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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100331
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[近代史3] 米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか? 中川隆
5. 中川隆[-8847] koaQ7Jey 2019年8月15日 03:30:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3893]
2019.07.03
独立記念日を祝うアメリカ国民だが、独立宣言を忘れているようだ 《櫻井ジャーナル》

 7月4日はアメリカの独立記念日である。1776年7月4日に独立宣言が採択されたことを記念して定められたのだ。


 ヨーロッパからの植民者がイギリスからの独立を宣言したのだが、その執筆者はトマス・ジェファソン。「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と謳っている。


 宣言に署名した人びとが何を考えていたかはともかく、宣言にある「人間」に制限はついていない。すべての人間は人種、民族、性別、思想、信仰、身分、家柄などに関係なく平等であり、人間としての権利を持っているということだ。


 当然、生まれながらに持っている能力を発揮するために必要な環境がすべての人間に保証されなければならない。人種、民族、性別、思想、信仰、身分、家柄などによって、そうした環境に差があってはならない。安心して生活でき、教育を受けることができ、働くことができなければならない。


 こうした権利を保障しない政府を人びとは「改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有する」と独立宣言は主張している。


 さらに、「権力の乱用と権利の侵害が常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らかであるときには、そのような政府を捨て去り、自らの将来の安全のために新たな保障の組織を作ることが人民の権利であり義務である」ともしている。


 アメリカでは19世紀に「泥棒男爵」と呼ばれる人びとが出現した。不公正な手段で財産を手に入れ、巨万の富を築いた人たちだ。石油業界を支配することになるジョン・D・ロックフェラー、金融帝国を築いたJ・P・モルガン、鉄鋼業界のアンドリュー・カーネギー、ヘンリー・クレイ・フリック、鉄道のエドワード・ヘンリー・ハリマン、金融や石油で財をなしたアンドリュー・W・メロンなどが含まれている。


 こうした人びとの権力が強大化する切っ掛けになった出来事が1913年12月にあった。連邦準備制度が創設され、連邦準備理事会が金融政策の樹立と遂行を監督、12の連邦準備銀行が政策を実行することになったのだ。このシステムを支配するのは富豪たちだ。


 連邦準備制度を作るための秘密会議が1910年11月にジョージア州のジキル島で開かれている。会議に参加したメンバーはクーン・ローブやJPモルガンの使用人やジョン・D・ロックフェラー・ジュニアの義父、つまりロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーの代理人たちだった。こうした人びとがアメリカの通貨を発行する特権を持つことになる。


 こうした富豪が拠点にしている場所がウォール街やシティ。そこの住人に立ち向かった大統領もかつてはいた。フランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディたちだ。


 ルーズベルトは1932年の大統領選挙で勝利したのだが、その時にライバルだったハーバート・フーバーは現職の大統領。スタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物。政治家になってからはウォール街から支援を受けていた。


 そのフーバーとは違い、ルーズベルトは労働者の権利を認めてファシズムに反対するニューディール派を率いていた。そのルーズベルトをウォール街は嫌った。


 本ブログでは繰り返し書いてきたが、1933年から34年にかけてウォール街の大物たちはニューディール派を排除するためにクーデターを計画する。そのため、軍の内部で大きな影響力を持っていた海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込もうとするのだが、失敗してしまう。計画の内容はバトラー、そしてバトラーと親しかったジャーナリストが議会で証言、記録として残っている。


 クーデターで中心的な役割を果たしたのはJPモルガンだったとされているが、その総帥であるジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーは1932年に駐日大使として来日している。


 ちなみに、JPモルガンの共同経営者だったエドワード・ストーテスベリーと結婚したエバ・ロバーツ・クロムウェルの娘の夫はダグラス・マッカーサーである。


 グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持つ人物で、特に松岡洋右と親しかった。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 日本軍が真珠湾を奇襲攻撃して日本とアメリカが戦争を始めてしばらくの間、グルーは日本に滞在。離日したのは1942年8月だが、その直前に彼がゴルフをした相手は岸信介だ。大戦後、日本の進む方向を決めたジャパン・ロビーの中心にもグルーはいた。グルーが親ファシスト勢力に属していたことを忘れてはならない。


 すでにアメリカでは強大な私的権力が国を上回る力を持っている。その結果、「権力の乱用と権利の侵害が常に同じ目標に向けて長期にわたって続き、人民を絶対的な専制の下に置こうとする意図が明らか」になっていると言える。


 2011年9月11日以降、アメリカでは国外での侵略戦争、国内での刑務所化が急速に進んでいる。アメリカの属国である日本もその後を追っている。そうした現状を見ながら、「それでもアメリカは民主主義国だ」とか「それでもアメリカの方がましだ」という「左翼」、「リベラル派」、「革新勢力」が日本にはいる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201907030000/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html#c5

[近代史3] 米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか? 中川隆
6. 中川隆[-8846] koaQ7Jey 2019年8月15日 03:31:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3894]
ユダヤ陰謀論はユダヤを悪者にして米国支配に気が付かせないための「米国による謀略 」
『8分間で信者の洗脳を解く!』騙される親米情薄ウヨちゃん! 伊藤貫 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=SZ9OgdIIaGs


2019/05/04 に公開


米国の外交に影響を与える4つの勢力(これを知ればユダヤが米国を牛耳ることなど不可能なことが理解できます)

@「米国の国益を最大化」する観点から外交戦略を立案するエリート層(=外交エスタブリッシュメント)
・大統領、議員の考え方に影響与える。
・共和党、民主党、それぞれにこのエリート層が存在するが、両方が合同で外交戦略を立案することもある。

A大統領(権限の大きな裁量権)

Bアメリカ国民(投票権)

Cウォール街の金融業者(莫大な選挙資金)


よくユダヤ陰謀論を信じている方が主張する「ユダヤによる世界統一」ですが、これは米国が正式に採用した「米国一国による世界支配(一極支配)」という外交戦略と同じことです(公式文書、政治家の発言も多々あり)

つまり、ユダヤを悪者にすることは、米国による支配を人々に気が付かせないようにする効果があるのです。

このような米国を批判する動画はアメリカからのアクセスが2%になります。他のは0.2%しかないのに。

※本編動画はこちら↓から

1/3【討論!】米中アジア管理か?東アジア情勢の行方[桜H25/6/1]
https://www.youtube.com/watch?v=6jhOC...

2/3【討論!】米中アジア管理か?東アジア情勢の行方[桜H25/6/1]
https://www.youtube.com/watch?v=v4NRW...

3/3【討論!】米中アジア管理か?東アジア情勢の行方[桜H25/6/1]
https://www.youtube.com/watch?v=9myqr...


真偽を証明しようがないユダヤ陰謀論をわざわざ使わなくても、グローバリズム(かつてはパックスアメリカーナと呼ばれたアメリカ式の帝国主義)も戦争も米国の国家戦略(米国の国益のため)によって引き起こされていると説明できてしまいます。
米国が一番恐れているのは反米感情が高まることです(独立運動が高まれば日本での権益を失うから)。

米国政府にとってユダヤ陰謀論は反米感情をそらす効果があるので望ましいのです(アメリカが悪い訳ではないと思わせる)。

だからマスコミでも反米が報道されないように監視しています。米国が日本に行っている内政干渉を日本国民が知ることとなれば暴動が起こるかもしれません。

ユダヤ陰謀論の致命的な欠陥は本当の敵を見えなくさせることで支配体制を維持させてしまうことです。だから、ユダヤ陰謀論を主張する人の中には工作員(米中露)が混じっていることでしょう(親米は日本の軍事力を抑え込む効果があるので中露にとっても利益)。ユダヤ陰謀を主張するコメ主の中に日本語をうまく操れない人が混じっているという魔訶不思議なことが少なからずあります。

年次改革要望書がらみの報道規制(wikipediaより) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%...


報道での扱い

関岡英之、城内実などからは、以下の点から、年次改革要望書(米国による日本への内政干渉)に関する報道が広く国民に充分になされていないのが事実だという意見がある。

建築基準法の改正提言には、アメリカ政府の介在がひとことも書かれておらず、法改正の新聞報道でもいっさい触れられていない[2]。

年次改革要望書の全文が日本のマスメディアで公表されたことはない[2] 。

郵政民営化をはじめとする構造改革の真相を国民が知ることとなったら暴動が起きかねないので、マスコミ対策は用意周到になされていた。郵政民営化に反対する政治評論家森田実が、ある時点からテレビ局に出演できなくなった[12]。

『しんぶん赤旗』『サキヨミ』一部夕刊紙以外の主要マスコミでは『年次改革要望書』が発表された事実そのものの報道もなされない。

国会議員が国会で問題にしても、なぜか全国紙やテレビ局の政治部記者からは一件の取材もない[13]。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html#c6

[近代史3] 文在寅大統領の大衆扇動とその背景にあるアメリカの分断統治政策 中川隆
1. 中川隆[-8845] koaQ7Jey 2019年8月15日 03:54:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3895]
【渡辺哲也】韓国の末期症状がやばい! - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gvHy3B38O70
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/571.html#c1
[近代史3] 米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか? 中川隆
7. 中川隆[-8844] koaQ7Jey 2019年8月15日 03:59:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3896]
林千勝の陰謀論 _ 日米戦争を策謀したのは昭和天皇か、近衛文麿か?

【我那覇真子「おおきなわ」#70】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[桜R1-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E

【我那覇真子「おおきなわ」#71】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
戦争の黒幕「国際金融資本」とは?[桜R1-5-31] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU

司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)
ゲスト:林千勝(戦史研究家)

▲△▽▼

「陸軍の勝算」秋丸機関の真実 林千勝 偕行社 平成27年11月29日 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=om_F35kgO3w
https://www.youtube.com/watch?v=ddMi4D8N8-w
https://www.youtube.com/watch?v=eMrNOsVgtLc

▲△▽▼

林千勝氏(戦史研究家・つくる会東京支部幹事)
『 国を護るにはリーダーが大事!−近衛文麿にみる大日本帝国敗北(崩壊)の教訓−』
2017.6.25〈歴史・公民〉新東京塾・第3回講演会 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cjBdtLIX-O0

▲△▽▼

林 千勝・講演会【日米開戦・陸軍の勝算!日本の勝算と敗北ー現代への教訓】
広島原爆の日 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fVUFNGm_Qv0


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林千勝先生講演「日本の勝算と敗北 - 現代への教訓 – 近衛文麿の野望と挫折 」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=yQKdjoLZxQ0
https://www.youtube.com/watch?v=-DXJpXr-T38
https://www.youtube.com/watch?v=gwc-DEka1N4


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近衛は自殺したのではない!近衛の野望と挫折 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5f17npsMuG0


 
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【討論】世界を支配する者たち[桜R1-6-29] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=I6KuNUJug6o

◆世界を支配する者たち

パネリスト:
 河添恵子(ノンフィクション作家)
 田村秀男(産経新聞特別記者・編集委員兼論説委員)
 林千勝(戦史研究家)
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 山岡鉄秀(公益財団法人モラロジー研究所研究員・Australia-Japan Community Network Inc.代表)
司会:水島総



【討論】大東亜戦争の真実[桜R1-8-10] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EpuYlwj_xwY

パネリスト:
 鈴木荘一(歴史家)
 山正之(コラムニスト)
 長浜浩明(作家・古代史研究家)
 林千勝(戦史研究家)
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
司会:水島総


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html#c7

[近代史3] 米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか? 中川隆
8. 中川隆[-8843] koaQ7Jey 2019年8月15日 04:10:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3897]

2019.08.15
大戦でファシズム勢力は勝利、日本では天皇制官僚システムが護持された

 第2次世界大戦は日本の降伏で終わったことになっている。日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎がアメリカの軍艦ミズーリ号上で降伏文書に調印したのは1945年9月2日のことだった。

 しかし、日本では8月15日が「終戦の日」ということになっている。昭和天皇(裕仁)が日本人向けの声明、いわゆる「終戦勅語」が放送された日だ。

 これについて堀田善衛は「負けたとも降服したとも言わぬというのもそもそも不審であったが、これらの協力者(帝國ト共ニ 終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦=引用者注)に対して、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、という、この嫌みな二重否定、それきり」で、「その薄情さ加減、エゴイズム、それが若い私の軀にこたえた」と書いている。(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)日本軍への停戦命令が出たのはその翌日だ。

 日本政府は「国体護持」にこだわったというが、1945年4月12日にフランクリン・ルーズベルト大統領が急死した段階で日本の国体、つまり天皇制官僚システムが維持されることは決定的になっていた。その死によってニューディール派は急速に弱体化、親ファシズムのウォール街が主導権を握ったからだ。

 ルーズベルトは1933年3月から大統領を務めている。副大統領は1933年から41年までがジョン・ガーナー、41年から45年までがヘンリー・ウォーレス、そして45年がハリー・トルーマン。政治信条がルーズベルトに最も近かったのは大統領と同じニューディール派のウォーレスだろう。

 このウォーレスは1944年4月9日付けのニューヨーク・タイムズ紙で、アメリカに対する最も大きなファシムズの脅威は戦争の後にやってくると主張している。ルーズベルトが初めて大統領に選ばれた直後、アメリカの巨大資本がニューディール派を排除してファシズム体制を樹立する計画を立てていたことを考えると、その懸念は理解できる。

 そのクーデター計画はスメドリー・バトラー海兵隊退役少将が阻止、議会で計画の内容について明らかにしている。その当時は経済が不安定で、1939年に第2次世界大戦が始まると経済を支配している勢力を摘発することは困難になった。ルーズベルト政権の内部でファシズム派を摘発する動きが出てくるのは戦争の終結が近くなってからだ。

 その頃、有権者に最も人気があったのはウォーレス。1944年に行われたギャロップの世論調査によると65%がウォーレスを支持、トルーマンは2%にすぎない。ウォーレスが次の大統領になれば、アメリカのファシズム勢力は粛清され、ドイツや日本のファシストも厳しく処罰される可能性が高かった。

 そうした中、ウォーレスのスキャンダルが発覚、1945年3月に副大統領から商務長官へ格下げになる。その翌月に大統領が急死、ルーズベルトと意見が違ったトルーマンが大統領へ昇格し、5月にはドイツが降伏する。その直後にイギリスのウィンストン・チャーチル首相はアメリカ、イギリス、ドイツ、ポーランドでソ連を奇襲攻撃するアンシンカブル計画を立てたわけだ。

 アメリカの巨大資本やその代理人はナチスの元高官らを逃がすためにラットラインを作る。そうした人びとをアメリカの国務省やCIAは雇うが、それはブラッドストーン作戦と名づけられた。ドイツの科学者やエンジニアを雇うペーパークリップ作戦もある。

 その一方、日本では天皇制官僚システムが維持され、特別高等警察、思想検察、裁判官は戦後も要職に就く。戦争中に犯罪的なことを行った軍人でもアメリカにとって利用できる人たちは保護されている。

 日本が降伏した24日後、哲学者の三木清が獄死した。疥癬という皮膚病の患者が使っていた毛布を三木にあてがい、意識的に病気を感染させ、不眠と栄養失調で死に至らしめた可能性が高い。その前日、ソ連のバチェスラフ・モロトフ外相は憲兵や警官など戦前の治安体制が存続していることを批判しているのだが、その通りだった。

 この事件を調べていたロイターのR・リュベン記者は10月3日に山崎巌内相をインタビュー、その際に内相は特高警察の健在ぶりを強調し、天皇制に反対する人間は逮捕すると言い切っている。同じ日、岩田宙造法相は中央通訊社の宋徳和記者に対し、政治犯を釈放する意志のないことを明言した。

 政治犯が釈放されるのは、ロイターのインタビューが記事になってから。その記事を受けてSCAP(連合軍最高司令官)のダグラス・マッカーサーが「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令し、6日後の10月10日に政治犯は釈放されたのだ。

 しかし、すでにアメリカの巨大資本はジャパン・ロビーと呼ばれるグループを編成、日本の天皇制官僚システムを再建することになる。冷戦が民主主義を潰したのではない。戦争で勝利したファシズムが冷戦を生み出したのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908140000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html#c8

[政治・選挙・NHK264] 日本の政治が腐ってしまった本当の理由 - 第12章 「こんな平成に誰がした。では、この政権の暴政度のチェックを行います」 プラナリア
1. 中川隆[-8842] koaQ7Jey 2019年8月15日 06:50:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3898]
大平首相は財政赤字が危険だというデマを撒き散らしてケインズ政策を否定した売国奴だよ

それ以降、公共工事や教育に金を使えなくなった日本は二流国家に転落した
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/480.html#c1

[近代史3] 米軍は何故日本に駐留しているのか? 日本は何故軍隊が持てないのか? 中川隆
9. 中川隆[-8841] koaQ7Jey 2019年8月15日 07:54:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3899]


中島みゆき「世情」(1978年4月10日)
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751


世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする

変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

世の中は とても 臆病な猫だから
他愛のない嘘を いつもついている

包帯のような嘘を 見破ることで
学者は世間を 見たような気になる

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため

*************************************


中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://pv755.com/dare-no-seide-mo-nai-ame-ga


誰のせいでもない雨が降っている
しかたのない雨が降っている
黒い枝の先ぽつりぽつり血のように
りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている
眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも
すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は
眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は
時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は
されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている
日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと
早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を
沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね
今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと
跣(はだし)の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ
月日すべての悲しみを癒せ


▲△▽▼

中島みゆき キツネ狩りの歌 動画
https://pv755.com/kitsune-kari-no-uta


キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
あとは君のその腕次第

もしも見事射とめたら
君は今夜の英雄
さあ走れ夢を走れ

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さただ生きて戻れたら、ね

キツネ狩りにゆくなら酒の仕度も忘れず
見事手柄たてたら乾杯もしたくなる
ねぇ空は晴れた風はおあつらえ
仲間たちとグラスあけたら

そいつの顔を見てみろ
妙に耳が長くないか
妙にひげは長くないか

キツネ狩りにゆくなら気をつけておゆきよ
グラスあげているのがキツネだったりするから
君と駆けた君の仲間は
君の弓で倒れてたりするから

キツネ狩りにゆくなら 気をつけておゆきよ
キツネ狩りは素敵さ ただ生きて戻れたら、ね

「生きていてもいいですか」の「キツネ狩り」がとても怖い歌ですよね
(歌詞だけでなく歌唱法?も)


中島みゆき は高校時代の彼氏が内ゲバで亡くなったことがトラウマだとか

「革マル派」の最高指導者だった黒田寛一元議長の葬儀には、中島みゆきは駆けつけたのだろうか。
革マル派の歌姫が、紅白歌合戦に出てきた時には仰天した。

名曲『世情』と『誰のせいでもない雨が』と重ね合わせて、全共闘の挫折体験(内ゲバによる仲間殺し)を歌っているのでしょうね。


そこら辺の、全共闘の挫折に対する中島みゆき論は、いつかまとめてやりたいですね。
イラクの3人組とか見ていますと、人間は相変わらず同じような失敗と過ちを繰り返しているようですしね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/575.html#c9

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
221. 中川隆[-8840] koaQ7Jey 2019年8月15日 08:36:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3900]

2019年08月15日
年金運用のGPIFは最強の投資 リスクゼロで勝利を積み重ねる

淡々と勝ち続け、利益を積み重ねるGPIF


画像引用:年金積立金管理運用独立行政法人https://www.gpif.go.jp/

相場下落時に淡々と買い、熱狂時に売る

米中対立や世界の市場低迷から、これから世界は大きな経済停滞を迎えるともいわれています。

そんな中で注目されているのが年金運用のGPIFで、抜群の安定感を誇っている。

日本のメディアはGPIFが損失の時だけ報道し、利益が出ても報道しないので、年金運用は赤字だと思っている人も居ます。




GPIFは2001年から運用していてトータルの年平均損益はプラス3.03%、小泉景気やアベノミクスで大きく儲けた人より少ないです。

だがこの間にはリーマンショックや東日本大震災、2度の超円高や民主党政権など日本株の暴落が何度もありました。

それを差し引いて3%の利益は、多くの大口投資家が目標にする水準でしょう。


日本の物価上昇率は年1%程度だったので、物価上昇率を引いた実質的な利回りは2%程度になります。

GPIFは高齢者率の増加などでひっ迫する年金財政を補填するものなので、長期的に絶対にマイナスにはならないよう設計されています。

その仕組みは長期に渡る定額投資と分散投資で、個別銘柄への集中投資とは正反対の手法です。


100万円を10億円に増やしたような成功談では、必ず個別銘柄の選択をし、売買タイミングを計って大きな利益を狙います。

この方法は成功すれば1代で巨額の資産を築けるが、実際には1代で破産してしまう人の方が数万倍も多いです。

リスクの大きいハイリターン投資では、数万人が破産して一人が全て受け取ることで、宝くじのように大金を受け取れる。

極限の低リスクを実現したGPIF

一方でGPIFのように長期間定額購入で分散投資だと、資産が何倍にも増える可能性は無いが、破産する可能性も少ない。

極限までリスクをゼロに近づけているので、今までの歴史が今後も続く限りGPIFは損失を出さない。

世界経済は平均すると年3%程度成長しているので、全世界に均等に投資すれば必ず3%の利益が出る筈です。


リーマンショックや東日本大震災ですら世界経済は成長していたので、分散すれば利益を得ていた筈でした。

GPIFの基本は毎月定額購入なので、相場が上がっている時に買えば、下落時には含み損が出ます。

だが下落時にも定額買いをするので、長期的には必ず過去の市場の平均値で購入しています。


これを国内、海外、債券、株式のように異なる市場に投資していて、どれかが下落してもどれかが上昇する。

「年金をアメリカ株という投機に使っている」と野党は怒るが、逆に世界最大市場の米株を買わなければ年金のリスクが増える。

もし年金が日本国債しか買ってはいけないとしたら、国債下落や利回り低下、インフレなどで損失が出かねない。


極限の分散によって短期的なマイナスはあるが、長期的に必ず利益を出すGPIFには、個人投資家も見習うところがあります。
http://www.thutmosev.com/archives/80685691.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c221

[リバイバル3] 資産を増やすには ほったらかし投資法が断然優れている 中川隆
26. 中川隆[-8839] koaQ7Jey 2019年8月15日 08:38:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3901]
2019年08月15日
年金運用のGPIFは最強の投資 リスクゼロで勝利を積み重ねる

淡々と勝ち続け、利益を積み重ねるGPIF

画像引用:年金積立金管理運用独立行政法人https://www.gpif.go.jp/

相場下落時に淡々と買い、熱狂時に売る

米中対立や世界の市場低迷から、これから世界は大きな経済停滞を迎えるともいわれています。

そんな中で注目されているのが年金運用のGPIFで、抜群の安定感を誇っている。

日本のメディアはGPIFが損失の時だけ報道し、利益が出ても報道しないので、年金運用は赤字だと思っている人も居ます。


GPIFは2001年から運用していてトータルの年平均損益はプラス3.03%、小泉景気やアベノミクスで大きく儲けた人より少ないです。

だがこの間にはリーマンショックや東日本大震災、2度の超円高や民主党政権など日本株の暴落が何度もありました。

それを差し引いて3%の利益は、多くの大口投資家が目標にする水準でしょう。


日本の物価上昇率は年1%程度だったので、物価上昇率を引いた実質的な利回りは2%程度になります。

GPIFは高齢者率の増加などでひっ迫する年金財政を補填するものなので、長期的に絶対にマイナスにはならないよう設計されています。

その仕組みは長期に渡る定額投資と分散投資で、個別銘柄への集中投資とは正反対の手法です。


100万円を10億円に増やしたような成功談では、必ず個別銘柄の選択をし、売買タイミングを計って大きな利益を狙います。

この方法は成功すれば1代で巨額の資産を築けるが、実際には1代で破産してしまう人の方が数万倍も多いです。

リスクの大きいハイリターン投資では、数万人が破産して一人が全て受け取ることで、宝くじのように大金を受け取れる。


極限の低リスクを実現したGPIF

一方でGPIFのように長期間定額購入で分散投資だと、資産が何倍にも増える可能性は無いが、破産する可能性も少ない。

極限までリスクをゼロに近づけているので、今までの歴史が今後も続く限りGPIFは損失を出さない。

世界経済は平均すると年3%程度成長しているので、全世界に均等に投資すれば必ず3%の利益が出る筈です。


リーマンショックや東日本大震災ですら世界経済は成長していたので、分散すれば利益を得ていた筈でした。

GPIFの基本は毎月定額購入なので、相場が上がっている時に買えば、下落時には含み損が出ます。

だが下落時にも定額買いをするので、長期的には必ず過去の市場の平均値で購入しています。


これを国内、海外、債券、株式のように異なる市場に投資していて、どれかが下落してもどれかが上昇する。

「年金をアメリカ株という投機に使っている」と野党は怒るが、逆に世界最大市場の米株を買わなければ年金のリスクが増える。

もし年金が日本国債しか買ってはいけないとしたら、国債下落や利回り低下、インフレなどで損失が出かねない。


極限の分散によって短期的なマイナスはあるが、長期的に必ず利益を出すGPIFには、個人投資家も見習うところがあります。
http://www.thutmosev.com/archives/80685691.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/975.html#c26

[近代史02] 幻の柴田罫線 中川隆
114. 中川隆[-8838] koaQ7Jey 2019年8月15日 08:42:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3902]
2019年08月15日
年金運用のGPIFは最強の投資 リスクゼロで勝利を積み重ねる

淡々と勝ち続け、利益を積み重ねるGPIF

画像引用:年金積立金管理運用独立行政法人https://www.gpif.go.jp/

相場下落時に淡々と買い、熱狂時に売る

米中対立や世界の市場低迷から、これから世界は大きな経済停滞を迎えるともいわれています。

そんな中で注目されているのが年金運用のGPIFで、抜群の安定感を誇っている。

日本のメディアはGPIFが損失の時だけ報道し、利益が出ても報道しないので、年金運用は赤字だと思っている人も居ます。


GPIFは2001年から運用していてトータルの年平均損益はプラス3.03%、小泉景気やアベノミクスで大きく儲けた人より少ないです。

だがこの間にはリーマンショックや東日本大震災、2度の超円高や民主党政権など日本株の暴落が何度もありました。

それを差し引いて3%の利益は、多くの大口投資家が目標にする水準でしょう。


日本の物価上昇率は年1%程度だったので、物価上昇率を引いた実質的な利回りは2%程度になります。

GPIFは高齢者率の増加などでひっ迫する年金財政を補填するものなので、長期的に絶対にマイナスにはならないよう設計されています。

その仕組みは長期に渡る定額投資と分散投資で、個別銘柄への集中投資とは正反対の手法です。


100万円を10億円に増やしたような成功談では、必ず個別銘柄の選択をし、売買タイミングを計って大きな利益を狙います。

この方法は成功すれば1代で巨額の資産を築けるが、実際には1代で破産してしまう人の方が数万倍も多いです。

リスクの大きいハイリターン投資では、数万人が破産して一人が全て受け取ることで、宝くじのように大金を受け取れる。


極限の低リスクを実現したGPIF

一方でGPIFのように長期間定額購入で分散投資だと、資産が何倍にも増える可能性は無いが、破産する可能性も少ない。

極限までリスクをゼロに近づけているので、今までの歴史が今後も続く限りGPIFは損失を出さない。

世界経済は平均すると年3%程度成長しているので、全世界に均等に投資すれば必ず3%の利益が出る筈です。


リーマンショックや東日本大震災ですら世界経済は成長していたので、分散すれば利益を得ていた筈でした。

GPIFの基本は毎月定額購入なので、相場が上がっている時に買えば、下落時には含み損が出ます。

だが下落時にも定額買いをするので、長期的には必ず過去の市場の平均値で購入しています。


これを国内、海外、債券、株式のように異なる市場に投資していて、どれかが下落してもどれかが上昇する。

「年金をアメリカ株という投機に使っている」と野党は怒るが、逆に世界最大市場の米株を買わなければ年金のリスクが増える。

もし年金が日本国債しか買ってはいけないとしたら、国債下落や利回り低下、インフレなどで損失が出かねない。


極限の分散によって短期的なマイナスはあるが、長期的に必ず利益を出すGPIFには、個人投資家も見習うところがあります。
http://www.thutmosev.com/archives/80685691.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/429.html#c114

[近代史3] 重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係 中川隆
8. 中川隆[-8837] koaQ7Jey 2019年8月15日 10:12:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3903]
民青や共産党員にまともな人間が一人もいないから新左翼が出て来たんだ
しかし、核マル、中核、赤軍、反戦青年委員会は反日本共産党、反民青というだけで、民青の事大主義学生の方が遥かに賢かった


今の日本共産党は保守反動極右勢力

昔から民青の学生は事大主義で
大学では左翼教官に おべっかを使って興味も無いのにマルクスとか読むふりするけど、会社に入ると

マルクス主義はもう古い

と言って否定するので有名だった

それで、民青の学生はその後 全員人生の成功者、新左翼の学生は全員人生の失敗者になっている
要領の良さと空気を読む能力が全然違うんだな

そもそも日本共産党はGHQが政治犯を釈放させて共産党を合法化したから選挙に出られる様になったんだ
出発点からしてアメリカのエージェントなんだ


民青の学生はともかく、日本共産党員にまともな人間は一人もいない
日本共産党に未来なんかないよ

新左翼は IQ 低い

それから共産党は金融緩和や公共事業を敵視したり経済が全然わかってない
この現代にマルクス主義なんか通用しないんだよ


消費税廃止、累進課税強化、株式譲渡益・配当の分離課税、法人税増税、政府の財政出動

をやればすぐに政権を取れるよ

しかし、絶対にやらない

それは消費税上げや株式譲渡益・配当の分離課税、法人税減税、プライマリーバランス黒字化はアメリカの指示でやっているんだから
アメリカのエージェントの日本共産党が逆らえる訳ないんだ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html#c8

[近代史3] 日本は共産党にとって天国だった 意外と知られていない世界の共産党事情 中川隆
4. 中川隆[-8836] koaQ7Jey 2019年8月15日 10:13:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3904]
民青や共産党員にまともな人間が一人もいないから新左翼が出て来たんだ
しかし、核マル、中核、赤軍、反戦青年委員会は反日本共産党、反民青というだけで、民青の事大主義学生の方が遥かに賢かった


今の日本共産党は保守反動極右勢力

昔から民青の学生は事大主義で
大学では左翼教官に おべっかを使って興味も無いのにマルクスとか読むふりするけど、会社に入ると

マルクス主義はもう古い

と言って否定するので有名だった

それで、民青の学生はその後 全員人生の成功者、新左翼の学生は全員人生の失敗者になっている
要領の良さと空気を読む能力が全然違うんだな

そもそも日本共産党はGHQが政治犯を釈放させて共産党を合法化したから選挙に出られる様になったんだ
出発点からしてアメリカのエージェントなんだ


民青の学生はともかく、日本共産党員にまともな人間は一人もいない
日本共産党に未来なんかないよ

新左翼は IQ 低い

それから共産党は金融緩和や公共事業を敵視したり経済が全然わかってない
この現代にマルクス主義なんか通用しないんだよ


消費税廃止、累進課税強化、株式譲渡益・配当の分離課税、法人税増税、政府の財政出動

をやればすぐに政権を取れるよ

しかし、絶対にやらない

それは消費税上げや株式譲渡益・配当の分離課税、法人税減税、プライマリーバランス黒字化はアメリカの指示でやっているんだから
アメリカのエージェントの日本共産党が逆らえる訳ないんだ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/565.html#c4

[リバイバル3] 名湯 関金温泉はこのまま朽ちてしまうのか? _ 温清楼の日本一の露天風呂の運命は? 中川隆
19. 中川隆[-8835] koaQ7Jey 2019年8月15日 10:51:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3905]

関金温泉 鳥飼旅館〈関金温泉No.1との評判もあるドバドバかけ流し〉
@鳥取県倉吉市関金町関金宿
2018-04-28
https://ameblo.jp/yoshinoyan-0904/entry-12371419426.html


えー、1年以上周回遅れで
お届けしております(笑)、


2017年4月13日(木)〜12日(金)の


1泊2日「岡山・鳥取温泉ひとり旅」、

今日もその続きです。

『関の湯共同温泉』を後にして


1日目4月13日の5湯目に

やって来ましたのは……


『関金温泉 鳥飼旅館』です。


いや、やって来ましたというか、

鳥飼旅館は関の湯共同温泉の

目と鼻の先なんだけどねー(笑)。

でね、この鳥飼旅館、

江戸時代から続く老舗旅館だそうで。

事前に調べたところでは

「関金温泉ナンバーワンの泉質」

と評価してるものもあったわけ。

何でも源泉投入量が

ハンパないって話だったんです。

ちゅか、

現在ではもう関金温泉で

自家源泉、かつ、マトモな温泉は

前回記事の関の湯共同温泉と

この鳥飼旅館だけになったらしい。

(間違っていたらすみません。)

これは何が何でも入ってみたい!

てなわけで、

旅行に出る前に

何度も何度も、何日も何日も

電話してみたんです、

立ち寄り湯が可能かどうか

確認するために。

出んのよ、電話に。

何回かけても一回も出ない。

こんなの旅館の営業にも

支障をきたすんじゃないか、

もしかしたらすでに

廃業しちゃったんじゃないか?

そう思って半ばあきらめてたんです、

スケジュールからも外してたし、ね。

でもまあ一応、旅館の前を

通ってみることにしたんです、

まあ何だ、どうせ通り道だったし。

するとさ、

もっかい上の写メを見てよ、

あずき色っぽい軽自動車が

停まっているでしょう?

その軽自動車の前で

おばあさんが

カーペットのようなものを

洗っていたんです。

鳥飼旅館の関係者に違いない!

そう思って声をかけてみると

これが何と大女将さんで(たぶん)。

立ち寄り入浴はできますよ、と

若女将さんを呼んでくれる

ことになったのです!

やったね!

この大女将さんとの出会いが

まさに僥倖、

大女将さんがあの時あそこで

カーペットを洗ってなかったら

僕はたぶんと利害旅館の前を

そのまま通り過ぎていたと思います。

いや、

長々と書いてしまいましたが、

それだけうれしかったんだよ、

俺はね。


改めて鳥飼旅館です。

扉の左側に

看板がかかっていますね?


「この温泉は、飲めます。」

何とも堂々とした、

自信に満ちた言葉であることか!


泉質:単純弱放射能泉

泉温:51.0℃

pH値その他、

詳しい温泉の利用状況等は

不明ですが、

加水・加温・循環・消毒一切なしの

完全な源泉かけ流しだと思われます。


受付です。

何となく雑然としています(笑)。

大女将さんが

若女将さんを呼んでくれる

とのことだったんですが、

僕はここで体感的には

5分くらい待ちました(苦笑)。

僕が待ってる間にも

電話が鳴ってたんですが

当然誰も出ません!(大爆)

この旅館、大丈夫か?(苦笑)

と思っていますと、

ようやく若女将さんが

やって来られまして、

入浴させてもらえることに。

入浴料は500円でした。


ロビー空間です。

写メ中央辺りの

「非常口」表示右手から

浴場へと向かいます。


階段を登っていきます。


突き当たり

白い椅子のところに……


浴場への扉がありました。


外廊下へと出ます。

迷路のようで楽しいです(笑)。


ようやく到着。

のれんに

「白金湯」と書かれていますね?

立て札が立っていて……


無色透明の美しいお湯はかつての

「伯耆民談記」で「銀湯」と称され、

以後は「白金湯」と呼ばれている

なんてことが書いてあります。

泉温は「四十度から五十度」と

ずいぶんアバウトな表記ですが、

日本一有名な温泉マニアの方が

書かれていたことによると……

「鳥飼旅館では

熱い源泉とぬるい源泉の

2源泉を持っていて、

その2つをブレンドすることで

適温にしている」

というようなことでした。

有名な温泉マニアの方が

書かれていたことですからね、

僕が実際に確かめたわけでは

ありませんよ。

脱衣場には棚があるだけです。


一度に6〜7人は入れそうな

浴槽がありまして……


ひと際目を引いたのが

壁面の「金の鶴」のタイル絵。

かなりデフォルメされていますが

鶴ですよ(笑)。

何でもここ関金温泉には、

「鶴が温泉に入っているところを

行基が発見し、弘法大師(空海)が

荒れ果てていた温泉地を整備した」

という伝説があるそうですが、

どうせ嘘です!(爆)


竹筒から結構な量の源泉が

ドバドバと投入されています。

飲泉用のコップも

置いてありますね。


オーバーフローも

どんどこと流れていきますよ。

源泉をコップに受けて

飲んでみました。

前回記事の関の湯共同温泉よりも

はっきりと味が濃い!

いや、

かすかな塩味があるだけで

ほとんど無味無臭の温泉で

どこがどう味が濃いのか?

と、疑問に思う方も

いらっしゃることでしょうが、

ええい、だまれ、だまれ、

いいの、俺の馬鹿舌が

味が濃いと感じたんだから!(爆)

んー、なんちゅうか、

味ではなくて、もっとまろやかで

温泉成分が濃い感じがするんですよ、

それはもうはっきりと!


あ、シャワーとカラン、

シャンプー類も完備されてますよ、

旅館だからねー。


あと、窓が大きくて

差し込む光がいい感じでした。

かえって光量の差が大きくて

写メは撮りにくいけどねー(苦笑)。


クリアに澄み切ったお湯は

「白金湯」の名に恥じない美しさ。

浴槽内にプラスチック製のイスが

沈められていましたが、

これは浴槽がいきなり深くなるため

ステップとして利用するのでしょう。


源泉投入口付近の

温度は40.9℃でした。

掲示されていた泉温が

51℃でしたから、

2源泉ブレンド説?にも

信憑性があるように思います。


浴槽内温度は39℃くらい。

ぬるめのお湯です。


浴感も関の湯共同温泉より

ツルスベ感を強く感じました。

あと、

お湯がやわらかいといいますか、

肌がしっとりとしますね。

「関金温泉ナンバーワンの泉質」も

あながち誇張だとは思えない、

実にいいお湯です。



帰る際に若女将さんから

「今度来られる時はペットボトルを

持っていらしてください」

とおっしゃっていただきました。

ペットボトルに入れて

温泉を持って帰るくらいなら

無料だそうです。

泉質に絶対の誇りと

自信があるからこその

言葉ですよね!

かつて栄華を誇った温泉街が廃れ、

数多くあった旅館がことごとく

廃業に追い込まれる中、

関金温泉に残った

たった一軒の旅館として

孤軍奮闘を続ける鳥飼旅館。

いつまでもこの素晴らしいお湯を

守り続けていってほしいものだと

願わずにいられません。

コメント


14. Re:こんばんは

>栗まんじゅう様

いつもいる場所にも
電話の子機を置いておけばいいんですけどねー(笑)。

ロビーも年季が入ってるでしょう?
いかにも老舗旅館って感じです。

お湯の質は最高でしたよ。
聞くところでは料理も良いようです。

よしのや472018-04-29 06:50:12返信する

13. Re:またまた貸し切り温泉ですね(笑)

>こば様

@帳場?だけでなく、いつもいる場所にも子機をおくべきです!(笑)

A空海が発見した温泉が、あまりにも日本中に多すぎます!
 そんなに温泉ばかり入ってる暇はない!(爆)

B宿泊客は少ないでしょうねー。
 ここはHPもないので執念で電話するか、たまたま電話がつながったか?(笑)
 最も確実なのは手紙か電報でしょう!(大爆)

よしのや472018-04-29 06:47:10返信する

12. Re:営業する気あんのか

>フーミン様

ヤル気はあまりないようですね(苦笑)。

いやー、5分は長いですよ!
10分待たされたら帰ります!(爆)

お湯は最高でしたよ。
入れてよかったです。

よしのや472018-04-29 06:41:38返信する

11. こんばんは

老舗旅館なのに電話がつながりにくいっていうのは何だか勿体ないですね(^▽^;)
ロビーのお写真からすると、ホント昭和の時代にはお客様も大勢いらっしゃった感じのする旅館です〜。

お湯の質がとても良いということで良かったですね。わざわざ足を運んだ甲斐もあったのではないでしょうか。
ペットボトルを持参すれば持って帰れるというあたりも、優しいですし温泉に自信があることのあらわれでしょうね。

栗まんじゅう2018-04-28 21:26:42返信する

10. またまた貸し切り温泉ですね(笑)

気づいた点をいくつか
@受付の電話。出てほしかったです。(笑)
A空海は超能力者ですからあり得るかもしれません。
B宿泊客はいるんですか?いるとしたらどーやって予約とったんでしょう。


こば2018-04-28 21:16:11返信する

9. 営業する気あんのか

なんとラフでアバウトな旅館!

体感的には5ふんまたされたとか

関西人らしいね。
私なら一時間余裕で待つかも。典型的な東北人でさらにどMなので(笑)

でも最高なお湯だったのね。
待ったかいがありましたね!

フーミン2018-04-28 20:49:52返信する

8. Re:無題

>くまる様

僕はここはあきらめていたんですよ。

大女将さんがタイミングよく
カーペットを洗っていてくれて
ラッキーでした。

僕は素人なので何がどうとはいえませんが、
ここのお湯は明確に関の湯共同温泉より
いいように感じました。

ぜひともがんばってほしい宿ですね。

よしのや472018-04-28 19:26:24返信する

7. 無題

ああ、ここは後から行くべきだったと後悔した宿です。
知人がここに仕事で呼ばれ、泊まって食べての待遇付きで、めっちゃ羨ましかったんですよね(^^ゞ

とにかくやっぱり湯は極上のようで、やはり一度は行かねば!
機会を考えます!

くまる2018-04-28 19:19:33返信する

6. Re:こんにちはー。

>明日香様

旅館としてどうなのか?(笑)
電話に出ないんだもんなー(苦笑)。

そもそも温泉街として寂れていますし、
平日なので誰も来ないですよ、
旅館は電話に出ないし!(爆)

もうすぐ鮎の塩焼きが始まりますから、
温泉とセットで出かけるのが楽しみですね?

よしのや472018-04-28 18:51:24返信する

5. こんにちはー。

いいなぁ〜。入りたいなぁ〜。
最初から心配してた、旅館としてどうなのか?も気になります。(^-^;
お客さんは入って来なかったんですよね?
独占じゃないですか!
それに、シャンプーとかもあってお得ですよね〜。
温泉行きたいです。(*´-`)

明日香2018-04-28 18:47:19
https://ameblo.jp/yoshinoyan-0904/entry-12371419426.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/533.html#c19

[リバイバル3] 名湯 関金温泉はこのまま朽ちてしまうのか? _ 温清楼の日本一の露天風呂の運命は? 中川隆
20. 中川隆[-8834] koaQ7Jey 2019年8月15日 10:54:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3906]

関金温泉 関の湯共同温泉〈小さな木の浴槽がひとつだけの鄙び系共同温泉〉
@鳥取県倉吉市関金町関金宿
2018-04-27
https://ameblo.jp/yoshinoyan-0904/entry-12371373297.html

2017年4月13日(木)〜12日(金)の


1泊2日「岡山・鳥取温泉ひとり旅」、

今日もその続きを進めていきます。


『足温泉館』を後にしまして、

車は岡山県から鳥取県倉吉市の

「関金温泉」へ。

目的の施設に到着したものの

あれ?あれ?工事中???

(2017年4月現在)


いやね。

ここ関金温泉は

江戸時代には「関の湯宿」と呼ばれ

大層栄えたそうなんですが。

現在では残念ながら

寂れた温泉街という印象は

拭えません。

温泉旅館などが

次々と廃業していく中、

僕の目的の施設も

ついに取り壊されるのか?と

一瞬、心配したのですが……


あっ!入口は横だったんだ!

よかった〜。


てなわけで、

1日目4月13日の4湯目に

やって来ましたのは

『関金温泉 関の湯共同温泉』。

のれんにも書いてある通り

通称「元湯」と呼ばれる浴場で、

地域の方々により運営されています。


営業時間等をご確認ください。

(2017年4月現在)


入口正面に受付があります。

無人かな、と思いましたが

声をかけると

奥からおっさんが出てきました。

入浴料は

どこにも書いてありませんでしたが

200円でした、安いですね〜。

(2017年4月現在)


温泉分析書です。


泉質:単純弱放射能泉

「三朝温泉」と同じ

いわゆるラジウム泉ですね。


泉温:39.5℃

pH値:7.8


泉温が低めなので

寒い日には加温ありとのこと。

あと、

事前に調べたところによると

保険所の指導により塩素投入している

とのことだったのですが、

消毒剤の添加は

「なし」となっていますね。

変更になったのでしょうか?

先に書いちゃいますが、

入ってみての個人的な印象だと

塩素臭などは感じなかったです。

手前が男湯、

奥が女湯になっています。

脱衣場には棚があるだけ。

白木の脱衣棚は

清掃が行き届いており

清潔感があります。


浴室には

2〜3人入ればいっぱいになるような

松の木でできた木製の浴槽が

ひとつ埋め込まれているだけ。

シャワーはおろか

カランさえありません。


女湯との仕切りも木製で

上部が開いています。

また、浴槽の下部でも

女湯とつながってるんですよ。

鄙びた雰囲気がいいですねー、

僕の大好きなタイプの浴場です!


筒から源泉が投入されています。

「飲泉可」の文字が

誇らしげに感じますね!


浴槽の3方から

オーバーフローしています。

もちろん循環などはなしの

源泉かけ流しですよ。

お湯の色は

きれいに澄んだ無色透明です。


源泉を手で受けて飲んでみました。

かすかに塩味のする

あっさりと飲みやすい温泉です。

匂いはほとんどありません。

先述の通り塩素臭などは

感じられませんでした。


投入口近くの温度は41.3℃。

泉温が39.5℃とのことでしたから、

加温されているのだと思います。

んー、

4月に39℃もあれば

十分気持ちよく入れるのに!

加温されていて残念です。


浴槽内温度が41℃くらい、

ちょっとぬるめの適温で

いつまでも入っていられそうな

気持ちよさです。

弱めのツルスベ感があります。

でね。



木の肌触りが

とってもいいんですよ、この浴槽。

雰囲気もほのぼのとした

素朴な落ちつき感がありますし、

ほんと好きだなー、ここ。

最初から最後まで

僕ひとりで小さな浴槽を独占して

しばし癒しの時間を楽しみました。


コメント


20. Re:無題

>lui様

そうですそうです、
ミニマムだからこその
小宇宙のような雰囲気が素晴らしいです!

よしのや472018-04-28 14:11:18返信する

19. Re:無題

>明ちゃん様

元祖じゃないですよ、元湯です(笑)。

工事はさすがにもう終わってるでしょうね〜。

この浴槽のサイズがまたいいんですよねー。

よしのや472018-04-28 14:10:06返信する

18. Re:無題

>くまる様

あー、加温なしでしたか、
僕の時は加温ありだったと思います、
うらやましい。

関金はお湯がいいので
何とか活性化してもらいたいものですね。

よしのや472018-04-28 14:08:21返信する

17. 無題

飲泉可の文字、たしかに誇らしいw
なんか、それだけ小さいからこその風情?みたいなものをものすごく感じますー(*`・ω・)ゞ

lui2018-04-28 09:31:45返信する

16. 無題

元祖という言葉いいですね!!
1年前の事だから今では工事も終わり
綺麗になってるのかな?

小さめの木の浴槽で
見てるだけで癒されますo(^▽^)o
入ったらとっても気持ちいいんだろうな〜♪

明ちゃん2018-04-27 23:38:18返信する

15. 無題

こちらはぼくも終始独り占めで楽しむことができ、また加温なしの完全かけ流し状態で大変気に入りました。
払っても安いのに、まっとう本の手形で無料入浴させてもらいましたし(^_^)

関金は結局宿の湯にはまだどこも入ってないのですが、雰囲気のよい温泉地だけに何とか頑張って欲しいです。
関東からはなかなか行くのが大変ですが、温泉好きには訪れて欲しい湯ですね〜♪

くまる2018-04-27 22:57:55返信する

14. Re:こんばんはー。

>明日香様

いや、入りにくいことはないと思いますよ(笑)。

そうなんです、
小さな木の浴槽でいい味出してるんですよね〜。

よしのや472018-04-27 21:23:36返信する

13. Re:無題

>香奈様

落ちつき感があって
とても安らげる浴場でした。

よしのや472018-04-27 21:22:01返信する

12. Re:こんばんは

>栗まんじゅう様

共同浴場には
シャワーやカランがないのは普通なんです。
むしろシャワーなんてある方がめずらしいです。

こうした鄙び系は大好きなんですよね〜。

よしのや472018-04-27 21:21:12返信する

11. こんばんはー。

入り口が玄関のようです。
知らなかったら入りにくそうです。(^-^;
浴槽は可愛らしいですね〜。
いかにも温泉って感じの浴槽?壁?の木の感じがとても良いです。(^-^)/

明日香2018-04-27 21:00:15
https://ameblo.jp/yoshinoyan-0904/entry-12371373297.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/533.html#c20

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
188. 中川隆[-8833] koaQ7Jey 2019年8月15日 11:42:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3907]

ドル円下落の原因と世界同時株安の今後の見通し
グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート 2019年8月14日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8321


ドル円は相変わらず激しい値動きをしているが、ここではより大局的な見方で相場を説明してゆく。

問題となるのはドル円下落の理由である。ドル円は現在106円台で推移している。チャートは以下の通りである。

この原因は何かということだが、前回の記事を読んだ読者は2つの可能性を思い浮かべるだろう。

•株安で金価格上昇の理由、買い方は落とし穴に注意

前回説明したのは、ドル円は先ず基本的にはドルの実質金利に左右されるということである。ドルの金利が高くなれば、高い金利を求めてドルを買う投資家が多くなる。だからドル円とアメリカ実質金利のチャートは基本的に順相関となる。これがドル円を動かす一番基本的な要因である。

一方で、金融危機などの非常時においては、この相関関係が崩れるということも説明した。金融危機においてはドルの実質金利が上がったにもかかわらず、ドル円が下がるということが起こる。

その理由は投資家の手仕舞いである。通常時には投資家のポジションは高金利通貨の買い、低金利通貨の売りとなっているが、リスクオフとなって投資家が手仕舞いを始めると、この動きが逆転し、高金利通貨の売り、低金利通貨の買いとなる。

金融危機時には、こうした投資家のポジション調整による資金の流れが金利というファンダメンタルズ要因を上回るということである。

現在のドル円相場

ここまでが前回の復習だが、では現在の相場はどちらの理由で下落しているのだろうか? それを考えるには、ドル円とアメリカ実質金利のチャートを並べてみればよい。

なかなか面白い構図である。ドル円と実質金利の相関関係は2018年の最初に途切れ、実質金利は上に行き、ドル円は下に行っている。つまり、2018年には投資家の手仕舞いが市場を動かす大きな原因となっていたということである。

一方で、このドル円と実質金利のギャップは2019年に入ってから急速に縮小し、今では相関を取り戻したように見える。

2019年に入って何が起こったかと言えば、パウエル議長のハト派転換である。中央銀行の行なっていた利上げと量的引き締めが世界同時株安の原因であると認めたことで、底なしかと思われた世界同時株安は一旦持ち直した。

恐らく、ドル円と実質金利の相関関係の復活は、パウエル議長の変心によって投資家がパニック的な手仕舞いを止めたことを意味しているのだろう。それはつまり、現在の相場は金融危機というよりは低金利相場になりつつあるということでもある。これは中央銀行と株の買い手にとって明らかに朗報である。

世界同時株安再発の可能性

一方で、パウエル議長には課題も残されている。金融市場が更なる金融緩和を既に織り込んでしまっているということである。金利先物市場は2020年末までにあと5回の利下げを既に織り込んでしまっているが、パウエル議長は利下げは一時的な処置であり、継続して行うものではないと主張している。

ドル円と実質金利の相関関係は確かに市場の混乱が一旦落ち着いたことを示唆している。しかしそれは裏を返せば、パウエル議長がその期待に応えなければ投資家のパニックは再発する可能性が高いということを意味している。7月のFOMCの後に市場が荒れ始めたのもその一部だろう。

パウエル議長はいずれこの問題に直面しなければならない。筆者は引き続きドル円の空売りを続けているが、パウエル議長が引き続きの緩和姿勢を示して金利安となっても、市場の期待を裏切って株安リスクオフとなっても、ドル円の売りにはプラス要因になると考えている。引き続き金融市場の動向を伝えてゆく。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8321
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c188

[政治・選挙・NHK264] 広島・長崎に原爆落とした悪魔に勲章授けた大バカ者!  赤かぶ
2. 中川隆[-8832] koaQ7Jey 2019年8月15日 12:39:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3908]
昭和天皇が勲章やれと命令したんだよ

広島に原発を落とすのを決めたのも昭和天皇
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/490.html#c2

[政治・選挙・NHK264] 広島・長崎に原爆落とした悪魔に勲章授けた大バカ者!  赤かぶ
3. 中川隆[-8834] koaQ7Jey 2019年8月15日 12:40:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3906]
昭和天皇と吉田茂はアメリカのスパイで、アメリカ人を怒らせる為に、駐米大使に宣戦布告を遅らせろと指示したんだよ
その駐米大使は罪を問われるどころか大出世している
南京大虐殺を命令した浅香宮も罪を問われるどころか大出世している

すべて昭和天皇直々の命令でやらされたという事だね
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/490.html#c3

[政治・選挙・NHK264] 山本太郎 代表談話「敗戦の日を迎えて」「真の世界平和実現の先頭に、日本がたつ政治を実現して参ります」 赤かぶ
7. 中川隆[-8836] koaQ7Jey 2019年8月15日 14:54:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3904]

こいつは核武装しなければ日本が乗っ取られる事もわからないアホだな
日本人が滅びて世界が平和になっても意味無いんだよ

山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者

れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ


山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。


http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/492.html#c7

[政治・選挙・NHK264] れいわ旋風が吹いた沖縄 山本太郎代表が語る辺野古問題と次期衆院選の戦略(琉球新報) 赤かぶ
4. 中川隆[-8835] koaQ7Jey 2019年8月15日 16:50:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3905]

山本太郎は在日で北朝鮮のエージェント、世界革命を目指す日本赤軍派後継者

れいわ が障害2議員を入れたのは山本太郎を介護者として代弁させて国会に出ずっぱりで演説させる為だよ


山本太郎=演説だけでドイツを変えた名優ヒトラーの再来、斎藤まさし =ゲッペルス


▲△▽▼


れいわ新撰組の選挙参謀は森大志、斎藤まさし。

森氏の父親は連合赤軍派最高幹部田宮高麿。
母親は森順子、ヨーロッパで有本恵子さんら3人を拉致し北へ連れて行った主犯。

森氏は北で生まれ、「日本革命村」でスパイ教育を受けた。

斎藤まさしは菅直人らと活動。大虐殺したポルポト崇拝者。ヤバいだろ?


国会に難病議員2人入れて介護者という名目で山本太郎が二人の代わりに代弁してれいわの名を売るんだろ

すべて斎藤まさしのアイデアさ

素人の山本太郎が4億円も寄付を集めたり、わざわざ難病議員を立候補させる訳がないというのがわからないアホが多過ぎるんだな

山本太郎は世界同時革命を目指すキチガイ斎藤まさし(酒井剛)の書いた台本通りに演技してるだけだよ


____


斉藤まさし(2018、8最高裁にて公職選挙法違反で有罪)が山本太郎の街宣に現れた!

やはり山本太郎は操り人形だったのね。


山本太郎の選挙を指揮していると言われてる斉藤まさしが新宿西口で行われた「山本太郎の街頭演説」の場に現れた。

元俳優の山本太郎を使って革命を目指す斉藤まさしの姿が良くお分かりになったでしょう。

監督の指示に従って演技をする、山本太郎は未だに役を演じているように見えますね。

しかし、その俳優は色々問題のある人物だった。

週刊新潮に強姦魔だと書かれても、名誉棄損で訴えることが出来ない。法廷で争う事が出来ない山本太郎という男を担いでしまった。

ME TOO のプラカード持ってパフォーマンスしていた議員達は山本太郎に強姦されたと勇気をもって告発した女性にはダンマリか!

未成年の女の子を強姦しても、革命家斉藤まさしの書いたシナリオ通りを演じておけば、参議院議員にもなれるか。

もし、事実じゃなないのなら、何故週刊新潮を訴えないのか?

____


無知な一般大衆が知らない山本太郎・斉藤まさしやヒトラー、レーニンを操っていた黒幕


ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
重信房子、田宮高麿、山本太郎・斉藤まさし、北朝鮮、オウム真理教の深い関係

2011年4月に行われた第17回統一地方選挙の三鷹市議会議員選挙に、代表を務める市民の党からよど号ハイジャック事件を起こしたよど号グループの元リーダー田宮高麿と、石岡亨・松木薫を欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で国際手配を受けている森順子の長男、森大志が立候補しているが斉藤まさしは市議選に擁立した背景について取材で

「10年ほど前に北朝鮮に行き、よど号の人間や娘たちと会った」
「その中には(三鷹市議選に出馬した)長男の姉もいた」
「そうした縁もあって、長男が帰国してきてからつながりがあった」

と述べている。 北朝鮮や田宮との関係について「救う会」会長の西岡力は「酒井(斎藤まさし)代表がよど号犯やその子供らと会えたことは、北朝鮮が酒井代表を同志と考えたか、対日工作に利用できると判断して許可を出したことになる。酒井や市民の党が北と密接な関係にあったのは明白だ」と批判している


山下太郎、田中清玄…。かつて日本から実力者たちが何人もアラブ世界に飛び、交流を高めわが国の政治経済に貢献した。日本赤軍の重信房子もこうした流れの中でアラブに渡ったものであり、彼女が中東に飛ぶ際に CIA工作員の岸信介(当時首相)は当時のカネで500万円を手渡したと伝えられる。


よど号リバプールZ48という感じであの時も北朝鮮だダッカだテルアビブだと子供ながらにハラハラさせられたが
重信房子がばばあになって帰ってきて娘が平気でテレビに出るとか
不自然でこの親子もなんちゃって一座の団員でスーチー型やダライラマ型という感じがする

重信房子ってのは、戦前の大物≪右翼≫の娘だよ。
父親(重信末夫)は鹿児島県出身であり、戦前の右翼の血盟団のメンバーであり、四元義隆とは同郷の同志である。


要するに≪反体制がかっこいい≫というレベルの遺伝子の持ち主。
思想・信条は関係ない。


重信末夫は、四元義隆を通じて佐々弘雄と友人関係にあった。
つまり重信房子は佐々淳行と昔から知り合いだった。

連合赤軍のテロ事件は、警視庁や日本政府と組んだ茶番だった。
オメ-ラのやり方は、昔からキッタネーなぁ...?

ハマスは、パレスチナをイスラエルが攻撃する口実作りの為に、被害が最小限のテロを行っている。

ハマスは実はモサドが作り、支援している似非テロ組織。
その実体は日本の連合赤軍にそっくり。


 あの安保闘争では、デモを指導していた全学連の上層部が、右翼の田中清玄やCIAから資金援助を受けていた。そして、彼らは後に米国に留学し、中曽根康弘の手先として自民党の御用学者となった(西部邁、香山健一、佐藤誠三郎など)。安保闘争はデモを指導していた学生がCIAに取り込まれ、ガス抜きに利用された(当時の岸信介首相は、CIA工作員)。

 学生運動や極左運動では、凄惨なリンチやテロが相次いだ。だが当時の極左指導者も、裏では公安とツーカーだった。よど号事件では、犯人が北朝鮮(旧日本軍の残地諜者が建国した国)に亡命し、人質の一人が日野原重明(笹川人脈)だった(聖路加国際病院は戦時中は空襲に遭わなかったし、地下鉄サリン事件では被害者の搬送先となった)。

重信房子は、父・重信末夫が右翼の大物で、四本義隆や佐々弘雄(佐々淳行の父)とつながりがあった。当時、数々の極左テロ事件の鎮圧を指導したのが佐々淳行と後藤田正晴だ(佐々と後藤田は、後に中曽根首相の側近となった)。冷戦期のグラディオ作戦の日本版が、日本の極左テロ事件だ(西欧で起きた数々の極左テロは、実は民衆の世論を反共へ誘導するためNATOが仕組んだもの、というのがグラディオ作戦)。

 オウム事件では、オウムは裏で統一教会や北朝鮮と関わりがあったが、当然、CIAの関与もあったはずだ(オウムが撒いたとされるサリンは、米軍製のサリンとなぜか成分が同じだ)。麻原は拘置所で薬漬けにされ、口封じされた。

 安保闘争も、学生運動や極左テロも、オウム事件も、裏では支配層が巧妙に運動や組織をコントロールしていた。そして、これらの政治的事件の顛末は、日本人に「政治には無関心でいるのが無難」という意識を植えつける、悪影響をもたらした(それが、属国日本の支配層=米国の手先の狙いだったのだから)。



http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/496.html#c4

[政治・選挙・NHK264] 韓日議連会長の怒り「安倍の主張はデタラメ、歴史を学べ」 安倍政権 戦略なき対韓外交(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
3. 中川隆[-8834] koaQ7Jey 2019年8月15日 16:53:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3906]
儒教の国とは価値観が違うから国交断絶するしかないだろ
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/495.html#c3
[政治・選挙・NHK264] 韓日議連会長の怒り「安倍の主張はデタラメ、歴史を学べ」 安倍政権 戦略なき対韓外交(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
4. 中川隆[-8833] koaQ7Jey 2019年8月15日 16:54:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3907]
宮脇淳子 あるのはウソだけのめんどくさい国。韓国の異常さがよくわかる動画 - YouTube
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【東京発信・Cool Eyes】第16回 歴史学者・宮脇淳子 朝鮮半島と満州の「なぜ」 - YouTube
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じっくり学ぼう!日韓近現代史【CGS 宮脇淳子】 - YouTube 動画
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宮脇淳子 朝鮮を語る - YouTube
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韓流ドラマはSF・ファンタジーの世界 ~ 朝鮮史の真実【CGS宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=z3UjCOXvFDQ

なぜ今、日韓近現代史なのか?~昔も今も韓国は韓国【CGS 宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=qwyDpOJh1ig

さくらじ#50 大人気!宮脇淳子講座、韓国に挑む!?
http://www.youtube.com/watch?v=XpRj8TW1bo8
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/495.html#c4

[国際27] 韓国・文在寅、日本が対話望めば「喜んで手を結ぶ」 解放祝う光復節の演説で(ニューズウィーク) 赤かぶ
8. 中川隆[-8838] koaQ7Jey 2019年8月15日 17:01:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3902]

儒教の国とは価値観が違うから国交断絶するしかないだろ


▲△▽▼

宮脇淳子 あるのはウソだけのめんどくさい国。韓国の異常さがよくわかる動画 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AE%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%8F%E3%81%95%E3%81%84%E5%9B%BD
【東京発信・Cool Eyes】第16回 歴史学者・宮脇淳子 朝鮮半島と満州の「なぜ」 - YouTube
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じっくり学ぼう!日韓近現代史【CGS 宮脇淳子】 - YouTube 動画
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韓流ドラマはSF・ファンタジーの世界 ~ 朝鮮史の真実【CGS宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=z3UjCOXvFDQ

なぜ今、日韓近現代史なのか?~昔も今も韓国は韓国【CGS 宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=qwyDpOJh1ig

さくらじ#50 大人気!宮脇淳子講座、韓国に挑む!?
http://www.youtube.com/watch?v=XpRj8TW1bo8


http://www.asyura2.com/19/kokusai27/msg/181.html#c8

[近代史3] 朝鮮戦争は八百長戦争だったのか? 中川隆
2. 中川隆[-8840] koaQ7Jey 2019年8月15日 18:09:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3900]

2019年08月15日
終戦直前 韓国・北朝鮮を生み出した関東軍とソ連軍の駆け引き


ソ連軍が近づくと関東軍は戦わず、民間人を見捨てて逃げ出した。


画像引用:https://www.jiji.com/news/handmade/topic/d4_mili/sov808-jlp02617204.jpg

瀬戸際の駆け引き

現在の私たちは朝鮮半島の真ん中で北朝鮮・韓国に分かれた地図を当たり前に見ています。

だが1945年夏の朝鮮半島は現在とはまったく違う世界で、その後数が月の偶然によって韓国と北朝鮮が誕生した。

ほんの少し違っていれば半島すべてが共産主義の朝鮮民主共和国になったかも知れないし、一つの大韓民国だったかも知れない。


またソ連の領土の一部や、中華民国や共産中国の「朝鮮自治区」になっていた可能性がかなり在った。

全ては日本陸軍関東軍とソ連軍のかけひきによって進み、たまたま両軍が止まったのが地図上の「38度線」でした。

この38度線も関東軍の将校らが、たまたま地図上の線を目安に、ここを防衛線にしようと決めたのに過ぎませんでした。


始まりは1941年から45年の対米戦で、圧倒的優勢な米軍に対処するため、中国大陸や半島から優秀な将兵を太平洋戦線に移動させた。

優秀な人は太平洋に移動し玉砕したので終戦末期に大陸に残っていた兵士は、あまり戦力にならないと考えられたような人達でした。

こういう事情だったので関東軍上層部はソ連と戦う自信がなく、攻めてきたら逃げるという作戦を立てました。


日本の軍中枢である大本営は敗戦を確実視し、100万人以上いた日本人移民を全員見捨てて、関東軍だけが日本に帰国せよと命令しました。

1945年8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して、日本軍が居ない場所を狙って前進してきました。

関東軍はあらかじめ少し後退していて、ソ連軍も日本軍が居ない場所だけ前進するという暗黙の合意が成立していました。

全ては僅かな偶然で決まった

ソ連軍はドイツを倒すため欧州戦線に全力を投入していて、極東の日本軍には勝てないとスターリンは考えていました。

欧州戦線のソ連軍を極東に移動させるには数か月かかり、その間日本軍と交戦してはならないと指示していました。

戦力としては極東ソ連軍の方が関東軍より優勢だったが、1939年のノモンハン事件では同じく劣勢だった日本軍に苦戦したからでした。


ノモンハンの戦闘で日本軍は弾薬が尽きても刀や槍で襲い掛かり、兵器や人数では圧倒的に優勢だったソ連軍の方が大きな損害を出していました。

関東軍は安全に撤退するため100万人の日本人移民には「ソ連軍と戦いに行く」と言って騙し、朝鮮半島まで撤退しました。

軍に見捨てられた日本人移民はソ連軍と中国軍らに襲われるのだが、これは本題ではないので省略します。


関東軍は将兵らの動揺を抑えるために、軍人の家族だけをこっそり38度線まで移動させ、8月15日までに主力部隊は38度線まで撤退しました。

関東軍は朝鮮半島南部を最終決戦の地と定め、もしソ連軍が38度線を越えて進軍したら、全軍が民間人とともに玉砕する計画でした。

と同時に関東軍はアメリカ軍が早く上陸するよう催促し、結局米軍は8月25日にソウルに到達しています。


ここで重要なのは「8月15日」は日本軍が勝手に停戦しただけで、ソ連軍が襲い掛かる脅威は続いていたのです。

関東軍はソ連軍を騙す事もしていて、広島長崎の原爆投下後に「日本の半分をソ連軍に引き渡す」という密約をしていました。

この約束は結局果たされず、自分が生き残るために日本を裏切ったのか、ソ連軍を足止めする高度な駆け引きだったのかは不明なままです。


中国や満州や北朝鮮に取り残された日本人100万人以上は、現地で大変な目に遭い、ソ連軍に捕らえられた日本兵のほとんどがなくなりました。

そしてたまたま関東軍が停止した38度線以南を米軍が占領し、そこが韓国になりました。

ソ連は北朝鮮を独立させる気はなかったが、韓国との対抗上なりゆきで北朝鮮を建国した。
http://www.thutmosev.com/archives/80699739.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/492.html#c2

[近代史3] 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  中川隆
31. 中川隆[-8839] koaQ7Jey 2019年8月15日 18:14:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3901]
2019年08月15日
終戦直前 韓国・北朝鮮を生み出した関東軍とソ連軍の駆け引き

ソ連軍が近づくと関東軍は戦わず、民間人を見捨てて逃げ出した。

画像引用:https://www.jiji.com/news/handmade/topic/d4_mili/sov808-jlp02617204.jpg

瀬戸際の駆け引き

現在の私たちは朝鮮半島の真ん中で北朝鮮・韓国に分かれた地図を当たり前に見ています。

だが1945年夏の朝鮮半島は現在とはまったく違う世界で、その後数が月の偶然によって韓国と北朝鮮が誕生した。

ほんの少し違っていれば半島すべてが共産主義の朝鮮民主共和国になったかも知れないし、一つの大韓民国だったかも知れない。

またソ連の領土の一部や、中華民国や共産中国の「朝鮮自治区」になっていた可能性がかなり在った。

全ては日本陸軍関東軍とソ連軍のかけひきによって進み、たまたま両軍が止まったのが地図上の「38度線」でした。

この38度線も関東軍の将校らが、たまたま地図上の線を目安に、ここを防衛線にしようと決めたのに過ぎませんでした。


始まりは1941年から45年の対米戦で、圧倒的優勢な米軍に対処するため、中国大陸や半島から優秀な将兵を太平洋戦線に移動させた。

優秀な人は太平洋に移動し玉砕したので終戦末期に大陸に残っていた兵士は、あまり戦力にならないと考えられたような人達でした。

こういう事情だったので関東軍上層部はソ連と戦う自信がなく、攻めてきたら逃げるという作戦を立てました。


日本の軍中枢である大本営は敗戦を確実視し、100万人以上いた日本人移民を全員見捨てて、関東軍だけが日本に帰国せよと命令しました。

1945年8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して、日本軍が居ない場所を狙って前進してきました。

関東軍はあらかじめ少し後退していて、ソ連軍も日本軍が居ない場所だけ前進するという暗黙の合意が成立していました。


全ては僅かな偶然で決まった

ソ連軍はドイツを倒すため欧州戦線に全力を投入していて、極東の日本軍には勝てないとスターリンは考えていました。

欧州戦線のソ連軍を極東に移動させるには数か月かかり、その間日本軍と交戦してはならないと指示していました。

戦力としては極東ソ連軍の方が関東軍より優勢だったが、1939年のノモンハン事件では同じく劣勢だった日本軍に苦戦したからでした。


ノモンハンの戦闘で日本軍は弾薬が尽きても刀や槍で襲い掛かり、兵器や人数では圧倒的に優勢だったソ連軍の方が大きな損害を出していました。

関東軍は安全に撤退するため100万人の日本人移民には「ソ連軍と戦いに行く」と言って騙し、朝鮮半島まで撤退しました。

軍に見捨てられた日本人移民はソ連軍と中国軍らに襲われるのだが、これは本題ではないので省略します。


関東軍は将兵らの動揺を抑えるために、軍人の家族だけをこっそり38度線まで移動させ、8月15日までに主力部隊は38度線まで撤退しました。

関東軍は朝鮮半島南部を最終決戦の地と定め、もしソ連軍が38度線を越えて進軍したら、全軍が民間人とともに玉砕する計画でした。

と同時に関東軍はアメリカ軍が早く上陸するよう催促し、結局米軍は8月25日にソウルに到達しています。


ここで重要なのは「8月15日」は日本軍が勝手に停戦しただけで、ソ連軍が襲い掛かる脅威は続いていたのです。

関東軍はソ連軍を騙す事もしていて、広島長崎の原爆投下後に「日本の半分をソ連軍に引き渡す」という密約をしていました。

この約束は結局果たされず、自分が生き残るために日本を裏切ったのか、ソ連軍を足止めする高度な駆け引きだったのかは不明なままです。


中国や満州や北朝鮮に取り残された日本人100万人以上は、現地で大変な目に遭い、ソ連軍に捕らえられた日本兵のほとんどがなくなりました。

そしてたまたま関東軍が停止した38度線以南を米軍が占領し、そこが韓国になりました。

ソ連は北朝鮮を独立させる気はなかったが、韓国との対抗上なりゆきで北朝鮮を建国した。
http://www.thutmosev.com/archives/80699739.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/180.html#c31

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
193. 中川隆[-8838] koaQ7Jey 2019年8月15日 18:14:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3902]
2019年08月15日
終戦直前 韓国・北朝鮮を生み出した関東軍とソ連軍の駆け引き

ソ連軍が近づくと関東軍は戦わず、民間人を見捨てて逃げ出した。

画像引用:https://www.jiji.com/news/handmade/topic/d4_mili/sov808-jlp02617204.jpg

瀬戸際の駆け引き

現在の私たちは朝鮮半島の真ん中で北朝鮮・韓国に分かれた地図を当たり前に見ています。

だが1945年夏の朝鮮半島は現在とはまったく違う世界で、その後数が月の偶然によって韓国と北朝鮮が誕生した。

ほんの少し違っていれば半島すべてが共産主義の朝鮮民主共和国になったかも知れないし、一つの大韓民国だったかも知れない。

またソ連の領土の一部や、中華民国や共産中国の「朝鮮自治区」になっていた可能性がかなり在った。

全ては日本陸軍関東軍とソ連軍のかけひきによって進み、たまたま両軍が止まったのが地図上の「38度線」でした。

この38度線も関東軍の将校らが、たまたま地図上の線を目安に、ここを防衛線にしようと決めたのに過ぎませんでした。


始まりは1941年から45年の対米戦で、圧倒的優勢な米軍に対処するため、中国大陸や半島から優秀な将兵を太平洋戦線に移動させた。

優秀な人は太平洋に移動し玉砕したので終戦末期に大陸に残っていた兵士は、あまり戦力にならないと考えられたような人達でした。

こういう事情だったので関東軍上層部はソ連と戦う自信がなく、攻めてきたら逃げるという作戦を立てました。


日本の軍中枢である大本営は敗戦を確実視し、100万人以上いた日本人移民を全員見捨てて、関東軍だけが日本に帰国せよと命令しました。

1945年8月9日にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して、日本軍が居ない場所を狙って前進してきました。

関東軍はあらかじめ少し後退していて、ソ連軍も日本軍が居ない場所だけ前進するという暗黙の合意が成立していました。


全ては僅かな偶然で決まった

ソ連軍はドイツを倒すため欧州戦線に全力を投入していて、極東の日本軍には勝てないとスターリンは考えていました。

欧州戦線のソ連軍を極東に移動させるには数か月かかり、その間日本軍と交戦してはならないと指示していました。

戦力としては極東ソ連軍の方が関東軍より優勢だったが、1939年のノモンハン事件では同じく劣勢だった日本軍に苦戦したからでした。


ノモンハンの戦闘で日本軍は弾薬が尽きても刀や槍で襲い掛かり、兵器や人数では圧倒的に優勢だったソ連軍の方が大きな損害を出していました。

関東軍は安全に撤退するため100万人の日本人移民には「ソ連軍と戦いに行く」と言って騙し、朝鮮半島まで撤退しました。

軍に見捨てられた日本人移民はソ連軍と中国軍らに襲われるのだが、これは本題ではないので省略します。


関東軍は将兵らの動揺を抑えるために、軍人の家族だけをこっそり38度線まで移動させ、8月15日までに主力部隊は38度線まで撤退しました。

関東軍は朝鮮半島南部を最終決戦の地と定め、もしソ連軍が38度線を越えて進軍したら、全軍が民間人とともに玉砕する計画でした。

と同時に関東軍はアメリカ軍が早く上陸するよう催促し、結局米軍は8月25日にソウルに到達しています。


ここで重要なのは「8月15日」は日本軍が勝手に停戦しただけで、ソ連軍が襲い掛かる脅威は続いていたのです。

関東軍はソ連軍を騙す事もしていて、広島長崎の原爆投下後に「日本の半分をソ連軍に引き渡す」という密約をしていました。

この約束は結局果たされず、自分が生き残るために日本を裏切ったのか、ソ連軍を足止めする高度な駆け引きだったのかは不明なままです。


中国や満州や北朝鮮に取り残された日本人100万人以上は、現地で大変な目に遭い、ソ連軍に捕らえられた日本兵のほとんどがなくなりました。

そしてたまたま関東軍が停止した38度線以南を米軍が占領し、そこが韓国になりました。

ソ連は北朝鮮を独立させる気はなかったが、韓国との対抗上なりゆきで北朝鮮を建国した。
http://www.thutmosev.com/archives/80699739.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c193

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
617. 中川隆[-8837] koaQ7Jey 2019年8月16日 00:59:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3903]
終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! 日本軍関与、強制連行…歴史修正主義者たちはこの証拠を見よ
https://lite-ra.com/2019/08/post-4903.html

2019.08.15 終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! リテラ
   
   

 74年目の終戦記念日を迎えた今日、やはり、取り上げておくべきは日本軍「慰安婦」問題だろう。第二次安倍政権の誕生とともに、右派政治家やネット右翼による歴史修正主義は一気に勢いづき、「反日バッシング」の大号令のもとで大日本帝国賛美への傾きを増している。その象徴が、戦中の日本軍による「慰安婦」問題だからだ。

「平和の少女像」が展示された「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」は、脅迫や政治家の圧力によって中止に追い込まれたが、ネトウヨだけでなく、いまや政治家たちもが剥き出しの歴史修正発言を平然と繰り出しており、かたや、それを批判・検証する動きは鈍い。

「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与した強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体が誤報と謝罪しているわけだから」「事実ではないデマの象徴の慰安婦像は行政が主催する展示会で展示するべきものではない」(松井一郎・大阪市長)

「名古屋市と愛知県は認めたのかと、国の補助金も入っているような(芸術祭で)国も韓国の主張を認めたのかと。やっぱり従軍慰安婦ってあったのかと、そういうふうに見られるじゃないかと」(河村たかし・名古屋市長)

 言っておくが、「慰安婦はデマ」「慰安婦はなかった」という発言こそ、はっきりとしたデマだ。そもそも、2014年に朝日新聞が訂正・謝罪したのは「慰安婦狩り」を創作した吉田清治証言にかんするもののみ。戦中の日本軍がアジア各地に慰安所をつくり、女性たちを「慰安婦」にして、兵士の性暴力の相手にしたのは事実である。

 まず、軍が慰安所づくりに主体的に携わったことを示す公的文書や元日本軍人の証言はいくらでもある。先日の記事(https://lite-ra.com/2019/08/post-4885.html)でも触れたが、たとえば、海軍出身の中曽根康弘・元首相は回想のなかで、インドネシアで「苦心して、慰安所をつくってやった」ことを自慢話として書いている。陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長はある対談で、「調弁する女の耐久度とか消耗度」などを含む慰安所の設置方法を経理学校で教わったと語っている。これらの証言は防衛省などが保持する当時の軍の史料でも裏付けされており、つまり、慰安所と「慰安婦」が軍主導であった事実を示している。

 アジアへの侵略戦争のなか、日本軍は戦地または占領地に軍直営や軍専用の慰安所をつくり、あるいは民間の売春宿を指定するかたちで慰安所にした。たとえば、防衛省の防衛研究所が所蔵する史料「常州駐屯間内務規定」(1938年3月16日、独立攻城重砲兵第二大隊が作成)では、中国現地の〈慰安所使用規定〉として部隊ごとに使用する曜日が決められていたほか、〈使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス〉とあり〈支那人 一円○○銭〉〈半島人 一円五十銭〉〈内地人 二円○○銭〉とされている。軍が慰安所をつくり、朝鮮や現地の女性を「慰安婦」にしていたのは客観的にも議論の余地がないのだ。

 そこで、歴史修正主義者たちは「軍が関与した強制連行を示す証拠はない」などと言って「慰安婦問題はデマだ」と嘯くわけだが、しかし、これも問題を矮小化する典型的手口としか言いようがない。

 だいたい、歴史修正主義者たちは「軍がトラックで村に乗り込んできて、娘たちを連れ去って慰安婦にした」というようなケースだけを「強制連行」とするが、「強制」とはそもそも「本人の意思に反して無理矢理行わせること」だ。

 朝鮮人元慰安婦の証言で多いのは、「工場で働かせる」「稼げる仕事がある」などと甘言を弄して「慰安婦」にすることを隠し、騙して慰安所へ連行するケースだ。軍が直接的に連行せず業者を使っていても、元締めの業者は軍が選定し、慰安所では軍人の相手を強制されたのだから、当然、軍の責任は免れない。

■「いい仕事がある」と騙され貨車に詰め込まれ日本憲兵から「逃げようとしたら殺すぞ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の朴永心さんは1939年、17歳のとき、騙されて南京の慰安所へ連れていかれた。当時務めていた洋品店に、腰にサーベルをつけた日本人の巡査がやってきて、「お金が稼げるいい仕事がある」と誘われ、どういった仕事かはわからなかったが親孝行になると思い、ついていったという。

〈巡査は、私たちを憲兵に引き渡すとそそくさと姿を消してしまいました。私たちは屋根のついた貨車(有蓋貨車)に詰め込まれました。真夏だというのに貨車には窓がなく、風が通らないので中は蒸し風呂のような暑さでした。ブラウスが汗で肌にべったり張りついていたのを覚えています。
 一緒に乗り込んできた憲兵は「逃げようとしたら殺すぞ」と私たちを脅し、娘たちが互いに話すことも禁じました。トイレに行きたくても外に出してもらえず、我慢ができなくなると恥ずかしいなんて言ってられない。貨車の中で用を足さねばなりませんでした。本当につらかった。
 私たちは黙ったまま、暗い貨車の中で身を寄せ合って座っていました。「帰りたい」と泣き叫んでも殴られるだけで、どうすることもできなかったのです。「だまされた」と気がついたときにはすでに手遅れでした。〉【脚注1】

 明らかにそこには日本の官憲の「関与」があり、女性たちは「慰安婦」になることを「強制」されていたわけだが、さらに、東南アジアでは直接的に日本軍によって連行されたという証言も多い。

〈1943年のある夜、日本兵がやってきて、家々から若い女性を引きずり出しました。私は腕から乳飲み子をもぎとられ、むりやりトラックに押し込まれ、トンロックホテルで降ろされました。そこは陸軍専用の慰安所でした。〉(ロザリン・ソウさん/マレーシア・ペナン島生まれ)【脚注2】

〈日本軍の占領下、オランダ人は抑留所に入れられました。1944年2月、抑留所に日本軍の将校がきて、若い女性を広場に整列させ、「慰安婦」にする女性を選びました。私をふくむ16人の娘が「七海亭」に連行されました。私たちは恐怖で身を寄せあって祈りましたが、ひとり、またひとりと寝室に連れていかれました。私は日本刀をつきつけられて強かんされました。私はこの最初の夜を決して忘れません。翌日からは日本兵が列をつくってやってきました。2カ月後、慰安所は突然閉鎖され、私たちはボゴールの抑留所に移されました。日本兵は「慰安所のことを話したら、家族ともども殺す」と脅しました。私は沈黙するしかなく、周囲から「日本の売春婦」とよばれて、つらい思いをしました。〉(ジャン・ラフ=オハーンさん/オランダ領ジャワ島生まれ)【脚注2】

 安倍首相は第一次政権時に「言わば、官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかった」(2007年3月5日参院予算委員会)と答弁したが、これは真っ赤な嘘なのである。

■日本軍によって両親を虐殺され、慰安婦にされたフィリピン女性

 目の前で日本軍によって肉親を虐殺され、「慰安婦」にさせられたケースさえある。フィリピン人元「慰安婦」のルフィーナ・フェルナンデスさんの証言だ。1942年に日本軍がフィリピンを占領したとき、フェルナンデスさんは14歳だった。場所を移しながら避難生活を送るなか、マニラ郊外の家に日本軍が入ってきた。

〈この家に戻るとすぐ私たちの家に日本軍が入り込んできました。彼らは私の父を当時強かった反日ゲリラの容疑者ということで、逮捕しようとしていました。父は前から山に行ったり、マニラに行ったりしていて、反日運動など何ひとつ行っていません。そのことを日本軍の兵士に言いました。しかし、兵士はいっこうに耳をかそうとせず、父を殴りつけました。そして、私は避難生活の間に一五才になっていましたけれど、私を見つけて日本軍の兵士が連れて行こうとしました。それをみた父が逆上して、私を連れ戻そうと日本軍の兵士に抵抗した時に、父は私の見ている前で日本軍の兵士になぐり殺されました。そして次は母の番でした。母も私をかばおうと日本兵の前に立ちはだかると、兵士が何度も何度も母のおなかを殴りつけ、母はそのまま死んでしまいました。兄弟は私の目の前で殴られ続けました。私は止めようとしましたが、私も頭をひどく殴られ意識を失った状態で車の中に連れて行かれました。遠ざかる意識の中で泣き叫ぶ兄弟の声が聞こえなくなりました。おそらく彼らも殺されたのだとその時思いました。
 私の家族はこうしてすべて殺されました。これは私にとって、とてもつらい信じられない出来事でした。そのことだけでも私は五〇年間日本人と日本軍に対する怒りで苦しみ続けてきました。〉【脚注3】

 そして、慰安所での女性たちの境遇は「凄惨」や「壮絶」という言葉ではとても言い表せないほどのものだった。数々の証言からは、虐待や暴行は日常茶飯事であり、まさに兵士たちが女性を「モノ」扱いしていたことが伺える。

■日本兵から「皇軍のため」「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の李桂月さんはこう証言している。15歳になった年に、村の区長に「仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言われ向かった先で日本の軍人に引き渡され、ハルピン近くの慰安所に連れて行かれた。

〈日本軍は「慰安婦」たちが言うことを聞かないとひどく殴りました。ある日、私は部屋に入ってきた将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、将校は「皇軍の言うことが聞けないのか」とどなり、連続びんたを食らわせました。あまりの痛さに目がくらみ、あごががくがくしました。将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は完全に気を失ってしまいました。〉
〈また、ある日、「タナカ」が部屋に入って来たときに私が横になったまま起き上がらないので靴で触り、「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。たばこを押し付けられてやけどをしたところは水ぶくれになり、化膿してしまいました。〉
〈日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と命令しました。それで、日曜日にはご飯を食べる時間も、便所に行く時間もなく「奉仕」させられました。一日中数十人もの日本兵に犯されると、指を動かす力もなくなり、失神するほどでした。一緒に連行されて来たヨンジャとイ・プニは、日本兵の暴行で殺されました。ヨンジャは病気になって腹が膨れ上がりましたが、日本兵はにんしんしている女は不必要だと言って軍刀で彼女のお腹を切り裂きました。しかし、胎児はおらず、水みたいなものがあふれ出ただけでした。ヨンジャは腹水の病気だったと思います。〉【脚注1】

 彼女たちは騙されたり、暴力によって無理矢理に「慰安婦」にさせられただけではない。慰安所では、兵士の性暴力の相手を拒めず、居住も強制され、監視によって外出や逃亡もできなかったという証言がほとんどだ。また当時の日本は、女性や児童の売買を禁じる国際条約や、満21歳未満の女性を国外へ連れて行くことを禁じる国際条約に加入しており、これらにも違反していた。なにより、戦争遂行のために女性の自由を奪い、強制的に男性の性暴力に晒すのは、深刻な人権侵害にほかならない。

 冒頭に述べたように、敗戦から74年を迎えるこの国では、「慰安婦」の存在を否定するデマが勢いづいている。女性の人権を擁護し、被害と惨禍を繰り返すまいと決意することが「反日」などと呼ばれ、バッシングや脅迫の対象となってしまう社会。そうした歪んだ状況を正さない以上、同じことが繰り返されないという保証はない。そのことを決して忘れないでほしい。

(編集部)

■引用元と主な参考文献
【1】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編/西野瑠美子、金富子責任編集『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集1』明石書店
【2】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『フィールドワーク 日本軍「慰安婦」』平和文化
【3】アジア・フォーラム編『元『慰安婦』の証言──五〇年の沈黙をやぶって』皓星社
【他参考】日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編/吉見義明、西野瑠美子、林博史、金富子責任編集『Q&A「慰安婦」・強制・性奴隷』御茶の水書房

http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c617

[近代史3] ワイダ 地下水道 Kanał (1957年) 中川隆
8. 中川隆[-8836] koaQ7Jey 2019年8月16日 01:05:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3904]
ドイツの外相、ワルシャワでナチの犯罪に謝罪
永井 潤子 / 2019年8月11日

8月1日、ポーランドの首都、ワルシャワで75年前のワルシャワ蜂起の犠牲者を追悼する記念式典が行われた。この式典に出席したドイツのマース外相は「ドイツ人がドイツの名においてあなた方の国に対して行ったことを、私は深く恥じています」と述べ、ポーランド人に対してナチス・ドイツの犯罪に赦しを乞うた。

ナチス・ドイツは1939年9月1日、ポーランドに侵攻し、3日、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦が始まった。ドイツ軍はポーランド軍を圧倒し、間も無くソ連軍も東からポーランドに侵入して、1ヶ月たらずでポーランドは占領、分割された。ソ連は東部を、ドイツはワルシャワを含む西部を占領した。大戦開始当初ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を結んでいたが、1941年8月、ドイツが独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵攻したことにより、両国は敵対関係となり、壮絶な独ソ戦が展開された。そうした状況にあった第二次世界大戦末期の1944年8月1日、ソ連軍が東から首都ワルシャワに迫る中、ポーランド国内軍(ドイツ占領軍に対する地下抵抗組織)を中心とする約5万人の市民が、ドイツの占領に対して武装蜂起した。このワルシャワ蜂起に参加したのは若い男女が中心で、63日間抵抗を続けたが、約20万人の犠牲者を出した後、10月2日ドイツ軍に鎮圧された。ドイツ軍はポーランド国内軍の兵士だけでなく一般市民も虐殺したといい、歴史家の中には犠牲者の数を25万人と見る人もいる。ナチス・ドイツ軍はワルシャワの街に壊滅的な被害を加え、約50万人がその後強制収容所送りとなったという。


ドイツ外相のハイコ・マース氏。© Thomas Imo/photothek.net

このワルシャワ蜂起の開始から75年を迎えた今年8月1日、ワルシャワ市内では午後5時、追悼のサイレンが鳴り響き、交通は一時ストップし、人々は立ち止まって犠牲者に黙祷を捧げた。その様子をドイツのテレビはニュースなどで伝え、翌日の新聞各紙も記念式典に出席したハイコ・マース外相(社会民主党、SPD)の発言を詳しく伝えた。マース外相はポーランドのチャプトヴィチ外相の招きを受け入れ、記念式典に参加したもので、ドイツ政府の閣僚がワルシャワ蜂起の記念式典に参加したのは、2004年の60周年記念式典に参加したシュレーダー元首相(SPD)に次いで二人目である。マース外相は式典の前日にポーランドの外相とともに教会のミサに出席し、「自分は、犠牲となって亡くなった人たちとその家族、負傷者に畏敬の念を示すため、また、ポーランドの国民に赦しを乞うために、ここにやってきました」とも述べていた。

その翌日マース外相は、ワルシャワ蜂起記念館で行われた記念式典で、次のように挨拶した。

ドイツ人がドイツの名においてあなた方の国に対して行ったことを、私は深く恥じています。また、こうした罪について戦後長い間語られなかったことについても、私は恥ずかしく思っています。私たちは、ナチス・ドイツによるポーランド人犠牲者を追悼する記念碑を、ベルリンに設ける計画をたてています。こうした計画は、とっくに実現されているべきでした。ポーランド人犠牲者の記念碑を作ることは、ポーランド人との和解のシンボルを意味するだけではありません。我々自身にとっても、重要なのです。ナチス・ドイツの犯罪はなかったことにするわけにはいきません。また、多くの傷は決して癒されることはないでしょう。しかし、少なくとも我々にできることは、犠牲者を、ふさわしいかたちで追悼することです。

ベルリンにはすでにさまざまなナチの犠牲者の追悼記念碑が存在する。最も有名なのは、市の中心部、ブランデンブルク門の近くに設けられた「殺害されたヨーロッパのユダヤ人を追悼する記念碑」だが、その近くにはシンティ・ロマの犠牲者を悼む記念碑や同性愛者の犠牲者の記念碑も設けられている。ポーランドの政治家は、ポーランドの犠牲者を追悼する記念碑をベルリンに設立するよう長年要求してきたが、今では、ドイツ連邦議会の右翼ポピュリズム政党「ドイツのための選択肢(AfD)」を除く、すべての会派を網羅した議員たちの間に、記念碑設立のイニシアティブが生まれている。

一方、ポーランドのチャプドヴィチ外相は、この記念式典での挨拶で、「第二次世界大戦中ドイツによってもたらされた被害に対し、ポーランドは損害賠償を求める権利を保有している」と強調した。「ポーランドはナチス・ドイツによって国家遺産の一部を失ったが、加害者はポーランド国家とポーランド国民に対する補償を行っていない」とも述べた。

この問題についてドイツ政府は、東西両ドイツの統一が実現するときに結ばれた「2プラス4条約」(1990年、東西両ドイツと米英仏露の占領4カ国で結ばれた条約)で解決済みだとしている。ポーランドに国家主義的な「法と正義」党による政権が成立して以来、ポーランドとドイツ両国政府の意見は、この問題で対立している。それにもかかわらず、両国は友好関係を維持しようと努力している。

この記念式典の様子を見ながら私は反射的に、ほとんど同じ時期に行われた日本政府による韓国に対する輸出規制措置と「ホワイトリスト」からの削除による日韓関係の悪化を思わずにはいられなかった。安倍政権の韓国に対する最近の一連の態度を見ていると、日本の現在の政治家たちには、植民地時代に日本が朝鮮半島の人たちに対して行ったさまざまな行為を謝罪する気持ちが全くないという印象を持つ。アジアの平和に共に貢献するべき、もっとも大事な隣国との関係を、どうしてこんなにも悪化させてしまったのか。こんなことでは、日本はアジア諸国からつまはじきされてしまうのではないだろうか。

ドイツのメディアの多くは、ワルシャワ蜂起記念式典でのマース外相の発言を適切だったと評価しているが、ベルリンで発行されている日刊新聞「ターゲスシュピーゲル」は、現在ドイツ人の多くがワルシャワ蜂起についてあまりよく知らないこと、隣国のポーランド人にとって、もっとも重要な第二次世界大戦中の出来事の75周年記念日に、ドイツ連邦議会が犠牲者を追悼しなかったことを厳しく批判する記事を掲載していた。

なお、ワルシャワ蜂起が二重の意味で悲劇的だったのは、ソ連の態度によってだった。ヒトラーはポーランド侵攻直前の1939年8月23日、スターリンとの間にポーランドの分割を決めた密約、独ソ不可侵条約を結び、両国は大戦初期にポーランドの分割占領を実現していた。しかし、1941年6月22日ドイツ国防軍がこの条約を無視して突如ソ連に侵攻し、独ソ戦が始まった。当初はドイツ軍の奇襲作戦が功を奏したが、その後ソ連軍は反撃に出て、ワルシャワ蜂起が起こった当時、ソ連軍はワルシャワのすぐそばを流れるヴィスワ川の手前まで来ていた。それにもかかわらず、ソ連軍は兵を動かそうとはせず、ドイツ軍がワルシャワ蜂起を鎮圧するのを傍観していた。それどころか不十分な武装で蜂起したポーランド国内軍が心待ちにしていたフランスやイギリスからの支援も妨害し、ソ連軍が占領していた東部地区の航空基地を両国軍が使用することも拒否したという。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/364.html#c8

[近代史3] 馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国 中川隆
18. 中川隆[-8838] koaQ7Jey 2019年8月16日 06:51:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3902]
2019.08.16
英国の植民地旗や米国の国旗を掲げ、米国の国歌を歌う香港の反中国派


 アメリカの情報機関による秘密工作において香港は重要な役割を果たしてきた。ロッキード事件でCIAの資金を動かす会社のひとつとして登場するディーク社の拠点も香港。ロッキード社の賄賂資金を日本の高官に運んでいたディーク社のロン・パルガーフレイムは麻薬資金をオーストラリアのナガン・ハンド銀行に運んでいたとも言われている。この銀行もCIAの金融機関だ。

 ディーク社は1939年にニコラス・ディークによって設立された。表面的な仕事は為替取引や金の売買。第2次世界大戦中には戦時情報機関OSSが、大戦後は少なくとも1985年までCIAが使っている。1953年にCIAがイギリスのMI6と共同で実行したイランにおけるクーデターでも工作資金を動かしていた。

 その香港は言うまでもなく中国の領土だった。それをイギリスは1940年から42年まで続いたアヘン戦争で手に入れたのである。香港割譲のほか、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国は認めさせられている。1856年から60年まで続いた第2次アヘン戦争では天津の開港や九龍半島の割譲を中国は受け入れざるをえなかった。

 勿論、こうした都市を支配するだけでは稼げない。イギリスはこうした場所を略奪の拠点にしたのだ。

 しかし、イギリスは港をコントロールするだけで満足しない。内陸部を支配し、甘い汁を吸おうと目論む。そのイギリスが長州や薩摩に肩入れし、その長州と薩摩を中心に作られた明治政府の軍事力増強に協力、金融面でも支援した理由は日本軍を自分たちの地上部隊として利用しようと考えたのではないだろうか。

 つまり、ウクライナのネオ・ナチ、中東におけるサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心とする傭兵と似た役割をさせようとしたのだろう。その思惑通り、日本は大陸への侵略を始める。

 中国を含むアジア東部における侵略と略奪、麻薬取引を含む犯罪による稼ぎの処理などの仕事において香港は重要な役割を果たしてきたのだが、現在、香港で抗議活動を続けている人びとはアメリカやイギリスの政府機関と連絡をとりながら動いている。これまでの例から考えて、偵察衛星や通信傍受などで米英が得た情報は香港の反中国活動家へ流れているだろう。

 黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や羅冠聰(ネイサン・ロー)を含む反中国活動家がアメリカのジュリー・イーディー領事とJWマリオット・ホテルで会っているところを撮影されていることは本ブログでも伝えた。

 正体がばれたわけだ。そうした反中国活動家はアメリカの国旗やイギリスの植民地であることを示す旗を掲げ、​アメリカの国歌を歌っている​。安倍晋三政権もこれほど露骨ではない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908160000/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html#c18

[近代史3] 香港デモが終わらない理由 & 香港デモの正体を見極めよ

河添恵子#17-1
★香港デモが終わらない理由 & 香港デモの正体を見極めよ - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=LEuxAKpC9f0


2019/08/15 に公開

なかなか沈静化しない香港デモですが、これは負けられない戦いであり、早々に終わらせてはならない理由があった。

では一体誰にとっての戦いなのか?それらを今一度整理し、冷静に考える河添流の視点。

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<目次的な!>

<香港デモの正体>

・これは米英vs中国の戦いと見るべき
・香港の若者を背後から支援する者は?
・台湾へ飛び火する反中国デモ
・台湾のメディアを乗っ取った中国共産党に反対する台湾の人々
・蔡英文政権はデモを支持=反中共を示すこと →支持率UP
・台湾の背後にはアメリカ
・台湾を渡さない米国
・アジア再保証推進法
 2018年12月31日に米国で成立した法律
 ・台湾への防衛装備品の売却推進 ・航行の自由作戦の実施
 ・アジアの同盟国とのサイバーセキュリティー協力の推進 等
・台湾への武器売却計画(7/8発表)
 米国務省が22億ドル相当の戦車(約108両)や
 携帯型地対空ミサイル・スティンガー(約250基)の売却を承認
・瀕死の習政権と香港デモ
 →チャイナ7がバラバラ
 →香港マカオを誰が統率するのか?習近平か韓正か?
・韓正(かん せい 1954年〜 )
 チャイナ7序列7位 元上海市長(江沢民派)
 事実上の香港・マカオのトップ
・曽慶紅(そう けいこう 1939年〜)
 元国家副主席(2003年〜2008年 胡錦濤 国家主席時代)
 元序列5位 現在の江沢民派の事実上の権力者
・習近平は香港のキャリーラム行政長官を管理しきれていない
・反習近平一派にとっては、香港がトラブルするほどOKの状態
・キャリー・ラム(林鄭 月娥 1957年〜 )
 第5代中華人民共和国 香港特別行政区 行政長官
 →逃亡犯条例改正問題はもう無くなったと言っている
・香港デモが終わらない理由
・「社会信用システム」という監視社会システムが香港にも設置される未来
 →2020年までに適用させていくという中国共産党
・香港が英国から中国へ渡った日
・香港の主権返還
 1984年12月19日 サッチャー首相とケ小平主席が
 中英連合声明に署名 / 1997年7月1日主権返還 
・その時 ケ小平は 「一国二制度」と 社会主義政策を
 将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束
・香港&マカオの実態
・香港&マカオの特殊性
 一国二制度 / 3つの関税区 
 3種の貨幣=人民元・香港ドル・マカオパタカ
・マネーロンダリングのメッカ=香港&マカオ
 →中国共産党が儲けすぎて英国(シティ)がそれを許さない状況
・中共から香港奪還を米英は考えている
・世界の金融市場と中国マネー
・世界の金融(米ウォール街、英シティ、ディープステート)が香港をこのまま放置するわけがない

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河添恵子(Keiko Kawasoe)

ノンフィクション作家。1963年千葉県松戸市生まれ。
名古屋市立女子短期大学卒業後、1986年より北京外国語学院、1987年より遼寧師範大学(大連)へ留学。1994年に作家活動をスタート。

『米中新冷戦の正体 - 脱中国で日本再生』
馬渕睦夫×河添恵子 (ワニブックス 2019年7月8日発売)
https://www.amazon.co.jp/dp/484709820X/


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2019.08.14
抗議活動が盛り上がらず、過激路線で注目を集めようとする香港の運動


 香港国際空港が8月12日から数千人のグループに占拠され、旅客機の発着ができなくなったと伝えられている。11日にデモに参加した女性が負傷したことへの抗議が呼びかけられ、それだけの参加者が集まったのだという。そうした参加者の中にはアメリカの国旗を掲げ、国家を歌う参加者がいる。


 アメリカやイギリスにとって香港は略奪の橋頭堡であり、情報機関が麻薬取引で儲けたカネを動かし、ロンダリングする拠点であり、地下経済と地上経済の通路でもある。米英両国の支配層が香港に執着している理由はそこにあり、その手先になることで個人的な利益を得ようとしている人もいるだろう。


 空港占拠の直前、8月8日からツイッター上にアメリカのジュリー・イーディー領事が黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や羅冠聰(ネイサン・ロー)を含む反中国運動の指導者たちと会っているところを撮影した写真がアップロードされている。JWマリオット・ホテルで撮影されたのだという。


 イーディー本人によると、外交官としての赴任地はエルサレム、リヤド、ベイルート、バグダッド、台北、上海、ドーハ、そして香港。戦争地帯や秘密工作の拠点と言われる地域を移動している。そうしたこともあり、彼女はCIAの非公然オフィサーだと噂されている。


 すでに本ブログでも指摘したことだが、今年の3月や5月には活動の指導者、例えば李柱銘(マーチン・リー)がアメリカを訪れ、マイク・ポンペオ国務長官やナンシー・ペロシ下院議長らと会談している。李柱銘は2014年9月から12月まで続いた「佔領行動(雨傘運動)」の際、ワシントンDCを訪問し、NEDで物資の提供や政治的な支援を要請していた人物だ。


 そのほかの反中国派指導者には香港大学の戴耀廷(ベニー・タイ)副教授、陳日君(ジョセフ・ゼン)、黎智英(ジミー・ライ)が含まれ、余若薇(オードリー・ユー)や陳方安生(アンソン・チャン)も深く関与していた。黎智英はネオコンのポール・ウォルフォウィッツと親しいとも言われている。NEDはCIAの工作資金を流すための組織だ。


 1989年には北京で学生による抗議活動があったが、その時のアメリカ大統領はCIAの非公然オフィサーだと言われていたジョージ・H・W・ブッシュ。そのブッシュは北京駐在大使として、大学時代からの友人でCIA高官のジェームズ・リリーを任命している。その時に反政府活動を指揮していたグループには方励之、柴玲、吾爾開希などが含まれていた。


 この運動は鎮圧され、体制転覆に失敗する。指導部はCIAやイギリスの情報機関MI6が作っていたイエローバード作戦(黄雀行動)と呼ばれる逃走ルートで国外へ脱出させている。その際、中継地になったのが香港だ。そこからフランスを経由してアメリカへ逃れた。


 香港の抗議活動はアメリカやイギリスに操られていることは間違いないだろうが、両国の影響力は世界的に低下している。東アジアも例外ではない。


 そのアメリカで外交を担当するマイク・ポンペオ国務長官は8月1日から3日にかけてタイのバンコックを訪問、ASEANの外相会談に出席した。そこで中露の代表とも会ったようだが、成果なくタイを離れている。アメリカは各国から相手にされなくなっている。少なくとも特別な存在ではなくなった。


 現在、アメリカ政府は大きな問題を抱えている。例えばイランとの対立、中国との経済戦争、ロシアとの間で高まる軍事的な緊張、朝鮮問題だが、いずれも仕掛けたのはアメリカ。こうした問題の背景にはアメリカ帝国の衰退があるのだが、その原因はドル体制の崩壊にある。


 アメリカの支配層は1980年代に中国やソ連の資本主義化を目論んだ。中国はケ小平が1980年に新自由主義を導入、ソ連では欧米信者のミハイル・ゴルバチョフが実権を握った。


 しかし、中国では1980年代の半ばに新自由主義が生み出す社会の歪みが深刻化して軌道修正が図られ、ゴルバチョフは新自由主義の導入に難色を示す。


 軌道修正に起こったアメリカは中国で反政府運動を煽り、天安門広場での大規模な抗議活動につながるのだが、体制転覆には失敗した。それに対してソ連ではKGBがCIAと手を組み、ゴルバチョフを排除して米英の傀儡であるボリス・エリツィンに実権を握らせることに成功。そのエリツィンが1991年12月にソ連を消滅させた。


 この段階でアメリカの支配層は自国が唯一の超大国になったと認識、他国に気兼ねすることなく単独で行動できるようになったと考えた。そして国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランが作成される。その中心がポール・ウォルフォウィッツ国防次官(当時)だったことからウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。


 そのドクトリンはソ連が消滅して米英の属国になり、中国の若手エリートはアメリカに洗脳されたという前提で成り立っている。その前提が21世紀に入り、ウラジミル・プーチンを中心とする勢力によるロシアの再独立で揺らぎ始めるのだ。


 米英は2014年にネオ・ナチを使い、ウクライナでクーデターを成功させたが、これが裏目に出た。当初の計画ではウクライナを制圧することでEUとロシアを分断、ロシアからEUという巨大マーケットを奪うことで経済破綻させるつもりだったのだが、EUとロシアを分断できず、ロシアと中国を結びつけることになった。カネ儲けしか考えていない中国のエリートがアメリカを離れてロシアにつくとは思っていなかったようだ。


 中国とロシアを再属国化するためにアメリカの支配層はもがいているが、香港の出来事もそうしたもがきのひとつと言えるだろう。


 しかし、香港での工作もアメリカの思惑通りには進んでいないように見える。空港の占拠は抗議活動のパワー不足を補うために考えられたのだろう。現在の動員力では街を舞台にした行動ではインパクトがないため、さほど広くなく、社会への影響がある空間として空港が選ばれたのではないかということ。


 ところで、エマニュエル・マクロン政権の労働者を敵視する政策に対する反発で2018年11月からフランスで始まった抗議活動の「黄色いベスト」を政府は暴力的に鎮圧、10名以上の死者と多くの負傷者が出ている。1万人近くが逮捕されたとも言われている。沖縄の基地問題を無視する西側の有力メディアにとって、この抗議活動は香港ほどのニュース価値はないようだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908140000/

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2019.08.16
英国の植民地旗や米国の国旗を掲げ、米国の国歌を歌う香港の反中国派

 アメリカの情報機関による秘密工作において香港は重要な役割を果たしてきた。ロッキード事件でCIAの資金を動かす会社のひとつとして登場するディーク社の拠点も香港。ロッキード社の賄賂資金を日本の高官に運んでいたディーク社のロン・パルガーフレイムは麻薬資金をオーストラリアのナガン・ハンド銀行に運んでいたとも言われている。この銀行もCIAの金融機関だ。


 ディーク社は1939年にニコラス・ディークによって設立された。表面的な仕事は為替取引や金の売買。第2次世界大戦中には戦時情報機関OSSが、大戦後は少なくとも1985年までCIAが使っている。1953年にCIAがイギリスのMI6と共同で実行したイランにおけるクーデターでも工作資金を動かしていた。


 その香港は言うまでもなく中国の領土だった。それをイギリスは1940年から42年まで続いたアヘン戦争で手に入れたのである。香港割譲のほか、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国は認めさせられている。1856年から60年まで続いた第2次アヘン戦争では天津の開港や九龍半島の割譲を中国は受け入れざるをえなかった。


 勿論、こうした都市を支配するだけでは稼げない。イギリスはこうした場所を略奪の拠点にしたのだ。


 しかし、イギリスは港をコントロールするだけで満足しない。内陸部を支配し、甘い汁を吸おうと目論む。そのイギリスが長州や薩摩に肩入れし、その長州と薩摩を中心に作られた明治政府の軍事力増強に協力、金融面でも支援した理由は日本軍を自分たちの地上部隊として利用しようと考えたのではないだろうか。


 つまり、ウクライナのネオ・ナチ、中東におけるサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心とする傭兵と似た役割をさせようとしたのだろう。その思惑通り、日本は大陸への侵略を始める。


 中国を含むアジア東部における侵略と略奪、麻薬取引を含む犯罪による稼ぎの処理などの仕事において香港は重要な役割を果たしてきたのだが、現在、香港で抗議活動を続けている人びとはアメリカやイギリスの政府機関と連絡をとりながら動いている。これまでの例から考えて、偵察衛星や通信傍受などで米英が得た情報は香港の反中国活動家へ流れているだろう。


 黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や羅冠聰(ネイサン・ロー)を含む反中国活動家がアメリカのジュリー・イーディー領事とJWマリオット・ホテルで会っているところを撮影されていることは本ブログでも伝えた。


 正体がばれたわけだ。そうした反中国活動家はアメリカの国旗やイギリスの植民地であることを示す旗を掲げ、​アメリカの国歌を歌っている​。安倍晋三政権もこれほど露骨ではない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201908160000/

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2019年08月14日
香港市民に味方する香港警官が一人も居ない理由
http://www.thutmosev.com/archives/80689774.html

香港警察にも市民側に寝返る人が居そうだが一人も居ない。

彼らは武士でも騎士でもないので、自ら考えて行動することは無い


http://wedge.ismedia.jp/mwimgs/3/b/1200m/img_3b742e4f83cbd05b88489eafb7dfa151129515.jpg


香港警察が市民の為に戦わない理由

香港では犯罪容疑者を中国本土に送還する法律を巡って大規模デモが発生し、市民数十万人が参加しました。

19年8月に入ると香港警察の取り締まりが強化され、デモ側もゲリラ的な抵抗活動に転換した。

警察はデモ隊にたたいたりするようになり、黒シャツを着た黒シャツ隊がデモ隊の白シャツ隊を攻撃している。

この黒シャツ隊については香港警察の警察官が制服から黒シャツに着替えている動画が投稿されている。

香港警察が「愛国派」の市民を装ってデモ隊を襲撃し、当然ながら警察は現場に現れない。

黒シャツ隊の攻撃で警察に通報しても警官隊はわざと時間をかけて登場するのが恒例になっている。


そのくせ香港警察はデモ隊がデモを始めた時には素早く登場し、催涙弾や棒で鎮圧している。

デモを鎮圧する警察という図式は世界共通だが、中国と中国の植民地にしかない「ある現象」には注目せざるを得ない。

それは中国3000年の歴史の中で、市民や国民や農民の為に立ち上がり、皇帝や国家と戦った人は居ないという点です。


世界の多くの革命は市民の抵抗がきっかけだが、必ず軍や警察が国家を裏切り、市民側に就くことで政府が倒れている。

フランス革命やロシア革命、ソ連崩壊、ベルリンの壁崩壊、東ドイツ崩壊、アメリカ独立など枚挙にいとまがない。

日本では1936年(昭和11年)に226事件が起きたが、放棄した青年将校の目的は貧困農民を救う事でした。

中国の兵士は武士や騎士ではなかった

兵士や警官が国家を裏切って、圧倒的に劣勢な市民側について戦うのは、かなり高度な教養をもった社会でないと起きない。

アフリカの独裁国家や中南米では「市民を裏切ってマフィアや権力者に就く警官」は大勢居るが、逆は1人も居ない。

同じように中国や中国の植民地だった国々では、軍や警察が市民を救うために国家と戦争をするなどという事は起きない。


北朝鮮は世界一の貧困国家で国民は常に飢えているが、一度も革命や大規模暴動が起きたことはありません。

日本人から見ると不思議でしょうがないが、武士が槍一本で国家と戦うのは、日本や高度な先進社会にしかありません。

日本の武士は天皇に次ぐ地位と権力を持ち、形式上の地位を持つ文官や貴族より遥かに強大でした。


武士は兵士ではなく「士」であるから自らの志に基づいて行動し、自分で善悪を判断する。

西洋の騎士も同じで単なる兵士ではなく貴族であり、自分で善悪を判断し自分の意志で行動する。


中国の兵士はこれとはまったく違い、最底辺の農民の息子がなるもので、決して皇帝につぐ位などにはならない。

日本と中国朝鮮は過去に何度も戦ったが、一度たりとも大陸側が勝ったことはなく、引き分けがせいぜいでした。

この理由は中国の将軍や兵士は、例え勝っても貴族になったりせず、略奪くらいしか楽しみがなかったからでした。


日本の武士団は郷土と一族の期待を一身に背負って出陣し、勝てば大名や将軍になり天下を取れた。


中国や朝鮮で軍人による革命は起きないのは、そもそも軍人や警官には意思が無く、社会的な使命もなかったからです。


清を倒した辛亥革命を起こしたのは革命家の孫文で、軍人は利害を計算して孫文に就いただけでした。


香港警察の警官が考えているのは、自分が出世したり利益を得る事だけで、武士や騎士ではないのです。

もし香港警察の警官が「民主主義のために中国と戦おう」と言って戦車の前に立ちふさがったら驚くが、そういう事は起きないでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/80689774.html  




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2019年06月13日
香港は民主主義の夢を見るか 中国は懐柔と鎮圧で対抗


ウクライナの民主化暴動と比べると、香港がいかに生ぬるいか分かる。


画像引用:https://www.cnn.co.jp/storage/2014/02/19/4f15efa5db0a9bfb3ea6ea6900f28b0b/ukraine-protest-fire.jpg

香港の民主化デモは日本の官邸デモと正反対

香港では犯罪容疑者の本土引き渡しを可能にする条例をめぐって、数十万人の抗議デモが起きている。

同様の民主化デモは2014年にも発生したが、首謀者らの逮捕で完全に鎮圧された。

日本でも官邸前や省庁や国会前をデモ隊が取り囲み、時として10万人以上を集める事がある。


民主主義国のデモと香港のデモが決定的に異なる点があり、それは少数派か多数派かということです。

日本では国政選挙で選ばれた最大政党が与党になり政府をつくるので、抗議するデモ隊は必ず少数派です。

例えデモ隊が100万人集めたとしても、有権者の過半数は民主党や自民党に投票していました。


フランスのデモ隊も同様で、政府はデモ隊の要求を一切無視して鎮圧しても、なんら非民主的ではない。

デモ隊は「国会を停止しろ」「政府を解体しろ」「共産主義独裁を実現しよう」など必ず非民主化を主張しています、

香港はこれとは違い、選挙が行われていないので国民や有権者はいくら多数でもデモ以外で意思表示はできない。


中国への香港返還以前には、立法会選挙と行政長官委員選挙が行われていたが、現在は事実上行われていない。

立法会選挙の投票権を持つのは香港住民(子供を含む)の約半数で、行政長官委員選挙の選挙権を持つのは住民の1割に過ぎない。

そのうえ行政長官を選ぶ委員の半数は中国が任命しており、残りの半数も中国が推薦した人しか立候補できない。


立法会選挙も同様に、中国の推薦を受けた人しか立候補できず、反中国的な人に投票する選択肢はない。

このように香港の「選挙」は中国を歓迎するか、投票しないかの2つの選択肢しか用意されていない。


フランスや日本のデモ隊が民主主義廃止を要求しているのに対し、香港のデモは選挙や民主主義の実施を要求している。


プラカード持って歩いただけで政府が倒れたら、世界中の政府が倒れている


画像引用:https://www.aljazeera.com/mritems/Images/2019/6/9/c9ba2c7cfc9546baa078f3ca51958ad2_18.jpg

香港の民主化は実現しない

2014年の香港民主化デモは学生が中心で、中心メンバーが逮捕されるとあっけなく鎮静化しました。

学生は大学生という身分が保障されているから学生なので、退学になったり拘束されたら学生への影響力を失う。

他の学生メンバーは「運動から抜ければ有利な就職ができるが、続けると家族に不幸が及ぶ」などアメとムチで飼いならされた。


学生運動は所詮こんなもので、一時的な熱狂のあとは熱が冷めたようにやる気を失ってしまう。

今回は多くの労働者も参加しているので、社会に混乱を起こして中国を困らせることはできるでしょう。

中国が困り果てて香港を手放したり民主化するかと言えば、それは大いに疑問です。


世界の独裁国家や軍事国家の民主化は、民衆ではなく軍隊の寝返りで発生することが多い。

フランス革命やロシア革命は民衆の蜂起がきっかけになったのは確かですが、政府が倒れたのは軍が寝返ったからでした。

ソ連崩壊もそうだし、明治維新での徳川幕府崩壊も旗本百万旗や徳川親藩が幕府の指示に従わなくなったからでした。


新政府軍が江戸を包囲した時、江戸城に集まった武士はわずか500人だけで、徳川軍は存在していませんでした。

北朝鮮で何百万人餓死しても革命が起きないのは軍が寝返らないからで、民衆がいくら蜂起してもそれだけで政府は倒れないのです。

香港にはそもそも香港を守る香港軍が存在しないので、軍が中国を裏切って民衆側につくのもありえません。


わずかな可能性があるとすれば香港警察が中国支配下から離脱し民衆側に就くことですが、そうした可能性も無いように思えます。

オウムの幹部はかつて「プラカード持って歩いても革命は起きない」と言ったが、現実はその通りなのです。

2014年ウクライナ騒乱のように全住民を巻き込む内戦に発展するほどであれば、国そのものが吹き飛んで倒れる可能性がある。
http://www.thutmosev.com/archives/80115932.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/576.html

[近代史3] 韓国輸出規制の目的 _ 韓国企業に渡してたフッ化水素(ウラン濃縮素材)の3割は北朝鮮に流れていた 中川隆
23. 中川隆[-8837] koaQ7Jey 2019年8月16日 12:05:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3904]

2019年08月16日
韓国が目指す半導体素材の国産化、日本から製造技術入手しコピー

韓国が考えた解決策は結局「日本から製造技術を盗む」だった


https://c01.newswitch.jp/cover?url=http%3A%2F%2Fnewswitch.jp%2Fimg%2Fupload%2FphpTtnZ2u_5d2bbd6a994ec.jpg

サムスンが見つけた輸入先は日本企業だった

日本政府による韓国半導体3品目優遇措置撤廃や、ホワイト国除外で打撃を受けると見られるのがサムスン、LG、SKでした。

今のところ過去に輸入した分や契約分で足りているが、これから影響が出てくるとみられています。

韓国ハイテク業者は当初、日本政府は韓国への直接輸出だけを制限すると見ていて、海外生産分と迂回輸出で対応しようとした。




サムスン副社長(事実上の社長)が来日して日本業者と対応を協議したが、その後日本側は海外生産分と、第3国を経由する迂回輸出も禁止した。

禁止したと言っても正式な輸出許可を申請すれば許可するか、韓国への輸出量は今までの数分の1に減少する。

日本の輸出厳格化に対応してロシアと中国が3品目輸出を申し出たが、品質が劣るので韓国側が断ったようです。


サムスン電子は8月、ベルギー企業から半導体素材3品目を確保する目途がついたと発表したが、これは実際には日本企業だった。

2016年に日本のJSRとベルギーのIMECが設立した合弁会社とあり、EUV RMQCを指すものと思われます。

これが果たして日本政府の迂回輸出規制に当たらないのか、日本側が厳格な管理を求めるとこのルートも潰されかねない。


それにベルギーの合弁会社は欧州企業向けに生産していた筈で、日本から輸出されていた量に匹敵する量を確保できないと思われる。

問題にならない少量なら日本政府は見逃すかも知れないが、焼け石に水以上のものでもない。

サムスンの副社長が世界を飛び回って確保できたのは、日本企業の現地合弁会社1社だけだったというのが、韓国の苦境を示している。

日本から技術者引き抜きと技術盗用を画策

問題はこれだけにとどまらず、韓国ハイテク技術の多くが日本のコピーであるため、日本政府は次々に規制を課すことができる。

最近韓国が次世代技術として覇権を目指しているリチウムイオン電池、カメラのセンサーなども日本のコピーに過ぎない。

というより日本国内で製造するとコストが高いので、日本側は韓国に原料と技術を輸出して、低コストで生産させていました。


サムスン、LG、SKのような韓国ハイテク企業は、スマホ、半導体、ディスプレイで成功したが次の技術を持っていない。

頭をひねって考えたのはまた「日本の技術をコピーしよう」ということで、パナソニックやソニーの技術を盗んだり技術者を引き抜いている。

リチウムイオン電池では日本が世界最先端の技術を持ち、中国と韓国は日本のコピー製品を安価に製造している。


原材料や製造機械なども日本製で日本企業から技術者を引き抜いたり、企業スパイが潜入したりしている。

日本企業はせっかく数百億円かけて開発した技術をタダでサムスンやSKに取られてしまうので、競争に勝てない。

これが「日本は遅れている」「日本企業は技術開発が遅い」とされる理由で、無断コピーする中韓が速いに決まっている。


日本政府がここにメスを入れて、サムスンが日本企業の技術を盗めないようにしたら、彼らの息の根が止まる。

韓国企業による高度技術流出の防止をアメリカ並みにやる事で、10年かけて開発した技術を1日で盗まれるような事は減るでしょう。

韓国は半導体素材3品目を国産化すると言っているが、その国産化の手法がまた「日本から盗む」なのです。
http://www.thutmosev.com/archives/80704972.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/518.html#c23

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど…

AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど…

WE300B は日本でもっとも評価が高い出力管で、球の個性を出すのに有利なシングル動作が主流。

MJのイベントでも読者アンプ発表会では「300Bシングル」四機種、WE300Bドライブ211シングルが一機種と偏っていた。

メーカー製で出色のモデルは AIR TIGHT ATM-300 だと推薦されました。


一方、今は伝説になっている名器 LUXMAN MB-300
あまりにもナロー過ぎて著しく違和感がある音。

ファーストオーナーは 50時間使って箱にずっと閉まっていたそうだ。セカンドオーナーは 8年間で 100時間。これほんとうよ。
これほどナローレンジなアンプは聴いた事がなく、S9800 の 38cmウーファーを心臓に例えると、半分しか動いていない感じ。しかし四年前に復刻されているのが不思議。

数人に LUXMAN MB-300 の感想を伺いました

「ギョッとするような音ですよ」
「えっ?こんな音なの?と思うような音ですよ」
「80万?いらない、いらない」

スピード感が全く無くROCKやPOPSには不向き。
スピーカーを選ぶアンプで Sonus の小型や AXIOM80 ならあるいは?


某オーディオショップの百戦錬磨の店長さんに MB-300 について尋ねると。

「えっ!?こんな音なの?っていう音ですよ、ナローでカマボコだし。
これだったら AIRTIGHT ATM-300 の方が何十倍も良いですよ」

って言ってらっしゃいまして、う〜んそんなはずは・・・・とその人を疑っていましたが事実でした(-_-;)

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AIR TIGHT(A&M) HP
http://www.airtight-am.net/products/products.html

AIR TIGHT ATM-300 Anniversary - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=AIR+TIGHT+ATM-300+Anniversary+&sp=mAEB

Air Tight Amplifiers - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=AIR+TIGHT++%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%97

価格.com - AIR TIGHT ATM-300 価格比較
https://kakaku.com/item/K0000423081/

価格.com - AIR TIGHT ATM-300 Anniversary 価格比較
最安価格(税込): \950,400 でんき堂スクェア(全1店舗)
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中古品 AIR TIGHT エアータイト ATM-300 (高槻管製、前期白ベース300B搭載モデル)
定価¥784,836- → ¥398,000-(税込)送料含み
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価格.com - 製品種類パワーアンプ AIR TIGHT 人気売れ筋ランキング
http://kakaku.com/kaden/audio-others/itemlist.aspx?pdf_ma=4209&pdf_Spec101=7

ヤフオク! - 「air tight atm」の落札相場 (終了分)
https://auctions.yahoo.co.jp/closedsearch/closedsearch?p=air+tight+atm&va=air+tight+atm&b=1&n=50

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AIR TIGHT ATM-300R
http://www.airtight-am.net/products/atm300r.html

AIR TIGHT ATM-300R + 高槻管 300Bペア178,200円
メーカー希望小売価格 1,026,000円 (税込)

【仕様】

出力 : 9W+9W(ひずみ率<10%)

全高調波歪率 : 1%以下(1kHz / 1W / 8Ω)
入力感度 : 290mV(9W)
ダンピングファクター : 7(1kHz/1W/ 8Ω)

外形寸法 : 430(W)×275(D)×245(H)mm
重量 : 24.5kg

★最後の三極管シングルアンプ

エアータイトは、1999年にブランド初の300Bシングルアンプ「ATM-300」を発売しました。それまで直熱三極管の代名詞のように語られていた温かく柔らかい、というイメージを覆す「明瞭でタイトなサウンド」は、国内外のオーディオファイルから高い評価をいただきました。

世界各国にご愛用は広がり、米「TheAbsolute Sound」誌編纂による上製本「Illustlated History of Hi-End Audio」においては、エアータイトの代表モデルとして掲載されるなど、エアータイトを象徴する存在となるまでに至りました。

2016年には、エアータイトがそれまで培ってきた技術・ノウハウを結集し、ATM-300の回路から筐体に至るまで完全刷新したエアータイト創業30周年記念モデル「ATM-300 Anniversary」を限定発売。300Bシングルアンプへの先入観を打ち破るダイナミズムと、スピード感溢れるサウンドを実現しました。

そして2018年。「ATM-300」における挑戦、「ATM-300 Anniversary」における刷新を経て、あらゆる300Bを存分に堪能していただける、恒久的なリファレンスモデルとして「ATM-300R」が誕生しました。

これぞエアータイトが自信を持ってお届けする、300Bシングルアンプの決定版です。


◆装飾を配し、音楽性を引き出す

今も多くのオーディオ愛好家を虜にする稀代の銘球、直熱三極管300B。ATM-300Rは、そんな300Bの魅力を十分に堪能いただくためのリファレンスモデルとして開発しました。
多種多様な300Bの個性を反映できるよう、音への色付けを極力抑え、それでいて球が十分にポテンシャルを発揮できる音楽性にあふれたサウンドステージの構築を目指しました。
結果、球の個性を存分に活かしながら、音楽が染み渡るような瑞々しさと広大で奥行きのある音場感、出力たった9Wというスペックを忘却させるほどのダイナミクスを実現しました。

◆細部まで練り上げられた妥協のない設計

音楽本来のフォルムを歪めるような音の色付けを排し、かつ、音楽を生き生きと再生するために、回路構成から加工、パーツ選びまで、全てにおいて手間を惜しまず細部まで丁寧に作りこみました。

もちろん、リファレンスアンプとして長年ご愛用いただけるよう、いずれも長期的な安定度を重視した設計となっています。

−電源部の電解コンデンサーからカップリングのフィルムコンデンサー、そして巻線抵抗に至るまで、現時点で望みうる最良のものを選びました。

−電源トランスやチョークコイルはプラスティックボビンを一切使わない手作業による層間巻トランスを採用。職人の手で一個一個丁寧に巻き上げ、ニスを真空含浸させた上で焼き固める昔ながらの製法で、不要な振動や唸りを最小限に抑えることにより、音楽信号の変調を防止し、音場をより端正かつ明晰にしています。

−抵抗やコンデンサーを構成する基板には優れた電気的特性を持つ純銅製のサブシャーシ基板を贅沢に使用し、電源部を含む信号経路には熟練工のハンダ付けによる手配線を行うことで、PCボード固有の音質的な色付けを避けました。

−出力管300Bの保護、整流ノイズ対策の観点から、電源部には整流管5U4GBを採用。さらに整流管のスロースターター回路も装備しております。

−音質にも大きな影響を及ぼすメインシャーシは、鋼板を丹念に曲げて溶着したモノコック仕様。抜けの良いATM-300Rのサウンドを下支えしています。

−表面にネジが露出しない上に電気的な導通が確実に取れる電気溶着スタットボルトを採用することで、外観の美しさとともに電気的にも音質的にも配慮されています。
http://www.airtight-am.net/products/atm300r.html


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世界で注目される日本ブランド AIR TIGHT
ミュンヘンHIGH ENDでも注目の的、AIR TIGHTが開発中の新モデル2機種に迫る
オーディオ編集部:浅田陽介 2018年07月04日
https://www.phileweb.com/news/audio/201807/04/19953.html

さる5月中旬にドイツ・ミュンヘンで開催された世界最大級のハイエンドオーディオ見本市、『Munich HIGH END 2018』。今年は前年と比べて4%減と、わずかに来場者数が減少したそうだが、実際に会場で現場の空気を体験した者としては、依然として、他のオーディオショウと比べ大きな盛り上がりを見せていたと感じる。

今年も大きな注目度を集めていた Munich HIGH ENDのAIR TIGHTのブースの様子


そんな同ショウを改めて振り返って痛感するのは、世界各国から寄せられる日本ブランド製品への関心の高さである。なかでも本稿では、とりわけ高い人気を集めていた、大阪・高槻のエイ・アンド・エム(株)のブランド、AIR TIGHTに注目したい。

AIR TIGHTの個性であり魅力となっているのが、1986年に創業した企業でありながら、一貫して「アナログ」というキーワードと「真空管」にこだわり続けて製品開発を行ってきたことだ。1986年は、ほかのブランドが一斉に「デジタル」へ向かっていた時期だ。今年のHIGH ENDでもその個性を存分に発揮した製品を多数展示し、世界各国の来場者の注目を集めていた。

ブースで展開されていた製品の詳細は後述するとして、このAIR TIGHTの世界的評価の軸になっているのが、大阪・高槻市の自社工場でていねいに組み上げられる同社製品のクオリティとそのサウンドだ。その内部配線の美しさは、世界に数多ある真空管アンプのなかで最高峰とも言われており、内部回路の色使いによる一種の「色気」も設計ポリシーのひとつだそうだ。

日本でも極めて高い評価を受けた最新パワーアンプ「ATM-3211」への注目度は、世界のオーディオ市場を見ても高い


ブースでは、日本でも大きな注目を集めたプリアンプ「ATC-5」とパワーアンプ「ATM-3211」のペアによるアナログ再生を展開。スピーカーには、地元ドイツのブランドであるWolf Von Langaが組み合わされていたが、特徴的な構成を持つこのスピーカーを丹精に鳴らし、そのポテンシャルの高さをアピールしていた。

そんな正統派のサウンドに加え、ここに来てAIR TIGHTはユニークな製品アプローチも注目を集めている。今回、特に注目したのが次の2モデルだ。ハイエンドでの取材に加え、大阪・高槻市にあるエイ・アンド・エム本社にて、さらなる最新情報を聞いた。

■フォノイコライザーアンプ「ATE-3011」

AIR TIGHT/フォノイコライザーアンプ「ATE-3011」


AIR TIGHTのブースの中でも、最もユニークなアイデアを盛り込んだ製品として注目を集めたのが、フォノイコライザー「ATE-3011」だ。AIR TIGHTといえば、基本的にMCカートリッジはトランスで受けることを前提としているため、そもそも入力はMMしか対応しないという点はこれまでと共通だが、可変としたイコライザーカーブの採用などこれまでのAIR TIGHTにはなかった機能が盛り込まれている。

フロントパネルには視認性の高いインジケーターを装備しており、向かって左がターンオーバーで、右がロールオフ。それぞれ、NAB、RIAA、AES、FFRR、FlATの5項目を用意しており、配列はカーブのイメージが付きやすいように数値順に配列。基本は5つのカーブへの対応だが、これらを組み合わせることでさまざまなカーブを作りだすことができる点もユニークだ。 イコライジングを行わないFLATの装備は、SP盤の再生を想定したもの。蓄音器等でSPを聴く場合は針圧におよそ100gをかけるケースもあり、盤面に対するダメージが多いと言われてる。「レコードは今後に残すべき貴重な文化遺産」というのがAIR TIGHTの考え方で、その意味でも軽針圧でSPを再生することは重要と話す。

ATE-3011のリアパネル。ユニークなのは、出力に設けられた「MONO OUT」という端子


そしてもうひとつ、他にはない機能として注目したいのが、モノラル出力をする際のその方法だ。ATE-3011は全部で2系統の出力を持つが、その他にひとつ「MONO OUT」という端子が装備されている。これは、左ch側の信号をパラレルで出力する使用となっており、モノラルのレコードを再生する場合などに出力を左chとMONO OUTというように接続して使用するものだ。※接続方法は写真を参照

MONO OUTは左ch側の信号をパラレルで出力。これにより、大きなセッティングを変更することなく、出力切り換えのみでモノラル再生を可能とする


こうした特徴的な機能を盛り込んだ理由についてAIR TIGHTは「音楽、それもレコードが好きなユーザーであれば、全てのレコードをきちんと再生したいというのは自然なことです。特にイコライザーカーブに関してはさまざまな説があり、正解がどこにあるのか、というのは公に言えることではありません。ただし、ユーザーの方が最も納得の行く形でレコードのまた違った魅力を体験いただければ、という私どもの思いから今回採用へと踏み切っております」と話す。

ブランドバッジも新たなものの採用する予定で進められている


実はこのATE-3011は、昨年のMunich HIGH ENDでも先日発売となったプリアンプのATC-5と共に発表されていた(当時はまだ型番としてはそれぞれATE-X、ATC-1Xと発表されていた)。当初、予定としてはATE-3011を先にリリースする予定だったが、ATC-5のフォノイコライザーを最終的に決定する際、ATE-3011に搭載予定だった中身を一部搭載したそうだ。その結果ATC-5は大きな好評を持って市場に迎えられたが、AIR TIGHTの技術陣は「単体機である以上、ATC-5を凌駕するサウンドにしなければならない」とこのATE-3011の開発を進めてきたという。

ATE-3011の内部。時間をかけて当初の予定から大幅に改良を加えながら、開発が進められている


結果としてその発売時期は2018年年末頃と大きくずれ込む形となったが、そのクオリティは確かなものとなったと自信を覗かせる。例えば内部を見てみると、より脚色のない音を実現するために電解コンデンサーレスとするべくEPCOSの大型のPPフィルムコンデンサーを新たに採用したことや、内部配線やシールド、ビスひとつにいたるまでを徹底的に吟味を重ねていることが見て取れる。最終的に出てくるサウンドは歴代AIR TIGHTのなかでも最高峰を目指し、鋭意開発が進められているそうだ。

随所にユニークなアイデアと、AIR TIGHTの確かな技術を盛り込んだATE-3011は、その発売が近づくにつれ、世界各国のメディアでの注目も高まっている。

■パワーアンプ「ATM-300R」

AIR TIGHT「ATM-300R」


HIGH ENDには間に合わなかったものの、その際にもうひとつの新製品としてアナウンスされていたのが、出力管に300Bを採用したパワーアンプ「ATM-300R」だ。

本機はAIR TIGHTの創立30周年を記念して発売された「ATM-300 Anniversary」(2016年)の好評を受け、レギュラーモデルとしてさらにブラッシュアップされたパワーアンプだ。トランスの一次側からの帰還構成を採用する点など基本設計は踏襲しているが、内部の進化は大きい。例えば、本機のコアパーツとなるトランスとチョークコイルには、新たに日本国内でハンドメイドされるものへと変更。そのハンドメイドの工程も非常に丁寧に行われているとのことで、「このトランスとチョークコイルが手に入ったこと自体が貴重」だという。

ATM-300Rは内部を大きく変更。チョークコイルも新たなものが採用されている


ATM-300 Anniversaryと今回のATM- 300Rの内部写真を見比べるとすぐに分かるが、まず目につくのがコンデンサー類の大幅な変更だ。向かって左に採用された電解コンデンサーには、SpragueのATOMというアルミニウム電解コンデンサー6個を整然と配置。こうしたコンデンサーの変更は、よりパーツそのものの脚色のないサウンドの実現にひと役買っているようだ。

30周年記念モデルとして登場したATM-300 Anniversaryの内部


ATM-300Rの内部。ATM-300 Anniversaryからの変更点はひと目で明らかだ


また、スピーカー出力も従来は8Ωのみの出力となっていたが、ATM-300Rではあらたに4Ωの出力にも対応。組み合わせるスピーカーへの自由度をもたせている。

さらに注目は、組み合わせる300Bにバリエーションを持たせる方向で開発が進められていること。300Bそのものは真空管アンプファンのなかでもとりわけ人気が高く「銘球」とさえ称される。ATM-300 Anniversaryでは、TAKATSUKI製を採用していたが、今回はPSVANE、SOVTEK、ELECTRO HARMINX、Western Electricなどさまざまなブランドから発売される300Bを自由に組み合わせることができるようなラインアップも現在検討されているそうだ。

ATM-3011 Anniversaryも、日本はもとよりアメリカを始めざまざまな国で評価を受けていた。今回のATM-300Rも例外なく「前作を超えるクオリティ」が追求されている点は見逃せない。

AIR TIGHTの製品はひとつひとつが非常に長い間ラインアップされ続けることも大きな特徴だが、そこには開発の過程で徹底した吟味と選別を行い、妥協を排して製品を作り続けてきたというポリシーも大きく関係するだろう。今回発表されたATE-3011、ATM-300Rはいずれも、そんなAIR TIGHTらしさが存分に盛り込まれた製品となっている。
https://www.phileweb.com/news/audio/201807/04/19953.html


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AIR TIGHT(A&M) 300B シングル ステレオ アンプ ATM-300 Anniversary (創立30周年記念モデル, 在庫限り)
http://www.airtight-am.net/products/atm300an.html

880,000円(真空管込み・税別)

【ATM-300 Anniversary 仕様】

出力 : 9W+9W(歪み率5%)


使用真空管
300B x 2, 5U4GB x 1, 12BH7A x 2, 12AU7A(ECC82)x 2

全高調波歪率 1% 以下 (1kHz/1W/8Ω)
入力感度 290mV (9W/8Ω)
ダンピングファクター: 7(1kHz/1W/8Ω)

外形寸法 : 430(W)×275(D)×245(H)mm
重量 : 約24kg

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AIR TIGHT(A&M) 300B シングル ステレオ アンプ ATM-300 (在庫限り)
http://www.airtight-am.net/products/atm300.html

出力 8W + 8W

使用真空管
300B x 2, 5U4GB x 1, 12BH7A x 2, 12AU7A(ECC82)x 2

入力インピーダンス 100kΩ
寸法 430 x 275 x 245mm (W x D x H)
重量 24kg

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ATM-300WE 2010-06-12
https://digicamek.exblog.jp/14560866/

SUNVALLEY AUDIO(旧キット屋) SV-91B がいなくなったのが昨年11月の終わり頃、代わりの WE300Bアンプを探していて ATM-300WE を見つけたが今年1月の終わり頃だった。

買ってはいけない 300B ダメ・アンプ _ SUNVALLEY AUDIO(旧キット屋) SV-91B
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/124.html


メーカーのAIR TIGHT(エアー・タイト)社はラックスから独立した営業の三浦篤氏と設計部の石黒正美氏が1986年に設立。
価格は SV-91BオールWEタイプより少し上。
デザインは SV-91B がクラシックで質実剛健、男性的な感じ、
に対して ATM-300WE はモダーンで優雅、女性的な感じがする。

パーツはボリュームが27角100KΩAカーブ。
抵抗は理研RMカーボン、300Bカソード抵抗はデール製メタルクラッド。
フィルム・コンデンサーの一部とケミカルコンデンサーにはスプラーグ社製オレンジ・ドロップやATOMなどの高品位パーツを使用。
シャーシの底板はインシュレーターが5カ所付く鏡面仕上げの銅板。

まだ指紋一つ付いて無いので持ち上げるときは白手袋着用だ。
底板は開けてみようとする気持ちを阻むに充分な迫力があって、まだ開けてない。
この迫力の所為で、その内部や構成するパーツに殆ど関心が湧かなかった。
真空管の銘柄も今回初めて意識して見た。

c0086269_20422710.jpg
初段には双三極管12AU7(SIEMENS)をパラレル接続、
ドライバー段も双三極管12BH7A(General Electric)をパラレル接続、
出力段はWE300Bシングルという構成。
出力トランスはタムラ製F2007。
整流管はJAN 5U4GB(Philips ECG)。

c0086269_2043758.jpg

300B は直流点火、電圧増幅段は AC点火だ。

既製品の場合はキットメーカーと違い「もう少しお金を出せばグレードアップできるのですが!」と言ったエクスキューズは通用しない。
真空管もベストバランスで選択されているのではないだろうか。

さて、その音は・・・極めて普通の音。
SV-91B の様な球面波的な特徴のある音ではない。
普通の音と言っても中高音域の解像度が高く倍音が豊かで低音は引き締まり清澄な音。
他の 300Bアンプに共通する音触を持ち、しかも研ぎ澄まされた品格のある音だ。

「世の所謂「91B型」300Bシングルは何故オリジナルとこんなに音が違うのだろう、という疑問から SV-91B の開発はスタートしました。」という SV-91B は WE300B の音というより 91B の音であり、むしろ ATM-300WE の普通の音こそ WE300B の音のような気がする。

まだまだ WE300B が無くなるなど誰も考え無かった2007年の製品だ。
WE300B が市場から消えた今、新品の ATM-300WE を求めることは出来ない。
中古で現れたのも『縁』『出会い』だろう。
聴いて直ぐリファレンスアンプに決定した。

https://digicamek.exblog.jp/14560866/

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価格.com - AIR TIGHT ATM-300 nambuさんのレビュー
『良いアンプではあるけれど、見えないところに問題がある』
2016年12月3日 11:25 [980579-2]

 いままでに多極管アンプを主に聴いてきましたので、三極管アンプの繊細さにすっかり参ってしまいました。それでいて押し出しの良い太い音が出てくる点はトランジスターアンプにはないものだと思います。タムラの出力トランスは一部ではニュートラルで詰まらない音であるように言われていますが、本機では艶やかで太い奥行きのある音が出てきます。内部を覗くとフックアップワイヤー(多分ベルデン製)のずいぶん細いこと。シールド線も細いものが長々と引き回されています。これでどうしてこのような音が出てくるのか不思議です。これは製作者の長年のノウハウなのでしょう。
 私の場合、金銭上の都合から初段にRCAの12AU7A、次段にGEの12BH7A、出力管にWEの90年代の復刻300B、整流管にシルヴァニアの274Bを換装してみました。付属のロシア管もなかなか優秀ですが、エージングが足りないせいもあるのでしょうが、換装後の組み合わせの方が好みでした。
 このアンプはデザイン的に素晴らしく、がっしりと出来ています。端子類が天板についていますので、調整の時には手前を上げれば、裏板を外すことができます。そのためかハムバランサーの調整を裏側からするようになっているのでしょうが、私のようにスピーカー端子にYラグを使用していると引っかかって、それが出来ません。全部ひっくり返して調整するしかありません。この点は上部から調整できるようにするべきでしょう。また、銅製の裏板が小さすぎてこれを留めるビスの頭の端の部分でしかとめることが出来ません。
 また、このアンプの高級品らしくない点は、電源スイッチにミヤマのスライドスイッチDS-670Kという3A125V.AC、1A250V.ACという190円ほどの安いスイッチが使用されていることです。このスイッチはスライドスイッチですが、内部はロッカースイッチのような構造になっているのでオン・オフを繰り返すことで接点をクリーニングする仕組みにはなっていません。しかも3Aはどうみても容量が小さすぎます。そのため、数ヶ月もしないうちに接点が焼き付いてきます。私の場合、これをバラしてみた結果、接点が黒いススのようなもので覆われていて、接点の金属が少々溶融していました。これは電源をオンにした時のことしか考慮していないのではと思えます。整流管式のアンプの場合、オンの後でB電源が徐々に増加していくのでそれほど電源スイッチに負担がかからないのかも知れませんが、オフの時には電極間で意外と高電圧が生じ、スパークが飛ぶものと思われます。オフの時には徐々に電流が減少せず、いきなり切れるからです。これにスイッチが耐えられなかったのではないでしょうか。いずれにしても、音質的には高域がきつくなり、低域が弾まず、楽しく音楽を聴けなくなります。
 高級品で裏蓋や電源スイッチなどの外側からは見えない所に手を抜いているところが残念です。このアンプを聴いて音が悪くなったような気がした時には電源スイッチを疑った方が良いかも知れません。
 その点が星ー1になった理由です。
http://review.kakaku.com/review/K0000423081/ReviewCD=980579/#tab

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AIR TIGHT(A&M) ATM-300 Anniversary TA-300B/WE-300B音質テスト
2017年10月 逸品館代表 清原裕介
https://www.ippinkan.com/atm300anniversary.htm

2016年8月、大阪高槻市に所在する「A&Mエイ・アンド・エム」から、AIR TIGHT(エアータイト)ブランド30周年記念限定モデル「ATM-300 Anniversary 880,000円(真空管込み・税別)」が発売されました。

このモデルは、WE300B(ウェスタン エレクトリック 300B)を搭載するシングル増幅方式パワーアンプ「ATM-300」の後継モデルで、出力管に国産・高槻電器工業製の国産真空管「TA-300B」を採用し、この真空管の性能を活かすため、300Bのプレート(トランスの1次側)からのフィードバックによる帰還構成を採用したことが最大の特徴となっています。

また最適化された新規電源トランスをはじめ、チョークコイルを新調し、基板サブシャーシには肉厚の純銅レザーカットの採用に食加え、信号回路の要となる結合コンデンサーにはオイルコンデンサーを使うなど、徹底した高音質化が計られています。


 

AIR TIGHT (エアタイト) ATM-300 Anniversary メーカー希望小売 880,000円(税別) (メーカーホームページ)

ランニングコスト

・出力管 TA-300B 165,000円(ペア・税別) 推奨交換:10,000時間

・整流管 5U4G 6,000円(AIR TIGHT純正球・税別) 推奨交換:2,500-3,500時間

・ミニチュア管 12AU7×2、12BH7×2 推奨交換:5,000時間



・高槻電気工業 TA-300B

TA-300Bは、2010年に35年ぶりの国産真空管としてデビューしました。選び抜かれた素材、厳格な品質管理、国内の自社工場でひとつひとつ丁寧に組み上げられる、国産メーカーだから出来る究極の真空管クオリティを実現します。

・WE300Bとの比較

TA-300Bには、オリジナルのWE-300Bには施されていない「金メッキ」が脚に使われるなど、そもそも「オリジナルの音質」を精密に再現しようとする意図が感じられません。あくまでも、300Bを模倣した「より高品位な真空管」を目指しているのだと思います。また、WE-300Bそのものも年代によって音質や構造が異なるため「何を持ってオリジナルの300B」とするのかも明確ではありません。今回は、私が所有している88年後期(WE300Bが生産された最終品)のWE300Bと比べてみることにしました。

真空管を上から見たところです。カソードの構造や固定方法が、違っています。

球の形(ガラスの部分)もわずかに違っていますし、固定ワイヤーの数や引き回しも異なります。脚のメッキも違っています。プレートの色も違います。今回は、このTA-300BとWE-300B(88年後期製造)を比較しましたが、記憶している「PSVANE-300B」のほうが、オリジナルの音により近いと感じました。

試聴テスト

 AIRBOW MNP-i5 Roon 販売価格 460,000円(税別)(現金で購入)・(カードで購入)

 AIRBOW HD-DAC1 Special 販売価格 175,000円(税別)(現金で購入)・(カードで購入)

較試聴には、USB-DAC"AIRBOW HD-DAC1 Special"にAIRBOWネットワークプレーヤー「MNP-i5 Roon」をUSB接続し、標準搭載アプリ「HQ Player」を起動して、CDから取り込んだWAVファイルを「88.2kHz/24bit」にアップサンプリングして音源としました。

今回の比較試聴は、YouTube 逸品館チャンネルでもご覧いただけます。

音質テストに使ったソフト



リザ・フェルシュトマン演奏のバッハ・無伴奏バイオリンソナタ。SACDハイブリッドソフトのCD層の音声をリッピングして使いました。

録音に優れるXRCDで「ボーカルソフト」を集めたベスト盤。Vol3.から、セーラKが弾き語りで歌う「ビンセント」を聞きました。

シンセサイザーも伴奏に使われるPOPS系のソフト。アマンダさんの独特な声の太さや甘さ、シンセサイザーの音がどのように再現されるかがポイント。

アナログレコード後期の優秀録音盤がCD化されて発売されたディスク。美しい峰純子さんの歌声とジャズトリオの伴奏のマッチングが聞き所。

オーディオマニアなら誰もが知る「ノイマン+チェコフィル」の「新世界より」から、第2楽章を聞きました。

バイオリンの音は、生音と比べると高音の鋭さの再現が少し弱く感じられます。けれどそれは悪いことではなく、むしろ写真の雰囲気をより良くするために使われている「ソフトフォーカス」のように働いて、本来聞こえなくても良い刺激的な成分を上手に漉しとって、澄み切った「出汁」だけを音に残してくれるような鳴り方をします。だからリスナーは、ソフトの録音の善し悪しや、機器のセッティングの成否などに煩わされず、演奏だけに集中して音楽が聞けます。
リザ・フェルシュトマンさんは、それほど大きくないホールのステージの前縁近くに立って、リスナーはそこから少し離れた場所で演奏を聞いている雰囲気です。カメラのレンズで言うなら、ちょうど標準レンズ「55mm」の画角に収まるような感じでステージが見えます。
1〜4弦の音色の違や、バイオリンの胴に弦の音が強く共鳴した「鳴り」と弓を返したときの鋭い音の対比などが、あるがままより「少し柔らかいイメージ」で鳴っています。音質は癖がなく自然で、演奏は着色されずに伝わります。

ギターの音は少し膨らんで太くなりますが、胴の柔らかい響きと、弦の金属的な鋭さは、綺麗に分離して美しい対比を描きます。

ボーカルも口元が少し大きいですが、これはバイオリンでも感じた「輪郭の柔らかさ」が影響しているのでしょう。

音の輪郭の鋭さと定位感は比例します。例えば、テレビ映像でエッジを効かせれば、解像度は上がります。けれど、エッジを立たせすぎると「ぼけ味」がなくなって、映像の奥行きが失われます。音もそれと同じです。エッジの柔らかいATM-300Bは音のピント(定位感)が少し弱いですが、体が包み込まれるような音場の広がりと、真空管アンプらしい「艶やかさ」が演出されます。
平均的な300Bシングルのアンプと比べると、高域はややまろやかで甘い感じです。中低域はプッシュプルアンプと変わらないほどたっぷりとした量感がありますが、制動力が少し弱く低音がわずかに膨らみます。
個人的には、フォーカスがもう少しシャープな音が好きですが、こういう柔らかな音を求める方が多いでしょう。
生演奏を彷彿とさせるとは言いませんが、目を閉じれば生演奏を聞いている雰囲気は十分に醸し出されます。

エレキ・ギターのアンプは、未だに真空管が主流ですが、それは「真空管の生み出す響き」がギターの音をより良くするために欠かせないからです。同じ理由で、ATM-300B Anniversaryは、シンセサイザーの音を生楽器のように柔らかく、ムードのある響きで包み込みます。物理的な共鳴部を持たない、引き締まった響きのシンセサイザーの音にこのアンプは実に良くマッチします。

ボーカルはこの曲では、センターにびしっと定位しています。
「合いの手」のように入る木製のパーカッションの音は、シンセサイザーと綺麗に分離し、叩いている木の材質や場所が特定出来そうなほどリアルに鳴ります。

ただし、EAR V12やAIRBOW Stingray Ultimateと比べると、高域の立ち上がりが遅めなので、抑揚の大きさや感情の「ハットするような表現力」では、それらに及びません。ややナローなレンジで、上手くまとめられた音です。

ピアノの音は打鍵音(アタック)が少し不明瞭ですが、奏者のタッチの違いはしっかり聞き取れます。

ピアノの音色は真空管・300Bのシングルアンプらしく、透明で豊かな色彩感で再現され、グランドピアノらしい「ゴージャス」な雰囲気がうまく出ます。
ボーカルも子音がやや不明瞭ですが、リップノイズやブレスはきちんと聞こえるので、唇の動く感じ、ぬれている艶っぽさは、上手く醸し出されます。
私はもう少し高域が聞こえないところまで真っ直ぐに伸びている音が好きですが、こういう「柔らかい音」を望まれる方が一般的です。逆に最高域まで音が伸びると、それに比例してセッティングがどんどん難しくなって行くので、こういう音の方がコントロールしやすいのも事実です。

生演奏の現場を目標とするのではなく、オーディオがそれをさらに心地よく再演奏するものだとするなら、300Bに「上品さ」を求められるなら、このアンプの音をとても気に入られると思います。

低音が良く出るので、ティンパニーが小さくならず原寸大のイメージで鳴ります。
イントロ部分の「静寂なイメージ」は上手く出ます。また、ホールの暖かい響きの再現も得意分野です。
金管楽器と木管楽器の音色の違い、バイオリンとコントラバスの音色の違いも、綺麗に再現されそれぞれの楽器の音が分離しながら、美しいハーモニーを奏でる様子が手に取るように分かります。
気になったのは、EARやAIRBOWで聞くと「バーツラフ・ノイマンの存在感」がとても強く、奏者の緊張感まで伝わるのに、ATM-300Bだとそういう「表現の強さ」があまり伝わってこないことです。
この曲は、ホールで聞く生演奏とほとんど変わらない雰囲気で上手く鳴りますが、すべての音は薄いオブラートにくるまれて、苦さや辛さは消えています。欠点や傷は露呈させない。そういう傾向が感じられました。

再現される演奏に「厳しさ」まで求めるなら、このアンプは合わないかも知れません。

気になっていた高域のレンジの狭さが解決して、バイオリンの音がスッキリと伸びました。輪郭がハッキリしたことで、バイオリニストの「指使い」までもが明確に伝わるようになります。
TA-300Bでは少し離れた位置から全体をややぼんやりと見ているようなイメージでしたが、Western 300Bだとホールの透明感が大きく向上し、見たいところがクッキリと見渡せるようなイメージになります。
弱音部のデリケートな響きの再現性が向上し、演奏に深みが出ます。
音質的な差はわずかですが、雰囲気の深さ、情緒の細やかさ、静寂感が変わりました。

ギターの胴鳴りの膨らみが抑えられ、音像が引き締まりました。ギターの弦をリリースした瞬間の断弦音も明瞭です。本来はこういう「避けられないノイズ」も計算して演奏に取り入れられているので、やはり隅々まで聞こえる方が臨場感は高まります。けれど、そこまでのリアルさ(生っぽさ)を求めないのであれば、TA-300Bの柔らかな音に魅力を感じられるでしょう。
輪郭の再現性が向上したことで、全体像がクッキリと再現され、ミュージシャンの表現したい部分がより正確に、深みをもって再現されるようになりました。セーラKさんの発音も、英語らしく子音がクッキリとしてきました。
パッと聞くと中低音の量感が減った用にも感じるのですが、じっくり聞くと高域が伸びただけで、中低音が減っているのではないことに気がつきます。球を変えてもATM-300 Anniversaryのシングルとは思えない、豊かな中低音は変わりません。


TA-300Bでは感じられなかった「響きの揺らぎ」が再現されますが、響きの豊かさは少し減ったようです。

ボーカルは、余計な脂気や艶が取れましたが、あっさりしすぎるような感じもします。また、少し音が重く、暗いようにも感じます。
この曲では、TA-300Bの響きの豊かさ、メリハリの強さが、WE300Bよりもマッチしていたように思います。

ピアノは高域が伸びて、スタインウェイのような硬質で美しい響きに変わりました。

ボーカルも高域が伸びて、口元がきりりと引き締まり、ピアノとボーカルの寄り添うような雰囲気も俄然濃くなりました。
TA-300Bで聞くこの曲は、ホテルのバーやエントランスで演奏を聞いているカジュアルな雰囲気。WE-300Bで聞くと、それが本格的なJAZZクラブで熟練の演奏を聞いている雰囲気に変わります。
WE-300Bの音が「本来の音」にはより近いと思いますが、TA-300Bの「演出」もなかなかだと思いました。


イントロ部分での静寂感が深まりましたが、やはり響きは少し減ったように感じられます。弦楽器の解像度感もTA-300Bの方が高かったように思います。けれど、音が重なった部分の「スケールの精密さ」では、WE-300BがTA-300Bを上回ります。この曲本来の「精緻なイメージの再現性」では、WE-300Bに部があるように感じます。

TA-300Bでは「指揮者の存在感が薄い」と感じましたが、真空管をWE-300Bに変えても、まだ「指揮者の存在感」はやや希薄です。それはATM-300B Anniversaryのアンプ本来のダイナミックレンジに限界があるから、つまり最高域が抜けきっていないからです。だから音色は綺麗ですが、服の上から背中を掻かれているような、少し物足りない感じ、もう少し刺激が強くあって欲しい感じが、私には感じられます。

ATM-300 Anniversaryは、「日本的な音」のアンプです。
https://www.ippinkan.com/atm300anniversary.htm


http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど… 中川隆
1. 中川隆[-8836] koaQ7Jey 2019年8月16日 15:22:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3906]
Joshin webショップ 2016年10月26日
真空管とMade in Japanにこだわった自信作 エアータイト創業30周年記念モデル『ATM-300 Anniversary』
http://blog.joshinweb.jp/hiend/2016/10/made-in-japan-3-9f33.html

ハイエンドオーディオ担当の "あさやん" です。

本日は、エイ・アンド・エム(株)《ブランド:エアータイト》が、創業30周年を記念して発表した『ATM-300 Anniversary(限定モデル)』をご紹介します。先日開催された「東京インターナショナルオーディオショウ」で現物を見て、じっくり試聴も出来ましたので、レポートして参ります。


AIR TIGHT『ATM-300 Anniversary』


■ 真空管の可能性に挑戦し続けてきたエアータイトのこだわりとは!?


エイ・アンド・エム(株)は、数多い管球アンプ専業メーカーの中にあって、国内生産にこだわり続け、会社組織で一貫生産する国内唯一のメーカーでもあります。会社、工場は大阪府高槻市にあり、熟練した人達の手配線にこだわった理想的なハンドメイドによる丁寧な製品造りに徹しています。

1986年(昭和61年)に誕生したエイ・アンド・エム(株)は、今年で創業30周年を迎え、同社のHPでは次のようにあります。(私も同社の考え方には全く同感です。)

『何故、デジタル全盛の時代に、真空管を使用した「こだわりのオーディオ機器」を開発するのでしょうか?約半世紀前より、時流は真空管からトランジスターへと移行しました。それは真空管の性能が劣っているからと言う事ではなく、大量生産、コスト低減等、単に近代工業生産のシステムに合わなかった事にあります。

量産化され商業ベースに流され、本来の夢を見失ったオーディオ業界。その中で1986年以来、レコード再生はもちろん、CDをはじめとしたデジタル音源が主流となった現在にあっても、“真空管アンプこそ、最高の音楽表現が実現できる”というポリシーに徹し、本当に音楽を楽しみ、使い込むことにより喜びを感じられるような製品創りを目指して来たのです。』

真空管からイメージされる【ノスタルジックなサウンド】から決別し、真空管の可能性に挑戦し続けてきたのがエアータイトです。それは、創業以来全くぶれる事のないポリシーに基づき、製品開発を続けてきた結果、日本国内のみならず、すでに海外30ヶ国に進出し、ドイツ、フランス、イギリス、スペイン、香港等でも高い評価を受けています。

その洗練されたデザイン、安心感のある回路で、世界のオーディオファイルの感性を満足させて来ました。同社のアンプのボディカラーであるシルバー・グレーは、海外では“Air Tight Blue”と呼ばれ、その音質はもちろん、デザインでも多くのファンを魅了し続けて来たのです。従来から、日本のオーディオ製品のデザインが海外で評価されることが少ないこの業界にあって、希有なメーカーとも言えます。

■ 広大なサウンドステージを生み出す『ATM-300 Anniversary』

『ATM-300 Anniversary』は、登場からすでに15年を迎えた同社の代表的な直熱三極管「300B」を使ったシングル・ステレオパワーアンプ『ATM-300』に、日本が誇る高槻電器工業の『TA-300B』を採用できたことで、その潜在能力を最大限生かすため、全てにメスを入れたといいます。

本機は、贅沢な高音質パーツをふんだんに採用していますが、安直にパーツだけを入れ替えたのではなく、回路構成からメインシャーシや機構部品までをも新造しています。

また、世の多くの[300B シングルアンプ]≒[ノン- ネガティブフィードバックアンプ(non-negative feedback)]という図式が広く流布されている中にあって、敢えて帰還(フィードバック)回路を選択しています。

通常、多くの帰還アンプが採用しているOPT(アウトプットトランス)の2次側からのフィードバックではなく、1 次側からフィードバックを掛けることにこだわったと言います。

その理由は、1 次側からのフィードバック(帰還ループに出力トランスが入らない)は、2 次側からのフィードバックよりも残留ノイズや歪率の点で不利ではありますが、あくまで音、音楽の出方、エネルギー感、勢いの面で、物理的に不利なトランスの1次側のフィードバックを採用する事に踏み切ったのだそうです。この当たりにも本機に対するエアータイトの思い入れが、並々ならぬことを感じます。

また、『ATM-300 Anniversary』では、シャーシに同社としては初めてスタットボルトを全面的に採用し、アンプ表面にネジの頭が露出しない実に洗練された外観となっています。このスタットボルトは最適なグランドラインを保証するという側面も持ち合わせています。内部はもちろん、音質を重視して基板を一切使わず、実に美しく手配線されています。

現時点での同社のノウハウやアイデアをすべて投入して、30周年記念の限定モデルに相応しい内容としているのです。『ATM-300 Anniversary』は、真摯に音楽を楽しむ道具として、敢えて時間的制約や予算という枠を設ける事なく開発が進められたのです。結果は、300Bに対する先入観を打ち破る、“広大なサウンドステージと迫真のリアリティを生み出すことに成功した”とのことです。

■ 試聴しました。

東京インターナショナルオーディオショウの
エアータイトのブースの模様。
奥が『ATM-300 Anniversary』、
手前が来年1月CESで発表予定の211を使った
超弩級モノラルパワーアンプの試作機

さて、東京インターナショナルオーディオショウのエアータイトのブースでの『ATM-300 Anniversary』の試聴は、同社の人気小型スピーカー「AL-05(盆栽)」を使用し、ソースはアナログレコードで行いました。

そのサウンドは、とても10cmフルレンジとは感じさせない朗々としたもので、フルレンジならではの空気感や繊細感はもちろん、低域の厚みや力強さも大型フロア型とは行かないまでも、通常のブックシェルフ並のスケールがあるのには少々驚かされました。

さらにボーカルは圧巻で、柔らかさは生身の人肌を感じさせ、まさに肉声そのものでした。一方ジャズでも、到底9W+9Wとは思えない迫真のサウンドを実に生々しく再現したのでした。まだまだ大きなスピーカーを使えば、もっと音圧感も味わえ、オーケストラも十分ダイナミックに広大なサウンドステージを再現できるであろうと確信しました。

『ATM-300 Anniversary』は、真空管アンプに惚れ込んだオーディオファイルはもちろん、最高の音楽を、最高のサウンドで楽しみたいとおっしゃる耳の肥えた音楽愛好家にこそ使って頂きたい、“Made in Japanの至高の300Bの限定モデル”です。
http://blog.joshinweb.jp/hiend/2016/10/made-in-japan-3-9f33.html
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html#c1

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど… 中川隆
2. 中川隆[-8835] koaQ7Jey 2019年8月16日 15:55:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3907]

楠 薫のオーディオ三昧 AIR TIGHT ATM-300 
http://www.kusunoki.jp/audio/ATM300/ATM300.html


日本が誇るエアータイトの300Bシングルアンプです。アメリカからの要請もあり、製品化したとのこと。

AIR TIGHT(エアー・タイト)はラックスから独立した営業の三浦篤氏と設計部の石黒正美氏が1986年に設立。 プリント基盤を使用せず、高品位パーツの手配線を貫き通した製品群はさすがです。

日本ではあまり有名ではないのですが、このメーカーのアンプは海外では評判で、徐々に国内でも 認められつつあります。

私はこのATM300を使ってみて、驚きを禁じ得ません。

どうして元がラックスのメーカーから、こんな雄大で力強い低域が聴けるのか、そしてジャズの 見事なスィング感といい、ストレートで分厚い中低域といい、不思議でなりません。

ATM300 は片チャンネル8Wですからあまり出力は大したことないのですが、スピーカーに例えば 我が家の様にアルテックの 604-8Kなどを使うと、俄然、威力を発揮します。

CDプレーヤーがSTUDER D730との組み合わせの音は、パラゴンユーザーが「もう一度、出直して 来ますわ」と深々と頭を下げてお帰りになったほど。

私もあそこまで鳴りっぷりが良いとは思いませんでした。改めて日本の真空管アンプのレヴェルの 高さに脱帽した次第です。


ちなみに ATM300 はダンピングファクターを調節することが出来ます。


1)NFB 0dB:ダンピングファクター2.6(実測では3.12)

 音が華麗に聴こえる。低域が伸びやか。しかし音場がつぶれてしまって、平べったい印象。

 ゲインは最も高く、29.9dB。


2)NFB 4dB:ダンピングファクター4.5

 音像がクッキリ浮き上がってきて、低域の締まりが明らかに改善。音の分離も良くなり、 楽器などの質感の違いがわかるようになってくる。


3)NFB 6dB:ダンピングファクター6.4

 音の余韻が少なくなり、低域がちょっと寸詰まりの様になってくる。音の分離は良いのだが、 タンパクになってきた印象がある。
てことで、私は2)で使用しています。


初段には双三極管12AU7をパラレル接続、ドライバー段も双三極管12BH7Aをパラレル接続、出力段 は WE製300Bシングルという構成。

出力トランスはタムラ製F2007。

整流管は5U4G。

300Bは 直流点火、電圧増幅段はAC点火。

ボリュームは27角100KΩAカーブ。抵抗は理研RMカーボン。
300Bカソード抵抗はデール製メタルクラッド、フィルム・コンデンサーの一部とケミカルコンデンサー にはスプラーグ社製オレンジ・ドロップやATOMなどの高品位パーツを使用。

残留ノイズは3mV、入力インピーダンス79.6KΩ。周波数特性10〜47 kHz(-3dB)。

正面像です。奥に整流管が見えます。
斜め上からのビューです。真ん中のボリュームみたいのは、NFB調節スイッチです。
これによってダンピングファクターを調節することが出来ます。


真上からのビューです。

背面像です。端子類は上に集められているのがミソです。太いケーブルも入れやすいターミナル。


鏡面仕上げの銅板。インシュレーターはなんと5カ所付いています。

http://www.kusunoki.jp/audio/ATM300/ATM300.html
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html#c2

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど… 中川隆
3. 中川隆[-8834] koaQ7Jey 2019年8月16日 16:01:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3908]

AIR TIGHT ATM-300がやって来た!2017年02月03日
https://community.phileweb.com/mypage/entry/1502/20170203/54637/


自分のものだったらいいのにな(笑)

知人がパワーアンプを更新して使ってないのでよかったら使ってみる?ということで借りてきました。

憧れの300Bシングル。
今あるSV-2A3とどのように違うか楽しみです。

出力管はWEのヴィンテージも復刻版もあるよーって言われましたが、扱うのが怖いのでJJを借りてきました。

早速接続して音出し。

いいですねー(^o^)
2A3はどちらかと言えば繊細な方だと思うのですが、300Bは全域にわたってエネルギッシュ。

線が細くならず、ギュッと描いてくれるような感じです。
もちろん繊細さも併せ持っていますし。出てくる音の品位も高いです。

私がアンプに求めていた理想と言える音。まぁ高いし当然か。
しかし、目覚めは大変悪いですね。相当の低血圧です、この人。
温まってきたら本領発揮で本当にスバラシイ音を奏でてくれます。


でも…

やっぱりパワーが足りない

一番気になっていたのがパワー。

2A3で3.5Wほど。
300Bで 8Wほどとなっていますが、2A3では「そこそこ」の音量でクリップしてしまいます。

普段の聴取音量で無難なジャンルから聴き始めたのですが、POPSやJAZZ、クラシックも中くらいの編成までは大丈夫でしたが私のメインジャンルである大編成のオケ物はダメ。ティンパニやグランカッサの一発やオルガンのペダルトーンなどにあえなくクリップしてしまいました…。

出力倍以上になったしスピーカーの能率も一応 91dBあるから大丈夫かなと思っていたのですが、もっともっと能率のいいスピーカーじゃないといけないんですね。

それとこのアンプ16Ω出しになっていますので(我が家のスピーカーは公称4Ω)インピーダンスマッチングの上でも問題があるのだと思います。

4Ω出しにしたらマシになるんでしょうか。

とにかく残念です。
上手くいったらなんとか資金を工面して手に入れようと思っていたのですが、我が家の環境では300Bシングルは導入は無理なようです。
パラシングルとかだったら大丈夫なのかなぁ。


と、浮気してたらM-5000Rが機嫌損ねて故障
突然右Chから音が出なくなり、今ドック入り中です…

私の私感ですが M-5000RとBEETHOVEN君は相性がかなり悪いみたいで。
ちょうど耳の感度が悪い帯域辺りがBEETHOVEN君の音色と相まってとても線が細くなって聴こえにくいのです。
このままでは楽しめないので、どうするか考え中。

そんな時に壊れないでよ。
フクザツな心境です。



レス一覧

けえぱぱさん、こんばんは。
ちょっと危険な状態のようなので、取り急ぎ連絡させていたいだきます。

真空管アンプの16Ω端子に4Ωの負荷を接続して大音量を出すのは、即刻止めるべきです。

出力管の許容損失をオーバーして使い物にならなくなったり、アンプ内部の抵抗が焼けたりする可能性が高いです。

さらに、出力が派手にクリップすると、SPのTWを飛ばしてしまうこともあります。

OPTの付いている真空管アンプは、SPのインピーダンスが多少変動する程度であれば対応できるように作ってあるはずですが、1/4の負荷でまともに動作するものはないと思います。

byED at2017-02-03 21:20


EDさん、こんばんは。レスありがとうございます。

そうみたいですね。
色々調べると危ないということでしたので、わかった後はすぐにやめました。

幸い今のところアンプにもスピーカーにもダメージはないと思います。

スピーカーは自分の物なのでまだしも、アンプは人の物ですから、何かあったら一大事です。

ご忠告ありがとうございました。

byけえぱぱ at2017-02-03 23:16


けえぱぱさん、こんばんは。
SPやアンプが無事で、良かったですね。

ところで、アンプのパワーについてですが、部屋がかなり広そうなので300Bシングルの8Wでは苦しいですね。

私も、SPの能率は91dB、部屋は広めの10畳で、真空管アンプを使っています。

MAX100dB程度の音圧でオケの50Hz以下をしっかり再生するには、KT88-PPの60Wでやっとというところです。

300Bがお気に入りならPPの30W以上、できればKT120-PPクラスのパワーアンプが合いそうな気がします。

もちろん、アンプの音は最大出力だけではないので、参考程度にしてください。

近くでしたら、色々なパワーアンプをお持ちしてお試しできるのですが、ちょっと遠いですね。

byED at2017-02-04 23:26


EDさん、こんにちは。

部屋は15畳です。屋根裏で天井が斜めになっているので容積的には14畳くらいでしょうか。

真空管の音はとても魅力的ですね。
以前、トライオードのTRX-P6Lという6L6(KT88に換装していました)のPPのアンプを使用していましたが、定位が悪く音も濁り気味だったのです。販売店の社長に言わせると「それはトライオードだからでしょう」ということでした。あんたの店で買ったんだよ、言いかけましたが(笑)

2A3のシングルを聴いて直熱管のシングルはいいなぁと感じました。
理想はやはり300Bの音ですね。
これで大出力が出ればいいのですが、今は予算もないし、しばらくは何かでお茶を濁そうと思っています。

マイルーム見せていただきましたがすごいですね。
私は文系なのでキットくらいならなんとかいけますが、自作は無理です。

少し遠いですが、何かの機会に一度お邪魔したいものです。

byけえぱぱ at2017-02-05 14:38

https://community.phileweb.com/mypage/entry/1502/20170203/54637/
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html#c3

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど… 中川隆
4. 中川隆[-8833] koaQ7Jey 2019年8月16日 17:04:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3909]
AIR TIGHT ATC-1 〜真空管プリアンプ 世評の罪〜 2010年 08月 19日


 サンバレーさんの真空管プリアンプ"SV-722"を手放した後でも真空管プリアンプの音質には強く心惹かれるものがありました。

真空管と言えばノスタルジックな「暖かさ」などが世評ですが、最近の真空管プリアンプは半導体にはない鮮烈さを実感できます。

 私の真空管アンプ・キャリアは、プリメインの EAR859 に始まりプリアンプではEAR834L と2台の EAR を経験してきました。

EARシリーズは、真空管アンプとは思えない無音時の静粛感、音質は英国アンプらしく華麗で柔和、但し鮮烈さと言う面ではやや弱いです。

そしてサンバレーSVー722は、真空管フォノイコSVー6、真空管パワーアンプSVー2(2007)と言った極めて組立が簡単な(基板1枚をハンダ付けすれば出来上がり)キットを2台組立てただけに過ぎない私のスキルには、あまりに難易度の高いアンプでした。
音が出せるまで何度もハンダや配線をやり直し最終的にギタギタになってしまい「大丈夫か?」と思いましたが、出て来る音の鮮烈さのとりこになってしまいました。

しかし悲しいかな、無音時のノイズは盛大でEARとは比較になりません。

「EARの無音時の静粛性」と「SVー722の鮮烈な音」を組合わせたような真空管プリアンプを探していました。


そこで目にしたのが「AIR TIGHT」ブランドの「ATC-1」と言うプリアンプでした。


AIR TIGHT ATC-1は、EAR834L+SV-722となるのでしょうか?

さて肝心の出て来る音なのですが…

 世評では、AIR TIGHT社の社員の方はLUXMANから独立し設立したこと「真空管の良さを残したアンプ」「いや、そんな古いノスタルジィに捕われない音」と色々な世評があります。

私も後者の「ノスタルジィに捕われない音」とSVー722の持つ無音時の不快なノイズが消えていることを期待しました。

ところが様相は少々違ったようです…

電源ONし出て来るノイズは「質」は違いますが「量」はSV-722同等…これには正直がっかりしました。

「熟練工の組立てる完成品」と「素人が失敗しながらなんとか組立てたキット」に大きな差がない…。

また「真空管プリアンプのノイズはこんなものなのか?」と考えてしまいました。

実は12AX7と互換球で低ノイズの5751、しかも東芝の5751に換装したのですが変化は見られませんでした…

ノイズの「質」の違い、
SVー722のノイズは高域の目立つ「シャー」と言う高めのノイズ、
ATC-1のノイズは中低域の目立つ「ズー」と聴こえるノイズ。

 そして、このノイズの傾向が不思議なことに音質にも出ています。

ATC-1の音は、中低域を中心とした太い線で描写した押し出しの強い音。
私が期待したのは、やや線の細いシャープな音でしたので、これは全く目論み違いでした。

この「太い線で描く音」が「暖かい音」と支持する人がいるのでしょう。
ヤマハC-2X同等のシャープさで、半導体では得られない真空管の「ガラス」をイメージするような透明度をもったハイスピードな音を期待していました…。
ATC-1は私の期待した

「EAR834Lのノイズレス+SVー722のハイスピード」

とはなりませんでした。

 SVー722のシャープでキレの良い音が懐かしいですねぇ…。

私のSV-722は、マッキントッシュC22タイプだったのですが次はマランツ7タイプにトライしてキレの良い音に浸りたいですね。

手放して分かるSVー722の良さ(笑)

SV-192Sにはなんの未練もないのですがSVー722には悔しさが残ります。
自分のスキルが未熟な時に出会ってしまった音楽性の高いアンプ…
もし今2台目を作るとするなら、カウンターポイントやYAMAHA、そしてMFと言った優秀な半導体アンプを手にしていますので焦ることなくじっくり構えて組立できるでしょう…。

今ならアンプマイスターのくまさんがSV-722に新しい「対策・改良」の施し方をブログで記事にされていますので、進化したSV-722に出会えるかもしれません。

Commented by きゃーる at 2010-08-19 01:25
AIR TIGHTといえば、かなり高級な球アンプブランドですよね^^
いい質感ですね。電源部も遮蔽されてますね^^
しかし好みの音質ではなかったですかorz

SV-722手放したんでしたっけ・・・
クマさんチューニングすごそうですよね^^
SV-722はアンチキット屋さんでも一目置くプリのようです。
操作性は・・・ですが音は申し分ないです^^
私のSV-722(マランツ)もいつかSBD化するかなあ・・・

プリといえば、マッキンC22オリジナルの結構程度のいいもの(らしい)が30万台で売られてましたが、買いなんでしょうか?^^;


Commented by へうたむ at 2010-08-19 05:24
アンプのノイズはシステム全体として計算づくで処理すべきものだと思います。かなりの高利得を持たせたプリ(マッキンやマランツなど、過去の名機に倣った回路構成では、どうしてもこうなります)に、ヴォリューム全開のパワーをつなげば、どんな高級品でもホワイトノイズは出ます。

EARは、システム全体でゲインを調整したり、何らかの回路デザインを施していたのでは?


Commented by 元新潟のU at 2010-08-19 05:42
無音時の静寂性を追求するなら半導体では?という気がします。
音楽性で言うなら別ですが…
SV-722 クマさんスペシャルには興味がありますね〜。


Commented by rhr_nally at 2010-08-19 08:25
EARは、システムトータルと言うより、単品のノイズの少なさは極まっていると思います。

私が使用していた時は、当然メインは全開ですよ(メイン全開でないと気がすまないたちです(笑))。パラヴィチーニ氏は、動的な特性もさることながら、静的な良さ「デザイン」「ガジェット」「ノイズ」を上手にコントロールされていたのではないかと考えてます。


Commented by rhr_nally at 2010-08-19 08:31
>無音時の静寂性を追求するなら半導体では?という気がします。

はい、しかしながら世の中には半導体並の無音時の静粛性の高いアンプも存在するんですよ。でも今回の経験で、真空管プリのノイズについて整理出来てきた気がします。

確かaltunmさんはプリの前にトランスを入れて電源の持つノイズを減らすことをされていたのでそれも奥の手と考えていまして、無音時のノイズ対策は色々ありそうですね。

我が家の主力プリは全て半導体なので、無音時のノイズは悩みませんが、SV-722には「音楽の鮮度」と言う面で心惹かれますね(個人的には「アドバンスさん凄い」と感じています(笑))

くまさんスペシャル"SV-722"は、大変参考になるのでもっと色々知りたいところです。


Commented by へうたむ at 2010-08-19 22:16
2ch板ですが、A&Mはノイズの件で送っても何もしてくれない、云々の書き込みを見ました。

ATC-1は、高利得の12AX7を5本使っているということなので、ラインアンプも全部12AX7なのですね。これではやはりノイズ多くなりそう‥‥
ラインアンプは、低利得・低インピーダンスの12AU7や6DJ8を使うのが、近来のプリでは主流ではないか、と…。

お値段的に比べるべくもない感じはしても、TU-875と比べられたでしょうか? たぶん TU-875のほうがローノイズですよ。

ノイズが増えても12AX7を多用して彫りの深い音色を出そう、というのが、むしろマランツやマッキンなど古典プリに学ぶ日本のマニア、技術者の多数かもしれません。もちろん、これはこれでポリシーです。
が、近代的な低雑音を狙うと、また別の回路構成が必要でしょうし、その辺の独創性は、あのパラヴィッチーニのオヤジなんかの独擅場なんでしょうね。


Commented by なめ仙人 at 2010-08-20 16:20
プリアンプは難しいですねぇ〜! 微小信号を取り扱うプリアンプは、ノイズ問題、SN比は大きなウェイトを占めますから。。。 如何に音色感が素晴らしくても、ノイズで微小レベルの信号が消失してしまうのでは意味が有りません。

そのような意味で、タマのプリ選びは非常に難しいでしょうね。カウンターポイントのハイブリッドプリでさえ、石の圧倒的な高SN感(例えばマクレビNo.38SL等)を経験した後だとノイジーに感じましたからね。

しかし、AIR TIGHT ATC-1、見た目は魅かれます。ロゴプレートといい、全体のつくりといい、ラックに置いておきたい雰囲気がありますね。ホント、ノイズの問題さえクリアになれば・・・・ですねぇ〜σ(^_^;


Commented by rhr_nally at 2010-08-22 10:20
利得とμの関係を知らないのですが、12AX7に対してμが70%程度しかない5751でもこの傾向は変わりませんでした。
12AU7や6DJ8のことは、へうたむさんに説明されると頷いてしまいますね(説得力があります)。

TU-875はご指摘の通りです。
電源も別体ですからね、ただTU-875のポテンシャルはもう少し欲しいところです(欲かいてます)
パラヴィヴィチー二氏の回路理論は理解出来ていませんが、独創性は目を見張りますよね。
マランツ7やマッキントッシュC22の回路のオマージュ(嫌いな表現です(笑))的なものではなく「現代真空管回路」的なところで攻めて欲しいものです…勝手な言い分ですけど、そこをAIR TIGHT に私は求めたのだと思います。


Commented by rhr_nally at 2010-08-22 10:33
レビンソンとマッキンなら私はレビンソンの方が雰囲気が好きかなぁ…。
はい「球のプリ」は難しそうですが、なかなか鮮烈ですよ。

AIR TIGHTは「次世代の真空管アンプ」を期待したのですが、パラヴィチー二氏
ほど前衛的ではなかったようです、
AIR TIGHTの人が読まれたら激昂されるかもしれませんが、過去の範疇だった気がします。過去の範疇で良いなら、私はAIR TIGHTは選ばないかな…。
ガジェット的には最高ですけどね(笑)


Commented by merlion at 2010-08-25 07:36
実はATC-1のノイズは先日AvantgardeのDuo Mezzoとの組み合わせで聞いたときに妙に気になったことを思い出しました。私もチューブを使っていますが、「古いノスタルジィに捕われない音」を志向してAudio Research (VT200MK2+LS26)の組み合わせです。ノイズで悩まされたことはなく、ローインピのPL300でもうまくドライブしてくれています。


Commented by rhr_nally at 2010-08-27 08:57
ATC-1は同じ感想を頂け「やはり」と感じています。
また同時に今までの経験ではEARを除いたところの「真空管プリのノイズってこんなものかな」って解釈してます。
http://rhrsp.exblog.jp/13108804/



http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html#c4

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
21. 中川隆[-8832] koaQ7Jey 2019年8月16日 17:31:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3910]
300Bってそんなに音がいいとは


1 名無しさん@お腹いっぱい。age02/09/29 21:24 ID:???

思えないけどな。 癖が多すぎ。
あれを真空管らしい音だと勘違いしている輩が多いんだな。
もっとスカッとした音のほうがいいだろ。
新しいタマを作ってるところがみんな300Bの亜流ってのはどういうわけ?

5 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/09/29 21:56 ID:???

復刻版で91Bタイプ(ただしNO NFB)を作ったけど、低rp の割には低音ボケボケ。
高域も310Aの電極間容量のために18kHzぐらいまでしか伸びず透明感なし。

せっかくの300Bが半ばお蔵入り状態。
2A3 や 211シングルのほうがよっぽどいい。

1さんの言うようにもう少しスカッとした音にしたい。
どなたかよいアドバイスをお願いします。
ちなみにOPTはタムラのF2007です。


6 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/09/29 22:21 ID:???

まぁ300Bはただの高性能真空管ということで。
音なんか目当てに使うもんじゃねぇ。
特に310A−300Bの二段増幅は...
甘くボケた最低な音。


7 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/09/29 22:22 ID:???
>5
とりあえずNFB掛けたら?
それと91B「タイプ」ではだめ。
完全に91Bの回路で。


8 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/09/29 23:03 ID:???
>>6 >>7
NFBは5dBほど掛けたことはあります。
低音のしまりはそこそこになるのですが、高域の透明感は出ません。
いっそのこと310Aを6SL7あたりのSRPPにしようかなと思っています。
91B回路の完全コピーだとハイゲインすぎて使いづらくなりますよね。

9 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/10/01 16:58 ID:???
>>8
減衰器入れたら?


10 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/10/01 18:03 ID:???

75→76→300B は?

11 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/10/01 19:48 ID:???
>>10
 とりあえず結論から言うと...

 3 0 0 B に N F B は 必 須 。

 馬鹿の一つ覚えみたいな雑誌の製作(政策)記事にはだまされませぬよう、呉々も御注意のほどを。
 NFB=害悪と書くというのは、非常に記事を書くのが楽になるのでね。
 悪者を一人立てて、それを叩くというのは、時の権力者が良く使う方法である。

 それとこの回路、浅野先生の回路だね。
 回路図見ているけど、出力トランスをNFループに入れているのがちょっとな...

13 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/10/01 20:51 ID:???
>>11
300Bのプレートから帰還した方がいい?


14 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/10/02 00:03 ID:???
>>13
 そうしたほうが賢明かと。
 ただ、出力トランスには、良質なるものを採用したほうが良いと思われ。
 その音がまるっきり出るので。

 NF量はお好みで、5dB以上適当に。
 あとは各段のデカップリングを厳重に。
 完成後は測定を怠らず、ピークが出たりしたら、きちんと潰すことですな。


15 ギルビーsage02/10/05 22:12 ID:???

近所の2店のうち、1店はNFBを適度にかけたアンプ、
もう1店はNFBをかけると時間情報がメチャクチャになるからとNO NFBのアンプ。

前者はスッキリしたハイスピードで水彩画風、
後者はコッテリした油絵風。


16 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/10/06 18:15 ID:???
>>15
なかなかわかりやすい表現ですな。

ハイスピード/水彩画はWEの本来の音に近そうな感じ。
−−−−−−−−−−−
↑はNFB後のWEサウンドの基本だからのぅ...

時間情報?なんなんでしょうかねぇ...


17 ギルビーsage02/10/06 23:31 ID:???
>>16
WEかぶれなのはNON−NFBの油絵風アンプを造っている店です。

時間情報と言うのは言い換えると(3次元的な?)音場感のことらしい。
歪み低減の為に信号を戻すことで時間情報が狂い、でたらめな音になる
と主張しています。

21 名無しさん@お腹いっぱい。002/10/08 22:02 ID:???
>>17
分かっております。
WEサウンドはNFB技術なしでは作れません。


18 あどばんsage02/10/07 00:19 ID:???
>>16,17
群遅延特性のことでは?
要するに信号をバカスカ?戻してるからある程度の量は残っていく・・・という感じで。

ちなみに私はアドバンスの(昔の)シングルを使ってる。
http://www.advance-audio.com/
http://www.kit-ya.jp/index.php?manufacturers_id=17


トランスはタムラのパーマロイに交換(好音質を目指してます)。
NFBは300BのPから初段へ(多分)電流帰還、と、2段目から初段へ電圧帰還。
量は・・・わからん(^^;
次は電源だ!


19 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/10/07 18:32 ID:???
>>18
トランス替えたり、NFBいじるなら発振器、ミリバル、オシロはそろえた方がいいyo。高域にピークができて、最悪発振してたなんてことがたまにあるから。中古探せば10マソでそろえられる。


20 あどばんsage02/10/07 20:45 ID:???
>> 19
NFBはいじる気は無いです。半導体アンプに比べたら遥かに少ないはずだし。
電源を

現在:大容量ケミコン+小さなL(でも左右独立)+大容量ケミコン
から
目標:大容量ケミコン(これはそのまま)+でかいL+小容量フィルム

に変えるだけです。問題はスペースだな・・・


21 名無しさん@お腹いっぱい。002/10/08 22:02 ID:???
>>20
別ケースで本格的な電源をおつくりになっては如何でしょう。
増幅器の音の半分は電源で決まります。
整流管をご使用でしょうか。それとも半導体でしょうか。
直熱整流管ならばインプットコンデンサは10MFD以下にすることが長寿の秘訣です。
半導体整流器はノイズを出すことが往々にありますから十分ご注意のほどを。


23 あどばんsage02/10/09 22:01 ID:???
>>21
細長い、エレガント?に仕上げられたケースですので、スペースが無く、またそんな狭いスペースにもかかわらず電源はトランスはすべて共通ですが、平滑回路から先は左右独立、300Bのヒーター電源も左右独立です。
で、前のほうはキチキチ。
後ろのほうは・・・電源部が入ってるからノイズバリバリなんだろうなぁ。
スペースが無いので当然?半導体整流です。
しかも半導体アンプを作ってきた人間には???な回路。

せっかく見た目のいいケースなので、あんまりごつくしたくないのです。
まあ、結果的にはトランスの塊みたいなクソ重たいアンプになりそうですが。


24 帝都電蓄堂sage02/10/12 00:47 ID:???
>>23
 製品写真見ましたが、このケースではちょっと拡張きついですね。
 というより、この大きさでよく300Bのアンプが納まったなという感じで...

 一切新規設計なさったほうがタムラ製作所の優秀なOPTも活かせますし、もっと理論的に正しい回路が採用しやすくなります。 やはり、いいものはお金がかかって重く、大きいものです。これは仕方がないことです。

27あどばん02/10/28 20:18 ID:XXIA5gko

今月号のMJのListening Room紹介のページ、N響の人が出てるところ、私のアンプと同型のものが出てるのですが…
http://www.nezu.ms/stereo_11.html

リビングに追いやられてますね(^^;
元のOPTもそれほど悪いとは思いませんでしたが。
やっぱり電源かな。

別箱…いまさら工作をする気力が持つかな…
回路、そんなにおかしいですかね? >>24


28 名無しさん@お腹いっぱい。02/10/28 20:57 ID:4V0CkYAT
>>27
その寝ずとかいう人が、

自分たちがカルテットをやるときには、4人の音が一体になるように演奏するのに、オーヲタはばらばらに聴こえるのを好む、
と言ってたの、ちょっと考えさせられましたね。


31 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/10/28 23:06 ID:???
>>27
いや、あの人はメインでヒノのでかい300Bシングルがあるから、あのアンプははじめからサブシステム用に作ったんだそうだよ。値段を考えれば立派、と評価してたから、そんなに心配しなくてもいいんじゃない? (藁


38 名無しさん@お腹いっぱい。02/11/03 07:45 ID:xaNHwDWf
>>31
逆みたいですよ。300Bのアンプがほしくなったので、手始めにエレキットのを作ったが、トランスに不満が出てヒノのキットを作った、と書いてある。

39 名無しさん@お腹いっぱい。002/11/03 08:26 ID:???

300Bシングルの音って何処か変。
トンネル内で聴いてるような音。
だらしない音。

40 名無しさん@お腹いっぱい。 02/11/03 09:00 ID:???

混濁してると思いますです。


42 名無しさん@お腹いっぱい。02/11/03 12:56 ID:m9i5T/qa

PPにすると混濁感がなくなるということですか?


45 名無しさん@お腹いっぱい。age02/11/03 15:01 ID:???
>>1
WEの300Bを使って言ってるのか?
新品だと7、8万するんだぞ。軍用だとその倍だぞ。
大丈夫か?中国球とかロシア球とかじゃないよな?


47 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/11/03 17:26 ID:???

2A3の方が好きだなあ


49 名無しさん@お腹いっぱい。 02/11/04 14:31 ID:???
>>47
45の方がもっといいぞ。

190 名無しさん@お腹いっぱい。03/02/16 00:30 ID:a8L74x6C

ウェスタンの91Bでジャズ聞いているけど、最高。
2A3も使っているけど こちらの方が音に密度在るね。
300B・・・・・・いいよ
ウエスタン300B聞いたこと在るのか?

50 名無しさん@お腹いっぱい。02/11/04 15:55 ID:ENENSbxs

WE300Bを15年ばかり使って手持ちのアンプの中で一番いいとおもってた
この前ためしにロシアだまを買って差し替えてみた するとどうだフェラーリが三菱ミニカくらいに格落ちの音になった エージングしてみたが、そう変わりなかった
どこが原因でそうなるのかわからんが ウエスタンのオールドか刻印以外は300Bジャ無いぞ もちろん無帰還出ないとトランジスターのような縮こまった箱庭サウンドになるがな 

最近は6550の良く練り上げたアンプの方が朗々とクリアーになるのでそっちの使用が多い しかし300Bのなんと無くほっとする音も捨てがたい
88は寝ぼけたのが多くてだめ


52 名無しさん@お腹いっぱい。02/11/04 16:09 ID:ENENSbxs

小さいアンプはほとんど発振してるぞ トランスいいの使ってるか
ロシアやチャイナは帰還してもだめだぞ
追加


63 名無しさん@お腹いっぱい。 02/11/05 20:21 ID:???

プッシュプルの出力管の一方を抜くと、劇的に音が良くなることがあるらしい?!


64 名無しさん@お腹いっぱい。age02/11/05 21:56 ID:???
>>63
おいおい、ネタもいいかげんにしないと玉ヲタクはドキュソが多いから本気でやっちゃう奴が
湧いて出てきちゃうゾ(w


66帝都電蓄堂sage02/11/06 00:09 ID:???
>>64
 確かに球アンプ、というか自作派は、えてして電気の知識がない方が多いですな。
 某管球**の上杉などはその典型例かと。まぁ、**は地獄とでも入れておくか。
 ああいう方には去って頂いて、正しい知識のある方に色々と記事を書いていただきたい。  あんな不逞な輩が記事を書いているから、自作派は、インチキ呼ばわりされつづける。


68 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/11/06 03:12 ID:???

上杉などはその典型例とは?本当にそんなでたらめ記事書いてんの?


69帝都電蓄堂sage02/11/07 22:30 ID:???
>>68
 定格を無視し、時代背景を無視し、安全性を無視し、読者に誤った知識をすりこんでゆく。
 これらを無視することは、最後には製作した方の財産や安全を危険にさらすことになります。 電気の知識を与えないで、またその知識を学ぶ必要を明示しないで製作記事を載せ、「初心者にも楽に作れる」とは言語道断であります。

 この電気の知識を軽視した態度は、ゆくゆくは音質改善の知識を失わせ、読者に不利益を与えるものであります。 きちんと正しい知識を普及啓蒙するべき出版社・執筆者が、この有様とはまったくもって情けない。
 まぁ、正しい知識をもたれると、何かとまずいことでもあるのでしょう。
 まず、あのような古典的な球にはそれなりの使い方があるのです。時代時代の回路の変遷があるのです。これをまずはできるだけ正確に理解せねばなりません。
 また、その回路で組まれた機械の使用部品にも、配線方法にも、配置にも、全て意味があります。
 それらの真意を汲み取り、設計に活かさないことには、いい結果が取り出せるわけがありません。
 技術は積み重ねです。基礎が出来ないうちに応用をやるのは無理です。デッサンが出来ない人にきちんとした絵がかけないのも同様です。きちんと理解したらあとは自分の解釈というのがあります。これには何十年も掛かることでしょう。

 私は、あえて上杉のアンプが好きな人を否定しません。主観が入りますから。

 その人は「今」その音色が好きなだけであって、その機械が好きなだけであって、世界の一級品に触れれば、一回正しい整備状況の音を聞けば、固定観念や妄想にとらわれ、あるいは余程に音楽センスがない方でない限り、私の言っていることが判ると考えるからです。


74 名無しさん@お腹いっぱい02/11/24 18:44 ID:RlVAdezh

AIR TIGHTのATM-300 買った。
http://www.airtight-am.net/products/atm300.html
http://k-d.jpn.com/audio/ATM300/ATM300.html


自分的には文句なしだった。 
不満というと、(元が悪くても)何でも気持ちのいい音になっちゃうだよね。
AUDIO的には正確ではないのかも


75 名無しさん@お腹いっぱい02/11/24 19:01 ID:WLR7uRYl
>>74
初段の真空管をいいものかえるともっといい音しますよ。
ATM-300のOwner's Manualの写真ではMullardが刺さっています。
初期の音決めはMullardで行なったと思われます。


76 名無しさん@お腹いっぱい02/11/24 19:20 ID:RlVAdezh
>>75
ECC82はTELEFUNKENとGEはもってるんですが、
ついているSIEMENSも悪くないのでは思って換えてません。
今度試してみます。MULLARDはなかなか売ってないような?


77 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/11/24 23:49 ID:???
>>76
Mullard の CV4003 なら

アムトランス
http://www.amtrans.co.jp/index.shtml

とかでも普通に売ってますよ。高いものでもないし。


78 名無しさん@お腹いっぱいsage02/11/25 01:47 ID:???
>>76
>ついているSIEMENSも悪くないのでは思って換えてません。
私もSIEMENSなんですがそろそろ違った音も聴きたくなってきました。
77さん紹介のCV4003を試してみようかな。
この手のMT管ってまがい物が多いって聞いているので心配だな。
CV4003に関してはそんなことはないのかな?「このオークションを見ろ!真空管編 」の”真空管@30代 ”さんに鑑定してもらえたら即買うんだけど。


79 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/11/29 20:45 ID:???

2〜3年前に買った、S無線の300Bシングルキットを使っています。
球はCR製です。
「カラッ」とした音色で、女性ボーカルとアコースティックギターはイイ感じです。
しかし、艶やかさ、滑らかさが足りません。
球を他のメーカーに替えると変化が有りますか?


80 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/11/30 13:22 ID:???

やはりWE300bを試されてはいかがでしょう。わたしはWE300bしか知らないのでなんともいえませんが、WE社の高い評価は伊達ではないと思います。
Googleで「we300b」を検索すると日本語表示だけでも多くのサイトがヒットします。ご覧になられてはいかがでしょう。
今ヤフオクでWE300bが出品されています。ヤフオクの場合自己責任になりますが、価格と写真を見る限りではお買い得だと思うのですが。よく調べられてはいかがでしょうか。


83 名無しさん@お腹いっぱい。sage02/12/06 23:27 ID:???
>>79-80
三栄無線(ですよね?)は知りませんが、

サンオーディオのWE300Bシングル
http://www2.big.or.jp/~sunaudio/

を聴いた限りでは、やはり軽快でパワフルだけど艶とか滑らかさはあまり感じられませんでした。
そういう方面は2A3の方が得意かもしれません。


103 名無しさん@お腹いっぱい。  03/01/10 21:31 ID:???

TU873や8730
http://www.elekit.co.jp/product/54552d3837334c454949
http://www.elekit.co.jp/product/54552d38373330

では300Bらしさは味わえないのでしょうか?
WEの球なんか付けたらもったいないのかな?


104 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/01/10 22:00 ID:???

どうせなら、OPTに3倍の金をかけたアンプに挿してください。


105 名無しさん@お腹いっぱい。   03/01/10 22:36 ID:???
>>104
たしかにエレキットの弱点はOPTでしょうね。
もっとも8730は以前より広帯域化したような話ですけど。


84 名無しさん@お腹いっぱい。02/12/07 02:41 ID:Cu2NvFSZ

友人が、WE300Aのアンプを持っているんだけど、めちゃくちゃいい音だったよ。
WE300Bと比べると(差し替え可能。比較試聴)、さらにソリッドに切れ込んできて、リアルさが増す感じだった。
でも、もう売ってないらしい。つーか、ほとんど出回ってないと聞いたよ。

108 8730ユーザsage03/01/20 23:05 ID:???

やはり大音量では音が歪みまくるなあ。
現用SPの能率は90dBだけど、もっと高能率なスピーカーが欲しい・・・


109 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/01/21 00:16 ID:???

エレキットのやつって,バイアスがあんまりジャストじゃないんだよな
どうしても非対称クリップが出やすい
まあ,無調整じゃしょうがないが


110 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/01/21 07:03 ID:???
>>108
聞きたい音を出すスピーカーの能率と部屋の大きさから、必要なパワーが割り出せて、それにあわせてパワーアンプを選ぶんじゃないの?

ま、そうは言いながら、ワタヒもアンプの小パワーにあわせて高能率のSPを探しているんだが(^_^;)


126 名無しさん@お腹いっぱい。03/01/30 12:32 ID:tC6csr1M

シングルで さし替えるだけで300Bの倍ぐらいでる質のいい出力管があればいいけど なかなかないね


127 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/01/30 12:40 ID:???

何が倍なんだろう?
ノイズかな? 歪みかな?


128 名無しさん@お腹いっぱい。03/01/30 13:30 ID:rhr/8Sm/

300Bと差し替えはできんけど、WE205Dはいいぞ。
300Bなんか問題にならん。


129 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/01/30 19:56 ID:???

一番きれいな音だと思ったのは45


132 名無しさん@お腹いっぱい。03/01/31 12:58 ID:pfqyxNhL

45も良いですね。とっても可憐で清楚な音がします。
45にはナス型の245があるのも魅力です。
245は音良し、姿良し、ですね。


133那須vv03/01/31 17:10 ID:???
>>132
そうですね。
45の方が清楚な済んだ音がしますよね。
それに比べたら300Bはコテコテ厚化粧です。
それに300Bに比べ背が低いからタンゴのトランスと並べても釣り合いがとれる。
でもパワーは300B、入手容易なのも300B。


134 トマト03/01/31 22:07 ID:RXEDPifd

今使ってる300BはCRのものですが、スベトラーナを使ったこともあります。
スベトラーナはサラッとした音でした。ただし数百時間でフィラメントが断線しました。あとで知ったのですが、こいつの超単寿命は有名だったらしいです。どうりで価格がぐんぐん下がって行った訳だ。
EHがこの音の傾向を引き継いでいるのなら使ってみたいですね。

137 13603/02/01 09:35 ID:MO1tU1Q/

スベトラーナって、どんな問題をかかえているんですか?
購入検討していたので、とても気になります。


138 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/01 16:48 ID:???

一定時間使うとフィラメント断線するという事故が頻発したと聞いた。
最近のものは問題ないらしいけど。


141 フジオ03/02/08 14:34 ID:cu3SMCio

300Bって、1本5000円くらいまでなら使っても良いけど、1万円を超えるんなら 801AとかVT-4Cを使った方が全然良い音が出ますね。ましてや、中国やロシア製の駄球で数万円するのを買うってのは、ブランドモノのバッグを買うバカOLと同じですね。

この球を誉めているのは、伊藤氏とか浅野氏とか新氏とかコンコルド氏あたりで、武末先生ははっきりとバカにしていましたね。


142 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/08 15:39 ID:???

新品の300Bを買う奴は、バカ。


143 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/08 16:00 ID:???
>141
故伊藤氏は最高の音とは言ってないけど、簡単な回路で良い音が出て長寿命で信頼性があるから使う。6BQ5PPも良い音と言っている。
故浅野氏や新氏は300Bに固執しているライターではないが、今更300Bの悪口は書けないでしょ。300Bと2A3は王様と女王だし(笑
佐久間氏はファッション(爆

故武末氏が1番信頼できる。早くからリップルフィルターを入れたTR安定化電源を入れていたし、何度もブラインドテストをした。結果、作り安い球かどうかは別として、そこそこのデータに仕上がった物は球の種類が違っても、さほど音は変わらないそうだ。

ラ技の那須氏も回路とトランスが音決めの決定権を持っていると言っていた。

イントラドライブの高圧送信管(言われるVT62や211等)を聴いた後では300Bですら音がかったるい。50が良いけど入手難で高い。


144フジオ03/02/09 18:30 ID:USbrNeqp
>>143
武末先生の原稿から引用します。

ラジオ技術98/12月号
「今回WE-300Bを使用するに当たって、まるで映画の『忠臣蔵』みたいに、300Bと名がついていればお客は納得して呉れるブランド指向をこの際見直して欲しいと思います。 プロ用などの高度の信頼性と超寿命を求めなければ、相当管はいくらでもあるのですから…。」

「(無帰還アンプの場合は)結論的に言って、300Bの特性に特に音を美しくするという根拠はほとんど見あたりません。むろん当初から音声再生用として設計された出力管ですから、WE社としては様々な工夫をこらしたであろうことは想像されます。しかし たとえば出力管の直線性という点から見ると、211や845などの送信管の方がはるかに優れています。」

「300Bの価格と名声を裏付けるものは、アマチュアがアンプに使って音が良い悪いのといった次元の話ではなく、真空管としての高い信頼性と超寿命の点にあるものと考えます。」


ラジオ技術75年2月号
「…300Bなどを最大規格で使用することに、寿命や信頼性の点で余りに臆病に考える態度は承服できません。というのは、われわれは国産の真空管でシングル・アンプを作るばあい、最大規格(設計中心)で使用することに何の危惧も感じません。そして、そのために寿命や信頼性が問題になることもまったくありません。そこでもし、ウエスターンの真空管が最大規格で使えないというのなら、国産のタマより信頼性が劣るということになりましょう。国産の真空管の数倍の価格は、少々無理をしても参らないというメリットなのか、それとも骨董品的価値なのでしょうか?

むろん昼夜連続運転する業務用機器や昔の映画館の映写室などの劣悪な保守状態を考えれば、設計にも特別の配慮を必要としますが、たかだか週に何時間ぐらいしか聴かないアマチュア用機器に、特殊な業務用の基準を持ち込む必要はないはずです。」

管球の王国の住人に読ませたい文章ばかりですね。真空管アンプを組もうとする人にとって、ラジオ技術社から出版されている武末先生の著作は必読書ですね。管球王国やコンコルド氏の著作なんて読まなくていいよ。

オリジナルのWE-300Bでアンプを組もうとするなら骨董品的価値もあるでしょうが、中国やロシアのタマじゃ意味がないですね。中国やロシア製の模倣球に使うお金があるのなら、武末先生の本を買いましょうよ。

というわけで、>>1さんのおっしゃるとおり。


146 名無しさん@お腹いっぱい。03/02/09 19:43 ID:NBXXGisu

武末は才能がないから、どんな球を使っても似たような音のアンプしか作れない


147 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/09 21:54 ID:???

盲目的な信奉を他人に押し付けるのはヤメたほうが良い。


148 名無しさん@お腹いっぱい。03/02/11 22:00 ID:AmYS8gcY
>>146さん
おお、武末氏をそのように評価する人に初めてお目にかかりました。
確かに、彼の書いた記事には「評価アンプと音質の差は判別できない」と文句が盛んに出てきますが、それは彼にアンプ作りの才能があるからだと思っていました。ちょっと驚き。

>>147さん
武末氏のアプローチは文学的なものではなく科学的なものですから、検証可能性があるということで、盲目的な信奉じゃないと思いますが...
文学的な表現を極力排除しているところなんて、佐久間氏の対極にある態度だと思うんですけどねぇ...


149 14603/02/11 22:09 ID:zTUxVN2O
>>148
いまからでも遅くないので、気づいてください。
彼は所詮、工業高校のしがないヒラ教師。

152 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/11 23:33 ID:???

多分、武末さんは音のこともわかっていたんだろうけど、あえて書かなかったのだろうと思う。 それを言い出すと、実験を元にした論理的な文章から逸脱してしまうから。 でも、あまり目立たないようには書いてます。

300Bシングルでは「結構美しい音」であるが、それが「かなり大きいひずみ」によって引き起こされており「試作機はでき損じ」としています。

同じ回路構成でDA-30に変更され、ひずみは減少し、音質はほとんど同じで「気のせいか堅くてしまった音がする」と言っているのは、学者の良識で、

”300Bがボケた音がする”

と言いづらかったのではないかと思います。


300Bプッシュプルでは2次歪みこそ減少したものの、

「これだけ費用をかけて、設計と調整に念をいれても出てくる音は”ごく普通の音だ”」

と書いています。
逆にかなり気に入っていたのは801Aシングルあたりではないかと思います。


153 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/11 23:40 ID:???

武末さんはそれでいいけど、武末マニアはそれを検証したのか、と言いたい。武末が気に入った音をお前も無批判に気に入るなら、佐久間のタワゴトを信じているトンチキと大差ないでしょ。


154 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/11 23:41 ID:???

実際に91アンプと801Aアンプ使っていますが、801Aの方が音が良い。
個人的な好みではなくて友人達の評価も含めて。

155 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/11 23:47 ID:???

だったらまずそこを立脚点として論旨を展開すれ。
武末の問題ではないだろ。
なぜお前およびお前の周囲は801Aシングルを良いと判断したのだ。


160 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/12 21:09 ID:???

>>155よ、むきになるな。 バブルはとうの昔に崩壊した。
300Bとて永遠に儲かるものではないのだ。
それでもJBLの4344のように、いまさら欲しくはないがかつての憧れとしてオーディオの歴史には残ることだろうよ。


164 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/12 22:23 ID:???

武末さんは、一見音がよくても測定した特性に難があればそこに踏みとどまらず、もっと高い次元のアンプ作りを常に目指していた。 武末さんにとっては300Bも通過点のひとつに過ぎなかった。
しかし、商売でやってる人にとっては、踏みとどまっていてくれる人が多ければ多いほど美味しかった。 そろそろ停滞期を終えて、新型の小型送信管あたり、作ろうというところはないのかね。


165 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/12 23:17 ID:???
>>164
測定って言うけどさ、300Bなんか測定したって大した結果出ないよ!
特性に難があるってどんなこと?
球アンプである以上、測定結果になんか左右されるべきではないのでは?
もちろん異常発振や、設計出力が出ないとか特性以前に動作に問題があるならいざ知らず。良い特性を目指す香具師には球アンプなんて作らない方が良いし、回路的に完成されつつある球アンプに特性なんて事を言い出すほうがどうかと思うぞ!


166 名無しさん@お腹いっぱい。edgayoi03/02/12 23:32 ID:???

300Bは見りゃわかるが、バタフライステムのうえに内部構造が弱い。 そのうえヒーターが長くてゆるゆる。ギターアンプのサスティーン用バネみたいなもんや。だからわんわんしてキレもない。あげくにヒーターが中点から出てないから片光りしてしまう。

伊藤爺が良いと言っているのは所詮コンシュマー用途ではない、WEの超高能率なレシーバー(ドライバー)やウーファー(ジェンセン社製)でのシステムでの話しや。

801Aが音が良いというのは今始まった話しではない。マニア間では高電圧、低電流管はトランシェント(キレ)が良くて音に浸透力があると言われていた。逆を返せば6G−B8なんてのは組んでも解体され続けてるやろ。
801Aは造りも強固や。送信管で使われ方が半端じゃないからや。
インターステージトランスでドライブされた801A(VT62)に対抗出来るのは300BではなくてRCA50とみんな思うてる筈や。
801Aは市場でだんだん見かけなくなってきた。VT62でさえ、昔は1本2500円だったのが1万円では買えなくなった。


167 名無しさん@お腹いっぱい。03/02/12 23:37 ID:E1p/i6/u
>>165
おっしゃるとおり、300Bはその価格に見合うほどの良好な特性は持ってないです。


170 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/13 00:08 ID:???

特性に難があると言うのは、回路を電気的に最適な設計して、ちゃんと測定した上でひずみが多いということですね。


171 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/13 00:19 ID:???

300Bは回路でひずみを減らせばつまらない音になってしまうが、直線性がよく、作りが頑丈な小型送信管では小ひずみでクリアな音が楽しめると言うことですね。


173 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/13 19:59 ID:???
>>170
ヴァカモノ!
電気的に設計してどうすんだよ?使用目的が違うぞ!


174 03/02/13 20:48 ID:???
>>170
そうだよ機械的に設計するんだよ。


175 名無しさん@お腹いっぱい。 sage03/02/13 22:14 ID:???

実家に親父が作ったVT62=801A?アンプがある。
構成はVT62-トランスドライブ(2:1)-75という構成。
電球のように光るこの球のアンプは実に綺麗な音を出す。
内部抵抗は少々高くて使いづらいが、VT62、VT25、211、845などの球はいいと思う。


178 名無しさん@お腹いっぱい。03/02/14 13:09 ID:NQv2U9ha

801や211はチャラチャラした軽薄な音色で好きになれなかったなあ。
音は綺麗なんだが、軽薄な感じが付きまとうんだよね。
845は結構充実した音色だったが、WE300Bに比べると、大げさなアンプになった割に、得るものが少ない感じ。
実用的なサイズ、出力で音も良いアンプをとなると、WE300Bは好適だと思う。

179 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/14 21:39 ID:???
>>178
まぁー何というか・・・
出力の点なんてあんまり関係無いと思うんだよね。
そりゃ、体育館クラスの部屋ならともかく、20畳程度ならSPの能率にもよるけど、5W程度あれば十分でないかい?
そこでよ、真空管アンプをどのような位置づけとするかだね。

その1、機能性最優先でデザイン無視!
その2、音も重要だが見た目も重要!

って事に大別されるとしたら、300Bって801Aとかのトリタンフィラメントと比べたら、圧倒的にビジュアル的に良くないね。
大体、興味の無い人間に300Bなんか見せても、ろくに光ってないし大した球じゃないと思われるのがオチ。それに比べてトリタン球は、 光ってる分ビジュアル的には激しく◎!
機能最優先なら、EL34なんかでも300Bと同等かそれ以上の音出せるし無理して金出して300Bにこだわるのは巷にあふれている300B信仰のせいだろう?
雑誌とか見ても、300Bの製作記事多すぎ!
どうよ?


180 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/15 14:39 ID:???

>>178 801や211はチャラチャラした軽薄な音色・・・

どんな設計・作製やら(藁


182 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/16 00:04 ID:???

300Bはバイアス深くて、前段を無ひずみで振るのが難しい。
どんな球で振ってますか。


183 名無しさん@お腹いっぱい。03/02/16 00:07 ID:vq605Eg7

たかが97Vで何をイッ取るか!
この軟弱者め


191 名無しさん@お腹いっぱい。 03/02/16 00:41 ID:Xhv4In/M
>>183
約100V。。。たしかに一本で振るのは大変だなぁ。
300Bにトランスドライブはイマイチ合わなそうだし。
12Aのような出力管で振るのはどうでしょう。やったことないんだけど。


185 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/16 00:12 ID:???

STC 4300B 使ってみな。すっごい艶っぽくなるから。


189 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/16 00:27 ID:???

5極管1本で振るか、3極管2段増幅かな?


193 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/16 00:47 ID:???

出力管で振らなきゃならないというところが300Bのもうひとつの欠点
プラスに振り込めればやる価値はあるのだけれど、
あの球はプラスの領域ほとんどないから発振するかも。

194 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/16 00:49 ID:???
やりにくいけど、電圧増幅管で済ませたい。


196 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/16 12:09 ID:???

300Bやりにくいな。


197 名無しさん@お腹いっぱい。 sage03/02/16 14:02 ID:???

使いにくさで言ったら送信管の方が上だけどね。


198 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/16 15:08 ID:???

70mm〜80mmも流さなくてはならないところがさらに面倒。
インピーダンスが低い分、電源の影響大。


200 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/16 16:02 ID:???

アウトプットどうする?

208 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/20 13:36 ID:???

10年程前にNL−50という球が売られてさ。
6.3V点火か7V点火かで多少議論をよんだ球なんだけど。
名前は50なんだけど実際は300B寄りの球で、セトロン製か閉めたWE工場の冶具で造ったらしい。
WEは工場を2〜3箇所もってたらしいよ。
ただし販売商社はナショナル(NL)。
実はこれが高真空で300Bよりも音が良いわけよ。
店や製作ライターが青ざめたけど300Bより良いとは書けない(笑
所詮この世界はこんなもの。カルト。


209 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/20 15:28 ID:???
>>208素人。
NL50はRCA50とは別物だが、300BよりRCA50の方が数段音がいいのは、通の間では常識。


211 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/20 17:13 ID:???
>>208
セトロンかWEかはバタフライの上端みりゃ判るんだよ。
REプリントで騙されないようにな。WEはまったいら。
波うってりゃ偽物。


213 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/21 11:23 ID:???

何方か松並さんのEF37-300Bを作られた方いらっしゃいますか?
もしくは、EF37ってどうなんでしょう?


214 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/21 21:13 ID:???

6SJ7と一緒


215 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/21 21:28 ID:???
>>213-214
正確には、6SJ7の前身でトップグリッド球。
がしかし、通ならEF39を使うw

223 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/25 08:28 ID:???

漏れの300Bはセトロンですが、電源投入時にハムが出ます。
WEとか他のメーカーの球でも出るんでしょうか?
出るのであれば何が原因ですか?
因みに漏れは直流点火してます。

224 名無しさん@お腹いっぱい。age03/02/25 18:35 ID:???
>>223
そりゃ普通だ。


228 03/02/26 20:57 ID:0K5ILgKi
>>223
電源投入直後だけハムが出るんですか?


233 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/27 10:59 ID:???
>228 
そうだす。WEも出るよ。


234 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/27 22:14 ID:???

タンノイのスターリングっていう小型同軸でバロックや小編成室内楽を
聴いてるんだけど、虎の子の300Bシングルは「気合を入れて聴く」とき。
「BGM」には6BQ5シングル。

ところが、友人は絶対6BQ5のほうが良いというので困る・・・
制作費は24万対4万なんだが(藁
来る度にそう言うから俺も最近はそうかも・・・と(爆

237 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/28 01:17 ID:???
>>234
どんな回路なのか詳しく教えて呉れないか?


238 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/02/28 05:24 ID:???

WE300Bは一般に言うところの91アンプ型。
310A−300B−5U4G
トランスはタムラPC3004−A4004−F2007。
やっぱり274A(B)じゃなきゃダメかな?
出力トランスがプアすぎたのか。

6BQ5アンプは'92年初版のラ技社「真空管アンプ24種」那須好男著より。
前段6AQ8。カソードNF使用。トランスはPH100−H5S。
ダイオード整流を整流管に変更。出力5W。凄いスピード感がある音。

おそらく自分の耳が悪いと思われる。ん、絶対そうだ。でなければ
WE300Bに悪い(笑

240 237sage03/02/28 13:15 ID:???

あぁ予想通り。
その回路は邪道です。6BQ5に負けて当たり前。
まず、最初に、実習だと思ってWEの91型回路に組んでみてください。
そしてOPTはもっといい物を探しましょう。
AFchのA4004はインダクタンスが低すぎるので、20Hくらいのものにしてください。整流管は80がお奨め。5U4や5R4なんかよりよっぽどいい音するからお試しあれ。¥0.5−3k程度。
但し茄子は耐電圧が低めなので、STの最末期の製品にすること。
PIVは1400Vなので、450V程度は軽い。
電流が足りなければパラにする。その際は各プレートに100ohm程度の抵抗を入れること。

250 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/03/01 12:43 ID:???

91型アンプの音が良いという聴覚障害者の言うことなんか聞いてはダメ。


252 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/03/01 16:01 ID:???

91型で300Bは振りきれません。
低インピーダンスの3極管もしくはトランス結合が有効。
トランスも大電圧だと帯域が狭いから結局3極管が有効。


256 名無しさん@お腹いっぱい。03/03/03 15:02 ID:9WgCcaGs

WE91B信者の多くは、実はオリジナルが、 ハイゲイン・高帰還アンプであることを知らない。


257 名無しさん@お腹いっぱい。sage03/03/03 17:03 ID:???
>>256
普通に当たり前では...
負帰還はベル研究所の発明でつ。
回路図見ればわかるし。
ただあの負帰還と後年の負帰還はニュアンスが違うといってみるテスト...


258 25603/03/03 17:07 ID:YPDxHKYh

WE91B信者の多くは、実は当時310Aの方が300Bより、7倍も高価だったことを知らない。
http://hifi.denpark.net/1033302255.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c21

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
22. 中川隆[-8831] koaQ7Jey 2019年8月16日 17:35:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3911]
300Bシングルアンプに最適なスピーカー


Western Electric 300B プッシュプル・アンプ WE-86B
出力 20W, 周波数帯域 40〜10000 Hz

Western Electric 300B シングル・アンプ WE-91B
出力 9W, 周波数帯域 50〜 8000 Hz


WE-86B のレプリカ

Sunvalley SV-86B (オリジナルとかなり違っています)
http://ustation21.jp/ghtm/2262.htm
http://blogs.yahoo.co.jp/izumikta/24020429.html
http://blogs.yahoo.co.jp/izumikta/24020757.html
http://score1204.exblog.jp/16178874/
http://score1204.exblog.jp/16182873/

WE-91B のレプリカ

@ P&C Electronics WE91AMP (正確なレプリカです) 
http://www.pandcamp.com/wepartamp/we91kit.htm
http://www.pandcamp.com/ampkit/ampkit.htm

A Sunvalley LM91A (オリジナルとかなり違っている様です)
http://www.youtube.com/watch?v=TXGrsg1NC4I
http://multi845.exblog.jp/16213149
http://multi845.exblog.jp/16440436/
http://score1204.exblog.jp/17723612
http://score1204.exblog.jp/18068006

B Sunvalley SV-91BIII (オリジナルとは全く違っています)
http://www.kit-ya.jp/product_info.php?cPath=86_87&products_id=667

1 :4300B:2010/11/26(金) 16:21:54 ID:koPCZc22

ヴォーカルからフルオケまで。


20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 21:54:27 ID:OlRxFuIM

300Bシングルなら大昔のフルレンジだろな。

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 15:13:41 ID:XYfOxmDh

WE 755、ローサー、Axiom 80、P-610辺りだな
WE 555等のドライバー用には却下


ウェスタン・エレクトリック WE 755
20cm フルレンジ
インピーダンス:4Ω
周波数特性:70Hz-13kHz
出力音圧レベル :92.5dB
http://www.youtube.com/watch?v=KV5dMlmW2tQ
http://homepage3.nifty.com/western/audio/we755a/we755a.htm
http://www.soundbase555.com/product_top/755a.html
http://www.westernlabo.com/73_2515.html


ローサー TP-1 BZ1 (ユニット PM-6A×2)

PM-6A
20cm ダブルコーン フルレンジ
インピーダンス 8 or 15 オーム
再生周波数帯域 30〜20,000Hz 
出力音圧レベル 98dB 
http://www.utopianet.co.jp/product/import.html
http://www.lowtherloudspeakers.com/
http://www.lowtherloudspeakers.com/a-series.html
http://www.utopianet.co.jp/product/import.html#lowther
http://www.kawaguchiaudio.com/index.php?option=com_content&view=article&id=7&Itemid=3
http://www.anc-tv.ne.jp/~suzuki3/sp_lowther/sp_lowther_hoon.htm
http://www.sum-tech.co.jp/audio/speaker/

GOODMANS Axiom 80
24cm ダブルコーン型フルレンジ
インピーダンス:15Ω
再生周波数帯域:20〜20,000Hz
出力音圧レベル 97dB
http://garrard301.exblog.jp/11138738
http://blog.goo.ne.jp/kuiren/e/0456de7031bd22c3e17d4345bb6de382
http://audioagent.wordpress.com/2011/04/30/goodman_axiom80/
http://www.geocities.co.jp/MusicHall-Horn/3384/audio/favorite.html


DIATONE P-610
16cm シングルコーン型フルレンジ
インピーダンス 6Ω
再生周波数帯域 80Hz〜10000Hz
出力音圧レベル 97dB
http://audio-heritage.jp/DIATONE/unit/p-610.html


ウェスタン・エレクトリック WE555
http://homepage3.nifty.com/western/audio/expr2023/expr2023.htm
http://www.otono-edison.com/original/speaker/oogata.htm
http://www.gip-laboratory.com/seihinn555.html

316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 19:50:11.51 ID:fnal2Wca

300Bシングル + アキショム80
でエレガントに鳴らす。 ふわっと漂うがごとく軽やかに。
それしかないでしょう。 クラはもちろん意外とジャズもいける。

低能率SPに高域に変な味付けして、いかにもな厚化粧の最近のSPに辟易。小音量だとトロくてどうしょうもない。


4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 16:27:37 ID:IYoOq5nQ

Axiom 80、死ぬまでに一回聴いてみたい。

364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/23(日) 15:52:08.69 ID:rOIZFTKg

axion80純正箱入り
エンクロージャーを樽にしたローサーPM6

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 19:27:51 ID:x/AlEPXH

ローサーなんか合うんでないの?


61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/21(金) 17:55:06 ID:I3m+HUFS

ローサーて今でも新品が手にはいるかなー。
昔、ピアノの立ち上がりが素晴らしいとの評判でしたよ。


64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 21:05:08 ID:vKUN2u5q
>>60
いいねぇ
TP-1なんてほしいねぇ

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 21:08:31 ID:xfni92nl
>>61
ローサーの輸入はユートピアがやっている。
でも伝統のAシリーズしか輸入してないみたいね。
それも20cmユニットだけで六半ユニット(16cm)は輸入してないみたい。
個人輸入で入れてもらえるかもしれんけど数ヶ月以上待ちパターンかな?

上位機種のEXシリーズやDXシリーズはレアアース使用でなかなか、ぼくも興味はあります。


67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 13:22:03 ID:MQaJWdZ7

ローサー現在でも買えるのですねー。機会があれば一度ぜひ聞いてみたいですね。


156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 12:01:45.23 ID:TT7zVo5L

300Bシングルアンプの音って良いですねー、もーこれで仕上がり。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 10:36:42 ID:YCQjsote

なんで、みんなフルレンジなの?


7 :3:2010/11/29(月) 01:32:07 ID:eIO5Y/AD

シングルだと帯域が狭く歪みが大きいからフルレンジの方が相性が良い

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/12(日) 17:45:56.37 ID:TjzpnoCO

15000ヘルツ位しか出ないスピーカーは現代ではナロウレンジで物足りない


118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 23:54:39.54 ID:jE7ST/26

聴こえないって。


119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 02:53:11.84 ID:tQf9Fv5w

オレも15kHzは聞こえない


123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/23(木) 12:05:12.36 ID:jugBptmJ

15kHzが聞こえないのはご老体だと思う
20kHz以上のでるスーパーツイーターは人間の耳に聞こえない
だが、効用ありとの見解も聞く
わからんが、聞こえない音に意味があるのだろうか

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 09:06:31.16 ID:i05gwQiL
>>123
高調波(倍音)は音色の違いに関わってくるぞなもし。


128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 14:30:59.39 ID:ExUt2P8I

超高域が中低域と同じような聞こえ方をすると思ってるバカが多いよな。
あれは、たとえるなら、
プラズマイオン発生器のような感じ方のする音なんだよ。

306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 23:31:29.64 ID:+4J37b61

フルレンジを入手するにも、現行だとよさげなの無いんじゃない?
ビンテージユニットだと程度良いのが余りない。


307 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/22(日) 13:42:01.18 ID:oE1OVLU9

フルレンジだと抑えがきかないし限界があるので、厭きてしまう。
で今はEMIを使っているが、あまりに味のある音がするので
もっといいアンプあるかもと・・・


312 :307:2012/01/23(月) 19:07:55.92 ID:gngjDYce

我が家はEMI DLS529

EMI DLS529
フルレンジ+トゥイータの 2ウェイ・3スピーカー
インピーダンス    : 4Ω
http://www.youtube.com/watch?v=HeH94qDDrwE
http://kodo-alma.blogspot.jp/2011/12/emi-dls-529.html
http://vintage-audio.jp/?p=83
http://audioagent.wordpress.com/2010/01/16/emi-dls529/


189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/10(月) 23:25:24.56 ID:gUShZ2or

300Bにはアルテックなんじゃね

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/30(火) 18:32:39 ID:BKq0cEC9

ALTEC 604-8G
40cm フルレンジ
インピーダンス 8Ω
再生周波数帯域 20Hz〜22000Hz
出力音圧レベル 103dB

http://www.mnsv.co.jp/ALTEC/images/604History.pdf
http://homepage1.nifty.com/ModernJazzNavigator/audio/a4.htm
http://www.fsinet.or.jp/~ash-k/604siries.htm
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1243814627
http://www.procable.jp/setting/07.html
http://www.geocities.jp/ph7833/dc_amp/yume_tomorrow.htm

あ、フルレンジか


330 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/17(土) 12:57:00.03 ID:qYckKyUI

前段もなしボリュームもなしで604-8G鳴らしてます。なんの問題もありません
衝動買いしたD-45がホコリ被っています


334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/29(金) 21:14:55.00 ID:sZw9aJPI
409-8Eあたりがいいのでは。


ALTEC 409B・409−8E
20cm 同軸型2ウェイ
インピーダンス: 8オーム
周波数特性: 50-14000hlz
能率: 98dB
http://homepage1.nifty.com/ModernJazzNavigator/audio/a5.htm
http://www.ceres.dti.ne.jp/~takojin/Speakers/altec409B.htm


318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 09:37:57.52 ID:Xqd2qxV1

ALTEC A7型で鳴らしてます。91Bタイプにしました。
以前は途中にインターステージトランスを入れてやってましたが、初段を5極管にしてからよく鳴るようになりました。どんなスピーカーでもそれなりにいきそうです。


ALTEC LANSING A7-8
2ウェイ・2スピーカー
インピーダンス 8Ω
再生周波数帯域 45Hz〜20000Hz
出力音圧レベル(新JIS) 103dB
http://www.youtube.com/watch?v=ha0l5is3SpI
http://audio-heritage.jp/ALTEC/speaker/a7-8.html
http://members.jcom.home.ne.jp/ads/w-altec.html


326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/09(金) 02:26:08.08 ID:fAzm9OHf

ALTEC A5を鳴らせてます
プリは自作(RIAA以前のカーブに対応させる為)ですけど


ALTEC LANSING A5
2ウェイ・2スピーカー
インピーダンス 16Ω
再生周波数帯域 30Hz〜15000Hz
出力音圧レベル 106dB
http://www.youtube.com/watch?v=eWRWKyLtwYg
http://audio-heritage.jp/ALTEC/speaker/a5.html
http://samuraij.blog.shinobi.jp/altec/altec%20a5%20a7

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/23(火) 12:17:53.91 ID:u8oldnUO

昔、三栄無線で300Bシングルでコーラルの30cmウファーに木製ホーンにドライバで
鳴らしてけど低域も高域も音離れのよい爽やかな音で鳴っていたな。
最近は、能率の低いスピーカばかりで、あの音離れのよい音は聴いたことがないな〜。


133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 03:57:09.31 ID:B3Kyygh7

300Bシングルアンプを業務用に使ったのは唯一WESTERN ELECTRICですから
現実を別にすれば最適なスピーカーWESTERN ELECTRICでしょ


327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/09(金) 20:26:45.75 ID:v6DO6rdP

WE555のアンプに使ってます。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/03(土) 13:24:49.11 ID:bR4rOQza

WE555などを除き大型システムはいくら能率が良くても無理だよ


137 :王ディオはこんな方々:2011/09/03(土) 13:41:38.56 ID:DrFti2q+

何が無理なの? 楽勝でしょ?

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 23:20:06.75 ID:TH9hzolu

ヤッパWE555+15A


167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 16:11:11.48 ID:j44iLhPR

WE555+15A(17A)はフルレンジで使える物じゃないんだよ。
普通TA-4151Aがウーハーに使われてる。

TA-4151A
http://www.youtube.com/watch?v=jPgwiRNfzxg
http://www.westernlabo.com/70_2514.html

153 :魁!オーディオ塾:2011/09/08(木) 23:26:29.63 ID:+01GGZE7

300BとB&W・・・B&Wが怒り出しそうだ。
300BとKEF・・・せめてマイケルソン&オースチンとかパラビチーニとかだろ。
300Bとハーベス・・・そもそも樹脂コーンだぞ、まあ合うけど。
300Bとソナス・・・これは合うけど。
300Bとダイアトーン・・・でかいアンプのイメージあるが、まあ合うけど。
300Bと米国ハイエンド・・・それは絶対に無い。


154 :魁!オーディオ塾:2011/09/08(木) 23:33:20.83 ID:+01GGZE7

#なおWEやアルテックなどはJBLに含む。
TAD、FOSの大口径ユニット、フィールド系、WEレプリカも全てJBLの仲間と見なします。


112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/03(火) 00:18:35.60 ID:cW3xW8Sk
>>1
JBLとタンノイ。
JBLとタンノイとか言うと、またお前らが怒り出すんだろうなあ。


375 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/13(日) 17:47:02.89 ID:7wj8CYyu

300Bで室内楽ならタンノイ
この場合高域の抜けの良い高槻球、カートは103が俺の好み

300Bでジャズならアルテック
この場合は暖かみのあるWE球、カートはV15Vが俺の好み

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 10:31:19 ID:q5VRxot2

300BのシングルにAltecは定番だが

JBL 130B
http://audio-heritage.jp/JBL/unit/130a.html

JBL LE175
http://audio-heritage.jp/JBL/unit/le175.html

の組み合わせも捨てがたいぞ


328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/13(火) 00:22:45.77 ID:jVEEmpCb

375や288なコンプレッションドライバーにあいそうですね

JBL 375
http://audio-heritage.jp/JBL/unit/375.html

Altec 288-16G
http://www.clipx.co.jp/shop/horn/288G/288.html

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 18:21:54.35 ID:azCcPtjD

JBLはKT88のプッシュプルで

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 18:02:39 ID:NfEdOUsT

定番 タンノイ オートグラフに1票

TANNOY Autograph
15inch 同軸2ウェイ
インピーダンス 8Ω
周波数特性 30Hz〜20kHz
出力音圧レベル 96dB
http://audio-heritage.jp/TANNOY/speaker/autograph.html


114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/05(木) 00:21:34.22 ID:itvrXC26

同軸は、中抜けのくせにアンプの狭いレンジをさらけ出すので大変

347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/03(金) 18:12:52.78 ID:tjaPMKmg

ウエストミンスター鳴らしてます、バワーも十分だと思います。


144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 17:00:47.03 ID:WkDpjUvZ

ウエストミンスターが300Bで上手く鳴ってます。私的にはですけど・・・

TANNOY WestminsterRoyal/HE
38cm2ウェイ同軸型
インピーダンス 8Ω
周波数特性 〜22kHz
出力音圧レベル 99dB
http://audio-heritage.jp/TANNOY/speaker/westminsterroyal-he.html

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 11:07:52.87 ID:WO3Ahw4G

タンノイに300Bシングルだと、低音ぶよぶよのイメージが。
実際のところどうよ


146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 15:47:34.09 ID:ZoSm6Fvb
>145
低域は出ますけど締まりは良いですよ。


148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/06(火) 19:16:22.45 ID:BGLxLvxt
>>145
「低音ぶよぶよ」になるのはスピーカーが壁や床に近過ぎる
から。
タンノイだけの問題ではない。


149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 00:20:07.13 ID:LCcpCB52

タンノイと言っても色々あるからな
ブックシェルタイプは300Bシングルではきついいんじゃない、
500Wぶち込めるタンノイもあるし

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 23:14:16.25 ID:xju1fOBd

低音の出ないシングルトランスなんじゃない?
300Bが低帰還や無帰還で普通に鳴ればまず間違いなく低音ぶよぶよだよ。
タンノイの低音ってトラアンプでも元々ぶよぶよなんだから。

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 12:35:36.79 ID:G4hKfk2V

300Bシングルは、あまり低域を欲張らないほうがいい。


158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 13:22:58.16 ID:4obAgkTx

シングルで低域を欲張れる球って何よ
6C33B辺り?


160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 16:58:04.84 ID:G4hKfk2V
>>158
50

152 :魁!オーディオ塾:2011/09/08(木) 23:18:12.02 ID:+01GGZE7

スピーカー界にタンノイとJBLしか無いのに、
批判する人間って何なんだ?

しかも300Bで鳴らすSPって完全にこの2つに限定でしょ。


161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/11(日) 00:00:05.18 ID:+1HbgZzh
>>152,154
意味解らん?

何故にJBLで括る?
しかもJBLとタンノイしかなくってWE系もJBLだって?

タンノイってロンドンウエスタンの下請けの技術者だったって知ってる??
そういう括りするなら一昔前までのラウドSP全部がWE系だよ。

一般的な流通品のJBLもタンノイも300Bしかもシングルには全く合わないよ。


162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 08:36:00.12 ID:gbRntxzF
>>161
タンノイのターンベリーやスターリングも300Bシングルアンプは合いますよ。


164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/12(月) 21:44:15.07 ID:io0wEKZm
>>161
合わないよ。特にそんな新しいタンノイにはね。

タンノイみたいに低音の鈍いSPにはウーハーを動かしてくれるSPが要るよ。
低音ダラ落ちのオモチャトランス搭載のキットとかなら行って来いになるかもしれんけど、それって凄いレベルの低い話じゃないかな?

ブラックかシルバーをWE91Bで鳴らすってのなら話は少し変わるだろうけど
それでもPPの方が良いし。

175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 18:38:57.48 ID:xLEEiI9s
>>161
差別主義者ですか?
下請けかどうかは全く関係ない。


176 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/27(火) 01:22:03.88 ID:ciZBM8tT

ガイ・アール・ファウンテンがWE系列の会社の技術者だったって事でしょ。
だからTANNOYもWE直系と言えなくもない。
実際デュアルコンセントリックの1マグネット仕様、イコライザーのマルチホール等は当時WEがFM局のモニターに採用してたツルーソニックのコピーだし。
別ホーン無しのコーン紙をホーンにするのはJensenTYPE-Hのパクリ。

何の差別?
TANNOYもJBLもWE直系。
でも初期の旧製品以外は300Bシングルにはどっちもマッチしない。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 20:23:54.52 ID:6wdtZCD9

300Bのシングルアンプ、5Wぐらいしか出ないんじゃない?
良質な300Bって、手に入るのか?
A5,A7とか、昔のスピーカーしか鳴らせないんじゃない。
俺は、5881愛用者なんで、毎日、4320をぶちかましてるよ。


122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 21:47:29.38 ID:ZntZloVP
>>121
ちゃんとドライブ段を設計すれば20W近く出せる。例は武末氏のやつ。藤本氏のやつもある。


34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/11(土) 12:46:11 ID:VwOkPMkc


JBL 4320
2ウェイ・2スピーカー
インピーダンス 8Ω〜16Ω
周波数特性 40Hz〜15kHz
出力音圧レベル 97dB
http://audio-heritage.jp/JBL/speaker/4320.html

が現役でMJのアンプのテストに使っていた頃
300Bのアンプがいつも評価が低かったを覚えている
DFが1から3くらいで10W出ないアンプなんて低い評価しかないと思った
DFが5以上で20W以上のパワーがあるアンプで無いと鳴らないSPは、多い

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 23:07:17 ID:cOrhVHXN
>>34
moが100gもある15インチは300Bsじゃ電力量的にも駆動できんわな。
30cmでも昔のダイヤトーンとかガラス繊維系にはそれ位のもある。
大昔のオーバーダンピング気味の8インチをパリッと鳴らすのが王道だろ。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/18(土) 15:09:58 ID:qjMcPcfp

4320のウーハーは70gくらいだよ


42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/18(土) 17:49:20 ID:vEZD/bKw

4320は2215Aだろうから95gじゃね?
70gなら130や2220だよ


75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 22:28:40 ID:jmyCLpx5

オールマイティでボーカルからオーケストラまでOKというと、
タンノイのRHRなんか合うんでない?
http://blog.goo.ne.jp/royce7799/e/134c618ea81d5d152f8dfc1b8800c2e8


TANNOY RHR/N
38cm 2ウェイ 同軸型
出力音圧レベル 92dB/W/1m
http://audio-heritage.jp/TANNOY/speaker/rhr-n.html


77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 23:06:37 ID:9KVqnin3

決め手はJensenのTYPE-Hだよ。

タンノイ同様38cm同軸でコーン紙がホーン。
タンノイと違いコーン紙の重量が50gほどしかない。
能率もALTEC並みでフィックスドエッジで515より軽い弾んだ低音が出る。
パワーがとダンピングファクターの取れないシングルのアンプにゃぴったりだ。

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 03:06:08.40 ID:nWLSq4UC

そこでコンデンサー型ですよ


88 :私の息子はEL34:2011/02/06(日) 01:21:06 ID:qkYfCGPb

以前 QUAD-ESL63 を300Bで駆動している例を観た記憶が有るけど
高域で公称インピが減少し、出力音圧が低いコンデンサー型をまともに鳴らせるのか知らん?

QUAD ESL63
コンデンサー方式 フルレンジ
公称インピーダンス 8Ω
再生周波数帯域 35Hz〜20000Hz
出力音圧レベル 86dB

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 10:55:27 ID:GsyQe4HZ
>>88
球のアンプだからインピーダンスの低下は問題ないけど
ELS63に300Bじゃ明らかにパワー不足でクリップするね。


10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 12:23:50 ID:qO9Ctg6S

Lo-D HS-500 (出力音圧レベル 88dB)
http://www.niji.or.jp/home/k-nisi/hs-500.html

なんてどうよ


11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 13:22:05 ID:8yRnp/Qb
>>10
シングルで使うには能率が低過ぎでは?


12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 13:31:12 ID:qO9Ctg6S

88dBだけど、聴感上は90dBくらいあるよ

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 00:47:23 ID:9W6qq57I

やっぱ93dBくらいは無いと面白くないかも


254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 18:14:51.21 ID:XC6WZT7/

300Bシングルアンプで使用するスピーカーは能率の良いもの
94db以上が最低の条件と思う
90dbのspで120dbの音を出すのにはアンプの出力は理論的には1000w必要となる
8wそこそこのシングルアンプで充分鳴らすには98db程度のspが欲しい
以上と個人的には思う
ちなみにフルオーケストラのオールでの最大音は120db程度と聞いたことがある

255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 22:25:31.49 ID:kW2SgdAR

↑何mで120dB?


258 :254:2011/12/26(月) 19:00:27.33 ID:mz9hmNeQ
1m


335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/30(土) 17:22:06.02 ID:k5rEA61/

八畳洋室で300Bシングルを94dB/wのSPで聴いているが、ポップス・室内楽は大丈夫だが管弦楽はチトつらい。
98dB/wくらい必要なのでは。


336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/07(土) 01:01:31.45 ID:31+IMDnr

ウーハーは30cm位が限度。38cmはチトつらい。


339 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/20(金) 03:24:50.76 ID:2C7zr7Qc

何か情けない自作に300B基準に考えてない?
よっぽどトランスが貧相で低音出ないとか?
91アンプなら15インチは必須うだよ。98dB/w以上のね。


340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/20(金) 12:52:48.51 ID:baXgkGgS

そんなことは無い


343 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/27(金) 19:10:22.72 ID:QS+bIdFt

シングルトランスって基本低音ボケてるから15インチ無理って人も居るんだろうね。
トランスの性能上がれば15インチは使えるし要るでしょ。

わざわざ300B使って409とか寂しくなるね。
まずはSPから、標準品買ってから球の話しようよ。


344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/01(水) 17:42:02.50 ID:4/yndy+R

タムラ2007使った自作品でアルテック604-8G鳴らしてるけど不満はないなぁ

304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 12:54:49.62 ID:1vjueb8J

我が家では口径の大きなSPはハムが強調されるので20センチがベスト
これで満足するために修行の毎日だ


305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 19:14:46.17 ID:6eavnb+x
>>304
先ずアンプをノイズが減る様に直す事だニャア。


14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:11:26 ID:fjJxfc1M

100dB/m,w程度の能率は欲しい


15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 14:34:40 ID:h9TvK1I2

さすがに100dBでは、残留雑音がキツイのでは?


16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 20:01:59 ID:202Ivsbc

SPから離れて大音量で聴くしかないな。
部屋がでかくて防音がしっかりしていないと無理。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 20:10:35 ID:h9TvK1I2

しかし6Wで、大音量とは


18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 20:15:52 ID:zqSYXll1
>>17
片側105dB SPLは結構な音量だぞ

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 21:06:04 ID:NGPsVc64

これはどうよ?

JBL 4722/4722N
http://www.jblpro.com/catalog/general/product.aspx?PId=84&MId=1

ほんとかなー、能率104dB。


82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 23:08:57 ID:cfNbcPpb
>>81
この手は能率が高いからってDFの低い少出力アンプで鳴らしたりするとまるで音にならなかったりする。


86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 15:44:06 ID:Zv95xYpj
>>81
JBLの2220って、単品で101dbいくから、2本で+3dbあがって101+3=104db
ただ、8Ω物でパラにすると4Ωだから、4Ωタップのあるアンプが限られる
2220Hじゃなくて2220Jなら16Ωだからパラにして8Ωで使える

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 12:50:28 ID:D5PBfhR/
>>81
アルテックの211,210のダブルウーファーでフロントホーン、無敵


99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/12(土) 17:37:06 ID:i4Q1zLO5
>>98
あれにマルチセルラホーンをのせたらいいね


101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 07:47:55 ID:nVLahWUJ
>>99
それがA4


195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/16(水) 22:15:07.51 ID:MgzxBsPQ

どなたかJBLのスピーカー(S4700,4344, 4365や4348等)を300Bシングルでドライブしている方はいらっしゃいませんか。
私は今AVアンプをプリアンプにして、フロントSPを8W+8Wの真空管300Bシングルプリメインアンプ2台をパラドライブで接続しモニオおSS8をドライブしています。
去年、モニオPL300か、B&W802Diaを真剣に導入するつもりで、お茶の水オーディオユニオンで300Bアンプにて試聴しましたが、結構いい音でドライブできていました。
S4700も能率が高いSPなので300Bでドライブできるのではないかと思っています。
真空管アンプ派の方のご意見をお聞かせ願います。


196 :家政夫のミタ:2011/11/16(水) 22:27:36.00 ID:j3bLXxfS

JBL#S4700はウハハのエッジにギャザード型を採用していて中高域/高域のユニットと共にエージングが長期間必要です。出力音圧が高いので300Bの低出力を補うでせぅが短期間の視聴で相性を判断するのは危険で御座居ます。


200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/16(水) 23:23:15.46 ID:Akje/xV6
>>195
300Bシングルより300Bプッシュプルで高出力広帯域な物が必要でしょうなあ

240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/16(金) 22:04:00.46 ID:Kuu4DGHc

300Bppアンプに最適なスピーカーってどの辺り?


247 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/18(日) 12:01:41.92 ID:Uh4Oair3

アンプに合うSPってのは無いね。 あくまでSPが主体だから。
とはいっても300Bならば、高能率15インチによし、フルレンジによし、
トールボーイによしだろう。ただ大電流が必要なSPには合わない。


248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/23(金) 04:16:12.91 ID:YbsO1bcw

アルテックのA'なんかどう!?帯域狭そうだしボイスは明瞭で能率は高い。


249 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/23(金) 07:44:55.83 ID:esMf2zD+

S/N良いのが作れれば合うよ
A*はちゃんと鳴らせば充分に広帯域だからアンプの帯域も数Hz〜数100kHz迄必要

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 17:43:34 ID:WK4A7s51

米系以外で300Bシングルにマッチする欧州系のスピーカーが知りたい。
米は艶がなく、ひからびて乾燥している。古いタンノイはどうかな。
93db はあるが。


62 :あんちょこ ◆44iVG5nexo :2011/01/21(金) 19:45:25 ID:zykxtEEu
>>59さん
300Bは能率が高く、反応の良いユニットならオールラウンド
艶が欲しいなら、タンノイ、グッドマンが最右翼だな。
これはどちらもそれぞれ長所があるので選ぶのに悩むだろな、
ローサーは弦の爪弾く感じにハーベスとはまた違った、鳥肌系
タンノイが比較的、大編成でもいける。
グッドマン、ローサーは部分を引き出すのにはタンノイより上
悩んでくれ。


63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 18:53:19 ID:gdXVfyJH

実はタンノイはEL34のパラプッシュで鳴らしています。
今回国産の300Bの球だけ買いましたので、将来的にはとりあえずタンノイを鳴らしてみようとおもいます。現行スピーカーではないですよね。
OTLも出力トランスから解放されて、素晴らしい音がすると推定されます。
聞いたことがありませんのでコメントのしようが有りませんが。

29 :私の息子はEL34:2010/12/10(金) 16:05:30 ID:gdW2Sdzb

今までのレスには3極管だから、こんなユニットと相性が良いと言う理論的な理由が殆ど無いよ。


31 :3:2010/12/10(金) 20:54:54 ID:WF7kvOwz
>>29
三極管の特徴は直線性に優れ、且つ内部インピーダンスが低い事だが
シングルの場合は特徴である低内部インピーダンスが出力トランスの影響で十分な低域を引き出せない
優れた直進性を活かすならばNON-NFBで軽量コーンを使用した高能率ユニットを奨める
ホーンユニットを奨めないのはシングルの癖が出易いから
スレ違いだが、もしもプッシュプルであればどの様な用途でも使用可能
バシッとした低音から澄んだ高音迄鳴る


32 :私の息子はEL34:2010/12/10(金) 22:02:58 ID:gdW2Sdzb

然し、Mr.是枝先生がWE300BにNFBを掛けることは我が国ではタブ〜としている風潮が有るが特性向上の為に軽いNFBはWE300Bに不可欠と感泣王国にカキコし鳥ますた。
まぁ最近の出力音圧レベルはシステム品では90dbを下回る物が多いから古い製品しか無さそ〜。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/12(日) 06:02:26 ID:/MOQ446W

何でシングルならレンジが狭いと決めつけるのかな?
確かにアウトプットトランスは磁化の影響で上手く造った物でないと低音出ないのが多いけどWEの171Aだと少し緩めではあるけれど充分に低音は延びてる。
測定したって20Hzまで殆ど落ちない。

高域も310で無帰還なら落ちて当たり前だが少しNFB掛けりゃ充分にワイドレンジとなる。
何で直熱管なら無期管なのか?
91の為にNFBが発明されたというのに何故に300BシングルにNFBを掛けないのか?

確かにダンピングファクターは3くらいだからスピーカーの時代は選ぶかな。
PPの86の方がダンピングファクター低くってよりスピーカー選ぶんだけど。

まあ、良く出来た300Bシングルで鳴らせないスピーカーにろくなのは無いな。


38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/14(火) 16:24:28 ID:Ius3OPk6

AIR TIGHT ATM-300はNFB可変(当然DFもそれにつれて変る)
NON NFBポジションも有るので手軽に試せて面白いが
ATM-300限定でいうとNON NFBがベストのSPの方が少ないと思う。


44 :あんちょこ ◆44iVG5nexo :2010/12/30(木) 18:23:07 ID:4rBGa+Mz

セカンドとしてタンノイやアルテック、グッドマンを小音量で鳴らせば極上だと思うけど、いかんせんもう少しパワーが欲しい!
シングルと言わず、プッシュプルならパワー不足も辛うじて避けれる。方向は若干変わるけど、6C33Cならシングルでも不足を感じないので、ソッチの方向もアリと思う、、、。


46 :私の息子はEL34:2011/01/02(日) 09:56:35 ID:6+Q9dPl2

この前逝去した上杉氏は自作用に300Bシンクルは発表したが自身の会社からはPPしかリリースしてないことを考えると300Bシングルがバーサタイルな真空管アンプ(出力の点において)では無いと言うことだろぅ。


45 : 【豚】 :2011/01/01(土) 16:23:23 ID:8dmugWy7

PPにすると細かなニュアンスが消えてしまふ


47 :あんちょこ ◆44iVG5nexo :2011/01/02(日) 11:08:12 ID:jXfFpr3E
>>45さん
部品を厳選すれば気にならない程度まで追い込んでいける
どうしても精神衛生上受け付けないというのならバランスドシングルという手もある。
シングルでマルチはちらしの裏な感じだしお勧めしかねる。
結局PPで追い込んだほうが近道な気がする。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 14:05:36 ID:DRlccQC1
>>45
調整がヘタレなだけ
自己バイアスでシングルなら初心者でも


77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 23:06:37 ID:9KVqnin3

でもシングルってまともなトランス無いんだけど
>>45は一体どんな比較をしたんだろう?
300B使ってタンゴやタムラじゃ意味ないし。


78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 23:23:20 ID:rPWw4c1O

タムラでは意味がない。どこがどのように。
シングル仕様として。 教えてほすい。


102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 02:36:56 ID:RzFPXph1
>>78
簡単、音が悪い以外に何がある?


103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 16:01:41 ID:WxRMdgEG

「音が悪い」とはどういう意味か、具体的に数値化してくれれば設計の参考になる。
個人の好き嫌いで「音が悪い」と言われたって、どうしようもない。


105 : 冒険の書【Lv=5,xxxPT】 :2011/02/19(土) 20:25:52.78 ID:6ptNtTDJ
>>103
数値化出来れば誰も苦労は不要
先ず音楽を聴いてから語ろう


106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 13:57:25.93 ID:u1DR9bGa

本当に設計に携わってるならそれこそ解る筈。
特性と音は正比例しないって。
それに今はコアも線材も有り合せ使うしかないのも。
アモルファス、ファインメットと言ったってトランス屋が作ってる訳じゃない。


107 : 忍法帖【Lv=13,xxxPT】 :2011/03/04(金) 16:56:18.06 ID:8Tf1Tyl5

コア材ならパーメンジュールだな


109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 21:10:00.05 ID:kYdBTNXH

普通は604系かな


110 :私の息子はEL34:2011/05/02(月) 21:53:52.80 ID:85mcT8sn

いいえ、パーマロイで御座居ます。


131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/23(火) 02:23:31.23 ID:AwAaer+v

300B真空管で音がいいのは高価なビンテージ物だけですか?
安価な300B真空管しか買えないなら300B真空管のアンプは買わないほうが良いですか?
頑張って

トライオードのtrv-a300se
http://www.triode.co.jp/tri/pwa.html

を買おうか迷っています


151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/08(木) 23:17:27.76 ID:xju1fOBd
>>131
私は止めた方がいいと思うけどね。
300B以前にトライオードってだけで駄目なような。

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 22:58:03.22 ID:HSgZj+AV

能率高めな古典的スピーカーを300Bアンプと組んで常用してますが
どうしてもアンプのボリュームを下げまくりで、ボリュームによる音質低下が気になります。
デジタルボリュームが付いたプレーヤーで下げてアンプのボリューム全開が気持ちよい音質でしたがデジタルボリュームの無い場合かなり絞るので気になります。

そういう時みなさんどうしてます?
抵抗数本つかってケーブルに一定のアッテネーターを付けようかと考えてみたもののインピーダンスやらなんやらわからない事が多くて踏み切れず。。


169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 01:30:00.68 ID:2ls9J55E

ボリュームを良いのに換えれば良いだけでしょ。
TECHかIRCのアッテネーターが一番良いけど、手に入り難いのと高価なので
DELEあたりの抵抗使ったアッテネーター売ってるからそんなのにすれば?

うちではCDをマッチングトランスで受けてるんでその負荷に使う600ΩをTECHのアッテネーターとP&Gのフェーダー仕様の2種で受けてボリューム代わりにしパッシブプリ化して使ってます。


170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 02:09:56.98 ID:svgAVhUR

ボリュームの交換考えてみます。
CDプレーヤーの出力が100Ωでパワーアンプの入力が100kΩなのですが
自分も600Ωのライントランスを挟んでます。
600:600と150:600を切り替えられるので漠然と遊んでるんですが理由はわからないですが150:600で受け渡ししたほうがレンジが広く空間が出て気持ち良いです。

固定インピーダンスのボリュームというのも気になります。
ボリュームの質だけでなくインピーダンスマッチングについても勉強しなくてはなりませんね。。


171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/14(水) 11:22:06.06 ID:2ls9J55E

600Ωのライントランス挟むならトランスにもよりますが普通負荷抵抗の600Ωとピーク止めのコンデンサーパラわないとフラット特性にはならないですよ。
(2次側OPENと記載されてる1部のタムラやマッチング無視したタンゴなんかは負荷要りませんが普通のプロ用ライントランスではみんな必要です)
入れないと低音は落ちて高音はピークが出ます。
その場合比率持たせた方がハイは落ちるので聴きやすくなります。
1:1ではなく600:600Ωと表されてるトランスはそのインピーダンスで受けないと特性は保証されておりません。

ラインの1次側にボリューム入れるなら定インピーダンスのT型やH型が要りますが2次側に入れるのであれば接点が無駄に多いそれらのタイプより普通のボリュームか L型が適します。
ボリュームは必ずしも600Ωではなくハイインピーでも良くパラに固定抵抗入れて合成抵抗600Ω付近にすれば問題ないです。
うちではそれに時定数6μSのフィルター入れて実測でフラット特性を得てます。

ライントランスはマッチングを取るとゲインが半分になるので最初は頼りなく聴こえるかもしれませんが良く聴くとそれで正常な周波数特性だとわかるかと思います。
入れない場合と周波数特性は同じでジッター除去だけが行なわれるのが理想です。
此処で音質変換機にして使うのは自由ですが間違ったトランスの使い方かと思います。
WEのトランスなんか皆さん訳解らず入れると音が変わるって使ってる人が殆どかと思いますね。

ちなみにCDの100Ω出力は何の問題もありません。
トランスレスでバッファー出力ですので。
一部のトランス送りのCDではこれまたマッチングの必要が出てきます。(スチューダーなど)

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 16:11:11.48 ID:j44iLhPR

300Bって清楚?
WEの球の中では一番グラマラスなやり過ぎじゃないのかって音するんだけど。
他社のは違うのかな?
他には岡谷とセトロンとGDの4300、EHしか聴いた事ないけどどれも300Bとは思えない音でセトロン以外は2A3の方がよっぽど良いんじゃないかって思えました。


250 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 08:34:06.06 ID:dNZgcXoK

WEの300Bもいろいろあってうんぬんと
知り合いのマニアに実際に聞かせてもらった。
確かにぜんぜん違うように思った。
手元にある中華とロシアではあのふわっと広がる音は出ない。
このままではダイナコの6BQ5PPのほうがいいや。
ちなみにSPはJBLの208とグルンディッヒの楕円だけど。

聞かせてもらったのは40年代とかいう古いもの
譲ってほしいといったら死んだら上げる、といったので約束してきた。
人生に希望ができた。正直うれしい。 それまでは6BQ5でがまんしよう。


251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 08:58:39.49 ID:v6sOHZCT
>>250
JJはないのか

253 :250:2011/12/24(土) 09:05:28.50 ID:dNZgcXoK
>>251
JJはないです。桂光やEHよりいいですか?
でもWEとは比較にならないでしょ?


260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/26(月) 22:14:01.93 ID:2gETESP9
>>250
WE以外の300Bって単なる挿し替え可能球だよ。
WEの再販物でもその域を出ない。

87年13週までが何とかWEの音。
26週からはOEMで音が全く違ってる。
再販物は間違いなくWEだけどそれ以下。

実際に聴いて古い300Bが良いと判断出来たのなら似非物には手を出さないことですね。


254 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 18:14:51.21 ID:XC6WZT7/

国産高槻300Bが結構いいよ


263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/27(火) 22:03:41.39 ID:Mm1Wgkig

WE製は300Bの新品はもう手に入らないので高槻300Bを検討するのが良いと思う
先日WE300BとTA300Bを聞き比べる機会があった
高音の抜けはTA300Bが良かった
柔らかな、いかにもよき時代のアナログ的な音はWE300Bならではある
個人的な好みはあると思うがスッキリ系のTA300BはWE300Bの現代版と言えると思う


266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 17:30:58.36 ID:PPAOkO79

300BなんてシングルじゃなくてA級プッシュプルでやれば
全くスピーカー選ばなくて済む
訳のわからない高い300B使わなくて中華のドラゴン印で十分さ
AV用のインフィニティを中華の300Bで朝ドラのカーネーションいつも聴いてる

272 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/01(日) 00:02:47.59 ID:Oyifh8OS

エンヤって、雰囲気は、球向きの音楽だけど
中身の音がいじくりすぎて電気くさいので、300Bシングルでは、分解能が無いお団子になる
セリーヌ・ディオンの「My Heart Will Go On」
タイタニックのテーマだけど出力不足の300Bシングルで苦しい
これは、WEとかで済む問題じゃない


273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/01(日) 00:23:38.85 ID:GDw10ls9

元々300Bシングルって重心が低い曲苦手じゃない
ppかマルチアンプに向かうべきじゃないかなあ

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/01(日) 18:44:29.60 ID:sHgZ+hmc

300Bシングルはマルチ又はバイアンプ方式での高音用だよ
現在の能率の悪いトランジスタアンプ用のスピーカーでは充分に鳴らせない
やはり、中低音用にはパラPP(片チャンネル4本)でないと朗々とは鳴らない
300Bシングル又はPPはせいぜい高音用だよ
273さんとほぼ同意見
ちなみに高音300Bシングル、中低音パラPPでバイアンプでタンノイ38p鳴らしてる

276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/02(月) 11:21:10.01 ID:+Vskb/4Y

やっぱとどめは、300BのパラPPですか?
震災以前の省エネなんか全く考えなかった頃の日本がとても懐かしいですねえ


277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/05(木) 07:57:20.49 ID:7m57Q8WC

確かアメリカ製アンプで300Bを3パラプッシュプルにしたのがあった。
座布団位の大きさで、目方が55kgだった様に思った。


278 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/05(木) 08:10:24.37 ID:5rdsFZN4

2004年の復刻300BでALTEC A5鳴らせてる


279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/06(金) 23:33:26.59 ID:jyWyxMqw
>>278
それは、シングル、PP、パラPP


280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 18:00:02.57 ID:aT9JaTDr

刻印でPPとかそんな裕福な人いるのかな?
安い球でPPにするくらいならほかにいいアンプはいくらでもある
手元の300Bシングルにいい球がほしいよ


282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 20:25:36.61 ID:aT9JaTDr

ちなみに手元にあるアンプとは
Audio Electronic SupplyのSE-1、SPは自作でユニットはAMPEX 260 
メインのRogers PM510 は300BPP程度では鳴らしきれません。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/08(日) 21:53:20.25 ID:TIQJJ39s

WE300Bをシングル使いの場合、妖艶な高域の唄いに対して、低域の表現の薄さを感じる事を否定出来ません。
この克服に主眼を置けば最適化するかとも思います。


285 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/08(日) 22:19:14.91 ID:54DBIUkj

妖艶な高域の唄い、とは言い得て妙だ。
6B4Gが好きでシングル、PPと愛用してきた
300Bシングルの高域の漂うような生命感は独特だなあ
PPでこれが出ればいいのだろうが・・・それと低域の制動感
古めの能率のいいフルレンジなら文句はない。いい音だと思う


288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 09:29:37.90 ID:10oW6wIM

初段は増幅率の高いタマを使ってのゲインを上げて、300Bにブチ込むと良く鳴るよ。
新しいキンピ抵抗よりちょっと古めがいいみたいだ。

シングルアンプは中高音用が一般的だろう。
低音はMOSFETあたりのアンプで鳴らすのがいいだろう。
プッシュの音は石とそんなに変わらない。石アンプは安く作れる。

K式DCアンプは不安定だから手を出してはいけない。
高級パーツを使ったから安定するというものではない。
300Bはタマの形状が大きくてカッコイイから大好き!


289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 09:45:16.11 ID:ZzZ1BIXC

>新しいキンピ抵抗よりちょっと古めがいいみたいだ
金皮は多少古くなっても音変わらないだろ

293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 12:29:29.30 ID:dYYh6AUO

シングルで低域出ないって、当たり前だ。
馬鹿デカイ出力トランスに換装するか、超3結にでもして帰還掛けないと。
300Bだからと言って無帰還とか、変な信仰してたら相応の報いが来ただけ。


298 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 18:24:55.71 ID:DfuXzkxg

能率が良くて高音が素直に伸びて抜けるスピーカー
高音はベリリウム振動板のドームツイーター又はリボンツイーターが良い

ベリリウム振動板ドームSPは販売されているが、300Bシングルには能率が悪い
まろ使用の能率の良いSPはホーンツイーターが弦などの高音域で共振しびびる
ホーンの宿命とあきらめている

やはり、本命は能率の良いシングルコーンか

299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/09(月) 18:59:04.74 ID:cac6wubC

やはり、本命は能率の良いシングルコーンってことね。
頭では納得しているが欲張ってあれこれとSPを交換して右往左往しているうちに
かねた式に行ったり市販アンプに行ったり、やっぱQUADかな、なんてね
それなら300Bでいいじゃないか? といつか来た道に。
やはり、本命は能率の良いシングルコーンか?

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 15:45:45.94 ID:FLyHEQ+b

小型スピーカーでレンジを広げるには能率を下げるのが簡単ということだな
大型スピーカーは流行らないし
CDやSACDになってアンプ以前で簡単にレンジが広げられてしまったものだから
スピーカーも音色よりもレンジをとにかく広げる必要性に迫られたと


320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 20:09:53.84 ID:xVm+L/U2

其れでも好い人達が居るので成り立っている訳ですね。
自分としては、きっぱりとお断り致します。


321 : 忍法帖【Lv=40,xxxPT】 :2012/02/11(土) 20:58:56.04 ID:+7ERMubx

シングルアンプはいい。終のアンプだな


322 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 21:40:09.94 ID:+Ahp+UO/

私の終は機械増幅だな。電気増幅で無く。


329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/17(土) 09:23:16.18 ID:C7dFdSdc

1本で10W程度の出力が出るのがいいです。
プレート電圧はAC400Vを直熱管で整流して鳴らしてます。
以前、AC350V整流としていましたが、音が細く迫力に欠けました。

346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/03(金) 18:07:14.86 ID:w5/Hlcu9

300Bはマイクロフォニックノイズが多くて駄玉だ。


348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/03(金) 20:13:27.43 ID:48VBkMs1
>>346
どこの300B使ってる?
前段の球は?


349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/03(金) 20:50:39.97 ID:bVu5QRri

WEの復刻玉。送信管(4121だかなんだか、やたらデカい玉)の前段に300B使用。
ビンビン反響音が鳴るので、調べてみたら原因は300Bだった。
300Bの頭を押さえると反響音が半減するが、ずっと抑え解くわけにもいかない。
WE復刻300B、たしか16本持ってたんだが、全部売り払った。


350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/05(日) 02:25:27.91 ID:0fYh92sC

なんで16本も持ってたんだよwww


353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/05(日) 18:44:15.23 ID:nbAhc9GF

あのね、復刻球は寿命の短い不良多いからスペアーたくさん要るんだよ。

>>349
4212だろ? 4211か?
そりゃマイクロフォニックとは言わん。
ドライバーに300Bでなくとも直熱管使やぁその手のノイズ出るの当たり前。
対策してないアンプ自体の設計ミスだろうが。


354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/07(火) 01:02:10.30 ID:mFPE+4yV
>>353
当たり前だったんか・・・
騙されてエライもん買っちまったな。昔の話だが。


355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 02:51:54.20 ID:KQaGRawS

KR300Bって良い?


356 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 22:46:08.17 ID:FXPgDVVU

悪い


366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/01(木) 08:04:51.84 ID:TQO7jufe
>>356
KRなら842VHD使って見ようかと思う
エミッションラボと悩み中です
少し先の話ですけどね、、


359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/12(水) 18:42:42.86 ID:Sf8Bra+d

低音が物足りないんだけど、300Bシングルのアンプでサブウーファー足すとよくなりますか?
球替えた方がいいのかな


360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/12(水) 20:35:21.23 ID:jNqLtMu9

低音重視なら素直にPPかTRアンプ


361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/12(水) 22:27:20.25 ID:z9D1PUPg

シングルだからねぇ。
トランス替えると多少低音出るようになるよ。

363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/23(日) 12:32:21.12 ID:qQTc+n+q

タマを大切にしようと思って電圧と電流を抑えると音が細くなってしまいます。
91アンプ程度の動作にするといい音がします。
古いタマをドライブ段に使うとノイズが出るけど、長時間使っていると消えてしまいます。1ケ月くらい使っていると解消します。アンプを作ってすぐにSWを入れてノイズが出たってあわてずに放置しておくと気にならなくなります。

こちらの300Bシングルは91アンプを参考に初段は5極管を使ってヒーターは交流点火ですが、ノイズはありません。

38cmウーハーを使ってますが低音はよく出てます。


365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/23(日) 21:24:08.94 ID:CYnCw7bz
>>363
素直に91を使えばいいじゃん。
俺は86だけど。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/pav/1290756114/

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c22

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
23. 中川隆[-8830] koaQ7Jey 2019年8月16日 17:43:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3912]

真空管アンプの”ロマン”と言えば、この真空管でしょう 2009年9月26日


 真空管アンプを始めますと、必ずぶつかるのが「300B」だと思うのです。

どんな真空管より絶大「王」もしくは「女王」のような存在だと思います。

「いつかは、300B…」

なんて、どこかの有名な王冠の名前の車のCMみたいですが(笑)

それほど、憧れの存在ではないでしょうか?

まず、その大きさと形状が「真空管らしい」のだと思います。
絶妙なアールを描く形状は、コークボトルラインのようで存在感も大きいです。

「いつかは俺も、300BのシングルアンプでTANNOYを鳴らすんだ…」


「今日も激務に追われた一日だった…
食事もそこそこに、リスニングルームに移動して…
今日はどのアルバムを聴こうか…

部屋の灯りを消してお気に入りの300Bシングルアンプに灯を灯す…

琥珀色のウイスキーを飲みながら音楽に身を沈める…

300Bの灯りを見つめながら…

いかん、気がつけばいつの間にか寝てしまった…
レコードは演奏を終わり針が空走のリピートを繰り返している…」


なんて男のロマンといきたいところです。

 ましてや、「生産再開」すると言いながら全くその気配も見せない孤高のNOS球超高級ブランド「Western(WE)」とくれば、もう妄想はブレーキを解除して地平の彼方まで走るはずです(笑)


「俺は、300Bのシングルアンプを購入して球は『いっかはWE』にするんだ!

きっといい音、空前絶後な音がするに違いない」


と思いたい訳です。

 ところがですね、私は日本茶をすすりながらWE300Bの音を聴いているのですが、まず見た目でWE300Bは真空管らしさがないんですよ。

いえ、形状はそりゃぁもう、最高です、チャイナお嬢と違いガラスも薄肉で「製造技術が高い」なんて思いますが、いかんせん通電した時に「灯り」が見えないのです。

今日は、300Bを堪能するためにサンバレーさんのVP-mini300MKUで聴いているのですが、前段の12AX7の方が光ります。真空管を真上から覗きますと、ぼんやり光っているのが見えますけどね。

これでは、真空管の灯りで妄想に入りたくても入れない…「うーん、残念」。

 出てくる音はですね…

私が聴いているVPやSV-2(2007)では微塵も「色気」「艶やかさ」はないです。

意外とタイトで「正確無比」な音がします。
結構高音なんか耳に突き刺さりますよ。

意外と300BシングルアンプにWE300Bを装着すると言うのは、「真剣勝負」な色合いが濃いかもしれません。俗に言う「余分な付帯音」がないと言ったところでしょうか。

私の真空管国別イメージでは


「チャイナ嬢:柔らかく甘い、ほわわーん」

「ヨーロッパ嬢:ゴージャス、どんしゃり(悪い意味ではないです)」

「大和撫子:一生懸命、きびきび」

「アメリカ嬢:元気ハツラツ、ダイナミックバディ」

「ロシア嬢:シャープ、つーん」


て感じだったのですが、このWEのアメリカ嬢は「厳しい」音がします。
いえ「厳しい」と言うのは、「耳が痛い」と言うより「厳格」「正確」と言ったところです。

 でもここまであれこれ想いを巡らせてみますと、この「厳格」なところが「WE300B」のゆえんと言いますか、なかなか真空管の中でも珍しいユニーク(唯一無二)な存在なのかもしれませんね。

…やはり聴けば聴く程その思いは強くなりますね…

なるほどWE300Bとは、こんな真空管なのですね。
弦やラッパが余分な音を出さず正確に鳴りますね…
ただボーカルになるとこの演出のなさに好き嫌いが分かれそうです。

Commented by 103 岡山 at 2009-09-26 21:41

今度は国産の300Bが出ますね。
 http://www.takatsuki-denki.co.jp/press_release/index.html

どういう音が出るのか楽しみです。トライオードさんの製品はTRV-A88(S)を使っていますが、色気は少ないように感じます。

300BはずっとWEばかり使っていますが、整流管で随分音が違います。
私の91Bでの整流管イメージは


「GD274B:粒立ちが粗、メリハリ調」、

「STC5R4GY:気品あり」、

「CETRON5R4WGB:中庸、聴きやすい」、

「RCA5R4GY:印象薄い、陰影感弱い」、

「WE274B:濃い、粘る、ねっとり


です。石アンプは作り手の「良し」とする音を聴き続けることになりますが、球は整流管・ドライバ管・出力管といずれも交換することにより好みの音を探せる魅力があると思います。ブランド(価格)に拘ることなく、好みの音を探すのもまたオーディオの楽しみではないでしょうか?

これから涼しくなる秋の夜長、球アンプに灯を入れ、好きな音楽を聴きながら お茶(コーヒー)・酒を傾ける

想像するだけでも贅沢な時間でしょ?! 


Commented by きゃーる at 2009-09-26 23:23 x
流石WE、私が持ってるチャイナ300B(TU-873初期装備品)とは違って造りが綺麗ですね^^
私のは管が斜めに傾いてるし、ガラス面にキズがあります(汗)
片側のフィラメントだけやけに明るいし・・・

WE300Bは経済的に無理だけど、一度は聴いてみたいですね^^
エレキットじゃ勿体無いといわれそうですが・・・
今はナス300Bで我慢です
ナス300Bの音は結構気に入ってたりしますけど^^

Commented by digicamek at 2009-09-26 23:44
今晩は!私は真空管を聴き始めてまだ半年です。
なにも判らず暗中模索状態ですが、やはりいつかはWE300Bと思っています。
ところでサンバレーのPrime 300B ver.4は凄くゴージャスなグローが出ましたがWE300Bはいかがでしょうか?


Commented by グローにつきまして at 2011-07-05 22:46
WE復刻版やチャイナ、ロシア球は蛍光現象(グローではないです)が良く現れますが、あれは管内に不純物が残っている為です
古いWE300Bは真空度も良く不純物による汚染が無いので蛍光現象が殆ど無いですよ。

Commented by rhr_nally at 2009-09-27 08:29
いやぁ、残念なことにWE300Bは味も素っ気もない真空管ですよ(笑)
何も起こりません(笑)

サンバレーさんのPrime 300B ver.4が最初の真空管ならば、WE300Bを高額で手に入れて灯を灯した時、「えっ?」と拍子抜けするかもしれませんよ。

でも青いグローなんて素敵ですねぇ…見たいなぁ…。
真空管なんだから、真空管らしい「灯り」が欲しいところですが、私のもつ300Bはいずれも(Prime Ver.2か3とWE)はメッシュでないのでやはり「灯り」は見えにくいです。「灯り」だけなら、845で大満足しています(笑)

Commented by なめちゃん at 2009-09-27 15:04
小生もタマに凝っていた頃、タマの一つの憧れ、目標が “WE300B” でした。

むか〜し、愛用したことがあるWE300Bを搭載した新藤ラボの300B Singleというモノラル・パワーアンプは、8Wという小出力にもかかわらず、堂々としたドライブ力で瑞々しい艶やかな響きを聴くことができました。

弦楽に限っていえばOLDのWE300Bは最高のタマのひとつと思っております。

Commented by rhr_nally at 2009-09-27 17:49
復刻版WE300Bは、入れ物も凄くて「どこにコストをかけているのかな?」なんて心配になります。サンバレーの店主さんに

「○×でWE300B出ていましたよ?」

と言うと眉をひそめて

「○×ですか?B級品ですよ!」

と厳しい口調で話されていたのを思い出します。
WE300Bは結構キワモノが市場に出回っていたみたいですよ。

 私も6SN7の高信頼管を某オークションでRCA5692てやつを買ったのですが、構造から6SN7なんですよ。質問すると「RCA5692です」と一辺倒な答え…唖然としました。
ブランド品ほど、目利きな人に選んでもらう必要があるかもしれませんね。
WE300Bもウエストレックさん、狼少年にならずに生産再開して欲しいものです。
http://rhrsp.exblog.jp/11223372/


▲△▽▼


真空管と言えば、少し古いところで高槻電器さんが300Bの生産・販売を開始されたこと(TA-300B)。実物を見たことがないのですが、日本製でしっかとした作りみたいですね…白いソケットも個人的には好きです。でも「桐の箱」に入れて販売するのは、どうでしょうか…確かに雰囲気はありますが、献上品じゃぁないんだから…

真空管と言う「部品」扱いではなく「工芸品」なんですかね…
有名な陶器みたいな感覚なのでしょうか?

でもこの桐の箱をやめて普通の真空管みたいに化粧箱に1本づつ入れてくれたらいいのに…すると価格も少しは下がると思うのですが(笑)

 あと、トライオードさんですか、WE300Bのそっくりさんを販売されるんですね。
確かに写真を見ると我が家のWE300Bそっくりですけど…そこまでWE300Bに固執する必要があるんでしょうか?

300Bとしてのスペックを明確に満たしてくれればいいと思うんですけどね…。

確かサンパレーさんも密かにWE300Bを海の向こうで復刻させることを進めていたと思いますが…してやられたのかな?

でも購入された方の情報によるとまだまだのようですね(2chのネタです)。

 いずれの価格も「部品」としてみた場合、高すぎますね。でも安すぎると「ありがたみ」や「威厳」「満足感」が薄れるんでしょうね(笑)

高槻電器さんの製品もWE300Bのそっくりさんも立派な化粧箱を開けるところから


「おおっ!」

と言う声を出して儀式が始まるんでしょうね…まぁ、それはそれでいいですけど(笑)

でも現実的な価格は、ペア3諭吉様以下だと思うのですが…

2chを通じて真空管の作成状況のyou tubeを見つけました

"How Its Made Audio Vacuum Tubes =KCK="
http://www.youtube.com/watch?v=amZbwlglbto
http://www.youtube.com/watch?v=PFQSdX1B-ic

ちょっと絶句ですね…量産品と言うより工芸品みたいな工程ですね。
昔、家電の蛍光灯の製造ラインやランプの製造ラインを見ましたが、似たように真空引きをする製品ですが、映像から見るラインは、とても量産ラインとは言い難いですね。

この製造模様がどの規模か判りかねますが量産品としてみた場合、正直バラつきが大きくコストが高く、販売価格が割高なのも分かる気がしますが…

回路を構成する「部品」として量産のバラつきなく精度が高いものを望みたいところです。

でも時代に取り残されたデバイスですね…真空管は…

メインデバイスとして大量に製造されていた頃がやはり精度・バラつき・価格共に安定していたんでしょうね…考えさせられますね。

Commented by こばちゃん at 2012-03-04 14:37
ビンテージ真空管についてですが、WE300Bと後発物との差で一番大きいのは、耐久年数だということを専門家に聞きました。

新発物は、音はともかく、耐久性は未知(検証できていない)ですね。

また、RCA5692等の赤ベースでは、トップマークは仰る通り印刷なので、こすれば消える、経年変化で消える。。まっさらは全部トップマークありだそうです。(これも専門家からの受け売りですけど。。)
その差=価格差とは?です。


Commented by rhr_nally at 2012-03-09 12:34
WEとの差は寿命ですか…なるほど。

私がWE300Bに感じているのは、厳格といいますか厳しさといいますか
とても柔らかいだの艷だのと言う言葉では言えない忠実さでしょうか。

でもWE300Bが最善とは思ってません。
さすがかもしれませんが亡霊ではないかと(笑)
http://rhrsp.exblog.jp/17445410/

出力管にWE300Bの真空管を使用したアンプ(mono×2)を使い始めて10年以上になる。その間、整流管のWE422Aを含めて故障が1回もない。製造されたのが1950年代後半にもかかわらず、あれだけ毎日使ってビクともしないのだからまさに、驚異的寿命だ。

知識の受け売りで恐縮だが、300Bは、当時アメリカの国策として軍事用の通信機器に流用されたこともあり、国の資金が相当投入されたと聞くが、人命がかかっていることからこれほど丁寧かつ頑丈に作られたものとみえる。

それにしても、当時のウェスタン社の技術力は並外れたもので、ノーベル賞級の研究者も相当居たというが、品質の信頼性はきわめて高く、当時の製品は真空管をはじめとして、トランス、コンデンサーなどオークションでいまだに高値で取引されているのも十分納得できる。

私の現用システムも300Bをはじめ、トランス、コイル、コンデンサー、SPコードなどあらゆる要所で恩恵を蒙っており、これらがなくなれば完全に崩壊する。


一時、節約根性を出してセトロン社の300Bを購入したことがあるが、当たり外れがあったのだろうが、使用時間100時間前後で、アンプのスイッチを入れて管が温まり始めるとSPからバリバリと大きな雑音が出だしたのであわてて使用中止にした。安物買いの銭失いとはこのことだった。

ところで、代用管としてCRCの4300BLXも所有しているが、WE300Bと入れ替えただけで1枚ベールがかかったような音になり、もう音楽を聴く気がしなくなる状態になる。価格がオリジナルと比べて6分の1なので、比較するのが酷なのだが、たかだか真空管1ペアでシステム全体が様変わりするので、オーディオとはまことにコワイ世界である。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/387d7045b9fb7780f4b2a053fc7b72c8

真空管にもいろんな種類があって音色も違うし寿命にも大きなバラツキがある。さらに、同じ型番の真空管でもメーカーによっても差がある。

寿命が長くて音質もいいということで真空管の王者として昔から君臨しているのはもちろんウェスタン社のWE300B。

一時製造が中断されていたものの近年の真空管ブームに乗って再開されたが、現在のものはペアで約8万円前後(ネット上)だが、これが1950年代製造のオールドものになると、戦争に実用されていた名残もあって入念に作られた高信頼菅(なにせ人の命がかかっている!)ということで20万円以上。しかし、これが実は音質もよくて一番安上がり。

この300Bオールドは20年使っても劣化しないといわれている。つまり極論すると無限の寿命といってもよい。とりあえずこの時点で1年当たりに換算するとわずか1万円となる。 拙宅の300Bオールドも生産後50年以上経過しているが、使い始めの時点で中古品だったにもかかわらず、以後約10年間ほとんど毎日使っているがビクともしないので驚いている。

これが中国製の300Bになるとペアで3万円前後だが1〜3年前後で劣化するとなると1年当たりに換算すると同じ1万円。しかも音質には明らかに差がある。どちらが得かは明らかだろう。


マッキントッシュの有名なMC275アンプに使用されているKT88(4本)もたしかに音質は迫力があっていいのだが毎日使った場合、約2年ほどで劣化するそうで不経済なことこのうえない。

これから新たに真空管アンプに挑戦する方がもしいるとすれば、WE300Bアンプにしておくのが、あとあとスペア菅の入手などいろんな意味で無難だし音質もよくお薦めである。

ただし、オーディオの常道としては、まず好みのスピーカーを設置し、次にその駆動に適したアンプを選ぶのが順番だろう。真空管アンプは出力があまり出ないので、使用しているスピーカーの能率が低い時には不適である。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/1147661b0ccb82b9b993b4163b427127

▲△▽▼


現代真空管アンプ考 2009年 12月 04日


 みなさん、真空管アンプにどんなイメージをお持ちなのでしょうか?

真空管アンプとは、目の前に広がる真空管の「暖かな灯り」を見て「優しい」とか「ゆったりした」とか言う感情・感覚が先に立つんじゃぁないでしょうか?

 本当にそうなのでしょうか?

真空管アンプの中でもOTLアンプについては、この形容詞はあまり当てはまらないようです。
どうやら、答えは「トランス」の中にあるのかもしれませんね。

 今夜、素直に今私が手持ちの真空管アンプを聴いて感じる「現代真空管アンプ」について語らせて頂こうかなと。


贅沢な、WE300B 88年もの…ワインじゃぁあるまいし… (RICHO CX2)


「真空管の暖かな灯かりが、あなたを優しい音楽の調べへといざなってくれる…」

なんて感じで真空管アンプは語られてきたように思います。2A3や300Bの微妙な曲線を描く真空管を見るとそんな思いを馳せてしまうのでしょうね。

「300Bシングルで聴くTANNOY」

なんて、もう誘い言葉の最前列のような気がします(笑)

そんな300Bシングルでも最も低価格な部類に入る、サンバレーさん(元トライオードさん)のVP-mini300MKUてのを私は所有しています。このアンプ、まず一聴して半導体アンプにどぶ付けで悩んでいる人には、快感的音を響かせると思います、

但し、官能的ではないんですよ(笑)

その澄んだ透明な音色、どこまでも飛ぶ音、放射状に広がる音…

これを初体験されますと

「なんて透明で澄んだ音なんだ!」

となってしまいます、これにどこかで聴いたバロックなんか「ポチッ」とPLAYされると、もう行ったことはないけど「英国のサロン」ってこんな感じじゃぁないの?とセレブな気持ちになります。

 こんな具合に入門しますと、真空管の世界一直線となるわけです。


「ウエスタン300Bって伝説の存在だよなぁ…
きっととんでもない音がするんだよ、きっと…」


なんて妄想が爆発する訳です。そこで実際にウエスタン300Bを手にしてみますと、そこに「甘い調べ」はなく予想外に端正でタイトで厳格な音が響き渡る訳です、

いやぁ、これはもう本当に厳格な音です。

どこかのWEBサイトで読みましたがWE300Bのもっとも優秀なところは、設計スペック通りの動作をすることだと。すなわち物理特性に優れていると言うことだと思います。

意外です、ロマンで語られそうな真空管が「物理特性を極めた」と言われては…。


巨大真空管845を使用した

サンバレー SV-2(2007)
http://www.kit-ya.jp/product_info.php?cPath=86_87&products_id=216

を聴きます。

このアンプの何が凄まじいって、それはもう「トランス」に尽きます。

巨大で重量のあるトランスが林立しています、そしてこのトランスは、音楽を聴き終えて電源を切った後もいつまでも熱いのです。そう、このトランスがこのアンプの全てと言っても過言ではないのかもしれません。トランスの進化も相当なものだと思います。

線種の改良、線材の改良、自動巻線の高密度整列巻き、バインディグするエポキシ類の進化(有害物質なので置き換えられたと思います)、コアの鋼材の材質の進化と真空管全盛の頃からするととんでもない進化を遂げたと思うのです。

実際、SV-2(2007)の音に甘さはありません、まさに送信管を使用した音を送信するような放出感、音が散乱します。この特性を厳密にトランスがサポートしているように思えてなりません。

 またこの感覚は、サンバレーさんの商品だけかな?と思い、オーディオウインズさんの真空管アンプなどを借りて聴き、その感想がどうやら間違いではないようだと確信した次第です。

 そうなんです、現代の真空管アンプとは、「甘さ」や「こく」には少々遠いように思えます。

ダンピングファクター自身は、半導体に負けると思いますが「高解像度」「ハイスピード」を感じずにはいられません。

逆に部品そのものの見た目になんの透明感も暖かさもないレジンで封入された半導体の方が「甘さ」や「コク」の演出は現代の真空管アンプより得意だと感じずにはいられません。

前述のVP-mini300MKUが我が家でお蔵入りしたのは、音の透明度と拡散性、瑞々しさはあるのですが「サラダ」のような存在で確かに葉っぱの表面に丸く球になった水分がトマトやレタスをテラテラ照らしているような感覚はあるのですが、それは「あっさり」感が強く

「ああん…」(スンマセン!)

と言うような「官能的」なサウンドではないのです。私が良く言う「透明水彩絵の具」や「パステルカラー」であって「油絵」ではない感じを受けます。

「官能的な色合いやコクを求めるのは結局半導体アンプなのか?
バイポーラよりMOS FETあたりがいいのか?」

なんて、半導体アンプのA1を聴き、半導体プリのM8をつないで感じている今日この頃なのです。

誤解のないように言いますが、私は真空管アンプの透明度と意外とハイスピードで高解像度な音が嫌いではありません。これは、これで極めたいと思っているのです。でも「真空管アンプは見た目と違うよ」と言いたい今日この頃です。

Commented by たっちん at 2009-12-04 23:46 x
>「300Bシングルで聴くTANNOY」

この誘惑に見事にとらわれてしまった未熟者です。(笑)

しかーし、EL34×4の、それなりに重量級アンプを使い、次に、思いっきり軽量級の6BQ5×2を聴いて、かつて真空管アンプに抱いていたイメージを修正する必要を感じており、300Bはいまだ足踏みを続けております。

そのポイントはまさに「音のコク」で、Nallyさんの指摘と共通の部分が多く、「コクなら古い石のラックスか、マッキン(味わいがちょっと違っちゃうけど)」などと、たわけた妄想を抱いておるわけでございます。


>「真空管アンプは見た目と違うよ」

したがいまして、このご意見に一票入れさせていただきます。(笑)

Commented by きゃーる at 2009-12-05 01:25
真空管アンプはOTLでなければ、出力をトランス経由で変換して出しているので、
影響は大きいでしょうね^^
理屈はわからないのですが、特にシングルはトランスの出来がかなり影響するそうです^^
でも、マッキン等は半導体でも出力トランス積んでたりして面白いですよね^^

私もエレキットで真空管アンプを体験して、繊細で煌びやかな高域で予想外だったのですが、オーディオウインズさんの6V6アンプはスピード感はありませんが張り出し感があって、とても濃い音がします^^
最初は低域がボンついて気になっていたのですが、最近違和感がなくなってきてサックス、ボーカル等最高です^^*
聴けば聴くほど気に入って、これ買って良かったと思ってます^^


Commented by rhr_nally at 2009-12-05 08:09
真空管アンプ難しいものがありそうですね。
と言うのは、下のきゃーるさんのコメントです。
同じアンプを聴いてもずいぶん印象が違うみたいです。
うーん…ひとつは、お互いの評価の軸足「リファレンス」を何においているかもありそうですね。
真空管にふれて半導体の良さを感じている私でした(笑)

Commented by rhr_nally at 2009-12-05 08:14
この記事でOTLのことに触れなかったのですが、実はOTLこそ真空管と言うデバイスそのものの味かなぁと思います。
ただ、SV-18Dは6C41と意うメジャーじゃぁない真空管なので戸惑うのかもしれません(単なるブランド志向です(笑))
でも、個人的には気に入ってますよ。

このあたりまでのサンバレーさんがプロデュースする真空管は良かったかなと全く個人的見解ですけどね。
6V6の件、私と正反対な感想を聞かせて頂いてとても嬉しいです。
嬉しいと言う表現も少し違うかもしれませんが、この驚きが楽しい。
オーディオウインズさんを紹介した手前ホットしてます(笑)

Commented by きゃーる at 2009-12-05 14:13 x
OTLは出力がトランスを経由しないので、より球の出音を味わえそうですね^^
理屈がわからなくて言ってますが、OTLって使用できる球が限定されるのか、
あまり有名な球を使っているのみかけませんよね・・・


>6V6の件、私と正反対な感想を聞かせて頂いてとても嬉しいです。

オーディオウインズさんを紹介していただき感謝しています((__)>
最初はハムの件もあって、アチャーって感じだったのですが、特に何もしてないのに次第に音にまとまりがでてきました^^;
エージングを兼ねて、BGM的に音を鳴らしていて、背中で聴きながらPCをパチパチやっていたら、ある日、はっと後ろを振り返るような音がでるようになりました^^;

「オイオイ、今のところすげーいいじゃん・・・」てな感じで^^;

当方の耳エージングが進んだのと、合うソースしか鳴らさなくなったのが大きな原因かもしれませんが(汗)

使っているSPが違うのと、当方、球、OPTを変えているので、rhr_nallyさんとだいぶ感覚が違うのかもしれませんね^^
低域がちょっと雑に鳴る等粗もみられるのですが、全体的に聴かせるフィーリングはジャズ等にとてもマッチします^^
これが無帰還アンプの良さなのかなあと。
その反面、低能率のKitLSやD-112Eでは生気を失うというか鳴らす気も起きせんが^^;

Commented by 欄太郎 at 2009-12-05 17:22
rhr_nallyさんが言われる通りなのか、私は真空管アンプは中高域がにぎやかで、前後には深く展開するが、広がりと言うか包み込まれる様な音は苦手の様に思います、私は真空管のアンプの最大の欠点は、1時間2時間3時間と音の印象が結構違う事に有ります、結論を急いでいる時の真空管アンプは全て否定されてしまうのではないでしょうか、きゃーるさんが言われる様に耳がエージングされるのかもしれませんが(笑)、

最近手に入れたスピーカーSX-500DUもそうです、鳴らし始めは結構にぎやかで、2時間程鳴らし続けるとNS-1と間違えてしまう程です

石のプリに、球のパワーが良いかも、
KT66,6V6はハイスピードですが、6L6はまったりしていますね、

デジタルアンプは大きいパワーを入れたとき真空管アンプとの違いは歴然です、あまり大きい音で聴かないんですけどね。

Commented by rhr_nally at 2009-12-06 17:00
確かに暖機が完了するまで、本来の能力を出さないのはもどかしく
暖機をする時間、時間で違った一面を見せるのもじれったいですね。
うーん、オーディオってのは、目に見えないのでその時のコンディション、精神状態と様々なパラメーターで評価が変わりますね。
まぁ、それが良いのかもしれませんが、もし再現性がないのなら一期一会で真剣勝負で音を聴く必要があるなら…しんどいですね(笑)

「石のプリに球のパワー」我が家の現状ですね(笑)
デジタルアンプはチャンスがあったら武者修行してみます。
http://rhrsp.exblog.jp/11713787/

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c23

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
24. 中川隆[-8829] koaQ7Jey 2019年8月16日 17:44:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3913]
46投稿者:現行300Bの音  投稿日:2008年08月30日(土) 22時06分58秒

現行300Bの音をひと通り総括してみたいと思います。
まず原点に立ち返って300Bの音って・・・?て訊かれたら皆さん、どう答えます?私なら


「音の立ち上がりに独特の間合いがあって僅かなタメの後、フッと立ち上がる気配感、

そしてふっくらと膨らみながら響きをしっかり残して収束していく鳴りの良さが特徴の球。

それほど音のエッジを際立たせることなく内声部の厚み,ハーモニーで聴かせる球」


とお答えしたいと思います。でも基本的にはこういうキャラクタの300Bですが勿論ブランド,メーカによって音は百花繚乱。十把一絡げに語ることは出来ません。ごく簡単にそれぞれの音の正確をレヴューしてみましょう。勿論単純な優劣をつけようという話ではありません。


 まず最初はGD4-300BC。これは現行300B群の中では最もシャープで高解像度な明るい音です。先ほど300Bの個性として「それほど音のエッジを際立たせることなく」と書きました。勿論これは悪い意味ではありませんが4-300BCはそんな300Bのキャラを有しながらも現代的で彫りの深い音と言えるでしょう。堅牢なカーボンプレート,タイト製のソケットなどに裏付けられたモノづくりの凄さとともにビシッとピントの合った音が魅力です。出音の良さといいますか音量感が優れているのも大きな特徴です。

 次にSvetlana300B。この球は現行球の仲では最もWE300Bを意識した造られ方をしていて4-300Bのような新たな試みは無い代わりにベーシックで質実剛健な球といえるでしょう。音は端整で暴れのない、どちらか言うと生真面目な表現です。バランス的にはまさに中庸。高域も低域も特に欲張っておらず300Bの持ち味を忠実に復刻した「現行標準300B仕様」と言える内容です。昔はSve300Bは高かったんですが、今や随分お値打ちになりました。


次は本丸WE300Bです。

WE300Bの音を言葉で表現するのはとても難しく、いつも言葉を選びます。何故ならWE300Bの魅力を語っているといつしか真空管アンプの魅力そのものに話がすり替わってまう・・・それほどに魅力的であり且つ真空管アンプの原点ともいうべき神々しさを湛えた球でもあります。

音的には冒頭に述べた響きの良さに加え骨太でしっかりと腰を落とした重心の低さ、そしてコクと言いますか、特に中低域の倍音の厚み・・・単にボワっと出るのでもなく幾重にも音のベールが織り重なったようなしっかりした密度感が本当に素晴らしいと思います。


私どものアンプで特にSV-91BにWE300Bを差し替えた時の変化・・・

いきなりビシっと鞭が入ったように音力が増し音が近くなる様は快感のひと言です。まさに最上級に相応しい風格と音ですね。


 続いてはPrime300Bです。これについては既に現行300Bの定番として皆さんに認めて頂いて多くの方がお使い下さっているので今更コメントの必要もないかもしれませんが、わたし的にはあらゆる300Bの中で最も響きが良く、厚みのあるサウンドだと思っています。銅プレート,金メッキのグリッド,ガラスの厚みにまで拘って製造していただいている球でGD4-300BCと対照的なキャラクタと言えるかもしれません。勿論解像度が低いとかダイナミックレンジが狭いという事ではありません。とにかく「たっぷり」聴かせてくれる・・・そんな300BがPrimeだと憶えておいて下さい。

 最後に補足的にエレハモ300Bについて。この球は高域の抜けが良く低域も締まっていて音の浸透力という点では大変優れている球です。501SEの標準球としてEHを採用したのはこのアンプの特徴である後乗りの滑らかさに僅かに高域の明るさを加えたかったから。そういう意味では良い中和効果を発揮してくれていると思います。バラツキがやや大きく選別は大変ですが一時期のようにエミ減トラブルもなく現在は品質も安定していますので、今後も501SEの標準球として頑張ってもらおうと思っています。

WE300Bはなかなか手が届かないとしても30000円前後でこれだけ選択肢がある訳ですから是非皆さんも洋服を着替えるように違う300Bを用意して気分やソースで差し替えて楽しむ・・・なんて事は如何でしょうか。こんな芸当が出来るのも真空管アンプならではの醍醐味ですから。
http://www.kit-ya.jp/blog/index.php?eid=1629


WE300Bオールドと復刻版の音質差 2011,08,12, Friday


今77年,88年,99年,06年のWE300Bと新300Bの5種類をとっかえひっかえしながらSV-91Bで聴き較べているところです。ちょっとこの写真をご覧下さい。右から77年,99年,06年,そして新300B二次試作です。こうやってみるとWE300Bでもシェイプに微妙な違いがあることが分かると思います。

77年と06年はちょっとズングリ、99年はやや細身。二次試作はこの3本の中では99年に最も近いことがお分りになると思います。

ただこの少々変な撮り方の写真はその外形の差異をお示しする為にアップしたのではありません。写真をクリックして大きな画像でよーく見ていただくとWE300Bは3本とも横方向に筋状の"紋"が見えるのが分かりますでしょうか。対して二次試作の表面は滑らかです。これが以前から申し上げているガラスの薄さの違いなのです。

言い換えればWE300Bは紋が出るほど限界までガラスを薄く仕上げていて、これがあのチーンという"お鈴"の音程を決定づけており、WE300Bの繊細で豊かな響きのポイントであろうと言われています。

対して二次試作は今までのものよりも薄くはなっているものの、WE300Bと比較するとまだ厚く、色味もやや褐色がかっていることが分かると思います。


 ただ最も大切な音に関して言うと、この二次試作、相当高いレベルまで来ていると申し上げておきます。市場で最も沢山流通している300Bは300BEH(ロシア)と300B-98(中国)の二種類だと思いますが、これらと比較して最も大きな差異として感じられるのはローレベルのグラデーション(階調表現です)でありピークで頭を打たないヘッドルームの高さです。今まで自宅ではオートグラフはPPメインで鳴らしてきましたが、今回の試作であれば91B(シングル)で十分。むしろその中高域の伸びやかさからMonitor GoldのEnergyを1ノッチ落としたほどです。

 今日偶然発見があったのはWE300Bが世代間で音質が異なることです。

試聴している時、うっかりしていて06年と77年を左右に挿して聴いていてあれ?と思ったのがきっかけでした。Tuttiでブオン!と膨らむその感じ・・・SPの外側に拡がる音場感が左右チャンネルで僅かに違うので確認したところ世代が違うことに気づいた訳ですが、

オリジナル(オールド)よりも復刻版の方が中低域の倍音が厚め・・・

言い換えればオールドの方が良い意味で渋い音だという事が分かったのです。

Ipはほぼ同じですので特性差ではありません。今回佛山で"音は復刻を狙うのかオールドか?"と訊かれた意味が漸く分かったという訳ですが、LPでもプレスで音が違うように同じWE300Bでも音が違うなんて、とても興味深いですね。これだから球との戯れは止められません(笑)。
http://www.kit-ya.jp/blog/index.php?eid=3384

2011-02-21 00:35

現在WE300B復刻版(9552)が来客中。まだmini91Bでのちょい聴きでしかWE同士の比較は出来ていませんが…自分のエミ減WE300Bオールドとは確かに微妙に音が違います。

復刻WEの状態、過去の使用時間は定かではないのでなんとも言えませんが、復刻版の方が高域がクリア、な感じです。

これが逆に「音の硬さ、新しさ」と感じる方もいるでしょう。

横への音の広がりは(現状では)エミ減WE300Bオールド(プリントとARMYのペア)の方が上と感じます。

オールドの方が高域の耳あたりが円やかで「音が濃く感じる」のは確かですね。

両者を聴いてわかったのですが、「WE300Bたる最大の特徴の一つ」は音色もさることながら【音のタメ】だと感じます。

例えば中低域(チェロの低音等)が、中国現行管だと【ブン】に対しWEだと【ウ”ゥン】みたいな(笑)。弦楽器を表現するにはこのタメが非常に重要で、これが音の実体感の再現に大きく貢献していると思います。これは新旧問わずWE300Bにあります。自分はガラスの薄さ(WEの方が薄い、響きが出やすい)が大いに関係しているのかな…と思っています。

また総じてWEの音は、自分の印象では「結構締まった音」です。ムラードの様な芳醇な雰囲気とは違います。もっと厳しい、それでいて機械的ではない音に自分は感じます。

オールドWEと復刻の関係については、色んな考え方が出来ます。「復刻WEで充分」とも言えるし、「やっぱりオリジナルWEでないと!」とも言えます。両者とも優秀な【音楽モニター管】だと思います。
http://cello300b.exblog.jp/12153216/


http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c24

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
25. 中川隆[-8828] koaQ7Jey 2019年8月16日 17:46:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3914]
300A・300B を使ったウエスタン・エレクトリックのオリジナル・パワーアンプ


300A採用のアンプは、『D-95036-F/G』、『86』、『91』、『92』と、1938年以降の製造された『TA-7467』、『TA-7477』があるが(他に300Bを採用した『42』、『46』のモディファイド・ヴァージョンなどがある)、

ファイナルステージがプッシュプルの『86』。シングルの『91』、この2種がシアター用として、もっとも重要な存在である。


1) Western Electric 86 Amplifier

WE-86-C回路図
http://kankyu.ehoh.net/page013.html


 『86』は、1934年に発表されているが、’35年のType1〜4システム、’36年のM-3〜4“ミラフォニック・サウンドシステム”の「ダイフォニック」システムをドライヴするパワーアンプとして運用、出力管300Aをプッシュプルで用いた、ウェスタンでもっとも著名な製品の一つである。

 
『86』は(A)と(C)型で最小47db から最大99db、(B)型で36dbから96dbの幅広い固定式ゲイン・コントロールが行えるのが特徴である。
 
まず入力信号は1次インピーダンス200Ω、2次インピーダンス110kΩ、昇圧比1:23.5のインプット・トランス261-B(パーマロイ・コア)で受ける。

 『86-A』のアウトプット・トランスは166-A、『86-B』では166-B、『86-C』では159-Bとなる。

 159-Bは1次インピーダンスが4.13Ω、2次が6Ωと12Ωで、

6Ωのタップの場合 3.5Ω〜7.5Ωのインピーダンスを持つレシーヴァー、

12Ωの場合には7.5Ω〜15Ωのレシーヴァー

を接続するようにとの指示がある。 300Aのバイアス抵抗(ワード・レオナルド製)は、60オームと510Ω(合計570Ω)で、ここには300A×2本分の電流が流れるから、1本分に換算すると1.140Ωになる。わざわざ60Ωと510Ωに分割してあるのは、B電源と510Ωの間に16μFの電解コンデンサーを接続し、A.C.分(B電源のリップルや出力管のアンバランスから生ずる歪)をキャンセルする手法である。また同時に300Aの、高域における電源インピーダンスを下げる効果もある。

『86』はウェスタンで最初に本格的に電解コンデンサー(エアルヴォックス製)を採用したアンプで、これも画期的なことであった。

 『86-A』『86-B』とも、パワー・トランスには当初60Hz専用のコア・ヴァリウムの小さめのもの(323^B)が採用されたが、発熱およびレギュレーションの点で不利なため、1935年に47Hz〜63Hz対応のD-96970に交換された『B-86-A/c-86-A/86-C』が生まれる。

 『86』は、映画産業の隆盛の波に乗った、ワイド・フリクェシー&ヴォリュウム・レンジを謳う“ミラフォニック・サウンドシステム”を導入したシアター用に、1934年から’37年の間、大量に生産された。 客席数が800〜1500席、100,000〜250,000立方フィート(2,831〜7,079m3)のエア・ヴォリウムを持つシアターでM4システムや、M3システムにおける、ステージ・レシーヴァー駆動用の終段アンプとして充分な実力を発揮した。

 TA-4161-A低域レシーヴァー、594-Aレシーヴァー、26-Aホーンを主体とする“ミラフォニック・サウンドシステム”を本機で鳴らしてみると、わずか15Wの出力であるにもかかわらず、その卓越した表現力、色彩感豊かな描写、そして圧倒的な重量感は現代の数百Wのアンプに勝とも劣らないことを強烈に思い知れされる。

オーディトリアムにおける音響機器のテクノロジーは、1930年代にはすでに完成の域に達していた。それが現代民生用オーディオシステムにあまり継承されていないことは残念でならない。音響技術および音楽ソフトの分野に関しては、S/Nが改善され、ダイナミックレンジおよび周波数レンジも拡大してきたが、その代償として失われたものも多いことを考え直す時期に来ているのではないだろうか。
http://www.gokudo.co.jp/index2.htm

__________


2) WE−91B


WE-86-C回路図 ・WE300Bシングル回路図
http://kankyu.ehoh.net/page013.html


WE-300Bをシングルで使ったアンプとしてその信頼性と設計の良さが語り継がれている。初めて原型のWE-300Aが1936年にWE-1068トーキー映画アンプシステムのWE-86アンプに使われた。その後WE-91Aに使用、改良された300Bが投入されると91Bに改版となった。

電圧増幅はWE-310A(Ef=10V)を2段使い、十分な増幅度を得ている。入力はフォトセル用にT1で昇圧しハイゲインとしている。整流管は274Aを採用して300Bとウォームアップ時間を合わせている。

オリジナルはモノラルアンプ オーディオ用には入力Tと初段を省略する回路が参考にされてきたがオーバーオールのNFBなどの極めて高度な補正が施されている回路は今でも色褪せない。
http://kankyu.ehoh.net/page003.html



16. 2013年3月24日 19:52:19 : W18zBTaIM6

91Bをステレオ仕様に変更したイミテーション・アンプがキット屋(サンバレー)から発売されています。
評価は今一つみたいですがどうでしょうか?

サンバレー ウェスタン・エレクトリック 91B 復刻版

製品名 SV-91BIII 完成品
製品概要 300Bシングルパワーアンプ
価格 328,000円(税・送料込み)

形式:300Bシングルパワーアンプ
※使用トランスは全て橋本電気製
入力:入力1系統,ヴォリューム無
配線仕様:オール手配線
ボンネット:無し

使用真空管:LM310A*4, Prime300Bver.4*2, GD/274B
(LM310Aは曙光製別注品【国内当社専売品】)

定格出力:10W+10W(8Ω、THD:10%)
周波数特性:10Hz〜70kHz(1W 8Ω -3dB)
ゲイン:27dB(8Ω)
適合負荷:4〜6/8/16Ωからご注文時に1系統選択(標準は8Ω)

サイズ(突起部・球含む):W400×D300×H220
重量kg:23


世の所謂 「91B型」300Bシングルは何故オリジナルとこんなに音が違うのだろう、という疑問からSV-91Bの開発はスタートしました。

その為にはまずオリジナルと同じ3段増幅回路を用い、通常は送信管アンプに使う大型出力トランスを300B用にアレンジ。また300Bをフルスイングする為に通常では考えられない利得を電圧増幅段で稼ぎ、「マルチループフィードバック」回路で強力に音を締めています。

並みのプッシュプルアンプを寄せ付けないドライブ力。大型SPを楽々と制動する私どものパワーアンプの最上級モデルの一つです。

店主のひとこと:
電圧増幅管にLM310Aを採用。300BはPrime300Bver.4,整流管はGD/274Bです。
※LM310Aは曙光製別注品【国内当社専売品】
http://www.kit-ya.jp/product_info.php?cPath=86_87&products_id=667

サンバレーの3つの300Bアンプ(SV-501SE、SV-91B そして mini91B)


 今我が家には300Bのアンプは3台あります。一番聴く機会の多いリビングにはSV-501SE、1階のメインのレッスン室にはSV-91B、サブのレッスン室にはmini91Bです。

 2009年4月にAutograph miniを導入し、6月にそれをドライブするメインアンプにmini91Bを選びました。それまで主に聴いていたSV-91BとSV-501 SEの違いについては、以前に書いたものを引用します。

 私達演奏家が忘れてはならない音の厚みを出す事などはそれこそ91Bの独壇場でしょう。

音と音がいつもつながっていて(legato)、それでいて1音1音発音はハッキリしないといけないのです。お茶漬けサラサラではいけないのです。この感覚を日本で[特に和風の住宅で]持ち続けるのはとても難しいです。この感覚は91Bの方がよく表現できています。

それに91でジックリ聴いたソースを501で聴くと、何かサラッと流れて行ってしまうような気がするのも事実です。でも91Bではあまり出てこない色彩感が、501 SEではよく聞こえてくるのもまた事実。

 これに Autograph mini と mini91B が加わり、メイン3機種×スピーカー3台=9通りと選択肢がとても増えました。でも結局今までのラインは崩さずに、Autograph miniはmini91Bでドライブする事にしました。

 音の幅と厚みを大事にしたいので、こうなりました。

音の拡がりや流麗さを大事にする方だと SV-91B より SV-501SE や VP-mini300MkIIを選ばれるでしょう。

私たちの世代のプレーヤーは SV-91B に魅かれる人が多いですが、もっと若い世代の人はより流麗な音に魅かれるようです。ステレオの選び方にも年代の特徴がよく表れています。

SV-501とSV-91B

 私は6BM8のシングル(エレキットのTU870)で真空管に目覚めた後、KT88(トライオードのVP-Mini88 MkII)、6BQ5(トライオードのVP-Mini84 MarkII)のシングルを手に入れ、思い出の6BM8シングルを作りました。

当初はKT88を聴いていたのですがそのうち300Bのシングルが欲しくなり、エレキットのTU-873を作りました。私は音の自然さと伸びやかさを最も重要視するので、直熱三極管それも300Bの音に魅かれて行きました。

当時は秋葉原の店頭で色々な種類の管の音をずいぶん試聴したものです。そのうち同僚の伝手もあってサンバレーと接触を持ちました。その当時はサンバレーの300BのアンプはJB300BとSV-501iだったと思います。JBも捨てがたかったのですが、SVの方を選びました。

このSV-501はコスト・パフォーマンスの点では右に出る物は滅多にないという名品だと思います。それが更にSV-501SEになって見かけは i とそっくりですが音はまるで変わりました。

 またしばらくして今度はSV-91Bが出てきました。この両者の違いは何度も書いていますが、


501SEの方はなんと言ってもその流麗さが特徴、

91Bの方は力強さが特徴


です。前にも書いたように501は固定バイアスなので、レッドゾーンに入るか入らないか位のところまでプレート電流を流すとDefaultの状態とは違うDarkな音が出てきます。

(私の家でこの状態で動作させるようになって9ヶ月が経ちますが、いまだに快調です。501 SEは2階リビングに置いてありますが、毎日必ず最低でも30分ほどは音を出しています。つまりこの程度では300Bに悪影響はないという事でしょう。501に挿している300BはWEの9952です。)


 1階のレッスン室にあるSV-91Bの方は501に較べると音を出す頻度がいくぶん下がります。 91BはもともとPrimeTubesが付いていましたが、これにSvetlanaやGolden Dragonを挿したり、PrimeTubesのVer.2を挿したり色々と試しました。この時点ではPrimeTubesのVer.2で決まりだったのですが、WEの300B(8826)と整流管274Bを挿したら更に音が活きて聞こえ、今ではWEになってしまいました。

(整流管274Bの違いによる音の変化はかなり予想より大きいのですが、274Bは品薄で高価な事を考えるとどなたにもお奨めという訳にはいきません。)

WEにしたらそれだけの意味があるかという事になると、これは人によるとしか言えません。今の時点でWEでなければダメなのかと聞かれたら、私は決してそんな事はないと答えます。今PrimeTubesで聴いても普通に聴くのであれば何の不都合もなく音楽を楽しめます。

 高い真空管を買う金があったらその差額でソフトを買うという選択の方が現実的でしょう。管のコレクションを楽しむのなら別ですが。

 結論として今501と91Bのどちらをとるのかと言われると、私は両方とも大事ですとしか言えません。

 それに色々ステレオに手を入れて行くと、段々2つが似かよった持ち味を持ってくるのです。結局どのアンプだからという事より、私が自分の好みで音を作っているという事の影響力の方がはるかに大きいのです。今の2階の501は多分他で聴ける501とはかなり違うベクトルを持っているように思います。

管をWEにするか否かは、全体のセッティングを充分やった後に調味料程度に効いてくるものです。WEでなければダメというような事は決してありません。

実際スピーカーの高域のレベル調整の方が影響力は大きいです。でも無視できない事も事実です。だから悩むのです。

300B色々

 私は300BのアンプはキットでエレキットのTU-873を初めとして、ヒノのHK-300BS、サンバレーのSV-501i、SV-501 SE、SV-91Bと作ってきました、そして300Bは

エレキットについてきた中国管、
Svetlana、
Golden Dragon、
Prime TubesのVer.1と2、

最後に

WEの88年版と99年版を使ってきました。


 Prime TubesのVer.1は2003年10月、Ver.2は2004年7月、WEは2004年10月に導入していますので、ここではそれをまとめてみます。

 色々のアンプを色々の管で聴いて何が音を一番決めるのでしょう。

私の結論はアンプが一番決定的なファクターを握っているという事です。回路の構成や動作点の置き方で基本的なキャラクターは決まってしまいます。ですから設計者の求めるものが一番表に出てくるのです。

管はそのキャラクターを発揮させるための脇役なのですが、ある意味準主役のような働きまでします。(ヴァイオリンで言うと管は弦というよりは弓に近いと言えるでしょう。)

 例えばSV-501 SEとSV-91Bですが、どんな管を使っても91Bから501のような音は出せません。

91Bは音が塊で前に出てきて、501は音の粒の細かさと色彩の多さが特徴です。

基本的にどちらのキャラクターを求めるのかをまず決めて、それをそのまま活かそうとするのか、あるいは自分の好みの方向に微調整するのかによって管選びが違ってくるのでしょう。(固定バイアスの501の場合は電流の調整によってもかなり音の肌合いが変わります。)勿論だれでもその片方で満足する人はいないと思いますが、二股をかけるようなやり方はしない方が良いです。基本的にどちらかをとって、それから管選び、そしてスピーカーのセッティング(置き方とレベル調整)までやって自分の好みの音にして行くべきだと思います。

 今言った事と矛盾するようですが、管を替えるとかなりアンプの性格が変わります。

私が現在評価する管はPrimeTubesのVer.2とWEです。

絶対的な評価についてはWEの方が上なのですが、何しろ値段は3倍以上違うのです。それだけの違いがあるかと言われると「?」としか言えません。でもWEでしか聞けない音がある事もたしかです。それこそその人の価値観の問題です。(音楽をどう思うかだけではなく、音楽そしてオーディオが自分の生活の中でどのような位置づけになるのかという事です。)

普段の生活の中で音楽を聴く事を大事にするのでしたら私はPrimeTubes Ver.2をお奨めします。WEのビンテージ物を持っていても普段は大事にとってあるというのでは本領は発揮してくれません。普段からそれをどんどん鳴らしているのでなければ本当の音など聴けません。

91Bに挿している88年版は毎日聴いている時と2〜3日間をおいて鳴らした時では最初の反応からハッキリ違います。どんな管でも毎日短い時間でも必ず聴いてあげる事の方がずっとずっと大事だと思います。

ヴァイオリンもまったく同じで、アマチュアの人にとって悩ましいのが毎日弾けない事でしょう。

 音を決める要素としては私はSV-91Bの場合300Bよりは整流管の影響の方が大きいような気がしています。整流素子によって音が違うというのはよく聞く話です。ただWE274Bは1本8〜9万する上になかなか手に入らないです。こうなるとコストパフォーマンスの問題で、その違いに意味を見いだして投資するかの問題です。私は単純に興味があるのでWEにしてそれなりに良さは味わいましたが、そこまでやる意味があるかどうかはいまだに分かりません。


 300Bに限らず管を替えれば音は必ず変わります。

SV-722の12AX7(ECC83)、SV-501 SEの前段の6BM8(ECL82)、SV-91Bの310BとAなど換えると面白いほど音は変わります。

現状はSV-722は厶印の83、501のECL-82はTUNGSRAM、310はAになっています。でも基本的なキャラクターまでは変えられません。あくまでもアンプの持ち味を最大限に活かすための調味料のようなものです。例えば塩にも赤穂の塩もあれば岩塩もあるというようなものでしょう。 
http://www.nezu.ms/komiti_bangai.html


http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c25

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
26. 中川隆[-8827] koaQ7Jey 2019年8月16日 17:47:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3915]
160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/12(水) 19:16:38.59 ID:q1EL38/8

サンバレー SV-91B は、WEに見合う価値のあるアンプですか?


161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/14(金) 05:07:44.38 ID:xWKduPs1

それまで、300Bには高級OPTを組合すのがセオリーだったが、WE91Bの原点に立ち返り、ちんけなOPTでも一般には十分ということを証明した最初の300Bアンプだったな。

その後、OPTをけちって価格を下げた300Bアンブが乱立した。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/pav/1218645947/

安物のトランスでは WE−91Bの音にならない


カンノ製作所 KB300 モノパワーアンプ×2台

カンノ製作所 KB300 が当社試聴室のリファレンス真空管パワーアンプになります。2台で当時の定価\196万、非常に珍品です。

本機の回路は米国WE ウエスタンエレクトリック(株)の流用です。

出力管300Bは勿論WEの300Bで、WE1985年のカンノ製作所保管分です。

6SN7−INTR-300B真空管−OUTTRのシンプルなモノです。

入力はXLR/RCAで、入力VRがあるため、プリアンプを必要としません。スピーカーターミナルには、WBT社大型バインディングポスト型を採用しています。

しかしそのパーツ、配線技術などは格段の違いがあります。


本機は、故永沼課長全盛期の作品です。

北九州市の菅野製作所(株)の会長で居られた故菅野省三氏が、自分の音楽の趣味のため資材、私財を投入し、昭和30年台に、当時としては珍しい電子顕微鏡!!までをを購入し、米国WE ウエスタンエレクトリック(株) の真空管アンプ類を分解し、音の秘密がコア材のパーマロイにあることを発見されます。

石にも目があるように、金属にも目があります。金属結晶の分子列配合です。石の目にそって鏨(タガネ)を入れると、僅かな力で石は目に沿って割れます。TVなどでも石切場で見られたことと思います。昔の方はどのようにして金属の目を見つけるのか?

それは光線の縞に答えがあります。同じパーマロイ厚板から切断しても、組み方が違えば同じ音にはなりません。
そんなことはない!!と言われる方も多いですが、事実、組み手が変われば音は変わります。それは長い熟練と経験と音楽に対する造指の上に完成します。


残念ですが、カンノ製作所の超熟練の永沼課長が鬼籍に入られ、カンノ製作所にこれと同じ物を組める方は居られなくなりました。音の空間、静けさ、倍音、突発的な広ダイナミックレンジなど、生の演奏が持つ独特な雰囲気を、カンノアンプは再生します。

勿論8W位ですから、何でも鳴るわけではありません。オールドの16オーム仕様のSPは最高に鳴ります。オートグラフ、ハーツフィルド、パラゴン、A5などです。最高の至福の時間を貴方に与えます。貴方のそばに置きたいアンプです。
http://www.auduo-1.com/casa_007.html




18. 2013年3月24日 20:29:54 : W18zBTaIM6

131 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/10/30 22:48:39

SV-91BIII が欲しいと思ってます
91B構成で高槻の300Bがどんな音がするのか?
だって本物の91Bアンプって手に入らないもの
どなたか使っておられる方、アドバイス下さい。


140名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/10/31 14:59:45  

91B構成の300Bアンプならもっと音の良い資材のがいっぱいあるんですが
安物志向なのですか?

141名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/10/31 15:58:13

所詮、素人衆に売りつけるもんだから
ここでぐだぐだ言ってもしょうがないべー


142 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/10/31 20:31:37

いや、でも91Bスタイルでコンパクトなのという意味ではこれ以上スマートにはなかなか出来ないよ

143 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/11/01 08:44:33  

いやいや、91B型をステレオで作っちゃいけないよ。
91B型はモノアンプじゃなくっちゃね。
第一、ステレオ分の電流負わせたら274Bが可哀相。


150 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/11/03 02:13:34
>143
>第一、ステレオ分の電流負わせたら274Bが可哀相

この点で技術的に明確な自信があるなら大橋さんに質問してよ。


152 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/11/03 16:26:26
>150
274Bの最大整流電流は入力コンデンサ4uFで150mA、
入力コンデンサを増やすと140mA

ステレオ構成の300B 2本と310A 4本分だと、ギリギリだよ。
本来の91型モノラル構成なら大いに余裕があるよ。
http://desktop2ch.info/pav/1287185199/


19. 2013年3月24日 20:54:16 : W18zBTaIM6


サンバレー VP-mini300MKUは、私なりに中域が厚いと言われているシーメンスの12AX7に換装して使用しています。

しかしながら、音の透明度と放射感は恐らくだれが聴いても、特に半導体アンプに飽き初めて真空管アンプを初めて耳にする人には鮮烈に聴こえると思います。

「こんな音初めてだ、今まで何を聴いていたのだろう?」

確かにコストパフォーマンスに優れているし、この透明感と音飛びの良さはインパクト大です。

しかしです…よーく聴き込んでくると、我が家のminiとの相性では透明感と音飛びの良さとは反対に中域の薄さ「濃さ」がものたりません…。

このことに気づいてからすっかり出動回数の減ったアンプになってしまいました…。


Commented by たっちん at 2009-10-07 09:43
300Bを先々の目標に置くものとしては、「透明感と音飛びの良さとは反対に中域の薄さ」という指摘には、いろいろと考えさせられます。

今のところ、よくわかった上ででなく“300Bシングル”という神話のイメージに憧れている段階なので。(^^;


Commented by rhr_nally at 2009-10-07 12:49
300Bと言いますか真空管アンプ全般でトランスの占める割合が大きいのではないかと思います。

同じサンバレーさんのシングル3機種 VP-mini300MKUと SV-91B と SV-501SE を比較した場合、

91Bは整流管を使用している、
SV-501SEは使用していない

などから、音質も違うと言われる方もいらっしゃいますが、真空管アンプではトランスの影響が大きいのではないかと最近考えます。

「よくも悪くもトランスで音が変わる」

それを痛感したのが、きゃーるさんの6V6の試聴でした。

標準から日立のファインメットコアトランスにしたものは、随分音が違いました。標準の6V6はシャープできつめな音なのですが、ファインメット版は中域が厚く低域も分厚いと感じています。
http://rhrsp.exblog.jp/11282326/


色んな300Bアンプ。

この1年半くらいで、幸運にも色々な300Bアンプを体験(聴く)することができました。面白いのは多くの人たちと同じく、自分も初めて聴いた真空管アンプはエレキット製だった事でした。

山形の、自分がオーディオを持つきっかけとなった方がシーメンスのコアキシャルにエレキットの300Bアンプ(TU-873)を組み合わせて聴かれていました。色々なアンプを作られ、行き着いた先が300Bのしかも入門機(失礼!)のTU−873というのが興味深いです。因みにホルンを吹かれる方です。その方の友人の打楽器の方はヒノの2A3アンプを使われているそうです。

エレキットの300Bアンプは本当に自然な、「水」のようなアンプだと思いました。アンプの存在を感じさせず、SPの裏方となりいつまでも聴けるタイプ、一般的な「真空管は音がよい、柔らかい」のイメージに結構近い気がします。

(その後、サンバレープライム4とGE/6SN7GTBを誕生日にプレゼントしたら気に入って頂けて、音も変わりました。特に前段のGE/6SN7GTBで音が前にくるようになりました)

キット屋ショールームでSV−91Bを聴いた時のインパクトは凄いものでした。あれを聴いて

「やっぱり真空管って音が柔らかいんだ」

って思う人は…あまりいないんじゃないかな。

参考までに聴かせて頂いたオールWE仕様はまさに銘器。Vnでいうとデルジェス、という感じでしょうかね(笑)。

デルジェスといえば、シュロモ・ミンツもデルジェスで、練習場で協奏曲を聴いた時に(なんてキツイ音、音圧の強い楽器だろう)と思いましたが、サントリーで弾きはじめた瞬間、オケと全く引けをとらない、むしろオケをも支配し、客席の一番後ろまで届いていくその音に圧倒されました。完全にホールで本領を発揮する楽器です。


SV−501SEは下向きに倍音成分の多い「玄人」なアンプという印象。

「客席タイプ、S席タイプ」の評価も頷けます。
未だに気になるアンプです。むりやり楽器にあてはめると(笑)…アマティかな。

mini91Bはシングルなのにトルクフル、SV−91Bとはまた力強さが違う印象。楽器に例えるとテスト―レかな(これは結構良い例えでは??)


そして最近のお気に入り、VPmini300mk−Uですが、自分の印象は91Bと501SEの間のようなキャラクター。

響きが多く、低音の出方がふくよかです。

91Bの締まった低音とは違います、なるほど商品説明の「ゾリっと」とは上手い言い方です。

300Bアンプの中では手頃な存在ですが、良い意味で中庸なTU-873とは明らかに違う、ミネラルの多い音。山形でシーメンスSPにmini300を繋げたら「これ、置いてってもいいですよ」と言われちゃいました(笑)。

楽器だと「ストラド」といいたいとこですが、これをストラドにすると価格バランスがめちゃくちゃに(笑)。エンリコ・ロッカというところかな。このアンプをプリメインで使っている方は、だまされたと思って是非プリを通して入力VOLを最大にあげた本来の力を体験して欲しいです。新しい世界が見えてくると思います。お奨めは樽プリSV-20Dです。


気が付くと300Bシングルばっかり(苦笑)。

すいません、つい。VP-3000も聴きましたよ、少しですが。店主が


「シングルは音色を、プッシュプルは響きを聴く」


と仰っていますが、なるほど確かにという感じ。一度vP-3000でkitLSをじっくり聴いてみたいです。モダン最高といわれる「プレッセンダ」としておきましょうかね。

…あ、「ストラド」が無い…SV−2(2007)ですよ(笑)。スイマセンまだ音の特徴を掴みきれていないが、近いと思います。山形の先輩はこのアンプが大変気になっている様です。…でも40kgは重い。

参考までに、チェロで最高と言われている楽器はストラドよりモンタニァーナともいわれています。ストラドのA線(高弦)は素晴らしい、でも対して低弦の鳴りが最強クラスにしては…という評価です。とは言っても「ストラドはストラド」ですが。フォイヤマンや堤さんはモンタニアーナです。箱が大きくて良く鳴り、「チェロ」のイメージにぴったりの音です。

…でもどの銘器も状態や製作年代など、「ピンキリ」です。ピン(キリ?)でいいから持ってみたいもんです。
http://cello300b.exblog.jp/8402624/



20. 中川隆 2013年3月24日 21:41:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


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本物の WE91B 画像
http://www.google.co.jp/search?q=WE+%EF%BC%99%EF%BC%91B&hl=ja&lr=lang_ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=2PBOUazeE8WjkgWk54CIAg&ved=0CCsQsAQ&biw=1072&bih=892


http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c26

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
27. 中川隆[-8826] koaQ7Jey 2019年8月16日 17:50:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3916]

WE91Bはほんとにすごいアンプだった 2013-01-19 11:08:58


WE91Bで鳴らし始めてから数日間

仕事も行きたくない、ずーっと音楽を聴いていたい

なんて素晴らしいアンプだったんだ91は

我が家のALTECは817システムで515Cをパラ接続+288-8G+311-90
これにツイーターをコンデンサーとコイルを使って付け足したもの

このスピーカーがわずか出力9ワットのアンプで鳴るなんて
思ってもみなかった!

鳴る鳴る、響く響く、凄い凄い

WE91Bとの出会いは何年前だろう、友達のK氏がやはりALTECの熱烈なファンで、大好なA4システムを鳴らしきるためにトランジスターや、真空管、新しいもの、古いもの様々なアンプを使用してきたが、最後に行きつくにはこれしかないとWE-86の購入を決断し、ウェスタンサウンドインク行った際に私も同行して私のアンプは、その時思いつきで購入した、かなり安易な出会いのものであった

だから当然WE91Bの知識はなかったし愛着も無かった

熱心なウエスタンファンでもない私がそんな気持ちでWE-91Bを買ったものだから

「いきなり91Bかい、普通は最後が91なんだよ」

と言われたのが記憶に残っている。

免許取り立ての若いお兄ちゃんがいきなりクラウンを買ってこれが当たり前と言ってる生意気な奴!、車だって

「何時かはクラウン」

いろいろ乗ってみないと良さも悪さも、何がどういいのか比べうよがない


あたりまえである

しかし私もそれなりにオーディオはやってきた、
アンプもクレルやレビンソンその他そこそこのトランジスタ−アンプや
国産の真空管アンプはかなり使いこんできたので、

「いきなり91B」とは思っていなかった

が、

やっぱりウエスタンの世界では、ウェスタンの世間知らずが、 いきなり91Bであった、良さを理解していなかった

今まで聞いたシングルアンプのピュアではあるが低域の力の無さ、
純度は高いが表現力がいまいち、なんてのはWE91Bには無い


スピード、力感、音色、全く問題なしあえて言うなら立体感の表現がいまいち

でもそんなことはどうでも良いくらいの音質である

そういえば91Bの中の配線はかなり古い単線で、抵抗はできるだけ板抵抗に変え、
コンデンサーも出来る限り当時見つけ歩いて、古いものに変えてある

入力もレプリカながら618Bを入れて当時やることはすべてやりきったつもりでいた

しかしひとつだけ予算の関係で出来なかったのが

これ、5Z3

当時高くて274Aが買えなかった、いまもくやしい!

当時でも1本6万円以上した、今はいくらぐらいするんだろ

ほしい


オールウエスタンで聞いてみたい。

音は違うのかなー

きっと違うんだろうなー


値段に見合う違いなのかなー

ここまでやったんだから最後までやりたいよなー

でもきっとたかいよなー
・・・

違いを知っている方はどなたかいらっしゃいますか〜?
http://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/f8c572bb16f0a1a4106baee82bd77678


WE91Bは音の良いだけのアンプではない 2013-02-04 09:41:41


WE91Bが普通のアンプになってしまった!!

入力を618Bのトランス結線をするにあたって幾つか実験を試みてみました。

自作をされる方々や、真空管の先輩方に前から言われていたことですが


310の二段増幅ではゲインが高すぎる!

二段増幅は必要がない!

310一本の一段増幅にすれば音がピュアになる

あんなに深くNFBが掛かっていて音が良いわけがない、

NFBは音が死ぬ

Etc


私も言われた時はもっともなご意見だと思った

一度試して見たかったがなかなか機会が無かったので

トランス入力を試すにあたって、ついでなので

初段を外してNFBのかからない状態で310一本の一段増幅で音出しをしてみた、

が、


う〜ん音は良い、すばらしい〜

本当に音がピュアになった


なるほど

でもつまらない!


スピーカーに音がへばりついている

レンジは広くなったように感じるがエネルギー感はない

音色もきれいだが、ウエスタン特有のコクが無いし全然楽しい音がしない、
これではただの音の良いシングルアンプ


ジャンルを変えて一応数曲聞いてみるが結論は同じ


世間一般の音の良い300Bシングルアンプである


なるほど

同じWE300Bを使ったシングルアンプでもこんなに音作りが違うんだ

これではいろいろな店や記事で見る一般的な91型のアンプがあのような評価なのはうなずける

ほかにも入力を試したが、結論は

310を2本使った二段増幅でNFBをたっぷりかけないと

あの張りのある前に押し出す音の濃い音色は聴けない

そう、音が濃いのだ


618Bの入力トランスを入れるとそれに輪をかけてコクと張りが出る


貴重な体験をしたもんだ同じアンプで同じ球で同じ部品で回路をちょっと変えただけなのに入力回路をシンプルにして、球を減らして、NFBもかけないでいわゆる、シンプルIsベストの状態にしたのに、ウエスタンの世界では違うんだ


このアンプで聞いていると今まで出会ったアンプとは基本線が違うような気がしてきた


単に技術や発想だけでは語れない

音色ずけ、音作り

このアップは劇場で聴き手が

泣いたり
笑ったり
驚いたり

それを演出するため

音によって聴き手に映像以上に感動を与えるための演出装置としてのアンプ


それがWE91Bなのかもしれない

そんな気がしてきた
http://blog.goo.ne.jp/8417chiharu/e/7a917c08cf2dcbe96220681fbe10f7dc


WE91B型を 10畳以下の部屋で楽しむには?
オリジナルのWE91Bはそのまま一般の家庭の部屋に設置して聴くというのには結構問題が多く 静かに音楽を楽しむためには知識とあきらめ(妥協)が必要になってきます 

まぁ簡単に入力低いし
全体ゲインは高いし 
は取れないし・・・・

などなど

時にはSPからブーンブーンうるさいくらいになっているのに大きな音を聞かせて

どう 91Bはいい音するでしょう?

みたいなWEフリーク?さんもおられます(-.-)
http://www.audio-collections.com/cgibin/nik/nik.cgi?log=201105&id=1305034755


WE91Bタイプの残留ノイズ対策

WE91Bタイプの残留ノイズが気になっていたが、下手に手を加えて音質が変わってもいけないので、そのままにしていた。しかし、スピーカーが高能率な分、やはり深夜などはどうしても気になる。

手持ちの関係で100Ωのハムバランサーを使用しているが、以前、MJ誌で300Bは100Ωのハムバランサーで問題ないが、2A3は100Ωではハムが取れにくいにで50Ωのハムバランサーを使用すべきだ、というような記事をみたような気がする。

参考に他の300Bsの回路図を見ると100Ωを使用しているのが多いようだが、50Ωを使用しているのもある。案外、50Ωのハムバランサーの方がハムが取れるのではないかと思い込むようになった。

ということで、50Ω2WのVRを手に入れたので、早速取り替えることに。

また、入力VRが中古だったため少しガリがでていたのでこれを新品に交換、

更に入力のシールド線をMIL規格の高級品に変更、

更に更に、310Aのグリッドキャップを中国製からUSA製に変更

となかなかの設備投資をすることになってしまった。


結果、2A3だけでなく300Bでも100Ωよりも50Ωのハムバランサーの方が少しだがハムを低減できることが確認できた。

ハムで悩まれている方、一度ハムバランサーを50Ωに変更されてみてはいかがでしょうか。
http://yuzurin.blog.bbiq.jp/blog/2010/03/we91b-da03.html


http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c27

[近代史3] 有史以来 戦争に勝った事が一度も無い漢民族が巨大な領土を手に入れた手口 中川隆
13. 中川隆[-8825] koaQ7Jey 2019年8月16日 18:57:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3917]

2019年08月16日
中国は外交下手で、工作員潜入や恫喝外交しかできない
http://www.thutmosev.com/archives/80695670.html


中国は頭は良いが未熟な学生たちを兵隊として利用した。(日本の学生運動)

オウム真理教と同じで本人はコントロールされたのに気づいていない


画像引用:http://www.daisuki-kanda.com/guide/photostudio/data/76-0.jpg

中国による浸透作戦

中国は外交上手であらゆる国を手玉にとり、西側先進国はやられっぱなしだったというイメージが定着している。

代表例は米トランプ大統領で、中国は数十年間に渡ってアメリカにスパイを送り込み、アメリカを支配しようとしたと言っている。

そうした面も無くはないし、中国が裏社会をつかって各国を支配しようとした証拠もある。




中国からニュージーランドに帰化したジャン・ヤン(Jian Yang)議員は、帰化前は中国スパイ組織の教官で、現在も中国のスパイである可能性が高い。

こういう人はアメリカやカナダなどあらゆる西側諸国に存在し、合法的に市民権を取得してその国の人になっている。

カナダやアメリカや欧州では時おり、日本の過去の戦争を非難する非難決議がされたり、慰安婦像を建てたりしている。


調べて見ると大半は移民議員が首謀者だったり、提案した議員の選挙区は中国移民が非常に多かったりします。

日本ではレンホーの2重国籍が問題になったが、仮にレンホーが中国共産党のスパイであっても驚かない。

これはソビエト共産党創設以来の浸透と呼ばれる手法で、敵組織に共産党員を浸透させ、内部から崩壊させる。


日本では中国に最も近い沖縄が浸透の標的になり、「祖国中国に復帰しよう」「沖縄を人民共和国にしよう」などという人間が知事をやっている。

毛沢東は1960年代に一度失脚したがまた権力に返り咲き、国内では共産主義原理主義のような文化大革命をやった。

国外では再独立したばかりで脆弱だった日本共産化を企み、バカぞろいだった東大や京大に狙いをつけた。

毛沢東の日本共産化に踊った学生たち

無知で社会経験がない学生を煽って自分の手先にし、国内では紅衛兵として文化大革命をやらせた。

日本では学生運動を起こさせて日本赤軍や左翼過激派による様々な事件を引き起こした。

赤軍による事件は本来は日本の共産化が目的だったのだが、学生と底辺労働者以外には広まらなかった。


日本で戦後共産主義が広まった原因はGHQにあり、米国は日本の右翼を権力から排除するため、共産主義者と朝鮮人の雇用を義務化した。


あらゆる大企業やNHKやテレビ新聞で共産主義者と朝鮮人が上層部にいるのは、このGHQによる赤化政策が原因でした。


一度権力を握った共産主義者と朝鮮人は、仲間を増やしたりさらに朝鮮人を採用する事で組織を支配し続けている。


毛沢東と中国はここにつけこみ、今なら日本に共産主義革命を起こして中国の植民地にできると考えた。

中国人ははこうした裏工作や非合法活動がやたらと得意で、周辺国で混乱を起こしては植民地にしてきた。

モンゴル、チベット、ウイグル、ネパール、パキスタン、ミャンマー、ラオス、カンボジアなどは皆この手で大混乱に陥り支配下に組み込まれました。


2014年にタイでクーデターが起き今も軍政が続いていますが、ごろつきに暴動を起こさせて軍をそそのかしたのは、やっぱり中国でした。


タイ軍事政権は中国と親密で、中国製兵器を購入しようとしたり、中国の敵である日米とは険悪になっている。

こういう事は浸透によってアメリカ人やカナダ人になった中国人がやっている。

アメリカの議会制度は出席者が一人なら、賛成1人でも「全会一致」になる。

それを日本の左翼マスコミは「議員全員が賛成した」かのように報道する


b4
画像引用:http://1.bp.blogspot.com/-QXIZ3zUZkOg/VQvroSzU0vI/AAAAAAAALak/1CiVkmjnFrY/s1600/b4.jpg


中国は外交下手なので破壊工作しかできない

これらを見ると中国の対外活動は大成功しているように見えるが、実際にはこんな「テロ行為」しかできないのです。

表で正々堂々と外交して他国と交渉できないので、工作員やテロリストを送り込んで相手を支配下に置こうとします。

ミャンマーやネパールは政府が倒れて共産化するかも知れないが、日米や欧州でも同じ事しかできません。


一時的に何らかの成果を挙げて相手国にダメージを与えるが、相手国はより中国を警戒するようになります。

その結果現在中国はアメリカから制裁されどの先進国からも警戒され、外交交渉ができなくなっています。

すると中国は軍事力による恫喝と、金にモノを言わせた買収や制裁で脅してきます。


外交交渉がヘタだから脅すしかない訳で、中国人や中国は「外交がすごく下手」なのです。

外交下手なのは中国が未開の地であるため、先進国や民主国家の人の気持ちを理解できないからです。

ミャンマーの人は脅して金を見せれば簡単に従うが、アメリカ人や日本人は違うのが理解できないのです。


だからこそ中国はより一層外国への潜入や工作員による破壊活動に力を入れるのです。
http://www.thutmosev.com/archives/80695670.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/204.html#c13

[近代史3] 馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国 中川隆
19. 中川隆[-8824] koaQ7Jey 2019年8月16日 18:58:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3918]

2019年08月16日
中国は外交下手で、工作員潜入や恫喝外交しかできない
http://www.thutmosev.com/archives/80695670.html


中国は頭は良いが未熟な学生たちを兵隊として利用した。(日本の学生運動)

オウム真理教と同じで本人はコントロールされたのに気づいていない


画像引用:http://www.daisuki-kanda.com/guide/photostudio/data/76-0.jpg

中国による浸透作戦

中国は外交上手であらゆる国を手玉にとり、西側先進国はやられっぱなしだったというイメージが定着している。

代表例は米トランプ大統領で、中国は数十年間に渡ってアメリカにスパイを送り込み、アメリカを支配しようとしたと言っている。

そうした面も無くはないし、中国が裏社会をつかって各国を支配しようとした証拠もある。




中国からニュージーランドに帰化したジャン・ヤン(Jian Yang)議員は、帰化前は中国スパイ組織の教官で、現在も中国のスパイである可能性が高い。

こういう人はアメリカやカナダなどあらゆる西側諸国に存在し、合法的に市民権を取得してその国の人になっている。

カナダやアメリカや欧州では時おり、日本の過去の戦争を非難する非難決議がされたり、慰安婦像を建てたりしている。


調べて見ると大半は移民議員が首謀者だったり、提案した議員の選挙区は中国移民が非常に多かったりします。

日本ではレンホーの2重国籍が問題になったが、仮にレンホーが中国共産党のスパイであっても驚かない。

これはソビエト共産党創設以来の浸透と呼ばれる手法で、敵組織に共産党員を浸透させ、内部から崩壊させる。


日本では中国に最も近い沖縄が浸透の標的になり、「祖国中国に復帰しよう」「沖縄を人民共和国にしよう」などという人間が知事をやっている。

毛沢東は1960年代に一度失脚したがまた権力に返り咲き、国内では共産主義原理主義のような文化大革命をやった。

国外では再独立したばかりで脆弱だった日本共産化を企み、バカぞろいだった東大や京大に狙いをつけた。

毛沢東の日本共産化に踊った学生たち

無知で社会経験がない学生を煽って自分の手先にし、国内では紅衛兵として文化大革命をやらせた。

日本では学生運動を起こさせて日本赤軍や左翼過激派による様々な事件を引き起こした。

赤軍による事件は本来は日本の共産化が目的だったのだが、学生と底辺労働者以外には広まらなかった。


日本で戦後共産主義が広まった原因はGHQにあり、米国は日本の右翼を権力から排除するため、共産主義者と朝鮮人の雇用を義務化した。


あらゆる大企業やNHKやテレビ新聞で共産主義者と朝鮮人が上層部にいるのは、このGHQによる赤化政策が原因でした。


一度権力を握った共産主義者と朝鮮人は、仲間を増やしたりさらに朝鮮人を採用する事で組織を支配し続けている。


毛沢東と中国はここにつけこみ、今なら日本に共産主義革命を起こして中国の植民地にできると考えた。

中国人ははこうした裏工作や非合法活動がやたらと得意で、周辺国で混乱を起こしては植民地にしてきた。

モンゴル、チベット、ウイグル、ネパール、パキスタン、ミャンマー、ラオス、カンボジアなどは皆この手で大混乱に陥り支配下に組み込まれました。


2014年にタイでクーデターが起き今も軍政が続いていますが、ごろつきに暴動を起こさせて軍をそそのかしたのは、やっぱり中国でした。


タイ軍事政権は中国と親密で、中国製兵器を購入しようとしたり、中国の敵である日米とは険悪になっている。

こういう事は浸透によってアメリカ人やカナダ人になった中国人がやっている。

アメリカの議会制度は出席者が一人なら、賛成1人でも「全会一致」になる。

それを日本の左翼マスコミは「議員全員が賛成した」かのように報道する


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画像引用:http://1.bp.blogspot.com/-QXIZ3zUZkOg/VQvroSzU0vI/AAAAAAAALak/1CiVkmjnFrY/s1600/b4.jpg


中国は外交下手なので破壊工作しかできない

これらを見ると中国の対外活動は大成功しているように見えるが、実際にはこんな「テロ行為」しかできないのです。

表で正々堂々と外交して他国と交渉できないので、工作員やテロリストを送り込んで相手を支配下に置こうとします。

ミャンマーやネパールは政府が倒れて共産化するかも知れないが、日米や欧州でも同じ事しかできません。


一時的に何らかの成果を挙げて相手国にダメージを与えるが、相手国はより中国を警戒するようになります。

その結果現在中国はアメリカから制裁されどの先進国からも警戒され、外交交渉ができなくなっています。

すると中国は軍事力による恫喝と、金にモノを言わせた買収や制裁で脅してきます。


外交交渉がヘタだから脅すしかない訳で、中国人や中国は「外交がすごく下手」なのです。

外交下手なのは中国が未開の地であるため、先進国や民主国家の人の気持ちを理解できないからです。

ミャンマーの人は脅して金を見せれば簡単に従うが、アメリカ人や日本人は違うのが理解できないのです。


だからこそ中国はより一層外国への潜入や工作員による破壊活動に力を入れるのです。
http://www.thutmosev.com/archives/80695670.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/135.html#c19

[近代史3] GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った 中川隆
15. 中川隆[-8823] koaQ7Jey 2019年8月16日 18:59:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3919]

2019年08月16日
中国は外交下手で、工作員潜入や恫喝外交しかできない
http://www.thutmosev.com/archives/80695670.html


中国は頭は良いが未熟な学生たちを兵隊として利用した。(日本の学生運動)

オウム真理教と同じで本人はコントロールされたのに気づいていない


画像引用:http://www.daisuki-kanda.com/guide/photostudio/data/76-0.jpg

中国による浸透作戦

中国は外交上手であらゆる国を手玉にとり、西側先進国はやられっぱなしだったというイメージが定着している。

代表例は米トランプ大統領で、中国は数十年間に渡ってアメリカにスパイを送り込み、アメリカを支配しようとしたと言っている。

そうした面も無くはないし、中国が裏社会をつかって各国を支配しようとした証拠もある。




中国からニュージーランドに帰化したジャン・ヤン(Jian Yang)議員は、帰化前は中国スパイ組織の教官で、現在も中国のスパイである可能性が高い。

こういう人はアメリカやカナダなどあらゆる西側諸国に存在し、合法的に市民権を取得してその国の人になっている。

カナダやアメリカや欧州では時おり、日本の過去の戦争を非難する非難決議がされたり、慰安婦像を建てたりしている。


調べて見ると大半は移民議員が首謀者だったり、提案した議員の選挙区は中国移民が非常に多かったりします。

日本ではレンホーの2重国籍が問題になったが、仮にレンホーが中国共産党のスパイであっても驚かない。

これはソビエト共産党創設以来の浸透と呼ばれる手法で、敵組織に共産党員を浸透させ、内部から崩壊させる。


日本では中国に最も近い沖縄が浸透の標的になり、「祖国中国に復帰しよう」「沖縄を人民共和国にしよう」などという人間が知事をやっている。

毛沢東は1960年代に一度失脚したがまた権力に返り咲き、国内では共産主義原理主義のような文化大革命をやった。

国外では再独立したばかりで脆弱だった日本共産化を企み、バカぞろいだった東大や京大に狙いをつけた。

毛沢東の日本共産化に踊った学生たち

無知で社会経験がない学生を煽って自分の手先にし、国内では紅衛兵として文化大革命をやらせた。

日本では学生運動を起こさせて日本赤軍や左翼過激派による様々な事件を引き起こした。

赤軍による事件は本来は日本の共産化が目的だったのだが、学生と底辺労働者以外には広まらなかった。


日本で戦後共産主義が広まった原因はGHQにあり、米国は日本の右翼を権力から排除するため、共産主義者と朝鮮人の雇用を義務化した。


あらゆる大企業やNHKやテレビ新聞で共産主義者と朝鮮人が上層部にいるのは、このGHQによる赤化政策が原因でした。


一度権力を握った共産主義者と朝鮮人は、仲間を増やしたりさらに朝鮮人を採用する事で組織を支配し続けている。


毛沢東と中国はここにつけこみ、今なら日本に共産主義革命を起こして中国の植民地にできると考えた。

中国人ははこうした裏工作や非合法活動がやたらと得意で、周辺国で混乱を起こしては植民地にしてきた。

モンゴル、チベット、ウイグル、ネパール、パキスタン、ミャンマー、ラオス、カンボジアなどは皆この手で大混乱に陥り支配下に組み込まれました。


2014年にタイでクーデターが起き今も軍政が続いていますが、ごろつきに暴動を起こさせて軍をそそのかしたのは、やっぱり中国でした。


タイ軍事政権は中国と親密で、中国製兵器を購入しようとしたり、中国の敵である日米とは険悪になっている。

こういう事は浸透によってアメリカ人やカナダ人になった中国人がやっている。

アメリカの議会制度は出席者が一人なら、賛成1人でも「全会一致」になる。

それを日本の左翼マスコミは「議員全員が賛成した」かのように報道する


b4
画像引用:http://1.bp.blogspot.com/-QXIZ3zUZkOg/VQvroSzU0vI/AAAAAAAALak/1CiVkmjnFrY/s1600/b4.jpg


中国は外交下手なので破壊工作しかできない

これらを見ると中国の対外活動は大成功しているように見えるが、実際にはこんな「テロ行為」しかできないのです。

表で正々堂々と外交して他国と交渉できないので、工作員やテロリストを送り込んで相手を支配下に置こうとします。

ミャンマーやネパールは政府が倒れて共産化するかも知れないが、日米や欧州でも同じ事しかできません。


一時的に何らかの成果を挙げて相手国にダメージを与えるが、相手国はより中国を警戒するようになります。

その結果現在中国はアメリカから制裁されどの先進国からも警戒され、外交交渉ができなくなっています。

すると中国は軍事力による恫喝と、金にモノを言わせた買収や制裁で脅してきます。


外交交渉がヘタだから脅すしかない訳で、中国人や中国は「外交がすごく下手」なのです。

外交下手なのは中国が未開の地であるため、先進国や民主国家の人の気持ちを理解できないからです。

ミャンマーの人は脅して金を見せれば簡単に従うが、アメリカ人や日本人は違うのが理解できないのです。


だからこそ中国はより一層外国への潜入や工作員による破壊活動に力を入れるのです。
http://www.thutmosev.com/archives/80695670.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/146.html#c15

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど… 中川隆
5. 中川隆[-8822] koaQ7Jey 2019年8月16日 20:19:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3920]

AIR TIGHT/プリアンプ「ATC-1」(¥ 410,000/税別)

●電源部/ライン部/イコライザー部を、銅メッキのシールド板で仕切りボリュームスイッチ類をアルミ板でシールド

●イコライザー回路に、マランツMODEL 7に採用されている3段K-K NF方式を採用

●イコライザーアウト端子を特別に設定

●CDプレーヤーの普及に伴ってラインアンプ段は、1段増幅の後にカソードフォロアを加えたシンプルな回路で構成

●ヒーター電源に、厳重なCRフィルター回路と定電圧回路を採用


SPEC

使用真空管:12AX7(ECC83) x 5

出力電圧:定格2V, 最大15V

入力インピーダンス:47kΩ(Phono), 100kΩ(Line)
出力インピーダンス:600Ω(Preout/EQ out)

寸法:430 x 325 x 90mm(W x D x H)
重量:7kg
https://www.otaiweb.com/audio/shop-item-fida2758.html

▲△▽▼


AIR TIGHT/プリアンプ「ATC-5」(¥740,000/税別)

使用真空管:
フォノイコライザー部 12AX7×3本
ラインアンプ部 12AT7×2本

フォノイコライザー入力: RCA/MM×2系統
フォノイコライザー出力: RCA×1

ライン入力: RCA×3系統
ライン出力: RCA×2系統(推奨負荷47kΩ以上)

出力電圧: 20V(負荷100kΩ/1%歪)

外形寸法: 約W400×D260×H90mm
重量: 約9kg
http://www.airtight-am.net/products/atc5.html


現時点で理想の「フォノ」と「ライン」〜考えうる最高品位のパーツを吟味
エアータイト「ATC-5」レビュー
井上千岳 2018年03月15日
https://www.phileweb.com/review/article/201803/15/2976.html


昨年創業30周年を迎えたエイ・アンド・エム(株)が擁する、真空管とアナログへのこだわりを徹底して突き詰める、国内生産のブランド「エアータイト」。三極管211によるフラッグシップ・モノラルパワーアンプ、「ATM-3211」に続く新作となる、フォノイコライザー内蔵のステレオコントロールアンプが「ATC-5」。

初代機「ATC-1」以来約30年のブラッシュアップを込め、プリアンプとしてのいまを問う意欲作を井上千岳氏がレビューする。


■30年を経てなお進化するエアータイトの象徴的存在

エアータイトは1986年の創設で、CDの発売から4年後にあたる。デジタルが隆盛に向かおうという時期にあえて真空管を素子に選択し、大量生産ではない手作りのオーディオを世に送り出す姿勢が、30年を経てなお生かされ続けていることに注目したい。

薄型の管球式プリアンプは初代「ATC-1」以来、エアータイトの象徴にもなってきた。同機はマランツ7型のフォノイコライザー内蔵、続く「ATC-3」はライン専用、そして本機「ATC-5」はふたたびフォノイコライザー内蔵としながらラインソースにも入念な配慮を施している。

使いやすく配置されたリアパネルの高品位端子群


フォノイコライザーはMM専用で、2系統の入力を持つ。12AX7を3本使用したNF-CR型で、低域をNF、高域をCRで構成し、両者の干渉を避けて正確なRIAA特性を確保する設計だ。特に最低域のカーブを積極的にコントロールし、レコードの反りなどの影響を排除しているのが特徴である。

熟練の女性技術者により、美しく手配線された内部。最高水準パーツを奢った採用も目を引く


選別品の真空管を搭載


ラインアンプ部は12AT7によるオーソドックスな2段構成。厳重なデカップリングにより、各部の干渉を避けている。シャーシは肉厚スチールのモノコック形状とし、PCボードを排し、純銅製の基板を吊り下げ式のインナーシャーシに取りつける構造。ボリュームはアルプス社製黄銅削り出しケース入り。電源部は大容量コンデンサー搭載で余裕を持たせている。

■一般的な管球式とは違う次元の再現力

S/Nが良く、また切れ味にも富んだ鳴り方だ。澄んで目の詰んだ感触が清々しい。聴く方の気持ちも引き締まる思いがする。フォノ入力はMMだけだが、レスポンスが均一で高低両方に無理なく伸びている。このため頭を押さえられたような息苦しさや引きつったような刺々しさを感じることがない。

バロックは弦楽器やオーボエの音色が大変艶やかで潤いに富んでいるが、それが通り一遍のものではなく、芯がしっかり締まって密度の高い肉質感に伴われているのが目覚ましい。そのうえでアンサンブルが精密にほぐれて、起伏に富んだ再現を展開する。単に音色に頼った出方ではなく、信号の精度と情報量を基礎に30年を経てなお進化するエアータイトの象徴的存在しているところが、柔らかさだけを求めた一般的な管球式とは違う次元の高さである。

ピアノも音数が多い。弱音部のきらめくようなタッチと、これ以上ないと思わせるほどのデリケートな表情が、少しも崩れずに描き出されて多彩に変化するフォルテの強く華麗な響きも立派だし、低音部もリアルだ。オーケストラは弦楽器が滑らかでしかも力強い。トゥッティの強音がずっしりと沈んで表情が深く、ヴァイオリンや木管はハイスピードで瞬発力豊かだ。

CDではさらにレンジが広く、レスポンスに力が入る。エネルギーがひとりでにみなぎってくるような出方だ。ピアノは凹凸が豊かで、表情が生き生きとしている。室内楽も引き締まった質感と響きが楽々と出てくる。にじみがないためハーモニーが濁ることがなく、それていて当たりは瑞々しい。オーケストラは抜けが良く、峻烈で分離もいい。ジャズも鮮やかだ。

色々な意味で次元の違いを感じるアンプだが、デジタル時代の管球式というスタンスを確立した同社らしさが際立つ。面目躍如とした完成度である。
https://www.phileweb.com/review/article/201803/15/2976.html
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html#c5

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど… 中川隆
6. 中川隆[-8821] koaQ7Jey 2019年8月16日 20:47:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3921]


AIR TIGHT/ライン専用プリアンプ「ATC-3」(¥380,000/税別)


●徹底した強電源部設計

●出力段には出力特性が大きくとれ入力インピーダンスが高く出力インピーダンスが低い、2段のNF方式SRPP(シャント・レギュレーテッド・プッシュプル)回路を採用

●オプションで高級ボリュームバージョンを設定


SPEC


使用真空管:12AX7(ECC83)x 1, 12AU7(ECC82)x 2

出力電圧:定格2V, 最大15V
出力インピーダンス:200Ω

寸法:430 x 325 x 90mm(W x D x H)
重量:8kg
https://www.otaiweb.com/audio/shop-item-fida2757.html


価格.com - AIR TIGHT ATC-3 価格比較
最安価格(税込):\410,400
https://kakaku.com/item/K0000423074/

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html#c6

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
194. 中川隆[-8820] koaQ7Jey 2019年8月16日 21:38:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3922]
玉音放送でも嘘だらけだった天皇裕仁
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/08/15/223058

2019-08-15

今日は敗戦の日(昭和天皇裕仁が、連合国に無条件降伏することを自らラジオ放送で表明した日)だが、その内容の現代語訳をハフィントンポストが紹介してくれている。

これを見ると、そのいわゆる「玉音放送」においても、裕仁の発言は嘘だらけだったことがよくわかる。

玉音放送を現代語にすると...「耐え難いことにも耐え、我慢ならないことも我慢して...」【終戦の日】
https://www.huffingtonpost.jp/2017/08/14/emperor-broadcasting-decleartion_n_17752858.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001

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私は、世界の情勢と日本の現状を深く考え、緊急の方法でこの事態を収拾しようとし、忠実なるあなた方臣民に告げる。

私は政府に対し、「アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を伝えよ」と指示した。

そもそも日本臣民が平穏に暮らし、世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代天皇の遺した教えで、私も常にその考えを持ち続けてきた。アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も、日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり、他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない。だが、戦争はすでに4年も続き、我が陸海軍の将兵は勇敢に戦い、多くの役人たちも職務に励み、一億臣民も努力し、それぞれが最善を尽くしたが、戦局は必ずしも好転せず、世界情勢もまた日本に不利である。それだけでなく、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪のない人々を殺傷し、その惨害が及ぶ範囲は測り知れない。なおも戦争を続ければ、我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。そのようなことになれば、私はどうして我が子のような臣民を守り、歴代天皇の霊に謝罪できようか。これが、共同宣言に応じるよう政府に指示した理由だ。

私は、アジアの解放のため日本に協力した友好諸国に対し、遺憾の意を表明せざるをえない。(略)
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

よく言うよ。

1943年5月31日に御前会議で決定された機密文書「大東亜政略指導大綱」には次のように書かれている。

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第二 要綱
(略)
四、対緬(ビルマ=ミャンマー)方策
  昭和18年3月10日大本営政府連絡会議決定 緬甸独立指導要領 に基づき施策す
五、対比(フィリピン)方策
  成るべく速に独立せしむ
  独立の時機は概ね本年10月頃と予定し、極力諸準備を促進す
六、其他の占領地域に対する方策を左の通定む
  但し(ロ)(ニ)以外は当分発表せず
(イ) 「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力之が開発ならびに民心の把握に努む
(ロ) 前号各地域に於ては、原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ
(ハ) 「ニューギニア」等(イ)以外の地域の処理に関しては、前二号に準じ追て定む
(ニ) 前記各地に於ては当分軍政を実施す
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

マレーシアとインドネシア主要部(スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス海域)は、欧米植民地からの解放どころか日本領土に編入してしまう方針が明記されている。ニューギニア等の地域もいずれ日本領にするつもりだった。

また、この「大綱」ではビルマとフィリピンは独立させるとしているが、いずれも傀儡政権であり、「独立」は見せかけだけのものだった。[1]

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
 日本は43年8月ビルマの、10月フィリピンの「独立」を認め、両国での軍政は形式上は廃止された。しかし42年8月の「軍政総監指示」は「この独立は軍事、外交、経済等にわたり帝国の強力なる把握下に置かるべき独立なる点特に留意を要する」としており、日本の軍事的支配という実態はかわらなかった。

 この両国および満州国・汪政権・タイなど対日協力政権の代表者を東京にあつめて、43年11月、大東亜会議が開かれ、「大東亜共同宣言」を発表したが、占領の実態からかけ離れた美辞麗句をならべたものであった。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

だいたい、フィリピンは日本が「独立」させるまでもなく、以前から米国が1946年7月に独立を与えると約束していた。(戦後、約束どおりフィリピン第三共和国として独立。)いや、そもそもアジア太平洋戦争自体、日本が長年にわたって中国を侵略し、その領土を掠め取る戦争を続けてきたことの必然的帰結だったではないか。

なにが「他国の主権を排して、領土を侵すようなことは、もとより私の意志ではない」だ。

また、最終的に降伏を決断した理由も、人民の犠牲を憂慮してのことなどではなく、このまま戦争を続けては自分たち天皇家が神の子孫だという神話的正統性(=「国体」の本質)を担保する「三種の神器」が失われることを恐れてのことだった。[2]

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
 また、「独白録」をみても、天皇が皇位の正統性の象徴としての「三種の神器」の保持に強く固執し、「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」という判断から、ポツダム宣言の受諾にふみきったことがわかる。「三種の神器」とは、歴代の天皇が継承してきた三つの神宝、八咫の鏡、草薙の剣、八尺瓊の勾玉の総称であり、そのうち伊勢・熱田両神宮には鏡と剣が祀られている。この「三種の神器」の喪失が「国体」を危うくするという論理は、あまりに神権主義的な色彩が強いために、現代のわれわれには理解しにくいが、現実の天皇の意識のなかでは、こうした判断が大きな比重を占めていたのだろう。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

総力戦の末の敗戦という最終場面に至っても、裕仁は人民には平気で嘘を語っていたのだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.411-412
[2] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 1992年 P.221
 

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c194

[政治・選挙・NHK264] <NHKが大スクープ!昭和天皇「拝謁記」入手!>NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け  天木直人  赤かぶ
17. 中川隆[-8819] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:20:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3923]
April 29, 2017

天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2oRPQmn

「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」

―当時の背景は。

「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」

「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」

―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。

「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」
https://kuantan.me/2017/04/29/april-29-2017-at-0501am/


▲△▽▼

昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。


この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/

▲△▽▼


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。


国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。


アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/2902


対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。


マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。


米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm


真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。

 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm


負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。

日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
https://www.chosyu-journal.jp/seijikeizai/2873


大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった

まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった

武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した

敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした

そして日本はアメリカの属国になった


あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。

日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。


丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/2907


日本は海外に巨大な権益を持つ帝国主義国であるがアメリカの屈辱的な植民地的隷属下にあるという特質を持っている。

 このような日本社会のさんざんな崩壊状況は第二次大戦に根源がある。
あの戦争では320万人が犠牲となった。あらゆる家族で親類に戦死者がいないところはないというほど殺された。

あの戦争は天皇を頭とする独占資本集団が、国内をさんざんに搾取収奪して、
狭隘な国内市場から海外に求めて侵略につぐ侵略、戦争につぐ戦争を繰り返し、
最後に中国への全面侵略戦争を引き起こし、米英仏蘭列強の植民地争奪戦に突入して敗戦となったものであった。

 ところがアメリカの対日参戦は、アジアをファシズム国の侵略から解放するためでも、社会主義ソ連とともに日独伊ファシズムとたたかって民主主義の世界を実現するためでもなかった。

アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。

 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。

自らすすんでアメリカによる日本支配を担うこと、日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばすことによって、自分たちの支配の地位を守ってもらう道を進んだ。


現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。

かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。

かつてマッカーサーは「天皇は一〇〇万の軍隊に匹敵する」といったが、
四万人ほどの米軍で日本を隷属支配しているのは、アメリカの意向をくんで自分から進んで働いて地位を得るという売国的な支配勢力の存在があるからである。
https://www.chosyu-journal.jp/column/11624

5. 中川隆[-9852] koaQ7Jey 2019年6月02日 08:32:25: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2506] 報告
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長周新聞
第二次大戦はおかしな戦争だった ほとばしる体験者の証言 2005年11月26日
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/3064

 戦後60年をへたいま、戦争体験者のあいだで当時の苦しかった経験、目撃したほんとうのことを語りつがねばならないという思いはつのる一方である。下関で開催中の「原爆と下関空襲展」(主催・下関原爆被害者の会)では、これまで子どもや孫にも語ったことがなかったなまなましい体験が、堰(せき)を切ったように語られている。論議は、これまで疑問に思っていたことやおおいかくされてきた真実を明るみにしつつ発展している。こうしたなかで、戦争中から、戦後の今日にいたるまで一貫して、あの戦争で体験したほんとうのことを語らせぬ力が働いてきたことが浮き彫りにされている。


 米軍にも大本営にもつのる疑問

 「原爆と下関空襲展」のとりくみをとおして、市内各所で埋もれていた体験が掘り起こされ、米軍の関門海峡への機雷投下にはじまる下関空襲の全貌(ぼう)がより鮮明にされてきたことが、市民に歓迎されている。日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している。

 そのなかで、これまでかくされてきた事実、「おかしな戦争だった」という体験者の特徴的な声を、いくつか上げてみたい。

 「真珠湾攻撃のとき、日本を北上して真珠湾にむかったが、すでにアメリカは日本が攻撃に来ることを知っていて、カナダの沖で潜水艦を二隻沈めた。そんなことは戦後かくしてきた」

 「海軍は一年しかたたかえないとわかっていた。そのとおり一年は戦果があったがその後海軍の母艦は四隻とも南方で沈められていた。もう戦地に行けば死ぬことはわかりきっていた」

 「ガダルカナルの海戦でも日本海軍は壊滅させられたが、アメリカは沈没して海に投げ出された兵隊たちにむかって機銃掃射して皆殺しにした」

 「硫黄島付近では、一隻に200人の兵隊を乗せて十数隻の船で移動したが、グラマンが機銃掃射し、助かったのは一隻だけだった。その一隻に80機のグラマンが集中攻撃してきた。必死で逃げてやっと助かった」

 「後田から石神町にかけて、民家の一軒に3、4人ずつのフィリピンにむかう兵隊を出港までのあいだ、泊めたことがあった。子ども心に表情が暗かったのを覚えている」

 「あのころは空で守る戦斗機も、護衛する戦艦もなかった。輸送船が丸裸で南方にむかうが、バシー海峡にかくれていたアメリカの潜水艦にみなやられて沈没させられた。大本営はなぜあんなことをしたのか」

 「戦艦大和に出撃命令が出たときに乗り組んだが、徳山港を出るときは片道の石油しか積まなかった。海上特攻隊と命名されて生きては帰れぬといいわたされた。豊後水道にさしかかるころには、すでに米軍の偵察機に発見され、種子島のところでアメリカの航空機500機以上が襲いかかって爆弾や魚雷の雨を降らせた。護衛艦もなく、迎え撃つ飛行機は一機も飛ばなかった。沈没して油と炎が漂うなかをたくさんの日本兵が必死に泳いで助けを求めていた。米軍機が海上に浮かんでいる一人一人を狙って機銃で撃ってきた。あれは人間のやることではない」

 「山口の連隊に召集され、昭和20年はじめに中国に渡った。ほんとうの銃を持たされたのは5人に一人だけで、あとの4人は木製の銃だった。短剣は竹だった。腰に巻く弾倉の中身は空だった。戦斗訓練もないまま貨車に乗って、B29の空襲をさけて、昼は動かず夜だけの行動だった。米軍は中国でも焼夷弾や機銃掃射を毎日のようにやっていた。日本軍は中国人に顔を覚えられるのを恐れて、顔に墨を塗って行軍していた」

 「中国に召集されて湖南省の長沙にいたとき、米軍のB29の編隊が来て、25万都市を一夜にして焼け野原にしたことを目のまえで見た。中国人に聞くと“日本軍がいるから、アメリカは都市をみんな焼いていく”といっていた。日本は中国に侵略したが、アメリカも蒋介石をおして中国を占領しようとしていたのだ」

 「兄は関東軍だったのでシベリア送りにならずに帰ってきた。満蒙開拓団や、一般の兵隊はやられたのに、すぐ帰ってきたのはうれしかったが、おかしいと思ってきた」

 このような体験はなにをものがたるか。


  体験は何を、物語るか  気脈通じた日米支配層

 1941(昭和16)年12月の日米開戦は、日露戦争以後、中国を中心にしたアジアの広大な権益をめぐって対立していた日本とアメリカの確執が行き着いた結果であった。当時、アメリカは日本への経済封鎖による戦争挑発を強め、天皇制軍国主義は、中国侵略戦争で抗日勢力が強大化するなかで、ようやく点と線を維持するのに精一杯で面を確保することはおよびもつかず、その打開にむけて右往左往する状況であった。当時、中国本土に投入された陸軍兵力は138万人。陸軍動員総兵力の65%に達していた。

 のちに原爆投下計画の中心を担ったスチムソン米陸軍長官が40年6月までにニューヨークタイムズに送った手紙のなかで、「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記しており、アメリカは日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていた。

 こうしたなかで、天皇制政府は1940(昭和15)年、南進政策を強行。日独伊三国同盟を結んだが、これはアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。だが、このとき昭和天皇は、「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」(『木戸幸一日記』)と、敗戦を想定する状況であった。

 海軍の永野修身・軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、敗戦は必至とみなしていた。

 一方アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、「天皇を象徴として利用」することを対日占領政策として公式に定め、空襲において皇居の攻撃を禁止することを厳命。元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈をつうじて、その方向を貫いた。

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、日本の戦局は加速度的に悪化の一途をたどった。1944(昭和19)年6月、サイパンで日本軍守備隊3万人が玉砕、住民約一万人が犠牲となった。これにつづくマリアナ沖海戦でも、日本海軍は空母3隻、航空機430機を失う大敗北。日本の航空機動部隊は壊滅状態となっていた。

 中国戦線では、44年4月から40万の大軍を動員して開始した大陸打通作戦が鉄道の主要駅とその付近を一時的に占領するだけで、補給はつづかず、伸びきった戦線はいたるところで反撃にあい、守備軍をひいたあとには、たちまち八路軍、新四軍と遊撃隊が進出、解放するという状況であった。7月には、ビルマからインドへの侵攻作戦であるインパール作戦に失敗。死者3万人と戦傷病者4万5000人を出し、作戦の中止をよぎなくされた。

 こうして「大東亜戦争」の象徴的存在として一時、幅をきかせた東条内閣が倒壊するにいたった。近衛文麿は「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込み絶対なしというに一致せる者の如し。即ち、敗戦必死なりとは陸海軍当局の斉(ひと)しく到達せる結論にして、只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」(『近衛日記』)と記し、東条内閣のすげ替えを国外に示すことで終戦工作を有利にすすめる算段を示すまでになっていた。

 こうして45年2月、吉田茂が起草した近衛の上奏文が天皇に届けられた。「敗戦よりも敗戦によって起こりうる共産革命」を恐れ、アメリカが「国体護持」を保障していることを断定的に記したこの上奏は、近衛がグルーの名を出して天皇に説明したように明らかにアメリカの支配層と気脈をつうじたものであった。


  攻撃の対象は人民、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。
 日本は飛び立つ飛行機も軍艦も失い、武器もない状態で反撃能力を完全に喪失していた。B29は日本本土への空襲で世界の戦史上まれにみる低い損失率を誇り、七月段階では、ハルゼー提督の艦隊が日本の沿岸を自由に遊弋(よく)し、艦砲射撃と艦載機による機銃掃射など勝手気ままにふるまった。
 この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。


  「国体護持」が狙い、原爆投下も感謝

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

 海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、つぎのように語っている。

 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」

 こうして、戦後のアメリカによる占領支配への道が開かれた。


  占領後は言論弾圧、記録映画も写真も没収

 戦争体験者はこれまで、体験が語れなかった状況について、「子どもからなんで戦争に反対しなかったのかとつめ寄られ、それから絶対に話さないようになった。戦時中は思っていても口に出していえば監獄に送られる時代だった」「戦後は、戦争のせの字でもいうとまわりから白い目で見られてきた。だからしゃべってこなかった」と共通して語っている。

 ここには、天皇制軍国主義の弾圧とともに、戦後の「民主主義」の装いをしたアメリカ賛美の風潮のもとで、ほんとうのことを語ることがはばかられてきたことが示唆(さ)されている。

 マッカーサーが厚木に到着してただちに敷いたプレスコード(新聞紙法)は、「連合国占領軍について破壊的な批判は一切してはならないし、また、これらの軍隊に対して不信や憤慨を招く恐れがあることはなにも書いてはならない」というもので、ほんとうのことをいってはならないという徹頭徹尾の言論弾圧であった。
 アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
 新たな戦争の危険がさし迫るいま、戦争の犠牲になった肉親、知人、友人の死をむだにしないために、日本の真の平和を実現するために、ほんとうのことを語り伝えることは、なににも増して重要になっている。

 戦後60年をへたいま、戦争体験者のあいだで当時の苦しかった経験、目撃したほんとうのことを語りつがねばならないという思いはつのる一方である。下関で開催中の「原爆と下関空襲展」(主催・下関原爆被害者の会)では、これまで子どもや孫にも語ったことがなかったなまなましい体験が、堰(せき)を切ったように語られている。論議は、これまで疑問に思っていたことやおおいかくされてきた真実を明るみにしつつ発展している。こうしたなかで、戦争中から、戦後の今日にいたるまで一貫して、あの戦争で体験したほんとうのことを語らせぬ力が働いてきたことが浮き彫りにされている。

 米軍にも大本営にもつのる疑問

 「原爆と下関空襲展」のとりくみをとおして、市内各所で埋もれていた体験が掘り起こされ、米軍の関門海峡への機雷投下にはじまる下関空襲の全貌(ぼう)がより鮮明にされてきたことが、市民に歓迎されている。日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している。

 そのなかで、これまでかくされてきた事実、「おかしな戦争だった」という体験者の特徴的な声を、いくつか上げてみたい。

 「真珠湾攻撃のとき、日本を北上して真珠湾にむかったが、すでにアメリカは日本が攻撃に来ることを知っていて、カナダの沖で潜水艦を二隻沈めた。そんなことは戦後かくしてきた」

 「海軍は一年しかたたかえないとわかっていた。そのとおり一年は戦果があったがその後海軍の母艦は四隻とも南方で沈められていた。もう戦地に行けば死ぬことはわかりきっていた」

 「ガダルカナルの海戦でも日本海軍は壊滅させられたが、アメリカは沈没して海に投げ出された兵隊たちにむかって機銃掃射して皆殺しにした」

 「硫黄島付近では、一隻に200人の兵隊を乗せて十数隻の船で移動したが、グラマンが機銃掃射し、助かったのは一隻だけだった。その一隻に80機のグラマンが集中攻撃してきた。必死で逃げてやっと助かった」

 「後田から石神町にかけて、民家の一軒に3、4人ずつのフィリピンにむかう兵隊を出港までのあいだ、泊めたことがあった。子ども心に表情が暗かったのを覚えている」

 「あのころは空で守る戦斗機も、護衛する戦艦もなかった。輸送船が丸裸で南方にむかうが、バシー海峡にかくれていたアメリカの潜水艦にみなやられて沈没させられた。大本営はなぜあんなことをしたのか」

 「戦艦大和に出撃命令が出たときに乗り組んだが、徳山港を出るときは片道の石油しか積まなかった。海上特攻隊と命名されて生きては帰れぬといいわたされた。豊後水道にさしかかるころには、すでに米軍の偵察機に発見され、種子島のところでアメリカの航空機500機以上が襲いかかって爆弾や魚雷の雨を降らせた。護衛艦もなく、迎え撃つ飛行機は一機も飛ばなかった。沈没して油と炎が漂うなかをたくさんの日本兵が必死に泳いで助けを求めていた。米軍機が海上に浮かんでいる一人一人を狙って機銃で撃ってきた。あれは人間のやることではない」

 「山口の連隊に召集され、昭和20年はじめに中国に渡った。ほんとうの銃を持たされたのは5人に一人だけで、あとの4人は木製の銃だった。短剣は竹だった。腰に巻く弾倉の中身は空だった。戦斗訓練もないまま貨車に乗って、B29の空襲をさけて、昼は動かず夜だけの行動だった。米軍は中国でも焼夷弾や機銃掃射を毎日のようにやっていた。日本軍は中国人に顔を覚えられるのを恐れて、顔に墨を塗って行軍していた」

 「中国に召集されて湖南省の長沙にいたとき、米軍のB29の編隊が来て、25万都市を一夜にして焼け野原にしたことを目のまえで見た。中国人に聞くと“日本軍がいるから、アメリカは都市をみんな焼いていく”といっていた。日本は中国に侵略したが、アメリカも蒋介石をおして中国を占領しようとしていたのだ」

 「兄は関東軍だったのでシベリア送りにならずに帰ってきた。満蒙開拓団や、一般の兵隊はやられたのに、すぐ帰ってきたのはうれしかったが、おかしいと思ってきた」

 このような体験はなにをものがたるか。


  体験は何を、物語るか  気脈通じた日米支配層

 1941(昭和16)年12月の日米開戦は、日露戦争以後、中国を中心にしたアジアの広大な権益をめぐって対立していた日本とアメリカの確執が行き着いた結果であった。当時、アメリカは日本への経済封鎖による戦争挑発を強め、天皇制軍国主義は、中国侵略戦争で抗日勢力が強大化するなかで、ようやく点と線を維持するのに精一杯で面を確保することはおよびもつかず、その打開にむけて右往左往する状況であった。当時、中国本土に投入された陸軍兵力は138万人。陸軍動員総兵力の65%に達していた。

 のちに原爆投下計画の中心を担ったスチムソン米陸軍長官が40年6月までにニューヨークタイムズに送った手紙のなかで、「日本は中国戦線で泥沼に入りはじめた」と記しており、アメリカは日本政府が「中国側に有利」な和平提案をおこなっていることを公式に認めていた。

 こうしたなかで、天皇制政府は1940(昭和15)年、南進政策を強行。日独伊三国同盟を結んだが、これはアメリカとの戦争に窮余の一策を求めるものであった。だが、このとき昭和天皇は、「アメリカに対しても打つ手がないというならば、致し方あるまい。……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となったときに、一体どうだろうか。この如き場合が到来した時は、総理も自分と労苦を共にしてくれるだろうか」(『木戸幸一日記』)と、敗戦を想定する状況であった。

 海軍の永野修身・軍令部総長は、天皇から対米戦争で「日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と問われたのにたいして、「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚束なし」と答える状況で、敗戦は必至とみなしていた。

 一方アメリカは、日本の奇襲を待って日本との戦争に乗り出した直後には、「天皇を象徴として利用」することを対日占領政策として公式に定め、空襲において皇居の攻撃を禁止することを厳命。元駐日大使・グルーらが吉田茂、近衛文麿ら日本の「和平派」とされる人脈をつうじて、その方向を貫いた。

 1942年6月のミッドウェー海戦の敗北後、日本の戦局は加速度的に悪化の一途をたどった。1944(昭和19)年6月、サイパンで日本軍守備隊3万人が玉砕、住民約一万人が犠牲となった。これにつづくマリアナ沖海戦でも、日本海軍は空母3隻、航空機430機を失う大敗北。日本の航空機動部隊は壊滅状態となっていた。

 中国戦線では、44年4月から40万の大軍を動員して開始した大陸打通作戦が鉄道の主要駅とその付近を一時的に占領するだけで、補給はつづかず、伸びきった戦線はいたるところで反撃にあい、守備軍をひいたあとには、たちまち八路軍、新四軍と遊撃隊が進出、解放するという状況であった。7月には、ビルマからインドへの侵攻作戦であるインパール作戦に失敗。死者3万人と戦傷病者4万5000人を出し、作戦の中止をよぎなくされた。

 こうして「大東亜戦争」の象徴的存在として一時、幅をきかせた東条内閣が倒壊するにいたった。近衛文麿は「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込み絶対なしというに一致せる者の如し。即ち、敗戦必死なりとは陸海軍当局の斉(ひと)しく到達せる結論にして、只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」(『近衛日記』)と記し、東条内閣のすげ替えを国外に示すことで終戦工作を有利にすすめる算段を示すまでになっていた。

 こうして45年2月、吉田茂が起草した近衛の上奏文が天皇に届けられた。「敗戦よりも敗戦によって起こりうる共産革命」を恐れ、アメリカが「国体護持」を保障していることを断定的に記したこの上奏は、近衛がグルーの名を出して天皇に説明したように明らかにアメリカの支配層と気脈をつうじたものであった。


  攻撃の対象は人民、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。

 日本は飛び立つ飛行機も軍艦も失い、武器もない状態で反撃能力を完全に喪失していた。B29は日本本土への空襲で世界の戦史上まれにみる低い損失率を誇り、七月段階では、ハルゼー提督の艦隊が日本の沿岸を自由に遊弋(よく)し、艦砲射撃と艦載機による機銃掃射など勝手気ままにふるまった。

 この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。

  「国体護持」が狙い、原爆投下も感謝

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

 海軍大臣であった米内光政は広島・長崎に原爆が投下されてすぐの8月12日、つぎのように語っている。

 「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである」

 こうして、戦後のアメリカによる占領支配への道が開かれた。


  占領後は言論弾圧、記録映画も写真も没収

 戦争体験者はこれまで、体験が語れなかった状況について、「子どもからなんで戦争に反対しなかったのかとつめ寄られ、それから絶対に話さないようになった。戦時中は思っていても口に出していえば監獄に送られる時代だった」「戦後は、戦争のせの字でもいうとまわりから白い目で見られてきた。だからしゃべってこなかった」と共通して語っている。

 ここには、天皇制軍国主義の弾圧とともに、戦後の「民主主義」の装いをしたアメリカ賛美の風潮のもとで、ほんとうのことを語ることがはばかられてきたことが示唆(さ)されている。

 マッカーサーが厚木に到着してただちに敷いたプレスコード(新聞紙法)は、「連合国占領軍について破壊的な批判は一切してはならないし、また、これらの軍隊に対して不信や憤慨を招く恐れがあることはなにも書いてはならない」というもので、ほんとうのことをいってはならないという徹頭徹尾の言論弾圧であった。
 アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
 新たな戦争の危険がさし迫るいま、戦争の犠牲になった肉親、知人、友人の死をむだにしないために、日本の真の平和を実現するために、ほんとうのことを語り伝えることは、なににも増して重要になっている。
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/3064



http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#c17

[政治・選挙・NHK264] <NHKが大スクープ!昭和天皇「拝謁記」入手!>NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け  天木直人  赤かぶ
18. 中川隆[-8818] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:25:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3924]
昭和天皇は何故負けるのがわかっている太平洋戦争に突き進んだのか?


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ著 松崎元 訳
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_contents.htm#mokuji
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E9%99%B0%E8%AC%80+%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%9F%E3%83%8B&i=stripbooks&adgrpid=52019632743&gclid=EAIaIQobChMIssrhk7DJ4gIVCwYqCh2RjwzYEAAYASAAEgIyRvD_BwE&hvadid=338580746102&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=b&hvrand=831006335091229886&hvtargid=kwd-334760778916&hydadcr=4073_10899429&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_3otvhjudwd_b


ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。

私は裕仁を子供の頃から存じている。

彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


▲△▽▼


私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。
しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。

たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、
彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、
彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。

彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。

また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。

また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。

当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。

それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。

それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。


国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。

私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。

日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。

過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。

私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。

1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#c18

[政治・選挙・NHK264] <NHKが大スクープ!昭和天皇「拝謁記」入手!>NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け  天木直人  赤かぶ
19. 中川隆[-8817] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:26:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3925]
櫻井ジャーナル2019.05.02

日本で天皇の代替わり儀式が行われる中、米政府はベネズエラでクーデターに失敗

 日本のマスコミは天皇が退位する、即位すると騒いでいる。彼らにとって天皇とは「至高の存在」なのだろう。日本は第2次世界大戦で降伏する前と同じように天皇制官僚国家であり、その元首は天皇だということである。


 しかし、徳川時代の天皇は忘れ去られた存在だった。当時の天皇は生活に困窮し、短歌を売っていたという話を聞いたこともある。徳川の拠点である江戸に住む人びとが「公方様」として意識していたのは徳川家だ。


 その忘れられた天皇を発掘し、徳川に代わる体制の象徴にしようとした人びとがいた。その人びとによって現在の天皇制、明治王朝が誕生した。その後ろ盾がイギリスの支配層だ。


 徳川から明治へ移行する時期、つまり明治維新の頃、イギリスはビクトリア女王が君臨していた。心霊術にのめり込んでいた人物として知られている。


 女王は夫のアルバート(ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公の次男で、夫妻はいとこの関係)からアドバイスを受けていたとされているが、それ以上に影響力を持っていたと思われるのがネイサン・ロスチャイルド、セシル・ローズ、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット(エシャー卿)、アルフレッド・ミルナー(ミルナー卿)など。


 言うまでもなくロスチャイルドは強大な金融資本の支配者でローズのスポンサー。ステッドはジャーナリストで、ブレッドはビクトリア女王の相談相手だ。後にブレッドはエドワード7世やジョージ5世の顧問を務めることになる。


 当時のイギリスはいわゆる産業革命で生産力が上がったものの、商品が思うように売れない。国内では貧富の差が拡大、民の貧困化が深刻になる。そこで始めたのが麻薬取引と侵略戦争。中国(清)の富を奪うためにアヘン戦争を始めたのが1840年。その年にビクトリア女王とアルバートが結婚している。イギリスが「世界経済の覇者」と呼ばれるようになるのはそれ以降だ。大英帝国とは侵略と略奪で成り立っていた。


 中国より前にイギリスが植民地化していたインドでは1857年に傭兵(セポイ)が武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になった。鎮圧されたのは1859年。その年にアヘンと武器の取り引きで大儲けしていたジャーディン・マセソンは日本へふたりのエージェントを送り込む。ひとりは歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。


 明治政府は1872年の琉球併合から台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争というように東アジア侵略を開始、その背後にはイギリスが存在していた。日本人はイギリスの支配者に操られていたと言える。


 そのイギリスは1899年からボーア戦争(南アフリカ戦争)を開始、金やダイヤモンドを産出する南アフリカを制圧する。その直前に南アフリカではダイヤモンドが発見され、その利権に目をつけたイギリスの支配者たちが引き起こした戦争だった。後に首相となるウィンストン・チャーチルもこの戦争で頭角を現している。この戦争で世界の金をイギリスが支配するようになり、金本位制を採用する国々の通貨も支配できるようになった。


 ちなみにチャーチルは貴族階級の家に生まれたが、父親のランドルフ・チャーチルは甘やかされて育ったプレーボーイで、46歳のときに梅毒が原因で死亡している。


 生前、ランドルフはネイサン・ロスチャイルドから多額の借金をしていたことでも知られ、その額は現在の価値に換算すると数百万ポンド、つまり数億円。いくらでも借りられたという。ランドルフがロスチャイルドを裏切らない限り、借金は返済する必要がなかったようだ。


 ネイサン・ロスチャイルドと親しい関係にあったジョージ・ピーボディーは銀行を経営していたが、そのパートナーがジュニアス・モルガン。その息子がジョン・ピアポント・モルガンだ。ネイサンはこの若者をアメリカにおけるビジネスの責任者にしている。そして巨大銀行のJPモルガンが生まれる。関東大震災以降の日本に大きな影響力を及ぼすことになるのはこのJPモルガン。


 この銀行が中心になり、アメリカでは1933年から34年にかけてフランクリン・ルーズベルト政権を倒し、ファシズム体制を樹立させようというクーデターが計画されている。


 そのJPモルガンが駐日大使として日本へ送り込んできたのがジョセフ・グルー。本ブログでは繰り返し書いてきたが、グルーと親しかった日本人には秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介、松岡洋右などが含まれる。中でも親しかったのは松岡。戦争が始まり、離日する直前にグルーがゴルフした相手は岸だ


 要するにイギリスとアメリカの金融資本はつながっているのだが、その金融資本を中心とする支配層がベネズエラの石油を狙っている。


 4月30日にもクーデターが試みられたが失敗、フアン・グアイドと反政府派の象徴になっているレオポルド・ロペス(2014年のクーデター未遂で自宅軟禁中だったが、クーデター派によって解放されていた)はスペイン大使館へ逃げ込み、クーデターに参加した兵士25名はブラジル大使館へ逃げ込んだ。


 クーデタの失敗を受け、アメリカのマイク・ポンペオ国務長官はメディアに対し、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領は航空機でキューバへ逃げようとしていたが、ロシアの説得で留まったと主張している。実際はごく狭い地域で混乱があっただけで、基本的に国内は安定、逃亡するような状況ではなかった。ポンペオは失笑を買っただけ。


 アメリカ支配層が発する嘘の質が急速に劣悪化している。アメリカを中心とする支配システムの崩壊は早いかもしれない。アメリカの支配システムが崩れれば、日本の天皇制官僚制も維持できなくなる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010001/


櫻井ジャーナル 2019.04.24

米支配層が維持しようとした天皇制官僚体制の恥部がひとつ明らかに

 インドネシアのバンカ島で日本軍の兵士は1942年2月、22名のオーストラリア人看護師を銃殺したという。海の中を行進させ、機関銃で射撃、ひとりを除いて殺害したのだが、その前に看護師は兵士から性的暴行を受けていたことを示す証拠の存在が明らかにされた。(​英語​、​日本語​)証拠を隠滅し、なかったことにするという手法は今でも使われている。NGT48のケースもその一例だが、隠しきれないこともある。


 日本のアジア侵略は1872年の琉球併合から始まるが、アメリカとの戦争は1941年12月7日の真珠湾攻撃から。1942年6月のミッドウェー海戦で日本の艦隊が敗北するまで日本側は勝ち戦だと考えていたようだ。そうした中、バンカ島での虐殺は引き起こされたことになる。


 外国へ攻め込んだ軍隊の兵士が女性に性的に暴行するという話はしばしば聞く。日本軍に限った話ではない。日本軍の特徴はブレーキがきかなくなることにあると言えるだろう。性的暴行への対策として日本軍が作り上げたのが慰安婦の仕組みだ。戦争経験者は次のような文章を残している。


 「日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと『慰安所』の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。」(高見順著『敗戦日記』)


 「あえて言いますが、ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では兵士に女性を強姦することも許し、南京では虐殺もした。そのにがい経験に懲りて、日本軍は太平洋戦争が始まると、そうしたことはやるな、と逆に戒めた。」(むのたけじ著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、2008年)


 「そこで、出てきたのが『慰安婦』というものです。その主体は朝鮮から来た女性たちでした。日本の女性も来ましたが、これは将校専用です。』(前掲書)


 「女性たちにここへ来た事情を聞くと、だまされた、おどされた、拉致された、というように、それは人によってさまざまだった。」(前掲書)


 「何人もの女性たちを船に乗せてインドネシアまで連れてくるためには、軍の了解が絶対に必要です。・・・やはり、慰安婦は軍部が一つの作戦としてやったことで、まったく軍の責任だった。」(前掲書)


 敗戦後、日本の将兵が戦場で行ったことを批判的に語るおとなもいたが、多くの「元兵士」にとって身に覚えのある話であり、口にすることはできなかっただろう。勿論、事実を否定することもできない。1945年に20歳代だった人は1975年でも50歳代だ。日本社会には戦場の記憶が鮮明に残っていた。荒唐無稽な話はできない。


 戦争経験者が少なくなるに連れ、妄想を平然と口にする人が増えてくる。メディアもそうした妄想の拡散に協力した。


 それでも慰安婦の存在を否定できないため、商売として行っているのだから問題がないと言う人もいるが、その考え方は日本人の堕落、退廃を示している。


 第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。


 バンカ島での出来事をオーストラリア政府が封印したのは日本の「国体護持」を望むウォール街の意向に沿った行動だと言えるだろう。その国体に関わる儀式が近く行われる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#c19

[政治・選挙・NHK264] <NHKが大スクープ!昭和天皇「拝謁記」入手!>NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け  天木直人  赤かぶ
22. 中川隆[-8816] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:40:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3926]
鬼塚英昭 昭和天皇による日米戦争策謀論

日本の真相1 明治天皇すりかえ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=igJ12gwRtvQ&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-

日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_YfXIhybq5U&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=2

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=3

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=34HEcM9qvqc&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=4

日本の真相5 すべての戦争は八百長である - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kIXzkY8VtLU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=5

日本の真相6 操り人形がリーダーをする日本 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wlfyvOL-OVg&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=6


日本の真相7 超天才の悪魔 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1ToSe8A7_wE&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=7

日本の真相8 中曽根、正力工作員の原発 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TuVjmXdufS4&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=8

日本の真相9 原発・使い捨て人形からの反乱 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=3glGABd52fk&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=9

偽天皇と田布施システム【The False Emperor】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BNLdWvMNSuU&list=PLQcBveb2LtREtx1jTiOfvc9exEExht8J-&index=10

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#c22

[政治・選挙・NHK264] <NHKが大スクープ!昭和天皇「拝謁記」入手!>NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け  天木直人  赤かぶ
23. 中川隆[-8815] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:41:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3927]
【我那覇真子「おおきなわ」#70】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[桜R1-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E

【我那覇真子「おおきなわ」#71】林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
戦争の黒幕「国際金融資本」とは?[桜R1-5-31] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU

司会:我那覇真子(「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員・チャンネル桜沖縄支局キャスター)
ゲスト:林千勝(戦史研究家)

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#c23

[政治・選挙・NHK264] <NHKが大スクープ!昭和天皇「拝謁記」入手!>NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け  天木直人  赤かぶ
24. 中川隆[-8814] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:43:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3928]
要するに、昭和天皇「拝謁記」は天皇の戦争責任を誤魔化す為に意図的に流したデマなのです
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#c24
[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
12. 中川隆[-8813] koaQ7Jey 2019年8月17日 05:59:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3929]

サウンドパーツの管球プリアンプ
http://www.soundparts.server-shared.com/index.html


長年に亘り大きなご信頼を得ているサウンドパーツの管球プリアンプ
LCR型フォノイコライザーでのアナログ盤鑑賞は音楽に浸れ、もっとボリュームを上げたい衝動に駆られます

サウンドパーツで最もご愛用の多い製品です

≪Love Five≫


<Love Five>に採用のボリュームについて

4月受注分からアルプス/RK501ボリュームの販売システム変更から大幅コストアップと日数を要し
プリの価格を30000円値下げし、ステップ型の<Eizz>製に変更しました

Eizzボリュームは中国製ですが優れた1/2カーボン抵抗と精密なロータリースイッチを組み合わせており

現行品はネットにあるマチュア評価以上の「及第点」を与えられることを1年間の使用で体験・確認しています

今後Alps/RK501が再び使用できる状況になり、ご希望があれば価格差で交換をお約束します…多分その必要性はありませんが

その後取引先電気商社を通じ<RK501>が入手できるようになりました
ただ、Eizzボリュームの45000円高となり、8月末から納入されます
そこでAlps<RK501>ボリュームはオプション設定となります

ご注文時に<RK501>をご指定の場合は後日Eizz⇒RK501交換とさせて頂きます
EiZZ/ATTの特徴はフツーのボリュームなら12時位置で入力の11〜15%の出力なのに対し
3時に位置まで回しても12%出力であること⇒つまり回し始めから細かな音量調整ができます

このことは大音量でお聴きになる場合、ツマミを大きく回す「心理的抵抗」はありますが
入力側から僅か数個の抵抗だけしか通過しない⇒音質劣化が少ないメリットがあります

 


アナログ盤再生の心臓部・フォノイコライザーに究極の方法≪LCR型≫を登載
MCトランスも標準で内蔵

本格バランス入力/バランス出力を持つなど、真空管プリとして世界でも例の無い機能を持ちます

アナログ盤の持つ表現力や奥行き感の表現は、良い無帰還構成の真空管プリアンプでは別格の世界です

インダクター(L=コイル/C=コンデンサー/R=抵抗)にRIAAカーブと同じ減衰特性を持たせるので他方式とは自然観が違います

盤の再生には「決めて」とも言えるMCトランスを内蔵しています

技術的な解説は省きますが、専用MCトランスをプリ内に内蔵するとほとんど全てのカートリッジへの適合が可能になります

映画界の音響を支配したWE社の、あの<618Bトランス>の音色を徹底解析し、さらに高域の改善を図ったものです

イコライザーは2段・そしてライン部は1球単段+トランス出力・・・という極端にシンプルな構成は世界にも例がありません

しかも『無帰還』なので情報量の多さは勿論,「奥行き感」では圧倒します
細部にわたって30年改良を続けた集大成プリ、貴方も知らない「アナログ資産」の持てる凄さを99%引き出します

LCR型は完璧な磁気シールドのコイル@2万円×4個が必要 他方式に比べ10〜50倍のコストを掛けます

専用コイル製作は「職人ワザ」(高インピーダンス型)で、世界に例がなく、サウンドパーツだけが製作を依頼しています
600台以上の実績は、この方式が音の再現性で最も優れていることの証明
1台1台の手作りで年間20〜30台の製作が限界です

 

プリ製作に必要なトランス・インダクターは写真左のようにパーマロイの円筒にシリコンゴム漬けされた状態で納品されます

それに30φの<蓋>をしてテープ絶縁⇒パーマロイ二重シールド⇒テーピング⇒38φ二重ケースと全体で四重のシールドをします

ここまでに別の作業もあり
写真右のインダクターやトランスの完成品約30個(プリ3台分に相当)の製作には慣れても1日半が必要です

プリアンプの扱う信号電圧レベルは微小ゆえにコア・インダクターは小型であることも重要

達人・名人と言える製作技術者からは、この面倒な封入作業を当方で行うコトが条件で供給されます

イコライザーをLCR型に『こだわる』からこそ、敢えてこのような作業も厭わないのがサウンドパーツです

プリのリアパネル内側です

フロントパネルも同様の事前配線をしてからでないと、機能の多いプリでは追加加工が難しく、無論ミスは許されません
※この場合オーナーのご希望で<Phono>入力にバランスも選べるオプションが設定されています

フロントパネルは白っぽく見えますが美しいシャンペンゴールド・梨地仕上げ
ツマミは木曽の名工の手作り、パネルの美観を保つよう高さのあるものにして良い感触を得ています
管球プリでは例の無いバランス入力を標準装備・RCA出力+バランス出力の2系統出力
電源は<Love Five専用/長寿スイッチング電源>にチョークと大容量電解コンデンサー⇒磁界の影響を廃してとても静かです


画像はオプションで2アーム対応(Phono MC/MM独立)のものです
※通常版はPhono1系統にてMC/MM切替
380W×250D(背面端子まで)×110H(脚部込み


★ LCR型フォノイコライザー搭載/フルバージョン<Love Five>プリアンプ

EiZZ ATT採用 400000円/税込み432000円 

<入力系>
フォノ入力1/MC&MM対応/3〜120ΩのMCカートリッジ対応
CD入力2⇒RCA 入力1系統/XLRバランス入力1系統・AUX 入力2系統
MCトランス内蔵・LCR型EQ搭載・EiZZ 24ステップアッテネーター

<出力系>
出力インピーダンス600Ω以下
録音出力/プリ出力 XLRバランス/RCAノーマル出力を背面スイッチにて選択
半導体パワーアンプ・ビンテージアンプにも問題なく接続できます


★ 50年代盤重視タイプ

上記フルバージョン+LP/NAB/DECCA/Columbia盤に対応
EiZZ ATT採用 440000円/税込み 475200円

フルバージョン機に1950年代のRIAA規格前の盤の再生を可能とするため、2個のインダクターを追加しています
世界で唯一のLP対応LCR型フォノイコライザー搭載プリアンプです

★CR型フォノイコライザー搭載機

280000円/税込み 302400円

アナログ盤がメインのソースではないものの、時には聴きたいという方のバージョン
LCR型に学んだバランスの良さ・情報量は他方式のプリよりも遥かに優れた表現力があります
EiZZ 24ステップアッテネーター/XLRバランス入力が標準

・オプションMCトランス内蔵⇒+40000円(税別)

★ハイ入力専用ライン・プリアンプ

EiZZ ATT採用250000円/税込み 270000円
EiZZ 24ステップアッテネーター/XLRバランス入力付きが標準
単なるアッテネーターボックスと違ってエネルギーを持たせてパワーアンプに信号を送る方式は情報量がフシギと優れています

http://www.soundparts.server-shared.com/index.html


▲△▽▼

≪Love Music≫シリーズ・プリアンプ
http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html


最新の≪Love Five≫に至るまで3世代の歴代プリ・ベストセラー製品としてこだわりがあり
プリ製作600台超の実績から≪Love Five≫はサウンドパーツのプリアンプ『最終到達点』と考えています

「LCR型イコライザー」はアナログ盤の再生の最良の方式、心臓部のインダクター(コイル)が他では作れません

CD/DAC用に本格的なバランス入力もある真空管プリアンプも世界中に存在しません

増幅系の入り口に位置するプリアンプ

プリでスポイルされた音はシステム全体からは当然出ないのです
いつもパワーアンプに信号を送り続ける心臓部<ライン部>に高級スーパーパーマロイ・コア出力トランスを採用

真空管たった1段で構成されるので他のプリのような2段NFB型やSRPP出力機とデジタル臭の無さでは段違い

しかも出力トランス方式は出力の低インピーダンス化と真空管の持つエネルギー圧縮化で「力と自然感」を両立させます


プリアンプ≪Love Five≫

――情報量が自慢/多くのバリエーション――

≪Love Five≫

今年4月にデザインを一新して、多くの皆さんから強いご支持を頂戴しています
アナログ再生派には理想のイコライザー…LCR型フォノイコライザー搭載機でも40万円を切り
しかもMCトランス内蔵・バランス入力対応・バランス/RCAの2系統出力・超高級ボリューム

実は輸出でもご好評、プリ出荷600台超のノーハウが生きる最高級プリです

 コンパクトながらも信頼度抜群の部品を使用した最高級真空管プリアンプです 
真空管プリアンプの多くがマランツ7型/マッキントッシュC22型のコピーか類似回路なのに対し
アナログ派には最高級LCR型フォノ・イコライザーを搭載
ライン部(送り出しアンプ部)は今では珍しい出力トランスを搭載するプロ仕様です
出力トランスは15〜70000Hzの広帯域で、本来のエネルギーを削がずに圧縮してパワーアンプに送ります


 プリアンプとは 

プリアンプは意外にご理解されていない部分もありますので少し詳しく述べましょう

プリアンプ/コントロールアンプは次のセクションで構成されます

・<RIAAカーブ>で録音されたアナログレコードを補正するフォノイコライザー(EQ)回路   
  
・フォノEQの出力やCDやチューナーなど外部からのハイ入力を選択し音量をコントロールする部分

・パワーアンプに選ばれたソースを送り出すラインアンプ(またはフラットアンプと呼ぶ送り出し)回路


※<RIAAカーブ>とはアナログレコードに音溝を刻む時、低域は振幅が大きく高域は小さいのでそれを補正しておき
アンプでの再生時には逆補正して録音時の再生音に戻します。各レコード会社が独自の補正をしていましたが
1955年に国際的(日本は翌年にJISで規定)に統一した約定の頭文字を取って<RIAA>と云います

CDやFMを聴くだけならフォノイコライザー部分は必要がありません

またトーンコントロールとは、回路で最初からブースト分の利得を上乗せしておき
必要が無い時には上乗せ分を抑えておく回路ですから音質上も影響があり「シンプル思想」とは相容れません
経験から申してもトーンコントロールを使用すると或る種の罪悪感的意識もありますから採用しません

ラインアンプ部はボリュームで入力レベルを調整した後にパワーアンプに送り出す信号を
長いケーブルなどを使用されてもその影響をなるべく受けないよう
またパワーアンプが最大パワーに達する≪0dB≒ピーク約1V≫の信号電圧を、歪無く送る必要があります
しかもボリューム以降の増幅段では、ラインアンプのノイズはそのままパワーアンプで増幅されますので
ノイズも極小で半導体アンプも含めてどのようなパワーアンプにも対応する能力を要求されます


新<Love Five>では6H6nと云う強力ドライバー球+高級パーマロイ出力トランス――と云う構成

出力トランスは低いインピーダンスでの「送り」が可能で、プリに多い電源部の「揺れ」の影響も受けません

放送用などプロ仕様よりも性能の良い出力トランスは増幅信号を削ぐことなく低いインピーダンスで送ります

米国製78%Ni含有スーパーパーマロイ出力トランスは、インダクター効果でデジタル系の音も聴き易く
抜群の周波数特性を誇るだけでなく音質には透明感と共に強さを感じるエネルギー感があります

出力トランスの採用で<Love Five>はRCA出力とXCRバランス出力の2系統を標準装備します

アナログ派のためのEQ段はC/Pに優れたCR型と音質上最高とされる<LCR型>が選べます
その詳細は下記の項に詳しく解説しています


 (1)アナログを中心にお聴きになる方…最高級機の「LCR型」を 
 ♪アナログを最優先される方は「LCR型イコライザー」搭載のフルバージョン機をご採用下さい

「CR型」なら数個の抵抗で済む部分に1個2万円のインダクター(コイル)をステレオで4個用います

 その最大の特徴は他の方式に比べて「自然でリアル」と云う点で圧倒的なご評価を頂いています

奥行きの表現は元より俗に「演奏者の熱気が伝わる」とはこのことか…とも思われ
スクラッチノイズも不思議と気になりません
サウンドパーツの採用する「LCR型」は20kΩの高インピーダンス型で回路ロスの最も少ない方式

 LCR型搭載機では『MCトランスから音質を保証』する目的でMCトランス内蔵を標準とし
更にアルプス電気の最高級ボリューム「RK50型」も標準採用しています
ボリューム以降のフラットアンプも下記の「ハイ入力専用機」と同じ構成です

フルバージョン/408000円(本体378000円)の仕様

<入力系>フォノ入力1/MC&MM対応・CD入力2(RCA入力1系統/XLRバランス入力1系統)・AUX入力2系統

MCトランス内蔵・LCR型EQ搭載・RK50 ボリューム
<出力系>録音出力 プリ出力 XLRバランス/RCAノーマル出力を背面スイッチにて選択


CR型EQ搭載機…RK50ボリューム付き/XLRバランス入力付き/286000円(本体264820円)

・オプションMCトランス内蔵40000円高
ハイ入力専用ラインアンプ部のみ…RK50ボリューム搭載/XLRバランス入力付き219000円(本体202900円)

・バランス入力なし203000円(本体188000円)

 (2)CDもアナログもお聴きになる方…「CR型」イコライザー搭載機を 
往年のあの「名機」達を必ず上回る音質です
真空管プリではサイテーションが採用して当時のアナログ通人を唸らせた「CR型」イコライザーを採用
サウンドパーツが基本としたのはテレフンケンの真空管マニュアル掲載の回路でした
イコライザー回路は「LCR型」ほどこだわってはいなくても
他のプリよりも数等優れる独自の「低インピーダンスCR型」です


 マッキン・マランツ等市販プリのほとんどがNFB型、真空管にはEcc83/12AX7を用いますが
Ecc83は1段で60倍ものゲインが有って60倍×2段は「稼ぎ過ぎ」、その分はNFBで調整されます
平面的で『人肌』よりも冷ややかで物質的なマネキン肌を感じるのがNFB型
NFBは歪みの減少効果を謳うものの情報量の欠落も感じ、「サシスセソ」が強まる傾向を否めません
音楽には必要な奥行き感の表現力はLCR型を知ると至ってプアです

 <Love Five>のイコライザー段にはEcc85/6AQ8を用いています

この球の魅力「内部抵抗が低くゲインは大きい」という特徴を最大限生かしています
マランツ/マッキンが採用する音質面ではイマイチのカソードフォロワー段も省略できます
 フルバージョン機は最新の高級オーディオ機すら採用に躊躇する高価な<ALPS/RK50>ボリューム
更に最新鋭の小型ステップ式抵抗直列型の優秀なローコストバージョンを加えました
左右の偏差も少なく音質も十分優れています

 (3)CD優先の方に…XLRバランス入力の機能が付加できます 
♪CD等「ハイ入力専用機」⇒⇒CDの情報量が増えるだけでなくデジタル臭やキツさが一掃

 CDなどのデジタル臭をその大切な信号内容のロス無しに真空管増幅でもっとエネルギーを与え
優秀な出力トランスで300Ωの低く強力な「送り出し」をするのが
伝送にも大へん良い結果を生むと考え、多くの実績でそれは広く認められました
出力トランスは米国製高級コア材料の[スーパーパーマロイ]採用のサウンドパーツ


自慢の特注品

15Hzから70kHz以上までフラット(0dB時)という理想的な特性です
「美味しい信号1ボルト」をパワーアンプにロスなく送るのが至上命題のプリでは
外見だけが立派な直流を流す大きなコアとニッケル45%程度のパーマロイ/トランスよりも
米国製ニッケル78%スーパーパーマロイ/トランス+優秀なアルミ箔コンデンサーとの組み合わせが
器機のデジタル臭を排して高効率で「微に入り・細に亘る」情報を伝達するのです
全ユーザーが情報量の増加と聴き易さ=真の音楽表現力を認められる…データには出てこない真実です

※78%ニッケル=スーパーパーマロイ/コアはDCを流すと磁化されますのでコンデンサーでDCをカットします


 ♪オプション/「バランス入力」機能とは

高級CD/DACからのXLRバランス出力に対応できる管球プリでは世界で唯一の優れた機能
「2ホット/3ホット」のいずれの出力にも対応できます

バランス入力再生は情報量の増加と高域の爽やかさ、奥行表現も加わって音量を上げるのが心地よく
デジタルが不得手とするトランペット・バイオリン・ソプラノの高域での印象が各段に良くなります


<Love Five>プリアンプは

「アルプスRA50型」高級ボリュームと新開発のステップ式直列抵抗型ボリュームを選べます

一般にボリューム開度角150度…つまり「12時」の位置は実際には僅か15〜25%程度の抵抗値

つまりどの入力を選んでも100kΩのボリュームなら75〜85kΩもの抵抗を必ず通ってきます

高級なCDプレヤーをプアなボリューム付きプリで聴くよりも、高級ボリューム付きプリを選ぶべきです
http://www.soundparts.server-shared.com/prodct.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c12

[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
13. 中川隆[-8812] koaQ7Jey 2019年8月17日 06:04:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3930]

しかし、サウンドパーツの水谷秀夫さんはホームページを見ても

センス ゼロ
美的感覚 ゼロ
整理整頓する能力 ゼロ
空気が全然読めない

が特徴です。

だからいくら頑張っても田舎で燻ったまま有名にも一流にもなれなかったのですね。



http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c13

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど… 中川隆
7. 中川隆[-8811] koaQ7Jey 2019年8月17日 06:27:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3931]

AIR TIGHT/ライン専用プリアンプ「ATC-2」(¥500,000/税別) 製造販売終了

使用真空管
12AX7(ECC83) x 1, 12AU7(ECC82)x 2, 6X4 x 1

出力電圧定格 2V, 最大15V
寸法 410 x 337 x 156mm(W x D x H)
重量 12kg

•入力5系統/モニター2系統/出力2系統と、豊富な入出力端子を設置
•B電源/ヒーター電源共に定電圧電源方式を採用
•整流管6X4(EZ90)を採用
•初段と2段目の増幅回路にはお互いの干渉を避けるため、別々の定電圧回路を構成
•フラットアンプ回路は、低インピーダンスで駆動される2段のNF方式
•出力段には、出力電圧が大きくとれ、入力インピーダンスも高く、出力インピーダンスが低い、SRPP(シャント・レギュレーテッド・プッシュプル)回路を採用
http://www.airtight-am.net/products/atc2.html
http://shopafroaudio.com/2014/09/07/28409/

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html#c7

[お知らせ・管理21] 2019年08月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
46. 中川隆[-8810] koaQ7Jey 2019年8月17日 06:39:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3932]
赤かぶは中国の工作員でデマを拡散して情報操作してるんだよ
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/565.html#c46
[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
14. 中川隆[-8809] koaQ7Jey 2019年8月17日 08:09:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3933]

サウンドパーツ Love Five プリアンプ vs. AIR TIGHT ATC-2 プリアンプ


『GRFのある部屋』

6畳間のユニコーン + マランツ CD34 + A&M ATC-2 プリアンプ + 是枝パワーアンプ
6畳間のユニコーン + マランツ CD34 + サウンドパーツ ラインアンプ + 是枝パワーアンプ
6畳間のユニコーン + マランツ CD34 + 是枝プリアンプ + 是枝パワーアンプ

の比較試聴


サウンドパーツ ラインアンプ の音は純粋過ぎて音楽に魂が宿らない。
色付けの有るエアータイト製のアンプの方が心地よい。
サウンドパーツの無味無臭の音よりも魂のこもったエアータイトの方が良い。


2012/03/13
単身赴任解消記念オフ(GRF邸&チューバホーン邸の巻)

先週の土曜午後、GRF邸を再び訪問する機会に恵まれました。
今回も和室に置かれているユニコーンを聴かせていただきました。
実はGRFさんは、常用にされているエアータイト製のプリアンプ ATC-2 に代わる新型プリ、サウンドパーツ製の“Basic Line”ラインアンプを導入されていて、なかなか高評価でしたので、これを聴かせていただくことにしていたのです。

そこにご友人のOさんが、是枝さんのパワーアンプに相性が良い、同じ是枝さん製作のプリアンプを持ち込まれて比較試聴しようという話になったのです。

Oさんが来られる前はATC-2と新型アンプ(サウンドパーツ ラインアンプ)を繋ぎ替えて聴いてみたのですが、小生にとって新型アンプの音は純粋過ぎて音楽に魂が宿らないように感じました。
モニター使用には変に色付けがない方が好ましいでしょうが、どうも小生には古き良き時代の音が性に合っているようです。
エアータイト製のアンプの色付けは小生にとっては心地よいものだと感じました。

(3月14日追記)
ここでOさんが持ち込まれた是枝さんのプリアンプに繋ぎ変えました。
外部電源ユニットはOさん自作なのですが、最終調整は是枝さんにお願いされたとのことで、是枝さんのパワーアンプとの組み合わせはいかような音楽を聴かせてくれるのか?というのがポイントでした。

結論から言いますと、この特注プリの性能は、明らかに数十年前から稼動しているエアータイトの音を凌駕しているように感じました。
メーカーが揃っているからじゃないかと思われるかもしれませんし、確かにそうかも知れません。

小生にとってはサウンドパーツの無味無臭の音よりも魂のこもったエアータイトの方が好みということを割り引いて考えても、この是枝アンプの組み合わせは、正にこのユニコーンで音楽を奏でるにはベストの組み合わせではないかと思いました。

Oさんは思わずニンマリされましたが、反対にGRFさんは困った顔つきでいました。
なぜならこのプリアンプは、Oさんの常用されているものなので、Oさんが帰るときには外されてしまうからです(笑)
http://wankata.cocolog-nifty.com/music/2012/03/grf-93e4.html


▲△▽▼

2012年 02月 24日 新型プリアンプ(サウンドパーツ ラインアンプ)の導入 GRFのある部屋
https://tannoy.exblog.jp/17234409/

和室のユニコーンは、是枝さん謹製の5933p.p.アンプで駆動されています。オーケストラの低音も過不足無く鳴らす音は、聴いた人が一様に驚かれます。中にはユニコーンの中に、低音用SPが入っているのではと、スカートの中をのぞく不心得者もおる始末です(笑)。送り出しは、工藤氏特製のCD34改ですから、通常のチューンアップではなく、レーシングカーのチューンなので、通常のCDプレーヤーではとても太刀打ちできません。25年前でもレーシングカーが公道を走っているような物です。

その間を結ぶ、ボリュームとして、パッシーブ・アッティネッターと、もう、25年以上愛用している A&M社の ATC-2 のプリアンプの両方を使い分けていました。

一つには、CD34改の出力が大きいことと、プリアンプを入れると、音質的にはよいこともあるのですが、音場が狭まります。

反対にアッティネターだけだと、小編成の室内楽やリートなどの声はいいのですが、オーケストラだと大音量の迫力が無くなり、音楽の幅が小さくなったりします。

f0108399_1434562.jpg

去年、是枝さんのアンプが入ったとき、ハートレーを鳴らしている松本のサウンドパーツさんのこれも特製アナログ用アンプの Love Five を繋いで聴いたことがあります。すると、帯域といい音場感といい申し分なかったのですが、GRFの部屋用なのでこちらで使うわけにはいきません。ハートレーを購入した、八王子の双句さんが、私のプリとほぼ同じの LCR の EQ付きの Love Five を売りに出されていました。それには、F2a-11p.p. が付いており、両方一緒でないとお売りにならないだろうと思って遠慮していました。昨年の5月の連休に家に遊びに来られる前に連絡すると、何と、私のところできいて気に入ったチューバホーンさんが、Taoさんと一緒に買いに来るとのこと、これには複雑な気持ちでした。

仕事では、良いものは必ず真似されます。真似する方は、成功するのは解っていますから、リスクを負わず、大々的に宣伝だけすれば、真似された方の実績も利用できることになります。それに近い感じで、失礼ながらあまりメジャーではないサウンドパーツさんの、実績を知っていて、それも新品ではなく中古を買われるのでは、製作者にはあまりメリットがないなと、自分のことは棚に上げて思いました。また、自分がそのチャンスを人に教えたばっかりに、自分のところには来なくなった後悔に似た感情におそわれたからです。やはり美味しい物は人には教えない方が、賢いやり方なのでしょうね(爆)。

この和室では、レコードのイコライザーは必要ないので、CDプレーヤーとDSDへの録音機能をだけを持ったシンプルなプリをサウンドパーツの水谷さんに作って貰おうと思いました。パワーアンプのファインメットへの改造の折にもその話をしました。あわよくば、シンプルな機能だけのプリアンプがでたら声かけて頂くところまでお願いしてあったのです。

f0108399_15254798.jpg

忙しさにかまけて、年末まで注文するチャンスがありませんでした。昨年末に、アムステルダムで購入してきたRCOのハイティンクの実況録音盤を聴いていると、やはり音場がより出るプリアンプが欲しいと思いました。

水谷さんのホームページを見たら、なんと新しい構想の下で、Basicなプリアンプを作られるとのこと。趣旨を読んだらそれこそ私の需要にぴったりでした。余計な物をそぎ落とし、その代わり必要なところには、思い切ってよい部品を投入するという、理想的なプリです。そして、通常のタイプで、何と!定価が 118,000円とのこと。これはお買い得です。早速、連絡をしました。水谷さんも、早速取りかかるとの快諾を頂きました。特別注文は、ボリュームの交換と将来に備えた入力のバランスの追加だけでした。

途中、Basicのプリと言っても最小限の見栄えも必要だと言うことで、アルマイト処理をしたり、入力トランスをより高級品に換えたり、至る所に水谷さんらしいこだわりが追加され、予定より一月ほど遅れましたが、今週、ようやく到着しました。梱包を空けて驚きました。とても、10万円台のアンプには見えないからです。この機能と作りなら、通常最低でも25万円ぐらいしないと合わないと思います。
https://tannoy.exblog.jp/17234409/

椀方さんの帰阪記念に GRFのある部屋 2012年 03月 10日
https://tannoy.exblog.jp/17296143/

今日は、長年の単身赴任を終えて、ようやく大阪に戻られる椀方さんが、帰阪前に一杯やろうと言うことで、一升瓶を抱えてきて頂きました。その余興にと、先日来、お話ししている新型プリ(サウンドパーツ ラインアンプ)と常用のそして、電源部はOさん自作の是枝さんのプリアンプを聞き比べしようという、かなり無理な企画を用意してお待ちしていました(笑)。

結果は言うまでもなく、是枝さんのパワーアンプに組み合わせるのですから、純正の組み合わせが圧倒的に良かったです。また、電源部が強化されたプリですから、音の力強さがまったく違ってました。逆にOさんにとっては、違わなかったらどうしようかという、はらはら物だったのですが(笑)。

f0108399_12492249.jpg

あえて増幅度を抑え気味にして、音のリニアリティを良くして、初段にSRPPを持ってきた、是枝さんらしい凝った回路になっていますが、大容量のコンデンサーを投入した、電源部も最終的には是枝さんのチェックが入っているそうです。電源の強化は、音にすぐ現れます。大変スケールの大きな、深い音が鳴り響き、演奏の強弱の差が、はっきりと解り、マーラーの交響曲などは、如何にフレーズの中で、音色や音量を変えているかが、見事に解ります。費用も構成もシンプルな新型プリとはまったく違うダイナミックな音で驚きました。

f0108399_12513668.jpg

比べて、健闘しているのが、常用の ATC-2 で、力強さも、深い音も結構鳴らすのには、改めて感心しました。このプリは、S/N もよいので、もし中古でも見付かれば大変お買い得ですね。ただ、プリとは思えないほど、大きく重いですから、パワーアンプが小型だと、バランスが合わないかもしれませんね。

大きさは、新型プリ(サウンドパーツ ラインアンプ) ぐらいがいいのですが。この新型プリは、自然な音場と色付けの無い素直な音が特徴ですね。

f0108399_133182.jpg

椀方さんも、勿論、Oさんも音の違いに、ビックリしたり、喜んだりで有意義な余興になりました。間にチューバホーンさんのお宅を訪問されてから、暗くなってからチューバホーンさんも加わって、狭い和室で4人座り、日本酒タイムになりました。学生時代の下宿を思い出させる雰囲気でいいですね。ユニコーンの音は、1メートルの至近距離で聴いても、音場が崩れなく、コンサートホールにワープする不思議な音です。この素晴らしいスピーカーがもう、手に入らないのは本当に残念です。椀方さんは、今日もUNICORNさんを訪問されるので、ますますの感を深くされるでしょうが。
https://tannoy.exblog.jp/17296143/


アンプの相性 GRFのある部屋 2012年 03月 11日
https://tannoy.exblog.jp/17298582/

昨日は、椀方さんをゲストに迎えて、阿佐ヶ谷のチューバホーンさんと高円寺のOさんで、一升瓶と四合瓶を空ける盛り上がりで、午前中はまだいい気持ちでした(笑)。皆さん、それなりの朝を迎えられたのではないでしょうか(爆)。

Oさんは、お家に車を置いて来たので、昨日の是枝アンプが、そのまま残っていました。五時近くになって、Oさんが撤収に来ました。

そこで、一緒にハートレーの方にも繋いで聴いてみましたが、こちらは反対にサウンドパーツさんの、ファインメットによる 6550p.p.なので、木に竹を繋いだような音になり、上手くいきませんでした。面白いモノです。

f0108399_015983.png

和室の方は、是枝さんのパワーアンプなので、同じ是枝さんのプリが合うのですね。

低音が良い ATC-2 を繋ぐと、今度は高音の抜けがいまいちです。

新型プリ(サウンドパーツ ラインアンプ) は、高音と音場はいいのですが、少しだけ音が薄くなります。素直な音なのですが、他のNFアンプに比べると柔らかな音になります。でも、音の広がりや音場感はとてもいいので、これを常用にしていくつもりです。

プリアンプは難しいと言いますが、S/N比だけでしたら、しっかり電源を作れば問題はありません。音場感とか音色は、中の配線の仕方でも大きく変わります。電源は正統的にお金を掛ければ比例して良くなる部分です。電源インピーダンスが重要になってきます。

また、新型(サウンドパーツ ラインアンプ) をGRFの部屋に持っていき、同じサウンドパーツさんの LiveFive と比べると、音の静かさや、上品さが違います。
音の定位は新型の方が単純なだけいいのかも知れませんが。音色が違います。Mullard の ECC82 と専用に開発した出力トランスの音の差でしょう。
価格が違いますから仕方がありませんが。音の差を埋めるために、プリとメインを結んでいるMITのケーブルをMI-350の最高級品(友人からお借りしています)から、MI-330のショットガンタイプに替えてみました。音にいい意味で、活力が出ました。いい音ですね。ハートレーの方は、ベーシックのMI-330ですから、もう少し早く気がつくべきでした。だからオーディオは面白いのですが、、、。

f0108399_9493298.jpg

取り外したMI-350 Shotgun Terminatorです。そろそろ畳も交換時期かな?


Commentedby デーンちゃん at 2012-03-13 08:10
こんにちは
このところの新型プリの調整楽しく拝見させていただいております。
ポン置きで鳴るわけではないのは何でもそうですね。
思い通りにならなくてもクレームはつけませんので(笑)
ただ傾向は期待してしまいます。
おそらく色付けの無いプリですと躍動感やエネルギー感は不足すると思われるので、クライオブレーカー直で電源ケーブル・コネクタの選定をせねばと予想しているところです。
TL3Nとの組み合わせは非常に楽しみです。
とりあえず聴いてみてから、なんですけど(笑)
待ってる今が一番妄想が膨らんで楽しいかもしれません。

先日コミュニティでも話題になりましたが、修理を依頼したお店に「前の音に戻してくれ」とクレームを付けたお客がいたそうです。
嫌なめんどくさい世の中になったものです。

Commentedby TANNOY-GRFat 2012-03-13 10:06 x
デーンちゃん(さん)、恋人と逢う前みたく、わくわくしながら待っているときが一番楽しいですね。一緒になれば、いろいろと使いこなしも考えなければなりませんし(笑)。

このアンプは、無色透明です。
特に、デーンちゃん(さん)のところに行くバージョンでは、相当性能は向上している筈です。
使いこなしは、電源とケーブルの選定ですね。色づけが無い分、相当変わりますから。

昨晩は、夕方から深夜までいろいろな曲を、MI-330の旧いケーブルで楽しみました。幾分、荒さもある方が、聴きやすいのは、良くあることですね。TL3NはどのDAコンバーターと組み合わせるのですか?


Commentedby デーンちゃん at 2012-03-13 11:37
CECのガチな組み合わせでDA1N・BNCスーパーリンクです。
他の接続とは比べ物にならないぐらい次元が違う音が出てきます。
DA1Nのクロックは10ppmと今では精度高くないのですが、クロック同期でこんなに違うものかと驚いています。
某ページのSV192SとMC-3でクロック同期させた感じと同じだと思います。


Commentedby TANNOY-GRFat 2012-03-13 12:08 x
そうですか!いずれにしても、SACDが要らないCDの音を聴いているのですね。アナログレコードしか聴かれない方々に本当は聴いて貰いたいですね。
https://tannoy.exblog.jp/17298582/

▲△▽▼


『GRFのある部屋』
6畳間のユニコーン + A&M社 ATC-2 プリアンプ + 是枝パワーアンプ


あの独特の無指向性のフルレンジのSPからと巧みなバックロード構造からの奏でる音と量感音域は確かにいいのですが、
問題は駆動する是枝パワーとサウンドパーツ社のプリがあまりにもきれいすぎて「潔癖症」の音質と重箱を突くようでなんでも、聞こえない音まで出てくる始末。

それがいいだなんて、ちょいおかしい。
美しい奏でる音なら許せるのですがきれいではだめなんです。


鈴木と北川の二人組 2015/08/17

噂によりますと、鈴木は62歳、北川は69歳、この二人がひとつのハンドル名『GRFのある部屋』を共用している、というのです。

3階建ての自社ビルの中に2部屋あり、6畳間のユニコーン(CDオンリー)、後ろの部屋は30畳強はある部屋にあのGRFがコーナー(アナログオンリー)にT−4(平行法、CDオンリー)はリスポジソファから先1m強先に置いてあるその他いくつかのその昔のSP連が複数あります。

音は出て「なんぼ」の世界ですが、このユニコーンは解像度が良過ぎて、すべての楽器が鮮明という異次元の音でもあるのです。

あの独特の無指向性のフルレンジのSPからと巧みなバックロード構造からの奏でる音と量感音域は確かにいいのですが問題は駆動する是枝パワーとサウンドパーツ社のプリがあまりにもきれいすぎて「潔癖症」の音質と重箱を突くようでなんでも、聞こえない音まで出てくる始末。

それがいいだなんて、ちょいおかしい。

美しい奏でる音なら許せるのですがきれいではだめなんです。

それとリスポジがキッチン用の椅子であることでやや見下ろす感じです(ユニコーンが低いせいもあり)。

コンサートでいう中二階から観た聴いた感じでしょうか・・・それも有りでいいのですが、問題は音源が上に伸びない、つまり途中で音が沈むという感じです。

奥行きも壁べったりのため(6畳間を横長に)奥行きが寸詰まりです。

そのためガラスのよくある家庭のやや大きい「水槽の中での演奏を」聴いている感じです。

悪く言えば箱庭。

それに輪をかけるのが、どのCDでも同じ音質、これはいただけない、最悪! 

そして、ジャズは掛けてくれない、こちら持参のCD(クラ)も掛けてくれない、
つまり悪いとこは聴かれたくないということであり、これは他の人でもそれは同じことを聞いております。

T4、GRFも有りますが、欠点を観られたくない聴かれたくないという、ほんと演技がうまい雲助ですネ! 

このような音を初めて聞く人は、言葉巧みな戦術に入り込む恐ろしさです。


ユニコーンSPはとてもいいSPなんですが、やはり駆動側の問題が多分にあるのは聴いていても大いに感じます。

それに気が付かない北川は、やはり「お山の大将」が抜けきらないのでしょう。
http://27415664.at.webry.info/201508/article_15.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c14

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど… 中川隆
8. 中川隆[-8808] koaQ7Jey 2019年8月17日 08:10:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3934]

サウンドパーツ Love Five プリアンプ vs. AIR TIGHT ATC-2 プリアンプ


『GRFのある部屋』

6畳間のユニコーン + マランツ CD34 + A&M ATC-2 プリアンプ + 是枝パワーアンプ
6畳間のユニコーン + マランツ CD34 + サウンドパーツ ラインアンプ + 是枝パワーアンプ
6畳間のユニコーン + マランツ CD34 + 是枝プリアンプ + 是枝パワーアンプ

の比較試聴


サウンドパーツ ラインアンプ の音は純粋過ぎて音楽に魂が宿らない。
色付けの有るエアータイト製のアンプの方が心地よい。
サウンドパーツの無味無臭の音よりも魂のこもったエアータイトの方が良い。


2012/03/13
単身赴任解消記念オフ(GRF邸&チューバホーン邸の巻)

先週の土曜午後、GRF邸を再び訪問する機会に恵まれました。
今回も和室に置かれているユニコーンを聴かせていただきました。
実はGRFさんは、常用にされているエアータイト製のプリアンプ ATC-2 に代わる新型プリ、サウンドパーツ製の“Basic Line”ラインアンプを導入されていて、なかなか高評価でしたので、これを聴かせていただくことにしていたのです。

そこにご友人のOさんが、是枝さんのパワーアンプに相性が良い、同じ是枝さん製作のプリアンプを持ち込まれて比較試聴しようという話になったのです。

Oさんが来られる前はATC-2と新型アンプ(サウンドパーツ ラインアンプ)を繋ぎ替えて聴いてみたのですが、小生にとって新型アンプの音は純粋過ぎて音楽に魂が宿らないように感じました。
モニター使用には変に色付けがない方が好ましいでしょうが、どうも小生には古き良き時代の音が性に合っているようです。
エアータイト製のアンプの色付けは小生にとっては心地よいものだと感じました。

(3月14日追記)
ここでOさんが持ち込まれた是枝さんのプリアンプに繋ぎ変えました。
外部電源ユニットはOさん自作なのですが、最終調整は是枝さんにお願いされたとのことで、是枝さんのパワーアンプとの組み合わせはいかような音楽を聴かせてくれるのか?というのがポイントでした。

結論から言いますと、この特注プリの性能は、明らかに数十年前から稼動しているエアータイトの音を凌駕しているように感じました。
メーカーが揃っているからじゃないかと思われるかもしれませんし、確かにそうかも知れません。

小生にとってはサウンドパーツの無味無臭の音よりも魂のこもったエアータイトの方が好みということを割り引いて考えても、この是枝アンプの組み合わせは、正にこのユニコーンで音楽を奏でるにはベストの組み合わせではないかと思いました。

Oさんは思わずニンマリされましたが、反対にGRFさんは困った顔つきでいました。
なぜならこのプリアンプは、Oさんの常用されているものなので、Oさんが帰るときには外されてしまうからです(笑)
http://wankata.cocolog-nifty.com/music/2012/03/grf-93e4.html


▲△▽▼

2012年 02月 24日 新型プリアンプ(サウンドパーツ ラインアンプ)の導入 GRFのある部屋
https://tannoy.exblog.jp/17234409/

和室のユニコーンは、是枝さん謹製の5933p.p.アンプで駆動されています。オーケストラの低音も過不足無く鳴らす音は、聴いた人が一様に驚かれます。中にはユニコーンの中に、低音用SPが入っているのではと、スカートの中をのぞく不心得者もおる始末です(笑)。送り出しは、工藤氏特製のCD34改ですから、通常のチューンアップではなく、レーシングカーのチューンなので、通常のCDプレーヤーではとても太刀打ちできません。25年前でもレーシングカーが公道を走っているような物です。

その間を結ぶ、ボリュームとして、パッシーブ・アッティネッターと、もう、25年以上愛用している A&M社の ATC-2 のプリアンプの両方を使い分けていました。

一つには、CD34改の出力が大きいことと、プリアンプを入れると、音質的にはよいこともあるのですが、音場が狭まります。

反対にアッティネターだけだと、小編成の室内楽やリートなどの声はいいのですが、オーケストラだと大音量の迫力が無くなり、音楽の幅が小さくなったりします。

f0108399_1434562.jpg

去年、是枝さんのアンプが入ったとき、ハートレーを鳴らしている松本のサウンドパーツさんのこれも特製アナログ用アンプの Love Five を繋いで聴いたことがあります。すると、帯域といい音場感といい申し分なかったのですが、GRFの部屋用なのでこちらで使うわけにはいきません。ハートレーを購入した、八王子の双句さんが、私のプリとほぼ同じの LCR の EQ付きの Love Five を売りに出されていました。それには、F2a-11p.p. が付いており、両方一緒でないとお売りにならないだろうと思って遠慮していました。昨年の5月の連休に家に遊びに来られる前に連絡すると、何と、私のところできいて気に入ったチューバホーンさんが、Taoさんと一緒に買いに来るとのこと、これには複雑な気持ちでした。

仕事では、良いものは必ず真似されます。真似する方は、成功するのは解っていますから、リスクを負わず、大々的に宣伝だけすれば、真似された方の実績も利用できることになります。それに近い感じで、失礼ながらあまりメジャーではないサウンドパーツさんの、実績を知っていて、それも新品ではなく中古を買われるのでは、製作者にはあまりメリットがないなと、自分のことは棚に上げて思いました。また、自分がそのチャンスを人に教えたばっかりに、自分のところには来なくなった後悔に似た感情におそわれたからです。やはり美味しい物は人には教えない方が、賢いやり方なのでしょうね(爆)。

この和室では、レコードのイコライザーは必要ないので、CDプレーヤーとDSDへの録音機能をだけを持ったシンプルなプリをサウンドパーツの水谷さんに作って貰おうと思いました。パワーアンプのファインメットへの改造の折にもその話をしました。あわよくば、シンプルな機能だけのプリアンプがでたら声かけて頂くところまでお願いしてあったのです。

f0108399_15254798.jpg

忙しさにかまけて、年末まで注文するチャンスがありませんでした。昨年末に、アムステルダムで購入してきたRCOのハイティンクの実況録音盤を聴いていると、やはり音場がより出るプリアンプが欲しいと思いました。

水谷さんのホームページを見たら、なんと新しい構想の下で、Basicなプリアンプを作られるとのこと。趣旨を読んだらそれこそ私の需要にぴったりでした。余計な物をそぎ落とし、その代わり必要なところには、思い切ってよい部品を投入するという、理想的なプリです。そして、通常のタイプで、何と!定価が 118,000円とのこと。これはお買い得です。早速、連絡をしました。水谷さんも、早速取りかかるとの快諾を頂きました。特別注文は、ボリュームの交換と将来に備えた入力のバランスの追加だけでした。

途中、Basicのプリと言っても最小限の見栄えも必要だと言うことで、アルマイト処理をしたり、入力トランスをより高級品に換えたり、至る所に水谷さんらしいこだわりが追加され、予定より一月ほど遅れましたが、今週、ようやく到着しました。梱包を空けて驚きました。とても、10万円台のアンプには見えないからです。この機能と作りなら、通常最低でも25万円ぐらいしないと合わないと思います。
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椀方さんの帰阪記念に GRFのある部屋 2012年 03月 10日
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今日は、長年の単身赴任を終えて、ようやく大阪に戻られる椀方さんが、帰阪前に一杯やろうと言うことで、一升瓶を抱えてきて頂きました。その余興にと、先日来、お話ししている新型プリ(サウンドパーツ ラインアンプ)と常用のそして、電源部はOさん自作の是枝さんのプリアンプを聞き比べしようという、かなり無理な企画を用意してお待ちしていました(笑)。

結果は言うまでもなく、是枝さんのパワーアンプに組み合わせるのですから、純正の組み合わせが圧倒的に良かったです。また、電源部が強化されたプリですから、音の力強さがまったく違ってました。逆にOさんにとっては、違わなかったらどうしようかという、はらはら物だったのですが(笑)。

f0108399_12492249.jpg

あえて増幅度を抑え気味にして、音のリニアリティを良くして、初段にSRPPを持ってきた、是枝さんらしい凝った回路になっていますが、大容量のコンデンサーを投入した、電源部も最終的には是枝さんのチェックが入っているそうです。電源の強化は、音にすぐ現れます。大変スケールの大きな、深い音が鳴り響き、演奏の強弱の差が、はっきりと解り、マーラーの交響曲などは、如何にフレーズの中で、音色や音量を変えているかが、見事に解ります。費用も構成もシンプルな新型プリとはまったく違うダイナミックな音で驚きました。

f0108399_12513668.jpg

比べて、健闘しているのが、常用の ATC-2 で、力強さも、深い音も結構鳴らすのには、改めて感心しました。このプリは、S/N もよいので、もし中古でも見付かれば大変お買い得ですね。ただ、プリとは思えないほど、大きく重いですから、パワーアンプが小型だと、バランスが合わないかもしれませんね。

大きさは、新型プリ(サウンドパーツ ラインアンプ) ぐらいがいいのですが。この新型プリは、自然な音場と色付けの無い素直な音が特徴ですね。

f0108399_133182.jpg

椀方さんも、勿論、Oさんも音の違いに、ビックリしたり、喜んだりで有意義な余興になりました。間にチューバホーンさんのお宅を訪問されてから、暗くなってからチューバホーンさんも加わって、狭い和室で4人座り、日本酒タイムになりました。学生時代の下宿を思い出させる雰囲気でいいですね。ユニコーンの音は、1メートルの至近距離で聴いても、音場が崩れなく、コンサートホールにワープする不思議な音です。この素晴らしいスピーカーがもう、手に入らないのは本当に残念です。椀方さんは、今日もUNICORNさんを訪問されるので、ますますの感を深くされるでしょうが。
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アンプの相性 GRFのある部屋 2012年 03月 11日
https://tannoy.exblog.jp/17298582/

昨日は、椀方さんをゲストに迎えて、阿佐ヶ谷のチューバホーンさんと高円寺のOさんで、一升瓶と四合瓶を空ける盛り上がりで、午前中はまだいい気持ちでした(笑)。皆さん、それなりの朝を迎えられたのではないでしょうか(爆)。

Oさんは、お家に車を置いて来たので、昨日の是枝アンプが、そのまま残っていました。五時近くになって、Oさんが撤収に来ました。

そこで、一緒にハートレーの方にも繋いで聴いてみましたが、こちらは反対にサウンドパーツさんの、ファインメットによる 6550p.p.なので、木に竹を繋いだような音になり、上手くいきませんでした。面白いモノです。

f0108399_015983.png

和室の方は、是枝さんのパワーアンプなので、同じ是枝さんのプリが合うのですね。

低音が良い ATC-2 を繋ぐと、今度は高音の抜けがいまいちです。

新型プリ(サウンドパーツ ラインアンプ) は、高音と音場はいいのですが、少しだけ音が薄くなります。素直な音なのですが、他のNFアンプに比べると柔らかな音になります。でも、音の広がりや音場感はとてもいいので、これを常用にしていくつもりです。

プリアンプは難しいと言いますが、S/N比だけでしたら、しっかり電源を作れば問題はありません。音場感とか音色は、中の配線の仕方でも大きく変わります。電源は正統的にお金を掛ければ比例して良くなる部分です。電源インピーダンスが重要になってきます。

また、新型(サウンドパーツ ラインアンプ) をGRFの部屋に持っていき、同じサウンドパーツさんの LiveFive と比べると、音の静かさや、上品さが違います。
音の定位は新型の方が単純なだけいいのかも知れませんが。音色が違います。Mullard の ECC82 と専用に開発した出力トランスの音の差でしょう。
価格が違いますから仕方がありませんが。音の差を埋めるために、プリとメインを結んでいるMITのケーブルをMI-350の最高級品(友人からお借りしています)から、MI-330のショットガンタイプに替えてみました。音にいい意味で、活力が出ました。いい音ですね。ハートレーの方は、ベーシックのMI-330ですから、もう少し早く気がつくべきでした。だからオーディオは面白いのですが、、、。

f0108399_9493298.jpg

取り外したMI-350 Shotgun Terminatorです。そろそろ畳も交換時期かな?


Commentedby デーンちゃん at 2012-03-13 08:10
こんにちは
このところの新型プリの調整楽しく拝見させていただいております。
ポン置きで鳴るわけではないのは何でもそうですね。
思い通りにならなくてもクレームはつけませんので(笑)
ただ傾向は期待してしまいます。
おそらく色付けの無いプリですと躍動感やエネルギー感は不足すると思われるので、クライオブレーカー直で電源ケーブル・コネクタの選定をせねばと予想しているところです。
TL3Nとの組み合わせは非常に楽しみです。
とりあえず聴いてみてから、なんですけど(笑)
待ってる今が一番妄想が膨らんで楽しいかもしれません。

先日コミュニティでも話題になりましたが、修理を依頼したお店に「前の音に戻してくれ」とクレームを付けたお客がいたそうです。
嫌なめんどくさい世の中になったものです。

Commentedby TANNOY-GRFat 2012-03-13 10:06 x
デーンちゃん(さん)、恋人と逢う前みたく、わくわくしながら待っているときが一番楽しいですね。一緒になれば、いろいろと使いこなしも考えなければなりませんし(笑)。

このアンプは、無色透明です。
特に、デーンちゃん(さん)のところに行くバージョンでは、相当性能は向上している筈です。
使いこなしは、電源とケーブルの選定ですね。色づけが無い分、相当変わりますから。

昨晩は、夕方から深夜までいろいろな曲を、MI-330の旧いケーブルで楽しみました。幾分、荒さもある方が、聴きやすいのは、良くあることですね。TL3NはどのDAコンバーターと組み合わせるのですか?


Commentedby デーンちゃん at 2012-03-13 11:37
CECのガチな組み合わせでDA1N・BNCスーパーリンクです。
他の接続とは比べ物にならないぐらい次元が違う音が出てきます。
DA1Nのクロックは10ppmと今では精度高くないのですが、クロック同期でこんなに違うものかと驚いています。
某ページのSV192SとMC-3でクロック同期させた感じと同じだと思います。


Commentedby TANNOY-GRFat 2012-03-13 12:08 x
そうですか!いずれにしても、SACDが要らないCDの音を聴いているのですね。アナログレコードしか聴かれない方々に本当は聴いて貰いたいですね。
https://tannoy.exblog.jp/17298582/

▲△▽▼


『GRFのある部屋』
6畳間のユニコーン + A&M社 ATC-2 プリアンプ + 是枝パワーアンプ


あの独特の無指向性のフルレンジのSPからと巧みなバックロード構造からの奏でる音と量感音域は確かにいいのですが、
問題は駆動する是枝パワーとサウンドパーツ社のプリがあまりにもきれいすぎて「潔癖症」の音質と重箱を突くようでなんでも、聞こえない音まで出てくる始末。

それがいいだなんて、ちょいおかしい。
美しい奏でる音なら許せるのですがきれいではだめなんです。


鈴木と北川の二人組 2015/08/17

噂によりますと、鈴木は62歳、北川は69歳、この二人がひとつのハンドル名『GRFのある部屋』を共用している、というのです。

3階建ての自社ビルの中に2部屋あり、6畳間のユニコーン(CDオンリー)、後ろの部屋は30畳強はある部屋にあのGRFがコーナー(アナログオンリー)にT−4(平行法、CDオンリー)はリスポジソファから先1m強先に置いてあるその他いくつかのその昔のSP連が複数あります。

音は出て「なんぼ」の世界ですが、このユニコーンは解像度が良過ぎて、すべての楽器が鮮明という異次元の音でもあるのです。

あの独特の無指向性のフルレンジのSPからと巧みなバックロード構造からの奏でる音と量感音域は確かにいいのですが問題は駆動する是枝パワーとサウンドパーツ社のプリがあまりにもきれいすぎて「潔癖症」の音質と重箱を突くようでなんでも、聞こえない音まで出てくる始末。

それがいいだなんて、ちょいおかしい。

美しい奏でる音なら許せるのですがきれいではだめなんです。

それとリスポジがキッチン用の椅子であることでやや見下ろす感じです(ユニコーンが低いせいもあり)。

コンサートでいう中二階から観た聴いた感じでしょうか・・・それも有りでいいのですが、問題は音源が上に伸びない、つまり途中で音が沈むという感じです。

奥行きも壁べったりのため(6畳間を横長に)奥行きが寸詰まりです。

そのためガラスのよくある家庭のやや大きい「水槽の中での演奏を」聴いている感じです。

悪く言えば箱庭。

それに輪をかけるのが、どのCDでも同じ音質、これはいただけない、最悪! 

そして、ジャズは掛けてくれない、こちら持参のCD(クラ)も掛けてくれない、
つまり悪いとこは聴かれたくないということであり、これは他の人でもそれは同じことを聞いております。

T4、GRFも有りますが、欠点を観られたくない聴かれたくないという、ほんと演技がうまい雲助ですネ! 

このような音を初めて聞く人は、言葉巧みな戦術に入り込む恐ろしさです。


ユニコーンSPはとてもいいSPなんですが、やはり駆動側の問題が多分にあるのは聴いていても大いに感じます。

それに気が付かない北川は、やはり「お山の大将」が抜けきらないのでしょう。
http://27415664.at.webry.info/201508/article_15.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html#c8

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど… 中川隆
9. 中川隆[-8807] koaQ7Jey 2019年8月17日 08:11:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3935]

サウンドパーツのプリアンプについては


サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html#c9

[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
15. 中川隆[-8806] koaQ7Jey 2019年8月17日 08:12:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3936]

AIR TIGHT のプリアンプについては

AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど…
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c15

[近代史02] タイは天国に二番目に近い国 1 中川隆
31. 中川隆[-8805] koaQ7Jey 2019年8月17日 08:43:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3937]

LCC(格安航空会社)のこと、ドンムアン空港のこと、プリペイドSIMのこと2019.08.17
https://blackasia.net/?p=14163

今回の旅で、タイにはLCC「タイ・ライオンエア」で行き来した。私は海外をLCC(格安航空会社)で行き来するのは初めてだったのだが、行きは2時間30分も遅れて出発するというアクシデントで散々な目に遭った。

座席は狭いと言われていたので覚悟はしていたが、座った時にはそれほど狭いとは感じなかった。隣に座ったのが女性で身体が小さくて圧迫感がなかったからかもしれない。

意外に問題ないと思って喜んでいたのだが、すぐにその喜びは失望に変わった。2つ問題があった。

1つは座席と前の座席の間が狭すぎて、前の座席の人がシートを倒すとかなり目の前が圧迫される上に、二つ折りのトレイを下ろしたら自分の身体とトレイがスレスレになるほど近づき過ぎていたことだ。

つまり、横の狭さは何とかなったのだが、前の座席との狭さはかなり苦痛だった。

もうひとつは座席が固くて、次第に腰が痛くなってしまったことだった。最近はずっと座っていることが多くて腰痛が職業病のようになっているのだが、常に腰痛を抱えた人間に、LCCの座席はなかなか辛い。(鈴木傾城)

LCC(格安航空会社)でも問題ない?

しかし、「もう二度と乗らない」と激怒するほど耐え難いものだったかというと、実はそうでもない。

飛行機ではないのだが、国外の乗り物というのは、それがバスであれ、車であれ、列車であれ、乗り心地は凄まじくひどいことが多い。

途上国の長距離バスでは悪夢に近い思いもしたことがある。(ブラックアジア:海外での長距離バスは、地獄のような思い出に満ち溢れている)

私だけでなく、途上国を旅するのが好きな旅人はみんな地獄のような交通機関での想い出を1つや2つは持っているものだ。それを考えると「LCCの座席が固くて痛い」くらいは、大したことがないような気になる。

飛行機の時間が遅れるというのは、別にLCCでなくてもあり得たことだった。私はフルサービス航空会社の飛行機ばかり乗ってきたが、このフルサービスの航空会社も時間が遅れるというのはしょっちゅうだ。

座席はさすがにフルサービス航空会社はエコノミークラスでも空間は「ある程度」は確保されているのだが、それでも「エコノミークラスが広いか?」と問われれば狭いと答えるしかない。

マイレージをうまく利用できる時は、たまにビジネスクラスなどに乗って空間の広さを確保できる局面もあるが、ほとんどエコノミークラスで済ませるのであれば、その狭さには慣れる必要がある。

イスが固くないというのは利点だが、それでも涙が出るほど嬉しいかと言われればそうでもない。

つまり、LCC(格安航空会社)はFSC(フルサービス航空会社)に劣るのだが、このFSCもエコノミークラスで言えば大して満足できるものでもないので、そうであればLCCでも十分に妥協できる。

「サターニー・トー・パイ・ナナ」

別に最安値で行くことに喜びを感じているわけでもないので、絶対にLCC(格安航空会社)しか使わないという決断はするつもりはない。それほど切り詰めないと旅に行けないほどシビアに生きているわけでもない。

だから、これからLCCに絞って乗るというルールを自分の中に作るつもりはないのだが、選択肢の中にLCCが入っているのであれば、選り好みしないでLCCを使ってもいいかもしれないと思うようになった。

タイであれば、LCCはドンムアン空港に着く。またドンムアン空港の世話になる日が来るとは思わなかったが、正直な心境を言えばスワンナプーム空港よりもドンムアン空港の方が愛着がある。

今回も10年ぶりくらいにドンムアン空港に降り立って、懐かしさのあまり感動してしまった。ドンムアン空港から市内には数十年前から使い慣れたバスを使って入るのだが今回もそうした。

昔と違うのは、スカイトレインの駅まで行けばそこで乗り換えて後は、電車で好きなところに行けることだ。今回は「モチット駅」で乗り換えてナナまで向かって、そこからアラブ人街に入ったがスムーズだった。

バンコクには数年ぶりだったにも関わらず、ドンムアン空港からホテルまで東京を移動するのと同じくらい何も考えずに行けた。

もうすでにタイ語の99%は忘れてしまっていたのだが、真っ先に私が思い出したタイ語は「サターニー・トー・パイ・ナナ(次の停車駅はナナ駅です)」だった。懐かしいアナウンスだった。

オープンバーで女性たちと話をしてきて「あなたはタイ語ができるの?」と訊ねられたので「サターニー・トー・パイ・ナナ」と言うと大受けだった。

帰路の飛行機は真夜中だったのでスカイトレインやバスは走っていないのでタクシーで向かったのだが、300バーツもあれば空港に着く。LCCを使えばたいていはドンムアン空港だろうから、スワンナプーム空港よりもこちらの方が好きな私はこれだけでLCCでもいいような気がしてきた。

空港でSIMカードを入れ替えた

かつては、旅にスマートフォンを持ち歩くということはなかったのだが、今ではどこにいても片手にスマートフォンを持っている。国外でもスマートフォンで電話やインターネットが普通に使えれば役に立つ。

今回もスマートフォンを持って行ったので空港でSIMカードを入れ替えた。

空港にキャリアが店を出しているので、「SIMを交換してくれ」と言えば5分もかからずにやってくれる。私はAISのSIMを入れたが、バンコクのみであれば「AIS」でも「dtac」でも「True Move」でも何でも問題なさそうだ。

AISでは「SIM2Fly」というアジア14ヶ国利用可能のプリペイドSIMカードもあって、それを日本で買っておいて、旅行前や現地到着後に自分でSIMを入れ替える旅人も多い。(AIS アジア16カ国 周遊プリペイドSIM 4GB 8日間 4Gデータ通信)

一度の旅行であちこちの国をうろつくのであれば、このプリペイドSIMは至極便利だろう。もし私も国をまたぐ旅をするのであれば、このSIMを使う。今回はタイのみで短期間で行って帰る旅なので、特にこだわらなかった。

手に入れた電話番号を継続して使いたいという旅人もいるのだろうが、私は逆に「常に電話番号は捨てたい」タイプなのでプリペイドの使い捨ては役に立つ。

何らかの事情で、どうしても永続的な電話番号を相手に教える必要がある時もある。たとえば、タイの銀行に口座を持っているのだが、そこに使い捨ての電話番号ではまずい。

そんな時は、日本の電話番号とは別にアメリカの電話番号を持っていれば、そこにかかってきた電話はすべて国外のものだと判別できる。アメリカの電話番号は「NextPlus」というアプリで簡単に手に入れることができる。

便利な世の中になったものだ。

失敗だったのは、SIMピンを忘れたことだ。仕方がないので成田のレンタルWi-Fiの店で訊ねてみたらSIMピンを貸してくれたのでそれを使って自分で入れ替えた。SIMピンがなければ安全ピンでも問題ない。

アップルは今後eSIMを押してくることになるので、価格次第だが国外の旅でeSIMを試してみたいという気持ちもある。そんなことを思いながら旅の想い出に浸っている。(written by 鈴木傾城)

タイ・ライオンエアの写真を撮るのを忘れた。映っているのはベトナム・エアライン。ベトナムと言えば、「ベトジェット」が結構話題になったのだが、まだビキニをやっているのだろうか。(ブラックアジア:CAをビキニにして踊らせ、自社の大宣伝をした航空会社)
https://blackasia.net/?p=14163
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/377.html#c31

[近代史3] 香港デモが終わらない理由 & 香港デモの正体を見極めよ 中川隆
1. 中川隆[-8804] koaQ7Jey 2019年8月17日 10:57:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3938]

2019年8月16日
コラム:香港に「カラー革命」の様相、警戒感強める中ロ両国
https://jp.reuters.com/article/hongkong-china-apps-column-idJPKCN1V609I


[ロンドン 15日 ロイター] - 香港の「逃亡犯条例」改正を巡る政府と民主派市民の対立は収拾不能に近い状態にある。中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報は15日の論説で、香港は安定と混沌のどちらかを選ばなければならないと警告するとともに、抗議活動を「テロリズム」と断定し、現在の騒乱は西側諸国が支援する「カラー革命」の新たな例だとの見方を示した。

中国の武装警察が香港と本土の境界付近に集結する中で、香港情勢がどうなっていくかは極めて不透明だ。ただ次第に明らかになってきているのは、この抗議活動が意味するのは、単に中国共産党指導部が過去30年間で最も大きな挑戦を受けているということだけではない。世界的に進んでいる民主主義陣営と強権的な国家の対立をさらに助長し、特に最も強権的なロシアと中国を大きく接近させつつあるのだ。

15日の環球時報の2つの主要記事から一番鮮明に分かるのは恐らく、ロシアのプーチン政権の世界観をそっくりなぞっているという事実だ。ロシアもまた、プーチン大統領への批判が高まっている点からすれば、両国の政権が似たような脅威を感じているとしても驚くには当たらない。ごく最近まで、彼らは西側民主主義国が見舞われている問題を小気味よく思っていたのは間違いない。今でもそうかもしれないが、同時に自分たちの立場が脅かされているとも考えている。

当然こうした事態が起きた背景には、世界的な覇権争いがあるが、プーチン氏と中国の習近平国家主席が足元の事態について抱く不安が、国際的な緊張をどの程度高めるかはまだ分からない。何しろ香港の状況が生み出した政治的な力学は、特に台湾の支配権を取り戻したいという中国の思惑に関して言えば、極めて複雑になってくる。

<悪夢の選択>

中国の指導層は今、悪夢のような選択肢を突き付けられている。もし香港の抗議活動を暴力的に抑え込み、人民解放軍を派遣した場合、本土を含めて深刻な経済的打撃を被る恐れが出てくる。それだけでなく、近隣諸国が一段と反発しかねない。既に中国に警戒的な諸国は米国とより緊密になろうとする可能性が十分にあるし、とりわけ台湾は、中国本土との政治的な結びつきを強める政策には見向きもしないどころか、中国による侵攻への追加的な防備措置を講じるだろう。

最悪の場合、せっかく多額の費用を投じて世界中に展開できる力を得た中国軍は、香港の不穏な事態に対処するために何十年も一部の戦力を張り付けなければならない結果になってもおかしくない。

一方で香港の民主派に譲歩し、中でも彼らが要求する自由と民主的な権利の拡大を受け入れれば、中国本土に同じ流れを呼び込む危険がある。2012年に習氏が権力を掌握する前の、20年にわたる改革開放時代であったなら、そうした譲歩も考えられた。ただ特に11年の「アラブの春」が起きた後では、話が全く違ってくる。

過去30年間に主として非暴力的な形を帯びていた一連のカラー革命は、当事者にとっては汚職や圧政への自然発生的な反抗だった。実際、1974年のポルトガルの「カーネーション革命」や1986年のフィリピンの「黄色革命」は、米国が支持していた独裁政権に対する蜂起だ。ところが1989年のチェコにおける「ベルベット革命」で、旧共産圏の崩壊が加速して以降は、こうした革命は米国が裏で糸を引いている、というのがロシアの見方になっている。

<恐怖に駆られた確信>

ロシアが恐怖を感じた様子は、2000年にユーゴスラビアでミロシェビッチ政権が打倒された時点で早くも見て取れた。ジョージアの2003年の「バラ革命」と翌年のウクライナの「オレンジ革命」でロシア寄りの政権が退陣すると、恐怖は強まった。

もっとも米国主導説は、事実ではないケースも少なくない。実際、とりわけ11年初めの時点では、当時のオバマ米政権は同盟関係も多いアラブ諸国で体制への不満が広がる事態にどう対処すべきか苦慮していた。そして最終的には、反政府運動に対する米国の姿勢は中途半端になったように見えた。一番印象的なのがシリアへの対応で、反政府勢力を全面的ではないが、ロシアの反感を買うほどには支援したのだ。

本当のところで言えば、西側諸国は強権的な国家が自国民を弾圧してもほとんど行動してこなかった。それは2007年のミャンマーや09年のイランの例でも分かる。

とはいえ、そうした「真実」に大した意味はないかもしれない。香港で起きているような出来事は、習氏や彼の側近の権力基盤自体を脅かす可能性を持っている。プーチン氏にとって、モスクワにおける抗議がそうであるのと同じだ。だから実情がどうであっても、外国勢力が活動をあおっているとの確信を彼らは捨て去れないのではないか。こうした考えは、いつか破滅的な事態を招くことが証明されるかもしれない。
https://jp.reuters.com/article/hongkong-china-apps-column-idJPKCN1V609I
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/576.html#c1

[リバイバル4] AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど… 中川隆
10. 中川隆[-8803] koaQ7Jey 2019年8月17日 11:20:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3939]
という事で

AIR TIGHT のアンプはマランツ、マッキントッシュの系統のアンティーク・アンプの系統で EAR や Octave の様な独創性が全く無い平凡な設計

AIR TIGHT よりサウンドパーツの安物アンプの方が S/N比や物理特性は遥かに上

しかし、サウンドパーツは中性的で色気が全く無い無味無臭な音なので AIR TIGHT の濁った音を好む人が多い
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html#c10

[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
16. 中川隆[-8802] koaQ7Jey 2019年8月17日 11:25:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3940]
という事で

AIR TIGHT のアンプはマランツ、マッキントッシュの系統のアンティーク風アンプで EAR や Octave の様な独創性が全く無い平凡な設計

AIR TIGHT よりサウンドパーツの安物アンプの方が S/N比や物理特性は遥かに上

しかし、サウンドパーツは中性的で色気が全く無い無味無臭な音なので AIR TIGHT の濁った音を好む人が多い

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c16

[近代史3] 戦後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか? 中川隆
27. 中川隆[-8801] koaQ7Jey 2019年8月17日 12:38:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3941]
【Front Japan 桜】特攻隊員を笑いものにしたトランプ - 国を護る者達の精神を知る[桜R1-8-16] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8n7j9rMS7WY
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/232.html#c27
[近代史3] 香港デモが終わらない理由 & 香港デモの正体を見極めよ 中川隆
2. 中川隆[-8800] koaQ7Jey 2019年8月17日 13:38:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3942]
習政権の終焉 ノンフィクション作家・河添恵子【東京発信・Cool Eyes】第32回 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wa9F-NYe_w4


中国共産党政権の終焉 ノンフィクション作家・河添恵子【東京発信・Cool Eyes】第32回
(2019年7月収録)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/576.html#c2

[お知らせ・管理21] ついでに管理人さんへ 天橋立の愚痴人間
71. 中川隆[-8799] koaQ7Jey 2019年8月17日 14:10:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3943]

天橋立の愚痴人間は誰が見てもクルクルパーだった


日時: 2019/08/16 02:14
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY

自分の駄文に批判を加える者は皆「ケチで、下らない、投稿者」と言うのが天橋立の愚痴人間氏の薄っぺらな脳細胞なのです。

何時まで経っても、「尤も」を「最も」と書いて平然として居るし、自分の投稿の論旨に矛盾が有っても気が付かない。

気に入らなければ「削除するぞ❕」と威嚇し、トランプ並みの『暴論と不寛容性』を発揮する。

そんな貴殿でも、この板の持ち主が許しているのだから、好きにし給え。

おッと、この投稿も即削除かな❓ さすれば愈々貴殿はお山の大将、其れも「裸のお山の大将」だね。

言って置くが、他人の下らない投稿であっても、こんな下らない奴が居る!と置いておくのが見せしめに成るのに、

削除する、と言う事は図星を刺されて恥ずかしいから、削除すると言う訳だね。

____

日時: 2019/08/16 07:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:guBqn1mE

日本貧民党、取越九郎(全て同一人)が繰り返し言ってきたこと。


天橋立の愚痴人間は、

他人の文章の読解力がない
お山の大将を気取る田舎紳士である。
多投が過ぎ掲示板を私物化している。
文章が長すぎ、駄文である。
専門知識も無いの広範囲な話題を展開することは無責任である。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/490.html#c71

[お知らせ・管理21] 管理人さまへ 天橋立の愚痴人間
59. 中川隆[-8798] koaQ7Jey 2019年8月17日 14:11:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3944]

天橋立の愚痴人間は誰が見てもクルクルパーだった


日時: 2019/08/16 02:14
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY

自分の駄文に批判を加える者は皆「ケチで、下らない、投稿者」と言うのが天橋立の愚痴人間氏の薄っぺらな脳細胞なのです。

何時まで経っても、「尤も」を「最も」と書いて平然として居るし、自分の投稿の論旨に矛盾が有っても気が付かない。

気に入らなければ「削除するぞ❕」と威嚇し、トランプ並みの『暴論と不寛容性』を発揮する。

そんな貴殿でも、この板の持ち主が許しているのだから、好きにし給え。

おッと、この投稿も即削除かな❓ さすれば愈々貴殿はお山の大将、其れも「裸のお山の大将」だね。

言って置くが、他人の下らない投稿であっても、こんな下らない奴が居る!と置いておくのが見せしめに成るのに、

削除する、と言う事は図星を刺されて恥ずかしいから、削除すると言う訳だね。

____

日時: 2019/08/16 07:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:guBqn1mE

日本貧民党、取越九郎(全て同一人)が繰り返し言ってきたこと。


天橋立の愚痴人間は、

他人の文章の読解力がない
お山の大将を気取る田舎紳士である。
多投が過ぎ掲示板を私物化している。
文章が長すぎ、駄文である。
専門知識も無いの広範囲な話題を展開することは無責任である。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/489.html#c59

[お知らせ・管理21] 記事監視人の姿勢についてお伺いする 天橋立の愚痴人間
247. 中川隆[-8797] koaQ7Jey 2019年8月17日 14:12:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3945]

天橋立の愚痴人間は誰が見てもクルクルパーだった


日時: 2019/08/16 02:14
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY

自分の駄文に批判を加える者は皆「ケチで、下らない、投稿者」と言うのが天橋立の愚痴人間氏の薄っぺらな脳細胞なのです。

何時まで経っても、「尤も」を「最も」と書いて平然として居るし、自分の投稿の論旨に矛盾が有っても気が付かない。

気に入らなければ「削除するぞ❕」と威嚇し、トランプ並みの『暴論と不寛容性』を発揮する。

そんな貴殿でも、この板の持ち主が許しているのだから、好きにし給え。

おッと、この投稿も即削除かな❓ さすれば愈々貴殿はお山の大将、其れも「裸のお山の大将」だね。

言って置くが、他人の下らない投稿であっても、こんな下らない奴が居る!と置いておくのが見せしめに成るのに、

削除する、と言う事は図星を刺されて恥ずかしいから、削除すると言う訳だね。

____

日時: 2019/08/16 07:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:guBqn1mE

日本貧民党、取越九郎(全て同一人)が繰り返し言ってきたこと。


天橋立の愚痴人間は、

他人の文章の読解力がない
お山の大将を気取る田舎紳士である。
多投が過ぎ掲示板を私物化している。
文章が長すぎ、駄文である。
専門知識も無いの広範囲な話題を展開することは無責任である。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/488.html#c247

[お知らせ・管理21] 管理人さんへお伺いしたい。 天橋立の愚痴人間
17. 中川隆[-8796] koaQ7Jey 2019年8月17日 14:12:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3946]

天橋立の愚痴人間は誰が見てもクルクルパーだった


日時: 2019/08/16 02:14
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY

自分の駄文に批判を加える者は皆「ケチで、下らない、投稿者」と言うのが天橋立の愚痴人間氏の薄っぺらな脳細胞なのです。

何時まで経っても、「尤も」を「最も」と書いて平然として居るし、自分の投稿の論旨に矛盾が有っても気が付かない。

気に入らなければ「削除するぞ❕」と威嚇し、トランプ並みの『暴論と不寛容性』を発揮する。

そんな貴殿でも、この板の持ち主が許しているのだから、好きにし給え。

おッと、この投稿も即削除かな❓ さすれば愈々貴殿はお山の大将、其れも「裸のお山の大将」だね。

言って置くが、他人の下らない投稿であっても、こんな下らない奴が居る!と置いておくのが見せしめに成るのに、

削除する、と言う事は図星を刺されて恥ずかしいから、削除すると言う訳だね。

____

日時: 2019/08/16 07:41
名前: 天橋立の愚痴人間 ID:guBqn1mE

日本貧民党、取越九郎(全て同一人)が繰り返し言ってきたこと。


天橋立の愚痴人間は、

他人の文章の読解力がない
お山の大将を気取る田舎紳士である。
多投が過ぎ掲示板を私物化している。
文章が長すぎ、駄文である。
専門知識も無いの広範囲な話題を展開することは無責任である。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/468.html#c17

[近代史02] 白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程 中川隆
196. 中川隆[-8795] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:23:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3947]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html#c196

[近代史02] 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 中川隆
238. 中川隆[-8794] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:24:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3948]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c238

[近代史3] アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜 中川隆
10. 中川隆[-8793] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:25:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3949]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html#c10

[近代史3] アイヌ民族は12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した? 中川隆
2. 中川隆[-8792] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:26:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3950]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/538.html#c2

[近代史3] チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか? 中川隆
28. 中川隆[-8791] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:27:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3951]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html#c28

[近代史3] DNA解析の限界/実は単品ではあまり役にたたないという話 中川隆
1. 中川隆[-8790] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:29:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3952]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/430.html#c1

[近代史3] ユダヤ男性は白人美女が大好き、ユダヤ女は大嫌い _ アシュケナージ系ユダヤ人の母方の系統の起源はヨーロッパ女性だった 中川隆
6. 中川隆[-8789] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:30:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3953]

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/211.html#c6

[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
94. 中川隆[-8788] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:54:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3954]
夏休みです 久しぶりにOさんが GRFのある部屋 2019年 08月 17日
https://tannoy.exblog.jp/30740262/

ご常連のOさんが、前回来られたのは4月のはじめ、まだ桜の花が咲いている頃でした。その後は忙しく、四ヶ月ほど空いてしまいましたがその間は、当方も大きく変わったところもなく、あえてご連絡するほどでもなかったのですが、ここに来て、少しずつ動きが出てきて、時間を見つけて実験を重ねてきました。

最近の実験は、SAシステムでした。ご報告したとおりアルニコタイプのSPには大変効果がありました。その後の、横浜のMさん宅の取り付け工事にも参加させてもらい、取り付け方法も学んできました。当初は大山さんのT4に応用したのですが、Dynaudioの13センチのウーファーの磁石が特殊な形状なのと、ツイーター側がキャビネットにピッタリと埋め込まれているので、付けるには、また穴を開けなければならないので、とりあえず、ユニコーンに付けて実験してみることになりました。


ユニコーンは、シングルスピーカーですし、表に出ている部分で対応が出来るからです。それでもいろいろ紆余曲折はあったのですが、最終的には、銀のリード線を、木製の洗濯ばさみで、ポールに取り付けるという方法を考えました。


音の差ですが、やはり変わります。すっきりして、音場が拡がります。ただ、その音がOLYMPUSやParagonで聴いた様な方向ではなく、幾分クールになる傾向です。何度も取り外したり付けたりして、比較して見ました。私の感覚ではスタジオ録音の音源には、とても効果があり見通しは良くなります。ユニコーンの場合は、ピストン運動をしている、バックロードが掛かっているエリアが変わるようです。ベンディングウェーブの部分には、余り影響がないのかもしれません。


それでも、スタジオでのマルチモノ録音には良い感じに変化します。クラシックの様に残響を時間差でとらえている音源は、反対に音場がすっきりしすぎるようです。やはりアルニコのホーン型のユニットに使うとより効果的なのかもしれません。


今ひとつ気がついたのは、無指向性のSPを使うときに一番大事なのは、その部屋で一番楽に音が出てくるポイントを探すことです。ぴたりと合ったときは、その部屋のなかで、一番部屋の影響が少ないポイントではないかと思いました。言い換えるといちばん逆起電力の影響を受けないポイントなのです。それらのSAの取り付け時の段階による音の変化を、Oさんにも一つ一つ聴いていただきました。


f0108399_09382863.jpg

今ひとつの実験を、大きな部屋で行っています。そちらの音を聴いていただくために、クーラーを変えてからは、寒いぐらいの部屋で、その変化を聴いていただきました。それは、SAの実験からヒントをいただいた、銀のケーブルの音です。昔、イルンゴ製の銀ケーブルを持っていて、純銀製の太いケーブルで、曲げることも出来ずに大変な思いをした頃を思い出しました。あのケーブルは、いわゆる銀線のイメージの華やかな音はせず、普通の銅線を安定させたような音でした。

German PhysiksのSPケーブルは、2x6mm²の太い銀コーティングの銅線です。末端は、WBTのバナナ端子が付いています。この端子は銅です。そこの部分を、銀コーティング製の端子に交換してみました。比較用に中国製の銀メッキ端子も用意しました。その銀メッキ製の端子は、イメージ通りの高音部が華やかに鳴る音でしたが、半田あげもしないで直に繋いだ銀コーティング製の端子の方は、音が変化しないで自然な音になりました。

f0108399_09383180.jpg


ケーブルの長さにもより音に若干の変化はありますが、Troubadour80とGerman Physiksのネットワーク箱との間に使ってみました。1.6mぐらいのものと2.4mぐらいの長さの違いも比べました。こちらは微妙な変化があり、長い方が音が安定します。ここが面白いところですね。取り付け部のネジの大きさとか工夫がされています。音が柔らかいのは以前の半田揚げをしていた端子と比べると、直に端子にケーブルと接触して伝わるからでしょう。


銀コーティング製だからと単純に音が良くなるわけではありません。バナナだけではなくY端子の方も実験してみます。右の赤白のバンドが付いているのは、WBTの純銀端子です。こちらは、左の国産の銀コーティング製Y端子の六倍もしましたので、中古で購入して実験してみましたが。両端を変えなければなりません。片方の到着を待っています。

f0108399_10065047.jpg


SAの実験が、銀製端子の実験に化けましたが、発想は、SAシステムの普及品と高級品の差と、自動車用の銀のケーブルからヒントをいただきました。そういえば近藤さんが主宰していたAudioNoteの製品は大変高価ですが、使われている配線はトランスまで純銀製でしたね。音の自然さが採用された理由なのでしょうか?


金と違い、空気中の硫黄酸化物と反応して黒くなる銀は、本来は金と同じぐらいの産出量なのに、価格差がどんどん拡大しています。いつか銀価格も暴騰するような気もしますが、SP端子ぐらいならその影響も少なくて済みますね(爆)。面白い夏休みになりました。


Commentedby TANNOY-GRF at 2019-08-17 09:49

我が家の装置では銀製の端子が良い結果を出しましたが、気をつけなければ行けないのは、ヴィンテージのSPは、SP端子の材質も含めて音作りをしています。そこを直接半田付けしたり、このような違う材質の端子に交換しても、本来の持ち味も消えてしまいます。

タンノイには、SA装置の方が効果があるような気もします。専門家の手も借りて、実験していきます。そちらも楽しみです。
https://tannoy.exblog.jp/30740262/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/757.html#c94

[お知らせ・管理21] 記事監視人の姿勢についてお伺いする 天橋立の愚痴人間
248. 中川隆[-8787] koaQ7Jey 2019年8月17日 16:08:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3955]
日時: 2019/08/16 23:54
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY


二度と来るまい 丹後の掲示板〜ン 

万能の、似非知識人には これ以上付き合い兼ねるからね。

明日から心置きなく立派なご高説を投稿なさるが宜しい。

この掲示板の投稿者が少なくなった、と嘆いて居るが、原因は貴殿なのじゃよ。

折角、国際人の安楽庵氏が開設された掲示板だが、貴殿の所為で丹後の片田舎の掲示板に成り果てる訳だ。

貴殿の様な似非右翼の為に、益々投稿者は減るだろうよ。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/488.html#c248

[お知らせ・管理21] ついでに管理人さんへ 天橋立の愚痴人間
72. 中川隆[-8786] koaQ7Jey 2019年8月17日 16:09:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3956]

日時: 2019/08/16 23:54
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY


二度と来るまい 丹後の掲示板〜ン 

万能の、似非知識人には これ以上付き合い兼ねるからね。

明日から心置きなく立派なご高説を投稿なさるが宜しい。

この掲示板の投稿者が少なくなった、と嘆いて居るが、原因は貴殿なのじゃよ。

折角、国際人の安楽庵氏が開設された掲示板だが、貴殿の所為で丹後の片田舎の掲示板に成り果てる訳だ。

貴殿の様な似非右翼の為に、益々投稿者は減るだろうよ。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/490.html#c72

[お知らせ・管理21] 管理人さまへ 天橋立の愚痴人間
60. 中川隆[-8785] koaQ7Jey 2019年8月17日 16:10:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3957]
日時: 2019/08/16 23:54
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY


二度と来るまい 丹後の掲示板〜ン 

万能の、似非知識人には これ以上付き合い兼ねるからね。

明日から心置きなく立派なご高説を投稿なさるが宜しい。

この掲示板の投稿者が少なくなった、と嘆いて居るが、原因は貴殿なのじゃよ。

折角、国際人の安楽庵氏が開設された掲示板だが、貴殿の所為で丹後の片田舎の掲示板に成り果てる訳だ。

貴殿の様な似非右翼の為に、益々投稿者は減るだろうよ。
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http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/489.html#c60

[お知らせ・管理21] 管理人さんへお伺いしたい。 天橋立の愚痴人間
18. 中川隆[-8784] koaQ7Jey 2019年8月17日 16:10:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3958]
日時: 2019/08/16 23:54
名前: 日本貧民党 ID:2vH1zcQY


二度と来るまい 丹後の掲示板〜ン 

万能の、似非知識人には これ以上付き合い兼ねるからね。

明日から心置きなく立派なご高説を投稿なさるが宜しい。

この掲示板の投稿者が少なくなった、と嘆いて居るが、原因は貴殿なのじゃよ。

折角、国際人の安楽庵氏が開設された掲示板だが、貴殿の所為で丹後の片田舎の掲示板に成り果てる訳だ。

貴殿の様な似非右翼の為に、益々投稿者は減るだろうよ。
https://www.kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=2628
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/468.html#c18

[リバイバル3] 高層マンションには住んではいけない 中川隆
42. 中川隆[-8783] koaQ7Jey 2019年8月17日 16:57:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3959]
2022年、タワマンの「大量廃墟化」が始まることをご存じですか 不動産業界では暗黙の常識
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56992
2019.08.17 週刊現代  :現代ビジネス


リタイア世代から外国人家族まで、さまざまな人が住むタワマン。最大のネックは「修繕費」の問題で、見て見ぬふりをしているうちにタワマンが廃墟になってしまった、という可能性もあるのだ。

「修繕ラッシュ」が来た

都心の最高級リゾートをあなたの手に――。

東京湾を望む一棟のタワーマンション。歯の浮くようなコピーに夢を抱き、当時は購入希望者が殺到した人気レジデンスだったが、いまは見る影もない。

築15年、400戸近いマンションに、現在の居住者は3割にも満たない。外壁に割れが目立ち、エントランス前は雑草が伸び放題になっている。

ジムやバーなどの共用部は閉鎖されて数年が経つ。次のマンションの頭金にもならないほど資産価値は下がり、引っ越すこともできず、逃げ場を失った人たちがただ住んでいるだけ……。

いま、タワマン人気はピークにある。不動産経済研究所の調査によると、'08年から'17年の10年間で、首都圏には341棟もの高層マンション(20階建て以上)が建てられた。戸数にして、じつに11万1722戸にのぼる。

だが、そのタワマンが巨大な廃墟と化してしまう冒頭のような光景が、日本中に現れる事態を想像する人は少ない。

不動産業界ではかねてから都心部の住宅の過剰供給がささやかれてきた。デベロッパーにとってタワマンはまさに「打ち出の小槌」であり、いまだ根強いタワマン人気に応えるように、フロンティア開拓は進んでいる。

これまでタワマンといえば、豊洲や芝浦といったベイエリアか、武蔵小杉や川口など都心にアクセスしやすい郊外が人気を集めていた。近ごろ、デベロッパーは「第三の道」として、都心の再開発地域に目をつけ、新たな購入層の獲得に躍起だ。

たとえば東京下町の代表格・月島の「もんじゃストリート」には低層建築のもんじゃ屋が軒を連ねるが、肩を並べるように地上32階建てのタワマンが建とうとしている。

また、日本有数の商店街がある武蔵小山の駅前にも41階建ての巨大レジデンスが建ち、東京五輪直後の2021年に入居を控えている。

そんなタワマンブームに火が付いたのは2000年前後のこと。当時建てられた超高層マンションは早くも15〜20年選手になろうとしているわけだが、ここにきて重大な問題が表面化してきた。

それは、類を見ないほどの大規模で高額な「修繕」をどうするか、ということだ。

売り手はリスクを伝えない

基本的にマンションは、12年から15年の周期で大規模修繕を行う。最初は外壁の修理などを行い、次にエレベーターや排水などの内部的な不具合を改修する。

これはタワマンも同様で、目下第一次修繕ラッシュに突入しているが、なにぶん戸数が多いため、一棟の修繕計画は10年以上、2ケタ億円のカネがかかることもザラにある。

高層マンションブームの先駆けとなったのが、川口にある「エルザタワー55」だ。

'98年に竣工した総戸数650、地上55階建て、高さ185mのこの物件は、'15年にはじめての大規模修繕工事を開始し、2年がかりで完了した。総費用は約12億円。単純計算で1戸あたり約185万円の負担だ。

修繕にいたる長い道のりを取材してきた住宅ジャーナリストの山本久美子氏は次のように語る。

「超高層の工事は通常の足場だけではできないうえ、エルザタワーは低層・中層・高層でそれぞれ外観のフォルムが変化するデザインになっていて、工事は難航することが予想されました。

そこで修繕は、マンションを建設した元施工会社に工法の提案を依頼するところからはじまったのです」

管理組合に修繕委員会を設置したのは'07年のこと。施工の妥当性や料金を見積もるコンサルタントを募集したのは'12年になってからだった。

「コンサルタント会社を1社に絞り、業務委託契約を締結したのが'13年。マンション所有者への説明会もきちんと開き、'14年に施工業者の決定にこぎつけました」(山本氏)

途中3.11の影響もあったが、修繕完了までに10年。ただし、これは幸せなケースだ。エルザタワーのように投資目的の所有者が少ない物件は、管理組合もしっかり機能している。

だが新しく建てられたタワマンのなかには投資用に購入されているものも多い。最初の修繕時期にあたる築15年を迎えるころには、すでに所有者が入れ替わっているケースが大半だ。

しかも300戸をゆうに超えるようなタワマンでは、実際の入居者も子育て世代から外国人までさまざま。その全員が管理組合に協力的、ということはさすがに考えにくい。

こうした状況をさらに難しくするのが、デベロッパーの態度だ。タワマンの売れ行きが好調な折、あえて15年後に訪れる修繕の難しさなど、口にするはずがない。

オラガ総研代表の牧野知弘氏はこう指摘する。

「これまで、デベロッパーは修繕積立金の費用負担を実際の想定以上に安く設定してマンションを販売してきました。

タワマンは高層用のエレベーターやジムなどの共用設備が多く、修繕コストが膨らみやすい構造にあるにもかかわらず、『戸数が多いから一人あたりの負担が少ない』と販売元は説明するわけです。

ところがいざ修繕となると積立金が足りず、住民のあいだで大モメになる。こうした事態がこれから頻発するでしょう」

住民の意見がまとまらない

国土交通省は、ガイドラインで12年周期前後の大規模修繕を行うことを推奨している。

大手デベロッパーが販売するマンションの場合は、長期修繕計画書を売り主か施工業者が作成することが多いが、ここに書かれた数字がデタラメだったというケースもある。

管理組合向けコンサルティング会社・ソーシャルジャジメントシステムの廣田晃崇氏は次のような例を挙げる。

「長期修繕計画書では、何年目の工事にいくらかかるか概算が記されていて、そこから積立金の月額を割り出します。

ところが中央区のあるタワマンでは、基礎的な数値に間違いが散見されました。自動ドアの枚数が実際の半分だったり、消火設備の数も少なかったりして、30年間でかかる修繕費が5億円近くも過少に見積もられていたケースがあったのです」

こうした明らかな見積もりの甘さには、デベロッパーの「売らんかな精神」があることは否定できない。住民側が問題に気づくためには、やはり結束力の強い管理組合が必要になってくるが、ことタワマンではそううまくいかない。

首都圏にある総戸数600超の某タワーマンションでは、30年の修繕累計コストは50億円以上におよぶと見積もられている。ところが、その間に見込まれる修繕積立金は半分にも満たない23億円。

今後どうやってその差額を埋めるのか、そもそも15年目の第一次修繕を終えられるのか。管理組合の議論は今日も続いているという。

このマンションで理事の経験がある60代の住民の一人はこう嘆息する。

「私は早期退職で入ったおカネで家を買い、終の棲家と思って住んでいますが、上層階には若いお金持ちや投資目的の外国人もいる。普段の生活では没交渉ですから、理事会での発議も実現しないことが多いです。

たとえば、あるとき立体駐車場の共用部に重大な不具合が見つかり、1億円近くの費用がかかることがわかった。

そこで理事会で一時金の徴収を提案したのですが、想像以上に反対意見が多く、ロクに話し合いも設けられないまま否決されてしまったことがありました。それぞれ、マンションについての見解があまりにも違うと感じましたね」

実際、「私が住んでいるうちだけ大丈夫なら、あとはどうなってもかまわない」と考えたり、一方で共用部の破損で資産価値が下がることに神経質な人がいたりと、「コミュニケーションなき利害関係」がこじれがちなのがタワマンの現状といえる。

さらにいま大量に建てられている新築のタワマンの管理組合は、これまでのタワマン以上に難しい問題を抱えている。

「東京五輪に向けて上昇しているのは地価だけでなく、人手不足による人件費や資材費も同様。ですが、五輪後に地価の高騰が落ち着いたとしても、人件費や資材費は右肩上がりになる可能性が高い。

五輪後、建物に大きなトラブルが露呈すれば、修繕積立金の値上げを余儀なくされますし、修繕しなければ資産性に大きな問題が生じるかもしれません」(前出・牧野氏)

つまり、資産価値はこれから下がっていく一方なのに、修繕費は高騰を続けるのだ。

壊すこともできない

はたしてタワマンを住居として修繕しつつ、維持し続けることは可能なのだろうか。

「じつは、ほとんどの物件で長期修繕計画は30年分しか組まれておらず、その先はどうなるのか、国などでも問題視されています。

30年以降の修繕となると、給排水管や電気系統、エレベーターなどの設備系の大規模改修も必要になってきて、その費用は1回目の比ではありません。

いざ修繕積立金を値上げするとなると、投資目的でマンションを買い、人に貸している人は利回りが悪くなるので、なかなか首をタテに振らない。そうすると修繕の時期になってもおカネが用意できない事態に陥ります」(経済評論家の平野和之氏)

修繕できないのなら、いっそ壊して新しくするという手もあるだろう。しかし、老朽化したタワマンに住んでいるのは、簡単に引っ越すことができない「取り残された人々」。

そうした住民を立ち退かせたとしても、タワマンを壊すには、これまた膨大な費用がかかる。

「大規模修繕ができていないタワーマンションは次から次へと売りが出る可能性がある。値段をどれだけ下げても、高い修繕積立金を肩代わりしなければいけない物件に買い手はつかないでしょう。

結果、修繕されずに放置され続け、壊すこともできず廃墟と化したタワマンの誕生です。

とくに心配なのは、武蔵小杉など、同じような時期にたくさんのタワマンが建った地域です。売りが売りを呼ぶ負の連鎖が街全体で起こる可能性がある。そう考えると、街が一瞬にしてゴーストタウン化するリスクもあります」(平野氏)

一度建てたら、簡単には修理することも壊すこともできないタワマン。その姿はさながら「住む原発」といえる。

ひとたびの建設ピークを迎えた'08年に建てられたタワマンが、15年目になるのは2022年。まさにこれからタワマンの問題は深刻化する。あなたは、それでもまだタワマンを買いますか?

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/654.html#c42

[近代史3] ファーウェイ排除で世界に激震! 日本はどうなる? 中川隆
20. 中川隆[-8782] koaQ7Jey 2019年8月17日 19:08:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3960]

米中新冷戦 5G覇権をめぐる攻防戦 
ノンフィクション作家・河添恵子【東京発信・Cool Eyes】第30回 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=__bbIBR-3H0


ノンフィクション作家・河添恵子:米中新冷戦 5G覇権をめぐる攻防戦
(2019年5月収録)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/452.html#c20

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
195. 中川隆[-8781] koaQ7Jey 2019年8月17日 21:01:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3961]

NHKニュース9が報じた昭和天皇の本音と日本の夜明け
http://kenpo9.com/archives/6230
2019-08-16 天木直人のブログ

 たったいま、NHKニュースウオッチ9が衝撃的な史実を報じた。

 すなわち、初代宮内庁長官が書きとどめていた昭和天皇の反省の独白が公表されたのだ。

 明日以降、あらゆるメディアが大騒ぎして報じるであろうから、ここではその詳細を繰り返さない。

 私がここで強調したい事は、ここまでの史実が見つかったのである。

 この国の政治家たちは、戦後の日本のあり方を、もう一度根本的に議論して、令和時代にふさわしい民主国家日本をつくり直す作業に取り掛からなければいけなくなった。

 そして、日本国民は、政治家たちにそれを要求し、いまこそ自分たちの手で日本をつくり直す、つまり、はじめての民主革命を起こさなければいけなくなったのだ。

 この昭和天皇の告白を日本の夜明けにつなげなければいけない。

 天皇制を、日米安保体制を、憲法9条を、そして何よりも歴史認識を、根本的に考え直さなければいけなくなったのだ。

 私は懸念する。

 冒頭で私は書いた。

 明日からあらゆるメディアが大騒ぎして報じるだろうと。

 しかし、そうならないおそれがある。

 封じ込められるおそれがある。

 いまさら市民革命が起きては大変なことになるからだ。

 安倍首相の祖父である岸信介の大罪が追及される事になるからだ。

 なによりも安倍首相の歴史認識や外交が糾弾されるからだ。

 実際のところ、NHKは古川隆久という学者を登場させて要領の得ない解説をさせていた。

 古川隆久という学者は、みずから解説するのではなく、こういうべきだったのだ。

 こんな重要な史実を、私ごときが解説などする資格はないと。

 すべての歴史学者、政治家を総動員して、国民に本当の解説をしてあげなければいけないのだと。

 私はこころから願う。

 この昭和天皇の告白について、これからどんなに時間をかけてもいいから、国民的議論を行って、最後は国民が結論を出すようになることを。

 そして国民がそれでも、これまでの戦後の日本でいいと言うなら、それが日本の市民革命の結果だ。

 私はそれに従う。

 しかし、その前に、どうしても、昭和天皇の告白の評価は、国民が審判を下さなけければいけない。

 いよいよ新党憲法9条の出番が来るかも知れない。

 歴史が動く大きな地響きを感じざるを得ない(了)

昭和天皇「拝謁記」入手 語れなかった戦争への悔恨
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190816/k10012038471000.html
2019年8月16日 19時00分 NHK


動画→https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190816/k10012038471000.html

天皇陛下の祖父、昭和天皇の実像に迫る第一級の資料です。NHKは初代宮内庁長官が5年近くにわたる昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」を入手しました。その記述から、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語り、終戦から7年後の日本の独立回復を祝う式典で、国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望したものの、当時の吉田茂総理大臣の反対で、その一節が削られていたことがわかりました。分析にあたった専門家は「昭和天皇は生涯、公の場で戦争の悔恨や反省を明確に語ったことはなく、これほど深い後悔の思いを語ろうとしていたのは驚きだ」と話しています。

繰り返し語る後悔の言葉

「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治(たじま・みちじ)で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。

田島長官は、このうち長官就任の翌年から5年近く、昭和天皇との具体的なやりとりや、そのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めていて、NHKは遺族から提供を受けて近現代史の複数の専門家と分析しました。

その記述から昭和天皇が田島長官を相手に敗戦に至った道のりを何度も振り返り、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかつた」、「東条内閣の時ハ既ニ病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」などと後悔の言葉を繰り返し語っていたことがわかりました。

強くこだわった「反省」

さらに昭和天皇はサンフランシスコ平和条約発効後の昭和27年5月3日、日本の独立回復を祝う式典で、おことばを述べますが、この中で、戦争への深い悔恨と、二度と繰り返さないための反省の気持ちを国民の前で表明したいと、強く希望していたことがわかりました。

「拝謁記」には1年余りにおよぶ検討の過程が克明に記されていて、昭和天皇は、(昭和27年1月11日)「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と田島長官に語り、(昭和27年2月20日)「反省といふのは私ニも沢山あるといへばある」と認めて、「軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか皆反省すればわるい事があるからそれらを皆反省して繰返したくないものだといふ意味も今度のいふ事の内ニうまく書いて欲しい」などと述べ、反省の言葉に強くこだわり続けました。

削除された戦争への悔恨

当時の日本は、復興が進む中で、昭和天皇の退位問題もくすぶっていました。

田島長官から意見を求められた吉田総理大臣が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」、「今日(こんにち)は最早(もはや)戦争とか敗戦とかいふ事はいつて頂きたくない気がする」などと反対し、昭和天皇が戦争への悔恨を込めた一節がすべて削除されたことがわかりました。

昭和天皇は田島長官に繰り返し不満を述べますが、最後は憲法で定められた「象徴」として総理大臣の意見に従いました。

吉田総理大臣が削除を求めた一節は、「国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘(かか)わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります」という部分です。このうち、「勢の赴くところ」以下は、昭和天皇が国民に伝えたいと強く望んだ戦争への深い悔恨を表した部分でした。

専門家「現代生きる者にも重い記録」

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「戦争を回顧し、重要な局面でなぜミスをしてしまったのか、繰り返し考え話す中で、独立回復の際のおことばにも、やはり反省を盛り込みたいという気持ちが強くなっていったのだろう」と述べました。

そのうえで、「新憲法ができてから初めて、ある程度踏み込んだ発言ができるかもしれないチャンスが講和条約発効のおことばだった。反省なりおわびをして、どこかで戦争の問題にけりをつけたいということが出発点であり、一番の動機だというのははっきりしている」と指摘しました。

さらに、「象徴天皇としてどういう振る舞い方をするかということを学習した過程でもあるだろうが、昭和天皇個人にとっては苦渋の過程というか、今後ずっとこうやっていかなきゃいけないのかということを認識させられた苦い思い出の方が大きかったのではないか。その後、記者会見で、肝心なことは『言えない』で通したことが、このときの苦渋の思いを引きずっていたことの表れなのだと思う。そういう意味で昭和天皇にとって、とても重い体験だったのではないか」と述べました。

また、「拝謁記に出てくることは全部、結局は日本が無謀な戦争を起こして負けてしまったことにつながる。天皇のあり方が戦前の主権者から象徴へと変わったのも、政治関与を厳しく制限する規定ができたのも、敗戦がきっかけで、しかも形式的な責任者は昭和天皇本人だった」と話しました。

そして、「拝謁記は、昭和の戦争というものは現代に生きるわれわれにまでいろいろな意味で重くのしかかっているということを改めて認識させる記録、忘れてはいけないということを語りかけてくれている記録ではないか」と話しました。

専門家「発言をほぼそのまま記録 非常に珍しい」

日本の近現代政治史が専門で、一橋大学の吉田裕特任教授は「昭和天皇の肉声の記録は『昭和天皇独白録』のような、形を整えるために後から手を入れたものが多いので、発言をほぼそのまま記録しているというのは非常に珍しい」と指摘しました。

そして、「昭和天皇と側近の内輪のやりとりが非常に克明にかなりまとまった形で残されているという点で非常に重要な資料だ。昭和天皇の肉声が聞こえてくるし、天皇自身の考えの揺らぎみたいなものが伝わってくる」と話しました。


53. 2019年8月17日 14:38:31 : sIEk2edIV2 : cWlVdkZLR2wxWlE=[15]

『拝謁記』を遺した田島道治さんが宮内庁長官だった時期は、1948年(昭和23年)6月5日から、1953年(昭和28年)12月16日までの期間である。
この間、極東国際軍事裁判(1946年5月3日〜1948年11月12日)と、朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日)が、おこなわれている。

極東国際軍事裁判での昭和天皇の不起訴は、1946年4月3日に極東委員会(FEC)が決定している。

英国は、第二次世界大戦終結と同時にソ連を敵国視する政策を始め、さらに現実に朝鮮戦争が勃発したことにより、日本の再軍備がGHQの政策
として浮上した頃から、天皇の利用価値が高まり、天皇の戦争責任論を回避し、極東国際軍事裁判での天皇不起訴の正当性を補強するために、旧海軍を通じて、日本政府とGHQとの間で口裏合わせがおこなわれて、「戦争の原因は陸軍の暴走のため」「天皇は陸軍を掌握できていなかった」とする「陸軍主犯説」が固まっていったのだと推察できる。

『拝謁記』は、既に「天皇は陸軍を掌握できていなかった」という「陸軍主犯説」が固まった時期以降の、昭和天皇の見解を述べている。

私は、昭和天皇は、張作霖爆殺事件から太平洋戦争中に至るまで、一般に流布されているよりは、ずっと強く、個別の作戦を含めて戦争指導に関与していたのではないかと疑っている。

この点を解明するために、終戦前までの昭和天皇の作戦指導に関する記録や、終戦後から極東国際軍事裁判での昭和天皇の不起訴決定に至るまでの、1946年4月3日以前の軍の資料や外交文書の発掘や開示が待たれる。


🔴 菊地史彦『昭和天皇の戦争責任と「言葉のアヤ」発言の論理』
 
(論座,2019年04月30日)

「退位」への意向は敗戦後、3度示されたと言われている。1度目は連合軍の進駐直後。木戸幸一内大臣に対し、自身の退位によって戦争責任者の引き渡しを避けえないかと相談したという記録がある。木戸はこれに反対している。2度目は、1948(昭和23)年10月から11月にかけて、東京裁判の判決の前後である。宮中・政府内でも退位問題は頻繁に論議されたが、次第に沈静化した。退位によって高松宮や貞明皇后が浮上する可能性を天皇が警戒したためともいわれる。

 3度目が講和条約の発効した1952(昭和27)年4月28日だった。天皇は吉田茂首相にその意向をもらしたが、吉田はとりあわなかった。また退位に代えて皇祖皇宗と国民に対する「謝罪」の言葉を述べるという案もあったようだが、吉田はこれにも反対した。

 以後、天皇が「退位」について語ることはなかった。
 
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2019043000002.html


🔴 第二復員省

《極東国際軍事裁判対策》

極東国際軍事裁判では、旧海軍軍令部出身者の豊田隈雄元大佐らを中心に昭和天皇への訴追回避、旧海軍幹部への量刑減刑に秘密裏に奔走した。

裁判開廷の半年前には、永野修身元帥以下の海軍トップを集めて、天皇の責任回避のための想定問答集の策定を行い、米内光政をGHQ側と折衝させるなどの工作を行った。

そうした結果、昭和21年3月6日にはGHQのボナー・フェラーズ(英語版)准将から米内に対して、天皇免責のために裁判では日本側が証言をするなどの努力が欲しいこと、陸軍に開戦の責任の大部があるなど、裁判についての内々の回答を得たという。

また、BC級戦犯裁判においては、中央への責任問題の波及を避けるため、現地司令官レベルで責任を完結させる弁護方針を立てて証人を隠すなどの工作も行っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%BE%A9%E5%93%A1%E7%9C%81

#NCC




56. 2019年8月17日 15:47:53 : aRgWENoWVg : RzZUQW9lTWUycjI=[17] 報告
▲△▽▼

>>53(補足)
>昭和天皇は、張作霖爆殺事件から太平洋戦争中に至るまで、一般に流布されているよりは、ずっと強く、個別の作戦を含めて戦争指導に関与していたのではないか
例えば、1939年5月11日から1939年9月16日に起きたノモンハン事件では、大きな被害を出しながらも、関東軍の現場の指揮官たちは戦闘続行を強く望んでいたが、陸軍の参謀本部が出した作戦の終結を命じる『大陸命第343号』に従っている。

重光葵元外相が巣鴨獄中で書いたという『昭和の動乱』には、「勅命」により、ノモンハン事件の停戦がおこなわれたと記されている。

収監中の重光葵が、昭和天皇へのGHQや国民への心証が良くなるよう、昭和天皇が平和主義者であることを印象づけるために、「ノモンハン事件」の停戦命令が昭和天皇の指示で出されていたことを強調しているように見える。

たしかに、陸軍に、「結果良ければ全て良し」の気風があり、結果が天皇が喜びそうな作戦であれば、独断で無謀な作戦にも独断専行で挑む傾向があったとは考えられるが、「勅命」である『『大陸命』に公然と逆らう気風があったとは考えにくい。

「ノモンハン事件」に限らず、陸軍が、停戦命令の時だけは、天皇の作戦の指示通りに動き、作戦開始時は全て陸軍の独断専行でおこなわれたと考えるのは、不自然ではないだろうか。

今日、陸軍の独断専行でおこなわれたとされている無謀な作戦のいくつかは、昭和天皇が作戦立案時に関与していたと考える方が自然ではないだろうか。
 
 
🔴 ノモンハン事件
 
《停戦成立までの戦闘》

関東軍は、ソ連軍の総攻撃に対し、8月26日に第7師団の主力をチチハルからノモンハンに増援として向かわせた。しかし関東軍は意外なほどに戦局を楽観視しており、日本軍最後の拠点バルシャガル高地がソ連軍の猛攻を受けていた8月26日には「ノモンハン方面の敵盲進のを捉え、一大鉄槌を加うる」、バルシャガル高地が事実上陥落した8月29日には「冬季前速やかに敵に徹底的打撃与うること絶対に必要」との認識で、第6軍に第2師団、第4師団、第1師団主力、第8師団の一部と関東軍の持つ全速射砲をつぎ込んで大攻勢を目論んでいた。

参謀本部は、戦局を関東軍を通して報告を受けていたので、実情を十分に把握できていなかったが、参謀本部第2部第5課(露西亜課)は独自のルートでノモンハンの戦況を掴み、同課の甲谷悦男少佐から「ノモンハンは総崩れ」という報告がなされるなど、8月29日頃には戦局はかなり厳しいということをようやく把握した。そのため、8月30日には方針を転換した『大陸命第343号』を起案し、趣旨説明に参謀次長の中島らが関東軍に出向いた。

参謀本部の意図は中島が持参した『大陸命第343号』の一項に書かれてあった通り「北方の平静を維持するにあり、之が為「ノモンハン」方面に於いては勉めて作戦を拡大することなく速やかに之が終結を策す」とノモンハン事件の早期収束であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
  
🔴 重光葵(著)『昭和の動乱』

重光葵元外相が巣鴨獄中で書いた、貴重な昭和の外交記録である。上巻は満州事変から宇垣内閣が流産するまでの経緯を世界的視野に立って描く。
http://www.chuko.co.jp/bunko/2001/10/203918.html




61. 2019年8月17日 16:25:57 : QUN9jnHBkE : YWEwZjhoQlhMa1U=[12] 報告
▲△▽▼

>>53(補足)
>日本の再軍備がGHQの政策として浮上した頃から、天皇の利用価値が高まり、天皇の戦争責任論を回避し、極東国際軍事裁判での天皇不起訴の正当性を補強するために、旧海軍を通じて、日本政府とGHQとの間で口裏合わせがおこなわれて、「戦争の原因は陸軍の暴走のため」「天皇は陸軍を掌握できていなかった」とする「陸軍主犯説」が固まっていったのだと推察できる。
 
 
昭和天皇が3度目に退位の可能性について言及した1951年から1952年にかけての時期は、朝鮮戦争中であり、サンフランシスコ講和条約が締結され、発効する時期に相当する。

1951年頃、皇族の高松宮宣仁親王は、CIAの協力者に対して、平和条約が効力を発する1952年に昭和天皇が退位し、陸軍は旧陸軍大将の下村定、海軍は旧海軍大将の野村吉三郎、政治は元朝日新聞社副社長の緒方竹虎、出版・ラジオのメディア戦略を旧同盟通信社の古野伊之助を中心にして担当させるという内容の日本の再軍備計画について言及していた。

1951年は朝鮮戦争中の時期であり、野村吉三郎、緒方竹虎は、広く知られているCIA工作員であったことから、皇族の高松宮宣仁親王は、CIAからの働きかけによって日本の再軍備構想に関与したものと推察される。

戦後の皇室とGHQ・CIAとの関係は深く、天皇の「お言葉」ですら、米国政府の意向により形づくられていったように思う。
 
現在の安倍政権で自民党が掲げている憲法改正案も、戦後に、CIAから皇族の高松宮宣仁親王に働きかけた『日本の再軍備構想』の延長線上のものである。
 

◆ 野村吉三郎
(Wikipedia, 2019/05/11 閲覧)
CIAとの関係

有馬哲夫は、野村が1947年に設立されたCIAの協力者であり、戦後に対米協力によって日本に陸だけではなく海軍の再建をするためになったとアメリカ側に海上戦力の再建許可を求めていたことから考えている。1954年の参院選では、CIAが資金提供および選挙対策で支援しており、CIA日本支局長ポール・ブルームが当選を祝福する手紙を送っている。なお、選挙資金は、藤村義朗元海軍中佐が管理した。また、野村とアレン・ダレスとの連絡役だったアメリカ対日協議会のハリー・カーン(『ニューズウィーク』外信部記者)は、CIAにも関係していた国務省企画部長フランク・ウィズナーに、野村をポスト吉田の首相候補とみなしてその当選を喜んだ。また、「われわれの機関の政治問題の情報提供者だった」として、野村がCIAや国務省への情報提供者であることを報告した[5]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E5%90%89%E4%B8%89%E9%83%8E


◆ NOMURA, Kichisaburo (III)
(CIA, U.S. Gov.)

Following the lines of SHIMOMURA Sadamu's plans for the Army and NOMURA's for the Navy, HATTORI's draft calls for, in general, an Army of 150,000 men, a Nary of 250,000 tons, and an Air Force of 2060 planes.. .Formal overall leadership of the advocates of rearmament is exercised by SHIMOMURA for the Army and NOMURA for the Navy. (ZJL-769, 3 Jan 52, [ ] "Japanese Rearmament" folder).

SHIMOMURA sadamu is the leading candidate for chief of the NPR, and NOMURA for chief of the MSB, (ZJL-797, 31 Jan 52, [ ] CE File III-32.3)

Acting on a directive from Prince TAKAMATSU, advised former Naval colleagues in October 1951 that the Emperor would abdicate when the Peace Treaty comes into effect in 1952. TAKAMATSU stated to NOMURA that the following would serve as nuclei of the rearmament movement in their respective spheres of influence: (1) Naval: NOMURA; Military: SNIMOMURA Sadamn; (3) Political: OGATA Taketora; (4) Press and Radio: FURUNO Inosuke. (ZJL -799, 2 February 1952, [ ] ??????? GC A -10.30)

On 14 Mar. 52 the Gov't announced the supplementary depurge of 843 persons.

Prominent in this seventh supplementary depurge announcement is former Adrimal NOMURA Kiehsaburo, ex-ambaesador to the U. S, at the time of the outbreak of Woad War. II. (No. FEC Daily, 15 Mar. 1952.)

https://www.cia.gov/library/readingroom/docs/NOMURA,%20KICHISABURO_0007.pdf

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/552.html#c53

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c195

[近代史3] 日本は共産党にとって天国だった 意外と知られていない世界の共産党事情 中川隆
5. 中川隆[-8780] koaQ7Jey 2019年8月17日 23:54:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3962]

朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった


【討論】朝鮮総連と日本[桜R1-8-17] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YHfnlbjij1Y


パネリスト:
 荒木和博(特定失踪者問題調査会代表・拓殖大学海外事情研究所教授)
 加藤健(アジア調査機構代表)
 篠原常一郎(ジャーナリスト・元日本共産党国会議員秘書)
 西岡力(「救う会」全国協議会会長・モラロジー研究所歴史研究室室長)
 松原仁(衆議院議員)
 三浦小太郎(評論家)
 山田文明(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会名誉代表)
司会:水島総


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/565.html#c5

[近代史3] GHQ とユダヤ金融資本は戦後の日本を共産化しようとして農地改革、人為的インフレ生成、預金封鎖、日本国憲法制定を行った 中川隆
16. 中川隆[-8779] koaQ7Jey 2019年8月17日 23:55:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3963]

朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった


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 荒木和博(特定失踪者問題調査会代表・拓殖大学海外事情研究所教授)
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 松原仁(衆議院議員)
 三浦小太郎(評論家)
 山田文明(北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会名誉代表)
司会:水島総


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/146.html#c16

[近代史3] 朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった

朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった


【討論】朝鮮総連と日本[桜R1-8-17] - YouTube
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 荒木和博(特定失踪者問題調査会代表・拓殖大学海外事情研究所教授)
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 三浦小太郎(評論家)
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司会:水島総


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/577.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 朝鮮関係投稿リンク 中川隆
8. 中川隆[-8778] koaQ7Jey 2019年8月17日 23:58:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3964]
朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/577.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/973.html#c8
[昼休み54] 日本の中枢は既に在日朝鮮人に乗っ取られている 中川隆
35. 中川隆[-8777] koaQ7Jey 2019年8月17日 23:59:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3965]
朝鮮総連と日本共産党は最初は一体だった


【討論】朝鮮総連と日本[桜R1-8-17] - YouTube
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http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/232.html#c35

[政治・選挙・NHK264] 文大統領演説/関係悪化の歯止めに 肝話窮題
1. 中川隆[-8776] koaQ7Jey 2019年8月18日 00:02:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3966]

儒教の国とは価値観が違うから国交断絶するしかないだろ


宮脇淳子 あるのはウソだけのめんどくさい国。韓国の異常さがよくわかる動画 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AE%E3%82%81%E3%82%93%E3%81%A9%E3%81%8F%E3%81%95%E3%81%84%E5%9B%BD

【東京発信・Cool Eyes】第16回 歴史学者・宮脇淳子 朝鮮半島と満州の「なぜ」 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%83%BB%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90%E6%B0%8F%E3%80%80%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6%E3%81%A8%E6%BA%80%E5%B7%9E%E3%81%AE%E3%80%8C%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%8D

じっくり学ぼう!日韓近現代史【CGS 宮脇淳子】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%98%E3%81%A3%E3%81%8F%E3%82%8A%E5%AD%A6%E3%81%BC%E3%81%86%EF%BC%81%E6%97%A5%E9%9F%93%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%90CGS+%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90%E3%80%91

宮脇淳子 朝鮮を語る - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%AE%AE%E8%84%87%E6%B7%B3%E5%AD%90+%E6%9C%9D%E9%AE%AE

韓流ドラマはSF・ファンタジーの世界 ~ 朝鮮史の真実【CGS宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=z3UjCOXvFDQ

なぜ今、日韓近現代史なのか?~昔も今も韓国は韓国【CGS 宮脇淳子】
https://www.youtube.com/watch?v=qwyDpOJh1ig

さくらじ#50 大人気!宮脇淳子講座、韓国に挑む!?
http://www.youtube.com/watch?v=XpRj8TW1bo8
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/579.html#c1

[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
95. 中川隆[-8778] koaQ7Jey 2019年8月18日 00:47:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3964]
SA装置の取り付け GRFのある部屋 2019年 08月 16日
https://tannoy.exblog.jp/30730147/


サウンドアクセラレーター(SA)の実験は、なかなか興味深いことを教えてくれました。事の発端は、夜香さんの家を訪れたことです。JBLのオリンパスが生き返りました。何やら、逆起電力をアンプに戻さない装置だそうです。アルニコのヴィンテージSPに大変効果があるそうです。一緒に行かれたJBLのパラゴンを使われている横浜のMさんも、LE15、LE14、375、075の4ウェイを使われていcatbossさんも大変効果があったそうです。


横浜のMさんのお宅でTroubadour80に取り付けている方法を見て、これならば、家でも比較的簡単にできると思いました。Troubadour80+TW3だと、8個いるのですが、ユニコーンの場合は、DDDユニットだけですから二個ですみます。経済的なので、実験は気楽にできるだろうと思って始めました。

f0108399_21554606.jpg

フェライト磁石を使った外磁型のSPの場合は、上の写真の様に、上のプレートのヨークと、フェライトマグネットを挟むように付いているプレートを電気的に導通しなければなりません。フェライト磁石は絶縁体ですから、上下のプレート間には導通がありません。内磁型のアルニコ磁石の場合は、磁石を覆っているカバーがあり、比較的簡単に取り付けることができます。

そして、この磁石と中のヴォイスコイル間に発生する逆起電力を吸収してアンプに返さない装置が、このSA装置です。特にNF(ネガティーブ・フィードバック)型のアンプ、ほとんどですが、の場合は、SPの逆起電力が、NF回路を通じて、アンプの特性も変えますから、逆起電力は音を変える大きな要素となります。


石田さんが、語られたように、部屋の音圧がそのまま、SPをマイクとして検知するのです。そのため、置かれている部屋の形状や、置いてある場所によりそのフィードバックの量が大きく変わります。


負帰還に伴う大きな問題は、アンプが駆動する相手がスピーカーだということにあります。スピーカーはLCRの要素があり、また電気機械系なので部屋の音圧により起電力が発生し、その成分が負帰還回路を通して入力側に戻りアンプに影響を与えてしまうことです。


これらのことから、スピーカーの置かれる部屋の特性や設置の仕方などを含め、大きなループが形成され結果的にそれぞれが干渉しあうことになります。


家のSPはいつも語っているように、SPを置く場所を注意して一番部屋の影響の少ない場所を選んで置いています。また、左右のSPの場所や間隔も、1mm以下の微妙な調整をして置いてあります。結果的に、その場所が一番、SPが楽に鳴る場所、すなわち、一番逆起電力の発生が小さい場所に置かれているのです。


そして、無指向性のSPである、German PhysiksのSPは、その置く場所の設定が一番大事で、ポイントに入ると、音場が現れるのです。そのポイントから1mmでも外れると、音のバランスは狂い、無色だった音が、ある特定の色が付いたようになります。その時は、ステレオの二つのSPが、お互いを補う場所ではなく、お互いを打ち消す場所なので、反発して逆起電力が増大するのです。


家のSPで当初、SAの効果がほとんどなかったのは、最初から逆起電力の影響が一番少ない場所に置いてあったからです。家では、コンサートホールの音場を出すために、左右のSPの位置をぴったりと合わせているからです。


逆にいえば、ホーン型でそのホーンを通じて部屋の音を集約して、部屋の内圧の影響から一番逆起電力を発生し易くなっており、結果としてSAの効果が大きいのです。ところが、家にあるSPは、ホーン型がほとんどありません。DDDユニット以外のツィーターもほとんどがドーム型ですので、その差がわかりにくいのです。


そして、部屋の壁よりに置かれているSPは、定在波や、相互干渉の影響を受けて、逆起電力の発生が多いといえましょう。家のSPで壁際に置いてあり、なおかつ、ホーン型のSPは、そう!GRFしか有りません。SAの効果が一番発揮されるのは、モニターゴールドのGRFのようです。HYさんも何年か前にされていて、驚かれたそうです。


その意味では、無指向性の、それもベンディングウェーブ方式では、一番逆起電力の影響が少ないSPでした。今一方、T4のDynaudioの13センチのウーファーが効果がありそうですが、フェライトの磁石の外側を使っていますので、プレートが磁石の内側にありますので、プレートとヨークを結線するのが難しくなっています。しかし、夜香さんが苦労されて、うまく結線されたという写真も送られてきましたので、タンノイの次に調整してみましょう。

f0108399_18254736.jpg


SAを取り付けるときに、無意識チタンのコーンに知らないうちに触ってしまい、チタンが少しへこんでしまいました。テープを貼って、直しましたら問題ないのですが、気持ちがへこみました(苦笑)。


そこまでしたSAの取り付けでしたが、普段聞いている、クラシックの演奏には、ほとんど差がないのです。差がないというよりも、バックロードホーンを通じて「味」を出していた、低域のよい意味での雑味をすっきりしてしまったのです。音がすこし寂しくなりました。音場の構成が変わり、隙間ができたような感じになりました。


それで、音のバランスが変わったのは事実ですから、影響があることは事実です。しかし、夜香さんがおしゃるような劇的な変化はないのです。しかし、JBLの差は劇的でした。私も聞いて驚きました。そのような大きな差が、どうしてユニコーンでは出ないのでしょう。理由は二つ考えられます。


@ 元々ポテンシャルがあったJBLのしっかりとしたドライバーがいよいよ実力を発揮してきた。

A DDDドライバーに代表される現代のフェライト磁石のドライバーには伸びしろが無い。


という風に短絡的に考えがちですが、そんなに単純な話ではないようです。


皆さんの聴かれている音楽は、おもにはJPOPSと歌謡曲です。クラシックもジャズもお聴きになりますが、メインはスタジオ録音のいい曲、いい演奏、いい録音を聴かれているのです。私もレコードで一番聴いているのは、歌謡曲です。レコードばかりではなく、CDでもよく聴けるようにしたいと願っています。GRFのある部屋では、最終的にレコードをGRFでかければ、安心した音が鳴ってくれます。


しかし、CDで聞く場合は、メインのトラバドールは録音の音の違いを明確に出しすぎてしまうようです。JBL派の皆さんが聞かれている分野の音楽はもともと楽器やヴォーカルを収録するときは、一本のマイクですから、モノラルでした。それを調整卓で、場所を割り振り、全体のバランスを取るためにあとからデジタルの残響でお化粧します。もちろん、その調整卓で上手くバランスを取ると、素晴らしい音楽になるのは、聴いたとおりなのです。それらを楽しく聞いたらどのように変わるのかと思い、スタジオ録音のCDをいろいろ聞き始めました。


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すると、鮮やかな音がし始めました。この手の録音、ほとんどのCDがそうですが、は音がすっきりとして、見通しが良くなり、楽器のフォルムが良く聞こえてきます。面白いですね。このまま繋いだままで、いろいろなスタジオ録音盤を聞いてみましょう。お盆休みにこられるお客様にも聴いていただきますね。
https://tannoy.exblog.jp/30730147/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/757.html#c95

[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
144. 中川隆[-8777] koaQ7Jey 2019年8月18日 00:49:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3965]

SA装置の取り付け GRFのある部屋 2019年 08月 16日
https://tannoy.exblog.jp/30730147/

サウンドアクセラレーター(SA)の実験は、なかなか興味深いことを教えてくれました。事の発端は、夜香さんの家を訪れたことです。JBLのオリンパスが生き返りました。何やら、逆起電力をアンプに戻さない装置だそうです。アルニコのヴィンテージSPに大変効果があるそうです。一緒に行かれたJBLのパラゴンを使われている横浜のMさんも、LE15、LE14、375、075の4ウェイを使われていcatbossさんも大変効果があったそうです。

横浜のMさんのお宅でTroubadour80に取り付けている方法を見て、これならば、家でも比較的簡単にできると思いました。Troubadour80+TW3だと、8個いるのですが、ユニコーンの場合は、DDDユニットだけですから二個ですみます。経済的なので、実験は気楽にできるだろうと思って始めました。

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フェライト磁石を使った外磁型のSPの場合は、上の写真の様に、上のプレートのヨークと、フェライトマグネットを挟むように付いているプレートを電気的に導通しなければなりません。フェライト磁石は絶縁体ですから、上下のプレート間には導通がありません。内磁型のアルニコ磁石の場合は、磁石を覆っているカバーがあり、比較的簡単に取り付けることができます。

そして、この磁石と中のヴォイスコイル間に発生する逆起電力を吸収してアンプに返さない装置が、このSA装置です。特にNF(ネガティーブ・フィードバック)型のアンプ、ほとんどですが、の場合は、SPの逆起電力が、NF回路を通じて、アンプの特性も変えますから、逆起電力は音を変える大きな要素となります。

石田さんが、語られたように、部屋の音圧がそのまま、SPをマイクとして検知するのです。そのため、置かれている部屋の形状や、置いてある場所によりそのフィードバックの量が大きく変わります。

負帰還に伴う大きな問題は、アンプが駆動する相手がスピーカーだということにあります。スピーカーはLCRの要素があり、また電気機械系なので部屋の音圧により起電力が発生し、その成分が負帰還回路を通して入力側に戻りアンプに影響を与えてしまうことです。

これらのことから、スピーカーの置かれる部屋の特性や設置の仕方などを含め、大きなループが形成され結果的にそれぞれが干渉しあうことになります。

家のSPはいつも語っているように、SPを置く場所を注意して一番部屋の影響の少ない場所を選んで置いています。また、左右のSPの場所や間隔も、1mm以下の微妙な調整をして置いてあります。結果的に、その場所が一番、SPが楽に鳴る場所、すなわち、一番逆起電力の発生が小さい場所に置かれているのです。

そして、無指向性のSPである、German PhysiksのSPは、その置く場所の設定が一番大事で、ポイントに入ると、音場が現れるのです。そのポイントから1mmでも外れると、音のバランスは狂い、無色だった音が、ある特定の色が付いたようになります。その時は、ステレオの二つのSPが、お互いを補う場所ではなく、お互いを打ち消す場所なので、反発して逆起電力が増大するのです。

家のSPで当初、SAの効果がほとんどなかったのは、最初から逆起電力の影響が一番少ない場所に置いてあったからです。家では、コンサートホールの音場を出すために、左右のSPの位置をぴったりと合わせているからです。

逆にいえば、ホーン型でそのホーンを通じて部屋の音を集約して、部屋の内圧の影響から一番逆起電力を発生し易くなっており、結果としてSAの効果が大きいのです。ところが、家にあるSPは、ホーン型がほとんどありません。DDDユニット以外のツィーターもほとんどがドーム型ですので、その差がわかりにくいのです。

そして、部屋の壁よりに置かれているSPは、定在波や、相互干渉の影響を受けて、逆起電力の発生が多いといえましょう。家のSPで壁際に置いてあり、なおかつ、ホーン型のSPは、そう!GRFしか有りません。SAの効果が一番発揮されるのは、モニターゴールドのGRFのようです。HYさんも何年か前にされていて、驚かれたそうです。

その意味では、無指向性の、それもベンディングウェーブ方式では、一番逆起電力の影響が少ないSPでした。今一方、T4のDynaudioの13センチのウーファーが効果がありそうですが、フェライトの磁石の外側を使っていますので、プレートが磁石の内側にありますので、プレートとヨークを結線するのが難しくなっています。しかし、夜香さんが苦労されて、うまく結線されたという写真も送られてきましたので、タンノイの次に調整してみましょう。

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SAを取り付けるときに、無意識チタンのコーンに知らないうちに触ってしまい、チタンが少しへこんでしまいました。テープを貼って、直しましたら問題ないのですが、気持ちがへこみました(苦笑)。

そこまでしたSAの取り付けでしたが、普段聞いている、クラシックの演奏には、ほとんど差がないのです。差がないというよりも、バックロードホーンを通じて「味」を出していた、低域のよい意味での雑味をすっきりしてしまったのです。音がすこし寂しくなりました。音場の構成が変わり、隙間ができたような感じになりました。

それで、音のバランスが変わったのは事実ですから、影響があることは事実です。しかし、夜香さんがおしゃるような劇的な変化はないのです。しかし、JBLの差は劇的でした。私も聞いて驚きました。そのような大きな差が、どうしてユニコーンでは出ないのでしょう。理由は二つ考えられます。

@ 元々ポテンシャルがあったJBLのしっかりとしたドライバーがいよいよ実力を発揮してきた。

A DDDドライバーに代表される現代のフェライト磁石のドライバーには伸びしろが無い。

という風に短絡的に考えがちですが、そんなに単純な話ではないようです。

皆さんの聴かれている音楽は、おもにはJPOPSと歌謡曲です。クラシックもジャズもお聴きになりますが、メインはスタジオ録音のいい曲、いい演奏、いい録音を聴かれているのです。私もレコードで一番聴いているのは、歌謡曲です。レコードばかりではなく、CDでもよく聴けるようにしたいと願っています。GRFのある部屋では、最終的にレコードをGRFでかければ、安心した音が鳴ってくれます。

しかし、CDで聞く場合は、メインのトラバドールは録音の音の違いを明確に出しすぎてしまうようです。JBL派の皆さんが聞かれている分野の音楽はもともと楽器やヴォーカルを収録するときは、一本のマイクですから、モノラルでした。それを調整卓で、場所を割り振り、全体のバランスを取るためにあとからデジタルの残響でお化粧します。もちろん、その調整卓で上手くバランスを取ると、素晴らしい音楽になるのは、聴いたとおりなのです。それらを楽しく聞いたらどのように変わるのかと思い、スタジオ録音のCDをいろいろ聞き始めました。


f0108399_13423245.jpg

すると、鮮やかな音がし始めました。この手の録音、ほとんどのCDがそうですが、は音がすっきりとして、見通しが良くなり、楽器のフォルムが良く聞こえてきます。面白いですね。このまま繋いだままで、いろいろなスタジオ録音盤を聞いてみましょう。お盆休みにこられるお客様にも聴いていただきますね。
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▲△▽▼

夏休みです 久しぶりにOさんが GRFのある部屋 2019年 08月 17日
https://tannoy.exblog.jp/30740262/

ご常連のOさんが、前回来られたのは4月のはじめ、まだ桜の花が咲いている頃でした。その後は忙しく、四ヶ月ほど空いてしまいましたがその間は、当方も大きく変わったところもなく、あえてご連絡するほどでもなかったのですが、ここに来て、少しずつ動きが出てきて、時間を見つけて実験を重ねてきました。


最近の実験は、SAシステムでした。ご報告したとおりアルニコタイプのSPには大変効果がありました。その後の、横浜のMさん宅の取り付け工事にも参加させてもらい、取り付け方法も学んできました。当初は大山さんのT4に応用したのですが、Dynaudioの13センチのウーファーの磁石が特殊な形状なのと、ツイーター側がキャビネットにピッタリと埋め込まれているので、付けるには、また穴を開けなければならないので、とりあえず、ユニコーンに付けて実験してみることになりました。

ユニコーンは、シングルスピーカーですし、表に出ている部分で対応が出来るからです。それでもいろいろ紆余曲折はあったのですが、最終的には、銀のリード線を、木製の洗濯ばさみで、ポールに取り付けるという方法を考えました。

音の差ですが、やはり変わります。すっきりして、音場が拡がります。ただ、その音がOLYMPUSやParagonで聴いた様な方向ではなく、幾分クールになる傾向です。何度も取り外したり付けたりして、比較して見ました。私の感覚ではスタジオ録音の音源には、とても効果があり見通しは良くなります。ユニコーンの場合は、ピストン運動をしている、バックロードが掛かっているエリアが変わるようです。ベンディングウェーブの部分には、余り影響がないのかもしれません。

それでも、スタジオでのマルチモノ録音には良い感じに変化します。クラシックの様に残響を時間差でとらえている音源は、反対に音場がすっきりしすぎるようです。やはりアルニコのホーン型のユニットに使うとより効果的なのかもしれません。

今ひとつ気がついたのは、無指向性のSPを使うときに一番大事なのは、その部屋で一番楽に音が出てくるポイントを探すことです。ぴたりと合ったときは、その部屋のなかで、一番部屋の影響が少ないポイントではないかと思いました。言い換えるといちばん逆起電力の影響を受けないポイントなのです。それらのSAの取り付け時の段階による音の変化を、Oさんにも一つ一つ聴いていただきました。

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今ひとつの実験を、大きな部屋で行っています。そちらの音を聴いていただくために、クーラーを変えてからは、寒いぐらいの部屋で、その変化を聴いていただきました。それは、SAの実験からヒントをいただいた、銀のケーブルの音です。昔、イルンゴ製の銀ケーブルを持っていて、純銀製の太いケーブルで、曲げることも出来ずに大変な思いをした頃を思い出しました。あのケーブルは、いわゆる銀線のイメージの華やかな音はせず、普通の銅線を安定させたような音でした。

German PhysiksのSPケーブルは、2x6mm²の太い銀コーティングの銅線です。末端は、WBTのバナナ端子が付いています。この端子は銅です。そこの部分を、銀コーティング製の端子に交換してみました。比較用に中国製の銀メッキ端子も用意しました。その銀メッキ製の端子は、イメージ通りの高音部が華やかに鳴る音でしたが、半田あげもしないで直に繋いだ銀コーティング製の端子の方は、音が変化しないで自然な音になりました。

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ケーブルの長さにもより音に若干の変化はありますが、Troubadour80とGerman Physiksのネットワーク箱との間に使ってみました。1.6mぐらいのものと2.4mぐらいの長さの違いも比べました。こちらは微妙な変化があり、長い方が音が安定します。ここが面白いところですね。取り付け部のネジの大きさとか工夫がされています。音が柔らかいのは以前の半田揚げをしていた端子と比べると、直に端子にケーブルと接触して伝わるからでしょう。

銀コーティング製だからと単純に音が良くなるわけではありません。バナナだけではなくY端子の方も実験してみます。右の赤白のバンドが付いているのは、WBTの純銀端子です。こちらは、左の国産の銀コーティング製Y端子の六倍もしましたので、中古で購入して実験してみましたが。両端を変えなければなりません。片方の到着を待っています。

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SAの実験が、銀製端子の実験に化けましたが、発想は、SAシステムの普及品と高級品の差と、自動車用の銀のケーブルからヒントをいただきました。そういえば近藤さんが主宰していたAudioNoteの製品は大変高価ですが、使われている配線はトランスまで純銀製でしたね。音の自然さが採用された理由なのでしょうか?

金と違い、空気中の硫黄酸化物と反応して黒くなる銀は、本来は金と同じぐらいの産出量なのに、価格差がどんどん拡大しています。いつか銀価格も暴騰するような気もしますが、SP端子ぐらいならその影響も少なくて済みますね(爆)。面白い夏休みになりました。

Commentedby TANNOY-GRF at 2019-08-17 09:49

我が家の装置では銀製の端子が良い結果を出しましたが、気をつけなければ行けないのは、ヴィンテージのSPは、SP端子の材質も含めて音作りをしています。そこを直接半田付けしたり、このような違う材質の端子に交換しても、本来の持ち味も消えてしまいます。

タンノイには、SA装置の方が効果があるような気もします。専門家の手も借りて、実験していきます。そちらも楽しみです。
https://tannoy.exblog.jp/30740262/



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html#c144

[リバイバル3] 1W(ワット)アンプで 38pウーハーは無理 中川隆
10. 中川隆[-8776] koaQ7Jey 2019年8月18日 00:57:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3966]

WE300B は日本でもっとも評価が高い出力管で、球の個性を出すのに有利なシングル動作が主流。

MJのイベントでも読者アンプ発表会では「300Bシングル」四機種、WE300Bドライブ211シングルが一機種と偏っていた。

メーカー製で出色のモデルは AIR TIGHT ATM-300 だと推薦されました。


一方、今は伝説になっている名器 LUXMAN MB-300
あまりにもナロー過ぎて著しく違和感がある音。

ファーストオーナーは 50時間使って箱にずっと閉まっていたそうだ。セカンドオーナーは 8年間で 100時間。これほんとうよ。
これほどナローレンジなアンプは聴いた事がなく、S9800 の 38cmウーファーを心臓に例えると、半分しか動いていない感じ。しかし四年前に復刻されているのが不思議。

数人に LUXMAN MB-300 の感想を伺いました

「ギョッとするような音ですよ」
「えっ?こんな音なの?と思うような音ですよ」
「80万?いらない、いらない」

スピード感が全く無くROCKやPOPSには不向き。
スピーカーを選ぶアンプで Sonus の小型や AXIOM80 ならあるいは?


某オーディオショップの百戦錬磨の店長さんに MB-300 について尋ねると。

「えっ!?こんな音なの?っていう音ですよ、ナローでカマボコだし。
これだったら AIRTIGHT ATM-300 の方が何十倍も良いですよ」

って言ってらっしゃいまして、う〜んそんなはずは・・・・とその人を疑っていましたが事実でした(-_-;)


AIR TIGHT については


AIR TIGHT 300B シングル ステレオ アンプ _ オーディオ販売店の評価は最高なんだけど…
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/134.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/968.html#c10

[リバイバル3] 1W(ワット)アンプで 38pウーハーは無理 中川隆
11. 中川隆[-8775] koaQ7Jey 2019年8月18日 00:59:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3967]
AIR TIGHT ATM-300がやって来た!2017年02月03日
https://community.phileweb.com/mypage/entry/1502/20170203/54637/

自分のものだったらいいのにな(笑)

知人がパワーアンプを更新して使ってないのでよかったら使ってみる?ということで借りてきました。

憧れの300Bシングル。
今あるSV-2A3とどのように違うか楽しみです。

出力管はWEのヴィンテージも復刻版もあるよーって言われましたが、扱うのが怖いのでJJを借りてきました。

早速接続して音出し。

いいですねー(^o^)
2A3はどちらかと言えば繊細な方だと思うのですが、300Bは全域にわたってエネルギッシュ。

線が細くならず、ギュッと描いてくれるような感じです。
もちろん繊細さも併せ持っていますし。出てくる音の品位も高いです。

私がアンプに求めていた理想と言える音。まぁ高いし当然か。
しかし、目覚めは大変悪いですね。相当の低血圧です、この人。
温まってきたら本領発揮で本当にスバラシイ音を奏でてくれます。


でも…

やっぱりパワーが足りない

一番気になっていたのがパワー。

2A3で3.5Wほど。
300Bで 8Wほどとなっていますが、2A3では「そこそこ」の音量でクリップしてしまいます。

普段の聴取音量で無難なジャンルから聴き始めたのですが、POPSやJAZZ、クラシックも中くらいの編成までは大丈夫でしたが私のメインジャンルである大編成のオケ物はダメ。ティンパニやグランカッサの一発やオルガンのペダルトーンなどにあえなくクリップしてしまいました…。

出力倍以上になったしスピーカーの能率も一応 91dBあるから大丈夫かなと思っていたのですが、もっともっと能率のいいスピーカーじゃないといけないんですね。

それとこのアンプ16Ω出しになっていますので(我が家のスピーカーは公称4Ω)インピーダンスマッチングの上でも問題があるのだと思います。

4Ω出しにしたらマシになるんでしょうか。

とにかく残念です。
上手くいったらなんとか資金を工面して手に入れようと思っていたのですが、我が家の環境では300Bシングルは導入は無理なようです。
パラシングルとかだったら大丈夫なのかなぁ。


と、浮気してたらM-5000Rが機嫌損ねて故障
突然右Chから音が出なくなり、今ドック入り中です…

私の私感ですが M-5000RとBEETHOVEN君は相性がかなり悪いみたいで。
ちょうど耳の感度が悪い帯域辺りがBEETHOVEN君の音色と相まってとても線が細くなって聴こえにくいのです。
このままでは楽しめないので、どうするか考え中。

そんな時に壊れないでよ。
フクザツな心境です。


レス一覧

けえぱぱさん、こんばんは。
ちょっと危険な状態のようなので、取り急ぎ連絡させていたいだきます。

真空管アンプの16Ω端子に4Ωの負荷を接続して大音量を出すのは、即刻止めるべきです。

出力管の許容損失をオーバーして使い物にならなくなったり、アンプ内部の抵抗が焼けたりする可能性が高いです。

さらに、出力が派手にクリップすると、SPのTWを飛ばしてしまうこともあります。

OPTの付いている真空管アンプは、SPのインピーダンスが多少変動する程度であれば対応できるように作ってあるはずですが、1/4の負荷でまともに動作するものはないと思います。

byED at2017-02-03 21:20


EDさん、こんばんは。レスありがとうございます。

そうみたいですね。
色々調べると危ないということでしたので、わかった後はすぐにやめました。

幸い今のところアンプにもスピーカーにもダメージはないと思います。

スピーカーは自分の物なのでまだしも、アンプは人の物ですから、何かあったら一大事です。

ご忠告ありがとうございました。

byけえぱぱ at2017-02-03 23:16


けえぱぱさん、こんばんは。
SPやアンプが無事で、良かったですね。

ところで、アンプのパワーについてですが、部屋がかなり広そうなので300Bシングルの8Wでは苦しいですね。

私も、SPの能率は91dB、部屋は広めの10畳で、真空管アンプを使っています。

MAX100dB程度の音圧でオケの50Hz以下をしっかり再生するには、KT88-PPの60Wでやっとというところです。

300Bがお気に入りならPPの30W以上、できればKT120-PPクラスのパワーアンプが合いそうな気がします。

もちろん、アンプの音は最大出力だけではないので、参考程度にしてください。

近くでしたら、色々なパワーアンプをお持ちしてお試しできるのですが、ちょっと遠いですね。

byED at2017-02-04 23:26


EDさん、こんにちは。

部屋は15畳です。屋根裏で天井が斜めになっているので容積的には14畳くらいでしょうか。

真空管の音はとても魅力的ですね。
以前、トライオードのTRX-P6Lという6L6(KT88に換装していました)のPPのアンプを使用していましたが、定位が悪く音も濁り気味だったのです。販売店の社長に言わせると「それはトライオードだからでしょう」ということでした。あんたの店で買ったんだよ、言いかけましたが(笑)

2A3のシングルを聴いて直熱管のシングルはいいなぁと感じました。
理想はやはり300Bの音ですね。
これで大出力が出ればいいのですが、今は予算もないし、しばらくは何かでお茶を濁そうと思っています。

マイルーム見せていただきましたがすごいですね。
私は文系なのでキットくらいならなんとかいけますが、自作は無理です。

少し遠いですが、何かの機会に一度お邪魔したいものです。

byけえぱぱ at2017-02-05 14:38

https://community.phileweb.com/mypage/entry/1502/20170203/54637/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/968.html#c11

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
28. 中川隆[-8774] koaQ7Jey 2019年8月18日 01:11:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3968]
キット屋倶楽部 キット屋コラム「私のオーディオ人生」第37回門外不出!二管流アンプ武蔵誕生
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-037


大変大げさな表題ですが今まで沢山の真空管アンプを作ってきましたがこのアンプは最後のフィナーレを飾る相応しいアンプになります。

 今回は私が名付けた二刀流または二管流アンプ「武蔵アンプ」は門外不出の秘伝アンプでこのコラムを読んで頂ける方だけの本邦初公開の真空管アンプになる。

 製作に当たり今後のことを考えてもしお金が必要なことに出くわしたらそれなりの価格で売れるのではと思い妥協せずに作ることにしました、

このアンプがヤフオクに出品されることがありましたら是非入札に参加してくださいね、「Y下が金銭的に困っているから入札してあげよう」と云う気持ちがあるだけで感謝です。


二管流アンプ「武蔵」

WE−300BとVT52刻印の二刀流アンプ


 WE−300Bは巷では最高に人気がありますがVT52は300Bの陰に隠れて評価はイマイチですがWEのVT52刻印は上手く設計して良いパーツを使えば300B以上の音と云われています。


  音でVT52とよく似た球は同じウェスタンの300A、205Dがあります。

この3種類の球こそウェスタンサウンドの象徴と云えるかも知れません。

近年VT52はヨーロッパ、中国、ロシアでは生産されていませんからこの球を使った既成アンプはほとんど見かけないのと自作マニアでも300Bは製作してもVT52は作ったこともなくVT52のサウンドはほとんどの方は聴いていないと思います。

  今回は300BとVT52との直接対決できるようにそのように設計を行いました。球の聴き比べであれば同一回路と同一のパーツを使わないとまったくと云って意味も持ちません。アンプや回路、パーツが違えばおのずと音は違ってくる。またスピーカーとの相性もありますからこちらのが良いとは一概にも云えません。

  確かにメーカーの違う同等管の球の聴き比べならその違いはありますが真空管アンプは球よりもトランスの変化の方のが大きいですから球の聴き比べに固守するよりトランスの聴き比べをした方のが遥かにその差はでますから是非挑戦してください。
  今まで沢山のアンプを作ってきましたが良いパーツは価格に比例して良い音がします。上級のマニアならどれが良いパーツか熟知しています。今回は長年の経験から良い音のするパーツを選別して使用しました、

  今回の製作に関して真空管アンプの音はトランスが最大のキーパーソンを握っています。出力管の交換は同等管の場合大きな変化はありませんがトランスを交換しますと劇的な変化が認められますが最近は良いトランスがあっても価格が高く手に入れるのは至難の業かも、

  長い間自作マニアをやってこられた方はこの部分に非常に拘りを持っていますから良い音の出るアンプを作るのを知っています。面白い事にトランスにもお国柄がありこの部分の比較も面白いのではと思います。

  WE−300BとVT52の特性を比較しますと共通点が多く見られますから回路を変更すれば簡単に差し替えは可能で300BもVT52もソケットは同じですがプレート電圧、プレート電流、ヒーター電圧、ヒーター電流などの違いがありますから一つ間違えると大切な出力管を駄目にしますから一般的にはお薦めできない上級者向けになります。

  今回は製作途中でVT52と300Bも切り換えて聴けるように改造を施しましたがこれが大変な作業でした。完成後にVT52の音と300Bの音の違いがどのように現れるのか未体験ですから私も含めて皆さんも興味津々ではないでしょうか、
 

ウェスタンのVT52の謎


  ウェスタンのVT52は1940年代の初めごろ軍用機の通信管として開発されたらしくこの球に関しての特性表がありませんが規格の値を守れば超寿命の球の一つです。またヒーター電圧が6,3Vと7,0Vの2種類の規格がありますがどちらも正しいと思われます。

  一説によると航空機で飛行している時は7,0V、地上で待機している時は6,3Vで使われていたと云われていますがヒーター電圧が6,3Vと7,0Vでは必ず音は違うはずです、この部分での比較も考えて報告したいと思います。

VT52は1940年代の初めの頃軍用機の通信システムに搭載されていた、太平洋戦争中に米軍が日本を爆撃する時B−29が無線送信していたのなら好きになれない球ですが多分ヨーロッパ戦線で使用したのでは・・・・・

  自作マニアで特に音に拘りを持っているオーディオの達人なら300BよりVT52のが音は良いといいます。300A、205Dに良く似た音色はVT52と云われこの球も今後は手の届かない価格になると思いますから安く手に入るようであれば購入すべきですが回路図も読めないまともに組み立ても出来ない方は購入しても使いこなせないがコレクションとして持っていればいずれ高価になりますから買っても損はしない、

  近いうちにこの球も手の届かない高価格になるのは間違いありません、測定器をお持ちの方で自作に自信のある中級以上の方はお薦めします。またVT52のウェスタン球のプリントタイプもよく見かけますがどうも偽物臭い感じがあります。

  特にウェスタン球のトップマイカはおむすび型ですからすぐに見分けることが出来ます。VT52の刻印タイプは音が良いと云われますから刻印タイプを求めれば間違いありません。同じVT52もシルバニアや他メーカーでも出ていますがやはり本家のVT52刻印を聴きますと他メーカーのVT52は残念ながら音もさることながら価値観や魅力に欠けるがヴィンテージ管をヤフオクなどで購入される場合は特に注意しないと後で痛い目に合いますから気を付けてください。
 

真空管アンプのルックスとワイヤリング


 自作の真空管アンプこそ芸術であるこれが私のコンセプトです。今回は最後のアンプですから特にパーツと外観には拘りを持って作りました、シャーシーは1.6tの鋼板にステンレスの鏡面パネルを乗せました、真空管アンプのキーパーソンは出力トランスですからこの部分には特に拘る必要があります。ましてや使用球がWE製VT52ですから本来はウェスタンを使いますが今回はドイツのシングルトランスを使いましたこのトランスもほとんど市場に出てこない大変レアなトランスでメーカー名はENGELでテレフンケン、ノイマン、シーメンスに納入している実績のあるトランスメーカーです。 

  今回私も初めて使いますがドイツのサウンドはゲルマン民族らしい真面目で几帳面な音が特徴ですがその点米国のトランスはアメリカ人らしい豪快さがあり多少雑なところを持ち合わせている。

また日本のトランスはビールで云うならコクとキレが薄い、やはりビールもトランスもドイツに限ります。

これはトランスに使用してあるコアと巻き線技術の差だと思う、

その点ヨーロッパ系のトランスは質の良い鉄鉱石が採掘されていますから鉄鉱石の違いかも、WEのトランスは音が良いと云われていますがこのトランスもひょっとしたらヨーロッパのコア材を使っているのではと思いますが詳細は不明です。 トランスもお国柄がありどれが最高とは云えませんが自分がどんな音が好みなのか色々試して聴くのも面白い、

使用パーツと回路構成


 今回は最後の自作アンプですから自分なりに拘ったパーツを採用しました、


出力トランス ドイツENGEL社シングル10W

チョークコイル ヒューレットパッカード社の5H250mmH

抵抗 リケンオーディオ抵抗

コンデンサー カップリング スプラグ ブラックビューティー

カソードパスコン スプラグ 銀タンタルコンデンサー

ヒーター整流 東芝ショットキーバリアダイオード

スイッチ類 日本開閉器 トグルスイッチ

ボリューム アーレンブラッドレー

真空管 初段はテレフンケンダイヤマーク ECC−802S

ドライバー管 NEC 12BH7A

出力管 WE−VT52刻印

整流管 WE−274B刻印


 回路構成は簡単なCR結合3段増幅でNFBは5dBの低帰還になります。NFBなしでもテストしましたが無しの場合は低域が多少ボン付く傾向がありますからここは多少でもNFBを掛ける必要があります。

アンプ内部はラグ板を一斉使わず自分で設計を施したパターン化した自作基板を製作しました、本来はラグ板にCR類を並べてオール手配線で製作しますが「武蔵アンプは」プリント基板がメインでラグ板は一斉使っていません。

難易度はオール手配線を遥かにしのぎます。写真を見てわかると思いますが内部引き回し配線は3D方式の立体配線です。内部レイアウトと基板が出来れば回路を頭に入れれば後は鼻歌交じりでの組み立てです。製作日数は約1か月を要しました、

 アンプの出力は3.5W×3.5Wです。

もう少しIpを上げればPOWERが取れますが球の寿命を考えて低めに抑えて使用、

ヒーター電圧VT52は7V、1.18A,300Bは5V,1.2Aの直流点火にしました、

交流点火も考えたのですが7Vの交流点火ではハムが取れません。

また300Bは私の作ったSV−91Bタイプに交流点火がありますからあえて交流点火にはしませんでした、直流点火にしたWE−300Bは本来の300Bの音とは違いますが今回のメインはVT52が主役です。遊び心で300Bも使えるようにしただけと金銭的に困った時にWE−300Bを予備球として付属してやればそれなりの価格で売れるのではないか、

 一度ヤフオクに出品すると果たしてどれくらいの価格で落札されるのか興味はあります。だいぶ前になりますが私の製作したLUXのSQ−38のパネルを使ったプリアンプをヤフオクに出品したところ本家のSQ−38より高い価格で落札された記憶があります、最近のヤフオクの真空管アンプは人気のある球を使用した自作アンプの場合予想以上の価格で落札されています。また自作の真空管アンプは外観だけでなく内部配線や使用パーツに拘ったアンプでないと評価が低い傾向になる。

武蔵アンプの外観と内部の写真を沢山載せましたが自作マニアには参考にならないかも知れませんがその点をご了承下さい。

武蔵のリアパネル、リアパネルは真鍮をあしらいすべて彫刻での刻印


VT52とWE−300Bの切り換えモードで操作ミスを防ぐためロック式の
トグルスイッチを採用、これで不用意にスイッチの切り換えが出来なくなっている。

内部配線及び部品レイアウト、左上のボードはショットキーバリアダイオードを
採用した直流点火ボードで下側はB電圧整流ボード、右側は信号回路ボード

https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-037


少しピンボケですがWE−300Bを実装

ウェスタンの刻印VT52を実装

ウェスタンのVT52とWE300Bの比較VT52は一回り小さい

幻の整流管WE−274B刻印

試聴用システムの紹介


 今回はアナログでの試聴にしました、

アナログ

フォノモーター ヤマハGT−1000
アーム GRACE G−565F

カートリッジ オルトフォン SL−15E

昇圧トランス ウェスタンエレクトリック WE−618B
AWA オーストラリア

ブリアンプ マランツ#7

スピーカー ヴァイタボックス 30cmフルレンジ

試聴用アナログ キースジャレット ケルンコンサート、バッハ、無伴奏チェロの1番

比較アンプ PP5/400シングルアンプ

キースジャレット ケルンコンサート


 すべてのセッティングが終了して早速VT52シングルアンプの電源を立ち上げた、調整中にハムバランサーは最少の位置に設定してありますからスピーカーからはほとんどハムは聞えません。

最初にキースジャレットのケルンコンサートの試聴から開始、出てきた音に愕然、ピアノの粒立ち奥行感を伴ったホールトーンの響きとスピーカーの存在感が消える素晴らしい空気感のある音、音色もこれがウェスタンを強調するようなサウンドには参った!これは使ってあるVT52だけでなくトランスがドイツ製だからアメリカ的な明るいサウンドを抑えて伸びやかに音楽を聞かせてくれる。

 このような音になるのは勿論昇圧トランスのWE−618B、テレフンケンECC−802S高信頼管とWE−274B刻印が寄与しているのは間違いない、次に試聴したマイスキーの無伴奏チェロも奥行感を伴った小ホールで聴く雰囲気たっぷりのあるサウンドになった、
 

WE−VT52は凄い!


 ウェスタンマニアがウェスタンは最高と云っていますがまんざら嘘ではない、

このVT52に対抗できるのは205Dか300Aしかないのでは、

それだけ素晴らしい球なのに情報量が少ないのか音を聴いたことがないのかわからないのか一度体感してみるとその良さがわかるのではないだろうか、

この球こそコクとキレに音楽性をプラスしたサウンドには偽りはない、VT52恐るべき!

VT52とWE−300Bの対決


 「知らぬが仏」と云うことわざがあります。これをオーディオに当てはめると「聴かぬが仏」つまり良いアンプを聴いてしまうと悪いアンプは聴けなくなる。自分のアンプに満足しているのならば聴かない方のが自分の為と思う、

 最初に書きましたように同等管なら差し替えて比較できますが球の種類が違う場合同じ回路同じパーツを使ってこそ球の比較が出来るのですが残念ながらアンプも違えば使ってある出力トランス、回路が別の場合は比較としての意味は持ちません。やはりここは同一パーツと同じ回路を使わない限り正確な答えにはなりません。

 WE−300Bは巷では最高峰の真空管として君臨していますがではVT52と比較したらどんな結果になるのか、今回は私個人の比較試聴とこのアンプを大阪の今田氏宅に持ち込んで聴いて頂いた、

  早速VT52を接続しての試聴です。スピーカーはRCAのLS12フルレンジを使用、このスピーカーは30cmタイプなのに高域が良く伸びています。出てきた音は空気感を伴った懐の深いサウンド、長時間聴いても疲れにくくトップクラスの音だ、RCAはアルテック、JBLとは異なる大変渋いサウンドで私が愛用しているヴァイタボックスとは少し表現力が違いますがジャズもボーカルもOKだ、

  VT52を堪能した後300Bに交換して10分後に同じトラックからの試聴開始、

出てきた音は300Bマニアには申し訳ないがVT52と比較しますと300Bは先ほどの深みとコクが薄くなり少し派手やかな明るいサウンドが特徴で音の渋さが後退してしまう、

それに対してVT52は絵画で例えるなら水彩画を見るようなイメージとしっとり感とシルクの肌触りがありオールド的な雰囲気を持ち合わせている。

WE−300Bも決して悪くない球だがVT52を聴いてしまうと興味が薄れてしまう、


  VT52を聴かずに300Bだけで聴いていますとまったく不満がなくさすが300Bは最高の球だと頷けます。これこそ「知らぬが仏」になります。

  ウェスタンフリークは300Bには関心を示さず205Dや300Aしか興味湧か湧かないのが理解できる。

同聴して頂いた今田氏も300Bにはガッカリ、二回と300Bを聴こうとしなかったのが印象に残こった、

今田氏も大変ショックを受けオーディオ仲間に今回のVT52の良さを話したら仲間曰く300Bでは勝ち目がなく対抗できる球は205Dしかないと云っていた、


PP5/400とVT52武蔵との対決


PP5/400シングルアンプは今田氏に譲ったアンプで回路、パーツ類はほぼ同じものを使っていますがトランスだけは台湾のジェームスです。

ジェームスは台湾のメーカーでトランスのコアは日本製のオリエントHi-Bコアを使ったトランスで大変知名度があり自作マニアが良く使うトランスです。

  早速比較の為に接続を変えて試聴開始、出てきた音は甲高なサウンドであまりにもVT52とは違いなさ過ぎて私もショックだった、英国の名出力管がこんなはずではない、

  違うのはトランスと整流管だけですからトランスを変えれば違った意味での良さが出るはずだがこのアンプをVT52に改造するのは簡単ですが肝心の出力トランスがありませんからこのアンプはこれで良しにすべきと思う、

このPP5/400も以前有名なメーカーの845PPと鳴き比べした時、圧倒的な表現力の差が出た良いアンプであったがVT52と比較すると残念ながらその差歴然だ、

  PP5/400は自分が作ったアンプですからどちらが良くても不満はないがメーカー製のアンプや自作アンプとの鳴き比べはご法度であるのとモラルの問題ですから今後は門外不出にして道場破り、他流試合はやらないことにした、

私が製作した名出力管PP5/400とVT52武蔵アンプ


6.3Vと7.0Vのヒーター電圧の比較


 VT52のヒーター電圧の違いを比較しました、6.3Vでは多少音の潤い感とハリがなくなり7.0Vにしますと「これがウェスタンだ」と云えるサウンドになりました、今後は変更せずに7.0Vで使い切りますが今は武蔵を聴くのがもったいなくて外野席でお休み中です。


グッドアイデア


 これからは試聴に来られるマニアにはWE−300Bと5U4GBの組み合わせで聴かそう、帰った後こっそりとVT52,274B刻印に戻して自分だけで良いサウンドを楽しもう、マニアには申し訳ないが極上の組み合わせを聴かせるのがもったいない、こんなこと書くとあいつは性格が悪すぎる!汚ねぇ男だ、」性格の悪さを通り越して悪趣味なマニアだ、あんな性格だから病気も逃げて元気なはずだ!都合が悪くなると認知症になる。本当にあいつはタチが悪い、どおりでいつまでも長生きできるはず!何時までもこのように言われたい、


あとがき


 VT52の実力を堪能した、世の中知らないだけでもっと良い球はあるはずです。お金をかけずに良いアンプを作りたいのだがもう自作アンプは卒業してこれからは製作の楽なキットアンプに挑戦しょう、自作アンプは部品集めから始まり穴加工して製作するのだがこの作業は大変でこれからは失敗のないキットアンプのが遥かに楽しく作れます。もう一度初心に帰ってキットアンプの製作の醍醐味を味わいたい、
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-037

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c28

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
29. 中川隆[-8773] koaQ7Jey 2019年8月18日 01:17:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3969]

300B より遥かに音が良い VT-52

真空管アンプ「カトレア」 VT-52 「薔薇 V」 
http://www.cattlea.jp/product/?no=61


パワーは小さいけど音質では個人的に 300B や 50 よりも音が良いと思います 

この名球を一度は聞いて下さい 新しい1ページが始まります 

これまでのノウハウをすべて取り入れた電源回路やこだわり配線でチャンネルセパレーションも良いです、アウトトランスがルンダー製に成ります 交流点火で動作させ存在感有るフラットな音質です。

交流点火が可能でバージョンアップしました。

価 格 348,000円

サイズ W385*D250*H190

回路構成 カソホロドライブCR結合

入力感度 1,3V

出 力 2.5W+2.5W

使用真空管 6SL7 VT−52 GZ−34

シャーシー カリン材

B電源回路 高圧2回路別電源

NFB回路 ナシ
http://www.cattlea.jp/product/?no=61


VT-52 については

一番音が良いパワーアンプは VT-52 シングルアンプ?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/440.html


http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c29

[政治・選挙・NHK264] <極秘文書で判明!海軍は事件の7日前に把握していた!>NHKスペシャル「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」   赤かぶ
9. 中川隆[-8772] koaQ7Jey 2019年8月18日 08:27:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3970]

金の亡者だった昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由


ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。

2・26事件は為替相場を不当に操作して儲けるために起こさせたものだった.
2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した.

もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。

青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。

 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。
天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。

なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 

それは昭和天皇が、立憲君主ではなく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。

大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。

2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
 

2・26事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。

事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。

 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。
皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。

つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6863442c2632a11902486caa91a0cb55

昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。

そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。


 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。

これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


本来であれば、忘れ去られてしかるべき歴史的事件が、今もなお、
「昭和史最大の謎」として話題になるところは、2・26事件のす
ごさでしょう。

1年半前に我々がとりあげた鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日
」は8・15クーデター未遂事件は、天皇側が仕組んだ偽造クーデ
ターと考えています。そしておそらく2・26事件も。

また、8・15事件のシナリオを書いて、細かな演出をしたのは塚
本誠憲兵中佐だと紹介しています。

驚くことに、8・15クーデター事件の背後で暗躍していた塚本誠
中佐は、2・26事件のときも背後にいました。

塚本は当時、上海で憲兵をしていましたが、昭和「11年11月に(大阪
の留守宅で)三男が生まれた」とありますから、昭和11年2月ごろ日
本にいたようです。おそらく上海をベースにしながら、偽クーデターが起きるように日本にちょくちょく帰って煽って歩いていたのではないかと思われる。

記述のない前日まで日本で暗躍して、当日はアリバイ作りのために上海にいたのではないかと思われます。鬼塚さんは2・26も8・15も、天皇側が仕組んだ偽クーデターと考える。 またシナリオと演出は塚本誠憲兵中佐だとバーミガニの記述を紹介。

「塚本は、1934年に陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに
、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。彼はそれから1935年の間
じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その1つは(略)
永田軍務局長の殺人であった。」
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220305.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220216.htm




02. 中川隆 2013年3月01日 19:29:08 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著 松崎元 訳

2・26事件

忍び寄る大詰め


 皇位周辺の我欲旺盛な古参忠臣たちにとって、身の危険を心配するもっともな理由があった。というのは、裕仁が実際に彼らが暗殺の標的であるかのように言い、暗殺を準備中の者たちに行動を起こす動機を与えていたからだった。暗黙のうちに繰り広げられてきた北進派との三年間にわたる内紛は、もはや充分長引いており、いよいよ決着の時を迎えていた。裕仁とその一族は、公然たる叛乱のみが、国民を恥入らせ、その不平、不満を根こそぎ払しょくさせるに足る大義名分となりえると見ていた。同様に、北進派の荒木、真崎の両将は、同期の古つわものたちと共に、兵卒層の叛乱が充分に大規模で長続きしうるものならば、大衆の支持を獲得でき、裕仁に影響を強いうると考えていた。

 来る対決のために選ばれた暗殺実行者たちは、前年に士官学校事件を起こした若手国体原理派の反ファシスト尉官たちであった。彼らが騒動の中で献身的穏健派と見なされたのは、名目的に北進派と連携していたものの、彼ら自身は対外戦略なぞにはとんと関心はなく、国内の改造と公明さをのみ欲していたからであった。

 これらの国体原理派の若手らは、その決起を1935年11月とする可能性を探るため、酒場や場末の待合で、会合を持ち始めていた。その会合の首領は、二人の元陸軍の同僚、村中と磯部で、この二人がこの三月に、1931年の三月事件への永田の関わりを喚起させるための扇動小冊子を書いていた。この小冊子は、7月に真崎大将を追放する闘いの最中、閑院参謀総長に宛てられたものだったが、それは閑院を怒らせてしまった。この二人の小冊子作者を陸軍から除隊させる許可を天皇より得るため、7月30日、閑院親王は林陸相を葉山の御用邸に送った。現役の兵士を予備役に移籍させることは、陸軍内の問題分子への処罰としては特異な扱いではなかったが、陸軍から完全に除隊させてしまうのはいかにも異例だった。彼らの同僚たちは、除隊で新民間人となった憤懣やる方ないこの二名に大いに同情していた。

 裕仁の弟、秩父親王は、士官学校の同期生である四人を通じて、国体原理派の計画を個人的によく承知していた。彼はこの四人を、いつも自邸に呼んでは歓談していた。またこの後、この四人に銃殺刑の処罰が決まった際、自分たちは秩父親王から勇気付けられたのだと、空しい訴えを行うこととなった。その内の一人は、次のように記した悲嘆の一文を家族に残した。「秩父親王は私にいった。 『クーデタの時、私は君が仲間の先頭に立ち、兵営から行進して出てゆくところを見送らせてほしい』 」。他の一人は、刑務所で書いた一連の詩を残した。この詩は、憲兵隊が押収し、秩父親王の馬番に手渡された。秩父親王は、それに目を通し、それをその若者の家族に返した。その際、秩父親王妃がその内の数編を自ら選び、それを美しい台紙に張り、額にまで入れて返還したため、後に残された両親は、それを身に余る名誉と受け止めていた。

 天皇の二人の叔父、東久邇親王と朝霞親王は、その若い策謀者たちとしばしば語り会い、彼らの憤懣に同情を表した。しかし、彼らに最大の激励を与えた人物は、北進派に手先を浸透させようとの宮廷からの命を受けていた、マレーの虎こと、山下少将だった。山下は、よくその若い策謀者たちと酒場で会い、酒を飲み交わした。そこで山下は彼らに、一般参謀諜報部長をしている三番手烏の岡村少将と、陸軍省報道対策班の根元大佐――永田が殺害された時、剣士相沢に祝福を与えた――を紹介した。山下少将やその同僚は、そうして得た彼らの観察結果をすべて、閑院参謀総長に報告した。

 国体原理派のその若者たちは、天皇の側近から受けた注目に歓喜していたが、用心すべきことは知っていた。彼らは、友人たちから、利用されないようにと警告され、「貴様らは、まるで左翼の衣を着た右翼だな」 と冗談まぎれに言われていた。そうして彼らは、北進派の指導者、元陸相の自宅に代表を遣った。荒木は笑顔で彼らを迎えて激励したが、自分の言質をあたえることのないよう、慎重に対応した。彼らは山下少将――南進派のスパイ――のもとに戻り、「周到な準備なくしては行動しないよう」 との助言をもらった。彼らは、決起の日を、欧米の外交武官が祝福休暇に入っている1935年のクリスマスの日に暫定的に設定した。(36)

 12月20日、彼らは、北進派の第二の指導者、真崎のもとに遣いを送った。彼は遣いに、叛乱を考えるのはおろかなことで、それを、すでに打撃を受け、常時警察の監視下にあると解っているはずの自分のところに相談にくるとは、二重におろなかことだと言い渡した。彼らはさらに、三番目の北進派の将官# 1に会い、いっそう明瞭な助言をもらった。 「天も、陛下も、そして大地も、すべてが君らに反対している。統制派(南進派)の連中は、生煮えの準備で決起する君らを、大掃除のいい機会だとして、手ぐすね引いて待ち受けているのだ」(37)。

 # 1 この将官とは、荒木陸相の下で副大臣であった、柳川平助中将である。彼は、天皇には穏健北進派として知られ、顔の広い鈴木大佐の親しい友人であった。この時、彼は、台湾軍司令官として、厳格な寺内に代わり、台湾に赴任するところであった。後の1937年、彼は、日本軍の南京制圧を可能にした杭州湾上陸作戦を立案して、天皇の目から、北進派の汚名を取り除くこととなる。

 南進派部隊からの潜入者、山下少将は、12月22日に、東京北部の高級割烹で若手理想主義者たちと会うことに同意していた。しかし彼は、その約束を守らず、その夕べを通して、彼が現れるのを空しく待たされている間に、その謀議者らは、クリスマスの日の蜂起の計画は無理だということに決めてしまった。そしてその帰路途上、その内の一グループは、ある警察署に立ち寄り、自主的に自分たちの計画について、全面的に報告することとなった。(38)

 まだ泳がされていた謀議者らは、クリスマスの前夜、北進派の理論家で、強靭な急進的著述家、北一輝の自宅に立ち寄り、慰労にと、酒を少々ふるまわれることとなった。北は、1922年に裕仁の教化機関である皇居内の大学寮への参加を断り、天皇の特務集団から最初に離脱していた。憲兵により数年間にわたって鍛えられた経験から、北はそうした若手に、辛抱強く、時期を待つようにと諭した。そして彼は、前首相の斎藤が内大臣に任命されたことに抗議する小規模な集会に参加してはどうかと、彼らに持ちかけた。北は彼らに、斎藤は1934年の帝国人絹疑獄にからんで賄賂を受け取っていることを確信させた。12月30日、その抗議集会は予定通りに開催され、これまた予期した通り、警察によって解散させられた(39)。その際、若手将校の幾人かが拘留されたが、彼らの計画を満たさせるかのように、数日後に釈放された。

 その年の暮れ、大兄で内大臣秘書の牧野侯爵は、自分の日記に、謀議者の最新の叛乱計画についての警察報告を書き込んでいる。それは例えば、歩兵第一連隊第一中隊は内務大臣公邸を掌握、歩兵第三連隊第三中隊は首相を殺害、歩兵第一連隊第二中隊は斎藤内大臣を捕縛、等々(40)。幾つかの詳細を除き、それは1934年の士官学校事件計画と事実上同じで、それはまた、その通りに、その二ヶ月後に実行されたものであった。かくして、その運命的新年を迎えるまでに、宮中の侍従たちは、暗記しているほどに、その計画を知り抜いていた。

 もし、思いこみの強い宮廷人の誰かが、陸軍将兵の意識の程度について疑いを抱いていたとしても、一月のある日、日本の歩兵の全連隊がその任務中、非任務中の将校ともども、満州国境を越えてロシアに入り、赤軍に投降してしまい、その疑念が現実のものとなってしまうとは予期していなかったろう。そうした将校たちは、国家政策を北進へと変えさせようと、事件をおこそうと望んでいた(41)。その将兵たちは、ただ、その職務執行にあたる満州国の拷問と殺人の地獄から脱け出そうと欲していた。かって日本軍の兵士の誰も、外国軍のもとへと脱走することなどなかったが、いまや、政権の誰もが、絶望のみが彼らをそうした行動に駆ったのだと覚らされることとなった。

もの言う大神(42)

 まさに発生しそうな出鱈目な叛乱に備えて、裕仁のしたたかな叔父、東久邇親王は、過去に裕仁を歯に衣を着せずに批判した貴族を土着宗教を使って脅し、口を封じた。1935年11月22日、東久邇親王は、宗教取り込み詐欺師で腹話術師の、小原たつお、別名、小原竜海〔りゅうかい〕を、皇居南端の明治天皇旧御所にある、当時未使用の一室に呼んだ。そこで東久邇は竜海に、皇室の式服一式や、裕仁の手袋や菊の紋章入りの煙草ケースなどを、彼の好意の印として与えた。竜海はこれらの品々に、口をきく観音像――少なくとも、彼はそう見せることができた――を加え、東京郊外椎名の入船に御堂を設けてそこに祀り、神託所としての事業にした。

 東久邇の紹介によって、竜海は、元宮廷女官長の島津治子――1933年に赤化事件と妾問題に絡んだために皇居を追われた――の後援を獲得した。しかし島津夫人はただ、精神を高揚させ身震いのする彼の交霊術を気に入っていただけだった。彼女の親しい友人も同様であり、また、彼女は理想的な人脈をもっていた。皇后良子の母のいとこ、そして、裕仁の母の貞明皇太后の親友として、彼女は、貴族階級の高齢世代で、―国政に高度な倫理的関わりをもつ、ほぼあらゆる親近的集まりと、強固な霊魂的関係を保っていた。伯爵、伯爵夫人に加えて、彼女の知人たちには、退役陸海軍大将、在郷軍人会の指導者、反機関説論者などなどがいた。そのうちの最も懇意な友人が、神道神主の秦真次で、彼は真崎を追放する争い中の南進派に不利な資料を提供した元東京憲兵隊々長であった。

 1月半ばまでに、島津夫人は、竜海の観音像の腹話術的神託を聞き、霊魂の顕現に参加するため、彼女の友人たちをたくさん連れてきていた。竜海のきらびやかな御堂の外には、本物の刑事が立ち、夜を通し、参加者に関しての記録をつけていた。後の警察報告では、老いた海軍大将山本英輔が、その「集まり」 の常連として、目立っていたとしている。彼は、国体原理派の若手叛乱者が政権を握ろうとした際の首相として、第一の候補者にあがった者の一人だった。他の際立った常連参加者たちは、東京の上流階級の夫人たちだった。その誰もが、そうすることで、数ヶ月先の身の安全が得られると説かれていた。

 降霊会では、貴族階級の一同は、竜海がさずける東久邇親王についての堕落と哲学の合成物を聞かされた。そしてゴシップ談が一同を楽しませ、また、おじけさせもした。1936年12月に療養所に収容された後の警察記録に残された元宮廷女官長の島津治子の話では、参加者の前に生者死者双方の霊魂が現われ、あらゆるたぐいの皇室を冒涜するような話を、次のように告げたという。

 難波大助 (1923年に裕仁の暗殺に失敗して処刑) の死霊が秩父親王 (裕仁の一番目の弟)の生霊と共に現れ、秩父の霊が、難波は自分の婚約者の処女を奪ったと言った# 2。

 高松親王 (裕仁の二番目の弟) が霊となって現れ、彼の実母は、大正天皇にはべった女官の一人の、何某様だ・・・・

 皇太子時代の裕仁仕え、切腹した侍従(乃木大将)が現われ、その霊は、 「秩父親王が正式の皇太子に着くべきだと主張したが退けられた・・・」と、親王自身の服装を着けて言った。

 大正天皇の侍従の霊が現われ、自分は貞明皇太后(裕仁の母)の愛人だった、と言った・・・

 九条家の人たち(貞明皇太后の兄弟と義理の妹)が質問をした。

 秩父親王の生霊が現われ、礼子(伊藤礼子で学習院での赤問題に絡んでいた)との情事関係を話した。

 あらゆる鏡には、表と裏の両面がある。我々の鏡の表面には、我々が大神を崇拝すれば我々は守護されると公に刻まれている。だがその裏では我々は、皇族の役目は、最終的に、天皇維新への道を清め照らし出すことと信じている。裏面はそうした意味をはらみ、表面がいつの日か裏面にお目見えできると平民に説いている。信仰心の篤い人でも、裏面に達するのは序々にである。そのさらに鏡の裏の先には、ひまろぎ等といったさらなる光明があって全き天啓をもたらしている。最も意識の高い人のみがそこに到達しえ、それはめったにあることではない・・・

 7月17日に、この世のあらゆる霊魂の集いがある。五光が初めてお集まりになる・・・ 明治天皇の御霊は、貞明皇太后の用件にさかれ、今回は参加されない# 3。この集いで、国体明徴と維新――神の治世と神の世――への道が開示される。

 五光がなす使命は、摂政を決め、年少の皇太子(現天皇、明仁)のために補佐を選ぶことである。霊魂の世では、皇太子は明治天皇の霊魂を引き継がれ、同時に、偉大なご自身でもおられる。これは我々に明示されてきていることだ。従って、秩父親王は高松親王に道をゆずって引退し、高松親王が補佐と摂政になられる。現天皇は、15年後(1951年)に亡くなる・・・ 現天皇は前世からの罪をあがなう因縁があり、国体明徴の道と維新の実現はできない。彼は早い逝去が避けられない。我々は、大神の維新と国体明徴をなしとげるために、開明をなしとげ、我が国土の大神に至高をささげねばならない。これがいわゆる天の岩戸開きであり、我々がそのための鍵を持っている・・・五光は十、二十、四十の光となる・・・我々は信奉を続け、広げなければならない。


 # 2 兄弟を混同しているようだ。皇后良子の兄、朝融は、1924年、婚約を破棄した。それは、その婚約者が難波の近親者と関係をもっていたからであった。(43)

 # 3 貞明皇太后は、息子の裕仁に対する小陰謀事件に巻き込まれた。五光の正体は不明である。ある教育ある日本人の推測では、4人は数世紀昔に天皇のために死んだ忠臣であり、一人は最近犠牲となった、一番手烏の永田であろうということだ。

 島津夫人が警察で思い出したことは、かくもとりとめのないことだった。しかし、たとえ話が猥雑でつかみどころがなくとも、その話を反論もなく聞いた者には、大逆罪を確信させるに充分なものであった。また悪いことに、その神秘主義は、裕仁を排除することを確かに欲し、裕仁の統治の間の多くの殺人の罪を裕仁にきせているように、いっそう見せてもいた。


最後の扇動

 1936年1月27日、東久邇親王は、1933年の神兵隊事件に連座した疑いで投獄されてきたおよそ500名の屈強な剣士が釈放された時、新たな脅迫の手段に出た。東久邇に忠実な使い走り、安田予備役中佐の監視下で、仮釈放中の彼らが拠点を設立し、叛乱部隊――もし、来る叛乱に何らかの不発が生じた場合、その代役に使える「選りすぐりの部隊」 ――として何時でも動ける用意を整えていた(44)。東久邇の手下の安田は、その動向の情報を使いを通じて東久邇の屋敷の門衛# 4に逐次伝えた。実際には、この予備部隊が役立つことはなかったが、彼らは、この予備部隊となることで、刑の執行からは逃れることができた。

 # 4 東久邇の守衛班長は清浦末雄大尉だった。彼は、1924年の長州閥排除の際、裕仁が閑職から引き立てて政府を率いた、清浦元首相の八男。(45)

 1936年1月28日、永田の殺害者で、東久邇の部下の相沢少尉の軍法会議の裁判手続きが開始された。この手続きは、第一師団の兵営で、感情的に最も高ぶった雰囲気の中で進められた。第一師団は、東京に拠点をおく、二つの師団のひとつで、反ファシストの国体原理派の若手将校がもっとも結集していた師団であった。またそれは、過去の陰謀計画の中で、どの師団より多数の叛乱軍を提供することが期待されていた師団でもあった。軍法会議の相沢被告は、1926年から1931年まで、その師団で大尉と少佐を勤め、その師団の将兵は、その12月に、満州の守備隊任務に直ちに移駐されることが通告されたばかりであった。第一師団はそれまで、戦時下の作戦行動を除き、海外に派遣されたことはなかった。

 暗殺者相沢を担当した弁護人は、満井佐吉中佐だった。彼は、二年前、三井財閥の幹部宅に押し入り、また、数ヶ月の間、北進派の兵卒の中で、南進派のスパイ、山下少将と緊密に共同して働いた。1937年には、満井は、1936年の叛乱に参加した罪で、三年間の執行猶予の判決を受ける。さらに1942年の戦時下、彼は国会議員に選出される。

 相沢の公判では、彼は満員の法廷で活躍した。 「もし、この裁判に誤りがあれば、それは深刻な結果をもたらしましょう。・・・もし、この法廷が、相沢が従った精神の理解を誤れば、第二、あるいは、第三の相沢すらが現れてくるでしょう。・・・圧倒的多数の下士官は、陸軍が影響力を失っているとしてその一掃を決断しており、国民も、陸軍が真に天皇の軍隊であることを証明するよう、心底から望んでいます」、彼は演説した。

 暗殺犯相沢は、被告席に着かされ、同情的な反対尋問を受けた。彼は、東久邇親王と朝霞親王と会ったことについては、ひと言も漏らさなかった。しかし、永田を殺すためではなく、警告するための最初の上京について証言し、「私は車中では眠れず、翌朝、あたかも空から聞こえてくるような声で、早すぎる行動はするな、と言うのを聞きました。・・・後になってから、私は、永田があらゆる悪の根源だと知りました。もし、彼が辞任しようとしないのなら、するべきことは、ただ一つでした。私は、自分を鬼にし、一刀で彼の命を終わらせると決心しました。・・・統帥権により、教育総監が軍事参議院の名誉職に転任させられた時、私には、皇軍を私兵化したかに感じました。」

 大兄で内大臣秘書の木戸は、相沢裁判の進路を閉ざし、その行方に懸念をもたらした。しかし、2月2日、入念な調査の後、彼は、すべてに問題はないと決断した。彼は、弁護人の満井中佐を、満州征服を計画した石原莞爾大佐や、後にアメリカの小型砲艦パナイ号沈没させた火付け役の橋本欣五郎大佐らと比べてみた。三人は皆、国内改造の必要を感じており、国体原理派に同調していた。「しかし、いざという時においては、彼らは外部者と統一戦線を形成するだろう」、と木戸は結んでいる。(47)

 相沢裁判が進行する一方、国会が解散し、国は1932年以来の二度目の総選挙戦に入った。陸軍の北進派は、伝統的な武士道精神の綱領を掲げて〔機関説排除を訴えた〕政友会を押した。反政友会、裕仁の統制派そして清軍運動は、現職の岡田首相を押した。彼らは、ファシストに傾き、「議会政治かファシズムか」とのスローガンのもとで運動した。人々は、そのスローガンに動かされ、205議席のうち、174議席を政友会に与え、地滑り的勝利をもたらした(48)〔訳注〕。それは、裕仁の公式の表明が支持され、彼が密かにもてあそぶファシスト構想が拒絶されたことは明らかであった。

 〔訳注〕 この選挙結果は誤り。1936年2月の総選挙結果は、政友会が敗北し、他方、解散前3議席であった無産政党が、社会大衆党をはじめ21議席に増やした。これは、軍部と戦争政策への有権者の批判と読みとれる。ここに述べられているように政友会が大勝したのは1932年の選挙の結果で、著者は両選挙結果を混同している。

土壇場の勇気

 一月中に、反目する国体原理派の若手将校たちは、秩父親王、川島陸相、北進派の真崎大将のもとを訪問した。三人はいずれも友好的ではあったが、支持も邪魔もしないといった、どっちつかずの態度であった。たとえば、真崎大将は、彼らに金を貸してもよいと言いながら、「何が生じても、誰から提供されたかは言わないように」 とつけ加えた。

 1月28日夕刻、謀略者たちは、同調的な中隊長、山口一太郎大尉――裕仁の侍従武官長本庄大将の娘婿――と会った。2月10日に彼らは再び、山口大尉と彼の勤務する第一師団、第一連隊の参謀室で会った。そこで初めて、彼らは叛乱の計画の具体的な作戦行動について話し合った。その翌日、北進派の理論家、北一輝の自宅に代表を送り、彼の弟子で従事である西田力に会った。彼らと同じく、西田も秩父親王の友人であり同窓生であった。1921年に秩父親王のために書かれた一輝の急進的な論文を最初に謄写版刷りにして知識人に配ったのは西田であった。今、彼は謀反者らを歓迎し、彼らのために大衆的な支持を集めることを約束した。

 2月15日、消極的な叛乱兵士たちは、宮廷から送り込まれている監視役、山下少将と再び会った。その翌朝、若手将校らは、自連隊の兵器庫の武器を得る手順を確認した。また翌々日には、安藤輝三大尉――山下少将に最も親しい陰謀首謀者――は、仲間の会合において、 「私はもうあえて決起する気はない」# 5と率直に吐露して、陰謀計画に冷水をあびせた。

 # 5 1932年、犬養首相暗殺の後、山下の命令で、安藤は、東京大学の学生で血盟団と牧野内大臣の間の連絡係であった四元義隆を自分の住居に数日間かくまった。
 安藤が一同を白けさせた後、他の陰謀者たちはなんとか、 「次週の半ば」 を決行日と決めた。そしてその翌日の2月19日、陰謀者間のさらなる会合で、東海道を下った豊橋の陸軍学校の同魂同志が計画に加わり、老公西園寺親王を暗殺することを引き受けたと知らされて元気付けられた。

 2月21日、一年前に扇動小冊子を書いて軍を追われた磯部と村中は、侍従武官長の娘婿の山口と再び会って、再確認をとった。第一連隊の週番司令として、山口は、自分の連隊には、叛乱に参加しない者でも、それを制圧する命令は誰も受け取らないことを確約した。その夜、週番司令の山口は、北の理論の謄写刷版発行者の西田――北進論の第二の理論家――を自宅に招き、師の北に、決起の日は2月26日に暫定的に決まったことを伝えるように頼んだ。(49)

 決起日4日前の翌朝、若手将校たちは集まり、互いに緊迫していることを認め、そして、東京を占拠しえた時、壁に掲示し、ラジオで放送するつもりの趣意書の最初の文案を書いた後、散会した。(50)

 決起日3日前の2月23日、若手将校たちは、彼らの兵器庫から2,000発分の弾薬を運び出し、また、新たな大尉や中尉を数名、仲間に迎えた。西園寺親王を暗殺する計画は、政治に長けた叛乱の支持者から異論が出た。そこで同日、本庄の娘婿の山口は、失墜した北進派の真崎大将に相談をもちかけた。すると真崎は山口に、情報屋の亀川哲也――政友会の一部# 6から叛乱への資金援助を得る仲介役をしてきていた――に会うように助言した。(51)

 # 6 ことに、日立財閥の創設者、久原房乃助。彼は、株式と広範な資本財の保有に基ずくアメリカ式資本主義の熱心な主唱者であった。

 決起日2日前の2月24日、情報屋の亀川は、相沢の裁判を担当する民間人弁護士を訪ねて蜂起計画の全てを明かし、追放された真崎大将を次期首相に推薦するよう西園寺親王を説得するよう、協力を依頼した。その弁護士は、名を鵜沢聰明という西園寺の友人で、出来るだけのことをし、西園寺には暗殺されようとしていると警告するとすると約束した# 7。(52) この警告は、西園寺の執事で国会議員の津雲国利と、西園寺の以前の秘書である事業家中川小十郎をはじめとする、入り組んだ経路を経て、興津に届けられた。(53)

 # 7 一年後、法務大臣のおひざ元の秘密軍法会議において、憲兵隊は鵜沢弁護人を叛乱の共犯者としてその告訴を試みた。しかし、鵜沢がタイミングよく西園寺に警告を与えていたことが、彼を投獄から救った。というのは、数回の審判の後、西園寺に感付かれることなく鵜沢の裁判を続けることは困難なため、彼に対する裁判は取り下げられたからであった。(54)

 西園寺はその警告の信頼性を疑うことなく、即座に対応した。そして、興津と東京の宮中との間に敷かれている、スパイ秘書の原田という 「確実な連絡回路」を作動させることにした。西園寺は、使用人たちに、あたかも何も知らないよう、また、あたかも老いた主人が何事もなく在宅しているかのように、自然にふるまって電話に出るように指示した。その上で自分は、椅子かごに乗って、密かに、自宅の裏山に移動した。そうしてその人目につかない道で公用車に乗り移り、警護の厳重な静岡県知事公邸へと運び去らせた。(55)

 一方、同じ決起日二日前、野中大尉――秩父親王と親しい叛乱将校の一人――は、趣意書案を北進派理論家の北一輝宅へと届け、それに手を加えてくれるよう依頼した。北は、その軍人たちが書いた無骨な文章を、火炎のような論理と難解な漢文調の文体に改め、古典風名文に作り替えた――これが数日後、天皇裕仁に読み上げられることとなる――。この手直しの後、野中大尉は、北の手下の西田と北の仕事部屋にこもり、その文案を清書し、皇位に提出するための巻物に仕上げた。(56)
 その夕刻、本庄の娘婿の山口大尉は、第一連隊の指令室で謀反者らと会い、叛乱計画の詳細をつめ、陸軍大臣公邸、陸軍省、そして一般参謀本部の警護地図を謄写版印刷したものを200部与えた。

 決起日前日の朝、謀反者らは、かねてからの陰謀の黒幕である前内大臣の牧野が、二時間ほど隔たった湯河原の田舎旅館に隠れているところが発見されたと伝える彼らの一妻からの手紙を受け取り、活気づけられた。この情報に基づき、一人の若手将校が、同志が東京で決起するのと同時に襲撃する準備を整えるため、湯河原へと車で送り出された。(57)

 同じ朝、追放された北進派の真崎大将は、相沢の裁判の弁護側証人として呼び出されていた。彼は、相沢に代わって、宮中の要職にあった者が天皇の許可なく執務中に知り得たことを暴露することは出来ないことを理由に、問われた質問に答えることを拒否した。そして法廷では、真崎は多くをしゃべらずに50分を過ごし、新聞記者の質問にも、その返答を拒否した。その日の午後、相沢の軍人弁護人、満井佐吉中佐は最終弁論を述べたが、能弁ではあったものの、事実はには言及せず、ただ心証を述べただけであった。(58)

 かくして、裁判が開かれていた第一連隊の兵営では、相沢は絞首台に送られるのを黙って受入れ、真崎は沈黙のうちに退役し、そして結局、南進派が勝利するだろうことは、誰の眼にも明白となっていた。第一連隊の若手将校たちは、信念上の望みの余り、自分たちと同世代の天皇が、現実を充分に知っていないのだろうと感じていた。だからこそ、山下少将を通じ、あるいは、侍従武官長本庄の娘婿である山口大尉を通じ、あるいは、秩父親王を通じて、彼らは、裕仁には真実を示し得るだろうと考えていたのだった。(59)

ついに流血(60)

 高貴な人々の勇気付けから三ヶ月以上が過ぎた時、謀反者らは遂に、面目躍如に行動を開始した。その夜を通し、一団をなしていた19人の尉官は、第一および第三連隊の同朋将官たちに号令を発した。秩父親王は1922年から1935年8月まで第三連隊に属しており、彼の名は彼らによって〔同志として〕自由に使われたが、新たな参加者は、いずれも少尉である二名を獲得しえたのみだった。それに、謀反者たちが同僚たちから引き出しえたものも、良くても、邪魔をしない誓い程度だった。

 2月26日、午前2時、皇居からおよそ20区画離れた麻布の第一、第三連隊の兵営に公然と起床ラッパが鳴りわたった。それからの一時間に、まだ眠気に捕らわれていた兵士たちは、陰謀者からの長広舌と、反陰謀者からの警告の双方に見舞われた。それでもなお、兵士たちは高揚した気持ちをもって行動を起こし、午前3時30分頃には、1359名の兵士と91名の下士官たちが、計画に関わってきた2名の大尉、8名の中尉、11名の少尉に従っていた。午前4時には、装備を着けた叛乱兵らは出発を始めた。彼らは、およそ8,500名兵士を兵営に、まだいびきをかいている将校多数を近くの上官宿舎に残していた。彼らはまた、侍従長本庄の娘婿の山口大尉を、邪魔をしないという誓約を守らせるために残していた。

 二月の朝の厳しい寒さの中、兵営の外では、皇居の聖域内の兵営から、精鋭近衛師団第三歩兵連隊第七中隊が彼らに合流した。この合流部隊は、他の部隊と違って、自分たちが叛乱を起こしているとは知らなかった。秩父親王の友人で彼らの指揮官である中橋基明中尉は彼らに、明治神宮での神事のために行進すると説明していた。13台のトラックが先遣隊を運ぶために待機していた。三人の見習い医師が、負傷者が出た場合に備えて同行していた。

 東京は一面、雪に覆われ、まだ雪が降っていた。雪を踏みしめる兵士たちの靴音が、まだ暗く人けのない街路に響いていた。彼らの兵営から皇居までは、1マイル半〔2.4km〕もなかった。午前4時30分までに、堀に囲まれた皇居に近い東京の官庁街の神経中枢のすべてに、偵察兵の列による無言の警戒線が張られた。そこには、国会、陸軍省、幕僚本部、警視庁、国土地理院、内務省、外務省、そして、海軍省と軍令部が位置していた。さらにその警戒線内には、閑院親王、高松親王、内大臣、正副陸軍大臣、正副外務大臣、内務大臣、そして首相の公邸があった。


 午前5時までには、叛乱軍は、主要な目的地を占拠し終わっていた。前線司令部を設置する予定の山王ホテルでは、宿泊客――2,3名の西洋人が含まれていた――が起こされた。それらの客は、ホテルの交換台に配置された人員により、丁重に東京の他のホテルや旅館に新たな部屋がとられた。陸軍大臣公邸では、叛乱兵士は自分たちの存在を川島陸相に通告したが、重い風邪で寝ている必要があるとの要望があり、彼らは、面会のために大臣が起床できる午前7時まで、そのままにしておいた。警視庁では、夜勤にあたっていた巡査たちに彼らが加わって、外部の歩哨が二倍となった。

 参謀本部では、灯りがこうこうとともされ、今や作戦課長の石原莞爾大佐――満州作戦の戦略家――が、遅ればせに届いた決起の報を受け取り、部下と会議を持っている最中だった。午前5時頃、石原大佐は自室から飛び出してきて、外で任務についていた叛乱軍の歩哨一人を撃ち、自分の公用車で自らがすべきことを成しに出て行った。しかし、時はすでに遅しであった。(61)

 暗殺部隊は、 「君側の奸」〔天皇の傍に使える悪人〕 を殺すために、5派に分かれてすでに出発していた。午前5時5分、その第一派が襲撃を開始した。近衛師団の中橋基明中尉に率いられた百名の兵士は、もじゃもじゃの髭を蓄えた日本金融界の “サンタクロース” かつ、秀でた異端派経済専門家である大蔵大臣高橋是清、81歳、の自宅を取り囲んだ。屋外で守衛に当たっていた警官を負傷させた後、中橋中尉は住居内に押し入って老蔵相の寝室に駆け込み、布団をはぎとって 「天誅」と叫んだ。高橋が眼をさました時、中橋は彼に三発発射し、さらに周到に、刀で二度、突き刺した。彼は即死した。

 同じころ、200名の兵士と一人の中尉、三人の少尉からなる第二派の殺人部隊は、新たな内大臣で元首相の斎藤実大将宅を包囲していた。物腰柔らかく、好人物のその老貴族は、前夜遅くまで、アメリカ大使館でグリュー大使夫妻とジャネット・マクドナルド=ネルソン・エディーの映画、 「Naughty Marietta」 を鑑賞し、ぐっすりと寝込んでいた。 (62)

 若い尉官たちが駆け込んでくる音を聞き、斎藤子爵夫人は夫の脇からとび起き、彼らの眼前で寝室のドアを閉じ、 「ちょっとお待ち下さい」 と叫んだ。
 尉官たちがドアを蹴破ると、斎藤大将は起きて、夫人の後ろに寝巻姿で立っていた。三人の尉官はほどんど同時に彼を撃った。夫人は夫の体に被さってしっかりとしがみつき、泣き伏した。尉官たちは、彼女を引き離すことができないため、その体の下に武器を差し込み、ヒステリックにさらに銃弾を撃ち込んだ。後の裁判で、彼らはその老人の喉を切ろうとしたが、婦人が邪魔でそれが果たせなかった、と証言している。 (63)

 全部で47発の銃弾が斎藤大将の体に撃ちこまれ、夫人は両腕と肩に傷を負った。暗殺者らは、引きあげる際に玄関の前で静止し、天皇陛下に 「万歳」を三唱して立ち去った。

 暗殺部隊の第三派は、山下少将の手下、安藤輝三に指揮され、侍従長の鈴木貫太郎大将宅を襲撃した。彼らは、門前での守衛警官との小競り合で手間取り、10分ほど遅れた。鈴木侍従長もその前夜、グリュー夫妻といっしょだった。安藤は、彼が夫人といっしょに寝ているところを発見し、彼と国策について議論してさらに時間をくった。侍従長はなかなかの口上手で、安藤大尉と10分ほどの遣り取りを交わした。

 だが、公式記録によると、午前5時10分、ついに安藤は、拳銃でその議論を断ち切り、その68歳の侍従長に三発を発射した。彼は、脇に居た夫人に、 「まだ脈がおありなので、彼に刀でとどめを与えたい」 と言った。

 武士道を心得ていた夫人は、 「どうしても必要というなら、私がそれを致します」 と答えた。 「恥じ入った」 安藤は、そこでその部屋を後にしたという。

 その後二日間、叛乱軍の同志が雪の中を警戒している間、安藤は近くの料亭 「後楽」 で時間をつぶしていた。そして、叛乱が不成功に終わった時、彼は自殺を試みたが失敗した。明らかに、彼はその狡猾な老被害者と取引をしていた。侍従長鈴木は、四日後、危篤状態を脱して生き延び、後に、戦時中最後の首相となった。

 鈴木は、後に好んで話したように、 「みっともない」 死にそこないを演じた。彼に発射された弾丸の一発は、彼の急所に残っていたらしく、彼を手術した外科医は、「金玉から鉛玉」 を摘出した自分の処置の手際の良さを、偉業めいた歌にして書き残した。

 侍従長の鈴木が苦痛と格闘している時、300名の兵隊と五人の尉官からなる第四派の暗殺部隊は、三人目の南進派海軍大将、岡田啓介首相を襲った。彼の公邸は、フランク・ロイド・ライトの設計になる帝国ホテルを模した奇怪な建築物で、四年前、犬養首相がそこで、霞ヶ浦の飛行士によって撃たれていた。先の悲劇や数々の警告話にも拘わらず、わずか4名の警官が警護についているのみだった。襲撃部隊はその四人を射殺し、五人の尉官は公邸の迷路のような廊下や各部屋を手分けして捜索し始めた。

 73歳の首相は、前夜を名高い芸者の妾と過ごした後で、自分を守ろうという気概はもうなえていた。そして、 「万事休す。何をさわぎ立てる」 と、悲惨げに言った。

 だが、彼の女中や秘書官で義弟の松尾伝蔵大佐は、彼を寝床から引っ張り出し、彼の部屋を出て使用人区画へと急ぎ連れて行った。捜索する兵隊の足音が聞こえると、彼らは首相をそこの便所に礼儀もなく押し込め、そして彼に、内側からかんぬきをかけて閉じるようにと言った。そうしておいて松尾大佐は、英雄的な行動に出て付近の中庭に跳び出して「天皇陛下万歳」 と叫んだ。彼は瞬くうちに機関銃弾の雨を浴び、彼の顔はほとんど識別が出来ないほどの様相と化した。

 彼を撃った兵士たちがその遺体を岡田の寝室に運び、吟味した。彼らは写真とその顔を見比べ、女中たちの機転も手伝って、それが岡田首相だと判断した。

 その朝、憲兵隊員が叛乱軍によって占拠された皇居の堀に沿った地域に入りこみ、兵士たちと平穏に接触した。そうして捜査をしているうちに、憲兵隊は、首相公邸の女中から、岡田首相がまだ生きていることをつかんだ。岡田の秘書官の娘婿やその付添いが、首相の身代りとなった松尾の葬儀をするようにと、叛乱軍の警戒線を越えて呼び出された。他方、ようやく落ち着きを取り戻した岡田は、もっと居心地のよい、押し入れの中に移されていた。松尾の会葬者たちには同情が寄せられ、叛乱軍の監視も緩んでいた。

 翌朝、岡田の生き残った秘書官の福田耕は、お棺運搬係として、フロックコートを着た二十人ほどの年配の憲兵隊員を官邸に連れこんだ。空腹で疲れ切った岡田は、持ちこまれたマスクと丸縁眼鏡で変装し、義弟の葬儀の会葬者に紛れこんだ。棺が官邸から運び出される際、憲兵とともに連れてこられた一人の老いた棺運搬係が心臓マヒを装って倒れ、担架で運び出された。そうした混乱にまぎれて、困憊していた岡田首相を車に押し込み、脱出させた。

 東京での暗殺と時を合わせて、近県でも襲撃が行われた。蜂起の夜、兵士と予備役と士官候補生の一団が、老西園寺を暗殺するために興津に結集したが、警察によって解散させられた。一方、前内大臣の牧野は、20歳の孫娘の和子――戦後の首相、吉田茂の子供――とともに、湯河原の温泉旅館に身を潜め、事前の警戒はしていなかった。午前5時40分、夜中に使命を与えられた叛乱兵の一団が、その旅館に到着し、玄関前に機関銃を据え付け、宿の使用人に弾丸の雨をあびせ、牧野を要求した。すぐに牧野の一人の護衛官が現れ、拳銃を撃ちまくった。彼は、襲撃隊々長の河野寿大尉に傷を負わせたが、機関銃弾で穴だらけにされた。掃射された銃弾は、日本の旅館のやわな構造を貫通し、牧野の看護婦と彼の使用人が負傷した。 (64)

 その短い銃撃戦の間、老いた策謀家牧野と孫娘は、他の泊り客や従業員と一緒に、旅館の裏口から抜け出し、裏山に登った。負傷した河野大尉――逮捕された後に死亡――は、その建物に火を付けるように命じた。建物が燃え上がっている間、兵士たちは、斜面を這い登ってゆくのが見える人影に、機関銃を向けていた。

 後に牧野によって語られ、また、牧野の娘婿の後の首相、吉田茂が幾度も繰り返した話によると、牧野が裏山のある地点に達した時、彼の息はあまりに絶えだえで、それ以上先に進もうにもあまりに急こう配だった。彼はそこにしゃがみ込んでしまい、眼下の処刑執行者らを見やっていた。孫娘の和子は、彼の前に立ちふさがり、着物を広げて彼を隠した。二人とも、炎が彼らを照らし出しており、てっきり、もう最後かと思ったという。彼らからは、兵士たちが明るい炎を背景に、きびきびと動いているのが見えたが、そうした兵士からは、暗い山肌に溶け込んだ彼らはほとんど見えなかった。

 機関銃は発射されず、襲撃が始まってから40分間後、山中にあって牧野は無事やりすごしていた。消防隊が消火を始めたころ、若い叛乱軍兵士は機関銃をしまい、やってきた地域駐屯地に引きあげ始めた。

 東京では、叛乱軍部隊は、その当初の目標を果たし、第二の段階に移っていた。午前6時、斎藤内大臣に47発の弾丸を撃ち込んだ血に飢えた部隊の一部が、渡辺錠太郎大将――前年夏、真崎に代わって教育総監の地位についていた――の自邸前でトラックから跳び降りた。そうした彼らを渡辺夫人が玄関先でさえぎり、その出身部隊の名を要求した。彼らは夫人を脇にどけ、渡辺大将が立って彼らがくるのを待ち構えている居間へと走り込んだ。彼が「止めろ」 と命ずる間もなく、彼に最初の弾丸が撃ち込まれ、そして、いっせい射撃を受けて彼は倒れた。一人の少尉が、自分の刀で大将の喉を切り、その襲撃を終わらせた。

ポーカーの手の内

 暴力沙汰は終わった。その朝も昼近く、叛乱部隊は、五大新聞社の建物を占拠し、そのうち、最も保守的な朝日新聞社の印刷を止めさせたが、人を殺すことはもうなかった。事件を目撃した西洋人を驚かせたことは、そうした叛乱劇が、突然に麻痺状態となって叛乱が終幕すると、1,483名# 8の兵士たちは東京中心部の完璧な占拠地帯に、〔それ以上の作戦展開もなく〕取り残されたことだった。

 叛乱軍が日本帝国の中枢部を掌握したそれからの三日間、裕仁は自分の対処に不満な高官全員を相手に、暗黙の権力闘争を繰り広げていた。そして裕仁は自ら、ほとんど独力でそれを闘い、三つの主要な政治抗争に勝利をあげた。すなわち、彼は、叛乱軍が降伏するまで、次期政府のいかなる政策や人事にも譲歩することを拒否した。次に彼は、陸軍が、叛乱軍の鎮圧のみならずその蜂起そのものにも全面的責任があり、その責任をとる場合も、現人神としての裕仁の力に何らの依頼もあってはならない、と釘を刺した。さらに彼は、宮廷高官や皇族に断固とした態度をとり、公然と異論を表す者らには、それを厳しく圧した。

 # 8 1,359名の兵士、91名の下士官、21名の将官、3名の医師見習い、8名の民間人、そして、1名の予備兵。 (65)

 叛乱が鎮圧された時、裕仁の宮廷人たちは、この三日間に宮中で生じた諸事についての見解を宮廷内に広げたが、彼らの日記が物語るように、それは虚偽であった# 9。つまり 〔そうした見解とは〕、来る戦争という賭けが裏目に出た場合の反作用から天皇を守り、また、裕仁は任務のない叛乱軍兵士に仕事を与え、対中戦争の準備に同意することを強いられていたため、と言うものだった(66)。だが真の状況は、侍従長の本庄の日記に如実に表現されている。すなわち、蜂起の前日の2月25日、天皇は、戦時の足がかりを固めるために北中国の天津駐屯軍の編成拡大を認めた、と本庄は記している。そして天皇は本庄に、その編成拡大は、「外国の不信感を刺激してはならず」、かつ、「(満州征服の前に)我々が関東軍を再編成した場合のように、統制を不便なものにしてはならない」 と、〔その真意を〕告げている。

 裕仁が本庄に説明したところでは、 「要は、我々が何をするかでなく、我々のすることへの世界の反応だ」、だったのである(67)。

 # 9 最近まで、文献証拠がないために、歴史家はそれを受け入れるしかなかった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_20_1.htm
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_20_2.htm


03. 中川隆 2013年3月01日 20:51:53 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

鎮圧(1936)
叛乱の夜明け

 叛乱兵やその支持者に対する裕仁の圧倒的勝利は、早朝の最初の暗殺の数分前からすでに始まっていた。午前5時、本庄侍従長は東京北西部の自宅で、第一師団の少尉によって揺り動かされて目を覚ました。その少尉は、同師団の500名の士官と兵士が叛乱をおこしてすでに兵営を出発し、それ以上の将兵がそれに続いている、との娘婿の山口大尉からの知らせを持ってきていた。本庄は立ち上がると、ただちに戻り、山口大尉に、兵士に叛乱をやめさせ、兵営に戻させるよう、その少尉に命じした。

  「しかし、もう手遅れです」 と少尉は答えた。

  「最善をつくせ」 と本庄は命じた。そして電話に向かい、憲兵隊司令官と、天皇の寝室の近くに控えている宮中の夜勤番の侍従に電話をかけた。二人とも落ち着いており、当たり障りのない返答だった。本庄は車を呼び、宮中へ向かった。その途中、皇居のすぐ西にある英国大使館付近で、ほぼ一中隊の兵士たちと遭遇した。彼は、その兵士たちの軍服から、精鋭の近衛部隊の宮廷護衛部隊ではなく、彼の娘婿の属す第一師団の叛乱兵だと判断した。だが彼は、車を止めて彼らにそれを確かめようとはしなかった。

 本庄は、午前6時、内宮に到着し、裕仁がすでに起床し、執務に付いているのを知った。数分して天皇に謁見すると、天皇は彼に、 「直ちに事件を終わらせ、この災いを転じて福となしなさい」、と告げた。そしてとがめるよう加えた。「侍従長、お主のみが、この事件が起こると予期し、案じていたね。」

 自分の娘婿のことを想い浮かべながら、本庄は答えた。 「若手士官たちはただ、自分みずから、すべてをおおう天皇の正しき世界の中に、彼らの正義感を託す場所をみつけようとしているだけなのです。」(68)

 木戸幸一侯爵――二ヶ月前までは牧野内大臣の、15分前までは斎藤内大臣の秘書――は、午前5時20分、その斎藤内大臣が襲撃されたと伝える宮廷からの電話で起こされた。木戸は即座に、「重大事件であることをさとった」。彼は警視庁に電話を入れたが、叛乱軍に包囲されていて、誰もが制約を受けずには話せないでいることを知った。 そこで彼は、公用車の車庫に電話し、直ちに宮廷まで行ってっくれるように頼んだ。その車の到着を待つ間、木戸は、近衛親王と西園寺のスパイ秘書の原田に電話して、そのニュースを伝えた。

車が到着すると、彼は用心深く、叛乱軍が占拠していると思われる地区を迂回して、遠回りするように指示した。(69)

 午前6時、皇居外苑にある宮内庁の自分の机に着いた。そこで彼は、状況を掌握するため多くの電話をかけたが、その一本は、6時40分の興津の西園寺宅にかけたものだった。電話に出た女中は、確かに老主人とその家族は静かに就寝中であると告げた。木戸は、西園寺が数マイル離れた静岡県知事公邸にいることを、知っていたかどうかについて、どこにも明らかにしたことはない。木戸は自分の日記に、「大いに安心した」 とのみ記入しているだけであった。(70)

 あまたの電話で出来る限りの情報を得た後、木戸は、宮内庁内で、スパイ秘書の原田の到着を待った。彼は、叛乱軍兵士に検問された時に備えて、宮内省の証明書を手に、午前7時ちょっと前に、徒歩でやってきて、木戸からの指示を受け取った。その受領後、原田は、皇居北の門に向かうのでも、また、任務として西園寺に仕えるため興津に向うのでもなく、叛乱兵士の占拠する地区の自宅に戻り、次の二日間を、近所家の隠れ家から、通常のように電話をかける作業で費やした(71)。

原田は察知していなかったかもしれないが、彼は、 「お節介な小男男爵」 として、叛乱士官の持つ 「発見次第射殺」 のリストにあがっていた(72)。そういう彼は、自分の近所宅に潜みながら、勇敢なスパイ役を演じていた。彼は木戸と綿密に電話連絡を取りながら、夜には危険をおかして外出し、叛乱軍の野営を監視していた。

 木戸は、原田に指示を出した後、皇居内の庭園を歩いて横切り、内宮の裕仁の居住兼執務区画に入っていった。そして、裕仁の執務室の外にすでに集まっていた、侍従武官、湯浅宮内省大臣、広田副侍従長に合流した。彼らは、木戸が電話でその情報提供者より収集したものより、さらに新しい情報を彼に与えた。それによると、侍従長、首相、蔵相、そして内大臣、の全員が襲撃されていた。信頼されている天皇の他の寵臣と同じく、木戸はその後一週間、宮廷にとどまりつづけた。彼には、皇居図書館の裕仁の執務室から廊下を行った先に、仮の小寝室が与えられた。彼は、その侍従の部屋の畳部屋に、布団をしいて寝た。彼は、24時間、いつでも天皇の呼び出しに備えていた。(73)

蹶起趣意書

 2月26日午前7時、川島陸相は、自分の寝室からようやく階下に降りて来て、邸宅の一階を占めた叛乱軍士官と言葉を交わした。彼らは陸相に、蹶起趣意書の正本を渡してそれを天皇に提示するように要求し、その写しの文書は、占拠地区のいたるところに張りだされていた。そこに明記されていた要求事項は、政府は天皇の執権の全面回復を宣言し、陸軍は派閥主義を撤廃し、それまでの陰謀の「首謀者」 である南、小磯、建川、そして宇垣各将を逮捕し、裕仁の特務集団の将官は軍職から追放され、荒木大将を関東軍の司令官にして 「ロシアを威圧し」、そして、陸相はこうした要求を天皇に提示するに先立って、北進派指導者の真崎と協議するよう求めていた。その文書はまた、陸相が、副陸相で天皇が信頼する航空専門家である古荘幹郎中将、および、宮廷の隠れたスパイ――叛乱軍人たちには知られていなかった――である山下奉文少将と話し合うことを推していた。川島陸相はそうした要求を重々しく聞き取り、自分ができるだけのことをする旨、約束した。(74)

 午前8時、海軍軍令部総長の伏見親王が宮中に到着し、すぐさま裕仁に謁見した。彼は、各艦隊は、横須賀海軍基地から東京湾へと航行中であり、天皇の号令ひとつで、叛乱軍地区への砲撃の準備が整っている、と報告した。そして同時に彼は、新内閣を直ちに組閣し、叛乱軍に少々の譲歩を見せるよう助言しようと考えていた。叛乱軍の多くは、秩父親王の親しい友人であり、彼らを余りに過酷に扱うのは良くなかった。天皇は同意したのだろうか?(75)

 それまで伏見には賛成できないことが多くあり、また、議論にも巻き込まれていたことを知っていた裕仁は、ただこう答えた。 「私は海軍の状況について、貴殿の報告を求めただけだ。この事件に関する私の意見については、すでに宮内省大臣の湯浅に述べてある。」

  「それでは、湯浅に伺ってよろしいでしょうか。」
  「その要望については、返答はまたの機会にしよう」 と裕仁は返答し、伏見親王は退席した。憤懣やる方ない伏見は、大兄で賞勲局長の木戸のところに直行し、すべたの親王たちに、そのいざこざの件をつたえるよう、命じた。
 午前9時、川島陸相は、叛乱軍との遣り取りを終わらせて直ちに宮中に到着し、天皇に謁見した。彼は、叛乱軍の蹶起趣意書# 1の巻物を提出し、それを天皇に慎重に読み上げた。(76)

 # 1 私 〔バーガミニ〕 は、蹶起趣意書の原文を以下に引用する。その深遠で近づき難い印象は、要約を許さないためである。そして、これまでに存在する唯一の翻訳版は、1936年にニューヨークタイムスの東京事務所で日本人翻訳者によってなされた独特の文体をもったものである――それは、日本近代史の数冊の文献に様々な形で引用れている――。それは、原文の内容をおおむねは表わしているが、手が加えられ、その灼熱地獄のような特性は失われている。

 〔訳注〕 以下には、英語訳の邦訳に加えて、原文のままの引用も掲載。(ただし、カタカナ書きをひらがな書きに改め) 。

         国体を護持する直接行動のための趣意書 (77)
 永遠の神、天皇に、その統率の下にある我々は、神国の子のそまつな見解でありながら、この不満の意を提出する。我国の本源は、なによりも、一体をなす単独国家の継続的発展の成就と、天の下の全地球の包含にある。至高の優秀さと国体の尊厳は体系的な成長と、神武天皇による国の設立以来、明治維新よる社会変革にいたる注意深い養育によるものである。いまや再び、時勢の秋に到達し、我々は広く外地領土に挑み、新たな光明へとの眼に見える進展を遂げならない。

 先の危機的時代にもかかわらず、いかがわしい不逞の徒が雨後の竹の子のごとく続出して、我々は、我利我欲にふけり、皮相な形式を許して皇位の尊厳を傷付け、すべての人々の創造的前進を阻害し、我らを怒りと悲嘆のうちに苦しませている。日本は益々と外国とのいざこざに巻き込まれ、時の潮流に押し流され、外国のあざけりの的となっている。元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は皆、指導者としてこの国体を破壊に導いてきた。

 (中略)三月事件や、えせ学者、えせ共産党員、逆賊的教団等が徒党を成して陰謀を企て、気付かれないままに、最も著しい事例を作ってきた。その悪事は血で天地をけがし、流血が義憤を表す時代に至っている。血盟団の犠牲的先進性(中略)、5・15事件の噴出、相沢中佐の刀の閃光は、彼らがなすべき理由と彼らを嘆かせた理由をまさしく物語っている。

 今のこの終末に至ってもなお、僅かな反省と忍耐のために、幾度にわたって、生き血がこの地を濡らすのか。かつての如く、ただ時を費し、あるいは、我欲と保身をむさぼっている。今や、ロシア、中国、英国、そして米国とは、一触即発状態にあり、神国を狙い、我が文化と祖先以来の遺産の破壊の寸前にある。これは火を見るより明らかなことではないか。実際、内外には深刻な危機が存在し、無能議員や無能家臣が国体を弱体化し、皇位の神聖なる輝きを曇らせ、維新を遅らせている。(中略)

 第一師団の海外移動の天皇命令を受け取った今、・・・国内情勢をかえりみらざるを得ない。・・・出来うる限り、我々と同志の精神は、宮廷の内壁を壊し、逆賊を斬首する自らの努めを果たさねばならない。我々は、単なる家臣でありながら、皇位より信頼された部下として正道を進まねばならない。たとえ、我々の行動が自らの命や名誉を害そうとも、我々にいささかの動揺もない。


 同じ悲嘆と意志を共有する我々は、この機会に決起する。逆賊を討伐し、至高の正義を正し、この聖地の子としての使命を全うし、我が全身全霊をその火に投じる。我々は大神と祖先に礼拝し、その恩恵とご援助を賜わらんことを。

 昭和十一年二月二十六日

                 蹶起趣意書(原文)
 謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

 然るに頃来遂に不逞凶悪の徒簇出して私心我慾を恣(欲)にし至尊絶対の尊厳を藐視し僭上之れ働き万民の生成化育を阻碍して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随つて外侮外患日を逐うて激化す、所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。

 倫敦軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃を図りたる三月事件、或は学匪共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天の罪悪は流血憤怒真に譬へ難き所なり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰、相沢中佐の閃発となる寔に故なきに非ず、而も幾度か頸血を濺ぎ来つて今尚些かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲破滅に堕らしむるは火を見るより明かなり。内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮し稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除するに非ずして皇謨を一空せん。

 恰も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍の我等同志は、将に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡状憂心転々禁ずる能はず、君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。

 臣子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪を翻すに由なし、茲に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭し以つて神州赤子の微衷を献ぜんとす。

 皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。
 昭和十一年二月二十六日


 裕仁は読み上げられる趣意を黙って聞いていた。その高揚した言葉と武士道精神の背後に、彼は、自分の戦争政策への完全な否定を見出していた。その隠された、含みをもった形式に、叛乱兵たちは、今後の外交的混迷の危険の沈静と、彼の精力を国家改造と日本の伝統である素朴な情念への献身を裕仁に請うていた。

  「口実がなんであろうと、私は不興である。彼らはこの国に泥をぬった。陸軍大臣、貴殿に、即座の鎮圧を命ずる」(78) と、裕仁は冷たく言い渡した。

 川島は、自邸を占拠した兵士たちに与えるいくらかの猶予を得ようと努めた。しかし裕仁は川島に、皇位がその趣意を聞きとったこと以外には、皇位によるいかなる同情も理解の意をも表すことを禁じた。

戒厳令初日(79)

 川島陸軍大臣が自分の苦境について考慮するために退席すると、直ちに裕仁は、軍事参議院のすべての将官と、個々に面会を始めた。彼らはその途上、陸軍の叛乱兵によって支障はうけず、また、皇位に自らの忠誠を示し助言を献することに篤い自負を抱く彼らは、全員、まだ閣僚や大将の欠席が目立ったその朝早くから、宮廷に参上してきていた。裕仁は、陸軍は彼ら「暴徒」 を鎮圧して責任を果たせと、彼らにその一点のみを強調した。もしそれができないのなら、海軍に命令を出し、それでもだめなら、自ら現地に出向く積りであった。

 天皇が、責務を負う陸軍長老らに自ら指示を与えている間、陸相公邸で指揮に当たる六名の若手将校は、要求に対する回答を待ちながら、中庭において、助言や希望を言って絶え間なくやって来る上官たちに対応していた。実際、それは信じがたいことであったが、陸相公邸や近くの陸軍省、参謀本部での業務は、叛乱兵たちがその戸口のいたるところに立って警備線を設けているにも拘わらず、順調に続けられていた。

 午前10時、片倉衷〔ただし〕少佐――満州事変当時の南陸相の甥――が川島邸に通常連絡任務でやって来た時、そうした状況の不調和が露呈した。片倉少佐は、1934年の士官学校事件を暴露する手助けを行い、その際、今度の叛乱に参加している多くの若手士官を裏切っていた。驚くまでもなく、そのうちの一人で、小冊子を作成した磯部――不名誉な退役処分となった――が、その彼の頭への一発の弾丸でそれを迎えた。片倉は、後にビルマで不運にも連合軍の捕虜となり、1944年に殺された 〔これは誤りで1991年死亡〕 が、その時は浅い傷で済み、回復した。彼の同僚の士官たちは、その負傷は当然のこととして受け取り、それ以降も、公邸に出入りする訪問者は続いた。

 正午、最後の軍事参議官が謁見をおえた時、川島陸相は、山下少将を宮中の侍従武官室から叛乱軍へと派遣し、返答を与えた。それは簡単なもので、 「天皇は諸君の意図はお聞きになった。陸軍大臣は諸君の動機の真摯なるものを認める。軍事参事会が招集され、国体の保持が決定された。」

 この通知ほどの致命的なものはなかった。血に染まった若い叛乱者は、彼らに対する天皇の、氷のような態度を感じ取った。彼らの敗北であった。もし彼らが空しく死ぬのであるなら、彼らは、最後の一人まで占拠を守り通すことを、山下に宣言するしかなかった。

 山下は宮廷へ電話した。彼は対話を続けよと言われ、部隊の増強が確約された。そしてすぐ後、顔の広い鈴木貞一大佐――天皇に近い人物として知られ――と、第一師団司令官、小藤恵大佐――時分の指揮下にある若手士官への責任を負っていた――が、交渉チームに加わった。

 交渉が、愛国的精神論に足をとられて遅々としている間に、裕仁は、国中で最高の各諮問団を招集し、その午後を彼らとの対応で過ごした。つまり、宮廷のある一室では、天皇の臨席のもとに枢密院会議が開かれ、他の一室では、ようやく宮中へと到着した内閣閣僚が集まっていた。第三の部屋では、軍事参議院が招集されており、北進派指導者の荒木や真崎が参加していた。内閣は、天皇から、岡田首相――その時はまだ押し入れの中に居た――を欠いた政府の継続について問われた。

 それは、長い午後だった。裕仁は、政府における何らかの変化は、改造への一歩であり叛乱の成果とみられかねないため、新首相の指名はしたくなかった# 2。それに、軍事参議官の責務を軽減することも、たとえ口先だけの懐柔だとしても、それを望まなかった。叛乱兵が兵営にもどった時、裕仁は建設的な政府を再開するつもりだった。従ってその時まで、何らの署名もせず、ただ不満足でいる以外、いずれの側にも立たないとの姿勢を維持した。

 # 2 岡田首相が生きているとの知らせは、憲兵がその日の午後早く裕仁に知らせたものと推定される。しかし、首相が占拠地区から脱出に成功した午後遅くになるまで、その存命の知らせは裕仁の周囲の宮廷人には知らされなかった。

 内閣は、内務大臣の後藤文夫を首相代理に選んだ。また、軍事参議院は、ついに、 「説得文」 と 「勅令」 を叛乱軍に発することに同意した。説得文は、「諸君は天皇の注意を喚起することを望み、それは達せられた。諸君の国体の顕現を望む真摯な願いは注目されている」 とのみ述べられていた。勅令は、「1935年度の国防計画にのっとり、諸君らの師団の他部隊とともに、諸君らは、東京防衛のための所定配置につくべし」 というものだった。

 一方、枢密院の御前会議では、天皇からの直接命令を出すことで、叛乱軍を解散させるのがよいのか、それとも、戒厳令を宣言し、鎮圧の責任を陸軍に与えるのがよいのかをめぐって討議された。裕仁は、自由な議論の外見を維持するための必要から、注意深く聞くのみで、何らの発言もしなかった。そこで彼は、採るべき第二の行動を起こし、簡単な便法に出た。すなわち、20ないし30分ごとに侍従武官長の本庄を呼び、あたかもニュースを聞くかのように、「陸軍は、気違いじみた叛乱兵の鎮圧に成功したかね」、と彼に尋ねた。そうしてついに枢密院は、しぶる陸軍に戒厳令を引くよう勧告することに同意したのであった。

 午後3時、第一師団は1935年度の緊急事態計画にもとづき、兵士を防衛配置につかせ、叛乱をおこした同僚兵士と切り離した。午後5時、実りのない半日の交渉の後、山下少将は、報告のために宮中にもどった。その際、三名の叛乱軍士官がその聖域内に入ろうと彼に続いたが、警備兵によって阻止されねばならなかった。

 山下の落胆する報告を聞いた後、湯浅宮内大臣は、信頼に足る家臣はすべてその夜は宮中に宿泊し、軍事参議院が先に決定した戒厳令をその真夜中より発令する、との裕仁の要求を伝えた。川島陸相はそれに従うことを確約したが、戒厳令が効果的かどうかを疑った。彼は湯浅内大臣に、次期内閣に陸軍が望む人物のリストを天皇に提示してもらえないかと要望した。湯浅はその要望を憤慨して拒否し、それを、天皇の大権の干犯であると決め付けた。川島陸相は、「狼狽した様子」 で、戒厳令本部の設置に取りかかった。大角海軍大臣が、午後6時30分、謁見を許され、暫定内閣と暫定首相を指名することで、国民の不安を解消してはどうかと嘆願した。

 天皇はこれを拒否し、 「もし陸軍がこの緊張を避けたいと望むのなら、言葉による確約をもらいたい」 と述べた。その夜、陸相公邸の五名の叛乱軍士官は、林、真崎、荒木、寺内ら、少なくとも七名の将官と対談した。こうした上級制服組の登場でも、膠着状態は打開できなかった。叛乱軍は先の要求を繰り返し、逆賊とすら呼ばないようにとつけ加えた。

 その夜、内閣は、二度にわたって解散した。最初は、午後9時、後藤代理首相が内閣総辞職を宣言した。それは、国家的な災難があった後に行われる、通例的な対応であり、天皇は、これも通例的にそれを却下したものだった。「平和と秩序が回復されるまで、むしろ真剣にその責任を果たすべきだ」、天皇は言った。

 しかし、今回はこれでは終わらなかった。天皇の前から退出した閣僚たちは、その午後をそこで議論して費やした控えの間に戻った。その朝の暗殺で怖れを抱き、また川島陸相になにがしかの同情を抱いて、各自の辞表をとりまとめた。彼らはその提出を午前1時に行った。裕仁は、それを受け入れる以外に選択はなく、それぞれの大臣に、「新内閣が組閣されるまで、政務に留まるよう」 命じた。彼は明らかに、困っていた。彼はその日、もう疲れ切っていた。

 裕仁自身の家族さえ、裕仁が危険なほど非妥協な態度をとっていることを案じていた。伏見親王と朝香親王は、皇族会議の開催を求めており、裕仁の弟、秩父親王は、彼らの肩を持ち、地方からその会議に参加するために呼び出されていた。内大臣秘書の木戸は、朝香親王と東久邇親王の立場を感じ取るため、その夕を二人とともに過ごし、彼らの忠誠を再確認して報告した。

 しかし裕仁は、再確認を受け入れる雰囲気ではなかった。彼は、その朝から着ているしわくしゃとなった軍服をまだ着けており、午前2時少し前、内閣から出された辞表を読むために座った。午前2時、彼は侍従武官長の本庄に電話し、寝床にいる彼を起こした。「川島陸相は辞表を出し、他の閣僚も同じだ。彼は、誰も同じ責任を負うと考えているのかね。そんな感覚で、陸相が務まるとは思えん。」

 本庄は、 「殿下はその後で、格子戸を通り、ご自分の寝室へ入られたのだと思います」 と、裕仁との電話を切ったのち、日記に記入した。

二日目(80)

 2月27日の夜が明けた、決起二日目、雪はやんだものの、寒さは続いていた。戒厳令はその未明、2時50分に公布された。午前5時、侍従武官長本庄は、伏見親王の私的訪問によって、宮中の間に合わせの寝具の中で、寝たりぬ目を覚まさせられた。伏見は本庄に、若手士官たちが夜中、伏見邸を訪れ、叛乱を解決する条件として内大臣の地位を求めてきたと報告した。むろん本庄は、それに言質は与えなかった。午前7時、裕仁の叔父、朝香親王は、裕仁の弟の高松親王を海軍士官学校に訪ね、裕仁が新内閣を早急に指名するよう、彼の後押しを求めた。だが高松はそれを辞退した。

 宮中では、侍従たちの控室が、まるで難民収容所の様相をていしていた。高齢の閣僚、将官、親王、侯爵らが寝巻姿で朝飯や茶をとり、寝心地の悪かった一夜の後、それぞれの会話を交わしていた。皇居の門外では、叛乱軍の歩哨が、雪の中を行き来していた。地下鉄〔「省線」 のことか〕の 「中央線」 は、運行を停止していた。ビジネス街や東京南部の港湾地区に通う通勤人たちは、皇居周辺の占拠地区を避けるため、何度も乗りかえを強いられていた。裕仁は遅くまで眠っていた。いつものオートミールと玉子のたっぷりな朝食の後、彼が机には向かったのは、8時と9時の間であった。

 侍従武官長の本庄は、天皇に朝の挨拶をしに行った際、彼の率直なほとばしる意気に圧倒された。 「もし、叛乱の暴徒たちが、陸軍最高司令官の命令にただちに従わないならば、私は自ら、彼らのところに出かけるつもりだ。」

 それに答えて本庄は言った。 「直接行動部隊の士官は、天皇の部隊に勝手に命令し勝手に出動を命じました。それは、天皇の統帥権を犯すことです。当然、それは許されざることですが、彼らを行動させている精神は考慮に値するものです。彼らは完璧に愛国的確信と国民に成り代わる思想によって行動しております。彼らの心には、陛下を強要しようとが、陛下の力を悪用しようとかと考える積りは毛頭ありません。」

 しばらくした後、裕仁は本庄を呼んで言った。 「彼らは私の右手である家臣たちを殺した。そうした凶暴なる士官には、いかなる心的動機があろうとも、微塵の弁明もありえない。私の最も信頼しうる家臣を倒すことは、真綿をもって私の首を絞めるに等しい勇気だ。」(81)

 本庄は答えた。 「老いた家臣を殺したり傷つけたりすることは、最悪の犯罪であることは言うまでもありません。しかし、彼らは混乱し誤解はしているものの、国のために行っているものと信じております。それが彼らの信念であります。」

  本庄は日記にこう記している。 「私はこう、いろいろ違った方法で陛下に申し上げた。」

 裕仁は、 「侍従長、そなたは、彼らの行動が、単に、私利私欲によるものだということが認められないのかね」、 と首をふりながら言った。

 本庄は、ふさわしい返答ができぬまま、日記にこう書きとめている。 「この日はまた、陛下はたいへん昂ぶっておいでで、行動部隊を鎮圧する陸軍の努力は、どこにも見られぬと言われた。そして私に言われた。『朕# 8は、近衛師団に命令を出し、自ら、叛乱部隊を鎮圧する』」(82)。

 # 8  「朕」 とは、中国のかっての皇帝が用いた 「我々」。この表意文字は、天の耳に話しかける月を表している。(83) 〔この説明はあやしさは脚注のように著者も気付いている。 「朕」 については、翻訳の他の個所ではあえてこの用語は用いず、 「私」 で通している。〕

 その日は丸一日、国民は緊迫にさらされた。そのさ中、裕仁は執拗に、少なくとも13回は本庄を呼びつけ、陸軍が行動を開始したかどうかを尋ねた。川島陸相と老将官のほぼ全員は、皇居から数地区北にある憲兵隊本部に、戒厳令司令部を設置する準備に追われていた。午前10時30分、近衛師団が叛乱軍占拠区画の北西角に、向かい合って陣取った。また、第一師団の忠誠を維持している部隊が、その南西および南東地区に配置された。占拠区画の北東部は、皇居のお堀でさえぎられていた。その日の午後、叛乱軍は皇族会館に押し入り、居合わせた人たちを片っぱしから取調べ、16人の侯爵、伯爵、子爵、男爵たちをひとまとめにして、その夕刻まで、拳銃を突きつけていた。

 西園寺のスパイ秘書の原田は、叛乱軍の警戒線を突破して潜入し、拘束されている皇族の幾人かと接触したが、その帰路、彼の顔を知る叛乱軍士官に阻止された。その士官は後にこう証言している。「もし彼が怖がっている様子を表わさず、あるいは、嘘をついて逃亡を図ったならば、自分は彼を殺しただろう。しかし、彼は、警告するだけで見逃してほしいと、いかにもか細い声で話していた。」(84)

 午後、事が沈静すると、誰もが、裕仁の弟で叛乱軍指導者たちの友人である、秩父親王が東京に到着するのを待ち受けた。秩父親王は、その夜に予定されていた皇族会議で、裕仁に何かを言ってくれるものと期待されていた。内大臣秘書の木戸は、ほぼ丸一日を費やして、朝香、東久邇両親王と 「打開策」 について話し合った。午後5時17分、秩父親王の列車が上野に着いた時、叛乱軍もしくは陸軍が親王を誘拐するとの噂があったため、彼は侍従や警察の厳重な警護で迎えられた。そして彼の車列は、およそ4マイル〔6.4km〕の市街を、サイレンを鳴らしてフルスピードで走り抜け、30分で皇居に到着した。彼は直ちに天皇に謁見し、天皇、皇后との内輪の夕食をとった。

 午後7時頃、彼らに他の親王たちが合流して、皇族会議が開催された# 4。侍従たちの話によれば、発言は申し合わされたもので、その雰囲気は上品なものであった。裕仁は、各々の親王に次々に質問をあたえ、用意された短い見解表示――中国をはじめとする様々な時事、長期軍事計画、そして国政改造など――に耳を貸した。しかし、その主要な懸念は、新内閣が早期に組閣されず、陸軍とともに譲歩が打ち出されなければ、叛乱軍の勢いが地方に広がらないかということだった。裕仁は親族に礼を述べ、そうした諸意見について検討することを約束し、午後8時30分、さしたる盛り上がりもないまま、会議は散会した。その後、秩父親王は大兄の木戸と、およそ30分間、話し合った。(85)

 # 4 皇室典範によると、 「皇族は天皇の配下にあり」、皇族会議は、 「成年に達した男子皇族によって構成される」 とある。加えて、天皇は、外部の立会者、ことに、内大臣、宮内大臣、法務大臣、最高裁長官の出席を求めることが予定されている。1936年段階では、16親王がその資格を有していた。そのうち、6名が「親王」、10名が「王」であった。6名の親王とは、裕仁の3兄弟に、皇族選挙によって親王となる、次直系の家族の3名の王子――陸軍参謀総長の閑院親王、海軍軍令総長の伏見親王、そして、1934年にヒットラーに会った狂信的な賀陽親王――を加えた面々であった。この2月27日の皇族会議に参加した親王たちは、弟の秩父、弟の高松、従兄の伏見、(全員が親王)、そして、叔父の東久邇、叔父の朝香、従兄の梨本、そして、閑院親王の息子の春仁〔はるひと〕(全員が王)であった。(86)

 その皇族会議は、二つの結果をもたらした。そのひとつは、小田原の別荘で意気消沈していた陸軍参謀長の閑院親王が東京に呼ばれ、 「たとえ都合が悪くとも」、天皇の背後に着くことを求められたことだった。翌日、閑院はそれに従ったが、どうしたことか、それから一週間、彼の君主とは会わせてもらえなかった。第二は、会議の夜、秩父親王が、友人で叛乱軍の最高の地位にある、野中大尉あての私信を書き、彼の部隊の撤退を懇請したことだった。野中は、一日考えた末、自分の口に拳銃をくわえて引金を引くという返答を行った(87)。侍従らは、親王たちが自分と叛乱軍下士官たちとの交友や交際関係がゆえに狼狽させられていながら、それでもそうした紛糾の中で、裕仁の側についているのを見て安堵していた。秩父親王は、午後9時10分、警察の護衛とともに宮廷を後にした。

 翌朝、裕仁は、皇族会議についての見解を、宮廷の公式記録とするため、大兄の木戸――賞勲局長――に次のように報告した。 「高松宮が最も良ろしい。秩父宮は、5・15事件の時以来、大きく成長した。梨本宮は、〔この叛乱軍に〕私の恩赦を求めた時、涙を浮かべていた。私は彼を立派だと思う。春仁〔閑院の息子〕は気品がある。朝香親王は、正義の個人にとっての意味と、皇位の大義におけるその位置をのべたが、過激思想の影響を受けており、欠点がある。東久邇親王については、いい感覚を見せていた。」(88)

 裕仁は、一族の模範を示す者として、東久邇親王の最近の恐喝事件と宗教詐欺に関する警察文書を読むことを求められていた。だが天皇は、自分の親族を、通常の日本人の道徳観によってではなく、いかに忠義であるかどうかという基準で判断した。平穏な皇族会議で彼は、自分の親族にただならぬ支配力を証明して見せたのであった。

 会議が解散してしばらくして、真崎、阿部、西の将官たちは、陸相公邸におもむき、その一階で指揮をとる五人の叛乱軍士官に、望みを捨てて天皇の意志に従えと告げた。もし、彼らがそれに従わない場合、北進派の指導者真崎は、彼らを鎮圧するため、自ら特派部隊を指揮せねばならぬと宣告した。疲労し、悲嘆にくれた若き兵士たちは降伏に合意した。午後11時30分、三将官は、近衛師団と第一師団の歩哨に、その夜、叛乱軍占拠地区から脱出しようとする一般兵士には寛大であるようにと命令を出したと、宮廷に報告した。

 しかし、それで事が終わったわけではなかった。叛乱軍は、あらゆる機会を通じて、東京郊外の隠れ家にいる急進的北進派理論家北一輝と、無線連絡を取り続けていた。職業革命家としてのそれまでの長い経歴の中で、北は、クーデタの策謀への表立った参加は避けてきていた。しかし今回は、彼はもう深く関わり、もし叛乱が失敗した場合、処刑される恐れがあった。それまでの二日間、彼は無線機に付きっきりで、その度ごとに叛乱軍を勇気付け、政治的駆け引きの助言を与え、また、霊媒の力をもつとの評判のある妻によるお告げを伝えていた。

 その2月27日の夜、三将官が陸相公邸を引き上げた後のほぼ深夜、北は二人の叛乱士官と話し、まだあきらめてはならず、宮廷への圧力は高まっている。しかし、もしすべてが裏目に出た場合、彼らには審判なしの略式の死刑が科されるだろうと告げた。そして北は、その若手士官たちに、妻が見た夢の話を付けくわえた。それは、貧困のない極楽浄土で若手士官たちが勝利を祝い会っていた。叛乱軍はそれに聞き入り、それに賛同した。


第三日(89)

 決起二日目の2月28日は、再び、曇天だった。侍従武官長の本庄は、午前7時、反乱事件の核心が変化したことを知らされた。すなわち、反乱軍は鎮圧されなければならぬ、というものとなった。ということは、本庄の娘婿、山口一太郎大尉が、いまや明白な反逆者と化した者たちに援助の手を貸したということで、刑務所送りとなることであった。それはまた、本庄自身の長年の忠義の経歴が恥辱にまみれるということでもあった。後に、彼の知人たちが語った話によれば、彼はその日一日で、一挙に、十年以上も年老いたということだった(90)。

 午前11時頃、山口は戒厳令本部へ行き、叛乱軍を武力鎮圧する発令に対し、ほとんど一時間もかけて、それに反対する演説を行った。将官たちは、それに完全な同情をもって聞き入ったが、何も発言はしなかった。正午前、戒厳令参謀の石原莞爾大佐――満州作戦を立てた頭脳明晰な〔日蓮宗〕信者で、以来、対中和平を唱導してきた――は、長い会議机の端から立ちあがって言った。「我々は、出来る限り速やかに、鎮圧せねばならぬ」(91)。 そして彼は部屋を出て、外の使いに、発令書を配達するよう命じた。

 第一および近衛師団は、一団となって鎮圧にあたり、叛乱軍のバリケードを爆破する計画に入った。叛乱軍士官は、 「降伏せよ、さもなくば鎮圧される」とのラジオ放送を聞いた。それに対し、叛乱軍は、 「皇意を過させる機関説論者によって成された命令には従えぬ」 と返答した(92)。

 この段階では、秩父親王の伝言が野中大尉に伝えられ、また、山下少将が妥協に持ちこむ最終案を持っていたため、包囲する鎮圧軍には、 「待機」 と命令されていた。バリケード内での交渉の後、山下は川島陸相を伴って、午後一時、宮中の侍従武官室に戻った。そして山下は本庄侍従武官長に、叛乱軍士官からの誓約――それが作法に則ったものであると天皇に伝える勅使の立会のもとで、全員が自決する――を伝えた。本庄は直ちにその提案を裕仁に報告した。

  「もし彼らが自殺したいのなら、勝手にさせなさい。そうした物たちに宮廷から立会人を送るのは、ともあれ、ありえないこと」、と裕仁は言った。

 本庄は、自分の娘婿が士官を勤める第一師団は、以前の同僚に対して行動をしかけるのを嫌がっています、と哀れっぽく訴えた。

 裕仁は声に鋭利さを込めて言った。 「もし第一師団の司令官が有効に行動できると考えないのなら、彼は自分の責任が何かが解っていないことだ」。

 本庄は 「陛下に、そのような厳しさと怒りを見たのはかってなかった」 と目を見張らされていた。陸軍の指導者たちは、自決提案への裕仁の拒絶に唖然とさせられていた。娘婿の山口は、悲嘆と不可解の中で本庄に電話し、再度、天皇に働きかけてもらうよう懇願した。本庄は山口に、天皇はすでにいかなる曖昧さも含まない決断をし、さらに表すものは何もないだろう、と説明した。それでも、なおも働きかけを求める娘婿に、本庄は、悲しげにその電話を切った。(93)

 午後3時、無頓着な参謀次長の杉山――その表情は 「まるで湯殿の扉のようにぼやけていて」 ――は、裕仁に謁見を求め、さらなる説明を願い出た。誤解があると彼は言い、叛乱者は、自分たちの自決に勅使の立会いを求めているのではない。ただ、ある家臣が、彼らの遺体を見届け、陛下に、決まり正しく腹切りの儀式を果たしているかを報告してほしいのみである。裕仁は、怒りを再燃させて、その新たな面子作り措置を見捨てた。この報が知らされた時、叛乱軍のある士官は、「しかし、飛行機事故ですら、陛下には報告されるだろうに」、と嘆きながら言った。

 杉山参謀次長が天皇のもとに戻り、ほぼ一時間を要して、天皇をもっと慈悲深くさせようと、あらゆる手練手管の努力を行った。そして最後には、廊下に身を横たえ、天皇に、自分を踏みつけてもらいたいとすら訴えた。天皇はただ、彼をまたいで通り過ぎ、隣室で待ちうけている次の用件に取り掛かった。午後4時30分、結局、杉山と戒厳令軍# 5司令官、香椎浩平〔かしい こうへい〕中将は、その日の鎮圧行動はすでに遅すぎ、翌朝、一番に第一行動がとられると天皇に確約した。だが裕仁はそれを素っ気なく却下し、本庄侍従武官長を呼び、陸軍指導層のおしなべての不服従を非難した。

 # 5 少なくとも23,491の兵卒と350の将官が、1,483の叛乱軍に対し集結していた。

 裕仁は、 「陸軍は天皇に属すという話もあるが、陸軍は事件の重要さを意図的に回避しているとの話もある」、と言った。

 それに本庄は、 「軍事政府を樹立しようとの意図のもとで、目下、陸軍は陛下のご意思に従うことを回避していると、この数時間、人々は申しております。こうした声は天皇の陸軍を極めて侮辱し、事件を速やかかつ平和裏に解決しようとしている陸軍の真摯な努力を無視するものです」 と返答した。本庄は後に、日記に次のように記している。

 私は陛下に、陸軍に対する世論の誤解は、聞くに堪えられぬほどに厳しい、と申し上げた。そう言いながら、感情を押さえることができず、悲嘆にくれてしまい、話すこともままならなかった。陛下は一言もおっしゃらず、部屋を出ていかれた。

 ひと時して、陛下は私を呼び、おっしゃられた。 「侍従武官長、陸軍に対するふとどきな非難が高じ、そちはそのように涙して、その理由を示してくれた。だが、もしこの事件がすみやかに解決されねば、よろしくない事態が起こる。すでに三日が過ぎ、政府の地位は揺らいだままだ。外国為替はほぼ停止し、銀行取引がそうなるのも近い。政情不安は首都以外にも広がり、叛乱の危険もある。第一師団の忠誠部隊も、我が部下を殺し、長老たちに野蛮な行いをした同志たちと合流するやも知れぬ。ゆえに私は貴殿、侍従武官長に、自身の異論と感情を軍事参議院で表明するよう許可を与え、状況を直ちに解決するように求める。」

 本庄は、軍事問題に関し、すべての天皇の見解に成り代わる公的責任を負う立場にあった。過去において、この両者の間に見解の違いがあった時、裕仁がその老将をなだめたり、自分が譲歩したりしてその違いを埋めてきた。だが今や、裕仁は特別に、その本庄をそうした責任から解き、〔軍事参議院にのぞみ〕その彼の異論を公式記録に残させようと求めていた。そして同時に裕仁は、本庄に厚く信頼をおいており、腹心としての任務から解こうとしていたのであった。

 (本庄の日記によると) その求めに従い、私は軍事参議院に、代表者を私の部屋によこすようにと求めた。北進派の荒木大将がやってきたので、私は彼に、一方で自分自身の心情と、他方で、天皇のご意志を伝えた。すると荒木大将はこう言った。 「これまで、天皇の命令は、軍事作戦を除き、有無を言わせぬものであると心得ておりました。」

 59歳の荒木、60歳の本庄の二人の大将は、たがいに物悲しく見つめ合った。二人は、1989年に陸軍士官学校を卒業した同期生であり、それ以来、参謀本部において、さまざまの任務を共に果たしてきていた。二人は、過去において裕仁が、異なる意見の助言者の間から選んできたのを知っていた。また二人は、裕仁が、自分が欲する行動を提案している助言者を見つけるために、自分の道を外すことも知っていた。しかし裕仁は、それまでに決して、軍事参議院の助言を無視したことはなかった。だが今や、その35歳の現人神は、菊の御簾の内から出現し、専制的責任の全てを負おうとしていた。その二人の年長の大将は、互いに軽く礼をした後、その皇意に頭を下げた。その後、陸軍のすべての長老は、あたかも自らの責任はないかのように行動し、ただ、他の者に追随するようになった。それは歴史的瞬間であり、その二人の大将は、まゆをわずかに動かす以上の食い違いもなく、それを認めたのであった。

 軍事参議院は、裕仁を危険な地位にさらすことから予防するための一つの努力を行った。午後7時30分、一組の代表団――荒木陸相、前陸相の林大将、そして参謀次長の杉山中将ら――は、小田原からの列車で着いた閑院親王と会い、裕仁の考えを変えるよう彼に説得してもらおうと試みた。閑院親王はそれを断り、自邸へと引き上げていった。陸軍長老からなる代表団は戒厳令本部へおもむき、そこで将校との会議を開き、状況を説明し、「陸軍の軍紀を破壊する武力制圧は、いかなる犠牲を払ってでも避けねばならない」 という意見を共有することに努めた。

 戒厳令軍参謀、石原莞爾大佐――満州作戦立案者――は、正午以降、自分の発した命令が遮られていることを見ていた。その意図は理解されておらず、石原はそこで立ち上って、その代表団を率いる荒木大将を凝視し、そして言い放った。「これは統帥権の干犯である。貴殿の名前と階級を名乗られたい。」

  「貴様は私が荒木大将とよく心得ておろう。貴様は上官に無礼を働こうとするのか。口を慎め。」

 それに石原は、 「できませぬ。皇軍を皇位に対して用いることは、断じて許さざることであり、常識を越え、軍紀どころの問題ではありません。貴殿は自ら大将と称されるが、日本にそうした愚かな大将がおられるとは、信じがたい」、と応じた。(94)

 この信義厚い憤激の表出がゆえ、石原は、数ヶ月後の大粛軍において、陸軍内に留まり得た。その後石原は、 「最後の北進論者」 と認識されるようになった。彼がつかつかと指令室から出て行った後、荒木やその他の大将たちは、翌朝に計画されている鎮圧行動を阻止する何の手だてもなかった。しかし、彼らは香椎戒厳令司令官に、武力によらず、叛乱軍を出来る限り説得するようにと説いた。その夜を通じ、ラジオ放送や叛乱軍の周囲を走るトラックが、「降伏か、さもなくば鎮圧化」 と繰り返した。上空を飛ぶ爆撃機からは、下士官や兵卒は恩赦されると書いたビラが投下された。夜明けには、叛乱軍に、妻や子供たちのために降伏せよ、と示したアドバルーンが上げられた。

 その夜、山口大佐――本庄侍従武官長の娘婿――は、憲兵により大逆罪の嫌疑で逮捕された。

裕仁による解決 (95)

 翌2月29日、蹶起3日目の朝、第一師団の部隊は、叛乱軍の境界線の無防備な部分を通って移動し、予想される戦闘地区から民間人を非難させ始めた。また、叛乱軍側は、しだいに占拠地区の主要拠点へと集結した。午前9時、香椎〔かしい〕戒厳令司令官は、ラジオを通じて国民にこう通告した。 「若手士官たちは遂に、叛乱者と見なされる事態に至った」。午前10時、部隊と鉄条網によって彼らは閉じ込められ、動揺した叛乱軍兵卒が、二人、三人と、彼らの占拠地点の回りの雪の積もった芝生や広場を横切り、脱出を始めた。正午、秩父親王の友人の野中大尉は自殺した(96)。2時過ぎ、すべての部隊が降伏し、憲兵隊によって拘留された。

 裕仁は、最後の最後まで、疑念を頑固にも解こうとはしなかった。朝8時30分、陸軍の行動開始が最初に明らかになった時、内大臣の木戸は、裕仁に、「新内閣を指名して、国民を安心させては」 と助言した。だが裕仁は、 「制圧が完了するまで待ちたい」 と返答した。そして、制圧が終わった時、彼はそれでも満足していなかった。午後2時、彼は、興津に公式の使者を出すのではなく、電話でもって、西園寺親王に従来の要請――上京して首相を奏薦――を行った。腰痛を理由に、西園寺は、上京するまでに少しの時間が欲しいと返答した。午後4時、裕仁は西園寺に再び連絡し、組閣は緊急に必要で、出来るだけ早く上京するようにと告げた。

 西園寺が気持ちを整理している間に、一日が過ぎて3月1日を迎えた。この日は日曜で、東京はこの日曜ばかりは、、西洋伝来の休日を楽しんだのみならず、本当に疲労回復と休養の一日となっていた。だが、裕仁は例外だった。彼は朝早くに起床し、軍服を着け、夕方遅くまで机に向かっていた(97)。それは、その先の数週間に自分に課すつもりの日課だった。彼は毎日一時間の運動を断念し、3月18日には、主要家臣の代表がやってきて、掛け替えのない身体に配慮するように懇願しても、なおも格別な注意は払わなかった。裕仁は、最後の兵が降伏するまで容赦なく攻め立てない限り勝利は危うい、という軍事的金言をそのまま実行していた。

 3月2日、老公西園寺が東京に到着した時、裕仁の大兄たちが整えていた段取りは、ジュリアス・シーザーよろしく、彼らの指導者、近衛親王に、最初は首相の座、次に内大臣の座への就任を、それぞれ拒否するよう準備したものであった。それは、いざ中国との戦争が開始された時、その首相を近衛にする準備としての、手の込んだ芝居だった。近衛はそれまでいかなる公職にも着いたことはなく、ただ貴族院の指導者としてのみ知られていた。つまり国民には、彼が首相にふさわしい器であるとの考えが浸透する必要があった。そして、従順な人々は彼を受け入れたかも知れなかったが、陸軍が厳しい粛軍に面している時、彼はそれを受諾するわけにはいかなかった。だが、このことは、戦争中、彼の陸軍に対する指導性を弱めることにもなった。

 西園寺は、近衛の首相受入れの不誠実を明らかにさせようと努めた。近衛が各方面の有力政治家から推されているのを知って、西園寺は近衛と会い、彼がその気でないことを知った。新聞報道では、近衛の奥ゆかしさと称賛されたが、西園寺は近衛の辞退をよそに、それでも公式に彼を天皇に推薦した。裕仁は自ら、近衛の健康が充分でないとして拒否することで、前例をくつがえした。だが西園寺は、なおも自分の推薦を繰り返して主張したため、裕仁は慣行上やむをえず、3月4日、近衛を呼んで組閣を求めた。

 天皇との謁見を終えた近衛は、内大臣秘書の木戸に、 「まったく困っている」 と打ち明けた。一晩たった翌日、近衛は西園寺に再び会い、容赦を求めた。彼はその時、自分の医者の診断書を持参していた。それは、少なくともあと三ヶ月、その健康は職務を成し遂げ得るものではない、と述べていた。三ヶ月後とは、陸軍の粛正が完了する時だった。

 そこで西園寺は、近衛はこの危機の時にあっても、政府を引き受けるという天皇の命に従うことを拒否したと公表し、自分を後継する血縁者の経歴を台無しにすることも、不可能ではなかった。だが、長い議論の後、そうする代りに、西園寺は態度を和らげた。彼は、国のためとはいえ、自らの健康を犠牲にできない大政治家の苦しい立場を見たと、新聞記者に語った。そうする一方で、彼は謁見室に戻り、実に困惑させられることですが、自分の推薦を変えなければならないと報告した。そうして今度は、裕仁の側近集団のより下位の中年者、広田弘毅外務大臣を推薦した# 6。

 # 6 生え抜き外交官の広田は、地下組織の首領、頭山の手下としてその経歴を始めた。1921年に近衛親王と知己の関係となり、黒龍会の内部より、彼の情報提供者の一人となった。

 広田は、3月5日、裕仁より内閣を組閣するよう命じられたが、3月9日になるまでその職は与えられなかった。というのは、その4日間、軍および政界は、内閣の政治、人事の両面について、それぞれに無理な要求を突き付けていたからだった# 7。「広田の困難」、「政府を組めない日本」と、新聞の見出しを埋めている間に、裕仁は自らの強固な外交諸政策を押し通した。

 # 7 陸軍の強要で、牧野伯爵の娘婿、吉田茂――1946年から1954年の間、5度にわたって首相をつとめる――は、警察を管轄する内務大臣の地位より下ろされた。

 3月4日、裕仁臨席のもとでの枢密院は、叛乱軍の若手士官を非公開の軍法会議にかけることと決めた。ということは、その上告はできず、その刑の執行も直ちになされるということを意味していた。3月2日、陸軍の各大将は、「最近の許し難い事件」 の遺憾の意を皇位に表わすため、その全員が職を辞任した。3月6日、裕仁はその大量辞任を受入れた。それは、単なる形だけのものではなく、4月23日付をもって実行されるものであった。さらに、裕仁は三名の軍規上の例外を残すという規定上のきまぐれを認めた。すなわち、粛軍派指導者、寺内大将とその同僚である西大将および植田大将は辞任しなかった。その寺内は陸相となり、西は教育総監に、そして植田は関東軍司令官となった。

 宮廷の廊下を満たした抗議の声と小走りする足音が静まった時、自身の義務的退職を前に面子を失った苦痛な二週間を待たされていた侍従武官長の本庄は、その例外は「天皇の大権の行使」 とその日記に記している。同様な流れで、3月9日、裕仁は、軍事参議院と陸軍最高司令官のメンバー、閑院元帥、朝香中将、東久邇中将は辞職する必要がないとの措置をとった。

 3月9日、広田内閣がようやくに組織を固め、機能を成し始めた時、裕仁は国威の統一に専念し、朝から真夜中まで、反対派に対し、非機関説に立った教育をほどこした。そして彼は、国事文書の公式署名を、「大日本帝国大権」 から 「大日本帝国神聖天皇」 へと改めた# 8。彼は、その叛乱に加担した4連隊の廃止を考えていたが、天皇への忠誠に対する雅量を見せるため、連隊旗を残し、一部の部隊を維持することは認めた。

 # 8 それは、裕仁が一月末から考えてきた進展だった。

 それと同時に、裕仁は、国防のための新たな徴兵計画を案として承認した。それは、四つの部門からなるもので、その国防体制下にはさまざまな部署が設けられていた。その四部門とは、@ 「憲法条項に従い」 国会に図られる財務部門、A内閣に報告される戦略と総合計画部門、B首相に報告される動員および人事部門、そしてC天皇と少数の参謀将官のみが関与する詳細作戦部門であった。そしてこの1936年3月に組織された専門部署のひとつが、北京近郊での夜間作戦計画で、これは中国との全面戦争への口火となるもので、また16ヶ月後には実際にそうなった計画であった。

 この新国防計画の発足は、対中国戦に備えるというより、国の総合的戦力を構築するために寄与するものだった。日本は、中国戦に勝たねばならないだけでなく、西洋諸国からの介入を阻止せねばならなかった。広田内閣は、すでにその当時「準戦時経済」 として知られた統制計画を打ち立てていた。そして軍事支出はその後の12ヶ月間に三倍以上に膨れ上がった。赤字予算――叛乱で暗殺された賢明蔵相、高橋によって最低限に抑えられてきた――は、いまや時代の要請となっていた。工場の生産割り当てから為替交換まで、経済のあらゆる部門は、安易なお金の増刷と政府の厳しい統制に隷属するものとなった。

 これと同時に、陸軍の規模を17師団から24師団へと拡大するため、詳細な秘密措置がこうじられた。新設された7師団は、予備役から徴用された。対中国戦が開始される先立つ数週間のうちに、余りに手際よく、供給物資、将校、そして再訓練施設が用意されたので、そうした新師団は、一夜にして戦闘準備を整えることができた。こうして、もし公式記録をそのままに信用するならば、第114師団は1937年10月に創設され、ひと月も経たないうちに、中国内にあって、南京にむけて進軍していた。(98)

 陸軍の総体規模の41パーセントにもなるこの劇的な拡大が計画されている間、叛乱に憤慨していた裕仁は、それを指揮した士官の容赦のない粛清を命令し、それにより、その後の二年間、訓練将校に深刻な不足をもたらすほどであった。だが、その粛軍の必要に疑いはなく、また、3月3日の閑院親王と西園寺のスパイ秘書原田との会話に如実に語られているように、「過日の暴動に喚起されなければ進められなかったように――即ち、それが誰であれ、自らの内の臭いものにはふたをせよとの傾向の除去について――、我々には、陸軍の粛清を、容赦無き水準まで、徹底して成し遂げることが求められている。」(99)

 大掃除という誰も嫌がる仕事を担ったのは、粛軍派の寺内新陸軍大臣であった。1936年の3月から8月の間に、陸軍の八千人余りの士官のうち、二千人をお払い箱にした(100)。北進派の拠点部隊とともに、陸軍の戦略的頭脳の優秀な半数が、ほぼ一掃された。この粛清は軍の上層部にもっとも打撃を与えたが、その見返りに、新しく若い人材に昇進の道を開く結果となった。

 この天皇の専制的対処の後に不可避的に噴き出した憤慨や新たな政軍連携に対して、大兄たちの11人クラブはひとつの策を編み出した。それは、裕仁がふさわしいと判断できない内閣には彼が拒否権を持ち、また、その件に一切の形跡も残さないでそれが秘密のうちになされるというものだった。どの内閣も、陸軍および海軍大臣を含めなければならなかった。1913年に改定された法律は、現役および予備役の陸・海両軍大将の中から、その両大臣を選ぶことができた。ところが、現役将校のみが天皇の命令による拘束をうけたので、理論的には、西園寺が推薦する首相候補者には、天皇の許可を受けなくとも、閣僚大臣の一人を指名することができた。天皇は、当然に、そうした内閣の承認を拒否することはできたが、それは儀礼慣行にそうものではなく、彼の偏狭性を見せることにもなりかねなかった。5月初め、枢密院は、天皇臨席のもとで、陸海軍大臣は現役軍人のみに限るという法律改正を広田内閣に推奨した。

内閣はその改正に同意し、裕仁は直ちにそれに署名して改正法が成立した。5月18日、その改正は既成事実となり、ただそれがいつ発効するかのみが報道界と世間に知らされた。裕仁と宮廷内部集団は、その発効日議論を、望ましくない内閣の組閣を阻止したり、独自に〔宮廷の意にそわない〕目的を進める内閣をつまづかせるための常套手段とした。かくして 「軍」 という正体不明の怪物が跋扈をはじめ、恐怖をいだき、敬虔で、タブーを避ける国民は、そうした――叛乱以降、裕仁が名実ともに軍の最高司令官となった――現実にしだいに無知であるようになった。# 9

 # 9 1913年から1936年の23年間に、そうした選任は可能であったにも拘わらず、予備役軍人から両軍大臣が選ばれた事例はなかった。しかし、1944年、厳密には違法でありながら、裕仁は、ただ海軍人事部を呼び、米内という名を現役名簿に復活させるだけで、予備役の海軍大臣を生みだした。

 そうした重大な改変が日本の構造に加えられている一方、2・26事件の主唱者たちは、沈黙のうちに姿を消しつつあった。本庄侍従武官長は、最初、寺内陸相によってその職にとどまるよう勧められていた。3月8日、陸相は本庄に、「私こそ、多くの問題をかかえる地位におります。どうか辞職はなさらんでもらいたい」 と留意を勧めた。

 しかし3月16日、本庄は日記にこう記している。 「寺内が来て、娘婿の山口の罪状についての詳しい情報をくれ、心配していると言ってくれた。・・・その日、山口の家族が私の家に引っ越してきた。彼らの家具は、山口の実家にあずけた。娘とその子供たちを私のところで暮らさせたい、というのがその実家からの要望だった。」

 翌日の3月17日、本庄は皇位に自分の辞任の意志を伝えた。 「陛下は 『どの程度、そちの家族は関与したのか』と聞かれた。私は、 『どの程度は存じませぬが、目下お状況において、優先事項は陸軍の粛正であり、もし事例を示さねばないらならば、辞任する責任を感じます』とお答えした。陛下は、『それはそうであろう。よく考えておく』 と答えられた。」

 3月28日までに、その辞任は受理された。本庄には、お金、美術品、自身の机上の一対の文珍などが贈られた。 「これらを貴殿に贈りたい。私が長く使ったものなので」と天皇は言った。皇太后は、プラチナのカフスボタン、鮮魚、そして、彼女がこしらえたお餅を贈った。4月22日、本庄は、南大将――満州事変時、本庄が仕えた陸相――と伴に、予備軍に着くことを命じられた。

  「愛着の情を禁じえない」 と彼は記した。

 他の被疑者は、はるかに厳しく扱われた。無骨だが誠実な北進派の二番手指導者の真崎大将は、一年半にわたり、憲兵によって拘束された。1936年の最後の週、あくまでも罪状を認めぬ彼は、一ヶ月のハンストを行い、その最後には、水さえ拒否した(101)。病院に担ぎ込まれ、薬品の効果で健康を回復させられた彼は、結局、友人の荒木大将――北進派の一番の指導者――が 「歴史上もっとも長文の法文書」と言う判決をもって、無罪放免となった。その文書は、真崎の大逆罪へのすべての関わりを克明に指摘し、取って付けたような主文により、無罪を判決していた。彼の赦免は、近衛親王の努力――分派主義の傷を癒し、戦争に備える国民的一致を作ろうとする――が大きく寄与していた(102)。

 山下少将――宮廷のために北進派の兵卒をスパイし、若手士官の叛乱にはどっちつかずの態度を示した――は、朝鮮軍の旅団司令官に再任命された。それまでの数ヶ月間、彼は、宮廷からの指示を余りに広く解釈し、叛乱を煽り過ぎたためにその沈静化を難しくさせてしまったのではないかと案じていた。彼の妻によれば、彼は落胆し、民間の仕事を探し始めていたという。そして1936年12月、彼の宮廷での接点であった元侍従武官の川岸文三郎が、彼の上司の司令官として朝鮮に赴任してきた。川岸はその際、天皇からの感謝と激励の文書を持参していた。それを読んだ後、山下は大いに元気付けられた。そして彼はしだいに裕仁からの信頼を得るようになり、1942年には、帝国のためにマレーを征服することとなる。(103)

 叛乱に加わった若手士官は、銃殺刑に処せられた。相沢中佐――一番烏永田を暗殺した――は、叛乱後は閉廷されていた軍法会議に戻され、5月7日、死刑の判決が下り、6月3日、執行された。9日後、生き残っていた叛乱軍の19人の士官のうちの13人が、相沢に続いて銃殺された。彼らは全員、法廷でその意志と意義の申し立てをしたいと希望していた。だが彼らは、開廷の一時間前、軍法会議法務士官より、それが完全非公開で開かれるのを知らされた(104)。

 彼らのほとんどは、その死の直前、天皇に 「万歳」 ――天皇の永久の命を祈る――を献上した。うち何人かは、失望させられた友人、秩父親王に、せせら笑う万歳を加えた。「自分の遺体は貴殿にお任せします」 と言い残した者もいた。ある一人は、 「自分はそうした特権階級者らの深い反省を願う」 と叫んだ。別の者は、もの静かにこう言い残した、「天国行きを前に、皆が天皇陛下のために万歳を唱している。ゆえに自分も、天皇陛下万歳、皇国万歳を繰り返します。」 (105)

 また、他の者は、陸軍に関するいっそう困難なメッセージを発しようと試みた。 「日本人が皇軍への絶対的信頼をおこうとすればするほど、その信頼は裏切られる。ロシアは中央アジアでは無敵であり、それが日本に破壊をもたらすのだ」。北進派は、その東端のウラジオストックへのみ、ロシア攻撃を考えていた。中国の主要都市と農業生産地帯の掌握の後、裕仁がモンゴル砂漠を横切って、ロシアの脇腹、中央アジアに攻撃をしかけるべきだった。だがそれは、試みないで終わろうとしていた。

 2・26事件に関わった民間人が銃殺刑に処された時、北一輝――北進派の老練理論家――は、その居並ぶ銃口を見下して言った。 「座らなければならんのか、それともこのままで構わんのか」。そこで銃殺班が座らそうとすると、彼は叫んだ。「座らせたいのか。キリストや佐倉宗吾(1645年に磔刑にされた義民)のようには、立たせておくわけにはいかんのだな」。 だが、彼のこの皮肉に耳を貸す者はおらず、1937年8月19日、報道陣に注目されることもなく、彼の処刑は実行された。それまで、日本人は彼の苦難の運命論の精神を共有していた。それまで、日本人は自らを、隊列を組んで前進させてきた。そしてかくして、日本人は、中国との戦争開始を、あと一ヶ月後に迫らせていた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_50_21_1.htm
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04. 中川隆 2013年3月01日 21:20:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた2・26事件の真相、全面開示

太田龍(週刊日本新聞)

2008年1月25日 日本義塾公開講義

今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか?

川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。

私が決起趣意書を読み上げてみます。


謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。

いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。

内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。

君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。

昭和十一年二月二十六日

っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。

バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。

しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。

これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。

この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。


「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。

これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。

そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか?

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。

つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか?

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。

これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。

いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。

それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。

何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。

それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。

裕仁は別のことを考えていた

それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。

薩摩と長州の宮中掌握

二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。

しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。

ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。

しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828〜1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。

それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835〜1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。

これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844〜1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。

私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。

という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856〜1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。

明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。

大正天皇のクーデタ

大正天皇が明治11年に生まれ、昭和天皇が明治35年(1901年)に生まれ、教育を受ける頃には、宮中のワンワールド支配が濃密に丹念に入念に準備されていたわけです。その結果、どういう現象が起きたか。大正天皇が32歳で天皇に即位する。その時にバーガミニは大正天皇の失敗・未発に終わったクーデタについて書いてます。それはこの本の第2巻で、いいだもも訳には省略されてる部分。

いいだももの要訳では、昭和天皇の時代は昭和3、4年ぐらいから始まる。それまで大正天皇の時代、摂政になる時代、昭和天皇が即位して最初の2,3年。この時代の記述はいいだももの訳には省略されてる。ところが重要な事がたくさん書いてあり、それを追って行かないと話が結びつかないのに、カットされてます。

大正天皇の不発のクーデタなんて、私は日本人の書いたものでは読んだことがない。クーデタとは何を意味するか? 山縣有朋は当時の元老です。大正天皇の時代の元老では、西園寺公望、山縣有朋、大隈重信、主要なのはその3人ぐらいです。大正天皇が山縣有朋と衝突するというんです。衝突って何を意味するかというと、西洋式のナポレオンとかアレキサンドル大王とかいった人物が大正天皇の理想像になったと言うんです。つまり、大正天皇はそういうふうに日本を、国家を、改造する気なんですよ。明治憲法によって作られた議会制度は余計だっていうわけですよ、大正天皇は。そんなものは廃止して天皇の絶対独裁の国家体制にしたいって大正天皇は考えた訳です。それがクーデタです。明治憲法(大日本帝国憲法)の議会で予算が審議されるでしょ。議会が予算を否決すると困っちゃうんです。政治的な焦点は、予算について言えば、日露戦争やって日本は莫大な外債(借金)を背負ってヒーヒーするわけですよ。それで国力を養わなくちゃならないというのが国民、政治家の大多数の意見だけど、しかし、それとは全然逆の方向、つまり日本を西洋をモデルとした帝国として建設に向かって急速に前進すべきだ、その為には陸軍と海軍を増強しなければならない、そして、それに反対する議会ってのは邪魔な奴だ。こんなものは蹴散らかして天皇絶対の国家体制にすべしと大正天皇は考え、それが大正天皇のクーデタだというのです。山縣有朋は、そんなとんでもない事を言うなという訳です。大正天皇に。山縣有朋と大正天皇が正面衝突しかかり、その時点では山縣と長州閥の勢力が圧倒的に強いから、大正天皇は押さえつけられて未発に終わったと書いてある。

こんなことは私は日本人が書いたこれまでの歴史で読んだことがないです。そして、裕仁は大正天皇の不発に終わったクーデタを諦めないで実行しようとする訳です。それが要するに基本なんです。立花隆が『天皇と東大』という本を書いたでしょ。文芸春秋に連載して、いろいろ補足して厚い本を出した。東京帝大の憲法学の教授が二人いて、その一人の上杉慎吉は議会を撲滅せよと言うんですよ。上杉憲法学の根本的なアジェンダは「議会なんていうのは天皇を神聖化する日本の国体に全く反するものだから議会を一刻も早く撲滅せよ」というもの。そこから右翼的な組織が出来たりどうのこうのと立花さんは説明してますけど、それは現象を言ってるだけであって、上杉っていう学者の話じゃありませんよ。もっと根の深い話で、大正天皇が傀儡として議会は邪魔だって言い始めたんですから。邪魔だっていうのは、大正デモクラシーの時代にはとんでもないアナクロニズムで、問題外だと多くの人が思ったかもしれないけど、ところがそうはならないですよ。

昭和になってクーデタ、暗殺、その他、諸々わっと出てきて、二・二六を昭和天皇が完全に圧殺・抹殺した後は、文字通り議会は消えて、お前ら消えて無くなれってふうになって、大政翼賛会でね、陸軍にちょっとでも逆らうような政治家は暴力的に黙らせるというふうに、実現してしまう。イルミナティのワンワールドの意思が働かなければ、日本の純粋な国内の状況でそんな現象は起きないですよ。

ザビエル以来の日本全滅計画

しかしそういう事が何故要求されるのか? 私の『ユダヤの日本侵略450年の秘密』という本に書いてますが、ザビエルが日本に来て「日本はこの地上から抹殺されるべきだ」「日本人はこの地上で生きていてはならない民族だ」「これは我々にとって極めて危険な強力な敵になる可能性があるから一刻も早く一人残らず皆殺しだ」と、ザビエルはイルミナティ本部に申告しているんです。450年あまり、イルミナティの対日アジェンダはずっと継続してます。

家康が鎖国をして次にペリーがやってきたでしょ。ペリーがやってきたら、日本の内部から崩れて、孝明天皇が殺されて日本は既に仮死状態ですよ。神経麻痺してます。ゾンビ人間みたいなものですね。その後に出来た日本の天皇を中心とする支配階級はイルミナティの檻の中に入っている実験動物のネズミのようなものです。孝明天皇弑逆事件以降、主体的な意志を持つことは許されていないんです。

しかし、彼らが日本を完全に抹殺するには日本の独自の軍隊を完全に破壊しないとだめです。独自の武力を破壊して日本全土をイルミナティの軍隊が占領しないと、話は先に進まないです。それはなかなか難しいです。米国は太平洋の遥か向こうにいるでしょ、英国に至っては太平洋どころか延々と日本にやって来て英国が日本を占領する大軍隊を日本に派遣するなんてことは夢物語にもならないです。したがって英国は別のエージェントを使って日本を占領させないとだめでしょう。英国を本部とするイルミナティは、あれこれ謀略の限りを尽くしているわけですよ。

ペリーが来て日本はイルミナティの資本主義のルールの中に取り込まれた。それだけでは話は全然進まないですから、日本全土を占領して日本の陸軍も海軍も一兵も残さず一掃する、消してしまう。話は簡単だけど実行するのは難しいですよ。その為には日本を扇動して、西洋式の帝国主義になる、成り上がるという気持ちを起こさせ、その為に強大な軍隊が必要、陸軍も海軍も強くしなければということにしないといけない。そんな事をすると一般の日本人は汲々として生きていかれないような状況になります。当然ながら一般は日本人はそんな事は嫌だと言うでしょう。そんな事はヤダよと言わせないようにしないといけませんよ。そもそも議会というのが邪魔だとなります。

陸軍でも海軍でも良識的な優れた軍人はね、負けるに決まっている戦争はやらないです。そんな戦争はやるな、自分は反対だというでしょう。そういう反対する良識的な軍人は全部抹殺しないといけません。そしてイルミナティの命令どおり、最終的に日本は満州を占領して、中国全土を占領して、東南アジアも占領して、英国と戦争して、アメリカとも全面戦争して、ソ連とも全面戦争してと、そういうふうにするアジェンダというか、そういう軌跡というか、そういう方向に日本を突き進めないとだめですよ。

普通の日本人、日本の指導者でも政治家でも官僚でも陸軍の軍人でも海軍の軍人でも、多少でもまともな良識持っていれば、そんな事は自分は反対だって言うでしょうよ。そんな事やったら日本が全滅するのは子供だってわかる道理ですから、反対だって言いますよ。だがそんな事でイルミナティは諦めない。そこを何とかして謀略の限りを尽くし、良識的な官僚、政治家、知識人、陸軍軍人、海軍軍人を、みな追放して、イルミナティの挑発、プロパガンダ、謀略にほいほい乗ってくれるアホを日本のトップにして、全世界を敵にして百戦百敗の戦争に突っ込むようにもっていかないといけない。

そんな事は普通の国家体制では出来ませんよ。ほとんど全国民が嫌がることをやらせるには仕掛けが必要です。その仕掛けが絶対主義的天皇制度だった。天皇とは天照大御神から直系した現人神であり、日本の精神をすべて支配し、権力をすべて支配し、天皇の為に死ぬ事が最高の名誉であって、天皇に一言でも批判したり何か言うだけで特高警察がやって来て撃ち殺されても当然だという具合に日本の空気を持っていかないといけません。そういう仕掛けが二・二六の後、日本に完成したんですよ。

そういうふうに二・二六を見ないといけません。二・二六までは陸軍の将官の圧倒的多数は中国との戦争には反対です。当たり前です。最終的に日本はずるずる中国大陸に引きずり込まれて、昭和20年敗戦の時には、日本の陸軍は約100万人の軍を中国全土に占領軍として派遣した。100万の軍隊というのは口で言うのは簡単だけど途轍もない事ですよ。しかも、100万の陸軍の兵隊を中国戦線で維持しながら、さらに英国(英国がアジアに向ける国力は少しだが)と、モロに国力の半分を日本に向けるアメリカと、そういう戦争に向かって突入していく。気が狂ってなければこんな事はしません。普通の日本人であればこんな事はしません。しかしそれに反対すると天皇が出てくる訳です。天皇の命令に反すると直ちに死を意味する。殺されて何も言えないって具合になる。そういう仕掛けが完成したのが二・二六の後です。

二・二六、そして日支事変があって、その後どんどん戦争が拡大していくでしょ。それで予定通り日本は敗戦してイルミナティが日本全土を占領したんです。今に至るまで占領体制下にあります。占領してしまえば、日本は完全に籠の中の鳥、檻の中のネズミとして彼らがどうするのも自由自在。そうなってるでしょ。

根本的な当事者は裕仁だ

日本人には今に至るまでその歴史が一向に釈然としない。釈然としないから二・二六について非常に多くの人がいろんなことをあれこれ言うけどね、しかし一向に問題の真相、本丸に迫らないんですよ。鳥居民という人が『近衛文麿、黙して死す』という本を一昨年出しています。近衛文麿と木戸幸一が元宮中の中枢に近い二人の人物でしょ。近衛文麿は陸軍の一部(統制派)による中国に対する全面戦争には全く反対したんです。一方、木戸幸一は統制派の陸軍とともに陸軍による中国全土占領政策に舵を切るんです。にもかかわらず、大東亜戦争、東京裁判のあと、日本では近衛が悪玉で木戸が善玉になっている。非常におかしい。全くおかしな世論操作が行われているんじゃないかと、この人(鳥居民氏)は言った。

二・二六についても決起青年将校の趣旨が若干でも日本の国家に取り入れられれば、その後、日支事変、中国に対する戦争も開始しないし、その後の全面的な戦争とは全然別の路線を日本はとったはずだけど、その時点で昭和天皇に対して方針・政策を提案する決定的な立場にあった木戸幸一は、二・二六に対して即時徹底的に鎮圧すべきという方針を提起して、昭和天皇はすぐにそれに賛成して、そういうふうに進んでしまったっていうわけで。

近衞は全く別の方針だったけれど、近衞は全く排除されたという風なことを言ってます。だから木戸は二・二六の後の方針についても、それから日本が米国との戦争を回避するかという議論でも、近衞は全く反対したんですね。近衞は、日本は中国から陸軍を全面的に撤兵して、米国と交渉し直して、米国と戦争しないような方向に持っていくべきだと言ったけれども、木戸は陸軍中枢部の線に沿って、中国からの撤兵反対、アメリカとの戦争辞さず、そして実際にアメリカとの戦争というふうに持っていった主犯であるとこの人は言っている。

しかし日本人は、今更そういうことを言われても全然ピンと来ない。というか、今更そんなことを言ってもしょうがないんじゃないかということで終わりになっちゃうわけです。

木戸幸一じゃなくて根本的な当事者は昭和天皇なんです。鳥居って人はそのことには触れることはできない、そのことに触れるとそれはたちまち現代日本の体制を支配している絶対的なタブーと衝突して、自分の方がぺっちゃんこになるかもしれない、だからそういうことはしないというわけです。従って今まで昭和天皇を弾劾する、昭和天皇の政策を告発する、それを否定する、昭和天皇が反日本的な方針を強行したということについては一言も言えない、そういう呪縛が日本人を縛り続けているんですね。

どの識者にもイルミナティ(英・米・露という国家の枠を超えた存在、
自由主義・共産主義という思想の枠を超えた存在)が見えていない

バーガミニは、昭和初年以降の、満州事変以降の日本の戦争の主犯は、その主たる決定者は昭和天皇だという説を立てて、論証していく。だから昭和天皇の陰謀ってわけだ。日本ではいかなる実力者もいかなる人間も政治家も軍人も官僚も、昭和天皇の意思に異議を唱えることはできない。満州事変以降、日本の戦争期間中に総理大臣がたくさん替わっているでしょう。一年か二年ぐらい、ひょっとすると一年未満で辞めたりして、非常にたくさんの総理大臣が替わってます。そういう人たちが共同謀議をして一貫した日本の戦争拡大を遂行するなんてありえない。その方向の主犯、謀議の中心は昭和天皇なんです。昭和天皇は側近を通じてその政策を実行したと一応バーガミニは書いている。その(表面の)現象は書いてある。昭和天皇の背後に存在する勢力についてはバーガミニには分からないんですよ。だから本当にちゃんと調べて自分は解明した、昭和天皇の時代の日本の歴史の真相を解明したと思ったところが、それにアメリカのためにもすごく大きな仕事をした、みんな褒めてくれるよと思ったところが、たちまち背後から襲われて、なんだか訳のわからないうちに潰されちゃうんですよ。彼には見えないイルミナティのアジェンダの中に日本が設定され、日本が取り込まれていて、その結果いろんな現象が出て来るってことがバーガミニには分からない。

私は『ユダヤの日本占領計画』という本の中で、日支闘争計画について割と詳しく説明してます。渡部悌治先生の『ユダヤは日本に何をしたか』という本の中にも日支闘争計画については説明してあります。日支闘争計画というのは1918年の秋、モスクワで全ユダヤ会議の代表とボルシェビキ政権の代表と、イルミナティの代表が集まって日支闘争計画という長期計画を立てた。それは日本と中国を戦わせる。日本と中国の全面戦争に持っていく。その過程で共産主義が中国の中で主導権を取るように持っていく。そしてその次に日本に対してアメリカとの戦争、英国との戦争、最後に共産ソ連との戦争、に持っていく、そして最終的に中国も日本も同時に我々が支配する、そういう計画を立てたというんですね。それがロシア語の新聞に載っていたものを日本の諜報機関が手に入れて、東京に報告したけど、その意味が全然わからないままになっていると渡部先生は言ってます。渡部悌治先生が仰るには、その問題の情報が載っているロシア語の新聞は、1918年の秋に行われたのですからそのあとなんでしょうね、国会図書館にありますよとおっしゃっていました。あいにく私はそれを調べてないんですけど、国会図書館にまだ保存されているなら、ロシア語のわかる人が見れば出てくるでしょう。

それで日支闘争計画というのは、ボルシェビキ共産政権、コミンテルン、共産主義の勢力だけじゃなくて、全世界のユダヤ人組織の代表が入ってる。それからイルミナティの代表が入ってると説明されています。日支闘争計画というのは、ソ連共産主義政権の単独のプログラムではない。全世界のユダヤ人組織、イルミナティの世界組織の計画でもある。真相に迫ろうとする人は、そのところで止まってしまっているんです。

二・二六事件研究家の山口富永(ひさなが)氏。國民新聞という右翼の月刊新聞をずっと購読してて、この山口という人の文章を読んだら、面白いことを言ってると思ったんですけど、最近バーガーミ二の本を読んだら、改めてこの人を注目しなくちゃと思ったんです。

平成2年に出版された『二・二六事件の偽史を撃つ』を最近山口さんから送って頂いた。山口さんは1924年生まれですから、戦争末期軍隊に徴集されたんですね。少年時代、中学生の頃からでしょうか、真崎甚三郎大将と交流があって手紙のやりとりをして、真崎大将と皇道派の志と方針に全面的に共鳴した人なんです。たいていの人は少年時代の話はしばらく経つと忘れちゃって、捨てちゃってサヨナラするのが普通ですけど、この人は84歳に至るまで真剣にそのことを追求しています。

これは最近、連載されたものです。皇道派の真崎大将は、日本の国力相応の軍備強化(口先だけの外交は不可)、戦争の拡大は絶対に反対という人ですからね。真崎大将はイルミナティからすれば、大変邪魔なんです。無自覚的にイルミナティのエージェントにならされた統制派の人たちは、裕仁の直系の軍人でもあるんですよ。統制派の最たる者が有名な永田鉄山少将で、相沢中佐に陸軍省の中で惨殺された(1935年)。永田鉄山がイルミナティの道具として使われた最も代表的な軍人でしょう。

イルミナティにとって真崎は邪魔だから排除しようとした。二・二六事件を奇貨(きっかけ)にして、二・二六事件の共犯者だと称して(真崎を)逮捕して調べたんですけど、陸軍の司法部、陸軍の軍事裁判は無罪の判決を下したんです。もともと何の関係もないですから。皇道派の真崎大将は、イルミナティが日本の完全抹殺に向かって決定的に歩を進めようとするときに、日本の陸軍の良識的な部分として、しかも陸軍の軍人から絶大な信頼を得ていた。そういう人物の排除が、至上命令だったことがよくわかります。

したがって、私は、昭和天皇が二・二六事件の主犯である、日本を滅亡に追い込んだ国賊である、日本の歴史上もっとも顕著なもっとも極悪の国賊である、という風に昭和天皇・裕仁にレッテルを貼り付ける必要があると思います。そういう風に価値観を変えないとダメです。

明治天皇と昭和天皇は全然異質なんです。明治天皇は15歳までは、大室寅之祐、普通の日本人ですからね。傀儡とされたけども、薩長の藩閥の傀儡なんです。それを通じてイルミナティの傀儡に位置づけられたけど、少年時代は日本人として教育されているから、そう簡単には動かされないんですよ。西南戦争で、大久保・木戸一派が、とにかく「西郷を殺せ」っていうけど、明治天皇は本心では絶対反対なんですよ。大久保と木戸は、明治天皇に、西南戦争の最前線に立って、大本営を広島辺りに持っていって、天皇の威光でとせっついたけれども、明治天皇はそれを拒否して、宮中に篭ったまま外に出てこない。これは歴史に残ってます。明治天皇は反対なんですよ。

西南戦争で西郷さんが死んだ後、木戸が途中で病死、大久保は明治11年に殺され、岩倉は明治16年に病死した。その後、明治天皇は西郷隆盛の名誉を回復しろと命令し、それは実行されたんです。「西郷隆盛の遺族はどうしてる?」と明治天皇が尋ねて、調べたら、妻子は山中に隠れてひっそりしていたことがわかって、どうこうとなるわけです。一刻も早く名誉を回復させよと、明治天皇が言うわけです。次に日清戦争を起こすでしょ。明治天皇は日清戦争は反対なんです。しかし、薩長藩閥政権はイルミナティの傀儡だから、明治天皇がなんと言おうとも問題にしないんですよ。明治天皇の意思に反して、日本は日清戦争に突っ込んだわけですよ。

私が『長州の天皇征伐』という本を書いて出すときに、出版社が「明治天皇国賊論」という案をいってきたんですが、明治天皇を国賊と言い切るわけにもいかないんですよ。しかし、昭和天皇は、明々白々、歴然たる日本史上最悪の売国奴です。日本全土を今に至るまでイルミナティの占領下において、日本はその命令通り日銀の利子をゼロに近づけて十何年やっているんですからね。そのお金をユダヤ・アメリカ・イルミナティがただ持っていって盗っていることに、日本の国家は何も言えない。日本の占領はますます強化されてますよ。そういう状態にしろと言われ、その通りに実行したのが裕仁なんですよ。裕仁は日本史上極悪の売国奴だと私は考えてます。裕仁については「国賊・昭和天皇」と言うべき時だと思います。そういう風に日本人の価値観を変えないとだめです。明治天皇は違いますよ。昭和天皇はイルミナティの傀儡として百点満点というわけです。

二・二六でイルミナティの傀儡としての昭和天皇を独裁者としておくことが必要だった。そうしないと、百戦百敗、完全に惨敗して、日本が滅亡することが決まっているような、中国に対する戦争、中国に対する全面戦争はやがて、松岡洋右が当時言ったように、必ず米国との戦争に日本は引っ張り込まれ、最終的にソ連との戦争となる。日本は全世界を敵にして、滅亡するしかない。松岡洋右はそう言ってます。松岡は外務大臣で、昭和天皇が大嫌いなんです。裕仁は松岡についてあれこれ悪態をついてます。

日本を全世界に対する無謀な、惨敗して滅亡するしかない状況に持っていくために、裕仁は使われ、その通りに裕仁は演技したんですよ。これを売国奴と言わずして何と言うんですか? 二・二六事件は、それを象徴的に表しているんです。陸軍の将官が全員、決起将校の心情、政策、志をちゃんと評価すべきだと言ったんです。しかし、昭和天皇はそんなものは問題外だと排除した。バーガミニはそれを「政治戦に裕仁は勝利した」って言ってるんですけど、その通りです。

日本の蘇生には真崎大将の名誉回復が絶対必要条件

二・二六事件についてそう考えると、真崎甚三郎大将の遺志が、今、非常に重要になっている。日本人が、真崎大将の名誉回復をすることが、滅亡寸前の日本の再生と蘇生のために絶対必要条件だと、私は、山口さんの本を読んで気が付いたんです。

この山口さんが、昭和19年に陸軍に徴集されて入隊する時に、真崎大将を訪問した。山口さんが、真崎大将に「今、日本に天皇陛下はおられるのですか?」って聞いたそうです。そしたら真崎大将は「二・二六の将校もそれを嘆いて死んでいった」と言われたと。昭和19年のことです。山口さんは皇道派の志に同調してたから、「今の天皇というのはなんだ?」「あれは本物の天皇なのか?」「今は日本に天皇はおられるんですか?」という疑問が出てきたわけですよ。本当にその通りですよ。実際、銃殺刑に処せられる青年将校十何名の中には、天皇を公で批判した人もいるし、批判しない人もいるけど、と言ってますね。山口さんは非常に重要なことにちゃんと迫ってます。しかし、「裕仁は国賊だ、売国奴だ」とはっきり言い切るのは、日本人にとっては難しいです。左翼はイルミナティの虎の威を借りて「昭和天皇は戦犯だ」とわめくんです。彼らはイルミナティの手先ですからね。イルミナティの虎の威を借りてあれこれ言っているだけのくだらない人達です。左翼そのものがイルミナティのエージェントとして日本をイルミナティに売る売国奴ですから、こういう人たちは問題外。日本人の立場として日本民族の立場から見て昭和天皇とは一体なんだ? そのことに今までで一番接近しているのは、二・二六事件に全然関係ないのに逮捕された皇道派の首領である真崎大将ですね。

真崎大将が「東條ごときはものの数でもないが、自分に対する圧迫が宮中からずっと来た、そのことが一番難しい、苦しいところだった」という趣旨のことを言ったと書いてあります。宮中ってなんですか? 木戸内大臣は天皇の番頭であって、権力そのものじゃないです。宮中ってのは昭和天皇でしょ。しかし真崎大将も昭和天皇に対してストレートにそれを告発する、それを批評することが心理的にできないんですよ。

それを超えることができなければ日本の民族はもう終わりですよ、と私は思います。つまり、イルミナティは孝明天皇を弑逆させて、その辺りに傀儡を作って、明治天皇はなかなかイルミナティからすれば素直じゃないでしょ。大正天皇は明治11年生まれですから、それを教育する宮中はワンワールドの手先。完全に支配してるんだからね。昭和天皇に至っては明治34年生まれですから、ワンワールドによる宮中の支配は完璧になってます。裕仁はイルミナティの純粋培養の作品です。イルミナティの傀儡として終始し、摂政の時代も、昭和前期も、占領中も、一応講和回復後も、イルミナティの言う通り期待通り百点満点と評価していい存在だった。

そうして日本は敗戦、講和回復しても昭和天皇の言うとおりに、ずっと占領下にあります。その件について多少真相に迫った学者などが2〜3名存在します。その学者の研究によれば、朝鮮戦争が起きて米国政府が日本との講和条約交渉を始める。その時に吉田茂首相は常識として当たり前だけど、講和が締結すれば戦争は終結だから米軍は全部撤退する、それが当然と思って進めていた。ところがなんと昭和天皇が吉田首相の頭越しに、吉田首相の知らないところで裏取引、秘密交渉をやるわけですよ。秘密交渉の相手はダレスです。ダレスは共和党系だけど、民主党政権でも有力な外交顧問になってた。対日講和条約はダレスが主任となった。ダレスと言うのは1920年代からロックフェラー財団の最有力者で、イルミナティのコンコンチキですよ。そういう人物と裏取引、直取引して昭和天皇は吉田茂の方針を否定して、講和条約締結後も無期限に日本は米軍に軍事基地を提供する、というよりも米軍に無期限に日本に駐留してもらいたい、と言うわけです。沖縄に至っては50年くらい、事実上半永久的に米国の領土として日本は認める考えがあるということをダレスに対して昭和天皇は言うわけですよ。

これは何なんですか?

これを売国奴と言わずして何というんですか?

日本人が正式に選んだ吉田茂首相とその内閣、吉田茂は常識として戦争終結したら米軍は日本全土から撤退する、そういう当然の前提のもとに講和交渉を始めたんです。当たり前のことじゃないですか。それを昭和天皇が横やりを出して、ダメだというわけです。率直に言えば、日本は米国に無期限に占領してもらいたいと言うわけです。

これは何なんですか? その結果、今のようになってんですよ。これは何なんですか?

しかしこれは昭和天皇の日本に対する無数の裏切りの一つに過ぎません。しかしながら日本人はそのことを公然と報道し、論評し、批評する自由を全く与えられてないんです。というよりは、日本人がその言論の自由を行使する気力を奪われているんです。これは日本が刻々急速に滅亡していく、そういう絶対的な心理的条件以外の何ものでもないと私は思います。しかしそうなった歴史的背景は何なのか? そういうことを日本人には真剣に考える必要があります。

天皇=イルミナティの傀儡、として歴史の再検証を

別の話になるんですけど、日本でユダヤ・フリーメーソン批判を最初にやってずっと最後まで主要な指導的な役割を果たした、四王天延孝陸軍中将〔1879〜1962年〕は、士官学校、陸軍大学を出た日本の陸軍のエリートコースの一人です。そして第一次世界大戦中フランスに観戦武官として派遣されていたんですね。そうしているうちにフランス人にいろいろ友人ができて、その友人から「この戦争はお前、ユダヤが始めた、主体はユダヤだということを知っているか?」って言われるんです。それを聞き逃す人もいるかもしれないけど、四王天さんは真剣に受け止めて研究をはじめるわけです。一体これは何だ? 今は違うでしょうけど、その頃のフランスには非常にたくさんのユダヤ・フリーメーソンに批判的な文書・言論があったんです。そういうものをたくさん集めて、真剣に研究調査していくわけです。

第一次大戦中の観戦武官として派遣されるのは、紛れもない軍のエリートコースですよ。第一次大戦以降日本はシベリア出兵するんですけど、四王天さんは満州の北部に陸軍の諜報機関の事務所を作って、反ボルシェビキ、反共産主義的ロシア人と接触していろいろ情報を得たり工作したりするんです。そういうことを通じてボルシェビキ共産革命が国際ユダヤによって計画され実行されたという話を聞いて、たくさん情報を集める。そうして四王天さんは最も早い時期から日本でユダヤ・フリーメーソンに対する批判、思想戦、それに対する対策、そういうものをずっとやってたわけです。

国際連盟ができると、日本はその頃の世界の主要5カ国の一つになるんですね。その主要5カ国が国際連盟の軍事委員会を作る。日本の陸軍はその国際連盟の軍事委員会の日本軍の代表として四王天さんを派遣するんですよ、ジュネーブに行きます。その頃、陸軍少将になってるんじゃないでしょうか。そういうコースは、軍のエリート・コースですよ。

ところが、ジュネーブから帰任すると、すごく露骨に左遷されるんです。名古屋師団付といっても特別な仕事は何もない、完全な閑職、クビ寸前の地位に置かれる。それでも、四王天さんは日本全国を奔走して、一般の日本人に対して、ユダヤ・フリーメーソンの危険を警告する講演会をたくさんやっているんです。そしたら、上原勇作元帥がじきじきにやってきて、「お前はユダヤ問題なんていうくだらないことはもうやめろ」と言うんだって。「いや、それはできません」と言ったら、たちまちのうちに四王天さんは、陸軍退役ですよ。陸軍からクビです。だから、上原勇作って言う人は何かって思うでしょう。

四王天さんは、昭和16年、大東亜戦争が始まる年に有名な『猶太(ユダヤ)思想及運動』という本を出したんです。その本の序文のなかで、四王天さんは、以前はユダヤ問題を自分がやっていくと、上のほうからやめさせる圧力が非常に強くかかってきて、最近はその頃に比べればずいぶん違ってきた、そんなことを書いていますよ。一番上ってどこかって言ったら、天皇と宮中以外にないですよ。日本のシステムでは。

落合莞爾(かんじ)さんの話では、上原勇作はフランスに留学中にフリーメーソンに加入している。上原元帥は明確なワン・ワールド、フリーメーソンだと言っています。従って、日本では、陸軍・海軍・財界・その他、明治以降の中枢部に、ワン・ワールド、フリーメーソンの指揮系統がずっと機能している、機能していたと見ることができます。

渡部悌治先生は『ユダヤは日本に何をしたか』のなかで、二・二六も背後では、ユダヤ国際資本が操っていたと言って、あまり詳述してないですけど、そう言っています。従って私たちは、地球を支配している、ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティといった勢力をちゃんと確認して、明確に意識して、デーヴィッド・アイクは『グローバル・コンスピラシー』という本を出してますが、そういう枠組みのなかで、もう一度日本の歴史を見直すことが必要です。グローバル・コンスピラシーという大きな枠組みのなかで、孝明天皇弑逆と、それ以降イルミナティの傀儡として作られた歴代天皇、こういうものを批判的、客観的、詳細に検証していく精神的・心理的な力が必要です。

今の日本では、天皇をあれこれ批判したりすること自体が絶対禁止されている。別に法律で禁止されているわけではないけど、自分の内心で押さえつけている。あるいはイルミナティの有力な御用機関として、右翼と称する反日本的な売国奴集団が暴力で脅迫する、そういうことを通じて、発言・言論を抑えてるんです。しかし私は、その精神的呪縛を断ち切らないと日本は完全に滅亡していくだけだと思います。

「今、日本に天皇はおられるのでしょうか?」

私は山口富永(ひさなが)さんを國民新聞で読んでたんですけど、そういうことに最近気がついて、ちゃんとやることにしようと思って連絡しました。この本は平成2年に国民出版社から出てもう絶版で、国民出版社には在庫はなくて、山口さんの手元に若干在庫はあるそうですから、私がほぼ全部50冊くらい買取ることにしたんです。だから、是非皆さん読んで頂きたい。山口さんは、昭和19年、軍隊に入るという時に、「今日本に天皇はおられるのでしょうか?」っていう大胆な質問を真崎大将にしたというんですから、この人の心はちゃんとしていますよ。だから六十数年経った現在でも、しっかりした文章を書いておられるんでしょう。しかしこの人も、世界のイルミナティ・フリーメーソンの陰謀、グローバル・コンスピラシーの存在にはまだ気がついておられないんです。

でも、それは私達がちゃんとやっていく事であって、この人が成し遂げられた仕事は評価していく必要がある。それから、真崎大将の名誉を復権することが絶対必要条件だと私は思います。真崎大将も、昭和天皇がおかしいんじゃないかと内心確信されたじゃないかというふうに推測するんです。しかし、それを言葉に出して言うことは出来ないんですよ。だから、東條ごときは、せいぜい少将どまりの馬車引きくらいが適当な男で、問題視しない。しかし「宮中」が問題なんです。「宮中」とは裕仁のこと。それを何とかしないと、日本はどうにもならないんじゃないか?ということを真崎大将ははっきり認識していたと私は思います。

山口さんが昭和19年に軍隊に入る時に「今日本に天皇はおられるのでしょうか?」と聞くって事は、天皇はいないんじゃないかという気持ちがないと、そういう質問は出てこない。いや、昭和天皇と称する者はいったい何だ?となるでしょう。内心、心の奥にはそういう失望があるわけですよ。そういう必然的な思考の過程、行動の過程として、私がそろそろ問題を前面に押し出さなければならないと思っています。

二・二六事件については、完全に真相が隠蔽されているのみならず、Disinformation(偽情報)が日本人に徹底的に刷り込まれてます。それを転覆するには我々の価値観を変える必要があります。真崎大将の名誉回復は、とっかかりとして重要であり、意味があると思います。

鳥居民という人の本を、まともに読んだことがないけど、この本はざっと読んだ。そしたら木戸幸一を一所懸命叩いてるわけですよ。今更木戸幸一をぶっ叩いてどうなるんですか? 東京裁判で終身刑、その後釈放されて昭和天皇に即優遇されて頭をなでられた木戸幸一を叩いても何も生まれない。この人はすごく臆病な人ですよ〔為清註:臆病だからこそ慎重・入念に策謀するわけで、木戸という人物は決して侮れないと思う〕。臆病というのが今の日本民族にとって一番危険な心理なんですよ。臆病を克服しないと日本はもう生き延びる事も蘇生することも出来ないです。臆病、恐怖を超えるってことをデーヴィッド・アイクは一所懸命言ってます。李洪志の法輪功でも言ってますね。恐怖を超えるには大変高い心理的、精神的次元が要求されます。恐怖を超えるということの意味は中々一筋縄ではないですね。その話はまた別にしましょう。

私は二・二六事件について、初めて本格的に、日本人が真相に迫る動きを始めないといけないと考えてます。私の話を一応終わりにして、皆さんの質問を紙に書いて頂いても口頭でもいいですけど、ちょっと休憩して質問を受けます。何枚か重要な文章のコピーを配りましたので、よくお読みください。

近衛上奏文を無視した裕仁

それでは私の話を続けますね。

日本の国家の中枢部は天皇ですね。中枢に一番近いのは近衛公爵と木戸幸一内大臣。そして木戸と近衛の対立については少し言われてることがありますけど、この鳥居さんの本で比較的詳しく説明されている。しかし鳥居さんの著述家としての立場は大変臆病で、私はあまり感心しないです。

山口富永さんが国民新聞の一面欄に連載物語でいろいろ書いている。昭和19年(20年の誤り)の初め、有名な「近衛上奏文」というのがあるでしょう。近衛文麿が昭和天皇に対して上奏文を提出したって言うんです。その上奏文の筆者は岩淵辰雄という政治評論家だと山口さんは言っています。岩淵辰雄って名前、聞いたことありませんか? この人は戦前、戦時中、戦争後しばらくの間、非常に活躍した重要な政治評論家です。岩淵さんは、真崎大将、皇道派に近い立場の評論家なんです。

それで、近衛文麿が昭和20年の初めに昭和天皇に提出した上奏文の作者は岩淵辰雄であると言ってます。岩淵辰雄は近衛さんを中心にして終戦工作をやったと言うんです。終戦工作とは、単なる評論活動ではなく、岩淵さんと近衛公爵を中心とするグループは、昭和天皇を説得して真崎大将を陸軍大臣にする考えだった。小畑敏四郎というのは皇道派で、退けられていた人です。陸軍中将で予備役になったのではないでしょうか。その小畑敏四郎中将を参謀総長、そして近衛さんを首相って訳です。

そういう体制で日本の国策を完全に一変させる方針を立てたと山口さんは説明してます。もしもそういう構想が実現した場合には、真崎大将は皇道派の総帥として中国との全面戦争にも米英の戦争にも絶対反対の立場ですから、なすべきじゃない戦争を実行した陸海軍(特に陸軍)の主要な指導者ら戦争責任者を何百人も一斉に逮捕して裁判にかけて、日本の国策・外交方針を完全に一変する、そして中国から撤退して米英と講和交渉する、という方針を立てていたと書いてます。

その一環として岩淵辰雄が書いた近衛さんの上奏文を天皇に提出したけれど、天皇はぜんぜん相手にしない。そして東條内閣、憲兵隊の操作を通じて、そうした謀略をした連中を一斉に逮捕する。その逮捕した中に吉田茂も入ってたんじゃないですか。で、この構想は実現しなかったと言ってます。これは東條がどうこうという話ではないです。首謀者は昭和天皇ですから。昭和天皇に上奏文を出してもお話にならないです。だけど、何もしないでいる訳にはいかないから、そういう計画を立てて動いたということでしょう。しかし、その計画にとって決定的な障害物は昭和天皇自身ですから、それは無意味です。

近衛上奏文はその時点で東條政権の憲兵隊を通じて弾圧して、近衛上奏文そのものが見えないように、無いことにされてしまったんじゃないですか。だから日本人は未だに近衛公爵の工作とか背景とか、その構想とか上奏文そのものとか、普通の日本人は知りません。近衛上奏文という言葉はチラッと目についた人もいるかもしれませんけど、普通の日本人は今何も知りません。

しかしそういう事が万が一実現され、真崎陸軍大臣という政権が実現されたとしたら・・・。小畑敏四郎という人は色々因縁があるんですよ。バーガミニは、1920年(大正9年)、ドイツのバーデンバーデンという温泉地でヨーロッパ在勤の陸軍の少佐クラスの将校が集まって国家改造計画を立てたっていう訳です。有名な話です。その中心人物は永田鉄山(当時は少佐)。小畑敏四郎は、そのバーデンバーデンの三羽烏(永田と小畑ともう一人)の一人です。小畑敏四郎のほうは、昭和になるにつれて、中国に対する戦争、中国全土を占領してさらに南進するという基本的な国策に反対の立場だった。だから永田鉄山、東條とは反対の立場だった。したがって、昭和10年前後、小畑敏四郎は中将で退けられて失脚、というか排除された訳です。

それで小畑敏四郎を参謀総長っていう話が出てくる。そういう体制だったら、真崎大将が、統制派、日本を中国、全世界との戦争に引きずり込んだ主要な責任者を全員逮捕して裁判にかけ、一掃するだろうと書いてあります。そうして日本が国家体制・基本政策・国策・外交政策・戦争政策を完全に一変する、そして中国から全面撤兵して蒋介石と講和することを目標に立てた訳です。

そうなると、戦争を実行してきた東條たち統制派の軍人にとっては自滅ですから、絶対に抵抗して排除する、芽を摘むという行動をとるでしょう。東條の憲兵隊は当時はちゃんと生きて働いているから忽ち摘発されて潰された訳です。

「軍部に操られた平和主義者の天皇」というイメージ作り

しかし、昭和天皇とその側近はそれとは全く別な形で米英との平和交渉に入っていく。そのやり方については鬼塚さんが『日本の一番醜い日』という本の中で詳しく書いてます。つまり昭和20年8月15日、昭和天皇はラジオ放送で「敗戦」といった放送をする。その時にまったく偽装の対天皇、対日本政府のクーデタを演出して、危ないところで昭和天皇の放送が実現したという話を作っているけど、それは裕仁と、三笠宮が主たる助手になって、でっち上げた話。そのクーデタによって、昭和天皇は、昭和初年来の戦争また戦争、全世界を敵にして日本が全滅する戦争を推進した軍国主義者の姿から、平和と民主主義の人、連合国の忠実なエージェントへと、一夜の内に変身する。そうした目的の偽のクーデタを実現し、連合国とは裏取引をして、昭和天皇は戦争犯罪から免責されて、占領軍の協力者として温存・保護される、という具合にひょいと変わる事を目的とした偽のクーデタを実行する訳です。それが裕仁のやり方です。

裕仁は、皇道派を復権させると自分の身に火の粉が降りかかる、自分の身すらやばい可能性が大であるし、名誉も何もおかしくなるから、東條を使って完全に消した。近衛さんを中心とする皇道派を復権させて日本が全面的に戦争を停止し、中国から自発的に撤兵して蒋介石政権と講和して、という方向に転換するのを阻止した訳です。

もしも近衛・真崎のラインで日本が方向転換すれば、敗戦後の日本は今のような状況にはなってない事は確実です。すべてを失い、民族の魂を失い、どんどん堕落して滅亡に転落していく方向になってないですよ。しかし裕仁はそこでも明確に日本民族を裏切ったんですよ。日本民族をイルミナティに売り渡した。売り渡した事によって裕仁と一族の身の安全を担保し、保障してもらった訳です。こうして裕仁と一族は日本を裏切って裏切り続けている。その裏切りが日本民族によって完全に暴露され裁かれない限り、決着がつかない限り、日本民族はイルミナティの、天皇という傀儡を使った精神的呪縛に掛けられたまま、まあ、死んでいくしかないですね。今でも日本は精神的にはゾンビ人間です。日本民族は自分の精神を失ってますからね。近衛さんの動きが実現されればそうはなってないでしょう。近衛さんが最後のところで日本の貴族の根性、やる気、勇気を表明しようとした事は評価できるんじゃないですか。

鳥居民という人の本は、私が申し上げたレベルから見ると低い次元で現象をあれこれ言ってるだけです。その程度の話でも、今の日本人につぎ込まれている戦争と敗戦のプロセスに関するデマ情報と比べれば遥かにマシでしょう。

近衛さんが皇道派寄りだったこと、皇道派に同情・同調的だったことは、歴史資料にも少し出てきますよ。それをさらに突き詰めて研究する、考える、そういう事は全くなされてない。なされてないというか、それを突き詰めるとただちに裕仁が標的になりますから、その遥か手前で止まってしまうんです。それを先へ進めないといけないんですよ、私達は。そのために私達に手がかりとして与えられているのは「真崎大将」なんです。

皇道派の荒木貞夫がワンワールドのエージェント? 話は一層複雑に

田崎末松という人の真崎大将の評伝はかなりマシです。皇道派でも荒木大将っているでしょ。荒木大将は皇道派のNO.1、代表と当時言われていた。ところが荒木大将というのは、大変危なっかしいというか、奇妙というか、いかがわしい存在なんですよ。この人はずっと陸軍大臣をやってて、二・二六後も処罰されることもなく、昭和天皇に追放されることもなく、戦時中大臣をやった事もあるんじゃないでしょうか。

私は荒木大将とは非常に奇妙な人物だけど、何だろうと思ったんです。落合莞爾の「ニューリーダー」の連載を読むと、この人が上原勇作元帥の後継者に指名されたとあるんですよ。これは非常に奇妙です。上原勇作はれっきとしたフリーメイソン、ワンワールドのエージェントですよ、日本の軍の中で。単なる薩摩派閥でもないです。そうして上原元帥は全く目に見えない秘密の特殊工作をやったということですが、その後継者に荒木大将が任命されたというのはとても奇妙に思えるでしょ。彼が皇道派というのは辻褄が合いません。上原勇作の後継者という事は荒木大将もワンワールドの紐がついてる事を意味します。

真崎大将にはそういう事が全くない。山口さんの国民新聞の連載の中で、戦時中に英国のスパイとして逮捕され、ビルから投身自殺したコックスという人がいます。そのコックスを警察が取り調べたときの話が色々あるみたいですけど、そのコックスという英国のスパイが自供して、「われわれは日本の陸軍の主要な指導者、軍人を全て接近・工作して取り込んだ」と言うんです。しかし、「真崎大将だけは、全く取り付く島がない、工作する事が出来なかった」と供述したという。幕末から明治初年、フリーメーソンが薩長の維新政権の主要人物を全部取り込んで何らかの形で紐をつけたけど、西郷隆盛だけは頑としてフリーメーソンの誘いにも工作にも応じなかった。それでフリーメーソンは西郷隆盛の排除を指示したという事が「月刊ユダヤ研究」に載ってます。そのことを想起しましたね。真崎大将という人は、現代日本において本当に重要な人物なんです。

「わからない奴はわからないんだ。ほっとけ」

非常に重要な日本民族の指導者であり、指導者たるべきところを排除された真崎大将について、山口さんが言うには、二・二六事件の前から、敗戦後、現在に至るまで、一貫して真崎大将についての偽情報、誹謗中傷、全くの嘘の情報、デマ情報がまかり通っている。その偽情報を振りまいてる主要人物、ジャーナリストの代表格が、半藤一利とか、ハタ何とか(秦郁彦)とか、年中マスコミに出てくる、昭和史についてくだらない話、偽情報を振りまいてる作家ですよ。体制側で持て囃されてる人達。こういう人達を通じて、真崎大将と皇道派についての偽情報をばら撒いてる主要勢力は、左翼だと言ってます。左翼ということは朝日新聞と岩波書店ですね。こういう連中はなぜ皇道派の悪口を言わなければならないのか? 大変興味のあるところでしょ。なぜ左翼、岩波・朝日は、皇道派の悪口を言うの? 全くの嘘八百を並べ立てて、皇道派・真崎大将を貶めてどうしようと? どういう理由でそういう事をするんですか? それは大きな事なんですよ。左翼は決して信用してはなりません。もっともらしい事を言っても、左翼はイルミナティの紐付きですからね。心を許してはいけませんよ、左翼には。リベラル派もね。

山口さんは、少年時代から真崎大将が亡くなるまで親しく交流して、真崎大将の死後も孤軍奮闘して皇道派の旗印を守ってる訳です。こういう人がいるとは本当に改めて見直しました。それで戦後ずっと皇道派が正しかったと伝えようと、活動し続けてる訳です。そしたら、真崎大将に「おまえ、もうわからない奴はわからないんだ。ほっとけ」「もういいよ」「いい加減にもういいんじゃないか」って言われた。「その内、時代が皇道派(我々)の正しさを発見するだろうから」と何度も言われたと書いてあります。しかし、体制側・権力側が垂れ流してる情報以外全く存在しないとすれば、日本人は皆それに洗脳され、何となくそんなもんかという気になります。私も(今まで知らずにいて)ずいぶん恥かしい話だと反省してます。本物の情報がなければ、日本人は洗脳されっぱなしですよ。今、日本は土壇場に追い詰められ、精神的に腐敗が進行してますから、それが一番危険で致命的ですよ。それで、私達は再生・蘇生する方法を見つけなければいけませんが、まずは皇道派・真崎大将のことを日本人が真剣に見直して、名誉回復の動きを起こすことです。

真崎大将の名誉回復ということは、裕仁を告発することになります。ここに山口さんが書いてる真崎大将の言葉がある。「東條ごときは物の数でないけど、しかし自分を弾圧する根源が宮中から来た。その事が一番自分にとっては苦しい事であった」と。宮中ってなんですか? 裕仁ですよ。昭和天皇によって真崎大将はキュウキュウに追い詰められ弾圧される。二・二六と関係ないのに、寺内陸軍大臣は真崎大将を逮捕する。陸軍大臣が陸軍の軍事裁判の委員長だから、陸軍大臣が決定する訳です。寺内陸軍大臣は、青年将校と北一輝の裁判をする前に、判事団(軍事裁判の裁判官、軍人)に判決書を渡してる。判決は有罪で死刑です。事前に死刑の判決を出せと陸軍大臣(軍事裁判の長)の名で紙を配っていた。出来るだけ判決は重く執行は早くとの基本方針を陸軍大臣が与えて、二ヶ月の暗黒裁判で死刑判決、直ちに死刑執行。その後、真崎大将を逮捕。そういう命令を受けていたにも関わらず、裁判官も検察官も(検察官と裁判官は一人二役です)、真崎大将を有罪とする何の証拠もない。寺内陸軍大臣は、真崎は銃殺刑だ、死刑だと大声で喚き立てたそうだ。それでも裁判官・検察官は、「いくら何でも全く関係のない真崎大将を死刑判決には出来ない」という訳で無罪釈放にした。寺内陸軍大臣の方針は裕仁の意思でもありますからね。裕仁は全く無実の真崎大将を殺せって言った訳です。そこで裁判長・検察官のホサカ〔為清註:軍法会議で首席検察官をつとめた匂坂(サキサカ)春平?〕という人は、言われた通り17名、青年将校、北一輝、西田税に死刑の判決を下して、その事に死ぬまで鬱々と苦悩してる。敗戦後は自宅に篭ったきりで、比較的早く死んだと言われてます。この検察官が最高責任者でしょう。しかしそれをやらせたのは誰ですか? 裕仁以外の何者でもない。裕仁は何の為にそうしたんですか? イルミナティの命令を実行したんですよ、裕仁は。

そうして二・二六の時に日本の運命が決定されたんです。陸軍の将官の絶対多数は、決起将校の趣旨は酌むべきものがあり、統制派と裕仁が強行するような中国との全面戦争は絶対してはならないという気持ちだった。日本の軍事専門家は自分たちの軍事力の限界をよく知ってますよ。そういう日本の軍事的・経済的力で、中国全土を占領なんて、どんな戦争をするんだ? 自分達の責任上、絶対賛成できないと思った訳です。日本の国民もそうです。今の様に選挙で投票したら、そんな事に賛成する国民はただの一人もいないですよ。政治家にも。にもかかわらず裕仁は、日本に絶対独裁制を敷き、イルミナティの指揮通り、日本を必敗、百戦百敗、必ず壊滅する戦争へと、日本が滅びる方向に引きずり込んでいったのです。これが日本に対する売国奴でなくて、日本民族に対する裏切りでなくて、何なんですか?

二・二六の時に決定的に転換させられたんです。その頃、日本人の絶対多数、日本の権力層の軍人も、そんな事はしてはならない、出来ないという良識・常識があったんです。当時の日本の国家権力の最も強い力は陸軍が握っていたでしょう。陸軍の絶対多数もそういう考えです。良識の代表は真崎大将です。そういう者を排除して、裕仁はいったい何をしたんですか、日本民族に対して。日本民族に対する裏切りと言わずして、何と言えるんでしょうか?

裕仁と称する人物は日本人ではない。天皇を詐称するイルミナティの傀儡です。イルミナティは、日本という国は彼らにとって最も危険な、致命的・驚異的な存在となるであろうから、絶対抹殺しなければならないと、ザビエルが来た時に既に決定してる。彼らイルミナティのアジェンダ通り、450余年、日本は攻撃され侵略戦争を仕掛けられているんですよ。その侵略戦争の傀儡、道具として、裕仁は百点満点を与えられた存在なんです。

そしてその事が、二・二六事件の全経過を通じて完全に暴露された。

真崎大将もついでに死刑にしようとしたが、陸軍内部の良識が幾らなんでも出来ないといって無罪釈放にした。その後も真崎大将は完全に干されて監視されることになった。近衛文麿が皇道派を復活させ、真崎を陸軍大臣にして、日本の国策を完全に一変し、統制派・裕仁がずっと追求してきた政策を否定してやり直す、一変する方針を立てようとしたら、裕仁は拒否・否定した訳です。

最近になって私がバーガミニの本を読み始めたのは、鬼塚さんの『日本の一番醜い日』を読んでる内に、あれはあの通りだろうけど、それで全てという事でもないしと思ったからで、この半年ほどいろいろ考えて、次第に物事が見えてきました。今日はいろいろ話しましたけど、参考文献や私の話などを参考にして、日本人として、今、何をすべきか、それを真剣に考えて頂ければありがたいと思います。(講義終わり)
http://tamekiyo.com/documents/ota_ryu/226.php


05. 中川隆 2013年3月01日 21:24:38 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

天皇の戦争責任を暴いたバーガミニをアメリカが抹殺した理由は?

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。
http://tamekiyo.com/documents/ota_ryu/226.php



06. 中川隆 2013年3月01日 21:29:36 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

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参考


あなたの知らない「天皇家」の謎 皇室の祖先にワニがいた!?
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/256.html

東京ホロコースト   西岡昌紀
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/479.html

君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html

戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html

こんな女に誰がした_1 (天皇陛下を恨んでね)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

この人を見よ _ 人間の屑 福沢諭吉のした事
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/485.html




07. 中川隆 2013年3月02日 09:00:21 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

上記のアホ陰謀論者 太田龍の言葉を信じるのはアホだけですが、その中に真実も含まれているのは間違いないですね。
日本人も2・26事件だけでなく太平洋戦争も昭和天皇とルーズベルトの書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったという事に早く気付いた方がいいです。

八百長戦争やって得したのはアメリカと国際金融資本と天皇家、三井・三菱等の財閥だけですからね:


天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
ディビット・バーガミニ 著 松崎元 訳
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_02_contents.htm#mokuji




08. 中川隆 2013年3月02日 09:21:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

9本の動画 日本の真相 鬼塚英昭
http://www.youtube.com/playlist?list=PLMA8BWNvBdz-29sRtVJgysWMcX_586YDt
日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&list=PLMA8BWNvBdz-29sRtVJgysWMcX_586YDt&v=eugXzHoKnes


昭和天皇が自身の秘密や財産を守るための戦争をした。完全に天皇が指揮していた。おま­けに米国、スターリンそして西洋銀行家とも天皇が内通していたのである。


DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。


以下本文。


これからは2・26事件について語ろうと思います。2・26を追究して、いくらかでもその真実に近づけば、日本のこれからの未来のためにも役立ちます。2・26事件というのは若い将校たちが叛乱を起したと。で、その将校たちの叛乱を気に入らないというので天皇が怒り、数多くの将校たちが処刑されました。しかし、これには裏があります。今、私が秩父宮と昭和天皇は父親が違うということを喋りましたが、これは東久邇が喋ったことなんですね。


笠原和夫は広島のジャンク映画『仁義なき闘い』を初め、色々な芝居の脚本を書いて、それでなお昭和秘録というようなものに挑戦して、2・26にも挑戦します。しかし「2・26は映画になりきれなかった。書けなかった」と、彼は本の中で断念していますが、それはそうなんです。あれを追究すると映画にはなり得ないんです。なぜなら、あれは秩父宮が最初に仕掛けたクーデター劇なんです。これはもう他の人もみなさんご存知なんです。ところが真相は、秩父宮がある時点で若き将校たちを裏切るんです。それで彼らは行き場を失うわけです。


秩父宮が安藤輝三(てるぞう)という大尉に話を持ちかけます。これはまちがいない事実です。そして安藤は非常に冷静な男だったので断ります。しかし秩父宮は懐から懐中時計を出して「俺の真意を汲んでくれ」と言います。それで彼がリーダー格となり、若い将校たちを仲間に入れます。そして革命を起したときに、秩父宮は弘前に逃げます。そして安藤に言います「弘前で軍人たちを募ってやって来るから」と。それで安藤と仲間たちの将校は、秩父宮の言葉を信じて革命を起します。しかしその革命はみなさんがご存知のように失敗します。なぜ失敗したか?彼は途中で天皇の味方につくわけです。私はそう思ってます。それで失敗します。その結果どうなったのか?


結局2・26事件を起した連中は−それとその指導者たちは皇統派と呼ばれています。で、もう一つ統制派というのがあります。統制派というのあは陸軍16期生というのがありまして、陸士ですね、その中で1921年だと思いますが、10月にドイツのバーデンバーデンというところにある4人の男たちが集まります。そういう連中がドイツに集まった所に、東久邇が裏で緒を引いて、結局そこから統制派というのが生まれてくるんです。リーダーは暗殺された永田鉄山という男ですが、永田鉄山は途中で暗殺される。これが一番優秀な男だったわけでありますが、その連中が東久邇と秩父宮にそそのかされて、結局、日本をおかしな方向に持っていくわけです。で、日本はアメリカとソ連を敵対国とするんですが、統制派というのはアメリカを打倒しなければダメだという。まあこれは大体のストーリイですけど。で、皇統派というのはアメリカと戦っちゃいけないと、あくまで日本は敵を想定するならソヴィエトだということなんです。


これは大まかなストーリイですけど、そうした中で、みなさんご存知のようにゾルゲという男がいます。ソ連のスパイをやった男です。そのゾルゲを尾崎秀実(ほつみ)というのと、さっいいました西園寺八郎の息子の公一(きんかず)というのが、ゾルゲに秘密情報を流したというわけです。どんな本を読んでもそういうストーリイです。しかしこれは西園寺公一と昭和天皇が兄弟であったと私は申しました。西園寺八郎が妻に産ませたのが公一です。でその公一と昭和天皇は兄弟です。昭和天皇は木戸幸一を通すんですけど、自分の弟の公一に、ソ連のスターリンに向けて発したい情報を伝えるわけです。それを尾崎秀実という朝日新聞の記者が一緒になって、ゾルゲを却って誘惑するわけです。ゾルゲにおべらかしやインテリ女を与えて、ゾルゲを懐柔します。ゾルゲは女遊びをしてオートバイを乗り回してフザケた男ですけど、で、公安はぜんぶゾルゲをチェックしますけど、天皇一族はゾルゲを野放しにします。


ゾルゲは日本の一番重要な情報をぜんぶ手に入れて、スターリンに渡します。スターリンはそれを信じるわけです。だからスターリンは、日本がソヴィエトを攻めてこないということを知るわけです。天皇を初め統制派の連中ですね、永田鉄山が殺されましたから東条英機が首相になって、アメリカを攻めるストーリイは最初から作られたということなんです。戦争というものは必ずどこかで企みがあるものなんです。昭和天皇が、1938年12月ですから大戦が一年前、これは木戸幸一の日記に出てきます。木戸幸一にこういうことを言っています「もう世界大戦は始まる。そして最後に勝つのはソ連とアメリカで、他の国は全部潰される。日本も同じように潰される。だけど日本人は臥薪嘗胆して質実剛健を維持すれば、10年後には復活する」と。


これは見事に予言的中しているわけですよ。その一年後に第二次世界大戦が始まります。真珠湾攻撃をちょうど一年後にやります。10年後というのはちょうど講和条約の時です。だから考えようによっては、昭和天皇だけが日本のストーリイを全部知っていたんじゃないか、ということになりませんか? 僕はそう思います。で、戦争が始まる一年前に近衛が天皇に面会を申し込みます。天皇は拒否します。それで近衛が木戸に会います。これもまた木戸日記にちゃんと書いてます。近衛はどういうことを言ったかと。


「お前は天皇に言え。いいか。海軍は二年しか石油がない、戦争をすれば一年半持てばいいけど、まあ一年で終わる。陸軍は石油を一年分しか持ってない。この状態で戦争が出来るわけはない」と嘆いて木戸の許を去ります。木戸日記に書いてあります「俺もそう思う。戦争すれば負けるワイ」。これは木戸日記にはっきり書いてあります。


ところが実際は戦争は4年も5年も続いたじゃないですか。石油のない時代は、最後の一年間くらいは石油が尽きたけど、石油はあったんですよある程度。みなさんもご存知のように、ガダルカナルや何とかでいっぱい負けますけど、やっぱりあれは石油があったんですよ。なぜ石油があったか考えてみたことありますか。これはですね、戦争の時にアメリカが「日本には石油は売らない」。ところが「パナマ国籍の船ならば油を積んでいって日本に売っても、これは自分たちは攻撃できない」という理屈で、日本に石油を間接的に売るわけです。本当なんです。三菱が作った『昭和通商』という会社がそれを引き受ける。『昭和通商』と三菱は同じです。それではマズイというので『日本水産』(注 白洲次郎は取締役)という会社が代行するわけです。魚を運ぶということではなくて、魚の代わりに石油をパナマ国籍からもらって持って帰るので、戦争は長びくわけです。

◎鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』より該当箇所抜粋。

『多くの資料がソヴィエト連邦解体とともにクレムリンから出てきた。その資料から、野坂参三の過去がかなり暴かれた。世に言ういう二重スパイ説である。しかし、野坂参三が天皇のためのスパイであった、とする文書は闇に消えている。野坂参三が天皇のスパイ、アメリカのスパイ、クレムリンのスパイのみならず、国際金融同盟、すなわち、闇の支配勢力のスパイであったことは間違いのない事実である。』

『野坂参三は天皇のスパイから出発し、ついにクレムリン、アメリカ、そして国際金融同盟のスパイに仕上げられ、次に中国共産党の内部深くに侵入していくのである。その国際金融同盟がつくった太平洋問題調査会の第六回国際会議がアメリカのヨセミテで、1936年8月14日から29日の間に開かれている。この会議にゾルゲ機関の一味の尾崎秀実が日本側委員として出席している。』

『私は太平洋問題調査会の第六回国際会議に出席した尾崎秀実とのコネクションを野坂参三が手配していたと考える。太平洋問題調査会はロックフェラー一味、ロスチャイルド財閥、そしてソヴィエトの謀略機関であった。南進策がこの会議では討論されていない。しかし、「北進策を日本がとるべきではない」ことが討議されたのである。尾崎は帰国後、満州の軍事会社にいた日本共産党員に資料を作らせる。この背後にも間違いなく野坂参三がいたと思われる。この年の六月頃から年末にかけて野坂参三の行方は不明となる。私は尾崎と行動を共にシ、日本に帰国後、秘密裡に満州に入り、モスクワに帰った、とみる。』

◎私見では尾崎秀実を破滅に引き込んだのは吉田茂&白洲次郎である。
次郎のコネクションである牛場友彦と松本次郎が仲介役である。

『白洲次郎の幼馴染の牛場友彦(東大卒業後、オックスフォード大学入学、その後太平洋問題調査会IPRに入っていた)が近衛文麿に従い、二ヶ月のアメリカ旅行を行った。その旅には樺山愛輔(注 白洲の岳父)の国際通信社の取締役であった岩永祐吉も同行した。岩永の推挙もあったようだが、この旅で昭和12年に近衛の組閣に際して、牛場は近衛の秘書官となるのである。

牛場の証言によると、白洲次郎とは昔から”ジロー””トモ”と呼び合う仲であったが、昭和12年以降(注 白洲が日本水産の取締役になった年)その親密さは増し、白洲の近衛の政策ブレーン−後藤隆之助、西園寺公一、あるいは尾崎秀実など−との交渉も頻繁になっていった。』(青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より)

この牛場と松本重治次郎が白洲次郎の汚れ仕事の仲間である。
尾崎秀実を朝飯会に入れた牛場友彦・松本重治・白洲次郎は、
近衛文麿を排除すべく秘密工作もしている。
占領期になると三人は近衛を追い詰める工作をあれこれやる。
近衛の自殺は自殺という形の暗殺である。
前夜二人は白洲次郎に渡された青酸カリを持って近衛を訪問、
二時間余りも脅し強要して自殺させたのである。

『私は(通説とは)逆に、西園寺公一と原田熊雄たちが、天皇と木戸、近衛に踊らされていた、とみるのである。ゾルゲ・ルートで一方的に数万点の機密資料を垂れ流した天皇、木戸、近衛は、一方でソ連に日米和平の仲介を依頼すべく闇のルート(たぶん野坂参三のルート)で知らせ、その情報を讀賣新聞に流したのだろう。南進策こそはアメリカとイギリスとの戦争そのものを意味した。』

『私たち平成の世に住む人々は、あの時代の貧乏を理解できない。農村は働き手を兵隊にとられ、娘たちの多くは売春婦になっていった過去を知ろうとしない。天皇とその一族が優雅な生活を続ける一方で、日本人のほとんどは、どん底の生活に落とされていた。どん底に生きる人々を恐れている神の一族は、たえず何かを仕掛けなければ生きていけない。そこに暴力性が要求される。』

『2・26事件を私は、天皇と秩父宮が密かに練った偽装クーデターとの説をとる。秩父宮は密かに仙台から遠回りの鉄道を使い東京に出て来て、高松宮と会談し、その後で二人で天皇と会っている。この事件をいかに収拾するかについて話している。8月15日のあの事件と2・26事件は共通する。前者は三笠宮が策を練り、後者は秩父宮が策を練ったのである。天皇教はたえず暴力装置を作っては、それを策動して生きながらえてきた。どん底の人々は、大きく二つに分かれた。天皇教の側に立って共にその暴力装置に加担する一派と、その逆の立場の人々である。


統制派は天皇側について南進論を推し進めた人々である。皇統派はその暴力装置に対抗すべく日蓮宗に救いを求めた。軍人のほとんどが、軍人たちの一部(天皇教の暴力装置に組み込まれた軍人たち)を除き、アメリカと戦争する拙劣きわまりない行為を知っていた。それでも天皇とその一族は戦争を仕掛けるのである。その謎を徹底的に追究しようとして私は書いてきた。』


『ねずまさしは「天皇昭和紀(上)大日本帝国の崩壊」の中で「2月26日午前4時、第一師団の歩兵および第三連隊の営門から、部隊は堂々と市内へ出発した・・・・かくて彼らは、目ざす重臣五人を殺した、と信じて陸軍省などに引き揚げた・・・牧野は早くも旅館からのがれていたため、護衛の警察官が射殺され、旅館は焼かれた。西園寺ももちろん、ねらわれたが・・・襲撃直前になって突然中止した。」と書かれていることに注目したい。

牧野は数多くのテロの標的となってきた。しかしそのつど、直前にいつも逃亡に成功した。これは何を意味するのか。彼が背後でこれらのテロを操っていた黒幕であることを意味する。岡田啓介首相も難を逃れた。事前に彼の娘婿の迫水久常(終戦時の鈴木内閣書記官長)が岡田首相を連れ出すのである。迫水久恒は、皇統派と見られていた。実際は岡田のスパイだった。』


『このクーデターの首謀が秩父宮であることを書いた。このクーデターを、天皇、高松宮、三笠宮、牧野伸顕、岡田首相らが事前に知っていたのである。天皇は彼ら将校を「暴徒」と決めつける。天皇が最初から「暴徒」と断定しえたのは、密かに秩父宮と共同歩調を取ったからだと私は書いた。しかし、政府要人が数名殺されたり、傷を負ったから、2・26事件は本物のクーデターとして位置づけられ、誰も疑わない。ねずまさしも、である。』


『このクーデターと酷似するのが、あの8・15の「日本のいちばん醜い日」である。将校と兵隊のかわりに、将校と近衛兵を使った。リアリテイを見せるために、一人とはいえ、森近衛師団長を惨殺した。石原莞爾がいみじくも指摘した放送局を占拠するというマネまでもしたのである。この二つの偽装クーデターは、秩父宮と三笠宮の暗躍がなければ決して実行されなかったのである。真の首謀者の二人は未だに闇の中に消えているのである。』


『この事件の結果、どのように変化したのかを書いておきたい。北進策をとる皇統派の将軍・将校たちが主流からはずれ、東条一派−あのバーデンバーデンで密約した一派、東久邇宮と結ばれた一派−の統制派が軍の要職を占めるのである。統制派は南進策を主張する人々である。秩父宮は、自らが天皇になろうとしてクーデターを起させた可能性大である。笠原和夫もその説をとる。しかし、私は天皇と秩父宮が密かに結びつき、2・26事件を若手将校に起させ、南進論一本にすべく行動したのではないかと思っている。』


『この1936年が日本のターニング・ポイントになるのである。1936年、ゾルゲと西園寺公一と原田熊雄、尾崎秀実の暗躍。もう一つは日本共産党の野坂参三の動き。これらと2・26事件が糸のようにもつれあって連動したことは間違いないのである。2・26事件以降、天皇により軍紀がひきしめられる。天皇はその役を東条英機に命じ、陸軍大臣から首相に任命する。東条英機は佐藤賢了中将を軍務局の要職につけ南進策を推進させる。太平洋戦争への道である。』


『天皇は皇統派を一掃し、統制派を参謀本部に配し、ついに自らの住む御文庫の中に彼らを入れて太平洋戦争に突入するべく机上演習を始める。誰ひとり天皇に逆らえる者ない、であった。この机上演習の中から、真珠湾攻撃とシンガポール攻撃が登場してくる。そのために一番役立ったのがヴェルサイユ会議で日本に与えられた、委任統治権であった。天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が「非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる」とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。それにもまして「十年を覚悟し」さえすれば、「有終の美を挙ぐる」とは、敗戦後五年で、1950年に講和条約ができ、日本は再び独立国となる、ということであろう。そのために、一年後に戦争に入るべく努力をしているのだ、と天皇は語っているように思える。』


『その裏に見え隠れするのは、「木戸よ、このようにして日本を導かなければ、天皇一族の運命が風前の灯となるのだよ。お前も協力してくれ」との天皇の哀訴である。大室寅之祐の代から天皇ニス変えた木戸孝允の孫の木戸幸一は、「天皇と一蓮托生の命である」と答えたのではないのか。天皇はあるルートから、一枚の極秘文書を渡されたと私は考える。その文書に木戸に語っていた内容が書かれていた。「有終の美を挙ぐるは困難ならず」とは、「敗北しても、天皇の命は保証され、国体は護持する」との確証を得たとのことではないのか。日本の国民の民草に天皇が思いを馳せる素振りをするのは、「終戦の詔書」の中だけである。それも見せかけ以外のなにものでもない。』


『天皇が脅されてなんかいなかったと思っている人が多いであろう。私はルーズヴェルト大統領も、チャーチル首相も、スターリンも、闇の支配者たる国際金融資本家たちのグループに脅され続けていた、と書く。天皇においておや、である。まことに日本は国際決済銀行(BIS)により、利益追求システムの中に組み込まれ、ついに必然的に戦争状態の中に入っていく。戦争は巨大なマネー・ゲームである。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。』


『天皇と祖の一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。ひと度、この銀行組織に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手の内に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちんばん金のもうかるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知り尽くした人物は日本にはいなかったし、これからも登場しないであろう。』


『第二次世界大戦はどのように仕掛けられたか。その第一はヴェルサイユ講和条約にあった。日本は統治諸島を手に入れた。ドイツの賠償金を受け取るとの名目で、国際決済銀行ができ、ドイツに秘密裡に多額のドルを貸し与えた。そしてナチス・ドイツを育てた。共産主義の恐怖を煽る一方で彼らは太平洋問題調査会をつくり、中国を共産主義にすべく動いた。日本の天皇の野坂参三を使い、共産党国家中国の援助をした。これらはすべて、マネー・ゲームの面を持っている。これらの動きに国際決済銀行がからんでいるからである。彼ら、この国際決済銀行を実質ッ的に支配する国際金融同盟は、次々と日本に甘い汁を与え続けた。青島の中国銀行の倉庫に大量のヘロインがあった。これから軍人たちはヘロインやアヘンの売買をやって大金を稼ぐ。すべては彼らユダヤの国際金融資本家たちが考えた、日本を戦争に導くための甘い汁だった。満州国建設の金は麻薬によったと認めるべき時がきているのだ。』


『1945年10月にGHQが発表した皇室財産は37億2千万円。日銀物価価格で計算すると311倍となり、7912億円。東条の10億とか15億がいかに天文学的数字であるかが分る。今の貨幣価値で数千億円の金を、東条はアヘン取引で稼いでいたことになる。これが戦争なのである。国民の大半が飢餓線上にあり、住む家も焼かれていたとき、天皇から首相に任命された男は天文学的な利益を上げていたのである。三井と三菱はペルシャから年ごとに船を出し、アヘンを仕入れ、朝鮮に送った。それをアヘンかヘロインにして中国人に売りつけた。その金の大半は天皇と三井、三菱の懐に入った。その一部で国際決済銀行を通じてアメリカから必要な軍需物資を仕入れた。戦争を長引かせるよう、国際決済銀行を実質的に支配する国際金融同盟が天皇を指導したのだ。天皇とその忠実な部下である東条英機首相は、戦争を長引かせることで天文学的は利益を上げた。麻薬を売りつけ、その上がりで軍人たちはメシを食っていたのに、何が大東亜構想なのだ。』


『木戸は警察関係の連中と三日に一回ほどの頻度で会っている。これらはすべて天皇に上奏され、また天皇から伝送される。平和運動を抑圧し、終戦工作を妨害しつづけたのは、天皇ヒロヒトその人であったことを理解しないと、戦争の本当の意味が分らない。日本人だけが、昭和天皇を「無私の人』だち思っている。真実はまったく違う人間であったことは、ほぼ間違いのない事実である。戦争がマネー・ゲームであることが理解できたであろうか。田布施のこのグループにやがて、吉田茂が一族として加わってくる。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健三は、ある長崎の女郎が生んだ子どもを養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘と結婚する。満州利権を守るため、田布施村の一族と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。こうして、、マネー・ゲームは続くのである。』


再び鬼塚氏のDVDの続き。


そしてある時になって、「石油はやらない」という時になって、天皇は気がつくわけです「ああ。ついに終わりが来たか」と。ね。これが真相なんですよ。近衛とか木戸はその辺を知らなかったんです。天皇と一部の大本営、『御文庫』といって、天皇の宮殿内の地下深くに『御文庫』をつくり、そこに大本営を置いて、毎日毎日「今度はここ行け」「ここ行け」指図した。それを指図が出来ると、東条に渡すわけです。東条は御文庫の中に入れない。そういうシステムで戦争が進んでいる訳です。最後に天皇も「もう尽きるところまで来たな」って、天皇も終戦工作に入る。終戦工作に入るのはロシアを通して入ろうと、ロシアを通して終戦工作に入りますけど、上手く行きません。


終戦工作は白洲次郎という男が全部絡んできますけれど、これが終戦工作をやります。ヨハンセン・グループというのがやります。ヨハンセン・グループというのは、吉田反戦グループといいます。それでヨハンセンとなります。アメリカ人の暗号名です。「ヨハンセンから連絡があったか?」。ヨハンセンというのは吉田と樺山愛輔という貴族と、その中に連絡係りの白洲次郎がいます。彼らがグルーからも貰うし、別のルートからもデータを貰い、まだ御前会議で戦争を遣る最後の会議の時にも、御前会議が始まると次の日にはもう、グルーを通してアメリカの上層部に日本の最高機密が流れていくわけですよ。これが日本の現実なんです。ね。


で、白洲次郎が『カントリー・ジェントルマン』とかいって、戦争のときは鶴川の山の奥で農業をやっていたというのは全部デタラメです。これは『日本水産』の社長であった有馬というやつがいますが、これも貴族ですが、『日本水産』のトップですが、この男の日記にダーッと出ている。「また白洲が来た。とんでもないニュースを持って来た。アメリカがどうのこうの。何で彼はこんなことを知ってるんだろう」ずーっと出てきます。そういう事なんです。で、結局ですね、最初から日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると、すべて矛盾がなく納得できるんです。だからゾルゲを使って、天皇は弟の公一に機密情報を流してソヴィエトに渡せと、で、ソヴィエトを安心させて南進策を取るわけです。で南進政策を取ッとる時に、木戸が日記に書いてますよ。「おい、火事場泥棒をしたな」「へい」と木戸が言うわけですよ。「火事場泥棒も時によってはしょうがねえなあ」と天皇が木戸に言ってんです。火事場泥棒なんです。ね。


あのおとなしいような天皇は非常に頭が良くてですね、昭和天皇はズル賢くてすべて計算してたわけです。だから日本をアメリカとの戦争に持っていくよう仕組まれたら、それに応えるよう敢えて真珠湾攻撃の大事なところで手を抜くわけなんです。だからあれは山本五十六に命じますけど、山本五十六は言ってんじゃないですか。「一年くらいは持つ。勝った勝ったと言うだろう。だけど後はもう知らん」。そしたら天皇はそれでもいいからやれというわけですよ。やらないと自分の身が危ない。スキャンダルをみなバラされて、全部失う。スイスに貯めた金も失うと。


もう一つ、石油を買うお金は何処から来たかということですが、日本は南方に攻め込みます。中国はもちろん、ビルマからタイからダーッツと行きます。あすこにある金銀財宝をカッさらいます。そして日本に持ち帰ります。それを金を溶かして丸福といいます。丸に福が書いた名前の金貨をつくり、それを持ってフィリピンとかに行って、農家の人に渡して食料を得る。アメリカ軍は自分の国から大きな船で食料を運ぶんですけど、日本はそんな余裕はないわけで、現地調達をやります。フィリピンで現地調達をするのに軍票というのが、こんなの受け入れません、フィリピンの百姓たちは。それで金貨をやります。「そんならしょうがない」って言って、米をもらったり野菜をもらったりして、何万人の兵隊たちがフィリピンの農民から肉や魚を買います。これが戦争なんです。


で、もう一つ、その金貨を黄金をインゴットにしてスイスに送ります。スイスでスイスフランかドルに換えます。そのスイスフランかドルを・・・国際決済銀行というのが出来るわけです。第一次世界大戦の後に出来ます。その決済銀行を通して、日本はアメリカにパナマ国籍で金を払い石油を貰うと。で、アメリカとその石油で戦争をします。太平洋でいっぱい戦争をしました。あれはアメリカの石油をもらって、アメリカの石油を使った軍隊と戦争ごっこをやったということですよ。ドイツも同じです。戦争するのにドイツは分るように石油は出ません。石炭は出ます。で、ドイツのヒトラーが言います。「戦争をしろというけど石油が無い」って。ロイヤル・ダッチッシェルというところのデイターデイングというユダヤ人がヒトラーに言います。「石油は渡す。やれ」って。「誰が持ってくる?」「オナシスというやつのタンカーが来る」「戦争してたら沈没したらどうするんだ?」「オナシスの船は絶対沈没しないから心配するな」。で、戦争中ずっともらいます。


じゃあヒトラーはどうしてスターリンの所に攻め込んだんだ?というと、途中で言われます。「もうやらない」って。じゃあヒトラーはどうしたらいい?スターリンのところへ行って石油を取ばいい。それでヒトラーはロシアを攻め込んで、石油基地を奪おうとして行く過程で滅ぼされます。日本も同じです。イタリヤはどうか?ムソリーニはヒトラーに言われます「一緒に戦おうよ」。ムソリーニは言います「オレは石油がない」。ヒトラー「俺はシェルからもらえるけどお前はシェルからもらえないのか?」ムソリーニ「シェルはオレにくれるといわない」。それでもヒトラーとムソリーニは協定を結んでたから、ヒトラーが戦争を始めた以上、ムソリーニもやらざるを得ません。すぐムソリーニのイタリヤは潰されます。これは石油がないからすぐ潰されます。


戦争というものの実態は「物事はすべて必然性がある」んです。大きな出来事は偶然性で発生するものは何もありません。第一次世界大戦も今いった第二次世界大戦も、ぜんぶ八百長なんです。八百長システムが見事に働けば戦争は長引くんです。戦争は長引くんです。だからノルマンデイー上陸作戦というのがあります。あれは第二次世界大戦が始まって、すぐルーズヴェルトが「勝利の計画」というのを立てます。ウエデマイヤーという優秀な男がいまして、これが計画を立てます。ウエデマイヤーは戦争が始まって一年後に、ルーズヴェルトやステイムソンやらマーシャルやらみんなを説得します。「戦争はこれで終わりです。ヒトラーを、ナチスらを、やっつけましょう」。ね、一年後ですよ。


それがなぜ延びたか?上層部の連中が「No」と言います。誰が「No」と言ったか。スターリンもチャーチルに「これで戦争は終わりやなあ」と。モロトフもチャーチルに会って確約をもらい、ルーズヴェルトに会って「戦争は終わり。終わらせないとみんな可哀そうやな」。でも最後にチャーチルがみんなに言います「戦争は継続しないといけない」。でルーズヴェルトは魂消ます「なぜだ?」って。


チャーチル「戦争は継続しないといけない。継続しないと金儲けに繋がらない。それでアフリカ作戦に切り換えよう」って。アメリカ人は分りません。そこでアイザンハワーという男が登場します。これがウダツの上がらん男です。フィリピンでマッカーサーの下でずーっと中佐であった男です。この男が呼び出されるわけです。で、ヨーロッパに派遣されて、一気に中佐、大佐、少将、中将、大将、元帥と一年足らずの間に元帥になって総指揮官になります。完全なユダヤ人です。ルーズヴェルトがヨーロッパに行った時に、アイゼンハワーに会います。アイゼンハワーの顔を初めて見たといいます。大元帥の顔をね。で、アイゼンハワーはイギリスの連中に応じます。イギリスの貴族たちが(戦争終了に)反対するわけです。


僕はこれを『20世紀のファウスト』に書いたんですけど、何と悲しいことよと。人間の命なんかどうでも良い連中が、ゴロゴロいるわけですよ。ルーズヴェルトでさえ嘆いているんですよ「戦争が終わるのになぜ終わらせないのか?」。そうこうしているうちに、まあ後で話しますけど原子爆弾ですね、原子爆弾が完成しなかったんですよ。予定通り。これが完成間際になってヒトラーも手を挙げます。で終わります。で日本は「まあ〜だだよ」とステイムソンが言うわけです。「まだガマンしとけ」。そして原爆が完成して、同時にスケジュールが出来た。と同時に何が起きたかというと、天皇は広島に第二総軍を作って、畑という男を入れます。ね。怖い話じゃないですか。


それで戦争を始めるように仕組まれてるわけですよ。僕がいちばん日本人の作家たちが書いた本を読んで情けないと思ったのは、御前会議ですけど、次の日にはもうアメリカは内容を全部知ってます、これは吉田茂が樺山愛輔に流し、樺山愛輔がグルーのところに持って行って、グルーが電報で打って全部次の日には・・・グルーも『回想十年』で書いてます。「ヨハンセン・グループにもらって全部やった」て。まあ後に翻訳されますけどね。まあ僕は昭和史を読んでて「悲しいなあ」て思ったのは、昭和天皇が御前会議の席上、戦争をやれというとき「分った」と。で、杉山元(はじめ)という参謀長に言います「勝てるか?」。「勝てるかどうかはやって見ないと分りません」。すると天皇はみんながシーンとしている時に「四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と読んだ。で、それが戦後になって昭和天皇が戦争に反対した証しだとか、昭和天皇は戦争に責任がないという一番の証拠にされるわけです。この歌を以って反戦の歴史学者もみな賛成するわけです。


井上清やら『人間の条件』を書いた五味川純平もその歌を以って、天皇はやっぱり反戦主義者であったことは認めるということになるわけです。五味川純平の書いた『御前会議』という本があります。『人間の条件』を書いた男が『御前会議』というのを書いてね、その時僕は思いました(彼らは何とダマされやすい歴史学者なんだ・・・)と。これはちょっと歴史の勉強すれば分るんですけど、この歌は戦意高揚のためにずうっと歌われてきたんです。日露戦争の時に天皇が詠んだとされて、ずうっと戦争高揚の歌でやってたのが、突然、戦後になって一部の天皇の周辺の者が「あれは天皇が反戦の意を伝えた」と言ったら、みんな(以下)同文なんです。何て情けないんだ。なぜ歴史を勉強しないのか。


この歌は井沢匡(ただし)というドラマの脚本化が書いたり小説書いたりするのがおりまして、この人は『維新・明治天皇伝』というのを書いています。この中でこの歌は、西南戦争の時に天皇が西郷隆盛を偲んで詠んだ歌だとされてんですよ。飛鳥井雅道(あすかいまさみち)という歴史学者も、井沢説と同じなんですよ。まあ一部は違いますけど。『日露戦争』というのがあるんですけど、これは西南戦争の時に「やっとこの世の中で幸せが来ると思ったのに、自分を助けてくれた西郷は死んでしまった。何と悲しいことだ」という歌なんですよ。「四方の海みな同胞」というのは、「四方の海」は四つの海で四海、「同胞(はらから)」というのは「同胞(どうほう)」なんですよ。「四海同胞(しかいどうほう)」ということなんで、「四海同胞」とは僕たちは簡単に言いますけど、これはずい分前から「同胞(どうほう)」というのは結局、部落民を指す言葉なんです。あんまり良い言葉じゃないんです。天皇のような貴きお方が喋る、歌にするような文句じゃないんです。


足利尊氏が室町幕府を作りますが、その時に負けた楠とか新田の一族が「散所(さんしょ)」「別所(べっしょ)」というんですが、閉じ込められるんですよ。一定の場所に。もう反乱を起さないように。で、それで彼らは部落民になるわけですよ。楠一族とか新田一族は部落民になるわけです。その時に四海同胞衆というのが、彼らの世界から生まれてくるわけですよ。閉じ込められた人間が解放されたと言って、で、そこから坊主になって解放される道があると言って、坊主が沢山生まれてきます。そういう意味なんです。だから明治天皇がこういう風に「俺たちは部落民としてガマンしてきた。四海同胞市民として生まれてきたけど、やっと迎えられたのに西郷は死んでしまった」という歌なんですよ。それを「日露戦争の時に明治天皇が作った」という歌にして、それはそれでいい。戦意高揚の歌だんですよ。八紘一宇の代表的な歌として、ずーっと歌われてきた。で、戦争前まではそれで筋が通ってきた。色んな人がこの歌を、子どもたちの教科書に載っている歌でさえ(戦意高揚の歌として歌ってきた)。


戦争が終わって一部の軍人たちが「反戦の歌を詠んだ」となると(今度は)ずーっとそうなるわけです。何と情けない話じゃないですか。今でも、そのさっき言いました秦とか、そういう連中はみな、この歌を以って「昭和天皇は反戦の意を唱えたけれど、軍人たちは天皇の意に反して戦争をしたんだ、軍人たちがけしからん」ということで、第二次世界大戦の総括をやっているわけですよ。で、その意に逆らう歴史家は未だにいません。私は一人だけ逆らってますけど。どうかみなさんも真実を知って、簡単に人の言うことを、権威者の言うことを信じないでください。これは大事なことなんですよ。
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/700.html


09. 中川隆 2013年3月02日 09:27:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

2・26事件と8・15宮城事件に共通して登場する人物


2・26事件と8・15宮城事件に共通して登場する人物 From 得丸

皆さん、ちょっとびっくりしたのでお知らせします。

2・26事件の磯部・村中が軍を追われることになる昭和9年の11月事件と、昭和10年の永田鉄山惨殺事件と、昭和20年の8・15宮城事件に共通する人物がいることがわかりました。

なんと鬼塚さんの本に引用されていました。

鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日」の14ページに、バーガミニからの引用が紹介されています。

「塚本は、1934年に、陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。

彼はそれから1935年の間じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その一つは、裕仁の防空室を描いた鈴木記念館の絵のなかで時代錯誤の幽霊となって現れているあの永田軍務局長の殺人であった。」

この1934年の陸軍大学における陰謀というのは、磯部浅一と村岡孝次が陸軍をクビになる11月事件であると思われます。

そして、永田鉄山惨殺事件(=相沢事件)にも、塚本が関係したという記述がバーガミニの本にあったということは、いったいこれは、、、、、、、

2・26事件について、浜田政彦さんが考えている以上の根深い陰謀があるのではないかという気になりませんか


とくまる
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2・26事件の首謀者である磯部、村中と、8・15宮城事件の陰謀の筋書きを書いた塚本は、意外に近い関係だったのですね。

得丸

以下、ネットよりコピペ


塚本誠(陸士36)、村中孝次(陸士37)、磯部浅一(陸士38)は、陸軍士官学校の一年ずつ先輩後輩です。

磯部浅一
・ 山口県出身。陸士(38期)卒。陸軍経理学校卒。
・ 早くから北一輝のもとに出入りし「皇道派」青年将校の先駆的
  存在の一人。
・ 士官学校事件で、村中孝次らとともに、辻政信ら「統制派」の
  陰謀に陥り逮捕。のち停職処分。
・ 冤罪を訴え続け、村中とともに「粛軍に関する意見書」を作成
  、配布。これにより免官となる。
・ 真崎教育総監更迭、相沢事件ののち、相沢を支援しつつ、活動
  を活発化される。
・ 二・二六事件に際しては、栗原安秀とともに時期尚早論を抑え
  、計画を指揮。
・ 獄中で「行動記」「獄中遺書」を書き、決起の正当性を主張。
  刑死。

村中 孝次(むらなか たかじ、1903年10月3日-1937年8月19日)は、戦前日本の軍人、国家社会主義者。北海道旭川市出身。

札幌中学を経て、陸軍士官学校37期。歩兵第27連隊付・士官学校区隊長を経て、1932年歩兵第26連隊付。同年陸軍大学に進むが中退。
この頃から皇道派青年将校グループの中心人物として知られるようになり、維新同志会の西田税らと交遊。1934年大尉。同年磯部浅一らとともにクーデター未遂容疑で検挙され、休職となる(陸軍士官学校事件)。

翌1935年磯部と「粛軍に関する意見書」を作成・配布し、免職となった。また、真崎甚三郎教育総監の更迭は永田鉄山軍務局長を中心とした統制派の皇道派弾圧の陰謀であるとする「真崎教育統監更迭事情」を作成し、相沢三郎中佐に送付。同年の永田軍務局長殺害事件(相沢事件)の遠因を作った。1936年の二・二六事件の首謀者の一人となり、1937年に西田や磯部らと共に射殺された。

塚本 誠
明治36・9・24〜昭和50・8・6
大13・7 陸士卒(36期)
13・10 任歩兵少尉・歩兵第59聯隊付
昭2・10 任歩兵中尉
6・5 仙台教導学校付
7・11 任憲兵中尉・仙合憲兵隊付
7・12 岡山憲兵分隊長
8・8 任憲兵大尉
9・3 憲兵司付
10・3 大阪憲兵隊付
10・4 上海駐在
12・8 上海派遣軍司付
12・12 中支那派遣憲兵隊付
13・3 台北憲兵分隊長
13・7 任憲兵少佐
14・3 参本付仰付(上海駐在)
14・9 支那派遣軍総司令部付
16・3 中支那派遣憲兵分隊長
16・8 東京憲兵隊付(特高第2課長)
17・8 任憲兵中佐
18・8 宇都宮憲兵隊長
19・5 ビルマ方面軍憲兵隊長
19・12 第10方面軍司付
20・4 第10方面軍参謀
20・6 任憲兵大佐
20・8 東部憲兵隊司部員兼憲兵参謀
20・9 軍務局付
20・12 予備役
24年 電通入社
48年 電通取締役で退社

憲兵練習所甲種学生 首席
* 11期:昭和7年11月14日/塚本誠 歩兵中尉
==============================


2・26事件も結局、天皇が仕組んだ陰謀だったのでしょうか、、、、

とくまる
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_02_contents.htm


天皇の陰謀

天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた

ディビット・バーガミニ 著
松崎  元 訳


私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。

だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。


私は、裕仁を「陰謀」の首謀者として登場させるつもりである。

だが陰謀というこの言葉は、過剰使用と盲目的愛国心のおかげで、一般的には不信をもたれる言葉となっている。だが国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。

裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。私は裕仁を子供の頃から存じている。彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L2/220216.htm


10. 中川隆 2013年3月02日 09:34:49 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

鬼塚氏が8・15の偽装クーデターを徹底検証した『日本のいちばん醜い日』には、狂言回しとして憲兵中佐・塚本誠が登場します。 後の電通の取締役です。
塚本誠と懇意にしているのが松本重治。国策通信社『国通』の上海支局長です。


この二人を中心に人間関係を描くと次のようになります。

当時の松本重治の人脈は「上海クラブ」の上流階級、すなわち、

長州5を英国に留学させた麻薬王ジャーデイン・マセソン商会の子孫ケジック兄弟、
兄弟を紹介してくれたロイター極東総支配人クリストファー・チャンセラー、
秘密工作で一緒に奔走してくれる麻薬王・里見甫、
西安事件の大スクープネタをくれた義父の親友・須磨弥吉郎。


やがて須磨はスペイン大使になって「天皇のスパイ」べラスコを発掘。
べラスコが一方的にトモダチだと思っているのがキム・フィルビー。
キムはヴィクター・ロスチャイルドのスパイ組織に属するホモダチ。
スターリンが「ご主人様」と呼んでいるのがヴィクターその人。
つまりキムはヴィクターの根城に避難しただけです。
この点、高橋五郎『天皇のスパイ』はかなりパースペクテイブが狂っていて、ベラスコを天皇のダチッコとして大物扱いしていますが、ヴィクターに遠隔操作されていた小物スパイに過ぎません。


そしてヴィクターの忠実なポチがロックフェラー三世。
ロックは日本の敗戦直後に日米文化交流という名の侵略を開始。
松本重治が国際文化会館を創設してバックアップ。
塚本誠は電通に潜り込んで反乱分子を監視。
塚本誠と松本重治が諜報組織で繋がっている構図が見えます。


今回登場する大宅壮一、半藤一利、秦郁彦もこの構図の中にいます。
かつての三島由紀夫もこの構図の範疇にいます。
ここからはみ出すものはメジャーにはなれません。


では815の概略を見ていきましょう。

鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』成甲書房より以下抜粋します。

ポツダム宣言が米中英三国により共同宣言として発表されたのは一九四五年七月二十六日だった。その日、塚本誠憲兵中佐を日本に呼び戻す命令が台湾に打電された。塚本誠は『ある情報将校の記録』(一九七一年私家版・一九七九年芙蓉書房刊)(注 序文を松本重治が書いています)の中で次のように書いている。

「私は東京転勤のため、七月二十六日午後、海軍機に便乗、台湾飛行場を福岡へ飛び立った。・・・この日早朝にポツダム宣言が放送されることを、私は終日知らずじまいであった。・・・翌二十七日夕、福岡に着き、ポツダム宣言を知った。米中英三国首脳が連名で、日本に無条件降伏を要求しているが、この宣言は軍をゆさぶるに違いないと思った。」


塚本誠憲兵中佐はさりげなく書いているが、彼はある目的をもって帰国命令を受けたのであった。彼は特別任務を与えられての帰国であることを知っていた。八月十五日を中心とする終戦秘史を書いた本は多い。しかし、塚本誠に注目し、彼の行動について書いた本は皆無に近い。どうしてか。彼がポツダム宣言の発表直後に帰国命令を受けた意味を知ろうとしないからである。

この件について具体的に追及したのは、私の知るかぎりにおいて、デイヴィッド・バーガミニとレスター・ブルークス。バーガミニは日本の歴史を勉強し、日本の暗殺がなにゆえに行われ、どのような方法で構成にその暗殺が伝えられるかについて考察し、記録にとどめた稀有の学者でもあった。バーガミニの書く文章の意味が、私がこれから描く事件の経緯のなかで判然としてくるであろう。塚本は「日本の最良の警察」の役割をすべく、宮中の偽装クーデターの見届人として登場するのである。


デーヴィッド・バーガミニ

『天皇の陰謀』より写真転載

警察の見届人塚本が加わったがゆえに、陸軍の愛国的な少佐や中佐が急速にクーデターに熱中していくのである。このクーデターが秘密の会合から誕生したものでないことを何よりも証している。塚本はクーデターを計画しているといわれる井田正孝中佐に会見する。塚本は「私の東京転勤の陰の推進者はどうやら彼(井田中佐)だったようである」と書いている。だが、真の推進者が誰であったのかについては書いていない。一介の陸軍省事務局の中の軍事課員にすぎぬ一人の中佐が、塚本憲兵中佐を台湾から強制的に帰還させることはできない。彼の帰還命令の背後には大いなる実力者がいなければならない。この大いなる実力者が真のクーデターの実行者であるはずである。この物語は真の実力者が暗躍する過程を描くことになろう。

塚本の本からの引用を続けよう。「やがて二人の見知らぬ佐官が、井田中佐の横の両脇に座った。彼の紹介によると、一人は椎崎二郎中佐(45期)、もう一人は畑中健二少佐(46期)、共に軍務課員ということであった。」彼らの計画を塚本は書きとめた。

「降伏が最後になる前に、宮城を占拠し、天皇に不名誉を受け入れるよう助言した君側の奸から天皇を救い出すべくクーデターを決行する。もし、彼らの陰謀が失敗した時は自決する。私たちは、阿南と直接に幾度も討論した。阿南は終始加担しなかったが、彼らの大義に同情を示した。私たちは近衛師団長と東部軍司令官にも進言した。二人の将軍は、軍隊の規律についての適当な見解を開陳して応えたにとどまり別に私たちを止めようとしなかった」

塚本はこの三人からクーデター計画の内容を聞きだし、自分の仕事がなんであるかを知った。この物語は、塚本中佐が台湾から帰還し、竹下正彦中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐の三人の軍務局少壮課員に会った時をもって始まる。塚本が指摘する竹下中佐が、彼らと陸将のパイプ役であった。

畑中健二少佐

『日本のいちばん醜い日』より


椎崎次郎中佐

『日本のいちばん醜い日』より

バーガミニの説とブルークスの説がわかれる分岐点がこのあたりにある。バーガミニはこの日(十三日)から始まるクーデターを最初から偽装クーデターと認識し、塚本憲兵中佐をこのクーデターの記録係とし、井田正孝中佐を誘導及び報告係りとする点である。ブルークスは井田正孝が塚本憲兵中佐に語った言葉を信じている。バーガミニは疑っている。


後述することになるが、バーガミニは八月十四日の昼過ぎから起きるクーデターを宮廷がらみの偽装クーデターであり、首謀者とされる井田正孝以下の将校たちは、宮廷グループ(この人々については、ゆっくりと説明していく)の面々により誘導されたと見る。その最大のイベントが森近衛師団長の惨殺事件であったと。それゆえ、大城戸(注 塚本に指示を与えている上役)も塚本も井田も、宮中のスパイであり、彼らが若手将校や近衛氏団の歩兵たちを操って事件を起こしたと見る。しかし、あの宮中事件について書いた他の本はすべて、あの八・一四および八・一五の事件は真実のクーデターであった、という点で一致をみている。

ブルークスは憲兵司令官大城戸三治中将の存在をご存知ないらしい。彼は宮廷の飼い犬である。すべての彼の行動は内大臣木戸幸一の指示のとに動いている。従って大城戸は政治への参与をゆるされない。塚本中佐も陸軍省に入り込んだ井田中佐も内大臣木戸の手先である。内大臣木戸はこの憲兵隊のデータを天皇に報告する義務がある。『木戸幸一日記』には、この憲兵隊司令官がたびたび登場する。情報を知り、その情報を天皇に伝奏する様子が書かれている。しかし、終戦直前の記録から、この「憲兵隊」という言葉がかなり消える。木戸は意識して憲兵隊の名を伏せているとしか見えない。

バーガミニは書いている。「塚本の到着によって、阿南の幕僚の狂信者達は、公式の見届人が与えられた。このことは彼らにとっては、彼らの行為が記録されて、死んだ場合には例会で祖先から嘉せられることを意味しているが故に、重要なことだった。」森師団長と同じように惨殺された多数の軍人たち、空襲で命を失った数多くの民間人たちは霊界でどうなっているのか・・・。まわりくどい言い方を止めよう。私はこれから“天皇タブー”に挑戦する。この本はそのためにのみ書かれたものである。

半藤一利の『日本のいちばん長い日』(決定版)・・・の中に、三笠宮は二回ほどしか登場しない。しかも「これらの人々が憂いていたのは、軍の反抗である」と書かれている人物は三笠宮と蓮沼蕃(はすぬましげる)侍従武官長である。私はこの重要人物が故意に書かれざる存在であると思えてならないのである。どうしてか。答えは塚本憲兵中佐の台湾帰還を命じた人物こそ、三笠宮か、三笠宮に近い皇族の東久邇宮ではないかと思えるからである。

塚本が、誰が自分を直接に命令を出して帰還させたかを全く書いていないのも不条理であろう。彼はその人物を知っていた。そして、その人物から直接に命令を受けた、と私は考える。なぜなら、彼は“儀式”の見張り役を命じられたのである。いわば、このクーデターの進行係のような行動をとるからである。塚本は、「陸軍大臣室での模様については、終戦直後に井田中佐から直接聞いたことがある」と書いている。しかし、終戦直後とはいつの日なのか。八月十四日を終戦とする説があるのだ。私は、塚本は陸軍大臣室に入り、ペンを執って模様を写していたと見ている。彼は陸軍大臣とその部下たちのもとにへばりついていたからである。

『日本のいちばん長い日』の中の、ある“気になる文章”のことを書いてみる。私は半藤のミスかと思ったが、そうでもないらしい。故意であろうと確信するにいたったのである。以下、大宅壮一編になる『日本のいちばん長い日』を「大宅本」とし、半藤一利著なる本を「半藤本」または「決定版」としたい。

(@_@;)
○一九六五年発刊『日本のいちばん長い日』大宅壮一編→「大宅本」
○八年後角川文庫本として発刊→「角川文庫本」
○一九九五年発刊『決定版 日本のいちばん長い日』半藤一利著→「半藤本」「決定版」

まずは「大宅本」からの引用文を見てほしい。「とまれ、彼らは作戦をたて、第二段階ともいうべき布石をようやく終わろうとしていた。曽我副官が四連隊副官よりの奇妙な電話を受けた後、宮城内に入り、二重橋ぎわの衛兵司令所についたとき、副官はそこに見知らぬ三人の将校を認めた。通常近衛兵以外は入れないことになっている宮城内に、しかも夜も八時を十分か十五分過ぎたころになって、中佐が二人、少佐が一人やすやすと入れたということは、副官のそれまでの常識にはない経験であった。よくよく注意すればそこに事件の匂いをかぎとることができたかも知れない。」

次に、八年後に出た「角川文庫本」から‐。「とまれ、彼らは作戦をたて、第二段階ともいうべき布石をようやく終わろうとしていた。曽我副官が四連隊副官よりの奇妙な電話を受けた後、宮城内に入り、二重橋ぎわの衛兵司令所についたとき、副官はそこに見知らぬ三人の将校の姿を認めた。通常近衛兵以外は入れないことになっている宮城内に、しかも夜も八時をとっくに過ぎたころになって、中佐がひとり、少佐がふたりやすやすと入れたということは、副官のそれまでの常識にはない経験であった。」

「大宅本」では「中佐が二人、少佐が一人」となっているが、「角川文庫本」では「中佐がひとり、少佐がふたり」となっている。決定版たる半藤本も角川文庫本と同じである。このちょっとした文章の故意としかおもえないところに、大きな問題が含まれているのだ。

(@_@;)
中佐が二人、少佐が一人→中佐がひとり、少佐がふたり
わざと平仮名にしているところに不自然な作為を感じます。

大宅本には※(注)がついている。「曽我音吉氏のはっきちした記憶から類推すると、少佐は畑中、中佐の一人が椎崎であることは間違いない。しかし、もう一人の中佐が誰であるかわからない。他に事件関係者の中佐といえば、竹下正彦氏と井田正孝氏ということになるが、両氏とも後に述べる事情からすればこれは該当しないのである。従ってここでは不明としておく。」

角川文庫には「注」がついていない。曽我音吉氏は少佐の畑中と中佐の椎崎を記憶し、もう一人の中佐を思い出せないとは、不可解以上の何かを思わせる。では、この“某中佐”について半藤一利本人はどのように考えていたのであろうか。『昭和史が面白い』(一九九七年)の中で、半藤一利は高木俊郎(作家)とともに岩田(旧姓・井田)正孝と会談している。この中で“某宮様”が登場する。

高木
「このときの青年将校は判明しているのが、畑中少佐、椎崎中佐のほか、近衛師団参謀の小賀秀正、石原貞吉の両少佐、それに久保田兼三少佐、上原重太郎大尉の六名です。しかし本当にこの人たちだけであったのか。実は明らかにされていない影があるのではないか。」

岩田
「何もありません。立ち上がったのはその六名だけです。それに私が森近衛師団長説得のため、手を貸した」

半藤
「実は『日本の一番長い日』を書いたあと、妙な話を耳にした。あの夜、宮城の近衛師団の『守備隊大隊本部』に、参謀懸章をつった中佐、それも某宮様によく似た人がいた、と言うのです。確証はありません。確証はないが、とすると、国体護持のため弱気の陛下ではなく、別の天皇陛下をいただいて、という計画がひそかにあったのではないか。」

岩田
「驚きましたね、そんな話は。今はじめて聞きました。六人以外に同志はいなかったですよ。椎崎中佐を見間違えたと思いますよ。それに天皇陛下が弱気だからなんて考えたこともない。弱気だったのは外務大臣ですよ。」

半藤
「しかし、時日は、宮城占拠の近衛兵たちは御文庫に機関銃を向けているんですよ。」

岩田
「これは想像ですけどね。暗くて、どっちに御文庫があるかわからなかったのでは。」

半藤
「いや、いつも警備任務についている近衛兵ばかりなんですよ、占拠しているのは。」

岩田
「御文庫にいた侍従や女官たちの恐怖にかられた想像、いや妄想ですよ。近衛兵は泣いていますよ。」

半藤一利は「確証はありません。確証はないが、とすると、国体護持のため弱気の陛下でなく、別の天皇をいただいて、という計画があったのではないか」とも語る。ここから近衛兵たちが(後に詳述するが)わけもわからず、宮中のそれも天皇の住まいである御文庫まで「行け!」と命じられるのである。多くの軍人たちがその某宮様の指示、否、命令で動いたのである。しかし、つねに無名という名を与えられているのだ。岩田正彦はこの某宮様(この本では某中佐)と行動を共にしていたのである。時は流れ過ぎゆくも、この某中佐の存在すら否定しえ、偽証の生き証人として彼は生きてきたのである。私は、この“某中佐”の行方を追ってみようと思う。どうしてか?私は“天皇のタブー”い果敢に挑戦し、このタブーを打ち破る以外に、日本の未来への道は開けないと確信するからである。

三笠宮崇仁(終戦当時二十九歳)が雑誌「文藝春秋」(二〇〇五年九月号)の「特集・運命の八月十五日」に「玉音放送までの苦しかった日々」を寄稿している。

「昭和二十年八月寿五日といえば、中高年の日本人にとって忘れられない日であろう。もちろん私もその一人である。それから六十年経った今、頭に何が浮かぶかと聞かれれば、それはいわゆる玉音放送をラジオで聞いた時の、『やっと辿り着いたなぁ、という安堵感』と答えるしかない。・・・当時、私は航空総軍参謀として勤務していたが、私の部屋に来て、目の色を変えて抗戦の決意を述べる将校もいた。また自宅‐といっても家は消失したので、防空壕の前におかれた椅子と卓‐に来られた将校もおり、話しているうちにやがて大激論となった。・・・また、要職にある某将軍が前期の自宅にみえたことがあった。話の要点は、『大元帥陛下が、降伏の決心を翻して、戦争を継続していただくよう』陛下に申上げてくれとのことであった。私は、その温厚な顔つきや話し方を聞きながら、将軍が依然、侍従武官をしていたことを思いおこして、陛下(昭和天皇)を、かわいいわが子のごとく想っているのではないかという印象を受けた。しかしこの要請を、私はどうしても受け入れることが出来なかった。はっきりとお断りした。将軍は肩をおとして退出された。防空壕は低地にあったので、坂道を上らなければならなかった。妻は将軍の後姿を見て、感傷に堪えなかったという。そのすぐ後、将軍は自決された。大元帥陛下と、蹶起にはやる陸軍将校たちとの間にたって、苦悶されたであろう将軍の心の内を思いはかると、あまりにも悲愴な出来事であったというしかあるまい。あんな戦争は今後あってはならない。」

三笠宮と陸軍大臣阿南惟幾を終戦工作で結びつける資料は非常に衝くない。しかし、最後の最後まで三笠宮が阿南を動かしていたと思われるのである。大森実『戦後秘史(2)天皇と原子爆弾』(一九七五年)の中に「大森実直撃インタビュー」が入っている。そこで大森は阿南綾(陸軍大臣阿南惟幾大正未亡人)をインタヴューしている。このなにげない大森と阿南夫人の対談は、八月十四日に起きた事件が、今までに考えらえていた事件とは全く洋装の異なったものであることを暗示している。

その第一の点は、十四日、三笠宮と阿南が何かの目的のためにかなりの長時間会っていたことを示している。陸軍省にも陸軍大臣官邸にも、阿南のいそうな場所に阿南夫人はたびたび電話している。要件も彼の部下に話しているにちがいない。自分の息子の死を知らせる息子の友人の話を、せめて電話を通してでも聞きたいと思わない親がどこにいようか。しかし阿南夫人が「はあ、十四日は、三笠宮様のところに伺ったり、あちこちおりましたらしいんでございますよ・・・」と語るように、その居場所さえはっきりしないのである。後述するけれども、森近衛師団長も同じようにはっきりしない時間帯がある。ひょっとすると二人は監視下におかれていたのかもしれないのだ。


阿南惟幾大将

『日本のいちばん醜い日』より


森赳近衛師団長

『日本のいちばん醜い日』より

木戸幸一(当時内大臣)は戦後戦犯となり巣鴨プリズンに収監された。彼はこのプリズンの中でも「日記」を書いたが、『木戸幸一談話』が残っている。その中で木戸は奇妙なことを語っている。「極東軍事裁判に関する談話」から引用する。彼とは阿南陸相をさす。

(十)阿南惟幾
よく識(し)っている。立派な人で終戦も彼が陸相でよかった。我々の立場もよく諒解してくれた。彼の自決の八月十五日の朝、私のところに来て「もう一度考え直してもらえないか」と云うので、私は「事情でも大きく変わったら兎に角、既定の線で押し切る外ない」と答えると「君の立場はよく判る」と笑って辞去した。

なんとも不思議な文章ではないか。木戸ははっきりと“自決の八月十五日の朝”と書いている・三笠宮も“十五日”と書いている。以下は私の推理である。八月十五日の早暁(夜中の零時〜一時ごろ)に、三笠宮邸の防空壕の中にいたのは、木戸内大臣、阿南陸相、畑中、椎崎、上原たちではなかったか。阿南は畑中たちの命を救ってやりたい。それで、「もう一度考え直してもらえないか」と三笠宮と木戸内大臣を説得した。

阿南は十四日午後十一時三十分、鈴木首相に最後の言葉を告げるために残っている。首相官邸を辞した後に、三坂宮の防空壕に行くと十二時をすぎ、十五日となるだろう。そこで重大な論議を、三笠宮と木戸をはさんで阿南陸相がしたのであろう。結論は出なかったに違いない。三笠宮が有末(精三)に語った“陛下のおたのみ”が論議されたと私は考える。三者は口論となり、話はまとまらずに別れたのちがいない。

午前一時すぎに、近衛師団長室の二階に向かって暗闇の中を車が走った。そして、某中佐と畑中、椎崎、上原が二階に向かってかけよった。そこに銃剣を持った井田中佐がいた・・・。某中佐は畑中が森師団長をピストルで撃った後、暗闇に消えた。そして、どこへ行ったのか。それを暗示する文章がある。下村海南の『終戦秘史』(一九五〇年)を引用する。

「矢部理事のもとへ兵士がかけて来て、『あなたもこちらへ』という。何事が起ったかと引き返し、将校の前に出ると、大隊長は、『今あの室の入口に上衣をぬいでいた人は高松宮殿下ではないかと思うがどうだ』と聞く。この深夜に高松宮様が宮内省の一室に宿直しているなどとはとんでもない錯覚だが、たずねられるままに茶目気を出した矢部理事は、『そういえばいかにも似ていますね』と答えた。大隊長はまじめな顔で、『○○中尉、あのお方のところへ行って伺って来い、失礼のないように』○○中尉は『ハイ』と答え、帽子を直したり、ボタンをかけたりして、あわただしく走っていった。すぐ引きかえして、『高松宮殿下でないそうであります』」

どうして下村海南(本名宏、当時情報局総裁)は、こんな妙な文章を挿入したのであろうか。下村の本を読むと(これも後述する)、この本は森赳(もりたけし)に捧げられているような気がするのである。彼は事実を残したいという、やむにやまれぬ気持ちを後世に伝えるために、一見意味不明のこうした文章を入れたと私は信じている。

ブルークスの『終戦秘話』の中の一文を引用したい。十五日午前三時ごろの“ひとりの将校”のことが書かれている。たぶん、ブルークスは某中佐のことを書いていると思うのだ。

「午前三時ごろ、ひとりの将校が御文庫の入り口に現れて、側衛隊長に、その五人の部下の武装を解除をするように要求した。側衛隊長は狼狽して、その要求を入江(相政すけまさ)侍従に告げた。」

ブルークスは姓名をすべてつけて記述している。このように“一人の将校”と書くのは例外である。しかも天皇が住む御文庫の入り口である。下村海南がかいているごとく高松宮によく似たある将軍が二時半ごろに登場する。それは間違いで別人となる。しかし私は、この人物と三時過ぎの“一人の将校”は同一人物に思えてならない。この“ひとりの将校”は皇居警察の側衛隊の武装解除を要求する。この皇居警察の部長の上官として、侍従部長の蓮沼蕃大将がいる。それを承知の上で、武装解除を要求できるのは、皇位に非常に近い“某中佐”以外にいないと思う。高松宮によく似たとされる某中佐は森赳殺害現場から去り、宮中で服を着がえ、侍従武官長と木戸内大臣と会い、それから外に出て、いろいろと武装解除について皇居警察部長に指摘したのであろう。『すべての窓や出入り口の鉄扉を締めろ。偽装クーデターの近衛兵がやってくるが、彼らを取り締まらずに見て見ぬふりをしろ・・・』と言い残して、消えるのだ。それも「将校が向かって行ったかなたの闇のざわめきが、いるのは彼ひとりではない」という闇の中へだ。

さて、この項の最後に、「This is 読売」(一九九七年五月号)での三笠宮崇仁と平山郁夫画伯の対談「大戦の芽は明治健軍の時代にあり」からアカンベ宮様の思想の一面を紹介したい。「この狭い島国における共同生活では、伝統的な風習を守らないと村八分にされるおそれがある。そこでふだんから目立たない言動をし、控えめにふるまうことが身に付いてしまったのですね。」

三笠宮殿下には申しわけないが、私は村八分を少しも恐れない。文筆業の人々は、妙な事を書いて飯が喰えなくなるのではと思っている。即ち、“天皇タブー”をよけて飯を喰っている。私は貧乏の底をはいつくばって生きてきた。それでも生きてペンを執っている。村八分にしたけりゃ、それでよし。そんな連中にめぐり合ったら、“アカンベ”をするだけだ。


以上、鬼塚氏前掲書より転載。
http://perimari.gjpw.net/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E6%A4%9C%E8%A8%BC/20130226_122


http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/583.html#c9

[近代史02] NHK特集「二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」 gataro
11. 中川隆[-8771] koaQ7Jey 2019年8月18日 08:29:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3971]
NHKスペシャル「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586132/index.html
初回放送 2019年8月15日(木) 午後7時32分(73分) 再放送 2019年8月18日(日) 午前0時35分(73分)

番組内容

私たちが知る歴史は、一断面に過ぎなかった―。NHKは「2・26事件」の一部始終を記した「最高機密文書」を発掘した。1936年2月、重要閣僚らが襲撃された近代日本最大の軍事クーデター。最高機密文書には、天皇の知られざる発言や、青年将校らと鎮圧軍の未知の会談、内戦直前だった陸海軍の動きの詳細など、驚くべき新事実の数々が記されていた。事件後、軍国主義を強め戦争に突入した日本。事件の「衝撃の全貌」に迫る。

■出演者ほか

【朗読】今井朋彦,【語り】守本奈実

NHKスペシャル 全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190815
初回放送 2019年8月15日(木)午後7時30分〜8時43分

私たちが知っていたのは、“真相”の一断面に過ぎなかった―。

今回NHKは、あの歴史的事件の一部始終を記録した「極秘文書」を発掘した。1936年2月26日、首都・東京の中枢で首相や大臣が襲撃された、近代日本最大の軍事クーデター「二・二六事件」。これまで、事件に関する主な公的記録は、完全非公開で“暗黒裁判”と言われた陸軍の軍事裁判資料とされ、事件をリアルタイムで記録した1次資料はなく、多くが謎とされてきた。事件から83年がたった今、見つかった「極秘文書」によって、青年将校たちの反乱と、その鎮圧にいたる「4日間」の詳細が明らかとなったのだ。

文書を密かに記録していたのは海軍。事件発生直後から現場に解き放った「調査部隊」や、密かに設置された「見張所」からまさに分単位で緊迫の状況を記録していた。陸軍の幹部が事件の裏で行っていた知られざる会談や、海軍が、反乱を超えた大規模な内戦まで想定して備えていたことなど、文書に残されていた「新事実」の数々に、解析に当たった専門家も息を呑んだ。  

二・二六事件後、軍国主義を強め戦争に突入していった日本。首都東京を大混乱に陥れ、国家の運命を分ける転換点となった歴史的事件の全容に迫る。

「二・二六事件」海軍極秘文書発見 収束までの4日間詳細に記録

NEWS DAILY
2019/08/15 に公開

戦前、陸軍の青年将校らがクーデターを企て、政府要人を殺害した「二・二六事件」について、事件の発生から収束までの4日間を分単位で記録した極秘文書が残されていたことがNHKの取材でわかりました。当時、海軍が記録したもので、青年将校と軍幹部の動きややり取りなどが細かく記されており、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

今回見つかった資料は、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」について、海軍が当時記録した内部文書です。

文書には「極秘」の印が押されていて、事件発生から収束までの4日間について、海軍が現場で把握した情報が分単位で記録されています。

このうち、発生からおよそ2時間後の2月26日午前7時に記された第一報とみられるメモは、「警視庁」「占領」、「総理官邸」「死」など、なぐり書きの文字が並び、その衝撃の度合いがわかります。

事件の鎮圧には青年将校たちが所属した陸軍が当たりましたが、海軍は陸軍の司令部に連絡要員を派遣したり、現場に「見張り所」を多数設置したりして、青年将校だけでなく、陸軍の動向も監視していました。

2日目、2月27日の午後6時半の記録には、陸軍の幹部が青年将校らについて「彼らの言い分にも理あり」と理解を示し、「暴徒としては取り扱い居らず」と発言をしたことが記され、陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえます。

さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、「何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか」と問い、天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていました。

そして最終日、2月29日の午前8時5分の記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載され、この直後の青年将校らの投降がなければ、市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられています。

「二・二六事件」は、これまで青年将校らを裁いた特設軍法会議の資料など事件後にまとめられた記録が、主な公文書とされてきましたが、今回、見つかったのは事件を同時進行で詳しく記録したもので、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

NHKスペシャル「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」
「二・二六事件の全貌 」   克明な記録文書が出てきた。 陸・海軍や天皇はどう動いたか。

※1:07:43〜 東京憲兵隊長が海軍大臣次官に2・26機密情報をもたらした



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/751.html#c11

[近代史02] NHK特集「二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」 gataro
12. 中川隆[-8770] koaQ7Jey 2019年8月18日 08:31:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3972]
#NHKスペシャル#全貌二・二六事件

事件1週間前に海軍が掴んだ情報は詳細を極めており極秘文章には襲撃される重臣の名前、首謀者の名前までも明記されてた。

海軍は二・二六事件の詳細を掴んでたが事実は闇に葬られた。不都合な事実は隠される。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/751.html#c12

[近代史02] NHK特集「二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」 gataro
13. 中川隆[-8772] koaQ7Jey 2019年8月18日 08:34:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3970]
「二・二六事件の全貌 」  
克明な記録文書が出てきた。 陸・海軍や天皇はどう動いたか。 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E5%85%A8%E8%B2%8C
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/751.html#c13
[政治・選挙・NHK264] <極秘文書で判明!海軍は事件の7日前に把握していた!>NHKスペシャル「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」   赤かぶ
11. 中川隆[-8771] koaQ7Jey 2019年8月18日 08:54:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3971]

2・26事件は金の亡者の昭和天皇が為替相場を不当に操作して儲けるために意図的に起こさせたものだった.

2・26事件の背景は


第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。


 バンカ島での出来事をオーストラリア政府が封印したのは日本の「国体護持」を望むウォール街の意向に沿った行動だと言えるだろう。その国体に関わる儀式が近く行われる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/

http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/583.html#c11

[近代史3] 昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由

昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由

2・26事件は金の亡者の昭和天皇が為替相場を不当に操作して儲けるために意図的に起こさせたものだった.


「二・二六事件の全貌 」 2019年8月15日 
克明な記録文書が出てきた。 陸・海軍や天皇はどう動いたか。 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E5%85%A8%E8%B2%8C

<極秘文書で判明!海軍は事件の7日前に把握していた!>
NHKスペシャル「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」  


事件1週間前に海軍が掴んだ情報は詳細を極めており極秘文章には襲撃される重臣の名前、首謀者の名前までも明記されてた。

海軍は二・二六事件の詳細を掴んでたが事実は闇に葬られた。不都合な事実は隠される。


私たちが知っていたのは、“真相”の一断面に過ぎなかった―。

今回NHKは、あの歴史的事件の一部始終を記録した「極秘文書」を発掘した。

1936年2月26日、首都・東京の中枢で首相や大臣が襲撃された、近代日本最大の軍事クーデター「二・二六事件」。これまで、事件に関する主な公的記録は、完全非公開で“暗黒裁判”と言われた陸軍の軍事裁判資料とされ、事件をリアルタイムで記録した1次資料はなく、多くが謎とされてきた。

事件から83年がたった今、見つかった「極秘文書」によって、青年将校たちの反乱と、その鎮圧にいたる「4日間」の詳細が明らかとなったのだ。

文書を密かに記録していたのは海軍。事件発生直後から現場に解き放った「調査部隊」や、密かに設置された「見張所」からまさに分単位で緊迫の状況を記録していた。陸軍の幹部が事件の裏で行っていた知られざる会談や、海軍が、反乱を超えた大規模な内戦まで想定して備えていたことなど、文書に残されていた「新事実」の数々に、解析に当たった専門家も息を呑んだ。 

 

今回見つかった資料は、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」について、海軍が当時記録した内部文書です。

文書には「極秘」の印が押されていて、事件発生から収束までの4日間について、海軍が現場で把握した情報が分単位で記録されています。

このうち、発生からおよそ2時間後の2月26日午前7時に記された第一報とみられるメモは、「警視庁」「占領」、「総理官邸」「死」など、なぐり書きの文字が並び、その衝撃の度合いがわかります。

事件の鎮圧には青年将校たちが所属した陸軍が当たりましたが、海軍は陸軍の司令部に連絡要員を派遣したり、現場に「見張り所」を多数設置したりして、青年将校だけでなく、陸軍の動向も監視していました。

2日目、2月27日の午後6時半の記録には、陸軍の幹部が青年将校らについて「彼らの言い分にも理あり」と理解を示し、「暴徒としては取り扱い居らず」と発言をしたことが記され、陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえます。

さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、「何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか」と問い、天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていました。

そして最終日、2月29日の午前8時5分の記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載され、この直後の青年将校らの投降がなければ、市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられています。

「二・二六事件」は、これまで青年将校らを裁いた特設軍法会議の資料など事件後にまとめられた記録が、主な公文書とされてきましたが、今回、見つかったのは事件を同時進行で詳しく記録したもので、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。
http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/583.html


2・26事件の背景は


第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。


 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。


 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。


 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。


 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。


 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。


 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。


 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる


 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)


 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。


 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。


 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。


 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/

▲△▽▼

金の亡者だった昭和天皇が2・26事件を起こさせた本当の理由

ねず氏は、天皇は自分の統帥権が犯され、統帥権が奪われようとすることには敏感に反応するのであって、統帥権を断固維持しようと腐心する。これは天皇家の歴史的本能だ、という。

2・26事件は為替相場を不当に操作して儲けるために起こさせたものだった.
2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した.

もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。

青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば奸凶は天皇自身だったのである。

 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。
天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。

なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 

それは昭和天皇が、立憲君主ではなく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。

大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。

2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
 


2・26事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。

事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。

 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。
皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。

つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6863442c2632a11902486caa91a0cb55

昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。

そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。


 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。

これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


本来であれば、忘れ去られてしかるべき歴史的事件が、今もなお、
「昭和史最大の謎」として話題になるところは、2・26事件のす
ごさでしょう。

1年半前に我々がとりあげた鬼塚英昭さんの「日本のいちばん醜い日
」は8・15クーデター未遂事件は、天皇側が仕組んだ偽造クーデ
ターと考えています。そしておそらく2・26事件も。

また、8・15事件のシナリオを書いて、細かな演出をしたのは塚
本誠憲兵中佐だと紹介しています。

驚くことに、8・15クーデター事件の背後で暗躍していた塚本誠
中佐は、2・26事件のときも背後にいました。

塚本は当時、上海で憲兵をしていましたが、昭和「11年11月に(大阪
の留守宅で)三男が生まれた」とありますから、昭和11年2月ごろ日
本にいたようです。おそらく上海をベースにしながら、偽クーデターが起きるように日本にちょくちょく帰って煽って歩いていたのではないかと思われる。

記述のない前日まで日本で暗躍して、当日はアリバイ作りのために上海にいたのではないかと思われます。鬼塚さんは2・26も8・15も、天皇側が仕組んだ偽クーデターと考える。 またシナリオと演出は塚本誠憲兵中佐だとバーミガニの記述を紹介。

「塚本は、1934年に陸軍大学における北進派即ち征露派の陰謀を暴露するのに
、宮廷の密偵を助けたことで、天皇の注意を惹いた。彼はそれから1935年の間
じゅう、大阪で皇叔東久邇宮の下で様々な秘密計画に携わった。その1つは(略)
永田軍務局長の殺人であった。」
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220305.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220216.htm


▲△▽▼

鬼塚氏が8・15の偽装クーデターを徹底検証した『日本のいちばん醜い日』には、狂言回しとして憲兵中佐・塚本誠が登場します。 後の電通の取締役です。
塚本誠と懇意にしているのが松本重治。国策通信社『国通』の上海支局長です。


この二人を中心に人間関係を描くと次のようになります。

当時の松本重治の人脈は「上海クラブ」の上流階級、すなわち、

長州5を英国に留学させた麻薬王ジャーデイン・マセソン商会の子孫ケジック兄弟、
兄弟を紹介してくれたロイター極東総支配人クリストファー・チャンセラー、
秘密工作で一緒に奔走してくれる麻薬王・里見甫、
西安事件の大スクープネタをくれた義父の親友・須磨弥吉郎。


やがて須磨はスペイン大使になって「天皇のスパイ」べラスコを発掘。
べラスコが一方的にトモダチだと思っているのがキム・フィルビー。
キムはヴィクター・ロスチャイルドのスパイ組織に属するホモダチ。
スターリンが「ご主人様」と呼んでいるのがヴィクターその人。
つまりキムはヴィクターの根城に避難しただけです。
この点、高橋五郎『天皇のスパイ』はかなりパースペクテイブが狂っていて、ベラスコを天皇のダチッコとして大物扱いしていますが、ヴィクターに遠隔操作されていた小物スパイに過ぎません。


そしてヴィクターの忠実なポチがロックフェラー三世。
ロックは日本の敗戦直後に日米文化交流という名の侵略を開始。
松本重治が国際文化会館を創設してバックアップ。
塚本誠は電通に潜り込んで反乱分子を監視。
塚本誠と松本重治が諜報組織で繋がっている構図が見えます。


今回登場する大宅壮一、半藤一利、秦郁彦もこの構図の中にいます。
かつての三島由紀夫もこの構図の範疇にいます。
ここからはみ出すものはメジャーにはなれません。


では815の概略を見ていきましょう。

鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日』成甲書房より以下抜粋します。

ポツダム宣言が米中英三国により共同宣言として発表されたのは一九四五年七月二十六日だった。その日、塚本誠憲兵中佐を日本に呼び戻す命令が台湾に打電された。塚本誠は『ある情報将校の記録』(一九七一年私家版・一九七九年芙蓉書房刊)(注 序文を松本重治が書いています)の中で次のように書いている。


「私は東京転勤のため、七月二十六日午後、海軍機に便乗、台湾飛行場を福岡へ飛び立った。・・・この日早朝にポツダム宣言が放送されることを、私は終日知らずじまいであった。・・・翌二十七日夕、福岡に着き、ポツダム宣言を知った。米中英三国首脳が連名で、日本に無条件降伏を要求しているが、この宣言は軍をゆさぶるに違いないと思った。」

塚本誠憲兵中佐はさりげなく書いているが、彼はある目的をもって帰国命令を受けたのであった。彼は特別任務を与えられての帰国であることを知っていた。八月十五日を中心とする終戦秘史を書いた本は多い。しかし、塚本誠に注目し、彼の行動について書いた本は皆無に近い。どうしてか。彼がポツダム宣言の発表直後に帰国命令を受けた意味を知ろうとしないからである。


この件について具体的に追及したのは、私の知るかぎりにおいて、デイヴィッド・バーガミニとレスター・ブルークス。バーガミニは日本の歴史を勉強し、日本の暗殺がなにゆえに行われ、どのような方法で構成にその暗殺が伝えられるかについて考察し、記録にとどめた稀有の学者でもあった。バーガミニの書く文章の意味が、私がこれから描く事件の経緯のなかで判然としてくるであろう。塚本は「日本の最良の警察」の役割をすべく、宮中の偽装クーデターの見届人として登場するのである。


デーヴィッド・バーガミニ

『天皇の陰謀』より写真転載


警察の見届人塚本が加わったがゆえに、陸軍の愛国的な少佐や中佐が急速にクーデターに熱中していくのである。このクーデターが秘密の会合から誕生したものでないことを何よりも証している。塚本はクーデターを計画しているといわれる井田正孝中佐に会見する。塚本は「私の東京転勤の陰の推進者はどうやら彼(井田中佐)だったようである」と書いている。だが、真の推進者が誰であったのかについては書いていない。一介の陸軍省事務局の中の軍事課員にすぎぬ一人の中佐が、塚本憲兵中佐を台湾から強制的に帰還させることはできない。彼の帰還命令の背後には大いなる実力者がいなければならない。この大いなる実力者が真のクーデターの実行者であるはずである。この物語は真の実力者が暗躍する過程を描くことになろう。

塚本の本からの引用を続けよう。「やがて二人の見知らぬ佐官が、井田中佐の横の両脇に座った。彼の紹介によると、一人は椎崎二郎中佐(45期)、もう一人は畑中健二少佐(46期)、共に軍務課員ということであった。」彼らの計画を塚本は書きとめた。

「降伏が最後になる前に、宮城を占拠し、天皇に不名誉を受け入れるよう助言した君側の奸から天皇を救い出すべくクーデターを決行する。もし、彼らの陰謀が失敗した時は自決する。私たちは、阿南と直接に幾度も討論した。阿南は終始加担しなかったが、彼らの大義に同情を示した。私たちは近衛師団長と東部軍司令官にも進言した。二人の将軍は、軍隊の規律についての適当な見解を開陳して応えたにとどまり別に私たちを止めようとしなかった」

塚本はこの三人からクーデター計画の内容を聞きだし、自分の仕事がなんであるかを知った。この物語は、塚本中佐が台湾から帰還し、竹下正彦中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐の三人の軍務局少壮課員に会った時をもって始まる。塚本が指摘する竹下中佐が、彼らと陸将のパイプ役であった。


畑中健二少佐

『日本のいちばん醜い日』より


椎崎次郎中佐

『日本のいちばん醜い日』より


バーガミニの説とブルークスの説がわかれる分岐点がこのあたりにある。バーガミニはこの日(十三日)から始まるクーデターを最初から偽装クーデターと認識し、塚本憲兵中佐をこのクーデターの記録係とし、井田正孝中佐を誘導及び報告係りとする点である。ブルークスは井田正孝が塚本憲兵中佐に語った言葉を信じている。バーガミニは疑っている。


後述することになるが、バーガミニは八月十四日の昼過ぎから起きるクーデターを宮廷がらみの偽装クーデターであり、首謀者とされる井田正孝以下の将校たちは、宮廷グループ(この人々については、ゆっくりと説明していく)の面々により誘導されたと見る。その最大のイベントが森近衛師団長の惨殺事件であったと。それゆえ、大城戸(注 塚本に指示を与えている上役)も塚本も井田も、宮中のスパイであり、彼らが若手将校や近衛氏団の歩兵たちを操って事件を起こしたと見る。しかし、あの宮中事件について書いた他の本はすべて、あの八・一四および八・一五の事件は真実のクーデターであった、という点で一致をみている。

ブルークスは憲兵司令官大城戸三治中将の存在をご存知ないらしい。彼は宮廷の飼い犬である。すべての彼の行動は内大臣木戸幸一の指示のとに動いている。従って大城戸は政治への参与をゆるされない。塚本中佐も陸軍省に入り込んだ井田中佐も内大臣木戸の手先である。内大臣木戸はこの憲兵隊のデータを天皇に報告する義務がある。『木戸幸一日記』には、この憲兵隊司令官がたびたび登場する。情報を知り、その情報を天皇に伝奏する様子が書かれている。しかし、終戦直前の記録から、この「憲兵隊」という言葉がかなり消える。木戸は意識して憲兵隊の名を伏せているとしか見えない。

バーガミニは書いている。「塚本の到着によって、阿南の幕僚の狂信者達は、公式の見届人が与えられた。このことは彼らにとっては、彼らの行為が記録されて、死んだ場合には例会で祖先から嘉せられることを意味しているが故に、重要なことだった。」森師団長と同じように惨殺された多数の軍人たち、空襲で命を失った数多くの民間人たちは霊界でどうなっているのか・・・。まわりくどい言い方を止めよう。私はこれから“天皇タブー”に挑戦する。この本はそのためにのみ書かれたものである。

半藤一利の『日本のいちばん長い日』(決定版)・・・の中に、三笠宮は二回ほどしか登場しない。しかも「これらの人々が憂いていたのは、軍の反抗である」と書かれている人物は三笠宮と蓮沼蕃(はすぬましげる)侍従武官長である。私はこの重要人物が故意に書かれざる存在であると思えてならないのである。どうしてか。答えは塚本憲兵中佐の台湾帰還を命じた人物こそ、三笠宮か、三笠宮に近い皇族の東久邇宮ではないかと思えるからである。

塚本が、誰が自分を直接に命令を出して帰還させたかを全く書いていないのも不条理であろう。彼はその人物を知っていた。そして、その人物から直接に命令を受けた、と私は考える。なぜなら、彼は“儀式”の見張り役を命じられたのである。いわば、このクーデターの進行係のような行動をとるからである。塚本は、「陸軍大臣室での模様については、終戦直後に井田中佐から直接聞いたことがある」と書いている。しかし、終戦直後とはいつの日なのか。八月十四日を終戦とする説があるのだ。私は、塚本は陸軍大臣室に入り、ペンを執って模様を写していたと見ている。彼は陸軍大臣とその部下たちのもとにへばりついていたからである。

『日本のいちばん長い日』の中の、ある“気になる文章”のことを書いてみる。私は半藤のミスかと思ったが、そうでもないらしい。故意であろうと確信するにいたったのである。以下、大宅壮一編になる『日本のいちばん長い日』を「大宅本」とし、半藤一利著なる本を「半藤本」または「決定版」としたい。

(@_@;)
○一九六五年発刊『日本のいちばん長い日』大宅壮一編→「大宅本」
○八年後角川文庫本として発刊→「角川文庫本」
○一九九五年発刊『決定版 日本のいちばん長い日』半藤一利著→「半藤本」「決定版」

まずは「大宅本」からの引用文を見てほしい。「とまれ、彼らは作戦をたて、第二段階ともいうべき布石をようやく終わろうとしていた。曽我副官が四連隊副官よりの奇妙な電話を受けた後、宮城内に入り、二重橋ぎわの衛兵司令所についたとき、副官はそこに見知らぬ三人の将校を認めた。通常近衛兵以外は入れないことになっている宮城内に、しかも夜も八時を十分か十五分過ぎたころになって、中佐が二人、少佐が一人やすやすと入れたということは、副官のそれまでの常識にはない経験であった。よくよく注意すればそこに事件の匂いをかぎとることができたかも知れない。」

次に、八年後に出た「角川文庫本」から‐。「とまれ、彼らは作戦をたて、第二段階ともいうべき布石をようやく終わろうとしていた。曽我副官が四連隊副官よりの奇妙な電話を受けた後、宮城内に入り、二重橋ぎわの衛兵司令所についたとき、副官はそこに見知らぬ三人の将校の姿を認めた。通常近衛兵以外は入れないことになっている宮城内に、しかも夜も八時をとっくに過ぎたころになって、中佐がひとり、少佐がふたりやすやすと入れたということは、副官のそれまでの常識にはない経験であった。」

「大宅本」では「中佐が二人、少佐が一人」となっているが、「角川文庫本」では「中佐がひとり、少佐がふたり」となっている。決定版たる半藤本も角川文庫本と同じである。このちょっとした文章の故意としかおもえないところに、大きな問題が含まれているのだ。


(@_@;)
中佐が二人、少佐が一人→中佐がひとり、少佐がふたり
わざと平仮名にしているところに不自然な作為を感じます。

大宅本には※(注)がついている。「曽我音吉氏のはっきちした記憶から類推すると、少佐は畑中、中佐の一人が椎崎であることは間違いない。しかし、もう一人の中佐が誰であるかわからない。他に事件関係者の中佐といえば、竹下正彦氏と井田正孝氏ということになるが、両氏とも後に述べる事情からすればこれは該当しないのである。従ってここでは不明としておく。」

角川文庫には「注」がついていない。曽我音吉氏は少佐の畑中と中佐の椎崎を記憶し、もう一人の中佐を思い出せないとは、不可解以上の何かを思わせる。では、この“某中佐”について半藤一利本人はどのように考えていたのであろうか。『昭和史が面白い』(一九九七年)の中で、半藤一利は高木俊郎(作家)とともに岩田(旧姓・井田)正孝と会談している。この中で“某宮様”が登場する。

高木
「このときの青年将校は判明しているのが、畑中少佐、椎崎中佐のほか、近衛師団参謀の小賀秀正、石原貞吉の両少佐、それに久保田兼三少佐、上原重太郎大尉の六名です。しかし本当にこの人たちだけであったのか。実は明らかにされていない影があるのではないか。」

岩田
「何もありません。立ち上がったのはその六名だけです。それに私が森近衛師団長説得のため、手を貸した」

半藤
「実は『日本の一番長い日』を書いたあと、妙な話を耳にした。あの夜、宮城の近衛師団の『守備隊大隊本部』に、参謀懸章をつった中佐、それも某宮様によく似た人がいた、と言うのです。確証はありません。確証はないが、とすると、国体護持のため弱気の陛下ではなく、別の天皇陛下をいただいて、という計画がひそかにあったのではないか。」

岩田
「驚きましたね、そんな話は。今はじめて聞きました。六人以外に同志はいなかったですよ。椎崎中佐を見間違えたと思いますよ。それに天皇陛下が弱気だからなんて考えたこともない。弱気だったのは外務大臣ですよ。」

半藤
「しかし、時日は、宮城占拠の近衛兵たちは御文庫に機関銃を向けているんですよ。」

岩田
「これは想像ですけどね。暗くて、どっちに御文庫があるかわからなかったのでは。」

半藤
「いや、いつも警備任務についている近衛兵ばかりなんですよ、占拠しているのは。」

岩田
「御文庫にいた侍従や女官たちの恐怖にかられた想像、いや妄想ですよ。近衛兵は泣いていますよ。」

半藤一利は「確証はありません。確証はないが、とすると、国体護持のため弱気の陛下でなく、別の天皇をいただいて、という計画があったのではないか」とも語る。ここから近衛兵たちが(後に詳述するが)わけもわからず、宮中のそれも天皇の住まいである御文庫まで「行け!」と命じられるのである。多くの軍人たちがその某宮様の指示、否、命令で動いたのである。しかし、つねに無名という名を与えられているのだ。岩田正彦はこの某宮様(この本では某中佐)と行動を共にしていたのである。時は流れ過ぎゆくも、この某中佐の存在すら否定しえ、偽証の生き証人として彼は生きてきたのである。私は、この“某中佐”の行方を追ってみようと思う。どうしてか?私は“天皇のタブー”い果敢に挑戦し、このタブーを打ち破る以外に、日本の未来への道は開けないと確信するからである。

三笠宮崇仁(終戦当時二十九歳)が雑誌「文藝春秋」(二〇〇五年九月号)の「特集・運命の八月十五日」に「玉音放送までの苦しかった日々」を寄稿している。

「昭和二十年八月寿五日といえば、中高年の日本人にとって忘れられない日であろう。もちろん私もその一人である。それから六十年経った今、頭に何が浮かぶかと聞かれれば、それはいわゆる玉音放送をラジオで聞いた時の、『やっと辿り着いたなぁ、という安堵感』と答えるしかない。・・・当時、私は航空総軍参謀として勤務していたが、私の部屋に来て、目の色を変えて抗戦の決意を述べる将校もいた。また自宅‐といっても家は消失したので、防空壕の前におかれた椅子と卓‐に来られた将校もおり、話しているうちにやがて大激論となった。・・・また、要職にある某将軍が前期の自宅にみえたことがあった。話の要点は、『大元帥陛下が、降伏の決心を翻して、戦争を継続していただくよう』陛下に申上げてくれとのことであった。私は、その温厚な顔つきや話し方を聞きながら、将軍が依然、侍従武官をしていたことを思いおこして、陛下(昭和天皇)を、かわいいわが子のごとく想っているのではないかという印象を受けた。しかしこの要請を、私はどうしても受け入れることが出来なかった。はっきりとお断りした。将軍は肩をおとして退出された。防空壕は低地にあったので、坂道を上らなければならなかった。妻は将軍の後姿を見て、感傷に堪えなかったという。そのすぐ後、将軍は自決された。大元帥陛下と、蹶起にはやる陸軍将校たちとの間にたって、苦悶されたであろう将軍の心の内を思いはかると、あまりにも悲愴な出来事であったというしかあるまい。あんな戦争は今後あってはならない。」

三笠宮と陸軍大臣阿南惟幾を終戦工作で結びつける資料は非常に衝くない。しかし、最後の最後まで三笠宮が阿南を動かしていたと思われるのである。大森実『戦後秘史(2)天皇と原子爆弾』(一九七五年)の中に「大森実直撃インタビュー」が入っている。そこで大森は阿南綾(陸軍大臣阿南惟幾大正未亡人)をインタヴューしている。このなにげない大森と阿南夫人の対談は、八月十四日に起きた事件が、今までに考えらえていた事件とは全く洋装の異なったものであることを暗示している。

その第一の点は、十四日、三笠宮と阿南が何かの目的のためにかなりの長時間会っていたことを示している。陸軍省にも陸軍大臣官邸にも、阿南のいそうな場所に阿南夫人はたびたび電話している。要件も彼の部下に話しているにちがいない。自分の息子の死を知らせる息子の友人の話を、せめて電話を通してでも聞きたいと思わない親がどこにいようか。しかし阿南夫人が「はあ、十四日は、三笠宮様のところに伺ったり、あちこちおりましたらしいんでございますよ・・・」と語るように、その居場所さえはっきりしないのである。後述するけれども、森近衛師団長も同じようにはっきりしない時間帯がある。ひょっとすると二人は監視下におかれていたのかもしれないのだ。


阿南惟幾大将

『日本のいちばん醜い日』より


森赳近衛師団長

『日本のいちばん醜い日』より


木戸幸一(当時内大臣)は戦後戦犯となり巣鴨プリズンに収監された。彼はこのプリズンの中でも「日記」を書いたが、『木戸幸一談話』が残っている。その中で木戸は奇妙なことを語っている。「極東軍事裁判に関する談話」から引用する。彼とは阿南陸相をさす。

(十)阿南惟幾
よく識(し)っている。立派な人で終戦も彼が陸相でよかった。我々の立場もよく諒解してくれた。彼の自決の八月十五日の朝、私のところに来て「もう一度考え直してもらえないか」と云うので、私は「事情でも大きく変わったら兎に角、既定の線で押し切る外ない」と答えると「君の立場はよく判る」と笑って辞去した。

なんとも不思議な文章ではないか。木戸ははっきりと“自決の八月十五日の朝”と書いている・三笠宮も“十五日”と書いている。以下は私の推理である。八月十五日の早暁(夜中の零時〜一時ごろ)に、三笠宮邸の防空壕の中にいたのは、木戸内大臣、阿南陸相、畑中、椎崎、上原たちではなかったか。阿南は畑中たちの命を救ってやりたい。それで、「もう一度考え直してもらえないか」と三笠宮と木戸内大臣を説得した。

阿南は十四日午後十一時三十分、鈴木首相に最後の言葉を告げるために残っている。首相官邸を辞した後に、三坂宮の防空壕に行くと十二時をすぎ、十五日となるだろう。そこで重大な論議を、三笠宮と木戸をはさんで阿南陸相がしたのであろう。結論は出なかったに違いない。三笠宮が有末(精三)に語った“陛下のおたのみ”が論議されたと私は考える。三者は口論となり、話はまとまらずに別れたのちがいない。

午前一時すぎに、近衛師団長室の二階に向かって暗闇の中を車が走った。そして、某中佐と畑中、椎崎、上原が二階に向かってかけよった。そこに銃剣を持った井田中佐がいた・・・。某中佐は畑中が森師団長をピストルで撃った後、暗闇に消えた。そして、どこへ行ったのか。それを暗示する文章がある。下村海南の『終戦秘史』(一九五〇年)を引用する。

「矢部理事のもとへ兵士がかけて来て、『あなたもこちらへ』という。何事が起ったかと引き返し、将校の前に出ると、大隊長は、『今あの室の入口に上衣をぬいでいた人は高松宮殿下ではないかと思うがどうだ』と聞く。この深夜に高松宮様が宮内省の一室に宿直しているなどとはとんでもない錯覚だが、たずねられるままに茶目気を出した矢部理事は、『そういえばいかにも似ていますね』と答えた。大隊長はまじめな顔で、『○○中尉、あのお方のところへ行って伺って来い、失礼のないように』○○中尉は『ハイ』と答え、帽子を直したり、ボタンをかけたりして、あわただしく走っていった。すぐ引きかえして、『高松宮殿下でないそうであります』」

どうして下村海南(本名宏、当時情報局総裁)は、こんな妙な文章を挿入したのであろうか。下村の本を読むと(これも後述する)、この本は森赳(もりたけし)に捧げられているような気がするのである。彼は事実を残したいという、やむにやまれぬ気持ちを後世に伝えるために、一見意味不明のこうした文章を入れたと私は信じている。

ブルークスの『終戦秘話』の中の一文を引用したい。十五日午前三時ごろの“ひとりの将校”のことが書かれている。たぶん、ブルークスは某中佐のことを書いていると思うのだ。

「午前三時ごろ、ひとりの将校が御文庫の入り口に現れて、側衛隊長に、その五人の部下の武装を解除をするように要求した。側衛隊長は狼狽して、その要求を入江(相政すけまさ)侍従に告げた。」

ブルークスは姓名をすべてつけて記述している。このように“一人の将校”と書くのは例外である。しかも天皇が住む御文庫の入り口である。下村海南がかいているごとく高松宮によく似たある将軍が二時半ごろに登場する。それは間違いで別人となる。しかし私は、この人物と三時過ぎの“一人の将校”は同一人物に思えてならない。この“ひとりの将校”は皇居警察の側衛隊の武装解除を要求する。この皇居警察の部長の上官として、侍従部長の蓮沼蕃大将がいる。それを承知の上で、武装解除を要求できるのは、皇位に非常に近い“某中佐”以外にいないと思う。高松宮によく似たとされる某中佐は森赳殺害現場から去り、宮中で服を着がえ、侍従武官長と木戸内大臣と会い、それから外に出て、いろいろと武装解除について皇居警察部長に指摘したのであろう。『すべての窓や出入り口の鉄扉を締めろ。偽装クーデターの近衛兵がやってくるが、彼らを取り締まらずに見て見ぬふりをしろ・・・』と言い残して、消えるのだ。それも「将校が向かって行ったかなたの闇のざわめきが、いるのは彼ひとりではない」という闇の中へだ。

さて、この項の最後に、「This is 読売」(一九九七年五月号)での三笠宮崇仁と平山郁夫画伯の対談「大戦の芽は明治健軍の時代にあり」からアカンベ宮様の思想の一面を紹介したい。「この狭い島国における共同生活では、伝統的な風習を守らないと村八分にされるおそれがある。そこでふだんから目立たない言動をし、控えめにふるまうことが身に付いてしまったのですね。」

三笠宮殿下には申しわけないが、私は村八分を少しも恐れない。文筆業の人々は、妙な事を書いて飯が喰えなくなるのではと思っている。即ち、“天皇タブー”をよけて飯を喰っている。私は貧乏の底をはいつくばって生きてきた。それでも生きてペンを執っている。村八分にしたけりゃ、それでよし。そんな連中にめぐり合ったら、“アカンベ”をするだけだ。


以上、鬼塚氏前掲書より転載。
http://perimari.gjpw.net/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E6%A4%9C%E8%A8%BC/20130226_122



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