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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100311
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[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
174. 中川隆[-9586] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:09:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2888]

天皇裕仁のワースト・オブ・クソ「思し召し」大会
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/08/16/165326


昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」と言えば、すぐ思い当たるのはつぎのようなものだろう。

1.特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大

海軍特攻隊の生みの親と言われる大西瀧治郎は、必ずしも特攻作戦に積極的ではなく、これを「統率の外道」と呼び、こんなことまでしなければ戦えない状況になっていると知れば、天皇が戦争を止めてくれるだろうと期待していたと言われている。

しかし、フィリピン戦線における初期の特攻作戦の戦果を聞いた裕仁の反応は「よくやった」という「お褒めの言葉」だった。天皇に褒められた以上、止めるわけにはいかない。結果、特攻作戦は際限なく拡大していくことになる[1]。


 大西は、特攻でもフィリピンは防衛できないとわかっており、「戦争を止めるために特攻を進めた」という意味の証言も残っている。

 「万世一系仁慈を以て統治され給う天皇陛下は、この事を聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろう」と言い、さらに天皇のその意志表示で戦争が終わった場合「いかなる形の講和になろう共、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう」(『修羅の翼』)と言っている。

 『修羅の翼』は、フィリピン戦線で特攻に出撃しながら生還した角田和男が小田原俊彦から大西の話を聞き回顧したものだ。

 伝聞証言である。いまとなっては、真偽を確かめるのは不可能だろう。しかしながら、前述の多田や新名の記録、大西自身の遺書などを照らし合わせると、大西が特攻による超物理的効果、「民族的な記憶」に貢献する効果をみていたことは、間違いないだろう。

 では、「特攻によって天皇は終戦に向かって動く」という期待はどうだったか。特攻の犠牲者が増えれば、天皇は終戦に向かって動く。大西は本当に、そんな期待をしていたのだろうか。だとすれば、その期待は叶わなかった。
(略)

 上聞とは、天皇に伝えるということだ。

 実際、天皇はフィリピン戦線での特攻をその直後から知っていた。「昭和天皇実録」によれば、天皇は前述の「敷島隊」の特攻について、その翌日、10月26日に報告を受けている。

(略)

 その点、『神風特別攻撃隊の記録』には、興味深い記述がある。敷島隊が戦果を挙げたあとの10月末、同隊の戦闘経過を聞いた天皇の「お言葉」が届いた。同書によれば、昭和天皇は及川軍令部総長にこう言った。「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった」。天皇の「よくやった」という「お褒めの言葉」が、その後の特攻遂行のエネルギーとなったことは想像に難くない。

(略)

 「昭和天皇実録」には、天皇が特攻をどうみていたかをうかがわせる記述がある。

 1944年11月13日、梅津美治郎・参謀総長から戦況についての報告を受けた昭和天皇は「昨日のレイテ湾における陸軍特別攻撃隊万朶隊による戦果等を御嘉賞になる」と述べた。天皇はやはり特攻を「御嘉賞」、ほめ讃えていたのだ。

 『修羅の翼』が伝える大西の期待、特攻によって天皇が停戦に動くという期待は叶わなかった。

 それどころか天皇は喜んだ。となれば一度始まった特攻を中止することは大西といえども不可能であった。「特別攻撃」は通常の作戦となった。特別=異常が常態化したのである。

2.戦争終結は「もう一度戦果を挙げてから」(1945年2月)→東京大空襲、全国焦土化、沖縄戦

戦局が既に絶望的となっていた1945年2月、近衛文麿元首相が天皇に対し、ただちに終戦に踏み切るよう進言した。しかし、負けっぱなしのままで講和しては自分の立場が危うくなると恐れた裕仁はこれを拒否した[2]。


 45年に入って、戦局がますます絶望的な段階をむかえると、近衛は本格的な戦争終結工作に着手する。(略)

 ちょうどこの頃、天皇の周辺でも、なんらかのかたちで局面の転換をはかろうとする動きが具体化し、行きづまった戦局を打開するための方策について、天皇が重臣層から意見を聴取することが決まった。45年2月には、平沼騏一郎・広田弘毅・近衛文麿・若槻礼次郎・牧野伸顕・岡田啓介・東条英機、以上七人の重臣がおのおの天皇に拝謁して、戦局に対する見通しを上奏する。だが、このなかで明確な政治的方向性をもって天皇に上奏したのは、やはり近衛だけだった。

 この上奏に際して近衛は、吉田茂と殖田俊吉の協力をえて長文の上奏文をあらかじめ作成し、それを天皇の前で読みあげている。よく知られているように、この上奏文のなかで近衛は、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」として敗戦をはっきりと予言し、敗戦にともなって「共産革命」が発生し、天皇制が崩壊するという最悪の事態を回避するために、ただちに戦争の終結に踏み切ることを主張したのである。近衛のこの上奏に対し天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」と述べて、近衛の提案に消極的な姿勢を示した(『木戸幸一関係文書』)。天皇はまだ、戦局の挽回に期待をつないでいたのである。

この拒否の結果は、10万人以上の死者を出した3月10日の東京大空襲をはじめとする、戦略爆撃による全国焦土化であり、また日米軍民合わせて20万人以上、沖縄県民だけでも15万人が犠牲となった沖縄戦である。いつだって、権力者の保身のツケは人民が払わされる。

3.「海軍にはもう艦はないのか?」(1945年4月)→大和特攻、2時間で4千人戦死

沖縄戦が始まり、日本本土への米軍上陸も間近という状況になると、海軍中枢部では、既に無用の長物と化していた大和に華々しい「死に場所」を与えるべきだ(オレは行かないけど)という意見と、そのような無意味かつ不合理な作戦を行うべきではないという意見が対立していた。

この対立状況に対して、軍のメンツを守るためだけの愚策を選ばせる強力な一押しとなったのが、「もう艦はないのか?」という天皇裕仁の「御下問」だった。

その結果、大和をはじめ10隻からなる艦隊が沖縄への「海上特攻」に出撃し、目的地にたどり着くこともできずに、実質わずか2時間程度の戦闘で約4千人が無意味に死んだ[3]。


 敗色濃厚となった1945年4月1日、沖縄本島にアメリカ軍が上陸した。そこで大本営は、現地守備部隊である第32軍に、それまでの持久戦戦略から、積極的攻勢を強く命令した。その中には奪取された飛行場を取り返すことも含まれていた。よって、第32軍は7日に大規模な攻勢に出ることを決定する。

 大本営は、第32軍の攻勢を軸に「特攻」をメインとする、大規模な航空機による支援を決定する。そこで微妙な立場におかれたのが海軍である。神重徳大佐のような参謀たちが中心となり、部内を説得し、海軍も「海上特攻」部隊を派遣することが5日に慌しく決定された。

 このような海軍の動向には、昭和天皇の意向が反映されたといえる。昭和天皇は及川古志郎軍令部総長に対して「海軍にはもう艦はないのか、海上部隊はないのか」と「御下問」があった。それを重く受け止めた軍令部総長が、指揮下にある聯合艦隊に対して部隊の派遣を求めた。豊田副武聯合艦隊司令長官は、大いに発奮し、その結果、5日に戦艦大和を旗艦として、軽巡洋艦矢矧ほか駆逐艦8隻を合流させて、第2艦隊として出撃させることになる。(略)結果として駆逐艦2隻のみが損害を受けつつ生き残る。

4.沖縄をアメリカに売った「天皇メッセージ」(1947年9月)

戦後の日本支配に天皇制を利用できると踏んだアメリカのおかげで戦犯訴追を免れた裕仁は、戦後一貫して「恩人」アメリカに尻尾を振り続けた。中でもその卑劣さで抜きん出ているのが、国体(天皇制)を守るためにあれほどの犠牲を払った沖縄を自分からアメリカに売った「天皇メッセージ」だろう[4]。


 すでにその年(注:1947年)5月6日、天皇はマッカーサーに三度目の訪問をし、対日講和成立後「アメリカが撤退した場合誰が日本を守ることになるのか」と直接元帥に問い、自ら講和後の日本防衛問題への関心を見せていた。それに関連して9月19日、寺崎は、「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるため」としてシーボルトを訪ね、次のようなメッセージを与えた。

 「寺崎が述べるに天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。天皇が思うにそうした政策は、日本国民が、ロシアの脅威を恐れているばかりでなく、左右両翼の集団が台頭しロシアが“事件”を惹起し、それを口実に日本内政に干渉してくる事態をも恐れているがゆえに、国民の広範な承認をかちうることができるだろう。

 天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存リテインドさせた形で、長期ロング・タームの――25年から50年ないしそれ以上の――貸与リースをするという擬制フィクションの上になされるべきである。天皇によればこの占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソヴェト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差止めることになるだろう」。

「日本国民統合の象徴」である天皇が、自国領土の一部を、その上に住んでいる「国民」も込みで、ずっと軍事占領し続けてくださいと自分からお願いしてきたのである。しかも、どうすれば軍事占領という実態を自国民および国際社会から隠せるかというアイデアまで付けて。

アメリカから見れば、これほど都合のいい提案はないだろう。その結果が30年近くにわたる軍政と、一歩間違えば沖縄を地球上から消し去っていたかもしれない核戦力の集中配備、そして「返還」後も広大な土地を占拠し続け、被害を与え続けている米軍基地である。

5.戦争責任は「言葉のアヤ」、原爆投下は「やむを得ない」(1975年10月)

1975年、裕仁は国賓として初めてアメリカを訪問し、ディズニーランドでミッキーマウスと一緒に歩き回ったり、動物園でコアラを眺めたりして、「平和主義者で無害な老君主」という(虚偽の)イメージを振りまいた。この旅の疲れで気がゆるんでいたのか、帰国後の記者会見で思わず本音が出てしまったのがこれである[5]。


 帰国後、天皇はテレビカメラも入った記者会見を受けた(10月31日)。そのとき一記者がすかさず、外国記者団やフォードに語ったことを踏まえた「適切でない」、わずらわしい質問をした。「天皇陛下はホワイトハウスで、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますかおうかがいいたします」と。

 天皇は顔をこわばらせて、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と答え、また広島への原爆投下について聞かれ、「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」と述べた。(略)

要するに、あの戦争に関して自分に責任があるなどとはつゆほども考えていないのだ。トップがこれでは下も責任など感じるはずがない。戦犯裁判で裁かれた者たちも「運が悪かっただけ」ということになる。裕仁こそがまさに無責任国家日本の生みの親と言えるだろう。

以上、時系列にそって並べてきたのだが、悪い順に並べようにも、いずれもクソすぎて順位がつけがたいというのが正直なところだ。

[1] 栗原俊雄 『特攻――戦争と日本人』 中公新書 2015年 P.84-87
[2] 吉田裕 『昭和天皇の終戦史』 岩波新書 P.21-22
[3] 佐藤宏治 『「男たちの大和」をめぐって――歴史学の視座から』 戦争責任研究 2007年夏号 P.76
[4] 進藤栄一 『分割された領土』 岩波書店 2002年 P.65-66
[5] ハーバート・ビックス 『昭和天皇(下)』 講談社学術文庫 2005年 P.388-389

http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/08/16/165326
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c174

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
175. 中川隆[-9585] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:18:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2889]

朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。

画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c175

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
176. 中川隆[-9584] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:22:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2890]

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c176

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
177. 中川隆[-9583] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:29:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2891]

戦争責任は他人から「言われるから」辛いという天皇裕仁の無責任 2018-08-29
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/08/29/225234


先日も昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」特集記事を書いたばかりだが、またこの人物の無自覚・無責任ぶりを示す新たな史料が出てきてしまった。

これは1974年から晩年まで侍従を勤めた故小林忍氏の日記で、共同通信が氏の遺族から日記を預かり、各紙でその内容が紹介されている。特に東京新聞は二日間に渡って特集を組み、半藤一利氏と保阪正康氏の対談まで載せている。

■ 他人から「言われるから」辛い戦争責任

この日記によると、裕仁は1987年4月、小林氏に次のように語ったという[1]。死去の2年前、85歳のときである。


「長く生きても戦争責任いわれる」 昭和天皇85歳 大戦苦悩

 昭和天皇が八十五歳だった一九八七(昭和六十二)年四月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が二十二日までに日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。 

 日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。

 八七年四月七日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。この年の二月には弟の高松宮に先立たれた。

東京新聞はまるで裕仁が晩年まで自己の戦争責任について苦悩していたかのように書いているが、冗談ではない。裕仁が「辛い」のは他人から「戦争責任のことを言われる」からであって、自己の負うべき重大な責任を自覚し、内発的に反省したからではない。

もちろん天皇裕仁には戦争責任がある。帝国陸海軍を統帥する大元帥として戦争を始めた当人にさえ戦争責任がないとしたらいったい誰にあるというのか。

敗戦後の裕仁は、その長い後半生を、いかにして戦犯訴追を回避し、自分の身の安全と地位の安泰を確保するかに費やしてきた。退位さえせずに済ませた裕仁はうまく逃げ切ったつもりだっただろうが、そうやって何十年も当然負うべき責任から逃げ続けたあげく、誰かから「天皇には戦争責任がある」と指摘される程度のことが辛いとは、どこまで甘えているのか。

■ 「国民はもう忘れたから気にするな」と天皇を「励ます」侍従

そしてある意味、この無反省な裕仁の泣き言以上にひどいのが、これを受けて小林侍従が天皇を励ましたという言葉だ。


 小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ました。

この「励まし」ではまず、裕仁の命令で自国に押し入ってきた「皇軍」によって理不尽に殺され、強姦され、家族や財産を奪われた何千万というアジアの被害者の嘆きと恨みを「国民」の一言で切り捨てている。「日本国民統合の象徴」として安全な国内に収まっている天皇にとって、「国民ではない」被害者のことなどおよそ考える必要さえないということなのだろう。

もちろん、たとえ「国民」だけに限っても、南方のジャングルで補給もないまま見捨てられ餓死していった兵たちや、「天皇陛下の御為」と信じて敵艦に突っ込んでいった特攻隊員、「国体」を守るための沖縄戦で日本軍にガマ(洞窟)から追い出されて死んだ沖縄の人々、逃げずに火を消せと強いられて焼き殺された空襲被害者、さっさと逃げ出した「皇軍」に取り残されて地獄の逃避行を強いられた旧「満州」への入植者たちなど、天皇がその被害に責任を負うべき人々は何百万人もいる。

しかし、戦後政府とマスコミが総力をあげて続けてきた天皇免罪キャンペーンのおかげで、旧軍部はともかく天皇に戦争責任があると主張する真っ当な日本人は確かに限られていた。それをいいことに、戦争責任のことを言う者など少数だから気にするな、というのだ。

どこまでもトップの責任者に甘く、被害を末端に押し付けて恥じないこの国の支配層にふさわしい侍従発言である。

■ いまだに「大元帥」裕仁の責任を総括できないマスコミ

こんな無責任者とその追従者のやりとりを、「心奥触れる「昭和後半史」」だの、「晩年まで戦争の影を引きずる天皇の苦悩が克明につづられている」だのと解説してみせるマスコミには、情けないとしか言いようがない。

リベラルとされる東京新聞ですらこうなのだ。あの破滅的敗戦から70年以上が経ってもその明白な最高責任者の責任さえ総括できないのでは、ありとあらゆる責任がなし崩しにうやむやにされ、何の反省もないままずるずる戦前へと回帰していくのは当然だろう。その行き着く先は、また同じ過ちの繰り返しである。

[1] 『昭和天皇85歳 大戦苦悩』 東京新聞 2018/8/23
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/08/29/225234
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c177

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
178. 中川隆[-9582] koaQ7Jey 2019年6月16日 20:31:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2892]

立憲君主制がファシズムの台頭を防ぐ?
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/06/16/134548

■ ドイツを立憲君主制にしておけばナチス台頭を防げたという説には根拠がない

東京新聞の「私説 論説室から」(5/27)にこんな話が載っていたのには驚いた。


プロイセンの君主制

 連載社説「天皇と憲法」で取材した君塚直隆・関東学院大教授は、立憲君主制が独裁者の出現を妨げる、と指摘する。プロイセン帝国崩壊後、ナチスが台頭した経緯は連載で紹介した通りだ。
(略)

 専制のイメージが強いプロイセンだが、治下ではベルリン大学が創設され、哲学者ヘーゲルの講義が評判を呼び欧州思想界に影響を広げた。新王宮内に設ける文化施設には、当時、海外に目を向けた言語学者、地理学者のフンボルト兄弟の名を冠するという。プロイセンの記憶は暗黒ではない。

 これに対し、プロイセン崩壊後もたらされたナチス、共産主義の独裁時代は忌み嫌われている。共通するのが不寛容なイデオロギーの押しつけ。民主主義と共存し得る君主制と決定的に違う点だ。(熊倉逸男)

立憲君主制がファシズムなど独裁的政治体制の台頭を防ぐ、というのが、君塚教授の持論のようだ。その著書『立憲君主制の現在』では次のように書いている。[1]


 (略)ならば共和制を採る国はすべて民主主義的なのか。第二次世界大戦後にアメリカと並ぶ超大国となり仰せたのは、ソヴィエト社会主義「共和国」連邦であった。しかしそれはすべての市民が平等な国どころか、共産党一党独裁の下で言論の自由は奪われ、党幹部たちが利権を独占する体制であった。ソ連は1989〜91年の一連の市民運動で動揺をきたし、その衛星国として同じく共産党独裁体制下に置かれていた東ヨーロッパの「共和制」諸国とともに、倒壊の道をたどったのである。
(略)

 国際通貨基金(IMF)が発表する2015年度の「国民一人あたりの国内総生産(GDP)」のランキングで上位30位に入る国のうち、第1位のルクセンブルク大公国を筆頭に実に13ヵ国が君主制を採り、英連邦王国(オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、バハマ)も含めれば、その数は17ヵ国にも及んでいる。さらに、第二次大戦後に世界的に注目されるようになった、「社会福祉の充実」という点から考えてみても、その先進国はスウェーデン、ノルウェー、デンマークといった、いずれも北ヨーロッパの君主国なのである。

 国民統治の面でも、君主制が共和制に劣っているとはあながち言えないのかもしれない。第二次世界大戦の末期。ドイツはすでに降伏し、残す敵国は日本のみとなった1945年7月、ドイツの戦後処理問題などを話し合うために、連合国の首脳たちはベルリン郊外のポツダムに集まっていた。その席でアメリカの海軍長官ジェームズ・フォレスタル(1892〜1949)は、イギリス外相アーネスト・べヴィン(1881〜1951)から驚愕するような発言を聴いた。フォレスタルは、いまや風前の灯火となった日本の「天皇制」を廃止すべきか否かについてべヴィンに尋ねた。慎重なべヴィンは、この問題は十分に検討する時間が必要であると答えながらも、断固たる口調で次のように語ったとされる。「先の世界大戦[第一次大戦]後に、ドイツ皇帝の体制を崩壊させなかったほうが、われわれにとってはよかったと思う。ドイツ人を立憲君主制の方向に指導したほうがずっとよかったのだ。彼らから象徴を奪い去ってしまったがために、ヒトラーのような男をのさばらせる心理的門戸を開いてしまったのであるから」

 ベヴィンは「労働党」の政治家であり、極貧生活の中からはい上がり、労働組合の指導者にもなった社会主義者である。ある意味では、H・G・ウェルズ以上に「反君主制」を唱えていてもおかしくない彼がこのように断言したことに、フォレスタルは驚嘆したのだった。このベヴィンの発言どおり、戦後の日本には、天皇を象徴とする新たな国家が形成され、今日に至っている。20世紀を代表するイギリスの政治家ベヴィンをして、戦後日本の安全弁のように言わしめた、「立憲君主制」とは果たしてどのようなものなのであろうか。

君塚教授はこう言うが、そもそも各国がそれぞれ独自の歴史的経緯を経てたどり着いた固有の政治体制を「共和制」「君主制」に二分して、どちらが民主的であるとかないとか言うこと自体が乱暴に過ぎる。また、第一次大戦後のドイツでナチスが台頭したのは、ベルサイユ条約で多くの領土を奪われ莫大な賠償金を課された屈辱への国民の復讐心と、それを煽り立てるヒトラーのような男を「コントロールできる」と考えた当時の権力者たち(ヒンデンブルク大統領ほか)の愚かさのせいだろう。ドイツ皇帝を象徴的君主として残しておけばこれが防げたとする主張には根拠がない。それに、ドイツの帝制は大戦末期のドイツ革命によりドイツ人自身の手で廃絶されたのであって、戦勝国が廃止させたのではない。

だいたい、ヒトラーと並ぶ独裁者で「ファシズム」の語源であるファシスト党を率いたムッソリーニが台頭した当時のイタリアは、代表民主制、権力の分立、国民の権利保障等を定めたアルベルト憲法[2]を持つ立憲君主国(イタリア王国)だったではないか。


このようにアルベルト憲法は,規定上は君主制を基本としたが,しかし実際には,議会による政府が国政の中心的役割を担った。すなわち政治的決定権限は,国王から政府に移り,政府は支持政党の多数党との協力により営まれていた。アルベルト憲法は,君主制を基礎に置き,当初は寡頭政治の一面を有したが,後には選挙制度を拡充するなど,自由主義的・民主主義的側面をも有していた。

■ 北欧諸国が今でも王国なのは国王自身がファシズムと闘ったから

社会民主主義的福祉国家として知られる北欧諸国の多くが現在も王制を残している(フィンランドは共和国)のは事実だが、例えばデンマークやノルウェーでそうなっている理由は、君塚氏自身が書いているように、ナチスドイツによる侵略・占領に国王自身が断固として抵抗し、ファシズムに反対する国民の象徴となったからだ。[3]


 デンマーク国民にとって「ナチスへの抵抗」の象徴となっていたのが、ほかならぬ老国王クリスチャン10世であった。国王は占領の翌日からコペンハーゲンの町を毎朝馬で散策した。乗馬はそれまでの日課でもあったが、ドイツ軍の兵士たちが見守るなか、護衛もつけずに一人で愛馬と散策する国王の姿は、ドイツに対する無言の抵抗と国民の目には映っていた。事実、ドイツ兵が彼に敬礼しても国王はいっさい無視し、普通に挨拶してくる一般市民にはいつものとおり優しく言葉をかけるのであった。
(略)

(略)それでも国王の気骨はへこまなかった。デンマーク在住のユダヤ人に「ダビデの星」をつけるようにとの要求にも断固反対した。国王は「デンマーク国民であるユダヤ人」にはナチスに指一本触れさせなかった。こうした国王の態度と自由評議会などの支援もあって、ドイツ占領下にあった諸国のなかでデンマークのユダヤ人たちは98%がホロコーストを逃れることができたとされる。(略)
(略)

 1940年4月9日の早朝、ドイツ軍はノルウェーの首都オスロや西海岸六カ所を同時に急襲した。(略)ノルウェー軍による徹底抗戦は各地で続いた。しかしドイツ軍による猛攻に耐えられず、2ヶ月後の6月7日に国王は皇太子、政府閣僚らとともに国外への脱出を決定した。

 6月10日にホーコン(注:国王)とオーラヴ(注:皇太子)はロンドンのユーストン駅に降り立った。(略)それからの5年間にわたりホーコンはイギリスでの亡命生活に入る。ロンドンに借りた事務所では、毎日のように皇太子や閣僚たちと協議を行い、連合軍から得た情報をもとに祖国の解放に尽力した。

 また国王は、BBC(英国放送協会)のラジオを通じて、ノルウェーの国民に希望を捨てないように訴え続けた。ロンドンでは「自由ノルウェー」という抵抗組織を立ち上げ、「すべてをノルウェーのために(All for Norway)」を標語に、国王は寝る間も惜しんで活動を続けた。そしてついに待望の時が訪れた。1945年5月8日にドイツが降伏した。(略)亡命からちょうど5周年にあたる6月7日に、72歳の老国王ホーコンが祖国の土を踏んだ。(略)宮殿へと向かう国王の乗る馬車を、歓喜する大勢の国民が取り囲んだ。宮殿前には13万人以上の市民が集まり、ここにノルウェーは解放されたのである。

 ナチスによる占領後も祖国デンマークにとどまって抵抗の意志を貫いた兄クリスチャンと同様に、亡命後もラジオを通じて国民に語り続けたホーコンは、ノルウェー国民にとって「ナチへの抵抗と祖国解放の希望」の象徴となり続けていた。


これらの国王がナチスドイツに迎合するような態度を取っていたら、戦後、王制はもちろん廃止されていただろう。問題は君主制か共和制か、などではないのだ。

■ 天皇制擁護論に賛成の余地はない

君塚教授はこうした立憲君主制の「効能」を並べることで象徴天皇制をも民主主義の維持発展に必要な制度として位置づけたいのだろうが、身を挺してファシズムに抵抗した王たちの君主制と、それ自体が天皇制ファシズムという怪物を生み出した絶対主義的天皇制の残滓と言える日本の象徴天皇制を同列に並べることはできない。

こうした一見マイルドな天皇制擁護論にも、断じて反対だ。

[1] 君塚直隆 『立憲君主制の現在 日本人は「象徴天皇」を維持できるか』 新潮選書 2018年 P.6-8
[2] 椎名規子 『イタリア憲法の家族条項および国家と家族の関係についての家族法的考察(2)』 専修大学法学論集 第96号(2006年3月)P.146
[3] 君塚 P.150-161

http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/06/16/134548
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c178

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
59. 中川隆[-9581] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:02:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2893]
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427



▲△▽▼

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c59

[近代史3] 日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが… 中川隆
24. 中川隆[-9580] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:04:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2894]
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427



▲△▽▼

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html#c24

[近代史3] 林千勝の陰謀論を考える _ 日米戦争を策謀したのは昭和天皇か、近衛文麿か? 中川隆
18. 中川隆[-9579] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:07:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2895]
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427



▲△▽▼

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/457.html#c18

[近代史3] 南京大虐殺、南京での組織的略奪とその隠蔽は昭和天皇が直々に命令して実行させた? 中川隆
4. 中川隆[-9578] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:08:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2896]
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427



▲△▽▼

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/131.html#c4

[近代史3] チャンネル桜のアホ番組に出演する自称専門家の話は信じてはいけない 中川隆
11. 中川隆[-9577] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:10:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2897]
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427



▲△▽▼

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/399.html#c11

[リバイバル3] GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり 中川隆
9. 中川隆[-9576] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:11:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2898]
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427



▲△▽▼

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/748.html#c9

[近代史3] 昭和天皇の戦争犯罪問題が再燃すると困るから天皇一族は靖国神社に参拝できなくなった 中川隆
3. 中川隆[-9575] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:12:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2899]
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427



▲△▽▼

上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/128.html#c3

[近代史02] 日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景 中川隆
148. 中川隆[-9574] koaQ7Jey 2019年6月16日 21:25:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2900]

大家族生活の良さ 2019年06月16日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-777.html

 柳田国男が、明治42年(1909年)に、白川郷を訪れたとき、大家族生活の印象を書き残している。

 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2279832.html

 土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことはおりおりある例なり。ただこの村の慣習法はあまりに厳粛にて、戸主の他の男子はすべて子を持つことを許されず、生まれたる子はことごとく母に属し、母の家に養われ、母の家のために労働するゆえに、かくのごとく複雑な大家内となりしのみ。
 狭き谷の底にてめとらぬ男と嫁がぬ女と、あいよばい静かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりというべきか。

 首を回らせば世相はことごとく世紐なり。寂しいとか退屈とか不自由という語は、平野人の定義皆誤れり。歯と腕と白きときは来たりてチュウビンテンメンし、頭が白くなればすなわち淡く別れ去るという風流千万なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみこれを独占し、我らはとうていその間の消息を解することあたわず。

 引用以上

 ちなみに「チュウビンテンメン」という用語は、ネット上で探しても出てこない。広辞苑や大言海でも無理かも知れない。「秋風帖」という柳田の著作には漢字で出てくるものの、今では誰も理解困難だ。

 柳田が言いたかったことは、「白川郷の大家族生活には孤独が存在しない」ということである。しかし、冒頭の私のブログに書いてあるように、昭和初期には、女性たちは、高山や岡谷、富山などの紡織産業に出稼ぎに出ていて、ひとたび外の世界の「自由」に触れた者たちは、再び白川郷に戻らなかった。

 白川郷の労働が激しかった理由は、たぶん戦国時代に、煙硝=硝酸カリの製造法が発見され、その最適地として知られたのが飛騨合掌家屋であったことだろう。
 雪深く湿度が高い環境と、一軒家に多数の人々が暮らしているので、原料となる屎尿・青草の入手が容易な白川郷や五箇山では効率的な煙硝の製造が可能だった。加賀藩や高山藩が煙硝製造に焦って、住民たちに年貢の代替として無理な負荷をかけ続けた事情は容易に窺える。

 白川郷には男女の集団生活があったが、彼らはプライバシーに飢えていた。
 我々が、大家族生活の利点に憧れるとき、最も警戒しなければならないことが、人が多すぎてプライバシーがもたらす休息が失われることの可能性である。

 大家族には生活上の利点が実に多い。

 何よりも、食事、洗濯、買い物などで、たくさんの消費を効率的に満足させられるのである。一度にたくさんの仕事をするから、孤立した小家族に比べて、一人あたりの消費は実に合理的に行える。

 間違いを犯しても、仲間がすぐに指摘してくれるし、分からないことは教えてもらえる。
 
 生活の必要経費と労働量は、小家族と大家族では極めて大きな差が生じる。

 何よりも、一人主婦が家事を行うのと、数名でワイワイガヤガヤと共同して行うのでは、同じ家事でも雲泥の差、共同には人生の楽しさのエッセンスが詰まっている。

 一人の仕事はつまらない。人は共同にこそ人生のすべての楽しみを得られるように設計されているのである。

 洗濯機や冷蔵庫、掃除機など家電製品で考えれば、数名でも数十名でも同じ道具と時間ですんでしまうので、たくさん買いそろえる必要がない。

 老人や病人の介護が、一人の主婦に負担が集中する小家族とは比較にならないほど楽であり、何か困ったことが起きても、よってたかって解決する人が、たくさん出てくるのである。

 人が死んだときも、全体に及ぶ影響は、家族の規模が大きいほど小さなものになる。悲しみも、みんなが和らげてくれる。「孤独」って、どこの話? ということになるのだ。

 ここでネット上で、大家族生活の合理性について書かれているサイトを参照してみよう。

 山上家の節約術が凄い!家族10人で月30万円!?
 https://xn--bck9etdz48puxcfxu.net/bigfamily/bigfamly/yamagamike

 大家族貧乏ゆうり家の究極のこだわり節約術
 https://yuurin4children.com/daikazokusetuyaku/

 大家族すぎて生活苦に陥っている家庭の悩み https://mikle.jp/theme/%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%8B%A6+%E5%A4%A7%E5%AE%B6%E6%97%8F/

 これらの記事は、私の子供時代の家族感覚からすれば、大家族でもなんでもなくて、「普通家族」のものにすぎないが、それでも生活の大変さと、家族が多いことでの不便と合理性について触れている。

 私は「大家族生活」を考える場合、単位としては10〜20名程度を想定していて、10名以下は「普通の家族」であると思う。

 それに血縁ばかりが家族になるわけでなく、家族というより「共同体志向」を念頭に考える必要があると思っている。

 逆に大家族制度の不合理性=不便性について、ネット上で実情と意見を探しているのだが、なかなか発見することができない。

 小家族の合理性について探しても、まず出てこない。つまり、「小家族で良かった」との記事は見たことがない。

 「大家族はいいですよ」という記事はたくさん見かけるのだが、大家族のせいで自殺に追い詰められたとか、人生が窮屈で死にそうだとかの苦情を探すのは困難なのであり、小家族で幸せだったとの賛美も見つからない。

 せめて、「トイレが足らなくて、我慢してるうちに漏れちゃった」というような具体的な不便記事を探しても見つからない。
 
 それでも、大家族を未経験の人が真っ先に深刻に不安視するのが、プライバシーの侵害であり、隠し事ができないことへの恐怖であり、たくさんの人と同居することの閉塞感、圧迫感であろう。

 実際問題として白川郷の若い娘たちが、苛烈な冬の野麦峠を越えて、女工哀史に描かれた凄惨なほどの岡谷の生糸紡織産業に就業し、一日16時間の辛い肉体労働を強要されても、故郷に帰らなかった事情は、8畳間に同性の10人以上もが寝起きする合掌家屋の生活に、よほど嫌気がさしていたのではないかと思う。

 そこで、我々が窮乏する生活上の要請から、再び大家族生活に回帰するにあたって、個人のプライバシーと、大家族の合理性を、どのように両立させるか明確なビジョンを持って、計画的に準備することが必要というのが私の考えである。
 もうギュウギュウ詰の生活を我慢できる人も少ないだろうから、一定のプライバシーは、どうしても確保しておかないと、集団=共同体生活も成り立たないと考えている。

 そこで参考になるのが、ヤマギシ会のシステムである。
 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2348506.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-23.html

 私は1973年頃、新島淳良がヤマギシ会の理事長だったころ、特別講習というのに参加したのだが、この頃のヤマギシ会は、本当に素晴らしかった。
 何より、参画者の女性たちが美しかった。化粧など誰もしていなかったが、人生や人間関係に対する喜びにあふれた表情は、一目見ただけで忘れられないほど美しいものだった。

 当時のヤマギシ会は、まだ貧しくて、みんな粗末なトタン張りの小屋に住んでいたが、それでも、ヤマギシズムと呼ばれた放し飼いに近い養鶏法が生活の主軸になっていたから、養鶏法をモデルとしたシステムに、人間も生活していたのである。

 ドーム型の長屋を区割りして個室が作られていたが、個室は四畳半くらいで、数名が生活していた。

 食事も洗濯も風呂も、すべて共同で行われ、強制は一切なく、本人の自主性だけに依拠した共同体がうまく機能していた。

 問題が出ると研鑽会が開かれ、みんなで意見を出して解決していた。

 大切なことは、ヤマギシ会においては、粗末ではあったが、それなりの個人のプライバシーが確保されていたということで、我々が共同体を志向するときも、必ず、共同性とプライバシーを両立させる生活システムを考える必要があると思う。

 その後、80年代末にも私は関わったのだが、その頃になると、いろいろな問題が噴出し、いわゆる「問題組織」とレッテルを貼られるようになったが、私は、詳細を知らない。ただ、結構豪華な個室が与えられていたことが印象に残っている。
 ちょうど70年前後の全共闘運動が80年代に近くなると、悪い意味での変質が起きていたことに似た、組織の統治に関する問題がたくさん出てきて、私は幻滅させられることが多く、ヤマギシとの関わりも失われた。

 リーダーが専用のベンツに乗って外出する姿を見たとき、「ヤマギシも終わったのか?」と強い不安に駆られた記憶がある。つまり、もの凄く儲かっていたことで、ヤマギシズムの本質を見失ってしまったのではないか? と私には思えた。

 今の段階では抽象的にしか語れないのが残念だ。当時は、私自身が地獄の釜のなかにいるような精神状態で、何をどうすべきかのビジョンが、まるで生み出せなかった。

 資本主義の爛熟過程では、みんな物質的欲望と見栄に取り込まれ、愛を見失い競争だけが生き甲斐になるような、人間性を見失った時代になってしまうのだが、それがバブル時代だったと思う。

 私もバブル時代の中で、価値観を見失い苦悩したが、今、再び、60年代のような民衆の貧しさが復活して、真実を見抜こうとする価値観が復権してきているような気がする。

 豊かさは人を愚かにするが、貧しさは人を賢明に育てるのである。みんなが貧しくなって、再び、我々の前に真実が姿を現しはじめた。それが共同体の復権であると、私は思う。

 共同体=すなわち大家族生活のことである。人が金ではなく、人に依拠して生き抜いてゆく。この世の本質は、金や差別ではなく、人間と、その愛であると気づいた人たちが、手を取り合って新しい社会を形成してゆくのである。

 まだ資本主義の競争社会に影響を受けて、人ではなく、技術や集団、組織の虚構に目を奪われて、「この世には人間と自然しかない」という真実を見抜けない人たちがたくさん生きている。

 彼らは、コンピュータ社会、IT・AIに過剰な幻想を抱き、それが人を支配するようになると勘違いしているが、決してそうではない。世界の本質は人間であり、金ではなく、技術でも権力でもない。
 人間だけを見つめて生きるために、我々には大家族=共同体生活が必要なのだ。

 また、共同体は、「そうしなければ生きてゆけない」という切羽詰まった現実の上に築かれるものであり、誰か頭の良い、えらーい人が登場してきて共同体社会を指導して回るわけではない。

 みんな、ときには「いやいや」団結し、共同してゆくのであって、団結のなかで、新しい価値、大きな合理性としての共同体生活を見いだしてゆくものだと私は思う。

 何度も書いているのだが、30年前に松原照子が予言したとおり、「日本人は草も食べられない」ようになりつつあり、もう大都会では餓死するしかない時代が目前に迫っていると思う。

 テレビでやってる山奥の「ポツンと一軒家」こそ、真の桃源郷になる時代が近づいているように私には思われるのだ。

 今は90歳近い老人が少人数で最期の日を待っているが、やがて、ここに若者たちが、未来を担う共同体を作り出す日がやってくると私は信じている。 
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-777.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html#c148

[近代史3] 朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一 中川隆
5. 中川隆[-9573] koaQ7Jey 2019年6月17日 05:26:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2901]
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427
■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

▲△▽▼


上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html#c5

[近代史3] 戦後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか? 中川隆
25. 中川隆[-9572] koaQ7Jey 2019年6月17日 05:28:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2902]
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427
■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

▲△▽▼


上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/232.html#c25

[近代史02] 戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき 中川隆
54. 中川隆[-9571] koaQ7Jey 2019年6月17日 05:29:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2903]
朕はたらふく食っていた ― 食糧メーデー当時の宮中の献立 2017-06-20
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427
■ 敗戦前まではいなかった内地日本人の餓死者

意外に思われるかも知れないが、アジア太平洋戦争の後半、補給を無視した無謀な作戦により各地で日本軍兵士が続々と餓死(戦病死=栄養失調死)していった一方で、確かに食糧不足に悩まされていたとはいえ、敗戦に至るまで内地の日本人からは一人も餓死者は出なかった。占領地域から略奪した米などが大量に入ってきていたからだ。[1]


 日本内地の一人あたりカロリー消費量は1931〜40年を100として、44年86、45年66と低下した。公定価格を数十倍から100倍以上上まわる闇取引が横行した。
 しかし敗戦までに日本内地で、餓死した日本国民は一人もいない。日本人の主食は、外米を確保することで少なからず補われた。その外米の主要な供給地の一つは仏印(ベトナム)であり、先にみたように日本による米の略奪が主因となって、死者100万〜200万人という大飢饉が発生した。餓死者100万〜200万人対ゼロという両者の隔絶と因果関係を見落としてはなるまい。

日本人は、200万人のベトナム人の命の米を、「外米」「南京米」などと呼び、「まずい」「臭い」と文句を言いながら食っていたのだ。

■ 1946年の食糧危機

しかし、こうした収奪は降伏の瞬間から不可能になる。

敗戦の翌年、1946年に入ると、日本の食糧事情は急速に深刻さを増していった。1945年の米の収穫高は3916万石(587万4千トン)と、前年の2/3しかない凶作だった上、海外からの引揚者や復員兵で必要量は増える一方だったからだ。年明けから食糧事情は急速に悪化し、配給は遅配・欠配が続いた。闇では金さえ出せば食料は手に入ったが、45年10月時点で既に米1升が70円と、普通の労働者(月給数百円程度)が買えるような価格ではなくなっていた。[2]

結果、都市部では餓死者が続出した。最も悲惨だったのは戦災孤児、ついで空襲による被災者たちだ。食料を確保するには田舎に買い出しに行くしかないのだが、家を焼かれた彼らには食料と交換できる金も品物もなかったからだ。東京都世田谷区にあった旧陸軍砲兵隊の兵舎を転用した戦災者住宅では、「栄養失調で毎日のように一人、二人と死者が出た。兵舎のゲタ箱をこわして、お棺をつくり、仏サマをみんなしてリヤカーで火葬場に運ぶのが、町会役員の日課みたいになっていた」という。[3]


 戦災者住宅の周囲には、ヘビ一匹、カエル一匹いない、といわれた。だれかがとって、食べてしまうからだ。雑草もセリ、ヨモギなどはもちろん、アカザ、カンゾウ、スべリヒユ、ヨメナなど手当たりしだいに食用にされた。飢えにせっつかれる子供たちが、他人の家のゴミ箱をひっかき回して残飯をあさったり、果ては、家庭菜園の種イモまで掘り出して盗み食いすることすらあった。
(略)

「ビロウな話ですが、戦災者住宅の便所にはいったら、中の便が青い。みんな雑草ばかり食べていて、便までそんな色になっちゃってたんですね」
(略)

「私どもの戦災町会では、毎日一人、多いときは三人が栄養失調で死んでいます。きのうもオカユをいっぱい食べたいと、うわ言をいいながら、一人の子供が死にました。(略)」

そんな中、1946年5月19日、皇居前広場に25万人が結集した「食糧メーデー(飯米獲得人民大会)」が開催され、ここで「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードを掲げた松島松太郎氏(田中精機労組委員長)が「不敬罪」で逮捕されるという事件が起っている。


画像出典:昭和毎日「食糧メーデー」

■ 朕はたらふく食っていた

この食糧メーデーの一週間前にあたる5月12日、前記の戦災者住宅を会場に、「米よこせ世田谷区民大会」が開かれた。約1,200〜1,300名が集まったこの大会では、(1)遅配・欠配米の即時配給、(2)戦災者、引揚者への物資の重点配給、(3)非常米配給権を即時区民管理に移すこと、など18項目の要求を決議し、天皇にあてた「人民の声」を大会宣言として採択した後、二手に分かれて抗議デモに移り、その一隊は皇居に向かった。[4]


 午後二時半、演壇に使われていたトラック二台に分乗して、皇居デモ隊が出発した。社会党本部を経由して、午後四時過ぎ、坂下門前へ。

「戦前、戦時の皇民意識から、まだ意識が百八十度変わってないころでしたからね、天皇の人間宣言のあととはいえ、天皇のイメージは、なお“雲の上の人”という感じでした。とにかくエライ人にわれわれの窮状を知ってもらうんだ、貧乏人を代表してテンノウへイカに直訴するんだ、という佐倉宗吾のような必死の思いで行ったんですね」

 と、山田※1はそのときの自分の気特を語る。(略)

(略)戦災者住宅住民からは、男たちでなく、かなりの数のオカミさんたちが、しかも子供連れをまじえて参加したのだが、その人たちの意識は、といえば、「デモのリクツなんか分からなかったけど、これでいいんだろうかという思いひとつでしたね。皇居の中の生活はどうなんだろうか、見られるもんなら見てみたい、という気持もあったし……皇居へ行けば、へイカがなにかくださるんじゃないか、というモノ欲しさで夢中でついて行った人も多かったみたいでした」 (有井※2)

※1 山田展吾(東宝撮影所労組委員長 当時29歳)
※2 有井タケ(戦災者住宅住民 主婦 当時26歳)

皇居坂下門に到着したデモ隊113名は、押し問答の末、皇居内に進入する。皇居にデモ隊が入るという空前の事態が実現したのだ。デモ隊は宮内省当直高等官室で「人民の声」を読み上げた後、「天皇陛下はどんなものを食べているか、台所を見せてください」と要求する。

案内されたのはデモ隊が要求した「天皇の台所」大膳寮ではなく、宮内省の職員食堂だったのだが、それでもそこに積み上げられた食料の豊富さは、被災者たちのど肝を抜くものだった。[5]


(略)五十坪ほどの調理場には、百二十人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ十五匹、スズキ一匹、サケ四匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ三、四十尾、大ブリ五、六尾、牛肉五、六貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ三つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。
(略)

 すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。

このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。[5]

•お通しもの
•平貝
•胡瓜
•ノリ
•酢のもの
•おでん
•鮪刺身
•焼物
•から揚げ
•御煮物
•竹の子
•フキ

このデモ隊に参加していた、ある主婦のその後を、有井氏が次のように語っている。[6]


 皇居デモに赤ちゃんを背負い、幼児二人の手を引いて参加した鵜飼という姓の主婦がいた。戦災者住宅の住人だった。やせていた。皇居デモの時は、青白い顔でよたよたと、だがいちずに歩いた。デモのあと半年ほどして、食糧集めと育児の過労から倒れ、この世を去った。三人の子供は孤児院に送られたが、やはり、栄養失調で相次いで死んだ。一家全滅の後、生前の鵜飼が一日千秋の思いで復員を待っていた夫について、数年遅れの「戦死公報」が届いた。家族五人の死。有井タケから聞いた話である。

戦地で、また戦後の焼け跡で、「天皇の赤子」たちが続々と餓死していく中、その事態を招いた最大の責任者は、まさに「朕はたらふく食っていた」のだ。

[1] 江口圭一 『日本の歴史(14) 二つの大戦』 小学館 1993年 P.420
[2] 吉田健二 『松島松太郎氏に聞く(2)』 大原社会問題研究所雑誌535号 2003年6月 P.58
[3] 大島幸夫 『人間記録 戦後民衆史』 毎日新聞社 1976年 P.10-12
[4] 同 P.12-13
[5] 同 P.15
[6] 同 P.17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/06/20/235427

▲△▽▼


上海戦でも補給無視だった日本軍 2016-12-18
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

アジア太平洋戦争において、補給を無視した無謀な作戦が大量の餓死者を生み出したことはよく知られている。「餓島」と呼ばれたガダルカナル島での戦いや、インパール作戦などが典型例である。

しかし、三好捷三氏の『上海敵前上陸』を読むと、日中戦争初期の段階ですら、旧日本軍はロクな補給を行わず、兵士を飢えさせたまま戦いを強いていたことがわかる[1]。


 飢えといえば、私たちの食糧についてもふれておかねばなるまい。上陸後六日目の妙家宅までは一度の食糧配給もなかった。(略)そのために、私たちは携帯行糧だけを食べていた。丸亀でもらった一週間分である。携帯行糧というのは、乾パンなどの応急用の食糧で、普段は食べないのだが、食糧補給のない上海では食べないわけにいかなかった。

 そんなわけで、私たちが妙家宅におちついたころには、その携帯行糧もほとんど底をつき、つぎの補給がいつくるかわからないような状況だったので、何か食糧になるものをさがさなければならなかった。私たちに好都合だったのは、民家の周囲の畑にカボチャ、サトイモなどがあったことだ。私たちもはじめのころは砂糖や塩をもっていたので、代用食としてけっこう重宝したが、一部落に数百人もの兵隊がはいると、サトイモなどはたちまち掘りおこしてしまい、いくらもつづかなかった。もちろん、これは中国の農民たちが丹誠こめて育てたものである。しかし、当時の私たちはそんなことにおかまいなく、つぎつぎにたいらげていった。

 そのうえ、砂糖も塩もなくなってくると、いくらカボチャが手にはいっても、臭いクリークの水で煮たカボチャはさすがにノドを通らなかった。それからのちに、食糧がまったくなくなってくると、私たちはやむなく野生の草を食べるようになっていった。なるべく幅の広い草の葉をさがし出し、飯盒で煮て食べるのだが、これもなかなかノドを通らなかった。そして私たちは次第に消耗していった。

(略)

 候家宅から呉宅にいたる一週間のあいだに、私たちははじめて食糧の配給をうけた。前述したように私たちは、上陸以来二週間以上、まったく食糧の配給をうけず、最初丸亀でもらった一週間分の携帯行糧と、民家にあったカボチャ、サトイモなどですごしてきていた。もはや体力の消耗は限界に達し、私たちはヒゲヅラに青い顔をしてフラフラと歩いているありさまだった。

連合軍に制海・制空権を押さえられて補給困難だった南方戦線と異なり、戦場も近く、海上での妨害もなかった日中戦争ではいくらでも輸送船を送りこめたはずである。それでこの有様なのだから、軍上層部には兵隊など放っておいても(現地で勝手に食糧を確保するから)大丈夫という、根本的な補給無視の思想があったとしか思えない。

ちなみに、三好氏は栄養不良の上マラリアとアメーバ赤痢に罹患して南京攻略戦の急行軍についていけなくなり、途中で落伍してしまうのだが、その段階で氏の身体はこんな状態になっていた[2]。


 私は受付兵に誘導されて軍医の前に立ち、直立不動の姿勢をとって挙手の礼をした。軍医も受付兵と同じように、私の全身をじっと見つめていたが、すぐに、

「きさまは入院だ!」

 といった。しかし私は行軍の途中である。

「軍医殿、自分は太倉で落伍し、落伍兵九人をつれて南京への途中です。キニーネだけをいただきたいのです。キニーネをいただいたら南京へまいります」

「何、キニーネだと、文句をいうな! その身体で戦えると思うか。まず診察だ、裸になってこいっ! 兵隊には病院から連絡してやる」

 私は軍医にどなられてしまった。そのとき私は、入院など毛頭考えていなかったのである。

 私は別室にはいり、看護兵に手つだってもらってフンドシ一つの裸になった。そして、出征してからはじめて自分の身体を見ておどろいてしまった。すっかりやせほそった身体には骨がつきだし、足は両方ともスネから下の皮が全部なくなって肉が露出し、膿(うみ)と血が流れている。上陸以来私は、めったに巻脚絆(ゲートル)を巻きかえることがなかったので、自分の足を見たことがなかった。足を水びたしにしては乾かし、乾いてはまだ水びたしにするような毎日であったので、足が腐ったようになってしまったのだろう。

 私はそれを見て、本当に自分の身体なのか、と目を疑った。それと同時に、よくもここまで生きてきたものだ、という感慨がわきあがってきた。看護兵は私の目方をはかった。

「十一貫五百(約四十三キロ)」

 看護兵は機械的に目盛りを読みあげた。私が出征前に丸亀連隊で行なった身体検査では、十八貫(約六十七・五キロ)であった。上陸以来八十日、そのあいだに二十四キロあまりも体重が減ってしまったことになる。

 私はそのままの姿で軍医の前に立った。軍医はじっと私の裸を見ていたが、「お前はそんな姿になるまで、どうしてがんばっていたのか。どうして軍医に見せなかったのだ?」

 彼はなかばあきれ顔で優しく私にいった。私はその言葉をきいたとたんに感情がこみあげ、あふれる涙をとどめることができなかった。

「軍医殿はそういってくれますが、上海の戦場には薬も病院もなく、軍医にお願いしても相手にしてくれませんでした。毎日がひどい戦争だったのです」

 そして私はそのまま動けなくなってしまった。おそらくこれまでの長い緊張が一度に解き放たれてしまったためかも知れなかった。私は担送患者ということになった。担送患者というのは、重症で動けず担架で運ばれる患者のことである。私の枕元におかれたカルテには、

「アメーバ赤痢、マラリア、脚気、肺浸潤」

 と病名が書かれてあった。赤痢とマラリアは外部から菌と毒が侵入したためであり、脚気と肺浸潤は極度の栄養不足による病気であった。そして、これまでの行軍中、足にオモリをつけられたように感じたのも、じつはマラリアのためではなく脚気のためであることも知らされた。

自軍の兵士をこんなになるまで戦わせて恥じない日本軍が捕虜や敵国の民間人をどのように扱ったか、およそ想像がつくというものだ。
 
[1] 三好捷三 『上海敵前上陸』 1979年 図書出版 P.88-90
[2] 同 P.206-208
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html#c54

[近代史3] 犯罪者天国日本!刑法犯で検挙の3割が微罪処分、残りも6割が不起訴、どちらも前科はつきません!

犯罪者天国日本!刑法犯で検挙の3割が微罪処分、残りも6割が不起訴、どちらも前科はつきません! 2019年06月14日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12478682734.html

日本では緊急時の正当防衛などを除いて、自力救済(【法】 権利が侵害される場合に、司法手続きによらず直接自らの力で権利を確保すること。自救行為。−大辞林)は原則禁止されています。

だから警察にお願いしているのに、どうしたことか罰せられず、回転ドアから放免されます。

刑事事件で警察が検挙したあとどうなるのでしょうか?

検察官が指定した犯罪は警察の段階で微罪処分として放免でき、それが大体3割です。

残りを検察に送致します。しかし、その6割が検察官の裁量で不起訴になります。

(微罪処分も不起訴も前科がつきません。)

不起訴には次の3つの理由があります。

嫌疑なし/嫌疑不十分/起訴猶予

統計全体では不起訴の内、起訴猶予が9割です。

起訴猶予とは、起訴をすれば有罪は確実だが諸般の事情で起訴しないことを言います。

以下は、警察が検挙したのに検察官の裁量で不起訴になった最新1か月くらいの報道です。

因縁をつけ暴行した49歳の中国人ら男2人が不起訴

49歳の中国人の男性ら2人は4月、江戸川区の路上で通行人の男性の顔を殴り、腹を蹴るなどの暴行を加えて全治約1週間のけがをさせた疑いで警視庁に逮捕されました。東京地検は7日付で2人を不起訴処分としました。処分理由については明らかにしていません。49歳の男性は、警視庁の取り調べに対して「酒を飲んで覚えていない」などと容疑を否認していました。

女性にわいせつ行為の疑いで逮捕の積水ハウス元社員、不起訴

今年1月、東京・世田谷区のカラオケ店で女性にわいせつな行為をしたとして、大手住宅メーカー「積水ハウス」の元社員の男性が警視庁に逮捕されたものです。東京地検は、この男性を不起訴処分としました。東京地検は、不起訴処分にした理由を明らかにしていません。
男性は逮捕直後、「自制心がきかなかった」と容疑を認めていたということです。

歌舞伎町で恐喝未遂男を不起訴

歌舞伎町の路上で、知人男性に暴行を加えて金を奪おうとしたとして逮捕された21歳の男が不起訴処分となりました。

酔った男性から財布盗んだ疑いで逮捕の中国籍の女性ら2人、不起訴

去年6月、台東区上野の路上で酒を飲んだ帰りに友人と歩いていた男性に「飲みましょう」などと声をかけ、隙をみて現金およそ19万円などが入った財布を盗んだとして、飲食店店長の女性(51)と店員で中国籍の女性(41)が窃盗の疑いで警視庁に逮捕されたものです。東京地検は、この女性2人を不起訴処分にしました。
 2人は防犯カメラの捜査で浮上しましたが、逮捕直後いずれも容疑を否認していました。東京地検は処分の理由を明らかにしていませんが、嫌疑不十分とみられます。

強制性交容疑で逮捕の朝鮮籍30代男を不起訴

新宿区のホテルの部屋で去年12月、30代の朝鮮籍の男性が女性をホテルに無理矢理連れ込み性的暴行を加えたとして逮捕されましたが、東京地検はこの男性について、先月31日付けで不起訴処分としました。

75歳名古屋の男性、不起訴 妻殴り傷害容疑

無職男性(75)は5月上旬ごろ、自宅で妻の顔を殴り、鼻の骨を折るなどのけがを負わせたとして、5月16日に逮捕された。妻は同日、搬送先の病院で死亡した。男性は殴ったことを認めたものの、地検は解剖の結果などから、男性がけがを負わせたとする証拠が不十分で、けがと死因は結び付かないと判断したとみられる。


拳銃所持の映画監督不起訴 静岡地検沼津支部

静岡地検沼津支部は24日までに、拳銃1丁を所持したとして銃刀法違反容疑で逮捕された豊田利晃映画監督(50)を不起訴処分とした。23日付。理由は明らかにしていない。
豊田監督は4月18日、東京都狛江市の自宅で回転弾倉式拳銃1丁を所持したとして静岡県警に現行犯逮捕され、同支部が同月26日、処分保留で釈放していた。

行政書士を不起訴、地検 在留資格不正取得の疑い

東京地検は15日、虚偽の書類を作成して外国人の在留資格を不正取得していたとして、入管難民法違反(虚偽申請)容疑で逮捕された神奈川県藤沢市の行政書士の男性(60)を不起訴処分とした。地検は詳しい処分の内容や理由を明らかにしていない。

米軍犯罪8割超不起訴

日本で昨年発生した米軍関係者による一般刑法犯の起訴率が約14・5%にとどまり、8割超が不起訴処分になっていることが、日本平和委員会が情報公開で入手した資料で明らかになりました。全国での一般刑法犯の起訴率(2017年)の37・4%と比較して大幅に低下しています。

米軍関係者による一般刑法犯は起訴9件に対し、不起訴が53件に達しています。
 暴行、強制性交、詐欺などは、いずれも起訴率が0%、窃盗は起訴1件に対し不起訴27件でした。また、自動車による過失致死傷・過失運転致死傷は起訴16件に対し不起訴205件でした。

催涙スプレーまいたとして逮捕された男性 不起訴処分に

47歳の男性は、4月29日、越谷市の「イオンレイクタウン」で催涙スプレーをまき、女性に軽傷を負わせた疑いで逮捕されていた。
さいたま地検は、5月20日付けで男性を不起訴処分にした。理由は明らかにしていない。

購入していない商品の返品求め現金詐取の疑いで逮捕の男性、不起訴に

去年6月、東京・渋谷区のコンビニエンスストアで携帯電話用の充電器を購入したように装い、店員に返金を求めて現金およそ7000円をだましとったとして、30代の塗装工の男性が詐欺の疑いで警視庁に逮捕されたものです。
 東京地検は、この男性を不起訴処分にしました。男性は逮捕直後、「金が欲しかった」と容疑を認めていたということです。

通行の邪魔と立腹…規制庁職員、バイク座席切り付けで書類送検されるも不起訴処分に

原子力規制委員会は11日、原子力規制庁法務調査室の60歳代男性職員(課長補佐級)を減給10分の1(2か月)の懲戒処分にしたと発表した。
 規制委によると、職員は昨年10月24日夜、東京都練馬区の路上に駐車されていたバイクの座席をカッターナイフで切った。他にも2回、バイクの座席を切っていたことが判明し、器物損壊容疑で書類送検され、5月16日付で不起訴処分となった。
 職員は規制委に、「バイクが歩行者の通行の妨げになっていることに腹が立った」と話しているという。

あおり運転し暴行 逮捕された男性(83)を不起訴処分 名古屋地検

名古屋市緑区に住む無職の男性(83)は今月16日、緑区の路上で、あおり運転の末、前方を車で走っていた男性(43)の腕を護身用に持っていた金属製のワイヤで殴るなどの暴行を加えた疑いで逮捕され、暴力行為等処罰法違反容疑で送検されていました。
 この男性について、名古屋地検は27日付で不起訴処分としました。不起訴の理由については明らかにしていません。
 逮捕後の調べで男性は「何台も道を譲るので頭にきた」などと容疑を認めていました。

無許可で畳900枚“処分” ブラジル人女性を不起訴

群馬県大泉町に住む51歳のブラジル人の女性は、去年4月、無許可で畳およそ900枚の処分を請け負ったうえ、東松山市の空き地に運ばせたとして、廃棄物処理法違反の疑いで警察に逮捕されました。
 さいたま地検は、この女性について24日までに不起訴処分としました。さいたま地検は不起訴の理由を明らかにしていません。

殺人容疑の男性、不起訴=さいたま地検

埼玉県川口市で、隣に住む無職石井丈士さん=当時(64)=を殺害したとして、殺人容疑で送検された男性(50)について、さいたま地検は21日、不起訴処分とした。処分の理由は明らかにしていない。

傷害容疑で逮捕の男性を不起訴処分 大津地検

大津地検は4日までに、傷害の疑いで逮捕された大津市の男性(38)を不起訴処分にした。地検は「責任能力を問えないと判断した」としている。処分は3日付。
 男性は5月5日、路上で女性をいきなり殴って軽傷を負わせたとして逮捕された。また同24日に別の傷害容疑で再逮捕された。

千代田区でハイヤー盗み当て逃げした疑いで逮捕の男、不起訴に

4月16日千代田区の路上でハイヤーを盗み、渋谷区内でタクシーに衝突した後、逃走を続け、川崎市多摩区の東名高速道路でタイヤがパンクして停車、逮捕された男が不起訴になりました。男は容疑を認め、「金がなく車でも盗もうと思った」などと話していました。

詐欺疑い中国籍男性を不起訴

高齢女性からキャッシュカードをだまし取り、現金を引き出したとして逮捕された中国籍の男性について、東京地検は不起訴処分にしました。
 東京・江戸川区に住む中国籍で貿易会社代表の男性は、去年9月、東村山市に住む70代の女性からキャッシュカードなどをだまし取り、現金を引き出したとして、警視庁に詐欺や窃盗の疑いで逮捕されました。東京地検は31日付けで、この男性を不起訴処分にしました。

※いくつかの報道はもう削除されてしまっていますがびっくり リンクはそのままにしてあります。

ダイヤグリーン

まだありますが、これらは特別な例ではなくて、氷山の一角です。ポーン

法務省から出ている「平成30年版 犯罪白書」の最後の資料編「資料2−3 検察庁終局処理人員(罪名別)」を見るとわかりますが、その一部を貼り付けます。

H29年を見ると・・・

放火は起訴が260件、不起訴が479件、有罪が確実なのに起訴しない起訴猶予が108件!

殺人は起訴が325件、不起訴が809件、有罪が確実なのに起訴しない起訴猶予が41件!

凶悪犯罪でこの有様です。ポーン


https://ameblo.jp/evening--primrose/image-12478682734-14462814141.html


2013年の弁護士ドットコムに記事がありました。左下矢印

https://www.bengo4.com/c_1009/n_623/

起訴するかどうかは検察官に裁量があります。

どうして不起訴理由を言わないのか2つの理由を推測していて、被害者への配慮(被害者が怒るということ?)と、他の同様の事件への影響ではないかということでした。

しかし、不起訴の理由を言うべきで、それも言えないなら「言えない理由」くらいは検察が公表すべきだと書かれていました。

このような状況ですから、不起訴を勝ち取ることが前科者になるかどうかの分かれ目となっています。ですから弁護士さんたちは裁判で勝つ(起訴されると有罪率99%以上)よりも、検察官の裁量で決まる不起訴を勝ち取りましょうと宣伝をしているようです。当然そうなるでしょうね。

しかし、その前の警察段階での微罪処分を勝ち取ることが最速の釈放です。

最近書いた記事に、スウェーデンは700円以下の窃盗、5万5千円以下の詐欺は捜査しないとか、英国が8千円位の被害では捜査しないということを書きました。

しかし、日本は2万円以下くらいの被害なら微罪処分で警察が放免できるようです。

スウェーデンや英国の、捜査しないよりはマシで「前歴」は残りますが。(前科はつきません)

•被害が軽微か – 被害額は,「おおむね2万円まで」が軽微
•犯罪に至る事情(犯情)が軽微か
•被害の回復が行われているか
•被害者が処罰を望んでいないか
•素行不良でなく偶発的か

右上矢印弁護士法人中村国際刑事法律事務所HPより

別の弁護士さんが微罪処分は、逮捕後の最速の釈放|微罪処分となるための基準という記事を出されています。冒頭にこう書かれていました。


現在、日本では年間150万件前後の犯罪が起きています。これは、日に換算すると、1日4000件以上もの犯罪が起きていることになります。

なんだか今回の記事は犯罪者を利する内容になってしまっているかもしれませんが、日本の治安が良いというのは幻想ではないか、というのが言いたかったことです。

天災など、ひとたび警察機能が麻痺すると、治安維持は民度だけが頼りです。

いつの間にか私たちの社会は犯罪者が罰も受けずに徘徊するような恐ろしい国になっていたのです。

ロシアンルーレットはこれらの犯罪だけでなく交通関係でも流行っています。

クリップ「クルマで街を徘徊する老人がウヨウヨいる」 無防備な庶民には危険だらけです。注意

間断なく続く幼児虐殺や動物虐殺という一番卑劣な犯罪、それに対して公権力は驚くほど対応がのろく、裁判所の刑は驚くほど軽く、不公平と不条理が積み重なっています。

やれることがたくさんあるのに的確に政府は対処できていません。

法があっても裁判官が言い渡す量刑が求刑より軽いのが当たり前のようになっています。

異常者の人権を守るため、彼らのうっぷん晴らしに、多少の犠牲は必要だと為政者が考えているのではないかとさえ思えてきます。ムキー もちろん犠牲になるのは庶民です。

毎朝日が昇ると仲間が減っているサバンナの草食獣になれ、と言われているようです。えーん

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わんわん起訴、不起訴の解説は以下に紹介する弁護士さんたちのサイトでご覧ください。


刑事事件の不起訴率は高い?早めの弁護士相談で前科を防ぐ
https://izumi-keiji.jp/column/jiken-bengo/fukisoritsu

刑事事件の有罪率は本当に99.9%なのか?|統計からひも解く日本の本当の有罪率
https://刑事事件の弁護士.jp/know/rp/hal-13

「有罪率99%以上」の背景
http://miurayoshitaka.hatenablog.com/entry/2017/06/08/%E3%80%8C%E6%9C%89%E7%BD%AA%E7%8E%8799%25%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%83%8C%E6%99%AF

https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12478682734.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/478.html

[国際26] タンカー攻撃で米国に同調している英国はイラクへの侵略でも米国に協力していた(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
1. 中川隆[-9570] koaQ7Jey 2019年6月17日 05:51:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2905]
櫻井ジャーナルに騙されるな
櫻井ジャーナルの記事はすべて嘘八百のデマの可能性が高いです。
詐欺師 櫻井春彦に騙されない様に注意して下さい。
櫻井春彦は街で聞いた本当かどうか全くわからない噂話をそのまま垂れ流しているだけで、何一つ論証も調査もしていないので読む価値は無いのです。

そもそも櫻井春彦は論証した事が一度も無いのです。
文献学の基礎を知らないので文献批判の能力もゼロ
何がデマで、何が信頼度が高いかを全く判断できないのです。

従って、その噂話が本当かどうかに関わらず、櫻井春彦の書いたものは一切信用できません。
たまたまマグレで その噂話が本当だったとしても意味は無いのです。


櫻井春彦の無責任なデタラメぶりはこのデマ記事を見れば良くわかります:


櫻井春彦「天安門事件はデマだった」_ 櫻井ジャーナルは信用できるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/460.html


因みに、櫻井春彦が何時も言ってる様に

アメリカがソ連を核攻撃しようと計画していた

というのは絶対に有り得ないです。

そもそも、

ソ連は西側が援助してユダヤ人が建国した国だし
ソ連に核技術を指導したのはアメリカだし
ベトナム戦争の時もアメリカはソ連に資金援助していた。


今の韓国程度の経済力だったソ連にアメリカと対峙する力は無かった

ロシアと言えばアメリカと張り合う超大国の一つだと思われているが、実際には韓国以下の経済規模しかない。

強大と思われている軍事力だが年間軍事費は7兆2700億円(2017年ストックホルム国際平和研究所調査)に過ぎない。

日本の5.2兆円(NATO計算方式では7.1兆円)より多いものの、アメリカの80兆円や中国の20兆円より少ない。


ロシアのGDPは約1.6兆ドル(176兆円)で韓国と同程度だが、韓国の軍事費は43兆ウォン(約4.1兆円)となっている。

フランスの軍事費はロシアと同程度でGDPは2.6兆ドル(286兆円)とロシアの1.6倍ある。

ロシアの人口は1.4億人で日本より少し多い程度で、ちょうど中国の10分の1しかない。


ロシアは領土こそ世界最大ではあるものの、経済は韓国レベルで人口はアジアでは普通、軍事力は世界5位に入るかどうかという規模です。
http://www.thutmosev.com/archives/80097952.html


見せ掛けだけだった東西冷戦や八百長戦争だった太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争の背景は、以下の講演を聞けば誰でも納得できます:


馬渕睦夫沖縄講演
「2019年の国難をどう乗り切るか」〜世界の情報操作と金融支配の本質を見抜く[H31-1-25] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=7cE_4kQATvc


林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[2019-5-24] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU  
 


▲△▽▼


櫻井春彦の詐欺の手口教えてあげる


1.天安門事件で虐殺はなかった

櫻井春彦が聞いた元々の話
「長安街では軍による虐殺が行われたが、天安門広場での虐殺はなかった」

一方、櫻井春彦が櫻井ジャーナルに書いたのは
「天安門事件で虐殺はなかった」

__


2.アメリカの軍や情報機関の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を目論んでいた


そんなのあって当たり前。むしろ存在しない方がおかしい。
平時にいろいろな場合を想定し、計画を練っているなんてむしろ当然の話。

アメリカが第二次大戦前に対日戦の計画としてオレンジ計画を作っていたが
それと同じ。

「ソ連に先制核攻撃された場合の計画」
「限定的な核戦争になった場合の計画」

とかいろいろな計画があって、その中に

「先制核攻撃をした場合の計画」

があるのは常識的な話だ。

そしてそのような計画がある事と、実行する事は全く別の話であってそこを混同
しているに過ぎない。

ソ連崩壊後に公表された資料でも、ソ連は「アメリカに対する先制核攻撃」を含めた無数の戦争計画を作って、いろいろな状況を想定している。

それで1980年代には開く一方の国力差から仮に全面戦争になってもソ連が不利になっていくばかりという結論が出ていたので、ゴルバチョフは新思考外交でアメリカとの関係改善に取り組んだんだ。

つまり「先制核攻撃の計画が存在した」のは米ソ双方にとっても当たり前の話でしかない。


先制核攻撃を行なったら100%報復核攻撃があるわけで、もちろん軍需産業は絶対に狙われる。

軍需産業の社長に

「おたくの本社や工場に報復の核ミサイルが降ってきますけど、先制核攻撃していいですか?」

と問うて了承する人間がいると思うか?

軍産複合体は言い換えれば既得権者なのだから、それを根こそぎ吹っ飛ばしかねない核戦争なんぞ望むはずがない。

そういう当たり前の考えが欠落しているから、軽々しく先制核攻撃を目論んでいたとか
いい加減なことを唱えているんだな。


▲△▽▼


櫻井春彦みたいなのを世間では詐欺師と言うんだろ

櫻井春彦は改竄・捏造の常習犯だから
誰々がこう言ったと書いていても、その内容自体が元の言葉と180度違う事が多いんだ


http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/629.html#c1

[国際26] ホルムズ海峡周辺での戦乱で原油価格が高騰、米石油産業が潤っても社会は崩壊(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
1. 中川隆[-9569] koaQ7Jey 2019年6月17日 05:51:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2906]
櫻井ジャーナルに騙されるな


櫻井ジャーナルの記事はすべて嘘八百のデマの可能性が高いです。
詐欺師 櫻井春彦に騙されない様に注意して下さい。

櫻井春彦は街で聞いた本当かどうか全くわからない噂話をそのまま垂れ流しているだけで、何一つ論証も調査もしていないので読む価値は無いのです。

そもそも櫻井春彦は論証した事が一度も無いのです。
文献学の基礎を知らないので文献批判の能力もゼロ
何がデマで、何が信頼度が高いかを全く判断できないのです。

従って、その噂話が本当かどうかに関わらず、櫻井春彦の書いたものは一切信用できません。
たまたまマグレで その噂話が本当だったとしても意味は無いのです。


櫻井春彦の無責任なデタラメぶりはこのデマ記事を見れば良くわかります:


櫻井春彦「天安門事件はデマだった」_ 櫻井ジャーナルは信用できるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/460.html


因みに、櫻井春彦が何時も言ってる様に

アメリカがソ連を核攻撃しようと計画していた

というのは絶対に有り得ないです。

そもそも、

ソ連は西側が援助してユダヤ人が建国した国だし
ソ連に核技術を指導したのはアメリカだし
ベトナム戦争の時もアメリカはソ連に資金援助していた。


今の韓国程度の経済力だったソ連にアメリカと対峙する力は無かった

ロシアと言えばアメリカと張り合う超大国の一つだと思われているが、実際には韓国以下の経済規模しかない。

強大と思われている軍事力だが年間軍事費は7兆2700億円(2017年ストックホルム国際平和研究所調査)に過ぎない。

日本の5.2兆円(NATO計算方式では7.1兆円)より多いものの、アメリカの80兆円や中国の20兆円より少ない。


ロシアのGDPは約1.6兆ドル(176兆円)で韓国と同程度だが、韓国の軍事費は43兆ウォン(約4.1兆円)となっている。

フランスの軍事費はロシアと同程度でGDPは2.6兆ドル(286兆円)とロシアの1.6倍ある。

ロシアの人口は1.4億人で日本より少し多い程度で、ちょうど中国の10分の1しかない。


ロシアは領土こそ世界最大ではあるものの、経済は韓国レベルで人口はアジアでは普通、軍事力は世界5位に入るかどうかという規模です。
http://www.thutmosev.com/archives/80097952.html


見せ掛けだけだった東西冷戦や八百長戦争だった太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争の背景は、以下の講演を聞けば誰でも納得できます:


馬渕睦夫沖縄講演
「2019年の国難をどう乗り切るか」〜世界の情報操作と金融支配の本質を見抜く[H31-1-25] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=7cE_4kQATvc


林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[2019-5-24] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU  
 


▲△▽▼


櫻井春彦の詐欺の手口教えてあげる


1.天安門事件で虐殺はなかった

櫻井春彦が聞いた元々の話
「長安街では軍による虐殺が行われたが、天安門広場での虐殺はなかった」

一方、櫻井春彦が櫻井ジャーナルに書いたのは
「天安門事件で虐殺はなかった」

__


2.アメリカの軍や情報機関の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を目論んでいた


そんなのあって当たり前。むしろ存在しない方がおかしい。
平時にいろいろな場合を想定し、計画を練っているなんてむしろ当然の話。

アメリカが第二次大戦前に対日戦の計画としてオレンジ計画を作っていたが
それと同じ。

「ソ連に先制核攻撃された場合の計画」
「限定的な核戦争になった場合の計画」

とかいろいろな計画があって、その中に

「先制核攻撃をした場合の計画」

があるのは常識的な話だ。

そしてそのような計画がある事と、実行する事は全く別の話であってそこを混同
しているに過ぎない。

ソ連崩壊後に公表された資料でも、ソ連は「アメリカに対する先制核攻撃」を含めた無数の戦争計画を作って、いろいろな状況を想定している。

それで1980年代には開く一方の国力差から仮に全面戦争になってもソ連が不利になっていくばかりという結論が出ていたので、ゴルバチョフは新思考外交でアメリカとの関係改善に取り組んだんだ。

つまり「先制核攻撃の計画が存在した」のは米ソ双方にとっても当たり前の話でしかない。


先制核攻撃を行なったら100%報復核攻撃があるわけで、もちろん軍需産業は絶対に狙われる。

軍需産業の社長に

「おたくの本社や工場に報復の核ミサイルが降ってきますけど、先制核攻撃していいですか?」

と問うて了承する人間がいると思うか?

軍産複合体は言い換えれば既得権者なのだから、それを根こそぎ吹っ飛ばしかねない核戦争なんぞ望むはずがない。

そういう当たり前の考えが欠落しているから、軽々しく先制核攻撃を目論んでいたとか
いい加減なことを唱えているんだな。


▲△▽▼


櫻井春彦みたいなのを世間では詐欺師と言うんだろ

櫻井春彦は改竄・捏造の常習犯だから
誰々がこう言ったと書いていても、その内容自体が元の言葉と180度違う事が多いんだ


http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/632.html#c1

[近代史3] 米中貿易戦争の本質は宗教戦争 中川隆
2. 中川隆[-9568] koaQ7Jey 2019年6月17日 06:03:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2907]

苦境に陥る中国人キリスト教徒、信教の自由はケニアの地に
2019.06.16 Sun posted at 17:28 JST
https://www.cnn.co.jp/world/35137064.html


信教の自由を求めてケニアに根を下ろした中国人キリスト教徒を追った/Jenni Marsh


ケニア・ナイロビ(CNN) ケニア首都ナイロビの郊外にある裕福な地域。ここのオフィスビルでは毎週日曜日、荘厳な中国語の賛美歌が人けのない廊下に響き渡る。

小さな仮設礼拝堂に入ると、さまざまな中国人移民が集まって祈りをささげていた。下着の輸入業者や医療従事者に加え、中国により建設された38億ドル規模の鉄道の運行担当者も。鉄道敷設はケニア独立後最大規模のインフラプロジェクトで、アフリカで中国の投資や進出が拡大していることの印だ。

移民の中にはケニア人と結婚した人や、子どもが標準中国語と同じくらいなめらかなスワヒリ語を話せるという人もいる。

ただ、彼らにはいずれも2つの共通点がある。どの人も共産党政権下の中国を離れ、キリスト教徒が人口の8割を占めるケニアに生活に根を下ろしたこと。そして、隠すことなくキリスト教の神に身をゆだねる決断を下したことだ。

中国のキリスト教徒は現在、受難の時を迎えている。共産党政府は聖書のインターネット販売を禁じ、教会をダイナマイトで破壊し、「国家転覆を扇動」したとしてキリスト教徒を逮捕している状況だ。

「今の中国でキリスト教徒であることを公表するのは危険だ」。ブレッドオブライフ教会の高位聖職者、ジョナサン・チョウ氏(43)はそう語る。同教会は台湾に本部を置くが、所属する500人の聖職者の多くは西アフリカに派遣されている。

アフリカにある同組織の教会では以前、地元住民が運営や参加に当たることが多かった。しかし、現地の価値観に接する中国人が増えるなかで、中国人主導の集会も増加しつつある。

ナイロビの集会で説教をするジョナサン・チョウ氏/Jenni Marsh
ナイロビの集会で説教をするジョナサン・チョウ氏/Jenni Marsh

山東省出身の中年夫婦は礼拝の間、賛美歌の録音や朗読会の写真を「微信(ウィーチャット)」に投稿していた。ウィーチャットは中国のSNSで、中国政府による厳しい監視を受けている。

チョウ氏は「信徒のほとんどはケニアで神に救われた人たちだ」「前から信仰を持っていたのでない限り、大半の人は中国国内のキリスト教徒の状況をよく知らないのではないか」と語る。

「今話題のケニアの結婚式」

リアン・ヨンギュさん(33)はナイロビの広告会社でカレン・ヌグンジリさん(29)に初めて出会ったとき、将来は自分の妻になるだろうと予言した。

2人は6カ月にわたりデートを重ねたが、やがて壁に直面した。リアンさんはキリスト教徒でなかったのだ。

ヌグンジリさんは「彼が中国人なのは構わない。でもキリスト教徒じゃないのは大きな問題になると思った。一体どうやって子どもを育てればいいのか」と語る。

リアンさんはケニア暮らしが長く、スワヒリ語も多少話せる。キリスト教については友人からいろいろ聞いていた。自問自答の末、「キリスト教が何を与えてくれるか模索する気になった」という。

広東省出身のリアンさんは、広東語で礼拝を行うナイロビの教会に連絡。そして2018年12月、香港出身の聖職者の導きで結婚した。ケニア山のふもとで行われた結婚式には招待客200人が集まった。「ケニアでは小さな結婚式だった」とヌグンジリさんは冗談めかして語る。

結婚式をあげたリアン・ヨンギュさんとカレン・ヌグンジリさん/CNN
結婚式をあげたリアン・ヨンギュさんとカレン・ヌグンジリさん/CNN

その数週間後、「今話題のケニアの結婚式」と題した動画がユーチューブで拡散した。誰がアップロードしたのかは今でも分からない。だが、その後数カ月間、2人はナイロビの通りを歩くと必ず注目を浴びた。ケニア人女性と中国人男性が結婚した例は目新しく、人々の関心を引いたのだ。

動画は後日削除されたが、ピーク時には30万近い閲覧数があった。「(ネット上の)コメントにはひどい内容のものもあった」とヌグンジリさん。「特にケニア人の間では、中国人がここに来る目的は職を盗んだり、植民地支配したりすることだという見方がある。そのため、今度はケニアの女性まで奪っていると冗談で言われた」

中国は2017年にケニア最大の貿易相手国となり、14年時点でのケニアへの移民は4万人に上った。ただ、中国とケニアの関係は時に緊張もはらんでいる。

報道によれば、ある中国人のレストラン経営者は15年、現地の人々が午後5時以降に入店するのを禁止した。昨年は中国人の上司が従業員を「サル」と呼ぶ場面が動画にとらえられ、国外退去処分となる出来事もあった。

世界最大のキリスト教国?

キリスト教を受け入れる中国人はケニア在住者だけではない。中国の宗教に関する著書があるイアン・ジョンソン氏によると、米国やオーストラリア、英国に留学した中国人学生はキリスト教徒になって帰国している。こうした入信の動きは国内の幅広い傾向とも符合する。一部の推計によると、中国は2030年までに世界最大のキリスト教国になる見通しだ。

ケニヤでの鉄道建設には中国が携わった/jenni marsh
ケニヤでの鉄道建設には中国が携わった/jenni marsh

中国国民は20世紀の大部分、共産党創設の父である毛沢東を崇拝するよう教えられてきた。毛沢東は文化大革命の間、仏教や道教の施設を数多く破壊した。

1976年に毛沢東が死去したことを受け、中国は新たな価値体系を模索する必要に迫られた。ジョンソン氏は、都市部に移住した中国人の目にはキリスト教が新鮮でモダンに映ったと指摘する。

米パデュー大学の研究者によると、2017年時点での中国のキリスト教徒は9300万〜1億1500万人と人口の5%ほど。ただ、政府公認の教会に通う人は3000万人以下にとどまるという。推計が正しければ、現在の中国には共産党員とほぼ同数のキリスト教徒がいることになる。

こうした状況が政府の怒りを買った。ジョンソン氏によると、習近平(シーチンピン)国家主席の下、西洋的とみなされた宗教の「中国化」の必要性を説く言説が広まった。

今日の中国では、国の認可を受けたキリスト教組織のみが合法となっている。人であふれかえる国営教会では多い日には1日に5回の礼拝が行われ、聖職者の給料は政府が支払っている状況だ。代替となる「家庭教会」は違法運営だが、聖職者と信徒の距離はより近い。

こうした教会は中国で長年容認されてきたが、最近は当局の標的となり、国に登録の申請をしても拒否されることが多い。

中国対神・・・帰国を前に

中国国営メディアでは、宗教への締め付けに関してほとんど報道されていない。キリスト教は「事実上、視界に入らない状態」だという。

ナイロビにあるブレッドオブライフ教会の礼拝者が公然と信仰を共有するのは、まさにそれが理由だ。ここの信徒はより落ち着いている。異国で宗教を見いだし、数年来中国を離れているため、大半のケースでは単に政府による摘発の規模について知らないのだという。

しかし、潜在的な危険を知った一部のキリスト教徒の間では、帰国の妨げになる可能性を口にする人もいる。

ナイロビにある教会で聖書を読む中国人のキリスト教徒/Jenni Marsh
ナイロビにある教会で聖書を読む中国人のキリスト教徒/Jenni Marsh

広東州出身の商人、ジミー・ホン・ゼン・ウーさん(53)は10年に及ぶケニア生活の中でキリスト教徒になった。仕事で定期的に中国に渡っており、帰国すれば2重生活を送らざるを得ないことを意識していると話す。

「中国では公共の場で信仰について話すことはできない」「キリスト教徒であることを口にできるのは友人や家族といる時だけだ」

ケニアで生まれた娘たちは地元のキリスト教社会で育っており、毎週日曜日に教会に通う。家族で中国に戻った時にこうした制約を理解できるだろうか――。その答えはまだ出ていない。
https://www.cnn.co.jp/world/35137064.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/465.html#c2

[近代史3] 日本ではありえない!ドイツ人の食事! 中川隆
1. 中川隆[-9567] koaQ7Jey 2019年6月17日 06:17:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2908]
オーディオのついでに見たヨーロッパの野菜など(1.トリアの直売テント)
http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10408


2013年 小林 正信
※この記事は株式会社産直新聞社が発行する「産直コペル」に連載したものです。


 わたしは産直新聞社の大家で、キャリコという小さなIT会社を経営している。わたしの会社の2階が産直新聞の編集室という間柄だ。8月に独仏のオーディオ仲間を訪ねる旅をしたついでに、ちょっとだけ野菜などについて見聞きしたことを寄稿させていただく。


トリアの直売テント

 旅の第一の目的はナチスドイツがプロパガンダ用に作らせたという、横幅3.5メートルもある巨大なスピーカーを入手することであった。そのスピーカーの所有者はドイツ西部のモーゼル河畔にある田舎町に住んでいて、近くにローマ時代の遺跡で有名なトリアという町があるので訪れてみた。ちょうどその地域はバンクホリデーと呼ばれる休日から週末にかけての連休中で、大通りには数多くの見世物や農産物を売るテントなどが市場のように並んでいた。人出も大変なもので、大いに賑わっていた。

 同行したスピーカーの所有者によれば、「テントの野菜や果物は近隣の農家が育てたもので、スーパーマーケットにあるものよりも高価で2倍くらいするが、安全で品質が高いので人気がある」とのことだ。実際、見ているうちにどんどん売れていた。ヨーロッパでは野菜や果物はスーパーマーケットでも袋詰めになっておらずバラ売りされているので、直売テントでは当然バラ売りされている。自分が長野県に住んでいて地元の安い野菜を主に食べているせいか、野菜の価格はスーパーの2倍というのが納得特できるくらい高く感じたが、果物は日本よりも安かった。

トリアの大通りにあった野菜や果物の直売テント

 ドイツの消費税(正確には付加価値税)は原則19%だが、一部の嗜好品などを除く食品は7%なので、野菜や果物は税率7%だ。もし、日本の消費税が10%に値上げされると、ほとんどの農産物の消費税は日本のほうが高くなってしまう。財政難で消費税率が原則21%と高いイタリアは意外に安くて4%(ただし肉と魚は10%)、高福祉国で税率25%のスウェーデンですら6%だから、農産物の消費税が10%というのは世界でも特別に高い税金といえる。年貢におびえる時代が再来しそうな日本だが、ヨーロッパでは消費税が上昇するにつれて物々交換が盛んになりつつあるのだそうで、小規模な地産池消の農業にはヒントになるかもしれない。

トリアにあるドイツ最古の教会の内部で、天井ドームのレリーフが見事だった

 トリアを訪れる観光客はほとんどがドイツ人で、マクドナルドでも英語は通じにくく、「ツー・コーク」と言った後で「ツヴァイ・コーラ」と言い直すような具合だった。ドイツ最古の見事な教会もある有名な観光地なので、日本人も少しはいるだろうと予想していたが、それとおぼしき人には出会わなかった。現在のヨーロッパでは、かつての日本人団体旅行客のように中国人観光客が幅を利かせているが、ここではアジア系の観光客をわずかしか見かけなかった。ドイツ人観光客も年齢層が比較的高いようで、やや渋めの観光地といったところかもしれない。そのせいか、産直のテントの客も年配者が多かったが、売り子は若者から中年までの女性が多く、そうなると若い女性が目立っていて、看板もカラフルでセンスが良い。ちょっとほの暗かったりする素朴な日本の産直とは、ずいぶんな見栄えの落差を感じた。

客は年配者が多かったが、売り子は若い女性が目立った

 野菜はおおむね日本にあるものと同じだが、不揃いで太いキューリを除けば長野で日常的に目にしている日本の野菜よりも魅力的で、ナスやパプリカは芸術品のように美しかった。ひとつだけ、じつに奇妙な野菜があった。葉っぱはセロリとミツバの中間のようで、地下茎は蕪のようでいて無数の捻じ曲がった根がついている。いったいどうやって食べるのか想像もできない野菜だが、読者にきっとご存知の方がいらっしゃるだろうから、ぜひ、教えていただきたい。果物ではイチゴが露地物ばかりで小さいのと、サクランボがアメリカンチェリーと佐藤錦の中間のような色とサイズで、どちらも安く売られているのが日本との大きな違いだった。トリアで買ったものではないが、ホテルで食べた同様なイチゴとサクランボは、味が濃くてとてもおいしいかった。

見たことのない奇妙な野菜。現地では比較的ポピュラーなようだ

http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10408
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/432.html#c1

[リバイバル3] ドイツ人はお腹がいっぱいになれば食べる物は何でもいい 中川隆
11. 中川隆[-9566] koaQ7Jey 2019年6月17日 06:17:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2909]
オーディオのついでに見たヨーロッパの野菜など(1.トリアの直売テント)
http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10408


2013年 小林 正信
※この記事は株式会社産直新聞社が発行する「産直コペル」に連載したものです。


 わたしは産直新聞社の大家で、キャリコという小さなIT会社を経営している。わたしの会社の2階が産直新聞の編集室という間柄だ。8月に独仏のオーディオ仲間を訪ねる旅をしたついでに、ちょっとだけ野菜などについて見聞きしたことを寄稿させていただく。


トリアの直売テント

 旅の第一の目的はナチスドイツがプロパガンダ用に作らせたという、横幅3.5メートルもある巨大なスピーカーを入手することであった。そのスピーカーの所有者はドイツ西部のモーゼル河畔にある田舎町に住んでいて、近くにローマ時代の遺跡で有名なトリアという町があるので訪れてみた。ちょうどその地域はバンクホリデーと呼ばれる休日から週末にかけての連休中で、大通りには数多くの見世物や農産物を売るテントなどが市場のように並んでいた。人出も大変なもので、大いに賑わっていた。

 同行したスピーカーの所有者によれば、「テントの野菜や果物は近隣の農家が育てたもので、スーパーマーケットにあるものよりも高価で2倍くらいするが、安全で品質が高いので人気がある」とのことだ。実際、見ているうちにどんどん売れていた。ヨーロッパでは野菜や果物はスーパーマーケットでも袋詰めになっておらずバラ売りされているので、直売テントでは当然バラ売りされている。自分が長野県に住んでいて地元の安い野菜を主に食べているせいか、野菜の価格はスーパーの2倍というのが納得特できるくらい高く感じたが、果物は日本よりも安かった。

トリアの大通りにあった野菜や果物の直売テント

 ドイツの消費税(正確には付加価値税)は原則19%だが、一部の嗜好品などを除く食品は7%なので、野菜や果物は税率7%だ。もし、日本の消費税が10%に値上げされると、ほとんどの農産物の消費税は日本のほうが高くなってしまう。財政難で消費税率が原則21%と高いイタリアは意外に安くて4%(ただし肉と魚は10%)、高福祉国で税率25%のスウェーデンですら6%だから、農産物の消費税が10%というのは世界でも特別に高い税金といえる。年貢におびえる時代が再来しそうな日本だが、ヨーロッパでは消費税が上昇するにつれて物々交換が盛んになりつつあるのだそうで、小規模な地産池消の農業にはヒントになるかもしれない。

トリアにあるドイツ最古の教会の内部で、天井ドームのレリーフが見事だった

 トリアを訪れる観光客はほとんどがドイツ人で、マクドナルドでも英語は通じにくく、「ツー・コーク」と言った後で「ツヴァイ・コーラ」と言い直すような具合だった。ドイツ最古の見事な教会もある有名な観光地なので、日本人も少しはいるだろうと予想していたが、それとおぼしき人には出会わなかった。現在のヨーロッパでは、かつての日本人団体旅行客のように中国人観光客が幅を利かせているが、ここではアジア系の観光客をわずかしか見かけなかった。ドイツ人観光客も年齢層が比較的高いようで、やや渋めの観光地といったところかもしれない。そのせいか、産直のテントの客も年配者が多かったが、売り子は若者から中年までの女性が多く、そうなると若い女性が目立っていて、看板もカラフルでセンスが良い。ちょっとほの暗かったりする素朴な日本の産直とは、ずいぶんな見栄えの落差を感じた。

客は年配者が多かったが、売り子は若い女性が目立った

 野菜はおおむね日本にあるものと同じだが、不揃いで太いキューリを除けば長野で日常的に目にしている日本の野菜よりも魅力的で、ナスやパプリカは芸術品のように美しかった。ひとつだけ、じつに奇妙な野菜があった。葉っぱはセロリとミツバの中間のようで、地下茎は蕪のようでいて無数の捻じ曲がった根がついている。いったいどうやって食べるのか想像もできない野菜だが、読者にきっとご存知の方がいらっしゃるだろうから、ぜひ、教えていただきたい。果物ではイチゴが露地物ばかりで小さいのと、サクランボがアメリカンチェリーと佐藤錦の中間のような色とサイズで、どちらも安く売られているのが日本との大きな違いだった。トリアで買ったものではないが、ホテルで食べた同様なイチゴとサクランボは、味が濃くてとてもおいしいかった。

見たことのない奇妙な野菜。現地では比較的ポピュラーなようだ

http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10408
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/767.html#c11

[リバイバル3] フランス人はバゲット(フランスパン)が一番好き 中川隆
38. 中川隆[-9565] koaQ7Jey 2019年6月17日 06:22:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2910]

オーディオのついでに見たヨーロッパの野菜など(1.トリアの直売テント)
http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10408


2013年 小林 正信
※この記事は株式会社産直新聞社が発行する「産直コペル」に連載したものです。


 わたしは産直新聞社の大家で、キャリコという小さなIT会社を経営している。わたしの会社の2階が産直新聞の編集室という間柄だ。8月に独仏のオーディオ仲間を訪ねる旅をしたついでに、ちょっとだけ野菜などについて見聞きしたことを寄稿させていただく。


トリアの直売テント

 旅の第一の目的はナチスドイツがプロパガンダ用に作らせたという、横幅3.5メートルもある巨大なスピーカーを入手することであった。そのスピーカーの所有者はドイツ西部のモーゼル河畔にある田舎町に住んでいて、近くにローマ時代の遺跡で有名なトリアという町があるので訪れてみた。ちょうどその地域はバンクホリデーと呼ばれる休日から週末にかけての連休中で、大通りには数多くの見世物や農産物を売るテントなどが市場のように並んでいた。人出も大変なもので、大いに賑わっていた。

 同行したスピーカーの所有者によれば、「テントの野菜や果物は近隣の農家が育てたもので、スーパーマーケットにあるものよりも高価で2倍くらいするが、安全で品質が高いので人気がある」とのことだ。実際、見ているうちにどんどん売れていた。ヨーロッパでは野菜や果物はスーパーマーケットでも袋詰めになっておらずバラ売りされているので、直売テントでは当然バラ売りされている。自分が長野県に住んでいて地元の安い野菜を主に食べているせいか、野菜の価格はスーパーの2倍というのが納得特できるくらい高く感じたが、果物は日本よりも安かった。

トリアの大通りにあった野菜や果物の直売テント

 ドイツの消費税(正確には付加価値税)は原則19%だが、一部の嗜好品などを除く食品は7%なので、野菜や果物は税率7%だ。もし、日本の消費税が10%に値上げされると、ほとんどの農産物の消費税は日本のほうが高くなってしまう。財政難で消費税率が原則21%と高いイタリアは意外に安くて4%(ただし肉と魚は10%)、高福祉国で税率25%のスウェーデンですら6%だから、農産物の消費税が10%というのは世界でも特別に高い税金といえる。年貢におびえる時代が再来しそうな日本だが、ヨーロッパでは消費税が上昇するにつれて物々交換が盛んになりつつあるのだそうで、小規模な地産池消の農業にはヒントになるかもしれない。

トリアにあるドイツ最古の教会の内部で、天井ドームのレリーフが見事だった

 トリアを訪れる観光客はほとんどがドイツ人で、マクドナルドでも英語は通じにくく、「ツー・コーク」と言った後で「ツヴァイ・コーラ」と言い直すような具合だった。ドイツ最古の見事な教会もある有名な観光地なので、日本人も少しはいるだろうと予想していたが、それとおぼしき人には出会わなかった。現在のヨーロッパでは、かつての日本人団体旅行客のように中国人観光客が幅を利かせているが、ここではアジア系の観光客をわずかしか見かけなかった。ドイツ人観光客も年齢層が比較的高いようで、やや渋めの観光地といったところかもしれない。そのせいか、産直のテントの客も年配者が多かったが、売り子は若者から中年までの女性が多く、そうなると若い女性が目立っていて、看板もカラフルでセンスが良い。ちょっとほの暗かったりする素朴な日本の産直とは、ずいぶんな見栄えの落差を感じた。

客は年配者が多かったが、売り子は若い女性が目立った

 野菜はおおむね日本にあるものと同じだが、不揃いで太いキューリを除けば長野で日常的に目にしている日本の野菜よりも魅力的で、ナスやパプリカは芸術品のように美しかった。ひとつだけ、じつに奇妙な野菜があった。葉っぱはセロリとミツバの中間のようで、地下茎は蕪のようでいて無数の捻じ曲がった根がついている。いったいどうやって食べるのか想像もできない野菜だが、読者にきっとご存知の方がいらっしゃるだろうから、ぜひ、教えていただきたい。果物ではイチゴが露地物ばかりで小さいのと、サクランボがアメリカンチェリーと佐藤錦の中間のような色とサイズで、どちらも安く売られているのが日本との大きな違いだった。トリアで買ったものではないが、ホテルで食べた同様なイチゴとサクランボは、味が濃くてとてもおいしいかった。

見たことのない奇妙な野菜。現地では比較的ポピュラーなようだ

http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10408


オーディオのついでに見たヨーロッパの野菜など(2.難しいアルザス・ワインロード)
http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10409


 その後、スピーカーの所有者の運転で国境を越えてフランスに入り、オーディオ機器の自作で有名なクライン氏の家まで送ってもらった。ピュトランジェというドイツ国境に近い田舎町で金属加工会社を経営するクライン氏とは同年齢で、共に50歳ちょっとという、人生において道楽を最高に楽しめる季節の真っ只中にいる。クライン氏とLPレコード盤のプレーヤーの共同開発や、新しいリスニングルームの構想についての議論に熱中した後は、同氏おなじみのホテルでムール貝の夕食をいただいた。30cmほどある大鍋に数百個ものムール貝が山盛りに入った莫大な夕食で、アルザスの白ワインとバターにニンニクやエシャロットが効いた煮汁は涙が出るほどおいしかったが、クライン氏に「おいしいからパンを浸して全部飲め」と言われても無理だった。デザートも直径20cmほどの巨大なクリームブリュレで、破れそうな胃袋をさすりながら同氏に「おやすみ」を言った。

自作の大型スピーカーの間に立つヨーロッパで有名なオーディオ愛好家のクライン氏

 翌日はクライン氏の愛車BMW製X3クリーン・ディーゼルに乗せてもらってストラスブール側から「アルザス・ワインロード」を通過し、ナンシー駅まで行ってフランスの誇る新幹線TGVに乗る予定で出かけた。ところが、「アルザス・ワインロード」を辿ることは予想外に困難で、途中で引き返すことになってしまった。なにしろ、宿場間の道路は塩尻のブドウ畑の間にある農作業用の道路と大差ない程度の細い道で、しょっちゅう交差点で曲がるのに標識がろくにない。おまけにフランスのカーナビは日本のより低性能で不親切なので、2つ目の宿場街に向かう途中で迷ったころには、「これは2〜3日かけないと通過できない」と悟るに至った。クライン氏も近くのお気に入りの街を散発的に訪れるだけで、ルートをすべて辿ったことはないそうだ。こんな不親切な観光ルートは日本では考えられないが、訪れた街々は日曜日ということもあって観光客でごった返しており、「まあ、看板だらけの観光地よりもいいか」と思い直しながら美しい木造建築の間を散策した。

 道に迷ったあげく、夕方の1本しかないマルセイユ行きのTGVに乗り遅れそうで、名物料理の「シュークルート」を食べることもできずにストラスブール側へと戻ったので、アルザスの農業について書けないことをお詫びする。ぎりぎりで駅にたどり着いてTGVに乗り込むちょうどそのとき、駅前でお礼もそこそこに別れたクライン氏から「電車は大丈夫か?」という電話が入った。大慌てで乗ったTGVだが、なんだか判らないトラブルで遅れにおくれ、結局マルセイユに着いたのは翌日の未明になってしまった。

アルザス・ワインロードにある宿場街。歴史を感じさせる古い街並みなのに暗くなく華やかだ

http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10409


3.南フランスにて
http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10410


 マルセイユではレンタカーのシトロエンC5を借り、プロバンスのドライブに出かけた。 フランスは田舎に行くと電車もバスもろくに無いのでレンタカーを借りるしかないのだが、「大都市マルセイユはパリより危険で運転が難しい」と聞いていたので、おっかなびっくり出発した。どうにか無事マルセイユの中心部を抜けて高速道路に乗ると、それからは快調に飛ばすことができた。クライン氏が「自動速度取り締まり機があるが百○○キロまでなら大丈夫」と言いながらグルーズコントロールに設定していた速度で走ると、すぐに目的のインターチェンジに着いた。マルセイユ側からプロバンスに入ると、コレンやゴルドといった味わいのある小さな村々がある。特にコレンはフランスにおける有機農業の先駆地として有名なので訪れてみたが、秋には全てが黄金色に染まるという村はひっそりとしていて、カラッとした石灰岩質のカルスト台地には、濃い紫の実を付けたブドウ畑がどこまでも広がるばかりであった。

プロバンスの南端にあるコレン村に広がるブドウ畑

 帰りがけに野菜畑で作業をしている男性を見つけ、運転席から窓越しに声をかけると人なつっこそうに応じてくれたので、車を降りて話を聞くことにした。といっても、フランス語はさっぱり解らないので、名詞は英語、名詞以外はカタ言のドイツ語という悲惨な状況での取材となった。ドイツ国境に近いアルザスでは、だれもがフランス語だけでなくドイツ語も話せたが、プロバンスまでくるとドイツ語も「英語よりはまし」という程度にしか通じないので、取材内容が乏しくて不正確なことをご了承いただきたい。幸いにも「オーガニック」は英語と共通のようで通じたが、男性の名前は聞き取れなかった。フランス語の発音は本当に難しい。

トマトを手にコレンの農作物について自慢する農家の男性

 男性はブドウ農家と推測され、はじめは言葉がうまく通じないのでニコニコするばかりだったが、農作物の自慢話になると熱が入り、「コレンの農作物は完全な有機栽培で、野菜は水と太陽だけで出来ている」と強調していた。まあ、牛糞などの有機肥料は使うのだろうが、家畜のエサもコレンの植物だから、元をたどれば水と太陽ということなのだろう。野菜はトマトが主なようだったが、自家消費用に数十種類の野菜やハーブを栽培していた。なんと、その中には日本では制限されているタバコまであり、「自分でシガレットにして吸うと最高だ」と満面の笑顔で話してくれた。男性が手に持っているのはトマトで、たっぷりのミントと一緒にプレゼントしてくれた。

 別の英語が話せるフランス人に聞いた話だが、フランスは今ベビーブームで、人口の減少に歯止めがかかっているという。子供のいる家庭が増えたことで食品の安全性への関心が強くなり、高価でも体に良い農作物が嗜好され、伝統的な小規模農業が見直される状況だそうだ。コレンにも若者が有機農業に魅せられてIターンしており、少子高齢化で国が傾きかけている日本から見れば、じつにうらやましい状況だ。

完全無農薬で化学肥料も無しという畑。右端の大きな葉はタバコで自家消費用

 プロバンスの大地は一見乾燥しているようだが、じつは水が豊富で、コレンの農地も澄み切った小川がいたる所に流れていた。小川は自然のままで日本のようにU字溝などのコンクリートになっておらず、水辺の草には琥珀色の羽の小ぶりな川トンボがいて絵になる風景だった。村の中心部にはやや大きな川が流れていて、野菜を洗ったり洗濯したりするための共同の水場があった。川の水は少しヒスイ色がかっていて、ミネラルがかなり豊富な印象を受けた。大地もミネラルが豊富で、おそらく日本とはかなり栽培条件が異なるのだろう。

意外に水が豊富なプロバンス。右の長方形の池は共同の洗い場

 フランスは原子力発電を推進していて、福島の原発事故を機に脱原発を決めたドイツ人たちから「フランスはドイツ国境に原発を作ってけしからん」と非難されている。ドイツ人はアルカイダなどが原子炉を攻撃することを真剣に恐れているからだ。そんなフランスなので自然エネルギーへの関心は低く、ドイツでは林立していた風力発電機もソーラーパネルもわずかしか見なかったが、コレン村の酪農組合のプラントは屋根全面が太陽電池パネルで覆われていて、おとぎの国のような古い村の佇まいと奇妙なコントラストをなしていた。村の中心部も道行く人はわずかで、観光案内所も閉まっていた。どうも平日のコレンでは農産物はおろか、小さなカフェにある飲み物以外の買い物はできないようだ。
http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10410


オーディオのついでに見たヨーロッパの野菜など(4.ニースとラタトゥーユ)
http://www3.calico.jp/index.php?f=&ci=10107&i=10411

4.1.ニース

 閑散としていて食事に入るレストランも見つからなかったので、プロバンスのドライブは早めに終わってしまった。そこで、昼飯抜きで南東へ100キロほど足を伸ばし、ニースまで行ってから昼夜兼ねての食事をすることにした。産油国から来たと思われるアラビア文字のナンバーを付けた超高級車に気を使いながら高速を飛ばしてニースに着くと、大変な渋滞の中での駐車場探しとなってしまった。それでも、東京に慣れている日本人にとっては大した混雑ではなく、美術館の地下に駐車して海へ向かって歩いた。コートダジュールと呼ばれる地帯の海は、たしかに紺碧で青のグラディエーションが美しいのだが、のどかなプロバンスとは大違いの騒がしさで、みやげ物店がひしめく旧市街の狭い通りは観光客でごった返していた。ビーチで見つけた気持ちよさそうなレストランは高級だったが、メニューにはコートダジュール名物のブイヤベースがなかったので、シンプルに魚を焼いた料理をパラソルの下で食べた。ビーチは丸い石ころだらけで砂がなく、日光浴をする人やビーチバレーに興ずる人などでにぎやかだった。

コレンから100キロほど離れた所にあるニース

 男性にもらったトマトはとても大きく、色も赤が少し浅かったので味はそれほど期待していなかったが、翌朝ホテルで食べてみると、意外な食味で関心させられてしまった。なんというか、マッシュポテトのような少しザラッとした舌触りがして、フルーツティーな日本で流行りのトマトとはまったく逆の方向性で、「これは米やイモの代わりに主食として食べられる」と思った。日本のトマトは甘くて好きだが、ちょっと青臭いのと酸味が強くて味が濃すぎるので、たくさん食べるのは苦手なのだが、コレンのトマトは腹いっぱい食べても平気で、味にも香りにもまったく不快なところがなかった。野菜不足の旅行者には最高の朝食だ。このトマトとミントをビニール袋に入れ、バッグに押し込んで数日持ち歩いたが、日本のトマトよりはるかに丈夫でほとんど傷まなかった。もっとも、それは一緒にもらったミントの効果だったのかもしれない。

話を聞いた男性にもらったトマトとミント


4.2.ラタトゥーユ

 フランスは料理大国でレストランは豊富なのだが、それでも圧倒的に肉料理が多く、野菜料理が少ない。このことは世界中の外食に共通している。メニューにある野菜料理といえば断然サラダが多いのも共通点だ。だから、日本の外食で野菜の煮物を探すのが大変なように、フランスでも旅行者が家庭風の野菜料理を食べるのは難しい。そこでパリ在住のオーディオ愛好家ジョンシェリー氏のお宅を訪問したとき、奥様に伝統的なレシピによるラタトゥーユを作ってもらった。ラタトゥーユはたっぷりの夏野菜を炒め煮したもので、ローストしたラム肉といっしょにいただいた。じつは、日本のフレンチ・レストランでは案外ラタトゥーユがポピュラーでメニューに載っていることが少なくないのだが、大振りの野菜がゴロゴロした見栄えの良い外食風のレシピで、写真のように家庭で作られる伝統的なレシピとはかなり異なる。このように外食と家庭で同じ料理が別物のようになるというのも、洋の東西を問わない共通点である。いただいたラタトゥーユはやさしい味で、これとパンだけで十分だと思いつつ、1ビットのデジタルオーディオについての議論に花を咲かせた。

伝統的なフランス家庭料理としてのラタトゥーユを添えたラム肉のロースト


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[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
82. 中川隆[-9567] koaQ7Jey 2019年6月17日 07:12:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2908]
猛実験君のスピーカーケーブル  2015年7月
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10145&i=10407

左下:猛実験君、中上:音海先生(おんかいせんせい)、右下:スペック紳士

猛実験君:「これは自分が長年の実験を基に作った特別なスピーカーケーブルであります。みなさんもケーブルで音がすっかり変わってしまうということはご存知だと思いますが、自分もケーブルではさんざん苦労をしました。なにしろ金、銀、銅、無酸素銅、単結晶無酸素銅があるうえ、単線により線、編み上げ線と形状もいろいろで、おまけに被覆も塩化ビニール、ポリエチレン、テフロン、ゴム、綿、絹とキリがありません。どれを使うかで音が変わってしまうだけでなく、太さや本数、間隔など、無限に組み合わせがあって大変です。自分は何百、何千というケーブルを自作しては聴くという実験を延々と繰り返しました。そうやって確信したのは、やはり素材が決め手だということです。どうやっても素材が音に出るのであります。銀線はクセがあるし、金線はとても高価なので、やはり銅が一番です。ただし、自分は高純度無酸素銅で、しかも単結晶で焼きなましたのでないと聴く気になれません。その単線の被覆をむき、自分の手で綿テープを巻きなおして自作したのがこのケーブルであります。ビニールやテフロンは静電気で音が悪くなるので、被覆は自然素材でなければダメです。売っているケーブルにロクな物はありません。高価なハイエンドケーブルもダメ、ヴィンテージケーブルもダメ、自分のケーブル以外はみんなダメであります。」

 猛実験君の突進に、音海先生もスペック紳士もあっけにとられて言葉が出なかったが、そんなことはおかまいなしに、待ちきれない猛実験君は音出しを催促した。

猛実験君:「とにかく、今すぐにこのケーブルの音を聴いてほしいのであります。」

音海先生:「わかった、わかった。」

 そう言って音海先生は少し面倒くさそうにスピーカーの裏側に回ると、ちょうどそのあたりの床に落ちていたマイナスのドライバーを拾い、スピーカーの端子をゆるめようとした。老眼でネジ頭の溝にドライバーの先をすぐに合わせられずにもたもたしていると、なにやら傍らに熱気を感じた。輻射の来る方向を見ると、猛実験君がケーブルを持ってそばに立っていた。待ちきれない様子だったので、音海先生は猛実験君にドライバーを渡し、スピーカーとパワーアンプの間のケーブルを交換する作業を交代してもらった。

猛実験君:「持参したケーブルが2メートルの2組しかなかったので届くかどうか心配でしたが、なんとかなりました。アンプの電源を入れましたから、なにか音を出してみてください。音源はCDですか?」

音海先生:「そうじゃな、前に聞いたディスクがなにか入っているじゃろうから、再生ボタンを押してみてくれ。」

猛実験君:「先生、ボリュームを上げても小さな話し声のようなものしか聴こえません。入力セレクターかなにか間違っているのでしょうか?」

音海先生:「おお、きっとフィールド電源が入っておらんのじゃ。こいつは戦前の電磁石時代のラッパじゃからな。」

 音海先生のスピーカーには、昔の蓄音機のような大きなホーンが付いていたので、ラッパと呼ぶのがふさわしかった。猛実験君が目ざとくフィールド電源を見つけてスイッチを入れると、整流管のフィラメントが細かい金網でできているプレート電極の奥でオレンジ色に輝き、比較的大きなノイズがフワッとスピーカーから出てきた。その直後に聴こえて来たのは、音海先生お気に入りの徳川夢声による宮本武蔵の朗読であった。猛実験君は一段と興奮した様子だったが、なんとか我慢して30秒ほど聴いてから口を開いた。TV番組で料理を口に入れた瞬間に味わいもせず叫ぶのと同じではバカにされるので、しばらく聴いたふりをしてからと考えたからだ。

猛実験君:「やはり、このケーブルはいい音であります。」

 徳川夢声にも負けないほど感情のこもった声でひと言述べた猛実験君は、しきりにうなずきながら満足そうに聴いていた。しかし、いっぽうのスペック紳士は腕を組んだまま首を傾け、なにやら納得できない様子でいた。

スペック紳士:「う〜ん。ずいぶん古い録音のようですが、朗読なんてまともに聴いたことがないので音質評価がさっぱりできませんね。基準が無い状態では判断のしようがありませんね。」

猛実験君:「それでは、元のケーブルに戻すので比較してみてください。それにしても先生のケーブルは安物ですね。」

 熱心さのあまり、ついつい「安物」などと本音を言ってしまう猛実験訓であった。音海先生のケーブルはホームセンターで1メートル数十円で売っている細い平行ビニール電線で、猛実験君にとっては聴く必要のないものであったが、無駄だと思いつつも自分のケーブルの優秀さを証明するため、元のケーブルに大急ぎで戻した。

猛実験君:「どうです、やっぱり音が後ろに引っ込んでしまいました。」

スペック紳士:「そういわれれば、そんな気もするけど。やっぱり、朗読ではちょっとね。僕のこのCDをかけてもらってもいいですか。」

 スペック紳士はイタリア製のカバンから、何百万円もするハイエンドオーディオ製品のメーカーが配布した音質評価テスト用CDを取り出した。猛実験君はそれを受け取ると、音海先生に断りもせず交換して再生した。

猛実験君:「先頭の曲からでいいですか? 先生、朗読のCDはプレーヤーの上にあったケースに入れておきました。」

 テスト用CDにはオーディオ愛好家が喜びそうな優秀録音ではあるが、脈絡もなくバラバラにされた音楽が入っていた。コントラバスの低音やパーカッションの打撃が誇張された曲らしきものの合間に、素人受けしそうなヴァイオリンのソロやジャズボーカルが挿入されていた。

スペック紳士:「いつも聴いているCDですが、先生の装置ではずいぶん変わった音がします。とても古いスピーカーなので高音があまり出ていないようですが、不思議な魅力がありますね。でも、さっきケーブルを交換する前にこのCDを聴いておかなかったから、やっぱり分かりませんね。」

音海先生:「おお、そうじゃな。これはしまった。猛実験君、すまんがもう一度交換してみてくれ。」

 猛実験君はまたまたケーブルを手早く交換したが、それで収まるはずもなく、CDをとっかえひっかえしては、何回もケーブルを交換してスペック紳士と猛実験君で「ああでもない」、「こうでもない」と比較試聴を続けたのであった。音海先生はすぐに飽きてしまい、うとうとしていた。

スペック紳士:「たしかに、猛実験君のケーブルのほうが音が前に出るような気がしなくもないけど、効果がはっきりしないのは、綿テープのせいじゃないかな。せっかく単結晶無酸素銅を使っているのに、綿が湿気を吸ったりして、不安定なんてことがあるかもしれないし。1本百万円するようなハイエンドケーブルがいいとは言わないけど、やっぱりちゃんと作ってあるそこそこの製品でないと、安心して聴けないような気がするな。」

 見た目が雑な自作品がきらいなスペック紳士は、ついついケーブルに否定的なことを言ってしまったので、たちまち猛実験君の顔色が変わった。もはや音を聴くことなど不要になったので、猛実験君はボリュームを小さく絞った。スニングルームには音楽ではなく、議論する声が響いた。

猛実験君:「ハイエンドケーブルはインチキです。いまからそれを証明してみせます。たとえば、1本100万円もするオーディオ用と称するLANケーブルがあります。ご存知のようにLANはデジタル信号なので、正しく通信できさえすれば良く、ケーブルによって音が変わるはずはありません。」

スペック紳士:「ああ、AndonQuestionのLANケーブルですね。驚くほど高価なので、ネットワークプレーヤーとかメディアサーバーとかいろいろあると、すぐにLANケーブルだけで1千万円にもなってしまいますね。でも、導体が高品質の銀線ですごくきれいに出来てますよ。」

猛実験君:「だからインチキなんです。LANケーブルを伝わるのは音楽ファイルなどのデジタル信号です。もし、2メートルで380円のLANケーブルだと音が悪くなるとすると、デジタルデータが変化してしまっていることになります。もしそうなら、みなさんがホームページを見たり、ファイルをコピーしたりするとき、しょっちゅうデータが化けてホームページが崩れたり、ファイルが壊れたりするはずです。もちろんそんなことはないので、380円のLANケーブルでもデータは正確に伝わり、十分な性能だということです。」

スペック紳士:「たしかにデジタルデータは変わらないかもしれないけど、高級なUSBケーブルだと音が良くなるように、パソコンとかとオーディオ機器のアースがつながっちゃうから、ケーブルの影響はあると思うな。じつは2本買って試しているところなんです。やっぱり、SN(音に対する雑音の小ささの比率)が良くなったような気がしますよ。」

猛実験君:「とんでもない。LANの接続口にはパルス用のトランスが内臓されているので、機器のグラウンドはつながりません。また、アースは大地への接続なので、信号用のケーブルでつながるばあい、それはグラウンドであります。」

スペック紳士:「それは知らなかったな。てっきりUSBと同じで、そのグラウンドがつながっちゃうのかと思ってました。でもやっぱり、銀線だと繊細な感じがするんだけどな。それに高品質なケーブルなら、装置の信頼性も上がりますよね。」

猛実験君:「自分は音にクセがあるので銀線は大きらいです。やはり銅が一番なのですが、いつも使っている単結晶無酸素銅が製造停止になってしまったので、大変困っています。大量にストックしておこうと思ったときには、秋葉原のオイデヤ電線にも在庫がありませんでした。」

スペック紳士:「PCBCCという古河童電気の高性能な銅材料ですね。普通の銅だとたくさんの結晶から出来ているから、結晶の境目に不純物が混ざって電流がスムーズに流れなかったりするのが、PCBCCでは一つの結晶で全部きれいにつながっているので、そういう問題がないということでしたね。電子があちこちにある結晶の境目に邪魔されながら進むのでは、やっぱり音もギクシャクしそうですものね。」

 少し前から目が覚めていたものの、ケーブルによる音の違いに興味がない音海先生は、居眠りのふりをしていたが、議論の白熱にだまってはいられなくなってきた。

音海先生:「ほほう、まるでスペック紳士は自分が電子のように小さくなって、導体の中の様子を見てきたように話すのう。じゃがな、電子はどこにあると確定的にいえるものではなく、ぼんやりとした雲のような存在で、粒のようでもあり、波のようでもあるのじゃ。」

スペック紳士:「なんだか禅問答みたいで難しいですね。でも、PCBCCは普通の銅よりも電気抵抗が低いですし、やっぱり結晶の境目が邪魔しないから、電子が通りやすいんじゃないかな。」

音海先生:「スペック紳士は宣伝文句の読みすぎじゃな。銅線の電気抵抗の原因は熱がほとんどで、結晶の歪みや境目の影響なぞ微々たるものじゃ。温度が高いほど原子レベルの微細な振動が激しくなって、進もうとする電子をかき乱すから抵抗が大きくなるのじゃ。」

猛実験君:「温度を下げれば熱エネルギーによる振動が減るのなら、絶対零度に近い極低温にすれば超伝導みたいになって、ものすごく電子がスムーズに通れるということですね。ですが、自分は銅の純度も電気抵抗に影響することを知っています。銅線を冷やすのは大変なので、やはり実用的には純度が高い無酸素銅を使うことが重要だと思うのでありますが。」

音海先生:「銅を超伝導にするのは困難じゃが、純度のほうは安物の電線ですら99.99%ほどもあって十分に高いぞ。99.99999%といった超高純度な銅との抵抗の差は、温度を2、3度下げれ帳消しじゃ。どうもオーディオ界は主要因には目をつぶり、枝葉を誇張して売り込む傾向があるからのう。」

猛実験君:「なんだ、そんな程度の差しかないのですか。それでは、山の中にあって涼しい先生の所の安物ケーブルのほうが、暑い市街地にある自分のリスニングルームの無酸素銅よりも抵抗が少ないことになってしまいます。もちろん、同じ太さと長さのばあいであります。ちょうどPCBCC電線がなくなってしまったので、これからケーブルを冷やす実験をしてみようと思います。」

音海先生:「そうじゃ、そうじゃ。高いケーブルを買う金があったら、静かで強力なエアコンを買って聴いたほうが、電気伝導も気分も良くなって、いい音に聴こえるというものじゃ。そういえば今日も暑い日じゃったのう。」

猛実験君:「そうではありません。反対に冬になって暖房するとケーブルの抵抗が大きくなってしまいますので、やはりケーブルを冷やす必要があります。いま、いいアイデアがひらめきました。散水用のホースの中にケーブルを入れて、不凍液を循環させて冷却する装置を開発してみようと思います。」

スペック紳士:「でも、不凍液でアンプは冷やせませんよね。アンプのトランスの中には何千回も巻かれた長い銅線があって、電流や真空管の熱でかなり熱くなりますよね。」

猛実験君:「たしかにそうです。ならば、家庭用の冷凍ストッカーを改造してシャーシに流用し、真空管以外のすべての部品を冷却するアンプも自作する必要があります。」

 猛実験君は目を上に向けて焦点を定めず、冷却式オーディオシステムの構想を一気に膨らませている様子でいたが、ほかの二人はあきれてしまっていた。スペック紳士はいやなものを想像してしまったといった表情をして、首を横に振りながら口を開いた。

スペック紳士:「う〜ん。僕は冷凍ストッカーの上で真空管が光っていたり、ホースの中をボコボコと不凍液が流れているような所で音楽を聴くのはいやだな。いくら性能が良くていい音だからって、それじゃ機械室か資材置き場でフランス料理を食べるようなものじゃないですか。」

猛実験君:「それはあんまりだ。自分は純粋にいい音を追及しているだけであります。いい音のための装置がいっぱいあるのは不快ではありません。みなさんだって、オーディオ機器に囲まれて楽しんでいるじゃありませんか。冷凍ストッカーの振動も不凍液の循環ノイズも、冷媒の配管を延長してコンプレッサーを外に出すなどの工夫で解決できると思います。そういう創意工夫なしに、ただブランド物の高額なケーブルを次つぎと購入するだけでは、金をドブに捨てるようなものであります。」

音海先生:「まあ、まあ。どちらの意見にも一理あるが、ここらで本当のことを言うとしよう。わしには自分の安いケーブルと猛実験君のケーブルの音の違いは、さっぱり聴き取れんかった。じつはな、このスピーカーもアンプも200オームなのじゃ。もし、新しいスピーカーのように4オームじゃったら、ケーブルで少しは音が違ったかもしれんがのう。」

猛実験君:「なんだ、それじゃ差が出ないじゃありませんか。抵抗の影響だって4オームのときの50分の1くらいに減ってしまいます。自分にははっきりと差があるように聴こえたのですが、やっぱり思い込みだったのでしょうか。」

 ケーブルによる差が出そうにない物理的状況を知り、自信満々から急転直下の猛実験君であった。彼の構想は一気にしぼんでしまったので、電源トランスと出力トランスを入れるのに程よいサイズの冷凍ストッカーを探す必要がなくなった。

音海先生:「音とは不思議なもので、ほんのささいな部分を変えても違って聴こえる。もっといえば、なにも変えなくても違って聴こえるのじゃ。装置が変わらなくても、聴く人間のほうの状態が不変ではないからのう。人間はいろいろな影響を受けて差があると感じてしまいがちで、差がないものは無いと冷静に判断することのほうがずっと難しいのじゃ。」

 スペック紳士は差が無いという自分の聴き取りが正しかったことは喜んだが、大金をつぎ込んだケーブルがなんだか少し無駄なもののように思えてしまい、浮かない気分になっていた。

スペック紳士:「僕のスピーカーは20オーム弱だから、いいケーブルを使えば少しは効果がありますよね。それに、LANケーブルだって、信頼性が高くなるし、無駄ではないですよね。」

音海先生:「16オームなら多少は違うかもしれんが、たとえ4オームでも、わしじゃったら高くて太いケーブルに交換したりせずに、安い普通のケーブルを2本、3本と並列にしていって、ちょうどよい本数でやめることになるじゃろう。信頼性についてもじゃ。もし、自動車の配線をハイエンドのオーディオケーブルにしたらどうじゃな? 人工衛星や医療機器ではどうじゃな? みんな無駄に重く大きくなって、まともには働かんじゃろう。信頼性とはそういうもので、一部だけの強化ではなく、全体のバランスが大切なのじゃ。それに、貴重なヴィンテージ機器の小さな端子に図太いケーブルを無理に接続して壊してはいかん。壊れるということは信頼性が低いということじゃからのう。まあ、あまり科学的な根拠のないハイエンドケーブルも先細りじゃろうから、古河童電気はPCBCCの生産をやめたのじゃろう。」

スペック紳士:「あ〜あ。じつは僕、100万円のLANケーブルだけじゃなくて、PCBCC電線を使ったハイエンドケーブルもいっぱい買ってあるんだよね。無駄だったかな。猛実験君、買ってくれない?」

 ずいぶんと夜が更けたので、楽しくて騒々しいオーディオの集いは、なごり惜しいがおひらきとなった。だが、ケーブルの議論は果てしなく、その後も幾度となく蒸し返されることになるのを3人は知る由も無かった。最後に、頼まれもしないのに人様のリスニングルームへケーブルを持参するのはやめましょうという教訓をお伝えして、今回の話をおしまいにさせていただく。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10145&i=10407
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[リバイバル3] 元祖ブリティッシュ・サウンド _ HMV と EMG の蓄音器 中川隆
3. 中川隆[-9566] koaQ7Jey 2019年6月17日 07:15:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2909]
ハイレゾで100 kHz  2015年8月
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10145&i=10412

左下:猛実験君、中上:音海先生(おんかいせんせい)、右下:スペック紳士

 ある日、スペック紳士のところへ定期購読しているオーディオ雑誌が届いた。昔はオーディオ雑誌を片っぱしから大量に定期購読していた彼だが、ずいぶん前からつまらなくなったと感じ、いまでは「ステテコサウンド」などの数誌を読むだけになっていた。猛実験君が定期立ち読みしている「無銭で実験」など、自作派向けの雑誌には興味がなかった。届いた雑誌の今月号にも面白そうな特集はなかったので、さして読むわけでもなく、パラパラとページをめくっていた。すると、100 kHzもの超高音が再生できるというヘッドホンの広告が目に入った。流行りモノをいち早く使って自慢するのが大好きな彼は、テーブルに置きっぱなしのタブレット端末でメーカーの製品紹介ページを開いた。すでに買う気になっていたので、説明を半分も読まないうちに大手通販サイトて購入してしまった。彼にとっては安い買い物であった。

 翌日にはスペック紳士の家に注文したZONBY製のヘッドホンが届いた。さっそく箱を開いて取り出してみると、手にした印象が普通のヘッドホンと代わり映えせず、ちょっとがっかりした。スペックにつられて買ってしまったが、彼が好むような高級品ではなかった。じっさい、彼がモバイル用に伊達で使う海外製ヘッドホンの、わずか5分の1の価格で購入できた。「まあ、100 kHzの超高音を聴くためだから」と気を取り直したところで、自分がまともなヘッドホンアンプを1台も持っていないことに気づいた。オマケに付いている程度のヘッドホン端子で聴いたのでは、本格的にヘッドホンの音質を評価したと自慢できそうにないと思いつつ、しかたないのでヘッドホン端子のあるDAコンバーターに接続した。何曲かSACD(スーパーオーディオCD)を聴いてみたが、モバイル用のAKB(アーカーベー)製ヘッドホンよりも痩せた、つまらない音にしか感じられなかった。

 ふと、「そもそもヘッドホンに出力されている電気信号に100 kHzの超高音が含まれているのか?」という根本的な疑問が彼に生じた。そのDAコンバーターは192 kHzがデジタルデータの最高速なので、サンプリング定理により約90 kHzよりも高い周波数は原理的に再生できない。その程度の理論は、彼でも知っていた。どうせ聴こえない超高音なら、90 kHzも100 kHzも同じだとは思ったが、猛実験君に不備を指摘され、面目丸つぶれになってしまうことは避けたかった。

 そこで、インターネットで検索してみると、最高速が384 kHzのDAコンバーターはいくつかあったが、どうも安物がほとんどで、高級品は開発サイクルが長くて時代遅れになっているせいか、よさそうなものがなかった。「まあ、ちょっと使うだけだから」と、loFi製のモバイル用DAコンバーターをワンクリックで注文した。それには高性能そうなヘッドフォンアンプも内蔵されていたので、ちょうど良かったからである。loFiでは一番高いモデルを購入したが、それでもスペック紳士が使うケーブル1本の平均価格よりも安かった。確信はないが、これで100 kHzの信号が出そうなハードウェアは調達したことになった。(実際はアナログ信号の超高音をカットするフィルターがあると思われるが、目をつぶることにする)

 次なる問題は音源である。大手の音楽ファイルダウンロードサイトを見てみたが、その時点では192 kHzが最高で、384 kHzは無かった。しかたないので、11.2 MHzのDSDフォーマットの音楽ファイルを、いくつかダウンロード購入した。それが100 kHzを再生できるものなのかどうか、彼には自信がなかったが、価格が一番高いことが決め手になった。「あとはパソコンでダウンロードしたファイルを再生できるようにするだけだ」と思って設定を始めたのだが、その作業は予想外に難しかった。しょっぱなのDAコンバーターのデバイスドライバーのインストールでつまずいた彼は、ネットで調べながらパソコンと数時間格闘した後、あきらめて猛実験君に電話した。

 スペック紳士は100 kHzが再生できるヘッドホンのことは話さず、ただ「パソコンの設定を教えてほしい」と頼んだだけなのに、猛実験君は二つ返事で助っ人に来てくれることになった。10分もすると、猛実験君が軽ワゴン車でやって来た。猛実験君はちゃんとしたメーカーの技術者なので、けっして貧乏なわけではなかったが、車にも服装にも無頓着で、そういうものにお金をかけることはなかった。

猛実験君:「このloFiのDAコンバーターは、このOSだとひとつ古いバージョンをインストールしないと動作しないようであります。これは分かりにくいですね。あと、DSDを再生するにはbooboo2000という音楽再生ソフトをインストールしないといけないので、それもやっておきます。」

スペック紳士:「いや〜。さすが猛実験君はエンジニアなだけあって、パソコンの操作になれているね。もうおわっちゃった。どうもありがとう。」

 夜中の12時近くになっていたので、猛実験君は設定を終えるとすぐに帰った。さて、これでようやく「100 kHzの超高音を聴けるのではないか」と思われる装置の準備が整った。スペック紳士はbooboo2000のプレイリストに、ダウンロードした11.2 MHzのDSD音楽ファイルをドロップして再生を始めた。ヘッドホンからは今まで聴いたことのない、ツヤツヤした音が流れてきた。頭のてっぺんに細かなフィルム片が光を反射しながら降り注ぐような音に、「これが100 kHzだ!」と錯覚したスペック紳士は有頂天になった。以前、猛実験君の家でオシレーターを使って試したとき、自分の耳が15 kHzまでしか聞こえなかったことは脳裏になかった。

 翌日さっそく、スペック紳士は猛実験君に電話をかけて自慢話をした。「とにかく、今までとはまったく異なる音だ」というただ一点のみが大して表現も変えずに何度も繰り返されたので、猛実験君はほとんど反応を示さなかった。満足できなかったスペック紳士は、音海先生にも100 kHzの音について自慢したくなった。同行を求められた猛実験君は、用事が無くても行く気満々だったので、二人は週末に音海先生のリスニングルームを訪問することになった。

 前回の訪問で音海先生のところには広い駐車スペースがあることが分かっていたスペック紳士は、自分のスポーツカーに猛実験君を乗せてやって来た。スペック紳士はファッションではラテン系が好みだが、車はトラブルが心配で無難なドイツ車ばかりを乗り継いでいた。音海先生は再び笑顔で迎えてくれ、手みやげを受け取ると、二人をリスニングルームに案内した。前回同様に床に座ると、スペック紳士が猛実験君に設定してもらったノートパソコンとDAコンバーター、そして例のヘッドホンをカバンから取り出した。猛実験君がUSBケーブルなどを接続してソフトを起動するまでのひとしきり、スペック紳士は予定どおりに得意満面の自慢話をした。

スペック紳士:「先生、僕は100 kHzが再生できるという最新のヘッドホンを試してみました。これまでに体験したことのない音です。とにかく、これまでの30 kHzとか50 kHzといった音とは次元の異なる音です。なにしろ100 kHzと桁が違うのですから。最近ハイレゾ、ハイレゾと叫んでオーディオ界が盛り上がっていますが、このヘッドホンでようやく本当のハイレゾが体験できました。」

 そう言うとスペック紳士はbooboo2000で11.2 MHzのDSD音楽ファイルを再生し、ヘッドホンを音海先生に差し出して聴くように促した。音海先生は少し迷惑そうな顔をしたが、ヘッドホンを手に取り、じっくりと細部を確認するように見てから装着した。

スペック紳士:「どうです先生? すばらしい艶でしょう。」

音海先生:「う〜む。音をうんぬんする前に、わしには演奏が気になって落ち着いて聴けんのじゃ。下手といっては言いすぎじゃろうが、このビブラートではドイツ歌曲が演歌になってしまっておる。」

スペック紳士:「とても美人のソプラノなんですけどね。それじゃあ、弦楽四重奏にしましょう。クリックすればすぐに切り替わりますから。」

音海先生:「こっちの演奏は少しはまともなようじゃが、どうもヘッドホンなんて使わんせいか、頭のてっぺんに音が集まってしまうようじゃ。残響もすごいし、なんだか銭湯で聴いているような気分になってきたぞ。」

 スペック紳士は納得してもらおうとして、次々とファイル再生して聴かせたが、音海先生の顔色がだんだん悪くなってきた。頃合いを見計らうように、猛実験君はスペアナ(電気信号を周波数成分に分解して棒グラフなどで表示する装置)機能をもつ携帯用デジタルオシロスコープを取り出した。ヘッドホンジャックを抜いて、代わりにデジタルオシロスコープをアダプターを使って接続すると、30 kHzくらいよりも高い周波数は減衰し、100 kHzはほんのちょっぴりしかない周波数スペクトルが表示された。もちろん、音の強弱によって棒グラフは伸び縮みしたが、高音域の全体的な配分はあまり変化しなかった。

猛実験君:「やはり30 kHzくらいでローパスフィルターが入っていて、それよりも高い周波数はカットされているようであります。SACDが登場したころ、スピーカーで特別に高い周波数を再生するためのスーパーツィーターが破壊されるトラブルなどがあったりしたので、超高域をカットするようになったと聞いております。」

スペック紳士:「エ〜! 30 kHzでカットされていたの? でも、100 kHzにもちょっと信号があるじゃない。」

猛実験君:「これは測定系のノイズであります。試しにファイルの再生を止めてみます。ほら、さっきと同じくらいの微小レベルで、高い周波数に信号があるように表示されております。」

 その後も猛実験君による測定と三人の議論は続き、どうやら、スペック紳士に「これが100 kHzだ!」と思わせた、頭のてっぺんに降り注ぐようなキラキラ音の正体は、「デジタルエコーではないか」という結論に至った。またまた無駄な買い物をしたスペック紳士だが、今度はケーブルに比べれば微々たる出費なこともあってあまり落胆せず、むしろ、オーディオ業界が浮かれているハイレゾに落とし穴があることを発見した批評家のような気分でいた。

スペック紳士:「ハイレゾ、ハイレゾと騒ぐけど、冷静に考えないといけませんね。」

猛実験君:「あれっ、さっきまでハイレゾ、ハイレゾと騒いでいたのはだれでしたっけ。」

音海先生:「は、は、は。まあ、だれでも経験してみなければ分からんことじゃ。わしは静かな所に住み、携帯電話も控えて耳を大切にしておるが、この年になると10 kHzぐらいまでしか聴こえん。それでこの超高音の出ない昔のスピーカーを使っておるのじゃが、かといって音が悪いとか、音楽が楽しめないということはまったくない。むしろ、ハイレゾとやらで自分に聴こえん音が出ているとしたら、それによる害悪のほうが心配じゃ。」

猛実験君:「自分が三人のなかで一番若いですが、それでも17 kHzよりも高い音は聞こえないので、超高域に有害な音が入っていないかどうか聞き取れません。音楽ファイルの作成者を信用するしかないのですが、思わぬ大音量が入っていて、知らないうちに超音波ネズミ撃退装置になっているかもしれないのであります。」

スペック紳士:「う〜ん。そんな超音波が入っていたら健康被害も起こりそうですね。なんだか100 kHzが再生できるヘッドホンなんて危険なものに思えてきたな。」

音海先生:「サブリミナルで洗脳する手法として、無料の音楽ファイルに20 kHz以上の超高音でメッセージを入れてダウンロードさせる、なんてことが考えられるのう。故意でなくても、誤って除去しそこなったデジタルノイズが大量に入っておって、ピアニッシモなのにアンプは大出力でスピーカーが壊れそうなんてことがあるかもしれん。」

スペック紳士:「それは怖いな。なんだか放射能のように存在しても見えなかったり、聞こえなかったりするのは不安ですね。」

音海先生:「ちょっと大げさに言いすぎたようじゃな。まあ、そこまで心配せんでもよかろう。とはいえ、オーディオ界では周波数帯域でも分解能でも、なんでも余分にあるほうが良いとされてしまっておる。ケーブルのときに差がないものは無いと冷静に判断できることが重要じゃったように、いらないものは要らんと言えることも重要じゃ。」

 そういうと、音海先生は壁際にある蓄音機のほうへ行き、ゼンマイを巻き始めた。ジージーと音をたてて20回ほど巻いてから、脇にあるもう一台の蓄音機の上に置きっぱなしだった78回転のSPレコード盤をターンテーブルに乗せた。金色のサウンドボックスにサボテンの棘で出来たソーン針を固定し、回転ストッパーを外すと、レコード盤がゆっくりと回転し始めた。数秒でガバナーが効いて定速に達したので、音海先生は針をレコード盤の溝に載せた。上品な梨地に金メッキされたサウンドボックスやアームのような音で、ピアノ伴奏のアルペジオに導かれたヴァイオリンが鳴り出した。それはスピーカーやヘッドホンなどから出て来る、電気信号を増幅して再生される音とはまったく素性が異なる音色であった。

スペック紳士:「なんて素敵な音楽なんだろう。まるでビロードのような、でも、けっして老いた感じのしない不思議な演奏ですね。」

音海先生:「さすがはスペック紳士。この演奏は10歳代半ばのヴァイオリニストによるもので、早死にした天才の最後の録音じゃ。」

猛実験君:「自分はクラッシックをあまり聴きませんが、とても感動しました。それになんだか、演奏が間近で行われているように感じました。」

音海先生:「このSPレコードには5 kHzぐらいまでしか記録されていないが、とてもそんな風には聴こえんかったじゃろう。100 kHzのたった20分の1しかないが、音楽の濃さはこちらのほうがはるかに上じゃな。周波数帯域が狭くて性能の悪い録音装置しかなかった時代の演奏が、これほどの質で記録できたということは驚きじゃ。なによりも演奏がすばらしいこと、そして、それをレコード盤に閉じ込めるエンジニアや関係者の教養と音楽への理解が重要なのじゃ。まあ、レコード文化をダメにしたのは我々大衆かもしれんがのう。」

 もう一枚、音海先生は別のヴァイオリニストのレコード盤をかけた。今度はもう少し古い時代の録音なのでシャーシャーとノイズが聞こえたが、蓄音機の上ぶたを閉めると気にならなくなった。曲はヴィターリのシャコンヌで、先ほどと同じヴァイオリンという楽器とは思えないほどドラマティックな演奏が鳴り響いた。それまでは曲の途中で議論を始めていた三人が、心で直接聴いているかのように無言のまま聴き終えた。ひとしきりの沈黙の後、前回のケーブル騒動のときとは打って変わった神妙な調子で別れの挨拶を交わすと、二人の客は帰った。音楽の余韻に包まれた静かな山中に、帰り道でスペック紳士が控えめにふかすエンジン音が響いた。
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[リバイバル3] クラング・クンスト _ DSDフォーマットの歴史的名盤の音楽ファイルをダウンロード販売 中川隆
2. 中川隆[-9565] koaQ7Jey 2019年6月17日 07:15:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2910]
ハイレゾで100 kHz  2015年8月
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10145&i=10412

左下:猛実験君、中上:音海先生(おんかいせんせい)、右下:スペック紳士

 ある日、スペック紳士のところへ定期購読しているオーディオ雑誌が届いた。昔はオーディオ雑誌を片っぱしから大量に定期購読していた彼だが、ずいぶん前からつまらなくなったと感じ、いまでは「ステテコサウンド」などの数誌を読むだけになっていた。猛実験君が定期立ち読みしている「無銭で実験」など、自作派向けの雑誌には興味がなかった。届いた雑誌の今月号にも面白そうな特集はなかったので、さして読むわけでもなく、パラパラとページをめくっていた。すると、100 kHzもの超高音が再生できるというヘッドホンの広告が目に入った。流行りモノをいち早く使って自慢するのが大好きな彼は、テーブルに置きっぱなしのタブレット端末でメーカーの製品紹介ページを開いた。すでに買う気になっていたので、説明を半分も読まないうちに大手通販サイトて購入してしまった。彼にとっては安い買い物であった。

 翌日にはスペック紳士の家に注文したZONBY製のヘッドホンが届いた。さっそく箱を開いて取り出してみると、手にした印象が普通のヘッドホンと代わり映えせず、ちょっとがっかりした。スペックにつられて買ってしまったが、彼が好むような高級品ではなかった。じっさい、彼がモバイル用に伊達で使う海外製ヘッドホンの、わずか5分の1の価格で購入できた。「まあ、100 kHzの超高音を聴くためだから」と気を取り直したところで、自分がまともなヘッドホンアンプを1台も持っていないことに気づいた。オマケに付いている程度のヘッドホン端子で聴いたのでは、本格的にヘッドホンの音質を評価したと自慢できそうにないと思いつつ、しかたないのでヘッドホン端子のあるDAコンバーターに接続した。何曲かSACD(スーパーオーディオCD)を聴いてみたが、モバイル用のAKB(アーカーベー)製ヘッドホンよりも痩せた、つまらない音にしか感じられなかった。

 ふと、「そもそもヘッドホンに出力されている電気信号に100 kHzの超高音が含まれているのか?」という根本的な疑問が彼に生じた。そのDAコンバーターは192 kHzがデジタルデータの最高速なので、サンプリング定理により約90 kHzよりも高い周波数は原理的に再生できない。その程度の理論は、彼でも知っていた。どうせ聴こえない超高音なら、90 kHzも100 kHzも同じだとは思ったが、猛実験君に不備を指摘され、面目丸つぶれになってしまうことは避けたかった。

 そこで、インターネットで検索してみると、最高速が384 kHzのDAコンバーターはいくつかあったが、どうも安物がほとんどで、高級品は開発サイクルが長くて時代遅れになっているせいか、よさそうなものがなかった。「まあ、ちょっと使うだけだから」と、loFi製のモバイル用DAコンバーターをワンクリックで注文した。それには高性能そうなヘッドフォンアンプも内蔵されていたので、ちょうど良かったからである。loFiでは一番高いモデルを購入したが、それでもスペック紳士が使うケーブル1本の平均価格よりも安かった。確信はないが、これで100 kHzの信号が出そうなハードウェアは調達したことになった。(実際はアナログ信号の超高音をカットするフィルターがあると思われるが、目をつぶることにする)

 次なる問題は音源である。大手の音楽ファイルダウンロードサイトを見てみたが、その時点では192 kHzが最高で、384 kHzは無かった。しかたないので、11.2 MHzのDSDフォーマットの音楽ファイルを、いくつかダウンロード購入した。それが100 kHzを再生できるものなのかどうか、彼には自信がなかったが、価格が一番高いことが決め手になった。「あとはパソコンでダウンロードしたファイルを再生できるようにするだけだ」と思って設定を始めたのだが、その作業は予想外に難しかった。しょっぱなのDAコンバーターのデバイスドライバーのインストールでつまずいた彼は、ネットで調べながらパソコンと数時間格闘した後、あきらめて猛実験君に電話した。

 スペック紳士は100 kHzが再生できるヘッドホンのことは話さず、ただ「パソコンの設定を教えてほしい」と頼んだだけなのに、猛実験君は二つ返事で助っ人に来てくれることになった。10分もすると、猛実験君が軽ワゴン車でやって来た。猛実験君はちゃんとしたメーカーの技術者なので、けっして貧乏なわけではなかったが、車にも服装にも無頓着で、そういうものにお金をかけることはなかった。

猛実験君:「このloFiのDAコンバーターは、このOSだとひとつ古いバージョンをインストールしないと動作しないようであります。これは分かりにくいですね。あと、DSDを再生するにはbooboo2000という音楽再生ソフトをインストールしないといけないので、それもやっておきます。」

スペック紳士:「いや〜。さすが猛実験君はエンジニアなだけあって、パソコンの操作になれているね。もうおわっちゃった。どうもありがとう。」

 夜中の12時近くになっていたので、猛実験君は設定を終えるとすぐに帰った。さて、これでようやく「100 kHzの超高音を聴けるのではないか」と思われる装置の準備が整った。スペック紳士はbooboo2000のプレイリストに、ダウンロードした11.2 MHzのDSD音楽ファイルをドロップして再生を始めた。ヘッドホンからは今まで聴いたことのない、ツヤツヤした音が流れてきた。頭のてっぺんに細かなフィルム片が光を反射しながら降り注ぐような音に、「これが100 kHzだ!」と錯覚したスペック紳士は有頂天になった。以前、猛実験君の家でオシレーターを使って試したとき、自分の耳が15 kHzまでしか聞こえなかったことは脳裏になかった。

 翌日さっそく、スペック紳士は猛実験君に電話をかけて自慢話をした。「とにかく、今までとはまったく異なる音だ」というただ一点のみが大して表現も変えずに何度も繰り返されたので、猛実験君はほとんど反応を示さなかった。満足できなかったスペック紳士は、音海先生にも100 kHzの音について自慢したくなった。同行を求められた猛実験君は、用事が無くても行く気満々だったので、二人は週末に音海先生のリスニングルームを訪問することになった。

 前回の訪問で音海先生のところには広い駐車スペースがあることが分かっていたスペック紳士は、自分のスポーツカーに猛実験君を乗せてやって来た。スペック紳士はファッションではラテン系が好みだが、車はトラブルが心配で無難なドイツ車ばかりを乗り継いでいた。音海先生は再び笑顔で迎えてくれ、手みやげを受け取ると、二人をリスニングルームに案内した。前回同様に床に座ると、スペック紳士が猛実験君に設定してもらったノートパソコンとDAコンバーター、そして例のヘッドホンをカバンから取り出した。猛実験君がUSBケーブルなどを接続してソフトを起動するまでのひとしきり、スペック紳士は予定どおりに得意満面の自慢話をした。

スペック紳士:「先生、僕は100 kHzが再生できるという最新のヘッドホンを試してみました。これまでに体験したことのない音です。とにかく、これまでの30 kHzとか50 kHzといった音とは次元の異なる音です。なにしろ100 kHzと桁が違うのですから。最近ハイレゾ、ハイレゾと叫んでオーディオ界が盛り上がっていますが、このヘッドホンでようやく本当のハイレゾが体験できました。」

 そう言うとスペック紳士はbooboo2000で11.2 MHzのDSD音楽ファイルを再生し、ヘッドホンを音海先生に差し出して聴くように促した。音海先生は少し迷惑そうな顔をしたが、ヘッドホンを手に取り、じっくりと細部を確認するように見てから装着した。

スペック紳士:「どうです先生? すばらしい艶でしょう。」

音海先生:「う〜む。音をうんぬんする前に、わしには演奏が気になって落ち着いて聴けんのじゃ。下手といっては言いすぎじゃろうが、このビブラートではドイツ歌曲が演歌になってしまっておる。」

スペック紳士:「とても美人のソプラノなんですけどね。それじゃあ、弦楽四重奏にしましょう。クリックすればすぐに切り替わりますから。」

音海先生:「こっちの演奏は少しはまともなようじゃが、どうもヘッドホンなんて使わんせいか、頭のてっぺんに音が集まってしまうようじゃ。残響もすごいし、なんだか銭湯で聴いているような気分になってきたぞ。」

 スペック紳士は納得してもらおうとして、次々とファイル再生して聴かせたが、音海先生の顔色がだんだん悪くなってきた。頃合いを見計らうように、猛実験君はスペアナ(電気信号を周波数成分に分解して棒グラフなどで表示する装置)機能をもつ携帯用デジタルオシロスコープを取り出した。ヘッドホンジャックを抜いて、代わりにデジタルオシロスコープをアダプターを使って接続すると、30 kHzくらいよりも高い周波数は減衰し、100 kHzはほんのちょっぴりしかない周波数スペクトルが表示された。もちろん、音の強弱によって棒グラフは伸び縮みしたが、高音域の全体的な配分はあまり変化しなかった。

猛実験君:「やはり30 kHzくらいでローパスフィルターが入っていて、それよりも高い周波数はカットされているようであります。SACDが登場したころ、スピーカーで特別に高い周波数を再生するためのスーパーツィーターが破壊されるトラブルなどがあったりしたので、超高域をカットするようになったと聞いております。」

スペック紳士:「エ〜! 30 kHzでカットされていたの? でも、100 kHzにもちょっと信号があるじゃない。」

猛実験君:「これは測定系のノイズであります。試しにファイルの再生を止めてみます。ほら、さっきと同じくらいの微小レベルで、高い周波数に信号があるように表示されております。」

 その後も猛実験君による測定と三人の議論は続き、どうやら、スペック紳士に「これが100 kHzだ!」と思わせた、頭のてっぺんに降り注ぐようなキラキラ音の正体は、「デジタルエコーではないか」という結論に至った。またまた無駄な買い物をしたスペック紳士だが、今度はケーブルに比べれば微々たる出費なこともあってあまり落胆せず、むしろ、オーディオ業界が浮かれているハイレゾに落とし穴があることを発見した批評家のような気分でいた。

スペック紳士:「ハイレゾ、ハイレゾと騒ぐけど、冷静に考えないといけませんね。」

猛実験君:「あれっ、さっきまでハイレゾ、ハイレゾと騒いでいたのはだれでしたっけ。」

音海先生:「は、は、は。まあ、だれでも経験してみなければ分からんことじゃ。わしは静かな所に住み、携帯電話も控えて耳を大切にしておるが、この年になると10 kHzぐらいまでしか聴こえん。それでこの超高音の出ない昔のスピーカーを使っておるのじゃが、かといって音が悪いとか、音楽が楽しめないということはまったくない。むしろ、ハイレゾとやらで自分に聴こえん音が出ているとしたら、それによる害悪のほうが心配じゃ。」

猛実験君:「自分が三人のなかで一番若いですが、それでも17 kHzよりも高い音は聞こえないので、超高域に有害な音が入っていないかどうか聞き取れません。音楽ファイルの作成者を信用するしかないのですが、思わぬ大音量が入っていて、知らないうちに超音波ネズミ撃退装置になっているかもしれないのであります。」

スペック紳士:「う〜ん。そんな超音波が入っていたら健康被害も起こりそうですね。なんだか100 kHzが再生できるヘッドホンなんて危険なものに思えてきたな。」

音海先生:「サブリミナルで洗脳する手法として、無料の音楽ファイルに20 kHz以上の超高音でメッセージを入れてダウンロードさせる、なんてことが考えられるのう。故意でなくても、誤って除去しそこなったデジタルノイズが大量に入っておって、ピアニッシモなのにアンプは大出力でスピーカーが壊れそうなんてことがあるかもしれん。」

スペック紳士:「それは怖いな。なんだか放射能のように存在しても見えなかったり、聞こえなかったりするのは不安ですね。」

音海先生:「ちょっと大げさに言いすぎたようじゃな。まあ、そこまで心配せんでもよかろう。とはいえ、オーディオ界では周波数帯域でも分解能でも、なんでも余分にあるほうが良いとされてしまっておる。ケーブルのときに差がないものは無いと冷静に判断できることが重要じゃったように、いらないものは要らんと言えることも重要じゃ。」

 そういうと、音海先生は壁際にある蓄音機のほうへ行き、ゼンマイを巻き始めた。ジージーと音をたてて20回ほど巻いてから、脇にあるもう一台の蓄音機の上に置きっぱなしだった78回転のSPレコード盤をターンテーブルに乗せた。金色のサウンドボックスにサボテンの棘で出来たソーン針を固定し、回転ストッパーを外すと、レコード盤がゆっくりと回転し始めた。数秒でガバナーが効いて定速に達したので、音海先生は針をレコード盤の溝に載せた。上品な梨地に金メッキされたサウンドボックスやアームのような音で、ピアノ伴奏のアルペジオに導かれたヴァイオリンが鳴り出した。それはスピーカーやヘッドホンなどから出て来る、電気信号を増幅して再生される音とはまったく素性が異なる音色であった。

スペック紳士:「なんて素敵な音楽なんだろう。まるでビロードのような、でも、けっして老いた感じのしない不思議な演奏ですね。」

音海先生:「さすがはスペック紳士。この演奏は10歳代半ばのヴァイオリニストによるもので、早死にした天才の最後の録音じゃ。」

猛実験君:「自分はクラッシックをあまり聴きませんが、とても感動しました。それになんだか、演奏が間近で行われているように感じました。」

音海先生:「このSPレコードには5 kHzぐらいまでしか記録されていないが、とてもそんな風には聴こえんかったじゃろう。100 kHzのたった20分の1しかないが、音楽の濃さはこちらのほうがはるかに上じゃな。周波数帯域が狭くて性能の悪い録音装置しかなかった時代の演奏が、これほどの質で記録できたということは驚きじゃ。なによりも演奏がすばらしいこと、そして、それをレコード盤に閉じ込めるエンジニアや関係者の教養と音楽への理解が重要なのじゃ。まあ、レコード文化をダメにしたのは我々大衆かもしれんがのう。」

 もう一枚、音海先生は別のヴァイオリニストのレコード盤をかけた。今度はもう少し古い時代の録音なのでシャーシャーとノイズが聞こえたが、蓄音機の上ぶたを閉めると気にならなくなった。曲はヴィターリのシャコンヌで、先ほどと同じヴァイオリンという楽器とは思えないほどドラマティックな演奏が鳴り響いた。それまでは曲の途中で議論を始めていた三人が、心で直接聴いているかのように無言のまま聴き終えた。ひとしきりの沈黙の後、前回のケーブル騒動のときとは打って変わった神妙な調子で別れの挨拶を交わすと、二人の客は帰った。音楽の余韻に包まれた静かな山中に、帰り道でスペック紳士が控えめにふかすエンジン音が響いた。
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[近代史3] ブリティッシュサウンドとは HMV蓄音機とロンドンウェスタンの音の事 中川隆
5. 中川隆[-9564] koaQ7Jey 2019年6月17日 07:16:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2911]
ハイレゾで100 kHz  2015年8月
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左下:猛実験君、中上:音海先生(おんかいせんせい)、右下:スペック紳士

 ある日、スペック紳士のところへ定期購読しているオーディオ雑誌が届いた。昔はオーディオ雑誌を片っぱしから大量に定期購読していた彼だが、ずいぶん前からつまらなくなったと感じ、いまでは「ステテコサウンド」などの数誌を読むだけになっていた。猛実験君が定期立ち読みしている「無銭で実験」など、自作派向けの雑誌には興味がなかった。届いた雑誌の今月号にも面白そうな特集はなかったので、さして読むわけでもなく、パラパラとページをめくっていた。すると、100 kHzもの超高音が再生できるというヘッドホンの広告が目に入った。流行りモノをいち早く使って自慢するのが大好きな彼は、テーブルに置きっぱなしのタブレット端末でメーカーの製品紹介ページを開いた。すでに買う気になっていたので、説明を半分も読まないうちに大手通販サイトて購入してしまった。彼にとっては安い買い物であった。

 翌日にはスペック紳士の家に注文したZONBY製のヘッドホンが届いた。さっそく箱を開いて取り出してみると、手にした印象が普通のヘッドホンと代わり映えせず、ちょっとがっかりした。スペックにつられて買ってしまったが、彼が好むような高級品ではなかった。じっさい、彼がモバイル用に伊達で使う海外製ヘッドホンの、わずか5分の1の価格で購入できた。「まあ、100 kHzの超高音を聴くためだから」と気を取り直したところで、自分がまともなヘッドホンアンプを1台も持っていないことに気づいた。オマケに付いている程度のヘッドホン端子で聴いたのでは、本格的にヘッドホンの音質を評価したと自慢できそうにないと思いつつ、しかたないのでヘッドホン端子のあるDAコンバーターに接続した。何曲かSACD(スーパーオーディオCD)を聴いてみたが、モバイル用のAKB(アーカーベー)製ヘッドホンよりも痩せた、つまらない音にしか感じられなかった。

 ふと、「そもそもヘッドホンに出力されている電気信号に100 kHzの超高音が含まれているのか?」という根本的な疑問が彼に生じた。そのDAコンバーターは192 kHzがデジタルデータの最高速なので、サンプリング定理により約90 kHzよりも高い周波数は原理的に再生できない。その程度の理論は、彼でも知っていた。どうせ聴こえない超高音なら、90 kHzも100 kHzも同じだとは思ったが、猛実験君に不備を指摘され、面目丸つぶれになってしまうことは避けたかった。

 そこで、インターネットで検索してみると、最高速が384 kHzのDAコンバーターはいくつかあったが、どうも安物がほとんどで、高級品は開発サイクルが長くて時代遅れになっているせいか、よさそうなものがなかった。「まあ、ちょっと使うだけだから」と、loFi製のモバイル用DAコンバーターをワンクリックで注文した。それには高性能そうなヘッドフォンアンプも内蔵されていたので、ちょうど良かったからである。loFiでは一番高いモデルを購入したが、それでもスペック紳士が使うケーブル1本の平均価格よりも安かった。確信はないが、これで100 kHzの信号が出そうなハードウェアは調達したことになった。(実際はアナログ信号の超高音をカットするフィルターがあると思われるが、目をつぶることにする)

 次なる問題は音源である。大手の音楽ファイルダウンロードサイトを見てみたが、その時点では192 kHzが最高で、384 kHzは無かった。しかたないので、11.2 MHzのDSDフォーマットの音楽ファイルを、いくつかダウンロード購入した。それが100 kHzを再生できるものなのかどうか、彼には自信がなかったが、価格が一番高いことが決め手になった。「あとはパソコンでダウンロードしたファイルを再生できるようにするだけだ」と思って設定を始めたのだが、その作業は予想外に難しかった。しょっぱなのDAコンバーターのデバイスドライバーのインストールでつまずいた彼は、ネットで調べながらパソコンと数時間格闘した後、あきらめて猛実験君に電話した。

 スペック紳士は100 kHzが再生できるヘッドホンのことは話さず、ただ「パソコンの設定を教えてほしい」と頼んだだけなのに、猛実験君は二つ返事で助っ人に来てくれることになった。10分もすると、猛実験君が軽ワゴン車でやって来た。猛実験君はちゃんとしたメーカーの技術者なので、けっして貧乏なわけではなかったが、車にも服装にも無頓着で、そういうものにお金をかけることはなかった。

猛実験君:「このloFiのDAコンバーターは、このOSだとひとつ古いバージョンをインストールしないと動作しないようであります。これは分かりにくいですね。あと、DSDを再生するにはbooboo2000という音楽再生ソフトをインストールしないといけないので、それもやっておきます。」

スペック紳士:「いや〜。さすが猛実験君はエンジニアなだけあって、パソコンの操作になれているね。もうおわっちゃった。どうもありがとう。」

 夜中の12時近くになっていたので、猛実験君は設定を終えるとすぐに帰った。さて、これでようやく「100 kHzの超高音を聴けるのではないか」と思われる装置の準備が整った。スペック紳士はbooboo2000のプレイリストに、ダウンロードした11.2 MHzのDSD音楽ファイルをドロップして再生を始めた。ヘッドホンからは今まで聴いたことのない、ツヤツヤした音が流れてきた。頭のてっぺんに細かなフィルム片が光を反射しながら降り注ぐような音に、「これが100 kHzだ!」と錯覚したスペック紳士は有頂天になった。以前、猛実験君の家でオシレーターを使って試したとき、自分の耳が15 kHzまでしか聞こえなかったことは脳裏になかった。

 翌日さっそく、スペック紳士は猛実験君に電話をかけて自慢話をした。「とにかく、今までとはまったく異なる音だ」というただ一点のみが大して表現も変えずに何度も繰り返されたので、猛実験君はほとんど反応を示さなかった。満足できなかったスペック紳士は、音海先生にも100 kHzの音について自慢したくなった。同行を求められた猛実験君は、用事が無くても行く気満々だったので、二人は週末に音海先生のリスニングルームを訪問することになった。

 前回の訪問で音海先生のところには広い駐車スペースがあることが分かっていたスペック紳士は、自分のスポーツカーに猛実験君を乗せてやって来た。スペック紳士はファッションではラテン系が好みだが、車はトラブルが心配で無難なドイツ車ばかりを乗り継いでいた。音海先生は再び笑顔で迎えてくれ、手みやげを受け取ると、二人をリスニングルームに案内した。前回同様に床に座ると、スペック紳士が猛実験君に設定してもらったノートパソコンとDAコンバーター、そして例のヘッドホンをカバンから取り出した。猛実験君がUSBケーブルなどを接続してソフトを起動するまでのひとしきり、スペック紳士は予定どおりに得意満面の自慢話をした。

スペック紳士:「先生、僕は100 kHzが再生できるという最新のヘッドホンを試してみました。これまでに体験したことのない音です。とにかく、これまでの30 kHzとか50 kHzといった音とは次元の異なる音です。なにしろ100 kHzと桁が違うのですから。最近ハイレゾ、ハイレゾと叫んでオーディオ界が盛り上がっていますが、このヘッドホンでようやく本当のハイレゾが体験できました。」

 そう言うとスペック紳士はbooboo2000で11.2 MHzのDSD音楽ファイルを再生し、ヘッドホンを音海先生に差し出して聴くように促した。音海先生は少し迷惑そうな顔をしたが、ヘッドホンを手に取り、じっくりと細部を確認するように見てから装着した。

スペック紳士:「どうです先生? すばらしい艶でしょう。」

音海先生:「う〜む。音をうんぬんする前に、わしには演奏が気になって落ち着いて聴けんのじゃ。下手といっては言いすぎじゃろうが、このビブラートではドイツ歌曲が演歌になってしまっておる。」

スペック紳士:「とても美人のソプラノなんですけどね。それじゃあ、弦楽四重奏にしましょう。クリックすればすぐに切り替わりますから。」

音海先生:「こっちの演奏は少しはまともなようじゃが、どうもヘッドホンなんて使わんせいか、頭のてっぺんに音が集まってしまうようじゃ。残響もすごいし、なんだか銭湯で聴いているような気分になってきたぞ。」

 スペック紳士は納得してもらおうとして、次々とファイル再生して聴かせたが、音海先生の顔色がだんだん悪くなってきた。頃合いを見計らうように、猛実験君はスペアナ(電気信号を周波数成分に分解して棒グラフなどで表示する装置)機能をもつ携帯用デジタルオシロスコープを取り出した。ヘッドホンジャックを抜いて、代わりにデジタルオシロスコープをアダプターを使って接続すると、30 kHzくらいよりも高い周波数は減衰し、100 kHzはほんのちょっぴりしかない周波数スペクトルが表示された。もちろん、音の強弱によって棒グラフは伸び縮みしたが、高音域の全体的な配分はあまり変化しなかった。

猛実験君:「やはり30 kHzくらいでローパスフィルターが入っていて、それよりも高い周波数はカットされているようであります。SACDが登場したころ、スピーカーで特別に高い周波数を再生するためのスーパーツィーターが破壊されるトラブルなどがあったりしたので、超高域をカットするようになったと聞いております。」

スペック紳士:「エ〜! 30 kHzでカットされていたの? でも、100 kHzにもちょっと信号があるじゃない。」

猛実験君:「これは測定系のノイズであります。試しにファイルの再生を止めてみます。ほら、さっきと同じくらいの微小レベルで、高い周波数に信号があるように表示されております。」

 その後も猛実験君による測定と三人の議論は続き、どうやら、スペック紳士に「これが100 kHzだ!」と思わせた、頭のてっぺんに降り注ぐようなキラキラ音の正体は、「デジタルエコーではないか」という結論に至った。またまた無駄な買い物をしたスペック紳士だが、今度はケーブルに比べれば微々たる出費なこともあってあまり落胆せず、むしろ、オーディオ業界が浮かれているハイレゾに落とし穴があることを発見した批評家のような気分でいた。

スペック紳士:「ハイレゾ、ハイレゾと騒ぐけど、冷静に考えないといけませんね。」

猛実験君:「あれっ、さっきまでハイレゾ、ハイレゾと騒いでいたのはだれでしたっけ。」

音海先生:「は、は、は。まあ、だれでも経験してみなければ分からんことじゃ。わしは静かな所に住み、携帯電話も控えて耳を大切にしておるが、この年になると10 kHzぐらいまでしか聴こえん。それでこの超高音の出ない昔のスピーカーを使っておるのじゃが、かといって音が悪いとか、音楽が楽しめないということはまったくない。むしろ、ハイレゾとやらで自分に聴こえん音が出ているとしたら、それによる害悪のほうが心配じゃ。」

猛実験君:「自分が三人のなかで一番若いですが、それでも17 kHzよりも高い音は聞こえないので、超高域に有害な音が入っていないかどうか聞き取れません。音楽ファイルの作成者を信用するしかないのですが、思わぬ大音量が入っていて、知らないうちに超音波ネズミ撃退装置になっているかもしれないのであります。」

スペック紳士:「う〜ん。そんな超音波が入っていたら健康被害も起こりそうですね。なんだか100 kHzが再生できるヘッドホンなんて危険なものに思えてきたな。」

音海先生:「サブリミナルで洗脳する手法として、無料の音楽ファイルに20 kHz以上の超高音でメッセージを入れてダウンロードさせる、なんてことが考えられるのう。故意でなくても、誤って除去しそこなったデジタルノイズが大量に入っておって、ピアニッシモなのにアンプは大出力でスピーカーが壊れそうなんてことがあるかもしれん。」

スペック紳士:「それは怖いな。なんだか放射能のように存在しても見えなかったり、聞こえなかったりするのは不安ですね。」

音海先生:「ちょっと大げさに言いすぎたようじゃな。まあ、そこまで心配せんでもよかろう。とはいえ、オーディオ界では周波数帯域でも分解能でも、なんでも余分にあるほうが良いとされてしまっておる。ケーブルのときに差がないものは無いと冷静に判断できることが重要じゃったように、いらないものは要らんと言えることも重要じゃ。」

 そういうと、音海先生は壁際にある蓄音機のほうへ行き、ゼンマイを巻き始めた。ジージーと音をたてて20回ほど巻いてから、脇にあるもう一台の蓄音機の上に置きっぱなしだった78回転のSPレコード盤をターンテーブルに乗せた。金色のサウンドボックスにサボテンの棘で出来たソーン針を固定し、回転ストッパーを外すと、レコード盤がゆっくりと回転し始めた。数秒でガバナーが効いて定速に達したので、音海先生は針をレコード盤の溝に載せた。上品な梨地に金メッキされたサウンドボックスやアームのような音で、ピアノ伴奏のアルペジオに導かれたヴァイオリンが鳴り出した。それはスピーカーやヘッドホンなどから出て来る、電気信号を増幅して再生される音とはまったく素性が異なる音色であった。

スペック紳士:「なんて素敵な音楽なんだろう。まるでビロードのような、でも、けっして老いた感じのしない不思議な演奏ですね。」

音海先生:「さすがはスペック紳士。この演奏は10歳代半ばのヴァイオリニストによるもので、早死にした天才の最後の録音じゃ。」

猛実験君:「自分はクラッシックをあまり聴きませんが、とても感動しました。それになんだか、演奏が間近で行われているように感じました。」

音海先生:「このSPレコードには5 kHzぐらいまでしか記録されていないが、とてもそんな風には聴こえんかったじゃろう。100 kHzのたった20分の1しかないが、音楽の濃さはこちらのほうがはるかに上じゃな。周波数帯域が狭くて性能の悪い録音装置しかなかった時代の演奏が、これほどの質で記録できたということは驚きじゃ。なによりも演奏がすばらしいこと、そして、それをレコード盤に閉じ込めるエンジニアや関係者の教養と音楽への理解が重要なのじゃ。まあ、レコード文化をダメにしたのは我々大衆かもしれんがのう。」

 もう一枚、音海先生は別のヴァイオリニストのレコード盤をかけた。今度はもう少し古い時代の録音なのでシャーシャーとノイズが聞こえたが、蓄音機の上ぶたを閉めると気にならなくなった。曲はヴィターリのシャコンヌで、先ほどと同じヴァイオリンという楽器とは思えないほどドラマティックな演奏が鳴り響いた。それまでは曲の途中で議論を始めていた三人が、心で直接聴いているかのように無言のまま聴き終えた。ひとしきりの沈黙の後、前回のケーブル騒動のときとは打って変わった神妙な調子で別れの挨拶を交わすと、二人の客は帰った。音楽の余韻に包まれた静かな山中に、帰り道でスペック紳士が控えめにふかすエンジン音が響いた。
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/477.html#c5

[リバイバル3] 元祖ブリティッシュ・サウンド _ HMV と EMG の蓄音器 中川隆
4. 中川隆[-9563] koaQ7Jey 2019年6月17日 07:21:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2912]
オルゴールとロールピアノ
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ポリフォン社の大型オルゴール

 ベルリナーが発明した「グラモフォン」やエジソンが発明した「フォノグラフ」が、まだ玩具レベルで音楽鑑賞用には不十分な性能しかなかった19世紀末から20世紀初頭にかけて、「オルゴールの時代」がレコードの本格化よりも一足早く訪れ、主に欧米で大流行した。写真はドイツで1889年に創業したポリフォン社(POLYPHON)の大型オルゴールである。写真の中央に見える大きな金属製のディスクを交換することで好みの曲を再生できるので、音楽の楽しみ方としてはCDやアナログディスクで曲を選ぶオーディオに近いスタイルといえる。

 ディスク式のオルゴールは、櫛歯と呼ばれる金属製の音源を、楽譜を移したディスクの孔で間接的に弾いて音を出す。櫛歯の振動は共鳴箱として巧みに作られた木製ケースで増幅され、黄金色の音の洪水ともいえるほど豊かさになる。機会があったら、ぜひ大型のオルゴールを聴いていただきたい。きっと、最新の高級オーディオ装置でさえ及ばないほどの美音に驚かされるだろう。

 それほどいい音のオルゴールだが、オルゴール以外の音色を出すことは原理的に無理がある。また、オルゴールはジングル・ベルが苦手といわれるように、同じ音の連打があまり早くできないので、編曲もアルペジオを多用した同じようなパターンになりがちだ。このため、たくさんオルゴールを聴く音楽好きは、しばらくすると飽きてしまうという致命的な問題が生じた。20世紀になって蓄音機が改良され、レコードビジネスが本格化してレコードの選択の幅が広がると、オルゴールは急速に衰退してしまった。どんな音色も、人の声さえも出せる蓄音機の魅力には勝てなかったのである。

 ポリフォン社のオルゴール事業も衰退したが、同社は第一次世界大戦中にグラモフォンのドイツ支社を傘下に収めた。グラモフォンの本社がイギリスにあったため、敵国資本としてポリフォン社に売却されたのだ。ドイツのグラモフォン社、すなわち「ドイツグラモフォン」は、その後クラッシック音楽の録音を中心に大いに活躍したのだが、その母体がオルゴール会社であったことはあまり知られていない。

ウェルテ・ミニヨンのロールピアノを録音したCD (TELDEC 8.43931)

 オルゴールのほかにもうひとつ、素晴らしい音楽再生装置が同時代に開発された。それはロールピアノと呼ばれる自動演奏機能付きピアノである。なかでも、1904年ごろから活躍したドイツの「ウェルテ・ミニヨン社(WELTE-MIGNON)」の装置は、ペダル操作も含め、ピアニストの演奏を驚くほど忠実に再現できるという高度なものだ。その仕組みを簡単に解説しよう。

 まず、ピアニストの打鍵とペダル操作を、各キーやベダルに連結された黒鉛の棒で高速に巻き取られていく長いロール紙に記録する。ロール紙に記録された黒鉛の線は、キーを押す力が強ければ濃く、弱ければ薄い。また、キーやペダルを押している時間が長ければ線も長い。このように記録されたピアニストの微妙なタッチを、職人が再生用のロール紙に移すのだが、そのとき、穴の大きさでタッチの強さを、穴の長さで時間の長さを再現する。このロール紙をハーモニカのように空気吸引孔が並んだ読み取り装置を通過させることで、ピアニストの演奏どおりにキーを押したりペダルを踏んだりする動力を空気の流れとして得る。

 スタインウェイのグランドピアノとの組み合わせによるウェルテ・ミニヨンのロールピアノは、当たり前だが生のグランドピアノに等しい超高音質だ。どんなハイエンドのオーディオ装置よりも上に決まっている。写真のCD(独テルデック 8.43931)は、1969〜70年に旧東ドイツのスタジオで録音されたウェルテ・ミニヨンのロールピアノで、ブゾーニ(Feruttio Busoni)やシュターフェンハーゲン(Bernhard Stavenhagen)といった今世紀初頭に活躍した大ピアニストの歴史的演奏が聴ける。

大ピアニスト「フェルッチオ・ブゾーニ」(1866〜1924年)

 ブゾーニはイタリアに生まれてベルリンを拠点に活躍した作曲家兼ピアニストで、カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲を再発見したように、バッハの鍵盤音楽に対して多大なる貢献をした。バッハのピアノ楽譜には「ブゾーニ編曲」とあるものが少なくない。ブゾーニは性能の悪い蓄音機のための録音を嫌がり、レコード録音の最中に妻へ送った手紙には、「このいまいましい録音機のご機嫌をとるため、強弱もペダルも制限しなければならず、思い切り弾けない」といった不満を書いている。ブゾーニは1922年ごろに英コロンビアで録音し、4枚のSPレコードが発売された。

 たった4枚を集めれば、この大ピアニストのコレクションは完結してしまう。すべて両面盤なので8面あるのだが、なぜか黒鍵のエチュードが2回録音されている。4枚のうち1枚は両面を使って「ハンガリー狂詩曲第13番」が録音されていて、B面には「狂詩曲」という曲名どおりの気違いじみた超絶技巧が吹き込まれているが、当時流行した「表現主義」の自由闊達さなのか、あるいは片面で4分程度しかない録音時間の不足に急き立てられてのヤケクソなのかは分からない。だが、最も少ないとされる両面ショパンの盤では間の取り方が舌を巻くほど絶妙だし、バッハの「平均律クラビーア」では荘厳さに圧倒される。ハ長調のプレリュードとフーガしかないのだが、ブゾーニが弾くとこの音数の少ない曲が不思議とシンフォニックに聴こえる。

ブゾーニが録音したハンガリー狂詩曲第13番(1922年録音)

 では、そのブゾーニが渋々録音したオリジナルのコロンビア盤とロールピアノのCDを比較してみよう。古い80回転のコロンビア盤は、4枚とも濃い青のレーベルで、「ニュープロセス盤」とよばれる表面に良質なシェラックを用いたローノイズ盤だ。

これをEMGの卓上型蓄音機で再生する。

20世紀末にアナログレコードからCDになって音が悪くなったとオーディオ愛好家が嘆いたように、1930年ごろに機械式蓄音機から電気蓄音機に世代交代して音が悪くなったと嘆く熱心な愛好家に向けて、機械式蓄音機をハンドメイドで作り続けたのがイギリスのEMGだ。

いっぽう、CDはプレーヤーこそSONY製の普及品だが、自作のAD1シングルアンプで増幅し、オイロダインというドイツの名スピーカーで再生する。

 録音が優れていることもあって、CDの再生音はすばらしい音質と迫力だ。「ラ・カンパネラ」と「リゴレットのパラフレーズ」というリストお得意の華麗な曲なのだが、早いパッセージで音が少し乱れ、全体に味気ない。このあたりはロールピアノの限界だろうか。対する古いコロンビア盤は、音が貧弱で常にスクラッチノイズを伴う。それでも、聴くにつれノイズは気にならなくなり、しだいに録音当時の薫香を豊かに感じるようになる。かなり独断的だが、古いコロンビア盤+蓄音機の勝利となった。

EMGの卓上型蓄音機(ゼンマイから回転計付きモーターに改造してある)

https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10143
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/966.html#c4

[近代史3] ブリティッシュサウンドとは HMV蓄音機とロンドンウェスタンの音の事 中川隆
6. 中川隆[-9562] koaQ7Jey 2019年6月17日 07:21:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2913]
オルゴールとロールピアノ
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10143

ポリフォン社の大型オルゴール

 ベルリナーが発明した「グラモフォン」やエジソンが発明した「フォノグラフ」が、まだ玩具レベルで音楽鑑賞用には不十分な性能しかなかった19世紀末から20世紀初頭にかけて、「オルゴールの時代」がレコードの本格化よりも一足早く訪れ、主に欧米で大流行した。写真はドイツで1889年に創業したポリフォン社(POLYPHON)の大型オルゴールである。写真の中央に見える大きな金属製のディスクを交換することで好みの曲を再生できるので、音楽の楽しみ方としてはCDやアナログディスクで曲を選ぶオーディオに近いスタイルといえる。

 ディスク式のオルゴールは、櫛歯と呼ばれる金属製の音源を、楽譜を移したディスクの孔で間接的に弾いて音を出す。櫛歯の振動は共鳴箱として巧みに作られた木製ケースで増幅され、黄金色の音の洪水ともいえるほど豊かさになる。機会があったら、ぜひ大型のオルゴールを聴いていただきたい。きっと、最新の高級オーディオ装置でさえ及ばないほどの美音に驚かされるだろう。

 それほどいい音のオルゴールだが、オルゴール以外の音色を出すことは原理的に無理がある。また、オルゴールはジングル・ベルが苦手といわれるように、同じ音の連打があまり早くできないので、編曲もアルペジオを多用した同じようなパターンになりがちだ。このため、たくさんオルゴールを聴く音楽好きは、しばらくすると飽きてしまうという致命的な問題が生じた。20世紀になって蓄音機が改良され、レコードビジネスが本格化してレコードの選択の幅が広がると、オルゴールは急速に衰退してしまった。どんな音色も、人の声さえも出せる蓄音機の魅力には勝てなかったのである。

 ポリフォン社のオルゴール事業も衰退したが、同社は第一次世界大戦中にグラモフォンのドイツ支社を傘下に収めた。グラモフォンの本社がイギリスにあったため、敵国資本としてポリフォン社に売却されたのだ。ドイツのグラモフォン社、すなわち「ドイツグラモフォン」は、その後クラッシック音楽の録音を中心に大いに活躍したのだが、その母体がオルゴール会社であったことはあまり知られていない。

ウェルテ・ミニヨンのロールピアノを録音したCD (TELDEC 8.43931)

 オルゴールのほかにもうひとつ、素晴らしい音楽再生装置が同時代に開発された。それはロールピアノと呼ばれる自動演奏機能付きピアノである。なかでも、1904年ごろから活躍したドイツの「ウェルテ・ミニヨン社(WELTE-MIGNON)」の装置は、ペダル操作も含め、ピアニストの演奏を驚くほど忠実に再現できるという高度なものだ。その仕組みを簡単に解説しよう。

 まず、ピアニストの打鍵とペダル操作を、各キーやベダルに連結された黒鉛の棒で高速に巻き取られていく長いロール紙に記録する。ロール紙に記録された黒鉛の線は、キーを押す力が強ければ濃く、弱ければ薄い。また、キーやペダルを押している時間が長ければ線も長い。このように記録されたピアニストの微妙なタッチを、職人が再生用のロール紙に移すのだが、そのとき、穴の大きさでタッチの強さを、穴の長さで時間の長さを再現する。このロール紙をハーモニカのように空気吸引孔が並んだ読み取り装置を通過させることで、ピアニストの演奏どおりにキーを押したりペダルを踏んだりする動力を空気の流れとして得る。

 スタインウェイのグランドピアノとの組み合わせによるウェルテ・ミニヨンのロールピアノは、当たり前だが生のグランドピアノに等しい超高音質だ。どんなハイエンドのオーディオ装置よりも上に決まっている。写真のCD(独テルデック 8.43931)は、1969〜70年に旧東ドイツのスタジオで録音されたウェルテ・ミニヨンのロールピアノで、ブゾーニ(Feruttio Busoni)やシュターフェンハーゲン(Bernhard Stavenhagen)といった今世紀初頭に活躍した大ピアニストの歴史的演奏が聴ける。

大ピアニスト「フェルッチオ・ブゾーニ」(1866〜1924年)

 ブゾーニはイタリアに生まれてベルリンを拠点に活躍した作曲家兼ピアニストで、カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲を再発見したように、バッハの鍵盤音楽に対して多大なる貢献をした。バッハのピアノ楽譜には「ブゾーニ編曲」とあるものが少なくない。ブゾーニは性能の悪い蓄音機のための録音を嫌がり、レコード録音の最中に妻へ送った手紙には、「このいまいましい録音機のご機嫌をとるため、強弱もペダルも制限しなければならず、思い切り弾けない」といった不満を書いている。ブゾーニは1922年ごろに英コロンビアで録音し、4枚のSPレコードが発売された。

 たった4枚を集めれば、この大ピアニストのコレクションは完結してしまう。すべて両面盤なので8面あるのだが、なぜか黒鍵のエチュードが2回録音されている。4枚のうち1枚は両面を使って「ハンガリー狂詩曲第13番」が録音されていて、B面には「狂詩曲」という曲名どおりの気違いじみた超絶技巧が吹き込まれているが、当時流行した「表現主義」の自由闊達さなのか、あるいは片面で4分程度しかない録音時間の不足に急き立てられてのヤケクソなのかは分からない。だが、最も少ないとされる両面ショパンの盤では間の取り方が舌を巻くほど絶妙だし、バッハの「平均律クラビーア」では荘厳さに圧倒される。ハ長調のプレリュードとフーガしかないのだが、ブゾーニが弾くとこの音数の少ない曲が不思議とシンフォニックに聴こえる。

ブゾーニが録音したハンガリー狂詩曲第13番(1922年録音)

 では、そのブゾーニが渋々録音したオリジナルのコロンビア盤とロールピアノのCDを比較してみよう。古い80回転のコロンビア盤は、4枚とも濃い青のレーベルで、「ニュープロセス盤」とよばれる表面に良質なシェラックを用いたローノイズ盤だ。

これをEMGの卓上型蓄音機で再生する。

20世紀末にアナログレコードからCDになって音が悪くなったとオーディオ愛好家が嘆いたように、1930年ごろに機械式蓄音機から電気蓄音機に世代交代して音が悪くなったと嘆く熱心な愛好家に向けて、機械式蓄音機をハンドメイドで作り続けたのがイギリスのEMGだ。

いっぽう、CDはプレーヤーこそSONY製の普及品だが、自作のAD1シングルアンプで増幅し、オイロダインというドイツの名スピーカーで再生する。

 録音が優れていることもあって、CDの再生音はすばらしい音質と迫力だ。「ラ・カンパネラ」と「リゴレットのパラフレーズ」というリストお得意の華麗な曲なのだが、早いパッセージで音が少し乱れ、全体に味気ない。このあたりはロールピアノの限界だろうか。対する古いコロンビア盤は、音が貧弱で常にスクラッチノイズを伴う。それでも、聴くにつれノイズは気にならなくなり、しだいに録音当時の薫香を豊かに感じるようになる。かなり独断的だが、古いコロンビア盤+蓄音機の勝利となった。

EMGの卓上型蓄音機(ゼンマイから回転計付きモーターに改造してある)

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[リバイバル3] 中古オーディオ販売店 中川隆
20. 中川隆[-9561] koaQ7Jey 2019年6月17日 07:42:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2914]


ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
https://www.klang.jp/index.php


運営者 有限会社キャリコ 小林正信
http://www3.calico.jp/index.php
https://calico.jp/

〒399-4117 長野県 駒ヶ根市 赤穂497-634 
TEL 0265-81-5707 

地図
https://www.navitime.co.jp/poi?spt=00011.040733919
https://www.navitime.co.jp/maps/poi?code=00011-040733919

ドイツのヴィンテージオーディオを中心にした、楽しく奥深い音楽再生を探求する「クラング・クンスト」を運営しています。オイロダインなどの名機を目指して、世界中から愛好家が訪れます。オリジナルの真空管アンプも好評です


KLANGの会(KLK2018)5月26〜27日
クラングフィルムのスピーカーや真空管アンプなどを聴く集会を毎年1回行ないます
https://www.klang.jp/index.php?ci=10420


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クラング・クンスト ブログ

・まとめることなく雑事を書く「ブログ的なもの」
https://www.klang.jp/index.php?ci=10139

・☓泥沼:◎楽しい趣味の「オーディオ入門 」
https://www.klang.jp/index.php?ci=10401

・「乱聴録」 雑多なオーディオ聴きくらべ
https://www.klang.jp/index.php?ci=10213

有限会社キャリコ オーディオ愛好家のブログ
http://www3.calico.jp/index.php?ci=10107


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クラング・クンストについて

演奏家はオーディオ装置なくして自身の芸術を時空を超えて伝えることができず、録音の無いジェニー・リンドの歌声は想像するしかありません。あまりに非科学的なってしまって評判の悪いオーディオですが、1900年ごろから音楽に少なからぬ貢献をしてきたのは事実です。ここでは、そういった歴史を踏まえた情報や理にかなった製品などをご紹介します。

 オーディオ機器を開発・販売しています。これまでにアナログプレーヤー、アンプ、DAコンバーター、音響レンズ、スピーカーなどを数多く送り出しました。納得のできる製品が存在せず、わたし自身(小林です)の再生装置を完成させるために必要な機器や、ヴィンテージ品に関連した機器を中心に開発します。


 主にドイツ製のヴィンテージ機器を整備・販売しています。ジャンルは限りますが、買い取りも行っています。修理は原則的に弊社で販売したもののみ対応します。オイロパなど、特に貴重なドイツ製品については、ご購入元にかかわらずご相談ください。


 自社製品の評価において、「オイロダインでいい音が出ました」といっても通俗性が無いので、一般的な装置でもテストしています。機器についての相談が多くなったので、手軽なモノーラルのヴィンテージスピーカーと、小型スピーカー2台を組み合わせたシステムをお薦めしています。大きな名機ばかり使っていると気づかない音があります。
https://www.klang.jp/index.php

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ヴィンテージ品とレストア

 ドイツを中心としたヴィンテージオーディオ機器を、慎重に販売しています。なるべくご来店のうえ、実物をご確認ください。使い方から歴史まで、丁寧にご説明させていただきます。申し訳ありませんが、遠方で輸送やアフターサービスが難しいなど、販売できないばあいがあります。過大入力などの不適切使用を除き、初期不良は保証します。保証期間は条件により異なりますので、ご購入前にご確認ください。

 修理とレストアは原則的にクラング・クンストでご購入いただいた商品に限りますが、戦前のクラングフィルム製品など、特に貴重なものについてはご購入元にかかわらずご相談ください。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10089

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クラングフィルム オイロダイン (アルニコ) ペア
Klangfilm EURODYN (AlNiCo) KL-L439 Pair


クラングフィルム オイロダイン (Klangfilm KL-L439 EURODYN)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/102/10207_801.jpg

クラングフィルム オイロダイン (Klangfilm KL-L439 EURODYN) 正面
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/107/10772_801.jpg

クラングフィルム オイロダイン (Klangfilm KL-L439 EURODYN) 背面
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/107/10772_802.jpg

販売するクラングフィルム製オイロダインの振動板
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/107/10772_803.jpg

 クラングフィルムの情報を集積した有名なウェブサイトKlangfilm Home!のオーナー兼運営者である、ベルリンのシューベルトさんからのオイロダインです。ストックホルムの劇場から取り外されたペアを、シューベルトさんが長年保管していたもので、1957年かその翌年ごろに製造された、比較的初期のKL-L439です。オイロダインは1952年まで電磁石のフィールド型が製造されていて、過渡期を経た1954年からアルニコの永久磁石型に統一されます。フィールド型のオイロダインは200Ω入力で使いにくいため、むしろ15Ωのアルニコ型を好んでお使いになる愛好家が多い状況です。

 このオイロダインは単に程度が非常に良いだけでなく、ほぼ完全にオリジナルの状態で、かつネットワーク回路を含む諸特性が良好に保たれています。アルニコのオイロダインとしては高額でコレクター向けのアイテムですが、二つの外観も音もそろっているので、音楽鑑賞用としても優れています。オイロダインは本来ステレオ用に作られているので、大型のヴィンテージスピーカーとしては異例なくらい音像定位やステレオ感が優れているので、このように特性のそろったペアには特別な価値があります。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10089&i=10772

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パワーアンプ V2010 、V2020
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10071

アンプと電源の製品情報 (電源は付属品のみ)

パワーアンプ V2020  (試作機)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/101/10150_801.jpg

 虚装を廃した実用的なアンプを2017年夏ごろに発売予定です。価格もクラング・クンストとしては、これまでにない低価格にしました。

入力セレクターを備え、プリメインとしても使える V2010 と、
mono4stereo(モノベースの立体音響再生システム)用演算回路を内蔵した V2020 があります。

電源入力コネクタのネジ止めだけで組み上がるキット版も用意しました。

 EMTのプレーヤーとクラングフィルムやノイマンのアンプで、オイロダインを鳴らしているようなベテラン愛好家のサブ用に最適なアンプ目指しました。

すでに開発済のDAC基板と同様に、色付けの少ないニュートラルな音ですので、全段トランス結合に希少球といった個性的なアンプばかり所有していて、基準となる音を見失いそうな愛好家のリファレンスに最適です。

 10 W 弱という控えめな最大出力なので、貴重なヴィンテージスピーカーを破壊してしまうことが起こりにくくて安全です。さらに、マランツなどとは異なり、下の写真にあるメタルベースの EL34 といったヴィンテージ球も安心して使える回路構成になっているなど、愛好家のツボを押さえた製品です。標準ではJJなどの新しい真空管ですが、ドイツの古い真空管もオプションで選択可能です。

 以上のように、ほぼヴィンテージマニアの「必要」から生まれたアンプですが、大音量が難しい環境なら、新しい小型スピーカーの多くにも適しています。音量を出せるばあいでも、B&W CM1 S2 や ELAC BS192 などに FOSTEX CW250B といったサブウーファーを組み合わせて使うなら、ローカットフィルターと高精度な L + R 出力のある V2020 が好ましい音質と十分なダイナミックレンジを実現するでしょう。

仕様

V2010、VK2010 : V2020、VK2020
使用真空管 EF86 (6267) X 2 + EL34 (6CA7) X 2 : EF86 (6267) X 2 + EL34 (6CA7) X 2
入力端子 RCAピンジャック X 4 のステレオ2系統 : RCAピンジャック X 2 のステレオ1系統
入力インピーダンス 100 kΩ : 100 kΩ
入力セレクター 2系統切り換え : なし
ローカットフィルター なし : OFF、125 Hz、250 Hz の3段階
ボリューム L、R 独立 : L、R 独立
スピーカー出力端子 バナナジャック X 8 のステレオ1系統 : バナナジャック X 8 のステレオ1系統
出力インピーダンス 4、8、16 Ω : 4、8、16 Ω
出力電力 ※ 6 W (歪率 1 %)、9.5 W (歪率 5 %) : 6 W (歪率 1 %)、9.5 W (歪率 5 %)
ローノイズ電源基板 あり : あり
mono4stereo基板 なし : あり
LINE出力 なし : L + R、L - R の各1系統 (RCA、負荷は 2 kΩ以上)
真空管カバー V2010のみあり : V2020のみあり

※抵抗負荷時の測定値で、使用する真空管によって増減します。
【仕様、および外観は予告なく変更するばあいがあります】


予定価格(税別)

V2010 ステレオアンプ 27万円
V2020 上記に mono4stereo 用演算回路を内蔵したモデル 未定

VK2010 V2010 のキット版(電源コネクター配線のみ)真空管別 未定
VK2020 V2020 のキット版(電源コネクター配線のみ)真空管別 未定
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10071

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mono4stereo 先行音効果を応用した立体音響 2017年5月27日
https://www.klang.jp/index.php?ci=10513

 わたし(小林)は古い録音が好きなため、長年モノラル中心でオーディオをやってきました。しかし、ステレオ音源はステレオで聴くのが本来です。ステレオは立体を意味するギリシャ語が語源で、ステレオフォニックは立体音響なので3次元的に聴こえることになっていますが、一般的なステレオ再生装置は2本しかスピーカーを用いないので、スピーカー間に横一直線に分布する1次元分しか空間情報がありません(残響などは別にして)。そのほか、ステレオ再生には以下のような不都合があります。

・位相とか点音源とかうるさい制約があって大型のスピーカー、とくにヴィンテージスピーカーが使いにくい。
・肝心の中央付近の音が虚像なので、音像が揺らがないようじっと前を向いて聴く必要がある。
・逆相成分が過剰に入っていて人工的に感じ、ひどい録音だとパイプを耳に当てて聴いているようだ。

mono4stereo の動作原理のイメージ
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/105/10515_801.jpg

 ステレオ再生に最適とされる小型スピーカーを入して試してみましたが、音像や定位がはっきりしている分だけミニチュアのようで安っぽく、WE15Aのような大型ヴィンテージスピーカーをモノラルで聴くほうが実体感のある広がりを感じるくらいです。しかし、WE15A は音道が4メートルほどもあるので、2本用いてもまともな音像定位は得られません。モノラルなら「広がりを与える」という長所が、ステレオでは位相ズレなどの欠点になってしまいます。また、ステレオ録音をモノラル再生すると、逆相成分(差分)が打ち消されて再生されません(エコー過剰な録音では消されて好都合なこともあります)。

 そこで、モノラルの WE15A に ALTEC409D や WE594A + 31A などで L-R の差分を付加すると、定位はしないものの正しくステレオ録音が再生できるようになります。エコーを L-R のボリュームで調整できるというメリットもあります。実際にやってみると、非常に満足のゆくステレオ録音のモノラル再生ができるようになり、スパーツィーターの付加よりも効果的でした。そして、この非ステレオ 2ch システムに L と R を普通に再生するスピーカー2台を追加してみると、想像とはまったくちがう見事な音場になりました。

 中央寄りの音場を予想していましたが、実際はフルレンジ2本だけに近い十分な左右の広がりが得られました。これは、直接音と反射音が混在しても、より早く耳に到達する直接音によって正しい音源位置を認識するという、聴覚の特性(先行音効果=precedence effect: 加法定位領域とエコー領域の間)によるものと思われます。WE15Aやオイロパ・クラルトンのような音道が長いスピーカーの音は遅れて到達するので、脳内で間接音的に扱われるのではないでしょうか。スピーカーが合計4台となったシステムは、左右に加えて奥行や上下への広がりが拡大されて雄大な音場になりました。なお、差分用のスピーカーは、天井に向けるのが自然でした。首を動かしても音場が安定していて楽な姿勢で聴けました。

実際に構築された mono4stereo 方式の再生システムの例 (EUROPA KLARTON とオイロダイン3台を使用)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/105/10515_802.jpg


 このように、モノラル時代に自然で立体的な音場を求めて工夫された大型ヴィンテージスピーカーの魅力を生かし、一次元しか空間情報がないという、2chステレオの欠点を補うことができました。大型のヴィンテージスピーカーは高価だったり希少だったりで1本しか入手できないことも多いですが、1本をベースにモノラルとステレオの両方に最適なシステムを構築できます。
https://www.klang.jp/index.php?ci=10513

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クラングフィルムの歴史


ツェットン (ZETTON, 1931)
https://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10517

クラングフィルムの設立と初期のシステム (1928 - 1931)
https://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10505

クラングフィルムのスピーカー (戦前編)
https://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10394

クラングフィルムのスピーカー (戦後編)
https://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10396

クラングフィルムのアンプ(戦前編)
http://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10398

クラングフィルムのアンプ(戦後編)
http://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10399


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[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST


ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
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運営者 有限会社キャリコ 小林正信
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〒399-4117 長野県 駒ヶ根市 赤穂497-634 
TEL 0265-81-5707 

地図
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ドイツのヴィンテージオーディオを中心にした、楽しく奥深い音楽再生を探求する「クラング・クンスト」を運営しています。オイロダインなどの名機を目指して、世界中から愛好家が訪れます。オリジナルの真空管アンプも好評です


KLANGの会(KLK2018)5月26〜27日
クラングフィルムのスピーカーや真空管アンプなどを聴く集会を毎年1回行ないます
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クラング・クンスト ブログ

・まとめることなく雑事を書く「ブログ的なもの」
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・☓泥沼:◎楽しい趣味の「オーディオ入門 」
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・「乱聴録」 雑多なオーディオ聴きくらべ
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クラング・クンストについて

演奏家はオーディオ装置なくして自身の芸術を時空を超えて伝えることができず、録音の無いジェニー・リンドの歌声は想像するしかありません。あまりに非科学的なってしまって評判の悪いオーディオですが、1900年ごろから音楽に少なからぬ貢献をしてきたのは事実です。ここでは、そういった歴史を踏まえた情報や理にかなった製品などをご紹介します。

 オーディオ機器を開発・販売しています。これまでにアナログプレーヤー、アンプ、DAコンバーター、音響レンズ、スピーカーなどを数多く送り出しました。納得のできる製品が存在せず、わたし自身(小林です)の再生装置を完成させるために必要な機器や、ヴィンテージ品に関連した機器を中心に開発します。


 主にドイツ製のヴィンテージ機器を整備・販売しています。ジャンルは限りますが、買い取りも行っています。修理は原則的に弊社で販売したもののみ対応します。オイロパなど、特に貴重なドイツ製品については、ご購入元にかかわらずご相談ください。


 自社製品の評価において、「オイロダインでいい音が出ました」といっても通俗性が無いので、一般的な装置でもテストしています。機器についての相談が多くなったので、手軽なモノーラルのヴィンテージスピーカーと、小型スピーカー2台を組み合わせたシステムをお薦めしています。大きな名機ばかり使っていると気づかない音があります。
https://www.klang.jp/index.php

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ヴィンテージ品とレストア

 ドイツを中心としたヴィンテージオーディオ機器を、慎重に販売しています。なるべくご来店のうえ、実物をご確認ください。使い方から歴史まで、丁寧にご説明させていただきます。申し訳ありませんが、遠方で輸送やアフターサービスが難しいなど、販売できないばあいがあります。過大入力などの不適切使用を除き、初期不良は保証します。保証期間は条件により異なりますので、ご購入前にご確認ください。

 修理とレストアは原則的にクラング・クンストでご購入いただいた商品に限りますが、戦前のクラングフィルム製品など、特に貴重なものについてはご購入元にかかわらずご相談ください。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10089

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クラングフィルム オイロダイン (アルニコ) ペア
Klangfilm EURODYN (AlNiCo) KL-L439 Pair


クラングフィルム オイロダイン (Klangfilm KL-L439 EURODYN)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/102/10207_801.jpg

クラングフィルム オイロダイン (Klangfilm KL-L439 EURODYN) 正面
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/107/10772_801.jpg

クラングフィルム オイロダイン (Klangfilm KL-L439 EURODYN) 背面
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/107/10772_802.jpg

販売するクラングフィルム製オイロダインの振動板
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/107/10772_803.jpg

 クラングフィルムの情報を集積した有名なウェブサイトKlangfilm Home!のオーナー兼運営者である、ベルリンのシューベルトさんからのオイロダインです。ストックホルムの劇場から取り外されたペアを、シューベルトさんが長年保管していたもので、1957年かその翌年ごろに製造された、比較的初期のKL-L439です。オイロダインは1952年まで電磁石のフィールド型が製造されていて、過渡期を経た1954年からアルニコの永久磁石型に統一されます。フィールド型のオイロダインは200Ω入力で使いにくいため、むしろ15Ωのアルニコ型を好んでお使いになる愛好家が多い状況です。

 このオイロダインは単に程度が非常に良いだけでなく、ほぼ完全にオリジナルの状態で、かつネットワーク回路を含む諸特性が良好に保たれています。アルニコのオイロダインとしては高額でコレクター向けのアイテムですが、二つの外観も音もそろっているので、音楽鑑賞用としても優れています。オイロダインは本来ステレオ用に作られているので、大型のヴィンテージスピーカーとしては異例なくらい音像定位やステレオ感が優れているので、このように特性のそろったペアには特別な価値があります。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10089&i=10772

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パワーアンプ V2010 、V2020
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10071

アンプと電源の製品情報 (電源は付属品のみ)

パワーアンプ V2020  (試作機)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/101/10150_801.jpg

 虚装を廃した実用的なアンプを2017年夏ごろに発売予定です。価格もクラング・クンストとしては、これまでにない低価格にしました。

入力セレクターを備え、プリメインとしても使える V2010 と、
mono4stereo(モノベースの立体音響再生システム)用演算回路を内蔵した V2020 があります。

電源入力コネクタのネジ止めだけで組み上がるキット版も用意しました。

 EMTのプレーヤーとクラングフィルムやノイマンのアンプで、オイロダインを鳴らしているようなベテラン愛好家のサブ用に最適なアンプ目指しました。

すでに開発済のDAC基板と同様に、色付けの少ないニュートラルな音ですので、全段トランス結合に希少球といった個性的なアンプばかり所有していて、基準となる音を見失いそうな愛好家のリファレンスに最適です。

 10 W 弱という控えめな最大出力なので、貴重なヴィンテージスピーカーを破壊してしまうことが起こりにくくて安全です。さらに、マランツなどとは異なり、下の写真にあるメタルベースの EL34 といったヴィンテージ球も安心して使える回路構成になっているなど、愛好家のツボを押さえた製品です。標準ではJJなどの新しい真空管ですが、ドイツの古い真空管もオプションで選択可能です。

 以上のように、ほぼヴィンテージマニアの「必要」から生まれたアンプですが、大音量が難しい環境なら、新しい小型スピーカーの多くにも適しています。音量を出せるばあいでも、B&W CM1 S2 や ELAC BS192 などに FOSTEX CW250B といったサブウーファーを組み合わせて使うなら、ローカットフィルターと高精度な L + R 出力のある V2020 が好ましい音質と十分なダイナミックレンジを実現するでしょう。

仕様

V2010、VK2010 : V2020、VK2020
使用真空管 EF86 (6267) X 2 + EL34 (6CA7) X 2 : EF86 (6267) X 2 + EL34 (6CA7) X 2
入力端子 RCAピンジャック X 4 のステレオ2系統 : RCAピンジャック X 2 のステレオ1系統
入力インピーダンス 100 kΩ : 100 kΩ
入力セレクター 2系統切り換え : なし
ローカットフィルター なし : OFF、125 Hz、250 Hz の3段階
ボリューム L、R 独立 : L、R 独立
スピーカー出力端子 バナナジャック X 8 のステレオ1系統 : バナナジャック X 8 のステレオ1系統
出力インピーダンス 4、8、16 Ω : 4、8、16 Ω
出力電力 ※ 6 W (歪率 1 %)、9.5 W (歪率 5 %) : 6 W (歪率 1 %)、9.5 W (歪率 5 %)
ローノイズ電源基板 あり : あり
mono4stereo基板 なし : あり
LINE出力 なし : L + R、L - R の各1系統 (RCA、負荷は 2 kΩ以上)
真空管カバー V2010のみあり : V2020のみあり

※抵抗負荷時の測定値で、使用する真空管によって増減します。
【仕様、および外観は予告なく変更するばあいがあります】


予定価格(税別)

V2010 ステレオアンプ 27万円
V2020 上記に mono4stereo 用演算回路を内蔵したモデル 未定

VK2010 V2010 のキット版(電源コネクター配線のみ)真空管別 未定
VK2020 V2020 のキット版(電源コネクター配線のみ)真空管別 未定
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10071

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mono4stereo 先行音効果を応用した立体音響 2017年5月27日
https://www.klang.jp/index.php?ci=10513

 わたし(小林)は古い録音が好きなため、長年モノラル中心でオーディオをやってきました。しかし、ステレオ音源はステレオで聴くのが本来です。ステレオは立体を意味するギリシャ語が語源で、ステレオフォニックは立体音響なので3次元的に聴こえることになっていますが、一般的なステレオ再生装置は2本しかスピーカーを用いないので、スピーカー間に横一直線に分布する1次元分しか空間情報がありません(残響などは別にして)。そのほか、ステレオ再生には以下のような不都合があります。

・位相とか点音源とかうるさい制約があって大型のスピーカー、とくにヴィンテージスピーカーが使いにくい。
・肝心の中央付近の音が虚像なので、音像が揺らがないようじっと前を向いて聴く必要がある。
・逆相成分が過剰に入っていて人工的に感じ、ひどい録音だとパイプを耳に当てて聴いているようだ。

mono4stereo の動作原理のイメージ
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/105/10515_801.jpg

 ステレオ再生に最適とされる小型スピーカーを入して試してみましたが、音像や定位がはっきりしている分だけミニチュアのようで安っぽく、WE15Aのような大型ヴィンテージスピーカーをモノラルで聴くほうが実体感のある広がりを感じるくらいです。しかし、WE15A は音道が4メートルほどもあるので、2本用いてもまともな音像定位は得られません。モノラルなら「広がりを与える」という長所が、ステレオでは位相ズレなどの欠点になってしまいます。また、ステレオ録音をモノラル再生すると、逆相成分(差分)が打ち消されて再生されません(エコー過剰な録音では消されて好都合なこともあります)。

 そこで、モノラルの WE15A に ALTEC409D や WE594A + 31A などで L-R の差分を付加すると、定位はしないものの正しくステレオ録音が再生できるようになります。エコーを L-R のボリュームで調整できるというメリットもあります。実際にやってみると、非常に満足のゆくステレオ録音のモノラル再生ができるようになり、スパーツィーターの付加よりも効果的でした。そして、この非ステレオ 2ch システムに L と R を普通に再生するスピーカー2台を追加してみると、想像とはまったくちがう見事な音場になりました。

 中央寄りの音場を予想していましたが、実際はフルレンジ2本だけに近い十分な左右の広がりが得られました。これは、直接音と反射音が混在しても、より早く耳に到達する直接音によって正しい音源位置を認識するという、聴覚の特性(先行音効果=precedence effect: 加法定位領域とエコー領域の間)によるものと思われます。WE15Aやオイロパ・クラルトンのような音道が長いスピーカーの音は遅れて到達するので、脳内で間接音的に扱われるのではないでしょうか。スピーカーが合計4台となったシステムは、左右に加えて奥行や上下への広がりが拡大されて雄大な音場になりました。なお、差分用のスピーカーは、天井に向けるのが自然でした。首を動かしても音場が安定していて楽な姿勢で聴けました。

実際に構築された mono4stereo 方式の再生システムの例 (EUROPA KLARTON とオイロダイン3台を使用)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/105/10515_802.jpg


 このように、モノラル時代に自然で立体的な音場を求めて工夫された大型ヴィンテージスピーカーの魅力を生かし、一次元しか空間情報がないという、2chステレオの欠点を補うことができました。大型のヴィンテージスピーカーは高価だったり希少だったりで1本しか入手できないことも多いですが、1本をベースにモノラルとステレオの両方に最適なシステムを構築できます。
https://www.klang.jp/index.php?ci=10513

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クラングフィルムの歴史


クラングフィルムの資料をいただいたドイツやフランスなどの友人のため、拙い英語で書いてあります。大変申し訳ありません。


ツェットン (ZETTON, 1931)
https://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10517

クラングフィルムの設立と初期のシステム (1928 - 1931)
https://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10505

クラングフィルムのスピーカー (戦前編)
https://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10394

クラングフィルムのスピーカー (戦後編)
https://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10396

クラングフィルムのアンプ(戦前編)
http://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10398

クラングフィルムのアンプ(戦後編)
http://www.klang.jp/index.php?ci=10392&i=10399



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html

[リバイバル3] 中川隆 _ オーディオ関係投稿リンク 中川隆
187. 中川隆[-9560] koaQ7Jey 2019年6月17日 07:45:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2915]
ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/451.html#c187
[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
4. 中川隆[-9559] koaQ7Jey 2019年6月17日 08:41:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2919]
グーグルは、攻撃的なコンテンツ・怒りを引き起こすコンテンツ・不正確なコンテンツ・憎悪に満ちているコンテンツなどを検索結果で上位に表示されないようにしている。

https://webtan.impress.co.jp/e/2017/03/24/25321

グーグルは、不正確だったり攻撃的だったりヘイトを含んでいたりするコンテンツが検索結果に表示されないように取り組んできている。グーグルに15年務めているエンジニアがそのようにコメントし、さらに最新版の検索品質評価ガイドラインにもそうした情報が追加されている。

グーグルは、次のようなコンテンツを「低品質」として扱うようにアルゴリズム改善を進めているということだ。

攻撃的なコンテンツ
怒りを引き起こすコンテンツ
不正確なコンテンツ
憎悪に満ちているコンテンツ

実際に、最新の検索品質評価ガイドライン(2017年3月14日版)では、そうしたチェックに関する記載が追加されている。

念のために補足しておくと、「検索品質評価ガイドライン」は、グーグルの検索結果が想定どおりになっているかをチェックする人間の評価者のためのマニュアルだ。本来ならば、グーグルに委託された品質評価者だけに与えられるのだが、2015年12月にグーグルは一般公開している。

以前のガイドラインでも、低品質なページだと判断するポイントとして同様の項目はあった。しかし、「攻撃的・悪意的」という項目は主にフィッシング詐欺などへの対応が中心だったし、「不正確」という項目は主にお金や健康に関するコンテンツを中心にしたものだった。

しかし今回の改訂版では、それに加えて、次のようなことのチェックも明示されている。
人種差別につながる内容
なりすまし・フェイクニュース的なもの
広告売上だけのために作られた情報

実際にガイドラインでは、ユーザーの検索ニーズにまったく応えていないコンテンツの例として、「製品の偽レビュー」「明らかに不正確なニュース」「事実と異なるコンテンツ」「不正確な医療情報」といった表現が使われている。

特に、攻撃的だったり怒りを引き起したりするようなコンテンツのチェックに関しては、検索クエリに関係なく評価する仕組みが評価システムにあり、どのように判断するかを4ページにわたって詳細に解説している。


検索品質評価ガイドラインに記載されている「Upsetting-Offensive」フラグ設定の解説

「ホロコースト」で検索したときに不適切なコンテンツが上位に表示されることを指摘されたグーグルは、アルゴリズムを改善するとしていた。

また、虚偽の情報に基づいたニュース(いわゆる「フェイクニュース」)は、米大統領選挙がらみで大きな問題になった。フェイクニュースの拡散に加担したとして、グーグルもやり玉に挙げられた。

こうした事件も、このアルゴリズム改善に影響しているのだろうか。

ただし、情報の不正確さのチェック項目が評価ガイドラインに加えられたからといって、情報が正しいかどうかを判定するアルゴリズムがすでに完成しているとは考えにくい。たとえば、先日グーグルは検索品質を改善するアルゴリズムを日本独自に導入したが、情報が正しいかどうかまでは判断しないとのことだった。

不正確・攻撃的・ヘイトのコンテンツの検出が現状ではどうなっているのかを、評価者によるフィードバックを集めたうえで把握し、今後の改善に役立てていくのだろう。
https://webtan.impress.co.jp/e/2017/03/24/25321
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c4

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
5. 中川隆[-9558] koaQ7Jey 2019年6月17日 08:45:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2920]
阿修羅原発板と東海アマブログは風説流布サイトだと既に認定されている。

Google で 阿修羅のスレがタイトルを直接、検索窓に入れない限り決して表示されなくなった経緯

東海アマブログ
原発、すべての核施設を即時廃止せよ

Author:tokaiama
ツイッターのアカウントは、原発運転による健康被害をとりあげた途端に永久凍結されました


上に紹介したのは右翼系メディアのスターたちである。彼らのコンテンツは、頼んでもいないのに、勝手にYouTubeの先頭に表示されるのである。

 私としては、金子勝や青木理。武田砂鉄などを視聴したいのだが、彼らはYouTubeから嫌われているようで、名前を直接、検索窓に入れない限り決して表示されない。
 これは、グーグルの検索でも同じことだ。

 このようなメディアの洗脳工作が、安倍のような阿呆政権を維持する上で、非常に大切な役割を果たしている。
 YouTube・グーグル・フェイスブック・ツイッターなどのSNSは、CIA・NSAと関係していると、スノーデンもアサンジも何度も暴露している。

 http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/cia-ceb8.html
 https://wired.jp/2010/07/30/google%E3%81%A8cia%E3%81%8C%E6%8A%95%E8%B3%87%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%9B%A3%E8%A6%96%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%80%8D/

 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49507?page=3

 なお、ヤフーは、グーグル以上に体制=自民党べったりで、私のブログが連絡もないまま勝手に削除されることが続いたのでFC2に移転することにした。
 ライブドアやはてな、mixiも、自民党の支持機関のようだ。


 もちろん、私のような言論も、大半の人々にとって、わざわざ検索しなければ出てこないようなブログでは、ほとんど社会的な意味を持たない。

 少しずつ、読者が増えることに期待をかけてはいるが、7万近くあったツイッターのアカウントを、まったく不可解に(5年前のツイートが自殺幇助と決めつけられて)永久凍結とされ、復活させてもらえないことで、私の力は極めて小さくなってしまった。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-732.html


工作員の魑魅魍魎の為に

阿修羅原発板は風説流布サイトと認定されて、
阿修羅掲示板の記事は Google で表示されなくなった。

5ちゃんで阿修羅掲示板の記事へのリンクを貼ると掲載拒否される様になった。

もう誰も阿修羅掲示板が まともな掲示板だとは思わなくなった
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c5

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
6. 中川隆[-9557] koaQ7Jey 2019年6月17日 08:50:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2921]
阿修羅掲示板でデマを撒き散らしている頭がおかしい投稿者のリスト

・佐伯まお=おおたこうじ=お=シノブ
・お天道様はお見通し
・魑魅魍魎男
・日高見連邦共和国
・けろりん
・BRIAN ENO
・櫻井ジャーナル 櫻井春彦
・taked4700


阿修羅掲示板の中国工作員
・赤かぶ
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c6

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
7. 中川隆[-9556] koaQ7Jey 2019年6月17日 08:54:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2922]

阿修羅掲示板でデマを撒き散らしている頭がおかしい投稿者のリスト に追記

てんさい(い)= 東海アマ
小野寺光一
仁王像
てんさい(い)
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c7

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
8. 中川隆[-9555] koaQ7Jey 2019年6月17日 08:55:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2923]
阿修羅掲示板でデマを撒き散らしている頭がおかしい投稿者のリスト に追記

HIMAZIN
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c8

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
9. 中川隆[-9554] koaQ7Jey 2019年6月17日 08:58:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2924]

阿修羅掲示板でデマを撒き散らしている頭がおかしい投稿者のリスト に追記

西岡昌紀
木村愛二
こーるてん
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c9

[近代史3] 粋音舎 _ ドイツ古典フルレンジシステム販売い 中川隆
11. 中川隆[-9553] koaQ7Jey 2019年6月17日 09:11:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2925]
オーディオ・レコード めろでぃや
http://www.melodiya.audio/
http://www.melodiya.audio/information/

オーディオ めろでぃや
http://www.melodiya.audio/audio/

めろでぃや・楽鳴舎 レコード・コンサート - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%A5%BD%E9%B3%B4%E8%88%8E+

〒323-0025 栃木県 小山市 城山町3-6-5
TEL 0285-22-5200

営業時間 AM10:00〜PM7:00
定休日 日曜日、祝祭日


地図
https://www.google.com/maps?ll=36.314761,139.805375&z=18&t=m&hl=ja&gl=JP&mapclient=embed&q=%E3%80%92323-0025+%E6%A0%83%E6%9C%A8%E7%9C%8C%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E7%94%BA%EF%BC%93%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%96%E2%88%92%EF%BC%95






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めろでぃや・オリジナル RFT
めろでぃや・オリジナルスピーカー、今回は旧東ドイツRFT社のユニットを使ったシステムです。

2way
20cm フルレンジ L2153 PBK 4VA 6Ω
6cmツイーター LP554-6 1.5VA 6Ω

6db/Oct、コンデンサーによるローカット

寸法 幅25x奥行き25x高さ63センチ

今回も日光市の山越木工房さんにエンクロージャーを製作していただきました。

山越木工房さんの成形合板の技術をいかしたエンクロージャー。
随所に桜材を使い家具としても美しい仕上がりです。
もちろん音色もとても澄んだ美しい感じがします。

価格はお問い合わせ下さい。
http://www.melodiya.audio/audio/detail.php?n=0041

めろでぃや・オリジナル KSP130K

スピーカーユニットは旧東ドイツ、PGH Elektrotechnik Meissen, KSP130K 5VA, 5Ω。

モニタースピーカーとして使われていたようです。
箱の容量はほぼオリジナルを踏襲しています。

密閉型、山越木工房さんの成形合板の技術をいかしたエンクロージャー。
随所に桜材を使い家具としても美しいです。

寸法 63x19x25センチ

音色については東ドイツ特有の音!としか言いようが無いのです。西ドイツとも違う柔らかさがあります。5Ωの真空管アンプが無いので米crownの業務用アンプで鳴らしていますが、じつに清らかな音です。

スピーカーユニットは売り切れです。次回入荷までお待ち下さい。
http://www.melodiya.audio/audio/detail.php?n=0040

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シーメンス siemens
2wayオリジナルボックス仕様
 シーメンスの20センチフルレンジスピーカーに同じくシーメンスのツイーターを追加しました。

siemens/klangfilm に20センチフルレンジを2発使ったシステムがありますが、これにツイーターを追加して、広帯域化を図りました。

写真はデモ用ですのでツイーターも2発ですが、家庭で使うには1発でも良いかと思います。

 できあがるまで時間がかかってしまいましたが、予想通りの音色となりました。ツイーターを追加したおかげで低域は余裕が出てふくよかになり、きれいな高域が出ます。ネットワークは単純な6db/oct型を採用。コンデンサー1個で低域を減衰していますので、伸びやかな音色が楽しめます。

 店頭では出力7ワットほどのシーメンスの可搬型映写機用アンプで鳴らしています。

使用ユニット 6Ruf lsp 22Cx2, tweeter 6Ruf lsp 28x2


合成インピーダンス 8オーム
9ミリ厚のMDFにビニールレザー張り、正面はスウェード調の人造皮革張り。
寸法 幅428x高さ545x奥行き393ミリ

売り切れ
http://www.melodiya.audio/audio/detail.php?n=0037

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めろでぃや謹製

スピーカーボックス/エンクロージャー できあがりました

シーメンスの14g や KL-L307 など、ユニットに取り付けのためのねじ穴がないスピーカーを箱に固定するための方法をいろいろと考えていました。本来はバッフル板には金具で押さえつけています。この方法でも問題は無いのですが、へそ曲がりの私は他ではやっていないことを試してみたかったのです。

バッフル板にユニットを直接取り付けない。
ユニットのフレームをネジ等で固定しない。
バッフル板とスピーカーのユニットの前面をつらいちにする。
これらの条件を満たしています。意図するところは「響き」を大切にしたいということです。

ユニットを箱に固定すると、箱自体の響きが音に大きく影響します。この影響を極力排除したかったのです。
また、発音体であるユニットと共鳴体(振動体)である箱の関係に注目しました。弦楽器をみると発音体である弦の振動は「駒」を伝わり、表板に伝わり、さらに「魂柱」が駒から伝えられた弦の振動を裏板に伝える。「共鳴」が豊かな弦楽器の音色を作ってくれるのです。つまり、発音体を共鳴体に固定する必要はないのではないかと。

ユニットをバッフルに固定していないのでユニット自体の振動は箱には直接伝わりません。よって、低域の量感は不足しますが、音の濁りを少なくできたと思っています。そもそも20センチから25センチクラスのフルレンジスピーカーに豊かな低音を望むのも無理な話だと思っています。板の厚さをなるべく薄くした(15ミリ)のも箱自体を鳴らすよう心がけたためです。このため、板の材質による固有の音が性格となって現れてくるようです。

「楽鳴舎」さんの店頭ではsiemens coaxial シーメンス、25センチ、コアキシャル アルニコユニット搭載型を聞くことができます。「楽鳴舎」さんにある箱はカバ合板仕様のものです。http://rakumeischa.cocolog-nifty.com/audiotubes/2013/05/post-d226.html

使用する材はカバ合板またはブナ合板。ウレタン塗装です。
色も選ぶこともできます。
20センチ用と25センチ用の2サイズをご用意しています。
お手持ちの14g等にもセットできます。

写真は20センチ用、ブナ合板、クリア塗装です。上部に意匠を施しました。
寸法 幅295ミリx奥行き230ミリx高さ480ミリ
板厚 15ミリ
背面解放型

製作期間 2〜3ヶ月 価格は製作台数によりますのでお問い合わせ下さい。
製作にあたって1台づつ現物合わせをしますのでお手持ちのユニットを送っていただくようになります。
http://www.melodiya.audio/audio/detail.php?n=0017

めろでぃや謹製

スピーカーボックス/エンクロージャー

siemens/klangfilm KL-L307などフレームに取り付けねじ穴の無いユニット用のスピーカーボックス/エンクロージャーです。先にご紹介した14g用と同じ考えによる設計です。

寸法 幅410ミリx奥行き275ミリx高さ530ミリ
ブナ合板 板厚15ミリ カバ合板仕様もあります。
ウレタン塗装 上部に意匠を施しました。
背面解放型


納期 2〜3ヶ月
価格は製作台数等により変わりますのでお問い合わせ下さい。
http://www.melodiya.audio/audio/detail.php?n=0019


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/456.html#c11

[近代史3] 粋音舎 _ ドイツ古典フルレンジシステム販売い 中川隆
12. 中川隆[-9552] koaQ7Jey 2019年6月17日 09:13:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2926]
楽鳴舎 RAKUMEISCHA
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スピーカー
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アンプ
https://www.rakumeischa.com/アンプ/

〒164-0013 東京都中野区弥生町1-16-6

Tel:03-6300-5338


営業日時 土曜日13時〜19時頃

     日曜日13時〜18時頃

営業日は毎土曜・日曜そして3連休となる金曜祝日または月曜祝日も営業します。臨時休業は其の都度表示しますので、ご来店の節はご一報ください。


アクセス
  大江戸線 西新宿五丁目駅 徒歩6分
  丸ノ内線 中野新橋駅 徒歩8分
  京王線 初台駅 徒歩25分
  JR新宿駅 徒歩25分

地図
https://www.google.com/maps/place/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%81%E3%80%92164-0013+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%8C%BA%E5%BC%A5%E7%94%9F%E7%94%BA%EF%BC%91%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%91%EF%BC%96/@35.689864,139.680118,16z/data=!4m5!3m4!1s0x6018f2d83a61e469:0x67336c8a83e92645!8m2!3d35.6898689!4d139.6802103?hl=ja



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/456.html#c12

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
10. 中川隆[-9551] koaQ7Jey 2019年6月17日 09:43:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2927]
映画『南京の真実』と『主戦場』〜脅かされる表現の自由と言論人の思想の変遷[桜R1-6-14] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=vNbOoQ69Tpg


2019/06/14 に公開


今回は、YouTubeから不適格の烙印を捺された映画『南京の真実』の問題と、所謂“従軍慰安婦”を取り上げた映画『主戦場』問題に関連し、表現の自由と言論人の思想転向についてお話ししていきます。

出演:水島総(日本文化チャンネル桜代表)


_______


南京大虐殺は無かった、 とか 従軍慰安婦は売春婦だった、 徴用工の待遇は良かった

とか嘘八百の動画を出したら削除されるに決まってるよ。

水島総は自説の何処がおかしいか全然わからないというのが何かな-

魑魅魍魎とか水島総はパラノイアなんだろうな



http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c10

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
11. 中川隆[-9550] koaQ7Jey 2019年6月17日 09:50:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2928]

因みに、日本政府の検閲は欧米よりは遥かに ましなんだよ:


2019年05月14日
アマゾンから検閲される「不都合なな書物」
黒木 頼景
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68765531.html

知られざるアマゾンの書籍排除
America's founding 1Statue of Liberty 3


  近年、日本各地で本屋の倒産が相次ぎ、片田舎で本を求めようとすれば、コンビニへと足を運ぶしかない。しかし、そこにあるのは、週刊誌と漫画くらいで、学術書や教養本は皆無だ。ということで、一般人が人文系書物やビジネス書、新書本、専門書を手にしようと思えば、ネット通販に頼るしかない。その中でも最大の業者はアマゾンだ。街中に店舗を持たず、巨大な倉庫に何万種類もの本を取り揃え、24時間営業のアマゾンは世界各国を席巻している。

  こういう訳だから、書籍販売において、ほぼ独占状態のアマゾンから締め出しを食らうことは、著作業者にとって販売拒否にあったようなものである。特に、歐米の知識人にとったら死活問題だ。英語で書かれた本は世界中で売れるから販売部数も相当になるが、もし、国内外の販売ルートを遮断されたら、「売れるはずの本」が売れなくなってしまう。また、一般人はアマゾンの書籍紹介コーナーを眺めている時に、偶然「あれっ!」と興味を引く本を見つけることもあるので、読者と作者にとって「出会いの場」にもなっている。

  だが、もしも、アマゾンが密かに検閲を行い、“不都合な”書物の排除を行っていたらどうなるのか? 言論や出版の自由が浸透している歐米や日本で、今更「禁書」なんて滅多にないし、あるとすれば、幼児ポルノとか犯罪実行マニュアルなど、公共の利益に反する有害図書や倫理・道徳に背く卑猥本だけだ。それでも、歐米人から見ると、日本は奇妙な点で自由な国である。コンビニでは普通にエロ雑誌が並べてあるし、古書店に行けば学術本とエロ本が一緒に売られていたりするのだ。実際、筆者も体験したことがある。三省堂近くにある神田の古本屋では、片方の棚に歴史書や哲学書が並べられ、もう片方の棚にはエロ本が並べてあったので驚いた。また、早稲田の古本屋では、夏目漱石や太宰治の文学書が置いてあったけど、その脇にSM本とかポルノ雑誌が陳列されていたのだ。日本の本屋はバラエティー豊かと言えるが、その反面、節操が無いとも言える。

Michael Hoffman 1(左 / マイケル・ホフマン )
  アメリカ人は日本人に向かって「言論の自由」を説教するが、その裏で巧妙な「言論妨害」が行われていることに気づいていない。例えば、アマゾンはマイケル・ホフマン(Michael Hoffman)を「反ユダヤ主義者」と見なし、彼の著作である『Judaism's Strange Gods』や『The Great Holocaust Trial』、『Judaism Discovered』を販売中止にして、キンドル版も売らないことに決めたそうだ。これに怒ったホフマン氏がアマゾンに問い質したところ、どうも本の内容がユダヤ人の気分を害する(offensive)ものであったから、それが原因でサイトから外したらしい。しかし、これは妙だ。どうしてユダヤ人の抗議なら受け容れられるのか? もし、捏造による記述であれば排除されても仕方ないが、ホフマン氏が事実をねじ曲げて伝えているとは思えない。口にするのも馬鹿らしいが、学術的な批判でも「駄目」となったら、評論本や暴露本などは最初から成立しないじゃないか。確かに、ユダヤ教徒からすればホフマン氏の批判は腹立たしい。でも、アメリカでは個人の意見を表明するのは自由なはずで、名誉毀損じゃない限り出版の自由はある。第一、ユダヤ人側に反論があるというなら、言論の場で堂々と勝負すればいいじゃないか。それをしないで、政治的圧力を掛けて批判者の口封じをするなんて卑怯だろう。

  いくらガイドラインがあるとはいえ、アマゾンの方針は納得できない。そもそも、歐米や日本では宗教批判はタブーなのか? そう言えば、日本のテレビ局だと、創価学会の批判はダブーだが、出版までは禁止することができない。たとえ、毎日新聞が書評欄で矢野絢也の本を無視しても、一般国民は本屋で購入するし、週刊文春で紹介されれば「何だろう」と興味を持つ。現代の日本では、如何なる宗教も批判を免れない。実際の書店を巡ってみれば判るけど、キリスト教やイスラム教を批判する本なんか珍しくもないだろう。新聞やテレビを見れば、キリスト教会のスキャンダルが報道され、幼児虐待を行ったカトリック神父は公開処刑だ。また、イスラム教徒のテロリストなどウジャウジャいるし、過激派組織に対する世間の非難は日常茶飯事である。小学生だってイスラム教徒が口にする「アッラーは何よりも偉大なり! (Allahu Akbar)」という言葉を知っているじゃないか。ユダヤ人だけ特別扱いなんて変だ。じゃあ、もしイスラム教徒が抗議文を送れば、アマゾンはイスラムの批判本をサイトから撤去するのか? おそらく、そんなことはないだろう。むしろ、「言論の自由」や「出版の自由」を主張して、イスラム教徒による嫌がらせを撥ねつけるはずだ。

  ホフマンの著作に関する「禁書」は、どうしても腑に落ちない。なぜなら、アマゾンの書籍担当者は何百万もの本の中から、どうやって彼の本を見つけ「危険」と判断したのか? ホフマン氏は「南部救貧法律センター(Souther Poverty Law Center)」が背後にいるんじゃないか、と推測している。("On the Censorship of Michael Hoffman's Books by Amazon", The Unz Review, September 13, 2018) この極左団体は米国で悪名高く、「ヘイト・スピーチを監視する」との名目で、気に入らない人物をブラックリストに載せているのだ。彼らにマークされた人物はいつ社会的に抹殺されてもおかしくないし、事実、SPLCは破滅させようと躍起になっている。特に、「白人のアメリカ」を強調する人物は、「レイシスト」や「白人至上主義者」のレッテルを貼られ、主要メディアから敬遠されてしまうのだ。このSPLCはユダヤ人組織の「ADL(Anti-Defamation League / 反名誉毀損同盟)」と連携し、ユダヤ人を批判する者や西歐人意識の高い者を徹底的に叩き潰そうとする。

Joseph Levin, Jr 02Bennett GrauElden Rosenthal


(左 : ジョセフ・レヴィン / 中央 : ベネット・グラウ / 右 : エルデン・ローゼンタール )

  両団体の幹部を調べてみれば、誰でも極左ユダヤ人が数多く混じっていることに気づく。例えば、SPLCの共同創設者であるジョセフ・レヴィン(Joseph J. Levin,Jr.)や副会長のベネット・グラウ(Bennett Grau)、よくテレビ番組に招かれる古株のマーク・ポトク(Mark Potok)、重役のリチャード・コーエン(Richard Cohen)、ベテラン・メンバーのハイジ・ベイリッチ(Heidi Beirich)、その他、エルデン・ローゼンタール(Elden Rosenthal)、ハワード・マンデル(Howard Mandell)、サミュエル・ウルフ(Samuel Wolfe)、エレン・スドウ(Ellen Sudow)、リンダ・オルツェック(Lida Orzeck)、ロンダ・ブラウンシュタイン(Londa Brownstein)、ジョセリン・ベンソン(Jocelyn Benson)など、“いかにも”といったユダヤ人が勢揃いだ。

Mark Potok 21Heidi Beirich 3Howard MandellSanuel Wolfe


( 左: マーク・ポトク / ハイジ・ベイリッチ / ハワード・マンデル / 右 : サミュエル・ウルフ)

   「反名誉毀損同盟(ADL)」はユダヤ人団体だから、ユダヤ人で固められていても不思議じゃないが、彼らはトランプ政権の誕生に危機感を覚えている。最高統括者のジョナサン・グリーンブラット(Jonathan Greenblatt)は、シャーロッツヴィルで人種対立が起きた時、トランプ大統領は「白人至上主義者」に対して甘いと非難し、もっと強いメッセージを発するべきだと発破をかけていた。彼が率いるADLは全米の「ヘイト・グループ」やネオ・ナチ集団を監視・警戒しているそうだ。とりわけ、ヨーロッパ系アメリカ人の権利を主張する「アイデンティティー・エウロッパ(Identity Evropa)」はADLの監視対象で、ユダヤ人らは指導者のネイサン・デミゴウ(Nathan Damigo)をネオ・ナチと断定し、心の底から憎んでいる。ADLのアイリーン・ハーシェノフ(Eileen Hershenov)は下院の司法委員会にしゃしゃり出て、白人至上主義者やネオ・ナチの活動家を告発していたけど、そんなのはイチャモンの類いで、ユダヤ人が気に食わないと感じる白人を罵っているだけだ。確かに、彼女が糾弾する「レイシスト」の中には、白人であることを威張り散らすゲス野郎もいるが、本来のアメリカを取り戻そうとする愛国者もいるのだ。

Nathan Damigo 2Jonathan_Greenblatt 11Eileen Hershenov 3


(左 : ネイサン・デミゴウ /  中央 : ジョナサン・グリーンブラット / 右 : アイリーン・ハーシェノフ )

  話を戻す。ユダヤ人組織から目を付けられたネイサン・デミコウだけど、よく聴けば彼の見解は至極まっとうで、アメリカ合衆国を創り、偉大にしてきたヨーロッパ系国民の意識を覚醒させようとしているだけだ。(注 / 「デミコウ」は養父の家族名で、ネイサンが生まれたときの本名は「ロッジ(Lodge)」であるという。) 彼は海兵隊を除隊後、デイヴィッド・デューク(David Duke)の『My Awakening』を読んで白人としての意識に目覚め、「アメリカ自由党(American Freedom Party)」に参加したという。(彼は海兵隊時代にイラクに派遣され、現地で罪を犯し、帰国後懲役刑を受けているが、現地の状況やアメリカ兵の心理状態を斟酌すれば理解しがたいことではない。話すと長くなるので、ここでは省略する。)

David Duke 1(左 / デイヴィッド・デューク)
  実刑を受けたネイサンだけど、皮肉なことに、彼は刑務所で学校で習わない知識を得た。SPLCはネイサンを「ロクでなし」と宣伝し、元KKK幹部のデュークが書いた本に啓発された人種差別者と罵る。だが、ネイサンは自分の頭で考えるようになったのだから他のアメリカ人よりマシである。 普通のアメリカ人は「権威者」の言説を鵜呑みにするだけで、それを独自に検証しようとは思わない。アカデミックな世界が左翼教授に牛耳られていると知らずに、自分を「教養人」とか「知識人」と思い込んでいるアメリカ人が如何に多いことか。(ちなみに、筆者もデュークの本を購入したが、別に異常なところは見つからなかった。この本には彼の子供時代の話やユダヤ人の悪行が書かれているので、結構面白い。特に、第三部の「ユダヤ人問題」は読み応えがある。普通の日本人は読まずに、ただ「KKKの人物が書いた本」と聞いただけで怖じ気づき、条件反射的に目と耳を塞いでしまうが、我々は左翼どもの酷評を信じないで、先ず自分の目で確かめることが肝心だ。) ネイサンの見解はYouTubeで公開されている。筆者は「レッド・アイス(Red Ice) TV」でのインタビューを推薦したい。日本人はSPLCの罵詈雑言に惑わされず、直接ネイサンの話に耳を傾け、自分自身の基準で判断すべきだ。

  アマゾンから「禁書」にされた本は他にもあるが、日本では全く報道されないので、筆者が代わりにここで紹介する。例えば、「アメリカン・ルネサンス」を運営するジャレッド・テイラー(Samuel Jared Taylor)氏は、『もし、何もしなければ(If We Do Nothing)』という本を2017年に出版した。しかし、アマゾンはこの最新刊を排除し、売らないことに決めたそうだ。ついでに、彼の前作『白人のアイデンティティー(White Identity)』という本もサイトから外されてしまった。(筆者は両方とも購入して読んだけど、「禁書」にすべき箇所は見つからなかったし、「日本でも翻訳されればいいのに」と思ったくらいだ。テイラー氏はちゃんと脚注を載せて根拠を示している。日本の大学教授は「ヘイト本」と呼んで斥けるが、真剣に読めば中々有益な本と判るはずだ。)

Jared Taylor 4Kevin MacDonald 3


(左 : ジャレッド・テイラー / 右 : ケヴィン・マクドナルド)

  次の犠牲者はカルフォルニア州立大学ロング・ビーチ校で心理学を教えていたケヴィン・マクドナルド(Kevin MacDonald)博士である。彼は学術的なユダヤ人批判で有名だ。日本の保守派雑誌では一度も取り上げられたことはないが、彼の『批判の文化(Culture of Critic)』は間違いなく名著で、日本人が知らないことがたくさん書かれているから、極めて有益な本と言えよう。ところが、マクドナルド教授も「反ユダヤ主義者」のレッテルを貼られてしまい、彼の本は絶版じゃないのに、アマゾンの販売サイトから消されてしまった。アマゾン側は「ガイドラインに反しているから外した」と答えているが、こんな言い訳を信じる奴がいるのか? マクドナルド教授の本は21年前から販売されているのに、2019年になって急に「違反本です ! 」と言い渡されたんだから、明らかにおかしいだろう。たぶん、ユダヤ人か極左の連中が圧力をかけたに違いない。

マクドナルド氏はユダヤ人を手厳しく批判しているので、彼を恨むユダヤ人は殊のほか多い。だから、彼の学術書を「ヘイト本」にしたのだろう。残念なことに、日本では『批判の文化』を所蔵する図書館はまず無いから、興味のある人は自腹で購入するしかない。マクドナルド教授の論文をまとめた『Cultural Insurrections』も有益な本だが、こちらは稀覯本になってしまい、中古市場では2万円以上に跳ね上がっている。筆者は以前2、3千円で購入したが、こんなに値段が上がるとは思わなかった。「ヘイト本」に指定された書籍は、案外買い手が多いから、古書店は強気になって値をつり上げている。

  当ブログでは以前「オルタ・ライト」を扱い、「右翼知識人」にされたグレッグ・ジョンソン(Greg Johnson)を紹介した。彼も左翼分子から目の敵(かたき)にされており、最新作の『白人ナショナリスト宣言(The White Nationalist Manifesto)』は、2019年2月以降、アマゾンから排斥されている。表向き「在庫切れ」という事になっているが、実質的には「禁書」になっているのだ。2018年に発売されたばかりの新刊本なのに、一年足らずで「絶版」扱いなんておかしいじゃないか。しかも、関連本紹介の欄からも排除なんだって。著者のジョンソン氏は怒りを隠せない。彼の手元には本が平積みになっているし、自身のサイトでも販売しているから、アマゾンから要求があれば、直ぐ本を届けることができる。だが、政治的圧力に屈したアマゾンは、「もはや扱うことはありません」との通知をジョンソン氏に送ったそうだ。これでは、一般の読者は「在庫切れで、絶版なのかぁ」と思ってしまうだろう。こんな処分は酷い。アマゾンは希代の悪人カール・マルクスの『共産党宣言』を今でも販売しているし、ユダヤ民族の意識を鼓舞するテオドール・ヘルツェルが書いた『ユダヤ人国家』も引き続き販売しているじゃないか。どうして、西歐的アメリカを称讃するジョンソン氏の著作だけが「有害指定本」となるのか、その根拠が解らない。

Greg Johnson 1Karl Marx 3Theodor Herzl 2

( 左 : グレッグ・ジョンソン / 中央 : カール・マルクス / 右 : テオドール・ヘルツェル )

  二枚舌や二重思考があるからなのか、アマゾンは左翼陣営になると矢鱈と親切で、「右翼」には見せない寛容性を示す。日本と同じく、アメリカでも共産主義者は未だに健在で、正体を隠しながら毒入り書籍をバラ撒いている。中には元テロリストの連中がいて、「リベラル派」の仮面を被って活動しているから注意が必要だ。例えば、元「ウェザーマン」のキャシー・ウィルカーソン(Cathlyn Platt Wilkerson)は自伝の『Flying Close to the Sun』を出版した。だが、今でもアマゾンで購入できる。(「ウェザーマン」はテロも辞さない極左過激派集団) これまたトンデモない人物だが、コロラド大学で教授になったワード・チャーチル(Ward Churchill)は、アメリカを呪う典型的な左翼学者だ。彼も有害な本を書いており、『反逆行為(Acts of Rebellion)』は未だに販売されている。アマゾンは「いつ」この本を「有害毒本」と指定するのか?

Cathy Wilkerson 2Ward Churchill 1


(左 : キャシー・ウィルカーソン / 右 : ワード・チャーチル)

このワード・チャーチルは筋金入りの極左で、一時期、「ウェザーマン」達に爆弾の作り方を教えていたという。彼は大学で「民俗学」を教えながら、アメリカを攻撃するテロリストを擁護し、憧れのソ連が崩壊したことを嘆いていた。これだけでも噴飯物だが、彼の学術的業績はもっと酷かった。終身教授職を得ていたが、彼の論文は偽物としか言い様がなく、他人の文章を盗み取った破廉恥作品だった。後に、この「剽窃(ひょうせつ)」がバレて問題になったが、チャーチルが詫びることはなかった。そもそも、「民俗学(エスニック・スタディーズ)」を教えている連中なんて、端っから「まとも」じゃないから、卑劣な奴がいても別に驚くことじゃない。

Jeff Bezos 1(左 / ジェフ・ベゾス )
  まぁ、一年中赤いの嵐が吹き荒れるアメリカだから、保守派攻撃があっても不思議じゃないが、アマゾンを運営するジェフ・ベゾスはメディア業界にも進出しているから、実に厄介だ。彼が統括する「ナッシュ・ホールディングス(Nash Holdings)」は、世界中に影響力を持つ「ワシントン・ポスト」紙を傘下に収めている。「ニューヨーク・タイムズ」紙や「ワシントン・ポスト」紙は、普段、格好付けて「言論の自由」を云々するが、その株主や経営者の矛盾する行為を咎めたことはない。いくら新聞社の編集長でも、親分のやることにケチをつければ、クビや左遷となるから、亀のように甲羅に閉じこもって時間が過ぎるのを待っている。それに、迫害されるのが「右翼」なんだから、庇ってやる義理は無い。むしろ、「ざまあみろ !」と笑顔になる。

  アメリカでも大手企業は、日本の藝能事務所みたいに、陰湿な仕置きをするものだ。もし、鼻っ柱の強い藝人が、ジャニーズ事務所の社長やバーニング・プロダクションの周防郁夫を怒らせたら、「干される」どころか藝能界から追放されてしまうだろう。だから、新米の藝能記者だって、これくらいの常識は弁えている。「表があれば、裏がある」というのが世間の常識だ。アメリカにも様々な「裏」があるので、我々はアメリカを自由の国と思わない方がいい。むしろ、自由が点在するギャングランドと考えた方が無難だ。ニューヨークの裏社会を知っているトランプ大統領でも、大物をえぐり出す暴露本は書けまい。もし、書いたら健康なまま「歴史」にされてしまうだろう。ただし、任期中に暗殺されれば、望み通りケネディーみたいな人々の記憶に残る人物となるかもよ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68765531.html
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c11

[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST 中川隆
1. 中川隆[-9549] koaQ7Jey 2019年6月17日 11:37:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2929]

オーディオワークショップ クラングクンスト第8回KLANGの会(KLK2019) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=-LXJ3jTO1SQ


2019/06/05 に公開

駒ヶ根市のオーディオワークショップ クラングクンスト 第8回KLANGの会(KLK2019)に参加してドイツビンテージ励磁型スピーカー デュオフォン等々を聴いて来ました。

曲 
@シュテルケル 私の傍に居たまえ エリーザベト・シュヴァルツコップ 伴奏 ジェラルド・ムーア 
Aバッハ無伴奏パルティータ シチリアーノ ヨーゼフ・シゲティー チューブ・アンプ・クラブ 豊橋


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html#c1

[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST 中川隆
2. 中川隆[-9548] koaQ7Jey 2019年6月17日 11:42:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2930]

蘇れ!世界の名スピーカー 駒ヶ根の実業家らが起業 2005年11月16日
https://ina-dani.net/topics/detail/?id=3463


 世界中から1940縲・0年代に製造された名スピーカーを集め、再生して販売する事業が駒ヶ根市で始まった。マニアには垂涎のドイツの「クラング・フィルム」社製や、アメリカの「ウェスタン・エレクトリック」社製など、主に映画館の音響設備や館内放送用に使用されていたスピーカーが中心。

 インターネットなどを通じて、世界中からスピーカー本体を集め、整備・調整した上で、駒ヶ根市のエーワ木工で作る特注のボックスにセットして販売する。1950年代はトーキー映画全盛期で、映画館用のスピーカーは技術者が手間とコストと情熱をかけて作った逸品が多いという。

 事業をはじめたのは、駒ヶ根市の建設会社専務久保田満さんとコンピューターシステム会社社長小林正信さん、神奈川県横浜市のネット通販会社社長の佐々木猛さんの3人でつくる「クラング・クンスト」=独語で「音響芸術」の意味=。オーディオマニアの小林さんが「世界中で、素晴らしい音の出る古いスピーカーが捨てられている。再生して利用する道を開くことが重要」と話を持ちかけ、久保田さんと佐々木さんは、実際に古いスピーカーの音を聞いて感動、事業化に踏み切った。

 既に、全部組み立てれば500万円するといわれる大型スピーカーをはじめ、さまざまなサイズのものが集まってきている。

再生・販売の中心は、直径8インチ程度の小型のスピーカーだが、特製ボックスに「ホーン」と呼ばれる音響装置を取り付けてあるため、臨場感溢れる音を楽しむことができるという。

値段は8インチのもの2台1セットで16万8千円前後。

 駒ヶ根インター東に展示場がある。詳しくは久保田さん(TEL090窶・148窶・918)まで。
https://ina-dani.net/topics/detail/?id=3463
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html#c2

[リバイバル3] ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは 富山誠
139. 中川隆[-9547] koaQ7Jey 2019年6月17日 11:51:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2931]
小耳にはさんだパラゴンのお話


お店でお客様とのお話しの中で面白い話題がありました。
JBLの名器中の名器「パラゴン」の鳴りに(音に)困っている方のお話・・・

聞けば通常お使いになられるユニットはLE-15Aの場合が多く、
重量があるので音がもっさりする感じ、うまくバランスが取れない感じ
でお悩みの方がいらっしゃるそうです。

そこで、浅型のコーン紙であるため軽量ユニットのJBL D130を
用いたパラゴンを聴かしていただくと軽やかな音に感じられました。
(社長談)

これは試してみる価値がありそうです。
いち考え方として覚えておくと良いのかもしれません。
http://www.odeon.in/index.php?f=hp&ci=14596&i=26675#222
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html#c139

[リバイバル3] CD/SACDプレーヤーからPC・ネットワークオーディオへ 中川隆
37. 中川隆[-9546] koaQ7Jey 2019年6月17日 12:07:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2932]


PCオーディオについて オーディオ南海 西田辺店
http://www.audionankai-n.jp/computer_audio.html

アナログか?デジタルか?という論争は永遠に決着のつかない「不毛の論争」です。

当店のコンセプトである「発想・選択・自由自在」の観点から述べさせていただくと,どちらを選ぶのも人それぞれで,当店が押し付けるものではありません。できれば両方を楽しんでしまえばいいのです。

このコーナーでお話しさせていただくのは,これからのデジタル音源はどう再生されるのがベストか?ということです。
このコーナーは一人のオーディオ・ファンである Jazz Audio(ニックネーム) が書かせていただきました。よって,オーディオ南海 西田辺店には一切の責任はありません。


これからのデジタル・プレーヤー

現在,市販されているパッケージ・ソフトはCD,SACD,DVD(オーディオ)ぐらいでしょうか。

市場に出回っているデジタル・プレーヤーはCD/SACDプレーヤーがメインで,あとはユニバーサル・ディスク・プレーヤーなる機種がちらほらと散見される程度です。
いつの間にか,CD専用機は姿を消してしまいました。一般的にはCDの音質で十分であると考えるのですが,オーディオ・メーカーは,今の「オーディオ不況」を乗り切るためにCD/SACDプレーヤーに矛先を向けてしまいました。SACDやDVDオーディオは,全く普及していないにもかかわらず…。

また,SACD用のピックアップはCD用のピックアップに比べて非常に寿命が短いということが経験として分かってきました。CD/SACDプレーヤーでCDはまだまだ再生できるのに,SACDが再生できなくなってしまうということが起こりうるのです!そうなった時点で,そのディスク・ドライブのメカは生産完了ということが多くて,修理不能という事態に陥ってしまう場合もあります。

ハイレゾ音源の配信が始まると,CD/SACDプレーヤーにUSB入力端子を設けるメーカーが増えてきました。こうなってしまってはもうユーザー不在の戦略であり,将来のデジタル音源をどのように再生するのかという目標・到達点が全くもって見えません。

PCトランスポートの出現!

そこで「PCトランスポート」という考え方が出現しました。今までのディスク・プレーヤーの貧相なCPUではなくて,有り余る処理能力を持った高速なCPUでデジタル信号を処理するというものです。
取り扱うことができるデジタル音源は

  CDをはじめとする16bit/44.1kHzのPCM音源
  SACDに使用されているDSD音源
  24bit/192kHzを代表とするハイレゾPCM音源

など全てのデジタル音源が再生できるというものです。24bit/352.8kHzのハイレゾ・デジタル音源も配信されつつあるようです。

PCオーディオと言っても従来のDAC以降(プリアンプ,パワーアンプ,スピーカー等)は現状の愛着のある機器をそのまま使うのです。今までのCDトランスポートのみがPCに置き換わるだけです。
必要なハードウェア

必要なハードウェアは

  パソコン(OSはWindows,Mac,Linuxのいずれか)
  CDドライブ(リッピング用に必要であれば)
  外付けHDD(容量は2~3TBぐらい)
  バックアップ用HDD(容量は2~3TBぐらい)

  DACにUSB入力がない場合はUSBをS/PDIFに変換するDDC
  高音質を狙うならマスタークロック・ジェネレーター
  各種デジタル・ケーブル

程度です。

必要な機器が多いようにも思いますが,機器単体の価格は「オーディオ価格」と比べれば「月とスッポン」ですので,そんなに初期費用は大きくありません。


必要なソフトウェア

必要なソフトウェアはパソコンのOSによっても変わってきますが,私の場合“iTunes”が必須ですので

  iTunes(音楽データ管理用ソフト)
  音楽再生専用のプレーヤー
  リッピング用ソフト
  オーディオ・コンバーター(音楽データのフォーマット変換ソフト)
  AU(オーディオ・ユニットというプラグイン)

程度です。

上記ソフトウェアで有料なのは“音楽再生専用のプレーヤー”および“AU”くらいで,あとのソフトウェアはフリーで無償です。

また,“iTunes”は単独でもCDをリッピングしたり音楽再生もできるのですが,ちょっとその精度が不安ですので音楽データ管理用ソフトとして使用します。その使用感は抜群の使い易さが魅力で,他の追従を許しません。

快適なPCトランスポートを楽しむために

必要なハードウェアとソフトウェアが揃いました。これで,お手持ちのCDをリッピングしてHDDに保存します。

ハイレゾ音源を聴きたければ,ハイレゾ配信サイトからダウンロードしてHDDに保存します。DSD音源も同様です。

このままでも,十分な高音質が期待できますが,ここでAU(オーディオ・ユニットというプラグイン)でご自身の趣向にあった音に仕上げることにより,十分な手間をかけることができます。

AUにはパラメトリック・イコライザーやリバーブなどがあり,いろいろな効果を付加させることができますので,十分な時間と手間をかけて,音質を調整してください。

また,パソコン,CDドライブ,HDドライブやDACのインシュレーターや各機器をつなぐ各種デジタル・ケーブルでも思った以上に音が変化しますので挑戦してみてください。

ご自身の目指す音を求めて,オーディオ・ライフを満喫してくださいませ。

私的PCトランスポートの楽しみ方

私の個人的なPCトランスポートの楽しみ方・考え方を書いてみます。

LINNの提案するネットワーク・ミュージック・プレーヤーという考え方も興味深いものがあります。DACにイーサネット・インターフェイスを持ったものです。LANケーブルを各部屋に敷設しておくと,共有のNASに保存している音源を各部屋で再生可能というものです。ただ,各部屋にネットワーク・ミュージック・プレーヤーのDSMとオーディオ装置が必要なので,日常の生活のいかなる場所・時にも音楽を楽しむという習慣があまりない日本の文化に溶け込めるかどうかは疑問です。

私の場合はオーディオ装置を設置している部屋のみで高音質な音楽を聴くことができればそれでOKなので,PCのUSB出力を受けることができるDACを選択しました。この方がDACの選択肢も広がりますし,LANケーブルの敷設も必要ありません。

次に,PCのOSの選択が必要です。WindowsかMac OSかLinuxか?一般的には普及率の高いWindowsが選択される場合が多いと思います。私も初めはWindowsから取り組みました。

Windows版のお勧めミュージック・プレーヤーは下記の通りです。

  JPLAY(http://jplay.eu/
  HQPlayer(http://www.hqplayer.jp/
  XXHighEnd(http://www.phasure.com/index.php

いずれも有料のミュージック・プレーヤーです。3つ目の“XXHighEnd”はとても怪しい雰囲気ですが,音は好みでした。

ただ,3つともプレイ・リストの使い方が iTunes と比べると残念な使用感でした。私が使っていたのは,もう随分と前なので進歩しているかも知れません。

Mac OSに私が移行したのは,iTunes の使い良さを生かしたいとの思いからです。

Mac OS版のお勧めミュージック・プレーヤーは下記の通りです。

  Audirvana Plus(http://audirvana.com/
  Fidelia(http://www.audiofile-engineering.com/fidelia/
  Pure Music Ver.2(http://channld.com/puremusic/
  Amarra+Amarra sQ(http://www.sonicstudio.com/

いずれも有料のミュージック・プレーヤーです。

“Audirvana Plus”は最もお勧めのミュージック・プレーヤーです。iTunes との連携プレイも完璧で,AUも4種類組み込むことが可能です。機能も申し分なく,音質も最高クラスです。

“Fidelia”は iTunes との連携プレイが出来ないのが残念です。AUは3種類組み込むことが可能です。ただ,もう開発は終了してしまったのか,最近はバージョンアップがありません。

“Pure Music Ver.2”は iTunes との連携プレイも出来て,AUも沢山組み込むことが可能です。ただ,多機能過ぎて使いこなしに少々難ありで,音質は可もなく不可もなくという感じです。

“Amarra”は当初,非常に価格が高くて日本の代理店を通してしか入手できず,評判は大変良かったのですけれど私としてはあまりよろしくない印象を持っています。iTunes との連携プレイは可能ですが,AUは組み込めずに独自の“Amarra sQ”というパラメトリック・イコライザーを別売で入手できます。ただ,操作性が独自のものであり,操作感が良いとは言えません。今は他のミュージック・プレーヤーを意識してか価格も抑えられて,ネットからダウンロードできるようです。

Mac OSを導入するのに一番大切なことはミュージック・プレーヤーが iTunes と連携できるものが多いということとAU(オーディオ・ユニット)というプラグインを組み込むことができるものが多いという2つの利点があるということです。

Windowsのミュージック・プレーヤーでも iTunes と連携できるものやAUが組み込めるものが存在するとは思いますが,特に iTunes との連携がぎこちない(動作が遅くて使い物にならない?)ものが多いと感じます。やっぱり,iTunes は Apple の製品で動作させた方がいいでしょう。

Linuxのマシンは使ったことがないのでお話はできません。ただ,使いにくいということは聞いたことがありますが,OSが単純なので最も音が良いとの評判もあります。


iTunesとAU(オーディオ・ユニット)

PCオーディオの魅力はやはり iTunes と AU に尽きると思います。iTunes と AU を別に使わなくても高音質は手に入るでしょう。ハイレゾ音源やDSD音源を再生すれば,CDやSACDの音質を簡単に超えることができます。周波数特性やS/Nなどの物理特性的性能はアナログ・デジタルを両方含めても最高でしょう。

ただ,使い勝手がよろしくないとか音が硬くて音楽を楽しめないという方も出てくるでしょう。アナログを楽しむ場合には工夫して使い勝手を良くしたり,カートリッジやトーンアームを交換して音を自身の好みに近づけることができます。

PCオーディオでは最高の使い勝手を実現するために iTunes を使ったり,好みの音質に調整するために AU を使うことができます。

iTunes を音楽データ管理用ソフトとして使用する場合,“flacファイル”と“DSDファイル”は取り込むことができません。そのため,“flacファイル”はオーディオ・コンバーターを用いて“wavファイル”などに変換して iTunes に取り込む必要があります。また,“DSDファイル”は使用しているミュージック・プレーヤー独自のプレイ・リストに取り込んで再生する必要があります。

もう一つ iTunes を音楽データ管理用ソフトとして使用する場合に問題があります。“wavファイル”を取り込む場合には曲情報などは取り込むことができません。これは大問題で,ミュージシャン名やアルバム・タイトルをなかなか覚えることができないような初老の私にはアルバム・ジャケットの画像で聴きたいアルバムを探すのが通例となっています。ですから“wavファイル”で取り込んだアルバムのジャケットの画像が表示されないということは致命的な問題です!できるなら,高音質の“wavファイル”で音楽データーは残したいものですが,こんな場合でも大丈夫!なのです。“wavファイル”で取り込んだアルバムの最後の曲として“mp3ファイル”を追加して,その曲のアートワークとしてジャケット画像を登録すれば良いのです。

“mp3ファイル”は無音状態で曲の長さは1秒ぐらいが適当です。そして,その“mp3ファイル”は再生しないように設定します。

上記のような感じにします。必要なら“mp3ファイル”は下記よりダウンロードしてください。

“mp3ファイル”のダウンロードはこちらから → 
http://www.audionankai-n.jp/computer_audio.html


これで iTunes は最高のプレイ・リストになるでしょう。

AU(オーディオ・ユニット・プラグイン)については,web上にフリー(無償)でダウンロードできるものが多数存在しますが,私としては「おもちゃ」みたいで全く使う気になれなかったものがほとんどです。

有償のAUをいろいろと探してみますと,Pro Tools や Logic Pro X(Apple)という凄いソフトウェアがありますが全く使い方が分からない…。(泣)

それで,やっと探し当てたのが

  iZotope(https://www.izotope.com/
  Waves Audio(http://www.waves.com/

のプラグインです。

 iZotope OZONE 6                 Waves GEQ

 Waves Linear Phase EQ             Waves IR1 Convolution Reverb

価格は一つのプラグインを数万円で入手できます。iZotope も Waves もプロのレコーディングでミキシング・ツールとして活躍していますので,十分なクオリティーを感じさせてくれます。

これらを外付けのハードで揃えるとなると Accuphase のヴォイシング・イコライザー1台で \850,000 ぐらいの出資を覚悟せねばなりません!

なにも周波数特性が一直線であるばかりが高音質ではないと思います。もっと積極的に自分自身のお好みの音質に仕上げられてはいかがでしょうか?


USB入力付きD/Aコンバーター

この際,お持ちのD/Aコンバーターが旧くなってきて,そろそろ新調しようとお考えの方はUSB入力付きのD/Aコンバーターをお勧めします。


dCS や NAGRA や LINDEMANN などから,続々と魅力的な製品が出現しています!
(The End)
http://www.audionankai-n.jp/computer_audio.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/854.html#c37

[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST 中川隆
3. 中川隆[-9545] koaQ7Jey 2019年6月17日 12:46:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2933]

2015.03.01
号外その4 信州オーディオ 潜入記
http://hkatahkata.hatenablog.com/entry/2015/03/01/160757


信州オーディオ。

やばい扉を開けてしまったのかもしれません ( ̄◇ ̄;)

先日わざわざ東京まで出かけ、オイロダインという珍しいアンティーク励磁型SPの音をを聴いてきました。さすが東京、すごいマニアの方がいらっしゃるものだと感心して帰ってきました。

ところがオイロダインで検索していると、なんと地元にオイロダインの第一人者がいらっしゃる?という情報を見つけました (°_°)

なんでこんな田舎に?という疑問はさておき、メールで視聴希望をお伝えしたところ快く承諾していただいたので仕事帰りにお邪魔してきました。

そこには・・・

オイロダインがいっぱい \(^o^)/

オーナーさんは、なんでも雑誌「管球王国」から依頼を受けてオイロダインの記事を連載されたこともあるとのことで、私のような初心者では説明を聞いてもさっぱりわかりません (´▽`)。

それでも興味深かったのが、オイロダインは戦前から制作されていたのではなく、ドイツが敗戦した1945年の夏(だったかな?)以降に制作され始めたということ、モデル末期には励磁型ではなくアルニコのマグネットタイプに変わったということ、ドイツ本国ではその価値があまり評価されずにその多くが廃棄され、それに目をつけた日本のマニアが沢山輸入したこと(100セット程度はあるそうです。信州にも10セットは入っていて、人口比率的にはかなり多いそうです)、その後ドイツでも評価が高まり買い戻されていること、などです。(記事のコピーを沢山いただきましたw)

オーナーの方は都会から引っ越されてきた方かな?などと勘ぐっていましたが、話を聞いてみると地元の方でした。それも私の勤めている会社の取引先の社長さんでした (*´∀`*)。

知らなかった・・・ 

こんな珍しいスピーカーもありました。東ドイツSchulz社製の小型フルレンジスピーカーです。

アンティークSPなのに、これがまた現代的な解像度の高い生々しい音を出すんです。コーンの部分にフェルトが貼られています。なんとなくケブタやエンジェルファーに繋がるものを感じ親近感を覚えましたw。暖かくなったらオーナーさんの自宅で視聴会も行われるようですので、是非行ってみたいと思っています。

(もう口コミで予約がいっぱいだそうです。ご迷惑になってはいけないので、情報はこのくらいにしておきます。どうしても聴きたい方は自力でたどり着いてくださいw)

その後、色々と話をしていると、安曇野にフランス製の励磁型SPを販売している会社があり、その会社と提携してJAZZの演奏会を開催しているとお聞きし、こちらにもお邪魔してきました。

知る人ぞ知る「サウンドパーツ」さんです。もちろん私は知りませんでした(^O^)

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場所は松本インターから車で15分ぐらいのところです。私の家からは1時間ぐらいかな?

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おフランス製(らんさぁさん当たりw)の励磁型ユニットを用いたSPシステムです。なんと励磁電源はスイッチング電源でした(・□・;)

音質はというと、励磁型らしく各楽器の音が混ざらないで鮮明に聴こえてきます。情報量が多く、音場も深くて音離れも良い。低音が明瞭なんですよね。ぼやけずにどこまでも伸びる。これはマグネット式のSPからは聴けない音です。

女性ボーカルやピアノなどはクラっとくる魅力的な音ですw。でも面白いものでやはりフランス的な音がします。柔らかで華やか(´▽`)。長時間聞いても聴き疲れしませんでした。feastrexとはかなり違う傾向の音です。

私の好みとしては、もう少しスピード感が欲しいとも思いましたが、やはり励磁型のSPは良い。

励磁型のユニットです。

かなりの台数が売れたというプリアンプです。

水谷社長、ありがとうございました。

やはり音質の決め手はSP。なんとか励磁型のSPを手に入れることができないものだろうか?・・・

などと考えながら家に戻ってきて自分のシステムの音を聴いてみると、これがまたオカルト現象なのか良い音で鳴るんですよねヽ(*´∀`)ノ。音の繊細さでは上回っています。

805Dも頑張ってますw。励磁型のスピード感と音場の奥行、音の張りと分解能の良さを目指して、もう少し弄ってみますかw。

らんさぁ@蝦夷

こんばんは。

サウンドパーツさん、面白いですね。
電源にスイッチング、サイト見ますと励磁電源だけでなくて真空管アンプ用のスイッチング電源も開発中とのことですし、未来を見ている会社なのだろうなと思いました。

私が調べた限り、私にとっての現実的な値段(無理すれば手が届きそう)でユニットと励磁電源を売っているのはここだけです。

上を見始めたらキリがないのが励磁スピーカーの世界、おそらく極めようとしたら新車のフェラーリが軽く買えるでしょうね〜(笑)


だから自分で作っちゃえば良いんだよ、と、そういう人もいるのが面白い。
励磁スピーカー自作でググればそういう先達の作例がすぐに見つかります。
多分、結構ご年配の方々。

この世界にかぎらず、若い人間ほど理屈をこねるだけで何もせず、フットワークが軽くて情熱的かつ行動的なのは大抵ご年配の方々なんですよね、自分でも反省しきりです。

4年前 CommentsAdd Star


kata@ (id:hkatahkata)

こんばんは。

励磁型SPの自作?(;゚ロ゚)。
検索してみると、驚いたことに変な人がいっぱい(^。^)。

なんと真空管を自作している人もいた(°_°)。
オーディオマニア恐るべし。

4年前 CommentsAdd Star

らんさぁ@蝦夷

こんばんは。

>なんと真空管を自作している人もいた(°_°)。

うわ、それは興味深いので私も探してみます♪
私は真空管アンプには全く欠片も興味が無い(自作マニアの知人に酷い音ばかり聞かされて重度のアレルギーになった)のですが、真空管の光る様子は大好きでして、フェイク真空管が欲しいのですよ(笑)
ナス管の微妙な形状を簡単に作れれば・・・・・

励磁型、興味があれば755EXというのもあります。

http://www.h3.dion.ne.jp/~myama/

このユニットも分類上はフルレンジなのですが、構造的に非常に特殊でして・・・・・・

メカニカル3ウエイ構造と言われています。

個人的には素直にフルレンジとは言いたくない特殊なユニットで、アルニコ磁石でのレプリカなら「キット屋」さんで売っていたりします。
755で一番有名なのはフェライト磁石を搭載した通称パンケーキですが、こちらはレプリカもなく絶版。


あと、国産励磁スピーカーとして絶対に忘れてはいけないマクソニックというメーカーがありますが、ここはフルレンジ作ってないので私としては興味なし、どーでも良い感じ(笑)

4年前 CommentsAdd Star

http://hkatahkata.hatenablog.com/entry/2015/03/01/160757
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html#c3

[リバイバル3] ケーブル(電線)の世界 中川隆
83. 中川隆[-9544] koaQ7Jey 2019年6月17日 13:19:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2934]

2015.02.14
号外その2 Siemens Eurodyn&Voigt Domestic Horn試聴記
http://hkatahkata.hatenablog.com/entry/2015/02/14/003929

う〜ん。

PCの付属のスピーカーの音が悪い、というところから気軽に始めたはずのオーディオ弄り。たった3年程度のことなのに、私はいったい何処に来てしまったのだろう?

東京は渋谷のとある輸入食材商社さんの倉庫。その奥にある社長さんの趣味のオーディオルーム。そこで「Siemens Eurodyn」と「Voigt Domestic Horn」の音を聴きながら、そんな事を思ってしまいました。

例によって、「オイロダインを聴きに行こう」と、Kさんに誘われるままにノコノコと付いて行ったわけですが、「オイロダイン」って何?オロナインなら知ってるけど(w)・・・と、相変わらず物の価値が分かっていない私でした。でも、その音を聴いて、またまたビックリです。

「シーメンス オイロダイン」 これもfeastrexとおなじく励磁型SPですが、かなり古いもので、本来は映画館用です。


オイロダインはGe3アイテムでフルチューンされていました。(ぱっと見でも、ケブタエッジ、地球独楽・弐、エンジェルファー・茅蜩などなど・・・あっ、青Qが塗られてる!)オーナーさんは10年来のヘビーユーザーだそうです。

そして驚いたことに、オイロダインは一台でのモノラル再生でした。オーナーさんによると、音質を突き詰めて行ったらモノラル再生に行き着いたそうです。そもそもステレオ再生の音は人工的な音で不自然だといわれましたが・・・(そんなこと言われても困りますw)

でも、家に戻ってきてネットで検索してみると、案外アナログ再生の方がステレオ再生より音質が良いという人が多いんですよね!?。驚きです。

早速試聴に入りました。

真空管を使った励磁電源の灯が灯り、モノラルレコードをortofonのモノラルカートリッジで再生した音が流れ始めました。最初は、普通のモノラルの音だなあ、やっぱりステレオ再生の音場の立体感には敵わないぞ?と思っていたのですが、しばらくして励磁電源が暖まってくると様子が変わってきました。

モノラルなのに音場に立体感が出始めました Σ(゚д゚;)。

それも普通の立体感と違います。まるで録音されたその場の空間が目の前に出現しているような、濃密な実在感・エコロケーション感です。

暗い音調の曲がかかると、なんか寒いのです!。ゾクゾク寒気がしました。何かがSPから放出されています (((((゚д゚;ノノ。

https://www.youtube.com/watch?v=T8lyHgrlroY

高音はあまり出ていません。スピード感もfeastrexに比べると劣ります。でも、音の密度感・空気感が違います。音が分厚い塊のようです。

この時はRCAケーブル(だったかな?)にロシア製の銀線が使われていました。

(スミマセン、機器の構成は良くわかりません。なにしろ見慣れないものばかりでしたので・・・。HS-210がラックに置いてあったので、NETオーディオ対応済みなのは分かりました。その他は真空管やトランスがいっぱいあった、程度の認識ですw)

オーナーさんによると、このロシア製のケーブルは、締まっているけど暗い音調のケーブルだそうです。ロシアのマイナス何十度の倉庫の中に長時間放置されたことによって、天然のクライオ処理になった?などと盛り上がりましたw。ちなみにKさんによると、クライオ処理は暗い音になるそうです。

次に、アメリカのケーブルに変えてみました。すると、途端に元気で能天気な音になりました。このオーディオ機器やパーツの生産国によって、その国の音質になるのは何故なのでしょう?昔からの疑問です。

その後、遠路新潟から来られたオーナーのご友人が到着され、試聴に加わりました。この方はオーディオ機器の自作の達人らしく、自作DACらしきものを持ち込まれて来ました。DACらしきものは、小さな本体と巨大な真空管式の電源との構成です。

そのDACらしきものに、本邦初公開、まだ試作段階の「銀蛇USBケーブル」と銀蛇LANケーブルを接続してHS-210から音を出してみると、これがまた凄い音!。

音場の立体感・実在感が更に増しました。ステレオ再生顔負けです。抜けが良く情報量が飛躍的に増大しています。SPの前に、別の空間が出現しているかのようです。

https://www.youtube.com/watch?v=x6SwEFfW9wQ

(タブレットによるなんちゃって録音ですので「気」は録れていません。想像してくださいw)

その音に圧倒されまくっていると、Kさんがこそっと教えてくれたのですが、なんとSPの出音で152pzを越えていました (@_@;)。150pz超え初体験ですw。エライ展開になってきましたw。
http://hkatahkata.hatenablog.com/entry/2015/02/14/003929
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/757.html#c83

[リバイバル3] CD プレーヤーは進歩しているのか?  中川隆
75. 中川隆[-9543] koaQ7Jey 2019年6月17日 14:56:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2935]

ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html


クラング・クンスト DAコンバーターなどの製品情報
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069&i=10426


クラング・クンスト 大小のネットワークオーディオ機器 2015年12月
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10139&i=10419


家電品らしく梱包されたHAP-Z1ES

 今年の5月ごろ、久しぶりに新品の本格的なオーディオ製品を購入した。SONYのハードディスク内蔵ネットワークプレーヤーであるHAP-Z1ESのことだ。届いたダンボールはずっしりと重く、いかにも「高級家電品在中」という感じがした。なにしろヴィンテージオーディオにどっぷりなので、そういう立派な品物を電器店で買ったのは、3年前のシャープ製オーブンレンジ「ヘルシア」以来だ。毎年のように新品のUSB DACを購入してはいるが、それらは小さくて軽く、すぐにリスニングルームに山とある機器に埋もれて行方不明になるので、「買った」という感慨がわかない。それにひきかえ、オーディオコンポーネントの伝統である厚いアルミのフロントパネルをもつHAP-Z1ESは、なかなかの存在感だ。

伝統的な外観のHAP-Z1ES

 わたしは第二次大戦前後に作られたスピーカーを使用しているので、アナログ一辺倒かと思いきや、ソースが豊富なCDがほとんどだ。どんな高級なCDプレーヤーも、少なくともデジタルデータを読み出す部分においては、PlexWriter Premium2というCD-RWドライブでのリッピングよりも優れてはいないので、パソコンで音楽ファイルを再生してDACでアナログ信号に変換して聴くことにしている。ファイルの再生には、最近流行りのVolumioを「ラズベリーパイ(Raspberry Pi)」にインストールして使っている。「ラズベリーパイ」は、イギリスの「ラズベリー財団」が、「途上国も含めた世界中で、あまねくパソコンを使った教育が受けられるように」と、開発・供給している超小型パソコンである。「ラズベリーパイ」の本体はわずか50 gほどで、14.5 kg もあるHAP-Z1ESの1/300しかなく、存在感とか高級感とは無縁の機器だ。

Raspberry Pi2 Model B

 もうひとつ、HAP-Z1ESとほぼ同時期に購入したDACがある。やはりイギリスのiFi Audioのmicro iDSDだ。8万円弱という購入価格はHAP-Z1ESの半額以下だが、重さは300 g 弱しかないので、100 g 当たりの単価はmicro iDSDが20倍も高い。2000年に没した偉大なる実践的オーディオ評論家であった長岡鉄男氏の影響で、「とにかく重いオーディオ機器が優れている」と大勢が信じていた昔なら、「漬物石でも入っているのか?」と思うほど重いHAP-Z1ESが絶賛され、iDSDなど門前払いだったかもしれない。だが、ラズベリーパイに3TバイトのUSB外付けハードディスクを接続し、micro iDSDと組み合わせてネットワークプレーヤーを構成すると、わずか 1.3 kg で済むのにスペックではHAP-Z1ESを上回ってしまう。コンピューターに詳しい人だけが安くて高性能な機器の組み合わせ使えるという、オーディオ版デジタルディバイドといえるかもしれない。


比較項目 SONY HAP-Z1ES micro iDSD + Raspberry Pi 2 + 3T HDD
重さ 14.5 kg 1.3 kg
PCM最高クロック 192 kHz 384 kHz
DSD最高クロック 5.6 MHz 11.2 MHz
データ保存容量 1T 3T

ifiのmicro iDSD

 micro iDSDを購入したのは、最新スペックのDSD対応DACであることと、バッテリーで動作することだ。わたしが最初に買ったCDプレーヤーは、1980年代末ごろのパナソニックのポータブルタイプで、当時の据置型CDプレーヤーよりも音が自然に感じられたので選んだことを思い出し、「このmicro iDSDにも同じ良さがあれば」と期待した。PCMで 384 kHz、DSDで 11.2 MHzという高スペックは、活かす音源を持たないので無駄だが、バッテリー動作時の音質向上と「最新のチップを余計な付加回路を付けずにシンプルに使っている」という良さは、多くの優れたポータブル機器と同様にあると思う。

 我が家で好成績だったので、オイロダインを使っている知り合いなどに薦めたところ、何人かが購入した。もっと安いnano iDSDでも良いのでは、とそちらを買ってもらったところ、やはり44.1 kHzのCDデータ中心ではnanoと大差ないようで、結果的にスピーカーとの価格差100倍のシステムが成立してしまった。ハイレゾブームだが、膨大なCDと比較すれば圧倒的にハイレゾ音源は乏しく、あくまで統計的にだが、データ密度は高いものの演奏内容は低レートで、両者の積和はCDが上回る状態が当面続くと思われる。

重厚超大なHAP-Z1ESと軽薄短小なmicro iDSD

 意外に思われるかもしれないが、HAP-Z1ESの厚みのある音よりも、micro iDSDの軽快な音のほうがオイロダインやオイロパといった、クラングフィルムのヴィンテージスピーカーにはマッチした。もちろん、わたしの個人的な印象にすぎない。スピーカーが十分に個性的なので、DACは素っ気ないくらいのほうがいいのかもしれない。それでも、両者を長時間聴いてみると、外観に現れているように音にも仕上げの差があって、HAP-Z1ESの方が好ましい部分も出てきた。たとえば、音のバリをより丁寧に面取りしてあるように感じる。

 じつは、HAP-Z1ESを購入したのは、新忠篤氏がプロデュースするDSDフォーマットで復刻された名録音の販売をお手伝いしていて、HAP-Z1ESユーザーからのクレームが多かったため、検証が必要になったからだ。「なーんだ、欲しくて買ったんじゃないんだ」ということになってしまうが、結果として悪い買い物ではなかったと思う。HAP-Z1ESのおかげで、自分の装置が偏りすぎていることを反省し、「DACだけでなく、スピーカーもベストセラー製品を試しに購入してみよう」と考えるようになった。苦手な音が多そうで最新スピーカーは気が進まないが、近いうちにB&Wでも試聴して修行する必要がありそうだ。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10139&i=10419



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/842.html#c75

[近代史3] この酷い音があの有名な B&W のスピーカーか 中川隆
15. 中川隆[-9542] koaQ7Jey 2019年6月17日 15:01:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2936]

ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html

クラング・クンスト ヴィンテージ愛好家の最新スピーカー試聴記 2016年4月
https://www.klang.jp/index.php?ci=10139


1945年から1983年まで38年間も製造されたオイロダインスピーカー
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10428_801.jpg

 先日、じつに久しぶりに秋葉原に出向き、いろいろな最新スピーカーを試聴したことについて書く。ご存じのように、わたしはオイロパやオイロダインといったクラングフィルムのヴィンテージスピーカーを使っている。ウェスタンエレクトリックも含めると同好の仲間は大勢いて、我らヴィンテージ愛好家はオーディオにおける大派閥だ。そんな連中はB&Wなどの最新スピーカーには目もくれず、「あんなキンキンシャカシャカしたスピーカーはオモチャですよ」といった調子だ。

 だが、古い機器に囲まれて何十年もいると、ふと、「世間は文明化して洋服なのに自分だけ貫頭衣というように、取り残されているのではないか?」、「自分だけ古墳時代?」などと思うことがある。最新スピーカーの宣伝文句には「革新的な進歩」、「これまでにない完璧なサウンド」などという文句が踊っていて、「劣った昔のスピーカーなど粗大ごみにしてサッサと買い替えましょう」と言わんばかりだ。もちろん、アンプにも同様なことがいえるが、スピーカーほど極端な音の差は無いだろう。

 筋金入りのヴィンテージオーディオ愛好家のなかには、装置があまりに大げさなので「それではナローレンジ過ぎませんか?」と心配すると、「どうせ耳が悪いので分かりません」とか、「音楽は聞きませんから」などど豪語する人もいる。わたしも裸の王様になってはまずいので、自分の耳で最新スピーカーを確認してみることにした。若いエンジニアのK君と「肉の万世」前で待ち合わせの約束をして出向くと、そこはコインパーキングになっていた。まったくの浦島太郎だ。「肉の万世」は万世橋の向こう岸に移転していたが、ハンバーグの味は変わっていなかった。

ずいぶんと前にオーディオの街ではなくなっている秋葉原

 試聴には「西脇義訓指揮、デア・リング・オーケストラ」による「英雄交響曲」のSACDと、「フェリシティ・ロット(ソプラノ)」による「シューマン歌曲集」のCDを持参した。最新スピーカーに合わせた新録音と、聴きなじんだ歌という組み合わせだ。「革新的な技術によって歪がなくなったはずのニューモデルは、さぞかしピュアな音を聴かせてくれるにちがいない」と期待しつつ、複数のショップでかなりの数のスピーカーを聴いた。

 大型量販店でぶらぶらしながらJBLやタンノイの小型モデルが鳴っている音を聴いたが、それらは改めて試聴したいと思うほどではなかった。開発中のDAコンバーターを現在のベストセラースピーカーで鳴らすと、いったいどんな音が出るのか確認してみる必要があると思っていたので、まずはB&Wの試聴を申し込んだ。トヨタ車のような絶対的優越性があるとされ、驚くほど売れているらしい。

 まず、安価な600シリーズを聴いたところ、無理して上位機と同じツィーターにしたために中国で製造してもコストに無理があるのか、長岡鉄男流に重量ブロックでも乗せないと箱が厳しいと感じた。だが、それでは都会にふさわしいコンパクトなデザインが台なしになってしまう。いまのように高価で豊富なオーディオアクセサリー製品が無かった昔は、愛好家の必需品といえば重量ブロックやレンガ、ブチルゴムシートなどであった。いやはやダサいが、いまでも効果のあるアクセサリー群だ。

 その上のCMシリーズには重量ブロックが必要なさそうだったが、期待していたようなピュアな音ではなかった。きっとうまくマーケッティングをして、「B&Wの音」を作っているのだろう。無色透明どころか、「下手をするとオイロダインより癖が強いのでは?」と思う瞬間もあった。CM1S2やCM5S2といった2ウェイはとてもコンパクトなので、英雄交響曲で低音が貧弱なのはしかたないが、高音が重要な弦の広がりや管の輝きも「これぞ最新スピーカー!」というほどではなかった。試聴の前にアンプをどれにするか問われたので、「できるだけニュートラルなもので」と所望したところ、LUXMANの純A級動作プリメインアンプL-550AX(たぶん)を使ってくれたが、低能率の小型スピーカーにはパワー不足だったかもしれない。

購入したB&WのCM1 S2

 CM9S2やCM10S2といった3ウェイは箱が大きいので低音は2ウェイよりまともだった。それだけでなく、高音も2ウェイより鮮やかに聴こえた。こういう「これみよがし」の高分解能を最新モデルに期待していたので、「試しに手頃なCM9でも買ってみようか」などと気をよくした。だが、ソプラノを聴いてみると、なんとも人工的な声でがっかりした。それをK君に小声で伝えると、「世の中アニソン(アニメーション漫画のソング)のほうがメジャーですから」と返されてしまった。もう一度2ウェイに戻してもらってソプラノを聴くと、今度は2ウェイのほうが3ウェイよりもまともだった。70センチウーファーを使っているわたしは、「こんなに小さなウーファーでも2ウェイと3ウェイで一長一短があるのか」と感心してしまった。

 ダイヤモンド・ドーム・ツィーターを使用した800シリーズも、2店舗で3機種を試聴した。たしかに歪は少なそうだったが、音の肌触りが異質でなじめなかった。「優れて異なる」ということかもしれないが、先入観も含め、ダイヤモンドの物性が特異であることが音の印象に影響してしまっていた。以上のようにネガティブな評価も正直に書くが、キチガイじみた大型スピーカーを使っている変人の感想なので、関係諸氏には広い心でご容赦いただきたい。

 店員に「B&Wの音はちょっと派手で不自然に感じる」と伝えると、2番目に売れているというFOCALのスピーカーを聴かせてくれた。たしかに音は柔らかかったが、どこか音が薄められているようで中途半端に思えた。DALIなど、ほかに聴かせてもらった売れ筋スピーカーも印象に残らなかった。好みではないが、「なるほど、B&Wの音はうまく作ってある」と感心した。ハズレが続いて疲れたので、懐かしの名機BC IIのおかげで好印象なスペンドールを聴かせてもらった。最小モデルのSP3/1R2でも、どことなくBC IIらしい上品な音がしたので、やはり伝統というものは大切だと思ったが、高音寄りのバランスが気になった。中型のSP1/2R2にしてもらっうと、バランスは少し良くなったが、価格が立派すぎる。

 なかなか思うようなスピーカーは無いものだと思いつつ、売れ筋スピーカーの最後にドイツのELACを2機種聴いた。UボートのソナーとMMカートリッジで有名な老舗の音響機器メーカーだ。ちょっとやかましいところもあったが、「最新スピーカー」らしい分解能があるのに、フェリシティ・ロットの声もギリギリで別人にはならなかったので、「これならアンプやセッティングでなんとかなるかな」と思った。

ELACのBS192

 帰りがけにふらりと立ち寄った試聴室で思わぬ発見をした。イギリスはATCのスピーカーである。今回の試聴で、はじめて「ニュートラルな音」だと感じた。悪くいえばつまらない音かもしれないが、英雄交響曲もロットの声も、これといった欠点なく正確に再生した。聴いたのはペアで200万円以上もする大型のスタジオモニターだったので、気軽には買えない。家に帰って調べてみると、20万円前後の小型モデルもあった。かなり能率が低くて手こずりそうだが、それらATCの2機種とELACのBS192を仕入れてみることにした。また、最も多く聴かせてもらったダイナミックオーディオさんに感謝して、CM1S2を購入させていただいた。B&Wはダイナミックオーディオさんが実績豊富で価格も安い。

 夕食の後、K君の家でクラングフィルムのオイロダインKL-L439を聴いた。「なんと、ATCのスピーカーによく似た音ではないか」と、K君と顔を見合わせた。オイロダインは能率がはるかに高いせいか、高音に抑えきれない冴えがあってATCほど透徹な音ではないが、60年という製造年の隔たりを考えれば、両者は同じ方向を目指して作られたようにすら思える。

 スピーカーの能率が低いということは、非効率な低音に合わせて中高音を下げたりダンプしたりなどで音量を抑えてある状態なので、アンプでいえば負帰還でゲインを下げてあることに近い。同じアンプの無帰還か低帰還版がオイロダインで、高帰還版がATCといえば音の傾向を理解していただけるだろうか

 「オイロダインオーナーのみなさん、安心してください。オイロダインは2016年現在の最新スピーカーと比較しても、十分にバランスのとれた正確な音を出していることが確認できました。いったい、繰り返されたスピーカーの革新的進歩とは何だったのでしょうか?」

 今回の体験で、最新スピーカーの音がけっして無色透明でニュートラルな方向ではないことが確認できた。技術が進歩して歪が無くなれば、どのスピーカーも同じ音になるというわけにはいかないようだ。安価な製品の巧妙なマーケッティングから富裕層向け製品の大げさな演出まで、じつにたくましくやっている。実用的なラウドスピーカーの登場から約100年が経つが、黎明期に科学的であったスピーカー開発が、年々売るための開発にシフトしているといった印象だ。

 とはいえ、全員にオイロダインをお薦めするわけにはいかないし、そもそも入手困難になってしまっている。「もうオーディオは終わった」などというヴィンテージ大家ほどは老いていないつもりなので、いま楽しめる方法を考えてみたい。幸い、小型スピーカーの一部に可能性を見い出せそうなので、それらと手頃なヴィンテージスピーカーの両方を所有することで、オイロダインと同等以上に音楽が楽しめるるかもしれない。その実験がしたくて数機種を手に入れることにしが、ATCは納期が長く、しばらく待たなければならない。

 じつは、オイロダインを戦前の強烈な個性をもつヴィンテージスピーカーと比較すると、まともすぎて平凡に聴こえるくらいだ。そういう立派なヴィンテージスピーカーのオーナーも、最新の小型スピーカーで遊んでみてはいかがだろうか。どっちみちデジタルオーディオで新しい機器と取り組まざるをえないのだから、お使いの出力管1本の価格で買える最新スピーカーで、オーディオの幅を広げるのは悪くないと思う。
https://www.klang.jp/index.php?ci=10139
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/448.html#c15

[リバイバル3] B&W なんて買うと 10年後に後悔しまっせ _ 超高性能だけど中高音がキンキンして音楽にならないダメダメ・スピーカー 中川隆
7. 中川隆[-9541] koaQ7Jey 2019年6月17日 15:01:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2937]

ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html

クラング・クンスト ヴィンテージ愛好家の最新スピーカー試聴記 2016年4月
https://www.klang.jp/index.php?ci=10139


1945年から1983年まで38年間も製造されたオイロダインスピーカー
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10428_801.jpg

 先日、じつに久しぶりに秋葉原に出向き、いろいろな最新スピーカーを試聴したことについて書く。ご存じのように、わたしはオイロパやオイロダインといったクラングフィルムのヴィンテージスピーカーを使っている。ウェスタンエレクトリックも含めると同好の仲間は大勢いて、我らヴィンテージ愛好家はオーディオにおける大派閥だ。そんな連中はB&Wなどの最新スピーカーには目もくれず、「あんなキンキンシャカシャカしたスピーカーはオモチャですよ」といった調子だ。

 だが、古い機器に囲まれて何十年もいると、ふと、「世間は文明化して洋服なのに自分だけ貫頭衣というように、取り残されているのではないか?」、「自分だけ古墳時代?」などと思うことがある。最新スピーカーの宣伝文句には「革新的な進歩」、「これまでにない完璧なサウンド」などという文句が踊っていて、「劣った昔のスピーカーなど粗大ごみにしてサッサと買い替えましょう」と言わんばかりだ。もちろん、アンプにも同様なことがいえるが、スピーカーほど極端な音の差は無いだろう。

 筋金入りのヴィンテージオーディオ愛好家のなかには、装置があまりに大げさなので「それではナローレンジ過ぎませんか?」と心配すると、「どうせ耳が悪いので分かりません」とか、「音楽は聞きませんから」などど豪語する人もいる。わたしも裸の王様になってはまずいので、自分の耳で最新スピーカーを確認してみることにした。若いエンジニアのK君と「肉の万世」前で待ち合わせの約束をして出向くと、そこはコインパーキングになっていた。まったくの浦島太郎だ。「肉の万世」は万世橋の向こう岸に移転していたが、ハンバーグの味は変わっていなかった。

ずいぶんと前にオーディオの街ではなくなっている秋葉原

 試聴には「西脇義訓指揮、デア・リング・オーケストラ」による「英雄交響曲」のSACDと、「フェリシティ・ロット(ソプラノ)」による「シューマン歌曲集」のCDを持参した。最新スピーカーに合わせた新録音と、聴きなじんだ歌という組み合わせだ。「革新的な技術によって歪がなくなったはずのニューモデルは、さぞかしピュアな音を聴かせてくれるにちがいない」と期待しつつ、複数のショップでかなりの数のスピーカーを聴いた。

 大型量販店でぶらぶらしながらJBLやタンノイの小型モデルが鳴っている音を聴いたが、それらは改めて試聴したいと思うほどではなかった。開発中のDAコンバーターを現在のベストセラースピーカーで鳴らすと、いったいどんな音が出るのか確認してみる必要があると思っていたので、まずはB&Wの試聴を申し込んだ。トヨタ車のような絶対的優越性があるとされ、驚くほど売れているらしい。

 まず、安価な600シリーズを聴いたところ、無理して上位機と同じツィーターにしたために中国で製造してもコストに無理があるのか、長岡鉄男流に重量ブロックでも乗せないと箱が厳しいと感じた。だが、それでは都会にふさわしいコンパクトなデザインが台なしになってしまう。いまのように高価で豊富なオーディオアクセサリー製品が無かった昔は、愛好家の必需品といえば重量ブロックやレンガ、ブチルゴムシートなどであった。いやはやダサいが、いまでも効果のあるアクセサリー群だ。

 その上のCMシリーズには重量ブロックが必要なさそうだったが、期待していたようなピュアな音ではなかった。きっとうまくマーケッティングをして、「B&Wの音」を作っているのだろう。無色透明どころか、「下手をするとオイロダインより癖が強いのでは?」と思う瞬間もあった。CM1S2やCM5S2といった2ウェイはとてもコンパクトなので、英雄交響曲で低音が貧弱なのはしかたないが、高音が重要な弦の広がりや管の輝きも「これぞ最新スピーカー!」というほどではなかった。試聴の前にアンプをどれにするか問われたので、「できるだけニュートラルなもので」と所望したところ、LUXMANの純A級動作プリメインアンプL-550AX(たぶん)を使ってくれたが、低能率の小型スピーカーにはパワー不足だったかもしれない。

購入したB&WのCM1 S2

 CM9S2やCM10S2といった3ウェイは箱が大きいので低音は2ウェイよりまともだった。それだけでなく、高音も2ウェイより鮮やかに聴こえた。こういう「これみよがし」の高分解能を最新モデルに期待していたので、「試しに手頃なCM9でも買ってみようか」などと気をよくした。だが、ソプラノを聴いてみると、なんとも人工的な声でがっかりした。それをK君に小声で伝えると、「世の中アニソン(アニメーション漫画のソング)のほうがメジャーですから」と返されてしまった。もう一度2ウェイに戻してもらってソプラノを聴くと、今度は2ウェイのほうが3ウェイよりもまともだった。70センチウーファーを使っているわたしは、「こんなに小さなウーファーでも2ウェイと3ウェイで一長一短があるのか」と感心してしまった。

 ダイヤモンド・ドーム・ツィーターを使用した800シリーズも、2店舗で3機種を試聴した。たしかに歪は少なそうだったが、音の肌触りが異質でなじめなかった。「優れて異なる」ということかもしれないが、先入観も含め、ダイヤモンドの物性が特異であることが音の印象に影響してしまっていた。以上のようにネガティブな評価も正直に書くが、キチガイじみた大型スピーカーを使っている変人の感想なので、関係諸氏には広い心でご容赦いただきたい。

 店員に「B&Wの音はちょっと派手で不自然に感じる」と伝えると、2番目に売れているというFOCALのスピーカーを聴かせてくれた。たしかに音は柔らかかったが、どこか音が薄められているようで中途半端に思えた。DALIなど、ほかに聴かせてもらった売れ筋スピーカーも印象に残らなかった。好みではないが、「なるほど、B&Wの音はうまく作ってある」と感心した。ハズレが続いて疲れたので、懐かしの名機BC IIのおかげで好印象なスペンドールを聴かせてもらった。最小モデルのSP3/1R2でも、どことなくBC IIらしい上品な音がしたので、やはり伝統というものは大切だと思ったが、高音寄りのバランスが気になった。中型のSP1/2R2にしてもらっうと、バランスは少し良くなったが、価格が立派すぎる。

 なかなか思うようなスピーカーは無いものだと思いつつ、売れ筋スピーカーの最後にドイツのELACを2機種聴いた。UボートのソナーとMMカートリッジで有名な老舗の音響機器メーカーだ。ちょっとやかましいところもあったが、「最新スピーカー」らしい分解能があるのに、フェリシティ・ロットの声もギリギリで別人にはならなかったので、「これならアンプやセッティングでなんとかなるかな」と思った。

ELACのBS192

 帰りがけにふらりと立ち寄った試聴室で思わぬ発見をした。イギリスはATCのスピーカーである。今回の試聴で、はじめて「ニュートラルな音」だと感じた。悪くいえばつまらない音かもしれないが、英雄交響曲もロットの声も、これといった欠点なく正確に再生した。聴いたのはペアで200万円以上もする大型のスタジオモニターだったので、気軽には買えない。家に帰って調べてみると、20万円前後の小型モデルもあった。かなり能率が低くて手こずりそうだが、それらATCの2機種とELACのBS192を仕入れてみることにした。また、最も多く聴かせてもらったダイナミックオーディオさんに感謝して、CM1S2を購入させていただいた。B&Wはダイナミックオーディオさんが実績豊富で価格も安い。

 夕食の後、K君の家でクラングフィルムのオイロダインKL-L439を聴いた。「なんと、ATCのスピーカーによく似た音ではないか」と、K君と顔を見合わせた。オイロダインは能率がはるかに高いせいか、高音に抑えきれない冴えがあってATCほど透徹な音ではないが、60年という製造年の隔たりを考えれば、両者は同じ方向を目指して作られたようにすら思える。

 スピーカーの能率が低いということは、非効率な低音に合わせて中高音を下げたりダンプしたりなどで音量を抑えてある状態なので、アンプでいえば負帰還でゲインを下げてあることに近い。同じアンプの無帰還か低帰還版がオイロダインで、高帰還版がATCといえば音の傾向を理解していただけるだろうか

 「オイロダインオーナーのみなさん、安心してください。オイロダインは2016年現在の最新スピーカーと比較しても、十分にバランスのとれた正確な音を出していることが確認できました。いったい、繰り返されたスピーカーの革新的進歩とは何だったのでしょうか?」

 今回の体験で、最新スピーカーの音がけっして無色透明でニュートラルな方向ではないことが確認できた。技術が進歩して歪が無くなれば、どのスピーカーも同じ音になるというわけにはいかないようだ。安価な製品の巧妙なマーケッティングから富裕層向け製品の大げさな演出まで、じつにたくましくやっている。実用的なラウドスピーカーの登場から約100年が経つが、黎明期に科学的であったスピーカー開発が、年々売るための開発にシフトしているといった印象だ。

 とはいえ、全員にオイロダインをお薦めするわけにはいかないし、そもそも入手困難になってしまっている。「もうオーディオは終わった」などというヴィンテージ大家ほどは老いていないつもりなので、いま楽しめる方法を考えてみたい。幸い、小型スピーカーの一部に可能性を見い出せそうなので、それらと手頃なヴィンテージスピーカーの両方を所有することで、オイロダインと同等以上に音楽が楽しめるるかもしれない。その実験がしたくて数機種を手に入れることにしが、ATCは納期が長く、しばらく待たなければならない。

 じつは、オイロダインを戦前の強烈な個性をもつヴィンテージスピーカーと比較すると、まともすぎて平凡に聴こえるくらいだ。そういう立派なヴィンテージスピーカーのオーナーも、最新の小型スピーカーで遊んでみてはいかがだろうか。どっちみちデジタルオーディオで新しい機器と取り組まざるをえないのだから、お使いの出力管1本の価格で買える最新スピーカーで、オーディオの幅を広げるのは悪くないと思う。
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[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
109. 中川隆[-9540] koaQ7Jey 2019年6月17日 15:02:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2938]

ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
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クラング・クンスト ヴィンテージ愛好家の最新スピーカー試聴記 2016年4月
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1945年から1983年まで38年間も製造されたオイロダインスピーカー
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10428_801.jpg

 先日、じつに久しぶりに秋葉原に出向き、いろいろな最新スピーカーを試聴したことについて書く。ご存じのように、わたしはオイロパやオイロダインといったクラングフィルムのヴィンテージスピーカーを使っている。ウェスタンエレクトリックも含めると同好の仲間は大勢いて、我らヴィンテージ愛好家はオーディオにおける大派閥だ。そんな連中はB&Wなどの最新スピーカーには目もくれず、「あんなキンキンシャカシャカしたスピーカーはオモチャですよ」といった調子だ。

 だが、古い機器に囲まれて何十年もいると、ふと、「世間は文明化して洋服なのに自分だけ貫頭衣というように、取り残されているのではないか?」、「自分だけ古墳時代?」などと思うことがある。最新スピーカーの宣伝文句には「革新的な進歩」、「これまでにない完璧なサウンド」などという文句が踊っていて、「劣った昔のスピーカーなど粗大ごみにしてサッサと買い替えましょう」と言わんばかりだ。もちろん、アンプにも同様なことがいえるが、スピーカーほど極端な音の差は無いだろう。

 筋金入りのヴィンテージオーディオ愛好家のなかには、装置があまりに大げさなので「それではナローレンジ過ぎませんか?」と心配すると、「どうせ耳が悪いので分かりません」とか、「音楽は聞きませんから」などど豪語する人もいる。わたしも裸の王様になってはまずいので、自分の耳で最新スピーカーを確認してみることにした。若いエンジニアのK君と「肉の万世」前で待ち合わせの約束をして出向くと、そこはコインパーキングになっていた。まったくの浦島太郎だ。「肉の万世」は万世橋の向こう岸に移転していたが、ハンバーグの味は変わっていなかった。

ずいぶんと前にオーディオの街ではなくなっている秋葉原

 試聴には「西脇義訓指揮、デア・リング・オーケストラ」による「英雄交響曲」のSACDと、「フェリシティ・ロット(ソプラノ)」による「シューマン歌曲集」のCDを持参した。最新スピーカーに合わせた新録音と、聴きなじんだ歌という組み合わせだ。「革新的な技術によって歪がなくなったはずのニューモデルは、さぞかしピュアな音を聴かせてくれるにちがいない」と期待しつつ、複数のショップでかなりの数のスピーカーを聴いた。

 大型量販店でぶらぶらしながらJBLやタンノイの小型モデルが鳴っている音を聴いたが、それらは改めて試聴したいと思うほどではなかった。開発中のDAコンバーターを現在のベストセラースピーカーで鳴らすと、いったいどんな音が出るのか確認してみる必要があると思っていたので、まずはB&Wの試聴を申し込んだ。トヨタ車のような絶対的優越性があるとされ、驚くほど売れているらしい。

 まず、安価な600シリーズを聴いたところ、無理して上位機と同じツィーターにしたために中国で製造してもコストに無理があるのか、長岡鉄男流に重量ブロックでも乗せないと箱が厳しいと感じた。だが、それでは都会にふさわしいコンパクトなデザインが台なしになってしまう。いまのように高価で豊富なオーディオアクセサリー製品が無かった昔は、愛好家の必需品といえば重量ブロックやレンガ、ブチルゴムシートなどであった。いやはやダサいが、いまでも効果のあるアクセサリー群だ。

 その上のCMシリーズには重量ブロックが必要なさそうだったが、期待していたようなピュアな音ではなかった。きっとうまくマーケッティングをして、「B&Wの音」を作っているのだろう。無色透明どころか、「下手をするとオイロダインより癖が強いのでは?」と思う瞬間もあった。CM1S2やCM5S2といった2ウェイはとてもコンパクトなので、英雄交響曲で低音が貧弱なのはしかたないが、高音が重要な弦の広がりや管の輝きも「これぞ最新スピーカー!」というほどではなかった。試聴の前にアンプをどれにするか問われたので、「できるだけニュートラルなもので」と所望したところ、LUXMANの純A級動作プリメインアンプL-550AX(たぶん)を使ってくれたが、低能率の小型スピーカーにはパワー不足だったかもしれない。

購入したB&WのCM1 S2

 CM9S2やCM10S2といった3ウェイは箱が大きいので低音は2ウェイよりまともだった。それだけでなく、高音も2ウェイより鮮やかに聴こえた。こういう「これみよがし」の高分解能を最新モデルに期待していたので、「試しに手頃なCM9でも買ってみようか」などと気をよくした。だが、ソプラノを聴いてみると、なんとも人工的な声でがっかりした。それをK君に小声で伝えると、「世の中アニソン(アニメーション漫画のソング)のほうがメジャーですから」と返されてしまった。もう一度2ウェイに戻してもらってソプラノを聴くと、今度は2ウェイのほうが3ウェイよりもまともだった。70センチウーファーを使っているわたしは、「こんなに小さなウーファーでも2ウェイと3ウェイで一長一短があるのか」と感心してしまった。

 ダイヤモンド・ドーム・ツィーターを使用した800シリーズも、2店舗で3機種を試聴した。たしかに歪は少なそうだったが、音の肌触りが異質でなじめなかった。「優れて異なる」ということかもしれないが、先入観も含め、ダイヤモンドの物性が特異であることが音の印象に影響してしまっていた。以上のようにネガティブな評価も正直に書くが、キチガイじみた大型スピーカーを使っている変人の感想なので、関係諸氏には広い心でご容赦いただきたい。

 店員に「B&Wの音はちょっと派手で不自然に感じる」と伝えると、2番目に売れているというFOCALのスピーカーを聴かせてくれた。たしかに音は柔らかかったが、どこか音が薄められているようで中途半端に思えた。DALIなど、ほかに聴かせてもらった売れ筋スピーカーも印象に残らなかった。好みではないが、「なるほど、B&Wの音はうまく作ってある」と感心した。ハズレが続いて疲れたので、懐かしの名機BC IIのおかげで好印象なスペンドールを聴かせてもらった。最小モデルのSP3/1R2でも、どことなくBC IIらしい上品な音がしたので、やはり伝統というものは大切だと思ったが、高音寄りのバランスが気になった。中型のSP1/2R2にしてもらっうと、バランスは少し良くなったが、価格が立派すぎる。

 なかなか思うようなスピーカーは無いものだと思いつつ、売れ筋スピーカーの最後にドイツのELACを2機種聴いた。UボートのソナーとMMカートリッジで有名な老舗の音響機器メーカーだ。ちょっとやかましいところもあったが、「最新スピーカー」らしい分解能があるのに、フェリシティ・ロットの声もギリギリで別人にはならなかったので、「これならアンプやセッティングでなんとかなるかな」と思った。

ELACのBS192

 帰りがけにふらりと立ち寄った試聴室で思わぬ発見をした。イギリスはATCのスピーカーである。今回の試聴で、はじめて「ニュートラルな音」だと感じた。悪くいえばつまらない音かもしれないが、英雄交響曲もロットの声も、これといった欠点なく正確に再生した。聴いたのはペアで200万円以上もする大型のスタジオモニターだったので、気軽には買えない。家に帰って調べてみると、20万円前後の小型モデルもあった。かなり能率が低くて手こずりそうだが、それらATCの2機種とELACのBS192を仕入れてみることにした。また、最も多く聴かせてもらったダイナミックオーディオさんに感謝して、CM1S2を購入させていただいた。B&Wはダイナミックオーディオさんが実績豊富で価格も安い。

 夕食の後、K君の家でクラングフィルムのオイロダインKL-L439を聴いた。「なんと、ATCのスピーカーによく似た音ではないか」と、K君と顔を見合わせた。オイロダインは能率がはるかに高いせいか、高音に抑えきれない冴えがあってATCほど透徹な音ではないが、60年という製造年の隔たりを考えれば、両者は同じ方向を目指して作られたようにすら思える。

 スピーカーの能率が低いということは、非効率な低音に合わせて中高音を下げたりダンプしたりなどで音量を抑えてある状態なので、アンプでいえば負帰還でゲインを下げてあることに近い。同じアンプの無帰還か低帰還版がオイロダインで、高帰還版がATCといえば音の傾向を理解していただけるだろうか

 「オイロダインオーナーのみなさん、安心してください。オイロダインは2016年現在の最新スピーカーと比較しても、十分にバランスのとれた正確な音を出していることが確認できました。いったい、繰り返されたスピーカーの革新的進歩とは何だったのでしょうか?」

 今回の体験で、最新スピーカーの音がけっして無色透明でニュートラルな方向ではないことが確認できた。技術が進歩して歪が無くなれば、どのスピーカーも同じ音になるというわけにはいかないようだ。安価な製品の巧妙なマーケッティングから富裕層向け製品の大げさな演出まで、じつにたくましくやっている。実用的なラウドスピーカーの登場から約100年が経つが、黎明期に科学的であったスピーカー開発が、年々売るための開発にシフトしているといった印象だ。

 とはいえ、全員にオイロダインをお薦めするわけにはいかないし、そもそも入手困難になってしまっている。「もうオーディオは終わった」などというヴィンテージ大家ほどは老いていないつもりなので、いま楽しめる方法を考えてみたい。幸い、小型スピーカーの一部に可能性を見い出せそうなので、それらと手頃なヴィンテージスピーカーの両方を所有することで、オイロダインと同等以上に音楽が楽しめるるかもしれない。その実験がしたくて数機種を手に入れることにしが、ATCは納期が長く、しばらく待たなければならない。

 じつは、オイロダインを戦前の強烈な個性をもつヴィンテージスピーカーと比較すると、まともすぎて平凡に聴こえるくらいだ。そういう立派なヴィンテージスピーカーのオーナーも、最新の小型スピーカーで遊んでみてはいかがだろうか。どっちみちデジタルオーディオで新しい機器と取り組まざるをえないのだから、お使いの出力管1本の価格で買える最新スピーカーで、オーディオの幅を広げるのは悪くないと思う。
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[リバイバル3] CD プレーヤーは進歩しているのか?  中川隆
76. 中川隆[-9539] koaQ7Jey 2019年6月17日 15:19:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2939]

ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
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クラング・クンスト オーディオ愛好家向けVolumioの活用方法(インストール編)
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VolumioはバージョンアップしてVolumio2になった


 高レベルなオーディオ愛好家のみなさんの多くは、きっと高価なネットワークプレーヤーで音楽データを再生していることでしょう。いっぽう、わたし(小林)がヴィンテージ愛好家なせいか、訪問させていただくリスニングルームでは、アナログはEMT927か930が、デジタルは古いスチューダーなどのフィリップス系メカのCDプレーヤーが多いようです(2017年までの経験)。そういったベテランのみなさんから見れば、流行りのデジタル機器は安くてちっぽけで、雑誌の付録みたいに思えてしまうことでしょう。

 でも、安い最新機器のなかには、とても優れた性能のものがあって、なかには測定が難しいほど低歪率なものもあります。豪華な高級機器は、価格を正当化するための複雑な回路や、能書き付きの大げさな部品に起因する大型化と、それらにともなう配線の延長などによって、かえって歪みが増し、音に色付けや僅かな濁りがある(それがブランドの音作り?)ばあいが少なくありません。デジタルでは、大きくて重いほうが良いとは限らないどころか、逆の場合もあるのです。

訪問先にあった小型デジタル機器の対極にある重厚なアナログプレーヤーEMT927

 ご自分の装置の音質に気に入らない部分があって、それをデジタル再生機器などの色付けで中和しようというのなら個性的な高級機を使うのもありですが、わたしは愛用するヴィンテージスピーカーの音を台無しにするような濃い味付けの音作りは勘弁してもらいたいので、デジタル再生には「ヴォリューミオ(Volimio)」という無料のソフトを、安いミニパソコンにインストールしたものをメインにしています。バイオリニストの「グリュミオー」みたいに聞こえたので、「ヴォリューミオ」という名前はには良い印象をもっています(原語では「Volumio」と「Grumiaux」でぜんぜんちがいますね)。

 パソコン(PC)オーディオに詳しい人たちにとって、Volumioは何年も前からメジャーでしたが、主にラズベリーパイ(RaspberryPi)というミニパソコンに基本ソフトごとインストールして使うので、ベテランのオーディオ愛好家にとっては敷居が高いようです。しかし、わたしの経験では、Volumioと気に入ったDAコンバーター(DAC)の組み合わせが、最も優れた音楽データ再生装置です。MACやWindowsなどの高性能パソコンや、数百万円もする有名メーカー製品と比較しても、音質も含めて総合的に上だと考えています。人には言えないほどのお金をかけてしまっている我ら筋金入りのオーディオ愛好家(あるいはオーディオ馬鹿)こそ、Volumioユーザーになるべきなのです。

 ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、そういったわけで「オーディオ愛好家向けVolumioのインストールと活用方法」をご紹介します。あま多あるPCオーディオ的な解説ではなく、本格的なオーディオ愛好家向けの解説ですから、「やりすぎ」と思われてしまう部分があるかもしれませんが、気にすることはありません。なにしろ、ご自慢の再生装置のコストと比べればppmオーダーの価格にしかなりませんから、いますぐアマゾンなどでRaspberry Piを購入してスタートしましょう。

※大変申し訳ありませんが、この解説やその結果についての補償とサポートは一切ありません。パソコンが苦手な方は、友人やオーディオの弟子などに手伝いを依頼してください。


(2018年4月版)Volumio2のインストールと設定方法


 まず、Raspberry Pi には種類がたくさんあるので、どれを買ったらよいか迷ってしまいますが、現時点では2018年3月に発売された最新の「Raspberry Pi 3B+」か、ひとつ前の「Raspberry Pi 3B」を購入すれば間違いありません。もっと旧型のRaspberry Piや下位モデルでも大抵は問題なく使えますが、本体は5千円程度と安い真空管くらいの価格ですから、新しいモデルを買うようにしましょう。

ラズベリーパイ(RaspberryPi) 3B と RSコンポーネンツ社の純正ケース

 最近のRaspberry Piは無線LAN機能を内蔵しているので、電気通信事業法に基づく「技術基準適合認定」が必要です。日本国内で製造されたものを購入すれば付いているはずです。ちなみに、現在はオーディオ愛好家にとって馴染みの深いSONYが製造しています。ただし、今回ご説明する方法では無線を使いません。

  Raspberry Pi本体はむき出しの小さな基板1枚だけなので、電源とケースを買う必要があります。ケースは安っぽいプラスチック製ばかりなので、とりあえず純正のケースにしておけば無難です。アマゾンを見てみると、純正ではなく「Official」と表記されていました。純正というのは、電子部品の大手通販業者である英国のRSコンポーネンツ社の製品ということです。Raspberry Pi は安価な教育用パソコンとして、2011年にRaspberry Pi財団によって開発され、2012年からRSコンポーネンツ社によって供給されてきました。

ラズベリーパイ(RaspberryPi) 3(B) 用の RS純正電源

 そのほかに用意する必要があるものは、電源とマイクロSDカード、USBケーブル、LANケーブル、大容量ディスクです。オーディオ愛好家は電源に尋常でないこだわりがあって、いろいろと物色したくなるでしょうが、千数百円のRaspberry Pi用ACアダプタ型電源を購入すれば十分です。RS純正品はアマゾンにはなくて、同様なものが売られているようです。5 Vで2.5 A以上のものであれば、どちらでもいいと思います。RS純正品はRaspberry Pi本体やケースとともに、RSオンラインで購入できます。

■RSオンライン
https://jp.rs-online.com

 マイクロSDカードは、どれでもVolumioが動作するとは限りません。無難な東芝の16G Class 10 UHS-1の安いカードがお薦めです。わたしは本業のシステム構築でRaspberry Piをよく使い、高い性能が求められるばあいは下記のトランセンド社のカードを使うことがありますが、Volumioにはそこまで必要ありません。
「Transcend High Endurance micro SDHC 16G Class 10 TS16GUSDHC10V」

 オーディオ愛好家は何でもハイスペックで高価なものが良いと思いがちですが、32G以上のカードは相性が悪くてVolumioが動作しないものの割合が増えるうえ、今回ご説明する方法ではカードに音楽データを保存しませんから、大容量が無駄になってしまいます。かつて懐かしの「オーレックス」ブランドでオーディオに貢献し、いまは色々と大変な東芝のカードを使ってあげましょう。私のVolumioも写真のカードで快調に動作しています。

無難な東芝製16GマイクロSDカード(アダプター付き)

 接続ケーブルもまた難物で、神仏に貢ぐがごとき散財をしてしまうオーディオ愛好家もいるほどですが、まずは家電量販店で売っているような普通のケーブルでスタートしましょう。Raspberry Piが軽いので、細めのケーブルがお薦めです。USBケーブルのRaspberry Pi側のコネクターはパソコンと同じタイプです。DAC側はお使いのDACに合わせてください。現在の多くのDACには、標準的なプリンターと同じタイプのコネクターが付いています。ですから、プリンター用のUSB2.0ケーブルを買えば大丈夫なことが多いと思います。

 LANケーブルはCAT-5eかCAT-6のパソコン用ケーブルでOKです。USBケーブルもLANケーブルも、オーディオ用と称する高額品がありますが、5千円のRaspberry Piの基板内を流れて出てきた信号を、1本数万円もするケーブルに通すことにどんな意味があるのか、冷静に考えてからにしましょう。ケーブルと音質については、後の「(チーニング編)」でご説明します。そのときに、必要があれば買い替えるようにしてください。最初から特殊なものを使うと、思わぬ落とし穴にはまってしまうかもしれません。


マイクロSDカードのフォーマット


 必要なものがそろったら、インストール作業を始めます。インストールにはデスクトップでもノートでも良いので、インターネットに接続した普通のWindowsパソコンを使います。MACでも出来ますが、ここでは説明しませんので、別の詳しい人に聞いてください。申し訳ありません。

 パソコンにはSDカードを挿入するスロットが必要なので、無ければUSBカードリーダーなどを購入してください。また、パソコンには管理者権限のあるユーザーでログインしてください。その前提でご説明します。これまでに拝見させていただいたオーディオ愛好家のパソコンは、すべて管理者ユーザーでログインしておられましたので、大抵は大丈夫だと思います。

 まずは専用アプリケーションによるマイクロSDカードのフォーマットからです。わたしを含む多くのRaspberry Piユーザーが使っているのは、SDカードのメーカー団体が配布している「SDメモリカードフォーマッター」で、ちょうどこの記事を書いている最中にバージョンアップされ、これまで2系統あったものがバージョン5で統合されたようです。早速試したところ、無事にVolumioがインストールできました。わたしのパソコンはWindows 7(プロ)を10にバージョンアップしたものです。

■SDメモリカードフォーマッター
https://www.sdcard.org/jp/downloads/

SDメモリーカードフォーマッターのダウンロードページ

 上のページの下側にダウンロードボタンががありますので、スクロールしてWindows用をクリックすると、英語のユーザーライセンス同意事項がドバッと表示されます。(なんとなく)確認したら、「同意します」をクリックしてダウンロードしましょう。

タイトルなし

 「SD_CardFormatter0500SetupJP.exe」といった(0500のバージョン部分は変わります)ファイルのダウンロードが完了したら、(ダブルクリックして)実行します。すると、

このアプリがデバイスに変更を加えることを許可しますか?
SD Card Formatter Setup
確認済みの発行元: Tuxera Inc

といった警告が表示されますので、「はい」をクリックして進めてください。あとは通常のインストールと同じなので、デフォルトの指示通り「次へ(N)」をクリックして進めてください。メジャーなソフトはフィッシングに使われることが多いので、慌てて偽物をインストールしないように注意してください。ほかのアプリも同様です。

 インストールが完了すると、「SDメモリカードフォーマッター」の起動が始まり、再び先ほどと同じ警告が表示されます。「はい」をクリックしてアプリが起動したら、インストール成功です。せっかく起動したアプリですが、ここでは×をクリックしてすぐに終了させます。このとき、SDカードを挿入するカードリーダーのスロットの状態によっては、起動後に固まってしまうことがあります。そのばあいは、辛抱強く×(閉じるバツ)をクリックするなどして強制終了し、念のためにパソコンを再起動しましょう。メモリカードの操作では、一般にパソコンが不安定になる傾向があります。

動作中の「SDメモリカードフォーマッター」

 いよいよフォーマットです。マイクロSDカードをアダプターに挿入し、アダプターごとパソコンのカードスロットに挿入します。それ以外のカードやUSBメモリなどは、一切挿入しないようにしてください。もし、マイクロSDカード未挿入のアダプターだけを挿入すると、パソコンや「SDメモリカードフォーマッター」が固まることがありますので、やはり強制終了+再起動でやり直しましょう。フォーマットするマイクロSDカードのみが挿入されている状態で、デスクトップに出来ているはずの「SD Card Formatter」のショートカットをクリックして、再度「SDメモリカードフォーマッター」を起動します。

 すると、フォーマットするマイクロSDカードが認識されているはずで、上のスクリーンショットの例では「H:」になっています。うっかりデジカメのカードをフォーマットするなど、ミスのないことを確認したら、「上書きフォーマット」を選択して「フォーマット」ボタンをクリックします。わたしのパソコンでは上書きフォーマットに10分ほどかかりましたが、カードの健全性確認になるのでそうしました。新品のマイクロSDカードなら、「クイックフォーマット」を選択してすぐに完了させても問題は起こらないでしょう。

タイトルなし

 「本当にフォーマットしてもよろしいですか?」という警告の「OK」をクリックしてしばらく待つと、「フォーマットが正常に終了しました。」といった表示が現われ、めでたくフォーマットが完了します。なお、ボリュームラベルは空欄のままで入力しません。Volumioのインストール時に消されてしまうからです。


■Volumioのインストール


 Volumioのインストールには、SDカードやUSBメモリなどにディスクイメージという特殊なファイルを書き込むためのアプリをダウンロードして使います。CD-Rを焼くアプリと似たようなことをメモリに対して行なうアプリで、下に示す「Win32 Disk Imager」を使います。

■Win32 Disk Imager
https://ja.osdn.net/projects/sfnet_win32diskimager/

書き込みアプリ「Win32 Disk Imager」のダウンロード元の一例

 ダウンロード元はいくつもありますが、レスポンスが良かったので、OSDNというダウンロードサイトを例にしました。ダウンロードページで「ダウンロードファイル一覧」というボタンをクリックすると、長いファイルリストが表示されますので、下に示すように末尾が「install.exe」になっているインストールファイルのうちで、もっとも数字が大きい最新版をダウンロードしてください。下の例では「win32diskimager-1.0.0-install.exe」になっています。

「Win32 Disk Imager」のダウンロードファイル一覧から最新のexeファイルを選択する

 ダウンロードしたファイルをダブルクリックするなどして、インストールを開始します。まず、ライセンスの同意を求められますので、スクロールして「I accept the agreement」を選択して同意し、「Next」をクリックします。途中で表示される、「□Create a desktop」にチェックを入れて、デスクトップに起動用のショートカットを作ります。

「Win32 Disk Imager」のインストール開始時に表示されるライセンス同意

インストールが終わるころ、「この不明な発行元からのアプリがデバイスに変更を加えることを許可しますか?」という警告が表示されますので、「はい」をクリックしてください。「README.txt」という英語の説明とともに「win32diskimager」が起動し、インストールが完了しますが、ここではやはり両方とも×をクリックして閉じてください。

「Win32 Disk Imager」のインストールが完了した状態のスクリーンショット

 ようやくVolumioのダウンロードです。下のダウンロードサイトにアクセスすると、そのまた下のスクリーンショットのようにRASPBERRY PIがデフォルトで選択されているはずですが、念のため確認してから「DOWNLOAD」をクリックしましょう。執筆時点では「volumio-2.389-2018-03-26-pi.img」というバージョンのファイルでした。「.img」という拡張子のファイルは、ハードディスクやDVDなどのディスク全体を、ファイルだけでなくファイルを管理するための情報も含めて一つのファイルにしたもので、ディスクイメージと呼びます。

■Volumio
https://volumio.org/get-started/

Volumioのダウンロードページ

 Windowsは基本ソフトとかOS(Operating System =オペレーティングシステム)などと呼ばれ、色々なアプリを動作させる環境を作っています。VolumioはLinuxという基本ソフトと、その環境上で動作するVolumioのアプリが一体となったもので、パソコンのドライブC:内の全情報に相当するディスクイメージとして提供されています。これをマイクロSDカードに書き込んで、RaspberryPiなどで起動するという仕組みなのです。

 いま、パソコンのカードリーダーのスロットには、フォーマットしたままのアダプター付きマイクロSDカードが挿入されているはずです。念のため、それをアダプターごと外します。その際、タスクバーから「ハードウェアを安全に取り外してメディアを取り出す」といった表示が出るアイコンをクリックしてドライブを選択し、「○○はコンピューターから安全に取り外すことができます」のような表示が出てから抜いてください。

「win32diskimager」でVolumioを起動するディスクイメージを書き込む

「win32diskimager」でVolumioを起動するディスクイメージを書き込む

 再びマイクロSDカードをアダプターごと挿入し、利用可能な状態になるのを待ちます。もちろん、Volumioのダウンロード完了も待たなければなりません。それから、デスクトップにあるはずの「win32diskimager」のショートカットをダブルクリックし、警告に「はい」をクリックして起動します。立ち上がったら、上のようにフォルダのアイコンをクリックしてダウンロードしたVolumioのディスクイメージを選択し、書き込み先「Device」が正しいマイクロSDカードを示していることを確認してから、「Write」ボタンをクリックします。

 英語で「Writing to a physical ・・・(以下省略)」といった警告が出ます。これはカード内の全データが消えるということですので、「Yes」をクリックしてしばらく待ちます。下のような書き込み成功の表示が出たら、めでたく終了です。ご苦労様でした。

「win32diskimager」によるVolumioの書き込み成功でインストールが完了!

「win32diskimager」によるVolumioの書き込み成功でインストールが完了!

 Volumioの動作や使い方などについては、次回の(動作設定編)でご説明しますが、すぐに確認したいでしょうから、ごく簡単に書いておきます。もうパソコンではマイクロSDカードを認識できませんから、そのまま引き抜いてRaspberry Piに挿入します。LANケーブルと電源を接続してから最後にコンセントに挿し、数分間待ちましょう。Raspberry Piに電源スイッチはありませんから、電源を接続して起動、抜いて停止です。DHCPサーバーというものがあることが前提ですが、パソコンでホームページ閲覧アプリを起動してアドレスバーに、
http://volumio
と入力し、Volumioのページが表示されたら成功です。

 動作設定編では、使い方だけでなく、「なぜ、手軽なI2C DACを使わないか」といった手軽な話題を通じて、デジタルオーディオの本質についても考察する予定です。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069&i=10651

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クラング・クンスト オーディオ愛好家向けVolumioの活用方法(接続・設定編)
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069&i=10778


 ヴォリューミオ(Volumioのインストールが済んだら、つぎはラズベリーパイ(Raspberry Pi)で動作させるための準備です。普通に基板をプラスチックケースに入れるだけでも十分ですが、オーディオ愛好家は色々と貼ったり交換したりしないと気が済まないでしょうから、手軽なところで放熱部品(ヒートシンク)を取り付けてみましょう。

ラズベリーパイ(Raspberry Pi) 3B とネット通販で売られていた放熱用部品

 深海などの研究をしていて、Raspberry Piをシビアな条件で使っている友人の話では、信頼性上のウィークポイントは熱暴走だそうです。初期の製品よりは強くなりましたが、私もRaspberry Piを仕事で使うときは熱対策をしています。オーディオにそこまで信頼性は必要ないかもしれませんが、万が一にも曲のいいところで途切れたりしたら許せません。ネット通販で「Raspberry Pi ヒートシンク」などと検索すれば、上の写真のような商品が見つかります。

 金色の大きな方がCPU用、青い小さな方が基板上にもう1つあるLANやUSBのIC用です。こちらのLANやUSBのICの方が熱的に弱い傾向です。放熱は空気の対流と赤外線を出すことで行われるので、写真のようなピカピカとカラフルなヒートシンクではなく、黒いほうが効率が良さそうに思えますが、昔の仕事で人工衛星に搭載する部品を検討した際のデータでは、アルマイトの色による赤外での効率(10 μm帯での熱放射率)の差は意外に少なく、銀でも黒でもほぼ同じでした。

放熱用部品(ヒートシンク)を取り付けケースに入れたRaspberry Pi

 ヒートシンクには両面テープが貼ってあることが多いので、それで取り付けたらプラスチックケースに入れます。上の写真では、基板の上にあるフタを外してあって基板が露出してます。この方が放熱に有利なのでそうしましょう。ホコリは吹き飛ばせばいいので気にしません。不格好だなんて言わないでください。冷却ファンが無いことはオーディオ用として実にありがたいことですから。

Rasberry Piの底面にあるスロットに、インストールしたマイクロSDカードを挿入

 マイクロSDカードを挿入するスロットは、Raspberry Pi基板の裏側にあり、ケースの底にも溝が切ってあってそのまま挿入できるようになっています。カチッというまでしっかり差し込みましょう。カードを抜くには、一度カードを軽く押しんで、少し出てきたところを引き抜きます。スロットはそんなに丈夫ではないので、無理に引っ張らないでください。

上からUSBハードディスク、Raspberry Pi(左は電源)、DACを接続した様子

 それでは、Raspberry Piと必要な機器を接続しましょう。写真の上側にあるのがUSBハードディスクです。VolumioをインストールしたマイクロSDカードとちがい、こちらには音楽ファイルを大量に保存しますから、4T(テラ)といった大容量製品がお薦めです。予算に余裕があれば、RAID(ライド)といって冗長構成でハードディスクが壊れてもすぐにデータが失われないようにした製品は安心です。そのばあいでも、苦労してリッピングして音楽ファイルが消滅しないように、バックアップコピーははならず保存しておきましょう。

 USBハードディスクとRaspberry Piを接続するUSBケーブルは、オーディオ用ではない、パソコン用の長いケーブルをお薦めします。ハードディスクは騒音を出すので、なるべく遠くに置きましょう。ハードディスクに付属するケーブルは1メートルくらいのが多いので、両端のプラグが同じで長いケーブルを別途購入します。これまで訪問させていただいたリスニングルームは20〜40畳くらいが多かったので、一般的に販売されているうちで最長の5メートルがよさそうです。遠くに離せば、ハードディスクの音も気になりません。

 USBではなく、LAN経由でVolumioにデータを送るLANディスクも使えます。そちらを使うにはネットワーク設定などが必要になりますので、パソコンに詳しい友人かオーディオの弟子に依頼してください。USBディスクの方がシンプルで他のネットワーク機器からのアクセスとの競合が発生せず安定ですが、ウェスタンエレクトリックの部屋とクラングフィルムの部屋といったように、リスニングルームが複数あって音楽ファイルを共用したいばあいはLANディスクが便利です。しかし、USBディスクの内容をコピーして、それぞれの部屋に設置するほうが、データが2箇所にあってバックアップになるというメリットもあるので、わたしはそうしています。

 写真の下側にある銀色のものがDAコンバーター(DAC)です。これはiFiというイギリスの製品で、内蔵バッテリーで動作することの効果なのか、安価な製品ながら音質が良好で、われらオーディオ愛好家でも聴き続けられる最底辺のDACとして知られています。妙な味付けも少なく感じるので、オーディオイベントなどで持ち運ぶときに使っています。その昔CDが普及し始めたころ、やはりバッテリーで動作するパナソニック製のポータブルCDプレーヤーが、据え置きの大型高級CDプレーヤーよりも好印象で、リスニングルームでも使っていたことを思い出します。

 Raspberry PiとDACの接続には、はやりUSBケーブルを使います。DACは遠くに置く必要がありませんが、新しくケーブルを買うなら、やはりパソコン用の細めで長いケーブルをお薦めします。某大手ネット通販の「○○ベーシック」と称する安いケーブルは、全般に太くて曲がりにくいので避けましょう。長ければ、後でチューニングが楽しめます。ノイズだらけのパソコンと接続するわけではないいし、合理的でもないので、オーディオ用の高価なUSBケーブルは必要ありません。

 その他の通信ケーブルは、Raspberry PiのLANケーブルだけです。細めのパソコン用LANケーブルでハブかルーターと接続します。ここで解説する方法では無線は使いません。理由は、気のせいかもしれない細部をうがって大金を投じるオーディオ道楽において、わざわざ電波を発生させたり消費電力を増やしたりするのは道に外れた行ないだからです(電子機器としては正道です)。電源の汚れを気にしてMY電柱建立(お薦めしません)とかやっている愛好家がいるくらいなのに、数ギガヘルツの高周波回路を音楽データの隣で操作させることは、精神衛生にもマイナスです(実際にはCPUなどもギガHzで動作しています)。(カッコ書きが多いのはオーディオの矛盾を表しています)


ところで、I2S DACは?


I2S DACと呼ばれる小さなResberry Piの基板に直接取り付けるDAコンバーター

 さて、上で説明したUSB接続のDACではなく、Raspberry Pi用のI2S DACというものを使うことが流行っていて、「どの程度の音質か?」といったご質問をいただいています。上の写真はその例で、Raspberry Pi用の組立式ケースとセットで4千円くらいでした。I2SはインターIC、すなわちIICをIの2乗で表現したもので、アイスクエアエスと読みます。I2Sは以前からサウンドディバイスなどのハードウェアがパソコンなどの機器内で通信するときに使われていた標準的なインターフェースで、パソコンに組み込みでないDACチップ(デジタル→アナログ変換するIC)への入力としても一般的です。

 I2S DACはむき出しの基板1枚で、Raspberry Piのコネクタに上から挿入することで取り付けと接続が完了します。このようなオプション基板を「ハット」と呼びます。つぎの写真は、I2S DACをRaspberry Piに取り付けた状態です。

I2S DACをResberry Piに接続した状態(コネクタに挿すことで上に載せてある)

 I2S DACはとてもシンプルで、ほぼDACチップ1個にコネクタが接続されているだけです。好条件で測定すれば驚くほど低歪率で、一世代前の高級DAC製品は、物理特性では太刀打ち出来ないくらいでしょう。ですので、あなたが大画面液晶テレビの両脇に評論家がほめちぎったベストセラーの小型スピーカーを並べるくらいのオーディオファンなら、I2S DACで十分です。つまり、90%?のオーディオを楽しむ人々にとって、性能的には数千円のI2S DACで足りてしまうのですから、老舗オーディオメーカーが身売りするのもやむなしです。

 では、われわれ(勝手に道楽仲間にさせていただきました)にとって、I2S DACはどうでしょうか? 写真のI2S DACにはテキサス・インスツルメント社(Texas Instruments)のPCM5122というDACチップが使われていて、32 bit、384 kHz、ダイナミックレンジ112 dBという、申し分のないスペックです。LPレコードをアイボリーホワイトに黒のガラード301に載せるといった、音楽のための美的な儀式性の対極にあるI2S DACの安っぽさはさておいて、純粋に音についての印象を述べると、やはり満足できません。わずかですが、無機質な雑味を感じてしまいます。

 この議論はきりがないので簡単にしますが、結局のところ、デジタル部分はもはや過剰スペックなものの、DACチップ内部でパルス密度的に変換された信号がローパスフィルターでデジタルからアナログになっていく部分から、様々な音質への悪影響を受け始めるということです。やはり、アナログは微妙ですね。PCM1795のようなグレードの高いDACチップは、アナログ信号が外乱を受けにくい電流出力になっているのに対し、PCM5122は簡略化のため直接電圧で出力しているのもマイナス要素です。高圧変電設備内のセンサーなど、耐ノイズ性が求められる用途では、電流出力が一般的です。


Vokumioの起動


 さて、脱線した話題はこのくらいにして、Volumioを起動しましょう。配線がすべてされていて、LAN内にDHCPサーバーというものがあって、LANで使うIPアドレスが自動的に割り振られるようになっていることを確認してください。パソコンを買ってきてつなぐと、ネットワークの設定をしなくてもホームページが見られるのなら、そうなっているはずです。分からなければ、詳しい人に見てもらいましょう。

 それでは、1.USBディスク、2.DAC、3.Raspberry Piの順に電源を入れてください。1.と2.は前後してもかまいません。USBディスクはRaspberry Piが起動するまで電源が待機するかもしれません。Raspberry Piには電源スイッチがなく、ACアダプタを接続することでON、抜くことでOFFです。Raspberry Piの内部でインストールしたVolumioが起動するのに1〜2分かかりますので、なにかミスを見つけたりしても、一旦ONにしたRaspberry Piの電源を3分間は抜かないでください。せっかくインストールしたVolumioが、運悪くクラッシュしてしまうかもしれません。

インストールに成功したばあい、最初に表示される言語設定ページ

 Volumioは起動すると、DNSブロードキャストと呼ばれる機能を使って自分のアドレスをLAN内に配ります。Raspberry Piの電源ONから3分以上待ってから、パソコンを起動していつもお使いのホームページ閲覧ソフトのアドレス欄に、

http://volumio

と入力すればVolumioにアクセスできるはずで、上のようなページが表示されれば成功です。パソコンでなくても、Volumioと同じLANに接続されているなら、スマートフォンなどでもアクセスできるはずです。もし、上のように表示されなかったり、「接続できませんでした」などといったエラーが表示されたりするようでしたら、なにか間違いがあります。初めから確認してやり直すか、もう少し後で解説するようにRaspberry PiのHDMI端子にディスプレー(テレビ)を接続して調べることになってしまいます。

 インストールと接続に成功していたら、メニューで「日本語」が選択されているはずですので、そのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。

2番めのアクセスするURL(アドレス)を設定するページ

 つぎに表示されるページはVolumioにアクセスするURL(アドレス)の設定です。VolumioのままでOKですが、同じLAN内に2台以上あるばあいは「Volumio-KL-Room」とか別にします。英数字とハイフンが使えます。ピリオドも使えなくはありませんが、URLには「.local」が付加されます。大文字小文字はURLとしては区別されませんので、どちらでもけっこうです。入力したら、「Next」ボタンをクリックして次に進みます。

どこからオーディオ出力を出すかを設定するページ(後で設定するのでそのまま)

 サウンドをどこに出力するかの設定では、DACが接続されていれば表示されるはずですが、後で詳細に設定するので、今はそのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。

ネットワークを設定するページ

 つぎはネットワーク接続です。LANにはすでに有線で接続されていて、無線(WiFi)は使いませんから、そのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。もし、無線LANを使うなら、ここで表示されているはずのIDの親機に接続ボタンを押して接続します。

ネットワークドライブを設定するページ

 続いてネットワークドライブの設定です。この解説ではお薦めの方式である、USBでハードディスクを直接接続することにしていますので、そのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。USBでの直接接続なら、なにもしなくても自動で認識して使えるようになります。もちろん、ちゃんとフォーマットされたディスクやメモリのばあいです。

寄付のページ(ぜひ寄付してあげましょう)

 設定の最後に寄付(Donate)のページが表示されます。恩恵にあずかるのですから、ぜひ寄付してあげましょう。「Donate」ボタンをクリックすると、デフォルトでPayPalによる送金になります。

初期設定後に表示される再生ページ

 以上で初期設定が完了すると、上のような再生ページが表示されます。すぐに聴きたいところですが、最も重要な再生設定をしなければなりません。再生ページの右上あたりにある設定を表わす歯車のマークをクリックして「プレイバックオプション」を選択肢ます。

タイトルなし

 「プレイバックオプション」の上から順番にスクロールしながら設定していきます。まず「オーディオ出力」の「出力デバイス」を設定します。接続の説明ではiFiのDACを使いましたが、私は普段Combo384というUSBインターフェース経由で自作のDACを使っているので、ここでは「Combo384」を選択しました。お使いのDACが表示されているはずですので、それを選択します。大半のUSB接続DACは表示されますが、運悪く表示されなかったら、DACの電源が入っていること、USBがしっかり接続されていることを確認してから、RaspberryPiの電源を抜き差しして再起動し、再トライしてみてください。接続するUSBポートを変えてみると効果があるかもしれません。

 I2S DACは使いませんから、「Off」でOKです。選択できたら「保存ボタン」をクリックします。マウスでスクロールしたら設定値が変わってしまったりすることがあるので、毎回「保存ボタン」をクリックしたほうが確実です。

 「プレイバックオプション」の項目では、DSDの(Direct Stream Digital)プレイバック方法が問題となります。DSDは1ビットオーディオの一種で、パルスの密度で音声信号を表し、SACDにも使われている方式です。お使いのDACがDSDデータを直接再生できる機種なら「DSD Playback Mode」を「DSD Direct」に設定します。対応しているかどうかは、DACのメーカーや販売店などから情報を得てください。DSDにまったく対応していないDACをお使いだったり、DSDのことがよく分からないばあいも、「DSD Direct」で問題ありません。対応していないDACなら、自動的にPCMに変換されて再生されるはずです。

 逆に「DSD Direct」に対応しているばあいでも、「DSD over PCM (DoP)」を選択したほうが音質が良好なばあいが少なくありません。特に高いサンプリングレート(クロック周波数)のDSD音源でその傾向があります。DoPのみに対応したDACなら、初めからそちらを、「DSD Direct」に対応しているDACなら聴いてみて良い方にしてください。両者の違いはデータの転送方式で、「DSD Direct」は「ASIOネイティブ」の別名です。DoPはPCMのデータフォーマット内に詰め込んでDSDデータを送る方式です。両者は本来、同じ音質が可能なはずですが、現実には主にノイズで差が出てしまうばあいがあります。おかしな話ですが、アナログからデジタルになって不確実要素が増え、擬似怪奇現象に遭遇することが増えました。

 「DSD Auto Volume Level」と「音量の正規化」は「Off」にします。音量調整はデジタルデータを加工して行われ、ダイナミックレンジを狭めたり音質を劣化させたり(分からない程度かも)するので、すべて「Off」にします。

 有線のLANとUSBでやるので通信は安定しているはずですから、データの取り損ないに備える「オーディオバッファーのサイズ」と「再生前にバッファー」はあまり気にする必要ななく、元のままの設定値でOKです。

 「恒久的なキュー」は、前に再生キューに入れたファイルをそのままにしてくれるので、「On」が便利です。

 もう少し下にスクロールして、「音量オプション」と「Auto Resampling」を設定します。とにかくデータを勝手に再加工されないよう、上に示すとおりに設定してください。ミキサー(カーネルミキサー)が確実にOffにできるという点だけでも、Windowsパソコンの音楽再生ソフトではなく、Volumioを使う価値があります。「最大音量レベル」は「100 %」にして、再生ページではヴォリュームを最大にし聴いてください。めんどうくさがらずにアンプで音量調節しましょう。

いよいよ音楽ファイルをキューに入れて再生!

 ここまで来れば設定完了ですから、後はあちこちクリックして使い方を理解していきましょう。音量を常に100 % にする以外に、設定以外で「オーディオ愛好家向け」の特別なことはありませんから、ほかのホームページの解説も参考にしてください。

 USBディスクにパソコンで音楽ファイルをコピーしてから、RaspberryPiに接続しましょう。自動的に認識して、ページ下部の「一覧表示」タブをクリックして表示されるページで、まず「音楽ライブラリ」を、つぎに「USB」をクリックして選択すれば、USBディスクが表示されてフォルダをクリックすることで音楽ファイルやそのフォルダが表示できるはずです。

 リストの左端にある縦に並んだ点々をクリックすると表示されるメニューから「キューに追加」をクリックし、プレイバックページかキューのページに移って再生してください。上の例では、プラウザのウィンドを複数表示して、USBディスクの一覧表示とプレイバックの両方を同時に使えるようにしています。いい音が出ましたか?

HDMI端子にディスプレーを接続したときの起動画面


 残念ながらインストールに失敗したと思われるばあいは、RaspberryPiのHDMIポート(端子)にテレビかパソコン用のディスプレーを接続し、RaspberryPiの電源を入れてください。1分くらい真っ黒ですが、突然「Volumio」の文字が上のように表示され、すぐにOSにテキストモードでログインする画面に切り替わるはずです。そのように表示されなければ、あきらめて「インストール編」からやり直してください。固定IPアドレスや、WiFiの無効化から電源の考察まで、より高度な話題は「チューニング編」で書く予定です。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069&i=10778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/842.html#c76

[リバイバル3] CD/SACDプレーヤーからPC・ネットワークオーディオへ 中川隆
38. 中川隆[-9538] koaQ7Jey 2019年6月17日 15:20:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2940]

ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html


クラング・クンスト オーディオ愛好家向けVolumioの活用方法(インストール編)
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069&i=10651


VolumioはバージョンアップしてVolumio2になった


 高レベルなオーディオ愛好家のみなさんの多くは、きっと高価なネットワークプレーヤーで音楽データを再生していることでしょう。いっぽう、わたし(小林)がヴィンテージ愛好家なせいか、訪問させていただくリスニングルームでは、アナログはEMT927か930が、デジタルは古いスチューダーなどのフィリップス系メカのCDプレーヤーが多いようです(2017年までの経験)。そういったベテランのみなさんから見れば、流行りのデジタル機器は安くてちっぽけで、雑誌の付録みたいに思えてしまうことでしょう。

 でも、安い最新機器のなかには、とても優れた性能のものがあって、なかには測定が難しいほど低歪率なものもあります。豪華な高級機器は、価格を正当化するための複雑な回路や、能書き付きの大げさな部品に起因する大型化と、それらにともなう配線の延長などによって、かえって歪みが増し、音に色付けや僅かな濁りがある(それがブランドの音作り?)ばあいが少なくありません。デジタルでは、大きくて重いほうが良いとは限らないどころか、逆の場合もあるのです。

訪問先にあった小型デジタル機器の対極にある重厚なアナログプレーヤーEMT927

 ご自分の装置の音質に気に入らない部分があって、それをデジタル再生機器などの色付けで中和しようというのなら個性的な高級機を使うのもありですが、わたしは愛用するヴィンテージスピーカーの音を台無しにするような濃い味付けの音作りは勘弁してもらいたいので、デジタル再生には「ヴォリューミオ(Volimio)」という無料のソフトを、安いミニパソコンにインストールしたものをメインにしています。バイオリニストの「グリュミオー」みたいに聞こえたので、「ヴォリューミオ」という名前はには良い印象をもっています(原語では「Volumio」と「Grumiaux」でぜんぜんちがいますね)。

 パソコン(PC)オーディオに詳しい人たちにとって、Volumioは何年も前からメジャーでしたが、主にラズベリーパイ(RaspberryPi)というミニパソコンに基本ソフトごとインストールして使うので、ベテランのオーディオ愛好家にとっては敷居が高いようです。しかし、わたしの経験では、Volumioと気に入ったDAコンバーター(DAC)の組み合わせが、最も優れた音楽データ再生装置です。MACやWindowsなどの高性能パソコンや、数百万円もする有名メーカー製品と比較しても、音質も含めて総合的に上だと考えています。人には言えないほどのお金をかけてしまっている我ら筋金入りのオーディオ愛好家(あるいはオーディオ馬鹿)こそ、Volumioユーザーになるべきなのです。

 ちょっと前置きが長くなってしまいましたが、そういったわけで「オーディオ愛好家向けVolumioのインストールと活用方法」をご紹介します。あま多あるPCオーディオ的な解説ではなく、本格的なオーディオ愛好家向けの解説ですから、「やりすぎ」と思われてしまう部分があるかもしれませんが、気にすることはありません。なにしろ、ご自慢の再生装置のコストと比べればppmオーダーの価格にしかなりませんから、いますぐアマゾンなどでRaspberry Piを購入してスタートしましょう。

※大変申し訳ありませんが、この解説やその結果についての補償とサポートは一切ありません。パソコンが苦手な方は、友人やオーディオの弟子などに手伝いを依頼してください。


(2018年4月版)Volumio2のインストールと設定方法


 まず、Raspberry Pi には種類がたくさんあるので、どれを買ったらよいか迷ってしまいますが、現時点では2018年3月に発売された最新の「Raspberry Pi 3B+」か、ひとつ前の「Raspberry Pi 3B」を購入すれば間違いありません。もっと旧型のRaspberry Piや下位モデルでも大抵は問題なく使えますが、本体は5千円程度と安い真空管くらいの価格ですから、新しいモデルを買うようにしましょう。

ラズベリーパイ(RaspberryPi) 3B と RSコンポーネンツ社の純正ケース

 最近のRaspberry Piは無線LAN機能を内蔵しているので、電気通信事業法に基づく「技術基準適合認定」が必要です。日本国内で製造されたものを購入すれば付いているはずです。ちなみに、現在はオーディオ愛好家にとって馴染みの深いSONYが製造しています。ただし、今回ご説明する方法では無線を使いません。

  Raspberry Pi本体はむき出しの小さな基板1枚だけなので、電源とケースを買う必要があります。ケースは安っぽいプラスチック製ばかりなので、とりあえず純正のケースにしておけば無難です。アマゾンを見てみると、純正ではなく「Official」と表記されていました。純正というのは、電子部品の大手通販業者である英国のRSコンポーネンツ社の製品ということです。Raspberry Pi は安価な教育用パソコンとして、2011年にRaspberry Pi財団によって開発され、2012年からRSコンポーネンツ社によって供給されてきました。

ラズベリーパイ(RaspberryPi) 3(B) 用の RS純正電源

 そのほかに用意する必要があるものは、電源とマイクロSDカード、USBケーブル、LANケーブル、大容量ディスクです。オーディオ愛好家は電源に尋常でないこだわりがあって、いろいろと物色したくなるでしょうが、千数百円のRaspberry Pi用ACアダプタ型電源を購入すれば十分です。RS純正品はアマゾンにはなくて、同様なものが売られているようです。5 Vで2.5 A以上のものであれば、どちらでもいいと思います。RS純正品はRaspberry Pi本体やケースとともに、RSオンラインで購入できます。

■RSオンライン
https://jp.rs-online.com

 マイクロSDカードは、どれでもVolumioが動作するとは限りません。無難な東芝の16G Class 10 UHS-1の安いカードがお薦めです。わたしは本業のシステム構築でRaspberry Piをよく使い、高い性能が求められるばあいは下記のトランセンド社のカードを使うことがありますが、Volumioにはそこまで必要ありません。
「Transcend High Endurance micro SDHC 16G Class 10 TS16GUSDHC10V」

 オーディオ愛好家は何でもハイスペックで高価なものが良いと思いがちですが、32G以上のカードは相性が悪くてVolumioが動作しないものの割合が増えるうえ、今回ご説明する方法ではカードに音楽データを保存しませんから、大容量が無駄になってしまいます。かつて懐かしの「オーレックス」ブランドでオーディオに貢献し、いまは色々と大変な東芝のカードを使ってあげましょう。私のVolumioも写真のカードで快調に動作しています。

無難な東芝製16GマイクロSDカード(アダプター付き)

 接続ケーブルもまた難物で、神仏に貢ぐがごとき散財をしてしまうオーディオ愛好家もいるほどですが、まずは家電量販店で売っているような普通のケーブルでスタートしましょう。Raspberry Piが軽いので、細めのケーブルがお薦めです。USBケーブルのRaspberry Pi側のコネクターはパソコンと同じタイプです。DAC側はお使いのDACに合わせてください。現在の多くのDACには、標準的なプリンターと同じタイプのコネクターが付いています。ですから、プリンター用のUSB2.0ケーブルを買えば大丈夫なことが多いと思います。

 LANケーブルはCAT-5eかCAT-6のパソコン用ケーブルでOKです。USBケーブルもLANケーブルも、オーディオ用と称する高額品がありますが、5千円のRaspberry Piの基板内を流れて出てきた信号を、1本数万円もするケーブルに通すことにどんな意味があるのか、冷静に考えてからにしましょう。ケーブルと音質については、後の「(チーニング編)」でご説明します。そのときに、必要があれば買い替えるようにしてください。最初から特殊なものを使うと、思わぬ落とし穴にはまってしまうかもしれません。


マイクロSDカードのフォーマット


 必要なものがそろったら、インストール作業を始めます。インストールにはデスクトップでもノートでも良いので、インターネットに接続した普通のWindowsパソコンを使います。MACでも出来ますが、ここでは説明しませんので、別の詳しい人に聞いてください。申し訳ありません。

 パソコンにはSDカードを挿入するスロットが必要なので、無ければUSBカードリーダーなどを購入してください。また、パソコンには管理者権限のあるユーザーでログインしてください。その前提でご説明します。これまでに拝見させていただいたオーディオ愛好家のパソコンは、すべて管理者ユーザーでログインしておられましたので、大抵は大丈夫だと思います。

 まずは専用アプリケーションによるマイクロSDカードのフォーマットからです。わたしを含む多くのRaspberry Piユーザーが使っているのは、SDカードのメーカー団体が配布している「SDメモリカードフォーマッター」で、ちょうどこの記事を書いている最中にバージョンアップされ、これまで2系統あったものがバージョン5で統合されたようです。早速試したところ、無事にVolumioがインストールできました。わたしのパソコンはWindows 7(プロ)を10にバージョンアップしたものです。

■SDメモリカードフォーマッター
https://www.sdcard.org/jp/downloads/

SDメモリーカードフォーマッターのダウンロードページ

 上のページの下側にダウンロードボタンががありますので、スクロールしてWindows用をクリックすると、英語のユーザーライセンス同意事項がドバッと表示されます。(なんとなく)確認したら、「同意します」をクリックしてダウンロードしましょう。

タイトルなし

 「SD_CardFormatter0500SetupJP.exe」といった(0500のバージョン部分は変わります)ファイルのダウンロードが完了したら、(ダブルクリックして)実行します。すると、

このアプリがデバイスに変更を加えることを許可しますか?
SD Card Formatter Setup
確認済みの発行元: Tuxera Inc

といった警告が表示されますので、「はい」をクリックして進めてください。あとは通常のインストールと同じなので、デフォルトの指示通り「次へ(N)」をクリックして進めてください。メジャーなソフトはフィッシングに使われることが多いので、慌てて偽物をインストールしないように注意してください。ほかのアプリも同様です。

 インストールが完了すると、「SDメモリカードフォーマッター」の起動が始まり、再び先ほどと同じ警告が表示されます。「はい」をクリックしてアプリが起動したら、インストール成功です。せっかく起動したアプリですが、ここでは×をクリックしてすぐに終了させます。このとき、SDカードを挿入するカードリーダーのスロットの状態によっては、起動後に固まってしまうことがあります。そのばあいは、辛抱強く×(閉じるバツ)をクリックするなどして強制終了し、念のためにパソコンを再起動しましょう。メモリカードの操作では、一般にパソコンが不安定になる傾向があります。

動作中の「SDメモリカードフォーマッター」

 いよいよフォーマットです。マイクロSDカードをアダプターに挿入し、アダプターごとパソコンのカードスロットに挿入します。それ以外のカードやUSBメモリなどは、一切挿入しないようにしてください。もし、マイクロSDカード未挿入のアダプターだけを挿入すると、パソコンや「SDメモリカードフォーマッター」が固まることがありますので、やはり強制終了+再起動でやり直しましょう。フォーマットするマイクロSDカードのみが挿入されている状態で、デスクトップに出来ているはずの「SD Card Formatter」のショートカットをクリックして、再度「SDメモリカードフォーマッター」を起動します。

 すると、フォーマットするマイクロSDカードが認識されているはずで、上のスクリーンショットの例では「H:」になっています。うっかりデジカメのカードをフォーマットするなど、ミスのないことを確認したら、「上書きフォーマット」を選択して「フォーマット」ボタンをクリックします。わたしのパソコンでは上書きフォーマットに10分ほどかかりましたが、カードの健全性確認になるのでそうしました。新品のマイクロSDカードなら、「クイックフォーマット」を選択してすぐに完了させても問題は起こらないでしょう。

タイトルなし

 「本当にフォーマットしてもよろしいですか?」という警告の「OK」をクリックしてしばらく待つと、「フォーマットが正常に終了しました。」といった表示が現われ、めでたくフォーマットが完了します。なお、ボリュームラベルは空欄のままで入力しません。Volumioのインストール時に消されてしまうからです。


■Volumioのインストール


 Volumioのインストールには、SDカードやUSBメモリなどにディスクイメージという特殊なファイルを書き込むためのアプリをダウンロードして使います。CD-Rを焼くアプリと似たようなことをメモリに対して行なうアプリで、下に示す「Win32 Disk Imager」を使います。

■Win32 Disk Imager
https://ja.osdn.net/projects/sfnet_win32diskimager/

書き込みアプリ「Win32 Disk Imager」のダウンロード元の一例

 ダウンロード元はいくつもありますが、レスポンスが良かったので、OSDNというダウンロードサイトを例にしました。ダウンロードページで「ダウンロードファイル一覧」というボタンをクリックすると、長いファイルリストが表示されますので、下に示すように末尾が「install.exe」になっているインストールファイルのうちで、もっとも数字が大きい最新版をダウンロードしてください。下の例では「win32diskimager-1.0.0-install.exe」になっています。

「Win32 Disk Imager」のダウンロードファイル一覧から最新のexeファイルを選択する

 ダウンロードしたファイルをダブルクリックするなどして、インストールを開始します。まず、ライセンスの同意を求められますので、スクロールして「I accept the agreement」を選択して同意し、「Next」をクリックします。途中で表示される、「□Create a desktop」にチェックを入れて、デスクトップに起動用のショートカットを作ります。

「Win32 Disk Imager」のインストール開始時に表示されるライセンス同意

インストールが終わるころ、「この不明な発行元からのアプリがデバイスに変更を加えることを許可しますか?」という警告が表示されますので、「はい」をクリックしてください。「README.txt」という英語の説明とともに「win32diskimager」が起動し、インストールが完了しますが、ここではやはり両方とも×をクリックして閉じてください。

「Win32 Disk Imager」のインストールが完了した状態のスクリーンショット

 ようやくVolumioのダウンロードです。下のダウンロードサイトにアクセスすると、そのまた下のスクリーンショットのようにRASPBERRY PIがデフォルトで選択されているはずですが、念のため確認してから「DOWNLOAD」をクリックしましょう。執筆時点では「volumio-2.389-2018-03-26-pi.img」というバージョンのファイルでした。「.img」という拡張子のファイルは、ハードディスクやDVDなどのディスク全体を、ファイルだけでなくファイルを管理するための情報も含めて一つのファイルにしたもので、ディスクイメージと呼びます。

■Volumio
https://volumio.org/get-started/

Volumioのダウンロードページ

 Windowsは基本ソフトとかOS(Operating System =オペレーティングシステム)などと呼ばれ、色々なアプリを動作させる環境を作っています。VolumioはLinuxという基本ソフトと、その環境上で動作するVolumioのアプリが一体となったもので、パソコンのドライブC:内の全情報に相当するディスクイメージとして提供されています。これをマイクロSDカードに書き込んで、RaspberryPiなどで起動するという仕組みなのです。

 いま、パソコンのカードリーダーのスロットには、フォーマットしたままのアダプター付きマイクロSDカードが挿入されているはずです。念のため、それをアダプターごと外します。その際、タスクバーから「ハードウェアを安全に取り外してメディアを取り出す」といった表示が出るアイコンをクリックしてドライブを選択し、「○○はコンピューターから安全に取り外すことができます」のような表示が出てから抜いてください。

「win32diskimager」でVolumioを起動するディスクイメージを書き込む

「win32diskimager」でVolumioを起動するディスクイメージを書き込む

 再びマイクロSDカードをアダプターごと挿入し、利用可能な状態になるのを待ちます。もちろん、Volumioのダウンロード完了も待たなければなりません。それから、デスクトップにあるはずの「win32diskimager」のショートカットをダブルクリックし、警告に「はい」をクリックして起動します。立ち上がったら、上のようにフォルダのアイコンをクリックしてダウンロードしたVolumioのディスクイメージを選択し、書き込み先「Device」が正しいマイクロSDカードを示していることを確認してから、「Write」ボタンをクリックします。

 英語で「Writing to a physical ・・・(以下省略)」といった警告が出ます。これはカード内の全データが消えるということですので、「Yes」をクリックしてしばらく待ちます。下のような書き込み成功の表示が出たら、めでたく終了です。ご苦労様でした。

「win32diskimager」によるVolumioの書き込み成功でインストールが完了!

「win32diskimager」によるVolumioの書き込み成功でインストールが完了!

 Volumioの動作や使い方などについては、次回の(動作設定編)でご説明しますが、すぐに確認したいでしょうから、ごく簡単に書いておきます。もうパソコンではマイクロSDカードを認識できませんから、そのまま引き抜いてRaspberry Piに挿入します。LANケーブルと電源を接続してから最後にコンセントに挿し、数分間待ちましょう。Raspberry Piに電源スイッチはありませんから、電源を接続して起動、抜いて停止です。DHCPサーバーというものがあることが前提ですが、パソコンでホームページ閲覧アプリを起動してアドレスバーに、
http://volumio
と入力し、Volumioのページが表示されたら成功です。

 動作設定編では、使い方だけでなく、「なぜ、手軽なI2C DACを使わないか」といった手軽な話題を通じて、デジタルオーディオの本質についても考察する予定です。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069&i=10651

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クラング・クンスト オーディオ愛好家向けVolumioの活用方法(接続・設定編)
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069&i=10778


 ヴォリューミオ(Volumioのインストールが済んだら、つぎはラズベリーパイ(Raspberry Pi)で動作させるための準備です。普通に基板をプラスチックケースに入れるだけでも十分ですが、オーディオ愛好家は色々と貼ったり交換したりしないと気が済まないでしょうから、手軽なところで放熱部品(ヒートシンク)を取り付けてみましょう。

ラズベリーパイ(Raspberry Pi) 3B とネット通販で売られていた放熱用部品

 深海などの研究をしていて、Raspberry Piをシビアな条件で使っている友人の話では、信頼性上のウィークポイントは熱暴走だそうです。初期の製品よりは強くなりましたが、私もRaspberry Piを仕事で使うときは熱対策をしています。オーディオにそこまで信頼性は必要ないかもしれませんが、万が一にも曲のいいところで途切れたりしたら許せません。ネット通販で「Raspberry Pi ヒートシンク」などと検索すれば、上の写真のような商品が見つかります。

 金色の大きな方がCPU用、青い小さな方が基板上にもう1つあるLANやUSBのIC用です。こちらのLANやUSBのICの方が熱的に弱い傾向です。放熱は空気の対流と赤外線を出すことで行われるので、写真のようなピカピカとカラフルなヒートシンクではなく、黒いほうが効率が良さそうに思えますが、昔の仕事で人工衛星に搭載する部品を検討した際のデータでは、アルマイトの色による赤外での効率(10 μm帯での熱放射率)の差は意外に少なく、銀でも黒でもほぼ同じでした。

放熱用部品(ヒートシンク)を取り付けケースに入れたRaspberry Pi

 ヒートシンクには両面テープが貼ってあることが多いので、それで取り付けたらプラスチックケースに入れます。上の写真では、基板の上にあるフタを外してあって基板が露出してます。この方が放熱に有利なのでそうしましょう。ホコリは吹き飛ばせばいいので気にしません。不格好だなんて言わないでください。冷却ファンが無いことはオーディオ用として実にありがたいことですから。

Rasberry Piの底面にあるスロットに、インストールしたマイクロSDカードを挿入

 マイクロSDカードを挿入するスロットは、Raspberry Pi基板の裏側にあり、ケースの底にも溝が切ってあってそのまま挿入できるようになっています。カチッというまでしっかり差し込みましょう。カードを抜くには、一度カードを軽く押しんで、少し出てきたところを引き抜きます。スロットはそんなに丈夫ではないので、無理に引っ張らないでください。

上からUSBハードディスク、Raspberry Pi(左は電源)、DACを接続した様子

 それでは、Raspberry Piと必要な機器を接続しましょう。写真の上側にあるのがUSBハードディスクです。VolumioをインストールしたマイクロSDカードとちがい、こちらには音楽ファイルを大量に保存しますから、4T(テラ)といった大容量製品がお薦めです。予算に余裕があれば、RAID(ライド)といって冗長構成でハードディスクが壊れてもすぐにデータが失われないようにした製品は安心です。そのばあいでも、苦労してリッピングして音楽ファイルが消滅しないように、バックアップコピーははならず保存しておきましょう。

 USBハードディスクとRaspberry Piを接続するUSBケーブルは、オーディオ用ではない、パソコン用の長いケーブルをお薦めします。ハードディスクは騒音を出すので、なるべく遠くに置きましょう。ハードディスクに付属するケーブルは1メートルくらいのが多いので、両端のプラグが同じで長いケーブルを別途購入します。これまで訪問させていただいたリスニングルームは20〜40畳くらいが多かったので、一般的に販売されているうちで最長の5メートルがよさそうです。遠くに離せば、ハードディスクの音も気になりません。

 USBではなく、LAN経由でVolumioにデータを送るLANディスクも使えます。そちらを使うにはネットワーク設定などが必要になりますので、パソコンに詳しい友人かオーディオの弟子に依頼してください。USBディスクの方がシンプルで他のネットワーク機器からのアクセスとの競合が発生せず安定ですが、ウェスタンエレクトリックの部屋とクラングフィルムの部屋といったように、リスニングルームが複数あって音楽ファイルを共用したいばあいはLANディスクが便利です。しかし、USBディスクの内容をコピーして、それぞれの部屋に設置するほうが、データが2箇所にあってバックアップになるというメリットもあるので、わたしはそうしています。

 写真の下側にある銀色のものがDAコンバーター(DAC)です。これはiFiというイギリスの製品で、内蔵バッテリーで動作することの効果なのか、安価な製品ながら音質が良好で、われらオーディオ愛好家でも聴き続けられる最底辺のDACとして知られています。妙な味付けも少なく感じるので、オーディオイベントなどで持ち運ぶときに使っています。その昔CDが普及し始めたころ、やはりバッテリーで動作するパナソニック製のポータブルCDプレーヤーが、据え置きの大型高級CDプレーヤーよりも好印象で、リスニングルームでも使っていたことを思い出します。

 Raspberry PiとDACの接続には、はやりUSBケーブルを使います。DACは遠くに置く必要がありませんが、新しくケーブルを買うなら、やはりパソコン用の細めで長いケーブルをお薦めします。某大手ネット通販の「○○ベーシック」と称する安いケーブルは、全般に太くて曲がりにくいので避けましょう。長ければ、後でチューニングが楽しめます。ノイズだらけのパソコンと接続するわけではないいし、合理的でもないので、オーディオ用の高価なUSBケーブルは必要ありません。

 その他の通信ケーブルは、Raspberry PiのLANケーブルだけです。細めのパソコン用LANケーブルでハブかルーターと接続します。ここで解説する方法では無線は使いません。理由は、気のせいかもしれない細部をうがって大金を投じるオーディオ道楽において、わざわざ電波を発生させたり消費電力を増やしたりするのは道に外れた行ないだからです(電子機器としては正道です)。電源の汚れを気にしてMY電柱建立(お薦めしません)とかやっている愛好家がいるくらいなのに、数ギガヘルツの高周波回路を音楽データの隣で操作させることは、精神衛生にもマイナスです(実際にはCPUなどもギガHzで動作しています)。(カッコ書きが多いのはオーディオの矛盾を表しています)


ところで、I2S DACは?


I2S DACと呼ばれる小さなResberry Piの基板に直接取り付けるDAコンバーター

 さて、上で説明したUSB接続のDACではなく、Raspberry Pi用のI2S DACというものを使うことが流行っていて、「どの程度の音質か?」といったご質問をいただいています。上の写真はその例で、Raspberry Pi用の組立式ケースとセットで4千円くらいでした。I2SはインターIC、すなわちIICをIの2乗で表現したもので、アイスクエアエスと読みます。I2Sは以前からサウンドディバイスなどのハードウェアがパソコンなどの機器内で通信するときに使われていた標準的なインターフェースで、パソコンに組み込みでないDACチップ(デジタル→アナログ変換するIC)への入力としても一般的です。

 I2S DACはむき出しの基板1枚で、Raspberry Piのコネクタに上から挿入することで取り付けと接続が完了します。このようなオプション基板を「ハット」と呼びます。つぎの写真は、I2S DACをRaspberry Piに取り付けた状態です。

I2S DACをResberry Piに接続した状態(コネクタに挿すことで上に載せてある)

 I2S DACはとてもシンプルで、ほぼDACチップ1個にコネクタが接続されているだけです。好条件で測定すれば驚くほど低歪率で、一世代前の高級DAC製品は、物理特性では太刀打ち出来ないくらいでしょう。ですので、あなたが大画面液晶テレビの両脇に評論家がほめちぎったベストセラーの小型スピーカーを並べるくらいのオーディオファンなら、I2S DACで十分です。つまり、90%?のオーディオを楽しむ人々にとって、性能的には数千円のI2S DACで足りてしまうのですから、老舗オーディオメーカーが身売りするのもやむなしです。

 では、われわれ(勝手に道楽仲間にさせていただきました)にとって、I2S DACはどうでしょうか? 写真のI2S DACにはテキサス・インスツルメント社(Texas Instruments)のPCM5122というDACチップが使われていて、32 bit、384 kHz、ダイナミックレンジ112 dBという、申し分のないスペックです。LPレコードをアイボリーホワイトに黒のガラード301に載せるといった、音楽のための美的な儀式性の対極にあるI2S DACの安っぽさはさておいて、純粋に音についての印象を述べると、やはり満足できません。わずかですが、無機質な雑味を感じてしまいます。

 この議論はきりがないので簡単にしますが、結局のところ、デジタル部分はもはや過剰スペックなものの、DACチップ内部でパルス密度的に変換された信号がローパスフィルターでデジタルからアナログになっていく部分から、様々な音質への悪影響を受け始めるということです。やはり、アナログは微妙ですね。PCM1795のようなグレードの高いDACチップは、アナログ信号が外乱を受けにくい電流出力になっているのに対し、PCM5122は簡略化のため直接電圧で出力しているのもマイナス要素です。高圧変電設備内のセンサーなど、耐ノイズ性が求められる用途では、電流出力が一般的です。


Vokumioの起動


 さて、脱線した話題はこのくらいにして、Volumioを起動しましょう。配線がすべてされていて、LAN内にDHCPサーバーというものがあって、LANで使うIPアドレスが自動的に割り振られるようになっていることを確認してください。パソコンを買ってきてつなぐと、ネットワークの設定をしなくてもホームページが見られるのなら、そうなっているはずです。分からなければ、詳しい人に見てもらいましょう。

 それでは、1.USBディスク、2.DAC、3.Raspberry Piの順に電源を入れてください。1.と2.は前後してもかまいません。USBディスクはRaspberry Piが起動するまで電源が待機するかもしれません。Raspberry Piには電源スイッチがなく、ACアダプタを接続することでON、抜くことでOFFです。Raspberry Piの内部でインストールしたVolumioが起動するのに1〜2分かかりますので、なにかミスを見つけたりしても、一旦ONにしたRaspberry Piの電源を3分間は抜かないでください。せっかくインストールしたVolumioが、運悪くクラッシュしてしまうかもしれません。

インストールに成功したばあい、最初に表示される言語設定ページ

 Volumioは起動すると、DNSブロードキャストと呼ばれる機能を使って自分のアドレスをLAN内に配ります。Raspberry Piの電源ONから3分以上待ってから、パソコンを起動していつもお使いのホームページ閲覧ソフトのアドレス欄に、

http://volumio

と入力すればVolumioにアクセスできるはずで、上のようなページが表示されれば成功です。パソコンでなくても、Volumioと同じLANに接続されているなら、スマートフォンなどでもアクセスできるはずです。もし、上のように表示されなかったり、「接続できませんでした」などといったエラーが表示されたりするようでしたら、なにか間違いがあります。初めから確認してやり直すか、もう少し後で解説するようにRaspberry PiのHDMI端子にディスプレー(テレビ)を接続して調べることになってしまいます。

 インストールと接続に成功していたら、メニューで「日本語」が選択されているはずですので、そのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。

2番めのアクセスするURL(アドレス)を設定するページ

 つぎに表示されるページはVolumioにアクセスするURL(アドレス)の設定です。VolumioのままでOKですが、同じLAN内に2台以上あるばあいは「Volumio-KL-Room」とか別にします。英数字とハイフンが使えます。ピリオドも使えなくはありませんが、URLには「.local」が付加されます。大文字小文字はURLとしては区別されませんので、どちらでもけっこうです。入力したら、「Next」ボタンをクリックして次に進みます。

どこからオーディオ出力を出すかを設定するページ(後で設定するのでそのまま)

 サウンドをどこに出力するかの設定では、DACが接続されていれば表示されるはずですが、後で詳細に設定するので、今はそのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。

ネットワークを設定するページ

 つぎはネットワーク接続です。LANにはすでに有線で接続されていて、無線(WiFi)は使いませんから、そのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。もし、無線LANを使うなら、ここで表示されているはずのIDの親機に接続ボタンを押して接続します。

ネットワークドライブを設定するページ

 続いてネットワークドライブの設定です。この解説ではお薦めの方式である、USBでハードディスクを直接接続することにしていますので、そのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。USBでの直接接続なら、なにもしなくても自動で認識して使えるようになります。もちろん、ちゃんとフォーマットされたディスクやメモリのばあいです。

寄付のページ(ぜひ寄付してあげましょう)

 設定の最後に寄付(Donate)のページが表示されます。恩恵にあずかるのですから、ぜひ寄付してあげましょう。「Donate」ボタンをクリックすると、デフォルトでPayPalによる送金になります。

初期設定後に表示される再生ページ

 以上で初期設定が完了すると、上のような再生ページが表示されます。すぐに聴きたいところですが、最も重要な再生設定をしなければなりません。再生ページの右上あたりにある設定を表わす歯車のマークをクリックして「プレイバックオプション」を選択肢ます。

タイトルなし

 「プレイバックオプション」の上から順番にスクロールしながら設定していきます。まず「オーディオ出力」の「出力デバイス」を設定します。接続の説明ではiFiのDACを使いましたが、私は普段Combo384というUSBインターフェース経由で自作のDACを使っているので、ここでは「Combo384」を選択しました。お使いのDACが表示されているはずですので、それを選択します。大半のUSB接続DACは表示されますが、運悪く表示されなかったら、DACの電源が入っていること、USBがしっかり接続されていることを確認してから、RaspberryPiの電源を抜き差しして再起動し、再トライしてみてください。接続するUSBポートを変えてみると効果があるかもしれません。

 I2S DACは使いませんから、「Off」でOKです。選択できたら「保存ボタン」をクリックします。マウスでスクロールしたら設定値が変わってしまったりすることがあるので、毎回「保存ボタン」をクリックしたほうが確実です。

 「プレイバックオプション」の項目では、DSDの(Direct Stream Digital)プレイバック方法が問題となります。DSDは1ビットオーディオの一種で、パルスの密度で音声信号を表し、SACDにも使われている方式です。お使いのDACがDSDデータを直接再生できる機種なら「DSD Playback Mode」を「DSD Direct」に設定します。対応しているかどうかは、DACのメーカーや販売店などから情報を得てください。DSDにまったく対応していないDACをお使いだったり、DSDのことがよく分からないばあいも、「DSD Direct」で問題ありません。対応していないDACなら、自動的にPCMに変換されて再生されるはずです。

 逆に「DSD Direct」に対応しているばあいでも、「DSD over PCM (DoP)」を選択したほうが音質が良好なばあいが少なくありません。特に高いサンプリングレート(クロック周波数)のDSD音源でその傾向があります。DoPのみに対応したDACなら、初めからそちらを、「DSD Direct」に対応しているDACなら聴いてみて良い方にしてください。両者の違いはデータの転送方式で、「DSD Direct」は「ASIOネイティブ」の別名です。DoPはPCMのデータフォーマット内に詰め込んでDSDデータを送る方式です。両者は本来、同じ音質が可能なはずですが、現実には主にノイズで差が出てしまうばあいがあります。おかしな話ですが、アナログからデジタルになって不確実要素が増え、擬似怪奇現象に遭遇することが増えました。

 「DSD Auto Volume Level」と「音量の正規化」は「Off」にします。音量調整はデジタルデータを加工して行われ、ダイナミックレンジを狭めたり音質を劣化させたり(分からない程度かも)するので、すべて「Off」にします。

 有線のLANとUSBでやるので通信は安定しているはずですから、データの取り損ないに備える「オーディオバッファーのサイズ」と「再生前にバッファー」はあまり気にする必要ななく、元のままの設定値でOKです。

 「恒久的なキュー」は、前に再生キューに入れたファイルをそのままにしてくれるので、「On」が便利です。

 もう少し下にスクロールして、「音量オプション」と「Auto Resampling」を設定します。とにかくデータを勝手に再加工されないよう、上に示すとおりに設定してください。ミキサー(カーネルミキサー)が確実にOffにできるという点だけでも、Windowsパソコンの音楽再生ソフトではなく、Volumioを使う価値があります。「最大音量レベル」は「100 %」にして、再生ページではヴォリュームを最大にし聴いてください。めんどうくさがらずにアンプで音量調節しましょう。

いよいよ音楽ファイルをキューに入れて再生!

 ここまで来れば設定完了ですから、後はあちこちクリックして使い方を理解していきましょう。音量を常に100 % にする以外に、設定以外で「オーディオ愛好家向け」の特別なことはありませんから、ほかのホームページの解説も参考にしてください。

 USBディスクにパソコンで音楽ファイルをコピーしてから、RaspberryPiに接続しましょう。自動的に認識して、ページ下部の「一覧表示」タブをクリックして表示されるページで、まず「音楽ライブラリ」を、つぎに「USB」をクリックして選択すれば、USBディスクが表示されてフォルダをクリックすることで音楽ファイルやそのフォルダが表示できるはずです。

 リストの左端にある縦に並んだ点々をクリックすると表示されるメニューから「キューに追加」をクリックし、プレイバックページかキューのページに移って再生してください。上の例では、プラウザのウィンドを複数表示して、USBディスクの一覧表示とプレイバックの両方を同時に使えるようにしています。いい音が出ましたか?

HDMI端子にディスプレーを接続したときの起動画面


 残念ながらインストールに失敗したと思われるばあいは、RaspberryPiのHDMIポート(端子)にテレビかパソコン用のディスプレーを接続し、RaspberryPiの電源を入れてください。1分くらい真っ黒ですが、突然「Volumio」の文字が上のように表示され、すぐにOSにテキストモードでログインする画面に切り替わるはずです。そのように表示されなければ、あきらめて「インストール編」からやり直してください。固定IPアドレスや、WiFiの無効化から電源の考察まで、より高度な話題は「チューニング編」で書く予定です。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069&i=10778
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/854.html#c38

[リバイバル3] スピーカーの歴史 _ 何故、過去に遡る程 スピーカーもアンプも音が良くなるのか? 中川隆
8. 中川隆[-9537] koaQ7Jey 2019年6月17日 15:22:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2941]

ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html


クラング・クンスト ヴィンテージ愛好家の最新スピーカー試聴記 2016年4月
https://www.klang.jp/index.php?ci=10139

1945年から1983年まで38年間も製造されたオイロダインスピーカー
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10428_801.jpg


 先日、じつに久しぶりに秋葉原に出向き、いろいろな最新スピーカーを試聴したことについて書く。ご存じのように、わたしはオイロパやオイロダインといったクラングフィルムのヴィンテージスピーカーを使っている。ウェスタンエレクトリックも含めると同好の仲間は大勢いて、我らヴィンテージ愛好家はオーディオにおける大派閥だ。そんな連中はB&Wなどの最新スピーカーには目もくれず、「あんなキンキンシャカシャカしたスピーカーはオモチャですよ」といった調子だ。

 だが、古い機器に囲まれて何十年もいると、ふと、「世間は文明化して洋服なのに自分だけ貫頭衣というように、取り残されているのではないか?」、「自分だけ古墳時代?」などと思うことがある。最新スピーカーの宣伝文句には「革新的な進歩」、「これまでにない完璧なサウンド」などという文句が踊っていて、「劣った昔のスピーカーなど粗大ごみにしてサッサと買い替えましょう」と言わんばかりだ。もちろん、アンプにも同様なことがいえるが、スピーカーほど極端な音の差は無いだろう。

 筋金入りのヴィンテージオーディオ愛好家のなかには、装置があまりに大げさなので「それではナローレンジ過ぎませんか?」と心配すると、「どうせ耳が悪いので分かりません」とか、「音楽は聞きませんから」などど豪語する人もいる。わたしも裸の王様になってはまずいので、自分の耳で最新スピーカーを確認してみることにした。若いエンジニアのK君と「肉の万世」前で待ち合わせの約束をして出向くと、そこはコインパーキングになっていた。まったくの浦島太郎だ。「肉の万世」は万世橋の向こう岸に移転していたが、ハンバーグの味は変わっていなかった。


ずいぶんと前にオーディオの街ではなくなっている秋葉原


 試聴には「西脇義訓指揮、デア・リング・オーケストラ」による「英雄交響曲」のSACDと、「フェリシティ・ロット(ソプラノ)」による「シューマン歌曲集」のCDを持参した。最新スピーカーに合わせた新録音と、聴きなじんだ歌という組み合わせだ。「革新的な技術によって歪がなくなったはずのニューモデルは、さぞかしピュアな音を聴かせてくれるにちがいない」と期待しつつ、複数のショップでかなりの数のスピーカーを聴いた。

 大型量販店でぶらぶらしながらJBLやタンノイの小型モデルが鳴っている音を聴いたが、それらは改めて試聴したいと思うほどではなかった。開発中のDAコンバーターを現在のベストセラースピーカーで鳴らすと、いったいどんな音が出るのか確認してみる必要があると思っていたので、まずはB&Wの試聴を申し込んだ。トヨタ車のような絶対的優越性があるとされ、驚くほど売れているらしい。

 まず、安価な600シリーズを聴いたところ、無理して上位機と同じツィーターにしたために中国で製造してもコストに無理があるのか、長岡鉄男流に重量ブロックでも乗せないと箱が厳しいと感じた。だが、それでは都会にふさわしいコンパクトなデザインが台なしになってしまう。いまのように高価で豊富なオーディオアクセサリー製品が無かった昔は、愛好家の必需品といえば重量ブロックやレンガ、ブチルゴムシートなどであった。いやはやダサいが、いまでも効果のあるアクセサリー群だ。

 その上のCMシリーズには重量ブロックが必要なさそうだったが、期待していたようなピュアな音ではなかった。きっとうまくマーケッティングをして、「B&Wの音」を作っているのだろう。無色透明どころか、「下手をするとオイロダインより癖が強いのでは?」と思う瞬間もあった。CM1S2やCM5S2といった2ウェイはとてもコンパクトなので、英雄交響曲で低音が貧弱なのはしかたないが、高音が重要な弦の広がりや管の輝きも「これぞ最新スピーカー!」というほどではなかった。試聴の前にアンプをどれにするか問われたので、「できるだけニュートラルなもので」と所望したところ、LUXMANの純A級動作プリメインアンプL-550AX(たぶん)を使ってくれたが、低能率の小型スピーカーにはパワー不足だったかもしれない。


購入したB&WのCM1 S2


 CM9S2やCM10S2といった3ウェイは箱が大きいので低音は2ウェイよりまともだった。それだけでなく、高音も2ウェイより鮮やかに聴こえた。こういう「これみよがし」の高分解能を最新モデルに期待していたので、「試しに手頃なCM9でも買ってみようか」などと気をよくした。だが、ソプラノを聴いてみると、なんとも人工的な声でがっかりした。それをK君に小声で伝えると、「世の中アニソン(アニメーション漫画のソング)のほうがメジャーですから」と返されてしまった。もう一度2ウェイに戻してもらってソプラノを聴くと、今度は2ウェイのほうが3ウェイよりもまともだった。70センチウーファーを使っているわたしは、「こんなに小さなウーファーでも2ウェイと3ウェイで一長一短があるのか」と感心してしまった。

 ダイヤモンド・ドーム・ツィーターを使用した800シリーズも、2店舗で3機種を試聴した。たしかに歪は少なそうだったが、音の肌触りが異質でなじめなかった。「優れて異なる」ということかもしれないが、先入観も含め、ダイヤモンドの物性が特異であることが音の印象に影響してしまっていた。以上のようにネガティブな評価も正直に書くが、キチガイじみた大型スピーカーを使っている変人の感想なので、関係諸氏には広い心でご容赦いただきたい。

 店員に「B&Wの音はちょっと派手で不自然に感じる」と伝えると、2番目に売れているというFOCALのスピーカーを聴かせてくれた。たしかに音は柔らかかったが、どこか音が薄められているようで中途半端に思えた。DALIなど、ほかに聴かせてもらった売れ筋スピーカーも印象に残らなかった。好みではないが、「なるほど、B&Wの音はうまく作ってある」と感心した。ハズレが続いて疲れたので、懐かしの名機BC IIのおかげで好印象なスペンドールを聴かせてもらった。最小モデルのSP3/1R2でも、どことなくBC IIらしい上品な音がしたので、やはり伝統というものは大切だと思ったが、高音寄りのバランスが気になった。中型のSP1/2R2にしてもらっうと、バランスは少し良くなったが、価格が立派すぎる。

 なかなか思うようなスピーカーは無いものだと思いつつ、売れ筋スピーカーの最後にドイツのELACを2機種聴いた。UボートのソナーとMMカートリッジで有名な老舗の音響機器メーカーだ。ちょっとやかましいところもあったが、「最新スピーカー」らしい分解能があるのに、フェリシティ・ロットの声もギリギリで別人にはならなかったので、「これならアンプやセッティングでなんとかなるかな」と思った。


ELACのBS192


 帰りがけにふらりと立ち寄った試聴室で思わぬ発見をした。イギリスはATCのスピーカーである。今回の試聴で、はじめて「ニュートラルな音」だと感じた。悪くいえばつまらない音かもしれないが、英雄交響曲もロットの声も、これといった欠点なく正確に再生した。聴いたのはペアで200万円以上もする大型のスタジオモニターだったので、気軽には買えない。家に帰って調べてみると、20万円前後の小型モデルもあった。かなり能率が低くて手こずりそうだが、それらATCの2機種とELACのBS192を仕入れてみることにした。また、最も多く聴かせてもらったダイナミックオーディオさんに感謝して、CM1S2を購入させていただいた。B&Wはダイナミックオーディオさんが実績豊富で価格も安い。

 夕食の後、K君の家でクラングフィルムのオイロダインKL-L439を聴いた。「なんと、ATCのスピーカーによく似た音ではないか」と、K君と顔を見合わせた。オイロダインは能率がはるかに高いせいか、高音に抑えきれない冴えがあってATCほど透徹な音ではないが、60年という製造年の隔たりを考えれば、両者は同じ方向を目指して作られたようにすら思える。

 スピーカーの能率が低いということは、非効率な低音に合わせて中高音を下げたりダンプしたりなどで音量を抑えてある状態なので、アンプでいえば負帰還でゲインを下げてあることに近い。同じアンプの無帰還か低帰還版がオイロダインで、高帰還版がATCといえば音の傾向を理解していただけるだろうか

 「オイロダインオーナーのみなさん、安心してください。オイロダインは2016年現在の最新スピーカーと比較しても、十分にバランスのとれた正確な音を出していることが確認できました。いったい、繰り返されたスピーカーの革新的進歩とは何だったのでしょうか?」

 今回の体験で、最新スピーカーの音がけっして無色透明でニュートラルな方向ではないことが確認できた。技術が進歩して歪が無くなれば、どのスピーカーも同じ音になるというわけにはいかないようだ。安価な製品の巧妙なマーケッティングから富裕層向け製品の大げさな演出まで、じつにたくましくやっている。実用的なラウドスピーカーの登場から約100年が経つが、黎明期に科学的であったスピーカー開発が、年々売るための開発にシフトしているといった印象だ。

 とはいえ、全員にオイロダインをお薦めするわけにはいかないし、そもそも入手困難になってしまっている。「もうオーディオは終わった」などというヴィンテージ大家ほどは老いていないつもりなので、いま楽しめる方法を考えてみたい。幸い、小型スピーカーの一部に可能性を見い出せそうなので、それらと手頃なヴィンテージスピーカーの両方を所有することで、オイロダインと同等以上に音楽が楽しめるるかもしれない。その実験がしたくて数機種を手に入れることにしが、ATCは納期が長く、しばらく待たなければならない。

 じつは、オイロダインを戦前の強烈な個性をもつヴィンテージスピーカーと比較すると、まともすぎて平凡に聴こえるくらいだ。そういう立派なヴィンテージスピーカーのオーナーも、最新の小型スピーカーで遊んでみてはいかがだろうか。どっちみちデジタルオーディオで新しい機器と取り組まざるをえないのだから、お使いの出力管1本の価格で買える最新スピーカーで、オーディオの幅を広げるのは悪くないと思う。
https://www.klang.jp/index.php?ci=10139

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/858.html#c8

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12. 中川隆[-9536] koaQ7Jey 2019年6月17日 16:50:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2942]
2017年03月09日10:31
CIAは車両をハッキングして暗殺を企てていました。

ウィキリークスがまたやってくれました。
CIAの機密文書をハッキングし大量に盗み出しました。
ピザゲートと同様に、今後はCIAの犯罪が次々に明らかにされることでしょう。

ディープステートの主な戦力はCIAだと思いますから、CIAの機密資料が次々にリークされればCIAは活動しにくくなるでしょう。

それにしても車両の制御システムををハッキングして事故死させるのですから。。。恐ろしい連中です。

そういえば、大統領選前に、トランプが乗っていた車両の制御システムがハッキングの被害に遭い、ブレーキが効かなくなり非常に危険な目に遭ったようですが、それでもトランプは車内で冷静に対応したようですが。。。

暗殺、テロ、戦争しかやらないCIAは解体されるべきです。

http://tapnewswire.com/2017/03/85078/
(概要)
3月8日付け


A CIA internal report from 2009 shows that the spy agency repeatedly overstated the value of intelligence gained through the torture of its detainees.

火曜日にウィキリークスがリークしたCIAの機密情報(Vault 7)によると、無数の秘密工作で攻撃活動を行っているCIAですが、その中に、車両の制御装置をハッキングして外部から運転を操作するという秘密作戦があります。

CIAは暗殺などの邪悪な目的のために車両をハッキングしています。


2014年10月に CIA は自動車やトラックの制御装置にウイルスを感染させ、不慮の事故に見せかけた暗殺を企てていたことが明らかになりました。

最近の車両は、ブレーキ、エアバッグ、アクセル、ハンドル、ドアロック、他などの重要なシステムがコンピューターで制御されているものが多いのです。


MI5 foil seven terror attacks by reading suspects minds


2014年にハッカーのチャーリー・ミラーとクリス・バラセックは高速道路を走行中の車内でノートパソコンを使って、Wiredのレポーターが乗っていたジープの制御装置を外部から操作しました。

その事件を受けて、140万台の車両がリコールされました。

2013年には、ハッカーは走行中の車内からフォードのエスケイプとトヨタのプリウスを狙ってハッキングを行い危険な目に合わせたことが発覚しました。

このような自動車をハッキングして攻撃する手法はウィキリークスがリークした CIA の機密資料(Year Zero)に記されていました。

今回、ウィキリークスはバージニア州ラングレーのCIAサイバー・インテリジェンス・センターをハッキングして8761部もの機密資料を盗み取りました。ウィキリークスはそれらが本物であることを示す証拠を示すことができます。

エドワード・スノーデン氏もツイッターで、ウィキリークスが今回リークしたCIAの情報は本物のようだと伝えています。
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52003976.html

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c12

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13. 中川隆[-9535] koaQ7Jey 2019年6月17日 16:52:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2943]
10月16日、世界の富豪や権力者が租税回避地を利用している実態を暴露したパナマ文書報道に参加したジャーナリストが、自宅のある地中海のマルタで自動車爆弾により殺害された。写真は現場付近で捜査にあたる警察関係者ら(2017年 ロイター/Darrin Zammit Lupi)


パナマ文書報道に参加の記者暗殺 自動車に爆弾を仕掛けられ
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/10/post-8672.php
2017年10月17日(火)16時34分 ロイター


世界の富豪や権力者が租税回避地を利用している実態を暴露したパナマ文書報道に参加したジャーナリストが16日、自宅のある地中海のマルタで自動車爆弾により殺害された。

ダフネ・カルアナガリチアさん(53)は同国では調査報道で知られる著名なジャーナリスト。彼女が運営するブログは、政党を問わず政治家の汚職を追及し、高い支持を集めていた。

事件の30分前にもカルアナガリチアさんはブログを更新しており「あちこちに不正を行っている人たちがいる。事態は深刻だ」と書いていた。

地元住民によると、カルアナガリチアさんが自宅を出て、自分の車を運転していたところ、突然車両が爆発した。爆風で車体が道路の外へ吹き飛ばされるほどの威力だった。

同国のムスカット首相は「報道の自由に対する野蛮な攻撃」と事件を非難するとともに、米連邦捜査局(FBI)が捜査協力を申し出たことを明らかにした。

カルアナガリチアさんは今年ブログで、ムスカット首相の妻がパナマ企業の実質的なオーナーであり、同企業とアゼルバイジャンにある複数の銀行口座の間で多額の資金が動いていたと報じていた。首相は不正を否定するとともに、カルアナガリチアさんを提訴していた。

地元テレビ局はカルアナガリチアさんが2週間前、脅迫を受けたとして警察に被害届を提出していたと報じた。
______

僕は車に乗る時は必ずブレーキが利くか、何か異常が無いか調べてる

僕みたいに体制側の悪事を暴く投稿をしている人は気を付けてね

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c13

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
14. 中川隆[-9534] koaQ7Jey 2019年6月17日 16:57:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2944]
阿修羅投稿者は CIA のブラックリストに載っている

ブラックリストに載ったら自動車が故障していないか乗る前に必ずチェックしてね:


18 6月 ついに私にも暗殺の手が回ってきました。私の自家用車に細工がされた模様です。
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%AB%E7%A7%81%E3%81%AB%E3%82%82%E6%9A%97%E6%AE%BA%E3%81%AE%E6%89%8B%E3%81%8C%E5%9B%9E%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82%E7%A7%81%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%AE%B6%E7%94%A8%E8%BB%8A%E3%81%AB%E7%B4%B0%E5%B7%A5%E3%81%8C%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%A8%A1%E6%A7%98%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82&lr=lang_ja&rlz=1I7AWNC_jaJP826&gws_rd=ssl


私はこのブログを通して、この日本社会の闇の実態を解明し、それを記事にして日本全国の皆さんに知らしめようと努めてきました。

ただこの国に良くなってほしい、同じ日本民族が少しでも幸せになってほしいとの一心で、この国がおかしくなっている原因を解明し、自分なりに解決策を見出そうとしたわけです。

ところが、実際にその原因を解明しようとすればするほど、この国の闇の深さに驚くばかりでした。この国が金融ユダヤ人に乗っ取られている、だからこの国がおかしくなっているということは最初から分かっていましたが、その手口は余りに陰湿、悪質、そして露骨なもので、しかもその闇の手は今でも皆さんが気付かないうちにどんどん日本全国に食指を広げています……。

だからこそ、私のように日本の闇を解明しようとする人は、恐ろしくなってその作業を止めたり、あるいは逆に何者かに止めらりれたりしてきたのでしょう。

そして、私にもついに暗殺の手が回ってきたようです。これほど早くからこの時が来るとは思っていませんでしたが、それだけ私が闇の核心部分に触れてしまったという証拠だろうと思います。

今日の夜中、私が自家用車に乗ってドライブしていると、突然、車のハンドルが動かなくなりました。幸い、他に車のほとんど通っていない山道を走っていましたので、大きな事故にはなりませんでした。もし高速を走っていたり、交通量の多い場所を走っていたりしたら、大変な事故になっていたことでしょう。最悪の場合、死んでいたはずです。

しかし、神様は私を守ってくださいました。私に霊感を与え、全く交通量のない山道を、しかも深夜の12時過ぎにドライブさせるようにしたのです。別に何か行くべきところがあって車を走らせたわけではありません。ただ、なんとなく山の新鮮な空気を吸いたかっただけです。

もちろん、家から山まで行くには交通量の多い道も一旦は通らなければなりません。しかし、トラブルが起きたのは山道に入ってしばらく経ってからのことでした。しかもくねくねと曲がりくねった山道でしたので、それほどスピードも出してはいませんでした。

ロードサービスにレッカーに来てもらいましたが、夜中なのでまだ修理には出していません。なので、何が原因で故障したのかはよく分かりませんが、レッカーに来て下さった方の話ではパワステが故障したのだろうということでした。

それだけでなく、バッテリーにまで異常があるとの表示がダッシュボードに点灯していました。明らかに何者かに細工された感じでした。要するに、パワステが壊れなかった場合に備えて、バッテリーにも細工していたということではないかと思います。もしかしたら、他の部分にも何か細工されているかも知れません。

私はこれまで何十年と車に乗ってきましたが、ハンドルが動かなくなったというトラブルには今まで一度も遭ったことがありませんし、周りでそんなトラブルに遭ったという人も一人も見たことがありません。

第一、そんな簡単にハンドルが動かなくなるようなことがあったら、世界のあちこちで頻繁に事故が起きてしまいます。私の乗っている車は国産車ですが、日本の優れた自動車会社がそんないい加減な車を作るはずがありません。

それに、私が普段メンテナンスをしてもらっているのはトヨタです。トヨタに定期点検も車検もお願いしています。トヨタがそんないい加減な整備をするとは思えません。

恐らく明日には、故障の原因がはっきりと分かるでしょう。もちろん、細工した人間は、細工したことが分からないように細工しているはずですから、はっきりと暗殺計画があったと証明できるようなことはご報告できないかも知れません。

しかし、一応は状況証拠になると思いますので、きちんと報告だけはさせていただこうと思います。それまで私の命があればの話ですが……。

もっとも、私もこれからやるべきことをやって、裏社会の皆さんにさらなるダメージを与えようと思っています。報告すべきところにきちんと報告し、裏社会がこれ以上、私にも、また私と同じような真相解明をしている人にも危害を加えられないように様々な対処していくつもりです。

警察に報告する……なんて甘い考えではありません。もっと恐ろしいことが裏社会の皆さんの身の上に起こることになるでしょう。

一応、今の時点では、犯人は創価学会の関係者ではないかと思っています。私はここのところ創価=パソナ=竹中平蔵のことを深く追求していましたから。あるいは統一教会=安倍晋三のことも追求してきましたので、そちら方面の方の犯行かも知れません……。

もし私が死んでいたら、適当な遺書を書いて、自殺だったと見せかけるつもりだったのでしょうか……。あるいは、いつの間にか私がどこかの会社の役員になっていて、私が死んだとたん、その会社に保険金が下りる仕組みになっていたのでしょうか……。

もしかしたらダイアナ妃の事故も、同じように車に何か細工されていたのかも知れませんね。そんな想像がちらりと浮かびました。
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%AB%E7%A7%81%E3%81%AB%E3%82%82%E6%9A%97%E6%AE%BA%E3%81%AE%E6%89%8B%E3%81%8C%E5%9B%9E%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82%E7%A7%81%E3%81%AE%E8%87%AA%E5%AE%B6%E7%94%A8%E8%BB%8A%E3%81%AB%E7%B4%B0%E5%B7%A5%E3%81%8C%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%A8%A1%E6%A7%98%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82&lr=lang_ja&rlz=1I7AWNC_jaJP826&gws_rd=ssl


このスレは阿修羅でリンクを貼れないですね。
阿修羅管理人に圧力が掛かっているみたいですね。
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c14

[リバイバル3] CD プレーヤーは進歩しているのか?  中川隆
77. 中川隆[-9533] koaQ7Jey 2019年6月17日 17:16:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2945]

サウンドパーツ
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<DAコンバーター>

<KLANG-KUNST>が5年を費やして完成した基板100枚の製作ライセンスを受けたDAC
お貸出し後のご購入…と言うお客様本位の販売形式を採っています

≪KLANG-KUNST≫ 開発基板搭載

現在の製作延べ台数18台/30台限定
本気でご購入をご検討の方に限り画像の実機をお貸し致します
音の表現力とスピード感に溢れる…が全オーナーのご評価です

独クラングフィルムの研究者が主唱する≪KLANG-KUNST≫の開発によるDAコンバーターをご好意により限定販売します


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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/842.html#c77

[リバイバル3] CD/SACDプレーヤーからPC・ネットワークオーディオへ 中川隆
39. 中川隆[-9532] koaQ7Jey 2019年6月17日 17:16:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2946]

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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/854.html#c39

[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST 中川隆
4. 中川隆[-9531] koaQ7Jey 2019年6月17日 17:17:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2947]

サウンドパーツ
http://www.soundparts.server-shared.com/index.html


<DAコンバーター>

<KLANG-KUNST>が5年を費やして完成した基板100枚の製作ライセンスを受けたDAC
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html#c4

[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST 中川隆
5. 中川隆[-9530] koaQ7Jey 2019年6月17日 17:21:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2948]

クラング・クンスト ヴィンテージ愛好家の最新スピーカー試聴記 2016年4月
https://www.klang.jp/index.php?ci=10139

1945年から1983年まで38年間も製造されたオイロダインスピーカー
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10428_801.jpg


 先日、じつに久しぶりに秋葉原に出向き、いろいろな最新スピーカーを試聴したことについて書く。ご存じのように、わたしはオイロパやオイロダインといったクラングフィルムのヴィンテージスピーカーを使っている。ウェスタンエレクトリックも含めると同好の仲間は大勢いて、我らヴィンテージ愛好家はオーディオにおける大派閥だ。そんな連中はB&Wなどの最新スピーカーには目もくれず、「あんなキンキンシャカシャカしたスピーカーはオモチャですよ」といった調子だ。

 だが、古い機器に囲まれて何十年もいると、ふと、「世間は文明化して洋服なのに自分だけ貫頭衣というように、取り残されているのではないか?」、「自分だけ古墳時代?」などと思うことがある。最新スピーカーの宣伝文句には「革新的な進歩」、「これまでにない完璧なサウンド」などという文句が踊っていて、「劣った昔のスピーカーなど粗大ごみにしてサッサと買い替えましょう」と言わんばかりだ。もちろん、アンプにも同様なことがいえるが、スピーカーほど極端な音の差は無いだろう。

 筋金入りのヴィンテージオーディオ愛好家のなかには、装置があまりに大げさなので「それではナローレンジ過ぎませんか?」と心配すると、「どうせ耳が悪いので分かりません」とか、「音楽は聞きませんから」などど豪語する人もいる。わたしも裸の王様になってはまずいので、自分の耳で最新スピーカーを確認してみることにした。若いエンジニアのK君と「肉の万世」前で待ち合わせの約束をして出向くと、そこはコインパーキングになっていた。まったくの浦島太郎だ。「肉の万世」は万世橋の向こう岸に移転していたが、ハンバーグの味は変わっていなかった。


ずいぶんと前にオーディオの街ではなくなっている秋葉原


 試聴には「西脇義訓指揮、デア・リング・オーケストラ」による「英雄交響曲」のSACDと、「フェリシティ・ロット(ソプラノ)」による「シューマン歌曲集」のCDを持参した。最新スピーカーに合わせた新録音と、聴きなじんだ歌という組み合わせだ。「革新的な技術によって歪がなくなったはずのニューモデルは、さぞかしピュアな音を聴かせてくれるにちがいない」と期待しつつ、複数のショップでかなりの数のスピーカーを聴いた。

 大型量販店でぶらぶらしながらJBLやタンノイの小型モデルが鳴っている音を聴いたが、それらは改めて試聴したいと思うほどではなかった。開発中のDAコンバーターを現在のベストセラースピーカーで鳴らすと、いったいどんな音が出るのか確認してみる必要があると思っていたので、まずはB&Wの試聴を申し込んだ。トヨタ車のような絶対的優越性があるとされ、驚くほど売れているらしい。

 まず、安価な600シリーズを聴いたところ、無理して上位機と同じツィーターにしたために中国で製造してもコストに無理があるのか、長岡鉄男流に重量ブロックでも乗せないと箱が厳しいと感じた。だが、それでは都会にふさわしいコンパクトなデザインが台なしになってしまう。いまのように高価で豊富なオーディオアクセサリー製品が無かった昔は、愛好家の必需品といえば重量ブロックやレンガ、ブチルゴムシートなどであった。いやはやダサいが、いまでも効果のあるアクセサリー群だ。

 その上のCMシリーズには重量ブロックが必要なさそうだったが、期待していたようなピュアな音ではなかった。きっとうまくマーケッティングをして、「B&Wの音」を作っているのだろう。無色透明どころか、「下手をするとオイロダインより癖が強いのでは?」と思う瞬間もあった。CM1S2やCM5S2といった2ウェイはとてもコンパクトなので、英雄交響曲で低音が貧弱なのはしかたないが、高音が重要な弦の広がりや管の輝きも「これぞ最新スピーカー!」というほどではなかった。試聴の前にアンプをどれにするか問われたので、「できるだけニュートラルなもので」と所望したところ、LUXMANの純A級動作プリメインアンプL-550AX(たぶん)を使ってくれたが、低能率の小型スピーカーにはパワー不足だったかもしれない。


購入したB&WのCM1 S2


 CM9S2やCM10S2といった3ウェイは箱が大きいので低音は2ウェイよりまともだった。それだけでなく、高音も2ウェイより鮮やかに聴こえた。こういう「これみよがし」の高分解能を最新モデルに期待していたので、「試しに手頃なCM9でも買ってみようか」などと気をよくした。だが、ソプラノを聴いてみると、なんとも人工的な声でがっかりした。それをK君に小声で伝えると、「世の中アニソン(アニメーション漫画のソング)のほうがメジャーですから」と返されてしまった。もう一度2ウェイに戻してもらってソプラノを聴くと、今度は2ウェイのほうが3ウェイよりもまともだった。70センチウーファーを使っているわたしは、「こんなに小さなウーファーでも2ウェイと3ウェイで一長一短があるのか」と感心してしまった。

 ダイヤモンド・ドーム・ツィーターを使用した800シリーズも、2店舗で3機種を試聴した。たしかに歪は少なそうだったが、音の肌触りが異質でなじめなかった。「優れて異なる」ということかもしれないが、先入観も含め、ダイヤモンドの物性が特異であることが音の印象に影響してしまっていた。以上のようにネガティブな評価も正直に書くが、キチガイじみた大型スピーカーを使っている変人の感想なので、関係諸氏には広い心でご容赦いただきたい。

 店員に「B&Wの音はちょっと派手で不自然に感じる」と伝えると、2番目に売れているというFOCALのスピーカーを聴かせてくれた。たしかに音は柔らかかったが、どこか音が薄められているようで中途半端に思えた。DALIなど、ほかに聴かせてもらった売れ筋スピーカーも印象に残らなかった。好みではないが、「なるほど、B&Wの音はうまく作ってある」と感心した。ハズレが続いて疲れたので、懐かしの名機BC IIのおかげで好印象なスペンドールを聴かせてもらった。最小モデルのSP3/1R2でも、どことなくBC IIらしい上品な音がしたので、やはり伝統というものは大切だと思ったが、高音寄りのバランスが気になった。中型のSP1/2R2にしてもらっうと、バランスは少し良くなったが、価格が立派すぎる。

 なかなか思うようなスピーカーは無いものだと思いつつ、売れ筋スピーカーの最後にドイツのELACを2機種聴いた。UボートのソナーとMMカートリッジで有名な老舗の音響機器メーカーだ。ちょっとやかましいところもあったが、「最新スピーカー」らしい分解能があるのに、フェリシティ・ロットの声もギリギリで別人にはならなかったので、「これならアンプやセッティングでなんとかなるかな」と思った。


ELACのBS192


 帰りがけにふらりと立ち寄った試聴室で思わぬ発見をした。イギリスはATCのスピーカーである。今回の試聴で、はじめて「ニュートラルな音」だと感じた。悪くいえばつまらない音かもしれないが、英雄交響曲もロットの声も、これといった欠点なく正確に再生した。聴いたのはペアで200万円以上もする大型のスタジオモニターだったので、気軽には買えない。家に帰って調べてみると、20万円前後の小型モデルもあった。かなり能率が低くて手こずりそうだが、それらATCの2機種とELACのBS192を仕入れてみることにした。また、最も多く聴かせてもらったダイナミックオーディオさんに感謝して、CM1S2を購入させていただいた。B&Wはダイナミックオーディオさんが実績豊富で価格も安い。

 夕食の後、K君の家でクラングフィルムのオイロダインKL-L439を聴いた。「なんと、ATCのスピーカーによく似た音ではないか」と、K君と顔を見合わせた。オイロダインは能率がはるかに高いせいか、高音に抑えきれない冴えがあってATCほど透徹な音ではないが、60年という製造年の隔たりを考えれば、両者は同じ方向を目指して作られたようにすら思える。

 スピーカーの能率が低いということは、非効率な低音に合わせて中高音を下げたりダンプしたりなどで音量を抑えてある状態なので、アンプでいえば負帰還でゲインを下げてあることに近い。同じアンプの無帰還か低帰還版がオイロダインで、高帰還版がATCといえば音の傾向を理解していただけるだろうか

 「オイロダインオーナーのみなさん、安心してください。オイロダインは2016年現在の最新スピーカーと比較しても、十分にバランスのとれた正確な音を出していることが確認できました。いったい、繰り返されたスピーカーの革新的進歩とは何だったのでしょうか?」

 今回の体験で、最新スピーカーの音がけっして無色透明でニュートラルな方向ではないことが確認できた。技術が進歩して歪が無くなれば、どのスピーカーも同じ音になるというわけにはいかないようだ。安価な製品の巧妙なマーケッティングから富裕層向け製品の大げさな演出まで、じつにたくましくやっている。実用的なラウドスピーカーの登場から約100年が経つが、黎明期に科学的であったスピーカー開発が、年々売るための開発にシフトしているといった印象だ。

 とはいえ、全員にオイロダインをお薦めするわけにはいかないし、そもそも入手困難になってしまっている。「もうオーディオは終わった」などというヴィンテージ大家ほどは老いていないつもりなので、いま楽しめる方法を考えてみたい。幸い、小型スピーカーの一部に可能性を見い出せそうなので、それらと手頃なヴィンテージスピーカーの両方を所有することで、オイロダインと同等以上に音楽が楽しめるるかもしれない。その実験がしたくて数機種を手に入れることにしが、ATCは納期が長く、しばらく待たなければならない。

 じつは、オイロダインを戦前の強烈な個性をもつヴィンテージスピーカーと比較すると、まともすぎて平凡に聴こえるくらいだ。そういう立派なヴィンテージスピーカーのオーナーも、最新の小型スピーカーで遊んでみてはいかがだろうか。どっちみちデジタルオーディオで新しい機器と取り組まざるをえないのだから、お使いの出力管1本の価格で買える最新スピーカーで、オーディオの幅を広げるのは悪くないと思う。
https://www.klang.jp/index.php?ci=10139

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html#c5

[近代史3] G.I.P Laboratory _ Western Electric スピーカーシステムのレプリカ製造

G.I.P Laboratory _ Western Electric スピーカーシステムのレプリカ製造


G.I.P Laboratory - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=G.I.P+Laboratory+

G.I.P.Laboratory
代表 鈴木 伸一
所在地 〒999-3143 山形県上山市二日町7-6
電話番号 023-673-1121
http://www.gip-laboratory.com/access.html


G.I.P Laboratory 製品一覧
http://www.gip-laboratory.com/products.html

視聴室(完全予約制)
山形県 上山市 二日町7-6 GIPビル

「かみのやま温泉駅」より徒歩5分
山形新幹線「つばさ」
「東京駅」より「かみのやま温泉駅」まで約2時間30分

飛行機
山形空港より車で約40分
仙台空港より車で約1時間20分
http://www.gip-laboratory.com/sityousitu.html

GIP Sales shop
http://www.gip-laboratory.com/dairiten.html

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G.I.P Laboratory は米国 Western Electric社(ウエスタン エレクトリック社)の代表的な励磁型スピーカーユニットを復元しております。
また、その技術を基に自社オリジナル製品ををしています。

G.I.P Laboratory を代表するスピーカーシステム 

Hi-End series GIP-9700A
http://www.gip-laboratory.com/seihin9700system.html

Vintage series GIP-7396
http://www.gip-laboratory.com/seihin7396system.html

http://www.gip-laboratory.com/indexjapanese.html


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【Western Electricについて】
http://www.gip-laboratory.com/rinen.html

WE社製品のその優れた性能を超えようと、その後世界中の企業が様々な研究や開発を行いました。
しかしその結果、一社として超えるどころか肩を並べることさえありませんでした。
その後、それぞれのオーディオメーカーは製品開発において、性能ではなく、生産性や小型化への研究に力を注ぐことになります。
WE時代以降のオーディオ文化の歴史は、省スペース化と省コスト化の歴史であるといえます。

G.I.P Laboratory の WE社製品の復元作業は、現存するオリジナルユニットの出来る限りの確保、保存状態の確認、素材解析、構造解析、周波数特性、磁気特性、インピーダンス特性などの分析から始まります。
しかし、生産から80年以上が経過した現在において、手に入るオリジナルの多くは不完全な状態で、それらは見た目だけを整えたオリジナルとは全く異なるパーツによって補修されているものがほとんどでした。

位相が逆転していたり、音質のまったく異なるコーン紙や振動板、ヴォイスコイルが取り付けられていたりと、もはや製品として「個体差」という言葉ではとても片付けることの出来ない、別次元の「改造品」が大変多く見受けられるのです。

基準に出来るオリジナルが手に入らないという現実は、G.I.P Laboratory が現在最も苦慮する問題であり、さらに5年後、10年後を考えると、もはや絶望的であると思います。

また、そういった状態の悪い WE社製品をお客様が手に入れ、「これが WE の音か」と誤解をされてしまわれるようなことがあれば、同じくオーディオを愛する者として、それほど残念なことはありません。

人類が誇るべきこの文化的遺産を未来へつないでいくこと。
オーディオ文化の発展と振興に尽くすこと。

それらをG.I.P Laboratory は理念と目標にしております。

【次世代へ残したい音の世界】

オーディオの歴史を紐解けば、始祖として米国 Western Electric社(以後 WE社と略す)の名前を知ることとなります。
第一次世界大戦中ドイツ軍との戦火が激しくなるにつれて、アメリカはフランス、イギリスと緊密で迅速な情報ラインを確保する必要に迫られました。

当時のウィルソン大統領による命令で、極めて長距離となる大陸間横断通信を実現させるべく、WE社はその国家プロジェクトを一任されました。
世界トップクラスの科学者・技術者を結集させた WE社は、その後わずか数年でフランスとアメリカにおける世界初の大陸間電装通信網を実現させ、ケネディ大統領による NASA の宇宙開発に匹敵する技術者集団として米国の歴史に今もその名を残しています。

また、通信の確保と共に戦局に多大な影響を与えていたのが、演説を群集に呼びかける装置、即ち PA機器の存在でした。
数万人にも及ぶ群集の最前列から最後尾までの一人ひとりに対し、明瞭で適切な音声を伝達するスピーカーシステムは、テレビも存在していなかった当時としては、国家の政治思想を即座に民衆へ伝達する唯一の効果的手段であり、多くの民衆を突き動かす原動力としてアメリカの繁栄を陰で支えていたのです。

この WE社のスピーカーシステムこそが、現代にまで続くオーディオ文化の原点であり、WE社の比類なき技術力を示す象徴であるといえます。


やがて第一次世界大戦が終結し、国家は内政の安定化を推し進めることになります。
民衆が豊かさや平和を実感する事のできる、新たな文化の誕生が待ち望まれており、WE社はこれまで無声だった映画のトーキーシステムの開発に本格的に取り組む事になります。

国家の莫大な開発資金と、長年の歳月をかけて完成した「Western Electric トーキーシステム」のサウンドは、その驚愕的な高感度スピーカーから放たれる豊かなソノリティと、桁違いのエネルギー感で聴く者を圧倒させたといいます。
それは、現代の先進的な技術をもってしても尚、超えることのできないほどの性能を有しており、極めて上質でした。

「80年以上も前の製品が、現在の製品よりも性能が良い」という事実について、信じられないと考える方は多いと存じます。

芸術品・骨董品としての価値ではなく、あくまで性能の比較がなされた場合においては、スピーカーに限らずどんな物であれ、現代の先進技術で製造された物の方が、格段に性能や品質が優れているはずだと。

しかし、WE社のスピーカーシステムに関してはこの常識が当てはまることはありません。
これは世界中のオーディオに関わる有識者より、伝説とも称される普遍の事実であり、WE社は真に「オーディオの原点であり頂点」であるとG.I.P Laboratory は考えております。
http://www.gip-laboratory.com/rinen.html

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G.I.P Laboratory 製品一覧
http://www.gip-laboratory.com/products.html


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1. G.I.P.Laboratory Western Electric WE555 のレプリカ・ドライバーを使ったスピーカーシステム

G.I.P.Laboratory GIP-555 - 555W : WE555 ドライバーのレプリカ
http://www.gip-laboratory.com/seihin555.html


@) G.I.P.Laboratory GIP-12A horn system : Western Electric WE555 のレプリカ・ドライバー使用
片チャンネル寸法: W:1143 × H:1715 × D:1194, 片チャンネル重量 92kg
http://www.gip-laboratory.com/seihin12system.html


A) G.I.P.Laboratory GIP-30154 horn system : Western Electric WE555W のレプリカ・ドライバー使用
片チャンネル寸法: W:1735 × H:1336 × D:660, 片チャンネル重量 280kg
http://www.gip-laboratory.com/seihin30154hornsystem.html


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2. G.I.P.Laboratory Western Electric WE594A のレプリカ・ドライバーを使ったスピーカーシステム

G.I.P.Laboratory GIP-594A : WE594A ドライバーのレプリカ
http://www.gip-laboratory.com/seihin594.html


@) G.I.P.Laboratory GIP 7396 system : Western Electric WE594A のレプリカ・ドライバー使用
片チャンネル寸法: W:1735 × H:1336 × D:660 , 片チャンネル重量 280kg
http://www.gip-laboratory.com/seihin7396system.html


A)G.I.P.Laboratory GIP-7331 system : Western Electric WE594A のレプリカ・ドライバー使用
片チャンネル寸法 : W660 × H1130 ×D950, 片チャンネル重量 100kg
http://www.gip-laboratory.com/seihin7331system.html


B) G.I.P.Laboratory GIP-7003 system : Western Electric WE594A のレプリカ・ドライバー使用
片チャンネル寸法 : W1410 ×H1150 ×D1097
http://www.gip-laboratory.com/seihin7003system.html


C) G.I.P.Laboratory GIP-5003 system : Western Electric WE594A のレプリカ・ドライバー使用
6〜10畳のリスニングルーム用
http://www.gip-laboratory.com/seihin5003system.html

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3. G.I.P.による Western Electric の映写室用モニタースピーカーシステム TA7388 のレプリカ
G.I.P.Laboratory GIP-225
http://www.gip-laboratory.com/seihin225system.html

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4. G.I.P.Laboratory オリジナル・スピーカーシステム

・G.I.P.Laboratory GIP-9700A system : GIP flagship model, GIP-9101ドライバー使用
片チャンネル寸法: W:1240 × H:1800 × D:1210, 片チャンネル重量 260kg
http://www.gip-laboratory.com/seihin9700system.html


・G.I.P.Laboratory GIP-5005 system : GIP-5015ドライバー使用
片チャンネル寸法: W:1200 × H:1600 × D:995
http://www.gip-laboratory.com/seihin5005system.html


・G.I.P.Laboratory GIP-5006 system : GIP-5015ドライバー使用
片チャンネル寸法 : W:900 × H:1600 × D:1055
http://www.gip-laboratory.com/seihin5006system.html


・G.I.P.Laboratory GIP-FS300 system : 4インチ振動板 コンプレッション・ドライバー使用
片チャンネル寸法: W:780 × H1455 × D665, 片チャンネル重量 85kg
http://www.gip-laboratory.com/seihinfs300.html


・G.I.P.Laboratory GIP-Monitor1 system : GIP-D5016 ドライバー使用
片チャンネル寸法 : W:570 × H:1350 × D:630, 片チャンネル重量 70kg
http://www.gip-laboratory.com/seihinmonitor1.html

 


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G.I.P Laboratory 復刻版 ウェスタン・エレクトリック・スピーカー


ヴィンテージスピーカーの最高峰・・・・ それは Westren Electric と断言して、それに異論を唱える人は少ないでしょう。

それらの本当の価値を知っている人なら皆、口々にWestern Electricを讃える事でしょう。 私も確信を持って断言します。
 
私のオーディオ経験のなかで、WEのTA-4181Aと594Aを超えるスピーカーに遭遇したことがありません。

ウェスタンエレクトリック社は1930年代に業務用スピーカーや周辺の音響機材を映画館や音楽ホールに向けて、レンタルをしていた会社で、最先端の技術を誇っていました。

 その音響技術の優秀性は米国のみにとどまらず、ヨーロッパ、そしてアジアに至る各国で認められ、世界各国の著名な音楽ホールの音響設備として設置され、当時の集中排除法(現在日本の独占禁止法)による規制を受けるほどでした。またその性能は現代の最先端技術を以っても、音の浸透性、初動感度、解像度、色彩感、音色感に至るまで、すべてを上回る性能のスピーカーは存在しません。しいて現代の物で上回るとするならば、スペースファクター(サイズの小型化)、 大量生産によるコストの削減ではないでしょうか。

 また多くの会社が、このウェスタンエレクトリック社製スピーカーの優秀性にひかれ、特許権が切れた昨今、レプリカ製造を試みましたが、色や形は同じでも、そのスピーカーから発する音までは同じ物を作ることは、極めて困難なものでした。

 そもそも販売を目的としたものではなく、映画館にレンタルとして貸出すことを目的としていたため、製造数はもともと少ないものでした。更に時代の流れから映画館を廃業し、このスピーカーの価値を知らない人たちが、映画館の取り壊しなどに伴い、破棄するなど、現存する数は激減してしまいました。また、製造から70年以上たった昨今、コーン紙の破れ、ボイスコイルの脱落、ボイスコイルのこすりなど、状態の良い物が少なく、コンディションが良いウェスタンエレクトリック社製スピーカーは、 極めて少ないと言われております。

 このウェスタンエレクトリック社製スピーカーの優秀性が再認識されている今、オーディオマニアの中では、最も高価で、 最も入手困難なスピーカーとして認められています。

 この度、G.I.P Laboratory は、多くの会社、マニアが成し得る事が出来なかったウェスタンエレクトリック社製スピーカーの、復元をすることに成功しました。 復元の道のりは険しく、コンディションのよいウェスタンエレクトリック社製スピーカーを入手することから始まり、それを分解、 分析し精巧に復元しました。そのGIP製スピーカーの評価は、専門誌でも、ウェスタンエレクトリック社製と比べても、 音の浸透性、初動感度、解像度、色彩感、音色感に至るまで、引けをとらないスピーカーと高く評価をいただきました。


垂延のサウンド・・・。

1920年代から1930年代のトーキー創生期から完成期の間、シアターシーンを席巻したWestern Electric 社のスピーカーの中で、 TA-4181AウーファーとWE-594AドライヴァーはWestern Electric 社の技術を結実したモデルと言うことができ、 その感動のサウンドは伝説となっています。フィールドタイプスピーカーのスピードの速さと重厚な音色は、 全ての音楽ソースに対応する能力を持っています。 


いつかはウェスタンサウンド。

そんな方々のためにG.I.P Laboratoryは、数年の歳月をかけ、スピーカーの試行錯誤を行ってまいりました。 そして、その輝ける重厚なサウンドの響きをG.I.P Laboratoryは現代に蘇らせました。私たちが目指す音の終着点、それがウェスタンサウンドだと考えます。 G.I.P LaboratoryはWestern Electric 社のレプリカスピーカーを通じて、音楽の素晴らしさ、オーディオの醍醐味を皆様にお届けします。

http://www.gip-laboratory.com/seihinn.html

ウエスタン・スピーカーユニットの復刻版

私共、G.I.P.Laboratoryでは、米国Western Electric(以下WEと略)のスピーカーユニットの中から、特にフィールド型の代表的なスピーカーユニットの復元と製作を行っております。

 それぞれのオリジナルユニットの基本設計を基に、その構造から素材まで、出来得る限りに忠実に復元致しました。 条件を統一してオリジナルユニットとの一対一の比較試聴をしても、その差の聴き分けが非常に困難だと自負できる程の製品がこの度完成致しました。 また、その完成に至るまでの度重なる試作の過程で、同じ素材・同じ構造を用いながらも、様々な音を作る技術も経験的に体得できました。
http://www.gip-laboratory.com/seihinnunit.html


ウエスタン・スピーカーシステムの復刻版

これまで、私共はWestern Electric を代表する、スピーカーユニットの復元をしてきました。そこで、それらのスピーカーユニットを使用したスピーカーシステムを開発いたしました。

 スピーカーユニットは勿論、Enclosure・Horn・Net Work に至るまで全てGIP Laboratory製です。自社のスピーカーユニットの良さを十分に活かせるように音作りをしてきました。

 現在のスピーカーシステムとは違い、部屋の何処にEnclosureを設置するか・Hornの向きをどうするか・・・・など、システム自体で音を調整出来る要素が非常に多いので、使い手次第でどのような音にもなります。使いこなしが難しいですが、自分の目指す音をどうすれば出せるか?それに向けて少しづつセッティングを変えていく・・・

 苦労もあると思いますが、それがまた一つの楽しみではないでしょうか?
http://www.gip-laboratory.com/seihinsystem.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/480.html

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
15. 中川隆[-9529] koaQ7Jey 2019年6月17日 18:13:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2949]

東海アマブログ  私に嫌がらせ、誹謗中傷を行うのは、ほとんど自民党員である
2019年06月17日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-778.html


私に嫌がらせ、誹謗中傷を行うのは、ほとんど自民党員である
 
私のブログにも直接嫌がらせを毎日、大量に書き込んでくるので、IPアドレスを捕捉分析してみると、直接、自民党本部から書いているものが多い。幸福の科学からも来ている。

 人間は、何をもって満足できるのか? 何を求めて生きているのか?
 といえば、まともな感覚の満ち主ならば、楽しい生活、楽しい人生」を求めているのである。

 「楽しい生活」という中身は、「一方的な圧力のある人間関係や、物質的不足による飢餓のような苦しみのない生活」と考えてもよく、また、笑顔にあふれた「孤独でない生活」というのも当たっていそうだ。

 私は、「共同すること」、ワイワイガヤガヤとみんなで一緒に仕事をし、生活するのは、とても楽しいのではないかと考えている。

 しかし、傍目から見て、どうみても「楽しくない生活」というのがある。

 それは、「他人を見下す」ことだけが人生の目標のように思い込んでいる人たちで、誰に対しても偉そうに命令ばかりしてみたり、他人を追求して苦しめることを生き甲斐にしていたり、自分だけトクすることが至上の快楽であるかのように勘違いしたりして、「他人の笑顔で癒やされる」ことを知らない利己主義の人生である。

 本人は、他人から蛇蝎のように嫌われても、財産を殖やしたり、利権を増やしたり、他人を見下して、自分が社会的強者であると思い込むことに無上の喜びを感じることが人生の目標であるかのように思い込んでいて、人の幸福や笑顔なんて、さらさら興味がない。

 「自分だけが果実を独り占めにする」ことが「人生の勝者」だと思い込んでいるのだ。

 こう書けば、ほとんどの読者は、周囲に実在する、そうした人物の顔を思い浮かべることができるはずだ。

 なんで、そうなるのかというと、保育園・幼稚園から始まる資本主義思想の下での競争主義教育に洗脳されてしまっていることが大きい。

 幼稚園で、「かけっこ競争」が始まり、他人を押しのけて一番になれば顕彰されて喜ぶのが第一歩であり、絵を描かせれば、大人が勝手に序列をつけて公開する。

 小学生になれば、テストの成績で振り分ける、徹底的な序列教育がはじまる。
 そこから、子供たちは、劣等感と優越感の狭間で「どっちが上か」との競争意識のなかで生きてゆくことを強要され、世界観・人間観・社会観の基礎を、鋳型に押し込められるように作られてしまうのである。

 こうなると、「他人に勝つ」という価値観こそ、人間として求めるべき最高の義務であるかのように洗脳されてしまって、自分だけが他人より秀でること、いい思いをする利己主義こそが正しい価値観であり、人のために生きるなんて尾畠春夫さんのような利他主義の人生は、実に馬鹿馬鹿しい愚かな人生観、価値観であると思い込むようになる。

 他人の笑顔でなく、嫌がる、苦しむ表情を見て癒やされている人物が確かに存在している。

 それは、例えば、私を小馬鹿にする目的で作られた誹謗中傷サイトを書いている者たちがそうであるといえよう。
 https://love2mac2002jp.blog.fc2.com/

 これを書いているのは、https://twitter.com/inkanotatari というアカウントらしい。以前は、「インカの呪い」というアカウントだったが、誹謗中傷の連続で凍結されて、「インカの祟り」に変えているようだが、中身の救いがたい下劣さは全然変わっていない。

 彼らに共通するのは、「他人を見下したい」という強烈な自尊心の要求であり、他人を小馬鹿にすることが、自分の価値を上げるとでも思い込んでいるのか、ろくな知識もないのに、上から目線で人を批判したり、嘲笑するのが大好きである。

 私から見れば、軽薄な無知をさらけ出して大恥をかいているのに、私を見下して喜んでいるつもりになっているのだから始末に負えない。

 ツイッターにもたくさんいる。@tokaihomo というアカウントは、リンク先のIPから大垣市民病院から書き込まれていることが明らかになり、結局、Iという名東区在住の医師が書いているのだと分かったが、未だに、誰も読んでくれないのに、毎日大量に、私への誹謗ツイートを暇つぶしに書き続けていて、病院に電話したら精神異常者で患者の直接診療はさせていないという説明だった。

 このアカウントも、医師のIが書いていたようだ。
 


 この男は、自分が旭丘高校から東大医学部に進学したことを、しきりに自慢しているのだが、精神異常を来してまで、他人の誹謗中傷を生き甲斐にしているゴミ人生のどこが自慢できるのだろう?

 本人は、本気で自分が他人より優れているつもりでいるのだろうか?

  以下は、静岡県在住の自民党員・郵便局員だが、東京大森の局印を偽造して、私への嫌がらせの葉書を、たくさん送りつけてくるので郵政本部へ告発しておいた。
 


 他人を見下すことが、そこまで楽しいのか? この倒錯した価値観は、どこから来るのだろう?

 この種の俗悪下劣な嫌がらせ、誹謗中傷を行うのは、ほとんど自民党員である。結局、自民党というのは、資本主義における競争で勝者になることを最大の価値として共有する連中の集まりであり、徹頭徹尾、人に序列をつけ、強者にコンプレックスを抱いて阿り、弱者に優越感を抱いて小馬鹿にするという価値観を党是にしているように思われる。

 それ以上に、このように他人をディスリスペクト=小馬鹿にする価値観は、誰に対しても同じように抱くクセがつくのであって、もし、彼らが結婚でもしたら、妻に対しても、「自分のために利用する」という発想しか持てず、トラブルが起きれば相手を小馬鹿にし、全否定し、追放するという発想しか残らなくなる。

 こんな優しさのない下劣な精神の連中と結婚でもしたら、利用価値がなくなれば、たちまち追放されることになり、これ以上悲惨な夫婦関係はないということになる。

 だから、この種の誹謗趣味者の離婚や人間関係の破綻は、きっと桁外れに多いのではないか?

 私のブログにも直接嫌がらせを毎日、大量に書き込んでくるので、IPアドレスを捕捉分析してみると、直接、自民党本部から書いているものが多い。幸福の科学からも来ている。

 さすがに、うっとおしいので、コメントは書けないように設定してしまった。対話してみても、何一つ得るものがないのだ。


 私を誹謗中傷するのが生き甲斐になっている連中に対し、説得を試し見ても無駄であり、彼らは、自分たちの利己主義の価値観を後生大事に抱えて、あの世に向かって急速に移動してゆくわけだ。来年には、眺めることさえできなくなる。

 時代は、いよいよ切羽詰まっていて、私に対して嫌がらせを続けている連中は、やがて、オレオレ詐欺グループのように互いに殺し合うようになると考えている。

放射能汚染をデマと言い続ける連中は、その放射能によって続々と死滅してゆくだろう。



http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c15

[リバイバル3] 「マイ電柱」は効果が有るのか? 中川隆
20. 中川隆[-9528] koaQ7Jey 2019年6月17日 18:24:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2950]

ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html


ここで解説する方法では無線は使いません。理由は、気のせいかもしれない細部をうがって大金を投じるオーディオ道楽において、わざわざ電波を発生させたり消費電力を増やしたりするのは道に外れた行ないだからです(電子機器としては正道です)。

電源の汚れを気にしてMY電柱建立(お薦めしません)とかやっている愛好家がいるくらいなのに、数ギガヘルツの高周波回路を音楽データの隣で操作させることは、精神衛生にもマイナスです(実際にはCPUなどもギガHzで動作しています)。(カッコ書きが多いのはオーディオの矛盾を表しています)


クラング・クンスト オーディオ愛好家向けVolumioの活用方法(接続・設定編)
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069&i=10778


 ヴォリューミオ(Volumioのインストールが済んだら、つぎはラズベリーパイ(Raspberry Pi)で動作させるための準備です。普通に基板をプラスチックケースに入れるだけでも十分ですが、オーディオ愛好家は色々と貼ったり交換したりしないと気が済まないでしょうから、手軽なところで放熱部品(ヒートシンク)を取り付けてみましょう。


ラズベリーパイ(Raspberry Pi) 3B とネット通販で売られていた放熱用部品


 深海などの研究をしていて、Raspberry Piをシビアな条件で使っている友人の話では、信頼性上のウィークポイントは熱暴走だそうです。初期の製品よりは強くなりましたが、私もRaspberry Piを仕事で使うときは熱対策をしています。オーディオにそこまで信頼性は必要ないかもしれませんが、万が一にも曲のいいところで途切れたりしたら許せません。ネット通販で「Raspberry Pi ヒートシンク」などと検索すれば、上の写真のような商品が見つかります。

 金色の大きな方がCPU用、青い小さな方が基板上にもう1つあるLANやUSBのIC用です。こちらのLANやUSBのICの方が熱的に弱い傾向です。放熱は空気の対流と赤外線を出すことで行われるので、写真のようなピカピカとカラフルなヒートシンクではなく、黒いほうが効率が良さそうに思えますが、昔の仕事で人工衛星に搭載する部品を検討した際のデータでは、アルマイトの色による赤外での効率(10 μm帯での熱放射率)の差は意外に少なく、銀でも黒でもほぼ同じでした。


放熱用部品(ヒートシンク)を取り付けケースに入れたRaspberry Pi


 ヒートシンクには両面テープが貼ってあることが多いので、それで取り付けたらプラスチックケースに入れます。上の写真では、基板の上にあるフタを外してあって基板が露出してます。この方が放熱に有利なのでそうしましょう。ホコリは吹き飛ばせばいいので気にしません。不格好だなんて言わないでください。冷却ファンが無いことはオーディオ用として実にありがたいことですから。


Rasberry Piの底面にあるスロットに、インストールしたマイクロSDカードを挿入


 マイクロSDカードを挿入するスロットは、Raspberry Pi基板の裏側にあり、ケースの底にも溝が切ってあってそのまま挿入できるようになっています。カチッというまでしっかり差し込みましょう。カードを抜くには、一度カードを軽く押しんで、少し出てきたところを引き抜きます。スロットはそんなに丈夫ではないので、無理に引っ張らないでください。


上からUSBハードディスク、Raspberry Pi(左は電源)、DACを接続した様子


 それでは、Raspberry Piと必要な機器を接続しましょう。写真の上側にあるのがUSBハードディスクです。VolumioをインストールしたマイクロSDカードとちがい、こちらには音楽ファイルを大量に保存しますから、4T(テラ)といった大容量製品がお薦めです。予算に余裕があれば、RAID(ライド)といって冗長構成でハードディスクが壊れてもすぐにデータが失われないようにした製品は安心です。そのばあいでも、苦労してリッピングして音楽ファイルが消滅しないように、バックアップコピーははならず保存しておきましょう。

 USBハードディスクとRaspberry Piを接続するUSBケーブルは、オーディオ用ではない、パソコン用の長いケーブルをお薦めします。ハードディスクは騒音を出すので、なるべく遠くに置きましょう。ハードディスクに付属するケーブルは1メートルくらいのが多いので、両端のプラグが同じで長いケーブルを別途購入します。これまで訪問させていただいたリスニングルームは20〜40畳くらいが多かったので、一般的に販売されているうちで最長の5メートルがよさそうです。遠くに離せば、ハードディスクの音も気になりません。

 USBではなく、LAN経由でVolumioにデータを送るLANディスクも使えます。そちらを使うにはネットワーク設定などが必要になりますので、パソコンに詳しい友人かオーディオの弟子に依頼してください。USBディスクの方がシンプルで他のネットワーク機器からのアクセスとの競合が発生せず安定ですが、ウェスタンエレクトリックの部屋とクラングフィルムの部屋といったように、リスニングルームが複数あって音楽ファイルを共用したいばあいはLANディスクが便利です。しかし、USBディスクの内容をコピーして、それぞれの部屋に設置するほうが、データが2箇所にあってバックアップになるというメリットもあるので、わたしはそうしています。

 写真の下側にある銀色のものがDAコンバーター(DAC)です。これはiFiというイギリスの製品で、内蔵バッテリーで動作することの効果なのか、安価な製品ながら音質が良好で、われらオーディオ愛好家でも聴き続けられる最底辺のDACとして知られています。妙な味付けも少なく感じるので、オーディオイベントなどで持ち運ぶときに使っています。その昔CDが普及し始めたころ、やはりバッテリーで動作するパナソニック製のポータブルCDプレーヤーが、据え置きの大型高級CDプレーヤーよりも好印象で、リスニングルームでも使っていたことを思い出します。

 Raspberry PiとDACの接続には、はやりUSBケーブルを使います。DACは遠くに置く必要がありませんが、新しくケーブルを買うなら、やはりパソコン用の細めで長いケーブルをお薦めします。某大手ネット通販の「○○ベーシック」と称する安いケーブルは、全般に太くて曲がりにくいので避けましょう。長ければ、後でチューニングが楽しめます。ノイズだらけのパソコンと接続するわけではないいし、合理的でもないので、オーディオ用の高価なUSBケーブルは必要ありません。

 その他の通信ケーブルは、Raspberry PiのLANケーブルだけです。細めのパソコン用LANケーブルでハブかルーターと接続します。

ここで解説する方法では無線は使いません。理由は、気のせいかもしれない細部をうがって大金を投じるオーディオ道楽において、わざわざ電波を発生させたり消費電力を増やしたりするのは道に外れた行ないだからです(電子機器としては正道です)。

電源の汚れを気にしてMY電柱建立(お薦めしません)とかやっている愛好家がいるくらいなのに、数ギガヘルツの高周波回路を音楽データの隣で操作させることは、精神衛生にもマイナスです(実際にはCPUなどもギガHzで動作しています)。(カッコ書きが多いのはオーディオの矛盾を表しています)


ところで、I2S DACは?

I2S DACと呼ばれる小さなResberry Piの基板に直接取り付けるDAコンバーター


 さて、上で説明したUSB接続のDACではなく、Raspberry Pi用のI2S DACというものを使うことが流行っていて、「どの程度の音質か?」といったご質問をいただいています。上の写真はその例で、Raspberry Pi用の組立式ケースとセットで4千円くらいでした。I2SはインターIC、すなわちIICをIの2乗で表現したもので、アイスクエアエスと読みます。I2Sは以前からサウンドディバイスなどのハードウェアがパソコンなどの機器内で通信するときに使われていた標準的なインターフェースで、パソコンに組み込みでないDACチップ(デジタル→アナログ変換するIC)への入力としても一般的です。

 I2S DACはむき出しの基板1枚で、Raspberry Piのコネクタに上から挿入することで取り付けと接続が完了します。このようなオプション基板を「ハット」と呼びます。つぎの写真は、I2S DACをRaspberry Piに取り付けた状態です。


I2S DACをResberry Piに接続した状態(コネクタに挿すことで上に載せてある)


 I2S DACはとてもシンプルで、ほぼDACチップ1個にコネクタが接続されているだけです。好条件で測定すれば驚くほど低歪率で、一世代前の高級DAC製品は、物理特性では太刀打ち出来ないくらいでしょう。ですので、あなたが大画面液晶テレビの両脇に評論家がほめちぎったベストセラーの小型スピーカーを並べるくらいのオーディオファンなら、I2S DACで十分です。つまり、90%?のオーディオを楽しむ人々にとって、性能的には数千円のI2S DACで足りてしまうのですから、老舗オーディオメーカーが身売りするのもやむなしです。

 では、われわれ(勝手に道楽仲間にさせていただきました)にとって、I2S DACはどうでしょうか? 写真のI2S DACにはテキサス・インスツルメント社(Texas Instruments)のPCM5122というDACチップが使われていて、32 bit、384 kHz、ダイナミックレンジ112 dBという、申し分のないスペックです。LPレコードをアイボリーホワイトに黒のガラード301に載せるといった、音楽のための美的な儀式性の対極にあるI2S DACの安っぽさはさておいて、純粋に音についての印象を述べると、やはり満足できません。わずかですが、無機質な雑味を感じてしまいます。

 この議論はきりがないので簡単にしますが、結局のところ、デジタル部分はもはや過剰スペックなものの、DACチップ内部でパルス密度的に変換された信号がローパスフィルターでデジタルからアナログになっていく部分から、様々な音質への悪影響を受け始めるということです。やはり、アナログは微妙ですね。PCM1795のようなグレードの高いDACチップは、アナログ信号が外乱を受けにくい電流出力になっているのに対し、PCM5122は簡略化のため直接電圧で出力しているのもマイナス要素です。高圧変電設備内のセンサーなど、耐ノイズ性が求められる用途では、電流出力が一般的です。


Vokumioの起動


 さて、脱線した話題はこのくらいにして、Volumioを起動しましょう。配線がすべてされていて、LAN内にDHCPサーバーというものがあって、LANで使うIPアドレスが自動的に割り振られるようになっていることを確認してください。パソコンを買ってきてつなぐと、ネットワークの設定をしなくてもホームページが見られるのなら、そうなっているはずです。分からなければ、詳しい人に見てもらいましょう。

 それでは、1.USBディスク、2.DAC、3.Raspberry Piの順に電源を入れてください。1.と2.は前後してもかまいません。USBディスクはRaspberry Piが起動するまで電源が待機するかもしれません。Raspberry Piには電源スイッチがなく、ACアダプタを接続することでON、抜くことでOFFです。Raspberry Piの内部でインストールしたVolumioが起動するのに1〜2分かかりますので、なにかミスを見つけたりしても、一旦ONにしたRaspberry Piの電源を3分間は抜かないでください。せっかくインストールしたVolumioが、運悪くクラッシュしてしまうかもしれません。


インストールに成功したばあい、最初に表示される言語設定ページ


 Volumioは起動すると、DNSブロードキャストと呼ばれる機能を使って自分のアドレスをLAN内に配ります。Raspberry Piの電源ONから3分以上待ってから、パソコンを起動していつもお使いのホームページ閲覧ソフトのアドレス欄に、

http://volumio

と入力すればVolumioにアクセスできるはずで、上のようなページが表示されれば成功です。パソコンでなくても、Volumioと同じLANに接続されているなら、スマートフォンなどでもアクセスできるはずです。もし、上のように表示されなかったり、「接続できませんでした」などといったエラーが表示されたりするようでしたら、なにか間違いがあります。初めから確認してやり直すか、もう少し後で解説するようにRaspberry PiのHDMI端子にディスプレー(テレビ)を接続して調べることになってしまいます。

 インストールと接続に成功していたら、メニューで「日本語」が選択されているはずですので、そのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。


2番めのアクセスするURL(アドレス)を設定するページ


 つぎに表示されるページはVolumioにアクセスするURL(アドレス)の設定です。VolumioのままでOKですが、同じLAN内に2台以上あるばあいは「Volumio-KL-Room」とか別にします。英数字とハイフンが使えます。ピリオドも使えなくはありませんが、URLには「.local」が付加されます。大文字小文字はURLとしては区別されませんので、どちらでもけっこうです。入力したら、「Next」ボタンをクリックして次に進みます。


どこからオーディオ出力を出すかを設定するページ(後で設定するのでそのまま)

 サウンドをどこに出力するかの設定では、DACが接続されていれば表示されるはずですが、後で詳細に設定するので、今はそのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。


ネットワークを設定するページ


 つぎはネットワーク接続です。LANにはすでに有線で接続されていて、無線(WiFi)は使いませんから、そのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。もし、無線LANを使うなら、ここで表示されているはずのIDの親機に接続ボタンを押して接続します。


ネットワークドライブを設定するページ


 続いてネットワークドライブの設定です。この解説ではお薦めの方式である、USBでハードディスクを直接接続することにしていますので、そのまま「Next」ボタンをクリックして次に進みます。USBでの直接接続なら、なにもしなくても自動で認識して使えるようになります。もちろん、ちゃんとフォーマットされたディスクやメモリのばあいです。


寄付のページ(ぜひ寄付してあげましょう)


 設定の最後に寄付(Donate)のページが表示されます。恩恵にあずかるのですから、ぜひ寄付してあげましょう。「Donate」ボタンをクリックすると、デフォルトでPayPalによる送金になります。


初期設定後に表示される再生ページ


 以上で初期設定が完了すると、上のような再生ページが表示されます。すぐに聴きたいところですが、最も重要な再生設定をしなければなりません。再生ページの右上あたりにある設定を表わす歯車のマークをクリックして「プレイバックオプション」を選択肢ます。


タイトルなし

 「プレイバックオプション」の上から順番にスクロールしながら設定していきます。まず「オーディオ出力」の「出力デバイス」を設定します。接続の説明ではiFiのDACを使いましたが、私は普段Combo384というUSBインターフェース経由で自作のDACを使っているので、ここでは「Combo384」を選択しました。お使いのDACが表示されているはずですので、それを選択します。大半のUSB接続DACは表示されますが、運悪く表示されなかったら、DACの電源が入っていること、USBがしっかり接続されていることを確認してから、RaspberryPiの電源を抜き差しして再起動し、再トライしてみてください。接続するUSBポートを変えてみると効果があるかもしれません。

 I2S DACは使いませんから、「Off」でOKです。選択できたら「保存ボタン」をクリックします。マウスでスクロールしたら設定値が変わってしまったりすることがあるので、毎回「保存ボタン」をクリックしたほうが確実です。

 「プレイバックオプション」の項目では、DSDの(Direct Stream Digital)プレイバック方法が問題となります。DSDは1ビットオーディオの一種で、パルスの密度で音声信号を表し、SACDにも使われている方式です。お使いのDACがDSDデータを直接再生できる機種なら「DSD Playback Mode」を「DSD Direct」に設定します。対応しているかどうかは、DACのメーカーや販売店などから情報を得てください。DSDにまったく対応していないDACをお使いだったり、DSDのことがよく分からないばあいも、「DSD Direct」で問題ありません。対応していないDACなら、自動的にPCMに変換されて再生されるはずです。

 逆に「DSD Direct」に対応しているばあいでも、「DSD over PCM (DoP)」を選択したほうが音質が良好なばあいが少なくありません。特に高いサンプリングレート(クロック周波数)のDSD音源でその傾向があります。DoPのみに対応したDACなら、初めからそちらを、「DSD Direct」に対応しているDACなら聴いてみて良い方にしてください。両者の違いはデータの転送方式で、「DSD Direct」は「ASIOネイティブ」の別名です。DoPはPCMのデータフォーマット内に詰め込んでDSDデータを送る方式です。両者は本来、同じ音質が可能なはずですが、現実には主にノイズで差が出てしまうばあいがあります。おかしな話ですが、アナログからデジタルになって不確実要素が増え、擬似怪奇現象に遭遇することが増えました。

 「DSD Auto Volume Level」と「音量の正規化」は「Off」にします。音量調整はデジタルデータを加工して行われ、ダイナミックレンジを狭めたり音質を劣化させたり(分からない程度かも)するので、すべて「Off」にします。

 有線のLANとUSBでやるので通信は安定しているはずですから、データの取り損ないに備える「オーディオバッファーのサイズ」と「再生前にバッファー」はあまり気にする必要ななく、元のままの設定値でOKです。

 「恒久的なキュー」は、前に再生キューに入れたファイルをそのままにしてくれるので、「On」が便利です。

 もう少し下にスクロールして、「音量オプション」と「Auto Resampling」を設定します。とにかくデータを勝手に再加工されないよう、上に示すとおりに設定してください。ミキサー(カーネルミキサー)が確実にOffにできるという点だけでも、Windowsパソコンの音楽再生ソフトではなく、Volumioを使う価値があります。「最大音量レベル」は「100 %」にして、再生ページではヴォリュームを最大にし聴いてください。めんどうくさがらずにアンプで音量調節しましょう。


いよいよ音楽ファイルをキューに入れて再生!


 ここまで来れば設定完了ですから、後はあちこちクリックして使い方を理解していきましょう。音量を常に100 % にする以外に、設定以外で「オーディオ愛好家向け」の特別なことはありませんから、ほかのホームページの解説も参考にしてください。

 USBディスクにパソコンで音楽ファイルをコピーしてから、RaspberryPiに接続しましょう。自動的に認識して、ページ下部の「一覧表示」タブをクリックして表示されるページで、まず「音楽ライブラリ」を、つぎに「USB」をクリックして選択すれば、USBディスクが表示されてフォルダをクリックすることで音楽ファイルやそのフォルダが表示できるはずです。

 リストの左端にある縦に並んだ点々をクリックすると表示されるメニューから「キューに追加」をクリックし、プレイバックページかキューのページに移って再生してください。上の例では、プラウザのウィンドを複数表示して、USBディスクの一覧表示とプレイバックの両方を同時に使えるようにしています。いい音が出ましたか?


HDMI端子にディスプレーを接続したときの起動画面


 残念ながらインストールに失敗したと思われるばあいは、RaspberryPiのHDMIポート(端子)にテレビかパソコン用のディスプレーを接続し、RaspberryPiの電源を入れてください。1分くらい真っ黒ですが、突然「Volumio」の文字が上のように表示され、すぐにOSにテキストモードでログインする画面に切り替わるはずです。そのように表示されなければ、あきらめて「インストール編」からやり直してください。固定IPアドレスや、WiFiの無効化から電源の考察まで、より高度な話題は「チューニング編」で書く予定です。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069&i=10778

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/759.html#c20

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
16. 中川隆[-9527] koaQ7Jey 2019年6月17日 18:37:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2951]
阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われたのは

自民党関係者とチャンネル桜関係者が組織的に Google に

阿修羅原発板では明らかに間違った反原発デマが垂れ流されている

と告発したからでしょう。

魑魅魍魎氏のスレが100%デマなのは確かですが、それを多数の人が Google に告発しなければ、そういう事にはならないのです。

【三橋貴明】電力崩壊!「原発ゼロ」の真実[桜H26-5-26] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1aspnM39l7A

間違いだらけの原発常識(月刊三橋10月号「脱原発の本質〜何が日本の安全保障を歪めているのか」より) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EJJGonW__l4

脱原発を叫ぶ全ての人たちへ 三橋貴明オフィシャルブログ「新世紀のビッグブラザーへ 
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11412953219.html


http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c16

[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
17. 中川隆[-9526] koaQ7Jey 2019年6月17日 19:01:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2952]

南京大虐殺等でチャンネル桜が youtube で流しているデマの間違いを指摘するとすぐに削除されます:


水島総 チャンネル桜社長が「(ハエみたいな人達からの)コメント削除を指示した」と番組内で発言 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RnLCOmS9Ll0


2013/03/26 に公開


チャンネル桜のYoutube動画(特に水島出演枠)のコメントは日常的に社長の水島氏と配下のスタッフがチェックし削除、アカウントブロックしますが、最近さらに徹底してるようです。

ニコ動の方も削除されるようになりました。

先日水島社長が番組内で次のように発言

「ちょっとうちの方でも報告あって、私もちらほらみて指示しましたけど、

Youtubeにいろんな書き込みがあってね。TPP批判と安倍批判とね、繰り返し分けて貰わないといけないと思いましたけどそれが出来なかった、ということでね、

分けられなきゃいけないのを分けられなかったので、まああのチャンネル桜のという姿勢に対する批判というものは判断してどんどん削除していいと言う風にしました。

なんかこういうので両論併記でやった方がいいなんて、んなもの、私はそれはいいよと、両論併記と良く民主主義と言いながら、私たちの放送はね別に民主主義のあれじゃなくて、ちゃんとこういう論理でやってます。

て事をいいながらしかし幅広く、皆さん色んな人出て頂いてね、そこがね、あの偽善の装うものと違うって事を改めて言いたいと思います。」


チャンネル桜の水島社長はNHK批判できませんねw

自分のアンチや批判的な人をハエと表現した ch桜の水島社長は自分の事を汚物だと思っているようだ。ハエは汚物にしかたからない。


チャンネル桜の水島総は平気で嘘をつき謀略報道をするペテン師
http://www.youtube.com/watch?v=krNhaY...

チャンネル桜の水島社長はデマや脳内妄言を「その筋」、ソース元の明らかでない「独自情報」とやらで既成事実化し謀略嫌がらせ工作・歪曲・捏造・流言煽動偏向報道します。水島総氏が意図して執拗にやってきた悪質なデマゴギーによる名誉毀損と脅迫は明らかに刑事事件対象になり得るもので、脅迫罪と名誉毀損罪で刑事告訴出来るものです。水島総氏は犯罪行為を公然とやってきました。水島氏に募金しないでください。犯罪に使われます。

今必死に謀略報道をやっていたのを隠すためのカモフラージュ・アリバイ工作しています。水島社長の作るアンチ石原謀略番組のyoutube動画内容に対する異論を書くとコメント削除とブロックされます。

動画は、チャンネル桜の水島社長(と水島社長御用言論人)によって繰り返される一線を越えた、デマ煽動・妄言煽動・ダブルスタンダード煽動による確信犯の嫌がらせ報道対策の一環で作成し、アップロードしています。

石原慎太郎『私が知らないうちに(尖閣諸島)を買われちゃった』

チャンネル桜の水島社長の根拠無き尖閣国有化&大連立妄言に反論

チャンネル桜の水島社長の妄言報道は信用・業務妨害罪に該当する恐れ

【修正版】ch桜水島社長が繰り返す石原慎太郎粘着デマ報道に反論1

チャンネル桜水島社長による偏向報道対策動画が削除されました。

修正版 ch桜の水島社長の執拗な石原粘着生贄安倍神格化対比報道不信

【水島総が騒ぎに乗じて皇室の売名・宣伝利用】

【尖閣について】石原慎太郎『(防衛費)もっともっと』H25/2/12衆院質疑part1

石原慎太郎エッセイ「海図に載らない灯台」 尖閣諸島魚釣島の灯台

東京都が尖閣寄付金を政府事業に充当計画実現のために基金化

占領憲法は破棄すべきだった 石原慎太郎 11月30日記者クラブ討論会にて

【証拠あり】安倍晋三氏・自民党は筋金入りの道州制権推進勢力で、2018年までの道州制完全移行を着々と画策している

安倍自民党のデフレ促進策 道州制もあるよ

『安倍自民党の国家解体的実態』Youtube版


https://www.youtube.com/watch?v=RnLCOmS9Ll0

阿修羅原発板の反原発デマを Google に密告したのは チャンネル桜や三橋貴明のファンでしょうね。
http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c17

[リバイバル4] サウンドパーツ 300B プッシュプル・アンプ 中川隆
8. 中川隆[-9525] koaQ7Jey 2019年6月17日 19:16:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2953]
サウンドパーツ
http://www.soundparts.server-shared.com/index.html

<DAコンバーター>

<KLANG-KUNST>が5年を費やして完成した基板100枚の製作ライセンスを受けたDAC
お貸出し後のご購入…と言うお客様本位の販売形式を採っています

≪KLANG-KUNST≫ 開発基板搭載

現在の製作延べ台数18台/30台限定
本気でご購入をご検討の方に限り画像の実機をお貸し致します
音の表現力とスピード感に溢れる…が全オーナーのご評価です

独クラングフィルムの研究者が主唱する≪KLANG-KUNST≫の開発によるDAコンバーターをご好意により限定販売します


<KLANG-KUNST>
足掛け5年に亘る期間と多額の開発費を要したDAC基板100枚中30枚を譲渡頂き
サウンドパーツのイズムから最小限のコストで製作するものです

標準機(USB/光/RCAデジタル入力) ¥218000(消費税別)

DSD対応/25000円やバランス出力対応/15000円機もオプションでOK、

1年間は無償で保証します
http://www.soundparts.server-shared.com/index.html


クラング・クンスト DAコンバーターなどの製品情報
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/114.html#c8

[近代史02] <記憶>89年前、朝鮮人虐殺あった/関東大震災/牲者追悼式平和への決意(しんぶん赤旗) gataro
23. 中川隆[-9524] koaQ7Jey 2019年6月17日 19:23:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2954]
大河『いだてん』に関東大震災「朝鮮人虐殺」を示唆するシーンが! 右派の虐殺否定デマに抗した勇気
https://lite-ra.com/2019/06/post-4779.html
2019.06.17 『いだてん』が関東大震災「朝鮮人虐殺」を示唆! リテラ

    
    朝鮮人虐殺を示唆した『いだてん』(番組HPより)


 16日放送のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が話題になっている。関東大震災時に起きた、朝鮮人虐殺を示唆する描写に踏み込んだからだ。

 ご存知のとおり、関東大震災は1923(大正12)年9月1日に起きたのだが、『いだてん』の主人公のひとり・マラソンランナーの金栗四三も当時東京府女子師範学校で教員として勤めており、震災に遭遇する。

 ドラマ中盤、ちょうどお昼時だった東京の街を地震が襲う。地震そのものも以上に火災の被害も大きく、浅草から日本橋、芝まで炎に包まれ、2日かけて東京が焼き尽くされる。なかでも浅草の被害は大きく、シンボルだった凌雲閣の倒壊をはじめ、2日で街が消えるほどの壊滅的な被害を受ける。

 混乱さめやらぬなか四三は、浅草で行方不明になっている同僚教師を懸命に探すのだが、そこで棒を手にした数人の男に声をかけられる。

 男らは「おまえ、日本人か? どこから、どうやって来た?」と、四三にいきなり出自を問う。四三が「いやいや、どぎゃんも、こぎゃんも……」と出身である熊本訛りで答えると、男らは「なんだ? なんだ、その言葉? 日本人じゃないな」四三を取り囲む。四三が「熊本! おら熊本だげん!」と答えても、「くまもとぉ?」とさらに問い詰める。

 そこへたまたま、四三の教え子の父親で医師の大作があらわれ、「娘の学校の先生だ、日本人だ」「大丈夫だ!」と、四三を助け出したことから、なんとか事なきを得たが、男らは「本当か!?」としつこく詰め寄っていた。

「ご無事で何より」と無事を労う四三に、大作は先ほどの男らについて「自警団ですよ」「この災害のどさくさで、根拠のない流言飛語が出回っている。大きな余震がくるとか、井戸に毒がまかれたとか、とんでもないデマがね」と説明する。

 時間にしてわずか1分足らずの場面で、「朝鮮人」という言葉こそ出していないものの、関東大震災時に起きた「朝鮮人虐殺」を描いたものだ。

 大作が流言飛語が飛び交っていると説明していたとおり、実際の震災時も「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」「火をつけて回っている」などのデマ・流言飛語が飛び交い、それを信じた自警団を称する日本人たちにより多くの朝鮮人たちが殺害された。

 また熊本訛りの四三に対し「おまえ日本人か?」「なんだその言葉? 日本人じゃないな」と問い詰めていたのも、実際に当時「アイウエを言え」「教育勅語を言え」などと詰め寄り言葉に詰まったり発音が違ったりすると「朝鮮人だ」として暴行するという行為が横行していたことに基づいている。また、四三のように棒を手にした自警団に「朝鮮人だろう」と取り囲まれるというのは、実際、当時中学生だった故・黒澤明監督も同様の体験を自伝のなかに記している(https://lite-ra.com/2017/09/post-3425.html)。

■右派の圧力のためか、「朝鮮人」という言葉は使わなかったが…

 もちろん、『いだてん』も本来は「朝鮮人」という言葉をきちんと盛り込んで、「朝鮮人虐殺」というヘイトクライムを明確に描くべきだったと思うが、それでも現在の言論状況で、NHKがゴールデンタイムの看板ドラマで朝鮮人虐殺を示唆する場面を描いただけでも価値がある。

 というのも、近年、関東大震災時の朝鮮人虐殺の史実を闇に葬りなかったことにしようという歴史修正の動きが激しくなっているからだ。

 ネトウヨのみならず、ヘイト本や極右雑誌などがこぞって「朝鮮人虐殺はなかった」というデマや、「本当に朝鮮人の暴動があった」というデマを掲載し、朝鮮人虐殺否定を盛んに喧伝している。

 また東京都の小池百合子知事は、2017年から、それまで歴代都知事が毎年9月1日に行ってきた朝鮮人犠牲者の追悼式典への追悼文を取りやめた。

 さらに安倍首相も、2016年「政府は、関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したことを事実として認定するか」との質問主意書に対し、「お尋ねの「関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したこと」については、調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することができる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である」との答弁書を出すなど、明らかな史実をなかったことにしようとしている。

 関東大震災の際、デマによって大規模な朝鮮人のジェノサイドが起き、警察や軍がこれに加担したのは、保守系の歴史学者も認めている歴史的事実であり、なにより、当時を生きた人々による膨大な証言が残されている。

■右派の虐殺否定はデマ、数々の資料が描く朝鮮人虐殺の凄惨な現場

 朝鮮人虐殺否定デマが活発化していた2014年、震災当時の証言や記録で構成されたノンフィクション本『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(加藤直樹/ころから)が出版されているが、同書には、公文書や軍の資料、戦後の検証記録から、被害者の朝鮮人、目撃した一般住民、さらには作家の芥川龍之介や国学者である折口信夫の証言まで、虐殺の事実を裏付ける資料がいくつも紹介されている。

 たとえば、『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)にも収録された葛飾区四ツ木橋付近の地元住民からの聞き取り。ここには自警団と称する民間の日本人による凄惨きわまりない“朝鮮人狩り”の目撃証言がいくつも登場する。

「四ツ木橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを切って下に落とした。旧四ッ木はしの少し下手に穴を掘って投げ込むんだ」

「(自警団が殺したのは)なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」

 もっと生々しいのは子どもたちの証言だ。同書では、関東大震災から半年の間に書かれた子どもの作文を紹介しているが、そこには子どもならではのあまりにリアルすぎる目撃談が大量に出てくるのだ。

「朝鮮人がころされているというので私わ行ちゃんと二人で見にいつた。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによつてみた。すると頭わはれて血みどりにそまつていた」(横浜市・高等小学校1年女児)

「私たちは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました・それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがつて居ました」(同1年女児)

「歩いて居ると朝鮮人が立木にゆはかれ竹槍で腹をぶつぶつさられ(刺され)のこぎりで切られてしまひました」(同小学校男児)

「するとみなさんがたが朝鮮人をつついていましたからは(わ)たくしも一ぺんつついてやりましたらきゆうとしんでしまひました」(横浜市尋常小学校4年男児)

■デマを広めた張本人・読売社主の正力松太郎も後にデマを認めていた

 さらに、自警団だけでなく、警察、軍隊まで出動して「戦争気分」で朝鮮人を虐殺した。当時、習志野騎兵連隊に入隊していた越中谷利一はこう記している。

「(亀戸駅付近に止まっていた列車の内外を調べ)その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声──国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!」(『関東大震災の思い出』)

 実際、朝鮮人の暴動デマは、戦後、衆院議員、読売新聞社主として政界、マスコミ界に君臨した正力松太郎が警視庁官房主事時代に広めたことがわかっている。

『九月、東京の路上で』でもそのことは指摘されていて、「デモや集会を取り締まり、朝鮮人学生のひそかな独立運動に目を光らせていた」正力がそのデマに振り回され、「軍人達に『こうなったらやりましょう!』と腕まくりをして叫び、警視庁に駆けつけていた新聞記者たちには『朝鮮人が謀反を起こしているといううわさがあるから触れ回ってくれ』と要請する」とある。

 だが、その正力は後に、この朝鮮人暴動がデマだったと認めているのだ。正力の回顧録『米騒動や大震災の思い出』にはこんなくだりがある。

「しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちにようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。(中略)要するに人心が異常なる衝撃を受けて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第であります(後略)」
 
 普通の人々が持つ潜在的な差別意識と恐怖心、加えて震災で通信が寸断され、何が正確な情報が分からなくなった時、虐殺は起こった。歴史修正主義者やネトウヨがどういおうと、これはまぎれもない事実なのだ

■『いだてん』は伊藤博文暗殺でもネトウヨから攻撃を受けていたが

 つまり、『いだてん』は、今回、右派政治家やネトウヨのデマ、歴史修正主義に屈することなく、こうした当たり前の史実を描こうとしたということだ。『いだてん』の場合、必ずしもこの1分足らずの場面があってもなくても、ストーリーの大勢には大きな影響はなかっただろう。それでもあえてこの場面を入れたのには、脚本の宮藤官九郎をはじめとした、製作陣の明確な意図があったことは間違いない。

 本サイトは『いだてん』について、国家主義や戦争と無縁ではいられないオリンピックというテーマを描くことの難しさについて書いたことがある。さらに『いだてん』はいまの日本で扱うと炎上しやすい近現代史を描くという高いハードルにも取り組んでいる。実際、伊藤博文暗殺に関するナレーションひとつで、ネトウヨ連中からイチャモンをつけられるなどしている。

 そんななかでも最もコントラバーシャルなトピックのひとつである朝鮮人虐殺について、『いだてん』がなかったことにせず少しでも描いたことは評価に値する。今後、戦争に突入していく日本をどう描くのか、ヒトラーのベルリン五輪をどう描くのか、そのベルリン五輪に日本選手として出場した朝鮮半島出身者たちの存在をどう描くのか。視聴率の低さばかりがニュースになっている『いだてん』だが、このチャレンジはもっと注目されていいのではないか。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/707.html#c23

[リバイバル3] 朝鮮人が反日になった理由 中川隆
46. 中川隆[-9523] koaQ7Jey 2019年6月17日 19:25:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2955]
大河『いだてん』に関東大震災「朝鮮人虐殺」を示唆するシーンが! 右派の虐殺否定デマに抗した勇気
https://lite-ra.com/2019/06/post-4779.html
2019.06.17 『いだてん』が関東大震災「朝鮮人虐殺」を示唆! リテラ

    
    朝鮮人虐殺を示唆した『いだてん』(番組HPより)


 16日放送のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が話題になっている。関東大震災時に起きた、朝鮮人虐殺を示唆する描写に踏み込んだからだ。

 ご存知のとおり、関東大震災は1923(大正12)年9月1日に起きたのだが、『いだてん』の主人公のひとり・マラソンランナーの金栗四三も当時東京府女子師範学校で教員として勤めており、震災に遭遇する。

 ドラマ中盤、ちょうどお昼時だった東京の街を地震が襲う。地震そのものも以上に火災の被害も大きく、浅草から日本橋、芝まで炎に包まれ、2日かけて東京が焼き尽くされる。なかでも浅草の被害は大きく、シンボルだった凌雲閣の倒壊をはじめ、2日で街が消えるほどの壊滅的な被害を受ける。

 混乱さめやらぬなか四三は、浅草で行方不明になっている同僚教師を懸命に探すのだが、そこで棒を手にした数人の男に声をかけられる。

 男らは「おまえ、日本人か? どこから、どうやって来た?」と、四三にいきなり出自を問う。四三が「いやいや、どぎゃんも、こぎゃんも……」と出身である熊本訛りで答えると、男らは「なんだ? なんだ、その言葉? 日本人じゃないな」四三を取り囲む。四三が「熊本! おら熊本だげん!」と答えても、「くまもとぉ?」とさらに問い詰める。

 そこへたまたま、四三の教え子の父親で医師の大作があらわれ、「娘の学校の先生だ、日本人だ」「大丈夫だ!」と、四三を助け出したことから、なんとか事なきを得たが、男らは「本当か!?」としつこく詰め寄っていた。

「ご無事で何より」と無事を労う四三に、大作は先ほどの男らについて「自警団ですよ」「この災害のどさくさで、根拠のない流言飛語が出回っている。大きな余震がくるとか、井戸に毒がまかれたとか、とんでもないデマがね」と説明する。

 時間にしてわずか1分足らずの場面で、「朝鮮人」という言葉こそ出していないものの、関東大震災時に起きた「朝鮮人虐殺」を描いたものだ。

 大作が流言飛語が飛び交っていると説明していたとおり、実際の震災時も「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」「火をつけて回っている」などのデマ・流言飛語が飛び交い、それを信じた自警団を称する日本人たちにより多くの朝鮮人たちが殺害された。

 また熊本訛りの四三に対し「おまえ日本人か?」「なんだその言葉? 日本人じゃないな」と問い詰めていたのも、実際に当時「アイウエを言え」「教育勅語を言え」などと詰め寄り言葉に詰まったり発音が違ったりすると「朝鮮人だ」として暴行するという行為が横行していたことに基づいている。また、四三のように棒を手にした自警団に「朝鮮人だろう」と取り囲まれるというのは、実際、当時中学生だった故・黒澤明監督も同様の体験を自伝のなかに記している(https://lite-ra.com/2017/09/post-3425.html)。

■右派の圧力のためか、「朝鮮人」という言葉は使わなかったが…

 もちろん、『いだてん』も本来は「朝鮮人」という言葉をきちんと盛り込んで、「朝鮮人虐殺」というヘイトクライムを明確に描くべきだったと思うが、それでも現在の言論状況で、NHKがゴールデンタイムの看板ドラマで朝鮮人虐殺を示唆する場面を描いただけでも価値がある。

 というのも、近年、関東大震災時の朝鮮人虐殺の史実を闇に葬りなかったことにしようという歴史修正の動きが激しくなっているからだ。

 ネトウヨのみならず、ヘイト本や極右雑誌などがこぞって「朝鮮人虐殺はなかった」というデマや、「本当に朝鮮人の暴動があった」というデマを掲載し、朝鮮人虐殺否定を盛んに喧伝している。

 また東京都の小池百合子知事は、2017年から、それまで歴代都知事が毎年9月1日に行ってきた朝鮮人犠牲者の追悼式典への追悼文を取りやめた。

 さらに安倍首相も、2016年「政府は、関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したことを事実として認定するか」との質問主意書に対し、「お尋ねの「関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したこと」については、調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することができる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である」との答弁書を出すなど、明らかな史実をなかったことにしようとしている。

 関東大震災の際、デマによって大規模な朝鮮人のジェノサイドが起き、警察や軍がこれに加担したのは、保守系の歴史学者も認めている歴史的事実であり、なにより、当時を生きた人々による膨大な証言が残されている。

■右派の虐殺否定はデマ、数々の資料が描く朝鮮人虐殺の凄惨な現場

 朝鮮人虐殺否定デマが活発化していた2014年、震災当時の証言や記録で構成されたノンフィクション本『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(加藤直樹/ころから)が出版されているが、同書には、公文書や軍の資料、戦後の検証記録から、被害者の朝鮮人、目撃した一般住民、さらには作家の芥川龍之介や国学者である折口信夫の証言まで、虐殺の事実を裏付ける資料がいくつも紹介されている。

 たとえば、『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)にも収録された葛飾区四ツ木橋付近の地元住民からの聞き取り。ここには自警団と称する民間の日本人による凄惨きわまりない“朝鮮人狩り”の目撃証言がいくつも登場する。

「四ツ木橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを切って下に落とした。旧四ッ木はしの少し下手に穴を掘って投げ込むんだ」

「(自警団が殺したのは)なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」

 もっと生々しいのは子どもたちの証言だ。同書では、関東大震災から半年の間に書かれた子どもの作文を紹介しているが、そこには子どもならではのあまりにリアルすぎる目撃談が大量に出てくるのだ。

「朝鮮人がころされているというので私わ行ちゃんと二人で見にいつた。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによつてみた。すると頭わはれて血みどりにそまつていた」(横浜市・高等小学校1年女児)

「私たちは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました・それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがつて居ました」(同1年女児)

「歩いて居ると朝鮮人が立木にゆはかれ竹槍で腹をぶつぶつさられ(刺され)のこぎりで切られてしまひました」(同小学校男児)

「するとみなさんがたが朝鮮人をつついていましたからは(わ)たくしも一ぺんつついてやりましたらきゆうとしんでしまひました」(横浜市尋常小学校4年男児)

■デマを広めた張本人・読売社主の正力松太郎も後にデマを認めていた

 さらに、自警団だけでなく、警察、軍隊まで出動して「戦争気分」で朝鮮人を虐殺した。当時、習志野騎兵連隊に入隊していた越中谷利一はこう記している。

「(亀戸駅付近に止まっていた列車の内外を調べ)その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声──国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!」(『関東大震災の思い出』)

 実際、朝鮮人の暴動デマは、戦後、衆院議員、読売新聞社主として政界、マスコミ界に君臨した正力松太郎が警視庁官房主事時代に広めたことがわかっている。

『九月、東京の路上で』でもそのことは指摘されていて、「デモや集会を取り締まり、朝鮮人学生のひそかな独立運動に目を光らせていた」正力がそのデマに振り回され、「軍人達に『こうなったらやりましょう!』と腕まくりをして叫び、警視庁に駆けつけていた新聞記者たちには『朝鮮人が謀反を起こしているといううわさがあるから触れ回ってくれ』と要請する」とある。

 だが、その正力は後に、この朝鮮人暴動がデマだったと認めているのだ。正力の回顧録『米騒動や大震災の思い出』にはこんなくだりがある。

「しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちにようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。(中略)要するに人心が異常なる衝撃を受けて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第であります(後略)」
 
 普通の人々が持つ潜在的な差別意識と恐怖心、加えて震災で通信が寸断され、何が正確な情報が分からなくなった時、虐殺は起こった。歴史修正主義者やネトウヨがどういおうと、これはまぎれもない事実なのだ

■『いだてん』は伊藤博文暗殺でもネトウヨから攻撃を受けていたが

 つまり、『いだてん』は、今回、右派政治家やネトウヨのデマ、歴史修正主義に屈することなく、こうした当たり前の史実を描こうとしたということだ。『いだてん』の場合、必ずしもこの1分足らずの場面があってもなくても、ストーリーの大勢には大きな影響はなかっただろう。それでもあえてこの場面を入れたのには、脚本の宮藤官九郎をはじめとした、製作陣の明確な意図があったことは間違いない。

 本サイトは『いだてん』について、国家主義や戦争と無縁ではいられないオリンピックというテーマを描くことの難しさについて書いたことがある。さらに『いだてん』はいまの日本で扱うと炎上しやすい近現代史を描くという高いハードルにも取り組んでいる。実際、伊藤博文暗殺に関するナレーションひとつで、ネトウヨ連中からイチャモンをつけられるなどしている。

 そんななかでも最もコントラバーシャルなトピックのひとつである朝鮮人虐殺について、『いだてん』がなかったことにせず少しでも描いたことは評価に値する。今後、戦争に突入していく日本をどう描くのか、ヒトラーのベルリン五輪をどう描くのか、そのベルリン五輪に日本選手として出場した朝鮮半島出身者たちの存在をどう描くのか。視聴率の低さばかりがニュースになっている『いだてん』だが、このチャレンジはもっと注目されていいのではないか。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/706.html#c46

[昼休み52] 日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される…フィリピン 中川隆
307. 中川隆[-9522] koaQ7Jey 2019年6月17日 19:26:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2956]
大河『いだてん』に関東大震災「朝鮮人虐殺」を示唆するシーンが! 右派の虐殺否定デマに抗した勇気
https://lite-ra.com/2019/06/post-4779.html
2019.06.17 『いだてん』が関東大震災「朝鮮人虐殺」を示唆! リテラ

    
    朝鮮人虐殺を示唆した『いだてん』(番組HPより)


 16日放送のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が話題になっている。関東大震災時に起きた、朝鮮人虐殺を示唆する描写に踏み込んだからだ。

 ご存知のとおり、関東大震災は1923(大正12)年9月1日に起きたのだが、『いだてん』の主人公のひとり・マラソンランナーの金栗四三も当時東京府女子師範学校で教員として勤めており、震災に遭遇する。

 ドラマ中盤、ちょうどお昼時だった東京の街を地震が襲う。地震そのものも以上に火災の被害も大きく、浅草から日本橋、芝まで炎に包まれ、2日かけて東京が焼き尽くされる。なかでも浅草の被害は大きく、シンボルだった凌雲閣の倒壊をはじめ、2日で街が消えるほどの壊滅的な被害を受ける。

 混乱さめやらぬなか四三は、浅草で行方不明になっている同僚教師を懸命に探すのだが、そこで棒を手にした数人の男に声をかけられる。

 男らは「おまえ、日本人か? どこから、どうやって来た?」と、四三にいきなり出自を問う。四三が「いやいや、どぎゃんも、こぎゃんも……」と出身である熊本訛りで答えると、男らは「なんだ? なんだ、その言葉? 日本人じゃないな」四三を取り囲む。四三が「熊本! おら熊本だげん!」と答えても、「くまもとぉ?」とさらに問い詰める。

 そこへたまたま、四三の教え子の父親で医師の大作があらわれ、「娘の学校の先生だ、日本人だ」「大丈夫だ!」と、四三を助け出したことから、なんとか事なきを得たが、男らは「本当か!?」としつこく詰め寄っていた。

「ご無事で何より」と無事を労う四三に、大作は先ほどの男らについて「自警団ですよ」「この災害のどさくさで、根拠のない流言飛語が出回っている。大きな余震がくるとか、井戸に毒がまかれたとか、とんでもないデマがね」と説明する。

 時間にしてわずか1分足らずの場面で、「朝鮮人」という言葉こそ出していないものの、関東大震災時に起きた「朝鮮人虐殺」を描いたものだ。

 大作が流言飛語が飛び交っていると説明していたとおり、実際の震災時も「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」「火をつけて回っている」などのデマ・流言飛語が飛び交い、それを信じた自警団を称する日本人たちにより多くの朝鮮人たちが殺害された。

 また熊本訛りの四三に対し「おまえ日本人か?」「なんだその言葉? 日本人じゃないな」と問い詰めていたのも、実際に当時「アイウエを言え」「教育勅語を言え」などと詰め寄り言葉に詰まったり発音が違ったりすると「朝鮮人だ」として暴行するという行為が横行していたことに基づいている。また、四三のように棒を手にした自警団に「朝鮮人だろう」と取り囲まれるというのは、実際、当時中学生だった故・黒澤明監督も同様の体験を自伝のなかに記している(https://lite-ra.com/2017/09/post-3425.html)。

■右派の圧力のためか、「朝鮮人」という言葉は使わなかったが…

 もちろん、『いだてん』も本来は「朝鮮人」という言葉をきちんと盛り込んで、「朝鮮人虐殺」というヘイトクライムを明確に描くべきだったと思うが、それでも現在の言論状況で、NHKがゴールデンタイムの看板ドラマで朝鮮人虐殺を示唆する場面を描いただけでも価値がある。

 というのも、近年、関東大震災時の朝鮮人虐殺の史実を闇に葬りなかったことにしようという歴史修正の動きが激しくなっているからだ。

 ネトウヨのみならず、ヘイト本や極右雑誌などがこぞって「朝鮮人虐殺はなかった」というデマや、「本当に朝鮮人の暴動があった」というデマを掲載し、朝鮮人虐殺否定を盛んに喧伝している。

 また東京都の小池百合子知事は、2017年から、それまで歴代都知事が毎年9月1日に行ってきた朝鮮人犠牲者の追悼式典への追悼文を取りやめた。

 さらに安倍首相も、2016年「政府は、関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したことを事実として認定するか」との質問主意書に対し、「お尋ねの「関東大震災時における朝鮮人、中国人等の虐殺事件に日本政府が関与したこと」については、調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することができる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である」との答弁書を出すなど、明らかな史実をなかったことにしようとしている。

 関東大震災の際、デマによって大規模な朝鮮人のジェノサイドが起き、警察や軍がこれに加担したのは、保守系の歴史学者も認めている歴史的事実であり、なにより、当時を生きた人々による膨大な証言が残されている。

■右派の虐殺否定はデマ、数々の資料が描く朝鮮人虐殺の凄惨な現場

 朝鮮人虐殺否定デマが活発化していた2014年、震災当時の証言や記録で構成されたノンフィクション本『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(加藤直樹/ころから)が出版されているが、同書には、公文書や軍の資料、戦後の検証記録から、被害者の朝鮮人、目撃した一般住民、さらには作家の芥川龍之介や国学者である折口信夫の証言まで、虐殺の事実を裏付ける資料がいくつも紹介されている。

 たとえば、『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(教育史料出版会)にも収録された葛飾区四ツ木橋付近の地元住民からの聞き取り。ここには自警団と称する民間の日本人による凄惨きわまりない“朝鮮人狩り”の目撃証言がいくつも登場する。

「四ツ木橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを切って下に落とした。旧四ッ木はしの少し下手に穴を掘って投げ込むんだ」

「(自警団が殺したのは)なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」

 もっと生々しいのは子どもたちの証言だ。同書では、関東大震災から半年の間に書かれた子どもの作文を紹介しているが、そこには子どもならではのあまりにリアルすぎる目撃談が大量に出てくるのだ。

「朝鮮人がころされているというので私わ行ちゃんと二人で見にいつた。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによつてみた。すると頭わはれて血みどりにそまつていた」(横浜市・高等小学校1年女児)

「私たちは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました・それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがつて居ました」(同1年女児)

「歩いて居ると朝鮮人が立木にゆはかれ竹槍で腹をぶつぶつさられ(刺され)のこぎりで切られてしまひました」(同小学校男児)

「するとみなさんがたが朝鮮人をつついていましたからは(わ)たくしも一ぺんつついてやりましたらきゆうとしんでしまひました」(横浜市尋常小学校4年男児)

■デマを広めた張本人・読売社主の正力松太郎も後にデマを認めていた

 さらに、自警団だけでなく、警察、軍隊まで出動して「戦争気分」で朝鮮人を虐殺した。当時、習志野騎兵連隊に入隊していた越中谷利一はこう記している。

「(亀戸駅付近に止まっていた列車の内外を調べ)その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声──国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!」(『関東大震災の思い出』)

 実際、朝鮮人の暴動デマは、戦後、衆院議員、読売新聞社主として政界、マスコミ界に君臨した正力松太郎が警視庁官房主事時代に広めたことがわかっている。

『九月、東京の路上で』でもそのことは指摘されていて、「デモや集会を取り締まり、朝鮮人学生のひそかな独立運動に目を光らせていた」正力がそのデマに振り回され、「軍人達に『こうなったらやりましょう!』と腕まくりをして叫び、警視庁に駆けつけていた新聞記者たちには『朝鮮人が謀反を起こしているといううわさがあるから触れ回ってくれ』と要請する」とある。

 だが、その正力は後に、この朝鮮人暴動がデマだったと認めているのだ。正力の回顧録『米騒動や大震災の思い出』にはこんなくだりがある。

「しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちにようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。(中略)要するに人心が異常なる衝撃を受けて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第であります(後略)」
 
 普通の人々が持つ潜在的な差別意識と恐怖心、加えて震災で通信が寸断され、何が正確な情報が分からなくなった時、虐殺は起こった。歴史修正主義者やネトウヨがどういおうと、これはまぎれもない事実なのだ

■『いだてん』は伊藤博文暗殺でもネトウヨから攻撃を受けていたが

 つまり、『いだてん』は、今回、右派政治家やネトウヨのデマ、歴史修正主義に屈することなく、こうした当たり前の史実を描こうとしたということだ。『いだてん』の場合、必ずしもこの1分足らずの場面があってもなくても、ストーリーの大勢には大きな影響はなかっただろう。それでもあえてこの場面を入れたのには、脚本の宮藤官九郎をはじめとした、製作陣の明確な意図があったことは間違いない。

 本サイトは『いだてん』について、国家主義や戦争と無縁ではいられないオリンピックというテーマを描くことの難しさについて書いたことがある。さらに『いだてん』はいまの日本で扱うと炎上しやすい近現代史を描くという高いハードルにも取り組んでいる。実際、伊藤博文暗殺に関するナレーションひとつで、ネトウヨ連中からイチャモンをつけられるなどしている。

 そんななかでも最もコントラバーシャルなトピックのひとつである朝鮮人虐殺について、『いだてん』がなかったことにせず少しでも描いたことは評価に値する。今後、戦争に突入していく日本をどう描くのか、ヒトラーのベルリン五輪をどう描くのか、そのベルリン五輪に日本選手として出場した朝鮮半島出身者たちの存在をどう描くのか。視聴率の低さばかりがニュースになっている『いだてん』だが、このチャレンジはもっと注目されていいのではないか。

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/334.html#c307

[リバイバル3] 本当のオーディオファイルは「ミニマリスト」を目指す 中川隆
37. 中川隆[-9521] koaQ7Jey 2019年6月17日 19:36:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2957]

2019年6月16日のメッセージ…「本当に大切なこと」にエネルギーを使おう!
https://ameblo.jp/tsumakiyoko/entry-12480927562.html



あなたは「本当に大切なこと」に

自分のエネルギーを使えていますか?

「見なくてもいいもの」をたびたび見て

それを気にしているのなら…

思い切ってスイッチを

切ってしまったほうがいいのです。

「そのことを見ない」という決断をするほうが…

よほどさっぱりして気持ちいい。

そうすることで、

あなたの大切なエネルギーを

守ることができるのです。

あなたのエネルギーが

正しいことに使えていないとき…

あなたはなにかに

エネルギーをとられていたり…

なにかをたえず気にしていて…

「エネルギーもれ」を

おこしている場合があります。

あなたの心がモヤモヤするものは…

もう見なくてもいいのです。

あなたがその決断をしたとき…

あなたは本当の意味で自由になり

「新しいステージ」に歩み出しています。

内側が常におだやかで満たされている。

軸がぶれることのない

すこやかでヘルシーな力強い自由です。

本当の意味で

「自由なあなた」になるために…

あなたのエネルギーを

奪うものへの回路を静かに断ちましょう。

あなたに

「エネルギーもれ」が起こらぬよう…

あなたが「正しいマト」

(本当にやりたいこと)を見つけて

そこに全力でぶつかっていけるよう…

いったん、ここで仕切り直しをしましょう。

いま、あなたが「仕切り直し」をすることで…

2019年の後半の運気は大きく違ってきます。

あなたはすべて気づいている!

あなたはすべてを知っています!

あなたは「答え」を知っているのです。

2019年6月16日

私の心に響いてるキーワードは…

「本当に大切なことにエネルギーを使おう!」



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/691.html#c37

[リバイバル3] 音楽はこういう部屋で聴きたい 中川隆
57. 中川隆[-9520] koaQ7Jey 2019年6月17日 19:38:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2958]
2019年6月16日のメッセージ…「本当に大切なこと」にエネルギーを使おう!
https://ameblo.jp/tsumakiyoko/entry-12480927562.html

あなたは「本当に大切なこと」に

自分のエネルギーを使えていますか?

「見なくてもいいもの」をたびたび見て

それを気にしているのなら…

思い切ってスイッチを

切ってしまったほうがいいのです。

「そのことを見ない」という決断をするほうが…

よほどさっぱりして気持ちいい。

そうすることで、

あなたの大切なエネルギーを

守ることができるのです。

あなたのエネルギーが

正しいことに使えていないとき…

あなたはなにかに

エネルギーをとられていたり…

なにかをたえず気にしていて…

「エネルギーもれ」を

おこしている場合があります。

あなたの心がモヤモヤするものは…

もう見なくてもいいのです。

あなたがその決断をしたとき…

あなたは本当の意味で自由になり

「新しいステージ」に歩み出しています。

内側が常におだやかで満たされている。

軸がぶれることのない

すこやかでヘルシーな力強い自由です。

本当の意味で

「自由なあなた」になるために…

あなたのエネルギーを

奪うものへの回路を静かに断ちましょう。

あなたに

「エネルギーもれ」が起こらぬよう…

あなたが「正しいマト」

(本当にやりたいこと)を見つけて

そこに全力でぶつかっていけるよう…

いったん、ここで仕切り直しをしましょう。

いま、あなたが「仕切り直し」をすることで…

2019年の後半の運気は大きく違ってきます。

あなたはすべて気づいている!

あなたはすべてを知っています!

あなたは「答え」を知っているのです。

2019年6月16日

私の心に響いてるキーワードは…

「本当に大切なことにエネルギーを使おう!」



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/655.html#c57

[リバイバル3] 自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか 中川隆
104. 中川隆[-9519] koaQ7Jey 2019年6月17日 19:38:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2959]
2019年6月16日のメッセージ…「本当に大切なこと」にエネルギーを使おう!
https://ameblo.jp/tsumakiyoko/entry-12480927562.html

あなたは「本当に大切なこと」に

自分のエネルギーを使えていますか?

「見なくてもいいもの」をたびたび見て

それを気にしているのなら…

思い切ってスイッチを

切ってしまったほうがいいのです。

「そのことを見ない」という決断をするほうが…

よほどさっぱりして気持ちいい。

そうすることで、

あなたの大切なエネルギーを

守ることができるのです。

あなたのエネルギーが

正しいことに使えていないとき…

あなたはなにかに

エネルギーをとられていたり…

なにかをたえず気にしていて…

「エネルギーもれ」を

おこしている場合があります。

あなたの心がモヤモヤするものは…

もう見なくてもいいのです。

あなたがその決断をしたとき…

あなたは本当の意味で自由になり

「新しいステージ」に歩み出しています。

内側が常におだやかで満たされている。

軸がぶれることのない

すこやかでヘルシーな力強い自由です。

本当の意味で

「自由なあなた」になるために…

あなたのエネルギーを

奪うものへの回路を静かに断ちましょう。

あなたに

「エネルギーもれ」が起こらぬよう…

あなたが「正しいマト」

(本当にやりたいこと)を見つけて

そこに全力でぶつかっていけるよう…

いったん、ここで仕切り直しをしましょう。

いま、あなたが「仕切り直し」をすることで…

2019年の後半の運気は大きく違ってきます。

あなたはすべて気づいている!

あなたはすべてを知っています!

あなたは「答え」を知っているのです。

2019年6月16日

私の心に響いてるキーワードは…

「本当に大切なことにエネルギーを使おう!」



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/564.html#c104

[近代史3] 凡人が天才になる方法はあるか? 中川隆
16. 中川隆[-9518] koaQ7Jey 2019年6月17日 19:40:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2960]
2019年6月16日のメッセージ…「本当に大切なこと」にエネルギーを使おう!
https://ameblo.jp/tsumakiyoko/entry-12480927562.html

あなたは「本当に大切なこと」に

自分のエネルギーを使えていますか?

「見なくてもいいもの」をたびたび見て

それを気にしているのなら…

思い切ってスイッチを

切ってしまったほうがいいのです。

「そのことを見ない」という決断をするほうが…

よほどさっぱりして気持ちいい。

そうすることで、

あなたの大切なエネルギーを

守ることができるのです。

あなたのエネルギーが

正しいことに使えていないとき…

あなたはなにかに

エネルギーをとられていたり…

なにかをたえず気にしていて…

「エネルギーもれ」を

おこしている場合があります。

あなたの心がモヤモヤするものは…

もう見なくてもいいのです。

あなたがその決断をしたとき…

あなたは本当の意味で自由になり

「新しいステージ」に歩み出しています。

内側が常におだやかで満たされている。

軸がぶれることのない

すこやかでヘルシーな力強い自由です。

本当の意味で

「自由なあなた」になるために…

あなたのエネルギーを

奪うものへの回路を静かに断ちましょう。

あなたに

「エネルギーもれ」が起こらぬよう…

あなたが「正しいマト」

(本当にやりたいこと)を見つけて

そこに全力でぶつかっていけるよう…

いったん、ここで仕切り直しをしましょう。

いま、あなたが「仕切り直し」をすることで…

2019年の後半の運気は大きく違ってきます。

あなたはすべて気づいている!

あなたはすべてを知っています!

あなたは「答え」を知っているのです。

2019年6月16日

私の心に響いてるキーワードは…

「本当に大切なことにエネルギーを使おう!」



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/321.html#c16

[近代史3] G.I.P Laboratory _ Western Electric スピーカーシステムのレプリカ製造 中川隆
1. 中川隆[-9553] koaQ7Jey 2019年6月17日 20:42:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2916]

第二創業、3000万円以上のスピーカーを山形から世界へ売る 2017.01.28
https://machi-log.net/?p=50931


地方から世界へ勝負する、高付加価値企業

日本の地方には、圧倒的な高付加価値商品を提供し、世界の顧客へ商品を展開している企業がいくつかある。

山形県にある「メガネのスズキ」もその1つだ。

第二創業、高級スピーカーを山形から世界へ売る

□画面キャプチャ:GIPラボラトリー

山形県上山市に本社を置く「メガネのスズキ」は、「GIPラボラトリー」というブランド名で高級スピーカーを製造販売し、世界中にファンを持つ企業だ。

メガネのスズキは、元々は名前の通りメガネ・宝石販売が主力事業であった。

2002年、家業のメガネ店を継いだ鈴木伸一社長が、高級スピーカーメーカーに業態転換した。

"
当時世界最高峰で復元が不可能とされた米ウエスタン・エレクトリック社のスピーカー・ユニットの完全復刻に着手、約5年をかけて開発に成功したのである。
"
□出典:ジェトロ

それをベースに現在は、オリジナルのスピーカー・ユニットおよびスピーカー・システムも製造・販売している。

第二創業の背景

このような第二創業を実現できた背景として、後継者である鈴木社長の経歴が挙げられる。

鈴木社長は、音楽大学出身の元指揮者で、クラシック音楽の解説や演奏評論の経験もあった。音楽に対するノウハウと高い熱意が、世界トップクラスの商品開発に大きく寄与している。

"
ドイツ・ミュンヘンの国際オーディオショーでベストサウンド賞を受賞するなどマニアの注目を集め、顧客の9割が海外という。
"
□出典:日本経済新聞

従業員5名の少数精鋭で、地方から世界に対してオリジナルブランドを展開している。

世界の富裕層向けに試聴ルームを設置

同社のスピーカーは、最高3000万円以上。これは、世界でも最高クラスの価格。

今回、顧客のニーズを受け、2000万円以上する高級オーディオセットなどが試聴ができる場所を設置した。

世界の富裕層向けに展開する同社の存在は、地域へのインバウンド誘客に繋がる可能性がある。

企業が高付加価値商品を展開し、世界中にファンをつくる。ファンが、企業を見るため・職人に会うために、その地域を訪れる。そして、地域のファンが生まれ、企業と地域と世界中の人々が繋がる。

そのような好循環が生まれる可能性を持つ、同社のような地方企業の取り組みを応援したい。
https://machi-log.net/?p=50931


▲△▽▼


2015年09月17日
スピーカーメーカー G.I.P.ラボラトリーさま訪問記
http://audiolab.co.jp/index.php?p=&d=staffblog&c=&type=article&art_id=165

9月16日、当社の定休日を利用して、当社の社長、専務、スピーカーサービス部長の3名が、G.I.P.ラボラトリーさんを訪問させていただきました。

G.I.P.ラボラトリーさんは、山形県上山市にあるスピーカーメーカー。

米国ウエスタン・エレクトリック社製スピーカーの再現製造に成功され、その高い技術を生かしてオリジナル製品を含め数百万から数千万円もする高級スピーカーを製造し、世界中に販売されています。

従業員数4名でのこの偉業!

お噂はかねがね伺っていましたが、この度、日頃から大変お世話になっている当社のお客様のご好意により、そのお客様たちと一緒に訪問させていただくことになりました。

.

今回聴かせていただいたのは

まずは G.I.P.9700A

見た目も非常に美しいスピーカーシステム。
ウーハー×2、ドライバー×1、ホーンツイーター×1 という構成です。

http://audiolab.co.jp/index.php?p=&d=staffblog&c=&type=article&art_id=165


そして次はこちら。

G.I.P.ラボラトリーさんの情熱を感じるとてもおもしろい構造です。

随所にこだわりを感じます。

http://audiolab.co.jp/index.php?p=&d=staffblog&c=&type=article&art_id=165


どちらもG.I.P.ラボラトリーさんの熱意と技術力によって作られた、興味深いスピーカーでした。

広い劇場に響き渡らせるほどの力を持ったユニットですが、その音は大変よくまとまっていると感じました。

今回、G.I.P.ラボラトリーさんの鈴木社長さまとはいろいろ興味深いお話をさせていただき、大変勉強させていただきました。材料の純度一つで音が変わる事や、見えない中の部分の加工精度の事、様々なモノづくりと遊び心等、とても情熱を感じるお話でした。
http://audiolab.co.jp/index.php?p=&d=staffblog&c=&type=article&art_id=165
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/480.html#c1

[リバイバル3] G.I.P Laboratory _ Western Electric スピーカーシステムのレプリカ製造・販売 中川隆
32. 中川隆[-9552] koaQ7Jey 2019年6月17日 20:43:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2917]

第二創業、3000万円以上のスピーカーを山形から世界へ売る 2017.01.28
https://machi-log.net/?p=50931


地方から世界へ勝負する、高付加価値企業

日本の地方には、圧倒的な高付加価値商品を提供し、世界の顧客へ商品を展開している企業がいくつかある。

山形県にある「メガネのスズキ」もその1つだ。

第二創業、高級スピーカーを山形から世界へ売る

□画面キャプチャ:GIPラボラトリー

山形県上山市に本社を置く「メガネのスズキ」は、「GIPラボラトリー」というブランド名で高級スピーカーを製造販売し、世界中にファンを持つ企業だ。

メガネのスズキは、元々は名前の通りメガネ・宝石販売が主力事業であった。

2002年、家業のメガネ店を継いだ鈴木伸一社長が、高級スピーカーメーカーに業態転換した。

"
当時世界最高峰で復元が不可能とされた米ウエスタン・エレクトリック社のスピーカー・ユニットの完全復刻に着手、約5年をかけて開発に成功したのである。
"
□出典:ジェトロ

それをベースに現在は、オリジナルのスピーカー・ユニットおよびスピーカー・システムも製造・販売している。

第二創業の背景

このような第二創業を実現できた背景として、後継者である鈴木社長の経歴が挙げられる。

鈴木社長は、音楽大学出身の元指揮者で、クラシック音楽の解説や演奏評論の経験もあった。音楽に対するノウハウと高い熱意が、世界トップクラスの商品開発に大きく寄与している。

"
ドイツ・ミュンヘンの国際オーディオショーでベストサウンド賞を受賞するなどマニアの注目を集め、顧客の9割が海外という。
"
□出典:日本経済新聞

従業員5名の少数精鋭で、地方から世界に対してオリジナルブランドを展開している。

世界の富裕層向けに試聴ルームを設置

同社のスピーカーは、最高3000万円以上。これは、世界でも最高クラスの価格。

今回、顧客のニーズを受け、2000万円以上する高級オーディオセットなどが試聴ができる場所を設置した。

世界の富裕層向けに展開する同社の存在は、地域へのインバウンド誘客に繋がる可能性がある。

企業が高付加価値商品を展開し、世界中にファンをつくる。ファンが、企業を見るため・職人に会うために、その地域を訪れる。そして、地域のファンが生まれ、企業と地域と世界中の人々が繋がる。

そのような好循環が生まれる可能性を持つ、同社のような地方企業の取り組みを応援したい。
https://machi-log.net/?p=50931


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2015年09月17日
スピーカーメーカー G.I.P.ラボラトリーさま訪問記
http://audiolab.co.jp/index.php?p=&d=staffblog&c=&type=article&art_id=165

9月16日、当社の定休日を利用して、当社の社長、専務、スピーカーサービス部長の3名が、G.I.P.ラボラトリーさんを訪問させていただきました。

G.I.P.ラボラトリーさんは、山形県上山市にあるスピーカーメーカー。

米国ウエスタン・エレクトリック社製スピーカーの再現製造に成功され、その高い技術を生かしてオリジナル製品を含め数百万から数千万円もする高級スピーカーを製造し、世界中に販売されています。

従業員数4名でのこの偉業!

お噂はかねがね伺っていましたが、この度、日頃から大変お世話になっている当社のお客様のご好意により、そのお客様たちと一緒に訪問させていただくことになりました。

.

今回聴かせていただいたのは

まずは G.I.P.9700A

見た目も非常に美しいスピーカーシステム。
ウーハー×2、ドライバー×1、ホーンツイーター×1 という構成です。

http://audiolab.co.jp/index.php?p=&d=staffblog&c=&type=article&art_id=165


そして次はこちら。

G.I.P.ラボラトリーさんの情熱を感じるとてもおもしろい構造です。

随所にこだわりを感じます。

http://audiolab.co.jp/index.php?p=&d=staffblog&c=&type=article&art_id=165


どちらもG.I.P.ラボラトリーさんの熱意と技術力によって作られた、興味深いスピーカーでした。

広い劇場に響き渡らせるほどの力を持ったユニットですが、その音は大変よくまとまっていると感じました。

今回、G.I.P.ラボラトリーさんの鈴木社長さまとはいろいろ興味深いお話をさせていただき、大変勉強させていただきました。材料の純度一つで音が変わる事や、見えない中の部分の加工精度の事、様々なモノづくりと遊び心等、とても情熱を感じるお話でした。
http://audiolab.co.jp/index.php?p=&d=staffblog&c=&type=article&art_id=165
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/964.html#c32

[近代史3] 真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由

真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由


チャンネル桜が youtube に流している南京大虐殺等の悪質なデマの間違いをコメント欄で指摘するとすぐに削除されます:

水島総 チャンネル桜社長が「(ハエみたいな人達からの)コメント削除を指示した」と番組内で発言 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RnLCOmS9Ll0


2013/03/26 に公開


チャンネル桜の Youtube動画(特に水島出演枠)のコメントは日常的に社長の水島氏と配下のスタッフがチェックし削除、アカウントブロックしますが、最近さらに徹底してるようです。

ニコ動の方も削除されるようになりました。

先日水島社長が番組内で次のように発言

「ちょっとうちの方でも報告あって、私もちらほらみて指示しましたけど、

Youtubeにいろんな書き込みがあってね。TPP批判と安倍批判とね、繰り返し分けて貰わないといけないと思いましたけどそれが出来なかった、ということでね、

分けられなきゃいけないのを分けられなかったので、まああのチャンネル桜のという姿勢に対する批判というものは判断してどんどん削除していいと言う風にしました。

なんかこういうので両論併記でやった方がいいなんて、んなもの、私はそれはいいよと、両論併記と良く民主主義と言いながら、私たちの放送はね別に民主主義のあれじゃなくて、ちゃんとこういう論理でやってます。

て事をいいながらしかし幅広く、皆さん色んな人出て頂いてね、そこがね、あの偽善の装うものと違うって事を改めて言いたいと思います。」


チャンネル桜の水島社長はNHK批判できませんねw

自分のアンチや批判的な人をハエと表現した ch桜の水島社長は自分の事を汚物だと思っているようだ。ハエは汚物にしかたからない。


チャンネル桜の水島総は平気で嘘をつき謀略報道をするペテン師
http://www.youtube.com/watch?v=krNhaY...

チャンネル桜の水島社長はデマや脳内妄言を「その筋」、ソース元の明らかでない「独自情報」とやらで既成事実化し謀略嫌がらせ工作・歪曲・捏造・流言煽動偏向報道します。水島総氏が意図して執拗にやってきた悪質なデマゴギーによる名誉毀損と脅迫は明らかに刑事事件対象になり得るもので、脅迫罪と名誉毀損罪で刑事告訴出来るものです。水島総氏は犯罪行為を公然とやってきました。水島氏に募金しないでください。犯罪に使われます。

今必死に謀略報道をやっていたのを隠すためのカモフラージュ・アリバイ工作しています。水島社長の作るアンチ石原謀略番組のyoutube動画内容に対する異論を書くとコメント削除とブロックされます。

動画は、チャンネル桜の水島社長(と水島社長御用言論人)によって繰り返される一線を越えた、デマ煽動・妄言煽動・ダブルスタンダード煽動による確信犯の嫌がらせ報道対策の一環で作成し、アップロードしています。
https://www.youtube.com/watch?v=RnLCOmS9Ll0

▲△▽▼


経済評論ではまともな事を言う三橋貴明ですら、歴史問題では水島社長の嘘をそのままオウム返しに繰り返して水島社長のご機嫌取りをしていますね:


チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html

チャンネル桜のアホ番組に出演する自称専門家の話は信じてはいけない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/399.html

▲△▽▼

東海アマブログ  人間は、どういう状態で楽しく生きてゆけるのか? 2019年06月17日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-778.html


 人間は、何をもって満足できるのか? 何を求めて生きているのか?
 といえば、まともな感覚の満ち主ならば、楽しい生活、楽しい人生」を求めているのである。

 「楽しい生活」という中身は、「一方的な圧力のある人間関係や、物質的不足による飢餓のような苦しみのない生活」と考えてもよく、また、笑顔にあふれた「孤独でない生活」というのも当たっていそうだ。

 私は、前回のブログでも書いたように、「共同すること」、ワイワイガヤガヤとみんなで一緒に仕事をし、生活するのは、とても楽しいのではないかと考えている。

 しかし、傍目から見て、どうみても「楽しくない生活」というのがある。
 それは、「他人を見下す」ことだけが人生の目標のように思い込んでいる人たちで、誰に対しても偉そうに命令ばかりしてみたり、他人を追求して苦しめることを生き甲斐にしていたり、自分だけトクすることが至上の快楽であるかのように勘違いしたりして、「他人の笑顔で癒やされる」ことを知らない利己主義の人生である。

 本人は、他人から蛇蝎のように嫌われても、財産を殖やしたり、利権を増やしたり、他人を見下して、自分が社会的強者であると思い込むことに無上の喜びを感じることが人生の目標であるかのように思い込んでいて、人の幸福や笑顔なんて、さらさら興味がない。

 「自分だけが果実を独り占めにする」ことが「人生の勝者」だと思い込んでいるのだ。
 こう書けば、ほとんどの読者は、周囲に実在する、そうした人物の顔を思い浮かべることができるはずだ。

 なんで、そうなるのかというと、保育園・幼稚園から始まる資本主義思想の下での競争主義教育に洗脳されてしまっていることが大きい。
 幼稚園で、「かけっこ競争」が始まり、他人を押しのけて一番になれば顕彰されて喜ぶのが第一歩であり、絵を描かせれば、大人が勝手に序列をつけて公開する。

 小学生になれば、テストの成績で振り分ける、徹底的な序列教育がはじまる。
 そこから、子供たちは、劣等感と優越感の狭間で「どっちが上か」との競争意識のなかで生きてゆくことを強要され、世界観・人間観・社会観の基礎を、鋳型に押し込められるように作られてしまうのである。

 こうなると、「他人に勝つ」という価値観こそ、人間として求めるべき最高の義務であるかのように洗脳されてしまって、自分だけが他人より秀でること、いい思いをする利己主義こそが正しい価値観であり、人のために生きるなんて尾畠春夫さんのような利他主義の人生は、実に馬鹿馬鹿しい愚かな人生観、価値観であると思い込むようになる。

 他人の笑顔でなく、嫌がる、苦しむ表情を見て癒やされている人物が確かに存在している。

 それは、例えば、私を小馬鹿にする目的で作られた誹謗中傷サイトを書いている者たちがそうであるといえよう。
 https://love2mac2002jp.blog.fc2.com/

 これを書いているのは、https://twitter.com/inkanotatari というアカウントらしい。以前は、「インカの呪い」というアカウントだったが、誹謗中傷の連続で凍結されて、「インカの祟り」に変えているようだが、中身の救いがたい下劣さは全然変わっていない。

 彼らに共通するのは、「他人を見下したい」という強烈な自尊心の要求であり、他人を小馬鹿にすることが、自分の価値を上げるとでも思い込んでいるのか、ろくな知識もないのに、上から目線で人を批判したり、嘲笑するのが大好きである。

 私から見れば、軽薄な無知をさらけ出して大恥をかいているのに、私を見下して喜んでいるつもりになっているのだから始末に負えない。

 ツイッターにもたくさんいる。@tokaihomo というアカウントは、リンク先のIPから大垣市民病院から書き込まれていることが明らかになり、結局、Iという名東区在住の医師が書いているのだと分かったが、未だに、誰も読んでくれないのに、毎日大量に、私への誹謗ツイートを暇つぶしに書き続けていて、病院に電話したら精神異常者で患者の直接診療はさせていないという説明だった。

 このアカウントも、医師のIが書いていたようだ。
 
https://blog-imgs-77.fc2.com/t/o/k/tokaiama/hibou1.jpg


 この男は、自分が旭丘高校から東大医学部に進学したことを、しきりに自慢しているのだが、精神異常を来してまで、他人の誹謗中傷を生き甲斐にしているゴミ人生のどこが自慢できるのだろう?

 本人は、本気で自分が他人より優れているつもりでいるのだろうか?

  以下は、静岡県在住の自民党員・郵便局員だが、東京大森の局印を偽造して、私への嫌がらせの葉書を、たくさん送りつけてくるので郵政本部へ告発しておいた。
 
https://blog-imgs-77.fc2.com/t/o/k/tokaiama/hibou2.jpg


 他人を見下すことが、そこまで楽しいのか? この倒錯した価値観は、どこから来るのだろう?

 この種の俗悪下劣な嫌がらせ、誹謗中傷を行うのは、ほとんど自民党員である。結局、自民党というのは、資本主義における競争で勝者になることを最大の価値として共有する連中の集まりであり、徹頭徹尾、人に序列をつけ、強者にコンプレックスを抱いて阿り、弱者に優越感を抱いて小馬鹿にするという価値観を党是にしているように思われる。

 それ以上に、このように他人をディスリスペクト=小馬鹿にする価値観は、誰に対しても同じように抱くクセがつくのであって、もし、彼らが結婚でもしたら、妻に対しても、「自分のために利用する」という発想しか持てず、トラブルが起きれば相手を小馬鹿にし、全否定し、追放するという発想しか残らなくなる。

 こんな優しさのない下劣な精神の連中と結婚でもしたら、利用価値がなくなれば、たちまち追放されることになり、これ以上悲惨な夫婦関係はないということになる。

 だから、この種の誹謗趣味者の離婚や人間関係の破綻は、きっと桁外れに多いのではないか?

 私のブログにも直接嫌がらせを毎日、大量に書き込んでくるので、IPアドレスを捕捉分析してみると、直接、自民党本部から書いているものが多い。幸福の科学からも来ている。
 さすがに、うっとおしいので、コメントは書けないように設定してしまった。対話してみても、何一つ得るものがないのだ。

 私の価値観をいえば、利他主義こそ最高の人生観であり、我々は尾畠春夫という絵に描いたような利他主義の人物を実際に目撃することができて、人間と人生の究極の幸福、価値というものを考える大きなきっかけを与えてくれた。

 尾畠春夫のおかげで、日本に利他主義思想が急速に普及しているといってもいい。
 https://president.jp/articles/-/27439?page=2

 さて、これから究極の二極化社会が訪れると予言した人がたくさんいる。
 良く知られているのが宇宙人チャネラーとして知られるバシャールである。
 https://www.youtube.com/watch?v=ccsiHXMu_NM

 バシャールによれば、人類社会の二極化は2016年にすでに始まっており、ネガティブ社会とポジティブ社会が完全に分離して、来年2020年には、完全に分化して、互いを見ることさえできなくなり、2050年頃には、ネガティブ社会は、この世から消え去ってしまうと予言している。

 このポジティブという概念を理解する上で、尾畠春夫さんの人生観は決定的な役割を果たしてくれていると私は思う。つまり、私に言わせれば、ポジティブを利他主義と言い換えてもいい。

 逆にネガティブという概念は、上に紹介した私への誹謗者たちを見れば、これも一目瞭然で、二つの価値観は、完全に二極化して、もう交わることはない。互いに遠く離れてゆくとバシャールが予言しているのである。

 だから、私を誹謗中傷するのが生き甲斐になっている連中に対し、説得を試し見ても無駄であり、彼らは、自分たちの利己主義の価値観を後生大事に抱えて、あの世に向かって急速に移動してゆくわけだ。来年には、眺めることさえできなくなる。

 数十年後には、ポジティブな尾畠流人生観、つまり利他主義だけの世界がやってくる。
 世界から原発や核兵器のような馬鹿げた発想も消えてゆく。
 つまり、冒頭に書いた「楽しい人生」の社会がやってくる。

 「楽しい社会、楽しい人生」というものは、なにもかもポジティブな社会である。世界・社会を悪化させる強欲と利己主義が失われ、誹謗中傷も消え、「人の笑顔」で癒やされる人々の世界になる。言い換えれば「人の笑顔」を食べて生きる社会がやってくる。

 みんなが、強欲と横暴を小さくなってやり過ごすような卑屈な社会ではない。みんなが、能力を最大に発揮して、誰の抑圧も受けずに、のびのびと生きてゆく社会である。

 私が、1970年代に夢見ていた社会は、まさにそうした社会であり、これを「人間解放」と呼んでいた。

 「自由」とは、まさに、そうした社会を意味していた。
 https://www.youtube.com/watch?v=HudN7rgXORQ

 私は社会が完全に二極化、二分化して、互いに交わらず、ポジティブ社会だけになるというバシャールの予言は、まことに正しいと思っている。

 二極化については、木村藤子や江原啓之も同じようなことを述べている。それが、すでに始まっているというのも正しいと思う。

 しかし、今の段階で、究極のネガティブというべき安倍晋三自民党政権を支持している人たちも、ネガティブ社会に呑み込まれて、この世から失われていってしまうのだろうと予想している。

 彼らは、強欲と利己主義の価値観を大切にして、自民党政権(公明党や維新も同じだが)とともに、宇宙の彼方に消え去ってゆく運命だ。

 変わって登場するのが、尾畠春夫さんの意思を受け継ぐ利他思想の集団だと思う。

 もうすぐ、戦争やら、巨大震災やら、出口王仁三郎が予言した「大建て替え」という現象が起きて、日本の人口が数割に減ってしまうのは、まず間違いないだろうと思っている。

 もし起きなければ、日本の気温が50度にも達して、大量の人々が熱死することで、強欲社会の本質的な誤りに気づかされることになるだろうと思う。また福島第一原発のような巨大原発事故も続発して、安全な土地が失われてしまうだろう。電気や燃料の供給も厳しくなるだろう。食料も消えてゆくだろう。

 そうなると、大都会では生きてゆけなくなって、私が何度も書いているように、一定の集団で、共同体を結成し、山奥で生き抜くしかないと考えている。

 時代は、いよいよ切羽詰まっていて、私に対して嫌がらせを続けている連中は、やがて、オレオレ詐欺グループのように互いに殺し合うようになると考えている。放射能汚染をデマと言い続ける連中は、その放射能によって続々と死滅してゆくだろう。

 本当に我々の人生観が根底から試される時代が来ようとしている。

 利他主義に生きるのか? それとも利己主義に生きるのか? どちらを選ぶのかを問われるのである。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-778.html



▲△▽▼

大家族生活の良さ 2019年06月16日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-777.html

 柳田国男が、明治42年(1909年)に、白川郷を訪れたとき、大家族生活の印象を書き残している。

 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2279832.html

 土地の不足なる山中の村にては、分家を制限して戸口の増加を防ぐことはおりおりある例なり。ただこの村の慣習法はあまりに厳粛にて、戸主の他の男子はすべて子を持つことを許されず、生まれたる子はことごとく母に属し、母の家に養われ、母の家のために労働するゆえに、かくのごとく複雑な大家内となりしのみ。
 狭き谷の底にてめとらぬ男と嫁がぬ女と、あいよばい静かに遊ぶ態は、極めてクラシックなりというべきか。

 首を回らせば世相はことごとく世紐なり。寂しいとか退屈とか不自由という語は、平野人の定義皆誤れり。歯と腕と白きときは来たりてチュウビンテンメンし、頭が白くなればすなわち淡く別れ去るという風流千万なる境涯は、林の鳥と白川の男衆のみこれを独占し、我らはとうていその間の消息を解することあたわず。

 引用以上

 ちなみに「チュウビンテンメン」という用語は、ネット上で探しても出てこない。広辞苑や大言海でも無理かも知れない。「秋風帖」という柳田の著作には漢字で出てくるものの、今では誰も理解困難だ。

 柳田が言いたかったことは、「白川郷の大家族生活には孤独が存在しない」ということである。しかし、冒頭の私のブログに書いてあるように、昭和初期には、女性たちは、高山や岡谷、富山などの紡織産業に出稼ぎに出ていて、ひとたび外の世界の「自由」に触れた者たちは、再び白川郷に戻らなかった。

 白川郷の労働が激しかった理由は、たぶん戦国時代に、煙硝=硝酸カリの製造法が発見され、その最適地として知られたのが飛騨合掌家屋であったことだろう。
 雪深く湿度が高い環境と、一軒家に多数の人々が暮らしているので、原料となる屎尿・青草の入手が容易な白川郷や五箇山では効率的な煙硝の製造が可能だった。加賀藩や高山藩が煙硝製造に焦って、住民たちに年貢の代替として無理な負荷をかけ続けた事情は容易に窺える。

 白川郷には男女の集団生活があったが、彼らはプライバシーに飢えていた。
 我々が、大家族生活の利点に憧れるとき、最も警戒しなければならないことが、人が多すぎてプライバシーがもたらす休息が失われることの可能性である。

 大家族には生活上の利点が実に多い。

 何よりも、食事、洗濯、買い物などで、たくさんの消費を効率的に満足させられるのである。一度にたくさんの仕事をするから、孤立した小家族に比べて、一人あたりの消費は実に合理的に行える。

 間違いを犯しても、仲間がすぐに指摘してくれるし、分からないことは教えてもらえる。
 
 生活の必要経費と労働量は、小家族と大家族では極めて大きな差が生じる。

 何よりも、一人主婦が家事を行うのと、数名でワイワイガヤガヤと共同して行うのでは、同じ家事でも雲泥の差、共同には人生の楽しさのエッセンスが詰まっている。

 一人の仕事はつまらない。人は共同にこそ人生のすべての楽しみを得られるように設計されているのである。

 洗濯機や冷蔵庫、掃除機など家電製品で考えれば、数名でも数十名でも同じ道具と時間ですんでしまうので、たくさん買いそろえる必要がない。

 老人や病人の介護が、一人の主婦に負担が集中する小家族とは比較にならないほど楽であり、何か困ったことが起きても、よってたかって解決する人が、たくさん出てくるのである。

 人が死んだときも、全体に及ぶ影響は、家族の規模が大きいほど小さなものになる。悲しみも、みんなが和らげてくれる。「孤独」って、どこの話? ということになるのだ。

 ここでネット上で、大家族生活の合理性について書かれているサイトを参照してみよう。

 山上家の節約術が凄い!家族10人で月30万円!?
 https://xn--bck9etdz48puxcfxu.net/bigfamily/bigfamly/yamagamike

 大家族貧乏ゆうり家の究極のこだわり節約術
 https://yuurin4children.com/daikazokusetuyaku/

 大家族すぎて生活苦に陥っている家庭の悩み 
https://mikle.jp/theme/%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%8B%A6+%E5%A4%A7%E5%AE%B6%E6%97%8F/

 これらの記事は、私の子供時代の家族感覚からすれば、大家族でもなんでもなくて、「普通家族」のものにすぎないが、それでも生活の大変さと、家族が多いことでの不便と合理性について触れている。

 私は「大家族生活」を考える場合、単位としては10〜20名程度を想定していて、10名以下は「普通の家族」であると思う。

 それに血縁ばかりが家族になるわけでなく、家族というより「共同体志向」を念頭に考える必要があると思っている。

 逆に大家族制度の不合理性=不便性について、ネット上で実情と意見を探しているのだが、なかなか発見することができない。

 小家族の合理性について探しても、まず出てこない。つまり、「小家族で良かった」との記事は見たことがない。

 「大家族はいいですよ」という記事はたくさん見かけるのだが、大家族のせいで自殺に追い詰められたとか、人生が窮屈で死にそうだとかの苦情を探すのは困難なのであり、小家族で幸せだったとの賛美も見つからない。

 せめて、「トイレが足らなくて、我慢してるうちに漏れちゃった」というような具体的な不便記事を探しても見つからない。
 
 それでも、大家族を未経験の人が真っ先に深刻に不安視するのが、プライバシーの侵害であり、隠し事ができないことへの恐怖であり、たくさんの人と同居することの閉塞感、圧迫感であろう。

 実際問題として白川郷の若い娘たちが、苛烈な冬の野麦峠を越えて、女工哀史に描かれた凄惨なほどの岡谷の生糸紡織産業に就業し、一日16時間の辛い肉体労働を強要されても、故郷に帰らなかった事情は、8畳間に同性の10人以上もが寝起きする合掌家屋の生活に、よほど嫌気がさしていたのではないかと思う。

 そこで、我々が窮乏する生活上の要請から、再び大家族生活に回帰するにあたって、個人のプライバシーと、大家族の合理性を、どのように両立させるか明確なビジョンを持って、計画的に準備することが必要というのが私の考えである。
 もうギュウギュウ詰の生活を我慢できる人も少ないだろうから、一定のプライバシーは、どうしても確保しておかないと、集団=共同体生活も成り立たないと考えている。

 そこで参考になるのが、ヤマギシ会のシステムである。
 http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/2348506.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-23.html

 私は1973年頃、新島淳良がヤマギシ会の理事長だったころ、特別講習というのに参加したのだが、この頃のヤマギシ会は、本当に素晴らしかった。
 何より、参画者の女性たちが美しかった。化粧など誰もしていなかったが、人生や人間関係に対する喜びにあふれた表情は、一目見ただけで忘れられないほど美しいものだった。

 当時のヤマギシ会は、まだ貧しくて、みんな粗末なトタン張りの小屋に住んでいたが、それでも、ヤマギシズムと呼ばれた放し飼いに近い養鶏法が生活の主軸になっていたから、養鶏法をモデルとしたシステムに、人間も生活していたのである。

 ドーム型の長屋を区割りして個室が作られていたが、個室は四畳半くらいで、数名が生活していた。

 食事も洗濯も風呂も、すべて共同で行われ、強制は一切なく、本人の自主性だけに依拠した共同体がうまく機能していた。

 問題が出ると研鑽会が開かれ、みんなで意見を出して解決していた。

 大切なことは、ヤマギシ会においては、粗末ではあったが、それなりの個人のプライバシーが確保されていたということで、我々が共同体を志向するときも、必ず、共同性とプライバシーを両立させる生活システムを考える必要があると思う。

 その後、80年代末にも私は関わったのだが、その頃になると、いろいろな問題が噴出し、いわゆる「問題組織」とレッテルを貼られるようになったが、私は、詳細を知らない。ただ、結構豪華な個室が与えられていたことが印象に残っている。
 ちょうど70年前後の全共闘運動が80年代に近くなると、悪い意味での変質が起きていたことに似た、組織の統治に関する問題がたくさん出てきて、私は幻滅させられることが多く、ヤマギシとの関わりも失われた。

 リーダーが専用のベンツに乗って外出する姿を見たとき、「ヤマギシも終わったのか?」と強い不安に駆られた記憶がある。つまり、もの凄く儲かっていたことで、ヤマギシズムの本質を見失ってしまったのではないか? と私には思えた。

 今の段階では抽象的にしか語れないのが残念だ。当時は、私自身が地獄の釜のなかにいるような精神状態で、何をどうすべきかのビジョンが、まるで生み出せなかった。

 資本主義の爛熟過程では、みんな物質的欲望と見栄に取り込まれ、愛を見失い競争だけが生き甲斐になるような、人間性を見失った時代になってしまうのだが、それがバブル時代だったと思う。

 私もバブル時代の中で、価値観を見失い苦悩したが、今、再び、60年代のような民衆の貧しさが復活して、真実を見抜こうとする価値観が復権してきているような気がする。

 豊かさは人を愚かにするが、貧しさは人を賢明に育てるのである。みんなが貧しくなって、再び、我々の前に真実が姿を現しはじめた。それが共同体の復権であると、私は思う。

 共同体=すなわち大家族生活のことである。人が金ではなく、人に依拠して生き抜いてゆく。この世の本質は、金や差別ではなく、人間と、その愛であると気づいた人たちが、手を取り合って新しい社会を形成してゆくのである。

 まだ資本主義の競争社会に影響を受けて、人ではなく、技術や集団、組織の虚構に目を奪われて、「この世には人間と自然しかない」という真実を見抜けない人たちがたくさん生きている。

 彼らは、コンピュータ社会、IT・AIに過剰な幻想を抱き、それが人を支配するようになると勘違いしているが、決してそうではない。世界の本質は人間であり、金ではなく、技術でも権力でもない。
 人間だけを見つめて生きるために、我々には大家族=共同体生活が必要なのだ。

 また、共同体は、「そうしなければ生きてゆけない」という切羽詰まった現実の上に築かれるものであり、誰か頭の良い、えらーい人が登場してきて共同体社会を指導して回るわけではない。

 みんな、ときには「いやいや」団結し、共同してゆくのであって、団結のなかで、新しい価値、大きな合理性としての共同体生活を見いだしてゆくものだと私は思う。

 何度も書いているのだが、30年前に松原照子が予言したとおり、「日本人は草も食べられない」ようになりつつあり、もう大都会では餓死するしかない時代が目前に迫っていると思う。

 テレビでやってる山奥の「ポツンと一軒家」こそ、真の桃源郷になる時代が近づいているように私には思われるのだ。

 今は90歳近い老人が少人数で最期の日を待っているが、やがて、ここに若者たちが、未来を担う共同体を作り出す日がやってくると私は信じている。 
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-777.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/481.html

[近代史3] チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった 中川隆
8. 中川隆[-9551] koaQ7Jey 2019年6月18日 06:58:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2919]
真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/481.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html#c8
[近代史3] チャンネル桜のアホ番組に出演する自称専門家の話は信じてはいけない 中川隆
12. 中川隆[-9550] koaQ7Jey 2019年6月18日 06:59:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2920]
真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/481.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/399.html#c12
[近代史3] アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜 中川隆
2. 中川隆[-9549] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:00:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2921]
真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/481.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html#c2
[近代史3] チャンネル桜や正論で大活躍中のアホ右翼・アホ陰謀論評論家 まとめ 中川隆
9. 中川隆[-9548] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:01:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2922]
真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/481.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/228.html#c9
[近代史3] 朝日新聞陰謀論 _ なんでもみんな朝日新聞が元凶だというアホ右翼の妄想 中川隆
1. 中川隆[-9547] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:01:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2923]
真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/481.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/233.html#c1
[お知らせ・管理21] 2019年06月 削除依頼・投稿制限・等管理スレ。突然投稿できなくなった方も見てください。 管理人さん
64. 中川隆[-9546] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:03:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2924]
真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/481.html

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/558.html#c64
[お知らせ・管理21] 阿修羅サイトがGoogleからとても嫌われた話 管理人さん
18. 中川隆[-9545] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:04:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2925]

真理の徒は石もて追われ _ 日本人が自分達の間違いを明らかにする人間を絶対に許さない理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/481.html

http://www.asyura2.com/13/kanri21/msg/559.html#c18
[近代史02] 平成バブル崩壊と ソロモン・ブラザース証券 相場師列伝3 スットン教
34. 中川隆[-9543] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:17:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2927]
52. 中川隆[-9544] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:17:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2926]

米国「貿易圧力」の下 日本産業の勝敗からみえるもの
人民網日本語版 2019年06月17日
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

1980年代、米国が貿易不均衡を口実に、半導体や自動車といった日本の優位産業に圧力をかけた歴史は、今も多くの日本人が昨日のことのようにありありと覚えている。その後、日本の一部の産業は徐々に国際競争の舞台から姿を消し、一部の産業はその後も発展を続けている。こうした経験や教訓は振り返る価値がある。新華社が伝えた。

半導体分野では、80年代にダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)を代表とする日本の半導体製品がグローバル市場を突如席巻した。日本の半導体産業は急速に発展し、米国の警戒を引き起こした。

86年に調印された「米日半導体協定」を通じ、米国は日本政府へダンピング(不当廉売)輸出をやめるよう一方的に要求するとともに、日本国内のユーザーに海外製品の利用を奨励した。91年にも米国は協定第2弾を打ち出し、海外製品の日本市場でのシェアが20%以上になるよう要求し、米国製品の対日輸出増加を強行した。

産業協定だけでなく、米国は85年に調印された「プラザ合意」を通じ、大幅な円高を促し、日本製品の輸出競争力を削ごうとした。また関税を駆使して、日本から米国に輸出された半導体製品などに大幅な関税の上乗せを行った。

日本の「村山談話を継承し発展させる会」の藤田高景理事長は、当時のことを話し始めると記憶がありありとよみがえるという。藤田氏は取材に対して、「米国は日本がダンピングを行っていると非難し、貿易赤字に言及したが、これは口実に過ぎず、重要なポイントは日本の半導体産業が急速に発展し世界のトップクラスになり、米国に脅威を感じさせたこと、米国政府に危機感を抱かせたことにある」と述べた。

米国には日本の半導体産業に圧力をかける動機があり、多方面で圧力をかけてきたが、単純な外部からの圧力では日本の半導体産業を打ち負かすことはできなかった。実際、86年の「半導体協定」調印後も長らく、日本の半導体製品は引き続き世界で一人勝ちの状態が続いた。

米国の集積回路を研究する企業のまとめた統計では、90年の時点で、世界の10大半導体企業のうち、日本企業が6社を占め、トップ3にはNEC、東芝、日立が並んだ。95年の時点でも、日本企業は4社を占め、NECが2位、東芝が3位だった。

しかし90年代になると、日本の半導体企業のDRAM技術路線では世界のパーソナルコンピューターとスマートフォンの発展の流れに対応出来なくなった。現状に閉じこもりがちな日本の半導体企業はこうして少しずつ米国のインテルや韓国のサムスンに追い越されていった。

一方で、日本の自動車産業も同じように米国の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米国の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競争の中で絶えずリードを拡大した。

米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。当時、米国産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先国となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米国は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。

81年、米国の圧力を受けて日本の通商産業省(当時)は米国への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168万台に制限することにし、以降この数字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土台に、米国はさらに日本に市場開放を迫り、米国車をもっと買うよう求めた。

大きく圧力をかけてくる米国の政策に直面し、日本の自動車産業はチャンスをとらえてモデル転換を加速した。まず日本は対米自動車輸出量に自ら制限を設けたが、輸出額は制限しなかった。こうして日本メーカーは米国に付加価値の高い製品を輸出するようになった。

次に「プラザ合意」による円高が、かえって円の購買力を高め、日本メーカーはチャンスをつかまえ、手にした利益で新しい設備と技術を買い入れ、モデル転換とバージョンアップのペースを加速した。

さらに輸出制限措置を回避するため、日本メーカーは米国に直接投資して工場を建設する動きを加速させた。例えば、トヨタは累計220億ドル(約2兆3808億円)の対米投資を行い、米国で14万人近くの従業員を雇用した。このような現地化した生産は貿易戦争のリスクを解消する上でプラスになるだけでなく、米国の消費者の日本ブランドに対する認知度を高めることにもなった。

米国の圧力に直面して、日本メーカーは低燃費で確かな品質を目指す技術開発路線を堅持し、グローバル化配置に基づく海外発展戦略を重視したとともに、「リーン生産方式」の管理理念を通じて絶えず効率を高め、コストを削減し、圧力の緩和に成功しただけでなく、米自動車工業に対するリードをさらに拡大することができた。

米日貿易摩擦の歴史を振り返ってわかることは、後発国の追いつき追い越せ式の発展プロセスは守りに入った国の警戒感を引き起こし、圧力を受けるということだ。うまく対処すれば、圧力は意味をなさなくなる。日本の関連産業の勝敗は、典型的な事例だといえる。(編集KS)
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/258.html#c34

[近代史3] 輸出企業が日本を滅ぼす _ 輸出超過額と対外資産が増える程 日本人はどんどん貧しくなっていく 中川隆
7. 中川隆[-9542] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:18:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2928]

米国「貿易圧力」の下 日本産業の勝敗からみえるもの
人民網日本語版 2019年06月17日
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

1980年代、米国が貿易不均衡を口実に、半導体や自動車といった日本の優位産業に圧力をかけた歴史は、今も多くの日本人が昨日のことのようにありありと覚えている。その後、日本の一部の産業は徐々に国際競争の舞台から姿を消し、一部の産業はその後も発展を続けている。こうした経験や教訓は振り返る価値がある。新華社が伝えた。

半導体分野では、80年代にダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)を代表とする日本の半導体製品がグローバル市場を突如席巻した。日本の半導体産業は急速に発展し、米国の警戒を引き起こした。

86年に調印された「米日半導体協定」を通じ、米国は日本政府へダンピング(不当廉売)輸出をやめるよう一方的に要求するとともに、日本国内のユーザーに海外製品の利用を奨励した。91年にも米国は協定第2弾を打ち出し、海外製品の日本市場でのシェアが20%以上になるよう要求し、米国製品の対日輸出増加を強行した。

産業協定だけでなく、米国は85年に調印された「プラザ合意」を通じ、大幅な円高を促し、日本製品の輸出競争力を削ごうとした。また関税を駆使して、日本から米国に輸出された半導体製品などに大幅な関税の上乗せを行った。

日本の「村山談話を継承し発展させる会」の藤田高景理事長は、当時のことを話し始めると記憶がありありとよみがえるという。藤田氏は取材に対して、「米国は日本がダンピングを行っていると非難し、貿易赤字に言及したが、これは口実に過ぎず、重要なポイントは日本の半導体産業が急速に発展し世界のトップクラスになり、米国に脅威を感じさせたこと、米国政府に危機感を抱かせたことにある」と述べた。

米国には日本の半導体産業に圧力をかける動機があり、多方面で圧力をかけてきたが、単純な外部からの圧力では日本の半導体産業を打ち負かすことはできなかった。実際、86年の「半導体協定」調印後も長らく、日本の半導体製品は引き続き世界で一人勝ちの状態が続いた。

米国の集積回路を研究する企業のまとめた統計では、90年の時点で、世界の10大半導体企業のうち、日本企業が6社を占め、トップ3にはNEC、東芝、日立が並んだ。95年の時点でも、日本企業は4社を占め、NECが2位、東芝が3位だった。

しかし90年代になると、日本の半導体企業のDRAM技術路線では世界のパーソナルコンピューターとスマートフォンの発展の流れに対応出来なくなった。現状に閉じこもりがちな日本の半導体企業はこうして少しずつ米国のインテルや韓国のサムスンに追い越されていった。

一方で、日本の自動車産業も同じように米国の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米国の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競争の中で絶えずリードを拡大した。

米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。当時、米国産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先国となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米国は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。

81年、米国の圧力を受けて日本の通商産業省(当時)は米国への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168万台に制限することにし、以降この数字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土台に、米国はさらに日本に市場開放を迫り、米国車をもっと買うよう求めた。

大きく圧力をかけてくる米国の政策に直面し、日本の自動車産業はチャンスをとらえてモデル転換を加速した。まず日本は対米自動車輸出量に自ら制限を設けたが、輸出額は制限しなかった。こうして日本メーカーは米国に付加価値の高い製品を輸出するようになった。

次に「プラザ合意」による円高が、かえって円の購買力を高め、日本メーカーはチャンスをつかまえ、手にした利益で新しい設備と技術を買い入れ、モデル転換とバージョンアップのペースを加速した。

さらに輸出制限措置を回避するため、日本メーカーは米国に直接投資して工場を建設する動きを加速させた。例えば、トヨタは累計220億ドル(約2兆3808億円)の対米投資を行い、米国で14万人近くの従業員を雇用した。このような現地化した生産は貿易戦争のリスクを解消する上でプラスになるだけでなく、米国の消費者の日本ブランドに対する認知度を高めることにもなった。

米国の圧力に直面して、日本メーカーは低燃費で確かな品質を目指す技術開発路線を堅持し、グローバル化配置に基づく海外発展戦略を重視したとともに、「リーン生産方式」の管理理念を通じて絶えず効率を高め、コストを削減し、圧力の緩和に成功しただけでなく、米自動車工業に対するリードをさらに拡大することができた。

米日貿易摩擦の歴史を振り返ってわかることは、後発国の追いつき追い越せ式の発展プロセスは守りに入った国の警戒感を引き起こし、圧力を受けるということだ。うまく対処すれば、圧力は意味をなさなくなる。日本の関連産業の勝敗は、典型的な事例だといえる。(編集KS)
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/187.html#c7

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
51. 中川隆[-9541] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:19:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2929]

米国「貿易圧力」の下 日本産業の勝敗からみえるもの
人民網日本語版 2019年06月17日
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

1980年代、米国が貿易不均衡を口実に、半導体や自動車といった日本の優位産業に圧力をかけた歴史は、今も多くの日本人が昨日のことのようにありありと覚えている。その後、日本の一部の産業は徐々に国際競争の舞台から姿を消し、一部の産業はその後も発展を続けている。こうした経験や教訓は振り返る価値がある。新華社が伝えた。

半導体分野では、80年代にダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)を代表とする日本の半導体製品がグローバル市場を突如席巻した。日本の半導体産業は急速に発展し、米国の警戒を引き起こした。

86年に調印された「米日半導体協定」を通じ、米国は日本政府へダンピング(不当廉売)輸出をやめるよう一方的に要求するとともに、日本国内のユーザーに海外製品の利用を奨励した。91年にも米国は協定第2弾を打ち出し、海外製品の日本市場でのシェアが20%以上になるよう要求し、米国製品の対日輸出増加を強行した。

産業協定だけでなく、米国は85年に調印された「プラザ合意」を通じ、大幅な円高を促し、日本製品の輸出競争力を削ごうとした。また関税を駆使して、日本から米国に輸出された半導体製品などに大幅な関税の上乗せを行った。

日本の「村山談話を継承し発展させる会」の藤田高景理事長は、当時のことを話し始めると記憶がありありとよみがえるという。藤田氏は取材に対して、「米国は日本がダンピングを行っていると非難し、貿易赤字に言及したが、これは口実に過ぎず、重要なポイントは日本の半導体産業が急速に発展し世界のトップクラスになり、米国に脅威を感じさせたこと、米国政府に危機感を抱かせたことにある」と述べた。

米国には日本の半導体産業に圧力をかける動機があり、多方面で圧力をかけてきたが、単純な外部からの圧力では日本の半導体産業を打ち負かすことはできなかった。実際、86年の「半導体協定」調印後も長らく、日本の半導体製品は引き続き世界で一人勝ちの状態が続いた。

米国の集積回路を研究する企業のまとめた統計では、90年の時点で、世界の10大半導体企業のうち、日本企業が6社を占め、トップ3にはNEC、東芝、日立が並んだ。95年の時点でも、日本企業は4社を占め、NECが2位、東芝が3位だった。

しかし90年代になると、日本の半導体企業のDRAM技術路線では世界のパーソナルコンピューターとスマートフォンの発展の流れに対応出来なくなった。現状に閉じこもりがちな日本の半導体企業はこうして少しずつ米国のインテルや韓国のサムスンに追い越されていった。

一方で、日本の自動車産業も同じように米国の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米国の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競争の中で絶えずリードを拡大した。

米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。当時、米国産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先国となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米国は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。

81年、米国の圧力を受けて日本の通商産業省(当時)は米国への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168万台に制限することにし、以降この数字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土台に、米国はさらに日本に市場開放を迫り、米国車をもっと買うよう求めた。

大きく圧力をかけてくる米国の政策に直面し、日本の自動車産業はチャンスをとらえてモデル転換を加速した。まず日本は対米自動車輸出量に自ら制限を設けたが、輸出額は制限しなかった。こうして日本メーカーは米国に付加価値の高い製品を輸出するようになった。

次に「プラザ合意」による円高が、かえって円の購買力を高め、日本メーカーはチャンスをつかまえ、手にした利益で新しい設備と技術を買い入れ、モデル転換とバージョンアップのペースを加速した。

さらに輸出制限措置を回避するため、日本メーカーは米国に直接投資して工場を建設する動きを加速させた。例えば、トヨタは累計220億ドル(約2兆3808億円)の対米投資を行い、米国で14万人近くの従業員を雇用した。このような現地化した生産は貿易戦争のリスクを解消する上でプラスになるだけでなく、米国の消費者の日本ブランドに対する認知度を高めることにもなった。

米国の圧力に直面して、日本メーカーは低燃費で確かな品質を目指す技術開発路線を堅持し、グローバル化配置に基づく海外発展戦略を重視したとともに、「リーン生産方式」の管理理念を通じて絶えず効率を高め、コストを削減し、圧力の緩和に成功しただけでなく、米自動車工業に対するリードをさらに拡大することができた。

米日貿易摩擦の歴史を振り返ってわかることは、後発国の追いつき追い越せ式の発展プロセスは守りに入った国の警戒感を引き起こし、圧力を受けるということだ。うまく対処すれば、圧力は意味をなさなくなる。日本の関連産業の勝敗は、典型的な事例だといえる。(編集KS)
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c51

[近代史3] トルーマン :猿(日本人)を自由と言う名の檻で我々が飼うのだ、家畜が主人である我々のために貢献するのは当然の事である 中川隆
6. 中川隆[-9540] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:20:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2930]

米国「貿易圧力」の下 日本産業の勝敗からみえるもの
人民網日本語版 2019年06月17日
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

1980年代、米国が貿易不均衡を口実に、半導体や自動車といった日本の優位産業に圧力をかけた歴史は、今も多くの日本人が昨日のことのようにありありと覚えている。その後、日本の一部の産業は徐々に国際競争の舞台から姿を消し、一部の産業はその後も発展を続けている。こうした経験や教訓は振り返る価値がある。新華社が伝えた。

半導体分野では、80年代にダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)を代表とする日本の半導体製品がグローバル市場を突如席巻した。日本の半導体産業は急速に発展し、米国の警戒を引き起こした。

86年に調印された「米日半導体協定」を通じ、米国は日本政府へダンピング(不当廉売)輸出をやめるよう一方的に要求するとともに、日本国内のユーザーに海外製品の利用を奨励した。91年にも米国は協定第2弾を打ち出し、海外製品の日本市場でのシェアが20%以上になるよう要求し、米国製品の対日輸出増加を強行した。

産業協定だけでなく、米国は85年に調印された「プラザ合意」を通じ、大幅な円高を促し、日本製品の輸出競争力を削ごうとした。また関税を駆使して、日本から米国に輸出された半導体製品などに大幅な関税の上乗せを行った。

日本の「村山談話を継承し発展させる会」の藤田高景理事長は、当時のことを話し始めると記憶がありありとよみがえるという。藤田氏は取材に対して、「米国は日本がダンピングを行っていると非難し、貿易赤字に言及したが、これは口実に過ぎず、重要なポイントは日本の半導体産業が急速に発展し世界のトップクラスになり、米国に脅威を感じさせたこと、米国政府に危機感を抱かせたことにある」と述べた。

米国には日本の半導体産業に圧力をかける動機があり、多方面で圧力をかけてきたが、単純な外部からの圧力では日本の半導体産業を打ち負かすことはできなかった。実際、86年の「半導体協定」調印後も長らく、日本の半導体製品は引き続き世界で一人勝ちの状態が続いた。

米国の集積回路を研究する企業のまとめた統計では、90年の時点で、世界の10大半導体企業のうち、日本企業が6社を占め、トップ3にはNEC、東芝、日立が並んだ。95年の時点でも、日本企業は4社を占め、NECが2位、東芝が3位だった。

しかし90年代になると、日本の半導体企業のDRAM技術路線では世界のパーソナルコンピューターとスマートフォンの発展の流れに対応出来なくなった。現状に閉じこもりがちな日本の半導体企業はこうして少しずつ米国のインテルや韓国のサムスンに追い越されていった。

一方で、日本の自動車産業も同じように米国の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米国の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競争の中で絶えずリードを拡大した。

米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。当時、米国産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先国となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米国は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。

81年、米国の圧力を受けて日本の通商産業省(当時)は米国への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168万台に制限することにし、以降この数字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土台に、米国はさらに日本に市場開放を迫り、米国車をもっと買うよう求めた。

大きく圧力をかけてくる米国の政策に直面し、日本の自動車産業はチャンスをとらえてモデル転換を加速した。まず日本は対米自動車輸出量に自ら制限を設けたが、輸出額は制限しなかった。こうして日本メーカーは米国に付加価値の高い製品を輸出するようになった。

次に「プラザ合意」による円高が、かえって円の購買力を高め、日本メーカーはチャンスをつかまえ、手にした利益で新しい設備と技術を買い入れ、モデル転換とバージョンアップのペースを加速した。

さらに輸出制限措置を回避するため、日本メーカーは米国に直接投資して工場を建設する動きを加速させた。例えば、トヨタは累計220億ドル(約2兆3808億円)の対米投資を行い、米国で14万人近くの従業員を雇用した。このような現地化した生産は貿易戦争のリスクを解消する上でプラスになるだけでなく、米国の消費者の日本ブランドに対する認知度を高めることにもなった。

米国の圧力に直面して、日本メーカーは低燃費で確かな品質を目指す技術開発路線を堅持し、グローバル化配置に基づく海外発展戦略を重視したとともに、「リーン生産方式」の管理理念を通じて絶えず効率を高め、コストを削減し、圧力の緩和に成功しただけでなく、米自動車工業に対するリードをさらに拡大することができた。

米日貿易摩擦の歴史を振り返ってわかることは、後発国の追いつき追い越せ式の発展プロセスは守りに入った国の警戒感を引き起こし、圧力を受けるということだ。うまく対処すれば、圧力は意味をなさなくなる。日本の関連産業の勝敗は、典型的な事例だといえる。(編集KS)
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/292.html#c6

[近代史3] 日本や中国のバブルは簡単に崩壊するけれど、アメリカのバブルだけは絶対に崩壊しない理由 中川隆
14. 中川隆[-9539] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:21:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2931]

米国「貿易圧力」の下 日本産業の勝敗からみえるもの
人民網日本語版 2019年06月17日
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

1980年代、米国が貿易不均衡を口実に、半導体や自動車といった日本の優位産業に圧力をかけた歴史は、今も多くの日本人が昨日のことのようにありありと覚えている。その後、日本の一部の産業は徐々に国際競争の舞台から姿を消し、一部の産業はその後も発展を続けている。こうした経験や教訓は振り返る価値がある。新華社が伝えた。

半導体分野では、80年代にダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)を代表とする日本の半導体製品がグローバル市場を突如席巻した。日本の半導体産業は急速に発展し、米国の警戒を引き起こした。

86年に調印された「米日半導体協定」を通じ、米国は日本政府へダンピング(不当廉売)輸出をやめるよう一方的に要求するとともに、日本国内のユーザーに海外製品の利用を奨励した。91年にも米国は協定第2弾を打ち出し、海外製品の日本市場でのシェアが20%以上になるよう要求し、米国製品の対日輸出増加を強行した。

産業協定だけでなく、米国は85年に調印された「プラザ合意」を通じ、大幅な円高を促し、日本製品の輸出競争力を削ごうとした。また関税を駆使して、日本から米国に輸出された半導体製品などに大幅な関税の上乗せを行った。

日本の「村山談話を継承し発展させる会」の藤田高景理事長は、当時のことを話し始めると記憶がありありとよみがえるという。藤田氏は取材に対して、「米国は日本がダンピングを行っていると非難し、貿易赤字に言及したが、これは口実に過ぎず、重要なポイントは日本の半導体産業が急速に発展し世界のトップクラスになり、米国に脅威を感じさせたこと、米国政府に危機感を抱かせたことにある」と述べた。

米国には日本の半導体産業に圧力をかける動機があり、多方面で圧力をかけてきたが、単純な外部からの圧力では日本の半導体産業を打ち負かすことはできなかった。実際、86年の「半導体協定」調印後も長らく、日本の半導体製品は引き続き世界で一人勝ちの状態が続いた。

米国の集積回路を研究する企業のまとめた統計では、90年の時点で、世界の10大半導体企業のうち、日本企業が6社を占め、トップ3にはNEC、東芝、日立が並んだ。95年の時点でも、日本企業は4社を占め、NECが2位、東芝が3位だった。

しかし90年代になると、日本の半導体企業のDRAM技術路線では世界のパーソナルコンピューターとスマートフォンの発展の流れに対応出来なくなった。現状に閉じこもりがちな日本の半導体企業はこうして少しずつ米国のインテルや韓国のサムスンに追い越されていった。

一方で、日本の自動車産業も同じように米国の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米国の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競争の中で絶えずリードを拡大した。

米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。当時、米国産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先国となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米国は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。

81年、米国の圧力を受けて日本の通商産業省(当時)は米国への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168万台に制限することにし、以降この数字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土台に、米国はさらに日本に市場開放を迫り、米国車をもっと買うよう求めた。

大きく圧力をかけてくる米国の政策に直面し、日本の自動車産業はチャンスをとらえてモデル転換を加速した。まず日本は対米自動車輸出量に自ら制限を設けたが、輸出額は制限しなかった。こうして日本メーカーは米国に付加価値の高い製品を輸出するようになった。

次に「プラザ合意」による円高が、かえって円の購買力を高め、日本メーカーはチャンスをつかまえ、手にした利益で新しい設備と技術を買い入れ、モデル転換とバージョンアップのペースを加速した。

さらに輸出制限措置を回避するため、日本メーカーは米国に直接投資して工場を建設する動きを加速させた。例えば、トヨタは累計220億ドル(約2兆3808億円)の対米投資を行い、米国で14万人近くの従業員を雇用した。このような現地化した生産は貿易戦争のリスクを解消する上でプラスになるだけでなく、米国の消費者の日本ブランドに対する認知度を高めることにもなった。

米国の圧力に直面して、日本メーカーは低燃費で確かな品質を目指す技術開発路線を堅持し、グローバル化配置に基づく海外発展戦略を重視したとともに、「リーン生産方式」の管理理念を通じて絶えず効率を高め、コストを削減し、圧力の緩和に成功しただけでなく、米自動車工業に対するリードをさらに拡大することができた。

米日貿易摩擦の歴史を振り返ってわかることは、後発国の追いつき追い越せ式の発展プロセスは守りに入った国の警戒感を引き起こし、圧力を受けるということだ。うまく対処すれば、圧力は意味をなさなくなる。日本の関連産業の勝敗は、典型的な事例だといえる。(編集KS)
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/121.html#c14

[近代史3] 伊藤貫氏に聞く _ 日本人は何故アメリカの犬になりたがるのか 中川隆
10. 中川隆[-9538] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:21:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2932]

米国「貿易圧力」の下 日本産業の勝敗からみえるもの
人民網日本語版 2019年06月17日
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

1980年代、米国が貿易不均衡を口実に、半導体や自動車といった日本の優位産業に圧力をかけた歴史は、今も多くの日本人が昨日のことのようにありありと覚えている。その後、日本の一部の産業は徐々に国際競争の舞台から姿を消し、一部の産業はその後も発展を続けている。こうした経験や教訓は振り返る価値がある。新華社が伝えた。

半導体分野では、80年代にダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)を代表とする日本の半導体製品がグローバル市場を突如席巻した。日本の半導体産業は急速に発展し、米国の警戒を引き起こした。

86年に調印された「米日半導体協定」を通じ、米国は日本政府へダンピング(不当廉売)輸出をやめるよう一方的に要求するとともに、日本国内のユーザーに海外製品の利用を奨励した。91年にも米国は協定第2弾を打ち出し、海外製品の日本市場でのシェアが20%以上になるよう要求し、米国製品の対日輸出増加を強行した。

産業協定だけでなく、米国は85年に調印された「プラザ合意」を通じ、大幅な円高を促し、日本製品の輸出競争力を削ごうとした。また関税を駆使して、日本から米国に輸出された半導体製品などに大幅な関税の上乗せを行った。

日本の「村山談話を継承し発展させる会」の藤田高景理事長は、当時のことを話し始めると記憶がありありとよみがえるという。藤田氏は取材に対して、「米国は日本がダンピングを行っていると非難し、貿易赤字に言及したが、これは口実に過ぎず、重要なポイントは日本の半導体産業が急速に発展し世界のトップクラスになり、米国に脅威を感じさせたこと、米国政府に危機感を抱かせたことにある」と述べた。

米国には日本の半導体産業に圧力をかける動機があり、多方面で圧力をかけてきたが、単純な外部からの圧力では日本の半導体産業を打ち負かすことはできなかった。実際、86年の「半導体協定」調印後も長らく、日本の半導体製品は引き続き世界で一人勝ちの状態が続いた。

米国の集積回路を研究する企業のまとめた統計では、90年の時点で、世界の10大半導体企業のうち、日本企業が6社を占め、トップ3にはNEC、東芝、日立が並んだ。95年の時点でも、日本企業は4社を占め、NECが2位、東芝が3位だった。

しかし90年代になると、日本の半導体企業のDRAM技術路線では世界のパーソナルコンピューターとスマートフォンの発展の流れに対応出来なくなった。現状に閉じこもりがちな日本の半導体企業はこうして少しずつ米国のインテルや韓国のサムスンに追い越されていった。

一方で、日本の自動車産業も同じように米国の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米国の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競争の中で絶えずリードを拡大した。

米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。当時、米国産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先国となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米国は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。

81年、米国の圧力を受けて日本の通商産業省(当時)は米国への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168万台に制限することにし、以降この数字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土台に、米国はさらに日本に市場開放を迫り、米国車をもっと買うよう求めた。

大きく圧力をかけてくる米国の政策に直面し、日本の自動車産業はチャンスをとらえてモデル転換を加速した。まず日本は対米自動車輸出量に自ら制限を設けたが、輸出額は制限しなかった。こうして日本メーカーは米国に付加価値の高い製品を輸出するようになった。

次に「プラザ合意」による円高が、かえって円の購買力を高め、日本メーカーはチャンスをつかまえ、手にした利益で新しい設備と技術を買い入れ、モデル転換とバージョンアップのペースを加速した。

さらに輸出制限措置を回避するため、日本メーカーは米国に直接投資して工場を建設する動きを加速させた。例えば、トヨタは累計220億ドル(約2兆3808億円)の対米投資を行い、米国で14万人近くの従業員を雇用した。このような現地化した生産は貿易戦争のリスクを解消する上でプラスになるだけでなく、米国の消費者の日本ブランドに対する認知度を高めることにもなった。

米国の圧力に直面して、日本メーカーは低燃費で確かな品質を目指す技術開発路線を堅持し、グローバル化配置に基づく海外発展戦略を重視したとともに、「リーン生産方式」の管理理念を通じて絶えず効率を高め、コストを削減し、圧力の緩和に成功しただけでなく、米自動車工業に対するリードをさらに拡大することができた。

米日貿易摩擦の歴史を振り返ってわかることは、後発国の追いつき追い越せ式の発展プロセスは守りに入った国の警戒感を引き起こし、圧力を受けるということだ。うまく対処すれば、圧力は意味をなさなくなる。日本の関連産業の勝敗は、典型的な事例だといえる。(編集KS)
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/125.html#c10

[近代史02] 鈴木傾城 _ アメリカ株で儲けるほど簡単な事は無い 中川隆
48. 中川隆[-9537] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:23:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2933]

米国「貿易圧力」の下 日本産業の勝敗からみえるもの
人民網日本語版 2019年06月17日
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

1980年代、米国が貿易不均衡を口実に、半導体や自動車といった日本の優位産業に圧力をかけた歴史は、今も多くの日本人が昨日のことのようにありありと覚えている。その後、日本の一部の産業は徐々に国際競争の舞台から姿を消し、一部の産業はその後も発展を続けている。こうした経験や教訓は振り返る価値がある。新華社が伝えた。

半導体分野では、80年代にダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)を代表とする日本の半導体製品がグローバル市場を突如席巻した。日本の半導体産業は急速に発展し、米国の警戒を引き起こした。

86年に調印された「米日半導体協定」を通じ、米国は日本政府へダンピング(不当廉売)輸出をやめるよう一方的に要求するとともに、日本国内のユーザーに海外製品の利用を奨励した。91年にも米国は協定第2弾を打ち出し、海外製品の日本市場でのシェアが20%以上になるよう要求し、米国製品の対日輸出増加を強行した。

産業協定だけでなく、米国は85年に調印された「プラザ合意」を通じ、大幅な円高を促し、日本製品の輸出競争力を削ごうとした。また関税を駆使して、日本から米国に輸出された半導体製品などに大幅な関税の上乗せを行った。

日本の「村山談話を継承し発展させる会」の藤田高景理事長は、当時のことを話し始めると記憶がありありとよみがえるという。藤田氏は取材に対して、「米国は日本がダンピングを行っていると非難し、貿易赤字に言及したが、これは口実に過ぎず、重要なポイントは日本の半導体産業が急速に発展し世界のトップクラスになり、米国に脅威を感じさせたこと、米国政府に危機感を抱かせたことにある」と述べた。

米国には日本の半導体産業に圧力をかける動機があり、多方面で圧力をかけてきたが、単純な外部からの圧力では日本の半導体産業を打ち負かすことはできなかった。実際、86年の「半導体協定」調印後も長らく、日本の半導体製品は引き続き世界で一人勝ちの状態が続いた。

米国の集積回路を研究する企業のまとめた統計では、90年の時点で、世界の10大半導体企業のうち、日本企業が6社を占め、トップ3にはNEC、東芝、日立が並んだ。95年の時点でも、日本企業は4社を占め、NECが2位、東芝が3位だった。

しかし90年代になると、日本の半導体企業のDRAM技術路線では世界のパーソナルコンピューターとスマートフォンの発展の流れに対応出来なくなった。現状に閉じこもりがちな日本の半導体企業はこうして少しずつ米国のインテルや韓国のサムスンに追い越されていった。

一方で、日本の自動車産業も同じように米国の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米国の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競争の中で絶えずリードを拡大した。

米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。当時、米国産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先国となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米国は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。

81年、米国の圧力を受けて日本の通商産業省(当時)は米国への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168万台に制限することにし、以降この数字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土台に、米国はさらに日本に市場開放を迫り、米国車をもっと買うよう求めた。

大きく圧力をかけてくる米国の政策に直面し、日本の自動車産業はチャンスをとらえてモデル転換を加速した。まず日本は対米自動車輸出量に自ら制限を設けたが、輸出額は制限しなかった。こうして日本メーカーは米国に付加価値の高い製品を輸出するようになった。

次に「プラザ合意」による円高が、かえって円の購買力を高め、日本メーカーはチャンスをつかまえ、手にした利益で新しい設備と技術を買い入れ、モデル転換とバージョンアップのペースを加速した。

さらに輸出制限措置を回避するため、日本メーカーは米国に直接投資して工場を建設する動きを加速させた。例えば、トヨタは累計220億ドル(約2兆3808億円)の対米投資を行い、米国で14万人近くの従業員を雇用した。このような現地化した生産は貿易戦争のリスクを解消する上でプラスになるだけでなく、米国の消費者の日本ブランドに対する認知度を高めることにもなった。

米国の圧力に直面して、日本メーカーは低燃費で確かな品質を目指す技術開発路線を堅持し、グローバル化配置に基づく海外発展戦略を重視したとともに、「リーン生産方式」の管理理念を通じて絶えず効率を高め、コストを削減し、圧力の緩和に成功しただけでなく、米自動車工業に対するリードをさらに拡大することができた。

米日貿易摩擦の歴史を振り返ってわかることは、後発国の追いつき追い越せ式の発展プロセスは守りに入った国の警戒感を引き起こし、圧力を受けるということだ。うまく対処すれば、圧力は意味をなさなくなる。日本の関連産業の勝敗は、典型的な事例だといえる。(編集KS)
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/895.html#c48

[近代史02] トヨタの為に毒塗オレンジを食べさせられている日本人 _ 日本を農業の無い国にして良いのか? 中川隆
5. 中川隆[-9536] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:24:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2934]

米国「貿易圧力」の下 日本産業の勝敗からみえるもの
人民網日本語版 2019年06月17日
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

1980年代、米国が貿易不均衡を口実に、半導体や自動車といった日本の優位産業に圧力をかけた歴史は、今も多くの日本人が昨日のことのようにありありと覚えている。その後、日本の一部の産業は徐々に国際競争の舞台から姿を消し、一部の産業はその後も発展を続けている。こうした経験や教訓は振り返る価値がある。新華社が伝えた。

半導体分野では、80年代にダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)を代表とする日本の半導体製品がグローバル市場を突如席巻した。日本の半導体産業は急速に発展し、米国の警戒を引き起こした。

86年に調印された「米日半導体協定」を通じ、米国は日本政府へダンピング(不当廉売)輸出をやめるよう一方的に要求するとともに、日本国内のユーザーに海外製品の利用を奨励した。91年にも米国は協定第2弾を打ち出し、海外製品の日本市場でのシェアが20%以上になるよう要求し、米国製品の対日輸出増加を強行した。

産業協定だけでなく、米国は85年に調印された「プラザ合意」を通じ、大幅な円高を促し、日本製品の輸出競争力を削ごうとした。また関税を駆使して、日本から米国に輸出された半導体製品などに大幅な関税の上乗せを行った。

日本の「村山談話を継承し発展させる会」の藤田高景理事長は、当時のことを話し始めると記憶がありありとよみがえるという。藤田氏は取材に対して、「米国は日本がダンピングを行っていると非難し、貿易赤字に言及したが、これは口実に過ぎず、重要なポイントは日本の半導体産業が急速に発展し世界のトップクラスになり、米国に脅威を感じさせたこと、米国政府に危機感を抱かせたことにある」と述べた。

米国には日本の半導体産業に圧力をかける動機があり、多方面で圧力をかけてきたが、単純な外部からの圧力では日本の半導体産業を打ち負かすことはできなかった。実際、86年の「半導体協定」調印後も長らく、日本の半導体製品は引き続き世界で一人勝ちの状態が続いた。

米国の集積回路を研究する企業のまとめた統計では、90年の時点で、世界の10大半導体企業のうち、日本企業が6社を占め、トップ3にはNEC、東芝、日立が並んだ。95年の時点でも、日本企業は4社を占め、NECが2位、東芝が3位だった。

しかし90年代になると、日本の半導体企業のDRAM技術路線では世界のパーソナルコンピューターとスマートフォンの発展の流れに対応出来なくなった。現状に閉じこもりがちな日本の半導体企業はこうして少しずつ米国のインテルや韓国のサムスンに追い越されていった。

一方で、日本の自動車産業も同じように米国の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米国の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競争の中で絶えずリードを拡大した。

米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。当時、米国産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先国となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米国は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。

81年、米国の圧力を受けて日本の通商産業省(当時)は米国への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168万台に制限することにし、以降この数字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土台に、米国はさらに日本に市場開放を迫り、米国車をもっと買うよう求めた。

大きく圧力をかけてくる米国の政策に直面し、日本の自動車産業はチャンスをとらえてモデル転換を加速した。まず日本は対米自動車輸出量に自ら制限を設けたが、輸出額は制限しなかった。こうして日本メーカーは米国に付加価値の高い製品を輸出するようになった。

次に「プラザ合意」による円高が、かえって円の購買力を高め、日本メーカーはチャンスをつかまえ、手にした利益で新しい設備と技術を買い入れ、モデル転換とバージョンアップのペースを加速した。

さらに輸出制限措置を回避するため、日本メーカーは米国に直接投資して工場を建設する動きを加速させた。例えば、トヨタは累計220億ドル(約2兆3808億円)の対米投資を行い、米国で14万人近くの従業員を雇用した。このような現地化した生産は貿易戦争のリスクを解消する上でプラスになるだけでなく、米国の消費者の日本ブランドに対する認知度を高めることにもなった。

米国の圧力に直面して、日本メーカーは低燃費で確かな品質を目指す技術開発路線を堅持し、グローバル化配置に基づく海外発展戦略を重視したとともに、「リーン生産方式」の管理理念を通じて絶えず効率を高め、コストを削減し、圧力の緩和に成功しただけでなく、米自動車工業に対するリードをさらに拡大することができた。

米日貿易摩擦の歴史を振り返ってわかることは、後発国の追いつき追い越せ式の発展プロセスは守りに入った国の警戒感を引き起こし、圧力を受けるということだ。うまく対処すれば、圧力は意味をなさなくなる。日本の関連産業の勝敗は、典型的な事例だといえる。(編集KS)
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/417.html#c5

[近代史3] ファーウェイ排除で世界に激震! 日本はどうなる? 中川隆
10. 中川隆[-9535] koaQ7Jey 2019年6月18日 07:24:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2935]

米国「貿易圧力」の下 日本産業の勝敗からみえるもの
人民網日本語版 2019年06月17日
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

1980年代、米国が貿易不均衡を口実に、半導体や自動車といった日本の優位産業に圧力をかけた歴史は、今も多くの日本人が昨日のことのようにありありと覚えている。その後、日本の一部の産業は徐々に国際競争の舞台から姿を消し、一部の産業はその後も発展を続けている。こうした経験や教訓は振り返る価値がある。新華社が伝えた。

半導体分野では、80年代にダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)を代表とする日本の半導体製品がグローバル市場を突如席巻した。日本の半導体産業は急速に発展し、米国の警戒を引き起こした。

86年に調印された「米日半導体協定」を通じ、米国は日本政府へダンピング(不当廉売)輸出をやめるよう一方的に要求するとともに、日本国内のユーザーに海外製品の利用を奨励した。91年にも米国は協定第2弾を打ち出し、海外製品の日本市場でのシェアが20%以上になるよう要求し、米国製品の対日輸出増加を強行した。

産業協定だけでなく、米国は85年に調印された「プラザ合意」を通じ、大幅な円高を促し、日本製品の輸出競争力を削ごうとした。また関税を駆使して、日本から米国に輸出された半導体製品などに大幅な関税の上乗せを行った。

日本の「村山談話を継承し発展させる会」の藤田高景理事長は、当時のことを話し始めると記憶がありありとよみがえるという。藤田氏は取材に対して、「米国は日本がダンピングを行っていると非難し、貿易赤字に言及したが、これは口実に過ぎず、重要なポイントは日本の半導体産業が急速に発展し世界のトップクラスになり、米国に脅威を感じさせたこと、米国政府に危機感を抱かせたことにある」と述べた。

米国には日本の半導体産業に圧力をかける動機があり、多方面で圧力をかけてきたが、単純な外部からの圧力では日本の半導体産業を打ち負かすことはできなかった。実際、86年の「半導体協定」調印後も長らく、日本の半導体製品は引き続き世界で一人勝ちの状態が続いた。

米国の集積回路を研究する企業のまとめた統計では、90年の時点で、世界の10大半導体企業のうち、日本企業が6社を占め、トップ3にはNEC、東芝、日立が並んだ。95年の時点でも、日本企業は4社を占め、NECが2位、東芝が3位だった。

しかし90年代になると、日本の半導体企業のDRAM技術路線では世界のパーソナルコンピューターとスマートフォンの発展の流れに対応出来なくなった。現状に閉じこもりがちな日本の半導体企業はこうして少しずつ米国のインテルや韓国のサムスンに追い越されていった。

一方で、日本の自動車産業も同じように米国の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米国の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競争の中で絶えずリードを拡大した。

米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。当時、米国産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先国となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米国は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。

81年、米国の圧力を受けて日本の通商産業省(当時)は米国への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168万台に制限することにし、以降この数字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土台に、米国はさらに日本に市場開放を迫り、米国車をもっと買うよう求めた。

大きく圧力をかけてくる米国の政策に直面し、日本の自動車産業はチャンスをとらえてモデル転換を加速した。まず日本は対米自動車輸出量に自ら制限を設けたが、輸出額は制限しなかった。こうして日本メーカーは米国に付加価値の高い製品を輸出するようになった。

次に「プラザ合意」による円高が、かえって円の購買力を高め、日本メーカーはチャンスをつかまえ、手にした利益で新しい設備と技術を買い入れ、モデル転換とバージョンアップのペースを加速した。

さらに輸出制限措置を回避するため、日本メーカーは米国に直接投資して工場を建設する動きを加速させた。例えば、トヨタは累計220億ドル(約2兆3808億円)の対米投資を行い、米国で14万人近くの従業員を雇用した。このような現地化した生産は貿易戦争のリスクを解消する上でプラスになるだけでなく、米国の消費者の日本ブランドに対する認知度を高めることにもなった。

米国の圧力に直面して、日本メーカーは低燃費で確かな品質を目指す技術開発路線を堅持し、グローバル化配置に基づく海外発展戦略を重視したとともに、「リーン生産方式」の管理理念を通じて絶えず効率を高め、コストを削減し、圧力の緩和に成功しただけでなく、米自動車工業に対するリードをさらに拡大することができた。

米日貿易摩擦の歴史を振り返ってわかることは、後発国の追いつき追い越せ式の発展プロセスは守りに入った国の警戒感を引き起こし、圧力を受けるということだ。うまく対処すれば、圧力は意味をなさなくなる。日本の関連産業の勝敗は、典型的な事例だといえる。(編集KS)
http://j.people.com.cn/n3/2019/0617/c94476-9588654.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/452.html#c10

[リバイバル3] 賃貸の原状回復は「しなくて良い」場合がほとんど

2019年06月18日
賃貸の原状回復は「しなくて良い」場合がほとんど


大家側が負担すべき費用を入居者に請求している例


画像引用:https://maihome.biz/wp-content/uploads/2015/06/image14-1024x767.jpg

原状回復は不要になった

賃貸住宅から退去する時、原状回復義務があると言われて退去費用を請求されることがあります。

敷金あるいは保証金を支払っていた場合、良くて差し引きゼロになり、預けた保証金は返って来ない。

入居者のほうも一度渡した金なので「まあ良いか」と納得し、同意書にサインする場合が多い。


より悪質な大家や不動産屋だと、部屋の隅々まで汚れや傷をチェックして、50万円以上も請求する事がある。

請求書には明細が書いてあるが、エアコンのクリーニング代や次の入居者のための清掃代が含まれていたりする。

浴槽やトイレの黒ずみ、ベランダなどの汚れ、玄関などを靴でこすった跡、イスを移動して床をひっかいた跡なども請求する。


これらのほとんどは法律上支払い義務がないのだが、入居者に法律の知識が無いと見るや平気で騙しにかかる。

ではどんな場合に支払い義務があって、どんな場合は支払わなくて良いのでしょうか?

ネット上の賃貸物件紹介サイトは不動産屋や大家から金を貰って営業しているので、基本的に不動産屋側に立って解説しています。


なので原状回復は「汚したら回復するか払うのが当たり前」のように書いている事があります。

2017年5月26日に民放が改正され2020年から施行されるが、この中で賃貸契約の原状回復が明記された。

これまでも「原状回復ガイドライン」として運用されてきたので、改正民法施行前の現在でも有効です。

絶対にその場でサインしない

改正民法では、借主に責任のない通常使用による損耗や経年劣化は「原状回復しなくていい」と明記されています。

「借主に責任のない通常使用による損耗や経年劣化」は微妙な表現なので、ここは大家側と入居者側が争うポイントになります。

たとえば玄関は人が出入りするので、靴をこすって痕がつくのは当然だし、椅子を動かして床に痕がつくのも当たり前です。


エアコンを使えば内部が汚れたり性能低下するのも当たり前、人が出入りすれば壁や天井が汚れるのも当たり前です。

トイレや風呂や台所は人間が生活している限りだんだん汚れるし、壁や柱に一切傷をつけずに生きるのは不可能です。

このように誰が住んでもこの程度の損傷や汚れはあるものは経年劣化なので、支払う義務はない。


そうではなくまだ壊れるような年数ではないのに壊してしまったとか、通常ではない使用法が原因で汚したら支払い義務が生じる。

例えば部屋の中でタバコを吸うと独特の臭いと汚れがつき、そのままでは他の人に貸せなくなるでしょう。

おそらく大家がわはクリーニングや壁紙の張替え費用などを請求し、経年劣化だと言っても納得しないでしょう。


壁紙とか内装関係は6年以上で価値がゼロになるそうなので、長く住んでいれば自己責任であっても「経年劣化」を主張できる。

子供が壁紙に落書きしても、7年以上住んでいたらその壁紙の価値はゼロなので、保証する価値がないという考え方です。

このように原状回復で請求される費用の大半は支払い義務がないので、納得できなければ払わない方が良い。


なお大家や不動産屋から請求されて押し切られる場合があるので、その場で断らず「郵送してください」と言いましょう。

郵送してもらった請求書を眺めて、支払う必要が無い項目は、こちらも文書を郵送して「支払いません」と断れば良いです。

すると相手は裁判で訴える事ができますが、訴えても全額認められることはないので、大幅値引きを提案してきます。


それで良ければ支払えば良いし、まだ納得できなければ徹底的にやりあえば良い。
http://www.thutmosev.com/archives/80146967.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/967.html

[リバイバル3] 今 大人気の WE101D _ 出力0.6Wのシングル・アンプで鳴らせるスピーカーは? 中川隆
11. 中川隆[-9534] koaQ7Jey 2019年6月18日 08:00:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2937]

1W(ワット)アンプで38pウーハーは無理


そろそろ自宅システムにWE101Dppパワーアンプ×2台の実験を・・・ - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年06月15日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/aeda8c7055fcdb7b00699c04772351d9


最近は自宅システムを良く聴く。午前中や夜遅くなってから聴いている。Wアンプ化してから非常に安定したドライブで7SPユニットシステムが生き生きして来た。現在のエクスクルーシブM4+ディネッセン:アンタレスアンプでも大した不満はない。M4のSN比の悪さも機器が活性化すれば消えて行く。活性化させるには時間がかかる。ディネッセンのアンプは当初「ノイズ」で悩まされ、修理せずに某オクに出品したが応札が無く、仕方が無いのでゴッドハンドにお願いしてノイズを取っていただいた。ノイズが無い状態では非常にいい音色のアンプで有る事が判った。現在では使用時にはノイズが出ない状態になっていて非常に満足している。ただこちらも「活性化中」で時間がかかる。本当の実力発揮は来年の4月くらいだろう。


その間に、WE101Dppパワーアンプ×2台のWアンプ化したサウンドを確かめておきたい。構想は10年前にしていた。だからプリアンプのOUTPUTは2系統作って置いた。早くやれば良かったのに、SPケーブルもストックを持っていながら、「SPケーブルが無い」と思い込んで実験をしてこなかった。

単純に「思い切り」が無かっただけだと今なら云える。回り道をしたもんだと思う。使用する出力は多分0.1W以下だろうから1W/chのアンプでも十分なはずである。音量の問題だけを危惧している。やれば1時間ほどで完了するだろう。いつやるかだけです。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/aeda8c7055fcdb7b00699c04772351d9


自宅システムのアンプの入れ替え - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年06月16日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/d91c01577b00d3ed6d796291ae85ad17


昨夜自宅システムのパワーアンプを入れ替えました。エクスクルーシブ:M4+ディネッセン:アンタレスアンプからWE101Dppパワーアンプ1号+2号に交換しました。


構想を抱いてから10年の歳月が経ってしまいました。その間に不具合の発生(ローインピーダンス)が有り、ネットワークを壊したり、アンプがおかしくなったり・・・とトラブル続きでした。7SPユニットをネットワーク方式で1台のアンプ駆動に拘り過ぎた為だと思います。


写真も撮ってきたのですが「ボリュームオーバー?」なのか読み込めませんでした。後日写真は撮り直してアップしたいと思います。


昨夜8時頃、小1時間で交換及びケーブルの接続完了。やればあっという間に片付きますね。さて、出てきた音は・・・・。繋いだ直ぐはプラグ類のなじみが取れていないし、WE101Dppアンプも眠っていたので「寝起きの音」でした。


22時から1:00まで鳴らし込んで、また今朝は10時から13時まで鳴らし込みました。鳴らし込むにつれて音がまともになってきます。音数は圧倒的にWE101Dppに交換後が多いですね。弦楽器の質感は圧倒的に良いですね。


このアンプは「ドラマティックな表現」が特徴です。ppp(ピアニッシモ)〜fff(フォルテシモ)の間隔が一般のアンプの2倍以上ある様な感じです。出だしは音量不足かな?と思っていてもクライマックスでは音量が大きくなります。


「静寂性」が抜群です。プリアンプとパワーアンプ3台ともに「管球アンプ」ですが、一般のTr型アンプが負けますね。交換前のアンプではSN比で太刀打ちできません。


「管球アンプ」といっても「超ハイスピードアンプ」に仕上げています。管球式だからと懐古趣味ではありません。デバイスとして球の持つメリットを最大限取り出そうとしています。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/d91c01577b00d3ed6d796291ae85ad17


自宅システムにWE101Dppパワーアンプ×2台にしてのサウンド - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年06月17日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/a2aaaaa6e83ade27ae93610d5605c2ef


WE101Dppパワーアンプ×2台で自宅システムのスピーカー(7ユニット構成)を鳴らし出しています。WE101Dppパワーアンプにしてサウンドは「おとなしく」なりました。2台のアンプですが、1台のアンプで鳴らしている様なつながりの良さです。


かと言って特別「音質アップ」したと意識するより、「レベルダウン」した様なサウンドです。低域の鳴りが非常におとなしくなってオーディオ的には「面白くない音」かも知れません。まだアンプを交代させたばかりで時間が有りませんので正確な評価は出来ませんが、「低出力」のアンプで38pクラスのウーハーを鳴らすのは至難の業かも知れません。独特の鳴り方です。

中・高音に関しては特に問題はないと思いますが、ボリュームとの絡みも有り、音の広がりが十分とは言えませんが、「これがWE101Dppパワーアンプの世界」なのかも知れません。

楽器の質感に関して、特に弦楽器のサザメク様な質感が出て文句なしです。その分JAZZのキレのある音系のサウンドは薄いので不満な処でも有ります。鳴らし込みで何処まで出てくれるようになるか?と気になり始めています。

低域の質感がどうしても物足りなければいつでも交換可能なようにディネッセンのアンプを用意しています。将来的には3ウェイマルチアンプシステムになるかも知れません。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/a2aaaaa6e83ade27ae93610d5605c2ef

やはり1W(ワット)アンプで38pウーハーは無理 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年06月17日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e7f735455d955edcaeb7a8870f1c630b


WE101DppパワーアンプでD130(38pフルレンジSP)を完全に近い形で鳴らし切るのは難しいと感じます。音自体は出ますが重心が上がり、音のキレを感じません。これでは音楽の感動を味わう事は無理と判断しました。

低域・中域用の101Dppパワーアンプ2号を諦めて、ディネッセン:アンタレス パワーアンプを持って来ました。高域は101Dppパワーアンプ1号のままです。この状態でほぼ決まり・・・みたいな豪華なサウンドになりました。

ブレンデル(P):シューベルト:さすらい人幻想曲を聴きましたが、音数が極端に多く、ピアノが豪華な直接音と倍音の響きで心地良く、当方としては心が震えました。オリンパスシステムでは出ないサウンドになりそうです。


オリンパスシステムは「実音」サイズに拘って作成しました。心臓にちょっと悪いな?(冷や汗のでる)様な低音が出ます。これに対して自宅システムは「音楽を心地良く楽しむ」様に方向性を変えています。どちらが好きか?と聞かれれば「自宅システム」となります。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e7f735455d955edcaeb7a8870f1c630b
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/445.html#c11

[リバイバル3] 1W(ワット)アンプで 38pウーハーは無理

1W(ワット)アンプで 38pウーハーは無理

そろそろ自宅システムにWE101Dppパワーアンプ×2台の実験を・・・ - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年06月15日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/aeda8c7055fcdb7b00699c04772351d9

最近は自宅システムを良く聴く。午前中や夜遅くなってから聴いている。Wアンプ化してから非常に安定したドライブで7SPユニットシステムが生き生きして来た。現在のエクスクルーシブM4+ディネッセン:アンタレスアンプでも大した不満はない。M4のSN比の悪さも機器が活性化すれば消えて行く。活性化させるには時間がかかる。ディネッセンのアンプは当初「ノイズ」で悩まされ、修理せずに某オクに出品したが応札が無く、仕方が無いのでゴッドハンドにお願いしてノイズを取っていただいた。ノイズが無い状態では非常にいい音色のアンプで有る事が判った。現在では使用時にはノイズが出ない状態になっていて非常に満足している。ただこちらも「活性化中」で時間がかかる。本当の実力発揮は来年の4月くらいだろう。


その間に、WE101Dppパワーアンプ×2台のWアンプ化したサウンドを確かめておきたい。構想は10年前にしていた。だからプリアンプのOUTPUTは2系統作って置いた。早くやれば良かったのに、SPケーブルもストックを持っていながら、「SPケーブルが無い」と思い込んで実験をしてこなかった。


単純に「思い切り」が無かっただけだと今なら云える。回り道をしたもんだと思う。使用する出力は多分0.1W以下だろうから1W/chのアンプでも十分なはずである。音量の問題だけを危惧している。やれば1時間ほどで完了するだろう。いつやるかだけです。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/aeda8c7055fcdb7b00699c04772351d9


自宅システムのアンプの入れ替え - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年06月16日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/d91c01577b00d3ed6d796291ae85ad17


昨夜自宅システムのパワーアンプを入れ替えました。エクスクルーシブ:M4+ディネッセン:アンタレスアンプからWE101Dppパワーアンプ1号+2号に交換しました。

構想を抱いてから10年の歳月が経ってしまいました。その間に不具合の発生(ローインピーダンス)が有り、ネットワークを壊したり、アンプがおかしくなったり・・・とトラブル続きでした。7SPユニットをネットワーク方式で1台のアンプ駆動に拘り過ぎた為だと思います。

写真も撮ってきたのですが「ボリュームオーバー?」なのか読み込めませんでした。後日写真は撮り直してアップしたいと思います。


昨夜8時頃、小1時間で交換及びケーブルの接続完了。やればあっという間に片付きますね。さて、出てきた音は・・・・。繋いだ直ぐはプラグ類のなじみが取れていないし、WE101Dppアンプも眠っていたので「寝起きの音」でした。

22時から1:00まで鳴らし込んで、また今朝は10時から13時まで鳴らし込みました。鳴らし込むにつれて音がまともになってきます。音数は圧倒的にWE101Dppに交換後が多いですね。弦楽器の質感は圧倒的に良いですね。

このアンプは「ドラマティックな表現」が特徴です。ppp(ピアニッシモ)〜fff(フォルテシモ)の間隔が一般のアンプの2倍以上ある様な感じです。出だしは音量不足かな?と思っていてもクライマックスでは音量が大きくなります。

「静寂性」が抜群です。プリアンプとパワーアンプ3台ともに「管球アンプ」ですが、一般のTr型アンプが負けますね。交換前のアンプではSN比で太刀打ちできません。

「管球アンプ」といっても「超ハイスピードアンプ」に仕上げています。管球式だからと懐古趣味ではありません。デバイスとして球の持つメリットを最大限取り出そうとしています。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/d91c01577b00d3ed6d796291ae85ad17

自宅システムにWE101Dppパワーアンプ×2台にしてのサウンド - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年06月17日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/a2aaaaa6e83ade27ae93610d5605c2ef


WE101Dppパワーアンプ×2台で自宅システムのスピーカー(7ユニット構成)を鳴らし出しています。WE101Dppパワーアンプにしてサウンドは「おとなしく」なりました。2台のアンプですが、1台のアンプで鳴らしている様なつながりの良さです。

かと言って特別「音質アップ」したと意識するより、「レベルダウン」した様なサウンドです。低域の鳴りが非常におとなしくなってオーディオ的には「面白くない音」かも知れません。まだアンプを交代させたばかりで時間が有りませんので正確な評価は出来ませんが、「低出力」のアンプで38pクラスのウーハーを鳴らすのは至難の業かも知れません。独特の鳴り方です。


中・高音に関しては特に問題はないと思いますが、ボリュームとの絡みも有り、音の広がりが十分とは言えませんが、「これがWE101Dppパワーアンプの世界」なのかも知れません。


楽器の質感に関して、特に弦楽器のサザメク様な質感が出て文句なしです。その分JAZZのキレのある音系のサウンドは薄いので不満な処でも有ります。鳴らし込みで何処まで出てくれるようになるか?と気になり始めています。


低域の質感がどうしても物足りなければいつでも交換可能なようにディネッセンのアンプを用意しています。将来的には3ウェイマルチアンプシステムになるかも知れません。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/a2aaaaa6e83ade27ae93610d5605c2ef

やはり1W(ワット)アンプで38pウーハーは無理 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年06月17日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e7f735455d955edcaeb7a8870f1c630b


WE101DppパワーアンプでD130(38pフルレンジSP)を完全に近い形で鳴らし切るのは難しいと感じます。音自体は出ますが重心が上がり、音のキレを感じません。これでは音楽の感動を味わう事は無理と判断しました。

低域・中域用の101Dppパワーアンプ2号を諦めて、ディネッセン:アンタレス パワーアンプを持って来ました。高域は101Dppパワーアンプ1号のままです。この状態でほぼ決まり・・・みたいな豪華なサウンドになりました。

ブレンデル(P):シューベルト:さすらい人幻想曲を聴きましたが、音数が極端に多く、ピアノが豪華な直接音と倍音の響きで心地良く、当方としては心が震えました。オリンパスシステムでは出ないサウンドになりそうです。

オリンパスシステムは「実音」サイズに拘って作成しました。心臓にちょっと悪いな?(冷や汗のでる)様な低音が出ます。これに対して自宅システムは「音楽を心地良く楽しむ」様に方向性を変えています。どちらが好きか?と聞かれれば「自宅システム」となります。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/e7f735455d955edcaeb7a8870f1c630b

WE101D についての詳細は


今 大人気の WE101D _ 出力0.6Wのシングル・アンプで鳴らせるスピーカーは?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/445.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/968.html

[リバイバル3] ドイツ人はお腹がいっぱいになれば食べる物は何でもいい 中川隆
12. 中川隆[-9533] koaQ7Jey 2019年6月18日 08:43:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2939]

5月はシュパーゲルの季節

 5月のドイツはシュパーゲルの季節でもある。

シュパーゲルとはホワイトアスパラガスのことで、新鮮なものをゆでて食べることで、春を味覚と嗅覚で感じることができる。

ドライブ中の田舎道の両側にはシュパーゲル畑が延々と広がる所が何回もあったので、相当な生産量と消費量だと見受けた。シュニッツェル(ドイツ風とんかつ)を食べ過ぎた胃には願ってもないメニューだ。

ドイツの食事は塩気が強くて肉とフライものが多いのだが、とにかくパンが美味しいので悪くない。

ホテルの朝食バイキングで乳製品やソーセージなどとパンをたらふく食べ、昼はアイスクリームかケーキぐらいで夜はシュニッツェルというパターンに陥りがちなので、メタボ気味の中年男性には悪い環境かもしれない。

白いシュパーゲルは穂の部分が微かに緑ががっていて、ゆでたての香りは葉裏に花穂を垂れさせていた菩提樹のように甘く、今回の気違いじみた旅の思い出を、少しだけやさしいものにしてくれた。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10139&i=10217
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/767.html#c12

[リバイバル3] ウェスタンエレクトリック伝説 中川隆
175. 中川隆[-9532] koaQ7Jey 2019年6月18日 08:49:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2940]

KLANG-KUNST 2011年7月9日
(5月にドイツのヴィンティージ・オーディオ愛好家たちを訪ねた旅の記録)
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10139&i=10217

クレーンで吊り上げられたオイロパ・クラルトン


 さて、いよいよ今回の旅のメインとなる「オイロパ・クラルトン(EUROPA KLARTON)」の譲り受けである。オイロパ・クラルトンとは、故池田圭氏が「オイロッパ号」と呼んで愛蔵していたクラングフィルムの巨大なスピーカー「オイロパ」の後継モデルだ。

クラルトンになる前の「オイロパ」の最初のモデルである44007は、1931年かその翌年に登場したので、ウェスタン・エレクトリックの「ワイドレンジ・サウンド・システム」とほぼ同時期ということになる。

残念ながら44007は現存しないと思われるが、1933〜4年に登場した後期の「オイロパ」である44008は、池田氏のスタジオをはじめ世界に10台ほどはあると推測している。70 cmという巨大なウーファーにブラットハラー形ドライバー2台を組み合わせた、超弩級の劇場用スピーカーである。

ウェスタン・エレクトリックが3ウェイでワイドレンジ化したのに対し、こちらは2ウェイで十分な性能を確保していた。


 「オイロパ・クラルトン」は「オイロパ」のホーンを「クラルトン・ホーン」と呼ばれる、より長いものに変更したモデルで、ウーファーは共通だ。

初期形の44009はベルリンオリンピックが行われた1936年、後期形の44010はオリンピックを記録した映画「オリンピア」が公開された1938年の登場と思われるので、どちらも独裁政権のプロパガンダと深い関係がると考えざるを得ない。オーディオ機器というよりは、軍用品のような凄みを感じさせるモンスターだ。

写真のように梱包のためクレーンで吊り上げたとき、付属するロードセルの表示はちょうど200 kgであった。

今回入手したのは初期形の44009で、1台のみのモノラルである。


ドイツのオーソリティーの間で人気のビオノア


 大仕事のあとは南へと移動し、ハイデルベルクに近い町に住む旧知のC氏を訪問した。ドイツのオーディオ愛好家のなかでもオーソリティーといえる人たちは、なぜかオイロダインよりも写真のビオノア(BINOR)を好む傾向がある。家が大きくてリスニングルームが広いこともあるだろうが、巨大なホーンによる低音が魅力らしい。

高音用のホーンとドライバー、およびネットワークはアルニコのオイロダインと同じだが、ウーファーはKL-L405を2発組み合わせたKL-L501を大型の木製ホーンにマウントしたものになっている。


C氏はビオノアのアンプとしてF2a11シングル出力段のKL-V204を試したところ、低音がブーストされてしまってうまくないということだったので、F2a11のグリッド帰還回路の改造を勧めた。KL-V204は小さなバッフルのオイロダインの低音不足を補うのには都合がいいが、オリジナルのままビオノアでは低音がダブついてしまう。

15Aホーンのレプリカによる3ウェイシステム


 K氏は機械工場を経営するエンジニアで、驚くべき自作派だ。写真の15Aホーンのレプリカだけでなく、ドライバーの振動板からプレーヤーまでなんでも作ってしまう。

15Aのドライバーはオリジナルの555Wで、自作した真鍮製のスロートが見事だった。

ウーファーは奥にあって、ジェンセンかなにかだそうだが、現在コンクリートホーンのような巨大なものを準備中とのことであった。

ツィーターは珍しいアルニコ型の597で、フィールド型よりもかなり大きな十字形をした磁気回路をもつ不思議なユニットだ。

アンプには205Dプッシュプルの46のオリジナルを使用していて、「300Bプッシュプルの86よりも音がいい」という説明を受けた。

珍しいアルニコのWE597ツィーター


 わたしは就職した翌年に購入した15Aを30年近く所有していて、今でもシェラックのSP盤を再生するために愛用しているので、15A + 555Wの音を熟知しているつもりだ。どうやら、K氏の15AのほうがオリジナルよりもHiFiのようである。もちろん、ツィーター付き同士での比較である。

それにしても、ヨーロッパまでクラングフィルムの聖地巡礼の旅に来て、超が付くウェスタン愛好家に出会うとは思わなかった。じつは、K氏宅へ来る途中のドイツ側でT氏のリスニングルームに立ち寄ったのだが、そこにもK氏製作の15Aによるシステムがあり、クラングフィルムのビオノアから切り替えつつあるという説明を受けていた。

わたしの周辺では、300BをやめてAD1やRV258などに切り替え、スピーカーも含めてドイツ系へ宗旨変えするという改革が盛んだが、マルチン・ルターによる宗教改革のお膝元では、逆にクラングフィルムからウェスタンへ宗旨変えする機運があるとは、なんともな複雑な印象を受けた。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10139&i=10217
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/208.html#c175

[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST 中川隆
6. 中川隆[-9531] koaQ7Jey 2019年6月18日 08:50:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2941]

KLANG-KUNST 2011年7月9日
(5月にドイツのヴィンティージ・オーディオ愛好家たちを訪ねた旅の記録)
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10139&i=10217


クレーンで吊り上げられたオイロパ・クラルトン


 さて、いよいよ今回の旅のメインとなる「オイロパ・クラルトン(EUROPA KLARTON)」の譲り受けである。オイロパ・クラルトンとは、故池田圭氏が「オイロッパ号」と呼んで愛蔵していたクラングフィルムの巨大なスピーカー「オイロパ」の後継モデルだ。

クラルトンになる前の「オイロパ」の最初のモデルである44007は、1931年かその翌年に登場したので、ウェスタン・エレクトリックの「ワイドレンジ・サウンド・システム」とほぼ同時期ということになる。

残念ながら44007は現存しないと思われるが、1933〜4年に登場した後期の「オイロパ」である44008は、池田氏のスタジオをはじめ世界に10台ほどはあると推測している。70 cmという巨大なウーファーにブラットハラー形ドライバー2台を組み合わせた、超弩級の劇場用スピーカーである。

ウェスタン・エレクトリックが3ウェイでワイドレンジ化したのに対し、こちらは2ウェイで十分な性能を確保していた。


 「オイロパ・クラルトン」は「オイロパ」のホーンを「クラルトン・ホーン」と呼ばれる、より長いものに変更したモデルで、ウーファーは共通だ。

初期形の44009はベルリンオリンピックが行われた1936年、後期形の44010はオリンピックを記録した映画「オリンピア」が公開された1938年の登場と思われるので、どちらも独裁政権のプロパガンダと深い関係がると考えざるを得ない。オーディオ機器というよりは、軍用品のような凄みを感じさせるモンスターだ。

写真のように梱包のためクレーンで吊り上げたとき、付属するロードセルの表示はちょうど200 kgであった。

今回入手したのは初期形の44009で、1台のみのモノラルである。


ドイツのオーソリティーの間で人気のビオノア


 大仕事のあとは南へと移動し、ハイデルベルクに近い町に住む旧知のC氏を訪問した。ドイツのオーディオ愛好家のなかでもオーソリティーといえる人たちは、なぜかオイロダインよりも写真のビオノア(BINOR)を好む傾向がある。家が大きくてリスニングルームが広いこともあるだろうが、巨大なホーンによる低音が魅力らしい。

高音用のホーンとドライバー、およびネットワークはアルニコのオイロダインと同じだが、ウーファーはKL-L405を2発組み合わせたKL-L501を大型の木製ホーンにマウントしたものになっている。


C氏はビオノアのアンプとしてF2a11シングル出力段のKL-V204を試したところ、低音がブーストされてしまってうまくないということだったので、F2a11のグリッド帰還回路の改造を勧めた。KL-V204は小さなバッフルのオイロダインの低音不足を補うのには都合がいいが、オリジナルのままビオノアでは低音がダブついてしまう。

15Aホーンのレプリカによる3ウェイシステム


 K氏は機械工場を経営するエンジニアで、驚くべき自作派だ。写真の15Aホーンのレプリカだけでなく、ドライバーの振動板からプレーヤーまでなんでも作ってしまう。

15Aのドライバーはオリジナルの555Wで、自作した真鍮製のスロートが見事だった。

ウーファーは奥にあって、ジェンセンかなにかだそうだが、現在コンクリートホーンのような巨大なものを準備中とのことであった。

ツィーターは珍しいアルニコ型の597で、フィールド型よりもかなり大きな十字形をした磁気回路をもつ不思議なユニットだ。

アンプには205Dプッシュプルの46のオリジナルを使用していて、「300Bプッシュプルの86よりも音がいい」という説明を受けた。


珍しいアルニコのWE597ツィーター


 わたしは就職した翌年に購入した15Aを30年近く所有していて、今でもシェラックのSP盤を再生するために愛用しているので、15A + 555Wの音を熟知しているつもりだ。どうやら、K氏の15AのほうがオリジナルよりもHiFiのようである。もちろん、ツィーター付き同士での比較である。

それにしても、ヨーロッパまでクラングフィルムの聖地巡礼の旅に来て、超が付くウェスタン愛好家に出会うとは思わなかった。じつは、K氏宅へ来る途中のドイツ側でT氏のリスニングルームに立ち寄ったのだが、そこにもK氏製作の15Aによるシステムがあり、クラングフィルムのビオノアから切り替えつつあるという説明を受けていた。

わたしの周辺では、300BをやめてAD1やRV258などに切り替え、スピーカーも含めてドイツ系へ宗旨変えするという改革が盛んだが、マルチン・ルターによる宗教改革のお膝元では、逆にクラングフィルムからウェスタンへ宗旨変えする機運があるとは、なんともな複雑な印象を受けた。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10139&i=10217

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html#c6

[近代史3] ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST 中川隆
8. 中川隆[-9530] koaQ7Jey 2019年6月18日 09:45:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2943]

KLANG-KUNST 音を決めるスピーカーの選び方 2016年12月


この記事を書くにあたって、秋葉原でショップ巡っての試聴もして来ました。しかし、肝心の聴きたい音が薄いくせに、耳障りな余分な音を出すスピーカーが多いように感じられてしかたありません。

新製品が出るたび「白さがちがう」のにいまだ汚れが残る洗剤のように、「革新的な進歩」を繰り返して歪みが減ったはずの最新スピーカーも、けっして無色透明な音ではありません。

それどころか、明らかに売るための色付けがしてあって、評判の良いスピーカーなのに気に入らないことが多々あります。自分の耳で判断して、気に入る音色のスピーカーを選びましょう。


1970年代はまた、芥川賞作家でオーディオの大家だったの五味康祐や、日本におけるオーディオ評論家の草分けだった池田圭など、偉い先生や魅力的な先生が誌面などで活躍していて、ときに迷著に振りまわされつつも、オーディオ愛好家にとって目指す道が見つけやすい時代でした。

ところが、1980年代以降はCDの登場によるデジタル化の反動もあってか、懐古趣味が強くなりすぎたり、観念的になりすぎたりして、オーディオの道が迷路になってしまいました。

昔はカセットデンスケからナグラのプロ用機器までが一筋につながっていたのが、今ではDAコンバータ基板など安価で高性能なデジテル機器で楽しむ世界と、高級ブランドの高価なオーディオの世界に分裂していて、お互いを否定しているかのようです。

数千円のDAコンバータ基板で良い音が出ていると思っている人たちからは、何百万円もするハイエンドオーディオ機器のオーナーが中身の無いものに大金を払った大まぬけに見えています。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10401&i=10403
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10401&i=10417

KLANG-KUNST 音を決めるスピーカーの選び方 2016年12月
https://www.klang.jp/index.php?ci=10401


いまどきは新品でいいものが見つからなければ、すぐに「ヤフオクで中古」という発想のようですが、一部の例外を除いて中古品は劣化しているスピーカーがほとんどなので、入門者にはお薦めできません。

実際、わたしもスペンドールというブランドのスピーカーをヤフオクで物色してみましたが、「こんな中途半端に古いものがそんなに高いの?」といった状況で、結局買いませんでした。

その代わり、eBayでジョーダンワッツという、若いころに興味があったスピーカーを買いました。はじめは入門者の参考例になると思っていましたが、スピーカーを海外から個人輸入のうえにアンプも特殊では入門にふさわしくないので、その一件は別の記事でご紹介することに変えました。


 もし、あなたが過去に欲しかったスピーカーがあってネットオークションで再会し、ダメ元で購入するというのなら悪くないと思います。つまり、ネットークションを本当に楽しめるのは、オーディオのベテランや、かつて楽しんでいた人です。そういうなかに、音楽を聴く時間よりもネットで物色している時間の方が長い人が増えているのは困りものですが、それほど魅力的なのは確かなので、「入門者だが、どうしても」という人は、自作用の安価なスピーカーユニットをネットオークションで購入してみてはいかがでしょうか。

敷居の高い超専門店で買う


初めから超専門店などで究極のスピーカーを購入するという選択肢もあります。

 車でいえばレクサス○△店やポルシェセンター○×といった程度の敷居の高さではなく、もっとアンフレンドリーなショップのことです。オーディオでは多少の怪しさも手伝って、かなり入りにくいショップがあり、案外そういうところが生き残っている傾向にあります。そんな超専門店では、高価なハイエンド装置や、珍しいヴィンテージ機器などが売られています。

少年時代に読んだあるオーディオ雑誌に、たしか「50万円以内でオーディオ再生装置一式をそろえる」といったような記事がありました。スピーカーに半分の25万円、アンプとプレーヤー(当時はアナログ)に4分の1づつといったバランスのとれた組み合わせが紹介される中に、ルボックスというスイス製の高価なオープンリールテープ録音機とヘッドホンだけを購入し、友達の装置で再生してもらった音楽を録音して楽しむという過激なプランがありました。

これは最終的な数百万円の再生装置を構成する機器を、買い替えることなく順番に買っていくという遠大な計画で、ルボックスは最後までメインの録音機として活躍することになります。

 わたしはグレードアップと対極の発想に衝撃を受け、無理をしてQUADというイギリス製の、それもヴィンテージな真空管アンプを購入しました。しかし、QUADのアンプを長くは使いませんでした。自分にとっての最終的な装置が変わってしまったからです。このように、初めから究極のスピーカーを購入することは、一見無駄がないようでいて大金を費やすことになりがちです。それでも、趣味人は自分にとっての究極を探し求めてしまうものです。

高い志をもって、いきなり究極のスピーカーを購入するばあいの例(オイロダイン KL-L439)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10418_804.jpg

 上の写真はそんな人向けの例で、オイロダインというドイツ製のヴィンテージスピーカーを、ミニコンポのセンターユニットと組み合わせるプランです。スピーカーに予算の約99 %、それ以外に1 %の配分になります。予想外にまともな音が出ますし、歴史の重みを感じる逸品の魅力は絶大ですが、お薦めはできません。入門者には無縁のパターンをご紹介してしまいましたが、「必ず買い替えるので無理のないように」ということをお伝えしたかったのです。

 さらに過激な選択肢として、使っている人がほとんどいない珍品スピーカーの購入や、前例のないような独創的なスピーカーの制作といった苦難の道があります。


泥沼で苦労したい人のための一筋縄ではいかないスピーカーの例(オイロパ・ユニア)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10418_805.jpg

上の写真は1935年ごろにドイツで製造され、ナチスのプロパガンダ映画の上映にも用いられた「オイロパ・ユニア(EUROPA JUNIOR)」というスピーカーです。

第二次対戦による破壊でほとんどが失われてしまったため、入手には大変な努力が必要です。もちろん執筆時点で販売しているショップはありませんし(筆者調べ)、最近では海外のネットオークションにも出品されなくなりました。ドイツに行って愛好家巡りをすれば、所有している人は何人かいるでしょうが、わたしの知る限り譲る気の無い人ばかりです。

 さらに、苦労して入手したからといって、まともな音が出るとは限りません。

ウェスタンエレクトリックというメーカーの第二次世界大戦前を中心に映画館で用いられた製品もそうですが、こういうスピーカーには骨董品の壺や名画のようなところがあり、うかつに手を出すと痛い目にあいます。

大金をつぎ込んで時間をかけて、やっとのことで装置を整えても、往々にして不具合が発生し、複雑な分解調整やら入手困難な部品やらで音が出ない状態に陥ってしまいます。自分も時々そうなるので、反省しなければいけません。音が出ないのでは音楽が聴けませんから、どんな安物の再生装置にも劣る最悪のシステムです。

そういうわけで、入門者が第一に避けるべきプランですが、インターネット上にある大家とおぼしきオーディオ愛好家の情報には、このようなスピーカーが登場しがちなので、驚いて欲しくなったりしないように書きました。

おすすめのパターンは?

フルレンジスピーカーユニットの例(旧東ドイツRFT製のダブルコーン10インチ)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10418_806.jpg


 いろいろなパターンをご紹介しましたが、本当に選択肢が広く、結局「いろいろ聴いて気に入ったものを選ぶ」ということに尽きます。無難なところでは、ある程度のお金を出して新品のスピーカーを買うか、安価なスピーカーユニットで自作するということになります。

「これ!」というスピーカーに出会えないのなら、まずは安価なフルレンジスピーカーユニットから始めましょう。自作が面倒なら、フルレンジスピーカーユニットが箱に入った安いスピーカーを買うのでもいいと思います。

 失敗しても損害は大きくありませんから、日本製、アメリカ製、ヨーロッパ製と順番に3組買ってみれば、国による音の違いが分かると思います。簡単な箱でいいので比較しながら聴いて楽しめば、それがオーディオ入門者の王道かもしれません。

そうやって聴くうちに、「このCDはこのスピーカーが合う」といった相性が分かってくると思います。いろいろな録音、いろいろな音楽を聴くうちに、「CDや音楽ファイルなどに入っている音を、そのまますべて出せるだけでは理想の再生装置ではない」という、オーディオの真髄が理解できると思います。
https://www.klang.jp/index.php?ci=10401


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html#c8

[リバイバル3] 中古オーディオ販売店 中川隆
21. 中川隆[-9529] koaQ7Jey 2019年6月18日 09:46:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2944]
KLANG-KUNST 音を決めるスピーカーの選び方 2016年12月


この記事を書くにあたって、秋葉原でショップ巡っての試聴もして来ました。しかし、肝心の聴きたい音が薄いくせに、耳障りな余分な音を出すスピーカーが多いように感じられてしかたありません。

新製品が出るたび「白さがちがう」のにいまだ汚れが残る洗剤のように、「革新的な進歩」を繰り返して歪みが減ったはずの最新スピーカーも、けっして無色透明な音ではありません。

それどころか、明らかに売るための色付けがしてあって、評判の良いスピーカーなのに気に入らないことが多々あります。自分の耳で判断して、気に入る音色のスピーカーを選びましょう。


1970年代はまた、芥川賞作家でオーディオの大家だったの五味康祐や、日本におけるオーディオ評論家の草分けだった池田圭など、偉い先生や魅力的な先生が誌面などで活躍していて、ときに迷著に振りまわされつつも、オーディオ愛好家にとって目指す道が見つけやすい時代でした。

ところが、1980年代以降はCDの登場によるデジタル化の反動もあってか、懐古趣味が強くなりすぎたり、観念的になりすぎたりして、オーディオの道が迷路になってしまいました。

昔はカセットデンスケからナグラのプロ用機器までが一筋につながっていたのが、今ではDAコンバータ基板など安価で高性能なデジテル機器で楽しむ世界と、高級ブランドの高価なオーディオの世界に分裂していて、お互いを否定しているかのようです。

数千円のDAコンバータ基板で良い音が出ていると思っている人たちからは、何百万円もするハイエンドオーディオ機器のオーナーが中身の無いものに大金を払った大まぬけに見えています。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10401&i=10403
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10401&i=10417


KLANG-KUNST 音を決めるスピーカーの選び方 2016年12月
https://www.klang.jp/index.php?ci=10401


いまどきは新品でいいものが見つからなければ、すぐに「ヤフオクで中古」という発想のようですが、一部の例外を除いて中古品は劣化しているスピーカーがほとんどなので、入門者にはお薦めできません。

実際、わたしもスペンドールというブランドのスピーカーをヤフオクで物色してみましたが、「こんな中途半端に古いものがそんなに高いの?」といった状況で、結局買いませんでした。

その代わり、eBayでジョーダンワッツという、若いころに興味があったスピーカーを買いました。はじめは入門者の参考例になると思っていましたが、スピーカーを海外から個人輸入のうえにアンプも特殊では入門にふさわしくないので、その一件は別の記事でご紹介することに変えました。


 もし、あなたが過去に欲しかったスピーカーがあってネットオークションで再会し、ダメ元で購入するというのなら悪くないと思います。つまり、ネットークションを本当に楽しめるのは、オーディオのベテランや、かつて楽しんでいた人です。そういうなかに、音楽を聴く時間よりもネットで物色している時間の方が長い人が増えているのは困りものですが、それほど魅力的なのは確かなので、「入門者だが、どうしても」という人は、自作用の安価なスピーカーユニットをネットオークションで購入してみてはいかがでしょうか。


敷居の高い超専門店で買う


初めから超専門店などで究極のスピーカーを購入するという選択肢もあります。


 車でいえばレクサス○△店やポルシェセンター○×といった程度の敷居の高さではなく、もっとアンフレンドリーなショップのことです。オーディオでは多少の怪しさも手伝って、かなり入りにくいショップがあり、案外そういうところが生き残っている傾向にあります。そんな超専門店では、高価なハイエンド装置や、珍しいヴィンテージ機器などが売られています。


少年時代に読んだあるオーディオ雑誌に、たしか「50万円以内でオーディオ再生装置一式をそろえる」といったような記事がありました。スピーカーに半分の25万円、アンプとプレーヤー(当時はアナログ)に4分の1づつといったバランスのとれた組み合わせが紹介される中に、ルボックスというスイス製の高価なオープンリールテープ録音機とヘッドホンだけを購入し、友達の装置で再生してもらった音楽を録音して楽しむという過激なプランがありました。

これは最終的な数百万円の再生装置を構成する機器を、買い替えることなく順番に買っていくという遠大な計画で、ルボックスは最後までメインの録音機として活躍することになります。

 わたしはグレードアップと対極の発想に衝撃を受け、無理をしてQUADというイギリス製の、それもヴィンテージな真空管アンプを購入しました。しかし、QUADのアンプを長くは使いませんでした。自分にとっての最終的な装置が変わってしまったからです。このように、初めから究極のスピーカーを購入することは、一見無駄がないようでいて大金を費やすことになりがちです。それでも、趣味人は自分にとっての究極を探し求めてしまうものです。


高い志をもって、いきなり究極のスピーカーを購入するばあいの例(オイロダイン KL-L439)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10418_804.jpg


 上の写真はそんな人向けの例で、オイロダインというドイツ製のヴィンテージスピーカーを、ミニコンポのセンターユニットと組み合わせるプランです。スピーカーに予算の約99 %、それ以外に1 %の配分になります。予想外にまともな音が出ますし、歴史の重みを感じる逸品の魅力は絶大ですが、お薦めはできません。入門者には無縁のパターンをご紹介してしまいましたが、「必ず買い替えるので無理のないように」ということをお伝えしたかったのです。


 さらに過激な選択肢として、使っている人がほとんどいない珍品スピーカーの購入や、前例のないような独創的なスピーカーの制作といった苦難の道があります。

泥沼で苦労したい人のための一筋縄ではいかないスピーカーの例(オイロパ・ユニア)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10418_805.jpg


上の写真は1935年ごろにドイツで製造され、ナチスのプロパガンダ映画の上映にも用いられた「オイロパ・ユニア(EUROPA JUNIOR)」というスピーカーです。

第二次対戦による破壊でほとんどが失われてしまったため、入手には大変な努力が必要です。もちろん執筆時点で販売しているショップはありませんし(筆者調べ)、最近では海外のネットオークションにも出品されなくなりました。ドイツに行って愛好家巡りをすれば、所有している人は何人かいるでしょうが、わたしの知る限り譲る気の無い人ばかりです。

 さらに、苦労して入手したからといって、まともな音が出るとは限りません。

ウェスタンエレクトリックというメーカーの第二次世界大戦前を中心に映画館で用いられた製品もそうですが、こういうスピーカーには骨董品の壺や名画のようなところがあり、うかつに手を出すと痛い目にあいます。

大金をつぎ込んで時間をかけて、やっとのことで装置を整えても、往々にして不具合が発生し、複雑な分解調整やら入手困難な部品やらで音が出ない状態に陥ってしまいます。自分も時々そうなるので、反省しなければいけません。音が出ないのでは音楽が聴けませんから、どんな安物の再生装置にも劣る最悪のシステムです。

そういうわけで、入門者が第一に避けるべきプランですが、インターネット上にある大家とおぼしきオーディオ愛好家の情報には、このようなスピーカーが登場しがちなので、驚いて欲しくなったりしないように書きました。


おすすめのパターンは?

フルレンジスピーカーユニットの例(旧東ドイツRFT製のダブルコーン10インチ)
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10418_806.jpg


 いろいろなパターンをご紹介しましたが、本当に選択肢が広く、結局「いろいろ聴いて気に入ったものを選ぶ」ということに尽きます。無難なところでは、ある程度のお金を出して新品のスピーカーを買うか、安価なスピーカーユニットで自作するということになります。

「これ!」というスピーカーに出会えないのなら、まずは安価なフルレンジスピーカーユニットから始めましょう。自作が面倒なら、フルレンジスピーカーユニットが箱に入った安いスピーカーを買うのでもいいと思います。

 失敗しても損害は大きくありませんから、日本製、アメリカ製、ヨーロッパ製と順番に3組買ってみれば、国による音の違いが分かると思います。簡単な箱でいいので比較しながら聴いて楽しめば、それがオーディオ入門者の王道かもしれません。

そうやって聴くうちに、「このCDはこのスピーカーが合う」といった相性が分かってくると思います。いろいろな録音、いろいろな音楽を聴くうちに、「CDや音楽ファイルなどに入っている音を、そのまますべて出せるだけでは理想の再生装置ではない」という、オーディオの真髄が理解できると思います。
https://www.klang.jp/index.php?ci=10401

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/834.html#c21

[リバイバル3] 中古オーディオ販売店 中川隆
22. 中川隆[-9528] koaQ7Jey 2019年6月18日 09:56:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2945]
クラング・クンスト ヴィンテージ愛好家の最新スピーカー試聴記 2016年4月
https://www.klang.jp/index.php?ci=10139

1945年から1983年まで38年間も製造されたオイロダインスピーカー
https://www.klang.jp/s/file/0000/000/000/104/10428_801.jpg


 先日、じつに久しぶりに秋葉原に出向き、いろいろな最新スピーカーを試聴したことについて書く。ご存じのように、わたしはオイロパやオイロダインといったクラングフィルムのヴィンテージスピーカーを使っている。ウェスタンエレクトリックも含めると同好の仲間は大勢いて、我らヴィンテージ愛好家はオーディオにおける大派閥だ。そんな連中はB&Wなどの最新スピーカーには目もくれず、「あんなキンキンシャカシャカしたスピーカーはオモチャですよ」といった調子だ。

 だが、古い機器に囲まれて何十年もいると、ふと、「世間は文明化して洋服なのに自分だけ貫頭衣というように、取り残されているのではないか?」、「自分だけ古墳時代?」などと思うことがある。最新スピーカーの宣伝文句には「革新的な進歩」、「これまでにない完璧なサウンド」などという文句が踊っていて、「劣った昔のスピーカーなど粗大ごみにしてサッサと買い替えましょう」と言わんばかりだ。もちろん、アンプにも同様なことがいえるが、スピーカーほど極端な音の差は無いだろう。

 筋金入りのヴィンテージオーディオ愛好家のなかには、装置があまりに大げさなので「それではナローレンジ過ぎませんか?」と心配すると、「どうせ耳が悪いので分かりません」とか、「音楽は聞きませんから」などど豪語する人もいる。わたしも裸の王様になってはまずいので、自分の耳で最新スピーカーを確認してみることにした。若いエンジニアのK君と「肉の万世」前で待ち合わせの約束をして出向くと、そこはコインパーキングになっていた。まったくの浦島太郎だ。「肉の万世」は万世橋の向こう岸に移転していたが、ハンバーグの味は変わっていなかった。


ずいぶんと前にオーディオの街ではなくなっている秋葉原


 試聴には「西脇義訓指揮、デア・リング・オーケストラ」による「英雄交響曲」のSACDと、「フェリシティ・ロット(ソプラノ)」による「シューマン歌曲集」のCDを持参した。最新スピーカーに合わせた新録音と、聴きなじんだ歌という組み合わせだ。「革新的な技術によって歪がなくなったはずのニューモデルは、さぞかしピュアな音を聴かせてくれるにちがいない」と期待しつつ、複数のショップでかなりの数のスピーカーを聴いた。

 大型量販店でぶらぶらしながらJBLやタンノイの小型モデルが鳴っている音を聴いたが、それらは改めて試聴したいと思うほどではなかった。開発中のDAコンバーターを現在のベストセラースピーカーで鳴らすと、いったいどんな音が出るのか確認してみる必要があると思っていたので、まずはB&Wの試聴を申し込んだ。トヨタ車のような絶対的優越性があるとされ、驚くほど売れているらしい。

 まず、安価な600シリーズを聴いたところ、無理して上位機と同じツィーターにしたために中国で製造してもコストに無理があるのか、長岡鉄男流に重量ブロックでも乗せないと箱が厳しいと感じた。だが、それでは都会にふさわしいコンパクトなデザインが台なしになってしまう。いまのように高価で豊富なオーディオアクセサリー製品が無かった昔は、愛好家の必需品といえば重量ブロックやレンガ、ブチルゴムシートなどであった。いやはやダサいが、いまでも効果のあるアクセサリー群だ。

 その上のCMシリーズには重量ブロックが必要なさそうだったが、期待していたようなピュアな音ではなかった。きっとうまくマーケッティングをして、「B&Wの音」を作っているのだろう。無色透明どころか、「下手をするとオイロダインより癖が強いのでは?」と思う瞬間もあった。CM1S2やCM5S2といった2ウェイはとてもコンパクトなので、英雄交響曲で低音が貧弱なのはしかたないが、高音が重要な弦の広がりや管の輝きも「これぞ最新スピーカー!」というほどではなかった。試聴の前にアンプをどれにするか問われたので、「できるだけニュートラルなもので」と所望したところ、LUXMANの純A級動作プリメインアンプL-550AX(たぶん)を使ってくれたが、低能率の小型スピーカーにはパワー不足だったかもしれない。


購入したB&WのCM1 S2


 CM9S2やCM10S2といった3ウェイは箱が大きいので低音は2ウェイよりまともだった。それだけでなく、高音も2ウェイより鮮やかに聴こえた。こういう「これみよがし」の高分解能を最新モデルに期待していたので、「試しに手頃なCM9でも買ってみようか」などと気をよくした。だが、ソプラノを聴いてみると、なんとも人工的な声でがっかりした。それをK君に小声で伝えると、「世の中アニソン(アニメーション漫画のソング)のほうがメジャーですから」と返されてしまった。もう一度2ウェイに戻してもらってソプラノを聴くと、今度は2ウェイのほうが3ウェイよりもまともだった。70センチウーファーを使っているわたしは、「こんなに小さなウーファーでも2ウェイと3ウェイで一長一短があるのか」と感心してしまった。

 ダイヤモンド・ドーム・ツィーターを使用した800シリーズも、2店舗で3機種を試聴した。たしかに歪は少なそうだったが、音の肌触りが異質でなじめなかった。「優れて異なる」ということかもしれないが、先入観も含め、ダイヤモンドの物性が特異であることが音の印象に影響してしまっていた。以上のようにネガティブな評価も正直に書くが、キチガイじみた大型スピーカーを使っている変人の感想なので、関係諸氏には広い心でご容赦いただきたい。

 店員に「B&Wの音はちょっと派手で不自然に感じる」と伝えると、2番目に売れているというFOCALのスピーカーを聴かせてくれた。たしかに音は柔らかかったが、どこか音が薄められているようで中途半端に思えた。DALIなど、ほかに聴かせてもらった売れ筋スピーカーも印象に残らなかった。好みではないが、「なるほど、B&Wの音はうまく作ってある」と感心した。ハズレが続いて疲れたので、懐かしの名機BC IIのおかげで好印象なスペンドールを聴かせてもらった。最小モデルのSP3/1R2でも、どことなくBC IIらしい上品な音がしたので、やはり伝統というものは大切だと思ったが、高音寄りのバランスが気になった。中型のSP1/2R2にしてもらっうと、バランスは少し良くなったが、価格が立派すぎる。

 なかなか思うようなスピーカーは無いものだと思いつつ、売れ筋スピーカーの最後にドイツのELACを2機種聴いた。UボートのソナーとMMカートリッジで有名な老舗の音響機器メーカーだ。ちょっとやかましいところもあったが、「最新スピーカー」らしい分解能があるのに、フェリシティ・ロットの声もギリギリで別人にはならなかったので、「これならアンプやセッティングでなんとかなるかな」と思った。


ELACのBS192


 帰りがけにふらりと立ち寄った試聴室で思わぬ発見をした。イギリスはATCのスピーカーである。今回の試聴で、はじめて「ニュートラルな音」だと感じた。悪くいえばつまらない音かもしれないが、英雄交響曲もロットの声も、これといった欠点なく正確に再生した。聴いたのはペアで200万円以上もする大型のスタジオモニターだったので、気軽には買えない。家に帰って調べてみると、20万円前後の小型モデルもあった。かなり能率が低くて手こずりそうだが、それらATCの2機種とELACのBS192を仕入れてみることにした。また、最も多く聴かせてもらったダイナミックオーディオさんに感謝して、CM1S2を購入させていただいた。B&Wはダイナミックオーディオさんが実績豊富で価格も安い。

 夕食の後、K君の家でクラングフィルムのオイロダインKL-L439を聴いた。「なんと、ATCのスピーカーによく似た音ではないか」と、K君と顔を見合わせた。オイロダインは能率がはるかに高いせいか、高音に抑えきれない冴えがあってATCほど透徹な音ではないが、60年という製造年の隔たりを考えれば、両者は同じ方向を目指して作られたようにすら思える。

 スピーカーの能率が低いということは、非効率な低音に合わせて中高音を下げたりダンプしたりなどで音量を抑えてある状態なので、アンプでいえば負帰還でゲインを下げてあることに近い。同じアンプの無帰還か低帰還版がオイロダインで、高帰還版がATCといえば音の傾向を理解していただけるだろうか

 「オイロダインオーナーのみなさん、安心してください。オイロダインは2016年現在の最新スピーカーと比較しても、十分にバランスのとれた正確な音を出していることが確認できました。いったい、繰り返されたスピーカーの革新的進歩とは何だったのでしょうか?」

 今回の体験で、最新スピーカーの音がけっして無色透明でニュートラルな方向ではないことが確認できた。技術が進歩して歪が無くなれば、どのスピーカーも同じ音になるというわけにはいかないようだ。安価な製品の巧妙なマーケッティングから富裕層向け製品の大げさな演出まで、じつにたくましくやっている。実用的なラウドスピーカーの登場から約100年が経つが、黎明期に科学的であったスピーカー開発が、年々売るための開発にシフトしているといった印象だ。

 とはいえ、全員にオイロダインをお薦めするわけにはいかないし、そもそも入手困難になってしまっている。「もうオーディオは終わった」などというヴィンテージ大家ほどは老いていないつもりなので、いま楽しめる方法を考えてみたい。幸い、小型スピーカーの一部に可能性を見い出せそうなので、それらと手頃なヴィンテージスピーカーの両方を所有することで、オイロダインと同等以上に音楽が楽しめるるかもしれない。その実験がしたくて数機種を手に入れることにしが、ATCは納期が長く、しばらく待たなければならない。

 じつは、オイロダインを戦前の強烈な個性をもつヴィンテージスピーカーと比較すると、まともすぎて平凡に聴こえるくらいだ。そういう立派なヴィンテージスピーカーのオーナーも、最新の小型スピーカーで遊んでみてはいかがだろうか。どっちみちデジタルオーディオで新しい機器と取り組まざるをえないのだから、お使いの出力管1本の価格で買える最新スピーカーで、オーディオの幅を広げるのは悪くないと思う。
https://www.klang.jp/index.php?ci=10139

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/834.html#c22

[近代史3] 日本は憲法9条を変える必要は無い _ 中国は台湾と戦争できるか? 弱い犬ほど良く吠える 中川隆
1. 中川隆[-9527] koaQ7Jey 2019年6月18日 10:19:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2946]
北アメリカとヨーロッパの大衆:いいかげんに目を覚ませ、まったく!
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-c8e4a5.html
2019年6月17日 マスコミに載らない海外記事


Andre Vltchek
2019年6月6日
New Eastern Outlook

 毎年、毎月、私は世界の両側を見ている。ますますかけ離れてゆく二つの両極端を。

 シリアのホムスのような偉大な都市がぞっとするほど崩壊されたのを見る。アフガニスタンのカブールやジャララバードが、NATO占領軍と彼らの現地の傀儡を守るのを意図した巨大なコンクリートの壁で分断されているのを見る。インドネシアのボルネオや、金を採掘しているペルーの町や、今やほとんど住めなくなったオセアニアの環礁島諸国のツバルやキリバスやマーシャル諸島で恐ろしい環境破壊を見る。

 公衆衛生設備や清浄な飲料水が欠如しているスラムを見るが、そこでは欧米帝国の長靴が現地文化を打ち壊し、人々を奴隷にして、自然資源を略奪しているのだ。

 私はすべての大陸で働いている。極度の疲労に打ちのめされている時でさえ、ほとんど何の蓄えも残っていない時でさえ、私は決して止めない。私は止めることができない。とうとう行動様式が見えるようになったので、私には止める権利がないのだ。この世界の動き方、欧米が世界の大部分の国を強奪し、洗脳し、奴隷にしに成功していた方法を。私は私の知識をまとめ、「世界への警告」として出版するのだ。

 私はこの「行動様式」についての本を書いた。これまでで私の最も包括的な、厚さ1000ページの「Exposing Lies of The Empire(帝国の嘘をあばく)」だ。

 そして、私は欧米そのものを見る。

 私は「講演」のため、ヨーロッパ同様、カナダやアメリカにも行く。時にはオーストラリアの聴衆に講演するよう依頼される。

 破壊された人々や略奪された大陸と比較すると欧米は法外なほど金持ちなので、まるで地球に属していないかのように思えることが多い。

 のんびりした怠惰な日曜午後のローマのヴィラ・ボルゲーゼ散歩と、ナイロビのマザレ・スラム恐怖の通り抜けは、全く別の二つの現実、二つの異なる銀河系に存在していて不思議はないものだ。

 今も「ヴィラ・ボルゲーゼ」の綴りをちょっと間違っただけで、Macはすぐ正解を教えてくれた。ヴィラ・ボルゲーゼが存在しているからだ。一方、正しく綴った「Mathare」には赤く下線を引かれてしまった。Mathareは「間違い」なのだ。なぜならそれは存在しないから。約百万人の男性と女性と子供がそこに住んでいるにもかかわらず、それは存在しないのだ。欧米で私のマックブックプロによっても、比較的十分教育を受けた読者の大多数によっても認識されないのだ。

 実際、ほとんど世界全体が、ニューヨークやベルリンやパリから見た場合、一つの大きなエラー、非実在のように思われる。

 私は欧米の大衆の前で講演する。そう、頻度は減っているが、時々講演している。

 率直に言って、ヨーロッパや北アメリカの聴衆と対面するのは憂うつで屈辱的に思える。

 それはこういうことだ。「真実を語ること」世界中で目撃したことを語るよう招かれるのだ。

 良く暖房されたり冷房されたりしている家で美味しい夕食を食べた後、快適な自動車で到着したばかりの男性や女性に対面して私は立っている。私は有名な著者で映画製作者かもしれないが、どういうわけか、彼らは私を乞食のように感じさせるのだ。なぜなら私は「乞食」たちのために話をするために来たのだから。

 全てが洗練されて、振り付けられている。私はどんな「流血シーン」も見せないことになっている。私は「公人の名」を出さない。壇上では悪態をつかず、酔わず、視界に入っている人々侮辱しないのだ。

 通常直面するのは、かなり頑固かか、少なくとも「かたくなな」聴衆だ。

 最近、南カリフォルニアで、仲間の哲学者と友人に彼の同僚の小さい集会で話をするよう頼まれた際、私がシリアのイドリブ近くの前線における状況を説明していると、何人かの人々が携帯電話をいじっていた。私の話は彼らの大部分にとって「耳に心地良いBGM」にすぎないと感じた。テレビインタビューで何百万人もの人々に語る際は、少なくとも、大衆には会わずに済む。

 欧米で「講演する」際は、実際、彼らの国が犯している大量殺人や大量虐殺に少なくとも部分的には責任がある男性や女性に語るのだ。他の人々が強奪され、屈辱を受け、しばしば強姦さえされているがゆえに、生活水準が理不尽にも高い男性や女性だ。だが彼らの目は謙虚ではない。彼らは私に詰め寄り、私がするかもしれない間違いを待ち構えていて、こう結論するのだ。「彼はフェイクニュースだ」。彼らにとって私は「存在している」人々と存在しない人々の橋ではない。彼らにとって私は、エンタテイナー、芸人、あるいは多くの場合、厄介ものだ。

 私の聴衆の多くにとって、欧米がくり広げる戦争やテロについてについて学ぶのは、オペラ公演や交響曲コンサートとは違う別の種類の贅沢な、レベルの高いエンターテイメントなのだ。大半はそうしたがらないが、もし必要なら、彼らは代金さえ払えるのだ。刺激的な経験をした後、彼らはいつもの暮らし、保護された優雅な生活に戻る。一方私は、翌日、違う現実、前線に、埃と窮乏へと戻る飛行機に乗っていることが多い。

 彼ら、私の聴衆(現実に直面しよう。読者の大部分でもあるのだ)は彼らがどれほど「偏見がない」か示すためにやって来るのだ。彼らは自分のライフスタイルを損なないようにしながら、私から「学び」「教養を身につける」のだ。彼らの大半は、私のような直接体験なしで、その全てを知っているつもりになり、大学なり劇場なり、どこであれ、彼らの前に私を招き、彼ら自身も無理やりやって来て、私に情け深い恩恵を施しているのだ。彼らは私の戦いに対する支援は言わない。彼らはどんな戦いにも加わらない。彼らは善良な平和主義の勤勉な人々だ。それだけだ。

 1930年代後期のドイツ人のようだ。独善的で勤勉な人々だ。彼らの大部分がペットを愛し、ごみをリサイクルする。そしてスターバックスで後片付けする。

 数日前、我々はベネズエラでクーデターを止めた。私は破壊されたボルネオ島の奥深くにいたが、私はRTやPress TVで何百万人かに向けてインタビューをしていたので、我々という言葉を使った。そこでさえ私は、書くこと、ツイートを決して止めず、必要とあらば、いつでも全てを置いて、カラカスに飛ぶ用意ができていた。

 ベネズエラを守ること、そこで革命を守ることは極めて重要だ。欧米の命令に降伏するのを拒否している他の革命的な勇敢な国々、シリア、キューバ、ロシア、中国、北朝鮮、イラン、ボリビア、南アフリカを守ることは極めて重要だ。

 カラカスにまつわるイデオロギーの戦いが猛威を振るう中、私は考えていた。欧米の大衆を行動させることができるものが、まだ何かがあるのだろうか?

 彼ら、ヨーロッパ人と北アメリカ人は、自身の罪に対して全く無関心になってしまったのだろうか? 彼らは何か感情的な免疫ができてしまったのだろうか? 彼らの状態は、イデオロギー上の問題なのか、それとも病気の問題なのだろうか?

 我々は実に露骨なクーデターのさなかにいたのだ。地球で最も民主的な国の一つを打倒する欧米による企み。それなのに彼らのワシントンやマドリッド政権が行っているテロを止めるため、彼らは何もしなかったのだ! 少なくとも、1965年のインドネシアで、あるいは1973年のチリでは、欧米政権は、見え透いた口実を使ってごまかそうとしていた。少なくとも、ムジャヒドを作り出して、社会主義アフガニスタンと共産主義ソ連を破壊しながら、欧米は少なくとも部分的には自分たち本当の役を隠そうとして、パキスタンを代理に使っていた。少なくとも、イラクで百万人以上の人々を殺しながら、へたな芝居や「大量虐殺兵器」に関する山ほどの嘘をついていた。少なくとも、少なくとも…

 今はもうまったく見え見えだ。シリアで、ベネズエラで。北朝鮮、キューバ、イラン、中国、ロシアに対しても。

 もはやプロパガンダさえ必要でないかのように、欧米政権の計画に対して、欧米の大衆は全く脅威にならず、完全に従順になったかのように。

 あるいは、より正確には、かつて手が込んでいた欧米のプロパガンダが、極端に単純になったのだ。今は嘘を繰り返すだけで、欧米諸国民の大多数は自分たちの政府が世界で何をしているか疑おうとしさえしないのだ。唯一問題になるのは「国内問題」だけなのだ。つまり欧米諸国民の賃金と手当だ。

 ベトナム戦争当時のような暴動はない。今の暴動はヨーロッパ人労働者のより良い福祉のためだけだ。国外での略奪や、非西側諸国に対するNATOによるテロ攻撃や、無数のNATO軍事基地や、侵略やクーデター画策を止めるために、欧米では誰も戦っていない。

 欧米の大衆は、更にどこまで耐えられるのだろう?

 それとも、絶対的に全てに耐えることができるのだろうか?

 彼らはベネズエラやキューバへの、あるいは両国への直接侵略を容認するのだろうか?彼らは、ごく一例をあげれば、既に最近の歴史で欧米が犯したテロ行為、ユーゴスラビア、イラク、アフガニスタン、リビアやシリアへの直接介入や破壊を受け入れている。

 更にどれだけ多くのものを受け入れるのだろう? 対イラン攻撃は受容できるのだろうか? 例えば、200-300万の死者を?

 あるいは、北朝鮮だろうか? 更に数百万人の、死体の新しい山?

 私は尋ねている。修辞疑問ではない。私は本当に知りたいのだ。世界は知らなければならないと私は信じている。

 欧米の大衆はISIS (あるいはIS、あるいはダーイシュ)のレベルに達してしまったのだろうか? それほど独善的に、それほど狂信的に、自身の例外主義を確信していて、もはや、明晰に考え、分析し、判断することができないほどなのだろうか?

 ロシアや中国、あるいは両国を第三次世界大戦に駆り立てることが、バイエルンやサウスカロライナやオンタリオに暮らす人々に受け入れられるのだろうか?

 そして、もしイエスなら、彼らは全員正気を失っているのだろうか?

 もし彼らが正気を失っているのなら、世界が彼らを止めるべきなのだろうか、一体どのようして?

 私は欧米の狂気の限界を知りたいと思う。

 狂気があるのは明白だが、それはどれほど大規模なのだろう?

 私は分かっている。フランス人、アメリカ人、カナダ人、イギリス人やドイツ人が何人についてくそったれに彼らが中東や東南アジアやアフリカや「そのような場所」で何百万人もの罪がない人々を殺すことについて全く気にしていないという怪物のような事実を私は受け入れている。彼らがその植民地の歴史についてほぼ何も知らず、彼らは、サッカー試合が見られ、たくさんの肉と6週間の休暇を異国情緒の海岸で楽しめる限り、何も知りこくはないのを私は受け入れる。欧米が行った恐ろしい犯罪を知っている人々の多数さえもが、決して、決してそれを、彼ら自身のせいではなく、欧米が何世紀にもわたり行ってきた略奪の上に成り立っている自分たちの文化にではなく、中東の前哨基地であるイスラエルではなく、全てロスチャイルドや「シオニスト陰謀」のせいにしたがるのを私は知っている。

 しかし我々の地球の存続と、人類の存続はどうなるのだろう?

 私は私の「戦闘のプレゼンテーション」を聞きに来る人々の目を想像する。私は彼らに真実を話す。私は全てを語る。私は決してはばかることはしない。決して妥協しない。私は彼らに彼らが解き放った戦争の画像を見せる。そう彼らだ。市民は自身の政府に対して責任があるのだから、明らかに集団的犯罪や連帯責任と呼ばれるものがあるのだから!

 あの目、あの顔。そこに私が見るものをお話ししよう。彼らは決して行動するまい。彼らは決して彼らの政権を打倒しようとするまい。彼らが恵まれた生活を送れる限り。彼ら自身がエリートであるシステムが、少なくとも現在の形で生き残る何らかの可能性があると思う限り。彼らは両方の方法でそれを演じる、彼らの一部はそうする。口頭で、彼らはNATOに、欧米帝国主義や野蛮な資本主義に激怒する。実際は、彼らは体制と戦うために、具体的なことは何もしない。

 すると結論は何だろう? もし彼らが行動をしないなら、他の人々がそうしなければならない。そして私は確信している。彼らはそうするはずだ。

 500年以上にわたり、極端に攻撃的な欧米諸国の小さな集団に世界全体が炎に包まれ、略奪され、殺されてきた。これは事実上、絶え間なく続いてきた。

 もはや誰も、それが面白いことだとは思わない。私が働く場所、私が気にかける場所では、誰もこの種類の世界を望んでいない。

 今ベネズエラを破壊しようとしている国々をご覧願いたい。しっかりご覧願いたい! 彼らはアメリカ、カナダ、大多数のヨーロッパと、主にそれらヨーロッパ植民地主義者の子孫が多数派を形成している南米諸国だ!

 我々は更に500年、これを望むのだろうか?

 北アメリカ人とヨーロッパ人は間もなく目覚めなければならない。ナチス・ドイツにおいてさえ、ヒトラーに強い嫌悪の念を抱いて、彼を排除したいとを望んだ兵士がいたのだ。今、欧米には、500年にわたる欧米植民地主義略奪はもうたくさんだ、世界を苦しめるのを止めるべきだ、即座に止めるべきだと信じる有力な政党は一党もない。

 もし、我々の地球が今直面している最大で、おそらく唯一脅迫である欧米帝国主義が、決定的に、しかもすぐに、自身の市民に取り除かれないのであれば、それは外部の力で戦い、阻止されなければなるまい。つまり過去と現在の被害者によって。

 Andre Vltchekは哲学者、小説家、映画製作者で調査ジャーナリスト。彼は Vltchek’s World in Word and Imagesの創作者で、China and Ecological Civilizationを含め、多くの本を書いている作家。オンライン誌New Eastern Outlook独占記事。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/468.html#c1

[近代史3] 憲法九条と GHQ のニューディーラーが考えていた事 _ アメリカ合衆国憲法も常備軍の存在は認めていない 中川隆
5. 中川隆[-9526] koaQ7Jey 2019年6月18日 10:20:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2947]
北アメリカとヨーロッパの大衆:いいかげんに目を覚ませ、まったく!
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-c8e4a5.html
2019年6月17日 マスコミに載らない海外記事


Andre Vltchek
2019年6月6日
New Eastern Outlook

 毎年、毎月、私は世界の両側を見ている。ますますかけ離れてゆく二つの両極端を。

 シリアのホムスのような偉大な都市がぞっとするほど崩壊されたのを見る。アフガニスタンのカブールやジャララバードが、NATO占領軍と彼らの現地の傀儡を守るのを意図した巨大なコンクリートの壁で分断されているのを見る。インドネシアのボルネオや、金を採掘しているペルーの町や、今やほとんど住めなくなったオセアニアの環礁島諸国のツバルやキリバスやマーシャル諸島で恐ろしい環境破壊を見る。

 公衆衛生設備や清浄な飲料水が欠如しているスラムを見るが、そこでは欧米帝国の長靴が現地文化を打ち壊し、人々を奴隷にして、自然資源を略奪しているのだ。

 私はすべての大陸で働いている。極度の疲労に打ちのめされている時でさえ、ほとんど何の蓄えも残っていない時でさえ、私は決して止めない。私は止めることができない。とうとう行動様式が見えるようになったので、私には止める権利がないのだ。この世界の動き方、欧米が世界の大部分の国を強奪し、洗脳し、奴隷にしに成功していた方法を。私は私の知識をまとめ、「世界への警告」として出版するのだ。

 私はこの「行動様式」についての本を書いた。これまでで私の最も包括的な、厚さ1000ページの「Exposing Lies of The Empire(帝国の嘘をあばく)」だ。

 そして、私は欧米そのものを見る。

 私は「講演」のため、ヨーロッパ同様、カナダやアメリカにも行く。時にはオーストラリアの聴衆に講演するよう依頼される。

 破壊された人々や略奪された大陸と比較すると欧米は法外なほど金持ちなので、まるで地球に属していないかのように思えることが多い。

 のんびりした怠惰な日曜午後のローマのヴィラ・ボルゲーゼ散歩と、ナイロビのマザレ・スラム恐怖の通り抜けは、全く別の二つの現実、二つの異なる銀河系に存在していて不思議はないものだ。

 今も「ヴィラ・ボルゲーゼ」の綴りをちょっと間違っただけで、Macはすぐ正解を教えてくれた。ヴィラ・ボルゲーゼが存在しているからだ。一方、正しく綴った「Mathare」には赤く下線を引かれてしまった。Mathareは「間違い」なのだ。なぜならそれは存在しないから。約百万人の男性と女性と子供がそこに住んでいるにもかかわらず、それは存在しないのだ。欧米で私のマックブックプロによっても、比較的十分教育を受けた読者の大多数によっても認識されないのだ。

 実際、ほとんど世界全体が、ニューヨークやベルリンやパリから見た場合、一つの大きなエラー、非実在のように思われる。

 私は欧米の大衆の前で講演する。そう、頻度は減っているが、時々講演している。

 率直に言って、ヨーロッパや北アメリカの聴衆と対面するのは憂うつで屈辱的に思える。

 それはこういうことだ。「真実を語ること」世界中で目撃したことを語るよう招かれるのだ。

 良く暖房されたり冷房されたりしている家で美味しい夕食を食べた後、快適な自動車で到着したばかりの男性や女性に対面して私は立っている。私は有名な著者で映画製作者かもしれないが、どういうわけか、彼らは私を乞食のように感じさせるのだ。なぜなら私は「乞食」たちのために話をするために来たのだから。

 全てが洗練されて、振り付けられている。私はどんな「流血シーン」も見せないことになっている。私は「公人の名」を出さない。壇上では悪態をつかず、酔わず、視界に入っている人々侮辱しないのだ。

 通常直面するのは、かなり頑固かか、少なくとも「かたくなな」聴衆だ。

 最近、南カリフォルニアで、仲間の哲学者と友人に彼の同僚の小さい集会で話をするよう頼まれた際、私がシリアのイドリブ近くの前線における状況を説明していると、何人かの人々が携帯電話をいじっていた。私の話は彼らの大部分にとって「耳に心地良いBGM」にすぎないと感じた。テレビインタビューで何百万人もの人々に語る際は、少なくとも、大衆には会わずに済む。

 欧米で「講演する」際は、実際、彼らの国が犯している大量殺人や大量虐殺に少なくとも部分的には責任がある男性や女性に語るのだ。他の人々が強奪され、屈辱を受け、しばしば強姦さえされているがゆえに、生活水準が理不尽にも高い男性や女性だ。だが彼らの目は謙虚ではない。彼らは私に詰め寄り、私がするかもしれない間違いを待ち構えていて、こう結論するのだ。「彼はフェイクニュースだ」。彼らにとって私は「存在している」人々と存在しない人々の橋ではない。彼らにとって私は、エンタテイナー、芸人、あるいは多くの場合、厄介ものだ。

 私の聴衆の多くにとって、欧米がくり広げる戦争やテロについてについて学ぶのは、オペラ公演や交響曲コンサートとは違う別の種類の贅沢な、レベルの高いエンターテイメントなのだ。大半はそうしたがらないが、もし必要なら、彼らは代金さえ払えるのだ。刺激的な経験をした後、彼らはいつもの暮らし、保護された優雅な生活に戻る。一方私は、翌日、違う現実、前線に、埃と窮乏へと戻る飛行機に乗っていることが多い。

 彼ら、私の聴衆(現実に直面しよう。読者の大部分でもあるのだ)は彼らがどれほど「偏見がない」か示すためにやって来るのだ。彼らは自分のライフスタイルを損なないようにしながら、私から「学び」「教養を身につける」のだ。彼らの大半は、私のような直接体験なしで、その全てを知っているつもりになり、大学なり劇場なり、どこであれ、彼らの前に私を招き、彼ら自身も無理やりやって来て、私に情け深い恩恵を施しているのだ。彼らは私の戦いに対する支援は言わない。彼らはどんな戦いにも加わらない。彼らは善良な平和主義の勤勉な人々だ。それだけだ。

 1930年代後期のドイツ人のようだ。独善的で勤勉な人々だ。彼らの大部分がペットを愛し、ごみをリサイクルする。そしてスターバックスで後片付けする。

 数日前、我々はベネズエラでクーデターを止めた。私は破壊されたボルネオ島の奥深くにいたが、私はRTやPress TVで何百万人かに向けてインタビューをしていたので、我々という言葉を使った。そこでさえ私は、書くこと、ツイートを決して止めず、必要とあらば、いつでも全てを置いて、カラカスに飛ぶ用意ができていた。

 ベネズエラを守ること、そこで革命を守ることは極めて重要だ。欧米の命令に降伏するのを拒否している他の革命的な勇敢な国々、シリア、キューバ、ロシア、中国、北朝鮮、イラン、ボリビア、南アフリカを守ることは極めて重要だ。

 カラカスにまつわるイデオロギーの戦いが猛威を振るう中、私は考えていた。欧米の大衆を行動させることができるものが、まだ何かがあるのだろうか?

 彼ら、ヨーロッパ人と北アメリカ人は、自身の罪に対して全く無関心になってしまったのだろうか? 彼らは何か感情的な免疫ができてしまったのだろうか? 彼らの状態は、イデオロギー上の問題なのか、それとも病気の問題なのだろうか?

 我々は実に露骨なクーデターのさなかにいたのだ。地球で最も民主的な国の一つを打倒する欧米による企み。それなのに彼らのワシントンやマドリッド政権が行っているテロを止めるため、彼らは何もしなかったのだ! 少なくとも、1965年のインドネシアで、あるいは1973年のチリでは、欧米政権は、見え透いた口実を使ってごまかそうとしていた。少なくとも、ムジャヒドを作り出して、社会主義アフガニスタンと共産主義ソ連を破壊しながら、欧米は少なくとも部分的には自分たち本当の役を隠そうとして、パキスタンを代理に使っていた。少なくとも、イラクで百万人以上の人々を殺しながら、へたな芝居や「大量虐殺兵器」に関する山ほどの嘘をついていた。少なくとも、少なくとも…

 今はもうまったく見え見えだ。シリアで、ベネズエラで。北朝鮮、キューバ、イラン、中国、ロシアに対しても。

 もはやプロパガンダさえ必要でないかのように、欧米政権の計画に対して、欧米の大衆は全く脅威にならず、完全に従順になったかのように。

 あるいは、より正確には、かつて手が込んでいた欧米のプロパガンダが、極端に単純になったのだ。今は嘘を繰り返すだけで、欧米諸国民の大多数は自分たちの政府が世界で何をしているか疑おうとしさえしないのだ。唯一問題になるのは「国内問題」だけなのだ。つまり欧米諸国民の賃金と手当だ。

 ベトナム戦争当時のような暴動はない。今の暴動はヨーロッパ人労働者のより良い福祉のためだけだ。国外での略奪や、非西側諸国に対するNATOによるテロ攻撃や、無数のNATO軍事基地や、侵略やクーデター画策を止めるために、欧米では誰も戦っていない。

 欧米の大衆は、更にどこまで耐えられるのだろう?

 それとも、絶対的に全てに耐えることができるのだろうか?

 彼らはベネズエラやキューバへの、あるいは両国への直接侵略を容認するのだろうか?彼らは、ごく一例をあげれば、既に最近の歴史で欧米が犯したテロ行為、ユーゴスラビア、イラク、アフガニスタン、リビアやシリアへの直接介入や破壊を受け入れている。

 更にどれだけ多くのものを受け入れるのだろう? 対イラン攻撃は受容できるのだろうか? 例えば、200-300万の死者を?

 あるいは、北朝鮮だろうか? 更に数百万人の、死体の新しい山?

 私は尋ねている。修辞疑問ではない。私は本当に知りたいのだ。世界は知らなければならないと私は信じている。

 欧米の大衆はISIS (あるいはIS、あるいはダーイシュ)のレベルに達してしまったのだろうか? それほど独善的に、それほど狂信的に、自身の例外主義を確信していて、もはや、明晰に考え、分析し、判断することができないほどなのだろうか?

 ロシアや中国、あるいは両国を第三次世界大戦に駆り立てることが、バイエルンやサウスカロライナやオンタリオに暮らす人々に受け入れられるのだろうか?

 そして、もしイエスなら、彼らは全員正気を失っているのだろうか?

 もし彼らが正気を失っているのなら、世界が彼らを止めるべきなのだろうか、一体どのようして?

 私は欧米の狂気の限界を知りたいと思う。

 狂気があるのは明白だが、それはどれほど大規模なのだろう?

 私は分かっている。フランス人、アメリカ人、カナダ人、イギリス人やドイツ人が何人についてくそったれに彼らが中東や東南アジアやアフリカや「そのような場所」で何百万人もの罪がない人々を殺すことについて全く気にしていないという怪物のような事実を私は受け入れている。彼らがその植民地の歴史についてほぼ何も知らず、彼らは、サッカー試合が見られ、たくさんの肉と6週間の休暇を異国情緒の海岸で楽しめる限り、何も知りこくはないのを私は受け入れる。欧米が行った恐ろしい犯罪を知っている人々の多数さえもが、決して、決してそれを、彼ら自身のせいではなく、欧米が何世紀にもわたり行ってきた略奪の上に成り立っている自分たちの文化にではなく、中東の前哨基地であるイスラエルではなく、全てロスチャイルドや「シオニスト陰謀」のせいにしたがるのを私は知っている。

 しかし我々の地球の存続と、人類の存続はどうなるのだろう?

 私は私の「戦闘のプレゼンテーション」を聞きに来る人々の目を想像する。私は彼らに真実を話す。私は全てを語る。私は決してはばかることはしない。決して妥協しない。私は彼らに彼らが解き放った戦争の画像を見せる。そう彼らだ。市民は自身の政府に対して責任があるのだから、明らかに集団的犯罪や連帯責任と呼ばれるものがあるのだから!

 あの目、あの顔。そこに私が見るものをお話ししよう。彼らは決して行動するまい。彼らは決して彼らの政権を打倒しようとするまい。彼らが恵まれた生活を送れる限り。彼ら自身がエリートであるシステムが、少なくとも現在の形で生き残る何らかの可能性があると思う限り。彼らは両方の方法でそれを演じる、彼らの一部はそうする。口頭で、彼らはNATOに、欧米帝国主義や野蛮な資本主義に激怒する。実際は、彼らは体制と戦うために、具体的なことは何もしない。

 すると結論は何だろう? もし彼らが行動をしないなら、他の人々がそうしなければならない。そして私は確信している。彼らはそうするはずだ。

 500年以上にわたり、極端に攻撃的な欧米諸国の小さな集団に世界全体が炎に包まれ、略奪され、殺されてきた。これは事実上、絶え間なく続いてきた。

 もはや誰も、それが面白いことだとは思わない。私が働く場所、私が気にかける場所では、誰もこの種類の世界を望んでいない。

 今ベネズエラを破壊しようとしている国々をご覧願いたい。しっかりご覧願いたい! 彼らはアメリカ、カナダ、大多数のヨーロッパと、主にそれらヨーロッパ植民地主義者の子孫が多数派を形成している南米諸国だ!

 我々は更に500年、これを望むのだろうか?

 北アメリカ人とヨーロッパ人は間もなく目覚めなければならない。ナチス・ドイツにおいてさえ、ヒトラーに強い嫌悪の念を抱いて、彼を排除したいとを望んだ兵士がいたのだ。今、欧米には、500年にわたる欧米植民地主義略奪はもうたくさんだ、世界を苦しめるのを止めるべきだ、即座に止めるべきだと信じる有力な政党は一党もない。

 もし、我々の地球が今直面している最大で、おそらく唯一脅迫である欧米帝国主義が、決定的に、しかもすぐに、自身の市民に取り除かれないのであれば、それは外部の力で戦い、阻止されなければなるまい。つまり過去と現在の被害者によって。

 Andre Vltchekは哲学者、小説家、映画製作者で調査ジャーナリスト。彼は Vltchek’s World in Word and Imagesの創作者で、China and Ecological Civilizationを含め、多くの本を書いている作家。オンライン誌New Eastern Outlook独占記事。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/229.html#c5

[近代史3] 日本を滅ぼした日本人エリートの事なかれ主義、先延ばし主義 中川隆
20. 中川隆[-9525] koaQ7Jey 2019年6月18日 10:21:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2948]
北アメリカとヨーロッパの大衆:いいかげんに目を覚ませ、まったく!
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-c8e4a5.html
2019年6月17日 マスコミに載らない海外記事


Andre Vltchek
2019年6月6日
New Eastern Outlook

 毎年、毎月、私は世界の両側を見ている。ますますかけ離れてゆく二つの両極端を。

 シリアのホムスのような偉大な都市がぞっとするほど崩壊されたのを見る。アフガニスタンのカブールやジャララバードが、NATO占領軍と彼らの現地の傀儡を守るのを意図した巨大なコンクリートの壁で分断されているのを見る。インドネシアのボルネオや、金を採掘しているペルーの町や、今やほとんど住めなくなったオセアニアの環礁島諸国のツバルやキリバスやマーシャル諸島で恐ろしい環境破壊を見る。

 公衆衛生設備や清浄な飲料水が欠如しているスラムを見るが、そこでは欧米帝国の長靴が現地文化を打ち壊し、人々を奴隷にして、自然資源を略奪しているのだ。

 私はすべての大陸で働いている。極度の疲労に打ちのめされている時でさえ、ほとんど何の蓄えも残っていない時でさえ、私は決して止めない。私は止めることができない。とうとう行動様式が見えるようになったので、私には止める権利がないのだ。この世界の動き方、欧米が世界の大部分の国を強奪し、洗脳し、奴隷にしに成功していた方法を。私は私の知識をまとめ、「世界への警告」として出版するのだ。

 私はこの「行動様式」についての本を書いた。これまでで私の最も包括的な、厚さ1000ページの「Exposing Lies of The Empire(帝国の嘘をあばく)」だ。

 そして、私は欧米そのものを見る。

 私は「講演」のため、ヨーロッパ同様、カナダやアメリカにも行く。時にはオーストラリアの聴衆に講演するよう依頼される。

 破壊された人々や略奪された大陸と比較すると欧米は法外なほど金持ちなので、まるで地球に属していないかのように思えることが多い。

 のんびりした怠惰な日曜午後のローマのヴィラ・ボルゲーゼ散歩と、ナイロビのマザレ・スラム恐怖の通り抜けは、全く別の二つの現実、二つの異なる銀河系に存在していて不思議はないものだ。

 今も「ヴィラ・ボルゲーゼ」の綴りをちょっと間違っただけで、Macはすぐ正解を教えてくれた。ヴィラ・ボルゲーゼが存在しているからだ。一方、正しく綴った「Mathare」には赤く下線を引かれてしまった。Mathareは「間違い」なのだ。なぜならそれは存在しないから。約百万人の男性と女性と子供がそこに住んでいるにもかかわらず、それは存在しないのだ。欧米で私のマックブックプロによっても、比較的十分教育を受けた読者の大多数によっても認識されないのだ。

 実際、ほとんど世界全体が、ニューヨークやベルリンやパリから見た場合、一つの大きなエラー、非実在のように思われる。

 私は欧米の大衆の前で講演する。そう、頻度は減っているが、時々講演している。

 率直に言って、ヨーロッパや北アメリカの聴衆と対面するのは憂うつで屈辱的に思える。

 それはこういうことだ。「真実を語ること」世界中で目撃したことを語るよう招かれるのだ。

 良く暖房されたり冷房されたりしている家で美味しい夕食を食べた後、快適な自動車で到着したばかりの男性や女性に対面して私は立っている。私は有名な著者で映画製作者かもしれないが、どういうわけか、彼らは私を乞食のように感じさせるのだ。なぜなら私は「乞食」たちのために話をするために来たのだから。

 全てが洗練されて、振り付けられている。私はどんな「流血シーン」も見せないことになっている。私は「公人の名」を出さない。壇上では悪態をつかず、酔わず、視界に入っている人々侮辱しないのだ。

 通常直面するのは、かなり頑固かか、少なくとも「かたくなな」聴衆だ。

 最近、南カリフォルニアで、仲間の哲学者と友人に彼の同僚の小さい集会で話をするよう頼まれた際、私がシリアのイドリブ近くの前線における状況を説明していると、何人かの人々が携帯電話をいじっていた。私の話は彼らの大部分にとって「耳に心地良いBGM」にすぎないと感じた。テレビインタビューで何百万人もの人々に語る際は、少なくとも、大衆には会わずに済む。

 欧米で「講演する」際は、実際、彼らの国が犯している大量殺人や大量虐殺に少なくとも部分的には責任がある男性や女性に語るのだ。他の人々が強奪され、屈辱を受け、しばしば強姦さえされているがゆえに、生活水準が理不尽にも高い男性や女性だ。だが彼らの目は謙虚ではない。彼らは私に詰め寄り、私がするかもしれない間違いを待ち構えていて、こう結論するのだ。「彼はフェイクニュースだ」。彼らにとって私は「存在している」人々と存在しない人々の橋ではない。彼らにとって私は、エンタテイナー、芸人、あるいは多くの場合、厄介ものだ。

 私の聴衆の多くにとって、欧米がくり広げる戦争やテロについてについて学ぶのは、オペラ公演や交響曲コンサートとは違う別の種類の贅沢な、レベルの高いエンターテイメントなのだ。大半はそうしたがらないが、もし必要なら、彼らは代金さえ払えるのだ。刺激的な経験をした後、彼らはいつもの暮らし、保護された優雅な生活に戻る。一方私は、翌日、違う現実、前線に、埃と窮乏へと戻る飛行機に乗っていることが多い。

 彼ら、私の聴衆(現実に直面しよう。読者の大部分でもあるのだ)は彼らがどれほど「偏見がない」か示すためにやって来るのだ。彼らは自分のライフスタイルを損なないようにしながら、私から「学び」「教養を身につける」のだ。彼らの大半は、私のような直接体験なしで、その全てを知っているつもりになり、大学なり劇場なり、どこであれ、彼らの前に私を招き、彼ら自身も無理やりやって来て、私に情け深い恩恵を施しているのだ。彼らは私の戦いに対する支援は言わない。彼らはどんな戦いにも加わらない。彼らは善良な平和主義の勤勉な人々だ。それだけだ。

 1930年代後期のドイツ人のようだ。独善的で勤勉な人々だ。彼らの大部分がペットを愛し、ごみをリサイクルする。そしてスターバックスで後片付けする。

 数日前、我々はベネズエラでクーデターを止めた。私は破壊されたボルネオ島の奥深くにいたが、私はRTやPress TVで何百万人かに向けてインタビューをしていたので、我々という言葉を使った。そこでさえ私は、書くこと、ツイートを決して止めず、必要とあらば、いつでも全てを置いて、カラカスに飛ぶ用意ができていた。

 ベネズエラを守ること、そこで革命を守ることは極めて重要だ。欧米の命令に降伏するのを拒否している他の革命的な勇敢な国々、シリア、キューバ、ロシア、中国、北朝鮮、イラン、ボリビア、南アフリカを守ることは極めて重要だ。

 カラカスにまつわるイデオロギーの戦いが猛威を振るう中、私は考えていた。欧米の大衆を行動させることができるものが、まだ何かがあるのだろうか?

 彼ら、ヨーロッパ人と北アメリカ人は、自身の罪に対して全く無関心になってしまったのだろうか? 彼らは何か感情的な免疫ができてしまったのだろうか? 彼らの状態は、イデオロギー上の問題なのか、それとも病気の問題なのだろうか?

 我々は実に露骨なクーデターのさなかにいたのだ。地球で最も民主的な国の一つを打倒する欧米による企み。それなのに彼らのワシントンやマドリッド政権が行っているテロを止めるため、彼らは何もしなかったのだ! 少なくとも、1965年のインドネシアで、あるいは1973年のチリでは、欧米政権は、見え透いた口実を使ってごまかそうとしていた。少なくとも、ムジャヒドを作り出して、社会主義アフガニスタンと共産主義ソ連を破壊しながら、欧米は少なくとも部分的には自分たち本当の役を隠そうとして、パキスタンを代理に使っていた。少なくとも、イラクで百万人以上の人々を殺しながら、へたな芝居や「大量虐殺兵器」に関する山ほどの嘘をついていた。少なくとも、少なくとも…

 今はもうまったく見え見えだ。シリアで、ベネズエラで。北朝鮮、キューバ、イラン、中国、ロシアに対しても。

 もはやプロパガンダさえ必要でないかのように、欧米政権の計画に対して、欧米の大衆は全く脅威にならず、完全に従順になったかのように。

 あるいは、より正確には、かつて手が込んでいた欧米のプロパガンダが、極端に単純になったのだ。今は嘘を繰り返すだけで、欧米諸国民の大多数は自分たちの政府が世界で何をしているか疑おうとしさえしないのだ。唯一問題になるのは「国内問題」だけなのだ。つまり欧米諸国民の賃金と手当だ。

 ベトナム戦争当時のような暴動はない。今の暴動はヨーロッパ人労働者のより良い福祉のためだけだ。国外での略奪や、非西側諸国に対するNATOによるテロ攻撃や、無数のNATO軍事基地や、侵略やクーデター画策を止めるために、欧米では誰も戦っていない。

 欧米の大衆は、更にどこまで耐えられるのだろう?

 それとも、絶対的に全てに耐えることができるのだろうか?

 彼らはベネズエラやキューバへの、あるいは両国への直接侵略を容認するのだろうか?彼らは、ごく一例をあげれば、既に最近の歴史で欧米が犯したテロ行為、ユーゴスラビア、イラク、アフガニスタン、リビアやシリアへの直接介入や破壊を受け入れている。

 更にどれだけ多くのものを受け入れるのだろう? 対イラン攻撃は受容できるのだろうか? 例えば、200-300万の死者を?

 あるいは、北朝鮮だろうか? 更に数百万人の、死体の新しい山?

 私は尋ねている。修辞疑問ではない。私は本当に知りたいのだ。世界は知らなければならないと私は信じている。

 欧米の大衆はISIS (あるいはIS、あるいはダーイシュ)のレベルに達してしまったのだろうか? それほど独善的に、それほど狂信的に、自身の例外主義を確信していて、もはや、明晰に考え、分析し、判断することができないほどなのだろうか?

 ロシアや中国、あるいは両国を第三次世界大戦に駆り立てることが、バイエルンやサウスカロライナやオンタリオに暮らす人々に受け入れられるのだろうか?

 そして、もしイエスなら、彼らは全員正気を失っているのだろうか?

 もし彼らが正気を失っているのなら、世界が彼らを止めるべきなのだろうか、一体どのようして?

 私は欧米の狂気の限界を知りたいと思う。

 狂気があるのは明白だが、それはどれほど大規模なのだろう?

 私は分かっている。フランス人、アメリカ人、カナダ人、イギリス人やドイツ人が何人についてくそったれに彼らが中東や東南アジアやアフリカや「そのような場所」で何百万人もの罪がない人々を殺すことについて全く気にしていないという怪物のような事実を私は受け入れている。彼らがその植民地の歴史についてほぼ何も知らず、彼らは、サッカー試合が見られ、たくさんの肉と6週間の休暇を異国情緒の海岸で楽しめる限り、何も知りこくはないのを私は受け入れる。欧米が行った恐ろしい犯罪を知っている人々の多数さえもが、決して、決してそれを、彼ら自身のせいではなく、欧米が何世紀にもわたり行ってきた略奪の上に成り立っている自分たちの文化にではなく、中東の前哨基地であるイスラエルではなく、全てロスチャイルドや「シオニスト陰謀」のせいにしたがるのを私は知っている。

 しかし我々の地球の存続と、人類の存続はどうなるのだろう?

 私は私の「戦闘のプレゼンテーション」を聞きに来る人々の目を想像する。私は彼らに真実を話す。私は全てを語る。私は決してはばかることはしない。決して妥協しない。私は彼らに彼らが解き放った戦争の画像を見せる。そう彼らだ。市民は自身の政府に対して責任があるのだから、明らかに集団的犯罪や連帯責任と呼ばれるものがあるのだから!

 あの目、あの顔。そこに私が見るものをお話ししよう。彼らは決して行動するまい。彼らは決して彼らの政権を打倒しようとするまい。彼らが恵まれた生活を送れる限り。彼ら自身がエリートであるシステムが、少なくとも現在の形で生き残る何らかの可能性があると思う限り。彼らは両方の方法でそれを演じる、彼らの一部はそうする。口頭で、彼らはNATOに、欧米帝国主義や野蛮な資本主義に激怒する。実際は、彼らは体制と戦うために、具体的なことは何もしない。

 すると結論は何だろう? もし彼らが行動をしないなら、他の人々がそうしなければならない。そして私は確信している。彼らはそうするはずだ。

 500年以上にわたり、極端に攻撃的な欧米諸国の小さな集団に世界全体が炎に包まれ、略奪され、殺されてきた。これは事実上、絶え間なく続いてきた。

 もはや誰も、それが面白いことだとは思わない。私が働く場所、私が気にかける場所では、誰もこの種類の世界を望んでいない。

 今ベネズエラを破壊しようとしている国々をご覧願いたい。しっかりご覧願いたい! 彼らはアメリカ、カナダ、大多数のヨーロッパと、主にそれらヨーロッパ植民地主義者の子孫が多数派を形成している南米諸国だ!

 我々は更に500年、これを望むのだろうか?

 北アメリカ人とヨーロッパ人は間もなく目覚めなければならない。ナチス・ドイツにおいてさえ、ヒトラーに強い嫌悪の念を抱いて、彼を排除したいとを望んだ兵士がいたのだ。今、欧米には、500年にわたる欧米植民地主義略奪はもうたくさんだ、世界を苦しめるのを止めるべきだ、即座に止めるべきだと信じる有力な政党は一党もない。

 もし、我々の地球が今直面している最大で、おそらく唯一脅迫である欧米帝国主義が、決定的に、しかもすぐに、自身の市民に取り除かれないのであれば、それは外部の力で戦い、阻止されなければなるまい。つまり過去と現在の被害者によって。

 Andre Vltchekは哲学者、小説家、映画製作者で調査ジャーナリスト。彼は Vltchek’s World in Word and Imagesの創作者で、China and Ecological Civilizationを含め、多くの本を書いている作家。オンライン誌New Eastern Outlook独占記事。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/318.html#c20

[近代史3] 日本はもうすぐ中国小日本省になる 中川隆
7. 中川隆[-9524] koaQ7Jey 2019年6月18日 10:22:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2949]
北アメリカとヨーロッパの大衆:いいかげんに目を覚ませ、まったく!
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-c8e4a5.html
2019年6月17日 マスコミに載らない海外記事


Andre Vltchek
2019年6月6日
New Eastern Outlook

 毎年、毎月、私は世界の両側を見ている。ますますかけ離れてゆく二つの両極端を。

 シリアのホムスのような偉大な都市がぞっとするほど崩壊されたのを見る。アフガニスタンのカブールやジャララバードが、NATO占領軍と彼らの現地の傀儡を守るのを意図した巨大なコンクリートの壁で分断されているのを見る。インドネシアのボルネオや、金を採掘しているペルーの町や、今やほとんど住めなくなったオセアニアの環礁島諸国のツバルやキリバスやマーシャル諸島で恐ろしい環境破壊を見る。

 公衆衛生設備や清浄な飲料水が欠如しているスラムを見るが、そこでは欧米帝国の長靴が現地文化を打ち壊し、人々を奴隷にして、自然資源を略奪しているのだ。

 私はすべての大陸で働いている。極度の疲労に打ちのめされている時でさえ、ほとんど何の蓄えも残っていない時でさえ、私は決して止めない。私は止めることができない。とうとう行動様式が見えるようになったので、私には止める権利がないのだ。この世界の動き方、欧米が世界の大部分の国を強奪し、洗脳し、奴隷にしに成功していた方法を。私は私の知識をまとめ、「世界への警告」として出版するのだ。

 私はこの「行動様式」についての本を書いた。これまでで私の最も包括的な、厚さ1000ページの「Exposing Lies of The Empire(帝国の嘘をあばく)」だ。

 そして、私は欧米そのものを見る。

 私は「講演」のため、ヨーロッパ同様、カナダやアメリカにも行く。時にはオーストラリアの聴衆に講演するよう依頼される。

 破壊された人々や略奪された大陸と比較すると欧米は法外なほど金持ちなので、まるで地球に属していないかのように思えることが多い。

 のんびりした怠惰な日曜午後のローマのヴィラ・ボルゲーゼ散歩と、ナイロビのマザレ・スラム恐怖の通り抜けは、全く別の二つの現実、二つの異なる銀河系に存在していて不思議はないものだ。

 今も「ヴィラ・ボルゲーゼ」の綴りをちょっと間違っただけで、Macはすぐ正解を教えてくれた。ヴィラ・ボルゲーゼが存在しているからだ。一方、正しく綴った「Mathare」には赤く下線を引かれてしまった。Mathareは「間違い」なのだ。なぜならそれは存在しないから。約百万人の男性と女性と子供がそこに住んでいるにもかかわらず、それは存在しないのだ。欧米で私のマックブックプロによっても、比較的十分教育を受けた読者の大多数によっても認識されないのだ。

 実際、ほとんど世界全体が、ニューヨークやベルリンやパリから見た場合、一つの大きなエラー、非実在のように思われる。

 私は欧米の大衆の前で講演する。そう、頻度は減っているが、時々講演している。

 率直に言って、ヨーロッパや北アメリカの聴衆と対面するのは憂うつで屈辱的に思える。

 それはこういうことだ。「真実を語ること」世界中で目撃したことを語るよう招かれるのだ。

 良く暖房されたり冷房されたりしている家で美味しい夕食を食べた後、快適な自動車で到着したばかりの男性や女性に対面して私は立っている。私は有名な著者で映画製作者かもしれないが、どういうわけか、彼らは私を乞食のように感じさせるのだ。なぜなら私は「乞食」たちのために話をするために来たのだから。

 全てが洗練されて、振り付けられている。私はどんな「流血シーン」も見せないことになっている。私は「公人の名」を出さない。壇上では悪態をつかず、酔わず、視界に入っている人々侮辱しないのだ。

 通常直面するのは、かなり頑固かか、少なくとも「かたくなな」聴衆だ。

 最近、南カリフォルニアで、仲間の哲学者と友人に彼の同僚の小さい集会で話をするよう頼まれた際、私がシリアのイドリブ近くの前線における状況を説明していると、何人かの人々が携帯電話をいじっていた。私の話は彼らの大部分にとって「耳に心地良いBGM」にすぎないと感じた。テレビインタビューで何百万人もの人々に語る際は、少なくとも、大衆には会わずに済む。

 欧米で「講演する」際は、実際、彼らの国が犯している大量殺人や大量虐殺に少なくとも部分的には責任がある男性や女性に語るのだ。他の人々が強奪され、屈辱を受け、しばしば強姦さえされているがゆえに、生活水準が理不尽にも高い男性や女性だ。だが彼らの目は謙虚ではない。彼らは私に詰め寄り、私がするかもしれない間違いを待ち構えていて、こう結論するのだ。「彼はフェイクニュースだ」。彼らにとって私は「存在している」人々と存在しない人々の橋ではない。彼らにとって私は、エンタテイナー、芸人、あるいは多くの場合、厄介ものだ。

 私の聴衆の多くにとって、欧米がくり広げる戦争やテロについてについて学ぶのは、オペラ公演や交響曲コンサートとは違う別の種類の贅沢な、レベルの高いエンターテイメントなのだ。大半はそうしたがらないが、もし必要なら、彼らは代金さえ払えるのだ。刺激的な経験をした後、彼らはいつもの暮らし、保護された優雅な生活に戻る。一方私は、翌日、違う現実、前線に、埃と窮乏へと戻る飛行機に乗っていることが多い。

 彼ら、私の聴衆(現実に直面しよう。読者の大部分でもあるのだ)は彼らがどれほど「偏見がない」か示すためにやって来るのだ。彼らは自分のライフスタイルを損なないようにしながら、私から「学び」「教養を身につける」のだ。彼らの大半は、私のような直接体験なしで、その全てを知っているつもりになり、大学なり劇場なり、どこであれ、彼らの前に私を招き、彼ら自身も無理やりやって来て、私に情け深い恩恵を施しているのだ。彼らは私の戦いに対する支援は言わない。彼らはどんな戦いにも加わらない。彼らは善良な平和主義の勤勉な人々だ。それだけだ。

 1930年代後期のドイツ人のようだ。独善的で勤勉な人々だ。彼らの大部分がペットを愛し、ごみをリサイクルする。そしてスターバックスで後片付けする。

 数日前、我々はベネズエラでクーデターを止めた。私は破壊されたボルネオ島の奥深くにいたが、私はRTやPress TVで何百万人かに向けてインタビューをしていたので、我々という言葉を使った。そこでさえ私は、書くこと、ツイートを決して止めず、必要とあらば、いつでも全てを置いて、カラカスに飛ぶ用意ができていた。

 ベネズエラを守ること、そこで革命を守ることは極めて重要だ。欧米の命令に降伏するのを拒否している他の革命的な勇敢な国々、シリア、キューバ、ロシア、中国、北朝鮮、イラン、ボリビア、南アフリカを守ることは極めて重要だ。

 カラカスにまつわるイデオロギーの戦いが猛威を振るう中、私は考えていた。欧米の大衆を行動させることができるものが、まだ何かがあるのだろうか?

 彼ら、ヨーロッパ人と北アメリカ人は、自身の罪に対して全く無関心になってしまったのだろうか? 彼らは何か感情的な免疫ができてしまったのだろうか? 彼らの状態は、イデオロギー上の問題なのか、それとも病気の問題なのだろうか?

 我々は実に露骨なクーデターのさなかにいたのだ。地球で最も民主的な国の一つを打倒する欧米による企み。それなのに彼らのワシントンやマドリッド政権が行っているテロを止めるため、彼らは何もしなかったのだ! 少なくとも、1965年のインドネシアで、あるいは1973年のチリでは、欧米政権は、見え透いた口実を使ってごまかそうとしていた。少なくとも、ムジャヒドを作り出して、社会主義アフガニスタンと共産主義ソ連を破壊しながら、欧米は少なくとも部分的には自分たち本当の役を隠そうとして、パキスタンを代理に使っていた。少なくとも、イラクで百万人以上の人々を殺しながら、へたな芝居や「大量虐殺兵器」に関する山ほどの嘘をついていた。少なくとも、少なくとも…

 今はもうまったく見え見えだ。シリアで、ベネズエラで。北朝鮮、キューバ、イラン、中国、ロシアに対しても。

 もはやプロパガンダさえ必要でないかのように、欧米政権の計画に対して、欧米の大衆は全く脅威にならず、完全に従順になったかのように。

 あるいは、より正確には、かつて手が込んでいた欧米のプロパガンダが、極端に単純になったのだ。今は嘘を繰り返すだけで、欧米諸国民の大多数は自分たちの政府が世界で何をしているか疑おうとしさえしないのだ。唯一問題になるのは「国内問題」だけなのだ。つまり欧米諸国民の賃金と手当だ。

 ベトナム戦争当時のような暴動はない。今の暴動はヨーロッパ人労働者のより良い福祉のためだけだ。国外での略奪や、非西側諸国に対するNATOによるテロ攻撃や、無数のNATO軍事基地や、侵略やクーデター画策を止めるために、欧米では誰も戦っていない。

 欧米の大衆は、更にどこまで耐えられるのだろう?

 それとも、絶対的に全てに耐えることができるのだろうか?

 彼らはベネズエラやキューバへの、あるいは両国への直接侵略を容認するのだろうか?彼らは、ごく一例をあげれば、既に最近の歴史で欧米が犯したテロ行為、ユーゴスラビア、イラク、アフガニスタン、リビアやシリアへの直接介入や破壊を受け入れている。

 更にどれだけ多くのものを受け入れるのだろう? 対イラン攻撃は受容できるのだろうか? 例えば、200-300万の死者を?

 あるいは、北朝鮮だろうか? 更に数百万人の、死体の新しい山?

 私は尋ねている。修辞疑問ではない。私は本当に知りたいのだ。世界は知らなければならないと私は信じている。

 欧米の大衆はISIS (あるいはIS、あるいはダーイシュ)のレベルに達してしまったのだろうか? それほど独善的に、それほど狂信的に、自身の例外主義を確信していて、もはや、明晰に考え、分析し、判断することができないほどなのだろうか?

 ロシアや中国、あるいは両国を第三次世界大戦に駆り立てることが、バイエルンやサウスカロライナやオンタリオに暮らす人々に受け入れられるのだろうか?

 そして、もしイエスなら、彼らは全員正気を失っているのだろうか?

 もし彼らが正気を失っているのなら、世界が彼らを止めるべきなのだろうか、一体どのようして?

 私は欧米の狂気の限界を知りたいと思う。

 狂気があるのは明白だが、それはどれほど大規模なのだろう?

 私は分かっている。フランス人、アメリカ人、カナダ人、イギリス人やドイツ人が何人についてくそったれに彼らが中東や東南アジアやアフリカや「そのような場所」で何百万人もの罪がない人々を殺すことについて全く気にしていないという怪物のような事実を私は受け入れている。彼らがその植民地の歴史についてほぼ何も知らず、彼らは、サッカー試合が見られ、たくさんの肉と6週間の休暇を異国情緒の海岸で楽しめる限り、何も知りこくはないのを私は受け入れる。欧米が行った恐ろしい犯罪を知っている人々の多数さえもが、決して、決してそれを、彼ら自身のせいではなく、欧米が何世紀にもわたり行ってきた略奪の上に成り立っている自分たちの文化にではなく、中東の前哨基地であるイスラエルではなく、全てロスチャイルドや「シオニスト陰謀」のせいにしたがるのを私は知っている。

 しかし我々の地球の存続と、人類の存続はどうなるのだろう?

 私は私の「戦闘のプレゼンテーション」を聞きに来る人々の目を想像する。私は彼らに真実を話す。私は全てを語る。私は決してはばかることはしない。決して妥協しない。私は彼らに彼らが解き放った戦争の画像を見せる。そう彼らだ。市民は自身の政府に対して責任があるのだから、明らかに集団的犯罪や連帯責任と呼ばれるものがあるのだから!

 あの目、あの顔。そこに私が見るものをお話ししよう。彼らは決して行動するまい。彼らは決して彼らの政権を打倒しようとするまい。彼らが恵まれた生活を送れる限り。彼ら自身がエリートであるシステムが、少なくとも現在の形で生き残る何らかの可能性があると思う限り。彼らは両方の方法でそれを演じる、彼らの一部はそうする。口頭で、彼らはNATOに、欧米帝国主義や野蛮な資本主義に激怒する。実際は、彼らは体制と戦うために、具体的なことは何もしない。

 すると結論は何だろう? もし彼らが行動をしないなら、他の人々がそうしなければならない。そして私は確信している。彼らはそうするはずだ。

 500年以上にわたり、極端に攻撃的な欧米諸国の小さな集団に世界全体が炎に包まれ、略奪され、殺されてきた。これは事実上、絶え間なく続いてきた。

 もはや誰も、それが面白いことだとは思わない。私が働く場所、私が気にかける場所では、誰もこの種類の世界を望んでいない。

 今ベネズエラを破壊しようとしている国々をご覧願いたい。しっかりご覧願いたい! 彼らはアメリカ、カナダ、大多数のヨーロッパと、主にそれらヨーロッパ植民地主義者の子孫が多数派を形成している南米諸国だ!

 我々は更に500年、これを望むのだろうか?

 北アメリカ人とヨーロッパ人は間もなく目覚めなければならない。ナチス・ドイツにおいてさえ、ヒトラーに強い嫌悪の念を抱いて、彼を排除したいとを望んだ兵士がいたのだ。今、欧米には、500年にわたる欧米植民地主義略奪はもうたくさんだ、世界を苦しめるのを止めるべきだ、即座に止めるべきだと信じる有力な政党は一党もない。

 もし、我々の地球が今直面している最大で、おそらく唯一脅迫である欧米帝国主義が、決定的に、しかもすぐに、自身の市民に取り除かれないのであれば、それは外部の力で戦い、阻止されなければなるまい。つまり過去と現在の被害者によって。

 Andre Vltchekは哲学者、小説家、映画製作者で調査ジャーナリスト。彼は Vltchek’s World in Word and Imagesの創作者で、China and Ecological Civilizationを含め、多くの本を書いている作家。オンライン誌New Eastern Outlook独占記事。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/186.html#c7

[戦争b22] トルコへのS-400引き渡しが7月上旬に始まる可能性があると同国大統領(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
2. 中川隆[-9523] koaQ7Jey 2019年6月18日 10:49:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2950]
櫻井ジャーナルに騙されるな

櫻井ジャーナルの記事はすべて嘘八百のデマの可能性が高いです。
詐欺師 櫻井春彦に騙されない様に注意して下さい。

櫻井春彦は街で聞いた本当かどうか全くわからない噂話をそのまま垂れ流しているだけで、何一つ論証も調査もしていないので読む価値は無いのです。

そもそも櫻井春彦は論証した事が一度も無いのです。
文献学の基礎を知らないので文献批判の能力もゼロ
何がデマで、何が信頼度が高いかを全く判断できないのです。

従って、その噂話が本当かどうかに関わらず、櫻井春彦の書いたものは一切信用できません。
たまたまマグレで その噂話が本当だったとしても意味は無いのです。


櫻井春彦の無責任なデタラメぶりはこのデマ記事を見れば良くわかります:


櫻井春彦「天安門事件はデマだった」_ 櫻井ジャーナルは信用できるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/460.html


因みに、櫻井春彦が何時も言ってる様に

アメリカがソ連を核攻撃しようと計画していた

というのは絶対に有り得ないです。

そもそも、

ソ連は西側が援助してユダヤ人が建国した国だし
ソ連に核技術を指導したのはアメリカだし
ベトナム戦争の時もアメリカはソ連に資金援助していた。


今の韓国程度の経済力だったソ連にアメリカと対峙する力は無かった

ロシアと言えばアメリカと張り合う超大国の一つだと思われているが、実際には韓国以下の経済規模しかない。

強大と思われている軍事力だが年間軍事費は7兆2700億円(2017年ストックホルム国際平和研究所調査)に過ぎない。

日本の5.2兆円(NATO計算方式では7.1兆円)より多いものの、アメリカの80兆円や中国の20兆円より少ない。


ロシアのGDPは約1.6兆ドル(176兆円)で韓国と同程度だが、韓国の軍事費は43兆ウォン(約4.1兆円)となっている。

フランスの軍事費はロシアと同程度でGDPは2.6兆ドル(286兆円)とロシアの1.6倍ある。

ロシアの人口は1.4億人で日本より少し多い程度で、ちょうど中国の10分の1しかない。


ロシアは領土こそ世界最大ではあるものの、経済は韓国レベルで人口はアジアでは普通、軍事力は世界5位に入るかどうかという規模です。
http://www.thutmosev.com/archives/80097952.html


見せ掛けだけだった東西冷戦や八百長戦争だった太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争の背景は、以下の講演を聞けば誰でも納得できます:


馬渕睦夫沖縄講演
「2019年の国難をどう乗り切るか」〜世界の情報操作と金融支配の本質を見抜く[H31-1-25] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=7cE_4kQATvc


林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[2019-5-24] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU  
 


▲△▽▼


櫻井春彦の詐欺の手口教えてあげる


1.天安門事件で虐殺はなかった

櫻井春彦が聞いた元々の話
「長安街では軍による虐殺が行われたが、天安門広場での虐殺はなかった」

一方、櫻井春彦が櫻井ジャーナルに書いたのは
「天安門事件で虐殺はなかった」

__


2.アメリカの軍や情報機関の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を目論んでいた


そんなのあって当たり前。むしろ存在しない方がおかしい。
平時にいろいろな場合を想定し、計画を練っているなんてむしろ当然の話。

アメリカが第二次大戦前に対日戦の計画としてオレンジ計画を作っていたが
それと同じ。

「ソ連に先制核攻撃された場合の計画」
「限定的な核戦争になった場合の計画」

とかいろいろな計画があって、その中に

「先制核攻撃をした場合の計画」

があるのは常識的な話だ。

そしてそのような計画がある事と、実行する事は全く別の話であってそこを混同
しているに過ぎない。

ソ連崩壊後に公表された資料でも、ソ連は「アメリカに対する先制核攻撃」を含めた無数の戦争計画を作って、いろいろな状況を想定している。

それで1980年代には開く一方の国力差から仮に全面戦争になってもソ連が不利になっていくばかりという結論が出ていたので、ゴルバチョフは新思考外交でアメリカとの関係改善に取り組んだんだ。

つまり「先制核攻撃の計画が存在した」のは米ソ双方にとっても当たり前の話でしかない。


先制核攻撃を行なったら100%報復核攻撃があるわけで、もちろん軍需産業は絶対に狙われる。

軍需産業の社長に

「おたくの本社や工場に報復の核ミサイルが降ってきますけど、先制核攻撃していいですか?」

と問うて了承する人間がいると思うか?

軍産複合体は言い換えれば既得権者なのだから、それを根こそぎ吹っ飛ばしかねない核戦争なんぞ望むはずがない。

そういう当たり前の考えが欠落しているから、軽々しく先制核攻撃を目論んでいたとか
いい加減なことを唱えているんだな。


▲△▽▼


櫻井春彦みたいなのを世間では詐欺師と言うんだろ

櫻井春彦は改竄・捏造の常習犯だから
誰々がこう言ったと書いていても、その内容自体が元の言葉と180度違う事が多いんだ


http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/706.html#c2

[リバイバル3] ラジカセでクラシックを聴いている清貧の音楽ファンには音楽はわからない 富山誠
75. 中川隆[-9525] koaQ7Jey 2019年6月18日 12:27:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2948]

ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html


KLANG-KUNST オーディオの歴史 オルゴールとロールピアノ
https://www.klang.jp/index.php?ci=10143

ポリフォン社の大型オルゴール
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 ベルリナーが発明した「グラモフォン」やエジソンが発明した「フォノグラフ」が、まだ玩具レベルで音楽鑑賞用には不十分な性能しかなかった19世紀末から20世紀初頭にかけて、「オルゴールの時代」がレコードの本格化よりも一足早く訪れ、主に欧米で大流行した。写真はドイツで1889年に創業したポリフォン社(POLYPHON)の大型オルゴールである。写真の中央に見える大きな金属製のディスクを交換することで好みの曲を再生できるので、音楽の楽しみ方としてはCDやアナログディスクで曲を選ぶオーディオに近いスタイルといえる。

 ディスク式のオルゴールは、櫛歯と呼ばれる金属製の音源を、楽譜を移したディスクの孔で間接的に弾いて音を出す。櫛歯の振動は共鳴箱として巧みに作られた木製ケースで増幅され、黄金色の音の洪水ともいえるほど豊かさになる。機会があったら、ぜひ大型のオルゴールを聴いていただきたい。きっと、最新の高級オーディオ装置でさえ及ばないほどの美音に驚かされるだろう。

 それほどいい音のオルゴールだが、オルゴール以外の音色を出すことは原理的に無理がある。また、オルゴールはジングル・ベルが苦手といわれるように、同じ音の連打があまり早くできないので、編曲もアルペジオを多用した同じようなパターンになりがちだ。このため、たくさんオルゴールを聴く音楽好きは、しばらくすると飽きてしまうという致命的な問題が生じた。20世紀になって蓄音機が改良され、レコードビジネスが本格化してレコードの選択の幅が広がると、オルゴールは急速に衰退してしまった。どんな音色も、人の声さえも出せる蓄音機の魅力には勝てなかったのである。

 ポリフォン社のオルゴール事業も衰退したが、同社は第一次世界大戦中にグラモフォンのドイツ支社を傘下に収めた。グラモフォンの本社がイギリスにあったため、敵国資本としてポリフォン社に売却されたのだ。ドイツのグラモフォン社、すなわち「ドイツグラモフォン」は、その後クラッシック音楽の録音を中心に大いに活躍したのだが、その母体がオルゴール会社であったことはあまり知られていない。

ウェルテ・ミニヨンのロールピアノを録音したCD (TELDEC 8.43931)
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 オルゴールのほかにもうひとつ、素晴らしい音楽再生装置が同時代に開発された。それはロールピアノと呼ばれる自動演奏機能付きピアノである。なかでも、1904年ごろから活躍したドイツの「ウェルテ・ミニヨン社(WELTE-MIGNON)」の装置は、ペダル操作も含め、ピアニストの演奏を驚くほど忠実に再現できるという高度なものだ。その仕組みを簡単に解説しよう。

 まず、ピアニストの打鍵とペダル操作を、各キーやベダルに連結された黒鉛の棒で高速に巻き取られていく長いロール紙に記録する。ロール紙に記録された黒鉛の線は、キーを押す力が強ければ濃く、弱ければ薄い。また、キーやペダルを押している時間が長ければ線も長い。このように記録されたピアニストの微妙なタッチを、職人が再生用のロール紙に移すのだが、そのとき、穴の大きさでタッチの強さを、穴の長さで時間の長さを再現する。このロール紙をハーモニカのように空気吸引孔が並んだ読み取り装置を通過させることで、ピアニストの演奏どおりにキーを押したりペダルを踏んだりする動力を空気の流れとして得る。

 スタインウェイのグランドピアノとの組み合わせによるウェルテ・ミニヨンのロールピアノは、当たり前だが生のグランドピアノに等しい超高音質だ。どんなハイエンドのオーディオ装置よりも上に決まっている。写真のCD(独テルデック 8.43931)は、1969〜70年に旧東ドイツのスタジオで録音されたウェルテ・ミニヨンのロールピアノで、ブゾーニ(Feruttio Busoni)やシュターフェンハーゲン(Bernhard Stavenhagen)といった今世紀初頭に活躍した大ピアニストの歴史的演奏が聴ける。

大ピアニスト「フェルッチオ・ブゾーニ」(1866〜1924年)
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 ブゾーニはイタリアに生まれてベルリンを拠点に活躍した作曲家兼ピアニストで、カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲を再発見したように、バッハの鍵盤音楽に対して多大なる貢献をした。バッハのピアノ楽譜には「ブゾーニ編曲」とあるものが少なくない。ブゾーニは性能の悪い蓄音機のための録音を嫌がり、レコード録音の最中に妻へ送った手紙には、「このいまいましい録音機のご機嫌をとるため、強弱もペダルも制限しなければならず、思い切り弾けない」といった不満を書いている。ブゾーニは1922年ごろに英コロンビアで録音し、4枚のSPレコードが発売された。

 たった4枚を集めれば、この大ピアニストのコレクションは完結してしまう。すべて両面盤なので8面あるのだが、なぜか黒鍵のエチュードが2回録音されている。4枚のうち1枚は両面を使って「ハンガリー狂詩曲第13番」が録音されていて、B面には「狂詩曲」という曲名どおりの気違いじみた超絶技巧が吹き込まれているが、当時流行した「表現主義」の自由闊達さなのか、あるいは片面で4分程度しかない録音時間の不足に急き立てられてのヤケクソなのかは分からない。だが、最も少ないとされる両面ショパンの盤では間の取り方が舌を巻くほど絶妙だし、バッハの「平均律クラビーア」では荘厳さに圧倒される。ハ長調のプレリュードとフーガしかないのだが、ブゾーニが弾くとこの音数の少ない曲が不思議とシンフォニックに聴こえる。

ブゾーニが録音したハンガリー狂詩曲第13番(1922年録音)
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 では、そのブゾーニが渋々録音したオリジナルのコロンビア盤とロールピアノのCDを比較してみよう。古い80回転のコロンビア盤は、4枚とも濃い青のレーベルで、「ニュープロセス盤」とよばれる表面に良質なシェラックを用いたローノイズ盤だ。これをEMGの卓上型蓄音機で再生する。20世紀末にアナログレコードからCDになって音が悪くなったとオーディオ愛好家が嘆いたように、1930年ごろに機械式蓄音機から電気蓄音機に世代交代して音が悪くなったと嘆く熱心な愛好家に向けて、機械式蓄音機をハンドメイドで作り続けたのがイギリスのEMGだ。いっぽう、CDはプレーヤーこそSONY製の普及品だが、自作のAD1シングルアンプで増幅し、オイロダインというドイツの名スピーカーで再生する。

 録音が優れていることもあって、CDの再生音はすばらしい音質と迫力だ。「ラ・カンパネラ」と「リゴレットのパラフレーズ」というリストお得意の華麗な曲なのだが、早いパッセージで音が少し乱れ、全体に味気ない。このあたりはロールピアノの限界だろうか。対する古いコロンビア盤は、音が貧弱で常にスクラッチノイズを伴う。それでも、聴くにつれノイズは気にならなくなり、しだいに録音当時の薫香を豊かに感じるようになる。かなり独断的だが、古いコロンビア盤+蓄音機の勝利となった。

EMGの卓上型蓄音機(ゼンマイから回転計付きモーターに改造してある)
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[リバイバル3] ラジカセでクラシックを聴いている清貧の音楽ファンには音楽はわからない 富山誠
76. 中川隆[-9524] koaQ7Jey 2019年6月18日 12:35:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2949]

フェルッチョ・ブゾーニ(Ferruccio Busoni, 1866年4月1日 エンポリ - 1924年7月27日 ベルリン)は、イタリア出身でドイツを中心に世界中で活躍した作曲家・編曲家・ピアニスト・指揮者・教育者。

本名はダンテ・ミケランジェロ・ベンヴェヌート・フェッルッチョ・ブゾーニ (Dante Michelangelo Benvenuto Ferruccio Busoni) 。

作曲家として新古典主義音楽を提唱しただけでなく、電子音楽や微分音による作曲など、未来的な音楽像を提唱した。

イタリアに生まれ、少年時代をほとんどトリエステに過ごす。

母親アンナ・ヴァイス=ブゾーニはトリエステ出身のプロのピアニストで、祖父ジュゼッペ・ヴァイスを通じてユダヤ人の血を引いている[1]。

イタリア人の父親フェルディナンド・ブゾーニはプロのクラリネット奏者をつとめるかたわら、画業もこなし、ブゾーニの少年時代に両親はしばしば演奏旅行を行なった。

ブゾーニは神童で、7歳で両親の公開演奏会においてデビューした。数年後にはウィーンで自作のいくつかを演奏し、フランツ・リストのピアノ演奏にも接した。

ウィーンでは、リストやヨハネス・ブラームス、アントン・ルビンシテインにも面会している。リストは、ブゾーニの演奏の真価について消極的な返事を出したらしいが[2]、一方のブゾーニは、「リストのピアノ曲は、ピアノ芸術のアルファにしてオメガである」と最大限の賛辞[3]を捧げており、リストのピアノ曲の校訂・編曲も手懸けている。

13歳で《24の前奏曲》Op.37を完成、そのほか大量にピアノ作品を作曲したが「少年期の作品はあまり意味がない」とブゾーニはこの時期の作品の完成度に否定的であった。その後、彼の周囲に作曲とピアノで並ぶものはいなくなり、アントン・ルビンシテイン国際音楽コンクール(英語版)の作曲部門とピアノ部門の両部門に挑戦し、作曲部門は優勝(《ピアノと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック》Op.31a)、ピアノ部門は第二位という結果を得て若手のホープに躍り出た。


ドイツ人としての活動

ブゾーニは短期間グラーツで学んだ後、1886年にライプツィヒに赴き、その後いくつかの教職に就く。まず1888年にヘルシンキで教鞭を執り、同地で後の夫人イェルダ・ショーストランド (Gerda Sjöstrand) に出会っている。1890年にはモスクワ、翌年から1894年までアメリカ合衆国でも教鞭を執った。アメリカではヴィルトゥオーゾのピアニストとして演奏旅行もこなしており、有名なバッハの《シャコンヌ》の編曲も、この頃に手懸けたようである。

1894年にベルリンに居を構え、同地でピアニストや指揮者として一連の演奏会を行い、とりわけ同時代の音楽の普及につとめた。ウィーン国立音楽院やヴァイマル、バーゼルでは、数々のマスタークラスで教鞭を執り、クラウディオ・アラウやエゴン・ペトリらの門弟を育てた。

《ピアノ協奏曲》は完成できなかったオペラ「アラジン」(Aladdin)から派生した作品であったが、この協奏曲完成後はロマン主義からの脱却と新古典主義への偏愛を見せるようになる。このころから「ピアノ演奏法」の著作に取り掛かる。

新音楽への道

第一次世界大戦中は、まずボローニャに避難して音楽院を監督し、それからチューリッヒに移った。交戦中の国々で演奏することをその間、拒否し続けた。チューリッヒ時代の弟子に、後に米国における電子音楽の先駆者の一人となるオットー・ルーニングがいる。1920年にベルリンに帰り、作曲のマスタークラスを主催した。有名になった作曲家の弟子にクルト・ヴァイルやエドガー・ヴァレーズ、シュテファン・ヴォルペらがいる。

ブゾーニは腎臓病のために亡くなり、ベルリンで埋葬された。


死後

ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から盛んに作品の出版が行われていたにもかかわらず、没後は多くの作品が品切れになり、瞬く間に忘れられた。特に少年期には契約した出版社が多く、作品全曲の収集はきわめて難しかったが、ラリー・シツキー(英語版)が可能な限りのピアノ作品全曲の収集に成功、著書も出版された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%8B



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Busoni 録音集 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Busoni+plays


Liszt Hungarian Rhapsody No 13 Busoni Rec 1922 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lGEDeH-1UL8

Ferruccio Busoni - Liszt Hungarian Rhapsody No. 13 (1922, 80 rpm) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aK_RIiGaILE

BUSONI PLAYS Liszt - Hungarian Rhapsody - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=IYHt3k38hNQ

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/435.html#c76

[番外地7] フェルッチョ・ブゾーニ 名演集

フェルッチョ・ブゾーニ(Ferruccio Busoni, 1866年4月1日 エンポリ - 1924年7月27日 ベルリン)


Busoni 録音集 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Busoni+plays

Liszt Hungarian Rhapsody No 13 Busoni Rec 1922 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lGEDeH-1UL8

Ferruccio Busoni - Liszt Hungarian Rhapsody No. 13 (1922, 80 rpm) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=aK_RIiGaILE

BUSONI PLAYS Liszt - Hungarian Rhapsody - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=IYHt3k38hNQ

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フェルッチョ・ブゾーニ(Ferruccio Busoni, 1866年4月1日 エンポリ - 1924年7月27日 ベルリン)は、イタリア出身でドイツを中心に世界中で活躍した作曲家・編曲家・ピアニスト・指揮者・教育者。

本名はダンテ・ミケランジェロ・ベンヴェヌート・フェッルッチョ・ブゾーニ (Dante Michelangelo Benvenuto Ferruccio Busoni) 。

作曲家として新古典主義音楽を提唱しただけでなく、電子音楽や微分音による作曲など、未来的な音楽像を提唱した。


イタリアに生まれ、少年時代をほとんどトリエステに過ごす。

母親アンナ・ヴァイス=ブゾーニはトリエステ出身のプロのピアニストで、祖父ジュゼッペ・ヴァイスを通じてユダヤ人の血を引いている[1]。

イタリア人の父親フェルディナンド・ブゾーニはプロのクラリネット奏者をつとめるかたわら、画業もこなし、ブゾーニの少年時代に両親はしばしば演奏旅行を行なった。

ブゾーニは神童で、7歳で両親の公開演奏会においてデビューした。数年後にはウィーンで自作のいくつかを演奏し、フランツ・リストのピアノ演奏にも接した。

ウィーンでは、リストやヨハネス・ブラームス、アントン・ルビンシテインにも面会している。リストは、ブゾーニの演奏の真価について消極的な返事を出したらしいが[2]、一方のブゾーニは、「リストのピアノ曲は、ピアノ芸術のアルファにしてオメガである」と最大限の賛辞[3]を捧げており、リストのピアノ曲の校訂・編曲も手懸けている。

13歳で《24の前奏曲》Op.37を完成、そのほか大量にピアノ作品を作曲したが「少年期の作品はあまり意味がない」とブゾーニはこの時期の作品の完成度に否定的であった。その後、彼の周囲に作曲とピアノで並ぶものはいなくなり、アントン・ルビンシテイン国際音楽コンクール(英語版)の作曲部門とピアノ部門の両部門に挑戦し、作曲部門は優勝(《ピアノと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック》Op.31a)、ピアノ部門は第二位という結果を得て若手のホープに躍り出た。

ドイツ人としての活動

ブゾーニは短期間グラーツで学んだ後、1886年にライプツィヒに赴き、その後いくつかの教職に就く。まず1888年にヘルシンキで教鞭を執り、同地で後の夫人イェルダ・ショーストランド (Gerda Sjöstrand) に出会っている。1890年にはモスクワ、翌年から1894年までアメリカ合衆国でも教鞭を執った。アメリカではヴィルトゥオーゾのピアニストとして演奏旅行もこなしており、有名なバッハの《シャコンヌ》の編曲も、この頃に手懸けたようである。

1894年にベルリンに居を構え、同地でピアニストや指揮者として一連の演奏会を行い、とりわけ同時代の音楽の普及につとめた。ウィーン国立音楽院やヴァイマル、バーゼルでは、数々のマスタークラスで教鞭を執り、クラウディオ・アラウやエゴン・ペトリらの門弟を育てた。

《ピアノ協奏曲》は完成できなかったオペラ「アラジン」(Aladdin)から派生した作品であったが、この協奏曲完成後はロマン主義からの脱却と新古典主義への偏愛を見せるようになる。このころから「ピアノ演奏法」の著作に取り掛かる。


新音楽への道

第一次世界大戦中は、まずボローニャに避難して音楽院を監督し、それからチューリッヒに移った。交戦中の国々で演奏することをその間、拒否し続けた。チューリッヒ時代の弟子に、後に米国における電子音楽の先駆者の一人となるオットー・ルーニングがいる。1920年にベルリンに帰り、作曲のマスタークラスを主催した。有名になった作曲家の弟子にクルト・ヴァイルやエドガー・ヴァレーズ、シュテファン・ヴォルペらがいる。

ブゾーニは腎臓病のために亡くなり、ベルリンで埋葬された。

死後

ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から盛んに作品の出版が行われていたにもかかわらず、没後は多くの作品が品切れになり、瞬く間に忘れられた。特に少年期には契約した出版社が多く、作品全曲の収集はきわめて難しかったが、ラリー・シツキー(英語版)が可能な限りのピアノ作品全曲の収集に成功、著書も出版された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%8B

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ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
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KLANG-KUNST オーディオの歴史 オルゴールとロールピアノ
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ポリフォン社の大型オルゴール
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 ベルリナーが発明した「グラモフォン」やエジソンが発明した「フォノグラフ」が、まだ玩具レベルで音楽鑑賞用には不十分な性能しかなかった19世紀末から20世紀初頭にかけて、「オルゴールの時代」がレコードの本格化よりも一足早く訪れ、主に欧米で大流行した。写真はドイツで1889年に創業したポリフォン社(POLYPHON)の大型オルゴールである。写真の中央に見える大きな金属製のディスクを交換することで好みの曲を再生できるので、音楽の楽しみ方としてはCDやアナログディスクで曲を選ぶオーディオに近いスタイルといえる。

 ディスク式のオルゴールは、櫛歯と呼ばれる金属製の音源を、楽譜を移したディスクの孔で間接的に弾いて音を出す。櫛歯の振動は共鳴箱として巧みに作られた木製ケースで増幅され、黄金色の音の洪水ともいえるほど豊かさになる。機会があったら、ぜひ大型のオルゴールを聴いていただきたい。きっと、最新の高級オーディオ装置でさえ及ばないほどの美音に驚かされるだろう。

 それほどいい音のオルゴールだが、オルゴール以外の音色を出すことは原理的に無理がある。また、オルゴールはジングル・ベルが苦手といわれるように、同じ音の連打があまり早くできないので、編曲もアルペジオを多用した同じようなパターンになりがちだ。このため、たくさんオルゴールを聴く音楽好きは、しばらくすると飽きてしまうという致命的な問題が生じた。20世紀になって蓄音機が改良され、レコードビジネスが本格化してレコードの選択の幅が広がると、オルゴールは急速に衰退してしまった。どんな音色も、人の声さえも出せる蓄音機の魅力には勝てなかったのである。

 ポリフォン社のオルゴール事業も衰退したが、同社は第一次世界大戦中にグラモフォンのドイツ支社を傘下に収めた。グラモフォンの本社がイギリスにあったため、敵国資本としてポリフォン社に売却されたのだ。ドイツのグラモフォン社、すなわち「ドイツグラモフォン」は、その後クラッシック音楽の録音を中心に大いに活躍したのだが、その母体がオルゴール会社であったことはあまり知られていない。


ウェルテ・ミニヨンのロールピアノを録音したCD (TELDEC 8.43931)
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 オルゴールのほかにもうひとつ、素晴らしい音楽再生装置が同時代に開発された。それはロールピアノと呼ばれる自動演奏機能付きピアノである。なかでも、1904年ごろから活躍したドイツの「ウェルテ・ミニヨン社(WELTE-MIGNON)」の装置は、ペダル操作も含め、ピアニストの演奏を驚くほど忠実に再現できるという高度なものだ。その仕組みを簡単に解説しよう。

 まず、ピアニストの打鍵とペダル操作を、各キーやベダルに連結された黒鉛の棒で高速に巻き取られていく長いロール紙に記録する。ロール紙に記録された黒鉛の線は、キーを押す力が強ければ濃く、弱ければ薄い。また、キーやペダルを押している時間が長ければ線も長い。このように記録されたピアニストの微妙なタッチを、職人が再生用のロール紙に移すのだが、そのとき、穴の大きさでタッチの強さを、穴の長さで時間の長さを再現する。このロール紙をハーモニカのように空気吸引孔が並んだ読み取り装置を通過させることで、ピアニストの演奏どおりにキーを押したりペダルを踏んだりする動力を空気の流れとして得る。

 スタインウェイのグランドピアノとの組み合わせによるウェルテ・ミニヨンのロールピアノは、当たり前だが生のグランドピアノに等しい超高音質だ。どんなハイエンドのオーディオ装置よりも上に決まっている。写真のCD(独テルデック 8.43931)は、1969〜70年に旧東ドイツのスタジオで録音されたウェルテ・ミニヨンのロールピアノで、ブゾーニ(Feruttio Busoni)やシュターフェンハーゲン(Bernhard Stavenhagen)といった今世紀初頭に活躍した大ピアニストの歴史的演奏が聴ける。


大ピアニスト「フェルッチオ・ブゾーニ」(1866〜1924年)
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 ブゾーニはイタリアに生まれてベルリンを拠点に活躍した作曲家兼ピアニストで、カザルスがバッハの無伴奏チェロ組曲を再発見したように、バッハの鍵盤音楽に対して多大なる貢献をした。バッハのピアノ楽譜には「ブゾーニ編曲」とあるものが少なくない。ブゾーニは性能の悪い蓄音機のための録音を嫌がり、レコード録音の最中に妻へ送った手紙には、「このいまいましい録音機のご機嫌をとるため、強弱もペダルも制限しなければならず、思い切り弾けない」といった不満を書いている。ブゾーニは1922年ごろに英コロンビアで録音し、4枚のSPレコードが発売された。

 たった4枚を集めれば、この大ピアニストのコレクションは完結してしまう。すべて両面盤なので8面あるのだが、なぜか黒鍵のエチュードが2回録音されている。4枚のうち1枚は両面を使って「ハンガリー狂詩曲第13番」が録音されていて、B面には「狂詩曲」という曲名どおりの気違いじみた超絶技巧が吹き込まれているが、当時流行した「表現主義」の自由闊達さなのか、あるいは片面で4分程度しかない録音時間の不足に急き立てられてのヤケクソなのかは分からない。だが、最も少ないとされる両面ショパンの盤では間の取り方が舌を巻くほど絶妙だし、バッハの「平均律クラビーア」では荘厳さに圧倒される。ハ長調のプレリュードとフーガしかないのだが、ブゾーニが弾くとこの音数の少ない曲が不思議とシンフォニックに聴こえる。


ブゾーニが録音したハンガリー狂詩曲第13番(1922年録音)
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 では、そのブゾーニが渋々録音したオリジナルのコロンビア盤とロールピアノのCDを比較してみよう。古い80回転のコロンビア盤は、4枚とも濃い青のレーベルで、「ニュープロセス盤」とよばれる表面に良質なシェラックを用いたローノイズ盤だ。これをEMGの卓上型蓄音機で再生する。20世紀末にアナログレコードからCDになって音が悪くなったとオーディオ愛好家が嘆いたように、1930年ごろに機械式蓄音機から電気蓄音機に世代交代して音が悪くなったと嘆く熱心な愛好家に向けて、機械式蓄音機をハンドメイドで作り続けたのがイギリスのEMGだ。いっぽう、CDはプレーヤーこそSONY製の普及品だが、自作のAD1シングルアンプで増幅し、オイロダインというドイツの名スピーカーで再生する。

 録音が優れていることもあって、CDの再生音はすばらしい音質と迫力だ。「ラ・カンパネラ」と「リゴレットのパラフレーズ」というリストお得意の華麗な曲なのだが、早いパッセージで音が少し乱れ、全体に味気ない。このあたりはロールピアノの限界だろうか。対する古いコロンビア盤は、音が貧弱で常にスクラッチノイズを伴う。それでも、聴くにつれノイズは気にならなくなり、しだいに録音当時の薫香を豊かに感じるようになる。かなり独断的だが、古いコロンビア盤+蓄音機の勝利となった。


EMGの卓上型蓄音機(ゼンマイから回転計付きモーターに改造してある)
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[リバイバル3] 300kg以下のオーディオ移動用ジャッキ・キャリー

300kg以下のオーディオ移動用ジャッキ・キャリー

山善(YAMAZEN) 軽がるキャリー 重量物 移動用 KGC-C6
https://www.amazon.co.jp/%E5%B1%B1%E5%96%84-YAMAZEN-%E8%BB%BD%E3%81%8C%E3%82%8B%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%BC-%E9%87%8D%E9%87%8F%E7%89%A9-KGC-C6/dp/B07BGZ8P9K/ref=pd_sbs_328_1/357-1870605-3709858?_encoding=UTF8&pd_rd_i=B01MSQO14X&pd_rd_r=f7970630-917d-11e9-bb35-79dc37366e69&pd_rd_w=Q5Zhi&pd_rd_wg=yi7FA&pf_rd_p=ad2ea29d-ea11-483c-9db2-6b5875bb9b73&pf_rd_r=PSMH9C6GVEDG117DNZFA&refRID=PSMH9C6GVEDG117DNZFA&th=1

価格:
レギュラータイプ ¥1,765
ロングタイプ ¥2,104

レギュラータイプ サイズ:
持ち上げ棒=長さ30.5×幅7×高さ5.5cm、
台車=幅7×奥行10×高さ2.5cm


ロングタイプ サイズ:
持ち上げ棒=幅30.5×奥行7×高さ5.5cm
台車=幅4.5×奥行31×高さ1.5cm

•材質:(持ち上げ棒)

本体=スチール
フレーム・ローラー=ABS樹脂、
グリップ=TPR
(台車)本体・ローラー=ABS樹脂
シャフト=スチール
クッション=ウレタン

• セット内容:持ち上げ棒、台車×4個

• 台車最大使用荷重:300kg(※4個使用時)


カスタマーレビュー


つぼ 5つ星のうち5.0
とても良い商品でした。 2017年10月7日

模様替えで100キロ以上ある電子ピアノを移動するために購入しました。
一人でも難なく移動することができ、台座がくるくる回転するようになっていて方向転換も簡単にできたのでとても助かりました。

しかし、タイルマット(カーペット系)の上を移動する際沈んで進まないのを無理やり押したところ台座のスポンジ部分が取れてしまいました。

100キロ以上の重量物であることもあると思いますが、フローリング上ではスイスイ移動できていたので畳やカーペットなどの柔らかい床を移動するのには不向きなようです。
業者に頼むと数万円かかると言われて諦めていた部屋の模様替えを無事に一人で終えることができ非常に快適な部屋にすることができました。
私の無茶な使用により少し壊してしまいましたが、使用後他に壊れた個所もなく耐久性は問題なさそうです。

値段以上の価値は十分にある商品だと思います。素敵な商品をありがとうございました!

相沢かえで 5つ星のうち5.0
『わずかな距離の平行移動を、高頻度に繰り返す』用途には最適。 2018年5月4日

模様替えの際に購入しました。意外とホームセンターには売っていないので、結局はAmazonで買うことに。

コロが4つと、コロ付きのてこが1つ。

たいていコロは2つだけ使って、あとはコロ付きのてこで少し持ち上げたまま、家具を少しずつソロソロと押して所定の位置に動かす……という使い方になるでしょうか。
引越クラスの大掛かりな事ならば、多人数でやる方が良いですが、台所の家具のちょっとした配置換え・移動など『距離はわずか。でも細かな位置調整が必要』と言う際、一人で気兼ねすることなく何度でも微調整する、という事ができるので、そういうのをやりたかった人には本当に便利だと思います。

極端な話、たった1回の移動のために買うとしてもコスパは十分(人件費を掛けてやるのと比べたら十分元は取れている)で、とてもいい品物だと思います。
ただ、くれぐれも指を挟んだりしないように注意!重量物を持ち上げるものだけに、そこは慎重に取り扱ってください。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/969.html

[リバイバル3] 株で損した理由教えてあげる 新スレ 中川隆
180. 中川隆[-9523] koaQ7Jey 2019年6月18日 13:31:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2952]

2019年06月18日
世界通貨安競争 ドル、ユーロ、元、円が安値競う


過去の通貨安競争では、いつも円だけが値上がりし超円高になった


画像引用:https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/nakajima/data/08_figure_1.gif

米中対立は通貨切り下げ競争へ

米中の貿易対立は貿易だけにとどまらず、安全保障や外交対立も引き起こしている。

貿易には通貨レートが大きく影響するが、米中が自国のドルと人民元を切り下げて有利にしようとしている。

アメリカは中国からの輸入品の大部分に25%関税を用意していて、米中協議決裂なら6月中に発動される。




対する中国はレアアース輸出制限と米国債売却をちらつかせるが、対抗手段としてどれほど効果があるか微妙です。

というのはレアアースの中国埋蔵量は世界の3割に過ぎず、環境汚染とコストの問題で他の国は採掘していないのです。

中国が輸出制限すればレアアース価格が上昇し、環境に配慮した採掘でも採算を得られるようになるでしょう。


米国債売却については、仮に全額売却したらFRBが買い取れば良いだけで、日銀が日本国債を買うのと同じで、誰も困りません。

次に中国が考えているのは通貨の人民元切り下げで、アメリカが25%関税を掛けるなら、25%人民元を安くすれば元建てで同じ額を輸出できる。

人民元は1ドル7元以下で固定されているが、7元以上への切り下げを予定していると言われている。


もっとも人民元の場合は暴落する可能性もあるので、当局は常に為替介入をして適正に保たなくてはならない。

もしオーバーシュートして1ドル10元以上になったら、かなりの経済混乱が予想されます。

中国政府は従来、1ドル7元以下を絶対防衛圏としていたが、そうした基準はあいまいになっている。

1ドル7元の米中攻防

中国は1ドル7元以下の元安に誘導して輸出を有利にしたいが、話はドル円ほど簡単ではない。

円の場合日本政府にとって「高すぎる」事だけが問題で、安い方はいくら安くなっても問題は無かった。

実際1ドル360円に戻ったら困るのだが、日本政府が力いっぱい為替介入しても、1ドル120円台より安くならない。


中国はこれとは違っていて、元が高くなると貿易が不利になるので安く誘導しているが、一方で暴落懸念も抱えている。

かつて英ポンドが半値になったように、人民元を空売りして潰してやろうという「投機筋」が手ぐすねを引いて待っている。

中国の経済統計は虚飾に彩られていて、本来価値の2倍も高いというのが反人民元派の言い分です。


もし人民元の価値が半分になれば中国のGDPも半分になるので、空売り派にとっては適正水準になる。

中国は米国が1985年プラザ合意のように、G7などで人民元レートを高くするのではないかと警戒している。

プラザ合意前に日本円は1ドル260円だったが、2年後には120円まで円高が進み、以来日本円は円高基調になった。


アメリカは元安に警戒する一方でユーロが安すぎると言い、対ドルレートを安値に誘導していると批判している。

こうした批判は日本など多くの国にもおよび、その意図するところはドルを切り下げたいという事のようです。

日本も円を安く誘導する政策(金融緩和)を5年前から行っていて、主要各国全てが自国通貨を安値に誘導しようとしている。


過去のこうした通貨競争では日本円だけでが独歩高で超円高というパターンが多かった。


日本円は巨大な経常黒字によるドル流入で「世界最強通貨」なので、他国通貨が下がるほど円が値上がりする仕組みになっている。
http://www.thutmosev.com/archives/80125463.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/823.html#c180

[リバイバル3] OPPO Sonica DAC _ 音楽がわからないアホ・オーディオマニアが絶賛する超お買い得品(?)だけど… 中川隆
47. 中川隆[-9522] koaQ7Jey 2019年6月18日 13:55:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2953]

ドイツ製ヴィンテージ・オーディオ販売 クラング・クンスト KLANG-KUNST
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/479.html

KLANG-KUNST オーディオ入門 2016年12月

1970年代はまた、芥川賞作家でオーディオの大家だったの五味康祐や、日本におけるオーディオ評論家の草分けだった池田圭など、偉い先生や魅力的な先生が誌面などで活躍していて、ときに迷著に振りまわされつつも、オーディオ愛好家にとって目指す道が見つけやすい時代でした。

ところが、1980年代以降はCDの登場によるデジタル化の反動もあってか、懐古趣味が強くなりすぎたり、観念的になりすぎたりして、オーディオの道が迷路になってしまいました。

昔はカセットデンスケからナグラのプロ用機器までが一筋につながっていたのが、今ではDAコンバータ基板など安価で高性能なデジテル機器で楽しむ世界と、高級ブランドの高価なオーディオの世界に分裂していて、お互いを否定しているかのようです。

数千円のDAコンバータ基板で良い音が出ていると思っている人たちからは、何百万円もするハイエンドオーディオ機器のオーナーが中身の無いものに大金を払った大まぬけに見えています。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10401&i=10403


KLANG-KUNST デジタル DAコンバーターなどの製品情報
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10069


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/852.html#c47

[リバイバル3] CD プレーヤーは進歩しているのか?  中川隆
78. 中川隆[-9521] koaQ7Jey 2019年6月18日 14:09:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2954]
KLANG-KUNST オーディオ入門 2016年12月

1970年代はまた、芥川賞作家でオーディオの大家だったの五味康祐や、日本におけるオーディオ評論家の草分けだった池田圭など、偉い先生や魅力的な先生が誌面などで活躍していて、ときに迷著に振りまわされつつも、オーディオ愛好家にとって目指す道が見つけやすい時代でした。

ところが、1980年代以降はCDの登場によるデジタル化の反動もあってか、懐古趣味が強くなりすぎたり、観念的になりすぎたりして、オーディオの道が迷路になってしまいました。

昔はカセットデンスケからナグラのプロ用機器までが一筋につながっていたのが、今ではDAコンバータ基板など安価で高性能なデジテル機器で楽しむ世界と、高級ブランドの高価なオーディオの世界に分裂していて、お互いを否定しているかのようです。

数千円のDAコンバータ基板で良い音が出ていると思っている人たちからは、何百万円もするハイエンドオーディオ機器のオーナーが中身の無いものに大金を払った大まぬけに見えています。
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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/842.html#c78

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
110. 中川隆[-9520] koaQ7Jey 2019年6月18日 14:22:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2955]

KLANG-KUNST オーディオ入門 2016年12月

1970年代はまた、芥川賞作家でオーディオの大家だったの五味康祐や、日本におけるオーディオ評論家の草分けだった池田圭など、偉い先生や魅力的な先生が誌面などで活躍していて、ときに迷著に振りまわされつつも、オーディオ愛好家にとって目指す道が見つけやすい時代でした。

ところが、1980年代以降はCDの登場によるデジタル化の反動もあってか、懐古趣味が強くなりすぎたり、観念的になりすぎたりして、オーディオの道が迷路になってしまいました。

昔はカセットデンスケからナグラのプロ用機器までが一筋につながっていたのが、今ではDAコンバータ基板など安価で高性能なデジテル機器で楽しむ世界と、高級ブランドの高価なオーディオの世界に分裂していて、お互いを否定しているかのようです。

数千円のDAコンバータ基板で良い音が出ていると思っている人たちからは、何百万円もするハイエンドオーディオ機器のオーナーが中身の無いものに大金を払った大まぬけに見えています。
https://www.klang.jp/index.php?f=&ci=10401&i=10403


KLANG-KUNST デジタル DAコンバーターなどの製品情報
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[近代史3] 日本人ジャーナリストがウイグル問題を報じると こういう目に遭う

日本人ジャーナリストがウイグル問題を報じると こういう目に遭う


日本で「ウイグル問題を報じづらい」3つの深刻な理由
安田 峰俊 2018/11/13
https://bunshun.jp/articles/-/9651


 最近、中国が新疆ウイグル自治区でおこなっている少数民族ウイグル人への弾圧問題が、世界でのホットなトピックになっている。国連人種差別撤廃委員会は2018年8月末、最大100万人のウイグル人が強制収容所に入れられているとの指摘を報告。米中両国の政治的対立もあり、最近は米国系のメディアを中心に関連報道が続いている。


11月上旬、ジュネーブで行われた国連人権理事会の外でデモを行うウイグルの人々 ©AFP/AFLO


ますます厳しくなるウイグル人への締め付け

 トルコ系のウイグル人が多く住む新疆は、チベット・内モンゴルなどと並び、20世紀なかば以降にやっと中国政府による直接支配が確立した地域なので、少数民族の間では独立や自治獲得を望む意向が強い。

 だが、中国では1989年の六四天安門事件後、国家の引き締めのために漢民族中心主義的なナショナリズムが強化され、また経済自由化のなかで辺境地帯の資源・都市開発や漢民族による移民が進んだ。結果、2010年前後からは追い詰められた少数民族による大規模な騒乱が増えた。

 少数民族のなかでも、イスラム教を信仰するウイグル人は、中国共産党にとっては「党以外の存在」に忠誠を誓っているように見える。彼らは人種や文化習慣の面でも漢民族との隔たりが大きく、中央アジアや中東との結びつきも強いことから、他の少数民族以上に強い警戒を持たれている。

 結果、近年のウイグル人への締め付けはいっそう厳しくなっている。中国は現在、「テロ防止」を最大の名目として国内の治安維持費用に国防費を約20%も上回る予算を投入、さらに国内に1億7000万台近い監視カメラを設置(2017年時点)したり、当局が国民のネット接続を監視したりする監視国家になっているが、その最大のターゲットはウイグル人と言ってもいい。


古くからシルクロードの要衝として栄えたカシュガル市の旧市街。こうした街並みもどんどん壊されつつある。2014年3月筆者撮影


新疆は中国の治安機関の見本市

 いまや新疆は、のどかなシルクロードのイメージとは裏腹に、強力な監視・警備体制が敷かれる恐ろしい場所になっている。筆者が2014年春に訪れたときは、街のいたる場所に制服姿の治安維持要員が立哨したり巡回したりしており、城管・公安・武装警察・特殊警察……と中国の各種治安機関の見本市のようになっていた。これらは現在、いっそう深刻になっているようだ。

 また、近年の新疆では多くのモスクが閉鎖されるなど、ウイグル人はイスラム教の信仰を事実上禁止されるに近い状況に置かれており、公教育機関でも、ウイグル人としての民族的なアイデンティティを持ちづらい教育が行われているとされる。家族や親戚を含めて、国外にいる知人と連絡を取ることも容易ではないという。
https://bunshun.jp/articles/-/9651

ウイグル問題への言及はなぜ「面倒くさい」のか?
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=2


ヤルカンド市内で携帯電話販売店の前に立つウイグル族女性。もはや漢民族経済抜きの生活は不可能だ。2014年3月筆者撮影

 筆者はウイグル問題の専門家ではない。とはいえ、過去に現地に行ったこともあれば、自分の書籍で何度か詳しく言及したこともあるため、この問題への関心はおそらく他の中国ライターよりも強いはずだ。

 ただ、正直に言ってウイグル問題に言及するのは気が重い。その理由は、日本国内でこの問題を語ったり調べたりする行為が、極めて面倒くさい事態を引き起こしがちだからだ。これは筆者に限った話ではなく、過去にウイグル報道に関係したテレビ関係者や新聞記者に尋ねても、似たような感想を述べる人が何人も見られる。

 ここでいう「面倒くさい」事態とは、中国当局の妨害や圧力だけではない。もちろん妨害も深刻だが、こちらは事前に想定ができる。日本でわざわざウイグル問題を報じようとする報道関係者にはキモの据わった人が多く、ある程度の覚悟をしている人も多い。

メディアが直面する3つの問題

 むしろ問題なのは、いざウイグル問題について調べようとフタを開けてみると、中国の政治事情とはあまり関係がない問題に数多く直面し、精神力をいちじるしく消耗する点である。結果、ウイグル問題を1度くらいは取り扱ってみても、「次」にもう一度取り組もうという気にはなれない報道関係者も少なくないようだ。

 そこで今回の原稿では、日本のメディアがウイグル問題を報じる際に直面する「面倒くさい」問題の内実を指摘してみたい。おおまかに言えば、以下のような問題が存在しているのだ。

1.中国政府からの取材妨害や情報の制限

2.在日ウイグル人民族運動と支援者の問題

3.他の日本人のウイグル・チャンネルの問題

「えげつない監視体制」


新疆西南部、ヤルカンドの街。モスクの付近では平和な日常が広がっていた。2014年3月筆者撮影


 まず「1.中国政府からの取材妨害や情報の制限」は想像が付くだろう。ウイグル問題は中国政府にとって、党の最高指導部の権力闘争と並ぶ重大なタブーだ。問題が現在進行形であり、かつ当局のコントロールが完全には成功していない点で、実は六四天安門事件や対日歴史認識問題よりも、ウイグル問題のほうが中国国内でのタブー度合いは高い。

 個人的な経験で言えば、2014年春ごろに中国国内にいる某新聞社の日本人記者と電話で話した際に、ウイグル問題に言及した瞬間に音声の雑音が増え、いきなり切れてしまったことがある。たとえ日本語の通話でも、中国のSIMカードを使った場合はばっちりリアルタイムで盗聴されているわけだ。

 ウイグル問題を取材しようと新疆に入る記者(報道ビザを持たない場合も含む)は行動を徹底的にマークされる。中国国内、特に新疆での携帯電話の通話内容やチャットソフトでの会話内容もすべてチェックされている。また街のあちこちにある監視カメラの画像も、顔認証技術を応用して解析されている可能性が高い。現代の新疆で、外国人の取材者が当局に捕捉されずに誰かと会って話を聞く行為は事実上不可能に近い。

ちょっと不満を漏らしただけで収容所送り?

 しかも、滞在中に接触した現地のウイグル人は、その後に高確率で当局による尋問や拘束を受ける。話を聞く相手が確実に当局に特定され、さらにその後で拘束される可能性が高いとなると、コメント取りが重要になってくる大手メディアの現地取材はかなり難しいと考えていい。

 加えて言えば、中国当局を過度に刺激するような取材をした場合、大手メディアの記者の場合はビザの延長が難しくなったり、中国支局に圧力が掛かったりする。フリーランスの場合は今後の入国自体が禁止される可能性も出てくる。当然、他の問題と比べて、日本のメディアがウイグル問題を取り扱うハードルは高い。


ヤルカンド市内の大通り、中国共産党の正当性を訴える看板。周囲では武装警察の装甲車がひっきりなしに走り回っていた。2014年3月筆者撮影

ヤルカンド市内の大通り、中国共産党の正当性を訴える看板。周囲では武装警察の装甲車がひっきりなしに走り回っていた。2014年3月筆者撮影

 それでも近年の日本メディアは、『朝日新聞』やNHKなども含めて、実は世界規模で見てもウイグル問題の取材に積極的なほうだ。だが、記者本人が新疆に立ち入るような取材は、監視体制が現在よりはユルかった2014〜15年ごろまでは多かったものの、近年は減った印象がある。

 2018年現在は、ウイグル人がちょっと生活上の不満を漏らしただけで収容所送りになるという話もあり、現地取材はほとんどできなくなっている。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=2

右翼勢力の影響が強すぎる「在日ウイグル人民族運動」
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=3


 もっとも、中国当局による妨害は想定内の話だ。むしろ、次に紹介する「2.在日ウイグル人民族運動と支援者の問題」のほうが、現実が想像の斜め上を行っているという点で、心理的負担が大きい問題だとも言える。

 過去、ウイグル人の海外渡航・海外留学が比較的難しくなかったゼロ年代ごろまで、日本は彼らの留学先として人気がある国だった。在日ウイグル人の留学生やビジネスマンのなかには政治的な考えを持つ人たちも存在していた。

 2008年春ごろ、彼らの一部は日本国内で民族運動の組織を立ち上げる動きを見せ、世界規模の団体である世界ウイグル会議(WUC)もこの動きを支持した。その後、「1人1組織」みたいなものも含めて、現在までに日本国内で複数のウイグル民族運動団体が成立している。

 だが結論から言えば、これらの団体の多くは結成当初から日本国内の保守・右翼系勢力との関係が深かった。戦前からのルーツを持つような伝統右翼系の勢力と、『日本文化チャンネル桜』のようなネット右翼系イデオロギーを持つ後発勢力の双方が影響力を及ぼしていたのだ。また、いわゆる宗教保守系の新宗教団体もここに接近している。


ウルムチ〜カシュガル間で撮影したタクラマカン砂漠。2014年3月筆者撮影


メンバーがほとんど日本人という組織も

 一部の組織には、ごく少数のウイグル人活動家を除けば、実質的にメンバーの大部分が保守系の思想を持つ日本人で占められるものもあった。こうした日本側の支持者の影響は、ウイグル民族運動の上位団体であるWUCまで及んでいる。

 2012年5月にWUCの総会が東京で開かれた際、WUC総裁(当時)のラビア・カーディルを登壇させてシンポジウムを開いた団体「世界ウイグル会議を応援する日本人の会」には、平沼赳夫・石原慎太郎・加瀬英明・藤井厳喜ら保守界隈の大物の名前が並んだ。同日には藤井らが付き添う形で、イスラム教徒であるラビア氏による靖国神社への昇殿参拝もおこなわれている。

 なお、ラビア・カーディルは「ウイグルの母」とも称されるウイグル民族運動の精神的指導者で、ゼロ年代ごろまではチベットのダライ・ラマ14世とならびノーベル平和賞候補としても名が取り沙汰された人物である。2013年には宗教保守系の新宗教の傘下政党の党首がラビア・カーディルと会談し、彼らのメディアで大々的にそれを報じる事件も起きている。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=3


支持勢力に「忖度」するウイグル人活動家
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=4


 現在、日本国内でのウイグル人民族運動の主流は2012年当時とは別の団体に移り、彼らがWUCの事実上の出先機関になっているが、やはり右翼系の勢力との関係は確認できる(ちなみにウイグル人は、世界組織のWUCも日本国内の民族運動関係者も離合集散が激しく、お互いに足を引っ張ったり誹謗中傷を繰り返すような傾向も強いため、こちらもかなりウンザリする)。

 日本でのウイグル人の民族運動の多くは、2008年の発足当初から「反中国」を理由に右翼・保守勢力と共闘する形を取っている。こうした団体に関係している在日ウイグル人活動家には、日本人支援者への忖度もあるのか、ウイグル情勢について過剰に話を演出したり、日本国内の特定の政治思想におもねるような言説を繰り返す例も少なくない。

「反中国」のアイコンにされてきた歴史


ウイグル人が多く住むポスカム県。県の中心部だが生活は貧しい。2014年3月筆者撮影

 もちろん、右翼でも左翼でも宗教団体でも、深刻な人権問題を解決するために行動しているなら構わない、カネや政治力を持つ組織と亡命ウイグル人が共闘するのも仕方ないという見方もある。

 ただ、過激な右翼色や新宗教色が強い勢力がバックに控え、ウイグル人活動家自身も支持者の政治的主張をコピーした言動を繰り返したり、新宗教団体の広告塔に使われたりしているとなると、報道が極端なイデオロギーや新宗教思想の宣伝につながることを懸念する一般メディアや記者が取材を手控えるのも納得できる話ではある。

 ついでに言えば、日本においてウイグル問題は長年にわたり右翼・保守勢力の主張のパッケージに組み込まれ、「反中国」のアイコンにされてきた歴史があるので、ネットで「ウイグル」を検索するとネット右翼的な人たちのツイートやブログ・YouTube動画ばかりが引っかかって、扇動的な情報が異常に多く表示されるという問題も起きている。

 最近は少し減ったが、数年前まではツイッターで、旭日旗アイコンを掲げながら野党批判や「反日マスゴミ」への批判をウイグル問題に結びつける投稿が大量に流れるという、意味不明な状況すら生まれていた。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=4


「中国通」でも歯が立たない分野
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=5


ウルムチ市内のバザールで販売されていたスカーフとマネキン。ここは中東文化圏の入り口でもある。2014年3月筆者撮影


 最後に「3.他の日本人のウイグル・チャンネルの問題」は、様々な事情からあまり詳しく言及できないが、やはり浅からぬ問題が存在する。

 そもそもウイグル問題は中国についての一般的な理解に加えて、中国国家の少数民族政策・宗教政策やユーラシア史への理解、世界の民族問題への基本的なリテラシー、イスラム・トルコ文化への理解といった膨大な基礎知識がないと、なかなか全貌をつかめない。言語も中国語・英語・ウイグル語だけではなく、トルコ語やアラビア語ぐらいはできないと第一線の情報が入ってこない。

 なのでウイグル問題は、普通の「中国通」の人(筆者自身も含む)ではまず歯が立たない分野だ。中国の国土は広大で、北京や上海と新疆との距離は2000キロ以上も離れている。欧州でいえばパリ〜モスクワ間にほぼ匹敵する距離だ。仮に北京や上海に詳しい人であっても、彼らが新疆を理解するのは、フランス在住者がチェチェンやモルドバの事情を理解するぐらい大変なのである。

 むしろ「中国通」の人のほうが、身近な中国人のウイグル人への偏見(テロリストや泥棒が多い、犯罪をしても逮捕されない特権を持っている、中国国家が新疆を発展させてあげているのに騒乱を起こすウイグル人は恩知らずである……など)からダイレクトな影響を受けているので、認識をミスリードされやすいという問題すらある。

 いっぽう、たとえ中東やイスラム文化に精通した人でも、中国はイスラム圏全体から見れば辺境にあたるため、やはりウイグル問題については縁遠くなりがちだ。東西をつなぐシルクロードの民の問題は、日本人にとってかくも理解が難しいのである。

詳しい人が少なすぎる!

 ゆえにウイグル問題について、極端な政治勢力や新宗教勢力との関係を持たず、さらに現地情勢への文化圏規模での理解を持っていて人脈的なコネもある日本人の専門家は、人数がかなり限定されることになる。

 南米やアフリカの小国や、現地の特定の少数民族について詳しい日本人が少ないのと同様の問題が存在するわけだ。ゆえに、日本のメディアの関係者がこれらの問題を取材する必要が出た場合は、少数の専門家による細いルートになんらかの形でアプローチしていくしかない。

 だが、仮にこうした細いルートを担う専門家たちのなかに、情緒的に不安定なところがある人や、他者とのコミュニケーションが苦手な人が含まれていた場合は大変である。現地へのチャンネルが限られた分野だけに、そうした個人の個性に由来したトラブルが、取材全体のボトルネックになってしまう可能性があるからだ。

 もちろんウイグル問題は深刻で、広く報じたほうがいい問題だ。だが、日本国内の極端な政治勢力と距離を置くことや、さまざまな関係者とのコミュニケーションを取ることなどへのコストが大きすぎるとすれば、やはり報じるトピックとしての優先順位は下がり得る。中国は他にも多数の問題を抱えており、他に伝えるべきことも数多くあるからだ。

 国内外のウイグル人活動家が離合集散を繰り返したり、日本の政治勢力や新宗教勢力がウイグル問題を利用したり、その他もろもろの面倒な問題がグダグダと起き続けている間にも、新疆の人権状況は加速度的な悪化を続けている。中国の最深部で進んでいる強制収容所の建設や文化の抹殺は、とにかく心が痛い。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=5

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/482.html

[近代史3] 日本人ジャーナリストがウイグル問題を報じると こういう目に遭う 中川隆
1. 中川隆[-9519] koaQ7Jey 2019年6月18日 16:39:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2957]


天安門事件から30年 漢人によるウイグル民族浄化の歴史 
宮脇淳子 倉山満【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8J74SPS_yXY

2019/06/05 に公開

6月9日新発売!『中国・韓国の正体 異民族がつくった歴史の真実』 (WAC BUNKO 293) 宮脇 淳子
https://www.amazon.co.jp/dp/4898317936/


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【Front Japan 桜】監獄都市・カシュガル探訪 - [桜R1-5-28] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JO6RTWR7CPo

キャスター:福島香織・宮崎正弘

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いわんかな#24-1【ウイグル最新レポート!文化&民族浄化の現在★中国タブー!前半】
福島香織・堤堯・馬渕睦夫・高山正之・日下公人・志方俊之・塩見和子 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4iP48ywliDM

「いわんかな」〜日本の国益を考える会〜 第24回 第1部(前半)
収録日:2019年6月6日

出演:(左から順に)

日下公人(評論家)
塩見和子(日本太鼓財団理事長・国際同時通訳の第一人者)
馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使・元防衛大学校教授)
福島香織(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
堤堯(ジャーナリスト・元文藝春秋編集長)
高山正之(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
志方俊之(軍事アナリスト・元陸上自衛官陸将)



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【我那覇真子「おおきなわ」#72】
現在進行形のジェノサイド、野村旗守氏が語る中国臓器移植の闇[桜R1-6-7] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JO9TpZN5tgU

【我那覇真子「おおきなわ」#73】
野村旗守〜共産党王朝の残虐性が生んだ、「臓器売買ビジネス」というジェノサイド[桜R1-6-14] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7PwxamiyWu0


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/482.html#c1

[近代史3] 馬渕睦夫のユダヤ陰謀論はどこまで本当なのか? 中川隆
15. 中川隆[-9518] koaQ7Jey 2019年6月18日 17:47:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2958]
伊藤貫 「アメリカのネオコンは元々トロツキスト ロシア系ユダヤ人」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1a7z5Xvo1aQ


2015/12/18 に公開
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/212.html#c15

[近代史3] 馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた 中川隆
15. 中川隆[-9517] koaQ7Jey 2019年6月18日 17:48:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2959]
伊藤貫 「アメリカのネオコンは元々トロツキスト ロシア系ユダヤ人」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1a7z5Xvo1aQ


2015/12/18 に公開
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html#c15

[近代史3] 右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた 中川隆
32. 中川隆[-9516] koaQ7Jey 2019年6月18日 17:51:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2960]
伊藤貫 「アメリカのネオコンは元々トロツキスト ロシア系ユダヤ人」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1a7z5Xvo1aQ


2015/12/18 に公開
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html#c32

[国際26] トランプ大統領がテレビのインタビューで9/11について触れた意味(櫻井ジャーナル) 赤かぶ
1. 中川隆[-9515] koaQ7Jey 2019年6月18日 17:55:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2961]
櫻井ジャーナルに騙されるな


櫻井ジャーナルの記事はすべて嘘八百のデマの可能性が高いです。
詐欺師 櫻井春彦に騙されない様に注意して下さい。

櫻井春彦は街で聞いた本当かどうか全くわからない噂話をそのまま垂れ流しているだけで、何一つ論証も調査もしていないので読む価値は無いのです。

そもそも櫻井春彦は論証した事が一度も無いのです。
文献学の基礎を知らないので文献批判の能力もゼロ
何がデマで、何が信頼度が高いかを全く判断できないのです。

従って、その噂話が本当かどうかに関わらず、櫻井春彦の書いたものは一切信用できません。
たまたまマグレで その噂話が本当だったとしても意味は無いのです。


櫻井春彦の無責任なデタラメぶりはこのデマ記事を見れば良くわかります:


櫻井春彦「天安門事件はデマだった」_ 櫻井ジャーナルは信用できるのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/460.html


因みに、櫻井春彦が何時も言ってる様に

アメリカがソ連を核攻撃しようと計画していた

というのは絶対に有り得ないです。

そもそも、

ソ連は西側が援助してユダヤ人が建国した国だし
ソ連に核技術を指導したのはアメリカだし
ベトナム戦争の時もアメリカはソ連に資金援助していた。


今の韓国程度の経済力だったソ連にアメリカと対峙する力は無かった

ロシアと言えばアメリカと張り合う超大国の一つだと思われているが、実際には韓国以下の経済規模しかない。

強大と思われている軍事力だが年間軍事費は7兆2700億円(2017年ストックホルム国際平和研究所調査)に過ぎない。

日本の5.2兆円(NATO計算方式では7.1兆円)より多いものの、アメリカの80兆円や中国の20兆円より少ない。


ロシアのGDPは約1.6兆ドル(176兆円)で韓国と同程度だが、韓国の軍事費は43兆ウォン(約4.1兆円)となっている。

フランスの軍事費はロシアと同程度でGDPは2.6兆ドル(286兆円)とロシアの1.6倍ある。

ロシアの人口は1.4億人で日本より少し多い程度で、ちょうど中国の10分の1しかない。


ロシアは領土こそ世界最大ではあるものの、経済は韓国レベルで人口はアジアでは普通、軍事力は世界5位に入るかどうかという規模です。
http://www.thutmosev.com/archives/80097952.html


見せ掛けだけだった東西冷戦や八百長戦争だった太平洋戦争・朝鮮戦争・ベトナム戦争の背景は、以下の講演を聞けば誰でも納得できます:


伊藤貫 「アメリカのネオコンは元々トロツキスト ロシア系ユダヤ人」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1a7z5Xvo1aQ


馬渕睦夫沖縄講演
「2019年の国難をどう乗り切るか」〜世界の情報操作と金融支配の本質を見抜く[H31-1-25] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=7cE_4kQATvc


林千勝〜日米戦争を策謀したのは誰だ!
歴史の真実を暴く[2019-5-24] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=26s4G56kn-E
https://www.youtube.com/watch?v=4pNK9Gh6SKU  
 


▲△▽▼


櫻井春彦の詐欺の手口教えてあげる


1.天安門事件で虐殺はなかった

櫻井春彦が聞いた元々の話
「長安街では軍による虐殺が行われたが、天安門広場での虐殺はなかった」

一方、櫻井春彦が櫻井ジャーナルに書いたのは
「天安門事件で虐殺はなかった」

__


2.アメリカの軍や情報機関の好戦派はソ連に対する先制核攻撃を目論んでいた


そんなのあって当たり前。むしろ存在しない方がおかしい。
平時にいろいろな場合を想定し、計画を練っているなんてむしろ当然の話。

アメリカが第二次大戦前に対日戦の計画としてオレンジ計画を作っていたが
それと同じ。

「ソ連に先制核攻撃された場合の計画」
「限定的な核戦争になった場合の計画」

とかいろいろな計画があって、その中に

「先制核攻撃をした場合の計画」

があるのは常識的な話だ。

そしてそのような計画がある事と、実行する事は全く別の話であってそこを混同
しているに過ぎない。

ソ連崩壊後に公表された資料でも、ソ連は「アメリカに対する先制核攻撃」を含めた無数の戦争計画を作って、いろいろな状況を想定している。

それで1980年代には開く一方の国力差から仮に全面戦争になってもソ連が不利になっていくばかりという結論が出ていたので、ゴルバチョフは新思考外交でアメリカとの関係改善に取り組んだんだ。

つまり「先制核攻撃の計画が存在した」のは米ソ双方にとっても当たり前の話でしかない。


先制核攻撃を行なったら100%報復核攻撃があるわけで、もちろん軍需産業は絶対に狙われる。

軍需産業の社長に

「おたくの本社や工場に報復の核ミサイルが降ってきますけど、先制核攻撃していいですか?」

と問うて了承する人間がいると思うか?

軍産複合体は言い換えれば既得権者なのだから、それを根こそぎ吹っ飛ばしかねない核戦争なんぞ望むはずがない。

そういう当たり前の考えが欠落しているから、軽々しく先制核攻撃を目論んでいたとか
いい加減なことを唱えているんだな。


▲△▽▼


櫻井春彦みたいなのを世間では詐欺師と言うんだろ

櫻井春彦は改竄・捏造の常習犯だから
誰々がこう言ったと書いていても、その内容自体が元の言葉と180度違う事が多いんだ

http://www.asyura2.com/19/kokusai26/msg/643.html#c1

[近代史3] ドイツの音楽、ドイツの音、そして世界の音 中川隆
33. 中川隆[-9517] koaQ7Jey 2019年6月18日 18:31:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2959]


中古ハイエンドオーディオ&ヴィンテージオーディオ
Audio Dripper TOKYO
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<コンシューマ機器関連>
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本社 〒103-0004 東京都中央区東日本橋2-4-4


電話 03-5809-3401(13:00〜20:00) 
日曜・月曜は休日


※ご試聴はご予約試聴となります。ご試聴機器や広さによって機材をセットアップいたします。試聴スペースはご予約時にお知らせいたします


▲△▽▼


EURODYN(クラングフィルム オイロダイン) 2017/11/11
https://audiodripper.jp/klangfilm-eurodyn


Klangfilm EURODYN Kl.L439、強さとやさしさ。

ある時代の沸点、熱狂の中心にあったスピーカー。

中古オイロダイン Klangfilm EURODYN Kl.L439【クラングフィルム オイロダイン】


スピーカーを古いとか新しいをほんの5,6年の短いタイムスパンで右往左往してもしょうがない。プロダクトでありながら、最先端やテクノロジーだけではない側面もあるのがスピーカーという代物。ドイツKlangfilmは1920年代からEurope(オイロッパ)、Europe Klarton(オイロッパ・クラルトン)、Euronor(オイロノール)を製造。W.E.より大規模なシステムを誇っていたブランド。

昨年2セット入ったSIMENS EURODYN(シーメンス オイロダイン)。

私がAudio Dripperをやる少し前に購入したスピーカーがJBL Hartsfieldでした。しばらくVitavox CN191やスタジオ用Genelecラージモニターと一緒に鳴らしていました。当初Audio Dripperは新宿拠点でスタジオ機器の取扱いが主でスタジオ丸ごとの買取やSTUDER機の整備を行ったりしていました。2年前の5月からコンシューマ機器を東日本橋と柳橋で扱いはじめた当初、入荷したのがSIMENSオイロダイン。これがとてもダンピングが良く弾むようなサウンドが印象的でHartsfieldが霞む程だった記憶があります。その後すぐもう1台入荷しましたが平面バッフルで扱いが難しいものでした。その時も音楽ソースを選ばないサウンドで、トゥイーターなどをプラスする気が失せる程まとまりあるサウンドで、公称15kHzでしたがあまり気にならない充実度。


SIMENS Klangfilm

今回のKlangfilm EURODYN Kl.L439【クラングフィルム オイロダイン】。

Klangfilm EURODYN(クラングフィルム オイロダイン)とシーメンスオイロダインと違いはドライバー磁石の大きさとドライバー本体のサイズや造りです。さらにネットワークなどの部材。フレームの造りもちがいます。サウンドもミッドローから上の充実ぶりがKlangfilm EURODYN。ドライバーユニットのKl.L302のバックキャビティやマグネットのタフな造りは圧巻。

ちなみに現在世界のハイエンドマーケットのトップエンドはホーン型とアレイ型が多数を占めます(日本国内は独自・・・)。特に耳の超えたヨーロッパのオーディオファイルはホーン型への取り組みやブランドも多数存在します。Klangfilm EURODYNのユニットはすべて鉄のフレームにマウントされホーンも同様で、マッス部分がリジットに取り付けられています。


Klangfilm EURODYN Kl.L302ドライバー、ホーンは金属製KL-LZ30T100

クラングフィルム・オイロダインのウーファーはKl.L406(アルニコ)。たしか1950年代初旬から製造されていたと思います。サウンドの躍動感はこのウーファーによるところが大きいのではと思います。実はこれをフルレンジとした時の音離れの良さは耳を疑う程!速い低音というサウンド。このウーファーも鉄フレームにリジットに取り付けられています。これによってドライバーとウーファーの振動モードが統一されるのではと思います。ホーンは厚みがあるアルミ鋳造でスフェリカル・カーブを採用(最近では円形ホーンのAvantgarde等が採用)。


Klangfilm EURODYN Kl.L406ウーファー


Klangfilm EURODYN Kl.L439【クラングフィルム オイロダイン】のスピーカーユニット

ネットワークはオイルコンデンサーなどが使われた500HzクロスのKl.LZ433です。部品構成から-12dB/octの減衰率でしょうか。シンプルです。


Klangfilm EURODYN ネットワークKl.LZ433

ドイツのあの時代、人の情熱をかきたてるKlangfilm EURODYNのサウンド。

あなたが音楽なら何でも聴く方で、一生スピーカーを変えたくないなら、Klangfilm EURODYNをおすすめします。 おそらく現在世界で販売されているスピーカーの中で1940年代から2017年の今でも世界で信用と憧れをもたれるスピーカーは稀有です。日本国内では少数派ですが世界各国、特にヨーロッパではW.E.以上の人気があります。これから20年先の未来に残っていくスピーカーは限られています。

精緻なサウンドステージ?分解能?オイロダインはそれ以上に世界の広さと深さを聴かせてくれます。音楽が何であるか、音楽がなぜ言語より遥か以前から在り、今も演奏されているのかを伝えきる音楽力を感じさせるスピーカーはそうありません。「音」が好きな場合はKlangfilm EURODYNはNG。他に良いスピーカーがあるかもしれません。

KlangfilmEURODYN Kl.L439


あなたがJAZZを聴くなら、イーストコーストの歪んだダークなサウンドから、変拍子とアンサンブル、コンセプチャルな現代コンテンポラリーJAZZまで期待に応えてくれます。ハイレゾ音源もサラッと鳴らします。周波数帯域が問題ではありません。音で重要な要素はダイナミズム、緩急です。Klangfilm EURODYNにJBL075などは不要かと思います。

あなたが、1930年代のモノラル音源時代のクラシック音楽を聴かれるなら、2nd WAR前後の時代の空気までもヒシヒシと感じ取れるでしょう。おそらくクラシックは作曲年代が聴いていると不思議と伝わってきます。シンフォニーはこのスピーカーを前にして語る事は野暮。

ボーカル音源はどうか?Klangfilmは1930年代、ある人間の声を人々の魂や意志、生き方を左右するために使われたスピーカーなので、生半可なスピーカーではまったく太刀打ちできないです。

ドイツが世界を巻き込んだ過去の戦禍の中で発展した工業機械はVW(ポルシェ)やBMW、Klangfilm、メルセデスなど錚々たるメンツ。特にKlangfilmはあのアジテーションのテンションを保つために、人の熱を狂喜までかきたてるために、良し悪しは別として人々の魂を揺さぶる道具として使われました。。。あの時代のドイツは異様だったのかもしれませんが、そこから生まれた機械に罪はありません。また戦争と技術発展、その後の利便性は今でも切り離されない事でもあります。

2017年のリビング空間で聴くKlangfilm EURODYNという1958年のスピーカー

Klangfilm EURODYNを販売するとなると価格はある程度になってしまいます。買取価格も300万円を超えますので、我慢ください!でも、若い方にチャレンジして欲しいスピーカー。これから20年鳴らしてあげてほしい。購入された方はいろんな方に聴かせてあげてほしいです。

終のスピーカーを探されている方にもふさわしいスピーカー。鳴らすアンプは最初は何でも良いでしょう!いずれスピーカーの声を聴き、スピーカーの求める音を聴いて、ステップアップしてください。


Klangfilm EURODYN【クラングフィルム・オイロダイン】

中古オイロダイン

Klangfilm EURODYN Kl.L439【クラングフィルム オイロダイン】 1958年製 【ご成約 ありがとうございました】

平面バッフルへ変更する再の製作費は別途ASK

ドライバーKl.L302、ウーファーKl.L406、ホーンKL-LZ30T100、ネットワークKl.LZ433
キャビネットサイズ:高120cm・横110cm・奥行51cm(米松積層材)
https://audiodripper.jp/klangfilm-eurodyn



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/433.html#c33

[リバイバル3] 中古オーディオ販売店 中川隆
23. 中川隆[-9516] koaQ7Jey 2019年6月18日 18:31:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2960]

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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/834.html#c23

[近代史3] 中国が東トルキスタン共和国(現ウイグル自治区)を乗っ取った手口 中川隆
18. 中川隆[-9515] koaQ7Jey 2019年6月18日 18:54:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2961]
日本で「ウイグル問題を報じづらい」3つの深刻な理由
安田 峰俊 2018/11/13
https://bunshun.jp/articles/-/9651


 最近、中国が新疆ウイグル自治区でおこなっている少数民族ウイグル人への弾圧問題が、世界でのホットなトピックになっている。国連人種差別撤廃委員会は2018年8月末、最大100万人のウイグル人が強制収容所に入れられているとの指摘を報告。米中両国の政治的対立もあり、最近は米国系のメディアを中心に関連報道が続いている。


11月上旬、ジュネーブで行われた国連人権理事会の外でデモを行うウイグルの人々 ©AFP/AFLO

ますます厳しくなるウイグル人への締め付け

 トルコ系のウイグル人が多く住む新疆は、チベット・内モンゴルなどと並び、20世紀なかば以降にやっと中国政府による直接支配が確立した地域なので、少数民族の間では独立や自治獲得を望む意向が強い。

 だが、中国では1989年の六四天安門事件後、国家の引き締めのために漢民族中心主義的なナショナリズムが強化され、また経済自由化のなかで辺境地帯の資源・都市開発や漢民族による移民が進んだ。結果、2010年前後からは追い詰められた少数民族による大規模な騒乱が増えた。

 少数民族のなかでも、イスラム教を信仰するウイグル人は、中国共産党にとっては「党以外の存在」に忠誠を誓っているように見える。彼らは人種や文化習慣の面でも漢民族との隔たりが大きく、中央アジアや中東との結びつきも強いことから、他の少数民族以上に強い警戒を持たれている。

 結果、近年のウイグル人への締め付けはいっそう厳しくなっている。中国は現在、「テロ防止」を最大の名目として国内の治安維持費用に国防費を約20%も上回る予算を投入、さらに国内に1億7000万台近い監視カメラを設置(2017年時点)したり、当局が国民のネット接続を監視したりする監視国家になっているが、その最大のターゲットはウイグル人と言ってもいい。


古くからシルクロードの要衝として栄えたカシュガル市の旧市街。こうした街並みもどんどん壊されつつある。2014年3月筆者撮影

新疆は中国の治安機関の見本市

 いまや新疆は、のどかなシルクロードのイメージとは裏腹に、強力な監視・警備体制が敷かれる恐ろしい場所になっている。筆者が2014年春に訪れたときは、街のいたる場所に制服姿の治安維持要員が立哨したり巡回したりしており、城管・公安・武装警察・特殊警察……と中国の各種治安機関の見本市のようになっていた。これらは現在、いっそう深刻になっているようだ。

 また、近年の新疆では多くのモスクが閉鎖されるなど、ウイグル人はイスラム教の信仰を事実上禁止されるに近い状況に置かれており、公教育機関でも、ウイグル人としての民族的なアイデンティティを持ちづらい教育が行われているとされる。家族や親戚を含めて、国外にいる知人と連絡を取ることも容易ではないという。
https://bunshun.jp/articles/-/9651

ウイグル問題への言及はなぜ「面倒くさい」のか?
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=2


ヤルカンド市内で携帯電話販売店の前に立つウイグル族女性。もはや漢民族経済抜きの生活は不可能だ。2014年3月筆者撮影


 筆者はウイグル問題の専門家ではない。とはいえ、過去に現地に行ったこともあれば、自分の書籍で何度か詳しく言及したこともあるため、この問題への関心はおそらく他の中国ライターよりも強いはずだ。

 ただ、正直に言ってウイグル問題に言及するのは気が重い。その理由は、日本国内でこの問題を語ったり調べたりする行為が、極めて面倒くさい事態を引き起こしがちだからだ。これは筆者に限った話ではなく、過去にウイグル報道に関係したテレビ関係者や新聞記者に尋ねても、似たような感想を述べる人が何人も見られる。

 ここでいう「面倒くさい」事態とは、中国当局の妨害や圧力だけではない。もちろん妨害も深刻だが、こちらは事前に想定ができる。日本でわざわざウイグル問題を報じようとする報道関係者にはキモの据わった人が多く、ある程度の覚悟をしている人も多い。

メディアが直面する3つの問題

 むしろ問題なのは、いざウイグル問題について調べようとフタを開けてみると、中国の政治事情とはあまり関係がない問題に数多く直面し、精神力をいちじるしく消耗する点である。結果、ウイグル問題を1度くらいは取り扱ってみても、「次」にもう一度取り組もうという気にはなれない報道関係者も少なくないようだ。

 そこで今回の原稿では、日本のメディアがウイグル問題を報じる際に直面する「面倒くさい」問題の内実を指摘してみたい。おおまかに言えば、以下のような問題が存在しているのだ。

1.中国政府からの取材妨害や情報の制限

2.在日ウイグル人民族運動と支援者の問題

3.他の日本人のウイグル・チャンネルの問題

「えげつない監視体制」


新疆西南部、ヤルカンドの街。モスクの付近では平和な日常が広がっていた。2014年3月筆者撮影

 まず「1.中国政府からの取材妨害や情報の制限」は想像が付くだろう。ウイグル問題は中国政府にとって、党の最高指導部の権力闘争と並ぶ重大なタブーだ。問題が現在進行形であり、かつ当局のコントロールが完全には成功していない点で、実は六四天安門事件や対日歴史認識問題よりも、ウイグル問題のほうが中国国内でのタブー度合いは高い。

 個人的な経験で言えば、2014年春ごろに中国国内にいる某新聞社の日本人記者と電話で話した際に、ウイグル問題に言及した瞬間に音声の雑音が増え、いきなり切れてしまったことがある。たとえ日本語の通話でも、中国のSIMカードを使った場合はばっちりリアルタイムで盗聴されているわけだ。

 ウイグル問題を取材しようと新疆に入る記者(報道ビザを持たない場合も含む)は行動を徹底的にマークされる。中国国内、特に新疆での携帯電話の通話内容やチャットソフトでの会話内容もすべてチェックされている。また街のあちこちにある監視カメラの画像も、顔認証技術を応用して解析されている可能性が高い。現代の新疆で、外国人の取材者が当局に捕捉されずに誰かと会って話を聞く行為は事実上不可能に近い。

ちょっと不満を漏らしただけで収容所送り?

 しかも、滞在中に接触した現地のウイグル人は、その後に高確率で当局による尋問や拘束を受ける。話を聞く相手が確実に当局に特定され、さらにその後で拘束される可能性が高いとなると、コメント取りが重要になってくる大手メディアの現地取材はかなり難しいと考えていい。

 加えて言えば、中国当局を過度に刺激するような取材をした場合、大手メディアの記者の場合はビザの延長が難しくなったり、中国支局に圧力が掛かったりする。フリーランスの場合は今後の入国自体が禁止される可能性も出てくる。当然、他の問題と比べて、日本のメディアがウイグル問題を取り扱うハードルは高い。


ヤルカンド市内の大通り、中国共産党の正当性を訴える看板。周囲では武装警察の装甲車がひっきりなしに走り回っていた。2014年3月筆者撮影

ヤルカンド市内の大通り、中国共産党の正当性を訴える看板。周囲では武装警察の装甲車がひっきりなしに走り回っていた。2014年3月筆者撮影

 それでも近年の日本メディアは、『朝日新聞』やNHKなども含めて、実は世界規模で見てもウイグル問題の取材に積極的なほうだ。だが、記者本人が新疆に立ち入るような取材は、監視体制が現在よりはユルかった2014〜15年ごろまでは多かったものの、近年は減った印象がある。

 2018年現在は、ウイグル人がちょっと生活上の不満を漏らしただけで収容所送りになるという話もあり、現地取材はほとんどできなくなっている。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=2

右翼勢力の影響が強すぎる「在日ウイグル人民族運動」
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=3


 もっとも、中国当局による妨害は想定内の話だ。むしろ、次に紹介する「2.在日ウイグル人民族運動と支援者の問題」のほうが、現実が想像の斜め上を行っているという点で、心理的負担が大きい問題だとも言える。

 過去、ウイグル人の海外渡航・海外留学が比較的難しくなかったゼロ年代ごろまで、日本は彼らの留学先として人気がある国だった。在日ウイグル人の留学生やビジネスマンのなかには政治的な考えを持つ人たちも存在していた。

 2008年春ごろ、彼らの一部は日本国内で民族運動の組織を立ち上げる動きを見せ、世界規模の団体である世界ウイグル会議(WUC)もこの動きを支持した。その後、「1人1組織」みたいなものも含めて、現在までに日本国内で複数のウイグル民族運動団体が成立している。

 だが結論から言えば、これらの団体の多くは結成当初から日本国内の保守・右翼系勢力との関係が深かった。戦前からのルーツを持つような伝統右翼系の勢力と、『日本文化チャンネル桜』のようなネット右翼系イデオロギーを持つ後発勢力の双方が影響力を及ぼしていたのだ。また、いわゆる宗教保守系の新宗教団体もここに接近している。


ウルムチ〜カシュガル間で撮影したタクラマカン砂漠。2014年3月筆者撮影

メンバーがほとんど日本人という組織も

 一部の組織には、ごく少数のウイグル人活動家を除けば、実質的にメンバーの大部分が保守系の思想を持つ日本人で占められるものもあった。こうした日本側の支持者の影響は、ウイグル民族運動の上位団体であるWUCまで及んでいる。

 2012年5月にWUCの総会が東京で開かれた際、WUC総裁(当時)のラビア・カーディルを登壇させてシンポジウムを開いた団体「世界ウイグル会議を応援する日本人の会」には、平沼赳夫・石原慎太郎・加瀬英明・藤井厳喜ら保守界隈の大物の名前が並んだ。同日には藤井らが付き添う形で、イスラム教徒であるラビア氏による靖国神社への昇殿参拝もおこなわれている。

 なお、ラビア・カーディルは「ウイグルの母」とも称されるウイグル民族運動の精神的指導者で、ゼロ年代ごろまではチベットのダライ・ラマ14世とならびノーベル平和賞候補としても名が取り沙汰された人物である。2013年には宗教保守系の新宗教の傘下政党の党首がラビア・カーディルと会談し、彼らのメディアで大々的にそれを報じる事件も起きている。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=3


支持勢力に「忖度」するウイグル人活動家
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=4


 現在、日本国内でのウイグル人民族運動の主流は2012年当時とは別の団体に移り、彼らがWUCの事実上の出先機関になっているが、やはり右翼系の勢力との関係は確認できる(ちなみにウイグル人は、世界組織のWUCも日本国内の民族運動関係者も離合集散が激しく、お互いに足を引っ張ったり誹謗中傷を繰り返すような傾向も強いため、こちらもかなりウンザリする)。

 日本でのウイグル人の民族運動の多くは、2008年の発足当初から「反中国」を理由に右翼・保守勢力と共闘する形を取っている。こうした団体に関係している在日ウイグル人活動家には、日本人支援者への忖度もあるのか、ウイグル情勢について過剰に話を演出したり、日本国内の特定の政治思想におもねるような言説を繰り返す例も少なくない。

「反中国」のアイコンにされてきた歴史


ウイグル人が多く住むポスカム県。県の中心部だが生活は貧しい。2014年3月筆者撮影


 もちろん、右翼でも左翼でも宗教団体でも、深刻な人権問題を解決するために行動しているなら構わない、カネや政治力を持つ組織と亡命ウイグル人が共闘するのも仕方ないという見方もある。

 ただ、過激な右翼色や新宗教色が強い勢力がバックに控え、ウイグル人活動家自身も支持者の政治的主張をコピーした言動を繰り返したり、新宗教団体の広告塔に使われたりしているとなると、報道が極端なイデオロギーや新宗教思想の宣伝につながることを懸念する一般メディアや記者が取材を手控えるのも納得できる話ではある。

 ついでに言えば、日本においてウイグル問題は長年にわたり右翼・保守勢力の主張のパッケージに組み込まれ、「反中国」のアイコンにされてきた歴史があるので、ネットで「ウイグル」を検索するとネット右翼的な人たちのツイートやブログ・YouTube動画ばかりが引っかかって、扇動的な情報が異常に多く表示されるという問題も起きている。

 最近は少し減ったが、数年前まではツイッターで、旭日旗アイコンを掲げながら野党批判や「反日マスゴミ」への批判をウイグル問題に結びつける投稿が大量に流れるという、意味不明な状況すら生まれていた。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=4


「中国通」でも歯が立たない分野
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=5


ウルムチ市内のバザールで販売されていたスカーフとマネキン。ここは中東文化圏の入り口でもある。2014年3月筆者撮影

 最後に「3.他の日本人のウイグル・チャンネルの問題」は、様々な事情からあまり詳しく言及できないが、やはり浅からぬ問題が存在する。

 そもそもウイグル問題は中国についての一般的な理解に加えて、中国国家の少数民族政策・宗教政策やユーラシア史への理解、世界の民族問題への基本的なリテラシー、イスラム・トルコ文化への理解といった膨大な基礎知識がないと、なかなか全貌をつかめない。言語も中国語・英語・ウイグル語だけではなく、トルコ語やアラビア語ぐらいはできないと第一線の情報が入ってこない。

 なのでウイグル問題は、普通の「中国通」の人(筆者自身も含む)ではまず歯が立たない分野だ。中国の国土は広大で、北京や上海と新疆との距離は2000キロ以上も離れている。欧州でいえばパリ〜モスクワ間にほぼ匹敵する距離だ。仮に北京や上海に詳しい人であっても、彼らが新疆を理解するのは、フランス在住者がチェチェンやモルドバの事情を理解するぐらい大変なのである。

 むしろ「中国通」の人のほうが、身近な中国人のウイグル人への偏見(テロリストや泥棒が多い、犯罪をしても逮捕されない特権を持っている、中国国家が新疆を発展させてあげているのに騒乱を起こすウイグル人は恩知らずである……など)からダイレクトな影響を受けているので、認識をミスリードされやすいという問題すらある。

 いっぽう、たとえ中東やイスラム文化に精通した人でも、中国はイスラム圏全体から見れば辺境にあたるため、やはりウイグル問題については縁遠くなりがちだ。東西をつなぐシルクロードの民の問題は、日本人にとってかくも理解が難しいのである。

詳しい人が少なすぎる!

 ゆえにウイグル問題について、極端な政治勢力や新宗教勢力との関係を持たず、さらに現地情勢への文化圏規模での理解を持っていて人脈的なコネもある日本人の専門家は、人数がかなり限定されることになる。

 南米やアフリカの小国や、現地の特定の少数民族について詳しい日本人が少ないのと同様の問題が存在するわけだ。ゆえに、日本のメディアの関係者がこれらの問題を取材する必要が出た場合は、少数の専門家による細いルートになんらかの形でアプローチしていくしかない。

 だが、仮にこうした細いルートを担う専門家たちのなかに、情緒的に不安定なところがある人や、他者とのコミュニケーションが苦手な人が含まれていた場合は大変である。現地へのチャンネルが限られた分野だけに、そうした個人の個性に由来したトラブルが、取材全体のボトルネックになってしまう可能性があるからだ。

 もちろんウイグル問題は深刻で、広く報じたほうがいい問題だ。だが、日本国内の極端な政治勢力と距離を置くことや、さまざまな関係者とのコミュニケーションを取ることなどへのコストが大きすぎるとすれば、やはり報じるトピックとしての優先順位は下がり得る。中国は他にも多数の問題を抱えており、他に伝えるべきことも数多くあるからだ。

 国内外のウイグル人活動家が離合集散を繰り返したり、日本の政治勢力や新宗教勢力がウイグル問題を利用したり、その他もろもろの面倒な問題がグダグダと起き続けている間にも、新疆の人権状況は加速度的な悪化を続けている。中国の最深部で進んでいる強制収容所の建設や文化の抹殺は、とにかく心が痛い。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=5

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/205.html#c18

[昼休み54] 中国 _ 悪夢の監視社会 中川隆
32. 中川隆[-9514] koaQ7Jey 2019年6月18日 18:55:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2962]
日本で「ウイグル問題を報じづらい」3つの深刻な理由
安田 峰俊 2018/11/13
https://bunshun.jp/articles/-/9651


 最近、中国が新疆ウイグル自治区でおこなっている少数民族ウイグル人への弾圧問題が、世界でのホットなトピックになっている。国連人種差別撤廃委員会は2018年8月末、最大100万人のウイグル人が強制収容所に入れられているとの指摘を報告。米中両国の政治的対立もあり、最近は米国系のメディアを中心に関連報道が続いている。


11月上旬、ジュネーブで行われた国連人権理事会の外でデモを行うウイグルの人々 ©AFP/AFLO

ますます厳しくなるウイグル人への締め付け

 トルコ系のウイグル人が多く住む新疆は、チベット・内モンゴルなどと並び、20世紀なかば以降にやっと中国政府による直接支配が確立した地域なので、少数民族の間では独立や自治獲得を望む意向が強い。

 だが、中国では1989年の六四天安門事件後、国家の引き締めのために漢民族中心主義的なナショナリズムが強化され、また経済自由化のなかで辺境地帯の資源・都市開発や漢民族による移民が進んだ。結果、2010年前後からは追い詰められた少数民族による大規模な騒乱が増えた。

 少数民族のなかでも、イスラム教を信仰するウイグル人は、中国共産党にとっては「党以外の存在」に忠誠を誓っているように見える。彼らは人種や文化習慣の面でも漢民族との隔たりが大きく、中央アジアや中東との結びつきも強いことから、他の少数民族以上に強い警戒を持たれている。

 結果、近年のウイグル人への締め付けはいっそう厳しくなっている。中国は現在、「テロ防止」を最大の名目として国内の治安維持費用に国防費を約20%も上回る予算を投入、さらに国内に1億7000万台近い監視カメラを設置(2017年時点)したり、当局が国民のネット接続を監視したりする監視国家になっているが、その最大のターゲットはウイグル人と言ってもいい。


古くからシルクロードの要衝として栄えたカシュガル市の旧市街。こうした街並みもどんどん壊されつつある。2014年3月筆者撮影

新疆は中国の治安機関の見本市

 いまや新疆は、のどかなシルクロードのイメージとは裏腹に、強力な監視・警備体制が敷かれる恐ろしい場所になっている。筆者が2014年春に訪れたときは、街のいたる場所に制服姿の治安維持要員が立哨したり巡回したりしており、城管・公安・武装警察・特殊警察……と中国の各種治安機関の見本市のようになっていた。これらは現在、いっそう深刻になっているようだ。

 また、近年の新疆では多くのモスクが閉鎖されるなど、ウイグル人はイスラム教の信仰を事実上禁止されるに近い状況に置かれており、公教育機関でも、ウイグル人としての民族的なアイデンティティを持ちづらい教育が行われているとされる。家族や親戚を含めて、国外にいる知人と連絡を取ることも容易ではないという。
https://bunshun.jp/articles/-/9651

ウイグル問題への言及はなぜ「面倒くさい」のか?
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=2


ヤルカンド市内で携帯電話販売店の前に立つウイグル族女性。もはや漢民族経済抜きの生活は不可能だ。2014年3月筆者撮影


 筆者はウイグル問題の専門家ではない。とはいえ、過去に現地に行ったこともあれば、自分の書籍で何度か詳しく言及したこともあるため、この問題への関心はおそらく他の中国ライターよりも強いはずだ。

 ただ、正直に言ってウイグル問題に言及するのは気が重い。その理由は、日本国内でこの問題を語ったり調べたりする行為が、極めて面倒くさい事態を引き起こしがちだからだ。これは筆者に限った話ではなく、過去にウイグル報道に関係したテレビ関係者や新聞記者に尋ねても、似たような感想を述べる人が何人も見られる。

 ここでいう「面倒くさい」事態とは、中国当局の妨害や圧力だけではない。もちろん妨害も深刻だが、こちらは事前に想定ができる。日本でわざわざウイグル問題を報じようとする報道関係者にはキモの据わった人が多く、ある程度の覚悟をしている人も多い。

メディアが直面する3つの問題

 むしろ問題なのは、いざウイグル問題について調べようとフタを開けてみると、中国の政治事情とはあまり関係がない問題に数多く直面し、精神力をいちじるしく消耗する点である。結果、ウイグル問題を1度くらいは取り扱ってみても、「次」にもう一度取り組もうという気にはなれない報道関係者も少なくないようだ。

 そこで今回の原稿では、日本のメディアがウイグル問題を報じる際に直面する「面倒くさい」問題の内実を指摘してみたい。おおまかに言えば、以下のような問題が存在しているのだ。

1.中国政府からの取材妨害や情報の制限

2.在日ウイグル人民族運動と支援者の問題

3.他の日本人のウイグル・チャンネルの問題

「えげつない監視体制」


新疆西南部、ヤルカンドの街。モスクの付近では平和な日常が広がっていた。2014年3月筆者撮影

 まず「1.中国政府からの取材妨害や情報の制限」は想像が付くだろう。ウイグル問題は中国政府にとって、党の最高指導部の権力闘争と並ぶ重大なタブーだ。問題が現在進行形であり、かつ当局のコントロールが完全には成功していない点で、実は六四天安門事件や対日歴史認識問題よりも、ウイグル問題のほうが中国国内でのタブー度合いは高い。

 個人的な経験で言えば、2014年春ごろに中国国内にいる某新聞社の日本人記者と電話で話した際に、ウイグル問題に言及した瞬間に音声の雑音が増え、いきなり切れてしまったことがある。たとえ日本語の通話でも、中国のSIMカードを使った場合はばっちりリアルタイムで盗聴されているわけだ。

 ウイグル問題を取材しようと新疆に入る記者(報道ビザを持たない場合も含む)は行動を徹底的にマークされる。中国国内、特に新疆での携帯電話の通話内容やチャットソフトでの会話内容もすべてチェックされている。また街のあちこちにある監視カメラの画像も、顔認証技術を応用して解析されている可能性が高い。現代の新疆で、外国人の取材者が当局に捕捉されずに誰かと会って話を聞く行為は事実上不可能に近い。

ちょっと不満を漏らしただけで収容所送り?

 しかも、滞在中に接触した現地のウイグル人は、その後に高確率で当局による尋問や拘束を受ける。話を聞く相手が確実に当局に特定され、さらにその後で拘束される可能性が高いとなると、コメント取りが重要になってくる大手メディアの現地取材はかなり難しいと考えていい。

 加えて言えば、中国当局を過度に刺激するような取材をした場合、大手メディアの記者の場合はビザの延長が難しくなったり、中国支局に圧力が掛かったりする。フリーランスの場合は今後の入国自体が禁止される可能性も出てくる。当然、他の問題と比べて、日本のメディアがウイグル問題を取り扱うハードルは高い。


ヤルカンド市内の大通り、中国共産党の正当性を訴える看板。周囲では武装警察の装甲車がひっきりなしに走り回っていた。2014年3月筆者撮影

ヤルカンド市内の大通り、中国共産党の正当性を訴える看板。周囲では武装警察の装甲車がひっきりなしに走り回っていた。2014年3月筆者撮影

 それでも近年の日本メディアは、『朝日新聞』やNHKなども含めて、実は世界規模で見てもウイグル問題の取材に積極的なほうだ。だが、記者本人が新疆に立ち入るような取材は、監視体制が現在よりはユルかった2014〜15年ごろまでは多かったものの、近年は減った印象がある。

 2018年現在は、ウイグル人がちょっと生活上の不満を漏らしただけで収容所送りになるという話もあり、現地取材はほとんどできなくなっている。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=2

右翼勢力の影響が強すぎる「在日ウイグル人民族運動」
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=3


 もっとも、中国当局による妨害は想定内の話だ。むしろ、次に紹介する「2.在日ウイグル人民族運動と支援者の問題」のほうが、現実が想像の斜め上を行っているという点で、心理的負担が大きい問題だとも言える。

 過去、ウイグル人の海外渡航・海外留学が比較的難しくなかったゼロ年代ごろまで、日本は彼らの留学先として人気がある国だった。在日ウイグル人の留学生やビジネスマンのなかには政治的な考えを持つ人たちも存在していた。

 2008年春ごろ、彼らの一部は日本国内で民族運動の組織を立ち上げる動きを見せ、世界規模の団体である世界ウイグル会議(WUC)もこの動きを支持した。その後、「1人1組織」みたいなものも含めて、現在までに日本国内で複数のウイグル民族運動団体が成立している。

 だが結論から言えば、これらの団体の多くは結成当初から日本国内の保守・右翼系勢力との関係が深かった。戦前からのルーツを持つような伝統右翼系の勢力と、『日本文化チャンネル桜』のようなネット右翼系イデオロギーを持つ後発勢力の双方が影響力を及ぼしていたのだ。また、いわゆる宗教保守系の新宗教団体もここに接近している。


ウルムチ〜カシュガル間で撮影したタクラマカン砂漠。2014年3月筆者撮影

メンバーがほとんど日本人という組織も

 一部の組織には、ごく少数のウイグル人活動家を除けば、実質的にメンバーの大部分が保守系の思想を持つ日本人で占められるものもあった。こうした日本側の支持者の影響は、ウイグル民族運動の上位団体であるWUCまで及んでいる。

 2012年5月にWUCの総会が東京で開かれた際、WUC総裁(当時)のラビア・カーディルを登壇させてシンポジウムを開いた団体「世界ウイグル会議を応援する日本人の会」には、平沼赳夫・石原慎太郎・加瀬英明・藤井厳喜ら保守界隈の大物の名前が並んだ。同日には藤井らが付き添う形で、イスラム教徒であるラビア氏による靖国神社への昇殿参拝もおこなわれている。

 なお、ラビア・カーディルは「ウイグルの母」とも称されるウイグル民族運動の精神的指導者で、ゼロ年代ごろまではチベットのダライ・ラマ14世とならびノーベル平和賞候補としても名が取り沙汰された人物である。2013年には宗教保守系の新宗教の傘下政党の党首がラビア・カーディルと会談し、彼らのメディアで大々的にそれを報じる事件も起きている。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=3


支持勢力に「忖度」するウイグル人活動家
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=4


 現在、日本国内でのウイグル人民族運動の主流は2012年当時とは別の団体に移り、彼らがWUCの事実上の出先機関になっているが、やはり右翼系の勢力との関係は確認できる(ちなみにウイグル人は、世界組織のWUCも日本国内の民族運動関係者も離合集散が激しく、お互いに足を引っ張ったり誹謗中傷を繰り返すような傾向も強いため、こちらもかなりウンザリする)。

 日本でのウイグル人の民族運動の多くは、2008年の発足当初から「反中国」を理由に右翼・保守勢力と共闘する形を取っている。こうした団体に関係している在日ウイグル人活動家には、日本人支援者への忖度もあるのか、ウイグル情勢について過剰に話を演出したり、日本国内の特定の政治思想におもねるような言説を繰り返す例も少なくない。

「反中国」のアイコンにされてきた歴史


ウイグル人が多く住むポスカム県。県の中心部だが生活は貧しい。2014年3月筆者撮影


 もちろん、右翼でも左翼でも宗教団体でも、深刻な人権問題を解決するために行動しているなら構わない、カネや政治力を持つ組織と亡命ウイグル人が共闘するのも仕方ないという見方もある。

 ただ、過激な右翼色や新宗教色が強い勢力がバックに控え、ウイグル人活動家自身も支持者の政治的主張をコピーした言動を繰り返したり、新宗教団体の広告塔に使われたりしているとなると、報道が極端なイデオロギーや新宗教思想の宣伝につながることを懸念する一般メディアや記者が取材を手控えるのも納得できる話ではある。

 ついでに言えば、日本においてウイグル問題は長年にわたり右翼・保守勢力の主張のパッケージに組み込まれ、「反中国」のアイコンにされてきた歴史があるので、ネットで「ウイグル」を検索するとネット右翼的な人たちのツイートやブログ・YouTube動画ばかりが引っかかって、扇動的な情報が異常に多く表示されるという問題も起きている。

 最近は少し減ったが、数年前まではツイッターで、旭日旗アイコンを掲げながら野党批判や「反日マスゴミ」への批判をウイグル問題に結びつける投稿が大量に流れるという、意味不明な状況すら生まれていた。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=4


「中国通」でも歯が立たない分野
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=5


ウルムチ市内のバザールで販売されていたスカーフとマネキン。ここは中東文化圏の入り口でもある。2014年3月筆者撮影

 最後に「3.他の日本人のウイグル・チャンネルの問題」は、様々な事情からあまり詳しく言及できないが、やはり浅からぬ問題が存在する。

 そもそもウイグル問題は中国についての一般的な理解に加えて、中国国家の少数民族政策・宗教政策やユーラシア史への理解、世界の民族問題への基本的なリテラシー、イスラム・トルコ文化への理解といった膨大な基礎知識がないと、なかなか全貌をつかめない。言語も中国語・英語・ウイグル語だけではなく、トルコ語やアラビア語ぐらいはできないと第一線の情報が入ってこない。

 なのでウイグル問題は、普通の「中国通」の人(筆者自身も含む)ではまず歯が立たない分野だ。中国の国土は広大で、北京や上海と新疆との距離は2000キロ以上も離れている。欧州でいえばパリ〜モスクワ間にほぼ匹敵する距離だ。仮に北京や上海に詳しい人であっても、彼らが新疆を理解するのは、フランス在住者がチェチェンやモルドバの事情を理解するぐらい大変なのである。

 むしろ「中国通」の人のほうが、身近な中国人のウイグル人への偏見(テロリストや泥棒が多い、犯罪をしても逮捕されない特権を持っている、中国国家が新疆を発展させてあげているのに騒乱を起こすウイグル人は恩知らずである……など)からダイレクトな影響を受けているので、認識をミスリードされやすいという問題すらある。

 いっぽう、たとえ中東やイスラム文化に精通した人でも、中国はイスラム圏全体から見れば辺境にあたるため、やはりウイグル問題については縁遠くなりがちだ。東西をつなぐシルクロードの民の問題は、日本人にとってかくも理解が難しいのである。

詳しい人が少なすぎる!

 ゆえにウイグル問題について、極端な政治勢力や新宗教勢力との関係を持たず、さらに現地情勢への文化圏規模での理解を持っていて人脈的なコネもある日本人の専門家は、人数がかなり限定されることになる。

 南米やアフリカの小国や、現地の特定の少数民族について詳しい日本人が少ないのと同様の問題が存在するわけだ。ゆえに、日本のメディアの関係者がこれらの問題を取材する必要が出た場合は、少数の専門家による細いルートになんらかの形でアプローチしていくしかない。

 だが、仮にこうした細いルートを担う専門家たちのなかに、情緒的に不安定なところがある人や、他者とのコミュニケーションが苦手な人が含まれていた場合は大変である。現地へのチャンネルが限られた分野だけに、そうした個人の個性に由来したトラブルが、取材全体のボトルネックになってしまう可能性があるからだ。

 もちろんウイグル問題は深刻で、広く報じたほうがいい問題だ。だが、日本国内の極端な政治勢力と距離を置くことや、さまざまな関係者とのコミュニケーションを取ることなどへのコストが大きすぎるとすれば、やはり報じるトピックとしての優先順位は下がり得る。中国は他にも多数の問題を抱えており、他に伝えるべきことも数多くあるからだ。

 国内外のウイグル人活動家が離合集散を繰り返したり、日本の政治勢力や新宗教勢力がウイグル問題を利用したり、その他もろもろの面倒な問題がグダグダと起き続けている間にも、新疆の人権状況は加速度的な悪化を続けている。中国の最深部で進んでいる強制収容所の建設や文化の抹殺は、とにかく心が痛い。
https://bunshun.jp/articles/-/9651?page=5

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/181.html#c32

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