108. 中川隆[-14766] koaQ7Jey 2020年1月07日 17:36:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1746]
2020年01月07日
重光武雄の生涯 ロッテは何企業? 日本か韓国か
引用:http://blog-imgs-67.fc2.com/t/o/r/toriton/l91d0ae75d218a00a5391f438f2669180.jpg
ロッテは日本で創業したが創業者が韓国人であり、本国の韓国の方が後に創業しました。
兄弟で日本と韓国のロッテを相続したが、後継者を巡る争いが奇妙な展開になっている。
日本のロッテは日本企業なのだが争いは韓国で行われ、韓国では韓国企業として振舞っている。
亡国の後継者争い
ロッテの後継者を巡って創業者の息子達が争っているが、創業者重光武雄はロッテをどうやって築き上げたのだろうか。
重光武雄は朝鮮半島南部の慶尚南道の蔚山で1922年(大正11年)に生まれました。
有名な釜山から50キロほど東にある中規模の都市で、半島ではあまり栄えている地方ではない。
韓国併合は1910年(明治43年)だったので、併合から12年後の誕生で、日本風の名前をつける事は珍しくなかった。
重光武雄という以外に辛 格浩(シン・キョクホ)という名前を持っているが、生誕時の名前がどれかは分からない。
日本の敗戦後は朝鮮半島出身者は韓国人になり、日本政府は全員帰国するよう言い渡したが、従わない人が日本に残った。
重光武雄が若い頃は朝鮮半島は世界的に見ても遅れた地域で、日本の方が高収入を期待できた。
1942年に渡航して早稲田大学に入学し、1946年に卒業している。
戦時中だった事を考えても、かなり優秀な成績だったと伺える。
終戦から日本残留
戦後の帰国命令に従わずに日本に残り、在日となった訳だが、韓国名の他に複数の通名を登録できた。
朝鮮総督府では漢字、日本語、ハングルの3つの文字を教えていて、この時代の人は最初から3つの表記を持つ事が多かった。
学徒動員も無く無事に戦争をやり過ごすと進駐軍がやってきて、噛んでいるガムを見てガム製造を思い立ったと書かれている。
南朝鮮は1845年9月に朝鮮総督府から米軍の統治下に入り、1948年8月15日に大統領選挙の後で韓国が建国された。
1948年9月9日に北朝鮮が独立し、朝鮮戦争が始まったのが1950年6月25日と大変に忙しい時期でもあった。
この間、日本に居た半島出身者は「不法滞在者」と位置づけられ、帰国するように日本政府から指示された。
南朝鮮における米軍の占領政策は最初から大きな反発を買い、評判は良くなかった。
朝鮮半島は第二次大戦中戦場にならず、徴兵も徴用もあまりされなかったので、戦争は他人事だった。
そこへアメリカ兵がドヤドヤと乗り込んで新しい主人になったので、反米運動が巻き起こった。
一方北朝鮮にはソ連軍が進駐してきて、こちらはもっと不幸だった筈だが、情報が途絶えたので日本からは分からなかった。
大戦終了時に200万人以上居た韓国人は、韓国独立時点で数十万人に減少し、残った多くは日本に残留を申し出た。
その時点の調査では全員が自ら希望して日本本土に渡航し、自分の意思で残留したのが分かっている。
帰国してもロクなもんじゃなかろうと考えたのでしょう。
ロッテの創業
敗戦後の1945年、重光武雄は悲嘆にくれたり日本の将来を憂いたりせず、嬉々として新商売を始めた。
焼け野原となった東京の荻窪でドラム缶と油でポマードをつくり販売し、その後石鹼製造に移行しました。
この頃見たのが例の「進駐軍のチューインガム」で、パッと何かが閃いた彼は新大久保に移り、ガムの製造を始めた。
ガムの原料の天然チクルは輸入禁止品の一つだったが、どういう訳か手に入れて製造している。
社長自らリヤカー にガムを積んで焼け野原を歩いて移動販売をしていたとされている。
その頃の製品スペアミントガムと、グリーンガムは今でも販売されていて、多分創業者の希望からでしょう。
拠点となった新大久保は当時すでに韓国人が集まっていて、ロッテが雇用することで「韓国人城下町」を形成した。
会社の態を成していないロッテがどのようにして一等地の敷地を手に入れたのかは謎であり、どこにも書かれていない。
正式に購入したかもしれないし、そうでは無かったのかも知れない。
彼は土地を入手した経緯について、日本人の知人が6万円(約1億円に相当)を出資したと話した。
この時彼は早稲田の学生で、まだ事業を始めておらず、日本にコネも無い頃である。
どう考えてもXXXXしたのだろうとは、多くの人が語っているところです。
重光武雄は1948年に株式会社ロッテを設立し、代表取締役社長に就任しました。
ガム製造は見事に当たり、日本の菓子製造のトップ企業に上り詰めていった。
その後1954年のサッカーW杯(予選)や1964年の東京オリンピックで韓国チームを支援し、韓国と関係を深めた。
韓国での成功と跡目争い
重光武雄は1967年に韓国ロッテを設立し、念願の「祖国復帰」を果たしている。
1967年というと1965年に日韓基本条約で国交樹立した直後であり、ロッテは一番乗りで乗り込んだと言えた。
この頃の韓国はまだ朝鮮戦争の傷跡が生々しく、ソウルには戒厳令が敷かれ軍政統治されていました。
この間に韓国人、日本人、韓国人と3人の妻を持ったとされていて、この3人の夫人との間に3人の子供をもうけた。
順番から言って長男と次男は第1夫人の重光初子(日本人)の子、長女は第三夫人(韓国人)の子供のようです。
長男の重光宏之は在日韓国人で日本語しか話さない。次男の重光昭夫は現在は韓国人で在日では無く韓国語を話す。
ロッテは日本では数多くの菓子メーカーの一つでしかないが、韓国では巨大財閥を形成し、日本の10倍の規模に発展した。
長男は日本を、次男は韓国を取り仕切っていたが、重光武雄が老境に入ると兄弟の争いが本格化した。
韓国には合議制はないので、どちらかが追放されるまで戦いは終わらないのでしょう。
相続争いの過程で、重光武雄からグループを譲られた次男は、地位を固めるために創業者の武雄も追放した。
李氏朝鮮の後継者争いのようだが、父と2人の息子、そして娘とそれぞれの嫁が加わって最高権力者の地位を狙っている。
この分では創業者が亡き後、あまり良い事が起きなさそうな予感がします。
http://www.thutmosev.com/archives/39406532.html
http://www.asyura2.com/2002/dispute2/msg/515.html#c108