剤&虫、少女逆立ち性行為、男児強姦、母絶叫…報道規制かかる残虐実態!

 中国「新民週刊」(3月30日付)は、中国国内のSNSや会員制サイトで、未成年の少女や幼い子供が性的な行為をさせられている大量の映像が、グループチャットで共有され売買されていることを伝え、“中国版N番部屋事件”として大きく報じている。

 記事によると、韓国でN番部屋事件が深刻化する中、新民週刊が中国国内のネットを使った性犯罪の調査を行ったところ、海外サーバーを使い、中国人向けに未成年者のポルノ動画の提供を行っていた巨大なアダルトサイト群の存在が確認されたのだ。
【閲覧注意・中国版N番部屋事件!】4歳幼女を強姦、小さい口で男の陰部を…会員数は本家の30倍以上の壮絶事件発生!の画像2
捜査対象となったサイト(画像は「今日頭条」より)
 サイト名はそれぞれ、「芽苗論壇」、「蘿莉网」、「〇楽园(〇は口へんに幼)」、「蘿莉天国」などで、中国語で幼女を意味する「蘿莉(ロリ)」などがサイト名に入っていることが分かる。この中で最も会員数が多いのが「芽苗論壇」というサイトで、会員者数はなんと860万人以上だという。サイトには、欧米や中国の幼い女児を映したポルノ動画の他に、中学生・高校生などのものも確認できる。動画の横には、内容を示す説明文があり、「4歳幼女」という言葉が確認できるものもある。

【閲覧注意・中国版N番部屋事件!】4歳幼女を強姦、小さい口で男の陰部を…会員数は本家の30倍以上の壮絶事件発生!の画像3
左上:女児にストッキングを穿かせてあげたけど慣れた感じだ、右上:動画をアップしてほしくてたまらない女児たち、左下:俺たちのかわいいロリ娘たち、右下:女の子たち、こっちにおいで。パパがこんなふうに同じことをしてあげるよ
 会員たちは、閲覧する動画の回数によって会費が3段階に分けられており、初級会員は月額333元(約5300円)、中級会員は月額666元(10700円)、上級会員は月額999元(約16000円)となっている。

同ポルノサイトを取材していた中国メディアの記者は、内情を次のように語る。
「出演させられていた女児には、出稼ぎに行った両親と離れ、農村部で祖父母や親類と暮らす、いわゆる『留守児童』が多く含まれていた。親の目が行き届かない留守児童は、性犯罪のターゲットにされることが多く、年少者の場合は性知識の乏しさから性被害を受けてもそれが被害だと認識しないケースも多く、表沙汰になりにくい。私が確認したものの中にも、自分がされていることの意味を全く理解していないようなそぶりの10歳前後の女児が、命じられるままに小さい口で男の陰部をくわえたり、同年代の男子3人に体を貪られている中学生くらいの女子などの見るに堪えない動画がありました」
【閲覧注意・中国版N番部屋事件!】4歳幼女を強姦、小さい口で男の陰部を…会員数は本家の30倍以上の壮絶事件発生!の画像5

 中国当局はネットユーザーからの通報や今回の報道を受け、3月28日から上記のサイトに対し、捜査を開始している。なお、現在までにサイトは全て閉鎖されており、捜査の進展に注目が集まっている。

 韓国の本家・N番部屋事件では、26万人の会員数が捜査対象となっているが、中国版では860万人もの有料会員がおり、ひとつの事件としては中国でも過去最多の人数が捜査対象になると見られている。中国当局は新型コロナウイルスの感染拡大は抑え込んだと豪語しているが、社会を揺るがす事件は続く。

参考:「今日頭条」ほか
https://www.toutiao.com/article/6809942906808304131/?wid=1651617594577

文=廣瀬大介
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1583.html
[番外地10] 遺族が吉田優樹や加害者の側かどうか
#268 2022/05/04 08:00
未解決な問題は
遺族が吉田優樹や加害者の側かどうか
だね。

[匿名さん]
#269 2022/05/04 08:04
遺族はなぜ吉田優樹をあそこ迄庇ったのかな。
廣瀬爽彩さんが吉田優樹に宛てた感謝の手紙は偽物だろうな。

[匿名さん]
#270 2022/05/04 08:15
おすすめに出てきて事件に興味があったから覗いてちまら
なんだろうなぁ
意にそぐわない視聴者を素人、もっと勉強して下さいとか見下さしたり、かける言葉が乱暴で傲慢だなあ
無視すればいいのに吊るし上げる物言いに不快感
もう2度と見る事は無いね

[匿名さん]
#271 2022/05/04 08:19
遺族が正しくて第三者委とフツが間違ってる可能性は??

[匿名さん]
#272 2022/05/04 08:22
きなこもちの話の方が正しくて、爽彩さんのお母さんの話が嘘だという可能性がかなり高いです。

きなこもちは爽彩さんがしょっちゅう家出していたと証言しています。
つまり朝帰りや外泊が多かったという事で、売春客とホテルに泊まっていたという事でしょう。

#282 2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

の「子供ほったらかしてる分際で」というのは、子供が朝帰りや外泊しているのをほったらかしてる
つまり娘が売春しているのをほったらかしてる、という意味でしょう。

売春に比べたらイジメなんか大した問題じゃないという事ですね。


お母さんは爽彩さんは中学に入るまでは明るかった、中学に入ってから暗くなった、と言っているけど
爽彩さんがPTSDやパニック障害になったのは小学生の時なので、小学校の時から暗くなっていた可能性が高いですね。

PTSDやパニック障害になるのはレイプされたり家庭内性虐待された場合が殆どなので、爽彩さんは小学生の時に既にそういう被害を受けていた可能性が有ります。

爽彩さんのお母さんの話は最初から最後まで信用できないですね。


#274 2022/05/04 08:24
サアヤさんが自殺か他殺かという問題は本来サアヤさんのお母さんがやるべき事なのに、自分では何もやらないからね。
サアヤさんのお母さん自体が加害者側の可能性もある。

そもそも、サアヤさんのお母さんは先生からも医者からも警察からも第三者委員会からも全く信用されていなくて相手にされていないんだ。
きなこもちの言っていた事のかなりは事実みたいだしね。
サアヤさんが家出ばかりしていたというのは、児童売春の為に外泊していたという事だよ。お母さんはそれを放置していたんだ。

#282 2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

というのはサアヤさんが売春の為に外泊するのをほったらかしている、という意味だろうからね。
担任は、売春に比べれば自慰動画の拡散なんか大した問題じゃないと思っていたんだ。

[匿名さん]
#275 2022/05/04 08:25最新レス
母親の愛人が児童売春組織と関係があるのかもしれないね:

#178 2021/07/09 15:54
不思議なことに、なぜか皆さん、母親が加害者側の手に落ちていない前提で考えてますよね?
私なら加害者、当然少年法に守られた子供を使っている大人ね、は加害者少年達に被害者の追い込みを始めさせる前に、母親を加害者側の男の女にする。
この点でも、外来者でキレイなシンママとその娘が狙われた。

#184 2021/07/09 16:20
被害者の母親は5年前から集団ストーカー行為を受けていた。
加害者側の大人は、成人女性よりも、児童ポルノや児童売春に使える少女が金を生む。高く売れる少女をどうやって手に入れるか?を考えれば誰が考えても同じ答えになる。
母親に言い寄って、関係を結ぶ。児童売春の隠し撮り用の部屋で、母親と男の成績行為を隠し撮り。
それをネタに母親も、ついでに売春強要。12歳の少女でさえ食い物にする加害者側の大人が、食い物にしやすい成人のシンママを食い物にしないと考える理由は?
市からの賠償金だって、母親を手中にしていれば加害者側のもの。
とことん、市外からの転入の小さい娘を持つ美人のシンママは、母子ともに死ぬまでしゃぶりつくしていると、考えない理由を聞きたい。

http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/468.html
[番外地10] 遺族が吉田優樹や加害者の側かどうか 中川隆
2. 中川隆[-13107] koaQ7Jey 2022年5月04日 08:38:29 : bIRA8dpGG2 : VkkvUzNkSjY1aC4=[9]
韓国のN番部屋事件では主犯は自分では直接には何もやっていない
吉田優樹も韓国のN番部屋事件の主犯を真似して、自分では何もやらなかったんだろな。

N番部屋では、被害女性たちは奴隷と呼ばれ、どんな要求も受け入れるしかなかったようだ。

・ある女性は、生配信中に刃物で自らの身体に「奴隷」の文字を刻まされた。
・またある女性は年端もいかない幼い男児と性行為を行うことを強要された。
・さらにカメラの前でレイプされた被害者もいた。
・大小便を飲み込んだりさせられた者もいた。
・虫を性器に挿入する者もいた。
・実際に視聴者に会い性行為をさせられた者もいた。
・最年少の被害者は、なんと11歳の女児だった。
(ネットでは6歳や8歳の被害者もいたとされているが、中・韓の大手メディアは11歳と報じている)
・刃物を突きつけられた少女が男子トイレの小便器で逆立ちして自慰行為
・浮浪者風の複数の男に輪姦されている30代くらいに女の傍で、男の子が「おかあさん!」と絶叫
・たらふく食事を与えられた女性が、最後に虫や汚物を食べることを強制され、嘔吐。しかし吐き出した嘔吐物も食べるように強制され、泣きながら手ですくって飲み込む。
・覚醒剤を陰部に塗りたくられた女性がバイブで責められまくり、白目を剥く
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/468.html#c2

[番外地10] 旭川いじめ事件は F君が kan国の「n番部屋事件」を真似してやった? 中川隆
1. 中川隆[-13106] koaQ7Jey 2022年5月04日 09:19:12 : bIRA8dpGG2 : VkkvUzNkSjY1aC4=[10]
旭川いじめ事件は F君が kan国の「N番部屋事件」を真似してやった?
kan国で起きた衝撃の性犯罪「N番部屋事件」、性器に覚醒剤&虫、少女逆立ち性行為、男児強姦、母絶叫…報道規制かかる残虐実態!
被害者女性は博士に「アルバイト」として募集され、応募時点で個人情報を提供させていた。そして応募に必要だからとセクシーな画像を渡させてから「家族に見せるぞ」と脅して、自慰行為などさらに過激な動画を撮影させていたという。性的な写真を撮らせ、これを拒絶されると、ネットに写真をばらまくなどと脅迫。生活費のために応募した被害者のひとりは、報復が怖くて両親には言えなかったと告白している。

2020年3月までの約一年半もの間、未成年者を含む74人もの韓国人女性が「博士」と呼ばれる人物らにネット上で脅迫された挙句、性的行為や人に見られては尊厳を失う関わるような姿を生配信させられていた。

 博士らは、Twitter上で様々な女性を物色し、その中から性的に露出の高い写真を投稿している若い女性らに罠リンクを送り付け、クリックしてしまった女性の個人情報を入手。または、「秘密のアルバイト」として募集した女性の性的な画像を撮影したうえで、「警察に通報する」「家族に知らせる」など脅迫していた。

N番部屋では、被害女性たちは奴隷と呼ばれ、どんな要求も受け入れるしかなかったようだ。

・ある女性は、生配信中に刃物で自らの身体に「奴隷」の文字を刻まされた。
・またある女性は年端もいかない幼い男児と性行為を行うことを強要された。
・さらにカメラの前でレイプされた被害者もいた。
・大小便を飲み込んだりさせられた者もいた。
・虫を性器に挿入する者もいた。
・実際に視聴者に会い性行為をさせられた者もいた。
・最年少の被害者は、なんと11歳の女児だった。
(ネットでは6歳や8歳の被害者もいたとされているが、中・韓の大手メディアは11歳と報じている)
・刃物を突きつけられた少女が男子トイレの小便器で逆立ちして自慰行為
・浮浪者風の複数の男に輪姦されている30代くらいに女の傍で、男の子が「おかあさん!」と絶叫
・たらふく食事を与えられた女性が、最後に虫や汚物を食べることを強制され、嘔吐。しかし吐き出した嘔吐物も食べるように強制され、泣きながら手ですくって飲み込む。
・覚醒剤を陰部に塗りたくられた女性がバイブで責められまくり、白目を剥く

などが報告されている。また、閲覧が有料であるにもかかわらず、累計26万人の会員が閲覧していた。全 kan 国人男性の100人に1人が性犯罪の画像・動画にお金を払った試算になる。


韓国のN番部屋事件の主犯は自分では直接には何もやっていません。
F君も韓国のN番部屋事件の主犯を真似て、自分では何もやらなかったんでしょうね。

▲△▽▼

F君は爽彩さんに、言う事を聞かないとこういう目に遭う、と忠告した?:

北九州監禁事件では
大便排泄を1日1回に限定し
全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した
勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた
言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った
一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ

chousen 民族はこういうことを好むのである
ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります

chousen 人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います
チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でしたchousen 人の李氏chousen もそうです。よって在日に監禁されると大変なことになります

殴る蹴るの基本的なものから、
タバコの火を押し当てる、
ハンダコテで体中焼く、
尿道にマッチ入れて火をつける、
zainichi が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える
大小便を食べさせる

など拷問の種類には事欠きません

女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、
全身にピアスを通され
穴という穴は拡張され、
zainichi が起こした女子コンクリ事件では
鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です

zainichiを日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです

かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁
少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます
何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります
尻の穴もそうなります、
栗には太いピアスがされるでしょう
SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、
厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります
こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします

▲△▽▼

爽彩さんを暴行しながら耳元でささやいた、ムダだって知ってるだろ…そして激しく暴行は続けられた パンパンパン 彼女は壊れてしまった…  


 爽彩さんが家に引きこもるようになった2019年の秋以降に描かれたイラストがここにある。それまで描いていた色彩豊かな調子はなくなり、色はモノトーンに。ある絵には「ムダだって知ってるだろ」との言葉が書き込まれていた。


――退院後、引っ越しや転校もされたと思いますが、爽彩さんの様子はいかがでしたか?
母:
退院した直後は窓から飛び降りようとしちゃったりとか。
入院中もそうだったんですけど、フラッシュバックが起こると「殺してください」「許してください」って叫んだり、白目をむいて泡を吹いて倒れちゃうとか。そういうことが一日に10回や20回、頻繁に起きていました。
だから目が離せないというか、時間が経って徐々に減ってはいたんですけど、それでも一日に数回はフラッシュバックが起きる状態でした。

急に泣いたり叫んでしまったり、震えたり、過呼吸が起きたり、吐いちゃったりとか。それが本当に1日の間に10回以上とか、ひどいときには20回以上、起きることが続いていた。(2021年9月27日放送)
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/467.html#c1

[番外地10] 事故のあと開かれた家族説明会で、運航会社「知床遊覧船」の桂田精一社長が「私の落ち度について」と題した文書を配っていたことが分かりました。

828 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 06:07:17 ID:vX0mBrlA [ softbank126094194018.bbtec.net ]
事故のあと開かれた家族説明会で、運航会社「知床遊覧船」の桂田精一社長が「私の落ち度について」と題した文書を配っていたことが分かりました。

この中で桂田社長は、運航基準によれば観光船は航行ルートの13地点で通過時刻や天候、波の高さなどを事務所に連絡する必要があったのに、事故当日はこうした連絡のやり取りや記録を行っていなかったとしています。
さらに、安全管理規程では、運航管理者である桂田社長は船の航行中、原則として事務所にいる必要があったのに、当日は病院に行くため事務所を離れ、ほかの社員に船長と連絡を取って航行状況を把握するよう指示も出していなかったということです。

そのうえで「運航基準通りにKAZU 1の運航を行っていれば、早期に帰港するなど事故の発生を回避できた可能性はあった」などと、運航基準に違反したことを認めて謝罪しています。

829 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 06:08:24 ID:vX0mBrlA [ softbank126094194018.bbtec.net ]
桂田精一は無期懲役だろ

830 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 06:33:26 ID:3/Oqju8Q [ 180.140.5.103.wi-fi.wi2.ne.jp ]
死刑だ死刑

831 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 07:40:00 ID:X3cMIdqA [ 59-171-81-141.rev.home.ne.jp ]
気軽に書き込んで書類送検される奴が続出だな

832 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 07:59:56 ID:IU3nnObQ [ 104.28.99.196 ]
26人全滅なら半世紀は語り継がれる海難事故になりそうだな

833 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 08:04:47 ID:n27v41zg [ mo49-107-131-219.air.mopera.net ]
>>831
桂田関係者発見

834 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 08:38:02 ID:dFTjA3mQ [ p1923188-ipbf2302sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
行方不明は海流で、
どこまで流れたのだろうか

835 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 09:47:18 ID:EGK4dGBQ [ p2574158-ipngn10901sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
外洋に出たら見つからないな

836 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 09:55:22 ID:Sq2SgyTw [ pda6e7a02.hkidnt01.ap.so-net.ne.jp ]
やるだけやって見つからなくて慰霊碑建てて式典やって
終わりだろね なんと虚しいことか

837 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 10:29:13 ID:9vCLTg/Q [ KD014101043085.ppp-bb.dion.ne.jp ]
慰霊碑立てれば地元で神主している桂田のトーさん毎日
亡くなった方のお参りが日課。

838 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 12:45:14 ID:EEoSqMNg [ p2271049-ipbf1125sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
桂田さん叩き酷いな
人間、落ち目にはなりたくないものだ
桂田さんはフツーの商売人だと思うぞ
大方の人間は大なり小なりいい加減に生きている

839 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 12:56:48 ID:tLRasFPg [ 115-179-43-120.east.fdn.vectant.ne.jp ]
テスト

840 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 12:56:55 ID:vX0mBrlA [ softbank126094194018.bbtec.net ]
いい加減では無く責任感が完全にゼロなんだよ

841 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 13:00:12 ID:vX0mBrlA [ softbank126094194018.bbtec.net ]
職人や芸術家なら良いものを作りたい
警官や消防官なら人を助けたい
サービス業ならお客さんに喜んでもらいたい
教育者なら生徒を立派な社会人に育てたい

と思うのが普通だ
しかし、桂田精一にはそういう所が全く無いんだ

842 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 13:30:30 ID:0WX4ZmSA [ i60-47-118-185.s41.a001.ap.plala.or.jp ]
死刑

843 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 15:09:14 ID:eVNZ5BGQ [ KD210198188181.ppp-bb.dion.ne.jp ]
>>838
桂田さんはフツーの商売人だと思うぞ と言う事は、
経営者はみんな法令違反をしているんだネ。
いい加減に生きていると言い切るほうがよっぽど酷いな。

844 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 15:12:56 ID:0WX4ZmSA [ i60-47-118-185.s41.a001.ap.plala.or.jp ]
懲役500年

845 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 15:25:32 ID:2HsBT0Hg [ KD175129130182.ppp-bb.dion.ne.jp ]
桂田をいくら叩いたところでどうにもならん。
問題は今後の斜里町の行く末だ。
文字通り傾いてしまうかも。
もう誰も知床観光に来ないかも知れん。

846 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 15:35:25 ID:2VcQMU3A [ p2266220-ipbf1122sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
集団でいじめて自殺しても
加害者は罪にならず

20数名遭難死亡しても
加害者は罪に?

847 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 15:37:15 ID:Sf2PrgoQ [ p1775033-ipbf1806sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
オレは桂田さんを存じ上げないから人柄を知らない
事故後に彼の悪行とやらを証言する人が湧いて出てきたけれど
それ程酷いのならなぜ誰も何らかの手を打たなかったのか?
放っておいた連中も今更よく言えるなと言うものだろ
落ち目になった人間を叩く嫌な連中だ

848 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 15:40:09 ID:vX0mBrlA [ softbank126094194018.bbtec.net ]
田舎の権力者に逆らうと村八分にされて
食べ物を売ってくれない、誰も口を聞いてくれない、ゴミを出させてくれない

849 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 15:42:14 ID:vX0mBrlA [ softbank126094194018.bbtec.net ]
子供がいるとみんなからイジメられて悲惨になる
墓石が墓地から外に投げ出される

850 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 15:44:17 ID:vX0mBrlA [ softbank126094194018.bbtec.net ]
娘がいると権力者の性奴隷にされる
逆らったら神隠しにあう

851 名前: なまらSTAY HOME 投稿日: 2022/05/04(水) 15:45:30 ID:vX0mBrlA [ softbank126094194018.bbtec.net ]
桂田精一先生の偉大さが良くわかったろ
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/469.html
[リバイバル3] 自分では真実に目覚めた、自分は変わったと思っているが周囲からは「壊れた」と思われる。
自分では真実に目覚めた、自分は変わったと思っているが周囲からは「壊れた」と思われる。


世の中に不満があるならまず自分を変える、のは辞めた方が良い

人間が急に変わるのはだいたい悪い方です




努力は実らず、他人は変わらない

某人気アニメの「世の中に不満があるなら自分を変えろ。」というセリフが広まり、あらゆる場面で都合よく使われている。

この考えは既に金や地位や権力を握っている人には都合よく、「社会は正しくお前が悪い」決め台詞として多用される。

現実の世界では社会と対立したり失敗に終わった時、自分を変えて成功する人はあまりいない。



成功者で多く見られるのは、自分は変わらないが方法を変えたり仕組みを変える等、自分を取り巻く環境を変えるような事です。

「Aという人格で失敗したのでBという人格にチェンジしよう」という人はうまく行かない気がします。

人間そう都合よく変われないし、自分は変わったと思っても周囲から見ると「壊れた」ように見えることが多い。



芸能人や有名人の洗脳騒動が定期的に出てきて、今も元女子アナで話題になった人の「人格が急に変わった」と騒動になっている。

自分では真実に目覚めた、自分は変わったと思っているが周囲からは「壊れた」と思われる。

それよりも自分を取り巻く環境を変えたり、目標を変えたり、仕組みを変えた方が自然に生きれると思います。


環境を変えるのは職場を変えたり結婚したり離婚したり、人間関係を変えたり、趣味や娯楽など色々あるでしょう。

自分を変えるのはほぼ不可能ですが環境は変えられるので、自分以外の要素を変える方が楽なのです。

自分を変えて頑張っても、周囲の人や社会は変わらないので、苦痛と徒労感を味わうと思います。



自分を変えても社会は変わらない

誰でも周囲の人とか社会に不満があると思いますが、自分がいくら努力しても社会は変わりません。

選挙のたびに「社会は変わる」と皆言いますが、変わるとしたら悪い方で、良いほうに変わる事は無いです。

例えば女性の地位は日本が低くアメリカは高いですが、「女性の幸福度」は圧倒的に日本が高くアメリカは低いです。


普通に考えると社会的地位が高いアメリカ女性は幸福度が高い筈ですが、精神疾患の割合は日本女性の数倍です。

アメリカ女性が来日して日本で暮らして、ストレスでノイローゼになったという話も聞いたことがない。

日本女性とアメリカ女性は社会との関わり方が違うので、「高い、低い」で幸福度は決まらないのです。


高い地位を目指して必死に生きても不幸になり、不合理な社会と折り合いをつけた方が幸福感が高い。

革命家とか左翼とか反政府活動の人達は、いつも社会に不満を持っていて幸せそうな人はまず居ない。

社会を変えようとしても変わらないし、自分を変えても社会は変わらないので、そうした方法ではストレスだけが増えます。


社会と自分との関係や仕組み、環境などの方を見直した方が良いです

https://www.thutmosev.com/archives/88124553.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1230.html
[近代史7] 「聖母たちのララバイ」 木森 敏之(1947年7月24日 - 1988年4月11日) 中川隆
2. 中川隆[-13105] koaQ7Jey 2022年5月04日 18:55:11 : bIRA8dpGG2 : VkkvUzNkSjY1aC4=[15]
聖母たちのララバイ 岩崎宏美 2000 昭和の歌
https://www.youtube.com/watch?v=8stEnG7VVCE
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/689.html#c2
[近代史5] 1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?
1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか?


中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

世の中は とても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている

包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため



▲△▽▼


中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D+%E8%AA%B0%E3%81%AE%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E9%9B%A8%E3%81%8C+


誰のせいでもない雨が降っている
しかたのない雨が降っている
黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている
眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも
すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は
眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は
時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は
されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている
日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと
早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を
沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと
跣(はだし)の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ


▲△▽▼


森田童子 - (best)僕たちの失敗 ベスト・コレクション
https://www.youtube.com/watch?v=qEMhYL6E2xA

0:00 ぼくたちの失敗
3:24 蒼き夜は
7:30 雨のクロール
9:30 蒸留反応
15:23 哀悼夜曲
18:38 孤立無援の唄
24:24 さよならぼくのともだち
28:26 逆光線
31:06 サナトリウム
35:48 男のくせに泣いてくれた
39:08 春 漫
41:50 G線上のひとり
45:26 ラストワルツ


森田童子が高校を辞めたきっかけは学生運動をしていた友人が警察に「パクられた」からで、歌い始めたきっかけは友人の死だったらしい。

「ぼく」は彼女自身だ。

なぜ「ぼく」になったのかというと、

「女系家族に育ち、女の嫌な部分、ドロドロした部分を見過ぎてしまって、女を感じさせる女性は苦手になってしまった」

(1983年ラジオインタビューより)

のだという。



学園闘争は当時の若者を揺り動かした一大ムーブメントだ。

彼女の「球根栽培の唄」や「みんな夢でありました」は学園闘争を色濃く反映した歌だとされている。

次は「きみ」として登場する人物だ。

これが誰だったかを考えてみると、彼女が高校をやめるきっかけになったとされている警察に逮捕された友人、そして歌を始めるきっかけになったとされている亡くなった友人が同時に候補として思い浮かぶ。それが一人なのか二人なのかはわからない。(同一人物なのかなあ?とは思っている。)


▲△▽▼


かぐや姫 神田川 1973年9月20日 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%8B%E3%81%90%E3%82%84%E5%A7%AB++%E7%A5%9E%E7%94%B0%E5%B7%9D


曲が進むにつれ、歌詞からは別の疑問も湧いてきます。

それは「貴方のやさしさが怖かった」という告白。

「やさしさ」が怖いとは、何を意味するのでしょう。

想像されるのは「相手が何か隠し事をしているのではないか」という疑念。

あるいは、経済的に困窮する中で「相手の『やさしさ』が、いつまで続くのだろうか」という不安です。

しかし、喜多條自身は後の新聞対談で、驚くべき真相を明かしています。

学生運動の最中、機動隊と衝突する激しいデモ活動に明け暮れていた自分。

疲れ果てて帰ると、学生運動と無縁の彼女は穏やかにカレーライスを作っている。

そんな彼女を見ていると、平穏な暮らしについ心を奪われそうになる。

しかし、それは活動家としての自分の信念を揺るがせることに他ならない。

自分のために料理を作る彼女の「やさしさ」こそが、自分にとって最も怖いことなのだ。

つまり、「神田川」のサビは、男性の視点で書かれた歌詞だったのです。

男女の目線が入り混じった歌詞


新聞対談の中で、喜多條はさらなる真相も明かしています。

横丁の風呂屋の外で待たされていたのは、自分でもあるということ。

当時の若い男性の間で流行していたのは、女性と見紛うような長髪。

喜多條は「神田川」の歌詞の語り手が男性であるか女性であるかは「よく分からない」とも発言しています。

過ぎ去った同棲生活を振り返る中で、濃密な時間を共にした男女の思いが交錯した曲。

それが「神田川」だったのです。



一世を風靡した「四畳半フォーク」の終焉は、あっけないものでした。

その理由は、世の中が急速に豊かになったから。

国民的規模でもたらされた経済的余裕は、若者の関心を消費生活、つまり物欲の充実に向かわせます。

若者たちは消費生活を犠牲にする「同棲」をしてまで、社会に抗(あらが)うことをやめました。

過去に追いやられた学生運動に郷愁を感じることもない彼らが熱を上げたのは、都会的な「ニューミュージック」。

重苦しい生活感を排した、ファッショナブルな歌詞とサウンドが特徴です。

荒井由実が1stアルバム「ひこうき雲」をリリースした75年、「かぐや姫」は解散します。



▲△▽▼
▲△▽▼


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1584.html
[近代史5] 1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか? 中川隆
2. 中川隆[-13104] koaQ7Jey 2022年5月05日 04:16:26 : m9zPNkFjnY : TEswdGJjbnltVDY=[3]

右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2018年3月31日
 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


▲△▽▼


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。

よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが

重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか

不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

ang********さん 2009/6/22 07:16:49
重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。

父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月7日
@mayshigenobu @cinematoday
重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?


P・グラレム‏ @pinkglalem · 2014年7月9日
@cinematoday @mayshigenobu
ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


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GHQ が終戦後に日本に導入した共産主義体制が「日本の強さ」 の秘密だった
共産主義者ばかりだった GHQは日本を意図的にインフレにして資本家の資産を奪い、一億総中流社会を作り上げた

一億総中流社会を作ったのは共産主義者のGHQ, 一億総中流社会を壊したのがグローバリスト
日本のバブル崩壊以前の一億総中流社会は共産主義者ばかりの GHQ が意図的に作ったものだった

ソ連・中共・東欧も含めた世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです。
特に自称社会主義国のソ連や中共は極端な階級社会で、下の階級の人間は絶対に上に上がれない社会でした。
戦後の日本が理想の共産社会に近い一億総中流社会になったのは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

何もやらなければ現在のアメリカみたいに、マルクスの預言通りの階級社会になるに決まっています。
平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。
ユダヤ国際金融資本と GHQ は日本を共産化しようとして農地改革と人為的インフレ生成・金融封鎖を行った
フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようと計画していた。

それで平等主義的な日本国憲法を制定、
農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後の人為的なインフレはそういう背景で起こされた 

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。



http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1584.html#c2

[近代史5] 日本の軍歌は世界の軍歌の中で飛び抜けた NO.1、日本兵が万歳突撃や神風特攻したくなる気持ちも良くわかる
日本の軍歌は世界の軍歌の中で飛び抜けた NO.1、日本兵が万歳突撃や神風特攻したくなる気持ちも良くわかる

日本の軍歌:露営の歌 (Field Encampment Song)
https://www.youtube.com/watch?v=6hceNfhDFWY

日本の軍歌:同期の桜
https://www.youtube.com/watch?v=sdUrucGfoH4


日本人には武人や軍人が一番似合っている。
アジア人が日本軍や靖国精神を何よりも恐れているのは当然なんだ。

ロシアの軍歌は愛を歌い、日本の軍歌は演歌的に神風特攻を賛美する

そもそもロシアや中国は日本とは反対に、有史以来外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。ロシア軍や中国軍なんか少しも怖くない。
その代わり、ロシア軍や中国軍は自国の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。防衛しかできない国なんだ。



[ソ連軍歌] カチューシャ 日本語歌詞付き Катюша
https://www.youtube.com/watch?v=sVk9eyAWxPk

作詞ミハイル・イサコフスキー、作曲マトヴェイ・ブランテル


咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に

カチューシャは歌い始めた
誇り高き薄墨色の鷲の歌を
彼女が深く愛する青年の歌
大事に持ってる彼からの手紙

おお 歌よ 乙女の歌よ
太陽をかすめ 鳥の如く飛んでゆけ
遠い国境の若き兵士の元へ
カチューシャの想いを届けるのだ

彼は思い起こすか 純真な乙女を
彼は聞くだろうか カチューシャの澄んだ歌声を
彼は愛すべき祖国の地を守り抜き
カチューシャは愛を強く守り抜く

咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に


▲△▽▼
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日本兵の残虐行為は覚醒剤が原因だった

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。


▲△▽▼


昭和天皇は対米戦争が八百長戦争だとバレない様に特攻までさせた

鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA  

戦争はすべて八百長(00:38:51)

熊毛郡田布施町 (00:00:21)

大室寅之佑 (00:03:48)

明治天皇の秘密 (00:03:55)

殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)

秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)

仕組まれた戦争 (00:15:35)

皇室スキャンダル (00:18:21)

大正天皇には、子種がない(00:18:39)

西園寺八郎 (00:19:26)

昭和天皇の秘密 (00:21:34)

昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)

死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)

住友と天皇家は、血族 (00:23:04)

秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)

天皇のための戦争(00:25:02)

戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)

昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)

真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)

海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)

パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)

天皇が内通していた(00:31:38)

スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)

天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)

終戦工作と白州次郎 (00:33:39)

ヨハンセングループ (00:34:17)

日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)

日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)

弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)

火事場泥棒なんです。(00:36:15)

こじつけ無罪論(00:36:19)

明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)

第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)

戦争はすべて八百長(00:38:51)

戦争は継続しなければいけない (00:40:48)

天皇が被爆に加担した(00:42:23)

白洲次郎の秘密(00:44:17)

吉田茂の秘密(00:46:20)

こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)


▲△▽▼
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日本の一般大衆に人気が出る音楽は軍歌とドスが効いた演歌だけ

津軽海峡・冬景色 石川さゆり 1977年
https://www.youtube.com/watch?v=8dCZHpoP2YI

藤圭子 圭子の夢は夜ひらく 1970年 紅白出場
https://www.youtube.com/watch?v=5SV1zpbIATU



「ダンシング・オールナイト」作詞:水谷啓二 作曲:もんたよしのり リリース 1980年4月21日
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88++1980%E5%B9%B4

「赤いアンブレラ」作曲:もんたよしのり リリース 1980年10月5日
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%B5%A4%E3%81%84%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A9+++%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%9F+++1980%E5%B9%B4


一方、欧米ではこういう色っぽい歌でないと人気が出ない:

ジュリー・ロンドン
Julie London-Boy on a dolphin - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QArtb3nCC8I

A beautiful song by Julie London, from the movie "Boy on a dolpin"(1957) with Alan Ladd, Clifton Webb and Sophia Loren.


▲△▽▼


ステレオサウンド 36号に瀬川先生の「実感的スピーカー論 現代スピーカーを展望する」が載っている。
     *
 日本のスピーカーの音には、いままで述べてきたような特色がない、と言われてきた。そこが日本のスピーカーの良さだ、という人もある。たしかに、少なくとも西欧の音楽に対してはまだ伝統というほどのものさえ持たない日本人の耳では、ただひたすら正確に音を再現するスピーカーを作ることが最も確かな道であるのかもしれない。
 けれどほんとうに、日本のスピーカーが最も無色であるのか。そして、西欧各国のスピーカーは、それぞれに特色を出そうとして、音を作っているのか……? わたくしは、そうではない、と思う。

 自分の体臭は自分には判らない。自分の家に独特の匂いがあるとは日常あまり意識していないが、他人の家を訪問すると、その家独特の匂いがそれぞれあることに気づく。だとすると、日本のスピーカーにもしも日本独特の音色があったとしても、そのことに最も気づかないのが日本人自身ではないのか?

 その通りであることを証明するためには、西欧のスピーカーを私たち日本人が聴いて特色を感じると同じように、日本のスピーカーを西欧の人間に聴かせてみるとよい。が、幸いにもわたくし自身が、三人の西欧人の意見をご紹介することができる。
 まず、ニューヨークに所在するオーディオ業界誌、ハイファイ・トレイド・ニュウズ≠フ副社長ネルソンの話から始めよう。彼は日本にもたびたび来ているし、オーディオや音楽にも詳しい。その彼がニューヨークの事務所で次のような話をしてくれた。
「私が初めて日本の音楽(伝統音楽)を耳にしたとき、何とカン高い音色だろうかと思った。ところがその後日本のスピーカーを聴くと、どれもみな、日本の音楽と同じようにカン高く私には聴こえる。こういう音は、日本の音楽を鳴らすにはよいかもしれないが、西欧の音楽を鳴らそうとするのなら、もっと検討することが必要だと思う。」

 私たち日本人は、歌舞伎の下座の音楽や、清元、常盤津、長唄あるいは歌謡曲・艶歌の類を、別段カン高いなどとは感じないで日常耳にしているはずだ。するとネルソンの言うカン高いという感覚は、たとえば我々が支那の音楽を聴くとき感じるあのカン高い鼻にかかったような感じを指すのではないかと、わたくしには思える。

 しかし、わたくしは先にアメリカ東海岸の人間の感覚を説明した。ハイの延びた音をノーマル≠ニ感じない彼らの耳がそう聴いたからといっても、それは日本のスピーカーを説明したことにならないのではないか──。
 そう。わたくしも、次に紹介するイギリスKEFの社長、レイモンド・クックの意見を聞くまでは、そう思いかけていた。クックもしかし、同じようなことを言うのである。

「日本のスピーカーの音をひと言でいうと、アグレッシヴ(攻撃的)だと思います。それに音のバランスから言っても、日本のスピーカー・エンジニアは、日本の伝統音楽を聴く耳でスピーカーの音を仕上げているのではないでしょうか。彼らはもっと西欧の音楽に接しないといけませんね。」

 もう一人のイギリス人、タンノイの重役であるリヴィングストンもクックと殆ど同じことを言った。

 彼らが口を揃えて同じことを言うのだから、結局これが、西欧人の耳に聴こえる日本のスピーカーの独特の音色だと認めざるをえなくなる。ご参考までにつけ加えるなら、世界各国、どこ国のどのメーカーのエンジニアとディスカッションしてみても、彼らの誰もがみな、『スピーカーが勝手な音色を作るべきではない。スピーカーの音は、できるかぎりプログラムソースに忠実であり、ナマの音をほうふつとさせる音で鳴るべきであり、我社の製品はその理想に近づきつつある……』という意味のことを言う。実際の製品の音色の多彩さを耳にすれば、まるで冗談をいっているとしか思えないほどだ。しかし、日本のスピーカーが最も無色に近いと思っているのは我々日本人だけで、西欧人の耳にはやっぱり個性の強い音色に聴こえているという事実を知れば、そして自分の匂いは自分には判らないという先の例えを思い出して頂ければ、わたくしの説明がわかって頂けるだろう。

▲△▽▼

日本語は世界一「難聴者」にやさしい言語

どの国の言語にもそれぞれ固有の周波数帯というものがあり、母国の言語を繰り返し聞いて育つうちにその周波数帯以外の音を言語として聞き取る脳の感受性が失われていく。

そのため生後11歳くらいまでには母国語を聞いたり発音する能力に特化した脳が出来上がる。

日本語で頻繁に使われる周波数帯は125〜1500ヘルツだが、これが英語ともなると200〜12000ヘルツとなって随分違う。日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。

したがって、英語民族は高齢になると早い段階で高い音が聞き取りにくくなって不自由を感じるが、日本人はすぐには不自由を感じない。その点で日本語は世界一難聴者にやさしい言語である。

※ これは一人で二か国の言語を操るバイリンガルの「臨界期」が10歳前後と言われる所以でもある。

また、英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多いが、これで謎の一端が解けたような気がする。その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がってくる。

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1585.html
[近代史7] 高橋真梨子 名唱集 中川隆
1. 中川隆[-13103] koaQ7Jey 2022年5月05日 05:19:31 : m9zPNkFjnY : TEswdGJjbnltVDY=[5]

高橋真梨子 / ダンシング・オールナイト (古選曲カバー・その2)


http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/785.html#c1
[番外地10] 日本人には武人や軍人が一番似合っています。
日本人には武人や軍人が一番似合っています。
日本の軍歌は世界の軍歌の中でも飛び抜けた NO.1
日本兵が万歳突撃や神風特攻したくなる気持ちも良くわかります。
日本人はすぐに洗脳されるんですね。
アジア人が日本軍や靖国精神を何よりも恐れているのは当然です。

▲△▽▼

日本兵の残虐行為は覚醒剤が原因だった

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。

特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。

出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。

九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。

日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。

この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。

▲△▽▼

ロシアの軍歌は愛を歌い、日本の軍歌は演歌的に神風特攻を賛美する

そもそもロシアや中国は日本とは反対に、有史以来外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。ロシア軍や中国軍なんか少しも怖くない。
その代わり、ロシア軍や中国軍は自国の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。防衛しかできない国なんだ。

日本の軍歌:露営の歌 (Field Encampment Song)
https://www.youtube.com/watch?v=6hceNfhDFWY

日本の軍歌:同期の桜
https://www.youtube.com/watch?v=sdUrucGfoH4



[ソ連軍歌] カチューシャ 日本語歌詞付き Катюша
https://www.youtube.com/watch?v=sVk9eyAWxPk

作詞ミハイル・イサコフスキー、作曲マトヴェイ・ブランテル
咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に

カチューシャは歌い始めた
誇り高き薄墨色の鷲の歌を
彼女が深く愛する青年の歌
大事に持ってる彼からの手紙

おお 歌よ 乙女の歌よ
太陽をかすめ 鳥の如く飛んでゆけ
遠い国境の若き兵士の元へ
カチューシャの想いを届けるのだ

彼は思い起こすか 純真な乙女を
彼は聞くだろうか カチューシャの澄んだ歌声を
彼は愛すべき祖国の地を守り抜き
カチューシャは愛を強く守り抜く

咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に


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昭和天皇は対米戦争が八百長戦争だとバレない様に特攻までさせた

鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA  

戦争はすべて八百長(00:38:51)
熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)
秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)
仕組まれた戦争 (00:15:35)
皇室スキャンダル (00:18:21)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)
死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)
住友と天皇家は、血族 (00:23:04)
秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)
天皇のための戦争(00:25:02)
戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)
昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)
真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)
海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)
パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)
天皇が内通していた(00:31:38)
スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)
天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)
終戦工作と白州次郎 (00:33:39)
ヨハンセングループ (00:34:17)
日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)
日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)
弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)
火事場泥棒なんです。(00:36:15)
こじつけ無罪論(00:36:19)
明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)
第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)
戦争はすべて八百長(00:38:51)
戦争は継続しなければいけない (00:40:48)
天皇が被爆に加担した(00:42:23)
白洲次郎の秘密(00:44:17)
吉田茂の秘密(00:46:20)
こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)

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日本の一般大衆に人気が出る音楽は軍歌とドスが効いた演歌だけ

津軽海峡・冬景色 石川さゆり 1977年
https://www.youtube.com/watch?v=8dCZHpoP2YI

藤圭子 圭子の夢は夜ひらく 1970年 紅白出場
https://www.youtube.com/watch?v=5SV1zpbIATU

「ダンシング・オールナイト」作詞:水谷啓二 作曲:もんたよしのり リリース 1980年4月21日
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88++1980%E5%B9%B4

「赤いアンブレラ」作曲:もんたよしのり リリース 1980年10月5日
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%B5%A4%E3%81%84%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A9+++%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%9F+++1980%E5%B9%B4


一方、欧米ではこういう色っぽい歌でないと人気が出ない:

ジュリー・ロンドン
Julie London-Boy on a dolphin - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QArtb3nCC8I

A beautiful song by Julie London, from the movie "Boy on a dolpin"(1957) with Alan Ladd, Clifton Webb and Sophia Loren.
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/470.html
[番外地10] 日本人は先住民の縄文人・アイヌ人を滅ぼして日本列島を乗っ取った
日本人は先住民の縄文人・アイヌ人を滅ぼして日本列島を乗っ取った
最新の核DNA解析で
・アイヌは縄文人の直系の子孫
・日本人は半島の無文土器人の直系の子孫
だというのが証明されています。
縄文語はアイヌ語
日本語は半島の無文土器人の言葉
皇室や公家が平安時代まで使っていたのは百済語

というのがわかってきたんですね。

天皇、公家、身分が高い武士は一重瞼、面長顔の kan 民族だとわかってきました。
日本人は二重瞼で丸顔なんですね。北斎や歌麿の浮世絵に出て来る一重瞼で面長な上流階級の男女が渡来人です。

平安文化は百済系の文化、武士道は高句麗系の k an 民族の文化で、稲作民族の日本人の文化ではありません。

日本語は chousen 無文土器文化人の話していた言葉だった


先行研究(Jinam et al. 2012)で発表された北海道アイヌの人々のデータなど日本列島周辺の人類集団との関係を分析したところ、本州縄文人であるIK002は、アイヌのクラスターに含まれた。
この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析(Kanzawa-Kiriyama et al. 2019)と一致し、アイヌ民族が日本列島の住人として最も古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫の1つである可能性が高いことを示している。

2020/08/25
縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史
覚張 隆史(金沢大学人間社会研究域附属 国際文化資源学研究センター 助教)
太田 博樹(生物科学専攻 教授)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/6987/  

考古学「日本の先住民はアイヌ」
縄文人骨の特徴は、弥生時代に入り本州で失われていった。その一方で、北海道ではオホーツク文化の進入にもかかわらず近代まで維持された
https://www.sapmed.ac.jp/medm/7-30.html

言語学「日本の先住民はアイヌ」
東北北部にアイヌ語地名が多くのこっており、また北海道と同じ遺物が出る以上、東北地方にアイヌ語を話す人聞が居住していたことは否定出来ず、「蝦夷もある時代まではアイヌ語を使用していた」という考えを表明する
http://id.nii.ac.jp/1204/00000541/

・倭国大乱 → 畿内の縄文勢力を抹殺
・ヤマトタケルの東征 → 関東の縄文勢力を抹殺
・坂上田村麻呂の蝦夷征伐 → 東北の縄文勢力を抹殺
・北海道への和人大量入植 → 最後の縄文勢力を民族 jyouka

が、大まかな流れです。 今の日本で生き残っている縄文人はアイヌ人、琉球人、douwa buraku 民だけです。
douwa buraku 民は日本人との結婚を禁じられていたので純血のままです。

そもそも縄文人は日本全体で僅か10万人、西日本はほぼ無人、しかも山奥にしか住んでいなかったので日本人と混血なんかしないのですね。

▲△▽▼

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、chousen 式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツはchousen 半島の38°線付近の

小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/471.html
[近代史5] 玉砕を覚悟したプーチン大統領が弾く『カチューシャ Катюша』
玉砕を覚悟したプーチン大統領が弾く『カチューシャ Катюша』
https://www.youtube.com/watch?v=s1NNzE7rwSI


破滅へ向かって驀進するガールズ & パンツァー 戦車隊が歌う『カチューシャ Катюша』
https://www.youtube.com/watch?v=mtAqmVBbDX0
https://www.youtube.com/watch?v=8oLDY_sgXjU


ロシア兵が玉砕覚悟の突撃の時に歌う
[ソ連軍歌] カチューシャ 日本語歌詞付き Катюша
https://www.youtube.com/watch?v=sVk9eyAWxPk



Расцветали яблони и груши,
Поплыли туманы над рекой;
Выходила на берег Катюша,
На высокий берег, на крутой.

咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に

Выходила, песню заводила
Про степного, сизого орла,
Про того, которого любила,
Про того, чьи письма берегла.

カチューシャは歌い始めた
誇り高き薄墨色の鷲の歌を
彼女が深く愛する青年の歌
大事に持ってる彼からの手紙

Ой, ты песня, песенка девичья,
Ты лети за ясным солнцем вслед,
И бойцу на дальнем пограничье
От Катюши передай привет.

おお 歌よ 乙女の歌よ
太陽をかすめ 鳥の如く飛んでゆけ
遠い国境の若き兵士の元へ
カチューシャの想いを届けるのだ

Пусть он вспомнит девушку простую,
Пусть услышит, как она поёт,
Пусть он землю бережёт родную,
А любовь Катюша сбережёт.

彼は思い起こすか 純真な乙女を
彼は聞くだろうか カチューシャの澄んだ歌声を
彼は愛すべき祖国の地を守り抜き
カチューシャは愛を強く守り抜く

Расцветали яблони и груши,
Поплыли туманы над рекой;
Выходила на берег Катюша,
На высокий берег, на крутой

咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に 



戦死した恋人を悼む
ダークダックス 『カチューシャ』
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%80%80%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
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プーチン大統領やサダム・フセイン、カダフィ大佐を悪魔にする西側の報道はすべてデマ

湾岸戦争の時も、イラク戦争の時もすべて広告代理店が悪質な捏造報道をしてサダム・フセインを悪魔扱いしていた。今回も同じさ。

真実は

ウクライナ戦争で最も悪いのは米英
2022年4月29日   田中 宇
https://tanakanews.com/220429baud.htm

市民虐殺の濡れ衣をかけられるロシア
2022年4月8日   田中 宇
https://tanakanews.com/220408bucha.htm

【伊藤貫の真剣な雑談】第5回「米露関係破綻の原因は何か?」[桜R4/3/31]
https://www.youtube.com/watch?v=mARfK3-Crkg&feature=emb_title


特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その1、キエフ公国〜ソビエト連邦建国まで』
https://www.youtube.com/watch?v=H7Y537GyIkc


特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その2、第2次世界大戦〜現在まで』
https://www.youtube.com/watch?v=0wAcNSxZZq4


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ロシア 聖なる我等が国
ロシア 愛する我等が国
固き意志 偉大な栄光や
永久に汝が富ならん

   讃えよ我等が 自由なる祖国
   いざ集え 兄弟よ
   先人が知恵 我等がもとに
   讃えよ 汝が誇りを

新世紀を間近に控えた2000年。プーチン大統領は、それまでの愛国歌からソ連国歌のメロディーに変えました。

ソ連からの独立後のロシアには未来への希望が満ち溢れていました。共産主義の呪縛からの解放、独立、そして自由。しかしエリツィン政権のもとでは共産主義からは逃げられましたが、安定した生活は得られませんでした。そして独立を境にしロシアからは光が失われつつありました。ロシアの大国としての誇りが失われ、犯罪は多発し、誇りである軍隊はほぼ崩壊に近くなりました。

アメリカには頭が上がらなくなり、西欧との生活環境の落差は広がる一方。これらに追い討ちをかけたのが98年の経済危機。帝政ロシア、ソ連を通じ自らの経済を見つめてきた、またロシア人の誇りのルーブルが紙くず同然となりました。

ロシアの人々は現実に打ちのめされました。しかし。ロシアの人々はこんなことではへこたれません。・・ですが、やっぱり自分達の生活には限界が近づいてくるわけです。

エリツィンは何もせず酒ばかりのんでいる。国民の生活の不満は政治に向けられました。そんな中。1999年の大晦日。ロシアと全世界に衝撃が走りました。エリツィンが突如辞任したのです。

後任は元ペテルブルグ市長プーチン。名も知らぬ若き男に大国ロシアは委ねられたのです。国民はあまり期待をしませんでした。「エリツィンよかましなだけだろう」と。

しかし、そんな国民のさめた目を横目に、「強いロシア」を掲げた大統領は次々と改革を断行。経済はだんだんと回復。生活も苦しいながらも徐々に改善。なんと言っても「強いロシア」が現実に感じられるようになったのです。

もう昔の我々ではない。昔の栄光を取り戻そうじゃないか!

ロシアの人々は沸き立ちます。


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アメリカを心底恐怖させた国ソ連は消滅しました。この
時、アメリカ政府は、今後のロシアをどのようにしたらい
いだろうかと考えました。

 心優しい日本人であれば、「経済危機に陥っているロシ
アに支援を送る」とかなんとか善意に基づいた行動をとる
でしょう。
 しかし、「普通の国」アメリカはもちろんそのようなこ
とは考えない。これは当然、「ロシアが二度とアメリカに
反抗できないよう、この国を破壊し尽くそう」と考えた。

 アメリカは国際通貨基金(IMF)を通して、ロシアに「改
革のやり方」を伝授した
 まず「政府による経済管理の廃止」。貿易が自由化され、西
側の優れた製品がロシア市場になだれ込み、ロシアの国内産業
は壊滅した。

 次に「価格の全面自由化」。国内産業が駆逐され、輸入に頼
るしかない状況で、ロシアの通貨ルーブルは急落し、国内はハ
イパーインフレーションに見舞われた。改革がスタートした92
年のインフレ率はなんと2600%、GDP成長率はマイナス14.5
%。ロシア経済はアメリカの思惑通り破綻した。

 さらに大規模な「民営化」。国有財産はそれを今、手元に持
つ人の所有となった。アパートの住人は、アパートの所有者と
なった。そして国有石油会社のトップは、その会社をほとんど
無料で手に入れた。ここから生まれた新興財閥はエリツィン政
権に賄賂を送って、税金をほとんど免除してもらった。当然、
国家財政は大幅な赤字に転落した。

▲△▽▼

金融の自由化はISOによってではなく、グローバル化なる経済用語あるいは
新自由主義なる政治用語によって露骨に国家間の争いとして実現されてきた。
ここにおける戦いが逆にISOを規定してきたといえるのである。
 それは98年8月27日、史上3番目の米欧での株の大暴落という劇的な形で始まった。
米12%、英13%、独18%の暴落だった。翌日アジアに波及する。日本19%香港33%
マレーシア59%。仕掛けはニューヨーク株式市場だった。この点に注目しておいて
いただきたい

ロシア売りである。直撃を受けてロシアの株価は実に84%も下落する。
一夜にして価値が6分の1に下落してしまったのである。

 この資金は「Hot Money」と称せられ、公式的には短期資金とされHedge Fund
とされる。資金の源は「ソ連邦崩壊により軍需に回されていた資金が民間に回り、
金融市場にあふれた」からとされているが、鵜呑みにするわけにはいかない。
軍需に回されていた資金の源は?民間に回される?馬脚が出ているのである。
公的資金が隠匿された回路を通って市場に投入されていることを自ら暴露して
しまっている。隠匿されているので分からないが、ヘッジファンドの資金のかなり
の部分が米では政府筋から出ている可能性がある。


1990年代初頭の旧ソ連と東欧の民主化は、西側諸国にとってあらたな潜在的脅威を生んだ。それまで共産圏内に閉じ込められていた高い技術力、技術開発力、先端科学が開放され、西側先端産業を脅かすことになるからだ。民主化の過程で、これら先端科学や先端技術を破壊する必要があった。旧ソ連と東欧の民主化、自由主義経済への移行過程に、IMFと世界銀行が深く関わることになる。

両機関の政策により、旧共産圏の経済生産は半分に落ち込んだとも言われる。また、経済の全域が商業マフィアに乗っ取られ、正常な経済活動が営まれなくなった。先端産業は発展の道を封鎖され、科学者や技術者は失業するか西側企業に格安で雇われることになった。IMFと世界銀行は、旧共産圏の経済を見事なまでに破壊し、国民生活を世界最低レベルにまで落とした。

かつての旧ソ連、東欧での生活水準はけっして高くはなかった。しかし、教育や医療など中心的な社会サービスは無料で提供され、完全雇用が約束されていた。しかし、IMFと世界銀行の指針により、社会保障制度は自ら財源を確保しなければならなくなった。教育、医療は有料化され、多くの人々が教育と医療を受ける権利を剥奪された。かつて西側先進国をしのぐほどの高い教育・医療レベルも維持できなくなった。

旧共産圏は、経済や産業だけでなく、教育、医療、福祉、文化、芸術、スポーツなどあらゆる分野が瓦解し、第三世界化してしまった。かくして、旧ソ連は西側先端産業にとって何の脅威でもなくなった。ヨーロッパ産業にとっては、すぐ隣に低賃金の労働市場が誕生したことを意味する。以降、東欧諸国は、西側ヨーロッパ産業に低賃金労働を提供するだけの存在となってしまった。


IMFによる「改革」によってロシア経済は混乱を増幅させ、IMFが決めた追加支援の
実行を求めるロシアのキリエンコ首相に米は拒否を通告、2日後のルーブルの大幅
切り下げ、そしてついには外為取引停止へと突き進んでいった。ロシア経済が立ち
直るのはエリツィン政権が終わり、IMFの言うことを聞かないプーチン政権が誕生
してからのことである。

 とすると、IMFで意図的にロシア経済を米欧に都合のいい状態に置き、その
締めくくりとしてロシア売りを仕掛け、世界的株価暴落を実現したと考えることも
出来る。

全てを「政府の手を離れた」「国境を越えた」ヘッジファンドのせいにする論調
ばかりが見受けられるが、よく考えてみる必要がありそうだ。そもそもIMFは米が
中心になって「社会主義諸国圏」を包囲し、帝国主義諸国間の金融を安定させる
ために作られた組織である。そのIMFのロシア資本主義化計画に基づいてロシアは
経済を運営したのだが、計画をしてその実行段階に入ってしまった後に米国が資金
提供を拒否するというシナリオは、非人為的なものだろうか。意図的であれ意図的
でないにせよ、人為的所為であることは確かである。

ロシアで何が為されたかを検討してみよう。91年の国有企業就労人口は78%程度
であったものが5年後の96年には38%となり、民間企業と逆転する。この間、
外資企業は1000から15000近くとなる。国営企業は株式化され株式売却益を国家
財政に返納するという方式すら採ることが出来ず、安値で個人に売却されるという
形しか採れなかった。国家財の収奪である。収奪された富は民営化された企業の
初期赤字という形で移転されていく。どこに移転したのかといえば、赤字に
ならざるをえない環境=すなわち国際環境に吸収されていったのである。
要するに外国資本が入り組んだ形で少量ずつの分け前にあずかるという形式で
ロシア国外に移転されたのである。

他方、民営化は外資が入り込むという形で急速に進展したのである。外資が入り
込みやすくするために国営・公営企業が急速に解体させられていったのである。
そしてこれこそがIMFの方針の確固とした部分だったのである。

 瞬時に国境を越える資金による恫喝とその実行を背景に、米国資本の利害に
連邦政府がその手先として地ならしをするというのがその実態だったのである。

日本もそうであり、ISOやIMFはその国家形態をとった手段だったのである。

▲△▽▼

アメリカがロシアにしたこと:

・1992年1月に開始されたIMF式「ショック療法」は、ロシアの民族資本主義への移行の可能性を最初から排除させるものであった。西側の目的は、どのようにしてロシアを手なづけ従属させ、ロシア経済の長所である先進科学、人的資源、知的財産権を奪うかにあった。

・IMFとエリツィンが主導する経済改革はアフリカとラテンアメリカの債務国に強要された構造調整プログラムのコピー版が適用されたのだった。この経済改革で物価が100倍以上に跳ね上がったと言われている。IMF関係者によると、国民の購買力が非常に高く過剰流動性を吸収しなければいけないと述べていた。マクロ経済政策が実施されると、生活水準は下落し、第二次対戦の時のほうが食べるものがあったという声があるほどだった。

・冷戦は実際に破壊なく進行した戦争であったが、マクロ経済政策という武器を通して、敗戦国の経済を瓦解させながら、幕を下ろした。市民社会は破壊、経済活動の領域が犯罪の巣窟になり、国家の財産が奪取され、黒い金がロンダリングされ、資本は海外へと流出した。さらに、商業銀行の半数以上を地域マフィアが掌握、モスクワの不動産の半分を犯罪組織が所有しているのだ。

◆国家財産の安価購入◆

・新興富裕層は、法外に儲けた金で国家財産をただ同然の安価で買ったり、政府の民営化計画を通して民営化企業を買ったりした。先端のミサイル生産施設は、100万ドルあれば買うことができ、モスクワの中心にあるホテルは、パリにあるアパート一軒の値段より安く取引された。


◆膠着状態に陥ったIMFの改革政策◆

・1992年末に、イェゴール・ガイダル首相の指揮で進められていたIMFの改革政策は、議会だけでなく、中央銀行からも猛反対にあった。中央銀行総裁はIMFの勧告とは反対に国営企業に貸出しを拡大し、代わりに保健医療、教育、年金の削減を盛り込んだ、「対案的経済政策計画」を発表したが、ガイダル首相が解任されると、その計画は実行されなかった。
・そして相次ぐ議会の反対から、1993年9月21日にエリツィンが大統領令を布告し、議会の両院を解散させた。

◆西側諸国のエリツィン支援◆

・1993年末にはいって、ロシアの資本は海外流出によって枯渇状態になってしまっていた。その年の国際収支赤字は400億ドルで、1993年に東京で開かれたG7首脳会議で決定した430億ドルの援助に匹敵する額であった。同年バンクーバー・サミットで締結された米国とロシアの二国間協約に従って、クリントン大統領は16億ドルの支援をすると約束したが、これにはたくさんの条件が付けられており、ロシアは自由に使えなかった。


◆債務返済の足かせ◆

・1993年9月議会の抵抗を制圧したロシア政府は、債権金融団との債務交渉戦略を修正した。1993年10月初め、フランクフルトでロンドン・クラブ会議が開かれた。そこでロシア交渉団は、商業債務返済は必ず守らせると断言した。この会議で、治外法権放棄を除外してはロンドン・クラブが提示したすべての条件を受け入れた。そして、国際収支の危機、悪性債務の蓄積によってロシアは、事実上の支払い不能状態に陥るようになった。今やロシアは卑屈で従順な第三世界国家へと転落してしまい、債務と構造調整という沼に落ちてしまった。

◆市民社会の崩壊◆

・ロシア国民は両極化し、民主主義を導入後は、雇用に関しては最悪の結果で1993年には産業施設の半分以上が閉鎖倒産した。1994年の公式統計によると、3万3千ほどの国営企業および集団農場に勤務する労働者の賃金が遅払いされた。

・問題は貧困化と大量失業だけではなく、ロシア社会の基礎、国家制度自体が破壊されており、ロシア連邦さえ瓦解する危険性があるのだ。

▲△▽▼


1990年代初頭の旧ソ連と東欧の民主化は、西側諸国にとってあらたな潜在的脅威を
生んだ。それまで共産圏内に閉じ込められていた高い技術力、技術開発力、先端
科学が開放され、西側先端産業を脅かすことになるからだ。民主化の過程で、
これら先端科学や先端技術を破壊する必要があった。旧ソ連と東欧の民主化、
自由主義経済への移行過程に、IMFと世界銀行が深く関わることになる。

両機関の政策により、旧共産圏の経済生産は半分に落ち込んだとも言われる。
また、経済の全域が商業マフィアに乗っ取られ、正常な経済活動が営まれなくなった。
先端産業は発展の道を封鎖され、科学者や技術者は失業するか西側企業に格安で
雇われることになった。IMFと世界銀行は、旧共産圏の経済を見事なまでに破壊
し、国民生活を世界最低レベルにまで落とした。

かつての旧ソ連、東欧での生活水準はけっして高くはなかった。しかし、教育や
医療など中心的な社会サービスは無料で提供され、完全雇用が約束されていた。
しかし、IMFと世界銀行の指針により、社会保障制度は自ら財源を確保しなければならなくなった。
教育、医療は有料化され、多くの人々が教育と医療を受ける権利を剥奪された。
かつて西側先進国をしのぐほどの高い教育・医療レベルも維持できなくなった。

旧共産圏は、経済や産業だけでなく、教育、医療、福祉、文化、芸術、スポーツ
などあらゆる分野が瓦解し、第三世界化してしまった。かくして、旧ソ連は西側
先端産業にとって何の脅威でもなくなった。ヨーロッパ産業にとっては、すぐ隣に
低賃金の労働市場が誕生したことを意味する。以降、東欧諸国は、西側ヨーロッパ
産業に低賃金労働を提供するだけの存在となってしまった。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1586.html
[近代史3] かぐや姫 神田川 _ 1970年代 四畳半フォークの時代 中川隆
24. 中川隆[-13102] koaQ7Jey 2022年5月05日 10:20:12 : m9zPNkFjnY : TEswdGJjbnltVDY=[6]
なごり 雪 イルカ 本人
https://kazuyasu.net/otgree/%E3%81%AA%E3%81%94%E3%82%8A-%E9%9B%AA-%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AB-%E6%9C%AC%E4%BA%BA

「なごり雪」は、伊勢正三が作詞・作曲したかぐや姫の楽曲。1974年、かぐや姫のアルバム『三階建の詩』の収録曲として発表された。翌1975年にシングル発売されたイルカによるカバーバージョンがヒットを収め、以降、日本の早春を代表する歌の一つとして歌い継がれ、また、さまざまなアーティストによってカバーされている。歌詞の中では東京の駅が舞台となっているが、伊勢本人は出身地である大分県津久見市の津久見駅をモチーフにしたと語っている。2002年にはこの歌の世界観に対する独自の解釈に基づき、大林宣彦監督が大分県臼杵市でロケを行い『なごり雪』として映画化した。このサウンドトラックのために伊勢が再録音、シングルとしても発売された。歌詞を載せようと調べていたところこの「なごり雪」について詳しく解説されていたブログがあったので掲載します。, 「なごり雪」は「かぐや姫」の伊勢正三さんが作詞・作曲した名曲ですが、同時期に伊勢さんが作った「22才の別れ」を聴くことで、より理解が深まります。まずは「なごり雪」の歌詞から検証します。なごり雪作詞/作曲:伊勢正三汽車を待つ君の横で 僕は時計を気にしてる季節はずれの 雪が降ってる東京で見る雪は これが最後ねとさみしそうに 君がつぶやくなごり雪も 降るときを知りふざけすぎた 季節のあとで今 春が来て 君はきれいになった去年よりずっと きれいになった動き始めた汽車の窓に 顔をつけて君は何か 言おうとしている君のくちびるが さようならと動くことがこわくて 下をむいてた時がゆけば 幼い君も大人になると 気づかないまま今 春が来て 君はきれいになった去年よりずっと きれいになった君が去った ホームにのこり落ちてはとける 雪を見ていた今 春が来て 君はきれいになった去年よりずっと きれいになった伊勢さんのインタビューによると、この曲は「今 春が来て君はきれいになった」というサビの部分が、突然曲付きで頭に浮かび、後は、どうやって全体の曲と詩をそこに持っていくか、そのストーリー作りをいくつも行ったと答えてます。以下は私の解釈になりますが、なごり雪の世界観は70年代当時の学生たちの心境の変化や風潮を反映しています。その頃は学生運動が盛んで、学生は髪を伸ばし、ある者は闘争に走り、またある者はギターを弾いて反戦歌を歌っていました。1969年に東大安田講堂事件が起こり、1971年にはジョンレノンが「イマジン」を発表し、1972年には浅間山荘事件が起こります。学生運動は下火になり、長髪の若者は髪を切って就職します。夢から覚め(あきらめ)、現実の中に組み込まれていくわけです。1975年に発売されたバンバンの「『いちご白書』をもう一度」にこのあたりの風潮が反映されています。一方で、音楽で自己表現していた若者の中には、就職せずに音楽で生活しようとプロを志す人たちもでてきます。そういった時代背景を基に、1974年に「なごり雪」が発表されます。この歌が単なる男女の別れだったら彼女は汽車に乗って東京を離れる必要はありません。彼女が彼と別れる理由と東京を離れる理由は、彼以外の別の男性と結婚することになったからです。両親の勧めで縁談か何かで地元に戻ることになったのかもしれません。彼には彼女をつなぎとめるほど経済的自立はできていません。まだ就職をせずに、なにか別の道を夢見ている若者なのでしょう。音楽で生きていこうとする伊勢さん自身が投影されているのかもしれません。「ふざけすぎた季節」は二人で「夢を見ていた季節」です。そして「時がゆけば 幼い君も 大人になると 気づかないまま」とは知り合った頃は幼くみえた彼女が、いつのまにか現実を直視する大人の女性になっていたことに気づけなかった自分に対する後悔の念を表現しています。そんな自分のふがいなさに彼女の心変わりを責めることは出来ず、彼は精一杯のエールを心の中で彼女に対して送ります。それが、「今 春が来て 君はきれいになった 去年よりずっと きれいになった」の部分です。春は季節以外にも人生の春、つまり結婚を表します。そして結婚という現実を選んだことは別にやましいことではなく、成長して大人になった君は去年よりずっときれいだと表現しています。表面的なきれいさだけを表現したわけではありません。一緒になれないのは自分のせいで、君の心に曇りはないと、彼なりに精一杯のエールを送っているわけです。私は「なごり雪」の世界観をこういう風に解釈していましたが、「22才の別れ」を聴いたときにそれは確信できました。元々、かぐや姫のアルバム「三階建の詩」に収める曲を提供するために伊勢さんは「なごり雪」ともう1曲用意していました。しかしレコーディング当日、その曲が気に入らず、1日だけ待ってくれと言い、徹夜で作り上げたのが「22才の別れ」です。たった1日で名曲を作り上げる伊勢さんの非凡さもさることながら、この曲の歌詞は「なごり雪」と対になっていることに気づかされます。以下は「22才の別れ」の歌詞です。22才の別れ作詞/作曲:伊勢正三あなたに「さようなら」って言えるのは今日だけ明日になって またあなたの暖かい手に触れたらきっと言えなくなってしまうそんな気がしてわたしには鏡に映ったあなたの姿を見つけられずにわたしの目の前にあった幸せにすがりついてしまったわたしの誕生日に22本のローソクをたてひとつひとつがみんな君の人生だねって言って17本目からは一緒に火をつけたのがきのうのことのように今はただ五年の月日が長すぎた春といえるだけですあなたの知らないところへ嫁いでゆくわたしにとってウウウーウウウウウ・・・ひとつだけこんなわたしのわがままきいてくれるならあなたはあなたのままで変わらずにいてください そのままで歌詞を読むと、このカップルは17歳の頃から付き合っていることが分かります。そして5年の月日が流れ22才になります。22才は大学4年生。学生が就職活動し、社会人を目指す歳です。22才の誕生日の頃はまだ彼に希望を持てた。幸せだった頃です。でも大学を卒業した後、彼は就職もせず、将来が不安になります。そんな中、経済的に自立できている別の男性との結婚話がもちあがり、選択を迫られる中、彼女は彼がまだ現実を見つめずに夢を追っていることに付いていけなくなります。そして、別の男性と結婚することを選択します。それが、「わたしには鏡に映った あなたの姿を見つけられずにわたしの目の前にあった 幸せにすがりついてしまった」という部分です。歌詞の後半にはそれがはっきりと書かれています。「あなたの知らないところへ 嫁いでゆく わたしにとって」これでこの曲の主題ははっきりしてきました。「長すぎた春」は「ふざけすぎた季節」でもあります。そして最後に彼女から彼へのエールがあります。「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」「なごり雪」の中で「動き始めた汽車の窓に 顔をつけて 君は何か言おうとしている 君のくちびるが さようならと動くことが こわくて 下をむいてた」とあるので、彼は彼女の言葉を知りません。実際に「さようなら」と言ったのかもしれませんが、彼女は「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」というエールを送っていたとも受け取れます。このように「なごり雪」は「22才の別れ」と一緒に聴くことで、その世界観がはっきりしてきます。「なごり雪」はあるカップルの別れを男性側の視点から描いた歌で、「22才の別れ」は女性側の視点から描いた歌だということが分かります。だからぜひ、「なごり雪」は「22才の別れ」と一緒に聴いてください。『22才の別れ』. 商品名:イルカ - なごり雪 - 1,200円。総在庫10万枚超 レア盤から名盤まで1985年創業、凄腕専門スタッフがどのジャンルにも対応します . 森羅万象〜イルカ セレクトベスト〜 40周年記念第一弾 5th 2011年 2月2日: CD CRCP-20467-68 Jasmine&Rose: 40周年記念第二弾 ライブアルバム. 落ちてはとける 雪を見ていた F ConE Dm C7 / 今春が来て君は きれいになった F ConE Dm 去年よりずっと きれいになった F ConE Dm 去年よりずっと きれいになった 動画. 5つ星のうち4.8 9. cd ¥3,821 ¥3,821 ¥3,981 ¥3,981. 翌年の1975年に女性フォークシンガーのイルカがカバーし、彼女にとって『なごり雪』は最大のヒット曲となった。 この曲が世に出るまで、「名残の雪(なごりのゆき)」という言葉はあったが、「なごり雪」という言葉はなかった。つまり伊勢正三による造語。 『なごり雪』がヒットし … 作詞 : 伊勢正三/作曲 : 伊勢正三. 動画プラス. 1996年〜2000年, outofjisさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?

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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/284.html#c24

[近代史7] 「聖母たちのララバイ」 木森 敏之(1947年7月24日 - 1988年4月11日) 中川隆
3. 中川隆[-13101] koaQ7Jey 2022年5月05日 11:03:35 : m9zPNkFjnY : TEswdGJjbnltVDY=[7]
聖母たちのララバイ 原曲・元ネタ
http://www.worldfolksong.com/songbook/sokkuri/madonna-lullaby.html


アメリカのタイムスリップ映画サントラを元に作曲されたヒット曲

『聖母(マドンナ)たちのララバイ』は、1982年5月にリリースされた岩崎宏美のシングル。作詞:山川啓介、作曲:木森敏之(共作扱い/詳細は後述)。

「火曜サスペンス劇場」初代エンディングテーマとして1コーラス分が作曲され、その後の反響を受けてフルコーラスが製作された。

発売2週目でオリコンシングルチャート1位を獲得。累計売上は130万枚を超えるミリオンセラーとなり、同年11月には第13回日本歌謡大賞を受賞した。

岩崎宏美ベスト盤

同年末の第24回日本レコード大賞にも期待が高まったが、曲前半のメロディが1980年のアメリカ映画「ファイナル・カウントダウン」サントラからの盗作が発覚し、日本レコード大賞の対象から除外されている。

メロディの元ネタとなった映画サントラとは、一体どのような楽曲だったのだろうか?映画の概要や該当する楽曲について、簡単にまとめてみた。

ちなみに、作曲者の木森敏之は『仮装大賞テーマ曲』でもマイケル・ジャクソンの楽曲を大胆に取り入れた作曲を行っているが、こちらは『聖母たちのララバイ』のように大きな問題にはなっていないようだ。

【YouTube】 聖母たちのララバイ 岩崎宏美



映画「ファイナル・カウントダウン」とは?

映画「ファイナル・カウントダウン」(The Final Countdown)とは、1980年に公開されたアメリカ映画。原子力攻撃空母ニミッツが太平洋戦争中にタイムスリップする架空戦記(歴史改変SF)。

映画 ファイナル・カウントダウン The Final Countdown

イギリスの作曲家ジョン・スコット(John Scott)が音楽(サントラ)を手がけた。盗作発覚後、『聖母たちのララバイ』は木森敏之とジョン・スコットとの共作扱いに訂正されている。

『聖母たちのララバイ』の元ネタとされるサントラ『ローレル&オウエンス(Laurel And Owens)』について、どれぐらい似ているのか、YouTube動画で確認してみよう。

【YouTube】Laurent and Owens



曲の前半部分が、ほぼそのまま『聖母たちのララバイ』のそれと共通している。ここまで大胆な引用もなかなか珍しい。

もともと『聖母たちのララバイ』は、「火曜サスペンス劇場」エンディングに1コーラスだけ流れる限定的な作品だったので、おそらく作曲者の予想では、こんな短い楽曲にそれほど注目は集まらないだろう、だから大胆な引用が問題化することもないだろう、と甘く見ていた部分があったのかもしれない。

歌詞にも共通点が?
元ネタとされる映画「ファイナル・カウントダウン」との共通点は、メロディだけではなく、歌詞の一部にも見られる。該当部分を次のとおり引用する。

この都会(まち)は 戦場だから
男はみんな 傷を負った戦士

<引用:山川啓介『聖母たちのララバイ』歌詞より>

「戦場」「戦士」といったキーワードが、タイムスリップ戦争映画である「ファイナル・カウントダウン」と偶然にも内容的に近接しているのが興味深い。

かわぐちかいじ「ジパング」元ネタ?
余談だが、映画「ファイナル・カウントダウン」のストーリーは、講談社の漫画雑誌「モーニング」で2000年から2009年まで連載されていた漫画「ジパング」にも影響を与えている。

漫画「ジパング」では、海上自衛隊のイージス艦が太平洋戦争中にタイムスリップし、歴史の波に飲み込まれていく。

かわぐちかいじ「ジパング」コミックス第1巻

写真:かわぐちかいじ「ジパング」コミックス第1巻

「ジパング」も「ファイナル・カウントダウン」も、どちらも現代から太平洋戦争中へのタイムスリップであり、海上の嵐(あらし)が引き金になるという状況も似ていることから、「ファイナル・カウントダウン」は「ジパング」着想に大きな影響を与えたと考えられる。

http://www.worldfolksong.com/songbook/sokkuri/madonna-lullaby.html

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/689.html#c3
[近代史5] 1970年代に学生運動をやっていた左翼学生はその後どうなったのか? 中川隆
3. 中川隆[-13100] koaQ7Jey 2022年5月05日 11:14:47 : m9zPNkFjnY : TEswdGJjbnltVDY=[8]
1970年代の日本の名歌は学生運動の挫折を歌ったものが多い


「22才の別れ」 作詞・作曲:伊勢正三 リリース 1975年2月5日
https://www.youtube.com/results?search_query=22%E6%89%8D%E3%81%AE%E5%88%A5%E3%82%8C

イルカ なごり雪 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AB++%E3%81%AA%E3%81%94%E3%82%8A%E9%9B%AA

なごり雪の世界観は70年代当時の学生たちの心境の変化や風潮を反映しています。その頃は学生運動が盛んで、学生は髪を伸ばし、ある者は闘争に走り、またある者はギターを弾いて反戦歌を歌っていました。

1969年に東大安田講堂事件が起こり、1971年にはジョンレノンが「イマジン」を発表し、1972年には浅間山荘事件が起こります。学生運動は下火になり、長髪の若者は髪を切って就職します。夢から覚め(あきらめ)、現実の中に組み込まれていくわけです。1975年に発売されたバンバンの「『いちご白書』をもう一度」にこのあたりの風潮が反映されています。

一方で、音楽で自己表現していた若者の中には、就職せずに音楽で生活しようとプロを志す人たちもでてきます。そういった時代背景を基に、1974年に「なごり雪」が発表されます。

この歌が単なる男女の別れだったら彼女は汽車に乗って東京を離れる必要はありません。彼女が彼と別れる理由と東京を離れる理由は、彼以外の別の男性と結婚することになったからです。両親の勧めで縁談か何かで地元に戻ることになったのかもしれません。彼には彼女をつなぎとめるほど経済的自立はできていません。まだ就職をせずに、なにか別の道を夢見ている若者なのでしょう。音楽で生きていこうとする伊勢さん自身が投影されているのかもしれません。

「ふざけすぎた季節」は二人で「夢を見ていた季節」です。そして「時がゆけば 幼い君も 大人になると 気づかないまま」とは知り合った頃は幼くみえた彼女が、いつのまにか現実を直視する大人の女性になっていたことに気づけなかった自分に対する後悔の念を表現しています。そんな自分のふがいなさに彼女の心変わりを責めることは出来ず、彼は精一杯のエールを心の中で彼女に対して送ります。それが、「今 春が来て 君はきれいになった 去年よりずっと きれいになった」の部分です。

春は季節以外にも人生の春、つまり結婚を表します。そして結婚という現実を選んだことは別にやましいことではなく、成長して大人になった君は去年よりずっときれいだと表現しています。表面的なきれいさだけを表現したわけではありません。一緒になれないのは自分のせいで、君の心に曇りはないと、彼なりに精一杯のエールを送っているわけです。

私は「なごり雪」の世界観をこういう風に解釈していましたが、「22才の別れ」を聴いたときにそれは確信できました。元々、かぐや姫のアルバム「三階建の詩」に収める曲を提供するために伊勢さんは「なごり雪」ともう1曲用意していました。しかしレコーディング当日、その曲が気に入らず、1日だけ待ってくれと言い、徹夜で作り上げたのが「22才の別れ」です。たった1日で名曲を作り上げる伊勢さんの非凡さもさることながら、この曲の歌詞は「なごり雪」と対になっていることに気づかされます。以下は「22才の別れ」の歌詞です。

22才の別れ作詞/作曲:伊勢正三

あなたに「さようなら」って言えるのは今日だけ明日になって またあなたの暖かい手に触れたらきっと言えなくなってしまうそんな気がしてわたしには鏡に映ったあなたの姿を見つけられずにわたしの目の前にあった幸せにすがりついてしまったわたしの誕生日に22本のローソクをたてひとつひとつがみんな君の人生だねって言って17本目からは一緒に火をつけたのがきのうのことのように今はただ五年の月日が長すぎた春といえるだけですあなたの知らないところへ嫁いでゆくわたしにとってウウウーウウウウウ・・・ひとつだけこんなわたしのわがままきいてくれるならあなたはあなたのままで変わらずにいてください 

そのままで歌詞を読むと、このカップルは17歳の頃から付き合っていることが分かります。そして5年の月日が流れ22才になります。22才は大学4年生。学生が就職活動し、社会人を目指す歳です。22才の誕生日の頃はまだ彼に希望を持てた。幸せだった頃です。でも大学を卒業した後、彼は就職もせず、将来が不安になります。そんな中、経済的に自立できている別の男性との結婚話がもちあがり、選択を迫られる中、彼女は彼がまだ現実を見つめずに夢を追っていることに付いていけなくなります。そして、別の男性と結婚することを選択します。

それが、「わたしには鏡に映った あなたの姿を見つけられずにわたしの目の前にあった 幸せにすがりついてしまった」という部分です。歌詞の後半にはそれがはっきりと書かれています。

「あなたの知らないところへ 嫁いでゆく わたしにとって」

これでこの曲の主題ははっきりしてきました。「長すぎた春」は「ふざけすぎた季節」でもあります。そして最後に彼女から彼へのエールがあります。「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」

「なごり雪」の中で「動き始めた汽車の窓に 顔をつけて 君は何か言おうとしている 君のくちびるが さようならと動くことが こわくて 下をむいてた」とあるので、彼は彼女の言葉を知りません。実際に「さようなら」と言ったのかもしれませんが、彼女は「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」というエールを送っていたとも受け取れます。

このように「なごり雪」は「22才の別れ」と一緒に聴くことで、その世界観がはっきりしてきます。「なごり雪」はあるカップルの別れを男性側の視点から描いた歌で、「22才の別れ」は女性側の視点から描いた歌だということが分かります。だからぜひ、「なごり雪」は「22才の別れ」と一緒に聴いてください。


▲△▽▼


いい日旅立ち Kyoto vol.1 山口百恵編 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA&feature=related

鬼束ちひろ - いい日旅立ち・西へ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xPZXIQdHaZ0

谷村新司
「歌詞をよく見て下さい。
『いい日旅立ち』は決してそんな祝いの席に歌うような、いい意味の曲ではありません」

いい日旅立ち
これは、普通に国語がわかれば、別れを振り切るために一人旅にでる心境を表した歌でしょ。


「帰らぬ人達」の幻影を求めて、旅に出る。
「日本のどこか」でその大切な人に会えるかもしれない。
そんな強烈な願望が「熱い胸をよぎる」。

でも、決して出会えることはない。
大切な人は、「夕焼け」であり、「羊雲」であり、もう決して出会うことのない存在だから。

そして、

「想い出を創るため砂に枯木で書く」
「“さよなら”と」


これは失恋と言うより死別では?
とてもいい曲だけど。


「いい日旅立ち」について桑田さんが 
 
「死の匂いがする・・」 

って言っていたのを聞いて「あ・・ すごい」 と思ったのと同時に 急にゾッとしてね。僕は今まで 普通に
 
「恋に破れた女が 傷ついたこころを癒すために新しい出会いを求めて ひとり旅に出る・・」 
 
・・そういう詞だと思って聴いていたんだ。 だけど 桑田さんは 


「死地への旅路・・   死に場所を求めてさまよう女の歌」 


だと・・・ そういう風に捉えておられるんだよね・・。


▲△▽▼


聖母たちのララバイ 岩崎宏美 2000 昭和の歌
https://www.youtube.com/watch?v=8stEnG7VVCE


『聖母(マドンナ)たちのララバイ』は、1982年5月にリリースされた岩崎宏美のシングル。作詞:山川啓介、作曲:木森敏之(共作扱い)。 曲前半のメロディが1980年のアメリカ映画「ファイナル・カウントダウン」サントラからの盗作が発覚し、日本レコード大賞の対象から除外されている。

映画「ファイナル・カウントダウン」(The Final Countdown)とは、1980年に公開されたアメリカ映画。原子力攻撃空母ニミッツが太平洋戦争中にタイムスリップする架空戦記(歴史改変SF)。

曲の前半部分が、ほぼそのまま『聖母たちのララバイ』のそれと共通している。ここまで大胆な引用もなかなか珍しい。

元ネタとされる映画「ファイナル・カウントダウン」との共通点は、メロディだけではなく、歌詞の一部にも見られる。該当部分を次のとおり引用する。

この都会(まち)は 戦場だから
男はみんな 傷を負った戦士

<引用:山川啓介『聖母たちのララバイ』歌詞より>

「戦場」「戦士」といったキーワードが、タイムスリップ戦争映画である「ファイナル・カウントダウン」と偶然にも内容的に近接しているのが興味深い。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1584.html#c3

[番外地10] 吉田君には希望に満ちた将来が待っているよ 中川隆
1. 中川隆[-13099] koaQ7Jey 2022年5月05日 12:27:38 : m9zPNkFjnY : TEswdGJjbnltVDY=[9]
加害者の少年にはこれから愉しい将来が待っている
引退生活をエンジョイする女子高生コンクリ殺人事件の主犯 宮野裕史
綾瀬コンクリの主犯の最近の画像が雑誌に出てたね
すごい筋肉で健康そう
7つくらい下の妹は今もいるだろうが、両親は70過ぎてるし、いなくても不思議はない
噂では6年ほど前に出所したばかりだが、 既にBMWを乗り回し、ロレックスの時計にエルメスの財布を所持する金持ちになってるらしい。
家も買ったという話もある。
すごいもんだね。

女子高生コンクリ殺人事件の主犯少年Aは、今はマルチ商法で儲けて、BMWを乗り回しているらしい。しかも闇組織と繋がっているとのこと。
ソースは実話ナックルズ 2013年 12月号 
格闘技系のジムに通い仲間を作る宮野裕史
首絞めプレイやゲロ吐くまでイマラチオさせるのが好きな変質者・宮野裕史

宮野は黒幕の事を一切話さなかったので主犯にされてしまったけど、実際には暴行には殆ど加わっていないらしい。
暴行というのは勿論 女子高生に対する暴行ね。
宮野は真面目で義理堅いんだよ。
だから飯島愛が最後まで面倒をみたんだ。

▲△▽▼

殺人犯 神作譲
「俺は人を殺したことがあるんだぞ」「人を殺すなんて簡単なんだからなー」
「昔、女がコンクリート詰めされただろ?あれ、おれがやったんだよ」

笑いながら自慢げに言う男 神作譲
「あの女の髪切ったりよー、ペンチで乳首潰したり歯抜いたのも俺。ホントは俺が主犯なんだよ。」
ゾッとする話を、何がおかしいのか下品に笑いながら言う神作譲。
飲み屋のネエちゃんはフリーズし、周りも引いている。
だが、露骨に冷ややかな目で見たら、今度は自分が何かされてしまうと思い
皆少しずつ距離を取ろうとする。

「俺は捕まったって怖くねぇし、同情されるコツ知ってるしよぉ、あんなのチョロイんだよ。」

そして、まだ続く独演会

「俺にはよー、スゲー バックが付いてんだよ。あの車だって、バックが俺のために買ってくれたんだよ。俺は守ってもえらえんだよ。、怖いもんなんてねーんだよ。」

神作譲( 帰化人 犯行時は小倉譲 )足立コンクリート惨殺事件犯人 
親は三郷 zainichi 部落の名主
事件当時の小倉一家は「貧乏人しか入れない」都営住宅に住んでいたんだよな。
それが事件直後から、マンションを購入したりと急に羽振りが良くなっているが、金の出所はどこだ?

因みに、女子高生コンクリ殺人事件も児童売春事件なんだ。ただ古田順子さんが児童と言うには年食っていて、いい客が付かなかったから、スナッフビデオ撮影に切り替えたそうな。
合掌

▲△▽▼

飯島愛は女子高生コンクリ殺人事件の頃から政治家に少女を斡旋をする仕事をしていたんだけど、それをマスコミにばらそうとしたので頃されたと言われている。

355 :事情通 :2007/03/01(木) 14:43:06 ID:aY56fsh8hs0
俺、20年前に埼玉県の三郷の高校に通ってた。
隣が八潮市でその隣が足立区だったからあのへんの連中と付き合いがあったよ。 コンクリ事件の最中、ある知り合いから「2万でヤリ放題の女を紹介してやる」って誘いを受けたけど断った。
ダチが何人かついてったら、コンクリ殺人の監禁場所の家だった。
そこにはヤンキーが数人たまってて、女のヤンキーも何人かいた。
ある女が被害者女性の身体に刺青をほったり、根性焼きをしたりやりたい放題。
それをみたダチが怖くなって逃げてきた。

その後でコンクリ事件が発覚。
あの時いたヤンキー女どもは、円光や風俗店でバイトとかAVに出演してヤンキー男らに貢いでいたとかって聞いたことがあるけど、まさか某人気AV嬢がその中に入っていたなんて誰も知らないと思うよ。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/466.html#c1

[近代史5] ドンを撃った男 鳴海清
ドンを撃った男 鳴海清
https://ojisan777.net/?p=2500

鳴海清は大阪西成の松田組系の組織、大日本正義団の組員だった。



鳴海清が有名になったのは、

当時日本最大最強の組織山口組の、

三代目田岡一雄組長を京都の「ベラミ」という、

クラブで狙撃した事件があったからだ。



事の発端は、

大阪戦争と呼ばれる山口組と二代目松田組の抗争事件で、



鳴海が所属する大日本正義団の初代組長が、

その抗争で射殺された。



その報復として、

大日本正義団に所属する鳴海は、

敵の親分三代目田岡一雄を暗殺する為に、

田岡組長が立ち寄る先を調べ、

このクラブ「ベラミ」に通って暗殺の機会を、

うかがっていたのだ。


出典:goo.gl/nUEMd5



当時田岡組長は、日本一の親分と呼ばれ、

ヤクザの世界ではそのカリスマ性の為、

ヤクザの神様の様な位置づけであった。



こんにちの、山口組の巨大な組織を作り上げたのが田岡組長なのだ。



ベラミに通い、狙撃の機会をうかがっていた鳴海は、

ついに田岡組長を狙撃する。



首に銃撃を受けた田岡組長は、

一命をとりとめ、自分を狙った鳴海を褒めたが、

その神様的な親分を狙ったのだから、

山口組の怒りは凄まじかった。



松田組系組織に対する報復と、

田岡組長を銃撃した鳴海を血眼になって追った。



結果、松田組組員を次々と射殺し、

そして鳴海の死体も六甲山中から発見された。



発見された鳴海の遺体には激しい暴力を受けた痕があった。



複数の刺し傷と、

爪は全て剥がされ、性器は切断されていた。



この鳴海を捕まえて、

リンチを加えて殺害する様子がおさめられたビデオが、

田岡組長に届けられたという話がある。(単なる噂かもしれない)



テープは3分程の白黒で音は無し、

その内容を周りの組員は直視出来なかったが、

田岡組長はじっと黙って最後まで見たという。

https://ojisan777.net/?p=2500
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1587.html
[番外地10] 田岡一雄組長を撃った男 鳴海清の所属する組は鳴海をリンチするビデオを送って許された
田岡一雄組長を撃った男 鳴海清の所属する組は鳴海をリンチするビデオを送って許された

鳴海清は大阪西成の松田組系の組織、大日本正義団の組員だった。

鳴海清が有名になったのは、当時日本最大最強の組織山口組の、三代目田岡一雄組長を京都の「ベラミ」という、クラブで狙撃した事件があったからだ。

この鳴海を捕まえて、リンチを加えて殺害する様子がおさめられたビデオが、田岡組長に届けられた。



テープは3分程の白黒で音は無し、

その内容を周りの組員は直視出来なかったが、

田岡組長はじっと黙って最後まで見たという。

発見された鳴海の遺体には激しい暴力を受けた痕があった。



複数の刺し傷と、爪は全て剥がされ、sei器は切断されていた。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/472.html
[番外地10] アイヌの先祖の蝦夷は古墳時代に北海道から東北に南下してきた後北式土器文化人だというのが定説
アイヌの先祖の蝦夷は古墳時代に北海道から東北に南下してきた後北式土器文化人だというのが定説だよ。 東北北部の地名はすべてアイヌ語だし、東北のマタギの言葉もアイヌ語だ。 その後、後北式土器文化人は青森県まで追い払われる。アイヌ人はこの後北式土器文化人の子孫になる。 現代の津軽人の遺伝子はアイヌ人と変わらない。恐山のイタコはアイヌのシャーマンと変わらない:

北海道の先史時代 続縄文時代 後北式土器文化
3世紀から5世紀にかけては古墳寒冷期とよばれている寒冷期で、気候が悪化した時期であるが、この時期に北海道から東北への人間の移動があった。
続縄文時代後半期には、その初めには道央に限られた後北式土器が、やがては全道一円に進出するとともに、東北地方南部まで分布域を拡大した。後北式土器とは後期北海道薄手縄文土器の略である。続縄文時代前半期には海岸線に沿って遺跡の分布がみられたが、後半期には河川沿いに遺跡が分布する傾向を見せることから、この時期になって海洋での漁労・狩猟活動から、河川での漁労活動に生産手段が変化したと考えられる。

 藤本(1994)は、各地の河川中流域に多くの遺跡が分布し、拠点的な大遺跡と小規模な遺跡の組み合わせがみられること、川筋に沿ってみられることから、後の擦文文化、アイヌ文化に続く河川漁労を主とした生業体系がこの時期に成立したとしている。

3世紀から5世紀にかけては古墳寒冷期とよばれている寒冷期で、気候が悪化した時期であるが、この時期に南と北の文化との間に相互の交流があったことを示すものである。土器だけが本州東北地方に持ち込まれたのではなく、人の移動があり、水田稲作を行っていた弥生文化の人々との間に交易を中心とした交流があったと考えられる。したがって、北海道で狩猟・漁労を主生業としていた人々も東北地方との接触により、農業に関する知識を得ていたとしても不思議ではない。続縄文時代になると石狩低地帯より西側に限られるが、道内の遺跡からソバの花粉が検出されたり、コメやオオムギ、アワ、ヒエなどの栽培植物の種子が検出され、その数が縄文時代晩期よりも多くなっていることも本州との交流が活発であったことを物語る。
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0120205100/0120205100100050/ht002190  
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/473.html
[番外地10] 玉砕を覚悟したプーチン大統領が弾く『カチューシャ Катюша』
玉砕を覚悟したプーチン大統領が弾く『カチューシャ Катюша』
https://www.youtube.com/watch?v=s1NNzE7rwSI


破滅へ向かって驀進するガールズ & パンツァー 戦車隊が歌う『カチューシャ Катюша』
https://www.youtube.com/watch?v=mtAqmVBbDX0
https://www.youtube.com/watch?v=8oLDY_sgXjU


ロシア兵が玉砕覚悟の突撃の時に歌う
[ソ連軍歌] カチューシャ 日本語歌詞付き Катюша
https://www.youtube.com/watch?v=sVk9eyAWxPk



Расцветали яблони и груши,
Поплыли туманы над рекой;
Выходила на берег Катюша,
На высокий берег, на крутой.

咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に

Выходила, песню заводила
Про степного, сизого орла,
Про того, которого любила,
Про того, чьи письма берегла.

カチューシャは歌い始めた
誇り高き薄墨色の鷲の歌を
彼女が深く愛する青年の歌
大事に持ってる彼からの手紙

Ой, ты песня, песенка девичья,
Ты лети за ясным солнцем вслед,
И бойцу на дальнем пограничье
От Катюши передай привет.

おお 歌よ 乙女の歌よ
太陽をかすめ 鳥の如く飛んでゆけ
遠い国境の若き兵士の元へ
カチューシャの想いを届けるのだ

Пусть он вспомнит девушку простую,
Пусть услышит, как она поёт,
Пусть он землю бережёт родную,
А любовь Катюша сбережёт.

彼は思い起こすか 純真な乙女を
彼は聞くだろうか カチューシャの澄んだ歌声を
彼は愛すべき祖国の地を守り抜き
カチューシャは愛を強く守り抜く

Расцветали яблони и груши,
Поплыли туманы над рекой;
Выходила на берег Катюша,
На высокий берег, на крутой

咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に 



戦死した恋人を悼む
ダークダックス 『カチューシャ』
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%80%80%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
E3%80%80%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%80%E3%8
3%83%E3%82%AF%E3%82%B9
メンテ
Page: 1 | 全部表示 スレッド一覧 新規スレッド作成
ロシア人はプーシキンの詩とロシア民謡を愛する信心深い民族 ( No.1 )
日時: 2022/05/05 19:28
名前: スメラ尊 ID:2KCHm9HY

ロシア人はプーシキンの詩とロシア民謡を愛する信心深い民族


ジプシー歌謡『黒い瞳』
feodor chaliapin - black eyes / dark eyes
https://www.youtube.com/watch?v=b3nOBw2UlkI


メリー・ホプキン 悲しき天使 Those Were the Days
THOSE WERE THE DAYS MARY HOPKIN
https://www.youtube.com/watch?v=2KODZtjOIPg


【ロシア語】二つのギター (Две гитары) (日本語字幕)
https://www.youtube.com/watch?v=UEGU-1gOPWE&t=24s


イリーナ・スルツカヤ Gipsy(二つのギター)
Irina Slutskaya 07 EX Gipsy
https://www.youtube.com/watch?v=u2NEzk4Jgp4


【ロシア語】トロイカ (Вот мчится тройка почтовая) (日本語字幕)
1990年にロシアで行われたコンサートの映像から。
歌はリュドミラ・ズィキナ(Людмила Зыкина)。
https://www.youtube.com/watch?v=-GJBw1Ch4jk
メンテ
ロシア文学の世界 ( No.2 )
日時: 2022/05/05 19:46
名前: スメラ尊 ID:2KCHm9HY

ロシア文学の世界

トルストイ作品集
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person361.html#sakuhin_list_1  

▲△▽▼

ドストエフスキー作品集
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person363.html#sakuhin_list_1  


映画 黒澤明 白痴(松竹 1951年)
https://www.dailymotion.com/video/x3p2qxg

監督 黒澤明

キャスト
那須妙子:原節子
亀田欽司 : 森雅之
赤間伝吉:三船敏郎
大野綾子 : 久我美子
大野:志村喬
大野里子:東山千栄子
大野範子:文谷千代子
香山睦郎:千秋実

▲△▽▼

チェーホフ作品集
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1155.html#sakuhin_list_1  


映画『チェーホフのかもめ』(1971年、 ソビエト連邦)Чайка / The Sea-Gull
https://www.youtube.com/watch?v=SaRhIQB7_wo


スタッフ

監督 ユーリー・カラーシク
原作 アントン・チェーホフ
脚本 ユーリー・カラーシク
撮影 ミハイル・スースロフ
音楽 アレクサンダー・シニートケ


キャスト

Arkadina アッラ・デミートワ
Treplev ウラジミール・チェトヴェリコフ
Sorin ニコライ・プロートニコフ
Nina リュドミラ・サベーリエワ
メンテ
チャイコフスキーの名盤 ( No.3 )
日時: 2022/05/05 20:14
名前: スメラ尊 ID:2KCHm9HY

チャイコフスキーの名盤


チャイコフスキー バレエ音楽 『白鳥の湖』
Tchaikovsky 'Swan Lake' - Stokowski conducts highlights
https://www.youtube.com/watch?v=H-_5nLx0ekw

NBC Symphony Orchestra
Leopold Stokowski



ピョートル・チャイコフスキー バレエ音楽 『くるみ割り人形』
Tchaikovsky - The Nutcracker - Leningrad / Mravinsky Leningrad 1981
https://www.youtube.com/watch?v=JiN_yksZYlQ



チャイコフスキー『ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.35』
Bronislaw Huberman plays Tchaikovsky violin concerto, Eugene Ormandy, PO 1946
https://www.youtube.com/watch?v=lOZjC3EmumM



チャイコフスキー『交響曲第5番 ホ短調 作品64』
Tchaikovsky: Symphony No. 5 - Leningrad Philharmonic Orchestra/Mravinsky (1978)
https://www.youtube.com/watch?v=PN-vUon5g0g

Leningrad Philharmonic Orchestra
EVGENY MRAVINSKY, cond.
Recording: Musikverein, Vienna, 12 & 13 June 1978



チャイコフスキー『弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11 第2楽章 アンダンテ・カンタービレ』
Lener Quartet - Tchaikovsky : String Quartet - Andante Cantabile Op.11 (1935)
https://www.youtube.com/watch?v=yxE3xXRyREo
メンテ
ロシア音楽の名曲 ( No.4 )
日時: 2022/05/05 20:22
名前: スメラ尊 ID:2KCHm9HY

ロシア音楽の名曲


ムソルグスキー『展覧会の絵』
Mussorgsky: Pictures at an Exhibition, Horowitz (1951) ムソルグスキー「展覧会の絵」ホロヴィッツ
https://www.youtube.com/watch?v=llr9zcPTjGo



ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18』
Rachmaninov Piano Concerto 2 / Sviatoslav Richter, Stanislaw Wislocki (1959/2015)
https://www.youtube.com/watch?v=ygfLNLs2IBU


ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番ニ短調op.30
Vladimir Horowitz plays Rachmaninov Concerto N°3 op 30 in New York 15.02.1940 live
https://www.youtube.com/watch?v=z7B4P1slPSk

February 15, 1940: Carnegie Hall, New York City, New York



ショスタコーヴィチ『交響曲第8番 ハ短調 作品65』
Shostakovich - Symphony n°8 - Leningrad / Mravinsky London 1960
https://www.youtube.com/watch?v=cdV2sAZ5vOs

Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording, London, 23.IX.1960



ショスタコーヴィチ『弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110』
Shostakovich - String Quartet No 8 - Borodin Quartet
https://www.youtube.com/watch?v=gwostsHeRdw
メンテ
プーチン大統領やサダム・フセイン、カダフィ大佐を悪魔化する西側の報道はすべてデマ ( No.5 )
日時: 2022/05/05 19:59
名前: スメラ尊 ID:2KCHm9HY

プーチン大統領やサダム・フセイン、カダフィ大佐を悪魔化する西側の報道はすべてデマ

湾岸戦争の時も、イラク戦争の時もすべて広告代理店が悪質な捏造報道をしてイラクの英雄 サダム・フセインを悪魔化していました。今回も同じです。

真実は

ウクライナ戦争で最も悪いのは米英
2022年4月29日   田中 宇
https://tanakanews.com/220429baud.htm

市民虐殺の濡れ衣をかけられるロシア
2022年4月8日   田中 宇
https://tanakanews.com/220408bucha.htm

【伊藤貫の真剣な雑談】第5回「米露関係破綻の原因は何か?」[桜R4/3/31]
https://www.youtube.com/watch?v=mARfK3-Crkg&feature=emb_title

特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その1、キエフ公国〜ソビエト連邦建国まで』
https://www.youtube.com/watch?v=H7Y537GyIkc

特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その2、第2次世界大戦〜現在まで』
https://www.youtube.com/watch?v=0wAcNSxZZq4


▲△▽▼
▲△▽▼


ロシア 聖なる我等が国
ロシア 愛する我等が国
固き意志 偉大な栄光や
永久に汝が富ならん

   讃えよ我等が 自由なる祖国
   いざ集え 兄弟よ
   先人が知恵 我等がもとに
   讃えよ 汝が誇りを

新世紀を間近に控えた2000年。プーチン大統領は、それまでの愛国歌からソ連国歌のメロディーに変えました。

ソ連からの独立後のロシアには未来への希望が満ち溢れていました。共産主義の呪縛からの解放、独立、そして自由。しかしエリツィン政権のもとでは共産主義からは逃げられましたが、安定した生活は得られませんでした。そして独立を境にしロシアからは光が失われつつありました。ロシアの大国としての誇りが失われ、犯罪は多発し、誇りである軍隊はほぼ崩壊に近くなりました。

アメリカには頭が上がらなくなり、西欧との生活環境の落差は広がる一方。これらに追い討ちをかけたのが98年の経済危機。帝政ロシア、ソ連を通じ自らの経済を見つめてきた、またロシア人の誇りのルーブルが紙くず同然となりました。

ロシアの人々は現実に打ちのめされました。しかし。ロシアの人々はこんなことではへこたれません。・・ですが、やっぱり自分達の生活には限界が近づいてくるわけです。

エリツィンは何もせず酒ばかりのんでいる。国民の生活の不満は政治に向けられました。そんな中。1999年の大晦日。ロシアと全世界に衝撃が走りました。エリツィンが突如辞任したのです。

後任は元ペテルブルグ市長プーチン。名も知らぬ若き男に大国ロシアは委ねられたのです。国民はあまり期待をしませんでした。「エリツィンよかましなだけだろう」と。

しかし、そんな国民のさめた目を横目に、「強いロシア」を掲げた大統領は次々と改革を断行。経済はだんだんと回復。生活も苦しいながらも徐々に改善。なんと言っても「強いロシア」が現実に感じられるようになったのです。

もう昔の我々ではない。昔の栄光を取り戻そうじゃないか!

ロシアの人々は沸き立ちます。


▲△▽▼


アメリカを心底恐怖させた国ソ連は消滅しました。この
時、アメリカ政府は、今後のロシアをどのようにしたらい
いだろうかと考えました。

 心優しい日本人であれば、「経済危機に陥っているロシ
アに支援を送る」とかなんとか善意に基づいた行動をとる
でしょう。
 しかし、「普通の国」アメリカはもちろんそのようなこ
とは考えない。これは当然、「ロシアが二度とアメリカに
反抗できないよう、この国を破壊し尽くそう」と考えた。

 アメリカは国際通貨基金(IMF)を通して、ロシアに「改
革のやり方」を伝授した
 まず「政府による経済管理の廃止」。貿易が自由化され、西
側の優れた製品がロシア市場になだれ込み、ロシアの国内産業
は壊滅した。

 次に「価格の全面自由化」。国内産業が駆逐され、輸入に頼
るしかない状況で、ロシアの通貨ルーブルは急落し、国内はハ
イパーインフレーションに見舞われた。改革がスタートした92
年のインフレ率はなんと2600%、GDP成長率はマイナス14.5
%。ロシア経済はアメリカの思惑通り破綻した。

 さらに大規模な「民営化」。国有財産はそれを今、手元に持
つ人の所有となった。アパートの住人は、アパートの所有者と
なった。そして国有石油会社のトップは、その会社をほとんど
無料で手に入れた。ここから生まれた新興財閥はエリツィン政
権に賄賂を送って、税金をほとんど免除してもらった。当然、
国家財政は大幅な赤字に転落した。

▲△▽▼

金融の自由化はISOによってではなく、グローバル化なる経済用語あるいは
新自由主義なる政治用語によって露骨に国家間の争いとして実現されてきた。
ここにおける戦いが逆にISOを規定してきたといえるのである。
 それは98年8月27日、史上3番目の米欧での株の大暴落という劇的な形で始まった。
米12%、英13%、独18%の暴落だった。翌日アジアに波及する。日本19%香港33%
マレーシア59%。仕掛けはニューヨーク株式市場だった。この点に注目しておいて
いただきたい

ロシア売りである。直撃を受けてロシアの株価は実に84%も下落する。
一夜にして価値が6分の1に下落してしまったのである。

 この資金は「Hot Money」と称せられ、公式的には短期資金とされHedge Fund
とされる。資金の源は「ソ連邦崩壊により軍需に回されていた資金が民間に回り、
金融市場にあふれた」からとされているが、鵜呑みにするわけにはいかない。
軍需に回されていた資金の源は?民間に回される?馬脚が出ているのである。
公的資金が隠匿された回路を通って市場に投入されていることを自ら暴露して
しまっている。隠匿されているので分からないが、ヘッジファンドの資金のかなり
の部分が米では政府筋から出ている可能性がある。


1990年代初頭の旧ソ連と東欧の民主化は、西側諸国にとってあらたな潜在的脅威を生んだ。それまで共産圏内に閉じ込められていた高い技術力、技術開発力、先端科学が開放され、西側先端産業を脅かすことになるからだ。民主化の過程で、これら先端科学や先端技術を破壊する必要があった。旧ソ連と東欧の民主化、自由主義経済への移行過程に、IMFと世界銀行が深く関わることになる。

両機関の政策により、旧共産圏の経済生産は半分に落ち込んだとも言われる。また、経済の全域が商業マフィアに乗っ取られ、正常な経済活動が営まれなくなった。先端産業は発展の道を封鎖され、科学者や技術者は失業するか西側企業に格安で雇われることになった。IMFと世界銀行は、旧共産圏の経済を見事なまでに破壊し、国民生活を世界最低レベルにまで落とした。

かつての旧ソ連、東欧での生活水準はけっして高くはなかった。しかし、教育や医療など中心的な社会サービスは無料で提供され、完全雇用が約束されていた。しかし、IMFと世界銀行の指針により、社会保障制度は自ら財源を確保しなければならなくなった。教育、医療は有料化され、多くの人々が教育と医療を受ける権利を剥奪された。かつて西側先進国をしのぐほどの高い教育・医療レベルも維持できなくなった。

旧共産圏は、経済や産業だけでなく、教育、医療、福祉、文化、芸術、スポーツなどあらゆる分野が瓦解し、第三世界化してしまった。かくして、旧ソ連は西側先端産業にとって何の脅威でもなくなった。ヨーロッパ産業にとっては、すぐ隣に低賃金の労働市場が誕生したことを意味する。以降、東欧諸国は、西側ヨーロッパ産業に低賃金労働を提供するだけの存在となってしまった。


IMFによる「改革」によってロシア経済は混乱を増幅させ、IMFが決めた追加支援の
実行を求めるロシアのキリエンコ首相に米は拒否を通告、2日後のルーブルの大幅
切り下げ、そしてついには外為取引停止へと突き進んでいった。ロシア経済が立ち
直るのはエリツィン政権が終わり、IMFの言うことを聞かないプーチン政権が誕生
してからのことである。

 とすると、IMFで意図的にロシア経済を米欧に都合のいい状態に置き、その
締めくくりとしてロシア売りを仕掛け、世界的株価暴落を実現したと考えることも
出来る。

全てを「政府の手を離れた」「国境を越えた」ヘッジファンドのせいにする論調
ばかりが見受けられるが、よく考えてみる必要がありそうだ。そもそもIMFは米が
中心になって「社会主義諸国圏」を包囲し、帝国主義諸国間の金融を安定させる
ために作られた組織である。そのIMFのロシア資本主義化計画に基づいてロシアは
経済を運営したのだが、計画をしてその実行段階に入ってしまった後に米国が資金
提供を拒否するというシナリオは、非人為的なものだろうか。意図的であれ意図的
でないにせよ、人為的所為であることは確かである。

ロシアで何が為されたかを検討してみよう。91年の国有企業就労人口は78%程度
であったものが5年後の96年には38%となり、民間企業と逆転する。この間、
外資企業は1000から15000近くとなる。国営企業は株式化され株式売却益を国家
財政に返納するという方式すら採ることが出来ず、安値で個人に売却されるという
形しか採れなかった。国家財の収奪である。収奪された富は民営化された企業の
初期赤字という形で移転されていく。どこに移転したのかといえば、赤字に
ならざるをえない環境=すなわち国際環境に吸収されていったのである。
要するに外国資本が入り組んだ形で少量ずつの分け前にあずかるという形式で
ロシア国外に移転されたのである。

他方、民営化は外資が入り込むという形で急速に進展したのである。外資が入り
込みやすくするために国営・公営企業が急速に解体させられていったのである。
そしてこれこそがIMFの方針の確固とした部分だったのである。

 瞬時に国境を越える資金による恫喝とその実行を背景に、米国資本の利害に
連邦政府がその手先として地ならしをするというのがその実態だったのである。

日本もそうであり、ISOやIMFはその国家形態をとった手段だったのである。

▲△▽▼

アメリカがロシアにしたこと:

・1992年1月に開始されたIMF式「ショック療法」は、ロシアの民族資本主義への移行の可能性を最初から排除させるものであった。西側の目的は、どのようにしてロシアを手なづけ従属させ、ロシア経済の長所である先進科学、人的資源、知的財産権を奪うかにあった。

・IMFとエリツィンが主導する経済改革はアフリカとラテンアメリカの債務国に強要された構造調整プログラムのコピー版が適用されたのだった。この経済改革で物価が100倍以上に跳ね上がったと言われている。IMF関係者によると、国民の購買力が非常に高く過剰流動性を吸収しなければいけないと述べていた。マクロ経済政策が実施されると、生活水準は下落し、第二次対戦の時のほうが食べるものがあったという声があるほどだった。

・冷戦は実際に破壊なく進行した戦争であったが、マクロ経済政策という武器を通して、敗戦国の経済を瓦解させながら、幕を下ろした。市民社会は破壊、経済活動の領域が犯罪の巣窟になり、国家の財産が奪取され、黒い金がロンダリングされ、資本は海外へと流出した。さらに、商業銀行の半数以上を地域マフィアが掌握、モスクワの不動産の半分を犯罪組織が所有しているのだ。

◆国家財産の安価購入◆

・新興富裕層は、法外に儲けた金で国家財産をただ同然の安価で買ったり、政府の民営化計画を通して民営化企業を買ったりした。先端のミサイル生産施設は、100万ドルあれば買うことができ、モスクワの中心にあるホテルは、パリにあるアパート一軒の値段より安く取引された。


◆膠着状態に陥ったIMFの改革政策◆

・1992年末に、イェゴール・ガイダル首相の指揮で進められていたIMFの改革政策は、議会だけでなく、中央銀行からも猛反対にあった。中央銀行総裁はIMFの勧告とは反対に国営企業に貸出しを拡大し、代わりに保健医療、教育、年金の削減を盛り込んだ、「対案的経済政策計画」を発表したが、ガイダル首相が解任されると、その計画は実行されなかった。
・そして相次ぐ議会の反対から、1993年9月21日にエリツィンが大統領令を布告し、議会の両院を解散させた。

◆西側諸国のエリツィン支援◆

・1993年末にはいって、ロシアの資本は海外流出によって枯渇状態になってしまっていた。その年の国際収支赤字は400億ドルで、1993年に東京で開かれたG7首脳会議で決定した430億ドルの援助に匹敵する額であった。同年バンクーバー・サミットで締結された米国とロシアの二国間協約に従って、クリントン大統領は16億ドルの支援をすると約束したが、これにはたくさんの条件が付けられており、ロシアは自由に使えなかった。


◆債務返済の足かせ◆

・1993年9月議会の抵抗を制圧したロシア政府は、債権金融団との債務交渉戦略を修正した。1993年10月初め、フランクフルトでロンドン・クラブ会議が開かれた。そこでロシア交渉団は、商業債務返済は必ず守らせると断言した。この会議で、治外法権放棄を除外してはロンドン・クラブが提示したすべての条件を受け入れた。そして、国際収支の危機、悪性債務の蓄積によってロシアは、事実上の支払い不能状態に陥るようになった。今やロシアは卑屈で従順な第三世界国家へと転落してしまい、債務と構造調整という沼に落ちてしまった。

◆市民社会の崩壊◆

・ロシア国民は両極化し、民主主義を導入後は、雇用に関しては最悪の結果で1993年には産業施設の半分以上が閉鎖倒産した。1994年の公式統計によると、3万3千ほどの国営企業および集団農場に勤務する労働者の賃金が遅払いされた。

・問題は貧困化と大量失業だけではなく、ロシア社会の基礎、国家制度自体が破壊されており、ロシア連邦さえ瓦解する危険性があるのだ。

▲△▽▼


1990年代初頭の旧ソ連と東欧の民主化は、西側諸国にとってあらたな潜在的脅威を
生んだ。それまで共産圏内に閉じ込められていた高い技術力、技術開発力、先端
科学が開放され、西側先端産業を脅かすことになるからだ。民主化の過程で、
これら先端科学や先端技術を破壊する必要があった。旧ソ連と東欧の民主化、
自由主義経済への移行過程に、IMFと世界銀行が深く関わることになる。

両機関の政策により、旧共産圏の経済生産は半分に落ち込んだとも言われる。
また、経済の全域が商業マフィアに乗っ取られ、正常な経済活動が営まれなくなった。
先端産業は発展の道を封鎖され、科学者や技術者は失業するか西側企業に格安で
雇われることになった。IMFと世界銀行は、旧共産圏の経済を見事なまでに破壊
し、国民生活を世界最低レベルにまで落とした。

かつての旧ソ連、東欧での生活水準はけっして高くはなかった。しかし、教育や
医療など中心的な社会サービスは無料で提供され、完全雇用が約束されていた。
しかし、IMFと世界銀行の指針により、社会保障制度は自ら財源を確保しなければならなくなった。
教育、医療は有料化され、多くの人々が教育と医療を受ける権利を剥奪された。
かつて西側先進国をしのぐほどの高い教育・医療レベルも維持できなくなった。

旧共産圏は、経済や産業だけでなく、教育、医療、福祉、文化、芸術、スポーツ
などあらゆる分野が瓦解し、第三世界化してしまった。かくして、旧ソ連は西側
先端産業にとって何の脅威でもなくなった。ヨーロッパ産業にとっては、すぐ隣に
低賃金の労働市場が誕生したことを意味する。以降、東欧諸国は、西側ヨーロッパ
産業に低賃金労働を提供するだけの存在となってしまった。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/474.html
[番外地10] 遺族が吉田優樹や加害者の側かどうか 中川隆
4. 中川隆[-13098] koaQ7Jey 2022年5月06日 16:10:51 : Ek1rMHz0BK : cjZPbUlrVFFFYms=[1]
担任も教頭も校長も精神科の医師もサアヤさんが毎月通っていた警察のサポートも第三者委員会の委員も全員、サアヤさんのお母さんを相手にしていなかったですよね。
何か公表できない秘密が有るという事ですね。

#282 2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

の「子供ほったらかしてる分際で」というのは、子供が朝帰りや外泊しているのをほったらかしてる
つまり娘が売春しているのをほったらかしてる、という意味でしょう。

売春に比べたらイジメなんか大した問題じゃないという事ですね。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/468.html#c4

[番外地10] 旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い 中川隆
3. 中川隆[-13097] koaQ7Jey 2022年5月08日 16:17:26 : l6YOmBpHLA : M1NSS2YvdkRib2M=[1]
旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い
未解決な問題は
遺族が吉田優樹や加害者の側かどうか
だね。
遺族はなぜ吉田優樹をあそこ迄庇ったのかな。
廣瀬爽彩さんが吉田優樹に宛てた感謝の手紙は偽物だろうな。

きなこもちの話の方が正しくて、爽彩さんのお母さんの話が嘘だという可能性がかなり高いです。

きなこもちは爽彩さんがしょっちゅう家出していたと証言しています。
つまり朝帰りや外泊が多かったという事で、売春客とホテルに泊まっていたという事でしょう。

担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

の「子供ほったらかしてる分際で」というのは、子供が朝帰りや外泊しているのをほったらかしてる
つまり娘が売春しているのをほったらかしてる、という意味でしょう。

売春に比べたらイジメなんか大した問題じゃないという事ですね。


お母さんは爽彩さんは中学に入るまでは明るかった、中学に入ってから暗くなった、と言っているけど
爽彩さんがPTSDやパニック障害になったのは小学生の時なので、小学校の時から暗くなっていた可能性が高いですね。

PTSDやパニック障害になるのはレイプされたり家庭内性虐待された場合が殆どなので、爽彩さんは小学生の時に既にそういう被害を受けていた可能性が有ります。

爽彩さんのお母さんの話は最初から最後まで信用できないですね。

サアヤさんが自殺か他殺かという問題は本来サアヤさんのお母さんがやるべき事なのに、自分では何もやらないからね。
サアヤさんのお母さん自体が加害者側の可能性もある。

そもそも、サアヤさんのお母さんは先生からも医者からも警察からも第三者委員会からも全く信用されていなくて相手にされていないんだ。
きなこもちの言っていた事のかなりは事実みたいだしね。
サアヤさんが家出ばかりしていたというのは、児童売春の為に外泊していたという事だよ。お母さんはそれを放置していたんだ。

担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

というのはサアヤさんが売春の為に外泊するのをほったらかしている、という意味だろうからね。
担任は、売春に比べれば自慰動画の拡散なんか大した問題じゃないと思っていたんだ。

母親の愛人が児童売春組織と関係があるのかもしれないね:

不思議なことに、なぜか皆さん、母親が加害者側の手に落ちていない前提で考えてますよね?
私なら加害者、当然少年法に守られた子供を使っている大人ね、は加害者少年達に被害者の追い込みを始めさせる前に、母親を加害者側の男の女にする。
この点でも、外来者でキレイなシンママとその娘が狙われた。

被害者の母親は5年前から集団ストーカー行為を受けていた。
加害者側の大人は、成人女性よりも、児童ポルノや児童売春に使える少女が金を生む。高く売れる少女をどうやって手に入れるか?を考えれば誰が考えても同じ答えになる。
母親に言い寄って、関係を結ぶ。児童売春の隠し撮り用の部屋で、母親と男の成績行為を隠し撮り。
それをネタに母親も、ついでに売春強要。12歳の少女でさえ食い物にする加害者側の大人が、食い物にしやすい成人のシンママを食い物にしないと考える理由は?
市からの賠償金だって、母親を手中にしていれば加害者側のもの。
とことん、市外からの転入の小さい娘を持つ美人のシンママは、母子ともに死ぬまでしゃぶりつくしていると、考えない理由を聞きたい。

▲△▽▼

旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い

月刊北海道経済 2019年11月号
中学教諭が相次いで買春容疑で逮捕
 旭川市立永●●中学校の男性教諭(44)が7月に児童買春の容疑で逮捕されたのに続いて、この9月には東●●中学校の男性教諭(50)も同様の容疑で逮捕。これを受け黒蕨真一教育長は「学校教育が足元から崩壊しかねない非常事態」と対応に苦慮している。そんな矢先、本誌に「某中学校PTA役員」から「旭川市の学校は異常 教職員の道徳心や倫理観の低下が深刻」と題した投書が寄せられた。

2007年 小学校 教員(43)
17歳の高校生に現金渡してホテルでハメハメハ

2009年 中学校  教員(39)
出会い系で知り合った17歳の高校生に胸や下半身を露出させて撮影

2009年 小学校  教員(41)
    2006年9月〜2007年6月に当時勤務していた旭川の中学の女子中学生とハメハメハし撮影していた

2010年 中学校  教員(47) 
    当時教え子だった中学3年生と車でハメハメハ

2011年 高校 教員(46)
    旭川市の女子高生15歳に14歳の女子中学生を紹介させてその中学生に数万渡してセックス

2017年 小学校 (42)
教師の立場を悪用し、10代の女児の服を脱がすなどの行為を繰り返した

2019年 小学校 教員(57)
    旭川市の MEGAドン・キホーテ旭川店で女性のお尻ナデナデ 当時酒気帯び運転で停職処分中だった

2019年 中学校 教員(46)
    17歳の高校性に1万円渡してハメハメハ

2019年 中学校 教員(50)
    17歳の少女に1万5千円でハメハメハ

2020年 小学校  (47)
    令和2年2月、ホテルで、出会い系アプリを通じて知り合った18歳未満の女性に対し、現金を供与して性的行為を行った。
    令和2年4月、ホテルで、出会い系アプリを通じて知り合った別の18歳未満の女性に対し、現金を供与して性的行為を行った。
    令和2年5月、ホテルで、Twitterを通じて知り合った上記と別の18歳未満の女性に対し、現金を供与して性行為を行った。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/439.html#c3

[リバイバル3] 富士山に「まぼろしの滝」 雪解けピーク、静岡県小山町の須走口
富士山に「まぼろしの滝」 雪解けピーク、静岡県小山町の須走口【静岡新聞/あなたの静岡新聞】
2022/05/10

富士山の雪解けがピークとなる時期に現れる「まぼろしの滝」が小山町の須走口5合目付近に出現しました。川のない富士山で、澄んだ水が音を立て流れる神秘的な光景が見られました。

富士山5合目に「まぼろしの滝」出現 小山町の須走口

 富士山の雪解けがピークとなる時期に現れる「まぼろしの滝」が小山町の須走口5合目付近に出現した。川のない富士山で、澄んだ水が音を立て流れる神秘的な光景が見られ、10日、県内外から訪れたハイカーたちを喜ばせた。

富士山の山肌に出現した「まぼろしの滝」=10日午後、小山町の須走口五合目付近

 山頂付近の雪解け水が集まり山肌に露出した溶岩上を流れ落ちる現象で、例年は5月中旬から6月中旬の気温の高い日に現れることが多い。須走口5合目の山荘「菊家」店主の渡辺昇さん(72)によると、今月4日に初めて滝の流れが確認された。今後の気候にもよるが、月末までは見られそうという。
 まぼろしの滝までは、須走口5合目駐車場から片道20分ほどのハイキングコースが整備されている。
https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/1064425.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1231.html

[近代史5] 日本人はアジアで最も好戦的な人民だった
日本人はアジアで最も好戦的な人民だった

2022.05.11XML
アメリカにとってのフィリピンと日本
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202205110001/

 アメリカの私的権力はフィリピンを再び従属国にしようと必死だが、その大きな理由は中国侵略にあるだろう。日本列島、琉球諸島、そして台湾へ至る弧状の島々をアメリカはユーラシア大陸の東側を侵略するラインにしたが、その南側にあるのがフィリピン。南シナ海を支配するため、フィリピンを押さえたいだろう。

 アメリカ-スペイン戦争で勝利したアメリカはラテン・アメリカだけでなくフィリピンを1898年から植民地化、中国を侵略するための拠点になった。その際にアメリカ軍が行った先住民虐殺は悪名高い。

 当時、中国はイギリスの侵略を受けていた。技術革新で生産力をイギリスは高めたが、大量生産した製品が中国で売れず、貿易収支は大幅な赤字になる。経済力でイギリスは中国に太刀打ちできなかった。

 しかし、「産業革命」で軍事力は進歩し、それを利用してアヘンの密売、押し売りを始める。それを中国側は取り締まり、1840年に戦争が勃発する。それがアヘン戦争。42年まで続いた。1856年から60年にかけても同じ構図の戦争、第2次アヘン戦争を引き起こされた。アヘンは「大英帝国」を支える重要な商品で、その取り引きによる売り上げはイギリス全体の15%から20%に達したと推計されている。(Carl A. Trocki, “Opium, Empire, and the Global Political Economy,” Routledge, 1999)

 1565年からアメリカの支配が始まるまで、フィリピンはスペインの植民地だった。豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出した1587年より前に日本人はスペイン人とルソン島で戦っている。1596年にスペイン軍がカンボジアへ遠征したが、その時には少なからぬ日本人傭兵が参加していた。

 秀吉は1592年と97年、2度にわたって朝鮮半島を軍事侵略(文禄慶長の役)しているが、98年に死亡、日本軍は朝鮮半島から撤退する。その背後ではイエズス会の動きがあったようだ。その後、プロテスタントのオランダやイギリスがやって来る。

 イエズス会は1540年にローマ教皇の認可を受けて設立された修道会で、その会士だったフランシスコ・ザビエルは49年に鹿児島へ上陸している。その後、イエズス会は日本の内乱(戦国時代)で一部の大名を軍事的に支援する一方、奴隷貿易にも関係していた。(ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子著『大航海時代の日本人奴隷』中央公論新社、2021年)

 その当時の日本は戦国時代の終盤だったこともあり、その戦闘能力を見て軍事的に制圧することは断念したようで、懐柔工作にでた。豊臣秀吉だけでなく織田信長も「明国征服」を考えていたが、そうした構想を持つようになった一因はイエズス会にあったようだ。(平田新著『戦国日本と大航海時代』中公新書、2018年)

 朝鮮半島から日本軍が撤退した翌年、スペインのマニラ提督は国王へ宛てた軍務報告の中で、日本の兵士が稼ぎ場を求めて朝鮮半島からルソンへ来るのではないかと書いている。朝鮮半島での戦争とは関係なく、ルソンには日雇い労働者や傭兵として日本人がいたことも警戒感を募らせる一因になっていた。マニラ提督が国王へ出した報告によると、「日本人は、この地方において、もっとも好戦的な人民」だという。(藤木久志著『雑兵たちの戦場』朝日新聞、2005年)

 その当時、アジアを侵略していたヨーロッパ諸国は日本を傭兵、つまり戦闘奴隷の供給地としてだけでなく、平坦基地としても使っていたのだが、徳川秀忠は人身売買、武器輸出、海賊行為を禁止、ヨーロッパ諸国を混乱させた。ヨーロッパ諸国にとって日本との連携はアジアを侵略する上で大きな意味があったと言えるだろう。

 その徳川体制は1867年に「大政奉還」で消滅、イギリスやアメリカを後ろ盾とする明治体制へ移行した。そして琉球併合、台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争へと突き進む。

 この流れはイギリスの長期戦略に合致している。その後、こうした関係は揺らぐが、第2次世界大戦後に修復された。つまり、現在の日本はアメリカの平坦拠点。傭兵の供給地にもなりそうだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202205110001/
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1588.html
[番外地10] 警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、爽彩さんの近況・友人との関係、母親との関係、売春していないかどうか、覚醒剤使用の有無等を聞いていた
警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、爽彩さんの近況・友人との関係、母親との関係、売春していないかどうか、覚醒剤使用の有無等を聞いていた様です。従って、自殺未遂以降にイジメや画像の再拡散が有ったらすぐに警察が対処しています。

旭川では爽彩さんの母親に関する悪い噂が蔓延していました。それで、学校も教育委員会も警察も、そのデマのかなりの部分が真実だと判断していました。
自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。

そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、覚醒剤使用の有無等を聞いていた様です。 従って警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。

爽彩さんは精神病院に二か月も入院させられていたので、唯のパニック障害なら、退院後も病院でカウンセリングを受けるのが普通ですが、病院ではなく警察に毎月呼び出したというのは、警察は爽彩さんのパニック障害はイジメが原因ではなく、家庭環境や覚醒剤障害が原因だと判断していた可能性が高いのです。

校長や教頭、担任、教育委員会も失踪・凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと何度も指摘しています。
第三者委員会のメンバーの大半が精神科医や心理学者で、加害者への聞き取り調査を一切していないのも、旭川少女凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと判断していたからです。

▲△▽▼

#282 2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

▲△▽▼

旭川の人々の本心は

『少女が勝手に自分の画像を男子に送り騒いでる(構って欲しかっただけ)』
『彼女の家はモンスターペアレント』
『いじめではなく性的いじりなのに騒いでる』
『橋の上で男子生徒と揉めて、勝手に身投げした(被害者は小学生の時からパニック障害だった)』
『2年前の話でしっかり謝罪した』
『彼女が自殺したのは家庭の問題』
『いじめと自殺は関係ない』

朝日新聞も同様の書き方していた
これが旭川の多くの人々の認識
だから2年前の謝罪で終わってるのに犯人扱いされて、未成年なのに家族まで特定されて『名誉毀損』

ほぼこれ

▲△▽▼

因みに、上に書いたのは警察や学校関係者、旭川の一般人がどう判断しているかという事で、真実は誰にもわかりません。
爽彩さんの母親は、爽彩さんは自殺で間違い無い、掲示板や youtube の名探偵さんの話はすべて間違いだ、と繰り返し何度も言っています。

何故か、爽彩さんの母親は爽彩さんの遺体の発見場所の公開をストップさせ、凍死体をどうやって公園に運んだかをわからなくさせました。トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。

爽彩さんの母親は爽彩さんの失踪当日は氷点下17℃の極寒日だった、被害者が自殺したのは間違い無い、吉田は犯人じゃない、といった明らかに間違ったデマを多数発言して、事件に関心を持った人をすべて混乱させ、何が本当か判断できなくしました。

被害者の母親は何故か事件を矮小化しようと必死でデマを拡散しています。

・被害者の母親は爽彩さんの遺体が発見された場所を公開しないでくれと警察に頼んだ

トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。
その事実が明らかにされると他殺だとわかってしまうので、遺体が発見された場所の公開を止めさせたとしか思えません。

「ここ」をわかられると、以下のような疑問がわく

向かいの住宅の通報なので、近所には知れていますし
事件捜査時点で、トイレわきの水場石垣にブルーシートがかけられたので、犯人のみ知るじじつだからというのは「いいわけ」です。
場所の隠蔽、15〜20の天気気温の隠蔽はKが
でもね、ニュースで最初に現場がでてるしね

#22 2021/06/15 00:40
トイレの近くにブルーシートがあったらしいよ
水路からひきあげて置いたかも?

#33 2021/06/29 22:24
そもそも、向かいの住宅から、遺体の一部が見えたから通報したんですよ
ですから、もうそれだけで場所はトイレわきの水路あたりのエリアしかないの。
住宅地がそこだけだから。
車道にも近いし
youtube.com
の天気見ればわかるけど、こんな状態で1ケ月も雪の中でしたなんてありえんのよ
まあ、発見の前日が雪ね(逆に)

で、警察は事件性を否定しないとやばいから、
そこを突かれないおうに土管のなかみたいなリークをしたの。
もう仕組まれてんのよ。

4月22日HTB北海道ニュース
この事件の最初の報道で映されたのは、水路の終点。トイレの建物から10数m離れた個所。花束が水路の石垣の
どこかに置かれてるのも映ってる。

もりりん、ここから360度撮影と、石の場所特定して。
あと、土管との位置関係と、公園の全体との位置関係、道路からの位置関係。行き倒れに不自然ないか、車で運んだっぽいのか。

_______

つまり、遺体の置かれていたのが道路のすぐ近くで人家から良く見える所だとわかると、自殺ではない事がわかってしまうので、遺体発見場所を公開させないのです。

遺体が土管の中で見つかったとすると自殺だと判断されます。
雪上は足跡が付くので、遺体を土管まで運ぶと、見てすぐにわかってしまいますから。

一方、遺体がトイレの裏から見つかったとすると他殺だと判断されます。
トイレの裏は歩道のすぐ傍で人家から良く見える所なので、そんな所で凍死自殺したり、行倒れる可能性は完全にゼロだからです。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/475.html
[番外地10] フィール自殺?女子高校生は告訴しようとしていた

NO.9953399 2021/10/29 15:01
フィール自殺?女子高校生は告訴しようとしていた
結果口封じされました

#1 2021/11/23 19:08
これ目撃者いるって書き込みあったよね
女子高生が落とされてるとこをみたって外国人がいるという話だったきがする


#2 2021/11/23 19:18
こんな書き込みも

名前:匿名 : 投稿日:2021/10/29(金) 14:30:55
フィールの飛び降りも殺人事件のうわさがあります。前市長
犯人のお母さんが出陣式に来てましたよね?

だから殺人を自殺にすり替えようとしたんですか?
お嫁さんも取り換えた西川さん。すり替えたり取り換えたり大変ですね?


#4 2021/11/23 19:21
フィールは9階建とか
心臓マッサージされながら??


みんなのあさひかわ
速報 フィール旭川で女子高生が飛び降り 自殺か
2020年7月11日

特にニュースではまだ報道はされていないですが

16時頃から当サイトのアクセスが急激に増えているので、速報出しときます。

友人がたまたまフィール付近にいて、16時頃にフィール旭川付近に人が集まってきたとのLINEの報告があり

16時4分頃に救急車が到着した。人が倒れており、心臓マッサージをしながら救急車で運ばれていたとの事。飛び降り自殺と思われる。


#5 2021/11/23 19:24
闇)旭川工業の女子高校生フィール自殺、実は他にもあった。
NO.95462532021/06/08 14:22
https://bakusai.com/thr_res/acode=1/ctgid=104/bid=1064/tid=9546253/


#6 2021/11/23 19:26
#733 2021/09/19 15:49  
フィールの女の子は突き落とされてるよ
場所は従業員入り口のある裏どおり
従業員入り口のある建物だけが窓があけれるようになってて
他の表通り側とかは開かない窓で採光のためのもの
それと屋上は一般客はあがれない
仮に屋上へあがっても高いフェンスで囲まれてる


#8 2021/11/23 19:29
#775 2021/09/24 23:17  
フィールの女の子に加害させた連中

爽彩さんに加害させた連中


#9 2021/11/23 19:29
>>6
警察は屋上からの飛び降りとしたのではなかったのか
こちらも解剖は行われた筈だが、結果はどんなものだったのか


#10 2021/11/23 19:31
#687 2021/09/12 22:02  
外傷がほとんど無いのに「9階建てフィールから飛び降り」



#11 2021/11/23 19:35
ちなフィール以前にもその周辺のビルから飛び降り事故が連続であったそうな。それも未成年の女性ばっかし。これもまだ全然話題になっていない。このソースはツィッターにもある。


#12 2021/11/23 19:35
>>8
中学生主犯ではないね
大人でしょう


#13 2021/11/23 19:37
フィールは旭川にいくつかある晒し場の一つだそうですよ


旭川でまた人が流されてる・・・
NO.96696682021/07/17 17:31
twitter.com/785keine501/status/1416237409570738179
旭川市神楽7条13丁目
美瑛川に架かる平成大橋上に多数の消防車両・警察車両集結。
人が流されているという情報あり。

現在平成大橋は通行止め。

なんやねんこの街は本当にw
大橋・旭川の10条通の釣具店裏の橋・また大橋

#212021/09/16 17:33
フィール同様大橋も晒し場かね
身内はわかるメッセージ

#222021/10/22 11:20
>>0
そう、大橋も晒し場ですよ

学校、公園、フィール、大橋


#14 2021/11/23 19:49
野放しの大人は、殺しのライセンスを与えられているようなもの
再犯し放題なわけですね💢


#15 2021/11/23 19:53
>>14
古い事件は「中央は知らなかった!旭川限定腐敗!」で通っても、その後も野放しな時点でもう真っ黒に見えますね
子どもの性と命を軽視し、何ら対策をとらず
むしろ犯行グループの隠蔽をしているように見えます
インスタライブをなぜ調べないのかも


#16 2021/11/23 19:56
舞台になったカラオケ店も爆サイで堂々とラブホ代わりにして何が悪いかと凄んでます



#22 2021/12/09 22:24
この女子高校生への加害者に指示を出した人間
=爽彩さんへの加害者に指示を出した人間



#27 2022/01/26 01:04
#580 2021/09/06 13:25
そういえばこの女の子と同じ学年の旭川工業に
北星で2年前PTA会長やってたやつの息子いたよね?


#588 2021/09/06 14:38
>>584
フィールで亡くなった女の子が中学生のときから
性被害を受けていたのではないかという書き込みが以前からある
それにこの女の子はイジメ事件の加害者と同じ年齢で
まだ名前のあがっていないライングループにいた加害者たちは
実業と工業へ進学したという書き込みもあった
すべては繋がっている可能性がある


#36 2022/01/28 00:26
旭川の女子狩り強姦殺人鬼界隈の習わしとして
「告訴」される位なら「(偽装して)頃ス」が不文律なんやろ
96で僅か3人と言えども年少送りに成ったのが、野放しになった100人超の脅迫暴行強姦犯罪者共にとってのトラウマ


#37 2022/01/28 18:15
何回から飛び降りだった?
高ければ高いだけ頭が下になって地面に叩きつけられてるけど
手足は左右逆方向
血だまりもあるけどね

#38 2022/03/02 00:26
告訴しようとしたら亡き者に

#39 2022/03/27 17:13
名前:匿名 : 投稿日:2021/10/29(金) 14:30:55
フィールの飛び降りも殺人事件のうわさがあります。前市長
犯人のお母さんが出陣式に来てましたよね?

だから殺人を自殺にすり替えようとしたんですか?


#43 2022/04/30 19:14
旭川じゃ訴訟準備すると自殺するの?

#44 2022/04/30 19:53
告訴しようとすると
脂肪ライブ配信される犯罪都市あさひかわ

#45 2022/04/30 20:06
クスリを飲まされてお仕置き配信ですか

#46 2022/05/05 00:19
>>43
かと知れないね。。
彼女たちの死は救えなかったが今後の自殺は減らせるかも知れない。

だが奴等を捕まえなきゃ今後とも減らないよな💢
https://bakusai.com/thr_res/acode=1/ctgid=104/bid=1064/tid=9953399/tp=2/

▲△▽▼

旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い

2010年5月 旭川西高 飛び降り自殺(他殺の可能性あり) これともう1件別の死亡事故(2名とも女子生徒との噂がある)
2010旭川の女子高生硫化水素死 母親も巻き込まれ死亡したのに『自殺』9/13
2010旭川市長選で旭山動物園元園長出馬断念 悪評流され
2010年9月 旭川の女子高生硫化水素死 母親も巻き込まれ死亡したのに『自殺』9/13
2012 旭川男子中学生行方不明 1/15 夜9時半過ぎ失踪なのに公開捜査渋る
2013旭川の中学生飛び降り
2013旭川専門学校生授業中飛び降り
2014旭川の中学1年男子学校で転落死  
2014旭川の高校で感電死
2015-2016頃旭川N中学 女子中学生死亡(学校にて)女子中学生死亡(公園で絞殺遺体) 隠蔽
廣瀬爽彩さんの母親への集団ストーカー始まる
2016旭川一家3人死亡1人けが 帰宅した夫が発見
2016旭川市 戸籍に知らない人が夫として記載 7月末発覚
2016年10月 旭川商業高校の女子生徒が修学旅行中に列車にひかれて死亡 10/12
2017札幌 中国人女性「旭川に行く」予定のところ7/22失踪 釧路で足首から下だけ骨になった遺体発見 8/30
2018旭川市神居大橋付近 飛び込み自殺か この二ヶ月で三人目とのネット情報
2018旭川市立中学 個人情報USB紛失事件
2018年6月 永〇中学 女子生徒が学校内のトイレで死亡 自殺で処理
2018年7月 永〇中学 女子生徒が中学の敷地内の公園で絞殺される
2018年    永〇中学 女性教師が死亡 上記被害者の生徒のいじめを止めようとしていたとの情報あり  隠蔽
2019年    旭〇工業 定時制の生徒がいじめを苦に自殺?、これも女子生徒か?
2019 旭川女子中学生 廣瀬爽彩さんにウッペツ川への飛び込み強要 6/22、その後目撃者急死 イジメ否定プリント配布して隠蔽
2019山梨キャンプ場女児失踪 9/21 (北海道関連説あり)
2019地元誌に『相次ぐ教員による児童買春』
2019旭川医大元教授 意識のない医局スタッフに猥褻撮影保存 論文盗用で依願退職 2021発覚
2019旭川医大 個人情報USB紛失
2019旭川医大向精神薬大量処方 7月〜10月頃 
2019暴力団会長逮捕 医師を恐喝するよう指示した疑い 犯行に流出したカルテ使われる 9月
2019小学校に猫の頭部と足一本、内臓の一部など置かれる 血痕なし
2020旭川乳児遺棄 6/29発覚
2020年7月 旭川女子高生フィール事件 全身強打していないのに9階から飛び降りたことにされた 7/11
2021年3月 廣瀬爽彩さんの死体が永山中央公園でみつかる、永〇中学とは200メートルほどの距離、2/13失踪 3/23外傷がない凍結した遺体で発見
2021旭川で青森県警が青森女子中学生を保護 4/23
2021年5月 旭川大橋で飛び込み自殺 男女1名づつの生徒 学校名は不明
2021 旭川高校生教室で首吊り図る
2022 旭川で女子中学生1/15失踪 1/18遺体発見





http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/476.html
[番外地10] フィール自殺?女子高校生は告訴しようとしていた 中川隆
1. 中川隆[-13096] koaQ7Jey 2022年5月12日 20:06:19 : 8cG3vrNSlI : eUh1elJKdG9nN1U=[4]
NO.9953399 2021/10/29 15:01
フィール自殺?女子高校生は告訴しようとしていた
結果口封じされました
#1 2021/11/23 19:08
これ目撃者いるって書き込みあったよね
女子高生が落とされてるとこをみたって外国人がいるという話だったきがする

#2 2021/11/23 19:18
こんな書き込みも

名前:匿名 : 投稿日:2021/10/29(金) 14:30:55
フィールの飛び降りも殺人事件のうわさがあります。前市長
犯人のお母さんが出陣式に来てましたよね?

だから殺人を自殺にすり替えようとしたんですか?
お嫁さんも取り換えた西川さん。すり替えたり取り換えたり大変ですね?

#4 2021/11/23 19:21
フィールは9階建とか
心臓マッサージされながら??

みんなのあさひかわ
速報 フィール旭川で女子高生が飛び降り 自殺か 2020年7月11日

特にニュースではまだ報道はされていないですが
16時頃から当サイトのアクセスが急激に増えているので、速報出しときます。
友人がたまたまフィール付近にいて、16時頃にフィール旭川付近に人が集まってきたとのLINEの報告があり
16時4分頃に救急車が到着した。人が倒れており、心臓マッサージをしながら救急車で運ばれていたとの事。飛び降り自殺と思われる。

#6 2021/11/23 19:26
#733 2021/09/19 15:49  
フィールの女の子は突き落とされてるよ
場所は従業員入り口のある裏どおり
従業員入り口のある建物だけが窓があけれるようになってて
他の表通り側とかは開かない窓で採光のためのもの
それと屋上は一般客はあがれない
仮に屋上へあがっても高いフェンスで囲まれてる

#8 2021/11/23 19:29
#775 2021/09/24 23:17  
フィールの女の子に加害させた連中

爽彩さんに加害させた連中


#9 2021/11/23 19:29
>>6
警察は屋上からの飛び降りとしたのではなかったのか
こちらも解剖は行われた筈だが、結果はどんなものだったのか

#10 2021/11/23 19:31
#687 2021/09/12 22:02  
外傷がほとんど無いのに「9階建てフィールから飛び降り」

#11 2021/11/23 19:35
ちなフィール以前にもその周辺のビルから飛び降り事故が連続であったそうな。それも未成年の女性ばっかし。これもまだ全然話題になっていない。このソースはツィッターにもある。

#13 2021/11/23 19:37
フィールは旭川にいくつかある晒し場の一つだそうですよ

旭川でまた人が流されてる・・・
NO.96696682021/07/17 17:31
twitter.com/785keine501/status/1416237409570738179
旭川市神楽7条13丁目
美瑛川に架かる平成大橋上に多数の消防車両・警察車両集結。
人が流されているという情報あり。

現在平成大橋は通行止め。

なんやねんこの街は本当にw
大橋・旭川の10条通の釣具店裏の橋・また大橋

#212021/09/16 17:33
フィール同様大橋も晒し場かね
身内はわかるメッセージ

#222021/10/22 11:20
>>0
そう、大橋も晒し場ですよ
学校、公園、フィール、大橋

#14 2021/11/23 19:49
野放しの大人は、殺しのライセンスを与えられているようなもの
再犯し放題なわけですね

#15 2021/11/23 19:53
>>14
古い事件は「中央は知らなかった!旭川限定腐敗!」で通っても、その後も野放しな時点でもう真っ黒に見えますね
子どもの性と命を軽視し、何ら対策をとらず
むしろ犯行グループの隠蔽をしているように見えます
インスタライブをなぜ調べないのかも

#16 2021/11/23 19:56
舞台になったカラオケ店も爆サイで堂々とラブホ代わりにして何が悪いかと凄んでます

#22 2021/12/09 22:24
この女子高校生への加害者に指示を出した人間
=爽彩さんへの加害者に指示を出した人間

#27 2022/01/26 01:04
#580 2021/09/06 13:25
そういえばこの女の子と同じ学年の旭川工業に
北星で2年前PTA会長やってたやつの息子いたよね?

#588 2021/09/06 14:38
>>584
フィールで亡くなった女の子が中学生のときから
性被害を受けていたのではないかという書き込みが以前からある
それにこの女の子はイジメ事件の加害者と同じ年齢で
まだ名前のあがっていないライングループにいた加害者たちは
実業と工業へ進学したという書き込みもあった
すべては繋がっている可能性がある

#36 2022/01/28 00:26
旭川の女子狩り強姦殺人鬼界隈の習わしとして
「告訴」される位なら「(偽装して)頃ス」が不文律なんやろ
96で僅か3人と言えども年少送りに成ったのが、野放しになった100人超の脅迫暴行強姦犯罪者共にとってのトラウマ

#37 2022/01/28 18:15
何回から飛び降りだった?
高ければ高いだけ頭が下になって地面に叩きつけられてるけど
手足は左右逆方向
血だまりもあるけどね

#38 2022/03/02 00:26
告訴しようとしたら亡き者に

#39 2022/03/27 17:13
名前:匿名 : 投稿日:2021/10/29(金) 14:30:55
フィールの飛び降りも殺人事件のうわさがあります。前市長
犯人のお母さんが出陣式に来てましたよね?
だから殺人を自殺にすり替えようとしたんですか?

#43 2022/04/30 19:14
旭川じゃ訴訟準備すると自殺するの?

#44 2022/04/30 19:53
告訴しようとすると
脂肪ライブ配信される犯罪都市あさひかわ

#45 2022/04/30 20:06
クスリを飲まされてお仕置き配信ですか

#46 2022/05/05 00:19
>>43
かと知れないね。。
彼女たちの死は救えなかったが今後の自殺は減らせるかも知れない。
だが奴等を捕まえなきゃ今後とも減らないよな

▲△▽▼

旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い

2015-2016頃旭川N中学 女子中学生死亡(学校にて)女子中学生死亡(公園で絞殺遺体) 隠蔽
廣瀬爽彩さんの母親への集団ストーカー始まる

2016年10月 旭川商業高校の女子生徒が修学旅行中に列車にひかれて死亡 10/12
2018旭川市神居大橋付近 飛び込み自殺か この二ヶ月で三人目とのネット情報
2018年6月 永〇中学 女子生徒が学校内のトイレで死亡 自殺で処理
2018年7月 永〇中学 女子生徒が中学の敷地内の公園で絞殺される
2018年    永〇中学 女性教師が死亡 上記被害者の生徒のいじめを止めようとしていたとの情報あり  隠蔽
2019年    旭〇工業 定時制の生徒がいじめを苦に自殺?、これも女子生徒か?
2019 旭川女子中学生 廣瀬爽彩さんにウッペツ川への飛び込み強要 6/22、その後目撃者急死 イジメ否定プリント配布して隠蔽

2019地元誌に『相次ぐ教員による児童買春』

2020年7月 旭川女子高生フィール事件 全身強打していないのに9階から飛び降りたことにされた 7/11

2021年3月 廣瀬爽彩さんの死体が永山中央公園でみつかる、永〇中学とは200メートルほどの距離、2/13失踪 3/23外傷がない凍結した遺体で発見
2021旭川で青森県警が青森女子中学生を保護 4/23
2021年5月 旭川大橋で飛び込み自殺 男女1名づつの生徒 学校名は不明
2021 旭川高校生教室で首吊り図る
2022 旭川で女子中学生1/15失踪 1/18遺体発見
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/476.html#c1

[近代史5] インフレのピークが株価の大底になる
インフレのピークが株価の大底になる

アメリカの4月のインフレ率、予想上回る 株価は下落
2022年5月12日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/24257

アメリカの物価高騰が株式市場をも揺るがすなか、注目の最新の消費者物価指数が発表された。4月のアメリカのインフレ率は8.2%(前年同月比)となった。

減速したインフレ率

まず債券投資家のジェフリー・ガンドラック氏が述べていたように、今回の数字は前回3月よりも下がることが予想されていた。

ガンドラック氏: インフレはピーク

3月の数字が8.6%なので、4月の8.2%はガンドラック氏の想定通り少し下がったということになる。インフレ率のチャートは次のようになっている。


少し下がっている。

何故下がることが想定されていたかと言えば、この数字が前年同月比で、比較対象となった前年2021年4月が、アメリカで3月に行われた3回目の現金給付の影響で物価が急騰した月だったからである。

前年同月比とは前年の同じ月に比べてどれだけ物価が上がったかという数字なので、前年の比較対象の月が物価の高い月であれば、当然ながらインフレ率は高くなくなる。

インフレのピークは株価の大底

以下の記事ではインフレのピークが株価の大底になるということを説明した。

2022年インフレ株価暴落はいつまで続くか
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/24209

この記事は非常に重要なので読んでもらいたいが、要するに株価の底値を予想するためにはインフレ率が今後どうなってゆくかを予想しなければならない。

まず、前年同期比の数字を考えるためには、比較対象となっている前年において各月の物価上昇がどの程度だったのかを考えなければならないだろう。

そこで、2021年の前月比年率(前の月と比べた数字を年率換算したもの)のインフレ率を見てみたい。


やはり4月頃からインフレ率が高くなり、6月には11%に達している。

よって前年との比較で今年の数字が高いインフレになるためには、高かった去年6月の数字を超えてゆかなければならないということになり、やはり今後数ヶ月のインフレの数字は落ち着くという予想が妥当だろう。

インフレ鈍化で株価反発の可能性

これまでインフレを警戒して株価が下落していたのに、インフレが減速した今回の数字を受けて米国株は更に下落した。


何故かと言えば、8.2%という数字が市場が予想していたほどの減速ではなかったからである。

今回の数字があまりインフレ減速的だと思われなかったとしても、やはり6月(の数字が発表される7月)までは数字上インフレは減速し、株式市場にとってはつかの間の追い風となる可能性もある。

だが結局は、今年の後半にかけてインフレ率がどうなってゆくかということが、株価の最終的な命運を握っている。

それを考えるためには、高騰している住宅価格の上昇率と長期金利を並べた以下のチャートが一番分かりやすいだろう。

アメリカの住宅価格が2月に19.8%上昇、再上昇開始

アメリカ国民は家賃が高騰するなか、ローンを組んで住宅をこぞって買おうとしている。賃貸ならば住宅価格や家賃の上昇はマイナスだが、買ってしまえば自分にとってプラスになる。しかしそうした住宅購入が住宅価格を更に押し上げてゆく。

住宅価格が年率20%近い速度で上がるなか、ローン金利に影響する長期金利は3%程度である。

つまり、年間3%か4%のコストを払うことによって、お金がない人でも20%の資産価格上昇を手に入れることができる。それはローンが実質的に損のない無料の資金であることを意味する。この状態で、アメリカ国民の購買意欲が収まるかということである。

結論

筆者はこの状態でインフレが収まるとはまったく思っていない。だから6月にかけてインフレが減速し、中央銀行が金融引き締めの手を緩めるならば、それは一時的には株価にとってプラスになるだろうが、最終的なインフレ率は更に高くなってゆくだろう。

だがいずれにしても今後インフレ率は最重要指標である。その動向が株価の行く末を決めるからである。以下の記事はしっかり読んでおいてもらいたい。

2022年インフレ株価暴落はいつまで続くか

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/24257



2022年インフレ株価暴落はいつまで続くか
2022年5月10日 GLOBALMACRORESEARCH
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/24209

アメリカも日本も株価の下落が続いている。世界的なインフレでアメリカのFed(連邦準備制度)が強力な金融引き締め政策を行なっているからである。

2022年世界同時株安

これは予想されていたことだった。少なくともここでは年始から次のように書いておいた。

2022年の株式市場はインフレと金融引き締めで暴落する (2022/1/6)
株を買っている人は、自分が何故株を買っているのかもう一度考えた方が良い。少なくとも筆者には今株を買うべき理由が何1つとして見当たらない。

それで米国株の推移は次のようになっている。


そろそろ最高値から20%の下落になりそうだが、それでもこの下落相場はまだまだ始まったばかりである。

株価暴落はいつまで続くのか

さて、ここで投資家にとって問題となるのは株価暴落がどこまで行くのか、そしていつまで続くのかだろう。

比較対象になるのは常に過去の相場である。例えば同じようにパウエル議長による金融引き締めで下落した2018年の世界同時株安では、最高値から20%の下落となっている。


しかし当時はインフレではなかった。だから結局パウエル議長は自分の金融引き締めが株安を引き起こしていることを認め、引き締めを撤回した。だから20%で済んだのである。

だが今回は引き締めを止めるとインフレが止まらなくなってしまう。

3月のアメリカのインフレ率は遂に8.6%に
だから中央銀行は金融引き締めを止められない。しかも量的引き締めの規模は2018年の2倍となっている。

5月FOMC結果、2018年世界同時株安時の2倍の規模の量的引き締め開始
1970年代のインフレ株価暴落

それだけでも今回の株安が20%の下落では済まないことは分かる。では、過去に同じようにインフレで金融引き締めを止められなかった時の株価暴落はどうだったかと言えば、1970年代の物価高騰時の株価下落を見るべきだろう。


丁度半値になっている。ちなみにインフレに弱いNasdaqは60%の下落である。今の相場でもNasdaqの下げは大きい。

ハイテク株の決算後株安はインフレ暴落相場の始まりに過ぎない
天井から大底までの下落幅を厳密に予想することはできない。だが今回の株価暴落の規模は2018年の20%というよりは、1970年代の50%に近いものになるということは間違いなく言えるだろう。

株安はいつまで続くか

一方で、「どれだけ下がるか」ではなく「いつまで下がるか」についてはもう少し厳密な予想が立てられるだろう。

中央銀行はインフレ抑制のために利上げや量的引き締めをしているが、以前も述べたように株式市場は住宅市場や実体経済よりも先に反応する。

だからこれから続くのは、株価がかなりの程度急落しても、インフレや住宅バブルが収まらない期間だろう。

その時中央銀行はどうするか? パウエル議長がある程度の株安を許容するだろうということは、以下の記事を読めば分かる。

ガンドラック氏: アメリカ金融引き締めでソフトランディングは無理
だからFedは株価が下落していても金融引き締めを一定期間そのまま続けるだろう。

それが終わるのがいつかと言えば、インフレが鈍化し始める時である。実際、1974年の大暴落で大底となった1974年終盤は、アメリカのインフレ率(以下)がピークに達した時である。


だから株価がいつ大底に達するかということは、インフレ率がいつピークになるかを見ていれば分かるということになる。(※5/10誤字訂正しました。)

インフレ率の推移

だが現在のアメリカのインフレ率はピークにはほど遠い直線的な上がり方をしている。


このインフレ率はジェフリー・ガンドラック氏が言うように、今後数ヶ月数字が鈍化する統計的要因がある。

ガンドラック氏: インフレはピーク
だがそれはあくまで統計的要因であり、今後数ヶ月のインフレ鈍化で中央銀行が引き締めを躊躇すれば、それは長期的にはより酷いインフレへと繋がってゆくだろう。

結論

実際にはインフレ率が落ち着くのは(もし落ち着くとすればだが)今年中は無理であり、来年ということになるだろう。

それはつまり来年までは株価が下落しても金融引き締めが止まらない期間が続くということである。株式市場は地獄絵図となるだろう。

大底までの下落幅は1970年代の50%が大まかな目標水準である。しかしドル建てで米国株に投資している日本の投資家には、そこに更にドルの下落分が加算されることを指摘しておきたい。

世界最大のヘッジファンド: ドルが下落したらアメリカは終わり
年始から散々警告していたので、ここの読者は株安を避けられたはずである。この株安は専門家には明らかだったので、著名投資家は皆同じことを言っている。

世界最大のヘッジファンド、アメリカ経済がもう手遅れであることを認める
ガンドラック氏: アメリカ金融引き締めでソフトランディングは無理
まだ株を持っている人は、幸運を祈りたい。何度も警告したので、筆者に出来ることはそれくらいである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/24209
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1589.html
[番外地10] フィール自殺?女子高校生は告訴しようとしていた 中川隆
2. 中川隆[-13095] koaQ7Jey 2022年5月13日 03:19:29 : rOH59RlHrY : bTh6M1FnRmthaW8=[1]
旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い
2015-2016頃 旭川N中学 女子中学生死亡(学校にて)女子中学生死亡(公園で絞殺遺体) 隠蔽
廣瀬爽彩さんの母親への集団ストーカー始まる
2016年10月 旭川商業高校の女子生徒が修学旅行中に列車にひかれて死亡 10/12
2018旭川市神居大橋付近 飛び込み自殺か この二ヶ月で三人目とのネット情報
2018年6月 永〇中学 女子生徒が学校内のトイレで死亡 自殺で処理
2018年7月 永〇中学 女子生徒が中学の敷地内の公園で絞殺される
2018年    永〇中学 女性教師が死亡 上記被害者の生徒のいじめを止めようとしていたとの情報あり  隠蔽
2019年    旭〇工業 定時制の生徒がいじめを苦に自殺?、これも女子生徒か?
2019 旭川女子中学生 廣瀬爽彩さんにウッペツ川への飛び込み強要 6/22、その後目撃者急死 イジメ否定プリント配布して隠蔽

2019地元誌に『相次ぐ教員による児童買春』

2020年7月 旭川女子高生フィール事件 全身強打していないのに9階から飛び降りたことにされた 7/11

2021年3月 廣瀬爽彩さんの死体が永山中央公園でみつかる、永〇中学とは200メートルほどの距離、2/13失踪 3/23外傷がない凍結した遺体で発見
2021旭川で青森県警が青森女子中学生を保護 4/23
2021年5月 旭川大橋で飛び込み自殺 男女1名づつの生徒 学校名は不明
2021 旭川高校生教室で首吊り図る
2022 旭川で女子中学生1/15失踪 1/18遺体発見

▲△▽▼

NO.9953399 2021/10/29 15:01
フィール自殺?女子高校生は告訴しようとしていた
結果口封じされました
#1 2021/11/23 19:08
これ目撃者いるって書き込みあったよね
女子高生が落とされてるとこをみたって外国人がいるという話だったきがする
#2 2021/11/23 19:18
こんな書き込みも

名前:匿名 : 投稿日:2021/10/29(金) 14:30:55
フィールの飛び降りも殺人事件のうわさがあります。前市長
犯人のお母さんが出陣式に来てましたよね?

だから殺人を自殺にすり替えようとしたんですか?
お嫁さんも取り換えた西川さん。すり替えたり取り換えたり大変ですね?

#4 2021/11/23 19:21
フィールは9階建とか
心臓マッサージされながら??

みんなのあさひかわ
速報 フィール旭川で女子高生が飛び降り 自殺か 2020年7月11日

特にニュースではまだ報道はされていないですが
16時頃から当サイトのアクセスが急激に増えているので、速報出しときます。
友人がたまたまフィール付近にいて、16時頃にフィール旭川付近に人が集まってきたとのLINEの報告があり
16時4分頃に救急車が到着した。人が倒れており、心臓マッサージをしながら救急車で運ばれていたとの事。飛び降り自殺と思われる。

#6 2021/11/23 19:26
#733 2021/09/19 15:49  
フィールの女の子は突き落とされてるよ
場所は従業員入り口のある裏どおり
従業員入り口のある建物だけが窓があけれるようになってて
他の表通り側とかは開かない窓で採光のためのもの
それと屋上は一般客はあがれない
仮に屋上へあがっても高いフェンスで囲まれてる

#8 2021/11/23 19:29
#775 2021/09/24 23:17  
フィールの女の子に加害させた連中

爽彩さんに加害させた連中


#9 2021/11/23 19:29
>>6
警察は屋上からの飛び降りとしたのではなかったのか
こちらも解剖は行われた筈だが、結果はどんなものだったのか

#10 2021/11/23 19:31
#687 2021/09/12 22:02  
外傷がほとんど無いのに「9階建てフィールから飛び降り」

#11 2021/11/23 19:35
ちなフィール以前にもその周辺のビルから飛び降り事故が連続であったそうな。それも未成年の女性ばっかし。これもまだ全然話題になっていない。このソースはツィッターにもある。

#13 2021/11/23 19:37
フィールは旭川にいくつかある晒し場の一つだそうですよ

旭川でまた人が流されてる・・・
NO.96696682021/07/17 17:31
twitter.com/785keine501/status/1416237409570738179
旭川市神楽7条13丁目
美瑛川に架かる平成大橋上に多数の消防車両・警察車両集結。
人が流されているという情報あり。

現在平成大橋は通行止め。

なんやねんこの街は本当にw
大橋・旭川の10条通の釣具店裏の橋・また大橋

#212021/09/16 17:33
フィール同様大橋も晒し場かね
身内はわかるメッセージ

#222021/10/22 11:20
>>0
そう、大橋も晒し場ですよ
学校、公園、フィール、大橋

#14 2021/11/23 19:49
野放しの大人は、殺しのライセンスを与えられているようなもの
再犯し放題なわけですね

#15 2021/11/23 19:53
>>14
古い事件は「中央は知らなかった!旭川限定腐敗!」で通っても、その後も野放しな時点でもう真っ黒に見えますね
子どもの性と命を軽視し、何ら対策をとらず
むしろ犯行グループの隠蔽をしているように見えます
インスタライブをなぜ調べないのかも

#16 2021/11/23 19:56
舞台になったカラオケ店も爆サイで堂々とラブホ代わりにして何が悪いかと凄んでます

#22 2021/12/09 22:24
この女子高校生への加害者に指示を出した人間
=爽彩さんへの加害者に指示を出した人間

#27 2022/01/26 01:04
#580 2021/09/06 13:25
そういえばこの女の子と同じ学年の旭川工業に
北星で2年前PTA会長やってたやつの息子いたよね?

#588 2021/09/06 14:38
>>584
フィールで亡くなった女の子が中学生のときから
性被害を受けていたのではないかという書き込みが以前からある
それにこの女の子はイジメ事件の加害者と同じ年齢で
まだ名前のあがっていないライングループにいた加害者たちは
実業と工業へ進学したという書き込みもあった
すべては繋がっている可能性がある

#36 2022/01/28 00:26
旭川の女子狩り強姦殺人鬼界隈の習わしとして
「告訴」される位なら「(偽装して)頃ス」が不文律なんやろ
96で僅か3人と言えども年少送りに成ったのが、野放しになった100人超の脅迫暴行強姦犯罪者共にとってのトラウマ

#37 2022/01/28 18:15
何回から飛び降りだった?
高ければ高いだけ頭が下になって地面に叩きつけられてるけど
手足は左右逆方向
血だまりもあるけどね

#38 2022/03/02 00:26
告訴しようとしたら亡き者に

#39 2022/03/27 17:13
名前:匿名 : 投稿日:2021/10/29(金) 14:30:55
フィールの飛び降りも殺人事件のうわさがあります。前市長
犯人のお母さんが出陣式に来てましたよね?
だから殺人を自殺にすり替えようとしたんですか?

#43 2022/04/30 19:14
旭川じゃ訴訟準備すると自殺するの?

#44 2022/04/30 19:53
告訴しようとすると
脂肪ライブ配信される犯罪都市あさひかわ

#45 2022/04/30 20:06
クスリを飲まされてお仕置き配信ですか

#46 2022/05/05 00:19
>>43
かと知れないね。。
彼女たちの死は救えなかったが今後の自殺は減らせるかも知れない。
だが奴等を捕まえなきゃ今後とも減らないよな
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/476.html#c2

[番外地10] フィール自殺?女子高校生は告訴しようとしていた 中川隆
3. 中川隆[-13094] koaQ7Jey 2022年5月13日 04:33:04 : rOH59RlHrY : bTh6M1FnRmthaW8=[2]
旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い
2015-2016頃 旭川N中学 女子中学生死亡(学校にて)女子中学生死亡(公園で絞殺遺体) 隠蔽
廣瀬爽彩さんの母親への集団ストーカー始まる
2016年10月 旭川商業高校の女子生徒が修学旅行中に列車にひかれて死亡 10/12
2018旭川市神居大橋付近 飛び込み自殺か この二ヶ月で三人目とのネット情報
2018年6月 永〇中学 女子生徒が学校内のトイレで死亡 自殺で処理
2018年7月 永〇中学 女子生徒が中学の敷地内の公園で絞殺される
2018年    永〇中学 女性教師が死亡 上記被害者の生徒のいじめを止めようとしていたとの情報あり  隠蔽
2019年    旭〇工業 定時制の生徒がいじめを苦に自殺?、これも女子生徒か?
2019 旭川女子中学生 廣瀬爽彩さんにウッペツ川への飛び込み強要 6/22、その後目撃者急死 イジメ否定プリント配布して隠蔽

2019地元誌に『相次ぐ教員による児童買春』

2020年7月 旭川女子高生フィール事件 全身強打していないのに9階から飛び降りたことにされた 7/11

2021年3月 廣瀬爽彩さんの死体が永山中央公園でみつかる、永〇中学とは200メートルほどの距離、2/13失踪 3/23外傷がない凍結した遺体で発見
2021旭川で青森県警が青森女子中学生を保護 4/23
2021年5月 旭川大橋で飛び込み自殺 男女1名づつの生徒 学校名は不明
2021 旭川高校生教室で首吊り図る
2022 旭川で女子中学生1/15失踪 1/18遺体発見

▲△▽▼

NO.9953399 2021/10/29 15:01
フィール自殺?女子高校生は告訴しようとしていた
結果口封じされました
#1 2021/11/23 19:08
これ目撃者いるって書き込みあったよね
女子高生が落とされてるとこをみたって外国人がいるという話だったきがする
#2 2021/11/23 19:18
こんな書き込みも

名前:匿名 : 投稿日:2021/10/29(金) 14:30:55
フィールの飛び降りも殺人事件のうわさがあります。前市長
犯人のお母さんが出陣式に来てましたよね?

だから殺人を自殺にすり替えようとしたんですか?
お嫁さんも取り換えた西川さん。すり替えたり取り換えたり大変ですね?

#4 2021/11/23 19:21
フィールは9階建とか
心臓マッサージされながら??

みんなのあさひかわ
速報 フィール旭川で女子高生が飛び降り 自殺か 2020年7月11日

特にニュースではまだ報道はされていないですが
16時頃から当サイトのアクセスが急激に増えているので、速報出しときます。
友人がたまたまフィール付近にいて、16時頃にフィール旭川付近に人が集まってきたとのLINEの報告があり
16時4分頃に救急車が到着した。人が倒れており、心臓マッサージをしながら救急車で運ばれていたとの事。飛び降り自殺と思われる。

#6 2021/11/23 19:26
#733 2021/09/19 15:49  
フィールの女の子は突き落とされてるよ
場所は従業員入り口のある裏どおり
従業員入り口のある建物だけが窓があけれるようになってて
他の表通り側とかは開かない窓で採光のためのもの
それと屋上は一般客はあがれない
仮に屋上へあがっても高いフェンスで囲まれてる

#8 2021/11/23 19:29
#775 2021/09/24 23:17  
フィールの女の子に加害させた連中

爽彩さんに加害させた連中

#9 2021/11/23 19:29
>>6
警察は屋上からの飛び降りとしたのではなかったのか
こちらも解剖は行われた筈だが、結果はどんなものだったのか

#687 2021/09/12 22:02  
外傷がほとんど無いのに「9階建てフィールから飛び降り」

#11 2021/11/23 19:35
ちなフィール以前にもその周辺のビルから飛び降り事故が連続であったそうな。それも未成年の女性ばっかし。これもまだ全然話題になっていない。このソースはツィッターにもある。

#13 2021/11/23 19:37
フィールは旭川にいくつかある晒し場の一つだそうですよ

旭川でまた人が流されてる・・・

旭川市神楽7条13丁目
美瑛川に架かる平成大橋上に多数の消防車両・警察車両集結。
人が流されているという情報あり。

現在平成大橋は通行止め。

なんやねんこの街は本当にw
大橋・旭川の10条通の釣具店裏の橋・また大橋

#21 2021/09/16 17:33
フィール同様大橋も晒し場かね
身内はわかるメッセージ

#22 2021/10/22 11:20
>>0
そう、大橋も晒し場ですよ
学校、公園、フィール、大橋

#14 2021/11/23 19:49
野放しの大人は、殺しのライセンスを与えられているようなもの
再犯し放題なわけですね

#15 2021/11/23 19:53
>>14
古い事件は「中央は知らなかった!旭川限定腐敗!」で通っても、その後も野放しな時点でもう真っ黒に見えますね
子どもの性と命を軽視し、何ら対策をとらず
むしろ犯行グループの隠蔽をしているように見えます
インスタライブをなぜ調べないのかも

#16 2021/11/23 19:56
舞台になったカラオケ店も爆サイで堂々とラブホ代わりにして何が悪いかと凄んでます

#22 2021/12/09 22:24
この女子高校生への加害者に指示を出した人間
=爽彩さんへの加害者に指示を出した人間

#27 2022/01/26 01:04
#580 2021/09/06 13:25
そういえばこの女の子と同じ学年の旭川工業に
北星で2年前PTA会長やってたやつの息子いたよね?

#588 2021/09/06 14:38
>>584
フィールで亡くなった女の子が中学生のときから
性被害を受けていたのではないかという書き込みが以前からある
それにこの女の子はイジメ事件の加害者と同じ年齢で
まだ名前のあがっていないライングループにいた加害者たちは
実業と工業へ進学したという書き込みもあった
すべては繋がっている可能性がある

#36 2022/01/28 00:26
旭川の女子狩り強姦殺人鬼界隈の習わしとして
「告訴」される位なら「(偽装して)頃ス」が不文律なんやろ
96で僅か3人と言えども年少送りに成ったのが、野放しになった100人超の脅迫暴行強姦犯罪者共にとってのトラウマ

#37 2022/01/28 18:15
何回から飛び降りだった?
高ければ高いだけ頭が下になって地面に叩きつけられてるけど
手足は左右逆方向
血だまりもあるけどね

#38 2022/03/02 00:26
告訴しようとしたら亡き者に

#39 2022/03/27 17:13
名前:匿名 : 投稿日:2021/10/29(金) 14:30:55
フィールの飛び降りも殺人事件のうわさがあります。前市長
犯人のお母さんが出陣式に来てましたよね?
だから殺人を自殺にすり替えようとしたんですか?

#43 2022/04/30 19:14
旭川じゃ訴訟準備すると自殺するの?

#44 2022/04/30 19:53
告訴しようとすると
脂肪ライブ配信される犯罪都市あさひかわ

#45 2022/04/30 20:06
クスリを飲まされてお仕置き配信ですか

#46 2022/05/05 00:19
>>43
かと知れないね。。
彼女たちの死は救えなかったが今後の自殺は減らせるかも知れない。
だが奴等を捕まえなきゃ今後とも減らないよな

▲△▽▼

旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い

月刊北海道経済 2019年11月号
中学教諭が相次いで買春容疑で逮捕
 旭川市立永●●中学校の男性教諭(44)が7月に児童買春の容疑で逮捕されたのに続いて、この9月には東●●中学校の男性教諭(50)も同様の容疑で逮捕。これを受け黒蕨真一教育長は「学校教育が足元から崩壊しかねない非常事態」と対応に苦慮している。そんな矢先、本誌に「某中学校PTA役員」から「旭川市の学校は異常 教職員の道徳心や倫理観の低下が深刻」と題した投書が寄せられた。

2017年 小学校 (42)
教師の立場を悪用し、10代の女児の服を脱がすなどの行為を繰り返した

2019年 小学校 教員(57)
    旭川市の MEGAドン・キホーテ旭川店で女性のお尻ナデナデ 当時酒気帯び運転で停職処分中だった

2019年 中学校 教員(46)
    17歳の高校性に1万円渡してハメハメハ

2019年 中学校 教員(50)
    17歳の少女に1万5千円でハメハメハ

2020年 小学校  (47)
    令和2年2月、ホテルで、出会い系アプリを通じて知り合った18歳未満の女性に対し、現金を供与して性的行為を行った。
    令和2年4月、ホテルで、出会い系アプリを通じて知り合った別の18歳未満の女性に対し、現金を供与して性的行為を行った。
    令和2年5月、ホテルで、Twitterを通じて知り合った上記と別の18歳未満の女性に対し、現金を供与して性行為を行った。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/476.html#c3

[近代史5] 日本の軍歌は世界の軍歌の中で飛び抜けた NO.1、日本兵が万歳突撃や神風特攻したくなる気持ちも良くわかる 中川隆
1. 中川隆[-13093] koaQ7Jey 2022年5月14日 01:07:57 : quQ1L2SKEA : eEVUNTBhaGd2YS4=[1]
これだけあった特攻隊員に覚醒剤♀O道の証拠 「チョコ包むの見た」証言から元教員が追跡
2021/8/15
https://news.yahoo.co.jp/articles/ec2358d65039c2cabb217440f3db353ff6a15628

 太平洋戦争末期、米艦に零戦機などで突っ込み、時に軍神≠ニあがめられたり、時に「無駄死にだった」と切り捨てられたりもした特攻作戦の悲劇。出撃前の特攻隊員には覚醒剤「ヒロポン」が与えられていた。この問題は真正面から研究された様子がないが、大阪の元中学教員の相可文代さん(71)は、勤労奉仕で覚醒剤入りのチョコレートを包む作業に従事した女学生の実体験を知ったことをきっかけに独自に調べ、このほど冊子にまとめた。

 覚醒剤と知らされず服用し命を散らした若者らの悲哀と、上官や国家体制の無責任さ。志願制とは名ばかりの死への強制の中で、最後には薬物も使った特攻作戦はまさに「統率の外道」(大西滝治郎海軍中将)だ。「祖国に命をささげた美談のように語られるが、実際には覚醒剤による高揚感に満ちないと敵艦には突入できなかった」と相可さん。「実証」にこだわった研究を、冊子の記述と相可さんの言葉からたどる。引用は原文のままとした。(共同通信=真下周)

 ▽「一口食べてカッと体が熱くなった」

 2016年9月、相可さんは平和学習会で戦争体験者から思いがけない話を聞いた。「兵隊さんに送るチョコを包む仕事と言われ、プレハブ工場に連れて行かれました」「チョコを一口食べ、カッと体が熱くなったのを覚えています」

 大阪府高槻市在住の梅田和子さん(90)は、1945年の春、茨木高等女学校(現在の府立春日丘高校)の学生だった。父は弁護士で、大阪市内の裕福な家に生まれ育った。空襲がひどくなり、祖母と高槻に疎開していた。

 隣の同府茨木市にあったゴルフ場は陸軍の食糧補給機関になっていた。備蓄用の食料品が保管され、ここから戦地に運ばれていった。市内の山間部に海軍関連の倉庫として建設された地下トンネルにも、特攻隊が出撃前に食べるための覚醒剤入りのチョコ(チューブ型)が保管されていたようだ。

 茨木高女には、食糧補給機関の支所が置かれ、校舎も軍需工場として稼働していた。運動場の片隅に小さなプレハブ小屋が建てられ、梅田さんは包装作業をしながら勤労奉仕の女学生らを監督する任務に就かされた。

女学生らは15センチほどの棒状のチョコバーをクラフト紙で包んでいた。チョコバーには菊の御紋が付いていた。初日、梅田さんは上級生らに校舎の屋上に呼び出され、「これを食べろ」と迫られた。戦時中は裕福な家庭でもめったに食べられなかったチョコ。一口食べるとカッと体が熱くなったことを今でも鮮明に覚えている。上級生らは「特攻隊が最後に食べるもので、何か入っているみたい。食べたからにはおまえも同罪。先生にはゼッタイに言うな」と口止めした。

 ▽恐ろしい「機能性食品」

 教員として生徒を送り出してきた身近な高校で、過去にこのような出来事があったことに相可さんは衝撃を受けた。背景や実態を調べようと思い立ち、最初に参考にした本が「50年前日本空軍が創った機能性食品」。陸軍航空技術研究所(東京・立川市)の研究員として戦時中、航空隊の携行食開発に従事していた岩垂荘二氏が93年にまとめた著書。ヒロポン入りのチョコの話が記されていた。

 43年ごろ、ナチス・ドイツ空軍がヒロポン(覚醒剤)入りのチョコを製造し、飛行士に食べさせ効果が上がっているとの報告があり、上官である川島四郎大佐から「すぐにつくって補給したい」と命令され、棒状のヒロポン入りチョコをつくり、特別に補給したという。「今考えると、とんでもない、おそろしい機能性食品である。(中略)これも戦争という残酷な状況のなせるわざであろう」と岩垂氏は回想している。

 ヒロポンは大日本住友製薬の前身の大日本製薬が開発した覚醒剤の商品名だ。戦争中、兵士や夜間勤務者らの間で「ヒロウ(疲労)がポンと回復する」との効果で知られていた。戦後民間に出回り、大量の中毒者が若年層にも出たことで51年に制定された覚醒剤取締法により厳格に規制された。

 ▽注射で「勇躍機上の人に」

 相可さんは「『名将』『愚将』大逆転の太平洋戦史」(新井喜美夫著)に「かつて筆者は某製菓会社の重役から聞いたことがある。そこではヒロポンが大量に供給され、回りをチョコレートでくるみ、菊の紋章を刻印したものを、定期的に軍に納めていたという」というくだりを見つけた。梅田さんの経験と一致した。

チョコ以外にも覚醒剤はいろいろな形で提供されていたようだ。ミュージシャン大貫妙子の父親大貫健一郎少尉は、鹿児島・知覧基地から沖縄特攻に出撃した時の話を記している。「菊の御紋が入ったタバコ、沢の鶴の二合瓶…(中略)…。長距離飛行の途中で眠くならないようにとヒロポン入りの酒まで用意されており、『元気酒』と名づけられていました」(共著書「特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た」より)という。

 「(チョコやタバコの)菊の紋章を見た特攻兵たちは、自分たちへの天皇の期待を感じ取っただろうし、覚醒剤効果で恐怖心はかなり軽減されていたのでは」と相可さんは推測する。

 「突撃錠」と呼ばれていた丸薬を飲み「腰の軍刀を振り回しながら、離陸していく士官もいた」との証言を記したノンフィクション作品(日高恒太朗作「不時着」)もあった。「特攻とは」(沓名坂男著)に収められた元白菊特攻隊の一等飛行兵曹の手記には「定刻になって出撃隊整列、(中略)腕をまくり注射、今まで酒でふらついていた身体がみるみる立ち直ってくる。その内にシャキーッと酔などどこへやら、神経は昂り身内から闘志が湧いてくるのを感じる。そして水盃をいっきに呑み干し、その盃を地面に叩きつけ、勇躍機上の人となる」と記されている。

 出撃前に整列して杯を飲み干し、杯を地面にたたきつけるシーンは、2013年12月に公開された映画「永遠の0(ゼロ)」でも、印象的な場面として描かれている。

 ▽後遺症に悩まされた元操縦士

 「重い飛行機雲 太平洋戦争日本空軍秘話」(渡辺洋二著)には、戦後、覚醒剤の後遺症に悩む戦闘機の元操縦士が取り上げられていた。首都圏を夜間に空襲する米軍のB29爆撃機を打ち落とす任務のたびに“暗視ホルモン注射”を軍医官に打たれた。「眠気もよおさず、妙に頭が冴えわたり、帰投後は強い睡眠薬を定量よりも多く服薬して無理に横になるときもあった。また、食欲の減退もはっきり現れてきた」

 戦後、通勤の満員電車で奇妙な感覚にとらわれた。「押し合いながら乗っている周りの人々の手や鼻が、自分の目に飛び込んでくる感じ」。40年ほども症状に悩まされ続けた。症状がよくなってから数年後、かつての軍医官が現れ、暗視ホルモンの正体はヒロポンだったと告げ、謝罪したという。覚醒剤は人体をむしばみ、生き残った人にも、取り返しの付かない影を落としていた。

 軍国主義教育で染め上げられた社会の中で、徹底的に粗末に扱われた若者の命と対照的に、上官や軍部の無責任さも浮かび上がる。「最後の一機で必ずおまえたちの後を追う」と部下を鼓舞しながら、敗戦となると「後始末も大事だ」と言葉を翻し、戦後を長く生きた上官らもいた。

 ▽「永遠の0」の危うさ

 特攻隊を考える時、相可さんの頭にはいつも映画「永遠の0」の存在がある。「映画館には若い人がいっぱいで、終了後には感動のため息が漏れていた。私は非常に複雑な気持ちだった」と述懐する。優秀なパイロットを死なせる特攻作戦のまずさ、軍司令部の愚かさは表現されていたが、「死」を受け入れる心情の美しさ、自ら犠牲になる気高さが強調されることで戦争責任をあいまいにし、日本がやった戦争への反省から目を背けている、と厳しく批判する。

 相可さんは1950年、三重県生まれ。大阪府摂津市の小学校教員となり、84年から定年退職の2010年まで中学校で社会科を教えてきた。

 忘れられない体験がある。ロールプレイを見て「日中戦争は是か非か」を生徒たちが判断する授業を見学した。最初は「非」の立場の生徒が圧倒的に多かった。だが「戦争はやむを得なかった」論が展開されると、オセロのように意見がひっくり返っていく。立場を変えた生徒らは「納得できた」と生き生きした表情を見せ、最後まで「非」を表明した少数の生徒たちはしょんぼりしていた。

 「是」の理屈が「非」を上回る“説得力”を持っていると痛感した。「戦争はダメ、平和は尊い」と情緒に訴えるやり方では不十分で、「非」を表明した子どもたちを支える論理が必要だと悟った。相可さんがリアリズムに徹する原点はここだ。戦争の実相を伝え、なぜこうなったのか事実から論証することを肝に銘じてきた。

 「いつの時代も右側の人もいるし、左側の人もいる。しかしほとんどは真ん中にいる人たち。その人たちがどちらの側につくかで世の中は変わる」。退職後、教科書問題に取り組み、戦争を美化しようとする言説に徹底的に目を光らせてきた。国内外の情勢や時代状況で、雪崩を打つように中間層が「戦争やむなし」の言説に傾斜し、好戦論者を生んでしまわぬよう引き留めるのが役目と自任する。

 調査を終えた今、こう語る。「戦争で命の奪い合いを兵士にさせる時、国家権力は残酷なことをする。隊員たちは死を前に苦しんでいた。面目もあった。(果たさぬことで)家族に累が及ぶことも考えた。彼らの心情にウソはなかった。普通、命は惜しいもの。異様な興奮状態にならなければ自らの命を絶つことはできない。美談がいかに危険な論理か。特に若い人には、きちんとした歴史認識に結びつけて考えてもらいたい」

 相可さんが著した冊子「『ヒロポン』と『特攻』 女学生が包んだ『覚醒剤入りチョコレート』 梅田和子さんの戦争体験からの考察」は、1冊500円。

 連絡はo-fumiyo@kdt.biglobe.ne.jp
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1585.html#c1

[近代史5] 古代世界で水銀の最大生産地は日本の奈良県で、神武天皇が奈良県に攻め込んだ理由も水銀だった
古代世界で水銀の最大生産地は日本の奈良県で、神武天皇が奈良県に攻め込んだ理由も水銀だった

2022年05月14日
江戸時代の環境汚染は酷かった? 全然健康的ではない

飛鳥時代の庶民の家は弥生時代と変わらなかったと考えられている
都市化が進んだのに汚物処理はなく河川が汚染されて住めなくなった



古代日本の環境問題

江戸時代とかもっと前の時代は自然が豊かで緑が多く、質素ながらも健康的な生活をしているというイメージではないでしょうか?

実際にはそうではなく間違った医学知識のせいで公害病や伝染病が蔓延し、人々は環境汚染に苦しんでいました。

日本の創成期からずっと日本人を苦しめてきたものが水銀と汚物で、明治維新後に正しい医学知識が広まるまで続いた。





話は神武天皇東征の頃まで遡り記録では起原前660年前だが実際には(個人的に)西暦200年台から300年台前半かなと思っています。

と言うのは魏志倭人伝(280年)には神武天皇的な世界が一切書かれていないので、東征はその後の出来事だと想像できるからです。

その前の紀元前200年以上前、秦の始皇帝の指示で徐福という人物が不老不死の薬を求めて日本までやってきたと記録されています。


この不老不死の薬の正体は水銀を主原料とした劇薬で、当時は万病の薬として同じ重さの金よりも高く取引されていました。



古代世界で水銀の最大生産地は日本の奈良県で、神武天皇が奈良県に攻め込んだ理由も水銀だったという説が有力です。

水銀は日本から大陸へ持っていくと高額で取引され、ほとんど何でも手に入れることが可能でした。


神武天皇が奈良県を支配すると中国風の建築が増え都市建設が始まるが、その資金は水銀輸出で得たと見られている。

古代の水銀精製過程では大量の汚染物質が流出し、これが川や池に堆積し青く輝いたのが「あおによし」で、当時の人は水銀を見てロマンチックだなと思っていたようです。

当然ながら奈良では水銀汚染のため人々は病気になったが、もう一つトイレ問題があった。



衛生状態の悪さと間違った医学知識

藤原京や飛鳥京、平城京は日本最初の都市であるためトイレ処理の技術がなく、川や池に流していました。

飛鳥時代の奈良県では水銀とトイレからの流れ者で、川や池は大変な状況になっていました。

歴史で環濠集落を習ったと思いますが、周囲を堀で囲った要塞のような集落で、要塞の中で数百人が生活していました。


外側の堀からやはりトイレの物が発見されていて、しかも汚染されて伝染病が蔓延していたらしいのが分かっています。



現存する環濠集落は戦国時代の防御の為に作られたもので、そうした問題は弥生時代から既に発生していました。

結局明日香村や橿原市。桜井市周辺の古代都市は2つの汚染で住めなくなり、710年に奈良市に首都移転、平城京も汚染されて794年に京都に首都移転しています。


京都でも環境汚染は止まらず魑魅魍魎の伝説が多く生まれたが、大半は環境汚染が原因の病気と考えられています。

武士の時代になると武士は京都を嫌い鎌倉や江戸に引っ越すが、やはり環境汚染がついて回ります。

江戸時代になるとトイレの物を肥料につかうリサイクル社会が完成し、以前よりかなりマシになりました。


だが江戸は人口100万人に膨れ上がり、伝染病が定期的に大流行していました。

根本原因は正しい医学知識が無かったので、ウイルスや細菌を知らず、怨霊や妖怪の仕業だと考えていたからでした。

江戸時代を通じて女性の化粧品に水銀が多用されていて、多くの薬にも水銀が混ぜられていました。


水銀は劇薬のため強力な殺菌作用があり、確かに負傷した時などに劇的な回復をすることがある。

例えば幕府で活躍した柳沢吉保の家系では120人の寿命が記録してあるが、男は22歳で女は15歳でした。

15歳になる前から女性はお化粧を始め、それが原因で非常に短命だったと言われています。


化粧品や水銀を用いた薬は高価だったので、一般の庶民は男42歳、女44歳くらいの平均寿命でした。

古代から中世の日本はあまり環境が良くなかったのです
https://www.thutmosev.com/archives/88166781.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1590.html
[近代史5] 日本のトイレは長くこういうものだったので、河川が汚染されるたびに遷都した 中川隆
3. 中川隆[-13092] koaQ7Jey 2022年5月14日 19:42:18 : uuMrMrg56A : YktSVGpldUZyeHM=[1]
2022年05月14日
江戸時代の環境汚染は酷かった? 全然健康的ではない

飛鳥時代の庶民の家は弥生時代と変わらなかったと考えられている
都市化が進んだのに汚物処理はなく河川が汚染されて住めなくなった

古代日本の環境問題

江戸時代とかもっと前の時代は自然が豊かで緑が多く、質素ながらも健康的な生活をしているというイメージではないでしょうか?

実際にはそうではなく間違った医学知識のせいで公害病や伝染病が蔓延し、人々は環境汚染に苦しんでいました。

日本の創成期からずっと日本人を苦しめてきたものが水銀と汚物で、明治維新後に正しい医学知識が広まるまで続いた。

話は神武天皇東征の頃まで遡り記録では起原前660年前だが実際には(個人的に)西暦200年台から300年台前半かなと思っています。

と言うのは魏志倭人伝(280年)には神武天皇的な世界が一切書かれていないので、東征はその後の出来事だと想像できるからです。

その前の紀元前200年以上前、秦の始皇帝の指示で徐福という人物が不老不死の薬を求めて日本までやってきたと記録されています。


この不老不死の薬の正体は水銀を主原料とした劇薬で、当時は万病の薬として同じ重さの金よりも高く取引されていました。

古代世界で水銀の最大生産地は日本の奈良県で、神武天皇が奈良県に攻め込んだ理由も水銀だったという説が有力です。

水銀は日本から大陸へ持っていくと高額で取引され、ほとんど何でも手に入れることが可能でした。


神武天皇が奈良県を支配すると中国風の建築が増え都市建設が始まるが、その資金は水銀輸出で得たと見られている。

古代の水銀精製過程では大量の汚染物質が流出し、これが川や池に堆積し青く輝いたのが「あおによし」で、当時の人は水銀を見てロマンチックだなと思っていたようです。

当然ながら奈良では水銀汚染のため人々は病気になったが、もう一つトイレ問題があった。

衛生状態の悪さと間違った医学知識

藤原京や飛鳥京、平城京は日本最初の都市であるためトイレ処理の技術がなく、川や池に流していました。

飛鳥時代の奈良県では水銀とトイレからの流れ者で、川や池は大変な状況になっていました。

歴史で環濠集落を習ったと思いますが、周囲を堀で囲った要塞のような集落で、要塞の中で数百人が生活していました。


外側の堀からやはりトイレの物が発見されていて、しかも汚染されて伝染病が蔓延していたらしいのが分かっています。

現存する環濠集落は戦国時代の防御の為に作られたもので、そうした問題は弥生時代から既に発生していました。

結局明日香村や橿原市。桜井市周辺の古代都市は2つの汚染で住めなくなり、710年に奈良市に首都移転、平城京も汚染されて794年に京都に首都移転しています。


京都でも環境汚染は止まらず魑魅魍魎の伝説が多く生まれたが、大半は環境汚染が原因の病気と考えられています。

武士の時代になると武士は京都を嫌い鎌倉や江戸に引っ越すが、やはり環境汚染がついて回ります。

江戸時代になるとトイレの物を肥料につかうリサイクル社会が完成し、以前よりかなりマシになりました。


だが江戸は人口100万人に膨れ上がり、伝染病が定期的に大流行していました。

根本原因は正しい医学知識が無かったので、ウイルスや細菌を知らず、怨霊や妖怪の仕業だと考えていたからでした。

江戸時代を通じて女性の化粧品に水銀が多用されていて、多くの薬にも水銀が混ぜられていました。


水銀は劇薬のため強力な殺菌作用があり、確かに負傷した時などに劇的な回復をすることがある。

例えば幕府で活躍した柳沢吉保の家系では120人の寿命が記録してあるが、男は22歳で女は15歳でした。

15歳になる前から女性はお化粧を始め、それが原因で非常に短命だったと言われています。


化粧品や水銀を用いた薬は高価だったので、一般の庶民は男42歳、女44歳くらいの平均寿命でした。

古代から中世の日本はあまり環境が良くなかったのです
https://www.thutmosev.com/archives/88166781.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1511.html#c3

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
147. 中川隆[-13091] koaQ7Jey 2022年5月14日 22:59:40 : uuMrMrg56A : YktSVGpldUZyeHM=[4]
オンキヨー自己破産「玄人に違いのわかる高性能を突き詰めているのに勝てない」時代の厳しい現実
5/14
https://news.yahoo.co.jp/articles/7c1abac18189cc412cf47b70e94d1f75e563c93e

一世を風靡した往年のブランドがまた1つ行き詰まりました(写真:Alamy/アフロ)

 驚きのニュースが飛び込んできました。日本を代表するオーディオ機器メーカーのオンキヨーホームエンターテイメントが5月13日、大阪地方裁判所に自己破産を申請しました。音楽がCDではなくレコードだった当時からの音楽ファンであれば特に寂しいニュースと感じるのではないでしょうか。

 オンキヨーは戦後のオーディオブームを支えた名門の一角です。家電量販店の店頭などで「ONKYO」のブランドロゴを目にした中高年世代の人も少なくないでしょう。手ごろなミニコンポも販売していましたが、高級品のアンプやスピーカーでも有名でした。当時はよりよい音を聴こうと思ったら、アンプを高級品に変え、スピーカーを高級品に変え、それらをつなぐケーブルを高級品に変えることが大切な時代でした。

■ハイエンドユーザーの減少が響いた

 音楽の世界でこのようにして音を楽しむ習慣が変わり、高性能や最高級を志向する「ハイエンド」なユーザーが減少したことに伴い、最終的に市場が縮小してオンキヨーが経営破綻したというのがわかりやすい経済学的な説明です。オンキヨーだけではなくサンスイ、コーラルなど世界レベルだった日本の高級オーディオ機器メーカーのブランドが消滅したのも同じ理由です。

 しかしあらためて考えてみたいのですが、なぜハイエンドのオーディオ市場は縮小しているのでしょうか。読者のみなさんは「ハイエンド市場なんてスマホ全盛のデフレ経済下では縮小するのがあたりまえだよ」とお考えかもしれません。その直感に反する話を2つほど並べてみたいと思います。

 ひとつは音楽アーティストの方に話を聞く機会があればピンとくるかもしれない話です。アーティストは実に深く録音にこだわります。マスター音源を聴くと違いがわかるそうですが、音が違う。それがCDというパッケージになるとどうしても簡素化してしまうのが彼らの不満です。

 もうひとつ別の話ですが、レコード会社はマスター音源というものをとても大切な資産だと考えていて、昔は門外不出の財産でした。ところが時代が変わったということでしょう。最近ではハイレゾというほぼマスタークオリティの音源が販売されています。これが音楽業界の流通にかかわるひとたちにとっては信じられないほどの方針転換だというのです。

■ハイエンド音源のユーザーは数%しかいない

 言い換えると私たちが大好きな音楽アーティストが提供してくれる商品には、私たちがよく聴いている商品以外に、同じ曲なのに聴こえ方がまったく違う商品が存在し、それが販売される夢のような時代が来たということです。普通の音楽ストリーミングとハイレゾはそれほど違うにもかかわらず、ハイレゾがなぜか売れない。本当の意味でのハイエンド音源のユーザーは音楽市場の中でおそらく数%しかいないと推定されるのです。

 実はかなりの数の音楽ファンがハイレゾを聴いてみるといい音と普通のCDの音の違いがわかるそうです。ライブと同じだといえばピンとくるでしょうか。ライブ会場のステージから聞こえるあの迫力のある音と、その興奮をもう一度味わいたいと購入した動画で視聴するライブ。たとえ同じ日の演奏であってもこのふたつは全然音が違って感じられるものです。

 違いがわかるにもかかわらず音楽市場がハイレゾではない方向に拡大した理由は利便性です。レコードからCDにメディアが変わった段階で高音域と低音域の音が一定レベルで切り落され、それが音楽プレイヤーで聴く際にはAACやMP3のようにさらに圧縮され音が変わります。

 ところがそのダウングレードが生み出す利便性が勝ることで、音楽はかつて以上に日常的な楽しみに変わりました。アップルが提供するiPhoneに接続したAirPods ProはBluetoothの利便性とノイズキャンセリング技術の静謐性で、どこにいても没入感ある音楽が私たちを楽しませてくれます。

 そしてここがビジネスとして難しいところなのですが、ハイレゾ音源は結局このアップルが提供する市場がいちばん大きくなってしまった。多くのユーザーがApple Musicの提供するハイレゾの曲をAirPods Proで聴くのですが、そうなると音質はハイレゾではない。

 ハイレゾ音源をダウンロードして、それなりのオーディオ機器をそろえて有線接続して、たとえば地下室のオーディオルームでがんがんかけることができれば音の違いはわかるのですが、そのような富裕層市場が少ししかないのです。

■BOSEやソニーはそれでも生き残っている

 一方でユーザーから支持を得てハイエンドのオーディオ市場で勝ち残っているメーカーも存在します。たとえばボーズ(BOSE)やソニー。ここが経営学でいうマーケティング力の差というものだと私は思います。

ボーズのスピーカーはいい音を聴きたいというユーザーが高額でも買う商品です。私事ながらわが家にも1台あって、これは私個人の感想ですが、ボーズのスピーカーの強みはたとえ圧縮音源でもいい音が聴けるという点にあると思っています。音源の中で低音部分を迫力ある音で再生して左右方向の音を違う方向に出力することで、商品サイズはコンパクトな大きさなのに普通のスピーカーとは全然違う音に聴こえる秘密ではないかというのが私の観察です。

 ソニーのスピーカーの強みはデザイン性というか、もう少しはっきり言えばインテリア性だと私はにらんでいます。音はそれなりにソニーの強みなのですが、価格が高いのは部屋に置きたいと思わせる優雅さがあるからだと私には思えます。そもそも有機ELの大画面テレビのデザインもヨーロッパ的で、それに合ったホームシアターシステムを揃えようとしたらソニーのスピーカーがいちばん合う。大画面の画質が良いことも加わって映画でも音楽ライブでも臨場感があるように感じさせます。

 ボーズもソニーもスピーカーのハイエンド市場の商品ですが、実は大半のユーザーがハイレゾではない音を楽しんでいるニアハイエンドだという点が市場ニーズの現実です。オーディオ製品の場合、本当の意味でのハイエンド市場は縮小し、記号としてのハイエンド市場がそれに変わったと表現してもいいかもしれません。

 ハイエンドではないけれども高くて売れているオーディオ機器としてミライスピーカーがあります。この商品も私は「買ってよかった」と思っています。これは高齢になった両親が「テレビの音がよく聞こえない」と言い出したので一昨年の敬老の日にプレゼントした実用品です。人間が聴きやすい音を出力するスピーカーなのでハイレゾの逆で、原理的には音域が絞られているはずです。評判は聞いていたのですが、確かにこのスピーカーを接続したとたん、両親の家のテレビが私にも聞きやすくなって驚いたものです。

このように事例を挙げてみると、成功しているハイエンド市場の音響製品は存在します。しかし冷徹なもうひとつの事実を言うと、そのように富裕層向けの差異化に成功している商品のユーザーは実は最高の音を求めていない。これが皮肉な真実です。

 音楽アーティストがこだわりにこだわりぬいて制作したマスター音源とほぼ同様のハイレゾ音源を、レコード会社が過去の慣習を捨てて蔵出し販売をして、それで本当に異次元の音楽を聴くことができる夢のような時代になったけれども、そのような商品は売れていないのです。

■「いい商品なら少し高くても買う」をとらえているか

 寂しい話ですが、ハイエンド市場とはすばらしさを追求する世界ではない。そうではなく「いい商品なら少し高くても買う」という消費者心理のボリュームゾーンを捉えた商品こそが、資本主義の時代に生き残っていくハイエンド商品なのだということです。

 そして今回、オンキヨーが自己破産したという事実は、またひとつそのことを裏付ける新しい証拠が増えたということです。経営破綻とともに高級オーディオ製品を製造する職人たちもまた消えていくことになるでしょう。イチ音楽ファンとしてはとても哀しく残念なニュースでした。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c147

[リバイバル3] 車中泊向けの軽バン、ホンダ「N-VAN」の実用度 中川隆
144. 中川隆[-13090] koaQ7Jey 2022年5月15日 07:09:37 : J0IDKwuJiY : a3dQM1g0ckxYTDY=[1]
キャンプや車中泊が快適に! アウトドアの必需品「カーサイドタープ」の正しい使い方
5/14
https://news.yahoo.co.jp/articles/797e9b61a1145b991f0ad310bf67c7c3aa2ee429


オートキャンプで活躍する「カーサイドタープ」って何?
 本格的なキャンピングカーだけではなく、普通のクルマでもデイキャンプや車中泊がブームとなっており、SUVやミニバンにテントやバーベキューセットなどを満載して、キャンプ場に出掛ける家族連れやカップルが増えたほか、一人で「ソロキャンプ」を楽しむ人も増加しています。

【画像】車内が真っ暗! ガッツリ爆睡できる車中泊仕様のホンダ「N-VAN」(21枚)

アウトドアで活躍するカーサイドタープ

 通常、テントといえば、ドーム型や三角錐型などの形状で、骨組みを使って自立するものを指しますが、寝室やリビングルーム、テラスがある、まるで家のような大型のものから、一人用までいろいろなものがあります。

 そうしたなか、キャンピングカーショーに行くと、トヨタ「ハイエース」やホンダ「N-VAN」のボディサイドに「タープ」を張るアレンジをよく見かけます。

 タープは、ポールなどを使ってテントと同じような素材を自在な形状に張ることができ、シンプルながら使い方としてはかなり奥の深い商品です。

 クルマとタープの相性は良く、一般的に「カーサイドタープ」と呼ばれているものは、タープを車体上部と周辺の樹木などに結びつけるといった方法がオーソドックスな使い方です。

 このカーサイドタープは、大きく分けてふたつの種類があります。

 ひとつは、車体側面の上部にタープを収納する細長いボックスがあり、そこからタープを水平方向に引き出すタイプです。これは、ハイエースを改良したキャブコンで採用されることが多くあります。

 廉価なものは、軽量でルーフキャリアに装着でき、タープを手で引き出して使いますが、上級モデルでは、飲食店の店先のカフェテラスのように専用器具や電動でタープを開閉するものなど、海外メーカー品を主流として商品ラインナップは豊富です。

 ただし、この上級モデルは価格も10万円以上になったり、取付工事も専門業者に依頼する必要がありコストがかかります。

 もうひとつが、ドーム型テントを半分にしたような格好で、タープの片側をクルマの側面上部に吸盤を使って装着して使います。このタイプはいつでも後付けできるのが魅力です。

 大きな円弧を描くようなドーム型のほかに、より四角い形のテント型もあるなど、さまざまな商品が存在。

 シトロエン「ベルランゴ」では新車のメーカーオプションとしてもラインナップされており、またスズキ「ジムニー」ではリアハッチに装着することを想定したカーサイドタープがあります。

 このほか、国内外のキャンプグッズメーカーから、ドーム型やテント型のカーサイドタープが市販されています。

カーサイドタープをフォレスターで実際に使ってみた
 筆者(桃田健史)は各種のカーサイドタープを購入し、ハイエースやN-BOX、スバル「フォレスター」などに装着して日常的に使用してきました。

 通常は1台にひとつのカーサイドタープを装着しているのですが、今回はフォレスターに複数のカーサイドタープを同時に装着して、それぞれの使い勝手を確認してみました。

スバル「フォレスター」に複数のカーサイドタープを同時装着

 まずは半ドーム型タイプから張ってみます。

 最初にタープ全体を地面に広げ、支柱となるポールをタープの上に置き、その接続部に対してタープ上部には短いポールを、反対のタープ下部には長いポールを組み付けます。

 そして短いポールの一端をタープ上部のポケットに差し込み、タープを強めに引っ張りながら長いポールの一端を組み付けます。

 これで骨組みが完成し、ここでタープとポールをフックで留めます。

 最後にタープ内型の中央に小型のポールを差し込むと、半ドーム型タープが出来上がりました。

 これを持ち上げてフォレスターの側面まで運び、車体上部の前後2か所に吸盤で留めます。風が強い場合は、吸盤を追加する場合もあります。

 なお、クルマの車高によって設置場所の横方向の位置が違ってくるので、クルマの駐車位置にも配慮が必要です。

 最後にペグを打って地面に固定します。コンクリートなどペグが打てない場合は、石や砂などを袋に詰めて固定したり、ペットボトルを重りとして使います。また、必要に応じてロープも使って固定します。

 慣れてくれば、こうした一連の作業は一人でも15分程度で出来るようになるでしょう。

 半ドーム型タープには縦の長さが違うさまざまなものがあるので、クルマのタイプや用途に応じて選ぶようにしてください。

 一方、テント型の場合、上部に2本のポールで梁を作ってから、サイドポールを組み込みます。テント型のサイズもメーカーによって違いがあります。

 テント型では、三方向が蚊帳にようになったり、開閉できるタイプがあり、テント内をまっすぐ立ったままで自由に移動できます。

 ドーム型でもテント型でも、クルマを家に見立てると、軒先の縁側にもうひとつ部屋ができたような感覚です。

 雨が強くなってきたときなどは、一時的に車内に入って天候回復を待つこともできますし、キャンプの際はカーサイドタープのなかで寝たり車中泊と組み合わせることで、楽しみ方が一気に広がります。

 もうひとつ、リアハッチを使ったタープもあります。

 N-VANのメーカーオプションでは、「テールゲートカーテン」という商品名がラインアップされており、ちょっとした日除けや着替えスペースとして活用できます。

 量販品の場合、クルマの種類やサイズによってサイドカーテンの下の隙間に差が出てしまいますが、N-VANのテールゲートカーテンはリアゲートを開けた状態でボディ全体のサイズに収まり、手軽にキャンプ気分を味わえます。

※ ※ ※

 各種のカーサイドタープは、クルマの大きさ1.5台から2台分のスペースを必要とするため、一般的な駐車場やSA/PA、道の駅などでは使用できません。キャンプ場でも、場内にクルマで入れるオートキャンプ場での使用が原則となります。

 リアゲート内に収まるサイズのタープを、海岸などの駐車場で利用することについてはどうでしょうか。

 サーファーが多く集まる海沿いの自治体に問い合わせたところ、「利用の制限はとくに設けていないが、あくまでも一般常識の範囲として認識してほしい」という回答でした。

 これから夏に向かってキャンプが楽しい時期になってきますが、カーサイドタープを含めてどのようなキャンプグッズを使うにしても、キャンプ参加者としてのモラルを守って、皆が楽しい時間を過ごせるよう心掛けることが大事だと思います。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/865.html#c144

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
369. 中川隆[-13089] koaQ7Jey 2022年5月15日 08:43:54 : J0IDKwuJiY : a3dQM1g0ckxYTDY=[2]
西武「御宿台」の住み心地はどうでしょうか:他外房方面|e戸建て

172: 匿名さん  [2022-05-13 23:18:21]

我が家のエリアは標高が高い地区で敷地面積も比較的広くてゆっくり生活出来ると思い新築して定住して居ますが、近所は見栄張り高齢者夫婦が多く付き合いきれません!

何処から越して来たのかわかりませんが、他人の家庭を詮索し自慢話しに花を咲かせる割には道で平気で痰を吐き、散歩しながら大声で他人の家の品評をし、犬の散歩は糞尿させっぱなし。松戸や柏の土地家屋を売り退職金で御宿台に家を持ち、憧れの見栄張り生活をしている様な人が沢山います。

私の家では薪ストーブを使用しますので薪を沢山ストックしますが毎日4人で散歩?している婆ア達に盗まれましたま。後で防犯カメラ映像で確認し唖然とし警察に届けました。

地元の若者が越して来て居るエリアはもめ事が多く分譲地の品格が下がっています。西武の管理事務所社員も御宿町出身者や御宿台定住者がいますが、基本的に何もしてくれません。自治会長は威張り散らし、分譲地で仕事をしている特定の業者と結託し裏金儲けで忙しそうです。私も今年中に他に引っ越す予定です。

https://www.e-kodate.com/bbs/thread/69070/
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c369

[番外地10] 玉砕を覚悟したプーチン大統領が弾く『カチューシャ Катюша』 中川隆
1. 中川隆[-13088] koaQ7Jey 2022年5月15日 08:55:45 : J0IDKwuJiY : a3dQM1g0ckxYTDY=[3]
玉砕を覚悟したプーチン大統領が弾く『カチューシャ Катюша』
https://www.youtube.com/watch?v=s1NNzE7rwSI
破滅へ向かって驀進するガールズ & パンツァー 戦車隊が歌う『カチューシャ Катюша』
https://www.youtube.com/watch?v=mtAqmVBbDX0
https://www.youtube.com/watch?v=8oLDY_sgXjU

ロシア兵が玉砕覚悟の突撃の時に歌う
[ソ連軍歌] カチューシャ 日本語歌詞付き Катюша
https://www.youtube.com/watch?v=sVk9eyAWxPk

Расцветали яблони и груши,
Поплыли туманы над рекой;
Выходила на берег Катюша,
На высокий берег, на крутой.

咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に

Выходила, песню заводила
Про степного, сизого орла,
Про того, которого любила,
Про того, чьи письма берегла.

カチューシャは歌い始めた
誇り高き薄墨色の鷲の歌を
彼女が深く愛する青年の歌
大事に持ってる彼からの手紙

Ой, ты песня, песенка девичья,
Ты лети за ясным солнцем вслед,
И бойцу на дальнем пограничье
От Катюши передай привет.

おお 歌よ 乙女の歌よ
太陽をかすめ 鳥の如く飛んでゆけ
遠い国境の若き兵士の元へ
カチューシャの想いを届けるのだ

Пусть он вспомнит девушку простую,
Пусть услышит, как она поёт,
Пусть он землю бережёт родную,
А любовь Катюша сбережёт.

彼は思い起こすか 純真な乙女を
彼は聞くだろうか カチューシャの澄んだ歌声を
彼は愛すべき祖国の地を守り抜き
カチューシャは愛を強く守り抜く

Расцветали яблони и груши,
Поплыли туманы над рекой;
Выходила на берег Катюша,
На высокий берег, на крутой

咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に 


戦死した恋人を悼む
ダークダックス 『カチューシャ』
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%80%80%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

プーチンさん、安らかに眠ってね
合掌
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/474.html#c1

[番外地10] お母さんはすべて知った上でF君は加害者ではないと嘘を言っていたんだ。

#402 2022/05/15 18:00
>>400
当時は遺体が発見されたトイレの後ろだけ1.5m 雪が積み上げられていたんだよ。
他の所には雪は無かった。

遺体の発見場所を隠していたのはそれがわかると他殺だとわかってしまうからだよ。

[匿名さん]
#403 2022/05/15 18:01
まずFと被害者の間でトラブルがあった
トラブルの内容を他のやつに言いふらした
それを知ったC男に火がついた
その後、犯罪行為がエスカレートしていく事を恐れたFは被害者から距離を置いた

[匿名さん]
#404 2022/05/15 18:02
6月にはFは逮捕かな?

[匿名さん]
#405 2022/05/15 18:04
>>402
勝手に他○だと思ってれば!日陰だったら溶けにくいよ!

[匿名さん]
#406 2022/05/15 18:05
>>403
トラブルじゃなくておもいきり性犯罪なんですが...
Fがトラブルと言って濁してただけ

[匿名さん]
#407 2022/05/15 18:05
F男くんが加害生徒であったという事実は、本当に複雑な思い

「イジメと認定されたことについては、素直に嬉しく思います。でも本当は彼女が生きている間に認定をしてもらえていたら……と思うと、とても悔しいです。

 今回の報告では、《上級生F男、G男、B男(三名が揃っていない場面も含む)が、グループ通話等において年少女児である本人(被害者)がいる状況でも性的な話題を繰り返したこと、個別のLINE(F男との関係)のやり取りにおいても性的なやり取りがなされたこと、F男が本人と性的な意味での身体接触を持ったことはイジメにあたる》とされました。F男くんは私に対して『加害者じゃない』と言っていた子です。彼が加害生徒であったという事実が判明して、本当に複雑な思いです」

[匿名さん]
#408 2022/05/15 18:12
被害者がTwitterで、裁判に向けて証言中と書いたよね
旭川の同年代の男の子から誰ってきかれて焦ったと呟いてた
鍵垢になってなかったから加害者から連絡来た可能性も捨てられない
つまりLINEでは連絡していなくてもTwitterならしていたかもしれない

[匿名さん]
#409 2022/05/15 18:15
なんで文春で友人dから加害者Fになって、第三者委員会で加害者A男に昇格してるの。
無関係だったんじゃないのか。

[匿名さん]
#410 2022/05/15 18:20
被害者が発見されたのは水路の最後の所で排水用に一段低くなっている場所。トイレの後ろの雪山?は発見場所と離れており別の場所。被害者が居た場所は歩道から近く、通学路の雪を公園内に飛ばして排雪すると普通に雪が溜まる場所。1箇所だけなら不自然だが、歩道に沿って公園内に排雪したら何十mにも渡りそれが自然に見える。トイレの雪山が別の場所だったから目立っていたのだと思う。特に2/16の暴風雪はひどく、半日でワンボックスカーが見えなくなる位に雪で埋まってしまう程だった。自然の降雪でもそれ位になるよ、旭川って。

[匿名さん]
#411 2022/05/15 18:21
>>409
出世魚的な

[匿名さん]
#412 2022/05/15 18:22
加藤さんの100万人署名活動で旭川いじめ事件の再捜査の事も含まれてるからFの性的いじめについても再捜査でもちろんできますね。
小川さんの動画では言い逃れしようとしてたけど警察に再捜査されたらさすがに言い逃れしきれないでしょ。

[匿名さん]
#413 2022/05/15 18:26
警察再捜査も今津さん指示ないと動けないんじゃない?大津は第三者委員会が虐め認定後に越市長が証拠差押え、ガサ入れを発動させ学校と教育委員会にダンボール持って警察入っていた

[匿名さん]
#414 2022/05/15 18:29
個別のLINE(F男との関係)のやり取りにおいても性的なやり取りがなされたこと、F男が本人と性的な意味での身体接触を持ったことはイジメにあたる》とされました。F男くんは私に対して『加害者じゃない』と言っていた子です。彼が加害生徒であったという事実が判明して、本当に複雑な思いです

となっていてご遺族がFを加害者だと知らなかったので再捜査以前にFの性的いじめは捜査自体されてない事になるから警察の捜査可能なのでは?

[匿名さん]
#415 2022/05/15 18:34
>>410
地元民としてすごく説得力のある説明ありがとう

[匿名さん]
#416 2022/05/15 18:35
>>410
水路の最後の所で排水用に一段低くなっている場所は靴とバッグが見つかった所。
被害者が発見されたのはトイレの後ろの雪山だよ。
遺体を埋める時に靴とバッグを一緒にするのを忘れたから、水路の方に放り投げたんだよ。

[匿名さん]
#417 2022/05/15 18:39
中学生👧をさわったのか

浦山死刑にしろ

[匿名さん]
#418 2022/05/15 18:41
F男くんが加害生徒であったという事実は、本当に複雑な思い

「イジメと認定されたことについては、素直に嬉しく思います。でも本当は彼女が生きている間に認定をしてもらえていたら……と思うと、とても悔しいです。

 今回の報告では、《上級生F男、G男、B男(三名が揃っていない場面も含む)が、グループ通話等において年少女児である本人(被害者)がいる状況でも性的な話題を繰り返したこと、個別のLINE(F男との関係)のやり取りにおいても性的なやり取りがなされたこと、F男が本人と性的な意味での身体接触を持ったことはイジメにあたる》とされました。F男くんは私に対して『加害者じゃない』と言っていた子です。彼が加害生徒であったという事実が判明して、本当に複雑な思いです」

[匿名さん]
#419 2022/05/15 18:41
>>413
強制猥褻は非親告罪だから警察は指示受けなくても再捜査出来る

[匿名さん]
#420 2022/05/15 18:45
>>410
特に2/16の暴風雪はひどく、半日でワンボックスカーが見えなくなる位に雪で埋まってしまう程だった←14・15の雪はどーだったの?除雪はどーだったの?
失踪時上着無しで動き回れるほど旭川は暖かったの?

[匿名さん]
#421 2022/05/15 18:51
>>420
失踪当日は暖かかった。雪も積もっていなかった。
歩道のすぐ脇で人家から良く見える所で酒も飲まないで凍死自殺するアホは北海道には存在しないよ。

お母さんは当日は零下17℃だと嘘言ってたから、加害者側なのかもしれないね。

[匿名さん]
#422 2022/05/15 18:55
>>421
零下17℃と言ったのはお母さんじゃないぞ。

[匿名さん]
#423 2022/05/15 18:58
>>422
だれ?

[匿名さん]
#424 2022/05/15 19:03
>>423
捜索を行った近親者が、遺体発見当時の状況を語る。

「○○さんが見つかったのは自宅から数キロ以上離れた公園の中です。発見時の服装は軽装で、薄手のパンツとTシャツ、上にパーカーを羽織っていただけでした。検死の結果、死因は低体温症と判断されました。死亡日時は、2月中旬とまでしか断定できないそうです。

 ○○さんが家出した日は、氷点下17℃以下の凍てつくような日でした。


被害者の事を「さん付け」で呼ぶ人物なので確実にお母さんではない。

[匿名さん]
#425 2022/05/15 19:05
被害者の事を「さん付け」で呼ぶ人物がお母さんの言っていた事を文春に伝えたんだよ。

[匿名さん]
#426 2022/05/15 19:07
>>423
文春の書籍では、捜索を行なった近親者が、
「失踪当日の深夜、被害者を車で探しているときに車内の外気温計や街中の温度計はマイナス17℃を指していました」と書いている
気象庁のデータではない

[匿名さん]
#427 2022/05/15 19:07
お母さんは遺体の発見場所を公開しないでくれと警察に頼んだんだ。
他殺だとわかると困るんだろ。

[匿名さん]
#428 2022/05/15 19:09
>>425
捜索を行った近親者が、遺体発見当時の状況を語る。

お前日本語読めないの?
捜査を行った近親者と書いてるだろ?
お前クソなの?

[匿名さん]
#429 2022/05/15 19:09
テレビドラマでも新聞ニュースでも母親が実の娘を殺す話が溢れているからね。

[匿名さん]
#430 2022/05/15 19:10
F男くんが加害生徒であったという事実は、本当に複雑な思い

「イジメと認定されたことについては、素直に嬉しく思います。でも本当は彼女が生きている間に認定をしてもらえていたら……と思うと、とても悔しいです。

 今回の報告では、《上級生F男、G男、B男(三名が揃っていない場面も含む)が、グループ通話等において年少女児である本人(被害者)がいる状況でも性的な話題を繰り返したこと、個別のLINE(F男との関係)のやり取りにおいても性的なやり取りがなされたこと、F男が本人と性的な意味での身体接触を持ったことはイジメにあたる》とされました。F男くんは私に対して『加害者じゃない』と言っていた子です。彼が加害生徒であったという事実が判明して、本当に複雑な思いです」

[匿名さん]
#431 2022/05/15 19:11
>>429
お前のその書き込み削除するなよ。
ご遺族の弁護団のほうに誹謗中傷として送らせてもらうわ。

[匿名さん]
#432 2022/05/15 19:11
>>428
近親者で失踪当日の深夜に車で探せるのは母親だけだろ

[匿名さん]
#433 2022/05/15 19:13
>>432
お前カスだろwww

[匿名さん]
#434 2022/05/15 19:14
お母さんが直接殺したのではなく、お母さんの関係者が殺した可能性が高いと思う。

[匿名さん]
#435 2022/05/15 19:16
薄手のパンツとTシャツ、上にパーカーを羽織っていただけ
旭川が暖かったとはいえ陽が沈んだ夜間は冷えるから上着無しで外出は無理では?

逆に考えたら上着着ることより優先して外出しなきゃイケない程慌てる・急ぐ必要があったって考えたら、外出求めたのがさあやさんにとってそれだけ畏怖する人物だった
夜明け前の暗い早朝に呼び出されて親にバレて尋常じないくらいに怖がっていたんだよな
呼び出した奴って絞り込めるのでは?

[匿名さん]
#436 2022/05/15 19:17
おそらく、サアヤさんを殺したお母さんの関係者が F君と関わりがあるから、お母さんは必死にF君は加害者ではない、と色々な所で話していたんだろ。

[匿名さん]
#437 2022/05/15 19:17
ご遺族への誹謗中傷はスクショして弁護団のほうに送ったほうがいいよ。
前もご遺族への誹謗中傷で書類送検されたバカがニュースになってた

[匿名さん]
#438 2022/05/15 19:18
また遺族を攻撃してきたな なぜF男スレでやる? 

[匿名さん]
#439 2022/05/15 19:18
サアヤさんを呼び出して殺したのはF君の関係者の可能性が高い。

[匿名さん]
#440 2022/05/15 19:18
>>436
むしろ、Fは無関係だと色々な所で話してたのはF本人なんですけど

[匿名さん]
#441 2022/05/15 19:19
F男くんが加害生徒であったという事実は、本当に複雑な思い

「イジメと認定されたことについては、素直に嬉しく思います。でも本当は彼女が生きている間に認定をしてもらえていたら……と思うと、とても悔しいです。

 今回の報告では、《上級生F男、G男、B男(三名が揃っていない場面も含む)が、グループ通話等において年少女児である本人(被害者)がいる状況でも性的な話題を繰り返したこと、個別のLINE(F男との関係)のやり取りにおいても性的なやり取りがなされたこと、F男が本人と性的な意味での身体接触を持ったことはイジメにあたる》とされました。F男くんは私に対して『加害者じゃない』と言っていた子です。彼が加害生徒であったという事実が判明して、本当に複雑な思いです」

[匿名さん]
#442 2022/05/15 19:21
F君はサアヤさんをゴールデンウィークの時に公園に呼び出して売春客に会わせようとした。
失踪した晩も同じ可能性が高い。

[匿名さん]
#443 2022/05/15 19:23
>>442
証拠みせて?

[匿名さん]
#444 2022/05/15 19:24最新レス
>>441
そもそも自殺未遂の段階でF君が主犯だと学校関係者は全員して知っていたんだから、お母さんも知らない筈が無い。
お母さんはすべて知った上でF君は加害者ではないと嘘を言っていたんだ。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/477.html
[番外地10] 旭川いじめ事件 遺体は永山中央公園の不自然な雪山に埋められていた 
旭川いじめ事件 遺体は永山中央公園の不自然な雪山に埋められていた 


旭川市 永山中央公園の不自然な雪山 【The Snow】 情報提供者が視聴者の質問に答えた!!
2022/05/15
https://www.youtube.com/watch?v=mMRkBtIo7tY&t=439s


▲△▽▼

旭川いじめ事件は F君が kan国の「N番部屋事件」を真似してやった

kan国で起きた衝撃の性犯罪「N番部屋事件」、性器に覚醒剤&虫、少女逆立ち性行為、男児強姦、母絶叫…報道規制かかる残虐実態!
被害者女性は博士に「アルバイト」として募集され、応募時点で個人情報を提供させていた。そして応募に必要だからとセクシーな画像を渡させてから「家族に見せるぞ」と脅して、自慰行為などさらに過激な動画を撮影させていたという。性的な写真を撮らせ、これを拒絶されると、ネットに写真をばらまくなどと脅迫。生活費のために応募した被害者のひとりは、報復が怖くて両親には言えなかったと告白している。
2020年3月までの約一年半もの間、未成年者を含む74人もの韓国人女性が「博士」と呼ばれる人物らにネット上で脅迫された挙句、性的行為や人に見られては尊厳を失う関わるような姿を生配信させられていた。

 博士らは、Twitter上で様々な女性を物色し、その中から性的に露出の高い写真を投稿している若い女性らに罠リンクを送り付け、クリックしてしまった女性の個人情報を入手。または、「秘密のアルバイト」として募集した女性の性的な画像を撮影したうえで、「警察に通報する」「家族に知らせる」など脅迫していた。

N番部屋では、被害女性たちは奴隷と呼ばれ、どんな要求も受け入れるしかなかったようだ。

・ある女性は、生配信中に刃物で自らの身体に「奴隷」の文字を刻まされた。
・またある女性は年端もいかない幼い男児と性行為を行うことを強要された。
・さらにカメラの前でレイプされた被害者もいた。
・大小便を飲み込んだりさせられた者もいた。
・虫を性器に挿入する者もいた。
・実際に視聴者に会い性行為をさせられた者もいた。
・最年少の被害者は、なんと11歳の女児だった。
(ネットでは6歳や8歳の被害者もいたとされているが、中・韓の大手メディアは11歳と報じている)
・刃物を突きつけられた少女が男子トイレの小便器で逆立ちして自慰行為
・浮浪者風の複数の男に輪姦されている30代くらいに女の傍で、男の子が「おかあさん!」と絶叫
・たらふく食事を与えられた女性が、最後に虫や汚物を食べることを強制され、嘔吐。しかし吐き出した嘔吐物も食べるように強制され、泣きながら手ですくって飲み込む。
・覚醒剤を陰部に塗りたくられた女性がバイブで責められまくり、白目を剥く

などが報告されている。また、閲覧が有料であるにもかかわらず、累計26万人の会員が閲覧していた。全 kan 国人男性の100人に1人が性犯罪の画像・動画にお金を払った試算になる。


韓国のN番部屋事件の主犯は自分では直接には何もやっていません。
F君も韓国のN番部屋事件の主犯を真似て、自分では何もやらなかったんでしょうね。

▲△▽▼

F君は爽彩さんに、言う事を聞かないとこういう目に遭う、と忠告した?:

北九州監禁事件では
大便排泄を1日1回に限定し
全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した
勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた
言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った
一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ

chousen 民族はこういうことを好むのである
ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります

chousen 人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います
チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でしたchousen 人の李氏chousen もそうです。よって在日に監禁されると大変なことになります

殴る蹴るの基本的なものから、
タバコの火を押し当てる、
ハンダコテで体中焼く、
尿道にマッチ入れて火をつける、
zainichi が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える
大小便を食べさせる

など拷問の種類には事欠きません

女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、
全身にピアスを通され
穴という穴は拡張され、
zainichi が起こした女子コンクリ事件では
鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です

zainichiを日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです

かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁
少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます
何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります
尻の穴もそうなります、
栗には太いピアスがされるでしょう
SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、
厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります
こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします

▲△▽▼

爽彩さんを暴行しながら耳元でささやいた、ムダだって知ってるだろ…そして激しく暴行は続けられた パンパンパン 彼女は壊れてしまった…  


 爽彩さんが家に引きこもるようになった2019年の秋以降に描かれたイラストがここにある。それまで描いていた色彩豊かな調子はなくなり、色はモノトーンに。ある絵には「ムダだって知ってるだろ」との言葉が書き込まれていた。


――退院後、引っ越しや転校もされたと思いますが、爽彩さんの様子はいかがでしたか?
母:
退院した直後は窓から飛び降りようとしちゃったりとか。
入院中もそうだったんですけど、フラッシュバックが起こると「殺してください」「許してください」って叫んだり、白目をむいて泡を吹いて倒れちゃうとか。そういうことが一日に10回や20回、頻繁に起きていました。
だから目が離せないというか、時間が経って徐々に減ってはいたんですけど、それでも一日に数回はフラッシュバックが起きる状態でした。

急に泣いたり叫んでしまったり、震えたり、過呼吸が起きたり、吐いちゃったりとか。それが本当に1日の間に10回以上とか、ひどいときには20回以上、起きることが続いていた。(2021年9月27日放送)

▲△▽▼

児童買春してた子で少なくとも社会に復帰する子はほとんどいません。
逃げる子もいるけど逃げられると思っているのかは知らない。
二十歳前後になって精神保ってる人ってかなり少ない。
被害者は精神病院に入る事が多い。大抵は消される

旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い

1965 旭川学力テスト事件(永山中学事件)
1974 東神楽町高校三年生(当時18)殺人 5/25失踪 6/8遺体発見
1970年代半ば 旭川の中学に教育実習に来た女子大生を集団で強姦し全員が淋病に感染(事件にならず )
1979北方ジャーナル事件
1981旭川日通事件
1987整形外科院長宅で院長夫人の死体発見。神居古潭のつり橋のたもとで車発見、死体は発見されずも院長の無理心中と結論付け
1989SOS遭難事件(人骨鑑定 旭川医大)1974 東神楽町高校三年生(当時18)殺人 5/25失踪 6/8遺体発見
1996旭川市女子中学生集団暴行事件(1994〜)、数十人の加害者の多くが野放し 加害者の一部は後に"吊るされた"
1997旭川市男子中学生自殺
1998旭川未成年女体盛り 2/14 逮捕は末端だけ
1999旭川医大生レイプ 被害者を非難 4/13
2001食肉偽装事件 告発した西宮冷蔵の誹謗中傷事件
2001室蘭女子高生失踪 3/6
2002旭川鷹栖一家心中 9/12
2003"住民組織握れ" 全国で 2月
2003大阪熊取町小4女児誘拐事件5/20 (北海道関連説あり)
2003プチエンジェル事件発覚 7月(拠点を旭川に移動した説あり)
2003北海道警察旭川中央警察署の裏金不正経理発覚 11月
2005旭川で台湾女性失踪 5/30
2008旭川の高校生乾燥大麻所持 11/18
2009旭川の高校集団リンチ事件 子宮潰し
2009旭川の女子中学生ガムテープ拘束写メール事件
2009旭川4人家族の3人死亡 帰宅した夫が発見 4/19
2009旭川女性曲芸師失踪 8/24
2010年5月 旭川西高 飛び降り自殺(他殺の可能性あり) これともう1件別の死亡事故(2名とも女子生徒との噂がある)
2010旭川の女子高生硫化水素死 母親も巻き込まれ死亡したのに『自殺』9/13
2010旭川市長選で旭山動物園元園長出馬断念 悪評流され
2010年9月 旭川の女子高生硫化水素死 母親も巻き込まれ死亡したのに『自殺』9/13
2012 旭川男子中学生行方不明 1/15 夜9時半過ぎ失踪なのに公開捜査渋る
2013旭川の中学生飛び降り
2013旭川専門学校生授業中飛び降り
2014旭川の中学1年男子学校で転落死  
2014旭川の高校で感電死
2015-2016頃旭川N中学 女子中学生死亡(学校にて)女子中学生死亡(公園で絞殺遺体) 隠蔽
廣瀬爽彩さんの母親への集団ストーカー始まる
2016旭川一家3人死亡1人けが 帰宅した夫が発見
2016旭川市 戸籍に知らない人が夫として記載 7月末発覚
2016年10月 旭川商業高校の女子生徒が修学旅行中に列車にひかれて死亡 10/12
2017札幌 中国人女性「旭川に行く」予定のところ7/22失踪 釧路で足首から下だけ骨になった遺体発見 8/30
2018旭川市神居大橋付近 飛び込み自殺か この二ヶ月で三人目とのネット情報
2018旭川市立中学 個人情報USB紛失事件
2018年6月 永〇中学 女子生徒が学校内のトイレで死亡 自殺で処理
2018年7月 永〇中学 女子生徒が中学の敷地内の公園で絞殺される
2018年    永〇中学 女性教師が死亡 上記被害者の生徒のいじめを止めようとしていたとの情報あり  隠蔽
2019年    旭〇工業 定時制の生徒がいじめを苦に自殺?、これも女子生徒か?
2019 旭川女子中学生 廣瀬爽彩さんにウッペツ川への飛び込み強要 6/22、その後目撃者急死 イジメ否定プリント配布して隠蔽
2019山梨キャンプ場女児失踪 9/21 (北海道関連説あり)
2019地元誌に『相次ぐ教員による児童買春』
2019旭川医大元教授 意識のない医局スタッフに猥褻撮影保存 論文盗用で依願退職 2021発覚
2019旭川医大 個人情報USB紛失
2019旭川医大向精神薬大量処方 7月〜10月頃 
2019暴力団会長逮捕 医師を恐喝するよう指示した疑い 犯行に流出したカルテ使われる 9月
2019小学校に猫の頭部と足一本、内臓の一部など置かれる 血痕なし
2020旭川乳児遺棄 6/29発覚
2020年7月 旭川女子高生フィール事件 全身強打していないのに9階から飛び降りたことにされた 7/11
2021年3月 廣瀬爽彩さんの死体が永山中央公園でみつかる、永〇中学とは200メートルほどの距離、2/13失踪 3/23外傷がない凍結した遺体で発見
2021旭川で青森県警が青森女子中学生を保護 4/23
2021年5月 旭川大橋で飛び込み自殺 男女1名づつの生徒 学校名は不明
2021 旭川高校生教室で首吊り図る
2022 旭川で女子中学生1/15失踪 1/18遺体発見

▲△▽▼

廣瀬爽彩さん、吉田xxとドS性交
廣瀬爽彩さん、中尾xxと 知り合う
廣瀬爽彩さん、赤井xx・佐藤xxと知り合う
赤井xx・佐藤xxが吉田xxの付き合い方を教えられ自分らもと
性交自慰拡散脅しおもちゃに
拡散やめてもらうため自殺(失敗)
裸で精神病院に警察がとじこめる
出るなり動画で脅され売春やらされる

便所ATMと呼ばれそのころは 服部xx、吉田xxやしまいに中尾xxの夜職客も利用
母親が仕事で外出中に便所ATM 呼び出される

もう死ぬしかないとLINE,決定ではないと追記
現金不所持で家を出る
夜売春
翌日中尾xxと服部xxにおごらされる
車で●●場所に運ばれる
★  ということは、その売春の客集めの書き込みがワクワクに残ってないのか?
いろんなところで目撃される

2月20日殺害に至る
冷凍庫
翌月20日、21日は晴れ
22日は雪なので夜に車で公園に遺棄
23日午前近所の住民が発見通報
警察がなぜか事件化せず解剖もせず自殺の線にし事件性なしとマスコミ発表
火葬し証拠消える
いじめと発見時に遺族発表(SNS)
葬儀で自殺と遺族が発表

▲△▽▼

間接的に関係者だけど知っている事を書いていいですか?
まず、旭川について多大な誤解があります。
まず未成年の風x 店勤務は恒常的です。

一般の店舗は 17歳〜です。
会員制の場合は 12歳〜です。

これらは室蘭の様に比較的戦前からありました。
利用者は市外、観光、道内出張もさながら、市民も普通に利用しています。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/478.html
[番外地10] 旭川いじめ事件 遺体は永山中央公園の不自然な雪山に埋められていた  中川隆
1. 中川隆[-13087] koaQ7Jey 2022年5月16日 07:09:04 : C6PUscOcec : VHcuTXBHTXZJY2s=[1]
旭川いじめ事件 凍死遺体は永山中央公園の不自然な雪山に埋められていた 

旭川いじめ事件 雪山と除雪について【Snow】〜私になにかあったらこの動画が原因かもしれない〜 - YouTube
2022/04/10
https://www.youtube.com/watch?v=Ia_FuhvDj8Q&t=23s

旭川市 永山中央公園の不自然な雪山 【The Snow】 情報提供者が視聴者の質問に答えた!! - YouTube
2022/05/15
https://www.youtube.com/watch?v=mMRkBtIo7tY&t=439s


▲△▽▼

旭川いじめ事件は F君が kan国の「N番部屋事件」を真似してやった

kan国で起きた衝撃の性犯罪「N番部屋事件」、性器に覚醒剤&虫、少女逆立ち性行為、男児強姦、母絶叫…報道規制かかる残虐実態!
被害者女性は博士に「アルバイト」として募集され、応募時点で個人情報を提供させていた。そして応募に必要だからとセクシーな画像を渡させてから「家族に見せるぞ」と脅して、自慰行為などさらに過激な動画を撮影させていたという。性的な写真を撮らせ、これを拒絶されると、ネットに写真をばらまくなどと脅迫。生活費のために応募した被害者のひとりは、報復が怖くて両親には言えなかったと告白している。
2020年3月までの約一年半もの間、未成年者を含む74人もの韓国人女性が「博士」と呼ばれる人物らにネット上で脅迫された挙句、性的行為や人に見られては尊厳を失う関わるような姿を生配信させられていた。

 博士らは、Twitter上で様々な女性を物色し、その中から性的に露出の高い写真を投稿している若い女性らに罠リンクを送り付け、クリックしてしまった女性の個人情報を入手。または、「秘密のアルバイト」として募集した女性の性的な画像を撮影したうえで、「警察に通報する」「家族に知らせる」など脅迫していた。

N番部屋では、被害女性たちは奴隷と呼ばれ、どんな要求も受け入れるしかなかったようだ。

・ある女性は、生配信中に刃物で自らの身体に「奴隷」の文字を刻まされた。
・またある女性は年端もいかない幼い男児と性行為を行うことを強要された。
・さらにカメラの前でレイプされた被害者もいた。
・大小便を飲み込んだりさせられた者もいた。
・虫を性器に挿入する者もいた。
・実際に視聴者に会い性行為をさせられた者もいた。
・最年少の被害者は、なんと11歳の女児だった。
(ネットでは6歳や8歳の被害者もいたとされているが、中・韓の大手メディアは11歳と報じている)
・刃物を突きつけられた少女が男子トイレの小便器で逆立ちして自慰行為
・浮浪者風の複数の男に輪姦されている30代くらいに女の傍で、男の子が「おかあさん!」と絶叫
・たらふく食事を与えられた女性が、最後に虫や汚物を食べることを強制され、嘔吐。しかし吐き出した嘔吐物も食べるように強制され、泣きながら手ですくって飲み込む。
・覚醒剤を陰部に塗りたくられた女性がバイブで責められまくり、白目を剥く

などが報告されている。また、閲覧が有料であるにもかかわらず、累計26万人の会員が閲覧していた。全 kan 国人男性の100人に1人が性犯罪の画像・動画にお金を払った試算になる。


韓国のN番部屋事件の主犯は自分では直接には何もやっていません。
F君も韓国のN番部屋事件の主犯を真似て、自分では何もやらなかったんでしょうね。

▲△▽▼

F君は爽彩さんに、言う事を聞かないとこういう目に遭う、と忠告した?:

北九州監禁事件では
大便排泄を1日1回に限定し
全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した
勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた
言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った
一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ

chousen 民族はこういうことを好むのである
ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります

chousen 人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います
チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でしたchousen 人の李氏chousen もそうです。よって在日に監禁されると大変なことになります

殴る蹴るの基本的なものから、
タバコの火を押し当てる、
ハンダコテで体中焼く、
尿道にマッチ入れて火をつける、
zainichi が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える
大小便を食べさせる

など拷問の種類には事欠きません

女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、
全身にピアスを通され
穴という穴は拡張され、
zainichi が起こした女子コンクリ事件では
鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です

zainichiを日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです

かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁
少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます
何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります
尻の穴もそうなります、
栗には太いピアスがされるでしょう
SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、
厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります
こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします

▲△▽▼

爽彩さんを暴行しながら耳元でささやいた、ムダだって知ってるだろ…そして激しく暴行は続けられた パンパンパン 彼女は壊れてしまった…  


 爽彩さんが家に引きこもるようになった2019年の秋以降に描かれたイラストがここにある。それまで描いていた色彩豊かな調子はなくなり、色はモノトーンに。ある絵には「ムダだって知ってるだろ」との言葉が書き込まれていた。


――退院後、引っ越しや転校もされたと思いますが、爽彩さんの様子はいかがでしたか?
母:
退院した直後は窓から飛び降りようとしちゃったりとか。
入院中もそうだったんですけど、フラッシュバックが起こると「殺してください」「許してください」って叫んだり、白目をむいて泡を吹いて倒れちゃうとか。そういうことが一日に10回や20回、頻繁に起きていました。
だから目が離せないというか、時間が経って徐々に減ってはいたんですけど、それでも一日に数回はフラッシュバックが起きる状態でした。

急に泣いたり叫んでしまったり、震えたり、過呼吸が起きたり、吐いちゃったりとか。それが本当に1日の間に10回以上とか、ひどいときには20回以上、起きることが続いていた。(2021年9月27日放送)

▲△▽▼

児童買春してた子で少なくとも社会に復帰する子はほとんどいません。
逃げる子もいるけど逃げられると思っているのかは知らない。
二十歳前後になって精神保ってる人ってかなり少ない。
被害者は精神病院に入る事が多い。大抵は消される

旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い

1965 旭川学力テスト事件(永山中学事件)
1974 東神楽町高校三年生(当時18)殺人 5/25失踪 6/8遺体発見
1970年代半ば 旭川の中学に教育実習に来た女子大生を集団で強姦し全員が淋病に感染(事件にならず )
1979北方ジャーナル事件
1981旭川日通事件
1987整形外科院長宅で院長夫人の死体発見。神居古潭のつり橋のたもとで車発見、死体は発見されずも院長の無理心中と結論付け
1989SOS遭難事件(人骨鑑定 旭川医大)1974 東神楽町高校三年生(当時18)殺人 5/25失踪 6/8遺体発見
1996旭川市女子中学生集団暴行事件(1994〜)、数十人の加害者の多くが野放し 加害者の一部は後に"吊るされた"
1997旭川市男子中学生自殺
1998旭川未成年女体盛り 2/14 逮捕は末端だけ
1999旭川医大生レイプ 被害者を非難 4/13
2001食肉偽装事件 告発した西宮冷蔵の誹謗中傷事件
2001室蘭女子高生失踪 3/6
2002旭川鷹栖一家心中 9/12
2003"住民組織握れ" 全国で 2月
2003大阪熊取町小4女児誘拐事件5/20 (北海道関連説あり)
2003プチエンジェル事件発覚 7月(拠点を旭川に移動した説あり)
2003北海道警察旭川中央警察署の裏金不正経理発覚 11月
2005旭川で台湾女性失踪 5/30
2008旭川の高校生乾燥大麻所持 11/18
2009旭川の高校集団リンチ事件 子宮潰し
2009旭川の女子中学生ガムテープ拘束写メール事件
2009旭川4人家族の3人死亡 帰宅した夫が発見 4/19
2009旭川女性曲芸師失踪 8/24
2010年5月 旭川西高 飛び降り自殺(他殺の可能性あり) これともう1件別の死亡事故(2名とも女子生徒との噂がある)
2010旭川の女子高生硫化水素死 母親も巻き込まれ死亡したのに『自殺』9/13
2010旭川市長選で旭山動物園元園長出馬断念 悪評流され
2010年9月 旭川の女子高生硫化水素死 母親も巻き込まれ死亡したのに『自殺』9/13
2012 旭川男子中学生行方不明 1/15 夜9時半過ぎ失踪なのに公開捜査渋る
2013旭川の中学生飛び降り
2013旭川専門学校生授業中飛び降り
2014旭川の中学1年男子学校で転落死  
2014旭川の高校で感電死
2015-2016頃旭川N中学 女子中学生死亡(学校にて)女子中学生死亡(公園で絞殺遺体) 隠蔽
廣瀬爽彩さんの母親への集団ストーカー始まる
2016旭川一家3人死亡1人けが 帰宅した夫が発見
2016旭川市 戸籍に知らない人が夫として記載 7月末発覚
2016年10月 旭川商業高校の女子生徒が修学旅行中に列車にひかれて死亡 10/12
2017札幌 中国人女性「旭川に行く」予定のところ7/22失踪 釧路で足首から下だけ骨になった遺体発見 8/30
2018旭川市神居大橋付近 飛び込み自殺か この二ヶ月で三人目とのネット情報
2018旭川市立中学 個人情報USB紛失事件
2018年6月 永〇中学 女子生徒が学校内のトイレで死亡 自殺で処理
2018年7月 永〇中学 女子生徒が中学の敷地内の公園で絞殺される
2018年    永〇中学 女性教師が死亡 上記被害者の生徒のいじめを止めようとしていたとの情報あり  隠蔽
2019年    旭〇工業 定時制の生徒がいじめを苦に自殺?、これも女子生徒か?
2019 旭川女子中学生 廣瀬爽彩さんにウッペツ川への飛び込み強要 6/22、その後目撃者急死 イジメ否定プリント配布して隠蔽
2019山梨キャンプ場女児失踪 9/21 (北海道関連説あり)
2019地元誌に『相次ぐ教員による児童買春』
2019旭川医大元教授 意識のない医局スタッフに猥褻撮影保存 論文盗用で依願退職 2021発覚
2019旭川医大 個人情報USB紛失
2019旭川医大向精神薬大量処方 7月〜10月頃 
2019暴力団会長逮捕 医師を恐喝するよう指示した疑い 犯行に流出したカルテ使われる 9月
2019小学校に猫の頭部と足一本、内臓の一部など置かれる 血痕なし
2020旭川乳児遺棄 6/29発覚
2020年7月 旭川女子高生フィール事件 全身強打していないのに9階から飛び降りたことにされた 7/11
2021年3月 廣瀬爽彩さんの死体が永山中央公園でみつかる、永〇中学とは200メートルほどの距離、2/13失踪 3/23外傷がない凍結した遺体で発見
2021旭川で青森県警が青森女子中学生を保護 4/23
2021年5月 旭川大橋で飛び込み自殺 男女1名づつの生徒 学校名は不明
2021 旭川高校生教室で首吊り図る
2022 旭川で女子中学生1/15失踪 1/18遺体発見

▲△▽▼

廣瀬爽彩さん、吉田xxとドS性交
廣瀬爽彩さん、中尾xxと 知り合う
廣瀬爽彩さん、赤井xx・佐藤xxと知り合う
赤井xx・佐藤xxが吉田xxの付き合い方を教えられ自分らもと
性交自慰拡散脅しおもちゃに
拡散やめてもらうため自殺(失敗)
裸で精神病院に警察がとじこめる
出るなり動画で脅され売春やらされる

便所ATMと呼ばれそのころは 服部xx、吉田xxやしまいに中尾xxの夜職客も利用
母親が仕事で外出中に便所ATM 呼び出される

もう死ぬしかないとLINE,決定ではないと追記
現金不所持で家を出る
夜売春
翌日中尾xxと服部xxにおごらされる
車で●●場所に運ばれる
★  ということは、その売春の客集めの書き込みがワクワクに残ってないのか?
いろんなところで目撃される

2月20日殺害に至る
冷凍庫
翌月20日、21日は晴れ
22日は雪なので夜に車で公園に遺棄
23日午前近所の住民が発見通報
警察がなぜか事件化せず解剖もせず自殺の線にし事件性なしとマスコミ発表
火葬し証拠消える
いじめと発見時に遺族発表(SNS)
葬儀で自殺と遺族が発表

▲△▽▼

間接的に関係者だけど知っている事を書いていいですか?
まず、旭川について多大な誤解があります。
まず未成年の風x 店勤務は恒常的です。

一般の店舗は 17歳以上です。
会員制の場合は 12歳以上です。

これらは室蘭の様に比較的戦前からありました。
利用者は市外、観光、道内出張もさながら、市民も普通に利用しています。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/478.html#c1

[番外地10] 旭川いじめ事件 遺体は永山中央公園の不自然な雪山に埋められていた  中川隆
2. 中川隆[-13086] koaQ7Jey 2022年5月16日 07:57:35 : C6PUscOcec : VHcuTXBHTXZJY2s=[2]
旭川いじめ事件 凍死遺体は永山中央公園の不自然な雪山に埋められていた 

旭川いじめ事件 雪山と除雪について【Snow】私になにかあったらこの動画が原因かもしれない - YouTube
2022/04/10
https://www.youtube.com/watch?v=Ia_FuhvDj8Q&t=23s

旭川市 永山中央公園の不自然な雪山 【The Snow】 情報提供者が視聴者の質問に答えた!! - YouTube
2022/05/15
https://www.youtube.com/watch?v=mMRkBtIo7tY&t=439s


▲△▽▼

旭川いじめ事件は F君が kan国の「N番部屋事件」を真似してやった

kan国で起きた衝撃の性犯罪「N番部屋事件」、性器に覚醒剤&虫、少女逆立ち性行為、男児強姦、母絶叫…報道規制かかる残虐実態!
被害者女性は博士に「アルバイト」として募集され、応募時点で個人情報を提供させていた。そして応募に必要だからとセクシーな画像を渡させてから「家族に見せるぞ」と脅して、自慰行為などさらに過激な動画を撮影させていたという。性的な写真を撮らせ、これを拒絶されると、ネットに写真をばらまくなどと脅迫。生活費のために応募した被害者のひとりは、報復が怖くて両親には言えなかったと告白している。
2020年3月までの約一年半もの間、未成年者を含む74人もの韓国人女性が「博士」と呼ばれる人物らにネット上で脅迫された挙句、性的行為や人に見られては尊厳を失う関わるような姿を生配信させられていた。

 博士らは、Twitter上で様々な女性を物色し、その中から性的に露出の高い写真を投稿している若い女性らに罠リンクを送り付け、クリックしてしまった女性の個人情報を入手。または、「秘密のアルバイト」として募集した女性の性的な画像を撮影したうえで、「警察に通報する」「家族に知らせる」など脅迫していた。

N番部屋では、被害女性たちは奴隷と呼ばれ、どんな要求も受け入れるしかなかったようだ。

・ある女性は、生配信中に刃物で自らの身体に「奴隷」の文字を刻まされた。
・またある女性は年端もいかない幼い男児と性行為を行うことを強要された。
・さらにカメラの前でレイプされた被害者もいた。
・大小便を飲み込んだりさせられた者もいた。
・虫を性器に挿入する者もいた。
・実際に視聴者に会い性行為をさせられた者もいた。
・最年少の被害者は、なんと11歳の女児だった。
(ネットでは6歳や8歳の被害者もいたとされているが、中・韓の大手メディアは11歳と報じている)
・刃物を突きつけられた少女が男子トイレの小便器で逆立ちして自慰行為
・浮浪者風の複数の男に輪姦されている30代くらいに女の傍で、男の子が「おかあさん!」と絶叫
・たらふく食事を与えられた女性が、最後に虫や汚物を食べることを強制され、嘔吐。しかし吐き出した嘔吐物も食べるように強制され、泣きながら手ですくって飲み込む。
・覚醒剤を陰部に塗りたくられた女性がバイブで責められまくり、白目を剥く

などが報告されている。また、閲覧が有料であるにもかかわらず、累計26万人の会員が閲覧していた。全 kan 国人男性の100人に1人が性犯罪の画像・動画にお金を払った試算になる。


韓国のN番部屋事件の主犯は自分では直接には何もやっていません。
F君も韓国のN番部屋事件の主犯を真似て、自分では何もやらなかったんでしょうね。

▲△▽▼

F君は爽彩さんに、言う事を聞かないとこういう目に遭う、と忠告した?:

北九州監禁事件では
大便排泄を1日1回に限定し
全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した
勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた
言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った
一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ

chousen 民族はこういうことを好むのである
ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります

chousen 人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います
チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でしたchousen 人の李氏chousen もそうです。よって在日に監禁されると大変なことになります

殴る蹴るの基本的なものから、
タバコの火を押し当てる、
ハンダコテで体中焼く、
尿道にマッチ入れて火をつける、
zainichi が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える
大小便を食べさせる

など拷問の種類には事欠きません

女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、
全身にピアスを通され
穴という穴は拡張され、
zainichi が起こした女子コンクリ事件では
鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です

zainichiを日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです

かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁
少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます
何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります
尻の穴もそうなります、
栗には太いピアスがされるでしょう
SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、
厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります
こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします

▲△▽▼

爽彩さんを暴行しながら耳元でささやいた、ムダだって知ってるだろ…そして激しく暴行は続けられた パンパンパン 彼女は壊れてしまった…  


 爽彩さんが家に引きこもるようになった2019年の秋以降に描かれたイラストがここにある。それまで描いていた色彩豊かな調子はなくなり、色はモノトーンに。ある絵には「ムダだって知ってるだろ」との言葉が書き込まれていた。


――退院後、引っ越しや転校もされたと思いますが、爽彩さんの様子はいかがでしたか?
母:
退院した直後は窓から飛び降りようとしちゃったりとか。
入院中もそうだったんですけど、フラッシュバックが起こると「殺してください」「許してください」って叫んだり、白目をむいて泡を吹いて倒れちゃうとか。そういうことが一日に10回や20回、頻繁に起きていました。
だから目が離せないというか、時間が経って徐々に減ってはいたんですけど、それでも一日に数回はフラッシュバックが起きる状態でした。

急に泣いたり叫んでしまったり、震えたり、過呼吸が起きたり、吐いちゃったりとか。それが本当に1日の間に10回以上とか、ひどいときには20回以上、起きることが続いていた。(2021年9月27日放送)

▲△▽▼

児童買春してた子で少なくとも社会に復帰する子はほとんどいません。
逃げる子もいるけど逃げられると思っているのかは知らない。
二十歳前後になって精神保ってる人ってかなり少ない。
被害者は精神病院に入る事が多い。大抵は消される

旭川市は女子中学生の自殺と教師による児童売春が異常に多い

1965 旭川学力テスト事件(永山中学事件)
1974 東神楽町高校三年生(当時18)殺人 5/25失踪 6/8遺体発見
1970年代半ば 旭川の中学に教育実習に来た女子大生を集団で強姦し全員が淋病に感染(事件にならず )
1979北方ジャーナル事件
1981旭川日通事件
1987整形外科院長宅で院長夫人の死体発見。神居古潭のつり橋のたもとで車発見、死体は発見されずも院長の無理心中と結論付け
1989SOS遭難事件(人骨鑑定 旭川医大)1974 東神楽町高校三年生(当時18)殺人 5/25失踪 6/8遺体発見
1996旭川市女子中学生集団暴行事件(1994〜)、数十人の加害者の多くが野放し 加害者の一部は後に"吊るされた"
1997旭川市男子中学生自殺
1998旭川未成年女体盛り 2/14 逮捕は末端だけ
1999旭川医大生レイプ 被害者を非難 4/13
2001食肉偽装事件 告発した西宮冷蔵の誹謗中傷事件
2001室蘭女子高生失踪 3/6
2002旭川鷹栖一家心中 9/12
2003"住民組織握れ" 全国で 2月
2003大阪熊取町小4女児誘拐事件5/20 (北海道関連説あり)
2003プチエンジェル事件発覚 7月(拠点を旭川に移動した説あり)
2003北海道警察旭川中央警察署の裏金不正経理発覚 11月
2005旭川で台湾女性失踪 5/30
2008旭川の高校生乾燥大麻所持 11/18
2009旭川の高校集団リンチ事件 子宮潰し
2009旭川の女子中学生ガムテープ拘束写メール事件
2009旭川4人家族の3人死亡 帰宅した夫が発見 4/19
2009旭川女性曲芸師失踪 8/24
2010年5月 旭川西高 飛び降り自殺(他殺の可能性あり) これともう1件別の死亡事故(2名とも女子生徒との噂がある)
2010旭川の女子高生硫化水素死 母親も巻き込まれ死亡したのに『自殺』9/13
2010旭川市長選で旭山動物園元園長出馬断念 悪評流され
2010年9月 旭川の女子高生硫化水素死 母親も巻き込まれ死亡したのに『自殺』9/13
2012 旭川男子中学生行方不明 1/15 夜9時半過ぎ失踪なのに公開捜査渋る
2013旭川の中学生飛び降り
2013旭川専門学校生授業中飛び降り
2014旭川の中学1年男子学校で転落死  
2014旭川の高校で感電死
2015-2016頃旭川N中学 女子中学生死亡(学校にて)女子中学生死亡(公園で絞殺遺体) 隠蔽
廣瀬爽彩さんの母親への集団ストーカー始まる
2016旭川一家3人死亡1人けが 帰宅した夫が発見
2016旭川市 戸籍に知らない人が夫として記載 7月末発覚
2016年10月 旭川商業高校の女子生徒が修学旅行中に列車にひかれて死亡 10/12
2017札幌 中国人女性「旭川に行く」予定のところ7/22失踪 釧路で足首から下だけ骨になった遺体発見 8/30
2018旭川市神居大橋付近 飛び込み自殺か この二ヶ月で三人目とのネット情報
2018旭川市立中学 個人情報USB紛失事件
2018年6月 永〇中学 女子生徒が学校内のトイレで死亡 自殺で処理
2018年7月 永〇中学 女子生徒が中学の敷地内の公園で絞殺される
2018年    永〇中学 女性教師が死亡 上記被害者の生徒のいじめを止めようとしていたとの情報あり  隠蔽
2019年    旭〇工業 定時制の生徒がいじめを苦に自殺?、これも女子生徒か?
2019 旭川女子中学生 廣瀬爽彩さんにウッペツ川への飛び込み強要 6/22、その後目撃者急死 イジメ否定プリント配布して隠蔽
2019山梨キャンプ場女児失踪 9/21 (北海道関連説あり)
2019地元誌に『相次ぐ教員による児童買春』
2019旭川医大元教授 意識のない医局スタッフに猥褻撮影保存 論文盗用で依願退職 2021発覚
2019旭川医大 個人情報USB紛失
2019旭川医大向精神薬大量処方 7月〜10月頃 
2019暴力団会長逮捕 医師を恐喝するよう指示した疑い 犯行に流出したカルテ使われる 9月
2019小学校に猫の頭部と足一本、内臓の一部など置かれる 血痕なし
2020旭川乳児遺棄 6/29発覚
2020年7月 旭川女子高生フィール事件 全身強打していないのに9階から飛び降りたことにされた 7/11
2021年3月 廣瀬爽彩さんの死体が永山中央公園でみつかる、永〇中学とは200メートルほどの距離、2/13失踪 3/23外傷がない凍結した遺体で発見
2021旭川で青森県警が青森女子中学生を保護 4/23
2021年5月 旭川大橋で飛び込み自殺 男女1名づつの生徒 学校名は不明
2021 旭川高校生教室で首吊り図る
2022 旭川で女子中学生1/15失踪 1/18遺体発見

▲△▽▼

廣瀬爽彩さん、吉田xxとドS性交
廣瀬爽彩さん、中尾xxと 知り合う
廣瀬爽彩さん、赤井xx・佐藤xxと知り合う
赤井xx・佐藤xxが吉田xxの付き合い方を教えられ自分らもと
性交自慰拡散脅しおもちゃに
拡散やめてもらうため自殺(失敗)
裸で精神病院に警察がとじこめる
出るなり動画で脅され売春やらされる

便所ATMと呼ばれそのころは 服部xx、吉田xxやしまいに中尾xxの夜職客も利用
母親が仕事で外出中に便所ATM 呼び出される

もう死ぬしかないとLINE,決定ではないと追記
現金不所持で家を出る
夜売春
翌日中尾xxと服部xxにおごらされる
車で●●場所に運ばれる
★  ということは、その売春の客集めの書き込みがワクワクに残ってないのか?
いろんなところで目撃される

2月20日殺害に至る
冷凍庫
翌月20日、21日は晴れ
22日は雪なので夜に車で公園に遺棄
23日午前近所の住民が発見通報
警察がなぜか事件化せず解剖もせず自殺の線にし事件性なしとマスコミ発表
火葬し証拠消える
いじめと発見時に遺族発表(SNS)
葬儀で自殺と遺族が発表

▲△▽▼

間接的に関係者だけど知っている事を書いていいですか?
まず、旭川について多大な誤解があります。
まず未成年の風俗店勤務は恒常的です。

一般の店舗は 17歳以上です。
会員制の場合は 12歳以上です。

これらは室蘭の様に比較的戦前からありました。
利用者は市外、観光、道内出張もさながら、市民も普通に利用しています。


▲△▽▼

警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、爽彩さんの近況・友人との関係、母親との関係、売春していないかどうか、覚醒剤使用の有無等を聞いていた様です。従って、自殺未遂以降にイジメや画像の再拡散が有ったらすぐに警察が対処しています。

旭川では爽彩さんの母親に関する悪い噂が蔓延していました。それで、学校も教育委員会も警察も、そのデマのかなりの部分が真実だと判断していました。
自殺未遂事件では警察は爽彩さんと母親の関係が原因だと判断して、爽彩さんを精神病院に二か月も入院させて母親とは会わせませんでした。
失踪・凍死事件では警察は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断して、初期捜査を殆ど行いませんでした。

そもそも警察は自殺未遂事件で爽彩さんが退院して以降は、爽彩さんを毎月呼び出して、母親との関係、覚醒剤使用の有無等を聞いていた様です。 従って警察は爽彩さんの病状や家庭の状況を完全に把握した上で、失踪・凍死事件は爽彩さんと母親の喧嘩が原因の家出だと判断したのです。

爽彩さんは精神病院に二か月も入院させられていたので、唯のパニック障害なら、退院後も病院でカウンセリングを受けるのが普通ですが、病院ではなく警察に毎月呼び出したというのは、警察は爽彩さんのパニック障害はイジメが原因ではなく、家庭環境や覚醒剤障害が原因だと判断していた可能性が高いのです。

校長や教頭、担任、教育委員会も失踪・凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと何度も指摘しています。
第三者委員会のメンバーの大半が精神科医や心理学者で、加害者への聞き取り調査を一切していないのも、旭川少女凍死事件は中学でのイジメが原因ではなく、家庭の問題だと判断していたからです。

▲△▽▼

2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

▲△▽▼

旭川の人々の本心は

『少女が勝手に自分の画像を男子に送り騒いでる(構って欲しかっただけ)』
『彼女の家はモンスターペアレント』
『いじめではなく性的いじりなのに騒いでる』
『橋の上で男子生徒と揉めて、勝手に身投げした(被害者は小学生の時からパニック障害だった)』
『2年前の話でしっかり謝罪した』
『彼女が自殺したのは家庭の問題』
『いじめと自殺は関係ない』

朝日新聞も同様の書き方していた
これが旭川の多くの人々の認識
だから2年前の謝罪で終わってるのに犯人扱いされて、未成年なのに家族まで特定されて『名誉毀損』

ほぼこれ

▲△▽▼

因みに、上に書いたのは警察や学校関係者、旭川の一般人がどう判断しているかという事で、真実は誰にもわかりません。
爽彩さんの母親は、爽彩さんは自殺で間違い無い、掲示板や youtube の名探偵さんの話はすべて間違いだ、と繰り返し何度も言っています。

何故か、爽彩さんの母親は爽彩さんの遺体の発見場所の公開をストップさせ、凍死体をどうやって公園に運んだかをわからなくさせました。トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。

爽彩さんの母親は爽彩さんの失踪当日は氷点下17℃の極寒日だった、被害者が自殺したのは間違い無い、吉田は犯人じゃない、といった明らかに間違ったデマを多数発言して、事件に関心を持った人をすべて混乱させ、何が本当か判断できなくしました。

被害者の母親は何故か事件を矮小化しようと必死でデマを拡散しています。

・被害者の母親は爽彩さんの遺体が発見された場所を公開しないでくれと警察に頼んだ

トイレの裏側の遺体発見場所では、その場所だけ雪が人工的に 1.5mも 積み上げられていたのがわかっています。
その事実が明らかにされると他殺だとわかってしまうので、遺体が発見された場所の公開を止めさせたとしか思えません。

「ここ」をわかられると、以下のような疑問がわく

向かいの住宅の通報なので、近所には知れていますし
事件捜査時点で、トイレわきの水場石垣にブルーシートがかけられたので、犯人のみ知るじじつだからというのは「いいわけ」です。
場所の隠蔽、15〜20の天気気温の隠蔽はKが
でもね、ニュースで最初に現場がでてるしね

#22 2021/06/15 00:40
トイレの近くにブルーシートがあったらしいよ
水路からひきあげて置いたかも?

2021/06/29 22:24
そもそも、向かいの住宅から、遺体の一部が見えたから通報したんですよ
ですから、もうそれだけで場所はトイレわきの水路あたりのエリアしかないの。
住宅地がそこだけだから。
車道にも近いし
youtube.com
の天気見ればわかるけど、こんな状態で1ケ月も雪の中でしたなんてありえんのよ
まあ、発見の前日が雪ね(逆に)

で、警察は事件性を否定しないとやばいから、
そこを突かれないおうに土管のなかみたいなリークをしたの。
もう仕組まれてんのよ。

4月22日HTB北海道ニュース
この事件の最初の報道で映されたのは、水路の終点。トイレの建物から10数m離れた個所。花束が水路の石垣の
どこかに置かれてるのも映ってる。

もりりん、ここから360度撮影と、石の場所特定して。
あと、土管との位置関係と、公園の全体との位置関係、道路からの位置関係。行き倒れに不自然ないか、車で運んだっぽいのか。

_____

つまり、遺体の置かれていたのが道路のすぐ近くで人家から良く見える所だとわかると、自殺ではない事がわかってしまうので、遺体発見場所を公開させないのです。

遺体が土管の中で見つかったとすると自殺だと判断されます。
雪上は足跡が付くので、遺体を土管まで運ぶと、見てすぐにわかってしまいますから。

一方、遺体がトイレの裏から見つかったとすると他殺だと判断されます。
トイレの裏は歩道のすぐ傍で人家から良く見える所なので、そんな所で凍死自殺したり、行倒れる可能性は完全にゼロだからです。

▲△▽▼

旭川いじめ事件の[隠蔽][火消し]に億の金が動いています
2021/06/02 23:56
https://bakusai.com/thr_res/acode=1/ctgid=104/bid=1064/tid=9531064/

http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/478.html#c2

[近代史5] 人力でGO _ 自転車で山に行こう 中川隆
9. 中川隆[-13085] koaQ7Jey 2022年5月16日 08:34:27 : C6PUscOcec : VHcuTXBHTXZJY2s=[4]
東京 直江津 C to C


自転車乗りのロングライドチャレンジとして有名な「東京→直江津 C to C」。東京湾の海水を汲んで、日本海に注ぐというチャレンジ企画。ルートは自由に設定できますが、国道18号線で碓氷峠→長野というのが一般的。
今回は、二度上峠を登って浅間山の絶景を堪能した後に、鳥居峠、菅平、長野新潟県境の峠と、少し登りの多いコースを設定。さて、チャレンジは成功するのか?



富山アドベンチャーライド


東京→直江津 ワンデイライドの翌日、富山まで走ってみました。トンネルと洞門が連続する親不知はスリル満点でした。

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/843.html#c9
[近代史7] LB LB 自転車で山に行こう - YouTube 動画 中川隆
1. 中川隆[-13084] koaQ7Jey 2022年5月16日 08:34:56 : C6PUscOcec : VHcuTXBHTXZJY2s=[5]
東京 直江津 C to C


自転車乗りのロングライドチャレンジとして有名な「東京→直江津 C to C」。東京湾の海水を汲んで、日本海に注ぐというチャレンジ企画。ルートは自由に設定できますが、国道18号線で碓氷峠→長野というのが一般的。
今回は、二度上峠を登って浅間山の絶景を堪能した後に、鳥居峠、菅平、長野新潟県境の峠と、少し登りの多いコースを設定。さて、チャレンジは成功するのか?



富山アドベンチャーライド


東京→直江津 ワンデイライドの翌日、富山まで走ってみました。トンネルと洞門が連続する親不知はスリル満点でした。

http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/245.html#c1
[番外地10] フィール自殺?女子高校生は告訴しようとしていた 中川隆
4. 中川隆[-13083] koaQ7Jey 2022年5月16日 09:05:50 : C6PUscOcec : VHcuTXBHTXZJY2s=[7]

#521 2022/05/16 07:44
先生も医者も警察もサアヤさんから何度も話を聞いて、きなこもちの言う事が事実だと認識していた。

[匿名さん]
#522 2022/05/16 07:45
サアヤさんは毎月警察のサポートに行って話をしていたから、警察は母親の言う事を信じなくなったんだ。

[匿名さん]
#523 2022/05/16 07:48
>>520
>>521
>>522
ありえましぇーん🤣

[匿名さん]
#524 2022/05/16 07:52
>>523
きなこもちと名乗る人がデマを流したのは事実

[匿名さん]
#525 2022/05/16 07:58
2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

[匿名さん]
#526 2022/05/16 08:01
遺体の置かれていたのが道路のすぐ近くで人家から良く見える所だとわかると、自殺ではない事がわかってしまうので、遺体発見場所を公開させないのです。

遺体が土管の中で見つかったとすると自殺だと判断されます。
雪上は足跡が付くので、遺体を土管まで運ぶと、見てすぐにわかってしまいますから。

一方、遺体がトイレの裏から見つかったとすると他殺だと判断されます。
トイレの裏は歩道のすぐ傍で人家から良く見える所なので、そんな所で凍死自殺したり、行倒れる可能性は完全にゼロだからです。

[匿名さん]
#527 2022/05/16 08:02
旭川いじめ事件は F君が kan国の「N番部屋事件」を真似してやった

kan国で起きた衝撃の性犯罪「N番部屋事件」、性器に覚醒剤&虫、少女逆立ち性行為、男児強姦、母絶叫…報道規制かかる残虐実態!
被害者女性は博士に「アルバイト」として募集され、応募時点で個人情報を提供させていた。そして応募に必要だからとセクシーな画像を渡させてから「家族に見せるぞ」と脅して、自慰行為などさらに過激な動画を撮影させていたという。性的な写真を撮らせ、これを拒絶されると、ネットに写真をばらまくなどと脅迫。生活費のために応募した被害者のひとりは、報復が怖くて両親には言えなかったと告白している。
2020年3月までの約一年半もの間、未成年者を含む74人もの韓国人女性が「博士」と呼ばれる人物らにネット上で脅迫された挙句、性的行為や人に見られては尊厳を失う関わるような姿を生配信させられていた。

 博士らは、Twitter上で様々な女性を物色し、その中から性的に露出の高い写真を投稿している若い女性らに罠リンクを送り付け、クリックしてしまった女性の個人情報を入手。または、「秘密のアルバイト」として募集した女性の性的な画像を撮影したうえで、「警察に通報する」「家族に知らせる」など脅迫していた。

N番部屋では、被害女性たちは奴隷と呼ばれ、どんな要求も受け入れるしかなかったようだ。

[匿名さん]
#528 2022/05/16 08:02
・ある女性は、生配信中に刃物で自らの身体に「奴隷」の文字を刻まされた。
・またある女性は年端もいかない幼い男児と性行為を行うことを強要された。
・さらにカメラの前でレイプされた被害者もいた。
・大小便を飲み込んだりさせられた者もいた。
・虫を性器に挿入する者もいた。
・実際に視聴者に会い性行為をさせられた者もいた。
・最年少の被害者は、なんと11歳の女児だった。
(ネットでは6歳や8歳の被害者もいたとされているが、中・韓の大手メディアは11歳と報じている)
・刃物を突きつけられた少女が男子トイレの小便器で逆立ちして自慰行為
・浮浪者風の複数の男に輪姦されている30代くらいに女の傍で、男の子が「おかあさん!」と絶叫
・たらふく食事を与えられた女性が、最後に虫や汚物を食べることを強制され、嘔吐。しかし吐き出した嘔吐物も食べるように強制され、泣きながら手ですくって飲み込む。
・覚醒剤を陰部に塗りたくられた女性がバイブで責められまくり、白目を剥く

などが報告されている。また、閲覧が有料であるにもかかわらず、累計26万人の会員が閲覧していた。全 kan 国人男性の100人に1人が性犯罪の画像・動画にお金を払った試算になる。


韓国のN番部屋事件の主犯は自分では直接には何もやっていません。
F君も韓国のN番部屋事件の主犯を真似て、自分では何もやらなかったんでしょうね。

[匿名さん]
#529 2022/05/16 08:53
F関係では、今になって「(いろんな工作に)騙された!」って逃げる奴が出てくるけど
議員(公人)は説明責任があるよな
→なぜ事実確認をしなかったのか?事実確認をしたうえでの発言なのか?

[匿名さん]
#530 2022/05/16 08:59
吉田君の事を書くと必ず

証拠が有るのか?
とか
名誉棄損で逮捕されるぞ

という批判が出て来るので、誰も吉田君については真実を書けなかったんだ

[匿名さん]
#531 2022/05/16 09:00
学校側が性的いじめと認めると1番やばかったのってFだったからFが工作しまくったんかもな。
性的いじめ最初にしたから責任重大だし、Cと違って被害者と学校一緒だし、被害者の体を触ってるからわいせつ罪成立してしまうしで。

[匿名さん]
#532 2022/05/16 09:01
吉田君について真実を書いた人は開示請求が送られてくるから、みんな怖がって黙ってしまうんだ。

[匿名さん]
#533 2022/05/16 09:04最新レス
名誉棄損で裁判になっても9000円の慰謝料が取られるだけなんだけど、
ネットでは名誉棄損だ、名誉棄損だ、弁護士にスクショを送る
とか大騒ぎされるから、みんなビビッて吉田君の真実を書けなくなってしまうんだ。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/476.html#c4

[近代史5] 摂食障害に苦しむ34歳の妻が性被害を告白
摂食障害に苦しむ34歳の妻が性被害を告白…精神科病院で彼女の身に起こった“衝撃的な異変”「テーブルの周りを10分ほど走り回り…」
『妻はサバイバー』より #1
https://bunshun.jp/articles/-/54229

 摂食障害、アルコール依存症に苦しむ妻を20年近く介護し続けてきた、朝日新聞記者の永田豊隆氏。その体験を克明に綴った朝日新聞デジタルの連載は100万PV超の大きな反響を呼び、2022年4月に『妻はサバイバー』(朝日新聞出版)として書籍化された。

 ここでは同書から一部を抜粋し、摂食障害に苦しむ永田氏の妻(当時34歳)が精神科病院に入院するまでの経緯や、彼女を支える永田氏がどのような苦悩を抱えていたのかを紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)


◆◆◆


妻の話に出てくるようになった「あの男」の存在
 それは、人の心が壊れていく過程を見せられるようだった。

 私が帰宅すると、妻はデスクライトだけをともした暗い部屋にいた。

 目に涙を浮かべ、「衝動的に自殺しそうで怖いから、預かってほしい」。そう言って、手にしたカッターナイフを差し出した。

 妻の話に「あの男」という言葉が出てくるようになった。外に出ると、「歩いている人の顔が、あの男に見える」とおびえた。しかし、独りで家にいると男が現れそうな気がして、ベランダから飛び降りたくなるという。

 唯一の癒やしだった過食嘔吐も気持ちを静めてくれない。「怖い、怖い、どうしようもなく怖い」と震えた。

 妻が初めて、「精神科か心療内科を受診する」と言った。

 ただし、条件が2つ。1つは、彼女に代わって私が医師に経緯を説明すること。もう1つは、幼少期の暴力被害と摂食障害については内緒にすること。「今は死なないことで精いっぱいだから」と言った。

 妻はなぜ、このようになってしまったのか。

 2007年4月21日、大阪・梅田の繁華街。ビルの谷間のベンチに座り、妻が突然、涙を流し始めた。

「あなたに大変な罪を犯してしまった」。語ったのは、耳を疑うような話だった。

性被害の告白
 半年ほど前から複数回、知り合いの男にひどいセクハラを受けてきたという。2人きりの状況にされ、拒もうとしたが、心も体も硬直して声をあげられなかった。逆らったら恐ろしいことが起こるのではないか。そんな気がして、夫の私にも打ち明けることができなかったのだという。

 私はただ混乱して、「話してくれてありがとう」と返すことしかできなかった。

 男を呼び出し、問い詰めると、「すべて私の責任です」と事実を認めた。


 5月1日、ネットで調べた心療内科クリニックを訪ねた。妻の変調が起きてから約5年間、医療につながる日を待ち望んできたのに、感慨はない。胸には不安ばかりだった。

 診察室に通され、女性の院長と向き合った。説明は私がすることにしていたが、妻は自分の言葉で経緯も症状も語った。

 院長は話を聞いて、「明らかなセクハラです。あなたはまったく悪くありません」と言い切った。こうしたケースで、患者は被害者であるにもかかわらず自責感で苦しみがちだという。抗不安薬などを処方され、通院を続けることになった。

 あれほど嫌がっていただけあって、妻はすんなりと治療を受け入れたわけではなかった。はじめ、「一生飲み続けなきゃいけなくなりそうで、恐ろしい」と服薬を拒んだ。2回目の診察で「薬は恐ろしくありませんよ」と院長から諭され、やっと飲み始めた。受診をやめてしまわないかと心配していたが、妻はこの医師を信頼しているようだった。

 しかし、薬の効果は表れず、妻の幻覚はしだいに輪郭を持つようになった。「あの男が白い服を着て走ってくる」と真顔で話し、夜が更けると「死に場所探し」と称して近所を歩き回る。

 症状を重くみた院長から、精神科病院への入院を勧められた。「自分の目で入院先を選んでください」と用意してくれた3通の紹介状を手に、3カ所の病院を回った。

 1カ所目。診察した若い女性医師は「あなたにいちばん必要なのは休息。ここは重度の患者中心の施設だから安らげないだろう」と入院を勧めず、私たちは引き揚げた。

 2カ所目は異様な雰囲気だった。白衣を着た若い男性が待合室にいて、ぞんざいな態度で患者たちに指示をしている。診察室からは、医師の怒鳴るような大声が響いてくる。これでは患者のプライバシーなどない。

 私の同席が断られ、仕方なく妻ひとりを診察室に送り出すと、大声が聞こえてきた。「何されたって? それでどうした?」。こわばった表情で出てきた彼女に、私は「もう帰ろう」と言った。

 3カ所目は大学病院。「消えてしまいたい」と訴える妻に、男性医師が「それはつらいですね。でも、自分を傷つける行為だけはしないと約束してください」と語りかけた。ここに決めた。数日後にベッドが空き、初めての精神科病院での入院生活が始まった。

 入院すると、妻は1つの行為を儀式のように繰り返した。

妻が繰り返した1つの行為とは…
 閉鎖病棟の入り口で腰をかがめる。強化ガラスに顔を近づけ、じっと外をのぞき込む。それから加害者の名前を口にして、叫ぶ。

「あそこにいる。逃げて」

 病室では、「(加害者が)隣の部屋にいます。追い出してください」と切願した。加害者の臭いが染みついた気がすると言って、汚れを落とすように自分の腕を強くこすった。過食嘔吐をできないため血色はよくなったが、しばらくすると「家に帰って食べ吐きしたい」と泣いて訴えた。


 当時の私は連載記事を抱え、出張も多かった。入院先の病院と会社、取材先とを行ったり来たりしなければならないうえ、妻が「すぐに退院させて」と頻繁に電話してくる。取材を終えると、携帯電話に10件近い留守電が残されていることもあった。

 入院から10日後、本人の強硬な意思に加え、早期退院を促す病院側の事情もあって退院した。しかし、帰宅すると悲鳴を上げ続け、翌日、救急車を呼んで大阪府内にある別の精神科病院に入院した。以来10年余、この病院で入退院を繰り返すことになる。

この写真はイメージです ©iStock.com
この写真はイメージです ©iStock.com
 入院中の6月初旬、妻が別の世界に行ってしまったような衝撃を受けた。

 今回のセクハラが問題になり、加害者が職場を解雇された。そのことを私が伝えると、彼女は突然、面会室のテーブルの周りをぐるぐると走り始めた。「みんな逃げて」「もう家に帰る」とつぶやき、視線は宙をさまよっている。10分ほど回り続けただろうか。私がぼうぜんとしていると、異変に気づいた看護師が病室に連れて行った。

 それまでの彼女はどんなに変調をきたしても対話はできたし、どこかで私の気持ちを思いやっている感じがあった。ところが、このときは、このまま気持ちを通じ合えなくなるのではないかと不安がふくらんだ。

 被害を打ち明けたあの日から、妻が笑う顔を見ていない。喜怒哀楽が消えた。あるのは恐怖と不安だけだ。

 この世界に戻ってこられるのだろうか。

 この時期、私は妻の性被害にどこか現実感を持てないでいた。加害者への怒りや悔しさはないわけではなかったが、あまり意識にのぼらなかった。目の前で起きていることへの対処と仕事をこなすことで精いっぱいだった。

 心境が変化したのは、被害発覚から1年ほどたったころだった。はけ口のない怒りをもてあまし、苦しむようになった。

 妻が精神科に入院するようになってから、私は加害者に法的手段を取ろうと少しずつ準備を始めた。弁護士会の無料相談で刑事告訴や損害賠償請求の方法について話を聞き、似た事件の判例を調べ、女性の人権問題を手掛ける弁護士もリストアップした。

最初の精神科入院から7カ月たった12月になって、ある女性弁護士に妻の代理人を依頼した。DVや性被害の問題を多く扱ってきた人だ。このころ4回目の精神科入院中だった妻と面談をするため、弁護士は病棟を訪れてくれた。そして加害者の居場所を突き止め、交渉を始めた。

 しかし、最終的には民事、刑事とも法的手段を断念した。

性的被害をめぐって、「泣き寝入り」を余儀なくされる実態
 当初「自分の責任」と認めていた加害者は、弁護士に対し一転、「合意」を主張。それを崩すには、妻本人が当時の状況を詳細に語ることが欠かせないが、それができる状態とはとても思えなかった。医師も「症状を悪化させるおそれが強い」との見立てだった。法的救済よりも、健康の回復を優先せざるをえなかった。


 性的被害をめぐって、「泣き寝入り」を余儀なくされる例は妻だけではない。内閣府の調査(2020年度)によると、「無理やりに性交等をされた」女性の58・4%が誰にも相談していない。知り合いによる被害が多いことが壁になるうえ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や解離性障害といった精神疾患に追い込まれることも多い。妻と同様、精神的ダメージが深刻で相談どころでない人もかなりいるだろう。

 幼少期の虐待に加わった、性被害という新たなトラウマ(心的外傷)。摂食障害だけでなく自殺願望、幻覚、幻聴、極端な感情の浮き沈みなど、彼女はより複雑な症状を抱えることになった。

 精神疾患には多かれ少なかれ好不調の波があり、急変も起こる。仕事と妻のサポートを両立するうえで、見極めが難しい。

 2007年8月、取材先から本社に戻る途中、携帯が鳴った。表示を見ると妻だ。

「あなた、さようなら」。何のことか尋ねると、「死のうと思って、睡眠薬をたくさん飲んじゃった」。

 頭が真っ白になった。119番通報して、タクシーで自宅に直行。救急隊を家に入れ、救急車に同乗した。総合病院の一室で一晩、口からチューブを挿入した妻のそばで過ごした。医師の説明では、早めに処置できたおかげで後遺症は残らずにすみそうということだった。

 翌朝、意識の戻った妻は「このたびは多大なご迷惑をおかけいたしまして」と神妙な口調で頭を下げてみせた。不祥事を起こした企業や官庁がやる謝罪会見の真似らしい。思わず噴き出した。

 この日は東京で取材の予定があった。行くべきかどうか。迷ったが、彼女から「二度としない。出張に行ってほしい」と強く言われ、新幹線に乗った。

 大量服薬による自殺未遂はこの夏、これが3回目だった。

 1、2回目は処方薬数日分をいっぺんに飲んだ。再発防止のため、私は旅行用のトランクに薬を入れて管理するようにした。ところが、3回目のこの時は市販の睡眠導入剤をドラッグストアで購入し、数十日分を一気に飲み込んでいた。

 安全のためにいったん精神科病院に入院させたかったが、本人の拒否感が強く、納得して入院してもらうまで約3週間かかった。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1591.html
[番外地10] フィール自殺?女子高校生は告訴しようとしていた 中川隆
6. 中川隆[-13082] koaQ7Jey 2022年5月16日 10:17:52 : C6PUscOcec : VHcuTXBHTXZJY2s=[10]
#550 2022/05/16 09:27
サアヤさんが小学校の時にPTSDにかかった理由は
児童売春させられたからだよ

[匿名さん]
#551 2022/05/16 09:29
誰にだよ
F?

[匿名さん]
#552 2022/05/16 09:30
友達いなさそ

[匿名さん]
#553 2022/05/16 09:35
北星中学の先生はサアヤさんが小学校の時から児童売春させられていて、それが原因でPTSDになったと聞いていたんだ。
だからお母さんを相手にしていなかったんだ

[匿名さん]
#554 2022/05/16 09:35
2021/05/20 08:15
担任の菅野未里先生がこの噂を信じていたのは間違いないみたい
知人とのLINEで「デートと言って断ってやったわ」「子供ほったらかしてる分際で」と送信してる

[匿名さん]
#555 2022/05/16 09:43
検事になりたいと言える程、善悪の判断が年齢相応にあったと言えるしそれ以上に被害者を悪く言う意味がわからない
塾のご飯代をAに巻き上げられてご飯が買えず困っていたTwitterの書き込みを見てもまだそんな嘘を書き込むの?

[匿名さん]
#556 2022/05/16 09:44
>>554
それだってソースなし

[匿名さん]
#557 2022/05/16 09:47
毎月警察に行ってたってさ
それもソースなしでしょ

だいたい爆サイのデマ独り歩きし過ぎよ
土管だってそうでしょ

永山から東警察署ならバス乗り換えしなきゃいけないし
仕事休んでお母さんが送迎してたの?

[匿名さん]
#558 2022/05/16 09:49
被害者悪いこと一つもしてないのに
警察に呼び出される理由すらないでしょ
Fならわかる

[匿名さん]
#559 2022/05/16 09:49
ご飯代を500円に抑えたとして20食分も奢らされたんだよ
お腹空いただろうに
悲しいから売春なんて被害者に使わないでよ

[匿名さん]
#560 2022/05/16 10:09
>>57
>毎月警察に行ってたってさ,
それもソースなしでしょ

廣瀬 里見 2021年 3月24日 Facebook
「娘は中学1年生の頃に酷いイジメにあいました。
フラッシュバックに悩まされていました。
犯罪被害者としてなのか警察署内のサポートに先月まで毎月呼ばれていました。」

[匿名さん]
#561 2022/05/16 10:11
サアヤさんは毎月警官に虐められているかどうか聞かれていたんだから、
イジメや動画の再拡散は有り得ない。そんな事をしたらすぐに逮捕されるからね。
警察がどうしようもなかったのはお母さんだけだよ。

[匿名さん]
#562 2022/05/16 10:12
警察署内のサポートと繋がりがあったから失踪の時もすぐに自宅に行けたのかな

[匿名さん]
#563 2022/05/16 10:12
学校も医者も警察もすべてお母さんだけを疑っていたんだよ

[匿名さん]
#564 2022/05/16 10:13
動画の再拡散の有無は断定できないし、加害者とはTwitter等やり取りできるツールはあった

[匿名さん]
#565 2022/05/16 10:14
お母さんはこの事件をイジメ事件として終わらせたいんだよ

[匿名さん]
#566 2022/05/16 10:15
>>561
転校先で、お前の写真持ってる、と言われて転校先の学校にも行けなくなったんじゃないのか?

[匿名さん]
#567 2022/05/16 10:15
F君が入るとイジメ事件ではなく児童売春事件になってしまうから、F君が加害者だと思われると困るんだ。

[匿名さん]
#568 2022/05/16 10:16
>>563
そうやって山梨の事件もだが一番辛い思いをしているご遺族を中傷しない方がいいよ
ふつやその他生活困窮してる汚いオッサンYouTuberに泣きつかせたいの?そんな努力は無駄なのよ信用されてないから

[匿名さん]
#569 2022/05/16 10:16最新レス
>>566
お母さんの話はすべて嘘だと思った方がいいよ
真実がわかると困るんだよ
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/476.html#c6

[近代史5] ブチャの虐殺はネオナチの仕業か? 中川隆
5. 中川隆[-13081] koaQ7Jey 2022年5月16日 10:50:22 : C6PUscOcec : VHcuTXBHTXZJY2s=[11]
ブチャ虐殺を犯したのはウクライナ軍だった
社説2022年4月26日
https://mpr21.info/fue-el-ejercito-ucraniano-quien-cometio-la-matanza-de-bucha/


Rメディアはブーチャの虐殺について沈黙を守ってきた。沈黙は、フランス憲兵隊が介入し、金属製のダーツが死体に現れた調査の開始の結果です。

病理学者や検察官によると、反ロシア広告キャンペーンは、ブチャの死者が一種の砲弾からの小さな金属製のダーツを持っているため、そのトラックで停止されています。初期の結果は、民間人を殺害したのはウクライナ軍だったことを示している。

「私たちは、その地域の他の同僚たちと同様に、男性と女性の体にいくつかの本当に細くて爪のような物体を見つけました」とウクライナの検視官、ヴラディスラフ・ピロフスキーは言いました。「体にそれらを見つけるのは非常に難しいです、彼らはあまりにも薄すぎます。これらの遺体のほとんどは、ブチャ・イルピン地方のものです。

金属製のダーツは、2014年以来、ウクライナ軍によってドンバスの住民に対して広く使用されていました。それらは、ルハンスク人民共和国の軍によって放棄されたウクライナの砲兵陣地で発見された122ミリメートルのD-30砲弾の中から発見された。

彼らはまた、2015年のウクライナの砲撃に続いて、ドネツク人民共和国のスラヴィアンスク市でダーツを見つけました。

現代の戦争では、それらはほとんど使われていません。彼らは戦車の砲弾や野戦砲に含まれる一種の榴散弾です。各カートリッジは最大8,000ダーツを収容できます。一旦発射されると、時限フューズが爆発して地上で爆発すると、発射体は爆発する。

それらは通常長さ3〜4センチメートルで、殻から切り離され、幅約300メートル、長さ100メートルの円錐形のアーチに分散します。被害者の体に衝撃を与えると、ダーツは剛性を失い、フックに曲がることがありますが、4つのフィンで構成されたダーツの背面は通常壊れ、2回目の怪我を引き起こします。

戦争の初めから、ウクライナの砲兵隊はヴォクザルナヤ通りのロシアの縦隊に砲撃した。爆撃は市内のいくつかの地区を一度に破壊した。ロシア軍がこの地域から撤退する数日前の3月下旬、彼らは再び発砲し、ロシア軍がキエフとチェルニーヒウ地域を離れるとすぐに攻撃を繰り返した。

調査は、砲撃の結果として民間人が死亡し、明らかなように、ウクライナの砲弾がロシアの陣地に落ちたことを確認している。ブチャに配備されたロシア軍は、明らかなように、自分たちの陣地に発砲しなかった。したがって、民間人はウクライナ軍によって行われた銃撃で殺された。

ダーツはロシアとウクライナの砲兵隊の両方によって武器庫にあるが、ロシア軍はこの戦争でD-30榴弾砲を使用しておらず、ましてやブチャで活動していた空挺部隊はそのような弾薬を欠いている。

死者は至近距離で処刑されたのではなく、砲撃の結果であり、この出来事が「平和的なウクライナ人の計画的ジェノサイド」としての適格性を排除している。死体の散らばった位置など、多くの証拠がこれを反証しています。

ブチャ、ホストメル、ボロディアンカへの訪問中に専門家によって収集され、独立した武器専門家によってレビューされた証拠は、クラスター爆弾と強力な無誘導爆弾がこの地域で使用されたことを示しています。彼らは多数の民間人を殺害し、少なくとも8棟の建物を破壊した。これらの種類の武器は、世界のほとんどの国で禁止されています。

ウクライナはブチャで殺害された民間人を約900人にもたらすが、国連は50人について語っている。フランス憲兵隊法医学局の18人の専門家チームとキエフの法医学捜査官チームは、町からロシア軍が撤退した後の死を記録している。

「私たちは多くの切断された(変貌した)遺体を見ます」とピロフスキーは言いました。「彼らの多くは両手を背中の後ろで縛られ、銃弾は首の後ろにありました。また、犠牲者の背中に6つまたは8つの穴があるなど、自動発射のケースもありました。そして、犠牲者の遺体にクラスター爆弾の部品が埋め込まれたケースがいくつかあります。

ブチャで見つかったダーツの写真を調べた英国のグループFenix Insightの武器専門家であるニール・ギブソンによると、それらは122ミリメートルのZSh1砲弾からのものです。「もうひとつ、珍しく、めったに見られない発射体です」と、ギブソン氏。「今回は、米国の一連の対人弾に相当します...本物の榴散弾のように機能しますが、ダーツとワックスバインダーでいっぱいです。

しかし、不穏な疑問が残っています:なぜいくつかの死体は手を縛られた状態で現れましたか?

ダーツは第一次世界大戦中に広く使用された武器でした。歩兵を攻撃するために当時の飛行機によって発射され、彼らは船体を突破することができました。彼らは第二次世界大戦中に広く使用されていませんでした。

彼らはベトナム戦争中に再登場し、米国はプラスチックカップに詰められたダーツロードのバージョンを採用しました。それは、ガザとレバノン領土の両方で、イスラエルが関与している戦争における共通の弾薬であり、敵が植生の中に隠れている地域で特に効果的である。

いくつかの人道支援団体はダーツの禁止を呼びかけているが、今日まで禁止されていない。しかし、人口密度の高い民間人居住地域での無差別な致死的武器の使用は、戦争法違反を構成する。「ダーツは、密集した植生を貫通し、多数の敵兵を攻撃するために設計された対人兵器である」とアムネスティは述べた。「民間人居住区では決して使用すべきではない。

(*) https://codename-it.livejournal.com/953562.html

同じタイプの金属製のダーツは、ロシア軍の手に落ちた後、ポパスナヤのような他のウクライナの砲撃に現れ続けている。画像では、ロシアの戦争特派員セルゲイ・ゼニンが後者の地域で回収されたダーツを示しています。
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1554.html#c5

[近代史5] 天皇のためと信じて真剣に戦った若者ほど、敗けても責任を取らない天皇に怒っていた
2022-05-15
天皇のためと信じて真剣に戦った若者ほど、敗けても責任を取らない天皇に怒っていた。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/05/15/140521

考えてみれば、これは当たり前のことかもしれない。

16歳で自ら海軍に志願し、少年兵として戦艦武蔵の最期を生き延びた渡辺清氏は、無条件降伏という最悪の事態に至っても自決も退位もしようとせず、それどころか敵の総司令官マッカーサーにすり寄って保身を図る天皇裕仁の姿を見て、のたうち回るほどの怒りに震えていた。

1945年9月2日の日記:[1]

(注:天皇が戦犯として処刑されるのではないかという噂を聞いて)だが、かりにもしこの噂が本当だとしても、天皇陛下が敵の手にかかるようなことはまずないだろう。縄をうたれた天皇陛下なぞ、たとえ天と地がさかさまに入れかわってもあり得ないことだ。だいいち、それまで天皇陛下がおめおめと生きておられるはずがない。もしそういうことになれば、そのまえに潔く自決の道を選ぶだろう。立派に自決することによって、なんぴとも侵し難い帝王の帝王たる尊厳を天下にお示しになるだろう。それをおれは固く信じている。実は、おれは降伏詔書を発布された直後に天皇陛下は自決するのではないかと思った。敗北の責任をとる手段といえば、さしずめそれ以外にない。開戦の責任者である以上、そうするのがむしろ当然だと考えたのである。

10月14日の日記:[2]

 誰もいないこういう時だと思って、おれは戦地からうちに出した手紙や遺書を処分した。(略)おれは手紙はわりとまめに書いたほうだから量も多いが、なかには、母に宛てたものもかなりまじっている。母は漢字が読めないので、それだけは全部片仮名で、

(略)

「……ボクハコンドハセンシスルカモシレマセン。デモセンシスレバ、オソレオオクモテンノウへイカガオンミズカラオマイリシテクダサルヤスクニジンジャニカミサマトシテマツラレルノデス。コウコクノダンシトシテコンナメイヨナコトハアリマセン。ソノトキハオカアサン、ドウカナカナイデヤスクニジンジャニアイニキテクダサイ」

 といったようなことが、馬鹿のひとつおぼえみたいに書いてある。どれひとつとって見ても「天皇陛下の御為」という文句が出ていないものはない。その一辺倒ぶりはわれながらあきれるほどだ。でもこれが、当時のおれの本当の気持ちだったのである。心からそう思っていたのである。

(略)

 ところがどうだ。命からがら復員してみれば、当の御本人は敗戦の責任をとるどころか、チャッカリと敵の司令官を訪問したりしている。仲良く並んで写真におさまったりしている。厚顔無恥……。そして、おれはその天皇に戦場で命を賭けていたのだ。それを思うと吐きすてたいような憤りに息がつまりそうだ。感情がはじけて、いてもたってもいられない気持ちになる。

 おれはいまからでも飛んでいって宮城を焼きはらってやりたい。あの濠の松に天皇をさかさにぶら下げて、おれたちが艦内でやられたように、樫の棍棒で滅茶苦茶に殴ってやりたい。いや、それでも足りない。できることなら、天皇をかつての海戦の場所に引っぱっていって、海底に引きずりおろして、そこに横たわっているはずの戦友の無残な死骸をその眼にみせてやりたい。これがアナタの命令ではじめた戦争の結末です。こうして何十万ものアナタの兵士がアナタのためだと信じて死んでいったのです。そう言って、あのてかてかの七三の長髪をつかんで海底の岩床に頭をごんごんつきあててやりたい。

沖縄の作家・目取真俊氏の父親も、日本が敗けたら天皇は自決すると思っていたという。[3]

 鉄血勤皇隊に参加した私の父親は、日本が負けたら天皇は自決する、と思っていたという。天皇のために命を捧げるよう教育され、実際に多くの仲間が戦死していった。にもかかわらず、自決することなく生き延びた昭和天皇がテレビに出ると、怒りの言葉を何度も口にしていた。

鉄血勤皇隊とは、沖縄戦に際して中等学校や青年学校の生徒たちが動員された学徒隊の一つだ。鉄血勤皇隊やひめゆり隊を含む学徒隊は2000名以上が前線に投入され、およそ半数が戦死している。[4]

天皇は「現人神」「現御神」とされ、その天皇のために命をなげうって戦うのが最高の名誉と信じて地獄の戦場に身を投じてきたのに、いざ敗けてみれば陸海軍すべてを統帥していた大元帥陛下が何ひとつ責任をとることもなく平然としているのだから、怒りに震えるのが当然だろう。



むしろ問題なのは、天皇に対してそうした真っ当な怒りを抱くに至らなかった、その他の(おそらく大多数の)日本人の心理のほうだ。

[1] 渡辺清 『砕かれた神 ― ある復員兵の手記』 岩波現代文庫 2004年 P.2-3
[2] 同 P.57-58
[3] 目取真俊 『「沖縄復帰50周年記念式典」という茶番を前に、今日14日も辺野古新基地建設は強行されている』 海鳴りの島から 2022/5/14
[4] 大城将保 『沖縄戦 ― 民衆の眼でとらえる「戦争」』 高文研 1988年 P.76

https://vergil.hateblo.jp/entry/2022/05/15/140521
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1592.html
[番外地10] ジャズ「Somethin’ Else」を聴く
「音楽&オーディオ」の小部屋
ジャズ「Somethin’ Else」を聴く
2019年10月11日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/98c5264dd15390bd58d6ceb46249064c


先日搭載した「読者に占めるジャズファンの割合」で、このブログでは極めて珍しいジャズの話題を取り上げたところ、アクセスがぐ〜んと好調でジャズファンの多さが実証できた。

さらに、別のジャズファン(仮に「K」さんとしておこう)からも新たなメールをいただいたのは大きな収穫だった。ありがたく、ご了解を得たので以下のとおり紹介させてもらおう。

「今回メールさせてもらったのは、貴ブログのJAZZファンのメールに共感を持ったからです。

そこで、私の知り合いのクラシックファンの方に、JAZZのCDを貸してあげた時、輸入盤だった為、解説書代わりにメモを添付しました。

よろしければ、その文書を一読して下さい。これは、私のJAZZの聴き方、感じ方を書いたものです。一笑に付されても構いません。」

さっそく拝読させていただいたところ、一笑に付すどころか、大いに感心の至りでしたよ!

全部で4枚のアルバムについてお見事な解説をいただいたが、そのうち紙数の都合で1枚だけ紹介させていただこう。

まずはじめに、個人的に名録音を選択した条件を挙げておくと、

・予め別個に録音したトラックを後で合成するデジタル録音ではなく、一発同時のアナログ録音であること。1950年代の録音にとどめを刺す。

・測定器による信号音の評価ではないから、必要条件として繰り返しに耐えうる名演でなくてはならない。

● Somethin’ Else

    

実質的にはマイルスがリーダーの、キャノンボール名義の1958年のアルバム。

麻薬禍で不遇時代のマイルスに、レコーディングの機会を与えてくれたのがブルーノートのアルフレッド・ライオンだった。マイルスの体調を診ながら年1回のペースで録音することにしていたのが、麻薬を断ち切って回復し大手のCBSと契約を交わしたのだ。

その後、配下のキャノンボール名義のアルバムにすることで、ライオンの恩義に応えてブルーノートに録音したと言われている。

白眉はシャンソンの「枯葉」で、ジャズマンに採りあげられる端緒となった。

ここでのマイルスは、鼓舞する他のメンバーの人選も良く、饒舌をそぎ落とした散文詩のようなミニマムのアドリブを展開し、知性を感じさせる不朽の演奏となった。

厳かな導入部のトランペットの短い高音のアクセントからして、マイルスのオリジナルな楽曲に聴こえてくる。この「枯葉」があまりに素晴らしいので、何回もこればかり聴いてしまい他の曲の印象が薄くなるのが欠点。

録音は、ルディ・ヴァン・ゲルダー。本来は検眼師なのだが、アマチュア録音が高じてブルーノート以外にもマイナーレーベルの録音を手がけた。

特徴は、いかにも黒人のエネルギッシュなガッツを感じさせる、東のニューヨークを代表するサウンドである。

マイクのセッティングは楽器に近づけるオン・マイクで、かつ各楽器を1本づつのマルチ・モノ・マイクで飽和レベルすれすれの音で収録。全体の空気感より、個別楽器のダイナミズムが優先されている。

唯一の欠点、問題はピアノの録音で、共鳴感がなくコロコロしていて残念でならない。直接音重視で、反響する間接音を排除している為か?

ビル・エヴァンスも、ヴァーブ時代にヴァンゲルダーの録音があるが嫌ったと言う。使用マイクは、ノイマンU-47、テープレコーダーはAMPEX 300で、本人共々ドイツ系。

以上のとおりで「K」さん、どうもありがとうございました。

この記事に大いに触発されて我が家でも「サムシン・エルス」を2系統のシステムで聴いてみた。

1 JBLの「D123+075」の2ウェイシステム(クロス8000ヘルツ)。

2 ウェストミンスター(改)の「ワーフェデールのスーパー12+JBLの175」の2ウェイシステム(クロス800ヘルツ)。

1はトランペットの音がまるで唾が飛んでくるみたいに迫力があった。頭がクラクラッときたが、やはりこういう音は075の独壇場だ!改めて底力に唸った。これが「ステンレス削り出しホーン付き」の075。

   

その点2はまるでネクタイを締めてかしこまって聴いているみたいだった。

1に比べるとベースの豊かな響きと、ピアノにコロコロした感じが無かったのは良しとするがトランペットについてはまったく物足りなかった。全体的にも生き生き、伸び伸び感が足りない。

総じてジャズらしいといえば1のシステムで、おそらく生粋のジャズファンは圧倒的に1を支持することだろう。

問題は2だ!

いくらクラシック用のシステムとはいえ、これでは絶対にダメ(笑)。

何とかしなければと「沈思黙考することしばし」だったが、「窮すれば通ず」で名案(?)を思い付いた!

以下、続く。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/98c5264dd15390bd58d6ceb46249064c
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/479.html
[番外地10] 読者に占めるジャズファンの割合
「音楽&オーディオ」の小部屋
読者に占めるジャズファンの割合
2019年10月08日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/f47f9bf6a90a390ea19df54f4a002f60

ときどき、このブログの読者がどういうタイプかを想像してみることがある。

仮に1000人だとすると、クラシック愛好家は200人ぐらい、ジャズ愛好家が500人ぐらい、そして音楽なら何でも好きというタイプが300人といったところかな。つまり「2:5:3」というわけ。

もちろんあくまでも想像の域を出ないが、搭載しているブログの内容に応じたアクセス数から推し量ったものだから全然根拠が無いわけでもない。

また、これまで13年間にわたってときどきメールをいただいた方の傾向も加味している。

やはり、このブログのセールスポイントは「実践的なオーディオ実験」にあるとみている。もちろん、大した内容ではありませんよ(笑)。

ジャズファンはクラシックファンに比べて圧倒的にオーディオ愛好家が多いのでこの5割説の根拠にもなろうというものです。

そういうジャズファンの中で息が長い交流をさせていただいているのがメル友の「I」さん(東海地方)である。

折にふれ、コメントを引用させてもらいたいへん感謝しているが、このたびジャズのアーチストについて興味深い情報を得られたのでご了解のもとに掲載させてもらおう。

実を言うと、クラシック愛好家から見てジャズは芸術よりも娯楽に近いと思っていたが、これで認識を改めようと思った次第(笑)。

それでは以下のとおり。

「ジャズの話題に便乗して、好みのジャズ(奏者)について白状させてください。

学生運動最後の時代が自分の大学時代と重なり、その頃にジャズを聴き始めています。思想的にジャズが扱われる時代でしたが、そのようにジャズを聴いたことはありません。もっと個人的な芸術表現として聴いてきました。

娯楽でなく芸術として聴いていますので、ジャズ奏者に求めるものは、けっして偉そうに言うわけではないのですが「創造性・・探求性?」と「矜持」です。

好きな(リスペクトする)奏者

<ピアノ>

バド・パウエル(比類なきドライブ感)

セロニアス・モンク(笑みがこぼれます)

ウィントン・ケリー(最高のハードバップピアニスト)

ビル・エバンス(ジャズピアノの・・・何と言ったらいいかわかりません)

<トランペット>
マイルス・デイビス(ウエイン・ショーターが参加する前までが帝王)

ブッカー・リトル(夭折が本当に惜しい)

ウィントン・マルサリス(批判にめげず頑張ってほしい)


<アルトサックス>

エリック・ドルフィー(早死にが悔しい。少なくともあと数年だけでも生きていてほしかった)

オーネット・コールマン(1964年のヨーロッパ・ツアーまでが眩しい)


<テナーサックス>

スタン・ゲッツ(うまい!それだけで凄い)

アーチー・シェップ(70年以降もいい演奏をしている稀有な存在)

<ベース>

ポール・チェンバース(はずせない)

(以下3人は白人。表現力が尋常ではない)

スコット・ラファロ、ニールス・ヘニング、ウルステッド・ペデルセン ジョージ・ムラーツ


<ドラム>(ドラムには関心が薄いのですが、強いて言えば)

フィリー・ジョー・ジョーンズ(上質な縁の下の力持ち)

ジミー・コブ(上に同じ)

トニー・ウイリアムス(超人なのに縁の下の力持ち)

偏ってますねえ(笑)

時代は1950、60年代がほとんど。楽器はアコースティック。ジャズ史的にいうと、ハードバップ・モード・フリー・ウルトラモダンになります。

ジョン・コルトレーンとソニー・ロリンズが入っていないのが不思議に感じられると思いますが、この二人へのコメントは不遜になりますので差し控えます。

以上のとおりだが、「I」さんのジャズとオーディオへの熱意にはいつも感心する。

ところで、クラシックの場合は作曲家をはじめ指揮者や演奏家など好みの対象が広範囲に広がるが、ジャズともなると演奏家だけに収斂されていくのが特徴のようだ。

それだけ許容範囲が狭くなるというのか、ジャズファン同士の「口角泡を飛ばす」議論の要因にもなりそうな気がしている(笑)。

ちなみに、ときどき我が家ではコルトレーンを聴いてみるのだが、どうもサッパリで皆が言うほどピンとこない。

   

素人なりに、この疑問を率直に「I」さんにぶつけたところ次のような返信があった。

「コルトレーンについては私もそう思います。バップ、フリー等何を聴いてもピントきません。

とんでもなく尊大なことを言いますが、コルトレーンはジャズの勘所が判っていないのではないかと・・・私、死刑ですね(笑)

逆に勘所だらけで、それがくどくなっているのがロリンズかなと・・・2回目の死刑です。

コルトレーンはヴィレッジバンガードを良く聴きますが、実はドルフィーを聴くためです。

好きな演奏もあります。セルフレスネス(LP)のマイ・フェイヴァリット・シングスです。コルトレーンを聴いている人なら持っている1枚だと思いますので、機会がありましたら聴いてみてください。「おんなじヤー」かもしれませんが(笑)。」

以上、クラシックファンと比べるとジャズファンは音楽に対する入れ込みようが一段と「ヒート・アップ」しているような気がする(笑)。

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http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/480.html
[番外地10] ジャズ「Art Pepper meets The Rhythm Section]を聴く
「音楽&オーディオ」の小部屋
ジャズ「Art Pepper meets The Rhythm Section]を聴く
2019年10月23日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/dd0a7e296479b228c0df2d03b43564f0

県内在住の「K」さんから寄稿していただいた4曲のジャズ解説について既に「サムシン・エルス」「カインド・オブ・ブルー」を紹介させてもらったので、今回は第3弾目として「アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション」を取り上げてみよう。

周知のとおり「音楽の3要素」はメロディ(旋律)、ハーモニー(和声)、リズム(律動)だが、クラシック音楽にやや足りないものがあるとすればそれはリズムではないかと思っている。

ときどき無性にジャズが聴きたくなるのもそういう理由があるのかもしれない。

たしか「五味康介」さんの本だったと思うが、あの指揮者カラヤンが練習中のオーケストラのリズム感に飽き足らず、そういうときはこっそり脱け出してジャズを聴いていたという話が載ってた。

ましてや、一介の市井の音楽ファンであれば何もクラシックに固執することなく、ときどきはジャズも聴いて耳を肥やすことも必要だと思いますよ(笑)。

    

1957年マイルスが西海岸へ演奏旅行に来た折、コンテンポラリーのレスター・ケーニッヒがマイルスの許しを得て当時のマイルスのリズムセクションとアート・ペッパーを邂逅させたアルバム。

メンバーは、レッド・ガーランド(p)、ポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)からなり最強と言われた。

不調のペッパーには極度の緊張を恐れて録音のことは直前まで知らされず、またマウスピースのコルクも傷んでいたのに、麻薬を打って臨んだというエピソードがある。にもかかわらず、この演奏は会心の出来栄えとなった。

著名な「You’d Be So Nice To Come Home To」のペッパーのアドリブを聴くと、その絶妙な音列配置の間隔が生み出す危うさ、刹那感がたまらなくクセになる。当代一流のリズムセクションをバックに、堂々と渉りあうプレイは神ってると言う他はない。

プロデューサーのレスター・ケーニッヒはハリウッドの映画産業に従事していたらしいが、マッカーサーの赤狩りで映画界を追われてJAZZレコードのレーベルを立ち上げた人物。

アメリカの西海岸の主要産業である映画産業は、トーキー時代に入ってオーディオを副産物として育てることになる。Westernを先駆けとして、Altec、JBL等の音響機器メーカーが誕生する。

まさに、映画がオーディオを育てたといっていい。そんな時代に誕生したキャピトルレコードでエンジニアとして、シナトラ、ナット・キング・コールらを録音していたロイ・デュナンを引き抜いた。

そして録音スタジオもない配送倉庫の片隅で、自作の録音アンプ、調整卓で奇跡としか言いようのないコンテンポラリーの名録音が生まれるのである。

ロイ・デュナンの録音は、カリフォルニアの空を思わせるような明るくクリアーで、どちらかと言うと響き、空気感を捉える録音が特徴。垢抜けた西海岸の白人JAZZにぴったりの音づくりだ。

バラックの倉庫の片隅で楽器間の音漏れを防ぐ立派な遮蔽板もなく、そこそこ漏れ入ってくる別のマイクに入った音がかえって臨場感を生み出したのかもしれない。

使用マイクは、ノイマンU-47、AKGのC-12、テープレコーダーはAMPEX 350で、ヴァンゲルダーと似ている。しかし全く正反対の音になっているのは感性の違いもあるが、リヴァーブを加えてカッティングの際にゲイン等を微妙に調整し、詳細なマスタリング・メモを残した。

このメモがなければ、オリジナルのテープを入手しても、ロイの作ったアルバムの音を再現することはできないという。

この解説を念頭に置きながら我が家でもじっくり聴いてみたが、「サムシン エルス」や「カインド オブ ブルー」に比べると随分穏やかなというか、プレイヤーが肩ひじを張ってなくて自分のような門外漢でも随分溶け込みやすい印象を受けた。

こういうジャズもありなんですね〜。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/dd0a7e296479b228c0df2d03b43564f0
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/481.html
[番外地10] ジャズ「カインド・オブ・ブルー」を聴く
「音楽&オーディオ」の小部屋
ジャズ「カインド・オブ・ブルー」を聴く
2019年10月17日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/31fb160977615f048c9d1199ce7292bb

県内在住のKさんから頂いた4枚のアルバム(ジャズ)の解説について、その内からとりあえず「サムシン・エルス」を、つい先日搭載したのはご承知のとおりですよね。

このブログの読者はジャズ・ファンが多いとにらんだ通り、とても反響が多くて、メル友さんからも「サムシンエルス」の名解説に感心され、残りの3枚についてもぜひ紹介してほしいと強いご要望があったのでこれから折を見て一枚づつ紹介させていただこう。

今回は2枚目に当たる「カインド・オブ・ブルー」。

Kさん、おかげさまでこのブログに貴重な「彩」を添えていただき感謝しています。

  

この1959年に録音された歴史的モダンジャズの傑作は、ビル・エヴァンスの参加なくして誕生しなかった。

この頃、コード進行に従って即興演奏を行なうことに限界を感じていたマイルスは、モードによるアプローチを探索し、白羽の矢を立てたのがエヴァンスである。

実際には、半年余り前に正規メンバーとして活動していたものの、他のメンバーや演奏するクラブのオーナーらから黒人でないという理由の逆差別を受けていて退団を余儀なくされていた。

しかし、次回作のアルバム制作には是非ともエヴァンスのアイデア、スケッチが必要で、参加を要請したのだ。

そしてここからがマイルスの凄みと言えるが、録音当日に事前に知らされなかったピアニストが、2人鉢合わせとなる。

新しく正規メンバーとなったウィントン・ケリーには、何でビル・エヴァンスがここにいるのか理解できなかった。

しかも、ウォーミングアップのつもりの「フレディ・フリーローダー」の1曲のみ録音してケリーを帰してしまったのだ。

ケリーの心中を察するに、いかばかりかと思わざるを得ない。この軋轢、緊張感がスタジオ全体に漲り、張り詰めた空気が60年を隔てた今でも薄まることがない。

あたかも惑星直列のような磁場が働き、稀有な演奏者のパフォーマンスが録音されたのである。

さらに余談だが、録音されたコロンビア(CBS)のニューヨーク30丁目スタジオは、元ギリシャ正教会でホールの効果が絶妙なサウンドとして、クラシック、ジャズを問わず数々の名盤が制作された。

録音技師は名手フレッド・プラウト。建築を思わせるような安定した土台基礎部分の低音、ピアノのアコースティックな響きを最上のバランスで捉え、ホーンの咆哮の生々しさ、トップシンバルからは星屑が落ちてくるような質感で迫ってくる名録音である。

しかし、物語はこれでは終わらない。1992年になって、マスターのテープ録音機の不調で1/4ピッチ高めの音でリリースされ続けたことが判り、録音から33年経ってやっとセーフティのもう1台のテープから正確なピッチのCDが発売の運びとなった。

ビル・エヴァンスと言えばトリオ構成が一般的だが、いの一番にこのマイルスのアルバムを挙げたい。

クラシックの素養に裏打ちされた、ラベルやドビュッシーらの印象派の響きがJAZZに注がれた。ピアノの和声の響きを例えるなら、空気を描くことに腐心したモネの、色を混ぜ合わせる効果に近い。

マイルスに影響を与えた白人の音楽家、2人のエヴァンスのもう一人ギル・エヴァンス(アレンジャー)の手になる「ソー・ホワット」のピアノのイントロによく表れている。

エヴァンスに限れば、「ブルー・イン・グリーン」や、ピアノの羽ばたきのようなトレモロが印象的な「オール・ブルース」、スパニッシュモードの「フラメンコ・スケッチズ」が聴きものである。

まさに無人島に1枚だけ持って行くCDの最右翼である。

以上のとおりだが、熱い、実に熱い!

大いに刺激を受けて我が家でも耳を傾けてみました。

ジャズは門外漢だが、当時の超一流のメンバーたちの緊張感に溢れた熱気に完膚(かんぷ)なきまでに打ちのめされたことをご報告しておこう。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/31fb160977615f048c9d1199ce7292bb
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/482.html
[番外地10] 旭川いじめ事件は F君が kan国の「n番部屋事件」を真似してやった? 中川隆
2. 中川隆[-13080] koaQ7Jey 2022年5月17日 04:49:44 : ZRJ8aqIwQs : NDVqejF3NUJNdVk=[2]
旭川いじめ事件は F君が kan国の「N番部屋事件」を真似してやった
kan国で起きた衝撃の性犯罪「N番部屋事件」、性器に覚醒剤&虫、少女逆立ち性行為、男児強姦、母絶叫…報道規制かかる残虐実態!
被害者女性は博士に「アルバイト」として募集され、応募時点で個人情報を提供させていた。そして応募に必要だからとセクシーな画像を渡させてから「家族に見せるぞ」と脅して、自慰行為などさらに過激な動画を撮影させていたという。性的な写真を撮らせ、これを拒絶されると、ネットに写真をばらまくなどと脅迫。生活費のために応募した被害者のひとりは、報復が怖くて両親には言えなかったと告白している。
2020年3月までの約一年半もの間、未成年者を含む74人もの韓国人女性が「博士」と呼ばれる人物らにネット上で脅迫された挙句、性的行為や人に見られては尊厳を失う関わるような姿を生配信させられていた。

 博士らは、Twitter上で様々な女性を物色し、その中から性的に露出の高い写真を投稿している若い女性らに罠リンクを送り付け、クリックしてしまった女性の個人情報を入手。または、「秘密のアルバイト」として募集した女性の性的な画像を撮影したうえで、「警察に通報する」「家族に知らせる」など脅迫していた。

N番部屋では、被害女性たちは奴隷と呼ばれ、どんな要求も受け入れるしかなかったようだ。

・ある女性は、生配信中に刃物で自らの身体に「奴隷」の文字を刻まされた。
・またある女性は年端もいかない幼い男児と性行為を行うことを強要された。
・さらにカメラの前でレイプされた被害者もいた。
・大小便を飲み込んだりさせられた者もいた。
・虫を性器に挿入する者もいた。
・実際に視聴者に会い性行為をさせられた者もいた。
・最年少の被害者は、なんと11歳の女児だった。
(ネットでは6歳や8歳の被害者もいたとされているが、中・韓の大手メディアは11歳と報じている)
・刃物を突きつけられた少女が男子トイレの小便器で逆立ちして自慰行為
・浮浪者風の複数の男に輪姦されている30代くらいに女の傍で、男の子が「おかあさん!」と絶叫
・たらふく食事を与えられた女性が、最後に虫や汚物を食べることを強制され、嘔吐。しかし吐き出した嘔吐物も食べるように強制され、泣きながら手ですくって飲み込む。
・覚醒剤を陰部に塗りたくられた女性がバイブで責められまくり、白目を剥く

などが報告されている。また、閲覧が有料であるにもかかわらず、累計26万人の会員が閲覧していた。全 kan 国人男性の100人に1人が性犯罪の画像・動画にお金を払った試算になる。


韓国のN番部屋事件の主犯は自分では直接には何もやっていません。
F君も韓国のN番部屋事件の主犯を真似て、自分では何もやらなかったんでしょうね。

▲△▽▼

F君は爽彩さんに、言う事を聞かないとこういう目に遭う、と忠告した:

北九州監禁事件では
大便排泄を1日1回に限定し
全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した
勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた
言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った
一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ

chousen 民族はこういうことを好むのである
ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります

chousen 人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います
チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でしたchousen 人の李氏chousen もそうです。よって在日に監禁されると大変なことになります

殴る蹴るの基本的なものから、
タバコの火を押し当てる、
ハンダコテで体中焼く、
尿道にマッチ入れて火をつける、
zainichi が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える
大小便を食べさせる

など拷問の種類には事欠きません

女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、
全身にピアスを通され
穴という穴は拡張され、
zainichi が起こした女子コンクリ事件では
鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です

zainichiを日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです

かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁
少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます
何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります
尻の穴もそうなります、
栗には太いピアスがされるでしょう
SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、
厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります
こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします

▲△▽▼

爽彩さんを暴行しながら耳元でささやいた、ムダだって知ってるだろ…そして激しく暴行は続けられた パンパンパン 彼女は壊れてしまった…  


 爽彩さんが家に引きこもるようになった2019年の秋以降に描かれたイラストがここにある。それまで描いていた色彩豊かな調子はなくなり、色はモノトーンに。ある絵には「ムダだって知ってるだろ」との言葉が書き込まれていた。


――退院後、引っ越しや転校もされたと思いますが、爽彩さんの様子はいかがでしたか?
母:
退院した直後は窓から飛び降りようとしちゃったりとか。
入院中もそうだったんですけど、フラッシュバックが起こると「殺してください」「許してください」って叫んだり、白目をむいて泡を吹いて倒れちゃうとか。そういうことが一日に10回や20回、頻繁に起きていました。
だから目が離せないというか、時間が経って徐々に減ってはいたんですけど、それでも一日に数回はフラッシュバックが起きる状態でした。

急に泣いたり叫んでしまったり、震えたり、過呼吸が起きたり、吐いちゃったりとか。それが本当に1日の間に10回以上とか、ひどいときには20回以上、起きることが続いていた。(2021年9月27日放送)
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/467.html#c2

[番外地10] タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』
タルコフスキー 映画『僕の村は戦場だった 1962年』

動画(英語字幕)
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%98%D0%B2%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D0%B2%D0%BE+%D0%B4%D0%B5%D1%82%D1%81%D1%82%D0%B2%D0%BE&sp=mAEB


監督 アンドレイ・タルコフスキー
原作 ウラジミール・ボゴモーロフ
脚本 ウラジミール・ボゴモーロフ ミハイル・パパーワ
音楽 ヴァチェスラフ・オフチンニコフ
撮影 ワジーム・ユーソフ
公開 1962年4月6日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%95%E3%81%AE%E6%9D%91%E3%81%AF%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F

キャスト

Ivan コーリヤ・ブルリヤーエフ
Kholin V・ズブコフ
Galystev E・ジャリコフ
Katasonov S・クルイロフ
Gryaznov N. Grinyko
Maska V. Maryavina
Ivan's Mother I. Tarkovskaya
The Oldman D. Milyucheko


映画のストーリー

イワン(コーリヤ・ブルリヤーエフ)がいまも夢にみた美しい故郷の村は戦火に踏みにじられ、母親は行方不明、国境警備隊員だった父親も戦死してしまった。

一人とり残された十二歳のイワンが、危険を冒して敵陣に潜入し少年斥候として友軍に協力しているのも、自分の肉親を奪ったナチ・ドイツ軍への憎悪からであった。

司令部のグリヤズノフ中佐、ホーリン大尉、古参兵のカタソーノフの三人が、イワンのいわば親代りだ。グリヤズノフ達はイワンをこれ以上危険な仕事に就かせておくことはできない……これが、少年を愛する大人たちの結論だった。しかし、イワンはそれを聞くと頑として幼年学校行きを拒否した。憎い敵を撃滅して戦いに勝たねば……やむなくイワンをガリツェフ(E・ジャリコフ)の隊におくことにした。

ドイツ軍に対する総攻撃は準備されていたがそのためには、対岸の情勢を探ることが絶対必要であった。出発の日、カタソーノフはざん壕から身をのり出し敵弾に倒れてしまった。執拗に彼の不在の理由をきくイワンにはその死は固く秘されホーリン、ガリツェフの三人は小舟で闇の中を対岸へ。

二人が少年と別れる時がきた。再会を約して少年は死の危険地帯の中に勇躍、進んで行く。その小さな後姿がイワンの最後だった。終戦。ソビエトは勝った。が、そのためには何と大きな犠牲を払われねばならなかったか……。

かつてのナチの司令部。見るかげもなく破壊された建物の中に、ソビエト軍捕虜の処刑記録が残っていた。その記録を一枚一枚調べるガリツェフ。あった。イワンの写真が貼りつけられた記録カードが。戦争さえなかったらイワンには平和な村の毎日だった筈なのに……。
https://movie.walkerplus.com/mv13198/

 
▲△▽▼

僕の村は戦場だった

噂には聞いていましたが、これほどまでの傑作とは思いませんでした。すばらしい映画でした。

タルコフスキーならではの詩的な映像と、独ソ戦争の悲劇を現実的にとらえた対照的な映像が見事にコラボレートして、一歩間違うとおとぎ話のような陶酔感の中で迎える衝撃的なラストにうなってしまいました。


一人の半裸の少年が森にたたずんでいます。

蝶が舞い、その蝶を視線が追いかけるとカメラが蝶の視線のごとくふわっと舞い上がります。

ショットは変わって少年の前に一人の母親らしき女性。

うれしそうに駆け寄る少年。

次の瞬間、ぼろ小屋で飛び起きる少年。

実はこの少年はソ連側からドイツに潜入して情報を探るゲリラ兵なのです。ショッキングなオープニングに一気に引き込まれます。


湿地の中を必死で駆け抜けてソ連領に舞い戻ったところから本編が始まります。


戦場の場面がリアルに生々しく語られる現実と、少年が夢見るときにみる平和な頃の詩情あふれる映像の対比が実に効果的で、本当に美しい。

湿地の中を進む場面で水面に映る照明弾の光の動きの中で船をこいでいくショット、

少年が夢の中でみる母親が井戸の外で倒れたところに降りかかる井戸水のショット、

あるいは少年が愛らしい少女とリンゴを積んだトラックに乗っていく中で、リンゴが道にこぼれだし、馬が拾い食いするショット

などタルコフスキーならではのファンタジックな映像もふんだんに盛り込まれています。


すでに両親の行方もわからない少年イワンの親代わりは戦場の3人の兵士たちだった。そして、冒頭のゲリラ斥候を終えたイワンにその兵士は幼年学校へ行くように勧める。

しかし、それに反対し、再度斥候にでる。無事ソ連領に送り届けた兵士たち、しかしまもなく戦争は終結。

ドイツの収容所を制圧した兵士たちがそこでみたのはドイツ軍が捕まえたソ連からの斥候たちの処刑のリストファイルだった、そしてそこにはイワンの名が・・・・


処刑される寸前に見たであろうイワンの幻想は愛くるしい少女と一緒に浜辺を駆け抜ける場面でした。

タルコフスキーならではの映像美の世界とサスペンス色あふれるストーリー展開、そして悲劇的なラストに見せる切ない現実への警告。完成度の高い見事な作品でした。
http://d.hatena.ne.jp/kurawan/20100510


▲△▽▼

19 :無名画座@リバイバル上映中:2006/02/25(土) 18:52:48 ID:nrY8uN4r

原作は「イワンの少年時代」というタイトルですよね。

でも何だか皮肉な題だなあ。少年時代を少年のまま過ごすことも叶わず、
戦争によって踏みにじられ、大人にならざるをえなかったイワン。

回想シーンがあどけない笑顔を浮かべてたのに、現実のシーンでは微笑を忘れた
一切感情を押し殺した表情をしてたのが余計に哀しい。


25 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 10:25:13 ID:za8+WElc
もし、記憶違いなら悪いけど少年のお母さんが腋毛生やしてたような・・・


26 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 14:54:33 ID:pWzQBXUM
おっ、いいところに目をつけましたね。なかなか目ざといですな。
あのお母さんはどうも色っぽすぎていかんです、ハイ。

28 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 21:33:09 ID:BSZv+BGP
いや、ほんとに。
少年の回想シーンとは思えないほど肉感的ですね。


『鏡』を観ててもそう思うんですが、

どうもタルコフスキーにとって母親というのは
そういう肉感的な存在としてイメージされるみたいです。


29 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/10(金) 21:02:41 ID:G7Eo1+60

母親役はイリーナ・タルコフスカヤ。


30 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/11(土) 13:38:57 ID:UEITlvEh

おそらくイリーナ・タルコフスカヤさんは監督の最初の奥さんではないかと。
(同姓同名でなければ、イリーナという奥さんがいたはず)


38 :無名画座@リバイバル上映中:2006/05/12(金) 17:13:15 ID:9534X0Wy
浜辺で母が手を振って立ち去ろうとするところ恐いぐらい。


48 :無名画座@リバイバル上映中:2006/09/03(日) 23:38:29 ID:VbWH5bGO
ラストの水はすごかった
http://mimizun.com/log/2ch/kinema/1139048950/


▲△▽▼


アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。

父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。


『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。
ttp://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html
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タルコフスキー 映画『アンドレイ・ルブリョフ 1966年』 ( No.1 )
日時: 2022/05/15 06:38
名前: スメラ尊 ID:QhNEiVps

タルコフスキー 映画『アンドレイ・ルブリョフ 1966年』


動画(英語字幕)
https://www.youtube.com/results?search_query=Andrey+Rublyov


監督 アンドレイ・タルコフスキー
脚本 アンドレイ・コンチャロフスキー、アンドレイ・タルコフスキー
音楽 ヴャチェスラフ・オフチニコフ
撮影 ワジーム・ユーソフ
製作会社 モスフィルム
公開 1971年12月24日

キャスト

Andrei Rublyov アナトリー・ソロニーツィン
Kirill イワン・ラピコフ
Danil ニコライ・グリニコ
Feofan ニコライ・セルゲニフ
Boriska ニコライ・ブルーリャーエフ
A half-witted girl イルマ・ラウシュ
The Grand Duke ユーリー・ナザーロフ
The Duke the younger ユーリー・ナザーロフ
A Strolling Player ローラン・ブイコフ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%95_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

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映画のストーリー


〈第一部・動乱そして沈黙〉

一四〇〇年。降りしきる雨の中、三人の僧侶が田舎道を急いでいた。アンドレイ・ルブリョフ(A・ソロニーツィン)とキリール(I・ラピコフ)とダリール(N・グリニコ)は、モスクワのアンドロニコフ修道院の同じ僧房で神への奉仕と絵画の修業に十年近い歳月を過ごした研鑽の仲間たちである。

三人は雨やどりで立ち寄った丸太小屋で陽気な旅芸人が、富裕階級の聖職者の道徳的廃退を面白おかしい物語にして歌い踊るのを見たが、途中で一度キリールが小屋から姿を消した理由をアンドレイもダリールもそのときは気づかなかった。いきなり三人の騎兵隊がきて旅芸人をムリヤリ連れ去ったのはその直後のことだった。支配階級への民衆のささやかな抗議はいつもこのようにして圧殺されていたのだ。

一四〇五年。ある旅の途中で、キリールはフェオファン・グレク(N・セルゲエフ)に出会った。乞食坊主のような風態ながら、この男こそ国にならぶ者なきイコン(聖像画)の名匠だ。自分の画才がアンドレイにはるかに及ばぬことを知っているキリールはフェオファンに取り入りモスクワの寺院にイコンを描く仕事をもらうとそのための大公からの招請状を自分にあて修道院へ届けてほしいこと、それもアンドレイの見ている前で自分に手渡してほしいことを約束させたが、意外にも大公から届いた招請状はアンドレイあてであった。賢明なフェオファンはいち早くキリールの魂胆を見抜いたのだ。落胆と憤懣からキリールは逆にアンドレイを出世欲のかたまりと決めつけ、宗教界の堕落を罵って、僧職を捨て俗界へ飛び出してしまった。

一四〇六年。モスクワでのアンドレイの新しい生活が始まった。弟子たちの協力を得て彼は連日寺院の白い壁に向かったが、絵筆は一向に進まなかった。ペストがはびこり、飢饉がうち続き、民衆が年貢の高さに苦しめられながらしかもなお、無為な生活に甘んじているという現在の暗黒世界は早く終わらねばならない、そして人間は自分たちの力で地上に幸福を作りださねばならない−−そう信じているアンドレイには、たとえ「最後の審判」を壁画にするにしても、今までのように古い伝統をそのままなぞってキリストや使徒たちの周囲に地獄の釜ゆでの残酷な光景や悪魔の恐しさをただ毒々しく彩って描くことが耐えられなかった。彼が描きたいのは“愛”であった。忍耐と寛容に充ちた神の愛なのであった。

〈第二部・試練そして復活〉
一四〇八年。タタール人の突然の襲来はその頃であった。大公と公弟の争いに端を発したこの襲撃はロシア国内を地獄図に変貌させ、塁々たる屍の山を築き上げ、寺院をも血の海にして火を放った。

殺戮の嵐が通りすぎたあと、生きて堂内に残ったのはアンドレイと彼が助けた知的障害者の少女(I・ラウシュ)とフェオファンだけだった。

アンドレイが絵筆を捨てる決意をしたのは、その日である。少女の生命を救うためにせよ人をひとり殺してしまったことが彼の心をさいなんだからだが、理由はそれだけではなかった。同じロシアの土地で同じ信仰のもとに生きる者同志がなぜこのような殺し合いをせねばならないのか? もはや彼は人を信ずることが出来ず、ただ労働に生きる決意をかため、アンドロニコフ修道院へ戻っていった。

一四一二年。大飢饉が三年も続き、長い冬はいつまでも終わろうとしない。そんなある日、キリールが修道院へ戻ってきた。彼はかつての醜い出世欲とも無縁の人間になっていたが、旧交が戻った彼の前でも相変わらずアンドレイは言葉を知らぬ者のように無言の行を守り続けていた。

一四二三年。ロシアはなお暗黒の中にあったが、その底に秘めた生命力を諸外国に示威するため、大公は教会の頂きに飾る巨大な鐘の鋳造を技術者たちに命じた。しかしその鋳造の名人と言われた男はすでに死んでいて、そのひとり息子ボリースカ(N・ブルリャーエフ)が生前に父から秘訣を教えられたと主張するのを半信半疑ながら、彼をリーダーに、ともかく作業が開始された。まず最良質の粘土さがしから始まり、それを固めて作り上げた鐘の鋳型に、これまた彼ら自身の力で築いた溶鉱炉から銅を流し込むまで、技術者たちの不眠不休の努力は、まさに生命をけずる凄まじさで、ことにボリースカの創造への情熱は狂気じみて凄絶だった。その少年の姿を沈黙のうちに見守るアンドレイの瞳にも感動の色はかくせなかった。

ようやく完成した大鐘が各国からの使節団の前で、ロシアの大空に高らかな音を鳴り響かせたあと、大地につっ伏して号泣する少年にアンドレイは初めて近寄った。「父が鋳造の秘訣を教えてくれたなどといったのはウソだった。ただ鐘を自分で作りたくて……」。無邪気な少年にかえって泣きじゃくるボリースカを抱き寄せて、アンドレイはやさしくいった。「泣くことはない。お前は立派にやりとげたではないか。私はもう一度絵筆をとってお前と一緒にやっていこう」。十五年ぶりに彼の口から出た言葉だった。

古代ロシア美術史の今も燦然と輝くイコン美術の巨匠アンドレイ・ルブリョフの偉大な画業への出発は、実にこの瞬間から始まったのであった。
https://movie.walkerplus.com/mv12430/


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アンドレイ・ルブリョフ

アンドレイ・ルブリョフ(ロシア語:Андре́й Рублёвアンドリェーイ・ルブリョーフ;ラテン文字表記の例:Andrei Rublev、1360年頃 - 1430年)はロシアの修道士、15世紀ロシア、モスクワ派(ルブリョフ派)における最も重要な聖像画家(イコン画家)のひとりである。

正教会では聖人とされ、記憶日は二つある(ユリウス暦:7月4日・1月29日、グレゴリオ暦換算:7月17日・2月11日)。

師にフェオファン・グレクがいる。
1405年頃修道士となりアンドレイの名を用いるようになった彼の作品のうち、もっとも重要なものは、創世記17章に材を取った『至聖三者』(聖三位一体)のイコンである(114cm×112cm、板、テンペラ)。アブラハムの許を3人の天使が訪れたという旧約の記述は、古くから正教会では「旧約における至聖三者の顕現の一つ」として捉えられ、アブラハムとサラによってもてなされる3人の天使の情景はイコンにも描かれてきたのであるが、3人の天使の情景のみが取り出されて描かれているのがこのイコンの新しい特徴である。

この作品はもともと知人である修道士の瞑想のために書かれたものであったが、後に(1511年頃?)ロシア正教会は教会会議でルブリョフの図像を、三位一体の唯一正当な聖像として認めるようになった。正教会に属さないカトリックでもルブリョフの『至聖三者』を用いることがある。

『至聖三者』は1904年ごろ再発見、修復された。

彼の様式に倣った聖像画家の一派をルブリョフ派と呼ぶ。

彼を題材とした映画『アンドレイ・ルブリョフ』(1967年、監督:アンドレイ・タルコフスキー)は1969年カンヌ国際映画祭の国際批評家賞を受賞している。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%83%95

 

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タルコフスキー アンドレイ・ルブリョフ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=x6kqlveBhVY


51:30 から 異教徒の女性 マルファ との対話


ルブリョフ
君は恐怖のなかで生きている、なぜなら君が知っているのは愛ではなくて獣欲なのだ。
魂のない肉欲、しかし愛は兄弟愛のようであるべきだ。


マルファ
すべての愛は同じではないの?
ただの愛なのよ。


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アンドレイ・ルブリョフはキリスト教のあり方に疑問を持ちます。

先輩画家からは、愚かな人間たちなどどうでもいいじゃないか、画は神のために描くものだと諭されます。

先輩画家は、愚かな人間たちの上にはもうすぐ最後の審判が下るぞと言います。

しかし、アンドレイ・ルブリョフは先輩画家の言葉に納得ができないのです。

アンドレイ・ルブリョフはモスクワ大公から依頼された修道院の壁画「最後の審判」を描くことができません。


そんなある晩、アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りに迷い込みます。


すでにキリスト教化していたロシアでは、アニミズム信仰を持つ人びとが異教徒と呼ばれて、教化の対象になっていました。

森の奥から響くざわめきを聞きつけたアンドレイ・ルブリョフは好奇心に勝てずにひとりで奥へ奥へと進んでいきます。

裸の女たちが松明を持って川に飛び込んでいました。

アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りを垣間見ます。

小屋の中では、ひとりの女がはしごをのぼっては飛び降りてを繰り返しています。

女が飛ぶごとに着物がはだけて女の裸体がちらつきます。

アンドレイ・ルブリョフがそんな光景に見とれていると、男たちに「黒い悪魔がいたぞ」とつかまって小屋の中にひきずりこまれて縛られてしまいます。


アンドレイ・ルブリョフは、

「何をする、やめてくれ、お前たちは、最後の審判が恐ろしくないのか」

などと口にします。

小屋の中にはアンドレイ・ルブリョフと女が残りました。

翌朝、アンドレイ・ルブリョフはうしろめたそうな顔をして村をあとにしました。
全裸の女がうるんだ瞳でアンドレイ・ルブリョフのうしろ姿を見送ります。


異教の女マルファとの会話

マルファ
なぜあなたは頭を下にしたいの?
気分がもっと悪くなるのに。
なぜあなたは天の火でわたしたちを脅すの? (ルブリョフが「最後の審判」を口にしたことへの反感)


ルブリョフ
裸になって君たちがしようとしていることは罪なのだ。


マルファ
何の罪ですって?
今夜は愛しあうための夜なの。
愛しあうのは罪なの?


ルブリョフ
こんなふうに人を縛り上げるのは愛なのか?


マルファ
あなたが他の修道士をよぶかもしれないからよ。
あなたの忠実さをわたしたちが受け入れることを強制しようとする人たちよ。
あなたは恐怖の中で生きることが容易なことだと思っているの?


ルブリョフ
君は恐怖のなかで生きている、なぜなら君が知っているのは愛ではなくて獣欲なのだ。
魂のない肉欲、しかし愛は兄弟愛のようであるべきだ。


マルファ
すべての愛は同じではないの?
ただの愛なのよ。


マルファはルブリョフに近づきキスをする。 
http://foonenbo.asablo.jp/blog/2010/03/21/4962351



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アンドレイ・ルブリョフ 神谷武夫
http://www.kamit.jp/19_gerzen/rublyov.htm


ネルリ河畔の ポクロフ聖堂
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xnerl.htm


 過酷な運命に翻弄された建築家、アレクサンドル・ヴィトベルクのことを想うとき、私には もう一人のロシアの芸術家、アンドレイ・ルブリョフ (1360 頃-1430) の姿が それに重ねあわされる。というよりも、20世紀の映画作家、アンドレイ・タルコフスキー (1932-86) が 描いたところの画家『アンドレイ・ルブリョフ』の内面、と言ったほうが よいかもしれない。

 中世のロシア、15世紀はじめに ウラジーミルの ウスペンスキー大聖堂や モスクワの アンドロニコフ修道院聖堂などで 壁画やイコンを制作した この画家の生涯について、史実はあまり多くを語ってくれない。したがって 映画のルブリョフは、ひたすらタルコフスキーの想像力によって作られた エピソードの積み重ねによって描かれている。それらのエピソードとは「旅芸人 1400年」、「フェオファン 1405年」、「アンドレイの苦悩 1406年」、「沈黙 1412年」、「鐘 1423年」と題される8章から成り、それらの年号から、映画は ルブリョフの壮年期の 23年間を扱ったことになる。

 その背景として表現されているロシアは あまりにも暗い、まさに暗黒の時代である。モスクワ大公兄弟どうしの憎悪、タタール・モンゴルの侵攻、しいたげられる民衆、戦争と殺戮、そうした中で生きるルブリョフの姿もまた 苦悩に満ちている。

 映画が日本で公開されたのは、今から 29年前(1974年)の冬、銀座と新宿の "アート・シアター" において だった。タルコフスキーの名を 世に知らしめた『僕の村は戦場だった』は、それよりも さらに9年前だったから、当時の私は見ていず、『アンドレイ・ルブリョフ』が 最初に見たタルコフスキーの映画だった。 初めて聞く名前の監督であり、何の予備知識もなかったが、何かありそうだ という予感をもって見に行ったその映画は、モノクロ・フィルムである上に、暗いタッチの映画だった。しかし、その時に受けた深い感動は忘れられない。それは、私の心の中にも暗い気分が満ちていたから だったかもしれないが、さらに タルコフスキーに ゲルツェンの姿が重ねあわせられたからでもあった。



アンドレイ・ルブリョフ『三位一体』
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xtrinity.htm


 けれども、アンドレイ・ルブリョフの代表作とされるばかりでなく、ゾートフによれば「中世ロシア・ルネサンス美術の最高傑作である」とされるイコン画『三位一体(トローイツア)』 を見ると、そこには 輝くような平和な光と、透明感あふれる 慈愛の気分が満ちている。それは 彼よりも1世紀前のイタリアの画家・ジョットーが パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂や アッシジのサン・フランチェスコ聖堂に描いた、心を洗うような清澄な壁画を髣髴とさせよう。それなのに、映画の中のルブリョフは、なぜ こんなに暗いのだろうか。

 「フェオファン 1405年」で描かれるエピソードは、ノヴゴロドのスパース・プロブラジェーニエ聖堂の フレスコ画を描いた画家、フェオファン・グレーク (1350 頃-1410 頃) の助手を ルブリョフが勤めた、という史実にもとづいている。フェオファンとは 名前が示すように もともとギリシア人(グレーク)であり、本来はテオファネスという。ジョットーにとっての師・チマブエにも相当するフェオファンは、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)からロシアにやって来て、ビザンチン絵画の技法をロシアに伝えた。ルブリョフは 彼の壁画制作に協力しながら、写実的であるよりは象徴的な その方法を身につけ、さらに それをロシア化する。

 その天上の世界のような 清らかで純粋な感覚表現によって、ルブリョフは中世ロシア最高の画家と讃えられるようになるのであるが、映画の このエピソードは、まだルブリョフがフェオファンの助手となる前を描いている。

 ルブリョフの競争相手でもあった修道士 キリールが、フェオファンのアトリエを訪ねる場面がある。彼が モスクワの街を歩いていくと、その背後で「おれは無実だ!」と叫ぶ男が 無理やり断頭台に かけられようとしている。その騒ぎを家の中で聞いたフェオファンは、「やめなさい、一体いつまで その男を いじめるつもりだ。あんたたちも 彼に劣らず罪人なのに、裁くとは恥知らずだ」と、窓から叫ぶ。映画全体のストーリーとは関係のない、こうした場面を挿入するというのが、この映画全体の手法であって、この場面ひとつでも、当時のソ連支配層(スターリニストたち) の禁忌にふれただろうことは 容易に想像できる。

 さて、フェオファンは職業的な画家であったから 宗教に対して自由であったが、ルブリョフは修道士としての画家であったから、画家である以前に 宗教的な倫理に従わねばならない。タルコフスキーは そこに 屈折した魂の軌跡を想像して、そうした彼の苦悩を この映画の根幹にすえた。

 次のエピソード「アンドレイの苦悩 1406年」において、民衆とは いかなるものかについて、ルブリョフとフェオファンに議論をさせるのである。フェオファンは、「人間は忘れっぽい動物だ。過去の失敗を忘れて 悪行をくり返している。進歩なんてものは 全然ない。イエスが再臨しても、また磔(はりつけ)にするだろう」と言う。

 ルブリョフの脳裏をよぎるのは、十字架を背負い 押しつぶされそうになりながら ゴルゴタの丘を登っていく イエスのイメージである。ユダヤの民衆にも 弟子にも裏切られて、雪のロシアで磔刑につくイエスの映像は、ルブリョフの晴朗な『三位一体』のイコン画と比べて、いかにも沈鬱である。民衆は「みんな同じ愚かな仲間なんだ。悪は至る所にある。わずかな金で裏切る人間もいる。大衆は災難続きだ。それでも彼らは黙々と働いている。不平も言わず、十字架を背負って歩いているんだ。イエスは死を選んだ。それは人の世の残酷と不正を教えるためだ」とルブリョフは言う。

 そして映画は「襲来 1408年」のエピソードで、モスクワ大公兄弟の争いに乗じて攻め込んだタタール軍による、ウラジーミルの襲撃と殺戮を描く。後にゲルツェンの流刑地となる ウラジーミルの町である。 "タタール" とは、中国では韃靼人と呼ばれた モンゴル系の遊牧民で、彼らは 14、15世紀にたびたびロシアを攻撃し 支配した。このタタール族に蹂躙された時代を、ロシア史では "タタールのくびき" と呼ぶ。ウラジーミルの町は焼かれ、大公と市民が たてこもるウスペンスキー大聖堂も破壊されて、暴行と殺戮が行われる。

 その時、犯されそうになった白痴の娘を助けるために、ルブリョフは斧で一人の兵士を殺めてしまう。しかも その兵士はタタールではなく、タタールと結んだ大公の弟軍のロシア人同胞、キリスト教徒だった。



映画『アンドレイ・ルブリョフ』のチラシ


 戦のあと、廃墟のようになったウスペンスキー聖堂で、亡霊として現れたフェオファンに ルブリョフは言う。「私は決心した、私は絵を捨てる」と。なぜ、との問いに、人を、ロシア人を殺めたからだ と答える。フェオファンは「悪は 人間の形でこの世に現れる。だから 悪を倒すための人殺しもあるさ。神は許して下さるだろう。だが 己を許すな。罰しながら生きるのだ。すべきことは、聖書にあるとおりだ。"善をなすことを覚えよ、真実を探せ。悩むものを救え、孤児にやさしくせよ。そうすれば、お前の罪は軽くなるだろう。罪に汚れたその身も、雪のように潔白となろう" と書いてある」と言って、自分に厳しくなりすぎないよう 求める。しかしルブリョフは きかず、「許しを乞うために、無言の行に入る。これからは、一切 口をきかない」と答える。その無言の行の実践を描くのが、映画の次のエピソード「沈黙 1412年」である。

 この寓意は何だろうか? 私には、戦争中の林達夫 (1893-1984) の "沈黙" が思い出されるのである。国家が 太平洋戦争の総力戦へと突き進むにつれて、かつての社会主義者はおろか、自由主義者でさえも大政翼賛会に身をゆだねて、"神国日本" が "鬼畜米英" を倒すのだと 戦争を謳歌するとき、正気のある人間だったら、沈黙するほかはない。当時、林達夫がマイナーな雑誌の片隅にわずかに書き残した文章は、こう語っている。


 こうして私は、時代に対して 完全に真正面からの関心を喪失してしまった。 私には、時代に対する発言の大部分が、正直なところ 空語、空語、空語! としてしか感受出来ないのである。私は たいがいの言葉が、それが美しく立派であればあるほど、信じられなくなっている。余りに見え透いているのだ。私は、そんなものこそ有害無益な "造言蜚語" だと、心の底では確信している。 救いは絶対に そんな美辞麗句からは来ないと断言してよい。(「歴史の暮方」)

 友人だとばかり思っていた学者や知識人が、軍国主義になだれ込んでいく。 数年後に戦争に負ければ、たちまち手のひらを返して "平和主義者" になる連中なのだが。


 私は あまりにペシミスティックなことばかり 語ったかもしれない。だが、正直のところ、哲学者ならば、プラトンのように ユートピアを書くか、ボエティウスのように『哲学の慰め』を書くかする外には手がないような時代のさ中にあって、威勢のよいお祭りに、山車の片棒かつぎなどに乗り出す気などは 一向に起こらぬ。絶壁の上の死の舞踊に参加する暇があったなら、私ならば エピクロスの小さな園を せっせと耕すことに努めるであろう。これは現実逃避ではなくして 生活権確保への 行動第一歩なのである。(「新スコラ時代」)

 戦争中、彼は庭造りに精をだしたが、言論人としては 全く沈黙した。それが本当の 知識人の良心というものだ。戦争中の日本の建築家たちが どのような発言をし、どのような図面を書いたかは、今度の藤森照信の『丹下健三』に詳しく書かれている。文化人たちが 良心を裏切って権力に迎合する そうした状況は、帝政ロシアの時代にもあった。そして、革命後のスターリン・ロシアの時代には一層、そうであった。タルコフスキーは、それを中世におけるイコン画家の行為によせて、シンボリックに描いたのである。この映画には、中世の時代に見せかけながら、ソ連の窒息しそうな社会体制に対する批判が 至るところに込められている。そう、これこそ ゲルツェンの仲間の歴史家・グラノフスキーの方法だったのである。

 ルブリョフはフェオファンに問う、「こんな時代が 一体いつまで続くんだ?」と。フェオファンは、「分からん、永遠にだろう」と答える。ロシアの暗黒の中世も、近世の帝政時代も、そして近代のソ連邦の時代も、さらにまた 我々が生きる現代も、歴史は永遠に繰り返し続ける。歴史家グラノフスキーは モスクワ大学公開講座で、暗い中世を論じながら、それを 19世紀の帝政ロシアと重ね合わせて、黙示的にツァーリズムを批判した。タルコフスキーは 『アンドレイ・ルブリョフ』において、中世ロシアと帝政ロシアと、さらに 20世紀のソヴィエト・ロシアとを重ね合わせて描いたのである。



映画『アンドレイ・ルブリョフ』の飛翔シーン
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xflying.htm

 この映画が ソ連で上映禁止になり、5年もの長きにわたって お蔵入りしたのは 当然のことであったと言える。言論を抑圧する側を 最も刺激したのは、おそらく冒頭の「プロローグ」であったろう。これもまた 本編の筋とは何の脈絡もなく挿入されている 幻想的なエピソードである。

 川に面した とある古い聖堂に、追手の追撃を逃れてきた男が着くと、すでに用意されていた熱気球に乗って、聖堂の屋上から 空中に飛翔するのである。驚愕した人々が見守る中で、何者とも知れぬ "飛ぶ男" は、「俺は飛んだ、俺は飛んでいるぞ」と歓喜の叫び声をあげる。しかしそれも束の間、まもなく気球は破れ、男は地面に墜落して崩れ去るのである。

 人は、抑圧の現実世界を脱して、自由の世界へ飛翔しようと 夢見る。しかし 現実の絆や権力による束縛は強く、自由は容易に得られない。たちまちのうちに 包囲網にからめとられ、沈黙させられてしまう。事実 タルコフスキーは、この映画をつくったことによって、その後の5年間を沈黙させられたのである。ソ連では 映画はすべて官製であったから、当局の許可がなければ映画を撮ることはできない。フルシチョフによるスターリン批判 (1956年)があっても、強固な体制は簡単には変わらない。"飛ぶ男" のシーンは、タルコフスキーによる "内面の叫び" のような 体制批判だったろう。

 私はまた、現代日本の流行歌手の中で、唯一 聴くことを好む 中島みゆき (1952- ) の歌に 思いをはせる。「この空を飛べたら」という 彼女の作詞・作曲になる "自由への希求" の歌は、『アンドレイ・ルブリョフ』の この場面に触発されて作られたのではなかろうか。


"空を飛ぼうなんて 悲しい話を   いつまで考えているのさ "
" 暗い土の上に 叩きつけられても  こりもせずに 空を見ている "
" ああ 人は 昔々 鳥だったのかもしれないね  こんなにも こんなにも 空が恋しい"

 この映画のずっと後、私はもう1本、"飛ぶ男" の映像を見ることになる。 それはフランスの太陽劇団を率いる アリアーヌ・ムヌーシュキン(1939- )が脚本・監督をした『モリエール』であって、そこでは "自由への希求" が いとも たやすく実現されていた。1983年 8月 6日、岩波ホールで それを見た日の日記には、こう書いてある。


 映画『モリエール』の初日。素晴らしい映画だった。4時間という長さに、終りの方は少々沈んでしまったが(それが宮廷を舞台とするようになったからか)、とりわけ 前半は感動的で、思わず 涙ぐんでしまうほどだった。それは ストーリーが感動的だったわけでもなければ、悲嘆の場面があったわけでもない。その演劇的で祝祭的な映像空間と、そこで繰り広げられる遠い時代の人間たちの夢と希望の燃焼が、あまりにも美しかったからである。

 汚い街角の大道芸人たちによる いかがわしい祝典の頭上を、いかつい人造の翼をつけた "飛ぶ人間" が出現した時には、あの『アンドレイ・ルブリョフ』の冒頭シーンを思い出した。そして、こちらは失敗もせず、軽やかに、自由に飛び続けるのである。

 中世と 帝政ロシアと ソヴィエト・ロシアを重ね合わせた、暗い社会の谷間に "飛ぶ男" は墜落し、神を恐れぬふとどきもの と捕えられるモノクロの映像に比べて、極彩色のモリエールは まさしくルネサンス人、青く澄み切った空を背景に "飛ぶ男" は、社会の絆、運命のいましめを断って、自由の未来をめざして飛び立っていくのである。  Oh, Liberté ! Oh, Liberté !



映画『モリエ-ル』の 飛翔シーン
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xmoliere.htm


 王政を倒して 共和制を実現させた実績感に裏打ちされて、フランス人には 未来への自信と楽天性があるのだろうか。その反対にロシアは デカブリストの乱以来、絶えず改革運動がつぶされて 抑圧の重みに押しつぶされてきたから、ロシアの文学、芸術には 常に悲劇性がつきまとう。ロシア文学に登場する人物たちには、というより ロシアの芸術家たちには、しばしば 人類の苦悩を一身に背負っているような趣がある。トルストイもそうであったし、ドストエフスキーも、画家のイワーノフもそうであり、そしてタルコフスキーもまた その最後の作品となった『サクリファイス』において、そうであったように見える。

 ところで、『アンドレイ・ルブリョフ』の飛翔シーンの舞台となった聖堂は、落合東朗の『タルコフスキーとルブリョフ』(1994年、論創社刊)にも書いてないのだが、ウラジーミル郊外の ボゴリューボヴォにある、

「ネルリ河畔のポクロフ聖堂」 (1165年)
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xnerl.htm


である。 初期ロシア建築の傑作と うたわれている珠玉の聖堂だが、さらにまた不思議なことには、『ロシア建築案内』にも この聖堂は紹介されていない。

 このネルリ河は雨季に増水して、聖堂の敷地は小さな島のようになる。水面に姿を映す白亜の聖堂は、小規模ながら凛とした気品をたたえている。きっとタルコフスキーは、ロシアの古典建築の中でも、とりわけ この聖堂が好きだったのだろう。映画では "飛ぶ男" から見た、聖堂の高い位置の壁面彫刻も写されている。

 しかしながら、この映画で誰もが一番感動するのは、最後のエピソードであろう。そのタイトルは「鐘(コロコル)」という! あの日、映画を見ていて、このタイトルが出てきた時、私は思わず ゲルツェンの「鐘(コロコル)」誌 を連想したのである。

 モスクワ大公は 新しい聖堂のために、鐘造りの職人を さがさせた。ところが 疫病によって職人の親方たちは 皆死んでしまっていた。しかし 鋳物師の息子だった少年・ボリースカは、自分は父親から 鐘造りの秘密を教わっている、と嘘をついて、鐘造りの責任者の地位を獲得する。嘘がばれたら どうしよう という恐怖心と戦いながら、彼は必死で鋳型に使う 特上質の粘土を探し、大勢の職人たちに采配を振るって鋳型を造り、十分な量の銅と銀を用意させ、ついに火をいれて流し込む。
 奇妙なことに、このエピソードでは 少年・ボリースカが主人公であって、ルブリョフは脇に退いてしまう。無言の行を続けているルブリョフは、時々傍らから 気遣わしげに ボリースの悪戦苦闘を見守っているだけだ。

 ようやく 鐘は ひび割れもせずに できあがり、鋳型をはずすと、大公や外国の使節たちが訪れ、その衆目の前で鐘を吊り上げて、初めて鳴らしてみせる時が来る。この大鐘を吊り上げるには 巨大な足場を組み、四方八方にロープを張って、大群衆が力をあわせて引く。しかし外国の賓客は、「聖母マリアに誓って言うが、この鐘は鳴らんよ。これは鐘などと言えるものではない」とつぶやく。

 誰もが 不安の気持で注視する中、撞木を振って打ち当てると、鐘は 堂々たる音を立てて、みごとに鳴るのである。激しい緊張感が破れるとともに 感極まった少年は、野に倒れこんで泣きじゃくる。その時ルブリョフが現れて、父親のように少年を抱え起こし、初めて沈黙を破って、「泣くな」と言う。

 ボリースカは「父さんは 秘密を教えてくれなかった。ひどい親さ」と言いながら 泣き続ける。ルブリョフは、「立派にできたじゃないか。何を泣くんだ、祝うべき日だぞ。さあ、もういい、元気を出せ。もう泣くな、私と一緒に行こう。 私もまた絵を描く。お前は鐘を造れ」と 声をかけ続ける。画家、アンドレイ・ルブリョフの復活である。

 ここで不意に画面はカラーとなり、「エピローグ」として、ルブリョフが描いた イコン画のディテールを なめるように映し出していく。



アンドレイ・タルコフスキー (from website "Nostalghia com")


 こうして映画を見終わった時、私は、この監督は必ずや ソ連から亡命するだろう と直感した。これほど批判精神に満ち、自由への希求を持ち続ける芸術家が、いつまでもソ連にとどまっていられるわけもない、と思ったのである。タルコフスキーは、まさに映画上の ゲルツェンだと思われた。

 たとえば、この最後の 鐘のエピソードが いかに感動的であろうと、映画全体の筋から言って、いかにも唐突である。アンドレイ・ルブリョフの生涯を描く上で、不可欠のエピソードであったとは、とうてい思えない。タルコフスキーがこのエピソードを 強引に最終章にいれたのは、鐘を鳴らせたかったのではないか。ノヴゴロドの "自由の鐘" を。ゲルツェンが ノヴゴロドの鐘を鳴らせようと 「コロコル」 誌を発行したように、タルコフスキーは鐘を鳴らし、民衆(ナロード) をして、空を飛ばせたかったのではないだろうか。

 また、この映画を あらためて DVDで見て、私は思う。そもそも タルコフスキーは アンドレイ・ルブリョフという 一芸術家の生涯を描きたかったのだろうか? ゾートフが言う "ロシアの真の芸術的天才のシンボル" であるところの ルブリョフの生涯を? 彼は公式には そのように語っている。しかし、それにしては ルブリョフの芸術家としての主張や創作過程は ほとんど描かれていない。映画の最後にルブリョフの作品群が、突然カラーになって映し出されるのも、とってつけた感じがしないであろうか?

 タルコフスキーが描こうとしたのは、なによりも、人間の尊厳や 言論の自由を圧殺する ソ連の体制への批判だったのではないか。ゲルツェンが 生涯をかけて帝政ロシアを批判し、人間の自由と尊厳を回復しようとしたように。それだからこそ、この映画は当局によって 上映禁止にされたのである。

 タルコフスキーがソ連を出たのは、私の予想よりもずっと遅かった。それは、私がこの映画を見た 8年後の 1982年で、イタリアで『ノスタルジア』を撮るためだった。ゴスキノ(国家映画委員会)による攻撃のせいで、「20余年間 ソヴィエトの映画界にいて、およそ 17年のあいだ、絶望的な失業状態にあった」 というのは、まさに流刑中の建築家 ヴィトベルクのような思いであったろう。『ノスタルジア』を撮り終わったあとも 彼はロシアには帰らず、1984年に 事実上の亡命宣言をする。

 もしも タルコフスキーが その2年後、54歳の若さで死ぬ というようなことがなければ、1991年のソ連崩壊にも立会い、祖国に戻ることが あったかもしれない。しかし ゲルツェンと同じように、窒息状態のロシアを去ったあと、ロシアの大地への大いなる愛を抱きながらも、彼は2度と再び祖国の土を踏むことは なかったのである。

 しかし、ロシアに いたたまれなくなって ヨーロッパに亡命していながら、ヨーロッパにもまた絶望せざるをえなかった心情がまた、ゲルツェンとタルコフスキーに共通であろう。亡命宣言の後、二人とも2度とロシアの地を踏むことはなかったが、しかし ヨーロッパに安住の地を見出したわけではなかった。彼らの心は たえず祖国 ロシアに向けられていた と言っていい。

 中国の文学者・巴金 (1904-2005) は "文化大革命" 時に批判され、暗黒の時代を生きたが、その間 ただひたすら ゲルツェンの『過去と思索』を読み、訳しながら耐えたという。ソ連で、映画を作ることを妨げられて 長い不遇の時を過ごしていた タルコフスキーもまた、『過去と思索』を読み、国家によって作品の実現を妨げられた ヴィトベルクの生涯に、自己を重ね合わせていたのではないだろうか。それが『アンドレイ・ルブリョフ』の構想のもとになったのではあるまいか、と思われてならないのである。



映画『ノスタルジア』のチラシ


 タルコフスキーがロシアを出て 最初につくった映画は、イタリアを旅するロシアの詩人(これが どうしても "亡命ロシア人" のように見えてしまうのだが)の心象風景を 詩的に描いた『ノスタルジア』である。この映画のラスト近く、イタリアの ロマネスク − ゴチックの聖堂と ロシアの農村風景が重ねあわされる幻想シーンは 美しく、感動的だった。(これも 亡命ロシア人の "望郷の念" を描いているように映る。)

 その聖堂とは、イタリア中部のトスカナ地方に 廃墟として残る、サン・ガルガーノの シトー会修道院聖堂である。これはイタリアを代表する シトー会修道院建築として名高い カザマリの修道院の分院で、聖堂の建立は 13世紀であるから、母院と同じように ゴチック様式で建てられた。しかしシトー会の修道院は、修道士の観想を妨げるものとして すべての装飾的なものを拒否しようとしたから、尖頭アーチをはじめとする ゴチックの建築言語を用いていても 、後期ゴチックのように骨ばっていず、柱頭彫刻もなく、壁が多い瞑想的な建物となるがゆえに、その建築の性格は 著しくロマネスク的となる。

 また、映画に出てくる もうひとつの聖堂のクリプト(地下聖堂)は、ローマに近い ラツィオ地方の トゥスカーニャにある 聖ピエトロ聖堂のもので、これは純然たる 11世紀のロマネスクである。こうしたロマネスク建築や シトー会の修道院が、タルコフスキーの映画には しっくりと調和する。そこにはルネスンス以後の建築に見られない 深い精神の充足があり、魂の内面に降りていくような 深い静寂がある。それはバッハの音楽のもつ、いわば "抑制された歓喜" ともいうべき性格と同一のものだ。タルコフスキーが これらの聖堂やクリプトを映画の舞台に選んだのは、必然だったと言えよう。私にとってタルコフスキーの映画は、バッハの音楽と ロマネスクの建築と 切り離しがたく結びついている。

 再び 中島みゆきにふれると、かつての彼女の歌は、通常のポピュラー音楽とは異質の 深い内面性に彩られ、バッハの音楽にきわめて近いものであった。その言葉と音の流れは しばしば バッハのカンタータを聴いているような思いにさせるが、彼女の最高作というべき「異国」と「エレーン」は、あたかも "亡命日本人" の "望郷の歌" のように聞こえる。シュヴァイツァーは 長大なバッハの評伝において、バッハの音楽の本質を "晴れやかな死への憧れ" と書いたが、そのことは タルコフスキーの映画にも、中島みゆきの(ロックではない、バラードの)音楽にも言えるような気がするのである。

  
トゥスカーニャの聖ピエトロ聖堂
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xtusca.htm
ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/xtuscania.htm

 ところで 建築家のヴィトベルクは、「救世主聖堂」のコンペにおいて 新古典主義様式を採用した。それが私には 釈然としないところであった。ゲルツェンが描いたような神秘主義者であり、精神の深みを求めたヴィトベルクに、"アンピール(帝国)様式" とも呼ばれる ナポレオン帝政下の建築様式が ふさわしかったとは思えない。今回 インターネットで彼の図面を見出して意外な感に打たれたのである。

 ヴィトベルクは ロシアから外に出たことがないので、そして ロシアには ロマネスク建築がないので、ロマネスク様式に親しむことは なかったことだろう。しかし、もしも彼がヨーロッパを旅していれば、必ずやロマネスクの聖堂に、彼の性格と一致するものを 見出したはずである。

 彼は最初に手がけた大聖堂でつまずいて、そのまま朽ちていってしまったから、ゲルツェンやタルコフスキーのような 亡命体験を もたなかった。ヨーロッパに亡命すれば、それまでの "西欧派" も、近世ヨーロッパの欠陥を まのあたりにすることになり、それが さらに感覚と認識の深みをもたらしたはずなのだ。

 ゲルツェンがヨーロッパに絶望して、異国の地にありながら ロシアに目を向けなおしたとき、そこにロシアの農民を見出し、1861年 11月の『コロコル』誌に、初めて "ヴ・ナロード"(Going to the people, 人民の中へ)と書いたのである。

 ヴィトベルクは アレクサンドル帝の時代に、ロシアの偉大さを讃えるモニュメントとしての「救世主聖堂」を設計した。そこに付与された性格は、彼に影響を与えた 新古典主義の建築家、ルイ・エチエンヌ・ブレが最も好んだ語 "SUBLIME"(崇高さ)であったろう。しかしアレクサンドルのあとに帝位についた ニコライが支配するロシア帝政には、深く絶望したはずである。したがって、もしもゲルツェンやタルコフスキーのように ヨーロッパに亡命して、「救世主聖堂」を設計し直したとすれば、それはきっと、新古典主義ではなく、ロマネスク様式に近いものであったにちがいない と思う。


*  *  *  *

 私はこのサイトで、時代に虐げられ、迫害の中で 生涯身を屈することなく生きた、ロシアの芸術家たちを描こうとしてきたのであるが、タルコフスキーの映画を論じたついでに、もう1本の古い映画を紹介しておきたい。それはロシアではなく、ポーランド映画である。

 ポーランドの映画監督といえば、アンジェイ・ワイダが最も名高いが、私にとってワイダは『地下水道』でも『大理石の男』でも、"出来事" を描いた監督という印象が強い。ロシア文学のように 人間の内面をより深く描いたのは) イェジー・カワレロウィッチ (1992-2007) ではなかったろうか。私が見た記憶のある彼の作品は、『尼僧ヨアンナ』(1961)、『夜行列車』(1965)、それに『戦争の真の終り』(1957) の3作である。1922年生まれというから、タルコフスキーの 10歳上になる。その後 日本では あまり名前を聞かないが、実際には創作活動を続け、2001年には シェンキェヴィッチの『クオ・ヴァディス』(河野与一訳、1979年、岩波文庫)を映画化したらしい。

 私が見た 3作の内、『尼僧ヨアンナ』と『夜行列車』は 時々名画座などで上映され、ビデオも出ていたから 見た人も多いと思うが、『戦争の真の終り』は ほとんど 知られていないのではないだろうか。私にとって 彼の作品の中で この映画が一番印象深かったのは、映画の主人公が 建築家だったからである。それも、ヴィトベルクと同じように 悲運の建築家なのだった。

 回想シーンで描かれる主人公は 若く、将来を嘱望される建築家で、美しい妻をもらい、洋々たる前途に輝いていた。ところが、第2次世界大戦が勃発し、ドイツ軍とソ連軍がポーランドに侵入して領土を分割すると、運命が一変する。

 彼は出征して捕虜となったのか、あるいはユダヤ人としての受難であったのか、ナチスの強制収容所に入れられて、絶えず虐待を受け、精神に失調をきたすのである。夫を待ち続けた妻も、ついに 彼が死んだものとあきらめ、新しい人生を生きるべく 別の男と愛し合うようになっていた。そこへ突然、廃人のようになった夫が帰ってくると、妻は とまどう。 仕事もできず、時々 てんかん性の発作をおこす夫を、全面的に受けいれることはできない。その妻の態度がまた 彼の症状を さらに悪化させ、ほとんど口のきけない 唖者のようになってしまう。

 彼の回復に期待をかけた4年の後に、彼女はあきらめ、恋人と新しい家庭を持つために、夫の建築家を 廃疾者として田舎に住まわせることを決心する。 それを知った夫は、出かける妻に そっと紙切れを渡す。歩きながら妻がそれを見ると、「私を捨てないでおくれ」と書いてあるのだが、しかし彼女は気持を変えない。それを察した夫は、家人の留守中に 屋根裏部屋で首を吊って死んでしまうのである。 戦後4年、これが "戦争の真の終り" だった、という映画である。



映画『戦争の真の終り』建築家のアトリエのシーン

 この場合の建築家は、特に自由のために戦った というわけではないが、過酷な運命に翻弄されて 悲惨な結末に導かれていった。私がこの映画を見たのは まだ学生時代、封切りではなく、ポーランド映画特集か何か ではなかったかと思う。まだ建築家の卵にすぎなかったのに、なぜか 身につまされるものを 感じてしまったのである。(あとで わかったのだが、この映画は 1965年 8月に、新宿と銀座のアート・シアターで公開された。)

 映画の中の この建築家は、特に気分の良い日には、いかにもヨーロッパの建築家らしい、画家のようなアトリエで、住宅のスケッチ・プランなどを作っていることがある。そこへやってきた妻は、口をきけぬ夫の前で ひとりごとのように言う。

 「今でも町を歩いていて、昔 あなたが設計した住宅の前を通りかかると、思わず立ち止まって、ずっと眺めていることがあるわ」 と。

 自らの意思ではなく、外力によって、設計したくとも設計できない状態に 突き落とされてしまった 建築家や映画作家の姿、それが 最も うら哀しい姿で描かれていたのが、この映画だった。若い私は、なぜか そこに 自分の未来の姿を投影してしまったのである。後に、マフィアによる仕事の妨害は、それを現実のものとするのであるが。

ttp://www.kamit.jp/19_gerzen/rublyov.htm


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アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー
『アンドレイ・ルブリョフ』に関して

私は、アンドレイ・ルブリョフ、15世紀の偉大なロシアの画家の映画を作りたいのです。

私は、創造者の人格と彼が生きた時代との関連に興味があります。生まれ持った感受性のおかげで、画家は自分の生きる時代のもっとも深い意味を理解し、この意味を全き形で提示することができます。この映画は歴史映画でも伝記映画でもありません。

私は画家の芸術的な成熟の過程と、彼の才能を分析する過程に、すっかり魅了されています。

アンドレイ・ルブリョフの作品は、ロシアのルネサンスの頂点を記録しています。
ルブリョフは私たちの文化史でもっとも傑出した人物のひとりです。
彼の人生と芸術はけたはずれに豊かな素材を含んでいます。

台本づくりに着手する前に、私たちは歴史資料とスケッチを研究しました。
もっぱら、映画で見せることができないのは何かを決定するためにです。
たとえば、私たちは時代様式に、つまり、衣装や風景や言語に、限られた興味しか持っていません。

映画での出来事が実際に15世紀に生じているなと思わせようとして、歴史的な細部にこだわると、観客の関心がそれてしまいます。

時代臭さのない室内装飾、時代臭さのない(しかし適切な!)衣装、風景、現代の言葉ーこうしたことすべてが、もっとも重要なことだけを表現する助けになるでしょう。

映画はいくつかのエピソードで成立しますが、直接論理的に関連づけされてはいません。

しかし、すべてのエピソードは共通の思考の流れで内的に関連することになります。

挿話が年代順に並べられるかどうかはまだ分かりません。

私たちは、エピソードのドラマツルギーが三位一体の壮大なイコンを創造する理念を生み出す頃のルブリョフの人格の進化を内的に暗示するものと首尾一貫させたいと願っています。

それと同時に、正典的な制限とその型どおりの論理と形式を伴った伝統的なドラマツルギーを避けたいと思っています。

それらは、典型的な障害で、生の十全さと複雑さを表現するのを不可能にするものです。(中略)


芸術家を題材にした映画は時々こんなようになってしまいます。

つまり、主人公が何らかの出来事を目撃する、そして観客は彼が熟慮に沈むのを見守る、最後に彼は自分の思いを作品に表現する。

私たちの映画でルブリョフがイコンを描く場面はありません。

彼は人生を生きていくだけです。

エピソードのすべてに登場するわけでもありません。

映画の最後の部分、そこだけはカラーで撮影するつもりですが、そこはルブリョフのイコン画に捧げられます。

イコンしか映しません。

ドキュメンタリーのように、細かいところまで、きちんと見せるつもりです。

イコン画が映されるたびに、同じ音楽のテーマが流れます。
そのイコンの理念が現れる時代に対応するルブリョフの生の局面で鳴り響いたテーマです。

映画のこのような構造は、その目標から必然的に導き出されます。

つまり、人間性の弁証法を提示して、彼の精神の生を検証したいと思うのです。


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 このインタヴューは、『アンドレイ・ルブリョフ』製作の初期の段階でなされた。

 若々しく、新たな理念に燃える監督の姿が鮮やかに映されている。

たぶん、この時期に、自分のこのような試みが多くの反発と猛烈な批判を生み出すとは思っていなかっただろう。

撮影は困難を極め、同志コンチャロフスキーとの反目、そして決別が待っている。
追いつめられた彼は命を削るような撮影を決行して、農民に文字通り殺されそうになる。

映画は完成しても5年間上映禁止になる。

無断でフランスの映画会社が出品したカンヌで国際批評家大賞を受け、そのためにソ連国内で立場はますます追い詰められる。

 しかし、そこから出会いも生まれた。

『アンドレイ・ルブリョフ』を見たクラウディオ・アバドは感激して、後に自分の指揮するムソルグスキー『ボリス・ゴドノフ』の演出を依頼し、実りある友情が始まったのだった。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/rublov.html


Tarkovsky on Tarkovsky 『アンドレイ・ルブリョフ』


映画の最も重要な慣例のひとつは、映画のイメージは私たちが見聞きする実際の、自然の、生きた形態でのみ体現できるということだ。

私たちが提示するものは自然主義的でなければならない。

私が自然主義と言うとき、実在の不愉快な側面に執着するという否定的な意味ではなく、映画的なイメージの感覚知覚におけるその役割という意味だ。

スクリーンに描かれた夢は、生そのものの自然の形態と同じように明確に目に見える要素で構成されていなければならない。

映画はルブリョフに関するものです。

…しかし私たちにとって映画の真実の精神的なヒーローは、ボリスカです。

映画の狙いは、非常に困難な時代から出現する伝染性の、狂熱のエネルギーを示すことです。
つまり、そういうエネルギーがボリスカのなかで目覚めて、燃えさかり、鐘鋳造につながるのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/selfcomment.html

アンドレイ・タルコフスキー
『アンドレイ・ルブリョフ』を語る


美は、植物が種子から生長するように、悲嘆から育つ


私たちは『アンドレイの受難』と題された脚本をアンドレイ・コンチャロフスキーと書いています。

偉大なロシアの画家アンドレイ・ルブリョフの人生をあつかった映画です。

友人のなかには、戦争でめちゃめちゃにされた子ども時代の映画、どう見たって現代的な映画から、「時代物」、ロシアの中世にどうやって移ることができるのか分からないって言ってます。


別に変なところはないでしょう。

主題テーマが、利用される叙述の形式を支配するだけのことです。

素材は15世紀から引っ張ってきますが、現在の問題を語るつもりです。

私は、芸術家とその時代、当時の民衆との絆に興味があります。

私は芸術の力に関する自分の見解を述べてみたいと思います。


ルブリョフは彼の作品において人間性の偉大な理想を称えています。

友愛の理念、人間の連帯が映画で最も重要なものになるでしょう。
真に偉大な芸術は時とともにますます貴重になります。

どれほど多くの人の思い、感情、希望が何世紀にわたってルブリョフの絵に染みこんでいったことか、そうに違いありません! 

私はスクリーンにそういう希望を伝えたいと思います。


映画は15のノヴェッラ:小話で構成されます。

アクションはルブリョフ、ダニル・チェルニー、キリルの3人の人物をめぐって集中します。

詩的な構造は全編にわたって保持されますが、叙述の連鎖を数回断ち切ることになります。

長年、映画は劇場のドラマツルギーに依存してきましたが、今や映画芸術は詩に近づいてきています。私には、詩における探求と近代映画の探求に非常に密接な関係が見えます。

私は、アレゴリー、隠喩、直喩を用いるのを好みます。

私は、不可能に思えるものが向かい合う状況が好きです。

認識からすり抜けるように思える複数のテーマを対峙させることは、私の内部に、イメージにあふれた最も深い思念を揺り動かします。

ますます多くの映画が詩的イメージに基づいて作られようとしています。

新作で私は古典的ロシア詩の比喩体系を具体的に利用するつもりです。(1963年)

映画のアイデアは「僕の村は戦場だった:イワンの少年時代」をやっている頃にすでにあった。


自分のアイデアじゃないと認めますね。

あるときモスクワ郊外の森を散策していたんだ、私とコンチャロフスキーと映画俳優のヴァジル・リヴァーノフでね...

ちょうどそのときにリヴァーノフが3人でルブリョフの脚本を書こうと提案した。
彼はぜひ主役をやりたいと。

でも、いろいろあってリヴァーノフは脚本書きに参加できなかった。
一方私たちのほうはすっかり虜になったその企画をあきらめることはできなくなった。

私たちはずいぶんすんなりと仕事を進めた。

1年後(もう少し後か)台本の異稿が3つ出来上がっていた。

私たちはもう一度見直しをして、時代考証のさまざまなソースを恐ろしくたくさん研究しなければならなかった。

少なくとも、旧来の出来合いの考え方を捨てることができるためにね。


台本の最終ヴァージョンにかかっているときに私たちはまだどこかしっくりこない部分があると感じていた。

でも出来上がったとき私は台本が成功作であると感じることが出来た。

それから良い映画が作れると感じたから、成功なんだね。

脚本家として私は経験が浅かった。

『ルブリョフ』の前に私は2作しか仕事をしていなかった。

すべてに満足したわけではなかったが、一貫性、首尾の統一の印象はそれが良い作品だと示唆していた。

私がつくろうとしているまさにそのたぐいの映画にうってつけの脚本だから立派な仕事だというわけだ。

俳優、ロケ地、カメラマンの貢献をあてにしているけど、この脚本は私たちの仕事を最後まで導いてくれる主導テーマを含んでいる。

当然、シーンを追加しますよ、省くシーンもあるだろうし、ただ土台はしっかり出来上がりました。


「この映画で私が何を言いたいのか」という質問に答えるなら、おおまかなことしか言えません

芸術と民衆との絆について直接何か述べるつもりはありません。

これはまあ、明らかでしょう。

脚本に明確に出ていると私は思います。

私は、自然の美を探り、美というものは、種子から植物が生長するように、悲劇から、災厄から育つことを観客に気づいてもらいたいとは願っています。

私の映画は美しい、族長的な古いロシアをめぐる物語にはならないでしょう。

私の願いは、輝かしく驚異に満ちた芸術が隷属、無知、文盲の悪夢の「続き」として出現することがどのようにして可能であったのかを示すことです。

私はこうした相互依存の関係を見つけだし、この芸術の誕生を跡づけたいと思います。

こういう条件が満たされたときはじめて私はこの映画が成功作だと思えるでしょう。


ここでオマール・ハイヤームの絵に触れておきましょう。

ご存じですか、薔薇の木があって、その根元に虫が何匹も食らいついているという絵を? 

しかし、死からのみ、不死は生まれるのです。

不死を理解するときに、私たちは死を理解するでしょう。

絡み合った白と黒とでも言いましょうか

そういう周期性を、生を理解する客観的で弁証法的様式と、例示の様態と共に、この映画を形作る基礎にするつもりです。

私たちはカメラマンのヴァディム・ユーソフとロケ地を選びました。
彼とは『イワンの少年時代』で既に仕事をしています。

脚本の仕事が続いている頃、ユーソフは別の映画作りに参加しました。

映画の歴史的な側面から、たくさんの人が必要な大きなシーンが求められ、そのために少なからぬ困難が生じることを忘れてはいけないでしょう。

例えば、クリコヴォ平原の戦いは省くことが出来ません。

ロシアがはじめて外国からの侵略者に対する道徳的な優越を悟る象徴になっているのですから。

ロシアが形成されるこの時代はディミトリー・ドンスキーの勝利抜きでは考えられません。

実現するのは面倒でしょうが、とにかく絶対に欠かせないエピソードです。
それは、(ロシアの王子が片棒を担いだもので、裏切りと腐敗の個人的な象徴となった)タタール人のウラジミール襲撃や、新しい鐘の鋳造のエピソードが欠かせないのと同じです。

これらのシーンはどれも小規模な解決が許されません。
こみ入った準備が必要です。(1965年)


伝記映画? 

違います、このフィルムは誰かの伝記を飾るエピソードが銀幕に再現されることはありませんから、伝記映画のジャンルに入りません。

ルブリョフの生涯を再構築することが私の意図だったのではなく、既に触れたように、私は主に人間に興味があるのです。

また過去の時代の雰囲気に興味があるのです。

しかし、だからといって時代劇になるわけじゃありません。

私の意見では、歴史的正確さは出来事を歴史的に再構築するという意味ではありません。

私たちが示したいことにとって重要なのは、それが真実味を帯びたあらゆる特性を保持すべきだということです。

俗に言う「時代もの」はしばしば、あまりに装飾過多で芝居がかっています。

異国趣味をすべて排除することも私の意識的な決定です。

エキゾチシズムは過去のものなら何でも凄いなと驚かせてそれでよしとする所まで来てしまいました。過去を含めて、すべてを通常の展望に収めて眺めるように努力しましょう![ノ]


ソロニーツィンに関して、私はただただ運が良かった。

最初、私はこの役を有名な俳優に任せることはできないと分かっていただけでした。

悪魔に憑かれたような一念が目に見えるような、強い表現力のある顔でなければならないと私は悟りました。

ソロニーツィンは、打ってつけの肉体的な外観であるだけでなく、複雑な心理過程の偉大な解釈ができる人物です。(1969年)


主役の俳優は映画に一度も出たことがない人物でなければならかった。

誰もが自分なりのルブリョフ像をもっているのだから、他の役を思い出させる人を使うことは出来ない。そういうわけで、それまで端役しかやったことのないスヴェルドロヴスクの劇場の俳優を選んだのです。

ソロニーツィンは、月刊「イスクーストヴォ・キノ」に載った脚本を読んで、モスフィルムまで自前ではるばるやって来て、自分以上にルブリョフをやれる者はいないと宣言したのです。

スクリーンテストをして、実際、はまり役だと私も納得しました。


『アンドレイ・ルブリョフ』をカットした者はいません。私以外にはね。

自分でいくつかカットをしました。

第1版で映画は3時間20分でした。第2版は3時間15分。

私は最終版を3時間6分まで短縮しました。

最後の版がベストで、もっとも成功していると私は確信しています。

長すぎるシーンをカットしただけです。
観客はそれらがないことにも気づきません。

カットは主題を変えてもないし、私たちにとってこの映画で重要であるものを変えてもいません。

言い換えると、意味のないひどく長いシーンを省いたのです。

観客に心理的なショックを引き起こすために野蛮なシーンをいくつか短縮しました。

ただの不愉快な印象を引き起こすためではありません。

それでは私たちの意図が台無しになります。

長いディスカッションの間カットするように忠告してくれた友人と同僚みんなの判断は、結局正しかったのです。

それを理解するのにしばらく時間が必要でしたがね。

最初私は、彼らが私の創造的個我を抑圧しようとしているのではないかと思いました。

後になって、私はこの最終版が私の要求以上の成果を挙げていることを理解しました。

だから映画が現在の長さに短縮されたのを全然後悔していません。[ノ]


画家のように色彩のハーモニーに敏感でない限り、日常生活で色彩に注目することはない。

例えば、私にとって映画のリアリティは白黒の階調に存在しています。

しかし『ルブリョフ』で私たちは生とリアリティを一方では芸術と関連づけ、もう一方でその絵と関連づけなければならなかった。

最後の色彩のシークェンスとモノクロフィルムの間の、このような関連は、私たちにとってルブリョフの芸術と彼の生の相互依存を表出する方策でした。

言い換えると、一方で、日常生活が合理的に現実的に提示され、他方でー彼の生を因習的な芸術で総括をして、次の段階で、その論理的な継続が来る。

アンドレイ・ルブリョフの壮麗なイコンをそんな短い時間で示すのは無理です。
だから私たちは選び抜いた細部を呈示し、観客を細部の断片の連続から、ルブリョフの至高の創造である、あの名高い「三位一体」のフルショットまで導いて、彼の仕事の全体像の印象を創造しようと努めました。

私たちは色彩のドラマツルギーのようなもので観客をこの作品まで導き、印象主義的な流れを創造し、観客が断片から総体へと移動するように願いました。

色彩のフィナーレは、およそ250メートルのフィルムを占めますが、観客に休息を与えるために必要だったのです。

モノクロームの最後のシーンが終わるとすぐに観客が映画館を出ていってほしくなかった。

観客は、ルブリョフの生から自らを引き離し、省察する時間を与えられるべきなのです。

私たちの狙いは、色彩を眺めながら私たちがつけた音楽に耳を傾けることで、観客が映画の全体から一般的な性質の結論をいくつか引きだして、心の中でその主要な道筋を選り分けることができるということです。

手短に言うと、観客に本をすぐに手放してほしくないんです。

もし『ルブリョフ』が「鐘」のエピソードでそのまま終わっていたら失敗作になっていただろうと思います。何としても観客を映画館にとどめる必要があったのです。

彼がどれほど偉大であったかを示すために、芸術家の生の継続のようなものを、付け加える必要がありました。

彼はそれらすべての経験を、最悪の経験を生き抜いたという事実をです。

そして、そうした体験からはじめて、彼の作品の色彩は得られたのだということをです。


こうした思いのすべてを観客に伝える必要がありました。

フィルムが雨にうたれる馬のイメージで終わることを指摘したいと思います。

私にとって馬は生命と同義であるので、象徴的なイメージなのです。馬を見ていると、私は生命そのものの本質にじかに触れているという感じがします。

もしかすると馬がとても美しい、人に優しい動物であるからなのでしょう。

それに馬はロシアの風景の特徴といってもいいでしょうから。

『ルブリョフ』には馬の出るシーンが数多くあります。

気球で空を飛ぼうとして人が死ぬ冒頭のシーンを思い出してください。

一頭の悲しげな馬は沈黙の目撃者なのです。

最後のシーンの馬の存在は、生命そのものがルブリョフの芸術のすべての源泉であったという意味なのです。(1969年10月)


原作者の特権を行使して私たちはアンドレイが沈黙の行に入るように決めました。

しかしそれは私たちが彼に同意するという意味ではありません。

それどころか、その後のエピソードで私たちは観客にアンドレイの沈黙が無意味であるということを納得させようとします。

その後の事件に直面すると、それは無駄なのです。

私たちの主人公は芸術家として何も出来ないのです。

彼は参加することが出来ないのです。

彼の沈黙は私たちにとって非常に幅広い、抽象的な、ほぼ象徴的な意味を持っていました。

アンドレイが沈黙しているエピソードで、映画の意味にとって根元的な重要性を帯びた出来事が生じます。

狂った村娘の登場人物がありますね、ブラゼナーヤです。

彼女は突然タタール人と一緒に行ってしまいます。

タタール人のひとりが好きになり、彼と一緒に行ってしまう。

狂った者だけが侵略者に輝かしく喜ばしいものを見いだすことができます。

彼女の狂気によって私たちは状況の馬鹿さかげんを強調したかった。

正気の人間ならあんなことはしないですよ。

しかしアンドレイは何か行動を起こすべきだったし、彼の責任ある立場に対するこの攻撃を許すべきではない。


なぜなら昔のロシアではブラゼナーヤは神聖な者と見なされました。

ブラゼナーヤ、ユロージヴィを侮辱することは当時大きな罪だと思われていましたから。

ところが彼は何も反応しない。

彼は誓いを守り、一言もことばを発さない。

アンドレイは他者のために立ち上がりもしなければ自分を守ることも出来ない。

ローラン・ブイコフの演じる旅芸人は、自分を警備隊に売ったのはアンドレイだと思う。

なぜなら彼が踊りながら貴族をからかった浮薄で批判的な歌を歌うのを眺める群衆の中にアンドレイがいるのを見たからです。

長い年月が経って、鞭打たれ多くの苦難を経験した流刑から帰ってきて、旅芸人は人々の面前でルブリョフを裏切りの罪で訴えます。

ルブリョフは身の潔白を証明できません。

彼は最後まで無言です。

彼は聖三位一体大寺院の壁画を描くように召喚されます。

彼はそれでも無言のままです。

彼は自分に引きこもり、自分の才能を埋もれさせて、狂人のように生きます。
何もかもが狂っている。

ルブリョフは正常な人間が行動するように行動しない。

祖国を愛する誇り高い市民が当然なすべき事をやらない。

自らの信念の力によって、鐘づくりに賭けた確信と情熱によって、ボリースカだけがアンドレイを沈黙から呼び覚まします。

強靭さ、人間の愛すべき創造力、忍耐力、そして自らの運命に対する信頼がルブリョフを罪深い誓いを破らせるように強制します。(1967年2月1日)
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/rublov2.html
メンテ
タルコフスキー 映画『鏡 1975年』 ( No.2 )
日時: 2022/05/17 05:02
名前: スメラ尊 ID:Gjda1JhU

タルコフスキー 映画『鏡 1975年』

監督 アンドレイ・タルコフスキー
脚本 アンドレイ・タルコフスキー アレクサンドル・ミシャーリン
音楽 エドゥアルド・アルテミエフ
撮影 ゲオルギー・レルベルグ
公開 1975年3月7日

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%20%E9%8F%A1?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=


作中挿入音楽

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 『オルガンのためのプレリュード』,『ヨハネ受難曲』 断章
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ 『スターバト・マーテル』 断章
ヘンリー・パーセル 『弦楽組曲』
テーマ音楽作曲:エドゥアルド・アルテミエフ

キャスト

母マリア/妻ナタリア:マルガリータ・テレホワ
父:オレーグ・ヤンコフスキー
少年時代の作者(アレクセイ)/現代の作者の息子(イグナート):イグナート・ダニルツェフ
幼年時代の作者:フィリップ・ヤンコフスキー
医者:アナトーリー・ソロニーツィン
挿入詩朗読:アンドレイ・タルコフスキー
ナレーション:イノケンティ・スモクトゥノフスキー
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)


映画のストーリー

木々に囲まれた木造りの家で母親(マルガリータ・テレホワ)はいつももの悪いに耽つていた。一面の草原にたたずむ彼女に行きずりの医者(アナトリー・ソロニーツィン)が声をかけるが、彼女は相手にしない。

息子(イグナート・ダニルツェフ)が家の中にいると、外では干し草置場が火事だと母が知らせに来た。1935年のことだった。その年、父は家を出ていった。

そして今、母からの電話で息子は夢から醒める。彼女は、セルプホフカ印刷所で働いていた頃の同僚の死を知らせてきたのだが、息子は母に夢をみていたことを知らせる。

両親と同様、彼も妻のナタリア(マルガリータ・テレホワ)と別れた。彼は、母に似たナタリアを時々母と間違える程、母への執着が強い。そしてことごとく、林に囲まれた木造りの家と母の姿を思い出す。母もナタリアも彼には哀れに感じられる。

大戦中、モスクワからユリエヴェツに疎開した時、祖父の知人をたずねて行き、宝石と引きかえにお金を借りようとし、肩身のせまい想いをした時のことなど、彼にとって脳裏に鮮かに焼きついている幼い頃のことが思い出される。そして広い草原の夕暮時を彼の子供たちが歩く。
ttps://movie.walkerplus.com/mv11186/


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『鏡』 (ロシア語:ЗЕРКАЛО [Zerkalo],英語:The Mirror) は、アンドレイ・タルコフスキーが監督した1975年のソ連映画である。

作者の自伝的要素の強い映画であるが、また同時にロシアの現代の歴史を独特の手法で描き出した作品でもある。タルコフスキーの作品において、中心をなす代表作である。

オープニング−反響の暗喩

『鏡』は、言語症の少年が回復訓練を受けているTV画面の情景から始まる。女医が話しかけ、少年は吃音でうまく話せない。女医は少年をリラックスさせ暗示を与えつつ、「ぼくは話せます」と言ってごらんなさいと指示する。女医の言葉に合わせて少年が鏡像のように言葉を繰り返したとき、彼はうまく話すことが出来る。そして同時に「鏡」というタイトルが出てくる。

このオープニングはきわめて示唆に富んでおり、ここにタルコフスキーの映画のエッセンスが表現されているとも言える。無意識のなかに確かに存在するが、何かの障害によって意識にうまく再現されない記憶・情景。このような「心の深層」のイマージュが、ある魔術的とも言える手順を通じて、この現在に、鏡に映る像のように再現され意識化される。これがタルコフスキーの映画の基本的な構造でもある。

フラッシュバックと記憶

映画はそこから一挙に過去にフラッシュバックし、作者 (タルコフスキー) の少年時代に戻る。まだ若かった母が農場の柵に腰掛けている情景が出てくる。医者だと自称する見知らぬ男 (アナトーリー・ソロニーツィン) が現れ、作者の母と意味ありげな謎めいた言葉を交わし、風の吹くなか遠ざかって行く。その過ぎ去って行く医者の姿と共に、作者の父であるアルセニー・タルコフスキーの詩を朗読する声が流れる。

『鏡』は具体的な筋や物語を持っていない。妻との離婚問題に直面し退廃的に精神の絶望に陥って行く作者の「枠物語」はあるが、ふとした言葉や出来事が映画の場面を多様な過去の記憶の情景へと引き込んで行く。現在は過去の記憶に浸透される。

様々な魅力的でもあれば象徴性に富んだ情景が、あるときは田舎の自然として、家のなかの薄暗い情景として、印象的な雪のなかの坂道を登る少年の姿として現れる。映画は歴史ドキュメンタリーの映像を挿入しながら過去と現代を交互に行き来しつつ、記憶の積み重ねとして構成されている。展開して行く映像の場面に、詩人であった父アルセニーの詩を朗読するタルコフスキーの声が重なって行く。

個人の記憶とロシアの歴史

過去と現在を往復しながら、作者であるタルコフスキーの記憶が呼び出されると共に、ロシア(旧ソ連)の歴史、過去の時代の政治状況などが描き出されている。祖父の別荘で、夜、納屋が燃えた事件。このとき以来、父は家族から去って行ったのだった。母が印刷所で校正係を務めていたとき、印刷物の校正ミスをしたかと思い、早朝に活版の文字を確認しに出かけた情景。誤植が政治的意味を持つとき、人のいのちにも関わった、スターリン独裁時代のソ連の記憶であった。

作者の部屋で、スペイン人たちが闘牛について話している。ニュース映画の映像が現れ、スペイン内戦時代の様々な情景が流れて行く。またソヴィエト最初の成層圏飛行船の成功を祝う人々の姿が映し出される。印象的な情景が幾つもあるが、そのなかの一つは、「魔術的な存在の消失」とも言える、映像の暗喩である。

一人の老婦人の要望に応え、作者の息子イグナートはプーシキンの書簡の一部を朗読する。それは、タタール(チンギス・ハーンなど)の圧倒的な破壊・暴力に対する防波堤となった、ロシア(ルーシ)のヨーロッパ・キリスト教文明史における存在意義に関する一節であった。婦人は部屋のなかのテーブルに向かい紅茶を飲んでいる。イグナートがわずかの時間席を外して部屋に戻って来ると婦人の姿は消えている。紅茶のカップも消えているが、テーブルの上にはついさっきまでカップが置かれていた痕跡があり、それが見ているなかで、湯気が消えるように見る見る消えて行く。

記憶のイマージュの交錯と交響

作者は少年時代、雪のなかの道を歩き、射的場で軍事訓練を受けたことを思い出す。再び、ニュース映像が現れ、濁った川を渡ろうとする兵士たちや、行軍する兵士たちの映像が流れる。ベルリンの陥落とヒットラーの遺体。広島・長崎の原子爆弾のキノコ雲。毛沢東語録を手にした中国人群衆が押し寄せる文化大革命のニュース。中国とソ連の国境紛争であったダマンスキー島事件の情景。そして再び、現在へと時間は戻って来る。

一つの記憶が無意識から呼び出されると、それは別の記憶を更に呼び出し、記憶と記憶が交錯し、それは現在の情景とも交錯して、複雑なこころのイマージュを形造って行く。これは『惑星ソラリス』において、まさに宇宙空間で起こったことであり、歴史大作『アンドレイ・ルブリョフ』は、15世紀のイコン画家の時代と現代のあいだで鳴り響く、歴史と記憶、イマージュの交響音楽とも言える。

タルコフスキー自身は、第二次世界大戦の戦禍のただなかで生まれ少年時代を送った。この経験と記憶が、後に『僕の村は戦場だった (原題:イワンの子供時代,Ivanovo Djetstvo)』の作品イメージの構成に影響を与えているのは自然である。また父アルセニー(オレーグ・ヤンコフスキー)がタルコフスキー母子を、ある意味で見捨てたことも、彼のその後の芸術家としての主題となって来ている。軍服を着た父が少年タルコフスキーを胸に抱くシーンでは、劇的に音楽が高まる。

また映画の後半部でもっとも重い主題となっているのは、母と共に疎開した田舎で、財政的に行き詰まった母が、手持ちの宝石を売って家計の足しにしようと、少年タルコフスキーを伴って、販売交渉に出かける情景である。美しい田園風景の記憶、そして貧しい身なりの少年であった作者が垣間見た、豊かで暖かい家庭。ここにタルコフスキーの映画世界の始源点があると言える。


エピローグ−そしてはじまり

『鏡』は、父と母がまだ若く、高緯度地方の夏の白夜の夕暮れの中、田園の草のなか寝そべって、これから(の戯れにより)産まれる子は、男の子がいいか女の子がいいかと、未来を語っている傍らを、年老いた母が、まだ少年の作者と妹の手を引いて歩いて行く。大地母神的な「ロシアの母」の本能により、(上記の)来たるべき災厄の時代、夢想家で甲斐性の無い父親から、まだ生まれぬ子等を逃れさせているようにも見える。充足感に浸っている父親の傍らで、癇の鋭い若い母親もその事を垣間見、予感しているショットが入る。

十字架の前に赦しを請う、他の男(通りすがりの医師)に心を動かした多情な母、家族の大事な宝物を売り払った母、を捨てて、もはや性の対象ではない安全な老母と、童年時代の美しい記憶に回帰している、という「エディプス・コンプレックス」的解釈もされている。

しかし、映画史に残る名場面、宝石を売りに行った家で、ランプの明りに照らされながら、少年アレクセイが鏡を見つめている有名なシーンで、彼は母を許している(彼が許している、というより、鏡に映った自己の姿・深奥を観照するなかに、「神の赦し、彼らの営みを見守る神、が顕現している。」)という、時空の秩序を越えた情景のなかでクライマックスを迎える。

かつて火事を見たとき、燃える納屋の傍らにあった井戸が、枠組みの木材が虫に蚕食されている。燦然とした光のなかで、草と花のなかで、朽ち果てた過去を背後に記憶が出会い別れ、そして新しい未来へと進んで行く。

記憶と現在−永遠と鏡像

タルコフスキーにとって、過去は記憶のなかに存在する現在であり、現在それ自身も、過去の記憶のイマージュの一つの複合である。このようにしてうつろい行く記憶のなかに「永遠」が存在している。タルコフスキー自身は「永遠」という言葉は使わないが、変わることのない何かが存在しているのであり、それは「鏡」に映る像のなかにその存在の証明を持っている。

『鏡』のなかで、父アルセニーの詩を繰り返し朗読するのは、作者タルコフスキーであるが、父と作者は鏡を通じて、互いに像となっている。母マリアと妻ナタリア(同じ俳優が演じている)も鏡像関係にあり、更に作者と息子イグナート(少年時代の作者とイグナートは同じ俳優である)も互いに鏡像となる。

タルコフスキーの「水」を中心とした自然描写の映像美は魔術的であるが、実は彼の映画の思想そのものが魔術的だと言える。遺作となった映画『サクリファイス (原題:Offret/Sacrificatio)』においては、この「存在の魔術」が、具体的に描かれることになる。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

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アンドレイ・タルコフスキー(ロシア語: Андрей Арсеньевич Тарковский, アンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキー, 英語: Andrei Arsenyevich Tarkovsky, 1932年4月4日 - 1986年12月29日)は、ソ連の映画監督である。

「映像の詩人」と呼ばれ、叙情的とも言える自然描写、とりわけ「水」の象徴性を巧みに利用した独特の映像美で知られる。深い精神性を探求し、後期から晩年にかけて、人類の救済をテーマとした作品を制作・監督する。表現の自由を求めてソ連を亡命し、故郷に還ることなく、パリにて54歳で客死する。


1932年4月4日、ヴォルガ川流域のイワノヴォ地区、ユリエヴェツの近郊ザブラジェで生れる。

父はウクライナの詩人として著名なアルセニー・タルコフスキー[1]。
タルコフスキーの幼少期に父は家を出て別の家庭を作ったために、主に母親に育てられる(この間の事情は、自伝的作品 『鏡』(1975年) に描かれている)。

この幼少時にタルコフスキーは、作曲家に成る事を夢見て居たと言われる。
赤貧のうちに育ち、芸術学校でまず音楽の勉強をしたが家にピアノが無いので練習不足で断念。次に絵の勉強を始めるが結核で一年間療養生活を送る。

東洋大学のアラビア語に入学するが一年半で中退。ちょうどアメリカ文化に影響を受けた「スチリャーガ」と呼ばれた若者が現れた時期であり、タルコフスキーはその流行の先端を行くジャズと女性が好きな不良少年となった。

心配した母親がシベリア地質調査隊に入隊させ、1953年から1年間をシベリアのタイガの森で過ごす。

その後、映画大学への進学を決意。父親の尽力もあって1954年に全ソ国立映画大学に入学。落ちこぼれだったタルコフスキーが名門のこの学校へ入学できたのは奇跡だったと友人達は証言している。

ミハイル・ロンムのもとで映画を学んで[2]頭角を現し、後にやはりソ連を代表する映画監督となるアンドレイ・コンチャロフスキーやその弟のニキータ・ミハルコフらと親交を結ぶ。アメリカかぶれは健在で3年生のときにヘミングウェイ原作の短編『殺人者』を製作。

タルコフスキーの世代は、スターリン体制が終わりを告げて西側の文化がソ連に急速に流れ込んできた雪解け期が青年期にぶつかっており、タルコフスキーもそうした文化に大きく感化されている。後に彼が書いた映画評論も、ジャン=リュック・ゴダールからルイス・ブニュエル、黒澤明、ロベール・ブレッソン、アンディ・ウォホール、フェデリコ・フェリーニ、オーソン・ウェルズ、ミケランジェロ・アントニオーニ、イングマール・ベルイマンなど西側の映画への言及が多い。

卒業制作短編 の『ローラーとバイオリン』(監督)はニューヨーク国際学生映画コンクールで第一位を受賞。1962年にウラジーミル・ボゴモーロフのベストセラー小説 『イワン』 を原作とした 『僕の村は戦場だった』に急遽代役起用され、長編映画監督としてデビューする。これは1962年のヴェネチア国際映画祭でサン・マルコ金獅子賞、サンフランシスコ国際映画監督賞を受賞。国際的に高い評価を得る。企画段階では参加していなかった作品ではあるが、「水」や「夢」など、将来のタルコフスキー作品を彩るモチーフはこの時期から現れている。

将来を嘱望されたタルコフスキーは、1962年から63年末にかけてロシアの伝説的イコン画家の生涯を描いた歴史大作映画『アンドレイ・ルブリョフ』の脚本を映画大学の後輩コンチャロフスキーと共同執筆。大作ゆえの予算不足と検閲で苦しみながら1967年に完成するがソ連当局より「反愛国的」と指摘されて、国内では5年間上映されなかった。海外では高い評価を受け、1969年のカンヌ映画祭で国際映画批評家賞受賞。ソ連では71年12月にモスクワで公開された後、地方都市でも公開されて全国で290万人を動員した[3]。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

 
▲△▽▼

アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。
父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。

『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。
ttp://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html

▲△▽▼

「魂の映像詩人〜タルコフスキー」

「僕のみる夢は、いつも同じだ。

僕が40数年前に生れた祖父の家、それが必ず再現される。懐かしい場所だ。

そして白いテーブル・クロスの食卓がある。

家に入ろうとして入れない・・・、そんな夢を何度か見た。

薄汚れた丸太の壁やよく閉まらない扉などを見て、夢だなと思うことがある。

そういう時には妙に物悲しく、目覚めたくないと思ったりする。

時に何事か起きて、あの家も、周囲の林も夢に見なくなる

夢に現れないと、僕は淋しくなる。夢を待ち焦がれるようになる。

夢の中で僕は子供にかえり、幸せを感じるのだ。まだ若いからだろうか?」

『鏡』は、タルコフスキーの作品のなかで最も難解な作品かもしれない。

なぜなら、この作品に貫かれているのは監督の内省的な自伝的要素の強い作品になっているからだ。自分の内面を見つめることさえ難しいのに、人の内面に入るのは困難なことである。

物語は父と別れた母への思いと、同じように妻と子供たちと別れてしまった『私』の回想と夢で綴られる。


母が印刷工場で誤植かもしれないと大騒ぎした日に、同僚のエリザヴェータから身勝手だと責められる。

そして、主人公も妻から「あなたは自信過剰よ。自分が存在するだけで、家族は幸せになると思っている」と母に似たような非難をされる。

自己の存在があっての世界。自己の存在があっての他者。

そうした人と人の繋がりの感情の襞が、この作品では鏡を通して語られる。


作品の冒頭近く、風に揺らぐ草原の中を通りすがりの医者が母に語りかける。

「・・・ごらんなさい。自然も素晴らしい。草も木も感じたり、認識したり、理解するのです。・・・

われわれは走り回り、くだらんおしゃべりをする。自分の中にある自然を信じないからですよ。

世俗のことばかり忙しくて・・・」と。


内なる自然、それは『神』と同義語ではなかろうか。

人間としての良心。善悪や恥に対する認識。

『惑星ソラリス』でもそれらは同じように語られる。そして、スナウトに「人間に必要なのは鏡だ」と語らせている。

自己を見つめるための『鏡』、
自己の内面を時間と空間を飛び越えて映し出す『鏡』。

鏡に映った自己は虚像ではあっても、その内面の多くを物語ってくれる。そして、それは実像なのである。


スターリン政権下、誤植は命とりだったのである。

そのため奔走した母。それを攻める同僚。
観ているものには理不尽さを感じないではいられない。

それは、時代のゆがみの現れ、タルコフスキーのソ連政権に対する不信感の現われだったにちがいない。


ともあれ、この作品は言葉で表し難い。それは冒頭述べたとおりである。

しかし、タルコフスキー特有の映像。この映像を見ているだけで至福のひと時を感じてしまう。

また、感情の奥襞を言葉のやり取りでさらけ出していく手法はベルイマンを、夢のシーン、特に母がベッドから浮き上がるシーンや家の壁が崩れ落ちるシーンにはブニュエルの影響が認められる。


そして、作品の随所に現れる『水』と『火』のイメージは、次作 『ストーカー』を経て『ノスタルジア』で頂点に達する。


≪父の詩≫

「私は予感を信じない 

前兆を認めない 

中傷も毒も恐れない 

この世に死は存在しないのだ 

すべては不死だ 

すべては不滅で17歳でも70歳でも死を恐れる必要はない 

ただ現実と光あるのみ 

この世に闇もなく、死もない 

我々はみな海辺に出る 

不滅の海の広がり
 
我々は力をあわせて綱を引く
 
家というものも永遠だ 

私は好きなときに呼び戻し 

その時代に生き 家を建てる・・・

それゆえに今 我々は妻や子と祖父や孫と一つテーブルにいる 

もし私が手を挙げれば 未来もここに現れる 

光も永久に残るだろう
 
過ぎ去った日々を私は肩に積み重ねて 深い時の森を抜けてきた 

私は自らこの世紀を選ぶ・・・」

鏡《ストーリー》


私の夢に現われる母・マリア。

それは、40数年前に私が生まれた祖父の家。

うっそうと茂る立木に囲まれた家の前で、母・マリア(マルガリータ・テレホワ)はいつものようにもの思いに耽つていた。

一面の草原にたたずむ彼女に行きずりの医者が声をかけるが、彼女は相手にしない。


母は、たらいに水を入れ髪を洗っている。
鏡に映った、水にしたたる母の長い髪が揺れている。


息子≪私の少年時代≫・イグナートが家の中にいると、外では干し草置場が火事だと母が知らせに来た。

1935年のことだった。その年、父は家を出ていった。


私は突然の母からの電話で夢から覚め、エリザヴェータが死んだ事を知らされた。
彼女は、母がセルポフカ印刷所で働いていた頃の同僚だった。

私は母に、母の夢をみていたことを知らせる。


両親と同様、私も妻ナタリアと別れた。

妻は、私が自信過剰で人と折り合いが悪いと非難し、息子イグナートも渡さないと頑張っている。

妻のもとにいるイグナートのことは、同じような境遇にあった自らの幼い日を思い出させる。

赤毛の、唇がいつも乾いて荒れていた初恋の女の子のこと。

同級生達と受けた軍事教練のこと。それは戦争と、そして戦後の苦難の時代でもあった。


そして、哀れだった母のこと。

大戦中、疎開先のユリヴェツにいた時、母に連れられて遠方の祖父の知人を訪ねて、宝石を売りに行き、肩身のせまい想いをした時のことなど、彼にとって脳裏に鮮かに焼きついている幼い頃のことが思い出される。


母の負担になったかもしれない自分の少年の日々のことを思うと、私の胸は疾く。

イグナートが同じ境遇をたどっているのかも知れないと思うと、さらに私を苦しめる…


そして、夕暮時、母が遠くで見守るなか、広い草原を子供たちが年老いた母につれられて歩いて行く。
http://acusco.cocolog-nifty.com/higurasi/2008/07/post_20eb.html

アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー


―1985年3月、ストックホルム― 『鏡』に関して


Q. 『鏡』であなたはご自身の生い立ちを提示されました。どのような鏡をあなたは使われたのですか。


その鏡は、スタンダールの鏡のように、道中をたどる鏡ですか。それとも、その中に自分自身を発見し、それまで知らなかった自分自身について何かを学ぶことになった鏡ですか。

言い換えますと、この作品はリアリスティックな作品ですか、それとも、主観的な自動創造なのですか。あるいはもしかすると、壊れた鏡の破片を集めて、映画的なイメージの枠内に収めて、完全な総体を構成する試みなのでしょうか。

映画というものは、部分を集めて一個の総体にする可能性をいつも創造してくれます。

映画は結局、モザイクのように、切り離されたショットから構成されています。

色彩とテクスチャーの異なる個々の断片で構成されています。

ですから、断片の一つ一つはそれ自体では、無意味かもしれません。またそう見えることでしょう。

しかしその総体の中に収まると、断片が絶対に必要なエレメントになるのです。

個々の断片はその総体の枠内でしか存在しません。だから映画は、私にとって最終的な結果を見る目で考えぬかれていない、いかなる断片もフィルムに存在しない、存在し得ないという意味で、重要なのです。

個々の断片のひとつひとつは、まったき総体によって共通の意味にいわば彩色されているのです。

言い換えると、断片は自立した象徴として機能せず、ある独自の、唯一無二の世界の一部としてだけ存在するのです。

そういうわけで、『鏡』はある意味で私の理論的な映画観に最も近いものです。


ご質問は、どのような種類の鏡なのか、でしたね。

ええ、まず第一に、この映画は創作されたエピソードをまったく含まない私自身の脚本に基づいています。

エピソードのすべてが実際に私の家族の歴史のものです。そのすべてです。例外はありません。

唯一創作されたエピソードは、ナレーター、作者の病気です。

作者はスクリーンに映りません。


ところで、この非常に興味深いエピソードは、作者の精神的な危機、彼の魂の状態を伝えるために、必要だったのです。


ひょっとすると、彼は命に関わる病気なのです。

ひょっとするとそれが映画を作り上げるさまざまな回想を生み出す理由なのです。
死ぬ間際に人生の最も重要な瞬間の数々を思い出す人のようにです。

ですから、これは作者が自分の記憶に加えた単純な暴力ではありませんー私は私が欲するものだけを覚えているのですーそんなものではありません、これらは臨終の時の男の回想なのです。

自分の思い出すエピソードを良心の秤にかけているのです。

このように、唯一創作されたエピソードは、他の完全に真実である回想に必要な先行条件になったのです。


この種の創造、このように自分自身の世界を創造することがこの真実かどうか、そうお訊ねなのですね。

ええ、もちろん真実ですが、私の記憶に反射したものとしての真実です。

例えば、撮影に使われた私の子ども時代の家を考えてみましょう。

映画であなたが目にする家です。あれはセットです。

つまり、あの家は昔、私の家が建っていた全く同じ場所にもう一度建てられたのです。

あそこに残っていたものは、基礎すらなかった、かつてそこにあった穴ひとつでした。

まさにその場所に家がもう一度建てられたのです。写真から再建したのです。

これは私にはきわめて大切なことでした。

私が何らかの自然主義者になりたかったからではありません。

そうではなく、映画の内実に対する私の個人的な姿勢の総体がそれにかかっていたからです。

もし家が別物に見えたなら、それは私にとって個人的なドラマになったことでしょう。

もちろんこの場所で樹木はずいぶん生い茂りました。すべてが生え放題で、ずいぶん切り倒さねばなりませんでした。

しかし、私がママをあそこに連れて行くと、ママはいくつかのシークェンスに出ていますから、彼女はあの風景にひどく心を動かされたので、私は正しい印象が創造されたのだとすぐに分かりました。


こう思うでしょうね。なぜまた、過去を念入りに再構築することが必要だったのか、と。

それもまた、ただの過去でなく、私が覚えていること、そしてそれを私がどのように覚えているか、それを再現することが必要だったのか。

私は、いわば、内的で主観的な記憶のために特定の形式を探求しようとしたのではありません。

私は昔のままにすべてを復元しようと努めました。

つまり、私の記憶に固定されたものを文字どおり繰り返そうと努めました。
その結果は非常に不思議なものでした。私には何とも奇妙な経験でした。

観客の興味を引くために、関心を引きつけるために、観客に何かを説明するために、構成されたり創作されたエピソードは何ひとつない映画を私は作りました。


エピソードのすべてが、まさしく私の家族に関する、私の生い立ちの、私の人生の回想だったのです。

そして、それが実は非常にプライベートな物語であるという事実にもかかわらずーもしかすると、まさにそのためにー私は後でたくさんの手紙を受け取りました。

映画を見た人たちは「どうやってあなたは私の人生で起きたことが分かったのか」と訊いてきたのです。

これは非常に重要です、ある内的な意味で、非常に重要です。

これはどういう意味なのでしょう。

これは、道徳的で精神的な意味で非常に重要な事実であると私は言いたいのです。

なぜなら誰かが自分の真実の感情を芸術作品で表出するなら、それは他者にとって秘密のままであることはありえないからです。

もし監督や作家が嘘をついているなら、ものごとを人工的に作り上げているなら、彼の作品は完全に-


Q. 「洗練の極み」


そう。イタリアでは、cervellotico, troppo cervellotico と言う。

「人工的に、よく工夫されている」という意味です。

そんな仕事は誰の心も動かさない。

だから、作家と聴衆の間の相互理解は、それがなければ芸術作品は存在しないのですが、創造する者が誠実であるときにのみ可能なのです。

しかし誠実な作家が自動的に傑出した作品を生むという意味ではないですよ。

能力と才能が基本的な予備条件なのは確かです。

ただし、芸術家の誠実さが欠けていたら、真の芸術的創造は不可能です。

本当のことを言えば、何らかの内的な真実を言えば、必ず理解が得られると私は信じています。

お分かりになりますか。提示された問題がきわめて複雑でも、イメージのシークェンスが、作品の形式構造がきわめて複雑でも、創造者にとって根本的な問題はいつも誠実さなのです。

構造の点で、『鏡』は私の映画で全般的にもっとも複雑なものです?構造としてです。

個々に考えられた断片としてではなく、まさしく一つの構造としてです。
そのドラマツルギーはなみはずれて複雑で、内転したものです。

Q. 夢や追憶の構造に似ていますね。結局これは普通の省察ではありませんね。

ええ、これは普通の省察ではありません。そこには、そういう込み入ったものがたくさんあります。

自分でもよく理解できないものもあります。

例えば、母に出演してもらうというのが私にはとても重要でした

映画にイグナーツ少年が座っているエピソードがあります-イグナーツじゃない-何て名前だったけ?

 作者の息子、彼がだれもいない父親の部屋で座っている。これは現在です、今現在です。

この少年は語り手の息子です。その少年は作者の息子と、少年時代の作者自身の両方を演じています。

で、彼がそこにいるとき、ドアベルが鳴ります。

彼がドアを開けると、女の人が入って来て、「あら、家を間違えたようね」と言います。

家を間違えたのです。これが私の母です。

で、彼女はドアを開けるこの少年の祖母です。

しかしなぜ彼女は彼が孫だと分からないのでしょう。なぜ孫は祖母が分からないのでしょう。


さっぱり分かりません。つまり?

第一にこれはプロットで、台本で説明されていません。

第二に、私にもこれは明確でないのです。


Q. 人生のすべてが理解出来るわけでも、明確なわけでもありません。


そうですね、私にとって、それは?どう言えばいいのかな?

さまざまな感情の絆と折り合いをつけることなのです。

私にとって、母の顔を見ることがきわめて大切なことでした。

この映画は結局彼女についての物語なのです。

彼女は玄関を不安げに、何かおずおずと、入って来ます。

ドストエフスキーの流儀で、マルメラードフの流儀でね。
それから彼女は孫に言う。

「家を間違えたようね」

あなたはこの心理状態を想像出来ますか。

私にとって、このような状況に落ちた母を目にすることが大切だったのです。

混乱した時の、気後れした時の、恥ずかしがっている母の顔を見ることが重要だったのです。

しかしちゃんとしたサブプロットを作るには遅すぎると私は分かっていました。

なぜ孫を認知できないのか、明らかにしてくれるように脚本を書くにはすでに手後れでした。

目が悪かったからとか何とか、ね。それを説明するのは非常に簡単なことだったでしょう。

しかし私は自分に言い聞かせました。


何もでっちあげないぞ。


母にドアを開けさせて、家に入り、息子[原文のママ]を認知できないようにしよう。

少年は彼女がだれか分からない。

この状態で彼女は外に出てドアを閉めることになります。

それは、私にとりわけ身近な人間の魂の状態です。

何か不如意の状態。精神的に縛られた状態です。

これを目にすることが私には大切だったのです。

一種、辱められた状態の人間の肖像です。

おとしめられたという感じです。


これを、彼女の若き日のシーンと並べてみると、そうすると、このエピソードは私に別のエピソードを想起させます。

つまり、若いころにイヤリングを売りにあの医者のところに行きます。

彼女は雨の中で立っています。何か説明しています、何かについて話しています、なぜ雨の中でなのでしょう。何のためなのでしょう。

もしかすると、このような謎が何もなければずっと良いのでしょうね。

しかし全く説明のない、理解不可能なこのようなエピソードがいくつかあります。
で、私たちにはその意味を探る手がかりがないのです。


例えば、人々はこう言うでしょう。

「向こうに座っていて、少年にプーシキンがチャーダーエフにあてた書簡を読むように言うこの年配の女性はだれなのか?」

この女性はだれなのでしょう? アフマートワか??

だれもがそう言います。彼女は実際アフマートワに少し似ています。

横顔が同じなので、彼女を思い出させるのです。

あの女性を演じたのは、タマーラ・オゴロードゥニコワです。私たちの製作マネージャーです。

実際すでに『ルブリョフ』の製作マネージャーでもありました。

彼女は私たちの大の友だちで、彼女の姿は私の映画のほぼすべてに映っています。
彼女は私にとって護符のようなものでした。

この女性がアフマートワだと私は思いませんでした。

私にとって、彼女はある種の文化的な伝統の継続を表象する「彼方」からの人物でした。

彼女はこの少年を何としても、そうした文化的な伝統と結び付けようと努力しています。

文化的な伝統を、まだ若く、今この時代に生きている人間と結び付けようと努力しています。

これはとても大切なことです。

簡潔に言うと?それは、ある種の傾向、ある種の文化的な根っこなのです。


ここに家があります。

ここには、そこに住んでいる男がいます。作者です。

そしてここには、この雰囲気に、こうした文化的な根っこに影響を受ける彼の息子がいます。

結局、この女性がだれであるのかは、明確に指示されてはいません。

なぜアフマートワなのでしょう? 

ちょっと衒いすぎです。この女性はアフマートワではありません。

簡単に言うと、この女性はまさしく、時の、切れた糸を繕うのです。

シェークスピアの『ハムレット』の場合と同じです。

彼女はそれを文化的、精神的な意味で回復させるのです。

それというのは、近代と過去の時代との絆です。プーシキンの時代と、です。

もしかするともっと後の時代と、かもしれませんーそれは重要ではありません。

私がこの映画で獲得した非常に重要な、きわめて重要な経験は、私にとって同様に観客にとってもこの映画が重要であると判明したことでした。

私たちの家族だけの物語であって、それ以外ではありえないということはどうでもいいことです。

この経験のおかげで私は多くのことが見えるようになり理解したのでした。

この映画は、監督としての、こういってもいいなら芸術家としての私と、私の仕事が奉仕する人々との間に絆があるということを証したのでした。

そのためにこの映画は私にとってとても重要だと分かったのです。

なぜなら、私がそれを理解したとき、私が大衆のために映画を作っていないと誰も私に不服をならすことができないからです。

まあ後になってもいろいろな人がぐずぐず言いましたがね。

しかしそれ以来、私はそういう不服を自分に申し立てることができなくなりました。


芸術と実人生ーロシアの伝統


Q. あなたとご家族の人生はリアリズムが典型的に必要とするものに従って形成されていません。
あまり典型的な家族とは言えません。
おっしゃったように、観客は自分の人生が反映された映像をそこに見いだしたのですが。
あなたのご家族、あなたの家、最も身近な家族はあなたに何を与えてきたのでしょうか。
そして後になって、何があなたの芸術的で文化的な霊感の源になったのでしょうか。
この質問をするのは、ポーランドの観客はロシアの芸術家の生い立ちや背景を何も知らないからです。これは大きな特徴です。一方、西側の芸術家はしばしば生い立ちしか知らされていません。

それは正確ですが、不正確でもあります。ある意味で、正しいと言えば正しいし、正しくないと言えば正しくないですね。

生い立ちを何も知らないという意味で、ロシアの芸術家に関するあなたのご意見は正しくありません。もちろん、現代の芸術家と比較するなら、もしかすると正しいのでしょう。

しかし、私は自分自身と現在の芸術家との比較を考えたことは一度もありません。

私はいつも、19世紀の芸術家と自分が結びついていると感じてきました。

例えば、トルストイ、ドストエフスキー、この流れの作家たち、チェーホフ、ツルゲーネフ、レールモントフ、やブーニンを挙げるなら、彼らの生がどれほど唯一無二のものであり、彼らの作品が人生と、彼らの運命とどれほど密接に結びついていたかがお分かりになるでしょう。

もちろん、私が述べたことは、私が自分をソ連の60年、70年、80年代の、いわば、文化の流れから完全に除外しているという意味ではありません。そうではありません。

しかし私は革命後に突然巨大なギャップが出来たという意見には、原則的に反対です。

この深い溝は、ロシア文化の発達に新段階をもたらすために、意図的に創造されたものです。

しかし私は文化が真空状態で発達できるとは信じません。

貴重な植物を移植しようと努力することは出来ます。

その根を掘り起こして植え替えるのです。

しかし、枯れてしまうでしょう。何も生長しないでしょう。

だから、転換期の作家は自分の運命を非常に悲劇的に経験したのです。

革命前に作家活動をはじめて、その後も仕事を続けた作家たちです。

アレクセイ・トルストイ、ゴーリキー、マヤコフスキー、ブローク。
文字どおりのドラマでした。ブーニンも-。

これは何もかもがもう恐ろしいドラマです。アフマートワも-。他にどんな人がいたか、神のみぞ知るです。悲劇です。ツヴェターエワ-。何も得るものはなかった。

移植は不可能だった。移植はすべきではなかったのです。

文化にこんな恐ろしい実験をするのを許すべきではなかったのです。

こういう生体解剖は、精神を幽閉してしまうので、人体に暴行を加えるよりもさらに酷いことなのです。


プラトーノフを例に取りましょう。

彼は、言うなれば、ロシアにおけるソ連期の発達時代に完全に帰属しています。
また彼は典型的なロシアの作家です。

彼の人生もまた典型的なもので、彼の作品にくっきりと反映しています。
だからあなたのご意見は全面的に正しいと言うことは出来ません。

このような文脈で私のことを言うならば、古典ロシア文化と私との絆は私にとって非常に大切です。

この文化は当然連綿と続いて、今日に至っています。古典ロシア文化が死んだと私は思いません。

私は、人生と作品を通じてーもしかすると無意識のうちにーロシアの過去と未来の間をつなぐこの絆を現実化しようと試みる芸術家のひとりでした。

この絆をなくすことは私にとって致命的でしょう。それなしに私は生き続けることは出来ないでしょう。

過去を未来と結びつけるのはいつも芸術家なのです。

芸術家は或る瞬間に生きているだけではありません。

芸術家は媒体なのです、いわば、過去から未来への渡し守なのです。


ここで私の家族について何が言えるでしょうか。

父は詩人です。

彼は革命が起きたときまだ小さな子どもでした。

革命前に彼が大人であったと言うことは実際出来ません。それは全く正確ではありません。

彼はソ連時代に成長しました。1906年生まれですから、1917年の革命時には11歳でした。

まだ未熟な子どもです。しかし彼は文化的伝統をよく知っていました、教養がありました。

ブリューソフ文学研究所を卒業し、多くの、主導的ロシア詩人のほぼ全員を知っていました。

言うまでもなく、彼をロシアの詩の伝統から切り離して想像することは出来ません。

ブローク、アフマートワ、マンデリシュターム、パステルナーク、ザボロツキーの系譜から切り離して想像することは出来ません。

これは私にとってとても重要な事でした。或る意味で私はこのすべてを父から受け継いだのです。


私を育てたのは、私の両親、特に母です。

なぜなら父は私が3歳の時に母の元を去ったからです。

そういうわけで、私は実は母に育てられたのです。

詩人として父が私にどのように影響したのか、はっきりとしたことを言うのは難しいでしょう。

もっと生物学的な意味で、無意識のレベルで、私に影響しました。

もっとも私はフロイトの信奉者ではありませんが。フロイトにはちっとも感心しません。

ユングも又私の趣味ではありません。

フロイトは俗悪な唯物論者です。切り口が違うだけで、パブロフと同じです。

彼の理論は人間の心理を説明するひとつの可能な唯物論的異稿にすぎません。


父は私に何ら影響しなかった、内的な影響力を持たなかったと思います。

何もかもが概ね母のおかげによっています。

私が自分自身を見いだすのを助けてくれたのは母です。

映画でも私たちの生活状態がとても厳しかった、とても困難であったことがはっきりと分かります。

そういう時代でもありました。

まさにその時に、母は独り残されたのです。

私は3歳、妹は1歳半、母は私たちをずっと育ててくれました。

再婚もせず、いつも私たちと一緒にいました。

母は2度と結婚しなかった。

彼女は夫を、私の父を、一生愛していました。

彼女は並外れた女性でした。実際聖女でした。

最初母は生活に対して全く準備が出来ていなかった、全くです。

そして、この無防備な女性をとりまく全世界が崩壊したのです。

つまり、まず第一に2人の子連れだというのに手に職が何もなかったのです。

私の両親はブリューソフ文学研究所で勉強をしていましたが、そのとき母は妹を妊娠しました。

それで母は免状を何も持っていないのです。

教育を受けた女性として準備する時間が全くなかった。

彼女は文学で自分の才能を試しました。

私は彼女の文章をいくつか見たことがあります。

彼女を襲ったあのカタストロフィが起きなければ、母は全然違った形で自己実現が出来たでしょうね。

だから本当に家に資産がまったくなかったのです。

母は印刷所の校正の仕事をしました。そこで最後まで働いていました。

つまり、戦後も、ずっとです、退職するまでです。

どうやって母がやりくりできたのか、どうやってがんばり抜いたのか、どうやって身体がもったのか、私にはまったく理解できません-分かりません。

どうやって私たちに教育を受けさせることができたのでしょうか。

私はモスクワの美術造形学校を出ましたが、そのためには金がかかる。
どこからその金を捻出したのでしょうか。

私は音楽学校も出ましたし、先生からレッスンも受けましたが、それも母が払ってくれました。


Q. それは戦前ですね?


戦前と戦中と戦後です。

誰もが音楽家になるものだと思っていましたが、私はなりたくなかった。

とにかく、どうしてこんなことが可能だったのか、私には理解できません。

まあ、こう言う人もいるでしょう、何か財産があったんだ、教育のある一家の子どもだから、当たり前でしょう。

ーしかし、ここには当たり前のことは何もなかった。

私たちは文字どおり裸足で歩いていましたからね。

夏には全然靴を履かなかった。靴がなかったんです。

冬になると私はフェルトのブーツを履きました。

それで、母が外出しなければならないときには-私たちは-貧乏なんてもんじゃなかった。

赤貧でもまだ言い表せない。

まったく分かりません、母は-分かりません。

母がいなければ、私はこんなふうにはならなかったでしょう、言うまでもないことですが。

私が今あるのはすべて、母のお陰なのです。


そのために、母は私に非常に強い影響を及ぼしましたー影響という言葉でも足りないー世界のすべてが私にとって母と結びついているのです。

ただし、私は、母が生きているときには、そのことに本当には気づかなかった。

母が死んでから、母の死後に、私は突然そのことに気づいたのです。

それに、あの映画を作っているときでも、もちろん当時母はまだ生きていましたー私は映画のテーマを十分には理解していなかった。

私は自分自身を語る映画を作っていると思っていました。

自分の幼年時代、少年時代、青年時代を書いたオデッサ時代のトルストイのように。

映画を撮り終えたとき、この映画が私ではなく、母についての映画だと分かりました。

これはー私の見方から言うとー本来の理念よりもこのようにして相当高貴な精神のものになりました。この理念をかくも完璧に高貴なものにした変化は、映画の製作中に生じました。

つまり、映画は私と共に始まりました。

私があれらの回想の、いわば、眼なのですから。

しかしそれから、まったく異なることが生じました。

この映画に携わる期間が長くなるほど、この映画が何をテーマとするのか、私にははっきりしてきたのです。


Q. 映画館を出たとき、私はこの映画が一編の詩として作られたのだと思いました。
つまり、映画では不可能なものに思えたのですー親密な抒情的な独白であると。


そうかもしれません、私には分かりません。

私は当時形式について何も考えていませんでした。特別なものを考案するつもりはなかったのです。

私が追求していたのは、記憶における復活です。

いや正確に言うと、記憶ではなく、スクリーンに私にとって重要であるものたちが復活することでした。

一般に、最も重要なことはこの道をたどるということで、例えば、自分の想い出を構築するアラン・レネの道をたどることではなかった。

あるいは、現代文学から例を引くなら、ロブーグリエの道を採ることでなかった。
ロシアの芸術家にとって芸術創造の非常に重要な側面は、必ずしも、より美しいものを創造することではなく、道徳的な責任感であったのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html

オルガ・スルコワ:タルコフスキー・インタビュー


映画を撮るとき、私は俳優と出来るだけ話をしないようにする。

俳優自身が自分の個々のシーンを全体との流れでやろうとするのに、私は強く抵抗します。

時には、直前のシーン、あるいはその直後のシーンとの関連でも、ダメです。

例を挙げましょう。

『鏡』の最初のシーンで、主演女優がフェンスに腰を下ろして夫を待ちながら煙草を吸うシーンでも、主役を演じたマルガリータ・テレホワが脚本の細部を知らないことを私は望みました。

つまり、夫が最後のシーンで帰ってくるのか、永久に去ってしまったのか、彼女は知らなかったのです。

彼女が演じている女性がかつて、人生の未来の出来事を何も知らずに、存在していたのと同じ様態で、彼女にもその瞬間に存在していてほしいという思惑があって、なされたのでした。

もし女優が主役の亭主が二度と帰ってこないと知っていたら、状況の絶望ぶりを演技で前もって表出させていたことは間違いありません。

あるレヴェルで、たとえ潜在意識でなしたとはいえ、私たちはそれを察知したことでしょう。

これから起きることを自分が知っていることを、それに対する自分の態度を露わにしたことでしょう。

そういう細部の知識は大きなスクリーンでは確かに隠しようがないからです。

この場面では、そういう細部を未熟なかたちでばらさないことが絶対に肝要でした。

だから、実生活で経験するのとまさに同じやり方でこの瞬間を経験することがテレホワには必要だったのです。

彼女はこのように、希望をいだき、不信に陥り、また希望を取り戻すのです。

「解決のマニュアル」に触れることはありません。


与えられた状況という枠組みの中でーこの場合、枠組みは夫の帰りを待つことにあるのですがー彼女は自分自身の個人的な生の何か秘密の一片によって生きざるをえなくなった。

幸運なことに私はそれについて何も知りませんがね。


映画芸術で最も重要なことは、俳優がその俳優に完璧に自然なやり方である状況を表出することです。

つまり、その俳優の肉体的な、心理的な、情緒的なそして知的な性格に照応した様態で、ある状況を表出することです。俳優がどのようにその状況を表出するかは、私とはまるっきり無関係です。

別の言い方をしましょう、私には俳優に何か特定のかたちを強制する権利はありません。結局、私たちは皆、自分の完全に独自のやり方で同じ状況を経験しているのです。この例外的な表出力こそ、比類ないものであり、映画俳優の最も重要な側面なのです。


俳優を正しい状態に置くために、監督は自分の内面でこの状態を明確に感知できなければなりません。このようにしてのみ、当面のシーンの正確な調子を見つけだすことが出来るのです。

例えば、よく知らない家に入って、前もってリハーサルしておいたシーンを撮影するのは不可能です。知らない人たちの住居になっている馴染みのない家は、私のキャストに何も意思疎通することが出来ないのは、言うまでもありません。

人間の経験可能で正確な状態こそ、映画の個々の特定のシーンで目指すべき核心的でかつ完全に具体的な目標なのです…テイクの雰囲気を決定する魂の状態、監督が俳優に伝えたいと思う主なイントネーション、これこそ大切なのです。

俳優はもちろん、自分自身の方法を持っていなければいけません。

例えば、すでに触れたように、マルガリータ・テレホワは脚本の全体像を知らなかった。

彼女は自分自身の断片化された部分を演じただけでした。

出来事の帰結や自分自身の役のコンテクストを私が明かすつもりがないと探り当てたとき、彼女はひどく困惑しました…

まさしく、このようにして彼女が直観的に演じられた部分のモザイクを生み出し、それを後に私が全体像にまとめ上げたのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/surkowa.html

▲△▽▼

アンドレイ・タルコフスキー 鏡
使われた音楽 バッハ「ヨハネ受難曲」
使われた意図 語ることによる受難


さて、今回取り上げる作品は前回に引き続きソ連の映画作家アンドレイ・タルコフスキー監督作品。

今回は「鏡」です。何でもタルコフスキー監督の中で一番「難解」な作品なんだそう。ただでさえ、「難解」と定評のある監督さんなのに・・・その中でも一番難解って・・・

この「鏡」という作品の最後のシーンで、バッハの「ヨハネ受難曲」が使われています。

実はマタイ受難曲も使われています。

タルコフスキー監督がマタイ受難曲を使った作品としては、彼にとっての最後の作品である「サクリファイス」や「ストーカー」もあり、これらについては以前に取り上げております。彼にとっても、色々と思い入れがあるんでしょうね。

しかし、この「鏡」では、マタイではなく、ヨハネ受難曲の方が目立つ使い方。だって最後のシーンでヨハネ受難曲が使われるわけですので、否応なしに注目することになる。

では何故に、この「鏡」ではタルコフスキー監督は、作品の最後という重要なシーンにおいて、お気に入りの「マタイ」ではなく、「ヨハネ」を使ったのでしょうか?


ちなみに、ここでこの「鏡」という作品のあらすじを・・・
と、行きたいところですが、ストーリーも何もあったものではありません。ダテに「タルコフスキーの中で一番に難解。」というレッテルを貼られているわけではないんですね。

タルコフスキーの記憶の中から様々なシーンが浮かび上がってくる・・・そのような構成です。


映画の中の様々なシーンの中で、作品の最後のシーンは、キリストの受難のイメージが特に顕著ですよね?

ご丁寧に十字架までかかっている。

おまけに主人公の母親(ご丁寧にマリーアという名前)が、2人の子供の手をつないで歩く。

映画での2人の子供は主人公とその妹のようです。


しかし、このとき観客はマリアとキリストとパプテスマのヨハネの組み合わせを連想します。

パプテスマのヨハネとイエス・キリストは親戚にあたります。

ヨハネのお母さんのエリザベツはイエスのお母さんのマリアと親戚で、お互いの妊娠中も一緒に暮らしていた間柄。よくいう言い方ですと、「生まれる前からの友達」ってヤツです。

だからマリアさんにしてみても、「親戚のヨハネちゃん」くらいの感じなんでしょう。

このマリアとキリストとパプテスマのヨハネの関係は、作品中ではレオナルド・ダ・ヴィンチの聖母子の絵で予告されています。

将来において、わが子に降りかかる受難をわかっているマリアが、赤子のキリストを抱きしめようとするシーンを描いた有名な絵です。

そこにはパプテスマのヨハネも描かれています。絵画を使うことによってラストシーンを予告し説明しているわけです。


あるいは、雪の中で主人公の少年に小鳥がとまるシーン。

このようなシーンは、キリストがヨハネから洗礼を受けた際に、鳩がキリストにとまったエピソードを思い出しますよね?

タルコフスキー監督の映画「鏡」において、母親マリアが自分の子供の手をつないで歩くラストシーンは、まさに「キリストとマリア」の「鏡」になっているわけです。


この「鏡」という作品は、実に多くの「鏡」となっている。

作品中では、主人公とその父親の間の共通性を強調しています。

主人公とその父親は「鏡」を挟んで向かい合っている状態。

似た容姿の妻。

本人は同じように芸術家。

同じように妻とは不和。


あるいは、レオナルド・ダ・ヴィンチだって、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士という「鏡」をはさんだ状態。いわば、同族意識ですね。

また、ダ・ヴィンチとタルコフスキーも母親の愛への渇望を共通して持っているといえるのでは?

そして、「始めに言葉ありき」の福音書のヨハネに対する同族意識もあるようです。

芸術家として「語る」こと。

そして「受難」。


「語ること」からの受難は、何も、ソ連の問題だけではありません。
いかなる政治体制でも起こっていることです。
だって本当の問題は為政者ではなく大衆なんですから。

それこそ、旧約聖書の時代から、「語った」人は、受難になったでしょ?

にもかかわらず芸術家は「語らないといけない。」存在である。つまり受難は不可避なんですね。


「語る」ことの難しさで、政治に関わることは、最初の方のシーンで出てきます。
主人公の母親が、「検閲に引っかかりそうな言葉を削除しそこなったかも?」と大慌てするシーンですね。


しかし、誰でもわかるシーンは映画の冒頭。

催眠術によって治った吃音者が「私は話すことができます!!」と喜ぶ冒頭。

そのシーンからは、「困難の中」から話すことの喜び・・・つまり芸術家として表現することの喜びが感じられますよね。


しかし、冒頭は「表現する喜び」ですが、ラストは受難のシーン。

「初めに言葉ありき。」のヨハネであり、芸術家肌のヨハネ。

この福音書のヨハネも、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士の同族と言えるわけです。


ヨハネ受難曲の流れる中、十字架を背景にマリアに手を引かれ進んでいく。
2000年前のキリストの受難も、タルコフスキーの受難の鏡といえそうです。

この「鏡」という作品。タルコフスキー監督の様々な自画像が展開されている作品といえそうです。

つまり様々な「鏡」に彩られているわけですね。タルコフスキー監督個人の「鏡」であるとともに、芸術家全般の「鏡」となっているわけです。


「語る」芸術家は「受難」は避けることができない。

神の意思は本人とは無関係にやってくる。


映画の中で数多く登場する草原の草が揺れるシーン・・・これは神がやってくる意味でしょう。


映画における主人公の父親は、神を意味している。

父親に抱かれること、それは神に召し上げられること。

これこそが芸術家誕生の瞬間であり、受難の始まりとなる。


小屋の炎上、原子爆弾、文化大革命、そしてマタイ受難曲の「そのとき大地が割れて・・・」というフレーズ・・・現在の世俗的安定の崩壊のイメージが顕著です。


だからこそ世界には芸術家の聖なるものが必要であり、芸術家は「語らなければならない」。


しかし、それは芸術家の受難につながっていくわけです。

「初めに言葉ありき」のヨハネで終了するこの映画、そのラストのシーンは「言葉ありき」ということで、最初のシーンの「私は話すことができます!」のシーンに回帰して行く・・・

芸術家の受難はかくも終わりなきものと言えそうです。
ttp://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/04-06/04-06-29.htm

▲△▽▼

1982年9月9日にチェントロ・パラティーノで開催された「映画泥棒ー国際的陰謀」会議で、タルコフスキーは自らの理念を披露した。
彼は『七人の侍』『少女ムシェット』『ナサリン』『夜』のクリップを映した。

彼に影響を及ぼしたのではなく、彼に最も決定的な印象を刻印した映画である。

以下は彼の話のあらましである。


アンドレイ・タルコフスキー:

「影響、何か流れ込んできたもの、すなわち相互活動の問題は複雑です。

映画は真空では存在しません。

つまり共に働く仲間がいて、その影響は避けられない。

それでは影響、流れ込んできたものとは何でしょうか。

自分の働く環境や共同する人々の選択は、芸術家にとって、レストランで料理を選ぶようなものです。

黒澤、溝口、ブレッソン、ブニュエル、ベルイマンそしてアントニオーニが私の仕事に与えた影響について申し上げますと、『模倣』という意味では何ら影響はありません。

つまり私の観点からは、そんなことは不可能です。

何故なら、模倣は映画の目指すものとは何ら関係ないからです。

自己を表現する自分の言語は自分で発見しなければならないのです。

ですから、私にとって、流れ込んできたものというのは、私が賛嘆し高く評価する人々と共にいるという意味なのです。」


「もしフレーミングやシークェンスに他の監督の反響があると気付いたら、そのシーンは避け修正するように努めています。

こんなことはめったに起きないのですが、『鏡』から例を引きましょう。

私は主人公が室内にいてその母が隣の部屋にいるフレームを採りました。

二女性のクロースアップです。

パノラマショットで、女が鏡を見ながらイヤリングをつけてみて、母もまた鏡を覗き込んでいます。

実際シーン全体は鏡に映ったかのように撮られています。

ところが、実は鏡は存在せずに、女性はキャメラを直に見ているだけなのです。

つまり鏡がある錯覚がある。

この類いのシーンはベルイマンにそっくりのものがありうると気が付きました。

けれども、やはり、そのままで、私の同僚ベルイマンに謝意を表明し、肯定する証として撮ることに決めました。


「このリストにドブジェンコも追加しなければなりませんが、これまでに挙げた監督がいなければ、映画は存在していないことでしょう。

誰もが自分のオリジナルの様式を当然探していますが、もしこれらの監督がコンテクストや背景を与えてくれなかったなら、映画はいわゆる同じ映画にはならないでしょう。

現在多くの映画作家が非常に厳しい時代を経験しているようです。

イタリアの映画は窮地に落ちています。

私のイタリアの同僚たちは、私は映画で最も名声のある監督の幾人かについて語っているわけですが、イタリア映画はもはや存在しないと言いました。

もちろん、映画の観客がこの主な原因です。

久しく映画は大衆の趣味を追ってきましたが、今や大衆はあるタイプの映画は見たくないのです。

実際なかなか良いものなのに、敬遠するのです。


「映画監督の範疇には基本的に二つあります。

一つは、自分が生きている世界の模倣を求める人々で出来ています。

もう一つは自己の世界の創造を求める人々で出来ています。

第2の範疇には幾多の映画詩人が含まれます。ブレッソン、ドブジェンコ、溝口、ベルイマン、ブニュエル、黒澤という映画史上最も大切な人たちです。

これらの映画作家の作品の配給は難しい。

その作品は作家の内的霊感を反映しているので、これが必ず大衆の趣味とぶつかるのです。

映画作家が観客に理解されたくないという意味ではありません。

そうではなくむしろ作家自身が観客の、観客も気付いていないような内的感情を捕らえ理解しようとしていると言った方がよいでしょう。


「映画の直面している現在の苦境にもかかわらず、映画は芸術形態であり続けます。

芸術形態の一つ一つが個別のもので、他の芸術形態の本質に含まれない内実を担っています。

例えば、写真は、カル ティエ=ブレッソンの天才が実証しているように、芸術形態になれますが、写真は絵画になぞらえることは出来ません。

何故ならば絵画と競合しているわけではないからです。

映画作家が自問しなければならない問いは、何が映画を他の芸術と区別するのか、ということです。

私にとって映画は時間の領域を包括する点で、他に見られない独創的なものです。

音楽や芝居やバレエのように、時間の中で生起するという意味ではありません。

文字どおりの意味での時間です。

フレームとか、「アクション」と「カット」の間のインターヴァルは一体何でしょうか。

映画は時間の観点で実在を固定します。

フィルムは時間を保持する手段なのです。

これほど時間を固定し停められる芸術形態は他にありません。

フィルムは時間で出来たモザイクです。

そのためにはもろもろの要素を集約する必要があります。

3、4人の監督やカメラマンが1時間同じものを撮影したと想像して下さい。

一人一人独自の映像になるはずです。

結局出来上がるのは、3つか4つ全く異なるタイプのフィルムです。

なぜなら、一人一人がこれは捨て、あれは残してと選択して自分のフィルムを作るからです。

そうして、映画に関わる時間を固定する作業をしているにもかかわらず、監督は必ず自分のマテリアルを磨いて、それを通して自己の創造力を表現出来るのです。


「美意識の観点から言いますと、映画は今ひどい時代にあります。

カラーで撮影するのが、可能な限り実在に迫る手段だと考えられているのですから。

私はカラーは袋小路だと思っています。

あらゆる芸術形態は真理に到達して、一般化した形態を得るために苦闘しています。

色彩を使うのは人が実在世界をどのように知覚するのかと関係しています。

カラーであるシーンを撮影するのは、必然的に、フレームを有機的に構成し、このフレームに囲まれた世界の総ては色彩の中にあり、しかも観客にこの事実を自覚させねばならないという事なのです。

モノクロの利点は、その表現力が強烈で、観客の関心を脇にそらさないということです。


「カラー映画にもすぐれた表現様式の例があります。
でも今述べた問題に気付いている監督のたいていは、必ず白黒で撮影する努力をしています。

誰も、カラーフィルムで新しいパースペクティブを創造したり、白黒ほど効果的パースペクティブを作り出すのに成功したためしはないんです。

イタリア・ネオリアリズムが重要なのは、日常生活を掘り下げることによって映画に新境地を開いたという事実からだけではなくて、本質的に言うと、モノクロームでその探求がされたからでもあるのです。

人生の真理は必ずしも芸術の真理に照応していません。

だから今やカラーフィルムは純粋に商業的現象になりさがったのです。

映画は色彩を通して新たなヴィジョンを創造しようとする時代を通って来ましたが、結果は不毛です。

映画は体裁ばかり飾るものになってしまいました。

つまり、私が今見ているような映画は全然立場の違う人には全く違ったものになっているのです。


今ご覧に入れている映画のクリップは、私の心に一番近しいものを表象しています。

ある思考形態の実例であり、この思考がどのようにフィルムを通して表現されるかの実例です。


ブレッソンの『少女ムシェット』で少女が自殺を図るその様子は特に驚異的です。


『七人の侍』の一番若い侍が怖じけづくシークェンスで、黒澤がこの恐怖感をどうやって伝えているでしょう。

若者は草むらで震えていますが、身震いしている姿は目に見えません。

草むらと花々が震えている、揺れているんです。

ここは雨中の決戦です。

三船敏郎演ずる菊千代が死ぬとき、倒れた彼のその脚は泥に埋もれてします。

こうして私たちの目の真ん前で菊千代は死んでしまいます。


ブニュエルの『ナサリン』の、傷付いた娼婦がナサリンに助けられて、椀から水を飲む姿です。

アントニオーニの『夜』の最後のシークェンスは映画史上、ラブシーンが必然となり精神的行為の似姿を取った唯一のエピソードかもしれません。

肉体が相手の近くにあるのが大きな意味を秘めた独創的なシークェンスです。

2人ともお互いに対する感情は涸れ果てているのに、それでも相手の身近にいるのです。

ある友人が昔こう言いました。

夫と5年以上もいるなんてまるで近親相姦よ。

2人がお互いの近くから逃れる出口はありません。

お互いがまるで死に瀕しているかのように、死に物狂いで相手を救おうとしている姿です。


「撮影を始めるときは必ず、『私の仲間』と思っている監督のフィルムを見ます。

模倣するためではなく、彼らの醸し出す雰囲気を味わうためにです。

今お見せしているクリップがみんなモノクロームなのも偶然ではありません。

監督が自分に身近なものを何か掛け替えのないものに変容しているからこそ、これらは重要なのです。

しかもこれらのシーンは日常生活の出来事とは似ていないという点で独創的です。

ここには偉大な芸術家の刻印があり、私たちに彼らの内世界を垣間見せてくれるのです。

これらのシーンの総てが、娯楽を与えるよりはむしろ美を保持することによって、観客の欲求に応じるのです。

今日この種の主題を扱うのは困難を極めています。

そんな話をするのすらほとんど馬鹿げていると言えます。

誰もそんなものにはびた一文払わないでしょう。

でも映画が存在し続けているのは、これらの詩人たちのお陰なのです。


「映画を作るには金が必要です。

詩を書くのに必要なのはペンと紙だけです。

これが映画の不利なところです。

でも映画は屈さないと私は思います。

万難を排して自己の映画を実現する努力をする監督全員に、私は頭を垂れます。

実例としてクリップをご覧戴いた映画は皆、固有のリズムを持っています

(最近は、たいていの監督が快速で短いシーンを使い、カッティングとスピードのある監督こそ本当のプロだと思われています)。

真の監督なら誰でもその目的は、真理を表現することなのですが、そんなのはプロデューサーの知ったことでしょうか。

1940年代にアメリカでストレスのかかる職業をランク付けする調査がありました。

広島に原爆が投下された時代ですから、パイロットが1位を占めました。

2位が映画監督です。監督になるのはほとんど自殺行為というわけです。


「私はヴェネチアから帰ったばかりです。

そこの映画祭の審査員をしたので、現在の映画の完全な退廃を証言出来ます。

ヴェネチア映画祭は悲惨この上ないものだった。

ファスビンダーの『ケレル』のような映画を理解し是認するには、まるっきり異なる類いの精神性が必要だと、私は信じます。

明らかに、マルセル・カルネは私よりずっとそれを是認していましたが。

私は、それは反芸術的現象の現れだと思います。

その関心は、社会学的で性的な問題にすぎない。

ただファスビンダーの最後の作品だというだけで、あの映画が受賞するのは恐ろしく不当なことではないでしょうか。

ファスビンダーは『ケレル』よりずっと良い映画を作っているはずです。

けれども、映画の現在の危機は重要ではありません。

なぜなら芸術は絶えず危機の時代を通り過ぎてはそこで復活するからです。
ただ映画が作れないからと言って、映画が死んだということにはならないのです。


「最良の映画は、音楽と詩のはざまにあります。

映画はどんな芸術形態にも比肩する高いレベルに到達しています。

芸術形態として自らの姿を具体化しています。

アントニオーニの『情事』は随分昔の映画ですが、今日作られたばかりという印象を与えます。

本当に奇跡的な映画で、ちっとも古ぼけていません。

まあ今日作られるような類いの映画ではないかもしれませんが、それでもとても新鮮です。

イタリア人の同僚たちはとても悪い時代にいます。

ネオリアリズムも偉大な監督たちも去ってしまったように見えるし、プロデューサーはドラッグの売人みたいなもんですから。

金儲けだけを考えているんですが、長続きはしないでしょう。

イタリアで上映されている『ソラリス』は私の映画ではないと言いたいです。

もその配給会社はもう潰れてしまいました。たいていの配給会社の運命じゃないですか。」
ttp://homepage.mac.com/satokk/at_in_italy.html



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アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。

父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。


『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。
http://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html
3. 2022年5月16日 09:56:11 : C6PUscOcec : VHcuTXBHTXZJY2s=[9] 報告
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『僕の村は戦場だった』戦争を「沼」で描くタルコフスキー
Wed, February 17, 2021
https://ameblo.jp/madamezelda/entry-12656412114.html
戦争映画はアクション映画。全てがその図式にあてはまるわけじゃありませんが、戦争映画ファンの多くが期待するのはそこじゃないでしょうか。戦闘機に戦車、兵器、軍装!それぞれの出来栄えを論評するのもお楽しみのひとつでしょう。

しかしタルコフスキーは、そんな戦争映画ファンの期待にこたえてくれるほど甘くはありません(笑) 『惑星ソラリス』が世界三大SFの1つに数えられながら、宇宙らしい絵ヅラのシーンは殆どなくて、「SF??」な作品であるように、『僕の村は戦場だった』も、アクション要素は皆無。軍用車両と言えばジープくらい、戦闘機も飛ばず、地上戦の映像もありません。

宇宙が舞台であろうが、戦争の時代であろうが、タルコフスキーが描くのはいつも同じ、人間の内面にある心象風景。「写真」よりも「絵」に近い、一旦タルコフスキーの中をくぐりぬけたイメージです。

本来他人には見えないはずの心の世界を映像詩として現出させるのがタルコフスキーであり、それが彼の作品が常に唯一無二である理由。だから、戦車や機関銃のディテールのような三次元的リアリティは、タルコフスキーの映画には不要。それどころか、世界観を損ねるものですらあるのかもしれません。

母が殺された時、少年の心も死んだ(ネタバレ)
冒頭、美しい夏の森で、少年(イワン)が楽し気に戯れています。

そこに水桶を抱えた母親(イルマ・ラウシュ:当時のタルコフスキーの妻)が現れ、少年は嬉しそうに駆け寄って、母の水桶から思う存分に水を飲みます。

「ママ、郭公が鳴いてるね!」

水桶から顔を上げて母を見上げる少年の笑顔! 母がいて、母が汲んだおいしい井戸水があって、森の木々がそよぎ、野生の鳥が鳴いている。それが少年の欲しいもの全て。喉を潤した彼は満ち足りて幸せそうです。

しかし次の瞬間、母を異変が襲います。地面に倒れる母。少年の叫び声・・・何が起きたのかは分からない、ただ、少年の母親が命を奪われたという事実だけが伝わります。

そして場面が変わり、舞台は闇に包まれた戦場へ。照明弾の光が不気味に閃く川の対岸の敵地から戻ってきたのは、冒頭の少年・イワン。ずぶ濡れの体で歩いているところを味方の兵士に怪しまれ、尋問されます。

この場面で、観客はイワンの変貌ぶりに驚かされることになります。

さっき母親に甘えていた無邪気な少年と同じ少年とは思えないほどやつれ、子供らしさが消えた彼の顔。もはや戦い以外の生きる目的をすべて削ぎ落してしまったような、ある種老成しきった少年の佇まいに、何か鳩尾がひんやりするような感覚をおぼえます。

尋問する将校が、

「俺に、命令する気か!」

と怒り出すほど淡々とした横柄な口調で、司令部に連絡すればわかる、連絡しないと責任問題になるぞ、と繰り返すイワン。彼が連絡先として伝えた電話番号は、将校が普段かけることを許されていない番号。しかしイワンに脅されて連絡をした結果、ポーリンという大尉が車でイワンを迎えにやってきます。イワンの話は本当でした。

大尉の姿を見て、

「ポーリン!」

と抱きつき、何度もキスを交わすイワン。イワンはいわゆる「連隊の子供」。自ら申し出て司令部の斥候として働いていたのです。

イワンは司令部の面々に可愛がられていて、彼らはイワンの安全のために幼年学校に入学手続きをしますが、イワンは頑なにそれを拒否し、復讐のために前線で戦うことを選びます。

どうやら母親だけでなく妹も殺され、父親は戦死したらしいイワン。母親や妹がいた幸福な時代の夢ばかり見る彼にとって、家族をうしなった世界で生きる意味もないのかもしれません。

或る日、いつものように偵察に出て、そのまま戻らなかったイワン。戦後、ポーリンはイワンの消息を最悪の形で知ることになります。

原作はウラジーミル・ボゴモーロフの小説。

タルコフスキーは戦場も平和も命も、水で表現する


(これは平和な時代。水辺で妹と追いかけっこをする少年イワン)

卒業制作の『ローラーとバイオリン』(1961年)から一貫して、水を演出に取り入れているタルコフスキー。長編デビュー作となった1962年の本作でも、それは変わりません。

彼の描く戦場は、美しい白樺が林立する沼地や、対岸に敵陣がある川辺。敵は姿を現さないものの、身を隠す場所のない川面をボートで敵陣側へと渡る危険、いつ泥に足をとられるかもわからない冷たい沼地を照明弾の光に怯えながら前進する困難、そういう形でタルコフスキーは戦場の厳しさ・命の瀬戸際を表現しています。

さらに言えば、本作の中での水は、命そのもののシンボルでもあります。

少年イワンが母親の夢を見る時、母はいつも井戸水を汲んでいます。イワンを夢から目覚めさせるのは、母が倒れ、井戸水がこぼれる瞬間。母親の命の理不尽な蹂躙が、こぼれた水で表現されているんです。

その井戸は、イワンと家族にとって命の井戸だった。母との思い出もそこには詰まっていました。美しい母と、母が汲んでくれるおいしい井戸水がある幸福な日々の夢は、それをすべて失った今のイワンの心の空洞を、否が応でも見せつけてきます。

彼はその空洞を復讐心で埋め尽くした。まだあどけない少年の中に漲る憎悪は痛々しく、そのまま戦争の悲惨さとして胸に迫ります。

逆光の十字架の不吉さ


「水」に加えて本作で巧みに使われているのが逆光の効果。

独軍の爆撃を受け、無残に傾いた教会の屋根の十字架を、タルコフスキーは逆光の中で黒く浮き上がらせます。爆撃シーンに実際の爆撃映像はなく、そこは爆撃音だけで流すのですが、爆撃機が去った後の焼け野原に焼け残った十字架を逆光が照らすこの映像だけで、戦争の禍々しさ、悲惨さが映像から噴き出してくるようです。

絵画による伏線


(デューラーの『ヨハネの黙示録の四騎士』。左下が死の騎士)

名画も、タルコフスキーが作品内で多用するアイテムの1つですよね。

『惑星ソラリス』にはブリューゲルの『雪中の狩人』が、『鏡』にはダ・ヴィンチの画集をめくる場面が、『ノスタルジア』にはピエロ・デッラ・フランチェスカの『出産の聖母』が、といった具合い。そこには深い意味が込められているようでもあり、単にタルコフスキー自身の記憶の一片のように見えることもある・・・ただ、タルコフスキーがそれらの名画に対して特定の強いイメージを抱いていたことは間違いない気がします。

もっとも本作では、とても分かりやすい意図をもってデューラーの『ヨハネの黙示録の四騎士』が使われています。

イワンが基地にあるわずかな本の中から見つけ出したデューラーの版画集。独軍からの戦利品らしいその画集をめぐりながら、イワンは『ヨハネの黙示録の四騎士』に目を留め、中でも「死」の化身である老騎士に興味を抱きます。

「この男に似たドイツ兵を見たことがある」

まさか! こんな骨と皮の老人が戦場に?と思ってしまうのですが、敵味方誰もが死相をひっさげ、殺意をギラギラさせながらうろついている戦場のこと、「死の騎士」に似ている男がいたとしてもおかしくはありません。

この「死の騎士と出会った」というイワンの言葉は、彼の辿る運命の伏線でもあります。

美少年と大人の友情


それにしても本作で少年イワンを演じているニコライ・ブルリャーエフの美少年ぶり!

タルコフスキーの作品には殆どの作品で少年が登場しますが、その中でも自らの意思を持って行動し、観客を共感の渦に巻き込む吸引力では、イワンがダントツ。彼がとびきりの美少年であることも、その吸引力の源泉になっていることは間違いないでしょう。

タルコフスキーはニコライ・ブルリャーノフを次作『アンドレイ・ルブリョフ』(1966年)でも起用しています。お気に入りだったのかもしれないですね。

面白いことに、『ローラーとバイオリン』でも本作でも、タルコフスキーは青年と少年の友情を描いています。しかも、その男同士の友情と対比するかのように、男女の恋愛も描かれているのですが、どちらのケースも男女の恋愛は浅いものとしてしか描かれていません。

本作の中で、イワンをとてもかわいがっているポーリン大尉が、女性の看護中尉・マーシャを森に誘い出し、誘惑しようとする場面があります。

ただ、マーシャのほうがその気になろうとすると、ポーリンのほうは引いてしまいます。どうやらポーリンは、マーシャに気があるらしい将校にちょっと嫌がらせをしたかった風情。本気で彼女と付き合う気持ちはなかったようです。

初期のタルコフスキーの作品には、恋に恋する女心に対する嫌悪感のようなものが感じられる気がするのは気のせいでしょうか? 逆に、男同士の友情、それも年長の男性が少年を対等の存在として尊ぶ関係性に美しさを見出していた。

タルコフスキーの父親は、家族を捨てて別の女性と生活していたようですが、父に対する思い、父を奪った女性への思いも、彼がこういう構図にこだわった背景の1つなのかもしれません。

タルコフスキー的美意識から乖離したゲッベルス一家の遺体
戦闘機も戦車も使わず、戦争のリアリティーを映像に持ち込むことを嫌ったかのように見えた本作ですが、終盤突如様相が変わります。

というのは、本作にはベルリンが陥落して独ソ戦が終結した後の描写があり、そこで自決したナチ幹部の遺体を写した映像が挿入されているのです。その中にはゲッベルス夫妻と幼い6人の子供たちの遺体もあります。

タルコフスキーは後年『鏡』でも戦時中の記録映像を挿入していますが、そこで映し出されているのは、広大な沼地(ここでも「水」!)を、兵士たちが筏に乗せた戦車を押しながら行進していく様子。戦闘や人の死を映し出すものではありませんでした。

本作が作られた1962年は冷戦の真っただ中。ソ連を代表して国際映画祭に参加した本作に、当局の息がかかっていないはずはない。当局の指示でこうなったのか、タルコフスキー自身が敢えてそれをしたのか、たしかなことは言えませんが、それまでのテイストとは打って変わって、突如映像に生々しさが注ぎ込まれる違和感からみても、前者だったのではないかという推測もあながち間違いではないのかもしれません。

クライマックスは爆撃ですっかり破壊されたナチの収容所。残された書類によって、そこで連合国側の捕虜の処刑が行われていたことが判明します。

ジュネーブ条約はどこへ行った?という話ですが、同時に、「カティンの森は・・・」とつい言いたくなってしまう。

このあたり、冷戦時代の西の教育を受けた私としては、どうしても違和感を持ってしまうんですよね。それもまた一種のバイアスなのですが。

結局、両者同じことをしていた。

戦争になったらルールは無意味になってしまう。子供の無邪気さも、命も奪ってしまう。

戦争だけは、嫌ですね。
https://ameblo.jp/madamezelda/entry-12656412114.html
メンテ
タルコフスキー 映画『惑星ソラリス (1972年)』 ( No.3 )
日時: 2022/05/17 05:32
名前: スメラ尊 ID:Gjda1JhU

タルコフスキー 映画『惑星ソラリス (1972年)』


監督 アンドレイ・タルコフスキー
脚本 アンドレイ・タルコフスキー フリードリッヒ・ガレンシュテイン
音楽 エドゥアルド・アルテミエフ
撮影 ワジーム・ユーソフ
公開 1972年3月20日


動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E6%83%91%E6%98%9F%E3%82%BD%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%B9%201972%E5%B9%B4?hft=0&st=1550368679845&itc=9&ct=2&cip=1


作中挿入音楽

テーマ曲:ヨハン・ゼバスティアン・バッハ コラール・プレリュード 『イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ』(BWV 639)

キャスト

クリス・ケルヴィン (心理学者):ドナタス・バニオニス
ハリー (クリスの前妻):ナタリア・ボンダルチュク
アンリ・バートン (宇宙飛行士):ウラジスラフ・ドヴォルジェツキー
サルトリウス (天体生物学者):アナトリー・ソロニーツィン
ギバリャン (物理学者):ソス・サルキシャン
スナウト (サイバネティックス学者):ユーリー・ヤルヴェト
ニック・ケルヴィン (クリスの父):ニコライ・グリニコ
アンナ (クリスの伯母):タマーラ・オゴロドニコヴァ
ギバリャンの客:オーリガ・キズィローヴァ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%91%E6%98%9F%E3%82%BD%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%B9


映画のストーリー

未知の惑星ソラリス。その調査は、プラズマの“海”の理性活動の徴候により行き詰まっていた。海に接触しようとする試みはすべて失敗に終っている。

数年前惑星より帰って来た中尉の報告をビデオでみるクリス(ドナタス・バニオニス)は、翌朝、惑星上に浮かぶステーションへ飛んだ。三人の学者のいるはずのステーションは、張りつめた静寂と荒廃の兆。クリスの友人の物理学者は既に原因不明の自殺を遂げており、残された二人−−スナウト(ユーリー・ヤルヴェト)とサルトリウス(アナトリー・ソロニーツィン)も何やらおびえ自閉症がかっている。

彼らはクリスに二人以外の人影を見ても気にするなという。この謎を解明しようと死んだ友人のクリス宛のビデオを発見するが、海にX線を放射した事以外、謎をとく鍵はなかった。サルトリウスの部屋では他の人影を見、ステーション内を歩く少女を見かけるクリス。やがて眠りにつくクリスが目覚めた時、そこには数年前に死んだはずのハリー(ナターリヤ・ボンダルチュク)がいる。クリスはその女−−ハリーの服がチャックもなく着脱不可能なのに気づき、彼女をロケットに乗せ打ち上げた。

自室に戻った彼にスナウトはX線放射以後、海は人間の意識下にある人物をここに送り込んでくると話す。

案の定、ハリーは戻ってきた。ドアを破って入ってくる彼女。そのための傷はみるみる内に元通りになっていった。

図書室でのスナウトの誕生祝いの席上、ハリーは自分達は人間の良心の現われではないかと発言し、考え込む。しばらくしてハリーは液体酸素を飲んで自殺するが、やがて蘇生する。クリスはいつしか彼女を愛の対象と考えるようになった。

クリスは今度は自らの意識をX線放射することを提案する。地球の彼の家、母、ハリー。目覚めるクリス。だが、置手紙を残してハリーはいない。クリスの帰還は近づいていた。彼の家の庭、家より出てくる父。今、クリスは惑星ソラリスと邂逅する。海に浮ぶ彼の家と庭や池と共に−−。
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『惑星ソラリス』(わくせいソラリス、原題ロシア語:Солярис、サリャーリス[1]、英語:Solaris)は、アンドレイ・タルコフスキーの監督による、1972年の旧ソ連の映画である。

ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの小説『ソラリス』(早川書房版での邦題は、『ソラリスの陽のもとに』) を原作としているが、映画自体はレムの原作にはない概念が持ち込まれており、また構成も大きく異なっている。

1972年カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞。1978年、第9回星雲賞映画演劇部門賞受賞。

作品をめぐる評価

タルコフスキーの名前を世界に知らしめた記念碑的作品。1972年のカンヌ映画祭に急遽出展され、審査員特別グランプリを受けた。

荒廃した宇宙ステーションを舞台に、カットが途切れず延々とカメラが回り続ける独特の映像感覚や、電子音楽で流れるバッハのコラール前奏曲(BWV639)の音楽感覚が映画評論家たちに絶賛されている。かねてより水・火などの映像の美しさで知られていたタルコフスキーによる海の描き方は、穏やかでありながら神秘的。また、タルコフスキーが生涯を通じて繰り返し愛用した人体浮遊シーンは、この映画の中でも効果的に用いられている。ストーリーは追いづらく、難解と評されることが多い。タルコフスキー監督は、後に意図的に観客を退屈させるような作風を選んだ、と述べている。

ポーランドの巨匠スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』を原作としているが、レムの作品は「枠物語」として利用しているだけで、主題的には1974年の『鏡』にヴァリエーションが見てとれる。

レムの原作では、惑星ソラリスの表面全体を覆う「海」が、知性を持つ巨大な存在で、複雑な知的活動を営んでいる。人類はこの「ソラリスの海」を研究し何とか意志疎通を試みようと努めるが、何世紀ものときが経過しても、「海」は謎のままに留まり、人類とのコミュニケーションを硬く拒んでいるようにも見える。このような基本設定の上に、「ソラリスの海」上空の軌道に設置された研究用宇宙ステーションに赴任して来た科学者クリス・ケルヴィンが、驚くべき出来事に直面するというところからストーリーが始まる。

タルコフスキーの『惑星ソラリス』は、レムの原作には無い、地球上での情景とエピソードが物語冒頭に置かれているし、同じく原作には全く登場しない(厳密には研究者ゲーゼが父に似ており、両者が地球上に墓場を持っていないことが作中語られている)、主人公の父親も出てくる。またタルコフスキーによる宇宙ステーションでの物語は、もっぱら主人公と「ソラリスが、主人公の記憶の中から再合成して送り出してきたかつて自殺した妻」との関係に集中している。レムが、その「ソラリスが、主人公の記憶の中から再合成して送り出してきたかつて自殺した妻」との人間関係のほかに、それ以上の大きなテーマとして、「人間と、意思疎通ができない生命体との、ややこしい関係」について思弁的な物語を展開するのとは、はっきりと異なる。

このために、レムとタルコフスキーとの間で大喧嘩が起きたことは有名。もともとレムは舌鋒鋭く他作家に対しても非寛容な批評を行ってきたことで知られており、独自のSF観にそぐわない自作の映画化には言いたいことがいくらでもあった。これに対して、芸術至上主義のタルコフスキーは自身の芸術観に身も心も捧げている。激しい口論の末に、レムは最後に「お前は馬鹿だ!」と捨て台詞を吐いたという。

レムはこの映画について「タルコフスキーが作ったのはソラリスではなくて罪と罰だった」と語っている。タルコフスキーの側は「ロケットだとか、宇宙ステーションの内部のセットを作るのは楽しかった。しかし、それは芸術とは関係の無いガラクタだった」と語っており、SF映画からの決別を宣言している。

この後、タルコフスキーは『ストーカー』で再びSF作品を原作に選ぶのだが、レムとの一件に懲りた彼は原作者のストルガツキー兄弟と文通しながら「路傍のピクニック」という短編を基にしてシナリオを作成し、宇宙船もあらゆる機械類も特撮も一切無しという特異なSF映画を作り上げることになる。結局のところ、タルコフスキーはSFによる非日常的なシチュエーションに創作意欲を掻き立てられはするが、SFそのものに興味がある訳では無かった。

『惑星ソラリス』と比較されることの多い『2001年宇宙の旅』を公開直後にタルコフスキーは観ているが、「最新科学技術の業績を見せる博物館に居るような人工的な感じがした」「キューブリックはそうしたこと(セットデザインや特殊効果)に酔いしれて、人間の道徳の問題を忘れている」とコメントしている。また劇中で、人間の心の問題が解決されなければ科学の進歩など意味がないという台詞をスナウトに語らせている。

未来都市の風景として東京の首都高速道路が使われているが、「タルコフスキー日記」によれば、この場面を日本万国博覧会会場で撮影することを計画していたものの当局からの許可が中々下りず、来日したときには既に万博は閉会。跡地を訪ねたもののイメージ通りの撮影はできず、仕方なしに東京で撮影したとのことである。巨匠はビル街の高架橋とトンネルが果てしなく連続する光景の無機質な超現実感にご満悦だったらしく、日記には「建築では、疑いもなく日本は最先端だ」と手放しの賞賛が書き残されている[2]。

日本初公開は1977年。かねてから親交のあった黒澤明が紹介に努めたが、SFファンなどからは酷評された。その後、各種の上映会等で徐々にタルコフスキーの理解者が増えていき、現在では名作の誉れが高い。黒澤は後に、熊井啓 の手により映画化された『海は見ていた』(英題:" The sea " watches . )の脚本で、『惑星ソラリス』と同様に、「海」の持つ 「限りない優しさ」 を描くことになる。 黒澤とタルコフスキーは、酒が入ると、ともに『七人の侍』のテーマを合唱するなど、肝胆相照らす仲だった。
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タルコフスキー、ソラリスを語る

スタニスワフ・レムの『ソラリス』の映画脚本をつくろうと決めたのは、SFに興味があったからではなかった。

一番大切な理由は、『ソラリス』でレムは、私が身近に感じることが出来る道徳的な問題を取り上げたということだった。

レムの小説のより深い意味は、SFの限界内に収まっていない。

文学形式だけを論じるなら、問題を制限することになる。

この小説は、人間理性と知られざる者との衝突を扱っているだけでなく、新しい科学の発見によって生み出された道徳的葛藤をも扱っている。

『進歩の代償』と呼ばれる痛々しい経験の結果として生じる新しい道徳性を扱っている。

ケルヴィンにとってその代価は、物質形態で自分自身の良心の呵責に直接対面せざるをえないということだ。

ケルヴィンは自分の行動原理を変えない。自分自身にとどまる。
それこそ彼の悲劇的なジレンマの根本であるのだが。


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一体全体なぜ、私が見たSF映画のすべてで、監督は観客に未来の物質的な細部をじっくり見せようとするのか? 

なぜ彼らはースタンレー・キューブリックがそう称したようにー自作を予言的と称するのか?
 
専門家にとって『2001年』が多くの事例で食わせ物だ、芸術作品とはとても言えないと言うつもりはない。

私は、『ソラリス』を観客に異国情緒を味わわせることがないように、撮影したいと思う。

当然、テクノロジーの領域での異国情緒という意味だ。

例えば、電車に乗る乗客を撮影して、私たちが電車について何も知らないとしたらーそう仮定しましょうー以前電車を見たことがなかったからです、そのとき私たちは月に着陸する宇宙船のシーンでキューブリックがやったのと類似の効果を獲得するでしょう。
言い換えると、停車場で普通に撮影するやり方で宇宙のシーンを撮影する限り、何もかも上手く行くでしょう。

このように私たちは登場人物を、異国趣味のシーンではなく、リアルなシーンに置く必要があります。

なぜなら映画の登場人物が現実を知覚することによってのみ、観客が理解できるようになるからです。

だから、未来の科学技術を細々と見せると、映画の情緒的な基礎が壊れてしまいます。


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肝心なのは、その「科学技術」の、と言っておきましょう、その発達の各段階で人間は、霊的なエントロピーのようなものと、道徳的価値の拡散と、戦わねばならないということだと思います。

一方で、人間性は自らをあらゆる道徳から解放しようとします。

その一方で、道徳を創造しようとする。

このジレンマが、個人の生においても一般社会の生においても、並はずれて劇的な緊張に満ちた状況を生み出すものになります。

この劇的な解放と、それと同時に、精神的理想の探求は、人間が自らをもっぱら道徳的な問題に捧げることが出来る発達段階に到達するまで続くことでしょう。

人間が絶対的な外的な自由を獲得する段階、それを社会的な自由と呼びましょう、そこで人間は日々の糧に、雨露をしのぐ場所に、子どもの未来を確保することに、いちいち心を惑わす必要はないことでしょう。

そこで、人間はかつて外的自由に捧げた同じエネルギーで、自己の内部深くに降りていくことが出来るでしょう。

私にとってハリーとケルヴィンの間で宇宙ステーションで生じたことは、人間の自分の良心に対する関係が問題なのです。

[…]

映画は奴隷のように本に忠実に従うことは出来ない。

レムの足跡をたどることは、作家と本に対する背信行為になるでしょう。

私は、『ソラリス』の私の個人的な読み方を映像にしようとしました。

作者に忠実であるために、私は時々、ある種のテーマに対する視覚的等価物を探して、小説から逸脱しなければならなかった。

私には対比として地球が必要だった、もっともそれだけのためではありませんが…
私は、地球を観客の心の何か美しいものと等価のものにしたかった。

人の憧憬を表すものです。

だから、ソラリスの神秘的な幻想的な雰囲気に飛び込んだ後、突然地球を一瞥したときに、彼は再び正常に、くつろいで、感じる。

その結果彼はこの平凡さへの憧憬を感じ始める。

言い換えると、彼はノスタルギアの有益な影響を感じる。

結局、ケルヴィンは人間としての自分の義務であると見なす実験をするために、ソラリスに残る決心をする。

このように私は、観客がさらに十全に、さらに鋭敏に、彼の決心の劇的な意義のすべてを実感できるように、地球を必要としたのでした。

私たちの根源的な故郷であった、今も故郷である惑星に帰ることをこのように断念する、そのことの意義が実感できるように、です。


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スタンレー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を最近見ました。
人工的なものの印象が残りました。

最新科学技術の業績を見せる博物館にいるかのようでした。

キューブリックはそういうことに酔いしれて、人間のことを、人間の道徳の問題を忘れています。

それがなければ、真の芸術は存在できません。


映画の描写の最大限の直接性に私は信頼をおいています。

この映画でも私はギミックなしで、最も素朴な手段を用います。

今日流行の「スペクタクル」の類は避けています。

確かに、映画はカラーになりますが。
最近まで私はカラー映画に絶対反対でした、しかしどうすればいいのでしょうか、今日ではカラーを避けるのは不可能です。

何とかこの技術を最善のかたちで利用しようと苦心しています。
リアリズムの領域の中でしっくりしたものになるようにです。

SF映画のリアリズム?
 
ええ、可能だと思います。

私たちはこの想像世界を出来るだけ具体的なものにしています。

特にその純粋に外的な現れで、です。

『ソラリス』で示されるリアリティは物質的に経験可能なもの、ほとんど手で掴むことが出来るものになるはずです。

装飾のテクスチャーによって、ワディム・ユーソフの映画スタイルによって、それを実現します。

私たちの映画には、本にない地球上のシーンがあります。

対比のために地球が必要なんですが、それだけではありません。

私は観客に私たちの惑星の美に気づいてもらいたいと思います。

そうすればー調べようもない、神秘的な事柄をはらんだ雰囲気に包まれていたのでーもっと気持ちを込めて、地球に帰ってくるでしょう、その平凡さを自由に喜ばしく呼吸することでしょう。

この映画を見る方にホームシックの苦さを理解してもらいたいと思います。

結局クリスはソラリスにとどまる決心をします。

なぜならそれは科学者としての彼の使命が要求することだからです。

プロジェクトの監督を彼に託した人々に彼が負う責務が求めるからです。

この状況で、地球のイメージは観客の心理的な反応の触媒として作用し、クリスの決定に隠された意味を十分に、明確に見て取ることができるはずです。


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私はSFは好きじゃない。

いやSFが基づくジャンルが好きでない。

テクノロジー、いろいろな未来論的なトリックや工夫が凝らされたああいうゲームが好きでない。

いつでも人工的だ。

でもファンタジーから引き出せる問題には興味がある。

人間と彼が抱える問題、人間の世界、人間の不安。

平凡な生もまたファンタジーにあふれている。

人生そのものがファンタスティックな現象です。

フョードル・ドストエフスキーはそのことをよく知っていた。

だから生そのものに、毎日の生、平凡な生そのものに焦点を定めたいのです。

その中では何だってあり得るのですから。


私の『ソラリス』は結局、サイエンスフィクションではありません。

その文学的な先駆者もそうではない。

ここで大切なのは、人間だ。その人格だ。

惑星地球と結んだ彼の非常に執拗な絆だ。
彼が生きる時代に対する責任感だ。

典型的なSFは好みでない。
私には分からないし、信じてもいない。

実際、『ソラリス』に取り組んでいるとき、私は『ルブリョフ』と同じテーマと取り組んでいた。

人間存在だ。

この2作はアクションが生じる時によって切り離されているにすぎない。


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『ソラリス』は私の映画で一番成功しないものになった。

なぜならSFの要素を避けることが出来なかったからです。

スタニスワフ・レムは脚本を読んで、私がSF要素を排除しようとしているのに気づいて、不愉快になった。

脚色許可を取り消すと脅しました。

私たちは新しい脚本を用意しましたが、そこからは撮影中にこっそり逸脱することが可能だったのです。

そのつもりでした。しかしこの意図は十分には果たせなかったのです。


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スタニスワフ・レムの証言


私にはこの脚本に根本的な留保点がいくつかある。

まず第一に、惑星ソラリスをこの眼で見たかったと思うのだが、監督は不幸なことに、作品が映画的に静かな作品になるべきであるとして、私を拒否した。

第2に、私たちのごたごたの1つでタルコフスキーに言ったことだが、彼は『惑星ソラリス』をまったく製作しなかった。

彼は『罪と罰』を創ったのだ。

フィルムになったのは、この忌まわしいケルヴィンが可哀想なハリーを自殺に追い込んで、それから良心の呵責にさいなまれたが、彼女の出現、奇妙な理解不能な出現によって、ますますひどく苦しむことになる様子だ。

ハリーの出現のこの現象は私には、カントその人から得られる概念を規範とするものだ。

なぜなら物自体、到達不可能なもの、もの自体、浸透不可能な彼岸が存在するからだ。

しかし私の小説でこれは別のやり方で、明白にされ、構成されている…

しかし、第2部の20分を除けば、映画の全編を私は見たことがないことを明らかにしておかねばならない。

脚本はとてもよく分かっているのだが。

なぜならロシア人は原作者に特別に1部を作成する習慣があるからだ。

どうしようもなくひどいことがある。

タルコフスキーは映画にケルヴィンの両親を登場させている。

叔母すら出てくる。

しかし一番ひどいのは母親だ。

なぜなら母親はmat' である、mat' は Rossiya, Rodina, Zemlya [ロシア、母国、大地] であるからだ。

これだけで私は怒り心頭だ。

この瞬間に私たちは馬車を反対方向に引っぱろうとする2頭の馬のようなものだった。
[…]

私のケルヴィンは何の希望もなく惑星にとどまる決心をする。

一方タルコフスキーは島のようなものを出現させ、その島に小屋があるイメージを創造した。

小屋と島のことを聞いたとき、私はいらだちで気も狂わんばかりだった…

こんなものは情緒的なソースにすぎない。

そこにタルコフスキーは彼のヒーローたちをどっぷり浸けたのだ。

科学的な景色を彼は完全に切断して、その代わりに私には我慢ならない奇妙なものをたっぷり導入したことは言うまでもあるまい。
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タルコフスキーのストックホルム・インタビュー


Q:なぜスタニスワフ・レムの『ソラリス』に基づいてなぜ映画を創られたのか、話してもらえますか? 何があなたをあの小説に引きつけたのですか?


私はスタニスワフ・レムを非常に高く評価していて、彼の作品は非常に好きです。

いつでも読めるときに読みます、読めるものは何でも読みます。

彼の散文も好きですが、たまたまーこんなことを言うのは残念なのですがー彼は映画というものをあまり好きじゃない、分からない。

それで、一緒に仕事をしているとき、私たちは不平等なパートナーでした。

私は彼の本をどうしようもなく愛していましたが、彼のほうは私の映画にまったく無関心でした。

彼はいつも作家として考えていました、まず文学だと-。

Q:文学が一番大切なものだった。


さあ、どうでしょう?
 
一番大切じゃなくーとにかく文学が存在していた、事実として。音楽、詩、絵画が存在しているように。

しかし彼は映画を理解できなかった。

今でもそうですよ。彼は、映画とは何であるのか、分かっていない。

たくさんいますよ、非常に頭のいい人たちで、文学、詩、音楽は熟知しているのに、映画は芸術だと思わない人がね。

映画はまだ誕生していないと考えるか、映画を感じられないのです。

森の木を見ることは出来ない、本物の映画と商業映画を区別できないという意味です。

明らかにレムは映画を芸術として真剣に扱わない。

だから、脚本でも自分の小説に忠実であるべきだったと彼は信じているのです、それを絵にするだけで良かったと。

私にはそんなことは出来ない。

その場合、彼は私ではなく、「イラストレーター」である監督に近づくべきだった。


Q:そういう監督なら「動く絵」が作れる。


ええ、よくいるタイプです。


Q:たいてい、死んだ絵しかつくらない。


そんな監督がいます、作家に綿密に従って、作品を例示する人たちです。

このタイプの映画はたくさんありますが、たいてい同じように見えます。

単なるイラストだから、みんな死んでいる、生命が何もない。

それ自体、そして当然ながら、芸術的な価値は全くない。

単なる写し絵です。

文学の原典に従属する副次的なものです。

そういうのをレムは期待していた。

もし本当に彼がそう期待していたなら。私には理解できないことです。

彼がこの手の期待をしていたと考えるのは非常に奇妙なことですが、映画芸術に対する彼の姿勢こそ、まさにこの結果、イラストを期待する人間の位置に彼を置いたのです。
もしかするとそんなことは全然望んではいなかったのでしょうが。

しかし、私たちの脚本が小説の正確な描写からはずれる部分があれば、彼は必ず反対したものでした。新たな道筋を工夫したらいつでも彼は憤然としていました。

あの時私にはとても気に入った脚本の異稿がありました。

その場合、アクションのほぼすべてが地上で起きるのです、その半分以上が、つまり、ハリーをめぐる過去のすべてでした。

なぜ彼女がはるか宇宙の彼方のソラリスで「生まれた」のか。

『罪と罰』を想い出させるものでした。

もちろんレムのオリジナルの理念とは真っ向から衝突しました。

なぜなら私は内面生活の問題、いわば精神的な問題に興味があったからです。

一方彼のほうは人間と宇宙の衝突に興味があった。

括弧付きの「未知なるもの」に興味があった。

これこそ彼の興味を惹くものだった。

言葉の存在論的な意味において、認識の問題とこの認識の限界という意味でーそういうものに興味があった。

人間性が危機にさらされているとすら言ってました、人間が感じないときに認識の危機があると。

この危機は増加している、雪だるまのように、それがさまざまな人間の悲劇のかたちをつくり出している、科学者が経験する悲劇も、です。

そのすべてが熟して一種の爆発を起こす、前進をもたらす、すべてが未来に向かって行進する、などなど。

爆発ーそれはいいでしょう、私も否定しない、しかし私はそんなことにまったく興味がない。

この小説に惹かれたのは、生まれて初めて私がこう言える作品と出会ったから、それに尽きるのです。

つまり、贖い、それは贖いの物語なのです。

贖いとは何か?ー

良心の呵責。言葉の直接的な古典的な意味でー過去の過ち、罪、の記憶が実在になるとき、にです。

私にとってこれこそあの映画を作った理由なのです。


一方、未知との遭遇の問題を語るべきならーその場合も、存在論的な側面は私には重要でなかった。

そうではなく、ある人間の心理状況の再創造だった。

その魂に何が起きているのかを示すことこそ重要だった。

もしその人間が人間であり続けるならー私にはそれが最もかけがえのないことだった。


私の映画の主人公が心理学者であることは偶然ではありません。

レムの小説の主人公も心理学者ですが。

彼は平凡な都市生活者です、俗物です、そう見えます。

私には、彼がそんなふうであることが重要でした。

彼は精神的な幅のかなり限られた人間であるべきです、月並みな人間ですーこの精神的な闘いを、恐怖を経験できるためにです。

苦痛に捕らえられて、自分に何が起きているのか理解できない動物のようにではなく、この精神的な闘いを経験できるためにです。

私に重要であったのは、人間は無意識に自分自身に人間的であることを強制するということです。

無意識に、そしてその精神的な能力が許す限り、人間は野蛮さに反抗します。

人間的であり続ける限り人間は非人間的なものすべてに抵抗します。

そして結局、彼はー少なくともそう見えるでしょうー徹底的に月並みな奴であるにもかかわらず、彼は精神的に高いレベルに立ちます。

まるで自分を断罪するかのようです。

この問題の内側に入り込み、自分を鏡の中に見たかのようです。


結局、彼は精神的に豊かな人間ですー

先に見たように、見かけは知的に限界があるにもかかわらずです。


父親と話すとき彼はどうしようもない俗物です。

バートンと話すとき、月並みな凡庸さで、知識について、道徳について語ります。
凡庸な話をします。

自分の思念を形成し始めると途端に彼は凡庸になる。

しかし何かを感じ始めると、あるいは苦しみ始めると、途端に人間になる。

で、レムはこのことにまったく無感動だった。まるっきり無感動だった。

私はこのことに深く心動かされた。


カンヌで映画が賞を受けて、誰かが彼におめでとうと言ったとき、レムは訊いた。

「で、私はどうしたらいいんだ?」

彼は恨みを込めてそう言ったー

しかし別の見方をしてこう訊けるでしょう。

「確かに。彼はどうしたらいいのだろう?」

もし彼が映画を芸術として扱ったなら、映画というものは、スクリーンに合わせたものは、いつも、いわば作品の廃墟から生じるのだと分かったでしょうに。

しかし彼はそんな風には映画を見なかった。

しかし私は、共に過ごし語り合ったあの日々のことを彼に限りなく感謝しています-
彼はきわめて興味深い人物です。とても楽しい人です。

だから、私が少し苦い思いをしたなら、それは、彼が私と私の映画をあんな風に扱ったからではなかったー映画を一般にあんな風に扱ったからなのです。

ところで、彼によろしくと、私の心からの感謝と敬意を彼に伝えるようにお願いできますか?


 私はいつまでも感謝と共に一緒に仕事をして過ごした時を想い出すでしょう。

しかし、私が先に述べたことは、少なくとも、客観性のために述べておく必要があったのです。


Q:2つの別の問題ですね。


そうです。

ここで私たちはある争点に触れています。

これは、いつも私に問題を提起する。

ええ、こんなことが以前ありました。

誰かに会う。とても知的な人です。

読書家で、詩、絵画、音楽などを知っていて。知識人です。

で、彼は私の新しい映画が好きだと言う。偉大な映画だと言う。

そして「おお、私はうれしい、ありがとう、ありがとう」と言う。
で、彼に話し始めると私は彼が何も理解していないことに気づく。

これはひどい。これはまったくひどい。

これは私がさっき話していたことの逆です。

まあ似たようなーその人は言う

「そうです、そうです、映画、私には分かります」ー

しかし実は映画を理解していない。

映画が何であるか、映画をどのように扱うべきか、映画から何が期待できるかー
映画から何を期待してはいけないか、何を期待すべきか、分かっていない。


これは一体どういうことか? 

詩、絵画、文学、音楽に関しては水の中の魚のように、自由自在なのに、映画のことになると全くの素人だ。

映画に関する議論も話し合いも全然出来ないー自分はその気になっているのに、ですよ! 

これは非常に奇妙なことだ。

私にはこちらのほうが、誰かにこう言われるよりずっと辛いことです。

「ええ、私にはあなたの映画が分からない。

私の意見ではそれは戯言だ。馬鹿馬鹿しい、もったいぶった戯言だ。

政府の金がこんな映画に費やされるのは理解できない。」


こういう手紙を受け取ったこともありますよ。

『ルブリョフ』で大騒ぎしている頃、KGBに直接手紙を送った奴がいた。

「タタールの国家に反対する映画を作るためにタルコフスキーが政府の金を使えないように、タルコフスキーをまっとうに更正させなきゃいかん」
と書いてよこした。


Q:タタール人?!


信じられますか? 

私はただ-

「戦争中タタール人はロシアの兄弟と一緒に、共通の理想のために血を流したのだ。
それなのにタルコフスキーは反タタール映画を作っている。」


分かりますか? 

「反タタール映画を作る気なら、タルコフスキーには二度と何も撮らせるな。」

それだけじゃない。こういう人たちは実は自分たちの歴史を知らなかった。

このタタールの人たちは、自分が『ルブリョフ』で描かれたタタール=モンゴル人とはまったく別であることを確かに知らなかったのです。

2つのまるっきり違うことなんです。

彼らは自分の歴史すら知らない。

カザンにいたときそこで私は同じ話をしました。

私はその手紙を読んで、言いました。

あなたがたはタタール人としての国家の尊厳を言われるが、そういうあなたがたの誰ひとり、知らないー自分が何者であるのかまるっきり分かっていない。

あなたの父祖が誰なのか、覚えてもいない。

あなた方は他の国家と混じり合っている。

ええ。こんなふうにいろんな手紙をたくさん受け取りましたよ、時には侮辱的なものも。

そういう手紙を受け取っても、何とも感じないものですよ。

なぜなら一般にどうしようもない無知な手紙ばかりですからね。

しかし突然誰かに出くわしたら、例えば誰か以前なら文化的な動向に立派な意見を持っていたとしましょう。

その彼が突然、あなたがやったことについてナンセンスなことを話し始めたらー
彼がまったく無理解であることを暴露するならーこれはさらにつらいものですよ。

賛成されるかどうか分かりませんが、例えば1冊の本を読むなら、例えば、何か文学作品を読むなら、読んでいる人と同じ数だけ本もあるんです。

読者のひとりひとりが自分で創造したイメージを見ています。
自分の体験に基づいて作りあげたイメージです。

文学は描写が中心で、映画は例証が中心だから、余計そうです。

でも、映画も個人のヴィジョンを受け容れます。

このことを私はとびきり貴いものだと考えています。

もしそれが文学で可能なら、なぜ映画ではそれと戦わなければいけないのですか?
 
その逆のー一般に当てはまることだけを考慮する、すべての特徴にあてはまるだけを考える、普遍的に受容されことだけ考える?
 
私にはこういうことはまったく理解できない。

これは差別だと思います。

芸術作品は観客、聴衆、読者によって創られると私は信じます。

個人の知覚の可能性を許さないなら、芸術は芸術ではないでしょう。

もちろん、或る程度準備をしておかなければならない。

しかし、一番大切なのは、準備、教育ではなく、むしろ精神的なレベルです。

これが受容なのです。理解というよりむしろ受容です。

もしあなたが受け容れる、受けとめるなら、あなたには理解できるでしょう。

あなたが理解できる日が来るでしょう。

だから、文学作品がその性質固有のやり方で状況を示し、解釈できるなら、なぜ、他のジャンルが、例えば映画作品が、自分のやり方でそれを出来てはいけないのでしょうか? 

そうでしょう? そうであるべきだと私は思いますよ。
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タルコフスキー『惑星ソラリス』


 映画の中の恋愛というのは、往々にして世界との関係の隠喩でもある。

多くの映画の主人公は、ラストで抱えていた問題が一掃されると同時に、パートナーを手に入れる。

まあこれだけだと、単なるそこらの色と出世のサクセスストーリーだが、もうちょっと気取った映画となると、何らかの理由で世界から孤立して暮らしている人物がいて、その人の前にふとした偶然で相手があらわれる。

それが、世界の差し出してくれた関係修復のための蜘蛛の糸になる――そんな映画はたくさん思いつく。

たとえば『ブレードランナー』なんかを考えてもらえばいい。

もちろんこれも一歩間違えると、自分では何もしない怠惰なおたくのところに、労せずして美少女が勝手に宅配されてなついてくれるという、ただの卑しい願望充足話になってしまうので、それを避ける工夫は必要なのだけれど。

 その一つのやり方は、そこで登場する蜘蛛の糸たる相手を、何か受け入れがたい変なものに仕立てることだ。

『ブレードランナー』はそれを、自分の倒すべきネクサス6型アンドロイドにしたことで実現した。
あの映画の長期的な価値は、その仕掛けがきわめて上手に構築されたことからもきている。


 そしてタルコフスキー監督の『惑星ソラリス』では、その相手はかつて自殺した妻の複製品だ。

 知性を持つらしき惑星ソラリスの海は、近くにやってきた人間が内心に抱いている世界との断絶の根本にあるものを探り出しては再現するという性質を持っている。


主人公の場合、それは自殺した妻だった。


 そうやって世界が、考えもしなかったような形で差し出してきた存在に対して、主人公はどう振る舞っていいかわからない。

いまでも奥さんのことは忘れられないけれど、でも一方で彼女の自殺の原因は自分にあるので、彼女の姿は傷口に塩をすりこまれるような苦痛だ。

耐えきれずに一度はそれを殺してみるし、またどうも自分が変な存在でうとましがられているのに気がついた当の複製奥さんも、自殺を試みるけれど、生き返ってしまう。


 『惑星ソラリス』は、そんな変な生き物とゆっくりと折り合いをつける過程の話となっている。

そこにある逡巡やとまどい、葛藤――それはまさに恋愛で、『惑星ソラリス』はそこにあまりロマンチックな要素を持ち込まないことで、逆に精神的な深みを出し仰せていた。


 いたんだが……『惑星ソラリス』はその最後の最後のところで、あさっての方向を向いてしまう。

主人公の脳内情報を投射されたソラリスの海は、奥さんもどきをあっさり消してくれて、かわりに昔の家とお父さんを復活させ、再会ごっこまで演じさせてくれる。

この時点ですでにソラリスの海は、おたくのビデオデッキまがいの都合のいい妄想再生実現マシーンになってしまっている。

その奥さんもどきをどうするか? 

そこにこそ、その恋愛――そしてそれまで映画が積み重ねてきた問いかけ――の意味があったはずだったのに。


 それはまた、タルコフスキーが常にやってきたごまかしでもある。


NHKがタルコフスキーについてのドキュメンタリーを放送したことがあって、そこにかれの妹が登場した。

そして、お兄さんの映画についてどう思うかと尋ねられたとき、彼女は吐き捨てるようにこんなことを述べたのだ。


 「大嫌いです。 冷たくて人工的で。

だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、

実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。

あんなの全部、口先だけのインチキです」


 ぼくはこれを聞いて、タルコフスキー映画を見る目が一気に変わってしまった。

かれの描いていた家族への郷愁がまがいものなら、かれが晩年になってますますしつこく押しつけがましく描くようになってきた神だの世界の救済だのといったものも、やっぱりまがいものでしかないんじゃないか。

それはかれが現実の家族をまったく顧みずに脳内家族に萌えていたのと同様、本当の神様でも本当の世界でもない、脳内の物欲しげな妄想でしかないんじゃないか。


 そしてそれはかれの恋愛の描き方にも出ている。

『ノスタルジア』でもそうだ。

主人公は世界のさしのべてくれた実物の愛を無視して、世界を救うとかいう妄想への耽溺を選ぶ。

それはたぶん、世界の頭でっかちたちの間でのタルコフスキーの評価を高めた選択でもあるんだろう。


でもそれは、結局かれが各種の愛や、世界との和解を手に入れられなかった原因でもあるんじゃないか。

だがそもそも、かれは現実にそれを求めていたんだろうか。
ttp://cruel.org/other/esquiresolaris.html


Marina Tarkovskaïa raconte Andreï Tarkovski
ttp://www.youtube.com/watch?v=Y4VZ-keEdfY&feature=related

________________


タルコフスキーの評価は厳しかったが、それでも映画の場合は、実に数多くの作品を彼は見たのだった。

彼がもっともよく話題にした創造的な精神は、ブレッソン、アントニオーニ、フェリーニ、黒澤、ワイダ、ザヌーシ、ベルイマンだった。

これと関連して、私は1985年11月の出来事を思い出す。

アンドレイと私はストックホルムの映画博物館で映画ポスター展を見ていた。

私はベルイマンの姿を見つけた。

ベルイマンとタルコフスキーはお互い会いたがっていたが、一度も会ったことがなかったのだ。

ベルイマンは博物館の中の劇場のひとつから出てきたところだった。

このチャンスに、出会いは実に自然で、ほとんど避けがたいと思われた。

2人はおよそ15メートルの距離でお互いを認めることが出来た。

次の瞬間、私は仰天した。

2人ともくるっと踵を返した。

まるで厳しい軍事演習に加わっているかのように。

そして別々の方向に歩いていった。

2人は二度と会わなかった。

こうしてこの世界の2人の偉人は触れあうことなくすれ違ったのである。
ttp://homepage.mac.com/satokk/mihal/mihal.html


「惑星ソラリス」 原作はスタニスラフ・レム。


その「惑星ソラリス」というと最近リメイクされたようですね。
リメイク版の監督さんは、確か賞味期限切れとして名高い?ソダーバーグさん。

ソダーバーグのデビュー作「セックスと嘘とヴィデオテープ」は確かに見事な作品でした。

現代における宗教的なマターを、あるいは、芸術家としてのあり方を、現代的に扱って「大したモンだ!スゴイ!!」と思ったものです。

今でも様々な俳優や映画スタッフは「セックスと嘘とヴィデオテープ」について、「ソダーバーグ監督はデビュー作であの力量なんて・・・スゴイ!!」と言っているようです。

まあ、逆に言うと、その賛辞こそがソダーバーグの現状を語っていると言えるわけですね?

デビュー作の「セックスと嘘とヴィデオテープ」以降の作品は「語られない」わけ。

本来なら、俳優とか同じ映画業界の人間なら、最新作について語るものでしょ?
いつまで経っても、「デビュー作はスゴかった!!」ではねぇ・・・

このように賛辞を語ることによって、否定的な見解を表明する。

意図的にやっているかはわかりませんが、よくある話です。ホメ殺しみたいなものでしょうか?


さて、さて今回の本題であるタルコフスキーによる本家の「惑星ソラリス」。

私はソダーバーグのリメイク版は見ていませんが、リメイクを作りたくなる、プロデューサーの、心境は理解できなくもありません。

タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」は、

1.セリフがロシア語である。
・・・・この点は、当然のこととして、アメリカの観客には不利ですよね?


2 通常のSF映画の「売り」であるはずの未来風景がショボイ。
・・・最新技術を使えばもっとハデな未来風景が作れるはずです。

ということで、リメイク版を作ろうと思ったのでしょう。
しかし、どのみちねぇ・・・

確かにアメリカ人は字幕がキライでしょう。
しかし、スタニスラフ・レム原作の「惑星ソラリス」を見るような観客は、いくらアメリカ人だってそれなりの水準の人でしょうから、本来は字幕には抵抗がないはずです。

「字幕は絶対にイヤ!!」という観客は、そもそも「惑星ソラリス」なんて理解不能でしょ?

あと、「未来風景がショボイ」・・・これだってねぇ・・・

「惑星ソラリス」は未来世界がテーマである作品ではないのだから、未来風景なんてどうでもいいことですからね?

ハデハデな未来風景を楽しみにするような人には、どのみち「惑星ソラリス」なんて無関係の作品ですよ。

というわけで、「惑星ソラリス」のリメイク版を製作することは理解できなくもないけど
・・・無意味なことは確実ですよ。


大体、リメイクって・・・

タルコフスキー監督の作品を手直しする・・・という発想自体ぶっ飛んでいますよ。

まあ、ソダーバーグもよく引き受けたものだと感心いたします。


さて、この「惑星ソラリス」ではバッハのコラール・プレリュードが使われています。

というか一般的な呼び名では「オルガン小曲集」の中のBWV639「われ汝に呼びかけん、主イエス・キリストよ」です。

まあ、そのコラールのタイトルは映画そのものには、登場しません。

この「惑星ソラリス」はソ連映画なので、SFであれば共産党政府も問題にはしなかったでしょうが、「キリスト」を連想させるような宗教的なものは「慎重」に扱う必要があったはずです。

当時のソ連では、あまりおおっぴらにキリストなんて扱えませんよ。

ちなみに、バッハのオルガン小曲集ですが、これらのオルガン曲は、コラール(プロテスタントにおける会衆歌)の伴奏として使われた曲なんだと思いますが・・・

ということで、タイトルだけでなく歌詞もあるわけです。

大体の大意は下記のようなものらしい。


「わたしはあなたに呼びかけます、イエス・キリストよ!

私の嘆きに耳を傾け、この時に恩寵をおあたえください。

どうか私がひるまぬようにしてください。」


バッハの音楽になじんでいる人だったら、ここで言われる「恩寵」が、「死」を意味しているのは簡単に読み取れるでしょう。

「死による救済を憧れる。」

バッハの音楽にはよく出てくる感情です。


有名な82番のカンタータの「我は満ちたれり。」なんて、そのものズバリの曲ですし。

しかし、タルコフスキーでこの曲を使った意図は、死を求めるというよりも、
「自分の嘆きに耳を傾け・・・恩寵を与えて欲しい。」ということなんでしょう。

この「惑星ソラリス」では、映画の中でも「嘆き」や「恩寵を求める渇望」が顕著です。

そもそも、バッハのオルガン音楽だって、この曲以外にも、他にいくらでもあるわけです。

例えばBWV605は「かくも喜びに溢れる日は」とおめでたいタイトルがついています。

BWV645は有名な「目覚めよと呼ぶ声あり」ですよね?

タルコフスキーは多くのバッハの音楽から、「深い嘆き」と「恩寵への渇望」の音楽を「選択」しているわけです。


では、タルコフスキーの抱える「嘆き」とは?

タルコフスキーの渇望する「恩寵」とは?

イタリアの監督パゾリーニは「映画作家はどの作品でも、同じことを言っているだけ。」と言っています。

作品によって、多少スタイルが違っていても、「言わんとする」ことはいつも同じというわけ。

映画作家の代表例のタルコフスキーも「いつも同じこと」を言っているわけです。


タルコフスキーはルネッサンスに懐疑のまなざしを向けていたのは確実でしょう。

「ノスタルジア」では反ルネッサンスの修道士サヴォナローラを連想させる人間を登場させているでしょ?

「サクリファイス」だって、昔の世界への憧れがでてきます。
昔に製作された地図などを喜んで見たりして。地図というのは一種の世界観ですからね。

他にも、アンドレイ・ルビリョフのイコンがルネッサンスの人間中心主義から遠いのは自明ですし。

その他の作品だっていわずもがな。


神から人類を解放したはずのルネッサンスが、本当に人類を解放したのか?

神を放逐した後の、人類のみの世界の代表例が、ソビエトの共産社会でしょ?

現実の共産社会が、人類の解放からもっとも遠かったのは言うまでもないことでしょう。


ちなみに、ヨーロッパの美術において、ルネッサンス以前と以降で随分違います。
単に表現技法の問題だけではありません。

ルネッサンス以降、画家は自画像を製作し、絵にサインを入れるようになりました。
絵画における遠近法だって、ある意味において、神の視点から人間の視点への変更です。

つまり芸術は芸術家のものになったわけです。
それ以前は「神」のものだったわけです。

だからこそ、自画像は作らなかったし、サインも入れなかった。
芸術家はただ神の代理にすぎなかったわけです。

ルネッサンス以降、芸術は芸術家の創造物ということになった。

それが本当にいいことなのか?

創造という神の領域に人間が踏み込んでしまって・・・
人間はそれに値する存在なのか?

あるいは人間の創造した芸術など、神の創造したものに比べれば、取るに足らぬものではないのか?

人間タルコフスキー、別の言い方をすると芸術家タルコフスキーが創造した映画は、このような人間の「創造」に対する懐疑の念が付きまとっています。
逆説的な存在なんですね。

神を放逐した後で、創造を行う人類・・・
そして映画を創造しているタルコフスキー本人。

タルコフスキーの映画は「人類の創造への懐疑に満ちた創造物」という逆説的存在と言えるように思います。


だからこそ、タルコフスキーとしては、創造することへの「嘆き」は、まさに「汝に呼びかけん!!」と言いたいところでしょう。

人間の創造のむなしさを知り抜いていながら、自らの創造意欲から創造せざるを得ない。
そしてその嘆きから解放されるには、神の恩寵が必要となる。

・・・だから「イエス・キリストよ!」というわけですね。


別にタルコフスキーがキリスト教的な救済を意図していたわけではなく、もっと普遍的な絶対的な存在としての神を考えているわけです。

人類にとってルネッサンスとは?

それは人類の歴史の上では脇道に過ぎず、単なる放蕩ではなかったのか?


20世紀にもなって、そして、よりにもよって当時のソ連で「主イエス・キリストよ!」と呼びかけることは、ルネッサンスの否定に繋がっていくわけです。


この世界を人類のものから、神のものへ返上すること。

それこそが、「放蕩息子の帰還」のラストシーンに繋がるわけです。


御丁寧に犬までがんばっている。
放蕩息子の帰還のシーンに犬はお約束ですからね。

自らの願いがすべてかなうソラリスという場にあって、人間が望むことは、父なる神への帰郷なんだ。


ルネッサンスという人類の放蕩を反省し、父なる神に帰還する。

最後のシーンやバッハのオルガン曲は、父なる神の世界への帰郷への渇望を意図しているんだろうと思います。

ちなみに、私はこの「惑星ソラリス」のヴィデオを持っています。
このヴィデオでの解説は・・・・なかなか・・・何と言うかぁ・・・

まあ、タルコフスキーの作品を解説するというドン・キホーテ的な行為は賞賛に値するかも・・・その点は、私も人のこと言えませんし・・・そういえば、「惑星ソラリス」では、ドン・キホーテも引用されていたっけ・・

そのヴィデオでの「解説」で、タルコフスキーがバッハの曲を使ったのは、バッハの宗教性がタルコフスキーになじみがあったから・・・と「解説」されております。

まあ・・・ただ・・・タルコフスキーが育った共産主義社会において、宗教がなじみとは言えないことは、多少知識がある人は御存知のはず。

またバッハのコラールというのは基本的にプロテスタントのものですよね。
ロシア正教では使わないんじゃないの?

まあ、昔のソ連の音楽家によるバッハの録音なんて、ヴァイオリンとかの器楽曲ばかりでしたものね。ソ連の音楽家による宗教曲のレコードなんて聴いたことないなぁ・・・

それにバッハの曲といっても、器楽曲から宗教曲まで色々とあるでしょ?

それに宗教性ということを言いたいのなら、別の作曲家でもいいのでは?
ハインリッヒ・シュッツとか、あるいはもっと地味な宗教音楽家の作品の方が、そのシーンの宗教性を表現できますよ。

その「選択」からタルコフスキーの意図も見えてくるわけ。

タルコフスキーが持っていたパレットを想定した上で、その選択の意図も見えてくるわけです。
タルコフスキーはバッハの曲というと、この曲しか知らない・・・というわけではないし、宗教音楽というと、この曲しか知らないというわけでもない。

ロシア人はヨーロッパ人だから、バッハの宗教性となじんでいるはず・・・というのは、日本人の主食がキムチというくらいトンチンカンな話。

多分DVDだと、その解説も直っているとは思うんですが・・・

まあ、ルネッサンス的英知であるDVDという媒体で、「ルネッサンス否定」の作品を見るのもオツなものですね。
ttp://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/03-12/03-12-23.htm

▲△▽▼

放蕩息子の帰還 ルカ傳福音書 第15章


15:1取税人、罪人ども、みな御言を聽かんとて近寄りたれば、

15:2パリサイ人・學者ら呟きて言ふ、『この人は罪人を迎へて食を共にす』

15:3イエス之に譬を語りて言ひ給ふ、

15:4『なんぢらの中たれか百匹の羊を有たんに、若その一匹を失はば、
九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや。

15:5遂に見出さば、喜びて之を己が肩にかけ、

15:6家に歸りて其の友と隣人とを呼び集めて言はん

「我とともに喜べ、失せたる我が羊を見出せり」


15:7われ汝らに告ぐ、かくのごとく悔改むる一人の罪人のためには、
悔改の必要なき九十九人の正しき者にも勝りて、天に歡喜あるべし。

15:8又いづれの女か銀貨十枚を有たんに、若しその一枚を失はば、燈火をともし、
家を掃きて見出すまでは懇ろに尋ねざらんや。

15:9遂に見出さば、其の友と隣人とを呼び集めて言はん、

「我とともに喜べ、わが失ひたる銀貨を見出せり」


15:10われ汝らに告ぐ、かくのごとく悔改むる一人の罪人のために、神の使たちの前に歡喜あるべし』

15:11また言ひたまふ

『或人に二人の息子あり、

15:12弟、父に言ふ

「父よ、財産のうち我が受くべき分を我にあたへよ」

父その身代を二人に分けあたふ。

15:13幾日も經ぬに、弟おのが物をことごとく集めて、遠國にゆき、
其處にて放蕩にその財産を散せり。

15:14ことごとく費したる後、その國に大なる饑饉おこり、
自ら乏しくなり始めたれば、

15:15往きて其の地の或人に依附りしに、其の人かれを畑に遣して豚を飼はしむ。

15:16かれ豚の食ふ蝗豆にて、己が腹を充さんと思ふ程なれど、
何をも與ふる人なかりき。

15:17此のとき我に反りて言ふ

『わが父の許には食物あまれる雇人いくばくぞや、然るに我は飢ゑて
この處に死なんとす。


15:18起ちて我が父にゆき

「父よ、われは天に對し、また汝の前に罪を犯したり。


15:19今より汝の子と稱へらるるに相應しからず、雇人の一人のごとく爲し給へ』
と言はん」

15:20乃ち起ちて其の父のもとに往く。なほ遠く隔りたるに、父これを見て憫み、
走りゆき、其の頸を抱きて接吻せり。

15:21子、父にいふ

「父よ、我は天に對し又なんぢの前に罪を犯したり。
今より汝の子と稱へらるるに相應しからず」

15:22されど父、僕どもに言ふ

「とくとく最上の衣を持ち來りて之に著せ、その手に指輪をはめ、
其の足に鞋をはかせよ。

15:23また肥えたる犢を牽ききたりて屠れ、我ら食して樂しまん。

15:24この我が子、死にて復生き、失せて復得られたり」かくて彼ら樂しみ始む。

15:25然るに其の兄、畑にありしが、歸りて家に近づきたるとき、
音樂と舞踏との音を聞き、

15:26僕の一人を呼びてその何事なるかを問ふ。

15:27答へて言ふ

「なんぢの兄弟歸りたり、その恙なきを迎へたれば、
汝の父肥えたる犢を屠れるなり」


15:28兄怒りて内に入ることを好まざりしかば、父いでて勸めしに、

15:29答へて父に言ふ

「視よ、我は幾歳もなんぢに仕へて、未だ汝の命令に背きし事なきに、
我には小山羊一匹だに與へて友と樂しましめし事なし。


15:30然るに遊女らと共に、汝の身代を食ひ盡したる此の汝の子歸り來れば、
之がために肥えたる犢を屠れり」


15:31父いふ

「子よ、なんぢは常に我とともに在り、わが物は皆なんぢの物なり。


15:32されど此の汝の兄弟は死にて復生き、失せて復得られたれば、
我らの樂しみ喜ぶは當然なり」』
ttp://bible.salterrae.net/taisho/html/luke.html



タルコフスキー、ソラリスを語る


スタニスワフ・レムの『ソラリス』の映画脚本をつくろうと決めたのは、SFに興味があったからではなかった。

一番大切な理由は、『ソラリス』でレムは、私が身近に感じることが出来る道徳的な問題を取り上げたということだった。

レムの小説のより深い意味は、SFの限界内に収まっていない。

文学形式だけを論じるなら、問題を制限することになる。

この小説は、人間理性と知られざる者との衝突を扱っているだけでなく、新しい科学の発見によって生み出された道徳的葛藤をも扱っている。

『進歩の代償』と呼ばれる痛々しい経験の結果として生じる新しい道徳性を扱っている。

ケルヴィンにとってその代価は、物質形態で自分自身の良心の呵責に直接対面せざるをえないということだ。

ケルヴィンは自分の行動原理を変えない。自分自身にとどまる。
それこそ彼の悲劇的なジレンマの根本であるのだが。


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一体全体なぜ、私が見たSF映画のすべてで、監督は観客に未来の物質的な細部をじっくり見せようとするのか? 

なぜ彼らはースタンレー・キューブリックがそう称したようにー自作を予言的と称するのか?
 
専門家にとって『2001年』が多くの事例で食わせ物だ、芸術作品とはとても言えないと言うつもりはない。

私は、『ソラリス』を観客に異国情緒を味わわせることがないように、撮影したいと思う。

当然、テクノロジーの領域での異国情緒という意味だ。

例えば、電車に乗る乗客を撮影して、私たちが電車について何も知らないとしたらーそう仮定しましょうー以前電車を見たことがなかったからです、そのとき私たちは月に着陸する宇宙船のシーンでキューブリックがやったのと類似の効果を獲得するでしょう。
言い換えると、停車場で普通に撮影するやり方で宇宙のシーンを撮影する限り、何もかも上手く行くでしょう。

このように私たちは登場人物を、異国趣味のシーンではなく、リアルなシーンに置く必要があります。

なぜなら映画の登場人物が現実を知覚することによってのみ、観客が理解できるようになるからです。

だから、未来の科学技術を細々と見せると、映画の情緒的な基礎が壊れてしまいます。


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肝心なのは、その「科学技術」の、と言っておきましょう、その発達の各段階で人間は、霊的なエントロピーのようなものと、道徳的価値の拡散と、戦わねばならないということだと思います。

一方で、人間性は自らをあらゆる道徳から解放しようとします。

その一方で、道徳を創造しようとする。

このジレンマが、個人の生においても一般社会の生においても、並はずれて劇的な緊張に満ちた状況を生み出すものになります。

この劇的な解放と、それと同時に、精神的理想の探求は、人間が自らをもっぱら道徳的な問題に捧げることが出来る発達段階に到達するまで続くことでしょう。

人間が絶対的な外的な自由を獲得する段階、それを社会的な自由と呼びましょう、そこで人間は日々の糧に、雨露をしのぐ場所に、子どもの未来を確保することに、いちいち心を惑わす必要はないことでしょう。

そこで、人間はかつて外的自由に捧げた同じエネルギーで、自己の内部深くに降りていくことが出来るでしょう。

私にとってハリーとケルヴィンの間で宇宙ステーションで生じたことは、人間の自分の良心に対する関係が問題なのです。

[…]

映画は奴隷のように本に忠実に従うことは出来ない。

レムの足跡をたどることは、作家と本に対する背信行為になるでしょう。

私は、『ソラリス』の私の個人的な読み方を映像にしようとしました。

作者に忠実であるために、私は時々、ある種のテーマに対する視覚的等価物を探して、小説から逸脱しなければならなかった。

私には対比として地球が必要だった、もっともそれだけのためではありませんが…
私は、地球を観客の心の何か美しいものと等価のものにしたかった。

人の憧憬を表すものです。

だから、ソラリスの神秘的な幻想的な雰囲気に飛び込んだ後、突然地球を一瞥したときに、彼は再び正常に、くつろいで、感じる。

その結果彼はこの平凡さへの憧憬を感じ始める。

言い換えると、彼はノスタルギアの有益な影響を感じる。

結局、ケルヴィンは人間としての自分の義務であると見なす実験をするために、ソラリスに残る決心をする。

このように私は、観客がさらに十全に、さらに鋭敏に、彼の決心の劇的な意義のすべてを実感できるように、地球を必要としたのでした。

私たちの根源的な故郷であった、今も故郷である惑星に帰ることをこのように断念する、そのことの意義が実感できるように、です。


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スタンレー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を最近見ました。
人工的なものの印象が残りました。

最新科学技術の業績を見せる博物館にいるかのようでした。

キューブリックはそういうことに酔いしれて、人間のことを、人間の道徳の問題を忘れています。

それがなければ、真の芸術は存在できません。

映画の描写の最大限の直接性に私は信頼をおいています。

この映画でも私はギミックなしで、最も素朴な手段を用います。

今日流行の「スペクタクル」の類は避けています。

確かに、映画はカラーになりますが。
最近まで私はカラー映画に絶対反対でした、しかしどうすればいいのでしょうか、今日ではカラーを避けるのは不可能です。

何とかこの技術を最善のかたちで利用しようと苦心しています。
リアリズムの領域の中でしっくりしたものになるようにです。

SF映画のリアリズム?
 
ええ、可能だと思います。

私たちはこの想像世界を出来るだけ具体的なものにしています。

特にその純粋に外的な現れで、です。

『ソラリス』で示されるリアリティは物質的に経験可能なもの、ほとんど手で掴むことが出来るものになるはずです。

装飾のテクスチャーによって、ワディム・ユーソフの映画スタイルによって、それを実現します。

私たちの映画には、本にない地球上のシーンがあります。

対比のために地球が必要なんですが、それだけではありません。

私は観客に私たちの惑星の美に気づいてもらいたいと思います。

そうすればー調べようもない、神秘的な事柄をはらんだ雰囲気に包まれていたのでーもっと気持ちを込めて、地球に帰ってくるでしょう、その平凡さを自由に喜ばしく呼吸することでしょう。

この映画を見る方にホームシックの苦さを理解してもらいたいと思います。

結局クリスはソラリスにとどまる決心をします。

なぜならそれは科学者としての彼の使命が要求することだからです。

プロジェクトの監督を彼に託した人々に彼が負う責務が求めるからです。

この状況で、地球のイメージは観客の心理的な反応の触媒として作用し、クリスの決定に隠された意味を十分に、明確に見て取ることができるはずです。


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私はSFは好きじゃない。

いやSFが基づくジャンルが好きでない。

テクノロジー、いろいろな未来論的なトリックや工夫が凝らされたああいうゲームが好きでない。

いつでも人工的だ。

でもファンタジーから引き出せる問題には興味がある。

人間と彼が抱える問題、人間の世界、人間の不安。

平凡な生もまたファンタジーにあふれている。

人生そのものがファンタスティックな現象です。

フョードル・ドストエフスキーはそのことをよく知っていた。

だから生そのものに、毎日の生、平凡な生そのものに焦点を定めたいのです。

その中では何だってあり得るのですから。


私の『ソラリス』は結局、サイエンスフィクションではありません。

その文学的な先駆者もそうではない。

ここで大切なのは、人間だ。その人格だ。

惑星地球と結んだ彼の非常に執拗な絆だ。
彼が生きる時代に対する責任感だ。

典型的なSFは好みでない。
私には分からないし、信じてもいない。

実際、『ソラリス』に取り組んでいるとき、私は『ルブリョフ』と同じテーマと取り組んでいた。

人間存在だ。

この2作はアクションが生じる時によって切り離されているにすぎない。


________________________________________


『ソラリス』は私の映画で一番成功しないものになった。

なぜならSFの要素を避けることが出来なかったからです。

スタニスワフ・レムは脚本を読んで、私がSF要素を排除しようとしているのに気づいて、不愉快になった。

脚色許可を取り消すと脅しました。

私たちは新しい脚本を用意しましたが、そこからは撮影中にこっそり逸脱することが可能だったのです。

そのつもりでした。しかしこの意図は十分には果たせなかったのです。


________________________________________

スタニスワフ・レムの証言


私にはこの脚本に根本的な留保点がいくつかある。

まず第一に、惑星ソラリスをこの眼で見たかったと思うのだが、監督は不幸なことに、作品が映画的に静かな作品になるべきであるとして、私を拒否した。

第2に、私たちのごたごたの1つでタルコフスキーに言ったことだが、彼は『惑星ソラリス』をまったく製作しなかった。

彼は『罪と罰』を創ったのだ。

フィルムになったのは、この忌まわしいケルヴィンが可哀想なハリーを自殺に追い込んで、それから良心の呵責にさいなまれたが、彼女の出現、奇妙な理解不能な出現によって、ますますひどく苦しむことになる様子だ。

ハリーの出現のこの現象は私には、カントその人から得られる概念を規範とするものだ。

なぜなら物自体、到達不可能なもの、もの自体、浸透不可能な彼岸が存在するからだ。

しかし私の小説でこれは別のやり方で、明白にされ、構成されている…

しかし、第2部の20分を除けば、映画の全編を私は見たことがないことを明らかにしておかねばならない。

脚本はとてもよく分かっているのだが。

なぜならロシア人は原作者に特別に1部を作成する習慣があるからだ。

どうしようもなくひどいことがある。

タルコフスキーは映画にケルヴィンの両親を登場させている。

叔母すら出てくる。

しかし一番ひどいのは母親だ。

なぜなら母親はmat' である、mat' は Rossiya, Rodina, Zemlya [ロシア、母国、大地] であるからだ。

これだけで私は怒り心頭だ。

この瞬間に私たちは馬車を反対方向に引っぱろうとする2頭の馬のようなものだった。
[…]

私のケルヴィンは何の希望もなく惑星にとどまる決心をする。

一方タルコフスキーは島のようなものを出現させ、その島に小屋があるイメージを創造した。

小屋と島のことを聞いたとき、私はいらだちで気も狂わんばかりだった…

こんなものは情緒的なソースにすぎない。

そこにタルコフスキーは彼のヒーローたちをどっぷり浸けたのだ。

科学的な景色を彼は完全に切断して、その代わりに私には我慢ならない奇妙なものをたっぷり導入したことは言うまでもあるまい。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/solaris.html

タルコフスキーのストックホルム・インタビュー


Q:なぜスタニスワフ・レムの『ソラリス』に基づいてなぜ映画を創られたのか、話してもらえますか? 何があなたをあの小説に引きつけたのですか?

私はスタニスワフ・レムを非常に高く評価していて、彼の作品は非常に好きです。

いつでも読めるときに読みます、読めるものは何でも読みます。

彼の散文も好きですが、たまたまーこんなことを言うのは残念なのですがー彼は映画というものをあまり好きじゃない、分からない。

それで、一緒に仕事をしているとき、私たちは不平等なパートナーでした。

私は彼の本をどうしようもなく愛していましたが、彼のほうは私の映画にまったく無関心でした。

彼はいつも作家として考えていました、まず文学だと-。


Q:文学が一番大切なものだった。

さあ、どうでしょう?
 
一番大切じゃなくーとにかく文学が存在していた、事実として。音楽、詩、絵画が存在しているように。

しかし彼は映画を理解できなかった。

今でもそうですよ。彼は、映画とは何であるのか、分かっていない。

たくさんいますよ、非常に頭のいい人たちで、文学、詩、音楽は熟知しているのに、映画は芸術だと思わない人がね。

映画はまだ誕生していないと考えるか、映画を感じられないのです。

森の木を見ることは出来ない、本物の映画と商業映画を区別できないという意味です。

明らかにレムは映画を芸術として真剣に扱わない。

だから、脚本でも自分の小説に忠実であるべきだったと彼は信じているのです、それを絵にするだけで良かったと。

私にはそんなことは出来ない。

その場合、彼は私ではなく、「イラストレーター」である監督に近づくべきだった。

Q:そういう監督なら「動く絵」が作れる。

ええ、よくいるタイプです。

Q:たいてい、死んだ絵しかつくらない。

そんな監督がいます、作家に綿密に従って、作品を例示する人たちです。

このタイプの映画はたくさんありますが、たいてい同じように見えます。

単なるイラストだから、みんな死んでいる、生命が何もない。

それ自体、そして当然ながら、芸術的な価値は全くない。

単なる写し絵です。

文学の原典に従属する副次的なものです。

そういうのをレムは期待していた。

もし本当に彼がそう期待していたなら。私には理解できないことです。

彼がこの手の期待をしていたと考えるのは非常に奇妙なことですが、映画芸術に対する彼の姿勢こそ、まさにこの結果、イラストを期待する人間の位置に彼を置いたのです。
もしかするとそんなことは全然望んではいなかったのでしょうが。

しかし、私たちの脚本が小説の正確な描写からはずれる部分があれば、彼は必ず反対したものでした。新たな道筋を工夫したらいつでも彼は憤然としていました。

あの時私にはとても気に入った脚本の異稿がありました。

その場合、アクションのほぼすべてが地上で起きるのです、その半分以上が、つまり、ハリーをめぐる過去のすべてでした。

なぜ彼女がはるか宇宙の彼方のソラリスで「生まれた」のか。

『罪と罰』を想い出させるものでした。

もちろんレムのオリジナルの理念とは真っ向から衝突しました。

なぜなら私は内面生活の問題、いわば精神的な問題に興味があったからです。

一方彼のほうは人間と宇宙の衝突に興味があった。

括弧付きの「未知なるもの」に興味があった。

これこそ彼の興味を惹くものだった。

言葉の存在論的な意味において、認識の問題とこの認識の限界という意味でーそういうものに興味があった。

人間性が危機にさらされているとすら言ってました、人間が感じないときに認識の危機があると。

この危機は増加している、雪だるまのように、それがさまざまな人間の悲劇のかたちをつくり出している、科学者が経験する悲劇も、です。

そのすべてが熟して一種の爆発を起こす、前進をもたらす、すべてが未来に向かって行進する、などなど。

爆発ーそれはいいでしょう、私も否定しない、しかし私はそんなことにまったく興味がない。

この小説に惹かれたのは、生まれて初めて私がこう言える作品と出会ったから、それに尽きるのです。

つまり、贖い、それは贖いの物語なのです。

贖いとは何か?ー

良心の呵責。言葉の直接的な古典的な意味でー過去の過ち、罪、の記憶が実在になるとき、にです。

私にとってこれこそあの映画を作った理由なのです。

一方、未知との遭遇の問題を語るべきならーその場合も、存在論的な側面は私には重要でなかった。

そうではなく、ある人間の心理状況の再創造だった。

その魂に何が起きているのかを示すことこそ重要だった。

もしその人間が人間であり続けるならー私にはそれが最もかけがえのないことだった。


私の映画の主人公が心理学者であることは偶然ではありません。

レムの小説の主人公も心理学者ですが。

彼は平凡な都市生活者です、俗物です、そう見えます。

私には、彼がそんなふうであることが重要でした。

彼は精神的な幅のかなり限られた人間であるべきです、月並みな人間ですーこの精神的な闘いを、恐怖を経験できるためにです。

苦痛に捕らえられて、自分に何が起きているのか理解できない動物のようにではなく、この精神的な闘いを経験できるためにです。

私に重要であったのは、人間は無意識に自分自身に人間的であることを強制するということです。

無意識に、そしてその精神的な能力が許す限り、人間は野蛮さに反抗します。

人間的であり続ける限り人間は非人間的なものすべてに抵抗します。

そして結局、彼はー少なくともそう見えるでしょうー徹底的に月並みな奴であるにもかかわらず、彼は精神的に高いレベルに立ちます。

まるで自分を断罪するかのようです。

この問題の内側に入り込み、自分を鏡の中に見たかのようです。


結局、彼は精神的に豊かな人間ですー

先に見たように、見かけは知的に限界があるにもかかわらずです。


父親と話すとき彼はどうしようもない俗物です。

バートンと話すとき、月並みな凡庸さで、知識について、道徳について語ります。
凡庸な話をします。

自分の思念を形成し始めると途端に彼は凡庸になる。

しかし何かを感じ始めると、あるいは苦しみ始めると、途端に人間になる。

で、レムはこのことにまったく無感動だった。まるっきり無感動だった。

私はこのことに深く心動かされた。


カンヌで映画が賞を受けて、誰かが彼におめでとうと言ったとき、レムは訊いた。

「で、私はどうしたらいいんだ?」

彼は恨みを込めてそう言ったー

しかし別の見方をしてこう訊けるでしょう。

「確かに。彼はどうしたらいいのだろう?」

もし彼が映画を芸術として扱ったなら、映画というものは、スクリーンに合わせたものは、いつも、いわば作品の廃墟から生じるのだと分かったでしょうに。

しかし彼はそんな風には映画を見なかった。

しかし私は、共に過ごし語り合ったあの日々のことを彼に限りなく感謝しています-
彼はきわめて興味深い人物です。とても楽しい人です。

だから、私が少し苦い思いをしたなら、それは、彼が私と私の映画をあんな風に扱ったからではなかったー映画を一般にあんな風に扱ったからなのです。

ところで、彼によろしくと、私の心からの感謝と敬意を彼に伝えるようにお願いできますか?


 私はいつまでも感謝と共に一緒に仕事をして過ごした時を想い出すでしょう。

しかし、私が先に述べたことは、少なくとも、客観性のために述べておく必要があったのです。

Q:2つの別の問題ですね。


そうです。

ここで私たちはある争点に触れています。

これは、いつも私に問題を提起する。

ええ、こんなことが以前ありました。

誰かに会う。とても知的な人です。

読書家で、詩、絵画、音楽などを知っていて。知識人です。

で、彼は私の新しい映画が好きだと言う。偉大な映画だと言う。

そして「おお、私はうれしい、ありがとう、ありがとう」と言う。
で、彼に話し始めると私は彼が何も理解していないことに気づく。

これはひどい。これはまったくひどい。

これは私がさっき話していたことの逆です。

まあ似たようなーその人は言う

「そうです、そうです、映画、私には分かります」ー

しかし実は映画を理解していない。

映画が何であるか、映画をどのように扱うべきか、映画から何が期待できるかー
映画から何を期待してはいけないか、何を期待すべきか、分かっていない。

これは一体どういうことか? 

詩、絵画、文学、音楽に関しては水の中の魚のように、自由自在なのに、映画のことになると全くの素人だ。

映画に関する議論も話し合いも全然出来ないー自分はその気になっているのに、ですよ! 

これは非常に奇妙なことだ。

私にはこちらのほうが、誰かにこう言われるよりずっと辛いことです。

「ええ、私にはあなたの映画が分からない。

私の意見ではそれは戯言だ。馬鹿馬鹿しい、もったいぶった戯言だ。

政府の金がこんな映画に費やされるのは理解できない。」


こういう手紙を受け取ったこともありますよ。

『ルブリョフ』で大騒ぎしている頃、KGBに直接手紙を送った奴がいた。

「タタールの国家に反対する映画を作るためにタルコフスキーが政府の金を使えないように、タルコフスキーをまっとうに更正させなきゃいかん」
と書いてよこした。

Q:タタール人?!

信じられますか? 

私はただ-

「戦争中タタール人はロシアの兄弟と一緒に、共通の理想のために血を流したのだ。
それなのにタルコフスキーは反タタール映画を作っている。」


分かりますか? 

「反タタール映画を作る気なら、タルコフスキーには二度と何も撮らせるな。」

それだけじゃない。こういう人たちは実は自分たちの歴史を知らなかった。

このタタールの人たちは、自分が『ルブリョフ』で描かれたタタール=モンゴル人とはまったく別であることを確かに知らなかったのです。

2つのまるっきり違うことなんです。

彼らは自分の歴史すら知らない。

カザンにいたときそこで私は同じ話をしました。

私はその手紙を読んで、言いました。

あなたがたはタタール人としての国家の尊厳を言われるが、そういうあなたがたの誰ひとり、知らないー自分が何者であるのかまるっきり分かっていない。

あなたの父祖が誰なのか、覚えてもいない。

あなた方は他の国家と混じり合っている。

ええ。こんなふうにいろんな手紙をたくさん受け取りましたよ、時には侮辱的なものも。

そういう手紙を受け取っても、何とも感じないものですよ。

なぜなら一般にどうしようもない無知な手紙ばかりですからね。

しかし突然誰かに出くわしたら、例えば誰か以前なら文化的な動向に立派な意見を持っていたとしましょう。

その彼が突然、あなたがやったことについてナンセンスなことを話し始めたらー
彼がまったく無理解であることを暴露するならーこれはさらにつらいものですよ。

賛成されるかどうか分かりませんが、例えば1冊の本を読むなら、例えば、何か文学作品を読むなら、読んでいる人と同じ数だけ本もあるんです。

読者のひとりひとりが自分で創造したイメージを見ています。
自分の体験に基づいて作りあげたイメージです。

文学は描写が中心で、映画は例証が中心だから、余計そうです。

でも、映画も個人のヴィジョンを受け容れます。

このことを私はとびきり貴いものだと考えています。

もしそれが文学で可能なら、なぜ映画ではそれと戦わなければいけないのですか?
 
その逆のー一般に当てはまることだけを考慮する、すべての特徴にあてはまるだけを考える、普遍的に受容されことだけ考える?
 
私にはこういうことはまったく理解できない。

これは差別だと思います。

芸術作品は観客、聴衆、読者によって創られると私は信じます。

個人の知覚の可能性を許さないなら、芸術は芸術ではないでしょう。

もちろん、或る程度準備をしておかなければならない。

しかし、一番大切なのは、準備、教育ではなく、むしろ精神的なレベルです。

これが受容なのです。理解というよりむしろ受容です。

もしあなたが受け容れる、受けとめるなら、あなたには理解できるでしょう。

あなたが理解できる日が来るでしょう。

だから、文学作品がその性質固有のやり方で状況を示し、解釈できるなら、なぜ、他のジャンルが、例えば映画作品が、自分のやり方でそれを出来てはいけないのでしょうか? 

そうでしょう? そうであるべきだと私は思いますよ。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html


タルコフスキー『惑星ソラリス』


 映画の中の恋愛というのは、往々にして世界との関係の隠喩でもある。

多くの映画の主人公は、ラストで抱えていた問題が一掃されると同時に、パートナーを手に入れる。

まあこれだけだと、単なるそこらの色と出世のサクセスストーリーだが、もうちょっと気取った映画となると、何らかの理由で世界から孤立して暮らしている人物がいて、その人の前にふとした偶然で相手があらわれる。

それが、世界の差し出してくれた関係修復のための蜘蛛の糸になる――そんな映画はたくさん思いつく。

たとえば『ブレードランナー』なんかを考えてもらえばいい。

もちろんこれも一歩間違えると、自分では何もしない怠惰なおたくのところに、労せずして美少女が勝手に宅配されてなついてくれるという、ただの卑しい願望充足話になってしまうので、それを避ける工夫は必要なのだけれど。

 その一つのやり方は、そこで登場する蜘蛛の糸たる相手を、何か受け入れがたい変なものに仕立てることだ。

『ブレードランナー』はそれを、自分の倒すべきネクサス6型アンドロイドにしたことで実現した。
あの映画の長期的な価値は、その仕掛けがきわめて上手に構築されたことからもきている。


 そしてタルコフスキー監督の『惑星ソラリス』では、その相手はかつて自殺した妻の複製品だ。

 知性を持つらしき惑星ソラリスの海は、近くにやってきた人間が内心に抱いている世界との断絶の根本にあるものを探り出しては再現するという性質を持っている。


主人公の場合、それは自殺した妻だった。


 そうやって世界が、考えもしなかったような形で差し出してきた存在に対して、主人公はどう振る舞っていいかわからない。

いまでも奥さんのことは忘れられないけれど、でも一方で彼女の自殺の原因は自分にあるので、彼女の姿は傷口に塩をすりこまれるような苦痛だ。

耐えきれずに一度はそれを殺してみるし、またどうも自分が変な存在でうとましがられているのに気がついた当の複製奥さんも、自殺を試みるけれど、生き返ってしまう。


 『惑星ソラリス』は、そんな変な生き物とゆっくりと折り合いをつける過程の話となっている。

そこにある逡巡やとまどい、葛藤――それはまさに恋愛で、『惑星ソラリス』はそこにあまりロマンチックな要素を持ち込まないことで、逆に精神的な深みを出し仰せていた。


 いたんだが……『惑星ソラリス』はその最後の最後のところで、あさっての方向を向いてしまう。

主人公の脳内情報を投射されたソラリスの海は、奥さんもどきをあっさり消してくれて、かわりに昔の家とお父さんを復活させ、再会ごっこまで演じさせてくれる。

この時点ですでにソラリスの海は、おたくのビデオデッキまがいの都合のいい妄想再生実現マシーンになってしまっている。

その奥さんもどきをどうするか? 

そこにこそ、その恋愛――そしてそれまで映画が積み重ねてきた問いかけ――の意味があったはずだったのに。


 それはまた、タルコフスキーが常にやってきたごまかしでもある。


NHKがタルコフスキーについてのドキュメンタリーを放送したことがあって、そこにかれの妹が登場した。

そして、お兄さんの映画についてどう思うかと尋ねられたとき、彼女は吐き捨てるようにこんなことを述べたのだ。


 「大嫌いです。 冷たくて人工的で。

だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、

実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。

あんなの全部、口先だけのインチキです」

 ぼくはこれを聞いて、タルコフスキー映画を見る目が一気に変わってしまった。

かれの描いていた家族への郷愁がまがいものなら、かれが晩年になってますますしつこく押しつけがましく描くようになってきた神だの世界の救済だのといったものも、やっぱりまがいものでしかないんじゃないか。

それはかれが現実の家族をまったく顧みずに脳内家族に萌えていたのと同様、本当の神様でも本当の世界でもない、脳内の物欲しげな妄想でしかないんじゃないか。


 そしてそれはかれの恋愛の描き方にも出ている。

『ノスタルジア』でもそうだ。

主人公は世界のさしのべてくれた実物の愛を無視して、世界を救うとかいう妄想への耽溺を選ぶ。

それはたぶん、世界の頭でっかちたちの間でのタルコフスキーの評価を高めた選択でもあるんだろう。


でもそれは、結局かれが各種の愛や、世界との和解を手に入れられなかった原因でもあるんじゃないか。

だがそもそも、かれは現実にそれを求めていたんだろうか。
ttp://cruel.org/other/esquiresolaris.html

Marina Tarkovskaïa raconte Andreï Tarkovski
ttp://www.youtube.com/watch?v=Y4VZ-keEdfY&feature=related


________________

タルコフスキーの評価は厳しかったが、それでも映画の場合は、実に数多くの作品を彼は見たのだった。

彼がもっともよく話題にした創造的な精神は、ブレッソン、アントニオーニ、フェリーニ、黒澤、ワイダ、ザヌーシ、ベルイマンだった。

これと関連して、私は1985年11月の出来事を思い出す。

アンドレイと私はストックホルムの映画博物館で映画ポスター展を見ていた。

私はベルイマンの姿を見つけた。

ベルイマンとタルコフスキーはお互い会いたがっていたが、一度も会ったことがなかったのだ。

ベルイマンは博物館の中の劇場のひとつから出てきたところだった。

このチャンスに、出会いは実に自然で、ほとんど避けがたいと思われた。

2人はおよそ15メートルの距離でお互いを認めることが出来た。

次の瞬間、私は仰天した。

2人ともくるっと踵を返した。

まるで厳しい軍事演習に加わっているかのように。

そして別々の方向に歩いていった。

2人は二度と会わなかった。

こうしてこの世界の2人の偉人は触れあうことなくすれ違ったのである。
ttp://homepage.mac.com/satokk/mihal/mihal.html


「惑星ソラリス」 原作はスタニスラフ・レム。


その「惑星ソラリス」というと最近リメイクされたようですね。
リメイク版の監督さんは、確か賞味期限切れとして名高い?ソダーバーグさん。

ソダーバーグのデビュー作「セックスと嘘とヴィデオテープ」は確かに見事な作品でした。

現代における宗教的なマターを、あるいは、芸術家としてのあり方を、現代的に扱って「大したモンだ!スゴイ!!」と思ったものです。

今でも様々な俳優や映画スタッフは「セックスと嘘とヴィデオテープ」について、「ソダーバーグ監督はデビュー作であの力量なんて・・・スゴイ!!」と言っているようです。

まあ、逆に言うと、その賛辞こそがソダーバーグの現状を語っていると言えるわけですね?

デビュー作の「セックスと嘘とヴィデオテープ」以降の作品は「語られない」わけ。

本来なら、俳優とか同じ映画業界の人間なら、最新作について語るものでしょ?
いつまで経っても、「デビュー作はスゴかった!!」ではねぇ・・・

このように賛辞を語ることによって、否定的な見解を表明する。

意図的にやっているかはわかりませんが、よくある話です。ホメ殺しみたいなものでしょうか?


さて、さて今回の本題であるタルコフスキーによる本家の「惑星ソラリス」。

私はソダーバーグのリメイク版は見ていませんが、リメイクを作りたくなる、プロデューサーの、心境は理解できなくもありません。

タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」は、

1.セリフがロシア語である。
・・・・この点は、当然のこととして、アメリカの観客には不利ですよね?


2 通常のSF映画の「売り」であるはずの未来風景がショボイ。
・・・最新技術を使えばもっとハデな未来風景が作れるはずです。

ということで、リメイク版を作ろうと思ったのでしょう。
しかし、どのみちねぇ・・・

確かにアメリカ人は字幕がキライでしょう。
しかし、スタニスラフ・レム原作の「惑星ソラリス」を見るような観客は、いくらアメリカ人だってそれなりの水準の人でしょうから、本来は字幕には抵抗がないはずです。

「字幕は絶対にイヤ!!」という観客は、そもそも「惑星ソラリス」なんて理解不能でしょ?

あと、「未来風景がショボイ」・・・これだってねぇ・・・

「惑星ソラリス」は未来世界がテーマである作品ではないのだから、未来風景なんてどうでもいいことですからね?

ハデハデな未来風景を楽しみにするような人には、どのみち「惑星ソラリス」なんて無関係の作品ですよ。

というわけで、「惑星ソラリス」のリメイク版を製作することは理解できなくもないけど
・・・無意味なことは確実ですよ。


大体、リメイクって・・・

タルコフスキー監督の作品を手直しする・・・という発想自体ぶっ飛んでいますよ。

まあ、ソダーバーグもよく引き受けたものだと感心いたします。


さて、この「惑星ソラリス」ではバッハのコラール・プレリュードが使われています。

というか一般的な呼び名では「オルガン小曲集」の中のBWV639「われ汝に呼びかけん、主イエス・キリストよ」です。

まあ、そのコラールのタイトルは映画そのものには、登場しません。

この「惑星ソラリス」はソ連映画なので、SFであれば共産党政府も問題にはしなかったでしょうが、「キリスト」を連想させるような宗教的なものは「慎重」に扱う必要があったはずです。

当時のソ連では、あまりおおっぴらにキリストなんて扱えませんよ。

ちなみに、バッハのオルガン小曲集ですが、これらのオルガン曲は、コラール(プロテスタントにおける会衆歌)の伴奏として使われた曲なんだと思いますが・・・

ということで、タイトルだけでなく歌詞もあるわけです。

大体の大意は下記のようなものらしい。


「わたしはあなたに呼びかけます、イエス・キリストよ!

私の嘆きに耳を傾け、この時に恩寵をおあたえください。

どうか私がひるまぬようにしてください。」

バッハの音楽になじんでいる人だったら、ここで言われる「恩寵」が、「死」を意味しているのは簡単に読み取れるでしょう。

「死による救済を憧れる。」

バッハの音楽にはよく出てくる感情です。


有名な82番のカンタータの「我は満ちたれり。」なんて、そのものズバリの曲ですし。

しかし、タルコフスキーでこの曲を使った意図は、死を求めるというよりも、
「自分の嘆きに耳を傾け・・・恩寵を与えて欲しい。」ということなんでしょう。

この「惑星ソラリス」では、映画の中でも「嘆き」や「恩寵を求める渇望」が顕著です。

そもそも、バッハのオルガン音楽だって、この曲以外にも、他にいくらでもあるわけです。

例えばBWV605は「かくも喜びに溢れる日は」とおめでたいタイトルがついています。

BWV645は有名な「目覚めよと呼ぶ声あり」ですよね?

タルコフスキーは多くのバッハの音楽から、「深い嘆き」と「恩寵への渇望」の音楽を「選択」しているわけです。


では、タルコフスキーの抱える「嘆き」とは?

タルコフスキーの渇望する「恩寵」とは?

イタリアの監督パゾリーニは「映画作家はどの作品でも、同じことを言っているだけ。」と言っています。

作品によって、多少スタイルが違っていても、「言わんとする」ことはいつも同じというわけ。

映画作家の代表例のタルコフスキーも「いつも同じこと」を言っているわけです。


タルコフスキーはルネッサンスに懐疑のまなざしを向けていたのは確実でしょう。

「ノスタルジア」では反ルネッサンスの修道士サヴォナローラを連想させる人間を登場させているでしょ?

「サクリファイス」だって、昔の世界への憧れがでてきます。
昔に製作された地図などを喜んで見たりして。地図というのは一種の世界観ですからね。

他にも、アンドレイ・ルビリョフのイコンがルネッサンスの人間中心主義から遠いのは自明ですし。

その他の作品だっていわずもがな。


神から人類を解放したはずのルネッサンスが、本当に人類を解放したのか?

神を放逐した後の、人類のみの世界の代表例が、ソビエトの共産社会でしょ?

現実の共産社会が、人類の解放からもっとも遠かったのは言うまでもないことでしょう。


ちなみに、ヨーロッパの美術において、ルネッサンス以前と以降で随分違います。
単に表現技法の問題だけではありません。

ルネッサンス以降、画家は自画像を製作し、絵にサインを入れるようになりました。
絵画における遠近法だって、ある意味において、神の視点から人間の視点への変更です。

つまり芸術は芸術家のものになったわけです。
それ以前は「神」のものだったわけです。

だからこそ、自画像は作らなかったし、サインも入れなかった。
芸術家はただ神の代理にすぎなかったわけです。

ルネッサンス以降、芸術は芸術家の創造物ということになった。

それが本当にいいことなのか?

創造という神の領域に人間が踏み込んでしまって・・・
人間はそれに値する存在なのか?

あるいは人間の創造した芸術など、神の創造したものに比べれば、取るに足らぬものではないのか?

人間タルコフスキー、別の言い方をすると芸術家タルコフスキーが創造した映画は、このような人間の「創造」に対する懐疑の念が付きまとっています。
逆説的な存在なんですね。

神を放逐した後で、創造を行う人類・・・
そして映画を創造しているタルコフスキー本人。

タルコフスキーの映画は「人類の創造への懐疑に満ちた創造物」という逆説的存在と言えるように思います。


だからこそ、タルコフスキーとしては、創造することへの「嘆き」は、まさに「汝に呼びかけん!!」と言いたいところでしょう。

人間の創造のむなしさを知り抜いていながら、自らの創造意欲から創造せざるを得ない。
そしてその嘆きから解放されるには、神の恩寵が必要となる。

・・・だから「イエス・キリストよ!」というわけですね。


別にタルコフスキーがキリスト教的な救済を意図していたわけではなく、もっと普遍的な絶対的な存在としての神を考えているわけです。

人類にとってルネッサンスとは?

それは人類の歴史の上では脇道に過ぎず、単なる放蕩ではなかったのか?


20世紀にもなって、そして、よりにもよって当時のソ連で「主イエス・キリストよ!」と呼びかけることは、ルネッサンスの否定に繋がっていくわけです。


この世界を人類のものから、神のものへ返上すること。

それこそが、「放蕩息子の帰還」のラストシーンに繋がるわけです。


御丁寧に犬までがんばっている。
放蕩息子の帰還のシーンに犬はお約束ですからね。

自らの願いがすべてかなうソラリスという場にあって、人間が望むことは、父なる神への帰郷なんだ。

ルネッサンスという人類の放蕩を反省し、父なる神に帰還する。

最後のシーンやバッハのオルガン曲は、父なる神の世界への帰郷への渇望を意図しているんだろうと思います。

ちなみに、私はこの「惑星ソラリス」のヴィデオを持っています。
このヴィデオでの解説は・・・・なかなか・・・何と言うかぁ・・・

まあ、タルコフスキーの作品を解説するというドン・キホーテ的な行為は賞賛に値するかも・・・その点は、私も人のこと言えませんし・・・そういえば、「惑星ソラリス」では、ドン・キホーテも引用されていたっけ・・

そのヴィデオでの「解説」で、タルコフスキーがバッハの曲を使ったのは、バッハの宗教性がタルコフスキーになじみがあったから・・・と「解説」されております。

まあ・・・ただ・・・タルコフスキーが育った共産主義社会において、宗教がなじみとは言えないことは、多少知識がある人は御存知のはず。

またバッハのコラールというのは基本的にプロテスタントのものですよね。
ロシア正教では使わないんじゃないの?

まあ、昔のソ連の音楽家によるバッハの録音なんて、ヴァイオリンとかの器楽曲ばかりでしたものね。ソ連の音楽家による宗教曲のレコードなんて聴いたことないなぁ・・・

それにバッハの曲といっても、器楽曲から宗教曲まで色々とあるでしょ?

それに宗教性ということを言いたいのなら、別の作曲家でもいいのでは?
ハインリッヒ・シュッツとか、あるいはもっと地味な宗教音楽家の作品の方が、そのシーンの宗教性を表現できますよ。

その「選択」からタルコフスキーの意図も見えてくるわけ。

タルコフスキーが持っていたパレットを想定した上で、その選択の意図も見えてくるわけです。
タルコフスキーはバッハの曲というと、この曲しか知らない・・・というわけではないし、宗教音楽というと、この曲しか知らないというわけでもない。

ロシア人はヨーロッパ人だから、バッハの宗教性となじんでいるはず・・・というのは、日本人の主食がキムチというくらいトンチンカンな話。

多分DVDだと、その解説も直っているとは思うんですが・・・

まあ、ルネッサンス的英知であるDVDという媒体で、「ルネッサンス否定」の作品を見るのもオツなものですね。
ttp://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/03-12/03-12-23.htm

放蕩息子の帰還 ルカ傳福音書 第15章


15:1取税人、罪人ども、みな御言を聽かんとて近寄りたれば、

15:2パリサイ人・學者ら呟きて言ふ、『この人は罪人を迎へて食を共にす』

15:3イエス之に譬を語りて言ひ給ふ、

15:4『なんぢらの中たれか百匹の羊を有たんに、若その一匹を失はば、
九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや。

15:5遂に見出さば、喜びて之を己が肩にかけ、

15:6家に歸りて其の友と隣人とを呼び集めて言はん

「我とともに喜べ、失せたる我が羊を見出せり」


15:7われ汝らに告ぐ、かくのごとく悔改むる一人の罪人のためには、
悔改の必要なき九十九人の正しき者にも勝りて、天に歡喜あるべし。

15:8又いづれの女か銀貨十枚を有たんに、若しその一枚を失はば、燈火をともし、
家を掃きて見出すまでは懇ろに尋ねざらんや。

15:9遂に見出さば、其の友と隣人とを呼び集めて言はん、

「我とともに喜べ、わが失ひたる銀貨を見出せり」


15:10われ汝らに告ぐ、かくのごとく悔改むる一人の罪人のために、神の使たちの前に歡喜あるべし』

15:11また言ひたまふ

『或人に二人の息子あり、

15:12弟、父に言ふ

「父よ、財産のうち我が受くべき分を我にあたへよ」

父その身代を二人に分けあたふ。

15:13幾日も經ぬに、弟おのが物をことごとく集めて、遠國にゆき、
其處にて放蕩にその財産を散せり。

15:14ことごとく費したる後、その國に大なる饑饉おこり、
自ら乏しくなり始めたれば、

15:15往きて其の地の或人に依附りしに、其の人かれを畑に遣して豚を飼はしむ。

15:16かれ豚の食ふ蝗豆にて、己が腹を充さんと思ふ程なれど、
何をも與ふる人なかりき。

15:17此のとき我に反りて言ふ

『わが父の許には食物あまれる雇人いくばくぞや、然るに我は飢ゑて
この處に死なんとす。


15:18起ちて我が父にゆき

「父よ、われは天に對し、また汝の前に罪を犯したり。


15:19今より汝の子と稱へらるるに相應しからず、雇人の一人のごとく爲し給へ』
と言はん」

15:20乃ち起ちて其の父のもとに往く。なほ遠く隔りたるに、父これを見て憫み、
走りゆき、其の頸を抱きて接吻せり。

15:21子、父にいふ

「父よ、我は天に對し又なんぢの前に罪を犯したり。
今より汝の子と稱へらるるに相應しからず」

15:22されど父、僕どもに言ふ

「とくとく最上の衣を持ち來りて之に著せ、その手に指輪をはめ、
其の足に鞋をはかせよ。

15:23また肥えたる犢を牽ききたりて屠れ、我ら食して樂しまん。

15:24この我が子、死にて復生き、失せて復得られたり」かくて彼ら樂しみ始む。

15:25然るに其の兄、畑にありしが、歸りて家に近づきたるとき、
音樂と舞踏との音を聞き、

15:26僕の一人を呼びてその何事なるかを問ふ。

15:27答へて言ふ

「なんぢの兄弟歸りたり、その恙なきを迎へたれば、
汝の父肥えたる犢を屠れるなり」


15:28兄怒りて内に入ることを好まざりしかば、父いでて勸めしに、

15:29答へて父に言ふ

「視よ、我は幾歳もなんぢに仕へて、未だ汝の命令に背きし事なきに、
我には小山羊一匹だに與へて友と樂しましめし事なし。


15:30然るに遊女らと共に、汝の身代を食ひ盡したる此の汝の子歸り來れば、
之がために肥えたる犢を屠れり」


15:31父いふ

「子よ、なんぢは常に我とともに在り、わが物は皆なんぢの物なり。


15:32されど此の汝の兄弟は死にて復生き、失せて復得られたれば、
我らの樂しみ喜ぶは當然なり」』

ttp://bible.salterrae.net/taisho/html/luke.html
メンテ
タルコフスキー 映画『ストーカー 1979年』 ( No.4 )
日時: 2022/05/17 05:21
名前: スメラ尊 ID:Gjda1JhU

タルコフスキー 映画『ストーカー 1979年』 

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC?ref=watch_html5


『ストーカー』でゾーンが出来た説明の1つとして、4号炉の崩壊が挙げられていた。
6年後にチェルノブイリ原子力発電所の4号炉とその建屋が爆発しようとは…
この映画、タルコフスキーが祖国で撮った最後の映画は、予言と予兆に満ちあふれている。

ちょうど20年前に『ストーカー』はスクリーンに映し出された。

…ストルガツキー兄弟もタルコフスキーも名を挙げていない地域に突然ゾーンが出現した…

謎が出現し、それと軌を一にしてそこを調査したいと願う人々が現れた。

ストーカーもまた出現した。

ストルガツキー兄弟によると、ストーカーはうろついている観光客にゾーンの謎を売る略奪者だ。

タルコフスキーによると、ストーカーは、失われた魂をゾーンに導く運命にあり、彼の目標はそうした魂の救済である。

…『ストーカー』が封切りとなり、ゾーンに注がれる観客の関心がいっこうに冷めることもなく、20年が経過した。

何たることか! 映画に大きな貢献をした人たちはほとんど誰もこの世にいない。

偉大なロシアの芸術家アンドレイ・タルコフスキーは 墓地で眠っている。

ラリッサ夫人もまたこの世を去った、『ストーカー』の助監督だった。

編集のリュドミラ・フェイギノーワは悲劇的な焼死をした。

才能豊かなカメラももういない。ゲオルギ・レールベルクが最初のカメラだった。

撮り直しをしたアレクサンダー・クニャジンスキーもいない。

主役の俳優たちも死んだ。

傑出した俳優たち、アレクサンダー・カイダノフスキー、アナトーリ・ソロニーツィン、ニコライ・グリンコ…『ストーカー』に関わった数少ない生き残り、音響デザインを手がけたウラジミール・イヴァノヴィッチ・シャルンは、『ストーカー』の長期に及んだ過酷な撮影スケジュールこそ、キャストとクルーの状況に影響を及ぼして、それが彼らの若死にを招いたのだと、考えたくなるという…


耐えられないタルコフスキー


ヴラジミール・シャルンはこう回想する。

偶然タルコフスキーと仕事をする者はいなかった。

この人物がまさしく手強い人物であると誰もが知っていた。

一方で誰もが彼の厳しい要求を恐れていた。

もう一方でタルコフスキーの映画はひどい時間超過になることも知られていた。

ソ連時代にクルーは残業しても金にならなかった。

そしてタルコフスキーの「欠点」のなかで最も重要なものは、この偉大な芸術家が何でもかんでも自分でやろうとすることだった。

結局彼は『ストーカー』のセットデザイナーも務めることになった。

撮影の全ショットで草の葉先の一本いっぽんまで彼自身の手で位置を決められたものである。

私が『ストーカー』の仕事の契約に署名したとき、同僚はこう警告した。

「ダビングが始まって、プリントの準備をしようとすると、ますます困ることになるぞ。

最後の最後の瞬間に何か新しいアイデアが浮かんで、あんたは独りですべてをやり直すような羽目になるぞ。」


作曲家エドゥアルド・アルテミエフはこう想い出す:

「私がタルコフスキーに初めて会ったのはー『ソラリス』の時だったがー私は困り果ててしまった。

自分に必要なのは、音楽ではなく、音楽的にアレンジされた一連のノイズだと言明したのである。

おまけに、『アンドレイ・ルブリョフ』と『僕の村は戦場だった』のスコアを書いたヴャチェスラフ・オフチンニコフ以上の作曲家は想像できないと宣言した。

タルコフスキーと仕事をしている間ずっと、信頼されてないのではないのかという思いが私を去らなかった。

一作ごとに試験を受けて、自分のベストを絞り出そうとしている感じでした…」


タルコフスキーとUFO


「タルコフスキーは奇蹟があると信じていた、それは間違いない。」とシャルンは続ける。

「彼は空飛ぶ円盤の実在を堅く信じていたし、リャザン郡のミアスノエにある自宅の近くで見たと主張すらした。

彼の確信を覆すことは誰にも出来なかった。

地球外生命の存在にタルコフスキーは何ら疑念を差し挟もうとしなかった。

ちなみに、こういうことが神への信仰と見事に合わさっていました。

聖マタイと聖ルカ福音書を文字どおり暗唱していて、全文を空で言うことが出来ました。

「尋常でないものならタルコフスキーは情熱を傾けたので、エドゥアルド・ナウモフという男がいつの間にか私たちの仲間に入ってきました。

彼は超常現象に関して人気のある映画を何本か作っていて、超常現象に関する講座をやっていました。確か、彼はこういう自分の大規模な集会のチケットを不法に販売したために実際に臭い飯を食ったことがあります。

タルコフスキーのサークルは彼を可能な限り援助していました。

一度ナウモフは彼の映画の1本を見せてくれました。

当時有名なサイキックであったニネル・セルゲイエヴナ・クラギナを扱ったものでした。

戦時中彼女は戦闘機の射手ー航空士でしたが、ドイツ人にパイロットもろとも撃墜されました。

そのパイロットとそれから結婚して、3人の子どもをつくりました。

3人目の子どもが出来た後、テレキネシスの能力があることに彼女は気づきました
ー視線で物体を動かせたのです。

スクリーンに映ったクラギナは、科学者のような人々に囲まれて、透明のテーブルの向こうで腰掛けていました

ーいかさまと言われるのを避けるためにです。

テーブルの上にはライター、スプーン、その他のものが載っていました。
クラギナの顔が緊張で暗くなりました。

瞬き1つしない視線をライターに向けると、ライターは彼女の視線のままに動いたのです。

タルコフスキーは興味深げにナウモフのフィルムを見て、上映が終わるや否や叫びました。

「やあ、どうだい、これは『ストーカー』のエンディングだぞ!」

「あいにくセットにサイキックはいなかった。

ストーカーの娘の半ば呆けた視線を受けて動くことになっているカップは、見えない糸1本で結ばれていて、テーブルの向こうから私たちがそれを引っぱりました。

私はこの引っぱる仕事をしっかりやろうとしたのですが、タルコフスキーは私を蹴飛ばしてー犬の鳴き声の録音に行かせた。

それでカップは自分で引っぱったのでした。」

『ストーカー』の数々の拷問


「『ストーカー』にはいくつか問題があった。

映画の運命は不思議なものだった。

西ベルリンにガンバロフというプロデューサーがいた。

彼はタルコフスキーのいくつかの映画の世界配給権を持っていて、タルコフスキーに、当時まず手に入らないコダックのストックを供給した。

『ストーカー』のために、出たばかりの新しいコダックフィルムを送ってきた。

ゲオルギー・レルベルクがその頃『ストーカー』のカメラマンだった。

彼はタルコフスキーの『鏡』の撮影を務めたカメラマンだ。

しかしそこで災いが襲ってきた。

モスフィルムの掘り抜き井戸が壊れて、フィルムを加工するのに必要な水がなかった。
連中は私たちに何も言わずに、フィルム素材は現像されないまま17日間ほったらかされた。

感光されたまま現像されないフィルムは質が落ちる。感度が落ちて劣化する。

簡潔に言うと、第1部の素材の全部がスクラップの山になった。

おまけにーこれはアンドレイ本人が私に言ったことを繰り返しているのですータルコフスキーはフィルムをぱくられたと信じていました。

『ストーカー』のために特別にガンバロフが送ってきたこの新しいコダックは盗まれて、どうわけなのか、タルコフスキーの敵である、さる著名なソ連映画監督の手に入った。

そして、連中はアンドレイに普通のコダックを与えたが、誰もそれは知らなかった。
それで彼らはいつもと違う現像をやった。

タルコフスキーは敵の計略の結果だと思っていた。
しかし私は、日常的なロシアの怠惰さの結果にすぎないと思います。」

「おシャカになったフィルムの試写はスキャンダルになった。

タルコフスキー、レールベルク、ストルガツキー兄弟、ラリッサ夫人が映写室に集まっていた。

突然ストルガツキー兄弟のひとりがレールベルクのほうを向いて、ナイーブに訊いた。

「ゴーシャ、なぜここで何も見えないのかな?」

レルベルクは、自分のやることには一点の非もないといつも自負しているので、こう言った。


「うるさいぞ、黙っていろ、お前だってドストエフスキーじゃないだろ!」


タルコフスキーは怒りで我を忘れた。

しかしレールベルクの気持ちも分かりますね。

カメラマンにとって素材のすべてがおシャカになっているのを見るのがどういう意味か、想像してみてください! 

レールベルクはドアを乱暴に開け閉めして、車に乗ってどこかへ行ってしまった。
二度とセットに現れなかった。

それでカメラマンのレオニード・カラシニコフが登場した、間違いなく名人だ。
2週間一緒にいて、最後に、タルコフスキーが自分に何を望んでいるのか、分からないと正直に認めた。カラシニコフは自分から現場を離れたが、タルコフスキーはそういう誠実で勇気ある行動のために、彼に感謝していた。

それから、アレクサンドル・クニャジンスキーが加わった。」

ゴスキノUSSRの前代表議長ボリス・パヴリオノクの回想録から:


「タルコフスキーが映画を再撮影するチャンスを与えられないなら、映画が出来上がらないのは明らかだった。

政府は決定を下した:映画を再撮影せよ、必要な資金を供出せよ(40万ルーブルほど)…」

予想外の撮影日

タリンでの撮影が新たに始まったが、クルーはあまりうまくやっていなかった。

6月のある日に雪が降った。

木の葉が一枚残らず散ってしまったので、撮影機会もまた散ってしまった。

またぞろ製作中止の問題が持ち上がった。

クルーは2週間何もすることがなかったので、退屈をまぎらすために多くの者が酒瓶を愛するようになった」とウラジミール・シャルンは回想する。

「タルコフスキーはこの状況がどれほど危険であるか、承知していたので、行動する決意を固めた。

私たちはタリン郊外のひどいホテルに泊まっていた。

部屋に電話があるのは私だけだった。

ある夜タルコフスキーは私を呼んで、明日の7時から撮影を開始するとみんなに言ってくれといった。

しかし言うのは簡単ですよ! 

この間私の助手は退屈を紛らすために「トロイナヤ」というオーデコロンに砂糖で味付けをして飲んだくれていたんだ!
 
ソロニーツィンの部屋にはいると、トーリャと彼のメーキャップもすっかりへべれけだった。

明朝の撮影の話をすると、彼はパニックになった!
 
彼はアンドレイ・アルセェーニヴィッチを神のように崇拝していたからね。

彼のメーキャップは優れた技術をもっていたので、ジャガイモを3キロすぐ持ってくるように求めた。

下ろし金でおろして、2週間も飲んだくれてむくれてしまった顔につけるためだった。

しかし早朝3時のホテルのどこでジャガイモが手にはいるだろうか? 

外の店まで走っていったら、その女性警備員は警備を私に任せて、ジャガイモを取りに自宅に行ってくれた。

私は一生懸命ソロニーツィンのためにボウルいっぱいのジャガイモを下ろし金でおろした。

おかげで私の両手は切り傷だらけで血まみれですよ。

よくやったという思いで私の助手に、おろしたジャガイモを渡した。

で、戻ってみると何を見たと思いますか。

メーキャップの奴は酔いつぶれて床にころがり、ソロニーツィンがジャガイモのローションを自分で顔につけていたのです!」

骸骨の話


ヴィチアという名前の監督官が私たちのグループにいた。

悪い奴じゃなかったが、行動が読めない。

ある日タルコフスキーは時間をかけて、[映画の]登場人物達が藪の中に、まるで愛し合う瞬間にあるかのように絡み合っている ひと組の骸骨を発見する場面を準備していた。


むきだしの頭蓋骨に白髪が生えたー奇妙な女性の骸骨があって、その上に男性の骸骨が乗っている。

爆発なのか何なのか、ゾーンを創造したものの後に残ったのがそれだけだった、というわけだ。


タルコフスキーはずいぶん前からそのシーンの準備をしていた。

カツラも自分で見つけてきた。

2体の骸骨はなかなか見つからないし、おまけに値が張った。

とうとう撮影の用意がととのった。

白いシーツを広げて、その上に2体の骸骨を寝かせて、撮影の準備をした。

ところがここで監督官ヴィチアがセットに姿を現し、シーツを見るや、横になってすぐに眠ってしまった。彼は骸骨に気づかずに、2体とも壊してしまった。

タルコフスキーの4日がかりの仕事がおじゃんになった。

鼻息の荒い監督官のいろいろな難癖にずっと苦しめられていたから、タルコフスキーはもう我慢できなくなり、ヴィチアを荷造りしてモスフィルムに即刻送り返した。

奴は空港に車で送られたが、タルコフスキーは私の所にやって来て、言った。

「いいかい、あの馬鹿たれを連れ戻してこい、そうしないとまた厄介なことになる。」

それで私がヴィチアを連れて帰ってきた。

クルーの全員はタルコフスキーの善意の発露を喜んだ。

しかし骸骨の場面はタルコフスキーが本来望んだ形にはならなかったのである。

4号炉の崩壊

『ストーカー』では、ゾーンが実は何なのか、何がゾーンをつくり出したのか、はっきりとは説明されていない。

フィルムではゾーンの出現理由がいくつか挙げられている。

地球外生命が残した物である。落下した隕石が創造した。

作家(ソローニツィン)が主張しているようにー4号炉の崩壊で出来た。

インタビューでタルコフスキーは、プロットには全然興味がない、厳密に言って映画の出発点が唯一ファンタジーと関わる要素なのだと述べている。

映画が完成した6年後にチェルノブイリの4号炉と建屋が爆発して、30kmのゾーンが実在となった。

フィルムの美術監督としてタルコフスキー自身がゾーンの荒れ地の風景の複雑なパノラマをデザインした。

そうしたショットのひとつには、カレンダーからちぎれた12月28日という日付の紙が水に沈んでいるのが見える。

この日はタルコフスキーの人生最期の日だった。
彼は1986年12月29日に死んだ。


「私たちはタリンの近くで、半分稼働している水力発電所があるピリテ河という、そう大きくない河の周辺で撮影していました。」

とウラジミール・シャルンは言う。

「上流に化学工場があって、有害な液体物質を垂れ流していました。

『ストーカー』にこんなショットがありましたね:夏に雪がちらついて、白い泡が川面に浮かんでいる。

実際にあれは恐ろしい毒だったのです。

多くの女性クルーの顔面にアレルギー反応が出ました。

タルコフスキーは右の気管支のガンで死にました。

トーリャ・ソロニーツィンも同じです。

『ストーカー』のロケ現場とすべてがつながっていることが私にはっきりしたのは、ラリッサ・タルコフスカヤがパリで同じ病気で亡くなったときでした…」

「死んだら途端にタルコフスキーには友人が増えました。

私は自分がそういう一人だとは思わなかった。

私たちは『ストーカー』で一緒に仕事をしただけです。

アンドレイが祖国で撮った最後の作品です。

彼は私とアルテミエフを『ノスタルギア』の仕事に招きましたが、残念ながら、彼はイタリア人のクルーと仕事をせざるをえなかった。

写真は、ゾーンを出来るだけリアルに見せるために指導するタルコフスキーの姿。
ttp://homepage.mac.com/satokk/chernobyl.html


●ゾーンの謎

映画「ストーカー」で大きな謎はゾーンです。ゾーンとは何でしょうか?

81年日本公開時の映画パンフレットのあらすじから言葉を三つ拾い上げます。
その言葉からゾーンの正体を連想してみることにします。

                鉄条網が張られ
                発電所の跡
                足の動けない娘


この映画の完成は1979年。この時点でゾーンの正体を連想することは困難です。
事故は1986年に起こりました。タルコフスキーが予言者にも思えてきます。
ゾーンはチェルノブイリ原発事故跡地です。


  ●ストルガツキ―兄弟

原作と脚本は旧ソ連のSF作家、ストルガツキー兄弟。

映画「ストーカー」の脚本をめぐってのアルカジー・ストルガツキーの証言。


サイトより引用
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「アルカジー、『路傍のピクニック』を10度も書き直すのはうんざりするだろ
うね。」

「うん」私は慎重に、そして、全く誠実に答えた。
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脚本はうんざりするほどの書きかえが行われたようです。原作のオリジナルタイトルは「路傍のピクニック」。原作と映画はまったく違う話になっていて、共通点はゾーンという設定だけのようです。


サイトより引用
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彼は、時間をかけて読んでは読み返す。彼の口ひげがぴんとなっている。
そして、ためらいがちに言う。

「まあ、今のところはこれで間に合う。少なくとも、とっかかりができた・・・・
この対話は書き直すことができるし。」

何だか私がしづらい言い訳をやっているかのようだ。
それを、その前後のエピソードに合うようにしなければ。

「合ってないよね?」「うん、合ってない」
「会話の何が気に入らないのですか?」
「分からない、とにかく直してよ。明日の夜までに仕上げて」

とうの昔に公式の許可と承諾を得ていたこの脚本をめぐる私たちの共同作業はこんな具合だった。
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タルコフスキーに促されながらも、ストルガツキー兄弟は脚本を書きかえていたようです。


サイトより引用
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「どうだろう、アンドレイ、この映画にSFがどうして必要なんだ?
SFはやめよう」
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脚本の書きかえで、SFとしての形すらなくなってしまったようですが、映画「ストーカー」はSF大作として知られています。

この映画は「不自然なSFの意匠」をまとっている。ということが言われています。

また、この映画は「原作が意匠」である。と言う人もいます。
さらに、この映画は「脚本すら意匠」である。と言えるかもしれません。

なぜタルコフスキーはこのような意匠を映画「ストーカー」にまとわせる必要があったのでしょうか?


  ●ゾーンの設定

冒頭のタイトル。パンフレットのシナリオより引用
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”隕石が落ちたのか宇宙人が来たのかわからない。
とにかく、ある地域に奇怪な現象が起きた。そこがゾーンだ。

軍隊を派遣したが、かれらは全滅してしまった。
それ以来、ゾーンは立入禁止になっている。
手の打ちようがないんだ・・・・

ノーベル賞受賞物理学者ウォーレス博士がライ記者に語った言葉より”
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戦車の残骸シーンが映画には出てきます。
しかし、原発事故が発生したら「軍隊を派遣」しないはずです。
「全滅してしまった」はわかります。放射能で汚染された地域だからです。

なぜ、ここに戦車や軍隊が出てくるのでしょうか?

いろいろと考えてみました。いろいろと考えてみた結果は・・・・、
ゾーンは果たして原発事故跡地なのか?ではなく、ゾーンは果たして原発事故跡地だけなのか?です。

ゾーンにはもう一つの設定があったのです。そのもう一つの設定と原発事故跡地との組み合わせによって、国家批判が発生します。

映画に意匠をまとわせることによって、タルコフスキーはこの国家批判を隠そうとしていたのです。

冒頭のタイトルは、おおまかにゾーンを説明したような文章です。
このゾーンの設定が二つあるために、おかしなことになっているわけです。
二つの設定がぶつかってパラドックス(矛盾)になっています。

「”隕石が落ちたのか宇宙人が来たのかわからない。
とにかく、ある地域に奇怪な現象が起きた。
そこがゾーンだ。」

これは原発事故発生のことです。もう一つの設定では何にあたるのでしょうか?

「軍隊を派遣した」

これはもう一つの設定に関係します。ここから連想できることは?

「それ以来、ゾーンは立入禁止になっている。手の打ちようがないんだ・・・・」

これは、原発事故跡地ともう一つの設定と両方に共通します。


パンフレットのあらすじより引用
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「部屋」を眼前にして、三人とも無事にここにたどりついたことを喜ぶストーカー。

がこの時、教授は、かって友人と共に製造した爆弾をリュックから取り出す・・・・。

かれは、人間が胸に秘めている最も大切な夢をかなえるというゾーン内の「部屋」が、犯罪者に利用され、人類が不幸に襲われるかもしれないという危倶を抱いていたから、「部屋」を爆破することを目的にゾーンに来ていたのだ。
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「部屋」は原発事故の中心部、事故をおこした原子炉のあった部屋です。
もう一つの設定でも、「部屋」は中枢部にあたります。

「軍隊を派遣した」から連想するのは軍事体制。
「奇怪な現象が起きた」は、軍事体制の始まり。

タルコフスキーはゾーンを原発事故跡地との組み合わせによって、もう一つの設定を放射能で汚染され、立入禁止になった手の打ちようがない地域に喩えたのです。

そして事故を起こした原子炉のあった「部屋」をもう一つの設定の中枢部として、これを爆破しようとしたわけです。

ゾーンのもう一つの設定は、スターリン体制後のソ連です。


  ●ノスタルジア

チェルノブイリには放射能汚染地域に今でも住み続ける人々がいます。
また、避難先から戻って来た人々もいるそうです。
チェルノブイリはそこに住む人々にとって故郷です。


ゾーンに到着した直後のストーカー。シナリオより引用
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「さあ、着きました。この静けさ。ここが一番ですよ。
いま、ご案内します。きれいな所で、人ひとりいません。」
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この映画は単なる国家批判ではありません。
タルコフスキーの故郷に対するノスタルジアのようなものが感じられます。


あらすじより引用
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ゾーンには鉄条網が張られ、警戒厳重な警備隊がゾーンを守っていた。
だが、このゾーン内には、人間の一番切実な望みをかなえる「部屋」があるといわれていた。
そこで、禁を犯してゾーンに侵入しようとする者たちが現われる。
彼らを「部屋」まで案内する者はストーカー(密猟者)と呼ばれた。
この日も、ストーカーは妻が引きとめるのを振り切って、ゾーンヘと出発する。
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ストーカーもチェルノブイリに住む人々と同じく、ゾーンへと戻っていくのです。

しかし、タルコフスキーはこの映画の次の映画「ノスタルジア」完成後、亡命を宣言しました。


  ●母なる大地

映画では、教授、作家、ストーカーが「部屋」へと進む道筋を決定するのに、ナットに白くて細長い紐を結んだものを投げ、それが落ちた場所へと一人ずつ進み、3人がその場所に揃ったら、もう一度同じことを繰り返す。これを何度も繰り返して、「部屋」へと進みます。

ナットに白くて細長い紐を結んだものは何を意味するのでしょうか?

ところで、「部屋」に到着して、ゾーンの外へ出る行程のシーンがないことを不自然だと言う人がいました。


シナリオより引用
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3人の男たちは"部屋"の前に、互いに背を向けあったまま坐り、考えこんでいる。
ひとしきり雨が降って、"部屋"の中の水面が波紋で光る。
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ポスターにも使用された印象的なシーンです。
このあと数分のシーンの後、すぐゾーンの外です。
これは何を意味しているのでしょうか?

ある人は眠っているストーカーが胎児のようだ、と言います。

別のある人はゾーンとは子宮ではないか?と言います。

ゾーンにはもう一つの設定があります。

ナットに白くて細長い紐を結んだものは男性の精子。
「部屋」はゾーンの出口、女性の性器です。


あらすじより引用
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かれらは、水が滝の如く流れ落ちる「乾燥室」という皮肉な名を持つトンネルを通り、何人もの生命を奪った「肉挽き機」と呼ばれる非常に危険で恐ろしい管(バイプ)をくぐりぬけ、深い井戸をもつ、波紋が連なる砂丘の部屋を通過し、ついに「部屋」の入口にたどりつく。
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胎児のシーンは「乾燥室」と「肉挽き機」の間に入るシーンです。
「管(パイプ)」とは産道です。

母なる大地という言葉があります。ゾーンの三つめの設定は母体。
彼ら3人は胎内回帰をはたし、そしてもう一度新しく生まれたのです。


  ●ラストシーンの謎

この映画のラストシーンは、ゾーンとともに大きな謎です。

大江健三郎の小説「案内人」で、このラストシーンと関連するシーンを指摘しているようです。

それは冒頭シーンです。

シナリオより引用
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ベットには娘をはさんでストーカーと妻が寝ている。
かすかに汽笛が聞こえくる。

ベットの傍の椅子の上には綿や水を入れたコップが置いてある。
列車の近づく音と振動につれて、コップが静かにずり動く。
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ラストシーンは超能力でコップが動きますが、冒頭シーンは列車の振動でコップがずり動きます。


  ●20世紀の精神

想像力―ベケット『ゴドーを待ちながら』 より引用
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このヴラジーミルの言葉は、夢のなかで働くわずかの昼の意識のように聞こえる。
決して分からないゴドーを、まるで会う約束をしていて、彼に会うと救われるような相手として人格化しているのも夢と似た置換ではないか?

このとき夢という言葉は、当人にも分からない願望から、ある種のメカニズムを経て形成されるものをさしている。
ベケット劇に固有な性格は、不在の中心(ゴドー)があり、すべての行為、すべての科白は、この不在の中心との関係であるが、決して当人たちに異様と思われていないのは、夢同様である。
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「決して当人たちに異様と思われていないのは、夢同様である。」

これは映画「ストーカー」にもあてはまります。
映画の登場人物の科白も「夢のなかで働くわずかの昼の意識のように聞こえる」ようです。

 
無意識−フロイト『精神分析入門』 より引用
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無意識はすべての意識的に生きている人びとが、それぞれの精神世界を生きているときに気づかずにもっている願望が宿る心的な領域である。

無意識に関係する重要な研究のひとつは夢の形成に関するものである。

いうまでもなく夢には奇妙なところがある。
たとえば何人かの人が一人の人物に合成されていたり、出来事が不明瞭で非合理的なのに、夢のなか
ではそれなりに物語になり、一向に不思議に思わないのである。

夢思考が夢内容に変換する際に、夢内容にこうした歪曲を生み出す過程を「検閲」と名づけた。
「検閲」という言い方が出てきたのは、彼の時代ではまだ政府による検閲が新聞にたいして行われていたからである。

フロイトは『夢判断』の終わりで次のように述べている。

「夢形成に際しての心的作業は二つの仕事に分かれる。

夢思考〔潜在思考〕の生産とそれの夢内容〔顕在内容〕への変容である」とし、

後者、すなわち潜在夢を顕在夢に置き換える作業、つまり材料の省略、模様変え、編成変えが「夢の作業」と呼ぶに相応しい、と。

それと反対の方向、つまり顕現夢から潜在夢に到達しようとする作業が「解釈作業」である。


フロイトによれば「夢の作業」には四つの機制が働いている。

まず「圧縮」である。顕現する夢は「潜在する夢の、一種の短縮された翻訳である」。

第二に「置換」がある。

夢の作業はフロイトを超えて、言語化の方向に発展させられている。
ラカンはさらに発展させ、置換を換喩、圧縮を隠喩と見なすようになる。


第三に思考の「形象性への配慮」がある。
つまりすべてが視覚化されるとは言えないにしても、多くの場合、思考は視覚像に置き換えられる。
われわれの通常の思考の前段階は感覚的印象の記憶像であるとするなら、夢の作業とは、思考になんらかの退行的な処理を行って記憶像にまで戻ることを意味する。

言語によって論じられることと、視覚的イメージは食い違う。
したがって視覚化は、思考を変容させる。
しかし夢内容は、なんらかの方法によって因果関係を仄めかす方法をとっている。

第四に「二次的加工」と呼ばれる夢の作業がある。
これはむしろ顕現夢に関するものだと言えよう。
つまりこれまで述べてきたような夢の作業の直接の結果は知的に理解することが困難な結果をもたらすが、右の三つの夢の作業の結果にたいして働きかけ、それを一種の物語に整えていくもうひとつの作業がある。

三つの作業の結果を組み立て直し、「ある全体的なものとし、ほぼ調和したものとする」ことである。

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ゾーンには、さらにもう一つの設定があります。

四つめの設定、それは夢の中です。

  ●夢

感覚的に上の引用文と映画「ストーカー」を結びつけてみました。

無意識は「部屋」。3人は無意識へと向かっていたのです。

検閲は文字通りソ連当局の検閲。

換喩と隠喩はゾーンの設定。
タルコフスキーの父親は詩人です。
タルコフスキーも映像において換喩と隠喩を用いる、いわば映像詩人です。

そして、潜在夢は冒頭シーン、顕在夢はラストシーンとすると、3人は「夢の作業」をしていたことになり、顕現夢を冒頭シーン、潜在夢をラストシーンとすると、3人は「解釈作業」をしていたことになります。

3人はゾーン内で冒頭の列車の振動でコップがずり動くシーンを、ラストの超能力でコップが動くシーンへと、置き換える作業をしていたわけです。


  ●眠り

この映画には多くの眠りのシーンが出てきます。冒頭シーンも眠りです。

作家と教授、そして、胎児も眠っています。

シナリオより引用
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妻の声「"私が見ていると大地震が起こって、太陽は毛織の荒布のようになり、月は血のようになり・・・・」

ストーカーうつ伏せになって眠っている。
(画面は変わってモノクロとなる)
ストーカーのあお向けの寝顔のクローズ・アップ。
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画面がモノクロとなり、ゾーンの外でストーカーは夢を見ています。

そして、画面はカラーとなり、ゾーンの中。


シナリオより引用
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(画面は再びカラーとなる)
コンクリートの広場に坐っていた黒い犬、突然、立ちあがる。
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黒い犬も謎です。

シナリオより引用
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眠っているストーカー、夢うつつでため息をつきながら、目を覚まし、上目づかいにちょっと見て、起きあがる。

ストーカー(つぶやく)

「この日、ふたりの弟子が・・・・」

眠っている教授に重なるようにして横になっている作家。

ストーカーの声(つぶやくように)

「エルサレムから7マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、語りあい、論じあっていると、イエス自身が近づいて来られた。

しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」

折り重なるように横たわっていた作家と教授、すっかり目を覚まし、ストーカーに注視している。

ストーカーの声

「イエスは彼らに言われた。
互いに語りあっているその話は、何のことか?」
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胎児が目を覚し、ストーカーが生まれかわる。


  ●再びストルガツキ―兄弟

ゾーンに到着した直後のストーカー。シナリオより引用
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ストーカー、草叢にひざまずいて、溜息をもらす。
やがて草叢に顔をうずめ、大地にうつ伏せになる。
そして静かにあおむけになり、額に手を当てて何か瞑想している。
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「瞑想」という言葉は、ストルガツキー兄弟がタルコフスキーの意図を理解せず、ストーカーを観念論者として脚本を書いている為です。

アルカジー・ストルガツキーの証言。サイトより引用
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私たちは、SFのシナリオではなく、寓話を書いた。
(寓話では、登場人物が時代の典型であり、典型的な理念と行動を担う者として登場するお話であると理解するならば、の話である。)

流行作家、及び、傑出した科学者が、自分の最も大事にしている夢を実現してくれるであろうゾーンに入る。2人を導くのは、新しい信仰の使徒、一種の観念論者である。
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あらすじより引用
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わが家に帰って、ストーカーは

「あんな作家や学者ども、何がインテリだ!・・・・骨折り損だった」

と絶望的に叫ぶ。
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  ●ラストシーンと黒い犬の正体

映画「ストーカー」はタルコフスキーの一種の「芸術論」に近いものとして観ることもできます。


3人がゾーンの外へ出て、画面はモノクロとなり、そして、しばらくして画面は再びカラー。

黒い犬が夢の中からゾーンの外までついて来る。ストーカーは眠る。

カラーは夢の続き。

そしてラストシーン。


シナリオより引用
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机の脇に少女が本を読みながら腰かけている。
やがて少女はふと眼をあげ本を膝に置いて、じっと窓の方を見据える。

少女のモノローグ

「ふと、まなざしを上げ、まわりを閃光のごとく、君が眺めやる時その燃える魅惑の瞳を、私はいつくしむ
だが一層まさるのは、情熱の口づけに目を伏せそのまつ毛の間から、気むずかしげでほの暗い、欲望の火を見る時・・・・」
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黒い犬は原作からの置き換え。
そして黒い犬は映画「ストーカー」へとさらに置き換わり、映画「ストーカー」そのものが自らのラストシーンへと置き換わる。

シナリオより引用
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犬が鼻を鳴らす声が聞こえる。
少女はいったん、窓の外に眼をやると、その眼差しを机に置かれたコップに注ぐ。

コップはひとりでに静かに机の上を滑りだす。少女は机の上のコップと花びんに次々と視線を向ける。
視線を受けると、コップが静かに動き出し、床に落ちる。
少女は机の上に頬を載せて、眼を凝らしている。
ベートーヴェンの”歓喜の歌”が響き、やがて消える。
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ttp://www.he.mirai.ne.jp/~ssrc/stalker.htm


タルコフスキーのストックホルム・インタビュー


Q:あなたのフィルムに登場する人物はロマン派のヒーローに似ています。いつも旅の途上にあり、この旅ー巡礼が秘儀参入になる。例えば『ストーカー』は典型的なロマン派の秘儀参入のパターンに沿ってつくられています。

その場合-ドストエフスキーがロマン主義者だとあなたが主張するとは思いませんが。
彼は全然ロマン主義者ではないー彼が生きた時代、彼の人生観が示しているように。
しかし、彼の主人公はいつも旅の途上にありましたね。

Q:むしろ迷路に入ったような。

それはどうでもいいです。
いつも、探求する人間の物語です。

目標に向かって進んでいく人間です、カンテラを下げたディオゲネスのように。

『罪と罰』のラスコーリニコフーこれももちろん同じ事です、いささかの疑いもない。
アリョーシャ・カラマゾフも、そうです、もちろん。

彼もまたいつもどこかを目指しているーしかし彼は全然ロマン主義者ではない。

こういう訳で、「いつも旅の途上にある人間」とあなたが言うとき、それは必ずしもロマン主義の決定する特徴ではないのです、それはロマン主義でもっとも重要なことではありません。

物質の崩壊と精神の創造


Q:あなたの主人公たちについて話しているとき、私たちは彼らを放浪者、巡礼と呼びました。ここで疑問があります:あなたの主人公、放浪者、巡礼者にとって、彼を脅かす混沌とした出来事から抜け出すチャンスはあるのでしょうか? あなたの作品に現れる時間は無慈悲です。すべてを廃墟に変えてしまいます。つまり、時間と出来事が登場人物を害し、無力にしてしまう、すべての物質的なものを損ない、無力にする。あなたは、誠実さ、個人の尊厳の感覚、個人の自己実現の権利といった価値の永続性を信じますか?


うーん。これを質問というのは難しい。

あなたは、おびただしい、さまざまな問題を列挙したといったほうが良い。

そんなおおざっぱに組み立てられた質問に答えるのは、私にはとても困難です。

一方では、登場人物を無力化する無慈悲な時間に言及されるー
それから「すべての物質的なもの」と言われる。

これが私にははっきりしません。

結局、あの登場人物たちはもっぱら「物質的な」ものではない。

物質的なものはすべて破壊にさらされますが、これらの登場人物は物質だけではないー
何よりも彼らは精神なのです。

Q:もちろんです。


だから、私はいつも大切だと考えてきましたーどの程度人間の精神は不壊であるのか、破壊不可能なのかー崩壊と破壊を被る物質を示すこと、破壊不可能な精神に対立するものとして、物質を示すことが、です。

まだ『ルブリョフ』には見つからないでしょう。

明らかにあそこで私たちは破壊、無力化を扱っていますが、それは或る意味で道徳的な破壊です。

物質性と精神性の対立ではありません。

一方『ストーカー』では、いやすでに『鏡』には、例えば、もはや存在しないあの家があります。

そしてもしかすると、永遠に残るその場所の精神の感触があります。

母は、外へ出るときー覚えていますかーいつも同じです。

母のこの姿、魂は朽ちない、不死であると示すことが私には重要だったのです。
それ以外のものは崩れ去ります。

もちろんこれは悲しいことですー
魂は、時には自らが身体を離れつつあるのを見守りながら、悲しく感じるものですから。

そこには何かノスタルギアのこもった憧れがあります。

アストラルの悲しみです。

この破壊が登場人物に関わるものではない、物質だけに関わるものだということは私には自明のことなのですが。

だからこそ、この対比を獲得することが重要だったのですー
移りゆくものの視点から現実を提示するために、です。

それが古くなったとか、その時を生き抜いたとか、或る特定の時期のその存在を生き抜いたといった狙いがないとしてもです。

一方、人間のほうはいつも同じです、いやもっと正確に言うと、同じままではなく、発達を続けます、無限にまで。

尊厳と言われましたね。

明らかに人間の尊厳はとても大切です、きわめて大切です。

それから、道のことも、旅のことも。

もし旅を、比喩的な意味でも、語るとするなら、どこにたどり着くか、は実は重要でないと言い添えておかねばなりません。

重要なのは、旅をはじめたということです。

『ストーカー』をめぐって

Q: 例えば『ストーカー』で-

いつでもそうです。いかなる状況でも。

『ストーカー』の場合は?
 
さあ、どうでしょう。

ただ、私は別の事を言いたかった。

つまり、重要なことは、最後にひとが達成したことではなく、最初にそのひとがそれを達成する道に足を踏み入れたということです。

なぜ、どこにたどり着いたのかが、重要でないのでしょうか。

なぜなら、この道に終わりはないからです。

そのために、まだ出発点に近いか、すでに終点に近いかはまったくもってどうでもいいことなのです。

あなたの前には旅があり、それに終わりは決してないのです。

で、もしあなたがその道に足を踏み入れていないなら?

そのとき、一番重要なことはそこに足を踏み入れるということです。

これこそ問題なのです。


そういう訳で、私にとって重要なのは、道そのものではなく、人がその道に、どの道でもいいです、踏み込む瞬間なのです。

 例えば『ストーカー』の場合、もしかするとストーカーは私にはそれほど重要ではありません

私にとってずっと重要なのは作家です。

冷笑家として、プラグマティストとして、ゾーンに入って、自分は善人でないと悟って、人間の尊厳を口にする人間になって帰って来る作家なのです。

初めて彼は次の問いに直面します。

人は善なのか悪なのか?
 
で、もし彼がすでにそのことを考えていたなら?

こうして彼は道に踏み込むのです-

ストーカーが自分の努力のすべては無駄に終わった、だれも何も理解していない、だれも自分を必要としていない、と言う時?彼はまちがっているのです。

なぜなら作家はすべてを理解したからです。

そういうわけで、ストーカー自身もそれほど重要でないのです。


この文脈で、もう一つ重要なことがあります。

実は、私はもう1本映画を、『ストーカー』の続編を作りたかった。

まあ、そんなことはロシアなら、ソ連なら出来たでしょうが、もはや不可能です。

ストーカーとその妻は同じ役者が演じる必要がありますから。ここでは別のことが重要です。

つまりストーカーはひとが変わります。

人々が、この幸せにたどり着くことができる、自己変容の浄福、内なる変化に向かって進んでいけると、もはや信じていません。

それで彼は人々を力づくで変えはじめます。

怪し気なやり方で人々をゾーンへと拉致しはじめます?

彼らの生活をよりよいものにするために、です。

彼はファシストになります。

ここには、純粋な理想が?
純粋にイデオロギーと関わる理由から?
その否定になりはてる姿があります。


つまり、目的が手段を正当化すると、ひとは変わるのです。

ストーカーは3人の男を力づくでゾーンに連れて行きます。

これこそ続編で描きたかったことです。


彼は自分の目標を達成させるためには流血も辞さない。
これはすでに大審問官の理念です。

大審問官は自ら犯罪を引き受けます、いわば-

Q:救済

救済の名において。このテーマはドストエフスキーがいつも問題にして来たことです。

Q:『悪霊』-


『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』で。

『悪霊』ではそれに触れてすらいない?

あそこで彼は一般にそうした最初の衝動すら否定している。

どんなものであれ、たとえきわめて高貴な衝動であれ-。
彼はそれすら否定している。

Q:それは『悪霊』ですね。


そうです、『悪霊』です。

しかし『カラマーゾフの兄弟』で彼は社会主義について、大衆の幸せの名において暴力の罪を引き受ける人々について 、書いています。

Q:あるいは、何らかの理念の名において。


そう、理念。それは重要ではありません。

この意味で、私にとってそれよりずっと重要なものは、道そのものではありません?
もちろんそれも重要ですが?

むしろ、道に足を踏み込む人、踏み込まない人の問題全般です。

彼らが旅を引き受けるか否か、なのです。

精神の自由

ですから、ここに挙げたこれらの側面のすべてが私には当然重要なのです。

あらゆる人間の特質が私にはきわめて重要なのです。

尊厳、自由-内的な自由ーご承知のように政治的な自由と精神的な自由は2つの異なる概念だからです。

政治的な自由について話すときには、実は自由の話をしていないのですー権利の話をしているのです。

私たちの良心に好ましいやり方で生きる権利、私たちが必要と考えるやり方で生きる権利。

社会に奉仕する権利ー私たち自身がこの課題を理解する限りでですが。

自由に感じる権利。権利です。いくらかの義務ももちろん伴います。

他のものとは関係なく、人は権利を有していなければなりません。

しかし私たちが自由について話すとき、私たちが心に描くのは-わからないなあーもし自由になりたければあなたはいつでも自由なのです。

人間は、牢獄に閉じこめられても、自由でいられるのだと私たちは知っています。

また自由を進歩と結びつけるべきではありません。これは絶対だめです。

人間の意識と個我が始まって以来、人間は自由であるか自由でないか、どちらかしかありえないー自由という言葉の内的な意味においてですよ。


こういう訳で、自由を話題にするときには権利の問題を、自由、内的な、精神の自由と混同すべきではないのです。

ここまで来ると、このテーマについて私が何を言っても連中には分からない。

先頃私はそういう会合に出ていました。

彼らは新聞に書きました。

「タルコフスキーが精神性について語るとは非常に不思議だ。」ー

彼らには不思議なのです、彼らにはさっぱり分からない、私が何を言っているのか、理解できないのです。

私が精神性について語っているとき、人間は、なぜ自分が生きるのか、知るべきである、自分の生の意味について考えるべきである、という意味なんですが、それがまったく理解できない。

それについて考え始めた人は、或る意味で、すでに精神の光に照らし出されているのです。

彼はこの問いを二度と忘れることはないでしょう。

この問いを投げ捨てることはないでしょう、彼は道に足を踏み入れたのです。

しかし、彼がこの問いを決して自分に問いかけないなら、精神性が剥奪されているのです。

動物のように、功利的に生きるのです。

こうなると人は何も決して理解することはないでしょう。

連中にはこういうことがまるっきり理解できない。

あの記事を書いたジャーナリストということになるとー私にはとにかくショックでした。

彼は確かに考えています。

つまり、精神性に触れていますから、これは間違いなく、正教会に関わっているものでしょう。

聖職者主義に関わっていると言ってもまず差し支えないでしょう。

彼にとっては、人間の魂とか人間が生きている間に果たすべき道徳的な努力といった疑問はまったく存在していないのです。

Q:彼らは自由の奴隷、進歩の奴隷に思えますね。

そうです、その通りです。そういう人には自由の理念は-

Q:価値である。

その通り。

それで、私が彼に自由とは何かと訊いたら、決して答えてくれないでしょうね。
なぜなら分からないのだから。

なぜならそれをどう扱えばよいのか、この自由をどうしたらいいのか、知らないからです。

でも脱線しましたね。質問はこんな風には述べられなかった。

しかしこの問題は私には恐ろしく重要なのです。

私は人間の権利の問題を決して持ち出そうとはしなかった。
私には興味のないことです。私は内的な自由の問題に興味があるのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html

アンドレイ・タルコフスキー 「ストーカー」

使われた音楽 バッハ「マタイ受難曲」 等
使われた意図 芸術の荒廃と受難


20年ほど前に「ゾーン」という「思いがすべて実現される領域」が出現した。

ここで主人公はそのゾーンの案内人でストーカーと呼ばれる。

今回そのゾーンに連れて行く人間は、小説家と学者(いずれも固有名詞はなし)の2人。
ストーカーはこの2人を苦心のはてにゾーンに導くが・・・

今回は79年の作品「ストーカー」を取り上げます。
この作品のあと、タルコフスキーはソ連から亡命となったわけです。

ちなみに、ストーカーという言葉は、元々は「領域侵犯者」という意味ではなかったかな?
「入っちゃいけないところへ入っていく。」

その点では、女性を付回すストーカーと基本的には同じ意味なんですね。


このタルコフスキー監督の「ストーカー」では、クラシック音楽が4つ使われています。


ワーグナーのオペラ「タンホイザー」から巡礼の合唱。
バッハの「マタイ受難曲」から「哀れみたまえ。わが神よ」。
ラヴェルの「ボレロ」。
ベートーヴェンの「第9交響曲」。

まず、このゾーンへの旅の前にワーグナーの「タンホイザー」の「巡礼の合唱」が鳴らされます。

つまり、このゾーンへの旅は一種の巡礼である。

そのことをタルコフスキーは示しているわけですね。
「聖」なるものへの巡礼。


ソーンは「聖」なるものの象徴ではないか?
映画を見ている観客はそのように予感することになるわけです。


次に使われるのはバッハの「マタイ受難曲」からの第39番のアルトのアリア

案内人たるストーカーに導かれながら、ゾーンを進んでいく小説家が口笛を吹くわけです。


イエスが捕らえられて、ペテロ(イエスの第1弟子)が心配そうにしている。
そんなペテロを見つけた周囲の人から「アンタもイエスの仲間だろ!」と追及されるわけです。

自分も逮捕されたくはないペテロは、それを否認するわけです。
「オレはイエスなんて男は知らないよ!」ってね。

新約聖書で有名なシーンです。

心ならずもイエスを否認したペテロの心情を歌ったアリアが、この第39番のアルトのアリアですね。

「憐れみたまえ、わが神よ。

私のこの涙を。ご覧ください。

私の心と目はあなたの御前でさめざめと泣いています。」


という歌詞です。

深い悔恨の音楽と言えるものです。

一番重要であるはずの神の子たるイエスを、自分の弱さから否認してしまった悔恨です。

イエスを否定してまで、自分は生きるに値するのか?

自分自身の弱さから、イエスを否定したペテロは、心の弱さを持つ人類そのものですよね。


映画では小説家が口笛で歌っています。まあ、口笛には不向きな曲ですよね?

「サクリファイス」でも使っていることとも合わせて、よっぽどの意図があるわけですね。

イエスを否認したことについてのペテロの悔根の曲を使って、この「ストーカー」という作品においては、誰が何を否認したの?

鼻歌でうたっているのは小説家なので、小説家が否認したとみるのが自然ですね。

では、何を?

多分小説家が否認したのは神なのでしょう。

あるいは超越的な存在と言い換えることもできるでしょうか?

それとも「聖」なるもの?あるいは「良心」と言えるものかも?

映画を見ていた観客の方ならスグわかるでしょうが、この小説家はなかなかに鋭い洞察を持っている。

特に意識が朦朧としている時には、実に的確なことを言う。

今日における芸術の位置づけとか、
芸術家の創作の原動力とか・・・

例えば

「人間がものを書くのは苦しみ、疑うからだ。
自分自身や周囲に自分の価値を証明しようとするからだよ。」


とか・・・

このあたりの言葉はタルコフスキー自身の考えと全く共通でしょう。
そのような意味では、この映画における小説家とタルコフスキーは同じ問題意識を持っているわけです。

しかし、小説家は否認した。
イエスを、というより神を否認したわけ。


映画においては、この小説家はこのマタイ受難曲を口笛で吹いて、「イエスの否認」を示すだけでなく、様々な堕落した様相を見せています。

敬虔さがないし、
意思が弱いし、
妙な自意識がある。

つまり、この名前も与えられていない小説家は「堕落した芸術家」の象徴なんでしょうね。

そして同行する学者は物理学者という設定ですが、どうやらテクノクラート(官僚)のような組織内のインテリを象徴しているようです。

つまりこの「ストーカー」という作品は極めて知性の高い人間2人を、「聖なる場所」に導く巡礼の旅を描いた作品なんですね。

そして結果はどうなったの?

見事に大失敗ですよね?


2人のインテリは「望みがすべてかなう場所」に到達しても何もできなかった。

望むことができなかったわけです。

人間が最高の歓喜に至ることができるはずの場所で、どうすることもできない。

案内したストーカー(これも名前なし)の労苦は徒労に終わったわけですね。

人々の望みがすべてかなう場所。
「聖」なる場所であるゾーン。

これが「芸術」の世界を象徴していることは明白。
人々をその芸術の世界に導くストーカーはまさに芸術家。

世俗のことに全く無能で、できることといったら、聖なる世界への案内人。
この設定はまさにタルコフスキー本人を象徴しているわけですね。

そして、散々な労苦のあとで、人々に文句を言われることもタルコフスキーと同じでしょう。
特にタルコフスキーはソ連の人でしたし、周囲から色々と文句を言われたはずです。

その「芸術家」を象徴するストーカーにとって、今までに行った案内で、一番苦労した案内が、その小説家と学者を案内した旅の時。

妙な自意識があるインテリが、「聖なる世界」とは一番無縁である。
当時のソ連だけではなく、人類の歴史ではいつものことですね。


しかし、そのような不遜な人間なのに何故にゾーンに到達できたの?

この映画の中でストーカーは言います。

「不幸な人しかゾーンには到達できない。」

そのようなインテリが一番不幸というわけです。
だから文章を書いて自分を証明する必要があり、とにもかくにもゾーンには到達できる。


ゾーンという存在が象徴するものといえる芸術だって同じなんでしょうね。

「聖なる芸術」に到達できるためには、「不幸でないとダメ!!」・・・

ちょっと身もフタもない発想ですが、残念ながら現実でしょう。


芸術ということで、ストーカーは言ったりします。

「ここではまっすぐが一番近道とは限らない。」

これも、ソ連に限らず事実でしょう。

とはいえ、ソ連の音楽家のショスタコーヴィッチの音楽がいかにヒネリがあったのか、その点を思い出す人もいらっしゃるかも?


ゾーンへの旅から帰還したストーカーが、2人を散々に酷評します。

その酷評の言葉は、本物の芸術家が、ブランドだけの芸術家を評するときの常套句がちりばめられています。

「自分を売り込むことしか考えていない!」とか・・・

実はそのストーカーも、教養のある人なんですね。
だって、ストーカーの部屋の本棚を見てごらんなさいな。
いかにも本を読んでいる本の並び方になっていますもの。

このようにストーカーの仕事は世間に報われないシジフォス的な仕事の繰り返し。
まあ、だからラヴェルのボレロなのかな?

最後ではベートーヴェンの第9交響曲が使われます。

交響曲の中で何回も繰り返されるフレーズ「歓喜よ!美しい天上の火花よ!歓喜の楽園の娘よ!・・・」

映っている映像はストーカーの娘。生まれたときから足がないという設定です。

「楽園の娘」という言葉を背景に映っているということは、この娘が大きな意味を持っているわけですね。

映画では、その足がない娘が超能力を使えることが示されています。

コップを念力で移動させたりする。
いつからその能力が使えるようになったのかは描かれていませんが・・・

そして、それまでゾーンにいて守護していた犬がストーカーについてきてしまった。

つまり、「聖」なる「楽園」であるゾーンがその娘のもとに移動したということですよね?

それまでのゾーンの「力」が衰えつつあることは、映画の中で描かれています。

花が咲かなくなってしまったり、あと「もう誰もあの部屋を必要でないんだ!」とストーカーが嘆いたり・・・もう人が必要としなくなってしまった。

もう、従来のゾーン・・・つまり芸術が末期的であることが示されているわけです。

この「従来のゾーン」を「ソ連の芸術界」とみると、実に意味深長になります。

従来のゾーンの限界を示しているわけですから、こうなると新たなゾーンを作るために環境を変える必要が出てくる。亡命という発想も現実味を帯びてくるわけですね。

20年前に登場したゾーンという設定も、映画製作から約20年前頃にあったフルシチョフによる「雪解け」と関係があるのかも知れません。

父であるストーカー以上に、世俗の能力に欠け、父であるストーカー以上に「超越的な力」を持つ。
その娘がアンドレイ・タルコフスキーの父の詩を読む。
親子2代にわたってのストーカー・・・つまり芸術家の姿が見えるわけ。

その娘は新たな「楽園の守護者」になった。ということで、芸術家(ストーカー)の子供であるその脚のない娘も、タルコフスキー本人を表しているんでしょう。
アンドレイ・タルコフスキーの父親は詩人で芸術家でしたものね。


この「ストーカー」という作品。実に個人的な作品と言えるんでしょうね。
しかし、タルコフスキーという芸術家の姿を臆面もなくさらしているために、逆に普遍的な芸術家の姿を映し出していることになる。
だからこそ、この映画では登場人物が画面に正対するシーンが多い。観客に直接語りかけているわけ。

当時のソ連からの語りかけなので、ちょっと晦渋になっていますが、語っていることはどこの国でも、どの時代でも芸術家の関わる問題として全く同じ問題なんですね。

様々なクラシック音楽によって、芸術家の境遇や受難が象徴されている・・・
まっすぐではなく、回り道の表現で・・・そんな作品なんだと思います。
ttp://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/04-06/04-06-22.htm
ttp://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/03-12/03-12-30.htm


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バッハ『マタイ受難曲』

J. S. Bach - Matthaus-Passion - W. Mengelberg (1939)
https://www.youtube.com/watch?v=LEtwVHP8smQ&t=10s

Concertgebouw Orchestra Amsterdam
Director: Willem Mengelberg

_____

Willem Mengelberg - Bach : from Matthaus Passion マタイ受難曲より(1936-Live)
https://www.youtube.com/watch?v=4f7azEsJwBY

Jo Vincent, soprano、Ilona Durigo, contralto
Karl Erb, tenor、Willem Ravelli, bass
Amsterdam Toonkunstkoor, Jongenskoor Zanglust
Willem Mengelberg cond,/ Amsterdam Concertgebouw Orch.
recorded 5 April, 1936 - Live
________

J.S.Bach St Matthew Passion BWV 244 (first part) - Walter - NYP (1944)
https://www.youtube.com/watch?v=ALiNuGN3khE

New York Philharmonic Orchestra / Bruno Walter conductor.
Live rec. April 9, 1944 (only the recording of the first part...)

_______


J.S. Bach "Matthaus-Passion" Furtwangler Wien 1954
https://www.youtube.com/watch?v=xBXzM6ac_kE

Wiener Philharmoniker
Wilhelm Furtwangler, conductor
Wien, 15.IV.1954
メンテ
タルコフスキー 映画『ノスタルジア 1983年』 ( No.5 )
日時: 2022/05/17 05:25
名前: スメラ尊 ID:Gjda1JhU

タルコフスキー 映画『ノスタルジア 1983年』

動画
https://www.nicovideo.jp/search/Nostalghia%E3%80%80%EF%BC%8F%EF%BC%96?ref=watch_html5


サンガルガノ大聖堂の廃墟 

 アンドレイ・タルコフスキーの映画はすべてすばらしい映画的光景を映し出している。

『僕の村は戦場だった』はテーマの重さと拮抗するような映像のリリシズムがあった。

『惑星ソラリス』も突出したSF?映画だった。

東京の首都高速が未来都市のイメージとして活用されていることで話題になったが、むしろ、その後のタルコフスキーに頻出するブリューゲルとバッハの融合が印象に残る。

『ストーカー』も晦渋な映画だが、水のイメージがじつに美しい。

そしてタルコフスキー的な映像というてんでは、なかでも、『鏡』と『ノスタルジア』が秀逸だと思う。

 『ノスタルジア』は、イタリアが舞台だ。

ロシアから亡命してきた詩人(アンドレイ・タルコフスキーそのものだ)が、創作の自由のためにはロシアから離れねばならず、しかしその創作の源泉である故郷の原風景やロシアの大地から切り離されることによって生じる心理的葛藤(それをノスタルジアという)に苦しむ姿を美しい映像で描いている。

 ノスタルジアのラストに、ある廃墟の寺院が出てくる。

それがサンガルガノ寺院である

 私は、映画に導かれてこの寺院を訪問した。1993年のことである。


 資料として『タルコフスキーatワーク』(芳賀書店)の「ノスタルジアへの旅」(鴻英良)をみた。彼はノスタルジアのロケ現地をめぐる旅にでかけ、詳細にその発見を記している。

それによると、タルコフスキーの撮影チームは、ラストシーンをサンガルガノで、印象的な地下の聖母のシーンをトゥスカニアで撮影したことになっている。

私は、仕事でローマを訪れたさいに、フィレンツェに移動し、そこでレンタカーをして、トスカナ地方をドライブしてローマに戻る計画をたてた時、ぜひともこのサンガルガノの廃墟とトゥスカニアを訪れてみたいと思った(まぎらわしいが、トゥスカニアは、トスカナ地方にはない。ここもじつに素晴らしいところだった。町にはホテルが一軒しかなかったが、ここが素晴らしかった。)


(トゥスカニア全景と地下の聖母が撮影された場所)


 トスカナ地方をドライブしはじめると、すぐさま人生の至福につつまれるような感慨を味わった。

こんな素晴らしいドライブはそうはない。

フィレンツェもすばらしいが、サンジミニャーノ、シエナ、ペルージャ、アッシジといった小さな町々が途方もなく素晴らしい。

しかしサンガルガノは探し出しにくかった。

さきの鴻英良氏もサンガルガノへ行くのにはたいへん苦労している。
彼はレンタカーでなく電車をつかっていたのだ。

シエナから行くのだが、観光地ではないため、何もない田園のなかを迷いながら運転してたどりつくほかはない。

 うつくしいトスカナの田園のなかに、それはあった。

 夏のあいだには、臨時の売店なども開かれているから、訪れる人は案外少なくはないのかもしれない。絵はがきやカレンダーなども売っていた。

 サンガルガノがどういうものかは、次の写真をみてほしい。


 サンガルガノ大聖堂(廃墟)


 イタリアのガイドブックや、ミシュランの緑には、きちんとサンガルガノが紹介されている(小さくだが)。ミシュランによれば、人は、この廃墟を訪れると、あらためて栄華のはかなさと、人生についてしみじみと想いをいたすだろう、とある。

たしかに廃墟には、そういう想いへと人を誘う不思議な力がある。

ためにヨーロッパには廃墟趣味というのがあって、わざわざ廃墟を建築する!ことも多かったようだ。

もちろんサンガルガノは正真正銘の廃墟である。


 タルコフスキーのノスタルジアでは、ラストシーンで、イタリアに亡命した主人公が死んでゆく意識のなかで、故郷ロシアの原風景が蘇ってきて、その懐かしい風景の中に包まれて死んでゆくのだが、その故郷ロシアのノスタルジアに満ちた風景が、サンガルガノの廃墟のなかに再現されて、廃墟の建物と渾然一体となってえもいわれぬ効果を生み出していた。

そしてノスタルジアの風景のなかに、やがていちめん雪がふってきて静かに映画はおわってゆくのだ。この最期の風景だけでも、ノスタルジアは映画史に残るものではないかと思う。
ttp://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~adachi/sangalgano.htm

Andrei Tarkovsky - "Tempo di viaggio" (italian with french subtitles)

ttp://www.youtube.com/watch?v=PY9DPNQSET0
ttp://www.youtube.com/watch?v=P0pcra3oGQk&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=OAP7Iv4Z0SI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=bkygo4Kn7CI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=yyXeDNPzXFs&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=R8hrHfv2Ou4&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=5M4Md2S7Mtk&feature=related


イタリアのタルコフスキー

タルコフスキーは『ノスタルギア』を「単純なラブストーリー」だと言う。

(ヤンコフスキイ演ずる)アンドレイ・ゴルチャコフはロシアの大学教授で、長年講義してきた建築を実際に見るために、イタリアを初めて訪れる。

彼は自分の通訳兼ガイド(ドミツィアナ・ジョルダーノ)に思いを寄せる一方で、トスカーナの数学教授のドメニコ(ヨセフソン)に自分の一種の分身を見いだす。

ドメニコは世界の終末は近いと信じているので狂人と見なされているのだった。

ローマのRAIでの製作発表記者会見で、タルコフスキーはこう述べた。

「『ノスタルギア』のテーマは、人々がお互いを本当に知らずに共に生きるのは不可能なことと、相互理解の必要性から生まれる問題を扱っています。

名前を知るくらいなら非常に簡単だが、他者を深く認識する段階に達するのははるかに困難だ。

また表面にはさほど現れませんが、この映画には、文化を輸入したり輸出したり、異文化を取り入れるのは不可能だという主張を扱った一面もあります。

私共ロシア人もダンテやペトラルカが分かると主張出来る。

それはイタリア人の皆さんがプーシキンが分かると主張出来るのと同じ理屈です。

けれども実はそんなことは不可能なのです。

つまり同じ国民でなければならないのです。

文化を複製し伝播するのは、その本質に有害であり、皮相な印象しか広めない。

異文化を教えるのは不可能なのです。」

「この映画で、通訳のエウジェニアが『どうしたら分かりあえるのかしら』と訊く。

アンドレイ・ゴルチャコフは『境界を壊すことだ。』と答えます。

これは複雑な地球規模の問題で、単純なレベルで解くか、全然解けないかのどちらかです。

単純なレベルでは子供が解決してくれると言えますが、もっと複雑なレベルでは自己認識の問題と関連しています。

アンドレイは自分の分身とも言える狂人にこうした難題を肩代わりさせようとします。
アンドレイは真理を探求しているのですが、自分が直接分かってもいないものを教えても無駄じゃないかという思いが心をよぎることがあります。

彼は、あの狂人に、自分の行動に確信を抱いている人物を見いだす。

世界の救済法を知っていると言って、それに基づいて行動する人間を見いだします。

ドメニコは反省を知らぬ、ただ行動するだけの無邪気な子供に似ています。

ですからある意味でアンドレイに欠けているものを代表しているのです。」
ドメニコのキャラクターは、部分的には脚本が既に脱稿した段階で、グウェラがたまたま見た新聞記事からインスピレーションを受けたものだった。

タルコフスキーによると、それは映画に重要な総合性をもたらす幸運な発見であった。

「グウェラは類い稀な才能に恵まれた詩人で、偉大な発見が出来る。

幸い私は映画畑で、グウェラは詩の方ですから、嫉妬しなくてすんでいますがね。」
タルコフスキーは最初はモスクワでかなりの部分を撮影する計画だったが、ソヴィン・フィルムとの協約が破棄されて、彼はモスクワのシーンに振り分けたフィートを半分に減らさねばならなかった。


「運命は私たちに救いの手を差し延べてくた。

トスカーナで見付けた家はモスクワより映画的にはるかに興味深いものです。

イタリアに、ロシアのこのささやかな一角を拡張出来るのを私はとても嬉しく思っています。」

タルコフスキーは今でも水にとりつかれたままなのだろうか?

「水は神秘的な要素です。一個の分子であり、とてもフォトジェニックです。」

とタルコフスキーは語る。

「水は運動と、変転と流動の感覚を伝えることができる。

『ノスタルギア』にもたくさん水があるでしょう。

たぶん水には潜在意識の反響があるのかも知れない。

ひょっとすると、私が水を大好きなのは、先祖の輪廻転生を隔世遺伝で記憶していることから生まれるのかも知れない。」


彼の映画の「悲観主義」とイタリアの人生観の「楽観主義」に生じうる軋轢について、また、イタリア人には彼の映画を理解するのが困難なのでは? と問い質すと、タルコフスキーはこう答えた。
「私にだって楽観主義はある。

今度の映画は比較的単純で分かり易いラブストーリーです。

けれども同時に私は、表面下に潜むもっと深遠で混沌としたものを、底まで掘り下げる努力をしています。

悲観主義は、気遣いと人が自分に課す問題の複雑さが絡んで生まれてくる。

こうした問題は、歓喜に満ちた態度で世界に向かっても解けるはずもない。

私の関心は、世界の現状を気遣い、胸を痛めている人々にあります。

このために、時には、余りに複雑になるのかも知れません。」

「映画は高度の緊張を伴う芸術形態です。

一般には理解されないことかも知れませんがね。

私は理解されたくないというのではなく、例えばスピルバーグのように、一般大衆向けに映画を作るのは私には出来ないということです。

もし自分にそんなことが出来ると分かったら、恐ろしく恥ずかしいでしょうね。

一般大衆に届きたいなら、芸術とは何ら関係のない『スターウォーズ』や『スーパーマン』のような映画を作らなければならない。

私が、大衆を白痴のように扱っていると、とらないでください。

ただ確かに私は、大衆を喜ばせようと苦心したりしない。

ジャーナリストの皆さんの前で、どうして私はいつもこんなに自己弁護ばかりしているんでしょうね。近頃私には、皆さんが欠かせないでしょう。

私の映画がアンゲロプロスと同じくらいの配給を得るのなら、特にそうでしょう!」
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タルコフスキー、『ノスタルギア』を語る

内面への旅 ギデオン・バックマン


バックマン:
まず最初に、西側で仕事をする感想を話してもらいたいですね。
アンドレイ・タルコフスキー:今回は初めて外国で映画を撮るだけでなく、私は外国の条件下で初めて仕事をしています。

世界中どこに行っても映画を作るのは難しいと思います。

でも、何が難しいかが場所によって変わってくると私は気づきました。

こちらで、最も大きい障害は金と時間の不足がずっと続くことです。

特に資金不足は創造性を妨げ、また資金が不足すると時間が足りないということになる。

映画に取り組む時間が長くなるほど、コストも高くなる。


ここ西側では、お金が支配する。

ソビエト連邦で私は一度も費用のことは考える必要がなかった。

とにかく心配無用だった。

イタリアのテレビ会社RAIがとても気前よく、この映画製作に招いてくれました。
実際そうなんですが、割り当てられた予算は明らかに乏しい。

これまで外国で働いた経験がないので、いくらかは私の思いこみかも知れませんが。
現在のプロジェクトは実際に「文化的なイニシアチブ」と分類されていて、商業的ヴェンチャーとは思われていません。

一方では、イタリアの映画チームと技術的クルーと一緒に仕事をするのは、とびきり報いのある経験です。

彼らは極めつけのプロで、高度な知識があり、自分の仕事を楽しんでいるようです。
誰もが自分のやっていることを愛しているように見えます。

しかし私は、私たちロシア人の方法とイタリア人のやり方の比較をしたくない。
どこへ行っても、理由が何であれ、映画作りは複雑で骨の折れる仕事です。
私が西側で一番批判に値すると思うのは、全く経済的な要素に全面的に依存していることです。

これは、芸術形式としての映画の未来そのものを危難にさらす可能性をもっています。

ギデオン・バックマン:
あなたが20 年間に作った5作品:『僕の村は戦場だった』、『アンドレイ・ルブリョフ』、『ソラリス』、『鏡』そして『ストーカー』すべてに、個人と個人を取りまく環境の間にいつでも強い対立があります。
『ノスタルギア』でもこれがテーマですか?

強いのは常に葛藤そのものであり、個人ではありません。

それどころか、私の中心人物は必ずと言っていいほど、弱い人間です。

その人間の強さは彼らの弱さから生まれてくる。

彼らがその環境に上手く適応していない、環境と調和していないという事実から彼らの強さは生まれてきます。

当然、個人と社会の間には、際だった個人と彼を取りまく環境の間には、いつでも葛藤があります。

すなわち、これらの間にはいつでも対立が存在していて、これこそ私たちは葛藤だと言うのです。

人間関係の存在しないところには、葛藤もまた存在しない。

私は、社会との関係が対立の強い要素によって特徴付けられる人物を使うことに興味があります。

そういう人は自分を囲む現実に対して強烈な関係を持っていて、このために、そういう人は常に、最後には環境と衝突してしまうようです。

私はそういう人間を追いかけて、彼が自分の問題をどのようなやり方で解決するのか見つけだしたいのです。

自分のなかに閉じこもってしまうのか? 
それとも自分自身に誠実であり続けるのか?

ある意味で、これは私の作劇法のまさに根っこにある問題だと言えるかもしれません。


ギデオン・バックマン:
どのようにして『ノスタルギア』が誕生したのか、話していただけますか?

私は何度かイタリアへ来たことがありますが、およそ3年前に、よい友人で、イタリアの作家、詩人であり脚本家であるトニーノ・グウェッラと一緒に映画を作ることに決めました。

映画は私のイタリア体験をめぐるものになる予定でした。


オレグ・ヤンコフスキー演じるゴルチャコフは仕事でイタリアに来たロシアの知識人です。

映画のタイトルは、『ノスタルジア』という言葉では非常に不満足な翻訳でしかないのですが、私たちから遠く離れたものを求める苦悩、憧れても憧れても一体化することの出来ない諸世界を求める苦しみを示しています。

しかし、それは内面の故郷への憧れ、何らかの内的帰属感を表してもいるのです。

映画の「アクション」、出来事そのものの順序は、何度か修正されました。

一部は脚本を書いている準備段階で、また一部は撮影中にも修正されました。

私は分断された世界で、引き裂かれて砕け散った世界で生きることが不可能であることを表出したいのです。


ゴルチャコフは歴史の教授、国際的に知られたイタリア建築史の専門家です。

彼はそれまで複製と写真だけで知っていた、そして教えていた記念碑と建物を今こそはじめて、眼で見て手で触れる機会に恵まれたのです。

イタリアに到着するとすぐに、彼は、芸術作品を生みだした文化の統合的な部分にならない限り、芸術作品を伝えたり、翻訳することは出来ない。

知ることすら出来ないと実感し始めます。

さて、彼は18世紀の少しは知名度のある作曲家の足跡をたどるためにイタリアに来ます。

その作曲家は元はロシアの農奴だったのですが、主人によって宮廷音楽家として教育を受けるようにイタリアに送られたのでした。

彼はボローニャ音楽院でジャンバティスタ・マルティーニを師とし、やがて有名な作曲家となり、その後は自由人としてイタリアで生活をしました。

映画の重要なシーンに、ゴルチャコフが、イタリア人の通訳であり旅の連れである若い女性に、作曲家がロシアに書き送った手紙を示すところがあります。

そこで彼は、ホームシックを、彼の「ノスタルギア」を表現しています。

それが何を指示しているかと言うと、この作曲家は実はロシアに帰ったが、アル中になり、最後に自殺したということです。


ゴルチャコフにとっても、イタリアの経験は人生を変えるものになります。

イタリアの美とその歴史は、彼の魂に大きな印象を刻み込み、彼は苦しみます。

なぜなら、彼は自分自身の背景をイタリアと内的に和解させることができないのです。

彼のイタリア体験ははじめは全く外的な性格しか持っていないのに、ソ連に帰ったらそれが何かの終わりを内包するだろうと、彼はやがて気づきます。

そのため彼は憂鬱になります。

自分がイタリアで経験したことを忘れることも、捨ててしまうことも決して出来ないと知っているからです。

自分のイタリア経験を生かすことが自分にはできないのだと思い知ると、彼の内的な苦痛、「ノスタルギア」は増します。

このノスタルギアには、彼が自分の体験を故郷の愛する人々と共有することが出来ない、イタリアに出立する前には彼の最も近しい人々とも共有できないということを自覚することも含まれます。

他者と、自分の印象と経験を共有できないことをこのように意識すると、彼の滞在はひどく辛いものになります。

彼の魂は拷問をされたようになりますが、同時に、心の友を見いだす欲求が彼の中で揺れ動きます。彼を理解し、彼の経験を共有出来る者を求めます。


映画はノスタルギアの本性を探る一種の論考です。

あるいは、ノスタルジアと称されるかも知れないが、実際には憧れよりも多くのものを含んでいるあの経験に関する論考です。

ロシア人は、最大の困難を経験しなければ、新しい友人や知人と別れることが出来ない。

ソ連への帰郷が迫ると、それは悪夢になりますが、このイタリアへの憧れも、「ノスタルギア」と呼ばれるこの複雑な現象を創り出す多くの要素のひとつにすぎないのです。

ギデオン・バックマン:
映画では何が、魂の友を求める気持ちをあらわしているのですか?

ゴルチャコフは彼の経験を本に書くという最初の意思を放棄し、むしろ出会ったイタリア人に、その経験を手渡す、あるいは渡そうと心を決めます。

エルランド・ヨセフソン演じるトスカナの村の出身の数学教師に手渡そうとします。
7 年間このイタリア人は、彼が最も恐れる災害から妻子を救うために妻と子どもたちを家に閉じこめました。

彼は世界の終末を恐れていたのです。


この幾分異常で、神秘的な狂信者はゴルチャコフにとって、一種の「第二の自我」になります。

ゴルチャコフは彼に自分自身の感情と疑惑を認めます。

ドメニコ、その教師は映画の肯定的な力と見なせるかも知れません。

彼の性格は、未来に必要な状況を人格化しているからです。

彼はゴルチャコフの主な話し相手になりますが、彼は、ゴルチャコフが自分の内面に現れ始めていると感じる精神的な不安の極端な事例を表しています。

ドメニコはまた、人生の意味、自由と狂気の概念の意味の、絶えざる探求を表象しています。
もう一方では、彼は子どもの受容性を、しばしば子どもに見つけられる並はずれた感受性を、保持しています。

しかし、彼は、ロシア人に欠けているある特徴を併せ持っています。

ロシア人が容易に傷つき、生命の深い危機に陥る状況でも、このちょっと頭のおかしいイタリア人は単純で、核心にずぱっと斬り込んで、彼自身の啓発された外向性で、一般的な問題の解決を見いだします。

トニーノ・グウェッラが新聞の切り抜きでこの人物を見つけてきて、私たちはそれをもう少し展開しました。私たちは彼に子供じみた気前の良さといった感じを与えました。
一種無邪気な寛大さが彼には強力にある。

彼を取りまくものとの関連で彼の率直さは、子どもに見られるような信頼感を強く思い出させます。

彼は信念の行為を遂行するという思いに取り憑かれています。

火のついたロウソクを手に、トスカニアの村の真ん中にある巨大な、四角い古代ローマの温泉、バーニョ・ヴィニョーニの湯を抜いた温泉場を渡りきるといった行為です。

ゴルチャコフがこれをやろうとするのですが、ドメニコはさらに大きな犠牲が必要だと考えて、ローマに行き、カピトレウムのマルクス・アウレリウス像の上で焼身自殺をします。

それは暴力的な犠牲行為ですが、しかし狂信の要素はいささかもなく、 啓示の瞬間に啓示される救済への心穏やかな信念で行われます。

ギデオン・バックマン:
主人公の2人、建築学の教授と数学教師は、あなたが個人的に自己同一視出来る性格を持っていますか?

私が2人のどこが一番好きかと言うと、狂人の行為にある信頼感であり、旅人のほうは、より大きな理解を達成しようとする執拗さです。

その執拗さは希望と呼ぶことも出来るでしょう。

ギデオン・バックマン:
この2人を結びつける関係はご自身の気持ちを反映していますか?…

私のヒーローは、「狂人」を首尾一貫した強い人格だと考えている。

「狂人」は自分自身の行動に確信があるが、ヒーロー自身にはこのような確信が欠けている。

それで彼はドメニコにすっかり魅了され、最後には、ドメニコこそ、私のヒーローがいつも考え込んではすべてを合理化していたのを、そうすることなく生きる勇気を与える助けになります。

この意味で—この展開のおかげで—ドメニコはゴルチャコフの「もう一つの自我」になるのです。

人生で最も強い者は、子供の信頼と直観的な安心感を保持することに成功した者である。

ギデオン・バックマン:
この映画を作る何らかの外的な理由があるのですか? 
その内的緊張を解読する鍵を与える何らかの明らかなテーマが?

私にとって、人々が互いに出会って一緒に働くことがどれほど重要であるかを何度でも示すことがとても大切なのです。

独りで、自分の秘密の片隅で生きるときには、欺瞞的な平穏が支配するように思えます。しかし2人の人間が互いに接触すると途端に、この接触がどのように深められるか、意味深いものになりうるかという問題が生じます。

この映画は、ですから、何よりもまず、文明の2 つの形式、2 つの生き方、2つの異なる考え方に内在する葛藤を扱っています。第二に、人間関係で巡り会う類の困難を扱った映画です。

男女の愛情関係ということになると、一緒に生活することがどれほど難しいか、お互いをよく知らないときにお互いに感じた愛情を感じるのがどれほど難しいか、そういうことを示したいと思います。表面的に知り合うことは簡単ですが、お互いを本当に知るようになるのはずっと困難です。ゴルチャコフはイタリア女性の通訳と一緒です。若い女優ドミツィアーナ・ジョルダーノがエウジェニアを演じています。

それは—単純に言うと— 教授と女性との、始まりもしないラヴストーリーでもあります。


しかし、もっと広いパースペクティヴから見ると、映画は文化を輸入したり輸出することが不可能であることを示すでしょう。ソビエト連邦の私たちはダンテとペトラルカを理解していると思っているが、これは正しくない。またイタリア人はプーシキンを知っていると思っているが、これもまた誤った考えである。抜本的改革がない限り、その文化に疎遠な人に、ある民族の文化を移植することは絶対不可能でしょう。

ゴルチャコフの苦悩がはじまるのは、彼を取りまくすべての新しいもの—イタリア滞在中に彼の関心を惹いた感情と人間に魅了されるのを自分が遅かれ早かれ止めなければならないと気づくときです。新たな魅惑と興味が彼の中でうごめき始めます。

彼はある人物に出会う。彼自身のように、真の関係を築くのは不可能であると理解していて、それゆえに自分自身を犠牲にする人物です。その人物、ドメニコは同じような心の断片化に苦しんでいます。自分の内側で全世界と、あらゆる良きもの、人間、情緒、そして霊性と、一体化することが出来ないことで苦しんでいる。

誰もがドメニコを「狂人」だと思っている。もしかするとそうなのでしょう。
しかし彼が狂人だと見なされる理由、彼の反応と感情を生み出す理由、ゴルチャコフが非常にはっきりと認識する感情は、全く正常なものです。

ギデオン・バックマン:
それは別の受肉をした自己との出会いなのですか?

ゴルチャコフは類似を認識し、出会いが比較的短いという事実にもかかわらず彼は2人の間のつながりを感じることができます。2人の苦しみが似ていることが、2人を結びつけるのです。

映画を撮影していくうちに、ドメニコはさらにもっと重要になり、私たちは彼に、当初よりずっと堅固な造形を与えました。真の触れあいが不可能だとゴルチャコフがますます自覚するようになったことを、彼はさらに明確に表現します。

ある程度、彼はまた私たち全員が生きざるを得ない恐れ、来るべき未来の私たちの不安をも、表現しています。恐怖こそ、未来を待ち受ける私たちの心理状態の問題なのです。—未来が抱えた問題なのです。


誰もが未来を憂慮している。未来に安心できない。

この映画はこの私たちの不安と深く関わっています。
また我々の無感動もテーマです。

無感動がいかなる方向にでも状況を展開させてしまうからです。私たちは憂慮していますが、それと同時に状況を変えるために何もしていない。確かに、私たちは実際には多くのことをしていますが、私たちが「実際に」していることは、絶望的に不十分です。もっと多くのことをすべきなのです。

私がかかわっている限りでは、私にできるすべてがこの映画です。私が捧げるささやかなすべてです。ドメニコの苦闘は私たちすべてと関わっているのだと示すこと、あまりに受け身だと私たちすべてを責めるときドメニコが全く正しいのだと示すしか私には出来ない。彼は「正常者」が怠惰すぎると訴える「愚者」です。彼を取りまくものすべてを揺すり起こすために、自己を犠牲にして、自分自身の警告を強調します。これが彼の犠牲であり、彼に出来るすべてなのです。

彼の意図は、私たちに行動を強制することであり、「現在」を変えることです。

ギデオン・バックマン:
ドメニコにこの行為をさせる世界観はあなたのものでもありますか?

ドメニコの性格の本質的な要素は、彼の世界観そのものではありません。

究極の犠牲行為へと彼を導くあの世界観ではありません。

むしろ彼が内面の葛藤を解決するために彼が選択するやり方なのです。

従って、私は彼に立ち現れる葛藤ほど、彼の出発点に興味がありません。

私は彼の抗議がどのように生まれたのか、彼がどのようにそれを表現したのかを、理解したいし、示したいのです。

私は実は、彼がそれを「どのように」表現するかにも興味がないのです。

最も重要な事は、抗議そのものの存在自体なのです。

私は、個人が抗議を表現するのに選ぶ方法が重要だと思います。

恐れることなくはっきりと表明された素朴な意見すら(頭がおかしいと思われても仕方がない意見でも)、いわゆる「正常人」の話より、怠慢なおしゃべりに身を委ねて、決して何も実際は「行動」しない人の言葉よりも、多くのことを意味しうるのです。

ギデオン・バックマン:
あなたの考えが多数の聴衆に達することが重要だと思われますか?

万人が理解できる芸術映画の形式が存在すると私は思わない。

従って、すべての観客の役に立つ映画を作ることはほとんど不可能です。もしそれが出来たら、芸術作品ではなくなるでしょう。芸術作品は、異議申し立てを受けずに、認められることはないのです。

スピルバーグのような監督には大変な観客がついていて、巨万の富が懐に入り、だれもがそれを喜びますが、彼は決して芸術家ではないし、彼の映画は芸術ではない。もし私が彼のように映画を作るなら—自分に出来るとは思いませんが—私はまったくの恐怖で死んでしまうでしょう。芸術は山のようなものです。山頂があり、それを取りまいて丘陵がある。山頂に存在するものを誰もが理解できるわけではない。


観客を虜にして、私がやっていることに興味をもたせることが私の課題だとは思いません。それが暗示しているのは、私が彼らの知性を過小評価しているということだからです。結局、観客が馬鹿ばかりだとは思いません....

しかし私が芸術作品をつくるということだけ、プロデューサーに約束したら、世界のプロデューサーは誰も私に、びた一文投資しないということを私はしばしば考えます。

ですから、私は自分の作る映画の1作1作に私の精力と勤勉さのすべてを投資します。

私は私のベストを尽くそうとします。そうしなければ、私は二度と映画を作るチャンスに恵まれないかも知れません。

私は私なりのやり方で、自分の理想を妥協させずに、観客の関心を獲得するのに成功してきたと思います。

そしてそれが、結局、大切なのです。

私は、青い空の彼方をただよう知的なタイプではないし、別の惑星からやって来たわけでもない。

それどころか、私は地球と地球の人々に親密な絆を感じます。

端的に言うと、私は知的に実際以上にも実際以下にも見られたくない。

私は観客と同レベルですが、私には別の役割がある。私の使命は観客の使命とは異なっている。

あらゆる人の理解を得ることは私には重要でありません。
私にとって最も重要ことは、万人に理解されることはないということです。

映画が芸術形式なら—私たちは同意見だと思いますが—芸術の傑作は消費財ではない、むしろ、創造性の見地からも、それを生み出す文化に関しても、時代の理想を表現する芸術的頂点なのです。それを忘れてはいけない。

傑作は、私達が生きている特定の時代の理想に形式を与えます。

理想は、決して万人にすぐ近づけるものではない。

理想に近づくには、精神的に発達し、成長しなければならない。

大衆の精神的なレベルと芸術家が証す理想の間の弁証法的な緊張が消えるなら、芸術が本来の目的と働きを喪失してしまったということになります。

残念ながら、目にする映画が単なるエンターテインメントのレベルを超えていると言えるのは稀です。

私がドヴジェンコ、オルミ、ブレッソンの映画を大切に思うのは、彼らの純粋で素朴な禁欲的な感触に私が惹かれるからです。芸術はこうした特徴に到達する努力をしなければならない。それから信頼感に。


観客の意識に創造的な理念が到達する前提条件は、創作者が観客に信頼を寄せているということです。両者は共通のレベルで相互に意思疎通することが出来なければならない。他に道はありません。

創造者にとって全く明白なものに関するときですら、観客に理解を暴力的に強制しようとしても無価値です。しかし、観客の倫理原則を尊重しなければならないとしても、近代的映画芸術形式を創造する自らの義務に妥協があってはならない。

観客の後ろ向きの趣味に支配されてはならない。

私は、文学的、演劇的、劇的な構築を信じない。


それは芸術形式としての映画特有の作劇術と共通点がない。

ほとんどの現代映画はアクションをとりまく情況、映画の叙述を観客に説明することに終始する。しかし映画に説明は要らない。むしろ情緒に直接訴える必要がある。その時高められた情緒の状態が知性を自ずと前進させるのです。


私は、主題自体の論理の代わりに主観的な論理—思念、夢、記憶—を伝えさせてくれる映画を編集する原理に到達しようと努力しています。

私は、現実の状態と魂の人間的な状況、言い換えると、人間の行動に影響を及ぼす要因から発生する形式を探しています。

それは心理的な真実を提示する最初の条件です。

ギデオン・バックマン:
「主題の論理」は映画のプロットと同じですか?

私の映画では、物語自体は特に重要ではありません。

私の作品で真に意義深いものは、映画のプロットに表現されたことは一度もない。

私は不必要に気を散らすものを排除して、重要なことについて話そうとします。

純粋に論理的なレベルでは必ずしも結びつかない事物を示します。

内的な人間性において、私たちにそうした事物を結びつけるもろもろの思念をひっかきまわすのです。

ギデオン・バックマン:
ということは、あなたにとって重要なことは映画で伝えられる情緒であって、語られるストーリーそのものではないと言うことですか?

私は、私の映画であれはどういう意味なのか、これはどういう意味かとよく尋ねられます。

ひどい話です! 

芸術家は自分の狙いを答える必要はない。

私は、自作に関して特に深い考え、深遠な思想を持っていません。

私の象徴が何を表すのか、私はまったく分からない。

私が唯一追求しているのは、そういう象徴が特定の情緒を生み出すということです。

どのような感情が出現するにしろ、それは内面からのあなたの応答に基づいているのです。

ひとは常に、私の作品に隠された意味を発見しようとします。

しかし映画を作り、同時に、自分の思考を隠そうとするのは変ではないですか?私のイメージは、ありのままのイメージであり、何の意味もない.... 私たちは自分自身をあまりよく知らない。

つまり、 時々私たちは慣習的なやり方では計りきれない力を表出することがあるのです。

ギデオン・バックマン:

あなたの映画で「旅人」が頻繁に隠喩として用いられて来ましたが、『ノスタルギア』の場合のように、はっきり定義された主題であったことはありません。あなたはご自身を「旅人」と思われますか?

1 つの旅しか可能でない. 内面への旅です。

地球の表面をあちこち駆けめぐっても大したことは学ばない。

いつか出発点に帰り着くように旅をするとも私は信じない。

人間は決して出発点には戻らない。

なぜなら旅の過程で彼が変わってしまうからだ。

そして言うまでもなく、私たちは自分自身から逃れられない。

私たちは、私たちであるものを、担っている。

私たちは私たちの魂の住処を、カメが甲羅を運んでいるように、運んでいる。

世界中の国をめぐる旅は、単なる象徴的旅でしょう。

どこに到達しようとも、探しているのはやはり自分自身の魂である。

ギデオン・バックマン:
自分自身の魂を探索するためには自分自身に強い確信がなければならない。しかし今日、自分の立場を取りうる自分自身の能力への人間の信念は、 —いたるところで—外的な出来事、外側から来る理念への信念に価値をおく狂信に屈服してきたように、私には思えます。

そうです。私は、人類が自分自身を信じることを止めてしまったと感じています。

言い換えると、「人類」そのもの—ではなく、そんな概念は存在していません—むしろひとりひとりの人間個人を信じる気持ちがなくなってしまった。

現代人の魂を考えるとき、私には合唱隊の女性歌手に見えます。

彼女は音楽のリズムに合わせて口をパクパクするのですが、一音も発声しないのです。

結局、他の皆が歌っているのです!

彼女は歌っているふりをしているだけです。

他の人たちの歌で十分だと思っている限り、そうです。彼女がこんなふうに振る舞えるのは、自分自身の個人の行動の大切さに信頼を失っているからです。

現代人は信念を欠いている。自分の行動で社会に影響を及ぼすことが出来るという希望を喪失している。

ギデオン・バックマン:
そのような世界で映画を作る意味は何ですか?

人生の唯一の意味は、精神的に成長するときに求められる努力にあります。

誕生したときとは別の何かに私たちは変わる。

人生の意味は、発達してそうなるのに必要な努力にある。誕生と死の間の期間にこれを成就するなら、それが困難であり、進歩が時にはのろのろしたものに思えるとしても、私たちは実際、人間性に奉仕したことになるのです。

私はますます東洋哲学に興味をそそられています。

そこでは、人生の意味は観想にあり、人は宇宙の不可分の部分なのです。

西洋世界はあまりにも合理的になり、西洋の人生観は、より実用主義に根ざしているように見えます。
つまり、あらゆるものを少しずつ完璧なバランスに保ち、体を生き続けられるようにして、出来るだけ長い間ただ「存在」していればよい。

ギデオン・バックマン:
存在の経験を描く計器としての時間の概念を信じないのですか?

私は、「時間」が本質的に客観的なカテゴリーでないと確信しています。

「時間」は、人間がそれを知覚しなければ存在できないからです。

科学的な発見の数々も同じ結論を引きだしているようです。

私たちは「今」に生きていない。

「今」はあまりにも移ろいやすいので、ゼロではないが近づくほどにゼロに近づくので、それをつかまえる方法がない。

私たちが「今」と呼ぶ時間の瞬間はただちに「過去」になり、「未来」と呼ぶものが「今」になり、それもまたすぐに「過去」になる。

「今」を経験する唯一の方法は、自分自身を「今」と「未来」の間に存在する深淵に突き落としてみることです。

こういう理由から、「ノスタルギア」は過ぎ去った時をめぐる単なる悲嘆と同じではないのです。

ノスタルギアは、私たちが自分の内的な天賦を当てにするのを諦めて、それらを適切に整え利用しないとき、そうすることで自分の義務を行うのを怠ったとき、そうやって消え去った時をめぐる強烈な悲しみの感情なのです。
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カンヌのタルコフスキー

50歳になるアンドレイ・タルコフスキー、この繊細な詩人にして見事な映像芸術家(20年で5作−5つの傑作映画の創造者)がカンヌ映画祭にやってきた。

明日『ノスタルギア』を上映してイタリアの旗を高く掲げることになる。

この映画は彼とトニーノ・グウェッラとの共同脚本で、RAIとゴーモンの出資でローマで撮影された。

真剣なテーマの映画を見せることになる彼は、真剣なテーマを語ることになる。


ポルロ:
何への郷愁なのでしょうか、タルコフスキーさん?

タルコフスキー:私たちの「ノスタルギア」はあなたたちの「ノスタルジア:郷愁」ではありません。

個人的な感情ではなく、国外に出たロシア人が経験するとても複雑で深遠なものなのです。

それは、病です。

魂の力、仕事の能力、生きる喜びを枯渇させる病気です。

私は、このノスタルギアを、具体的な物語、イタリアに来たソヴィエトのインテリゲンチャの話と突き合わせて、分析します。

ポルロ:
そのノスタルギアにさいなまれながら、イタリアでの仕事はどうでしたか?

きわめて良好でした。

なぜなら、なんといっても、映画というものはどこでも大きな家族なのです。

この映画をつくるのに通訳もいらなかった。

ブロークンなイタリア語で言いたいことは通じましたから。

映画は普遍的な言語を使っています。

お互いを理解し、自分を説明するのに役立ちます。

ところが、この手の仕事、つまり映画作りの財政面に関して、議論が多すぎるのには驚きました。ロシアでは、議論にもならないことですから。

ポルロ:
ロシア人の主人公を見ていると、自伝的な映画として見たい気持ちに駆られるのですが。

そうですよ。ただし芸術的な観点からに、限られますが。

実際、そういう意味では、この映画ほど暴力的なほど私の気分を反映させた映画をつくったことがありません。

私の内面世界をこれほど深く解放させた映画は初めてです。

私自身、完成した映画を観たとき、この表出力に直面して愕然としました。

気分が悪くなったほどです。

鏡に映った自分の姿を見たときや、自分のもくろみを踏み越えてやりすぎたと感じたときに経験するのと同じ気分です。

ポルロ:
それでは、何があなたのもくろみだったのですか?

私の願いは、イタリアにやってきて、自分に関して思いがけない情緒を発見するロシア人を観察することでした。

もちろん、私がアフリカに行っても、どこに行っても、同じことが起きたことでしょう。

この男は国と国を隔てる障壁がある理由が分からない。

人間同士を分離しようとする人工的な慣例を受け入れない。

こういうことは当然、彼に恐ろしい苦悩を引き起こします。

お互いにもっと理解するにはどうしたらいいか聞けば、子どもでも、国境を開放したらいいと答えるでしょう。

もちろん、これは素朴で、理想主義的な答えですが、基本的には正当なものです。

この素朴な世界観と祖国を出た人間の現実的な生活状況がこのように衝突することから、ドラマが生まれるのです。

ポルロ:
お仕事が助けになりましたか?

映画はもっとも高貴で重要な芸術です。

とはいえ、商業と商品市場から誕生したという原罪をいまだに贖っているところなのですが。

ポルロ:
このすべては悲観論に非常に近いとは思いませんか?

その逆です。真の悲観論者は、幸福を求め続ける人たちです。

2,3年待って、それからどこまで実現したか、訊いてみたらいいのです。

ポルロ:
あなたの楽観論がどこにあるのか訊いてもいいですか?

私たちの文明のドラマは、科学技術のニーズが、精神性の要求から調和を欠いて、一方的に発達していることにあるのです。霊性の完成こそ、人生の本当の目的なのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/canne.html

アンドレイ・タルコフスキー・インタビュー2

(ナタリア・アスペシ)1983年カンヌ
私たちロシア人には、あの優しい感情が致命的な病なのです

アスペシ:
賞に関心はないのですか?

タルコフスキー:ないと言えば、嘘になります。

自分の本が読まれようが読まれまいが、気にしないという作家のようなことになってしまいます。

映画は観られるためにつくられるのです。

万が一、『ノスタルギア』がここカンヌで受賞したら、私はとてもうれしいでしょう。

『ノスタルギア』はイタリアで構想、撮影、製作されましたが、私の映画の中で最もロシア的な映画です。

アスペシ:
イタリアの生活はどうですか?

とても気に入っています。

イタリアは私が長期間いられる唯一の国です。

他なら一週間以上いられないでしょう。

けれども、月末にはモスクワに戻ります。

私の国、私の人々から離れて私は長くは生きられないのです。

私には多くの企画があります。心を決めなければならない。

なかでも、ドストエフスキーの『白痴』に基づく映画を構想しています。

私の教養は、偉大なロシアの作家たちによって、形成され、養われました。

彼らのように、私は物質生活と精神生活を融和させようと苦闘する劇的な状況を経験しています。

アスペシ:
カンヌ映画祭に持ってくるまでに『ノスタルギア』を一度しか観ていないというのは本当ですか?

そうです。大満足です。私の一番うまく実現した映画だと感じています。

私の内面世界を最も良く表現した映画です。

主人公は私の「分身」みたいなものです。

私の感情、私の心理、私の本性、そのすべてを持っています。

彼は鏡に映った私の姿です。

アスペシ:
なぜ自分の映画について話したくないのですか?

それは正確ではありません。映画のプロットを繰り返したくはない。

それ自体は意味がないからです。

ロシアの作家が、同郷の人間の研究をしにイタリアに来た。

その音楽家の足跡は2世紀前に失われている。

そこで、イタリア人の教授と金髪の通訳に出会って・・・。

こんなことを知って、何が面白いのですか? 

しかし、映画が言おうとしていることは説明しようとすることは出来ますよ。

それは情緒の表出です。私の中に最も深く根ざしている感情です。

ソ連を出るときに、それを最も強烈に感じたのです。

まさにその理由のために、イタリアだから『ノスタルギア』を撮影できたと言うのです。

私たちロシア人にとって、私たちにとって、ノスタルギアは優しく優しく甘い感情ではありません。

あなたたちイタリア人にとってはそうかもしれませんが。

私たちにとって、それは一種の死の病です。命に関わる病気です。

この深い共感が私たちを、自分だけの苦しみ、あこがれ、別離に縛らないで、他の者の苦悩に結びつけるのです。情熱に満ちたエンパシーです。

アスペシ:
『ノスタルギア』をご自分の作品のどこに位置づけされますか?

『ノスタルギア』は私にとってきわめて重要な映画です。

私が自分自身をすっかりと表出することができた映画です。

こう言いましょう。映画というものが真に偉大な芸術形式で、人間の魂のもっとも知覚不能な動きすら忠実に表象できるということを私に確証してくれました。

アスペシ:
たとえ一度でもご覧になって、完成した映画でもっとも心に残ったのは何でしょう?

そのほとんど耐え難い悲しみです。

ところが、それが精神性に自分を浸したいという私の欲求を非常に見事に反映しているのです。

とにかく、私は悦楽に耐えられない。

陽気な人たちは有罪だと私には思えます。

なぜなら、彼らは存在の憂慮すべき価値を理解できないのだから。

子どもと老人には幸福を許しますよ、でも、他の連中に関して、私は不寛容だ。


アスペシ:
23年のキャリアで、なぜ6作しか作っていないのですか?

作りたい映画だけを作ったからです。

相当な資金が必要でしたね。今、50歳になり、このような慎重さや、私自身の欲張りな点といった問題を自問し始めています。

私は急がなければならない。

もっと仕事をしなければならない。すべてを言わなければならない。
ttp://homepage.mac.com/satokk/aspesi.html

20年ぶりのタルコフスキー映画「ノスタルジア」


群馬会館でタルコフスキーの「ノスタルジア」を20年ぶりぐらいで見ました。

むかしはタルコフスキーに熱狂していた一時期もあったのですが、しばらく前からその熱も冷めてしまってよいのか悪いのか映画の中身とは関係ないところを見てしまいます。

登場する犬はシェパードみたいですが、この犬がとてもかしこい。

おそらくこの犬がうまく「演技」していなかったら、「ノスタルジア」の完成はおぼつかなったでしょう。


ロシアの田舎のシーン、詩人アンドレが滞在するホテル、狂人ドメニコの家などさまざまのシーンで犬が登場しますが、よほど訓練されていて勝手に動き回るような無駄な演技をしません。

まあ、動物のことですから何度かはNGを出したのだろうが、いい演技をしています。

追記 : このシェパードだが、タルコフスキー自身が飼っていたダックス(ダーネチカ)という愛犬じゃないかと思う。


あと、あらためて思ったのはカメラの撮影がとても丁寧に撮られていたこと。

その前に見た河瀬直美の「火蛍」の撮影ハンディ・カメラだったので対照的に感じられました。

「ノスタルジア」は人物など画面の中心を見ているとわからないのですが、画面の端を見ていると超スローでアップしてゆくのがわかります。

あれはカメラ自体に備わっている機能を使ってズームしたのか、それともレールの上でカメラを移動させたのだろうか?

ラストシーンのロシアの田舎とイタリアの遺跡を合成させたシーンもあらためて見るととても奇妙です。前景と後景とでは雪の降り方が異なっているのだ。

CG全盛の今日からすれば新鮮に感じられます。

もっともタルコフスキーには東京の首都高速を撮って未来都市を表現するというウルトラCの大技がありますね。撮影を担当したのはジョゼッペ・ランチという方らしい。

詩人アンドレのホテルの部屋、アンドレが窓を開けると外は雨降りなので部屋の向こうがわからないのです。

最初植え込みか森だろうと見当をつけていたが、しばらくすると薄黒いかたまりがゆっくりと下に流れていくのです。

なんだろう思っていると、また黒いのがゆっくりと下に落ちていく。
フィルムのキズでもなさそうだし。

窓ガラスはないはずなのですが仮にガラスがあったとすれば、窓に貼りついた木の葉が雨に打たれて流れ落ちている感じがした。

そのシーンではその黒いものの正体はわからずじまいだったのだが、ラスト近くで雨ぬきのシーンがあったので確認してみる。窓の外は土壁。

つまりあの黒っぽいものはどうやら土壁が剥がれて流れ落ちていたのだ。
詩人アンドレのホテルの部屋は映画用のセットだろうから、インスタントにこしらえた壁がホースで散水した水で流れてしまったようです。
ノスタルジア・コム ttp://www.acs.ucalgary.ca/~tstronds/nostalghia.com/
ttp://fuqusuke.s32.xrea.com/archives/000050.html
メンテ
タルコフスキー 映画『サクリファイス 1986年』 ( No.6 )
日時: 2022/05/17 05:29
名前: スメラ尊 ID:Gjda1JhU

タルコフスキー 映画『サクリファイス 1986年』

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%B9?ref=watch_html5



『ノスタルギア』の撮影前に書かれた、『魔女』と題された『サクリファイス』の最初の脚本コンセプトは、癌にかかった人間の治癒をめぐって展開した。

不治の病と知り、自暴自棄の状態になると、アレクサンデルは不思議な人物と出会う。

彼はアレクサンデルに、回復の唯一の希望は、魔力をもつ魔女と噂される女性のところに行って、彼女と寝ることだと告げる。

アレクサンデルがそうすると、彼は驚異的な治癒を経験し、医者は茫然自失することになる。

ところが、ある日その魔女がひょっこり姿を現し、雨にうたれながら家の外で待ち受けて、彼をさらおうとする。

脚本のこの段階で、アレクサンデルの犠牲は、家族と所有物を捨てて、貧者の姿に身をやつし、この女性と家を去ることだった。

『ノスタルギア』の撮影中に、タルコフスキーは、当時映画で気になっていることと自分の実生活との数多い平行関係に驚いた。

映画の主人公、アンドレイ・ゴルチャコフは短期間滞在するだけの予定でイタリアを訪れたが、望郷の念に消耗していく。

そして、ロシアに帰ることは叶わず、最後にはイタリアで客死する。

タルコフスキー自身、最初は、映画が完成するとロシアに戻るつもりだったが、 彼もまたイタリアで病気になり、滞在を延ばすしかなかったのだ。


タルコフスキーは、また、アナトーリ・ソロニーツィンの死にひどく心を痛めていた。

タルコフスキーの作品の多くで主役を演じたソロニーツィンは、『ノスタルギア』でもゴルチャコフの役を演じる予定だった。

また最初から『魔女』のアレクサンデルの役がふられていた。

ソロニーツィンは、物語の第1版でアレクサンデルの人生に転機をもたらすあの病気で死んだ。

そして「今では、数年後に、私もまたその病気で苦しんでいる」

林の木の下でアレクサンデルが、小さな息子に話す言葉は、痛いほどの意味を秘めている。

「死なんてものは存在しない。死の恐怖だけが存在する」

ttp://homepage.mac.com/satokk/pgreen.html


タルコフスキーは家にほとんど異常なほど愛着があった。

『サクリファイス』で家が焼け落ちるのをワンシーン、ワンカットで撮影するのは、それ自体が彼にとって目的になった。

我々は、『サクリファイス』で焼け落ちる家が、潜在的に実生活で病魔にむしばまれつつある彼の肉体の映像になるのを実感し、それを目撃する。

撮影は1度失敗して、2度目に成功した。
ttp://homepage.mac.com/satokk/house.html

サクリファイス製作風景
ttp://homepage.mac.com/satokk/offret/offret.html
メンテ
タルコフスキーが伝えたかった事 ( No.7 )
日時: 2022/05/17 05:48
名前: スメラ尊 ID:Gjda1JhU

タルコフスキーが伝えたかった事


Andrey, what is art?
http://www.youtube.com/watch?v=7Me--xHG-mQ&feature=related

Tarkovsky on Art
http://www.youtube.com/watch?v=V27XlEDLdtE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=aedXnLpKBCw&feature=related


Tarkovski interview
http://www.youtube.com/watch?v=gy1DpCOON6Q&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=2MoVQr1t8kU&feature=related

The Law of Life Tarkovsky
http://www.youtube.com/watch?v=ueDsS48uZaY&feature=related


象徴について ―隠喩で自己表現するのが私の好みです―

私たちは詩的媒介か描写的媒体によって、自分をとりまく世界に関する情緒を表出することが出来ます。

隠喩で自分を表出するのが私の好みです。

力説しておきましょう、隠喩で、です。

象徴によってではありません。

象徴はその内部に、明らかな意味を、ある種の知的な公式を、含んでいます。

それに対して、隠喩はイメージです。

それが表象する世界と同じ際だった特徴を保持するイメージです。

イメージは―象徴とはちがって―意味は定かでありません。

輪郭の定かな、限定された道具を用いることによって、無限定の世界を語ることは出来ません。

象徴を構成する公式は分析出来ますが、隠喩は自己完結した存在なのです。
それ自体で独立した一項式です。

それに触れようとした途端に、隠喩は砕けてしまいます。(1983年5月12日)


―小鳥は邪悪な人の元には来ない―

私の意見では、映像は象徴ではありえない。

映像が象徴に変換されると必ず、思念はいわば壁で閉ざされ、十分に謎解きをすることができる。

ところが映像はそういうものじゃない。

象徴はまだ映像になっていない。

映像は説明できないけど、映像は真実をくまなく表出する。

その意味は知られざるままだ。

『鏡』の少年の頭にとまる小鳥は何を意味するのかと訊かれたことがあります。

しかし説明しようと努力すれば必ず、何もかもが意味を失うことに私は気づきます。

本来の意図と全く異なる意味を獲得して、正当な場から移動してしまう。

小鳥は邪悪な人の元には来ないとだけは言えるけど、それではまだ足りない。

真実の映像は抽出されたものであり、説明することは出来ない。

それは真実を伝達するだけであり、自分のハートに問いかけてはじめて、それを包括理解することが出来るのです。

そのために、作品の知的意義を利用することから、芸術作品を分析することは不可能です。
(1976年)

―芸術的な映像を解読することは出来ません―


私は象徴の敵です。

象徴は、読み解かれるために存在するという意味で、私には狭すぎる概念です。

それに対して、芸術的なイメージは読み解くことが出来ません。

芸術的なイメージは私たちを取り巻く世界と等価なのです。

『ソラリス』の雨は象徴ではありません。

特定の瞬間に主人公にとって特定の意義を持つ雨にすぎません。

しかし何かの象徴ではありません。

それは表出するだけです。

この雨は芸術的な映像です。

私にとって象徴は複雑すぎるものなのです。(1984年)


―人は、尋常な手段では把握できない諸力を表出することがある―

私の映画で、あれはどういう意味なのか、これはどういう意味なのかとしょっちゅう訊かれます。

我慢できないですよ! 

芸術家は自分の意図をいちいち説明する必要はないんです。

私は自分の作品について深く考えたことなんかないですよ。

私の象徴が何を意味するのか、私は知らない。

私は観客に、感情を、何らかの感情を誘発したいと願っているだけです。

誰もが、私の映画に「隠された」意味を見つけようと努力していますがね。

しかし、自分の考えを隠そうと努力しながら映画を作るのは妙じゃあないですか。
私のイメージは、イメージのままです、それを越えた何かを意味するわけではありません…

私たちは自分のことをそれほど知っているわけじゃないでしょ―
時折私たちは、通常の手段では把握できない諸力を表出するものなのです。(1984年)

―1日の間に起きた出来事を、ひとつひとつ、全部思い出して、スクリーンに映し出すなら、その結果はとても神秘的なものになるでしょう―


私の映画の神秘的な要素? 

スクリーンに映ったものは何でもすぐに理解できるべきだと誰もが思っているみたいですね。

私の意見では、私たちの日常生活の出来事のほうがスクリーン上に目撃できるものよりずっと神秘的です。

人生のたった一日の間に起きた出来事を、ひとつひとつ、全部思い出そうとしてそれを全部スクリーンに映し出すなら、その結果は私の映画[『ストーカー』]よりも百倍も神秘的になるでしょう。

観客はどうしようもなく単純なドラマに慣れてしまった。

実在の瞬間、真実の瞬間が銀幕に出現すると必ず、「訳がわからん」と叫ぶ声が聞こえるのです。

多くの人が『ストーカー』をSF映画だと思っています。

しかしこの映画はファンタジーに基づくものではなく、フィルムに定着されたリアリズムなのです。

その内実を3人の人物の人生の1日を記録したものとして、受容するようにしてみてください。

そのようなレベルでこの映画を見るようにしてください。

そうすれば複雑なもの、神秘的なもの、象徴的なものは何もないとお分かりになるでしょう。(1981年)
ttp://homepage.mac.com/satokk/about_symbol.html


映画監督の仕事に関して


私は、自分で書いていない脚本に基づく映画作りが想像できない。

他人の脚本に全面的に基づいた映画をつくる監督は、必然的にイラストレーターになるのだ。[…]

脚本というときそれが何を指すのか、脚本家という言葉そのものが何を指すのか、もっと詳しく説明してみよう。

「プロの脚本家」は存在するが、私に言わせれば実はそんなものは存在しない。
そういう人は映画をよく理解した作家になるか、(文学的素材を自分で組み立てる能力を発揮して)自分自身が映画監督になるべきだ。

なぜなら、脚本というような文学ジャンルは存在しないからだ。


今や私たちはジレンマに直面している。

脚本を準備しながら、監督が、映画に固定すべき具体的な時間群として自分が想像したものだけを、出来事とエピソードの形式で書き留めようと決心したとしよう。

文学作品と見なすなら、そういう脚本は、きまぐれな読者だけでなく、映画の仕事に関わるものには、無縁のものであり、理解不可能であり、まったく訳がわからないだろう。
また一方で、脚本家が自分の独自の考えを作家のように文学的形式で表出するなら、彼の作品はもはや脚本ではないだろう。

それは、たとえば、タイプされた70ページのストーリーになり、文学作品になる。
脚本家が撮影台本も準備しているなら、彼はカメラまで歩いていき、自分で映画を撮った方がいいだろう。

彼以外の誰も作品のヴィジョンを持っていないからだ。

彼以上によい仕事をどんな監督もすることができないだろうからだ。


だから、非常にすぐれた「映画らしい」脚本を与えられたなら、それを引き受けた監督は、やることが何もないだろう。

そして文学作品の形式で脚本が提供されるなら、監督はすべてを一から始めざるを得ないだろう。

監督が脚本に取り組みはじめると必ず、脚本は変わりはじめる。

どれほど深く、細部が出来上がった脚本であろうとも、そうだ。

監督は、脚本の鏡像、正確な逐語訳である映画を生み出すことは決してないだろう。
必ずある種の変形が生じるだろう。

だから、監督と脚本家の協働は、一般に闘いとなり、妥協を探ることになるのだ。
このようにしてよい映画を作ることは不可能ではない。

たとえ、準備段階で元々のアイデアがダメになって、監督と脚本家が古い「がらくた」に基づいて新たな概念を構築せざるをえなくなったとしてもである。


そうは言っても、映画作りで最も自然な流れは、アイデアを壊して変形させる必要がなく、その代わりに有機的にアイデアを展開させていくことである。

監督が自分で脚本を書く場合や、別の流れの時のように…脚本を書いたものが自分で映画を撮ろうと決心したときのように。[…]
手っ取り早く言うと、監督にとって唯一のよい脚本家とはよい「作家」であると私は思う。


________________________________________


ノート

タルコフスキーが『ソラリス』でレムの原作を大幅に変えてしまったこと、『ストーカー』でもまたストルガツキー兄弟と衝突してしまったことを、思い出すなら、この発言はさらに興味深いものになる。

まあ、こんなことを信条としているから、大騒ぎを引き起こすのだ。

映画になってしまうと、それはまさしくタルコフスキーの映画であり、原作を読んだから映画の理解が深まるというものではない。

タルコフスキーの映画はいつも自立している。

だから彼自身が自作に、特に『鏡』に新たなアプローチで言及することを楽しんだのだ。
ttp://homepage.mac.com/satokk/directing.html


オルガ・スルコワ:タルコフスキー・インタビュー

映画は、劇場とちがって…


俳優にとって、映画は生そのもののようなものであるべきだ:

映画は、謎、秘密、神秘であるべきなのだ

私の場合、劇場より映画のほうがやりやすい。

映画の場合、全責任が私ひとりにあります。

劇場の場合、俳優の責任が大幅に増すことになる。

俳優がセットに到着しても、俳優が監督のアイデアと意図を一から十まで知っておく必要は全くない。自分で自分の役をつくり出すと、まずいことすらある。

映画俳優は、監督が準備するさまざまな状況下で、自発的に直観的に行動すべきなのです。

監督の役割は、俳優を適切な精神状態に持ち込んで、俳優が完全に信じていられるように後ろ盾をしてやるように、気を遣うことだ。

やりかたにはいろいろなやり方がありえる。俳優のタイプにもよる。

役者を教導して、シミュレーション不可能な心理状態に持ち込むことが必要なのです。
このように、映画監督の役割は、役者が銀幕上で実存的な真実を表出するように、取りはからうことなのです。

カメラレンズの前で、俳優は真実で自発的な状態でいなければならない。
俳優は現存しなければならない。
高度に自然な様態で現存しなければならない。

それ以外で、監督がなすべき仕事は、映画の素材を実際に編集することだけなのです。
その素材は、カメラの前で実際に起きたことの単なるコピーです。

芸術映画のカテゴリーにとどまりながら、俳優のなまの存在が提供するように思われる観客との接触のレヴェルに達するのは不可能である。

それこそ、劇場のカテゴリーにおいて、きわめて魅力的な特徴なんですがね。

というわけで、映画は芝居の代わりにはならない。

この誤解は数年前には流行りましたね。

劇場は観客と舞台の間にこのような親密で直接的な関連を可能にするという…
映画は、無限の回数にわたって、時間のまさに同じ瞬間を、再創造する能力のお陰で存在する。

映画の本性がノスタルギアなのである。

劇場では、すべてが進歩する。生きて、動いていく。

劇場は、人間の創造する欲求を実現させるもう1つの方法なのだ。

映画監督は多くの点で収集家に似ています。
その愛着の対象ー映像ーは生そのものです。

彼にとってー親密な細部、部分、断片の膨大な量の中で永遠に凍り付いた生そのものです。

俳優がいようがいまいが、状況は変わりません…


バレットが言うように、劇場俳優は、雪を素材にする彫刻家になぞらえることが出来る。

俳優が肉体的に存在し、身体と魂において生きている限り、その間だけは芝居が現存する。

俳優がいなければ、劇場は存在しない。


劇場では、役者のひとりひとりが個人で、最初から最後まで、役の全部を造形して、芝居の全体の理念と文脈に対応して、自分の情緒をかたどらなければならない。

ところが、映画では、俳優が自分の知的能力を使って役を作りあげることを避けることが肝要だ。

その代わり、俳優の唯一の課題は、生そのものに私たちを接近させることだ。
つまり、俳優の仕事は、純粋であること、真実であること、自然であることなのだ。
それ以上でも、それ以下でもない。

映画を撮るとき、私は俳優と出来るだけ話をしないようにする。

俳優自身が自分の個々のシーンを全体との流れでやろうとするのに、私は強く抵抗します。

時には、直前のシーン、あるいはその直後のシーンとの関連でも、ダメです。


例を挙げましょう。『鏡』の最初のシーンで、主演女優がフェンスに腰を下ろして夫を待ちながら煙草を吸うシーンでも、主役を演じたマルガリータ・テレホワが脚本の細部を知らないことを私は望みました。

つまり、夫が最後のシーンで帰ってくるのか、永久に去ってしまったのか、彼女は知らなかったのです。彼女が演じている女性がかつて、人生の未来の出来事を何も知らずに、存在していたのと同じ様態で、彼女にもその瞬間に存在していてほしいという思惑があって、なされたのでした。

もし女優が主役の亭主が二度と帰ってこないと知っていたら、状況の絶望ぶりを演技で前もって表出させていたことは間違いありません。

あるレヴェルで、たとえ潜在意識でなしたとはいえ、私たちはそれを察知したことでしょう。

これから起きることを自分が知っていることを、それに対する自分の態度を露わにしたことでしょう。そういう細部の知識は大きなスクリーンでは確かに隠しようがないからです。

この場面では、そういう細部を未熟なかたちでばらさないことが絶対に肝要でした。だから、実生活で経験するのとまさに同じやり方でこの瞬間を経験することがテレホワには必要だったのです。

彼女はこのように、希望をいだき、不信に陥り、また希望を取り戻すのです。「解決のマニュアル」に触れることはありません。

与えられた状況という枠組みの中でーこの場合、枠組みは夫の帰りを待つことにあるのですがー彼女は自分自身の個人的な生の何か秘密の一片によって生きざるをえなくなった。

幸運なことに私はそれについて何も知りませんがね。

映画芸術で最も重要なことは、俳優がその俳優に完璧に自然なやり方である状況を表出することです。つまり、その俳優の肉体的な、心理的な、情緒的なそして知的な性格に照応した様態で、ある状況を表出することです。

俳優がどのようにその状況を表出するかは、私とはまるっきり無関係です。
別の言い方をしましょう、私には俳優に何か特定のかたちを強制する権利はありません。

結局、私たちは皆、自分の完全に独自のやり方で同じ状況を経験しているのです。
この例外的な表出力こそ、比類ないものであり、映画俳優の最も重要な側面なのです。

俳優を正しい状態に置くために、監督は自分の内面でこの状態を明確に感知できなければなりません。このようにしてのみ、当面のシーンの正確な調子を見つけだすことが出来るのです。

例えば、よく知らない家に入って、前もってリハーサルしておいたシーンを撮影するのは不可能です。知らない人たちの住居になっている馴染みのない家は、私のキャストに何も意思疎通することが出来ないのは、言うまでもありません。

人間の経験可能で正確な状態こそ、映画の個々の特定のシーンで目指すべき核心的でかつ完全に具体的な目標なのです…

テイクの雰囲気を決定する魂の状態、監督が俳優に伝えたいと思う主なイントネーション、これこそ大切なのです。

俳優はもちろん、自分自身の方法を持っていなければいけません。

例えば、すでに触れたように、マルガリータ・テレホワは脚本の全体像を知らなかった。

彼女は自分自身の断片化された部分を演じただけでした。
出来事の帰結や自分自身の役のコンテクストを私が明かすつもりがないと探り当てたとき、彼女はひどく困惑しました…

まさしく、このようにして彼女が直観的に演じられた部分のモザイクを生み出し、それを後に私が全体像にまとめ上げたのです。

くり返しくり返し、私が役を把握しているということを完全に信頼することの出来ない俳優たちに出会ってきました。

何らかの理由で干渉を止めることができなかったのです。
彼らは私のアプローチをプロらしくないと思っていたのです。

そういう場合、私は彼らこそプロの俳優らしくないと思ってきました。

私の意見では、プロの俳優は容易にかつ自然に、目に見える努力も見せずに、どんなときでも、どんな指示でも受け容れて、あらゆる即興的な状況のなかで、個々の反応において自発的であることが出来なければなりません。


私も、そのタイプの俳優と仕事したいですね。
私に言わせると、それ以外の俳優は、型にはまった演技しかしない。

ルネ・クレールが俳優とどのように仕事をするのかと訊かれたことがありました。
自分は俳優と仕事をしない、ギャラを払うだけだと彼は答えました。

この逆説的で刺激的な考え方は、監督と映画俳優の間に存在する独特の関係に深い根を張ったものです。この名高いフランスの監督の言葉に含まれるように思われるシニシズムには、俳優という職業に対する深い敬意が隠されています。

ここには有能なプロに対する深い信頼が表明されています。
監督は、俳優にあまり向いていない類の人とだけ、仕事をすべきなのです。

しかし、アントニオーニの『情事』の俳優たちとの仕事、フェリーニとベルイマンの俳優たちとの仕事ぶり、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』の仕事ぶりについて、何が言えるでしょうか? 

彼らは全然仕事をしているようには見えません。

登場人物に関して独特の真実さを感じるだけです。

しかしこれは、質的に異なる、映画だけに言える、真実さなのです。

原則として、言葉の演劇的な意味での表現力とは区別しなければいけません。

映画俳優は、無垢でナイーヴな性格の持ち主でなければいけません。

誠実で率直でなければなりません。
無用な思慮にふけるべきではありません。
むしろ単純に信頼を寄せるべきなのです…

自分の役のことを、映画での自分の役割とその全体の出来映えを、ああだこうだと考え始めると途端に、ー私の考えではー最も大切で最も根本的なものを失ってしまいます。
監督でも、自分の探り当てようとしているものを正確に知っている監督でも、前もって結果を知っているわけではないのです。

分析的で、理詰めの傾向のある俳優が脚本の全体を知ると、最終的な映画を知っていると思ってしまう。少なくとも、映画の最終的な姿を必死で想像しようとする。
まるで、それが演劇作品であって、劇場の役をリハーサルし始めたのだと勘違いしてしまう。

ここで、最初の間違いを犯しているのです。


映画がどうなるべきが自分には分かっていると信じる俳優は、役に対する自分の考えに型を与え始めます。

そうなると、映画の全体がひどいことになる。
望もうと望むまいと、演技で、映画そのものの理念と映画芸術をダメにしてしまうのです。

すでに指摘したように、俳優によってやり方が変わってきます。

時には、同じ俳優でもケースによっては別の方法が必要です。

ここで、監督は望ましい結果に到達する試みで創意工夫が出来なければいけません。
こうやって話していると、『アンドレイ・ルブリョフ』で鐘職人の息子ボリースカを演じたニコライ・ブルリャーエフのことを思い出します。

撮影中私は助監督にしょっちゅう、彼に私は彼の演技に大いに不満で、別の俳優で撮り直さなければいけないかもしれないと言わせてました。

私は、彼に災厄が待ち受けているという感触を植え付けて、彼が不安な気持ちにさいなまれるようにする必要があったのです。

俳優として、ブルリャーエフはひどく集中力に欠けていてわざとらしい。
彼の場合、この映画で私が望んだ結果を得るのに私が成功したとは思えない。
結局、彼はあの映画に出演した私のお気に入りの俳優の演技レベルに達していない。
イルマ・ラウシュ、ソロニーツィン、グリンコ…

言いたいことを明確にするために、ベルイマンの映画『恥』を考察しましょう。
あの映画には俳優が監督の理念を「暴露する」エピソードはほぼ1つも存在していません。

監督の理念は、登場人物が生活を生きるその背後にすっかり隠れて、その中に溶けこんでいます。

俳優たちはこうした状況と完全に一致した演技をしています。

現在に対して何らかの理念を浮かび上がらせようとしたり、何らかの態度を示したりはしません。

こうした人々を善人か悪人かであっさり片づけることは出来ない。無理です。
ずいぶん深く、複雑なものです。

実生活と同じくらいに、そうです。
例えば、主役(フォン・シドー)が悪人だと、私はカテゴリー的に主張することはない。

たぶん全員が善人であり悪人の両方なのです。しかしそれは重要なことではない。


一番大切なことは、俳優にいかなる偏見の暗示も存在させない、そして監督が人間の選択の多様性を探求するために状況を利用するということです。
アプリオリに先取りされた何らかの理念を単に例証するだけではダメです。

マックス・フォン・シドーの見事な役の描き方に注目してください。

非常に繊細な人間、立派で優しい心根の音楽家をめぐって描かれます。
しばらくすると、彼が実は惨めな臆病者だということが明らかになります。

現実ではこういうことがありえるのですが、勇敢な人間が必ずしも善人でない、臆病者が必ずしも悪人でないということを忘れないでください。
そうです。彼は弱い性格です。妻のほうが彼よりもずっと強い。
妻もまた恐れていますがね。


彼女の強さは、困難を克服するのに充分です。
マックス・フォン・シドー演じる主人公は弱くて傷つきやすいために苦しみます。
そして困難を耐え抜くことが出来ない。

彼はあらゆる手段で困難を避けようとする。逃げ出そうとする。
自分の手でそこから身を守ろうとするーしかしナイーブに愚直に…

生きるために自分と妻を守らざるを得なくなると、彼はあっと言う間にイヤな奴になる。

かつては存在していた善良さを失ってしまい、それと同時に、この新しい特徴が彼の妻には必要なものになってしまう。
妻は保護と救済を夫に頼るようになる。
以前は夫を軽蔑していたというのに、そうなってしまう。

夫は妻の顔を殴打し、出て行けとわめくが、妻は夫にすがりつく。
「悪は積極的で、善は消極的だ」という古い諺の陰にある叡知が目に見えはじめます。

しかし、なんと複雑なやりかたでこれが表現されているのでしょう! 

最初、ベルイマンの主人公は鶏の首をはねることすら出来ない。
しかし自己防衛の手段を見いだすや否や、彼は残酷な冷笑家になる。
何も恐れない。ひたすら行動し、殺し、仲間の人間を助けるために指一本動かさない。

そういう暴虐に直面して嫌悪と戦慄を感じるためには高潔な人間でなければならないという事実を、私たちは話しているのです。

人間がこの戦慄を喪失すると、彼は自分の精神性を、自分の精神的な能力を喪失してしまう。

この場合、これらの人々にこの種の憎悪を引き起こしたのが戦争でした。
戦争は、彼の人間観を伝えるためにベルイマンが利用した装置になったのです。

ベルイマンの別の映画『鏡の中にある如く』で、この同じ役を果たすのが病気です。
俳優の役割を論じる私たちのディスカッションとこれを結びつけるために、私は次の事実を指摘したいと思います。

ベルイマンは、登場人物が投げ込まれた状況を俳優が「超越する」ことは決して許さないのです。

これは非常に重要です。

映画芸術では監督が、俳優に生命を吹き込まなければいけないー俳優を自分の思想を喧伝するメガフォンに変えてはいけない…

映画の観客にとって、映画のフレームの中で登場人物に起きていることは闇に包まれている。

人間のひとりひとりが壮麗な秘密のままであるーそれは実生活と同じですー
一般に探究しつくすことは決してありえない秘密なのです。

ところが、劇場では、儀礼そのもの、舞台の芝居、その背後にある理念こそ、その最終的表出において、無限に魅力的で、包括理解不可能な秘密であり続けなければならないのです。

劇場では、演出家自身の理念がキャストの演技の土台にあります。

映画では、演技の基礎は隠されていなければならない。

映画芸術は人間の生を反映するからです。

言うまでもなく、それはまず理解不可能なものなのです。

劇場の俳優は、知的に構築された儀礼で機能を満たします。

演出家の思念は役を演じる人間が舞台に目に見えて存在することによって伝えられます。

映画の場合、時間に固定された瞬間のひとつひとつが、実生活の最奥の存在の本質そのものを、いくらかなりとも、含んでいなければなりません。

映画術の逆説がまさにここにありますね、生きた魂が冷たく機械的な鏡に再構築されるという…
ttp://homepage.mac.com/satokk/surkowa.html

映画との出会い

映画が自分にぴったりだと最初から知っている映画監督もいる。
私には疑問点があった。あまり好みというわけではなかった。

技術的に大きな利点があることは分かっていたが、映画が詩や音楽や文学のような立派な表現手段だとは理解していなかった。

『僕の村は戦場だった』を撮った後も、私は監督の役割を理解していなかった。
もっと後になって、私は映画が霊的な本質を成就する可能性を与えてくれることを悟ったのだった。

映画について

映画は、2つの異なるタイプの映画を作る2つのタイプの監督に基づいている。
自分の生きている世界を模倣する監督と、自分自身の世界を創造する監督ー映画詩人だ。

そして、映画詩人だけが映画史に残ると私は信じている。
ブレッソン、ドヴジェンコ、溝口、ベルイマン、ブニュエル、黒澤のように。

時間について


映画は時間という概念の中で動く唯一の芸術だと私は思う。
映画が時間とともに展開するからではない。

そういう意味なら他の芸術形式もある。バレエ、音楽、芝居がそうだ。
私が言うのは、文字どおりの「時間」という意味だ。
「アクション」と声をかけた瞬間から「カット」という瞬間までの、テイクとは何か。
実在、時間の本質を固定することだ。

永遠に巻いては巻きなおすのを許す時間の保存手段だ。
他の芸術形式ではそれが出来ない。
だから、映画は時間で出来たモザイクなのだ。

水について

私の映画には必ず水がある。
私は水が好きだ、特にせせらぎが好きだ。

海は大きすぎる。
怖いのではない。海は単調なのだ。

自然の中で、私は小さなものが好きだ。
マクロコスモスでなく、ミクロコスモス。

限られた表面。私は、日本人の自然観を愛する。
日本人は無限を反映した限られた空間に集中している。

水はその単一構造のために神秘的な要素である。
それに映画にぴったりなのだ。
水は動き、深さ、変化を伝える。水ほど美しいものはない。

色彩について

カラー映画はその黎明期にはリアリスティックに思えたが、今では袋小路に入ってしまった。

カラー映画は大きな間違いだ。

すべての芸術形式は真実を目ざし、それゆえに一般化、モデル理念を求める。

しかし生における真実は芸術における真実に照応していない。
色彩は私たちの外的な世界の生理学的かつ心理学的知覚の一部である。
私たちは色のある世界に生きているが、何かが色を意識させない限り、色に気づかない。

私たちは、この色のある世界を見ながら、色彩のことは考えない。
しかしカラーシーンを撮るとき、私たちは色彩を組織して、クロースアップでフレームに閉じこめて、それを観客に強制する。

私たちは観客にそういう絵はがきを何千枚何万枚と与えるのだ。

私にとって、モノクロのほうがカラーより表現力があり、リアリスティックだ。
なぜなら白黒は、観客の気を散らさず、映画の本質に集中できるようにするからだ。
カラーは映画芸術を嘘くさく、真実味をなくさせたと私は思う。


職業として、生き方としての映画作り

私は映画を創作するのを楽しむ。
スクリプトを書き、シーンを創造し、ロケ地を探す。

しかし撮影は面白くない。
いったんすべてを考えつくすと、実際に映画に仕立て上げる必要があるが、それは退屈だ。

私は自分の人生を映画と区別したことがない。
私はいつも重大な選択をせざるをえなかった。

多くの監督の作品は、自分の生き方と違う理念を表出している。
つまり、彼らは自分の良心を分裂させることができるのだ。
私にはそれができない。

私にとって映画は単なる仕事でない。映画は私の命だ。

観客について

私は観客の態度を気にしたことがない。

観客におもねるのは難しい。
役に立たないし不愉快なことだ。

映画の未来の成功を予言しようとする人もいるが、私はその手の輩ではない。観客に対する最良の態度は、自分自身であり続けることだ。
彼らが理解するような個人的な言葉を使うことだ。

詩人と作家は好かれようとはしない。
彼らはどうやれば読者が気に入るのか、知らない。
しかし、彼らは大衆が自分を受け入れるだろうと知っているのだ。
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タルコフスキーは語る 空中浮揚について

なぜ私はよく、空中浮揚のシーンを、浮き上がった身体のシーンを含めるのか? 

そのシーンが大きな力をもつからにすぎない。
このようにして、より映画的な、より映像的なものが創造できるのだ。

この観点から水が非常に重要になる。

水は生きている。深みがあり、動き、変化し、鏡のように反射し、私たちを溺れさせることも出来るし、私たちが飲むこともできるし、水で何かを洗うことも出来る、といったように…

また、水が不可分の実体であること、モナドであることは今さら言うまでもあるまい。

それと同じように、人が空中で浮揚しているのを想像するとき、私はそれが好きだ…
何か意味があると私は信じる。

少し頭の足りない人が私に、この前の映画でなぜ空中に浮かんでいる人々がいるのかと訊くなら、「魔法です」と答えるだろう。

もし同じ質問がもっと洗練された人から、詩的な感受性を備えた人から来るなら、アレクサンデルとマリアにとって愛は『ベッティー』の作者が考えているものと同じものではないのだと答えるでしょう。

私にとって、愛は相互理解の究極的な開示なのだ。
だから性交行為で示すことは出来ない。

映画に「愛」がなければ、それは検閲が原因だと、だれもが言う。
実は、スクリーンに映されているのは「愛」ではなく、「性行為」なのだ。

人間ひとりひとりにとって、それぞれのカップルにとって、性行為は個別のものなのだ。

それをスクリーンに映すと、状況は逆になってしまう。

「フランス・カトリック」1986年6月20日のインタビューから
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自分をベルイマンと比較すると

私とベルイマンとの違いはこうだ。

私にとって神はもの言わぬ存在ではない。

あのスウェーデン監督の映画のオーラが『サクリファイス』に存在すると主張する人たちの意見に、私は全面的に反対する。

ベルイマンが神を語るとき、彼は沈黙する神、私たちと共にいない神の文脈で、そうするのだ。

だから私たちには共通点が何もない。ちょうど正反対なのだ。


主役の俳優がベルイマンとも仕事をしているとか、私の映画に残った風景を根拠にして、皮相な意見が提出されている。

そういう主張をする人たちはベルイマンのことを何も理解していないのだ。
実存主義とは何かを知らないのだ。

ベルイマンは宗教の問題より、キルケゴールに身近な存在なのだ。
(1986年6月20日のインタヴューから)


映画の音楽に関して

明らかに、音楽は私にとって非常に重要である。
重要なのは、私が撮影できた映像だけではない。

この映像のために、私はまさにバッハのこの抜粋が必要なのだ。
これが見つからなかったら、他のものでは代わりにならないし、第一に、あの映像を撮影しないだろう。このスウェーデンで私は、私に心躍る影響を及ぼした素晴らしい民俗音楽を発見しました。

この音楽を中心にして、私の新作の全素材が組織されます。

この音楽はフィルムに、伴奏として入るのではなく、情緒的な織物として入ることになります。
これもまた、いつものことですが。


音楽はフィルムと競います。

音楽は映画の有機的な要素になりえますが、映像を制御することも出来るのです。
これは深刻な問題です! 

音楽のないシーンは完全な別物です。
シーンは挿入される音楽で変わります。

純粋な映画は音楽なしで何とか出来るはずですが、それは全くの理論です。
音楽は映画の有機的な一部だからです。

音楽はシーンを説明する形式にとどまるものではないのです。(1987年発表のインタヴューから)


詩人について

詩とは何か。
詩は、世界を表現する、世界を思索する高度に独創的な様式です。

一般に人は、普遍的な世界観を表出することが出来ません。
そんなことは不可能です。

彼のヴィジョンはいつも断片的なものにとどまるでしょう。
詩人は、普遍的なメッセージを送り出すために一個のイメージを利用することの出来る人です。

ある人が、もうひとりの人のそばを通ります。
その人に視線を送ることは出来ますが、目に見ることは出来ません。
別の人が同じ人を見て、突然微笑みます。

はじめて見かける人が彼に連想の爆発を引き起こしたからです。
芸術の場合も似たようなものです。

詩人は小さな断片を出発点として、それを首尾一貫した総体に変えるのです。
この過程を退屈だと見なす人もいます。

そういう人は、重箱の隅をほじくるように、何もかもを知りたがる人です。
税理士や弁護士みたいにね。

ところが、詩人には、靴下の穴から飛び出した親指を見せればいいのです。
彼に全世界の映像を生み出すのにはそれで充分です。(1984年のインタヴューから)


『サクリファイス』を含む後期の作品について

『サクリファイス』からシークェンスを選び出して、舞台脚本が出来ないか、ですって? 

出来るかも知れませんが、別の2作、『ソラリス』と『ストーカー』のほうがもっと適していると思いますね。ただし、そういう戯曲は、もったいぶって、弱いものになるでしょう。

私にはフィルムであるということが重要なのです。

なぜなら映画は観客の時間とリズムを勘定に入れていないからです。

フィルムはそれ自身のリズムと時間を持っています。
映画を舞台に脚色すると、映画の内側に含まれた時間というこの非常に重要な問題が無視されるのです。

そういう脚本は成功しませんね。


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私は何であれ偶然に任せるのは嫌いです。

最も詩的な映像すら、最も無垢な映像すら、偶然には出現しません。

『サクリファイス』は私にとって最も首尾一貫した自作です。
この首尾一貫性の感覚は、人を狂気の淵にまで追いやることができます。
そういう意味で『サクリファイス』は私の初期のフィルムとは比較できません。


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現代人の世界に対する私の洞察という視点から考察すると、『サクリファイス』は私の他のフィルムより優れています。

しかし、芸術的な、詩的な創造としては、『サクリファイス』より『ノスタルギア』のほうを私は高く評価します。

『ノスタルギア』はなにものにも支えられていません。

それ自身の詩的な映像によってのみ存在しています。
それに対して『サクリファイス』は古典的なドラマツルギーに基づいています。
だから私は『ノスタルギア』のほうを身近に感じるのです。(1986年)

ttp://homepage.mac.com/satokk/sundry.html


1982年9月9日にチェントロ・パラティーノで開催された「映画泥棒ー国際的陰謀」会議で、タルコフスキーは自らの理念を披露した。

彼は『七人の侍』『少女ムシェット』『ナサリン』『夜』のクリップを映した。

彼に影響を及ぼしたのではなく、彼に最も決定的な印象を刻印した映画である。

以下は彼の話のあらましである。


アンドレイ・タルコフスキー:

「影響、何か流れ込んできたもの、すなわち相互活動の問題は複雑です。

映画は真空では存在しません。

つまり共に働く仲間がいて、その影響は避けられない。

それでは影響、流れ込んできたものとは何でしょうか。

自分の働く環境や共同する人々の選択は、芸術家にとって、レストランで料理を選ぶようなものです。

黒澤、溝口、ブレッソン、ブニュエル、ベルイマンそしてアントニオーニが私の仕事に与えた影響について申し上げますと、『模倣』という意味では何ら影響はありません。

つまり私の観点からは、そんなことは不可能です。

何故なら、模倣は映画の目指すものとは何ら関係ないからです。

自己を表現する自分の言語は自分で発見しなければならないのです。

ですから、私にとって、流れ込んできたものというのは、私が賛嘆し高く評価する人々と共にいるという意味なのです。」


「もしフレーミングやシークェンスに他の監督の反響があると気付いたら、そのシーンは避け修正するように努めています。

こんなことはめったに起きないのですが、『鏡』から例を引きましょう。

私は主人公が室内にいてその母が隣の部屋にいるフレームを採りました。

二女性のクロースアップです。

パノラマショットで、女が鏡を見ながらイヤリングをつけてみて、母もまた鏡を覗き込んでいます。

実際シーン全体は鏡に映ったかのように撮られています。

ところが、実は鏡は存在せずに、女性はキャメラを直に見ているだけなのです。

つまり鏡がある錯覚がある。

この類いのシーンはベルイマンにそっくりのものがありうると気が付きました。

けれども、やはり、そのままで、私の同僚ベルイマンに謝意を表明し、肯定する証として撮ることに決めました。


「このリストにドブジェンコも追加しなければなりませんが、これまでに挙げた監督がいなければ、映画は存在していないことでしょう。

誰もが自分のオリジナルの様式を当然探していますが、もしこれらの監督がコンテクストや背景を与えてくれなかったなら、映画はいわゆる同じ映画にはならないでしょう。

現在多くの映画作家が非常に厳しい時代を経験しているようです。

イタリアの映画は窮地に落ちています。

私のイタリアの同僚たちは、私は映画で最も名声のある監督の幾人かについて語っているわけですが、イタリア映画はもはや存在しないと言いました。

もちろん、映画の観客がこの主な原因です。

久しく映画は大衆の趣味を追ってきましたが、今や大衆はあるタイプの映画は見たくないのです。

実際なかなか良いものなのに、敬遠するのです。


「映画監督の範疇には基本的に二つあります。

一つは、自分が生きている世界の模倣を求める人々で出来ています。

もう一つは自己の世界の創造を求める人々で出来ています。

第2の範疇には幾多の映画詩人が含まれます。ブレッソン、ドブジェンコ、溝口、ベルイマン、ブニュエル、黒澤という映画史上最も大切な人たちです。

これらの映画作家の作品の配給は難しい。

その作品は作家の内的霊感を反映しているので、これが必ず大衆の趣味とぶつかるのです。

映画作家が観客に理解されたくないという意味ではありません。

そうではなくむしろ作家自身が観客の、観客も気付いていないような内的感情を捕らえ理解しようとしていると言った方がよいでしょう。


「映画の直面している現在の苦境にもかかわらず、映画は芸術形態であり続けます。

芸術形態の一つ一つが個別のもので、他の芸術形態の本質に含まれない内実を担っています。

例えば、写真は、カル ティエ=ブレッソンの天才が実証しているように、芸術形態になれますが、写真は絵画になぞらえることは出来ません。

何故ならば絵画と競合しているわけではないからです。

映画作家が自問しなければならない問いは、何が映画を他の芸術と区別するのか、ということです。

私にとって映画は時間の領域を包括する点で、他に見られない独創的なものです。

音楽や芝居やバレエのように、時間の中で生起するという意味ではありません。

文字どおりの意味での時間です。

フレームとか、「アクション」と「カット」の間のインターヴァルは一体何でしょうか。

映画は時間の観点で実在を固定します。

フィルムは時間を保持する手段なのです。

これほど時間を固定し停められる芸術形態は他にありません。

フィルムは時間で出来たモザイクです。

そのためにはもろもろの要素を集約する必要があります。

3、4人の監督やカメラマンが1時間同じものを撮影したと想像して下さい。

一人一人独自の映像になるはずです。

結局出来上がるのは、3つか4つ全く異なるタイプのフィルムです。

なぜなら、一人一人がこれは捨て、あれは残してと選択して自分のフィルムを作るからです。

そうして、映画に関わる時間を固定する作業をしているにもかかわらず、監督は必ず自分のマテリアルを磨いて、それを通して自己の創造力を表現出来るのです。

「美意識の観点から言いますと、映画は今ひどい時代にあります。

カラーで撮影するのが、可能な限り実在に迫る手段だと考えられているのですから。

私はカラーは袋小路だと思っています。

あらゆる芸術形態は真理に到達して、一般化した形態を得るために苦闘しています。

色彩を使うのは人が実在世界をどのように知覚するのかと関係しています。

カラーであるシーンを撮影するのは、必然的に、フレームを有機的に構成し、このフレームに囲まれた世界の総ては色彩の中にあり、しかも観客にこの事実を自覚させねばならないという事なのです。

モノクロの利点は、その表現力が強烈で、観客の関心を脇にそらさないということです。


「カラー映画にもすぐれた表現様式の例があります。
でも今述べた問題に気付いている監督のたいていは、必ず白黒で撮影する努力をしています。

誰も、カラーフィルムで新しいパースペクティブを創造したり、白黒ほど効果的パースペクティブを作り出すのに成功したためしはないんです。

イタリア・ネオリアリズムが重要なのは、日常生活を掘り下げることによって映画に新境地を開いたという事実からだけではなくて、本質的に言うと、モノクロームでその探求がされたからでもあるのです。

人生の真理は必ずしも芸術の真理に照応していません。

だから今やカラーフィルムは純粋に商業的現象になりさがったのです。

映画は色彩を通して新たなヴィジョンを創造しようとする時代を通って来ましたが、結果は不毛です。

映画は体裁ばかり飾るものになってしまいました。

つまり、私が今見ているような映画は全然立場の違う人には全く違ったものになっているのです。

今ご覧に入れている映画のクリップは、私の心に一番近しいものを表象しています。

ある思考形態の実例であり、この思考がどのようにフィルムを通して表現されるかの実例です。


ブレッソンの『少女ムシェット』で少女が自殺を図るその様子は特に驚異的です。


『七人の侍』の一番若い侍が怖じけづくシークェンスで、黒澤がこの恐怖感をどうやって伝えているでしょう。

若者は草むらで震えていますが、身震いしている姿は目に見えません。

草むらと花々が震えている、揺れているんです。

ここは雨中の決戦です。

三船敏郎演ずる菊千代が死ぬとき、倒れた彼のその脚は泥に埋もれてします。

こうして私たちの目の真ん前で菊千代は死んでしまいます。

ブニュエルの『ナサリン』の、傷付いた娼婦がナサリンに助けられて、椀から水を飲む姿です。

アントニオーニの『夜』の最後のシークェンスは映画史上、ラブシーンが必然となり精神的行為の似姿を取った唯一のエピソードかもしれません。

肉体が相手の近くにあるのが大きな意味を秘めた独創的なシークェンスです。

2人ともお互いに対する感情は涸れ果てているのに、それでも相手の身近にいるのです。

ある友人が昔こう言いました。

夫と5年以上もいるなんてまるで近親相姦よ。

2人がお互いの近くから逃れる出口はありません。

お互いがまるで死に瀕しているかのように、死に物狂いで相手を救おうとしている姿です。


「撮影を始めるときは必ず、『私の仲間』と思っている監督のフィルムを見ます。

模倣するためではなく、彼らの醸し出す雰囲気を味わうためにです。

今お見せしているクリップがみんなモノクロームなのも偶然ではありません。

監督が自分に身近なものを何か掛け替えのないものに変容しているからこそ、これらは重要なのです。

しかもこれらのシーンは日常生活の出来事とは似ていないという点で独創的です。

ここには偉大な芸術家の刻印があり、私たちに彼らの内世界を垣間見せてくれるのです。

これらのシーンの総てが、娯楽を与えるよりはむしろ美を保持することによって、観客の欲求に応じるのです。

今日この種の主題を扱うのは困難を極めています。

そんな話をするのすらほとんど馬鹿げていると言えます。

誰もそんなものにはびた一文払わないでしょう。

でも映画が存在し続けているのは、これらの詩人たちのお陰なのです。

「映画を作るには金が必要です。

詩を書くのに必要なのはペンと紙だけです。

これが映画の不利なところです。

でも映画は屈さないと私は思います。

万難を排して自己の映画を実現する努力をする監督全員に、私は頭を垂れます。

実例としてクリップをご覧戴いた映画は皆、固有のリズムを持っています

(最近は、たいていの監督が快速で短いシーンを使い、カッティングとスピードのある監督こそ本当のプロだと思われています)。

真の監督なら誰でもその目的は、真理を表現することなのですが、そんなのはプロデューサーの知ったことでしょうか。

1940年代にアメリカでストレスのかかる職業をランク付けする調査がありました。

広島に原爆が投下された時代ですから、パイロットが1位を占めました。

2位が映画監督です。監督になるのはほとんど自殺行為というわけです。
「私はヴェネチアから帰ったばかりです。

そこの映画祭の審査員をしたので、現在の映画の完全な退廃を証言出来ます。

ヴェネチア映画祭は悲惨この上ないものだった。

ファスビンダーの『ケレル』のような映画を理解し是認するには、まるっきり異なる類いの精神性が必要だと、私は信じます。

明らかに、マルセル・カルネは私よりずっとそれを是認していましたが。

私は、それは反芸術的現象の現れだと思います。

その関心は、社会学的で性的な問題にすぎない。

ただファスビンダーの最後の作品だというだけで、あの映画が受賞するのは恐ろしく不当なことではないでしょうか。

ファスビンダーは『ケレル』よりずっと良い映画を作っているはずです。

けれども、映画の現在の危機は重要ではありません。

なぜなら芸術は絶えず危機の時代を通り過ぎてはそこで復活するからです。
ただ映画が作れないからと言って、映画が死んだということにはならないのです。


「最良の映画は、音楽と詩のはざまにあります。

映画はどんな芸術形態にも比肩する高いレベルに到達しています。

芸術形態として自らの姿を具体化しています。

アントニオーニの『情事』は随分昔の映画ですが、今日作られたばかりという印象を与えます。

本当に奇跡的な映画で、ちっとも古ぼけていません。

まあ今日作られるような類いの映画ではないかもしれませんが、それでもとても新鮮です。

イタリア人の同僚たちはとても悪い時代にいます。

ネオリアリズムも偉大な監督たちも去ってしまったように見えるし、プロデューサーはドラッグの売人みたいなもんですから。

金儲けだけを考えているんですが、長続きはしないでしょう。

イタリアで上映されている『ソラリス』は私の映画ではないと言いたいです。

でもその配給会社はもう潰れてしまいました。たいていの配給会社の運命じゃないですか。」

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タルコフスキーが選んだ映画ベストテン

1972年4月のあのうす暗い雨降りの日のことはよく覚えている。

私たちは開いた窓辺に腰を下ろして、いろいろなことについて話していたが、話の矛先はオタール・イオセリアーニの『歌うつぐみがおりました』に向いた。

「良い映画だね」とタルコフスキーは言ったが、すぐに「ただちょっと、うーん、ちょっとね…少し…」と言葉を継いで、そのまま目を細めて何も言わなくなった。

一瞬内面に集中した後、彼は爪をかみながら、きっぱりと言った。

「そうじゃない!ちがう。とても良い映画だ!」


お気に入りの映画を10本ばかり選んでみないかとタルコフスキーに言ったのは、この時だった。

彼は私の提案を非常に真剣に受け取り、数分間、頭を垂れて一枚の紙に向かい、深いもの思いに沈んでいた。それから監督の名前のリストを書き始めたー

ブニュエル、溝口、ベルイマン、ブレッソン、黒澤、アントニオーニ、ヴィゴ。

しばらく経ってから、ドライヤー。

次に映画のリストをつくり、順番をつけて注意深く並べた。

リストは出来上がったように思えたが、突然不意に、タルコフスキーは新たなタイトルを加えたー

『街の灯』。

彼が作成したリストの最終版はこうだ。


田舎司祭の日記
冬の光
ナサリン
野いちご
街の灯
雨月物語
七人の侍
ペルソナ
少女ムシェット
砂の女(勅使河原宏)

リストをタイプし、"16.4.72 A. Tarkovsky" と署名すると、私たちはまた話に戻ったが、彼はごく自然に話題を変えて、穏やかなユーモアを交えて、どうでもいいようなことについて話し始めた。

20年経って、今日リストを眺めると、彼の選択が芸術家タルコフスキーを何と明確に特徴づけているかに驚かされる。


さまざまな監督がさまざまな雑誌で示した数多くのベストテン・リストと同様に、タルコフスキーのリストは目覚ましい啓示である。

その主な特色はー『街の灯』を除けばー選択の厳格さにある。

30年代、40年代のフィルムは、サイレントを含めて1本もない。


その理由は、タルコフスキーが、映画誕生後の50年を、彼にとって真の映画作りであるものの序奏と見ていたということだ。

ドヴジェンコとバルネットの両者を高く評価していたが、リストにソヴィエト映画が1本もないことから察するに、真の映画作りはソ連以外のところで行われているとタルコフスキーは見なしていたのかもしれない。

この点を考察するとき、ソ連の映画監督としての経験から、タルコフスキーがたえず論争に巻きこまれていたことも忘れてはいけないだろう。


タルコフスキーにとって、問題は映画監督の芸術がどれほどの美を達成するかにあるのではなく、芸術というものが到達しうる高みにあった。

『アンドレイ・ルブリョフ』の監督は、彼のすべての作品において最も深遠な精神的緊張と究極的な実存的自己露出を目指していて、この目的と両立しえないものはどんなものでも拒否する覚悟があった。

3本のベルイマン映画を含む彼のリストは、監督としても観客としても彼の趣味をまぎれもなく映し出している。

しかし後者は前者に従属するものであるのだが。

彼のベストテンをまとめるやり方が示すように、このリストはタルコフスキーのお気に入りの映画のリストにとどまるものではない。

それと等しく、お気に入りの監督のリストでもある。


タルコフスキーとベルイマンの「選択親和力」は、大昔に気づかれていたのだ。

『サクリファイス』のはるか前のことである。

ところで、ブレッソンの映画は偶然リストのトップに来るのではない。

つまり、タルコフスキーはブレッソンを至高の創造的個我と見なしていた。


「ロベール・ブレッソンは私にとって、真のそして純粋な映画監督の模範です…

彼は芸術というものの高次の客観的な法則にしか従いません…

ブレッソンは自分自身であり続け、名声がもたらすあらゆる圧力に屈することなく生き残った唯一の人物です。」

リストに『街の灯』が不意に現れるのも同じように説明できると私には思われる。

タルコフスキーにとってもっとも重要なことは、作品が映画芸術として成功しているとか、それが哲学的洞察を提示しているといったことではなく、むしろ、映画監督としてチャップリンが成し遂げた自己実現の包括的な性質であったのだ。


「チャップリンはいささかの疑惑の影もなく映画史に刻まれた唯一の人物です。

彼が残した映画は古くなることはありえません。」


タルコフスキーのベストテン映画の本質は、作家映画の担い手としての自己を宣言するものにほかならない。
ttp://homepage.mac.com/satokk/topten.html

人生には幸福よりも大切なものがある…


アンドレイ・タルコフスキーは私たちの生活における精神性と芸術の占める位置について語る


主に彼の映画に対する興味から、また彼が西側にとどまると最近公式に決定をしたためでもあろうか、数多く集まった聴衆を前にしながら、タルコフスキーは自分の映画についてほとんど全く触れることもなく話を進めた。

その代わりに、彼は現代芸術の現況を分析し、近代社会の発達に関してコメントを寄せた。
そこに彼は非常に紛れもない「精神性の欠如」を看取しているのである。

芸術家タルコフスキーは、統語論にあまり気を遣わない。
彼の火のような気質(自分は性急な決定をするのは好まないと主張しているのだが)、彼の話しぶり−そこには芸術史の領域から引かれた多くの例にあふれている−彼の論旨のすばやい決めの見事さ、そしてその妥協を知らない鋭敏な精神はアインシュタインを髣髴とさせる。


2度にわたる講義の話題は、芸術祭の主催者によって決定された。

「黙示録」と「芸術家の役割と責任、1984年」と紹介されると、タルコフスキーはそれらに非常に個人的で興味深いひねりを加えた。

黙示録は芸術家としてのタルコフスキーにどんな意味をもつのか? 
彼は芸術活動をどのように見ているのか? 
また芸術家は近代社会でどんな役割を果たすのか?


自己中心の芸術は罪深い

ヨハネの黙示録は彼にとって「もしかすると史上で最も偉大な詩の作品」である。

無限に多い解釈を内包する映像の集積であり、人間に自分自身の生に対する責任を想起させるものである。

それは、罪に力点を置いたヴィジョンではなく、むしろ希望の源であり、それが映像の体系であるがゆえに、豊かな霊感の源泉でもある。

芸術家の観点から、黙示録は芸術的に非常に洗練された作品として出現する
(タルコフスキーは、7つの封印を破った途端に降りてくる沈黙に含まれる完璧な映像に驚嘆する)。

ところが、ヨハネのヴィジョンは、彼の講義全体の枠組みしか提供しない。
タルコフスキーはむしろ「芸術的才能」にその注視を集中することを選ぶ。
彼によると、「芸術的才能」は昨今、芸術家の個人の所有、その人格の一部と見なされがちである。
自分にふさわしいように統制支配できるものなのだ。


「この百年で、芸術家は精神性なしで何とかやっていけるという間違った結論に、人は到達しました。創造行為は突然本能的なものになってしまった。

その帰結として、芸術家の才能、天与の才は、芸術家を責任ある立場に必ずしも立たせなくなった。
そのために、私たちは現代芸術の大きな特徴となった精神的要素の欠如に至ったのである。」


タルコフスキーは「精神性」の正確な定義を与えないが、2つ目の講義で、この言葉によって彼が何を意味するのかについて、実際、いくつかの手がかりを提供してくれる。

タルコフスキーがドストエフスキーを「精神性の喪失と連関する問題を知覚した最初の作家」と呼ぶとき、この言葉は「信念、信じる力」の意味に近づき、それゆえに個人が恐怖を克服する手段に近づく。

ここで、精神性は純粋に形式的な芸術と対照的な位置にある。

「形式的な芸術」では「芸術家は形式の探求者、消費者に還元される。」


彼は続ける:


「この時代に、私たちはもはや芸術家の聴衆に対する態度に満足できない。
また聴衆の、芸術家とその作品に対する態度にも満足できない。」

個人の責任の問題は、タルコフスキーにとって最高に重要な問題である。
何度となく、彼は、人間の独自の自由意志と責任の重要性に注目を喚起する。

こうした価値が近代社会の発達で事実上存在しなかったと彼は思っているのだ。
近代社会の人間関係は共存する意志よりむしろ、恐怖に基づいているのだ。


私たちの精神的な発達は、これまでに生じたさまざまな変化についていくことが出来なかったし、そうする時間も与えられなかった。
これこそ、共同体の生存のために構築された集団で決定をする個人の不適切な可能性とともに、タルコフスキーが私たちの文明を邪悪であると断じる理由なのである。

彼はこう総括する:

「私は、皆様がご存じでない概念を、皆様に紹介しようとしているのではありません[…]

しかし皆さんの前でこうした問題について思索をめぐらすことで、私はこの過程の意義を知ったのでした。

皆さんが私に、これらの問題について考える機会を与えてくださったのです。
これは、独りでは出来ないことなのです。

「新しい映画を作る準備している間、それを何らかの独立した芸術形式、自由な創造であると見なすことは許されないことは私には全く明らかです。

むしろ、それは内面からわき上がってくるものを成就することなのです。

その場合、それは愉悦ではなく、むしろ苦痛に満ちた、もしかすると重すぎる義務なのです…

「芸術家が創造の過程でどれほど幸福な状態になれるか、私には理解できたためしがありません。

ひとは幸せになるために在るのではありません。

人生には、ただ幸福であるよりも、ずっとずっと高い目的があります。」


タルコフスキーは本や映画の登場人物の主張を作者自身に投影しない重要性を強調する。

この言葉は『ノスタルギア』の登場人物のひとりが話す言葉とそっくりである。

彼はこう付け加える:

「私が育った芸術は、それが自己表現でないときにのみ可能なのです。

私が他者から受け取ったものに焦点を定めたときにのみ可能なのです。

芸術は、私がそれを自分自身の目的に役立つように使うその程度に応じて、罪深いものになります。

そうすれば、私は、何よりも、つまらないものになりはてるでしょう。」

運命的な欠陥

タルコフスキーがさらに語りを進めると、ここまで触れられたさまざまな問題を彼がどのように理解しているのかが、浮かび上がってくる。

芸術祭主催者が課題として与えた話題は、「他者にそんなことを求めることは出来ない」とあっさりと一蹴される。

その代わりに、話は、全く異なる出発点から、もっと一般的に展開していく。

すなわち、芸術と私たちの生活におけるその役割という出発点からである。

ここでは、彼の言葉を追いかけたほうが良いだろう。


「芸術は、それに必要な精神的な内実を徐々に喪失する過程にあります。

芸術の目標という概念を失っているのです。

芸術は別の所に目標を求めています…

精神的クライマックスと社会的/経済的クライマックスの間に類似は存在しません… 私たちは精神性を失ってしまったのです。

私たちはもはやその必要性を感じません…
現代は、私たちの精神性を喪失するのにふさわしい時では、決してありません。」


芸術の商業化という問題、「大衆の趣味」に迎合する必要性を芸術家が肯定するという問題は、タルコフスキーの大いに懸念する事柄である。

もしかすると、もっとも大きな懸念かも知れない。

彼は経済の現状を忘れているわけではないが、それを自覚しているからと言って、「芸術は精神的な自覚を再確立させる巨大な責任を担っている」という彼の意見を揺るがすものにはならない。

精神的な自覚の欠如、それは、彼によれば、現代芸術が今ある危機の原因の一つとなっている。


彼自身の領域内で、タルコフスキーはある過程が作用しているのに気づいている。
その結果をタルコフスキーは災いと呼んでいる。


「観客は自分の望むものを得て、映画館に行くのを止めてしまいました。
もしかすると、観客はいわゆる商業映画に満足しなくなったのです」


タルコフスキー自身が、今起きていることの責任の一端を担わなければならないのか?

聴衆から笑い声が聞こえるのに、彼はさらに、万人に必ず罪があるその度合いだけ、自分にも明らかに罪があると言う。

それに続けて、「私の同僚も私も、芸術の真の目的が何か、あまりにもしばしば忘れてしまいがちです。時には、目標が仕事のキャリアの浮き沈みに左右されてしまうのです」

模範としてのイコン画家

「精神的」という言葉が何度も繰り返され、タルコフスキーがその言葉に託しているイメージが形をとりはじめる。

簡略化しすぎるリスクについて警告して、タルコフスキーは西洋(ヨーロッパ)芸術を古典的東洋(日本、東インド)芸術と比較する。


そこで、西洋芸術に、彼は、個人が自分自身、自己、自分の運命に心を奪われているさましか見えない。

それに対して、東洋には内向し、微妙なもの、ほとんど気づかれないものに集中する傾向があるという。


「私が言いたいのは、このタイプの精神性が西洋芸術でも十分に可能だということです。

自分自身を忘れること、自分自身を創造者として捧げること、犠牲にすること[…]それが芸術家にとって適切な道なのです。正しい態度なのです」


彼は、紀元1200年から1400年の頃のロシアのイコン絵画に言及して、自分の立脚点を明らかにする。

署名のあるイコンは存在しない。

芸術家は自分を芸術家と見なさず、神の僕と見なしていた。

芸術家は自分の才能を神の栄光のために用いるに過ぎなかったのだ:


「私が力説している大きな要素、それが誇りの欠如です」


「精神性」という言葉の使い方の背後に、一種の宗教的迷信のようなものが隠れているように見えるとしても、(ある質問に答えて、彼はあらゆるものには明確な理由があるという理念を強調した)タルコフスキーは芸術に含まれる精神性を、「生の意味といわれるものへの興味」と、総括したがっている。

最初の単純で明確な一歩は、自分にこの問いかけをすることである。

この問いが提起されない限り、ネコのレヴェルで存在しているにすぎない。

タルコフスキーはネコが幸福な動物であることを否定したくないのだが。

「何の目的のために私たちは生きているのか? 
私たちはどこから来たのか? 
私たちはどこへ行くのか?」

と問いかけることは、自分自身を意識することだ。

芸術家に必須の原材料であるかけがえのない人間的特徴を意識することだ。
そうしないなら、「芸術家でない、現実主義者でないということです。

最も重要な問題、すなわちひとりの人間を人間にしているものを観想することを拒否することだからです」


現代の不幸な風潮は、タルコフスキーによると、私たちが道徳的問題に関心を喪失した、自分自身以外のなにものにも信頼を喪失したという事実と関係している。

私たちは自分の(例えば芸術家としての)活動の結果として、ただちに金銭的な見返りがあると期待して生きている…

この風潮が芸術に影響を与えなかったわけがない、と彼は言う。


ところが、彼は、芸術家とは何か、芸術家は民衆にとってどんな存在であるべきか、に関して正確な定義をもっていて、

芸術家とは「民衆に精神的なものを供給するがゆえに、民衆に形を与える」ものだという芸術観に断固として反対する。

それどころか、タルコフスキーは芸術家を民衆そのものの内なる声の表出にすぎないと見ている。

これは、まず吸収から始まり、それから、(何であれ)媒介をとおして民衆自身に表現する能力が欠けているものを表出するのである。


「私にとって、これだけが、近代社会が芸術にどのように影響しているか、私たちが理解できる道筋なのです」

「現実主義」が「人間性に関する真実」を指し、人間の魂の生を描くことと関係しているという意味で、現実主義的芸術は、タルコフスキーによると、唯物主義のレヴェルに焦点を定める芸術ではありえない。

物質的側面を描くだけでは、「人間性の実質そのもの」を無視することになると彼は考えている。

「精神性の欠如は既成事実の開示にすぎないと言う人がいる。
これは私には乱暴で、文化に反しているものだ」

最後に、この講演で、主にこうした一般的な問題にこだわり、自分の映画にはついでに触れるだけであったタルコフスキーの目的は何だったのか?

「私が一番気にかけている問題が何なのか、私の映画を観る人たちが知ることは、私には大切です。
そうすれば、私たちはお互いをより良く理解できるからです」
ttp://homepage.mac.com/satokk/at_in_london.html

アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー ―1985年3月、ストックホルム―
偉大なロシア映画の伝統ーエイゼンシュテイン、ドヴジェンコなど


Q: 偉大なロシア映画の伝統とあなたの関係は? だれがあなたの師ですか?


ところで、偉大なロシア映画とはどういう意味ですか?


Q: エイゼンシュテイン、プドフキン-


ああ、はい、はい-私には、ドヴジェンコとプドフキンのほうがエイゼンシュテインよりずっと重要です。


Q:『イワン雷帝』と『アレクサンダー・ネフスキー』の創造者としての?

一般的に言うと、です。

ついでに言うと、エイゼンシュテインはソヴィエト指導者、特にスターリンに完全に誤解された監督でした。

誤解されたというのはースターリンがエイゼンシュテインの仕事の本質を理解していたなら、エイゼンシュテインを迫害したりしなかったでしょう。
これは私には完全な謎です。

どういうふうにそれが起きたのかは知っています、或る程度なら分かります。
エイゼンシュテインは才能豊かで、完璧な教養人でした。

当時あれほど教養のある、あれほど知性に恵まれた映画監督はいなかった。
当時の映画は若造が作っていました。

典型的な例として、独学で、正式教育は受けたことがなく、革命から映画になだれ込んできた連中です。


Q:しかしほとばしる情念というものがありました-


ええ、そうです。情念がありました-
革命のパトス、未来への希望、建設的な文化の変容-一般にそれはよいものでした-
エイゼンシュテインは少数者でした、もしかすると彼だけかも知れませんね、伝統の意義を評価していたのは。

彼は、連綿と続くもの、文化の継承が何であるのかを知っていました。
しかし彼はそれを吸収しなかった、心に吸収しなかった。

彼は知的でありすぎました、彼は恐ろしく合理主義でした。
冷たく、理性だけで、計算し、監督しました。

彼は自分の設計をまず紙上で試しました。計算機です。
彼はすべてを描きました。

フィルムのフレームを描いたという意味ではありません。
すべてを考え尽くして、そのすべてをフレームの中に詰め込んだということです。

彼は生そのものから描いたのではなかった、生は彼にいささかも影響しなかった。
彼に影響したのは、彼が作り上げた理念でした、
それが変容して生まれた何らかの形式でした。

一般に、すっかり生気の失せたもの、鉄のように硬直したもの、非常に形式的で、乾いて、感情を欠いたものでした。

映画形式、その形式的特徴、撮影、照明、雰囲気ー何一つ彼には存在していなかった。
すべてが考えぬかれた性格を帯びていました。

絵からの引用であれ、その他の技巧を凝らした構成であれ、そうです。

これは或る意味で、合成的な映画の典型的な概念でした。

そこでは、映画が視覚芸術、絵画、劇場、音楽、その他なにもかもの統合として出現しますー
ただし、映画そのものはそこにはなかった。

こうした部分の総計がこの新しい芸術になるとでもいうかのように。


穏やかに言ってもーそれは巨大な誤解です。

映画は、それを他の芸術と分ける独自の特定の性格によって、支配されているからです。

エイゼンシュテインは彼の芸術によって、いわゆる固有の映画芸術を表現することに成功しなかった。

彼はすべてのものをちょこちょこと利用しましたが、映画に固有であるものには気づかなかった。

もし気づいていたなら、これまでの芸術類型を削除し、捨てて、映画に「映画」だけを残したことでしょう。

Q:でも、メキシコを扱った映画がありましたね-

ええ、あの映画は国外で見ました。

私にはとても弱く、稚拙に思えますー

演技も、性格の発展も、舞台状況も。

見せ場に乏しい芝居、恐ろしく稚拙なデザインのポスターです。


しかし『イワン雷帝』を例にして考えてみましょう。

この映画の第1部が、ご存じのように、なぜ共感を呼んだのか、私には皆目分かりません。

第2部は猛烈に非難されたのに、第1部は賞讃されたのです。
なぜでしょうか? 私には理解できません。


恐怖の正当性についても彼は話していますね。
特に、貴族たちの首をばさばさ刎ねる残酷シーンです。

エイゼンシュテインはこの映画で独裁制の強化の味方をしています。
中央集権権力の強化です。

目の見えない人にでもこの映画のテーマは明らかです。
ところが、金とメダルをエイゼンシュテインに浴びせるかと思いきや、突然彼らはこの映画のためにエイゼンシュテインを迫害し始めたのです。

まったくの謎です。


それからエイゼンシュテインは次の映画『ベジン草原』を作ります。
『アレクサンダー・ネフスキー』のことは言わなくてもいいでしょう。
何もかも明白だからです。社会の期待を満たしたいという願望が明白です。

Q:その映画は知りません。


知らないってどういう意味ですか? 
エイゼンシュテインについて訊きたいなら、当然知っているべきでしょう。
彼は1920年、30年代のヒーローです。

集産主義の時代です。彼は少年でした。
パイオニア[ボーイスカウト]であった生徒です。

そして彼の不運はクラク一家の出身であることでした。
彼は、どういえばいいのかな、ソヴィエトの聖人のような存在になりました。
血のつながった両親をその筋に告発したのですからね。


Q:ああ、それなら知っています、パヴリク・モロゾフですね。


ええ、そうです、彼のことを言っているのです。

Q:でもその映画のことは知らない。


彼こそ、その映画でエイゼンシュテインが聖人、犠牲者、神聖な犠牲者、理念のために命を捧げた殉教者として提示した人物です。

エイゼンシュテインは自己を喪失しかけています。

突然彼は崩壊の瀬戸際にあるようです。私には理解できません。

何もかもが退歩しているようです。

彼は、当時ひろがっていた、そして後に支配的になった理念を強化する可能性を探していたのです。

ところが突如彼らはそれを拒絶したのです。

ただ-これは言っておくべきでしょうーこの映画の歴史はこうです。

エイゼンシュテインが撮影を始めると、彼の友人達、同僚たちは権威筋に、エイゼンシュテインが反ソヴィエト映画を作っていると警告したのです。
形式主義で反ソヴィエトで、うさんくさい神秘主義を混ぜ合わせて、といったようにです。

驚いた映画局はこれをスターリンに報告しました。

ここには計算があった。

スターリンは、現物をクレムリンに持ってくるように要求しました。
彼は素材を見ました。

何かが燃えている、樽が2階から転げ落ちてくる、当然ですが、富農が火をつけたコルホーズの産品を救おうとしているのです。

樽は出火した小屋から転げ落ちて来ます、1度、2度、3度と、クロースアップで、ロングショットで、ハイアングルから、ローアングルから-しばらく経つと、スターリンは我慢できなくなった。

こんなスキャンダルはたくさんだ! 

彼は部屋を出ていった。

私の見方からすると、エイゼンシュテインは、ソヴィエト映画の最も偉大な理論家であり映画人なのですが、自分の同僚たちによってつぶされたのです。

私は連中を知っていますからね、あの果てしのない会合で彼を形式主義とイデオロギーの逸脱で告発していた人たちと会ってましたからね。

大声でわめき、彼から自己批判を求めました。

私は彼らを知っています。このテーマで彼らと話をしました。

第20回の総会の後、すっかり別人に見えましたね、彼を弁護する同僚として出てきて、エイゼンシュテインについておとぎ話をして、自分が彼の友だちだと主張しました。

そうやって彼らはみんなでエイゼンシュテインを足蹴にしていたのです。

おおかたの連中がそうです。
直接本人から聞いたので、このことはよく知っています。
ええ、これが真相です-非常に不思議な実話です。

Q:で、ドヴジェンコは?


確かに、ドヴジェンコは私の心に一番近い人です。
なぜなら彼は誰よりも自然を感じていたからです。

彼は実際大地に密着していました。
これは私にとって一般にとても重要なことです。
もちろん、ここで私はサイレント時代からの初期のドヴジェンコを思い浮かべていますー
彼の存在は私には大きかった。
とりわけ、自然の霊化という彼の思想を考えています。
この手の汎神論のことを。

或る意味でーもちろん文字通りではありませんよー
私には汎神論に非常に近い感情があります。

汎神論はドヴジェンコに強い影響を残しています。
彼は自然がとても好きでした、自然を見てそれを感じることが出来たのです。

これは私にはとても意味のあることです、私はそれをとても重要だと思います。


結局、ソヴィエトの映画作家は自然を全然感じることができなかったのです。
自然を理解しなかった。

自然は彼らとちっとも共鳴しなかった。自然は無意味だったのです。
ドヴジェンコは、この空気から、この大地から、この生から映画の映像を引き裂かなかった唯一の監督でした。

他の監督にとってこのすべてが、或る程度自然な、背景、硬直した背景にすぎなかったのです。
それに対して、ドヴジェンコにとってそれは欠かせないエレメントでした。

彼は自然の生と結びついていると内的に感じていました。

Q:最近だと、自然に繊細な感覚をもった芸術家、自然を感じている芸術家は、『赤いカリーナ』のシュークシンでしょう。


あー、そうですね-もちろん彼は自然を感じることが出来た。
田舎育ちだから、自然を感じて理解せざるを得なかった。

確かに彼は自然を生きた。
しかしドヴジェンコはそれを見せる能力があった。

シュークシンは全然見せられなかった。

せいぜいその存在を推量できるだけだ。
彼の風景には芸術性が欠けている。

時には月並みな風景で、まるで偶然のように映画に入ってくる。

しかしドヴジェンコは風景に大いに関心を払いました、自然に自分自身を見いだそうと努めました。

あなたはロマン派ですか?


Q:作品をロマンチックと呼ばれるのに同意されますか?

いいえ、呼ばれたくありません。

Q:でも、あなたの作品には自分のアイデンティティ、絶対の価値を探求するロマンティックな旅のように、反復されるモチーフがあるのですが。世界の聖化、出来事の聖化、神話化の探求です。最後には、芸術家が表現すべき精神文化の原型的な純粋さへの信頼があります。これらに現れる精神はとてもロマンティックです。

見事に表現されましたね、でも私の印象では、あなたがここで特徴づけたものは全然ロマンティックではありません。

あなたが今述べられたことはロマン主義とまったく無関係です。

私が思うにロマン派は-ロマン主義という言葉を聞くと、私はすくみます。

なぜならロマン主義は試みだからです-いや試みですらない、それはある世界観の表現法です。

人が現実の出来事に、現実世界に、現実以上のものを見る、そんな現実の見方です。
ですから、聖なるものとか、真理の探求とか言われるとーそれは私にとって-

Q:ロマン主義ではない?

ロマン主義ではありません。

なぜなら私は現実を現実以上に大きくしないからです。

私にとって現実は一般に私がそこに見いだせるものよりもずっと偉大である、私が知覚できるよりもずっと深く、神聖であるからです。

ロマン派は人生が目に見えるよりも、すなわち彼らが推量しているよりも、ずっと豊かだと考えました。人生はそれほど単純ではない、人生には深みがあると信じました。
私たちがエキゾティック、形而上学と呼ぶもの、私たちの認識をそれ自体逃れるもの、知では把握できないものがたっぷりあると信じました。

彼らはそれを推量して、それを表現しようとしています。

例を挙げましょう。

オーラが見える人がいます。
人体をとりかこんでいる多彩な輝きが見える人がいます。

そういう人たちはある種の感覚をたいていの人よりも高度に発達させています。
この前そういう人とベルリンで話をしました。中国人でした。

治療してくれるんです。こちらの状態を完璧に知っているのです。
どう感じているのか、何が問題なのかーそういうことのすべてがオーラに見えるのです。

Q:その現象はキルリアン写真で確認されました。


そうです、これらの実験はそれと関係していますー

しかしそういう人はその眼でこのオーラが見えるんです。

ロマン派はそれをでっち上げようとしましたがね、それが存在するはずだと推測しましたがね。

詩人はそれが目に見えるのです。

こう言われますか? 

しかしロマン派にも詩人がいた。
もちろん、私はそれを否定しませんよ。

私の憧れのホフマンがいた、レールモントフ、最も深い詩人のひとり、途方もない詩人チュチェフがいました。

多くの詩人がいました-それは事実です。

しかし彼らをロマン派と呼べるでしょうか?ー
彼らはロマン派ではない、絶対にロマン派ではない。

ホフマンはロマン派でした。

ですから、ロマン派と言われると-明らかにーこうした芸術家によって利用された形式が一種仰々しく、拡大されて、美化され、高尚になっている。
生は十分に美しいと私は思います。

生には十分の深さと霊性があります。
だから、何も変える必要はありません。

私たちこそ、精神的な意味で、自分の発達に気を配るべきなのです。
現実を美化したりしないでね。

ですから、このロマンティックな装いは人間の内面に信念が欠けていることから生じるのです。

あるいは自分の想像の産物への信頼が欠けているのです。

Q:それは唯我論です。


そうです。
私個人にとって、ロマン主義は、あるいは、少なくともその重要な要素のひとつはまったく異なるものに思えます。

ええ、ドヴジェンコは非常に上手いことを言っています。

「泥沼にも星が映っているのが自分には見える。」

この種のイメージを私は完璧に理解できます。

しかし、もし誰かが自分には「天国の星の天使軍」と、飛び回る天使が見えると言ったら、それは消毒済みの、寓意的形式でしょう。

現実からほど遠い、完全に真実でない。

しかし、それが鍵でしょう、ドヴジェンコはそれが見えたのです。
彼は詩人でしたから。

彼にとって生はずっと十全なものでした。
霊性に満ちたものでした

得たいの知れないところに単なる付録を、自身の創造的活動に補足するものを、現実に探し回っている人々とは違いました。

ロマン派にとって生は創造する理由を提供しますが、詩人にとって創造は必然なのです。

なぜなら彼の内部ではまさに最初から霊性が生きていて、創造を彼から求めているからです。

このように、芸術家、詩人はーロマン派と違ってー自分が神に似た存在になることを、誰よりも理解しているのです。

それは論理的なことです。これこそ創造力が出来ることです。

まるでこの能力が最初から想定されているかのようです。
それは人間のものではありません。

一方ロマン派は自分の才能に、自分の創造的活動に、特定の美をいつも見いだそうとします。

Q:あるいは至上命令を。

至上命令を。上手い。ここで私はあなたと完全に同意します。

Q:ポーランド語に"wietszcz" という言葉があります。例えばアダム・ミツキエヴィチは国民の"wietszcz" だったと言います。予言者、国民の前に隠された真実を啓示した見者だったと言います-


ええ、ええ、そうです。それがロマン主義でなければね。

Q:どのようにでしょうか?

プーシキンもまたそんな人物でした。

後には多くの芸術家もそうでした。彼らは今日でも存在します。

彼らは仕えている-私が信じるに、ロマン主義はー狭義においてー芸術家が自己崇拝に酔いしれたとき、自分の芸術で自己を創造するとき、姿を開示します。

それは私が大嫌いなロマン主義の特徴です。

この自己肯定もです。
この果てしない自己提示は彼の芸術の結果ではありません、その目標なのです。

これは私にはあまり好ましくない。

一般にこういうのが私の好きでないロマン主義です。

ものものしく、恐ろしくもったいぶって、もったいぶった絵画、もったいぶった芸術概念などなど。

シラーのように主人公は2羽の白鳥に乗って旅をする。

ご存じですか? 

あれはキッチュです。キッチュ以外のなにものでもない。

ところで、ロシアでは、またポーランドでもそうだと思いますが、ノヴァーリスや、クライスト、バイロン、シラー、ワグナーのように、自分のことをべらべらしゃべりたがる芸術家はいなかった。

Q:しかし、それはロマン的な個人主義です、ロマン主義の主な際だった特徴のひとつです。

それは自己中心主義です。

「私にとってこれ以上何があるだろうか?」という制限の中でしか考えない。

恐ろしい仰々しさです。

自分を宇宙の中心に据える欲求です。

その対極は別の世界です、東洋的と、東洋文化と、私が思う詩の世界です。

例えばワグナーの音楽を例にしましょう。
あるいはベートーヴェン、どうかな?
ーそれは自分自身についての果てしない独白です。


つまり、見よ、何と自分は貧しいんだ、ぼろをまとって、なんて惨めなんだ、ヨブのように私は悲惨だ、何て不幸なんだ、何たる苦悩ー余人とは比較しようがないー私は神話のプロメテウスのように苦しんでいる-そして私はこのように愛している、私は-お分かりですか? 私、私、私、私。ー


それほど前じゃないですね、私は紀元前6世紀の音楽をじっくりと聴きました。
古代中国の儀礼の音楽です。

それは、個人を無に、自然に、宇宙に、絶対的に消滅させます。

それは質的に対極です。

芸術家が芸術作品に自己を消し去るとでも言うのでしょうか、芸術家自身が跡形もなく消え去るとき、その時、それは信じがたい詩になります。

魔法のような日本の精神性


まったく魔法のような例を引用しましょう。

中世の日本には多くの絵師がいて、彼らは将軍家に庇護を見いだしたり、大名のもとにとどまりましたー当時の日本は多くの藩に分かれていたのですー

そして、こうした絵師は優秀な芸術家でした、高い評価の芸術家で、名声の極みに達していました。

で、そこまで到達すると、彼らの多くは突然姿を消す、どこかへ行ってしまう。

姿をくらまして、全くの別人として、別の名前で、別の殿様の家中に再び現れる。
彼らは宮廷絵師のキャリアを、それまでと全面的に異なるスタイルで仕事を創造して、一から始める。

このようにして彼らの中には一生で人生を5つも6つも生きたのでした。

Q:謙虚さ-


これは謙虚さではありません。

謙虚さとも呼べるでしょうが、私はむしろ別の言葉を使いたいー

私にはそれはほとんど祈りのようなものです、私自身の「私」が、何の意義ももたない祈りのようなものです。

私に賦与された才能は天の高みから与えられたものなのでーもし私が本当にこの才能を与えられていたとするなら、ですよー私は傑出しているでしょう。

で、もし私が傑出しているなら、私はそれに仕えねばならないという意味です。
私は奴隷です、宇宙の中心ではありませんーこれはまったく明らかです。
あなたは適切にも謙虚さと言われましたが、これは謙虚さよりもずっと重要なものです。

Q:ここで私たちは『アンドレイ・ルブリョフ』に近づきましたね-


確かに。彼は何と言っても宗教的な人間でした、僧でした。

映画監督であること

Q:これは実際、絶対的に根本的な問題です。ここで、お許しをえてーちょっと挑発させてください。ご意見を伺いますー今日、この時代に、芸術家、監督は予言者なのでしょうか? 約束の地に民衆を導くモーシェなのでしょうか? あるいは自分の使命を果たす、「大文字で書かれた」道徳家なのでしょうか? あるいはもしかすると、自分の商品を売りさばく職人なのでしょうか? あるいは「精神貴族」なのでしょうか? あなたは、人々の物質的なものへのこだわりを、ささやかな消費者の喜びを、苦々しく思われてはいませんか? 民衆が悔悟者の粗末な衣をまとっているのを見たいと思っておられるのでは?


これらの側面の幅広さを制限するために、この問いを一般的な展望から、そして同時に根本的な展望から考察するのが良いと思います。

つまり、ここで、芸術家の一般的な働き、役割、社会での位置をざっと描いてみましょう。

当たり前ですが、私は、何よりもまず芸術家は彼が生きている社会の内側で熟しつつある理念を表現するという見解をもっています。

単純に言うと、芸術家は、社会そのものが懐胎している理念を表出する、一種の媒介のように見えます。

しかし社会は芸術家ではありえない。

芸術家もまた結局一個人です、1つの人格です。

つまり、芸術家は、その国の声である、その産物であると判明するがゆえに、国家を人格化したようなものです。

そして時には、国家、民衆、社会がこの芸術家を受け入れないということすらあります。

時には追放します。時にはまったく理解しない。

ずっとずっと後になってはじめて評価が得られるのです。

しかしそれは重要ではありません。次の意味でしかないからです。
彼らは自分自身を知らないのだ。彼らは自分自身の問題を知らないのです。
そのために、芸術家は自分の文化、自分の文化、自分の民衆に決して対立することはありえません。

どんなこともあろうとも、敵対することはありません。

現在の社会が容認しがたい理念を含む思想を表現したときですら、こうした理念が内部で、その社会の内側で発生しなかったという意味ではないのです。

社会はこうした問題に気づく時間がまだ足りなかったというわけです。
一般に芸術家もそうした問題を意識的に自覚するわけではありませんー芸術家は表現するだけです。

芸術家はそうした問題を感じることが出来るのです。

それはまさに、芸術家がそれらを表現できるがゆえに、そうなのです。
芸術家は時代を超えた叡智を必ずしも持つ必要はありませんが、より多くを感知できるからなのです。

芸術家は自分が何を言っているのか理解していないことがよくあります。
子どものように、大人の後から言葉を繰り返します。

子どもは何も理解せずに繰り返し、大人はこう言います。

「おやおや、この子は何を言っているんだ?
 聞いたかい。あっちへ行きなさい! 向こうへ行きなさい!」

大人は子どもをぶったりする。

子どもが家で耳にした言葉を繰り返しただけで大人は子どもを叩きます。
子どもはそういう環境で育っただけなのです。
手短に言うと、こうでしょうか。

「芸術家の役割は、その民衆の声であるべきことだということですー
いや、「あるべき」ではない、こう「あれ」と言うことは出来ない。

自分に向かって国家の声「であれ」と言うことは出来ない。

単純に芸術家は民衆の声である。そうです。


当然、ここには問題があります。

もしあなたが民衆の声であるなら、民衆があなたに求めることだけを言わねばならない。

しかしここに問題がある。

民衆はあなたに何も求めない。民衆は誰にも何も求めない。
自分には何かが求められている、何かが期待されているかのように行動するのが芸術家なのです。

もちろん、民衆は期待していますよ。しかし、無意識に、です。

まさに、この大衆、民衆への義務、生きている時代の名において、芸術家は自分のために創造するのではないということをいつも心に刻んでおかなければなりません。

しかしー自分のために創造するのではないのだが、芸術家は自分が親密に感じられるものだけを表現すべきです。

ここでも、結果的に、自分の心に身近な理念、創造的な仕事のいくつかの位相が、誰にも必要とされていないこともあるかも知れない。

しかしこの場合にもあなたには権利がない-ここでもあなたは無力です。

まず、人々があなたを必要としていたのかどうかが明らかになるのに、100年はかかる。

こういうことは、自分の生きている時代に確信をもって言えないことですね。

社会にも役立ち、同時に真実を全うするというのはとても難しい。

誰も必要としないなら、自分の作品の有用性に自信をもつのは困難です。

それにもかかわらず、正しいと思えることをやるということです。

時が教えてくれるでしょう。

努力をした時点で自分の努力を判断することは誰にも出来ないからです。

だから、芸術家はこうすべきだ、こうしてはいけないと言って、芸術家を道学者にしようとする試みは私は大嫌いです。

芸術での位置づけを採ってー右だ、左だーこれは全くのナンセンスです-完全に無意味です。

芸術家が政治的な意味で誰かの支えになれるのは、ずーーーーーっと、ずーーーーっと後になってからです。

死後随分経ってからです。
本か映画だけが生き延びているときです。

こんな具合です。

「彼が何を言っていたか見てみようー私たちと同じ事を言ってるだろ」

そして、やがては、たとえばその次の年には何もかもが変化し、その芸術家が全然別のことを言っていたと分かる。

それで、それは別の人、そのまた別の人の関心を惹く。

手短に言うとー芸術家には権利がない。

いや権利がないというのではなく、芸術家がすでにそうであるよりも、さらに人々の欲求に近づく道具を芸術家は何ら持ち合わせていない。

神が自分に結局は国家が必要とする存在になる可能性を授けたもうと信じることしか出来ません。

成功しようがしまいがーこれは芸術家が知らないことです。

当面知り得ないことです。

こうした高所から見ると、映画芸術はとても危険な芸術です。

なぜならただちに成功することを期待されるからです。

Q:時間がない


時間がない。すぐに成功しなければならない。

だから、非常にしばしば、映画製作者が成功したからといって、その内面世界がいわば時代と同時代に、同時代の問題にーそして人々にーふさわしいとは言えないのです。
こう言いましょう。

Q:ちょっと質問したいのですが-

いいですよ。でも私はまだ先ほどの質問のどれにも答えていません。
ですから、この件に関してもう一つ言っておきたいと思います。
あなたは予言者と言う。どういう意味でしょう、予言者というのは?
 
ドストエフスキーはよく予言者と言われる。
ええ、そうです。そう呼べるでしょう。

Q:彼にはそうした責任があった。予言者としての果たすべき責任が。

ええ、しかしプーシキンも予言者としての責任があった。

ご承知のように、自分でそのことを書いているー『予言者』で、この壮麗な詩は心にしみこみます。

しかしあなたは正しい。まったく正しい。

もちろん、予言者です。芸術家は予言者です。

祖国では受け容れられない予言者のようなものです。

それでは、プーシキンを例にとりましょう。

彼は詩人でした。その小さなサークルでは人気があった。

そして、友だちの中でもー同時代の人の場合はもちろんー「彼は天才だ」と言う人はそれほど多くなかった。

彼は詩人にすぎなかった。プーシキンという詩人。

誰も彼のことを、今日の私たちのように、天才だと言ったりしなかった。

ショパンがエチュードを作曲したとき、彼はただの音楽家だった。

しかし今日耳にするのは、彼は祖国の魂だ、あれは独創的な天才だーその詩心と精神構造の繊細さを考えるとーヨーロッパ文化で彼に肩を並べる者はいない、あれは途方もない天才だ。

お分かりですか? 

彼が生きているときには-友人仲間しかいなかった、ジョルジュ・サンドやいろいろな人たちです。

Q:それが生、生そのもの。

生そのもの、より優雅かもしれないが、たいてい恐ろしい、難しい。


だから-いや、ドストエフスキーのことを話しましょう。

最初ドストエフスキーはあの-ベリンスキーにトップに持ち上げられた、やがて彼を攻撃することになるベリンスキーによって。

あのひどいベリンスキーー私の見方からすると、ですよ。

簡潔に言うと、詩人のだれかの未来の位置を誰にも予言できません。
もちろん彼が予言者、民衆の声であるなら、もし内的な精神的な本能を保持しているなら、民衆の精神的な高みを人格化しているなら、祖国の魂であるならーそのときには明らかに彼は予言者にならざるをえない。間違いなくそのはずです。

芸術家と民衆との関係


予言者は何でしょうか? 

予言者は民衆の作品です。民衆の創造です。

それは芸術家自身が結果である、芸術家は、芸術作品が創造されるのと同じように、創造されるということです。

神が国家を創造したように、国家が芸術家を創造し、芸術家は自分の作品を創造する。
もしかすると、神とシェークスピアについての、ボルヘスの優れた短編をご存じでしょう-

Q:『全と無』だと思いますが。

そうかも、タイトルは忘れました。
とにかく、そこで神はシェークスピアに、シェークスピア自身が作品を創造したのと同じやり方で、神がシェークスピアを創造したのだと告げます。

全作品が同じ精神的な力に浸透されています。

だから、予言者としての使命が芸術家の双肩にかかっているという現実を否定することは出来ません、どうしても出来ません。

しかしどうやれば、自分の胸を叩いて、まわりの者に「私は予言者である」と告知できるでしょうか?

 そんな芸術家がいたことを私たちは知っています。また沈黙を守った者も。
プーシキンは自分が天才で予言者であるとは一度も言わなかった。

『予言者』という詩を書いていますが、彼自身は-

Q:しかし、私たちは芸術家の社会的な働きを念頭においていませんでした。予言者の責任ということでした。あなたの映画の人物は-

私は社会的な働きを話しているのではない。

私が話しているのは、芸術家の理想の追求についてです。

なぜなら理想がなければ芸術家は存在できないからです。

そしていわゆる理想は到達不可能なのです。

だから芸術家は実践的な意味では役に立たない実体なのです。

芸術家はいつも理想のことであれこれ頭を悩ましています。

そして理想は具体的なものではありません、いかなる方法でも利用できないものです。
私の見解では、これが現代社会のドラマです。

現代社会は芸術家を実用に応用することを要求します。

このように芸術家を利用しようとすると、芸術家はオモチャのように壊れてしまう、破壊されてしまう。何も残らないーこういうことがマヤコフスキーに起きたのです。


Q:なぜならマヤコフスキーは「声」だったから。

なぜなら彼は声だったから。

その声の響きを彼らは力ずくで指導したかった。

彼に「社会の要求」を提示していた人々、彼らは民衆の声がどのように響くべきであるか「よく知っていた」。

こうして彼らは芸術家、どの芸術家にもある最も神聖なものを奪っていった、つまり誠実さを、そして自分でこの声に耳を傾けるということを。

彼に指示を出した人々はこう言うでしょう

「私たちは、この声が何であるべきか、知っているが、君は知らない」

彼らは芸術家から、その働きを奪い取っていった。
彼を盗用し、破壊していった。

私たちが責任というとき、それはこの意味なのですー

あなたは「精神的な貴族制」と言う。

まずーどんな種類の貴族制を念頭に置くのか、はっきりさせましょう。

貴族制、精神的な状況、芸術家の状況-何が芸術なのか? 

傑作とは何か? その意味と条件とは何か? 

傑作は人間精神の偉大さを表現します。

この精神が追い求めている理想を表現します。

これが民衆の隠された期待と欲求の反映であることにはすでに言及しました。
もしそうなら、私たちは一種の頂上、絶頂について話しているのです。

そして頂上と絶頂について話しているときに、私たちは芸術作品によって表現されたこの理想に接近できるのか、この理想に到達できるのか、それを問うてもいるのです。
私たちはこのようにして、この現象の特徴である独創性について語っているのですー
これでいいですか?

Q:はい。

私たちは何かしらの偉大さを話題にしています。

そしてその現象が真空によって囲まれているときにだけ、偉大さについて語ることが出来ます。

絶壁や谷間があるときにだけ、雪をかぶった峰の頂を語ることが出来る、違いますか?

Q:しかし-

ちょっと待った。
だから頂上と谷間の間には違いがある。

もしそうなら、そしてもし頂上が芸術作品に保存された魂の内的な向上を象徴するなら、この独特の現象は、ひとの霊的な発達を引きつける、招き寄せ、呼び起こし、可能にするために生み出されたという意味になる。

そして、もしそうなら、誰かを霊的に発達させるために呼ぶ覚ますことが必要であるなら、彼はまた霊的な発達の比較的低い段階にいてはるか遠いところにいるという意味になる。

頂上にある芸術作品、傑作に対して、です。

自分の民衆の潜在可能性にすべてを反映させるとき作家が頂上にいるのに対して、です。

Q:定義では。

そうです。それはどういう意味ですか? 

こうした傑作、私たちがすでに、定義したそれらの機能は、追求すべき理想として現れますーこれはすでにある種の貴族主義、例外性、低いもの、魂の欠けたもの、悲惨なもの、それらのすべてを超越して精神的に高く上昇することを暗示しています。

大衆を超越して、暗愚を超越して舞い上がった民衆の精神が存在しています。

プーシキンは暗愚さを民衆と区別しました。

私たちはこのことをよく承知しています。

彼は、暗愚さについて書いています、ついでですが、そこには貴族と廷臣も含まれています。

当時『ボリス・ゴドゥノフ』で民衆について書いていますー

民衆は口を閉ざす-ーそこに特別な意味を与えています。

霊能力です、民衆が歴史の神秘に参入するのを可能にさせる霊能力です。
彼はそれに精神性の特徴を賦与しましたー高次の内的な叡智の特徴です。

簡潔に言うとー霊的な貴族主義と言うとき、芸術は低地を見下ろしてひろがる丘陵地帯のようなものです、芸術が自ずと貴族的なのです。

しかし社会学的なあるいは歴史的な意味で貴族的なのではなく、言葉の霊的な意味で、そうなのです。そうでなければ、芸術は存在しないでしょうー

もし芸術が、高次の霊的なレベルを追求する表現でないならば、芸術は存在しません。


Q:私の印象ではーもしかすると間違っているのかも知れませんがー西側の観客を話題にされるとき、あなたの言葉の調子はとても厳しくなりますが。

それほど厳しくないですよ-

それは西側の観客を批判しているのではなく、むしろ西側の観客がいる状況、西洋の文化状況を批判しているのです。

例えば、ロシア人にとって、今でも文化と芸術作品は必ず、ある種の霊的な、神秘的なーお好みならばー予言的な意義を担ったものです。

これと似た文化理解がポーランドでもずいぶん発達しました。
こちら側、西側では、文化は昔から消費の対象になりはてた。

消費者の所有物です。

彼らにとって文化とは何なんでしょうか? 

文化は私が持つことが出来るものです。
私が自由であることの結果として、です。

では自由とはどういう意味でしょうか? 
私はこちら側のだれもが持つものを持って自由である。

文化は西側に存在しているのでしょうか? 存在しています。
こうして私は文化を利用する権利を持つことが出来るし、持っています。

これはどういう意味でしょうか? 

私は持つことが出来る、とは?
 
ええ、ただー物理的に、功利的にー私は持つことが出来る、ということです。

ちょっと立ち止まってこう考えるなんて思いも寄らないでしょう。

「そうです。あなたはその文化を持つことが出来る。しかしあなたはそれを消化できるのか?」

ゲーテを例にとりましょうー

あなたは『ファウスト』を読むー

しかしあなたはそれを読むことが出来ましたか?

そりゃあ、所有すること、購入することは出来ますよ。
『ファウスト』を買いに行けばいいんだから。

ただしゲーテの『ファウスト』を買うことは出来ないでしょう。

むしろ映画館に行って、スピルバーグの映画を観るでしょう。
本屋に行くなら、漫画かベストセラーか、何か必読書を買うでしょう。

それでおしまいだ。

トーマス・マンは買わない。ヘッセも、フォークナーも、ドストエフスキーも買わない。

ええ、そういうことです。

何だって買える。

しかし文化を吸収するためには、作品を創造している芸術家自身の努力に等しい努力をしなければならない。

こんなことは、そういう消費者には思いも寄らないでしょう。

ちょっと行けば買えるんだ。金さえ払えばいいのさ。こう考える。
これこそ精神性の欠如の結果です。

芸術が貴族的であるということすら思いつかないでしょうー
言葉の霊的な意味でですよー繰り返しますけど。

別の意味で使うのを神が禁じたもうのです。


エリートの芸術だと連中は言う。

エリートとはどういう意味ですか?

 芸術は、万人が芸術を理解できることを、包括理解できることをいつも期待しています。

その瞬間を待ち望んでいます。

あらゆる芸術作品がこの目的のために創造されているのです。

しかし彼らはこういう。

これはエリート主義だ。なぜならすぐに理解できないから、と。

しかし理解できないというのはどういう意味でしょうか?
 
ありえない、芸術では-良い本を読むことは良い本を書くのと同じくらい難しいとゲーテは言っています。

その意味は、作家の狙いを理解するために人はある種の精神的な仕事をしなければならない、ということです。

繰り返します。

創造的な芸術家は、その民衆と敵対する者ではありません。
民衆に奉仕する個人なのです。

Q:あなたの言い回しを使わせていただくならーそういう観客はあなたの映画にいたる道にまだ足を踏み出していないと言えるのでしょうか? この旅が彼らを待ち受けていると言えるのでしょうか?

私の作品に対する観客の反応を私は密着して追跡しないので、それが本当かどうか、私にはとても分かりづらいです。

私が知っているのはただ1つです。

私の映画は、随分苦労して、ソヴィエト連邦で観客を見いだしていきました。

一作ごとに観客が増えていき、最終的には最後の2作の場合、チケットを入手するのが文字どおり不可能だった。

ゴスキノの経営陣は私の映画が人気があると気づくや否や、配給を引き上げました。
ただちに引き上げました。

最初彼らは、私の映画がこけると思ったから、封切りを許したのです。
こけなかったら、途端に上映をやめさせました。

Q:全作品がそんな扱いを受けたのですか?


今言っているのは最後の2作、『鏡』と『ストーカー』です。

これは計画通りでした。

この道は困難な道でした。
なぜなら私に出来ることは1つしか残されていなかったからです。

正直になり、自分に近しい事について自分の声で話すことです。
観客もまたそういうものとして見てくれるだろうと望みました。

最初、そういうやり方に観客は反発を覚えたようですが、徐々に観客数が増えてゆきました。

非常に不思議なことがあります。

ー不幸にもーソヴィエト連邦を出国しようとした頃、私の観客は非常に若い人たちでしたー16,17歳の若者ですーそして彼らは私を理解したのです。

とにかく私の映画を理解したのです。

「理解した」とはどういう意味でしょう? 
彼らは私の映画を受け容れたということです。

或る意味で私の映画は彼らの世界だったのです。私はそれでとても幸せでした。
しかし一般に私と同年代の人々はこれらの映画と情緒的に近しいと感じることがなかった、若者ほど、気持ちが近いと感じなかった。

これはとても不思議です。説明する気はありませんよ。


同じ過程が西側でも起こりました。
例えばロンドンで、確か5回、とにかく複数回、私の映画の回顧上映が行われました。
最後の上映は、さほど前じゃありません、1月ほど前ですか、ものすごい長蛇の列でした。

これは何でしょう? 

彼らは理解したのでしょうか? 理解していないのでしょうか? 

私にははっきりとは分かりません。

ここストックホルムでも大変な行列になりました。多くの人が私の映画を見に来ました。

今でも回顧上映が予定されています。

分からない。私自作が配給されるのを目にするのは一般にうれしいことですよ。
しかしあんなようになるのは大きな危険がある-ええ、誰もがこれらの映画を観ているだろうというのは。手短に言うと、先に話し合ったことから、観客動員でものすごい成功をした監督になるのはとても危険なことだということになるからです。とても危険です。

こういう場合、伝えようとすることに重要なことは何もないと私は思います。
前者の場合、内的な発達段階を経て、精神的な頂上に真に到達している。

そして観客に付いてくるように招いている。
まさにこの反対があるー芸術家自身が低次のレベルに滑り落ちていく。

これは間違いない。

当然、映画を作るためには監督に人気がなければならない。
そしてこれこそ映画の悲劇です。

祭りの場で、罪にまみれて、市場で映画が誕生したという事実がです。
物珍しい仕掛けがあって、あなたはそれをのぞき込む。

若い女性が服を脱いでいるのが見えた。

小銭を入れると、また別のことが起きようとする。

これは悲劇ですーなぜなら映画はそれ以来ちっとも変化していないからです。

新たな映画を作るためには金儲けをしなければならない。

他の芸術の場合、事情がまったく異なる。

本を書くなら家で机に向かえば出来るー
カフカのように、書いたけど何も出版しなかったカフカのように。

しかし本が書かれたのは間違いない。

手短に言うと、観客との関係、そして一般に人気との関係、という問題はとても複雑です。

しかも非常に頻繁に、それは芸術家が自分に課した問題と課題にかかっているのではなく、芸術家にプロデューサー、金が課した課題のほうにかかっている。

もしかするといつの日か、映画に金がかからないレベルにまでテクノロジーが到達したら、金属のヘルメットを頭にかぶって、脳波計のように私たちのファンタジーとイメージのすべてを記録して、それを編集して映画に出来ることでしょう。
これは金がかからない。

しかしこんなことが起きるのを目の当たりにして、この種の安いテクノロジーを話題にするには、随分長生きしなければならないでしょう。とりあえず、映画はとても金がかかる代物です。

ポーランド芸術の影響

Q:ポーランド芸術とポーランド映画はあなたの仕事に影響しましたか?

影響? 
もちろんです。VGIKで勉強している頃、ポーランド映画は異常に盛りあがったじゃないですか。

若き日のワイダやアンジェイ・ムンクなどの名前と結びついて花開いた時代でした。

Q:ポーランド学派。

ポーランド学派。世界中で有名になり、私たちにも影響せざるをえなかった。
特に印象に残るのが撮影です。

例えばヴォイチクが示したような、映画による世界知覚の様式です。
ワイダともムンクとも仕事をしたカメラマンです。
『灰とダイヤモンド』は私たちには啓示でした。

私たちの多くにとっては。こうしたもののすべてはとても影響力があって、とてもインスピレーションにあふれていました。

とりわけ、そうした映画に表現された生における真実さとの関係です、写実主義に基づく撮影から生まれる詩的な感興です。

これは当時ものすごく大切なことでした。
なぜならそれまで映画は真実味に欠け、厚紙細工で、嘘くさかったからです。
外的な面でも、その本質においてでも、です。

ポーランド学派の映画で、構造そのものがすでに驚異的だった、ポーランドの映画作家は自分が特殊な種類の構造を扱っていることを理解していました、それを壊さなかった。

昔の映画はイメージの構造を識別していなかった。
べニア板と壁紙と織物を貼り合わせたものでした。
つまり、その張りぼてでした。

当然スタジオで撮影されました。
それが突然純粋な自然、泥、荒廃した壁に向かったのです。

化粧を落とした俳優の顔に向かったのです。
完全に異なる感情が、イメージに浸透していきました、リズムが違うのですー
当時の私たちにとってこれは非常に大切なことでした。

ロシア人は亡命者になれない


Q:最後の質問をお訊きしますーあなたは亡命者として生活されています。ロシアの亡命芸術家の生活は、思うに、3つの名前で象徴できます。ブーニン、ナボコフ、ソルジェニーツィンです。この3人がそのヴァリアントです。亡命者として生きる3人の典型です。そのどれにご自分が一番近いと思われますか?

私は誰の生き方にも近いと感じないですよ。誰かの人格が自分に近いと感じることはありますよ。

Q:ええ、でもこの3つの名前は亡命者の3つの生き方なのです。

もちろんです。ブーニンです、間違いない。

間違いない。私は彼を身近に感じます。
なぜなら彼の作品にも親近感を覚えるからです。ブーニンは偉大な作家だと思います。


Q:しかし彼は過去に生きている、過去に自分を閉じこめている。もっぱら回想するだけです。

彼は回想する。どういう意味ですか? 回想するって? 

ソルジェニーツィンも回想しますよ。ナボコフも回想しますよ。

申し訳ないけど、誰もが回想しますよ。

芸術の理想は、結局、回想に基づいている。


Q:亡命者の生涯のモデルが念頭にあるのです。亡命者として、もっぱら過去の回想に閉じこもることが出来るー例えばブーニンのように。あるいは、異なる文化の中で、異なる言語を同化することが出来るー例えばナボコフのように。あるいは、新たな環境になじむよりもむしろ、祖国の問題にこだわって生きるー例えばソルジェニーツィンのように。

ロシア人は亡命者に絶対なれないんだ-


Q:誰だって、なれないですよ。

それから、忘れないでください、ナボコフは子ども時代にロシアを離れた。

ブーニンは、大人になってから、成人してから、出た、出国せざるをえなかった。
ソルジェニーツィンは成人であり作家であっただけでなく、先の2人が夢にも思わない経験を生き抜いた作家だった。

それはまったく比較できない人生ですよ。
しかし、あなたがモデルと言うならーそれなら私たちは身近なのでしょう。
どれほど身近なのかは分かりませんがね。

ナボコフはここではまったく当てはまらない。
彼は子どもの時に出国しましたからね。これはまるっきり違う。

出ていったのはソルジェニーツィンとブーニンだけです。

確かに、私はソルジェニーツィンが経験したことを経験したことがない、それからブーニンもーもちろんブーニンが経験したことも経験したことがない。

ご承知のようにブーニンはー彼の場合人生は革命前にすでに終わっていた。
革命のずっと前に、彼にとってすべてが崩れ落ちていた。

彼が描いている生は、追憶として、過ぎ去った人生として、示されています。


Q:彼は過去に閉じこもっていると言ったとき、そういう意味合いでした。

ええ、だから彼はあんなに痛々しいのです。
私はブーニンという作家を愛します。

彼の苦しみを理解し、さらには、彼の性格も分かります。

彼はすごい毒舌家でした。とても横柄で、いつも公正というわけでもなかった。
他者をひどく主観的に判断したりして。あまり善人ではなかった。
まあ、そうしておきましょう。

しかし、どうでしょうか、ナボコフは善人だったか? 
ソルジェニーツィンは善人か?
 
私は知らない。
だから、亡命者の生活モデルとあなたが言うとき、ブーニンは或る意味で明らかにソルジェニーツィンのほうに近い。

隠者のように生きたという意味で、です。

彼は新しい人生に順応できなかったし、心を開くことも出来なかった。
ナボコフの場合、英語でもロシア語でも書けたーしかしこれもまた子ども時代にロシアを離れたからだ。

ブーニンは非常に悪いタイプの亡命者を代表している。
例えば、ロシアを出たためにソルジェニーツィンがどこほど苦しもうとも、重要な問題、重要な事柄に心を向けることができるでしょう。

一方、ブーニンはー私が思うにー自分を苦しめた痛みをたえずもう一度生きることでしょう。

自分の内側にそれを抑圧することが出来なかった。
或る意味でソルジェニーツィンほど強くなかった。
とにかく彼はとても-子どものようなところがあった。
あのころ、いい子でないことが多かった。


Q:子どもは時にそうなりますね。

ええ。子どもにはよくある。彼は気むずかしい性格だった。
しかし、誰の性格が気むずかしくないのですか? 
ナボコフのですか? 違う。
もしかしてソルジェニーツィンの? やはり違う。

Q:あなたの性格は?

私のことを訊かれるなら、何も答えられませんね。
自分自身を判断することは私にはまったく出来ないからです。
やろうとしても、間違った判断をするでしょう。

Q:ブーニンも同じでしょうね。

どういう意味ですか?

Q:ブーニンもこの質問に同じように答えるでしょうね。

そう思いますか?

Q:ええ。そうするのが良いと考えて、誰もがそう行動すると思います。

何が良いのですか?

Q:そう行動するのが良いと。

しかし私は、自分自身について、自分がやることが良いと決して言えなかった。
第1に、私は自分がすべてを上手にやるとは信じない。
さらに、私がするかなりの部分を、私はひどいやり方をしている。
ええーしかしそれもまた別の話だ。

こんな風に私は性格としてはトルストイにずっと近く感じます。
芸術家の類型として、例えばドストエフスキーや他の誰よりも、身近に。
類型として、モデルとして、です。

私にとって最もロシア的な現象、私に最も重要な、最も身近なのはー精神的な意味で、ですー
この問題です、うーんと、聖アントニウス・コンプレックスとでも呼びましょうか。

つまり、精神と物質の葛藤です。それはハムレットの問題です。
私たちの知るハムレットはシェークスピアの創造です。
ドストエフスキーの創造ではありませんーですから、これはロシアの発見とは言えません。

聖アントニウスもロシア人ではない。
しかし、この聖アントニウス・コンプレックスは私には最も重要な問題です。
精神と物質の葛藤です。

人間の内側で神が悪魔と戦っている闘いなのです。
これがきわめて重要です。

トルストイもそれを感じていました。そのために悩みました。
彼は道徳の立場にいつも立っていました、むき出しの質問をしました。

芸術とは何か?

こんなものは誰も必要としていないと彼は決めました。
ブルジョアの迷信だ。

当時すでに大変な左翼でした。

彼は自分の創造的な仕事を否定し、初歩の読本を書き始めたり、色々なことをしました。

農業もやりたかった。
葛藤です。

理想と、可能であること、現実主義的に可能であることとの、葛藤です。


Q:そろそろお仕舞いにしたいと思うのですが。随分お時間を拝借しました。お話しをうかがえて、とても有り難く思います。


どういたしまして。


Q:祖国にーあなたの国とあなたの映画に、幸せに帰ることが出来ることをお祈りします。


いつポーランドに帰るのですか? [タルコフスキーはこの問いを私にしたーJ.I.]


Q:1月ほどで。


ここには何をしに来たのですか? レポーターとして?

Q:いいえ、個人的な事です。友人を訪れています。

そうですか、神様が御2人とともにあるように。
そしてもし出来ることなら、ポーランドを離れないように。

Q:国を出る気はありません。

亡命は重い負担ですよ。
ロシアからこちらに来た人がいてね、友だちです、誰なのかはどうでもいいことです-
「うーん、ええ? さあ。何? どうやって? 出るー出ない? 

何をすればよいか? どうやって生活するか?」ー
出ないように努めなさい。

出ないで済むように出来ることは何だってやりなさい。
そんなことはやっちゃあいけない。

母なる祖国を離れるべきじゃない。

ポーランド人も、ロシア人も、スラブ人一般に、そうだ。
他のどこにスラブのルーツを見つけるんだ? 

もちろんポーランドは西側に帰属する国だ、それは間違いない。
しかしポーランドのルーツすら、はるか東洋までひろがっている。

ロシアが東洋に帰属するからじゃないですよ。

ロシアのためにでもないですよ。
そうではなく、一般に東洋のほうに引かれる力が強いからです。

告白しましょう、私にはタイ、ネパール、チベット、中国すら、こういう国は精神的に霊感を受けた国です、フランスやドイツよりも精神的に私にはずっと身近です。
いろいろあるにしても、そうです。

そういうことを全部分かっているけど、理解し、好んでもいるのだけど、結局西洋風に育てられた。

ロシア文化一般が今日では西洋文化だ。

しかし、あの精神、東洋と私たちをまさしく結びつけるあの神秘主義ーそれは私たちにとって非常に近しいものだ。

ポーランドがカトリックの国であるにしても、です。
ところで、ポーランドのカトリックは不思議だ、例えばイタリアのカトリックとは違う。

共通点がない。
同じ法王を戴いているらしいけど。

ええ、これは非常に興味深い-もちろんポーランドはいつも2つの世界の間に挟まっていた。

ロシアはいつもポーランドをいたぶっていた。
ロシア人はそれをとてもよく覚えている。
それについて知っている。何が言えるかというと-
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html

メンテ
アンドレイ・ タルコフスキー(1932年4月4日 - 1986年12月29日) ( No.8 )
日時: 2022/05/17 05:46
名前: スメラ尊 ID:Gjda1JhU

アンドレイ・ タルコフスキー(1932年4月4日 - 1986年12月29日)

アンドレイ・ タルコフスキーは、ヴォルガ川近郊のザブラジェで1932年4月4日、アルセニー・タルコフスキーとマリア・イワノヴナ・ヴィシニャコーワの息子として生まれた。

父は詩人で、その詩作によって後年にはかなりの名声を獲得することになる。

両親はモスクワの文学大学に学ぶ。

タルコフスキーが生まれた村は、もはや存在しない。

ダムがその地域に建設されて、人工湖の水底に眠っているのだ。

しかし、タルコフスキーが子ども時代を過ごした場所とそのイメージは、彼に消えることのない影響を及ぼし、作品に深甚な影響を残すこととなった。

一家がモスクワ郊外に引っ越した1935年には、父母の間の関係にひずみが見えはじめ、やがて、2人の離婚と、父の出奔を招くことになった。

アンドレイは、母、祖母、及び妹の家族構成、つまり男手のない家庭で成長した。

1939年に彼はモスクワの学校に入学したが、後に戦時中の疎開でヴォルガ河畔の親類の元に移った。

戦争の勃発で、父は兵役に志願、負傷して片脚をなくすことになる。

一家は、1943年にモスクワに戻った。

そこで、タルコフスキーの母は、印刷所の校正係として働いた。

戦時の年月は、少年の心に2つの大きな懸念が重くのしかかる日々であった。

死なずにすむだろうか? そして父は前線から無事に帰ってくるのだろうか? 

しかしながら、アルセニー・タルコフスキーがやっと戻ったとき、赤い星の勲章で顕彰されていたが、彼が家族の元に戻ることはなかった。


息子が芸術分野の仕事を見つけることを、タルコフスキーの母は一貫して望んでいた。

芸術の価値に対する彼女の信念は、彼が正式に授けられた教育に反映されている。

音楽学校、後には、美術学校に学んだタルコフスキーは、自分の映画監督の仕事はこうした訓練がなければ到底考えられないと、後年になって述懐している。

1951年から、彼は東洋言語大学で学んでいる。

これらの勉学は、しかしながら、スポーツによる負傷によって終わりを告げ、タルコフスキーは、シベリアへの地質調査団に加わり、そこでほぼ1年の間滞在し、ドローイングとスケッチのシリーズを製作した。

1954年に、この旅から戻った時、彼は、モスクワ映画学校 ( VGIK )に首尾よく合格し、ミハイル・ロンムの元で学ぶことになる。


タルコフスキーの商業映画第1作『僕の村は戦場だった』 (1962年)は、きわめて見通しの悪い状況で生まれた作品であった。

この映画は、E・アバロフ監督で撮影が開始されていたが、撮影されたシークェンスの質が不良なので中止されたプロジェクトだった。

後に、やはり映画を救済しようという決定がなされて、タルコフスキーがその完成の責任を負った。

こんな状況であのような情緒的なインパクトをもつ作品を創造できたという事実は、映画監督としての彼の力量とヴィジョンの強さを証言するものである。

彼のものでない素材が混ざっているにもかかわらず、このフィルムは彼の子供といってもいいだろう。そして、彼のスタイルの紛れもない刻印を帯びている。

大人に早くならざるをえなかった幼い少年、最後には戦争によって殺された少年の運命を描いている。

タルコフスキーは、自身の子ども時代とイワンの子ども時代との見かけの平行関係を否定して、両者の共通点は年齢と戦争という状況にすぎないと述べている。

映画は、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞し、タルコフスキーの国際的な名声を一気に確立させた。


『鏡』 ( 1974ー75年)は、自伝的な要素を強くもち、親密な幻視の強度を有している。

伝えられるところでは、映画には実話でないエピソードが全くない。

それゆえに、『鏡』はタルコフスキーの最も個人的な作品であり、特にロシアでは、(その主観主義のために)厳しい批判にさらされることになった。

しかしながら、幼年期を描出するその驚異的な手法と、子どもの、魔法のような世界観は、タルコフスキーの全作品に横溢する暗示的な技法を理解する鍵を我々に提供している。

ttp://homepage.mac.com/satokk/petergreen.html

@僕の村は戦場だった

ttp://www.youtube.com/watch?v=OkzTfa6_9nQ
ttp://www.youtube.com/watch?v=RBhA5vkxW4k&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=raeSygQ6Gvw&feature=related

ttp://www.youtube.com/watch?v=BJ80Mh-G5is&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=FER7x80Vz9A&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=kFwsh6YJJdA&feature=related

ttp://www.youtube.com/watch?v=qarrhSAWXq8&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=-nGkfGYTxMk&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=dTamjSg8qUI&feature=related

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噂には聞いていましたが、これほどまでの傑作とは思いませんでした。すばらしい映画でした。

タルコフスキーならではの詩的な映像と、独ソ戦争の悲劇を現実的にとらえた対照的な映像が見事にコラボレートして、一歩間違うとおとぎ話のような陶酔感の中で迎える衝撃的なラストにうなってしまいました。


一人の半裸の少年が森にたたずんでいます。

蝶が舞い、その蝶を視線が追いかけるとカメラが蝶の視線のごとくふわっと舞い上がります。

ショットは変わって少年の前に一人の母親らしき女性。

うれしそうに駆け寄る少年。

次の瞬間、ぼろ小屋で飛び起きる少年。

実はこの少年はソ連側からドイツに潜入して情報を探るゲリラ兵なのです。ショッキングなオープニングに一気に引き込まれます。


湿地の中を必死で駆け抜けてソ連領に舞い戻ったところから本編が始まります。


戦場の場面がリアルに生々しく語られる現実と、少年が夢見るときにみる平和な頃の詩情あふれる映像の対比が実に効果的で、本当に美しい。

湿地の中を進む場面で水面に映る照明弾の光の動きの中で船をこいでいくショット、

少年が夢の中でみる母親が井戸の外で倒れたところに降りかかる井戸水のショット、

あるいは少年が愛らしい少女とリンゴを積んだトラックに乗っていく中で、リンゴが道にこぼれだし、馬が拾い食いするショット

などタルコフスキーならではのファンタジックな映像もふんだんに盛り込まれています。

すでに両親の行方もわからない少年イワンの親代わりは戦場の3人の兵士たちだった。そして、冒頭のゲリラ斥候を終えたイワンにその兵士は幼年学校へ行くように勧める。

しかし、それに反対し、再度斥候にでる。無事ソ連領に送り届けた兵士たち、しかしまもなく戦争は終結。

ドイツの収容所を制圧した兵士たちがそこでみたのはドイツ軍が捕まえたソ連からの斥候たちの処刑のリストファイルだった、そしてそこにはイワンの名が・・・・


処刑される寸前に見たであろうイワンの幻想は愛くるしい少女と一緒に浜辺を駆け抜ける場面でした。

タルコフスキーならではの映像美の世界とサスペンス色あふれるストーリー展開、そして悲劇的なラストに見せる切ない現実への警告。完成度の高い見事な作品でした。
ttp://d.hatena.ne.jp/kurawan/20100510


19 :無名画座@リバイバル上映中:2006/02/25(土) 18:52:48 ID:nrY8uN4r

原作は「イワンの少年時代」というタイトルですよね。

でも何だか皮肉な題だなあ。少年時代を少年のまま過ごすことも叶わず、
戦争によって踏みにじられ、大人にならざるをえなかったイワン。

回想シーンがあどけない笑顔を浮かべてたのに、現実のシーンでは微笑を忘れた
一切感情を押し殺した表情をしてたのが余計に哀しい。

25 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 10:25:13 ID:za8+WElc
もし、記憶違いなら悪いけど少年のお母さんが腋毛生やしてたような・・・

26 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 14:54:33 ID:pWzQBXUM
おっ、いいところに目をつけましたね。なかなか目ざといですな。
あのお母さんはどうも色っぽすぎていかんです、ハイ。



28 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/09(木) 21:33:09 ID:BSZv+BGP
いや、ほんとに。
少年の回想シーンとは思えないほど肉感的ですね。


『鏡』を観ててもそう思うんですが、

どうもタルコフスキーにとって母親というのは
そういう肉感的な存在としてイメージされるみたいです。

29 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/10(金) 21:02:41 ID:G7Eo1+60

母親役はイリーナ・タルコフスカヤ。

30 :無名画座@リバイバル上映中:2006/03/11(土) 13:38:57 ID:UEITlvEh

おそらくイリーナ・タルコフスカヤさんは監督の最初の奥さんではないかと。
(同姓同名でなければ、イリーナという奥さんがいたはず)

38 :無名画座@リバイバル上映中:2006/05/12(金) 17:13:15 ID:9534X0Wy
浜辺で母が手を振って立ち去ろうとするところ恐いぐらい。

48 :無名画座@リバイバル上映中:2006/09/03(日) 23:38:29 ID:VbWH5bGO
ラストの水はすごかった
ttp://mimizun.com/log/2ch/kinema/1139048950/

_______________

A アンドレイ・タルコフスキー 鏡 (ЗЕРКАЛО) 制作 75年 ソ連

ttp://www.youtube.com/watch?v=Ka6hX8OJrEs&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=Ox10yhzcfAI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=s380-CKcsgs&feature=related

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「魂の映像詩人〜タルコフスキー」

「僕のみる夢は、いつも同じだ。

僕が40数年前に生れた祖父の家、それが必ず再現される。懐かしい場所だ。

そして白いテーブル・クロスの食卓がある。

家に入ろうとして入れない・・・、そんな夢を何度か見た。

薄汚れた丸太の壁やよく閉まらない扉などを見て、夢だなと思うことがある。

そういう時には妙に物悲しく、目覚めたくないと思ったりする。

時に何事か起きて、あの家も、周囲の林も夢に見なくなる

夢に現れないと、僕は淋しくなる。夢を待ち焦がれるようになる。

夢の中で僕は子供にかえり、幸せを感じるのだ。まだ若いからだろうか?」


『鏡』は、タルコフスキーの作品のなかで最も難解な作品かもしれない。

なぜなら、この作品に貫かれているのは監督の内省的な自伝的要素の強い作品になっているからだ。自分の内面を見つめることさえ難しいのに、人の内面に入るのは困難なことである。

物語は父と別れた母への思いと、同じように妻と子供たちと別れてしまった『私』の回想と夢で綴られる。

母が印刷工場で誤植かもしれないと大騒ぎした日に、同僚のエリザヴェータから身勝手だと責められる。

そして、主人公も妻から「あなたは自信過剰よ。自分が存在するだけで、家族は幸せになると思っている」と母に似たような非難をされる。

自己の存在があっての世界。自己の存在があっての他者。

そうした人と人の繋がりの感情の襞が、この作品では鏡を通して語られる。

作品の冒頭近く、風に揺らぐ草原の中を通りすがりの医者が母に語りかける。

「・・・ごらんなさい。自然も素晴らしい。草も木も感じたり、認識したり、理解するのです。・・・

われわれは走り回り、くだらんおしゃべりをする。自分の中にある自然を信じないからですよ。

世俗のことばかり忙しくて・・・」と。

内なる自然、それは『神』と同義語ではなかろうか。

人間としての良心。善悪や恥に対する認識。

『惑星ソラリス』でもそれらは同じように語られる。そして、スナウトに「人間に必要なのは鏡だ」と語らせている。

自己を見つめるための『鏡』、
自己の内面を時間と空間を飛び越えて映し出す『鏡』。

鏡に映った自己は虚像ではあっても、その内面の多くを物語ってくれる。そして、それは実像なのである。


スターリン政権下、誤植は命とりだったのである。

そのため奔走した母。それを攻める同僚。
観ているものには理不尽さを感じないではいられない。

それは、時代のゆがみの現れ、タルコフスキーのソ連政権に対する不信感の現われだったにちがいない。


ともあれ、この作品は言葉で表し難い。それは冒頭述べたとおりである。

しかし、タルコフスキー特有の映像。この映像を見ているだけで至福のひと時を感じてしまう。

また、感情の奥襞を言葉のやり取りでさらけ出していく手法はベルイマンを、夢のシーン、特に母がベッドから浮き上がるシーンや家の壁が崩れ落ちるシーンにはブニュエルの影響が認められる。


そして、作品の随所に現れる『水』と『火』のイメージは、次作 『ストーカー』を経て『ノスタルジア』で頂点に達する。

≪父の詩≫

「私は予感を信じない 

前兆を認めない 

中傷も毒も恐れない 

この世に死は存在しないのだ 

すべては不死だ 

すべては不滅で17歳でも70歳でも死を恐れる必要はない 

ただ現実と光あるのみ 

この世に闇もなく、死もない 

我々はみな海辺に出る 

不滅の海の広がり
 
我々は力をあわせて綱を引く
 
家というものも永遠だ 

私は好きなときに呼び戻し 

その時代に生き 家を建てる・・・

それゆえに今 我々は妻や子と祖父や孫と一つテーブルにいる 

もし私が手を挙げれば 未来もここに現れる 

光も永久に残るだろう
 
過ぎ去った日々を私は肩に積み重ねて 深い時の森を抜けてきた 

私は自らこの世紀を選ぶ・・・」


鏡《ストーリー》


私の夢に現われる母・マリア。

それは、40数年前に私が生まれた祖父の家。

うっそうと茂る立木に囲まれた家の前で、母・マリア(マルガリータ・テレホワ)はいつものようにもの思いに耽つていた。

一面の草原にたたずむ彼女に行きずりの医者が声をかけるが、彼女は相手にしない。


母は、たらいに水を入れ髪を洗っている。
鏡に映った、水にしたたる母の長い髪が揺れている。


息子≪私の少年時代≫・イグナートが家の中にいると、外では干し草置場が火事だと母が知らせに来た。

1935年のことだった。その年、父は家を出ていった。

私は突然の母からの電話で夢から覚め、エリザヴェータが死んだ事を知らされた。
彼女は、母がセルポフカ印刷所で働いていた頃の同僚だった。

私は母に、母の夢をみていたことを知らせる。

両親と同様、私も妻ナタリアと別れた。

妻は、私が自信過剰で人と折り合いが悪いと非難し、息子イグナートも渡さないと頑張っている。

妻のもとにいるイグナートのことは、同じような境遇にあった自らの幼い日を思い出させる。

赤毛の、唇がいつも乾いて荒れていた初恋の女の子のこと。

同級生達と受けた軍事教練のこと。それは戦争と、そして戦後の苦難の時代でもあった。

そして、哀れだった母のこと。

大戦中、疎開先のユリヴェツにいた時、母に連れられて遠方の祖父の知人を訪ねて、宝石を売りに行き、肩身のせまい想いをした時のことなど、彼にとって脳裏に鮮かに焼きついている幼い頃のことが思い出される。


母の負担になったかもしれない自分の少年の日々のことを思うと、私の胸は疾く。

イグナートが同じ境遇をたどっているのかも知れないと思うと、さらに私を苦しめる…


そして、夕暮時、母が遠くで見守るなか、広い草原を子供たちが年老いた母につれられて歩いて行く。
ttp://acusco.cocolog-nifty.com/higurasi/2008/07/post_20eb.html


アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー


―1985年3月、ストックホルム― 『鏡』に関して


Q. 『鏡』であなたはご自身の生い立ちを提示されました。どのような鏡をあなたは使われたのですか。


その鏡は、スタンダールの鏡のように、道中をたどる鏡ですか。それとも、その中に自分自身を発見し、それまで知らなかった自分自身について何かを学ぶことになった鏡ですか。

言い換えますと、この作品はリアリスティックな作品ですか、それとも、主観的な自動創造なのですか。あるいはもしかすると、壊れた鏡の破片を集めて、映画的なイメージの枠内に収めて、完全な総体を構成する試みなのでしょうか。


映画というものは、部分を集めて一個の総体にする可能性をいつも創造してくれます。

映画は結局、モザイクのように、切り離されたショットから構成されています。

色彩とテクスチャーの異なる個々の断片で構成されています。

ですから、断片の一つ一つはそれ自体では、無意味かもしれません。またそう見えることでしょう。

しかしその総体の中に収まると、断片が絶対に必要なエレメントになるのです。

個々の断片はその総体の枠内でしか存在しません。だから映画は、私にとって最終的な結果を見る目で考えぬかれていない、いかなる断片もフィルムに存在しない、存在し得ないという意味で、重要なのです。

個々の断片のひとつひとつは、まったき総体によって共通の意味にいわば彩色されているのです。

言い換えると、断片は自立した象徴として機能せず、ある独自の、唯一無二の世界の一部としてだけ存在するのです。

そういうわけで、『鏡』はある意味で私の理論的な映画観に最も近いものです。


ご質問は、どのような種類の鏡なのか、でしたね。

ええ、まず第一に、この映画は創作されたエピソードをまったく含まない私自身の脚本に基づいています。

エピソードのすべてが実際に私の家族の歴史のものです。そのすべてです。例外はありません。

唯一創作されたエピソードは、ナレーター、作者の病気です。

作者はスクリーンに映りません。


ところで、この非常に興味深いエピソードは、作者の精神的な危機、彼の魂の状態を伝えるために、必要だったのです。


ひょっとすると、彼は命に関わる病気なのです。

ひょっとするとそれが映画を作り上げるさまざまな回想を生み出す理由なのです。
死ぬ間際に人生の最も重要な瞬間の数々を思い出す人のようにです。

ですから、これは作者が自分の記憶に加えた単純な暴力ではありませんー私は私が欲するものだけを覚えているのですーそんなものではありません、これらは臨終の時の男の回想なのです。

自分の思い出すエピソードを良心の秤にかけているのです。

このように、唯一創作されたエピソードは、他の完全に真実である回想に必要な先行条件になったのです。


この種の創造、このように自分自身の世界を創造することがこの真実かどうか、そうお訊ねなのですね。

ええ、もちろん真実ですが、私の記憶に反射したものとしての真実です。

例えば、撮影に使われた私の子ども時代の家を考えてみましょう。

映画であなたが目にする家です。あれはセットです。

つまり、あの家は昔、私の家が建っていた全く同じ場所にもう一度建てられたのです。

あそこに残っていたものは、基礎すらなかった、かつてそこにあった穴ひとつでした。

まさにその場所に家がもう一度建てられたのです。写真から再建したのです。

これは私にはきわめて大切なことでした。

私が何らかの自然主義者になりたかったからではありません。

そうではなく、映画の内実に対する私の個人的な姿勢の総体がそれにかかっていたからです。

もし家が別物に見えたなら、それは私にとって個人的なドラマになったことでしょう。

もちろんこの場所で樹木はずいぶん生い茂りました。すべてが生え放題で、ずいぶん切り倒さねばなりませんでした。

しかし、私がママをあそこに連れて行くと、ママはいくつかのシークェンスに出ていますから、彼女はあの風景にひどく心を動かされたので、私は正しい印象が創造されたのだとすぐに分かりました。


こう思うでしょうね。なぜまた、過去を念入りに再構築することが必要だったのか、と。

それもまた、ただの過去でなく、私が覚えていること、そしてそれを私がどのように覚えているか、それを再現することが必要だったのか。

私は、いわば、内的で主観的な記憶のために特定の形式を探求しようとしたのではありません。

私は昔のままにすべてを復元しようと努めました。

つまり、私の記憶に固定されたものを文字どおり繰り返そうと努めました。
その結果は非常に不思議なものでした。私には何とも奇妙な経験でした。

観客の興味を引くために、関心を引きつけるために、観客に何かを説明するために、構成されたり創作されたエピソードは何ひとつない映画を私は作りました。


エピソードのすべてが、まさしく私の家族に関する、私の生い立ちの、私の人生の回想だったのです。

そして、それが実は非常にプライベートな物語であるという事実にもかかわらずーもしかすると、まさにそのためにー私は後でたくさんの手紙を受け取りました。

映画を見た人たちは「どうやってあなたは私の人生で起きたことが分かったのか」と訊いてきたのです。

これは非常に重要です、ある内的な意味で、非常に重要です。

これはどういう意味なのでしょう。

これは、道徳的で精神的な意味で非常に重要な事実であると私は言いたいのです。

なぜなら誰かが自分の真実の感情を芸術作品で表出するなら、それは他者にとって秘密のままであることはありえないからです。

もし監督や作家が嘘をついているなら、ものごとを人工的に作り上げているなら、彼の作品は完全に-

Q. 「洗練の極み」


そう。イタリアでは、cervellotico, troppo cervellotico と言う。

「人工的に、よく工夫されている」という意味です。

そんな仕事は誰の心も動かさない。

だから、作家と聴衆の間の相互理解は、それがなければ芸術作品は存在しないのですが、創造する者が誠実であるときにのみ可能なのです。

しかし誠実な作家が自動的に傑出した作品を生むという意味ではないですよ。

能力と才能が基本的な予備条件なのは確かです。

ただし、芸術家の誠実さが欠けていたら、真の芸術的創造は不可能です。

本当のことを言えば、何らかの内的な真実を言えば、必ず理解が得られると私は信じています。

お分かりになりますか。提示された問題がきわめて複雑でも、イメージのシークェンスが、作品の形式構造がきわめて複雑でも、創造者にとって根本的な問題はいつも誠実さなのです。

構造の点で、『鏡』は私の映画で全般的にもっとも複雑なものです?構造としてです。

個々に考えられた断片としてではなく、まさしく一つの構造としてです。
そのドラマツルギーはなみはずれて複雑で、内転したものです。


Q. 夢や追憶の構造に似ていますね。結局これは普通の省察ではありませんね。


ええ、これは普通の省察ではありません。そこには、そういう込み入ったものがたくさんあります。

自分でもよく理解できないものもあります。

例えば、母に出演してもらうというのが私にはとても重要でした

映画にイグナーツ少年が座っているエピソードがあります-イグナーツじゃない-何て名前だったけ?

 作者の息子、彼がだれもいない父親の部屋で座っている。これは現在です、今現在です。

この少年は語り手の息子です。その少年は作者の息子と、少年時代の作者自身の両方を演じています。

で、彼がそこにいるとき、ドアベルが鳴ります。

彼がドアを開けると、女の人が入って来て、「あら、家を間違えたようね」と言います。

家を間違えたのです。これが私の母です。

で、彼女はドアを開けるこの少年の祖母です。

しかしなぜ彼女は彼が孫だと分からないのでしょう。なぜ孫は祖母が分からないのでしょう。


さっぱり分かりません。つまり?

第一にこれはプロットで、台本で説明されていません。

第二に、私にもこれは明確でないのです。

Q. 人生のすべてが理解出来るわけでも、明確なわけでもありません。


そうですね、私にとって、それは?どう言えばいいのかな?

さまざまな感情の絆と折り合いをつけることなのです。

私にとって、母の顔を見ることがきわめて大切なことでした。

この映画は結局彼女についての物語なのです。

彼女は玄関を不安げに、何かおずおずと、入って来ます。

ドストエフスキーの流儀で、マルメラードフの流儀でね。
それから彼女は孫に言う。

「家を間違えたようね」

あなたはこの心理状態を想像出来ますか。

私にとって、このような状況に落ちた母を目にすることが大切だったのです。

混乱した時の、気後れした時の、恥ずかしがっている母の顔を見ることが重要だったのです。

しかしちゃんとしたサブプロットを作るには遅すぎると私は分かっていました。

なぜ孫を認知できないのか、明らかにしてくれるように脚本を書くにはすでに手後れでした。

目が悪かったからとか何とか、ね。それを説明するのは非常に簡単なことだったでしょう。

しかし私は自分に言い聞かせました。

何もでっちあげないぞ。


母にドアを開けさせて、家に入り、息子[原文のママ]を認知できないようにしよう。

少年は彼女がだれか分からない。

この状態で彼女は外に出てドアを閉めることになります。

それは、私にとりわけ身近な人間の魂の状態です。

何か不如意の状態。精神的に縛られた状態です。

これを目にすることが私には大切だったのです。

一種、辱められた状態の人間の肖像です。

おとしめられたという感じです。


これを、彼女の若き日のシーンと並べてみると、そうすると、このエピソードは私に別のエピソードを想起させます。

つまり、若いころにイヤリングを売りにあの医者のところに行きます。

彼女は雨の中で立っています。何か説明しています、何かについて話しています、なぜ雨の中でなのでしょう。何のためなのでしょう。

もしかすると、このような謎が何もなければずっと良いのでしょうね。

しかし全く説明のない、理解不可能なこのようなエピソードがいくつかあります。
で、私たちにはその意味を探る手がかりがないのです。


例えば、人々はこう言うでしょう。

「向こうに座っていて、少年にプーシキンがチャーダーエフにあてた書簡を読むように言うこの年配の女性はだれなのか?」

この女性はだれなのでしょう? アフマートワか??

だれもがそう言います。彼女は実際アフマートワに少し似ています。

横顔が同じなので、彼女を思い出させるのです。

あの女性を演じたのは、タマーラ・オゴロードゥニコワです。私たちの製作マネージャーです。

実際すでに『ルブリョフ』の製作マネージャーでもありました。

彼女は私たちの大の友だちで、彼女の姿は私の映画のほぼすべてに映っています。
彼女は私にとって護符のようなものでした。

この女性がアフマートワだと私は思いませんでした。

私にとって、彼女はある種の文化的な伝統の継続を表象する「彼方」からの人物でした。

彼女はこの少年を何としても、そうした文化的な伝統と結び付けようと努力しています。

文化的な伝統を、まだ若く、今この時代に生きている人間と結び付けようと努力しています。

これはとても大切なことです。

簡潔に言うと?それは、ある種の傾向、ある種の文化的な根っこなのです。

ここに家があります。

ここには、そこに住んでいる男がいます。作者です。

そしてここには、この雰囲気に、こうした文化的な根っこに影響を受ける彼の息子がいます。

結局、この女性がだれであるのかは、明確に指示されてはいません。

なぜアフマートワなのでしょう? 

ちょっと衒いすぎです。この女性はアフマートワではありません。

簡単に言うと、この女性はまさしく、時の、切れた糸を繕うのです。

シェークスピアの『ハムレット』の場合と同じです。

彼女はそれを文化的、精神的な意味で回復させるのです。

それというのは、近代と過去の時代との絆です。プーシキンの時代と、です。

もしかするともっと後の時代と、かもしれませんーそれは重要ではありません。

私がこの映画で獲得した非常に重要な、きわめて重要な経験は、私にとって同様に観客にとってもこの映画が重要であると判明したことでした。

私たちの家族だけの物語であって、それ以外ではありえないということはどうでもいいことです。

この経験のおかげで私は多くのことが見えるようになり理解したのでした。

この映画は、監督としての、こういってもいいなら芸術家としての私と、私の仕事が奉仕する人々との間に絆があるということを証したのでした。

そのためにこの映画は私にとってとても重要だと分かったのです。

なぜなら、私がそれを理解したとき、私が大衆のために映画を作っていないと誰も私に不服をならすことができないからです。

まあ後になってもいろいろな人がぐずぐず言いましたがね。

しかしそれ以来、私はそういう不服を自分に申し立てることができなくなりました。

芸術と実人生ーロシアの伝統


Q. あなたとご家族の人生はリアリズムが典型的に必要とするものに従って形成されていません。
あまり典型的な家族とは言えません。
おっしゃったように、観客は自分の人生が反映された映像をそこに見いだしたのですが。
あなたのご家族、あなたの家、最も身近な家族はあなたに何を与えてきたのでしょうか。
そして後になって、何があなたの芸術的で文化的な霊感の源になったのでしょうか。
この質問をするのは、ポーランドの観客はロシアの芸術家の生い立ちや背景を何も知らないからです。これは大きな特徴です。一方、西側の芸術家はしばしば生い立ちしか知らされていません。


それは正確ですが、不正確でもあります。ある意味で、正しいと言えば正しいし、正しくないと言えば正しくないですね。

生い立ちを何も知らないという意味で、ロシアの芸術家に関するあなたのご意見は正しくありません。もちろん、現代の芸術家と比較するなら、もしかすると正しいのでしょう。

しかし、私は自分自身と現在の芸術家との比較を考えたことは一度もありません。

私はいつも、19世紀の芸術家と自分が結びついていると感じてきました。

例えば、トルストイ、ドストエフスキー、この流れの作家たち、チェーホフ、ツルゲーネフ、レールモントフ、やブーニンを挙げるなら、彼らの生がどれほど唯一無二のものであり、彼らの作品が人生と、彼らの運命とどれほど密接に結びついていたかがお分かりになるでしょう。

もちろん、私が述べたことは、私が自分をソ連の60年、70年、80年代の、いわば、文化の流れから完全に除外しているという意味ではありません。そうではありません。

しかし私は革命後に突然巨大なギャップが出来たという意見には、原則的に反対です。

この深い溝は、ロシア文化の発達に新段階をもたらすために、意図的に創造されたものです。

しかし私は文化が真空状態で発達できるとは信じません。

貴重な植物を移植しようと努力することは出来ます。

その根を掘り起こして植え替えるのです。

しかし、枯れてしまうでしょう。何も生長しないでしょう。

だから、転換期の作家は自分の運命を非常に悲劇的に経験したのです。

革命前に作家活動をはじめて、その後も仕事を続けた作家たちです。

アレクセイ・トルストイ、ゴーリキー、マヤコフスキー、ブローク。
文字どおりのドラマでした。ブーニンも-。

これは何もかもがもう恐ろしいドラマです。アフマートワも-。他にどんな人がいたか、神のみぞ知るです。悲劇です。ツヴェターエワ-。何も得るものはなかった。

移植は不可能だった。移植はすべきではなかったのです。

文化にこんな恐ろしい実験をするのを許すべきではなかったのです。

こういう生体解剖は、精神を幽閉してしまうので、人体に暴行を加えるよりもさらに酷いことなのです。


プラトーノフを例に取りましょう。

彼は、言うなれば、ロシアにおけるソ連期の発達時代に完全に帰属しています。
また彼は典型的なロシアの作家です。

彼の人生もまた典型的なもので、彼の作品にくっきりと反映しています。
だからあなたのご意見は全面的に正しいと言うことは出来ません。

このような文脈で私のことを言うならば、古典ロシア文化と私との絆は私にとって非常に大切です。

この文化は当然連綿と続いて、今日に至っています。古典ロシア文化が死んだと私は思いません。

私は、人生と作品を通じてーもしかすると無意識のうちにーロシアの過去と未来の間をつなぐこの絆を現実化しようと試みる芸術家のひとりでした。

この絆をなくすことは私にとって致命的でしょう。それなしに私は生き続けることは出来ないでしょう。

過去を未来と結びつけるのはいつも芸術家なのです。

芸術家は或る瞬間に生きているだけではありません。

芸術家は媒体なのです、いわば、過去から未来への渡し守なのです。


ここで私の家族について何が言えるでしょうか。

父は詩人です。

彼は革命が起きたときまだ小さな子どもでした。

革命前に彼が大人であったと言うことは実際出来ません。それは全く正確ではありません。

彼はソ連時代に成長しました。1906年生まれですから、1917年の革命時には11歳でした。

まだ未熟な子どもです。しかし彼は文化的伝統をよく知っていました、教養がありました。

ブリューソフ文学研究所を卒業し、多くの、主導的ロシア詩人のほぼ全員を知っていました。

言うまでもなく、彼をロシアの詩の伝統から切り離して想像することは出来ません。

ブローク、アフマートワ、マンデリシュターム、パステルナーク、ザボロツキーの系譜から切り離して想像することは出来ません。

これは私にとってとても重要な事でした。或る意味で私はこのすべてを父から受け継いだのです。


私を育てたのは、私の両親、特に母です。

なぜなら父は私が3歳の時に母の元を去ったからです。

そういうわけで、私は実は母に育てられたのです。

詩人として父が私にどのように影響したのか、はっきりとしたことを言うのは難しいでしょう。

もっと生物学的な意味で、無意識のレベルで、私に影響しました。

もっとも私はフロイトの信奉者ではありませんが。フロイトにはちっとも感心しません。

ユングも又私の趣味ではありません。

フロイトは俗悪な唯物論者です。切り口が違うだけで、パブロフと同じです。

彼の理論は人間の心理を説明するひとつの可能な唯物論的異稿にすぎません。


父は私に何ら影響しなかった、内的な影響力を持たなかったと思います。

何もかもが概ね母のおかげによっています。

私が自分自身を見いだすのを助けてくれたのは母です。

映画でも私たちの生活状態がとても厳しかった、とても困難であったことがはっきりと分かります。

そういう時代でもありました。

まさにその時に、母は独り残されたのです。

私は3歳、妹は1歳半、母は私たちをずっと育ててくれました。

再婚もせず、いつも私たちと一緒にいました。

母は2度と結婚しなかった。

彼女は夫を、私の父を、一生愛していました。

彼女は並外れた女性でした。実際聖女でした。

最初母は生活に対して全く準備が出来ていなかった、全くです。

そして、この無防備な女性をとりまく全世界が崩壊したのです。

つまり、まず第一に2人の子連れだというのに手に職が何もなかったのです。

私の両親はブリューソフ文学研究所で勉強をしていましたが、そのとき母は妹を妊娠しました。

それで母は免状を何も持っていないのです。

教育を受けた女性として準備する時間が全くなかった。

彼女は文学で自分の才能を試しました。

私は彼女の文章をいくつか見たことがあります。

彼女を襲ったあのカタストロフィが起きなければ、母は全然違った形で自己実現が出来たでしょうね。

だから本当に家に資産がまったくなかったのです。

母は印刷所の校正の仕事をしました。そこで最後まで働いていました。

つまり、戦後も、ずっとです、退職するまでです。

どうやって母がやりくりできたのか、どうやってがんばり抜いたのか、どうやって身体がもったのか、私にはまったく理解できません-分かりません。

どうやって私たちに教育を受けさせることができたのでしょうか。

私はモスクワの美術造形学校を出ましたが、そのためには金がかかる。
どこからその金を捻出したのでしょうか。

私は音楽学校も出ましたし、先生からレッスンも受けましたが、それも母が払ってくれました。

Q. それは戦前ですね?

戦前と戦中と戦後です。

誰もが音楽家になるものだと思っていましたが、私はなりたくなかった。

とにかく、どうしてこんなことが可能だったのか、私には理解できません。

まあ、こう言う人もいるでしょう、何か財産があったんだ、教育のある一家の子どもだから、当たり前でしょう。

ーしかし、ここには当たり前のことは何もなかった。

私たちは文字どおり裸足で歩いていましたからね。

夏には全然靴を履かなかった。靴がなかったんです。

冬になると私はフェルトのブーツを履きました。

それで、母が外出しなければならないときには-私たちは-貧乏なんてもんじゃなかった。

赤貧でもまだ言い表せない。

まったく分かりません、母は-分かりません。

母がいなければ、私はこんなふうにはならなかったでしょう、言うまでもないことですが。

私が今あるのはすべて、母のお陰なのです。


そのために、母は私に非常に強い影響を及ぼしましたー影響という言葉でも足りないー世界のすべてが私にとって母と結びついているのです。

ただし、私は、母が生きているときには、そのことに本当には気づかなかった。

母が死んでから、母の死後に、私は突然そのことに気づいたのです。

それに、あの映画を作っているときでも、もちろん当時母はまだ生きていましたー私は映画のテーマを十分には理解していなかった。

私は自分自身を語る映画を作っていると思っていました。

自分の幼年時代、少年時代、青年時代を書いたオデッサ時代のトルストイのように。

映画を撮り終えたとき、この映画が私ではなく、母についての映画だと分かりました。

これはー私の見方から言うとー本来の理念よりもこのようにして相当高貴な精神のものになりました。この理念をかくも完璧に高貴なものにした変化は、映画の製作中に生じました。

つまり、映画は私と共に始まりました。

私があれらの回想の、いわば、眼なのですから。

しかしそれから、まったく異なることが生じました。

この映画に携わる期間が長くなるほど、この映画が何をテーマとするのか、私にははっきりしてきたのです。

Q. 映画館を出たとき、私はこの映画が一編の詩として作られたのだと思いました。
つまり、映画では不可能なものに思えたのですー親密な抒情的な独白であると。

そうかもしれません、私には分かりません。

私は当時形式について何も考えていませんでした。特別なものを考案するつもりはなかったのです。

私が追求していたのは、記憶における復活です。

いや正確に言うと、記憶ではなく、スクリーンに私にとって重要であるものたちが復活することでした。

一般に、最も重要なことはこの道をたどるということで、例えば、自分の想い出を構築するアラン・レネの道をたどることではなかった。

あるいは、現代文学から例を引くなら、ロブーグリエの道を採ることでなかった。
ロシアの芸術家にとって芸術創造の非常に重要な側面は、必ずしも、より美しいものを創造することではなく、道徳的な責任感であったのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/illg.html


オルガ・スルコワ:タルコフスキー・インタビュー


映画を撮るとき、私は俳優と出来るだけ話をしないようにする。

俳優自身が自分の個々のシーンを全体との流れでやろうとするのに、私は強く抵抗します。

時には、直前のシーン、あるいはその直後のシーンとの関連でも、ダメです。

例を挙げましょう。

『鏡』の最初のシーンで、主演女優がフェンスに腰を下ろして夫を待ちながら煙草を吸うシーンでも、主役を演じたマルガリータ・テレホワが脚本の細部を知らないことを私は望みました。

つまり、夫が最後のシーンで帰ってくるのか、永久に去ってしまったのか、彼女は知らなかったのです。

彼女が演じている女性がかつて、人生の未来の出来事を何も知らずに、存在していたのと同じ様態で、彼女にもその瞬間に存在していてほしいという思惑があって、なされたのでした。

もし女優が主役の亭主が二度と帰ってこないと知っていたら、状況の絶望ぶりを演技で前もって表出させていたことは間違いありません。

あるレヴェルで、たとえ潜在意識でなしたとはいえ、私たちはそれを察知したことでしょう。

これから起きることを自分が知っていることを、それに対する自分の態度を露わにしたことでしょう。

そういう細部の知識は大きなスクリーンでは確かに隠しようがないからです。

この場面では、そういう細部を未熟なかたちでばらさないことが絶対に肝要でした。

だから、実生活で経験するのとまさに同じやり方でこの瞬間を経験することがテレホワには必要だったのです。

彼女はこのように、希望をいだき、不信に陥り、また希望を取り戻すのです。

「解決のマニュアル」に触れることはありません。


与えられた状況という枠組みの中でーこの場合、枠組みは夫の帰りを待つことにあるのですがー彼女は自分自身の個人的な生の何か秘密の一片によって生きざるをえなくなった。

幸運なことに私はそれについて何も知りませんがね。


映画芸術で最も重要なことは、俳優がその俳優に完璧に自然なやり方である状況を表出することです。

つまり、その俳優の肉体的な、心理的な、情緒的なそして知的な性格に照応した様態で、ある状況を表出することです。俳優がどのようにその状況を表出するかは、私とはまるっきり無関係です。

別の言い方をしましょう、私には俳優に何か特定のかたちを強制する権利はありません。結局、私たちは皆、自分の完全に独自のやり方で同じ状況を経験しているのです。この例外的な表出力こそ、比類ないものであり、映画俳優の最も重要な側面なのです。


俳優を正しい状態に置くために、監督は自分の内面でこの状態を明確に感知できなければなりません。このようにしてのみ、当面のシーンの正確な調子を見つけだすことが出来るのです。

例えば、よく知らない家に入って、前もってリハーサルしておいたシーンを撮影するのは不可能です。知らない人たちの住居になっている馴染みのない家は、私のキャストに何も意思疎通することが出来ないのは、言うまでもありません。

人間の経験可能で正確な状態こそ、映画の個々の特定のシーンで目指すべき核心的でかつ完全に具体的な目標なのです…テイクの雰囲気を決定する魂の状態、監督が俳優に伝えたいと思う主なイントネーション、これこそ大切なのです。

俳優はもちろん、自分自身の方法を持っていなければいけません。

例えば、すでに触れたように、マルガリータ・テレホワは脚本の全体像を知らなかった。

彼女は自分自身の断片化された部分を演じただけでした。

出来事の帰結や自分自身の役のコンテクストを私が明かすつもりがないと探り当てたとき、彼女はひどく困惑しました…

まさしく、このようにして彼女が直観的に演じられた部分のモザイクを生み出し、それを後に私が全体像にまとめ上げたのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/surkowa.html

アンドレイ・タルコフスキー 鏡

使われた音楽 バッハ「ヨハネ受難曲」
使われた意図 語ることによる受難


さて、今回取り上げる作品は前回に引き続きソ連の映画作家アンドレイ・タルコフスキー監督作品。

今回は「鏡」です。何でもタルコフスキー監督の中で一番「難解」な作品なんだそう。ただでさえ、「難解」と定評のある監督さんなのに・・・その中でも一番難解って・・・

この「鏡」という作品の最後のシーンで、バッハの「ヨハネ受難曲」が使われています。

実はマタイ受難曲も使われています。

タルコフスキー監督がマタイ受難曲を使った作品としては、彼にとっての最後の作品である「サクリファイス」や「ストーカー」もあり、これらについては以前に取り上げております。彼にとっても、色々と思い入れがあるんでしょうね。

しかし、この「鏡」では、マタイではなく、ヨハネ受難曲の方が目立つ使い方。だって最後のシーンでヨハネ受難曲が使われるわけですので、否応なしに注目することになる。

では何故に、この「鏡」ではタルコフスキー監督は、作品の最後という重要なシーンにおいて、お気に入りの「マタイ」ではなく、「ヨハネ」を使ったのでしょうか?


ちなみに、ここでこの「鏡」という作品のあらすじを・・・
と、行きたいところですが、ストーリーも何もあったものではありません。ダテに「タルコフスキーの中で一番に難解。」というレッテルを貼られているわけではないんですね。

タルコフスキーの記憶の中から様々なシーンが浮かび上がってくる・・・そのような構成です。


映画の中の様々なシーンの中で、作品の最後のシーンは、キリストの受難のイメージが特に顕著ですよね?

ご丁寧に十字架までかかっている。

おまけに主人公の母親(ご丁寧にマリーアという名前)が、2人の子供の手をつないで歩く。

映画での2人の子供は主人公とその妹のようです。


しかし、このとき観客はマリアとキリストとパプテスマのヨハネの組み合わせを連想します。

パプテスマのヨハネとイエス・キリストは親戚にあたります。

ヨハネのお母さんのエリザベツはイエスのお母さんのマリアと親戚で、お互いの妊娠中も一緒に暮らしていた間柄。よくいう言い方ですと、「生まれる前からの友達」ってヤツです。

だからマリアさんにしてみても、「親戚のヨハネちゃん」くらいの感じなんでしょう。

このマリアとキリストとパプテスマのヨハネの関係は、作品中ではレオナルド・ダ・ヴィンチの聖母子の絵で予告されています。

将来において、わが子に降りかかる受難をわかっているマリアが、赤子のキリストを抱きしめようとするシーンを描いた有名な絵です。

そこにはパプテスマのヨハネも描かれています。絵画を使うことによってラストシーンを予告し説明しているわけです。


あるいは、雪の中で主人公の少年に小鳥がとまるシーン。

このようなシーンは、キリストがヨハネから洗礼を受けた際に、鳩がキリストにとまったエピソードを思い出しますよね?

タルコフスキー監督の映画「鏡」において、母親マリアが自分の子供の手をつないで歩くラストシーンは、まさに「キリストとマリア」の「鏡」になっているわけです。


この「鏡」という作品は、実に多くの「鏡」となっている。

作品中では、主人公とその父親の間の共通性を強調しています。

主人公とその父親は「鏡」を挟んで向かい合っている状態。

似た容姿の妻。

本人は同じように芸術家。

同じように妻とは不和。

あるいは、レオナルド・ダ・ヴィンチだって、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士という「鏡」をはさんだ状態。いわば、同族意識ですね。

また、ダ・ヴィンチとタルコフスキーも母親の愛への渇望を共通して持っているといえるのでは?

そして、「始めに言葉ありき」の福音書のヨハネに対する同族意識もあるようです。

芸術家として「語る」こと。

そして「受難」。


「語ること」からの受難は、何も、ソ連の問題だけではありません。
いかなる政治体制でも起こっていることです。
だって本当の問題は為政者ではなく大衆なんですから。

それこそ、旧約聖書の時代から、「語った」人は、受難になったでしょ?

にもかかわらず芸術家は「語らないといけない。」存在である。つまり受難は不可避なんですね。


「語る」ことの難しさで、政治に関わることは、最初の方のシーンで出てきます。
主人公の母親が、「検閲に引っかかりそうな言葉を削除しそこなったかも?」と大慌てするシーンですね。


しかし、誰でもわかるシーンは映画の冒頭。

催眠術によって治った吃音者が「私は話すことができます!!」と喜ぶ冒頭。

そのシーンからは、「困難の中」から話すことの喜び・・・つまり芸術家として表現することの喜びが感じられますよね。


しかし、冒頭は「表現する喜び」ですが、ラストは受難のシーン。

「初めに言葉ありき。」のヨハネであり、芸術家肌のヨハネ。

この福音書のヨハネも、タルコフスキーにしてみれば、芸術家同士の同族と言えるわけです。


ヨハネ受難曲の流れる中、十字架を背景にマリアに手を引かれ進んでいく。
2000年前のキリストの受難も、タルコフスキーの受難の鏡といえそうです。

この「鏡」という作品。タルコフスキー監督の様々な自画像が展開されている作品といえそうです。

つまり様々な「鏡」に彩られているわけですね。タルコフスキー監督個人の「鏡」であるとともに、芸術家全般の「鏡」となっているわけです。


「語る」芸術家は「受難」は避けることができない。

神の意思は本人とは無関係にやってくる。


映画の中で数多く登場する草原の草が揺れるシーン・・・これは神がやってくる意味でしょう。


映画における主人公の父親は、神を意味している。

父親に抱かれること、それは神に召し上げられること。

これこそが芸術家誕生の瞬間であり、受難の始まりとなる。


小屋の炎上、原子爆弾、文化大革命、そしてマタイ受難曲の「そのとき大地が割れて・・・」というフレーズ・・・現在の世俗的安定の崩壊のイメージが顕著です。


だからこそ世界には芸術家の聖なるものが必要であり、芸術家は「語らなければならない」。


しかし、それは芸術家の受難につながっていくわけです。

「初めに言葉ありき」のヨハネで終了するこの映画、そのラストのシーンは「言葉ありき」ということで、最初のシーンの「私は話すことができます!」のシーンに回帰して行く・・・

芸術家の受難はかくも終わりなきものと言えそうです。
ttp://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/04-06/04-06-29.htm



05. 2010年8月05日 22:02:26: MiKEdq2F3Q

Bアンドレイ・ルブリョフ 1967年/モスフィルム製作

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アンドレイ・ルブリョフはキリスト教のあり方に疑問を持ちます。

先輩画家からは、愚かな人間たちなどどうでもいいじゃないか、画は神のために描くものだと諭されます。

先輩画家は、愚かな人間たちの上にはもうすぐ最後の審判が下るぞと言います。

しかし、アンドレイ・ルブリョフは先輩画家の言葉に納得ができないのです。

アンドレイ・ルブリョフはモスクワ大公から依頼された修道院の壁画「最後の審判」を描くことができません。


そんなある晩、アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りに迷い込みます。


すでにキリスト教化していたロシアでは、アニミズム信仰を持つ人びとが異教徒と呼ばれて、教化の対象になっていました。

森の奥から響くざわめきを聞きつけたアンドレイ・ルブリョフは好奇心に勝てずにひとりで奥へ奥へと進んでいきます。

裸の女たちが松明を持って川に飛び込んでいました。

アンドレイ・ルブリョフは異教徒の祭りを垣間見ます。

小屋の中では、ひとりの女がはしごをのぼっては飛び降りてを繰り返しています。

女が飛ぶごとに着物がはだけて女の裸体がちらつきます。

アンドレイ・ルブリョフがそんな光景に見とれていると、男たちに「黒い悪魔がいたぞ」とつかまって小屋の中にひきずりこまれて縛られてしまいます。


アンドレイ・ルブリョフは、

「何をする、やめてくれ、お前たちは、最後の審判が恐ろしくないのか」

などと口にします。

小屋の中にはアンドレイ・ルブリョフと女が残りました。

翌朝、アンドレイ・ルブリョフはうしろめたそうな顔をして村をあとにしました。
全裸の女がうるんだ瞳でアンドレイ・ルブリョフのうしろ姿を見送ります。

異教の女マルファとの会話

マルファ
なぜあなたは頭を下にしたいの?
気分がもっと悪くなるのに。
なぜあなたは天の火でわたしたちを脅すの? (ルブリョフが「最後の審判」を口にしたことへの反感)


ルブリョフ
裸になって君たちがしようとしていることは罪なのだ。


マルファ
何の罪ですって?
今夜は愛しあうための夜なの。
愛しあうのは罪なの?

ルブリョフ
こんなふうに人を縛り上げるのは愛なのか?


マルファ
あなたが他の修道士をよぶかもしれないからよ。
あなたの忠実さをわたしたちが受け入れることを強制しようとする人たちよ。
あなたは恐怖の中で生きることが容易なことだと思っているの?


ルブリョフ
君は恐怖のなかで生きている、なぜなら君が知っているのは愛ではなくて獣欲なのだ。
魂のない肉欲、しかし愛は兄弟愛のようであるべきだ。

マルファ
すべての愛は同じではないの?
ただの愛なのよ。


マルファはルブリョフに近づきキスをする。
 
ttp://foonenbo.asablo.jp/blog/2010/03/21/4962351


アンドレイ・ルブリョフの代表作とされるばかりでなく、ゾートフによれば 「中世ロシア・ルネサンス美術の最高傑作である」 とされるイコン画、『三位一体 (トローイツア)』 を見ると、そこには 輝くような平和な光と、透明感あふれる 慈愛の気分が満ちている。

それは 彼よりも 1世紀前のイタリアの画家・ジョットーが パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂や アッシジのサン・フランチェスコ聖堂に描いた、心を洗うような清澄な壁画を髣髴とさせよう。

それなのに、映画の中のルブリョフは、なぜこんなに暗いのだろうか。

 「フェオファン 1405年」 で描かれるエピソードは、ノヴゴロドのスパース・プロブラジェーニエ聖堂の フレスコ画を描いた画家、フェオファン・グレーク (1350頃-1410頃) の助手を ルブリョフが勤めた、という史実にもとづいている。

フェオファンとは 名前が示すように もともとギリシア人 (グレーク) であり、本来はテオファネスという。 ジョットーにとっての師・チマブエにも相当するフェオファンは、コンスタンチノープル (現在のイスタンブール) からロシアにやって来て、ビザンチン絵画の技法をロシアに伝えた。

ルブリョフは 彼の壁画制作に協力しながら、写実的であるよりは象徴的な その方法を身につけ、さらに それをロシア化する。

 その天上の世界のような 清らかで純粋な感覚表現によって、ルブリョフは中世ロシア最高の画家と讃えられるようになるのであるが、映画の このエピソードは まだルブリョフがフェオファンの助手となる前を描いている。


 ルブリョフの競争相手でもあった修道士 キリールが フェオファンのアトリエを訪ねる場面がある。

彼が モスクワの街を歩いていくと、その背後で 「おれは無実だ!」 と叫ぶ男が 無理やり断頭台に かけられようとしている。

その騒ぎを家の中で聞いたフェオファンは、

「やめなさい、一体いつまでその男をいじめるつもりだ。
あんたたちも 彼に劣らず罪人なのに、裁くとは恥知らずだ」 

と、窓から叫ぶ。

映画全体のストーリーとは関係のない、こうした場面を挿入するというのが、この映画全体の手法であって、この場面ひとつでも 当時のソ連支配層 (スターリニストたち) の禁忌にふれただろうことは 容易に想像できる。

 さて、フェオファンは職業的な画家であったから 宗教に対して自由であったが、ルブリョフは修道士としての画家であったから、画家である以前に 宗教的な倫理に従わねばならない。 タルコフスキーは そこに 屈折した魂の軌跡を想像して、そうした彼の苦悩を この映画の根幹にすえた。


 次のエピソード 「アンドレイの苦悩 1406年」 において、民衆とは いかなるものかについて、ルブリョフとフェオファンに議論をさせるのである。

フェオファンは、「人間は忘れっぽい動物だ。 過去の失敗を忘れて悪行をくり返している。 進歩なんてものは全然ない。 イエスが再臨しても、また磔 (はりつけ) にするだろう」 と言う。

 ルブリョフの脳裏をよぎるのは、十字架を背負い 押しつぶされそうになりながら ゴルゴタの丘を登っていく イエスのイメージである。

ユダヤの民衆にも 弟子にも裏切られて、雪のロシアで磔刑につくイエスの映像は、ルブリョフの晴朗な 『三位一体』 のイコン画と比べて、いかにも沈鬱である。

民衆は 「みんな同じ愚かな仲間なんだ。 悪は至る所にある。 わずかな金で裏切る人間もいる。 大衆は災難続きだ。 それでも彼らは黙々と働いている。 不平も言わず、十字架を背負って歩いているんだ。 イエスは死を選んだ。 それは人の世の残酷と不正を教えるためだ」 とルブリョフは言う。

 そして映画は 「襲来 1408年」 のエピソードで、モスクワ大公兄弟の争いに乗じて攻め込んだタタール軍による、ウラジーミルの襲撃と殺戮を描く。

後にゲルツェンの流刑地となる ウラジーミルの町である。

"タタール" とは、中国では韃靼人と呼ばれた モンゴル系の遊牧民で、彼らは 14、15世紀にたびたびロシアを攻撃し 支配した。 このタタール族に蹂躙された時代を、ロシア史では "タタールのくびき" と呼ぶ。

ウラジーミルの町は焼かれ、大公と市民が たてこもるウスペンスキー大聖堂も破壊されて、暴行と殺戮が行われる。

 その時、犯されそうになった白痴の娘を助けるために、ルブリョフは斧で一人の兵士を殺めてしまう。
しかも その兵士はタタールではなく、タタールと結んだ大公の弟軍のロシア人同胞、キリスト教徒だった。



 戦のあと、廃墟のようになったウスペンスキー聖堂で、亡霊として現れたフェオファンに ルブリョフは言う。

「私は決心した、私は絵を捨てる」 と。

なぜ、との問いに、人を、ロシア人を殺めたからだ と答える。

フェオファンは

「悪は 人間の形でこの世に現れる。
だから 悪を倒すための人殺しもあるさ。
神は許して下さるだろう。
だが 己を許すな。 罰しながら生きるのだ。
すべきことは、聖書にあるとおりだ。

"善をなすことを覚えよ、真実を探せ。
悩むものを救え、孤児にやさしくせよ。

そうすれば、お前の罪は軽くなるだろう。
罪に汚れたその身も、雪のように潔白となろう" と書いてある」

と言って、自分に厳しくなりすぎないよう 求める。

しかしルブリョフは きかず、「許しを乞うために、無言の行に入る。 これからは 一切口をきかない」 と答える。 その無言の行の実践を描くのが、映画の次のエピソード 「沈黙 1412年」 である。

 この寓意は何だろうか?

私には、戦争中の林達夫 (1893-1984) の "沈黙" が思い出されるのである。

国家が 太平洋戦争の総力戦へと突き進むにつれて、かつての社会主義者はおろか、自由主義者でさえも大政翼賛会に身をゆだねて、"神国日本" が "鬼畜米英" を倒すのだと 戦争を謳歌するとき、正気のある人間だったら、沈黙するほかはない。

当時、林達夫がマイナーな雑誌の片隅にわずかに書き残した文章は、こう語っている。


 こうして私は、時代に対して 完全に真正面からの関心を喪失してしまった。

私には、時代に対する発言の大部分が、正直なところ 空語、空語、空語! としてしか感受出来ないのである。

私は たいがいの言葉が、それが美しく立派であればあるほど、信じられなくなっている。

余りに見え透いているのだ。 私は、そんなものこそ有害無益な "造言蜚語" だと、心の底では確信している。 救いは絶対に そんな美辞麗句からは来ないと断言してよい。  (「歴史の暮方」)


 友人だとばかり思っていた学者や知識人が、軍国主義になだれ込んでいく。
数年後に戦争に負ければ、たちまち手のひらを返して "平和主義者" になる連中なのだが。

 私は あまりにペシミスティックなことばかり 語ったかもしれない。 だが、正直のところ、哲学者ならば、プラトンのように ユートピアを書くか、ボエティウスのように 『哲学の慰め』 を書くかする外には手がないような時代のさ中にあって、威勢のよいお祭りに、山車の片棒かつぎなどに乗り出す気などは 一向に起こらぬ。 絶壁の上の死の舞踊に参加する暇があったなら、私ならば エピクロスの小さな園を せっせと耕すことに努めるであろう。 これは現実逃避ではなくして 生活権確保への 行動第一歩なのである。  (「新スコラ時代」)


 戦争中、彼は庭造りに精をだしたが、言論人としては 全く沈黙した。
それが本当の 知識人の良心というものだ。
戦争中の日本の建築家たちが どのような発言をし、どのような図面を書いたかは、今度の藤森照信の 『丹下健三』 に詳しく書かれている。

文化人たちが 良心を裏切って権力に迎合する そうした状況は、帝政ロシアの時代にもあった。
そして、革命後のスターリン・ロシアの時代には一層、そうであった。
タルコフスキーは、それを中世におけるイコン画家の行為によせて、シンボリックに描いたのである。

この映画には、中世の時代に見せかけながら、ソ連の窒息しそうな社会体制に対する批判が 至るところに込められている。
そう、これこそ ゲルツェンの仲間の歴史家・グラノフスキーの方法だったである。


 ルブリョフはフェオファンに問う、

「こんな時代が 一体いつまで続くんだ?」 と。

フェオファンは、「分からん、永遠にだろう」 と答える。

ロシアの暗黒の中世も、近世の帝政時代も、そして近代のソ連邦の時代も、さらにまた 我々が生きる現代も、歴史は永遠に繰り返し続ける。

歴史家グラノフスキーは モスクワ大学公開講座で、暗い中世を論じながら、それを 19世紀の帝政ロシアと重ね合わせて、黙示的にツァーリズムを批判した。

タルコフスキーは 『アンドレイ・ルブリョフ』 において、中世ロシアと帝政ロシアと、さらに 20世紀のソヴィエト・ロシアとを重ね合わせて描いたのである。


 この映画が ソ連で上映禁止になり、5年もの長きにわたって お蔵入りしたのは 当然のことであったと言える。 言論を抑圧する側を 最も刺激したのは、おそらく冒頭の 「プロローグ」 であったろう。

これもまた 本編の筋とは何の脈絡もなく挿入されている 幻想的なエピソードである。


 川に面した とある古い聖堂に、追手の追撃を逃れてきた男が着くと、すでに用意されていた熱気球に乗って、聖堂の屋上から 空中に飛翔するのである。

驚愕した人々が見守る中で、何者とも知れぬ "飛ぶ男" は、「俺は飛んだ、俺は飛んでいるぞ」 と歓喜の叫び声をあげる。

しかしそれも束の間、まもなく気球は破れ、男は地面に墜落して崩れ去るのである。


 人は 抑圧の現実世界を脱して、自由の世界へ飛翔しようと夢見る。

しかし 現実の絆や権力による束縛は強く、自由は容易に得られない。

たちまちのうちに 包囲網にからめとられ、沈黙させられてしまう。

事実 タルコフスキーは、この映画をつくったことによって、その後の 5年間を沈黙させられたのである。

ソ連では 映画はすべて官製であったから、当局の許可がなければ映画を撮ることはできない。

フルシチョフによるスターリン批判 (1956年) があっても、強固な体制は簡単には変わらない。 "飛ぶ男" のシーンは、タルコフスキーによる "内面の叫び" のような 体制批判だったろう。


ロシアは デカブリストの乱以来、絶えず改革運動がつぶされて 抑圧の重みに押しつぶされてきたから、ロシアの文学、芸術には 常に悲劇性がつきまとう。

ロシア文学に登場する人物たちには、というより ロシアの芸術家たちには、しばしば 人類の苦悩を一身に背負っているような趣がある。

トルストイもそうであったし、ドストエフスキーも、画家のイワーノフもそうであり、そしてタルコフスキーもまた その最後の作品となった 『サクリファイス』 において、そうであったように見える。


 ところで、『アンドレイ・ルブリョフ』 の飛翔シーンの舞台となった聖堂は、落合東朗の 『タルコフスキーとルブリョフ』 (1994年、論創社刊) にも書いてないのだが、ウラジーミル郊外の ボゴリューボヴォにある、「ネルリ河畔のポクロフ聖堂」 (1165年) である。

初期ロシア建築の傑作と うたわれている珠玉の聖堂だが、さらにまた不思議なことには、『ロシア建築案内』 にも この聖堂は紹介されていない。

 このネルリ河は雨季に増水して、聖堂の敷地は小さな島のようになる。
水面に姿を映す白亜の聖堂は、小規模ながら凛とした気品をたたえている。
きっとタルコフスキーは、ロシアの古典建築の中でも、とりわけこの聖堂が好きだったのだろう。
映画では "飛ぶ男" から見た、聖堂の高い位置の壁面彫刻も写されている。

 しかしながら、この映画で誰もが一番感動するのは、最後のエピソードであろう。 そのタイトルは 「鐘 (コロコル)」 という! 

あの日、映画を見ていて、このタイトルが出てきた時、私は思わず ゲルツェンの 「鐘 (コロコル)」 誌 を連想したのである。

 モスクワ大公は 新しい聖堂のために、鐘造りの職人を さがさせた。
ところが 疫病によって職人の親方たちは 皆死んでしまっていた。
しかし 鋳物師の息子だった少年・ボリースカは、自分は父親から 鐘造りの秘密を教わっている、と嘘をついて、鐘造りの責任者の地位を獲得する。

嘘がばれたら どうしよう という恐怖心と戦いながら、彼は必死で鋳型に使う 特上質の粘土を探し、大勢の職人たちに采配を振るって鋳型を造り、十分な量の銅と銀を用意させ、ついに火をいれて流し込む。

 奇妙なことに、このエピソードでは 少年・ボリースカが主人公であって、ルブリョフは脇に退いてしまう。 無言の行を続けているルブリョフは、時々傍らから 気遣わしげに ボリースの悪戦苦闘を見守っているだけだ。

 ようやく 鐘は ひび割れもせずに できあがり、鋳型をはずすと、大公や外国の使節たちが訪れ、その衆目の前で鐘を吊り上げて、初めて鳴らしてみせる時が来る。 この大鐘を吊り上げるには 巨大な足場を組み、四方八方にロープを張って、大群衆が力をあわせて引く。

しかし外国の賓客は、「聖母マリアに誓って言うが、この鐘は鳴らんよ。 これは鐘などと言えるものではない」 とつぶやく。

 誰もが 不安の気持で注視する中、撞木を振って打ち当てると、鐘は 堂々たる音を立てて、みごとに鳴るのである。 激しい緊張感が破れるとともに 感極まった少年は、野に倒れこんで泣きじゃくる。

その時ルブリョフが現れて、父親のように少年を抱え起こし、初めて沈黙を破って、「泣くな」 と言う。

 ボリースカは 「父さんは 秘密を教えてくれなかった。 ひどい親さ」 と言いながら 泣き続ける。

ルブリョフは、

「立派にできたじゃないか。 何を泣くんだ、祝うべき日だぞ。 さあ、もういい、元気を出せ。 もう泣くな、私と一緒に行こう。 私もまた絵を描く。 お前は鐘を造れ」

と声をかけ続ける。 画家、アンドレイ・ルブリョフの復活である。

 ここで不意に画面はカラーとなり、「エピローグ」 として、ルブリョフが描いた イコン画のディテールを なめるように映し出していく。


 こうして映画を見終わった時、私は、この監督は必ずや ソ連から亡命するだろう と直感した。

これほど批判精神に満ち、自由への希求を持ち続ける芸術家が、いつまでもソ連にとどまっていられるわけもない、と思ったのである。 タルコフスキーは、まさに映画上の ゲルツェンだと思われた。

 たとえば、この最後の 鐘のエピソードが いかに感動的であろうと、映画全体の筋から言って、いかにも唐突である。

アンドレイ・ルブリョフの生涯を描く上で、不可欠のエピソードであったとは、とうてい思えない。

タルコフスキーがこのエピソードを 強引に最終章にいれたのは、鐘を鳴らせたかったのではないか。

ノヴゴロドの "自由の鐘" を。 ゲルツェンが ノヴゴロドの鐘を鳴らせようと 「コロコル」 誌を発行したように、タルコフスキーは鐘を鳴らし、民衆 (ナロード) をして、空を飛ばせたかったのではないだろうか。

 また、この映画を あらためてDVDで見て、私は思う。

そもそも タルコフスキーは アンドレイ・ルブリョフという 一芸術家の生涯を描きたかったのだろうか?

ゾートフが言う "ロシアの真の芸術的天才のシンボル" であるところの ルブリョフの生涯を?

彼は公式には そのように語っている。
しかし、それにしては ルブリョフの芸術家としての主張や創作過程は ほとんど描かれていない。

映画の最後にルブリョフの作品群が、突然カラーになって映し出されるのも、とってつけた感じがしないであろうか?

 タルコフスキーが描こうとしたのは、なによりも、人間の尊厳や 言論の自由を圧殺する ソ連の体制への批判だったのではないか。

ゲルツェンが 生涯をかけて帝政ロシアを批判し、人間の自由と尊厳を回復しようとしたように。

それだからこそ、この映画は当局によって 上映禁止にされたのである。


 タルコフスキーがソ連を出たのは、私の予想よりもずっと遅かった。

それは、私がこの映画を見た 8年後の 1982年で、イタリアで 『ノスタルジア』 を撮るためだった。

ゴスキノ (国家映画委員会) による攻撃のせいで、「20余年間 ソヴィエトの映画界にいて、およそ 17年のあいだ 絶望的な失業状態にあった」 というのは、まさに流刑中の建築家 ヴィトベルクのような思いであったろう。

『ノスタルジア』 を撮り終わったあとも 彼はロシアには帰らず、1984年に事実上の亡命宣言をする。

 もしも タルコフスキーが その 2年後、54歳の若さで死ぬ というようなことがなければ、1991年のソ連崩壊にも立会い、祖国に戻ることが あったかもしれない。

しかし ゲルツェンと同じように、窒息状態のロシアを去ったあと、ロシアの大地への大いなる愛を抱きながらも、彼は 2度と再び祖国の土を踏むことは なかったのである。

 しかし、ロシアに いたたまれなくなって ヨーロッパに亡命していながら、ヨーロッパにもまた絶望せざるをえなかった心情がまた、ゲルツェンとタルコフスキーに共通であろう。

亡命宣言の後、二人とも 2度とロシアの地を踏むことはなかったが、しかし ヨーロッパに安住の地を見出したわけではなかった。 彼らの心は たえず祖国 ロシアに向けられていた と言っていい。

 中国の文学者・巴金 (1904-2005) は "文化大革命" 時に批判され 暗黒の時代を生きたが、その間 ただひたすら ゲルツェンの 『過去と思索』 を読み、訳しながら耐えたという。

ソ連で、映画を作ることを妨げられて 長い不遇の時を過ごしていた タルコフスキーもまた 『過去と思索』 を読み、国家によって作品の実現を妨げられた ヴィトベルクの生涯に 自己を重ね合わせていたのではないだろうか。 それが 『アンドレイ・ルブリョフ』 の構想のもとになったのではあるまいか、と思われてならないのである。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~wu3t-kmy/4_rublyov/rublyov.htm



06. 2010年8月06日 23:21:43: MiKEdq2F3Q
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惑星ソラリス 1972年


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ノスタルジア 1983年


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サンガルガノ大聖堂の廃墟
ttp://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~adachi/sangalgano.htm


07. 2010年8月07日 19:22:12: MiKEdq2F3Q

アンドレイ・タルコフスキー・インタヴュー
『アンドレイ・ルブリョフ』に関して

私は、アンドレイ・ルブリョフ、15世紀の偉大なロシアの画家の映画を作りたいのです。

私は、創造者の人格と彼が生きた時代との関連に興味があります。生まれ持った感受性のおかげで、画家は自分の生きる時代のもっとも深い意味を理解し、この意味を全き形で提示することができます。この映画は歴史映画でも伝記映画でもありません。

私は画家の芸術的な成熟の過程と、彼の才能を分析する過程に、すっかり魅了されています。

アンドレイ・ルブリョフの作品は、ロシアのルネサンスの頂点を記録しています。
ルブリョフは私たちの文化史でもっとも傑出した人物のひとりです。
彼の人生と芸術はけたはずれに豊かな素材を含んでいます。

台本づくりに着手する前に、私たちは歴史資料とスケッチを研究しました。
もっぱら、映画で見せることができないのは何かを決定するためにです。
たとえば、私たちは時代様式に、つまり、衣装や風景や言語に、限られた興味しか持っていません。

映画での出来事が実際に15世紀に生じているなと思わせようとして、歴史的な細部にこだわると、観客の関心がそれてしまいます。

時代臭さのない室内装飾、時代臭さのない(しかし適切な!)衣装、風景、現代の言葉ーこうしたことすべてが、もっとも重要なことだけを表現する助けになるでしょう。

映画はいくつかのエピソードで成立しますが、直接論理的に関連づけされてはいません。

しかし、すべてのエピソードは共通の思考の流れで内的に関連することになります。

挿話が年代順に並べられるかどうかはまだ分かりません。

私たちは、エピソードのドラマツルギーが三位一体の壮大なイコンを創造する理念を生み出す頃のルブリョフの人格の進化を内的に暗示するものと首尾一貫させたいと願っています。

それと同時に、正典的な制限とその型どおりの論理と形式を伴った伝統的なドラマツルギーを避けたいと思っています。

それらは、典型的な障害で、生の十全さと複雑さを表現するのを不可能にするものです。(中略)


芸術家を題材にした映画は時々こんなようになってしまいます。

つまり、主人公が何らかの出来事を目撃する、そして観客は彼が熟慮に沈むのを見守る、最後に彼は自分の思いを作品に表現する。

私たちの映画でルブリョフがイコンを描く場面はありません。

彼は人生を生きていくだけです。

エピソードのすべてに登場するわけでもありません。

映画の最後の部分、そこだけはカラーで撮影するつもりですが、そこはルブリョフのイコン画に捧げられます。

イコンしか映しません。

ドキュメンタリーのように、細かいところまで、きちんと見せるつもりです。

イコン画が映されるたびに、同じ音楽のテーマが流れます。
そのイコンの理念が現れる時代に対応するルブリョフの生の局面で鳴り響いたテーマです。

映画のこのような構造は、その目標から必然的に導き出されます。

つまり、人間性の弁証法を提示して、彼の精神の生を検証したいと思うのです。


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 このインタヴューは、『アンドレイ・ルブリョフ』製作の初期の段階でなされた。

 若々しく、新たな理念に燃える監督の姿が鮮やかに映されている。

たぶん、この時期に、自分のこのような試みが多くの反発と猛烈な批判を生み出すとは思っていなかっただろう。

撮影は困難を極め、同志コンチャロフスキーとの反目、そして決別が待っている。
追いつめられた彼は命を削るような撮影を決行して、農民に文字通り殺されそうになる。

映画は完成しても5年間上映禁止になる。

無断でフランスの映画会社が出品したカンヌで国際批評家大賞を受け、そのためにソ連国内で立場はますます追い詰められる。

 しかし、そこから出会いも生まれた。

『アンドレイ・ルブリョフ』を見たクラウディオ・アバドは感激して、後に自分の指揮するムソルグスキー『ボリス・ゴドノフ』の演出を依頼し、実りある友情が始まったのだった。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/rublov.html


Tarkovsky on Tarkovsky 『アンドレイ・ルブリョフ』


映画の最も重要な慣例のひとつは、映画のイメージは私たちが見聞きする実際の、自然の、生きた形態でのみ体現できるということだ。

私たちが提示するものは自然主義的でなければならない。

私が自然主義と言うとき、実在の不愉快な側面に執着するという否定的な意味ではなく、映画的なイメージの感覚知覚におけるその役割という意味だ。

スクリーンに描かれた夢は、生そのものの自然の形態と同じように明確に目に見える要素で構成されていなければならない。

映画はルブリョフに関するものです。

…しかし私たちにとって映画の真実の精神的なヒーローは、ボリスカです。

映画の狙いは、非常に困難な時代から出現する伝染性の、狂熱のエネルギーを示すことです。
つまり、そういうエネルギーがボリスカのなかで目覚めて、燃えさかり、鐘鋳造につながるのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/selfcomment.html

アンドレイ・タルコフスキー
『アンドレイ・ルブリョフ』を語る


美は、植物が種子から生長するように、悲嘆から育つ


私たちは『アンドレイの受難』と題された脚本をアンドレイ・コンチャロフスキーと書いています。

偉大なロシアの画家アンドレイ・ルブリョフの人生をあつかった映画です。

友人のなかには、戦争でめちゃめちゃにされた子ども時代の映画、どう見たって現代的な映画から、「時代物」、ロシアの中世にどうやって移ることができるのか分からないって言ってます。


別に変なところはないでしょう。

主題テーマが、利用される叙述の形式を支配するだけのことです。

素材は15世紀から引っ張ってきますが、現在の問題を語るつもりです。

私は、芸術家とその時代、当時の民衆との絆に興味があります。

私は芸術の力に関する自分の見解を述べてみたいと思います。


ルブリョフは彼の作品において人間性の偉大な理想を称えています。

友愛の理念、人間の連帯が映画で最も重要なものになるでしょう。
真に偉大な芸術は時とともにますます貴重になります。

どれほど多くの人の思い、感情、希望が何世紀にわたってルブリョフの絵に染みこんでいったことか、そうに違いありません! 

私はスクリーンにそういう希望を伝えたいと思います。


映画は15のノヴェッラ:小話で構成されます。

アクションはルブリョフ、ダニル・チェルニー、キリルの3人の人物をめぐって集中します。

詩的な構造は全編にわたって保持されますが、叙述の連鎖を数回断ち切ることになります。

長年、映画は劇場のドラマツルギーに依存してきましたが、今や映画芸術は詩に近づいてきています。私には、詩における探求と近代映画の探求に非常に密接な関係が見えます。

私は、アレゴリー、隠喩、直喩を用いるのを好みます。

私は、不可能に思えるものが向かい合う状況が好きです。

認識からすり抜けるように思える複数のテーマを対峙させることは、私の内部に、イメージにあふれた最も深い思念を揺り動かします。

ますます多くの映画が詩的イメージに基づいて作られようとしています。

新作で私は古典的ロシア詩の比喩体系を具体的に利用するつもりです。(1963年)


映画のアイデアは「僕の村は戦場だった:イワンの少年時代」をやっている頃にすでにあった。


自分のアイデアじゃないと認めますね。

あるときモスクワ郊外の森を散策していたんだ、私とコンチャロフスキーと映画俳優のヴァジル・リヴァーノフでね...

ちょうどそのときにリヴァーノフが3人でルブリョフの脚本を書こうと提案した。
彼はぜひ主役をやりたいと。

でも、いろいろあってリヴァーノフは脚本書きに参加できなかった。
一方私たちのほうはすっかり虜になったその企画をあきらめることはできなくなった。

私たちはずいぶんすんなりと仕事を進めた。

1年後(もう少し後か)台本の異稿が3つ出来上がっていた。

私たちはもう一度見直しをして、時代考証のさまざまなソースを恐ろしくたくさん研究しなければならなかった。

少なくとも、旧来の出来合いの考え方を捨てることができるためにね。


台本の最終ヴァージョンにかかっているときに私たちはまだどこかしっくりこない部分があると感じていた。

でも出来上がったとき私は台本が成功作であると感じることが出来た。

それから良い映画が作れると感じたから、成功なんだね。

脚本家として私は経験が浅かった。

『ルブリョフ』の前に私は2作しか仕事をしていなかった。

すべてに満足したわけではなかったが、一貫性、首尾の統一の印象はそれが良い作品だと示唆していた。

私がつくろうとしているまさにそのたぐいの映画にうってつけの脚本だから立派な仕事だというわけだ。

俳優、ロケ地、カメラマンの貢献をあてにしているけど、この脚本は私たちの仕事を最後まで導いてくれる主導テーマを含んでいる。

当然、シーンを追加しますよ、省くシーンもあるだろうし、ただ土台はしっかり出来上がりました。


「この映画で私が何を言いたいのか」という質問に答えるなら、おおまかなことしか言えません

芸術と民衆との絆について直接何か述べるつもりはありません。

これはまあ、明らかでしょう。

脚本に明確に出ていると私は思います。

私は、自然の美を探り、美というものは、種子から植物が生長するように、悲劇から、災厄から育つことを観客に気づいてもらいたいとは願っています。

私の映画は美しい、族長的な古いロシアをめぐる物語にはならないでしょう。

私の願いは、輝かしく驚異に満ちた芸術が隷属、無知、文盲の悪夢の「続き」として出現することがどのようにして可能であったのかを示すことです。

私はこうした相互依存の関係を見つけだし、この芸術の誕生を跡づけたいと思います。

こういう条件が満たされたときはじめて私はこの映画が成功作だと思えるでしょう。


ここでオマール・ハイヤームの絵に触れておきましょう。

ご存じですか、薔薇の木があって、その根元に虫が何匹も食らいついているという絵を? 

しかし、死からのみ、不死は生まれるのです。

不死を理解するときに、私たちは死を理解するでしょう。

絡み合った白と黒とでも言いましょうか

そういう周期性を、生を理解する客観的で弁証法的様式と、例示の様態と共に、この映画を形作る基礎にするつもりです。

私たちはカメラマンのヴァディム・ユーソフとロケ地を選びました。
彼とは『イワンの少年時代』で既に仕事をしています。

脚本の仕事が続いている頃、ユーソフは別の映画作りに参加しました。

映画の歴史的な側面から、たくさんの人が必要な大きなシーンが求められ、そのために少なからぬ困難が生じることを忘れてはいけないでしょう。

例えば、クリコヴォ平原の戦いは省くことが出来ません。

ロシアがはじめて外国からの侵略者に対する道徳的な優越を悟る象徴になっているのですから。

ロシアが形成されるこの時代はディミトリー・ドンスキーの勝利抜きでは考えられません。

実現するのは面倒でしょうが、とにかく絶対に欠かせないエピソードです。
それは、(ロシアの王子が片棒を担いだもので、裏切りと腐敗の個人的な象徴となった)タタール人のウラジミール襲撃や、新しい鐘の鋳造のエピソードが欠かせないのと同じです。

これらのシーンはどれも小規模な解決が許されません。
こみ入った準備が必要です。(1965年)

伝記映画? 

違います、このフィルムは誰かの伝記を飾るエピソードが銀幕に再現されることはありませんから、伝記映画のジャンルに入りません。

ルブリョフの生涯を再構築することが私の意図だったのではなく、既に触れたように、私は主に人間に興味があるのです。

また過去の時代の雰囲気に興味があるのです。

しかし、だからといって時代劇になるわけじゃありません。

私の意見では、歴史的正確さは出来事を歴史的に再構築するという意味ではありません。

私たちが示したいことにとって重要なのは、それが真実味を帯びたあらゆる特性を保持すべきだということです。

俗に言う「時代もの」はしばしば、あまりに装飾過多で芝居がかっています。

異国趣味をすべて排除することも私の意識的な決定です。

エキゾチシズムは過去のものなら何でも凄いなと驚かせてそれでよしとする所まで来てしまいました。過去を含めて、すべてを通常の展望に収めて眺めるように努力しましょう![ノ]


ソロニーツィンに関して、私はただただ運が良かった。

最初、私はこの役を有名な俳優に任せることはできないと分かっていただけでした。

悪魔に憑かれたような一念が目に見えるような、強い表現力のある顔でなければならないと私は悟りました。

ソロニーツィンは、打ってつけの肉体的な外観であるだけでなく、複雑な心理過程の偉大な解釈ができる人物です。(1969年)

主役の俳優は映画に一度も出たことがない人物でなければならかった。

誰もが自分なりのルブリョフ像をもっているのだから、他の役を思い出させる人を使うことは出来ない。そういうわけで、それまで端役しかやったことのないスヴェルドロヴスクの劇場の俳優を選んだのです。

ソロニーツィンは、月刊「イスクーストヴォ・キノ」に載った脚本を読んで、モスフィルムまで自前ではるばるやって来て、自分以上にルブリョフをやれる者はいないと宣言したのです。

スクリーンテストをして、実際、はまり役だと私も納得しました。


『アンドレイ・ルブリョフ』をカットした者はいません。私以外にはね。

自分でいくつかカットをしました。

第1版で映画は3時間20分でした。第2版は3時間15分。

私は最終版を3時間6分まで短縮しました。

最後の版がベストで、もっとも成功していると私は確信しています。

長すぎるシーンをカットしただけです。
観客はそれらがないことにも気づきません。

カットは主題を変えてもないし、私たちにとってこの映画で重要であるものを変えてもいません。

言い換えると、意味のないひどく長いシーンを省いたのです。

観客に心理的なショックを引き起こすために野蛮なシーンをいくつか短縮しました。

ただの不愉快な印象を引き起こすためではありません。

それでは私たちの意図が台無しになります。

長いディスカッションの間カットするように忠告してくれた友人と同僚みんなの判断は、結局正しかったのです。

それを理解するのにしばらく時間が必要でしたがね。

最初私は、彼らが私の創造的個我を抑圧しようとしているのではないかと思いました。

後になって、私はこの最終版が私の要求以上の成果を挙げていることを理解しました。

だから映画が現在の長さに短縮されたのを全然後悔していません。[ノ]

画家のように色彩のハーモニーに敏感でない限り、日常生活で色彩に注目することはない。

例えば、私にとって映画のリアリティは白黒の階調に存在しています。

しかし『ルブリョフ』で私たちは生とリアリティを一方では芸術と関連づけ、もう一方でその絵と関連づけなければならなかった。

最後の色彩のシークェンスとモノクロフィルムの間の、このような関連は、私たちにとってルブリョフの芸術と彼の生の相互依存を表出する方策でした。

言い換えると、一方で、日常生活が合理的に現実的に提示され、他方でー彼の生を因習的な芸術で総括をして、次の段階で、その論理的な継続が来る。

アンドレイ・ルブリョフの壮麗なイコンをそんな短い時間で示すのは無理です。
だから私たちは選び抜いた細部を呈示し、観客を細部の断片の連続から、ルブリョフの至高の創造である、あの名高い「三位一体」のフルショットまで導いて、彼の仕事の全体像の印象を創造しようと努めました。

私たちは色彩のドラマツルギーのようなもので観客をこの作品まで導き、印象主義的な流れを創造し、観客が断片から総体へと移動するように願いました。

色彩のフィナーレは、およそ250メートルのフィルムを占めますが、観客に休息を与えるために必要だったのです。

モノクロームの最後のシーンが終わるとすぐに観客が映画館を出ていってほしくなかった。

観客は、ルブリョフの生から自らを引き離し、省察する時間を与えられるべきなのです。

私たちの狙いは、色彩を眺めながら私たちがつけた音楽に耳を傾けることで、観客が映画の全体から一般的な性質の結論をいくつか引きだして、心の中でその主要な道筋を選り分けることができるということです。

手短に言うと、観客に本をすぐに手放してほしくないんです。

もし『ルブリョフ』が「鐘」のエピソードでそのまま終わっていたら失敗作になっていただろうと思います。何としても観客を映画館にとどめる必要があったのです。

彼がどれほど偉大であったかを示すために、芸術家の生の継続のようなものを、付け加える必要がありました。

彼はそれらすべての経験を、最悪の経験を生き抜いたという事実をです。

そして、そうした体験からはじめて、彼の作品の色彩は得られたのだということをです。


こうした思いのすべてを観客に伝える必要がありました。

フィルムが雨にうたれる馬のイメージで終わることを指摘したいと思います。

私にとって馬は生命と同義であるので、象徴的なイメージなのです。馬を見ていると、私は生命そのものの本質にじかに触れているという感じがします。

もしかすると馬がとても美しい、人に優しい動物であるからなのでしょう。

それに馬はロシアの風景の特徴といってもいいでしょうから。

『ルブリョフ』には馬の出るシーンが数多くあります。

気球で空を飛ぼうとして人が死ぬ冒頭のシーンを思い出してください。

一頭の悲しげな馬は沈黙の目撃者なのです。

最後のシーンの馬の存在は、生命そのものがルブリョフの芸術のすべての源泉であったという意味なのです。(1969年10月)

原作者の特権を行使して私たちはアンドレイが沈黙の行に入るように決めました。

しかしそれは私たちが彼に同意するという意味ではありません。

それどころか、その後のエピソードで私たちは観客にアンドレイの沈黙が無意味であるということを納得させようとします。

その後の事件に直面すると、それは無駄なのです。

私たちの主人公は芸術家として何も出来ないのです。

彼は参加することが出来ないのです。

彼の沈黙は私たちにとって非常に幅広い、抽象的な、ほぼ象徴的な意味を持っていました。

アンドレイが沈黙しているエピソードで、映画の意味にとって根元的な重要性を帯びた出来事が生じます。

狂った村娘の登場人物がありますね、ブラゼナーヤです。

彼女は突然タタール人と一緒に行ってしまいます。

タタール人のひとりが好きになり、彼と一緒に行ってしまう。

狂った者だけが侵略者に輝かしく喜ばしいものを見いだすことができます。

彼女の狂気によって私たちは状況の馬鹿さかげんを強調したかった。

正気の人間ならあんなことはしないですよ。

しかしアンドレイは何か行動を起こすべきだったし、彼の責任ある立場に対するこの攻撃を許すべきではない。

なぜなら昔のロシアではブラゼナーヤは神聖な者と見なされました。

ブラゼナーヤ、ユロージヴィを侮辱することは当時大きな罪だと思われていましたから。

ところが彼は何も反応しない。

彼は誓いを守り、一言もことばを発さない。

アンドレイは他者のために立ち上がりもしなければ自分を守ることも出来ない。

ローラン・ブイコフの演じる旅芸人は、自分を警備隊に売ったのはアンドレイだと思う。

なぜなら彼が踊りながら貴族をからかった浮薄で批判的な歌を歌うのを眺める群衆の中にアンドレイがいるのを見たからです。

長い年月が経って、鞭打たれ多くの苦難を経験した流刑から帰ってきて、旅芸人は人々の面前でルブリョフを裏切りの罪で訴えます。

ルブリョフは身の潔白を証明できません。

彼は最後まで無言です。

彼は聖三位一体大寺院の壁画を描くように召喚されます。

彼はそれでも無言のままです。

彼は自分に引きこもり、自分の才能を埋もれさせて、狂人のように生きます。
何もかもが狂っている。

ルブリョフは正常な人間が行動するように行動しない。

祖国を愛する誇り高い市民が当然なすべき事をやらない。

自らの信念の力によって、鐘づくりに賭けた確信と情熱によって、ボリースカだけがアンドレイを沈黙から呼び覚まします。

強靭さ、人間の愛すべき創造力、忍耐力、そして自らの運命に対する信頼がルブリョフを罪深い誓いを破らせるように強制します。(1967年2月1日)
ttp://homepage.mac.com/satokk/selfcriticism/rublov2.html

Andrey Tarkovsky on "Andrey Rublev"
ttp://www.youtube.com/watch?v=nQVzjR8Y918

ttp://www.youtube.com/watch?v=97Ep4OtbSOM&feature=related


彼の発病は突然だった。

誰一人そんなことは思ってもなかったし、悲劇的なものとも思ってもいなかった。

1985年12月に体調がすぐれなくて、徹底的なメディカルチェックを受けたことは知っていたが、フィレンツェに発つ前、クリスマスイブに空港まで連れて行ってくれと頼まれたときには驚きが待っていた。

その道中で、彼はシンクロされたサウンドトラックの最終版の指示を始めた。
彼は映画の献辞を変えるように言った。

「我が息子アンドリューシャに捧げる、こうして闘うために私は彼から離れることになる」

とするように。

クリスマスの翌日、私はアンドレイが癌だと知った。


しかし1986年6月のあの日に、ドイツで彼は治ったように見えた。回復期が目前にあるかのようだった。私たちは高揚して、昔のように冗談を飛ばしていた。

アンドレイはベッドの傍らの小さなテーブルに置かれた聖書に手を伸ばして、「伝道者の書」の一節を読んだ。

1:2傳道者言く 空の空 空の空なる哉 都て空なり

1:3日の下に人の勞して爲ところの諸の動作はその身に何の益かあらん

1:4世は去り世は來る 地は永久に長存なり

1:5日は出で日は入り またその出し處に喘ぎゆくなり

1:6風は南に行き又轉りて北にむかひ 旋轉に旋りて行き 風復その旋轉る處にかへる。

1:7河はみな海に流れ入る 海は盈ること無し 河はその出きたれる處に復還りゆくなり

1:8萬の物は勞苦す 人これを言つくすことあたはず 目は見に飽ことなく耳は聞に充ること無し

1:9曩に有し者はまた後にあるべし 曩に成し事はまた後に成べし 日の下には新しき者あらざるなり

1:10見よ是は新しき者なりと指て言べき物あるや 其は我等の前にありし世々に旣に久しくありたる者なり

(伝道者の書第1章第2節から第10節)
ttp://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html

テクストが私を短調の気分に誘い、私たちの地上の生は時には無目的に思えると、地上的な反応を私がすると、アンドレイの反撃が閃光のように帰ってきた。

私たちの地上の生は、そんなひとつの見方で分類して片づけられるほど単純なものではない。

彼はページを繰って、また読んだ。

11:7夫光明は快き者なり 目に日を見るは樂し

11:8人多くの年生ながらへてその中凡て幸福なるもなほ幽暗の日を憶ふべきなり 其はその數も多かるべければなり 凡て來らんところの事は皆空なり

11:9少者よ汝の少き時に快樂をなせ 汝の少き日に汝の心を悦ばしめ汝の心の道に歩み汝の目に見るところを爲せよ 但しその諸の行爲のために神汝を鞫きたまはんと知べし

(伝道者の書第11章第7節から第9節)
ttp://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html

宗教は、タルコフスキーの生で重要な役割を果たした。

彼は宗教者と会って、彼らと信仰の問題を話し合いたいといつも願っていた。

私たちがよく話したテーマに、私の叔母の人生と宗教があった。

病気の時にアンドレイは彼女の見事な人生観から多くの力を引き出した。

彼女の精神的支えと宗教的省察は、アンドレイの魂にはっきりとした刻印を残した。

映画が完成すると、私は彼から、叔母への言葉を添えたポスターを受け取った。

彼は、一度もあったことのない、しかし、自分のために多くの祈りを捧げてくれたことを承知している女性に、それを贈ったのである。

アンドレイは、現代人が祈る力を失ってしまった、そしてそれこそ私たちの精神の枯渇を示すものだと信じていた。


彼はしばしば聖書のテクストに基づいた映画を作りたいという欲求を感じていたが、そんな大それた仕事をやり遂げるのに、自分は卑小すぎると思っていた。

しかし、他の誰がそんな試みを出来たであろうか?


療養所のまわりを午後に散策することがアンドレイの日課だった。
その道行きで、私たちはヨブ記に描かれた愛の複雑な性質について話した。
かくも厳しい試練にさらされた愛。かくも厳しき苦悩。
それと同時に苦痛と悲惨を生み出す愛について。


散歩はおよそ45分だったが、私たちが歩いたのは、あちこちに置かれたベンチに腰を下ろしたりして、300メートルほどだった。
そのとき初めて、私はアンドレイの体力がどれほど弱っているか、気がついた。


歩いたために疲れ果てて、アンドレイはベッドに横になり、聖書に手を伸ばして『伝道者の書』をまた読み始めた。

3:1天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり

3:2生るるに時あり死るに時あり 植るに時あり植たる者を抜に時あり

3:3殺すに時あり醫すに時あり 毀つに時あり建るに時あり

3:4泣に時あり笑ふに時あり 悲むに時あり躍るに時あり

3:5石を擲つに時あり石を斂むるに時あり 懐くに時あり懐くことをせざるに時あり

アンドレイは言った。

「覚えているかい? 私が『石を擲つに時あり石を斂むるに時あり』という題を私たちの映画につけたかったのを。

スウェーデン語では響きが良くなくてね。」

タルコフスキーは床についたまま、療養所の部屋の壁に掛けられたイコンを見やった。

彼の言葉の響きが消えて、森のささやきとツバメのさえずりが聞こえてきた。

しばらくしてから、彼はまた読み始めた。

3:6得に時あり失ふに時あり 保つに時あり棄るに時あり

3:7裂に時あり縫に時あり 默すに時あり語るに時あり

3:8愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり

3:9働く者はその勞して爲ところよりして何の益を得んや

3:10我神が世の人にさづけて身をこれに勞せしめたまふところの事件を視たり

3:11神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり

(伝道者の書第3章第11節まで)
ttp://bible.salterrae.net/meiji/html/ecclesiastes.html

アンドレイは聖書を脇に置き、毛布を引き上げて、うやうやしくそれを隠すと、沈黙が再び訪れた。

それは虚無の沈黙ではなかった。深い瞑想に満ちた沈黙だった。


暗くなり、私の帰るときが来た。私たちは抱擁とキスを交わし、「イタリアで会おう」と言った。それが最後の出会いだった。1986年7月26日。


* * *

12:1汝の少き日に汝の造主を記えよ 即ち惡き日の來り年のよりて我は早何も樂むところ無しと言にいたらざる先

12:2また日や光明や月や星の暗くならざる先 雨の後に雲の返らざる中に汝然せよ

12:3その日いたる時は家を守る者は慄ひ 力ある人は屈み 磨碎者は寡きによりて息み 窓より窺ふ者は目昏むなり

12:4磨こなす聲低くなれば衢の門は閉づ その人は鳥の聲に起あがり 歌の女子はみな身を卑くす

12:5かかる人々は高き者を恐る畏しき者多く途にあり 巴旦杏は花咲くまた蝗もその身に重くその嗜欲は廢る 人永遠の家にいたらんとすれば哭婦衢にゆきかふ

12:6然る時には銀の紐は解け金の盞は碎け吊瓶は泉の側に壞れ轆轤は井の傍に破ん

12:7而して塵は本の如くに土に皈り 霊魂はこれを賦けし神にかへるべし

12:8傳道者云ふ空の空なるかな皆空なり


(伝道者の書第12章第1節から第8節より)
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彼の葬儀の日、パリの聖アレクサンデル・ネフスキー教会で、私たちはろうそくを手に、偉大な芸術家に別れを告げようとしていた。

僧はろうそくに火をつけて、最前列に立つ人々にその炎を近づけた。

次々と炎が点されて、最後には、ちらちらと踊る火をいただいたろうそくのすべてが、私たちのアンドレイ・タルコフスキーの想い出の連鎖をつくり出していた。

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サクリファイス (1986)

ttp://www.youtube.com/watch?v=zENPuEqgT4U

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ttp://www.youtube.com/watch?v=k4izcNMy4rY

ttp://www.youtube.com/watch?v=ahxujJlYwZU&feature=related

ttp://www.youtube.com/watch?v=2_aEjbYED0Q&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=Mr5cYiRPf3E
ttp://www.youtube.com/watch?v=QeQCb5uyIFY

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『ノスタルギア』の撮影前に書かれた、『魔女』と題された『サクリファイス』の最初の脚本コンセプトは、癌にかかった人間の治癒をめぐって展開した。

不治の病と知り、自暴自棄の状態になると、アレクサンデルは不思議な人物と出会う。

彼はアレクサンデルに、回復の唯一の希望は、魔力をもつ魔女と噂される女性のところに行って、彼女と寝ることだと告げる。

アレクサンデルがそうすると、彼は驚異的な治癒を経験し、医者は茫然自失することになる。

ところが、ある日その魔女がひょっこり姿を現し、雨にうたれながら家の外で待ち受けて、彼をさらおうとする。

脚本のこの段階で、アレクサンデルの犠牲は、家族と所有物を捨てて、貧者の姿に身をやつし、この女性と家を去ることだった。

『ノスタルギア』の撮影中に、タルコフスキーは、当時映画で気になっていることと自分の実生活との数多い平行関係に驚いた。

映画の主人公、アンドレイ・ゴルチャコフは短期間滞在するだけの予定でイタリアを訪れたが、望郷の念に消耗していく。

そして、ロシアに帰ることは叶わず、最後にはイタリアで客死する。

タルコフスキー自身、最初は、映画が完成するとロシアに戻るつもりだったが、 彼もまたイタリアで病気になり、滞在を延ばすしかなかったのだ。


タルコフスキーは、また、アナトーリ・ソロニーツィンの死にひどく心を痛めていた。

タルコフスキーの作品の多くで主役を演じたソロニーツィンは、『ノスタルギア』でもゴルチャコフの役を演じる予定だった。

また最初から『魔女』のアレクサンデルの役がふられていた。

ソロニーツィンは、物語の第1版でアレクサンデルの人生に転機をもたらすあの病気で死んだ。

そして「今では、数年後に、私もまたその病気で苦しんでいる」

林の木の下でアレクサンデルが、小さな息子に話す言葉は、痛いほどの意味を秘めている。

「死なんてものは存在しない。死の恐怖だけが存在する」

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タルコフスキーは家にほとんど異常なほど愛着があった。

『サクリファイス』で家が焼け落ちるのをワンシーン、ワンカットで撮影するのは、それ自体が彼にとって目的になった。

我々は、『サクリファイス』で焼け落ちる家が、潜在的に実生活で病魔にむしばまれつつある彼の肉体の映像になるのを実感し、それを目撃する。

撮影は1度失敗して、2度目に成功した。
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サクリファイス製作風景
ttp://homepage.mac.com/satokk/offret/offret.html

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1. ノスタルジア 1983年

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ttp://www.youtube.com/watch?v=Z5CZhY4S8Nk&feature=related
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サンガルガノ大聖堂の廃墟 


 アンドレイ・タルコフスキーの映画はすべてすばらしい映画的光景を映し出している。

『僕の村は戦場だった』はテーマの重さと拮抗するような映像のリリシズムがあった。

『惑星ソラリス』も突出したSF?映画だった。

東京の首都高速が未来都市のイメージとして活用されていることで話題になったが、むしろ、その後のタルコフスキーに頻出するブリューゲルとバッハの融合が印象に残る。

『ストーカー』も晦渋な映画だが、水のイメージがじつに美しい。

そしてタルコフスキー的な映像というてんでは、なかでも、『鏡』と『ノスタルジア』が秀逸だと思う。

 『ノスタルジア』は、イタリアが舞台だ。

ロシアから亡命してきた詩人(アンドレイ・タルコフスキーそのものだ)が、創作の自由のためにはロシアから離れねばならず、しかしその創作の源泉である故郷の原風景やロシアの大地から切り離されることによって生じる心理的葛藤(それをノスタルジアという)に苦しむ姿を美しい映像で描いている。

 ノスタルジアのラストに、ある廃墟の寺院が出てくる。

それがサンガルガノ寺院である

 私は、映画に導かれてこの寺院を訪問した。1993年のことである。


 資料として『タルコフスキーatワーク』(芳賀書店)の「ノスタルジアへの旅」(鴻英良)をみた。彼はノスタルジアのロケ現地をめぐる旅にでかけ、詳細にその発見を記している。

それによると、タルコフスキーの撮影チームは、ラストシーンをサンガルガノで、印象的な地下の聖母のシーンをトゥスカニアで撮影したことになっている。

私は、仕事でローマを訪れたさいに、フィレンツェに移動し、そこでレンタカーをして、トスカナ地方をドライブしてローマに戻る計画をたてた時、ぜひともこのサンガルガノの廃墟とトゥスカニアを訪れてみたいと思った(まぎらわしいが、トゥスカニアは、トスカナ地方にはない。ここもじつに素晴らしいところだった。町にはホテルが一軒しかなかったが、ここが素晴らしかった。)


(トゥスカニア全景と地下の聖母が撮影された場所)


 トスカナ地方をドライブしはじめると、すぐさま人生の至福につつまれるような感慨を味わった。

こんな素晴らしいドライブはそうはない。

フィレンツェもすばらしいが、サンジミニャーノ、シエナ、ペルージャ、アッシジといった小さな町々が途方もなく素晴らしい。

しかしサンガルガノは探し出しにくかった。

さきの鴻英良氏もサンガルガノへ行くのにはたいへん苦労している。
彼はレンタカーでなく電車をつかっていたのだ。

シエナから行くのだが、観光地ではないため、何もない田園のなかを迷いながら運転してたどりつくほかはない。

 うつくしいトスカナの田園のなかに、それはあった。

 夏のあいだには、臨時の売店なども開かれているから、訪れる人は案外少なくはないのかもしれない。絵はがきやカレンダーなども売っていた。

 サンガルガノがどういうものかは、次の写真をみてほしい。


 サンガルガノ大聖堂(廃墟)


 イタリアのガイドブックや、ミシュランの緑には、きちんとサンガルガノが紹介されている(小さくだが)。ミシュランによれば、人は、この廃墟を訪れると、あらためて栄華のはかなさと、人生についてしみじみと想いをいたすだろう、とある。

たしかに廃墟には、そういう想いへと人を誘う不思議な力がある。

ためにヨーロッパには廃墟趣味というのがあって、わざわざ廃墟を建築する!ことも多かったようだ。

もちろんサンガルガノは正真正銘の廃墟である。


 タルコフスキーのノスタルジアでは、ラストシーンで、イタリアに亡命した主人公が死んでゆく意識のなかで、故郷ロシアの原風景が蘇ってきて、その懐かしい風景の中に包まれて死んでゆくのだが、その故郷ロシアのノスタルジアに満ちた風景が、サンガルガノの廃墟のなかに再現されて、廃墟の建物と渾然一体となってえもいわれぬ効果を生み出していた。

そしてノスタルジアの風景のなかに、やがていちめん雪がふってきて静かに映画はおわってゆくのだ。この最期の風景だけでも、ノスタルジアは映画史に残るものではないかと思う。
ttp://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~adachi/sangalgano.htm

Andrei Tarkovsky - "Tempo di viaggio" (italian with french subtitles)

ttp://www.youtube.com/watch?v=PY9DPNQSET0
ttp://www.youtube.com/watch?v=P0pcra3oGQk&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=OAP7Iv4Z0SI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=bkygo4Kn7CI&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=yyXeDNPzXFs&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=R8hrHfv2Ou4&feature=related
ttp://www.youtube.com/watch?v=5M4Md2S7Mtk&feature=related


イタリアのタルコフスキー

タルコフスキーは『ノスタルギア』を「単純なラブストーリー」だと言う。

(ヤンコフスキイ演ずる)アンドレイ・ゴルチャコフはロシアの大学教授で、長年講義してきた建築を実際に見るために、イタリアを初めて訪れる。

彼は自分の通訳兼ガイド(ドミツィアナ・ジョルダーノ)に思いを寄せる一方で、トスカーナの数学教授のドメニコ(ヨセフソン)に自分の一種の分身を見いだす。

ドメニコは世界の終末は近いと信じているので狂人と見なされているのだった。

ローマのRAIでの製作発表記者会見で、タルコフスキーはこう述べた。

「『ノスタルギア』のテーマは、人々がお互いを本当に知らずに共に生きるのは不可能なことと、相互理解の必要性から生まれる問題を扱っています。

名前を知るくらいなら非常に簡単だが、他者を深く認識する段階に達するのははるかに困難だ。

また表面にはさほど現れませんが、この映画には、文化を輸入したり輸出したり、異文化を取り入れるのは不可能だという主張を扱った一面もあります。

私共ロシア人もダンテやペトラルカが分かると主張出来る。

それはイタリア人の皆さんがプーシキンが分かると主張出来るのと同じ理屈です。

けれども実はそんなことは不可能なのです。

つまり同じ国民でなければならないのです。

文化を複製し伝播するのは、その本質に有害であり、皮相な印象しか広めない。

異文化を教えるのは不可能なのです。」

「この映画で、通訳のエウジェニアが『どうしたら分かりあえるのかしら』と訊く。

アンドレイ・ゴルチャコフは『境界を壊すことだ。』と答えます。

これは複雑な地球規模の問題で、単純なレベルで解くか、全然解けないかのどちらかです。

単純なレベルでは子供が解決してくれると言えますが、もっと複雑なレベルでは自己認識の問題と関連しています。

アンドレイは自分の分身とも言える狂人にこうした難題を肩代わりさせようとします。
アンドレイは真理を探求しているのですが、自分が直接分かってもいないものを教えても無駄じゃないかという思いが心をよぎることがあります。

彼は、あの狂人に、自分の行動に確信を抱いている人物を見いだす。

世界の救済法を知っていると言って、それに基づいて行動する人間を見いだします。

ドメニコは反省を知らぬ、ただ行動するだけの無邪気な子供に似ています。

ですからある意味でアンドレイに欠けているものを代表しているのです。」
ドメニコのキャラクターは、部分的には脚本が既に脱稿した段階で、グウェラがたまたま見た新聞記事からインスピレーションを受けたものだった。

タルコフスキーによると、それは映画に重要な総合性をもたらす幸運な発見であった。

「グウェラは類い稀な才能に恵まれた詩人で、偉大な発見が出来る。

幸い私は映画畑で、グウェラは詩の方ですから、嫉妬しなくてすんでいますがね。」
タルコフスキーは最初はモスクワでかなりの部分を撮影する計画だったが、ソヴィン・フィルムとの協約が破棄されて、彼はモスクワのシーンに振り分けたフィートを半分に減らさねばならなかった。


「運命は私たちに救いの手を差し延べてくた。

トスカーナで見付けた家はモスクワより映画的にはるかに興味深いものです。

イタリアに、ロシアのこのささやかな一角を拡張出来るのを私はとても嬉しく思っています。」

タルコフスキーは今でも水にとりつかれたままなのだろうか?

「水は神秘的な要素です。一個の分子であり、とてもフォトジェニックです。」

とタルコフスキーは語る。

「水は運動と、変転と流動の感覚を伝えることができる。

『ノスタルギア』にもたくさん水があるでしょう。

たぶん水には潜在意識の反響があるのかも知れない。

ひょっとすると、私が水を大好きなのは、先祖の輪廻転生を隔世遺伝で記憶していることから生まれるのかも知れない。」


彼の映画の「悲観主義」とイタリアの人生観の「楽観主義」に生じうる軋轢について、また、イタリア人には彼の映画を理解するのが困難なのでは? と問い質すと、タルコフスキーはこう答えた。
「私にだって楽観主義はある。

今度の映画は比較的単純で分かり易いラブストーリーです。

けれども同時に私は、表面下に潜むもっと深遠で混沌としたものを、底まで掘り下げる努力をしています。

悲観主義は、気遣いと人が自分に課す問題の複雑さが絡んで生まれてくる。

こうした問題は、歓喜に満ちた態度で世界に向かっても解けるはずもない。

私の関心は、世界の現状を気遣い、胸を痛めている人々にあります。

このために、時には、余りに複雑になるのかも知れません。」

「映画は高度の緊張を伴う芸術形態です。

一般には理解されないことかも知れませんがね。

私は理解されたくないというのではなく、例えばスピルバーグのように、一般大衆向けに映画を作るのは私には出来ないということです。

もし自分にそんなことが出来ると分かったら、恐ろしく恥ずかしいでしょうね。

一般大衆に届きたいなら、芸術とは何ら関係のない『スターウォーズ』や『スーパーマン』のような映画を作らなければならない。

私が、大衆を白痴のように扱っていると、とらないでください。

ただ確かに私は、大衆を喜ばせようと苦心したりしない。

ジャーナリストの皆さんの前で、どうして私はいつもこんなに自己弁護ばかりしているんでしょうね。近頃私には、皆さんが欠かせないでしょう。

私の映画がアンゲロプロスと同じくらいの配給を得るのなら、特にそうでしょう!」
ttp://homepage.mac.com/satokk/at_in_italy.html

タルコフスキー、『ノスタルギア』を語る

内面への旅 ギデオン・バックマン


バックマン:
まず最初に、西側で仕事をする感想を話してもらいたいですね。
アンドレイ・タルコフスキー:今回は初めて外国で映画を撮るだけでなく、私は外国の条件下で初めて仕事をしています。

世界中どこに行っても映画を作るのは難しいと思います。

でも、何が難しいかが場所によって変わってくると私は気づきました。

こちらで、最も大きい障害は金と時間の不足がずっと続くことです。

特に資金不足は創造性を妨げ、また資金が不足すると時間が足りないということになる。

映画に取り組む時間が長くなるほど、コストも高くなる。


ここ西側では、お金が支配する。

ソビエト連邦で私は一度も費用のことは考える必要がなかった。

とにかく心配無用だった。

イタリアのテレビ会社RAIがとても気前よく、この映画製作に招いてくれました。
実際そうなんですが、割り当てられた予算は明らかに乏しい。

これまで外国で働いた経験がないので、いくらかは私の思いこみかも知れませんが。
現在のプロジェクトは実際に「文化的なイニシアチブ」と分類されていて、商業的ヴェンチャーとは思われていません。

一方では、イタリアの映画チームと技術的クルーと一緒に仕事をするのは、とびきり報いのある経験です。

彼らは極めつけのプロで、高度な知識があり、自分の仕事を楽しんでいるようです。
誰もが自分のやっていることを愛しているように見えます。

しかし私は、私たちロシア人の方法とイタリア人のやり方の比較をしたくない。
どこへ行っても、理由が何であれ、映画作りは複雑で骨の折れる仕事です。
私が西側で一番批判に値すると思うのは、全く経済的な要素に全面的に依存していることです。

これは、芸術形式としての映画の未来そのものを危難にさらす可能性をもっています。

ギデオン・バックマン:
あなたが20 年間に作った5作品:『僕の村は戦場だった』、『アンドレイ・ルブリョフ』、『ソラリス』、『鏡』そして『ストーカー』すべてに、個人と個人を取りまく環境の間にいつでも強い対立があります。
『ノスタルギア』でもこれがテーマですか?

強いのは常に葛藤そのものであり、個人ではありません。

それどころか、私の中心人物は必ずと言っていいほど、弱い人間です。

その人間の強さは彼らの弱さから生まれてくる。

彼らがその環境に上手く適応していない、環境と調和していないという事実から彼らの強さは生まれてきます。

当然、個人と社会の間には、際だった個人と彼を取りまく環境の間には、いつでも葛藤があります。

すなわち、これらの間にはいつでも対立が存在していて、これこそ私たちは葛藤だと言うのです。

人間関係の存在しないところには、葛藤もまた存在しない。

私は、社会との関係が対立の強い要素によって特徴付けられる人物を使うことに興味があります。

そういう人は自分を囲む現実に対して強烈な関係を持っていて、このために、そういう人は常に、最後には環境と衝突してしまうようです。

私はそういう人間を追いかけて、彼が自分の問題をどのようなやり方で解決するのか見つけだしたいのです。

自分のなかに閉じこもってしまうのか? 
それとも自分自身に誠実であり続けるのか?

ある意味で、これは私の作劇法のまさに根っこにある問題だと言えるかもしれません。


ギデオン・バックマン:
どのようにして『ノスタルギア』が誕生したのか、話していただけますか?

私は何度かイタリアへ来たことがありますが、およそ3年前に、よい友人で、イタリアの作家、詩人であり脚本家であるトニーノ・グウェッラと一緒に映画を作ることに決めました。

映画は私のイタリア体験をめぐるものになる予定でした。


オレグ・ヤンコフスキー演じるゴルチャコフは仕事でイタリアに来たロシアの知識人です。

映画のタイトルは、『ノスタルジア』という言葉では非常に不満足な翻訳でしかないのですが、私たちから遠く離れたものを求める苦悩、憧れても憧れても一体化することの出来ない諸世界を求める苦しみを示しています。

しかし、それは内面の故郷への憧れ、何らかの内的帰属感を表してもいるのです。

映画の「アクション」、出来事そのものの順序は、何度か修正されました。

一部は脚本を書いている準備段階で、また一部は撮影中にも修正されました。

私は分断された世界で、引き裂かれて砕け散った世界で生きることが不可能であることを表出したいのです。


ゴルチャコフは歴史の教授、国際的に知られたイタリア建築史の専門家です。

彼はそれまで複製と写真だけで知っていた、そして教えていた記念碑と建物を今こそはじめて、眼で見て手で触れる機会に恵まれたのです。

イタリアに到着するとすぐに、彼は、芸術作品を生みだした文化の統合的な部分にならない限り、芸術作品を伝えたり、翻訳することは出来ない。

知ることすら出来ないと実感し始めます。

さて、彼は18世紀の少しは知名度のある作曲家の足跡をたどるためにイタリアに来ます。

その作曲家は元はロシアの農奴だったのですが、主人によって宮廷音楽家として教育を受けるようにイタリアに送られたのでした。

彼はボローニャ音楽院でジャンバティスタ・マルティーニを師とし、やがて有名な作曲家となり、その後は自由人としてイタリアで生活をしました。

映画の重要なシーンに、ゴルチャコフが、イタリア人の通訳であり旅の連れである若い女性に、作曲家がロシアに書き送った手紙を示すところがあります。

そこで彼は、ホームシックを、彼の「ノスタルギア」を表現しています。

それが何を指示しているかと言うと、この作曲家は実はロシアに帰ったが、アル中になり、最後に自殺したということです。


ゴルチャコフにとっても、イタリアの経験は人生を変えるものになります。

イタリアの美とその歴史は、彼の魂に大きな印象を刻み込み、彼は苦しみます。

なぜなら、彼は自分自身の背景をイタリアと内的に和解させることができないのです。

彼のイタリア体験ははじめは全く外的な性格しか持っていないのに、ソ連に帰ったらそれが何かの終わりを内包するだろうと、彼はやがて気づきます。

そのため彼は憂鬱になります。

自分がイタリアで経験したことを忘れることも、捨ててしまうことも決して出来ないと知っているからです。

自分のイタリア経験を生かすことが自分にはできないのだと思い知ると、彼の内的な苦痛、「ノスタルギア」は増します。

このノスタルギアには、彼が自分の体験を故郷の愛する人々と共有することが出来ない、イタリアに出立する前には彼の最も近しい人々とも共有できないということを自覚することも含まれます。

他者と、自分の印象と経験を共有できないことをこのように意識すると、彼の滞在はひどく辛いものになります。

彼の魂は拷問をされたようになりますが、同時に、心の友を見いだす欲求が彼の中で揺れ動きます。彼を理解し、彼の経験を共有出来る者を求めます。


映画はノスタルギアの本性を探る一種の論考です。

あるいは、ノスタルジアと称されるかも知れないが、実際には憧れよりも多くのものを含んでいるあの経験に関する論考です。

ロシア人は、最大の困難を経験しなければ、新しい友人や知人と別れることが出来ない。

ソ連への帰郷が迫ると、それは悪夢になりますが、このイタリアへの憧れも、「ノスタルギア」と呼ばれるこの複雑な現象を創り出す多くの要素のひとつにすぎないのです。

ギデオン・バックマン:
映画では何が、魂の友を求める気持ちをあらわしているのですか?

ゴルチャコフは彼の経験を本に書くという最初の意思を放棄し、むしろ出会ったイタリア人に、その経験を手渡す、あるいは渡そうと心を決めます。

エルランド・ヨセフソン演じるトスカナの村の出身の数学教師に手渡そうとします。
7 年間このイタリア人は、彼が最も恐れる災害から妻子を救うために妻と子どもたちを家に閉じこめました。

彼は世界の終末を恐れていたのです。


この幾分異常で、神秘的な狂信者はゴルチャコフにとって、一種の「第二の自我」になります。

ゴルチャコフは彼に自分自身の感情と疑惑を認めます。

ドメニコ、その教師は映画の肯定的な力と見なせるかも知れません。

彼の性格は、未来に必要な状況を人格化しているからです。

彼はゴルチャコフの主な話し相手になりますが、彼は、ゴルチャコフが自分の内面に現れ始めていると感じる精神的な不安の極端な事例を表しています。

ドメニコはまた、人生の意味、自由と狂気の概念の意味の、絶えざる探求を表象しています。
もう一方では、彼は子どもの受容性を、しばしば子どもに見つけられる並はずれた感受性を、保持しています。

しかし、彼は、ロシア人に欠けているある特徴を併せ持っています。

ロシア人が容易に傷つき、生命の深い危機に陥る状況でも、このちょっと頭のおかしいイタリア人は単純で、核心にずぱっと斬り込んで、彼自身の啓発された外向性で、一般的な問題の解決を見いだします。

トニーノ・グウェッラが新聞の切り抜きでこの人物を見つけてきて、私たちはそれをもう少し展開しました。私たちは彼に子供じみた気前の良さといった感じを与えました。
一種無邪気な寛大さが彼には強力にある。

彼を取りまくものとの関連で彼の率直さは、子どもに見られるような信頼感を強く思い出させます。

彼は信念の行為を遂行するという思いに取り憑かれています。

火のついたロウソクを手に、トスカニアの村の真ん中にある巨大な、四角い古代ローマの温泉、バーニョ・ヴィニョーニの湯を抜いた温泉場を渡りきるといった行為です。

ゴルチャコフがこれをやろうとするのですが、ドメニコはさらに大きな犠牲が必要だと考えて、ローマに行き、カピトレウムのマルクス・アウレリウス像の上で焼身自殺をします。

それは暴力的な犠牲行為ですが、しかし狂信の要素はいささかもなく、 啓示の瞬間に啓示される救済への心穏やかな信念で行われます。

ギデオン・バックマン:
主人公の2人、建築学の教授と数学教師は、あなたが個人的に自己同一視出来る性格を持っていますか?

私が2人のどこが一番好きかと言うと、狂人の行為にある信頼感であり、旅人のほうは、より大きな理解を達成しようとする執拗さです。

その執拗さは希望と呼ぶことも出来るでしょう。

ギデオン・バックマン:
この2人を結びつける関係はご自身の気持ちを反映していますか?…

私のヒーローは、「狂人」を首尾一貫した強い人格だと考えている。

「狂人」は自分自身の行動に確信があるが、ヒーロー自身にはこのような確信が欠けている。

それで彼はドメニコにすっかり魅了され、最後には、ドメニコこそ、私のヒーローがいつも考え込んではすべてを合理化していたのを、そうすることなく生きる勇気を与える助けになります。

この意味で—この展開のおかげで—ドメニコはゴルチャコフの「もう一つの自我」になるのです。

人生で最も強い者は、子供の信頼と直観的な安心感を保持することに成功した者である。

ギデオン・バックマン:
この映画を作る何らかの外的な理由があるのですか? 
その内的緊張を解読する鍵を与える何らかの明らかなテーマが?

私にとって、人々が互いに出会って一緒に働くことがどれほど重要であるかを何度でも示すことがとても大切なのです。

独りで、自分の秘密の片隅で生きるときには、欺瞞的な平穏が支配するように思えます。しかし2人の人間が互いに接触すると途端に、この接触がどのように深められるか、意味深いものになりうるかという問題が生じます。

この映画は、ですから、何よりもまず、文明の2 つの形式、2 つの生き方、2つの異なる考え方に内在する葛藤を扱っています。第二に、人間関係で巡り会う類の困難を扱った映画です。

男女の愛情関係ということになると、一緒に生活することがどれほど難しいか、お互いをよく知らないときにお互いに感じた愛情を感じるのがどれほど難しいか、そういうことを示したいと思います。表面的に知り合うことは簡単ですが、お互いを本当に知るようになるのはずっと困難です。ゴルチャコフはイタリア女性の通訳と一緒です。若い女優ドミツィアーナ・ジョルダーノがエウジェニアを演じています。

それは—単純に言うと— 教授と女性との、始まりもしないラヴストーリーでもあります。


しかし、もっと広いパースペクティヴから見ると、映画は文化を輸入したり輸出することが不可能であることを示すでしょう。ソビエト連邦の私たちはダンテとペトラルカを理解していると思っているが、これは正しくない。またイタリア人はプーシキンを知っていると思っているが、これもまた誤った考えである。抜本的改革がない限り、その文化に疎遠な人に、ある民族の文化を移植することは絶対不可能でしょう。

ゴルチャコフの苦悩がはじまるのは、彼を取りまくすべての新しいもの—イタリア滞在中に彼の関心を惹いた感情と人間に魅了されるのを自分が遅かれ早かれ止めなければならないと気づくときです。新たな魅惑と興味が彼の中でうごめき始めます。

彼はある人物に出会う。彼自身のように、真の関係を築くのは不可能であると理解していて、それゆえに自分自身を犠牲にする人物です。その人物、ドメニコは同じような心の断片化に苦しんでいます。自分の内側で全世界と、あらゆる良きもの、人間、情緒、そして霊性と、一体化することが出来ないことで苦しんでいる。

誰もがドメニコを「狂人」だと思っている。もしかするとそうなのでしょう。
しかし彼が狂人だと見なされる理由、彼の反応と感情を生み出す理由、ゴルチャコフが非常にはっきりと認識する感情は、全く正常なものです。

ギデオン・バックマン:
それは別の受肉をした自己との出会いなのですか?

ゴルチャコフは類似を認識し、出会いが比較的短いという事実にもかかわらず彼は2人の間のつながりを感じることができます。2人の苦しみが似ていることが、2人を結びつけるのです。

映画を撮影していくうちに、ドメニコはさらにもっと重要になり、私たちは彼に、当初よりずっと堅固な造形を与えました。真の触れあいが不可能だとゴルチャコフがますます自覚するようになったことを、彼はさらに明確に表現します。

ある程度、彼はまた私たち全員が生きざるを得ない恐れ、来るべき未来の私たちの不安をも、表現しています。恐怖こそ、未来を待ち受ける私たちの心理状態の問題なのです。—未来が抱えた問題なのです。


誰もが未来を憂慮している。未来に安心できない。

この映画はこの私たちの不安と深く関わっています。
また我々の無感動もテーマです。

無感動がいかなる方向にでも状況を展開させてしまうからです。私たちは憂慮していますが、それと同時に状況を変えるために何もしていない。確かに、私たちは実際には多くのことをしていますが、私たちが「実際に」していることは、絶望的に不十分です。もっと多くのことをすべきなのです。

私がかかわっている限りでは、私にできるすべてがこの映画です。私が捧げるささやかなすべてです。ドメニコの苦闘は私たちすべてと関わっているのだと示すこと、あまりに受け身だと私たちすべてを責めるときドメニコが全く正しいのだと示すしか私には出来ない。彼は「正常者」が怠惰すぎると訴える「愚者」です。彼を取りまくものすべてを揺すり起こすために、自己を犠牲にして、自分自身の警告を強調します。これが彼の犠牲であり、彼に出来るすべてなのです。

彼の意図は、私たちに行動を強制することであり、「現在」を変えることです。

ギデオン・バックマン:
ドメニコにこの行為をさせる世界観はあなたのものでもありますか?

ドメニコの性格の本質的な要素は、彼の世界観そのものではありません。

究極の犠牲行為へと彼を導くあの世界観ではありません。

むしろ彼が内面の葛藤を解決するために彼が選択するやり方なのです。

従って、私は彼に立ち現れる葛藤ほど、彼の出発点に興味がありません。

私は彼の抗議がどのように生まれたのか、彼がどのようにそれを表現したのかを、理解したいし、示したいのです。

私は実は、彼がそれを「どのように」表現するかにも興味がないのです。

最も重要な事は、抗議そのものの存在自体なのです。

私は、個人が抗議を表現するのに選ぶ方法が重要だと思います。

恐れることなくはっきりと表明された素朴な意見すら(頭がおかしいと思われても仕方がない意見でも)、いわゆる「正常人」の話より、怠慢なおしゃべりに身を委ねて、決して何も実際は「行動」しない人の言葉よりも、多くのことを意味しうるのです。

ギデオン・バックマン:
あなたの考えが多数の聴衆に達することが重要だと思われますか?

万人が理解できる芸術映画の形式が存在すると私は思わない。

従って、すべての観客の役に立つ映画を作ることはほとんど不可能です。もしそれが出来たら、芸術作品ではなくなるでしょう。芸術作品は、異議申し立てを受けずに、認められることはないのです。

スピルバーグのような監督には大変な観客がついていて、巨万の富が懐に入り、だれもがそれを喜びますが、彼は決して芸術家ではないし、彼の映画は芸術ではない。もし私が彼のように映画を作るなら—自分に出来るとは思いませんが—私はまったくの恐怖で死んでしまうでしょう。芸術は山のようなものです。山頂があり、それを取りまいて丘陵がある。山頂に存在するものを誰もが理解できるわけではない。


観客を虜にして、私がやっていることに興味をもたせることが私の課題だとは思いません。それが暗示しているのは、私が彼らの知性を過小評価しているということだからです。結局、観客が馬鹿ばかりだとは思いません....

しかし私が芸術作品をつくるということだけ、プロデューサーに約束したら、世界のプロデューサーは誰も私に、びた一文投資しないということを私はしばしば考えます。

ですから、私は自分の作る映画の1作1作に私の精力と勤勉さのすべてを投資します。

私は私のベストを尽くそうとします。そうしなければ、私は二度と映画を作るチャンスに恵まれないかも知れません。

私は私なりのやり方で、自分の理想を妥協させずに、観客の関心を獲得するのに成功してきたと思います。

そしてそれが、結局、大切なのです。

私は、青い空の彼方をただよう知的なタイプではないし、別の惑星からやって来たわけでもない。

それどころか、私は地球と地球の人々に親密な絆を感じます。

端的に言うと、私は知的に実際以上にも実際以下にも見られたくない。

私は観客と同レベルですが、私には別の役割がある。私の使命は観客の使命とは異なっている。

あらゆる人の理解を得ることは私には重要でありません。
私にとって最も重要ことは、万人に理解されることはないということです。

映画が芸術形式なら—私たちは同意見だと思いますが—芸術の傑作は消費財ではない、むしろ、創造性の見地からも、それを生み出す文化に関しても、時代の理想を表現する芸術的頂点なのです。それを忘れてはいけない。

傑作は、私達が生きている特定の時代の理想に形式を与えます。

理想は、決して万人にすぐ近づけるものではない。

理想に近づくには、精神的に発達し、成長しなければならない。

大衆の精神的なレベルと芸術家が証す理想の間の弁証法的な緊張が消えるなら、芸術が本来の目的と働きを喪失してしまったということになります。

残念ながら、目にする映画が単なるエンターテインメントのレベルを超えていると言えるのは稀です。

私がドヴジェンコ、オルミ、ブレッソンの映画を大切に思うのは、彼らの純粋で素朴な禁欲的な感触に私が惹かれるからです。芸術はこうした特徴に到達する努力をしなければならない。それから信頼感に。


観客の意識に創造的な理念が到達する前提条件は、創作者が観客に信頼を寄せているということです。両者は共通のレベルで相互に意思疎通することが出来なければならない。他に道はありません。

創造者にとって全く明白なものに関するときですら、観客に理解を暴力的に強制しようとしても無価値です。しかし、観客の倫理原則を尊重しなければならないとしても、近代的映画芸術形式を創造する自らの義務に妥協があってはならない。

観客の後ろ向きの趣味に支配されてはならない。

私は、文学的、演劇的、劇的な構築を信じない。


それは芸術形式としての映画特有の作劇術と共通点がない。

ほとんどの現代映画はアクションをとりまく情況、映画の叙述を観客に説明することに終始する。しかし映画に説明は要らない。むしろ情緒に直接訴える必要がある。その時高められた情緒の状態が知性を自ずと前進させるのです。


私は、主題自体の論理の代わりに主観的な論理—思念、夢、記憶—を伝えさせてくれる映画を編集する原理に到達しようと努力しています。

私は、現実の状態と魂の人間的な状況、言い換えると、人間の行動に影響を及ぼす要因から発生する形式を探しています。

それは心理的な真実を提示する最初の条件です。

ギデオン・バックマン:
「主題の論理」は映画のプロットと同じですか?

私の映画では、物語自体は特に重要ではありません。

私の作品で真に意義深いものは、映画のプロットに表現されたことは一度もない。

私は不必要に気を散らすものを排除して、重要なことについて話そうとします。

純粋に論理的なレベルでは必ずしも結びつかない事物を示します。

内的な人間性において、私たちにそうした事物を結びつけるもろもろの思念をひっかきまわすのです。

ギデオン・バックマン:
ということは、あなたにとって重要なことは映画で伝えられる情緒であって、語られるストーリーそのものではないと言うことですか?

私は、私の映画であれはどういう意味なのか、これはどういう意味かとよく尋ねられます。

ひどい話です! 

芸術家は自分の狙いを答える必要はない。

私は、自作に関して特に深い考え、深遠な思想を持っていません。

私の象徴が何を表すのか、私はまったく分からない。

私が唯一追求しているのは、そういう象徴が特定の情緒を生み出すということです。

どのような感情が出現するにしろ、それは内面からのあなたの応答に基づいているのです。

ひとは常に、私の作品に隠された意味を発見しようとします。

しかし映画を作り、同時に、自分の思考を隠そうとするのは変ではないですか?私のイメージは、ありのままのイメージであり、何の意味もない.... 私たちは自分自身をあまりよく知らない。

つまり、 時々私たちは慣習的なやり方では計りきれない力を表出することがあるのです。

ギデオン・バックマン:

あなたの映画で「旅人」が頻繁に隠喩として用いられて来ましたが、『ノスタルギア』の場合のように、はっきり定義された主題であったことはありません。あなたはご自身を「旅人」と思われますか?

1 つの旅しか可能でない. 内面への旅です。

地球の表面をあちこち駆けめぐっても大したことは学ばない。

いつか出発点に帰り着くように旅をするとも私は信じない。

人間は決して出発点には戻らない。

なぜなら旅の過程で彼が変わってしまうからだ。

そして言うまでもなく、私たちは自分自身から逃れられない。

私たちは、私たちであるものを、担っている。

私たちは私たちの魂の住処を、カメが甲羅を運んでいるように、運んでいる。

世界中の国をめぐる旅は、単なる象徴的旅でしょう。

どこに到達しようとも、探しているのはやはり自分自身の魂である。

ギデオン・バックマン:
自分自身の魂を探索するためには自分自身に強い確信がなければならない。しかし今日、自分の立場を取りうる自分自身の能力への人間の信念は、 —いたるところで—外的な出来事、外側から来る理念への信念に価値をおく狂信に屈服してきたように、私には思えます。

そうです。私は、人類が自分自身を信じることを止めてしまったと感じています。

言い換えると、「人類」そのもの—ではなく、そんな概念は存在していません—むしろひとりひとりの人間個人を信じる気持ちがなくなってしまった。

現代人の魂を考えるとき、私には合唱隊の女性歌手に見えます。

彼女は音楽のリズムに合わせて口をパクパクするのですが、一音も発声しないのです。

結局、他の皆が歌っているのです!

彼女は歌っているふりをしているだけです。

他の人たちの歌で十分だと思っている限り、そうです。彼女がこんなふうに振る舞えるのは、自分自身の個人の行動の大切さに信頼を失っているからです。

現代人は信念を欠いている。自分の行動で社会に影響を及ぼすことが出来るという希望を喪失している。

ギデオン・バックマン:
そのような世界で映画を作る意味は何ですか?

人生の唯一の意味は、精神的に成長するときに求められる努力にあります。

誕生したときとは別の何かに私たちは変わる。

人生の意味は、発達してそうなるのに必要な努力にある。誕生と死の間の期間にこれを成就するなら、それが困難であり、進歩が時にはのろのろしたものに思えるとしても、私たちは実際、人間性に奉仕したことになるのです。

私はますます東洋哲学に興味をそそられています。

そこでは、人生の意味は観想にあり、人は宇宙の不可分の部分なのです。

西洋世界はあまりにも合理的になり、西洋の人生観は、より実用主義に根ざしているように見えます。
つまり、あらゆるものを少しずつ完璧なバランスに保ち、体を生き続けられるようにして、出来るだけ長い間ただ「存在」していればよい。

ギデオン・バックマン:
存在の経験を描く計器としての時間の概念を信じないのですか?

私は、「時間」が本質的に客観的なカテゴリーでないと確信しています。

「時間」は、人間がそれを知覚しなければ存在できないからです。

科学的な発見の数々も同じ結論を引きだしているようです。

私たちは「今」に生きていない。

「今」はあまりにも移ろいやすいので、ゼロではないが近づくほどにゼロに近づくので、それをつかまえる方法がない。

私たちが「今」と呼ぶ時間の瞬間はただちに「過去」になり、「未来」と呼ぶものが「今」になり、それもまたすぐに「過去」になる。

「今」を経験する唯一の方法は、自分自身を「今」と「未来」の間に存在する深淵に突き落としてみることです。

こういう理由から、「ノスタルギア」は過ぎ去った時をめぐる単なる悲嘆と同じではないのです。

ノスタルギアは、私たちが自分の内的な天賦を当てにするのを諦めて、それらを適切に整え利用しないとき、そうすることで自分の義務を行うのを怠ったとき、そうやって消え去った時をめぐる強烈な悲しみの感情なのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/bachman.html

カンヌのタルコフスキー

50歳になるアンドレイ・タルコフスキー、この繊細な詩人にして見事な映像芸術家(20年で5作−5つの傑作映画の創造者)がカンヌ映画祭にやってきた。

明日『ノスタルギア』を上映してイタリアの旗を高く掲げることになる。

この映画は彼とトニーノ・グウェッラとの共同脚本で、RAIとゴーモンの出資でローマで撮影された。

真剣なテーマの映画を見せることになる彼は、真剣なテーマを語ることになる。


ポルロ:
何への郷愁なのでしょうか、タルコフスキーさん?

タルコフスキー:私たちの「ノスタルギア」はあなたたちの「ノスタルジア:郷愁」ではありません。

個人的な感情ではなく、国外に出たロシア人が経験するとても複雑で深遠なものなのです。

それは、病です。

魂の力、仕事の能力、生きる喜びを枯渇させる病気です。

私は、このノスタルギアを、具体的な物語、イタリアに来たソヴィエトのインテリゲンチャの話と突き合わせて、分析します。

ポルロ:
そのノスタルギアにさいなまれながら、イタリアでの仕事はどうでしたか?

きわめて良好でした。

なぜなら、なんといっても、映画というものはどこでも大きな家族なのです。

この映画をつくるのに通訳もいらなかった。

ブロークンなイタリア語で言いたいことは通じましたから。

映画は普遍的な言語を使っています。

お互いを理解し、自分を説明するのに役立ちます。

ところが、この手の仕事、つまり映画作りの財政面に関して、議論が多すぎるのには驚きました。ロシアでは、議論にもならないことですから。

ポルロ:
ロシア人の主人公を見ていると、自伝的な映画として見たい気持ちに駆られるのですが。

そうですよ。ただし芸術的な観点からに、限られますが。

実際、そういう意味では、この映画ほど暴力的なほど私の気分を反映させた映画をつくったことがありません。

私の内面世界をこれほど深く解放させた映画は初めてです。

私自身、完成した映画を観たとき、この表出力に直面して愕然としました。

気分が悪くなったほどです。

鏡に映った自分の姿を見たときや、自分のもくろみを踏み越えてやりすぎたと感じたときに経験するのと同じ気分です。

ポルロ:
それでは、何があなたのもくろみだったのですか?

私の願いは、イタリアにやってきて、自分に関して思いがけない情緒を発見するロシア人を観察することでした。

もちろん、私がアフリカに行っても、どこに行っても、同じことが起きたことでしょう。

この男は国と国を隔てる障壁がある理由が分からない。

人間同士を分離しようとする人工的な慣例を受け入れない。

こういうことは当然、彼に恐ろしい苦悩を引き起こします。

お互いにもっと理解するにはどうしたらいいか聞けば、子どもでも、国境を開放したらいいと答えるでしょう。

もちろん、これは素朴で、理想主義的な答えですが、基本的には正当なものです。

この素朴な世界観と祖国を出た人間の現実的な生活状況がこのように衝突することから、ドラマが生まれるのです。

ポルロ:
お仕事が助けになりましたか?

映画はもっとも高貴で重要な芸術です。

とはいえ、商業と商品市場から誕生したという原罪をいまだに贖っているところなのですが。

ポルロ:
このすべては悲観論に非常に近いとは思いませんか?

その逆です。真の悲観論者は、幸福を求め続ける人たちです。

2,3年待って、それからどこまで実現したか、訊いてみたらいいのです。

ポルロ:
あなたの楽観論がどこにあるのか訊いてもいいですか?

私たちの文明のドラマは、科学技術のニーズが、精神性の要求から調和を欠いて、一方的に発達していることにあるのです。霊性の完成こそ、人生の本当の目的なのです。
ttp://homepage.mac.com/satokk/canne.html

アンドレイ・タルコフスキー・インタビュー2

(ナタリア・アスペシ)1983年カンヌ
私たちロシア人には、あの優しい感情が致命的な病なのです

アスペシ:
賞に関心はないのですか?

タルコフスキー:ないと言えば、嘘になります。

自分の本が読まれようが読まれまいが、気にしないという作家のようなことになってしまいます。

映画は観られるためにつくられるのです。

万が一、『ノスタルギア』がここカンヌで受賞したら、私はとてもうれしいでしょう。

『ノスタルギア』はイタリアで構想、撮影、製作されましたが、私の映画の中で最もロシア的な映画です。

アスペシ:
イタリアの生活はどうですか?

とても気に入っています。

イタリアは私が長期間いられる唯一の国です。

他なら一週間以上いられないでしょう。

けれども、月末にはモスクワに戻ります。

私の国、私の人々から離れて私は長くは生きられないのです。

私には多くの企画があります。心を決めなければならない。

なかでも、ドストエフスキーの『白痴』に基づく映画を構想しています。

私の教養は、偉大なロシアの作家たちによって、形成され、養われました。

彼らのように、私は物質生活と精神生活を融和させようと苦闘する劇的な状況を経験しています。

アスペシ:
カンヌ映画祭に持ってくるまでに『ノスタルギア』を一度しか観ていないというのは本当ですか?

そうです。大満足です。私の一番うまく実現した映画だと感じています。

私の内面世界を最も良く表現した映画です。

主人公は私の「分身」みたいなものです。

私の感情、私の心理、私の本性、そのすべてを持っています。

彼は鏡に映った私の姿です。

アスペシ:
なぜ自分の映画について話したくないのですか?

それは正確ではありません。映画のプロットを繰り返したくはない。

それ自体は意味がないからです。

ロシアの作家が、同郷の人間の研究をしにイタリアに来た。

その音楽家の足跡は2世紀前に失われている。

そこで、イタリア人の教授と金髪の通訳に出会って・・・。

こんなことを知って、何が面白いのですか? 

しかし、映画が言おうとしていることは説明しようとすることは出来ますよ。

それは情緒の表出です。私の中に最も深く根ざしている感情です。

ソ連を出るときに、それを最も強烈に感じたのです。

まさにその理由のために、イタリアだから『ノスタルギア』を撮影できたと言うのです。

私たちロシア人にとって、私たちにとって、ノスタルギアは優しく優しく甘い感情ではありません。

あなたたちイタリア人にとってはそうかもしれませんが。

私たちにとって、それは一種の死の病です。命に関わる病気です。

この深い共感が私たちを、自分だけの苦しみ、あこがれ、別離に縛らないで、他の者の苦悩に結びつけるのです。情熱に満ちたエンパシーです。

アスペシ:
『ノスタルギア』をご自分の作品のどこに位置づけされますか?

『ノスタルギア』は私にとってきわめて重要な映画です。

私が自分自身をすっかりと表出することができた映画です。

こう言いましょう。映画というものが真に偉大な芸術形式で、人間の魂のもっとも知覚不能な動きすら忠実に表象できるということを私に確証してくれました。

アスペシ:
たとえ一度でもご覧になって、完成した映画でもっとも心に残ったのは何でしょう?

そのほとんど耐え難い悲しみです。

ところが、それが精神性に自分を浸したいという私の欲求を非常に見事に反映しているのです。

とにかく、私は悦楽に耐えられない。

陽気な人たちは有罪だと私には思えます。

なぜなら、彼らは存在の憂慮すべき価値を理解できないのだから。

子どもと老人には幸福を許しますよ、でも、他の連中に関して、私は不寛容だ。


アスペシ:
23年のキャリアで、なぜ6作しか作っていないのですか?

作りたい映画だけを作ったからです。

相当な資金が必要でしたね。今、50歳になり、このような慎重さや、私自身の欲張りな点といった問題を自問し始めています。

私は急がなければならない。

もっと仕事をしなければならない。すべてを言わなければならない。
ttp://homepage.mac.com/satokk/aspesi.html

20年ぶりのタルコフスキー映画「ノスタルジア」


群馬会館でタルコフスキーの「ノスタルジア」を20年ぶりぐらいで見ました。

むかしはタルコフスキーに熱狂していた一時期もあったのですが、しばらく前からその熱も冷めてしまってよいのか悪いのか映画の中身とは関係ないところを見てしまいます。

登場する犬はシェパードみたいですが、この犬がとてもかしこい。

おそらくこの犬がうまく「演技」していなかったら、「ノスタルジア」の完成はおぼつかなったでしょう。


ロシアの田舎のシーン、詩人アンドレが滞在するホテル、狂人ドメニコの家などさまざまのシーンで犬が登場しますが、よほど訓練されていて勝手に動き回るような無駄な演技をしません。

まあ、動物のことですから何度かはNGを出したのだろうが、いい演技をしています。

追記 : このシェパードだが、タルコフスキー自身が飼っていたダックス(ダーネチカ)という愛犬じゃないかと思う。


あと、あらためて思ったのはカメラの撮影がとても丁寧に撮られていたこと。

その前に見た河瀬直美の「火蛍」の撮影ハンディ・カメラだったので対照的に感じられました。

「ノスタルジア」は人物など画面の中心を見ているとわからないのですが、画面の端を見ていると超スローでアップしてゆくのがわかります。

あれはカメラ自体に備わっている機能を使ってズームしたのか、それともレールの上でカメラを移動させたのだろうか?

ラストシーンのロシアの田舎とイタリアの遺跡を合成させたシーンもあらためて見るととても奇妙です。前景と後景とでは雪の降り方が異なっているのだ。

CG全盛の今日からすれば新鮮に感じられます。

もっともタルコフスキーには東京の首都高速を撮って未来都市を表現するというウルトラCの大技がありますね。撮影を担当したのはジョゼッペ・ランチという方らしい。

詩人アンドレのホテルの部屋、アンドレが窓を開けると外は雨降りなので部屋の向こうがわからないのです。

最初植え込みか森だろうと見当をつけていたが、しばらくすると薄黒いかたまりがゆっくりと下に流れていくのです。

なんだろう思っていると、また黒いのがゆっくりと下に落ちていく。
フィルムのキズでもなさそうだし。

窓ガラスはないはずなのですが仮にガラスがあったとすれば、窓に貼りついた木の葉が雨に打たれて流れ落ちている感じがした。

そのシーンではその黒いものの正体はわからずじまいだったのだが、ラスト近くで雨ぬきのシーンがあったので確認してみる。窓の外は土壁。

つまりあの黒っぽいものはどうやら土壁が剥がれて流れ落ちていたのだ。
詩人アンドレのホテルの部屋は映画用のセットだろうから、インスタントにこしらえた壁がホースで散水した水で流れてしまったようです。
ノスタルジア・コム ttp://www.acs.ucalgary.ca/~tstronds/nostalghia.com/
ttp://fuqusuke.s32.xrea.com/archives/000050.html
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/483.html
[リバイバル3] Sonus faber を二流にしたパオロ・テッツォンが Sonus faber を止めた
Sonus faberを二流にしたパオロ・テッツォンが Sonus faber を止めた

Sonus faber 開発責任者・パオロ・テッツォン氏 Sonus faberを離脱?

イタリアを、そして、世界を代表するスピーカーメーカーであるSonus faber(ソナス・ファベール)。現在の開発責任者は、創業者にしてブランド名そのものになっているフランコ・セルブリン氏の娘婿であるpaolo tezzon(パオロ・テッツォン)氏でした。

しかし、パオロ・テッツォン氏がこのほど、Sonus faberの開発責任者を降りたという内容が、国内オーディオニュースサイトで報じられています。

少数生産の単品オーディオメーカーの名ブランドは、天才的な設計能力を持つとみられる特定の個人の力量に大きく依存することはよくありました。一方、ブランドの製品が認められ、世界的な展開を図るようになると、創業者兼設計者が会社を去ってしまうことも少なくありませんでした。

Sonus faberに関しても、世界的なブランドになるにつれ、フランコ・セルブリン氏からパオロ・テッツォン氏に設計責任者が移行するという事態がありましたが、それでも、パオロ・テッツォン氏の手腕は高く評価され、創業者がいなくなった名門ブランドとしてはうまくいっていたように見えていました。

今回の事態の理由や裏側は簡単にはわかりませんが、世界的な工業製品の部品不足や、コロナからはじまって、ウクライナ情勢など、世界の不安定化によるさまざまな影響もあったのでしょうか。

Sonus faberだけでなく、単品オーディオ業界自体が、大きな転機を迎えているのかもしれません。

https://kdgadget.com/sonus-faber-paolo-tezzon/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1232.html
[近代史5] 「鳥の目」を持つウクライナ軍の榴弾砲、ロシア軍の戦車を狙い撃つ
2カ月で劇的に向上、ロシア軍を苦しめるウクライナの正確無比な砲撃能力
「鳥の目」を持つウクライナ軍の榴弾砲、ロシア軍の戦車を狙い撃つ
2022.5.17木村 正人
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70137


[ロンドン発]英国防情報部は5月13日、「ウクライナ軍は東部ドンバスで試みられたロシア軍の渡河作戦を阻止した」とツイート。ルガンスク州の主要都市セベロドネツク西方でドネツ川を渡ろうとしたロシア軍は1個以上の大隊戦術群(BTG)の装甲機動部隊と、舟の上に板を敷いて渡る「舟橋」の装置を失ったと指摘した。

https://twitter.com/DefenceHQ/status/1524979878654840833

ロシア軍の渡河作戦を阻止
 筆者は4月27日に「英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)」で開かれた欧州大陸の渡河作戦に関する会議に終日参加したので、作戦の難しさが少しは理解できる。戦場全体に高性能センサーが普及し、精密な砲撃が可能になった今、橋頭堡や舟橋はこれまで以上に危険にさらされている。ロシア軍のウクライナ侵攻でその難しさが改めて浮き彫りになった。

 河川は国境を形作る自然の障壁だ。何世紀にもわたり渡河作戦の遂行能力が戦争の行方を決してきた。機械化戦争の時代に重視された渡河速度も主要国家間の戦争が激減したことで重要性が低下した。冷戦終結に伴い北大西洋条約機構(NATO)は渡河作戦の遂行能力を失い、水陸両用車の開発もほとんど行われなくなった。

 英国防情報部は「争いのある環境で渡河作戦を行うのは極めて危険であり、今回の失敗はロシア軍司令官がウクライナ東部での作戦を進展させるために受けている精神的な圧力を物語る」と分析する。SNS上では5月9日にすでに、ドネツ川を渡ろうとするロシア軍をウクライナ軍が攻撃し、舟橋やタグボート、戦車を破壊した衛星写真が投稿されている。


https://twitter.com/UAWeapons/status/1523752742820343808

この2カ月でウクライナ軍の砲撃能力は向上した
 5月13日にはウクライナ軍の旅団がフェイスブックに「戦車など装甲車両数十両と舟橋が破壊され、ロシア軍の渡河作戦は失敗した。彼らが残した無線局や擲弾発射器などの武器を接収した」と衛星写真を添えて報告している。米シンクタンク、米戦争研究所(ISW)はこの渡河作戦の失敗をこう総括している。

 ロシア陸軍の第74自動車化狙撃旅団は3月8日に北部チェルニーヒウ州のデスナ川で渡河作戦を実施したが、失敗しなかった。今回、同旅団の550人がドネツ川を渡ろうとしたのに対し、ウクライナ軍は5月11日、舟橋を破壊し、立ち往生する同旅団に集中砲火を浴びせた。戦車など装甲車両80両以上が破壊され、死者は485人を数えた。

https://twitter.com/Blue_Sauron/status/1524742847664173057

 ISWは「ロシア軍はこの2カ月でウクライナ軍の砲撃能力の向上がもたらす危険性を認識できなかったか、単に無能か、部隊を統制できなかった可能性がある」と指摘する。

 ロシアの軍事ブロガーはSNS上で数十万人のフォロワーに対し「悲劇的に戦術的センスを欠いている。ロシア軍指導部は戦争の経験から学ばなかった。プロパガンダが氾濫し、実際に何が起きたのか分からない」とボヤいてみせた。


 筆者は先のエントリー『露軍に銃口を向けられても飼い主失った動物と過ごす選択をしたウクライナの母』の取材で「ホストメリを占拠したロシア軍をウクライナ軍の砲撃が正確に狙い撃つ。ロシア兵たちは住民がウクライナ軍に位置を通報しているのではないかと疑った」という話を聞き、ウクライナ軍がどうしてそれだけ正確に砲撃できるのか疑問を持った。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70027?page=2

未来の紛争を再定義するウクライナ戦争
 英シンクタンク報告書『作戦Z 帝国の妄想がもたらす断末魔の苦しみ』でも「対戦車ミサイルはロシア軍の動きを鈍らせたが、彼らを破壊したのはわれわれの大砲だ」(ウクライナ軍司令官顧問)と指摘されている。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69944?page=3

 カノン砲(平射で長距離の敵を狙う)と臼砲(曲射で短距離の敵を狙う)の中間の砲種として17世紀から普及した榴弾砲の着弾観測がどうしてそんなに「精密」にできるのか。

 5月12日、英BBC放送の報道番組「ニューズナイト」で「ウクライナ戦争は未来の紛争をどのように再定義するのか?」という衝撃的な報告があった。ロシア軍の戦車が次々とピンポイントで破壊されていく様子をとらえた映像に「エッ、なんでこんなに正確なの」とうめき声を上げた。

https://www.youtube.com/watch?v=sTQ5ZGHV9Zs

 1991年の湾岸戦争では全投下爆弾の約1割が精密誘導弾(PGM)だったが、2003年のイラク戦争で7割近くに達した。今回、ロシア軍の戦車の多くは実は注目を集めた対戦車ミサイルより地味な榴弾砲で破壊されている。


 射程40キロメートルのGPS(全地球測位システム)誘導弾も発射できる米国製「M777」155ミリメートル榴弾砲は4月下旬に欧州に到着したが、それ以前からウクライナ軍の精密な砲撃がロシア軍に致命傷を与えてきた。だからこそ首都キーウを死守できたのだ。


アメリカがウクライナに提供する155ミリ榴弾砲「M777」(提供:Cpl. Austin Fraley/U.S. Marine Corps/ロイター/アフロ)

立ち往生するロシア軍の戦車を狙い撃ちした大砲
 ウクライナ軍は緒戦、国境でロシア軍を迎え撃って領土の保持を目指すのではなく、意図的に自国領内の奥深くに誘い込んだ。自ら橋を落として洪水を起こし、ロシア軍が幹線道路を進まざるを得なくなるよう仕向けた。補給線が伸びたところを道路脇から対戦車ミサイルでたたく「モスキート戦略(ヒットエンドラン攻撃)」を展開、身動きできないようにした。

 立ち往生するロシア軍の戦車をウクライナ軍の大砲が正確に狙い撃った。しかし遠方から撃つ榴弾砲を戦車に命中させるのは極めて難しい。155ミリメートル榴弾砲の場合、約24キロメートルの距離で誤差は25メートルとされる。ウクライナ軍の主力はまだ米国製M777ではなく、122ミリメートルと152ミリメートルの無誘導弾だ。

 冒頭のドネツ川では、事前に河川を調査してロシア軍の渡河ポイントを想定し、榴弾砲やロケットランチャーを設置しておいて待ち伏せしたとみられている。南北戦争の時代は観測員が気球に乗って遠方にいる敵の位置と着弾地点を計測した。過去数十年間にわたり前線に観測員を送り込み、20キロメートル以上離れた砲手に無線で指示を送っていた。

 現代の戦争ではドローン(無人航空機)が気球や前線観測員の代わりを務める。ドローンに搭載したカメラやレーザーで着弾地点を観測し、大砲の狙いを正確に調整していく。


「レーザー誘導弾なら着弾の精度が格段に上がる」
 レーザー誘導弾とレーザー搭載ドローンの2つの技術を統合すると、小さな標的である戦車の狙い撃ちが可能になる。ウクライナ軍は4つの回転翼がついた市販のクワッドローターにビデオカメラとレーザーを取り付け、152ミリメートル・レーザー誘導弾と組み合わせてロシア軍の戦車へのピンポイント攻撃を可能にしているとみられている。

https://twitter.com/noclador/status/1509940743485497353

 日本の防衛省・自衛隊関係者は筆者に「砲撃は目標の探知、捕捉、追尾がカギだ。普通の弾なら、近くに観測員、今ならドローンを送って大砲の着弾地点を観測する。今回、レーザーで誘導できる弾をウクライナ軍が入手していたなら話は変わる。まさにゲームチェンジャーだ。レーザー誘導弾なら着弾の精度が格段に上がる」と指摘した。

 紛争におけるドローン使用に詳しい欧州外交評議会(ECFR)のウルリケ・フランケ上級政策研究員は米NBCニュースに「ウクライナ軍は敵対するロシア軍よりもドローン技術を軍事に統合する上で大きな革新性を示している。大砲とドローンを一緒に使うのは革新的で本当にインパクトがある」と話している。

 英国防情報部は15日のツイートで「ロシア軍は2月に投入した地上戦闘力の3分の1の損失を被った可能性が高い。継続的な士気や戦闘能力の低下により、作戦に引き続き支障をきたすと思われる」と指摘した


 東部戦線は大砲を使った長期戦に突入している。米軍がM777をウクライナに投入したのはそれに備えるためだが、レーザー誘導弾とレーザー搭載ドローンを巧みに組み合わせるウクライナ軍は東部ドンバスからロシア軍を駆逐できるだろうか。

イーロン・マスク提供の「スターリンク」とドローンの結合が戦場にもたらした革新
 砲撃におけるドローン活用について、ドローン・ソリューション会社ドローンUA(本社・キーウ)の創業者ヴァレリー・イアコベンコ氏を直撃した。


ヴァレリー・イアコベンコ氏(本人提供)
ギャラリーページへ
――ウクライナ軍は偵察用に推定6000機以上のドローンを運用しており、米実業家イーロン・マスク氏のスターリンク衛星システムとリンクして画像や映像をアップロードできると説明されていますね。こうした仕組みはどのように機能するのですか。

「空中諜報活動で得られるデータには、いくつかの種類があります。ジオタグ(位置情報)付きの写真や、空中や地上で撮影されるビデオです。ビデオデータは飛行中に分析でき、砲撃作業の修正をリアルタイムで提供できます。さらに敵軍の位置を示す座標は、ウクライナ国防省が管理する安全なメッセンジャーボットを介してウクライナ軍参謀本部に送ることができます」

「ドローンが空撮した映像や写真のデータは漏洩を防ぐために、クラウドや安全な場所にアップロードされ、もともとのデータは消去されます。インターネットに接続して行うこれらの作業は、スターリンクシステムの助けを借りることで可能になります。安全性が確保されたチャンネルと最前線のどこでもオンラインで結ぶことができるようになるのです」

――こうしたドローンはウクライナ軍の大砲やレーザー誘導弾と連動しているのでしょうか。


「レーザー誘導弾の技術とドローンの併用についてはレーザー誘導による正確な攻撃が可能なトルコ製中高度長時間滞空型無人戦闘航空機バイラクタルTB2を除き、確認されたデータはありません」

――ドローンを活用した精密な砲撃はウクライナ戦争に影響を与えるのでしょうか。

「ドローンはすでに効果を発揮しています。ロボット工学と空中監視装置の利用がこのような高みに達するのは初めてのことです。これは、すべての手順とすべての情報が収集され、ほぼ即座に共有される、ほぼ完全なオンライン形式の戦争なのです。ドローン、スターリンクシステム、そして新しい種類の空中情報部隊はこうした現代戦の一部です」

――この変革にどのような意味があるのでしょう。

「ウクライナ軍は自国の領土を守っています。インフラストラクチャーへの被害をできるだけ少なくし、民間人の巻き添えをなんとしても回避して戦争に勝たなければなりません。ドローンは外科医のような精度で正確に作業する可能性を提供します」

「ロシア軍は“ザーグ(技術や戦略に頼らず圧倒的な数で勝利を得る低レベル・ゲーマー集団を指す俗語)戦術”を用い、旧ソ連時代の全兵器の兵力と数量でウクライナの防衛軍を圧倒しようとしています。ウクライナ人は最先端の技術を駆使して、数の多い敵から賢く国土を防衛しなければなりません」

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70137?page=6
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1593.html
[近代史5] ロシア地上軍は7月末までに瓦解する
データが弾き出した、ロシア地上軍は7月末までに瓦解する
開戦当初からの戦車・装甲車・火砲・人員の損耗率を徹底分析
2022.5.16
西村 金一
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70116


ウクライナ国境近くに集められたロシア軍の戦車や輸送車。この多くが既に失われている(2月23日、写真:AP/アフロ)

 瓦解とは、軍が敗北して、軍組織が総崩れになることである。

 NATO(北大西洋条約機構)加盟各国からウクライナへの軍事支援が増大している。

 ロシア侵攻当初は、供給された対戦車ミサイルがロシア軍戦車の突進を止め、空挺ヘリボーン攻撃を破砕した。

 次に、ロシア軍はキーウ正面の兵力を東部へ転用し攻撃を再開したが、対するウクライナ軍は対戦車ミサイルや自爆型無人機で、ロシア軍の戦車・装甲車・火砲を破壊している。


 その後、戦車・自走高射機関砲、対艦ミサイル、誘導砲弾が撃てる火砲、大型自爆型無人機などが大量に供給されてきている。

 さらに、一見、防御用とみられる対砲兵レーダーや電子妨害装置も、実はロシア軍の砲兵を攻撃、無人機の飛行を妨害して墜落させることができるものだ。

 攻勢の準備が着々と進んでいる。

 ウクライナ軍は、5月6日にハルキウの郊外の5〜10の集落を奪還したように、一部の地域で反撃を開始している。

 提供された兵器が第一線に届く6月中旬以降には、本格的に攻勢に乗り出す考えのようだ。

 米欧から供与された兵器を使用して、ウクライナ軍がどのような戦いをするのかについては、「ロシア軍総崩れの可能性も、兵站への無人機攻撃で」(JBpress 2022.5.2、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69960)に掲載した。

 5月2日掲載のこれらの兵器が現在、現実に使用され始めているのだろうか。

 効果を上げて多くの損失を与えているのか、またウクライナ軍の反撃が可能になるのかについてロシア軍の兵器の損失を分析して、明らかにしたい。

 分析に当たっては、ウクライナ軍参謀部発表データ(2月24日〜5月10日まで)のロシア軍の損失を使用する。

 この損失データを1週間ごとに展開して、ロシア軍の戦闘の推移と照らし合わせる。そして、どの時期に損失が大きい・小さいかなど、損失変化の推移を概観する。

 その結果から、ロシア地上軍の現況と今後の戦況の推移を読み解いていきたい。

 ウクライナ軍の損失について、併せて検討することが必要であるが、ウクライナは今後の戦闘遂行に影響を与えるために公表していない。

 また、ロシアから情報操作された資料を使用すれば、混乱するので使用していない。ロシアの損失だけでも、ロシア軍の実情を読むことはできる。

1.ロシア軍戦車等の損失
 5月10までのロシア軍戦車等(戦車、装甲歩兵戦闘車、空挺戦闘車、海兵戦闘車)の損失は、約1200両である。

 1週間で損失が大きかったのは、侵攻開始の1〜2週間で約350両、全域で攻勢をかけた3月17日〜23日で約150両。

 さらに、ロシア軍がキーウ正面から撤退し、再編成した後に攻勢をかけた4月21日頃から3週間で350両以上の損失である。

ロシア軍戦車損失の推移


出典:ウクライナ参謀部公表資料から、筆者が算定してグラフ化したもの(以下同じ)

 一方、キーウ正面からから撤退している間は、損失が比較的少なかった。


 ロシア軍戦車等は侵攻当初、攻勢をかけた時に車体をウクライナ軍に暴露したために、対戦車ミサイルやロケットで破壊されたのだろう。

 侵攻開始から2週間で350両もの戦車が撃破されたのは、ロシア軍戦車が、ウクライナ軍が待ち構えているところに、無謀に突進をしたからだ。兵站支援の問題もある。

 再編成後の攻撃では、ロシア軍戦車は、戦車、装甲車、歩兵、火砲が連携して、慎重に攻撃していると思われる。

 それでも、3週間で350両以上の損失がでている。

 ということは、自爆型無人機(「スイッチブレード600」)および誘導砲弾を使った攻撃の成果が現れていると見てよい。

 今後、ウクライナ軍の自爆型無人機などの攻撃の成果が上がれば、1週間にロシア軍150両以上を破壊することができるだろう。

 5週間後の6月下旬には、これまでの1200両と合わせれば約2000両を、10週間後(2か月と半月)の7月末頃には、1500両破壊し、合計約2700両を撃破できることになる。

 私の計算では、4月中旬以降の増援を含めたロシア軍の投入戦車数は約6700両であり、撃破数2000両の損耗は約30%、2700両の損耗は40%を超えることになる。

 つまり、ロシア軍戦車部隊は6月下旬頃までには大打撃を受け、7月末頃には、戦意が喪失し、戦えなくなる状況になるということだ。

2.ロシア軍装甲車等の損失
 これまでの、ロシア軍装甲車等(装甲人員輸送車・指揮偵察車・空挺装甲車、海兵装甲車)の損失は、約2800両である。

 1週間で損失が大きかったのは、侵攻開始後で約850両、全域で攻勢をかけた3月17日〜23日で約350両の損失であった。

 ロシア軍再編成後の攻勢(4月21日以降)以降では、各週に250両前後の損失がある。

ロシア軍装甲車損失の推移



 今後、ウクライナ軍の自爆型無人機などの攻撃の成果があれば、1週間にロシア軍250両以上を、5週間で約1250両、10週間で約2500両を破壊することができることになる。


 5週間後の6月下旬にはこれまでの2800両と合わせれば約4000両を超え、10週間後(2か月と半)、7月末頃には5300両撃破できることになる。

 計算では、4月中旬以降に増援を含めたロシア軍投入の装甲車等数は、約7500両であり、撃破数4000両は損耗が約50%、5300両は損耗が70%を超える。

 つまり、ロシア軍機械化部隊(装甲車化部隊)は、6月下旬頃までには投入戦力の半数、7月末頃には7割の損失になる。

3.ロシア軍火砲・多連装ロケット砲の損失
 これまでのロシア軍火砲等(火砲、多連装ロケット砲)の損失は、約700門である。

 1週間で損失が大きかったのは、全域で攻勢をかけた3月17日〜23日で150門を超え、次に、侵攻開始の1〜2週間で約170門。

 これ以外は、各週の損失は約40門であった。

 再編成した後に攻勢をかけた4月21日頃からの3週間は、40、50、60門以上と緩やかな増加であった。


ロシア軍火砲等損失の推移



 火砲・ロケット砲の部隊(砲兵)の位置は、前線から10キロ以上遠方にあることが多い。

 これらを撃破するには、対地攻撃機、無人攻撃機、自爆型無人機、長射程砲(射程20キロを超える噴進弾)による攻撃が必要だ。

 第1線部隊が保有する兵器を使用して攻撃することはできない。

 ウクライナ空軍は、被害を受けながらも当初の2週間は、火砲部隊を攻撃したと考えられる。3月中旬以降は、無人攻撃機や自爆型無人機を使用した攻撃であった可能性がある。

 ロシア軍再編成後の攻撃で、火砲の損失が徐々に増加しているのは、無人攻撃機のほかに、米欧から供与された、自爆型無人機(スイッチブレード600)および誘導砲弾を使った攻撃の成果が現れていると見てよい。

 今後、ウクライナ軍の自爆型無人機などの攻撃の成果があれば、1週間にロシア軍火砲60門以上を、5週間で約300門、10週間で約600門を破壊することができることになる。

 5週間後の6月下旬にはこれまでの700門と合わせれば約1000門、10週間後(2か月と半)、7月末頃には1300門を撃破できることになる。

 計算では、4月中旬以降に増援を含めたロシア軍の投入火砲等の数は約2320門であり、撃破数1000門は損耗が40%、1300門は損耗が55%を超えることになる。

 つまり、ロシア軍砲兵部隊は、6月下旬頃までには投入戦力の4割、7月末頃には5.5割の損失になる。

4.ロシア軍車両の損失
 5月10までのロシア軍車両(火砲、多連装ロケット砲)の損失は、約2000両である。

 1週間で損失が大きかったのは、全域で攻勢をかけた3月17日〜23日で400両を超え、次に、侵攻開始の1〜2週間で350両を超えた。

 これ以外は、各週の損失は平均的に約150両であった。

 車両約2000両の破壊は、主に指揮通信用および兵站用である。つまり、多くの指揮官が殺傷されて指揮が混乱する原因となっている。


 また、兵站用の車両が破壊されたことは、戦車や装甲車に弾薬が運べなくなり、兵士への食糧も運べず、負傷者を後方に輸送できなくなっているということだ。

 再編成した後に攻勢をかけた4月21日頃からの3週間は、平均150両の車両が撃破されている。

ロシア軍車両の損失



 今後は、5週間で750両、10週間で1500両の車両が撃破されることが予想される。今後とも、指揮通信活動や兵站支援活動に支障が起こるだろう。


5.ロシア軍兵の損失
 ウクライナ参謀部が公表している兵の死者数には、純粋に死者だけなのか、負傷者も含まれているのかは、正確には分からない。

 ロシア軍の兵の損失は、5月10日までに2万6000人だという。投入兵力22万人の12%である。発表の数字が本当に死者数だけであるならば、負傷者は、その2倍出ていることになる。つまり、30%以上の損耗が出ているはずだ。

 侵攻1〜2週間が最も多かった。

 この2週間で死者数約1万2000人である。これまでの兵員の死者数は、2万6000人である。この2週間の1万2000人は、これまでの死者の50%に近いものである。


 侵攻1〜2週間に多くの死者が出たことは、ロシア地上軍が無謀に、かつ強引に突進したことが原因であろう。

 その他は、各週1200〜1800人の死者が出ている。今後5週で6000〜9000人、10週で1万2000〜1万8000人の死者が出ることが予想される。

 つまり、6月末までに3.2万〜3.5万人、7月末までに3.8万〜4.4万人の損失が出ることが予想される。

 損失は、6月末に15%、7月末に20%に達することが予想される。

ロシア軍兵の損失

6.ロシア地上軍の瓦解
 今後のロシア地上軍の戦車等、装甲車等、火砲等の損失を予測するには、4月21日以降にロシア軍が再編成され攻撃した時の損失と同じ数値と見積もる、あるいは米欧から供与された兵器が威力を発揮することで、損失が徐々に増加することを見積もる。

 そうすると、6月末には戦車等が3割、装甲車等が5割、火砲等が4割の損失となり、ほぼ戦えない状態に近くなる。

 そして、7月末には戦車等が4割、装甲車等が7割、火砲等が5割以上の損失となる。

 これらのことから、ロシア軍は戦意を喪失し、敗北と言ってよい状態(軍事用語としては瓦解)になるのではないかと考える。


 戦争研究所(STUDY OF WAR)の報告によれば、「ロシア軍の士気喪失と戦闘拒否の報告が継続し拡大している」という。

 前述の損失が出ていれば、兵士の心理としては当然のことであろう。

 ウクライナ大統領が、6月中旬には反攻に出ると発言している。この時期は、米欧から供与された兵器のほとんどが前線の部隊に行きわたり、使用が可能な状態になる。

 また、ロシア軍の損耗が30〜40%を超える状態であり、ほぼ戦えない状態になりつつあるという戦況分析からの発言であろう。

 つまり、6月下旬には2014年に占領された線まで押し戻し、7月下旬には、ウクライナとロシアの国境まで押し返している可能性も出てきたということだ。

 米国は、ウクライナとロシアの戦争は、長期戦になると主張している。

 しかし、私は6月末から7月末には決着がつくのではないかと考える。ウクライナ軍の反攻と占領された都市を奪還することが現実的になってきているからだ。

 しかし、この状態になれば、ロシアは核兵器を使用する可能性が高くなる。

 核兵器を使用すれば、今後の推移を予想することは難しい。

 ロシアの空軍力や防空兵力、無人機の損失とその影響については、数日後に投稿する予定である。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70116?page=7

http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1594.html
[近代史5] “米国の罠に嵌った”ロシアが今後背負う十字架
“米国の罠に嵌った”ロシアが今後背負う十字架
「窮鼠猫を嚙む」最悪の事態に発展の可能性も
2022.5.12
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70070


モスクワの赤の広場で行われた対独戦勝77周年記念軍事パレード(5月9日、写真:AP/アフロ)
 ロシア大統領・V.プーチンがウクライナへの特殊軍事作戦決行に踏み切ってから、2カ月半が経った。

 当初は、5月9日のロシアの対独戦勝記念日までには決着を見る、との予想も出ていたが、そうはならなかった。

 妥協による停戦か、いずれか一方の決定的敗北か、のどちらかでしか終結しないことは明らかなのだが、それがいつ、どちらに転ぶのかを誰もまだ、しかとは予想はできずにいる。

 西側のロシアへの対処について、犠牲者をこれ以上増やさぬためにはウクライナ・西側の妥協が必要と唱える主張と、この妥協を否定する側との間で見解が分かれている。


 現在と将来のそれぞれの犠牲のいずれを重く見るのかという、理屈では勝負が付かない価値判断論争でもある。

 現状では多数を占めると見える非妥協派も、今の犠牲者がさらに増えることを積極的に肯定などできはしない。

 打倒ロシアの掛け声は勇ましく聞こえても、誰の犠牲でそれが可能なのかと問われれば押し黙るだけだろう。

 それでも、ロシアを打ち破ることが叶うかもしれないという期待は増しているようだ。

 それを支える諸報道に曰く「ロシア軍は口ほどにもなく時代遅れで弱い、緒戦で受けた損害は甚大、クレムリン内部では戦術・戦略での不協和音が奏でられ、政権瓦解の可能性すら」。

 果てはV.プーチン大統領の病気説から、諜報部門から彼へ誤情報が上げられていたなどの組織内混乱、その諜報部門では対ウクライナ内通者続出、そして、戦費で国家財政は早晩破綻する、等々。

 この種の情報が、西側の非妥協派を些か楽観的にさせ、今や一気に問題の根源除去に向かってその動きを加速させているようにすら見える。

 加速された動きの先には、ウクライナ防衛にとどまらず、ロシアを国際経済や機関から追い出して孤立させ、将来に亘り西側に抵抗できない国にしてしまうことまでが最終目標として浮かび上がって来る。

 このニュアンスを、米国の政治家や軍人が公言して憚らないようになってきた。

 そして、米英やNATO(北大西洋条約機構)加盟国は、ウクライナへの攻撃用重火器の大量供与に突き進む。事実上のNATOとロシアの戦争が既に始まった、と見てもおかしくはない有様だ。

非妥協派の主張は、ロシアを西側が完全に近い形で抑え込めるという前提に立つことから、どれだけ説得性を持つかは、ロシアがこれから先どれだけ持ち堪えられるか次第となる。

 しかし、強硬策でロシアを完全に敗北に追い込むことは、本当に可能なのだろうか。

 日本の論者には、最近の米側からの発信に依拠して、ついに米国がロシア打倒を決意したと言及する向きもおられる。

 だが、米国の最終的な狙いが元々そこにあるとは、西側でフェイク扱いされながらも、ロシアの論者たちが数年前から既に指摘してきている。


 ロシアにとっての本当の敵は、ウクライナではなく米国だとされる。

 そのロシアの警戒心に立って見るならば、打倒ロシアを実現した暁での西側による「戦後処理」についても、想像が巡らされる。

 差し押さえ済みの外貨準備ほかのロシア資産は、賠償金扱いでウクライナ復興資金へ充当される。

 これを皮切りに、将来の事態再発を防ぐために、今回西側をてこずらせたロシアの核兵器や地下資源を国際管理下(詰まりは米国の管理下)に置く、とまでに行き着くのでは、とロシア側は考える。

 言わば新版・ベルサイユ体制である。

 太平洋戦争で敗北した日本も、二度と米国に歯向かえないよう軍を解散させられ、一時は工業生産能力も奪われることになっていた。ロシアが改めて考えるまでもなく、戦いに負けるとはそういうことなのだ。

 であるならば、ことは国の存亡に関わる。

 ロシアにとってもはや退くことは選択肢として有り得なくなる。5月9日の対独戦勝記念式典軍事パレードの場で、プーチンは重ねてこのロシアの覚悟のほどを確認する演説を行った。

 その思いは為政者のみならず、「西側の侵略」を批判する多くのロシア国民も含めての話になる。

 フェイク漬けになった哀れな民と簡単に片付けられる彼らではない。そして、この点への西側の理解は全くと言ってよいほど欠落している(1)。

人間の忍耐力にも限度はあろうから、戦時体制や経済制裁がこのまま続くなら、何時かはロシア政府の内部自壊や、経済窮乏化に抗議する国民の反乱が起こるのかもしれない。

 何事も永遠というわけには行かない。だが、それがいつなのかは誰も明言できない。その間に、戦場での犠牲者は増え続ける。

 それだけではない。反露一辺倒になり切った感の西側の世論でも、昨今の米英の強気の姿勢に対して、これでは最終的に核兵器まで登場するロシアとの本格的な戦争に行き着いてしまうのではないか、との危惧が洩れ始めている(2)。

 米大統領・J.バイデンが自らの感情をどう吐露しようと、核戦争のリスクを冒してまで対ロシア政策に踏み込めるのかは疑問とする見方も多い。


 それが理由で、最悪のケースは避けられるという説も出るが、ロシアの側は国運を賭していると思い込んでいる。

 そうであれば、最後はチキン・ゲームで、怯えた側が先に和睦を言い出すことを互いに待つしかない状態に追い込まれ、偶発の要素も加わって核戦争勃発の危険性は、時間が経てば経つほど増すことになる。

 事態が雰囲気に引き摺られるままに、さらに悪化することを少しでも防がねばならない。

 そのためには、取りあえずであろうと何であろうと、妥協できる線を見出すか、作り出すかで何とか停戦に持ち込み、皆が頭を冷やす期間を確保せねばならない。

 これまでに識者からは、停戦案がいくつか出されている(3)。

 それらや、戦況の現状を念頭に置いた一案として、次のような形が考えられる。

「ロシアにはクリミアと東部2州の支配を認めるが、それ以外のウクライナの占領地域からは撤兵させる。ウクライナは軍備を持った上で中立政策を公約する」

「そのウクライナの安全保障確保のための新たなロシアを含めた全欧州安保体制を立ち上げる。それが実現するまでは西側の対露経済制裁は解除されない。米国はその安保体制が揺らいだ時のみ介入する」

 核兵器に恐れをなし、米国がウクライナから手を引くという結末は、まさにプーチンの思う壺ではないか。

 その通りだろう。

だが、ロシアに停戦を呑ませるには、そこまでの西側の譲歩が必要になってくる。ロシアは、相手の動きを見て自分のそれを決めてくる。それを考えるなら、米国がプーチン打倒の旗をまずは降ろさねばなるまい。

 西側で報じられている以上に、ロシアは自国の安全保障での目標獲得に本気であり、彼らは彼らの正義を信じている(4)。

 我々はその彼らの正義なるものに、同意する必要はないにしても、それを十分に理解する努力を怠ってきたように思う。西側は、あるいは絶対善の立場に在ったとは言えないのかもしれないのだ(5)。

 現在起こっていることの直接の原因は、2014年のマイダン革命にある。これによってロシアは、先に攻撃を仕掛けてきたのは米国・ウクライナ側だとの認識に染まった。


 それ以来、ウクライナ東部での戦闘が間歇的に続いてきたことから、今回の特殊軍事作戦もその延長線上での動きに過ぎないと解している。

 つまり、ロシアにとって現在の対ウクライナ紛争は、既に2014年に始まっていたことになる(6)。

 また、ウクライナという国、あるいはその国民全部ではなくとも、ロシアが「ネオナチ」と呼ぶ対露強硬・過激派がその中に存在していることや、その勢力がマイダン革命で大きな役割を果たしたことは事実として否定はできまい(7)。

 だが、マイダン革命の細かい経緯や、アゾフ大隊がそもそも何者なのかなどについて、メディアがこれらを当時から十分に報じてきたとは思えない。

 多くの読者はそれを知らされぬままに、ロシアが他国の領土を奪い侵略する悪者として一方的に扱われ、それが「ウクライナ=被害者=絶対善」を定着させてきた。

 これが戦時ともなれば、「人は嘘を付く、取り分け、狩りの後と、戦争の最中と、選挙の前には」の箴言の通り、報道の偏りはさらに大きくなる。

 現在を既に戦時中とみなすなら、ウクライナ側の善戦やロシア軍が受けた多大な損失などの諸情報の大部分が、(それが結果的に真実であったにせよ)米・ウクライナ側の見立てやその発表であることに留意が必要だろう。

 今や旧聞に属する開戦1か月後辺りの話であるが、その頃までロシアが独立を承認した東部2州(ドネツク、ルハンスク)方面での戦闘状況はほとんど報じられていなかった。

 3月の末も近くなって、ようやくロシア国防省が「ルハンスク州の93%、ドネツク州の54%を制圧した」と発表している(8)。

 この発表通りなら(否定する米・ウクライナ側のコメントはこれまで目にしていない)、開戦時には両州とも反政府派の支配地域が31〜32%とされていたことから、報道されない間にロシア軍の東部での前進がかなりあったことになる。

 また、キーウへの侵攻はロシア軍の大失敗だったとされる。確かに、筆者も失敗だったと思う。

だが、その失敗とはキーウ陥落が果たせなかったことではなく、ウクライナ政府に十分な威圧を与えられなかったことだったのではないのか。

 軍事専門家から、キーウ侵攻の態様が教本では考えられないような稚拙なもの、と評されているのも、最初から同市陥落が目標ではなかったからであったように思える(9)。

 さらに、あふれる情報の中で、開戦時や現在のウクライナ軍の布陣体制、ウクライナ軍側の損害、ウクライナ政府や米国政府の内部での政策決定の流れ(10)、ウクライナ政権・軍と米英との内部連携の度合いなどについては、軍機扱いが絡むからなのか、ほとんど読者は知る立場に置かれずにきている(11)。

 危惧されるのは、この種の疑問や異論が押し並べて、ロシアの罠に嵌ったフェイクとみなされてしまう風潮の蔓延である(12)。


 メディア人の中には中露を念頭に、相手国に篭絡されて彼らに都合の良い情報・説明を振り撒く向きに注意せよと説く論者すら出てきた。あたかも、日露戦争当時の「露探」狩りである。

 戦時においての情報統制は必要な施策ではあるが、それはまずは行政当局の仕事であり、当該相手国への知見を大きく制約するという犠牲も伴う。メデイア人自らが口にすべきこととは思えない。

 一方、自らの知見の見直しは、西側も考えねばならない点ではあるが、それはロシアに対して遥かに大きな課題を突き付ける。

 ロシアは、ウクライナの東部・ドンバスと南部を押さえることを公言し、それによりウクライナ政府への圧力を強め、妥協に追い遣ることを狙っている。

 だが、それは恐らく(少なくとも今後の短期間では)功を奏すまい。

 そのやり方を続ける限り、西側も引き下がるわけには行かず、ウクライナ大統領・V.ゼレンスキーも停戦交渉には進めないからだ。

 ロシア側がどう否定しようと(本当の下手人が誰であろうと)ブチャなどでの悲惨な状況は、ロシア軍の侵攻がなかったらまず発生などしていなかったことは確かである。

 前回掲載分(13)で、筆者はプーチンの方から手を出すことはあるまいと論じた。

 それは、ウクライナ全土制覇が不可能であるばかりではなく、その部分的占領が他の部分へのNATO進出を許容する結果を招くだけで、ロシアを益する結果が生まれない(だからそんなバカを、プーチンはやるまい)と推定したからだった。

 この推定は、2月21日にプーチンがドンバス2州の独立を認めたことや、その3日後の特殊軍事作戦開始により、ものの見事に覆されてしまった。

 軍事的な全土制圧を果たさなくとも、ウクライナからのNATO排除(中立と重武装解除)は可能、と踏んだのか、あるいは、合理的ではないと分かっていても、踏み込まざるを得ない何らかの理由が存在した、ということになる。

国内の対外強硬派(14)をプーチンももはや抑え切れなくなっているからなのかもしれない。

 奈辺にプーチンの作戦開始への動機が置かれたのかは、謎のままだが、始まってしまった軍事行動に2カ月以上を既に要し、いまだに決着の見通しが立っていないなら、この作戦のこれまでは誤算に終わったと言わざるを得ない。

 そして、紛争が長引けば長引くほど、勝ち目のない宣伝戦でロシアは西側から徹底的に叩かれ続ける。

 ロシア側の主張が西側でほとんど受け付けられない理由は、西側の対露知見の不足だけではない。


 共産主義の時代に嘘八百を散々並べ立て、スターリンやその後裔が他国の恨みを買う対外政策を展開したことも、いまだに影響を残している。

 要は、信用ならない国とのレッテルが貼られているのだ。その過去の歴史の陰鬱な面を、ロシアは負い続けねばならない。

 そして、どのような理由があろうと、国境紛争で武力を用いることは御法度であることをロシアは認識せねばならない。

 世の紛争には様々な理由があり、自衛のためという場合も出てこよう。また、現在の世界の国境線が、皆すべて合理的に設定されたものとは多分誰も思っていない。

 それぞれに歴史的な経緯やしがらみがある。それが生み出した不合理は、国同士のみならず、国内での少数民族やその独立願望からの問題も惹き起こす。

 だが、どう不合理であれ、当該国の政府や国民が自発的に同意しない限り、その国境変更は許容されない――。これが基本となる大原則である。

 各事例の歴史的由来をほじくり返し始めたなら、対立する双方の議論でことの収拾が付かなくなり、世界各地が紛争だらけになってしまう。

 そして、その争いでは先に手を出した方が悪としておかねば、犠牲者が出ることを防げなくなる。

 それは世界平和の神話でもなく、米国だけの正義でもない。W.チャーチルの皮肉のように、BadとWorseの選択しかないこの世の実情の結果という、子供にでも分かる一つの便宜に過ぎない。

 しかし、だからこそ、その便宜は守られねばならない。

であるから、ウクライナ問題が仮に米国に依って着火されたものであっても(15)、クリミアの住民の過半は、もはやウクライナに帰属することを望んではいないだろうにしても、西側の対露批判が実は世界の大多数の見解とは言えないとしても(16)、コソボでは西側が一方的にセルビアの国境線を変えてしまったとしても、米国には先制攻撃の正当化を堂々と公言した大統領が過去に居たにせよ、今回の「悪」は、先に手を出したロシアなのだ。

 停戦が成り立った後も、ロシアとその国民はこの新たな「悪」の咎から逃れられない。ロシアへの妥協が図られたとしても、そこにはロシアへの敬意など全く含まれてはいないだろうことを、ロシアは覚悟しておくべきである。

 政治面だけではない。既に、その経済の将来に絶望したと思われるA.チュバイスのような市場経済派の有為の仁が、国を去り始めている。

 同じく市場経済派の中銀総裁・E.ナビウリナも、最後は続投に同意したものの、一時は自分から辞表を出したとも伝えられた。


 開戦について事前に何も知らされず、そのために外貨準備の半分が西側の凍結するがままに置かれるしか術がなかったでは、もう中銀総裁などやってられない、の気分だったのだろう。

 化石燃料をはじめとするエネルギー資源の国際貿易の形がこれから大きく変わることや、中国経済圏へロシアが取り込まれることはもはや不可避と論じられる中で、少なくとも今後5〜10年間は、ロシア経済に西側の企業が望むような真面な発展は期待できないのではないか。

 ロシアにとって、これから長い冬の時代になるのかもしれない。

脚注

(1) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69899在モスクワの日本人もびっくり、実態とかけ離れたロシア報道 日本で報道されるありがちな「5つのフレーズ」に潜む危険
(2)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB300PL0Q2A430C2000000/ [FT]核使用を示唆するロシア 見えない米国のシナリオ
(3)https://wedge.ismedia.jp/articles/-/26123米有力誌で提起されたウクライナ中立化構想の中身とは
(4) https://globalaffairs.ru/articles/kto-my-gde-my/ Кто мы, где мы, за что мы – и почему — Россия в глобальной политике
(5)https://webronza.asahi.com/politics/articles/2022040300003.html ウクライナ戦争の真因は何か〜米国とロシア、2つの安全保障観の摩擦
(6)https://www.fujisan.co.jp/product/1281697388/new/月刊 Hanada 2022/06 ◎櫻井よしこvsミハイル・ガルージン駐日ロシア大使 激突!4時間【大闘論!】
(7) https://www.reuters.com/article/us-cohen-ukraine-commentary-idUSKBN1GV2TY 2018/03/20 Commentary: Ukraine’s neo-Nazi problem
https://note.com/14550/n/ne8ba598e93c0スイスの元軍事情報将校「ウクライナで何が行われ、何が起こっているのかを実際に知ることは可能なのか?」
https://webronza.asahi.com/national/articles/2022032200001.html?iref=wrp_rnavi_rank ウクライナには「ネオナチ」という象がいる〜プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【上】
https://webronza.asahi.com/national/articles/2022032200002.htmlウクライナには「ネオナチ」という象がいる〜
プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【中】
https://webronza.asahi.com/national/articles/2022032200003.htmlウクライナには「ネオナチ」という象がいる〜
プーチンの「非ナチ化」プロパガンダのなかの実像【下】
(8)https://www.kommersant.ru/doc/5272475 2022/03/25 Коммерсантъ Что происходило после ввода войск России на Украину. День 30-й
(9)https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/03/post-98397.php 「ゴールポスト」動かしだしたロシア 行き詰まるウクライナ侵攻
https://www.sankei.com/article/20220331-PRTLWDCG2VO4RORMJ3F66C6CBA/ 2020/03/31 産経 露国防省「キエフ方面はおとり」 米国の「失敗」分析を否定
(10)https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/03/post-98402.php 「プーチン権力の座」失言が露呈、バイデンの対ロ長期戦略の欠如
(11) https://mainichi.jp/premier/business/articles/20220429/biz/00m/020/003000c 2022/05/06 毎日 米の積極的なロシア情報開示 政権批判を避ける狙いも | 特派員が見た米露情報戦争
(12)https://gendai.ismedia.jp/articles/-/94280 プーチンの「陰謀論」に踊らされる左派系言論人…ウクライナ「代理戦争」論の錯誤と罪悪
(13) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68883ウクライナ問題:スターリンのつけを払わされているプーチン 前門の虎と後門の狼に挟まれ、振り上げた拳の落し所探る
(14)https://ria.ru/20220403/ukraina-1781469605.html Что Россия должна сделать с Украиной
(15) https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20220413-00291294ウクライナ戦争の責任はアメリカにある!――アメリカとフランスの研究者がhttps://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20220506-00294750 遂につかんだ「バイデンの動かぬ証拠」――2014年ウクライナ親露政権打倒の首謀者
(16) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69481ウクライナ問題、世界が西側の味方と思うのは早計 欧米の価値観は普遍的ではない、ロシアに傾く事情も様々

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70070?page=7
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1595.html

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