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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100391
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[近代史3] 元「中国人慰安婦」の“ウソ”と真実。遺族の証言はどこまで信じられるか? 中川隆
1. 中川隆[-13691] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:36:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-223]
差別されるセックスワーカーの悲哀を見てきた

タイは寛容な国として知られているのだが、この国には差別がないのか。
タイ人はとても柔軟で、誰でも受け入れる包容力があって、流れ者にはとても居心地が良い。あまりの優しさと包容力の深さに、抜け出せなくなるような安心感が社会にある。

しかし、このタイでも差別意識はある。私は売春に従事する膨大な女性に出会ってきたが、彼女たちはそのビジネス故に、そして貧しさ故にあまり良く思われていないのは、部外者である私も徐々に知るようになった。

タイは階層社会だ。上流階級と貧困階級はまったく違う世界に生きている。その中で夜の女というのは、最底辺のそのまた下のクラスに見られているというのは、一緒にいる私でさえも肌感覚で分かるようになった。

そしてタイは学歴社会でもある。学歴のある人間とない人間の差はあまりにも明確に線引きされており、学歴のない人間はどれだけ有能でも出世できないという社会でもある。

現在のシンガポールは多民族国家だが、それでは差別がなかったのだろうか。私はあるスリランカ女性が好きになって、彼女としばらく一緒にいたことがある。

(ブラックアジア:リーパ。ゲイランの街に立つ女の凶悪な目付きに惹かれた)
https://blackasia.net/?p=3262


ところが、私の泊まっていたホテルの中国系シンガポール人は、彼女のことを「ダーティー・ブラック・スキン」の女だと言って侮蔑した。「薄汚い黒い肌の女」だというのである。

そして、「そんな女をこのホテルに連れ込むな」と私に言い放った。客の私にそのようなことを言い放つのだから、その差別感情に私はショックを受けるしかなかった。

カンボジアではどうだったか。カンボジア人は昔から激しい差別感情をベトナム人に持っているのは有名な話だ。

そのカンボジアの売春地帯では、貧しいベトナム女性が大量に売られて売春していたのだが、それがまたベトナム人差別を増長させていた。

私が売春で生きているベトナム女性と一緒にプノンペンの街を歩いていたら、あるカンボジア人の老人が彼女にツバを吐きかけた。街を歩いているだけの女性に向かって、ツバを吐くという行為にその拒絶感の強さが窺い知れた。

理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった

貧しいというのは差別につながる。売春ビジネスもまた差別につながる。だから貧しいセックスワーカーが置かれている立場というのは、どこの国でも激しい差別の渦の中にある。

バングラデシュでも貧しいセックスワーカーは激しい差別の中にあって、彼女たちが病気になっても医者は診察を拒絶し、彼女たちが死んでも葬儀屋は葬儀を拒み、共同墓地での埋葬すらも断られる。

スリランカで私が売春する貧しい女性と一緒に店に入ったら、私たちの目の前にいたテーブルのスリランカ人は彼女を見て途中で席を立って消えていった。

普通のスリランカ人が彼女を見る侮蔑の表情、そして一緒にいる私に対する嫌悪の表情はとても深い断絶に思えた。スリランカ社会が彼女を見る「冷たい目」はすべて真実である。恐ろしほどの冷たさであった。

彼女たちは、そういった拒絶感を朝から晩まで受けている。どこの国に行っても、私が好きになった夜の女たちの99%は社会から嫌われ差別されていた。
理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった。ある時は陰湿に、ある時は露骨に、差別感情がそこに見出された。それが現実だ。

アジアの底辺で、社会から拒絶されながら生きている女性たちの姿を見て感じたのは、人間は「違い」に対する拒絶感をどうしても克服できないという冷徹な現実だったのである。

人は多様であり、人種も、人生も、考え方も、非常に大きな違いが存在する。その「違い」の中に対立や拒否感が生まれると、それが差別という感情になって育っていく。どうあがいても、人間はそこから逃れられない。

この「違いを排除する」という人間社会にある感情は、やがては深い対立を生み出すことになる。現代社会はこの感情を消す処方箋を持っていない。
https://blackasia.net/?p=17236
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/483.html#c1

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
626. 中川隆[-13690] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:38:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-222]
差別されるセックスワーカーの悲哀を見てきた

タイは寛容な国として知られているのだが、この国には差別がないのか。
タイ人はとても柔軟で、誰でも受け入れる包容力があって、流れ者にはとても居心地が良い。あまりの優しさと包容力の深さに、抜け出せなくなるような安心感が社会にある。

しかし、このタイでも差別意識はある。私は売春に従事する膨大な女性に出会ってきたが、彼女たちはそのビジネス故に、そして貧しさ故にあまり良く思われていないのは、部外者である私も徐々に知るようになった。

タイは階層社会だ。上流階級と貧困階級はまったく違う世界に生きている。その中で夜の女というのは、最底辺のそのまた下のクラスに見られているというのは、一緒にいる私でさえも肌感覚で分かるようになった。

そしてタイは学歴社会でもある。学歴のある人間とない人間の差はあまりにも明確に線引きされており、学歴のない人間はどれだけ有能でも出世できないという社会でもある。

現在のシンガポールは多民族国家だが、それでは差別がなかったのだろうか。私はあるスリランカ女性が好きになって、彼女としばらく一緒にいたことがある。

(ブラックアジア:リーパ。ゲイランの街に立つ女の凶悪な目付きに惹かれた)
https://blackasia.net/?p=3262


ところが、私の泊まっていたホテルの中国系シンガポール人は、彼女のことを「ダーティー・ブラック・スキン」の女だと言って侮蔑した。「薄汚い黒い肌の女」だというのである。

そして、「そんな女をこのホテルに連れ込むな」と私に言い放った。客の私にそのようなことを言い放つのだから、その差別感情に私はショックを受けるしかなかった。

カンボジアではどうだったか。カンボジア人は昔から激しい差別感情をベトナム人に持っているのは有名な話だ。

そのカンボジアの売春地帯では、貧しいベトナム女性が大量に売られて売春していたのだが、それがまたベトナム人差別を増長させていた。

私が売春で生きているベトナム女性と一緒にプノンペンの街を歩いていたら、あるカンボジア人の老人が彼女にツバを吐きかけた。街を歩いているだけの女性に向かって、ツバを吐くという行為にその拒絶感の強さが窺い知れた。

理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった

貧しいというのは差別につながる。売春ビジネスもまた差別につながる。だから貧しいセックスワーカーが置かれている立場というのは、どこの国でも激しい差別の渦の中にある。

バングラデシュでも貧しいセックスワーカーは激しい差別の中にあって、彼女たちが病気になっても医者は診察を拒絶し、彼女たちが死んでも葬儀屋は葬儀を拒み、共同墓地での埋葬すらも断られる。

スリランカで私が売春する貧しい女性と一緒に店に入ったら、私たちの目の前にいたテーブルのスリランカ人は彼女を見て途中で席を立って消えていった。

普通のスリランカ人が彼女を見る侮蔑の表情、そして一緒にいる私に対する嫌悪の表情はとても深い断絶に思えた。スリランカ社会が彼女を見る「冷たい目」はすべて真実である。恐ろしほどの冷たさであった。

彼女たちは、そういった拒絶感を朝から晩まで受けている。どこの国に行っても、私が好きになった夜の女たちの99%は社会から嫌われ差別されていた。
理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった。ある時は陰湿に、ある時は露骨に、差別感情がそこに見出された。それが現実だ。

アジアの底辺で、社会から拒絶されながら生きている女性たちの姿を見て感じたのは、人間は「違い」に対する拒絶感をどうしても克服できないという冷徹な現実だったのである。

人は多様であり、人種も、人生も、考え方も、非常に大きな違いが存在する。その「違い」の中に対立や拒否感が生まれると、それが差別という感情になって育っていく。どうあがいても、人間はそこから逃れられない。

この「違いを排除する」という人間社会にある感情は、やがては深い対立を生み出すことになる。現代社会はこの感情を消す処方箋を持っていない。
https://blackasia.net/?p=17236
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c626

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
22. 中川隆[-13689] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:42:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-221]
人間は「違い」に対する拒絶感をどうしても克服できないという冷徹な現実2020.02.20
https://blackasia.net/?p=17236


人間はさまざまな理由で特定の人間を排除したり差別したりする。人種が違うと言って差別し、国が違うと言って差別し、同郷ではないと言って差別し、文化が違うと言って差別し、知らない人間だと言って差別する。性別が違うと言って差別し、障害があると言って差別し、貧しいと言って差別し、宗教が違うと言って差別し、同性愛だと言って差別する。(鈴木傾城)


新型コロナウイルスが排除や差別を生み出している

新型コロナウイルスがアジアで広がるにつれて、世界各国で東アジア人が排除されたり、差別されたりするようになっている。

たとえば、フランス・パリ郊外の日本食レストランの窓に「コロナウイルス、出ていけ」と落書きされたり、面と向かって「俺に近づくな、ウイルス野郎」と言われたりしたという事象が次々と上がっている。

ニューヨークではアジア系の女性を見た黒人男性が「俺に近づくな」と女性を罵りながら殴りつけるような事件も起きていた。

イタリアのサンタチェチ―リア国立音楽院は「すべての東洋人へのレッスンを中止する」と発表して「それは差別ではないのか」「いや自己防衛だ」と問題になった。

ドイツではアジア人が電車やバスに乗ると、まわりの白人がみんな席を立って消えてしまったり、あからさまに嫌悪の表情を浮かべたりしている。またアジア人が近づくと無言で去って行ったりする。また欧米各国でアジア人はタクシーも乗車拒否されるようになっている。

私自身は現実主義者だ。中国でこのような激烈な疫病が流行したら世界中が東アジア人を警戒し、排除・拒絶・差別につながるというのは「必ず起こり得ること」として最初から想定内の範囲に入れている。

アフリカでエボラが流行したら世界中の人々はアフリカ人を避けるだろうし、欧米で黒死病みたいなものが流行ったら世界中の人々は欧米人を避けるだろう。そういうことだ。明らかに自分たちと違っている対象は警戒するのである。

排除が極端になり、その排除が根拠なく固定化されると差別になる。差別はなくなると思うだろうか。


差別を生み出す根本となるのは、違うという感覚

人間はさまざまな理由で特定の人間を排除したり差別したりする。人種が違うと言って差別し、国が違うと言って差別し、同郷ではないと言って差別し、文化が違うと言って差別し、知らない人間だと言って差別する。

性別が違うと言って差別し、障害があると言って差別し、貧しいと言って差別し、宗教が違うと言って差別し、同性愛だと言って差別する。差別する理由は山ほどあって、どこかを改善しても、また新しい何かで差別が生み出される。

この差別を生み出す根本となるのは、「違う」という感覚である。白人社会の中で、黒人や黄色人種が入り込めば、肌の色が「違う」という感情が拒絶感につながり、差別となる。

また相手が貧しくて、自分たちよりも劣っているという感情が入り込めば、やはりそこに拒絶感が生まれ、差別となって排除されていく。学歴の違いという些細なものでさえも、いつしか差別になっていく。

差別と言えば、インドのカースト制度は今も隠然と残っており、低カーストやダリットと呼ばれる人々が社会から見捨てられているのがよく知られている。
インドの凄まじい現状と、そんな中で売春ビジネスをして生きる女性のことはこちらに書いた。インドは差別意識があまりにも剥き出しだ。(売春地帯をさまよい歩いた日々:インド・バングラ編)

「自分と違う」という現象は、ある人々にとってはとても興味深く、深い関心を呼び起こし、理解することによって感銘を受けたり影響を受けたりするものだ。しかし、逆に別のある人々にとっては、激しい嫌悪と拒絶感を生み出す。
嫌悪や拒絶感の根本にあるのは「違い」を認められない人間感情なのである。
海外に出たことのある人は、必ず自分の国籍や肌の色で何らかの差別を受けることになる。遅かれ早かれ、そういった不愉快な出来事に遭遇する。違いを受け入れてくれる人もいるのだが、逆に排除する人もいるからである。
https://blackasia.net/?p=17236
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c22

[近代史3] 新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由 中川隆
58. 中川隆[-13688] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:57:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-220]
2020年02月20日
働かない人の収入が働く人より多い世界 マネー経済が実体経済を圧倒


上位数人が下位半分の資産を所有している
働くより金転がしが儲かるのでこうなる

画像引用:https://fashionmarketingjournal.com/wp/wp-content/uploads/2017/02/thejick01-1.png

マネー経済が実体経済を圧倒

1%の超富裕層が富の半分を所有している、というような説明を聞いたことがあると思います。

アメリカでは上位3人(ゲイツ、バフェット、ベゾス)の合計資産約30兆円が下位半分の資産を上回っている。

アメリカ人の5人に1人が資産ゼロで、3割程度が10万円ほどの預金額しか持っていない。


さらに世界の上位62人は世界の個人資産の半分を持っていて、彼らの大半は世襲や相続で資産を引き継いだ。

この状況は19世紀以前に王や皇帝や貴族が支配していた頃と同じで、封建時代より格差が酷いという。

江戸時代の殿様は意外に貧乏で、食事や生活は質素だったので、現在より格差が小さかったかも知れない。


現代の格差拡大はマネー経済の拡大と実体経済の縮小が原因と言われています。

実体経済は生産や移動やサービスなど物理的な行動を伴う経済で、GDPという数字で表されます。

対して「ビットコインが値上がりした」ように物理的な行為が伴わないものを、マネー経済などと呼んでいます。


現金と預金などの通貨流通量は100兆ドルで世界のGDP合計は約80兆ドル(2018年頃)とマネーの方が大きい。

GDPは物理的行為をお金に換算した合計なので、働くよりお金を転がした方が儲かるのを意味している。

例えば苦労して東大に入り一流企業に入り経営者に上り詰めた人より、親から相続したお金を転がして遊んでいるほうが儲かる。


これが格差を拡大していて、まじめに働くより寝ていた方が儲かるから、どんどん差が開いています。

働いたら負けの社会

マネー経済の拡大によって2030年には上位1%の資産家が全世界の富の3分の2を所有する、とオックスフォード大教授などが言っています。

超格差を予言したピケティ教授の『21世紀の資本』がベストセラーになったが、当時は空想と思えたことが現実になっている。

ビケティによると格差が拡大する理由は労働によって得られる賃金より、不労所得である財産の伸び率が高いからです。


その結果が全世界GDP合計80兆ドルに対して通貨流通量は100兆ドルになったので、今後さらに差が開きます。

こうした社会では一生寝ずに働いたとしても、寝転んで資産運用する人よりずっと少ない資産しか作れません。

10年ほど前にネットで「働いたら負け」という言葉が流行したが、今の世界は正に働いたら負けで、働かない人が巨万の富を持っている。


千年以上前から「労働は美徳」としてきた日本人はこういう生き方が苦手であり、労働によって尊敬や称賛を得るのが当然だと考えて来た。

欧米では労働は刑罰であり、偉い人は働かず命令したり遊んだり、非生産的な事ばかりしてきた。

例えば10億円を持っている人が年2%で運用したら2000万円を得られるが、労働で2000万円得られるのは芸能人など限られた職業です。


非正規や派遣労働者の多くは年収200万円程度ですが、これは1億円を2%で運用するのと同じ金額です。

年2%なら投資の才能がゼロでもこつこつ積み立てるだけで良いので、ほぼノーリスクで得られるリターンです。

日本では実質賃金が増えていないが先進国共通の現象で、全世界「働いたら負け」になっています。


こうした世界がいつまで続くかですが、マネー経済は何も生み出していないので、実体経済が作ったものを浪費しているだけです。

実体経済が生み出したお金をマネーゲームの勝者が総取りする不合理な経済が、永遠に続くとは思えない。

王や貴族の支配が終わったように、マネー貴族の世界もいつかは終わるでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/82236298.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html#c58

[近代史3] マルクスがイギリスで共産主義を考えた理由 中川隆
1. 中川隆[-13687] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:58:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-219]
2020年02月20日
働かない人の収入が働く人より多い世界 マネー経済が実体経済を圧倒


上位数人が下位半分の資産を所有している
働くより金転がしが儲かるのでこうなる

画像引用:https://fashionmarketingjournal.com/wp/wp-content/uploads/2017/02/thejick01-1.png

マネー経済が実体経済を圧倒

1%の超富裕層が富の半分を所有している、というような説明を聞いたことがあると思います。

アメリカでは上位3人(ゲイツ、バフェット、ベゾス)の合計資産約30兆円が下位半分の資産を上回っている。

アメリカ人の5人に1人が資産ゼロで、3割程度が10万円ほどの預金額しか持っていない。


さらに世界の上位62人は世界の個人資産の半分を持っていて、彼らの大半は世襲や相続で資産を引き継いだ。

この状況は19世紀以前に王や皇帝や貴族が支配していた頃と同じで、封建時代より格差が酷いという。

江戸時代の殿様は意外に貧乏で、食事や生活は質素だったので、現在より格差が小さかったかも知れない。


現代の格差拡大はマネー経済の拡大と実体経済の縮小が原因と言われています。

実体経済は生産や移動やサービスなど物理的な行動を伴う経済で、GDPという数字で表されます。

対して「ビットコインが値上がりした」ように物理的な行為が伴わないものを、マネー経済などと呼んでいます。


現金と預金などの通貨流通量は100兆ドルで世界のGDP合計は約80兆ドル(2018年頃)とマネーの方が大きい。

GDPは物理的行為をお金に換算した合計なので、働くよりお金を転がした方が儲かるのを意味している。

例えば苦労して東大に入り一流企業に入り経営者に上り詰めた人より、親から相続したお金を転がして遊んでいるほうが儲かる。


これが格差を拡大していて、まじめに働くより寝ていた方が儲かるから、どんどん差が開いています。

働いたら負けの社会

マネー経済の拡大によって2030年には上位1%の資産家が全世界の富の3分の2を所有する、とオックスフォード大教授などが言っています。

超格差を予言したピケティ教授の『21世紀の資本』がベストセラーになったが、当時は空想と思えたことが現実になっている。

ビケティによると格差が拡大する理由は労働によって得られる賃金より、不労所得である財産の伸び率が高いからです。


その結果が全世界GDP合計80兆ドルに対して通貨流通量は100兆ドルになったので、今後さらに差が開きます。

こうした社会では一生寝ずに働いたとしても、寝転んで資産運用する人よりずっと少ない資産しか作れません。

10年ほど前にネットで「働いたら負け」という言葉が流行したが、今の世界は正に働いたら負けで、働かない人が巨万の富を持っている。


千年以上前から「労働は美徳」としてきた日本人はこういう生き方が苦手であり、労働によって尊敬や称賛を得るのが当然だと考えて来た。

欧米では労働は刑罰であり、偉い人は働かず命令したり遊んだり、非生産的な事ばかりしてきた。

例えば10億円を持っている人が年2%で運用したら2000万円を得られるが、労働で2000万円得られるのは芸能人など限られた職業です。


非正規や派遣労働者の多くは年収200万円程度ですが、これは1億円を2%で運用するのと同じ金額です。

年2%なら投資の才能がゼロでもこつこつ積み立てるだけで良いので、ほぼノーリスクで得られるリターンです。

日本では実質賃金が増えていないが先進国共通の現象で、全世界「働いたら負け」になっています。


こうした世界がいつまで続くかですが、マネー経済は何も生み出していないので、実体経済が作ったものを浪費しているだけです。

実体経済が生み出したお金をマネーゲームの勝者が総取りする不合理な経済が、永遠に続くとは思えない。

王や貴族の支配が終わったように、マネー貴族の世界もいつかは終わるでしょう。

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[近代史3] “独立”する富裕層  政府による所得再分配は努力して金持ちになった人の金を盗む行為だから許せない 中川隆
1. 中川隆[-13686] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:59:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-218]
2020年02月20日
働かない人の収入が働く人より多い世界 マネー経済が実体経済を圧倒


上位数人が下位半分の資産を所有している
働くより金転がしが儲かるのでこうなる

画像引用:https://fashionmarketingjournal.com/wp/wp-content/uploads/2017/02/thejick01-1.png

マネー経済が実体経済を圧倒

1%の超富裕層が富の半分を所有している、というような説明を聞いたことがあると思います。

アメリカでは上位3人(ゲイツ、バフェット、ベゾス)の合計資産約30兆円が下位半分の資産を上回っている。

アメリカ人の5人に1人が資産ゼロで、3割程度が10万円ほどの預金額しか持っていない。


さらに世界の上位62人は世界の個人資産の半分を持っていて、彼らの大半は世襲や相続で資産を引き継いだ。

この状況は19世紀以前に王や皇帝や貴族が支配していた頃と同じで、封建時代より格差が酷いという。

江戸時代の殿様は意外に貧乏で、食事や生活は質素だったので、現在より格差が小さかったかも知れない。


現代の格差拡大はマネー経済の拡大と実体経済の縮小が原因と言われています。

実体経済は生産や移動やサービスなど物理的な行動を伴う経済で、GDPという数字で表されます。

対して「ビットコインが値上がりした」ように物理的な行為が伴わないものを、マネー経済などと呼んでいます。


現金と預金などの通貨流通量は100兆ドルで世界のGDP合計は約80兆ドル(2018年頃)とマネーの方が大きい。

GDPは物理的行為をお金に換算した合計なので、働くよりお金を転がした方が儲かるのを意味している。

例えば苦労して東大に入り一流企業に入り経営者に上り詰めた人より、親から相続したお金を転がして遊んでいるほうが儲かる。


これが格差を拡大していて、まじめに働くより寝ていた方が儲かるから、どんどん差が開いています。

働いたら負けの社会

マネー経済の拡大によって2030年には上位1%の資産家が全世界の富の3分の2を所有する、とオックスフォード大教授などが言っています。

超格差を予言したピケティ教授の『21世紀の資本』がベストセラーになったが、当時は空想と思えたことが現実になっている。

ビケティによると格差が拡大する理由は労働によって得られる賃金より、不労所得である財産の伸び率が高いからです。


その結果が全世界GDP合計80兆ドルに対して通貨流通量は100兆ドルになったので、今後さらに差が開きます。

こうした社会では一生寝ずに働いたとしても、寝転んで資産運用する人よりずっと少ない資産しか作れません。

10年ほど前にネットで「働いたら負け」という言葉が流行したが、今の世界は正に働いたら負けで、働かない人が巨万の富を持っている。


千年以上前から「労働は美徳」としてきた日本人はこういう生き方が苦手であり、労働によって尊敬や称賛を得るのが当然だと考えて来た。

欧米では労働は刑罰であり、偉い人は働かず命令したり遊んだり、非生産的な事ばかりしてきた。

例えば10億円を持っている人が年2%で運用したら2000万円を得られるが、労働で2000万円得られるのは芸能人など限られた職業です。


非正規や派遣労働者の多くは年収200万円程度ですが、これは1億円を2%で運用するのと同じ金額です。

年2%なら投資の才能がゼロでもこつこつ積み立てるだけで良いので、ほぼノーリスクで得られるリターンです。

日本では実質賃金が増えていないが先進国共通の現象で、全世界「働いたら負け」になっています。


こうした世界がいつまで続くかですが、マネー経済は何も生み出していないので、実体経済が作ったものを浪費しているだけです。

実体経済が生み出したお金をマネーゲームの勝者が総取りする不合理な経済が、永遠に続くとは思えない。

王や貴族の支配が終わったように、マネー貴族の世界もいつかは終わるでしょう。

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[番外地6] ピケティで明けました 中川隆
33. 中川隆[-13685] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:02:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-217]
2020年02月20日
働かない人の収入が働く人より多い世界 マネー経済が実体経済を圧倒


上位数人が下位半分の資産を所有している
働くより金転がしが儲かるのでこうなる

画像引用:https://fashionmarketingjournal.com/wp/wp-content/uploads/2017/02/thejick01-1.png

マネー経済が実体経済を圧倒

1%の超富裕層が富の半分を所有している、というような説明を聞いたことがあると思います。

アメリカでは上位3人(ゲイツ、バフェット、ベゾス)の合計資産約30兆円が下位半分の資産を上回っている。

アメリカ人の5人に1人が資産ゼロで、3割程度が10万円ほどの預金額しか持っていない。


さらに世界の上位62人は世界の個人資産の半分を持っていて、彼らの大半は世襲や相続で資産を引き継いだ。

この状況は19世紀以前に王や皇帝や貴族が支配していた頃と同じで、封建時代より格差が酷いという。

江戸時代の殿様は意外に貧乏で、食事や生活は質素だったので、現在より格差が小さかったかも知れない。


現代の格差拡大はマネー経済の拡大と実体経済の縮小が原因と言われています。

実体経済は生産や移動やサービスなど物理的な行動を伴う経済で、GDPという数字で表されます。

対して「ビットコインが値上がりした」ように物理的な行為が伴わないものを、マネー経済などと呼んでいます。


現金と預金などの通貨流通量は100兆ドルで世界のGDP合計は約80兆ドル(2018年頃)とマネーの方が大きい。

GDPは物理的行為をお金に換算した合計なので、働くよりお金を転がした方が儲かるのを意味している。

例えば苦労して東大に入り一流企業に入り経営者に上り詰めた人より、親から相続したお金を転がして遊んでいるほうが儲かる。


これが格差を拡大していて、まじめに働くより寝ていた方が儲かるから、どんどん差が開いています。

働いたら負けの社会

マネー経済の拡大によって2030年には上位1%の資産家が全世界の富の3分の2を所有する、とオックスフォード大教授などが言っています。

超格差を予言したピケティ教授の『21世紀の資本』がベストセラーになったが、当時は空想と思えたことが現実になっている。

ビケティによると格差が拡大する理由は労働によって得られる賃金より、不労所得である財産の伸び率が高いからです。


その結果が全世界GDP合計80兆ドルに対して通貨流通量は100兆ドルになったので、今後さらに差が開きます。

こうした社会では一生寝ずに働いたとしても、寝転んで資産運用する人よりずっと少ない資産しか作れません。

10年ほど前にネットで「働いたら負け」という言葉が流行したが、今の世界は正に働いたら負けで、働かない人が巨万の富を持っている。


千年以上前から「労働は美徳」としてきた日本人はこういう生き方が苦手であり、労働によって尊敬や称賛を得るのが当然だと考えて来た。

欧米では労働は刑罰であり、偉い人は働かず命令したり遊んだり、非生産的な事ばかりしてきた。

例えば10億円を持っている人が年2%で運用したら2000万円を得られるが、労働で2000万円得られるのは芸能人など限られた職業です。


非正規や派遣労働者の多くは年収200万円程度ですが、これは1億円を2%で運用するのと同じ金額です。

年2%なら投資の才能がゼロでもこつこつ積み立てるだけで良いので、ほぼノーリスクで得られるリターンです。

日本では実質賃金が増えていないが先進国共通の現象で、全世界「働いたら負け」になっています。


こうした世界がいつまで続くかですが、マネー経済は何も生み出していないので、実体経済が作ったものを浪費しているだけです。

実体経済が生み出したお金をマネーゲームの勝者が総取りする不合理な経済が、永遠に続くとは思えない。

王や貴族の支配が終わったように、マネー貴族の世界もいつかは終わるでしょう。

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[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
270. 中川隆[-13684] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:03:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-216]
2020年02月20日
働かない人の収入が働く人より多い世界 マネー経済が実体経済を圧倒


上位数人が下位半分の資産を所有している
働くより金転がしが儲かるのでこうなる

画像引用:https://fashionmarketingjournal.com/wp/wp-content/uploads/2017/02/thejick01-1.png

マネー経済が実体経済を圧倒

1%の超富裕層が富の半分を所有している、というような説明を聞いたことがあると思います。

アメリカでは上位3人(ゲイツ、バフェット、ベゾス)の合計資産約30兆円が下位半分の資産を上回っている。

アメリカ人の5人に1人が資産ゼロで、3割程度が10万円ほどの預金額しか持っていない。


さらに世界の上位62人は世界の個人資産の半分を持っていて、彼らの大半は世襲や相続で資産を引き継いだ。

この状況は19世紀以前に王や皇帝や貴族が支配していた頃と同じで、封建時代より格差が酷いという。

江戸時代の殿様は意外に貧乏で、食事や生活は質素だったので、現在より格差が小さかったかも知れない。


現代の格差拡大はマネー経済の拡大と実体経済の縮小が原因と言われています。

実体経済は生産や移動やサービスなど物理的な行動を伴う経済で、GDPという数字で表されます。

対して「ビットコインが値上がりした」ように物理的な行為が伴わないものを、マネー経済などと呼んでいます。


現金と預金などの通貨流通量は100兆ドルで世界のGDP合計は約80兆ドル(2018年頃)とマネーの方が大きい。

GDPは物理的行為をお金に換算した合計なので、働くよりお金を転がした方が儲かるのを意味している。

例えば苦労して東大に入り一流企業に入り経営者に上り詰めた人より、親から相続したお金を転がして遊んでいるほうが儲かる。


これが格差を拡大していて、まじめに働くより寝ていた方が儲かるから、どんどん差が開いています。

働いたら負けの社会

マネー経済の拡大によって2030年には上位1%の資産家が全世界の富の3分の2を所有する、とオックスフォード大教授などが言っています。

超格差を予言したピケティ教授の『21世紀の資本』がベストセラーになったが、当時は空想と思えたことが現実になっている。

ビケティによると格差が拡大する理由は労働によって得られる賃金より、不労所得である財産の伸び率が高いからです。


その結果が全世界GDP合計80兆ドルに対して通貨流通量は100兆ドルになったので、今後さらに差が開きます。

こうした社会では一生寝ずに働いたとしても、寝転んで資産運用する人よりずっと少ない資産しか作れません。

10年ほど前にネットで「働いたら負け」という言葉が流行したが、今の世界は正に働いたら負けで、働かない人が巨万の富を持っている。


千年以上前から「労働は美徳」としてきた日本人はこういう生き方が苦手であり、労働によって尊敬や称賛を得るのが当然だと考えて来た。

欧米では労働は刑罰であり、偉い人は働かず命令したり遊んだり、非生産的な事ばかりしてきた。

例えば10億円を持っている人が年2%で運用したら2000万円を得られるが、労働で2000万円得られるのは芸能人など限られた職業です。


非正規や派遣労働者の多くは年収200万円程度ですが、これは1億円を2%で運用するのと同じ金額です。

年2%なら投資の才能がゼロでもこつこつ積み立てるだけで良いので、ほぼノーリスクで得られるリターンです。

日本では実質賃金が増えていないが先進国共通の現象で、全世界「働いたら負け」になっています。


こうした世界がいつまで続くかですが、マネー経済は何も生み出していないので、実体経済が作ったものを浪費しているだけです。

実体経済が生み出したお金をマネーゲームの勝者が総取りする不合理な経済が、永遠に続くとは思えない。

王や貴族の支配が終わったように、マネー貴族の世界もいつかは終わるでしょう。

http://www.thutmosev.com/archives/82236298.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c270

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
9. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:24:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-215]

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 〜シャルル・ミュンシュの名盤〜:
ハルくんの音楽日記 2012年9月 6日
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-514d.html


ベルリオーズの作曲した「幻想交響曲」の解説で、必ず登場するのがアイルランド出身の女優ハリエッタ・スミスソンです。彼女は15歳で地元ダブリンの劇場でデビューして、18歳の時にロンドンへ移りますが成功しませんでした。けれども28歳の時にフランス、パリのオデオン座でシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」や「ハムレット」でヒロイン役を演じると一躍人気女優となりました。

当時25歳のベルリオーズは、その公演を観て彼女に激しい恋心を抱き、劇場に通い詰めては、彼女にせっせと求愛の手紙を送りましたが、既に人気女優となったハリエッタが、まだ無名で3歳年下のベルリオーズに振り向くわけは有りません。
失恋したベルリオーズは徐々に彼女に憎悪の念を抱くようになり(まぁ、よく有る話です)(笑)、アヘンを服用しながら、この「幻想交響曲」を作曲しました。

「恋に深く絶望し、アヘンを吸った、豊かな想像力を持つある芸術家」の物語を音楽で表現したのですが、それが自分自身であったことは言うまでもありません。

その後、徐々に名が知られてきたベルリオーズは女流ピアニストと恋愛して、またも破断の目に遭います。そして、29歳の時にパリで「幻想交響曲」の演奏会を開きますが、ちょうど同じ時に、あのハリエッタ・スミスソンの劇団がパリに滞在していたために、偶然彼女は演奏会に出向きました。彼女はベルリオーズのことなどは、すっかり忘れ去っていましたし、ましてや演奏曲目が自分自身を主題にしたなどとは全く知らなかったのです。ところがプログラムに書かれた解説を呼んでいるうちに、それが自分のことであるのに気が付き、大変な衝撃を受けました。

その演奏会をきっかけに二人の交際が始まり、翌年には結婚しました。いやー、天才芸術家の人生は何ともドラマティックですね。もっとも二人の仲は結婚後に徐々に冷え込んでゆき、結局は離婚してしまいますが・・・。

ここで、曲の物語の概略を記しておきます。

病的な感受性と想像力に富んだ若い音楽家が、恋の悩みに絶望してアヘンによる服毒自殺を図る。彼は重苦しい眠りの中で奇怪な幻想を見て、彼の病んだ脳の中に音楽的な映像となって現れる。


第1楽章「夢・情熱」
彼は情熱の熱病、憂鬱、喜びをわけも無く感じ、愛する彼女を見る。そして彼女が呼び起こす火山のような愛情、胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み。

第2楽章「舞踏会」
ある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する彼女にめぐり合う。

第3楽章「野の風景」
ある夏の夕べ、野原で羊飼いが吹く笛を聞く。風にそよぐ木々のざわめきが心に平安をもたらす。しかし彼女が再び現れ、不安で心が締めつけられる。遠くの雷鳴、孤独、静寂。

第4楽章「断頭台への行進」
彼は夢の中で愛する彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へと引かれてゆく。そして行進は、最後の愛の思いのように、死の一撃によって遮られる。

第5楽章「魔女の夜宴の夢」
魔女の饗宴の場に居る自分。周りには亡霊や化け物が、彼の葬儀に集まって大騒ぎをしている。そこへ殺した彼女が娼婦のような姿に変わり果てた姿で現れて悪魔の大饗宴に加わる。弔の鐘が鳴り、もはや饗宴と怒りの日がいっしょくたになってしまう。


交響曲というジャンルに、これほどまでの物語性を込めたのは音楽史上初めてのことであり、シューベルトやウエーバーから始まったロマン派が飛躍的に進化した記念碑的な作品となりました。全5楽章という構成も形にとらわれずにユニークですし、各楽章が全て個性的で魅力にあふれます。燃え上がるほどに情熱的な第1楽章、美しく華やかにもかかわらず翳りを感じる第2楽章、美しく静寂と葛藤が交錯する第3楽章、乱痴気騒ぎの行進曲だがアイロニーに溢れた第4楽章、正に踊り狂う大饗宴の第5楽章と、どの楽章も非常な傑作です。見ようによっては2楽章のワルツはメヌエット楽章の異形、4楽章の行進曲はスケルツォ楽章の異形と考えられなくもないような気がします。

また、管弦楽の色彩感の豊かさも驚くほどです。ティンパニーを倍にしたアイディアと演奏効果は抜群です。第2楽章にはベルリオーズ本人の手で後からオブリガート的に書き加えられたコルネット入りの版が有りますが、パリの社交界の華やかさが強調されているように感じられます。最終稿では再び削除されていますが、このコルネット入り版も多く録音されています。そして、第5楽章で使われる弔いの鐘も極めて印象的です。

この曲こそは、近代管弦楽の元祖だと言えるでしょう。ベートーヴェンの時代から、まだほんの僅かの時間しか経っていないというのに、ベルリオーズは驚くほどの天才でした。

この曲を演奏する場合には、標題音楽である以上、この破天荒な内容に相応しい演奏で無ければなりません。そうなると、昔からこの曲のスペシャリストとして余りに有名なシャルル・ミュンシュを第一に上げるのが、やはり妥当だと思います。他のどんな指揮者と比べてもミュンシュの演奏は情熱的であり、炎の中に飛び込むような切羽詰まった感情を表現し尽しているからです。基本テンポは相当に速いのですが、音を溜めるべきところではグッと溜めて力を込めた音を鳴らします。ですので他の誰よりも聴き応えが有ります。

ミュンシュの「幻想」には多くの録音が残されていますが、その中から僕の愛聴盤をご紹介します。

シャルル・ミュンシュ指揮ボストン響(1962年録音/RCA盤) 

ミュンシュのRCAへのステレオ録音には1954年盤と1962年盤の二種類が有りますが、僕は62年盤で聴いています。RCAの録音が優れているので、最も録音条件の良い演奏を聴きたければこのディスクがお勧めです。但しパリ管盤と比べると整い過ぎていて、ミュンシュにしては少々大人しい印象を受けます(他の指揮者と比べれば充分に熱いですが)。あくまでもパリ管盤の補完的存在と考えるべきです。

シャルル・ミュンシュ指揮フランス国立管(1963年録音/ディスク・モンターニュ盤) リスボンでのライブです。モノラル録音ですが、音のバランスが良いので聴き易いと言えます。後年のパリ管との演奏に比べると、表現の幅では幾らか聴き劣りしますが、終楽章などでは、さすがにミュンシュのライブだけあって、凄まじい熱演となっています。但しパリ管のライブ盤が出てしまった以上は、モノラル録音である当盤の存在意義は非常に薄れてしまったと言えるでしょう。

シャルル・ミュンシュ指揮パリ管(1967年録音/EMI盤) 

ミュンシュの、そしてこの曲の代表盤として昔から定評のある演奏です。パリ音楽院管が発展して、パリ管に新たに生まれ変わりましたが、フランス文化省の肝入りだけあって、名実ともに大成功となりました。とにかくオーケストラが異常なほどに熱く燃え上がった演奏です。破天荒なこの名曲は、やはりこのような破格の演奏でなければいけません。問題は元々の録音が余り明瞭でないために、CDのマスタリングを高音域強調にしてしまい、音が耳に刺激的なことです。僕のアナログ盤は米Angel盤ですが、弦のふわりとした柔らかさが心地良いです。CDは、国内盤も海外盤(写真)も大きな違いは有りません。


シャルル・ミュンシュ指揮パリ管(1967年録音/Altus盤) 

有名なEMI録音から1か月後にシャンゼリゼ劇場でパリ管創設記念演奏会が開かれました。これはその時のライブです。3年前に初めて聴いた時には、残響の少ないデッド気味の音質にやや聴きづらさを感じましたが、耳が慣れると、その生々しい音にむしろ好印象を受けます。スタジオ録音で、あれほどの熱演をしていたミュンシュ/パリ管が実演のそれも記念演奏会となれば、どうなるかは想像出来ますが、果たして予想通りか、それ以上の熱演です。表情の彫は深く、溶解寸前まで熱くなっている演奏を言葉では到底表せません。EMI盤と合わせて座右に置きたい歴史的な名盤です。

この他にも、ボストン響との1954年スタジオ録音や、1962年日本ツアーでのライブ盤があります。変わったところでは1966年のブダペストでのハンガリー放送響とのライブ録音もありました。けれども究極的には、やはりパリ管とのEMI盤とライブ盤の二つに尽きると思います。

「幻想交響曲の演奏はミュンシュに限る」と言っても過言では無いと思いますし、それで少しも困りはしないのですが、これほどの名曲がそれではやはり勿体無いので、次回はミュンシュ以外の愛聴盤についてご紹介する予定です。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-514d.html
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[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
10. 中川隆[-13682] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:27:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-214]

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 〜ミュンシュ以外の名盤〜: ハルくんの音楽日記| 日本の領土を守れ その4 »
2012年9月13日 (木)

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 〜ミュンシュ以外の名盤〜

フランス人は本当に洒脱です。ベルリオーズは失恋が原因で精神異常とも言えるほどに憔悴し切って作曲したというのに、この曲には「悲しみ」というよりは「情熱」と「美しさ」と「狂騒」がふんだんに詰まっています。服用したアヘンの影響も大きいのでしょうが、たとえば第4楽章「断頭台の行進」を聴いて下さい。冒頭こそ重々しい足取りで開始されますが、徐々に高揚してゆき、なんだかまるで「阿波踊り」のようなお祭り騒ぎです(そういえばリズムも似ています)。ギロチン台に連れて行かれる自分自身をこれほどおチャラかすのは、フランス人でなければ出来ない芸当でしょう。別の視点からは、ギロチン処刑の見物に集まった聴衆たちの楽しみと興奮ぶりという見方もあるのかもしれません。

そんなこの曲を聴くには、やはり総じてフランス人の指揮者が洒脱さを良く表現していて望ましいように思います。あるいはフランスのオーケストラによる音には華やかさと軽味が有って曲に相応しいと思います。

ただ、そうは言ってもフランス以外の演奏家にも好きな演奏は有りますし、フランス人でもピエール・ブーレーズの遅く荘重な、まるで司祭様が指揮したような演奏も有りますので、一概には言えません。

さて、「幻想交響曲」と言えばミュンシュ、ミュンシュと言えば「幻想」ですので、前回はシャルル・ミュンシュ演奏の名盤をまとめてご紹介しました。そこで今回は、ミュンシュ以外の愛聴盤のご紹介です。

ポール・パレ―指揮デトロイト響(1959年録音/マーキュリー盤) 

パレーの出す音は、フランス語の鼻に抜けるような発音では無く、ずっと明確な音です。基本テンポも速く、強固に引き締まった造形は、「フランスのムラヴィンスキー」と呼びたいところです。この曲でも、1楽章と5楽章の速さはミュンシュ以上に常軌を逸していて、大炎上する恋の炎の中に一直線に飛び込んでゆくかのようです。この曲はやはりこのような演奏でなければいけません。年代の割には録音も明瞭なので、演奏の真価を損なうことなく味わえます。ミュンシュ盤と聴き比べてみると楽しいです。

イーゴリ・マルケヴィチ指揮パリ・ラムルー管(1961年録音/グラモフォン盤) 

鬼才マルケヴィチは、ミュンシュやパレーが速いテンポで燃え上がるのとは反対に、テンポを大きく伸縮させており、遅い部分では心の底に深く沈滞するような演奏です。それでいて高揚感にも不足は感じません。やはり曲の本質に近づいた良い演奏だと思います。但し、不満が残るとすれば、オケの響きと性能が極上とは僅かに言い難いことです。


アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管(1964年録音/Altus盤) 

東京文化会館での歴史的な名演奏です。ドラマティックな白熱度ではミュンシュに僅かに及ばないとしても、相当な熱気を帯びています。それでいて至る所に気品が漂うあたりはさすがにクリュイタンスです。好みで、こちらを取る人も多いと思います。NHKによる録音は当時としては優秀で、ミュンシュのライブ盤よりも音質もバランスもずっと上です。

小澤征爾指揮ボストン響(1973年録音/グラモフォン盤) 

小澤がボストン響の監督になって初めて来日したのが1978年ですが、僕はその時に東京文化会館で「幻想交響曲」を聴きました。それは若き小澤の情熱と熱気がほとばしるような素晴らしい演奏でした。それに比べると、5年前のボストン響とのデビュー録音は、若々しく新鮮な演奏には違いありませんが、少々軽過ぎるように感じます。健康的な印象も、この曲にはどうかなと思ってしまいます。ただ、そうは言いつつも、若き小澤征爾の想い出深い演奏ですので忘れられません。

ジャン・マルティノン指揮フランス国立放送管(1973年録音/EMI盤) 

ある意味では最もフランス的な演奏かもしれません。鼻に抜けるような軽味がいかにも生粋のパリジャンを想わせます。ドイツ系の血が流れるミュンシュやベルギー生れのクリュイタンスの力のこもった音とは明らかに異なります。沈み込むような深刻さは余り感じません。2楽章は録音当時としては少数派のコルネット入り版を使用しています。その洒脱な演奏が、いかにもパリの社交界の雰囲気です。

小林研一朗指揮/チェコ・フィル(1996年録音/CANYON盤) 

コバケンはこの曲を得意にしていますが、実演で聴いたのは何年か前に東京文化会館でN響を指揮した演奏会です。それは非常にドラマティックな演奏で大いに楽しめました。このCDは相性の良いチェコ・フィルとの演奏ですが、弦も管も音が非常に美しく聞こえます。ただ、コバケンが本領を発揮するのは、やはりライブです。この曲にしては幾らか大人しく感じますが、CANYONの録音も優秀ですし、じっくりと聴くのには良い演奏です。

クリストフ・エッシェンバッハ指揮パリ管(2002年録音/NAIVE盤) 

パリ管の音を新しい録音で聴けるのは魅力です。1楽章冒頭を思い入れたっぷりに開始するのはエッシェンバッハ調ですが、この曲にはピッタリです。主部の盛り上がりについても上々です。2楽章は綺麗ですが、やや淡白。3楽章は重く聴き応えが有ります。4〜5楽章の狂気さはミュンシュには及びませんが、パリ管は流石に手の内に入った演奏ぶりで安心して聴いていられます。録音が良いのでティンパニーの迫力には圧倒されます。但し4楽章のリピートは、一度断頭台に向かった死刑囚が再び刑務所に戻るみたいで好みません。

というわけで、どれもが個性的な演奏なので気に入っていますが、現在いちばん聴きたくなるのはエッシェンバッハ指揮パリ管盤です。

http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-5305.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c10

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
11. 中川隆[-13681] koaQ7Jey 2020年2月20日 11:47:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-213]

ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803年12月11日 - 1869年3月8日)は、『幻想交響曲』でよく知られているフランスのロマン派音楽の作曲家である。

この他に『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成の大規模な拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。

ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていた。


生涯

幼年期

フランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレ(La Côte-Saint-André)に生まれる。ここはリヨンとグルノーブルのほぼ中間に位置する。母親のマリー・アントワネット・ジョセフィーヌ・マルミオン、父親で開業医のルイ=ジョセフ・ベルリオーズとの間で、長男として育てられる(このうち6人中2人は早世)。

1809年、6歳の時から町の教会に付属する小さな神学校に入学するが、間もなくして1811年末に閉鎖されてしまい、18歳になるまで家庭で父親の手によって教育された。家庭ではラテン語、文学、歴史、地理、数学、音楽(初歩程度)を習う。


青年期

1817年ないし1818年頃、14歳のベルリオーズは父親の机の引き出しからフラジオレットを見つけ、吹く練習をする息子の様子を見た父親は楽器の使い方を説明し、程なくしてフルートを買い与える。その後15歳になってからはギターも習い始めている。

作曲は同年頃に独学で学び始め、父親の蔵書からラモーの『和声論』を見つけるものの、理論の基礎ですら身につけていない彼にとっては難解なものであった。しかしシャルル・シモン・カテルの『和声概論』を読んだ時は、最初は難解ではあったが徐々にのみ込んでいった。ある程度の知識を得て作曲・編曲に挑戦し、室内楽曲、歌曲、編曲作品を作曲している。

1821年、18歳の時にグルノーブルで行われたバカロレア(大学入学資格試験)に合格し、家業を継ぐ名目でパリに行き、医科大学に入学する。しかし青年ベルリオーズは解剖学を学んでいる途中で気がひるんでしまい、次第に医学から音楽へ興味が移り、オペラ座に通うようになる。それから1年後の1822年に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。この時期に医学大学に行く代わりに、コンセルヴァトワールの図書館に行っている。そこでは楽譜を複写したり、楽曲の分析などを試みたりしている。同時にベルリオーズは再び作曲を始めており、フランスの詩人ミルヴォワの詩によるカンタータ『アラブの馬』(H.12)と3声部のカノン(H.13)を作曲する。前者のカンタータは独唱と大管弦楽のための作品であるが、カノン(H.13)を含む2つの作品はいずれも紛失している。

1823年にパリ音楽院に入学して、音楽院の教授ジャン=フランソワ・ル・シュウールにオペラと作曲を学ぶ[1]。

また早くからフランスのロマン主義運動に一体感を持つようになり、アレクサンドル・デュマやヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザックらと親交を結ぶ。後にテオフィル・ゴーチエはこのように述べている。

「エクトル・ベルリオーズは、管見によると、ユーゴーやドラクロワとともに、ロマン主義芸術の三位一体をなしているようだ」


音楽院時代とローマ賞

ジャン=フランソワ・ル・シュウールの下で音楽を学び、2年後の1824年に最初の本格的な作品である『荘厳ミサ曲』(H.20)を作曲。1825年にパリのサン・ロッシュ寺院で楽長のマッソンによって初演されたが、未熟であるがために失敗する。この後に作品を大幅に加筆修正を行い、同年にオーギュスタン・ドゥ・ポンスに借金をして再演され、成功を収める。またこの頃からローマ賞に挑戦することに意欲を掻き立てている。

1827年からローマ賞に挑戦し、同年の7月に応募作としてカンタータ『オルフェウスの死』(H.25)を作曲する。しかし選外に終わる。その後も以下のように毎年応募する。また9月に当時熱狂的に話題を呼んでいたイギリスから来たシェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミッソンの出演する舞台を見て、衝撃を受ける。このことが2人の運命的な出会いであった。

1828年の3月、音楽院で開かれたフランソワ・アブネックの指揮による第1回のパリ音楽院管弦楽団定期演奏会でベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』を、また同年に第5番『運命』を聴いて、大きな啓示を受ける[2]。6月、2度目となるローマ賞への挑戦として『エルミニー』(H.29)を作曲。惜しくも2票の差で第2位となる。

1829年、ゲーテの『ファウスト』(ジェラル・ド・ネドヴァルの仏語訳による)を読んで感銘を受け、このテキストを用いて『ファウストからの8つの情景』(H.33,Op.1)を作曲する。出版の際に「作品1」と番号を付ける。7月に3度目の挑戦となるローマ賞の応募作として、カンタータ『クレオパトラの死』を作曲するが、劇的で過激な内容から審査員たちの顰蹙を買い、受賞を果たすことが出来ずに終わる。

1830年2月に『幻想交響曲』を作曲を開始し、6月に完成する。また、この頃にピアニストのマリー・モークと出会って恋愛関係となる。4月に4度目の挑戦としてカンタータ『サルダナパールの死』を作曲する。4度目にしてようやく念願となるローマ賞を受賞する。12月5日に『幻想交響曲』がアブネックの指揮で初演されて大成功を収めて世間の脚光を浴び、マリー・モークと婚約に至る。そして受賞者としてローマへ留学すると同時に留学を終えたら結婚するという約束を交える。

1831年、ローマに到着した直後に婚約者マリー・モークの母親から手紙が届き、ピアノ製作者イグナツ・プレイエルの長男カミーユ・プレイエル(英語版)と結婚するという報告であった。この報告を知るや否や、再び訪れた破局にベルリオーズは落胆するどころか、逆にひどく怒りを露わにしたといわれる。『回想録』には、マリーとその母とカミーユ・プレイエルを殺して自分も自殺しようと、ベルリオーズは婦人洋服店に急いで行き、女装するために婦人服一式を買い、ピストルと自殺用の毒薬を持参してパリへ向かう馬車に乗り、そのままローマを出発したのだった。しかしイタリア(サルデーニャ王国)とフランスの国境付近でふと我に返り、直後に思い留まって正気を取り戻したのであった。

この出来事の後、ベルリオーズはニース(当時はサルデーニャ王国領でフランス国境の外)で1ヶ月ほど滞在して療養することとなり、回復後はローマへと戻って行く。そして正式にモークとの婚約は解消された。この療養中に『幻想交響曲』の続編と言える抒情的な独白劇『レリオ、あるいは生への復帰』の構想を始めており、ローマに戻った頃には全体の構想を終え、作曲に取り組んだのち7月初旬に完成している。


帰国後と中期の活動

1832年に上記の事情によってイタリア留学を切り上げる形でパリへ帰国すると、同地で再び音楽活動を始める。またローマ滞在中に作曲した作品(序曲『リア王』や『レリオ』など)を携えて持ち帰っている。

1833年、劇団の女優ハリエット・スミッソンが『幻想交響曲』を聴きに来た際に再会し、結果的に結婚までに至る。ベルリオーズの両親は反対したが、それを押し通してのことであった。パリ郊外のモンマルトルに新居を構え、自作の演奏会の開催、雑誌や新聞の評論を始める。

同年に演奏会に来ていたショパンとパガニーニと出会い、親交を結ぶ。

1834年の初め頃、パガニーニからの依頼でヴィオラと管弦楽のための作品である交響曲『イタリアのハロルド』を作曲する。初演の成功によって金銭的な援助も得られた。またこの年に長男のルイが誕生する。

この年にオペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の作曲に取りかかり、1836年の夏に大半が完成する。同時にフランス政府から『レクイエム』の作曲を委嘱され、速いペースで翌1837年に完成する。初演は同年に行われると成功を収め、ベルリオーズは新聞雑誌から賛辞を浴びたり、陸軍大臣からの祝辞を受けたりした。

1838年の9月に、オペラ座で『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の初演が行われる。しかし序曲を除いて散々な不評に終わる。原因として全体の総練習が4回であったことや、聴衆の趣向に合わなかったことなどが挙げられる。友人たちは失敗の原因を台本の稚拙であると指摘したが、『回想録』の中では「脚本は気に入っていたのに、どうして劣っているのか、今でもわからない」と語っている。また初演が失敗した直後に母親が没する。

1839年に、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』を完成させる。初演の後、作品をパガニーニに献呈する。この時期のベルリオーズは莫大な借金を背負っていたため、生活が苦しく、収入が得られなかったが、音楽院側からの助けで、2月頃にパリ音楽院の図書館員となり、僅かな額ではあったがある程度の収入を得る。1852年には館長に任命されている。

1840年に再びフランス政府から依頼を受けて、『葬送と勝利の大交響曲』を作曲・完成。7月28日に200名の軍楽隊を率いて初演を行う。しかしこの時期、ベルリオーズはパリの各劇場から締め出された状態にあった。『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の失敗に拠るものといわれ、また一部で反感を持たれていたために、パリでの人気は次第に下って行った。


演奏旅行と指揮活動

人気が遠ざかっていたため、1842年に演奏旅行を始めることになり、年末にドイツへ向かい、各地で演奏会を催して大きな話題を呼び、旅行は成功を収める。しかし一部からは急進的過ぎるという批評も受けた。

1843年5月末、パリに戻ったベルリオーズは、『ドイツ・イタリア音楽旅行記』や『近代楽器法と管弦楽法』などの著作を著したり、『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として『ローマの謝肉祭』を作曲する。

一方で妻スミッソンとの仲違いが決定的となり、別居へと至る。
スミッソンはモンマルトルの小さな家で(ひきこもる形で)生活する。
ベルリオーズは稼ぐために新聞や雑誌の執筆などに追われ、これまで以上に窮地に瀕していた。

1844年にパリで産業博覧会が開催され、博覧会の終了間際(7月末)に産業館で型破りな演奏会を実施する。8月1日に産業館で行われた演奏会は、新作『フランス讃歌』(H.97)を初演したが、480人のオーケストラ団員と500人の合唱団員を統合したもので、演奏時にはベルリオーズを中心に7人ほどの補助指揮者が指揮棒を持って壇上に登ったという。演奏会は大成功を収めたが、出費が影響して経済的には僅かなものでしかもたらすことができなかった。

1845年の10月から翌年の1846年の4月にかけて、2回目の演奏旅行としてウィーンやプラハ、ブダペストなどへ赴き、各地で演奏会を開催して大歓迎を受ける。ブダペストでの演奏会は、『ラコッツィ行進曲』を管弦楽用に編曲した『ハンガリー行進曲』が演奏された際、聴衆から熱狂的な歓声を送られたといわれる。同じ頃にゲーテの『ファウスト』による劇的物語『ファウストの劫罰』の作曲を着手しており、『ハンガリー行進曲』はこの作品に取り入れている。

『ファウストの劫罰』は旅行中の合間を縫って1845年から作曲を始め、パリに帰国した4月の末頃も続けられ、10月に全曲が完成する。12月6日にオペラ・コミック座で初演されたが、20日に行われた再演とともに結果は芳しくなく、成功しなかったという。初演の失敗によって多額の負債が降りかかり、破産の危機に直面したものの、友人たちの尽力によって難なく免れる。だがこれを機にベルリオーズは再び演奏旅行に行くことを決意し、次なる場所はロシアであった。


ロシアへの演奏旅行

1847年の2月14日、パリを離れ一人でロシアへ向かった。ベルリンまで汽車で乗り、滞在中にロシア大公妃エレナ・パヴロヴナ宛ての紹介状を書いて欲しいと当時のプロイセン王に懇願する。出発後ようやくロシアに到着するのであった。3月15日と25日にサンクトペテルブルクで、4月にモスクワでそれぞれ行った演奏会は成功し、喝采を浴びるなど、大歓迎を受けるのであった。この演奏会で4万フランの大金を手にし、ベルリオーズにとって、この大金を得たことはこれが生まれて初めてのことである。


パリへの帰還から再度ベルリンへ

パリへ向かって帰還する折に、再度ベルリンに立ち寄って、ここでも演奏会を催している。プロイセン王の求めで『ファウストの劫罰』を演奏し、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世から赤い鷲印の十字勲章を授けられる。またこの夜サン=スーシー宮殿での晩餐会にも招待されている。著書『近代楽器法と管弦楽法』をヴィルヘルム4世に献呈している。


ロンドンでの指揮活動

7月初旬にパリに戻ったベルリオーズは、当時イギリスで活躍していた有名なマネージャーのジュリアンと出会い、彼の申し出に応じる形でロンドンのドルーリー・レーン劇場の指揮者として活動するため、その年の末頃にロンドンへ向かう。しかしジュリアンと交わした契約は途中で破棄される。ロンドンに到着して4か月後にジュリアンは破産の危機に直面したためであった。


パリ帰国と相次ぐ不運の連続

イギリスでの生活が安定する矢先に、1848年2月にパリで勃発した2月革命によって、急遽パリへと舞い戻る。理由として名誉職という名の地位であるパリ音楽院の図書館主事補の職を確保するためであった。

この時期、ベルリオーズの周りに相次いで不幸が襲う。パリへ戻った7月下旬に父ルイが世を去り、また別居中の妻ハリエットが脳卒中の発作で倒れ、パリの音楽界は革命の影響によって劇場は閉鎖され、街は謎の静けさを醸し出した状態であった。このため、作曲活動は一旦中断して評論と執筆活動に集中することに限られる。

しかし1848年末頃に極秘に作曲を始めており、1849年に3群の合唱と大管弦楽のための『テ・デウム』(H.118,Op.22)を完成させる。だが演奏の機会が得られず、1855年4月にパリ万国博覧会でサン・トゥスタッシュ教会での初演まで待たなければならなかった。

この時期の作品は合唱とピアノ伴奏のための『トリスティア』(H.119)と、2重合唱と管弦楽のための『民の声』(H.120)ぐらいしか作曲していない。また自身の『回想録』も執筆をし始め、そのうちの第1部を書き上げている。

1850年、ロンドン・フィルハーモニック協会を真似する形で「パリ・フィルハーモニック協会」を結成する。パリではこのような協会は無く、これが初めてのことであった。ベルリオーズはこの組織の会長と指揮者に就任して演奏活動を活発に行う。しかし程なくして資金難に陥り、加えて聴衆からの受けがあまり良くなかったため、協会は結局1年後にそのまま解散してしまうのだった。

解散後、1851年から1855年にかけてロンドンに赴き、同地で定期的に指揮活動を行う。


スミッソンの死とマリー・レシオとの結婚

1854年の3月3日、別居中の妻スミッソンがモンマルトルで世を去った。
4年前から容体は一層悪くなり、加えて身体は不随になっていた。
別居中であったが、彼女を見捨てることができなかったベルリオーズは、深い悲しみを味わい、『回想録』と友人フランツ・リストに宛てた手紙には悲痛な言葉がつづられている。

スミッソンを埋葬後、10月19日にマリー・レシオと正式に結婚する。
息子ルイに宛てた手紙にはこのように書いている。

「私は一人で生きることもできないし、また14年来一緒に暮らしてきた女性を見捨てることもできなかった」(1854年にルイに宛てた手紙)


成熟期

1854年3月末にドイツへ旅行に行き、4月1日にハノーファーを再訪する。ハノーファーでの演奏会をはじめとして、ドイツ各地で行った演奏会は立て続けに成功し、気を良くしたベルリオーズはパリに戻ったのち、以前作曲した『エジプトへの逃避』(H.128)を転用する形として、3部からなるオラトリオ『キリストの幼時』(H.130,Op.25)を5年がかりで完成させた。12月10日に初演されると聴衆から拍手を受け、大成功に終わる。

1855年の4月、長らく初演の機会を得られなかった『テ・デウム』がパリ万博において、ベルリオーズの指揮によって初演された。

1856年、5月3日に没したアドルフ・アダンの後任として、フランス学士院会員に選ばれ、これにより収入が増え、生活も安定する。またこの頃にヴァイマルを訪問しており、同地で滞在していた際、フランツ・リストと同棲していたその伴侶ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と面会する。ヴィトゲンシュタインから『アエネーイス』を題材としたグランドオペラ『トロイアの人々』の作曲を勧め、先のフランス学士院会員に選ばれたことを機に創作意欲を復活させ、同年5月5日に台本を自ら執筆し、僅か2か月足らずで完成させる。腸神経痛に悩まされつつも作曲を続け、一気呵成に1858年の4月12日に2年かけて完成させる。しかし全5幕というあまり長大なオペラ『トロイアの人々』は、初演の機会が得られないままであった。

1860年の夏にバーデン=バーデンで開催される音楽祭に赴き、この地で新しく建設される劇場のために支配人のエドゥアール・ベナツェから委嘱を受け、2幕のオペラ『ベアトリスとベネディクト』(H.138)を作曲する。シェイクスピアの戯曲『空騒ぎ』に基づくが、ベルリオーズ自身がフランス語の台本を執筆している。一時中断もあったが、1862年2月に完成させ、同年8月9日にバーデン=バーデンの新劇場で初演が行われている。

『ベアトリスとベネディクト』が初演される2か月前の1862年6月14日、後妻マリー・レシオが心臓麻痺のためこの世を去る。彼の目の前でのことだった。遺体はモンマルトル墓地に埋葬される。ベルリオーズに残された家族は船員となった息子ルイだけとなった。

1863年、苦労の末『トロイアの人々』がオペラ座で第2部のみが初演されたが、生前に第1部と全曲が上演されることはなかった。全曲上演は1890年まで待たなければならなかった。そして長らく続けていた評論活動を止めてしまう。
60歳を迎えた1864年、作曲の筆を折り長い作曲活動を終えるのであった。以降は一人でアパートに住み続けることとなる。また『回想録』を1865年1月1日付で終え、印刷にまわした(ただし、没後出版される)。


晩年とその死

後妻マリーに1862年に先立たれ、さらに一人息子のルイ(船員になった)も1867年に失い孤独感を募らせた生活をパリで過ごした。特に息子を失った時は半ば狂乱となった状態で立ち直れなかったと言われる。だが指揮活動を伴う演奏旅行は、1866年にオーストリア、1867年にドイツ、1867年末から1868年にロシアでそれぞれ継続して行われた。

最晩年にロシアのエレナ大公妃から招待されて演奏旅行に赴き、ロシアのサンクトペテルブルクで演奏会を開いている。ベルリオーズにとってこれが最後の旅行となった。だが元々不健康だったベルリオーズは、ロシアの厳しい寒さで身体に致命的な打撃を受け、帰国後の1868年3月には健康状態はより悪化していた。この間作曲はほとんどできない状態であったが、最後の作品はフランソワ・クープランの作品の編曲であった。

その後、南フランスで保養した後にパリで病床についたが、1869年3月8日の午前0時半に眠るように息を引き取った。65歳没。遺体はモンマルトル墓地において、2人の妻、ハリエット・スミスソン(1854年逝去)とマリー・レシオ(1862年逝去)とともに葬られた。


遺産

ベルリオーズの作品は1960年代から1970年代にかけて復活を遂げたが、これはイギリスの指揮者コリン・デイヴィスの奮闘によるところが大きい。デイヴィスがベルリオーズの全作品を録音したため、従来あまり知られていなかった作品にも光が当てられた。歌劇『トロイアの人々』の録音は、最初の全曲録音であった。本作は、ベルリオーズの生前に完全に舞台上演されたことはなかったが、現在では復活を遂げ、定期的に上演されている。

2003年にベルリオーズ生誕200周年を記念して、ベルリオーズをパンテオンに改葬しようとの提議がなされたが、アンドレ・マルローやジャン・ジョレス、アレクサンドル・デュマに比べて、ベルリオーズがフランスの栄光の象徴に値し得るかどうかをめぐる政治的議論の末に、ジャック・シラク大統領によって審議が中断された。


エピソード

生前のベルリオーズは、作曲家としてより指揮者として有名であった。定期的にドイツやイングランドで演奏旅行を行い、オペラや交響曲を指揮した。自作だけでなく他人の作品も指揮しており、中にはリストのピアノ協奏曲第1番の初演なども含まれている。リストによると、指揮者ベルリオーズはリハーサルを多用する“練習魔”だったという。

ヴァイオリンのヴィルトゥオーソにして作曲家のニコロ・パガニーニとの出会いからは『イタリアのハロルド』が生まれ(パガニーニの依頼で書かれたがヴィオラの活躍が少ないのに失望した、という逸話は今日では信憑性が疑われている)、また金銭的援助も得られた。ベルリオーズの『回想録』によるならば、パガニーニは『イタリアのハロルド』の演奏を聴いて感動を表明し、2日後に「ベートーヴェンの後継者はベルリオーズをおいて他にいない」との手紙とともに2万フランを提供した。


ハリエット・スミスソンとの関係

ベルリオーズは生まれながらにロマンティックで、幼少の頃からすこぶる感受性が強かったと言われている[誰によって?]。これは、ウェルギリウスの数節で涙したという少年時代や、長じてからは一連の恋愛関係に明らかである。23歳の時の、イギリスから来たシェイクスピア劇の劇団の女優でアイルランド人のハリエット・スミスソンへの片想いは、やがて『幻想交響曲』の着想へと膨らんだ。この作品の初演と同じ1830年にローマ大賞を受賞する。

スミスソンに最初こばまれると、ベルリオーズはマリー・モークと婚約するが、モークの母は娘をピアニストでピアノ製造家のカミーユ・プレイエル(英語版)に嫁がせた。ベルリオーズはその頃、ローマ大賞の賞金(奨学金)を得てローマに留学中であった。『回想録』によれば、この時パリに引き返し、女中に変装してモーク母子を殺害し、自殺を図ろうと企んだが、ニースにたどり着くまでに女装用の服を紛失したため気が変わった。

ベルリオーズの手紙は、スミスソンにはあまりに情熱的に過ぎると映ったために、彼女は求愛を断ったのであるが、こうした感情によって引き起こされたといわれる『幻想交響曲』は、驚異的で斬新であると受け取られた。この標題音楽的な作品の自叙伝的な性格もまた、当時としてはセンセーショナルなものと見做されたであろう。

ローマの2年間の修行時代を終えてパリに戻ると、スミスソンは『幻想交響曲』の演奏を聴きに来た上、ついには結婚に至った。スミスソンは馬車から落ちて重傷を負ったこともあって、女優として下り坂にあったことも理由であろう。

しかしながら2年もすると、2人の関係はたちまち冷え込んでいった[3]。

さまざまな理由が挙げられているが、中でも言葉の壁が大きかったと推測されている。

また他には、ベルリオーズはスミスソンを一人の女性として彼女の人間性に惚れたのではなく、彼女が演じる役(「ロミオとジュリエット」の「ジュリエット」等)に惚れたために、彼女と結婚して彼女が普通の女性である事に気がつき、失望したのだとする説もある。

2人は1841年頃から別居し、1854年に彼女が亡くなると、すでに同棲していた歌手のマリー・レシオと結婚する。

音楽的影響

ベルリオーズは文学に激しい愛着を寄せており、ベルリオーズの最も優れた楽曲の多くは文学作品に触発されている。『幻想交響曲』は、トマス・ド・クインシーの『或る英国人阿片常習者の告白』に着想を得ており、『ファウストの劫罰』はゲーテの『ファウスト』に依拠している。『イタリアのハロルド』はバイロン卿の『チャイルド・ハロルドの巡礼』が下敷きである。オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』は、チェッリーニの自叙伝に由来する。『ロメオとジュリエット』は、シェイクスピアの同名の悲劇に基づいている。記念碑的な大作オペラ『トロイアの人々』は、ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』に立脚している。ベルリオーズは、最後の歌劇となったコミック・オペラ『ベアトリスとベネディクト』のために、シェイクスピアの『から騒ぎ』に大まかに基づいて台本を作成した。

文学の影響を別にすると、ベルリオーズは当時フランスではさほど有名でなかったベートーヴェンの擁護者でもあった。1828年にフランソワ・アントワーヌ・アブネック(『幻想交響曲』の初演指揮者)指揮パリ音楽院管弦楽団によって行われた『英雄交響曲』のパリ初演はベルリオーズの作曲活動における転回点となり、2年後の1830年に『幻想交響曲』が生み出されるきっかけとなった[4]。ベートーヴェンに次いでベルリオーズが崇拝したのが、グルック、メユール、ウェーバー、そしてスポンティーニであった。

『イタリアのハロルド』においてベルリオーズは、半音階や旋法、変拍子(5拍子)を採用するとともに、従来のドイツの交響曲にみられる形式的な均整感や全体的な統一感から距離を置いた。

サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の「象」の最初の主題は、『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」から取られている。しかしながら、音域は原曲よりかなり下げられ、コントラバス独奏によって演奏される。


音楽作品と著作

『幻想交響曲』に加えて、ベルリオーズのいくつかの作品は現在、標準的なレパートリーにとどまっている。劇的物語『ファウストの劫罰』、劇的交響曲『ロメオとジュリエット』(いずれも混声合唱と管弦楽のための大作)、歌曲集『夏の夜』、ヴィオラ独奏付きの交響曲『イタリアのハロルド』などである。

ベルリオーズの型破りな音楽作品は、既存の演奏界やオペラ界を刺激した。演奏会の段取りを自力でつけるだけでなく、演奏者への俸給も自前で調達しなければならなかった。これはベルリオーズに、経済的にも心情的にも重い負担となってのしかかった。ベルリオーズの演奏会には1,200人の常連客がついていて、入場者数を確保できたが、大掛かりな――数百人もの演奏者を要する――ベルリオーズ作品の性質上、経済的な成功は望めなかった。ジャーナリスティックな才能から、音楽評論がベルリオーズにとって手っ取り早い収入源となり、音楽会においてドラマや表現力の重要性を力説する、機知に富んだ批評文によって飢えをしのぐことができた[5]。


著作

ベルリオーズは作曲家として最も有名である半面、多作な著作家でもあり、長年にわたって音楽評論を執筆して生計を立てていた。大胆で力強い文体により、時に独断的かつ諷刺的な論調で、執筆を続けた。『オーケストラのある夜会』(1852年)は、19世紀フランスの地方の音楽界をあてこすりつつ酷評したものである。ベルリオーズの『回想録』(1870年)は、ロマン派音楽の時代の姿を、時代の権化の目を通して、尊大に描き出したものである。『音楽のグロテスク』(1859年)はオーケストラ夜話の続編として出版された。

教育的な著作である『管弦楽法』(Grand Traité d'Instrumentation et d'Orchestration Modernes, 1844年、1855年補訂)によって、ベルリオーズは管弦楽法の巨匠として後世に多大な影響を与えた。この理論書はマーラーやリヒャルト・シュトラウスによって詳細に研究され、リムスキー=コルサコフによって自身の『管弦楽法原理』の補強に利用された。リムスキー=コルサコフは修業時代に、ベルリオーズがロシア楽旅で指揮したモスクワやサンクトペテルブルクの音楽会に通い詰めていた。ノーマン・レブレヒトは次のように述べている。

「ベルリオーズが訪問するまで、ロシア音楽というものは存在しなかった。ロシア音楽という分野を鼓吹したパラダイムは、ベルリオーズにあった。チャイコフスキーは、洋菓子店に踏み込むように『幻想交響曲』に入り浸って、自作の交響曲第3番を創り出した。ムソルグスキーは死の床にベルリオーズの論文を置いていた」[6]
また、18世紀末から19世紀初頭にかけ、聖歌のみならず世俗曲でも活躍したことで最も有名なロシアの作曲家であるドミトリー・ボルトニャンスキーを高く評価した[7]。


主要作品


「ベルリオーズの楽曲一覧」も参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルリオーズの楽曲一覧


幻想交響曲―ある芸術家の生活のエピソード Op.14(Symphonie fantastique; Episode de la vie d'un artiste, 1830年)
全5楽章から構成される最も有名な交響曲。1830年に作曲。

抒情的モノドラマ『レリオ、あるいは生への復帰』 Op.14bis(Lélio, ou Le retour á la vie, 1831年)
『幻想交響曲』の続編として1831年に作曲・完成された独白劇。

交響曲『イタリアのハロルド』 Op.16(Harold en Italie, 1834年)
独奏ヴィオラとオーケストラのための交響曲。1834年に作曲。

劇的交響曲『ロメオとジュリエット』 Op.17(Roméo et Juliette, 1839年)
1839年に作曲された独唱、合唱と管弦楽のための交響曲。

葬送と勝利の大交響曲 Op.15(Grande symphonie funèbre et triomphale, 1840年)
1840年に作曲された大編成の軍楽隊と合唱による作品。

序曲「ローマの謝肉祭」 Op.9(Ouverture 'Le carnaval romain' , 1843年)
オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の第2幕の前奏曲として作曲された有名な序曲。後に独立して演奏会用序曲となる。

夢とカプリッチョ Op.8 (Rêverie et caprice, 1841年)
ヴァイオリンと管弦楽による。唯一の協奏曲である。オペラ『ベンヴェヌート・チェッリーニ』のアリアからの編曲である。

劇的物語『ファウストの劫罰』 Op.24(La damnation de Faust, légende dramatique, 1845年-1846年)
青年期に作曲された『ファウストからの8つの情景』を基にして1845年から1846年にかけて作曲された大規模な作品。『ハンガリー行進曲』や『妖精の踊り』、『鬼火の踊り』が有名。

死者のための大ミサ曲(レクイエム)Op.5(Grande messe des morts (Requiem), 1837年)
1837年に作曲された巨大な編成を伴う声楽曲である。4組のバンダを必要とする。フランス政府からの委嘱による。

テ・デウム Op.22(Te Deum, 1848年-1849年)
1848年から1849年かけて作曲された宗教音楽。全7曲だが通常省略される「行進曲」も存在する。

宗教的三部作『キリストの幼時』 Op.25(L'enfance du Christ, 1850年-1854年)
1850年から1854年にかけて作曲された全3部から構成される声楽曲。

歌曲集『夏の夜』 Op.7(Les nuits d'été, 1840年-1841年)
1840年から1841年にかけて作曲された全6曲の歌曲集である。友人のテオフィル・ゴーティエの詩集『死の喜劇』による。ピアノ伴奏または管弦楽による伴奏のいずれかで演奏される。

歌劇『ベンヴェヌート・チェッリーニ』 Op.23(Benvenuto Cellini, 1834年-1838年)
イタリアの彫刻家ベンヴェヌート・チェッリーニの自叙伝を基にして、1834年から1838年にかけて作曲されたオペラ。序曲は現在も演奏される有名な楽曲。

歌劇『トロイアの人々』(トロイ人)(Les Troyens, 1856年-1858年)
1856年から1858年にかけて作曲された大作オペラ。古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』による。『アエネーイス』を参照。

歌劇『ベアトリスとベネディクト』(Béatrice et Bénédict, 1860年-1862年)
シェイクスピアの原作『から騒ぎ』を基にして作曲された全2幕のオペラ。

荘厳ミサ(英語版)(ミサ・ソレムニス)(Messe solennelle, 1824年)
1825年の初演後破棄されてきたと伝えられていたが、1991年にアントウェルペンの教会で、ベルリオーズが友人に贈った総譜が発見され、1993年にジョン・エリオット・ガーディナーによって蘇演・初録音がなされた。様々なフレーズが、幻想交響曲など後年の主要作品にたびたび登場する。

序曲『宗教裁判官』 Op.3(Ouverture 'Les fancsjuges' , 1827年)
1827年頃に作曲。『宗教裁判官』は初期に手がけ未完となったオペラの1つ。序曲が残され、単独で演奏されるようになった他、このオペラからはいくつかの曲が他の作品(葬送と勝利の大交響曲の第2楽章など)に転用されている。

「海賊」 Op.21
『イタリアのハロルド』と同様にバイロンの詩に基づく。

序曲『リア王』 Op.4(Ouverture 'Le Roi Lear' , 1831年)
幻想交響曲を作り上げた翌年に書かれた作品。

序曲『ウェイヴァリー』Op.1(Ouverture 'Waverley' , 1826年-1828年)
1826年に作曲された序曲。本来はオペラに含まれていた序曲であるが、オペラ自体は破棄されたため、序曲のみが現存する。

序曲『ロブ・ロイ』(Ouverture 'Rob Roy' , 1831年)
タイトルは『ロブ・ロイ・マクレガー』とも表記される。

歌曲『わな』(Le trébuchet, 1833年)
『ランドの花』の第3曲に含まれる。

叙情的情景『クレオパトラの死』(La mort de Cléopâtre, 1829年)
1829年に作曲されたカンタータ。この作品でローマ賞の応募作として書かれたもの。翌年に受賞する。


日本語訳著作

『ベルリオ自伝と書翰』Katharine F.Boult [訳編] 尾崎喜八訳 叢文閣 1920
『ベートーヴェン交響楽の批判的研究』エクトル・ベルリオ 尾崎喜八訳 仏蘭西書院 1923
『合唱管絃楽指揮法』津川主一訳 新響社 1929 『管絃楽・合唱指揮法』音楽之友社 1948
『作曲家の手記 ベルリオーズ回想録』清水脩訳 河出書房 1939
『ベルリオーズ回想録』音楽之友社 1950
『ベートーヴェンの交響曲』橘西路訳編 角川文庫 1959
『ベルリオーズ回想録』丹治恆次郎訳 白水社 1981
『管弦楽法』リヒャルト・シュトラウス共著 小鍛冶邦隆監修 広瀬大介訳 音楽之友社 2006
『音楽のグロテスク』森佳子訳 青弓社 2007

https://ja.wikipedia.org/wiki/エクトル・ベルリオーズ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c11

[近代史3] ベルリオーズ 『幻想交響曲』 中川隆
12. 中川隆[-13680] koaQ7Jey 2020年2月20日 13:05:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-212]
アンクルのクラシック夜話     2003/09/01

ベルリオーズの恋1

 1827年、ケンブルなる興行主が率いるイギリスの劇団がパリにやってき
た。この一座のよびものはシェイクスピア劇。そのころまでのフランスではま
だシェイクスピアの作品はほとんど知られなかったという。そのためか知識階
層に熱狂的に迎えられ、劇場は連日活況を呈した。

 ベルリオーズも含め、皆、英語の台詞はわからないものの、舞台の動きから
シェイクスピア劇の偉大さを感じ取り圧倒された。もっともそれ以上に、彼が
とりこになったのは、一座の花形女優ハリエット・スミスソンの美しい舞台姿
だった。


 ハリエット・スミスソンは、ベルリオーズより三歳年上、アイルランド系の
イギリス人、背がスラリと高く、均整のとれた美人で、その声には感情がこも
り、また大きな青い瞳は表情豊かで観客を惹きつけた。彼女の演ずるオフェリ
アやジュリエットなど、当時の人々から絶賛を浴びたという。

 ベルリオーズは、彼女の演ずる「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」
を見てもうすっかり夢中、魂を奪われた。スミスソンの面影は寝ても覚めても
離れることがないという有様。むろん音楽の勉強が手につくわけもなく、高熱
に浮かされたかのようにパリの町や郊外の森や野原をあてどもなくさまよい歩
いた。これは「幻想交響曲」作曲の契機となったエピソードとしてよく知られ
た話である。

 ベルリオーズの行動はもう常軌を逸していた。スミスソンを一目見たその日
から毎日のようにオデオン座に通い詰め、舞台の上の彼女の動きを一部始終熱
っぽく目で追い回した。その内にもう舞台と現実との境がわからなくなり、ジ
ュリエットがたくましいロミオの腕に抱かれる場面になると、猛獣のようなわ
けのわからない叫び声を発し、すっかり有名というか劇場側の要マーク人物に
なったという話も残っている。

 劇場に通うばかりではない、毎日のように熱烈なラブレターを書いて彼女に
送った。むろん直接会って思いをぶつけたかったが、英語も話せなかったので
恋文に思いのたけを託したのである。

 もちろん、ナシのつぶてだった。今をときめく人気スターにファンレターな
らともかく、色気違いまがいの手紙が一瞥だにされないのは当然至極のことだ
った。

 しかし、今、ハリエット・スミスソンの名が歴史の残っているのは、つとに
ベルリオーズのおかげかもしれないのである。運命の不思議、貧乏な一音楽書
生だったベルリオーズと花形女優のスミスソンはなんと6年後、結婚すること
になるのである。(つづく)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa030901.htm


ベルリオーズの恋2
 
 イギリスからやってきた美人女優ハリエット・スミスソンに文字とおり無我
夢中になったベルリオーズは、勉学はそっちのけ、毎日のように劇場に通いつ
め山のようなラブレターを送ったが、彼女の方からは、なんの反応もなかった。
 そこで作戦変更、彼女が自分に冷たいのは一介の貧乏音楽書生だからだ、そ
れならば、自分がフランスでも一流の大作曲家であること見せつけてやれば、
きっと彼女も心を動かすに違いない...こう考えたベルリオーズは、その頃
のフランスではまだ誰も試みたこともない自作の演奏会をパリ音楽院の講堂を
借りきって開催してしまうのである。それにしてもたった一人の女の関心を引
くために演奏会を計画、実施してしまうとは、その妄執ぶりは奇矯を通り越し
て痛快ともいうべきか。

 ともあれ動機がどうであれ、この演奏会によってベルリオーズは、ある程度
の社会的認知を受けるに至ったのである。当のベルリオーズの書いたものによ
れば、この演奏会は観客の入りも良かったし、評判も良かったという。

 だが、本来の目的だったスミスソンに対する効果は全くなかった。ちゃんと
招待状を出した筈なのに、演奏会が大好評だったことも、なにより演奏会が開
かれたことすら彼女は知らなかったのである。

 かくして、なにも知らないまま、演奏会の翌日、ハリエット・スミスソンは
一座の人々と一緒に次の巡業地のアムステルダムへ旅立ってしまったのである。
ベルリオーズの切々たる恋も、哀れアワビの片思いに終わったのである。

 不朽の傑作、「幻想交響曲」は、ハリエット・スミスソンに対する熱烈で激
烈な想いと失恋の痛み・苦しみ・憎しみから書かれたもので、3年後の183
0年の27歳の時完成した。
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa030915.htm


ベルリオーズの恋3
 
 イギリスからやってきた美人女優ハリエット・スミスソンとの別れ、と言っ
ても一方的なものだったが、の3年後、前回書いた通り、その痛みと苦しみを
幻想交響曲に結実させた。ベリオーズ27歳、1830年だった。この183
0年という年はまた、この幻想交響曲の完成・初演をみたほか、彼にとって記
念すべき年になった。フランスの若き音楽家にとって最大の栄誉にして、いわ
ば登竜門だったローマ大賞を4度目のチャレンジで手にしたのである。

 ローマ大賞はナポレオンが制定したフランスの歴史的な芸術コンクール、こ
のコンクールの優勝者には2年間のローマ留学と5年間の生活費が与えられた
とか。ベルリオーズは23歳の時から挑戦していたが、その壁は高く、27歳
4度目にしてようやく念願がかなったのである。

 そして更にこの年、ベルリオーズはめでたく女流ピアニストマリー・モーク
との婚約にもこぎつけたのである。つれなかったハリエット・スミスソンを見
返すことが出来たという思いだったろう、大賞受賞と婚約、彼の前途はまさに
薔薇色というところだった。

 マリー・モークは8歳年下の小柄な女性、その身のこなしが軽かったので、
ベルリオーズは彼女のことをシェイクスピアの『テンペスト』に出てくる妖精
にちなんでエーリエルというあだ名で呼んでいたという。

 ローマ大賞受賞は、もう天にも昇るうれしさだったが、2年間のローマ留学
は気が重たかった。かわいいマリーとの別れがとてもつらかったのである。そ
れでローマ行きを一日延ばししていたが、周囲のこともあり翌年の3月、意を
決してでもしぶしぶパリを立ってローマへ赴いたのである。

 ローマでの留学生活はまさに砂を噛むように味気なく、ベルリオーズはいつ
もマリー・モークのことばかりを思い日を過ごしていた。(つづく)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa031001.htm


ベルリオーズの恋4
 
 ローマでの留学生活はまさに砂を噛むように味気なく、ベルリオーズはいつ
もマリー・モークのことばかりを思い日を過ごしていたが、マリーの方からの
便りは待てど暮らせど届かなかった。

 しびれを切らしたベルリオーズはローマを飛び出しフィレンツェへ行ったり
したが、ある日、女文字の手紙が届いた。わくわくする気持ちで開封して見た
ら、それはマリーの母親からのものだった。そこにはなんと、マリーがピアノ
業者の息子のカーミュ・ブレイエルと結婚したこと、更にベルリオーズのこと
を、家庭の平和を乱した色気違いとまで付け加えてあった。

 まさにショック、涙があふれ出たが、次の瞬間、完全に頭に血がのぼった。
 「よーし、こうなったらあのカバ(母親のあだ名)も浮気女も男も三人とも
皆殺しだ。そして自殺すればいい..。そうすれば世間もオレの正当性を認め
るだろう。」

 彼はすぐさまピストル2丁、アヘンとストリキニーネ、女装のための衣装を
そろへパリ行の馬車に飛び乗った。揺れる馬車の中で、その殺しの手順を盛ん
に練るのだった。

 「みながお茶を飲んでいる夜の9時頃、女装して踏み込もう。まず二人を手
早く片付ける。それから3人目のマリーだ。彼女の髪をひっつかんで、自分が
だれか思い知らせてやる。きっと悲鳴を上げるだろうから、ゆっくりそれを楽
しんでから3発目をぶっぱなす。そして4発目はオレの額に..。」

 深夜の冷え冷えとした空気を突きさいて、馬車は疾走する。ところがその途
中で、ベルリオーズは我に返った。

 「どうしてオレが死ななきゃならないんだ。オレがここで死んでしまったら
一体このフランス音楽界はどうなる。この頭の中のすばらしい傑作が、みなフ
イになってしまうではないか。世界人類のための財宝が..、フランスの国宝
が..。」そう思ったとたん、ベルリオーズは言葉にならない大きな叫び声を
発していた。御者は驚いて馬車を止めた。

 感情の起伏の激しい直情径行の見本のようなベルリオーズ、不実な女の面影
も復讐の幻想も、すべてその一声で吹き飛ばされ、霧散してしまったのである。

 彼は再びローマに戻り、退屈な留学生活を続けるのだった。(続く)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa031015.htm


ベルリオーズの恋5
 
 結婚を約束した女に裏切られ気も動転、女とその家族、相手の男も一緒に殺
してしまおうと、ピストルを鞄に忍ばせ、パリに向かったベルリオーズだった
が、ひた走る馬車の中、夜の冷気で我に返り、留学先のローマに駆け戻った。
 2年間の留学生活を終え、パリに戻ってみると、またあのハリエット・スミ
スソンのいる一座がやって来ていたのである。運命の巡り合わせ。

 彼はさっそくに自作の演奏会を開き、スミスソンに招待状を送った。今度は
その招待状もホゴにされることなく、スミスソンもやってきた。プログラムは
因縁の「幻想交響曲」。でもベルリオーズはこのとき、ほんとうはどういう気
持ちだったろう。懐かしさと少々の苦々しさとが入り混じった...。

 スミスソンは、この曲の内容や作曲の動機については何も知識がなかったが
、プログラムの解説に目を通し、誇り高きローマ大賞受賞作曲家が、かって山
のようなラブレターを送ってきたあの色家違いの青年で、彼女を熱烈に愛して
くれていたことを知り感激するのだった。

 ”焼けぼっくいに火がつき”のごとく、二人の中は急速に燃え上がって行っ
た。ベルリオーズとスミスソンは翌1833年に結婚式を挙げた。

 ただ、この頃、年齢的なこともあるがハリエット・スミスソンの人気はすで
に峠を越え、容姿も衰えてきていた。それに、その頃、馬車から降りる際に転
倒、足をくじき舞台には立てなくなっていた上、1万4千フランもの借金を負
っていた。ベルリオーズは、それもなにも意に介さなかった。なにより彼女を
ひしと抱きしめたかったのである。

 念願かなって彼女と結ばれたものの、実生活でのハリエットは、彼の思うオ
フェリアやジュリエットとはほど遠かったのである。芸術家の妻としての素養
や理解がなく、浪費癖がある上、大変嫉妬深かった。

 一児が出来たが、二人の間は年を追って険悪なものになり、8年後別居、更
に13年後、ハリエットは夫と息子のルイに看取られながら息を引き取った。
53歳。かっての舞台での華やかなスターには淋しい最後だった。

 ベルリオーズは、ハリエットと別居する前から、マリー・レシオというスペ
イン人の血も引く女性歌手と恋中になり、別居後に同棲をはじめていたが、ハ
リエットが亡くなった後、正式に結婚。ベルリオーズ50歳、マリーは40歳
だった。

 マリーは美人だったが、歌手としての才能にはあまり恵まれていなかったと
いわれる。そして恐らくベルリオーズにとって幸福な結婚とはいえず、良き妻
ではなかったらしい。というのは、彼の回想録の中、このマリーについては、
「わたしは再婚した。それは避けられない結婚であった」としか記述がないと
いう。−−−避けられないというのは、ハリエットの嫉妬がかえって二人をの
っぴきならないものにしてしまったようである。

 このマリーも結婚後わずか8年で死去、寂しい彼は、幼な友達のエステル・
フォルニエ夫人に最後の求愛したりしたが、その愛は受け入れられなかった。

 思うにベルリオーズは、大変女房運の悪い男であった。そして息子にまで先
立たれ、晩年は孤独で不幸であった。1869年65歳で没。(おわり)
http://uncletell.web.fc2.com/infoseek/yawa031101.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html#c12

[番外地7] 今起きてる流れ 分かってない人が多すぎる
今起きてる流れ 分かってない人が多すぎる

ダイヤモンド・プリンセス号の乗客なんだけど、下船後そのまま寿司屋へ向かったって、さすがに危機意識なさ過ぎでしょ。
こういうことになるから誰も降りてほしくなかったんだよ。頭がくらくらしてきた。


2020年2月19日
2週間前に出た陰性の結果を受けて、本日下船…その後横浜駅と東京駅で解散!
なかには、そのまま友人と待ち合わせをして、お寿司屋さんに行ったとのこと。
頭おかしいだろ!政府も下船して寿司屋に行った人も!
遠足だって家に帰るまでが大事ですって言うのに。
きっと、神奈川県で感染者出るよ。素晴らしぃ。

_____

厚労省の新型コロちゃん拡散計画。
かなり上手くいってるようです。
おめでとうございます。

それにしてもこれ。

え?
ロンドン開催?今夏の五輪「ロンドン開催を」=新型肺炎で市長選候補名乗り

ロンドン五輪の閉会式=2012年8月、ロンドン(AFP時事)

【ロンドン時事】5月に行われるロンドン市長選の主要2候補が19日、日本での新型肺炎の感染拡大を理由に今夏の東京五輪が中止となった場合を念頭に、2012年の五輪が開かれたロンドンでの代替開催の誘致に名乗りを上げた。
国政与党・保守党公認候補として出馬するショーン・ベイリー氏はツイッターで「2020年、ロンドンは再び五輪を開催できる」と宣言。

「われわれにはインフラと経験がある。そして(新型)コロナウイルスの発生により、世界はわれわれの介入を必要とするかもしれない」と東京五輪中止の可能性に言及。

「市長として、私はロンドンが呼び掛けに応え、五輪を開催する準備があると明確にする」と表明した。

一方、サディク・カーン現ロンドン市長(国政最大野党・労働党)の広報担当者も地域紙シティーAMに「誰もが東京大会の素晴らしい成功に向けて取り組んでいる」と指摘しつつ、「万が一求められた場合には、ロンドンは過去そうしてきたように、積極的な行動を取るために最善を尽くすだろう」と代替開催を示唆した。

____


東京オリンピック開催中止はもはや時間の問題でしょう。


今回の騒動はもうすぐ収束するでしょう。中国でも収束しはじめた。日本では広まらないでしょう。
そんなことを言ってる方も時々見受けるのですが。
そういう人は流れが分かってない。

今起きてる流れ。
新型コロナウイルスなど始まりに過ぎない。オリンピックとか新型コロナなどどうでも良い。これから起きることは、もっと大きなことです。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/493.html

[近代史3] セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』 中川隆
3. 中川隆[-13685] koaQ7Jey 2020年2月20日 13:54:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-214]

セザール=オーギュスト=ジャン=ギヨーム=ユベール・フランク(César-Auguste-Jean-Guillaume-Hubert Franck、1822年12月10日 - 1890年11月8日)は、ベルギー出身、フランスで活躍した作曲家、オルガニスト。


ネーデルラント連合王国のリエージュに生まれ、この町で1834年には最初のコンサートを開いている。弟のジョゼフ(1825年 - 1891年)とともに幼くしてピアノの才能を示し、父は彼らをリストのような大ピアニストにすべく英才教育を行った。1834年にリエージュ王立音楽院を卒業し、1835年に一家でパリに移住するとアントニーン・レイハなどに教えを受けた。1837年にパリ音楽院に入学し作曲、ピアノ、オルガンなどを学んだ。

1842年に退学し帰郷したが、1844年には再びパリに戻って活動した。その後作曲家志望を固め、また父の意に沿わぬ結婚をしたことなどから父とは決別した。リストやショパンにも才能を注目されたが、ピアノ教師として、またその後は教会オルガニストとしてつましい生活を送った。この間作曲家としてはオラトリオなど宗教音楽を中心に手がけている。また、フランス国内を広く旅してオルガン製造者のアリスティド・カヴァイエ=コルが設置したオルガンを紹介して回った。

1858年に就任したサント・クロチルド聖堂のオルガニストの職には、その後生涯にわたってとどまった。1871年にはサン=サーンス、フォーレらとともにフランス国民音楽協会の設立に加わり、1872年にパリ音楽院の教授に迎えられた。最晩年の1885年ごろからヴァイオリン・ソナタ イ長調、交響曲ニ短調など、現在よく知られる代表作を次々に作曲し、にわかに注目された。

彼の弟子のヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソン、ガブリエル・ピエルネ、アンリ・デュパルク、ギー・ロパルツや、その影響を受けたアルベリク・マニャールらは“フランキスト”と呼ばれ、のちにドビュッシーらの印象主義音楽と対抗することになる。


生涯

幼少期と学生期 (1822年–1842年)

フランクはネーデルラント連合王国(現ベルギー、1830年からワロン語圏ベルギーとなっていた)のリエージュで生まれた。

元来ドイツ系の家系で、父のニコラ=ジョゼフ・フランク(Nicolas-Joseph)は銀行家でベルギー国境付近の出身、母のマリー=カテリーヌ=バルブ・フランク(Marie-Catherine-Barbe 旧姓フリンクス Frings)はアーヘンの出身であった。

セザールは幼い頃から絵画と音楽の才能を示しており、父のニコラ=ジョゼフは息子がフランツ・リストやジギスモント・タールベルクのような若き神童ピアニスト兼作曲家となって、一家に富と名声をもたらすことを夢見ていた[1]。

父によってリエージュ王立音楽院に送られたフランクはソルフェージュ、ピアノ、オルガン、和声学をジョゼフ・ドーソワーニュ=メユールら他の下で学んだ。

フランクの演奏会デビューは1834年のことで、建国間もないベルギー王国の国王レオポルド1世も臨席していた[2]。

1835年、息子をより広い聴衆の前に出す時が来たと決意した父ニコラ=ジョゼフは、彼と弟のジョゼフを引き連れてパリへと赴き、彼らにアントニーン・レイハによる対位法の、またピエール・ジメルマンによるピアノの個人的なレッスンを受けさせた。レイハとジメルマンはパリ音楽院の教授も務めていた。

10か月後にレイハがこの世を去ると、ニコラ=ジョゼフは2人の息子の音楽院入学の方策を模索するようになった。しかしながら音楽院は国外の学生を受け入れていなかったため、ニコラ=ジョゼフはフランス国籍の取得に向けて動くことになり、1837年には帰化が認められた[3]。

この間ニコラ=ジョゼフはパリで息子らが単独で、もしくは2人が同時に出演するような演奏会やリサイタルを企画した。こうした場で彼らは主に当時の流行音楽を演奏し、おおむね好評を得ていた。

セザールとジョゼフは1837年10月にパリ音楽院に入学を果たした。セザールはジメルマンの下で引き続きピアノの修行を積むと同時に、エメ・ルボルン(Aimé Leborn)に作曲を師事するようになった[4]。彼は1838年、初年度の終わりにピアノの1等賞を獲得し、以降も高い水準の演奏を維持していった。一方で対位法の成績はそこまで目覚ましいものではなく、1838年から1840年まで1年ごとに3等賞、2等賞、1等賞と順位を伸ばしていった。

フランクはフランソワ・ブノワのオルガンの指導も受けるようになり、演奏と即興演奏を学んで1841年には2等賞を獲得した。その翌年には作曲でローマ大賞への出品を目指していたものの、理由は不確かながら1842年4月22日に音楽院を「自主」退学してしまう[5]。

父ニコラ=ジョゼフがフランクに音楽院を去るよう命じたのではないかと考えられる。フランクは学問の習得に励む傍ら、父の要請により個人的な音楽指導を行い演奏会もこなしていた。

「それは彼にとっては辛い日々で(中略)気性が荒く執念深くさえあった彼の父の振る舞いにより、毎日が楽になるようなことはなかった(略)[6]」

若いフランクが時にヴァイオリンを演奏する弟を伴って、自作曲を交えながら披露する演奏会は最初こそ好意的に受け入れられたものの、次第にニコラ=ジョゼフの商業的な息子の売り出し方がパリの音楽雑誌や批評家の反感を買うようになった。フランクのピアニストとしての技量は認められていたが、この時点では公正に判断するならば彼の作曲家としての腕前は未熟なものだった。

状況は、ニコラ=ジョゼフとRevue et Gazette musicale誌で首席評論家を務めるアンリ・ブランシャール(Henri Blanchard)の間で確執が生じたことでさらに悪化した。ブランシャールはニコラ=ジョゼフがひどく気取っていることを酷評し、上の息子の「荘厳な」名前を嘲った。こうした敵意は「疑いなく個人的なもの[7]」であったが、ニコラ=ジョゼフにベルギー帰国が必要だと思わせるには十分だったようで、1842年に「有無を言わせぬ命令[5]」が下されたフランクは音楽院を後にして父に付き従がわざるを得なかったのである。

教師、オルガニスト時代 (1842年–1858年)

ベルギーへ帰国したフランクだったが、祖国には2年と留まらなかった。収入源となるような演奏会を開くことは出来ず、批評家達は無関心か軽蔑的かのいずれかであり、ベルギーの宮廷からの援助は得られそうになかった(もっとも、国王は後になってフランクにゴールドメダルを授与することになる)[8]。資金を得る術はなかったのである。ニコラ=ジョゼフに関する限りは、帰郷が失敗に終わったため息子をパリでの音楽指導と家庭向け演奏会の生活に引き戻そうとしていた。この演奏会についてローレンス・デイヴィス(Laurence Davies)は、過酷で実入りの少ないものだったとしている[9]。しかし、長い目で見ると若きフランクにとってこの経験は有益な側面も持ち合わせていた。なぜならこの時期にパリへ戻れたことで、彼は音楽院に復学して最後の数年及びその後の時間を過ごすことが出来たからである。また、彼の最初の成熟した楽曲となるピアノ三重奏曲集が完成したことにもこの期間の役割が大きい。これらの作品はフランク自身が初めて自作と認め得たものであり、作品を見たリストは激励と建設的批判を与えた上で自らも数年後にヴァイマルで演奏している[10]。

1843年、フランクは室内楽作品以外では初の挑戦となるオラトリオ『ルツ』の作曲に取り掛かった。この作品はリスト、マイアベーアをはじめ他の有名音楽家を招いて1845年に私的に初演され、ほどほどの賛辞と前向きな提案を得た[11]。しかしながら、1846年初頭に行われた公開初演においては聴衆が関心を示さず、オラトリオの芸術性の欠落と単純さには冷たい批判が浴びせられた[12]。この作品が次に上演されたのは1872年、大改訂を加えた後のことであった。

これにともない、フランクは公の活動からは実質的に身を引き、教師と伴奏者として陽の当たらない生活をするようになった。彼の父もしぶしぶこれを認めた。フランクはパリとオルレアンの両方で、こうした仕事や歌曲や小規模な作品の作曲の依頼を受けていた。彼の元には1848年の第二共和政の成立を祝し、これを強固にするような作品の依頼が舞い込んでおり、そうした作品には聴衆が関心を示すようなものもあったが、ルイ・ナポレオンの下で第二帝政が立ち上げられたことで演奏の機会を失ってしまった。1851年にはオペラ『頑固な召使い』に取り組んだものの、リブレットは「最低の文学的出来[13]」であり、曲は慌てて書きつけられたようなものだった。フランク自身も終生「印刷する価値のないものだった[14]。」と言い続けることになる。しかし、概していえばこうした隠遁生活はそれまで脚光を浴び続けてきたフランクには休息となったと考えられる。「フランクは神の思召しに従い、いまだ全くの闇の中にいた[15]。」そして、この期間に生じた2つの大きな変化が、彼のその後の人生を形作ることになっていく。

まず1点目は、フランクが両親とほぼ完全に縁を切ってしまったことである。直接の原因となったのは、彼がピアノの教え子であったウジェニー=フェリシテ=カロリーヌ・セイヨ(Eugénie-Félicité-Caroline Saillot; 1824年-1918年)と親密となり後に恋人関係となったことであった。

彼女の両親はデムソー(Desmousseaux)という芸名で活動するコメディ・フランセーズ会社の一員であった。フランクは彼女と音楽院時代からの知り合いであり、若いフランクにとってフェリシテ・デムソーの家庭は威圧的な実の父からの避難所のような存在となっていた。1846年にニコラ=ジョゼフは息子の書類の中から「喜ばしい記憶の中のF.デムソー嬢」への献辞が付された楽曲を発見し、本人の目の前でそれを破り捨てたこともあった。フランクはそのままデムソー家へと向かい、記憶を頼りに曲を書き起こして献辞と共にフェリシテへと贈った。

ニコラ=ジョゼフとの関係は、彼が息子の婚約や結婚の意志を一切認めようとしなかったことでさらに悪化した[注 1]。ニコラ=ジョゼフはさらに母を苦痛に陥れたとしてフランクを非難し[注 2]、フランクのいかなる縁談も夫婦間の毒殺事件という醜聞に繋がるに違いないと怒鳴りつけたのである[16]。7月のある日曜日、フランクは持てるものだけを持って両親の家を後にすると、そのまま歩いてデムソー家に向かって移り住んだ。デムソー家で歓迎を受けた彼は二度と実家には戻らなかった。この時以来、若いフランクは名乗る際や書類や作品への署名を「César Franck」もしくは単に「C. Franck」とするようになった。「これは彼が父ときっぱり決別し、かつ周囲にそれを知らせようとする意志の現れであった。(中略)彼は元の自分とは出来るだけ違った、新しい人間になろうと決意したのである[17]。」

フェリシテの両親の注意深くも友好的な眼差しの中、フランクは彼女へ求婚し続けた。1847年に彼が25歳となるや否や、彼は父にフェリシテとの結婚の意志を伝え、実際に二月革命が勃発したのと同月の1848年2月22日に念願を成就させた。教会にたどり着くまでに一向は革命群が築いたバリケードを乗り越えなければならなかったが、ダンディが伝えるところでは「この仮設の要塞の後方に集まっていた大勢の蜂起民が進んで手助けをした[18]。」結婚にあたってはフランクの両親も和解の上、式典に出席するとともに登記簿への署名を行った。この時のノートル=ダム=ド=ロレット教会(Notre-Dame-de-Lorette)がフランクの教区教会となった。

2点目は上記のように、ノートル=ダム=ド=ロレット教会がフランクの教区教会となったことであった。1847年にこの教会のオルガニスト補佐となったフランクであったが、これを契機として次々とより重要で影響力の高いオルガニストの職を歴任していくことになる。

フランクは音楽院時代にピアニストとして異彩を放ったのと同じようにオルガニストとして輝きを見せたわけではなかったが、彼はオルガニストの職を嘱望しており、そこには安定した収入が望めるという理由が少なからずあった。

こうして彼は人々の礼拝に必要な技術を学ぶという形でローマ・カトリックへと帰依する機会を得て、時おり上司にあたるアルフォンス・ギルバ(Alphonse Gilbat)の代役をこなすこともあった。この教会におけるフランクの働きが、1851年に新しく建立されたサン=ジャン=サン=フランソワゾー=マレ教会(Saint-Jean-Saint-François-au-Marais)に牧師(curé)として移ってきたダンセル牧師(Abbé Dancel)の目に留まった。

2年後、牧師はフランクを「titulaire」の地位、すなわち第1オルガニストへと誘う。フランクの新しい教会にはアリスティド・カヴァイエ=コルが設置した優れた新式のオルガン(1846年製)が備えられていた。カヴァイエ=コルは芸術性に恵まれ、機能的には革新的な大オルガンの制作で名を馳せていた。フランクは「私の新しいオルガンはまるでオーケストラのようだ![19]」と述べていた。

フランクの即興演奏の能力は非常に必要とされるようになっていた。というのも、当時の礼拝の慣習においてはミサや礼拝で歌われる単旋律聖歌の伴奏を行った上で、そこから楽想を派生させて聖歌隊による歌唱や神父の説教との間を繋がねばならなかったからである。さらにフランクの演奏能力とカヴァイエ=コルの楽器への愛情が合わさったことで、彼はカヴァイエ=コルと協力関係を結ぶことになる。フランクはフランス中を訪ねて回って古い楽器を引き立てるとともに、新しい楽器の除幕式で演奏する役割を担った。


期を同じくして、フランスにおけるオルガン演奏には革命が起こっていた。バッハの伝記作家として知られるヨハン・ニコラウス・フォルケル[20]門下でドイツのオルガニストであるアドルフ・フリードリヒ・ヘッセは、1844年のパリにおいて、バッハ作品の演奏が可能となるような足鍵盤の技巧とドイツ式の足鍵盤を披露した。これはフランクがブノワから音楽院で学んだ奏法の範疇からは全く外れたものだった。大抵のフランスのオルガンにはそうした作品に用いられている足鍵盤の音がなく、クープランの時代から続くフランスの由緒ある古典的なオルガンの伝統も、その当時は即興演奏を重視するあまりないがしろにされていたのである。

ヘッセの演奏もまばゆい超絶技巧によって一過性の騒ぎになったに過ぎないと思われる。続いて1852年から1854年にかけては、当時ブリュッセル王立音楽院のオルガン科で教授を務めていたジャック=ニコラ・レメンスがパリを訪れた。レメンスは技巧的なバッハ演奏家であるにとどまらず、全てのオルガニストが正確に、音を濁らせず、レガートのフレージングをもって演奏できるようになるオルガン指導法を開発した人物だった。フランクは1854年にレメンスが出演したのと同じ就任記念演奏会に出席しており[21]、レメンスの古典的なバッハの解釈を高く評価するのみならず、その素早くかつ均質な足鍵盤さばきにも称賛を惜しまなかった。ヴァラ(Vallas)によればオルガニストになる前にピアニストであったフランクは「生涯自分自身でレガートの様式を確立するには至らなかった[22]」ものの、そのような技術を取り入れることでオルガン演奏の幅を広げることが出来るということは認識しており、技術の習得に向けた取り組みを開始していたという[23]。


サン=クロチルド教会の正オルガニスト期 (1858年–1872年)

フランクは彼の3つ目かつ最後となるオルガニスト職に刺激され、活気づいていた。1858年1月22日、彼は奉献間もないサント・クロチルド聖堂のメートル・ド・シャペル(maître de chapelle)のオルガニストに就任した。この職は彼がその後生涯にわたって留まるものである。

7か月後、この教会に新設されたカヴァイエ=コルのオルガンは3段の手鍵盤を備えるもので[24]、フランクがこの楽器の正奏者になるとともにテオドール・デュボワが合唱指揮者と副オルガニストを務めることになった。

このオルガンがフランクの演奏と作曲に与えた影響は最初期のピアニストとしての経験同様に、彼のその後の作曲活動を考えるにあたって無視することはできない。ノルベール・デュフォルク(Norbert Dufourcq)はこの楽器について「疑いなく制作者のこの時期までの傑作として位置付けられる」と記している[25]。フランク自身はサント・クロチルド教会の司祭にこう述べている。

「私がどれほどこの楽器を愛しているのか、あなたがご存知だったなら(中略)指の下でのしなやかさ、そして私の思いに従順なことといったら![26]」

フランク自身も30鍵の足鍵盤を持つこのオルガンの性能に負けじとプレイエル社から購入した練習用の足鍵盤を自宅に置き、教会のオルガンの前で何時間も過ごすのに加えて足鍵盤の技術向上に勤しんだ。このオルガンが持つ響きの美しさと注がれた優れた技術により、彼は即興演奏家として、またオルガンはもちろん他のジャンルの作曲家としても名声を得るようになっていった。

オルガン曲、声楽曲、そしてハーモニウム曲が順繰りに作曲されるようになり、そうした中で生まれた楽曲では『3声のミサ曲』(1859年)が最もよく知られる。

この作品は何年もかけて作曲されたために楽章間で出来が不揃いであるが、ここからフランクの作品中でも最も長く愛される曲の1つである『天使の糧』が生まれている。

これ以上に注目されるのが、1860年から1862年にかけて書かれた[注 3]オルガンのための『6曲集』である。この曲集は今日でも演奏機会の多いオルガンであり、ローリン・スミス(Rollin Smith)によれば100年以上にわたるフランスのオルガン芸術史における初めての傑作、そして「メンデルスゾーン以降に書かれた最も重要なオルガン音楽」である[27]。

フランクは各曲をサン=サーンスなどの同僚のピアニストやオルガニスト、師であるブノワ、そしてカヴァイエ=コルに献呈している。

曲集中の『前奏曲、フーガと変奏曲』Op.18と『交響的大曲』Op.17はフランクのオルガン作品の中でも最もよく知られるものである。

オルガニスト、即興演奏家としての名声が高まるにつれ、フランクはますますカヴァイエ=コルが新設または改修したオルガンの除幕式や奉献式での演奏を任されるようになっていった。彼はルイ・ルフェビュール=ヴェリーがオルガニストとなったサン=シュルピス教会の新しいオルガン(1862年)をはじめ、以降ノートル=ダム教会、サンテチエンヌ・デュ・モン聖堂(英語版)、サントトリニテ教会などで演奏した。

これらの楽器の中には彼が単独、もしくはサン=サーンスと共に助言を行ったものもある。フランクが担当するサント・クロチルド聖堂では、彼の即興演奏を聴くために人々がミサや礼拝に訪れ始めていた。さらに、フランクは自作や他の作曲家の作品を取り上げて聖堂でのオルガン演奏会を開催するようになっていた。そうした中でおそらく最も知られる演奏会は1866年4月にリストが出席した日曜ミサだろう。聖歌隊席に腰かけてフランクの即興演奏を聴いたリストはこう述べた。

「あの時のピアノ三重奏曲集を書いた人物のことを、これまでに私が忘れてしまうことなどあり得るだろうか。」これに対してフランクはこう不平をもらしたのではないかと思われる。「あれ以降、もっといい仕事をしてきたと思うのだが[28]。」そのひと月後にリストはサント・クロチルド聖堂においてフランクのオルガン作品を紹介する演奏会を企画し、聴衆から好評を得るとともに音楽雑誌にも好意的に報じられた。

フランクはリストだけでなく、活動の主軸をドイツに置くハンス・フォン・ビューローの演奏が聴けることを喜んだ。また、フランクは1869年にノートル=ダム聖堂でアントン・ブルックナーの演奏を耳にし、ドイツのオルガン音楽とそれらをいかに演奏すべきかという点について理解を深めている。彼は定期的に門下生の集まりを催すようになり、オルガンには建前から関わっていたに過ぎなかった弟子たちもフランクの作曲技法に関心を示すようになっていった。

フランクはこの時期にも合唱を用いた作品を作曲し続けたが、大半は出版されないままとなった。当時は音楽院を修了した音楽家でも皆がそうであったように、フランクは過去の多声音楽に詳しくなかった。フランクは礼拝音楽をその当時の様式に沿って作曲し、デイヴィスはこれを「宗教的な偏りを持つ世俗音楽」と表現した[29]。

そうした状況ではあったがフランクは1869年から主要な合唱作品となるオラトリオ『至福』の作曲にとりかかり、普仏戦争の勃発による中断等を経て10年余りをかけて完成させた。1848年の革命の際と同様に、この戦争によって彼の弟子の多くがパリを離れ、もしくは戦闘で落命するか障害を負うなどして彼の元から去っていった。彼は再び愛国的な楽曲をいくつか作曲したが、当時は時代の厳しい状況の下では演奏されることはなかった。収入が減少するとともに食料品や燃料の価格が高騰し、フランクとその一家は経済的な苦境に陥った。音楽院も1870年から1871年の年度は開校しなかった[30]。こうした中、フランスの音楽家の間には自らの音楽に対する認識の変化が生じていた。とりわけ戦後からは確固たるフランスの音楽として「ガリアの芸術 Ars Gallica[31]」を追い求めるようになったのである。この言葉は新たに結成された国民音楽協会の標語として掲げられた。フランクは協会の最古参の会員となり、1871年11月に開かれた最初の演奏会のプログラムにはフランク作品が取り上げられた。


「ペール・フランク」 音楽院の教授、作曲家期 (1872年–1888年)

フランクの名声は今や演奏家として、国民音楽協会の会員として、そして少ないながらも忠実な弟子たちの存在によって広く知れ渡っていた。1872年に授業を再開したパリ音楽院でブノワがオルガン科の教授から退官すると、フランクが後任として推されることになる。

誰が推薦人であったのかについては不確かな点がある。サン=サーンスとテオドール・デュボワはそれぞれ異なる時期に自らの関与を認めており、それはカヴァイエ=コルも同様である[32]。確実なのはフランクの名前が候補者一覧の一番上に記載されていたということ、そしてこの推薦によってフランクが任用に必要なフランス国籍を有していないことが公になってしまったという、きまりの悪い事実であった。

フランクの父のニコラ=ジョゼフは息子を音楽院へ入学させるべくフランスへと帰化させていたが、これはフランス政府に成人として忠誠を宣言しなければならない21歳までの期限付きだったということをフランクは知らなかったのである。フランク自身は父による国籍変更の手続き以後、ずっと自分がフランス国民であると考えていたにもかかわらず、実際は知らぬ間に元の国籍であるベルギーへと戻されて人生の大半を過ごしていた。すぐさまフランクは再度帰化申請の手続きに入り、1872年2月1日に予定されていた任用は1873年へと変更になった。

フランクの下に集った弟子の多くは音楽院で学んでいた者か、在籍中の学生であった。中でもヴァンサン・ダンディ、エルネスト・ショーソン、ルイ・ヴィエルヌ、アンリ・デュパルクらはとりわけ有名である。この集団は徐々に師弟間で相通ずる尊敬と愛情によって固く結ばれるようになっていった。ダンディはこれを新たな門弟が個々に、しかし誰もが師のことを「ペール・フランク Père Franck」すなわち「父フランク」と呼ぶようになったことと関連付けている[33]。

一方、フランクは教員生活において緊張を強いられる場面も経験していた。彼はオルガンによる演奏や即興の技術と同等に作曲の指導を行う傾向があった。また、音楽院が認可した公式の教科書や参考書を軽視する姿勢により、彼の指導方法は合理的でないとみなされていた[注 4]。さらに彼の一部学生からの人気に嫉妬を感じる教員も現れ、ローマ大賞など各種の賞の選考においてフランクの教え子はそうした教授陣から偏見交じりの審査を受けることもあった[35]。ヴァラはフランクが

「彼の信じる単純な本質は理解されなかった(中略)彼自身が常に親切な雰囲気を向けられていると感じていた音楽院の中でさえ、彼はいかほどの不快な類の指摘を受けたことだろうか。」

と記している[36]。


フランクの立場は長年温めていた楽曲の構想を楽譜に起こせるようなものとなっていた。

彼は『至福』の作曲を中断してオラトリオ『贖罪』(1871年作曲、1874年改訂)、交響詩『アイオリスの人々』(1876年)、オルガンのための『3つの小品』(1878年)、『ピアノ五重奏曲』(1879年)などや他の多くの小規模作品に取り組んだ。

『至福』は最終的に1879年に初演を迎えることとなったが、これはフランクの他の多くの合唱曲や管弦楽曲の場合と同じく成功しなかった。作品は全体としてではなく細分化された上での抜粋だった上、適当なオーケストラがなかったためにピアノ伴奏で演奏された。さらにダンディでさえ指摘しているのは、フランクがゴスペルの至福の中に表現される美徳と対比される罪悪を、音楽的に表現出来ていなかったらしいということである。

「この《理想の罪悪》(もしこのような表現が可能であればの話であるが)の擬人化はフランクの本性とあまりにかけ離れており、彼はそうしたものを適切に表現することができなかった[37]。」

その結果生じたヴァラが述べるところの「単調な印象」は[38]、フランクの忠実な門下生にすら『至福』の一つの作品としての存続可能性について推測させるに及んだ。

1880年代になり、フランクは気づくと様式的に主張の異なる2群の板挟みとなっていた。一方は最初に慣れ親しんだスタイルからの変化を好まなかった妻のフェリシテであり、他方はおそらく彼が影響を与えるのと同じように彼自身にも驚くべき影響を与えていた弟子たちである。ダンディの次のような言葉が引用されている。

「(フランクは)どの調性的関係を選択するのか、展開部をどう進行させるべきか考えあぐねた際、いつも弟子たちに相談して彼らと疑問点を共有し、彼らの意見を聞くことを好んだ[39]。」その一方、フランクの弟子のひとりはフランク夫人が次のように(一部的を射た)発言をしたと物語っている。「彼に向けられる敵意を生んでいるのは全部あなたたち弟子なのよ[40]。」加えて、サン=サーンスとフランク及びその一派との反りが合わなくなってきており、国民音楽協会においてもいくらか軋轢が生じていた。

これらのいざこざがフランクの心をどれだけ疲弊させたのか、確かなことはわからない。しかし、彼のより「卓越した」楽曲がこうした時期に生み出されたことは確かである。

交響詩の『呪われた狩人』(1882年)と『鬼神(ジン)』(1883年-1884年)、ピアノのための『前奏曲、コラールとフーガ』(1884年)と『交響的変奏曲』(1885年)、そしてオペラ『ユルダ』(1886年)である。

これらの作品の多くは少なくともフランクの生前に行われた初演時には、並みの成功となるか否かといった程度であった。しかし、1879年の『ピアノ五重奏曲』は注目を集めるとともに思考を喚起する作品であるとされた。批評家はこの作品には「不穏な生気」が宿り、「劇場的といってよい程の不気味さ」を湛えていると評した[41]。ただし、サン=サーンスはこの作品を特に嫌悪していた。


1886年の『ヴァイオリンソナタ』は、ベルギーのヴァイオリニストであるウジェーヌ・イザイの結婚祝いとして作曲されたものだった。この作品の成功は轟きわたることになる。イザイはこれをブリュッセル、パリで演奏し、さらに演奏旅行に組み込んでしばしば弟のテオ・イザイのピアノ伴奏で演奏した。彼がこの作品を最後に演奏したのは1926年のパリで、イヴ・ナットが伴奏を受け持った[42]。20世紀半ばにヴァラはこのソナタについて次のように記している。

「少なくともフランスではフランクの最も人気の作品となり、室内楽曲のレパートリー全体から見ても最も一般的に受容される楽曲である[43]。」

フランクへの評価がはっきり定まらなかったことは、フランク一派が遅すぎると考えたフランクの受章にも表れているかもしれない。1885年8月4日、フランクはフランスのレジオン・ドヌール勲章のシェヴァリエに叙された。彼の支持者らは憤った。ダンディはこう記している。

「この勲章が音楽家、フランスの芸術に名誉をもたらす優れた作品の作曲者に与えられたと考えることは間違っているのか。少しもそんなことはない![44]」

表彰が、単に10年以上勤めた「オルガンの教授」へとなされたものだったからである。ヴァラは

「世論はこの点について同じような過ちを犯すまい」

と続けて、普段はフランクに批判的だった雑誌の記述を引用した。

それはこの表彰が「少し遅きに失したのだとしても、『贖罪』や『至福』を書いた傑出した作曲家に対して正当にもたらされた敬意のしるし」だというものだった[45]。

フランクが1886年から1888年にギリシャ神話を基に手がけた交響詩『プシュケ』を発表すると、フランクの家庭と取り巻きの弟子たちの間の衝突は新たな局面に突入した。本人のあずかり知らぬ場所でも繰り広げられたいさかいの内容は音楽だけに留まらず、題材の哲学的、宗教的側面にまで及んだ[注 5]。

この作品があまりに官能的であると考えたフランクの妻と息子は彼により広範な、もっと大衆への訴求力を持つ、そして「全体としてより商業的な」音楽に専念するよう希望した[46]。

一方のダンディはこの楽曲の神話的重要性に触れ、こう述べている。

「多神教徒の精神は何も持ち合わせていないが(中略)それどころか、キリスト教徒の恩寵と感受性を吹き込まれている(略)[47]」

このダンディの解釈は後になって

「日曜教室の新任教師が悪童に雅歌を教えるように突然指示された場合に感じるような、ある種の当惑であった。」

と解説されている[48]。


フランク唯一の交響曲となる『交響曲 ニ短調』が出版されると、議論はますます勢いを増した。曲の評判は芳しくなかった。音楽院のオーケストラは非協力的で[49]、聴衆は冷淡、批評家は態度を決められず[注 6]、仲間の作曲家の多くは

「全体の形式をはじめ細部においても[注 7]形式主義者の規則や厳格な玄人及び素人の慣習を破壊した。」

として取り乱した[50]。

フランク自身は弟子のルイ・ド・スーレ(-Serres)にこの曲には基となる私的な着想があったのかと問われ

「いや、ただの音楽だ。純粋な音楽以外には何もない。」

と答えている[51]。ヴァラによれば交響曲で用いられた様式と技法は良いものもそうでないものも皆、フランクの思考と芸術家人生の中心を占めたオルガンに帰することが出来るという。また、彼はフランクがこの経験から学んだとも指摘している。

「彼は弟子たちに向かって、その時以降同じような作品は2度と書くまいと述べた[52]。」


晩年 (1888年-1890年)

1888年、フランクは次なるオペラ『ジゼル』に取り掛かった。しかし、この作品は作曲というに至らぬ草稿の段階までで終わり、完成されることはなかった。

対照的に大規模な『弦楽四重奏曲』は完成され、1890年4月の初演は聴衆と評論家から好評をもって迎えられた。

これ以外にも同じ時期には、フランクはパリ及び近隣都市でコンサートピアニストとして活動し、2年前には『プシュケ』の再演が熱狂的に終わっており、さらに弟子たちによる数多くの演奏によってフランクは成功を手にしていた。加えて、彼はサント・クロチルド聖堂で定例の大きな日曜集会には即興演奏を披露し続けていた。彼はオルガンのための大きな作品、またチェロソナタの構想も温めていた可能性がある。

1890年7月[注 8][53]、フランクが乗車していた辻馬車が馬引きの列車と衝突事故を起こす。頭に損傷を受けた彼は一時意識を喪失した。ただちに後遺症が見られなかったため彼はそのまま移動を再開し、本人も事故を重要視しなかった。しかしながら次第に歩行が苦痛になり始め、気が付くと彼は演奏会やリハーサルを休む事を余儀なくされ、続いて音楽院での講義も断念せざるを得なくなった。できるだけ急いで休暇を取ってヌムールに赴いた彼は、同地で約束していたオルガン作品やハーモニウムのための委嘱作品を書けることを願った。休暇中に彼は両プロジェクトに着手することができた。

ハーモニウムの作品集よりも早く、オルガン作品が1890年の8月と9月に書き上げられた。この作品はオルガン音楽史における珠玉の逸品である『3つのコラール』であり、今日でも頻繁に演奏されている。

ヴァラはこの作品について次のように述べている。

「その美しさと重要さは、この曲集を音楽による遺書もしくは遺言と考えてまったく差し支えないほどである[54]。」

ヴァラよりも後の時代の伝記作家も同様の表現を用いている。

「全体を通してフランクの意識が大きな別れの言葉となっているのは明らかである(中略)『コラール』を作曲したフランクが、自らの身体が完全に回復する希望を持ち続けていたと考えるのは難しい、いや、ほとんど不可能に近い[55]。」


10月から音楽院の新学期に入ったフランクであったが、月の半ばに風邪を引いてしまう。この風邪をこじらせたことによって胸膜炎[注 9]にかかった彼は、みるみるうちに病状を悪化させて11月8日に帰らぬ人となった。

1970年にある病理学者が示した所見では、従来フランクの死は交通事故が原因とされるか何かしらの関連があるものとされていたが、呼吸器感染自体が死の病となることもあり得たという。抗生物質がまだ知られぬ当時においては、この病状は「70代男性の肺炎の状態として珍しいものとは言えない[56]。」しかしこの判断にはその後疑問を呈する者が現れた。

「最もよく知っているだろうと思われる2人の人物、すなわちフランク本人と彼の妻が述べた《直接の原因》には疑いがない。同様に直近の1890年の7月から11月まで家政婦として彼の身の回りの世話をしていた外部の人間の言葉も確からしい(中略)フランクの数十年にわたる《蝋燭を両側から燃やすような》過酷な労働そのものによって、彼が軽度の怪我から回復するのに必要な体力さえもが損なわれていた可能性も十分にある[57]。」


フランクの葬送ミサはサント・クロチルド聖堂で執り行われ、音楽院の公式代表だったレオ・ドリーブをはじめ、サン=サーンス、ウジェーヌ・ジグー、ガブリエル・フォーレ、アレクサンドル・ギルマン、シャルル=マリー・ヴィドール(フランクの後任として音楽院のオルガン科教授となった)、エドゥアール・ラロなどの多数の参列者があった[58]。エマニュエル・シャブリエがモントルージュ(Montrouge)にあった元の墓地の側でスピーチを行った[59]。フランクの亡骸はその後パリのモンパルナス墓地に移され、友人で建築家のガストン・ルドン(英語版)が設計した墓に納められた。

オーギュスタ・オルメス率いるフランクの弟子たちはオーギュスト・ロダンに銅板への浮き彫りを委嘱し、完成した3/4サイズのフランクの胸像は1893年に墓の脇に掲げられた[60]。1904年、彫刻家のアルフレド=シャルル・ルノワール(フランス語版)が製作した記念碑「オルガンに向かうセザール・フランク」が、サント・クロチルド聖堂から通りを挟んで向かい側のサミュエル=ルソー広場に設置された[61]。フランクは現在もモンパルナス墓地に眠っている。



作風

フランクはベートーヴェン以降のドイツロマン派音楽、特に同時代のリストやワーグナーから強い影響を受けた。その結果彼の音楽の特徴として、半音階的和声進行が目立つこと、形式的には循環形式を多用することが挙げられる。前半の楽章で登場した主題の一部や全体が後半の楽章で再現されることで曲全体の統一が図られる。また、フランクは更に進んで独自の様式を創り上げており、各楽章で主要な役割を演じる主題が単一のモチーフから生成される場合もある。1888年の『交響曲 ニ短調』ではこの手法が顕著に示されている。また、彼の作品では巧みな転調が頻繁に行われる。

フランクはJ.S.バッハを研究し対位法を巧みに用いている。作曲に際して比較的簡明な音価を用いる為、単一の旋律で提示される場合はいささか空疎であるが、循環形式内で複数の旋律で提示された場合は非常に高潔な印象を与えるのが特徴である。多くのフランクの門下生もこの手法にほぼ倣っているが、フランクの高みに触れたものはいない。

フランクは12度を掴むことが出来る大きな手を持っていた[62]。これによってフランクのフーガ作品における声部連結は通常にない自由度を有しており、彼の鍵盤楽器作品では和音の幅の広さが特徴の一つとなっている。『ヴァイオリンソナタ』の書法について、次のような指摘がある。

「音楽家の手が皆自分のように大きくないということを幸せにも忘れがちなフランクは、ピアノパート(特に第4楽章)に長10度の和音を散りばめている。(中略)以来、ピアニストはこれを演奏するために手を大きく開くことを強いられてきたのである[63]。」


フランク作品を読み解く鍵は彼の性格に求められるのかもしれない。彼の友人たちは彼について

「これ以上ないほど謙遜し、気取りなく、尊敬の情に溢れ、勤勉であった。」

と評した。弟子の1人で後にノートル=ダム聖堂の正オルガニストに就いたルイ・ヴィエルヌは、フランクに関する記憶を書き留めている。

「(彼は)芸術の気品に対する、役割の高貴さに対する、そして音に対して語る際の熱い真摯さに対する絶え間ない配慮(を見せた)。(中略)歓喜と陰鬱、荘厳と神秘、力強さと天衣無縫さ。サント・クロチルド聖堂でのフランクはこれら全てを兼ね備えていた[64]。」

このフランク自身への賛美は彼の作品すべてに敷衍できるだろう。


代表的作品

詳細は「セザール・フランクの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/セザール・フランクの楽曲一覧


管弦楽作品

交響的間奏曲「贖罪(改訂版)」(1874年)
交響詩「アイオリスの人々」(1876年)
交響詩「呪われた狩人」(1883年)
交響曲 ニ短調(1888年)
交響詩「プシュケ(フランス語版)」(1888年)
ピアノと管弦楽のための作品
ピアノ協奏曲第2番ロ短調作品11
交響詩「鬼神(ジン)」(1884年)
交響的変奏曲(1885年)

ピアノ曲

前奏曲、フーガと変奏曲(1873年)
前奏曲、コラールとフーガ(1884年)
前奏曲、アリアと終曲(1887年)


室内楽曲

ピアノ五重奏曲 ヘ短調(1879年)
ヴァイオリンソナタ イ長調(1886年)
弦楽四重奏曲 ニ長調(1890年)


オルガン曲

「アンダンティーノ ト短調」(1858年)
44の小品(1858年 - 1863年)
6つの作品(幻想曲ハ長調、交響的大曲、前奏曲、フーガと変奏曲、パストラール、祈り、終曲)(1862年)
3つの作品(幻想曲イ長調、カンタービレ、英雄的作品)(1878年)
3つのコラール(1890年)

オラトリオ

『ルツ』(1845年)
『贖罪』(1872年)
『至福』(1869年 - 1879年)
『レベッカ』(1880年 - 1881年)


歌曲

ばらの結婚(1871年)
天使の糧(天使のパン)(1872年) - 「3声のミサ曲 イ長調」(1860年)に後から追加された楽章
夜想曲(1884年)
聖行列(1888年)

https://ja.wikipedia.org/wiki/セザール・フランク
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/915.html#c3

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
23. 中川隆[-13684] koaQ7Jey 2020年2月20日 14:15:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-213]
クルーズ船客「どれだけ感染が拡大するかを試す実験場か!」 2020/02/20


 日本人観光客が多く、「親日」のはずのハワイで、こんな“事件”が起きた。ある日本人男性がタクシーに乗り込むと、乗客が日本人だと知った運転手はすかさず医療用マスクをつけ、こう言い放った。

「あなたは乗せられない」

 南太平洋のミクロネシア連邦、サモア、ツバル、キリバスとインド洋のコモローの5か国はもっと厳しい。ここ数日前から、日本からの入国を制限しているのである。

 これが世界から見た日本。日本は新型コロナウイルスの“第2の感染震源地”として世界中に忌避される存在になりつつある。新型コロナウイルスは、確実に日本に蔓延し始めている。

 乗員・乗客約3700人のうち540人以上の感染者を出してしまった豪華クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」。2月19日からは、高齢者を中心とした乗客らの下船も始まった。それ以外の国内感染者も50人を超えた。

 政府は「日本でアウトブレイク(集団感染)が起きている」と認識されることを懸念し、クルーズ船の乗客を国内感染者から意図的に除外するが、これはただの数字のごまかしに過ぎず、実質的に日本は中国に次ぐ感染大国なのだ。

 ナビタスクリニック理事長の久住英二さんは、政府の初動のまずさを指摘する。

「当初、加藤勝信厚労相は『定常的な人から人への感染は起きていない』と発言していましたが、中国ではすでに起きている。なぜ日本だけ起きないのか。誰にでもわかる“嘘”を重ねたことで、政府に対する不信感が高まりました。クルーズ船の対策も同じ。船内に隔離したのは、重症化しやすい70才以上の乗客1000人以上もいるのにウイルスをまぶしたも同然の判断ミスです。政府はやってはいけないことを連発してしまった」

 妻とともに、ダイヤモンド・プリンセス号に乗船した平沢保人さん(65才)は、政府の対応に強い不満を持つ。

「乗客の感染が判明したのは2月1日でしたが、私が事実を知らされたのは3日です。この間に政府が早期隔離の処置を取らなかったので、乗客が1000人収容の劇場でショーを見たり、レストランで食事をしたりサウナに入るなど感染が広がりました」
 船内では、乗船者が吹き抜けのラウンジに集まって、思い思いにくつろいでいたという。こんな状態で感染を防げるわけがない。船内の感染爆発は、明らかに政府の無為無策の責任である。しかも乗員は船底に近い部屋の二段ベッドに寝泊まりし、徹夜で見張りをする上に配給作業なども行っていた。

「過酷な労働環境に加えて乗客から感染するリスクも高く、まさに人権侵害です。このクルーズ船は、“閉じられた環境でどれほど感染が拡大するかを試す巨大な実験場ではないか”とすら思います」(前出・平沢さん)

※女性セブン2020年3月5日号

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/クルーズ船客「どれだけ感染が拡大するかを試す実験場か%ef%bc%81」/ar-BB10aAPq?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c23

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
24. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2020年2月20日 14:59:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-212]
もう手遅れ?風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染〜歌舞伎町は恐怖に包まれている=鈴木傾城 2020年2月20日


クルーズ船をはじめ新型コロナウイルスへの稚拙な対応が問題になっているが、日本ではアンダーグラウンドから爆発的に感染が広がる可能性がある。風俗嬢発の大感染だ。

「経路が分からない感染者」多発は当然

日本全国でじわじわと新型コロナウイルスが広がっている。政府は1月の段階で大量の中国人を阻止しないで国内に入れてしまったので、今になって日本国内のあちこちで感染者が出てきている。

タクシーの運転手が「100人と濃厚接触」だとか、「医師と看護婦が濃厚接触」と書いてあるのを見て、ぼんやりしていると「タクシーの運転手は100人と性行為を行ったのか」「医師と看護婦が性行為していたのか」と勘違いしてしまう。

濃厚接触とは『感染症などの疑いがある有症者と行動をともにしたり、接触したり、航空機などで近隣の座席に座ったりした人』を指すので、それこそ誰かと一緒に食事したり談笑したりしているだけで「濃厚接触」となる。


当然だが、満員電車の中で感染者と隣り合ったりしたら濃厚接触だ。

春節の時期に1月下旬から2月2日までに大量に日本に入ってきた中国人が、日本国内で多くの日本人と濃厚接触をしたのは事実である。

タクシーの運転手、バスの運転手、病院の医師が感染者となってクローズアップされているが、濃厚接触の現場はそれだけではない。

中国人観光客は日本国内を自由に歩きまわり、自由に店に入り、自由に様々な人と接触したのだから、今後は「経路が分からない感染者」が多発しても何ら不思議なことではない。

中国人・韓国人の客と遭遇する風俗嬢が恐怖している

幸いなことに日本人は衛生観念がしっかりした民族だ。多くの人はマスクをつけて他人にうつさないようにしている。また、しっかりと手洗いをして清潔を心がけているので、感染は比較的緩やかであるかもしれない。

こうした衛生観念が抑止になって、日本国内でのエピデミック(伝染)が最小限に抑えられることを私は期待している。

しかし、そうだとしても家族のひとりが感染したら、その一家は濃厚接触で全滅になるだろうし、会社や学校でも濃厚接触は避けられないので、感染がネズミ算式に拡大していくと、もはや日本人の衛生観念でも太刀打ちできなくなるかもしれない。

私が懸念しているのは、アンダーグラウンドもまた新型コロナウイルスの影響を避けることができなくなるだろう、というものだ。

金曜日、私は歌舞伎町で中国語でも宣伝している風俗に勤める20代前半の風俗嬢に会ってきたのだが、彼女の恐怖と危機感は尋常なものではなかったことを報告したい。

こんな状況下にあるのだから、さすがの風俗店も外国人客を100%シャットアウトしているはずだと私たちは思うはずだ。
ところが風俗嬢に話を聞いてみると、そうではなかった。

さすがに日本語のできない中国の客は店側がすべて拒否しているということだが、問題は日本語がうまい客はケースバイケースになってしまうということだ。たとえば、日本在留の長い中国人や韓国人の客は店もことさら拒めない。

つまり、受け入れる外国人客もいるということを意味している。

彼女は中国人の客はまだ当たっていないのだが、日本語のできるアジア系の外国人の客は仕方なく受け入れたと言う。しかし、恐怖は消えないし「怖い」と心情を吐露していた。


今ごろどこかの風俗嬢が感染しているはずだ

日本人なら絶対に安全で、中国人なら絶対に危険であるというわけではない。日本人でも感染者はいるかもしれないし、中国人でも感染していない人はいくらでもいる。

そもそも、中国人とひとことで言っても、香港人もいればシンガポール人もいれば台湾人もいるわけで一概に「すべて大陸から来た中国人」ではない。
そういう意味で、中国人でなければ安全が担保されるわけではない。

しかし、新型コロナウイルスの震源地は中国大陸であるのは「まごうことなき事実」であり、風俗嬢が警戒したり恐怖を感じたりするのは分からないことでもない。今は言ってみれば非常事態なのである。

非常事態である以上は、リスクのある客と関わりたくないと思うのは自然な感情である。何しろ風俗嬢の仕事は、表社会の人たちが言うところの「近隣の座席に座ったりした人」どころではないのだ。濃厚な性的接触なのである。

もし相手が新型コロナウイルスの感染者であれば、もはや「100%の確率で感染してしまう」と言っても過言ではない。密室で、近距離で、全裸で、長時間に渡って皮膚接触と粘膜接触を行うのである。

新型コロナウイルスの場合は、有症者と2メートルの距離で2分間一緒にいたら間違いなく感染するとか、1メートルの距離で15秒一緒にいた人も感染したとか、いろんなことが言われている。

風俗嬢は0ミリの距離で60分以上に渡って一緒にいる。まさに「超濃厚」である。これでは避けられるわけがない。

1月の下旬から2月2日の春節の休みの間に日本にやってきて、日本人の風俗嬢と関わった中国人の男はゼロではないはずだから、その中で「たったひとり」でも感染者がいたのであれば、どこかの風俗嬢が感染しているはずだ。

風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染が起きるか?

新型コロナウイルスに感染したら1日で発症する人もいれば、25日目に発症する人もいる。平均して14日であるというのが今の定説だ。

新型コロナウイルスに感染した風俗嬢が、仮に14日間フルで風俗の仕事をして1日4人の客と関わったとしたら、彼女は14日で56人の客に感染させることになる。もし、感染した風俗嬢が10人いたらその10人が560人の人間を感染させることになる。
10人の風俗嬢だけで560人の男が感染してもおかしくないのである。

風俗嬢と関わる男は30代から50代までの働き盛りが大半なので、彼らは満員電車に乗って通勤する。

満員電車でこの560人が新型コロナウイルスをばら撒くと、東京は1ヶ月も経たないうちに武漢を彷彿とさせるほどの凄惨な汚染エリアと化す。

場合によっては日本が壊滅するようなレベルになっても不思議ではない。

私は新型コロナウイルスが1,000万人レベルの日本人を感染させるような事態になったとしてもまったく驚かない。すでに日本政府がインバウンド政策を採ってから、アンダーグラウンドでは梅毒やエイズが大量発生している。

日本の梅毒感染者は20代の女性と30代から50代の男性の間で大量発生しているのだが、梅毒は2年連続で6,000人超えなのである。

日本はインバウンド政策で風俗嬢が非常に危険な状況に陥ってしまったのに、このことについては冷淡かつ無関心で放置してきた。そうであれば、風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染が始まったとしても、ツケが回ったとしか言うしかない。
パンデミックの下地は整っている


もう一度まとめよう。

春節で日本にやってきた新型コロナウイルスの中国人感染者が日本の風俗嬢を抱いたら、風俗嬢は100%の確率で感染する。その風俗嬢は2週間で50人超の男に100%感染させることができる。感染した男たちは働き盛りでアクティブに行動して感染を広げる。

そうであるならば、風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染で、日本が壊滅状態になったとしても不思議ではない。

そうならないことを望むが、最悪そうなってもおかしくないことは覚悟しておく必要がある。日本政府は中国人の観光客を無尽蔵に入れた。だから、日本のアンダーグラウンドで感染が広がっていても何ら驚きではないのだ。

春節の時期に日本に入った中国人の感染者が、風俗嬢と関わっていないことを私たちは祈ろう。
https://www.mag2.com/p/money/893557
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c24

[番外地7] 今起きてる流れ 分かってない人が多すぎる 中川隆
1. 中川隆[-13682] koaQ7Jey 2020年2月20日 15:15:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-211]
今起きてる流れ 分かってない人が多すぎる
ダイヤモンド・プリンセス号の乗客なんだけど、下船後そのまま寿司屋へ向かったって、さすがに危機意識なさ過ぎでしょ。
こういうことになるから誰も降りてほしくなかったんだよ。頭がくらくらしてきた。


2020年2月19日
2週間前に出た陰性の結果を受けて、本日下船…その後横浜駅と東京駅で解散!
なかには、そのまま友人と待ち合わせをして、お寿司屋さんに行ったとのこと。
頭おかしいだろ!政府も下船して寿司屋に行った人も!
遠足だって家に帰るまでが大事ですって言うのに。
きっと、神奈川県で感染者出るよ。素晴らしぃ。

厚労省の新型コロちゃん拡散計画。

かなり上手くいってるようです。
おめでとうございます。
それにしてもこれ。

え?

ロンドン開催?今夏の五輪「ロンドン開催を」=新型肺炎で市長選候補名乗り

ロンドン五輪の閉会式=2012年8月、ロンドン(AFP時事)

【ロンドン時事】5月に行われるロンドン市長選の主要2候補が19日、日本での新型肺炎の感染拡大を理由に今夏の東京五輪が中止となった場合を念頭に、2012年の五輪が開かれたロンドンでの代替開催の誘致に名乗りを上げた。
国政与党・保守党公認候補として出馬するショーン・ベイリー氏はツイッターで「2020年、ロンドンは再び五輪を開催できる」と宣言。

「われわれにはインフラと経験がある。そして(新型)コロナウイルスの発生により、世界はわれわれの介入を必要とするかもしれない」と東京五輪中止の可能性に言及。

「市長として、私はロンドンが呼び掛けに応え、五輪を開催する準備があると明確にする」と表明した。

一方、サディク・カーン現ロンドン市長(国政最大野党・労働党)の広報担当者も地域紙シティーAMに「誰もが東京大会の素晴らしい成功に向けて取り組んでいる」と指摘しつつ、「万が一求められた場合には、ロンドンは過去そうしてきたように、積極的な行動を取るために最善を尽くすだろう」と代替開催を示唆した。


東京オリンピック開催中止はもはや時間の問題でしょう。
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中国人・韓国人の客と遭遇する風俗嬢が恐怖している
今ごろどこかの風俗嬢が感染しているはずだ1月の下旬から2月2日の春節の休みの間に日本にやってきて、日本人の風俗嬢と関わった中国人の男はゼロではないはずだから、その中で「たったひとり」でも感染者がいたのであれば、どこかの風俗嬢が感染しているはずだ。
新型コロナウイルスに感染したら1日で発症する人もいれば、25日目に発症する人もいる。平均して14日であるというのが今の定説だ。新型コロナウイルスに感染した風俗嬢が、仮に14日間フルで風俗の仕事をして1日4人の客と関わったとしたら、彼女は14日で56人の客に感染させることになる。もし、感染した風俗嬢が10人いたらその10人が560人の人間を感染させることになる。
10人の風俗嬢だけで560人の男が感染してもおかしくないのである。風俗嬢と関わる男は30代から50代までの働き盛りが大半なので、彼らは満員電車に乗って通勤する。満員電車でこの560人が新型コロナウイルスをばら撒くと、東京は1ヶ月も経たないうちに武漢を彷彿とさせるほどの凄惨な汚染エリアと化す。私は新型コロナウイルスが1,000万人レベルの日本人を感染させるような事態になったとしてもまったく驚かない。すでに日本政府がインバウンド政策を採ってから、アンダーグラウンドでは梅毒やエイズが大量発生している。
日本の梅毒感染者は20代の女性と30代から50代の男性の間で大量発生しているのだが、梅毒は2年連続で6,000人超えなのである。日本はインバウンド政策で風俗嬢が非常に危険な状況に陥ってしまったのに、このことについては冷淡かつ無関心で放置してきた。
春節で日本にやってきた新型コロナウイルスの中国人感染者が日本の風俗嬢を抱いたら、風俗嬢は100%の確率で感染する。その風俗嬢は2週間で50人超の男に100%感染させることができる。感染した男たちは働き盛りでアクティブに行動して感染を広げる。
そうであるならば、風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染で、日本が壊滅状態になったとしても不思議ではない。
日本政府は中国人の観光客を無尽蔵に入れた。だから、日本のアンダーグラウンドで感染が広がっていても何ら驚きではないのだ。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/493.html#c1

[近代史3] ソ連の細菌兵器と炭疽菌の流出事件
ソ連の細菌兵器と炭疽菌の流出事件
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68801747.html


ソ連時代に起こった「炭疽菌の流出事件」は参考になる。渡部氏はロシアが謳う生物兵器開発の放棄を信じているようだが、筆者は非常に懐疑的だ。あのロシア人が戦争に負けたわけじゃないのに、強力兵器を放棄したとは考えにくい。筆者は単なる平民だから確実な証拠は持っていないけど、ロシアは研究施設の看板を変えただけで、密かに作っていると思っている。

  今回の話は共産党時代に遡る。ボルシェヴィキにより建国されたソ連は、昔から生物・化学兵器に多大な関心を示していた。地上最強の軍隊を目指す共産主義者らは、この新しい兵器に将来的な価値を見出していた。というのも、チフスの大流行を覚えているソ連の軍事指導者にとって、細菌兵器というのは恐ろしい響きをもつからだ。何しろ、当時はまだワクチンとか抗生物質は無いから、その病原菌が強力な戦術兵器になることは誰でも理解できた。赤軍にとって「勝利」は鉄則だ。倫理道徳など無視して構わない。だから、1928年、ボルシェヴィキ政権はチフス菌を兵器として開発する法令を密かに命じたという。1930年代半ばになると、レニングラード士官学校に生物戦研究施設が建設され、白海に浮かぶソロヴェツキー島が実験場となったそうだ。そこではチフスやQ熱、馬鼻疽の研究が行われていたというから、冷たい汗が背筋に流れてくるじゃないか。しかし、第二次大戦が勃発すると、ドイツ軍の進撃を懸念したソ連は、この秘密施設をウィヤトカ川沿のキーロフに移し、「微生物学研究所」と名付けて最高機密の研究を続けたらしい。(トム・マンゴールド / ジェフ・ゴールドバーグ共著 『細菌戦争の世紀』 上野元美 訳、原書房、2000年、p.58.)

( 左 / ラヴレンティ・ベリヤ )
  戦後、NKVD(ソ連の秘密警察)を率いたラヴレンティ・ベリヤ(Lavrentiy Beria)が、スターリンの命令を受け、生物戦計画の総責任者となったそうだ。しかし、ベリアヤが失脚すると、ソ連軍参謀本部第七局がこの任務を引き継ぎ、エフィム・スミルノフ将軍が指揮を執って生物兵器の開発を続けたという。ソ連はキーロフに加え、モスクワから70kmにあるザゴルスクにも生物戦研究所を設立し、「軍事微生物研究所」という看板を掲げたそうだ。しかし、そこで行われたのは、炭疽や野兎病、ブルセラ属、ペスト、ボツリヌス、ヴェネズエラ馬脳炎、チフス、Q熱の研究と実験。この研究所はアラル海に浮かぶヴォズロデニエ島にも実験場を持っており、「生物戦における防護手段の開発」という名目で、攻撃用兵器の開発を行っていたという。

  地獄の島と化したヴォズロズデニエでは、何トンもの炭疽菌やペスト菌、あるいは様々なウィルスが実験材料として使われ、スプレーで噴霧されたり、砲弾に詰められ爆破されたりしたそうだ。使用後は危険を伴うが、適当に廃棄された。生物兵器の研究と言えば、動物実験が付き物だ。実験用動物として好まれたのは、最も人間に近いとされるマントヒヒ。当時、ソ連軍は1頭500ドルから700ドルという法外な値段で年間数百頭も購入したそうだ。想像しただけでも可哀想に思えるが、ロシア人は1回の実験で100頭ほどのヒヒを柱に鎖で縛りつけ、病原体を噴射することで、その効果を試したらしい。このおぞましい実験が終わると、防護服を着た兵卒が瀕死のヒヒや死んだヒヒを集め、保管場所へ運んで検死を行ったそうだ。その後、廃棄係の兵卒は動物の死体を焼却し、島にある集団墓地に遺灰を埋めたという。(上掲書 pp.61-61)

  ソ連は各実験が終わる度に島の内部を消毒したが、うまく遂行できなかったので、しばしば本土に汚染が広がってしまい、近くの住民が犠牲者となったらしい。1972年、カザフ人が乗る漁船が港を出航した後、行方不明となる事件が起きた。しばらくしてから湖を漂流する船が見つかったというが、乗っていた漁師は全員ペストで死亡していた。しかし、ソ連政府はこの事故を正式に認めず、死亡者の数ですら明らかにしなかったという。それゆえ、遺族はビタ一文も賠償金を貰えず、いつも通りの泣き寝入り。一方、軍部は生物戦研究において、ソ連が西側を大きくリードしていると喜んでいた。そして、この新しい大量破壊兵器を正式に軍事計画に組み込み、生物製剤を「特別指定の兵器」と名付けていた。まさしく、ロシア人には悪魔の仮面が似合っている。

  1979年、最高機密とされた軍事施設のスヴェルドロフスク(Sverdlovsk)で、生物兵器史上最悪の事件が起こった。モスクワの東から約1,500kmの距離にある、この百万人都市には、1947年に建設された「微生物・ウィルス学研究所」という軍事施設があった。有刺鉄線のフェンスで囲まれた内部には、最高機密の製造工場と研究室の他に、特殊な換気装置や煙突、動物用の檻、冷蔵設備、コンクリート製の貯蔵壕、特別線路などがあったそうだ。さらに、施設の周辺には陸軍の基地や一戸建ての住宅、集合団地、工場、商店、学校などもあったというから、本当に共産主義国というのは恐ろしい。

  1979年4月2日の朝、第十九施設の作業員が炭疽菌製造機を稼働させたことで悲劇の幕開けとなる。この事故が発生した原因は、先週の金曜日にあった。製造機には直径60cmの丸いフィルターがあり、金属の枠には特殊合成の繊維が貼られていた。通常は、製造機の定期点検を行う作業員が、乾燥粉砕機のシステムにある排気フィルターを外し、新しいフィルターに取り換えるはずなのだが、当日、交換を行った作業員は、古いフィルターを外したものの、新しいフィルターを嵌めず、“うっかり”忘れていたのだ。こうした交換は、1週間に1度行われていたという。人為的なミスというのは何処でも起こりがちで、高度な研究所であっても例外ではない。金曜日に作業がなされた機械は、誰にも再確認されず、フィルターが無いまま翌週の月曜日に稼働した。(上掲書 p. 90.)

  このヒューマン・エラーで猛毒の粉末が大量に換気口から排出された。炭疽菌の芽胞は空中を漂い、第十九施設の南にある第十三施設や附近の住宅、500mほど先にある陶器パイプ工場にまで達したそうだ。さらに、菌は風に乗って分散し、人の目に触れぬまま、南の村へと飛散したというから、まるでホラー映画の現実化みたいだ。炭疽菌の感染経路は三つある。

 @ 肌や傷口に接触することでの皮膚感染
 A 汚染された肉を食べることによる胃腸からの感染
 B 空気を吸って肺から感染する場合

  特に、息をして炭疽菌を吸入すると、1日か2日後に最初の症状が現れる。体がふらつき、頭痛、咳、微熱、寒気がするそうだ。体内に取り込まれた芽胞が活性化すると、急速に増加するから、免疫系を圧倒する程の毒素が分泌される。一次死傷者の大半は、炭疽菌工場の風下数百メートルに居て、たまたま部屋の窓を開けていたり、屋外に立っていた、あるいは道を歩いていた人であるという。最も甚大な被害を受けたのは、工場で作業をしていた軍の職員や、隣接する第三十二施設に駐屯する兵卒、通勤途中の人々、陶器工場で働いていた従業員であった。体に変調をきたした者は、最初、風邪かインフルエンザに罹ったのか、と思ったらしい。だが、次第に呼吸困難に陥り、高熱や嘔吐に苦しみ、唇が紫に変色する人まで出てきたから、得体の知れない戦慄が走ったという。

  案の定、重症の患者が病院に搬送されたが、担当した医師は困惑の色を隠せない。それもそのはず。政府や軍から何も知らされていなかったのだから。未知の恐怖は更なる恐怖を招く。いくら病院のスタッフがプロとはいえ、致命的な伝染病かも知れない思えば、パニック症状くらい起こすだろう。事態を理解できない医者もパニック状態に陥り、ペニシリン、抗生物質、ステロイドなど、あらゆる治療薬を使ってみたそうだ。しかし、医療チームは患者の死を食い止めることは出来なかった。情報の隠蔽は恐怖と混乱を招くだけ。細菌兵器の流失は目に見えないだけに、実に恐ろしい。第二十病院だけでも42名の遺体があったし、病院に行かず家で亡くなった人もいたそうだ。中には、意識不明で道路に倒れている人もいたという。現地の医療スタッフや医師達は、炭疽菌を吸引した患者を診たことがなかったし、街に軍の秘密工場があるも知らなかったから、適切な処置を取れなくても当然だ。しかし、数日後、経験豊富な病理学者が検死を行った事で、患者の出現が炭疽菌によるものであると判った。

  混乱と恐怖の一週間が過ぎた頃、全病院の医師達は、残りの患者と新しく運び込まれた患者を伝染病棟へ移すよう、政府からの命令を受けた。隔離された人々は集中治療室に収容されたというが、最終的にどうなったのかは分からない。ただ、漏洩事故の深刻さを理解していた政府が動き出した。ソ連の保健省と軍の高官も顔を出してきたというから、本腰を入れたのだろう。ところが、彼らは危険地域に足を踏み込まない。現場の上空をヘリコプターで視察しただけ。なんか、今の習近平みたい。一方、民衆は政府筋や国営の報道機関からの公式発表が無いので疑心暗鬼のまま。一部の人々は途方もないデマを流していたそうだ。驚くのは、現地のKGB支局長さえ、第十九施設で何が行われていたのか知らなかったという、ソ連の秘密主義的体質だ。これじゃあ、一般大衆が出鱈目な噂を信じても無理はない。聾桟敷(つんぼさじき)に置かれていた局長は、相当頭にきたのか、部下に秘密研究所の電話を盗聴させ、ようやく事件の真実を掴んだという。まるで、現在の支那みたい。

ソ連の十八番、隠蔽作戦


  支那人と同じくロシア人も隠蔽の常習犯である。モスクワのKGB本部は、この失態についての情報を固く封印した。ソ連は国家安全保障の観点からだけではなく、政治的・外政的理由から、決して事件を認める訳には行かなかったという。KGBはソ連の医療文書の中で炭疽を意味する「コード202」とその関連事項、病院の記録、検死報告書、流行病の調査報告書を全て押収すると共に、肺炭疽に関する部分を次々と削除し、“偽の報告書”を作成した。しかし、隠蔽工作には死因の説明が必要だ。そこで、何となく“うなづける”ような理由を作り出した。先ず、保健省は地元住民に5万枚のパンフレットを配布し、汚染肉を食べたり、迷い出た家畜に触らぬよう警告したそうだ。そして、大ぼら話を信用させるため、野生動物と野良犬が捕獲され処分されたという。さらに、未検査の肉までが没収され、焼却処分にされたというから実に念が入っている。

  生物兵器の流出事故は誠に厄介だ。炭疽菌を除去しようと危険な作業に取りかかっても、却って埃が宙に舞ってしまい、更なる死亡者が出る始末。最終的な死亡者数は分からないが、推定では64名から600名ほどなんじゃないか、と考えられている。だが、こんなモノはソ連が勝手にはじき出した数字だ。とても信じることはできない。この点は、現在の北京政府も一緒。実際、スヴェルドロフスクの医師達は、モスクワの最終報告書を読んで、「あまりにも少なすぎる」と言っていたくらいだから、桁が二つ三つ違っているんじゃないか。とにかく、炭疽菌で死んだ人の多くは、街の東墓地にある第十五区画に埋葬され、立入禁止区域になったという。

  1979年になる頃には、大規模な隠蔽工作が成功していたそうで、真相を知るのは、現地駐屯軍の高官とKGB、そしてモスクワの政府高官くらいだった。問題は、ソ連が生物兵器禁止条約に違反していることを“どうやって”隠し通すのかだ。すなわち、国連やカーター政権、その次のレーガン政権、ブッシュ政権を如何に欺くかという点である。何しろ、スヴェルドロフスクの事故が起きると、直ちに歐米諸国が噂を聞きつけ、不都合な事実を詮索し始めたから、ソ連としては有効な対策を練らなければならなかった。英国のMI6(対外諜報機関)は、ソ連から東ドイツを旅行したドイツ系イギリス人の話を聞き、どうやら生物兵器工場から病原菌が流出したのではないか、との情報を得た。しかし、この報告は確証に乏しく、当時の英国外務省は生物兵器禁止条約の効力を証明することで頭がいっぱいだったから、確固たる証拠も無いのにソ連が条約に違反していると騒ぎたくなかったそうである。英国の統合情報委員会に対し、穏健路線を取るよう働きかけたのは、このグループであったという。

  ところが、事故から半年が経つと、西側のマスコミにちらほらと真実の断片が届き始めた。当時、フランクフルトで発行されていたロシア語新聞の『ポセフ』には、ソ連の噂やゴシップが定期的に掲載されており、スヴェドロフスクの「怪奇事件」も報道されていた。しかし、日付や場所の情報が間違っており、死亡者数も数千人と曖昧で、炭疽菌についても触れられていなかったから、ほとんど信用されていなかった。しかも、思想的に偏った新聞と見なされていたから、その記事は黙殺されていたのだ。三週間後、ロンドンのニューズ雑誌『ナウ』にも例の事件に関する記事が掲載されたが、その内容は『ポセフ』と旅行者の話をネタにして書かれているだけだった。それでも、『ポセフ』は第二弾の記事を掲載し、スヴェルドロフスクの近くで爆発が起こり、村に炭疽菌が放出されたことや、死亡者が千人くらい出たこと、軍が鎮静化に乗り出し、市民がワクチンの摂取を受けた、という情報を書いた。(上掲書 p. 69.)

  この記事が切っ掛けとなって、ドイツの大衆紙である『ビルト・ツァイトゥング』やロンドンの『デイリー・テレグラフ』紙が動き出し、恐ろしい細菌が軍事施設から漏洩したのでは、との報道を流し始めた。『ビルト・ツァイトゥング』の記事は、西側のマスコミをたいそう刺戟したらしく、一般人が大きな関心を示した。これが引き金となったのか、ソ連政府は対応を迫られた。しかし、こんな騒動くらいでロシア人は正直にならないし、動揺することもない。2月19日、プロパガンダ機関の一つである国営のタス通信社は、炭疽菌に関する西側の報道を「悪意に満ちた作り話」と呼んで斥けていた。ところが1980年、米国のCIAは1979年に撮影された衛星写真の“価値”に気づいたそうだ。CIAの分析官が事件の前と後に撮影された写真を見比べたところ、除染作業車や隔離用の検問所が目に付いた。ここで素朴な疑問が浮かんできた。「なぜソ連は汚染肉の事件くらいで軍事施設を封鎖したのか?」、と。

(左 / ディミートリ・ユスチノフ )
  CIAは重要人物の行動から更に疑念を深めることになった。何と、ディミートリ・ユスチノフ国防相が事件後にスヴェルドロフスクを訪ねたのだ。汚染肉が出回ったくらいでトップ・クラスの軍人が来訪なんておかしい。二日後、今度は著名な伝染病学者でもある保健相がモスクワから駆けつけ、「事件は解決した」との会見を行ったのである。こんな急場しのぎの茶番劇を見れば、CIAが怪しんだのも当然じゃないか。さらに、CIAはロシア人の科学ライターであるマーク・ポポフスキーから貴重な情報を得た。ポポフスキーは地下チャンネルでこっそり持ち出された手紙によって、スヴェルドロフスクの事を知ったという。また、イスラエルへ移住したソ連のユダヤ人から、第十九施設で炭疽菌放出が起こったという話や、それを裏付ける情報が入ったのだ。最も役立ったのは、スヴェルドロフスクで患者を治療した医師の詳しい話だった。被害者の症状は高熱と呼吸困難で、この医者が人づてに聞いた検死結果によると、患者の肺には体液が溜まっていたそうだ。CIAは数百名くらいが亡くなったんじゃないか、と推測したらしい。

  1980年三月、CIAからの報告を受けたカーター大統領は、「病気発生」に関する説明をソ連側に求めた。当時、ソ連はアフガニスタンを侵掠していたから、米国が生ぬるい対応をせず、厳しく追及しようと気構えても不思議じゃない。アメリカ国務省のスポークスマンは、“極めて危険な生物製剤”がスヴェルドロフスクから放出された可能性があると正式に認めた。つまり、生物兵器禁止条約の違反という“疑惑”が浮上した訳だ。これを受けて、ソ連の外務省はアメリカの非難を“あからさまな中傷”とか、アメリカを宣伝するための“でっち上げ”、反ソ連の機運を高めようとする“捏造”であると糾弾した。一方、ロシア人の報道官は、ふてぶてしく、「ソ連は常に生物兵器禁止条約の全規定を厳重に遵守してきた」と豪語した。しかも、この高官は驚愕の声明を発表する。曰わく、「ソ連は“良心に照らして”その義務を守ってきた。それなのに、米国はソ連に疑問を投げかけるとは ! 我々はこんな仕打ちに耐えられない ! 断固拒否する !」、と。(上掲書 p.99)

  もし、アカデミー賞に「陰謀部門」があった、ロシア人が毎年必ず獲得するだろう。ソ連はアメリカの戦術に対する怒りを露わにし、急速に拡大する宣伝合戦の形勢逆転を狙ったそうだ。ソ連側は質問状に対して正式な回答を発表する前、つまり公正な機会が与えられないうちに、正式な非難を受けたと憤慨してみせた。そして、返す刀で、逆にアメリカ側の条約違反を訴えかけたというから、呆れてモノが言えないじゃないか。1975年の条約では、条約違反の申し立てがあった場合には、当事者が相互に“協議”し、協力する事を容認していた。だから、ソ連側は条約内容を楯に取り、アメリカが「その精神を蔑ろにして公然とソ連を非難している !」と抗議し、協力の拒否を正当化したのである。

  続いて3月20日、ソ連外務省は報復攻撃を開始した。ロシア人は“もっともらしい”説明を披露して、猜疑心を抱く人々を安心させようと謀る。ソ連側の見解は次の通り。スヴェルドロフスクで起こった騒動は、ちっとも珍しくない。“ちょっとした”公衆衛生上の問題である。すなわち、「杜撰な食品管理により、炭疽菌に汚染された食肉が闇市場で販売され、その結果、病気が発生した」というのだ。この説明だと、被害者は汚染された肉を食べたことで病気となり、腸炭疽で死亡したとこになる。ソ連の報道官は、「家畜の炭疽感染や闇市での食肉販売などは、この地域ではよくあることだ」と述べていた。

  さすが、ロシア人はプロパガンダの達人だ。ラスヴェガスの手品師だって騙されるんじゃないか。ソ連の嘘は瞬く間に広がり、効果覿面(てきめん)。プリンセス天功も三舎を避ける。このペテン話を以てソ連は生物兵器条約違反の容疑を一挙に解決した。でも、ロシア人は「念には念を入れる」老獪な詐欺師。5月になると、ソ連はモスクワで発行される医学雑誌に、事故を科学的に解説する論文を掲載した。伝染病を専門とする二人の医者が政府公認の論文を執筆し、今回流行った炭疽事件の原因は、青空市場で汚染肉を購入した二家族であると称したのだ。また、この論文の中では、別の家族が病気に罹った羊の肉を食べたせいだ、とも語られていた。(上掲書 p.100) ソ連は自身の信憑性を高めるためなら何でもする。この共産国は、家畜の炭疽感染が珍しくないことを印象づけるため、スヴェルドロフスクの地域では1936年から1968年にかけて、土壌汚染による炭疽が159回も発生したと述べていたのだ。今では白々しい「嘘」と分かるが、当時は権威ある雑誌に発表された論文なので、多くの人々が信用してしまったという。

(左 / レス・アスピン )
  しかし、米国にはこのヨタ話を信じない“強硬派”がいた。下院の情報監視小委員会は、極秘の調査会を開き、CIAと国務省および軍備管理局の証人から話を聞いたという。当時、連邦下院議員だったレス・アスピン(Les Aspin, Jr.)は小委員会の議長を務めており、委員会の結論を鑑みて、ソ連が西側を欺いて生物兵器の研究開発を行っていたと判断したそうだ。(アスピン議員は後にクリントン政権で国防長官になった人物。) 一方、ソ連はあらゆる努力を怠らなかった。ロシア人は名女優さながらの演技を披露する。ソ連は公衆衛生上の悲劇を経験し、その惨劇だけでも充分苦しんでいるのに、アメリカはさらに“この傷口”を広げるような嫌がらせをするんだから、と。ソ連の茶番劇はまだ続く。「これはソ連のアフガニスタン侵攻に対する“報復”であり、モスクワ・オリンピックのボイコットを奨励する脅しかも知れぬ」、とのセリフを述べていた。ロシア人は掩護射撃も忘れない。国営のタス通信は、アメリカが“心理戦争”を行っていると非難。だが、こうした中傷合戦は、重要な国際問題の中に埋もれて行き、次第に米ソの引き分けで終わりそうな雰囲気だった。

利用されただけの馬鹿

(左 / マシュー・メセルソン )
  ところが、ソ連には思いがけぬ幸運が飛び込んできた。ハーヴァード大学で微生物学を教えるマシュー・メセルソン(Matthew Meselson)が助け船を出したのだ。ロシア人は西側に棲息する「便利な馬鹿(useful idiot)」を操るのが殊のほか上手である。将棋界で言えば、名人と竜王のタイトルを連続20期も保持した天才に等しい。藤井聡太も真っ青だ。話を戻す。かいつまんで言えば、メセルソンはソ連の欺瞞と情報攪乱作戦に加担した米国の「間抜け」ということだ。彼は1960年代、合衆国の軍備管理・軍縮局でコンサンタントを務めた人物で、政治活動にも熱心だった。メセルソンは相当な自惚れ屋だったのか、積極的にロビー活動を展開し、生物兵器の禁止条約締結に多大な貢献をしたと自負していたそうだ。ところが、実際のメセルソンは自発的なソ連の操り人形に過ぎなかった。彼は合衆国政府の見解と対立し、ソ連の主張である「汚染肉理論」を支持していたそうだ。この有名教授は、心からソ連の主張を信じ、レーガン政権の反対意見を退けていたというから、紛れもなく筋金入りの左翼と言えよう。彼は事故の原因を汚染肉と確信し、生物兵器の秘密工場とは無関係、という立場を全く変えなかった。

  一般人は「権威」に弱い。特に理系の知識人、とりわけ高名な科学者となれば、理性を忘れて盲目的に信じてしまう。米国のマスコミはこぞってメセルソンの意見を求め、彼の意見は真面目な論調の新聞や書物、そして権威ある科学雑誌にも大きく取り上げられた。事故から7年近く経った1986年、メセルソンはスヴェドロフスク事件の証拠を探すことにした。彼はソ連の高官らと協議するため、モスクワ訪問の許可をソ連側に求め、ようやくその許可が下りたという。ソ連保健省の高官らは、「アホがノコノコやって来た」と思ったんじゃないか。彼らはメセルソンを歓迎し、病気の発生について詳細な事情を語ったそうだ。ロシア人曰わく、「牛の餌が原因」であるという。つまり、死んだ牛と羊から取った骨粉を殺菌しないまま飼料に混ぜてしまい、それを誤って家畜に与えてしまったから、病気が蔓延したというのである。

( 左 / ピョートル・ブルガソフ )
  この「嘘」を作り出したのは、保健省の副大臣を務める科学者で、メセルソンを接待したピョートル・ブルガソフ(Piotr Nikolaevich Burgasov)博士。この科学者はソ連陸軍の少将でもあり、1958年から63年まで、第十九施設で行われた生物戦争計画の責任者であった。さらに驚くのは、1979年にスヴェルドロフスクで例の“事件”が起発生すると、急遽モスクワから派遣され、隠蔽工作の手伝いをするよう命じられたそうだ。1986年の時点でも、彼はまだ軍の攪乱作戦を率いていた。ソ連は何も知らないメセルソンを利用することで、アメリカの面子を潰さず、ひっそりと幕引きを行おうと考えていたそうだ。一方、マセルソンはスヴェルドロフスクへの訪問を要求したが、それは叶わず、モスクワで高官四人と話しただけであった。彼は帰国しても結果を発表せず、その代わり、ブルガソフとソ連の高官に訪米の提案を持ちかけ、新たに発見した医学的証拠を講演会で披露してはどうか、と勧めたそうだ。

  それから1年半後の1988年、ブルガソンとソ連保健省の高官が米国にやって来た。彼らは講演会で堂々と嘘を垂れ流すべく、ワシントンにある米国科学アカデミーと名門のジョンズ・ホプキンス大学にある公衆衛生学部、およびアメリカ人文科学学会で喋りまくった。すると、どの講演も大盛況。聴衆の中には、事件に高い関心を持つ科学者や医療関係者、軍縮管理に携わる官僚、ジャーナリストが混じっていたというが、ブルガソフは以前メセルソンに吹き込んだ「作り話」を繰り返したにすぎない。彼は汚染された飼料の逸話を吹聴し、時折、悲しい表情を浮かべながら、アメリカ人の猜疑心を全く理解できない、と嘆いたそうだ。これに加勢すべく、協力者のメセルソンも登場し、ソ連の説明は誠に“ごもっとも”と演説をぶった。彼はブルガソフの話が医学論文や過去の記録とも一致すると太鼓判を押したそうだから、「どこまでお人好しなんだ?」と言いたくなる。

  でも、一般のアメリカ人もソ連の巧みな目くらましに引っかかっていた。というのも、ソ連からやって来た三人の博士は、よく事情に通じ、“誠意”ある態度で講演を行ったから、アメリカ側としても無碍に否定することは出来なかったのだ。さらに困った事は、CIAやDIAがロシア人科学者の主張を反駁するための根拠を公開せず、真相の暴露を頑なに拒否していた点だ。これだと、米国の強硬派は黙って屈辱に耐えるしかない。「メセルソンは?」と言えば、ソ連側の声明に矛盾や疑問点があっても無視。逆に、アメリカ政府の分析は偏っていると仄めかしたそうだ。これって、日本の進歩的知識人とよく似ているぞ。

( 左 / ピーター・ガンベル)
  しかし、ソ連崩壊で真実が明るみに出た。1991年10月、『ウォール・ストリート・ジャーナル』でモスクワ支局長を務めていたピーター・ガンベル(Peter Gumbel)が、スヴェルドロフスクを三度訪れ、現地の市民や医者から話を聞き、それまで隠されていた医療記録を発見したそうだ。そのうえ、彼はメセルソンの学説を大きく揺るがす事実を発見した。1988年、メセルソンはブルガソフから提供されたデータを基にして論文を書いていた。それによると、スヴェルドロフスク近郊にある飼料製造工場では、殺菌作業がかなり杜撰で、汚染された骨粉が混ざっていたという。ところが、信じられないことに、この工場自体が存在していなかったのだ。さらに唖然とするのは、メセルソンが情報を確認せず、ソ連側の偽情報を鵜呑みにし、しゃあしゃあと論文を書いていた、という裏話である。

(左 / ボリス・エリツィン )
  こうして、真実の水門はさらに開かれた。ガンベルの記事が掲載された約一ヶ月後、ウラル軍管区で対スパイ活動部長代理を務めていたアンドレイ・ミロニュク将軍が、スヴェルドロフスクでの事故が作業ミスによるものであった、との情報を認めてしまったのだ。次に、元KGBのスヴェルドロフスク支局長を務めていたユウ・コルニロフ将軍が重い口を開いた。彼はKGB長官のユーリ・アンドロポフから指令を受けて、第十九施設内の清掃作業を監督していたというのだ。将軍によると、除染作業は徹底しており、研究所の床を張り替え、壁の漆喰をも剝がしていたという。これに加えて、衝撃の事実が浮かび上がってきた。事件が起きた1997年、スヴェルドロフスクの行政区で共産党局長をしていたのは、他ならぬボリス・エリツィンであったのだ。1992年、新生ロシアの大統領になったエリツィンは、病気の原因が自然発生的なものではなく、生物兵器施設での事故によるものであった、と認めたのである。この発表がロシア政府の公式見解となっており、今でも変わっていない。

  ところが、不思議なことに、作り話を流布したメセルソンが狼狽していなかったのだ。ロシア政府のトップに立つエリツィンが公式に認めたのに、彼は専門家チームを結成し、1992年6月、スヴェドロフスクへと赴く。彼らは第四十病院で検死を行った二人の医者、ファイナ・アブラモーワとシヴ・グリンベルグから話を聞いたという。このロシア人医師二名は、炭疽菌による死亡を証明する医学的な証拠を保管し、14年間もKGBの目から隠し通していたのだ。後に、図々しいメセルソンは、この二人から重要な新証拠を引き出したのは自分だ、と主張したが、肝心の医者二名は既に“この特ダネ”をソ連の記者やウォール・ストリート・ジャーナル紙に伝えており、メセルソンは発表済みの古い情報を掴んだだけである。しかし、メセルソンはこうした証拠が有効であると最終的に判断したのは自分達だ、と言い張った。二度目のスヴェルドロフスク訪問となった1994年、メセルソンは有名な『サイエンス』誌に結論を発表し、ようやく汚染肉の話が“まやかし”であったことを認めたそうだ。ただし、15年間に亙って合衆国政府が正しかったこと、そして彼が間違っていたことだけは、意地でも認めなかったらしい。

  後に、メセルソンは自分が関わった事件をまるで他人事のように扱い、これで伝染病の発生源に関する論争は終結するだろう、と語っていた。メセルソンは“まんまと”ソ連の策略に引っかかったのに、自己弁護だけは一貫して続けていたらしい。もう、彼の釈明は呆れるほかない。一般的に学者というのは頑固なものだが、こうも意固地だと頭にくる。なぜなら、事故を起こしたのは炭疽菌の解毒剤を研究する施設であって、生物兵器の製造施設ではない、と論点をすり替えていたからだ。しかも、彼はソ連の条約違反を咎めず、むしろ擁護するように、ソ連の科学者は条約の許容範囲内で研究を行っていたのだ、と語っていた。日本人なら分かると思うが、こういった馬鹿には附ける薬が無い。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68801747.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/917.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 共産主義関係投稿リンク 中川隆
4. 中川隆[-13687] koaQ7Jey 2020年2月20日 16:21:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-213]
ソ連の細菌兵器と炭疽菌の流出事件
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/917.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1037.html#c4
[近代史3] ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356



♪ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356 / ロベルト・ミケルッチ(vn),イ・ムジチ合奏団



ヴィヴァルディ:協奏曲集 作品3 「調和の幻想」(全12曲) イ・ムジチ合奏団、ミケルッチ
https://www.youtube.com/watch?v=ikCOMbPVrno&list=PL6PHeC5f0TTf3MLvnMDu640JxbmsRvEMy

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html

[近代史3] ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356 中川隆
1. 中川隆[-13689] koaQ7Jey 2020年2月20日 18:00:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-212]

イタリア - クラシック音楽 一口感想メモ
アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678 - 1741)


大バッハも大いに研究したイタリア・バロックの大作曲家。
他の同時代のイタリア作曲家と比較すると、輝かしくも複雑で陰影を秘めており、曲の放つ魅力は断然優れている。メロディーセンスもある。


ヴァイオリン協奏曲
作品3 12曲の合奏協奏曲集『調和の霊感』

第1曲
3.0点
素朴でオーソドックスな中に瑞々しい感受性が感じられて素敵。特に2楽章はロマン派の音楽のように感情的である。

第2曲
2.5点
短調で劇的な雰囲気を一応楽しめるが、あまり面白い曲と思わなかった。

第3曲
2.8点
長調と短調を混ぜた構成で工夫は感じるが、曲の良さにはいまいち繋がっていないと思う。

第4曲
3.5点
短調の曲。バロック的な感情的でなくシンプルな短調の響きの美しさをおおいに発揮している。活気があり、バランスが良いため楽しめる。

第5曲
3.5点
1楽章の単純明解な楽しさと、2楽章の大変美しい叙情性の対比が聞き物。3楽章も悪くない。

第6曲
3.3点
短調の魅力を発揮しているが、単純さの中に神がかり的なものを見せるヴィヴァルディの天才が今ひとつきれいに発揮されていない気がする。中間楽章の叙情性は美しい。

第7曲
3.5点
5つの楽章からなり、それぞれ大きく異なる雰囲気のため、バラエティと起伏に富む感じが楽しい。それぞれは素朴ながらも全体として豊かな音楽という印象が強い。

第8曲
3.5点
2楽章が魅力的。同じフレーズの繰り返しが産む美と憂愁の世界が素晴らしい。1楽章や3楽章も短調の美と躍動感を両立して素晴らしい。

第9曲
2.8点
全部の楽章において、雰囲気は悪くないのだが単純すぎて情報量が少なく、物足りなさが残る。

第10曲
3.3点
2楽章は単調だがなぜか楽しめる。3楽章は分厚い音の積み重ねが聴いていて楽しいし、変化もあって楽しめる。

第11曲
3.0点
3楽章のフーガはもの珍しい気分で聴ける。フーガでもヴィヴァルディは華やかなである。4楽章は訴えかけるようなソロが楽しい。

第12曲
3.3点
伸びやかな雰囲気が印象的。後年の協奏曲に通じるものをそれとなく感じる。密度は平均より高いが、もう一つ突き抜けないものがある。


https://classic.wiki.fc2.com/wiki/イタリア
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html#c1

[近代史3] ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356 中川隆
2. 中川隆[-13688] koaQ7Jey 2020年2月20日 18:10:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-211]

『調和の霊感』(L'estro Armonico)作品3 は、アントニオ・ヴィヴァルディが作曲した全12曲からなる協奏曲集。

1711年にアムステルダムのエティエンヌ・ロジェ(英語版)より出版された。
トスカーナ大公子フェルディナンド・デ・メディチに献呈されている。
ヴィヴァルディの協奏曲のうちで最初に出版された。

この協奏曲集はヴィヴァルディの様々な意図がある。例えば、

曲の配列においても、長調→短調→長調……となるような工夫がなされている。

但し、長調でこの曲集を完結させるという意図があり、第10・11・12番は短調→短調→長調となっている。

独奏楽器はヴァイオリン4台のもの、ヴァイオリン2台のもの、ヴァイオリン独奏のものがそれぞれ4曲ずつある。

チェロは独奏に加わることもあるが、多くは通奏低音と同じ旋律を演奏する。

ヴァイオリン4部、ヴィオラ(楽譜の上では2部に分かれているが実際には異なる音を演奏することは少ない)、チェロ、通奏低音からなる伝統的な協奏曲の編成を使用しているが、もはやコレッリのもののように独奏楽器はトリオ・ソナタの形式をしていない[1]。

ヴィヴァルディはソロ楽器の技巧的な楽想とリトルネロの対比による急・緩・急の3楽章からなる協奏曲で有名であるが、作品3は初期の作品であり、新旧様式が混在している[2]。

同様の様式を持つ協奏曲にはすでにジュゼッペ・トレッリの合奏協奏曲集作品8(1709年)や、ジュゼッペ・ヴァレンティーニの合奏協奏曲集作品7(1710年)があるが、ヴィヴァルディの作品3およびそれに続く協奏曲集はオランダのロジェから出版されたために国際的な名声を得、テレマン、ハイニヒェン、バッハらがヴィヴァルディの様式を採用した[1]。


コレッリの影響

ヴィヴァルディはこの協奏曲集において、コレッリのコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)に似た作品を残している。第1番、第2番、第4番、第7番、第10番、第11番がそれである。

特に第7番は、コレッリの作品6の協奏曲と非常によく似ている。
この作品3以外でもヴィヴァルディは、コレッリに似た作品を残している。


各曲について

第1番 RV 549
4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ニ長調。3楽章形式。

第1楽章 - 導入部の終わりの部分でチェロのソロが加わる。ソロ―トゥッティが頻繁に繰り返される楽章である。

第2楽章 - 平行調であるロ短調に転調する。スピッカート用法を用いる。

第3楽章 - ヴァイオリン・パートは8分の9拍子、伴奏パートは4分の3拍子という奇妙な楽章。楽章のほとんどが8分音符で形成されている。中間60小節〜63小節に小規模な転調があり、最終部90小節〜98小節にかけても転調がある(どちらも短調への転調)。最後はユニゾンで華やかに終わる。


第2番 RV 578
2つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ト短調。

緩・急・緩・急の形をとっている4楽章形式の協奏曲(コンチェルト・ダ・キエーザ)。
この作品と第11番の2曲は、17世紀末に現れた2つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲である。


第3番 RV 310
ヴァイオリン協奏曲 ト長調。3楽章形式。

第2楽章は平行調であるホ短調に転調する。


第4番 RV 550
4つのヴァイオリンのための協奏曲 ホ短調。

これも第2番と同じ緩・急・緩・急の形をとっている4楽章形式の協奏曲である。
この協奏曲はコンチェルト・グロッソからソロ・コンチェルトへの移り変わりを顕著に示している協奏曲の1つである。


第5番 RV 519
2つのヴァイオリンのための協奏曲 イ長調。3楽章形式。

第1楽章 - 冒頭の音型はリトルネッロ主題として楽章の中で生かされるが、すべてイ長調で登場するという珍しい形をとっている。

第2楽章 - 美しい12小節のカンタービレで、通奏低音はや休止。

第3楽章 - リトルネッロ主題8小節からなる。2つのヴァイオリンがソロを交代で受け持ち、その後にトゥッティを繰り返す。なお1楽章と同様、第4トゥッティ以外はすべてイ長調である。


第6番 RV 356
ヴァイオリン協奏曲 イ短調。3楽章形式。

この曲はコンチェルト・グロッソへと発展した古典的な独奏楽器と合奏のための協奏曲の中で最も古い。この曲は少し難しく編曲されて、主要ヴァイオリン学習教本に載っており、特に第1楽章はヴァイオリンを学ぶ上で重要な曲目となっている。

第1楽章 - リトルネッロ主題は3つの動機よりなる。全体的にイ短調が支配的であり、転調はあまり行われていないと言ってよい。

第2楽章 - 14小節のカンタービレ。前半、後半の2部に別分かれ、後半は前半の自由な変奏の形式をとる。

第3楽章 - トゥッティ楽節はホ短調-イ短調-ハ長調-イ長調の調性で再現される。終結部付近ではソロとトゥッティの交代が頻繁に行われる。


第7番 RV 567
4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ヘ長調。
5楽章形式とも解される協奏曲。


第8番 RV 522
2つのヴァイオリンのための協奏曲 イ短調。3楽章形式。

第1楽章はアレグロ。第2楽章は下属調であるニ短調でシチリアーナの旋律。第3楽章は活発な曲である。
J.S.バッハはこれを「オルガン協奏曲第2番イ短調 BWV 593」に編曲した。

第9番 RV 230
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調。3楽章形式。

第1楽章 - 美しい旋律を歌うアレグロ。第1トゥッティと第2トゥッティの旋律が重要な役割を演じている。第3トゥッティでは第1トゥッティの動機がロ短調で再現される。第1楽章としては短めで、2分弱で終了となる。

第2楽章 - オスティナート・リズムが楽章を支配している。ソロ部では通奏低音は休止。

第3楽章 - 第2トゥッティのトレモロ音型がその後のトゥッティに転調して出る。従ってトゥッティにあまり工夫がされていない分、ソロは毎度違う演奏が聴かれる。


第10番 RV 580
4つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ロ短調。

J.S.バッハはこれを「4台のチェンバロのための協奏曲 イ短調 BWV 1065」に編曲した。

第1楽章は4本のヴァイオリンがソロ・パートを次々と交代していく形式である。
第2楽章はラルゴ。終止形はロ短調ではない。
第3楽章も第1楽章と同様の特徴を持つ。


第11番 RV 565
2つのヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ニ短調。
3楽章形式、または5楽章形式と解されるコンチェルト・グロッソ。

J.S.バッハはこれを「オルガン協奏曲第5番ニ短調 BWV596」に編曲した。
第4楽章はシチリアーナ。J.S.バッハはこれにはほとんど手を加えていない。
第3楽章のフーガ(フガート)はバッハに似た雰囲気を持つ。

第1楽章 - Allegro。2つのヴァイオリンによるソロが続いた後、チェロのソロが始まる。

第2楽章 - Adagio spiccato (e tutti)。わずか3小節の楽章であり、全員が同じリズムで演奏する。

第3楽章 - Allegro。最初にチェロがフーガ(フガート)の主部を演奏し、次にヴィオラ、第2ヴァイオリン、第1ヴァイオリンというように入っていく。最後の部分ではヴィオラが大活躍する。

第4楽章 - Largo e spiccato。スピッカート奏法で演奏するシチリアーナ。ソロの部分は第1ヴァイオリンだけが担当し、ほかは8分音符で刻むのみである。トゥッティは伴奏に多少の変化が現れる。

第5楽章 - Allegro。これも第1楽章と同じく、2つのヴァイオリンによるソロが続いた後、チェロのソロが始まる。16分音符が多い活発な曲で、華やかに終わる。

第12番 RV 265
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調。第3楽章形式。

J.S.バッハはこの作品をチェンバロ用とオルガン用に編曲した。(協奏曲第5番ハ長調 BWV976)

https://ja.wikipedia.org/wiki/調和の霊感
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html#c2

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
33. 中川隆[-13687] koaQ7Jey 2020年2月20日 18:11:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-210]
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c33
[近代史3] ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356 中川隆
3. 中川隆[-13686] koaQ7Jey 2020年2月20日 18:27:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-209]

アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678年3月4日 - 1741年7月28日)は、ヴェネツィア出身のバロック後期の作曲家で、ヴァイオリニスト。カトリック教会の司祭。とくに多数の協奏曲の作曲家として知られる。

イタリアのヴェネツィアに生まれ、オーストリアのウィーンで没した。サン・マルコ大聖堂付きオーケストラのヴァイオリニストで、理髪師の父親からヴァイオリンを学ぶ。10歳より教会附属の学校に入り、25歳で司祭に叙階される。赤毛であったことから、「赤毛の司祭」Il Prete Rosso(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれるようになった。

司祭になった年に、ヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院 (Pio Ospedale della Pietà) でヴァイオリンを教えはじめ、1年後にはヴィオラ・アッリングレーゼ(Viola all'inglese:仏語版、Lyra viol:英語版)も教えはじめる。

後に宮廷の「楽長」にあたるフルタイムの「合奏長」ではなく、パートタイムの「協奏曲長」として、多くの器楽曲や、時には宗教曲までピエタに提供し、リハーサルする義務を負った。

一方、オペラ作曲家としての名声も次第と揺るぎないものになり、ヴァイオリンのヴィルトゥオーソとしての演奏旅行の他、オペラ上演のためにヨーロッパ各地を回った。

彼の残した作品は死後長らく忘れられた存在であったが、20世紀に入り多くの作品が再発見され、再評価されることになった。

作品は、四季をはじめとして500を超える協奏曲、52の現存するオペラ(ヴィヴァルディ自身は94のオペラを作ったと書簡に記している)、73のソナタ、室内楽曲、シンフォニア、オラトリオ(現在自筆譜が残っているのは勝利のユディータのみ)、宗教音楽(モテットなど)、カンタータ、など多岐に渡る。

「写譜屋が写譜を行っている間に、協奏曲の全パートを作曲できる」と豪語していた彼は速筆の多作家であり、その荒れた筆跡は残された自筆譜で確認できる。

ヴィヴァルディは特に急・緩・急の3楽章を持ち、主に第1楽章において全奏による繰り返しと独奏楽器による技巧的なエピソードが交替するリトルネッロ形式をもつ独奏協奏曲の形式を確立した人物として知られる。

ただし実際にはヴィヴァルディが独奏協奏曲の考案者というわけではなく、ジュゼッペ・トレッリらはヴィヴァルディ以前に独奏協奏曲を書いているが[2]、ヴィヴァルディの作品は国際的に有名になり、多くのドイツの作曲家がヴィヴァルディの形式で協奏曲を書くようになった[3]。古典派の協奏曲はヴィヴァルディなしには考えることができない[4]。


ヴィヴァルディは書こうと思えば高度に対位法的なフーガなどの音楽も書くことができたが、より直感的で透明な音楽を主に書いた[5]。この親しみやすさによって第二次世界大戦後のバロック・ブームはヴィヴァルディの再発見という形で進められた[4]。


その一方でヴィヴァルディの作品はどれも同じという批判的な意見もあり、たとえばルイージ・ダッラピッコラは「600曲の協奏曲を作曲したのでなく、1曲を600回作曲したにすぎない」と言ったとされる[6][7]。

イーゴリ・ストラヴィンスキーも、おそらくダッラピッコラの言葉によって「同じ形式をあんなにくりかえしくりかえし作曲できた、退屈な男にすぎない」と言っている[8][9]。

皆川達夫は、個人的な好みとしながらも「ヴィヴァルディの音楽の品のなさが耐えられない」と言っている[10]。

通常リオム番号(RV番号)で楽曲が整理されるが、この他にパンシェルル番号(P番号)、ファンナ番号(F番号)が存在する。ジャンルには偏りが多く、ヴァイオリンのための協奏曲はおびただしく残っているものの、チェンバロのための協奏曲は編曲譜が一曲しか残っていない。



生涯

誕生から幼年期と青年期

1678年3月4日[11]、イタリア・ヴェネツィアのカステッロ区に生まれる。
誕生日は長らく不明であったが、20世紀になって、当時の洗礼記録が教区教会で発見された。

瀕死の状態で生まれたため、助産婦が仮の洗礼を授け、2ヶ月後の5月6日に生家の目と鼻の先にあるサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会で正式な洗礼を受けた。このことは、ヴィヴァルディが生まれながら病弱であったことを物語っている[12]。

父親のジョヴァンニ・バッティスタは、理髪師(当時の理髪師は簡単な外科医(床屋医者)でもあった)として家計を支えていたが、同時にヴァイオリンの才能に恵まれ、ヴェネツィア旅行案内のパンフレットに名ヴァイオリニストとして紹介されるほどであった[13]。同じブレーシャ出身のジョヴァンニ・レグレンツィらとも親交があり、1685年にはサン・マルコ大聖堂のヴァイオリニストに選ばれた。22歳のときに仕立屋の娘カミッラ・カリッキヨと結婚し、長男としてアントニオを授かる。夫妻はアントニオの他に夭逝した子も含めて男の子4人、女の子5人を授かるが、彼らの中から音楽家は誕生しなかった[14]。

幼少時から父親のもとでヴァイオリンに習熟すると共に、父親の幅広い音楽仲間から作曲法などを学ぶ。レグレンツィを含むこれら音楽仲間のうち、誰がヴィヴァルディの教師となったかについては未だ判然とせず、さまざまに推測されている。

庶民階級のヴィヴァルディが、やがて世に出て、さまざまな階級の人と引け目なく交わるには、聖職者になるのがもっとも確実な方法だった。1688年、10歳で当時サン・マルコ大聖堂とサン・マルコ広場を挟んで向かい合って建っていたサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入学した。

1693年、15歳で剃髪し、1699年、21歳で下級叙階を得て、1700年、22歳で助祭となり、翌1703年の3月25日に、25歳で司祭に叙階される[15]。彼は「赤色」に因むRossi(ロッスィ)の綽名で呼ばれた父親と同じく赤い髪であったために、「赤毛の司祭」Il Prete Rosso(イル・プレーテ・ロッソ)と呼ばれた[16]。

ところがヴィヴァルディには、生まれつき喘息と思われる持病があり、特に司祭としてミサの説教に立っている時に発作が起こると、ミサの続行が困難と成ることがたびたびあった[17]。こうしたことから、同年9月にはミサを挙げることを免除され、平服の在俗司祭となった。


音楽院の教師としての活動(1703年から1713年)

在俗司祭となった9月、1346年設立という由緒あるピエタ慈善院付属音楽院 でヴァイオリンの教師として教鞭を執り始めた[18]。キリスト教会が行う慈善事業の一環として、捨て子の養育を目的に建てられた慈善院は、才能のある女子に対して音楽教育も盛んで、ヴェネツィア共和国にはピエタをはじめ、インクラービリ、メンディカンティ、オスペダレットの4つがあり、附属の音楽院が併設されていた。また1704年にはヴィオラ・アッリングレーゼも教えている。1703年以降から1740年にかけて、教師として、また作曲家として器楽曲から声楽にいたる幅広い分野の作品を提供し、そのリハーサルを行なう雇用関係を断続的に持った[19]。

ピエタ音楽院で作曲と合奏の指導を任されたヴィヴァルディは、全12曲からなる『トリオ・ソナタ集』を作曲し、1705年にこれらを「作品1」として出版する。トリオ・ソナタの先駆者として有名なアルカンジェロ・コレッリの影響が色濃く見られるこの作品群は、ヴェネツィアの貴族アンニーバレ=ガンバーラ伯に献呈されている。

1709年の2月にピエタ音楽院との契約が更新されなかったが、その理由のひとつに、当時のピエタの経営状況が思わしくなかったことがあげられる[20]。この年に12曲の『ヴァイオリンソナタ集』を「作品2」として出版する。1711年の9月にピエタ音楽院との契約を更新する。「作品3」として『調和の霊感』が出版される。1713年にピエタ音楽院の合奏長であるフランチェスコ・ガスパリーニ(Francesco Gasparini,1668-1727)が職を辞す[21]。後任が決まるまで、音楽院はヴィヴァルディに宗教曲の作曲も依頼する。同年にオペラの処女作『オルランド・フリオーソ(怒りのオルランド)』がヴェネツィアのサンタンジェロ劇場で初演される。

この時期、基本的に音楽院の音楽教師という立場にいながら、作曲家としてのヴィヴァルディの名はヨーロッパ中に広がり始めていた。

これは、生命力のほとばしりを感じさせる瑞々しい曲想のみならず、合奏協奏曲から更に進んだ独奏協奏曲のスタイルを確立していったためと考えられる。

同時代のドイツ人音楽家ヨハン・ゼバスティアン・バッハも少なくとも筆写譜の形でヴィヴァルディの楽譜を入手していた[22]。
各地で公演されたオペラも次第に彼の名を高めて行った。


オペラ作曲家としての活動(1713年から1723年)

1713年以降、ヴィヴァルディはヴェネツィアのサンタンジェロ劇場をベースにオペラの作曲に精力的に取り組み始め、1718年までの間に10曲を上演して[23]人気を博した。ピエタ音楽院では1716年から[24]1718年までは、「協奏曲長」となっていた。1718年から1720年までの2年間はヴェネツィアを去り、ハプスブルク家領となったマントヴァの支配者、ヘッセン=ダルムシュタット方伯に宮廷楽長として奉職する。同地で3作ものオペラを上演する[25]。1723年7月にピエタの理事会はヴィヴァルディに対してピエタ音楽院のために協奏曲を月に2曲提供すること、旅行中は楽譜を郵送すること、リハーサルを2回ないし3回ほど指導する契約を交わした[26]。音楽院にとってヴィヴァルディは大切な人材であり、必要不可欠な人物でもあった。

この間における作品群は、1712年-1713年ごろに『ストラヴァガンツァ』と題する12曲のヴァイオリン協奏曲集が「作品4」として出版され[27]、1714年に作曲したオラトリオ『ファラオの神モイゼ』(RV.643,紛失)が同年に初演される。また1716年に現存する唯一のオラトリオ『勝利のユディータ』が初演される。

また1716年から1717年に、ザクセン公のヴァイオリニストとして活躍していたピゼンデルが師事しており、彼のためのヴァイオリン協奏曲やソナタをいくつか作曲している[28]。


人気と円熟期(1723年から1740年)

ヴィヴァルディは書簡の中で、ヨーロッパの各都市を旅行したことを述べており、この書簡で窺えるように、この時期はほとんど旅行に費やしている。1723年から1724年にかけてローマを訪れ、同地で3曲のオペラを上演した[29]。なおローマ教皇の御前で演奏したとも述べている。1726年に再びサンタンジェロ劇場の作曲家兼興行主となり[30]、1739年まで断続的に務める。

1728年にトリエステで神聖ローマ皇帝のカール6世に謁見する機会ができ、手書きの協奏曲集『チェートラ』を献呈する。1730年と1731年に、ヴィヴァルディはオペラを上演するためプラハに向かった。1732年から1737年まで、イタリアの各都市でオペラの上演と興行活動を行った[31]。

この時期の作品群では、1725年に『四季』を含むヴァイオリン協奏曲集『和声と創意への試み』が「作品8」として出版された[32]。

1727年に『チェートラ』と題する12曲からなるヴァイオリン協奏曲集が出版される。

1729年には、音楽史上初めてのソロのフラウト・トラヴェルソ(フルートの前身)のための協奏曲集が「作品10」として出版される。

また生前出版された楽譜としては最後となる「作品11」と「作品12」のヴァイオリン協奏曲集が出版される。

なお、作品13はシェドヴィルがヴィヴァルディの名前を騙って出版した曲集にパリの出版社が勝手に振った作品番号である。

1740年のチェロ・ソナタ集「作品14」はヴィヴァルディの真作であるが、パリでおそらくヴィヴァルディの関知しない間に出版されたと思われ、作品番号も作品13にそのまま続けて作品14としている。


キャリアの晩年

オペラ作曲家としてイタリア本土や外国の諸都市では人気が高まりつつあったが、本国ヴェネツィアではナポリ派のオペラがヴェネツィア派のオペラを駆逐し、ヴィヴァルディのオペラ作品に対する評価に翳りが見え始める[33]。

また、1737年から翌1738年にかけて、教皇領のフェッラーラでの興行に次々とトラブルが起きる。1738年には「協奏曲長」の職を辞すも、ピエタ音楽院の求めにより作品の供給は1740年のウィーン行の直前まで続いた。

「ヴィオラ・ダモーレとリュートのための二重協奏曲」の完成後、1740年に予てから抱いていたウィーンでのオペラ興業を決心する。同年秋にグラーツで自作の公演を行った[34]あとの足取りは現在までわかっていないが、ウィーンを目指す中でさらに不運がのしかかった。

一番のよき理解者でありもっとも力のあるパトロンだったカール6世が逝去し、オーストリア国内は1年間喪に服すことになったのである。服喪期間中はすべての興業が禁止されたため、予定していたオペラ『メッセニアの神託』が上演できなくなった。当時は出演者から大道具に至るまで興行主が後で清算する形でオペラの準備が行われていたので、おそらく大変な借財を抱え込むことになったと思われる。

さらに、カール6世の娘マリア・テレジアが帝位を継いだためにオーストリア継承戦争が勃発し、国内の雰囲気も戦争一色となり、老大家に一瞥を与えるゆとりも関心も貴族たちにはなかった。

ヴィヴァルディが埋葬された墓地はのちにウィーン工科大学の構内となり、彼を記念して銘板が設置されている

失意のうちに体調を崩したと思われるヴィヴァルディは、ヴェネツィアに帰国することもかなわず、1741年7月28日にケルントナートーア劇場が用意していた作曲家用の宿舎にて、63歳で死去した。

死因は内臓疾患であるといわれているが詳細は不明である。夏季であったこともあり、旅行者のための簡素な葬礼の後、遺体は翌日、病院付属の貧民墓地に埋葬された[35]。この墓地は後年取り壊され、現在はウィーン工科大学の構内になっている。オペラのほうは、ウィーンの新聞の広告欄に「故ヴィヴァルディ氏作曲」と張り出されて、翌1742年に当初の予定通りにケルントナートーア劇場で上演された。


後世の影響と評価

ヴィヴァルディは大変な蓄財が出来た程、同時代において高い評価を受けた。
ルイ=クロード・ダカンも著作の中で「アルカンジェロ・コレッリに匹敵するのはヴィヴァルディの『四季』のみ」と書いている[36]。

ところが18世紀末から19世紀末にかけて、ヴィヴァルディは全く顧みられず忘れさられた。これはバッハも同様であったが、19世紀末になってバッハが再評価されるとその生涯が調査され、その作品にヴィヴァルディの編曲を参考にした箇所が複数発見された[37]。

20世紀に入り、アルフレード・カゼッラやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの尽力で楽譜の整理、校訂が行われヴィヴァルディの作品は復興を果たした。

イ・ムジチ合奏団は『四季』を1955年に世界ではじめて録音し、レコードはこれまでに2500万枚以上という驚異的な売り上げを記録している[38]。これによりヴィヴァルディは一躍有名になり、クラシック・ファンを越えた人気を持つに至った。


年表

1678年 - (0歳) ヴェネツィアに生まれる。
1688年 - (10歳) サン・マルコ大聖堂近くのサン・ジェミニアーノ教会付属学校に入学する。
1693年 - (15歳) 剃髪して最下級の聖職者となる。
1703年 - (25歳) 司祭となる ピエタでヴァイオリン教師として奉職し始める。
1704年 - (26歳) ピエタで、ヴァイオリンの他にヴィオラ・アッリングレーゼを教え始める。
1705年 - (27歳) 作品1(12曲のトリオソナタ集)がヴェネツィアで出版される。
1711年 - (33歳) 作品3(調和の霊感)がアムステルダムで出版される。
1713年 - (35歳) 最初のオペラ『離宮のオットー大帝』をヴィチェンツァで初演する。
1716年 - (38歳) オラトリオ『勝利のユディータ』を初演。
1718年 〜1720年 - (40歳-42歳)マントヴァでヘッセン=ダルムシュタット方伯の宮廷楽長として奉職する。
1723年 〜1724年 - (45歳-46歳)ローマで3本のオペラを初演、ローマ教皇御前演奏。作品8(四季を含む)出版。
1728年 - (50歳) トリエステで神聖ローマ皇帝カール6世に謁見する。手書きの協奏曲集『チェートラ』を献呈。
1730年 - (52歳) オペラがプラハで上演される。
1735年 - (57歳) 再び「協奏曲長」に任ぜられる。
1740年 - (62歳) 3月21日にヴェネツィアを訪問中だったザクセン選帝侯の為に協奏曲3曲とシンフォニア1曲の作曲をピエタから依頼される。この年の秋にヴェネツィアを発つ。
1741年 - (63歳) 7月28日、ウィーンのケルントナートーア劇場専用の作曲家宿舎で内臓疾患により客死。


作品

著名な作品

和声と創意の試み(Il cimento dell'armonia e dell'invenzione)作品8。1725年に出版された12曲のヴァイオリン協奏曲集

四季(Le quattro stagioni(The Four Seasons)):この作品8のうちの第1番から第4番までを指す。

調和の霊感(L'estro armonico)作品3

1本から4本のヴァイオリン(部分的にチェロも加わる)のための12曲からなる協奏曲集。1711年にアムステルダムのロジェより出版された[39]。いわゆるリトルネロ形式による急速楽章を持つ、急―緩―急の3楽章形式による独奏協奏曲の様式を確立した画期的作品といえる。しかし、部分的にはコレッリ以来の合奏協奏曲のスタイルも含んでいる(例えば7番、11番など)。

後にJ.S.バッハが、この曲集のうち第3番、第9番、第12番をチェンバロ独奏用(BWV978、972、976)に、第8番、第11番をオルガン独奏用(BWV593、596)に、第10番を4台のチェンバロと弦楽合奏のため(BWV1065)に編曲した。


ヴィヴァルディが出版した作品

ヴィヴァルディの協奏曲及びソナタのうちのいくつかは存命中に出版されている。

作品1 12曲のトリオ・ソナタ集(1705年出版)
作品2 12曲のヴァイオリン・ソナタ集(1709年)
作品3 12曲の合奏協奏曲集『調和の霊感』(1711年)
作品4 12曲のヴァイオリン協奏曲集『ストラヴァガンツァ』(1712年-1713年ごろ)
作品5 6曲のソナタ集(1716年)
作品6 6曲のヴァイオリン協奏曲集(1716年-1717年ごろ) 
作品7 12曲の協奏曲集(1716年-1717年ごろ)
作品8 12曲の協奏曲集『和声と創意への試み』(『四季』を含む)(1725年)
作品9 12曲のヴァイオリン協奏曲集『チェートラ 』(1727年)
作品10 6曲のフルート協奏曲集(1729年-1730年ごろ)
作品11 6曲のヴァイオリン協奏曲集(1729年)
作品12 5曲のヴァイオリン協奏曲と1曲の弦楽のための協奏曲(1729年)


以上の作品の初版は、1,2を除いてアムステルダムのル・セーヌ社から出版されており、ヴィヴァルディがヴェネツィアのみに留まらず、ヨーロッパでも名声を得ていたことがわかる。

作品3、4、8、9はすべて献辞つきで王侯貴族に献呈されているが、献辞のない作品5、6、7、10、11、12のうちのいくつかは、出版社がヴィヴァルディの了解を得ることなく出版した可能性が高い。

1730年頃を境に、いろいろ制約の多い出版譜ではなく、筆写譜での流布を好むようになった。そのため、円熟期の作品には作品番号が付されていないものが圧倒的に多い。

以前は作品13が存在するとされていたが、後年の研究でシェドヴィルがヴィヴァルディの名をかたって出版したものであることが判明した[40]。

また、作品14(6曲のチェロ・ソナタ集)は、パリの出版社が勝手に付けた作品番号である。


作品一覧

ヴィヴァルディの作品はかなり膨大で、紛失したものや偽作などが多数含まれる。ここでは比較的知られている作品のみ掲載する。

詳細は「ヴィヴァルディの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィヴァルディの楽曲一覧


舞台作品

オラトリオ

ファラオの神モイゼ RV.643(散失)
蛮族の王ホロフェルネスを討伐した勝利のユディータ RV.644


オペラ

エジプトの戦場のアルミーダ RV.699
バヤゼットRV.703
貞節な妖精(忠実なニンフ)RV.714
ダリオの戴冠 RV.719
モテズーマ RV.723
狂気を装うオルランド RV.727
テウッツォーネ RV.736


協奏曲

ヴァイオリン協奏曲

ヴァイオリン協奏曲 ハ長調 『喜び』 RV.180
ヴァイオリン協奏曲 ハ短調 『疑い』 RV.199
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 『グロッソ・モグール』 RV.208
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 『1712年のパドヴァの聖アントニオの聖なる舌の祝日のために』 RV.212a
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 RV.230(J.S.バッハがBWV.972に編曲)
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 『不安』 RV.234
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 『ピゼンデル氏のために』 RV.242
ヴァイオリン協奏曲 変ホ長調 『海の嵐』 RV.253
ヴァイオリン協奏曲 変ホ長調 『隠れ里』 RV.256
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『春』 RV.269
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『安らぎ:いとも聖なるクリスマスのために』 RV.270
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『恋人』 RV.271
ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 『お気に入り』 RV.277
ヴァイオリン協奏曲 ヘ長調 『聖ロレンツォの祝日のために』 RV.286
ヴァイオリン協奏曲 ヘ長調 『秋』 RV.293
ヴァイオリン協奏曲 ヘ長調 『隠れ里』 RV.294
ヴァイオリン協奏曲 ヘ短調 『冬』 RV.297
ヴァイオリン協奏曲 ト長調 『トゥロンバ・マリーナ風ヴァイオリンで』 RV.313
ヴァイオリン協奏曲 ト短調 『夏』 RV.315
ヴァイオリン協奏曲 ト短調 RV.317
ヴァイオリン協奏曲 イ長調 『ナイチンゲール』 RV.335a
ヴァイオリン協奏曲 変ロ長調 『ポストホルン(郵便屋の角笛)』 RV.363
ヴァイオリン協奏曲 変ロ長調 『カルボネッリ』 RV.366
ヴァイオリン協奏曲 ハ短調 『アマート・ベネ』 RV.761
ヴァイオリン協奏曲 ホ長調 『アンナ・マリーアのために』 RV.762
ヴァイオリン協奏曲 イ長調 『オッタヴィーナ』 RV.763


フルート協奏曲

作品10として出版された『フルート協奏曲集』に含まれる楽曲である。

フルート協奏曲 ニ長調『ごしきひわ』 RV.428 作品10-3
フルート協奏曲 ヘ長調 『海の嵐』 RV.433 作品10-1
フルート協奏曲 ヘ長調 RV.434 作品10-5
フルート協奏曲 ト長調 RV.435 作品10-4
フルート協奏曲 ト長調 RV.437 作品10-6
フルート協奏曲 ト短調 『夜』 RV.439 作品10-2
フルート協奏曲 ト長調 RV.442
2本のフルート(フラウト・トラヴェルソ)のための協奏曲 ハ長調 RV.533


複数の楽器のための協奏曲

協奏曲 ニ長調 『ごしきひわ』 RV.90
協奏曲 ニ長調 RV.93(リュート協奏曲とも)
協奏曲 ニ長調 『女羊飼い』 RV.95
協奏曲 ト短調 『夜』 RV.104
2つのマンドリンのための協奏曲 ト長調 RV.532
2つのトランペットのための協奏曲 ハ長調 RV.537

2つのクラリネットと2つのオーボエの為の協奏曲ハ長調RV.559 バロック音楽史上最初のクラリネット協奏曲

2つのクラリネットと2つのオーボエの為の協奏曲ハ長調RV.560
ヴァイオリンとチェロのための協奏曲 ヘ長調 『プロテウス、すなわち逆様の世界』 RV.544
『ソロ・ヴァイオリンと遠くのこだま用のヴァイオリンのための協奏曲 』イ長調 RV.552
ヴァイオリン、2本のオーボエと2本のホルンのための協奏曲 ニ長調『聖ロレンツォの祝日のために』 RV.562
ヴァイオリン、2本のリコーダー、3本のオーボエとファゴットとのための協奏曲 ト短調 『ザクセン選帝侯のために』 RV.576
ヴァイオリン、2本のオーボエ、2本のリコーダーとファゴットのための協奏曲ト短調 『ドレスデンのオーケストラのために』 RV.577
ヴァイオリン、オーボエ、シャリュモーと3つのヴィオラ・アッリングレーゼのための協奏曲 変ロ長調 『葬送協奏曲』 RV.579


オルガンのための協奏曲

オーボエ、ヴァイオリン、オルガン、弦とチェンバロのための協奏曲 ハ長調 P.36
ヴァイオリン、オルガン、弦とチェンバロのための協奏曲 ヘ長調 P.276
ヴァイオリン、オルガン、弦とチェンバロのための協奏曲 ニ短調 P.311
4つのオブリガードフルート、4つのヴァイオリン、弦と2つのオルガンのための協奏曲「イン・ドゥエ・コーリ」イ長調 P.226


弦楽のための協奏曲(またはシンフォニア)

弦楽のための協奏曲 ト長調『アラ・ルスティカ(田園風)』RV.151
弦楽のための協奏曲 変ロ長調『コンカ(法螺貝)』RV.163
シンフォニア ロ短調『聖なる墓に(聖墓のそばに)』RV.169


宗教曲・声楽曲

宗教音楽

グローリア ニ長調 RV.588
グローリア ニ長調 RV.589
サルヴェ・レジナ(「めでたし元后」) ハ短調 RV.616
スターバト・マーテル(「母は悲しみにありき」) ヘ短調 RV.621


声楽曲

モテット『まことの安らぎはこの世にはなく』RV 630
カンタータ『黄金色の雨のごとく』RV 686

https://ja.wikipedia.org/wiki/アントニオ・ヴィヴァルディ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html#c3

[近代史3] ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356 中川隆
4. 中川隆[-13685] koaQ7Jey 2020年2月20日 18:31:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-208]

イタリア - クラシック音楽 一口感想メモ
アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678 - 1741)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/イタリア


大バッハも大いに研究したイタリア・バロックの大作曲家。
他の同時代のイタリア作曲家と比較すると、輝かしくも複雑で陰影を秘めており、曲の放つ魅力は断然優れている。メロディーセンスもある。

ヴァイオリン協奏曲

作品3 12曲の合奏協奏曲集『調和の霊感』

第1曲
3.0点
素朴でオーソドックスな中に瑞々しい感受性が感じられて素敵。特に2楽章はロマン派の音楽のように感情的である。

第2曲
2.5点
短調で劇的な雰囲気を一応楽しめるが、あまり面白い曲と思わなかった。

第3曲
2.8点
長調と短調を混ぜた構成で工夫は感じるが、曲の良さにはいまいち繋がっていないと思う。

第4曲
3.5点
短調の曲。バロック的な感情的でなくシンプルな短調の響きの美しさをおおいに発揮している。活気があり、バランスが良いため楽しめる。

第5曲
3.5点
1楽章の単純明解な楽しさと、2楽章の大変美しい叙情性の対比が聞き物。3楽章も悪くない。

第6曲
3.3点
短調の魅力を発揮しているが、単純さの中に神がかり的なものを見せるヴィヴァルディの天才が今ひとつきれいに発揮されていない気がする。中間楽章の叙情性は美しい。

第7曲
3.5点
5つの楽章からなり、それぞれ大きく異なる雰囲気のため、バラエティと起伏に富む感じが楽しい。それぞれは素朴ながらも全体として豊かな音楽という印象が強い。

第8曲
3.5点
2楽章が魅力的。同じフレーズの繰り返しが産む美と憂愁の世界が素晴らしい。1楽章や3楽章も短調の美と躍動感を両立して素晴らしい。

第9曲
2.8点
全部の楽章において、雰囲気は悪くないのだが単純すぎて情報量が少なく、物足りなさが残る。

第10曲
3.3点
2楽章は単調だがなぜか楽しめる。3楽章は分厚い音の積み重ねが聴いていて楽しいし、変化もあって楽しめる。

第11曲
3.0点
3楽章のフーガはもの珍しい気分で聴ける。フーガでもヴィヴァルディは華やかなである。4楽章は訴えかけるようなソロが楽しい。

第12曲
3.3点
伸びやかな雰囲気が印象的。後年の協奏曲に通じるものをそれとなく感じる。密度は平均より高いが、もう一つ突き抜けないものがある。


作品8 12曲の協奏曲集『和声と創意への試み』(『四季』を含む)

1曲目「春」
5.0点
一楽章は大変有名な曲だが、やはり主題が大変に魅力的で素晴らしい。中間の嵐を描写した部分もよい対比になっている。3楽章の伸びやかな主題も魅力的。

2曲目「夏」
3.5点
3楽章の嵐の描写が楽しい。1、2楽章は描写的で楽しいものの、ノリが良くない。

3曲目「秋」
3.5点
3楽章のウキウキする感じが楽しい。1楽章も夏の後に続けて聴くとノリと普通のメロディーの曲に戻って楽しい気分になる。

4曲目「冬」
4.0点
2楽章の有名な雪景色のような甘く美しい旋律が素敵。1楽章はノリノリで楽しい。3楽章のレティタティーボのようなフレーズから始まる美しい短調のソロも楽しい。

その他
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 『ピゼンデル氏のために』 RV.242

フルート協奏曲

作品10の6曲のフルート協奏曲集は史上初のフルートのための協奏曲とのことである。6作中5作は旧作の転用である。

第1番 ヘ長調『海の嵐』 RV.433
2.5点
音階を多用し活発な印象。これが海の嵐を表しているのだろうか。かなりのスピードで演奏が大変そう。

第2番 ト短調『夜』 RV.439
3.3点
6つの楽章がある特殊な楽章構成。3つのラルゴ楽章の夜の雰囲気が素敵。それに挟まっている快速の楽章も効果的。短調が美しい。

第3番 ニ長調『ごしきひわ』 RV.428
3.5点
1楽章や3楽章の活発で伸びやかな中に懐の深さを感じさせる曲や、2楽章の清新で美しく柔らかい曲など、ヴィヴァルディの協奏曲の魅力に溢れている曲。1楽章の鳥の鳴き声の模倣も楽しい。

第4番 ト長調 RV.435
2.8点
活発なヴィヴァルディらしいコンパクトな曲。しかし、ありきたりすぎる。

第5番 ヘ長調 RV.434
3.0点
優美で柔らかく穏やかな曲調。特に2楽章は珍しくドイツ系のよう堅いが哀愁漂う美しさ。どの楽章もフルートのもつ美しさを堪能出来る。

第6番 ト長調 RV.437
3.0点
1楽章のオクターブをトビハネルユニゾンのダイナミックな主題の魅力はなかなか。3楽章の大活躍するフルートがまたダイナミックで楽しい。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/イタリア
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html#c4

[近代史3] レモ・ジャゾット 『アルビノーニのアダージョ』
レモ・ジャゾット 『アルビノーニのアダージョ』


オーソン・ウェルズ『審判』(カフカ原作)


Orson Welles's The Trial (1962) Spanish Subtitles - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6mofjm


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Albinoni/Giazotto - Adagio in G minor; Berlin Philharmonic Orchestra; Herbert von Karajan




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Jean-François Paillard, Remo Giazotto " Adagio in G minor "




Jean-François Paillard, 1960
Orchestre de Chambre Jean-François Paillard


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Karl Munchinger Adagio in G minor for Organ & Strings




The Stuttgart Chamber Orchestra
Karl Munchinger


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Neville Marriner Albinoni-Giazotto - Adagio (with sheet music)


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アダージョ(アルビノーニ)
ドレスデン国立図書館から偶然発見?後に完全な創作と判明


『アダージョ(アルビノーニ) Adagio in G minor』は、18世紀イタリアの作曲家トマゾ・アルビノーニ(Tomaso Albinoni/1671-1751)に関連する楽曲。1958年出版。


実は、アルビノーニ作品のほとんどは、第二次世界大戦中のドレスデン空襲の際に失われてしまっていた。下挿絵は1900年頃のドレスデン市街遠望。


1945年、イタリアの音楽学者レモ・ジャゾットは、ドレスデン国立図書館の廃墟の中で散逸した文献を整理中、偶然にアルビノーニのトリオ・ソナタを発見。この緩徐楽章の断片からオルガンと弦楽合奏用にメロディーを「復元」したという。


なお、ジャゾットは編曲・復元であって作曲ではないと主張したが、後に完全な創作と判明している。


このいわゆる『アルビノーニのアダージョ』は、オーソン・ウェルズ監督の1963年の映画『審判』(カフカ原作)で使用されたことで知られている。
また、メル・ギブソン主演の映画『誓い(Gallipoli)』では、悲劇的な幕切れで効果的に利用されている。
http://www.worldfolksong.com/classical/adagio/albinoni.html


▲△▽▼


『アダージョ ト短調』は、レモ・ジャゾットが作曲した弦楽合奏とオルガンのための楽曲。
弦楽合奏のみでも演奏される。1958年に初めて出版された。


この作品は、トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、その断片は第二次世界大戦中の連合軍によるドレスデン空襲の後で、旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきた。
作品は常に「アルビノーニのアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調のアダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきた。しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった[1]。


大衆文化における「アダージョ」の利用


雄渾多感な旋律と陰翳に富んだ和声法ゆえの親しみやすい印象から広まり、クラシック音楽の入門としてだけでなく、ポピュラー音楽に転用されたり、BGMや映像作品の伴奏音楽として利用されたりした。


また、日本や欧米では葬儀のとき最も使われている曲の一つでもある。
ドアーズのアルバム『アメリカン・プレイヤー』収録の「友人同士の宴」では、『アルビノーニのアダージョ』の編曲と思しき楽曲に乗せてジム・モリスンが詩の朗読を行なっており、イングヴェイ・マルムスティーンの『イカロス組曲』作品4は、もっぱら『アルビノーニのアダージョ』を下敷きにしている。


DJティエスト(Tiësto)はアルバム『Parade of the Athletes』(2004年アテネオリンピック開会式に使用され、日本選手団の入場の際に流れていた)において、『バーバーのアダージョ』とともに『アルビノーニのアダージョ』を用いた。
ルネッサンスは、『アルビノーニのアダージョ』に歌詞をつけて「Cold is Being」という曲にしている(アルバム『運命のカード』に収録)[2]。

オーソン・ウェルズの1962年の映画『審判』(The Trial)やルドルフ・トーメ(Rudolf Thome)監督の1970年の『Rote Sonne』、『ローラーボール』(1975年制作版)やメル・ギブソン主演の1981年『誓い』(Gallipoli)、2015年の成島出の映画『ソロモンの偽証 前篇・事件』[3]といった映画の伴奏音楽ないしはテーマ曲として利用されている。


1992年5月、ボスニア内戦で包囲されたサラエボ市内の市場裏で食料品を買おうとしていて砲弾の直撃で亡くなった22人の民間人死者を追悼し、その翌日から地元のチェリスト、ヴェドラン・スマイロヴィッチが「アダージョ」を22日間その場で演奏した。このエピソードを元にした小説、スティーヴン・ギャロウェイ『サラエボのチェリスト』が書かれた。[4]


https://ja.wikipedia.org/wiki/アルビノーニのアダージョ

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/919.html

[近代史3] レモ・ジャゾット 『アルビノーニのアダージョ』 中川隆
1. 中川隆[-13684] koaQ7Jey 2020年2月20日 19:27:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-207]
オーソン・ウェルズ『審判』(カフカ原作)
Orson Welles's The Trial (1962) Spanish Subtitles - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6mofjm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/919.html#c1
[番外地7] これから風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染が起き、1000万人レベルの日本人を感染させる
これから風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染が起き、1000万人レベルの日本人を感染させるような事態になる

日本政府がインバウンド政策を採ってから、アンダーグラウンドでは梅毒やエイズが大量発生している。

日本の梅毒感染者は20代の女性と30代から50代の男性の間で大量発生しているのだが、梅毒は2年連続で6,000人超えなのである。

春節で日本にやってきた新型コロナウイルスの中国人感染者が日本の風俗嬢を抱いたら、風俗嬢は100%の確率で感染する。その風俗嬢は2週間で50人超の男に100%感染させることができる。感染した男たちは働き盛りでアクティブに行動して感染を広げる。

新型コロナウイルスに感染したら1日で発症する人もいれば、25日目に発症する人もいる。平均して14日であるというのが今の定説だ。

新型コロナウイルスに感染した風俗嬢が、仮に14日間フルで風俗の仕事をして1日4人の客と関わったとしたら、彼女は14日で56人の客に感染させることになる。もし、感染した風俗嬢が10人いたらその10人が560人の人間を感染させることになる。

10人の風俗嬢だけで560人の男が感染してもおかしくないのである。

風俗嬢と関わる男は30代から50代までの働き盛りが大半なので、彼らは満員電車に乗って通勤する。

満員電車でこの560人が新型コロナウイルスをばら撒くと、東京は1ヶ月も経たないうちに武漢を彷彿とさせるほどの凄惨な汚染エリアと化す。

日本が壊滅するようなレベルになっても不思議ではない。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/494.html

[番外地7] 新型コロナウイルスに一番近いのはスペイン風邪
新型コロナウイルスに一番近いのはスペイン風邪

 スペインかぜ(1918 flu pandemic, Spanish Flu)とは、1918年から1919年にかけ、全世界的に大流行したインフルエンザの通称。

当時20億人の世界人口の3割が感染して、5000万人が死亡したといわれるが、疫学研究者の説によれば、地球上のほぼ全員が感染した可能性がある

 発生源は、1918年3月のアメリカ・カンザス州の米軍基地。

 その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。


 新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。

 感染者は約5億人以上、死者は5,000万人から1億人に及び、当時の世界人口は18〜20億人であると推定されているため、全人類の3割近くがスペインかぜに感染したことになる。感染者が最も多かった高齢者では、基本的にほとんどが生き残った一方で、青年層では、大量の死者が出ている。


 日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡、米国でも50万人が死亡した。 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。

 流行の経緯としては、第1波は1918年3月にアメリカ合衆国デトロイト市やサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍(第一次世界大戦における)と共に大西洋を渡り、5〜6月にヨーロッパで流行した。

 第2波は、1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり、重篤な合併症を起こし死者が急増した。

 第3波は、1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。また、最初に医師・看護師の感染者が多く、医療体制が崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。

このパンデミックは、今回の新型コロナウイルス流行と似ている。初期に、医療関係者の大規模な感染が起きて、医療体制が崩壊したことがパンデミックを招いている。

 また、病原体が次々に突然変異を起こして、どんどん致死性の強いものに変化し、免疫を持たない若者たちを直撃して大量死に追いやった。したがって、新型コロナウイルスの致死性・毒性は、これから急激に変化する可能性があることを意味している
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/495.html

[近代史3] 『パッヘルベルのカノン』
『パッヘルベルのカノン』


カール・ミュンヒンガー指揮 『パッヘルベルのカノン』


Pachelbel: Canon in D, P. 37 Munchinger 1984




Johann Pachelbel : KANON
Karl Münchinger conducting
Stuttgart Chamber Orchestra .Feb/1984


シュトゥットガルト室内管弦楽団
指揮:カール・ミュンヒンガー
録音:1984年2月  ルートヴィヒスブルク〈デジタル録音〉


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Pachelbel: Canon in D, P.37 1977


Pachelbel: Canon in D, P.37
Stuttgarter Kammerorchester
Karl Münchinger
℗ 1978 Decca Music Group Limited
Released on: 1978-01-01


__________


Canon and Gigue in D Major: Canon (Orchestrated by Karl Münchinger) 1961


Canon and Gigue in D Major: Canon (Orchestrated by Karl Münchinger) · Stuttgarter Kammerorchester
Karl Münchinger
℗ 1961 - BNF Collection 2015


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The Baroque Music : Pachelbel, Albinoni, Bach, Handel.. + Presentation (ref. rec. : Karl Munchinger) Pachelbel 1977


The Baroque Music : Eighteenth-Century Miniatures


Johann Pachelbel (1653-1706)
Canon in D (00:00) Gigue in D (04:33)


Tomasco Albinoni (1671-1751)
Adagio in G minor (06:31)


Johann Sebastian Bach (1685-1750)
I.Jesu, Joy of Man’s Desiring (13:51)
II.Sheep May Safely Graze (16:53)
III.Air, from Suite no.3 in D, BWV 1068 (21:26)
IV.Fugue in G minor, BWV 542 (25:16)


Luigi Boccherini (1743-1805)
Minuet and Trio, from Quintet in E (30:16)


Roman Hofstetter
Andante cantabile, from Quartet in F (33:08)


Georg Frideric Handel (1685-1759)


I.Musette, from Concerto Grosso in G minor (37:06)
II.Arrival of the Queen of Sheba, from Solomon (43:59)


Organ Concerto in F
I.Allegro (47:13)
II.Andante (51:56)
III.Adagio - Allegro (57:58)
Overture to ‘Berenice’ (1:02:43)


The Stuttgart Chamber Orchestra
Organ : Ulrich Bremsteller
Conductor : Karl Münchinger
Recorded in 1966 & 1977 (Pachelbel 1977)


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2019年11月12日
パッヘルベルのカノン ミュンヒンガー/シュトゥットガルトco 1977年録音
http://classic-cdreview.seesaa.net/article/422280956.html


パッヘルベルのカノンを厳粛な演奏で、個人的には自分の葬儀に流してほしいとも思っています。


曲としては短くシンプルでありながらも、非常に美しい。バロック音楽の中でも非常にポピュラーな名曲ですが、意外といい演奏に出会うことが無い曲だと思います。最近はレコーディングされる機会も少ないなり、埋もれてしまわないかと心配です。


パッヘルベル カノン
指揮:カール・ミュンヒンガー
シュトゥットガルト室内管弦楽団
1977年録音
録音 4.40点  演奏 4.65点



ミュンヒンガーはこの曲を何度も録音していますが、このミュンヒンガー編の1977年録音がアレンジも含め一番心に沁みます。


古楽器アンサンブルでは、バロック名曲集としてよく取り上げられますが、この曲は正直古楽器に向いていない。ある程度の編成で現代楽器で演奏した方が、この曲の古雅でどこか寂しげな旋律が際立つような気がします。なので、人によっては厳しめの解釈に聴こえるかもしれませんが、ミュンヒンガー盤をお薦めします。


ミュンヒンガーが弦楽合奏のために分厚く編曲をしていますが、それがまた絶妙です。マスカーニのカヴァレリア・ルスティカーナ「間奏曲」と共に、一旦再生ボタンを押すと何度も繰り返して聴いてしまいます。


弦楽器だけで同じ旋律を追いかけっこしながら、28回繰り返していくだけなのですが、徐々に楽器数が増え盛り上がっていきますが、途中でスッと静まり返ります。そしてまた盛り上がっていく。後半は訴えるようにヴァイオリンが重なり合って伸びるように歌う部分などは夢心地のひと時となります。



上はミュンヒンガーの1961年録音。悪くないですが少し厳粛過ぎてテンポが遅い。後年ライブでも再録音をしていますが編曲が違い(独奏ヴァイオリンが加わる)、だいぶ演奏も落ちます。デジタル録音もしていますが、そちらもちょっと演奏が緩くなった感が。


古楽器だと少し物足りないというか、この曲を素材のままで演奏するのはいいですが、曲の品位が高まって聴こえない。いろんな編曲もされていますが、編曲によっては喫茶店で聴くのに相応しいムード音楽レベルの音楽に貶めるような編曲もあります。


カラヤン晩年の録音は、なんだか晩年の彼の心境が語られているようで聴かず嫌いでしたね。ただ侘しさと粛々とした感じが無く、現生の合奏という感じがします。


Pachelbel, Cannon and Gigue in D, Berlin Philharmonic, Herbert von Karajan


ミュンヒンガーのこのCDには、耳馴染みのある曲がカップリングされており、改めてバロック音楽の再発見への扉を開ける演奏が多いです。厳粛ですが品位が高い。ポピュラーな曲の楽譜にも真摯に向き合い、曲の芸術性を高めようとする眼差しを感じさせてくれます。
http://classic-cdreview.seesaa.net/article/422280956.html



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カノン (パッヘルベル)


『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』
(独: Kanon und Gigue in D-Dur für drei Violinen und Basso Continuo)P. 37は、ドイツの作曲家ヨハン・パッヘルベルが1680年頃に作曲した室内楽曲。


特に第1曲の『カノン』は一般に『パッヘルベルのカノン』の名で広く親しまれており、しばしばクラシック音楽の入門曲として取り上げられ、また、ポピュラー音楽において引用されることも多い。


曲の構成


カノンが有名だが、原曲はカノンとジーグで1組になっており、カノンの次にジーグが演奏される。ヴァイオリン3つと通奏低音の編成で書かれている。


カノン
ニ長調、4分の4拍子。
3声の同度カノンであるが、カノン声部だけで構成される純粋なカノンではなく、オスティナート・バスを伴う点が標準的なカノンとは異なる。オスティナート・バスの上に展開されるという意味で、パッサカリアないしシャコンヌとしてこの曲をみなすこともできる。カノンは、半終止で終えられるごく短い2小節単位で進められ、オスティナート・バスが和声的に束縛し続けるため、複雑なカノンにはなり得ない。


カノンとしては、オスティナート・バスの呈示に続き、全27種類の旋律が編まれる。下記の楽譜はその冒頭部の例である。


カノンの冒頭の9小節。旋律が他のパートへそのまま受け継がれている。3声による同度カノンである。


第1ヴァイオリンに現れる水色のカノン旋律Aが第2ヴァイオリン、第3ヴァイオリンへと順々に受け渡されていく。緑色のカノン旋律B、桃色のカノン旋律C、橙色のカノン旋律Dがそれぞれ2小節の長さで現れた後、他のパートへ順に受け継がれていく。

同じく2小節単位のオスティナート・バスは変わることなく繰り返される。このオスティナート・バスは、末尾の2拍を除いてゼクエンツ(反復進行)で構成される。一般的なカノンにも見受けられるように、カノン声部がいつも同じ和声進行で設計されているわけでなく、時に異なる和声を生み出すが、基本的にオスティナート・バスの上に下記の和声が彩られる。
コードネーム表示:D - A - Bm - F#m - G - D - G(Em/G) - A
芸大和声式表示: I - V - VI - III - IV - I - IV(II1) - V


ジーグ
フーガ風な処理で始められるニ長調、8分の12拍子の典型的なジーグ。
現代では第1曲『カノン』が単独で頻繁に演奏されるのに比べると演奏機会は少ない。


和声進行
先述の通り、このカノンのオスティナート・バスはゼクエンツで構成されており、数あるゼクエンツの型の中でも、この進行は大逆循環[3]とも呼ばれる。この種のゼクエンツは旋法的な和声の振る舞いによるもので、機能和声とはまた別のコンセプトで成立するが、4度上の和声へと進行するという大循環の強進行に反して、この大逆循環のゼクエンツは4度下の和声へと進行する弱進行を進行の骨格としており、作曲学的には使用しづらいゼクエンツの部類に属する。


現代において、ポピュラー音楽の様々な楽曲でこの和声進行が使用されている。その使用例の多さから、これを用いることはしばしば創意が足りないことの代名詞のように言われることさえある。俗に「カノン進行」や「カノンコード」と呼ばれることがあるが、本来「カノン」とは和声進行に関する定義を含まないため、あくまで「パッヘルベルのカノンに用いられているのと同じゼクエンツ進行」を意味する表現とみなされる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/カノン_(パッヘルベル)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/920.html

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
34. 中川隆[-13683] koaQ7Jey 2020年2月20日 22:54:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-206]

『パッヘルベルのカノン』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/920.html


レモ・ジャゾット 『アルビノーニのアダージョ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/919.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c34

[近代史3] タルティーニ 『悪魔のトリル』
ジュゼッペ・タルティーニ 『悪魔のトリル』


ムターの『タルティーニ 悪魔のトリル』


Tartini Sonata in G minor Teufelstriller(Devil's Trill) Sonata - Anne-Sophie Mutter





Anne-Sophie Mutter, violin
Wiener Philhamoniker
James Levine, conductor


1993 Deutsche Grammophon GmbH, Hamburg
________


Tartini: Violin Sonata "Devil's Trill" / Mutter Orkis (1989 Movie Live)


Anne-Sophie Mutter [vn]
Lambert Orkis [pf]


1989.12.9 Tokyo. Japan Live


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悪魔のトリルは、ジュゼッペ・タルティーニが作曲したヴァイオリンソナタ ト短調で、彼の作品の中で最も有名な傑作である。
タルティーニの夢の中で悪魔が出てきてヴァイオリンを弾き、その美しさに目が覚めてからすぐ書き取ったという伝説があることから「悪魔のトリル」と呼ばれるようになった[1]。


前述の伝説から1713年頃の作とされてきたが、近年の作風研究から実際には1740年代後半以降の作とみなされている。 バロック期の作品ながら、今日のヴァイオリン演奏技術を以ってしても演奏至難な曲であり、ヴァイオリニストの必須のレパートリーでもある。


楽曲構成


第1楽章 Larghetto Affettuoso
12/8拍子のシチリアーノ風の哀愁を帯びた楽章で、二部形式で書かれている。調性はト短調から平行長調である変ロ長調へと転調した後、再びト短調へと戻るという、バロック期の二部形式の楽曲によく見られた調性変化である。


第2楽章 Allegro
2/4拍子の快活な楽章であり、前楽章と同じく二部形式で書かれている。ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第22番にみられるような4つの十六分音符の中の第一音と第三音にトリルをかけるという手法が早くもとられている。調性は大まかに言えば前楽章と同じだが、ニ短調やハ短調も出現する。第1楽章が歌謡風なのにくらべて、この楽章では音楽的・技巧的な動きが一貫している[2]。


第3楽章 Grave-Allegro assai-Grave-Allegro assai-Grave-Allegro assai-Cadenza-Adagio
4/4拍子の緩やかなグラーヴェと2/4拍子の快活で情熱的なアレグロ・アッサイが交互に演奏される。各アレグロ・アッサイの中(計3回)に曲のタイトルにもなっている悪魔のトリル(Torillo del diavolo)があり、約18小節にわたり、全曲中最も演奏至難。二重音式に書かれており高音部がトリルを奏し続けている下でもう一本の旋律が独立して動く[3]。


また、カデンツァはモダン・ヴァイオリンで奏する場合フリッツ・クライスラー版が最も多く使われる。
ただしバロック・ヴァイオリンで奏する場合は奏者の即興演奏に任せたり、あるいはカデンツァ自体を省略することが多い。


最後の4小節のAdagioのうち後半2小節はもっぱら1オクターヴ上げて演奏される(バロック期の作品によく施される処置である)。調性はト短調-ニ短調-ト短調が大まかな変化だが、途中に様々な調が出現している。


最後のコーダは聴く者に衝撃的な印象を強く与える。
アダージョとなり、ヴァイオリンが叫び声ともいえる悲痛な叫びを上げ、重圧なト短調の和音の進行で支えられながら劇的で悲劇的な幕を力強く閉じる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/悪魔のトリル



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/921.html

[近代史3] タルティーニ 『悪魔のトリル』 中川隆
1. 中川隆[-13682] koaQ7Jey 2020年2月20日 23:20:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-205]

シェリング


HENRYK SZERYNG Tartini "The Devil's Trill" Sonata









Giuseppe Tartini (1692 ~ 1770)
(Transcribed by F. Kreisler)
"Teufelstriller" sonata

Henryk Szeryng, violin
Charles Reiner, piano

Henryk Szeryng in Recital
Released on: 1959-11-13

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/921.html#c1
[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
35. 中川隆[-13681] koaQ7Jey 2020年2月20日 23:21:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-204]
タルティーニ 『悪魔のトリル』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/921.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c35
[番外地7] 自衛官はバカがやる仕事
自衛官はバカがやる仕事

自衛官は自分の頭では何も考えられない人向きの仕事ですね。
官僚もそうなのですが、官僚の場合は暗記力が良くないとできないですからね。
まあ、法学をやるのはバカに決まってるけどね。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/496.html

[番外地7] これから風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染が起き、1000万人レベルの日本人を感染させる 中川隆
1. 中川隆[-13680] koaQ7Jey 2020年2月21日 00:02:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-203]
これから風俗嬢発の新型コロナウイルス大感染が起き、1000万人レベルの日本人を感染させるような事態になる
日本政府がインバウンド政策を採ってから、アンダーグラウンドでは梅毒やエイズが大量発生している。
日本の梅毒感染者は20代の女性と30代から50代の男性の間で大量発生しているのだが、梅毒は2年連続で6,000人超えなのである。
春節で日本にやってきた新型コロナウイルスの中国人感染者が日本の風俗嬢を抱いたら、風俗嬢は100%の確率で感染する。その風俗嬢は2週間で50人超の男に100%感染させることができる。感染した男たちは働き盛りでアクティブに行動して感染を広げる。
新型コロナウイルスに感染したら1日で発症する人もいれば、25日目に発症する人もいる。平均して14日であるというのが今の定説だ。
新型コロナウイルスに感染した風俗嬢が、仮に14日間フルで風俗の仕事をして1日4人の客と関わったとしたら、彼女は14日で56人の客に感染させることになる。もし、感染した風俗嬢が10人いたらその10人が560人の人間を感染させることになる。
10人の風俗嬢だけで560人の男が感染してもおかしくないのである。
風俗嬢と関わる男は30代から50代までの働き盛りが大半なので、彼らは満員電車に乗って通勤する。
満員電車でこの560人が新型コロナウイルスをばら撒くと、東京は1ヶ月も経たないうちに武漢を彷彿とさせるほどの凄惨な汚染エリアと化す。
日本が壊滅するようなレベルになっても不思議ではない。

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新型コロナウイルスに一番近いのはスペイン風邪
 スペインかぜ(1918 flu pandemic, Spanish Flu)とは、1918年から1919年にかけ、全世界的に大流行したインフルエンザの通称。
当時20億人の世界人口の3割が感染して、5000万人が死亡したといわれるが、疫学研究者の説によれば、地球上のほぼ全員が感染した可能性がある
 発生源は、1918年3月のアメリカ・カンザス州の米軍基地。
 その後同年6月頃、ブレスト、ボストン、シエラレオネなどでより毒性の強い感染爆発が始まった。


 新型インフルエンザ対策に関する検討小委員会ではカナダの鴨のウイルスがイリノイ州の豚に感染したとの推定が委員から説明されている。
 感染者は約5億人以上、死者は5,000万人から1億人に及び、当時の世界人口は18〜20億人であると推定されているため、全人類の3割近くがスペインかぜに感染したことになる。感染者が最も多かった高齢者では、基本的にほとんどが生き残った一方で、青年層では、大量の死者が出ている。


 日本では、当時の人口5,500万人に対し39万人が死亡、米国でも50万人が死亡した。 これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。
 流行の経緯としては、第1波は1918年3月にアメリカ合衆国デトロイト市やサウスカロライナ州付近などで最初の流行があり、アメリカ軍のヨーロッパ進軍(第一次世界大戦における)と共に大西洋を渡り、5〜6月にヨーロッパで流行した。
 第2波は、1918年秋にほぼ世界中で同時に起こり、病原性がさらに強まり、重篤な合併症を起こし死者が急増した。
 第3波は、1919年春から秋にかけて、第2波と同じく世界で流行した。また、最初に医師・看護師の感染者が多く、医療体制が崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。
このパンデミックは、今回の新型コロナウイルス流行と似ている。初期に、医療関係者の大規模な感染が起きて、医療体制が崩壊したことがパンデミックを招いている。
 また、病原体が次々に突然変異を起こして、どんどん致死性の強いものに変化し、免疫を持たない若者たちを直撃して大量死に追いやった。したがって、新型コロナウイルスの致死性・毒性は、これから急激に変化する可能性があることを意味している
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/494.html#c1

[近代史3] ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調
ジョヴァンニ・バティスタ・ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲第22番イ短調


ボベスコのヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲第22番イ短調


Viotti, Violin Concerto No 22, Bobesco





Violin : Lola Bobesco
Staatliche Philharmonie Rheinland-Pfalz
Kurt Redel


Lola Bobesco, 1921-2003 2004年8月7日
ジョヴァンニ・バティスタ・ヴィオッティは、1755年にイタリア北部のフォンタネット・ポーで生まれたヴァイオリニスト兼作曲家だ。ガエターノ・プニャーニを師として主にパリを中心に演奏活動を展開し、マリー・アントワネットお抱えの楽士としてフランス革命の前まで活躍した。ヴァイオリニストとしてのヴィオッティは、フランスのヴァイオリン奏法に強い影響を与え、フランコ・ベルギー奏派の開祖と見做されることもある。


フランス革命以後は、ロンドンに滞在して一時ワインの貿易商人に転身し、パリに戻ってもワイン貿易の商売を続けたが、多額の負債を抱えて失敗し、1819年にパリ・オペラ座の音楽監督としてフランス楽檀に復帰をするも、昔日の栄光を取り戻すことはなかったという。


作曲家としては29曲ものヴァイオリン協奏曲を作ったことで知られる。


その中でもNo.22の協奏曲は、愁いを帯びた美しいメロディで特に知られ、19世紀になってからもヨハネス・ブラームスが贔屓にしていたという話が伝わる。


今日でもヴァイオリン学習者の間では上級の課題曲として広く知られている。
このヴィオッティのヴァイオリン協奏曲No.22を、ルーマニア出身の名手、ローラ・ボベスコの演奏で聴く。


一緒に収録されたNo.23もNo.22に劣らぬ名品であり、ヴァイオリン学習者が良く取り上げているのだが、ボベスコの演奏を耳にすれば、これらが学習者の練習曲に過ぎないという見解を改めざるを得なくなるであろう。


ボベスコの独奏は、ヴィオッティの書いた典雅なメロディを一音一音歌い上げる丁寧なもの。


No.22 の第一楽章で管弦楽による主題提示が終わり、独奏が登場する際の気品は、麗しき貴族の令嬢の一瞥を受けるような心地がする。すべての音に纏綿とヴィヴラートがかけられているのだが、それが全く嫌味にならず、しっとりとした情感に聴き手は感じ入るほかない。ぐいぐいと作品を引っ張っていくような能動的な推進力には欠けるものの、それを補って余りある演奏の気品に、何の非を打つ必要があろうか。


No.22 が雨に濡れた朝靄を思わせるとすれば、No.23 は、その雨が上がり、少しずつ日が差し込んでくる情景が思い浮かぶ。その情景を壊さないような繊細な配慮を感じさせるボベスコの独奏は、この曲を演奏する上での一つの模範である。


ライン・パラティナ国立管弦楽団(ライン国立フィルハーモニー管弦楽団)を指揮して伴奏をつけるクルト・レーデルも、ボベスコに寄り添う古雅な雰囲気を纏う。


No.22 の冒頭など、通常であれば、イ短調主和音を単純に鳴らすのだが、レーデルの場合は響きを漸強させた後に減衰させるという処置で音楽的にまろやかな流れを作り出している。自己主張をせず、ひたすらボベスコが自然な呼吸で演奏できるように寄り添う献身的な伴奏も、この演奏の仕上がりの美しさに花を添えている。
https://www.amazon.co.jp/ヴィオッティ-ヴァイオリン協奏曲第22番イ短調%EF%BC%8C-第23番ト長調-ボベスコ-ローラ/dp/B00005FF6H/ref=sr_1_9?keywords=%E3%83%9C%E3%83%99%E3%82%B9%E3%82%B3%28%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%29&qid=1582213709&sr=8-9


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ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの《ヴァイオリン協奏曲第22番イ短調》G97,Wl-22は1795年、あるいは1797-98年にロンドンで作曲されたヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲。


作者のヴァイオリン作品の代表作の一つで今日演奏される最も有名なもの。
三楽章構成で、ヴァイオリンの演奏技巧を発揮させながら、技巧に流れない中間楽章も含む。 全体的にイタリア風な旋律の美しさによって、独奏ヴァイオリンを十二分に活躍させるとともに、ハイドン・サイズのオーケストラを用いる事によって、従来独奏に対して従属的な地位にあった伴奏をそれと同位に引き上げようとしており、近代協奏曲への先がけが見える。


ブラームスやヨアヒムはこの曲の賛美者である。
ブラームス自身はベートーヴェンのコンチェルトよりもこの曲を好み、ヨアヒムのヴァイオリンと彼のピアノで何回も合奏を楽しんでは、その度に感激していたという。
またベートーヴェンもヴィオッティの作品はよく知っており、影響を受けたといわれている。


楽器編成
独奏ヴァイオリン、フルート1、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦楽五部


作品の内容
第1楽章 Moderato イ短調
古典的なソナタ形式。4分の4拍子。


冒頭のTuttiでイ短調主和音を提示し、愁愛に満ちた第一主題が始まる。イ長調の新しいテーマを出した後、優雅な第二主題をホ長調で歌う。次に、改めて独奏ヴァイオリンが第一主題を弾くが既に変奏されており、小結尾は長3度下のハ長調に急激に転調し、展開部に入る。16分音符にトリルをつけた華やかな装飾で第二主題を再現する。再現部の第一主題はオーケストラに現れ、ソロがそれを装飾する。イ長調の主題も歌われるが、第二主題はもはや再現されず、カデンツァに入る。全体的に移弦の技術も効果的で、largamenteの表示通り鷹揚に演奏される。


なおカデンツァはヨアヒムやイザイのものが有名。
また、クライスラーやヴィェニャフスキも残している。
演奏者が自作のカデンツァを弾くことも多い。


第2楽章 Adagio ホ長調
3部形式。2分の2拍子。落ち着いた緩徐楽章。


第一ヴァイオリンが静かに第一主題を出し、ソロが変奏しながらロ長調に移っていく。中間部は短く、オーケストラがホ短調の楽句を奏し、やがて再現部になるが、ホ長調の第一主題はソロに受け持たれる。
非常に通りがよく美しい楽章であるので、(本来中間楽章にはつけない慣例を破って)やはりヨアヒムがカデンツァを遺している。


第3楽章 Agitato assai イ短調
ロンド形式。4分の2拍子。急速な終楽章。


ロンドの終曲である。魅力的なロンド主題がソロに提示され、オケのTuttiが続く。新しい旋律がやはりイ短調で美しく歌われたあと、ロンド主題から派生した副主題がハ長調で現れ、長い経過句に入る。 やがてロンド主題の再現となり、副主題にもロ短調で現れたあと走句がやってくる。次にオーケストラがロンド主題を再現し、伴奏を伴う短いカデンツァの後、ソロが主題を再現しコーダへと続く。 高音域と移弦のテクニックを披露する。


https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァイオリン協奏曲第22番_(ヴィオッティ)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/922.html

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
36. 中川隆[-13679] koaQ7Jey 2020年2月21日 01:10:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-202]
ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/922.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c36
[近代史3] ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調 中川隆
1. 中川隆[-13678] koaQ7Jey 2020年2月21日 01:25:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-201]
ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲第22番 2018.11.28
http://www.hananoe.jp/classical/gakunomori/gakunomori149.html

偉大なる系譜

 ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティは1755年に生まれたイタリア出身のヴァイオリニストであり作曲家である。フランスのパリで演奏会を行い、注目を浴びたのは17歳の時のこと。その後、マリー・アントワネットに認められて宮廷音楽家になり、名声を博した。

 フランス革命後、ヴィオッティは不遇の身となり、ロンドンへ行き、演奏家・作曲家として活動を続けていた。有名なヴァイオリン協奏曲第22番が書かれたのはこの時期とみられている。1819年にはフランスに戻り、オペラ座の指揮者を務めていたが、晩年はまたロンドンへ渡り、1824年に同地で亡くなった。

 ヴィオッティの師はトリノの宮廷楽団の花形だったガエターノ・プニャーニであり、プニャーニの師はジョヴァンニ・バッティスタ・ソミスである。そして、ソミスの師はアルカンジェッロ・コレッリという風にさかのぼることが出来る。そんな偉大なる系譜の中で、ヴィオッティは演奏家のみならず教育者としても大きな役割を果たし、若きヴァイオリニストたちにとって教祖的な存在となった。

 18世紀末から19世紀前半にかけて活躍したピエール・ロードも、ピエール・バイヨも、ヴィオッティの門弟である。さらに、ベートーヴェンからヴァイオリン・ソナタ第9番を献呈されたロドルフ・クロイツェルや、ニコロ・パガニーニの伝記に必ずと言っていいほど名前が出てくるアウグスト・ドゥラノフスキにも、大きな影響を与えた。後年はシャルル・オーギュスト・ベリオにも教えていた。ヴィオッティに学び、バイヨにも学んだベリオは、周知の通り、「フランコ=ベルギー楽派」の創始者として名を残すことになる。

 現在、ヴィオッティの名前はヴァイオリン協奏曲第22番の作曲者として知られている。その生涯に完成させたヴァイオリン協奏曲は29作品もあるのだが、人気も評価も第22番に集中しているようだ。作曲時期については1792年、1793年、1795年、1797年、1798年など諸説あり、19世紀に入って間もなく各地で演奏されるようになったとみられる。

 この傑作は、ベートーヴェンやブラームスがヴァイオリン協奏曲を作曲する上で大いに参考にされた。特にブラームスの偏愛ぶりは相当なものだったようで、ヨーゼフ・ヨアヒムと共に第22番を何度も愛奏し、そのたびに感激していた。これはブラームスのヴァイオリン協奏曲が好きな人なら、誰もが知るエピソードだ。

 第1楽章はモデラート。イ短調の和音の後、哀感と陰翳に富む美しい第一主題が奏でられ、その後、優雅な第二主題が現れ、独奏ヴァイオリンが登場する。独奏ヴァイオリンが弾く第一主題は変奏されおり、甘くのびやかなカンタービレで強く印象付けられる。そこから巧みな変奏、装飾音、移調が駆使され、一分の隙もなく展開部、再現部へと続いてゆく。

 第2楽章はアダージョ。ホ長調の主題は穏やかな美しさを持っているが、独奏ヴァイオリンがこの主題を変奏して弾く時、それが第一楽章の第一主題の分身であることに気付かされる。中間部で管弦楽がホ短調で楽句を響かせると、すぐに再現部に入り、冒頭の主題が独奏ヴァイオリンによって静かに奏でられる。

 第3楽章はアジタート・アッサイ。ロンド形式で、軽やかだが鋭さを持つイ短調の主題が独奏ヴァイオリンによって奏でられる。管弦楽がそれを受け継いだ後、やはりイ短調の新しい歌謡的な旋律が独奏ヴァイオリンによって歌われ、間もなくハ長調へと移行する。ここから再びイ短調へと戻るまでの経過部がユニークで、徐々に陰翳が深くなり冒頭のロンド主題が再現される。カデンツァは珍しく伴奏つきで演奏され、最後にロンド主題を奏でた後、力強い総奏によって曲は閉じられる。

 優雅さ、哀切さ、甘さ、翳りをすべて備えた作品である。魅力的なフレーズをちりばめ、ソリストを自由に活躍させ、たっぷりとヴァイオリンを歌わせて、その音色を堪能させる工夫も施されている。管弦楽の方も中身のない派手さや単調さに陥ることなく、各パートを美しく、時に劇的に響かせ、豊かな音色で聴き手の耳を奪う。ソリストだけが目立てば成立するタイプの協奏曲ではないのだ。しかも、全楽章を通して不自然なもの、わざとらしいものがなく、労苦の跡も感じさせない。一切の無駄なく、完璧にまとまっている。演奏時間は大体30分弱だが、私はこの作品を聴いて長いと感じたことがない。


 モノラル録音ではペーター・リバール独奏、クレメンス・ダヒンデン指揮、ヴィンタートゥール響の演奏(1952年録音)が昔から高く評価されている。このヴァイオリンの音色自体は明澄だが(音質は古い)、旋律の陰翳が濃く浮き出ている。優雅なフレーズを弾いても、切々と胸に迫るものがある。

 ほかにもダヴィッド・オイストラフ、ユーディ・メニューイン、オスカー・シュムスキー(ピアノ伴奏版)、アイザック・スターン、ズザーネ・ラウテンバッヒャー、イツァーク・パールマンといった錚々たる演奏家が録音している。どれも名演であり、誰が抜きん出ているとは言い難い。ただ、やはり「フランコ=ベルギー楽派」の流れを汲む演奏は聴いておくべきだろう。

アルテュール・グリュミオー独奏、エド・デ・ワールト指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管(1969年録音)の演奏と、ローラ・ボベスコ独奏、クルト・レーデル指揮、ライン・パラティナ国立管(1980年録音)である。

特にグリュミオーの艶やかな美音となめらかなフレージングは、いかにもヴィオッティの音楽にふさわしいものに思える。
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[近代史3] ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調 中川隆
2. 中川隆[-13677] koaQ7Jey 2020年2月21日 01:34:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-200]
ペーター・リバール

Viotti Violin Concerto No.22 in A minor(Peter Rybar 1950)



____






Peter Rybar(Violin)
Clemens Dahinden
Winterthur Symphony Orchestra
1950 Winterthur

▲△▽▼

Viotti / Peter Rybar, 1952: Violin Concerto No. 22 in A Minor - Winterthur Symphony Orchestra



From the LP you see above, issued in 1952 on the Westminster label, catalogue number WL 5049. Peter Rybar, violin.



2006年02月26日
ヴィオッティ/ヴァイオリン協奏曲第22番、ナルディーニ/ヴァイオリン協奏曲(ペーター・リバールviolin、クレメンス・ダヒンデン指揮ウィンタートゥール交響楽団)(米ウエストミンスター WL50−49)

「モーツァルトやバッハは演奏家が余計なことをしない方がうまくいく」と幾度となく申し上げてきました。私が魅了される演奏をよくよく考えてみると、もちろん例外はありますが多くの場合「グレイトな演奏」よりも「グッドな演奏」であるようです。演奏家もヴィルトゥオーゾ・タイプを気に入ることはほとんどなく、個性派もしくは良識派タイプに強く惹かれます。

これまで多くの個性派を取り上げてきましたが、今日ご紹介するのは典型的な良識派ヴァイオリニストにして私が秘かに愛するペーター・リバールです。彼をご存知ない方が大多数だと思いますが、シェリングがPHILIPSに録れた1回目のバッハの協奏曲集(名盤!通算では2回目ですが)で2台のヴァイオリンのための協奏曲を一緒に弾いているヴァイオリニストです(現在CD化されています)。

リバールはチェコ人を両親として1913年ウィーンに生まれました。ウィーンで名教師カール・フレッシュに学んだのちジュネーヴ音楽院に学びましたが、1937年スイスのウィンタートゥール交響楽団のコンサートマスターに迎えられ、また同時にウィンタートゥールSQの第1ヴァイオリンも務めました。

ウィンタートゥールはわずか6万人程の小さな街ですが、音楽は盛んで高い水準を誇っており、音楽院は1629年創立という古い歴史を有しています。オーケストラも音楽院が管理していて1873年の設立、バロックおよび古典初期の音楽に際立った名演を多く残しています。リバールはこの環境がいたく気に入ったらしく、スイス国籍を取得して音楽活動に邁進します。

リバールの演奏は派手さとは無縁の、端正な表現が持ち味。独奏者としては1932年からヨーロッパ各地を楽旅する一方、母校ウィンタートゥール音楽院のヴァイオリン科の教授も務めました。

今日ご紹介するヴィオッティとナルディーニのヴァイオリン協奏曲のカップリングは、我が国でもLP初期の名盤として燦然と輝いていました。過去形で書いたのにはそれ相応の理由があります。

これは以前何かの資料で読んだように記憶していることなので、もしかしたら間違っているかもしれませんが、このリバールのヴィオッティのヴァイオリン協奏曲第22番が50年代のラジオでのクラシック音楽番組のテーマ曲に使われていたらしいのです。当時の物価水準から考えて一般的なサラリーマンがLPを購入することなど極めて珍しかった時代(当blogでいう“ミッシングリング”な時代)では、このような渋いレパートリーが実際に売れた枚数が極小であったことは想像に難くなく、有名なディスクであるにもかかわらず幻の名盤になってしまった、という極めて例外的なレコードであったといえましょう。実際、国内盤としては1956年に一度出ただけでLP末期まで廃盤状態、アメリカ本国でも1951年にリリースされて以来たった一度再発されただけでカタログから姿を消していました。また、ウエストミンスターの音源はヨーロッパでは英NIXAやWHITEHALL、仏デュクレテ・トムソンやVEGA、独ヘリオドールあたりで出るものなのですが、この盤に関してはヨーロッパのどの国からも発売された形跡がありません。まさに幻といわれる所以です。

とくにこのヴィオッティの憂いを含んだ甘美な曲想にリバールのやや硬質で清澄な音色はまさにドンピシャリで、その表現の繊細さと瑞々しさはヴァイオリン好きを虜にする魔力を秘めています。

この盤も先ごろグリーンドア音楽出版より復刻されましたが、未聴ゆえ復刻に関するコメントは差し控えさせていただき、ご紹介するに留めたいと思います。また、彼のブラームスも同レーベルより復刻されています。スイスのDORONレーベルからも未発表のライヴ音源(ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲)を含め、彼の代表的なマイナーレーベルへの録音が復刻されています。
http://blog.livedoor.jp/e86013/archives/50420086.html

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[近代史3] ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調 中川隆
3. 中川隆[-13676] koaQ7Jey 2020年2月21日 01:39:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-199]

グリュミオー


Grumiaux plays Viotti Concerto 22










アルテュール・グリュミオー独奏、
エド・デ・ワールト指揮、
ロイヤル・コンセルトヘボウ管
(1969年録音)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/922.html#c3
[番外地7] 自衛官はバカがやる仕事 中川隆
1. 中川隆[-13675] koaQ7Jey 2020年2月21日 09:18:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-198]
自衛官は自分の頭では何も考えられない人向きの仕事ですね。
自分では判断できないので、上役に何をしたらいいか指示して貰う方が楽なんです。
結果に対して責任取る必要も無いしね。
官僚も同じなのですが、官僚の場合は暗記力が良くないとできないですからね。
まあ、法学をやるのはバカに決まってるけどね:

イエスよ、おまえがまだこの地上におったころ、あれほど主張した人民の自由は、まだあのころから、千五百年も前から、おまえにとっては何より大切なものだったではないか、あの当時、

《われなんじらを自由にせん》と、よく言っていたのはおまえではなかったか、

『われわれはこの自由のために苦しんできたが、やっと今は完成した。
人民は今、いつにもまして、現に今、自分たちが完全に自分になったと信じておるのだ。しかも、その自由を、彼らはみずから進んでわれわれに捧げてくれた。
そして、ねんごろにわれわれの足もとへそれを置いてくれたのだ。

われわれには弱い人間も大切なのだ、彼らは不徳感で反逆者ではあっても、最後にはかえってこういう人間が従順になるのだ。彼らはわれわれに感嘆して、神とまで崇めるに至るだろう。なぜならば、われわれは彼らの先頭に立って、彼らの恐れている自由に甘んじて耐えて、彼らの上に君臨することを諾うからだ。かくして、結局、彼らは、自由になることを恐ろしいと感じだすに違いない! 

自由になった人間にとって、最も苦しい、しかも絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇むべき者を捜し出すことである。しかし、人間という者は議論の余地なく崇拝に値する者を求めている、万人ことごとく打ちそろって、一時にその前にひざまずき拝し得るような、絶対的に崇むるに足る対象を求めているのだ。これらの哀れな被造物の心労は、めいめい勝手な崇拝の対象を求めるだけではなく、万人が信服してその前にひざまずくことのできるような者を捜し出すことにあるのだ。どうしても、《すべての人といっしょ》でなければ承知しないのだ。

われわれは、おまえの事業を訂正して、それを奇跡と神秘と教権の上にすえつけたのだ。すると民衆は、再び自分たちを羊の群れのように導いてくれる者ができ、それほど彼らに苦痛をもたらしたあの恐ろしい贈り物を。ついに取りのけてもらえる時が来たのを喜んだのだ。自由だとか、自由な知恵だとか、科学だとかは、彼らをものすごい渓谷に連れこんで、恐ろしい奇跡や、解きがたい神秘の前に立たせるため、彼らのうち頑強で獰猛な者は自殺してしまうし、頑固であっても弱い者は互いに滅ぼし合うだろう、その他のいくじのない不仕合わせな者たちは、われわれの足もとへはい寄って、こう叫ぶのだ、

《あなたがたは正しゅうございました。あなたがたのみがキリストの神秘を持っていらっしゃいます。でありまするから、わたくしどもはあなたがたのところへ帰ります。どうか、わたくしどもを自分自身から救ってくださいまし》
そこで、われわれは彼ら自身の得たパンをその手から取り上げると、石をパンに変えるというような奇跡などは何も行なわないで、再び彼らにそれを、分配してやる、彼らはパンを受け取る時に、このことをはっきり承知しているけれど、彼らが喜ぶのはパンそのものよりも、むしろ、それをわれわれの手から受け取るということなのだ! 

羊の群れもまた再び呼び集められて、今度こそ永久に服従することだろう。その時になって、われわれは彼らに穏やかなつつましい幸福を授けてやる。彼らの本来の性質たるいくじのない動物としての幸福を授けてやるのだ。おお、われわれは最後に彼らを説き伏せて、けっして誇りをいだかないようにしてやる。
つまり、おまえが彼らの位置を高めるために、彼らに誇りを教えこんだからだ。そこでわれわれは彼らに向かって、おまえたちはいくじなしでほんの哀れな子供のようなものだ、そして子供の幸福ほど甘いものはないと言い聞かせてやる。
すると、彼らは臆病になって、まるで巣についた牝鶏が雛に寄り添うように、恐ろしさに震えながら、われわれのほうへ身をすり寄せて、われわれを振り仰ぐに違いない。


彼らはわれわれのほうへ詰め寄りながらも、同時にわれわれを崇め恐れて、荒れさわぐ数億の羊の群れを鎮撫することのできる偉大な力と知恵とをもったわれわれを、誇りとするに至るだろう。彼らはわれわれの怒りを見て、哀れにも震えおののいて、その心は臆し、その眼は女や子供のように涙もろくなるだろう。
しかし、われわれがちょっと合い図さえすれば、たちまち身も軽々と、歓楽や、笑いや、幸福の子供らしい歌へ移るのだ。


むろん、われわれは彼らに労働を強いるけれど、暇なときには彼らのために子供らしい歌と合唱と、罪のない踊りの生活を授けてやる。ちょうど子供のために遊戯を催してやるようなものだ。


もちろん、われわれは彼らに罪悪をも許してやる。彼らは弱々しい力ない者だから、罪を犯すことを許してやると、子供のようにわれわれを愛するようになる。どんな罪でもわれわれの許しさえ得て行なえばあがなえる、とこう彼らに言い聞かせてやる。


罪悪を許してやるのは、われわれが彼らを愛するからだ。その罪悪に対する応報は、当然われわれ自身で引き受けてやるのだ。そうしてやると、彼らは神様に対して自分たちの罪を引き受けてくれた恩人として、われわれをますます崇めるようになる。したがってわれわれに何一つ隠しだてをしないようになる。

彼らが妻の他に情婦と同棲することも、子供を持つことも、持たぬことも、すべては彼らの従順であるか従順でないか、したがって、許しもすれば、とがめもする。こうして彼らは楽しく喜ばしくわれわれに服従してくるのである。最も悩ましい良心の秘密も、それから――いや、何もかも、本当に何もかも、彼らはわれわれのところへ持って来る。するとわれわれはいっさいのことを解決してやる。この解決を彼らは喜んで信用するに違いない。というのは、それによって大きな心配を免れることもできるし、今のように自分で勝手に解決するという恐ろしい苦痛を免れることができるからだ。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/496.html#c1

[番外地7] 自衛官はバカがやる仕事 中川隆
2. 中川隆[-13674] koaQ7Jey 2020年2月21日 09:21:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-197]
自衛官は自分の頭では何も考えられない人向きの仕事ですね。
自分では判断できないので、上役に何をしたらいいか指示して貰う方が楽なんです。
結果に対して責任取る必要も無いしね。
官僚も同じなのですが、官僚の場合は暗記力が良くないとできないですからね。
まあ、法学をやるのはバカに決まってるけどね:

カラマゾフの兄弟 大審問官

イエスよ、おまえがまだこの地上におったころ、あれほど主張した人民の自由は、まだあのころから、千五百年も前から、おまえにとっては何より大切なものだったではないか、あの当時、

《われなんじらを自由にせん》と、よく言っていたのはおまえではなかったか、

『われわれはこの自由のために苦しんできたが、やっと今は完成した。
人民は今、いつにもまして、現に今、自分たちが完全に自分になったと信じておるのだ。しかも、その自由を、彼らはみずから進んでわれわれに捧げてくれた。
そして、ねんごろにわれわれの足もとへそれを置いてくれたのだ。

われわれには弱い人間も大切なのだ、彼らは不徳感で反逆者ではあっても、最後にはかえってこういう人間が従順になるのだ。彼らはわれわれに感嘆して、神とまで崇めるに至るだろう。なぜならば、われわれは彼らの先頭に立って、彼らの恐れている自由に甘んじて耐えて、彼らの上に君臨することを諾うからだ。かくして、結局、彼らは、自由になることを恐ろしいと感じだすに違いない! 

自由になった人間にとって、最も苦しい、しかも絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇むべき者を捜し出すことである。しかし、人間という者は議論の余地なく崇拝に値する者を求めている、万人ことごとく打ちそろって、一時にその前にひざまずき拝し得るような、絶対的に崇むるに足る対象を求めているのだ。これらの哀れな被造物の心労は、めいめい勝手な崇拝の対象を求めるだけではなく、万人が信服してその前にひざまずくことのできるような者を捜し出すことにあるのだ。どうしても、《すべての人といっしょ》でなければ承知しないのだ。

われわれは、おまえの事業を訂正して、それを奇跡と神秘と教権の上にすえつけたのだ。すると民衆は、再び自分たちを羊の群れのように導いてくれる者ができ、それほど彼らに苦痛をもたらしたあの恐ろしい贈り物を。ついに取りのけてもらえる時が来たのを喜んだのだ。自由だとか、自由な知恵だとか、科学だとかは、彼らをものすごい渓谷に連れこんで、恐ろしい奇跡や、解きがたい神秘の前に立たせるため、彼らのうち頑強で獰猛な者は自殺してしまうし、頑固であっても弱い者は互いに滅ぼし合うだろう、その他のいくじのない不仕合わせな者たちは、われわれの足もとへはい寄って、こう叫ぶのだ、

《あなたがたは正しゅうございました。あなたがたのみがキリストの神秘を持っていらっしゃいます。でありまするから、わたくしどもはあなたがたのところへ帰ります。どうか、わたくしどもを自分自身から救ってくださいまし》
そこで、われわれは彼ら自身の得たパンをその手から取り上げると、石をパンに変えるというような奇跡などは何も行なわないで、再び彼らにそれを、分配してやる、彼らはパンを受け取る時に、このことをはっきり承知しているけれど、彼らが喜ぶのはパンそのものよりも、むしろ、それをわれわれの手から受け取るということなのだ! 

羊の群れもまた再び呼び集められて、今度こそ永久に服従することだろう。その時になって、われわれは彼らに穏やかなつつましい幸福を授けてやる。彼らの本来の性質たるいくじのない動物としての幸福を授けてやるのだ。おお、われわれは最後に彼らを説き伏せて、けっして誇りをいだかないようにしてやる。
つまり、おまえが彼らの位置を高めるために、彼らに誇りを教えこんだからだ。そこでわれわれは彼らに向かって、おまえたちはいくじなしでほんの哀れな子供のようなものだ、そして子供の幸福ほど甘いものはないと言い聞かせてやる。
すると、彼らは臆病になって、まるで巣についた牝鶏が雛に寄り添うように、恐ろしさに震えながら、われわれのほうへ身をすり寄せて、われわれを振り仰ぐに違いない。


彼らはわれわれのほうへ詰め寄りながらも、同時にわれわれを崇め恐れて、荒れさわぐ数億の羊の群れを鎮撫することのできる偉大な力と知恵とをもったわれわれを、誇りとするに至るだろう。彼らはわれわれの怒りを見て、哀れにも震えおののいて、その心は臆し、その眼は女や子供のように涙もろくなるだろう。
しかし、われわれがちょっと合い図さえすれば、たちまち身も軽々と、歓楽や、笑いや、幸福の子供らしい歌へ移るのだ。


むろん、われわれは彼らに労働を強いるけれど、暇なときには彼らのために子供らしい歌と合唱と、罪のない踊りの生活を授けてやる。ちょうど子供のために遊戯を催してやるようなものだ。


もちろん、われわれは彼らに罪悪をも許してやる。彼らは弱々しい力ない者だから、罪を犯すことを許してやると、子供のようにわれわれを愛するようになる。どんな罪でもわれわれの許しさえ得て行なえばあがなえる、とこう彼らに言い聞かせてやる。


罪悪を許してやるのは、われわれが彼らを愛するからだ。その罪悪に対する応報は、当然われわれ自身で引き受けてやるのだ。そうしてやると、彼らは神様に対して自分たちの罪を引き受けてくれた恩人として、われわれをますます崇めるようになる。したがってわれわれに何一つ隠しだてをしないようになる。

彼らが妻の他に情婦と同棲することも、子供を持つことも、持たぬことも、すべては彼らの従順であるか従順でないか、したがって、許しもすれば、とがめもする。こうして彼らは楽しく喜ばしくわれわれに服従してくるのである。最も悩ましい良心の秘密も、それから――いや、何もかも、本当に何もかも、彼らはわれわれのところへ持って来る。するとわれわれはいっさいのことを解決してやる。この解決を彼らは喜んで信用するに違いない。というのは、それによって大きな心配を免れることもできるし、今のように自分で勝手に解決するという恐ろしい苦痛を免れることができるからだ。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/496.html#c2

[近代史4] ショスタコーヴィチ

誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/153.html
[近代史4] バルトーク

バルトークの家系と出自 _ バルトークは作品ごとにマジャール人、スラヴ人、ルーマニア人、ジプシーが顔を出す
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/807.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/154.html
[近代史4] ウェーベルン

ウェーベルン


ピエール・ブーレーズ 「シェーンベルクは死んだ。ウェーベルン万歳」 _ 100年も前の作曲家 ウェーベルンが何故今でも現代音楽なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/711.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/155.html

[近代史4] ベルク

ベルク


ベルクのヴァイオリン協奏曲は何度聴いても理解不能なんだけど、本当にみんな感動してるの?(強い疑い)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/710.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/156.html

[近代史4] シェーンベルク

シェーンベルク


アルノルト・シェーンベルク _ 最初期の『浄められた夜』は素晴らしかったのに何であんな風になっちゃったの?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/714.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/157.html

[近代史4] ストラヴィンスキー

ストラヴィンスキー

20世紀の音楽を切り開いたストラヴィンスキー「春の祭典」の衝撃
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/818.html

ストラヴィンスキー バレエ音楽 『ペトルーシュカ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/821.html

ストラヴィンスキー バレエ音楽 『火の鳥』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/822.html

ストラヴィンスキー バレエ音楽『オルフェウス』・3楽章の交響曲
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/823.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/158.html

[近代史4] ラヴェル

ラヴェル

モーリス・ラヴェル 『亡き王女のためのパヴァーヌ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/897.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/159.html

[近代史4] ドビュッシー

ドビュッシー


ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」をもって現代音楽が始まった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/809.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/160.html

[近代史4] フォーレ

フォーレ

ガブリエル・フォーレ 『夢の中に』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/912.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/161.html

[近代史4] 国民楽派の音楽

国民楽派の音楽

フランツ・リスト 『ラ・カンパネラ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/880.html

アントニン・ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調 作品95 『新世界より』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/872.html

ベドルジハ・スメタナ 『モルダウ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/884.html

モデスト・ムソルグスキー 組曲 『展覧会の絵』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/874.html

リムスキー=コルサコフ 『シェヘラザード』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/898.html

アレクサンドル・スクリャービン 『焔に向かって』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/873.html

イサーク・アルベニス 『アストゥリアス 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/875.html

イサーク・アルベニス 『マラゲーニャ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/876.html

ヴェルディ オペラ 『椿姫』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/835.html

プッチーニ オペラ 『ラ・ボエーム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/907.html

プッチーニ オペラ 『蝶々夫人』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/908.html

ビゼー 『カルメン』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/909.html

ビゼー 『アルルの女』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/910.html

サン=サーンス 『動物の謝肉祭 白鳥』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/911.html

プフィッツナーを聴く
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/417.html

現代の人にはほとんど忘れられたフランス楽派の巨匠ブーシュリ
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/544.html

ヨハン・シュトラウス 2世 『皇帝円舞曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/878.html

リヒャルト・シュトラウス 『薔薇の騎士』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/881.html

武満徹と映画、音と音楽
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/717.html

エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/162.html

[近代史4] マーラー

マーラー


グスタフ・マーラー 『アダージェット』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/882.html

グスタフ・マーラー 『大地の歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/887.html

グスタフ・マーラー 交響曲第9番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/885.html

グスタフ・マーラー 交響曲第10番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/892.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/163.html

[近代史4] ブラームス

ブラームス


ドイツ人にしか理解できないブラームスが何故日本でこんなに人気が有るのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/681.html

ヨハネス・ブラームス 『4つの厳粛な歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/869.html

ヨハネス・ブラームス 『雨の歌 Regenlied ・ 余韻 Nachklang』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/870.html

ヨハネス・ブラームス 『5つの歌曲 Op.105-2 我が まどろみ はますます浅くなり』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/871.html

ブラームス 『ドイツ・レクイエム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/840.html

ブラームス最晩年のクラリネット曲に秘められたメッセージとは
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/434.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/164.html

[近代史4] フランク

フランク


セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/915.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/165.html

[近代史4] ショパン

ショパン


フレデリック・ショパン 『幻想即興曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/861.html

フレデリック・ショパン 『バラード第1番ト短調』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/862.html

フレデリック・ショパン 『ピアノソナタ第2番 変ロ短調』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/863.html

フレデリック・ショパン 『舟歌 Barcarolle 嬰ヘ長調』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/864.html

フレデリック・ショパン 『英雄ポロネーズ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/865.html

フレデリック・ショパン 『軍隊ポロネーズ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/866.html

フレデリック・ショパン 『幻想ポロネーズ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/867.html

フレデリック・ショパン 『夜想曲第2番 変ホ長調』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/868.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/166.html

[近代史4] ブルックナー

ブルックナー

ブルックナーの作品は日本の男のためにある _ 日本でのブルックナー人気は宇野功芳のカリスマ評論が唯一の原因
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/684.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/167.html

[近代史4] ワーグナー

ワーグナー


ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/811.html

ワーグナー 舞台祝典劇 「ニーベルングの指輪」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/812.html

ワーグナー 楽劇「パルジファル」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/813.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/168.html

[近代史4] シューマン

シューマン


ロベルト・シューマン 交響曲第4番
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/895.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/169.html

[近代史4] メンデルスゾーン

メンデルスゾーン

メンデルスゾーン 交響曲 『スコットランド』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/894.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/170.html

[近代史4] ベルリオーズ

ベルリオーズ

ベルリオーズ 『幻想交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/916.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/171.html

[近代史4] シューベルト

シューベルト


シューベルト 『未完成交響曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/856.html

シューベルト 『交響曲 ハ長調 D 944 』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/857.html

シューベルト 劇付随音楽 『ロザムンデ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/858.html

シューベルト 『軍隊行進曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/859.html

シューベルト 『弦楽五重奏曲 ハ長調 D956』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/860.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/172.html

[近代史4] ウェーバー

ウェーバー

ウェーバー オペラ 『魔弾の射手』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/834.htm
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/173.html

[近代史4] ベートーヴェン

ベートーヴェン


ベートーヴェンの真実 _ ベートーヴェンは何故お金に困る様になったのか?
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/569.html

ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3 _ 何故この曲だけこんなに人気が有るのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/680.html

ベートーヴェン 『交響曲第9番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/838.html

ベートーヴェン 『交響曲第8番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/844.html

ベートーヴェン 『交響曲第7番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/845.html

ベートーヴェン 『交響曲第6番 田園』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/846.html

ベートーヴェン 『交響曲第5番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/841.html

ベートーヴェン 『交響曲第4番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/849.html

ベートーヴェン 『交響曲第3番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/843.html

ベートーヴェン 『交響曲第2番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/850.html

ベートーヴェン 『ミサ・ソレムニス』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/837.html

ベートーヴェン オペラ 『フィデリオ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/836.html

ベートーヴェン 『フィデリオ序曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/855.html

ベートーヴェン 『レオノーレ序曲 第2番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/853.html

ベートーヴェン 『レオノーレ序曲 第3番』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/854.html

ベートーヴェン 『エグモント序曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/851.html

ベートーヴェン 『コリオラン序曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/852.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/174.html

[近代史4] モーツァルト

モーツァルト

モーツァルト 魔笛 ・ドン・ジョヴァンニ を聴く
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/559.html

モーツァルトで本当にいいのは 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」だけ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/815.html

モーツァルト 歌劇「魔笛」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/816.html

モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/817.html

モーツァルト 『レクイエム』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/839.html

クールな音楽家モーツァルト
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/820.html

ブルーノ・ワルター _ モーツァルトの名盤
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/832.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/175.html

[近代史4] ハイドン

ハイドン


フランツ・ヨーゼフ・ハイドン 交響曲 第100番ト長調「軍隊」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/877.html  
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/176.html

[近代史4] 古典派の音楽

古典派の音楽


グルック オペラ 『オルフェオとエウリディーチェ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/833.html

ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲 第22番 イ短調
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/922.html



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/177.html

[近代史4] バッハ

バッハ

バッハ 『マタイ受難曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/827.html

バッハ シャコンヌを聴く
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/438.html

YouTube で聴くシャコンヌの名盤
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/439.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/178.html

[近代史4] ヘンデル

ヘンデル

ヘンデル オペラ 『アグリッピナ』 _ ヘンデルのオペラ・オラトリオはどんな曲でもモーツァルトのオペラより上
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/824.html

ヘンデル オラトリオ 『エジプトのイスラエル人』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/825.html

ヘンデル オペラ 『エジプトのジュリアス・シーザー』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/826.html

ヘンデル 音楽劇 『ヘラクレス』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/828.html

ヘンデル オペラ 『フラーヴィオ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/830.html

ヘンデル 音楽劇 『セメレ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/831.html

ヘンデル オラトリオ 『サムソン』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/829.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/179.html

[近代史4] バロック音楽

バロック音楽


ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 Op. 3, No. 6, RV 356
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/918.html

『パッヘルベルのカノン』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/920.html

レモ・ジャゾット 『アルビノーニのアダージョ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/919.html

タルティーニ 『悪魔のトリル』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/921.html



http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/180.html

[近代史4] モンテヴェルディ

モンテヴェルディ


音楽史上最高の名作 モンテヴェルディ 歌劇「ポッペアの戴冠」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/814.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/181.html

[近代史3] 中国が東トルキスタン共和国(現ウイグル自治区)を乗っ取った手口 中川隆
31. 中川隆[-13673] koaQ7Jey 2020年2月21日 11:20:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-196]
【Front Japan 桜】ウイグルは屈せず〜中国の虐殺と弾圧の現状−ムカイダイス [桜R2/2/20]


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/205.html#c31
[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
165. 中川隆[-13672] koaQ7Jey 2020年2月21日 11:24:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-195]

JBLユニットの追放劇 - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2020年02月21日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0e0453d8e943fbb5666afb1ac09da6c0


タイトルにある「追放」という言葉はちょっと語感が強すぎる気がする。

これまでJBLユニットには散々お世話になっておきながら「その言い草は何だ、この薄情者め!」と謗られそうだが、いくら考えてみてもほかの言葉が思い浮かばない。どうせ相手は人間じゃないし、まあいっか(笑)。

さて、「AXIOM80」の2発体制にしてからおよそ1週間余りだが、性懲りもなく飽くなき探求が続いている。まだまだ「発展途上」の感は拭えない。

読者から「いい加減にしろ!」とお叱りを受けそうだが、実はオーディオの面白さは完成形にあるのではなくその過程にあるとは思いませんかね(笑)。

それでは、本題のJBL機器の一斉追放について記してみよう。

まず、
✰ JBL「D123」 → 「AXIOM150マークU」へ

「ウーファーとして使っているD123も悪くはないのですが、AXIOM80と同じグッドマンということで「AXIOM150マークU」(以下「マークU」)をぜひ聴いてみたいですね。」と、オーディオ仲間。

そこで「ああ、お安い御用ですよ」とご本人の面前で交換した。

バッフルへのネジ止め作業は不要で、木製の植木鉢の中のユニットをそっくり交換するだけだから実に簡単。10分ほどで左右両チャンネルの作業を終了し一緒に耳を澄まして聴いてみた。

担当する周波数帯域は「125ヘルツ」(−18db/oct)以下と、まさにギンギラギンの低音域である。

「D123のときと比べるとさすがにグッドマン同士だけのことはあります。音色が合ってますよ。こちらの方がより自然です。もう低音域用の「AXIOM80」(復刻版)は不要でいいかもしれないと思わせるほどです。」

そうですか・・・。

「喜ぶべきか、悲しむべきか」、まるで「to be、 or not to be」のハムレットみたいな心境になった(笑)。

選択肢の質が向上するのはいいことだが、その一方では重量級の大きなアルニコマグネット付きの「マークU」を、たったの「125ヘルツ以下」で使うのは何だか勿体ないというか申し訳ないというか。ま、出番があるだけいいかな・・。

と、心が千々に乱れる中で「D123」はあえなく追放処分となった。これまで、どうもありがとさん。

そして、次のターゲットはJBL「075」だ!
✰ JBL「075ツィーター」 → 「デッカのリボンツィーター」へ

「AXIOM80の音色からいくと、075よりもむしろデッカのリボンツィーターの方が合うように思いますけどねえ」と、大のデッカ好きの仲間がさらに追い打ちをかけてきた。

「それは分かってますけど、デッカは既にウェストミンスター(改)の方で活躍していますから・・」と、思わず逃げ腰に(笑)。

そう、どうしても二者択一になってしまう。「両雄並び立たず」とでも言おうか。

つまり「雄大なスケール感」が売り物の「ウェストミンスター」と「胸にキュンと来る切なさと色気」が売り物の「AXIOM80の2発体制」のどちらを我が家のエースにするかということに尽きてしまうのだ。

となると、やっぱり年甲斐もなく「色気」の方が大切なんですよねえ!(笑)

というわけで、涙を呑んで「075」を追放して「デッカ」を載せてみた。

もちろん駆動するアンプの方も「71A(レイセオン)シングル」から、「2A3シングル」へ交換。能率の低いデッカはパワー感のある真空管アンプじゃないとうまく鳴ってくれないのが難点。

ちなみに、リボンツィーターのいいところはどんなスコーカーに対してもごく自然に音が溶け込むところにある。音色が実に自然なのである。これは使ったことがある人じゃないと分からない。

今回も極めて個性的ともいえる「AXIOM80」にも、とても相性が良かった。

しかも、クロスオーバーを「8000ヘルツ」から「6000ヘルツ」にしてデッカの出番を増やしたところ、さらに艶と輝きが増したのだからたまらない。

「やっぱり思ったとおりでした。音色は同じイギリス勢で統一しないと・・」と、満足げな仲間。

しかし、可哀そうなのは大切なデッカを奪われたウェストミンスターである。仲間が辞去した後で、さっそくいろいろ試してみたところ「スーパー3」(ワーフェデール:赤帯マグネット付き)がとても良かった。
こちらも「オール・イングランド」である。


「むしろデッカよりもいい」と自分に言い聞かせたのは言うまでもない。

これで今晩は枕を高くして眠れそう(笑)。

https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/0e0453d8e943fbb5666afb1ac09da6c0
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html#c165

[近代史3] インフラ老朽化で日本総改修 再び成長軌道に乗るチャンス
2020年02月21日
インフラ老朽化で日本総改修 再び成長軌道に乗るチャンス


日本中に安全性の怪しい建築物が存在している

引用:http://blog-imgs-53.fc2.com/d/o/n/donboolacoo/IMG_4413.jpg


今日本中の道路や橋や公共設備が大変な事になろうとしている。

大変な事とは、老朽化で壊れて大変だという意味と、膨大な補修工事で需要が発生する両方の意味があります。

節約ブームで経済崩壊

90年代から2000年代、あるいは今も「無駄遣いは許さない」という節約ブームで、公共事業がほとんど行われませんでした。

多くの公共建設物は必要だから存在しているので、新たに建設しなくても、補修や建て替えは毎年発生します。

こうした節約は、必要な補修や建て替えを先送りした事で予算を節約したので、その分後回しになっています。


例えば高速道路を新たに建設しなくても、既に作った高速道路は老朽化するので、必要な予算はそれほど変わらない。

補修の為の予算を先送りした為発生したのがトンネル崩壊事故で、JRでは保守点検コストを減らした為、事故が続発しています。

全国の自治体では昭和期に作った水道施設や水道管が老朽化し、腐り始めています。


送電網も老朽化しているため、太陽光発電などの新しい要求に対応できません。

太陽光や風力でどれだけ発電しても、その電気を流したら送電網が破壊されるので、一部買取を拒否しています。

首都高速道路は「世界一みすぼらしい首都高速」として有名で、片側2車線だが待避線を犠牲にしてあるので、実質1車線しかありません。


アジアや中東やアフリカの後進国でも、片側5車線以上で飛行機が利借陸できるように、なっていたりします。

「節約ごっこ」をやっているうちに、日本のインフラは世界から遅れたうえに、老朽化が進行しています。

公共事業費を節約したという事は、新しい投資をしなかったという事で、美徳どころか悪い事なのです。

老舗の名店より見た目の新しさ

みなさんの町にレストランとか商店があると思いますが、20年間外観や内装を改修しなかったら、相当古臭くなっていると思います。

もし新しいピカピカの店が近くにできたら、どんなに料理が美味しく、魅力的な商品を置いても、お客さんは綺麗な店に流れます。

その古臭くて汚い店が「日本」でピカピカの新しい店が中国だったりアジアの新興国です。


古臭い店の店主が「うちの店は老舗で味が良い」とか言ったって無駄で、客はオシャレで綺麗な方に行きます。

スタバとかコメダとかタリーズとか流行の喫茶店は、内装や雰囲気に金を掛けていて、コーヒーそのものに金を掛けていません。

それでも客はそういう店には行列を作ってでも行き、古くてダサい店には絶対に行きません。


成田空港は1978年に開業したが、今もほんの一部しか完成しておらず、世界で最も不便な国際空港として名を轟かせています。

反対運動とか色々あるが、要は政府にやる気が無く、お金を使っていない。

「公共事業は無駄遣い」というと選挙で評判が良いので、そういう人がどんどん当選して未完成なまま老朽化しています。


沖縄では普天間基地の辺野古移設を巡って紛糾しているが、もっと重要な那覇空港問題は後回しにされました。

沖縄県を防衛する航空自衛隊基地は那覇空港の滑走路一本だけで、民間と共用なので緊急時も勝手に使用できなかった。

沖合いを埋め立てた第二滑走路が供用開始するが、沖縄の人間は1円も金を払わず本土の日本人に払わせ、妨害の反対運動までしていました。

「お金は印刷すれば良い」という真理

整備新幹線計画は田中角栄が1970年代に作ったが、やっと北陸新幹線が一部開業しただけです。

田中角栄の無駄遣いと言われていたが、作ってみるとどれも成功し、40年前に一気に工事していた方が良かった。

時間が経てば経つほど、整備新幹線や列島改造論の正しさが証明されています。


こうして日本には新規インフラ計画が山のように存在しますが、過去に建設したインフラ工事も山のように存在します。

高度成長期に建設した日本中の道路、鉄道が崩壊するのを防ぐ為、全て作り直すのと同等の補修工事が必要になります。

その総額は日本のGDPにも匹敵する規模で、これだけで膨大な需要が発生し、空前の工事ブームが起きるでしょう。


工事代金なんてのは日銀にお金を印刷させれば良く、公共事業は工事を行えば必ず税収が増えるのです。

税収が増えて全額回収できるとは言わないまでも、工事費の50%程度は回収できるので、後は日銀が国債を買い取れば良いのです。

日銀が買い取った国債は日本国の借金だが、同時に日本国の資産でもあるのでそのまま永久に金庫にしまって置けばいい。


「そんな事は前例がない」というのは嘘で、第二次大戦中は日米英仏独など、全ての国でこういう事をやっていました、

明日戦争に負けるかも知れないのに「金融の健全性が〜」などという人はおらず、なりふり構わずお金を発行して使いました。

めちゃくちゃな財政をやった戦勝国は破産したりせず、世界の超大国として今も君臨しています。

日独が破産したのは戦争に負けたからで、勝ってさえいれば今も健全財政だった筈です。

http://www.thutmosev.com/archives/63546207.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/923.html

[近代史3] プーランク オーボエとピアノのためのソナタ FP185
フランシス・プーランク オーボエとピアノのためのソナタ FP185



Francis Poulenc - Sonata for Oboe and Piano


- Composer: Francis Jean Marcel Poulenc (7 January 1899 -- 30 January 1963)
- Performers: Maurice Bourgue (oboe), Jacques Février (piano)
- Year of recording: 1976


Sonata for Oboe & Piano, FP 185, written in 1962.


00:00 - I. Élégie (Paisiblement)
05:14 - II. Scherzo (Très animé)
09:10 - III. Déploration (Très calme)


▲△▽▼
▲△▽▼


オーボエとピアノのためのソナタ(フランス語: Sonate pour hautbois et piano)FP185 は、フランシス・プーランクが1962年に作曲した室内楽曲。


プーランクの3つある木管楽器のためのソナタの一曲であり、ほかに1956年のフルート・ソナタと、本作と同年のクラリネット・ソナタがある。


プーランク最晩年の作品の一つであり、サン=サーンスの「オーボエ・ソナタ op.166」、シューマンの「3つのロマンス op.94」と並んでオーボエ奏者にとって重要なレパートリーの一つである。


亡き畏友セルゲイ・プロコフィエフの追憶に捧げられているが、作曲者自身がこの作品を完成させてすぐに亡くなったために、プーランク自身の遺作にも等しい存在と言える。


プーランクの他の作品同様、楽器の特性を最大限に活かした楽曲であり、非常に広い音域の使用や難技巧、伴奏役のピアノにも高い技術を要求するなど、オーボエ・ピアノ共に楽器の潜在的可能性を追求された楽曲である。また通例のソナタとは一線を画す構成や様々な旋律の美しさ、重厚な和声感等、作者の個性も認められる。


一方で、楽曲全編にわたり死の影のような悲愴感に貫かれ、特に終楽章でその傾向が強く、多くのオーボエ奏者にとっては一種の「死者略伝」のようなものである。プーランク自身「最後の楽章は典礼の歌に近いものである」と語っている。


初演は1963年6月8日、ストラスブールにてジャック・フェヴリエのピアノとピエール・ピエルロの独奏による。なお、チェスター社より2004年に改訂版が出版された。第2楽章のピアノのパートで、従来版と若干の和声変更がある。


構成


以下の3楽章から成るが、伝統的なソナタの定型(急―緩―急)に反して、緩―急―緩の構成を採っている。


第1楽章「悲歌」(静かに、急がずに) Elégie (Paisiblement, sans presser)
自由なソナタ形式。
オーボエ・ソロの1小節の前奏に引き続き、ト長調の温和な第1主題と付点音符で彩られたニ短調の第2主題(苦悩・憧憬・追憶の象徴として用いられることが多い)が提示される。激しい展開部では第2主題が主に扱われ、「急―緩―急―緩」とコントラストが激しい。やや形を変えた再現部、展開部の回想の後、短く静かなコーダで終わる。第2主題は調性を変えて終楽章でも登場し、楽曲の統一を図っている。


第2楽章「スケルツォ」(活気よく) Scherzo (Très animé)
3部形式の非常に早いスケルツォ。
超高音域でのトリル、早く歯切れの良いパッセージ等が特徴的。ピアノ、オーボエ共に非常に高い技巧を要し、演奏は一筋縄では行かない。中間部の緩徐部はプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」へのオマージュである。


第3楽章「嘆き」(きわめて穏やかに) Déploration (Très calme)
変奏曲形式と3部形式を組み合わせた形。
冒頭に示される上昇する3音(A♭―B♭―B♮)が全体を支配する動機となる。文字通りの「嘆き」に相応しい楽章で、プーランク最晩年の境地を伝えるもの。


変奏曲だが変化するのは調性(嬰ト短調(G#m7)―ハ短調(Cm7)―ホ短調(Em7))とダイナミクスのみで、ピアノの重厚な持続和音の上をオーボエが奏する形となっている。中間部はピアノの弱々しい一定のリズムの上を新たな旋律が現れながらクレッシェンドし、イ短調の強奏で再び上昇動機が回帰して頂点を形作る。その後は第1楽章の第2主題が調を変えて回帰し、ヘ短調の和音上を上昇動機で奏でる。最後はピアノの奏でるリズム上で動機が下降形になり、弱々しく終わる。


随所で演奏が難しく、とりわけルンバ風のスケルツォは厄介である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%82%A8%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF_(%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/924.html

[近代史3] プーランク オーボエとピアノのためのソナタ FP185 中川隆
1. 中川隆[-13671] koaQ7Jey 2020年2月21日 14:34:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-191]

オーボエ ソナタ(プーランク) 


今日の曲なのだけど、聞いたことない人は、是非聞いて下さいね
私のお勧めの曲ですよ。
(珍しく、オーボエの曲なのですが・・・)

今日の音楽日記の曲は、フランスの作曲家プーランク
の作曲した『オーボエソナタ』です。

プーランクのピアノ協奏曲は、私、とっても好きで、
この音楽日記でも過去に書いている

⇒過去記事

ピアノ協奏曲(プーランク)
https://kfc-201.blog.ss-blog.jp/2006-01-16

2台のピアノの為の協奏曲(プーランク)
https://kfc-201.blog.ss-blog.jp/2006-04-19

プーランクという作曲家は、とても洒落た曲を書いているのだけど、
このオーボエソナタも、とっても、いい。
一歩間違えば、癒し系の音楽かもしれないけど、
立派なソナタでもあり、でも、とっても、洒落ていて面白い。

曲は、3つの楽章からなっています。

第1楽章(エレジー)
 冒頭の2小節のオーボエソロに続いて、ピアノ伴奏で
 オーボエが演奏する旋律。これ泣けます。
 とってもとっても、いい旋律です。
 これは、オーボエならではの旋律ですね
 もうひとつの リズムが特徴的な対照的な旋律も、
 プーランクの得意の旋律の形ですね
 この二つの組合せが この楽章をとっても面白くしています

第2楽章(スケルツォ)
 おおっと、この飛び跳ねるような旋律。楽しいです。
 展開もよくて、ついつい、この躍動する音楽に浸れます。
 中間部は お約束のゆっくりした音楽
 その後、また、躍動する音楽に戻るのだけど、
 短く終わる。あっさりしていて、いいです

第3楽章(悼み)
 この楽章は、深遠な音楽になります。
 ピアノが重厚な伴奏をつける中、延々とオーボエが
 悲しい旋律を弾くのだけど、
 一楽章や二楽章の旋律やその変形もでてくるみたいだけど、
 イメージが違っています。
 この楽章は、とても心に染みいる音楽です。

全部で、15分程度の短い曲だけど、
飽きさせない、とても、凝縮した音楽で、
いろいろとつまった プーランクらしい一曲です。

この曲は、ちょっとお勧めの曲ですよ。

オーボエの音色は、忙しい時には、
ちょっといい感じで響くので好きです。
https://kfc-201.blog.ss-blog.jp/2012-09-09


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/924.html#c1

[近代史3] プーランク オーボエとピアノのためのソナタ FP185 中川隆
2. 中川隆[-13670] koaQ7Jey 2020年2月21日 14:37:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-190]

クラシック音楽 一口感想メモ
フランシス・プーランク(Francis Poulenc, 1899-1963)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF

フランス六人組周辺のおしゃれな音楽の入門はこの人が良いと思う。
フランス流エスプリの利いた軽妙洒脱で粋な都会的音楽。
メロディーに溢れていて分かりやすく、まためまぐるしく雰囲気が変わるので飽きない。管楽器のソナタなどが素敵である。

管弦楽曲

•バレエ音楽『牝鹿』◦3.0点

組曲版で聴いた。スッキリとした軽やかなオーケストレーションと爽やかで瑞々しい詩情のある音楽である。しかし、メロディーの魅力がいま一歩と思うし、都会的な魅力もない。従って、それなりに良いのだが、あくまで若書き作品であり、もっと他に良い曲があると思って聴いてしまう。

•『フランス組曲』(管楽器、打楽器、チェンバロ、ハープ)◦3.5点

弦楽器が無くてチェンバロが入るという楽器編成が、古風な音の軽さを演出しており、非常に良い。ピアノ版と同様に楽しいし、管楽器の合奏の古風な楽しさはピアノ版には無いものである。


•シンフォニエッタ◦3.0点

メロディーに溢れていて軽妙であり、つまらなくはない。しかしニュアンスは平板で同じような雰囲気の上であれこれメロディーを流しているだけに感じられる。また、音楽が軽すぎて娯楽映画の音楽のようだし、管弦楽なので機敏さに欠ける。


協奏曲

•クラヴサンと管弦楽のための田園のコンセール(田園協奏曲)(1927-1928)◦3.0

近代のチェンバロ協奏曲という目新しい響きの音楽であることから、好奇心を満たしてくれる。やりたい放題と言いたくなるほど奔放な構成で、めまぐるしく変わる場面についていく楽しさはある。4分の1くらいの場面は確かに田園をイメージする。しかし、心に響くようないい音楽という感じは無い。あくまで好奇心のための音楽と思う。


•2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 ニ短調(1932)◦3.3点

2台のピアノの豊富な音数が産み出す華麗さ楽しさはなかなかのもの。プーランクらしいめまぐるしさも有効に機能して、聴き映えの良さを増している。

•ピアノ協奏曲 嬰ハ短調(1949)◦3.3点

軽快な聴く人を楽しませるピアノの使い方は流石で、プーランクのピアノ協奏曲への適性の高さを感じるのだが、逆に予想外の凄さがない。彼ならやりそうな事をそのままやっている。そのため、いい曲ではあるが物足りなさが残る。


•オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調(1938)◦3.0点

軽快さが売りのプーランクも、この曲はオルガンの音圧を活用した重たい音楽にしている。場面の転換は頻繁だが、変化の劇的さがあまり無い。でも作曲者らしいセンスの良さは感じる。この雰囲気は独特であるので、聴いてみて損は無い。


室内楽曲

•六重奏曲(ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)◦3.3点

軽妙さやメランコリーをうまくミックスしたプーランクの良さが出ている曲。管楽器とピアノの扱いの上手さが、この曲でも目立つ。集大成的な作品としての作者の意気込みを感じる。しかしながら、音の厚さや楽器の多彩さが思ったほど効果を挙げていない気がする。


•ホルン、トランペット、トロンボーンのためのソナタ◦3.0点

珍しい構成であるが、音や音楽はそれほど意外性がない。アンニュイな雰囲気や金管らしい合奏を楽しめる。それ以上の良さはあまりない。

•ピアノ、オーボエ、ファゴットのための三重奏曲◦2.3点

おどけたりメランコリックになったり、フリーダムな曲。掛け合いも即興的。自由すぎて聴いていて落ち着かない。オーボエもファゴットもプーランクに合っており良さが生きているので、この編成ならばもっといい曲が書けたのではと残念に思う。


•ヴァイオリンソナタ◦2.5点

諧謔的な雰囲気が強い。ヴァイオリンが狭い範囲の使い方しかされていない印象があり、あまり楽器の良さを生かせてない。メロディーもいまいちで、プーランクの良さもあまり出ていない。とはいえ軽妙さなど、一定の特質を生かせてはいる。


•チェロソナタ◦2.5点

それなりに楽しめるのだが、チェロとしては軽快すぎる音使いで、高音の明朗さの不足がそのまま弱点になってしまっている。深々とした渋い響きを楽しめる他の作曲家のチェロソナタやプーランクの管楽器のソナタの素晴らしさと比較するとイマイチ。


•フルートソナタ◦3.5点

アンニュイな1楽章。寂寥感あるメロディーが捻った形で出てきて微妙なニュアンスを表現する2楽章。独特の捻りとメロディーの横溢によるニュアンスの変化が面白い3楽章。


•オーボエソナタ◦4.5点

夜の都会の洒落たセンスの中に人生の苦楽を潜ませた1楽章。
ドビュッシーのように始まりおどけた後、中間部は切なく叙情的ながらも都会的で美しい2楽章。
悲しく始まり、夢の中に溶けて現実に引き戻されて終わる3楽章。
ニュアンスに満ちていて強く引き込まれる最晩年の傑作。

•2本のクラリネットのためのソナタ◦3.0点

同質の楽器2つという限定された条件での面白いアンサンブルを楽しむ曲。アンニュイでまったりした雰囲気が面白い。

•クラリネットソナタ◦3.0点

憂鬱アンニュイとおどけた道化というクラリネットの2つの面を軸にした曲の作りで、得意の目まぐるしい雰囲気の変化がある。お洒落メランコリーの部分は曲の雰囲気に浸れてなかなか優秀。

•クラリネットとファゴットのためのソナタ◦3.5点

2つの管楽器という限定された条件だが、変化に富み和声も豊かで素晴らしい。ファゴットは主に伴奏だが非常にうまく活用されていると思った。


器楽曲

•ピアノ連弾または2台のピアノのためのソナタ◦3.0

もとは若い時の作品で、ドビュッシーやサティーの影響を感じるが、十分にプーランクの個性も発揮されており、音感やセンスの良さはさすが。短い曲だし楽しんで聴ける。


•2台のピアノのためのソナタ◦3.3点

2台用だが、静寂さを感じる場面が多い。アンニュイでメランコリックな繊細な精神を体験出来る場面が多いので、その楽しさで聴ける。

•3つのノヴェレッテ(ピアノ)◦3.5点

1曲目は穏やかな叙情性と中間の小気味良さが素晴らしい。2曲目は少し活発で小気味よい雰囲気と音使いが楽しい。3曲目は美しい夢と現実の狭間のようで感傷的。3曲ともコンパクトでいい曲。

•フランス組曲◦3.5点

ピアノ版を聴いた。冒頭からウキウキするような楽しい曲。どの曲も明るい中にエスプリが効いていて、親しみやすく誰でも楽しめるような作品。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/924.html#c2

[近代史3] プーランク オーボエとピアノのためのソナタ FP185 中川隆
3. 中川隆[-13669] koaQ7Jey 2020年2月21日 14:47:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-189]

フランシス・ジャン・マルセル・プーランク(プランク)(Francis Jean Marcel Poulenc,1899年1月7日-1963年1月30日)は、フランスの作曲家。

フランス6人組の一人。
声楽、室内音楽、宗教的楽劇、オペラ、バレエ音楽、オーケストラ音楽を含むあらゆる主要な音楽ジャンルの楽曲を作曲している。

その作風から、1950年7月のパリのプレス紙において評論家のクロード・ロスタンから「ガキ大将と聖職者が同居している」と評された。

1899年にパリの裕福な家庭に生まれる。両親は敬虔なカトリック教徒であった(父エミールは、叔父のカミーユと共に製薬会社プーラン社の創設者)。

5歳の頃から母親からピアノの手ほどきを受け、1914年(15歳)からはスペイン出身の名ピアニスト、リカルド・ビニェス(ドビュッシーやラヴェルのピアノ曲の初演を数多く手がけた)にピアノを師事し、多大な影響を受ける。

バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)による『春の祭典』(1913年)、『パラード』(1917年、台本:ジャン・コクトー、音楽:エリック・サティ、美術:パブロ・ピカソ)の初演を見て感嘆する。

1917年頃ビニェスの紹介により、後のフランス6人組のメンバーであり同い年のジョルジュ・オーリックや、『パラード』の作曲者サティ、ポール・デュカス、モーリス・ラヴェル、声楽家のジャーヌ・バトリといった音楽家と出会う。

中でもバトリとの出会いは重要で、プーランクは当時バトリの自宅に毎週のように集まる音楽家の一員となった。彼はそこでアンドレ・カプレやアルテュール・オネゲルとも出会う。当時、バトリは渡米したヴィユ・コロンビエ劇場の支配人の代理として劇場の運営を任されており、1917年12月には同劇場でジェルメーヌ・タイユフェール、オーリック、ルイ・デュレ、オネゲル、ダリウス・ミヨーの作品とともに、プーランクの『黒人の狂詩曲』の初演が行われた。プーランクは後に「これがその後の6人組の出発点となった」と語っている[1]。

また、詩人ジャン・コクトーらのサロンに出入りするようになった。

当時18歳だったプーランクは作曲を本格的に学習したいと考えたが、実業家であった父の反対によりパリ音楽院には進学せず、3年間の兵役についた。この間、1920年に『コメディア』誌上に批評家のアンリ・コレが掲載した論文「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」によって「6人組」の名が広まった。

除隊後の1921年から1924年にかけて、ダリウス・ミヨーのすすめもありシャルル・ケクランについて本格的に作曲を学ぶ。

1922年にはミヨーなどと共にウィーンのアルマ・マーラー宅を訪れ、そこでアルノルト・シェーンベルク、アントン・ヴェーベルン、アルバン・ベルクと会う。この年にはパリを訪れたバルトーク・ベーラとも会う。

1923年にパリで行われたイーゴリ・ストラヴィンスキーの『結婚』初演の際の4人のピアニストの一人に予定されていたが、プーランクは病気となり初演には関われなかった(ストラヴィンスキーとは1916年のパリの楽譜店で出会って以来の友人であった)。

1923年、ミヨーとともにイタリア旅行中であった24歳のプーランクは、バレエ・リュスを主宰するセルゲイ・ディアギレフからの委嘱によってバレエ『牝鹿』を作曲し、翌1924年にモンテカルロにおいてバレエ・リュスによって初演された。

脚本はコクトー、舞台と衣装はマリー・ローランサン、振付・主演はブロニスラヴァ・ニジンスカによるという豪華なものだった。

以来、軽妙洒脱で親しみやすいその作風は大衆に喜んで受け入れられたが、作曲活動だけでなく、バリトン歌手ピエール・ベルナックとによる自作歌曲のピアノ伴奏をはじめとして積極的に演奏活動もし、録音も残されている。

初のオペラ作品『ティレジアスの乳房(英語版)』は1948年に初演され、第2作の『カルメル派修道女の対話』(1957年1月ミラノ・スカラ座で世界初演、6月パリ・オペラ座でフランス初演)は、「ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』、ベルクの『ヴォツェック』に続く作品」と絶賛された[2]。

晩年には様々な楽器とピアノのためのソナタに取り組む。

1962年にはクラリネット・ソナタ、オーボエ・ソナタを作曲したが、1963年1月30日に心臓麻痺のためパリで死去した。

フランス滞在時のロシアの作曲家プロコフィエフとは、ピアノやブリッジを通じて親交が篤かった。

唯一のピアノの弟子としてカンヌ生まれフランスのピアニスト、ガブリエル・タッキーノを教えた。


音楽観など

1953年に行われたスイス・ロマンド・ラジオ放送のインタビューで、プーランクは自己の来歴や音楽観について語っている。その中で、

若い頃に影響を受けた作曲家として、シャブリエ、サティ、ラヴェル、ストラヴィンスキーの4人を、

音楽家のベスト5(無人島に持っていきたい音楽)として、
モーツァルト、シューベルト、ショパン、ドビュッシー、ストラヴィンスキーを、

生理的に受け付けない作曲家としてフォーレ、ルーセルの名を挙げている[3]。

プーランクはインタビューの中で「音楽でモーツァルトに勝るものはない」[4]と言いきっているが、これは幼少時の彼にピアノを手ほどきした母親の影響である。

また、ストラヴィンスキーについては『春の祭典』ではなく、『プルチネルラ』、『妖精の接吻』、『カルタ遊び』などの「ヨーロッパ的」な作品に影響を受けたと語っている[5]。

プーランクの音楽体験はピアノから始まっているために作品にはピアノ曲が多いが、10歳の頃にシューベルトの歌曲に熱中したことがあり、このことが数多くの歌曲を生むきっかけとなった[6]。

ピアノ以外の楽器については、弦楽器よりも管楽器の音色を好んだ[7]ため、管弦楽曲では管楽器が重要な役割を演じることが多く、室内楽曲においても管楽器のための作品が多い。

なお、プーランクはさまざまな楽器の組み合わせで室内楽曲を作曲しているが、その中に同一の組み合わせのものはない。

プーランクは生粋のパリっ子であり都会人であった。
彼が作る曲は軽快、軽妙で趣味がよく[6]、ユーモアとアイロニーと知性があり「エスプリの作曲家」と言われる[7]が、敬虔なカトリック教徒であった両親の影響を受け、宗教曲や合唱曲も手掛けている。自身はこの分野について、

「わたし自身の最良の部分、何よりも本来の自分に属するものをそこに注ぎ込んだつもりです。(略)わたしが何か新しいものをもたらしたとするならば、それはまさにこの分野の仕事ではないかと思います」

と述べている[8]。

無調音楽が主流となった戦後も単純明快な作風の調性音楽を書き続けたプーランクであったが、一方でピエール・ブーレーズの主催する現代音楽アンサンブル「ドメーヌ・ミュジカル」の演奏会には常連として足繁く通うなど、前衛的な現代音楽にも理解を見せた。


作品の特徴

軽快で旋律に富むという面が、若き日の大家に見られた作風と共通するところから「モーツァルトの再来」と表現する者[誰?]もいた。

また、音楽の従来のあり方が多様化し旋律が崩壊した後の時代と比較され「メロディーを持つ20世紀最後の作曲家」と呼ばれたこともあった(その後、従来のような旋律の振る舞いを復活させる新しい動きが20世紀内にも起こったため、その表現は実際に正しくはなくなった)。

当時のストラヴィンスキーが好んだ大胆で鮮やかな複調の響きを彼も特に好んで取り込み、旋律同士や和音同士をその手法によって重ねることが多く見られる。


作品

詳細は「プーランクの楽曲一覧」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/プーランクの楽曲一覧


管楽器やピアノのための室内楽曲、宗教曲に優れた作品が多い。


オペラ

『ティレジアスの乳房(フランス語版)』
『カルメル派修道女の対話』
『人間の声』


管弦楽曲

バレエ音楽『エッフェル塔の花嫁花婿』(合作)
バレエ音楽『牝鹿』
バレエ音楽『模範的動物たち』
『フランス組曲』(管楽器、打楽器、チェンバロ、ハープ)
『2つの行進曲と間奏曲』(室内管弦楽)
シンフォニエッタ
マルグリット・ロンの名による変奏曲(合作)


協奏曲

クラヴサンと管弦楽のための田園のコンセール(田園協奏曲)
ピアノと18の楽器のための舞踊協奏曲「オーバード」
2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 ニ短調
オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲
ピアノ協奏曲 嬰ハ短調

室内楽曲

六重奏曲(ピアノ、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴット)
ホルン、トランペット、トロンボーンのためのソナタ
ピアノ、オーボエ、ファゴットのための三重奏曲
ヴァイオリンソナタ
チェロソナタ
フルートソナタ
オーボエソナタ
2本のクラリネットのためのソナタ
クラリネットソナタ
クラリネットとファゴットのためのソナタ
バガテル(ヴァイオリンとピアノ)
エレジー(悲歌)(ホルンとピアノ)
付随音楽「城館への招待」〜クラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための三重奏曲

器楽曲

2台のピアノのためのソナタ

シテールへの船出(2台のピアノ)
主題と変奏


ピアノ連弾ソナタ

3つのノヴェレッテ(ピアノ)
ナゼールの夜会(ピアノ)
15の即興曲(ピアノ、第12曲『シューベルトを讃えて』・第15曲『エディット・ピアフを讃えて』)


合唱曲

Ave verum corpus アヴェ・ヴェルム・コルプス(1952)
Chanson à boire 酒の唄(1922)
Chansons Françaises フランスの歌(1945)
Exultate Deo エクサルティ・デオ(1941)
Figure humaine カンタータ「人間の顔」/P.エリュアール(1943)
Gloria グローリア(1959)
Laudes de Saint Antione de Padoue パドヴァの聖アントニオの讃歌(1959)
Litanies à la Vierge Noire(Notre-Dame de Rocamadour)ロカマドゥールの黒い聖母への連檮(1936)
Messe en Sol Majeur ミサ曲 ト長調(1937)
Petites Voix 小さな声(1936)
Quatre motets pour le temps de noël クリスマスのための4つのモテット(1952)
Quatre motets pour un temps de pénitence 悔悛のための4つのモテット(悔悟節のための…悔悟の時のための… という邦題もある)(1938/39)
Quatre petites prières de Saint François d'Assise アッシジの聖フランチェスコの4つの小さな祈り(1948)
Salve Regina サルヴェ・レジーナ(1941)
Sept Chansons 7つの歌(1936)
Sept Repons des Téneèbres テネブレの7つの応唱(1961)
Sécheresses カンタータ「枯渇」(1937)/E.ジェイムス
Stabat Mater スターバト・マーテル(1950)
Un soir de neige 小カンタータ「ある雪の夕暮れ」/P.エリュアール(1944)

歌曲(多数)

朗読とピアノ

小象ババールの物語(日本語にも翻訳されているジャン・ド・ブリュノフの絵本による音楽物語)

著書

『プーランクは語る――音楽家と詩人たち』 ステファヌ・オーデル編、千葉文夫訳、筑摩書房、1994年。ISBN 4-480-87244-2
Journal de mes Mélodies. Paris: Cicero, 1993.
Correspondance 1910-1963. éd. Myriam Chimènes, Paris: Fayard, 1994.

https://ja.wikipedia.org/wiki/フランシス・プーランク
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/924.html#c3

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
37. 中川隆[-13668] koaQ7Jey 2020年2月21日 14:48:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-188]
プーランク オーボエとピアノのためのソナタ FP185
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/924.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c37
[近代史4] フランシス・プーランク (Francis Poulenc, 1899-1963)

フランシス・プーランク(Francis Poulenc, 1899-1963)


プーランク オーボエとピアノのためのソナタ FP185
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/924.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/182.html

[番外地7] メモ帳 _ 音楽・オーディオ 中川隆
16. 中川隆[-13667] koaQ7Jey 2020年2月21日 15:24:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-187]
763名無しの笛の踊り2020/02/21(金) 13:51:45.73ID:urxAZGnT
オーディオ誌のお宅訪問みたいな記事で
6畳間にタンノイのでかいやつ置いてるけど
ああいうのはアホなんですね。

あと、タンノイといえば五味康祐の本に
高城なんとか先生に勧められるまま
コンクリ製のバッグロードホーンだかなんだかを
設置してもらったら、あまりのクソ音質で
金槌で叩き壊したって書いてあったけど、
そういう彼はまたタンノイ使いだったような。
まあ、どっちも基地外なんでしょうかね?

764名無しの笛の踊り2020/02/21(金) 14:06:10.70ID:3rYm6IRF
ハーベスの安物スピーカーのオススメ教えて

765名無しの笛の踊り2020/02/21(金) 15:15:12.20ID:MkYzFdxG
最近のハーベスでいいのは初代 HLコンパクトだけ

ハ-べスはHLモニターが一番いい。
2代目より初代設計者のが一番色艶があった。
2代目も最初のころの製品は頑張ってるが、最近は魅力半減です。
設計者として、独り立ちできなかった。
ショウの作品とハーウッドのとを聞き比べればよくわかる。

昔のハーベスはフランスのAUDAXのユニットだった。
AUDAXがHarmanの傘下にはいって、Harbeth用のユニットを供給してくれなくなってから、ユニットの選択がかわった。

初代 HL-Compactが生産中止になったのは AUDAX のツィーターが生産中止になったため
作りたくても作れなくなったから、
後継機のCompact7ではあの魅力的な中高域が変わってしまっていた、
そのあたりからあの会社の名前は聞かなくなった

766名無しの笛の踊り2020/02/21(金) 15:17:12.85ID:MkYzFdxG
初代 HLコンパクトに近い音が聴きたければ

AUDAX|マロニエオーディオ
http://www.maronieaudio.com/item/spdrv/audax.html

保証期間 1年間(メーカー規定範囲のみ)

AUDAXウーハは種類は少ないのですがとても優秀なウーハー群です。
 
使ったことがないから使わない方が多いようですが、
とても音質も良く、音の正確さ、切れの良い低音、レンジも充分です。
 
とにかく価格が安いです。
 
鈍い低音が苦手な人には向いています。

能率が良いので、有名高価低能率ユニットとは違う面白さがあるウーハです。
こういうユニットはもっと評価されるべきです。
 
Tweeterも種類は少ないのですが価格も安く良い製品です。
 
どうしても高域が30KHzでないから・・とスペックで使わない方が多いのですが、音も良く優秀な製品です。
 
お勧めです。
AM21LB25ALBC 8インチ Paper Cone Full Range
http://www.audax.com/archives/AM21LB25ALBC.pdf

17LB25ALBC 6.5インチ Paper Cone Full Range
http://www.audax.com/archives/17LB25ALBC.pdf

767名無しの笛の踊り2020/02/21(金) 15:20:04.00ID:MkYzFdxG

AUDAX はキャラがあります。
年がら年中フルトヴェングラーとかワルターとかオールドジャズを聴いている人には至福じゃないか。
ハイ落ちなのでツィーターもコンデンサーのみでつながります。
ここまできたら真空管使うしかないという音です。

今時96dBでぶちのめす!!いいんじゃない的な(笑)。
割り切ってるところがすごい!!。
ハイ落ちでますます今風じゃないなんて!!
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/337.html#c16

[近代史3] バッハ : ストコフスキー編曲集


バッハ:ストコフスキー編曲集


バッハ:「シャコンヌ」(ストコフスキー編曲)


バッハ誕生250年記念:バッハ記念集より
原曲:無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番ニ短調 BWV 1004 第5曲
編曲:レオポルド・ストコフスキー
レオポルド・ストコフスキー指揮、フィラデルフィア管弦楽団
蓄音機:ビクトローラ J1-91 電動改
日本発売:昭和10年2月


同時代評:「このシャコンヌは少しの無理もない、而も非常に豊麗な描き方をされてゐるので、バッハの原曲を傷つけたといふ感じは少しもない。これは決して誇張でも何でもないのである。通俗味も無く面白いとも言へぬこの曲をこれだけに聞かせるのは、全く非常な手腕と言はねばなるまい。要するにストコフスキーは楽器を駆使する魔術を心得てゐるのである。」(山野幸彦、「レコード音楽」昭和10年3月号73頁)
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Bach - Stokowski. Chaconne (1950)


L'orchestration de la Chaconne de J.S.Bach par Leopold Stokowski.
Enregistré en 1950.


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Bach - Toccata & Fugue in D minor – Leopold Stokowski arranger / conductor


Chicago Symphony Orchestra.
1962
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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ (ストコフスキー編曲)
トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565 1965



指揮:レオポルド・アントニ・スタニスラフ・ボレスラヴォヴィチ・ストコフスキー
日本フィルハーモニー交響楽団
録音:1965年7月13日 (実況録音)


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Toccata and Fugue in D-Minor BWV565




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Bach: Toccata & Fugue in D minor - Stokowski in Stockholm



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Stokowski in Sweden (1967) - Bach 'Toccata and Fugue' & Stravinsky 'Petrushka' Suite


On one of his annual international tours in 1967, Stokowski visited Stockholm where he conducted the Swedish Radio Symphony in a programme which included his own transcription of Bach's Toccata and Fugue in D minor and the Suite from Stravinsky's "Petrushka." The following day, he conducted these two works again before an invited audience in the Stockholm 'Cirkus' for the half-hour TV 'special' seen here.



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Bach: Toccata & Fugue in D minor - Stokowski at 90


Leopold Stokowski
the Czech Philharmonic.
1972


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Bach: Passacaglia & Fugue in C minor - Stokowski in Germany


Leopold Stokowski
the Saarbrucken Radio Symphony Orchestra.
1969


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Bach-Stokowski: Passacaglia and Fugue in C minor


Stokowski
the International Festival Youth Orchestra
1969 (Cala Records CACD0551).


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Passacaglia and Fugue in C-Minor BWV582



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Bach - Little Fugue in G-minor BWV578




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Bach-Stokowski 'Little Fugue' - Bernstein introduces the Maestro


Stokowski
New York Philharmonic.
1969


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Air on the G-String from Orchestral Suite No. 3 in D BWV1068




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Mein Jesu, was vor Seelenweh BWV 487


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Sinfonia from the Christmas Oratorio


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Bach ‘Sinfonia’ from Cantata No. 29 – Leopold Stokowski conducts

Bach’s Cantata No. 29 “Wir danken dir, Gott, wir danken dir” dates from 1731 and begins with an orchestral ‘Sinfonia.’ Bach had arranged this for strings, organ and trumpets from the ‘Preludio’ in his Partita No. 3 for Solo Violin. Stokowski himself also arranged the ‘Preludio’ for full string orchestra and woodwinds. However, this live performance of the ‘Sinfonia’ is the only extant Stokowski recording of the Cantata movement. It comes from a concert given in St. Patrick’s Cathedral, New York City, on 29 November 1970, was played by Members of the Metropolitan Opera Orchestra and recorded 'in the hall'.


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Bourée - from English Suite No. 2 in A minor, BWV 807


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Preludio from Violin Partita No. 3 in E, BWV1006


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Bach 'Come, Sweet Death' ('Komm, süsser Tod') - Stokowski conducts




J. S. Bach's "Komm, susser Tod" is taken from Schemelli's Musical Song-Book of 1736. Stokowski's transcription has the melody played twice, first on the strings and then by the full orchestra. He made this recording in 1958 with his own specially selected symphony orchestra of New York musicians.


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Ein' feste Burgist unser Gott (Luther)


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Bach “Ein’ feste Burg” – Leopold Stokowski transcriber / conductor


Leopold Stokowski celebrated his 92nd birthday in April 1974 by making an LP of eight of his famous Bach Transcriptions with the London Symphony Orchestra. Not long ago, this LP was reissued as a ‘Super Audio CD’ on the ‘Dutton Epoch’ label. As a ‘filler,’ Stokowski’s orchestral version of the “Immolation Scene” from “Gotterdammerung” was included, also played by the LSO and taken from a Wagner LP that Stokowski recorded later that same year. Here from the ‘Dutton’ CD is Stokowski’s thrilling orchestration of “A Mighty Fortress” (“Ein’ feste Burg”) in Bach’s harmonisation of a Lutheran melody originally taken from a Gregorian chorale (Dutton CDLX 7337).


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J.S. Bach / Stokowski - Sheep May Safely Graze


Leopold Stokowski
the Bournemouth Symphony Orchestra


This is Leopold Stokowski's (1882-1977) lush orchestral transcription of the famous aria "Schafe können sicher weiden" (Sheep may safely graze) from J.S. Bach's Cantata "Was mir behagt, ist nur die muntre Jagd", BWV 208 (The Hunting Cantata).


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Bach-Stokowski "Ich ruf' zu dir, Herr Jesu Christ" - George Cleve conducts


This sublime Organ Chorale Prelude, transcribed by Stokowski and first recorded by him in 1927 as 'I Call Upon Thee,' is here performed by the San Francisco Orchestra under George Cleve. He was born in Austria in 1936 and brought to America while still a young boy. He studied music in New York and eventually became a US citizen. However, he is little known as a conductor these days, largely because he could be tyrannical and over-demanding, something which doubtless held back a conducting career that was spent entirely in America. In addition, he wasn't a recording artist, so his name hasn't been familiar to record collectors. Still, as this brief item from a 1986 radio broadcast shows, he was able to achieve beautiful playing from the San Francisco band. In 2015, Cleve died at the age of 79 in California.


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Bach: Transcripted and arranged by L. Stokowski (1933-1940)


Johann Sebastian Bach (1685-1750)
(arranged by L. Stokowski)


(00:05) 1. "Komm, suesser Tod, komm, sel'ge Ruh!" BWV 478 (Schemellis Gesangbuch)
(05:07) 2. "Adagio" from Toccata, Adagio and Fugue in C, BWV 564
(09:36) 3. "Mein Jesu! was für Seelenweh" BWV 487 (Schemellis Gesangbuch)
(14:11) 4. "Es ist vollbracht" from the St. John Passion BWV 245


Leopold Antoni Stanislaw Boleslawowicz Stokowski (1882-1977), Conductor
Philadelphia Orchestra


Rec. 1933(1-2), 1936(3), 1940(4)


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Stokowski's Bach arrangements 1927-74 (6h48mins restored Megamix)


Philadelphia Orchestra
Stokowski Leopold


Stokowski's Bach arrangements 1927-74 (6h48mins restored Megamix)
https://www.youtube.com/watch?v=yh2cBy5cVD4&list=RDyh2cBy5cVD4&index=1




http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/925.html

[近代史3] バッハ : ストコフスキー編曲集 中川隆
1. 中川隆[-13666] koaQ7Jey 2020年2月21日 16:47:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-186]

バッハ : ストコフスキー編曲集

Stokowski's Bach arrangements 1927-74 (6h48mins restored Megamix)
https://www.youtube.com/watch?v=yh2cBy5cVD4&list=RDyh2cBy5cVD4&index=1
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/925.html#c1

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
38. 中川隆[-13664] koaQ7Jey 2020年2月21日 16:49:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-184]

バッハ : ストコフスキー編曲集
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/925.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c38
[近代史3] クープラン ; チェロとピアノのための演奏会用小品
クープラン;チェロとピアノのための演奏会用小品


フランソワ・クープラン 演奏会用小品 (チェロ+ピアノ)【Pièces En Concert】
ポール・バズレールによってチョロ協奏曲風に編曲されたもの


1.Prélude
2.Sicilienne
3.La Tromba
4.Plainte
5.Air de Diable


コンセール小品集 第1曲:プレリュード(新しいコンセール 第6番から)
コンセール小品集 第2曲:シシリエンヌ(新しいコンセール 第2番から)
コンセール小品集 第3曲:ラッパ(新しいコンセール 第6番から)
コンセール小品集 第4曲:嘆き(新しいコンセール 第6番から)
コンセール小品集 第5曲:悪魔のエール(新しいコンセール 第2番から)


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フランソワ・クープラン(François Couperin, 1668 - 1733)
鍵盤楽器の作曲家として有名。


一族は音楽家の家系であるため、彼を特に「大クープラン」と呼んで区別する。
多くのクラヴサン曲、室内楽曲、教会音楽を作曲。
ロココ趣味の典型とされる優美繊細な作風を確立した。
http://classic.music.coocan.jp/early/baroque/baroque-ef.htm


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カザルス : フランソワ・クープラン 演奏会用小品 (チェロ+ピアノ)
F. Couperin: Pièces en Concert, Casals & Horszowski (1961)



François Couperin (1668-1733) (arranged by Paul Bazelaire (1886-1958))
Pièces en Concert for Cello & Strings


(00:05) 1. Prélude
(04:17) 2. Sicilienne
(07:13) 3. La Tromba
(09:05) 4. Plainte
(12:50) 5. Air de Diable


Pablo Casals (1876-1973), Cello
Mieczysław Horszowski (1892-1993), Piano


Rec. 13 November 1961, at White House, in Washington, D.C. (Live Recording)


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カザルス<ホワイトハウスコンサート>
http://guitarandmylife.blog86.fc2.com/blog-entry-1592.html?sp


パブロ・カザルス(1876−1973)が1961年秋、時のケネディ大統領に招かれて行なわれたホワイトハウスでのコンサートライヴ。


モノクロの印象的なジャケット写真を見ると、中央にケネディー大統領、またこのジャケット写真では切れてしまっているが、夫人のジャックリーヌも写っている。
この盤についてはこちらに詳しい。
http://www.cec-web.co.jp/column/disc100/disc100_12.html


収録曲は以下の通り。


 1. メンデルスゾーン;ピアノ三重奏曲第1番ニ短調 作品49
 2. クープラン;チェロとピアノのための演奏会用小品
 3. シューマン;アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70
 4. カタロニア民謡(カザルス編);鳥の歌


手持ちの盤は80年代前半に再発されたLP盤だ。久々に針を落として、かつて聴き親しんだ懐かしい音がスピーカーから流れてきた。モノラルながら鮮明な音、そして愛器ゴフリラーから繰り出される立ち上がりのいい、しかし深みある音が素晴らしい。


いずれも一時代を成した演奏であり、ピアノのホルショフスキー、ヴァイオリンのシュナイダー共々、解釈がどうの、技術がどうのという言葉を差し挟む余地もなく、そういう気持ちにもならない演奏だ。


熟練の老年に達したこのトリオが歌い上げる若きロマンにあふれるメンデルスゾーン、
仏人チェリスト:バズレールがチェロ用に編曲したクープランの演奏会用小品、
いずれも味わい深い。


特にクープランは出だしのプレリュードからカザルスのチェロが悲しみをたたえた音で響く。


そして最後の曲『鳥の歌』。いつも冷静に聴こうと思うのだが、当時84歳だったカザルスの震えるような、しかし渾身の力を込めたボーイングと、低いうなり声と共に、ついぞ帰ることのなかった故郷カタローニャへの想いのせた曲の運びに、いつも心打たれる。
http://guitarandmylife.blog86.fc2.com/blog-entry-1592.html?sp


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ピエール・フルニエ : フランソワ・クープラン 演奏会用小品 (チェロ+ピアノ)
Couperin: Pièces En Concert For Cello & Strings - Arr. Paul Bazelaire







Couperin: Pièces En Concert For Cello & Strings - Arr. Paul Bazelaire
Pierre Fournier
Festival Strings Lucerne
Rudolf Baumgartner


ピエール・フルニエ
ルツェルン祝祭弦楽合奏団
ルドルフ・バウムガルトナー
1963年12月20日~21日録音


クープラン:コンセール小品集
(Cello)ピエール・フルニエ: ルドルフ・バウムガルトナー指揮 ルツェルン音楽祭弦楽合奏団
http://www.yung.jp/yungdb/op_m.php?id=3865


クープラン一族は、ドイツのバッハ一族ほどではないにしても、多くの著名な音楽家を輩出しています。そんな一族の中でもっとも有名なのがこの「フランソワ・クープラン」であり、同姓同名の叔父と区別するために「大クープラン」と呼ばれることもあります。


ただし、バッハと言えば「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」であるのと同様に、クープランと言えば一般的には「フランソワ・クープラン」のことになります。


クープランと言えばまずは4巻からなる「クラヴサン曲集」が有名です。


しかし、それ以外に王宮礼拝堂のオルガニストに就任してからは、礼拝堂用の宗教音楽や、ルイ14世の為に演奏される合奏曲なども重要な仕事の一つとして加わるようになります。


ルイ14世のもとで活躍した音楽家と言えばリュリを思い出すのですが、彼が指揮杖で足を突くという不慮の事故でなくなるのが1687年で、クープランが宮廷オルガニストとして採用されるのが1693年ですから、この両者は宮廷の中では顔を合わせなかったことになります。


しかしながら、リュリが主に劇場用の作品で多くの仕事を為したのとは対照的に、クープランはそれ以外の分野で多くの作品を残したのです。実際、彼は一つのオペラも残さず、その代わりに肖像画のようなとも、風俗画のようなとも言われる数多くのクラブサン曲と、礼拝堂用の小さなモテット、可憐な世俗的な歌曲、そして御前演奏用の室内楽作品というのが彼のメインのレパートリーだったのです。


ここで紹介している「コンセール小品集」はポール・バズレールによってチョロ協奏曲風に編曲されたものです。


ポール・バズレールはこれ以外にもダンディとの共同作業でヴィヴァルディのチェロ・ソナタを協奏曲に偏狭していたのですが、それと同じような仕様です。
ですから、それはバロック音楽と言うよりは何処かロマン派小品様な佇まいを見せるのはその様な理由によります。


ちなみに、各曲の原曲は以下の通りだそうです。


クープラン:コンセール小品集(ポール・バズレール編曲)
第1曲:プレリュード(新しい王宮のコンセール 第6番 から)
第2曲:シシリエンヌ(新しい王宮のコンセール 第2番 から)
第3曲:ラッパ(新しい王宮のコンセール 第6番 から)
第4曲:嘆き(新しい王宮のコンセール 第6番 から)
第5曲:悪魔のエール(新しい王宮のコンセール 第2番 から)


ピリオド演奏による騒々しい演奏と較べると別の星の住人のようです


フルニエに関しては今さら何も付け加える必要はないでしょう。ひたすら騒々しくなっていったピリオド演奏によるチェロの演奏と較べてみれば、その落ち着きと気品のある歌い回しは別の星の住人のように感じます。
そして、やはりチェロはこうでなくっちゃ!!と思ってしまうのです。


ですから、ここではお恥ずかしい思い出もまじえて、伴奏を務めている「ルドルフ・バウムガルトナー」について簡単にふれておきます。


実は、何がお恥ずかしい思い出なのかと言えば、「バウムガルトナー」とよく似た名前でもう一人「パウムガルトナー」という指揮者がいるのを、すっかり混同してしまったことがあるのです。そして、このサイトの中でも、未だに混同したまま放置されているページがあるのではないかと、いささか冷や汗ものなのです。(^^;
「バウムガルトナー」と「パウムガルトナー」、違いが分かりますか?「バ」と「パ」の違いです。パソコン画面で見るとほとんど区別がつきません。


ここでフルニエの伴奏を務めているのは「ルドルフ・バウムガルトナー」の方で、シュナイダーハンとともにルツェルン音楽祭弦楽合奏団を創設して活躍した指揮者でした。
それに対して、「パウムガルトナー」の方はフルネームが「ベルンハルト・パウムガルトナー」で、こちらはザルツブルグを拠点として活躍した指揮者でした。


さらに言えば、この両者はよく似た経歴を持っていて、「バウムガルトナー」の方は「ルツェルン音楽院院」の院長を長く務めたのに対して、「パウムガルトナー」の方はザルツブルグの「モーツァルテウム音楽院」の院長を長く務めたのでした。
そして、「バウムガルトナー」が長く「ルツェルン音楽祭の音楽監督」を務めたのに対して、「パウムガルトナー」の方は「ザルツブルク音楽祭の総裁」を長く務めたのでした。


つまりは、ザルツブルグとルツェルンという、オーストリアの夏を彩る音楽祭が行われる二つの都市に分かれて、その音楽祭を代表する音楽家としてよく似たような活動を行っていたのです。そして、その人物の名前が、ルツェルンの方が「バウムガルトナー」であり、ザルツブルグの方が「パウムガルトナー」だったわけです。
とは言え、この二人を混同してしまうとはお恥ずかしい話でした。


なお、「パウムガルトナー」が「モーツァルテウム音楽院」の院長を務めていた時期の学生にカラヤンがいたので、彼の弟子の中でもっとも有名な存在がカラヤンだという言葉をよく見かけます。


ただし、カラヤンは「パウムガルトナー」のことを師だとは思っていなかったようなので、その言い方にはいささか問題があるかも知れません。
http://www.yung.jp/yungdb/op_m.php?id=3865

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/926.html

[近代史3] クープラン ; チェロとピアノのための演奏会用小品 中川隆
1. 中川隆[-13663] koaQ7Jey 2020年2月21日 18:57:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-183]


クープラン:新しいコンセール集


フランスの絶対主義時代に君臨した“太陽王”ルイ14世は大変な音楽好きでも知られた。
栄華を極めた絶頂期には、ヴェルサイユ宮殿で毎夜の大祝典に明け暮れたものだったが、その晩年は相次ぐ戦乱や不幸に苛まれ、傷心の王はプライヴェートで小規模な室内音楽会に心の慰めを見出すようになったという。

大作曲家フランソワ・クープラン(1668−1733)は、そうしたルイ14世の晩年に仕えて深い信頼を得ており、自由な室内編成による器楽合奏曲“コンセール”を王はことのほか好んだという。

本作は、王の没後、クープランが「より多くの人々に気に入られるならば」と考えて残した新たなコンセール集であり、長らく最高傑作のひとつとされながら、なかなか聴く機会をもつことのできなかったものである。

「国王の心に奉仕するために」書かれた音楽から、「後世の人々の心に奉仕するために」書かれた音楽へ。聴けば聴くほど、このコンセール集は、人の心に対して恭順な音楽だと言える。

静かで、思慮深く、大声で主張せず、楚々として聴き手のそばに控えていてくれる美しい花のようなものだ。
無視することもできるし、問いかければ、含蓄をもった誠意ある答えが返ってくる、側近のような音楽。政争に疲れた晩年のルイ14世の心の逸楽もこのようであったのだろうと想像するのは楽しい。
https://www.amazon.co.jp/クープラン-新しいコンセール集-ルセ-クリストフ/dp/B000060N5Z

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F. Couperin: Concerts Royaux (Brandis, Holliger Nicolet)


[00:00] Concert No. 1 G-dur
[12:08] Concert No. 2 D-dur
[23:44] Concert No. 3 A-dur
[41:21] Concert No. 4 e-moll

 オーレル・ニコレ
 クリスティアーヌ・ニコレ(フルート)
 ハインツ・ホリガー(オーボエ)
 トーマス・ブランディス(ヴィアオリン)
 ヨーゼフ・ウルザーマー(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、
 クリスティアーヌ・ジャコテ(チェンバロ)
 録音:1975年

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Francois Couperin: Nouveaux Concerts (CD1)


1-5. Concert No.5 F-Dur
6-10. Concert No.6 B-Dur
11-16. Concert No.7 g-moll
17-21. Concert No.8 G-Dur


Thomas Brandis & Chiara Banchini - violins
Heinz Holliger & Marie-Lise Schüpbach - oboes
Aurèle Nicolet & Christiane Nicolet - flutes
Josef Ulsamer & Laurenzius Strehl - viola da gambas
Manfred Sax - bassoon
Christiane Jaccottet - harpsichord

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Francois Couperin: Nouveaux Concerts (CD2)


1-8. Concert No.9 E-Dur
9-12. Concert No.10 a-moll
13-20. Concert No.11 c-moll
21-24. Concert No.12 A-Dur
25-28. Concert No.13 G-Dur
29-32. Concert No.14 d-moll


Thomas Brandis & Chiara Banchini - violins
Heinz Holliger & Marie-Lise Schüpbach - oboes
Aurèle Nicolet & Christiane Nicolet - flutes
Josef Ulsamer & Laurenzius Strehl - viola da gambas
Manfred Sax - bassoon
Christiane Jaccottet - harpsichord







http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/926.html#c1
[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
39. 中川隆[-13662] koaQ7Jey 2020年2月21日 18:58:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-182]

クープラン ; チェロとピアノのための演奏会用小品
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/926.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c39
[近代史4] バロック音楽 中川隆
1. 中川隆[-13661] koaQ7Jey 2020年2月21日 18:59:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-181]

クープラン ; チェロとピアノのための演奏会用小品
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/926.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/180.html#c1
[近代史3] クープラン ; チェロとピアノのための演奏会用小品 中川隆
2. 中川隆[-13660] koaQ7Jey 2020年2月21日 19:04:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-180]

フランソワ・クープラン(François Couperin 発音例, 1668年11月10日 パリ - 1733年9月11日 同地)は、バロック時代のフランスの作曲家。

多くの音楽家を輩出したクープラン家の中でも特に有名な人物であり、大クープラン (Couperin le Grand) として知られる[1]。

クープランの作品の中で主要な位置を占めるのは4巻のクラヴサン曲集であり、約220曲の小品が27のオルドル (ordre) と称する組曲を構成している。彼のクラヴサン曲はアルマンドやクーラントといった組曲の代表的舞曲よりはむしろ、人名、風俗、自然、感情といった類の優雅で象徴的な題名を持つ描写的な作品が多くを占めている[2]。

生涯

フランソワ・クープランの父親のシャルル・クープラン (1638-1679) はルイ・クープランの弟であり[3]、1661年からはルイの後任としてパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めていた。1662年2月20日にシャルルは理髪師の娘マリ・ゲランと結婚し、1668年11月10日にフランソワ・クープランが生まれた。

彼は当然父親から音楽教育を受けていたと考えられるが、1679年、彼が10才の時にシャルルは亡くなってしまう。サン・ジェルヴェ教会のオルガニストとなるにはクープランは未だ幼すぎたが、教会評議会は彼が18才の誕生日を迎えた時に父親の地位を引き継ぐことに同意し、それまではミシェル=リシャール・ドラランドが代理を務めることになった。クープランの教育はサン・ジャック・ド・ラ・ブシュリー教会のオルガニストで国王のオルガニスト (organiste du roi) でもあったジャック・トムラン (en:Jacques Thomelin) が引き受けた。クープランは約束の日が来る以前に実質的にサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めるようになり、1685年11月1日に教会評議会はクープランに対する報酬の支払いを決定している。

1689年にクープランはマリ=アンヌ・アッソーと結婚、1690年には最初の出版作品である2つのオルガン・ミサからなるオルガン曲集を出版し、1693年にはルイ14世によってトムランの後任に選ばれた。国王のオルガニストとして宮廷との結びつきを強めたクープランは、教師として多くの王家の人々にクラヴサンを教え、王室楽団ではジャン・バティスト・アンリ・ダングルベール(ジャン=アンリ・ダングルベールの子)の代役として常任クラヴサン奏者を務めた[4]。さらに宮廷作曲家としても活動するようになり、室内楽だけでなく王室礼拝堂用の宗教音楽も手がけた。国王の命を受けた3組のヴァーセット集が1703年から1705年にかけて出版されている。手稿譜で伝わる多数のモテットは1690年代後半に書かれたものと考えられる。この頃からクープランはイタリア風のトリオ・ソナタの作曲に取り組みはじめており、最初のうちはそれらをイタリア風の偽名で発表していた。

1713年に出版された『クラヴサン曲集第1巻』に収録されている作品の内いくつかは、出版される以前から手稿譜で出回っていたことが確実である。バラールの『クラヴサン曲選集』 (Pièces choisies pour le clavecin, 1707) にはクープランの作品のいくつかが作者不明の曲として収録されている。『クラヴサン曲集第1巻』はそのような手持ちの作品をまとめた曲集であると考えられ、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという組曲における舞曲の定型の配列を守る傾向があるものの、他に多数の描写的な表題を持つ作品が収録されている。クープランは序文で「これらの楽曲を作曲する際、私の頭のなかにはさまざまなおりに得た対象があった。私が何を考えたかを標題が示しているので、それ以上に説明をする必要はない。」[5]と記しているが、クープランのクラヴサン曲の標題は現在では意味のよくわからないものも多い。

1716年にはクラヴサン演奏論である『クラヴサン奏法』 (L'art de toucher le clavecin) を出版した。これはごく短い著作であるが、内容は雑然としており、演奏の際の姿勢、幼い生徒への教授法、運指法と装飾音の解説、練習用の音階、イタリア音楽とフランス音楽の違い、自身のクラヴサン曲集の演奏に関するアドバイス、演奏会で伴奏者が注目されないことについての愚痴、などが思いつくままに綴られている。またクラヴサンにふさわしい音楽について実例を示すためのアルマンド1曲と、自身のクラヴサン曲集で使用されている調によるプレリュード8曲が収録されている。運指法の記述からはクープランは音階を演奏する際に中指で人差し指または薬指をまたぐ古風な方法を用いていたことがわかる。一方で替え指を使ったり、重音の三度ではレガートな指使いを用いるなど新しい方法を支持してもいる。1717年には『クラヴサン奏法』の第2版が出版され、おそらく同じ年に『クラヴサン曲集第2巻』が出版された[6]。第2巻の組曲は(第8オルドルを例外として)組曲の定型はほとんど放棄されており、描写的な標題を持つ作品の比重が増している。クープランの重要な宗教声楽作品である『ルソン・ド・テネブレ』 (Leçons de ténèbres) もこの頃に出版されている。全部で9曲が作曲されたと考えられるが、現存するのは3曲のみである。

1722年に『クラヴサン曲集第3巻』が出版され、『王宮のコンセール』 (Concerts Royaux) がその第2部として出版された。さらに1724年には『王宮のコンセール』の続編として『趣味の融合、あるいは新しいコンセール』 (Les Goûts réunis ou Nouveaux Concerts) を出版 、1725年に『比類なきリュリ氏の不滅の思い出に捧げるアポテオーズと題されたコンセール』 (Concert en forme d'apothéose à la mémoire de l'incomparable M. de Lully)、1726年に『諸国の人々 - トリオによるソナードとサンフォニー組曲集』 (Les Nations - Sonades et suites de simphonies en trio)、1728年に『通奏低音付きヴィオラ・ダ・ガンバ曲集』 (Pieces de violes avec la basse chifrée) とこの時期クープランは続々と室内楽作品を出版している。

1730年の『クラヴサン曲集第4巻』の序文でクープランは健康状態が悪化していることを記している、「三年程前これらの作品は書き上げられた。しかし私の健康は日々弱るばかりなので友人たちは仕事を休むよう忠告してくれた。それでその後何も大きな仕事をしていない。諸賢が今日まで私の作品に喝采を送らんとせられたことに御礼申し上げる…」[7]。その3年後の1733年9月11日にクープランはその生涯を閉じた。

作品

クラヴサン曲

『クラヴサン曲集第1巻』 Pièces de clavecin ... premier livre (1713) - 第1から第5オルドル

第1オルドル(ト短調/ト長調)
アルマンド「尊厳」 Allemande L'Auguste
第1クーラント Première courante
第2クーラント Seconde courante
サラバンド「荘重」 Sarabande La majestueuse
ガヴォット Gavotte
英国貴族、ジーグ La Milordine, gigue
メヌエットとドゥーブル Menuet (et double)
シルヴァン Les silvains[8]
蜜蜂 Les abeilles
ナネット La Nanète
情感、サラバンド Les sentimens, sarabande
牧歌 La pastorelle
金髪と栗色の髪の修道女たち Les nonètes (Les blondes, Les brunes)
ブルボン家の人、ガヴォット La bourbonnoise, gavotte
マノン La Manon
魅惑 L'enchanteresse
フルーリ、あるいは優しいナネット La fleurie, ou La tendre Nanette
サンジェルマン・アン・レの楽しみ Les plaisirs de St Germain en Laÿe

第2オルドル(ニ短調/ニ長調)
アルマンド「勤勉」 Allemande La laborieuse
第1クーラント Premiere courante
第2クーラント Seconde courante
サラバンド「貞淑」 Sarabande La prude
アントニーヌ L'Antonine
ガヴォット Gavote
メヌエット Menuet
カナリーとドゥーブル Canaries (avec double)
パスピエ Passe-pied
リゴドン Rigaudon
シャロレーズ La Charoloise[9]
ディアーヌ La Diane
ディアーヌに続くファンファーレ Fanfare pour la suite de la Diane
テルプシコーレ La Terpsicore
フロランティーヌ La Florentine
ガルニエ La Garnier
バベ La Babet
幸福な思い Les idées heureuses
ミミ La Mimi
勤勉 La diligente
おべっか La flateuse
官能的 La voluptueuse
蝶々 Les papillons

第3オルドル(ハ短調/ハ長調)
暗闇、アルマンド La ténébreuse, allemande
第1クーラント Premiere courante
第2クーラント Seconde courante
陰鬱、サラバンド La lugubre, sarabande
ガヴォット Gavotte
メヌエット Menuet
巡礼者 Les pélerines
ロランティーヌ Les laurentines
エスパニョレッテ L'Espagnolète
悔恨 Les regrets
プロヴァンスの水夫 Les matelotes provençales
お気に入り、シャコンヌ La favorite, chaconne
リュタン La lutine[10]

第4オルドル(ヘ長調)
灰色の服を着た人々の行進 La marche des gris-vêtus[11]
バッカス祭 Les baccanales
パトリーヌ La pateline[12]
目覚まし時計 Le réveil-matin

第5オルドル(イ長調/イ短調)
ロジヴィエール、アルマンド La logiviére, allemande[13]
第1クーラント Premier courante
第2クーラント Seconde courante
危険、サラバンド La dangereuse, sarabande
ジーグ Gigue
優しいファンション La tendre Fanchon
ひょうきん者 La badine
バンドリーヌ La bandoline[14]
フローラ La Flore
アンジェリーク L'Angélique
ヴィレール La Villers
ぶどう摘み Les vendangeuses
装飾 Les agrémens
波 Les ondes

『クラヴサン奏法』 L'art de toucher le clavecin (1716) - ニ短調のアルマンド1曲と8曲のプレリュードを含む(第1番:ハ長調、第2番:ニ短調、第3番:ト短調、第4番:ヘ長調、第5番:イ長調、第6番:ロ短調、第7番:変ロ長調、第8番:ホ短調)

『クラヴサン曲集第2巻』 Second livre de pièces de clavecin (1716〜1717) - 第6オルドルから第12オルドル

第6オルドル(変ロ長調)
刈り入れをする人々 Les moissoneurs
優しい憂鬱 Les langueurs-tendres
さえずり Le gazoüillement
ベルサン La Bersan
神秘的な障壁 Les baricades mistérieuses
田園詩、ロンドー Les bergeries, rondeau
おしゃべり La commére
羽虫 Le moucheron

第7オルドル(ト長調)
メヌトゥ La Ménetou[15]
子供時代:ミューズの誕生、幼年期、思春期、逸楽 Les petits âges: La muse naissante, Lenfantine, L'adolescente, Les délices
バスク La Basque
シャゼ La Chazé
気晴らし Les amusemens

第8オルドル(ロ短調)
ラファエル La Raphaéle
アルマンド「オーゾニエーヌ」Allemande L'Ausoniéne
第1クーラント Premiere courante
第2クーラント Seconde courante
サラバンド「無比」Sarabande L'unique
ガヴォット Gavotte
ロンドー Rondeau
ジーグ Gigue
パッサカーユ Passacaille
モリネット La Morinéte

第9オルドル(イ長調/イ短調)
2台のクラヴサンのためのアルマンド Allemande à deux clavecins
清涼 La rafraîchissante
魅力 Les charmes
サンスの公女 La Princesse de Sens[16]
オリンピック L'olimpique
謙虚 L'insinüante
魅惑 La séduisante
ひるがえるリボン Le bavolet-flotant
略式喪服、あるいは3人の寡婦 Le petit-deüil, ou Les trois veuves
メヌエット Menuet

第10オルドル(ニ長調/ニ短調)
凱旋 La triomphante
メザンジェール La Mézangére
ガブリエル La Gabriéle
ノワンテル La Nointéle
颯爽 La fringante
アマゾン L'amazône
バガテル Les bagatelles

第11オルドル(ハ短調/ハ長調)
カストゥラーヌ La castelane
光輝、あるいはボンタン L'etincelante, ou La bontems
生まれながらの気品 Les graces-naturéles
ゼノビ La Zénobie
偉大にして古き吟遊詩人組合の年代記 Les fastes de la grande et ancienne Mxnxstrxndxsx[17] 第1幕 吟遊詩人組合の名士と組合員 Premier Acte. Les Notables, et Jurés - Mxnxstrxndxnrs.
第2幕 ヴィエル弾きと乞食 Second Acte. Les Viéleux, et les Gueux.
第3幕 熊と猿を連れた旅楽師と軽業師と大道芸人 Troisième Acte. Les Jongleurs, Sauteurset Saltimbanques: avec les Ours, et les Singes.
第4幕 傷痍軍人、または偉大な吟遊詩人組合に属するかたわ Quatrième Acte. Les Invalides: ou gens Estropiés au service de la grande Mxnxstrxndxsx.
第5幕 酔っ払いと猿と熊の引き起こした無秩序と潰走 Cinquième Acte. Désordre, et déroute de toute la troupe: causés par les Yvrognes, les Singes, et les Ours.


第12オルドル(ホ長調/ホ短調)
双子 Les juméles
親密、クーラントのテンポで L'intîme, mouvement de courante
ギャラント La galante
コリュバス La coribante
ヴォーヴレ La Vauvré
糸紡ぎ La fileuse
ブルノワーズ La boulonoise
アタランテ L'Atalante

『クラヴサン曲集第3巻』 Troisième livre de pièces de clavecin (1722) - 第13から第19オルドル

第13オルドル ロ短調
花開く百合 Les lis naissans
葦 Les rozeaux
胸飾りのリボン L'engageante[18]
フランスのフォリア、あるいはドミノ Les folies françoises, ou Les dominos 純潔、目に見えぬ色のドミノの下で La Virginité, sous le Domino couleur d'invisible.
羞恥、バラ色のドミノの下で La Pudeur, sous le Domino couleur le rose.
情熱、肉色のドミノの下で L'Ardeur, sous le Domino incarnat.
希望、緑色のドミノの下で L'Esperance, sous le Domino vert.
貞節、空色のドミノの下で La Fidélité, sous le Domino bleu.
忍耐、亜麻色のドミノの下で La Persévérance, sous le Domino gris de lin.
倦怠、紫色のドミノの下で La Langueur, sous le Domino violet.
コケトリー、色とりどりのドミノの下で La Coquéterie, sous diférens Dominos.
年老いた伊達男や宮廷人たち、緋色と枯草色のドミノの下で Les Vieux Galans et les trésorieres suranées, sous des Dominos pourpres et feuilles mortes.
お人よしのカッコウたち、黄色いドミノの下で Les Coucous bénévoles, sous des Dominos jaunes.
無言の嫉妬、モール風の濃鼠色のドミノの下で La Jalousie taciturne, sous le Domino gris de maure.
狂乱、または絶望、黒いドミノの下で La Frénésie, ou le Désespoir, sous le Domino noir.

煉獄の魂 L'âme-en peine

第14オルドル(ニ長調/ニ短調)
恋のサヨナキドリ Le rossignol-en-amour
サヨナキドリのドゥーブル Double du rossignol
怯えたヒワ La linote-éfarouchée
嘆きのムシクイたち Les fauvétes plaintives
勝ち誇るサヨナキドリ Le rossignol-vainqueur
ジュリエ La Julliet
キュテラ島の鐘 Le carillon de Cithére
些細なもの Le petit-rien

第15オルドル(イ短調/イ長調)
摂政、あるいはミネルヴァ La régente, ou La Minerve[19]
ねんね、あるいはゆりかごの愛し子 Le dodo, ou L'amour au berceau
軽はずみ L'evaporée
ショワジのミュゼット Muséte de Choisi
タヴェルニのミュゼット Muséte de Taverni
温和と辛辣 La douce et piquante
花咲く果樹園 Les vergers fleüris
シャブイユ公女、あるいはモナコのミューズ La Princesse de Chabeüil, ou La muse de Monaco

第16オルドル(ト長調/ト短調)
比類なき気品、あるいはコンティ Les graces incomparables, ou La Conti
結婚-愛 L'himen-amour
処女たち Les vestales
可愛いテレーズ L'aimable Thérèse
奇怪なやつ Le drôle de corps
粗忽者 La distraite
レティビル La Létiville

第17オルドル(ホ短調)
威厳あるいはフォルクレ La superbe, ou La Forqueray[20]
小さな風車 Les petits moulins à vent
小さな鐘 Les timbres
クーラント Courante
バニョレの小さな乳搾り Les petites chrémières de Bagnolet

第18オルドル(ヘ短調/ヘ長調)
アルマンド『ヴェルヌイユ』 Allemande La Verneüil
ヴェルヌイエット La Verneüilléte
修道女モニク Sœur Monique
騒々しい男 Le turbulent
感動 L'atendrissante
ティク・トク・ショク、あるいはマイヨタン Le tic-toc-choc, ou Les maillotins[21]
びっこのガイヤール Le gaillard-boiteux

第19オルドル(ニ短調/ニ長調)
カロタンとカロティーヌ、あるいは縁日劇場の芝居 Les Calotins et les Calotines, ou La piéce à tretous
カロティーヌ Les Calotines
生娘 L'ingénuë
芸術家 L'artiste
ドミニコ会修道士の転落 Les culbutes Ixcxbxnxs[22]
ミューズ・プランティーヌ La muse-Plantine
つけぼくろ L'enjouée

『クラヴサン曲集第4巻』 Quatrième livre de pièces de clavecin (1730) - 第20から第27オルドル

第20オルドル(ト長調/ト短調)
王妃マリー La Princesse Marie[23]
道化役者 La boufonne
ケルビム、あるいは可愛いラズール Les chérubins, ou L'aimable Lazure
クルイイ、あるいはクープリネット La Croûilli, ou La Couperinéte[24]
華奢なマドロン La fine Madelon
優しいジャヌトン La douce Janneton
セジル La Sezile
タンブラン Les tambourins

第21オルドル(ホ短調)
ハートの女王 La reine des cœurs
躍動 La bondissante
クープラン La Couperin
ハープ La harpée
澄ました皮肉屋 La petite pince-sans rire

第22オルドル(ニ長調/ニ短調)
戦利品 Le trophée
夜明け、アルマンド Le point du jour, allemande
鰻 L'anguille
足絡み Le croc-en-jambe
交差するメヌエット Menuets croisés
手品 Les tours de passe-passe

第23オルドル(ヘ長調)
大胆 L'audacieuse
編み物 Les tricoteuses
アルルカン L'arlequine
デーロス島のゴンドラ Les gondoles de Délos
山羊の脚をしたサテュロス Les satires, chevre-pieds

第24オルドル(イ短調/イ長調)
大殿様たち、荘重なサラバンド Les vieux seigneurs, sarabande grave
若殿様たち Les jeunes seigneurs
人殺しの矢 Les dars-homicides
花飾り Les guirlandes
がらくた Les brinborions
すてきなバビシュ、またはおどけた愛 La divine-Babiche, ou Les amours badins
美しいジャヴォット、かつての王女 La belle Javotte, autre fois l'infante
両生類、パッサカーユのテンポで L'amphibie, mouvement de passacaille

第25オルドル(変ホ長調/ハ長調/ハ短調)
幻影 La visionnaire
神秘 La misterieuse
モンフラベール La Monflambert
勝ち誇るミューズ La muse victorieuse
さまよう亡霊 Les ombres errantes

第26オルドル(嬰ヘ短調)
病み上がり La convalescente
ガヴォット Gavote
ソフィー La Sophie
刺々しさ L’epineuse[25]
パントマイム La pantomime

第27オルドル(ロ短調)
高雅、アルマンド L'exquise, allemande
罌粟 Les pavots
中国人 Les chinois
機知 Saillie

オルガン曲

『2つのミサ曲からなるオルガン曲集』 Pieces d'orgue consistantes en deux masses (1690)
小教区用ミサ曲 Messe à l'usage ordinaire des paroisses pour les fêtes solemnelles
修道院用ミサ曲 Messe propre pour les Convents de religieux et religieuses


室内楽曲

トリオ・ソナタ

ホ短調「少女」 La pucelle (ca. 1692)
変ロ長調「スタインケルク」 La Steinquerque (ca. 1692)
ト短調「アストレ」 L'Astrée (ca. 1693)
ハ短調「幻影」 La visionnaire (ca. 1693)
イ長調「威厳」 La Superbe (ca. 1695)

四重奏ソナタ ニ短調「スルタン」 La Sultane (ca. 1695)

『王宮のコンセール』 Concerts Royaux (1722)
コンセール第1番〜第4番

『趣味の融合、あるいは新しいコンセール』 Les Goûts réunis ou Nouveaux Concerts (1724)
コンセール第5番〜第14番
『パルナッソス山あるいはコレッリ賛』 Le Parnasse ou l'apothéose de Corelli

『比類なきリュリ氏の不滅の思い出に捧げるアポテオーズと題されたコンセール』 Concert en forme d'apothéose à la mémoire de l'incomparable M. de Lully (1725)

『諸国の人々 - トリオによるソナードとサンフォニー組曲集』 Les Nations - Sonades et suites de simphonies en trio (1726)
フランス人 La Française (トリオ・ソナタ「少女」にもとづく)
スペイン人 L'Espagnole (トリオ・ソナタ「幻影」にもとづく)
神聖ローマ帝国人 L'Impériale
ピエモンテ人 La Piémontaise (トリオ・ソナタ「アストレ」にもとづく)

『通奏低音付きヴィオラ・ダ・ガンバ曲集』 Pieces de violes avec la basse chifrée (1728)
組曲第1番ホ短調
組曲第2番イ短調


宗教声楽曲

王の命令により作曲されたモテットの4つのヴァーセット 4 versets d'un motet composé de l'ordre du Roy (1703)
王の命令により作曲されたモテットの7つのヴァーセット 7 versets d'un motet composé de l'ordre du Roy (1704)
王の命令により作曲されたモテットの7つのヴァーセット 7 versets d'un motet composé de l'ordre du Roy (1705)
ルソン・ド・テネブレ Leçons de ténèbres (1713〜1717) Première leçon de ténèbres
Seconde leçon de ténèbres
Troisième leçon de ténèbres

聞け、すべてのものよ、そして恐れよ Audite omnes et expanescite
神と人との対話 Dialogus inter Deum et hominem
主よ、王を健やかに渡らせたまえ Domine salvum fac regem
祝祭は喜びの(聖アンナの祝日用モテット) Festiva laetis
信徒たちの喜びの声は(聖アウグスティヌスの祝日用モテット) Jucunda vox eccesiae
天が喜ぶように(聖バルテルミの祝日用モテット) Laetentur coeli
主を賛美せよ、しもべたちよ Laudate pueri Dominum
シオンよ救い主を賛美せよ Lauda Sion salvatorem
マニフィカト Magnificat
おお愛よ、おお喜びよ O amor O gaudium
おお主よ、避けどころよ O Domine quia refugium
おお最も恵み深いイエスよ O Jesu amantissime
おお言葉に出来ない奇跡 O misterium ineffabile
祭壇に祈りを捧げよ Ornate aras
あなたにどうやって報いましょうか、主よ Quid retribuam tibi Domine
レジナ・チェリ Regina coeli laetare
オルガンが響くように(聖チェチリアの祝日用モテット) Resonent organa
わたしを顧みて下さいRespice in me
サルヴェ・レジナ Salve Regina
神よ、わたしを健やかに渡らせたまえ Salvum me fac Deus
タントゥム・エルゴTantum ergo sacramentum
いつまで、主よ Usquequo Domine
さあ来なさいキリストの花嫁よ(聖シュザンヌの祝日用モテット) Veni sponsa Christi
いざ主に向かって喜び歌え Venite exultemus Domine
勝利:復活されたキリストによって(復活祭用モテット) Victoria: Christo resurgenti


世俗声楽曲

カノン

助けて!すべてを失った! A moy! Tout est perdu!
2枚のシーツの間の女 La femme entre deux draps

歌曲

どうか私に言わないで Qu’on ne me dise, air sérieux
我が心の甘い絆 Doux liens de mon coeur, air sérieux
ブリュネット Brunette
ある怠け者の墓碑銘 Epitaphe d'un paresseux
牧歌 La pastorelle
巡礼の女たち Les pèlerines
隠者たち Les solitaires
ミュゼット Musette
ヴォードヴィル Vaudeville
3人の田舎娘と3人のならず者たち Trois vestales champetres et trois poliçons


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/926.html#c2

[近代史3] パブロ・カザルス カタルーニャ民謡 『鳥の歌』
パブロ・カザルス カタルーニャ民謡 『鳥の歌』


Pau Casals - El cant dels ocells (at the White House)


Pau Casals - Cello,
Mieczysław Horszowski - Piano


from the album "A Concert at the White Houe" (Columbia KL 5726) recorded live on November 13, 1961 at the White House and released in 1962.


2006/03/01
ホワイト・ハウスのカザルスと「鳥の歌」


米コロムビア KL5726
『コンサート・アット・ザ・ホワイト・ハウス』
フェリックス・メンデルスゾーン「ピアノ3重奏曲第1番ニ短調 作品49」
フランソワ・クープラン「チェロとピアノのための演奏会用小品集
ロベルト・シューマン「アダージョとアレグロ 作品70」
カザルス編「鳥の歌」


アレクサンダー・シュナイダー(vn), パブロ・カザルス(vc), ミエチスラフ・ホルショフスキー(p)
(録音:1961年11月13日 ホワイト・ハウスでのライブ)


 1961年11月13日、月曜日の夜、かなり盛大なアフターディナー・コンサートが、アメリカ合衆国大統領官邸、ホワイト・ハウスのイースト・ルームで開催された。


 ホストは、時のアメリカ大統領、35代目に就任したばかりのジョン・F・ケネディ、演奏するアーテイストは世界的チェリスト、パブロ・カザルス、当時84歳だった。


この会場には、当時のアメリカを代表する錚々(そうそう)たる音楽家、サミュエル・バーバー、アーロン・コープランド、ハワード・ハンソン、カルロ・メノッテイ、ウオルター・ピストン、ウイリアム・シューマン、ヴァージル・トムソン、レナート・バーンスタイン、ユージン・オーマンデイ、そしてレオポルド・ストコフスキーら多数が列席した。


 カザルスがこのホワイト・ハウスのイースト・ルームで演奏するのは、この時が最初ではない。ケネディが、開演前、わざわざ紹介したように、ウイリアム・マッキンリー大統領の1898年と、テオドール・ルーズベルトの1904年に、それぞれ1回づつ演奏しているので、これが3回目であった。


 実はその間、スペインの内乱によりフランコ独裁政権が樹立され、カザルスは、この新政権には終始断固反対すると共に、各国政府が次々に新政権を容認する態度に抗議すべく、一般公開演奏の停止宣言をしていた。


 しかし、就任早々の若きアメリカ大統領ケネディの強い要請に対し、同大統領の世界平和に対する強いコミットに期待しつつ、この申し出を受入れ、老骨に鞭打ってホワイトハウスに出かけることにしたのである。(ちなみに、この同じ年の4月、カザルスは、愛弟子 平井丈一朗の帰国演奏会をサポートするため、フランコ容認を理由に一切の演奏を拒絶していた日本への初来日を果たし、平井のために東京と京都で指揮をしている。その後、2度と日本を訪れることはなかったが。)


 ホワイト・ハウスでのコンサートのためにカザルスが相方に選んだのは、古くからの盟友、ピアノのホルショフスキーと彼を通して知り合ったブダペスト四重奏団のメンバー、ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダーで、この3人は、1950年、カザルスが主催していたプラドでの音楽祭以来の頗る気心の合った仲間でもあった。


 演奏会に先立って、ケネディは極く短い挨拶の中で、音楽の国際社会に対する役割の重要性とともに、カザルスの世界平和と自由に対する大いなる貢献を強調した。


 このレコードは、このホワイト・ハウスでの演奏会を収録したものである。演奏会は、メンデルスゾーンのピアノ・トリオ第1番で始まった。 この作品は、20世紀前半に、コルトー、テイボーと組んだ黄金トリオでも録音を残しているが、カザルスの得意とするレパートリーであり、このコンサートのメイン・ピースでもあった。


 メンデルスゾーンの室内楽の中でも筆者の最も好きな曲であり、しなやかで楽しさにあふれた名曲である。ここでのカザルスも、のびのびとした気分で弾いていて、いかにも気心の合った3人がこの曲の気分に寄り添うように演奏している雰囲気が伝わってくるようだ。演奏会は、クープラン、シューマンと続いて最後が、有名な「鳥の歌」で締めくくられる。


 この曲は、カザルスとは切っても切れない愛奏曲となっていたが、元々彼の生地カタロニア地方の民謡をカザルスが編曲したもの。自身の説明によれば、


「私は、カタロニアの古いキャロル“鳥の歌”のメロデイでコンサートをしめくくることにしています。その歌詞はキリスト降誕を歌っています。生命と人間にたいする敬虔な思いにみちた、じつに美しく心優しいことばで、生命をこよなく気高く表現しています。」


と述べ、また故郷カタロニアについて


「この歳になるまで いくつもの国を訪れ、たくさんの美しい土地に出会った。でも私の心に刻まれたもっとも純粋に美しいところはカタロニアだ。目を閉じれば、(1つ1つの特定場所を列記する)カタロニアは私の生まれ故郷だ。カタロニアは母のように慕わしい・・・」。
(何れも、ちくま文庫版 パブロ・カザルス「鳥の歌」池田香代子訳)


 生涯を通して決して戻ることはなかった望郷の思いと平和への強い願いをこめて、わずか3分そこそこの短い小品ながら、彼が大統領に一番聴いて貰いたかったのは、この曲ではなかったのか。この録音からはカザルス渾身のボーイングの響きと共に、彼自身の物凄いうなり声まで聞き取ることが出来る。


 1971年10月、94歳のとき、ニューヨークの国連本部での演奏会でも、「鳥の歌」を取り上げ、「自分の故郷カタロニアでは、鳥はピース、ピースと鳴くのです」と語って演奏したのが、語りぐさとなっている。このときの模様は全世界にテレビ中継された。


 表紙の写真は、マーク・ショウによるもの。多分、最後の「鳥の歌」の演奏前の情景であろうか。正面席には、ケネディと1人おいてジャックリーヌが、ケネディの左、1人おいてちょっと横向きに座っているのは、多分ストコフスキーであろう。


 それにしても深々と頭を下げて挨拶をする老雄カザルスのがっしりとしたまるで農夫のような背中が印象的である。


 周知の通り、大統領ケネディは、この演奏会のほぼ2年後の1963年11月22日、凶弾に倒れ、カザルスの抱いた期待も露と消えてしまったが、実は、ケネディが亡くなる直前、63年の夏、大統領がプエルトリコを訪れたとき2人は再会している。
ケネディは、カザルスに“自由のメダル”を授与すべく、もう一度ホワイトハウスへ招待したが、その機会は大統領の死によって永遠に実現されることはなかった。カザルスの自伝「ジョイズ・アンド・ソロウズ」のほぼ最後に、このケネディに対する哀悼の意とともに深い無念の情が述べられている。


 しかし、カザルスの平和への運動は以降も決して途絶えることなく、それから10年後の1973年、心臓発作で96歳の大往生を遂げるまで続けられた。


 1950年代以降、アルベルト・シュヴァイツアー博士とともに、米ソ両国に対して始められた核実験廃絶運動にも、終始徹底して注力した生涯であった。


 そのカザルスが逝って早や30年以上、死して漸くカタロニアに戻り今や故郷ベンドレルの墓地に埋葬されているが、今年12月には巨匠の生誕125周年がやってくる。
http://www.cec-web.co.jp/column/disc100/disc100_12.html


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Pablo Casals receives the U.N. Peace Medal


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カタルーニャ(カタロニア)民謡:鳥の歌 El Cant dels Ocells
http://pacem.web.fc2.com/youtube_folksong/catalunya/song-birds_casals_wh-un.htm


チェロ: パブロ・カザルス (85歳)
ピアノ: ミェチスワフ・ホルショフスキ
Recorded live on November 13, 1961 at the White House (当時の大統領:ジョン・F・ケネディ)

  
カザルスがカタルーニャ民謡『鳥の歌』を演奏し始めたのは、第二次世界大戦が終結した1945年といわれる。この曲には、故郷への思慕と、平和の願いが結びついており、以後カザルスの愛奏曲となった。


1971年10月24日、カザルス94歳のときにニューヨーク国連本部において


「私の生まれ故郷カタロニアの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」


と語り、『鳥の歌』 (El Cant dels Ocells) をチェロ演奏したエピソードは伝説的で、録音が残されている。



I have to play today.
カタロニアの短い民謡を一曲演奏します。


This piece is called "The Song of the Birds"
この曲は「鳥の歌」と呼ばれています。


The birds in the sky, in the space,
空の鳥、宇宙の鳥は、


sing "Peace! Peace! Peace!".
ピース ピース ピースとさえずります。


The music is a music that Bach and Beethven
この曲はバッハやベートヴェンなどの


and greats would have loved and admired.
大作曲家もきっと愛したでしょう。


It is so beatiful and
美しい曲です。 それに


it is also the soul of my country. Catalonia.
私の祖国カタロニアの魂なのです。
http://pacem.web.fc2.com/youtube_folksong/catalunya/song-birds_casals_wh-un.htm


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パブロ・カザルス(Pablo Casals、カタルーニャ語:Pau Casals, 1876年12月29日 - 1973年10月22日)は、スペインのカタルーニャ地方に生まれたチェロ奏者、指揮者、作曲家。


カタルーニャ語によるフルネームはパウ・カルラス・サルバドー・カザルス・イ・ダフィリョー(Pau Carles Salvador Casals i Defilló)。


チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされる[1]。有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたヨハン・ゼバスティアン・バッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことが挙げられる。


早くから世界的名声を築き、ヨーロッパ、南北アメリカ、ロシアなどを演奏旅行して回った。指揮者フルトヴェングラーはチェロ奏者としてのカザルスへ次のような賛辞を残している。「パブロ・カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」。


カザルスは平和活動家としても有名で、音楽を通じて世界平和のため積極的に行動した。


略歴


1876年、スペイン・カタルーニャ地方タラゴナ県アル・バンドレイに生まれる。4歳でピアノを始め、6歳で「マズルカ」を作曲。9歳になると、ペダルに足が届くようになったことでオルガンを始める。11歳でチェロを弾き始める。


1888年、第1回バルセロナ万博の時、バルセロナに移り住む。
1888年から1893年まで、母の勧めでバルセロナ市立音楽院に入学し、チェロ、ピアノ、音楽理論、作曲などを学ぶ。チェロはホセ・ガルシアに、作曲は当時の音楽院長であったホセ・ロドレダに師事する。入学から半年ぐらいして、町はずれのカフェ・トストで働くようになった。カザルスはまだ少年であったが、チェロの名手として評判になり、遠方からも客が聞きに来るようになった。


1890年、バルセロナの楽器店でバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会う。母の勧めでマドリードに居を移す。スペイン王室の庇護を受けるようになる。
1896年、母とブリュッセル、パリと渡り歩いた後、20歳の時バルセロナの音楽学校で教え始める。以後はバルセロナを拠点に、パリやニューヨークにも住みながら、世界を演奏旅行した。


1899年、パリでデビュー。
1904年、バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公開演奏する。
1905年、アルフレッド・コルトー(ピアノ)、ジャック・ティボー(ヴァイオリン)との三重奏団(カザルス三重奏団)を結成。
1908年、コンセール・ラムルー管弦楽団の演奏会に指揮者兼ソリストとして登場。このときが指揮者活動の始まりとみられる。
1919年、第一次世界大戦の影響により、カタルーニャに戻る。
1931年、53歳、カタルーニャ自治政府誕生を祝う記念式典(ムンジュイック宮殿、現カタルーニャ美術館)には、自らのオーケストラと地元の合唱団とともに、ベートーベンの第九を指揮した。それまでどの選挙でも投票しなかったカザルスは、この時には自治政府首班フランセスク・マシア(1859年 - 1933年)に一票を投じた。
1939年、スペイン内戦のため、フランスへ亡命。スペインとの国境に近いプラード(プラド)に隠棲。
1945年、6月から演奏活動を再開。しかし、各国政府がフランコ政権を容認したことに抗議して11月から演奏活動を停止。
1950年、ヴァイオリン奏者アレクサンダー・シュナイダーの説得によってカザルスを音楽監督とするプラド音楽祭が開催される。
1955年、本拠地をプエルトリコに移す。プエルトリコは、カザルスの母、また妻マルタの故郷である。
1960年、自作カンタータ『まぐさ桶』を初演。
1961年、弟子の平井丈一朗[2]のために来日。東京交響楽団、京都市交響楽団を指揮。文京公会堂でスズキ・メソードで学ぶ児童400人の演奏を聴き「世界は音楽で救われるだろう」と述べる。[3]
1971年10月24日(国連の日)、ニューヨーク国連本部にて演奏会、国連平和賞が授与される。
1973年、心臓発作によりプエルトリコで死去。遺言によって、遺体は生地ベンドレイの墓地に埋葬された。


チェロ奏法の改革


カザルスは12歳でバルセロナの市立音楽院でチェロを学ぶことになるが、ホセ・ガルシアから教授されたチェロ奏法に当初から違和感を抱き、独自の奏法の追究を始めた。当時のチェロ奏法は、両ひじを両脇につけるという窮屈なものであった。この状態で、右手は手首を持ち上げ加減にして前腕だけで弓を扱い、左手は指の間隔を広げずにすべらせて音程移動させていた。このような奏法は、ヨーゼフ・ヨアヒム一門によるヴァイオリン奏法を機械的に模倣したものと考えられている。

カザルスは、右手を脇から自由にして弓による表現性を広げ、左手も脇から離し、指の間隔を拡張させて同じポジションで半音広く弾くことができるように改良した。このとき、カザルスは、アンリ・ヴュータンやウジェーヌ・イザイなどフランコ・ベルギー派のヴァイオリン奏法を参考にしたともいわれる。これらの奏法の確立には11年から12年を要した。カザルスは、自身では奏法革命とか改革という表現は使っていない。名技性ではなく、あくまで音楽的な完全性をめざすために必要だったと述べている。


この奏法の改革がなければ、20世紀のチェロ無伴奏作品のほとんどが作曲されることはなかっただろうと言われる。


「表現する音程」


カザルスの演奏は、シャープ記号(半音高く)の音が半音より高く、フラット記号(半音低く)の音がより低い傾向があると指摘されたり、音程が不正確で現代と比べれば技巧的には前時代的などと批判的に指摘する者もいる。しかしカザルスは、音程も表現の手段であり、同じ音階でも上昇するときと下降するときでは異なる音程をとる必要があると語っている。したがって、カザルス自身はそのことを十分承知の上で、表現上あえて音程をずらしていたのである[4]。


カザルスの政治姿勢


カザルスは、スペイン内戦が勃発するとフランスに亡命し、終生フランコ独裁政権への抗議と反ファシズムの立場を貫いた。このことは、ナチス・ドイツに迎合する姿勢を示していたコルトーとの決別[5]、カザルス三重奏団の解散へとつながった。


また、スペイン内戦を避けて1939年にプラドへ移り、第二次世界大戦後の1945年に演奏活動を一時的に再開するが、各国政府がフランコ政権を容認する姿勢に失望し、公開演奏停止を宣言する。この間、多くのチェリストがカザルスのレッスンを受けるためにプラドを訪れた。この時期カザルスに師事したチェリストに、モーリス・ジャンドロン、アンドレ・ナヴァラら、日本人では岩崎洸、佐藤良雄、平井丈一朗、上田真二らがいる。


1950年代後半からはアルベルト・シュヴァイツァーとともに核実験禁止の運動に参加した。


プラド音楽祭の誕生


1947年、ヴァイオリニストのアレクサンダー・シュナイダー[6]がカザルスを訪ね、アメリカでの演奏を申し出たがカザルスはこれを断った。手ぶらで戻ってきたシュナイダーはカザルスと親交があるミェチスラフ・ホルショフスキと相談した。カザルスを引っ張り出すのは無理でも、音楽家がカザルスのところへ集まれば演奏会は可能だと判断し、1950年、シュナイダーはアメリカ・コロンビア社の資金協力を得て、プラドでカザルスを音楽監督としたバッハ音楽祭を開くことを提案し、カザルスの説得に成功した。プラド音楽祭の誕生であった。


音楽祭の模様は、コロンビア社によってLP録音された。プラド音楽祭は1950年から毎年開かれたが、コロンビア社の資金難や意向、カザルスたち演奏家同士の意向が衝突するなど、次第に運営が困難になっていく[7]。1957年にカザルスがプエルトリコに本拠を移して以降は、この地でカザルス自身が音楽祭を開催した。1960年からは、カザルスはルドルフ・ゼルキンが主宰するマールボロ音楽祭に参加し、演奏家・指導者としてオーケストラを指揮・録音するようになる。このときのマールボロ音楽祭には、日本人ヴィオリストの今井信子やオーボエの鈴木清三も参加している。


鳥の歌


カザルスがカタルーニャ民謡『鳥の歌』(El Cant dels Ocells)を演奏し始めたのは、第二次世界大戦が終結した1945年といわれる。この曲には、故郷への思慕と、平和の願いが結びついており、以後カザルスの愛奏曲となった。


1971年10月24日、カザルス94歳のときにニューヨーク国連本部において「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース(英語の平和)と鳴くのです」と語り、『鳥の歌』をチェロ演奏したエピソードは伝説的で、録音が残されている[8]。


カザルスの楽器


弦楽器の名器といえば筆頭に挙げられるストラディヴァリウスだが、カザルスは「自分にはもったいない」「(音色が)自分には合わない」といって使わず、マッテオ・ゴフリラーが晩年の1733年に製作した楽器を愛用した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/パブロ・カザルス

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/927.html

[近代史4] 国民楽派の音楽 中川隆
1. 中川隆[-13659] koaQ7Jey 2020年2月21日 20:05:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-179]
パブロ・カザルス カタルーニャ民謡 『鳥の歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/927.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/162.html#c1
[番外地7] 自衛官はバカがやる仕事 中川隆
3. 中川隆[-13658] koaQ7Jey 2020年2月21日 20:59:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-178]
裁判官になる人は世の中が規則通りに動かないのが許せないみたいですからね。

価値観や物差しが一つしかないんですね。宮沢首相みたいに学校の成績が良い人が上だと思ってるとかね。
世界が無限に解釈可能だとか、社会的評価を無視する人がいるというのがわからないんですね。

自分の頭で考えるには、世の中には色々な価値観があると認めないとできないんです。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/496.html#c3

[近代史3] アメリカ民謡 「シェナンドー」
アメリカ民謡 「シェナンドー」


Sissel Kyrkjebø - Shenandoah - 2001



Sissel Kyrkjebø. Shenandoah.



Shenandoah ~ Sissel


▲△▽▼



シェナンドー (民謡)


「シェナンドー」(英語: Shenandoah=英語発音はシェナンドウア)は、「オー・シェナンドー」(Oh, Shenandoah)または「広大なミズーリ川を越えて」(Across the Wide Missouri)とも呼ばれる、アメリカの民謡である。


「シェナンドー」は19世紀から歌われているアメリカ合衆国の民謡で、歌詞から「オー・シェナンドー」(Oh, Shenandoah)とも、「広大なミズーリ川を越えて」(Across the Wide Misouri)とも呼ばれている。


歌詞に寄り、シェナンドーは西部へ渡った人がバージニア州のシェナンドー川またはシェナンドー・バレーを懐かしんで歌ったとも、そこに住む恋人のネイティブ・アメリカンの娘の名前とも言われる。




歌詞


時代により多少違うさまざまな歌詞が記録されているが、一例では、


英語の歌詞


Oh, Shenandoah, I long to see you,
Away you rolling river.
Oh, Shenandoah, I long to see you,
Away, we're bound away
'Cross the wide Missouri.


Oh, Shenandoah, I love your daughter,
Away, you rolling river.
For her I'd cross your roaming waters,
Away, I'm bound away
'Cross the wide Missouri.


'Tis seven years since last I've seen you,
Away, you rolling river.
'Tis seven years since last I've seen you,
Away, we're bound away
'Cross the wide Missouri.


Oh, Shenandoah, I long to hear you,
Away, you rolling river.
Oh, Shenandoah, I long to hear you,
Away, we're bound away
'Cross the wide Missouri


歌詞の大意[編集]
おお、シェナンドアよ、あなたに会いたい、
アウェイ、流れゆく川よ。
おお、シェナンドアよ、あなたに会いたい、
アウェイ、我らは遠くへ行く、
広いミズーリ川を超えて。


おお、シェナンドアよ、あなたの娘に会いたい、
アウェイ、流れゆく川よ。
彼女のために私は川を渡る、
アウェイ、我らは遠くへ行く、
広いミズーリ川を超えて。


あなたに最後会ってから7年、
アウェイ、流れゆく川よ。
あなたに最後会ってから7年、
アウェイ、我らは遠くへ行く、
広いミズーリ川を超えて。


おお、シェナンドアよ、あなたを聞きたい、
アウェイ、流れゆく川よ。
おお、シェナンドアよ、あなたを聞きたい、
アウェイ、我らは遠くへ行く、
広いミズーリ川を超えて。



影響


この民謡は、『シェナンドー河』などいくつかの映画に使われている。また2015年、バージニア州は州歌「我らの偉大なバージニア」(Our Great Virginia)を制定して、「シェナンドー」の旋律を利用している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/シェナンドー_(民謡)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/928.html

[近代史4] アメリカ民謡の世界

アメリカ民謡 「シェナンドー」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/928.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/183.html
[リバイバル3] 中川隆 _ 音楽関係投稿リンク 中川隆
133. 中川隆[-13657] koaQ7Jey 2020年2月21日 22:40:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-175]
アメリカ民謡 「シェナンドー」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/928.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/450.html#c133
[番外地7] 自衛官はバカがやる仕事 中川隆
5. 中川隆[-13656] koaQ7Jey 2020年2月22日 07:03:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-174]
名張毒ぶどう酒事件の裁判官を見れば、法学者に まともな人間が一人も居ないのが良くわかるよ:
 56年前、三重県名張市で地域の懇親会に出されたぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡した「名張毒ぶどう酒事件」で、名古屋高裁(山口裕之裁判長、出口博章裁判官、大村陽一裁判官)が8日、第10次再審請求を棄却する決定を出した。三者協議もやらない裁判所の姿勢から、この結論は予想していたが、様々な証拠に照らして確定判決を検討することにも拒否的で、毒物鑑定の検証実験などを「無意味」と突き放すなど、「これ以上裁判所の手を煩わせるな」と言わんばかりの拒絶感に満ちた態度が決定要旨からあふれているのには、唖然とさせられた。

三者協議さえ開かず

 本事件で起訴された奥西勝さんは、一審の津地裁は無罪だったが、二審の名古屋高裁で逆転有罪で死刑を言い渡された(このため、再審請求は地裁ではなく、高裁に提出することになる)。奥西さんは、判決確定後も無実を訴え続け、裁判のやりなおしを求めてきた。第7次再審請求で、ようやく名古屋高裁刑事第1部(小出じゅん一裁判長、「じゅん」はカネヘンに「享」)が再審開始を決定したが、検察の即時抗告による異議審で取り消された。第9次請求の最中に、奥西さんは死亡。第10次請求は、実妹の岡美代子さんが請求人となった初めての再審請求である。

 弁護側は使われた毒物が確定判決で示されたニッカリンTとは別の農薬であるとする主張を補強するため、事件当時の鑑定方法を再現する実験を行う一方、ぶどう酒の瓶の封緘紙ののりの成分を分析。製造過程で使用されたのとは異なる、一般家庭などで使われているのりが付着していたとして、奥西さん以外の誰かが、事前に開栓して毒物を入れた後に、再び封緘紙を貼り直した可能性があると主張した。 

 弁護側は鑑定を行った科学者の話を直接聞く機会を設けるよう、再三要請したが、裁判所は受け付けなかった。裁判所、弁護人、検察官による三者協議は、途中で請求を取り下げ第9次請求審に切り替えたために短期間で終わった第8次請求審でも行われたが、今回は一度も行われていない。

 決定では、毒物に関する再現実験は、当時の器具は入手不能などとして「再現を試みたところで、何の意味も持たない」「かかる再現実験をいくら重ねても無意味である」と切り捨てた。のりの成分についての再現実験でも、「意味をなさない」「意味をもたない」という言葉が繰り返された。

 専門的な知識や経験が必要な分野について、鑑定人の詳細な説明を求めることもなく、他の専門家の見解も聞かずとも、裁判官の非科学的な頭で科学鑑定の是非を判断できるんだと言わんばかりの対応は、傲慢の極みを言えよう。

証拠の吟味も行わず

 今回の決定は、確定判決を支えた証拠だけをつまみ食いしたうえ、当時の状況をまったく無視した評価をしている。

奥西さんの死後も支援活動は続くが…

 確定判決は、ぶどう酒に毒を入れる機会があったのは、懇親会会場の公民館で奥西さんが10分間1人でいた時間帯だけである、と認定した。ただ、このぶどう酒はその前に、懇親会を主催する生活改善クラブの会長Nさん宅に一定時間置かれていた。ぶどう酒の購入は、事件当日の朝にNさんが決めたこともあり、当初はNさんにも強い疑いが向けられていた。ところが、ぶどう酒到着時刻に関する関係者の供述は、途中ですべて、一斉に不自然な変化を遂げ、N宅に置かれていた時間がぐんと短くなり、ここで毒を入れる機会はないことになった。

 これによって、犯行の機会があった者は奥西さんのみだと主張する検察側に対し、一審の無罪判決は、証言の変遷は「検察官のなみなみならぬ努力の所産」と皮肉っている。

 しかし、今回の決定はそうした経緯は一切無視し、確定判決に合う証言のみをつまみ食いした。そのうえ、当時の状況は一切無視している。

 たとえば、ぶどう酒到着時刻に関する証言をしているT女の供述について、決定は「明確で一貫しており、うそをつく理由もない」と断言した。しかし、捜査の初期のT女供述は証拠として提出されていないので、果たして一貫しているのか不明だ。しかも、T女はNさんの実の妹である。

 第7次の再審開始決定では、T女ら関係者の供述の取扱いについて、次のような注意を述べている。

〈重要な供述者全員、特にNをはじめその家族(K女、T女)が、いずれも事件との強い利害関係を有する複雑な立場であって、供述の対象事項が、自らや親族らの嫌疑に直接、間接に関係し、虚偽供述を行いやすい強い動機が認められる〉

〈特にN女は嫁ぎ先から実家に帰っておりぶどう酒を一時的に保管していた家族として強い利害関係を有する者であり、兄Nとは供述当時の時点で同居していたこと(中略)などの背景事情があった〉

〈このような当時の背景事情を念頭に置いた上で、各供述の信用性の判断に当たり、供述の変遷、その理由、供述内容の自然さ、他の証拠との整合性などの観点から、慎重な検討を要する〉

2005年に再審開始決定が出たのだが……

 こうした「慎重な検討」もなく、証拠を十分に吟味しないまま、T女供述が「明確で一貫しており、うそをつく理由もない」などと断定した今回の決定は、控えめに言っても、あまりに軽率だ。こんな軽率な判断は、裁判記録全体を読み直し、これまでの再審請求審で明らかになった事実(弁護人が書面で丁寧に解説している)を新証拠とともに総合して検討していればできないだろう。今回の裁判所が、まともに再審の訴えに向き合っていなかったことが、ここに現れている、と思う。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/496.html#c5

[近代史3] My Darling Clementine - いとしのクレメインタイン (ジョン・フォード 荒野の決闘 1946)
My Darling Clementine - いとしのクレメインタイン (荒野の決闘)



【荒野の決闘】(1946年)アメリカ映画主題歌  【Photo Movie】
歌:ザ・ブラウンズ Music by The Browns featuring Jim Edward Brown.
Henry Fonda in "My Darling Clementine"USA film,1946



My Darling Clementine '46-selection- 荒野の決闘 /HD_日本語字幕




Directed by John Ford
Writing Credits
Samuel G. Engel ... (screen play) and
Winston Miller ... (screen play)
Sam Hellman ... (from a story by)
Stuart N. Lake ... (based on a book by)


Cast (in credits order) verified as complete
Henry Fonda ... Wyatt Earp
Linda Darnell ... Chihuahua
Victor Mature ... Doc Holliday
Cathy Downs ... Clementine Carter
Walter Brennan ... Old Man Clanton
Tim Holt ... Virgil Earp
Ward Bond ... Morgan Earp
Alan Mowbray ... Granville Thorndyke
John Ireland ... Billy Clanton
Roy Roberts ... Mayor
Jane Darwell ... Kate Nelson
Grant Withers ... Ike Clanton
J. Farrell MacDonald ... Mac the Barman
Russell Simpson ... John Simpson


▲△▽▼


『いとしのクレメンタイン』(原題:Oh My Darling Clementine )は、アメリカ西部開拓時代発祥の民謡バラード。


『いとしのクレメンタイン』は日本では『雪山讃歌』の曲として広く知られるが、1946年のジョン・フォード監督のアメリカ映画『荒野の決闘』(原題は“My Darling Clementine”)の主題歌となったことで、元の歌自体も広く知られるようになった。


パーシー・モントローズ(Percy Montrose)の作品とされる(時にはバーカー・ブラッドフォード(Barker Bradford)によるものとも)。H・S・トンプソン(H. S. Thompson、生没年不明)の「川を下ったところに娘が住んでいた」“Down by the River Liv'd a Maiden”が原詩とされている。


詩は、1848年から1855年の間に起きたアメリカ西部のカリフォルニアのゴールドラッシュの金鉱掘り49er(フォーティーナイナー)の娘を、水死によって後に残された恋人が愛しむ内容。


オリジナルの詩では黒人女性と思われる[1]恋人が泥酔して溺死して幽霊となる、という内容で、リフレインはほぼ同じだが他の行及びメロディーは全く異なる。


もっぱらスペインに関する作品を書いたイギリス人作家のジェラルド・ブレナン(Gerald Brenan)は、原曲はスペインの古いバラード曲で、ゴールドラッシュ時にメキシコ人鉱夫の間に広まり、それに様々な英語の詩が付けられたのではないかと推定している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/いとしのクレメンタイン



▲△▽▼


My Darling Clementine


In a cavern, in a canyon, Excavating for a mine,
Dwelt a miner, forty-niner, And his daughter Clementine.


 Oh, my darling, oh, my darling, Oh, my darling Clementine,
 You' re lost and gone forever, Dreadful sorry Clementine.


Light she was and like a fairy, And her shoes were number nine.
Herring boxes without topses, Sandals were for Clementine.


 Oh, my darling, oh, my darling, Oh, my darling Clementine,
 You' re lost and gone forever, Dreadful sorry Clementine.


Drove she ducklings to the water, Every morning just at nine,
Stabbed her toe upon a splinter, (and) Fell into the foaming brine.


 Oh, my darling, oh, my darling, Oh, my darling Clementine,
 You' re lost and gone forever, Dreadful sorry Clementine.


Ruby lips above the water, Blowing bubbles soft and fine,
But, alas, I was no swimmer, So I lost my Clementine.


 Oh, my darling, oh, my darling, Oh, my darling Clementine,
 You' re lost and gone forever, Dreadful sorry Clementine.


There's a church yard on a hill side Where flowers grow and twine,
There grow roses 'mongst possies, Fertilized by Clementine.


 Oh, my darling, oh, my darling, Oh, my darling Clementine,
 You' re lost and gone forever, Dreadful sorry Clementine.


How I missed her, how I missed her, How I missed my Clementine,
But I kissed her little sister And forgot my Clementine.


 Oh, my darling, oh, my darling, Oh, my darling Clementine,
 You' re lost and gone forever, Dreadful sorry Clementine.



いとしのクレメンタイン(三宅忠明:訳)


渓谷の洞窟に、鉱脈を掘りながら
49歳の鉱夫とその娘クレメンタインが住んでいた。


 ぼくのいとしい、いとしいクレメンタイン、
 お前は、永遠に逝ってしまったんだね!


妖精のように身軽なのに、靴は特大、ナンバーナイン、
ふたのないニシンの箱が、サンダル代わり。


 ぼくのいとしい、いとしいクレメンタイン、
 お前は、永遠に逝ってしまったんだね!


毎朝9時にアヒルを連れて、水を飲ませに近くの川に、
木の切り株に、つま先引っ掛けて、渦巻く淵に真っ逆さま。


 ぼくのいとしい、いとしいクレメンタイン、
 お前は、永遠に逝ってしまったんだね!


赤い唇が水面に浮かび、細かい泡を吹き上げるのを見ても、
ぼくは泳げないから、クレメンタインを見殺した。


 ぼくのいとしい、いとしいクレメンタイン、
 お前は、永遠に逝ってしまったんだね!


丘の中腹にある教会墓地に花が咲き
ケシに混じるバラの肥料になったクレメンタイン!


 ぼくのいとしい、いとしいクレメンタイン、
 お前は、永遠に逝ってしまったんだね!


悲しいよ、悲しいよ、ぼくのクレメンタイン、
でもその妹にキスして、クレメンタインを忘れたよ!


 ぼくのいとしい、いとしいクレメンタイン、
 お前は、永遠に逝ってしまったんだね!
https://eigouta.com/lyrics/MyDarlingClementine.html


▲△▽▼


『荒野の決闘』(My Darling Clementine)は1946年のアメリカ映画。
ジョン・フォード監督による西部劇映画の古典的な作品である。


主演はヘンリー・フォンダ。OK牧場の決闘を題材としている。詩情溢れる西部劇の傑作として名高い。



ジョン・フォード監督作品の西部劇映画の中でも『駅馬車』と並んで、最高傑作と評されている。『駅馬車』が動の西部劇なら、『荒野の決闘』は静の西部劇との声もある。また、平和でのどかな“#日曜日の朝”の描写は秀逸。

同一事件を扱った他の映画作品とは違い、アクション映画というよりも、ドラマとしての色彩が強い。無法の街が平和を取り戻す過程に、東部から恋人の跡を追ってきたクレメンタインの想いと、ドク・ホリディの心情、その情婦チワワのやりきれなさ、クレメンタインに対するワイアット・アープの淡い恋心等を絡めて、西部開拓時代の様子が風情豊かに描かれている。


日本でのリバイバル公開の際には「いとしのクレメンタイン」というサブタイトルがついたが、実はこちらが原題である。


実在のガンマン、ワイアット・アープ[1]本人からの聞き書きを基に、スチュアート・ナザニエル・レイクが著した半生記『ワイアット・アープ フロンティア・マーシャル』(邦題:『ワイアット・アープ伝 : 真説・荒野の決闘』)を原作とする、3度目の映画化作品。[2]


1作目、Frontier Marshal(1934)邦題『国境守備隊』。ジョージ・オブライエン主演。[3]
2作目、Frontier Marshal(1939)日本未公開。ランドルフ・スコット主演。[4]


フォードは、この1939年版を観て『荒野の決闘』を撮る気になった。この2作目は、スチュワート・N・レイクの原作をもとに脚本家のサム・ヘルマンが書いたストーリーをもとにしている。『荒野の決闘』もこのサム・ヘルマンのストーリーをもとにしているため、両作品の基本的なプロットはほとんど同じとなっている。架空の人物である二人のヒロインも役名は違うがほぼ同様に登場する。『荒野の決闘』は3作目ではあるが、2作目の1939年版のリメイク作品という性質が強い。[5]


ジョン・フォードはまだ駆け出しの頃に、撮影所を訪ねた晩年のアープと実際に会ったことがあり、そのとき本人から聞いた話のとおりに本作を作ったというエピソードがある。しかし、実際には『荒野の決闘』の人物設定やストーリー展開は史実からの乖離が非常に大きい。[6][7][8][9]


この映画の舞台はアリゾナ州のメキシコ国境近くのトゥームストーンであるが、撮影場所はそこから北へ約770kmのユタ・アリゾナ両州にまたがる、ジョン・フォード西部劇御約束のモニュメントバレーである[10]。モニュメントバレーはナバホ族居留地内にあり[11]、フォードは25万ドルかけてそこにトゥームストンの町をそっくりセットとして建設し、長期ロケによる撮影に及んだ。


このため、撮影現場は実際に「荒野に孤立した町」となり、戸外でのショットの際、通りの彼方や建物と建物の間に、果て無く広がる荒野や奇岩が入ることになった。手前から奥まで縦に通った構図に、霧や砂埃が風で運ばれる様子や雲の様、遥か彼方を進む馬車隊などが自然に映り込む事により、空気感が増しリアリティや詩情が醸し出されている。また、一般の西部劇ではあまり見られない、荒野側から見た孤立した町の様子や、町と荒野の境目の情景が描かれている。当然、主要な建物の位置関係にも破綻が無い。フォードはさらにBGMの使用を極力廃し、自然の音を優先することにより画面の現実感を引き出している。


トゥームストンのセットは、撮影終了後もナバホの部族会議に寄付されるかたちで残されたが、1951年になって処分された。


ストーリー


ワイアット、モーガン、バージル、ジェームズのアープ兄弟は、牛追いとなってカリフォルニアまで牛の群れを運んでいた。途中の荒野で、クラントン一家の当主オールド・マン・クラントンと長男のアイクに出会う。牛を売れと執拗にもちかけられるが、ワイアットは断った。近くにトゥームストンという町があることを教わり、今晩行ってみようと答える。


その夜、街の近郊で野営をしていたアープ兄弟は、四男のジェームズが買った純銀の首飾りをネタに談笑していた。彼を故郷で待っている婚約者のコリー・スーへの土産なのだ。三人は若年のジェームスひとりを牛の群れの見張りに残し、暗雲の夜道をトゥームストンへ向かう。


夜だというのにけたたましい喧騒に満ちたトゥームストン。到着した三人は、理髪店に向かう。早速髭を剃ろうとした瞬間、銃声が鳴り響き銃弾が飛び込んできた。泥酔したインディアン・チャーリー[12]が、拳銃をぶっ放して暴れていたのだ。命が惜しい保安官は及び腰になり、その場で町長にバッジを返し退職を表明した。落ち着いて髭も剃れない状況に業を煮やしたワイアットは、無法者が篭城している娼館に二階の窓から侵入。頭を殴って気絶させ、引き摺り出してきた。感激した町長は、この町の保安官になってくれないかと依頼する。彼はワイアットの名前を聞き、有名なダッジシティの保安官だと驚くが、ワイアットは「元」保安官だとすげなく断る。


三人が野営地に戻ってみると、牛の群れは一頭もいなくなり、末弟ジェームズの射殺体が無言で豪雨に打たれていた。


保安官就任


町に取って返したワイアットは、ホテルに住まう町長の元を訪ね、保安官を引き受ける。彼の部屋を出たアープは、ホテルの玄関で土砂降りの雨の中を来たクラントン一家とはち合わせた。ランプの灯りの下、対峙する双方。かすかに雷鳴が聞こえる。牛を盗まれたのでこの町にとどまり保安官をすると告げるワイアット。「保安官?トゥームストンで?」嘲笑するオールドマンは、ワイアットの名を聞いた途端に青ざめる。


ジェームズの墓前に額ずくワイアット。この町を出ていく頃には子供が安心して住める町にしてみせると誓う。

保安官となったアープ兄弟は、職務の傍ら消えた牛の足取りを追っていた。クラントン一家は怪しいが決め手が見つからない。

ワイアットが酒場でポーカーをしていると、酒場の歌姫チワワが「一万頭の牛がいなくなった」という歌[13]を嫌がらせに歌いだす。さらにワイアットのカードを盗み見て賭博師に合図を送る。彼女は、賭博の元締めドク・ホリデイの情婦であり、ドクの留守中に保安官に就任したワイアットを疎ましく思っているのだ。ワイアットはチワワを水桶に突っ込んでお仕置きをする。折しも駅馬車の護衛から戻ったドクが賭博師をたたき出し、それは俺の仕事だというワイアットとの間に緊張が走る。お互いを牽制し合い一時は一触即発の状態となるが、二人はどちらからともなく折り合い、乾杯するに至った。


旅役者の失踪


そんな折、荒くれたトゥームストンの町に巡業のシェイクスピア役者がやってくる。町を挙げての大歓迎となるが、興業当日に行方不明となってしまう。怒り狂った住民たちは興行主をリンチしようとしてワイアットに止められる。ワイアットとドクは酒場で役者を見つけだした。クラントン一家に拉致されて芸を強要されていたのだ。銃で脅され、テーブルの上でハムレットを演じだす役者は、緊張のあまり台詞に詰まってしまう。するとそれを見ていたドクが静かに台詞の続きを語りだすのだった。だが途中で咳の発作を起こし、彼は外へと出ていってしまう。独りになったワイアットが役者を連れ帰ろうとした時、そうはさせじとアイク・クラントンが銃に手をかける。ワイアットは一瞬のうちに抜き出した銃でアイクを殴り倒し、もう一人の銃を撃ち落とした。何事かと裏から出てきたオールドマンは、息子たちの非を詫び彼らを送り出した後、鞭で激しく息子たちを殴り「……抜いたら殺せ」と呟くのであった。


東部から来た娘


トゥームストンの町に平和がやってきた。ワイアットは歩道上に持ち出した椅子に腰かけ、傍らの柱に足をかけて温かい日射しをあび、ぷらぷらとくつろいでいる[14]。駅馬車が到着して賭博師が降りてくるが、町にとどまらずに次の便で発てと促されて、頷き、そそくさと去る。人影がまばらになった時、馬車から清楚な風情の娘が降りてくる。思わず椅子から立ち上がるワイアット。駅馬車の屋根に積んだ荷物が下ろせずに困っている様子を見かねて、逡巡したのちに手伝いを申し出る。彼は娘の荷物を抱え、ホテルのクロークに案内し、ルームサービスの珈琲と頼まれもしない風呂の支度まで手配する。そんなワイアットを、偶然に居合わせたモーガンとバージルが、あり得ないものを見る表情で茫然と見送る。娘の名前はクレメンタイン・カーター。恋人のドク・ホリデイを探し、はるばるボストンからやってきたのだ。彼は嘗て将来を嘱望された優秀な外科医だったが、行方が分からなくなっていた。彼女の荷物をホテルの部屋まで運んだワイアットは、廊下をはさんだ向かいがドクの部屋だと教える。彼の部屋には、額に入った医師免許状とクレメンタインの写真の入った写真立てがあった。


その夜、クレメンタインと再会したドクは彼女を拒絶する。死病の結核を患い外科医の道をあきらめて西部を流れ、幾度とない命のやり取りの末、その名を聞けば泣く子も黙る破落戸と化し、賭博の元締めへと身を持ち崩した男(実話)にとっては、所詮無理な相談なのだ。“君が帰らないなら俺がこの町を出る”と言われ、クレメンタインは仕方なく東部へ帰ることを了承した。やけになって酒をあおるドク。チワワはドクをかまおうとするが、あっちへ行って馬鹿な歌を歌ってろと冷たく拒絶される。泥酔の挙句に銃を振り回しだしたドクは、ワイアットに殴り倒されてホテルの部屋へと運ばれる。


日曜日の朝


日曜の朝が来た。晴れやかな日射しの下、馬車に乗った人々が楽しげな音楽を奏でながらぞくぞくと町に集まってくる。ワイアットは、床屋で整髪料をべたべたにつけた七三分けにされ、香水をたっぷりと振り掛けられてしまう。本人は当惑気味だが、床屋は大満足だ。朝食をたらふく食べた弟たちはジェームズの墓参りに行くという。次々と集まる人々は彼らに故郷の日曜礼拝に向かう人達を思い出させる。バージルが「なんだかスイカズラの花のような香りがする」といいだすと、口をへの字に曲げ「……俺だ。……床屋で」と答えるワイアット。そこへ笑顔のシンプソン氏が家族を乗せた馬車で通りかかった。この集まりが教会建設の為の募金を集める集会であることを伝え、ダンスパーティへと誘う。ワイアットは治安維持の任務があるのでと丁重にお断りをする。


二日酔いの朝を迎えたドクは、床を見舞ったチワワに10日程メキシコへ行くと伝える。連れて行ってくれとせがむチワワに、それも悪くないな結婚式の準備でもさせておけとドクは答えた。


荷物をまとめたクレメンタインは、ホテルのロビーで街を去る駅馬車を待っていた。通りかかったワイアットに諦めが良すぎると引き留められるが、意思は固い。そこに風に乗ってかすかに教会の鐘の音が聞こえてくる。階段を下りてきた町長が、シンプソン氏の教会建設の目論見を嬉しそうに告げる。固かったクレメンタインの表情にも微笑みが浮かぶ。「ここの朝が好き。空気が澄んでいてきれい」深呼吸して「サボテンの花の香りが……」とつぶやく彼女に、「……私です。……床屋で」と律儀に答えるワイアット。クレメンタインからの礼拝への誘いを二つ返事で受けた彼は、彼女と腕を組んで教会へと歩き出す。ゆっくりと歩む二人を床屋が笑顔で見送る。かすかに聞こえてくる讃美歌が次第に大きくなっていく。やがて道の向こうにまだ骨組みだけの教会の塔が見えてくる。鐘が鳴っている。その下には大勢の人々が集い、声を合わせて歌っていた。

ジェームズの墓参りから戻ったモーガンとバージルは、ダンスパーティでクレメンタインと踊りまわるワイアットの姿を発見し、仰天する。


旅立ちの支度をしたドクは、ホテルのレストランで、ワイアットとクレメンタインがシンプソン氏をはじめとする街の住民たちと歓談しているところに遭遇し、悶着を起こす。クレメンタインに「君が出ていかないのなら俺が出ていく」とせまるが、ワイアットに「人を追い出すのは私の仕事だ。彼女は好きなだけここに留まる」と止められる[15]。ドクは「話は終わりだ、今度からは銃を持ち歩け」と捨て台詞を残し、駅馬車の護衛としてツーソンへと旅立った。

チワワは、クレメンタインの部屋へ駆け込み、ドクが自分を置いて行ってしまったのはクレメンタインのせいだと彼女につかみかかる。それを止めに入ったワイアットは、チワワの胸にジェームズが買ったはずの純銀の首飾りが下がっているのに気付く。誰にもらったと尋ねられたチワワは、クレメンタインへの当てつけに、ドクからのプレゼントだと答える。ワイアットはドクの後を追った。


犯人を追って


ワイアットはドクの乗った駅馬車に追いついた。話を聞かず、連れ帰りたければ腕ずくでこいと息巻くドク。抜きあう二人。ドクの銃は弾き飛ばされた。町に取って返した二人はチワワの部屋のドアを叩く。だがそのとき、部屋の中にはビリー・クラントンがいた。チワワは窓から彼を出し、二人を部屋に入れる。問い詰められた彼女は葛藤するが、ドクの嫌疑を晴らすため、ジェームズの純銀の首飾りをビリー・クラントンにもらったことを白状した。しかし次の瞬間銃声が響き、彼女は倒れる。馬に飛び乗って逃げるビリーをバージルが追跡する。


チワワは重傷ですぐに手術が必要だ。ドクは酒場のテーブルとありったけのランプを集め、麻酔もない劣悪な条件下で、クレメンタインを助手に緊急手術を敢行する。
バージルと撃ち合いつつ逃げるビリーは、自宅までたどり着くが門前でこと切れる。遅れてクラントン家にたどりついたバージルは、家内に招き入れられビリーの死体を見せられる。弔意を表し辞去するバージルを、背後からオールドマンが撃ち殺した。


チワワは痛みに耐え、手術は成功した。ワイアット達とささやかな祝杯をあげ、酒場を立ち去るドクを、戸口に佇むクレメンタインが讃える。その様子を見送りながら、恋をしたことがあるかとバーテンダーのマックに尋ねるワイアット。祝杯を干し酒場を出たワイアットは、突然の銃声に襲われる。馬で駆けて来るクラントン一家。バージルの遺体を路上に投げだす。「OKコラル[16]で待ってるぜ!」捨て台詞を吐き、駆け去って行く。



決戦


保安官事務所を町長とシンプソン氏が訪れる。助っ人を買って出た二人に、ワイアットは「身内のことだから……」と逡巡を見せる。


OKコラルにはクラントン一家が集結し、時の来るのを待っている。


再び保安官事務所のドアがノックされ、無表情のドクが入ってきた。「……チワワの容体は?」と問いかけるワイアットに、ドクは「死んだ。……何がドクター・ジョン・ホリデイだ」と吐き捨て、ショットガンを手にする。「いつやる?」「日の出だ」


夜明けが来た。ワイアットは、逮捕状を書き終えた町長とシンプソン氏に弾を抜いたショットガンを渡し、モーガンとドクのふりをしてもらうことにした。三人並んで大通りをOKコラルに向かう。その姿に相手が気を取られている隙に、本物のモーガンとドクは別ルートで側面へと回り込んだ。逮捕状が出たことを告げ自首を勧告するワイアットと、拒否するオールドマン・クラントン。ジェームズを殺したのは誰だとの問いかけに、オールドマンは二人とも自分が殺したと叫び返す。両者の間を駅馬車が駆け抜け、砂煙で視界が閉ざされた。その時アイクが発砲して決戦の火ぶたが切られ、“OK牧場の決闘”が始まった。


間髪入れぬワイアットの応射でアイクは倒れる。ドクは柵を乗り越えようとして咳の発作を起こし被弾する。モーガンは乱射せざるを得なくなるが、ワイアットが駆け抜けながらサムを撃ち倒す。柵にすがり身を起こしたドクはフィンを射殺してこと切れる。一人残ったオールドマンは小屋に追い詰められた。降伏の勧告に従い銃を捨てて出てくる。悲痛な声で息子たちの名を叫ぶオールドマン。みんな死んだと冷たく告げるワイアット。「お前は殺さん。せいぜい長生きしてもらう。俺達の親父の気持ちを味わえ。町を出て行け。流れて歩け」オールドマンは肩を落としてよろよろと歩き馬に乗る。モーガンはその様子から目を離さずに銃の弾を込め直している。去りかけた馬の歩みが止まり、オールドマンが振り向いて隠し持っていた別の銃を構えた。モーガンの連射。オールドマンは落馬し動かなくなった。戦いは終わった。柵の傍らにはドクの遺体が横たわっていた[17]。


別れ


町はずれに佇むクレメンタイン。モーガンの乗った馬車と馬に乗ったワイアットが来る。モーガンは別れの挨拶をして先に去っていく。馬を下り帽子を脱いで言葉を交わす。クレメンタインは町へ残り学校の先生になるという。一度故郷へ帰り事の次第を報告するが、また牛を追ってくるので必ず寄ると約束するワイアット。クレメンタインの頬にキスをし、握手をして馬に乗る。「実にいい名前だ。クレメンタイン」と告げ、モーガンを追う。クレメンタインは、果てしなく広がる荒野に向かい去りゆく二人をいつまでも見送っていた。



製作時期について


『荒野の決闘』はジョン・フォード監督の戦後第一作である。

復員後一作目は『コレヒドール戦記』[18]だが、これは戦時中に撮影まで行われており、公開前に終戦を迎えたものである。よって、太平洋戦争終結後に最初に企画された作品[19]という意味では『荒野の決闘』がそれにあたる。[20]


本作の公開時には、劇場にヘンリー・フォンダとビクター・マチュアの復員を迎える垂れ幕がかかった。


また、製作開始時に、所謂「フォード一家」のエキストラたちに招集がかけられたが、その中に応じない者達が居てフォードの不興を買った。だが、実は彼らが戦死したり負傷して身動きできない者たちであることを知らされ、フォードはひどく落ち込んだ、というエピソードが残されている。

『荒野の決闘』では、作中で多くの登場人物が各々の大切な人を失っていく。弟を二人まで亡くすワイアット。愛人を救えず死なせてしまうドク。全ての息子を殺されるオールドマン・クラントン。やっと再会した婚約者を失うクレメンタイン。


そういった遣り場のない喪失感を描く一方で、一見その対極に見える、治安を回復した保安官に対する住民たちの感謝や、教会建設のためのダンスパーティの歓喜に包まれた住民たちの描写など、明るくのどかでしみじみとした平和な情景も丹念に描かれる。
この両者が一体となって生み出される詩情は、「多くの犠牲を払って得た平和」を示唆しており、「太平洋戦争終結直後」という製作時の時代背景が密接に反映していると思われる。


非公開試写版について


非公開試写版(ラッシュフィルム)とは、ディレクターズカットから劇場公開版を作成する過程で、社内関係者のみの試写用に編集した版のことである。通常は劇場公開版完成後廃棄される。


『荒野の決闘』の場合、劇場公開版作成にジョン・フォードが関与していない為、非公開試写版がディレクターズカットに近い版として意義を持つことになる。[21]
発見された非公開試写版に残っている映像から想像するに、ディレクターズカットは街の治安回復やワイアットと住民たちの関わりに重点を置いた作りになっていたと思われる。それに対し、劇場公開版はクラントンとの対決部分を強調した活劇色やヒーロー性の強い物語に感じられるよう編集されている。


製作過程


1945年11月1日、ジョン・フォードから本作の企画が呈示される。


1946年春、撮影。
同年6月24日、製作総指揮のダリル・F・ザナックは、ジョン・フォード編集のディレクターズカットを観て不満を抱く[22]。


同年7月、ザナック自身が再編集に着手。ディレクターズカットからの30分の削除と追加撮影を決定。ロイド・ベーコンによる追加撮影が行われた。


同年9月、ラストのキスシーンをスタジオで追加撮影。
同年10月16日、初上映。


主な変更点


要所要所への劇的なBGMの付加。[23]
クローズアップカットの追加。
ジェームズの婚約者名の変更。ナンシーからコリー・スーへ。[24]
ワイアットがジェームズの墓参をするシーンの撮り直し。クローズアップ追加。生没年変更。没年齢を20歳から18歳へ。[25]


ドク初登場直前に、ビリー・クラントンがチワワを口説いているシーンの削除。[26]
会話の短縮。ワイアットとドク初対面時、劇場内、クレメンタインとドクの再会シーン、手術開始前等。


前半部における住民たちの様々なエピソードの削除。この部分は発見されていない。
バージルがビリーを追跡する場面におけるバージルの落馬シーンの削除。[27]
ラスト前、ホテルの前でワイアットとモーガンが住民たちと別れの挨拶をかわすシーンの削除。[28]


エンディングに、ワイアットがクレメンタインの頬へキスするシーンの追加。[29]


非公開試写版の発見


非公開試写版の存在は、1990年代の中ごろにUCLAの映画科の授業で『荒野の決闘』が使用された時、生徒が、授業の内容と教材として上映されたフィルムの内容との違いに気付いたことから発見された。それまでは、非公開試写版も単なる一般フィルムの一つとして劇場公開版フィルムに混ざって20世紀フォックスの倉庫に保管されていた。この保管時の手違いのおかげで、失われたジョン・フォードのオリジナル版にしか存在しなかった映像の一部が、再び日の目を見ることとなった。なお発見された非公開試写版はフィルム2巻目以降で、1巻目は劇場公開版しか残っていない。


日本でも、そうとは知られずに非公開試写版が劇場にかかったことがあるらしく、映画ファンの間で、ラストシーンでの「アープのクレメンタインへのキスの有無」が問題になったり、ジョン・アイアランド演じるビリー・クラントンがチワワを撃って逃げるシーンで「追跡するバージル・アープが撃たれて落馬するシーン」を記憶していた人がいたりした。[30]


なお、20世紀フォックス発売の特別編DVDには、非公開試写版も収録されている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/荒野の決闘

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/929.html

[近代史4] アメリカ民謡の世界 中川隆
1. 中川隆[-13655] koaQ7Jey 2020年2月22日 07:47:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-173]

My Darling Clementine - いとしのクレメインタイン (ジョン・フォード 荒野の決闘 1946)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/929.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/183.html#c1
[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
182. 中川隆[-13654] koaQ7Jey 2020年2月22日 07:48:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-172]
My Darling Clementine - いとしのクレメインタイン (ジョン・フォード 荒野の決闘 1946)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/929.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c182
[近代史3] 日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち

2020年02月22日
海部陽介「日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_46.html

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された

西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%B8-%E7%8F%BE%E7%94%9F%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E6%8B%A1%E6%95%A3%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E8%A5%BF%E7%A7%8B%E8%89%AF%E5%AE%8F/dp/4022630949


所収の論文です。本論文はまず、3万年前頃までには、現生人類(Homo sapiens)が極寒地域や標高4000m以上の高地から熱帯雨林までアジア全域の多様な環境に適応して拡散していた、と指摘します。しかし、いつ到来したのかについては、議論が続いています。アジアで最古級の現生人類遺骸として注目されているのは、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡で発見された73000〜63000年前頃の現生人類の歯です(関連記事)。しかし本論文は、この2点の歯は博物館の収集物から見つけられたもので、報告者たちが見つけたものではなく、古い地層で発見されたのか定かではない、と本論文は疑問を呈します。また、この歯が出土したとされる層から発見されたオランウータンの歯には、地中の鉱物が取り込まれて黒いシミができている一方で、全体的に脱色もしていますが、現生人類の歯はそれとは状態が大きく違うことも疑問点とされています。

 本論文は、西太平洋における渡海を伴う現生人類の拡散に注目しています。現生人類は、サフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・ タスマニア島は陸続きでした)に47000年前頃もしくは6万年以上前、日本列島とフィリピンへ38000年前頃に拡散した、と考えられます。つまり、西太平洋の広域で5万〜3万年前頃に現生人類が海に進出していたわけで、人類が最初に本格的に海洋進出を開始したのは西太平洋かもしれません。日本列島に現生人類が拡散してきた38000年前頃には、海面が現在と比較して80mほど低く、台湾がユーラシアの一部となり、北海道がサハリンとつながっているなど、現在とはかなり地形が異なります。しかし、津軽海峡と対馬海峡には当時も海があり、沖縄の島々も大陸や九州と陸続きにはなっていないため、日本列島の中心部は基本的に海で隔てられていました。日本列島における現生人類と関連していると考えられる遺跡では、九州と本州が最も古く、日本列島最古の現生人類は朝鮮半島から対馬海峡を経て到来した、と考えられます。また本論文は、台湾からの渡海も想定しています。考古学では、25000年前頃北方から新たな石器文化が到来した、と考えられています。つまり、北方・朝鮮半島・台湾という大陸の三方から日本列島へ、やや異なる時代に現生人類が到来しただろう、というわけです。

 琉球列島における現生人類の痕跡は、最北の種子島で35000年前頃、奄美大島では3万年前頃、徳之島では3万年前をややさかのぼる頃、沖縄島では35000年前頃(サキタリ洞遺跡では世界最古級とされる23000年前頃貝殻製の釣り針が発見されています)、宮古島では3万年前頃、石垣島では27500年前頃までさかのぼります。それまで無人だった琉球列島の全域に、3万年前頃に突然現生人類が出現するわけです。屋久島はかつて九州と陸続きになったことがあるため、動物相は日本列島主要部と類似していますが、屋久島より南の島々にはアマミノクロウサギなど固有種がおり、動物相はかなり異なります。これは、屋久島より南の島々の長期の孤立を示します。

 本論文は、琉球列島への3万年前頃の航海は、その後に人類集団が少なくとも一定期間以上継続したと考えられることから、すべてを漂流の結果と考えるのには無理がある、と指摘します。また本論文は、伊豆諸島の神津島の黒曜石が本州で見つかっており、その年代は38000年前頃までさかのぼることから、その頃にはすでに意図的な航海が存在した、と指摘します。3万年前頃の台湾から琉球列島への航海を再現した実験から、現生人類が世界中へ拡散した理由として、避難や追放など消極的な理由だけではなく、新たな世界に挑戦する心理があったのではないか、と推測しています。この航海実験にどれだけの妥当性があるのかは、今後も検証が続けられていくでしょう。


参考文献:
海部陽介(2020)「日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第4章P129-149

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_46.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/930.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 古代史、人類学、ハプロタイプ、民族学関係投稿リンク 中川隆
63. 中川隆[-13653] koaQ7Jey 2020年2月22日 08:00:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-171]
日本列島へたどり着いた三万年前の祖先たち
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/930.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/811.html#c63
[番外地7] アイヌの農耕
>そもそもアイヌは狩猟民族で稲作とは全く無関係!

擦文時代にアイヌはヒエ、アワ、ソバを鉄製農具で栽培していたよ。
13世紀以降は輸出規制されて鉄製農具の輸出を禁止されたので、祭り用に小規模な農耕しかしなくなった。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/497.html

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
265. 中川隆[-13652] koaQ7Jey 2020年2月22日 09:49:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-170]
2020年02月22日
低コストの投資信託で誰でも疑似GPIFできる


GPIFは約18年の平均で3%の利回りを実現した

画像引用:https://www.gpif.go.jp/operation/img/img_state_graph_2018_035988.png

本当に誰でも勝てる投資はあるか

どんな投資商品でも必ず証券会社や宣伝サイトでは「誰でも簡単に勝てる」「みんな儲かっている」と書いてあります。

中でも悪質なのは「老後の安心のため」とか「主婦のお小遣い」を簡単に増やせると言ってウソの体験談が書いてあります。

健康食品でも投資サイトでも体験談はすべて嘘で、もし本当だったらこの世でガンで亡くなる人はいない筈です。


投資サイトに登場する「平凡サラリーマンA氏」は架空の人物で、投資で儲かった話もすべて嘘です。

もし本当の事が書いてあったとしても、負けた金額を伏せておいて勝ったときの話だけをします。

競馬ファンは万馬券を当てた話をしたがるが、「今までいくら負けたのか」を聞くと顔が曇るのといっしょです。


比較的安全な投資として最近人気を集めているのが投資信託で、NISA(ニーサ)も投資信託の一種です。

私たちが払った年金積立金はGPIFで運用されていますが、かなりの金額を投資信託でも運用しています。

GPIFは130兆円以上も運用し、17年間の平均で年利約3%、累積で70兆円もの利益を出しています。


GPIFの運用理念は「絶対に損をしない事」で、一時的な含み損はあるとしても結果として絶対に負けないようになっている。

その仕組みは分散、低コスト、世界経済に連動した投資で、世界経済がプラス成長である限りGPIFは利益を出し続けます。

それでは我々個人投資家もGPIFをそっくり真似れば良いのではないかと多くの人は思いつき実行しています。

疑似GPIF投資とは

GPIFの投資先は大きく分けて4つで、国内株式、国内債券、外国株式、外国債券となっています。

バブル崩壊で日本株は総崩れになったが、その時ですら日本国債は黒字であり、外国投資も黒字でした。

4つに分散する意味はこれで、どれか一つがマイナスになっても他の3つか2つは利益を出す事が多い。


一時的にどれかがマイナスになっても、数年たてばまた回復し世界経済は3%以上の成長率になります。

もし株式投資だけ、しかも国内株式だけの投資だったら一度の経済危機で破綻しかねません。

よくある批判は「日本人の金で外国株や米国債を買っている」というものですが、逆に日本国内だけに投資したら危ないのです。


GPIFの原資は日本人が毎月支払う年金積立金なので、毎月積み立てるように購入し、利益が出たら切り崩します。

4つの投資を1;1;1;1にしても時間の経過でバランスが崩れるので、正しい比率になるようにリバランスします。

毎月同じ金額を積み立てていくと、株価が下がったら多く買い、株価が上がったら少なく買う事になります。


これをドルコスト平均法と言い、長期的に100%に近い確率で利益が出るようになります。

ドルコスト平均法の欠点は上昇相場では利益が少なくなる事ですが、リスクを減らすためにはやむを得ない。

ドルコスト平均法の第二の欠点は満期になった時たまたま暴落したら、長年積み立てた利益が吹き飛ぶことです。


だから積み立てるのと同様に、利益が出たら順次決済し、リバランスして元の比率に戻す事が重要です。

含み益をずっと抱えているのではなく、果実は収穫すべきときに収穫し、また新しい種をまくのです。

こうした投資をするには低コストであることが条件で、手数料の比較は厳しすぎるくらいチェックするべきです。


投資信託を選ぶ基準は「低コスト」だけで良く、国内株式、国内債券、外国株式、外国債券の4種類それぞれで最も手数料が安いものを選択すれば良い。

もし手数料以外の要素を考慮すると、ぜんぶ良く思えて選べなくなってしまい、偏った選択をしてしまうでしょう。

基本的なルールを守ってさえいれば、長期投資で確実に勝利を重ねる事ができるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/82261460.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c265

[近代史3] 本当にアメリカの株価が大暴落すると日本の年金は蒸発するのか? 中川隆
3. 中川隆[-13651] koaQ7Jey 2020年2月22日 09:53:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-169]
2020年02月22日
低コストの投資信託で誰でも疑似GPIFできる

GPIFは約18年の平均で3%の利回りを実現した
画像引用:https://www.gpif.go.jp/operation/img/img_state_graph_2018_035988.png

本当に誰でも勝てる投資はあるか
どんな投資商品でも必ず証券会社や宣伝サイトでは「誰でも簡単に勝てる」「みんな儲かっている」と書いてあります。
中でも悪質なのは「老後の安心のため」とか「主婦のお小遣い」を簡単に増やせると言ってウソの体験談が書いてあります。
健康食品でも投資サイトでも体験談はすべて嘘で、もし本当だったらこの世でガンで亡くなる人はいない筈です。


投資サイトに登場する「平凡サラリーマンA氏」は架空の人物で、投資で儲かった話もすべて嘘です。
もし本当の事が書いてあったとしても、負けた金額を伏せておいて勝ったときの話だけをします。
競馬ファンは万馬券を当てた話をしたがるが、「今までいくら負けたのか」を聞くと顔が曇るのといっしょです。

比較的安全な投資として最近人気を集めているのが投資信託で、NISA(ニーサ)も投資信託の一種です。
私たちが払った年金積立金はGPIFで運用されていますが、かなりの金額を投資信託でも運用しています。
GPIFは130兆円以上も運用し、17年間の平均で年利約3%、累積で70兆円もの利益を出しています。

GPIFの運用理念は「絶対に損をしない事」で、一時的な含み損はあるとしても結果として絶対に負けないようになっている。
その仕組みは分散、低コスト、世界経済に連動した投資で、世界経済がプラス成長である限りGPIFは利益を出し続けます。
それでは我々個人投資家もGPIFをそっくり真似れば良いのではないかと多くの人は思いつき実行しています。

疑似GPIF投資とは
GPIFの投資先は大きく分けて4つで、国内株式、国内債券、外国株式、外国債券となっています。
バブル崩壊で日本株は総崩れになったが、その時ですら日本国債は黒字であり、外国投資も黒字でした。
4つに分散する意味はこれで、どれか一つがマイナスになっても他の3つか2つは利益を出す事が多い。

一時的にどれかがマイナスになっても、数年たてばまた回復し世界経済は3%以上の成長率になります。
もし株式投資だけ、しかも国内株式だけの投資だったら一度の経済危機で破綻しかねません。
よくある批判は「日本人の金で外国株や米国債を買っている」というものですが、逆に日本国内だけに投資したら危ないのです。

GPIFの原資は日本人が毎月支払う年金積立金なので、毎月積み立てるように購入し、利益が出たら切り崩します。

4つの投資を1;1;1;1にしても時間の経過でバランスが崩れるので、正しい比率になるようにリバランスします。
毎月同じ金額を積み立てていくと、株価が下がったら多く買い、株価が上がったら少なく買う事になります。

これをドルコスト平均法と言い、長期的に100%に近い確率で利益が出るようになります。
ドルコスト平均法の欠点は上昇相場では利益が少なくなる事ですが、リスクを減らすためにはやむを得ない。
ドルコスト平均法の第二の欠点は満期になった時たまたま暴落したら、長年積み立てた利益が吹き飛ぶことです。

だから積み立てるのと同様に、利益が出たら順次決済し、リバランスして元の比率に戻す事が重要です。
含み益をずっと抱えているのではなく、果実は収穫すべきときに収穫し、また新しい種をまくのです。
こうした投資をするには低コストであることが条件で、手数料の比較は厳しすぎるくらいチェックするべきです。

投資信託を選ぶ基準は「低コスト」だけで良く、国内株式、国内債券、外国株式、外国債券の4種類それぞれで最も手数料が安いものを選択すれば良い。
もし手数料以外の要素を考慮すると、ぜんぶ良く思えて選べなくなってしまい、偏った選択をしてしまうでしょう。
基本的なルールを守ってさえいれば、長期投資で確実に勝利を重ねる事ができるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/82261460.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/218.html#c3

[近代史3] 本当にアメリカの株価が大暴落すると日本の年金は蒸発するのか? 中川隆
4. 中川隆[-13650] koaQ7Jey 2020年2月22日 09:54:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-168]
平野憲一の株のお話 2020.02.09 株高の恩恵。
http://kasset.blog.fc2.com/

 GPIF 10〜12月の運用実績も発表されましたが、7兆3613億円の黒字で、19年末の資産残高は168兆9897億円と発表になりました。
団塊世代が60歳を迎えた時は120兆円で、フルに年金がもらえる65歳の時、残高は100兆円を切って年金支給は危機的な状態になると、まことしやかに言われていましたが、団塊世代が70歳台の今、残高は逆に増えています。
いかに株式が国民と一体にあるかと言う事を証明しています。これからも株価を意識した政策がとられなければなりません。株が下がると困るのは「株なんかとは関係ない」と言っている日本国民なのです。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/218.html#c4

[リバイバル3] 絶対に損しないプロのポートフォリオ投資法 中川隆
3. 中川隆[-13649] koaQ7Jey 2020年2月22日 09:58:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-167]
2020年02月22日
低コストの投資信託で誰でも疑似GPIFできる


GPIFは約18年の平均で3%の利回りを実現した

画像引用:https://www.gpif.go.jp/operation/img/img_state_graph_2018_035988.png


本当に誰でも勝てる投資はあるか

どんな投資商品でも必ず証券会社や宣伝サイトでは「誰でも簡単に勝てる」「みんな儲かっている」と書いてあります。

中でも悪質なのは「老後の安心のため」とか「主婦のお小遣い」を簡単に増やせると言ってウソの体験談が書いてあります。

健康食品でも投資サイトでも体験談はすべて嘘で、もし本当だったらこの世でガンで亡くなる人はいない筈です。

投資サイトに登場する「平凡サラリーマンA氏」は架空の人物で、投資で儲かった話もすべて嘘です。

もし本当の事が書いてあったとしても、負けた金額を伏せておいて勝ったときの話だけをします。

競馬ファンは万馬券を当てた話をしたがるが、「今までいくら負けたのか」を聞くと顔が曇るのといっしょです。

比較的安全な投資として最近人気を集めているのが投資信託で、NISA(ニーサ)も投資信託の一種です。

私たちが払った年金積立金はGPIFで運用されていますが、かなりの金額を投資信託でも運用しています。

GPIFは130兆円以上も運用し、17年間の平均で年利約3%、累積で70兆円もの利益を出しています。

GPIFの運用理念は「絶対に損をしない事」で、一時的な含み損はあるとしても結果として絶対に負けないようになっている。

その仕組みは分散、低コスト、世界経済に連動した投資で、世界経済がプラス成長である限りGPIFは利益を出し続けます。

それでは我々個人投資家もGPIFをそっくり真似れば良いのではないかと多くの人は思いつき実行しています。


疑似GPIF投資とは

GPIFの投資先は大きく分けて4つで、国内株式、国内債券、外国株式、外国債券となっています。

バブル崩壊で日本株は総崩れになったが、その時ですら日本国債は黒字であり、外国投資も黒字でした。

4つに分散する意味はこれで、どれか一つがマイナスになっても他の3つか2つは利益を出す事が多い。

一時的にどれかがマイナスになっても、数年たてばまた回復し世界経済は3%以上の成長率になります。

もし株式投資だけ、しかも国内株式だけの投資だったら一度の経済危機で破綻しかねません。

よくある批判は「日本人の金で外国株や米国債を買っている」というものですが、逆に日本国内だけに投資したら危ないのです。

GPIFの原資は日本人が毎月支払う年金積立金なので、毎月積み立てるように購入し、利益が出たら切り崩します。

4つの投資を1;1;1;1にしても時間の経過でバランスが崩れるので、正しい比率になるようにリバランスします。

毎月同じ金額を積み立てていくと、株価が下がったら多く買い、株価が上がったら少なく買う事になります。

これをドルコスト平均法と言い、長期的に100%に近い確率で利益が出るようになります。

ドルコスト平均法の欠点は上昇相場では利益が少なくなる事ですが、リスクを減らすためにはやむを得ない。

ドルコスト平均法の第二の欠点は満期になった時たまたま暴落したら、長年積み立てた利益が吹き飛ぶことです。

だから積み立てるのと同様に、利益が出たら順次決済し、リバランスして元の比率に戻す事が重要です。

含み益をずっと抱えているのではなく、果実は収穫すべきときに収穫し、また新しい種をまくのです。

こうした投資をするには低コストであることが条件で、手数料の比較は厳しすぎるくらいチェックするべきです。

投資信託を選ぶ基準は「低コスト」だけで良く、国内株式、国内債券、外国株式、外国債券の4種類それぞれで最も手数料が安いものを選択すれば良い。
もし手数料以外の要素を考慮すると、ぜんぶ良く思えて選べなくなってしまい、偏った選択をしてしまうでしょう。

基本的なルールを守ってさえいれば、長期投資で確実に勝利を重ねる事ができるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/82261460.html

▲△▽▼


平野憲一の株のお話 2020.02.09 株高の恩恵。
http://kasset.blog.fc2.com/

 GPIF 10〜12月の運用実績も発表されましたが、7兆3613億円の黒字で、19年末の資産残高は168兆9897億円と発表になりました。
団塊世代が60歳を迎えた時は120兆円で、フルに年金がもらえる65歳の時、残高は100兆円を切って年金支給は危機的な状態になると、まことしやかに言われていましたが、団塊世代が70歳台の今、残高は逆に増えています。
いかに株式が国民と一体にあるかと言う事を証明しています。これからも株価を意識した政策がとられなければなりません。株が下がると困るのは「株なんかとは関係ない」と言っている日本国民なのです。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/989.html#c3

[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
135. 中川隆[-13648] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:02:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-166]
2020年02月22日
低コストの投資信託で誰でも疑似GPIFできる

GPIFは約18年の平均で3%の利回りを実現した
画像引用:https://www.gpif.go.jp/operation/img/img_state_graph_2018_035988.png

本当に誰でも勝てる投資はあるか

どんな投資商品でも必ず証券会社や宣伝サイトでは「誰でも簡単に勝てる」「みんな儲かっている」と書いてあります。

中でも悪質なのは「老後の安心のため」とか「主婦のお小遣い」を簡単に増やせると言ってウソの体験談が書いてあります。

健康食品でも投資サイトでも体験談はすべて嘘で、もし本当だったらこの世でガンで亡くなる人はいない筈です。


投資サイトに登場する「平凡サラリーマンA氏」は架空の人物で、投資で儲かった話もすべて嘘です。

もし本当の事が書いてあったとしても、負けた金額を伏せておいて勝ったときの話だけをします。

競馬ファンは万馬券を当てた話をしたがるが、「今までいくら負けたのか」を聞くと顔が曇るのといっしょです。

比較的安全な投資として最近人気を集めているのが投資信託で、NISA(ニーサ)も投資信託の一種です。

私たちが払った年金積立金はGPIFで運用されていますが、かなりの金額を投資信託でも運用しています。

GPIFは130兆円以上も運用し、17年間の平均で年利約3%、累積で70兆円もの利益を出しています。

GPIFの運用理念は「絶対に損をしない事」で、一時的な含み損はあるとしても結果として絶対に負けないようになっている。

その仕組みは分散、低コスト、世界経済に連動した投資で、世界経済がプラス成長である限りGPIFは利益を出し続けます。

それでは我々個人投資家もGPIFをそっくり真似れば良いのではないかと多くの人は思いつき実行しています。

疑似GPIF投資とは

GPIFの投資先は大きく分けて4つで、国内株式、国内債券、外国株式、外国債券となっています。

バブル崩壊で日本株は総崩れになったが、その時ですら日本国債は黒字であり、外国投資も黒字でした。

4つに分散する意味はこれで、どれか一つがマイナスになっても他の3つか2つは利益を出す事が多い。

一時的にどれかがマイナスになっても、数年たてばまた回復し世界経済は3%以上の成長率になります。

もし株式投資だけ、しかも国内株式だけの投資だったら一度の経済危機で破綻しかねません。

よくある批判は「日本人の金で外国株や米国債を買っている」というものですが、逆に日本国内だけに投資したら危ないのです。

GPIFの原資は日本人が毎月支払う年金積立金なので、毎月積み立てるように購入し、利益が出たら切り崩します。

4つの投資を1;1;1;1にしても時間の経過でバランスが崩れるので、正しい比率になるようにリバランスします。

毎月同じ金額を積み立てていくと、株価が下がったら多く買い、株価が上がったら少なく買う事になります。

これをドルコスト平均法と言い、長期的に100%に近い確率で利益が出るようになります。

ドルコスト平均法の欠点は上昇相場では利益が少なくなる事ですが、リスクを減らすためにはやむを得ない。

ドルコスト平均法の第二の欠点は満期になった時たまたま暴落したら、長年積み立てた利益が吹き飛ぶことです。

だから積み立てるのと同様に、利益が出たら順次決済し、リバランスして元の比率に戻す事が重要です。

含み益をずっと抱えているのではなく、果実は収穫すべきときに収穫し、また新しい種をまくのです。

こうした投資をするには低コストであることが条件で、手数料の比較は厳しすぎるくらいチェックするべきです。

投資信託を選ぶ基準は「低コスト」だけで良く、国内株式、国内債券、外国株式、外国債券の4種類それぞれで最も手数料が安いものを選択すれば良い。

もし手数料以外の要素を考慮すると、ぜんぶ良く思えて選べなくなってしまい、偏った選択をしてしまうでしょう。

基本的なルールを守ってさえいれば、長期投資で確実に勝利を重ねる事ができるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/82261460.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/429.html#c135

[近代史3] 人類は愛と平和を求めているわけではない

人類は愛と平和を求めているわけではない


巨大な違法取引。極限の暴力と極限の快楽が、底なしの闇を作り出している 2020.02.22

極限の暴力と極限の快楽が、人間社会に底なしの闇を作り出しているのは分かっている。では「暴力と快楽」の追求が、人間社会から消える日が来るのだろうか。

もちろん、そんな日は来ない。違法取引のビジネスをつぶさに観察すると、私たち人類は愛と平和を求めているわけではないことが分かる。(鈴木傾城)

資本主義は違法取引を根絶できないシステムなのである

この世の中には「違法取引」というものが山ほどある。違法というからには、「売ってはいけないもの」を売るのだが、なぜ売ってはいけないものを売るのかといえば、そこに「需要」があるからである。

たとえば、象牙は世界中で違法だ。

欧米はピアノの鍵盤のために象牙を欲していて、日本は印鑑のために象牙を欲していて、中国は彫刻品のために象牙を欲している。

1989年のワシントン条約締結後から象牙は輸入禁止となったのだが、禁止されればより価値が生まれるのでそれを欲する人が生まれる。

闇でそれを売れば高く売れる。そうであれば、カネのために象を殺して象牙を密猟する人はいくらでも出てくるのである。(ブラックアジア:まったく減らない違法な象牙売買。その裏で起きていること)

違法取引されるのは、象牙だけではない。絶滅危惧種になっている多くの野生動物は密猟や輸入が禁止されているのだが、禁止されればされるほど闇では高値で売れるので違法取引は逆に活発になる。

資本主義は違法取引を根絶できないシステムなのである。

ところで。国家を揺るがす大きな違法取引は、大きく分けて3つあると言われている。
その3つは、蔓延すると人々の人生を大きく狂わせ、放置しているとやがては国家そのものも成り立たなくなるほどの恐ろしいものである。

それは何か?

最も活発かつ巨大な需要があるのは「武器」

国家を揺るがす大きな違法取引の巨大なものの1つは「武器」の取引だ。違法取引の何が巨大な需要になっているのかを見ると、私たち人類は愛と平和を求めているわけではないというのが見えてくる。

巨大な違法取引の中で、最も活発かつ巨大な需要があるのは「武器」である。人類は大量殺戮するための道具を欲しているのである。

地球上には紛争地区が山ほどある。シリア・イラク・アフガニスタン・レバノン・パレスチナ・アフリカ各国・中南米……。こうした国々では大量の銃や弾薬が消費されているのだが、消費するということは供給もされているということである。
南スーダンや中央アフリカやソマリアは食糧危機が起き、日用品が常に不足するほど何もない。しかし、武器だけは湯水の如く大量にある。なぜ武器がそんなに大量にあるのかと誰も問い詰めない。

多くの国で違法な武器弾薬が大量に売られ、そして消費されている。それが消費されるというのは、誰かが殺されるということでもある。多くの人たちが傷つき、そして涙を流す。

紛争地区では常に内戦が起きており、武器は生活必需品になっている。暴力がはびこった地域では、暴力から身を守るためにも武器がいる。それがまた暴力を生み出す。

内戦に明け暮れる国では、人々が武器を渇望しており、持ち込まれた武器は右から左へと売れる。売れるから、誰かが武器の密輸を行う。

こういった武器密輸を専門にやっている人間を「武器商人」「死の商人」と呼ぶ。彼らは往々にしてならず者国家と裏で結びついており、腐敗した独裁国家に武器・弾薬を大量に売りつける。

腐敗した独裁国家は、国民を弾圧するために、反政府グループを皆殺しにするために、略奪をするために、周辺国を侵略するために、とにかく大量の武器がいる。だから、それは供給される。

武器の違法取引は、常に巨大ビジネスなのである。


ドラッグもまた巨大な違法取引のビジネスになっている

ドラッグ……。

国家を揺るがす大きな違法取引の2つ目は、ドラッグの取引だ。薬物というのは、どれも本当に小さな小さな、まるで取るに足らないほどの小さなパッケージや錠剤で提供される。

しかし、そんな小さなパッケージひとつでも人生を崩壊させるのに十分だ。武器弾薬が人々を傷つけるように、ドラッグもまた多くの人たちを傷つける。

北朝鮮は覚醒剤の密輸国家として世界中でよく知られているが、ドラッグの密輸をしているのは北朝鮮だけではない。

メキシコでも、コロンビアでも、そしてアフガニスタンも、政府をもしのぐ巨大なドラッグ・カルテルが存在し、それが世界中に違法取引されて流通している。
どこの国でもドラッグは大きな需要があるが、すべての国でドラッグの持ち込みは厳しく禁じられている。だから、ドラッグの密輸は、手薄な国境を狙って、どんどん網の目のように広がっていく。

アフガニスタンは銃が大量に溢れている国家だが、貧困国家なのにどうやって莫大な武器弾薬を買っているのか。国家も反体制グループであるタリバンも、ヘロインの原料となるケシを栽培して、それを売ることによって武器弾薬と交換している。

メキシコのドラッグカルテルも大量の武器弾薬で軍隊なみの装備と私兵を擁しているのだが、その資金もまたドラッグを売ることによって手に入れている。

紛争国では武器弾薬に需要があって、先進国ではドラッグに需要がある。だから、武器弾薬と共にドラッグもまた巨大な違法取引のビジネスになっている。いくら表社会がドラッグの根絶を訴えても無駄だ。人類はそれを欲しているのである。

そして、このドラッグで作られた密輸ネットワークを使って、もうひとつの違法取引が行われている。

「暴力と快楽」の追求が、人間社会から消える日が来るのか?

国家を揺るがす大きな違法取引の3つ目は、人身売買だ。人間を売買する。

先進国で普通に生きている私たちは、人間が売り物であるなど想像もできない。しかし途上国では多くの子供たち、女性たちが、強制労働、臓器売買、性的搾取を目的として普通に売られていく。

昔は奴隷売買というものもあったが、資本主義の世界では今も昔も人間は売り物なのである。犠牲になりやすいのは少女たちや女性たちだ。社会の最も弱い存在が人身売買のターゲットとなる。

彼女たちはまるで市場で売られている肉か何かのように、値段を付けられて親から切り離される。そして、見知らぬ国の見知らぬ場所に連れて行かれ、そこで肉体を売らされる。
彼女たちには拒否権も選択権も何もない。やがて、彼女たちはそれを運命として受け入れ、永遠に続く地獄の中で自分の人生を消耗する。

武器弾薬。ドラッグ。人身売買。

この3つの違法取引は、途上国を中心にして世界中に大きなネットワークが構成されており、アンダーグラウンドの闇の中で恒常的に売買が繰り返されている。

この3つの違法取引で共通する部分があるとすれば何か。

それは、「一回の取引で莫大な富を得ることができる」ということだ。多額の現金が闇から闇へと動いていく。だから、カネのために違法取引に手を染める人間が次から次へと出てきて、巨大な需要を埋めていく。

極限の暴力と極限の快楽が、人間社会に底なしの闇を作り出しているのは分かっている。では「暴力と快楽」の追求が、人間社会から消える日が来るのだろうか。もちろん、そんな日は来ない。

違法取引のビジネスをつぶさに観察すると、私たち人類は愛と平和を求めているわけではないことが分かる。

どんなに時代が進んでも人間の本質が変わることはないのであれば、これからも武器弾薬・ドラッグ・人身売買は続いていくことになるのだろう。

https://blackasia.net/?p=17260
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/931.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
89. 中川隆[-13647] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:26:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-165]
人類は愛と平和を求めているわけではない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/931.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c89
[近代史3] 人類は愛と平和を求めているわけではない 中川隆
1. 中川隆[-13646] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:40:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-164]

麻薬取引の黒幕は CIA

2019.03.18
麻薬取引はCIAや巨大銀行と密接な関係があり、明治維新の背後には麻薬業者

 ある音楽グループのメンバーで俳優としても活動したいた人物がコカインを摂取した容疑で関東信越厚生局麻薬取締部に逮捕されたという。その人物が薬物を使用しているという情報が昨年の秋にあり、内偵していたようだ。

 伝えられているところによると、任意同行を求めて尿検査をしたところコカインの陽性反応が出たのだが、自宅からコカインは見つからなかったという。コカインを使ったと認識した段階で任意同行を求めた可能性が高く、どのようなルートで麻薬を入手し、どこで摂取したのかも当局は知っているのだろう。

 本ブログでも指摘してきたが、麻薬取引はCIAの活動と深く結びつき、麻薬資金を巨大金融機関は扱っている。ベトナム戦争の当時、最大の非合法ケシの産地は東南アジアであり、アフガニスタンでCIAが秘密工作を始めると主要産地はパキスタンとアフガニスタンをまたぐ山岳地帯へ移動、中米で秘密工作を始めるとコカインの流通量が増えた。いずれも黒幕はCIAであり、その儲けを扱うために「CIAの銀行」が存在する。

 世界の金融システムは2008年に破綻した。リーマン・ブラザーズの倒産はその象徴にすぎない。システムが崩れそうになったのだ。この倒産を利用して欧米の支配層は庶民に破綻の尻拭いをさせた。超法規的な救済だが、その後、富が集中するはスピードは加速していく。

 この金融破綻、いわゆるリーマン・ショックを処理する際に麻薬資金も重要な役割を果たしたと伝えられている。UNODC(国連薬物犯罪事務所)のアントニオ・マリア・コスタによると、​麻薬取引で稼いだ利益3520億ドルの大半が経済システムの中に吸い込まれ、いくつかの銀行を倒産から救った可能性​があるという。麻薬資金は流動性が高く、銀行間ローンで利用されたとも言われている。

 本ブログでは繰り返し指摘してきたが、CIAはウォール街の人脈によって作られた情報機関である。同じように、イギリスのMI6(SIS)はシティと結びついている。

 イギリスに限らないが、その支配者は侵略と略奪で富を築いてきた。金や石油といった資源を盗んでいるが、19世紀には中国(清)を侵略するためにアヘンを売りつけ、戦争で利権を奪った。アヘン戦争やアロー戦争だ。

 そのときにアヘン取引で大儲けした会社のひとつがジャーディン・マセソン。インドで傭兵の武装蜂起で始まった大反乱(セポイの反乱)が終わった翌年、1859年に同社はトーマス・グラバーを長崎へ、ウィリアム・ケズウィックを横浜へ派遣した。

 グラバーは明治維新をテーマにしたドラマによく出てくる人物だが、ケズウィックの方が大物だった。ジャーディン・マセソン創立者の一族で、麻薬資金を処理していた香港上海銀行(現在はHSBC銀行)とも深く結びついている。有り体に言うと、明治維新の黒幕は麻薬業者だ。

 CIAがエル・サルバドルを含むラテン・アメリカ諸国で死の部隊を使ってアメリカの巨大企業のカネ儲けに邪魔な人物や団体を抹殺していた当時、ロサンゼルス市警の内部の麻薬担当はCIAの活動に肉薄、司法省などからの攻撃を受ける。捜査チームを追い込むために税務調査が実施され、細かい違法行為を見つけ出して刑務所へ入れると脅され、退職を余儀なくされたと言われている。

 また、CIAの手先だったニカラグアの反革命ゲリラ(コントラ)のコカイン取引を暴く連載記事を1996年に書いたサンノゼ・マーキュリー紙のゲーリー・ウェッブ記者は有力メディアから一斉攻撃を受けて退職を余儀なくされ、自殺に追い込まれた。

 今回のミュージシャン/俳優のコカイン事件を伝えているマスコミも芸能界の実態を知っているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201903180000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/931.html#c1

[近代史3] 人類は愛と平和を求めているわけではない 中川隆
2. 中川隆[-13645] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:42:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-163]

2017年01月17日 世界を支配しているCIA3派とは・・・・
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html

非常に長い記事ですので一部をざっくりと訳してみました。全てをお伝えできず残念ですが、残りの部分はサイト内の本文をご覧ください。

この記事はCIAについて非常に詳細に説明してくれています。そして世界を実際に支配しているのはCIAの3派閥だとも言っています。これらの3派閥で内紛が勃発しているそうです。またCIA 対 NSAの闘争も起きているそうです。彼らの戦いが激化して共倒れすることを願うばかりです。

日本の政治家もCIAに暗殺されていますが、トランプ氏もケネディ大統領と同様に彼らに暗殺される危険性があります。CIAとは関係がなくスキャンダルも少ないトランプ氏はCIAと主要メディアと戦っていることがよくわかります。主要メディア(日本のマスコミも含め)は、大統領就任式間近の今、反トランプの情報操作を激化しています。マスコミはトランプ氏の暴言について嘲笑しながら伝えていますが、トランプ氏の暴言の内容は非常にまともで本当のことを言っています。これほど本当のことをストレートにいう政治家はいままでいなかったでしょう。

激しくののしっているように聞こえますが、トランプ氏はオルターナティブ・メディアが伝える内容をそのまま言葉にしているだけです。想像以上にアメリカの闇を知り尽くしているのでしょうね。

http://themillenniumreport.com/2017/01/exposed-cia-the-swamp-monsters/
(一部のみ)
1月14日付け

EXPOSED: CIA –The Swamp Monsters

世界を支配しているCIAの3派

By the Anonymous Patriots
The Millennium Report Exclusive

(非常に長い記事ですので、一部しかお伝えできません。ご了承ください。残りの部分はサイト内の記事をご覧ください。)

CIAの国内におけるスパイ活動は全ての米国民を標的にしている。いつ米国民がCIAに狙われ銃で撃たれてもおかしくない状況にある。

大統領選での様々なハッキング騒動は大統領選を無効にするためにCIAが行った偽旗であり、これには国を混乱に陥れているCIAの派閥争いも絡んでいる。

現在、CIAの派閥闘争及びCIAとCIAほど重要でない他の諜報機関(FBI、NSA、国土安全保障省、NIA国家情報機関、その他)の闘争が進行中である。

このような諜報機関同士のスキャンダル合戦は今に始まったものではないが。
米政府の代弁者でしかない主要メディアでさえ、米諜報機関同士の争いが起きていることを報道している。

CIAは他の全ての政府系諜報機関のトップに君臨している。

大統領令は極秘に扱われ、CIA以外の諜報機関には知らされることはない。
大統領の国際的な極秘事項に対してはCIA以外の諜報機関は部外者となる。

現在、オバマ大統領は、米議会、最高裁判所、米国民の承認を得ずに国際戦争を行っている。オバマ大統領は、NDAA(直訳:国防権限法)を修正し大統領の権限を増大させたため、米議会の承認なしに国内外で様々な戦争を行うことができるようになった。オバマはこの8年間で数々の違法な大統領令を確立させ、大統領の権限をかつてないほどに増大させた。

オバマが確立させた大統領令の下で国の安全を理由に大統領はアメリカの全資産を強奪できるようになった。
更に恐ろしいことは、CIAは、国際安全保障の名の下に大統領の上に立つことができるということだ。

CIAは、米連邦議会、大統領、米国民よりも優位な位置に自らを置き、秘密裡に何でも行えるようになってしまった。

CIAの絶大な権限で主要メディアはトランプ次期大統領に関するねつ造報道(ロシアのハッキングやロシアの脅迫など)を展開している。イギリスからこの国へ偽の調査書類が送られた。そしてCIAはトランプ次期大統領に対する

組織的誹謗中傷キャンペーンを実施している。

DNI国家情報長官のジェームズ・クラッパー氏(James Clapper)はCIAが提出した偽の調査書類に同意したことで、政府諜報機関の無能さが露呈した。

1981年にレーガ大統領が大統領令によりDNI国家情報長官を創設した主な理由は、米軍の高級将官が運営していたNSAをなくすためだった。DNIの職務はCIAの監視役として定義され、全諜報機関のトップに立った。しかし彼はCIAを支配することはできない。

国内外の情報活動に携わっている政府機関は世界各地に1271機関あり、政府から委託された民間会社は1931社存在する。つまり、85万4千人以上の職員が機密情報を取り扱っている。
諜報部員は85万4千人以上存在する。

クラッパーDNI国家情報長官は米議会で真実を話すことを宣言したにも関わらず、NSAは米国民の個人情報を収集していないと嘘をついた。

クラッパー氏はDNIに任命される前に、英軍に機密情報を提供している会社(Detica)の業務最高責任者を務めていた。同時に他の民間諜報機関(SRAとBoozAllen Hamilton)にも勤務していた。

クラッパー氏は諜報活動のための約75億ドルの年間国家予算を管理している。また彼はイギリスの元民間スパイである。それでも彼はトランプ氏に関する主要メディアのねつ造報道を見抜けなかったのである。

つまりこの男はプロの諜報部員を従えて年間75億ドルの予算を管理してるのにもかかわらず、CIAがトランプ氏を中傷するために偽の情報を流していることにさえ気づいていないのだ。

一方、我々市民は独立メディアの情報によりその真実を知っている。
法治国家であるならば、CIAによる次期大統領に関するねつ造報道は違法行為と見なされるがアメリカは法治国家ではない。

クラッパー氏は、現在、17の諜報機関(CIA、NSA、国土安全保障省、FBI、国務省、財務省、国防情報局、空軍情報局、陸軍情報局、米海兵隊情報局、沿岸警備情報局、エネルギー省、国家偵察局、麻薬取締局、国家地理空間情報局)のトップに君臨している。同時に彼は今でも3つの政府請負会社(Detica、BAE Systems、SRAインターナショナル、Booz Allen Hamilton)の取締役である。
クラッパー氏はアメリカの全ての情報機関を支配しているが、同時にアメリカの敵でもある。

彼は外国の諜報機関に所属してアメリカをスパイしていたこともある。
彼はアメリカの国家諜報機関のトップに上りつめ、全権力とカネを手に入れた。

オバマがクラッパー氏を国家諜報機関のトップに任命してから、アメリカではねつ造報道のオンパレードとなり、多国籍グローバリストの利益のために売国されるようになった。

CIAは国外の違法なハッカーを雇ってサイバー攻撃を行わせている。ヒラリーと民主党全国大会は彼らのサーバーがハッキングされた後にその調査を国外の民間会社に依頼した。しかしロシアが彼らのサーバーをハッキングした証拠は一切見つかっていない。

ほんの数人に権力が集中すると、必ず誤った方向へ進んでしまう。クラッパー氏は正確な情報を提供することに興味はない。彼はナチスの情報局と同様に単なるプロパガンダ・マシーンなのだ。

クラッパー氏は17の諜報機関を使って、彼らが流す情報は全て正しいと証拠もなしに我々に信じさせようとしている。

オバマの大統領令により、NSAは米国民と世界人類を監視することが可能となった。NSAが盗みとった個人データは全諜報機関が共有している。

スイス、ジュネーブのCIA海外本部はスイスの金融スキャンダルやCIAの犯罪活動に関わっている。

CIAのCiscoルーターやサーバーはNSAによってスパイされCIAの犯罪活動がNSAに知られてしまった。その結果、CIAと共謀したスイスの金融エリートらが逮捕された。NSAは今後もCIAに対するスパイを行っていく。

CIAのスイス本部は極秘施設であり、そこのサーバーがハッキングされたことでCIAは激怒した。

NSAに対するCIAの反撃として、CIA請負エージェントのエドワード・スノーデンを使って、NSAが米国民の個人情報を盗んでいることを示す大量のデータをリークさせた。

CIAは、CIAの3派閥を暴露したNSAがこれ以上CIAをスパイできないように対策を講じている。

クラッパー氏は米議会に呼ばれる度にNSAはスパイ活動を行っていないと嘘の証言をした。

CIAとNSAの闘争の中で、CIAはCisco SystemsやDARPAなどの活動情報をNSAに盗まれないようにした。

現在、CIA、NSAそして他の諜報機関の情報操作、情報収集合戦が進行中である。
しかしCIAは国際安全保障を担っているため国家安全保障を担当するNSAよりも優位に立っている。

CIAは国際的な紛争や事件に必ず関与している。通貨戦争、市場戦争、金融戦争、サイバー戦争、麻薬戦争そしてテロは常にCIAの関心事である。

オバマのNDAAは軍隊がテロリストと見なされた米国民を攻撃することを可能にした。愛国法により、CIAは米国民、企業、機関がテロリストでないことを証明できるまでテロリストと見なすことが可能となった。

CIAは3つの派閥に分類されており、世界中のスパイ活動を通して大きな利益を得ている。

アメリカはCIAに支配されており、ワシントンDCはCIAの泥沼の怪獣に包囲されている。

CIAは国内外で偽旗事件や非人道的犯罪を繰り返している。CIAによる殺人行為で無数の人々が犠牲になり、3兆ドルものアメリカの納税者の血税が無駄に使われた。CIAは国際戦争を勃発させるための偽旗事件を仕掛ける。またCIAはメディアを支配しサブリミナル・メッセージを流すことにより人々を洗脳している。

CIAは、元祖CIA(金に裏付けられたCIA=GB-CIA)、ブッシュCIA、Ex−CIAの3派閥に分かれている。それらの3派閥がアメリカや世界を支配してきた。

GB-CIA:Gold backed CIA

元祖CIA(OSS)は第二次世界大戦中に世界の国々から金(Gold)を盗んだ。ドイツや日本が他の国々から奪い取った金もCIAが奪った。しかしCIAは盗んだ金を返還するつもりはない。CIAが盗んだ金はアメリカには保管されておらず、フィリピンとスイスに保管されている。

GB-CIAはアメリカの国益のために海外で活動することになっているが、彼らは通貨市場、債券市場、株式市場に関与し世界中に影響をあたえている。

GB-CIAのメンバーは米財務省及びアメリカの経済政策を決めるESF経済安定資金に多く入りこんでいる。 ESFは通貨、債券、株式市場を操作し、FRBに金融政策を指示している。ESFはGB‐CIAにとってアメリカの金融市場を支配する上で最も都合の良いツールである。

GB-CIAこそがアメリカ経済を支配している。

GB-CIAは欲深く、世界中に戦争を仕掛けて富を強奪している。邪魔者は容赦なく殺害する。CIAは世界中で数々の残忍な犯罪活動を行っている。

ブッシュやクリントン周辺では、彼らに批判的な銀行のトップ、ブローカー、内部告発者が次々に不審死を遂げている。これまで数百人が殺害された。

また、GB-CIA は、彼らの性的異常行為、ピードフィリア(小児性愛犯罪)、悪魔崇拝の生贄儀式に多くの政治家や企業家を取り込んでいる。彼らは世界的な小児性愛犯罪ネットワークを構築させた。また、彼らは、難民のチャリティ団体を活用して世界最大の性奴隷の人身売買市場を運営している。また世界の麻薬密売も牛耳っており、イランーコントラ・スキャンダルやアフガニスタンのケシ栽培を行ってきた。

彼らは、麻薬、セックス、権力、支配、悪魔崇拝という通貨で絶大な権力を買っている。

Bush CIA (ブッシュ、クリントン、オバマ犯罪ファミリーとも呼ばれる):

パパブッシュが副大統領時代にブッシュCIAが正式に創設された。アメリカの16の諜報機関は国家情報長官によって支配されている。パパブッシュはCIA長官も務めたことがある。レーガン政権を支配していたのはパパブッシュである。彼はレーガンによってアメリカの外交政策の責任者に任命された。当時、パパブッシュはCIAの戦術を使ってソ連を崩壊させた。

パパブッシュ政権時代にジョージ・ソロスとレオ・ワンタが米財務省の偽の米国債を使ってロシア通貨を攻撃し不安定化した。

パパブッシュの兄(弟)は、Riggs Bankを経営しており、その傘下にVelment Bankを創設し、ロシアから奪ったお金とゴールドをロンダリングしている。一部のお金はミット・ロムニーの会社、Bain Capitalを介してロンダリングされた。

ソ連崩壊後、パパブッシュとブッシュのネオコン攻撃部隊(Vulcans)はロシア及びソ連から独立した国々から全ての資産(特に石油)を奪った。パパブッシュとキッシンジャーは、ブッシュCIAのごろつき集団の犯罪を介して個人的に巨額の富を得た。

パパブッシュはブッシュCIAのごろつき集団にホワイトハウス、司法省、国務省を取り込み、勢力を拡大した。その結果、CIAの犯罪は全て連邦判事や国務省の高官によって見逃された。

ブッシュ家はクリントン家とビル・クリントンがアーカンソー州知事になる前から親しい関係にあり、オバマの母親は元CIAエージェントである。そのためオバマは生まれた時からCIAと深い結びつきがあった。オバマは完全にCIAの創造物である。

オバマが抱える問題は、CIAの3派閥ともつながりがあることであり、どの派閥に属してよいのかわからない。彼のめちゃくちゃな政策は、GB-CIAとブッシュCIAの両派閥を満足させようとしたからに他ならない。

ピザゲートで悪名高いジョン・ポデスタ氏と彼の兄(弟)はワシントンで最も有力なロビーストであり、レーガン政権時代から米政府の小児性愛組織を牛耳ってきた。
パパブッシュはレーガン政権の事実上の権力者だったが、当時からホワイトハウスでは小児性愛犯罪が日常的に行われていた。
ホワイトハウスがこのような性犯罪を堂々と行っていたことで連邦議員らの倫理が完全に崩壊した。

パパブッシュはケネディを暗殺したCIAを当時から支配し続けており、やりたい放題のことをやってきた。誰もそれを止めることはできなかった。パパブッシュはレーガン大統領の暗殺も企てたが失敗した。

ホワイトハウスも司法省も国務省もCIAの犯罪行為に慣れてしまい、CIAや政治家の犯罪をひたすら隠蔽してきた。

ケネディが暗殺されたとき、パパブッシュはCIAエージェントだった。

当時GB-CIAは世界の地政学的領域で独占するようになり、政治リーダーの暗殺を行うことで政権を変えることが可能になったとパパブッシュは認識した。

当時、パパブッシュは外交政策の責任者としてCFR(元CIA、政府の諜報部員及び企業の諜報部員で構成されている)の命令に従って政策を実行していた。また、パパブッシュは自分が任命した政治家全員の脅迫状リストを作成し彼らに命令に従うことを約束させた。

パパブッシュはサウジ王族と非常に親しい関係を築いた。そして彼の人生の多くをサウジの宮殿で過ごすことになった。パパブッシュは世界最大の武器商人、麻薬王、マフィア、王族、金融詐欺集団と協力関係にあった。彼はどこの国を訪れてもセキュリティに引っかかることなく自由に入国を許され、彼のビジネス(犯罪活動)を世界中で展開することができた。

最終的にGB-CIAはブッシュCIAの活動に気が付き、両者間の緊張が高まった。

パパブッシュは、配下のジョージ・ソロスとレオ・ワンタがロシア通貨を崩壊させ巨額の富を得た時、ロシアから大量の金(ゴールド)を盗んだ。

そしてその2年間でパパブッシュは絶大な権力と富を獲得し、ブッシュCIAとGB-CIAのいがみ合いが悪化した。GB-CIAはブッシュの協力を得て政府とのつながりを持ちたかった。彼らはクリントン大統領が単にパパブッシュの命令で動いていることを知っていた。

Ex-CIA:

既にGB-CIA対ブッシュCIAの対立が激化している中で、Ex-CIAがそれに参戦している。

政治家を脅迫して政権を変えることが好きなGB-CIAと非常に欲深く際限のない権力闘争に明け暮れるブッシュCIAの対立を逆手に取りEx-CIAはこれらの2派閥の戦術と利権を盗もうと考えた。多くのEx-CIAは、政府を去り、利益の多い民間の諜報機関に籍を置いている。民間諜報機関はアメリカの諜報活動の65%を行っている。
Ex-CIAは、政府、銀行、企業の最高の地位にいた元CIAエージェントたちである。また、Ex-CIAは、GB-CIA及びブッシュCIAで働いていたエージェントらによる無秩序スパイ集団として創設された。

Ex-CIAのメンバーは政府や大企業で最高の地位を獲得している。

弁護士のジミー・コメィ氏は、FBI長官になる前に、ニューヨーク南部の連邦検事、検事副総長、米最大の軍事契約企業、ロックヒードマーチン社の上席副社長、CIA関連企業の相談役、CIA銀行のHSBC及びGB-CIAの金を保管しているHSBCホールディングズの理事を務めていた。

CIAの高級エージェントはこのよう昇進の梯子を上っていく。

コメィ長官はFBIを去ったあとに別の場所で高い地位を得ることで、 彼が犯罪によって獲得した巨額の富は守られることになる。コメィ長官はCIAの3派閥の命令に従って動いていた。

ジョン・ブレナンCIA長官は、長官になる前に国土安全保障省の副補佐官、サウジアラビアのステーションチーフ、国家反テロセンターの所長、諜報ネットワークのAnalysis CorporationのCEO、National Security Allianceの会長、 Global Strategies 、GlobalIntelligence SolutionsそしてGTECの主任エージェントだった。

これらの3派閥はシリアで破壊活動を行っている。シリアでCIAはペンタゴンが支援している部隊を攻撃していることが明らかになった。

アレッポの外側でアメリカが支援している3つの集団がお互いに戦っていることが分かった。この事実を隠蔽するためにオバマはクラッパー氏に偽の情報を流すよう命令した。

それこそが、ロシアがトランプ氏を脅迫していることや大統領選でロシアがハッキング行為を行ったとするねつ造報道である。また、国土安全保障省が有権者のデータベースをハッキングしたと報道されたのはシリアにおけるオバマの個人的な戦争の実態を隠すための偽装工作である。

クラッパー氏、ブレナン氏、コメィ氏は共に17の諜報機関がメディアを介してねつ造報道を行うことに賛成した。トランプ氏に対する彼らの攻撃により、CIAの3派閥の汚職、共謀、グローバリズム・アジェンダ、反米姿勢が明らかになった。

トランプ氏はCIAに刃向かう戦士である。

トランプ氏はグローバリズムと戦い法の支配を推し進めているため、CIAの3派閥の一番の敵となった。

CIAの3派閥は法の上に君臨して権力を悪用しているが、反グローバリズム、反NWOのトランプ氏が大統領に選ばれたことで彼らはかなりの衝撃を受けている。そのため、3派閥はトランプ氏の信用を落とすためにあらゆる情報操作を行っている。また、彼らが継続的に行ってきた数々の邪悪な犯罪を隠蔽しようとしている。また、ケネディがやろうとして失敗したことをトランプ氏がやろうとしているため、それを阻止しようとしている。

トランプ氏は、CIAがCIAメンバーとCIAの利権を守るためなら容赦なく人を殺すことを知っており、彼の命が危険にさらされていることを十分認識している。
CIAはトランプ氏についての調査書類を持っておらず、彼がワイルドカードだったことをCIAは知らなかった。トランプ氏にはこれまで明らかになったスキャンダル以外は何もないのである。トランプ氏はCIAの3派閥とは一切関わり合いを持っていない。

トランプ氏はワシントンDCの関係者を一切信用していない。なぜなら彼らは既にCIAに取り込まれている恐れがあるからだ。

トランプ氏が1600ペンシルベニア・アベニューのビルにオフィスを構えることをしなかったのは賢い選択である。なぜなら、そのビルの隅々にCIAのスパイ装置が設置されているからである。

愛国者は、トランプ氏が使うことになるホワイトハウスの内装及びリフォームの費用を支援すべきである。

CIAはあらゆる手法を使ってトランプ氏を公然と攻撃しはじめた。CIAの3派閥と繋がりのあるジョージ・ソロスも世界の舞台で公然とトランプ氏を攻撃している。

ビルダーバーグや三極委員会、ボヘミアングローブ、CFRが一同に集まり会議を開いた。そこでトランプ氏を大統領にさせないための作戦を練った。世界中の邪悪なカバラ犯罪集団は神経をとがらせている。既に彼らはトランプ氏を殺害しようとした。また、彼に賄賂を贈ろうともした。彼らは他の政治家に対してならうまくいく戦術がトランプ氏にはうまくいかないことを知った。トランプ氏はCIAが日常的に行っている活動に一切関心がない。
以下省略
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/931.html#c2

[近代史3] 伊藤貫氏に聞く _ 日本人は何故アメリカの犬になりたがるのか 中川隆
25. 中川隆[-13644] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:46:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-162]
Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した

【令和元年秋 特別対談】伊藤貫氏の警告、
パックス・アメリカーナと中華思想の間で摩滅する「商人国家日本」[桜R1-10-26]






ゲスト:伊藤貫(国際政治アナリスト)
聞き手:水島総

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/125.html#c25
[近代史3] 人類は愛と平和を求めているわけではない 中川隆
3. 中川隆[-13643] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:46:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-161]

Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した

【令和元年秋 特別対談】伊藤貫氏の警告、
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[近代史02] 小沢一郎先生を襲った恐怖とは 中川隆
107. 中川隆[-13642] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:48:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-160]
Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した

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[近代史3] 安倍政権下で自殺・不審死した人物 中川隆
22. 中川隆[-13641] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:48:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-159]
Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した

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[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
91. 中川隆[-13640] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:49:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-158]
Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した

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[昼休み53] アメリカ → 官邸 → マスコミによる支配 中川隆
7. 中川隆[-13639] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:50:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-157]
Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した

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[近代史3] 大蔵官僚のノーパンしゃぶしゃぶ事件 _ 日本の国益を考える官僚は全員追放される 中川隆
1. 中川隆[-13638] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:50:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-156]
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[近代史3] ジュリアン・アサンジはレイプをでっちあげられた 中川隆
1. 中川隆[-13637] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:52:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-155]
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[近代史02] イリーナ・スルツカヤ _ Let it be 中川隆
16. 中川隆[-13636] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:52:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-154]
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[近代史3] ケネディはヤラセの東西冷戦体制を終わらせようとしたのでユダヤ金融資本に殺された 中川隆
12. 中川隆[-13635] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:53:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-153]
Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した

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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/126.html#c12
[近代史3] 米大統領はどの程度の権力を持っているのか 中川隆
1. 中川隆[-13634] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:54:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-152]
Terror Tuesday _ オバマ大統領は火曜日夕方に必ず CIA のブレナンに暗殺指令を出した

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[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
26. 中川隆[-13633] koaQ7Jey 2020年2月22日 10:58:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-151]
クルーズ船乗客下船、日本の新型肺炎対策の限界 19日から陰性客を解放だが、すでに市中感染
青沼 陽一郎 2020/02/22
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/クルーズ船乗客下船%ef%bd%a4日本の新型肺炎対策の限界-19日から陰性客を解放だが%ef%bd%a4すでに市中感染/ar-BB10fT8U?ocid=ientp

 横浜港に停泊中のクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」から死者が出た。新型コロナウイルスに感染して体調を崩していた80代の日本人の男女2人で、2月20日に確認された。同船からのはじめての死者で、これで日本人の死者は3人になった。
 厚生労働省によれば、80代の女性は5日から発熱、9日に症状を訴え、10日に医師の診察を受け12日に搬送された。他にも症状のあった乗客を順番に搬送していたようだが、アウトブレイク(突発的感染拡大)によって患者が一極集中すると、手がまわらず処置の遅れる典型だ。

 そのクルーズ船からは連日、感染者が確認されている。それも日を追うごとに数十人単位の規模で数が増えつづけ、2月19日には新たに79人が、20日には13人が確認されて、約3700人の乗客乗員のうち634人が感染したことになった。

 にもかかわらず、19日から日本政府は当初の予定どおり、乗客の下船をはじめた。2月5日から14日間の経過観察を経て、検査で陰性が認められた乗客に「上陸許可証」を発行。21日に完了するまでに970人がクルーズ船から解放されている。下船した人の多くは用意されたバスで最寄りまで移動し、そこから公共交通機関で自宅に帰った。


日本のクルーズ船対応に疑念が残る

 だが、下船した乗客は、本当に感染していないのか。結論から言えば、これはもはや感染拡大の懸念も内在する「ギャンブル」に近い。

 検査に用いられるPCR法には感染が見落とされるケースがあることは知られている。

 また、下船者の中には2月4日に検査を受けて陰性と判断されただけの者もいる。その後に感染していたとしてもおかしくはない。だが、厚生労働省は下船から数日の電話連絡はとるものの、行動制限はしていない。

 前日の18日には、災害派遣医療チーム(DMAT)の一員として同船に入った神戸大学の感染症内科の岩田健太郎教授が、船内ではグリーンゾーンとレッドゾーンが区分けされてないなど、感染対策が不十分とする内容をYouTubeに投稿して話題になった。これに厚生労働省や政府関係者が反論。

 20日には同教授によって投稿動画は削除されたが、それでもクルーズ船から確実に感染者が増え続けていることからすれば、明らかに感染対策は失敗していることを示している。

 20日には、船内で作業にあたった内閣府と厚労省の職員2人が感染していることが判明。目も当てられない状況だ。

 2003年にSARS(重症急性呼吸器症候群)が中国から香港や世界に拡散したきっかけはホテルだったことは、以前にも書いた(「クルーズ船集団感染に見る新型肺炎追加リスク」)。

 中国広東省で発生した新型肺炎の治療にあたっていた医師が宿泊した、同じフロアの同宿者に感染してウイルスは広まっていった。そのホテルでは医師の泊まった9階とその上下階を閉鎖している。「海に浮かぶホテル」であるクルーズ船では、感染者の出たフロアを閉鎖することもできなかったはずだ。

 アメリカでは、同船を下船しても14日間は入国を認めない措置をとった。先にチャーター機で帰国した乗客も14日間は隔離される。カナダやオーストラリアなど他国も同様で、つまりは日本を信用していないことになる。

 東京都内のタクシー運転手への感染は屋形船の宴会からだったが、今度は大型客船から感染が広がるのなら、洒落にもならない。

 すでに日本国内でも、東京、神奈川、千葉、和歌山、愛知、沖縄、北海道などに次いで、福岡でも感染者が確認されて21日には106人になった。感染ルートがはっきりしていないものも少なくない。そこへ福岡市の地下鉄では、マスクをしていないのに咳をしている乗客がいる、と非常通報ボタンを押して停車させる“事件”まで起きている。疑心暗鬼がパニックになっている。

 海外ではそんな日本を冷ややかに見ている。韓国、台湾では日本への渡航の注意喚起や自粛を求めているのに加え、タイも日本への渡航自粛を呼びかけた。タイは訪日観光客数6位の”上客”で、日本の観光業への影響は大きい。しかも21日にはアメリカCDC(疾病対策センター)が日本への渡航注意を呼びかけている。逆に日本人が渡航しても、「日本人は来るな」と迷惑がられるのが関の山だ。


これから日本でもアウトブレイクが起きると…

 それは、2003年当時にSARSが蔓延した当時の香港、台湾と同じ状況に置かれているといえる。このまま日本で都市型のアウトブレイクが進めば、まさにその当時の香港、台湾の轍を踏むことになる。

 例えば、台湾にある日系企業のオフィスではこんな対策がとられていた。まず、建物の入り口で検温され、異常がないと手をアルコール消毒し、中に入れる。そのままオフィス階に上がると、また手をアルコール消毒して、閉じられた扉の奥の会議室に通される。そこではじめて担当者が「ここは消毒が行き届いている部屋ですので、マスクを取りましょう」と言って、マスクを脱ぐ。そして、通常の会話が始まった。

 テレワークとまでは言わないまでも、当時も電話やメールで本社や関係取引先と連絡はとれた。だが、人の往来は著しく制限される。「商談をするにも、人と会うと会わないとでは、ぜんぜん違う」と言った。盛り上がりに欠けたり、その場の雰囲気というものが違うという。おのずと仕事の効率も落ちる。企業活動の停滞は否めない。

 SARSでも、そして今回の新型肺炎でも、中国のある村では住民以外の立ち入りを禁じる看板を掲げて、村人が見張りに立つ風景があった。日本国内でも、これに似た対応をする地域が出てくる可能性はある。

 2003年のSARS流行時の香港では、子どもたちがマスクをして集団登下校していた。SARSは子どもには罹りにくい、罹っても軽症とされたが、それは結果であって、当時は子どもたちを守ることに懸命だった。

 今回の新型コロナウイルスも、子どもにどう影響するかわからない。すでに和歌山では10代の感染者が出ているし、北海道ではラベンダーで知られる中富良野町で21日に10歳未満と10代の男子児童の感染も確認された。小学生の兄弟で、弟が先に発症している。海外渡航歴もないという。

 さらには、武漢からのチャーター便で父親と帰国した埼玉県在住の未就学の男の子にも感染が見つかっている。帰国当時は陰性であったにもかかわらずだ。
 これから受験シーズンが本格化し、卒入学シーズンへと向かう。人の集まる機会も増える。受験生にとって、インフルエンザ対策は例年のこととはいえ、今回はまったく違ったウイルスだ。


致死率が低くても感染者数は非常に多い

 WHO(世界保健機関)によると致死率は2%と、SARS(致死率9.6%)よりも低いとされる。毎年流行するインフルエンザでも、日本国内で近年は約3000人が命を落としている(致死率0.1%)。

 感染者の数が増えれば相対的に死者の数も増えることになるし、そんなウイルスが国内に入ってこなければ、インフルエンザで死なずに済んだはずが命を奪われることにもなりかねない。

 これから日本人は不自由で手間のかかる生活を送らなければならい。すでに東京マラソンの一般参加が取りやめになるなど、大規模イベントの中止も相次いでいる。

 その中で各自がウイルスから身を護らなければならない。
 日本国内で感染経路不明な市中感染が広がっている今、仮に自分が感染したとしても、誰のせいにもできないし、誰かに責任を押しつけることなどできない。処置が遅れたとしても文句も言えない。その段階にきている。

https://www.msn.com/ja-jp/news/world/クルーズ船乗客下船%ef%bd%a4日本の新型肺炎対策の限界-19日から陰性客を解放だが%ef%bd%a4すでに市中感染/ar-BB10fT8U?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c26

[リバイバル3] 「マイ電柱」は効果が有るのか? 中川隆
38. 中川隆[-13632] koaQ7Jey 2020年2月22日 11:46:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-150]

SONY チャンネルデバイダーの電源部 3Pインレット化開始 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2020年02月22日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/8397f810fdabb52c9b7043613f0e5887


サブシステムで実験中のSONY TA-4300Fチャンネルデバイダーです。

リアパネル側です。電源ケーブルが1970年発売の機種特有の「ヒョロ線」です。これでは十分な電源を供給できません。絶対的な導線の「断面積不足」です。おまけに長さが2m近くあるので、内部に到達する前に電源力がかなり削がれています。

電源ケーブルの3Pインレット化をするか?しないか?・・・スペースが余り有りませんが、ここは一番「決断」が必要です。電源ケーブルを根元でカット!!!・・・之を決断したら後はやるしかありませんね。ヤスリで2日間ほどかけてやる予定。(前回M4のインレット化の時も2日かけてヤスリで拡幅した)

ソケットのサイズを下書きして、これからヤスリ掛けで削っていきます。

こんな感じで削っていきます。ひたすら「根気」です。地道にコツコツと削って取り付け出来る様に広げて行きます。正味4時間あれば何とかなるだろう。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/8397f810fdabb52c9b7043613f0e5887
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/759.html#c38

[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
27. 中川隆[-13631] koaQ7Jey 2020年2月22日 12:12:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-149]
2020年02月22日
安倍首相の水際作戦が失敗し国内感染者100人超


安倍首相は習近平訪日を実現するため、中国の要請によって入国制限をしていない

画像引用:https://cdn.ironna.jp/file/1ad8d2eeaff3a339e9e1c1ac658f760b.jpg

春節の中国人観光客は例年の8割

新型コロナウイルスの日本国内の感染者数は2月21日時点でクルーズ船内が634人、国内は109人となっています。

国内の内武漢からのチャーター便帰国者の感染が14人、日本国籍は53人で日本国籍以外(多くは中国)が12名となっている。

感染者で入院した患者は69人で現在も入院中は52人、なお集計時間や発表した機関の違いで合計は一致しない。


2月21日には子供3人を含む15人の感染者が発生し、国内で感染した日本人がどんどん増えている。

新たな感染者の多くは海外への渡航歴がなく、中国人との接点も無かったので、日本人から日本人に感染している。

日本政府は空港で感染を食い止める水際対策で万全としていたが、失敗し日本国内で感染を引き起こした。


空港の水際対策の実態は中国人からの自己申告という信じられないもので発熱さえなければ全員通過させていました。

中国政府は国外への団体旅行を禁止したが個人旅行は行われており、日本にも大勢入国した。

1月24日から2月2日までの春節期間中の訪日中国人は2割減だったが、逆に言うと8割は普段通り入国した。

安倍首相の裏切りと厚生省の無策

新たな日本人感染者が増えたのはこの8割の中国人の中に感染者がいたからで、水際対策の失敗を物語っている。

新型ウイルスの危険性が認識されたのは1月20日ごろだが、厚労省は当初「人から人に感染しない」と主張していた。

人から人に感染すると分かった後も「警戒しないように」呼びかけたり、感染を広めるような事ばかりしていた。


現在も「空気感染はしない」と言っているが、中国政府や研究者は「空気感染する」として空調の供用を禁止した。

空気感染しないという厚労省の間違った説明のもと、クルーズ船や隔離ホテルで空気感染対策が取られず500人以上が感染した。

新聞報道では中国からの入国を禁止しなかったのは安倍首相周辺からの指示で、中国政府から「大事にしないよう」要請があった。


河野防衛大臣が19年12月に訪中した際、中国側から日本国内の情報統制を要求されたと証言している。

安倍首相が要請した習近平訪日が4月に迫っており、要するに中国は「ウイルスで入国規制したら訪日取りやめ」を言ってきた。

安倍首相は日本人の人命より習近平訪日のほうが重要と判断し、今も中国からの入国制限をしていない。


厚労省は国内感染者が増え続けてやっと感染拡大を認めたが、「手洗いやうがいをしましょう」と寝ぼけた事を言っている。

感染防止には今すぐすべての中国人を入国禁止し、感染者や疑いがあるものは強制収容所に入れる必要がある。

欧米など感染者が出たすべての国でそうしているが、日本だけが自由放任のまま感染者を増やしている。

韓国と日本で爆発的感染

隣りの韓国も日本同様中国からの全面的な入国規制をしなかったが、1月20日に感染者が急増した、

1月19日まで30人しかおらず沈静化したと言っていたのに、20日に20人、21日には105人も感染し国内感染者は200人を超えた。

日本は「国内で感染した人」は70人程度だが、韓国は200人のほぼ全員が韓国国内の地上で感染したのが違う。


204人の感染者のうち144人が大邱市の教会関係者や新興宗教団体「新天地イエス教会」の信者だった。

この教団は創設者のイ・マンヒ(李萬煕)をキリストの生まれ変わりとしているが、他のキリスト教団体からはカルト教団として忌避されている。

信者は教団の教えによって最初治療や検査を拒否した事から、教団を通じて感染が拡大した。


韓国では新型コロナウイルスの強制検査を行っておらず、本人が拒否すると検査や隔離できなかった。

感染検査は感染者を除き合計1万6196人で、日本は厚労省によると国内693件、クルーズ船内で3,063人に検査を実施した。

日本の厚労省は「許可した以外の者に検査するな」という命令を出し、このため本人が希望しても検査を断られて感染拡大させた。


日本国内で感染を拡大させたのは第一に安倍首相による「習近平訪日実現の為に中国からの入国規制しない」という方針でした。

第二の原因は厚労省の感染隠ぺいとウイルス検査禁止、「日本人には感染しない」のような嘘八百でした。

韓国で感染が広まった原因も第一に中国からの入国を禁止しなかった事と、検査や隔離が強制ではなかったためでした。
http://www.thutmosev.com/archives/82265625.html
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c27

[番外地7] 習近平に忖度する安倍首相 中川隆
2. 中川隆[-13630] koaQ7Jey 2020年2月22日 12:31:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-148]
習近平は日本に来たくなかったんだよ、
安部がどうしても来て欲しいと頼んで、習近平訪日を実現するため、中国人の入国制限をさせなかったんだ
春節の中国人観光客は例年の8割

新型コロナウイルスの日本国内の感染者数は2月21日時点でクルーズ船内が634人、国内は109人となっています。国内の内武漢からのチャーター便帰国者の感染が14人、日本国籍は53人で日本国籍以外(多くは中国)が12名となっている。感染者で入院した患者は69人で現在も入院中は52人、なお集計時間や発表した機関の違いで合計は一致しない。
2月21日には子供3人を含む15人の感染者が発生し、国内で感染した日本人がどんどん増えている。
新たな感染者の多くは海外への渡航歴がなく、中国人との接点も無かったので、日本人から日本人に感染している。日本政府は空港で感染を食い止める水際対策で万全としていたが、失敗し日本国内で感染を引き起こした。
空港の水際対策の実態は中国人からの自己申告という信じられないもので発熱さえなければ全員通過させていました。中国政府は国外への団体旅行を禁止したが個人旅行は行われており、日本にも大勢入国した。
1月24日から2月2日までの春節期間中の訪日中国人は2割減だったが、逆に言うと8割は普段通り入国した。
安倍首相の裏切りと厚生省の無策
新たな日本人感染者が増えたのはこの8割の中国人の中に感染者がいたからで、水際対策の失敗を物語っている。新型ウイルスの危険性が認識されたのは1月20日ごろだが、厚労省は当初「人から人に感染しない」と主張していた。人から人に感染すると分かった後も「警戒しないように」呼びかけたり、感染を広めるような事ばかりしていた。
現在も「空気感染はしない」と言っているが、中国政府や研究者は「空気感染する」として空調の供用を禁止した。空気感染しないという厚労省の間違った説明のもと、クルーズ船や隔離ホテルで空気感染対策が取られず500人以上が感染した。新聞報道では中国からの入国を禁止しなかったのは安倍首相周辺からの指示で、中国政府から「大事にしないよう」要請があった。
河野防衛大臣が19年12月に訪中した際、中国側から日本国内の情報統制を要求されたと証言している。安倍首相が要請した習近平訪日が4月に迫っており、要するに中国は「ウイルスで入国規制したら訪日取りやめ」を言ってきた。安倍首相は日本人の人命より習近平訪日のほうが重要と判断し、今も中国からの入国制限をしていない。
厚労省は国内感染者が増え続けてやっと感染拡大を認めたが、「手洗いやうがいをしましょう」と寝ぼけた事を言っている。感染防止には今すぐすべての中国人を入国禁止し、感染者や疑いがあるものは強制収容所に入れる必要がある。欧米など感染者が出たすべての国でそうしているが、日本だけが自由放任のまま感染者を増やしている。日本の厚労省は「許可した以外の者に検査するな」という命令を出し、このため本人が希望しても検査を断られて感染拡大させた。
日本国内で感染を拡大させたのは第一に安倍首相による「習近平訪日実現の為に中国からの入国規制しない」という方針でした。第二の原因は厚労省の感染隠ぺいとウイルス検査禁止、「日本人には感染しない」のような嘘八百でした。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/490.html#c2

[番外地7] 正論・チャンネル桜関係者の嘘 徴用工の強制連行は無かった、待遇も良かった 中川隆
10. 中川隆[-13629] koaQ7Jey 2020年2月22日 12:52:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-147]
嘘はもういいよ2
資料: 中国人強制労働による殉死の墓
戦時中、いわゆる1941年11月政府閣議決定にもとづき、中国人を日本国内に強制連行し135事業所で、強制労働にしいられ、多くの中国人がたえられぬ労働とリンチによって死にいたった事であります。
1944年、東川のこの江卸事業所も例外ではなく、338名の中国人が連行され、遊水地工事のために苛酷な強制労働をしいられたのでございます。バラ線の張った高いヘイ、明かりのない窓、見張所が作られ、監獄部屋と同じになってしまったバラックの収容所。うす氷のはりつめる初冬から真冬に近い季節というのに、ヨレヨレの夏の国防服一枚に、ワラで作ったツマゴグツをはき、ワラの手袋をつけ、忠別川の川底の石を素手でかき集めて運ぶ、手足が凍傷にかかり指がちぎれたり、くさったり、それでも奴れい的作業はつづいていました。
戦時中なので日本人の食糧が不足であったという事で、中国人には、小麦粉のだんごや、野さいのおかずだけ、しかもわずかな量でした。いつも空腹にたえなければならなかったのです。しかも夏は午前6時より 日が暮れるまで、日本人監視のもとに一寸の休みも認められず、針金や丸棒のムチで打たれながら強制労働をさせられていたのでございます。残酷なリンチに苛酷な労働は、栄養失調と過労の肉体を自然にむしばみはじめ、病人は食べるものも満足にあたえられず、ただ部屋の中のうすい毛布でうずくまっているだけでした。こうした強制労働とリンチの悲惨な結果は多くの犠牲者を死にいたらしめてしまい、戦争の悲劇はここにもあったわけです。その殉難者は88名にもおよんでいます。http://www.tao-clinic.com/blog00.php?cat=4&id=1494



▲△▽▼

証拠はいくらでも有るんだよ:
旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (2)
 今回は、過酷な労働から出来た遊水池について。では一見分かりづらいのですが、池はかなり深く掘られています。 それはこの辺一帯の田んぼを潤す水を蓄えるわけですから、当然でしょう。同じような池がこの他にもあり、それが中国人や朝鮮人を連れてきて掘らせたわけです。Tさんはこう話してくれました。 「真冬なんてかわいそうなもんだった。布で作った靴しか与えられなくてな、そんなの何回も土を運んでいるうちすぐ穴が開いてしまうわ。足の指真っ赤に腫らしてな、凍傷なんていうもんじゃない、半分腐っていたもんもいたさ。ずいぶん酷いことしたもんだ。見ていられんかったもんな」 「ずいぶん堤が高いしな、土は他の所へかなり運んだんだけれど、手が間に合わなくて土手に積み上げたんだ」
 堤が高いということは、かなり深くまで掘った土を、掘った人間が上まで運んだということです。当たり前と思うかも知れませんが、現代のようにユンボがある訳もなくすべて手作業です。ましてや、鉄製のも使わせなかったと聞いています。と言うより、鉄が戦車や鉄砲を創るため、拠出させられていたので、鉄そのものが無かったのだと思います。
 それだけを考えただけでも、どれほど重労働だったか推し量れます。
この写真が強制連行にあったことを物語る跡標です。 
これが遊水池です。今でも水が満々としています。
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17
旭川市近郊にある「強制連行」の跡標 (3)
 ここまで酷いことをするのか、人間は出来るのかとーー
 国が違う国を支配する。そうするとこういうことが、何の躊躇もなく行なわれてしまうのかと考えてしまいます。Tさんの話を続けます。
 「冬になっても足には草鞋しかはかせないで、素足のままだ。凍傷になって足は真っ赤に腫れ上がっていた。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ。可哀そうにな」 「戦争が始まった頃、道路拡張の工事があってだいぶん進んでいた頃なんだわ、こっちの方がもっと悲惨だったんじゃないかな」と話します。
 「強制労働者は、天秤棒を担がされて、その両端には砂袋だ。それに掘り起こした土を詰め込んで運ばされていたんだ。一日に何回も往復させられていたさ。それを続けて何日もやらされるもんだから、肩は真っ赤に腫上がって水脹(ぶく)れになっていた」 「そりゃ毎日だからな、水脹れが破れて中の肉がでてきてただれてしまっていた。そりゃ酷いもんだったさ。それでも天秤棒を担がされてな、血がたれていたよな」  そこでも、日本の軍人はただ命令するだけで、誰一人として助けようとはしなかったのですか、と聞くと、「それどころか、その赤く腫れあがったところに、煮えきった油をかけていたのさ。酷いなんちゅうものじゃなかった。そうしたほうが、その水脹れが早く治るっていうんだと言ってな」 彼らは、その繰り返しだったらしいのです。当然長くは続けることは困難でした。  「菌が入ったらもうおしまいだ。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ」。 T さんは「可哀そうにな」と、今でも思い出さない日はないと言います。 今では、「中国人殉難裂士」の慰霊碑が建てられています。しかし、ここには「観音堂」があったらしいのですが、Tさんは、今はどこへ行ったのか分からないそうです。 そして、そこから細い道を登っていくと、中国人墓地があります。ひっそりと静まり返っています。林の中に、ぽつんと墓石が立てられているだけです。もう私たちの記憶の中から、忘れられています。
 そう言う私も、昨年Tさんから話しを聞くまでは、「中国人墓地」があるのは聞いていました。ただ、それはにある外人墓地的な感覚でした。連れて行ってもらって、始めてそこに何故「中国人墓地」が存在するのかを知りました。 またその先には、今は日本一の設備を有するのではないか、と言われている忠別ダム工事が行なわれています。その先に見えるのが、今まで旭川を含めて近郊の電力をまかなってきた、忠別発電所があります。
 そこでは、強制連行されてきた朝鮮人の人たちが、中国人強制労働者と同じような犠牲を強いられてきていた過去があります。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/417.html#c10
[近代史3] 馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか? 中川隆
47. 中川隆[-13628] koaQ7Jey 2020年2月22日 13:08:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-146]
2020.02.22
NATO軍がロシアへの軍事侵攻を準備しているとロシア軍は分析している


 ロシア軍の​ワレリー・ゲラシモフ参謀総長はNATOがロシアに対する大規模な軍事侵攻を行う準備をしていると分析​しているようだ。この分析には説得力がある。

 NATOがソ連軍の侵攻に備えるために創設されたという話は戯言にすぎない。ソ連が消滅した後にNATOが存在していることでもわかるだろう。そもそも第2次世界大戦でドイツ軍に攻め込まれたソ連では2000万人以上の国民が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、当時、軍事侵攻する余裕はなかった。

 そうした情況の中、1949年にNATOは創設されたのだが、その時の参加国はアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルク。その母体になったのは1948年に作られたACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)だ。

 ACUEはアメリカやイギリスがヨーロッパを支配する目的で設立された組織で、イギリスのウィンストン・チャーチルやアメリカのアレン・ダレスたちが参加していた。本ブログでもしばしば登場するビルダーバーグ・グループはその下部機関のひとつ。

 NATO加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在していることもわかっている。その中でも特に有名な部隊がイタリアのグラディオ。1960年代から80年頃までクーデター計画や極左グループを装った爆破事件を繰り返していた。

 フランスのOASもそうした秘密部隊ネットワークにつながる組織だが、その一部が1962年にシャルル・ド・ゴール大統領の暗殺を試みている。その背景を知っていたド・ゴールは1966年にフランス軍をNATOの軍事機構から離脱させ、SHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出している。ジョン・F・ケネディ米大統領が暗殺されたのは1963年のことだ。そうしたNATOの体質は現在まで変化していない。

 NATOが東に向かって拡大し始めるのは1990年代に入ってから。その切っ掛けは1990年の東西ドイツ統一だ。ペレストロイカを進めていたミハイル・ゴルバチョフの決断だが、このペレストロイカを考え出したのはKGBの頭脳と呼ばれていたフィリップ・ボブコフだという。CIA人脈と連携していた可能性の高い人物だ。

 東西ドイツを統一する際、アメリカ政府はNATOを東へ拡大させないと約束していた。例えばドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックが語っている。またドイツの外相だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーは1990年にエドゥアルド・シェワルナゼと会った際、「NATOは東へ拡大しない」と確約し、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)

 それ以外にも、アメリカのジェームズ・ベイカー国務長官がソ連側に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、NATO軍の支配地域は1インチたりとも東へ拡大させないと1990年に語ったとする記録が公開されている。

 アメリカの支配層がそうした約束を守るはずはなく、今ではロシアとの国境近くに軍事基地を建設、ミサイルを配備し、細菌兵器の研究施設を建設している。

 本ブログでもすでに書いたが、アメリカはそうした研究施設をウクライナ、アゼルバイジャン、アルメニア、カザフスタン、キルギスタン、モルドバ、タジキスタン、ウズベキスタン、ジョージアで建設、アフガニスタン、パキスタン、台湾、フィリピン、韓国、そして日本にもアメリカ国防総省の影響下にある細菌に関する研究施設が存在するという。

 アメリカの少なくとも一部は1950年代からソ連に対する先制核攻撃を計画、ケネディ大統領が暗殺された1963年後半に実行しようとしていたと言われている。1983年の後半にも核戦争の寸前までいった。最近もアメリカは核戦争でロシアを脅しているが、脅しても屈服しなため核戦争へ限りなく近づいている。

 ドナルド・トランプを担いだのはそうした情況を懸念した人びとだったと見られているが、大統領に就任した直後にネオコン的な政策へ切り替えられている。マイケル・フリン国家安全保障補佐官の解任は象徴的な出来事だった。

 NATOはアメリカによる中東支配の道具としてイラクに常駐するようになるとも言われている。NATOはアメリカの「関東軍」と化している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002210000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html#c47

[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた 中川隆
64. 中川隆[-13627] koaQ7Jey 2020年2月22日 13:09:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-145]
2020.02.22
NATO軍がロシアへの軍事侵攻を準備しているとロシア軍は分析している


 ロシア軍の​ワレリー・ゲラシモフ参謀総長はNATOがロシアに対する大規模な軍事侵攻を行う準備をしていると分析​しているようだ。この分析には説得力がある。

 NATOがソ連軍の侵攻に備えるために創設されたという話は戯言にすぎない。ソ連が消滅した後にNATOが存在していることでもわかるだろう。そもそも第2次世界大戦でドイツ軍に攻め込まれたソ連では2000万人以上の国民が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、当時、軍事侵攻する余裕はなかった。

 そうした情況の中、1949年にNATOは創設されたのだが、その時の参加国はアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルク。その母体になったのは1948年に作られたACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)だ。

 ACUEはアメリカやイギリスがヨーロッパを支配する目的で設立された組織で、イギリスのウィンストン・チャーチルやアメリカのアレン・ダレスたちが参加していた。本ブログでもしばしば登場するビルダーバーグ・グループはその下部機関のひとつ。

 NATO加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在していることもわかっている。その中でも特に有名な部隊がイタリアのグラディオ。1960年代から80年頃までクーデター計画や極左グループを装った爆破事件を繰り返していた。

 フランスのOASもそうした秘密部隊ネットワークにつながる組織だが、その一部が1962年にシャルル・ド・ゴール大統領の暗殺を試みている。その背景を知っていたド・ゴールは1966年にフランス軍をNATOの軍事機構から離脱させ、SHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出している。ジョン・F・ケネディ米大統領が暗殺されたのは1963年のことだ。そうしたNATOの体質は現在まで変化していない。

 NATOが東に向かって拡大し始めるのは1990年代に入ってから。その切っ掛けは1990年の東西ドイツ統一だ。ペレストロイカを進めていたミハイル・ゴルバチョフの決断だが、このペレストロイカを考え出したのはKGBの頭脳と呼ばれていたフィリップ・ボブコフだという。CIA人脈と連携していた可能性の高い人物だ。

 東西ドイツを統一する際、アメリカ政府はNATOを東へ拡大させないと約束していた。例えばドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックが語っている。またドイツの外相だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーは1990年にエドゥアルド・シェワルナゼと会った際、「NATOは東へ拡大しない」と確約し、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)

 それ以外にも、アメリカのジェームズ・ベイカー国務長官がソ連側に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、NATO軍の支配地域は1インチたりとも東へ拡大させないと1990年に語ったとする記録が公開されている。

 アメリカの支配層がそうした約束を守るはずはなく、今ではロシアとの国境近くに軍事基地を建設、ミサイルを配備し、細菌兵器の研究施設を建設している。

 本ブログでもすでに書いたが、アメリカはそうした研究施設をウクライナ、アゼルバイジャン、アルメニア、カザフスタン、キルギスタン、モルドバ、タジキスタン、ウズベキスタン、ジョージアで建設、アフガニスタン、パキスタン、台湾、フィリピン、韓国、そして日本にもアメリカ国防総省の影響下にある細菌に関する研究施設が存在するという。

 アメリカの少なくとも一部は1950年代からソ連に対する先制核攻撃を計画、ケネディ大統領が暗殺された1963年後半に実行しようとしていたと言われている。1983年の後半にも核戦争の寸前までいった。最近もアメリカは核戦争でロシアを脅しているが、脅しても屈服しなため核戦争へ限りなく近づいている。

 ドナルド・トランプを担いだのはそうした情況を懸念した人びとだったと見られているが、大統領に就任した直後にネオコン的な政策へ切り替えられている。マイケル・フリン国家安全保障補佐官の解任は象徴的な出来事だった。

 NATOはアメリカによる中東支配の道具としてイラクに常駐するようになるとも言われている。NATOはアメリカの「関東軍」と化している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002210000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html#c64

[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
31. 中川隆[-13626] koaQ7Jey 2020年2月22日 13:10:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-144]
2020.02.22
NATO軍がロシアへの軍事侵攻を準備しているとロシア軍は分析している


 ロシア軍の​ワレリー・ゲラシモフ参謀総長はNATOがロシアに対する大規模な軍事侵攻を行う準備をしていると分析​しているようだ。この分析には説得力がある。

 NATOがソ連軍の侵攻に備えるために創設されたという話は戯言にすぎない。ソ連が消滅した後にNATOが存在していることでもわかるだろう。そもそも第2次世界大戦でドイツ軍に攻め込まれたソ連では2000万人以上の国民が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、当時、軍事侵攻する余裕はなかった。

 そうした情況の中、1949年にNATOは創設されたのだが、その時の参加国はアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルク。その母体になったのは1948年に作られたACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)だ。

 ACUEはアメリカやイギリスがヨーロッパを支配する目的で設立された組織で、イギリスのウィンストン・チャーチルやアメリカのアレン・ダレスたちが参加していた。本ブログでもしばしば登場するビルダーバーグ・グループはその下部機関のひとつ。

 NATO加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在していることもわかっている。その中でも特に有名な部隊がイタリアのグラディオ。1960年代から80年頃までクーデター計画や極左グループを装った爆破事件を繰り返していた。

 フランスのOASもそうした秘密部隊ネットワークにつながる組織だが、その一部が1962年にシャルル・ド・ゴール大統領の暗殺を試みている。その背景を知っていたド・ゴールは1966年にフランス軍をNATOの軍事機構から離脱させ、SHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出している。ジョン・F・ケネディ米大統領が暗殺されたのは1963年のことだ。そうしたNATOの体質は現在まで変化していない。

 NATOが東に向かって拡大し始めるのは1990年代に入ってから。その切っ掛けは1990年の東西ドイツ統一だ。ペレストロイカを進めていたミハイル・ゴルバチョフの決断だが、このペレストロイカを考え出したのはKGBの頭脳と呼ばれていたフィリップ・ボブコフだという。CIA人脈と連携していた可能性の高い人物だ。

 東西ドイツを統一する際、アメリカ政府はNATOを東へ拡大させないと約束していた。例えばドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックが語っている。またドイツの外相だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーは1990年にエドゥアルド・シェワルナゼと会った際、「NATOは東へ拡大しない」と確約し、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)

 それ以外にも、アメリカのジェームズ・ベイカー国務長官がソ連側に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、NATO軍の支配地域は1インチたりとも東へ拡大させないと1990年に語ったとする記録が公開されている。

 アメリカの支配層がそうした約束を守るはずはなく、今ではロシアとの国境近くに軍事基地を建設、ミサイルを配備し、細菌兵器の研究施設を建設している。

 本ブログでもすでに書いたが、アメリカはそうした研究施設をウクライナ、アゼルバイジャン、アルメニア、カザフスタン、キルギスタン、モルドバ、タジキスタン、ウズベキスタン、ジョージアで建設、アフガニスタン、パキスタン、台湾、フィリピン、韓国、そして日本にもアメリカ国防総省の影響下にある細菌に関する研究施設が存在するという。

 アメリカの少なくとも一部は1950年代からソ連に対する先制核攻撃を計画、ケネディ大統領が暗殺された1963年後半に実行しようとしていたと言われている。1983年の後半にも核戦争の寸前までいった。最近もアメリカは核戦争でロシアを脅しているが、脅しても屈服しなため核戦争へ限りなく近づいている。

 ドナルド・トランプを担いだのはそうした情況を懸念した人びとだったと見られているが、大統領に就任した直後にネオコン的な政策へ切り替えられている。マイケル・フリン国家安全保障補佐官の解任は象徴的な出来事だった。

 NATOはアメリカによる中東支配の道具としてイラクに常駐するようになるとも言われている。NATOはアメリカの「関東軍」と化している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002210000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html#c31

[近代史3] 昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは 中川隆
2. 中川隆[-13625] koaQ7Jey 2020年2月22日 13:12:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-143]
2020.02.22
NATO軍がロシアへの軍事侵攻を準備しているとロシア軍は分析している


 ロシア軍の​ワレリー・ゲラシモフ参謀総長はNATOがロシアに対する大規模な軍事侵攻を行う準備をしていると分析​しているようだ。この分析には説得力がある。

 NATOがソ連軍の侵攻に備えるために創設されたという話は戯言にすぎない。ソ連が消滅した後にNATOが存在していることでもわかるだろう。そもそも第2次世界大戦でドイツ軍に攻め込まれたソ連では2000万人以上の国民が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、当時、軍事侵攻する余裕はなかった。

 そうした情況の中、1949年にNATOは創設されたのだが、その時の参加国はアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルク。その母体になったのは1948年に作られたACUE(ヨーロッパ連合に関するアメリカ委員会)だ。

 ACUEはアメリカやイギリスがヨーロッパを支配する目的で設立された組織で、イギリスのウィンストン・チャーチルやアメリカのアレン・ダレスたちが参加していた。本ブログでもしばしば登場するビルダーバーグ・グループはその下部機関のひとつ。

 NATO加盟国には破壊活動を目的とする秘密部隊が存在していることもわかっている。その中でも特に有名な部隊がイタリアのグラディオ。1960年代から80年頃までクーデター計画や極左グループを装った爆破事件を繰り返していた。

 フランスのOASもそうした秘密部隊ネットワークにつながる組織だが、その一部が1962年にシャルル・ド・ゴール大統領の暗殺を試みている。その背景を知っていたド・ゴールは1966年にフランス軍をNATOの軍事機構から離脱させ、SHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出している。ジョン・F・ケネディ米大統領が暗殺されたのは1963年のことだ。そうしたNATOの体質は現在まで変化していない。

 NATOが東に向かって拡大し始めるのは1990年代に入ってから。その切っ掛けは1990年の東西ドイツ統一だ。ペレストロイカを進めていたミハイル・ゴルバチョフの決断だが、このペレストロイカを考え出したのはKGBの頭脳と呼ばれていたフィリップ・ボブコフだという。CIA人脈と連携していた可能性の高い人物だ。

 東西ドイツを統一する際、アメリカ政府はNATOを東へ拡大させないと約束していた。例えばドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックが語っている。またドイツの外相だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーは1990年にエドゥアルド・シェワルナゼと会った際、「NATOは東へ拡大しない」と確約し、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)

 それ以外にも、アメリカのジェームズ・ベイカー国務長官がソ連側に対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、NATO軍の支配地域は1インチたりとも東へ拡大させないと1990年に語ったとする記録が公開されている。

 アメリカの支配層がそうした約束を守るはずはなく、今ではロシアとの国境近くに軍事基地を建設、ミサイルを配備し、細菌兵器の研究施設を建設している。

 本ブログでもすでに書いたが、アメリカはそうした研究施設をウクライナ、アゼルバイジャン、アルメニア、カザフスタン、キルギスタン、モルドバ、タジキスタン、ウズベキスタン、ジョージアで建設、アフガニスタン、パキスタン、台湾、フィリピン、韓国、そして日本にもアメリカ国防総省の影響下にある細菌に関する研究施設が存在するという。

 アメリカの少なくとも一部は1950年代からソ連に対する先制核攻撃を計画、ケネディ大統領が暗殺された1963年後半に実行しようとしていたと言われている。1983年の後半にも核戦争の寸前までいった。最近もアメリカは核戦争でロシアを脅しているが、脅しても屈服しなため核戦争へ限りなく近づいている。

 ドナルド・トランプを担いだのはそうした情況を懸念した人びとだったと見られているが、大統領に就任した直後にネオコン的な政策へ切り替えられている。マイケル・フリン国家安全保障補佐官の解任は象徴的な出来事だった。

 NATOはアメリカによる中東支配の道具としてイラクに常駐するようになるとも言われている。NATOはアメリカの「関東軍」と化している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002210000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html#c2

[リバイバル3] 高配当銘柄を買うとこういう目に遭う _ JT 日本たばこ産業 (2914) 中川隆
14. 中川隆[-13624] koaQ7Jey 2020年2月22日 13:41:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-142]

22 ai_***** 2月22日 12:29


自宅での喫煙に“4500万円払え”裁判 「禁煙学会理事長」の医師法違反が明るみに
2/22(土) 5:57配信 デイリー新潮
「昨年11月に横浜地裁が言い渡した判決は、体調不良と副流煙の因果関係はナシ。団地の自宅内で喫煙するのは自由で、社会的相当性を逸脱するような事情がない限り違法とはならないと認定した。」

喫煙迷惑9割超え タバコ休憩はOK ?
2/19(水) 15:00配信 ovo
「一方、仕事中にたばこ休憩を取る喫煙者は7 割を超えている。この休憩取得を良くないと考える非喫煙者は49.2%だった反面、喫煙者は9.1%と大きく意見が分かれた。「煙草を吸うことでリラックスできる人もいると思う」「トイレに行くのと同じ感覚」「リフレッシュするための休憩時間は必要だけど、わざわざタバコを吸うために休憩をするのではなく休憩中にタバコを吸うようにしたらいいと思う」「タバコは嗜好品なので仕事中にコーヒー、お茶を飲むのと同じ。仕事中にタバコを吸うのがだめなら仕事中にコーヒー飲むのもダメなはず」など、それぞれの立場からの主張が展開されている。」

加熱式たばこ専用の喫煙室 川場スキー場 JT協力し群馬県内初設置 分煙環境を整備
2/18(火) 6:02配信 上毛新聞社
「喫煙者にも快適にスキーを楽しんでもらおうと、群馬県の川場スキー場(川場村川場高原)は、クラブハウス内に加熱式たばこ専用喫煙室を開設した。」

時代に逆行、岡山市役所に喫煙所が復活 一体何があった?
2/16(日) 15:30配信 産経新聞
「結局、市は屋上に「特定屋外喫煙場所」となる喫煙所を設置。大供公園で喫煙をしないよう、職員用の専用サイトで呼び掛けることになった。岡山市庁舎管理課は「やむを得ない措置だった」と説明する。」

「嗅ぎたばこ」で改正健康増進法へ対応 BATジャパン
2/13(木) 13:35配信 産経新聞
「税制上はいわゆる「嗅ぎたばこ」の一種で、改正健康増進法の施行を4月に控える中、規制対象外の商品を導入することで、消費者ニーズにこたえる。」

紙巻きたばこ禁止へ 4月から白浜空港
2/13(木) 16:35配信 紀伊民報
「南紀白浜エアポートは4月から、南紀白浜空港(和歌山県白浜町)ターミナルビル内で紙巻きたばこの喫煙を禁止する。ビル内にある2カ所の喫煙所は加熱式たばこ専用にする。〜紙巻きたばこの喫煙所は、ビル外の到着出口近くに1カ所新設する。」


インスタグラム:インフルエンサーの電子たばこ宣伝禁止
2/12(水) 7:33配信 ブルームバーグ
「インスタグラムとフェイスブックは、インフルエンサーに対し、電子たばこやたばこ製品、銃を「ブランドコンテンツ」として宣伝することを禁止した。」

ここ最近のたばこに関するニュースです。

4月の改正健康増進法全面施行に向けた準備が着々と進んでいます。各企業とも喫煙場所を制限しつつも確保する中、昨年7月に先行実施していた公共施設では、施設内を完全禁煙にした結果周辺での苦情が相次いだため、施設内に再度喫煙場所を整備する現実的な対応を行っています。

たばこに対する世論も、長きにわたり禁煙活動団体の主張をもとに形成されてきましたが、喫煙率も20%を切る中、改正法を機に逆に喫煙者を擁護する意見も目立ち始めています。非喫煙者の中でもたばこ休憩に否定的な意見は半分を切り、調査結果からは場所さえ制限すれば吸うか吸わないかは喫煙者の自由という考え方の広がりがうかがえます。禁煙活動も、かつては多数派や既得権益に対する少数派の権利主張という社会的意義がありましたが、今では完全に立場が逆転してただの弱い者いじめへと成り下がりつつあり、法律違反も厭わない団体も登場して禁煙活動自体が既得権益化しつつあります。

また、RRPについてはこれまで規制のなかったSNSを使ったマーケティングにより、新興メーカーを中心に爆発的に普及してきましたが、電子たばこの健康問題に端を発し、それを規制する動きが出てきています。広告の規制は新製品の普及を阻むため、既存メーカーには非常に有利に働きます。

吸う人も吸わない人も心地よい世の中へ。私はずっと非喫煙者ですが、長い歴史の中で培われてきた文化、嗜好品、個人の自由を守るため、JTの挑戦に期待したいと思います。
https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1002914/a3ja3t
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/976.html#c14

[近代史3] グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』
グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』


エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』


シセル・シルシェブーの『グリーグ ソルヴェイグの歌』


Sissel Kyrkjebø - Solveigs Song - 1991


London Philharmonic
at a TV-concert in 1991,


_____


Sissel Kyrkjebø: Solveig's Song


Concert "A bouquet of roses for the King and the Queen"
Norway, 21-jun-91
From: NRK, Norwegian tv
_______


Sissel Kyrkjebø - Solveigs sang - 1993 [CC]


______


Solveig's Song - Sissel Kyrkjebø (With English Subtitle)


_______


SOLVEIG S SONG Sissel Kyrkjebø


シセル(Sissel、1969年6月24日 - )は、ノルウェー出身の女性歌手。
もともと母国・ノルウェーで国民的歌手として人気があったが、近年は「クリスタル・ボイス」とも評せられる透明感溢れる歌声と安定した歌唱力が世界的に高い評価を受け、国際的に広く精力的な音楽活動を続けている。


もともとシセル・シルシェブー(Sissel Kyrkjebø)名義で長らく活動を続けてきたが、近年はファーストネームのみで登場する事が多くなった。


略歴
1969年6月24日、ノルウェー西岸に位置する第2の都市ベルゲンに生まれる。8歳の時に聖歌隊に入り、徐々に歌唱力を磨く。やがてその歌唱力がノルウェー内で評判となり、1985年、アルバム「シセル」でCDデビュー、一躍国民的人気歌手となる。


そして1994年、リレハンメル冬季オリンピックで同オリンピックのテーマ曲“Fire in your Heart”を歌うと共に、開会式と閉会式で「オリンピック賛歌」の冒頭部分を民族衣装姿でアカペラで独唱。その澄んだ歌声が評判となり世界にその存在を知らしめる。さらにプラシド・ドミンゴの目にも止まり、シャルル・アズナヴールを交えてのクリスマス・コンサートが行われるなど、実力派シンガーとしての評価を国際的に急上昇させていく。


更に、1997年には映画「タイタニック」のサウンドトラックで、ヒロインの回想場面で使用されるスキャットを担当するなどして、より存在感を大きな物としており、一方、それまで数多く発売されたアルバムによって、ジャンルもクラシックからポップス、ジャズと幅広く対応できる事も証明している。


日本においても、TBS系のドラマ「Summer Snow」の主題歌や、日産自動車のCMでその歌声はおなじみである。


2003年4月には六本木ヒルズでオープニングのコンサートを行い、2005年9月には京都の仁和寺で開かれた第18回JAL音舞台シリーズに参加している。


デンマーク人のタレントと結婚し、2児の子供を出産したのちは、本国ノルウェーをはじめとする北欧諸国とアメリカ以外では積極的にコンサート活動を行っていないが、来日を待つファンも多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%BB%E3%83%AB

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/932.html

[近代史3] グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』 中川隆
1. 中川隆[-13623] koaQ7Jey 2020年2月22日 15:21:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-141]

ソルヴェイグの歌       劇音楽 ペールギュント
http://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S1332.htm

詩: イプセン (Henrik Ibsen,1828-1906) ノルウェー
    Peer Gynt (1867)  Solveigs sang

曲: グリーグ (Edvard Grieg,1843-1907) ノルウェー   歌詞言語: ノルウェー語

Kanske vil der gå både Vinter og Vår,
og næste Sommer med,og det hele År,
men engang vil du komme,det ved jeg vist,
og jeg skal nok vente,for det lovte jeg sidst.

Ah


Gud styrke dig,hvor du i Verden går,
Gud glæde dig,hvis du for hans Fodskammel står.
Her skal jeg vente til du kommer igjen;
og venter du hist oppe,vi træffes der,min Ven!

Ah


たぶんまた過ぎ去るの 冬も春も
そして次の夏も、こうして一年が終わる
でもあなたはいつか私の元へ戻る、私は分かっているの
だから私は待つわ、あなたと約束したように

ああ


神様は守ってくれる、あなたがどこに行こうとも
神様は祝福してくれる、あなたが御許にひざまずけば
私はここで待つわ、あなたの帰る日まで
もしあなたが天国で待つなら、そこで会いましょう、愛しい人!

ああ


グリーグの作品中ではピアノ協奏曲と並んで最も有名な、ヘンリク・イブセンの戯曲に付けた劇音楽「ペール・ギュント」、奔放に、というかワガママに?生きる主人公ペールをひたすら待ち続けるソルヴェイグ(正式に発音するとソルーヴェイの方が近いらしいです)の悲しくも美しい歌がこれです。古今東西女性歌手には好んで歌われるナンバーで、日本でも一昨年亡くなられた本田美奈子さんが岩谷時子作の詞で入れていたものを聴かれた方もあるのでは。これは日本語の歌詞や編曲のスタイルに私にはちょっと違和感がありましたが、けっこう感動的なうたではありました。他に日本の歌手でも増田いずみさんや米良美一さん!までほんとうに多彩なラインナップで聴くことができます。

西欧でもフラグスタートやニルソンといった北欧出身の大歌手から、シュヴァルツコップやぜーフリートといったドイツの大御所まで幅広く吹き込んでいますし、ピアノ伴奏のグリーグ歌曲集の中にもよく収録されていたりするのですが、今回集中的に取り上げようと思ったのは劇音楽の全曲やハイライトとして纏められた録音の中で歌われているこの歌。「名曲名盤XX選」とかいう某社の雑誌でよくやる特集でも「ペールギュント」に関しては組曲版か、あるいは抜粋版を取り上げていても指揮者とオーケストラのことばかり言及されていてほとんど省みられることはないように思うのですけれども、この曲、けっこう凄い歌手たちを起用して録音されていることが多いので聴き比べてみると面白いのです。


  バーバラ・ボニー:ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ管(DG)
  シルヴィア・マクネアー:ジェフリー・テイト指揮ベルリンフィル(EMI)
  エリー・アメリンク:エド・デ・ワールト指揮サンフランシスコ響(Philips)
  バーバラ・ヘンドリックス:エサ・ペッカ・サロネン指揮オスロフィル(Sony)
  ルチア・ポップ:ネヴィル・マリナー指揮アカデミー室内管(EMI)

ポップの歌っているマリナー盤だけは手に入りませんでしたが、彼女の歌うこの歌を収録している彼女のベスト盤(Disky)でここだけは聴けましたので以下に比較試聴をば。

ボニー盤:某誌でも高く評価されペール・ギュントの定盤になっている盤でしょうか。本場のオーケストラのくすんだ音色にまだ新進歌手だった彼女の清楚な声が微妙なコントラストを示して実に美しい演奏です。ただ個人的にヘソまがりな私には他の盤の方が好みだったりします。彼女の歌を初々しいと取るか、ちょっとまだ硬さがあると聴くかで評価が違ってくるところでしょうか...

マクネアー盤:たいへんゆっくりとしたテンポでしっとりと歌います。「ああー」のヴォカリーズの最後のところなど実に美しい。貫禄という点でも技量という点でも今回聴いた5点の中でもずば抜けた歌唱ではないでしょうか。劇音楽は抜粋盤ですが普通取り上げられる第4幕の部分だけでなく、ペールが戻る直前の第5幕のシーンでのこの歌も収録してくれている(つまり2回聴ける)のも嬉しいところです。テイト/ベルリンPOの演奏も貫禄。ちょっと歌も含め垢抜け、立派すぎる感もありますが...

アメリンク盤:爽やかな演奏とでも言えばよいでしょうか。どちらかというとこの歌よりも終曲の「ソルヴェイグの子守唄」の方がこのスタイルにはよりしっくりしています。サンフランシスコ響といえばこの後にブロムシュテットの指揮で同じ曲の(ほぼ)全曲盤を録音しており、そちらの方が収録曲が多かったりしてこの盤は冷遇されているような感もありますが、アメリンクの歌のスタイルにピッタリの爽快さが美しいです。ブロムシュテット盤ではBluebellでアルヴェーン歌曲集を歌っていたスウェーデンのソプラノ、ヘッガンデルを起用してこれはこれで健闘していましたが、アメリンクと比較しては酷というものでしょうか。アメリンクはもっと若い頃にも録音していた記憶があるのですが(ロッテルダムフィルかどこかと)、ちょっと思い出せませんでした。

ヘンドリックス盤:意外と彼女は北欧歌曲をたくさん録音していたりするのですが(現在はスウェーデン在住なのだとか)、偏見かも知れませんけれどもちょっと濃密さが強すぎる感じ。この曲に見え隠れする演歌調の「耐え忍ぶ女」的な感じは一番よく出ていて面白いですけれどもちょっと好みが分かれるかも。サロネン/オスロPOの演奏もメリハリが効いていて良いのですが、録音のせいかあるいはオーケストラのせいか色彩感にちょっと乏しく聴こえてしまいます。まあ北欧の音楽自体あんまりカラフルに演奏するようなものでもなさそうなのでこれはこれでいいのかも。今回聴き比べた中では一番異色でしたが、それだけにインパクトがあります。

ポップ盤:個人的には彼女の歌声がソルヴェイグの歌には一番ハマっているように思えます。マリナーの伴奏もたいへんメリハリが効いて楽しいです。残念ながらドイツ語訳による歌唱のようですけれども私はそんなに気になりませんでした。ほんのりとした温かみがこの曲を包んでなかなか素晴らしいです。
ワガママな私が甘えるとしたらやっぱりこのキャラクターの声かなあ。彼女が早くに亡くなってしまったのは大変に惜しまれます。


対訳でもけっこういい加減なものが散見されましたので、できるだけノルウェー語に忠実に訳す努力だけはしてみました。もっとも付け焼刃の語学勉強ではどこまで忠実なのだか...

まあそれほど難しい詩でもありませんので、大きな間違いはないと思います。
なお最後の呼びかけのVenというのは英語でいうとFrendにあたりますので、直訳すると「我が友よ!」になりますが、日本でダンナを「友よ」と呼ぶ人はいないと思いますので「愛しい人」としています。

戯曲では第4幕の10場、夏の日にヤギを見張りながら表で糸を紡いでいる中年になったソルヴェイグがひとり歌う歌です。曲だけ聴くと冬の感じがするのですが、そこでの情景は穏やかな北欧の夏なのですね。それだけに寂しさが一層つのってきます。

しかも第4幕は、ペールがアフリカでやりたい放題やっている(ここに限らずどこにいてもやりたい放題ではあるのですが...)シーンが続きますのでそれらとの対比がとても鮮烈なのです。戯曲の解釈によればこれはペールの頭を一瞬よぎった望郷の念の表現だということで、実際の歌もソルヴェイグの女優でなく舞台裏のソプラノ歌手に歌わせるようです。

このソルヴェイグの歌、幕が変わって第5幕、ノルウェーの故郷に戻って来たペールを待っている彼女の小屋でもう一度歌われます。こちらは「ああ」というヴォカリーズの部分がなく、また歌詞も違っています。いずれこちらの訳詞もUPしたいと思っています。

( 2007.01.22 藤井宏行 )
http://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S1332.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/932.html#c1

[近代史3] グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』 中川隆
2. 中川隆[-13622] koaQ7Jey 2020年2月22日 15:23:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-140]

ソルヴェイグの歌
作詞:ヘンリック・J・イプセン、作曲:エドヴァルド・H・グリーク
日本語詞:堀内敬三

冬は逝(ゆ)きて春過ぎて 春過ぎて
真夏も去りて年経(ふ)れど 年経れど
きみが帰りをただわれは ただわれは
誓いしままに待ちわぶる 待ちわぶる
あああ……


生きてなお君世に在(ま)さば 君世に在さば
やがてまた逢う時や来(こ)ん 時や来ん
天(あま)つ御国(みくに)に在すならば 在すならば
かしこにわれを待ちたまえ 待ちたまえ
あああ……

(原詩)
Kanske vil der gå både Vinter og Vår,
og næste Sommer med, og det hele År,
men engang vil du komme, det ved jeg vist,
og jeg skal nok vente, for det lovte jeg sidst.


Gud styrke dig, hvor du i Verden går,
Gud glæde dig, hvis du for hans Fodskammel står.
Her skal jeg vente til du kommer igjen;
og venter du hist oppe, vi traffes der, min Ven !


ノルウェーを代表する作曲家グリーク(Edvard Hagerup Grieg…写真)の組曲『ペール・ギュント』のうちの1曲(op.55-4)。
 もとは、同国の文豪イプセンが1867年に書いた全5幕の詩劇で、1876年2月24日に首都クリスチャニア(現オスロ)の劇場で初演されました。その劇中音楽を担当したのがグリークで、のちに作曲者自身によって組曲として再構成・発表されました。
 身勝手でほら吹きの放蕩児ペール・ギュントは、世界を放浪したはてに、老いさらばえ、無一文になって帰郷します。盲目になりながらも彼を待っていた若き日の恋人ソルヴェイグは、彼を許して迎え入れ、ペール・ギュントは安らかな永遠の眠りにつく――という物語です。

 『ソルヴェイグの歌』は、ペール・ギュントの帰りを待ちわびるソルヴェイグが独唱するもの。「ああ……」の旋律は、ノルウェーの古い羊飼いの歌から採ったものだといわれます。

 『ペール・ギュント』は、官能性の高い『アニトラの踊り』『アラビアの踊り』を除けば、清澄なメロディが基調になっていますが、そのなかでもとりわけこの曲は、北欧の澄んで冷涼な空気を感じさせるようなメロディで、日本でも愛好者の多い曲です。
(二木紘三)




コメント
グリーク作曲のソルヴエイグの歌は、清純な乙女心を表現した素晴らしい歌ですね。
「女心の歌」や「カタログの歌」と真反対です^^。
投稿: 三瓶 | 2007年7月18日 (水) 00時15分

ペールギュントは大好きな曲です。とりわけソルウェーグのうたは、いいですね。高校の音楽の時間に、各人前に出て教師のピアノ伴奏で歌わされましたので、翻訳歌詞もよく覚えています。ちょうど20年前、北欧5カ国(デンマーク、アイスランド、ノルウエー、スウェーデン、フィンランド)を回りました。その時、ベルゲンのグリークの生家を訪ね、グリーク銅像(グリークは病弱で、確か身長は150センチぐらいしかない)の頭を撫でてきました。フィンランドではシベリウスの肉声入りのフィンランディアのLPを手に入れてきました。いいですね。
投稿: 山田計一 | 2007年7月18日 (水) 12時00分


 女の歌とは言えど、暗くて苦しかった、不良少年時代の歌。真夜中に川べりを彷徨していたとき、橋の上に出て夜空に向けて熱唱したことがある。眼下では真冬の月が流れに砕けて、いつまでも同じところに躍っていた。

 その直後である、偶然行き遇った別の不良少年と、ナイフでわたりあったのは。あの少年は、いまどうしているだろうか。シャワーを浴びながら太ももに残る傷跡に自分の手が触れたり、女に傷跡のわけを訊かれたりするとき、わけもなく持て余して濫費した、自分でも得体の知れぬエネルギーのことを想い出す。ソルヴェイグはあんなに意志強く、ひとつの恋に生き続けたのに。

投稿: ロストジェネレーション | 2008年6月18日 (水) 12時13分


大貫妙子さんの歌唱で、「みんなのうた」に登場したことがあります。
その際の歌詞は、

湖の入江にたてば波がつぶやく
“ここにはもう少女のころの君はいない”と
風に舞って水に落ちた白い帽子
ぬれた服をしぼってくれたやさしい夏


会いたいのはあなたよりも
そばかす気にしていた日のわたし

少年は鳥になれず大人になって
わたしは水鏡の中 わたしをさがす
誰にもただ一度だけの夏があるの
それは恋と気づかないで 恋した夏


というものでした。
なんとも物悲しく切ない詩と曲調だったのを記憶しています。
投稿: takama | 2009年9月 5日 (土) 02時21分


Cover Piano&Vocal 【みずうみ】大貫妙子(From Peer Gynt Suite No. 2, Op. 55 "Solveig's Song"Edvard Grieg)ピアノ弾き語り




 『G線上のアリア』『アヴェ・マリア』『タイースの瞑想曲』などにも通じる、深い西洋的哀調と気高さを感じます。

 ペール・ギュントをひたすら待ちわびるソルヴェイグの姿は、ギリシャ神話の英雄オデュッセウスの妻のペネロペイアを彷彿とさせます。古代ギリシャ史上名高い「トロイア戦争」(BC13世紀?)に遠征したイタケーの王オデュッセウスは、10余年にも及びこう着状態が続いていた同戦争を、「トロイの木馬」の知略で一晩にしてギリシャ(アカイア)勢に勝利をもたらしました。

 しかしこれがトロイア(イーリオス)勢に加担した美の女神アフロディーテや海神ポセイドンの恨みを買い、オデュッセウスは運命の風に翻弄され続け、さまざまの神話的な国を放浪することになったのでした。

 その間長い歳月が経過し、終いには美貌の妻ペネロペイアのもとに40人もの求婚者が押し寄せました。しかしギリシャ神話中最も貞淑な妻だったペネロペイアは、それを巧みに断り続け、ひたすら夫オデュッセウスの帰りを待ち、20年後遂に念願の再開を果たしたのです。

 私の独断ですが、詩劇『ペール・ギュント』の作者イプセンは、このエピソードを主な下敷きとして同詩劇を書き上げたのではないでしょうか?ソルヴェイグは、結局夫のもとを去っていくイブセンの代表作『人形の家』のノラとは対極的な女性像です。
投稿: Lemuria | 2009年9月10日 (木) 23時58分


takama様もコメントされていますが、わたしもこの歌がNHK「みんなのうた」で放映されていたことを思い出しました。takama様のコメントには題名がなかったので、YouTubeで検索しましたら、当時のサイトがありました。懐かしくなって、聴き入りました。題名は『みずうみ』(作詞 山川啓介 歌 大貫妙子)です。

 詞はtakama様の書かれているように、少女期を脱した女性が過去の自分を具体的に回想する内容ですが、『ソルヴェイグの歌』の永遠の愛を歌ったものとは異なりながら、曲想にマッチしているように思います。また、大貫さんの歌唱法が、彼女の普段の歌い方とことなり、抑え勝ちに素直に歌っているところがアッピールしたのではないでしょうか。バックの湖の風景も歌に溶け込んでいるように思います。聴いていると、本当にこの歌が『みずうみ』の底から湧き上ってくるように感じられるのは、わたしだけでしょうか。
投稿: ひろし | 2009年9月28日 (月) 15時44分


以前から好きなので、カウンターテナー歌手の「ソルベイグの歌」を時々CDで聴いています。中性的な清純な歌声で原語です。
ソルベイグは、どうしようもない息子をいつまでも信じて待つ「母」のようです。
それに対してペール・ギュントは、ソルベイグと言う恋人がいながら簡単に他の女性に心を移し、すぐに飽きて捨てる。そして放蕩の限りを尽くした果てにソルベイグという「母」のもとに帰り永遠の眠りに付く…。男の人にとって、こんな都合の良い話があるでしょうか…。だから筋はあまり深く考えず、歌そのものを聴いています。

「ああ……」と母音のみで歌われるヴォカリーズの部分も好きです。ご解説によると、古くからある羊飼いの歌から採られたとか…。
ひろしさんが書いていらっしゃる大西妙子さんのも聴いてみましたが、ヴォカリーズの部分の旋律が変えられ、そこに歌詞が付けられているんですね。そのせいかだいぶ印象が変わってしまうのですが、「みずうみ」もなかなか素敵でした。
投稿: 眠り草 | 2010年9月26日 (日) 11時06分


高校1年の時の音楽の授業で、教師が「ローハイド」と「ソルヴェイグの歌」のレコードを流した後、生徒にどちらが好きか挙手させました。
私は迷わず、「ソルヴェイグの歌」に挙手しましたが、他の男子生徒は全員「ローハイド」でした。

その後一人ずつ前に出て、挙手した曲の楽譜を渡され、教師のピアノ伴奏で歌わさせられました。
男子生徒にとって「ローハイド」は地声で行けるのですが、「ソルヴェイグの歌」は無理な話です。

結局、「♪ア〜アアアアアア〜」のところで、悲惨な雄叫び状態になりました、嗚呼嗚呼〜。

それ以来、この歌は人前では決して口ずさみません。
そして、私の名誉の為に付け加えるならば、「ローハイド」を歌った生徒も大多数は英語の歌詞が滅茶苦茶でした。
その他、この教師は生徒に作曲の宿題を出して、歌わせたりしていました。
盗作紛いのメロディや、上手く歌えた生徒にもう一度歌わせたら全く別の曲になってしまったり、字余りの曲になったり・・・と、
今考えると音楽の授業と言うより、レクリェーションのようでした。
半世紀ほど昔のノンビリした時代でした。
投稿: コーデリア | 2010年9月30日 (木) 00時05分


「わが母の教えたまいし歌」とともに、この歌を聴くと涙が出ます。心が洗われる名曲です。
日本の歌曲では「初恋」が同じ心情の歌でしょうか。
投稿: 三瓶 | 2010年10月 1日 (金) 19時20分


時々ですが、一人で声を出して思い切り歌いたいときは、このページを開いて、思いつくまま歌わせて頂きます。でも思うように声が続かず、歌うことはやめてしまい、知らず知らず二木先生の解説を夢中になって読んでいる自分に笑ってしまいます。いつも有難うございます。

ぎっしり知識が詰まっていてすべて記憶できなくても、好きな曲の解説だけは、しっかり頭に入っているようです。

最後の欄に出てきた曲ですが、驚きました。すらすらと歌詞が出てきて、嬉しかったです。おもえば多感な十代の後半に、習ったことは記憶してるのですね。
高校の音楽の先生は、東京の音楽学校を出られたお綺麗な先生でした。授業が終わるとごく自然に「魔王」を流暢に弾いて下さいました。その後は私たちは厚かましく、あれこれリクエストしても、嫌な顔もせず言葉数は少なかった先生ですが、暖かい心で接して下さいました。

今もそれらの曲に出会うとき、自然にあのピアノの周りに集まった短い時間を思い出して、感傷に浸って「ためいき」をつくときは、過ぎた年数は忘れています。
確か高校の音楽の時間、東京の音大を出られた若い綺麗な先生でした。
投稿: mitsuko | 2015年3月13日 (金) 09時25分


およそ半世紀前、高校の音楽の教科書に載っていました。“名曲である”との解説がつけられていました。そのころはわかりませんでしたが、今は“全くその通り!”と思っています。さらには、堀内敬三の名訳は(原詩は解りませんが)この曲と一体化して見事だと思います。(特に二番の歌詞は胸に迫ります)究極のラブソングではないでしょうか。

Youtubeではいろんな歌手がこの曲を歌っているのを見る(聴く)ことができますが、歌手それぞれで全く違う歌に聞こえます。それだけこの歌はむつかしいのでしょうね。そのような中で、イプセンとおなじノルウェイのソプラノ歌手マリタ・ソルバーグがベルリンフィルをバックに野外音楽堂で歌うこの曲は一番好きで、絶唱だと思い毎日聞いています。
投稿: ばってん | 2016年12月25日 (日) 15時04分
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_209f.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/932.html#c2
[近代史3] グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』 中川隆
3. 中川隆[-13621] koaQ7Jey 2020年2月22日 15:25:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-139]

エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg [ˈɛdʋɑɖ ˈhɑːɡərʉp ˈɡrɪɡ]、1843年6月15日 - 1907年9月4日) は、ノルウェーの作曲家である。
現地語での発音は「エドヴァル・グリッグ」に近い。

また語末のgが無声化してしばしば/k/と発音されるドイツ語読みの影響で「グリーク」と表記されることもある。

グリーグはノルウェーの民族音楽から着想を得て、国民楽派の作曲家として注目された[1]。

民族音楽からの深い影響は『ペール・ギュント』第1組曲の第1曲「朝」の冒頭がノルウェーの民族楽器であるハリングフェーレの共鳴弦を端からつま弾いた時の旋律から始まっていることからもうかがうことができる。

生涯

グリーグは、スウェーデン統治下のノルウェーで、ベルゲン市街の家に5人兄弟の第4子(兄1人、姉2人、妹1人)として生まれた。父方の曾祖父アレクサンダーは1779年にノルウェーに帰化したアバディーンシャー出身のスコットランド人で、一族の苗字は本来Greig(グレッグ)であった。

1858年、ヴァイオリニストのオーレ・ブルに才能を見出され、3年半の間ライプツィヒ音楽院で作曲とピアノを学ぶ。

1863年から3年間、デンマークのコペンハーゲンに居住し、作曲家ニルス・ゲーゼに学んだ。ここで、交響曲(作品番号なし)、ピアノ・ソナタ(作品7)、ヴァイオリン・ソナタ第1番(作品8)など初期の作品が作られた。また、従妹でソプラノ歌手のニーナ・ハーゲルップ(Nina Hagerup, 1845年 - 1935年)と出会い、1867年に結婚した。後の歌曲は、ほとんどニーナのために作曲された。

1867年には、クリスチャニア(現オスロ)のフィルハーモニー協会の指揮者に就任し、民謡蒐集家リンネマンや、国民的詩人ビョルンソンと親交を持つ。『十字軍の王シーグル』のための劇音楽が作曲され、グリーグの重要な作品である『抒情小曲集』の第1集を出版した。

1877年から1880年まで、ベルゲン東方のハダンゲル(ハルダンゲル)地方に住んだ。次第に、民族音楽、民族楽器へ傾倒していく。

1884年にベルゲン近郊のトロールハウゲン(妖精の丘)に住家を建築、ベルゲン出身でデンマークにて活躍した劇作家ルズヴィ・ホルベアの生誕200年のためにピアノ組曲『ホルベアの時代から』(翌1885年に弦楽合奏に編曲)を作る。

1901年、次第に健康状態が悪化する。『抒情小曲集』第10集を出版する。1905年のノルウェー独立を見届けたあと、1907年、ベルゲンで没した。

兄ヨーンも、ライプツィヒ音楽院で学び、チェロを演奏したが、職業的音楽家にはならなかった。兄のために作曲したチェロ・ソナタがある。


人物像

グリーグはとても小柄であった。生前は卓越したテクニックのピアニストとしても著名で、自作を携えヨーロッパをたびたび演奏旅行している。晩年のアコースティック録音およびピアノロールが残されており、現在もCDで入手できる。

生地であるノルウェーの旧首都ベルゲンの自然と海をこよなく愛した。死後に火葬され、遺言によりトロールハウゲンの住居の下にある湖を望む岩壁に墓が設けられ、一部の遺灰は湖に撒かれた。

なお、作品番号の付されていない習作である交響曲は、同じノルウェーの作曲家ヨハン・スヴェンセンの交響曲を聴いて封印したというエピソードがある。

グリーグは終世、手のひらに乗るぐらいの小さな蛙の置物や子豚のぬいぐるみを大切にし、寝る時も一緒だったらしい。演奏会の時は、あがらないように、ポケットの中で蛙の置物をそっと握りしめたそうである。なお、この蛙の置物と子豚のぬいぐるみはグリーグの家(現在のエドヴァルド・グリーグ博物館)に展示されている。


作品

「グリーグの楽曲一覧」も参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/グリーグの楽曲一覧

グリーグはピアノのために数多くの小品を作曲しており、「北欧のショパン」と呼ばれることがある。また、ピアノとヴァイオリンのために3曲のソナタを書いた。

数あるグリーグの作品の中で、ヘンリク・イプセンの戯曲『ペール・ギュント』への付随音楽と、ピアノ協奏曲イ短調が日本において最も有名である。ピアノ協奏曲は「悲劇」をイメージさせるBGMとして、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」やバッハの「トッカータとフーガ ニ短調」などと共によく利用され、作曲家や曲名がわからなくても曲を聴けば誰でも聴いたことがあるという代表曲である。

しかしグリーグの本領は、『抒情小曲集』と多数の歌曲に代表される小品に遺憾なく発揮されている。ピアノ曲や歌曲を管弦楽や弦楽合奏に編曲した作品も多い。

オペラ

『オーラヴ・トリグヴァーソン』(作品50、未完) 管弦楽組曲版 作品50aとピアノ曲版 作品50bがある
『アーンリョット・ゲッリネ』(スケッチ)

劇音楽

『十字軍の王シーグル』(作品22、1872年/1903年改訂)
『十字軍の王シーグル』組曲(作品56、1892年)
『ペール・ギュント』(作品23、1875年/1885年、1888年、1891年、1902年改訂)
『ペール・ギュント』第1組曲(作品46、1888年)
『ペール・ギュント』第2組曲(作品55、1892年)


管弦楽曲・協奏曲

ピアノ協奏曲 イ短調(作品16、1868年/1907年まで数次の改訂)
ノルウェー舞曲(作品35、ピアノ連弾版:1881年/ハンス・ジットによるオーケストラ編曲版:1888年頃)
『オーラヴ・トリグヴァーソン』組曲(作品50a、未完のオペラから管弦楽編曲)
抒情組曲(作品54、抒情小曲集第5集から4曲をオーケストラ編曲:1904年)
交響的舞曲(作品64、ピアノ連弾版:1896年/オーケストラ版:1898年)
交響曲 ハ短調(作品番号無し)
序曲『秋に』(作品11)
古いノルウェーのメロディと変奏(作品51)


弦楽合奏曲

2つの悲しき旋律(作品34、2つの歌曲(作品33-3, 33-2)を編曲:1883年)
組曲『ホルベアの時代から』(作品40、ピアノ独奏版:1884年/弦楽合奏版:1885年) ※俗に『ホルベルク組曲』とも呼ばれる。
2つの旋律(作品53、2つの歌曲(作品33-12, 21-1)を編曲:1890年)
2つのノルウェーの旋律(作品63、2つのピアノ曲(作品17-22, 17-18)を編曲:1895年)


吹奏楽曲

リカルド・ノルドローク追悼の葬送行進曲(1866年/1867年、1899年改訂)


ピアノ独奏曲

ピアノ・ソナタ ホ短調(作品7、1865年)

抒情小曲集(ピアノ独奏曲、全10巻/合計66曲)
第1集(作品12、1864年 - 1867年)
第2集(作品38、1883年)
第3集(作品43、1886年)
第4集(作品47、1885年 - 1888年)
第5集(作品54、1891年)
第6集(作品57、1893年)
第7集(作品62、1895年)
第8集(作品65、1896年)
第9集(作品68、1898年 - 1899年)
第10集(作品71、1901年)

ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード(作品24、1876年)
オペラ「オーラヴ・トリグヴァーソン」による2つの小品(作品50b、未完のオペラから編曲)

ピアノのための7つのフーガ
スロッテル 作品72 (1902-03年)


室内楽曲

ヴァイオリン・ソナタ第1番 ヘ長調(作品8、1865年)
ヴァイオリン・ソナタ第2番 ト長調(作品13、1867年)
ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ短調(作品45、1887年)
チェロ・ソナタ イ短調(作品36、1883年)
弦楽四重奏曲(第1番)ト短調(作品27、1878年)


歌曲

『君を愛す』(作品5-3、1864年 - 1865年)
『白鳥』(作品25-2、1876年)
『王女』(作品番号なし、1871年)
『モンテ・ピンチョより』(作品39-1、1870年)
『ソルヴェイグの歌』(作品22、1876年)『ペール・ギュント』の中の1曲。
『春』(作品33-2、1880年)
『傷ついた心』(作品33-3、1873年 - 1880年)
『世の中はそうしたもの』(作品48-3、1889年)
連作歌曲集『山の娘』(作品67、1896年 - 1898年)


合唱曲
男声合唱のためのアルバム(作品30、1877-78年)
4つの詩編(作品74、1906年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/エドヴァルド・グリーグ

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/932.html#c3

[近代史3] グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』 中川隆
4. 中川隆[-13620] koaQ7Jey 2020年2月22日 15:26:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-138]

クラシック音楽 一口感想メモ
エドヴァルド・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg、1843 - 1907)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/グリーグ


北欧らしい雰囲気を随所に感じさせるとともに、親近感を感じる温かみと歌心のある音楽であり、ファンが多い。だが、個人的には素朴すぎるところ気になってしまい、有名作曲家の中では苦手な方である。


劇音楽
『ペール・ギュント』(作品23、1875年/1885年、1888年、1891年、1902年改訂)

『ペール・ギュント』第1組曲(作品46、1888年)
5.0点
超有名な「朝」をはじめ、4曲とも有名曲である。一度聴けば忘れないような印象的で大変親しみやすいメロディーの素晴らしさは、見事というほかない。とにかく楽しくていい曲ということに尽きる。素朴なオーケストレーションは聴きやすい。有名曲が多いわけではないグリーグだが、この組曲に最大級の傑作を集められたこと自体が、彼のネームバリュー向上に貢献したとも言えるだろう。

『ペール・ギュント』第2組曲(作品55、1892年)
3.8点
3曲目までは、いかにも第1組曲の選に漏れた2軍の曲集という冴えない感じである。親しみやすいアレンジだが面白くない。しかし、3曲目で作った雰囲気から入る4曲目のソルヴェイグの歌の透明な悲哀の純粋な美しさに感動させられて胸がいっぱいになり、最初の方の不満は吹き飛んでいく。

管弦楽曲・協奏曲

ピアノ協奏曲 イ短調(作品16、1868年/1907年まで数次の改訂)
5.0点
美しくて華やかでインスピレーションにあふれたグリーグの代表作。メロディーやピアノの使い方、管弦楽に感じるの瑞々しさは非常に魅力的。特に1楽章と2楽章は秀逸。しかし個人的には若書き感がどうしても気になってしまい、曲に浸りきれないのが残念である。

交響曲 ハ短調(作品番号無し)
2.5点
ベートーヴェン以来の伝統を受け継ぐドイツロマン派の色が濃い交響曲。あまりにカタいため、グリーグの良さがすっかりスポイルされている。北欧風を匂わす、そこそこ美しい箇所はふんだんにあるものの、浸れないまま次の場面に移って、ありきたりなゴツいドイツ風になってガッカリというのを繰り返す。グリーグに交響曲が向いていなかったのは明らかだ。大作曲家の書いた交響曲としては失敗作かもしれないが、とはいえ北欧マイナー交響曲の一つ思って聴く分には、特に前半は十分に聴く価値はあると思う。3楽章や4楽章はドイツ臭すぎてオリジナリティが無く、正直萎える。


弦楽合奏曲

組曲『ホルベアの時代から』(作品40、ピアノ独奏版:1884年/弦楽合奏版:1885年) ※俗に『ホルベルク組曲』とも呼ばれる。
3.5点
バロック音楽の様式を借りている。古臭い様式とグリーグの個性が上手くブレンドされて高い効果を挙げており、単なる擬古典的な内容ではなく、明るい詩情があり、独特の新鮮で清新な魅力を放つ作品となっている。ピアノ版より弦楽合奏版の方が良い。ピアノ版は古いクラブサン音楽に似ていることが分かる点では面白い。


ピアノ独奏曲

ピアノ・ソナタ ホ短調(作品7、1865年)
3.0点
グリーグらしい音の動きによる叙情性や温かみは多くの場面で発揮されており、それなりに魅力がある音楽である。しかし、4楽章制のピアノソナタらしい大規模さの効果が乏しい。この素材を小曲集としてまとめた方がよかったのでは、という気がする。初期作品であり、書法もこなれていない。

抒情小曲集
ピアノ独奏曲の小品集。独立した曲として名曲と呼べるのは少ないが、曲集として聴くとなかなか多彩で楽しめる作品が多い。

第1集(作品12、1864年 - 1867年)
3.3点
1分から2分の小品が並んでいる。新鮮で若々しい感情、爽やかでありながらも、叙情的というに相応しい感情を込めた音楽はなかなか良い。初期の名作群に通じる叙情性の優れた発露と北欧の民族的な音感がここにも見られる。

第2集(作品38、1883年)
3.5点
1集から16年を経て音楽的にはるかに深みが出ており、なかなかに楽しめる曲集になっている。特に1曲目が美しい。

第3集(作品43、1886年)
3.5点
1曲目と6曲目は叙情小曲集の中でも有名。特に6曲目の「春に寄す」は音響効果が絶大な伴奏と素朴な美しいメロディーにより、美しい抒情性の極みのようなレベルに到達した曲であり、素晴らしい。この曲集も透明感のある叙情が素朴かつ詩的に表現されており、グリーグの良さがよく現れている。

第4集(作品47、1885年 - 1888年)
3.5点
音楽的な成熟を深めており、ピアノの書法も洗練と充実がより進んでいる。凄い名曲は無いのだが、個性的で一つの世界を形作っている曲が並んでおり、通して聴く場合の楽しさはなかなかのレベルである。

第5集(作品54、1891年)
3.5点
一歩踏み込んだ精神的深みや、曲の構想の大きさが印象的。それがどの曲にも感じられるため、全体の統一感があるとともに、曲集を通して聴いた場合のずっしりとした満足感につながっている。若い瑞々しさが減ってきているが、独特の叙情的な感じは十分に感じられるし、民族的な面白い音使いがみられて楽しい。ただ、全体にやや暗い雰囲気が多い印象もあり、爽やかさが足りない。

第6集(作品57、1893年)
3.5点
全体的な感触としては5集に近い。ただし、5集ほど統一した深さとずっしりとした重さはなく、その代わりに曲の個性の印象は少し強い気がするのと、陰鬱さがやや減ったところがよい。最後のモノローグのような曲が強い印象に残った。

第7集(作品62、1895年)
3.8点
全ての曲が詩情豊かでメロディーに魅力がある名作。曲の対比も効果的で、次の曲がよく聞こえる配置になっている。成熟しており、後期ロマン派が獲得した多様な明確で耽美的な表現力が活かされている。

第8集(作品65、1896年)
3.3点 ただし「トロルドハウゲンの婚礼の日」は4.5点
5曲目までは、モノローグ的な物語を沈鬱に語るような雰囲気の曲が多い。気が滅入りそうになる。それにしても最後の「トロルドハウゲンの婚礼の日」は最も人気があるのも当然の曲。婚礼というめでたい日の描写が大変優れている。人々のせっせと働いて準備をして、婚礼を進める情景が目に浮かぶようだ。ワクワクするような活気がある。忘れられずに頭の中で何度もメロディーがリフレインする。場面展開も非常に優れていて、大成功している。

第9集(作品68、1898年 - 1899年)
2.8点
小さな曲ばかり。それにも関わらず第8集と似たモノローグ的で陰鬱な活気のない曲、ロマン派的な潤いがない曲が多いため、あまり楽しく聞けない。

第10集(作品71、1901年)
3.3点
そこそこの曲と9集のようなイマイチな曲が混ざっているが、概ね悪くない曲が多い。それなりの発想の良さを感じる。最後の清澄なワルツでこれまでの紆余曲折を清算し全てが救われる感じがして感動的である。

室内楽曲

ヴァイオリン・ソナタ第1番 ヘ長調(作品8、1865年)
3.0点
オーソドックスな中に心温まるような親愛なる感情や個性的な音感を見せたり歌心をさりげなく発揮する個性が、若書きだがよく出ている。楽しめる曲なのだが冗長な感がある。

ヴァイオリン・ソナタ第2番 ト長調(作品13、1867年)
2.5点
2楽章や郷愁をさそうメロディーが良い。3楽章も所々良い箇所がある。1番よりバランスが良くて自分の型が出来あがっているのが分かるのだが、曲の魅力はむしろ少し落ちると感じる。

ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ短調(作品45、1887年)
3.5点
非常に情感豊かな曲で初期に書かれた2曲とは全く雰囲気も音楽の作りも違う。暗い情熱を微かに湛えて瞑想的な1楽章。感傷的な夢見るような雰囲気から情熱に向かう2楽章。3楽章は情熱を全面に出して、ロシア的な粘っこい暗さや冬の厳しさを感じさせる。

チェロ・ソナタ イ短調(作品36、1883年)
3.5点
大胆さが印象的。高音域から低音域まで幅広く使い、時にはテクニカルに時には存分に歌わせながら、力強い音楽を作っている。兄のために書いた曲だそうだが、小綺麗にまとめるよりも、チェロのポテンシャルを引き出して、弾き甲斐のある曲を書こうとしたことが伺える。グリーグらしい叙情や歌心も発揮されており、なかなかの魅力作。

弦楽四重奏曲(第1番)ト短調(作品27、1878年)
3.5点
全ての楽章が切れ目なく演奏される。冒頭がいきなり強烈な厳しい響きでとても驚いた。それ以降もときどき耳を突き刺すような響きが現れる。それと対比するような柔らかくて温かみのあるグリーグ節の主題も随所に見られて、場面によっては素敵だなと感じる。ダイナミックな場面でもグリーグらしい魅力を随所に感じる。中身がぎっしり詰まったなかなかの力作で、30分を超える全編にわたり楽しんで聴ける。ただ、室内楽的に聞こえない。管弦楽団の縮小版として書かれている印象だ。それと場面の切り替えによる変化がきつ過ぎて、ついていくのが大変。ただ、切り替わった先の音楽が良いので、すぐに落ち着くことができる。なお弦楽四重奏曲の2番は2楽章までしか書かれていない。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/グリーグ


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/932.html#c4

[近代史3] グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』 中川隆
5. 中川隆[-13619] koaQ7Jey 2020年2月22日 15:58:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-137]
ボニー


Barbara Bonney; "Solveig's cradle song"; No. 26; Peer Gynt; Edvard Grieg



Barbara Bonney--soprano-
Neeme Järvi--conductor
Gothenburg Symphony Orchestra
1987

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/932.html#c5
[近代史3] グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』 中川隆
6. 中川隆[-13618] koaQ7Jey 2020年2月22日 16:06:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-136]

ボニー

Barbara Bonney; "Solveig's Song"; Peer Gynt; Edvard Grieg



Barbara Bonney--Soprano
Neeme Järvi--Conductor
Gothenburg Symphony Orchestra
1987

_________


Barbara Bonney "Solveig's Sang" Antonio Pappano Edvard Grieg



Antonio Pappano Conductor
Music Director, Royal Opera House, Covent Garden
Music Director, Accademia Nazionale di Santa Cecilia

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/932.html#c6
[近代史3] グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』 中川隆
7. 中川隆[-13617] koaQ7Jey 2020年2月22日 16:08:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-135]

ボニー

Barbara Bonney; "Solveig's Songs"; No.19; 23; 26; Peer Gynt; Edvard Grieg




Barbara Bonney--soprano-
Neeme Järvi--conductor
Gothenburg Symphony Orchestra
1987

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/932.html#c7
[近代史3] グリーグ 『ペール・ギュント』
エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ 『ペール・ギュント』


ビーチャムのグリーグ 『ペール・ギュント』


Grieg: Peer Gynt(excerpts), Beecham & RPO (1955)




エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ
ペール・ギュント (抜粋)


(00:05) 1. 花嫁の行列の通過
(03:49) 2. イングリッドの嘆き
(08:16) 3. 山の魔王の宮殿にて
(10:33) 4. 朝
(14:43) 5. オーセの死
(20:43) 6. アラビアの踊り
(25:28) 7. ソルヴェイグの歌
(30:48) 8. アニトラの踊り
(34:51) 9. ペール・ギュントの帰郷
(37:56) 10. ソルヴェイグの子守唄


ソプラノ:イルゼ・ホルヴェーク
指揮:サー・トマス・ビーチャム
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ビーチャム合唱協会 (合唱指揮:デニス・エドワード・ヴォーン)


録音:1956年6月5、18、21、29日、1957年4月1日 アビーロード・スタジオ (ロンドン)


▲△▽▼


劇音楽
『ペール・ギュント』(作品23、1875年/1885年、1888年、1891年、1902年改訂)


『ペール・ギュント』第1組曲(作品46、1888年)
5.0点
超有名な「朝」をはじめ、4曲とも有名曲である。
一度聴けば忘れないような印象的で大変親しみやすいメロディーの素晴らしさは、見事というほかない。とにかく楽しくていい曲ということに尽きる。
素朴なオーケストレーションは聴きやすい。
有名曲が多いわけではないグリーグだが、この組曲に最大級の傑作を集められたこと自体が、彼のネームバリュー向上に貢献したとも言えるだろう。


『ペール・ギュント』第2組曲(作品55、1892年)
3.8点
3曲目までは、いかにも第1組曲の選に漏れた2軍の曲集という冴えない感じである。親しみやすいアレンジだが面白くない。
しかし、3曲目で作った雰囲気から入る4曲目のソルヴェイグの歌の透明な悲哀の純粋な美しさに感動させられて胸がいっぱいになり、最初の方の不満は吹き飛んでいく。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/グリーグ


『ペール・ギュント』(Peer Gynt )作品23 は、エドヴァルド・グリーグの代表作の一つで、ヘンリック・イプセンの戯曲『ペール・ギュント』のために作曲した劇付随音楽。
管弦楽のための組曲が2つ編まれており(作品46と作品55)、それらが有名である。
また他にもグリーグ自身の編曲で何曲かがピアノ独奏曲やピアノ伴奏の歌曲に編曲されている。
高名な劇付随音楽の中では珍しく、劇そのものの初演のための作曲である。


作曲の経緯


『ペール・ギュント』はイプセンが1867年に書いた作品である。
元は上演を目的としないレーゼドラマとして書かれたが、その後イプセンはこれを舞台で上演することになった。本来は舞台向きでないこの作品の上演に当たって、イプセンは音楽によって弱点を補うことを考えた。そこで1874年に、当時作曲家として名を上げつつあった同国人のグリーグに、劇音楽の作曲を依頼した。


グリーグは自分の作風が小品向きであり、劇的でスケールの大きな舞台作品には向かないと考えていて、一旦は依頼を断わろうともしたが、報酬と、民族的な題材への作曲に興味を引かれたこともあり、作曲を引き受けた。作曲は同年に開始したが難航し、翌1875年に完成した。


『ペール・ギュント』の舞台上演は1876年2月24日、クリスチャニア(現オスロ)の王立劇場で初演が行われた。音楽の指揮はヨハン・ヘンヌムによる。上演は、イプセンの狙い通りに音楽のおかげもあって成功を収めたが、一方で近代性を備えた風刺的なイプセンの戯曲に対してグリーグの音楽がロマンティックに過ぎることへの批判もあった。


グリーグはその後、再演のたびに改訂を行っており、1885年、1887年から1888年、1890年から1891年、1901年から1902年に改訂されている。


1876年にパート譜のみ出版された後、1908年にドイツのペータース社から出版されたが、完全な形で全曲版がペータース社から出版されたのは1987年である。

編成
ピッコロ、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル、タムタム、トライアングル、タンブリン、シロフォン、鐘、ハープ、オルガン、ピアノ、ハリングフェーレ(またはヴィオラ独奏)、弦五部、独唱、合唱


組曲版でもおおよそ同じ編成であるが、声楽やオルガン、ピアノなどは省かれている。


構成(作品23)


グリーグが作曲した音楽は全27曲(番号付きの26曲と番号なしの1曲)である。
他にヨハン・ハルヴォルセンがグリーグのピアノ曲を編曲した追加曲もある。


第1幕


1.婚礼の場で(I Bryllupsgården)
第1幕への前奏曲。
(追加曲)花嫁の行列の通過(Brudefølget drager forbi)
ピアノ曲集『人々の暮らしの情景』作品19の第2曲をハルヴォルセンが管弦楽編曲して1886年に追加したもの。
2.ハリング舞曲(Halling)
3.跳躍舞曲(Springar)


第2幕


4.花嫁の略奪とイングリ(イングリッド)の嘆き(Bruderovet - Ingrids Klage)
第2幕への前奏曲。
5.ペール・ギュントと山羊追いの女たち(Peer Gynt og Sæterjentene)
女声による三重唱。
6.ペール・ギュントと緑衣の女(Peer Gynt og den Grønnkledte)
7.ペール・ギュント「育ちのよさは馬具見りゃわかる」(Peer Gynt: 《Pa Ridestellet skal Storfolk kjendes!》)
8.ドヴレ山の魔王の広間にて(I Dovregubbens Hall)
男声合唱が加わる。
9.ドヴレ山の魔王の娘の踊り(Dans av Dovregbbens Datter)
10.ペール・ギュントはトロルに追い回される(Peer Gynt jages av Troll)
11.ペール・ギュントとベイグ(Peer Gynt og Bøygen)


第3幕


12.オーセの死(ノルウェー語版)(Åses døt)
(番号なしの1曲)


第4幕


13.朝のすがすがしさ(ノルウェー語版、英語版)(Morgenstemning)
第4幕への前奏曲。
14.盗賊と密売者(Tyven og Heleren)
盗賊と密売者が交互に歌う。
15.アラビアの踊り(Arabisk Dans)
女声二部合唱と独唱(アニトラ)が加わる。
16.アニトラの踊り(ノルウェー語版)(Anitras Dans)
17.ペール・ギュントのセレナーデ(Peer Gynts Serenade)
ペール・ギュントの歌。バリトン独唱。
18.ペール・ギュントとアニトラ(Peer Gynt og Anitra)
19.ソルヴェイの歌(ノルウェー語版)(ソルヴェイグの歌、Solveigs Sang)
舞台裏の歌手が歌う。
20.メムノン像の前のペール・ギュント(Peer Gynt ved Memnonstøtten)


第5幕


21.ペール・ギュントの帰郷、海の嵐の夕方(Peer Gynts Hjemfart. Stormfull Aften på Havet)
22.難破(Skipsforliset)
23.小屋でソルヴェイ(ソルヴェイグ)が歌っている(Solveig synger i Hytten)
24.夜の情景(Nattscene)
25.ペンテコステの賛美歌「祝福の朝なり」(Pinsesalme: 《Velsignede Margen》)
無伴奏のユニゾンによるペンテコステ(聖霊降誕祭)の賛美歌のコラール。
26.ソルヴェイ(ソルヴェイグ)の子守唄(Solveigs Vuggevise)
女声独唱。


第1組曲 作品46


1891年に編曲された。
原曲の第13、12、16、8曲の4曲を選び、声楽のパートや台詞を省き、楽曲の一部を削除している。

第1曲「朝(ノルウェー語版、英語版)」(ホ長調)
第2曲「オーセの死」(ロ短調)
第3曲「アニトラの踊り」(イ短調)
第4曲「山の魔王の宮殿にて」(ロ短調)


第2組曲 作品55


1892年に編曲、翌1893年に改訂された。
原曲の第4、15、21、19曲の4曲を選び、第1組曲と同様に編曲した。
「ソルヴェイグの歌」では歌唱のパートを器楽に置き換えている。
なお、当初は「アラビアの踊り」の代わりに「山の魔王の娘の踊り」(原曲の第9曲)が入っていたが、改訂時に現行の形に改められた。


第1曲「イングリッドの嘆き」(ト短調)
第2曲「アラビアの踊り」(ハ長調)
第3曲「ペール・ギュントの帰郷」(嬰ヘ短調)
第4曲「ソルヴェイグの歌」(イ短調)


https://ja.wikipedia.org/wiki/ペール・ギュント_(グリーグ)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/933.html

[近代史3] グリーグ 『ペール・ギュント』 中川隆
1. 中川隆[-13616] koaQ7Jey 2020年2月22日 16:31:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-134]

グリーグ 劇付随音楽「ペールギュント」第1、2組曲 〜ぶらり北欧の旅〜 : ハルくんの音楽日記 2009年4月28日
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-f58b.html


Peer Gynt Suite No. 1, Op. 46: I. Morning Mood


Peer Gynt Suite, No. 1, Op. 46: IV. In The Hall of The Mountain King


Conductor: Ari Rasilainen
Orchestra: Norwegian Radio Orchestra
Released on: 2018-11-30




「ペールギュント」は誰でも知っているほど有名ですね。
僕が中学校の頃には音楽授業の鑑賞曲でしたし、「朝」という曲はいたるところでBGMに使用されています。でもこの話の内容は結構支離滅裂なのですよ。
というよりも主人公のペール・ギュントはとんでもない男なのです。話の内容を引用してみますと・・・・

落ちぶれた豪農の息子ペール・ギュントは母親と暮らす夢ばかり見ている男。かつての恋人イングリッドを結婚式から奪取して逃亡する(まるで「卒業」だね。)ところがじきにイングリッドに飽きて捨ててしまう。それからまた他の娘と婚礼寸前までゆくが逃げ出してしまう。さらに純情娘ソルヴェイグと恋に落ちるが彼女をおいてまた放浪の旅に出てしまう。山師になって金をもうけては無一文になったり、精神病院に入って皇帝になった気になってみたりするが、結局は年老いて帰郷する。ペールが死を意識して歩いていると、あるボタン職人に出会う。このボタン職人というのは実は、死んで天国に行くような善人でもなく、地獄に行くような悪人でもない「中庸」の人をボタンに溶かしこむのが仕事の職人だった。それを知ったペールはボタンには成りたがらず、自分は善悪を問わず中庸では無かったことを証明してもらおうと駈けずりまわる。ところが誰もそれを証明してはくれない。けれども最後の証人として会ったソルヴェイグは彼に子守唄を歌い、それを聞きながらペールは永眠する。

と、ざっとこんな話です。もしも最後にフーテンの寅さんがペールに会ったら何と言うでしょうね。「そうかい、そうかい。おっちゃんは随分苦労してきたんだねえ。でも安心しな。おてんとうさんはみんな分かっていなさるよ。」こんな優しい言葉をかけてあげるのではないでしょうか。

さて、この音楽を聴くのに素晴らしい演奏が有るのでご紹介します。

アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管(1996年録音/ワーナーミュージック盤) 

有名曲だけに昔から多くの指揮者が大オーケストラと録音していますが、それらはまずほとんどが大げさで派手な演奏です。その点、この自国ノルウェーのオーケストラは響きが一味違います。「朝」のなんという爽やかさでしょう。空気感が全然違うのです。

カラヤン/ベルリン・フィルだと「朝だぞ〜!日の出を拝みにさっさと出て来い〜!」という感じなのですが、同じ北欧のフィンランド出身のライシネンが指揮するこの演奏では、静かに優しく声をかけられて気持ちよく目が覚めてゆく感じなのですよ。

「オーゼの死」もたいていはぶ厚い弦楽群がこれでもかと大げさに歌い上げますよね。ラシライネンはそうではなく、静かに、しかし心を込めて歌います。なので悲しみの深さが余計感じられるのです。

「アニトラの踊り」はうって変わってセンス抜群ですし、「山の魔王の宮殿で」は決してこけおどしでない迫力が最高です。終曲の「ソルヴェイグの歌」では淡々とペールの帰りを待ちわびる心を歌い上げます。

どうぞ「こんな中学校の鑑賞曲など今更聴かないさ」とおっしゃられる人にこそこの演奏を聴いて頂きたいと思います。たまたま一度お会いしたことも有る音楽評論家の許光俊さんが「クラシック名盤バトル」の中でこのCDを取り上げているのを見たときにはわが意を得たりでした。あの先生は結構キワモノ(?)を推薦することが多いですが、これぞという推薦盤もあるので注目はしています。


コメント

そういうお話だったんですかw(゚o゚)w
「朝」だけを聴いているととてもそんな風には・・・いやぁ驚きました。
しょーもない男だね〜〜┐(´д`)┌ヤレヤレ
でも西洋ものって放蕩三昧というか放浪の最後にかつて愛して捨てたはずの女性に魂を救われるってパターンが多くないですか・・・
聖母愛とかマドンナ崇拝ってものの延長線上にあるような気がするのですが。
神の恩寵によって救われるのでは宗教色が強くなるというか教訓めいてくるというか・・・それでは劇にならないので、神の代理としての聖母崇拝。そしてマドンナ。
まぁこれは私の勝手な憶測ですが。
これは聴いてみたくなりました。。。
私はこーゆーしょ〜もない男の話がワリと好きなんですよ。
投稿: ペール・ギュントって | 2009年4月28日 (火) 21時26分



いやー、女性はやっぱり男性にとってはいつでも母の存在ですよ。普段はリードしているつもりでも、ちょっと落ち込んだ時なんかは甘えたくなりますもの。ただし本当に甘えさせてくれるかどうかは別ですけど。(苦笑)
ほうら、はるりんさんもこーゆーしょ〜もない男性が案外好きでしょう?やっぱりマドンナなのですよー。
投稿: ハルくん | 2009年4月28日 (火) 21時39分


(笑)・・・
まあペール・ギュントだけでなく、レミンカイネンも、スサノオノミコトも、冷静に考えれば手が早くてしょうもない野郎と言えるでしょうね。こういう男が出てくるのはヨーロッパの話だけでないのかもしれません。確かに説話では、身を滅ぼして母親に拾われるという結末が少なくないですね。聖書に出てくる放蕩息子は父親の元に帰りますが、これは「神の元に帰れ」という例え話だから仕方がないでしょう。
ところでカール・シュルヴィッツという人の「夜明け」という絵本があります。ノルウェーの暗い冬が明ける頃のこと、闇の中をお父さんに連れられて峠まで行くと、日の出が見えた!という話です。ぜひペール・ギュントの「朝」を聴きながらご覧ください。
投稿: かげっち | 2009年4月28日 (火) 21時51分



はるりんさん、僕はもともと「本場もの」が好きなのですよ。料理と同じなのです。微妙な味付けってやっぱり本場の職人と食材でないとなかなか出ないでしょう?
北欧料理は北欧で食べたいし、イタリア料理はイタリアで、フランス料理はフランスで、スペイン料理はスペインで、讃岐うどんは香川県で食べたいと思うのです。いたって単純なことなのです。
ですので音楽も北欧ものに限らず大抵は本場、自国演奏家のものが好きなのですよ。味わいの違いって絶対に有ると思います。
投稿: ハルくん | 2009年4月28日 (火) 22時13分


「ペールギュント」は学校の音楽の時間の鑑賞曲のため、たいへん損をしている作品と思います。組曲形式での演奏のイメージが強いのでしょう。イブセンの戯曲への付随音楽であるという事を忘れがちだと思います。原曲で聴くと全く印象が違って聴くことができます。
第1曲の第1幕への前奏曲もペールとソルヴェーグのその後を暗示しているような音楽ですし、「山の魔王の宮殿で」はコーラス入りで聴くと組曲と比べて全く印象が違います。また「ソルヴェイグの歌」はやはりソプラノの独唱でソルヴェイグの思いを切々と歌い上げた歌入りで聴きたいものですし、最後の音楽(第26曲)の「ソルヴェイグの子守歌」は本当にしんみりします。
私は持っているCDは残念ながら本場物ではなく心苦しいのですが、ブロムシュテット指揮サンフランシスコ交響楽団の20曲が収録されている全曲からの抜粋盤です。(デッカ)
解説もしっかりとしており重宝しています。
アリ・ラシライネン指揮ノルウェー放送管の録音は組曲形式でしょうか?
全く知りませんでした。北欧のサウンドで「ペール・ギュント」を聴いてみたいものです。
投稿: オペラファン | 2009年4月28日 (火) 23時42分



ラシライネン/ノルウェー放送は残念ながら組曲盤なのですよ。でもそれを補うだけの本場ものの良さが有ると思います。
ブロムシュテット/サンフランシスコはシベリウスでとても素晴らしい演奏をしていましたからグリーグも良さそうですね。
出来ることなら話の筋を順に追って声楽入りで聴きたいものです。
投稿: ハルくん | 2009年4月29日 (水) 00時02分


ブロムシュテット、サンフランシスコ響は私も持ってます。
実は「ペールギュント」は「朝」と「ソルヴェイグの歌」しか知らなかった。
それがカラヤン、ベルリン・フィルで第2組曲形式であることを初めて知ったのです。ちなみにカラヤンはウィーン・フィルで組曲を抜粋して取り上げてます。
ブロムシュテットは北欧音楽のスペシャリストとも言われています。「ペールギュント」の劇版はこれしか持っていませんが、手を抜かないサウンドで臨場感があります。
投稿: eyes_1975 | 2009年4月29日 (水) 23時22分



劇版の全曲盤CDは他にヤルヴィ/エーテボリも有りますね。
それに自国ノルウェーのベルゲンフィルの録音も有るようなので私としては大いに気になります。
やはりこの曲は北欧の演奏家で聴きたいところです。
投稿: ハルくん | 2009年4月30日 (木) 06時04分


『春の祭典』『親愛の声』に引き続き、またしても図書館で良いCDを聴くことができました。
ここで紹介されているラシライネン盤です。
もっとも、演奏そのものは同じですが、CDは違います。morokomanが聴いたCDのカップリングはノルウェーの後発の作曲家セーヴェルーの『ペール・ギュント組曲』です。
つまり、新旧のノルウェーの作曲家による『ペール・ギュント組曲』が、1枚のCDに収録されているという面白い企画のCDです。
ですが、ここはラシライネンの演奏について書きたいので、グリーグの作品のみ取り上げます。

>有名曲だけに昔から多くの指揮者が大オーケストラと録音していますが、それらはまずほとんどが大げさで派手な演奏です。その点、この自国ノルウェーの演奏家はアプローチが一味違います。「朝」のなんという爽やかさでしょう。空気感が全然違うのです。カラヤン/ベルリンフィルだと「朝だぞ〜!日の出を拝みにさっさと出て来い〜!」という感じなのですが、ラシライネンだと静かに優しく声をかけられて気持ちよく目が覚めてゆく感じなのですよ。「オーゼの死」もたいていはぶ厚い弦楽群がこれでもかと大げさに歌い上げますよね。ラシライネンはそうではなく、静かにしかし心を込めて歌います。なので悲しみの深さが余計感じられるのです。「アニトラの踊り」はうって変わってセンス抜群ですし、「山の魔王の宮殿で」は決してこけおどしでない迫力が最高です。終曲の「ソルヴェイグの歌」は淡々と慈しみに満ちていて、死に行くペールの心を慰めます。(ハルくん様)

ラシライネン盤については、全くハルくん様と同意見ですね。余計な装飾もハッタリもない、必要不可欠な力しか入れないが故に「本物」が滲み出る名演です! 

ハルくん様がお持ちのCDには、ラシライネンの顔写真は掲載されていますでしょうか? morokomanが聴いたCDでは写真がありました。見てビックリ! いかつい感じの、ボクサーとかレスラーとか言った方が納得できる雰囲気を持った人ですね。(^^;) 人は見かけに寄らないと申しますが、その言葉が証明できる写真ですよ。

また、文章を読む限り、ハルくん様はラシライネンをノルウェーの人であると思ってらっしゃるようですが、「○○ネン」となっていることから、morokomanは「ノルウェー人ではないのでは? ノルウェーだったら○○センになるはず!」「○○ネンはフィンランドの名前だから、ラシライネンはフィン人だ」と思っておりました。
確認するとその通りで、フィンランドの出身ですね。もしかすると指揮法をパヌラから学んだのかもしれません。その可能性は充分ありますね。どちらにせよ、本当にフィンランドの人材の豊富さには、目をみはらされるものがあると思いますね。(^^) 
投稿: morokoman | 2012年10月23日 (火) 21時44分



おっしゃるとおり、てっきりアリ・ラシライネンはノルウェー人だとばかり思い込んでいました。確かに、この人はフィンランドの出身ですね。いかつい(鼻の潰れたような?)ボクサー顔は典型的なフィン族の顔ですね。
パヌラ教授に指揮を習ったのも間違いはなさそうです。またしても教授のお弟子さんの名指揮者が増えましたね。
投稿: ハルくん | 2012年10月23日 (火) 22時06分


>この自国ノルウェーのオーケストラは響きが一味違います。

全くその通りですね。
でも、だからこそ少し悔しい思いがします。組曲ではなく、ぜひ全曲抜粋盤を出して欲しかったです。
と言うのは、これほどの演奏が出来るのでしたら、是非「序曲(第1幕への前奏曲)」と「ソルベイグの子守歌」を聴きたかったですね。
序曲(第一幕への前奏曲)では、その途中で、ノルウェーの民俗楽器であるハルダンゲル・フィドルの奏法を思わせる、素晴らしい独奏がヴィオラで演奏されます。
morokomanはこれをバルビローリ/ハルレ管弦楽団の演奏で聴き、大変感激しました。
ぜひこの部分はノルウェーのトップの演奏家で聴いてみたいのです。バルビローリ盤以上の感激が味わえるのではないでしょうか?
それと、最後の「ソルヴェイグの子守歌」。「ソルヴェイグの歌」とは違う曲です。これもバルビローリ盤で聴き、あまりの素晴らしさに涙が出ました。なぜグリーグがこれを組曲で外してしまったのか、不思議です。
morokomanがグリーグだったら、「アラビアの踊り」は外してそこに「ソルヴェイグの歌」を入れ、「ペール・ギュントの帰郷」の後に「ソルヴェイグの子守歌」を入れますね。
それはともかく、これもノルウェーの演奏家達の演奏で聴きたいです。
この2曲が入っていないのが、返す返すも残念です。
投稿: morokoman | 2012年10月23日 (火) 23時06分



そうですね。全曲盤は本当に録音が少ないですね。
しかもノルウェーの演奏家でとなると、ほとんど有るような無いような。
この曲は、やはりオスロフィルかベルゲンフィルで聴きたいところです。
僕は「アラビアの踊り」は結構好きなんですけど(汗)、「ソルヴェイグの子守歌」は入れて欲しかったですね。劇の結末として重要ですからね。
投稿: ハルくん | 2012年10月23日 (火) 23時48分


ハルくん様
日を改めまして、続きです。(^^)
ペール・ギュントに関しては、これからもあまり話題になることは無いと思いますので、どうかお付き合いください。

>僕は「アラビアの踊り」は結構好きなんですけど(汗)

ありゃりゃ……(^^;)。
でも、シベリウスの『ペルシャザールの饗宴』もそうなんですが、やっぱり「北欧版の中近東音楽」なんですね。少し嘘っぽさを感じてしまうので、この「アラビアの踊り」は外したら……などと思ってしまったのです。
ですが、ハルくん様に敬意を表し、以下に書き改めます。

「morokomanがグリーグだったら、第1組曲の最初に「序曲」を加え、第2組曲の終わりに「子守歌」を加え、両組曲とも5曲にします。」 
これだったら大丈夫ですね。(^^)

それから、ハルくん様の記事に移ります。
>もしも最後に寅さんが彼に会ったら何と言うでしょうね。(略)こんな優しい言葉をかけてあげるのではないでしょうか。(ハルくん様)
ハルくん様は優しいなぁ……。
実は若き日のグリーグがこの劇音楽を依頼されたとき、
「こんな奴(ペール)は嫌いだ!」
と言ったそうな。内心この仕事は意に沿わなかったのではないでしょうか。それでもこれだけの曲を作ってしまうのはさすがですけど。かなり苦しんだという記録が残っていますね。

>ペールが死を意識して歩いていると、あるボタン職人に出会う。
このボタン職人のことは知りませんでした。「ペール・ギュント」を扱ったCDの、どの解説書にも紹介されていないからです。
実に不気味な存在ですね。絶対人間ではありませんね。「中庸」の人をボタンに溶かしこむなんて……。ファンタジー小説の元祖とも言える、ロード・ダンセイニ(アイルランドの作家。『指輪物語』のトールキン、『ゲド戦記』のル・グィン、『クトゥルー神話』のラブクラフトなどに絶大な影響を与えた人物)の創作神話やファンタジー小説に出てきそうな存在です。想像するだに恐ろしい、実に気になる人物ですね。
このボタン職人について、もっと情報をお持ちでしたら、ぜひお教えください。
投稿: morokoman | 2012年10月24日 (水) 22時06分


なるほど、5曲構成の組曲版!これは通常の組曲版よりも絶対に良いですね。誰かレコーディングしませんかね。
いや僕が優しいと言うよりも、寅さんが優しいのです。これは映画の中で聴いたようなセリフです。故郷を離れて放浪する者同士の共感を想像させるので、こんなセリフを思いつかされました。
この記事を書いた時に、ボタン職人のことをどこで読んだのかは、すっかり忘れてしまいました。(汗)
ですので、申し訳ないのですが、この他に情報は知りません。
しかし本当に恐ろしい存在ですね。「中庸」の人がボタンにされてしまうなんてねぇ。
投稿: ハルくん | 2012年10月24日 (水) 23時22分


>なるほど、5曲構成の組曲版!これは通常の組曲版よりも絶対に良いですね。誰かレコーディングしませんかね。

やって欲しいですね〜。しみじみそう思います。

>故郷を離れて放浪する者同士の共感を想像させるので、こんなセリフを思いつかされました。

そうですね。確かに放浪者ならではの「共感」はあると思います。待ってくれる人−ソルヴェイグやさくら−もいますしね。

>ですので、申し訳ないのですが、この他に情報は知りません。

う〜む、残念。しかしペール・ギュントの資料に当たる機会は出てくるでしょうから、その時調べてみることにします。興味をかきたてて下さる貴重な情報、どうもありがとうございました。

そして最後にハルくん様の記事に今一度戻ります。
>どうぞ「こんな中学校の鑑賞曲など今更聴かないさ」とおっしゃられる人にこそこの演奏を聴いて頂きたいと思います。

確かに一聴の価値ある演奏でした。ハルくん様と図書館に感謝! ですね。(^^)
「中学校の鑑賞曲」−確かにそうですね。いえ、現在なら「母と子のコンサート」でも取り上げられそうな曲です。非常にわかり易い曲ですから。
ですが、morokomanのような人間にとっては、グリーグと言えば「ペール・ギュント」と言う現在にいたる状況は、極めて不満です。
グリーグには後年、『交響的舞曲集』という大傑作を作曲しています。初めて知った時はぶっ飛びました。
「なんでこれが演奏されないんだ!!」

と思ったものです。「ペール・ギュント」の世俗的な人気の陰に隠れてしまって光が当たらないんだとしたら−おそらくそうでしょうが−「ペール・ギュント」が憎たらしくなってくるんですよ。(^^;)

評論家の宇野先生がシベリウスの第2番を悪ざましに罵る気持ちが、実に良くわかるんですよ。ひとつの突出した人気作品のおかげで、真の傑作がスポイルされてしまうことへのいらだたしさ。宇野先生もmorokomanも、共通して持っている感情です。
投稿: morokoman | 2012年10月24日 (水) 23時45分



「交響的舞曲集」って、そんなに凄い曲でしたっけ?
それほど真面目に聴いていませんでしたので、今度聴き直してみます。
宇野功芳先生は実際に2、3度お話をしましたし、非常に影響を受けた評論家です。
「シベ2を聴くくらいならシベ1を聴くべきだ」という評論ですね。
正直、これには余り賛同していません。

そりゃ4番以降の曲は、2番と比べたら深さが雲泥の差ですよ。
でも2番もやはり良い曲ですし、1番がそれよりも格段に上だとも思っていません。有名で親しみ易い2番から入門して徐々に後期の曲の深みにはまってゆくのが問題あるのかなぁ。

モーツァルトだって、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」から入って少しも悪いことは無いと思うのですよ。
投稿: ハルくん | 2012年10月25日 (木) 22時02分



>「交響的舞曲集」って、そんなに凄い曲でしたっけ?

おおお〜、さすがハルくん様! 『交響的舞曲集』をご存知だとは! (^o^)
嬉しいですね〜。ご存知ない方が沢山いらっしゃるんですよ。(と言うか、よほどのマニアでなければ知らないと思います)
ですから、
morokomanが「グリーグの最高傑作は『交響的舞曲集』である!」と心の底から確信に満ち溢れてキリッと断言しても、
ほとんどの方は、「は? なにそれ?」
……ということの繰り返しで、会話にすらなりません(涙)。ハルくん様のように「そんなに凄い曲でしたっけ?」という反応があるだけでもありがたいです。
今ハルくん様が特集を組んでおられるブラームスとはちがい、とにかく知られていません。「は? なにそれ?」の多さには「マイナーの悲哀」を感じてしまいますね。
『交響的舞曲集』だけではありません。グリーグも、知られざる傑作はかなり多いです。ご存知のものもあるでしょうが、例えば弦楽四重奏曲やヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ、ピアノ・ソナタと言った室内楽や器楽曲などなど。
音楽メディアには「もっともっとこうした作品に光をあててくれよ〜」と願っているのです。
>それほど真面目に聴いていませんでしたので、今度聴き直してみます。
ええ、ぜひぜひ。ハルくん様の気がむいた、お暇な時にでも(^^)
でも、受け止める感想は人それぞれですから、ハルくん様が例えば
「聴いてみたけど、やっぱり大したことのない凡作だった」
という感想を仮りにもたれたとしても、それはそれで立派なご意見です。morokomanは尊重いたします。

>宇野功芳先生は実際に2、3度お話をしましたし、非常に影響を受けた評論家です。
そうですか〜。それは羨ましいですね。(^^)

>「シベ2を聴くくらいならシベ1を聴くべきだ」という評論ですね。正直、これには余り賛同していません。
申し訳ありません。この評論ではありません。どうも誤解をさせてしまったようで……。これは私の書き方が悪かったです。言葉が足りず、私の不徳と致すところです。(^_^;A
もっと詳しく書きたいのですが、そうするとえらく長くなりますし、グリーグの記事とも離れますので、後日場を改め、整理した上で書きたいと思います。
ちなみに、ハルくん様の
>でも2番もやはり良い曲ですし、1番がそれよりも格段に上だとも思っていません。
は、morokomanも「おっしゃるとおりです」と賛同いたします。
>有名で親しみ易い2番から入門して徐々に後期の曲の深みにはまってゆくのが問題あるのかなぁ。
についても、「全く問題ありません」というのが私の意見です。あとの「アイネ・クライネ……」で例えたことについても全く同じ気持ちなのです。
では、なんだ? ということでしょうが、この場はまず、言葉が足りずに誤解をさせてしまったことを、深くお詫び申し上げます。
話は違いますが、今取り組んでおられるブラームスの特集、とても楽しみにしております。(^^)
投稿: morokoman | 2012年10月26日 (金) 21時23分



グリーグが好きな方は恐らくどの曲を聴いても受け入れられると思いますね。
シベリウスの場合も同じです。
その点で、実際はmorokomanも同じご意見のようでしたので安心しました。
ありがとうございます。今年はブラームスの余りポピュラーでない曲も取り上げたいと思っています。
投稿: ハルくん | 2012年10月26日 (金) 23時00分


「ペールギュント組曲第一番」は小学校の鑑賞の時間に聴いた覚えがあります。子供の時はお友達のいる中で聴くので知る程度でしたが、大人になってから改めて聴いてみると味わい深いものです。「オーゼの死」の曲は、楽譜は見ていませんが、四分音符、四分音符、二分音符というの単純なリズムなのに、音型の変化で、ペールが母親を亡くした深い悲しみ、(さめざめと泣く、慟哭など)そして死に接した厳粛な空気までも感じられて何てすごい作品なんだろう!と思っています。弦楽器の表現力のなせる技なのでしょうか。
ハルくんさんのようにいろいろな方の演奏を聴いて、心の動きや場の雰囲気を更に深く聴き取っていけたらいいなと思いました。
投稿: オンディーヌ | 2013年3月 9日 (土) 21時53分


オンディーヌさん、こんばんは。
今日は本当に暖かかったですね。正に春たけなわという気分です。
「オーゼの死」いいですよね。弦楽合奏の表現力の凄さをつくづく感じますね。バッハの「G線上のアリア」も凄いですが。
ペールギュントは「朝」も「ソルヴェイグの歌」もみな大好きなんです。聴き易くて飽きが来ないというのは本当の名曲ですね。
投稿: ハルくん | 2013年3月 9日 (土) 22時27分
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-f58b.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/933.html#c1
[近代史3] グリーグ 『ペール・ギュント』 中川隆
2. 中川隆[-13615] koaQ7Jey 2020年2月22日 16:46:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-133]

ネーメ・ヤルヴィ

Neeme Jarvi Grieg - Peer Gynt (1987) Gothenburg SO


Edvard Grieg (1843-1907)
Peer Gynt op. 23
(Auszüge · Excerpts Extraits · Brani scelti)

(00:00:00) 1. At The Wedding
(00:05:02) 2. The Abduction Of The Bride, Ingrid's Lament
(00:08:52) 3. Peer Gynt & The Herd-Girls
(00:12:52) 4. Peer Gynt & The Woman In Green
(00:14:46) 5. In The Hall Of The Mountain King
(00:17:40) 6. Dance Of The Mountain King's Daughter
(00:19:29) 7. Peer Gynt Hunted By The Trolls
(00:22:52) 8. Åse's Death
(00:26:42) 9. Morning Mood
(00:30:56) 10. The Thief & The Receiver
(00:32:16) 11. Arabian Dance
(00:37:09) 12. Anitra's Dance
(00:40:50) 13. Peer Gynt's Serenade
(00:44:00) 14. Solveig's Song
(00:49:01) 15. Peer Gynt At The Statue Of Memnon
(00:51:08) 16. Peer Gynt's Homecoming
(00:53:27) 17. Shipwreck
(00:55:08) 18. Solveig Sings In The Hut
(00:56:53) 19. Night Scene
(01:03:44) 20. Whitsun Hymn- Blessed Morn
(01:04:58) 21. Solveig's Cradle Song

Barbara Bonney, soprano
Marianne Eklöf, mezzosoprano
Urban Malmberg, bariton
Gösta Ohlin's Vocal Ensemble
Pro Musica Chamber Choir

Neeme Järvi
Gothenburg Symphony Orchestra
June, 1987


グリーグ 劇付随音楽「ペール・ギュント」全曲 ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団:
ハルくんの音楽日記 2013年2月23日
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-9e14.html

フィンランドのシベリウスと並んで北欧を代表する作曲家といえば、ノルウェーのグリーグですね。シベリウスの音楽が「春が近づいてきた冬の終わり」だとすれば、グリーグの音楽は「冬の寒さが遠ざかってゆく早春」というイメージです。その温度感の差は、両国の気候そのものの違いでもあります。

そのグリーグの代表作の一つ、劇音楽「ペール・ギュント」については、以前「ペール・ギュント第1&第2組曲」の記事にしました。広く親しまれている組曲版で、ラシライネンとノルウェー放送響の素晴らしい演奏をご紹介しました。

ラシライネンの演奏が余りに素晴らしいので、これまで特に全曲盤を聴こうとも思わなかったのですが、ブログお友達のmorokomanさんから、全曲盤の素晴らしさを教えて頂いたこともあり、演奏の期待できそうなCDを入手しました。

ネーメ・ヤルヴィとエーテボリ交響楽団の演奏です。
この演奏は完全原典版として、グリーグが書いた全ての曲を網羅しています。

ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団(1987年録音/グラモフォン盤)

この演奏には当然のことながら、オーケストラ以外に歌手や語り手、コーラスが大勢参加しています。

  バーバラ・ボニー(ソプラノ)
  ウルバン・マルムベルイ(バリトン)
  シェル・マグヌス・サンヴェー(テノール)
  ルート・テレフセン(語り)
  エスター・オーリン・ヴォーカル・アンサンブル
  プロ・ムジカ合唱団、といった面々です。
 
参考までに各曲のタイトルを記しておきます。

劇付随音楽「ペール・ギュント」全曲

1.婚礼の場にて(第1幕前奏曲)
2.ハリング(第2場と第3場)
3.スプリンガル(第3場)
4.花嫁略奪:イングリの愁訴(第2幕前奏曲)
5.ペール・ギュントと山羊追いの女達(第3場)
6.ペール・ギュントと緑衣の女(第5場への導入)
7.ペール「育ちの良さは馬具見りゃわかる」(第5場の結び)
8.ドヴレ山の魔王の宮殿にて(第6場の開始)
9.ドヴレ山の魔王の娘の踊り)(第6場)
10.ペールはトロルに追い回される(第6場)
11.ペール・ギュントとベイグ(第7場)
12.オーゼの死(第3幕前奏曲)
13.朝(第4幕前奏曲)
14.泥棒と盗品買い(第5場)
15.アラビアの踊り(第6場)
16.アニトラの踊り(第6場)
17.ペールのセレナーデ(第7場)
18.ペール・ギュントとアニトラ(第8場)
19.ソルヴェイグの歌(第10場)
20.ノムノン像の前のペール・ギュント(第11場への導入)
21.ペール・ギュントの帰郷:夕方の嵐の海(第5幕前奏曲)
22.難破(第1場と第2場の間)
23.小屋でソルヴェイグが歌っている(第5場)
24.夜の情景(第6場)
25.ペンテコステ讃美歌「祝福の朝なり」(第10場)
26.ソルヴェイグの子守歌(第10場)

通常演奏される組曲版では、当然ストーリーの展開とは無関係に曲が入れ替わっています。コンサートで演奏される場合には何ら問題は有りません。但し、少しでもストーリーの展開を意識して聴こうとすれば、どうしても全曲版となります。

全曲版は、CD2枚分のおよそ85分にも及ぶ、短いオペラ並みの規模になります。全ての曲が格別の名曲だとは言えないかもしれませんが、それは大抵のオペラ作品の場合に当てはまることです。それよりも、歌が加わることにより、歌無しの組曲版とは大きく印象が異なってきます。歌やコーラスの役割がとても重要となります。たとえば、第8曲「山の魔王の宮殿にて」では、トロル(怪物)たちがペールを「殺せ!殺せ!」と荒々しく叫びながら歌うのが、管弦楽だけのときよりも遥かに不気味な雰囲気になっています。第16曲「アニトラの踊り」も歌とコーラスが入ったおかげで非常に魅惑的な曲に成りました。それ以外にも有名な「ソルヴェイグの歌」や終曲の「ソルヴェイグの子守歌」など美しい歌曲が多く含まれています。

それと、楽器で面白いのは第2曲「ハリング」ではノルウェーの民族楽器ハーディング・フェーレ(またはハリング・フェーレ)というヴァイオリンの仲間が使用されていることです。アイリッシュ・フィドルによく似た音で、北欧を感じさせてくれて楽しいです。

この演奏では、セリフ部分を歌手とは別の専門の語り手が担当しています。それほど違和感は有りませんし、むしろ迫真のセリフのやりとりが演劇性を高めていて良いです。

この全曲版を聴いていると、まるでオペラを聴いているように思えてきます。それに、ストーリー自体が元々破天荒ですので、ファンタジー冒険映画を見ているような気にもなります。この「ペール・ギュント」が舞台化や映画化されたら絶対に面白いと思うのですがね。

指揮者のネーメ・ヤルヴィは、シベリウスなどの北欧ものが大の得意ですし、グリーグの音楽への共感が強く感じられます。程よくドラマティックでありながらも決して大げさにはならず、「オーゼの死」などでは、静寂の中から哀しみを滲み出させていて感動的です。

確かに全曲版をこのような素晴らしい演奏で聴いてしまうと、管弦楽版には物足りなさを感じてしまい、中々後戻りできないかもしれません。


コメント

今回は「冷水」のグリーグですね。(笑)
確かに 雪溶け水が流れ出しているような 爽やかな音がぴったりくるように思います。
「ペール・ギュント」全曲板、私も このN・ヤルヴィ盤を聴いてきました。ヤルヴィの共感に満ちた演奏も素晴らしいですが、ソプラノのボニーの可憐な歌声がまた 良いですね。「ソルヴェイグの歌」から 讃美歌をへて 「子守歌」を歌う、最後のシーンは感動的です。
このCDだけで十分 満足ですが、 私は もう一組、ルード/ベルゲン・フィル という 真正ノルウェーの演奏のCDを聴いています。これは SACDなので オススメはできませんが ヤルヴィ盤より味わいが濃く、これも素晴らしい演奏です。ソプラノの ソルベルグの歌はボニーの"可憐さ"に対して より"母性"を感じさせ、最後の場面も より味わい深いです。
投稿: ヨシツグカ | 2013年2月23日 (土) 15時02分



こうしたジャンルは付帯音楽というのでしょうか、現代ではゲームの音楽なんかも強いて言えばそういう分野になるのかなと思います。最近はポップでも電子音楽でも非常に優秀な人がいますね。
私は全曲を通して聴いたことがありませんが、「朝」は小学校の朝礼でかかってました。「オーゼの死」はブラームスのラプソディ1番に似てますね。そういう妙なところだけはしっかり覚えているのですが。。。。しょうもないことですみません。
投稿: NY | 2013年2月23日 (土) 19時22分


ペールは全曲盤は聴いた事ないけど、この記事を読んだら聴かなきゃ損々…って気になりましたね。ペールのハチャメチャぶりに男性は呆れるのか憧れるのか?
今日はチェリストの新倉瞳ちゃんのコンサートに行ったんです。 スッゴク可愛い〜!写真より実物の方がもっとずっと可愛い〜♪ それに控えめな性格らしく、今まだまだ勉強の途中の身なのに、こうしてソロコンサートに呼んで頂いて嬉しい有難いとお話されてました。声がまた可愛い〜の。丸顔だけど身体つきは華奢で守ってあげたくなっちゃうだろうな、男性なら。
桐朋を主席卒業した実力派で若手注目株だし、才色兼備ってやつですね。今日の演奏でシューベルトのアルペジョーネ・ソナタが特に良かったです。これからどんどん経験を積んで、もっともっと良い演奏家になって欲しいですね。いや〜、それにしても可愛いかった☆☆☆
投稿: from Seiko | 2013年2月23日 (土) 19時50分



ヨシツグカさん、こんばんは。
何と言ってもベルゲンはグリーグの住んでいた街ですし、ベルゲンフィルは良い音を出しますよね。ルードも管弦楽曲全集を出しているぐらいですから、きっと良いでしょうね。
ありがとうございます。とても参考になりました、
投稿: ハルくん | 2013年2月24日 (日) 00時07分


NYさん、こんばんは。
正確には劇付帯音楽とか劇付随音楽でしょうかね。せっかくですので訂正しておきます。ありがとうございました。
でも「オーゼの死」はブラームスのラプソディ1番に似ているところ有りましたっけ?
投稿: ハルくん | 2013年2月24日 (日) 00時12分


Seikoさん、こんばんは。
さすがにペールのハチャメチャぶりに憧れるということは有りませんね。呆れるほうだなぁ。
やっぱり女性を悲しませてはいけませんよー。
新倉瞳ちゃんのコンサート良かったですね!
それほど可愛いとあっては是非とも実物を見てみたいものです。日本ではコンサートをよく開いているのでしょうか?
投稿: ハルくん | 2013年2月24日 (日) 00時28分


morokomanです。(^^)
おおっ今回はペール・ギュント全曲版ですね。(^o^)

>シベリウスの音楽が「春が近づいてきた冬の終わり」だとすれば、グリーグの音楽は「冬の寒さが遠ざかってゆく早春」というイメージです。

言い得て妙ですね。シベリウスの方が気温が低い感じがしますし。また、グリーグの音楽の方が爽やかさがありますしね。澄みきってはいるけれども、ぬくもりが感じられる優しい風がふいているのがグリーグですね。

>morokomanさんから、全曲盤の素晴らしさを教えて頂いたこともあり、

いえいえ、お言葉はありがたいのですが……(冷や汗)、自分が聴いたのはバルビローリ盤、ビーチャム盤、ノイマン盤です。ハルくん様ご紹介のヤルヴィ盤のように、劇全体を再現したような盤ではありません。「音楽だけ」を取り出した盤を三種類聴いた、というわけですね。
まだヤルヴィ盤は持っていないのです。お金が欲しいよう……(嘆き)。ヤルヴィ/イェーテボリ響は北欧音楽の定番とも言える名コンビ。一定の水準は確実にキープしていますから、とても期待できそうですね。

>それと、楽器で面白いのは第2曲「ハリング」ではノルウェーの民族楽器ハーディング・フェーレ(またはハリング・フェーレ)というヴァイオリンの仲間が使用されていることです。アイリッシュ・フィドルによく似た音で、北欧を感じさせてくれて楽しいです。

グリーグの作品にはこの「ハーディング・フェーレ」を思わせる奏法が、ヴァイオリンないしヴィオラで「ここぞ!!!」という時に、ほぼ確実に出てきます。それがものすごく効果的で、私などいつもここで感激してしまいます。弦楽四重奏曲などその最たるものですね。
あれ? 曲目を見ると、バルビローリ盤ではあった「序曲」がありませんね。もしかすると第1曲目の「婚礼の場にて」がそれにあたるのでしょうか? バルビ盤「序曲」では中間部でヴィオラの独奏が出てきて、私はものすごく感激したものですが。もしそうだったら嬉しいのですが、違っていたとしたら、あれはバルビローリ盤にしかない、貴重な音楽なのかもしれません。なんとなく「婚礼の場」=他盤の「ノルウェーの結婚行進曲」のような雰囲気が漂い、不安なのですが……。あの「序曲」が聴きたいです。
いまバルビローリ盤も、ビーチャム盤も、私の「大災難」の時に失われ、持っていないのです。バルビローリ盤はなんとか取り戻したいものです。(大泣き)
あと、ヤルヴィ盤も聴いてみたいなぁ。お金に都合がつけばの話なのですが……。図書館の係りの方が、購入してくれないかなぁ。(涙)
投稿: morokoman | 2013年2月24日 (日) 21時56分



morokomanさん、こんばんは。
先の「組曲」へのコメントを頂いたおかげで全曲版の購入を決心しましたので、とても感謝しています。
ヤルヴィ盤での第1曲は「婚礼の場にて」と記載がありますが、おっしゃられる「序曲」と同じ曲でしょうね。中間でヴィオラ独奏も有りますよ。
投稿: ハルくん | 2013年2月24日 (日) 22時17分


>ヤルヴィ盤での第1曲は「婚礼の場にて」と記載がありますが、おっしゃられる「序曲」と同じ曲でしょうね。中間でヴィオラ独奏も有りますよ。

おおっそうなのですか〜。(^O^)
なぜかバルビローリ盤にしかありませんでしたからね。ビーチャム盤にもノイマン盤にもなかったので「なんで?」と思っておりました。ヤルヴィ盤にあったのは嬉しい限りです。
バルビ盤で初めて「序曲」を聴いた時には、中間のヴィオラ独奏が、まるでノルウェーのフィヨルドや嶮峻な山岳にこだまするかのように聴こえたのです。「おおっ。これぞノルウェーの音!」などと感激したものです。
また、ヴィオラの独奏を聴いたのは、これが初めてでしたので、その時はとても新鮮でした。
呼吸が深く、心が休まる、どこか安心&安定した音がヴィオラの魅力ですね。
そうそう、ヴィオラと言えばプリムローズの『ブラームス ヴィオラ・ソナタ』を入手しました。時々聴いております。いずれ感想を書きにお邪魔いたします。(^_^)
投稿: morokoman | 2013年2月25日 (月) 21時25分



プリムローズのブラームス/ヴィオラ・ソナタを入手されたのですね。何と言っても名曲中の名曲です。
ご感想を楽しみにお待ちしております。
投稿: ハルくん | 2013年2月26日 (火) 00時06分



オーゼの死は最初の主題がブラームスのラプソディー1番のニ短調の部分に似てるかなと。。。空耳?
最近ご紹介のヴァイオリンソナタも私は知りませんでした。今度ぜひ聴いてみます。グリーグはピアノ曲がいまひとつもの足りない感じがしますが、抒情小曲集は日本人にも人気が高いですね。
投稿: NY | 2013年3月 1日 (金) 19時38分


NYさん、こんにちは。
ニ短調の部分ですか?うーん僕の耳が節穴なのかも・・・。よく聴き直してみますね。
グリーグのピアノ小品はどれも物足りない感じがしますが、そこがまた良さなのでしょうね。リラックスして聴いていられます。
ヴァイオリン・ソナタのほうは音に変化が感じられるので面白いと思っています。
投稿: ハルくん | 2013年3月 2日 (土) 09時09分


この盤、噂だけで実際に聴いてないんですよ〜、やっぱり入手したいな。
つまらないことを書きます。今回の病気で最初に受診したのはお盆明けでした。職場に戻れたのが3月。「夏は過ぎて秋過ぎて、冬も過ぎて春来たる♪」ペールを待つソルヴェイグの歌のような気分です。グリークいいなあ。
投稿: かげっち | 2013年3月 4日 (月) 12時36分


かげっちさん、こちらへもコメントありがとうございます。
ヤルヴィの全曲盤イイですよ。是非入手されてください。
ボニーの歌う「ソルヴェイグの歌」がまた素晴らしいです。
投稿: ハルくん | 2013年3月 4日 (月) 22時51分


「ペール・ギュント」全曲はブロムシュテット指揮サンフランシスコ響のCD(デッカ盤)を持っていますが、やはり北欧のオケで聴いてみたいと常に思っています。
ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団には「ペール・ギュント」全曲も収録されているグリーグの管弦楽曲集のアルバムがあるので、今、狙っています。
投稿: オペラファン | 2013年3月 5日 (火) 14時43分


オペラファンさん、こんばんは。
ブロムシュテットとサンフランシスコ響のコンビはシベリウスを聴きましたが、これがアメリカの西海岸のオケかと驚くほどに北欧的な音を出していました。
ヤルヴィのグリーグも素晴らしいので、管弦楽曲集のアルバムを求めるのは良い選択かもしれませんね。
投稿: ハルくん | 2013年3月 5日 (火) 23時39分
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-9e14.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/933.html#c2
[近代史4] 国民楽派の音楽 中川隆
2. 中川隆[-13614] koaQ7Jey 2020年2月22日 16:52:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-132]

グリーグ 『ペール・ギュント』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/933.html

グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/932.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/162.html#c2

[昼休み54] 中国共産党の幹部の子弟がみんなアメリカ、カナダに留学する理由 中川隆
2. 中川隆[-13613] koaQ7Jey 2020年2月22日 17:30:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-131]

2020年02月22日
米有名大学は金で学歴を「販売」 名門大学生の半分がコネと金入学


オバマの娘マリアは学力が劣っていたが、黒人枠プラス親のコネでハーバードに入学した。
1086x705
引用:https://www.thestar.com/content/dam/thestar/news/world/2016/05/01/malia-obama-to-attend-harvard-in-2017-after-she-takes-a-gap-year/malia-obama.jpg.size.custom.crop.1086x705.jpg

アメリカの大学制度を揺るがすような事態が静かに進行しています。

東大に相当する名門大学の半数はコネ入学で、3流大学に至っては金で学歴を売る広告を展開している。


アメリカ大学の不祥事

アメリカの大学の不祥事や質の低下が、相次いで伝わってきています。

一部の大学ではお金を払った留学生を無試験で受け入れ、名門大学も似たような行為をしている。

さらに大統領のトランプ氏が経営する大学では、詐欺紛いの行為で金を稼いでいた。





アメリカには1,600万人もの大学生がいて、短大生600万人超、4年生700万人超、院生200万人超となっています。

日本は約300万人なので、人口比で日本の2倍近い大学生が存在しています。

日本の大学進学率は50%超といわれていますが、アメリカは70%を超えていました。


大雑把に言ってアメリカでは子供を除く人口の5%、20人に一人が大学生で、日本は人口の3%というところです。

アメリカ人の3分の2くらいが大卒な訳で、大学を出ただけではまともな職業には就けません。

日本でいうフリーターや非正規になる人が大勢居て、社会問題になっています。


日本の大学進学率は世界41位で、いつの間には先進国最低、世界でも低い国になりました。

アメリカでは高校生のほとんどが大学に進学しますが、大学の質の低下が深刻になっています。

アメリカには留学生が100万人居て、多くの大学で10人に1人が留学生という状況です。

低学力のハーバード卒が増加

米誌によると留学生獲得競争が過熱し「願書を出せばすぐ合格」と広告を出して中国の富裕層を獲得していた。

アメリカにいる留学生の3割が中国人で、こういう広告に応募して金を払い、4年間遊んで中国に帰る。

中国人が増えた結果、中国人だけのコミュニティを大学内で作り、その中だけでしか人間関係を作らない人が増えている。


不正や替え玉試験で進級し、親からの仕送りで高級車を乗り回して、毎日遊んで暮らしているという。

こうした事ができるのはいわゆる底辺大学だけではなく、ハーバードのような超名門でも起きている。

アメリカでは差別を無くす為、国や人種、性別によって合格に「イロ」をつけていて、日本人を除くアジア人は優遇されている。


テストで日本人90点、中国人80点なら中国人を合格させているという事です。

他にも女性は男性より優遇、黒人なら優遇、難民や移民は優遇など色んな特典があり、アフリカ出身の難民女性なら低学力でも入学できる。

差別を撤廃する法律を義務化した結果、逆差別が発生しているという、どこかで聞いたような話です。


またハーバード大学のような超名門ほど「コネ入学」が効くのも事実です。

ハーバードの一般入試合格率は5%以下なのに、ハーバード卒業生の子供は33%以上あり多くが推薦入学です。

親の頭が良いと子供も頭が良いのかも知れないが、親が卒業生だと高い確率で入学できるのです。


アメリカには共通一次がなく無試験で入学させるのも可能なので、こうした事が起こります。

今や有名大学合格者の過半数は親が富裕層だったり同じ大学の卒業生で、真面目に受験して入学する人は少ないとされている。

中国からのハーバード留学生の大半を、太子党と呼ばれる共産党権力者の子供が占めているそうです。

トランプ大学

さらに大統領のトランプが以前経営していたトランプ大学では、詐欺疑惑も起こっています。

既に閉鎖したトランプ大学は不動産事業や投資のノウハウを教えると謳っていて、数百万円の授業料を取っていた。

その仕組みは無料で90分のセミナーを受けさせ、有料セミナーに勧誘し、高額コースに加入させるものだった。


大学とは言いながら卒業しても大卒資格はなく、要するにただの「セミナー商法」を大学と謳っていました。

これは論外だが、留学生相手に「アメリカ留学」の肩書きを販売する大学は存在しています。


今やハーバード大学でも、金とコネで学歴を買えるのだから、先行きが案じられている。


東京都知事や日本の有名人が時おり学歴を金で買った名ばかり留学生だったと報じられるが、世界にそんなのがゴロゴロいる。

http://www.thutmosev.com/archives/61248171.html
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/348.html#c2

[近代史3] 米有名大学は金で学歴を「販売」 名門大学生の半分がコネと金入学

2020年02月22日
米有名大学は金で学歴を「販売」 名門大学生の半分がコネと金入学


オバマの娘マリアは学力が劣っていたが、黒人枠プラス親のコネでハーバードに入学した。
1086x705
引用:https://www.thestar.com/content/dam/thestar/news/world/2016/05/01/malia-obama-to-attend-harvard-in-2017-after-she-takes-a-gap-year/malia-obama.jpg.size.custom.crop.1086x705.jpg

アメリカの大学制度を揺るがすような事態が静かに進行しています。

東大に相当する名門大学の半数はコネ入学で、3流大学に至っては金で学歴を売る広告を展開している。


アメリカ大学の不祥事

アメリカの大学の不祥事や質の低下が、相次いで伝わってきています。

一部の大学ではお金を払った留学生を無試験で受け入れ、名門大学も似たような行為をしている。

さらに大統領のトランプ氏が経営する大学では、詐欺紛いの行為で金を稼いでいた。





アメリカには1,600万人もの大学生がいて、短大生600万人超、4年生700万人超、院生200万人超となっています。

日本は約300万人なので、人口比で日本の2倍近い大学生が存在しています。

日本の大学進学率は50%超といわれていますが、アメリカは70%を超えていました。


大雑把に言ってアメリカでは子供を除く人口の5%、20人に一人が大学生で、日本は人口の3%というところです。

アメリカ人の3分の2くらいが大卒な訳で、大学を出ただけではまともな職業には就けません。

日本でいうフリーターや非正規になる人が大勢居て、社会問題になっています。


日本の大学進学率は世界41位で、いつの間には先進国最低、世界でも低い国になりました。

アメリカでは高校生のほとんどが大学に進学しますが、大学の質の低下が深刻になっています。

アメリカには留学生が100万人居て、多くの大学で10人に1人が留学生という状況です。

低学力のハーバード卒が増加

米誌によると留学生獲得競争が過熱し「願書を出せばすぐ合格」と広告を出して中国の富裕層を獲得していた。

アメリカにいる留学生の3割が中国人で、こういう広告に応募して金を払い、4年間遊んで中国に帰る。

中国人が増えた結果、中国人だけのコミュニティを大学内で作り、その中だけでしか人間関係を作らない人が増えている。


不正や替え玉試験で進級し、親からの仕送りで高級車を乗り回して、毎日遊んで暮らしているという。

こうした事ができるのはいわゆる底辺大学だけではなく、ハーバードのような超名門でも起きている。

アメリカでは差別を無くす為、国や人種、性別によって合格に「イロ」をつけていて、日本人を除くアジア人は優遇されている。


テストで日本人90点、中国人80点なら中国人を合格させているという事です。

他にも女性は男性より優遇、黒人なら優遇、難民や移民は優遇など色んな特典があり、アフリカ出身の難民女性なら低学力でも入学できる。

差別を撤廃する法律を義務化した結果、逆差別が発生しているという、どこかで聞いたような話です。


またハーバード大学のような超名門ほど「コネ入学」が効くのも事実です。

ハーバードの一般入試合格率は5%以下なのに、ハーバード卒業生の子供は33%以上あり多くが推薦入学です。

親の頭が良いと子供も頭が良いのかも知れないが、親が卒業生だと高い確率で入学できるのです。


アメリカには共通一次がなく無試験で入学させるのも可能なので、こうした事が起こります。

今や有名大学合格者の過半数は親が富裕層だったり同じ大学の卒業生で、真面目に受験して入学する人は少ないとされている。

中国からのハーバード留学生の大半を、太子党と呼ばれる共産党権力者の子供が占めているそうです。

トランプ大学

さらに大統領のトランプが以前経営していたトランプ大学では、詐欺疑惑も起こっています。

既に閉鎖したトランプ大学は不動産事業や投資のノウハウを教えると謳っていて、数百万円の授業料を取っていた。

その仕組みは無料で90分のセミナーを受けさせ、有料セミナーに勧誘し、高額コースに加入させるものだった。


大学とは言いながら卒業しても大卒資格はなく、要するにただの「セミナー商法」を大学と謳っていました。

これは論外だが、留学生相手に「アメリカ留学」の肩書きを販売する大学は存在しています。


今やハーバード大学でも、金とコネで学歴を買えるのだから、先行きが案じられている。


東京都知事や日本の有名人が時おり学歴を金で買った名ばかり留学生だったと報じられるが、世界にそんなのがゴロゴロいる。

http://www.thutmosev.com/archives/61248171.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/934.html

[近代史3] 米有名大学は金で学歴を「販売」 名門大学生の半分がコネと金入学 中川隆
1. 中川隆[-13612] koaQ7Jey 2020年2月22日 17:33:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-130]

中国共産党の幹部の子弟がみんなアメリカ、カナダに留学する理由


2018.12.13
ソフトバンク通信障害B アリババ=江沢民=ゴールドマン・サックス
https://golden-tamatama.com/blog-entry-softbank-alibaba3.html


さて、昨日スパイ会社ファーウェイの幹部が釈放されたそうです。
保釈金は8億だったとか。
保釈と言っても足首にGPS信号をつけさせられての保釈のようです。
そりゃスパイされまくったら困りますからね。

中国の報復の以下、カナダ元外交官を拘束が効いたのでしょうか。

中国というのはやることがエゲツない。

ちなみにこのファーウェイの幹部、孟晩舟さんがカナダで捕まった場所はバンクーバーです。

バンクーバーと言えば中国共産党の子弟が大挙して留学してる場所です。
他に、中国人留学生が多いのはアメリカのカリフォルニア州です。

知らないかもしれませんが、中国共産党の幹部の子弟達は大挙してアメリカ、カナダに留学してるのですね。
その数約100万人。

だいたい習近平の娘ですらハーバードに留学してるのですから。

それで10月に、トランプさんは中国の留学生はほとんどスパイだ!
と言ったのですたね。

中国、米国留学禁止を通達…米中貿易摩擦で米国による人質化を懸念、機密情報が中国に流出か

「Gettyimages」より
中国共産党指導部はこのほど、トランプ米大統領が「米国に来るほとんどすべての学生はスパイだ」との内容の発言を行ったことを受けて、北京や地方の党・政府組織に対して、「幹部子弟の米国留学の禁止および留学中の幹部子弟の年内帰国に関する通達」と題する内部文書を伝えたことが明らかになった。

米中貿易摩擦が激化し、両国関係が日増しに悪化するなか、党政府幹部子弟が「人質」化することや、 スパイの嫌疑をかけられて拘留されることなどを危惧するとともに、留学費用などで米国を経済的に利することを嫌ったためとみられる。

●留学生による機密情報の国外流出を懸念

米国国務省教育文化局などの調査によると、昨年6月末現在、米国の中国人留学生は前年比6.8%増の約35万人で、11年連続で増加中だ。

2016-2017年度における米国の大学の留学生数は前年比3.4%増の107万8800人だが、そのうち中国大陸部からの留学生の比率は32.5%を占めており、大半は中国における特権階級である党幹部の子弟とみられる。

同筋は「習近平国家主席の一人娘の習明沢さんがハーバード大学に留学していたのは有名だ。

で、昨日のジャック・マーさんの続きですが。

ジャック・マーさんは英語教師ですから、通訳としてアメリカに渡ってたのですね。

1995年。ジャック・マーさんはアメリカでヒントを得て、中国初の中国版イエローページを開設した。
それがアリババの始まりです。

で、ジャック・マーさんは留学中のあの江沢民のお孫さん江志成(こうしせい)さんと仲良しだったのですた。

以下が江志成(こうしせい)さんです。

確かに江沢民に似てる。

江志成さんは、2010年にハーバード大を卒業後、ゴールドマン・サックスで勤務していました。
ちなみに、父親の江綿恒さんもゴールドマン・サックスの幹部です。

で、その後、江志成さんは、香港で博裕キャピタルを設立しました。
ここには香港最大の金持ちの李嘉誠(リー・カシン)も出資した。

アリババにはこの江志成さんの博裕キャピタルが出資したのですた。

ちなみに共産党の常任委員劉雲山の子の国開キャピタルも出資しました。

つまり、ソフトバンクの孫さんがどこの馬の骨とも分からない英語教師の熱意にほだされて20億をポンと出資した。
という訳は全然なく。

ゴールドマン・サックス一派=江沢民が裏にいる。
同じ仲間だから20億をポンと出したのですた。

それにしても、なぜ中国共産党幹部の子弟がこんなにもアメリカに留学してるのでしょうか。
その理由が以下です。


中国高官たちはアメリカ移住がお好き 経済界

さて、中国高官(党・政府・国有企業で高位の人たち)や中国人大富豪は住みにくい中国大陸を捨て、移住先として、北米、特に、アメリカを目指す。 前者は、他の国・地域へ逃亡した人数を含め、計約1万8000人も及ぶという。

後者は、しばしば中国高官と関係が深い。
アリババ(阿里巴巴)のジャック・マー(馬雲)はその好例で、江沢民の孫、江志成、温家宝前首相の子、温雲松らに近いと言われる。

中国では政権が交代したら、その途端、今までの政策が一挙に変わることがある。
だから、中国高官らの地位・財産はもろくて危うい。また、大気・水・土壌・食品等の環境問題も深刻である。

そこで、中国高官や中国人大富豪は巨額のカネを入手した暁には、真っ先にアメリカへの移住を考える。

そのやり方は、

@弟を当地へ留学させる。

A愛人を当地の「愛人村」に住まわせる。

B妻が妊娠したら、当地の「出産センター」(「妊婦村」ともいう)へ送り、当地で子供を産ませる、などが考えられる。将来、自分と家族・親戚一同が移住するためである。

第1に、もし子供が米国籍を取得すれば、その両親は米国へ移住しやすい。

例えば、習近平は、彭麗媛との間の娘、習明沢を米ハーバード大学へ留学させている(2012年秋、習近平が総書記になる直前、明沢は帰国したと伝えられたが、実際は、大学卒業まで米国に滞在したようである)。また、李克強首相も娘を米国へ留学させていた。このように、党最高幹部子弟の大半が米留学している。

第2に、「愛人村」で有名なのは、米カリフォルニア州ロサンジェルス郊外のローランドハイツだろう(カナダではバンクーバー郊外にも同じような「愛人村」が存在する)。

中国高官らは、米国の永住権取得目的で豪邸を購入する。そして、愛人に財産管理をさせ、いざという時には、そこへ逃亡する算段である。 近年、中国では、愛人生活を送る若い中国人女性の暮らしぶりを描いた、薛曉?監督、湯唯主演の「北京遇上西雅図(Finding Mr.Right)」(邦題「北京ロマンinシアトル」)が人気を博した。

第3に、中国高官や中国人大富豪は、妻が妊娠して臨月間近になったら、旅行と見せかけて米国へ送り込む。そして、ロサンジェルスやニューヨークなどの大都市にある、中国人医師・看護師の待つ「出産センター」で子供を産ませる。出生地主義の米国では、その子供は必ず米国籍が取得できる。当然、その親も将来、米国籍を取得する権利が生じる。

中国共産党は、少なくても表向きは、アメリカを“敵視”している。同時に、共産党は、西側の価値観(自由や民主主義等)を明確に否定している。だが一方では、自分や家族・親戚が米国移住するための準備を着々と整えている。日本人には、この中国人の“現実主義的な考え方”がよく理解できないかもしれない。

ただ、習近平政権が誕生してから、「キツネ狩り」と称し、捜査官を米国へ派遣し、汚職高官を摘発、逮捕するよう努めている。しかし、現時点では、米中間に犯人引き渡し条約がない。中国共産党はオバマ政権に汚職高官の「ブラックリスト」を渡しているというが、その引き渡しに関しては、米国の高度な政治的判断がまたれる。

これも酷い。
日本で例えるなら自民党の幹部の子息、子女がみーんな米国留学してるってことです。

共産党の中央政治局の常務委員9人のうち、少なくとも5人の子や孫が米国留学とあります。



同紙は中国の特権階級が米国へ押し寄せる現象を「中国人の米国教育への憧れ」と指摘した。米国留学する中国人学生は過去15年で4倍に急増。中でも共産党高級幹部の子供たちは州立大など公立校へは行かず、ハーバード大など学費の高い有名私立大を目指すのが一般的。党の最高意思決定期間である中央政治局の常務委員9人のうち、少なくとも5人の子や孫が米国留学しているという。

過去の党最高指導者のうち、趙紫陽元総書記、江沢民前国家主席の孫がハーバード大に留学。留学費用の出所について唯一公開しているのは、先日失脚した薄煕来(ボー・シーライ)前重慶市党委員会書記の息子。薄前書記の正式年収は2万ドル(約160万円)足らずなのに対し、ハーバード大の学費は年約7万ドル(約560万円)だが、「奨学金と母親の貯蓄でまかなっている」と説明している。

さらに、次期最高指導者に決まっている習近平(シー・ジンピン)国家副主席の娘もハーバード大に留学中。中には仏パリで社交界デビューした高級幹部の娘もおり、世間からは「口では米国をののしりながら、子供は米国の奴隷になっている」と痛烈な批判も出ている。(翻訳・編集/AA)

まぁ、とにかくファーウェイ幹部がタイーホされ、ソフトバンクが通信障害になる。
同時期にフランスでデモが激化する。

それは中国子弟の留学組が作ったIT企業=アジアのロスチャイルド別動隊がやられてる。
経緯を知ればぜーんぶつながってると分かるというものでしょう。

書いてるうちにまた長くなってしまいますた。
次回に続きます。
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/934.html#c1

[近代史3] 米有名大学は金で学歴を「販売」 名門大学生の半分がコネと金入学 中川隆
2. 中川隆[-13611] koaQ7Jey 2020年2月22日 17:35:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-129]
2020年02月15日
アメリカの学生ローン地獄 破産認められず貧困に陥る人多数
米有名大学は学費だけで4年間1200万円、生活費込みで2000万円必要

画像引用:https://s10851.pcdn.co/wp-content/uploads/2015/01/Between-2014-Aug-Sep-Chart1.png


サブプライムローンと類似する学生ローン

アメリカではリーマンショック以降学生ローン残高が増加し続け、第二のサブプライムローンと言われています。

サブプライムローンとはクリントン大統領時代に始めたホームレスや浮浪者向け住宅ローンでした。

キューバや中南米諸国からの亡命者や不法難民、路上生活のホームレスにまで幅広く融資しました。


これは2000年代に日本でも「債務の証券化」などと言われて脚光を浴び、日本でも真似しようという人が多かった。

手法は路上のホームレスに声をかけて借用書にサインさせ、数千万円の新築住宅に住まわせます。

彼の借金は証券として売り出されるが、全部ごちゃ混ぜにするので元の借金主がホームレスとばれないようにしてあります。


こうして売り出されたのが金融デリバティブ商品で、高金利なので大人気で金持ちや庶民まで競って投資しました。

だが当然ながらホームレスや難民は住宅ローンを滞納するようになり、2007年7月頃サブプライムショックが起きた。

住宅ローン会社から銀行まで幅広く連鎖倒産し、翌2008年に起きたのがリーマンショックでした。


今振り返るとそうなって当たり前ですが、当時はデリバティブ商品がホームレス住宅という事実は隠されていた。

現在起きている学生ローン危機も同じようなことで、借り手は無収入の学生で、最大数千万円を融資しています。

アメリカは大学進学率が高いので、キャリアを積むには有名大学でなくてはならず、有名大学には数千万円かかるのです。


こまった事にアメリカでは日本で違法な「裏口入学」が合法で、教授に賄賂を贈って推薦して猿の子供でも有名大学に入れる。

この手口で娘をハーバードに入学させたのがオバマ大統領で、彼の娘は取材記者の間で成績が悪いので知られていた。

こうした人が居るので有名大学に入る費用は高騰し、入学してからも際限なくお金を毟られます。


アメリカには世界中から学生が集まるが、その理由の一つは「賄賂を渡せば学歴を買える」から金持ちに人気なのです。


自己破産も免責もない永久債務

2019年末のアメリカの学生ローン残高は1兆5080億ドル(約165兆円)で過去最高を更新しつづけている。

リーマンショック前は学生だった若者もとしを取り、債務者の42%が40歳以上になっています。

これは20歳前後で借りて50歳以上になっても学生ローンを払い続けている人が居るのを意味しています。


日本ではリボルビング払いが「終わらない借金」と批判されているが、アメリカでは学生ローンの方が悪質です。

アメリカには「公的債務に自己破産の免責はできない」というルールがあり、学生ローンは公的機関が貸し付けています。


つまり18歳で2000万円借りた人はどんな事があっても返済する必要があり、途中で辞めることができない。


これが住宅ローンなら住宅という資産があるので、売却すればチャラにはならなくともかなり減額される。

学生ローンは学歴を金で買うものだが、大学を卒業した人全員が高収入になるわけではない。

ここで登場するのがアメリカの住居費の高さで、ニューヨークの月平均35万円など、ほとんどの主要都市の平均家賃はワンルーム30万円以上です。


アメリカのワンルームはベッドを2つ置けるので2人で住めるが、これを1人の労働者の収入で払うのは大変な事です。

家賃だけで年400万円かかったら年収600万円でも残りは200万円、日本で例えたら実質300万円以下の収入にしかなりません。

そのうえ学生ローンで月10万円支払う必要があったら、年収700万円でもギリギリの生活になる。


年収600万円のホームレスが居る国

しかも大学を卒業しても年収300万円とかの人も居る訳で、この人たちは収入の多くを学生ローンで差し引かれます。

こんな状況なので有名大学を卒業して年収600万円程度なのに、シリコンバレーで働き路上生活や車上生活を送る人が居ます。


アメリカの主要都市の平均家賃が30万円以上で日本は10万円以下という事は、アメリカ人の年収は250万から300万円差し引いて考える必要がある。


有名企業は都市にあるのでそこで働く人は家賃30万払っていて、さらに学生ローンがのしかかるのです。

1人あたりの借金は平均約3万ドルで、大学卒業時点で300万円の借金を抱えてスタートする。

学生ローン残高は10年前の2倍に拡大し、自動車ローン(1.33兆ドル)やクレジットカードローン(0.93兆ドル)より多い。


学生ローンが自動車や住宅と違うのは、車や家は収入や貯蓄ができた後で買うのに対し、無収入の学生に数百万から1000万以上貸し付けている点です。

学生は将来高収入になる「可能性」があるものの、貸し付けた時点ではホームレスと同じ無職で無収入にすぎない。

日本でも奨学金を返せない人が問題になっているが、日本では奨学金理由の自己破産免責は可能です。


アメリカの学生ローンがいかに悪質か想像できる。
http://www.thutmosev.com/archives/82199157.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/934.html#c2

[リバイバル3] 中川隆 _ 欧米文化関係投稿リンク 中川隆
138. 中川隆[-13610] koaQ7Jey 2020年2月22日 17:36:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-128]
米有名大学は金で学歴を「販売」 名門大学生の半分がコネと金入学
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/934.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/464.html#c138
[番外地7] 武漢肺炎の今後 中川隆
28. 中川隆[-13609] koaQ7Jey 2020年2月22日 17:51:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-127]
ダイヤモンド・プリンセス号船内でのずさんな感染対策 岩田健太郎教授が指摘
2020年2月22日

 昨年12月に中国湖北省武漢で新型コロナウイルス(COVID-1 9)の発生が報告されて以来、日本をはじめ世界各地で感染の報告が続いている。日本では横浜港に着岸した大型クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」(英国船籍)船内での集団感染が確認され、感染者の医療機関への搬送が連日続いている。また、ウイルス検査で陰性だった3700人は船内に強制隔離され、そのうち乗客443人が14日間の健康観察期間を終えて19日に下船した。船内での感染対策を管轄する厚生労働省が情報を出さないなか、船内に入った専門家が感染者が拡大している船内の感染対策のずさんさについて強い警鐘を鳴らしている。

乗客が撮影した船内の様子

 ダイヤモンド・プリンセス船内にいる新型コロナ感染者数は、5日時点では10人だったが、検査結果が発表されるたびにその数は増し、19日現在で621人以上(うち322人は無症状)にのぼっている。中国以外では最大の感染者数となり、検疫官、看護師、20日には船内で事務作業をしていた厚労省と内閣官房の職員計2人(いずれも30代)にも感染が確認された。また同日、入院して治療中だった乗客の80歳代の男女2人が死亡した。

 このなかで18日、感染症の専門家でアフリカでのエボラ出血熱や中国のSARS発症現場での活動経験を持つ岩田健太郎・神戸大学病院感染症内科教授が、前日に乗船許可をもらって入った船内の光景を「ダイヤモンド・プリンセスはCOVID-19製造機。なぜ船に入って1日で追い出されたのか」と題する動画(後に削除)にして発信した。

 岩田医師は動画の中で、船内に「(日本)環境感染学会が入り、FETP(国立感染症研究所の実地疫学専門家養成コース)が入ったが、あっという間に出て行き」、日本政府が情報を出さないため、「中がどうなっているかよく分からないという状態」であったが、現実には「どこが危なくてどこが危なくないのか全く区別がつかない」「常駐しているプロの感染対策の専門家が一人もいない」悲惨な状態であることを明かして改善を求めた。この告発を受けて政府は「最大限感染が広がらないように対応している」(菅官房長官)と反論し、加藤厚労相も「船内の分離はできている」と正当性を主張したが、現実に乗客や医療従事者の感染に歯止めはかかっていない。以下、岩田医師の報告と指摘を概括して紹介する。

◇−−−−−−◇−−−−−−◇

 感染症対策の現場では、ウイルスがいない「グリーンゾーン」と、ウイルスが存在する可能性がある「レッドゾーン」を明確に分離することが鉄則だ。レッドでは、PPE(防護服)を着用して完全に防護をする。グリーンでは、ウイルスが付着している可能性がある防護服は脱がなければならない。この区分けを明確にし、防護服の着脱もこの間できちんとやることが基本だ。だが、クルーズ船内ではグリーンゾーンで防護服を着て歩いていたり、レッドゾーンでも普通の服のままマスクだけで歩いている人もいる。

 感染の可能性がありながら医療用マスクを付けずに歩いているクルーもいる。また熱のある人が自室から医務室に歩いて行くことも通常で、患者の搬送場所でも感染者の隣を背広の人間が歩いている。レッドとグリーンが混在するという時点で、もう誰が感染してもおかしくない。これは感染症の集団発生に対する対策として一番危険な状態だ。

 船内で従事するDMATや厚労省職員、検疫官たちがPCR(法の検査)で陽性になるのも当然といえる状態だ。私自身も感染の可能性を排除できない。船内のスタッフに聞くと「自分たち感染するなと思っている」といわれて驚いた。感染症の現場でミッションに出るときはまず医療従事者の身を守るというのが大前提であり、自分たちのリスクを放置して患者や一般の人に立ち向かうというのは御法度だからだ。環境感染学会やFETPが入って数日で撤退したのも、彼らがみずからの身を守れないと判断したからではないかと考えられる。

 そもそも常駐しているプロの感染対策の専門家が船内に一人もいない。意志決定をしているのは厚労省の官僚たちで、専門家がいても進言できないし、進言しても聞いてもらえない。私も厚労省のトップに相談すると「なんでお前がこんなところにいるんだ」と冷たい対応をされた。会議で体制の見直しを提言しようとしていたところ、突如連絡が来て「お前は出て行きなさい」ということになった。

 DMATの職員は災害医療チームであり、感染症のプロではない。専門領域が違うので感染対策がわからないのは無理もない。感染を防ぐ方法があるのだが、それが知らされず、彼らは耐え難いほどのリスクの状態にいる。医療従事者である彼らは、帰れば自分たちの病院で仕事をしなければならず、このままでは院内感染が広がってしまいかねない。アフリカや中国と比べても全然ひどい感染対策をしている。アフリカのシエラレオネなんかの方がよっぽどマシだった。

 私は船内に入るまで、日本にCDC(疾病予防管理センター)がないとはいえ「専門家がリーダーシップをとって、もう少しちゃんと感染対策のルールを決めてやっているだろう」と思っていたが現実はまったく違った。感染対策を完全に仕切るチームや指揮系統がなく、すべて厚労省にお伺いを立てなければならない。指揮系統の中心に専門家がいないのだ。

 アフリカでのエボラ対策のときは、感染の予防チームが専門家で構成され、専門家の提案がそのまま意志決定につながっていた。行政や事務方はあくまでロジスティックスな物資や資金を集めてくることでそれをサポートする。専門的な意志決定を官僚自身がとり仕切るという仕組みはない。これが本来あるべき感染対策だ。

 アフリカのエボラ対策と比べてもストラクチャー(構造)が全然できていない。CDCは中国にも韓国にもある。日本にも専門家組織(CDC)をつくって、専門的見地から科学的に正しい対応をするべきであり、そこに政治的な思惑が入らないことが非常に重要だ。

 クルーズ船内で起きていることについて日本政府はまったく情報を出さない。私が2003年のSARSのときに北京にいて大変だったのは中国政府が情報公開を十分にしてくれなかったことだった。だが、そのときですらもう少し情報は出ていた。少なくとも今回の船内のカオス状態よりははるかに楽だった。現在の中国は世界の大国として、今回のウイルスについてもオープンネス(開放性)とトランスペアレンシー(透明性)を大事にしているという風にアピールしている。それがなければ大国としての国際的信用を勝ちとりえないことを理解しているからだ。一方、日本では全く公表されず、専門家チームも派遣されていない。この差を国際社会はものすごく冷たい目で見ている。

 院内感染が起きているかを調べるには、発熱のオンセット(発症日時と温度)を記録して、それから(流行の詳細を示す)カーブをつくっていくという統計手法「エピカーブ」があるが、船内ではそのデータを全然とってないということを知った。PCR検査をした日をカウントしても感染の状態は分からない。モニタリングを続ける必要があり、二次感染が確認されたならば、さらに2週間の隔離を続けなければならない。それを厚労省の方に申し上げたが、まったく対策されていない。対応のまずさがバレるのは恥ずかしいが、それを隠ぺいすることはもっと恥ずかしいことだ。

 米国、カナダ、オーストラリアなどは、ウイルス感染が確認されず下船する自国籍の乗客について、下船後もさらに14日間の隔離を続ける措置を取っている。米国は、熱などの症状が出ず、ウイルスが検出されないことが確認されるまで本国に向かう旅客機への搭乗を認めない方針を示している。

 これは二次感染のリスクが払拭されていないからであり、国際社会が船内における感染対策を信用していないということを意味する。日本政府が基準にしている遺伝子検査では、ウイルスの量が少なく、気管内のウイルス量がさらに少なければ偽陰性になる可能性がある。後になって感染が見えるようになり、その人が感染力を持ち、発症するかもしれない。なのでウイルス検査は無症候の人が感染していないことを保障するものではない。科学的にも論理的にも間違っており、日本国民だけが安全であるという科学的根拠はなにもない。

 だが、日本政府は下船した乗客を最寄り駅に運び、そのまま公共交通機関での帰宅を推奨し、自由行動を認めている。厚労省は「二次感染は起きていない」「対策に成功した」という成功物語に固執し、失敗のシナリオ、つまり想定される最悪の事態に備えることを考えていない。とくにデータも根拠はないが、自分たちが持っている一番楽観的なシナリオを自動的に採用している。それを正当化するためには現実を見ない、データをとらないのが一番いい。そして感染が拡大しても「頑張ったけど仕方なかったよね」といういつもの見解に落ち着く。専門家としては、逆に最悪のシナリオを想定し、同じ間違いでも、より感染が広がらない方の間違いを選択する。

 日本における感染者は非常に限定的であり、日本全国に広がっていない段階で抑え込まなければならない。誰も情報公開しない以上、ここまでやるしかなかった。

 まずはこの悲惨な現実を知っていただき、気の毒な状況にあるダイヤモンド・プリンセスの中の方々、DMATやDPAT(災害派遣精神医療チーム)や厚労省の方々、検疫所の方がもっとちゃんとプロフェッショナルなプロテクションを受けて、安全に仕事ができる環境を整えてもらいたいという自分の問題意識を共有するために動画をあげた。

https://www.chosyu-journal.jp/shakai/15935
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/458.html#c28

[番外地7] 既存の治療薬「アビガン」が有効だとわかっているのに、日本政府は絶対に使用許可を出さない
既存の治療薬「アビガン」が有効だとわかっているのに、日本政府は絶対に使用許可を出さない


 富士フイルム富山化学が富山大学と共同で開発した「ファビピラビル」という薬があり、それは2014年に富士フイルム富山化学の前身で富山市に研究生産拠点を置いていた富山化学工業と、当時富山大学医学部に勤務していた白木公康教授(現在は千里金蘭大学副学長)が共同研究して開発した薬「アビガン」に含まれている成分なのだという。

中国政府は新型コロナウイルス対策として富士フイルム富山化学のインフルエンザ治療薬「アビガン」に含まれる有効成分を使った薬の生産を始めたことや、臨床試験をおこなった結果、副作用が少なく効果が高いこともわかっていると公表している。

 アビガンが脚光を浴びたのは鳥インフルエンザが蔓延したときで、その後もエボラ出血熱を発症した患者に投与したところ完治したり回復に向かったことなども世界的には知られている。これまでの抗インフルエンザ薬は、体内で増殖するウイルスを細胞内に閉じ込め、感染の拡大を防ぐ効果があるのに対して、アビガンはウイルスの増殖そのものを抑え込み、ウイルスの薬に対する耐性もできにくいという特徴を持ち、インフルエンザのみならず多くのウイルスで効果が期待できるという。

 しかし、日本政府も2014年に備蓄用として製造しているにもかかわらず、今回の新型コロナウイルスでは使用を許可していない。一般的にワクチンの開発には何年も要し、出来上がった頃には重症患者は亡くなってしまい、収束しているといったケースも珍しくない。今回のように一刻を争う場面で、特効薬になりうる治療薬があり、臨床結果で副作用も少なく効果が高いこともわかっているというなら、それこそ専門的知見も踏まえた上で、できるかぎり早く使ってみるというのも手だろうと思う。投与されても死なないなら、投与されずに死ぬよりもマシだろうにと−−。


白木教授もテレビ番組に出てきて「わたしがつくったアビガンを使ったらいい」と自信のある面持ちでのべていたし、なぜ使わせないのだろう? 
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/498.html

[番外地7] 既存の治療薬「アビガン」が有効だとわかっているのに、日本政府は絶対に使用許可を出さない 中川隆
1. 中川隆[-13608] koaQ7Jey 2020年2月22日 18:11:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-126]
既存の治療薬「アビガン」が新型コロナウイルスに有効だとわかっているのに、日本政府は絶対に使用許可を出さない
 富士フイルム富山化学が富山大学と共同で開発した「ファビピラビル」という薬があり、それは2014年に富士フイルム富山化学の前身で富山市に研究生産拠点を置いていた富山化学工業と、当時富山大学医学部に勤務していた白木公康教授(現在は千里金蘭大学副学長)が共同研究して開発した薬「アビガン」に含まれている成分なのだという。中国政府は新型コロナウイルス対策として富士フイルム富山化学のインフルエンザ治療薬「アビガン」に含まれる有効成分を使った薬の生産を始めたことや、臨床試験をおこなった結果、副作用が少なく効果が高いこともわかっていると公表している。

 アビガンが脚光を浴びたのは鳥インフルエンザが蔓延したときで、その後もエボラ出血熱を発症した患者に投与したところ完治したり回復に向かったことなども世界的には知られている。これまでの抗インフルエンザ薬は、体内で増殖するウイルスを細胞内に閉じ込め、感染の拡大を防ぐ効果があるのに対して、アビガンはウイルスの増殖そのものを抑え込み、ウイルスの薬に対する耐性もできにくいという特徴を持ち、インフルエンザのみならず多くのウイルスで効果が期待できるという。

 しかし、日本政府も2014年に備蓄用として製造しているにもかかわらず、今回の新型コロナウイルスでは使用を許可していない。一般的にワクチンの開発には何年も要し、出来上がった頃には重症患者は亡くなってしまい、収束しているといったケースも珍しくない。今回のように一刻を争う場面で、特効薬になりうる治療薬があり、臨床結果で副作用も少なく効果が高いこともわかっているというなら、それこそ専門的知見も踏まえた上で、できるかぎり早く使ってみるというのも手だろうと思う。投与されても死なないなら、投与されずに死ぬよりもマシだろうにと−−。
白木教授もテレビ番組に出てきて「わたしがつくったアビガンを使ったらいい」と自信のある面持ちでのべていたし、なぜ使わせないのだろう?
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/498.html#c1
[近代史3] アメリカ民謡 「シェナンドー」 中川隆
1. 中川隆[-13607] koaQ7Jey 2020年2月22日 18:28:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-125]

シセル(Sissel、1969年6月24日 - )は、ノルウェー出身の女性歌手。

もともと母国・ノルウェーで国民的歌手として人気があったが、近年は「クリスタル・ボイス」とも評せられる透明感溢れる歌声と安定した歌唱力が世界的に高い評価を受け、国際的に広く精力的な音楽活動を続けている。

もともとシセル・シルシェブー(Sissel Kyrkjebø)名義で長らく活動を続けてきたが、近年はファーストネームのみで登場する事が多くなった。

略歴
1969年6月24日、ノルウェー西岸に位置する第2の都市ベルゲンに生まれる。8歳の時に聖歌隊に入り、徐々に歌唱力を磨く。やがてその歌唱力がノルウェー内で評判となり、1985年、アルバム「シセル」でCDデビュー、一躍国民的人気歌手となる。

そして1994年、リレハンメル冬季オリンピックで同オリンピックのテーマ曲“Fire in your Heart”を歌うと共に、開会式と閉会式で「オリンピック賛歌」の冒頭部分を民族衣装姿でアカペラで独唱。その澄んだ歌声が評判となり世界にその存在を知らしめる。さらにプラシド・ドミンゴの目にも止まり、シャルル・アズナヴールを交えてのクリスマス・コンサートが行われるなど、実力派シンガーとしての評価を国際的に急上昇させていく。

更に、1997年には映画「タイタニック」のサウンドトラックで、ヒロインの回想場面で使用されるスキャットを担当するなどして、より存在感を大きな物としており、一方、それまで数多く発売されたアルバムによって、ジャンルもクラシックからポップス、ジャズと幅広く対応できる事も証明している。

日本においても、TBS系のドラマ「Summer Snow」の主題歌や、日産自動車のCMでその歌声はおなじみである。

2003年4月には六本木ヒルズでオープニングのコンサートを行い、2005年9月には京都の仁和寺で開かれた第18回JAL音舞台シリーズに参加している。

デンマーク人のタレントと結婚し、2児の子供を出産したのちは、本国ノルウェーをはじめとする北欧諸国とアメリカ以外では積極的にコンサート活動を行っていないが、来日を待つファンも多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%BB%E3%83%AB
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/928.html#c1

[近代史4] リヒャルト・シュトラウス

リヒャルト・シュトラウス


リヒャルト・シュトラウス 『薔薇の騎士』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/881.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/184.html

[近代史4] ヨハン・シュトラウス 2世

ヨハン・シュトラウス 2世


ヨハン・シュトラウス 2世 オペレッタ 『こうもり』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/879.html

ヨハン・シュトラウス 2世 『皇帝円舞曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/878.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/185.html

[近代史4] プフィッツナー

ハンス・プフィッツナー


Pfitzner violin concerto opus 34
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/417.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/186.html

[近代史4] 武満 徹 (1930年10月8日 - 1996年2月20日)

武満 徹 (1930年10月8日 - 1996年2月20日)


武満徹と映画、音と音楽
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/717.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/187.html

[近代史4] エレニ・カラインドルー (Ελένη Καραΐνδρου、1941年11月25日 - )

エレニ・カラインドルー (Ελένη Καραΐνδρου、1941年11月25日 - )


エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/718.html  
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/188.html

[近代史4] 武満 徹 (1930年10月8日 - 1996年2月20日) 中川隆
1. 中川隆[-13606] koaQ7Jey 2020年2月22日 22:35:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-124]

日本 - クラシック音楽 一口感想メモ
武満 徹(たけみつ とおる、1930 - 1996)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC


日本人作曲家の中ではダントツに有名。
現代音楽だが、聴きやすいため普通のクラシックファンでも良さはすぐに分かると思う。
海外の現代音楽よりも日本人の感性によく合っていて、音からイメージされるものが明確というのもあり、すぐに入り込めると思う。

管弦楽曲

弦楽のためのレクイエム 1957 弦楽


黒い絵画 レオノーレ・フィニによせて 1958 Orch


樹の曲 1961 Orch


環礁 1962 S,Orch


弦楽器のためのコロナII 1962 弦楽


地平線のドーリア 1964 Orch


グリーン 1967 Orch


冬 1971 Orch


マージナリア 1976 Orch


鳥は星形の庭に降りる 1977 Orch


ア・ウェイ・ア・ローンII 1981 弦楽


夢の時 1981 Orch


雨ぞふる 1982 Orch


星・島(スター・アイル) 1982 Orch


夢窓 1985 Orch


トゥイル・バイ・トワイライト ―モートン・フェルドマンの追憶に― 1988 Orch


トゥリー・ライン 1988 Orch


ヴィジョンズ(I神秘 II閉じた眼) 1990 Orch


マイ・ウェイ・オブ・ライフ ―マイケル・ヴァイナーの追憶に― 1990 Br,cho,Orch


ハウ・スロー・ザ・ウィンド 1991 Orch


系図 ―若い人たちのための音楽詩― 1992 ナレーター,Orch


群島S. 1993 Orch


精霊の庭 1994 Orch

協奏的作品

シーン 1959 vc,弦楽


弧(アーク) 1963-76 pf,Orch


テクスチュアズ 1964 pf,Orch


ノヴェンバー・ステップス 1967 琵琶,尺八,Orch


アステリズム 1968 pf,Orch


クロッシング 1969 cho,gt,hp,vib,pf,Orch


ユーカリプスI 1970 fl,ob,hp,弦楽


カシオペア 1971 perc,Orch


ジェモー 1971-86 ob,tbe,Orch


秋 1973 琵琶,尺八,Orch


ジティマルヤ 1974 mar,Orch


カトレーン 1975 cl,vn,vc,pf,Orch


遠い呼び声の彼方へ! 1980 vn,Orch


海へII 1981 fl,hp,弦楽


夢の縁へ 1983 gt,Orch


虹へ向かって、パルマ 1984 ob-d'amore,gt,Orch


オリオンとプレアデス(犂と昴) 1984 vc,Orch


リヴァラン 1984 pf,Orch


ウォーター・ドリーミング 1987 fl,Orch


ノスタルジア ―アンドレイ・タルコフスキーの追憶に― 1987 vn,弦楽


ア・ストリング・アラウンド・オータム 1989 va,Orch


フロム・ミー・フローズ・ホワット・ユー・コール・タイム 1990 perc,Orch


ファンタズマ/カントス 1991 cl,Orch


夢の引用 ―Say sea,take me!― 1991 2pf,Orch


セレモニアル ―An Autumn Ode― 1992 笙,Orch


ファンタズマ/カントスII 1994 tbe,Orch


スペクトラル・カンティクル 1995 vn,gt,Orch

邦楽曲

蝕(エクリプス) 琵琶,尺八 1966


室内楽曲

弦楽四重奏のための作品

ランドスケープ 1960 SQ


ア・ウェイ・ア・ローン 1980 SQ

その他

オリオン(犂) 1984 vc,pf


そして、それが風であることを知った 1992 fl,hp,va

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/187.html#c1

[近代史4] フランツ・リスト

フランツ・リスト


フランツ・リスト 『ラ・カンパネラ』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/880.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/189.html

[近代史3] ブルッフ 『スコットランド幻想曲』
マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ 『スコットランド幻想曲』


Bruch: Scottish Fantasy, Heifetz & Steinberg (1947)




Jascha Heifetz (1901-1987), Violin
William Steinberg (1899-1978)(Hans Wilhelm Steinberg), Conductor
RCA Victor Symphony Orchestra


Rec. 12 September 1947, at RCA Studio, in Hollywood


________


Bruch Scottish Fantasy, Op. 46 - Heifetz, violin




Orchestre National de France
______


MAX BRUCH - "Scottish Fantasy", Orchestra and Violin, Op. 46 - Heifetz/Sargent/New London Symphony





Jascha Heifetz (1901-1987), Violin
Sir Harold Malcolm Watts Sargent (1895-1967), Conductor
New Symphony Orchestra of London


Rec. 15 & 22 May 1961, at Walthamstow Town Hall, in London


ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn)、マルコム・サージェント指揮ロンドン新響(1961年録音/RCA盤) 


何という艶やかな音色と鮮やかなテクニック!
ヴィルトゥオーゾ風な演奏はこの曲には向かないと思って来ましたが、ここまで見事に演奏されると降参です。確かにスコットランドの素朴な風景や自然とは異なるかもしれませんが、飄々とした雰囲気でベタベタ粘着するわけではありません。
圧巻は終楽章で、さながらサラサーテの様ですが、余りの凄さに唖然とするばかりです。
この曲の代表盤としてはお勧めしませんが、二枚目以降の必聴盤として強く推します。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-e901.html


▲△▽▼


Oistrakh Bruch-Scottish Fantasy in E-flat Major Op. 46





David Oistrakh: violin
London Symphony Orchestra
Jascha Horenstein: conductor


Recorded on September 24, 1962 in Walthamstow Assembly Hall


▲△▽▼


Arthur Grumiaux, Bruch Scottish Fantasy Op.46, Heinz Wallberg




Arthur Grumiaux, Violin
New Philharmonia Orchestra
Heinz Wallberg, Conductor


アルトゥール・グリュミオー(Vn)、ハインツ・ワルベルク指揮ニュー・フィルハーモニア管(1973年録音/フィリップス盤) 


グリュミオーはとても美しく端正な演奏を聴かせます。ビルトゥオーゾ風でないのがこの人の魅力です。旋律を柔らかく美しく歌わせる点でこの曲の良さを際立たせていると思います。ただし終楽章ではテンポが遅すぎて躍動感に欠ける感が無きにしも非ずです。ワルベルクのオケ伴奏は非常に立派で素晴らしいです。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-e901.html


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Kyung-Wha Chung : Bruch - Scottish Fantasy, Op.46 2012


Kyung-Wha Chung, violin
Seoul Philharmonic Orchestra
Myung-Whun Chung, conductor
Jan.08, 2012 / Sejong Center, Seoul


_______


Scottish Fantasia - Kyung Wha Chung 1972




Kyung Wha Chung - Violin
Royal Philharmoic Orchestra
Rudolf Kempe


チョン・キョンファ(Vn)、ルドルフ・ケンぺ指揮ロイヤル・フィル(1972年録音/DECCA盤) 


この曲は余りにたっぷりと歌われると甘さが過多になって爽やかさが失われてしまいます。大家が演奏すると往々に陥りやすいです。ドイツの森では無く、北国スコットランドの景色を目の当たりにするような空気感が欲しいのです。


その点、若きキョンファのバイオリンは実に端正で余分な脂肪分が無く、凛とした雰囲気がこの曲にうってつけです。懐かしい歌い方といい、リズムの切れの良さと言い、正に最高です。更に名匠ケンぺのオケ伴奏も実に素晴らしく、それほど優秀でもないロイヤル・フィルからうっとりとするような美しい演奏を引き出しています。この演奏は、この曲の不滅の名盤だと思います。
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-e901.html


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スコットランド幻想曲(Schottische Fantasie)作品46は、マックス・ブルッフが1879年から1880年にかけて作曲したヴァイオリン独奏とオーケストラのための協奏的作品である。


正式な題名は「スコットランド民謡の旋律を自由に用いた、管弦楽とハープを伴ったヴァイオリンのための幻想曲」(Fantasie für Violine mit Orchester und Harfe, unter freier Benützung Schottisher Volksmelodien)。


作曲当初は「スコットランド協奏曲(Scottische Konzert)」、「ヴァイオリン協奏曲第3番」などと呼ばれることもあった。


パブロ・デ・サラサーテのために作曲され、サラサーテに献呈されたが、初演は1881年2月22日に、作曲上のアドバイスを行ったヨーゼフ・ヨアヒムの独奏で、ブルッフ指揮のリヴァプール・フィルハーモニー協会によって行われた。


作品は好評を博したが一時演奏機会は減り、この作品が世界的に知られるようになったのは、後にヤッシャ・ハイフェッツが愛奏し1947年に世界初録音を行ってからのことであった。


作曲当時ブルッフはスコットランドを訪れたことはなく、スコットランド民謡との出会いは『スコットランド音楽博物館』(Scots Musical Museum)という曲集によるものである。スコットランドの歌を収集したこの全6巻、599曲からなる曲集は、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズが、エディンバラの音楽学者・音楽出版者ジェームズ・ジョンソン(James Johnson)とともに編集し、1787年から1803年にかけて出版されたものである。


楽器編成


独奏 ヴァイオリン、 フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、シンバル、バスドラム、ハープ、弦五部


曲の構成


序章と4つの楽章からなり、演奏時間は30分前後。
スコットランドの伝統へのオマージュとして、ブルッフはハープに重要な役割を与えている。


序章 グラーヴェ
変ホ短調、4/4拍子。低音のコラール風の旋律に始まり、甘美だが物悲しいテーマが独奏ヴァイオリンによって奏でられる。


第1楽章 アダージョ・カンタービレ
変ホ長調、3/4拍子。序章がフェルマータによって終わるとすぐにこの楽章に入り、管弦楽の前奏に続いてスコットランド民謡の "Thro' The Wood, Laddie"(森を抜けて、若者よ)[1]を基調としたメロディーが奏でられる。この主題は後の楽章にも顔を出し、全曲の統一を高めている。


第2楽章 アレグロ 
ト長調、2/3拍子。ソナタ形式。舞曲風の生き生きしたリズムになり、バグパイプを思わせる空虚五度に乗ってソロヴァイオリンが "Dusty Miller"(粉まみれの粉屋)をもとにした旋律を奏でる。最後に第1楽章の主題が回想され、次の楽章に切れ目なく続く。


第3楽章 アンダンテ・ソステヌート
変イ長調、4/4拍子。三部形式。"I'm a Doun for Lack O'Johnnie"(ジョニーがいなくてがっかり)をもとにした親しみやすいメロディーが歌われる。


第4楽章 フィナーレ アレグロ・グゥエリエロ[2]
変ホ長調、4/4拍子。ソナタ形式。冒頭の主題は、スコットランドの非公式な国歌の一つである "Scots wha hae"(スコットランドの民よ)[3]を変形したものである。この主題とハ長調で提示される抒情的な主題の2つが華やかに変奏、展開されていく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/スコットランド幻想曲

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/935.html

[近代史4] ブルッフ

マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ(Max Christian Friedrich Bruch, 1838年1月6日 - 1920年10月2日)


ブルッフ 『スコットランド幻想曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/935.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/190.html

[近代史3] ブルッフ 『スコットランド幻想曲』 中川隆
1. 中川隆[-13605] koaQ7Jey 2020年2月23日 00:57:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-123]

2011年8月16日
〜サマースペシャル・名曲シリーズ〜 ブルッフ 「スコットランド幻想曲」op.46 名盤
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-e901.html

ブルッフはドイツの作曲家ですが、ベルリンの音楽大学の教授でもあったので、生徒の中には日本の山田耕作なんかも居ました。

ブルッフの一番有名な作品は「ヴァイオリン協奏曲第1番」で、僕もとても好きな曲です。けれども、同じヴァイオリン協奏曲のスタイルをとりつつも、もっと自由に書いた名作が「スコットランド民謡の旋律を自由に用いた、管弦楽とハープを伴ったヴァイオリンのための幻想曲」です。これでは余りに長過ぎるので、通常は「スコットランド幻想曲」と呼ばれます。

ブルッフの音楽の基調はドイツ・ロマン派としてのロマンティックな音楽ですが、たとえスコットランド民謡を使わなくてもどことなく爽やかな雰囲気を持っています。「ヴァイオリン協奏曲第1番」も、やはりそうでした。ですので「スコットランド幻想曲」ともなると本当に涼しげな空気感が一杯に広がります。爽やかで懐かしいメロディが幻想的な雰囲気の中に次々に現れてきます。民族楽器のバグパイプを模した和音なんかも登場します。

演奏会で取り上げられる機会が決して多いとは言えませんが、珠玉の一品と呼べる素敵な曲なのです。もしもこの曲を聴かれたことが無い方は、是非ともお聴きになられてほしい名曲です。

元々出ているCDの種類もそれほど多くは有りませんが、僕の愛聴盤をご紹介してみます。

ヤッシャ・ハイフェッツ(Vn)、マルコム・サージェント指揮ロンドン新響(1961年録音/RCA盤) 

何という艶やかな音色と鮮やかなテクニック!
ヴィルトゥオーゾ風な演奏はこの曲には向かないと思って来ましたが、ここまで見事に演奏されると降参です。確かにスコットランドの素朴な風景や自然とは異なるかもしれませんが、飄々とした雰囲気でベタベタ粘着するわけではありません。
圧巻は終楽章で、さながらサラサーテの様ですが、余りの凄さに唖然とするばかりです。
この曲の代表盤としてはお勧めしませんが、二枚目以降の必聴盤として強く推します。

チョン・キョンファ(Vn)、ルドルフ・ケンぺ指揮ロイヤル・フィル(1972年録音/DECCA盤) 

この曲は余りにたっぷりと歌われると甘さが過多になって爽やかさが失われてしまいます。大家が演奏すると往々に陥りやすいです。ドイツの森では無く、北国スコットランドの景色を目の当たりにするような空気感が欲しいのです。

その点、若きキョンファのバイオリンは実に端正で余分な脂肪分が無く、凛とした雰囲気がこの曲にうってつけです。懐かしい歌い方といい、リズムの切れの良さと言い、正に最高です。更に名匠ケンぺのオケ伴奏も実に素晴らしく、それほど優秀でもないロイヤル・フィルからうっとりとするような美しい演奏を引き出しています。この演奏は、この曲の不滅の名盤だと思います。


アルトゥール・グリュミオー(Vn)、ハインツ・ワルベルク指揮ニュー・フィルハーモニア管(1973年録音/フィリップス盤) 

グリュミオーはとても美しく端正な演奏を聴かせます。ビルトゥオーゾ風でないのがこの人の魅力です。旋律を柔らかく美しく歌わせる点でこの曲の良さを際立たせていると思います。ただし終楽章ではテンポが遅すぎて躍動感に欠ける感が無きにしも非ずです。ワルベルクのオケ伴奏は非常に立派で素晴らしいです。

サルヴァトーレ・アッカルド(Vn)、クルト・マズア指揮ライプチヒ・ゲヴァントハウス管(1977年録音/フィリップス盤) 

パガニーニを得意とするアッカルドですが、意外なほどの名演です。
テクニックは完ぺきですが、ハイフェッツほどヴィルトゥオーゾ風には聞こえません。
むしろじっくりゆったり音楽の情緒を味合わせてくれます。マズア/ゲヴァントハウスの音の立派さも特筆ものです。基本的にはドイツ風の厚い響きですが、暗い音色が北欧の曇った空と空気を連想させます。


五嶋みどり(Vn)、ズービン・メータ指揮イスラエル・フィル(1993年録音)

 五嶋みどりの初期の録音です。カップリングのシベリウスでは透徹した曲の魅力が十分に表現できているとは思えませんでしたが、どちらかというとブルッフの方が楽しめます。若さに似合わずどっしりとした恰幅の良さを感じますし、技術的にも安心感が有ります。歌心にも不足しません。ただ、大げさではありませんが軽いポルタメントが頻出するので甘めの口当たりとなり、全体的に北欧のクールな空気をあまり感じさせません。それはメータとオーケストラにも同様なことが言えます。従って個人的には上位に置くのはためらわれる演奏です。


諏訪内晶子(Vn)、ネヴィル・マリナ―指揮アカデミー室内管(1996年録音/フィリップス盤) 

わが愛しの晶子様、24歳の時のCDデビュー録音です。
演奏本位で言えば、キョンファ盤以外は何も要らないとさえ言いたいところですが、プレイヤー本位(というかCDジャケット本位?)ということでは、やはり晶子様です。当時のお嬢様も今ではすっかり大人の女性になり、私生活や脱税問題で色々と叩かれて苦労しているようなので気の毒です。しかし、この演奏は彼女のスリムな体形のように脂肪分少なく爽やかです。変に甘ったるくならないのがこの曲にピッタリです。マリナーの指揮が同様の素晴らしさです。オケの音が余りに美しいのでBGMっぽく感じないでも無いですが、それぐらい北欧の空気感を漂わせていて爽やかだということです。


コメント


この頃のチョン・キョンファの演奏は本当に素晴らしいですね。
キレがあって、気迫があって、聴いていると日本刀の美しさに通ずるものを感じます。
これから、久しぶりに聴いてみようと思います。
投稿: メタボパパ | 2011年8月16日 (火) 14時14分

おっしゃられるように、この頃のキョンファは切れの良さで、日本刀の名刀のような印象でしたね。
僕も今日、久しぶりに聴き直してみてに本当に素晴らしいと思いました。
投稿: ハルくん | 2011年8月16日 (火) 14時24分

スコットランド幻想曲ですか、中々、いい曲ですね。
私が持っている録音は、オイストラフ(vn)、ホーレンシュタイン指揮のものです。
諏訪内氏は、チャイコフスキー・コンクールで優勝した頃の映像が最も好きです。あの頃は可愛らしかったのですが。
投稿: matsumo | 2011年8月16日 (火) 17時47分

諏訪内さんがチャイコフスキー・コンクールで優勝した頃は、本当に可憐で可愛かったですね。自分的には、すっかり大人の女として熟した最近の雰囲気が大好きです。疲れ加減の表情がたまりません。
投稿: ハルくん | 2011年8月16日 (火) 18時30分


会社が終わり、家に帰って、「スコットランド幻想曲」を探した結果、ハルくんの愛聴盤のチョン・キョンファとオイストラッフ独奏、ロジェントヴェンスキー指揮盤(Brilliant)の二種所有でした。
コンチェルト第一番を六種所有していることを考えると、スコットランド幻想曲も少し買いたさないといけないですね。
さて、曲の方ですが、チョン・キョンファ大好きですので、昔からよく聴いていましたが、メロディーが印象的で、曲名のとおり、ファンタジーですよね。
演奏もチョン・キョンファは、素晴らしく文句なしでしょう。曲のファンタジー的要素を余すことなく伝えていると思います。
なお、オイストラッフの演奏は録音に恵まれていませんが、情緒的な部分で、ぐっとテンポを落とし、ゆったりと歌い上げています。
投稿: ひらけん | 2011年8月22日 (月) 22時47分

チョン・キョンファ盤の演奏は本当に素晴らしいですね。若さゆえの瑞々しさと曲とが実にマッチしています。
オイストラッフには、ロジェントヴェンスキー盤も有ったのですね。知りませんでした。
この曲は元々それほど録音の数が多いわけではありませんので、幾つもそろえるのは案外難しいかもしれません。
投稿: ハルくん | 2011年8月22日 (月) 23時08分


曲名を見た瞬間、おっ!と思いましたが、やはり出ましたね(晶子様)( ̄ー ̄)ニヤリ
こんなふうに「さわやか」に弾くか、キョンファの初版のように情熱的に弾くか、どちらもよいですね。
投稿: かげっち | 2011年8月25日 (木) 13時16分

アハハ、よまれましたか。晶子嬢!(笑)
先日、脱税と騒がれた彼女ですが、実際は海外公演の収入を日本で申告していなかっただけです。税金は海外で支払い済みなので、申告すれば本来対象から控除されるんだそうです。一部の報道で、彼女が一般から非難されるのはとても気の毒に思います。やっぱり僕が傍に付いていてあげなくては駄目なのかなァ。(笑)
投稿: ハルくん | 2011年8月25日 (木) 22時05分


先だって『オーケストラの森』の尾高氏を記事にしていただきましたが、放送されなかった分を含めて、本日BSで2時間枠で改めて放送がありました。そのカットされた部分が何と…晶子様のブルッフの1番だったのですよ!

真っ赤なドレスの晶子様、素敵でしたよん。
前から思ってたけど、2楽章って『亜麻色の髪の乙女』に似てるメロディーがありますよね(もち、ドビュッシーじゃないヴィレッジシンガーズの方)黒髪の乙女の晶子様にお似合いの曲でしたっす。
いつもより尾高さんが、ニヤけていたり晶子様に向ける視線が多くないか心配しましたが、そんな事はありませんでした。流石にチューさん、人間が出来てます!
今でもピアニストのゆきこさんとラブラブなのかしら?
奥様とは学生時代からのお付き合いと聞いた気がします。
ハルくん、BS契約解除して残念でしたね〜↓
投稿: From Seiko | 2011年8月28日 (日) 10時32分


Seikoさん、こんにちは。
えっ、なななんと晶子様をカット!
それは正に許しがたいです!
最近の彼女ならば、きっとチョン・キョンファにも負けぬ名演だったに違いないので、聴きたかったぁ〜(涙)
BS契約せずに失敗しました!
それにしても、真っ赤なドレスの晶子さま・・・夢に出て来そうです。夢に出てきたら、今度こそちゃんとプロポーズします。過去の過ちは繰り返しません!(←って、また妄想が始まった!??)(笑)
しかし、あんな美人を前にして毅然としたチューさんは尊敬ものですね。やはり素晴らしい人です。
2楽章の「亜麻色の髪の乙女」のメロディですね。よく分かりますよ。
「皇帝」第1楽章の「上を向いて歩こう」並みに似ています。
投稿: ハルくん | 2011年8月28日 (日) 18時33分
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-e901.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/935.html#c1

[近代史3] ブルッフ 『スコットランド幻想曲』 中川隆
2. 中川隆[-13604] koaQ7Jey 2020年2月23日 00:58:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-122]

マックス・クリスティアン・フリードリヒ・ブルッフ(Max Christian Friedrich Bruch, 1838年1月6日 - 1920年10月2日)は、ケルンに生まれベルリンで没したドイツの作曲家、指揮者、教育者。

教師で有名な歌手であった母親から教育を受け、音楽、特に作曲に早くから才能を示した。

ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調が、ロマン派の協奏曲として特に有名でよく演奏される。
他にもヴァイオリンと管弦楽のための『スコットランド幻想曲』や、チェロと管弦楽のための『コル・ニドライ』がしばしば演奏される。
近年では、『クラリネットとヴィオラのための二重協奏曲』も人気を得て来ている。


来歴

1853年(15歳) - フェルディナント・ヒラーとカール・ライネッケに作曲を学ぶ。
1865年(27歳) - コブレンツの音楽監督に就任する。
1867年(29歳) - ゾンダースハウゼン(ドイツ語版、英語版)の宮廷楽長を務める。
1880年(42歳) - イギリスに渡り、リヴァプール・フィルハーモニー協会の首席指揮者を務める。
1881年(43歳) - ソプラノ歌手クララ・トゥチェック(Clara Tuczek)と結婚する。クララとは後に4人の子供をもうける。
1883年(45歳) - ブレスラウ演奏協会長に就任する。
1891年(53歳) - プロイセン芸術アカデミー作曲部長、ベルリン高等音楽院教授に就任する。
1893年(55歳) - ケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られる[1]。
1907年(69歳) - 芸術アカデミーの副総裁に就任する。
1910年(72歳) - 芸術アカデミーの職を退く。
1918年(80歳) - ベルリン大学から神学と哲学の名誉博士号を贈られる。
1920年(82歳) - ベルリンのフリーデナウ(ドイツ語版)で没する。


作風

ブルッフの作品を第一に特徴づけているのはその旋律性である。
ブルッフは魅力的な旋律を生み出すことに長けており、それはほぼ全ての作品を覆い、親しみやすいものにしている。「旋律は音楽の魂である」「旋律を歌うのに向いていないピアノにはさほど興味を持てない」という趣旨の発言も行っている。

もう一つの特徴は、民族音楽への興味である。ブルッフは「歌というものに対して不親切な時代における、ひとつの光明」として、ヨーロッパの様々なうたに興味を持ち、《スコットランド幻想曲》や《コル・ニドライ》をはじめとする複数の作品で民俗的な要素を取り入れている。

当時の音楽界では、ブラームスの《ハンガリー舞曲集》やアントニン・ドヴォルザークの《スラヴ舞曲集》のヒット(ブルッフも同様に出版社ジムロックに依頼されて《スウェーデン舞曲集》作品63を書いている)からも分かるように民俗的な題材への興味が高く、ブルッフがその分野に関わったことは彼の名声を高めた理由の一つでもあった。

語法の一貫性も特筆される。ブルッフの音楽的理想はその活動の最初期に確立され、20世紀に入り第一次世界大戦を経験する最晩年までその態度を変化させることはなかった。

彼はロマン派音楽の中でも古典的な理想を掲げており、フェリックス・メンデルスゾーンやロベルト・シューマン、友人でありライバルでもあったヨハネス・ブラームスへの尊敬は終生変わることがなかった。

それに対しフランツ・リストやリヒャルト・ワーグナーら「新ドイツ楽派」へは明らかな敵意を持っていた。

生前のブルッフは合唱音楽の分野を中心に精力的に活動を行い人気を博したが、後年前述した少数の作品を除いて急速に忘れ去られ、今に至るまで復権はなされていない。

その理由の一つは、彼のスタイルが晩年には完全に時代遅れになっていたことであり、リヒャルト・シュトラウスやマックス・レーガーら新しい世代には激しい攻撃を加えたことも、反動家としての彼の評判を広めることになった。また、ユダヤの題材を用いた作品で成功を収めたためにユダヤ人の血を引くのではないかと疑われ、1935年にナチス政府によって上演禁止となっていることも、彼の作品の演奏機会を少なくする理由であった。なお、ブルッフの祖先がユダヤ人だったという説はブルッフ本人や複数の家族が否定しており、確かな証拠は何もない。

主な作品

交響曲

交響曲第1番 変ホ長調 作品28
交響曲第2番 ヘ短調 作品36
交響曲第3番 ホ長調 作品51

協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)

クラリネット、ヴィオラと管弦楽のための協奏曲 ホ短調 作品88
2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 変イ短調 作品88a
ヴァイオリン協奏曲第1番 ト短調 作品26
ヴァイオリン協奏曲第2番 ニ短調 作品44
ヴァイオリン協奏曲第3番 ニ短調 作品58
スコットランド幻想曲 作品46(1880年)
ヴァイオリンと管弦楽のためのセレナード 作品75
コル・ニドライ 作品47(チェロと管弦楽のための)
ロマンスヘ長調 作品85(ヴィオラと管弦楽のための)
組曲第3番 作品88b(オルガンと管弦楽のための)

室内楽曲

弦楽八重奏曲 変ロ長調(1920年)
七重奏曲 変ホ長調(クラリネット、バスーン、ホルン、2つのヴァイオリン、チェロ、コントラバスのための)(1849年)
ピアノ五重奏曲(1852年)
ピアノ五重奏曲ト短調(1886年)
弦楽五重奏曲 イ短調(1918年)
弦楽五重奏曲 変ホ長調(1918年)
弦楽四重奏曲第1番 ハ短調 作品9(1859年)
弦楽四重奏曲第2番 ホ長調 作品10(1860年)
ピアノ三重奏曲 作品5(1857年)
ピアノ三重奏曲第1番(1849年)
ピアノ三重奏曲第2番(1852年)
ピアノ三重奏曲第3番(1855年)
8つの小品 作品83(クラリネット、ピアノ、ヴィオラまたはチェロのための)(1910年)

合唱曲

『ユビラーテ・アーメン』作品3(1858年)
『フリトヨフ』作品23(1864年)
『美しきエレン』 作品24(1867年)
『オデュッセウス』 作品41(1872年)
『アルミニウス』作品43(1875年、77年改訂)
『鐘の歌』 作品45(1879年)
『モーゼ』作品67(1895)
『グスタフ・アドルフ』作品73(1898年)
『歌の力』作品87(1912年)

オペラ

『戯れと悪口と復讐』作品1(1858年)
『ローレライ』作品16(1863年)
『ヘルミオーネ』作品40(1871年)


弟子

山田耕筰
レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ
オスカー・シュトラウス
オットリーノ・レスピーギ (異論も存在する)

https://ja.wikipedia.org/wiki/マックス・ブルッフ

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/935.html#c2

[近代史3] ブルッフ 『スコットランド幻想曲』 中川隆
3. 中川隆[-13603] koaQ7Jey 2020年2月23日 00:59:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-121]

ドイツ・オーストリア(1859年まで) - クラシック音楽 一口感想メモ
マックス・ブルッフ(Max Christian Friedrich Bruch, 1838 - 1920)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/ドイツ・オーストリア%281859年まで%29

交響曲

交響曲第1番変ホ長調 作品28
交響曲第2番ヘ短調 作品36
交響曲第3番ホ長調 作品51

協奏的作品(独奏と管弦楽のための作品)

クラリネット、ヴィオラと管弦楽のための協奏曲ホ短調 作品88
2台のピアノと管弦楽のための協奏曲変イ長調 作品88a

ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調 作品26
3.5点
4大協奏曲に迫るロマン派協奏曲の優秀作の一つ。ドイツらしい重厚さと叙情性を兼ね備えた作品でヴァイオリンの甘さと美しさを存分に味わえるが、優等生すぎるもどかしさがある。

ヴァイオリン協奏曲第2番ニ短調 作品44

スコットランド幻想曲 作品46(1880年)
3.8点
メロディーが良く、ヴァイオリンのソロによって張りがあり、楽しんで聞ける。
ロマン派の三大ヴァイオリン協奏曲のような深みは無いのだが、聞く楽しさでは同じ位のレベルかもしれない。

ヴァイオリン協奏曲第3番ニ短調 作品58

『コル・ニドライ』 作品47
2.8点
チェロの協奏曲。甘い思い出を切なく歌うような曲だが、狙いが分かりやす過ぎていまいち。一歩引いて聞いてしまう。
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/ドイツ・オーストリア%281859年まで%29

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/935.html#c3

[近代史4] 中川隆 _ 音楽史関係投稿リンク 中川隆
40. 中川隆[-13602] koaQ7Jey 2020年2月23日 01:12:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-120]

ブルッフ 『スコットランド幻想曲』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/935.html  

パブロ・カザルス カタルーニャ民謡 『鳥の歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/927.html

グリーグ 『ペール・ギュント』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/933.html

グリーグ 『ペールギュント ソルヴェイグの歌』
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/932.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/102.html#c40

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
239. 中川隆[-13601] koaQ7Jey 2020年2月23日 09:47:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-116]

ドル円急騰の理由と新型肺炎の株式市場への影響
グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート2020年2月23日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8802

中国武漢発の新型コロナウィルス肺炎も含め、色々なことが重なっているようである。今回はここ数日のドル高の理由について触れてみたい。

さて、2月19日から20日にかけて為替相場がドル高円安に急に振れた。チャートは次のようになっている。

より正確に言えばドル高であり、円安ではない。ユーロドルのチャートは以下のようになっている。ドル円とは逆で下方向がドル高である。

ユーロドル的には2月の始めからドル高だったのである。むしろ円はそれほどドル高にならず耐えていたのが、ここ数日で決壊したと言えるだろう。

ドル高の原因

何故ドル高になっているのかと言えば、ドルに資金が流れているからである。何故ドルに資金が流れているのかと言えば、2018年の世界同時株安以降はそういう相場だからである。

世界中の資金が米国市場に集まっている。先進国で高成長を維持しているのはアメリカだけであり、中国などの新興国もぱっとしない上に新型肺炎の追い打ちまで来ている。アメリカしか投資先がないのである。米国市場が一本調子で上がり続けていることと今回のドル高とは相関がある。アメリカが実質的に行っている量的緩和で流し込まれた資金が国外に流れずに米国市場でバブルを引き起こし、世界中の資金がそれに乗っているのである。この流れに上手く乗ったのが、例えばドラッケンミラー氏だろう。

•ドラッケンミラー氏の買っている米国株個別銘柄(Form 13F)

ドラッケンミラー氏のポートフォリオはアメリカを中心としたリスクオンに特化している。彼は政治信条としては量的緩和を厳しく批判しているから、バブルと分かった上で乗っているのだろう。

•ドラッケンミラー氏: 金融緩和こそがデフレの元凶

誤解を恐れずに言えば、ドル円のこの上がり方は2018年の世界同時株安直前の日経平均に似ている。当時のチャートがこれである。

こうした動きは実際にバブルを示す1つの指標なのである。しかし2018年では市場全体がそうした兆候を示したため世界同時株安を予想できたが、今回はそうした兆候はない。よって現状では下落しても大暴落にはならないという年始の予想を維持したい。

また、ドル円は金曜日には下落しているが、それは米国株が下がったからである。以下は米国の株価指数S&P 500のチャートである。

米国株下落の理由

さて、では何故金曜日に米国株が下がったかだが、新型コロナウィルス肺炎が中国国外で広がりつつあるからである。このリスクについてはここ1ヶ月忠告し続けているので、ここの読者にとっては今更だろう。市場はようやく気づいたようである。

特に広がっているのは韓国、日本、イタリアである。それぞれ感染者数を挙げてみよう。

•韓国: 433人
•日本: 134人
•イタリア: 79人

これらの国はここ数日で患者数が急増している。

特に日本での感染拡大については再三警告しておいた。信用してはならないのは中国の数字だけではないとはっきり書いてある。

•中国、「統計基準変更」で肺炎患者数1万人以上急増 日本の症例数にも疑問

日本でも感染経路不明の感染が広がっている。感染経路不明ということは、患者数に数えられていない感染者がいるということである。それは上記の記事の段階で明らかだったが、政治家と市場は遅れて気づくのである。

今後の見通し

これからどうなるかだが、新型肺炎については以下の記事でレイ・ダリオ氏が指摘していたように、感染の中心地では株式市場に影響が出、その他の地域では影響は限定的と見るのが妥当だろう。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略

しかしダリオ氏が見逃していたのは、「感染の中心地」が中国だけではなくなるということである。最近の動きで市場にとって一番大きいのはイタリアでの感染だろう。イタリアで感染拡大が進めばヨーロッパ全体に広がる可能性がある。

また、アメリカもファンダメンタルズ的な影響は限られるにしても、これまでのバブル的展開に急ブレーキがかかる可能性はある。しかし投資家としてはやはり新型肺炎に直接影響を受ける銘柄の推移に着目したいところだろう。

•中国武漢の新型コロナウィルス肺炎、株式投資戦略と関連個別銘柄
•中国初新型コロナウィルスで航空株暴落継続、絶好の買い場はいつか
•新型肺炎で原油価格暴落、今後の動向と推移予想
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか

1月から山のように書いてきた。ここまで想定通りの相場展開である。

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8802

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c239

[近代史3] 日本や中国のバブルは簡単に崩壊するけれど、アメリカのバブルだけは絶対に崩壊しない理由 中川隆
49. 中川隆[-13600] koaQ7Jey 2020年2月23日 09:49:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-115]
ドル円急騰の理由と新型肺炎の株式市場への影響
グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート2020年2月23日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8802


中国武漢発の新型コロナウィルス肺炎も含め、色々なことが重なっているようである。今回はここ数日のドル高の理由について触れてみたい。

さて、2月19日から20日にかけて為替相場がドル高円安に急に振れた。チャートは次のようになっている。


より正確に言えばドル高であり、円安ではない。ユーロドルのチャートは以下のようになっている。ドル円とは逆で下方向がドル高である。


ユーロドル的には2月の始めからドル高だったのである。むしろ円はそれほどドル高にならず耐えていたのが、ここ数日で決壊したと言えるだろう。

ドル高の原因

何故ドル高になっているのかと言えば、ドルに資金が流れているからである。何故ドルに資金が流れているのかと言えば、2018年の世界同時株安以降はそういう相場だからである。

世界中の資金が米国市場に集まっている。先進国で高成長を維持しているのはアメリカだけであり、中国などの新興国もぱっとしない上に新型肺炎の追い打ちまで来ている。アメリカしか投資先がないのである。米国市場が一本調子で上がり続けていることと今回のドル高とは相関がある。アメリカが実質的に行っている量的緩和で流し込まれた資金が国外に流れずに米国市場でバブルを引き起こし、世界中の資金がそれに乗っているのである。この流れに上手く乗ったのが、例えばドラッケンミラー氏だろう。

•ドラッケンミラー氏の買っている米国株個別銘柄(Form 13F)

ドラッケンミラー氏のポートフォリオはアメリカを中心としたリスクオンに特化している。彼は政治信条としては量的緩和を厳しく批判しているから、バブルと分かった上で乗っているのだろう。

•ドラッケンミラー氏: 金融緩和こそがデフレの元凶

誤解を恐れずに言えば、ドル円のこの上がり方は2018年の世界同時株安直前の日経平均に似ている。当時のチャートがこれである。


こうした動きは実際にバブルを示す1つの指標なのである。しかし2018年では市場全体がそうした兆候を示したため世界同時株安を予想できたが、今回はそうした兆候はない。よって現状では下落しても大暴落にはならないという年始の予想を維持したい。

また、ドル円は金曜日には下落しているが、それは米国株が下がったからである。以下は米国の株価指数S&P 500のチャートである。


米国株下落の理由

さて、では何故金曜日に米国株が下がったかだが、新型コロナウィルス肺炎が中国国外で広がりつつあるからである。このリスクについてはここ1ヶ月忠告し続けているので、ここの読者にとっては今更だろう。市場はようやく気づいたようである。

特に広がっているのは韓国、日本、イタリアである。それぞれ感染者数を挙げてみよう。

•韓国: 433人
•日本: 134人
•イタリア: 79人

これらの国はここ数日で患者数が急増している。

特に日本での感染拡大については再三警告しておいた。信用してはならないのは中国の数字だけではないとはっきり書いてある。

•中国、「統計基準変更」で肺炎患者数1万人以上急増 日本の症例数にも疑問

日本でも感染経路不明の感染が広がっている。感染経路不明ということは、患者数に数えられていない感染者がいるということである。それは上記の記事の段階で明らかだったが、政治家と市場は遅れて気づくのである。

今後の見通し

これからどうなるかだが、新型肺炎については以下の記事でレイ・ダリオ氏が指摘していたように、感染の中心地では株式市場に影響が出、その他の地域では影響は限定的と見るのが妥当だろう。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略

しかしダリオ氏が見逃していたのは、「感染の中心地」が中国だけではなくなるということである。最近の動きで市場にとって一番大きいのはイタリアでの感染だろう。イタリアで感染拡大が進めばヨーロッパ全体に広がる可能性がある。

また、アメリカもファンダメンタルズ的な影響は限られるにしても、これまでのバブル的展開に急ブレーキがかかる可能性はある。しかし投資家としてはやはり新型肺炎に直接影響を受ける銘柄の推移に着目したいところだろう。

•中国武漢の新型コロナウィルス肺炎、株式投資戦略と関連個別銘柄
•中国初新型コロナウィルスで航空株暴落継続、絶好の買い場はいつか
•新型肺炎で原油価格暴落、今後の動向と推移予想
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか

1月から山のように書いてきた。ここまで想定通りの相場展開である。

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8802

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/121.html#c49

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
73. 中川隆[-13599] koaQ7Jey 2020年2月23日 09:50:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-114]
ドル円急騰の理由と新型肺炎の株式市場への影響
グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート2020年2月23日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8802


中国武漢発の新型コロナウィルス肺炎も含め、色々なことが重なっているようである。今回はここ数日のドル高の理由について触れてみたい。

さて、2月19日から20日にかけて為替相場がドル高円安に急に振れた。チャートは次のようになっている。


より正確に言えばドル高であり、円安ではない。ユーロドルのチャートは以下のようになっている。ドル円とは逆で下方向がドル高である。


ユーロドル的には2月の始めからドル高だったのである。むしろ円はそれほどドル高にならず耐えていたのが、ここ数日で決壊したと言えるだろう。

ドル高の原因

何故ドル高になっているのかと言えば、ドルに資金が流れているからである。何故ドルに資金が流れているのかと言えば、2018年の世界同時株安以降はそういう相場だからである。

世界中の資金が米国市場に集まっている。先進国で高成長を維持しているのはアメリカだけであり、中国などの新興国もぱっとしない上に新型肺炎の追い打ちまで来ている。アメリカしか投資先がないのである。米国市場が一本調子で上がり続けていることと今回のドル高とは相関がある。アメリカが実質的に行っている量的緩和で流し込まれた資金が国外に流れずに米国市場でバブルを引き起こし、世界中の資金がそれに乗っているのである。この流れに上手く乗ったのが、例えばドラッケンミラー氏だろう。

•ドラッケンミラー氏の買っている米国株個別銘柄(Form 13F)

ドラッケンミラー氏のポートフォリオはアメリカを中心としたリスクオンに特化している。彼は政治信条としては量的緩和を厳しく批判しているから、バブルと分かった上で乗っているのだろう。

•ドラッケンミラー氏: 金融緩和こそがデフレの元凶

誤解を恐れずに言えば、ドル円のこの上がり方は2018年の世界同時株安直前の日経平均に似ている。当時のチャートがこれである。


こうした動きは実際にバブルを示す1つの指標なのである。しかし2018年では市場全体がそうした兆候を示したため世界同時株安を予想できたが、今回はそうした兆候はない。よって現状では下落しても大暴落にはならないという年始の予想を維持したい。

また、ドル円は金曜日には下落しているが、それは米国株が下がったからである。以下は米国の株価指数S&P 500のチャートである。


米国株下落の理由

さて、では何故金曜日に米国株が下がったかだが、新型コロナウィルス肺炎が中国国外で広がりつつあるからである。このリスクについてはここ1ヶ月忠告し続けているので、ここの読者にとっては今更だろう。市場はようやく気づいたようである。

特に広がっているのは韓国、日本、イタリアである。それぞれ感染者数を挙げてみよう。

•韓国: 433人
•日本: 134人
•イタリア: 79人

これらの国はここ数日で患者数が急増している。

特に日本での感染拡大については再三警告しておいた。信用してはならないのは中国の数字だけではないとはっきり書いてある。

•中国、「統計基準変更」で肺炎患者数1万人以上急増 日本の症例数にも疑問

日本でも感染経路不明の感染が広がっている。感染経路不明ということは、患者数に数えられていない感染者がいるということである。それは上記の記事の段階で明らかだったが、政治家と市場は遅れて気づくのである。

今後の見通し

これからどうなるかだが、新型肺炎については以下の記事でレイ・ダリオ氏が指摘していたように、感染の中心地では株式市場に影響が出、その他の地域では影響は限定的と見るのが妥当だろう。

•中国新型ウィルス、世界最大のヘッジファンドの投資戦略

しかしダリオ氏が見逃していたのは、「感染の中心地」が中国だけではなくなるということである。最近の動きで市場にとって一番大きいのはイタリアでの感染だろう。イタリアで感染拡大が進めばヨーロッパ全体に広がる可能性がある。

また、アメリカもファンダメンタルズ的な影響は限られるにしても、これまでのバブル的展開に急ブレーキがかかる可能性はある。しかし投資家としてはやはり新型肺炎に直接影響を受ける銘柄の推移に着目したいところだろう。

•中国武漢の新型コロナウィルス肺炎、株式投資戦略と関連個別銘柄
•中国初新型コロナウィルスで航空株暴落継続、絶好の買い場はいつか
•新型肺炎で原油価格暴落、今後の動向と推移予想
•新型肺炎関連銘柄: 国内感染拡大で下落する個別銘柄はどれか

1月から山のように書いてきた。ここまで想定通りの相場展開である。

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8802

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c73

[番外地6] 牧野田 彩(AYA)が AV に出演させられた理由とは 中川隆
174. 中川隆[-13598] koaQ7Jey 2020年2月23日 09:59:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-113]
黒木瞳は“密会報道”で伸し上がり
週刊新潮 2020年2月20日号掲載


 ある出来事と自分の容姿を頼りに、芸能界で伸し上がるための足場を拵(こしら)えたのが、圧倒的な勝ち組の黒木瞳だ。

 1986年1月、写真誌「フォーカス」は、その黒木と“元祖プレーボーイ”と呼ばれた大スター岡田眞澄(50)=当時=との「赤坂プリンスホテルでの逢瀬」を写真に収めて掲載している。この起点となったのは、編集部にかかってきた一本のタレコミ電話だった。

 可愛らしい声の女性が、「岡田と黒木が密会する。ホテルの部屋番号は『3711号室』」とまで伝えてきた。もっとも、編集部内の反応は「黒木瞳? 誰それ」というものばかり。宝塚を辞めたばかりの25歳の無名女優だ。それも仕方がないだろう。

「フォーカス」は、タレコミ電話を取ったカメラマンと記者の2人を密会部屋の隣と向かいの部屋に配置。午後9時20分、パーティー帰りの岡田と彼に寄り添う小柄な女が入室するのを確認した。夜が更け、部屋からはみ出してくるのは「ショーコ、愛してるよ!」の声。

 もっとも、記者やカメラマンは首を傾げる他なかった。「ショーコって誰だ? 瞳じゃないのか?」と。

 翌日の正午頃、岡田が退室した後、程なく、女が姿を現した。目がはっきり見える薄めのサングラスにルイ・ヴィトンのバッグ。記者が彼女の背後から「黒木さん?」と声をかけると、「はい?」と振り向き、カメラマンはシャッターを切った。

 記者が改めて「黒木瞳さんですね?」と確認すると、女は落ち着いて、「取材は事務所を通していただけます?」とだけ残し、エレベーターに消えた。直撃に無名女優がこうも落ち着き払った態度で対応できるだろうか――。カメラマンと記者の頭には幾つもの疑問符が過(よぎ)った。そしてカメラマンは気付くのだった。「あれ、今の女の声、タレコミ電話の声とソックリじゃないか!」

黒木瞳
黒いセクシーなドレスで美貌を披露する黒木瞳


 そして、もうひとつの謎「ショーコ」もやがて解き明かされた。黒木瞳の本名は「江上(旧姓)昭子」だとわかったのだ。

「フォーカス」がこの密会を記事にした折、黒木は、

〈岡田さんには仕事やプライベートなことで相談にのってもらっているんです〉

〈明け方まで話しこんでしまって〉

 と釈明している。

 これを踏み台に黒木はこの年秋、「化身」で鮮烈な映画デビューを果たした。その後の活躍は言うまでもないだろう。

https://www.dailyshincho.jp/article/2020/02230800/?all=1&page=1
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/190.html#c174

[近代史3] マスコミの偽情報 _ CIA は有力メディアを情報操作のために使っている 中川隆
33. 中川隆[-13597] koaQ7Jey 2020年2月23日 10:03:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-112]
《櫻井ジャーナル》 2020.02.23


 今、世界では1パーセントに満たない一部の人間が財力と情報を独占し、彼らにとって都合の悪い情報を明るみに出す行為は犯罪と見なされるようになりつつあります。内部告発を支援してきたウィキリークスのジュリアン・アッサンジが昨年4月にロンドンのエクアドル大使館で逮捕された出来事は、そうした時代の到来を象徴していると言えるでしょう。

 ウィキリークスが明らかにした情報の中には、アメリカ軍のAH-64アパッチ・ヘリコプターが2007年7月にバグダッドでロイターの特派員2名を含む非武装の十数名を銃撃、殺害する場面を撮影したものも含まれていました。

 この映像は2010年4月に公開されましたが、その翌月に資料を提供したブラドレー・マニング(現在はチェルシー・マニングへ改名)特技兵はアメリカ陸軍のCID(犯罪捜査部)に逮捕され、民間情報会社ストラトフォーの内部でやりとりされた電子メールによりますと、2011年初めにアメリカでアッサンジは秘密裏に起訴されています。アッサンジが秘密裏に起訴されていることは後にケレン・ドワイアー検事補が裁判官へ書いた文書で確認されました。

 アメリカで起訴される前、2010年8月にスウェーデンの検察官が警察の求めに応じてアッサンジを指名手配、警察のリーク情報に基づいてタブロイド紙が「事件」を報道、騒ぎになりますが、その翌日に主任検事が嫌疑不十分ということで令状を取り消します。その決定を検事局長が翻しました。

 11月には検察幹部の判断でアッサンジに対する逮捕令状が出ますが、嫌疑なしということで2017年に捜査は中止され、逮捕令状は取り消されました。それにもかかわらずアッサンジの軟禁状態が続いたわけです。

 アメリカはスウェーデンとイギリスの警察、検察、裁判所、メディアなどを使って冤罪でアッサンジを軟禁状態にし、エクアドルの大統領が2017年にラファエル・コレアからレニン・モレノへ交代すると新大統領はアメリカ政府の意向に従ってアッサンジの逮捕に協力しました。その直前、IMFはエクアドルに対する42億ドルの融資を認めると発表しています。

 アッサンジはイギリス版のグアンタナモ刑務所と言われているベルマーシュ刑務所で拘束されました。そこでは友人や親戚の面会が禁止され、弁護チームも監視下で会うことが要求されているほか、食べ物の差し入れや基本的な医療行為も拒否されたといいます。

 尋問しているのはアメリカの国防総省、FBI、CIAに所属している人びとで、BZ(3-キヌクリジニルベンジラート)という薬物が使用されたとも言われています。これを使うと幻覚を生じさせ、現実と幻覚を混乱させるほか、昏睡、物忘れなどを含む意識障害、あるいは運動失調症を引き起こすそうです。

 ウォーターゲート事件で取材の中心になったカール・バーンスタインはリチャード・ニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書きました。その中で彼は20年間にCIAの任務を秘密裏に実行していたジャーナリストは400名以上に達するとしています。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)

 また、ドイツの有力紙、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙の編集者だったウド・ウルフコテは2014年2月にメディアがCIAに操られている実態を明らかにしました。ドイツだけでなく多くの国のジャーナリストがCIAに買収されているというのです。日本は例外だと言うことはできないでしょう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002230000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/330.html#c33

[近代史3] ジュリアン・アサンジはレイプをでっちあげられた 中川隆
2. 中川隆[-13596] koaQ7Jey 2020年2月23日 10:03:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-111]
《櫻井ジャーナル》 2020.02.23


 今、世界では1パーセントに満たない一部の人間が財力と情報を独占し、彼らにとって都合の悪い情報を明るみに出す行為は犯罪と見なされるようになりつつあります。内部告発を支援してきたウィキリークスのジュリアン・アッサンジが昨年4月にロンドンのエクアドル大使館で逮捕された出来事は、そうした時代の到来を象徴していると言えるでしょう。

 ウィキリークスが明らかにした情報の中には、アメリカ軍のAH-64アパッチ・ヘリコプターが2007年7月にバグダッドでロイターの特派員2名を含む非武装の十数名を銃撃、殺害する場面を撮影したものも含まれていました。

 この映像は2010年4月に公開されましたが、その翌月に資料を提供したブラドレー・マニング(現在はチェルシー・マニングへ改名)特技兵はアメリカ陸軍のCID(犯罪捜査部)に逮捕され、民間情報会社ストラトフォーの内部でやりとりされた電子メールによりますと、2011年初めにアメリカでアッサンジは秘密裏に起訴されています。アッサンジが秘密裏に起訴されていることは後にケレン・ドワイアー検事補が裁判官へ書いた文書で確認されました。

 アメリカで起訴される前、2010年8月にスウェーデンの検察官が警察の求めに応じてアッサンジを指名手配、警察のリーク情報に基づいてタブロイド紙が「事件」を報道、騒ぎになりますが、その翌日に主任検事が嫌疑不十分ということで令状を取り消します。その決定を検事局長が翻しました。

 11月には検察幹部の判断でアッサンジに対する逮捕令状が出ますが、嫌疑なしということで2017年に捜査は中止され、逮捕令状は取り消されました。それにもかかわらずアッサンジの軟禁状態が続いたわけです。

 アメリカはスウェーデンとイギリスの警察、検察、裁判所、メディアなどを使って冤罪でアッサンジを軟禁状態にし、エクアドルの大統領が2017年にラファエル・コレアからレニン・モレノへ交代すると新大統領はアメリカ政府の意向に従ってアッサンジの逮捕に協力しました。その直前、IMFはエクアドルに対する42億ドルの融資を認めると発表しています。

 アッサンジはイギリス版のグアンタナモ刑務所と言われているベルマーシュ刑務所で拘束されました。そこでは友人や親戚の面会が禁止され、弁護チームも監視下で会うことが要求されているほか、食べ物の差し入れや基本的な医療行為も拒否されたといいます。

 尋問しているのはアメリカの国防総省、FBI、CIAに所属している人びとで、BZ(3-キヌクリジニルベンジラート)という薬物が使用されたとも言われています。これを使うと幻覚を生じさせ、現実と幻覚を混乱させるほか、昏睡、物忘れなどを含む意識障害、あるいは運動失調症を引き起こすそうです。

 ウォーターゲート事件で取材の中心になったカール・バーンスタインはリチャード・ニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書きました。その中で彼は20年間にCIAの任務を秘密裏に実行していたジャーナリストは400名以上に達するとしています。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)

 また、ドイツの有力紙、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙の編集者だったウド・ウルフコテは2014年2月にメディアがCIAに操られている実態を明らかにしました。ドイツだけでなく多くの国のジャーナリストがCIAに買収されているというのです。日本は例外だと言うことはできないでしょう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002230000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/904.html#c2

[近代史3] マスコミは何時からフェイクニュースを流す様になったのか 中川隆
35. 中川隆[-13595] koaQ7Jey 2020年2月23日 10:04:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-110]
《櫻井ジャーナル》 2020.02.23


 今、世界では1パーセントに満たない一部の人間が財力と情報を独占し、彼らにとって都合の悪い情報を明るみに出す行為は犯罪と見なされるようになりつつあります。内部告発を支援してきたウィキリークスのジュリアン・アッサンジが昨年4月にロンドンのエクアドル大使館で逮捕された出来事は、そうした時代の到来を象徴していると言えるでしょう。

 ウィキリークスが明らかにした情報の中には、アメリカ軍のAH-64アパッチ・ヘリコプターが2007年7月にバグダッドでロイターの特派員2名を含む非武装の十数名を銃撃、殺害する場面を撮影したものも含まれていました。

 この映像は2010年4月に公開されましたが、その翌月に資料を提供したブラドレー・マニング(現在はチェルシー・マニングへ改名)特技兵はアメリカ陸軍のCID(犯罪捜査部)に逮捕され、民間情報会社ストラトフォーの内部でやりとりされた電子メールによりますと、2011年初めにアメリカでアッサンジは秘密裏に起訴されています。アッサンジが秘密裏に起訴されていることは後にケレン・ドワイアー検事補が裁判官へ書いた文書で確認されました。

 アメリカで起訴される前、2010年8月にスウェーデンの検察官が警察の求めに応じてアッサンジを指名手配、警察のリーク情報に基づいてタブロイド紙が「事件」を報道、騒ぎになりますが、その翌日に主任検事が嫌疑不十分ということで令状を取り消します。その決定を検事局長が翻しました。

 11月には検察幹部の判断でアッサンジに対する逮捕令状が出ますが、嫌疑なしということで2017年に捜査は中止され、逮捕令状は取り消されました。それにもかかわらずアッサンジの軟禁状態が続いたわけです。

 アメリカはスウェーデンとイギリスの警察、検察、裁判所、メディアなどを使って冤罪でアッサンジを軟禁状態にし、エクアドルの大統領が2017年にラファエル・コレアからレニン・モレノへ交代すると新大統領はアメリカ政府の意向に従ってアッサンジの逮捕に協力しました。その直前、IMFはエクアドルに対する42億ドルの融資を認めると発表しています。

 アッサンジはイギリス版のグアンタナモ刑務所と言われているベルマーシュ刑務所で拘束されました。そこでは友人や親戚の面会が禁止され、弁護チームも監視下で会うことが要求されているほか、食べ物の差し入れや基本的な医療行為も拒否されたといいます。

 尋問しているのはアメリカの国防総省、FBI、CIAに所属している人びとで、BZ(3-キヌクリジニルベンジラート)という薬物が使用されたとも言われています。これを使うと幻覚を生じさせ、現実と幻覚を混乱させるほか、昏睡、物忘れなどを含む意識障害、あるいは運動失調症を引き起こすそうです。

 ウォーターゲート事件で取材の中心になったカール・バーンスタインはリチャード・ニクソン大統領が辞任した3年後の1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書きました。その中で彼は20年間にCIAの任務を秘密裏に実行していたジャーナリストは400名以上に達するとしています。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)

 また、ドイツの有力紙、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙の編集者だったウド・ウルフコテは2014年2月にメディアがCIAに操られている実態を明らかにしました。ドイツだけでなく多くの国のジャーナリストがCIAに買収されているというのです。日本は例外だと言うことはできないでしょう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002230000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/119.html#c35

[近代史3] ケインズの偉大さとは 

2020年02月23日
ケインズの偉大さとは 投資家で経済学者で官僚
http://www.thutmosev.com/archives/63671611.html


ケインズは陽気な楽天家で、妻はロシア人バレリーナだった。
15107508
引用:http://f.i.uol.com.br/folha/mercado/images/15107508.jpeg


安倍首相が返り咲いたとき、アベノミクスはケインズ経済を見本にしていると言われていました。

結局アベノミクスは始める前に辞めてしまったが、ケインズの影響は今も世界中で残っています。


投資家ケインズ

ケインズは経済学者、イギリスの経済官僚、など多くの顔を持っているが、投資家としても知られている。

ケインズの投資法は古典的で堅実な手法だが、現役時代のケインズはむしろ、投機的で無謀な手法を好みました。

大儲けをする一方で何度か破産して、破産しない堅実な投資法を編み出していきました。




生まれたのは1883年で明治16年、伊藤博文が初代総理大臣になる前で、日本国はまだ形を成していませんでした。

父親も経済学者なので言わば世襲の学者であり、裕福な家庭で育ち名門高校から、最高学府のケンブリッジ大に進学しています。

投資家という職業は誰にでもチャンスがあるのだが、有名な大投資家ほど、父親が裕福だったり名家だったり実力者という傾向があります。


生まれた時から家が貧乏で、歯を食いしばって頑張ったハングリータイプの投資家は、どこかで破産して倒れるケースが多い。

ともかくケインズは勉強の方では頑張ったらしいが、裕福な家庭で、何不自由なく当時超大国のイギリスで楽しく生活していました。

大学では経済学で学位を取り、名門ケンブリッジでも天才の名を欲しいままにし、自由を謳歌していた時に襲ったのが、第一次世界大戦でした。


ケインズは戦争に行く事も無く、エリートとして財務省に就職して、イギリス代表としてパリ講和会議に出席しました。

そこでケインズは戦勝国がドイツに巨額賠償金を課そうとしているのを批判し、財務官僚の座を蹴っ飛ばして大学に戻ってしまいます。

戦勝国の代表らは、もっぱら領土や自国の権利に関心があり、経済や金融には無知な上に無関心だった。

ヒトラー誕生を予言? 賠償金に猛反対

戦勝国はドイツには払いきれないほど莫大な賠償金を課して、”懲らしめれば良い”と考えたが、ここには大きな問題があった。

考えてみると当たり前の事なのだが、賠償金は外貨のポンドやフランで支払うので、ドイツは膨大な外貨を用意しなくてはならない。

膨大な外貨を得る為にはドイツの貿易は巨額の貿易黒字でなくてはならず、そうでなくては賠償金を支払えない。


当時は今のような変動相場制ではなかったので、固定レートであり、輸出したから円高やマルク高にはならなかった。

つまりドイツが払う賠償金とは、イギリスやフランスに輸出して儲ける事であり、自分で自分に賠償金を払うに等しい。

こんな事は不可能だと指摘したケインズは、戦勝国に賠償金全額を放棄するよう迫り、もしそうしなければ『大変な事になる』と警告した。


その「大変な事」が起きたのは大戦終結からわずか一年後で、アドルフヒトラーが最初に地方選挙に立候補して政治活動を始めました。

ヒトラーが望んだのはドイツに巨額の賠償金を課した戦勝国への復讐で、巨額賠償金がなければヒトラーは民衆から支持されなかったかも知れない。

実際にはケインズが賠償金を巡って猛反対していた頃、既にヒトラーは政治活動を始めており、関連性があるのかは分からない。


この後、案の定、ドイツでは賠償金を支払えずにハイパーインフレが発生し、国民生活は完全に崩壊しました。

戦勝国、特にフランスは賠償金の猶予に一切応じず、フランス軍をドイツに侵攻させて、賠償金の代わりに領土をぶんどりました。

1930年頃まで約10年間、主にフランスによる賠償金ぶんどりは続けられたが、この間の苦境がドイツ人にヒトラーを支持させた。

天才投資家から堅実な投資家へ

そしてケインズが予言した大変な事は、第二次世界大戦という形で現実になりました。

イギリスの財務官僚としてパリ講和会議などで活躍したケインズだが、私生活では株式投資などをしていました。

経済学者として現実の相場で勝って正しさを証明したいという欲求の他に、単純にお金が欲しかったようでもある。


ケインズは名家の坊ちゃんらしく浪費家で、財務官僚としての給料では足りずに株式投資をしていました。

最初に投資を始めたのは大学生の時で、最初の10年間で1万6千ポンド(現代の8億円前後?)という資産を築きました。

だが賠償金に猛反対していた頃、「賠償金を支払うドイツマルクは下落する筈だ」と考えてドル買いマルク売りを仕掛けました。


結局予想通りマルクは暴落したのだが、良くある事で一時乱高下し、マルクが上がった時にケインズは破産しました。

儲けた全財産を失ったが、彼の親は金持ちだったので、借金を払ってもらった上に、新たな投資資金まで貰いました。

これだから『親が金持ちの投資家の方が、成功しやすい』のです。


父親に尻拭いしてもらったケインズは、今度は先物相場で大儲けし、何と現在の価値で20億円近くの資産を築きました。

経済学者としても投資家としても絶頂期の時に襲ったのが、1929年の世界大恐慌で、ケインズはまた大打撃を受けるが、この時はスッカラカンにはなりませんでした。

過去の失敗に学んだのか資産の2割ほどは残し、これを元手に今度は、堅実な株式投資を研究します。


この後で完成させたのが、今日まで残る「ケインズの投資理論」で、投資家としては晩年にまとめられたものでした。

それまでは「イケイケ、ゴーゴー」みたいなスタイルだったのが、「投資は慎重さが大事だ」などと言うようになっています。

結局ケインズはなくなるまで勝ち続け、それ故に偉大な投資家として名を残しています。

http://www.thutmosev.com/archives/63671611.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/936.html

[近代史3] ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 _ ヨーロッパの戦い こうして始まった!  中川隆
16. 中川隆[-13594] koaQ7Jey 2020年2月23日 10:20:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-108]
ケインズは大学では経済学で学位を取り、名門ケンブリッジでも天才の名を欲しいままにし、自由を謳歌していた時に襲ったのが、第一次世界大戦でした。


ケインズは戦争に行く事も無く、エリートとして財務省に就職して、イギリス代表としてパリ講和会議に出席しました。

そこでケインズは戦勝国がドイツに巨額賠償金を課そうとしているのを批判し、財務官僚の座を蹴っ飛ばして大学に戻ってしまいます。

戦勝国の代表らは、もっぱら領土や自国の権利に関心があり、経済や金融には無知な上に無関心だった。

ヒトラー誕生を予言? 賠償金に猛反対

戦勝国はドイツには払いきれないほど莫大な賠償金を課して、”懲らしめれば良い”と考えたが、ここには大きな問題があった。

考えてみると当たり前の事なのだが、賠償金は外貨のポンドやフランで支払うので、ドイツは膨大な外貨を用意しなくてはならない。

膨大な外貨を得る為にはドイツの貿易は巨額の貿易黒字でなくてはならず、そうでなくては賠償金を支払えない。


当時は今のような変動相場制ではなかったので、固定レートであり、輸出したから円高やマルク高にはならなかった。

つまりドイツが払う賠償金とは、イギリスやフランスに輸出して儲ける事であり、自分で自分に賠償金を払うに等しい。

こんな事は不可能だと指摘したケインズは、戦勝国に賠償金全額を放棄するよう迫り、もしそうしなければ『大変な事になる』と警告した。


その「大変な事」が起きたのは大戦終結からわずか一年後で、アドルフヒトラーが最初に地方選挙に立候補して政治活動を始めました。

ヒトラーが望んだのはドイツに巨額の賠償金を課した戦勝国への復讐で、巨額賠償金がなければヒトラーは民衆から支持されなかったかも知れない。

実際にはケインズが賠償金を巡って猛反対していた頃、既にヒトラーは政治活動を始めており、関連性があるのかは分からない。


この後、案の定、ドイツでは賠償金を支払えずにハイパーインフレが発生し、国民生活は完全に崩壊しました。

戦勝国、特にフランスは賠償金の猶予に一切応じず、フランス軍をドイツに侵攻させて、賠償金の代わりに領土をぶんどりました。

1930年頃まで約10年間、主にフランスによる賠償金ぶんどりは続けられたが、この間の苦境がドイツ人にヒトラーを支持させた。


そしてケインズが予言した大変な事は、第二次世界大戦という形で現実になりました。
http://www.thutmosev.com/archives/63671611.html  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/352.html#c16

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
52. 中川隆[-13593] koaQ7Jey 2020年2月23日 10:21:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-107]
ケインズは大学では経済学で学位を取り、名門ケンブリッジでも天才の名を欲しいままにし、自由を謳歌していた時に襲ったのが、第一次世界大戦でした。


ケインズは戦争に行く事も無く、エリートとして財務省に就職して、イギリス代表としてパリ講和会議に出席しました。

そこでケインズは戦勝国がドイツに巨額賠償金を課そうとしているのを批判し、財務官僚の座を蹴っ飛ばして大学に戻ってしまいます。

戦勝国の代表らは、もっぱら領土や自国の権利に関心があり、経済や金融には無知な上に無関心だった。

ヒトラー誕生を予言? 賠償金に猛反対

戦勝国はドイツには払いきれないほど莫大な賠償金を課して、”懲らしめれば良い”と考えたが、ここには大きな問題があった。

考えてみると当たり前の事なのだが、賠償金は外貨のポンドやフランで支払うので、ドイツは膨大な外貨を用意しなくてはならない。

膨大な外貨を得る為にはドイツの貿易は巨額の貿易黒字でなくてはならず、そうでなくては賠償金を支払えない。


当時は今のような変動相場制ではなかったので、固定レートであり、輸出したから円高やマルク高にはならなかった。

つまりドイツが払う賠償金とは、イギリスやフランスに輸出して儲ける事であり、自分で自分に賠償金を払うに等しい。

こんな事は不可能だと指摘したケインズは、戦勝国に賠償金全額を放棄するよう迫り、もしそうしなければ『大変な事になる』と警告した。


その「大変な事」が起きたのは大戦終結からわずか一年後で、アドルフヒトラーが最初に地方選挙に立候補して政治活動を始めました。

ヒトラーが望んだのはドイツに巨額の賠償金を課した戦勝国への復讐で、巨額賠償金がなければヒトラーは民衆から支持されなかったかも知れない。

実際にはケインズが賠償金を巡って猛反対していた頃、既にヒトラーは政治活動を始めており、関連性があるのかは分からない。


この後、案の定、ドイツでは賠償金を支払えずにハイパーインフレが発生し、国民生活は完全に崩壊しました。

戦勝国、特にフランスは賠償金の猶予に一切応じず、フランス軍をドイツに侵攻させて、賠償金の代わりに領土をぶんどりました。

1930年頃まで約10年間、主にフランスによる賠償金ぶんどりは続けられたが、この間の苦境がドイツ人にヒトラーを支持させた。


そしてケインズが予言した大変な事は、第二次世界大戦という形で現実になりました。
http://www.thutmosev.com/archives/63671611.html  

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c52

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
266. 中川隆[-13592] koaQ7Jey 2020年2月23日 10:30:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-106]

ケインズの偉大さとは 投資家で経済学者で官僚
http://www.thutmosev.com/archives/63671611.html


ケインズは陽気な楽天家で、妻はロシア人バレリーナだった。
15107508
引用:http://f.i.uol.com.br/folha/mercado/images/15107508.jpeg


投資家ケインズ

ケインズは経済学者、イギリスの経済官僚、など多くの顔を持っているが、投資家としても知られている。

ケインズの投資法は古典的で堅実な手法だが、現役時代のケインズはむしろ、投機的で無謀な手法を好みました。

大儲けをする一方で何度か破産して、破産しない堅実な投資法を編み出していきました。


生まれたのは1883年で明治16年、伊藤博文が初代総理大臣になる前で、日本国はまだ形を成していませんでした。

父親も経済学者なので言わば世襲の学者であり、裕福な家庭で育ち名門高校から、最高学府のケンブリッジ大に進学しています。

投資家という職業は誰にでもチャンスがあるのだが、有名な大投資家ほど、父親が裕福だったり名家だったり実力者という傾向があります。


生まれた時から家が貧乏で、歯を食いしばって頑張ったハングリータイプの投資家は、どこかで破産して倒れるケースが多い。

ともかくケインズは勉強の方では頑張ったらしいが、裕福な家庭で、何不自由なく当時超大国のイギリスで楽しく生活していました。

大学では経済学で学位を取り、名門ケンブリッジでも天才の名を欲しいままにし、自由を謳歌していた時に襲ったのが、第一次世界大戦でした。


ケインズは戦争に行く事も無く、エリートとして財務省に就職して、イギリス代表としてパリ講和会議に出席しました。

そこでケインズは戦勝国がドイツに巨額賠償金を課そうとしているのを批判し、財務官僚の座を蹴っ飛ばして大学に戻ってしまいます。


ケインズは、戦勝国に賠償金全額を放棄するよう迫り、もしそうしなければ『大変な事になる』と警告した。


その「大変な事」が起きたのは大戦終結からわずか一年後で、アドルフヒトラーが最初に地方選挙に立候補して政治活動を始めました。

ヒトラーが望んだのはドイツに巨額の賠償金を課した戦勝国への復讐で、巨額賠償金がなければヒトラーは民衆から支持されなかったかも知れない。

この後、案の定、ドイツでは賠償金を支払えずにハイパーインフレが発生し、国民生活は完全に崩壊しました。


天才投資家から堅実な投資家へ

そしてケインズが予言した大変な事は、第二次世界大戦という形で現実になりました。

イギリスの財務官僚としてパリ講和会議などで活躍したケインズだが、私生活では株式投資などをしていました。

経済学者として現実の相場で勝って正しさを証明したいという欲求の他に、単純にお金が欲しかったようでもある。


ケインズは名家の坊ちゃんらしく浪費家で、財務官僚としての給料では足りずに株式投資をしていました。

最初に投資を始めたのは大学生の時で、最初の10年間で1万6千ポンド(現代の8億円前後?)という資産を築きました。

だが賠償金に猛反対していた頃、「賠償金を支払うドイツマルクは下落する筈だ」と考えてドル買いマルク売りを仕掛けました。


結局予想通りマルクは暴落したのだが、良くある事で一時乱高下し、マルクが上がった時にケインズは破産しました。

儲けた全財産を失ったが、彼の親は金持ちだったので、借金を払ってもらった上に、新たな投資資金まで貰いました。

これだから『親が金持ちの投資家の方が、成功しやすい』のです。


父親に尻拭いしてもらったケインズは、今度は先物相場で大儲けし、何と現在の価値で20億円近くの資産を築きました。

経済学者としても投資家としても絶頂期の時に襲ったのが、1929年の世界大恐慌で、ケインズはまた大打撃を受けるが、この時はスッカラカンにはなりませんでした。

過去の失敗に学んだのか資産の2割ほどは残し、これを元手に今度は、堅実な株式投資を研究します。


この後で完成させたのが、今日まで残る「ケインズの投資理論」で、投資家としては晩年にまとめられたものでした。

それまでは「イケイケ、ゴーゴー」みたいなスタイルだったのが、「投資は慎重さが大事だ」などと言うようになっています。

結局ケインズはなくなるまで勝ち続け、それ故に偉大な投資家として名を残しています。
http://www.thutmosev.com/archives/63671611.html  

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c266

[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
136. 中川隆[-13591] koaQ7Jey 2020年2月23日 10:31:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-105]

ケインズの偉大さとは 投資家で経済学者で官僚
http://www.thutmosev.com/archives/63671611.html


ケインズは陽気な楽天家で、妻はロシア人バレリーナだった。
15107508
引用:http://f.i.uol.com.br/folha/mercado/images/15107508.jpeg


投資家ケインズ

ケインズは経済学者、イギリスの経済官僚、など多くの顔を持っているが、投資家としても知られている。

ケインズの投資法は古典的で堅実な手法だが、現役時代のケインズはむしろ、投機的で無謀な手法を好みました。

大儲けをする一方で何度か破産して、破産しない堅実な投資法を編み出していきました。


生まれたのは1883年で明治16年、伊藤博文が初代総理大臣になる前で、日本国はまだ形を成していませんでした。

父親も経済学者なので言わば世襲の学者であり、裕福な家庭で育ち名門高校から、最高学府のケンブリッジ大に進学しています。

投資家という職業は誰にでもチャンスがあるのだが、有名な大投資家ほど、父親が裕福だったり名家だったり実力者という傾向があります。


生まれた時から家が貧乏で、歯を食いしばって頑張ったハングリータイプの投資家は、どこかで破産して倒れるケースが多い。

ともかくケインズは勉強の方では頑張ったらしいが、裕福な家庭で、何不自由なく当時超大国のイギリスで楽しく生活していました。

大学では経済学で学位を取り、名門ケンブリッジでも天才の名を欲しいままにし、自由を謳歌していた時に襲ったのが、第一次世界大戦でした。


ケインズは戦争に行く事も無く、エリートとして財務省に就職して、イギリス代表としてパリ講和会議に出席しました。

そこでケインズは戦勝国がドイツに巨額賠償金を課そうとしているのを批判し、財務官僚の座を蹴っ飛ばして大学に戻ってしまいます。


ケインズは、戦勝国に賠償金全額を放棄するよう迫り、もしそうしなければ『大変な事になる』と警告した。


その「大変な事」が起きたのは大戦終結からわずか一年後で、アドルフヒトラーが最初に地方選挙に立候補して政治活動を始めました。

ヒトラーが望んだのはドイツに巨額の賠償金を課した戦勝国への復讐で、巨額賠償金がなければヒトラーは民衆から支持されなかったかも知れない。

この後、案の定、ドイツでは賠償金を支払えずにハイパーインフレが発生し、国民生活は完全に崩壊しました。


天才投資家から堅実な投資家へ

そしてケインズが予言した大変な事は、第二次世界大戦という形で現実になりました。

イギリスの財務官僚としてパリ講和会議などで活躍したケインズだが、私生活では株式投資などをしていました。

経済学者として現実の相場で勝って正しさを証明したいという欲求の他に、単純にお金が欲しかったようでもある。


ケインズは名家の坊ちゃんらしく浪費家で、財務官僚としての給料では足りずに株式投資をしていました。

最初に投資を始めたのは大学生の時で、最初の10年間で1万6千ポンド(現代の8億円前後?)という資産を築きました。

だが賠償金に猛反対していた頃、「賠償金を支払うドイツマルクは下落する筈だ」と考えてドル買いマルク売りを仕掛けました。


結局予想通りマルクは暴落したのだが、良くある事で一時乱高下し、マルクが上がった時にケインズは破産しました。

儲けた全財産を失ったが、彼の親は金持ちだったので、借金を払ってもらった上に、新たな投資資金まで貰いました。

これだから『親が金持ちの投資家の方が、成功しやすい』のです。


父親に尻拭いしてもらったケインズは、今度は先物相場で大儲けし、何と現在の価値で20億円近くの資産を築きました。

経済学者としても投資家としても絶頂期の時に襲ったのが、1929年の世界大恐慌で、ケインズはまた大打撃を受けるが、この時はスッカラカンにはなりませんでした。

過去の失敗に学んだのか資産の2割ほどは残し、これを元手に今度は、堅実な株式投資を研究します。


この後で完成させたのが、今日まで残る「ケインズの投資理論」で、投資家としては晩年にまとめられたものでした。

それまでは「イケイケ、ゴーゴー」みたいなスタイルだったのが、「投資は慎重さが大事だ」などと言うようになっています。

結局ケインズはなくなるまで勝ち続け、それ故に偉大な投資家として名を残しています。
http://www.thutmosev.com/archives/63671611.html  

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/429.html#c136

[近代史3] 人類進化史 中川隆
41. 中川隆[-13590] koaQ7Jey 2020年2月23日 10:35:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-104]

2020年02月23日
高畑尚之「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_48.html

 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』所収の論文です。本論文は、近年飛躍的に発展した古代ゲノム研究を概観するとともに、その理論的発展も取り上げ、ゲノム研究の具体的な手法も解説しています。たとえばPSMC法は、ペアの相同染色体を小領域に区切り、端の小領域から逐次マルコフ性にしたがって合祖時間(合着年代)を推定する、という原理とアルゴリズムに基づきます。これにより1個体から過去の個体数が推測され、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)は、50万年以上前に現生人類系統と分岐して以降、ずっと人口が減少していた、と指摘されています(関連記事)。この長期的な人口史については、その後で異論が提示されていたものの(関連記事)、さらにその後で訂正され、やはり以前の推定が妥当とされています(関連記事)。一方、現代人の各地域集団系統は30万〜20万年前頃に共通して人口のピークを示し、分岐がそれ以降であることを示唆するとともに、非アフリカ系集団では10万年前頃から人口が減少し始めて、6万〜4万年前頃に最低となります。これは、非アフリカ系現代人の祖先集団に当時ボトルネック(瓶首効果)が起きたことを示唆します。また、4集団テストでは、変異数により集団間の近縁関係が推定されるとともに、異なる統計手法で混合率も推定されます。これにより、非アフリカ系現代人はアフリカ系現代人よりもネアンデルタール人に近いことと、非アフリカ系現代人におけるネアンデルタール人系統の混合率が推定されます。

 本論文は、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人において、複雑な交雑が生じた可能性を指摘します。たとえば、早期現生人類からネアンデルタール人への遺伝子流動で、これは14万年以上前に起きた可能性が高そうです。ネアンデルタール人と出アフリカ系現代人の祖先集団や、デニソワ人とオセアニア系現代人の祖先集団との交雑は早くから知られていましたが、もっと入り組んだ交雑があった、というわけです。さらに、まだ人類遺骸は特定されていないものの、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統と分岐した遺伝学的に未知の人類系統とデニソワ人との交雑の可能性も指摘されています。これらの関係は本論文の図5-1で示されています。

 現時点で核DNAが解析されているネアンデルタール人は、大きく東西の2系統に分類されます。東方系は南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)で発見された女性1個体で、その他は西方系です。非アフリカ系現代人の共通祖先集団と交雑したネアンデルタール人は西方系で、ネアンデルタール人の東西系統の分岐は14万年以上前、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカは58000年前頃、その集団とネアンデルタール人との交雑は54000〜49000年前頃、出アフリカ系現代人の祖先集団のうち東西ユーラシア集団の分岐は52000〜46000年前頃と推定されています。ただ、この推定年代は、今後の研究の進展により変わってくる可能性が低くないでしょう。

 核DNAが解析された最古の現生人類個体は、シベリア西部のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見されました(関連記事)。このウスチイシム個体の年代は45000年前頃で、どの非アフリカ系集団とも同じような遺伝距離を示しているため、ユーラシア集団が東西に分裂した頃の現生人類と推測されています。核DNAが解析された更新世の現生人類個体としては、24000年前頃のシベリア南部中央のマリタ(Mal’ta)遺跡の少年(関連記事)が挙げられます。このマリタ個体は、アメリカ大陸先住民集団やヨーロッパ集団と密接な関係にあると想定されたゴースト集団を実証するもので、古代ユーラシア北部集団を表します。その後さらに、古代ユーラシア北部集団をユーラシア北東部に広範に存在した古代シベリア北部集団の子孫とする見解が提示されています(関連記事)。

 現代ヨーロッパ人の形成において重要であるものの、まだ存在が確認されていない集団(ゴースト集団)として、基底部ユーラシア集団があります。これは、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団と早期に分岐し、ネアンデルタール人の遺伝的影響をほとんど受けていない、と推測されています。ゴースト集団なので分布範囲は不明ですが、アジア西部とアフリカ北部が有力です。45000〜37000年前頃のユーラシアには、この基底部ユーラシア集団とともに、複数の現生人類集団の存在がゲノム解析で確認されていますが(関連記事)、42000〜37000年前頃のルーマニアの「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された「Oase 1」や上述のウスチイシム個体のように、現代には子孫を残していないと考えられる集団も存在したようです。ヨーロッパロシアにあるコステンキ−ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡で発見された若い男性は、現代ヨーロッパ人と遺伝的に近縁とされていますが(関連記事)、この時期のヨーロッパ人には、後世のヨーロッパ人とは異なり、上述の基底部ユーラシア集団の遺伝的影響は見られません。33000年前頃に、コステンキ近くまで画策してきた狩猟採集民がグラヴェティアン(Gravettian)を発展させ、ヨーロッパ西部に逆流し、グラヴェティアンは1万年以上続きます。

 完新世になると、ヨーロッパにはアジア西部から農耕民が到来します。このヨーロッパの初期農耕民のゲノムにおける基底部ユーラシア集団由来の領域は44%に達する、との見解もありますが、10%未満との推定もあり、確定していません。現代ヨーロッパ集団は、大まかには、ユーラシア西部集団を基本に、基底部ユーラシア集団と古代ユーラシア北部集団が直接・間接的に関わって形成された、と把握できます。まず、ヨーロッパ西部の狩猟採集民が存在するところに、アナトリア半島やレヴァントやイランといったアジア西部の農耕民が到来し、先住の狩猟採集民と混合していきます。ヨーロッパ東部では、在来の狩猟採集民にイランの農耕民が拡散してきて混合し、牧畜も始めたポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)集団が形成されました。この集団からヤムナヤ(Yamnaya)文化が出現し、5000年前頃以降ヨーロッパに拡散し、大きな遺伝的影響を残しました。ヨーロッパ東部の狩猟採集民は古代ユーラシア北部集団から大きな遺伝的影響を受けており、現代ヨーロッパ人は間接的に古代ユーラシア北部集団を祖先としています。また、古代ユーラシア北部集団はアメリカ大陸先住民の祖先でもありました。また、エチオピアのモタ(Mota)洞窟で発見された4500年前頃の男性のゲノム解析と現代人のゲノムとの比較に基づき、ユーラシア西部からアフリカへの3000年前頃の「逆流」の規模は以前の推定よりも大きく、現代アフリカ東部集団の遺伝子プールの25%を占めるのではないか、と推測されています(関連記事)。

 アジアにおける現生人類集団の形成において重要となるのは、ネアンデルタール人だけではなくデニソワ人の存在も考慮に入れなければならないことです。現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人の系統関係は、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAで異なっており(関連記事)、単一の祖先関係を反映する分枝が、必ずしも集団の系統関係を反映するわけではない、と本論文は注意を喚起しています。デニソワ人は、肌の色が濃く、褐色の髪と目だった、と推測されています。デニソワ人の遺伝的影響は現代人でも各地域集団で大きく異なり、オセアニアでは高く、アメリカ大陸(先住民集団)やアジア東部および南部では多少見られ、ユーラシア西部とアフリカではほとんど見られません。本論文は、デニソワ人がシベリアからアジア南東部まで広範に存在したのではないか、と推測し、デニソワ人には複数系統存在し、それぞれオセアニアやアジア東部の現代人の祖先集団と交雑した(関連記事)、との見解を取り上げています。本論文は、アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散においてヒマラヤ山脈の北方を東進する経路においても現生人類とデニソワ人が交雑した可能性を指摘し、その根拠として上述のマリタ遺跡の少年にもデニソワ人の遺伝的影響が見られることを指摘します。これは私も見落としており、参考文献が思い浮かばなかったので、今後時間を作って調べていきます。また本論文は、現代アジア東部人の祖先集団がアジア南東部から北上する過程でデニソワ人のような非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と交雑した、と推測しています。

 本論文は現生人類の出アフリカを、上述のネアンデルタール人に遺伝的影響を残した14万年以上前の第一次と、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団による6万年前頃の第二次に区分し、両者は大きく系統が異なる、と推測しています。この第一次出アフリカ集団がオセアニアの現代人に遺伝的影響を残している、との見解も提示されています(関連記事)。じっさい、この第一次出アフリカがオーストラリアまで到達した可能性を示唆する考古学的証拠も提示されています(関連記事)。この場合、オセアニア系統とアジア東部および南東部系統との分岐は、ユーラシア東西系統との分岐後となります。ただ、第一次出アフリカはオセアニアまで到達したものの、第二次出アフリカの先発隊的存在だった、との見解もあり、オセアニア系の分岐はユーラシア東西系統の分岐よりも早くなります。本論文は、オセアニア系の位置づけが定まらないのは、オセアニア系にデニソワ人からの遺伝子流動があるためで、この効果を除外しないと、オセアニア系の位置づけが古くなってしまう、と指摘します。ただ本論文は、現時点でのゲノムデータが適切に除外できるのか、という問題を提起しています。オセアニア・アジア・ヨーロッパの各集団のうち、2集団のみに共有される非アフリカ系現代人に特異的な変異に注目した研究では、オセアニア系は明らかにアジア系とより多くの変異を有しており、第一次出アフリカ集団がオセアニアにまで到達しても、第二次出アフリカ集団にほぼ完全に置換されたか、第一次出アフリカにおけるオセアニアへの到達を示唆する遺跡の年代が誤りなのだろう、と本論文は指摘します。

 ネアンデルタール人やデニソワ人といった古代型ホモ属との交雑は、現生人類の適応に重要な役割を果たした、と考えられています。非アフリカ系現代人のゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域は、各個人では2%程度ですが、合計すると40%程度になり、さらに現代人のゲノムを調査していけば、70%に達するかもしれない、と推測されています。ただ、現生人類のゲノムに見られる古代型ホモ属由来のDNAには、遺伝子の翻訳領域やその発言調節領域もしくは保存的な非翻訳領域など、機能的に重要な領域が少ないことから、古代型ホモ属のゲノムは現生人類にとって有害だった、との見解も提示されています。本論文も、現生人類と古代型ホモ属のゲノムは50万年以上独立に進化した後で混合したので、相互に不和合になる変化も蓄積しているはずだ、と指摘します。一般的に生殖に関連した遺伝因子は進化が速く、雑種の雄の妊性をいち早く低下させます。また、古代型ホモ属の個体数は長期にわたって現生人類との比較で一桁少ないと推定されていることから、古代型ホモ属には相対的に強い遺伝的浮動により有害変異が蓄積しやすかったことも指摘されています。

 このような不適応説を支持する証拠は、上部旧石器時代から現代にいたるまで、現生人類のゲノムにおける後期ネアンデルタール人からの混合率が単調に減少し、有害な変異が4万年以上にわたってじょじょに排除されているように見えることです。しかし本論文は、有害変異が長期にわたって排除されることは、集団遺伝学的には説明が難しい、と指摘します。さらに、アルタイ地域のネアンデルタール人ではなく、非アフリカ系現代人の主要な祖先集団と交雑したネアンデルタール人集団により近いクロアチアのネアンデルタール人で推定すると、単調な減少は見られなくなります。ただ、早期現生人類のウスチイシム人やコステンキ人のゲノムではネアンデルタール人由来の領域が多いことも確かなので、複数回の交雑などを考慮する必要がある、と本論文は指摘します。また本論文は、単調な減少がないからといって、ネアンデルタール人のゲノムが現生人類にとって有害ではなかった、とは言えないとも指摘します。有害な変異も多かったものの、交雑後間もなく現生人類の祖先集団から急速に除去されただろう、というわけです。そうならば、現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人由来の領域を排除する仕組みはもはや存在せず、将来にわたって現生人類のゲノムの一部として伝達されるだろう、と本論文は予測します。

 非アフリカ系現代人のゲノムに見られる古代型ホモ属由来の適応的な変異としては、チベット人に見られる高地適応関連遺伝子EPAS1(関連記事)やイヌイットに見られる寒冷適応関連遺伝子TBX15やWARS2(関連記事)があり、ともにデニソワ人由来です。現代ヨーロッパ人に他地域よりも高頻度で見られる脂質代謝関連遺伝子は、ネアンデルタール人由来と推測されています(関連記事)。その他には、免疫や髪・皮膚の色に関連した遺伝子で古代型ホモ属由来のものがある、と指摘されています。本論文は、こうした古代型ホモ属から現生人類への適応的浸透が特定の地域集団に限定されており、現代人全体で適応的になっている事例は報告されていない、と指摘します。現代人のゲノムにおける出アフリカ以降の適応的変化でも同様で、これは全体に拡散するには時間不足だからではなくも適応進化の要因が病原菌や高地や寒冷地といった地域的な環境への適応にあるからだ、と本論文は指摘します。

 また本論文は、古代型ホモ属からの適応的浸透には、たとえば乳糖耐性のような文化と関連した事例がないことも指摘します。他には、アジア東部において高頻度で見られる、アルコール分解の強弱に関連するアルデヒド代謝能力です。これは、長江流域で稲作が始まり、その発酵産物を摂取するようになったことと関連し、代謝を遅滞するような選択圧が作用した、と推測されています。また、社会構造の変化や異文化との接触に伴う選択圧も想定されます。これらも地域的な適応ですが、現時点で既知のこうした変異はすべて、現生人類の遺伝子プールにすでに存在したか、新たに出現したもので、古代型ホモ属由来ではありません。本論文は、古代型ホモ属のゲノムが出アフリカ後の現生人類の適応を可能にした有益な変異の貯蔵庫であったことは認めつつ、文化という現生人類が生み出した独自の「環境」に適応する素材とはなり得なかった、と指摘します。ゲノムには時間に関する情報は満載であるものの、空間に関する情報はそれ自体ではきわめて限定的で、移動し続けてきた現生人類の歴史を復元するには、学際的な研究が必要になる、と提言しています。


参考文献:
高畑尚之(2020)「私たちの祖先と旧人たちとの関わり 古代ゲノム研究最前線」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第5章P151-197

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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/581.html#c41

[番外地7] チュチェ思想も天皇崇拝も同じ様なもの
チュチェ思想も天皇崇拝も同じ様なもんだよ
万世一系とかデタラメだとわかっているしね
そもそも、明治天皇も昭和天皇も天皇の血筋ではないと言われているし、秋篠宮もそうだという噂だし。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/499.html
[番外地7] チュチェ思想も天皇崇拝も同じ様なもの 中川隆
1. 中川隆[-13589] koaQ7Jey 2020年2月23日 11:06:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-103]
チュチェ思想もアホ右翼の天皇崇拝も同じ様なもんだよ
万世一系とかデタラメだとわかっているしね
そもそも、明治天皇も昭和天皇も天皇の血筋ではないと言われているし、秋篠宮もそうだという噂だし:

昭和天皇は天皇の血筋ではない
大正天皇は4人の男子を生んだが本当は「種なし」であったために,東久邇宮稔彦のような〔皇族の立場にある女性になぞらえていえば「〈天皇の配偶者:皇后〉を出せる資格がある」とされた皇族の立場にあった〕男性が主に,万世一系の維持のために性的に協力したという話になる。  明治以降の天皇家の種が断絶していてはまずい。それゆえ,皇室の藩屏たるそれも「皇族のなからその種」を提供し,万世一系の系譜を創作しつづけてきたわけである。 明治天皇自身が何人もの側室(典侍および権典侍といったが,要するに正妻以外の2号以下の妾)をもち,5人の側室に女10人:男5人を産ませた。だが,男子のうち成人したのは大正天皇だけであった。この大正天皇が〈種なし〉であったために,明治天皇があえて裕仁天皇の種つけをした話もある。  大正天皇は実際には正妻:貞明〔皇后〕とのあいだで子どもができていなかった。そこで,貞明に子どもを産ませて天皇「後継者:男子」をえようと,東久邇宮稔彦などが代わりにその「人間再生産」の製作作業 [大正天皇も嫌々ながら認めていた自分の配偶者の他者との性交渉] に参与したという筋書なのである。 貞明は,最初に押しつけられた男〔明治天皇(舅!)か?〕を嫌がっていた。それで,裕仁に拒否反応をもっていた(この段落,鬼塚,前掲書,408頁, [ ] 内のみ 422頁)。
 それにしても,裕仁と秩父宮・高松宮・三笠宮の全員が顔つきが違う。 秩父宮の父〔東久邇宮稔彦?〕が貞明の心を射止めていたので,貞明は秩父宮を溺愛した。貞明はそのせいで,裕仁を皇位継承から外し,秩父宮を天皇の座に送りたかった。これを画策したのが山県有朋であった。これはさらにまた,昭和天皇の妃が薩摩藩の血を引く良子に決定されたさい〈色盲〉問題が提起されたひとつの背景である。
昭和天皇の出生の疑惑 大正天皇の第1皇子の昭和天皇の出生に関する疑惑がいろいろ出てきている。 とりあえず、今まで出てきた疑惑を整理してみると。 まず、笠原和夫の本「昭和の劇」。
この中で、昭和天皇の皇女・照宮成子内親王の舅で、香淳皇后の叔父に当たる東久邇稔彦が、 「大正天皇は子種がなく、代わりに貞明皇后に何人かの男を当てて産ませていった。だから、昭和天皇の兄弟は皆、顔が違う」と語っていたことを河野司から聞いたと笠原は語っている。
笠原がこの説にかなり確信を持っていたとうかがわせる発言がある。
次に、鬼塚英昭の本「昭和のいちばん醜い日」。
この本には、「昭和の劇」の東久邇稔彦の発言が引用しつつ、「木戸幸一日記」の島津治子の調書から昭和天皇の父親は西園寺八郎だとしている。 また別の歴史家の本には、明治天皇が昭和天皇の父親だとする説もある。
原武史は、大正天皇に万が一のことがあった場合、有栖川宮威仁親王が次の皇位継承者であったと語っている。
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/499.html#c1

[昼休み53] 越後湯沢の近くの名湯 中川隆
8. 中川隆[-13588] koaQ7Jey 2020年2月23日 13:02:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-102]

苗場の近くの名湯 4 _ 『ゲンセンカン主人』で有名な湯宿温泉 _ 100円でドバドバ掛け流し温泉に入れるんだけど
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/693.html
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/370.html#c8
[近代史4] 中川隆 _ 映画史関係投稿リンク
中川隆 _ 映画史関係投稿リンク


ダメダメ家庭の目次録 _ 映画とクラシック音楽の周囲集
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/895.html

▲△▽▼

エイゼンシュテイン 戦艦ポチョムキン (1925年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/264.html

エイゼンシュテイン イワン雷帝 (1944年,1958年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/266.html

My Darling Clementine - いとしのクレメインタイン (ジョン・フォード 荒野の決闘 1946)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/929.html

ディターレ 『ジェニーの肖像 Portrait of Jennie』 1948年 アメリカ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/672.html

あの名画の舞台となった伊香保温泉は今… _2_ 木下恵介『カルメン故郷に帰る』1951年
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/356.html

フェデリコ・フェリーニ 道 La Strada (1954年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/255.html

デュヴィヴィエ 『わが青春のマリアンヌ』 1955年 ドイツ/フランス
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/671.html

あの名画の舞台となった伊香保温泉は今…_ 成瀬巳喜男『浮雲』 1955年
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/355.html_

市川崑 ビルマの竪琴 (日活 1956年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/769.html

湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 _ 映画「雪国」豊田四郎 1957
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c40

いい日旅立ち _ 雪国 _ トンネルの向こう側で待っている女性とは…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html

昔の日本映画は熱かった _ 成瀬巳喜男 あらくれ(東宝 1957年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/166.html

ジーン・ネグレスコ 島の女 Boy on a Dolphin (1957年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/263.html

イングマール・ベルイマン 第七の封印 (1957年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/252.html

黒いオルフェ(1959) ORFEU NEGRO, BLACK ORPHEUS
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/612.html

黒いオルフェ ORFEU NEGRO (1959年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/261.html

中川信夫 『東海道四谷怪談』 1959年 新東宝
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/838.html

ハーヴェイ 『恐怖の足跡』(Carnival of Souls) 1961年 アメリカ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/673.html

小林正樹 人間の條件 (1961年 松竹)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/735.html

マリオ・バーヴァ 『白い肌に狂う鞭』 1963年 イタリア/フランス
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/668.html

アントニオ・マルゲリーティ 『幽霊屋敷の蛇淫』 1964年 伊=仏
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/675.html

あの名画の舞台となった銀山温泉は今…_ 成瀬巳喜男『乱れる』1964年
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/351.html

伝説の名湯 岩内 朝日温泉 _ 内田吐夢 『飢餓海峡 』 1965年http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/230.html

増村保造 兵隊やくざ (1965年 大映)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/738.html

イングマール・ベルイマン ペルソナ (1966年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/253.html

中島貞夫 あゝ同期の桜 (東映 1967年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/770.html

フェデリコ・フェリーニ 世にも怪奇な物語 第3話「悪魔の首飾り」 (1968年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/256.html

パゾリーニ 王女メディア (1969年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/257.html

ヴィットリオ・デ・シーカ ひまわり I Girasoli (1970年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/260.html

山本薩夫 戦争と人間(1973年 日活)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/737.html

世界を変えた映画『エマニエル夫人』 1974年
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/249.html

阿部定の世界 _ 愛のコリーダ 1976年
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/248.html

山田洋次 幸福の黄色いハンカチ 1977
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/618.html

昔の日本映画は熱かった _ 山本薩夫 皇帝のいない八月 (松竹 1978年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/154.html

キタキツネ物語 1978
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/608.html

昔の日本映画は熱かった _ キタキツネ物語 (サンリオ 1978年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/164.html

キタキツネ物語の世界
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スタンリー・キューブリック シャイニング (The Shining ,ワーナー・ブラザース 1980年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/619.html

映画 震える舌 1980年 松竹
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クローネンバーグ 『デッドゾーン The Dead Zone』 1983年 アメリカ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/670.html

畑正憲 子猫物語 1986
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/622.html

天上の歌声 メリー・ホプキン _ 存在の耐えられない軽さ 1988
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/488.html

スタジオジブリ 『火垂るの墓』 1988年 東宝
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/104.html

昔の日本映画は熱かった _ 高畑勲 野坂昭如_火垂るの墓 (スタジオジブリ 1988年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/163.html

赤川次郎 ふたり (松竹 1991年)
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降旗康男 「鉄道員(ほっぽや)」 1999
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『オーディション』 1999年
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滝田洋二郎 秘密 1999年 東宝
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三池崇史 『インプリント〜ぼっけえ、きょうてえ〜』 2006年 角川ヘラルド・ピクチャーズ
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『サイレン 〜FORBIDDEN SIREN〜』 2006年 東宝
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J・A・バヨナ 『永遠のこどもたち』(El Orfanato)2007
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フランク・ダラボン ミスト(The Mist, MGM 2007年)
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感染列島 2009年東宝
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グロテスク UNRATED VERSION 2009年 ジョリー・ロジャー
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映画 キャタピラー 2010年
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『冷たい熱帯魚』 Cold Fish 2010年 日活
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ラッキー・マッキー 『ザ・ウーマン 飼育された女』 アメリカ 2011年
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李相日 許されざる者 2013
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/620.html

こうの史代 _ この世界の片隅に (MAPPA 2016年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/572.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/191.html

[近代史4] グリフィス (David Wark Griffith、1875年1月22日 - 1948年7月23日)

デヴィッド・ウォーク・グリフィス(David Wark Griffith、1875年1月22日 - 1948年7月23日)


グリフィス 國民の創生 (The Birth of a Nation) (1915年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/270.html

グリフィス 散り行く花 (Broken Blossoms) (1919年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/268.html

グリフィス 東への道 (WAY DOWN EAST) (1920年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/267.html

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Those Were The Days _ リリアン・ギッシュが独身を通した理由 _ グリフィスの映画
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/487.html

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デヴィッド・ウォーク・グリフィス(David Wark Griffith、1875年1月22日 - 1948年7月23日)は、アメリカ合衆国の映画監督、俳優、脚本家、映画製作者。

映画文法の基礎を築いた人物であり、様々な映画技術(モンタージュ、カットバック、クローズアップなど)を確立して、映画を芸術的な域へと高めた。

アメリカ初の長編映画『國民の創生』や『イントレランス』などの監督作品は彼の技術の集大成的な作品であり、現在でもアメリカ映画の名作として数えられる。

また、女優のメアリー・ピックフォードやリリアン・ギッシュなど数多くの映画人を輩出したことでも知られ、それらの功績から「映画の父」と呼ばれている。


生涯

1875年1月22日、ケンタッキー州ラグレーンジに生まれる(クレスウッド生まれとする説もある)。父親は南北戦争における南軍の英雄ジェイコブ・ウォーク・グリフィス大佐。彼は大きな農場を経営しており、州議会議員も務めていたが、戦後に没落し、グリフィスが10歳の時に亡くなっている。そのため少年時代は困窮を極めていたが、両親から高い教育を受けていた。

その後グリフィスはエレベーターボーイやルイヴィルの本屋の店員など様々な職を転々としていたが、慈善公演の舞台に立ったことから地方劇団に参加し、俳優として活動しはじめた。31歳のときにはニューヨークに進出し、1906年に女優のリンダ・アーヴィドソン(英語版)と結婚した。その一方で舞台の演出家を夢見ていたグリフィスは、戯曲や詩を書いて売りこんでいたが、金銭的に行き詰っていたため、1907年に自分の脚本をエジソン社(英語版)のエドウィン・S・ポーターに売り込んだ。脚本は不採用となったが、俳優として採用され、同年の『鷲の巣から救われて(英語版)』の樵役で映画デビューを果たした。

このエジソン社で映画製作のノウハウを学んだが、自らの脚本が採用されないことに鬱々としていたため、1908年にバイオグラフ社(英語版)に自分の脚本を持ち込んだ。すると会社は彼の素質を認め、グリフィスは妻リンダとともにバイオグラフ社に入社することとなった。始めは夫妻で俳優として活躍する傍ら、数十本のシナリオを執筆した。同年6月、バイオグラフ社の撮影技師ビリー・ビッツァー(英語版)に誘われたことから、『ドリーの冒険(英語版)』で監督デビューした。後に長編の大作を手がけさまざまな撮影技法を駆使していったが、デビュー作の『ドリーの冒険』は正味15分ほどの短編映画であり、映画はヒットした。以降バイオグラフ社の監督としてビッツァ―とのコンビで1913年までに450本以上の短編映画を手がけた。

デビュー作の『ドリーの冒険』は少女が誘拐され樽の中に入れられるが、その樽が川に落ちて流されていくというストーリーで、まだワンシーン・ワンショット撮影による作品であった。1909年の『小麦の買い占め(英語版)』は社会派劇で、金持ちの小麦の相場師と貧しい小麦農家を対比して描いている。同年の『インディアンの考え(英語版)』はインディアンの目線で白人との対立を描いている。1910年の『境界州にて(英語版)』『鎧戸の締まった家(英語版)』は南北戦争もので、1911年の『老人たちをどうすべきか(英語版)』では悲劇的な作品も作っている。1912年にはカルフォルニアでロケを行った2巻物の『大虐殺』を発表しており、群衆場面においてロングショットの効果的な使用がみられる。

1913年、自身初の長編作品『ベッスリアの女王(英語版)』(別題:アッシリアの遠征)を製作するが、当時はまだ長編映画が普及しておらず、会社はこの作品をお蔵入りにさせた(長編映画も普及しだした翌1914年にこちらもお蔵入りにされていた『大虐殺』とともに公開された)。さらに会社はグリフィスに長編映画を製作させなかったため、グリフィスはバイオグラフ社を退社してハリウッドに渡り、ミューチュアル社と契約を結んだ。

1915年、ミューチュアル社のハリー・エイトケンとグリフィスが創設したエポック・プロデューシング・コーポレーションの出資で『國民の創生』を製作。KKKの誕生物語を南部白人の立場から描いた物語だったため、北部においては上映拒否されたり、黒人の差別描写で物議を醸したが、作品自体は大ヒットした。

同年7月、ミューチュアル社から追放されたエイトケンが配給会社トライアングル社を設立。マック・セネット、トマス・H・インスとともに招かれたグリフィスは、トライアングル社傘下の製作会社ファイン・アーツ社の製作責任者となり、1916年に『イントレランス』を製作した。四時代の物語が同時並行的に描かれるという当時としては革新的な作品だったが難解との評判を呼び、アメリカ本国では商業的に失敗した。しかし現在では映画史上最大の古典として語り継がれている。1917年、『イントレランス』の失敗などの影響で、トライアングル社は製作を中止した。

1919年、チャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードと共にユナイテッド・アーティスツ社を創設、自由な映画製作を目指して『散り行く花』『東への道』などを発表していった。しかし、完璧主義者で保守的な映画製作に拘ったグリフィスは時代の流れについていけず、人気も凋落していった。

1930年に初のトーキーとなる『世界の英雄(英語版)』を発表するも、翌1931年の『苦闘(英語版)』は興業的にも批評的にも大失敗し、これがグリフィス最後の監督作となった。この頃からすでに彼は世間からも映画界からも忘れ去られた存在となっていた。

1936年、アカデミー賞特別賞を受賞。同年、妻のリンダと離婚。女優のイヴリン・ボールドウィンと再婚したが、1947年に離婚している。1938年に全米監督協会賞名誉終身会員賞を受賞。

1948年7月23日、ロサンゼルスのホテルで脳溢血のため死去。晩年は酒浸りの生活を送っていたという。ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの6535番地に彼を顕彰する星が刻まれている。


映画文法の確立

グリフィスは、映画芸術の基本を作った人物として映画史にその名が刻まれている。これまでの映画というと、ワンシーンワンショット、固定カメラ撮影が特徴で、演劇色が濃かった。しかし、グリフィスは様々な演出法や撮影技法を確立・駆使していき、映画を独自の視覚的表現・一つの芸術として発展させた。

グリフィスはこれまでのワンシーンワンショットによるシーン単位の撮影からショット単位の撮影を行い、1つの場面を複数のショットで構成させ、モンタージュを確立させた。1つの場面を複数のショットで構成することは「物語を撮る」意味で初期の作品から行われていたが、彼はショットとショットを繋いで劇的な効果を生みだすことに成功している。グリフィスのモンタージュは時間の連続性を失わせないように複数のカメラを使うマルチ・カヴァレッジという方法で撮影されたのが特徴。この方法は当初多大な撮影予算がかかるため敬遠されていたが、戦後に黒澤明が『七人の侍』の合戦シーンを複数カメラで撮影したことをきっかけにハリウッドでも普及し、このスタイルは一般的になった。[要出典]モンタージュに関しては1920年代にソ連の映画人たちが「モンタージュ理論」として体系化した。

異なる場所で同時に起きている2つ以上のシーンで、それぞれのショットを交互に繋ぐ編集法[1]であるクロスカッティング(並行モンタージュ、同時進行描写とも)もグリフィスが創始したといえる技術である。グリフィスお得意の演出「ラスト・ミニッツ・レスキュー(最後の瞬間の救出)[2]」を使うときにクロスカッティングを用いられている。この技法は『淋しい別荘』の強盗襲撃のシーンで初めて用いられ、以降『國民の創生』『イントレランス』『東への道』などほとんどのグリフィス作品で使われた。

そのほかグリフィスが生み出した技法には移動撮影、フラッシュバック、フェードイン・アウト、アイリスイン・アウト、ポイントオブビュー(主観の切り換え)、イマジナリーラインなどがあり、一つのシーンをロングショット、ミドルショット、クローズアップといった違うショットサイズで撮影したのもグリフィスの功績である。

クローズアップを初めて使ったのもグリフィスと言われるが、グリフィスの以前から『おばあさんの虫眼鏡』『大列車強盗』などの作品でクローズアップはすでに使われていた。しかし、物語を語る点で初めて使ったのはグリフィスであり、映画評論家のH・A・ポタムキンは『シアター・ギルド』誌で「グリフィスの『網を繕う人』(1912年)で初めてクローズアップを芸術的に使った」と指摘している[3]。

撮影技師のビリー・ビッツァー(英語版)は、1908年から16年間にわたってグリフィス作品で撮影を担当し、彼の右腕として活躍した。『國民の創生』や『イントレランス』を撮ったのもビッツァーである。

俳優・監督の養成

グリフィスのもとからは後に大活躍する多くの俳優・監督らを輩出している。

リリアン・ギッシュ
メアリー・ピックフォードの紹介で、妹のドロシー・ギッシュとともにバイオグラフ社に入り、グリフィスの『見えざる敵』で映画デビューしている。以降グリフィス作品に欠かせない女優として『國民の創生』『イントレランス』『散り行く花』などに出演。二人は生涯を通じて芸術家同士として尊敬し合う友情で結ばれていた。『嵐の孤児』が最後のグリフィス作品となったが、その後も大活躍し、サイレント時代を代表する名女優となった。

メアリー・ピックフォード
16歳のときにグリフィス作品で映画デビューを果たし、バイオグラフ社の作品で活躍した。その後グリフィスのもとを離れ、「アメリカの恋人」と呼ばれる大女優にまで成長した。また、二人はUA創立者である。

マック・セネット
バイオグラフ社で俳優時代のグリフィスと共演しており、グリフィスが監督となると彼のもとで映画製作のノウハウを学んだ。その後トライアングル社傘下のキーストン社(英語版)でキーストンコップスを手掛けていった。

ダグラス・フェアバンクス
グリフィス主宰のファインアーツ社からデビュー(デビュー作がグリフィス脚本の『快男子』)。『イントレランス』に端役で出演している。その後冒険活劇スターとして活躍。また、二人はUA創立者である。

ライオネル・バリモア
バイオグラフ社時代にグリフィスのもとで数本の脚本を書き、端役を演じていた。その後MGMに入社しスター俳優となった。

ドナルド・クリスプ
グリフィスとは友人で、共にハリウッドに渡り、彼の助手を務めた後に映画監督となった。『國民の創生』『イントレランス』『散り行く花』に出演している。

エリッヒ・フォン・シュトロハイム
『國民の創生』『イントレランス』で助監督を務め、端役で出演もしている。その後リアリズムの名巨匠となった。

エルマー・クリフトン
『國民の創生』『イントレランス』で助監督を務め、ノンクレジットで出演もしている。『東への道』には協力監督として、B班の監督を務めるとともに、スタントも務めている。

ほか、フローレンス・ローレンス、メエ・マーシュ、ヘンリー・B・ウォルソール(英語版)、リチャード・バーセルメスなどの俳優がグリフィスのもとから巣立っている。またラオール・ウォルシュ、ジャック・コンウェイ、トッド・ブラウニング、ヴィクター・フレミング、アラン・ドワン、W・S・ヴァン・ダイクらの監督もグリフィスのもとで助手を務めていた。


その他

『イントレランス』はアメリカでは興業的に失敗したものの、ヨーロッパ諸国では絶賛された。特にウラジーミル・レーニンは大変感銘を受け、ロシア全土での上映を命じ、1922年にグリフィスを招き、ソ連映画界のリーダーに任じようとしたエピソードは有名である[4]。また1927年にはグリフィスの弟子格であるダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォードのソ連訪問が実現している。

1953年に全米監督協会は長年にわたり映画界に功績を残した監督を称えるD・W・グリフィス賞を創設したが、『國民の創生』が人種差別的な描写であることから、「映画界の開拓者として評価するも、白人優越主義は人種差別を増長させる」と協会がグリフィスを批判。これにより1999年にグリフィス賞は廃止された。グリフィス賞にはジョン・フォード、アルフレッド・ヒッチコック、黒澤明、フランシス・フォード・コッポラなど錚々たる監督たちが受賞した。

アニメ版『キテレツ大百科』の第56話「撮影快調!ハリウッドのバビロン宮殿」にて、『イントレランス』を観て感動したトンガリが映画監督に憧れ、自身のビデオカメラで映画を撮影していた。同じ頃、キテレツが映画撮影用のカメラ「夢楽鏡」を発明し完成させたが、使い方が解らず、『イントレランス』にて同様のカメラが使用されていたことをトンガリから聞き、コロ助、みよ子、ブタゴリラを含めた5人が航時機に乗って『イントレランス』を撮影中のD・W・グリフィスに会いに行き、映画撮影のノウハウや、撮影のビリー・ビッツァーにカメラの使い方を学んだというエピソードがある。

主な監督作品

じゃじゃ馬馴らし The Taming of the Shrew(1908年)
質屋の娘の恋 Romance of a Jewess(1908年)
迷惑帽子 Those Awful Hats(1909年)
カーテン・ポール The Curtain Pole(1909年)
黄金のルイ The Golden Louis(1909年)
淋しい別荘 The Lonely Villa(1909年)
毒蛇の飼育 Nursing a Viper(1909年)
封印された部屋 The Sarled Room(1909年)
インディアンの考え The Red Man's View(1909年)
小麦の買い占め A Corner in Wheat(1909年)
罠にかかったサンタクロース A Trap for Santa Claus(1909年)
不変の海 The Unchanging Sea(1910年)
境界州にて In the Border States(1910年)
高利貸し The Usurer(1910年)
鎧戸の締まった家 The House with Closed Shutters(1910年)
老人たちをどうすべきか What Shall We Do with Our Old?(1911年)
女の叫び The Lonedale Operator(1911年)
老男優 The Old Actor(1912年)
見えざる敵 An Unseen Enemy(1912年)
大虐殺 The Massacre(1912年)
ピッグ横丁のならず者 The Musketeers of Pig Alley(1912年)
ニューヨークの帽子 The New York Hat(1912年)
強盗のジレンマ The Burglar's Dilemma(1912年)
ベッスリアの女王 Judith of Bethulia(1913年)
國民の創生 The Birth of a Nation(1915年)兼脚本
イントレランス Intolerance(1916年)兼脚本
世界の心 Hearts of the World(1918年)
散り行く花 Broken Blossoms(1919年)兼脚本
東への道 Way Down East(1920年)兼製作
嵐の孤児 Orphans Of The Storm(1921年)兼製作・脚本
恐怖の一夜 One Exciting Night(1922年)兼製作・脚本
アメリカ America(1924年)
素晴らしい哉人生 Isn't Life Wonderful(1924年)兼脚本
曲馬団のサリー Sally of the Sawdust(1925年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/D%E3%83%BBW%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B9

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[近代史4] 中川隆 _ ホラー映画関係投稿リンク
中川隆 _ ホラー映画関係投稿リンク


呪怨(2000年)
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怪異伝承 鬼殻村 2009年 _ ホラー映画を作っている人間の頭の中はどうなっているのか?
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稲川淳二原作のホラー集
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短編ホラー「トリハダ シリーズ」
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ホラーちゃんねる
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ほんとは怖い童謡
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本当にあった怖い話
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本当にあった怖い話 _ 特選
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あなたの知らない世界
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あなたの知らない怖い話
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トワイライト・ゾーン
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ホラー映画 雪女
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怪談新耳袋 ノブヒロさん
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永江二朗 _ 2ちゃんねるの呪い 「鮫島事件」 劇場版 2011年
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短編映画 「ママ友」
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高橋克彦 「緋い記憶」
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白石晃士 超・悪人 2011年 アートポート
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[近代史4] 楳図 かずお(1936年9月3日 - )

楳図 かずお(うめず かずお、1936年9月3日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B3%E5%9B%B3%E3%81%8B%E3%81%9A%E3%81%8A


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楳図かずお の世界 _ 楳図かずお 『マザー』 2014年
http://www.bilibili.com/video/av2184619/

楳図かずお作品集(動画)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/629.html

あなたの知らない怖い話 _ 楳図かずお恐怖劇場
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/557.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/194.html

[近代史4] 中川隆 _ テレビ・ドラマ関係投稿リンク

中川隆 _ テレビ・ドラマ関係投稿リンク

倉本聰 北の国から 1981
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/616.html

日本で一番美しい道〜富良野・美瑛 _ 倉本聰 「北の国から」 の世界
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/610.html


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昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 賀来千香子・佐野史郎 ずっとあなたが好きだった (TBS 1992年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/165.html

1992年 TBS テレビドラマ 『ずっとあなたが好きだった』
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/868.html

賀来千香子 名演技集
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/869.html


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昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 志田未来 秘密 (テレビ朝日 2010年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/167.html

志田未来 名演技集
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/862.html


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昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 平岩弓枝 青い幸福 姑が嫁に殺意を抱いた時 (日本テレビ 1983)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/544.html

昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 豊川悦司・加藤あい 同窓会へようこそ−遅すぎた夏の帰郷・昔の恋人に導かれ死の淵へ(TBS 1999年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/570.html

2018年 フジテレビ テレビドラマ 『限界団地』
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/872.html

宮部みゆき原作 ドラマスペシャル『火車』
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/830.html

宮部みゆき サスペンス集
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/831.html

宮部みゆき原作 おそろし〜三島屋変調百物語
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/837.html

スペシャルドラマ☆水曜ミステリー9
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/889.html

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実録ドラマ

実録犯罪史シリーズ『浅虫温泉放火事件 お母さんは犯人じゃない』 (フジテレビ 1993年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/644.html

実録犯罪史シリーズ『最期のドライブ』 (フジテレビ 1992年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/686.html

実録犯罪史シリーズ『子供たちの復讐』 (テレビ朝日 1983年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/690.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/195.html

[近代史4] 松本清張(1909年12月21日 - 1992年 8月4日)

松本清張(まつもと せいちょう、1909年〈明治42年〉12月21日 - 1992年〈平成4年〉8月4日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%B8%85%E5%BC%B5


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2006年 テレビ朝日 テレビドラマ 『松本清張 けものみち』
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/873.html

松本清張 顔 (TBS 1999)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/663.html

松本清張 中央流沙 (NHK 1975)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/674.html

松本清張スペシャルドラマ 〜塗られた本〜
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/676.html

松本清張ミステリー時代劇
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/678.html

松本清張 殺人行おくのほそ道 (テレビ朝日 1983)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/308.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/196.html

[近代史4] 世にも奇妙な物語

世にも奇妙な物語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E3%81%AB%E3%82%82%E5%A5%87%E5%A6%99%E3%81%AA%E7%89%A9%E8%AA%9E

世にも奇妙な物語あらすじ(2015年〜2019年) - フジテレビ
https://www.fujitv.co.jp/kimyo/list2015-2019.html


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世にも奇妙な物語
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/592.html

世にも奇妙な物語 _ 特選
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/614.html

世にも奇妙な物語 海外版
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/596.html


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世にも奇妙な物語 _ もう一人の花嫁
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/240.html

世にも奇妙な物語 _ 時の女神 (1994年7月7日)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/241.html

世にも奇妙な物語 _ 過去からの日記 (2004年9月20日)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/242.html

世にも奇妙な物語 _ 墓友 (2014年4月5日)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/247.html

世にも奇妙な物語 _ 雪山 (2000年11月3日)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/246.html

世にも奇妙な物語 _ 栞の恋 (2010年10月4日)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/245.html

世にも奇妙な物語 _ あけてくれ (2004年9月20日)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/248.html

世にも奇妙な物語 _ 冷やす女 (2000年3月27日)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/251.html

世にも奇妙な物語 _ 恐竜はどこへ行ったのか
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/573.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/197.html

[近代史4] 横溝正史(1902年 5月24日 - 1981年12月28日)

横溝正史(よこみぞ せいし、1902年〈明治35年〉5月24日 - 1981年〈昭和56年〉12月28日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%BA%9D%E6%AD%A3%E5%8F%B2


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横溝正史 ミイラの花嫁(TBS 1983年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/219.html

横溝正史 八つ墓村(松竹 1977年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/220.html

横溝正史 女王蜂(東宝 1978年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/222.html

横溝正史 霧の山荘(TBS 1985年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/227.html

横溝正史 八つ墓村(松竹 1977年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/220.html

横溝正史 犬神家の一族(東宝 1976年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/221.html

横溝正史 女王蜂(東宝 1978年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/222.html

横溝正史 霧の山荘(TBS 1985年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/227.html

横溝正史 悪霊島(TBS 1999年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/523.html

横溝正史 湖泥(TBS 1996年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/524.html

横溝正史 幽霊座(TBS 1997年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/526.html

横溝正史 仮面舞踏会(テレビ朝日 1986年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/531.html

横溝正史 黒蘭姫(NHK 2016年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/534.html

横溝正史 殺人鬼(NHK 2016年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/535.html

横溝正史 百日紅の下にて(NHK 2016年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/536.html

横溝正史 真珠郎(テレビ朝日 1983年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/540.html

横溝正史 迷路荘の惨劇(テレビ東京 2002年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/545.html

横溝正史 悪魔の手毬唄(フジテレビ 2009年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/555.html

横溝正史 ミイラの花嫁(TBS 1983年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/219.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/198.html

[近代史4] つげ 義春(1937年10月30日 - )

つげ 義春(つげ よしはる、1937年(昭和12年)10月30日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%92%E7%BE%A9%E6%98%A5

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山田勇男 蒸発旅日記 (2003年) _ つげ義春は何故まともな映画化ができないのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/276.html

石井輝男 ゲンセンカン主人 (1993年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/278.html

井口昇 まだらの少女 (松竹 2005年) _ 楳図かずお を映画化すると何故全然怖くなくなるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/277.html

NHKドラマ 紅い花 (1976年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/281.html

ディープ世界とは何か _ つげ義春が見たもの _ 今神温泉
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/300.html

『見張りの湯』 から玉川源流へ _ 八幡平の温泉 _ 失われゆく湯治文化
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/314.html

『ゲンセンカン』の風呂場として描写された日本最高の名湯 今神温泉は野湯になっていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/280.html

苗場の近くの名湯 4 _ 『ゲンセンカン主人』で有名な湯宿温泉 _ 100円でドバドバ掛け流し温泉に入れるんだけど
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/693.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/199.html

[近代史4] エイゼンシュテイン(1898年1月10日 - 1948年2月11日)

セルゲーイ・ミハーイロヴィチ・エイゼンシュテーイン(Sergei Mikhailovich Eisenstein; 1898年1月10日 - 1948年2月11日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%B3


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エイゼンシュテイン 戦艦ポチョムキン (1925年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/264.html

エイゼンシュテイン イワン雷帝 (1944年,1958年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/266.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/200.html

[近代史4] 新海 誠(1973年 2月9日 - )

新海 誠(1973年 2月9日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B5%B7%E8%AA%A0


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『君の名は』 東宝 2016年
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/663.html

『ほしのこえ』 2002年 MANGAZOO.COM
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/666.html

新海誠 『雲のむこう、約束の場所』 2004年 コミックス・ウェーブ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/667.html

新海誠 『秒速5センチメートル』 2007年 コミックス・ウェーブ
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/665.html

新海誠 『言の葉の庭』 東宝 2013年
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/664.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/201.html

[近代史4] チャップリン (1889年4月16日 - 1977年12月25日)

サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/チャールズ・チャップリン

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チャップリン キッド The Kid (1921年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/269.html

チャップリン 街の灯 City Lights (1931年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/272.html

チャップリン モダン・タイムス Modern Times (1936年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/273.html

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Those Were The Days _ リリアン・ギッシュが独身を通した理由
03. 中川隆 2011年5月08日 12:54:33:
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/487.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/202.html

[近代史4] 中川隆 _ 映画史関係投稿リンク 中川隆
1. 中川隆[-13587] koaQ7Jey 2020年2月23日 15:06:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-101]


グリフィス 國民の創生 (The Birth of a Nation) (1915年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/270.html

グリフィス 散り行く花 (Broken Blossoms) (1919年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/268.html

グリフィス 東への道 (WAY DOWN EAST) (1920年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/267.html

ローベルト・ヴィーネ カリガリ博士 Das Cabinet des Dr. Caligari (1920年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/275.html

チャップリン キッド The Kid (1921年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/269.html

チャップリン 街の灯 City Lights (1931年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/272.html

チャップリン モダン・タイムス Modern Times (1936年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/273.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/191.html#c1

[近代史4] ジョン・フォード (John Ford、1894年2月1日 - 1973年8月31日)

ジョン・フォード(John Ford、1894年2月1日 - 1973年8月31日)

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・フォード


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My Darling Clementine - いとしのクレメインタイン (ジョン・フォード 荒野の決闘 1946)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/929.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/203.html

[近代史4] 溝口健二(1898年5月16日 - 1956年8月24日)
溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%8F%A3%E5%81%A5%E4%BA%8C

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溝口健二 瀧の白糸(入江プロダクション 1933年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/162.html

溝口健二 祇園の姉妹 (松竹 1936年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/158.html

溝口健二 夜の女たち(松竹 1948年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/171.html

溝口健二 お遊さま(大映 1951年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/160.html

溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/159.html

溝口健二 雨月物語 (大映 1953年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/156.html

溝口健二 近松物語(大映 1954年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/161.html

溝口健二 山椒大夫 (大映 1954年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/172.html

昔の日本映画は熱かった _ 溝口健二 赤線地帯 (大映 1956年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/155.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/204.html

[近代史4] ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ (Jarosław Leon Iwaszkiewicz, 1894年2月20日 - 1980年3月2日)

ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ(Jarosław Leon Iwaszkiewicz, 1894年2月20日 - 1980年3月2日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%81

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アンチクライスト _ 尼僧ヨアンナ
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/484.html

独占インタビュー 元弟子が語るイエス教団「治療」の実態!! _ 尼僧ヨアンナ
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/205.html

[近代史4] ルキノ・ヴィスコンティ (Luchino Visconti, 1906年11月2日 - 1976年3月17日)

ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti, 1906年11月2日 - 1976年3月17日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3


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ルキノ・ヴィスコンティ『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 1943年
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/645.html

ルキノ・ヴィスコンティ『ベリッシマ Bellissima 』 1951年
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/649.html

ルキノ・ヴィスコンティ『異邦人 Lo Straniero 』 1967年
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/646.html

ルキノ・ヴィスコンティ 異邦人 (1967年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/259.html

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グスタフ・マーラー 『アダージェット』 _ ヴィスコンティ「ヴェニスに死す」 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/882.html#c1

セザール・フランク 『前奏曲・コラールとフーガ 』 _ ヴィスコンティ 熊座の淡き星影
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/915.html#c1

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/206.html

[近代史4] フェデリコ・フェリーニ (Federico Fellini, 1920年1月20日 - 1993年10月31日)

フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini, 1920年1月20日 - 1993年10月31日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B


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天上の歌声 _ メリー・ホプキン
6. Federico Fellini La Strada (1954)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/488.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/207.html

[近代史4] 黒澤 明 (1910年 3月23日 - 1998年 9月6日)

黒澤 明(1910年 3月23日 - 1998年 9月6日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%BE%A4%E6%98%8E

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黒澤明にはわからなかった女性の恐ろしさ _ 黒澤明 羅生門 (大映 1950年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/174.html

サルはなぜサルか 1 _ 映画「羅生門」_ 黒澤明にはわからなかった女性の恐ろしさ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/397.html

文学も人間も全然わからなかった黒澤明の 白痴 (松竹 1951年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/173.html

黒澤明 ドストエフスキー『白痴』 1951年
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/617.html

黒澤明 「デルス・ウザーラ」 1975年 から見た”精霊信仰”
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/738.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/208.html

[近代史4] アルフレッド・ヒッチコック (Alfred Hitchcock, 1899年8月13日 - 1980年4月29日)

アルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock, 1899年8月13日 - 1980年4月29日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF

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欧米人の恋愛は性的倒錯の一種
3. アニマを映像化したヒッチコックの名作 めまい (1958)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/200.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/209.html

[近代史4] フェデリコ・フェリーニ (Federico Fellini, 1920年1月20日 - 1993年10月31日) 中川隆
1. 中川隆[-13586] koaQ7Jey 2020年2月23日 16:06:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-100]

フェデリコ・フェリーニ 道 La Strada (1954年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/255.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/207.html#c1
[近代史4] 成瀬 巳喜男(なるせ みきお、1905年8月20日 - 1969年7月2日)

成瀬 巳喜男(なるせ みきお、1905年8月20日 - 1969年7月2日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%80%AC%E5%B7%B3%E5%96%9C%E7%94%B7

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あの名画の舞台となった伊香保温泉は今…_ 成瀬巳喜男『浮雲』 1955年
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/355.html_

昔の日本映画は熱かった _ 成瀬巳喜男 あらくれ(東宝 1957年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/166.html

あの名画の舞台となった銀山温泉は今…_ 成瀬巳喜男『乱れる』1964年
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/351.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/210.html

[近代史4] アンジェイ・ワイダ (Andrzej Wajda、1926年3月6日 - 2016年10月9日)

アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda、1926年3月6日 - 2016年10月9日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%80

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ワイダ 世代 Pokolenie (1955年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/372.html

ワイダ 地下水道 Kanał (1957年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/364.html

ワイダ 灰とダイヤモンド Popiół i diament (1958年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/365.html

ワイダ 大理石の男 Człowiek z marmuru (1977年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/408.html

ワイダ カティンの森 Katyń (2007年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/375.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/211.html

[近代史4] スタンリー・キューブリック (Stanley Kubrick, 1928年7月26日 - 1999年3月7日)


スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick, 1928年7月26日 - 1999年3月7日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF

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スタンリー・キューブリック シャイニング (The Shining ,ワーナー・ブラザース 1980年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/619.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/212.html

[近代史4] フェデリコ・フェリーニ (Federico Fellini, 1920年1月20日 - 1993年10月31日) 中川隆
2. 中川隆[-13585] koaQ7Jey 2020年2月23日 16:20:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-99]

フェデリコ・フェリーニ 世にも怪奇な物語 第3話「悪魔の首飾り」 (1968年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/256.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/207.html#c2
[近代史4] イングマール・ベルイマン (Ernst Ingmar Bergman, 1918年7月14日 - 2007年7月30日)


エルンスト・イングマール・ベルイマン(Ernst Ingmar Bergman, 1918年7月14日 - 2007年7月30日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%B3

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イングマール・ベルイマン 第七の封印 (1957年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/252.html

イングマール・ベルイマン ペルソナ (1966年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/253.html

モーツァルト 歌劇「魔笛」_ イングマール・ベルイマン 魔笛
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/816.html#c1

モーツァルト 魔笛 ・ドン・ジョヴァンニ を聴く」_ イングマール・ベルイマン 魔笛
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/559.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/213.html

[近代史4] パオロ・パゾリーニ (Pier Paolo Pasolini, 1922年3月5日 - 1975年11月2日)

ピエル・パオロ・パゾリーニ (Pier Paolo Pasolini, 1922年3月5日 - 1975年11月2日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%BE%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B


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パゾリーニ 王女メディア (1969年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/257.html

イエスが殺された本当の理由
2. 奇跡の丘 原案・脚本・監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ(「マタイの福音書」に基づく)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/214.html

[近代史4] アンドレイ・タルコフスキー (Andrei Arsenyevich Tarkovsky, 1932年4月4日 - 1986年12月29日)

アンドレイ・タルコフスキー(Andrei Arsenyevich Tarkovsky, 1932年4月4日 - 1986年12月29日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

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タルコフスキー 僕の村は戦場だった (1962年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/244.html

タルコフスキー アンドレイ・ルブリョフ (1966年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/243.html

アンチクライスト _ アンドレイ・ルブリョフ
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/484.html

タルコフスキー 惑星ソラリス (1972年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/250.html

タルコフスキー 鏡 (1975年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/249.html

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西洋の達人が悟れない理由 _ タルコフスキーの世界
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/608.html
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/629.html
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/630.html
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/631.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/215.html

[近代史4] 中川隆 _ 映画史関係投稿リンク 中川隆
2. 中川隆[-13584] koaQ7Jey 2020年2月23日 16:39:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-98]

ヴィクトル・シェストレム 風 The Wind (1929年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/271.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/191.html#c2
[近代史4] 楳図 かずお(1936年9月3日 - ) 中川隆
1. 中川隆[-13583] koaQ7Jey 2020年2月23日 16:41:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-97]

井口昇 まだらの少女 (松竹 2005年) _ 楳図かずお を映画化すると何故全然怖くなくなるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/277.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/194.html#c1
[近代史4] テオ・アンゲロプロス (Theo Angelopoulos、1935年4月27日 - 2012年1月24日)

テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos、1935年4月27日 - 2012年1月24日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B9

▲△▽▼


天上の歌声 _ メリー・ホプキン
8. Theo Angelopoulos 1) Ο Θίασος(旅芸人の記録) : 1975
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/488.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/216.html

[近代史4] 中川隆 _ 映画史関係投稿リンク 中川隆
3. 中川隆[-13582] koaQ7Jey 2020年2月23日 16:59:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-96]

湯沢町の共同湯は日本国内の温泉の中で最低最悪 _ 映画 狂つた一頁
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/574.html#c69

狂つた一頁 A Page of Madness 1926年(大正15年)
製作・監督:衣笠貞之助
原作:川端康成
脚色:川端康成、衣笠貞之助、犬塚稔、沢田晩紅


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/191.html#c3

[近代史4] ラース・フォン・トリアー (Lars von Trier、1956年4月30日 - )
ラース・フォン・トリアー (Lars von Trier、1956年4月30日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC

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ドッグヴィルの世界 _ 奈良県 月ヶ瀬村
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/269.html

アンチクライスト
2. ラース・フォン・トリアー アンチクライスト
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/484.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/217.html

[番外地6] アホが書いた日本国憲法 中川隆
32. 中川隆[-13581] koaQ7Jey 2020年2月23日 17:49:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-95]

2020年02月23日
日本国憲法は憲法違反という事実


マッカーサーは自分が大統領になりたいという野心のために日本を利用した。
img_0
引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


日本国憲法の違法論争

ある種の人々に言わせると、戦後75年の平和は日本国憲法のお陰でもたらされたという。

日本国憲法の改正を巡って有識者が対立し、自衛隊や選挙が憲法違反かどうか、議論が白熱している。

ところが今から75年前、”新しい憲法”を憲法違反のゴリ押しによって、ある独裁者が日本人に押し付けた。





その独裁者は安倍首相の爺さんではなく、ダグラス・マッカーサーというアメリカ軍人でした。

マッカーサーは憲法の規定や議会の手続き、民主主義などを無視して「この憲法を成立させないともう一度空襲して日本人を滅亡させる」と言って成立させた。

日本国憲法改正には国民投票が必要だが、そもそも最初に国民投票なしで強要しました、


当然日本国内の有識者に「日本国憲法は憲法違反の違法な憲法だ」というマンガのような議論が巻き起こった。

だがマッカーサーは裁判官や東京大学といった権威に圧力をかけ『憲法学』という奇妙な学問をでっち上げた。

『憲法学』は世界で日本にしか存在せず、学問として認められてもいないが、日本人はその事実を知らされていない。


誰も学校で「憲法学という学問は、違法な憲法を押し付けるためにアメリカが作りました」とは教わらないので、日本人だけが知らない。

1945年8月28日に帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーが降り立った。

9月2日には陸海軍解体を命令したが、むろん法的根拠は一切なかった。

独裁者マッカーサー

全ての新聞に内容の書き換え、発行停止、共産主義者を必ず雇用することなどを指示し、この時から日本の全新聞が「左翼新聞」になった。

「文化人」が一斉に日本や天皇、日本人などを罵倒し始めたのもこの時からで、現在も続けられています。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、警察解体、政治犯釈放、天皇を批判するよう新聞に命令したりもした。


東久邇宮内閣はマッカーサーの命令が民主的でなく、憲法違反だから従わないとして総辞職しました。

マッカーサーはただの軍人に過ぎないのに、日本の独裁者として君臨し、我が物顔に振舞っていました。

日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。


後に判明した事は、この時マッカーサーは大統領選挙への出馬を狙っていて、「自分が日本を降伏させ統治した」という実績が欲しかったのです。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


マッカーサーの意向は日本人と天皇を『犯罪者』と定義し、帝国憲法を破棄する事だったのでした。

マッカーサーはアルバイト職員に、2月4日からの7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

国会議員や総理大臣が内容を知ったのは、3月7日の新聞を読んでからという有り様で、日本人は新聞に載ったのだから政府が作ったのだと思いました。


マッカーサーは日本政府や議会に無断で新憲法を新聞に掲載し、これを承認しろと迫った。
40e17f0f64d1d40ab3d50fd1b116e204
引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/4a/40e17f0f64d1d40ab3d50fd1b116e204.jpg

違法な憲法に従う事はできない

この時全ての新聞はGHQの支配下にあり、検閲によって米軍が内容を決めていたのです。

またこの頃、NHKラジオは日本軍がいかに大陸で酷い戦争犯罪をやったかという放送を、連日朝から晩まで流していましたが、内容は全て作り話で、従軍慰安婦などもこの時でっち上げられました。

今でもNHKが一日中日本の悪口しか放送しないのは、この時のアメリカ軍の命令を今も守っているからです。


マッカーサーは「新憲法を承認するかもう一度戦争をするか」と迫り、5月の帝国議会で可決させました。

審議は一切行われず、もちろん国民投票もなかったが、自分が作った憲法では「改正には議会の3分の2の賛成と国民投票が必要」と勝手な事を書いた。

こんな憲法は無効だと日本の言論人や有識者は一斉に騒ぎ始めたので、適当な理由で片っ端から逮捕しました。


マッカーサーはさらに「新憲法を合法化しろ」と東京大学に要求し、東京大学は『憲法学』をでっち上げました。

帝国大学(東大)法学部の最高権威は宮澤俊義教授で、最初は「新憲法は違法である」という立場をとっていた。

だがマッカーサーから脅されたのか「日本はアメリカに降伏していない」「日本国民が天皇を倒して革命を起こし、新憲法を制定した」と言い出しました。


どこにもそんな事実はないが、そう言わないと宮澤教授は戦犯として極刑になるという事です。

東大の最高権威が合法だと言ったので、子分達も合法だといい始め、違憲論は鎮圧されました。

これが日本国憲法が成立した経緯であり、どこからどう見ても立派に「違法」で、これが合法ならヒトラーも立派に合法でしょう。


日本国憲法が合法だなどと言うのは、独裁者の無法行為を認め、民主主義を否定するという事です。

マッカーサーの野心は自分が大統領になる為に、日本を貶め利用する事で、原子爆弾や絨毯爆撃もそのために行いました。


憲法学という犯罪者の学問とともに、葬り去られるべきものです。
http://www.thutmosev.com/archives/64413173.html
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/613.html#c32

[近代史3] 憲法九条と GHQ のニューディーラーが考えていた事 _ アメリカ合衆国憲法も常備軍の存在は認めていない 中川隆
9. 中川隆[-13580] koaQ7Jey 2020年2月23日 17:50:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-94]

2020年02月23日
日本国憲法は憲法違反という事実


マッカーサーは自分が大統領になりたいという野心のために日本を利用した。
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


日本国憲法の違法論争

ある種の人々に言わせると、戦後75年の平和は日本国憲法のお陰でもたらされたという。

日本国憲法の改正を巡って有識者が対立し、自衛隊や選挙が憲法違反かどうか、議論が白熱している。

ところが今から75年前、”新しい憲法”を憲法違反のゴリ押しによって、ある独裁者が日本人に押し付けた。





その独裁者は安倍首相の爺さんではなく、ダグラス・マッカーサーというアメリカ軍人でした。

マッカーサーは憲法の規定や議会の手続き、民主主義などを無視して「この憲法を成立させないともう一度空襲して日本人を滅亡させる」と言って成立させた。

日本国憲法改正には国民投票が必要だが、そもそも最初に国民投票なしで強要しました、


当然日本国内の有識者に「日本国憲法は憲法違反の違法な憲法だ」というマンガのような議論が巻き起こった。

だがマッカーサーは裁判官や東京大学といった権威に圧力をかけ『憲法学』という奇妙な学問をでっち上げた。

『憲法学』は世界で日本にしか存在せず、学問として認められてもいないが、日本人はその事実を知らされていない。


誰も学校で「憲法学という学問は、違法な憲法を押し付けるためにアメリカが作りました」とは教わらないので、日本人だけが知らない。

1945年8月28日に帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーが降り立った。

9月2日には陸海軍解体を命令したが、むろん法的根拠は一切なかった。

独裁者マッカーサー

全ての新聞に内容の書き換え、発行停止、共産主義者を必ず雇用することなどを指示し、この時から日本の全新聞が「左翼新聞」になった。

「文化人」が一斉に日本や天皇、日本人などを罵倒し始めたのもこの時からで、現在も続けられています。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、警察解体、政治犯釈放、天皇を批判するよう新聞に命令したりもした。


東久邇宮内閣はマッカーサーの命令が民主的でなく、憲法違反だから従わないとして総辞職しました。

マッカーサーはただの軍人に過ぎないのに、日本の独裁者として君臨し、我が物顔に振舞っていました。

日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。


後に判明した事は、この時マッカーサーは大統領選挙への出馬を狙っていて、「自分が日本を降伏させ統治した」という実績が欲しかったのです。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


マッカーサーの意向は日本人と天皇を『犯罪者』と定義し、帝国憲法を破棄する事だったのでした。

マッカーサーはアルバイト職員に、2月4日からの7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

国会議員や総理大臣が内容を知ったのは、3月7日の新聞を読んでからという有り様で、日本人は新聞に載ったのだから政府が作ったのだと思いました。


マッカーサーは日本政府や議会に無断で新憲法を新聞に掲載し、これを承認しろと迫った。
40e17f0f64d1d40ab3d50fd1b116e204
引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/4a/40e17f0f64d1d40ab3d50fd1b116e204.jpg

違法な憲法に従う事はできない

この時全ての新聞はGHQの支配下にあり、検閲によって米軍が内容を決めていたのです。

またこの頃、NHKラジオは日本軍がいかに大陸で酷い戦争犯罪をやったかという放送を、連日朝から晩まで流していましたが、内容は全て作り話で、従軍慰安婦などもこの時でっち上げられました。

今でもNHKが一日中日本の悪口しか放送しないのは、この時のアメリカ軍の命令を今も守っているからです。


マッカーサーは「新憲法を承認するかもう一度戦争をするか」と迫り、5月の帝国議会で可決させました。

審議は一切行われず、もちろん国民投票もなかったが、自分が作った憲法では「改正には議会の3分の2の賛成と国民投票が必要」と勝手な事を書いた。

こんな憲法は無効だと日本の言論人や有識者は一斉に騒ぎ始めたので、適当な理由で片っ端から逮捕しました。


マッカーサーはさらに「新憲法を合法化しろ」と東京大学に要求し、東京大学は『憲法学』をでっち上げました。

帝国大学(東大)法学部の最高権威は宮澤俊義教授で、最初は「新憲法は違法である」という立場をとっていた。

だがマッカーサーから脅されたのか「日本はアメリカに降伏していない」「日本国民が天皇を倒して革命を起こし、新憲法を制定した」と言い出しました。


どこにもそんな事実はないが、そう言わないと宮澤教授は戦犯として極刑になるという事です。

東大の最高権威が合法だと言ったので、子分達も合法だといい始め、違憲論は鎮圧されました。

これが日本国憲法が成立した経緯であり、どこからどう見ても立派に「違法」で、これが合法ならヒトラーも立派に合法でしょう。


日本国憲法が合法だなどと言うのは、独裁者の無法行為を認め、民主主義を否定するという事です。

マッカーサーの野心は自分が大統領になる為に、日本を貶め利用する事で、原子爆弾や絨毯爆撃もそのために行いました。


憲法学という犯罪者の学問とともに、葬り去られるべきものです。
http://www.thutmosev.com/archives/64413173.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/229.html#c9

[近代史3] GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った 中川隆
24. 中川隆[-13579] koaQ7Jey 2020年2月23日 17:51:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-93]

2020年02月23日
日本国憲法は憲法違反という事実


マッカーサーは自分が大統領になりたいという野心のために日本を利用した。
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


日本国憲法の違法論争

ある種の人々に言わせると、戦後75年の平和は日本国憲法のお陰でもたらされたという。

日本国憲法の改正を巡って有識者が対立し、自衛隊や選挙が憲法違反かどうか、議論が白熱している。

ところが今から75年前、”新しい憲法”を憲法違反のゴリ押しによって、ある独裁者が日本人に押し付けた。





その独裁者は安倍首相の爺さんではなく、ダグラス・マッカーサーというアメリカ軍人でした。

マッカーサーは憲法の規定や議会の手続き、民主主義などを無視して「この憲法を成立させないともう一度空襲して日本人を滅亡させる」と言って成立させた。

日本国憲法改正には国民投票が必要だが、そもそも最初に国民投票なしで強要しました、


当然日本国内の有識者に「日本国憲法は憲法違反の違法な憲法だ」というマンガのような議論が巻き起こった。

だがマッカーサーは裁判官や東京大学といった権威に圧力をかけ『憲法学』という奇妙な学問をでっち上げた。

『憲法学』は世界で日本にしか存在せず、学問として認められてもいないが、日本人はその事実を知らされていない。


誰も学校で「憲法学という学問は、違法な憲法を押し付けるためにアメリカが作りました」とは教わらないので、日本人だけが知らない。

1945年8月28日に帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーが降り立った。

9月2日には陸海軍解体を命令したが、むろん法的根拠は一切なかった。

独裁者マッカーサー

全ての新聞に内容の書き換え、発行停止、共産主義者を必ず雇用することなどを指示し、この時から日本の全新聞が「左翼新聞」になった。

「文化人」が一斉に日本や天皇、日本人などを罵倒し始めたのもこの時からで、現在も続けられています。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、警察解体、政治犯釈放、天皇を批判するよう新聞に命令したりもした。


東久邇宮内閣はマッカーサーの命令が民主的でなく、憲法違反だから従わないとして総辞職しました。

マッカーサーはただの軍人に過ぎないのに、日本の独裁者として君臨し、我が物顔に振舞っていました。

日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。


後に判明した事は、この時マッカーサーは大統領選挙への出馬を狙っていて、「自分が日本を降伏させ統治した」という実績が欲しかったのです。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


マッカーサーの意向は日本人と天皇を『犯罪者』と定義し、帝国憲法を破棄する事だったのでした。

マッカーサーはアルバイト職員に、2月4日からの7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

国会議員や総理大臣が内容を知ったのは、3月7日の新聞を読んでからという有り様で、日本人は新聞に載ったのだから政府が作ったのだと思いました。


マッカーサーは日本政府や議会に無断で新憲法を新聞に掲載し、これを承認しろと迫った。
40e17f0f64d1d40ab3d50fd1b116e204
引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/4a/40e17f0f64d1d40ab3d50fd1b116e204.jpg

違法な憲法に従う事はできない

この時全ての新聞はGHQの支配下にあり、検閲によって米軍が内容を決めていたのです。

またこの頃、NHKラジオは日本軍がいかに大陸で酷い戦争犯罪をやったかという放送を、連日朝から晩まで流していましたが、内容は全て作り話で、従軍慰安婦などもこの時でっち上げられました。

今でもNHKが一日中日本の悪口しか放送しないのは、この時のアメリカ軍の命令を今も守っているからです。


マッカーサーは「新憲法を承認するかもう一度戦争をするか」と迫り、5月の帝国議会で可決させました。

審議は一切行われず、もちろん国民投票もなかったが、自分が作った憲法では「改正には議会の3分の2の賛成と国民投票が必要」と勝手な事を書いた。

こんな憲法は無効だと日本の言論人や有識者は一斉に騒ぎ始めたので、適当な理由で片っ端から逮捕しました。


マッカーサーはさらに「新憲法を合法化しろ」と東京大学に要求し、東京大学は『憲法学』をでっち上げました。

帝国大学(東大)法学部の最高権威は宮澤俊義教授で、最初は「新憲法は違法である」という立場をとっていた。

だがマッカーサーから脅されたのか「日本はアメリカに降伏していない」「日本国民が天皇を倒して革命を起こし、新憲法を制定した」と言い出しました。


どこにもそんな事実はないが、そう言わないと宮澤教授は戦犯として極刑になるという事です。

東大の最高権威が合法だと言ったので、子分達も合法だといい始め、違憲論は鎮圧されました。

これが日本国憲法が成立した経緯であり、どこからどう見ても立派に「違法」で、これが合法ならヒトラーも立派に合法でしょう。


日本国憲法が合法だなどと言うのは、独裁者の無法行為を認め、民主主義を否定するという事です。

マッカーサーの野心は自分が大統領になる為に、日本を貶め利用する事で、原子爆弾や絨毯爆撃もそのために行いました。


憲法学という犯罪者の学問とともに、葬り去られるべきものです。
http://www.thutmosev.com/archives/64413173.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/146.html#c24

[リバイバル3] GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり 中川隆
10. 中川隆[-13578] koaQ7Jey 2020年2月23日 17:54:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-92]

2020年02月23日
日本国憲法は憲法違反という事実


マッカーサーは自分が大統領になりたいという野心のために日本を利用した。
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


日本国憲法の違法論争

ある種の人々に言わせると、戦後75年の平和は日本国憲法のお陰でもたらされたという。

日本国憲法の改正を巡って有識者が対立し、自衛隊や選挙が憲法違反かどうか、議論が白熱している。

ところが今から75年前、”新しい憲法”を憲法違反のゴリ押しによって、ある独裁者が日本人に押し付けた。





その独裁者は安倍首相の爺さんではなく、ダグラス・マッカーサーというアメリカ軍人でした。

マッカーサーは憲法の規定や議会の手続き、民主主義などを無視して「この憲法を成立させないともう一度空襲して日本人を滅亡させる」と言って成立させた。

日本国憲法改正には国民投票が必要だが、そもそも最初に国民投票なしで強要しました、


当然日本国内の有識者に「日本国憲法は憲法違反の違法な憲法だ」というマンガのような議論が巻き起こった。

だがマッカーサーは裁判官や東京大学といった権威に圧力をかけ『憲法学』という奇妙な学問をでっち上げた。

『憲法学』は世界で日本にしか存在せず、学問として認められてもいないが、日本人はその事実を知らされていない。


誰も学校で「憲法学という学問は、違法な憲法を押し付けるためにアメリカが作りました」とは教わらないので、日本人だけが知らない。

1945年8月28日に帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーが降り立った。

9月2日には陸海軍解体を命令したが、むろん法的根拠は一切なかった。

独裁者マッカーサー

全ての新聞に内容の書き換え、発行停止、共産主義者を必ず雇用することなどを指示し、この時から日本の全新聞が「左翼新聞」になった。

「文化人」が一斉に日本や天皇、日本人などを罵倒し始めたのもこの時からで、現在も続けられています。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、警察解体、政治犯釈放、天皇を批判するよう新聞に命令したりもした。


東久邇宮内閣はマッカーサーの命令が民主的でなく、憲法違反だから従わないとして総辞職しました。

マッカーサーはただの軍人に過ぎないのに、日本の独裁者として君臨し、我が物顔に振舞っていました。

日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。


後に判明した事は、この時マッカーサーは大統領選挙への出馬を狙っていて、「自分が日本を降伏させ統治した」という実績が欲しかったのです。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


マッカーサーの意向は日本人と天皇を『犯罪者』と定義し、帝国憲法を破棄する事だったのでした。

マッカーサーはアルバイト職員に、2月4日からの7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

国会議員や総理大臣が内容を知ったのは、3月7日の新聞を読んでからという有り様で、日本人は新聞に載ったのだから政府が作ったのだと思いました。


マッカーサーは日本政府や議会に無断で新憲法を新聞に掲載し、これを承認しろと迫った。
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引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/4a/40e17f0f64d1d40ab3d50fd1b116e204.jpg

違法な憲法に従う事はできない

この時全ての新聞はGHQの支配下にあり、検閲によって米軍が内容を決めていたのです。

またこの頃、NHKラジオは日本軍がいかに大陸で酷い戦争犯罪をやったかという放送を、連日朝から晩まで流していましたが、内容は全て作り話で、従軍慰安婦などもこの時でっち上げられました。

今でもNHKが一日中日本の悪口しか放送しないのは、この時のアメリカ軍の命令を今も守っているからです。


マッカーサーは「新憲法を承認するかもう一度戦争をするか」と迫り、5月の帝国議会で可決させました。

審議は一切行われず、もちろん国民投票もなかったが、自分が作った憲法では「改正には議会の3分の2の賛成と国民投票が必要」と勝手な事を書いた。

こんな憲法は無効だと日本の言論人や有識者は一斉に騒ぎ始めたので、適当な理由で片っ端から逮捕しました。


マッカーサーはさらに「新憲法を合法化しろ」と東京大学に要求し、東京大学は『憲法学』をでっち上げました。

帝国大学(東大)法学部の最高権威は宮澤俊義教授で、最初は「新憲法は違法である」という立場をとっていた。

だがマッカーサーから脅されたのか「日本はアメリカに降伏していない」「日本国民が天皇を倒して革命を起こし、新憲法を制定した」と言い出しました。


どこにもそんな事実はないが、そう言わないと宮澤教授は戦犯として極刑になるという事です。

東大の最高権威が合法だと言ったので、子分達も合法だといい始め、違憲論は鎮圧されました。

これが日本国憲法が成立した経緯であり、どこからどう見ても立派に「違法」で、これが合法ならヒトラーも立派に合法でしょう。


日本国憲法が合法だなどと言うのは、独裁者の無法行為を認め、民主主義を否定するという事です。

マッカーサーの野心は自分が大統領になる為に、日本を貶め利用する事で、原子爆弾や絨毯爆撃もそのために行いました。


憲法学という犯罪者の学問とともに、葬り去られるべきものです。
http://www.thutmosev.com/archives/64413173.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/748.html#c10

[近代史4] 中川隆 _ キリスト教関係投稿リンク

キリスト教


参考資料 _ トマス福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/372.html

参考資料 _ ユダの福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/373.html

参考資料 _ 聖イッサ伝  
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/374.html

参考資料 _ マリアによる福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/375.html

参考資料 _ マルコによる福音書(文語訳)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/376.html

参考資料 _ 舊約聖書 傳道之書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/550.html

参考資料 _ ヨハネの默示録 (文語訳)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/903.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/218.html

[近代史4] 仏教

仏教

釈迦の言葉
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/741.html

参考資料 _ ダンマパダ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/737.html

参考資料 _ スッタニパータ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/736.html

参考資料 _ ブッダ最後の旅
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/738.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/219.html

[近代史4] イスラム教

イスラム教

コーランとハディース(預言者ムハンマドの言行録)
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/907.html

日本ムスリム協会発行 「日亜対訳・注解 聖クルアーン (コーラン)」
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/314.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/220.html

[近代史4] 神道

神道


神道の事を単なる儀式であって宗教ではないと思っている天皇一族には理解できない神道の世界
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/124.html

縄文人の蛇信仰
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/200.html

東洋ではどんな分野の達人でも超能力者
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/607.html

弥生人の鳥信仰と太陽信仰
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/208.html

日本人の海民性
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/693.html

東漢氏の遺産「祓いの神道」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/209.html

西暦400年前後に、秦氏(弓月氏)が、百済の民、数十万人を引き連れて日本に移住してきた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/550.html

大阪住民の半数は渡来人の子孫
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/780.html

天皇家の中国鏡を神体とする太陽信仰と天孫降臨
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/104.html

皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/313.html


▲△▽▼

日本書紀(原文・現代語訳・口語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/513.html

古事記(原文・現代語訳・口語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/514.html

先代旧事本紀 (現代語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/515.html

古語拾遺(現代語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/516.html


▲△▽▼

折口信夫 國文學の發生(第三稿)まれびと の意義
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/424.html

折口信夫 鬼の話
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/422.html

折口信夫 河童の話
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/423.html


▲△▽▼

柳田国男 山の人生
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/420.html

柳田国男 遠野物語
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/421.html


▲△▽▼


ヤマトンチュには絶対に話してはいけない パナリ(新城)島の秘密
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/706.html

沖縄パナリの秘祭 _ 臨月になった美女を引き出して洞の中で行う秘密の儀式とは
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/446.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/221.html

[近代史4] 靖国神道

靖国神道

靖国神道は軍人を殺人の前に奮い立たせる為のものであって、信仰ですらないインチキ神道
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/127.html

靖国神道は神道とは別物のインチキカルト
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/402.html

天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html

昭和天皇の戦争犯罪問題が再燃すると困るから天皇一族は靖国神社に参拝できなくなった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/128.html

宮中『魔女追放事件』 _ 入江侍従長の祭祀簡略化工作と戦い敗れた女官
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/618.html

日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/222.html

[近代史4] 儒教

儒教


中国人に愛国心や公共心が完全にゼロな理由 _ 中国人は宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/138.html

孔子を捨てた国――現代中国残酷物語
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/499.html

論語と儒教は無関係である
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/305.html

中国が仏教を禁止し無数の仏像を取り壊している
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/517.html

朝鮮人は頭がおかしい _ あるのはウソだけのめんどくさい国
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/193.html

朝鮮人が嘘をつく理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/512.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/223.html

[近代史4] 道教


道教

リヒアルト・ヴィルヘルムと易
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/606.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/224.html

[近代史4] 中川隆 _ シャーマニズム関係投稿リンク

シャーマニズム

アイヌのシャーマニズム
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/181.html

イエスのヒーリングは本物のシャーマンには敵わない
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html

オホーツク「クマ祀り」の世界
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/901.html

黒澤明 「デルス・ウザーラ」 から見た”精霊信仰”
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/738.html

西洋の達人が悟れない理由 _ 巫女は神と交わる聖なる女性
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

宗教とは根源的な世界畏怖、怖れ畏む気持ちこそが原点ではないかと思う
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/614.html

西洋の達人が悟れない理由 _ 巫女は神と交わる聖なる女性
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/225.html

[近代史4] 宮ア 駿(みやざき はやお、1941年1月5日 - )

宮ア 駿(みやざき はやお、1941年1月5日 - )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF


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こんな女に誰がした_1 (天皇陛下を恨んでね)
02. 2010年3月21日 19:25:46: 宮ア駿 千と千尋の神隠し
14. 2010年3月27日 12:28:14 宮ア駿 風の谷のナウシカ
17. 2010年3月27日 19:24:48 宮ア駿 となりのトトロ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/226.html

[近代史4] イスラム教 中川隆
1. 中川隆[-13577] koaQ7Jey 2020年2月23日 20:38:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-91]

幼児性愛の人格障害者で人間の屑だった自称預言者のムハンマド
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/315.html

(再掲)いまだ執拗にイスラムヘイトを繰り返すナチスの信奉者
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/556.html

狂った宗教 イスラム教 _ 頭がおかしいのは中国人と朝鮮人だけではない
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/332.html

ムスリムは悪い
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/106.html

ムスリムは やりたくなるとすぐに性奴隷を調達してくる
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/313.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/220.html#c1

[近代史4] 仏教 中川隆
1. 中川隆[-13576] koaQ7Jey 2020年2月23日 20:41:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-90]

釈迦の本当の教え
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/735.html

釈迦の悟りとは何であったのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html

不可触民(ダリット)の世界 _ 釈迦が見た地獄とは何だったのか
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/707.html

タイは天国に二番目に近い国 1 _ タイの仏教
www.asyura2.com/09/reki02/msg/377.html#c5

仏教信仰は人間を堕落させる _ タイが売春国家になった理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/708.html

被差別部落出身の有名人は? _ 法華経は宗教ビジネスの聖典
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html#c169

浄土真宗と創価学会は被差別同和部落民の宗教
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/371.html

被差別同和部落の起源 _ 朝鮮からの渡来人が先住の縄文人・弥生人をエタ地域に隔離した
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/113.html


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/219.html#c1

[近代史4] 中川隆 _ キリスト教関係投稿リンク 中川隆
1. 中川隆[-13575] koaQ7Jey 2020年2月23日 20:42:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-89]

イエスの本当の教え
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/507.html

イエスが殺された本当の理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html

欧米のキリスト教徒全員の行動指針となっているヨハネの默示録
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/506.html

ユダヤ陰謀論とグローバリズムを考える _ ヨーロッパ化されたキリスト教がユダヤ思想の正体で、ユダヤ教やユダヤ人とは何の関係も無かった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/504.html

東海アマ 福音派キリスト教はキリスト教の仮面を被ったユダヤ教
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/487.html

異教徒は「人間」ではないので殺してもいい
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/798.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/218.html#c1

[近代史4] 仏教 中川隆
2. 中川隆[-13574] koaQ7Jey 2020年2月23日 20:43:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-88]

天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/525.html

仏教衰退 _ 全国で無人の寺や無縁墓が急増
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/732.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/219.html#c2

[近代史4] 中川隆 _ キリスト教関係投稿リンク 中川隆
2. 中川隆[-13573] koaQ7Jey 2020年2月23日 20:48:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-87]

独占インタビュー 元弟子が語るイエス教団「治療」の実態!!
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html

タルコフスキー アンドレイ・ルブリョフ (1966年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/243.html

アンチクライスト _ アンドレイ・ルブリョフ
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/484.html

世界を変えた映画『エマニエル夫人』 1974年
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/249.html

まともな人間に芸術は理解できない _ ゴッホは何故ゴッホになれたのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/481.html

ディープ世界への入り口 _ 箱根湯本 平賀敬美術館
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/297.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/218.html#c2

[近代史4] 中川隆 _ キリスト教関係投稿リンク 中川隆
3. 中川隆[-13572] koaQ7Jey 2020年2月23日 20:49:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-86]

他人には絶対に知られたくない秘密って沢山あるよ _ フロイトが妄想だと信じた近親相姦の話はすべて事実だった
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/418.html

欧米人の恋愛は性的倒錯の一種
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/200.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/218.html#c3

[近代史4] 中川隆 _ キリスト教関係投稿リンク 中川隆
4. 中川隆[-13571] koaQ7Jey 2020年2月23日 21:25:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-85]

西洋の達人が悟れない理由
02. 2010年12月13日 11:02:56: ロシアのキリスト教
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/218.html#c4
[近代史4] 仏教 中川隆
3. 中川隆[-13570] koaQ7Jey 2020年2月23日 21:28:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-84]

西洋の達人が悟れない理由
2. 梵我一如はエロスの世界
3. 秘密仏教(密教)とは…
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/385.html
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/219.html#c3

[近代史4] 中川隆 _ カルト宗教関係投稿リンク

中川隆 _ カルト宗教関係投稿リンク

新興宗教「神の子どもたち」
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/181.html


▲△▽▼


GLA
高橋佳子のGLA会員が隠す「佳子と幹部の正体編」
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/447.html

▲△▽▼


真光教

真光教の深層への旅
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/388.html


▲△▽▼
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先祖供養と心の病について
http://www.asyura2.com/0510/health11/msg/219.html

統合失調症患者の「声」との闘い
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/307.html

阿修羅掲示板はパラノイアや統合失調症患者の投稿が多いので、真に受けない様に気を付けて下さい
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/899.html

他人には絶対に知られたくない秘密って沢山あるよ _ フロイトが妄想だと信じた近親相姦の話はすべて事実だった
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/418.html

アホの考えを変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのはすべて無意味で無駄
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/805.html

「認知の歪み」が諸悪の根源だった _ 医療少年院で精神科医が受けた衝撃
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/630.html

「他人の得が許せない」人々が増加中 心に潜む「苦しみ」を読み解く
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/669.html

平和よりも、もっと大切なものがある
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html

人類は愛と平和を求めているわけではない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/931.html

反社会的人格障害者が何故か女性に好かれる理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/900.html

言う事を聞かない生意気な女はアシッド・アタックで懲らしめてやろう
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/831.html

セックスと暴力。このふたつが密接に結びついている理由
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/709.html

パーキンソン病患者の幻覚体験 _ 伝説の遭難者 yucon氏の体験について
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/700.html

ロリコン男は何を考えているのか? _ ロリコン向けラブドールの世界
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/270.html

ヒステリー・神経症の実態
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/755.html

精神科病院の深い闇
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/905.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/227.html

[近代史4] 創価学会
創価学会

カルトの世界 _ 創価学会とオウム真理教を背後から操っている組織とは…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/215.html

闇の組織とは? _ 創価学会は鳥人コンテストが好き?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/270.html

小沢一郎先生を襲った恐怖とは
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/296.html

日本を売った小沢一郎 _ 小沢の嫁は創価の幹部
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/232.html

被差別部落出身の有名人は?_ 創価学会員は部落か在日
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html

語られ始めた皇太子退位論 _ 皇太子妃候補No.1だった柏原芳恵を捏造バイブ・スキャンダルで潰したのは外務省創価グループ?
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/352.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/228.html

[近代史4] 統一教会

統一教会


カルトの世界 _ 創価学会とオウム真理教を背後から操っている組織とは…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/215.html

オウムを操った統一教会とは、どんな団体なのか?
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/401.html

結婚したくなったら統一教会に入ればいい
http://bakusai.com/thr_res/ctgid=119/acode=11/bid=98/tid=1331929/tp=1/

統一協会は何故危険なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/299.html

東海アマ 統一教会の傀儡、安倍政権による移民政策で何が起きるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/496.html

安倍政権下で自殺・不審死した人物
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/542.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/229.html

[近代史4] オウム真理教

オウム真理教


カルトの世界 _ 創価学会とオウム真理教を背後から操っている組織とは…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/215.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/230.html

[近代史4] 幸福の科学

幸福の科学
 

幸福の科学 大川隆法先生の有難い性の儀式
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/798.html

お金とアレにしか興味が無い大川隆法先生を背後から操っている組織とは…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/218.html

何故大川先生はハーレムに居ても満たされなかったのか? _ 『会員NO3』の女性とは…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/220.html

景山民夫を殺した“組織”とは?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/263.html

景山民夫を殺したのは? _ 景山民夫の人生を狂わせた幸福の科学と夫人との出合い
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/228.html
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/229.html

釈迦は何故日本に再誕したか _ 我は大川隆法であって、大川隆法ではない。 エル・カンターレであ-る!!!
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/341.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/342.html

http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/231.html

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