★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100275
 
g検索 koaQ7Jey   g検索 3bF/xW6Ehzs4I
 前へ
中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100275
http://www.asyura2.com/acpn/k/ko/koa/koaQ7Jey/100275.html
[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
21. 中川隆[-10733] koaQ7Jey 2019年4月09日 15:43:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1306]

ヒトラーと6人の側近たち 第2回 「ヘルマン・ゲーリング」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s69UVGkUohM
https://www.youtube.com/watch?v=wraaO0iuzVo
https://www.youtube.com/watch?v=eWXLXasUA_g
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c21
[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
1. 中川隆[-10732] koaQ7Jey 2019年4月09日 16:07:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1307]

モンサント社: 世界的恐怖のインパクトー真実がわかる裁判判決 
環境に重大な悪影響を及ぼす行為に関与している 2017 年 5 月 18 日
http://www.asyura2.com/17/hasan121/msg/682.html


昨年バイエルン社と合併し、モンスター多国籍企業となったモンサント社。

世界の中でも南米は、モンサント社に侵食され、多くの被害を被っている筆頭と言ってもよい地域です。なかなか我々日本人が目にする機会の少ない南米からの記事をお届けします。

モンサントビジネスの侵食がされている国からの情報は、日本でも無縁と言い切れない状況になっている中で恐怖の真実を知るよい機会と言えそうです。
(Source:Monsanto, hallado culpable por daños a la salud y el ambiente, crímenes de guerra y ecocidio)

モンサントは世界が恐れる大規模生態系破壊者なのか?

この程、国際人民裁判は、モンサント社の大規模生態系破壊、戦争犯罪、健康環境への権利侵害、科学的自由の侵害などの歴史を分析しました。

モンサント社は、20世紀初頭以来、PCB (ポリ塩化ビフェニル)、2,4,5-T、ラッソ除草剤、グリホサートで作られた有名な除草剤「ラウンドアップ」など生体への毒性が高い製品を販売しています。


http://shinhakken-blog.up.n.seesaa.net/shinhakken-blog/image/roundup-products.png?d=a3

遺伝子組み換えだけに注目されがちなモンサントですが、実はこうした有害製品こそ直接的な生態系破壊活動をしています。

この裁判で評判の高い5人の裁判官のひとりアルゼンチン人のエレノラ・ラム メンドーサ最高裁判所人権副部長は、裁判を行うためにハーグの国際刑事裁判所によってとられた同じ手続きが行われましたが、同社は参加を拒否しました。

そして裁判官たちの結論は、

❝ 大規模生態系破壊の犯罪が国際的な刑法で認められれば、モンサントの活動は生物多様性と生態系への実質的かつ永続的な損害を引き起こし、健康に影響を及ぼす限り、大規模生態系破壊の犯罪扱いとなる可能性がある❝

と、判決で疑いの余地がない結果が世界に警告されたことになりました。.

判決で取り上げられた最初の点は、モンサントが健康で公平な環境への権利を侵害したかどうかであり、これはすべての人権の行使の前提条件となっています。

この判決の裏付けに専門家たちは、スリランカで除草剤ラウンドアップ使用による慢性腎臓病、ブラジルでのがん患者の上昇、毒性成分グリホサートによるアルゼンチンとフランスの奇形の症例を発見した研究者の証言を分析してきました。


http://shinhakken-blog.up.n.seesaa.net/shinhakken-blog/image/kidney_disease28129.gif?d=a4

米国のラウンドアップ(グリホサート)とGMOの使用量と腎臓がん発症率グラフ

さらに、土壌汚染による繁殖力の喪失、遺伝子組換え農作物による農場汚染、遺伝子組み換え作物入リ飼料を与えられたブタの健康問題も取り上げられました。.

さらには、オーストラリアやカナダの遺伝子組み換え菜種油の大量生産による環境汚染、インドでの種子市場の独占やアルゼンチンの水源、多くはパラナ川の調査によるグリホサートの混入などもあげられています。.

このようなレベルの証拠に対して裁判では以下の結論に達しています。

❝ モンサントは、環境に重大な悪影響を及ぼす行為に関与しており、多くの国の無数の個人および地域社会、ならびにその環境の健康に影響を与え、結果として動植物および生物多様性に影響を与えている ❞

roundup-excessive-1000.jpg
↑第2のポイントは、世界の飢餓を終わらせる為として大量生産によるアグリビジネスのための「遺伝子組み換え(GMO)種子+農薬」というコンボ販売を行い、ゼロベースの農業を始めていることです。(写真はGMOコーン種子とセットのブランド「ラウンドアップレディー」)

判決によると、"そのようなコンボ販売に頼らずとも世界は常に伝統的な農業を追求することによってすべての人々の食糧を生産することができた" と結論付けています。

実際、スリランカの一部の地域ではキビ、ゴマ、野菜、果物、穀類の伝統的な品種で良い収穫が得られており、農薬被害を原因とするラウンドアップと他の5つの製品は2015年に禁止しています。

裁判所はまた、"農作物が必要とする栄養素の条件に悪影響を及ぼした土壌被害と、その同じ農業に使用される水路" の問題を指摘しました。

サンタフェで150ヘクタールを所有し、1996年以来遺伝子組み換え大豆の生産するディエゴ・フェルナンデス氏は、ラウンドアップの使用増加が必要になっていったことで、どのような影響を受けたのかを伝えています。

土壌凝固

http://shinhakken-blog.up.n.seesaa.net/shinhakken-blog/image/E59C9FE5A38CE5879DE59BBA.jpg?d=a3

“ 初めは毎年1ヘクタール当たり1リットルのRoundup使用でしたが、耐性のある枯れない雑草が増えてからは、10〜12リットルを使用するようになり、結果、土壌凝固、根の死滅、微生物活動の減少が生じました。そして土壌凝固により、水の土壌浸水ができなくなった為、洪水が発生しました "

こうした事象は、メキシコ、インド、ブルキナファソ、バングラデシュの農民から同様の証言がありました。

❝ これらの証言で健康で公平な環境への権利を侵害したことが明らかになった ❞

と裁判官は述べています。

また、ロザリオ国立大学医学部の社会環境保健研究所を率いる医師専門家たちは、アルゼンチンの4つの州、27の場所で調査が行われている「衛生キャンプ」と名づけられたプロジェクトを率いています。

これらの地域からの96,874人のデータを収集した後、遺伝子組み換え作物の使用およびモンサントが製造販売したグリホサートに関連した疾患者の割合が非常に高いことが指摘されています。

❝ モンサント社は、遺伝子組み換え作物およびそれに関連する除草剤の承認を得るために、不正かつ欺瞞的で不透明な方策や活動を日常的にしている❞

といういくつかの証言を裁判所は取り上げています。

パラグアイのフェルナンド・ルゴ元大統領は、「遺伝子組換え作物や除草剤の効果的な規制は存在しなくなり、モンサント州は遺伝子組換え綿、トウモロコシ、小麦を自由に導入することができ、地元の農家に悲惨な結果をもたらした。」と述べています。

こうした深刻なリスクに関して、フランス、カナダ、ドイツなどからも同様の証人がいました。

Agent_Orange_Cropdusting.jpg
↑最後の問題は、ベトナム戦争中に米国が使用したエージェントオレンジ(枯葉剤)を製造・供給していたモンサント社が戦争犯罪の共犯者であったかどうかでした。

❝ ベトナム戦争での枯葉剤の必要性を示し、かつ、その製品がどのように健康と環境に対して有害な影響を与えるか情報を持っていた ❞

と裁判所は述べ、結論付けています。

そして、現在モンサント社は製造者の過失は一切無いという主張で一貫しています。

-----終了


1. 2017年5月18日 09:00:37 : Epg1FwOdux : GDQEAQyOX_U[1]

モンサント問題を提起するなら、

PCBなら三菱化成(現在の三菱化学)との合弁子会社だった三菱モンサント化成も製造メーカーであったことと、遺伝子組み換えなら住友化学モンサントの名前も出さないと駄目でしょ。

そして、ベトナム戦争で使用された枯葉剤は日本モンサント製なので日本国内で製造されたと言われてます。

遠い国である米国のモンサントに日本の庶民は抗議する術を持たないので、身近な三菱財閥と住友財閥の悪行を白日の元に晒したほうが良いのだろうが、この記事もそうだが両財閥にマスコミを含めて日本は牛耳られているので、日本がモンサントに加担していたことは2CHネタにしかなりませんね。
http://www.asyura2.com/17/hasan121/msg/682.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c1

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
2. 中川隆[-10731] koaQ7Jey 2019年4月09日 16:14:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1308]

猛毒除草剤 米モンサント社製ラウンドアップ 
発がんリスク「41%増」の研究結果も 2019年3月26日
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/11262

被害続出し各国で使用禁止に

 アメリカ・カリフォルニア州地方裁判所の陪審は19日、モンサントの除草剤であるラウンドアップが、がん発生の「事実上の要因」であるとの評決を下した。アメリカでは昨年もサンフランシスコ州の裁判所が、ラウンドアップ使用でがんを発症した男性の訴えを認め、モンサント社に2億8900億j(約320億円)の支払いを命じている。ラウンドアップの危険性は国際機関も警鐘を鳴らしており、世界的には販売を禁止する国も多い。だが日本ではこうした世界的な流れに逆行するかのように、政府が安全性を認めるだけでなく、規制を大幅に緩和し販売を促進している。専門家や消費者団体はラウンドアップの危険性を訴える声を上げているが、大手メディアは政府やモンサントなど多国籍企業に忖度して沈黙しており、日本国内での認知度は低い。


ホームセンターで販売されているラウンドアップ

 カリフォルニア州地方裁判所の陪審が19日、ラウンドアップががんを発生させた 「事実上の要因」 だったとの評決を下し、70歳の男性の訴えを認めた。同氏はモンサントの除草剤ラウンドアップを長年使用し、喉に悪性リンパ腫を患ったとし、モンサント側を相手どって争っていた。同氏は1980年から2012年にかけ、カリフォルニア州北部ソノマ郡の自宅でラウンドアップを定期的に使用していたが、その後がんの一種である非ホジキンリンパ腫と診断された。

 ラウンドアップについては、環境保護運動家や専門家が長年発がん性を指摘しているグリホサートが含まれている。陪審はがんを発症した大きな要因がグリホサートだったのかどうかについて判断を求められていたが、これを認めた。

 アメリカでは昨年8月にもサンフランシスコ州の裁判所がモンサント社に2億8900万jの損害賠償金の支払いを命じている。訴えたのは学校の校庭を管理する仕事をしていた46歳の男性で、2012年に学校の害虫・雑草防除の仕事をするために雇われ、ラウンドアップを年に20〜30回ほど校庭に散布していた。ある日、散布するホースが緩んだはずみに薬剤を体に浴び、数カ月後に発疹が出て日増しに悪化し、2014年に非ホジキンリンパ腫と診断された。男性はラウンドアップの使用が原因で、末期がんを患ったとして訴えていた。陪審員は 「ラウンドアップの主成分である“グリホサート”に発がん性が考えられるにもかかわらず、モンサントはその危険性を十分に伝えていなかった」 として、全員一致で男性の訴えを認めた。

 ラウンドアップは、1970年にアメリカ企業のモンサント社が開発した除草剤で、有効成分名はグリホサートイソプロピルアミン塩。なお、ラウンドアップの生産・販売権は現在、開発元のモンサントを昨年買収・吸収したドイツ製薬大手バイエルが保有する。

 モンサント社は1901年にアメリカのミズーリ州で創業され、1960〜70年代にはベトナム戦争で米軍が使用した枯れ葉剤を製造した企業として有名だ。世界最大のアグリビジネスをおこなう多国籍企業として名を轟かせてきたが、とりわけ除草剤とこれに耐性を持つ遺伝子組み換え種子のセット販売を世界規模で拡大させることで世界市場を独占してきた。

 広大な農地の除草作業の手間を省くために、あらゆる植物の成長をストップさせ枯らしてしまう毒性の強い除草剤と、その農薬にも枯れずに耐えうる遺伝子組み換えをした作物(大豆)を開発し、販売することによって大量の作物生産をおこなっている。

 モンサント社は世界の遺伝子組み換え市場を支配しているが、同社の売上をけん引する一つが除草剤ラウンドアップだ。同社はラウンドアップとそれを散布しても枯れない遺伝子組み換え作物をセットで農家に販売してもうけてきた。世界の種子市場の7割弱、世界の農薬市場の8割弱が、モンサント、デュポン、シンジェンダなどの遺伝子組み換え多国籍企業6社によって支配されている。

 日本でのラウンドアップの商標権と生産・販売権は、2002年に日本モンサントから日産化学工業へ譲渡された。日産化学は現在は三代目となる「ラウンドアップマックスロード」を販売しているが、初代の製品は特許が切れており、ジェネリック品がホームセンターや100円ショップでも安く売られている。

 近年ラウンドアップの主成分であるグリホサートの危険性に警鐘が鳴らされている。

 アメリカの医師の1人は2010年に、アルゼンチンの大豆生産地域に住む6万5000人を調査し、過去15年間でがんの発生率が急増していることを明らかにした。そこでラテンアメリカでは、遺伝子組み換え(GM)作物に大量の除草剤を撒いていることの関連を指摘した。この地域では、肺がん、前立腺がん、乳がんの発生率が国際平均と比べて2〜4倍になった。

 さらに別の研究者はラテンアメリカ、アメリカ、ヨーロッパなどで、モンサント社のラウンドアップの使用拡大が、脳出血やリンパ腫など重大な病気の発生と関連していることをつきとめている。

 遺伝子組み換え作物と除草剤のラウンドアップをセットで販売する強引な商法が広まるなかで、農家やその周辺住民に深刻な健康被害が起こっていることが社会問題化してきている。さらに、猛毒のグリホサートがついた遺伝子組み換え作物が大量に生産されて出荷され、最終的には消費者の口に入ることの危険性が指摘されている。

 2015年3月20日には、WHO(世界保健機関)の下部組織である国際がん研究機関は除草剤グリホサートを、2番目にリスクの高いグループ2Aに指定した。2Aとは、「動物実験での発がん性確認」「人間ではデータ不十分」というもので、人に対しては「おそらく発がん性がある」という分類だ。

 また、アメリカの国立がん研究所、国立環境健康科学研究所、環境保護庁、国立職業安全健康研究所の共同プロジェクトであるAHSは、ラウンドアップと急性骨髄性白血病との関連性に関する研究を発表した。

 2017年6月26日にはアメリカのカリフォルニア州環境保健有害性評価局が、同州で定める通称プロポジション65の物質リストに、発がん性物質としてグリホサートを加えると声明を出した。

 さらに今年2月には、ワシントン大学の研究チームが「グリホサートにさらされると、がんのリスクが41%増大する」との研究結果を学術誌に発表した。同チームはこれまでに発表された調査結果を検証した結果、グリホサートを主成分とする除草剤と、免疫系のがんである非ホジキンリンパ腫のリスクの増大との因果関係が認められたと発表した。同チームはまた、除草剤散布を専門とする5万4000人余りを対象に2018年に実施した実態調査結果もあわせ、因果関係があると結論づけた。

 アメリカではラウンドアップが原因で非ホジキンリンパ腫を発症したという訴えもあいついでおり、2017年までに800人以上がモンサントを提訴し、翌年には原告の数が数千人に膨れあがった。

世界的には規制する流れ


 ラウンドアップはアメリカのみならず世界各国で販売されており、ラウンドアップの販売中止やグリホサートの使用禁止措置をとっている国も多い。フランスやオランダはすでに禁止しており、ドイツ、イタリアなど世界33カ国が2〜3年後には禁止することを表明している。

 フランス政府は今年1月15日、除草剤ラウンドアップとその関連商品の販売を禁止した。この販売禁止の決定に先駆けて南仏リヨンの行政裁判所は、規制当局が安全上の懸念を考慮せずにラウンドアップの販売許可を出したとする判決を下した。フランス食品環境労働衛生安全庁は判決を受けた声明で、「ラウンドアッププロ360」の販売は即日禁止されたと発表した。

 オランダ議会も2015年末をもってグリホサートの使用禁止を決定した。ブラジルでは2015年3月25日、連邦検察官が司法省に対して、グリホサートを暫定的に使用禁止とするように求めた。

 ロシアでは2014年4月5日、ロシア政府最大与党の統一ロシアが、ラウンドアップ耐性遺伝子組み換え食品の輸入を禁止した。スリランカでも2014年5月12日、政府がラウンドアップの販売を禁止し、2015年6月11日にはグリホサートの輸入を禁止した。

 デンマークでは2003年9月15日、政府がグリホサートの散布を禁止した。デンマーク・グリーンランド地質調査研究所がおこなった検査で、グリホサートが土壌を通り抜けて地下水に到達し、飲料水として許容されている五倍の濃度で地下水を汚染していることを発表したことを受けての決定だった。

日本は逆に大幅な緩和 背後に多国籍企業

 日本での動きはこうした世界的な流れに逆行している。

 WHOがグリホサートに発がん性の懸念を指摘した4日後の2015年3月24日、日産化学は直ちに「グリホサートに発がん性はないと判断している」との声明を出した。翌2016年7月12日には、内閣府食品安全委員会が「グリホサートに発がん性、遺伝毒性は認められなかった」との結論を出した。遡れば2000年5月には日本農薬学会が「グリホサートは毒物ではなく普通物」との見解を示している。

 さらに昨年12月、厚生労働省はグリホサートの残留基準値を大幅に緩和した。たとえば小麦で6倍、ライ麦やソバで150倍、ヒマワリの種子では400倍に引き上げた。これは日本の大手メディアはまったく報道していない。

 アメリカでは、小麦の収穫量を増やすために収穫直前になってグリホサートをまくことが認められている。これによって大量のグリホサートが残った小麦が輸出に回される。残留基準値が低いと日本への輸出が困難になるという背景があり、規制緩和はアメリカ側の圧力によるものだ。

 国内で流通する小麦の約90%(約50%がアメリカ産)は輸入品であり、これらの小麦にはグリホサートが収穫前に散布されている可能性がきわめて高い。今年1月、消費者団体がスーパーで販売されている大手製粉会社3社の小麦製品を調査したところ、12商品中5つからグリホサートが検出された。ちなみにアメリカで食の安全を訴える市民団体の調査では、小麦を使用したスナック菓子からもグリホサートが検出されており、加熱しても分解されにくいことがわかっている。

 大手製粉会社3社の見解は「外国産小麦は輸入時に農水省が残留農薬に関する検査を実施し、安全性を確認したうえで製粉会社に売却している。残留基準は人の健康に害を及ぼすことのないよう、厚労省により認定されている」といったもので、「問題なし」との対応をとっている。

 世界的にモンサント社の除草剤ラウンドアップの販売規制に動くなかで、日本政府は「安全だ」とお墨付きを与え、規制緩和に動いている。

 これはまた、安倍政府が昨年四月から主要農作物種子法(種子法)を廃止したこととも関連していることが指摘されている。

 種子法は戦後間もない1952年に、国民の食料確保に不可欠な優良な種子を、公共財として守っていくという基本的な考え方のもとで制定された。モンサント社などアグリビジネス関連の多国籍企業は遺伝子組み換え種子と除草剤をセットで販売しており、種子法はモンサントなどの種子ビジネスにとって邪魔な存在であった。

 猛毒で発がん性が確認されている除草剤ラウンドアップを、「安全」とだまして販売を促進するのは、国家的詐欺にほかならず、国民の生命を著しく危険に晒す行為といえる。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/11262



▲△▽▼


売国のモンサント法 2017-05-20
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12276257388.html

【Front Japan 桜】種子法廃止の恐怖 / 日本庭園に見るモンサント種の元[桜H29/5/19]
https://youtu.be/nzxDQzu6l3Y

【討論】種子法廃止は日本農業を滅ぼすのか?[桜H29/5/20]
https://www.youtube.com/watch?v=3Sn3FB_6VHA&feature=youtu.be


 さて、モンサント法として、種子法廃止法について取り上げてきましたが、もう一つ、決定的なモンサント法が、5月11日に成立しています。

『農業競争力強化支援法が成立
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS11H6A_S7A510C1EAF000/

 肥料や農薬などの農業資材や流通加工分野の業界再編を促す農業競争力強化支援法が12日午前の参院本会議で、与党などの賛成多数で可決、成立した。政府が昨年まとめた農業改革策の一環。資材メーカーや流通業者などの再編を金融面で支援する。政府は低価格の農業資材の供給や流通の効率化で農家の経営を後押しできると説明している。』

 上記、農業競争力強化の中に、とんでもない条文があるのです。

『農業競争力強化支援法
第八条 国は、良質かつ低廉な農業資材の供給を実現する上で必要な事業環境の整備のため、次に掲げる措置その他の措置を講ずるものとする。
(略)
四 種子その他の種苗について、民間事業者が行う技術開発及び新品種の育成その他の種苗の生産及び供給を促進するとともに、独立行政法人の試験研究機関及び都道府県が有する種苗の生産に関する知見の民間事業者への提供を促進すること。』

 はあっ!!!!!????


 過去に、種子法の下で予算がつけられ、圃場(ほじょう。すみません、桜の番組では「ほば」とて呼んでいました。間違いです)において蓄積された、様々な種子に関する知見を、民間事業者へ提供する・・・・。


 予算、ですから、日本国民の税金により作られた「種の知見」を、民間事業者に譲り渡すわけです。しかも、例により外資規制はありません。


 売国、以外に、どのように表現すればいいのでしょうか。


 種子法が廃止され、農業競争力強化支援法が成立したことで、モンサントは日本の各地域の多様性に道が種の知見を手に入れ、「ちょっと変えるだけ」で生物特許を取ることができます。公共財である日本の種が、外資を含めた「ビジネス」へと変わることになります。


 一連のモンサント法により、以下の問題や懸念が生じます。

●種子法廃止後、種子は育生者権保護を強化した種苗法で管理⇒種苗法では、登録品種を「種子として販売・無償配布しない」という誓約書にサインを求められる

●農業競争力強化支援法により、公的な種苗の生産に関する知見が民間事業者に提供される

●特定企業が、過去に日本政府や地方自治体が蓄積した遺伝子を活用し、開発した新品種の「特許」が認められる⇒本来、公共財であった種の遺伝子の権利が特定企業に移行

●低廉な種子を供給してきた制度が廃止され、種子価格が高騰する可能性が高い

●日本国内で開発された種が外国の農場に持ち込まれ、農産物が生産される⇒「安価な日本原産の農産物」が、日本に輸入される

●国内の種子の多様性が奪われ、遺伝子クライシスの恐れが発生

●モンサントなどの遺伝子組み換え作物の種子が広まり、日本固有の種子遺伝子が絶滅する(花粉の伝播は止められない)

 我が国は、いずれ新嘗祭を、モンサント(等)の遺伝子組み換えの「稲」で執り行うことになるわけです。

 ヒャッハー!!!


 それ以前に、種の多様性が失われ、かつ価格が上がることで、食料安全保障は崩壊します。


 「亡国の農協改革 」
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4864104387/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&linkCode=sl1&tag=asyuracom-22&linkId=93f620bfb956a3d19e17b20e74ffdec1

でも書きましたが、安全保障は掛け算です。足し算ではありません。


 すなわち、どれか一つでも安全保障が失われれば、我が国は「亡国」の状況に至るのです。


 今回のモンサント法成立は、日本の食料安全保障を決定的に失わせる可能性を秘めています。結果、カーギルが全農グレインを買収できなくても、日本は「亡国」の状況に至るのです。


 日本の国会議員は、早急に「公共の種」を取り戻す法律を制定しなければなりません。日本の「種」を守れないということは、日本国民を守れないと同義なのです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12276257388.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c2

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
3. 中川隆[-10730] koaQ7Jey 2019年4月09日 16:17:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1309]

種子法廃止に関する正視しがたい現実 2018-11-10


 先日、衆議院第一会館でSUNZ日本創生総合研究所主催「日本の食糧安全保障と農業の未来を考える」で講演する機会を頂いたのですが、改めて種子法廃止により、我が国は食料安全保障を将来的に失うことになります。


 種子法が廃止された結果、優良で多種多様な「各地に合った種子」を安価な種子を農家に提供するための「根拠法」が失われました。種子法廃止は、緊縮財政の一環でもあるのです。


「日本国民の生命をつなぐタネなんぞに、カネなんか使えるか! 民間に任せろ、民間に!」
 というわけでございますね。


 さらに、農業競争力強化法により、長年、都道府県が税金を使い、蓄積したタネの知見を、民間企業に提供することになります(そう法文として書いてある)。


 ことの始まりは、1971年、アメリカの最高裁が遺伝子組み換えされた生物について、組み換えを行った企業の特許を認めたことです。モンサントは大豆を発明したわけではないにも関わらず、遺伝子組み換え大豆「全体」の特許を保有することになりました。


 1988年、カナダの農家バーシー・シュマイザーが、自分の畑で近所から飛んできたモンサントのタネが自生したことを受け、モンサント社から訴えられました。特許権の侵害とのことでした。


 その後、特許を利用した巨大アグロバイオ企業の「タネ独占」のビジネスが本格化。バイエル(=モンサント)、ダウ・デュポン、シンジェンタの三社で世界のタネ・ビジネスの「七割」を占める状況になっています。


 もっとも、グローバルなアグロ・バイオ企業は、日本市場を開拓できていません。理由は、種子法です。いや、種子法でした。


 種子法により、日本では安価、多種多様、優良な種子が出回り、アグロ・バイオ企業のタネは売れません。例えば、各都道府県の優良品種の種籾の価格は1kg400円から600円。それに対し、三井系の三井アグロ科学のミツヒカリは種籾1kgあたり4000円です。


 アグロ・バイオ企業にとって、日本のタネの価格が「安い」ことが問題であり、この状況を潰すための種子法廃止なのです。


 種子法が廃止されたことで、数十年のスパンで日本のタネはバイエル=モンサントを初めとするアグロ・バイオ企業の遺伝子組み換え、F1、単品種のタネに置き換えられていくでしょう。


『竹下前総務会長が市民団体に懺悔 「種子法」復活に光か?
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/241173

 6日、「日本の種子を守る会」が永田町の議員会館で自民党の竹下亘前総務会長に面会し、4月に廃止された「種子法」に代わる新しい法律の制定を要請した。

  「守る会」が1年間で集めた署名は約17万筆。要請書には、日本の食と農業を守ってきた種子法の廃止について「農業・食の安全性・公共性を脅かすものとして看過できない」と明記されている。

 竹下は要請を受け、「私自身も(種子法廃止の)中身が分からず(賛成に)起立した1人だ」と明かし、こう続けた。
 「量だけでなく安全性も含めて、食糧の安全保障は、政権が絶対に維持しなければならない。国会議員が種子法の必要性や重要性を認識していなかった」
 先の国会で、立憲民主党など野党6党が提出した種子法廃止を撤回する法案が継続審議となっている。自民も動くか?』

 竹下前総務会長のような立場の国会議員であっても、「種子法廃止の中身が分からず(賛成に)起立した1人だ」というわけです。衝撃的ですが、これが日本の国会の現実なのです。


 逆にいえば、種子法廃止の「意味」を政治家に届ければ、種子法復活法案が日の目を見る可能性が高まります。


 ちなみに、自民党や親アベ派の中には、種苗法で日本のタネを守れるなどと「寝言」を言う人がいます。種苗法は「育成権」を重視た法律で、しかもタネ生産の予算を担保するものでもあ  りません。

 種苗法で守られるのは「モンサントの権利」です。 

 
 ちなみに、いち早く種苗法の管理に移った野菜のタネは、すでに「外国産」が九割です。確かに、野菜の生産地は日本ですが、タネについては「日本野菜のタネ メイドインチャイナ」というのが現実なのですよ(中国産だけではなく、アメリカ産、オーストラリア産も多いですが)。


 我が国の穀物自給率は、わずか28%。

【図 2013年 主要国穀物自給率(%)】

http://mtdata.jp/data_61.html#kokumotsu


 日本は多くの穀物(大豆、トウモロコシ、小麦)をアメリカから輸入しています。大豆やトウモロコシは、ほぼすべてが遺伝子組み換えです。


 さらに、小麦は収穫前にラウンドアップをぶっかけているため、グリホサートの発癌性が怖いです。


 まあ、わたくしは半世紀近く生きているので構いませんが、我が家には赤ちゃんがいます。赤ちゃんに「安全」な食べ物を食べさせるには、どうしたらいいのか。


 唯一、安全と確信できる「コメ」までもが、グローバル・アグロ・バイオ企業のビジネスに汚染されていく。


 まずは、この現実を認めた上で、「日本国民の食の安全を守る」ためにも、種子法を復活させなければならないのです。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12418004428.html


「もはや二度と、国民を飢えさせない」という思い 2018-11-12

「食を制する者は世界を制する」

 モンサント社の非道を訴えた『モンサントの不自然な食べもの』に登場したアメリカの農家が呟いた言葉です。


 今年の4月1日、日本国民の食料安全保障の根幹である「タネの安全保障」を守っていた主要農作物種子法が廃止となりました。結果的に、日本各地で優良、多種多様、かつ安価なタネを生産していた都道府県に対する予算の裏付けが消滅。


 種子法は、
『第一条 主要農作物の優良な種子の生産及び普及を促進するため、種子の生産についてほ場審査その他助成の措置を行うことを目的とする。』
 という一文から始まっていました。


 種子法は日本政府に対し、稲、大麦、はだか麦、小麦という主要農作物について、地域に合った良質な種子が農家に行き渡るよう、農業試験場の運営などに必要な予算をつけるための根拠法だったのです。


 なぜ、種子法により種子の安定生産に政府が関与したのか。種子法が制定されたのは、大東亜戦争敗北後、主権を失っていた日本がサンフランシスコ講和条約発効により独立した「翌月」の1952年5月です。


 1945年8月、日本は大東亜戦争に敗北。タイミング悪く、全国的に農産物が不作に陥りました。しかも、各地の農家が政府に不信感を持ち、食料の供給をサボタージュする例が相次いだため、日本国民は「飢餓」に陥ってしまいます。


 食糧難の時代を経て、ようやく独立を取り戻した日本は、
「もはや二度と、国民を飢えさせない」
 という決意のもと、政府が「食料の基本」である種について、積極的に関与する仕組みを整えたのです。その種子法が、あっさり廃止。


 先人の「もはや二度と、国民を飢えさせない」という決意を、平気でないがしろにするのが安倍政権というわけです。


 しかも、理由は別に国家国民のためではなく、単にモンサント=バイエルを初めとするアグロ・バイオ企業にとって、「安い種子」の提供を可能とする種子法が邪魔だからです。


 さらに、日本政府は種子法廃止と同時に、農業競争力強化法を制定。同法により、長年、都道府県が税金を使い、蓄積したタネの知見を、民間企業に提供することになります(そう法文として書いてあるのです)。 


『2018.11.07 種子法廃止の代替を 「守る会」17万人の署名提出
https://www.jacom.or.jp/nousei/news/2018/11/181107-36599.php

 日本の種子(たね)を守る会(会長=八木岡努JA水戸組合長)は11月6日、東京・永田町で自民党議員に、17万人分の署名を渡し、廃止となった種子法に代る法律の制定を求める要請を行った。

 要請には八木岡代表のほか、生協パルシステム神奈川ゆめコープの吉中由紀理事長、JAしまねの萬代宣雄前組合長らが参加。自民党の吉田博美参院幹事長、野村哲郎農林部会長、岡田広参院自民議員副会長、山田俊男参院自民議員らに要請した。
 八木岡会長は、「種子法の廃止によって、種子行政に関する予算が削られ、地方の特徴ある農作物が失われる可能性がある。これを懸念し、条例を制定する県が増えている」と説明。

 また、独自の署名活動で2万人の署名を集めたJAしまねの萬代前組合長は「10年、20年先も安心して農業をできるように、いまその方向を示しておいて欲しい」と訴えた。

 これに対して野村部会長は「一度廃止した種子法を復活させるのは難しいが、種苗法改正の動きがあり、その中に含めて考えたい。そのためには、これだけは絶対に守らなければならないという事項を示す必要がある」との考えを示した。』


 いやいや、一度廃止した種子法を復活させるのは難しくありません。


 すでに、野党が以前の法律を修正した種子法復活法案を提出しています。継続審議になった種子法復活法案に、自民党議員が賛成すれば、普通に復活します。


 相変わらず、自民党の議員は「種苗法が〜」と寝言を言っていますが、


● 種苗法は生産者ではなく、タネの育成者の権利を守る法律である
● 種苗法は、都道府県に種子生産の予算を提供する担保法ではない
● 種苗法で「守られている」はずの野菜のタネは、すでに九割が外国産


 これが現実です。


 無論、種苗法でタネ生産の「予算」の担保ができるようになるというならば別ですが、緊縮路線の安倍政権にできるとは思いません。


 といいますか、そんな面倒くさいことをするくらいならば、野党の種子法復活法案に乗れば済む話です。


 先人が「もはや二度と、国民を飢えさせない」という決意に基づき、制定した種子法を、外国企業(主に)のビジネスの利益最大化のために平気で廃止する。


 自民党議員は、全員「恥を知れ!」でございます。


 先日取り上げた竹下前総務会長の発言、
「私自身も(種子法廃止の)中身が分からず(賛成に)起立した1人だ」
「量だけでなく安全性も含めて、食糧の安全保障は、政権が絶対に維持しなければならない。国会議員が種子法の必要性や重要性を認識していなかった」
 というのが日本の国会の現実です。


 もちろん、「知らなかった」「認識していなかった」では済みません。このまま種子法問題を放置することは、
「もはや国民を飢えから守らない」
 と、政府、政治家自ら宣言したのも同然なのですよ。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12418456937.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c3

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
4. 中川隆[-10729] koaQ7Jey 2019年4月09日 16:18:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1310]

日本では「遺伝組み換えでない」表示が今後消える可能性が 外資の餌食 日本の台所が危ない
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/241245

2018/11/09 日刊ゲンダイ


値段に「有機」「NonGMO」のシール(山田正彦氏が米国で撮影)
http://www.asyura2.com/18/senkyo253/msg/435.html


 日本に遺伝子組み換えのトウモロコシや大豆などを輸出している米国で、健康意識の高まりから「“脱”遺伝子組み換え作物(GMO)」の動きが盛んになっている。元農水大臣で弁護士の山田正彦氏がこう言う。

「今年9月、米ロサンゼルスを視察した際、地元の人に連れられ近所のスーパーを訪れました。そこでは、野菜や果物、鶏卵やケーキなど、あらゆる種類の食品に『有機栽培』と『遺伝子組み換えでない(NonGMO)』という2種類のシールが貼られていたのです。富裕層をターゲットにした高級スーパーだけでなく、低中流層が行くようなスーパーにも同様のシールが使われていました」

 遺伝子組み換えの本場である米国でNonGMOや有機栽培の表示が広まっている一方、日本では、遺伝子組み換え食品の表示が、消費者に不利益なように変更されようとしている。

■「消費者の知る権利を奪っている」

 日本では、一部の農産物や加工食品について「遺伝子組み換えである」と表示することが内閣府令で義務付けられている。一方、「遺伝子組み換えでない」表示については、原材料にGMOが5%以下で混入している場合、メーカーが任意で「遺伝子組み換えでない」と表記しているが、これが今後、消える可能性があるのだ。

 理由は、消費者庁が「遺伝子組み換えでない」の表示を“厳格化”するとして、GMO混入率を0%に限定しようとしているから。しかし、どれだけ農産物を厳重に扱っても輸送・流通の段階でわずかのGMOの混入は避けられないため、混入率を0%にすると、誰も「遺伝子組み換えでない」を表示できなくなってしまうのである。

 できるだけ「遺伝子組み換えでない」食品を消費者に提供しようと、ほぼ混じり気のない混入率0%台のものを頑張って販売しているメーカーも、今後は表示できなくなるということだ。

「EUでは『組み換えでない』表示は0.9%以下です。日本でも同様の基準にしようという議論はありました。しかし、日本は食品原材料のほとんどを海外からの輸入に頼っているため、混入率0.9%を満たす原材料を調達することが難しいのです」(消費者庁食品表示企画課)

 結果的に、海外から遺伝子組み換え作物をバンバン輸入する企業を優遇していることにならないか。

 農業問題に詳しいジャーナリストの天笠啓祐氏は、「『遺伝子組み換えでない』という表示がなくなるのは、消費者の知る権利を奪っているに等しい」と指摘する。

 ちなみにEUでは、全食品の遺伝子組み換え表示を義務付けている。=つづく

 (取材=生田修平、高月太樹/ともに日刊ゲンダイ)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c4

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
5. 中川隆[-10728] koaQ7Jey 2019年4月09日 16:19:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1311]

世界的に市場縮小も…遺伝子組み換え作物に毒される日本  外資の餌食 日本の台所が危ない
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/241174

2018/11/08 日刊ゲンダイ

 遺伝子組み換え作物(GMO)市場が世界的に縮小し始めている中、多国籍企業が拡大先として狙っているのが日本だ。

 38%という低い食料自給率の日本は、すでに大量の遺伝子組み換え作物が流通する“GMO大国”である。農水省の資料によると、日本は米国とカナダから、トウモロコシ、大豆、ナタネ、ワタの4種のGMOを大量に輸入しているという。それらGMOは、マーガリンやマヨネーズ、食用油などに加工され日本国内で出回っている。

 米国や欧州などで“脱”GMOの動きが高まっているのに、日本はまったく逆。実際、日本のGMO承認数は2016年のTPP協定署名後、急激に増加している。「国際アグリバイオ事業団」(ISAAA)のデータによると、米国での承認数が203であるのに対し、日本は317で、44カ国中ダントツに多い。なぜ、こんなことになっているのか。農水省の農産安全管理課は、「我々も驚いている」と言い、こう続けた。

「数え方の違いのせいで日本の承認数が突出しているように見えるが、実際に日本で流通している遺伝子組み換え作物は183種類です。そのうち、栽培可能なものは139種類。国内では、青いバラのみ作られています」

 要するに、日本で作られるGMOはほぼゼロということだが、栽培できるのに作られないのは、「消費者の抵抗がある」(前出の農産安全管理課)からだ。

 それでも、日本政府は消費者を置き去りにして、多国籍企業の意向に沿うように、農薬の残留基準を緩和したり、GMOを承認したりしている。元農水大臣で弁護士の山田正彦氏がこう言う。

「日本でGMOが作られていないといっても、民間や多国籍の種子企業は、すでに日本向けの遺伝子組み換えのコメや小麦の種子開発を終えています。販売ルートに乗せる準備は整っているのです。2015年に訪問先のワシントンで話をした全米小麦協会のドロシー会長は、『米国では国民の間に(遺伝子組み換え小麦に対する)抵抗が強いので、まず日本で食べてほしいと思っている』と言っていました。2020年から、遺伝子組み換え小麦の流通が日本で本格化するのではないかという話もあります」

 GMOは、殺虫剤や除草剤に耐性を持つように作り替えられているため、残留農薬による健康被害も心配される。ところが、日本政府は、消費者がGMOか否か判断できないように、GMOの「表示義務」を変えようとしているのだ。 =つづく

 (取材=日刊ゲンダイ・生田修平、高月太樹)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c5

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
6. 中川隆[-10727] koaQ7Jey 2019年4月09日 16:20:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1312]

大丈夫か…メーカーの要望で農薬残留基準が緩和されていた 外資の餌食 日本の台所が危ない
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/240870

2018/11/03 日刊ゲンダイ


農薬の安全性に“絶対”はない(C)PIXTA

 日本は、世界の農薬規制の流れと逆行している。

 問題は、政府が昨年12月25日、コッソリ公布した「食品、添加物等の規格基準の一部を改正する件」という告示だ。驚くべきはその内容で、食品に残る農薬の基準値が大幅に緩和されたのである。

 例えば、米モンサントの除草剤「ラウンドアップ」に含まれるグリホサート。グリホサートは、世界保健機関(WHO)の外部組織である国際がん研究機関が「おそらく発がん性がある」と指摘している化学物質だ。ところが、厚労省は昨年12月、小麦に残っても大丈夫なグリホサートの基準を改正前の6倍に、ソバについては150倍に緩和したのだ。厚労省食品基準審査課の担当者は、「動物実験などの試験の結果、(基準値の)安全性は担保されている」と話すが、消費者の不安は置き去りだ。

 そもそも、農薬の残留基準が緩和されるキッカケは、国内外の農薬メーカーが要望したからだ。

「メーカーなどから、農薬の使用方法を変更したいという申請がありました。申請された使用法でどれだけ農薬が残るかを示したデータに基づき、厚労省へ安全評価をお願いしました」(農水省農薬検査班担当)

 要するに、消費者よりもメーカーが優先されているというワケ。しかし、世界を見渡せば、欧州などでは農薬について“規制強化”が趨勢だ。農業問題に詳しいアジア太平洋資料センターの内田聖子氏が言う。

「欧州は、環境や生命に重大な影響があると疑われるものを禁止する『予防原則』の立場をとっています。『絶対に安全・安心』を裏付ける研究がない以上、使用できないという考え方。日本と違って欧州では農薬の取り扱いが厳格で、免許を持っていないと使用できません。日本は、惰性であらゆる農薬を使ってきたし、農薬を日本に売り込みたい多国籍企業の意向をはね返す力がないのでしょう」

 農薬は、収穫前の農産物にかけてわざと枯れさせ、乾燥の手間を省くためにも使われるが、元農水大臣で弁護士の山田正彦氏はそうした使い方の拡大に懸念を示す。

「米国で広く行われている『プレハーベスト散布』と呼ばれる方法で、日本でもすでに、一部の民間企業が大豆の収穫において推奨しています。今後、この方法が、国産のコメにも適用されるかもしれません」

 同じ農薬を使い続けると、害虫や雑草に耐性ができてしまうため、より濃度の高い農薬が使われることがあるという。そして、農薬に耐性を持つ新たな遺伝子組み換え作物が開発されていくのだ。

 気付かぬうちに大量の農薬を摂取してしまうことになりかねない。 =つづく

 (取材=本紙・生田修平、高月太樹)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c6

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
7. 中川隆[-10726] koaQ7Jey 2019年4月09日 16:21:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1313]

グリホサート基準緩和安倍内閣の正体
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-9948.html

2018年9月 2日 植草一秀の『知られざる真実』

モンサント社の除草剤「ラウンドアップ」の使用ががん発症につながったとする損害賠償請求訴訟で、米国サンフランシスコ州の裁判所が本年8月10日に、原告の訴えを認めてモンサント社に2億8900万ドル(約320億円)の支払いを命じる判断を示したことを本ブログ、メルマガに記述した。

「発がん性で320億円賠償責任のラウンドアップ」
https://bit.ly/2MlyRZw

カリフォルニア州で学校の管理をしていたドウェイン・ジョンソン氏が、校庭の除草と整備のためにモンサント社が開発した除草剤ラウンドアップを数年にわたって使用し、それが原因でがんの一種である悪性リンパ腫を発症したと訴えていた訴訟である。

カリフォルニア州裁判所の陪審員は、ラウンドアップの主成分である「グリホサート」に発がん性が考えられるにもかかわらず、モンサントはその危険を十分に伝えていなかったとして、全員一致で原告の訴えを認めたのだ。

「ラウンドアップ」は日本で広く市販されている。

ホームセンター、ドラッグストア、100円ショップなど、いたるところで市民が自由に購入できるようになっている。

しかし、米国の裁判所判断が示すように、健康被害が強く疑われている商品なのである。

ラウンドアップの大元の製造者は米国のモンサント社だ。

現在、モンサント社はドイツのバイエル社に買収されたため、独立企業としての社名は消えた。

しかし、その名は世界にとどろいている。

モンサント社は1901年に米国ミズーリ州で創業された企業で、1960−1970年代にベトナム戦争で米国軍が使用した枯葉剤を製造した企業である。

枯葉剤がどのような悲劇を生み出してきたかはよく知られている。

このモンサント社が開発し、製造しているのが除草剤「ラウンドアップ」である。

ラウンドアップの有効成分はグリホサートで、グリホサートの発がん性に対する懸念が高まっている。

2015年3月20日にWHOの外部研究機関IARC(国際ガン研究機関)がグリホサートをグループ2A ”probably carcinogenic to humans”(=おそらく人に発がん性がある)という上から二番目にリスクの高いカテゴリーに分類したことを発表した。

IARCはグリホサートについて、

「人の非ホジキンリンパ腫に対して限られた根拠があり、さらに動物実験では発がん性の明白な根拠がある」

との結論を示した。

この発表を受けるかたちで、米国カリフォルニア州環境保健有害性評価局(OEHHA)は、2017年6月26日に、同州で定める通称プロポジション65の物質リストに発ガン性物質としてグリホサートを加えるとの声明を発表した。

カリフォルニア州の裁判所判断は、これらのプロセスを踏まえてのものであると考えられる。

グリホサートは発ガン性以外に、内分泌撹乱物質として生殖機能に影響を与える可能性があり、腸内細菌を損ないアレルギーなど自己免疫疾患の原因となる、あるいは神経毒として自閉症や認知症を誘発する可能性があると指摘されている物質で、世界的に使用禁止に向けての動きが活発化している。

こうしたなかで日本政府は真逆の対応を示している。

日本政府は昨年12月25日に、グリホサートの残留基準値を最大400倍も引き上げた。

遺伝子組み換え種子による農作物を摂取することの危険は、遺伝子組み換え食物自体が持つ危険性だけによるものでない。

遺伝子組み換え種子は、強力な除草剤に対する耐性を付与することを目的に開発されている。

強力な除草剤を散布しても枯れない種が遺伝子組み換えによって創作されている。

その結果として、遺伝子組み換え種子がもたらす農産物に、除草剤成分が強く残留することになる。

その除草剤成分の摂取が重大な健康被害をもたらす危険が警戒されるのだ。

除草剤成分の残留基準値が引き上げられれば、除草剤販売が容易になるから除草剤メーカーは歓迎する。

メーカーは政府に強い働きかけを行っている。

農家に対しては、除草剤を大量に散布しても生産物が規制で排除されることがないとアピールできる。

今回の基準値引き上げで、小麦の残留基準値は6倍に引き上げられた。

ヒマワリは400倍だ。

小麦はパンの主原料であり、基準が緩和されればパン摂取に伴うグリホサート摂取量が増す危険性が高まる。

安倍内閣は日本の主権者の命と健康ではなく、ハゲタカ大資本の利益極大化のために行動していると言わざるを得ない。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c7

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
8. 中川隆[-10725] koaQ7Jey 2019年4月09日 16:22:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1314]

最悪の組み合わせ: バイエル-モンサント提携は人類終焉の兆し
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/--cab0.html

2018年7月 2日 マスコミに載らない海外記事

Robert BRIDGE 2018年6月30日

 一体どういう現実世界で、世界の農業と医薬品供給乗っ取りの次の段階となるはずのもので、道徳的に世界で最も破綻した二大企業バイエルとモンサントが手を組むことが許されるのだろう?

 ネタバレ警告: この壮大な規模の恐ろしい話には、ハイド氏的側面は皆無だ。全面的にジキル博士だ。デヴィッド・リンチの気味悪い作品の脚本のように、毒ガスで名高いバイエルAGは、人類に対する犯罪からの免責に等しい大企業亡命のようなものを享受する代わりに、グアンタナモ湾で被告席に着き、黙秘権を行使しているべき農薬企業モンサントの660億ドル(500億ポンド)での買収をまとめた。法の適用を受けない多国籍企業であることに由来する特権は、それほどのものなのだ。

 モンサント買収後、倫理的不適切の更なるお荷物を抱え込んで、バイエルがした最初のことが、ブランド再構築キャンペーン開始だったのは意外なことではない。溶けた鋼のるつぼに落ちたハリウッドの悪漢が、後に姿を変えて再登場するように、モンサントは、オーウェル風の響きの"より良い暮らしのための科学"が標語の‘バイエル作物学部門’に組み込まれた。

 ところが、バイエル自身、同社の企業不正行為の継ぎはぎ歴史を考えれば、モンサントに対する保護覆いの機能はほとんど無い。広く知られている頭痛鎮痛剤販売を遥かに超えて、第一次世界大戦の戦場に毒ガスを導入する上で、ドイツを本拠とする企業は重要な役割を演じていたのだ。

 化学兵器使用を禁止するハーグ条約にもかかわらず 1907年以来、ドイツ陸軍省が設置した特別委員会の委員だったバイエルCEOのカール・デュイスベルクは、それを見て商機を理解したのだ。

 デュイスベルクは毒ガスの初期実験を目撃して、恐ろしい新兵器を称賛する報告書を書いた。“これが地域に噴霧され、そこに静かに留まっているのが、結果が生じるまで、敵にはわからないのだ。”

 ガス物質研究開発を専門にする部門を設置したバイエルは、フォスゲンやマスタード・ガスなどの、一層致死的化学兵器の開発を進めた。“このフォスゲンは、私が知るもっとも素晴らしい兵器だ” 驚くべき人命軽視で、まるで、最新の虫よけスプレーについて話しているかのように、デュイスベルクは語った。“ガス手榴弾を実験する機会無しにこの戦争を終わらせてはならないと、私は強く勧めたい。”

 デュイスベルクの悪魔的な望みがかなった。バイエルが約700トンの化学兵器を戦線に供給し、戦場を実験場に、兵士をモルモットに利用する好機が、1915年春に訪れた。1915年4月22日、ベルギーはイーペルの戦場で、フランス軍に対し約170トンの塩素ガスが初めて使用されたと推定されている。攻撃で、1,000人の兵士が死亡し、更に多くが負傷した。

 ドイツが第一次世界大戦で始め、、レバークーゼンに本拠を置く企業が供給した化学兵器戦争の結果、推計で総計60,000人が亡くなった。

 Coalition against Bayer Dangersのアレックス・ケーラー・シュヌラによれば“バイエルの名前は、とりわけ、毒ガスの開発と製造を意味します。それでも、同社は、第一次世界大戦での残虐行為への関与を受け入れていません。バイエルは、カール・デュイスベルクの犯罪から距離を置いてさえいません”

 犯罪者のような振る舞いは現代に至るまで続いている。アメリカ人弁護士でテレビ司会者のマイク・パパントニオが、この化学企業が犯したより凶悪な行為を、トーマス・ハートマンの番組Big Pictureで語った。“1980年、彼らはFactor VIIIという名の血友病用の血液凝固剤を製造しました。この血液凝固剤はHIVに汚染され、その後、政府が同社に国内では販売できないと言うと、連中はそれを世界中に輸出し、世界中の人々を感染させた。これはバイエル物語のごく一部に過ぎない。”

 バイエルの2014年年次報告書を引用して、同社は世界中で、32件の異なる製造物責任訴訟を受けていると、パパントニオは言う。2018年のバイエル社製造物責任報告については、ここをクリック。

 お持ちのバイエル製品をトイレに流す前に、話は益々酷くなるので、アスピリンを一錠か二錠、とっておかれる方が良いかも知れない。

 ‘バイサント’怪物の直接の結果の一つは、持続不可能な価格で生計に既に直撃を受けている農民にとっての、価格大幅値上げだ。“近年、農民は既に、全てがモンサントに支配されている種子から肥料に至るまでの全てで、300%の価格高騰を味わっています” パパントニオはハートマンに語った。“しかもあらゆる予測家たちが、こうした価格は、この合併のおかげで一層上がると予想しています。”

 しかしながら、アメリカのあらゆる職業中、最高の自殺率に直面しているアメリカ農民にとって状況が更に悪くなるのを想像するのは困難だ。農業や漁業や林業に従事するアメリカ人の自殺率は、100,000人当たり84.5人で、一般人の五倍以上だ。

 この悲劇的傾向は、約十年前、何百万人もの農民が、伝統的農業技術から、モンサントの遺伝子組み替え種子の利用へと切り換え始めたインドのそれを彷彿とさせる。過去、何千年も続いて来た伝統に従って、農民は収穫から種子をとっておいて、翌年それを植えたものだ。自然界のリズムとパターンに賢明に従ってきた日々は、ほぼ終わった。現在、モンサントGMO種子は'ターミネーター 技術'を含むよう生育されており、出来る作物は種を造らないように‘プログラムされている’。言い換えれば、種子会社は、文字通り、自然と我々の生活に対し神を演じているのだ。そこで、インド農民は、モンサントの農薬ラウンドアップとともに、新しい種を毎年途方もない値段で買うことを強いられている。何十万人ものインド農民。

 だが一体世界が、ベトナム戦争中(1961年-1971年)、広大な農地に散布され、農地の肥沃度とベトナムの食糧供給を破壊した枯れ葉剤の悪影響に、480万人以上のベトナム人が苦しんだ軍用エージェント・オレンジ製造に関与したまさに同じ企業に違うことを期待するだろう。アメリカ軍によるエージェント・オレンジ使用の結果、約400,000人のベトナム人が亡くなり、更に何百万人もが飢餓や重い身体障害や先天異常に苦しんだ。

 これが、バイエルと合わせて世界の食糧供給の約四分の一を支配することを、我々が許してしまった会社だ。そこで、こういう疑問が浮かぶ。一体誰が、よりおかしいのだろう? バイエルとモンサントか、それとも我々民衆か?

 バイエル・モンサント合併が、企業の真空の中で起きたわけでないことに触れておくのは重要だ。グローバル農業薬品企業が世界の食糧供給を強化しようという競争の一環なのだ。中国化工集団公司は、スイスのシンジェンタを430億ドルで買収した、例えばダウとデュポンは、130億ドルの帝国を作り上げている。

 とは言え、こうした企業のどれにも、地球上のあらゆる生命を脅かす地獄で引き合わされた組み合わせ、バイエルとモンサントのような血にまみれた評判はない。

記事原文のurl:https://www.strategic-culture.org/news/2018/06/30/match-made-hell-bayer-monsanto-partnership-signals-death-knell-for-humanity.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c8

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
22. 中川隆[-10724] koaQ7Jey 2019年4月09日 17:23:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1315]

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c22
[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
9. 中川隆[-10723] koaQ7Jey 2019年4月09日 17:44:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1316]

2019年3月3月28日 最も危険な食べ物、飲み水、薬のトップ10
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52038632.html


8. グリフォサート除草剤(モンサント社のラウンドアップと呼ばれる除草剤に含まれる。)

栄養が腸壁から吸収されないようにしてしまうため免疫系が侵される。アメリカの農地には毎年2憶ポンドものグリフォサートが使用されている。その結果、一般的に販売されている殆どの食品や水道水にはグリフォサートが含まれている。


10. GMO遺伝子組み換え穀物と農作物

GMOのDNAには、人間の腸内の善玉菌を破壊し免疫系を衰弱させ、認知能力を衰えさせ、認知症、パーキンソン病、アルツハイマー病、不安症、うつ病を発症させる除草剤が含まれている。


____

一般的に販売されている食品の多くに何等かの有害な化学物質が含まれているの確かです。それらを日常的に食べている消費者は知らないうちに不健康になっていっています。ただ、運動を行ったり、栄養バランスの良い食事をしたり、ストレス発散ができたり、高い免疫力を維持していればそれらの有害物質も身体の外に排出されるのでしょう。免疫力が低下すると具合が悪くなってしまいます。
風邪くらいですぐに病院に行くのは考え物ですね。


日ごろから気を付けるべき主な食品、水、薬品(10点)だけでも覚えておきたいものです。

https://www.naturalnews.com/2019-03-26-top-10-poisons-in-american-food-water-and-medicine.html

(概要)
3月26日付け

最も危険な食べ物、飲み水、薬品のトップ10とは


(Natural News)
人々は様々な添加物が含まれている食品を食べ、フッ化ナトリウム、塩素が含まれている水道水を飲み、人工甘味料を使い、身体に有害な薬を飲んでいるため、常に身体はこれらの有害物質に攻撃され続けています。


処方薬の副作用は医師の指示に従わないほんの一部の患者に起こるのであって医師の指示通りに飲んでいれば安全であると信じている人も多いのです。


しかし実際はこれらの有害物質は身体を弱らせ寿命を短くしているのです。
化学薬品がカビ、菌、バクテリアなどの殺菌作用があるなら、同じように体内の細胞や軟組織そして免疫系や神経系をゆっくりと破壊するのも確かです。

そのうちに医師も患者も具合が悪くなった原因を特定できなくなるでしょう。

どのような検査を受けても真の原因の特定ができなくなるのです。しかしこれこそがアメリカの医療産業複合体による犯罪なのです。
医師と病院は以下の4段階のプランに沿って患者を騙し慢性病の治療を受けさせています。しかし彼等が行う慢性病の治療とは症状を隠すだけの手術と投薬治療のみです。これらは病気を治すものではありません。

最初に、医師は患者に「あなたの病気は遺伝ですから家族も同じ病気になる確率が高いです。」と言います。次に、医師は全く役に立たない検査を患者に受けさせます。そして検査結果を1,2週間後に伝えます。その間、患者は何度も病院通いをします。
次に、医師は患者に対してどの治療法を望むのかを尋ねます。そうすることで患者は重要視されていると感じます。しかし患者がどの治療法を選んでも、みな身体には侵襲的であり、化学薬品まみれで、ストレスの多い治療法であり、さらに具合が悪くなっていきます。
最後に、医師は患者に複数の処方薬を与えることになります。しかし与えられた処方薬を飲んでも病気は治りません。病気の原因の多くが体内に悪い物を取り入れた結果だからです。
そしてアメリカで日常的に体内に取り入れられている最も危険な食品、水、薬品(トップ10)は以下の通りです。。

1. キャノーラ油

血液凝結、心臓病、肥満、記憶喪失そして認知症になりやすくなる。

2. 水道水に含まれるフッ素

体内からカルシウムを排出させてしまうため徐々に骨がもろくなる。さらに松果腺を石灰化する。また、IQを低下させる。フッ素は殺虫剤と同様であり癌を引き起こす。

3. インフルエンザ・ワクチンなどに含まれる水銀

水銀は地球上で最も危険な非放射性有害物質であり中枢神経系を攻撃する。ほんの微量の水銀でも体内に入ると危険である。1回のインフルエンザ・ワクチンの中には25mcgの水銀が含まれている。EPA米環境保護庁の安全性限界は5mcgである。インフルエンザ・ワクチン以外に複数のワクチンを接種させられている子供たちは1日の安全性限度の10倍以上の水銀を体内に取り入れている。

4.抗生物質

免疫系の微生物叢や腸内(善玉菌と悪玉菌)を破壊する。

5. 安息香酸ナトリウム(保存料)

体内のミトコンドリア細胞を覆うたんぱく質を攻撃し酸素を取り込むのを阻害する。その結果、プログラム細胞死を招き、最終的には脳腫瘍を引き起こす。

6. アスパルテーム
アスパルテームは神経系を攻撃し極度の不安症にさせる。また、体重を増加させる。

7. グルタミン酸ナトリウム

脳細胞と呼吸パターンを攻撃し、片頭痛、嘔吐、喘息、脳損傷(幼児)を引き起こす。様々なワクチンに含まれている。

8. グリフォサート除草剤(モンサント社のラウンドアップと呼ばれる除草剤に含まれる。)


栄養が腸壁から吸収されないようにしてしまうため免疫系が侵される。アメリカの農地には毎年2憶ポンドものグリフォサートが使用されている。その結果、一般的に販売されている殆どの食品や水道水にはグリフォサートが含まれている。

9. 漂白剤(漂白されたパン、パスタ、小麦粉、砂糖、他)

膵臓、膀胱、前立腺の上皮組織を腐食し、腐食部分に癌を引き起こす。

10. GMO遺伝子組み換え穀物と農作物

GMOのDNAには、人間の腸内の善玉菌を破壊し免疫系を衰弱させ、認知能力を衰えさせ、認知症、パーキンソン病、アルツハイマー病、不安症、うつ病を発症させる除草剤が含まれている。


これらの有害物質を日常的に体内に取り入れている我々は自らの寿命を短くしています。
また、病院でも病院食としてこれらの有害物質が含まれる食事を提供しています。

アメリカの大手食品メーカーと大手製薬メーカーは利益を増やすためにアメリカ人をわざと不健康にしています。
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52038632.html



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c9

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
10. 中川隆[-10722] koaQ7Jey 2019年4月09日 17:49:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1317]

2018.02.01 食の危険性
この10種類の食品添加物は有害かつ毒性がある為、様々な病気や健康被害を引き起こし危険!
https://naturaltaomedical.com/2018/02/food-additives/


「食」という字は、「人」を「良く」すると書きます。
私たちが口にしたもので、私たちの身体がつくられます。

普段何気なく購入している食品に含まれている添加物は十分な試験が行われていなのが現実です。
日本の食品添加物の種類は1500種類以上あり、年々増加しています。

日本は石油由来の化学合成添加物が351品目あります。世界を見てみるとアメリカが133品目、ドイツが64品目、フランスが32品目、イギリスが21品目になります。

世界でも日本がいかに添加物を使用し、消費しているかがわかると思います。
まさに添加物大国です。更に農薬の使用も世界でダントツです。

添加物は少量であれば影響がないと主張しますが、毎日摂取し続けたら健康を害するくらいは容易に想像できるはずです。

それでは、有害で毒性があり様々な病気や健康被害を引き起こす食品添加物を10個見ていきましょう。


Contents [hide]
1 スーパーマーケットの代償
2 10種類の有害かつ毒性のある食品添加物2.1 @グルタミン酸ナトリウム(MSG)
2.2 Aアスパルテーム(人口甘味料)
2.3 B高果糖コーンシロップ(HFCS)
2.4 Cアガベシロップ
2.5 D着色料
2.6 EBHAとBHT(酸化防止剤)
2.7 F亜硝酸ナトリウム、硝酸ナトリウム
2.8 G臭素酸カリウム
2.9 H遺伝子組換え牛成長ホルモン(rBGH)
2.10 I植物油

B高果糖コーンシロップ(HFCS)

高果糖コーンシロップとはトウモロコシのでんぷんを酵素や酸によって分解し精製された甘味料です。
また、コーンスターチは、加水分解と呼ばれるプロセスによってコーンシロップに変換されます。

ほぼすべての高果糖コーンシロップは、遺伝子組み換えトウモロコシから作られています。
これは、米国の食事においてカロリーの第1位の源であり、体重増加や糖尿病の発症につながります。

高果糖コーンシロップ(HFCS)は、心臓血管疾患、関節炎、インスリン抵抗性、中性脂肪やLDLコレステロール増加の主要な原因でもあります。

農業貿易政策研究所が実施した2009年の調査では、商業用のHFCSの20サンプル中9サンプルに水銀が検出されたと報告しています。

水銀は重金属であり、脳にとって非常に危険です。

高果糖コーンシロップの別の言葉として、異性化糖、ブドウ糖果糖液糖、果糖ブドウ糖液糖などが使われ様々な食品に添加されています。

自動販売機で売られている清涼飲料水などにはほとんど添加されています。

家にある食品のラベルを見たら驚くことでしょう。


H遺伝子組換え牛成長ホルモン(rBGH)

モンサント社によって生産されるrBGHは、牛が生産する天然の成長ホルモンの遺伝子操作されたものです。 乳牛のミルク生産を促進するために使用されます。

「rBGHミルク」には、高レベルのインスリン成長因子(IGF-1)が含まれています。
これは乳癌、大腸癌、前立腺癌の主要な原因として関与しています。

rBGHミルクにはラベルを付ける必要はありません。

牛にrBGHを投与すると、乳房炎の発生率が増加することが示されています。 牛に乳腺炎があると、膿や血液が牛乳に分泌されます。

それはMRSAのような毒性の強いブドウ球菌感染症の広がりと結びついている抗生物質耐性につながります。

rBGHを使用している食品としてハーゲンダッツ、ブレイヤーズ、バスキン・ロビンス(サーティワンアイスクリーム)などがあります。

美味しいアイスクリームの裏には、健康を損なう問題が隠れていることがわかると思います。

食と身体を考える 13 shares 1 user


牛乳や低脂肪牛乳は毒性があり危険で有害です。しかし生乳は健康に良い完全食品

牛乳は毒性成分が含まれており有害で危険なので飲まない方が良いという、牛乳有害説については昔から議論されてきました。しかし、結論が出ない理由は、牛乳と生乳を同じテーブルにのせて議論しているからです。牛乳有害説も牛乳無害説も、どちらも科学的根拠がない...

https://naturaltaomedical.com/2018/02/food-additives/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c10

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
11. 中川隆[-10721] koaQ7Jey 2019年4月09日 17:51:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1318]

recombinant bovine growth hormone- 遺伝子組換え牛成長ホルモン
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html

カナダ、EUはじめ、欧米の圧力に屈して危険な添加物を使っている日本ですら禁止された超がつく曰く付きのものらしいですが、アメリカでは何故か使用が認められ、未だ恐ろしいミルクが販売されているようなんですね。

名前だけ聞くといまいちピンときませんでしたが、簡単いうと危険度満点の人工ホルモン注射を打って急成長させた乳牛のやばいミルク。みたいです。


「遺伝子組み換え牛成長ホルモン」投与牛のミルクはガンを誘発する より

http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/kumikae508.htm


(引用開始)

これは、アメリカのモンサント社が製造しているもので、遺伝子組み換え牛成長ホルモンとしてアメリカで唯一認められている薬品である。アメリカの畜産農家の約15%(17000戸)がrBGHを使用しており、全米の牛の約30%が、月2回rGBHを注射されているといわれている。


このrBGHを子牛に注射すると、非常に早く成長するため、飼料の効率がとてもよくなる。また、乳牛に注射すると、通常よりも二週間も長く乳を出すため、1頭からとれるミルクの量が15%から20%も増加する。しかし、このrBGHにはさまざまな問題点が指摘されている。


まず、rBGHを投与された牛は乳腺炎にかかりやすくなるため、ミルクのなかに膿汁が混入する。また、乳腺の炎症を抑えるために抗生物質が投与されるため、それがミルクに残存することが懸念されている。さらに、イリノイ大学のエプスタイン教授は、1996年に発表した論文で、rBGHを投与された牛のミルクを飲んだ人に、乳ガンや大腸ガンが発生しやすくなる危険があることを指摘している。

(引用終了)


なぜここまで危険と言われているのにアメリカで売り続けられるのか原因がわかりました。このホルモン剤を製造販売しているのが米国モンサント社。ロックフェラー財団の支援を受けている会社でした。これらにかかったら何でもありですもんね。故にです。


日本では禁止されているから大丈夫だね〜と安心している方、驚くなかれ!ハーゲンダッツ、ブレイヤーズ、バスキン・ロビンス(31アイスクリーム)はばっちりrBGHのミルクを使っているみたいですよ。ハーゲンダッツなんか添加物がないような売りのアイスクリームなのにとんでもない裏がありましたね。うぅ、、結構食べてたよ〜 泣


この遺伝子組換え作物を作りまくっているモサント社の作物や種子が今後TPPにより堂々日本の農業に参入し市場に出回る可能性が大きいわけですねぇ・・震!


世の中怖いことばりでございます〜 泣
http://shinhakken-blog.seesaa.net/article/414980465.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c11

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
12. 中川隆[-10720] koaQ7Jey 2019年4月09日 17:56:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1319]

危ない食品食べてませんか?


食品添加物や農薬を始めとする有害物質、食品会社による偽装事件、さらにはBSEや口蹄疫、毎日口にする食の安全性に疑問符が?

  食品の安全性を確保するには、グローバル、即ち総合的な不安解消法を身に付ける必要があります。まず、選び方で安全性を高めます。

  生産者名がはっきり記された野菜を選ぶとか、不安な食品添加物ができるだけ少ない加工食品を買うとか。次に、調理の下ごしらえでの「徐毒」  を考え、ゆでこぼし、湯むき、酢洗い等にって安全性を高めます。これでも十分ではなく様々な栄養素を摂る事で、有害物資を体の中にため込まないようにします。徐毒、解毒です。これでも不十分で、最終的には有害物質に対する免疫体質を作り、安全性を確保する必要があるのです。こうした一連の流れを「確率的安全体系」と呼びます。誰でも簡単にできる安全対策です。  


 
✲豆腐…輸入大豆には遺伝子組み換えの不安もあり!

  健康の為には、毎日食べたい豆腐。でも、果たして豆腐は安全な食品なのでしょうか?特に不安な添加物はないので大丈夫です。不安といえば、ただ1つ。

  原材料の大豆です。国産大豆使用と表示してあっても、実は原料の大豆の1部にしか国産大豆を使っていない製造業者が多いのです。では、残りは何を使っているのかというと、アメリカからの輸入大豆。そして、輸入大豆といえば、遺伝子組換え大豆の不安が出てきます。そこで、その不安をクリアする選び方。

  国産大豆100%の表示のものを探すこと。次に、良い豆腐の選び方。凝固剤「塩化マグネシュウム含有物」と表示されている物を選んで下さい。

  これは、いわゆる「にがり」です。豆腐の凝固剤には、塩化マグネシウム含有物、硫酸カルシウム、グルコノデルタラクトンの3種類があります。

  どれも安心度からすると差はないが、同じ大豆の量からできる豆腐の数が違います。塩化マグネシウム含有物を使ったものを1とすると、硫酸カルシウムでその1.3倍、グルコノデルタラクトンは約1.7倍の量の豆腐ができます。つまり、豆腐1丁の栄養分は、塩化マグネシウム含有物(にがり)で作ったものが1番多いという事なのです。

  同じ値段なら、にがりを使った物の方が栄養価が高く、得な感じがしませんか?尚、消泡剤(グリセリン脂肪酸エステル)は使わないにこしたことはないが、かといって、それほど心配はありません。では、より安心な豆腐の食べ方は。買ってきたら、すぐパックから出して、水につけます。これが安心のテクニック。凝固剤や消泡剤などが水に溶けだすし、にがり臭さもとれて美味しくなります。すぐに食べない場合は、タッパーウエア等に水を張り、移し替えて冷蔵庫にしまっておきましょう。


  ✲油揚げ・・・揚げ油の中に添加物が入っている?

  豆腐を薄く切って揚げた物が油揚げ。前の項で述べたように、材料の豆腐には、不安な添加物は使われていません。それでも気になる点が3つ。

  1つは、「丸大豆」「国産大豆」という表示の場合、豆腐と同じように、輸入大豆が使われていて、遺伝子組換え大豆かも知れない不安があります。

  2つめは、揚げ油の種類が分からないこと。遺伝子組換え食用油が使われているかもしれません。

  3つ目は、揚げ油の持ち込み添加物として(揚げ油に添加物が入っている)、酸化防止剤の「BHA」が使われているかもしれない不安です。

  さて、遺伝子組換え大豆が不安なら、「遺伝子組換え大豆は使用していません」という表示がある物、あるいは「国産大豆100%」の物を選んでください。

  揚げ油については、次にご紹介する安心の食べ方で不安解消。油揚げを使う前に熱湯をかけるか、熱湯をくぐらせて油抜きを。油分が熱湯に溶けてとれるので、揚げ油の添加物BHAがあったとしても減らせますし、遺伝子組換え食用油の不安も少なくなります。さらに、油臭さもとれて、料理の味もスッキリします。


✲納豆・・・“健康食品の王様”の最も効果的な食べ方とは?

  「納豆は大豆と納豆菌で作る無添加食品。全く安心!」と太鼓判を押したいところですが、もしかしたら、おおもとの材料の大豆に遺伝子組換え食品を使っているかもしれないという心配があります。パッケージに「国産大豆100%」と表示してある物を選べば安心。この表示以外の納豆には輸入大豆が使われていることが多く、遺伝子組換え大豆の不安はぬぐえません。「極小」「超極小」とうたった物、「炭火発酵」「本格熟成」と、作り方を特徴ずけたもの、更に「有機栽培無農薬」として OCIA(アメリカのオーガニック認定団体)のマークがついたものが出回っているが、栄養価や味、品質に変わりはありません。ところで、「輸入大豆だと、 ポストハーベスト農薬が不安」という声も聞かれますが、あまり心配する必要はありません。納豆は製造過程で水に浸すので、農薬などの不安物質が残っていても、水に溶けだしてしまいます。さらに、大豆に含まれている食物繊維が、有害物質を体の外に出してくれるのです。さて、納豆を食べる時は、できるだけ「ねばり」を出して食べることをお勧めします。ねばりが納豆菌の活動を活発にし、O-157等の食中毒菌に対する力を高めてくれるからです。また、粘りの中に含まれる「ナットウキナーゼ」は血栓を溶かす作用もあります。納豆を長く置くと、チロシンというアミノ酸の結晶ができてジャリジャリしますが、心配はいりません。

  それでも、製造されてから5日目をめどに食べましょう。その方が美味しくいただけます。


✲納豆・・・“健康食品の王様”の最も効果的な食べ方とは?

  「納豆は大豆と納豆菌で作る無添加食品。全く安心!」と太鼓判を押したいところですが、もしかしたら、おおもとの材料の大豆に遺伝子組換え食品を使っているかもしれないという心配があります。パッケージに「国産大豆100%」と表示してある物を選べば安心。この表示以外の納豆には輸入大豆が使われていることが多く、遺伝子組換え大豆の不安はぬぐえません。「極小」「超極小」とうたった物、「炭火発酵」「本格熟成」と、作り方を特徴ずけたもの、更に「有機栽培無農薬」として OCIA(アメリカのオーガニック認定団体)のマークがついたものが出回っているが、栄養価や味、品質に変わりはありません。ところで、「輸入大豆だと、 ポストハーベスト農薬が不安」という声も聞かれますが、あまり心配する必要はありません。納豆は製造過程で水に浸すので、農薬などの不安物質が残っていても、水に溶けだしてしまいます。さらに、大豆に含まれている食物繊維が、有害物質を体の外に出してくれるのです。さて、納豆を食べる時は、できるだけ「ねばり」を出して食べることをお勧めします。ねばりが納豆菌の活動を活発にし、O-157等の食中毒菌に対する力を高めてくれるからです。また、粘りの中に含まれる「ナットウキナーゼ」は血栓を溶かす作用もあります。納豆を長く置くと、チロシンというアミノ酸の結晶ができてジャリジャリしますが、心配はいりません。

  それでも、製造されてから5日目をめどに食べましょう。その方が美味しくいただけます。


  ✲冷凍食品・・・“食中毒を起こす細菌”も一緒に冷凍保存されている?

  売れ行き好調の冷凍食品。なかでも人気があるのが、お弁当に重宝するコロッケ、ハンバーグ、カツ等です。冷凍食品は急速冷凍するので、すっかり安心かというと、そうでもなく案外、添加物が多いのです。例えば「ウインナーポテトフライ」という冷凍食品があります。原材料名の表示を見ると、添加物のうち、避けたい物は「亞硝酸塩」「リン酸塩」。なるべく避けたいのは「エリソルビン酸Na」「増粘多糖類」。当然、たくさん添加物が入っている調理品は避けます。

  添加物以外で不安なのは、輸入ものかもしれない「ばれいしょ」と「揚げ油」 。もし輸入ものだった場合、遺伝子組換え食品の不安が出てくるからです。 

  ところで、「このまま電子レンジで温めて食べられます」と買いてある冷凍食品が出回っています。この場合、環境ホルモンが溶け出さない容器を使っていればよいが、実態ははなはだ疑問です。陶磁器の皿か、ポリプロピレン製の電子レンジ用容器に移して加熱するのがいいでしょう。

  「フライもの」で気をつけたいこと、必ず2度揚げします。冷凍しているからと言って、菌は死滅しているわけではありません。生きたまま活動を停止して冷凍され、冬眠しているとも考えられます。食中毒の細菌が付いていれば、冷凍されても生き残ることになります。調理で十分に加熱されれば殺菌できるのだが、冷凍のまま加熱する為、中心部分の温度が上がりにくいことに注意しましょう。冷凍のカニクリームコロッケを170℃の油で5分間揚げても、中心温度は最高で51℃までしか

  上がらなかった。万が一菌が入っていたら、むしろ増殖するのに絶好の条件になってしまいます。このまま弁当に入れたら大変です。そこで、しばらく間をおいて二度揚げしたら、中心温度は89℃以上に上がったため、殺菌は完壁になりました。オーブントースターで加熱するタイプのものも、きちんと中までアツアツにするのが安心のコツで、焦げるようならアルミホイルをかぶせて加熱するようにしましょう。
http://www.long-life.net/new_page_800.htm
http://www.long-life.net/new_page_801.htm
http://www.long-life.net/new_page_802.htm
http://www.long-life.net/new_page_803.htm


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c12

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
13. 中川隆[-10719] koaQ7Jey 2019年4月09日 17:58:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1320]

✤主食類の安全な食べ方


  ❈シリアル・・・オーツ麦主体の物が安全!

  コーンフレークなどのシリアル食品。忙しい朝のメニューとしてすっかり定着しました。これからは、子供向けだけでなく、1人暮らしのお年寄りの食事としても注目されることでしょう。幸い、不安な添加物はありません。ところが、ここにきて遺伝子組換え食品の不安が出てきました。食品表示にたまに登場する「コーングリップ」。

  これはトウモロコシの粉の1種であるがゆえに、材料となるトウモロコシが遺伝子組換えの食品かも知れないという不安があるのです。

  安心なシリアル食品は、オーツ麦主体のもの。このタイプのシリアル食品を選ぶのが安心です。さて、シリアル食品の欠点は、カルシウムや蛋白質が不足しがちなこと。

  だから、牛乳をたっぷりかけて食べると、おいしいだけでなく、栄養のバランスの為に良いのです。オムレツや果物をつけ合わせれば言うことなし。

  朝がシリアル食品なら、夕食は手をかけて、様々な食材をバランス良く摂る気配りすることが、安心と健康のポイントです。
http://www.long-life.net/new_page_808.htm
http://www.long-life.net/new_page_809.htm
http://www.long-life.net/new_page_810.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c13

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
14. 中川隆[-10718] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:01:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1321]

✤調味料の安全な食べ方

  ✲味噌・・・出し入り味噌は、塩分がかなり高い物も!

  味噌は日本人の食生活に欠かせない伝統的な食品です。以前は漂白剤の「亜硫酸塩」などを使ったものもあったが、今は添加物の不安はありません。

  選ぶ時に大切なのは、パッケージの表示の見抜き方です。「国産大豆使用」とあっても、実際は輸入大豆も合わせて使っている場合が殆どです。

  残留農薬などは製造過程で殆ど取り除かれるが、遺伝子組換え大豆かもしれない不安が残ります。そこで、「国産大豆100%」のものを選べば大丈夫です。

  「純正」という表示をよく見かけるが、これは、保存料や漂白剤を使っていないという意味です。しかし、今の味噌は添加物を使わないのが殆どで、もともと、どの味噌も純正と言えるのです。 「無添加」の表示は、添加物はもちろん、発酵を止める酒精(アルコール)も使っていないもの。「生味噌」は、酒精を添加せず、加熱もせず、酵母を生きた状態でパックしたもの。価格の割には味にそれほど差はりません。「天然醸造」は自然の気温で1年くらいかけて発酵させたものです。

  しかし、実際は3ヵ月位の速醸の味噌が殆どで、本物の天然醸造がどれだけあるかは疑問です。アミノ酸などの調味料を加えた「出し入り味噌」は、かなり塩分が高いものを見かけます。栄養成分を見て、食塩が100g当たり12%未満のものを選ぶとよいでしょう。味噌汁が、日本人の塩分摂り過ぎの原因のように言われたこともあるが、今は、辛口味噌でも12〜13%ぐらいで、かなり塩分を抑えています。気になる人は、成分表示を確かめて、10%前後の物を選びましょう。

  「薄塩」「減塩」と表示されていても、基準とする数字があいまいなので、当てにはなりません。味噌汁は薄味を心がけることが第1です。具には、塩分の害を減らす働きがあるカリウムやヨードを含む、わかめ、とろろ昆布、さつま芋、ジャガ芋などを積極的に使いましょう。1日に1度も味噌汁を飲まない人の60%が偏った食事をしているそうで、味噌汁を飲む回数が増えるに従って、料理の品数と使う材料の種類が増え、食事評価も高くなる傾向があるそうです。

_______


❈即席味噌・・・即席の発泡スチロールカップは、環境ホルモンが溶け出る不安が!

  お湯を入れてかき混ぜるだけの即席味噌汁。簡単に味噌汁の豊かな味わいが楽しめるとあって、結構売れているようです。食品添加物は「調味料(アミノ酸等)」と「酒精(アルコール)」ぐらいで、不安点はありません。心配といえば、塩分が濃いめな事。そこで、栄養成分の表示が付いていて、塩分が10%以下と分かる物を選ぶのがポイントです。カップ入り味噌汁の場合は、紙カップを選ぶことです。発砲スチロールの場合、熱湯を注いだ時に、環境ホルモンが溶け出す不安があるので要注意。

  また、塩分の害を減らすカリウムを多く含む具の味噌汁を選べば安心、例えば、わかめ、ホウレン草、納豆、油揚げなどを使ったものを。尤も、これらの具が入っていても使っている量が少ないので 、さらにわかめを加えることをお勧めします。また、カリウムの多い具がもともと入っていない即席みそ汁には、必ずわかめや油揚げ、ゆば、干しシイタケなどを加えるようにしましょう。

  ❈ドレッシング・・・「ノンオイル」=”カロリー0”ではありません。

  洋風、和風、中華風とドレッシングの種類も増えました。また、ノンオイルの「ドレッシングタイプ調味料」も出回っています。では、一般の「分離液状ドレッシング」の添加物は、やや不安のある「甘味料(甘草、ステピア)」が使われたり、食用植物油脂には、遺伝子組み換えの心配がある大豆油、菜種湯、コーン油が原材料として使われていたりします。「ドレッシングタイプ調味料」の場合は「増粘多糖類」の中に発癌性の不安がある「カラギーナン」が使われていることがあります。

  唯、ノンオイルなので、食物性油脂は使っていません。ということで、どちらも全く安心というわけではりませんが、遺伝子組換え食品の不安から見れば、 「ドレッシングタイプ調味料」のほうが安心ということに。さて、一口にノンオイルと言っても、食品によって意味が少し違ってきます。缶詰めなどで「ノンオイル」「無脂肪」と表示するには、100g当たりの脂肪が0.5g以下でなければなりません。ところが、ドレッシングの場合は当面、100g中3g以下で良いとされています。

  油脂の使用は極力抑えてはいるが脂質が0というわけではないのです。ダイエットや健康管理の為にカロリー計算をしている人は、カロリー表示をよく確認してください。

__________


  ❈マヨネーズ・・・摂り過ぎは太るもと!

  世の中には、マヨネーズの熱烈なファンがいて、チャーハンを作るときにサラダ油の代わりにマヨネーズを使ったり、納豆にマヨネーズを入れたりと、意外な組み合わせを楽しんでいるようです。今やマヨネーズは食生活に欠かせない調味料。ですが、果たしてマヨネーズは安心な食品なのでしょうか?マヨネーズは、植物油と酢を卵黄と一緒に混ぜて乳化状にしたもの。添加物はアミノ酸系調味料ぐらいで、それほど大きな不安はありません。不安といえば、使っている食用植物油脂が遺伝子組換え油脂(大豆、菜種、コーン、綿実)かもしれない点。ベに花油を使っている物は、その心配はありません。近頃では、ノンオイル類や、「卵をいれて混ぜるだけ」というキャッチフレーズの半固体状ドレッシングのマヨネーズタイプも出回っています。しかし、このタイプは、増粘多糖類などの添加物が使われている不安もあります。

  さて、安心な食べ方ですが、マヨネーズの脂肪分が気になる人には、キウイやブロッコリーを刻んで混ぜることをお勧めします。キウイやブロッコリーは体内で油の分解を早めてくれます。また、マヨネーズタイプの添加物が心配な人は、青海苔を混ぜ込めば良いでしょう。青海苔には乳化剤などの添加物を無毒化する効果があるのです。
http://www.long-life.net/new_page_804.htm
http://www.long-life.net/new_page_805.htm
http://www.long-life.net/new_page_806.htm
http://www.long-life.net/new_page_807.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c14

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
15. 中川隆[-10717] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:03:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1322]

✤飲み物の安全な摂り方

❈ビール・・・原料がコーンの場合、遺伝子組み換えの可能性も

  湯上りの一杯のビールで1日の疲れがとれる、という方もいるでしょう。そこで、ビールの安全性を分析してみると、ビールの原材料名を見るポイントは、コーンとスターチです。

  コーンは胚芽を除いて砕いたトウモロコシのコーングリッツ。スターチはコーンスターチです。どちらも原料となるコーンは、殆どアメリカからの輸入品です。

  ということは、コーンが遺伝子組み換え作物という不安があります。副原料に遺伝子組み換え作物を使っていても、遺伝子組換え食品と表示の義務はありません。

  その点、原材料が麦芽、ホップのみなら、遺伝子組み換えの不安はありません。ぐっと一杯。ひいきの味はあるでしょうが、できれば後者のタイプを選びましょう。

__________

  ❈日本酒・・・醸造用アルコールを使用していないものを選ぶのが妥当

  酒には不安な添加物は使われていませんが、ここにきて、1つの不安が持ち上りました。それは醸造用アルコールを作る糖液の原料にコーン、ジャガイモが関係している場合、遺伝子組換え作物を使っている不安があるというのです。つまり、ジャガイモやコーンから作られた醸造用アルコールは、遺伝子組換えアルコールの不安を抱えているということ。そうした不安がないもの、醸造用アルコールを使わない酒、これが純米酒です。酒を飲むなら純米酒の方が安心。

  純米酒にもいろいろの種類があるが、選ぶのはお好みで。尚、「生酒」は、酒ができてから瓶詰めまで、一切加熱処理をしない酒のこと。「原酒」は、水を加えてアルコール分を調整していない物。「生一本」は、単一工場のみで作られた純米酒を指します。酒の注意点。要するに、飲み過ぎないこと。飲み過ぎは、肝臓での活性酸素の発生を促します。因みに、活性酸素は、発癌性があり、老化の原因物質だと言われています。くれぐれもご用心。
http://www.long-life.net/new_page_813.htm
http://www.long-life.net/new_page_814.htm
http://www.long-life.net/new_page_815.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c15

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
16. 中川隆[-10716] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:04:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1323]

✤菓子類の安全な食べ方


  ❈ポテトチップ・・・輸入ジャガイモが原料の場合、ポストハーベスト農薬などの不安ありじっと目をこらして原材料名の表示を確かめなくても、案外簡単に良い物が選べるのがポテトチップ。それだけ、品質に違いがあるということ。では選び方のコツを。

  @オーソドックスな味付けのものを選びます。塩味やのり塩といった定番のものは、添加物も少ないのです。最近では、コンソメ、梅、チリソース、バーべキューなど、様々な種類のポテトチップが出ています。でも、こった味付けになるほど、調味料、香料、甘味料なども多くなりがち、質の良くない植物油を使っている場合も。

  A国内産ジャガイモ100%のポテトチップを選びます。ポテトチップの原料は輸入ジャガイモということが多く、ポストハーベスト農薬や、遺伝子組換えジャガイモの不安があります。できれば避けたいところです。さて、安心な食べ方ですが、いったん袋を開けたら、一気に全部食べてしまうのはいけません。ポテトチップは他のスナック菓子に比べて、それ程塩分が多いわけではありませんが、問題は、ついたくさん食べ過ぎてしまうこと。結局、塩分を摂り過ぎてしまうことに。

  脂肪分にも注意。植物油の中でも、動物性脂肪と同じ性質を持つパーム油やヤシ油を使ったものが多いのです。食べ過ぎはコレステロールを増やします。

  また、賞味期限が切れた物は食べないこと。油が酸化しやすい為です。
http://www.long-life.net/new_page_811.htm
http://www.long-life.net/new_page_812.htm


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c16

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
17. 中川隆[-10715] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:09:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1324]

>>14 ✤調味料の安全な食べ方

に追記


  ❈醤油・・・「本醸造」「天然醸造」「丸大豆醤油」・・・、違いが分かります?

  以前は添加物が多く使われていた醤油ですが、現在はカビを防ぐ酒精(アルコール)が添加されているくらいです。だから、あまり不安はありません。

  それより、ラベルの表示の意味を知っておくことが大切です。「本醸造」→醤油の8割はこれ。大豆に小麦、塩を加えて作ります。「天然醸造」→本醸造の中でも、高温にならないように管理して醸造したもの。中身は本醸造とそれほど変わりはありません。「丸大豆醤油」→丸ごとの大豆を使うので、深い旨味が出ると言われていますが、それほど味に差は感じられません。普通の醤油は、丸大豆から食用油を搾りとった後の脱脂大豆を使います。この場合、原材料名は「脱脂加工大豆」となっています。

  大豆で心配なのは、輸入大豆(脱脂加工大豆も含む)の遺伝子組み換えの不安です。この不安を除くには、「国産大豆100%」か「有機栽培(米有機農産物基準)丸大豆」の表示があるものを選びます。「減塩醤油」→醤油は普通、塩分が16〜18%位。これを半分の9%ほどに控えたのが減塩醤油です。買うときは、栄養表示の数字が 9%程度になっているか確かめること。塩分11〜14%のものは「うす塩」「あさ塩」「あま塩」と呼ばれています。尚、「うす口醤油」は、減塩と違います。

  色を薄くした醤油で、塩分はむしろ19〜20%と多めなので注意を。さて、今の醤油は、以前に比べて旨味成分が増え、味にコクが出てきました。しかし、コクがあり過ぎて塩味が分からなくなり、醤油を入れ過ぎる不安も。安心な食べ方は、醤油を使い過ぎないこと、これにつきます。 


❈酢…価格の差ほど、うま味成分や品質に差はなし!

  酢には、優れた殺菌・防腐の効果があります。また、汚染物質を引き出したり、発癌性を抑える効果もあると言われます。ビタミンCを壊す酵素を抑える働きもあります。

  このように、酢は食品の安全を守る性質があるのですが、種類はいろいろ。「米酢」は、米だけで作られていると思うかも知れませんが、原材料は米と醸造用アルコール。

  米だけというのは、「純米酢」というラベル表示のあるものだけです。「穀物酢」は、米、小麦、コーン、醸造用アルコールで作くられています。原材料のコーンには遺伝子組み換えの心配もあります。「黒酢」の色は、アミノ酸が褐変したもの。長い醸造期間中に、次第にこの褐変が起こる為、品質の良い高級品という  イメージがあります。しかし、価格の差ほど、旨み成分や品質に差はありません。かって、酢の品質をテストしてみたことがあります。たくさんの製品を分析して、アミノ酸(天然の旨み成分)の数を知らべたのです。旨味成分の多い「上」のランクに入った物が半数以上。ところが価格のほうはどうかというと、100〜1800円と 開きが大きい。「中」のランクの酢は3割。価格は100円未満〜500円台のものばかりで、100円台が大半。「下」はやはり100円未満〜500円台。

  300円台のものが多かったのは意外でした。こうなると、高い物が質が良いとは限りません。どれを選ぶかはお好み次第。尚、酢は添加物の不安はありません。


_______


  ❈ドレッシング・・・「ノンオイル」=”カロリー0”ではありません。

  洋風、和風、中華風とドレッシングの種類も増えました。また、ノンオイルの「ドレッシングタイプ調味料」も出回っています。では、一般の「分離液状ドレッシング」の添加物は、やや不安のある「甘味料(甘草、ステピア)」が使われたり、食用植物油脂には、遺伝子組み換えの心配がある大豆油、菜種湯、コーン油が原材料として使われていたりします。「ドレッシングタイプ調味料」の場合は「増粘多糖類」の中に発癌性の不安がある「カラギーナン」が使われていることがあります。

  唯、ノンオイルなので、食物性油脂は使っていません。ということで、どちらも全く安心というわけではりませんが、遺伝子組換え食品の不安から見れば、 「ドレッシングタイプ調味料」のほうが安心ということに。さて、一口にノンオイルと言っても、食品によって意味が少し違ってきます。缶詰めなどで「ノンオイル」「無脂肪」と表示するには、100g当たりの脂肪が0.5g以下でなければなりません。ところが、ドレッシングの場合は当面、100g中3g以下で良いとされています。

  油脂の使用は極力抑えてはいるが脂質が0というわけではないのです。ダイエットや健康管理の為にカロリー計算をしている人は、カロリー表示をよく確認してください


  ❈食用植物油・・・リノール酸の物には問題が山積!

  食用植物油で不安なのは、原材料が遺伝子組み換え食品かもしれないということ。大豆、菜種、コーン、綿実の油だと、遺伝子組み換えの不安があります。

  オリーブ油、ベに花油、米ぬか油、ゴマ油なら不安はありません。不安のもう1点。これまで安全な植物油の代名詞としてもてはやされてきた「リノール酸」に、疑問が出てきた事。

  @リノール酸は、悪玉コレステロールの値を下げるだけでなく、善玉コレステロールも下げてしまう。 A血栓や脳卒中などを起こしやすい

  B酸化しやすく、発癌性があり、老化の原因物質とも言われる活性酸素を発生させかねない。このように、いろいろ不安点が指摘されるようになりました。

  因みに、リノール酸は、ベに花油や大豆油、綿実油、コーン油等にたくさん含まれています。代わって脚光を浴びているのが「オレイン酸」です。

  オリーブ油にとても多い成分です。料理にオリーブ油を使う地中海沿岸地方の人には動脈硬化が少ない。イタリア料理等は、どれもこれも脂肪たっぷりなのに・・・。

  その秘密がオレイン酸にあるらしいことが分かってきました。しかも、何度使っても酸化しないのです。「α-リノレイン酸」も注目されています。脳の働きに関係するDHA、脳梗塞や心筋梗塞などを予防するEPAを作る働きがあるというのです。ところが、オレイン酸も、研究が進むにつれ、やはり健康への害が指摘されてきました。

  何事もバランスが大事ということです。そこで登場してきたのが「機能性植物油」。ヘルシーなイメージが強い植物油、リノール酸、オレイン酸、α-リノレイン酸に、厚生省の指針に基ずく割合で脂肪酸を配合した植物油です。また、「体に脂肪がつきにくい」植物油が、厚生労働省の特定保健用食品の指定を受け、肥満や 生活習慣病の予防に役立つとして売り出されました。この他、「臭いが付きにくい油」「台所の汚れが1/6になる油」等、使い易さを売り物にした植物油も出回っています。

  しかし、これらの原材料の殆どが、大豆、菜種、コーンなので、国内産100%とうたっているもの以外は遺伝子組み換えの不安が残ります。

  食用植物油を生で使うなら、熱に弱いリノール酸含有率の高い油でも構わないが、揚げたり、炒めたりして使うなら、オレイン酸含有率が高い「オリーブ油」「新ベに花油(オレイン酸を高くした油)」「米ぬか油」「菜種油」などが良いでしょう。また、「ゴマ油」もセサミノールという成分が熱による酸化を防ぐので、揚げ油に適しています。
http://www.long-life.net/new_page_804.htm
http://www.long-life.net/new_page_805.htm
http://www.long-life.net/new_page_806.htm
http://www.long-life.net/new_page_807.htm


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c17

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
18. 中川隆[-10714] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:12:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1325]

>>11 遺伝子組換え牛成長ホルモン
に追記


牛成長ホルモンの中で唯一、遺伝子組み替えによって製造されたものがあります。モンサント社が開発した「rBST」(recombinant bovine matotoropin)、商品名を「ポジラック」といいます。牛が乳を分泌するときに出す成長ホルモンから分離した遺伝子を大腸菌に注入し、培養して製造します。これを牛に投与すると乳腺細胞が活性化するとともに、代謝全体が急激に高まり、牛乳の生産量を増加させます。

「遺伝子組み替え牛成長ホルモン」は、「乳牛の生産効率を高め、酪農家の収入を増やせる」とモンサント社は酪農家を煽ります。

確かに「ポジラック」を乳牛に注射すると、毎日出す乳の量が15〜25%増える上に、乳を出す期間も平均30日ほど長くなるといいます。アメリカではどの程度の乳牛に使用されているのかについて米農務省(USDA)によると2002年段階で、投与されている乳牛は全体の32%にあたるといいます。(22%、あるいは30%という説もあります)

しかし月2回の注射という作業に加え、1回当たり5.25ドルというコストがかかるため、小規模農家より数百頭〜数千頭の大規模農家の方がこの「ポジラック」を使用する傾向にあります。

結局アメリカでも牛乳はより一層、供給過剰になり、多くの家族経営の酪農家を廃業に追い込みます。遺伝子組み換え作物と同様、ここでもモンサント社の夢の技術を享受できるのは、大規模な企業経営だけです。


◆乳ガン、前立腺ガンを増加させ、抗生物質の投与も増やす!


遺伝子組み換え牛成長ホルモン「rBST」の投与は、インシュリン様成長因子(IGF-1)という成長ホルモンを増加させます。IGF-1は、人間の血液中にも存在している成長ホルモンと組成はまったく同じですが、細胞分裂を引き起こすもっとも強力な成長ホルモンの一つであり、高濃度で摂取すると様々な悪影響があるといわれます。

そして「rBST」を投与された牛の牛乳中のIGF-1は簡単に人間の血液に侵入します。IGF-1は低温殺菌では破壊されない上に、本来なら人間の胃のなかで分解されてしまうのですが、牛乳の中のガゼインというタンパク質がこの分解作用を妨げることによって、胃腸管の中でも生き延び完全なまま吸収されるといいます。

欧州委員会によって設置された科学委員会は、遺伝子組み替え牛成長ホルモンを注射された牛の乳には、IGF-1が高濃度に含まれていることをつきとめました。委員会の報告書はIGF-1の摂取と乳ガンおよび前立腺ガン発生の関係は、疫学的に立証できるとした上で、IGF-1の過剰摂取はガン細胞の細胞死誘発機能を抑制し、ガンの発生と進行を促進する、と警告しています。EUは「rBST」を投与した乳製品・肉の輸入も禁止しています。

カナダも1999年にそれまで10年間続いていた「rBST」の禁止を続行することを発表しました。カナダ保健省が出した報告書によると、「rBST」によって牛の不妊症、四肢の運動障害が増加すると報告しています。

もう一つ問題なのは「rBST」を投与した牛は乳腺炎にかかる率が最大25%も増加したということです。それによって牛の体細胞(膿汁)が牛乳に混じる確率も高くなり、また乳腺の炎症を抑えるために抗生物質が常時投与されてそれが牛乳に残存する可能性も増加することになります。


EUは「rBST」を投与した乳製品・肉の輸入も禁止しています。

これまで「遺伝子組み替え牛成長ホルモン」を認可したのは、ブラジル、南アフリカ、パキスタン、メキシコ、東ヨーロッパなど規制の緩やかな国々です。それに対して、EU15カ国を始めとして、オーストラリア、ニュージーランド、ノルウェーも認可していません。

日本国内におけるrBSTの使用を認可していませんが、それ以上の規制がありません。食品添加物の場合は、規制値が設定されているもの以外は流通禁止の規則があります。ところが家畜のホルモン剤については2種類(ゼラノール、トレボロンアセテート)だけ残留基準値が設定されていますが、逆にそれ以外は原則として流通が自由なのです。

規制値のないホルモン剤と「rBST」が投与された乳製品や牛肉はフリーパスで日本に輸入されています。しかし、残留はあるのか、どの程度の量なのか、その実態はまったく分からないのです。
http://asyura2.com/0601/gm12/msg/391.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c18

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
19. 中川隆[-10713] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:14:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1326]

安全に見えるけど添加物を使った危険な食品まとめ
http://macrobiotic-daisuki.jp/no-safe-tenkabutsu-1510.html

2.無理矢理作らされている卵

大量生産されるために以下のような改良がほどこされています。


エサは安くする為に遺伝子組み換え作物の入った配合飼料を与える
ほぼ毎日卵を産むように組み替えている
ムヤミな突き合いを避けるために遮光する
ムヤミな突き合いを避けるためにクチバシを切る
エサを競争で食べさせるために2羽を1つのケージに入れる
一坪に70羽以上を詰め込む



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c19

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
20. 中川隆[-10712] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:17:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1327]

ガンを引き起こす食べ物トップ10  
http://ameblo.jp/mother-teresa/entry-11609009717.html


もっとも不健康で、発がん性のある食べ物は・・・
http://ameblo.jp/mother-teresa/image-11609009717-12676192772.html


★第一位 遺伝子組み換え作物


遺伝子組み換え作物がいっぱい♪
http://www.youtube.com/watch?v=LOuWa6_-Kw0


特に遺伝子組換作物とそれを育てるための化学薬品がガンを加速的に成長させることが証明された今、遺伝子組換作物に「発がん作用がない」などと自信を持って言う人はいるまい。しかし、遺伝子組換作物はすでに、我々の生活の中に入ってきている。トウモロコシ、大豆、そして菜種油などから作られた食品などだ。遺伝子組換作物を摂取しないためには、有機栽培された作物を選び、遺伝子組換でないことが証明されている食べ物を選ぶようにすること。また、地域で生産されたバイオテクノロジーが関与していないものを選ぶこと。


★第二位 加工肉


ベーコンやハム好きは早死にする!? 加工肉が体に与える悪影響とは
http://www.youtube.com/watch?v=ZOcAZtdNFy8


ほとんどの加工肉、ベーコン、ソーセージ、ホットドッグ等は科学薬品で作られた防腐剤を含んでいる。そして防腐剤を施された肉は、見た目は新鮮そうでおいしそうだが、発ガンのリスクのおまけがついてくる。亜硫酸ナトリウムと硝酸ナトリウムは、直腸ガンをはじめ色々な種類のガンになる確率を著しく上昇させる。硝酸で保存処理が施されていないもので、出来れば草を食べて育った動物の肉を選ぶこと。


★第三位 電子レンジで作るポップコーン
(コーン自体が遺伝子組み換えが多いのも問題)

電子レンジの電磁波影響について
http://www.youtube.com/watch?v=RQ79MjCDdTk


レンジで簡単にできるポップコーンは便利な食べ物だ。しかし、パッケージは科学薬品の塊だ。不妊を引き起こすだけでなく、肝臓ガン、睾丸ガン、すい臓ガンになる可能性がある。アメリカ合衆国環境保護庁はペルフルオロオク酸がポップコーンのパッケージに含まれていて、発ガンの可能性があることを認めている。またいくつかの研究によると腫瘍の出現にも関与しているとの報告がある。ポップコーン自体に使われいる、ジアセチルという科学薬品は肺にダメージを与え、肺ガンを引き起こす。


★第四位 コーラやソーダ等の炭酸飲料


遺伝子組み換え使用ワースト1 明治HD おやつの「カール」など
http://www.youtube.com/watch?v=eSK67A_ehLM


加工肉と同じように、炭酸飲料には発ガン作用があることが認められている。大量の砂糖、科学薬品、着色料が含まれている上、炭酸飲料は体を酸性にする。これは文字通り「ガン細胞に餌を与えている」ことに他ならない。一般的な炭酸飲料に使われているカラメル色素のような科学物質やその派生物質である4メチルイミダゾールはまた発ガン作用がある。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c20

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
21. 中川隆[-10711] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:19:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1328]

マジ怖っ!! 【遺伝子組み換え商品】のワーストランキング!!

遺伝子組み換え食品というと、国産の「遺伝子組み換えではありません」納豆を食べてい­るから大丈夫などと、ねぼけたことを言っている人がいるかもしれない。

そういうレベル­の話ではない。

菓子、調味料、植物油と、スーパーで売っている加工食品には、遺伝子組­み換えだらけだ。

家畜のエサを考えれば、肉、卵、牛乳も該当する。

大豆、トウモロコシ­、菜種が、どこでどのように生産されているかは、少し調べればわかるだろう。


遺伝子組み換え食品を使っている日本の食品メーカー一覧
http://amba.to/1orOu94


遺伝子組換え食品 |厚生労働省
http://bit.ly/1vc96vz


あなたは遺伝子組み換え食品をすでに食べている。
子供はもっと食べている。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c21

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
22. 中川隆[-10710] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:23:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1329]

「TPP恥ずかしくないのか!党としてウソをつく」_ 遺伝子組換えを日本人が一番食べてる。
西尾正道 参考人12/2参院・TPP特別委員会
https://www.youtube.com/watch?v=wNPaytFjTUI

この40年間、ホルモン依存性のガン、女性は、僕医者になった頃、乳ガン15000人でした。今90000人です。

前立腺ガンも殆どいなかったけど、今90000人で、男性の罹患者数のトップになりました。

卵巣ガンもどんどん増えてる。子宮体ガンも増えてる。

ホルモン依存性のガンが5倍になってるんですよ。

この40年間でアメリカの牛肉消費量は5倍になりました。正にエストロゼン(女性ホルモン)入のエサを与えて1割生産性を高めて、そういう肉を食べている日本人もアメリカ人も5倍になってるんです。ホルモン依存性のガンが。

それから耐性菌もそうですね。豚や鶏には抗生物質入りのエサを与えて生産を高めてる。そのため、人間が肺炎になっても薬がなかなか効かないという問題もございます。

それから残留農薬が世界一緩和されてる。とんでもない話だ。

今一番使われてるネオニコチノイド系の農薬が自閉症の原因であることが突止められてます。WHOでは発ガンにも関係しているとBランクにランキングされました。それから認知症にも関係している。鬱病にも関係しているという報告がどんどん出てきている。

このままいけばアメリカの子ども達が、二人に一人が自閉症になるよという論文が、ハーバード大学から去年出ました。本当に、こういう事が深刻なんですね。


遺伝子組換えを日本人が一番食べてる。


アメリカにとって、大豆やトウモロコシは家畜のエサです。ところが日本人は納豆で大豆食べます。味噌や醤油の原材料です。一番食生活で、遺伝子組み換えの影響を受けるのは日本人の食生活なんです。

こういう事が全くチェックされないで、世界一、遺伝子組み換え食品が普及してる。
日本人の健康そのものが保てません。

ガンの患者さんが増えてるのは高齢者だけじゃないです。
食生活を含めて増えてるし、更にもっと深刻なのは、昔60以上になってガンになってたのが、今は40代はザラです。

約20年、若年化してガンになってます。

これが現実です、

僕の実感として。自分達の国で農薬を規制したり、遺伝子組み換えを表示したりする事が、TPPに入った場合に出来なくなっちゃうんです。日本の国の決まりよりもTPPの方が上位にある訳です。こういう現実を冷静に考えて頂きたい。

最近では遺伝子組み換えで、鮭も5倍位大きいものが作られてますよね。これも規制しなくていいの?ってことですよね。本当に何があるか分かりませんよ。

子宮頸がんワクチンだって、今まで不活化ワクチンか弱毒化ワクチンで作ってたんです。だから大きな問題は起きなかった。

子宮頸がんワクチンは遺伝子組み換え技術で作ってるんです。
更に効果を高める為に、アルミニウムの様なアジュバント(補助剤)を加えて作ってるから、ああいう予期しない問題が起こっちゃう訳です。

もう少し冷静に、命を重視する、お金よりも命を大事にするっていう発想に切り替えるべきだと思います。


最後に、大変深刻なのは、今、福島から出ている放射性物質、これは微粒子として浮遊してます。残念ながら。

そういうものと、農薬も含めた化学物質が人間の身体に入った場合、相乗的に発ガンするって事が動物実験で分かってます。

こういう多重複合汚染の社会になって来て、恐らく2人に1人がガンになるっていわれてますけども、多分20〜30年経ったら3人のうち2人はガンになります。

僕はとっくに死んでますから、若い議員さんは是非確かめてください。
この場で西尾が嘘を言ったかどうか確かめて欲しい。

本当にガンがどんどん増える社会になります。自分たちの国でキチッと法律で、ある程度規制出来る様な体制を作る為には、決してTPPに加入すべきではないと私は思っております。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c22

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
23. 中川隆[-10709] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:38:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1330]

アメリカのトランス脂肪酸全廃はモンサント遺伝子組み換え加速の為だった


アメリカ政府はトランス脂肪酸を使用禁止にして、トランス脂肪酸より更に有害なパーム油を使わせようとしている


米当局『トランス脂肪酸全廃』発表にモンサントの影ーどうなる日本?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=307065

アメリカでは、マーガリンやピザ、ドーナッツ、フライドポテトなどに含まれる食品添加物「トランス脂肪酸」を2018年までに全廃すると発表がありました。
それによって日本では、なぜ日本は放置したままなんだ!という批判が起こっいます。

WHOがわざわざ使用制限量の国際基準(1日の総摂取カロリー量の1%未満)を作っても、アメリカ食品医薬品局(FDA)は 安全な基準値はない と一蹴。全廃に踏み切りました。

一方で日本ではWHOの国際基準よりも下回る1%以下の平均値なので問題なしと規制には踏み込みません。

普通でみると「アメリカは国民のために良くやった!それに比べ日本は…(怒)!」と言いたくなるところですが、いやいや、アメリカのこの断行規制にはとんでもない米政府の思惑があったのです。

■驚きの事実−トランス脂肪酸全廃はモンサント遺伝子組み換え加速のため


alliance for natural health の記事
http://www.anh-usa.org/trans-fat-ban-not-what-it-appears/


によると、このタイミングでFDAが全廃規制に踏み切ったのは、3つの重大なポイントがあると指摘しています。

1. この発表は既に大手フード会社がトランス脂肪酸排除を完了した後で満を持したタイミングである。

2. 100歳になる科学者で、2013年にトランス脂肪酸の禁止を求めてFDAを相手取って訴訟を起こしたイリノイ大学のフレッド・カマロー教授の裁判がFDAの敗訴濃厚になっていた。

(詳しい記事はリンク)
http://gigazine.net/news/20150618-trans-fat-scientist/


3. 最大のミソといえる点。モンサントによる遺伝子組み換え大豆の新種が開発され、トランス脂肪酸なしの大豆油を一気に販売できるようになった。

この3つをまとめると、FDAは規制による大企業の経済的損失が起こらないため大企業の使用中止を待ってたのち発表。それにより訴訟問題も煙に巻くことができ、かつ米政府が推進するモンサント遺伝子組み換えの拡販体制のお膳立てができたという完璧なシナリオになった訳です。

特に国は健康よりもお金の損失にならないことを優先しますので、モンサントへのビジネス加担による経済効果政策を優先したことになります。あまりにも出来すぎてると思いがちですが、いやいや確信できそうなことが起きていました。


■FDA長官の上級顧問に元モンサント重役が就任していた
2010年、オバマ大統領は 元モンサント社の弁護士、その後副社長を歴任したマイケル・テイラー氏をFDA長官の上級顧問に任命しました。

このポジションは食品の認可権限も持っています。

(詳しい記事はリンク)
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11371313099.html


では、こうした一連の流れを時系列で整理してみると、

=====
2006年: FDAはトランス脂肪酸含有表記を商品にするよう命じる

2007年〜2011年までに主要な加工食品の66%がトランス脂肪酸の使用を取りやめか減少傾向に

2009年8月:フレッド・カマロー教授により科学的に基づいた健康被害の立証と共にトランス脂肪酸使用を禁止するよう市民の申立てをFDAに提出

2010年1月FDA長官の上級顧問に元モンサントのマイケル・テイラーが指名される

2011年1月:FDAはモンサント社の遺伝子組み換え大豆Vistive Gold soybeanを安全と評価し認める。その評価基準はモンサント社の実験提出資料。

2011年12月:FDAは遺伝子組み換え大豆Vistive Gold soybeanの実質的な栽培を認める。これで規制なくどこでも栽培が可能に

2013年8月:フレッド・カマロー教授はFDAが申立てに無回答のままだった為、FDAに対し裁判を起こす

2013年11月:FDAはフレッド・カマロー教授の件には一切コメントなく、トランス脂肪酸を禁止すると公表

2015年6月:FDAは3年以内にトランス脂肪酸の全廃指示を発表
=====

ここからも分かるとおり、かなり確信犯的、用意周到にモンサント遺伝子組み換え大豆油市場への移行のためにトランス脂肪酸の全廃を発表していることが分かります。

モンサント社は遺伝子組み換え大豆からトランス脂肪酸が生成されない油を“ヘルシーオイル”としてアメリカ市場を席巻する公算だと思われます。

今後はトランス脂肪酸なしのマーガリンやパンなど“ヘルシー食品“という姿に変え世に出回ってくることが予想されます。それが世界中で反対されているモンサントの遺伝子組み換え大豆のオイルから作られたものだとしても…(怖)


■日本ではトランス脂肪酸問題をどう捉えるべきか?

アメリカのこの事実から推測すると、日本はまだ大手のメーカーがトランス脂肪酸の油やショートニングたっぷりのマーガリンや菓子パン、お菓子などを販売し続けており、経済が大きく動いています。おそらくアメリカのように用意周到に全廃をすることは出来ないのが現状でしょう。

ただ、今後のTPPによりこのトランス脂肪酸が生成されない遺伝子組み換え大豆オイルが日本にどんどん入る可能性があります。

もし今のようなトランス脂肪酸反対の日本の世論後押しがあるとメーカーが方向転換し、アメリカのように日本の食品もさらに“トランス脂肪酸ゼロ商品!”と表記して遺伝子組み換えもの(しかも大豆油は遺伝子組み換え表記義務なし)をお店に並べてくるかも知れませんね。

あなたはトランス脂肪酸の食品か遺伝子組み換えオイルの食品どちらを選びますか?
翻弄され続ける消費者に残されている道は「賢くなるしかない」ということなんでしょうね。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=307065


詳細は

認知症と糖尿病の原因はサラダ油とパーム油だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/329.html



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c23

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
24. 中川隆[-10708] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:41:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1331]

中国発・日本を壊す「猛毒食品」衝撃の実態
9/24(日) 10:00配信 現代ビジネス


 学校給食は安心・安全の食材のはず。そう信じて疑わなかったのに、健康とは程遠い「危険な食品」が使われていた――。


汚染された鶏肉、
大量の女性ホルモンが含まれている牛肉、
遺伝子組み換え米……。


中国・アメリカから入ってくる「猛毒食品」は日本人を壊そうとしている。

『怖い中国食品、不気味なアメリカ食品』
https://www.amazon.co.jp/%E6%80%96%E3%81%84%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%A3%9F%E5%93%81%E3%80%81%E4%B8%8D%E6%B0%97%E5%91%B3%E3%81%AA%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E9%A3%9F%E5%93%81-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A5%A5%E9%87%8E-%E4%BF%AE%E5%8F%B8/dp/4062937530


の著者・奥野修司氏による衝撃のルポを公開。


中国発・日本を壊す「猛毒食品」衝撃の実態


相当危険なものを食べている

 前編では、中国からは、遺伝子組み換えのうるち米、重金属や有機塩素にまみれた野菜類、抗生物質漬けの鶏肉が。アメリカからは、女性ホルモン漬けの牛肉等々が日本に輸入されている実態について書いた。

 いずれもにわかには信じがたいものだが、現実にこれらは私たちの口に入っている。それも、多数の子供たちが給食を通してこれらの危険食品を食べているのである。

 子供たちが危険な食品にさらされるということは、子供たちの未来、ひいてはこの国の未来が奪われるということだ。国の行く末にも関わる大きな問題を、この国はどう向き合おうとしているのだろうか。

 まず学校給食でも使われる加工食品だ。

 鶏肉を例に挙げよう。近年、鳥インフルエンザの発生によって、鶏肉は中国から輸入されていないと思っている人が多い。たしかに鶏肉の輸入は禁止されたが、中国から猛烈な抗議を受け、加工すれば問題ないと「鶏肉調整品」の輸入を認めたのである(ちなみに福島県産農産物は、日本が抗議しても中国は輸入禁止にしている)。

 たとえば唐揚げ、焼き鳥、フライドチキン、チキンナゲット、ミートボール、竜田揚げなどがそうだ。ほとんどがスーパーなどで冷凍食品として購入されるか、または外食産業で消費されるものである。

 鶏肉調整品のようにパック詰めされた商品は、通常の検査は最初だけで、その後はまず検査されない。ノーチェックで流通するから、相当危険な食材が使われていたとしても、そのまま私たちの口に入ることになる。

 さらに、多くの鶏肉調整品は外食産業に流れるのに、彼らには表示義務が課されていない。飲食店で注文した鶏肉調整品のメニューに国産と謳われておらず、かなり安いと感じたら中国産を疑うべきかもしれない。

 中国産の古くなったアナゴが「活きアナゴ」として売られている場合もある。

 実際に日本へ輸出している中国の企業を取材するとこう言われた。「5〜7割は死んで古くなったアナゴを混ぜている」

 「活きアナゴ」というのは、獲ってまだ新鮮なうちに活き絞めにしたもので、すぐに冷凍すれば鮮度は保持できる。「死んで古くなった」というのは水揚げしてしばらく放置されたもので、もちろん味も値段も落ちる。これを混ぜているというのである。

 当然、中国の検査官も調べたらわかるはずだが、そこはいかにも中国らしい。

 「札束を掴ませれば望み通りの報告書を書いてくれます」

 だからといって日本の検疫は調べない。なぜなら、輸入食品をチェックする検疫官が全国で400人ほどしかいないからだ。輸入食品をすべてチェックするなど無理なのである。


下請けが不衛生…

 中国産食品を輸入している企業は、我々が調査した工場を知って「うちの工場ではあんな汚い食品を使っていない」と言う。

 そうかもしれないが、かつて日本マクドナルドは、安全な食品を確保するためにHACCP(ハサップ)を導入し、中国産鶏肉も日本からわざわざ社員が行って検査をしていたのに、死んだ鶏肉を売って問題になった河南大王食品グループの鶏肉を扱っていたことがわかった。

 なぜこんなことになったのかといえば、図を見ていただければ分かる。

 この図を作成した愛知大学の高橋五郎教授によればこうだ。

 「農畜産物加工には、たとえば鶏肉なら、養鶏農家→1次加工業者(解体など)→2次加工業者(練り加工など)→3次加工業者(味付け・包装・冷凍など)の流れがあり、視察するのはたいてい3次加工業者です。1次2次が不衛生だと意味がありません」

 また中国では、発注を受けて足りなくなれば、すぐに下請け企業へ不足分を要求する。その際、下請けが不衛生かどうかなんて問わない。混ぜてしまえばわからないからだ。また日本から検査にくれば、とりあえず工場内をきれいにして迎える、つまり3次加工業者だけを見てもわからないということである。

 これはマクドナルドだけではなく、1次加工から3次加工まで、自ら全行程を生産する企業でないかぎり、常にこうしたリスクにさらされているということである。
.

日本のは検査するのになぜ

 では、加工品ではない農産物はどうか。農産物の汚染といえば、農薬を連想するように、農薬=猛毒のイメージがある。だから無農薬の食材は安全と思われているが、人為的に大量の農薬を飲めば別として、微量なら人間の代謝によって体外に排出される。

 ところが、地中にある重金属はどんどん体内に蓄積して排出されない。いったん発症したら回復の見込みがないのだ。重金属のような蓄積毒と、農薬のような一過性の毒とでは、怖さは一ケタ以上も違うのである。

 重金属に次いで怖いのがBHCやDDT、つまり有機塩素系化合物である。これも重金属と同じ蓄積毒で、ある日突然、肝障害などを発症する。

 中国では、日本の基準値と比較して水銀は244倍、鉛3524倍、ヒ素1495倍といった恐ろしいほどの重金属が土壌から検出される。有機塩素はBHCで日本の59倍という数値だ。

 この土地に農作物を植えれば、当然、根から吸収されて農作物に濃縮され、これを鶏などに食わせたらさらに濃縮される。生体濃縮である。こんな野菜や鶏肉が加工食品に混ぜられたら、私たちにはまったく見分けがつかない。

 農水省や厚労省は「適切に検査しております」というが、実際は農薬の検査をしても重金属は検査しない。「日本の土壌汚染地域で獲れた場合は検査しますが、外国産の場合は検査なしで売られます」(検疫官)というのが実態なのだ。

 農薬は食品中0.01ppm以上残留していたら販売禁止になるが、重金属に関しては、カドミウム以外は取り締まる法律がないからである。


中国は遺伝子組み換えに積極的

 EUにはRASFFという、安全でない輸入食品があればEU全土に警報を発するシステムがある。中国産米製品に未承認のGM米が混ざっていることがわかったのもRASFFからだった。

 初めて分かったのが2006年で、日本が重い腰を上げたのは翌年だった。

 RASFFでGM米が混入しているとわかったのは米粉やビーフンで、これらの原材料は、ほぼ100%中国産米である。

 問題はこのGM米が混入した米で加工した食品である。米を加工した食品には、おかき、あられ、から揚げ粉、餃子の皮などいろいろあるが、では、これらにGM米が使われているかどうか検査するかというと、まず検査しない。加工食品に使われた中国産GM米は、ノーチェックで入っていると思ったほうがいいだろう。

 前出の高橋五郎教授はこんなことを言っている。

 「中国は、食品から遺伝子組み換えを排除しているように見えますが、実は遺伝子組み換えをやめる気はなく、拡大していくつもりです。どう拡大していくかというと、工業製品に使うのです。工業製品というのは、せんべいのような加工食品です。拡大せざるをえないのは、遺伝子組み換えなしに中国の食料生産が成り立たないからです」
.

中国発・日本を壊す「猛毒食品」衝撃の実態


Photo by GettyImages


牛肉戦争になってしまう

 さらにこの国が自ら危険な食品であることに目をつぶって、輸入しやすいようにしていることもある。一例をあげればアメリカ産牛肉だ。

 最新の機器を使って検査すれば、アメリカ産牛肉から国産牛の600倍もの女性ホルモンが検出される事は明らかなのに、いまだに一昔前の計測法で検査している。この方法だとピコグラム(1兆分の1)単位のホルモンは検出できない。

 あえてこの方法をとっているのは、アメリカと事を構えたくないから。アメリカ産牛肉には日本が禁止しているホルモンも使われていて、そんなものが検出されたら、輸入禁止にせざるを得ない。

 そうなると、アメリカが対EUにしたように、牛肉戦争になるだろう。国民を犠牲にしても、そんなトラブルだけは避けたいのである。

 それ以外にも、アメリカへのお追従は恥ずかしくなるほどだ。たとえばポストハーベスト農薬の残留値だ。アメリカの乳製品を輸入するために、猛毒のアフラトキシン濃度を国際基準により20倍も甘く、EUより400倍も甘くした。

 猛毒のマラチオンも、輸入小麦は国産米の80倍もゆるい。有機リン系殺虫剤のクロルピリホスメチルも、米に対して輸入小麦が100倍ゆるい。ネオニコチノイド系農薬を50〜2000倍まで緩和したのもそうだ。いずれもアメリカの農産物を輸入しやすくするための”配慮“といってもいい。

 これも言ってみれば、食料を自給できないゆえの悲しさかもしれない。

 鈴木宜弘東大教授のこんな言葉が忘れられない。

 「何かあれば命に関わる大問題とわかっていても、目先の儲けと自分の立場の保全に進んでしまう。みんな『今だけ、金だけ、自分だけ』という発想になってしまったんです。なんで人間はこんなにアホなんですかね」

 わが子の未来を閉ざしたくなければ、親が食品を選ぶ厳しい目を持つしかないだろう。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c24

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
25. 中川隆[-10707] koaQ7Jey 2019年4月09日 18:43:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1332]

調理員たちが明かした「給食異物混入、実はこんなにヤバイ」
安心、安全とはいえなかった
奥野 修司
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52937


学校給食は安心・安全の食材のはず。そう信じて疑わなかったのに、健康とは程遠い「危険な食品」が使われていた――。

汚染された鶏肉、大量の女性ホルモンが含まれている牛肉、
遺伝子組み換え米……。

中国・アメリカから入ってくる「猛毒食品」は日本人を壊そうとしている。『怖い中国食品、不気味なアメリカ食品』の著者・奥野修司氏による衝撃のルポを公開。

米と鶏肉にご注意!

ほかにどんな食品が問題なのだろうか。中国食品では米と鶏肉だろう。

中国産米が大量に輸入されていると聞いても信じられないだろうが、年に数万トンが私たちの腹に収まっている。この中に遺伝子組み換え米(GM米)が混入しているのではないかと疑われているのだ。

GMトウモロコシはわかるが、GM米なんてホントにあるの、と思われるかもしれないが、中国の華南(淮河以南)で獲れた中国産米にはかなりの確率でGM米が混入していて、すでに中国政府もコントロールできないほど全土に広がっているのだ。

2009年頃、湖北省の大学が研究していたGM米(遺伝子組み換え米)の種もみが農民の手に渡ったのがきっかけだった。害虫がこの稲を食べれば死ぬということで、殺虫剤のいらない米としてまたたく間に広がったといわれる。

日本の食品工場があるのはたいてい華南である。ここで米を原料にした加工品を作る場合、わざわざ日本から米を輸入するはずがない。近場でとれた華南のGM米が使われるはずである。

では、GM米が混入しているかどうか、日本の検疫で検査するかといえば、ビーフンならたまに検査することはあっても、煎餅のように製品となってパッキングされたものはまず検査されることはない。


中国では鶏をより効率的に飼育するため、ウィンドレス鶏舎といって窓がない真っ暗な鶏舎で飼育する。それも坪あたり40羽の鶏舎に100羽以上の鶏を入れるから、鶏はほとんど動けない。そのうえ人間が飲めない水道水や汚染された河川の水を与えられるから、鶏は簡単に病気になる。中国で病原性大腸菌が深刻なのもこのせいなのだ。

病気で死なせないためには抗生物質を使うしかない。使えば出荷前に1週間以上の休薬期間を設けて体外に排出させるが、そんなことをしてたら鶏はどんどん死んでしまう。というわけで、中国では抗生物質が鶏の体内で残ったまま出荷されるのが普通なのである。

ここで紹介したのは危険食品のごく一部だ。後編では日本が危険であるとわかっていながらも、輸入を許可してしまう実態を明らかにする。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c25

[近代史3] もうすぐ氷河時代が来る証拠 中川隆
12. 中川隆[-10706] koaQ7Jey 2019年4月09日 19:36:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1333]

アルプスなどの氷河、今世紀中に消失も 国際チーム研究
2019.04.09 Tue posted at 19:31 JST

このままのペースで氷が失われた場合、一部地域では今世紀後半のうちに氷河がほぼ消失する可能性がある


(CNN) 中欧やカナダ西部、米国の氷河は今世紀後半のうちにほぼ消失するとの見通しが、新たな研究で明らかになった。

世界の研究者15人で構成する国際共同チームが英科学誌ネイチャーに論文を発表した。

チームは人工衛星からの観測や450回の現地調査により、1万9000カ所に及ぶ氷河のデータを集めた。従来の研究は500カ所前後の氷河のデータに基づいていた。

新たな研究によれば、世界の氷河からは1961〜2016年に9兆トン余りの氷が失われた。これはドイツの面積で厚さ約30メートル、米国の面積で厚さ1.2メートル分の氷に相当する。

氷河の融解によって、海面は最大27ミリ上昇したことになる。この期間の上昇幅の25〜30%に相当する。

年間の消失量は最大約3350億トンに上っているという。執筆者の1人、チューリッヒ大学のミヒャエル・ゼンプ博士によると、このままのペースが続いた場合、欧州アルプスやニュージーランド、カナダ西部を含む数カ所では2100年までに全ての氷河が消失する。

ゼンプ博士はさらに、カナダの北極圏など、これ以外の地域では氷河の融解が始まったばかりで、2100年以降も続くということだと指摘する。

氷河が解けることによって海面が上昇するだけでなく、山の地盤が不安定になる可能性がある。農業用水や生活用水を氷河に頼ってきた地域では、水不足も懸念される。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/202.html#c12

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
26. 中川隆[-10705] koaQ7Jey 2019年4月09日 19:50:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1334]

【モンサント社】遺伝子組み換え食品消費大国日本 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=vyXP3GQ9OvI


世界で一番遺伝子組み換え食品を口にしているのは、日本人だった!

2015年5月 、アメリカ、アフリカ、ヨーロッパをまたぐ40か国、400以上の都市で、一斉に行われた米農業バイオ大手M社とその遺伝子組み換え作物・農薬に対するデモ。

年々拡大していくデモは遺伝子組み換え作物が世界規模の問題となっていることを浮き彫りにしています。 
遺伝子組み換え作物で世界の90%のシェアを持つM社  。
モンサント社はベトナム戦争で使用された枯葉剤を製造した会社です。 
戦争後は牛成長ホルモン剤、除草剤の「ラウンドアップ」、遺伝子組み換え(GM)作物などで事業を拡大。 

流通規制の厳しいヨーロッパでは遺伝子組換え食品はほとんど出回っていません。 
今、世界でGM作物は問題視されており、どうしても規制の緩い日本に集まっているのが現状。 
海外から日本へ輸入されるGM作物は牛や豚などの家畜飼料、お菓子、植物油など様々な加工食品、加工原料として形を変え、あなたの食卓に並びます。 
私たち日本人は世界で一番多く、遺伝子組み換え作物を食べているのです。 

日本で認証され、流通しているGM作物は以下の8品目
・ダイズ
・トウモロコシ
・ナタネ
・ジャガイモ
・綿実
・てん菜
・アルファルファ
・パパイヤ
これらのうち主に流通しているのは、とうもろこし、大豆、菜種、綿実の4種類。
この8品目と、これらの作物を主な原材料とする32種の加工食品

(豆腐・納豆・みそ・きな粉・コーンスナック菓子・ポップコーンなど)に遺伝子組み換え表示義務があります。

しかし日本の現在の法律では

・ 主な原材料(原材料の重量に占める割合が上位3番目以内)にしか表示義務がなく、含まれる量が5%未満であれば「非遺伝子組み換え」と表示できます。 

・組み換えDNA、およびそれによって生成したたんぱく質が残らないものにも表示義務がなく、油や醤油などはGM作物の使用は表示されません。

● 無農薬野菜セット
● 無農薬なたね油

表示義務のない遺伝子組み換えGM食品の一例
・肉、卵、牛乳、乳製品など遺伝子組み換えのエサを食べて育った家畜品

・サラダ油、植物油、マーガリン、ショートニング、マヨネーズなどの油類

・醤油

・コーンシロップ、果糖、ブドウ糖などの糖類

・その他に、コーンフレークや醸造酢、醸造用アルコールなど


カップラーメンやお菓子、さまざまな調味料など日常食品に遺伝子組み換え作物が潜んでいる。

欧州連合(EU)ではすべての食品や飼料、さらに添加物までを対象に、遺伝子組み換えの表示基準は0.9%未満。 
日本の「非遺伝子組み換え」商品が、EU諸国では「遺伝子組み換え」商品に一瞬にして早変わりします。 

カップラーメンや添加物を多く含む加工品には、GM作物由来の食物油脂、醤油、たん白加水分解物、
加工でん粉、調味料、カラメル色素、乳化剤、酸化防止剤、ビタミンB2などが使用され、あらゆるものにGM作物は姿を変えて潜んでいます。 

私たちは気づかないうちにGM作物を食べているの可能性が大きいのです。 

GM作物に対し、諸外国のように騒がない日本、無関心な日本人はTPPや農業改革にのまれM社やGM作物推進企業の絶好のターゲットになってしまう・・・。 

遺伝子を組み換える。 
自然からかけ離れた末、 その先に見えるのは、一体どんな景色でしょうか?

ベトナム戦争での悲劇はもう2度と起こってはいけない・・・
そう感じているのは私だけでしょうか?

あなたの買うもの、選ぶものひとつひとつ。
値札の安さばかりに踊らされて、選ぶ知恵を失ってはなりません。

こんな時代でもまっとうな生産者や業者はいます。
どのような背景でつくられたものなのか。今一度確認してみて。

まっとうな商品を買うことで確実にあなたの周り、そしてあなたが住むこの世の中の流れが少しずつ変わっていくことを信じています。


http://macrobiotic-daisuki.jp/idensikumikae-syokuhin-kiken-15559.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c26

[近代史3] 遺伝子組み換え作物 予測のつかない危険性 中川隆
27. 中川隆[-10704] koaQ7Jey 2019年4月09日 19:53:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1335]

◆【スーパーの食品60%が遺組み】遺伝子組み換え食品の現状と今後について - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=zSB2FAQwlrQ


遺伝子組み換え食品の恐怖 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E7%B5%84%E3%81%BF%E6%8F%9B%E3%81%88%E9%A3%9F%E5%93%81%E3%81%AE%E6%81%90%E6%80%96
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/338.html#c27

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
23. 中川隆[-10703] koaQ7Jey 2019年4月09日 21:25:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1336]

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c23
[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
24. 中川隆[-10702] koaQ7Jey 2019年4月09日 22:40:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1337]

ヒトラーと6人の側近たち 第5回 「カール・デーニッツ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nPMYejrhLFQ
https://www.youtube.com/watch?v=Y8dt1Rbfw00
https://www.youtube.com/watch?v=zs_nRkjOoCQ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c24
[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由

どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由


高名なオーディオ評論家は信用してはいけない _ どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/311.html


高名なオーディオ評論家は信用してはいけない 1 _ 瀬川冬樹
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/312.html


ジャズ喫茶「ベイシー」の選択 _ JBLの本当の音とは
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/402.html


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html

[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
1. 中川隆[-10701] koaQ7Jey 2019年4月10日 05:37:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1338]

JBL 4343 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=JBL+4343

JBL 4343/4343WX ※1976年発売
4343:¥560,000(1台、1978年頃)
4343WX:¥580,000(1台、1978年頃)

低歪率、過渡応答に優れた4ウェイモニタースピーカーシステム。

低域には38cmコーン型ウーファー2231A、中低域には25cmコーン型ウーファー2121を搭載しています。

中域には音響レンズ2308とエクスポネンシャルホーン2307、ドライバー2420を組み合わせたホーン型ミッドレンジを搭載しています。

高域にはホーン型トゥイーター2405を搭載しています。

定格

方式 4ウェイ・4スピーカー・バスレフ方式・ブックシェルフ型

使用ユニット
低域用:38cmコーン型(2231A)
中低域用:25cmコーン型(2121)
中高域用:ホーン型(2308+2307+2420)
超高域用:ホーン型(2405)

再生周波数帯域 35Hz〜20kHz ±3dB
クロスオーバー周波数 300Hz、1.25kHz、9.5kHz

インピーダンス 8Ω
出力音圧レベル 93dB(新JIS)

エンクロージャー容積 ウーファー:156L
ミッドウーファー:14L
外形寸法 幅635x高さ1,051x奥行435mm
重量 79kg
https://audio-heritage.jp/JBL/speaker/4343.html


▲△▽▼


ヤフオク スイス デュアル 楕円フルレンジ・スピーカー・システム

これ程ずば抜けた音質はそう滅多にはない!圧倒的である!
ダメダメ・スピーカー JBL4343 なんかとは比較にならないスケール 迫力 リアリティー ハイ・スピード!

『これほど抜群の音質はそう滅多にはない!圧倒的である!』


スイス DUAL/デュアル 西ドイツ工場製 完全オリジナル 楕円フルレンジ・スピーカー・システムの完動中古品のペアです


スピーカー・ユニット:

最大の特徴はエッジがコーン紙の延長でできているフィックスド・エッジである
エッジの材質が音質の大半を決めてしまう非常に重要な要素である

極めて大事なことなので再度言います

「エッジが音を決める!」

このフィックスド・エッジならウレタンやゴム系のように経年変化でボロボロに朽ち果てることは無い

それだけではない

ウレタンやゴム・エッジより能率が高く、最も重要な過渡特性(音の立ち上がりと立ち下がりのこと)が抜群によい

これが最強無敵で抜群の音質の根拠である

製造後およそ40年以上が経過しているというのにエッジ、コーン紙、フレーム、マグネットすべて新品のようにとてもきれい

昔使用していた 38cm・4wayの JBL4343 はわずか10年でエッジはボロボロに朽ち果ててしまった
今となっては ただの箱であり下駄箱にもならない
これは本当にスピーカーであったのであろうかと思う

プロ用と称していたこのスピーカーは評論家の瀬川冬樹氏がステレオ・サウンド誌で べた褒めしたため一世を風靡したものである

この JBL4343 はほとんどの大小メーカー及びほぼ100%の全国の販売店に採用され、考えられないほど多くのマニアが購入した
オーディオ界始まって以来の極めて異常な現象が全国で起きたのである
エッジがボロボロに朽ち果てるものでこの評論家と雑誌社は大儲けしたという話は有名だ。
ところが、瀬川冬樹氏はある問題で資産のすべてを失い、ガンでアッという間に旅立ってしまった
46歳という若さであった

スイス デュアル 西ドイツ工場製 完全オリジナル 楕円フルレンジ・スピーカー・システム

音質:

極めて質の高い本格的な音を聴くことができる
この音質こそが本物の真の音楽を聴くことができる音である
ずば抜けた音楽表現力がある
これは薄っぺらい安物の音ではない
例えると、特上の にぎりやサーロイン・ステーキである
並みとは旨さや旨味の密度がまるで違うのである
旨いものを食べたとき 旨味が口いぱいに広がるような
そういう音である
クラシックだろうがジャズだろうがボーカルであろうが抜群によく鳴ります
なぜならフィックスド・エッジだからである

ライブ盤では部屋いっぱいに音が広がり あたかもその会場にいるようだ
演奏者の息使い、ライブ会場の空気感まで明瞭に再生でき、実に楽しく音楽が聴ける
ヴォーカル、ピアノ、ベース、ヴァイオリン はあまりにも生々しい真実音である
シンバルはツイーターがついているかのような鳴り方である
バスドラやベース、チェロは踊るようによく弾み、ふくよかでありながらよく締まって、ボケずに音の輪郭や音程が明瞭に聴き取れて気持ちがよい
低音の量感は申し分なく、質も極上である

目の前で自分のために唱ってくれているような、そして、演奏をしてくれているかのようで手を伸ばすと届きそうな感じさえする
この盤はどう鳴るだろう、あの盤はどうだろうと、次々音楽が聴きたくなる音です
音の品位がよく、格調高く、彫りの深い音です
音楽の歓びや哀しみ、心を熱くする音楽表現力が抜群に優れている
ときには あたかも美しい女性の瞳が潤んでいるかのような表現力にウットリする
愛を燃やし、心を溶かし、綿みたいな雲の乗って深い感動の世界で時を忘れて朝まで聴いてしまう
心に染み入り夢心地の幸せに満たされる
とくにジャズはノリノリとなり、跳ね、踊り スイングし、エネルギーが爆発する
声は張りがあってよく通り生のような真実音
オーケストラは立体感があり、トゥッティにも優れていて生を彷彿とさせる 堂々たる鳴りっぷりである

フィックスド・エッジのため音量を絞ってもつまらない音にならず いい音で鳴る

これが最も大事なことである

そして、「音が矢のように飛ぶ!」

フィックスド・エッジの音の特徴は超ハイ・スピードに音が飛ぶことである

こうゆう音は聴いていて気持がよい

それだけではない

微弱信号が楽々再生できることである

これが最も重要であり大事なことである

では「飛ぶ音」 とは一体どんな音なのか。言葉で正しく伝えるのは難しく
これは体験してみないと分からない音かもしれない

WE(Western Electric) や Siemens の劇場用スピーカーは まず音が矢のように飛ばなければ使い物にならない
なぜなら、最後部の客席まで 例えば大地を揺るがす大砲のとどろきから 恋人のささやきや 虫の音(ね)まで かすかな音も明瞭に届けなければならない

1982年 当時大流行していた JBL 4343 (38cm・4way 60万円した) を使用していたが
これがまったく音が飛ばない

プロ用であると宣伝していたが 官僚の国会答弁と同じ「ウソ」であることが後に分かったのである

当時日本中の中〜上級者が瀬川冬樹という一人の評論家とステレオサウンドという雑誌社の「ウソ」に引っかかったのである
JBL4343 を購入した多くのマニアが騙されたのである
日本オーディオ史上初のマニア、販売店、多くの業界関係者、多くの大小メーカーを巻き込んだ大事件に発展していった

瀬川冬樹氏の急死と共に JBL4343 への熱病は急速にしぼんだ

Accuphase の M100 500W×2 で鳴らしていたが これまた、まったく音が飛ばないアンプであった
この飛ばない柔なアンプが100万円したのである

この時「音が飛ばない」スピーカーとアンプがあることが分かった
60万円のスピーカーも100万円のアンプもまったく飛ばなかったのである
飛ばない同士の組み合わせは最悪であった
あゝ160万円の授業料である
この当時のコンポーネントとしては最高級の組み合わせであったが、バカなことをしていたものである

では一体「飛ばない音」とはどんな音なのか

それは、スピーカーのまわりに音がまとわりつき 、聴き手に音が矢のように飛んでこない
そして、たいてい低音が引きずるように重く、特にドスン ドスンというような質のよくない低音は気分が悪くなり 聴くに耐えない。JBL4343 がこのような低音であった
こんな低音ならないほうがましだ

いくらボリュームを上げても飛ばない音は絶対に飛ぶことはない
ボリュウームの問題ではないからだ
例え小さな部屋で小音量で聴く場合であっても この「飛ぶ音」はがぜん威力を発揮する

優れた 「音が飛ぶ」スピーカーは音量を絞っても「つまらない音」とはならない
なぜなら、音楽の旨味成分である微細なニュアンスや倍音等の微弱信号も楽々再生できるからである

単なる大音量なら大抵のスピーカーは鳴る
ところが、微弱信号はどんなスピーカーでも再生できる訳ではない。ここが一番重要なところである

出来のよくないスピーカーほど微弱信号の再生が不可能となるため「つまらない おおざっぱな音」となり
大事なニュアンスが伝わらなく音楽にならないため面白くも何ともない

『スピーカーの優劣を判定するには音量を絞って微弱信号の再生ができるかどうかを聴くとすぐ分かる』

一度「飛ぶ音」を経験すると飛ばない音はもう聴く気がしないであろう

それにしても、JBL4343 も Accuphase も高価なだけに あゝ本当に「罪深い」と思う

例えばこの盤では:

ジャズ・ヴォーカルの名盤「ヘレン・メリル ウイズ クリフォード・ブラウン」(米Emarcy)
ヘレン・メリルのハスキーで洗練されたセンスとしっとりした情感やデリケートな表現が心に伝わって
自分のために唱ってくれているようで、手を伸ばすと届きそうな感じさえする
昔小さなライブ・ハウスでまじかで聴いたことがあるが、そのときを彷彿とさせるリアルさである

フィックスド・エッジによりずば抜けた美しい音質となっているのが大きな歓びである
あゝ深い感動の世界だ!
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/o237764088


▲△▽▼

ヤフオク 独 SIEMENS COAXIAL

過去3ヶ月の「 COAXIAL 」の統計データ情報
「COAXIAL」 に関する落札商品は全部で 98 件あります。

平均落札価格 9,532 円
最高落札価格 146,000 円
最低落札価格 100 円

独 SIEMENS COAXIAL/シーメンス コアキシャル 25cm 同軸2ウエイ・スピーカー・システム 平面バッフルの完動中古品のペアです。

コアキシャルは上級者の間で あまりにも有名である。
この音を聴くと他のスピーカーは雑魚(ざこ)同然に思うであろう。
コアキシャルは終生の伴侶≠ニなりうるスピーカーである。
コアキシャルはオイロダインと同じフィックスド・エッジである。
このエッジならウレタンやゴム系のように経年変化でボロボロに朽ち果てることは無い
これが本物のプロ用である

昔使用していた 38cm・4way の JBL 4343 はわずか10数年でエッジはボロボロに朽ち果ててしまった
今となっては ただの箱であり下駄箱にもならない
これは本当にスピーカーであったのであろうかと思う。

プロ用と称していたこのスピーカーは評論家の瀬川冬樹氏がステレオ・サウンド誌で べた褒めしたため一世を風靡したものである。
エッジがボロボロに朽ち果てるものでこの評論家と雑誌社は大儲けしたという話は有名だ
ところが、瀬川冬樹氏はある問題で資産のすべてを失い、ガンで46歳という若さでアッという間に旅立ってしまった
あゝ無常 哀れなり


SIEMENS COAXIAL の音質:

まるで次元の違う別世界の音である
この劇場用の音はいくら言葉で説明しても実際に聴かないと分からないかもしれない
この音を聴くと他はあまりにも柔(やわ)で聴くに耐えないであろう
生々しい真実音、圧倒的リアリティー、高解像力、高音楽表現力、超ハイ・スピードである
抜群の高音楽表現力により、実に楽しく音楽が聴ける
聴き手の心を揺さぶり感動の世界で幸福感に満たされる
これらは他のいかなるスピーカーとも大きく異なっている
クラシックだろうがジャズだろうがボーカルであろうが抜群によく鳴ります
なぜなら、音の立ち上がりや立ち下がり のことを過渡特性というが これが抜群によいからです
過渡特性のよくないスピーカーからいい音を引き出すことは不可能と言ってもよい

ライブ盤では部屋いっぱいに音が広がり あたかもその会場にいるようだ
演奏者の息使い、ライブ会場の空気感まで明瞭に再生できる
ヴォーカル、ピアノ、ベース、ヴァイオリン は生々しくあまりのリアルさにゾクッとする
バスドラやベース、チェロは踊るようによく弾み、ふくよかでありながらよく締まって、ボケずに音の輪郭や音程が明瞭に聴き取れて気持ちがよい
ヴォーカルは目の前で自分のために唱ってくれているようで手を伸ばすと届きそうな感じさえする
声は張りがあってよく通り生のような真実音
この盤はどう鳴るだろう、あの盤はどうだろうと、次々音楽が聴きたくなる音です
音の品位がよく、格調高く、彫りの深い美しい音です
音楽の歓びや哀しみ、心を熱くする音楽表現力に極めて優れている
音楽の感情表現力が凄いのである 他のスピーカーではこうはとても行くまい
ヴァイオリンもピアノも響きがキリッとしていて、しなやかでリアリティがある
ジャズは「水を得た魚」のようであり、エネルギーが爆発する すさまじさがある
オーケストラは立体感があり、トゥッティにも優れていて生を彷彿とさせる 堂々たる鳴りっぷりである
フォルティッシモでは部屋の空気を揺るがす強烈なパワーに本当に鳥肌が立つ

最も大事なことは、

本当にいいスピーカーは必ずかすかな音や演奏者の息使い、会場の空気感まで明瞭に再生できる
音量を絞ってもつまらない音にならず いい音で鳴るのが本当に優れたいいスピーカーである
そして、「音が矢のように飛ぶ!」

こうゆう音は聴いていて気持がよい。

では「飛ぶ音」 とは一体どんな音なのか。
言葉で正しく伝えるのは難しく、これは体験してみないと分からない音かもしれない。

ウエスタンやシーメンスの劇場用スピーカーは まず音が矢のように飛ばなければ使い物にならない。
なぜなら、最後部の客席まで 例えば大地を揺るがす大砲のとどろきから 恋人のささやきや 虫の音(ね)まで かすかな音も明瞭に届けなければならない。

1982年 当時大流行していた JBL 4343 (38cm・4way 60万円した) を使用していたが、これがまったく音が飛ばない。
プロ用と称しながら玩具同然である。

Accuphase の M100 500W×2(この超弩級ハイパワー・アンプは100万円した)で鳴らしていたが これまた、まったく音が飛ばないアンプであった。
玩具同然のアンプであったと言わざるを得ない。 100万円の玩具である。

この時「音が飛ばない」スピーカーとアンプがあることが分かった。
飛ばない同士の組み合わせは最悪であった。
この当時のコンポーネントとしては最高級の組み合わせであったが、バカなことをしていたものである。

では一体「飛ばない音」とはどんな音なのか。
それは、スピーカーのまわりに音がまとわりつき 、聴き手に音が矢のように飛んでこない。
そして、たいてい低音が引きずるように重く、特にドスン ドスンというような質のよくない低音は気分が悪くなり 聴くに耐えない。JBL4343 がこのような低音であった。
こんな低音ならないほうがましだ。

いくらボリュームを上げても飛ばない音は絶対に飛ぶことはない。
ボリュウームの問題ではないからだ。
例え小さな部屋で小音量で聴く場合であっても この「飛ぶ音」はがぜん威力を発揮する。
優れた 「音が飛ぶ」スピーカーは音量を絞っても「つまらない音」とはならない。
なぜなら、音楽の旨味成分である微細なニュアンスや倍音等の微弱信号も楽々再生できるからである。

単なる大音量なら大抵のスピーカーは鳴る。
ところが、微弱信号はどんなスピーカーでも再生できる訳ではない。ここが一番重要なところである。
出来のよくないスピーカーほど微弱信号の再生が不可能となるため「つまらない おおざっぱな音」となり、大事なニュアンスが伝わらなく音楽にならないため面白くも何ともない。

『スピーカーの優劣を判定するには音量を絞って微弱信号の再生ができるかどうかを聴くとすぐ分かる。』

一度「飛ぶ音」を経験すると飛ばない音はもう聴く気がしないであろう。
それにしても、JBL4343 も Accuphase も高価なだけに あゝ本当に「罪深い」と思う。
https://aucfree.com/items/u190943639

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html#c1

[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
2. 中川隆[-10700] koaQ7Jey 2019年4月10日 05:42:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1339]

JBLは4341をやや大きくした、後継機種4343を発売した。
4343の用途は何であったのか?いまだによく分からない。
4343はプレイバック・モニター用途と言うが、スタジオで4343を見たこともないし、使った話も聴かなかった。
_____


イシノラボ/マスターズ店長の連載
JBLを愛した男たち 2010年1月2日掲載
https://www.ishinolab.com/modules/doc_serial/audio_history_japan/serial001_040.html


JBLの設立は1946年に遡る。創業者、ジェームス・バロー・ランシングは1949年9月24日、自ら、命を断ってしまった。以後、共同経営者だったビル・トーマスが社長となって、JBLは次第にスピーカ会社として発展していく。日本への輸入は、当初、河村研究所であった。1965年、サンスイはJBLと輸入総代理店契約を結び輸入を開始する。

1952年にはホーンレンズを取りつけた175DLHが誕生している。1954年には傑作“ハーツ・フィールド”が製品化されている。そして、1957年には、今なおあこがれの“レンジャー・パラゴン”が登場し、1988年までの31年間生産が継続された。(1971年、私がJBLを訪問したときも、パラゴンはハンドメードに近いかたちで日系アメリカ人の方がリーダーとなって、キャビネットの製作、スピーカユニットの組み込みがおこなわれていた。)そこに働く方達の誇らしげな顔を、いまなお思い出す。1960年には、最高級家庭用スピーカとして“オリンパス”が製品化されている。私が、JBLをオーディオ誌で知ったのはこの頃であったが、超高価で、夢のまた夢、そのまた夢の存在であった。

私が入社した1969年からオリンパスを聴いたが、サウンドが硬く、大した感動はなかった。ただ、大変美しい仕上げで、組格子のカバーがユニークであった。また、新宿、三幸町のショールームには、JBLのひととおりの高級スピーカシステム、ユニットが展示されていた。

評論家の皆さんも、この頃、ショールームで眺め、聴いて、特に、その素晴らしさに惚れて、無理してお金を算段して、購入したとの昔話を聞く。故、瀬川さん、山中さん、そして、オーディオ評論界の第一人者、菅野さん達であったと思う。

そうこうしているうちに、私は、スピーカ設計課に配属されて、さっそく、SP150の設計担当をやらせてもらうことになった。そのとき、傍らで、先輩エンジニアが薄型スピーカ(ドロンコーン付き)を設計していた。SL−5,7の2機種であった。とても格好が良く、大したものだと思ったが、それの元ネタはJBLのトリムラインであった。期待に反して、SLシリーズは大して売れなかった。

SP−150の設計過程において、ランサー77も聴いたが、能率が悪いスピーカだ、というくらいで、これも、感動は無かった。

しばらくして、SP LE8Tを比較試聴する機会があった。これも、能率の悪いスピーカだな!と言うのが第一印象であった。けれども、コーン紙に吹き付けてある白い物質は何だろう?ということになったが、取引のあるユニットメーカー(松下,フォスター,昭電)に聞いてみたが、分からないということであった。

このダンプ材がLE8Tのサウンドの秘密のひとつでもあった。また、ボイスコイル径は2インチあって、フルレンジ、8インチスピーカユニットにしては、非常識に大きかった。大きくなると、ボイスコイルのインダクタンスが大きくなって、高域になると、インピーダンスが上昇して、高域が出にくくなるのだ。また、コーン紙の中心には、大きなアルミダイアフラムをコーン紙に貼り付けてあった。ダイアフラムの裏には、ウレタン系のダンプ材が貼り付けてあり、共振防止を図って、なかなか配慮されていると感じた。

さすがに、LE8Tだけでは超高域が足りず、LE25のようなコーンツイータ(JBLではダイレクトラジェータと呼ぶ)を付加して2ウエイ構成にすると、バランスが取れてきた。

SP150の設計、アメリカ向けスピーカの設計を完了したあと、スピーカ関係の研究開発に携わることになった。そこで、再び、LE8Tにめぐり合った。

すなわち、フルレンジユニットはどのようにすればうまく設計出来るかのテーマであった。LE8Tのコーン紙を外してみると、まず、ボイスコイルは、他のように2重巻きではなく、占積率が100%と言えるエッジワイズ線を採用していた。従って、巻数はやや少なめであるので、巻線によりインダクタンスは少なく、従って、高域におけるインピーダンス上昇は、ボイスコイル径が大きいにも関わらず、かなり抑えられていた。

さらに、磁気回路を外してみると、ポールピースにはメッキが施されていて、磁気的にショートリングが施され、高域におけるインピーダンス上昇が抑えられるようになっていて、なるほど、JBLは凄いと感じた。実際、当時JBLの工場見学では、ボイスコイルはボイスコイルだけを独立して巻いて、筒状になったコイルを輪切りにして、それをボイスコイルボビンに装着していた。

これをもってして、フルレンジユニットとして、卓越した技術力であった。コーン紙エッジは当時、ホワイト系ラバーエッジで、共振周波数は充分下げられていたが、この重さで、効率は88dB程度に下がってしまったのは仕方ないことであった。そのサウンドはやや、JBLとしては大人しいもので、当時、若かった私には物足りなく感じた。

何とか、まずは真似をしてLE8Tレベルに到達しようと頑張ってみたが、当時ではとても部品メーカーがついてこれず、試作は勘弁して下さい!と言う始末であった。

さて、当時のサンスイ社内でのJBL販売体制は、JBL販売課があり、そのスタッフはJBLに心酔している男たちで締められていた。例えば、サンスイのショールームでJBLを聴いた社員が、どうしてもJBLの販売に関係したいと志願した男が主体であった。極端に言えば、JBLに命をささげた男もいた。

JBL販売課長であったS氏はチェロを弾く音楽、オーディオ大好き人間であった。オーディオフェアの前夜のJBLブース作成で徹夜して、会場で、くも膜下出血で倒れ、帰らぬ人となった。また、JBLのプロモーションを担当したM氏は北海道出張中、千歳空港内で脳出血に倒れ、帰らぬ人となった。お2人ともお酒が好きで、飲みだすとJBLの話が止まらない男であった。

私は、JBLは凄いと思ったが自分で使う気にはなれなかった。自宅では、自作3WAYシステムで頑張っていた。

1972年になって、私はスピーカ設計を離れて、今度は、当時サンスイが創りだした4chシステム開発促進部に携わることになり、ここで4chサウンドを聴くことになったのであったが、そこで衝撃的出会いがあった。アメリカでのサウンドプロモーションで、発売されたばかりの4320を使ったのであった。その場に立ち会った上司は、帰国して、我々に“JBL4320を4台、部で買うことにした。凄くエキサイティングなサウンドだ!”と興奮して語った。

しばらくして、4320が4台届いた。早速開けて見ると、何と、1台、ツイータの穴を塞ぐ板がついていない、穴があいたままになっていた。仕方なく板で穴を塞ぐことにした。アメリカの製造センスはラフだな!と嘆いたが、音が出て、腰を抜かした。

当時は、ここの部署はプロ用エンコーダの開発をしていたので、試聴用にレコード会社のマスターコピー、放送局の音楽ソーステープがたくさんあったし、オープンデッキはAMPEX AG440の4ch、2chの2台、プロ用マシンが揃っていた。

このような高品位の音源に対し、JBL4320の再現性がすばらしく、軽々とした中低音、立ち上がり抜群のホーンによる中域、高域と素晴らしかった。

しばらくして、各レコード会社のモニタースピーカは一時期、JBL4320が独占していた時期があった。ここにいたって、私はどうしても欲しくなった。お金がないから仕方なく国産イミテーションキャビネットにJBLユニットを取り付けて楽しんでみたものの、やはり、違うサウンドであった。これを諦めて、弟に譲って、今度は本物の入手に奔走した。やはり新品は買えず、何とかして知り合いのスタジオ技術者から中古JBL4320をやっとの思いで入手。ようやく満足を得て、その後、コーン紙の張替をしながら、今なお私の工房で稼動している。

社外では、POPS録音にかけては第一人者の当時東芝EMIミクサー、行方洋一さんも大のJBLファンであったし、JBL4320には惚れていた。行方さんはJBL4320を購入されて土浦の自宅に設置し、スーパーツイータ、JBL2405に1μのフィルムコンを付けて、3WAY構成にして楽しまれていた。私はご自宅に何度も伺って、その素晴らしいサウンドを聴かせていただいた。POPS、ジャズ、SOUL、SL、花火音などを心行くまで聴かせてくれた。

行方さんは当時、渚ゆう子のレコーディングを担当されていたので、渚ゆう子の情報は何かと入った。(私は渚ゆう子の大ファンで長女には“ゆう子”と名付けたほどである!)そうして、渚ゆう子がリサイタルをおこなうことになり、そのPA(SR)エンジニアは行方さんが担当することになった。行方さんから、“PA機材をどうしよう!”という相談があった。お話を伺うと、会場は新宿、厚生年金会館大ホールとのことであった。

PAスピーカーはJBL4320を特別に使いたい、アンプはタフなサンスイ BA5000が安心と言う。そこで、上司にお願いして、JBL、サンスイのPRになるからと言うことで許可を貰った。勿論、運搬、据付までは社員を動員するわけにいかず、私が担当することにした。当日は、休日、18:30開演であったから、14時頃から搬入、セッティングをスタートした。4320は縦置きに2台を積み重ねで、L/Rで4台使うことにし、BA5000もブリッジ接続で、1200W、の2台で4320をドライブすることになった。4320は本来、レコーディング・モニター用であったから、SRに使うことはまずない。渚ゆう子の透き通ったボーカルがホールに満ちたとき、渚ゆう子はいいなあ!と思うと同時に、4320は何て素晴らしいと惚れ直してしまった。

私のこのお手伝いのお礼に渚ゆう子からのサイン入りのレコードをいただいた。それにしても、4320のパフォーマンスは今聴いても凄い。

オーディオ評論家では菅野沖彦さんが一時期、4320を自宅試聴室で使っていた。私が伺ったとき、菅野さんがご自身で録音した宮沢明子、名古屋フィルのピアノコンチェルトを聴かされた。私は4320に惚れていたので感激して聴いていた。菅野さんはそれほど4320にはご執心ではなかった。その次に伺ったときは、4320は設置されていなかった。

さて、どうして、4320は程なくしてレコーディング会社で使われなくなったか?それはJBL側にあったように思う。4320のあとに4325を発売して、レコーデイング現場をやや混乱させてしまった。その後、4333Aが出てきたりして、JBL内部で技術的に葛藤してたのではないかと思う。

4320の強いて言う物足りなさは、重低音の不足にあった。重低音を出そうとすると、振動系を重くしなければならない。そうすると、軽々とした中低域が薄れてきてしまう。

結局、JBLは重低音優先の道を選択した。4333Aのウーファはボイスコイルボビンにアルミリングウエイトをつけたのであった。(このことは、サンスイのSP100/200でやっていたし、SP150でも数グラムのリングウエイトを付加している。)

このお話は、JBL4341につながっていく。

故、瀬川冬樹さんのお宅では、当時、日本に1台しかなかった4341をメインに使っていた。このサウンドを聴かせていただいて、それほど大きくないキャビネットに38cmウーファを入れて、よくまあこれだけの低音がでるなあ、さすがに使い方がうまいと感心したが、振動系を重くしたウーファを採用し、重くなった中低域を避ける意味で、ミッドバス・ユニット追加して、4WAY構成にしたことに秘密があったように思う。

しばらくして、JBLは4341をやや大きくした、後継機種4343を発売した。4343の用途は何であったのか?いまだによく分からない。4343はプレイバック・モニター用途と言うが、スタジオで4343を見たこともないし、使った話も聴かなかった。

瀬川さんはすぐ、4343に買い換えた。ちょうど自宅を新築されて、広い試聴室に置いてあった。パワーアンプはA級25Wのマークレビンソンをブリッジ接続で2台使っていた。さすがの瀬川さんも4343には苦労したと思う。まず、低音がゴロンとしたサウンドでまとまらない。これは水平使用出来るように、ウーファ位置がキャビネットの下端、ギリギリについていたので、低音が床に反射しておかしくなってしまうのであった。スピーカスタンドを使うと、響きが薄くなってしまう。瀬川さんがさんざんトライして、試聴室の長辺側に4343を設置して、壁との距離を微妙に調整して、ついに最適なサウンドバランスを獲得した。その苦闘記をオーディオ誌に切々と書いた。

その効果が大きかったせいもあろう。4343は高額であったにも関わらず、物凄い量で全国的に売れ始めた。4畳半に住む若者が4343を買って、寝るスペースを狭くして4343にかじりついて聴いている話は、営業からよく聞いた。とてもバランスの取れたサウンドではなかったであろうが、所有する喜びが大きかったのであろう。

そうそう、あまりにも4343が有名になったので、あやかって、HPのオーディオアナライザーのモデル名は4343にしたとの話を聞いたことがある。

4343を平行輸入した会社は大儲けをしたと言う話は本当であったらしい。サンスイの国内販売部門はJBLがないと赤字であったが、JBLのおかげで元気であった。

オーディオ誌各社の試聴室でのスピーカは4343で占められた。また、オーディオメーカーの試聴用スピーカは4343が多かった。さらに、部品会社にも4343が置いてあることが多かった。サンスイでは社内では1台使われていたが、アンプの音質決定には4343ではなく、ずっと4320であった。(私がサンスイを退いて、そして上司もサンスイを退いてから、B&W 803に代わったらしい)

私が聴いた中では、1990代、LUX社試聴室設置の4343は極めて反応の良いサウンドを発揮していて、後続のJBLエレベスト9500をはるかに凌駕していた。これは主に使っていた優秀エンジニアのO氏(後にブリッジオーディオを主宰)の使いこなし上手だと思う。

アルニコ・マグネットの枯渇、そして、フェライトマグネットの採用

1970年代、アフリカ、ザイール内戦が勃発して、コバルトの供給が極端に逼迫した。それ以前からアルニコマグネットの価格はじりじりと上がって、価格の安いフェライトへの移行がスピーカ各社進行していた。そんなわけで、TANNOY、ALTECなどのメーカーもフェライトマグネットに切り替えざるを得なくなってきた。

それでは、アルニコマグネットとフェライト系マグネットはどう違うのだろう。簡単に言うと、磁気抵抗が小さいのがアルニコ、大きいのがフェライトである。(ちなみに、最近、強力マグネット材料と言われているネオジウムもフェライト系の性質を示す。)

現在の学術レベルでも、スピーカにおいて、フェライトとアルニコとのサウンドの差異はうまく説明できていない。でも、オーディオに少し興味があれば、聴いてみれば、好みは別として、差異は指摘できるはずである。切れ味良く、ひずみ少なく聴こえるのがアルニコと言われているし、私もそう思う。

JBL技術陣は、アルニコマグネットの入手難、音質とのはざまで、ついにフェライトマグネットへの切換を決断する。切換えるからには、フェライトマグネットに最適な磁気回路があるべきと、研究・検討を重ねた結果、ついにSFGと称する新開発磁気回路を開発した。その主な特徴はポールピース、ヨーク形状を微妙に変更し、磁気回路によるひずみの改善を実現した。(近年、一部に電流ドライブアンプなるものが評価されているが、電流ドライブアンプを用いると、磁気回路によるボイスコイル電流ひずみが非常に改善(一桁以上)されるメリットがあると言われている。)

JBLは次々と磁気回路をフェライトに切り替えていった。4343は4343Bとなった。JBL技術陣も相当、気になっていたと思われ、わざわざ都内のホテルで発表会を兼ねた技術講演会を開いたほどであった。

ちなみに、当時のサンスイスピーカはすべてフェライトに切り替わっていたし、他社も、YL、ゴトー、エール音響とかのホーンドライバーを作っている会社以外は切り替わったと言って良かった。

JBL技術陣の最大目的は、JBL4343の最大評価者である瀬川冬樹さんに納得してもらうことであった。ゲイリー・マルゴリスをチーフとする説得チームは、瀬川さん宅に夜間訪問して、瀬川さんお使いの4343のウーファユニットを外し、新型フェライトマグネット採用のユニットを取りつけて、瀬川さんに聴いて貰った。そのトライアルは深夜にも及び、瀬川さんはOKを出した。彼等はほっとしたことであろう。

でも、サウンドが変わったことは否定できなかった。フェライトマグネットを採用した4343Bは売れには売れたが、以前よりも売れなくなってきたのは仕方がないように思えた。 そうなると、JBLにとって4343は売上に大きな部分を占めるから、このままで良いはずはなかった。彼等はそれならば、フェライトマグネットを採用することによってユニットコストが下がるから、コストダウンした4343を作ろうということになった。

それは仮称4343CLASSICと呼んでいた機種であった。これなら定価は¥10万以上安くできそうであった。それが、4344であった。

一方、ホーン・ドライバのフェライト化も進めざるを得なかった。これはユーザであった評論家Oさんにテストして貰い、OKをいただいたが、後になって元のアルニコに戻されて、今なお健在に動作している。

このころになって、JBLは買収されたシドニー・ハーマン(元、商務長官)の影響が大きくなってきていた。また、サンスイのほうも、アルニコからフェライトに移行して思うように売れなくなってきて、友好関係が少しほころんできたような状況でもあった。

そして、ついにハーマンはすでに設立済みの日本法人、ハーマン・インターナショナルに販売権を移行することを決定、サンスイに通告した。

サンスイは、くるべきものが来たということであったが、非常な痛手であった。具体的には、社内のJBL販売課のスタッフの落胆ぶりは深刻であった。

過半数のスタッフはハーマンインターナショナルに転職したかたちでサンスイを去ることになってしまった。それ以降のJBLの動きは私が説明することもなく、JBLに関する書籍を読めば詳細に述べられている。ハーマン・インターナショナルに移った男たちも定年を迎える年齢になった。世は無常なりの言葉をかみ締めたい。

以上の文章のなかで私は渦中の当事者ではなかったので、憶測、間違いもあるかも知れないが、オーディオファンとして、JBLファンとして、書いたつもりである。

JBLは、今なお有力なスピーカブランドであることには間違いないが、ともすれば、ヨーロッパ勢の攻勢を受けている感がある。攻勢とは、技術的には、音場研究とかユニット開発において、他社はJBLとは異なった道を歩んで、異なったすばらしさを発揮しているような気がする。


次回は、またアンプ開発の話に戻りながら、オーディオ評論とその流れ、影響について記してみたい。ここまで読んでいただき、感謝に耐えません。
https://www.ishinolab.com/modules/doc_serial/audio_history_japan/serial001_040.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html#c2

[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
3. 中川隆[-10699] koaQ7Jey 2019年4月10日 05:46:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1340]

JBL 4343、同B ナンダヨー!フザケンジャナイヨー! 2006/3/22
https://blogs.yahoo.co.jp/kazu2001dd/30702799.html


ウエストコーストから日本のウサギ小屋へ嫁いできたアメリカ女は、いつもストレスでイライラ。金切り声を上げていた。僕はこのスピーカーがのびのびと鳴っている所に1回しか出くわした事がない。まあ、後にもう1回があるけどね。

説明は不用かも知れないが、4343AってのはB、つまりフェライトモデルの登場後に呼ばれる様になったもので、元々は何もついてなかった。アルニコモデル、って事とRev.Aってことをかけた通称みたいなもの。世界的な材料不足でフェライトモデルに移行したのだ。

音質にうるさい人の中にはアルニコの方が音が良かった、と言って残念がる人もいたが、僕はJBLの努力は評価すべきだろうと思う。音の傾向はきちんと維持されたし、また様々な改良によってオリジナルモデルよりアンプを選ばなくなった。涙ぐましい努力はイヤ!って人は迷わずBモデルにしたほうがいいんじゃないかな。

4343は故・瀬川冬樹師の愛機である。師の活躍がなかったら、4343の評価は今日ほど高い物にはなっていなかった事だろう。

師は日本の家庭で4343を使う事に関して、莫大な時間を実験と試行錯誤に費やし、ノウハウを僕たちに惜しげもなく公開してくれたのだ。

しかし、である。4343はやっぱりスタジオモニター。

均整のとれた音が出てくる音圧は決して低くない。
集合住宅で使うにはちょっと、いやかなり迷惑な音量を出さなくてはならない。
最低でも一戸建ての家ってのが現実的。

それに結構な駆動力をアンプに要求する。

瀬川師は当時新進メーカーであった MarkLevinson で駆動については一つの回答を提示していた。

しかし誰もが MarkLevinson というわけにもいかず、大抵の場合当時のまだまだ発展途上にあった国産アンプで駆動されたのだ。
きちんと駆動されてないこのスピーカーの音は悲惨。

ウーファーはまともに動かず、ショートホーンからは金切り声。

なんとか憧れのスピーカーを購入したのはいいけれどまともな音で鳴らない、という悩みはこの当時良く聞くことだった。

ちゃんとした手法でエージングしないとこの傾向のままの音になってしまうことも注意がいる。

様々な制約によってこんな状態の物が大半だったのかも知れない。
だから4343はハイ上がり、ってイメージが一般には浸透してしまった様だった。

メーカー側も気にしてか、その後出した4345は一回り大きいウーファーを使用して低音がやたら拡張されたスピーカーだった。ユーザーの方には悪いが、僕は瀬川師がこのスピーカーを聴かずして亡くなられた事は不幸中の幸いだったと思っている。過ぎたるは及ばざるがごとし、である。

師も楽しみにしておられた4343の後継機、長い間待ち続けたその音を聴いた日の落胆は、今でもありありと思い出される。

きちんと駆動された時、4343はそりゃあ凄い。
ウエストコーストの晴れ渡った青空を思わせるような明るさをもちつつ、エネルギッシュでど迫力。大胆にして繊細。中身のぎっしりとつまった濃密な音。

ノリのいいジャズなんか、もう、踊っちゃえ!って思わせる様な、その場の空気を一手に引きつけてしまう凄いパワーの様な音を持つスピーカー。

今の B&W みたいに優等生的なスピーカーには決して真似できない音。
(まあ、彼らが真似しようとは決して思わないだろうけど。)破天荒な部分はあったが、それもまた魅力だった。

僕は瀬川師の記事を子供の頃から穴が開くほど読んでこのスピーカーに憧れ続けたけれど、今まで自分で所有した事はない。所有しても使いこなせる自信がないのかも。

でも、もし今手に入れられたとしたなら、僕なら絶対アナログソースで聞きたい。デジタルじゃなんとなくつまらなくなりそうな気がする。熱くほとばしる情熱をもう一度音楽と共有したい、そんな思いのあなた。この子は一聴の価値ありです。

ただね、決していいかげんなアンプで鳴らさないで下さい。
もしも機嫌を損ねたら、あなたにはヒステリックに叫ぶ彼女のご機嫌取りに涙を流す日々が約束されてしまいます。(笑)
https://blogs.yahoo.co.jp/kazu2001dd/30702799.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html#c3

[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
4. 中川隆[-10698] koaQ7Jey 2019年4月10日 05:47:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1341]

JBL#4343や#4344は名器か? - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2017年03月10日


JBLの43シリーズの「モニターSP」が出始めたのが1972年頃、#4311辺りからだったと思う。その後、#4320や4331、4341等が出て、1976年に#4343が販売され始めた。

当時#4343は¥56万円/1台=ペア¥112万円の高級機であった。当時の大卒の初任給は13万円程度ですので、約1年分の給料に匹敵します。

高価であるにもかかわらず、このSPは10000セット以上/年も売れたベストセラーSPで有る。デザイン的にシンメトリーで38pウーハーを使った4ウェイ機として非常に人気の高かったSPで有る。各雑誌でもモニターSPに採用され、知名度が非常に高かった。当時のマニアはこぞって「終のSP」として捉えていたのではないかと思う。

かく云う私もSP遍歴を繰り返し、泥沼からの脱出をする為に「終のSP」として、無理をして購入した。26歳の時であった。

それから27年程所有していた。その間にアンプ類のグレードアップや新しく登場したCDに対応させるためにCDPを購入して来た。ウーハーエッジも2回交換した。これが結構な価格で、JBLではりコーンしか受け付けなかった。コーン紙は奇麗な状態だったのに、交換されて帰って来たコーン紙は汚かった。

20年近く#4343を鳴らし続けて来たが、「ヴォーカル」(女性の声)が非常に気になっていた。帯域の低い方は「ミッドバス」(コーン紙)から出て、帯域の高い方は「ミッドハイ」(#2420ホーン型)から出て、上と下を行ったり来たりする。この時の「質感」が全く違うのである。#2420の方からで出て来る時の音の質感の方がグレードがはるかに高いのである。

この事から、#4343に対しての評価が私の中で変わって行った。その後、#4343よりももっと古いオリンパスを購入して、3ウェイで鳴らして中域を500〜7000Hzを#375ドライバーで受け持たせるようになって初めて安心して聴ける様になったと思った。

#4343は非常にコンパクトに作ってある。その分、手を入れる事が難しい作りになっている。ネットワークと内部配線は最悪の状況と認識するようになった。「ふん詰まった」音しか出てこないと感じる様になってしまった。これで名器と云えるだろうか?自分の中では「シスコン型SP」とレッテルを張った。
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/b9975c809369f39614ccbb3e0239901f


ホーン型ユニットとホーンのセッティング もの - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2016年06月04日


JBLの #375をうまく鳴らしたいと思って、ホーンやドライバーのセッティングを色々と実験をしたことが有る。

デザイン的に一つの箱内に収まる様に作られているモノが多いが、ホーンの良さを殺してしまっていると感じた。

例えば L-101や#4320、#4333、#4343、#4344 等の中に使って有る HL91や LE85、#2420等のドライバーの取り付け方には「音響的に不自然さ」を感じる。

JBL のゴールドウィングは基本的に「バッフル取り付け」の様に設計されているが、実際にはバッフルに取り付けると「音が死んで」つまらない音になる。

具体的にはドライバーはホーンのフランジで受ける様にして固定し、ドライバーが「宙吊り」の様にし、ホーンはスロートの四角のフランジ部分で「点受け」させるのが良い。

こうする事により、ドライバーには「何も触れない」状態にし、ホーンの振動を「雰囲気音」にする事が出来る。基本的に「余韻が深くなる」方向に働き、音数の増加や音の密度の増加につながる。


HL88(蜂の巣)や HL90(#2395 お化けホーン)のメーカー推奨のセッティングの様にするのが一番良いと感じる。

さすがは昔の技術者は良く考えている。

現在の技術屋さんはコストダウンや見た目の見栄えを追求しがちだが、昔の技術者は、「本当に良いモノ」を作ろうとしている姿勢が感じられる。材料も作り方も非常に手の込んだ方法を選んでいる。

当時の商品価値から行けば、SPシステムだけで家1軒に相当する価格で販売されていた。
同じ価格でも現在では「インフレ」の影響で商品価値は大きく違う。
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/caa429a6e8110b181f1a2e784b5134a8


良いウーハーとは? - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2016年06月25日

スピーカーを構成するユニットの中で一番重要なのは「ウーハー」である。何故なら「出ている音の70%以上」はウーハーから出ているからだ。その中で「エネルギー感」については80%以上を占有している。大部分の音や質感は「ウーハー」に何を使うかによって決まる。

有名メーカーの、例えばJBLやALTECならどんなユニットでも良いかと云うとそうではない。開発された時期や、製造された時期においても相当サウンドが変わる。例えばJBLのD130やLE15A等は30年以上製造されていた経緯が有る。そのシリアル番号別に追いかけてヒアリングをしたことが有るが、同じ型番のユニットとしての基本は有るが、音色や性能は全くの別物位に違う事を確認している。

世の中は進歩していてと考えるのが普通であるが、事スピーカーユニットに関しては一概にそうとは言い切れない事を痛感している。その為、自分は1950〜1960年代のユニットをメインに使っている。現在の世の中を大局的に見れば「インフレ」の世界だ。自分の給料も4万円前後から始まり、歳を重ねるごとに給料が上がって行き、30万から50万円にもなって来た。

会社の規模が大きくなり、人件費が大きくなってくるとメーカが考える事は「コストダウン」である。如何に性能をキープして同じグレードを保つか?が命題になって来る。しかし、その性能はコストダウンを考える一部の人間が取捨選択した性能で、初期の性能に対しての比較が十分でない場合も有る。オーディオ機器は「一般グレード」の機器である。「人の命にかかわる」様な特殊なグレードではない。そこに安直な発想が生まれる温床が有る。

話を元に戻して、「ウーハー」の名機と云われるものは、1970年以前に作られたものが多い。個人的にはD130が非常に好きである。それも初期型の16Ω仕様が良いと感じる。

世の中の「再生周波数帯域の最低域側の拡大」の為に消えて行ったウーハーであるが、その質感と反応の良さ・能率の良さは格別である。

重いコーン紙を大パワーのアンプでドライブする「心臓に悪い」ショッキングな低音とは一線を画す。「音楽」を聴かせてくれるウーハーであると思う。「悪貨は良貨を駆逐する」の例えの通り、良いウーハーが駆逐されてしまった現在のオーディオに未来は有るのだろうか?
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/a1e88e6c5e8f7ffdcd67f42d04fc752d


JBLのウーハーの変遷と失ったもの - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2010/01/08
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/c0933e4a0ff3c62390e3cebd8ea361cb


JBLのウーハーの音質について時系列的に考えて見たいと思います。

LE-15A → プロ用#2215A → プロ用#2231A

と変遷して来ていますがその音質の違いを述べて見たいと思います。

LE15Aは1950年代の後半、1960年にはオリンパスに使われています。

この頃は「プロ用」と云う認識はなく、10年間ほどはLE15Aと云う型番で作られていますが、この10年間に同じLE15Aでも音質は大きく様変わりしています。

初期型のLE15Aではほとんど固有の癖は感じられなく、D130の低域側のレンジを延ばした印象です。

それがSN#7000番以降では、若干固有の「粘る様な低音」がかすかに感じられます。

SN#10000番くらいまでが16Ω仕様で、以後は8Ω仕様になっていると推測されます。

#10000番台は入手した事がないのではっきりは云えませんが、

#20000番台を聴くと「粘る様な低音」の癖が大きくなって、一般に云われる「LE15Aの音」になった様に思います。

この時点で#7000番台以前とは大きな音質の差が出来ています。

#7000番台を聴いてからは#20000番台は「バタ臭い音」に聴こえてしまいます。
#70000番台になると更に「音質」は悪くなり、もっと「バタ臭さ」を感じますし、粘りも多く、分解能も音の品位も低下しています。

SN#70000番台辺りまでがウーハーフレームの塗装色が「灰色」です。
(初期型はブルー)後期型の「黒色」は#80000番台辺りから始まるのでしょうが更に音質低下しています。

この後JBLではプロ用ユニットに移行して行きます。

そのトップバッターが#2215Aです。モニタースピーカー#4320に採用されたウーハーです。

その後、#4343では2231Aに変わっていきます。
ここまではアルニコマグネットです。

姉妹ウーハーとして#2205Aや2220Aが出て来ます。

これら#2215A、2205A、2220AのウーハーをSN#7000番台のLE15Aと比較しますと「ザックリ」とおいしい所の「質感」(オフの音)がなくなっています。

LE15Aの後期型の「粘る様な質感」はなくなっていますが、「音数」が2/3以下になっているように感じます。低域のレンジを広げる為に「音数」や「質感」が大幅に低下していました。

その頃は、オーディオ雑誌やオーディオ評論家諸氏が「コンシュマー用よりプロ用が音質は良い」と云っておられた頃で、今実際に確認して見ると芳しくない内容でした。

過去に27年間JBL#4343(A)を使い続けて来ました。
この#4343に使われているウーハーは#2231Aと云うものでした。

#4343も使い続けて行くとコーン型とホーン型の2ウェイの様なもので、ミッドバスの質感とクロスオーバーポイントが不適切な為、「人の声」が上下に常に「ブレる」もので、コーン型の質感とホーン型の質感がうまく一体化しませんでした。

それらと決別出来たのはLE15Aの初期型やD130の初期型のウーハーと出会ってからです。

プロ用ユニットが出て来た時は、「重低音」に魅了されましたが、重低音を出す為に「大切なモノ」を欠落させたウーハーになった様に思います。30年以上もほとんど毎日聴いて来ますと「自然な」音とは違う事に気付いて来ました。

D130の音は「軽い低音」、「反応の良い低音」とかいう様に表現される事が多いですが、非常にバランスが良いのです。重低音は出ませんが「深みの有る低音」を出して来ます。

またこの事は「音数」の多さにも繋がります。使って見てその良さが判ります。「深みの有る低音」は「重低音」に匹敵するくらい素晴らしい特徴です。音楽を「迫力」で奏でるのではなく「深みや奥行き」で奏でてくれます。

JAZZでは「軽く弾む」サウンドになるし、クラシックでは「重厚な弦楽器の質感」を表情豊かに出して来ます。

コメント

オリンパスかなり追求されているのが分かります。LE−15Aについてここまで掘り下げておられるのは他にもみた事がありませんでした。

ブルーフレームのLE15Aは初期というだけでなくアルニコが強力なのか大きいなどの違いもあるのでしょうか?
投稿 ベルソン | 2010/07/04 18:09


企業は開発する時は「良い物を作る」と言う姿勢で進みます。

一度商品が出来上がると「コストダウン」をして利益を出そうとします。

この観点から推察しますと、アルニコマグネットの材質やコーン紙・ダンパー等あらゆる部分に「コストダウン」の影響が出ていると思います。

ブルーフレームのLE15Aと、後の灰色・黒色フレームのユニットとはカタログデータ(外形や重量)に変更は有りません。
音質の違いは「マグネットの材質」と「コーン紙」に有ると考えています。
投稿 トレイル | 2010/07/04 21:02


オリンパスのユーザーです。すばらしい分析コメントを拝見しました。
当方も、青、灰、黒を比較しまして、 青を採用しております。
ジャズ喫茶を09年に開店しました。ぜひ、聴きにいらしてください。
http://www7.plala.or.jp/JAZZ-OLYMPUS/
投稿 ジャズ オリンパス! | 2011/05/23 07:05

青色の16ΩのLE15Aは本当に良い質感を出します。音の品位が高いのが非常にありがたいです。能率も他のLE15Aに比べると3dbほど高く感じます。
投稿 トレイル | 2011/05/23 10:57
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/c0933e4a0ff3c62390e3cebd8ea361cb

ホーンとドライバーのセッティング - Mr.トレイルのオーディオ回り道


JBLやALTEC、バイタボックス、EV等のホーン型ドライバーとホーンのセッティングについては、以前にも述べていますので、また再度同じ事を云うだろうと思います。

SP箱(エンクロージャー)に取り付けて、システムになっているホーンとドライバーは「本当の実力を出していない」と思います。ホーンをバッフルに取り付けると「ホーンの響き」が殺されてしまいます。その為、「雰囲気音」等が出なくなっています。

古いALTECやJBLのトーキー用のSPシステムには、ウーハー箱とその上に載ったホーン+ドライバーでセットされている写真を良く見られると思います。単純にALTEC#A7orA5を思い出していただければ判ると思います。ホーンが外に出ています。

コンパクトに無理やり押し込んだのがJBL#4343をはじめとするモニターシステム。その為「音数」が随分と減少しています。ホーンは「鳴き」を出したらだめですが、「響かせる」事は大切です。

合わせてドライバーも「宙吊り」状態で何も接触しない状態が良いです。これを単純に枕木等で受けてしまうと、こちらも「響き」が死んでしまいます。60年以上前の技術者達は、「本当に良い音を出したい」と願ってシステムを作っていたと思います。しかし、1970年代以降は「売らんかな・・・」の意識で作って有るので、当方曰く「ろくなものが無い」と思っています。
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/1e5cb64ef36e56eb91f494863a982ff6


私が2インチスロートドライバーに拘る訳 - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2016年08月18日
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/c4acbd30bd65ed11fa1152fc8dca57d9


自宅のSP-707J+αシステム、RCA箱Wフロントロード箱システム、オリンパスシステムの中音域にJBL:#375を使っています。ガウスのHF-4000でも良いと思っています。


27年間JBLの#4343を使って来ましたが、中高音域は25pコーン型+#2420(1インチスロート)ドライバーの組み合わせです。

この1インチスロートドライバーは「鳴らし易い」ですが、「エネルギー感」が「生演奏の再現」と云う点から聴くと物足りません。音の線の太さ・分厚さ・エネルギー感と音数の多さから2インチスロートドライバーの優位性は動きません。音圧も118db/W有りますので、他のユニットとのバランスの取り方等使い手のスキルを要求します。組み合わせるアンプにも非常にシビアに反応しますので、そう簡単には鳴らし込めません。

この#375を使ったシステムから「柔らかい音」を出せる様になれば合格点が出せるでしょう。私のシステムでは「音圧を感じない」柔らかいサウンドが出ています。昨日話した「クウォード:コンデンサー型SP」の様な質感を出しています。それでいてコンデンサー型の不得意な「エネルギー感」を感じさせるサウンドを出します。


オリンパスシステムを聴いてからJBL#4343を聴くと「ミニチュア感」を感じてしまいます。おもちゃに聴こえるんですね。

以来メインシステムには2インチスロートのドライバーを使う事にしました。
出来ればJBL:L-101の内部の175DLHをLE85に交換して使いたいと考えているほどです。

「生演奏の再現」に拘らなければ LE85(1インチスロートドライバー)でも十分な性能を持っています。

今ではこう云ったホーン型ドライバーを使える方が少なくなっています。

メーカー純正の2〜3ウェイのドーム型ユニットを使ったSPばかりになってしまいました。

ドーム型ユニットもコーン型と同じ理論で音が出ています。その面ではコーン型ウーハーと合わせ易いと云えますが、音質面では「コンプレッションドライバー」には到底及びません。

ホーン型ユニットはドライバーを含め箱の外に出して使って初めてまともな性能が出て来るものです。

#4343等の様に箱の中に綺麗に収まっているホーン型 SPは、ホーン型の本当の実力を出していません。

ホーンの振動・ドライバーの振動も音に変えて使う事で、もう一段上のサウンドに変身します。
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/c4acbd30bd65ed11fa1152fc8dca57d9


Mr.トレイルのオーディオ回り道 2017年01月01日
原寸大のサウンドを実現するには2インチスロートユニットが要る
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/8f2b5e884b4ea12f7343a0c2117eb0dd


JBL#4343 を20年以上使って来ると不満な処が多々出て来る。その中で一番気に食わなかったのが「中域」の音の線の太さ。1インチスロートドライバー(#2420)では造れない世界だ。家庭で使うには使い易いドライバーだが上には上が有るもので・・・。

#2420(LE85相当)の1インチスロートと2インチスロートドライバー(#2440・#375)では、エネルギー感や音数が全く違う。当然「音の線の太さ」も違って来る。「原寸大」の演奏を目指すなら2インチスロートのドライバーでなければ近似に出来ない。

JBL社には「コンシュマー(民生用)ドライバー#375」と「プロ用ドライバー#2440等」が有るが、名前とは裏腹に、比較して見れば直ぐ判る事だが、「コンシュマー用」の#375の方が圧倒的に良いサウンドがする。生産年代は#375の方が古い。プロ用ユニットは1972年ごろから販売されている。この音質の差は「コストダウン」によるものだと推測している。他にもガウス社のHF-4000と云うドライバーも有った。こちらは#375より図体が大きかった。しかし、エネルギー感では#375に及ばなかった。

いずれの2インチスロートドライバー共に「線の太い音」は共通である。1インチスロートドライバーのエネルギー感の比ではない。その為、使い手に鳴らし方のスキルが求められる。そのまま繋いで簡単にならせるユニットではない。能率も118dbと超圧倒的な高能率だ。2Wも有れば大きな部屋で十分なドライブが出来る。

組み合わせるホーンも、新しい時代になるほど「シンプルな作り」になって来ている。(コストダウン)出来ればHL88(ハチの巣)、HL89(ゴールドウィング)、HL90(#2395 お化けホーン)の凝った「ディフィーザー」を持ったホーンをお勧めする。誰でも簡単にならせるホーンは#2395(HL90)ホーンだと思う。低域と高域との音のバランスさえ取ってやれば直ぐにでも上質で実在感の有るサウンドが出て来る。
http://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/8f2b5e884b4ea12f7343a0c2117eb0dd
 

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html#c4

[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
5. 中川隆[-10697] koaQ7Jey 2019年4月10日 06:07:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1343]

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/03(月) 07:00:15.93 ID:8cT11jic

オーディオ機器の20〜20KHzの可聴域を勘違いし、音楽は、20Hz〜20KHzまでの音がまんべんなく再生されると思っている人が多い。
人間が扱う音楽や楽器は、

オペラのソプラノで6オクターブの最高高域では2.8KHz
ピアノで27.5Hz〜4.2KHz
シンバルで10KHzが最高高域

でオーディオ装置は倍音などを考慮しなければ12〜13KHzのフルレンジで超低域を除いて問題ない範囲での周波数でしかない。

2WAYや3WAYは超高域も再生できるが、実際は6KHzくらいからの高域の量を
可変増量して、あたかも楽器などの超高域が出てると感じるだけに過ぎない。
TVの垂直発信の15.75KHz(キーンという)音がほとんどの人には聴こえないのだから。


58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/06(木) 11:15:12.67 ID:TNLByYFY

適切なステレオ感を得られる適切な聴取距離というものがある

口径cm×10

というもので、例えば20cmなら2mの距離が適切というものである
2mで2wayだとユニット上端から下端の距離で考えてウーファは13cm程度、1.5mだと15cmで10cm程度になる

10cmだと流石に2wayは無意味になってくるので、聴取距離2m以下ならフルレンジを選ぶべきだろう


113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/11(火) 22:07:10.01 ID:bKEZ4kRW

音声帯域から上を再生するだけならスピーカーは小さく作れる。
ただ低音を再生するには大きくするしかない。


120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 00:12:46.02 ID:4r9vWEJo

でかくしても有利なのは低音再生のみなんだが、、、
後は全て理論的に悪い方向にしかいかんよ。


133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 11:34:11.96 ID:4r9vWEJo

大型にして有利なのは低音だけだから、

低音域だけ大型にして、中高域は、小型の別箱のシステムとかならまだお話は、わかるが、

昔ながらのJBLみたいな大型システムは、余程広い部屋で遠くから聞かないと、定位感は最悪だよ。

ツイーターとか、スコーカーがでかいバッフルについている奴は、最悪なんだよ。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/pav/1308134449/


215 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/05/13 22:24:15

JBL のスピーカーって日本専用だったんですか、知らなかった。
日本で最も購買力のある団塊世代向けの音だったんですな。


216 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/05/13 22:57:30

でかいバッフルスピーカーを壁ペタで使う団塊www


389 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/05/25 19:20:05

むかしは6畳和室に馬鹿でかいSP入れて格闘するマニアの姿を評論家は

美しい、これぞオーディオ道だ、

と持ち上げ


金とやる気さえあれば設置環境など関係ない、調整次第で何とかなる


と推奨してた

売れまくったJBLの43シリーズは評論家の煽りのおかげ
導入するにふさわしい環境あった人は一握りでしょ
評論家が腐ってたのはむかしからなのね


138 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/05/04 18:48:54

今の完全日本向けの家庭用スピーカーに「xxモニター」とかまだやってるのが
オモロイ。

そんなに日本人はモニタースピーカーが好きなのか不思議。
高級機種にはあえて日本人受けするホーンが「これでもか!」とばかりに
付いている。モニターとホーンがこんなに売れる国って日本以外にあるの?


953 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/07/18 18:35:41

スタジオでプロが使ってなくても製品筐体に「モニター」とか「プロ」とか書いてると購入しまくる奴がいるのも事実。

スタジオでプロが使っているから「良い」と思って購入しまくる奴がいるのも事実。

そういう人を知っているが、リスニング環境は大体6畳和室。


155 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/05/08 17:03:45
>138
プロの現場では使われてないのに筐体に「PROFESSIONAL」とか書いてる機器を見ると買いあさる人物も結構いるからね。


156 名無しさん@お腹いっぱい。[sega] 投稿日:2010/05/08 18:58:58
>138
日本人は馬鹿、ブランドとか呼び名にめちゃ弱い。


188 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/05/10 23:23:54

バカ団塊を騙すにはでかい箱がいい。
耳ツンボだし、しかもバカ


318 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2010/05/19 05:46:08

小さい箱に大型ウーファー入れたら量は出るが質が劇的に悪くなるというのを証明したのが43系モニター。だからプロは他に流れた。

ドスンドスンという懐かしい重低音なんてのも流行ったな。
今のSPは軽い低音ばかりなので希少価値はあるかも?
http://desktop2ch.info/pav/1271554664/


40Hz 以下の低音は聞こえない方がいい


954 名無しの笛の踊り[sage] 投稿日:2013/02/27 23:59:08  ID:WEYSA22W(2)

狭い部屋なのにデカイウーファー導入してしまった際、あのボワボワを聴いて

「こりゃ違う参った(>_>885
記事になるときは遠慮してるけど講演会だと 2、3%もないになりますよ。
SSだと全部合格です。


887: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/08/24(月) 19:48:29 ID:13xIkpFt

演奏家訪問で部屋の広さとスピーカーでマトモに鳴ってるか想像つくよね。
まあ、お金持ちが多いんだろうけどステサンはインテリの宗教だね。
http://2bangai.net/read/05ba12b399b8ea350fcbbec294a7977277fe6b10e0014ef46534d16d3dc2af87/all


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html#c5

[リバイバル3] ジャズを聴くなら JBL よりパルメコの方が遥かに上

ジャズを聴くなら JBL よりパルメコの方が遥かに上

ロンドンウェスタン直系BBC放送局用パルメコ・スピーカー


生演奏みたいなジャズ PARMEKO (パルメコ)LS/1で聴く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=hTw4Q4KA2EY

PARMEKO (パルメコ)LS/1 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=PARMEKO++LS%2F1&sp=mAEB

▲△▽▼


オレのガマンもこれまでだ「身の丈再生音って、ナニ?」の巻

オーディオシステムの再生音は使用する人の可聴帯域に則ったものであるべきだと、気付かせてくれたのは友人のお店で聴いたパルメコのスピーカーでした。 

1950年代に英国BBCの検聴用として用いられたもので、その再生音は全帯域に亘ってフラットでありながら、その音の内側に入れば信号に含まれたあらゆる音を聴き分けることが出来るのです。 その音を、全て聴き分ける事の出来る人がどれだけいるのか。 若く、恐ろしく耳の良い人でなければ、このパルメコの再生音の真の力を聴きとることは困難であり、音楽な暖かさとか、そういうものは期待するほうが野暮という完全プなロ仕様です。 

高価でもありますが、正直いって聴覚的に無理が伴います。 私自身の耳は全くついて行けず、ただ聴くしかありませんでした。 

その音は嘗ての JBL4350、4343等と似ていますが、それよりずっと上質で、JBL のスピーカーが時々聴かせる無機質感は微塵もなく、人間的な響きと格調高く涼やかな音です。 

IMG_0161真のモニタースピーカーの再生レンジは、聴覚能力の高い人が使ってこそ、真価が生かされる事にも気付かせてくれました。 検聴用のスタジオモータースピーカーを使っているユーザーで、実際に最低音域と最高音域を聴きとる事が出来るのは本当にわずかな人にすぎないと思います。 個人の聴覚レベルに合っていれば身の丈再生音こそ大切で、欲張りは避けるべきでしょう。 以上T氏
http://blog.livedoor.jp/thorens/archives/51620721.html

▲△▽▼


サウンドポイント55 
http://www.geocities.jp/soundpoint55/newpage3.html


パルメコ 38cm同軸2WAY LS−1     

2ペアー在庫  写真1,2,3 ¥63万

 
(初代BBCモニター、WE系の特注品と思われる構造です。ドライバーは713か?)
 
(残念ながらコーン紙に破れ補修が御座いますが音質には問題御座いません。)
 
(超ヘビー級のユニットでコーン紙はジェンセンより遥かにパンパン、ロレンツのツイーターを付けて3WAYにしてBBCで使われました。あのアビーロードスタジオ、アメリカのバンガードのスタジオでも採用されてました。)


ビンテージの中でも最高に位置するユニット群です。
アルテック、JBL、TANNOYに愛想をつかした方御試聴ください。  
http://www.geocities.jp/soundpoint55/newpage3.html

▲△▽▼


 米国がウェスタンエレクトリックなら英国はロンドンウェストレックス、ドイツはクラングフィルムになります。

一口に云ってロンドンウェストレックス(ロンドンウェスタン)はアメリカのウェスタンエレクトリックとは多少異なります。初期のロンドンウェスタンはアメリカ本国よりシステムを持ちこんでスタートでしたが英国の国策として海外からの輸入に制限を設けたためこのシアターシステムも対象になりロンドンウェスタンのシステムは自国での設計生産になったと思われる。

 

ロンドンウェスタン直系スピーカー

 初期のロンドンウェスタンは多分米国ウェスタンの改良型を使用したシステムでしたが私の憶測と情報ではその後ウェスタンエレクトリックからのシステムの供給はやめてイギリス本国での製品開発が行われたと推測されます。英国はアメリカと違って大変保守的なお国柄で海外から輸入するよりも自国で開発して販売する方法を取っていた、

 日本や米国と違ってロンドンウェスタンの立ち上げに当たってイギリス国内のスピーカーメーカーの第一線級のエンジニアが集まってロンドンウェスタンをスタートさせたと思われる。

当時のスピーカーメーカーと云えばシアター専門のヴァイタボックス、民生用のグッドマン、ローラ、タンノイ、パルメコ等メーカーのエンジニアが共同開発に当たったのではないだろうか、この辺が米国のメーカーや日本のメーカーとは事情が異なる。

 開発終了に伴い英国本土のすべてのシアターに供給するには生産量が問題になってくる。当時はヴァイタボックス社やタンノイ社では絶対数の生産ラインの供給システムがまだ確立されていなかった、

 当時のスピーカーメーカーではグッドマン社が大掛かりな生産ラインを有していたから多分ユニットはグッドマン社が中心となって製造していたのではないだろうか、

 当時の技術集団が開発した初期モデル(1950年代)のスピーカーユニットはすべてロンドンウェスタン直系のスピーカーになるので音質音色は同じである。またロンドンウェスタンのシステムには低域用にグッドマン、高域用はタンノイ、ケリー、ヴァイタボックスなどでの組み合わせによる混成システムが多かったのでは、

 実際ロンドンウェスタンの2080,2090Aのシステムとパルメコ、私が所有しているユニット等は音質や音色は良く似ており私が聴かさせて頂いた三上先生宅のロンドンウェスタンと瓜二つの音に安堵感を覚えた、

 また米国のウェスタンエレクトリックはすべて業務用でしか販売されなかったがロンドンウェスタンは家庭用のシステムも販売されていたがほとんど日本には入って来なかったからロンドンウェスタンを含めてロンドンウェスタン直系のスピーカーは幻のユニットと云える。

 ロンドンウェスタンのスピーカーのサウンドは皆さんご存知のアルテック、JBL、タンノイ等のスピーカーと比較してまったく異なる音質、音色を持っているのがロンドンウェスタンの特徴でもある。私も沢山の英国ヴィンテージユニットを聴いてきたが今回手に入れたロンドンウェスタン直系のユニットはこれらの音とは違っていた、

 ロンドンウェスタンのパルメコは初代BBC放送局のモニタースピーカーに採用されていたが有名なアルテックの604Eと外観的に非常によく似ているが音質音色は全く違う、

パルメコはもっと浸透力があり音味は大変美味しいエレガントな音ですがアルテックの604Eは残念ながら上手く調教された音を一度も聴いた経験がありませんので比較するのは無理かも知れません。

 またアルテックやJBLなどアメリカのスピーカーはジャズ向きと云われているがスピーカー開発者にとってこれはジャズ向きこれはクラシック向きとして設計はしていないはずですからやはり鳴らし方に問題がありそう、私の個人的な意見としてジャズが鳴ればクラシックも必ず鳴るはず、クラシックが上手く鳴らないのならジャズも鳴らない、ジャズが本当に上手く鳴れば大人のジャズサウンドになるはずだ、
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-027

▲△▽▼


パルメコスピーカーはBBC放送局の検聴用に使用されたスピーカーで製作本数は数百本しか作られなかったと云われる数の少ない幻のユニットになる。ほとんどの方は音も勿論だがパルメコスピーカーの存在すら知らない方が多いのではないだろうか、ウェスタン系をやっている方やオーディオを長くやっている方はパルメコスピーカーを知っているはずだがこのユニットは巷には出てこないのでほとんど聴く機会は少ないと思う、

 私が知る限りでは名古屋では西山氏、関西では今田氏と今回ご紹介する笹本氏の三人がこのユニットを所有していますが全国を探せばまだ使っている方は沢山いると思う、

 本来このスピーカーにロレンツのツィーターとリークのアンプを内蔵したシステムでBBC放送局に納入されていたらしい、パルメコスピーカーは写真でもおわかりですがコアキシャルタイプですが外観はアルテック604Eのホーン部分が大変似ておりますが振動板はウェスタンと同じものを使用しています。

 このユニットのホーン部分の形状が似ているのは皆さんご存知のアルテック604Eですが音味はまったく異なります。604Eは上手く鳴らされていない方が多いので残念ながら比較はできません。アルテックの604Eは38cmのコアキシャルですがパルメコはもう一回り大きい40cmのコアキシャルになります。

またマグネットは強力なアルニコマグネットを使いクロスオーバーは多分1KHZぐらいと思われる。このパルメコのエンジニアもロンドン・ウェストレックスの開発に協力したと思われそのサウンドは本家のロンドンウェスタンと瓜二つの音色、音質を持っている。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-030

▲△▽▼


オーディオのパラレルワールド

パラレルワールドとは今の世界と平行したもう一つの世界をパラレルワールドと云います。

オーディオで云うならば皆さんが使っているアルテック、タンノイ、JBLや現代の代表的なスピーカーは一般的な(A)の世界の音ですが(B)の世界はこのようなスピーカーとは隔絶したもう一つの世界の音である。

 私が聴いた限り上手く鳴らされていたウェスタンエレクトリックのカールホーンを使ったホーンシステム、オイロダインやロンドンウェスタン及び直系の音こそ現代のサウンドとは異なる次元の違う(B)の世界と云えよう、


現代のシステムは駄目とは云わないが(B)の世界の音を聴くとオーディオ観も音楽観も変わるような気がする。


正面に鎮座しているWE−15Bホーンで聴くチェロは現代のサウンドとは全く異なるこれこそパラレルワールドのサウンドであった、


正面に設置してあるのが有名なシーメンスオイロダインシステム、このサウンドもWEやロンドンウェスタンとは少し系統が違うが見事なサウンドを聴かせて頂いた、


ロンドンウェスタン2080A、2090A

 最後に拝聴させて頂いたのは幻のスピーカーシステムでロンドンウェスタンだ、

このロンドンウェスタンの音は言葉では云えない一種独特のサウンドで現代の一般的なHiFiサウンドとは異なりこれこそパラレルワールドの音だ、

 ヴァイオリンの響きは電気臭くない木の香りすら漂ってくるのがわかる。

オーディオを追求していくと最後はこの音に魅了されるのは私だけではないはず、    
このロンドンウェスタンのサウンドを聴くと現代のHiFiサウンドは申し訳ないが長く聴いていると時間の経過と共につまらなくなり飽きが来てしまうがロンドンウェスタン系はオーディオマニア、音楽マニアを引き付ける魅力たっぷりのスピーカーと云えよう、

ただこのような音を出すには相当レベルの高いアンプと高度なテクニックと肥えた耳を持っていないと上手く鳴らないのではないか、

 ヴィンテージショップなどでウェスタンやその他ヴィンテージスピーカーを鳴らして店主は能書きばかりでまともに良い音で鳴っていないのが多いのと

すべてヴィンテージスピーカーだからパラレルワールドのサウンドと思ったら大間違いである。

やはりマニア宅で上手く鳴らされているのを聴くのがベスト、「百聞は一聴にしかず!」

 確かにオーディオは進歩しているが最終的に判断するのは聴く人の感性と鳴らし方ではなかろうか、またパラレルワールドのサウンドは装置を忘れてじっくりと音楽が聴ける。
https://www.kit-ya.jp/etc/club/audio/y-028  

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/945.html

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
25. 中川隆[-10696] koaQ7Jey 2019年4月10日 06:49:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1345]

ヒトラーと6人の側近たち 第6回 「アルベルト・シュペーア」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MyNm8amqY5E
https://www.youtube.com/watch?v=af4QmPD_SlU
https://www.youtube.com/watch?v=udA_4PhqLaY

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c25
[近代史3] 平和よりも、もっと大切なものがある

平和よりも、もっと大切なものがある

世界人口の人口の62.5%は、「平和が第一」とはまったく思っていない


最近、また気になったことがある。「平和」に関する日本人の認識だ。次の元号が「令和」に決まって、日本人は「平和への祈りが込められている」と世界に誇っているのが、とても無邪気で無防備に感じた。

平成の「平」は平和の「平」だ。令和の「和」は平和の「和」だ。いずれも日本人に平和思想が強く根付いているというのが分かる。平和であることは良いことだと日本人は思う。そして、平和を願うことは当たり前だと日本人は信じて疑わない。

もうひとつ日本人が疑いもしない言葉に「平等」というものがある。平和と平等は美しい概念であり、世界中の人たちがこの概念を一緒に追求していると日本人は信じているかも知れない。

しかし、現実はそうではない。平和と平等の限りない追求は日本独自のものであって、世界は必ずしも「平和と平等」を第一に追求しているとは限らない。受け入れられない可能性もある。

「受け入れられない」と言うと多くの日本人は仰天するはずだ。「平和であることや、経済を優先することや、平等であることがなぜ受け入れられないのか分からない」と思うはずだ。(鈴木傾城)

平和よりも、もっと大切なものがある?

なぜ受け入れられないのか。それは、世界は「そんなもの」よりも、もっと大切なものがあると考える国も多いからだ。平和や平等や経済よりも、大切なものなどあるのか。もちろん、ある。

平和よりも大切なもの。イスラム教徒に聞けば、それは「神であり宗教である」と答えるだろう。その点に関しては絶対に妥協はない。

イスラムを侵す者があれば平和より闘争が優先されるのだ。宗教が優先される。そして、コーランは人間が平等など一言も書いていない。平和よりも、平等よりも、イスラムが大事であり、重要であり、神聖なのだ。

イスラム教徒の人口は全世界で約15億人。すなわち、日本の12.5倍の人口が、平和を優先しないし、経済を優先しないし、平等であることも是としないということだ。すなわち、「価値観が違う」のである。

ところで、人口10億人を抱えるインドではヒンドゥー教が主流となっており、ここにシーク教やイスラム教やジャイナ教が絡んでインドが構成されている(仏教はインドでは少数)。

これらの宗教もまた「平和よりも大切なものは、神であり宗教である」と考えている。インドに根付くカースト制度を見ても分かる通り、人間が平等だとも考えていない。要するに、ここでも日本人の価値観とは違う価値観がある。

日本の人口の約8.3倍の人口が、日本人の持つ価値観とはまったく違う価値観を信じているということだ。

キリスト教はどうか。キリスト教は平和主義だろうか。

キリスト教が平和主義だったら、中南米は侵略されなかったし、アジア・アフリカは植民地にされなかったし、日本は核爆弾を2発も落とされたりしなかったはずだ。

彼らはキリスト教を信じない異教徒は虐殺しても奴隷化しても構わないという特異な特権意識を心の奥底に持ち続けて歴史を育んできた。それが過去の話であればいいが、今もまたそういった意識を心の中で持ち続けている可能性がある。

キリスト教徒の人口は世界で約20億人。すなわち日本の約16.7倍の人口が、平和を優先しないし平等であることも是としない。


62.5%は日本人の価値観を理解できない

キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教の3大宗教だけで、約45億人。世界人口が約72億人だとすると、それだけで人口の62.5%を占めている。この62.5%は日本人の平和への無邪気な盲信から一線を引いている人口であると言える。

残りの37.5%も、平和や平等が正しいと思っているかどうか分からない。

むしろ、我々の神を信じない異民族は滅びろとか、イデオロギーが正義だとか、戦争で他民族で打ち負かすことが正義であるとか、他から奪うのが正義だとか、自分の一族だけが栄えるのが正義だとか、そのように思っている可能性が高い。

神よりも平和を優先したいと思う民族は、世界ではまったくの「少数派」である。日本が異質だと言われるのは、そこから来ている。日本人が思っている世界と、現実が乖離しているのだ。

そして「平和や経済や平等」を世界に押しつけるのは、世界にとっては「冒涜」だと思われる可能性が高い。なぜか。「信仰や神よりも平和や経済を優先せよ」というのは、神が侮辱されても信仰が侵されても戦うなということだからだ。

また、「人類はみんな平等だと思え」というのは、自分の神を信じていない人間も自分と同じレベルであると認めることになる。神を熱烈に信じる自分と、神を信じない「未開人」が平等であるとは彼らは本音では認めないだろう。

ユダヤ教もキリスト・イスラムと同じ神を信じているが、このユダヤ人は神を信じない人間を「家畜」だと考える風潮もあった。「ゴイム」と彼らは異教徒を呼んでいたはずだ。日本以外の多くの国では、それほど神は重要な存在である。神以上に重要なものはない。

平和は決して第一優先ではない

「平和や平等」は、実に建前的なものだ。それが唱えられた時は、誰も意固地になって反対しない。

しかし本音の部分を言うと、平和や平等は信仰やイデオロギーが優先される社会にとって害悪であり社会を崩壊させるものである。

もちろん世界の多くの個人は、ほとんどが平和な社会が平等な社会を望んでいるのは間違いない。略奪と暴力が横行する社会では強者と強運者しか生きられない。ある程度の平和がなければ人生は過酷なものになる。

しかし、自分のアイデンティティを構築している宗教や共同体が侵されるとなると話は違ってくる。平和よりも前に、宗教や共同体が優先される。

これらが維持された中で、次に平和が来るのであって、平和が最優先ではない。

ちなみに、日本以外の国々で言われている「平等」というのは、日本人が言う平等とは程遠い。同じ言葉なのだが、概念が違っている。世界の人々が言う「平等」とは、「機会が平等であること」を意味している。

全員が同じ収入や、全員が同じ生活水準であることを世界の人々はまったく望んでいない。

「スタートは平等であるべきだが、結果は平等であるべきではない」というのが欧米先進国の考える平等なのである。だから、欧米では「一億総中流」のような考え方はない。ひとりひとり個人の能力も嗜好も目指す目的も生き方も時代も何もかもが違う。

だから、結果は違って当然で、結果を同じにする平等とはむしろ個人の自由を奪うものであると考える。「機会の平等」であって「結果の平等」はまったく違うものである。

現代の日本的倫理観は、あくまでも現代の日本人が考えるものだ。これが異質だと気がついていないのは、当の日本人だけかもしれない。

日本人はあまりにも無邪気に「平和や平等」を口にするが、それが日本人の「見識のなさ」であれば悲しいことだ。

自分の信じている宗教を侵されたら平和よりも闘争が優先される。自分たちの共同体が侵されたら平和よりも闘争が優先される。

この感覚が分からなければ、自分の国が侵される時のことを思い浮かべばいい。国というのは巨大な共同体である。この「共同体=国」が侵略されたら、平和主義者であっても侵略者と戦って当然だ。侵略されても戦わないというのは、おかしいと思わないだろうか?

平和は常に優先されるものではない。人々は宗教や共同体や国が侵略されたら、平和という建前をかなぐり捨てる。世界はそのようにできている。平和は決して第一優先ではない。

そういった意味で、すべての日本人が狂信的に「平和」という理想を疑わなくなっている時流を憂う。これが理解できないのであれば、日本という国は100年後は消えている。(written by 鈴木傾城)

平和は常に優先されるものではない。人々は宗教や共同体や国が侵略されたら、平和という建前をかなぐり捨てる。世界はそのようにできている。平和は決して第一優先ではない。
https://blackasia.net/?p=12503

▲△▽▼
▲△▽▼

ドイツ人を変えたヒトラー奇跡の演説 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC+%E6%BC%94%E8%AA%AC
https://www.youtube.com/results?search_query=Adolf+Hitler

ヒトラーと6人の側近たち 第3回 「ルドルフ・ヘス」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=04MW0fwLMVE
https://www.youtube.com/watch?v=xk05qbC9brg
https://www.youtube.com/watch?v=zRuECyuTohM

ヒトラーと6人の側近たち 第6回 「アルベルト・シュペーア」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MyNm8amqY5E
https://www.youtube.com/watch?v=af4QmPD_SlU
https://www.youtube.com/watch?v=udA_4PhqLaY

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc


ヒトラーと6人の側近たち 第2回 「ヘルマン・ゲーリング」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=s69UVGkUohM
https://www.youtube.com/watch?v=wraaO0iuzVo
https://www.youtube.com/watch?v=eWXLXasUA_g

ヒトラーと6人の側近たちU 第3回 「マルティン・ボルマン」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dQxQaCQTL2M
https://www.youtube.com/watch?v=ZLAOmmrq3do
https://www.youtube.com/watch?v=EV_0tmN1F5E


ヒトラーと6人の側近たち 第1回 「ヨーゼフ・ゲッベルス」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1zZ2RctGP2s
https://www.youtube.com/watch?v=PNZ_jaQxZ4w
https://www.youtube.com/watch?v=_R4QvU3y2zE


ヒトラーと6人の側近たちU 第1回 「アドルフ・アイヒマン」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NywuaqlyTwM
https://www.youtube.com/watch?v=LDg3iTLeVJU
https://www.youtube.com/watch?v=_5OxGVOlWFk


ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q


ヒトラーと6人の側近たち 第5回 「カール・デーニッツ」- YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nPMYejrhLFQ
https://www.youtube.com/watch?v=Y8dt1Rbfw00
https://www.youtube.com/watch?v=zs_nRkjOoCQ

▲△▽▼
▲△▽▼

紅い皇帝毛沢東と狂爛の文化大革命【东方红】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=AtJy-yu2rHw


2019/01/24 に公開


東の空より紅い太陽が昇る如く
中華に毛沢東が現れた
彼は人民に勇気と幸福と希望を与える
彼こそが偉大なる救世主、大いなる明星也

東方紅,太陽昇,
中国出了個毛沢東。
他為人民謀幸福,
呼児咳呀
他是人民的大救星。


因みに、赤軍派もカンボジアのポル・ポト政権も毛沢東をそっくりそのまま真似しただけなんですね:

若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 (2007年) 動画
https://www.youtube.com/watch?v=q_uMjzQAwnM
https://www.youtube.com/watch?v=cicGFPx-4GE

▲△▽▼


<再現>日本赤軍事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=QNNokzO4u-Y
https://www.youtube.com/watch?v=3dN3r3H4mSU


重信房子独占インタビュー 1973 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=rXIUjCImv1M

映画『革命の子どもたち』予告編 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=93xiGKx5ASU


▲△▽▼


連合赤軍あさま山荘事件 完全版 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=_7538Mapqd8

https://www.youtube.com/watch?v=JbXHqyyCvRY
https://www.youtube.com/watch?v=UgCwy_WQP60
https://www.youtube.com/watch?v=6dy2fbMgILE

<再現>連合赤軍 山岳ベース事件  - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%EF%BC%9C%E5%86%8D%E7%8F%BE%EF%BC%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D+%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6&sp=mAEB

銃撃と粛清の神話 1972年連合赤軍あさま山荘事件 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%8A%83%E6%92%83%E3%81%A8%E7%B2%9B%E6%B8%85%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1+1972%E5%B9%B4%E9%80%A3%E5%90%88%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%BE%E5%B1%B1%E8%8D%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6

【昭和】連合赤軍30年目の真実【大事件】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=VwrRJSLg7nU

連合赤軍兵士 41年目の証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fBusjiyrX78


▲△▽▼

しかし、昔のドイツでも日本でも学生やインテリは随分 IQ が低かったみたいですね。

当時の日本は一億総中流で、マルクス主義の前提になる階級自体が存在しなかったので、いくら社会不安を起こしても階級闘争や革命なんか起きる筈がなかったのですけどね。


まあ、今の学生やインテリが賢くなったというのでなく

今だけ、金だけ、自分だけ

という価値観に変わっただけなのですが。


世界の国で中間層が部厚かったのは平成バブル崩壊までの日本だけです
そしてそれは、終戦直後に GHQ が農地改革、意図的なインフレと預金封鎖、極端な累進課税で人為的に所得再分配をやった結果なのです。

日本共産党や労働組合を創設させたのも GHQ なのですね。

平成バブル崩壊までの日本が世界で最も成功した社会主義国だと言われていたのは
すべて GHQ の共産化政策の結果なのです。

20年前まで大学関係者や学生が左翼とマルクス主義者ばかりだったのも GHQ の教育方針の結果でしょう。

▲△▽▼


中島みゆき「世情」動画
https://pv755.com/sejo
https://www.nicovideo.jp/watch/sm27227751

1 世の中はいつも 変わっているから
  頑固者だけが 悲しい思いをする

  変わらないものを 何かにたとえて
  その度 崩れちゃ そいつのせいにする

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


2 世の中はとても 臆病な猫だから
  他愛のない嘘を いつも ついている

  包帯のような 嘘を 見破ることで
  学者は 世間を 見たような気になる

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて
  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため


▲△▽▼


中島みゆき 誰のせいでもない雨が 動画
https://pv755.com/dare-no-seide-mo-nai-ame-ga

誰のせいでもない雨が降っている しかたのない雨が降っている
黒い枝の先 ぽつりぽつり血のように りんごが自分の重さで落ちてゆく
誰のせいでもない夜が濡れている 眠らぬ子供が 責められる
そっと通る黒い飛行機があることも すでに赤子が馴れている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

怒りもて石を握った指先は 眠れる赤子をあやし抱き
怒りもて罪を穿った唇は 時の褥に愛を呼ぶ
されど 寒さに痛み呼ぶ片耳は されど 私の裏切りは
誰のせいでもない雨が降っている 日々の暮らしが降っている
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

船は港を出る前に沈んだと 早すぎる伝令が火を止めにくる
私たちの船は 永く火の海を 沈みきれずに燃えている
きのう滝川と後藤が帰らなかったってね 今ごろ遠かろうね寒かろうね
誰かあたしのあの人を救けてよと 跣の女が雨に泣く
もう誰一人気にしてないよね
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ
早く 月日すべての悲しみを癒せ 月日すべての悲しみを癒せ

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 心理学、大脳生理学、文化人類学、文化関係投稿リンク 中川隆
65. 中川隆[-10695] koaQ7Jey 2019年4月10日 07:10:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1346]
平和よりも、もっと大切なものがある
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/807.html#c65
[近代史3] 平和よりも、もっと大切なものがある 中川隆
1. 中川隆[-10694] koaQ7Jey 2019年4月10日 07:16:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1347]

亀井静香とチェ・ゲバラ 2005年10月25日


保守政治家の亀井静香は連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。

今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。

自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」


総選挙前の8月10日に私が書いたエントリー記事「亀井派と社民党の合併は如何?」のコメント欄に下記のようなコメントをいただきました。

保守政治家の亀井静香氏がチェ・ゲバラを尊敬しているというのは、多くの人々にとって大変に興味深い事実のようです。ちょっと私的に分析してみたいと思います。反小泉左右共闘を考える上でも、警察出身の亀井静香と革命家のチェ・ゲバラの共通点を探るというのは興味深いと思われるからです。


 >>ちなみに亀井氏が尊敬する人物は、私も好きなチェ・ゲバラです。

 >これホントですか?警察官僚出身の亀井氏がそんな発言をするとは。
 >私はゲバラも亀井氏も好きなので(笑)、出典などを教えてくれればうれしいです。


 亀井さんが自民党総裁選に立候補したときは、マスコミの取材に答えて「私が尊敬するのは、貧困に苦しむ民衆のために死を選んだチェ・ゲバラと大塩平八郎だ」と公言していました。 

 私の手元にある亀井さんの著書は『ニッポン劇的大改造』(扶桑社)ですが、その中でも以下のように語っています。

「私はゲバラの写真を事務所に掲げてあります。アメリカのベーカー大使が、永田町の私の事務所にやってきて、そのゲバラの写真を見て驚かれていましたが、私はゲバラを尊敬しているのです。

 (中略。ゲバラのグァテマラでの活動、キューバ革命への参加などの事績を紹介する)

 そうして、(ゲバラは)自分の人生を、圧政と貧困のなかで苦しんでいる人たちの救済に捧げました。自分の人生を全部捨てて、人の痛みを少しでも和らげようとしたわけです」(亀井静香、前掲書、150〜151頁)
 
 自民党の機関紙の『自由民主』でも今年の3月8日号で、亀井さんは鉄人・衣笠祥雄さんと対談して、ゲバラに対する想いを語っています。亀井さんのHPに紹介されています。
 http://www.kamei-shizuka.net/media/2005/050308.html

 その衣笠さんとの対談の中で、亀井さんは連合赤軍事件について、以下のように言及しています。

「連合赤軍メンバーの森恒夫や永田洋子なども取り調べましたが、結構いい若者なんですよ。今の若い連中みたいに、シンナー吸ってフラフラしたりとか、ガリ勉して、いい学校、いい会社に入るとか、いい彼氏、いい彼女見つけたいとか、そんな浮ついた気持ちはなかった。自分が幸せになるより、世の中をよくしたいという思いに駆られた連中でした」

 私は、亀井さんが死刑制度廃止を叫び続けるのは、獄中で心の底から改心している永田氏のような人々を、死なせたくないからだと思います。

 警察の内部事情を知り尽くした亀井さんが、「冤罪は絶対に避けられない。無実の人間の命を国家が奪ってはならない。だから死刑には反対だ」と訴えているのです。冤罪が避けられないことは、他ならぬ警察の中にいる方々がもっとも良く知っていることでしょう。

 「共謀罪」などという治安維持法を思わせる法律が審議されている現在、亀井さんの訴えはますます重みを増しています。私も読者の皆さんも、全くの冤罪によって罪を着せられて死刑になってしまうというようなことすら、今後は発生するかも知れないのです。共謀罪が可決されれば、市民の誰もが冤罪の犠牲になってもおかしくないような状況が発生すると思います。警察官僚だった亀井さんの訴えに、私たちは耳を傾けるべきでしょう。
 
 それにしても興味深い事実は、暴力革命を目指した連合赤軍の摘発に敏腕を振るった警察官僚である亀井静香氏が、キューバで暴力革命を成功させたチェ・ゲバラや、大阪町奉行所の役人でありながら幕府の悪政に抗議して武装蜂起を行った大塩平八郎を「尊敬」しているという事実でしょう。

 亀井さんの頭の中では、この問題はどのように処理されているのだろう、と私も非常に不思議に思います。いまでもちゃんと回答は出せません。本人に直接聞いてみるのが一番ですね。

 私が思うに、民主主義国であった70年代初頭の日本において武力革命など全くのナンセンスであるが、米国傀儡のバティスタ独裁体制下で、言論の自由も集会結社の自由も制限されていたような状況下において、カストロやゲバラが行った選択は、亀井さんから見ても支持できるということでしょうか。しかし、そう考えると米国傀儡の小泉独裁体制も、当時のキューバのバティスタ体制に近づいているような・・・・・。

 大塩平八郎も町奉行所の与力という、いわば警察官の立場にありながら、反政府武装蜂起をしたわけです。大塩が抗議したのは、奉行と悪徳商人が結託してコメの値段を釣り上げ、庶民を苦しめながら、暴利を貪るという不正義でした。

 ちなみに大阪の商人が行っていたのは、今日でいうデリバティブ取引の原型でした。社会を混乱させながら暴利を貪るハゲタカファンドやヘッジファンドと結託して郵貯の資金を投機に流そうとする小泉の不正義に、公然と反逆した亀井さんの心境も、大塩と重なるものがあったと思います。残念ながら、大塩も亀井さんも敗北してしまいましたが・・・。

 亀井さんは東大時代は、駒場寮に住んでバイトしながら学費を払った苦学生でした。駒場寮にあった『マルクス・エンゲルス全集』は、「全部読んだ」そうです。

 亀井さん本人は学生運動をしていたわけではないみたいですが、全学連の活動家学生が退学処分を受けそうになったとき、抗議のハンガーストライキをしたそうです。ドクターストップがかかるまで、1週間もやったそうです。

 小泉のような、苦労知らずの親の7光ボンボン3世議員とは、心が根本的に違います。

 私も以前は、マスコミによる「ミスター公共事業」というレッテル貼りの宣伝に騙されて、亀井さんをただの「利権政治家」と誤解していました。亀井さんの書いたものなど読んでみて、全くの誤解であり、自分がマスコミに騙されていたのだと気付きました。

 亀井さんは政調会長のとき、中海干拓を中止し、吉野川可動堰を凍結するなど、総額2兆円以上もの公共事業費を斬りました。利権政治家にこんなことができるでしょうか?

 小泉を見てください。官僚のメンツを守り、ムダな公共事業など一つも止めていません。川辺川ダムや八ッ場ダムのような究極のムダすら止めることができないのです。それで予算総額だけ減らすので、生活関連の本当は必要な事業ばかり削られて庶民を苦しめているのです。
https://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/739472309fb34190d4e7768d8e002ba6


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html#c1

[近代史3] 平和よりも、もっと大切なものがある 中川隆
2. 中川隆[-10693] koaQ7Jey 2019年4月10日 07:17:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1348]


チェ・ゲバラ  世界を変えようとした男 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ErkVFI_HTDE


チェ・ゲバラ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%90%E3%83%A9


▲△▽▼


キューバ革命を勝利に導いた英雄たちの引き裂かれた友情――ゲバラ・カストロ 1/2
http://blogos.com/article/226557/

2人の革命家の圧倒的な存在感

 結末をあえて書えてしまおう。最後にこの作品ではチェ・ゲバラの遺体の映像が出てくる。キューバ革命をカストロと共に先導したが、ある事でキューバを半ば追われて、アフリカ・コンゴ動乱に加わり、39才で南米・ボリビアの大統領命令で銃殺された。横たわるゲバラの映像は世界に配信された。

 それは世界的革命家の栄光のかげもなく、目を見開いた髭面の哀れな反逆者の末路を物語っている様にも見える。共産主義革命を恐れるアメリカ・CIAの手によるものと言われているが、事の真相は闇の中だ。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 しかし、この作品は一見ただキューバ革命の歴史を追っている作品の様に見えながら、何か胸を熱くするものがある。それはやはり個性の異なる二人の革命家ゲバラとカストロの圧倒的な存在感にある。

 たとえ、CIAによる策略やイメージ操作があったとしても大国アメリカ合衆国を相手に、その軍門に下らない為に闘う小国キューバの二人の姿は神々しくすら見えるのである。

 もしかしたら、この1時間弱と言うこの作品の長さは短か過ぎるとも言える。二人の革命闘争は2時間以上あっても良い程、様々な起伏に富んでいる。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


植民地の様相を呈していた革命前のキューバ

 この作品では冒頭のナレーションで「カストロは権力を、ゲバラは革命を欲した。」としている。まるで二人に終始確執があったかの様に。

 だが、最初にメキシコで二人が出会った時、キューバの弁護士だったカストロはアルゼンチンから来た革命について熱く語る青年医師ゲバラに一目ぼれするのである。

 革命前のキューバはあたかもアメリカの植民地の様相を呈していた。キューバは砂糖の原産地として重大な拠点だった。たかが「砂糖」と言うなかれ、「砂糖の歴史」を調べてみるとわかるが、欧米諸国は17世紀ころからカリブ海・南太平洋・南米・西インド諸島等に彼らの嗜好品である砂糖のプランテーションを作るために、アフリカから黒人奴隷などを労働力として入れるなどして、半ば植民地化していたのである。

 キューバは革命前、米国の傀儡(かいらい)だったバティスタ政権、アメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアにほとんどの利益が吸い取られる様な仕組みになっていた。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 最初はほんの小さな武装蜂起に過ぎなかったカストロとゲバラによる動乱が、やがて革命へと転じて行くには、ゲバラのカリスマ性と武装能力、カストロの政治力と戦略性が必要だった。

 1959年バティスタ政権を転覆する。アメリカはこの新政権をただちに承認するが、キューバによるアメリカ企業の財産没収と国有化により、アメリカとの関係が即時に悪化する。カストロはソビエト連邦に接近しキューバの「砂糖」とソ連の「石油」を交換し両国の蜜月が続く。
http://blogos.com/article/226557/


▲△▽▼

キューバ革命を勝利に導いた英雄たちの引き裂かれた友情――ゲバラ・カストロ 2/2
http://blogos.com/article/226557/?p=2


英雄は最後まで優遇されるとは限らない

 この作品では1960年の貴重なカストロによるニューヨーク・国連総会におけるカストロの4時間半に渡る演説の一部も出てくる。「我々は共産主義者ではない。」と言いながらアメリカのど真ん中でアメリカの横暴をカストロは非難したのだ。

 生涯、カストロは「資本主義最大の敵」として50年間で638回もの暗殺計画の対象となった。これは「世界で最も暗殺計画の対象になりながらも生き延びた人物」としてギネスブックにも登録された。

『ザ・ライバル』マンデラVSデクラーク 〜平和へのライバル〜より


 1962年。ソ連の最高指導者フルシチョフが休暇中にとんでもない事を思い付く。

 「そうだ、アメリカに対する抑止力の為にキューバに核ミサイルを置こう。」

 アメリカの鼻先のキューバにである。間もなくアメリカのU-2偵察機がこれを発見し、米ソ入り乱れての核戦争の可能性を含むいわゆる「キューバ危機」が訪れる。あわや世界戦争という直前、どうにかフルシチョフとケネディが交渉の場に立ち危機を回避したが、キューバとアメリカの関係は最悪になる。

 米国と敵対するキューバはソ連に様々な援助を頼るしかなかったが、あろうことか純粋革命家チェ・ゲバラは外遊中の北アフリカのアルジェリアでソ連を非難、「帝国主義的搾取の共犯者」と呼ぶ。ソ連が東欧諸国等に対して搾取的であると言い放ったのだ。

 ソ連首脳陣は激怒。キューバに「ゲバラを追放しなければ援助を削減する」と通告。ゲバラはその事を知り妻と子供を置いて自らキューバを離れる。

 「カストロは権力者」とこの作品では言っているが、これは日本でも海外でも、よくある事だろうと思う。「創業者」「英雄」は必ずしも最後まで優遇されるとは限らないし、この半ば追放に近い出来ごとはひとつの悲劇でもあるし、ゲバラの出国を止めることすらしなかったカストロによる国や組織を守る者の「苦渋の決断」とでも言うのだろうか。

 そしてゲバラはアフリカのコンゴ、南米のボリビアと渡り死去。彼は生前「第二第三のベトナムを作るべきである。」との言葉を発し、大国の支配から小国はいち早く離脱すべきだと説いていたので、当時のソ連の横暴をどこかで感じていたのかも知れない。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 南米諸国はラテンアメリカで、まるで宗主国の様に振舞い続るアメリカ合衆国に対抗するカストロの姿に主義主張を問わず共感した。政治家・カストロは同じ共産圏である中華人民共和国にも接近し一時、友好関係を結ぶが、ソビエト連邦と中国の間で対立が起り、キューバ・中国間の関係は悪化する。

 しかし、毛沢東死去後、経済成長を遂げた中国はキューバにとって重要な援助国になっている。2008年5月「四川大地震」が発生したとき、即座に多くのキューバの医療チームがカストロの指示によって送られる。

 両国の絆はさらに深まる。カストロの政治的感覚は晩年になっても衰えていなかったのだ。そして2016年11月25日死去。

ゲバラが受けた「ヒロシマでの衝撃」

 一方、最後にこんな逸話も紹介しておこう。

 1959年7月15日、革命からわずか半年後、チェ・ゲバラは日本にキューバ使節団の団長として訪問している。戦後、奇跡の経済成長を成し遂げつつある日本にやって来た。自動車工場などを見学し、その時「ヒロシマ訪問」を望んだ。

 しかし、革命を成し遂げたゲバラの重要性をあまり認知していなかった日本政府はそれを望まなかった。そこでゲバラは秘密裏にヒロシマ入りし、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪問した。大きな衝撃を受けたゲバラはその時、中国新聞の記者・林立雄氏にこう語っている。

「なぜ日本人はアメリカに対し、原爆投下の責任を問わないのか。」

また、宿泊先で故国に即手紙を書き

「全ての人はここに来なくてはならない。」

と伝えた。

 ゲバラはキューバに帰国後「ヒロシマでの衝撃」を報告し、キューバではそれ以来、初等教育から広島・長崎への原爆投下の経緯とその結果がかなり丁寧に教育されていると言う。

 それは「キューバ政府とゲバラによる反米教育」だったのか? 「純粋革命家ゲバラの感じた無抵抗な市民への大国アメリカの攻撃に対する怒りの表現」であったのか?

 キューバで育ち、後に小児科医になったチェ・ゲバラの娘、1960年生まれのアレイダさんは2011年の東日本大震災後、福島と宮城を訪れ

「キューバなら国家が先頭にたって復興させる」

と語った。

 そして、現代。米国トランプ大統領はメキシコからの不法移民を一掃すると言った。

 しかし、メキシコを通過してアメリカに入って来るのはメキシコ人だけでなく、国情不安定で国を脱出せざる負えない南米諸国からの移民も多いと聞く。それは歴史的にアメリカや欧州諸国の半ば植民地化され搾取・蹂躙され、過去の清算ができないまま独立したとしても、なかなか安定出来ない貧しい国から脱出してきた人たちである。

『ザ・ライバル』カストロVSゲバラ 〜革命に引き裂かれた友情〜より


 今は亡きゲバラとカストロが生きていたら、このトランプ発言に対しどう反応したのであろうか? 我々はこのカリブ海の小国「キューバと革命家」についてもっと知るべきではないのだろうか。
http://blogos.com/article/226557/?p=2  




▲△▽▼


2017年9月2日 ゲバラ日記を海外進出の反面教師とする
独裁の命運4 風樹茂 (作家、国際コンサルタント)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/10490


 この夏、東京で写真展「チェ・ゲバラが見た世界」(8月27日まで)が開催されたのを機に40数年振りに『ゲバラ日記新訳』(中央公論)を再読してみた。中学1年のときに幻滅したのと同様に、植民化のためにボリビアに土足で踏み入れ、住民にとてつもない迷惑をかけた山賊行為だったと再認識した。なぜ世間がゲバラを英雄視するのかさっぱり分からない。と、同時に、ボリビアの密林の臭い、知人のボリビア人たちの顔をまざまざと思い出した。

 筆者はゲバラが1年弱ゲリラ戦を展開したボリビアのサンタクルス州で2年半ほど鉄道敷設の援助プロジェクトに従事した。その後、数々の海外プロジェクトに関与したが、ボリビアでのゲバラの戦いほど杜撰なものは見たことがない。せっかく克明な日記(海外プロジェクトで求められる日報、週報、月報に相当する)を残してくれたのだから、それを海外進出事業の反面教師として活用しない手はない。


1. ボリビア前史

扱いにくい外様の古参幹部は海外へ

 ゲバラはキューバ革命成功後、工業大臣や国立銀行総裁になるが、はかばかしい業績は上げられなかった。反革命派を粛清する血生臭い粛清や、理想を声高く述べるのは得意だが、他にこれといって活躍できる部門はない。アルゼンチン人で外様である。その上、キューバが後ろ盾となってもらうソ連に対して歯に衣着せない批判までする。このような幹部は外に出てもらうに限る。本人も自分の立ち位置に気がついてそれを望んでいた。

最初の海外進出は大失敗

 ゲリラ戦の場所として選んだのはコンゴだった。1960年にベルギーの植民地支配から独立したが、地域・部族の利害対立からすぐに内乱が始まりベルギー軍の介入を招いていた。一見すると、ゲリラが活動するには絶好の国? けれども、エジプトのナセル大統領やアルジェリアのベンべラ初代大統領は大反対している。「白人のゲバラがブラックアフリカで成功するはずがない」

 案の定、言葉もわからないキューバ軍は国内情勢をまったく把握できないまま、6カ月ほどで撤退する。現地の軍隊は規律もなく、呪術師が支配する社会であった。

 「アフリカは、ほんとうにとんでもない所だ。人間はとっつきづらい、まったく異なるそれぞれの部族が独自の首長と領土と〈くに〉を持っていて、それでいてひとつの国の中にみんな住んでいる。ほんとうにむずかしいけど、彼らが革命を取り入れる可能性はある。キューバ人はその点が上手だから」(『コンゴ戦記 1965』現代企画室 末尾の解説 太田昌国)

2. 杜撰な事前調査
進出国をまた間違える 


ゲバラが最初に潜んでいたボリビア・ラバス。標高3600m

 ボリビアは1952年から64年まで社会主義革命政府が、資源国有化、農地解放などをすでに行っていた。が、副大統領だったレネ・バリエントスがクーデターを起こし、炭鉱労働者などから成る社会主義者への締め付けを強化していた。

 今度は言語も同じスペイン語で、アルゼンチンの隣国だ。コンゴよりは成功の可能性がありそうに見える。けれどもボリビアはアルゼンチンやキューバと比べると、民族、歴史、文化、社会が多様に折り重なる重層的な国で、よそ者が国民を解放できるような所ではない。たとえば、戦後の混乱期に多国籍軍が日本国内でゲリラ戦を展開したとして、成功するか?

進出地域選定の大失敗

 ゲバラが進出先に選んだのは、ボリビア南部、サンタクルス州とチュキサカ州の境である。低地と高地の境目で密林山岳地帯への入口である。降雨が多く蚊やダニも多い。普段は暑いが、6月24日のサンフアンの祝日前後から、時々スル(南)と呼ばれる南極からの冷たい風が吹く。すると朝夕は寒い。鉱山はなく零細農牧業が主体である。村が点在し、人は疎ら。民族的には、高地系の先住民のケチュア族、先住民とスペイン人の混血、低地のグアラニー族との混血、白人などが混在している。


サンタクルス州の小村、人は疎ら

 ゲバラは農民革命を目指していた。ところが、クーデター後選挙で大統領に選ばれたバリエントスはケチュア系先住民の多いコチャバンバ州タラタ出身。演説はケチュア語で行っている。農地解放も続いている。また、先住民にはインディオ基礎共同体あり、共産主義など必要としない。バリエントスは先住民の農民には人気が高かった。今もボリビア史上農民の心を最もわかってくれた大統領とされている。一方左翼系の鉱山労働者やその組合とは対立し、彼らを虐殺している。

 進出地域に相応しいのは、鉱山地域だった。たとえば標高4000mのポトシ(世界史にも登場する銀山があり、今は細々と錫をとっている)、あるいはやはり錫鉱山があった標高3800mのオルロの山中が適切だ。筆者が親しくなったオルロの美術館長は、ばりばりの反米共産主義者だった。


「黒鷲の死」前オルロ美術館長マクロビオ作 (筆者所蔵)

 けれども、高地は酸素が薄い。アルゼンチン人、ましてやキューバ人が活動できる環境ではない? 筆者はポトシで、試しに場末の酒場数軒でビールを何本も飲んだが、夜、心臓がばくばく音を立てて鼓動し、朝まで眠れなかった。

 その反対に、酸素の薄いアンデス高地から酸素の濃い低地に降りてきたコーヤ(後述)は、太腿が膨れ上がり、体調不良となることがある。ヘモグロビンの量が増えすぎるからである。


3. ゲリラ活動

地元組織との連携に失敗する

 海外進出事業は適切な地場の企業との協力が不可欠である。筆者の従事した鉄道事業では、ボリビアの日系企業と合弁することができ、おかげで随分と助かった。ゲリラ事業も同じである。地元をよく知るグラスルーツの革命組織との連携は欠かせない。ところが、ゲリラ開始早々に、ゲバラはラパスを拠点とする共産党の書記長マリオ・モンヘと決裂してしまう。

ゲバラ「ゲリラ部隊の副隊長のお出ましだな」

モンヘ「まさか、ボリビア国内で革命をするのだから、ナンバーワンはおれをおいてほかはない」

 ゲバラの内心はこうだったであろう。

 「ボリビアのサンタクルスに開設したのはキューバ支店だ。革命を成功させた経験のあるおれが支店長だ。ボリビアの地から南米全土に革命支店を広げる」

 謙虚さが欠如した海外プロジェクトは必ず失敗する。 

多国籍軍団を統率できない

 プラント建設の海外事業では、従事する社員の国籍は20〜30にわたる。ゲバラのゲリラ軍団は、キューバ人16名、ボリビア人23名、ペルー人3人、アルゼンチン人のたかだか4カ国程度から成る混成部隊である。だがゲバラはうまく統率できない。とりわけ、キューバ人とボリビア人の間の不信感は最後まで解消しない。

 「私は、先遣隊内にキューバ人を見下す傾向があるのに以前から気付いており、その傾向については昨日カンバが、リカルドとの諍いがあって以来自分のキューバ人に対する信頼感が日増しに希薄になっているとコメントしたことで、いっそう表面化したように思う」(ゲバラ日記)

 ゲバラの撮った写真の被写体の多くは遺跡か工場などの建物で、人は驚くほど少ない。人間が苦手だったのではないか。

 多国籍軍を束ねるには、リーダーか副官が人間関係の機微の中に入り込み、日々不満を解消する必要がある。さもないと、個々員の負の感情が内向し、グループは瓦解する。

地元のボリビア隊員を敵に回す

 「私はパコ、ぺぺ、チンゴロ、エウセビオにも、働かないものは食うべからずと申し渡し、解雇すると宣言した。私は彼らの煙草の配給を一時停止し、彼らの私有物についても彼らよりも困っている同志たちに再配分した」

 この4人は全員ボリビア人であり、「ゲバラ日記」では徴兵不合格組と訳されている。けれども、日常よく使うresacaというスペイン語の意味からすると、二日酔い組としたほうが相応しい。彼らは行軍では始終もたもたしていたようだ。実際どこかの村で地酒を手に入れて、仕事にならないことがあったのではないか。

 解雇と宣言したならば、すぐに出て行ってもらうか、排除する必要がある。まったく別の立場だが、筆者の従事した鉄道事業でも左翼系の活動家が労働者をオルグするために入ってきたので、早々解雇した。

 もし解雇しなければ、それは当時の中南米(80年代)や今の中近東、アフリカなどでは生死にかかわる問題となる。実際、少し前には、アフリカで筆者も勤務したことのある日本企業が企業内の内通者がいたせいもあって凄惨なテロの被害にあっている。

 逆にもし、今後もゲリラとして継続勤務してもらいたいならば、人前で叱責するような面子を潰す行為は避けねばならない。彼らの敵愾心に火をつけるだけである。結局、解雇宣言の3カ月後、彼らは脱走し、ボリビア軍への情報提供者となる。武器、医薬品、食糧、文書類の隠し場所が暴かれたのは致命傷だった。


ボリビアの特殊性を最後まで理解していない

 海外事業を成功させるためには、地域の特殊性を把握し、適正技術、適正規模、適正プロジェクト形態を作ることが欠かせない。だが……

 「カンバとチャパコは軟弱者たちである」

 2人ともボリビアの低地の出身者である。ゲバラ日記ではカンバ族と翻訳されているが、
誤解されやすい。人種や民族による区分ではない。ボリビア全土で低地の人間はカンバ、高地の人間はコーヤといい、文化・生活様式が大きく違う。

 高地はどちらかというと先住民の血が濃い人々が住む。日本人が思い描く、山高帽をかぶってケーナの笛やチャランゴでフォークロ―レを奏でる人々である。けれどもその地域の人間ならば白人であってもコーヤと呼ばれる。勤勉で政治的で忍耐強く倹約家で酒飲みである。労働運動や共産主義に親和的なのはコーヤのほうだ。

 一方カンバの住む低地は、先住民は少なく、混血か白人の血が濃い。人生の価値は享楽的で酒、女、カーニバル。音楽も陽気なクンビアである。ゲリラには向かないし、主義のために死ぬなどばかばかしいと本来考える人々である。

 結局、カンバはゲリラ戦数カ月で脱退を申し出、脱走する。チャパコは精神を患ったまま、脱走せずに最後までつきあい機銃掃射で殺される。なおチャパコとは、アルゼンチン国境のタリハ州の人間を指し、青い目の美人が多く、日本では知られていないが素晴らしいワインの産地である。

 ゲバラは社会的、地理的条件によってゲリラ戦の形態や手法も変わってくると理論上考えていたが、日記にはこのような文化の相違の記述はない。

兵站の杜撰さ

 『ゲバラ日記』には食べ物にかかわる記載が充満している。第二次世界大戦のときのインパール戦や南太平洋での日本陸軍を思わせるほど兵站は杜撰である。食糧や水は現地調達。だから隊員はいつも腹が減っている。子猿、野ブタ、鳥 椰子の芽(パルミータ)を狩猟し、荷物運搬用の馬を次々に殺して食べていく。

 さらに会計事務所のあったラパスやキューバ本社や前衛隊と後衛隊との通信手段さえない。ハンディトーキーも他の無線機器も持っていない。ゲバラがトランジスターラジオでニュースを聞くだけである。

盗み食いが頻発する

 空腹の前で革命は虚しい蜃気楼となる。

 「ミルク缶を取りに出向いたところ、不可解にも23缶が蒸発していることを発見した。モロが48缶置いてきたが、誰にも横領する暇はなかった筈だ」

 「私は、べニーニョを、缶詰を食したにもかかわらずそれを否認したことで、ウルバノを、チャルキ(干肉)を皆に隠れてこっそり食べたことで、そしてアニセトは食べ物に関係することならなんでも熱心に手伝うのに、それ以外はなにひとつ協力したがらないことで非難した」

 ゲリラの生き残りの1人キューバ人のアラルコン・ラミレス(キューバに幻滅し94年にフランス亡命 2016年没)は「8月になると40度の炎暑の中、6日間水がなかった」と述懐している。食糧も水もなければ当然、士気は堕ちる。それどころかボリビア人戦士でキューバ留学経験者のチャパコは精神が崩壊した。

住民を敵に回す

 ゲリラは基本的に金を支払って農民から食糧を調達していた。時には時価の3倍も支払って薬なども買っている。けれども、多雨密林地域ではすぐに道が途絶する。ある程度食糧の備蓄がいる。ジャングルの中での鉄道建設事業でも鉄道のストライキと豪雨のせいで一週間ほど交通が途絶して200人分の食糧が不足しそうになった。隣町の市場に出向いて野菜などを購入したが、市場にあるすべてを購入するわけにはいかない。日本企業が買い占めたと住民の反感が募る。 

 ゲバラにはそういう類の住民配慮が足りなかったか、その余裕がなかった。

 「上下両方からやってくる農夫たちを次々に拘留していったので、多種類の捕虜を捕まえることができた」

 「われわれは生活物資と大量のバナナを積載したトラックを、かなりの人数の農民もろとも強奪した」

 「一軒は家の者全員が逃げ去ってもぬけの殻だったので、そこにいたラバを徴発した。もう一軒の家のものは全然協力的でなかったので、脅しに訴えなければならなかった」

 道案内に農民の男たちを連れていく時には、家に残された女たちは泣きわめいていた。イラクで家々を誰何して回るアメリカ軍と変わるところはない。このような態度では農民を味方にすることなど到底無理。ゲバラは6月と9月の解析で以下のように記載している。

 「農民を補充兵として取り込めないままでいる。彼らは扱いにくい集団である」

 「軍隊が実戦においてより有効性を発揮しつつあり、農民がわれわれを支援するどころか情報提供者になりつつある」

引き際を間違える

「敗北を匂わす風が吹いていた」

「万事が完全なカオスの風を呈しており、なにをどうしたらよいのか誰も分からない」

 3月20日付けの記載である。ゲリラ事業が5カ月弱立った段階で、まだ状況を把握できていない。海外プロジェクトの現場は筆者の経験だと最初の3カ月は何をどうしたらよいのかさっぱりわからないという状況に置かれる。けれどもそのあとには徐々に周囲の環境を理解し、プロジェクトは進捗していくものだ。

 けれどもゲバラのゲリラ事業は違った。なるほど海外プロジェクトや投資の引き際の決断は、誰にとっても難しい。失敗したと分かっていても泥沼に嵌る事例があとを断たない。ゲバラは6月14日の誕生日には「39歳になりゲリラとしての将来についても考えなければならない」と記していたのだが。結局、多くの若い命を死地へと追いやることになる。

山賊としての死を自ら予言する

 ゲバラはボリビアで殺害される7年前に『ゲリラ戦争』を発刊している。その中でこう述べている。

 「ゲリラ戦士は地域住民の全面的な援助に頼っている。これは必須条件である。このことは地域に横行する、たとえば山賊の場合を考えてみれば明快に理解できる。彼らは統制、リーダーへの尊敬、勇敢さ、土地勘など、ゲリラ軍が持つ多くの特徴を備え、とるべき戦術を正しく理解している事さえしばしばである。ただ一つ、欠けているのは人民の支持であり、だから彼ら一味は必然的に軍や警察に捕らえられて掃滅される」)『ゲリラ戦争 新訳 チェ・ゲバラ 中公文庫』

 67年10月8日ゲバラは部下とともに ボリビア軍に捕らえられ、翌日銃殺された。

 「写真家 チェ・ゲバラが見た世界」は大盛況だった。ある中年女性は涙をながさんばかりに、「感動したわ」と言って出てきた。こうして世間はゲバラを英雄として崇めていく。

 一方、私は中学生のときから、世間を信じることができなくなった。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/10490


▲△▽▼

2017.10.15
50年前の10月9日にボリビアでゲバラを殺したCIAはゲバラが66年までいたコンゴでもクーデター

今から50年前、1967年10月9日にエルネスト・チェ・ゲバラがボリビアで殺された。その当時のボリビアを支配していたレネ・バリエントス・イ・オルトゥニョは1964年11月の軍事クーデターで実権を握った独裁者で、アメリカ大使としてボリビアにいたダグラス・ヘンダーソンからゲバラを処刑するように命令されていたと言われている。その当時、まで存在が認められていなかった電子情報機関のNSAはゲバラの動きを正確に把握していた。

ボリビアでゲバラに撃ち込む銃弾の位置も指示していたCIAのフェリックス・ロドリゲスはジョージ・H・W・ブッシュ(エール大学の学生だったときにCIAからリクルートされた可能性が高い)と親しく、ベトナム戦争ではCIAの秘密工作に参加していた。

その工作とは麻薬取引や住民皆殺し作戦とも言えるフェニックス・プログラムで、テッド・シャックレー、リチャード・シコード、リチャード・アーミテージなど1980年代に浮上したイラン・コントラ事件(イランへの武器密輸とニカラグアの反革命ゲリラに対する違法支援)で中心的な役割を果たした人物も含まれている。後に統合参謀本部議長や国務長官になったコリン・パウエルはフェニックス・プログラムの内部告発をもみ消す仕事をしていた。シャックレーもブッシュと親しい。

ゲバラは1966年11月にボリビアの首都ラパスへ入っているが、その前、1965年の初めからコンゴで活動していた。コンゴは金やコバルトなどを含む鉱物資源に恵まれた国で、ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジック系のユニオン・ミリエール(ユミコアへ名称変更)がウラニウム鉱石を採掘している。

1940年にドイツはウラニウム鉱石1200トンをユニオン・ミリエールから入手している。フランクリン・ルーズベルト米大統領が急死した1945年4月12日、アメリカ軍はドイツの施設でウラニウム鉱石約1100トンを発見してソ連軍の手が届かない場所へ運び去ったが、それはその一部だ。ルーズベルトはソ連を同盟国と考えていたので、急死しなければマンハッタン計画を推進していたグループにとって面倒なことになっただろう。(Simon Dustan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)

ユニオン・ミリエールで重役を務めたことのあるラウンデル・セシル・パーマーはチャールズ・ハンブロと同じように、イギリスの破壊工作機関SOEの中心的な人物。ハンブロは銀行一族のメンバーで、マンハッタン計画にも関係していた。アメリカの情報活動や破壊活動はSOEやイギリスの対外情報機関MI6を師としている。

資源の宝庫、コンゴは1960年2月に独立し、6月の選挙でパトリス・ルムンバが初代首相に選ばれる。それを受け、コンゴ駐在アメリカ大使のクレアー・ティムバーレークはクーデターでルムンバを排除するように進言するが、同大使の下には後に国防長官となるフランク・カールッチがいた。ドワイト・アイゼンハワー大統領は同年8月にルムンバ排除の許可を出している。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

アメリカ支配層に選ばれたモブツ・セセ・セコが9月にクーデターを成功させ、12月にルムンバは拘束された。1961年1月17日、ジョン・F・ケネディが大統領に就任する3日前にルムンバは刑務所から引き出されてベルギーのチャーター機に乗せられ、ルムンバの敵が支配する地域へ運ばれて死刑を言い渡され、アメリカやベルギーの情報機関とつながっている集団によって殴り殺された。1月26日にアレン・ダレスCIA長官はコンゴ情勢について新大統領に説明しているが、ルムンバ殺害について触れていない。(前掲書)

そのケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺され、その2年後にゲバラはモブツが支配するコンゴへ入って活動を始めたわけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710150000/

▲△▽▼

「スリルに生き、スリルに死ぬ」ことを求める人はチェ・ゲバラになれる

アルゼンチンに生まれ、カストロと共にキューバ革命を成功させた筋金入りの革命家、チェ・ゲバラは幼児の頃から喘息に苦しむ少年だったが、異様なまで激しいスポーツを好む性格があった。じっとしていられない子供だった。

大学は医学部に入学したのだが、この頃にオートバイでラテンアメリカを放浪して回り、医学部を卒業してからも、再びラテンアメリカを放浪して回った。その後、メキシコでカストロ兄弟と出会うと、危険な革命に身を投じるようになり、死の危険の中でキューバ革命を成し遂げている。

ところで、こんなことを思わないだろうか。

戦場は非常に過酷な場所であり、飲み物、食べ物もゆっくりと取れず、深刻なケガをする確率も高く、神経が休まる暇もない。しかも場合によっては敵と向かい合って撃ち合い、殺したり殺されたりする。

だから、誰もこんな「仕事」に自分から就きたいと思わない。まして、ゲリラ部隊は正規軍と違って装備される武器も限界があり、死の危険はことさら大きい。もし、「ゲリラ」も職業であるとしたら、そんな仕事は誰も就きたいと思わないはずだ。

しかし、そんな「誰も就きたがらない仕事」なのに、チェ・ゲバラのように、少なからずの人間が過酷な現場に浸りきり、のめり込むのである。なぜ、そんなところに行きたいのだろうか?(鈴木傾城)

過酷で、危険で、悲惨で、極限的

チェ・ゲバラだけではない。一度、戦場に送り込まれた人間の中には、ある一定数の「戦争中毒者」が生まれるというのはよく知られている。彼らは過酷な戦場で戦うことを欲して、身体も、考え方も、常識も、すべてが「戦場」という場所に合うようにチューニングされていく。

だから、戦場から外されて平和な世界に戻っても、まったく馴染めなくて、またもや危険な戦場に戻り、それで満足する。チェ・ゲバラもそうだった。

根っからの「革命家」だったゲバラは安定した環境にはまったく関心がなく、次々と「戦場」を求めてさまよっていた。1966年にはアフリカのコンゴにいた。コンゴ動乱に参加していたのである。

1960年代は東南アジアのベトナムで共産主義者ホー・チミンが強大なアメリカを相手に戦争を続けていた。ゲバラは「二つ、三つ、さらに多くのベトナムを作れ!」と1967年4月16日、三大陸人民連帯機構から世界に向けて叫んだ。


『どこで死がやってこようと我々の戦いの雄叫びが誰かの耳に届き、我々の武器を取るために別の手が差し出され、他の人たちが立ち上がるなら、喜んで死を受け入れよう』

結局、革命を追い続けてきたチェ・ゲバラは、ボリビアで「反体制ゲリラ」として捉えられて銃殺された。39歳だった。

チェ・ゲバラは医者の免許を持っている。だから革命家にならなくても医者として平穏な人生を送ることもできた。しかし、そうしなかった。チェ・ゲバラはキューバ革命を成功させた。だからキューバでカストロと共に政権の座に座っても生きていけた。しかし、そうしなかった。

戦場は、誰が考えても、過酷で、危険で、悲惨で、極限的な場所である。そんなところに誰も行きたくないと思う。しかし、チェ・ゲバラはそうではなかった。まさにその極限(エクストリーム)を求めていたのだ。


自ら身を投じて突き進んでいく人間がいる

過酷であればあるほど、中毒のようになるケースはチェ・ゲバラのような戦場の兵士だけではない。たとえば、スポーツの世界でも、ボクシングや格闘技は誰が見ても危険なスポーツに見える。

ボクシングは、人間のもっとも重要な器官である「脳」を互いに殴り合うゲームである。顔面を殴り合い、脳にダメージを与え、相手が立てなくなるまで痛めつけるゲームだ。もちろん、自分が痛めつけるだけならばいいが、往々にして自分もまた痛めつけられる。

試合中はもちろんのこと、練習中も殴られ、叩かれ、しかもロードワークから減量まで、人間の身体をこれでもか、これでもかと痛めつける。トップに立って大金を儲けることができるプロはほんのわずかだ。

それで、こんな割の合わない野蛮なスポーツは廃れているだろうか。

いや、廃れるどころか、大勢の男たちがボクジング・ジムの門を叩いている。過酷で、危険で、悲惨で、極限的なスポーツに自ら身を投じて突き進んでいく人間がいるとは思えないが、それが「いる」のである。

彼らはまるで中毒になったかのように、過酷な世界から抜け出さない。ハマったら、抜けられない。カネのためだろうか。もちろん、カネも重要な要素であるのは間違いない。

しかし、彼らはそれだけではない「何か」を求めている。それは何か。極限的な環境だ。殺すか殺されるか。生き残れるか死ぬか。その極限(エクストリーム)こそが彼らの原動力になっている。

チェ・ゲバラと同じだ。


『戦いに行くために、快適な生活を捨てる覚悟のある者だけが、革命家の名に値する』


新奇性とスリルを求める人々

生き残れるかどうか分からないような極限(エクストリーム)の極地に立って、自分の生死をその瞬間に賭けたいという人間はいる。中東に突如として誕生した超暴力武装集団「ISIS」は、世界中からそうした志願者を集めていた。

このような人間がいることを、普通の人は理解できない。しかし、彼らは「地獄に行きたい」と叫ぶ。こうした人間を「戦争の犬」と言うのは、よく知られている。戦場で犬のように嬉々として走り回るのである。

アメリカのCIA(中央情報局)も、こうした戦争の犬を使って、途上国や戦乱国家でアメリカの正規軍が表立って動けない時に、ひとつの駒として使っているのは有名だ。途上国のクーデターや暴力デモの背景には、こうした戦争の犬が暗躍している。

極限(エクストリーム)に取り憑かれる人間は、いったい何に取り憑かれているのか。

言うまでもない。「スリル」である。

そのスリルは常に「死」と隣り合わせとなっている。テンプル大学のフランク・ファレイ教授は、危険なスポーツにのめりこみ、新奇性とスリルを求める人々をスリル(thrill)の頭文字を取って「T型人格」と定義した。

「T型人格」はスリルに大きな快楽を持つ。その快楽は危険であればあるほど強い。そのため、常に死を試すようなスリルを求める。つまり、こういうことになる。戦争中毒になった職業軍人は、戦場に「スリル=快楽」を感じている。

過酷であればあるほど、スリルが身体を痺れさせ、強烈な快楽を覚えてしまう。もうそこから離れたいとは思わないし、離れるどころか他人が止めても突き進んでいく。「危ないから行くな」と言われても、スリルの中毒になってしまっているので本人も止められない。

かくして、ボクサーはパンチドランカーになっても引退せず、ゲリラは撃たれて死ぬまで戦場を巡る。そして、最後はスリルによって散っていくのである。世の中は、一定数「T型人格」の人間が存在する。チェ・ゲバラもそうだった。ゲバラはこのようにも言っている。


『先のこと? 正直言って、自分の骨をどこに埋めることになるのかも分からない』

ゲバラの生き方を理解できるだろうか。そして、そこに心酔し、その生き方をなぞることができるだろうか。できる人とできない人がいる。できる人は間違いなく「T型人格」、すなわち「スリルに生き、スリルに死ぬ」人である。

逆の言い方をすれば、「スリルに生き、スリルに死ぬ」ことを求める人は、チェ・ゲバラになれる。(written by 鈴木傾城)


ゲバラの生き方を理解できるだろうか。そして、そこに心酔し、その生き方をなぞることができるだろうか。できる人とできない人がいる。できる人は間違いなく「T型人格」、すなわち「スリルに生き、スリルに死ぬ」人である。
https://blackasia.net/?p=11690


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html#c2

[近代史3] 平和よりも、もっと大切なものがある 中川隆
3. 中川隆[-10692] koaQ7Jey 2019年4月10日 07:19:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1349]

1960年代から1970年代前半の学生が全員 反米左翼、毛沢東崇拝になった理由

17 dead in 'horrific' high school shooting - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=xgIJosk0pnA

暴力も自殺も、まるで伝染病のように人々の心に乗り移るという事実を知れ2019.04.08
https://blackasia.net/?p=12486



私たちは「伝染病」と言えば、ウイルスが人から人へと伝染していくインフルエンザのようなものだけを想像する。

しかし、伝染するのは病原菌だけではない。

強い感情もまた人から人へと伝染していく。たとえば、憎悪だ。それはとても強い感情なので、共鳴するにしても反発するにしても、相手と同じ憎悪が当事者に発生して、どんどん広がっていく。

憎悪は理性ではなく感情である。感情は往々にして理性を超えるので、憎悪が蔓延すると理性は働かない。

個人的な憎悪もそうだし、集団的な憎悪もそうだ。それが国家的な規模の憎悪になることもある。そういった憎悪は、しばしば紛争や対立を生み出す元凶となる。そして言うまでもないが、暴力もまた伝染する。

秩序だったデモの一角で暴力が発生すると、それが見る見るエスカレートしていくのは、それが紛れもなく「伝染」するものだからだ。(鈴木傾城)


「強い感情」が拡散していく

フランスは2018年11月17日から「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト運動)」という政府に対する抗議運動が始まった。「燃料税を引き下げろ」「自動車税を引き下げろ」「貧困層の生活水準を改善しろ」という要求が、マクロン政権の退陣要求へと広がっていったものだ。

このデモはしばしば破壊と暴動につながっているのだが、いったん暴動が起きるとその暴動はすぐに全国規模で広がっていく現象が知られている。

過激な言動がテレビやインターネットで克明に映し出されると、それがより過激行動を生む。暴力は伝染していったのである。

ベネズエラでも首都カラカスで激しいニコラス・マドゥロ打倒のデモが起こると、それは瞬時に地方都市に伝播して広がっていくのが知られている。暴力が吹き荒れると、それは「伝染」していくのである。

これは別に今に始まったことではない。

殺人も同じく、伝染していく。世界のどこかで一度でも耳目を集めるような巨大テロが起きると、世界各国でテロが「伝染」して暴走していく。

2014年から2018年までシリア・イラク一帯で猛威を振るった超過激イスラム暴力集団「ISIS」の指導者は、インターネットで斬首や爆破によって損壊した遺体の動画を上げ、「世界中でテロを起こせ!」と扇動していた。

どうなったのか。インターネットでリアルな暴力を見せつけられた人々に「暴力感情」が乗り移り、まるで伝染病のようにテロが世界に広がっていったのだ。

暴力は人種や国をやすやすと超越して放射状に影響力を放っていく。

爆破が起きると爆破事件も伝染して続いていく。自爆が起きるとそれも伝染して自爆事件が続く。戦争が起きると戦争まで伝染して広がっていく。

暴力は人間の感情を激しく興奮させる伝染的効果がある。その「強い感情」が拡散していく。激しい感情は分かりやすく、一方的で、強力なので、その伝染力もまた強力なのだ。

自殺もまた伝染するという事実

2018年2月16日。フロリダ州にあるマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校で、退学処分を受けたニコラス・クルーズという19歳の男が、武装して高校に乗り込み、火災報知器を作動させ、生徒が避難を始めたところでAR-15ライフルを乱射するという事件を引き起こした。

この事件では、17人の生徒や教職員が死亡した。

ところで、最近になってこの銃撃事件で生き残った生徒たちが相次いで自殺を図っていることが報告されている。

生き残った生徒は親友が目の前で死んでいく姿を見て大きなショックから抜けられず、自らも引き寄せられるように死を選んでいったのだった。憎悪や暴力と同じく「死」もまた人から人へと伝染していく。

自殺とは何か。自殺とは「自分自身に対する暴力」である。暴力が他者に向かうか自分に向かうかという違いだけで、自分に向かった暴力が自殺となるのだ。

カリスマ的な有名人が自殺や死亡すると、それは強い感情を放射状にまわりに引き起こして、感受性の強い人を巻き込んでいく。日本でも、香港でも、アメリカでも、芸能人が自殺した後に、ファンが後追い自殺をしていく現象はよく知られている。

マイケル・ジャクソンが突然死したのち、世界各国で後追い自殺するファンが続出したこともあった。

全世界でそのような現象が起きており、自殺もまた伝染することが何度も何度も確認されている。

サダム・フセインが絞首刑にされたあと、その映像が出まわってアラブ圏の人々にはとりわけそれにインパクトを受けた。そこでどうなったのかというと、それからアラブ圏で首吊り自殺が次々と拡散していったのだった。

西側諸国にとってサダム・フセインは悪人だったかもしれないが、アラブ諸国の一部の人々にとって、サダム・フセインは神にも等しいカリスマだったのである。カリスマの死は、伝染病のように死を伝播させていた。

人間は感情の伝染病に無防備である

他人が死んだから自分も死ぬというのは、もちろん理性的なことではない。しかし、それは「強い感情」によって突き動かされているものであり、理性を超えたところにあるものだ。

だから「憎悪や暴力や死」の伝染というのは、いったんそれに取り憑かれると、理性ではコントロールできない。激しい感情が人々の熱狂を生み出し、理性を消し去り、終点に向けて突き動かしていく。

憎悪が伝染し、暴力が伝染し、死が伝染する。それは、もう「経験則」ではない。科学的に証明された現象でもある。

人間の感情が伝染する理由のひとつとして、科学の世界では「ミラーニューロン」という脳神経細胞が作用していることが突き止められている。ミラーニューロンとは何か。直訳すると「鏡の脳神経細胞」となる。

ミラーニューロンは1996年に確認されたものだ。他人が行動しているのを見ると、見ているだけで自分もまた脳の同じ部位が活動していく。

相手があくびをすると自分もあくびが出る。相手が泣いていると自分もまた涙が出てしまう。相手が興奮していると自分もまた興奮する。それは、あたかも自分が同じ行動をしているかのように感じさせる。

相手が何らかの感情を発火させることによって、ミラーニューロンは反応して同じ感情を呼び起こす。

ところで、それは何の役に立つのか。それは「他者の行動を即時に理解する」ことに対して役に立っている。ミラーニューロンがあることによって人は相手の感情や気持ちを推し測ることができる。人間が社会性を確立するために、ミラーニューロンは必要不可欠なものだったのだ。

しかし、それは「負の側面」もある。それが「憎悪が伝染し、暴力が伝染し、死が伝染する」というものだった。だから、人々は他人の感情に影響されて、憎悪がそこにあったら憎悪を感じ、暴力がそこにあったら暴力の感情に巻き込まれる。

にも関わらず、感情が伝染病のように伝播していくという事実はあまり意識されていない。自分が「感情の伝染病」にかかるということも意識されていない。意識されていない以上、人間は感情の伝染病に無防備である。(written by 鈴木傾城)


「憎悪や暴力や死」の伝染というのは、いったんそれに取り憑かれると、理性ではコントロールできない。激しい感情が人々の熱狂を生み出し、理性を消し去り、終点に向けて突き動かしていく。
https://blackasia.net/?p=12486

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html#c3

[近代史3] 平和よりも、もっと大切なものがある 中川隆
4. 中川隆[-10691] koaQ7Jey 2019年4月10日 07:20:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1350]

1960年代から1970年代前半の学生が全員 反米左翼・毛沢東崇拝になった理由 _ 2

パラノイア・統合失調症は伝染病として感染する
1960年代から1970年代前半の学生の反米左翼・毛沢東崇拝は憑依型の感応精神病


フォリ・ア・ドゥ folie à deux
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html


1.精神病の感染

 果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。

 人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。

 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。

 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。

 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。

 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。

もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。

これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。

Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。

最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。

 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。

 この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。


フォリアドゥの治療

 この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。

 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。

 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。

必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。

2人は同じ妄想を共有していたのだった。


 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。

しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。

 今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。


古いタイプの感応精神病

 続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。

 昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。

あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。

そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。

父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。


 悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。

 これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いた


こっくりさん
http://homepage3.nifty.com/kazano/kokkuri.html


の例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。


 昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。

 発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき

「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」

などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。

これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師K に祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。

 さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。

 こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、

「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」

と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。

 こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。

まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。

次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、

「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、

「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、

「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、

ものもいえず苦しげにもがいているもの


など憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。

このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。

 さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が

「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」

と提案した。すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。

 これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。


家庭内幻魔大戦


 さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。

 昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。

 彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。

 そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。

 さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。

 宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!

 家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。

 Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。

 長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。

「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。

父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、

「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。

 しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、

「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば

「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。

 その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。

 昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。

 昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。

 28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」

 彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。

「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。

見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」

 やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」

 家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。

「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」

「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」

「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」

「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」

「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。

 笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。

 昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」

 「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。

また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。

 昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。

「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。

 きのう書いたとおり、困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。入院3日目より陽子は

「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」

と訴え、母の名を叫びながらノートにも

「お母さんお月さんはありますね」

「お母さんを離れては私はありません」

「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」


などと書いた。母と会わせると抱き合って

「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」

と語り合っていた。


 入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。

 第2週、娘は

「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」

「地球も宇宙も月も捨ててしまう」

「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」


と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると

「あれは亡霊です人間ではありません」

と逃げ出した。主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、

「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」

と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。


 母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。

「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」

と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。

 しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。

 昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。

「よい月が出ているから安心しなさい」

と主治医が言うと一応鎮まり、

「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」

と質問したという。

 かくして陽子は再入院。第1週には

「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」

「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」

などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。


 入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、

「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」

といい、2、3時間後には

「先生! オールマイティになってください」

と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり

「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。しかし飛べずに興奮し始め、「過去も現在もなくなってしまえ」

と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。

 念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。

 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。

 論文の著者はこう結んでいる。

「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。

 つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。
http://psychodoc.eek.jp/abare/folie.html


という訳で、

大学は中世の人里離れて隔離された山奥の村落と同じで、すぐに憑依型の感応精神病が猛威をふるってしまうのです。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html#c4

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
191. 中川隆[-10690] koaQ7Jey 2019年4月10日 08:08:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1351]
平野憲一の株のお話 2019.04.10 。

 昨日の日経平均は小幅反発。

全体は弱含みでしたが、後場に入り戻し気味で引けもプラスになったのは、日銀ETF買いが入った為です。

1月16日にTOPIX前場マイナス0.52%の小幅下げでも買いを入れていましたので、この日マイナス0.55%で買いが期待されていましたが、予想通り買って来ました。
http://kasset.blog.fc2.com/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c191

[近代史3] 平和よりも、もっと大切なものがある 中川隆
5. 中川隆[-10689] koaQ7Jey 2019年4月10日 08:21:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1352]

回心者ブッシュの演説に聞き入る「十字軍」兵士達


アメリカには「ポーン・アゲン」を なのり、そう呼ばれる人びとがいる。 人生の道半ばで、神に、キリスト に、聖書に出会い、キリスト教徒とし て新しく生まれ変わった人びとであ る。改宗ではなくて、回心と再生を誓 う、プロテスタント教会のなかの行動的な一派である。

◆40歳にして「回心再生」

ブッシュニ世はボーン・アゲンのひ とりになった。飲酒にふけって、安易 な生活を送っていたのが、名高い伝道師の説教を聞いてからは、四十歳にし て酒を断ち、回心再生の人となった。

朝は祈りと聖書の読誦にはじまり、閣議も祈りではじまる。

演説には聖書 のことばがちりばめられている。

「ア メリカに昧方しないやつは敵だ」というブッシュニ世の人物を特色づける発 言も聖書からでている。

「わたしの側 に立たない者はわたしに逆らう者、わたしと共に集めない者は散らす者である」


神仏の信仰を問わず、ボーン・アゲ ンの宗教体験をもつ人びとのおおく は、個人の内面の間題として回心をうけとめている。

ところが、アメリカの 「生まれ変わり」は異様に猛烈である。かれらは公の場で回心の体験を声高 に語って、人間は罪を負って生まれた存在であるから回心しなさい、改俊しなさいと、説得と折伏の活動に訴えることを神に奉仕する使命と信じている。

その特徴は徹底した二元論である。人間は神に選ばれて救われる者と、救 われない者に分かれている。回心者に は永遠の平和、福音に耳ふさぐ者は悪魔の子で永遠の地獄が待っている。

善と悪、神と悪魔、味方と敵、白と黒、光と闇が現世を二分して戦ってい るという論理を用いて、迷える小羊に選択をせまるのである。

原理主義(ファンダメンタリズム) はイスラムの 「専売」のように思われて いるが、この 言葉と運動は はじめて一九 二〇年代アメ リカの白人プロテスタントの環境からうまれた。

ボーン・アゲンは原理主義の三つの 教条を継承している。

聖書に書かれてあることはすべて神の言葉であって、解釈や考証はゆるされない。

人間は神によってつくられた被造物で、サルから進化したなどという「妄説」はゆるされない。

やがてキ リストがこの世に再臨して至福の千年 が始まるから、神への奉仕にいそしまなければならない。


◆悪魔うけいれる土壌

最近のギャラップ世論調査による と、アメリカ人の48%は神が人間をつ くったと信じ、28%が進化論に傾いている。そして、悪魔の存在を68%が信 じている。

テロリズムも「九・一一」の悲劇も、バグダッドに巣食う悪魔の仕業だ という圧倒的な政治宣伝がたやすくう けいれられる精神的土壌がそろっている。 プロテスタント教会の少数派であっ たボーン・アゲン原理主義と、帝国を夢みる新保守覇権主義の二つの特殊な 潮流と人脈が、アメリカ政治の中枢を乗とってしまった。

神の下なる道義の国アメリカの指揮 官ブッシュニ世は、「万軍の王の王、主の主」(ヨハネ黙示録)として、神の御業を実践する十字軍に立つのであ る。

しかし、利得の追求を宗教的熱狂で紛飾した十字軍は、中東のみならず、 世界の現状にひそむ限りない複雑さ と、そして、人間の惨害を無視して強行されるのだから、前途には、とほうもない魔の陥弊が待っている。


現在の狂ったアメリカ人の精神構造を探るには、アメリカを覆っているキリスト教原理主義的教義が分からないと理解できない。

回心再生と言ったって何のことか分からない。

回心再生して神に仕え、そうでない福音に耳を塞ぐ者たちを、悪魔の子として永遠の地獄に突き落とすことが、彼らの使命なのだ。


このようなキリスト教原理主義の教義が分かっていれば、ラムズフェルドの冷酷さも理解できる。

彼はアフガニスタンの戦場における、タリバン兵の捕虜達をクンドゥスに集め、爆撃して皆殺しにした。悪魔の子として地獄に突き落としたわけだ。

彼らにとっては異教徒は人間とはみなさないのだ。
http://www.asyura2.com/0304/bd25/msg/114.html


キリスト教原理主義

キリスト教原理主義の本質は、主に米国が過去に行った過失を正当化できるからこそ普及しているのであり、キリスト教よりもユダヤ教の亜種に近い性質を帯びている。

プロテスタントといえば、多くの日本人はルター派とカルバン派しか思いつかないだろうが、英米のプロテスタントの多くは、英国国教会の亜種である。

英国国教会は、設立当初から血塗られている。
ローマ教会が離婚を許さないのを理由に、ローマ教会を離脱して英国王が首長となる教会を設立したのであるが、そのヘンリー8世は6人の妻を持ち、2番目の妻アン・ブーリンと5番目の妻キャサリン・ハワードを姦通罪で処刑している。6人のうち死別は3番目の妻ジェーン・シーモアのみである。
英国国教会の成立には、ローマ教会を通して仏の影響力を廃したかったのもあるだろう。アビニョン捕囚(1309〜77)の影響でフランスはローマ教会への影響力を強化していた。

また、ローマ教会自体が各国の王の上に己の存在を置く状態であり、英国内の反発があるからこそ、英国国教会は存続したのだろう。
つまり、設立自体が、エゴイズムとナショナリズムが動機である。
そのため、エリザベス一世時代に英国国教会から清教徒が反発して分離するのだが、彼らがローマ教会へ戻らずに新しい諸派を建てていった理由も、ナショナリズムによるローマ教会への反発があった。

もちろん、当時のローマ教会は相当腐敗していたのも事実だ。
つまり、英米のプロテスタントの場合、ルター派とカルバン派ほど純粋な動機とは言い難い部分が元来強かったのである。


ローマ教会を離れた時に、教皇に替わる宗教的権威は、何になるか。

自派内のヒエラルキーの頂点である。
古い宗派の中で頂点を極めることは難しいが、新派を建てれば己自身が頂点になりうる可能性がある。

「英国人は六十の宗派を抱えているが、料理のソースは一つだ」というイタリアの諺があるほど、英米のプロテスタントは多数の派がある。
己が宗教的権威になりたいという我欲こそが、多数の派が存在する理由の最大の要因ではないかと憶測している。

一番の問題は、聖書無謬性という偏向なのだが、これはルター派が聖書中心主義を唱えた影響から英米のキリスト教原理主義に多い。
キリスト教において本来一番大切なのは、イエス=キリストの言葉であった筈だが、イエス=キリストの言葉と矛盾する見解を米国人が頻繁に出すのは、聖書無謬性の影響ではないかと思う。

聖書無謬性、というよりも、旧約聖書無謬性こそが、キリスト教原理主義の中心に存在するのではないか。

旧約聖書は、無謬どころか矛盾だらけだが、キリスト教原理主義で重要視されているのは、旧約聖書の内容とヨハネの黙示録なのである。
ヨハネの黙示録の諸派にとって都合の良い解釈することと、旧約の内容が、キリスト教原理主義の根本のようだ。
これでは、キリスト教というよりも、選民思想が極端に強いユダヤ教の亜種である。


まず、北米インディアンの土地を奪ったことについては、「アメリカは約束の地である」と説明する。

鉄砲隊に向かって「特攻」を続けた北米インディアンを、虐殺し続けるのに当たって、「北米インディアンは聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と説明する。

奴隷貿易の中心は実は英国だったが、「黒人は聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と同様に説明している。

聖書の無謬性という信仰を利用することによって、自分達のエゴイズムや貪欲な物欲、選民思想を合理化できるのだ。

どんな人間だとて、異民族でも多数の人間を無差別虐殺すれば、潜在的に罪悪感を感じるものである。
もちろん、本物の「見せかけだけの善人」ならば、潜在的にも罪悪感を感じないだろうが。
米国人の心に在った潜在的罪悪感や不安感を薄れさせ、自らの虐殺・軍事的及び経済的侵略を正当化するために、聖書無謬性は、実に利用価値の高い説なのである。

聖書無謬性は、選民思想を強化し、エゴイズムの発現と経済侵略を正当化する。
だから、英国は「死の商人」として長年成功できたのだろう。日本で有名なグラバーも、英国の武器商人である。

第二次世界大戦後、英国の国土は荒廃していた。
戦争の被害のない米国が「世界の中心」となったのは必然であるが、その世界の中心とは、「世界の武器工場」なのである。この情けない地位は、この先当分揺るぎそうにない。

人殺しで儲ける「商売」は、私は世界中で最も卑しい職業だと思う。
殺傷兵器を多数生産することにも、自己正当化と合理化が必ず必要になる。
「我々は、民主主義を世界に普及するために武器を製造しているのである」とか工場で合理化の言葉を言わなければ、現場の労働意欲が必ず低下していく筈だからだ。


米国で武器を多数製造しなくても、たくさんある別の産業に大半を転換すればいいだけの筈だ。日本は、戦後ちゃんとできたのだから。
だが、恐らく、最早不可能だろう。

なぜなら、米国は「民主的な豊かな社会」から「憎悪と恐怖の対象」「言論を弾圧する強国」へと変質して行っているからである。
報復を恐れて先制攻撃し、無差別攻撃するために、他国民の憎悪と怒りが増し、死を賭しても抵抗を表したいという人々をどんどん増やしているという、ごく当たり前の論理が、米国人には理解できないようだ。

恐らく、欧米人以外の人々を、無意識下で「人間」と認めていないからである。

世界中から恨まれ憎まれていることを、米国人の大半が9.11まで気づかずに済めたのは、エバンジェリカルが米国民が潜在的に持つ罪悪感や不安感を合理化し、選民思想を強化してくれているためである。

戦争があるたびに、米国内のエバンジェリカルは信者数を増していく。
今や、聖書無謬性を信じる米国人が半数以上なのではないか。

例え、神が言ったことが正しかったとしても、転記を続けた古代ユダヤ人が自分達に都合の良い内容に書き換えなかったと何故信じられるのかは、理解に苦しむ。
古代ユダヤ人の知っている世界しか書かれていないからといって、それ以外の土地に住むのは人間ではない、あるいは被差別民族だと信じられるのは、何故なのか。
「木を見る西洋人 森を見る東洋人」に従えば、西洋人の世界観があまりに単純だからと説明できるだろう。
そんなに、世の中、単純なわけなかろうが。
あらゆる物事は、複雑に絡み合っている。
人体の一部が悪くなれば、全体に影響が及ぶようにだ。

潜在的罪悪感を引きずるからこそ、米国は犯罪大国になったのではないか。


エバンジェリカルは「核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記 朝日選書」によると、ヨハネの黙示録の「ゴグとマゴク」、つまりイスラエルに進攻して戦う二つの大国とは、ロシアと中国だと教えているそうだ。

信者を増やすために、「核戦争はすぐ来る」とエバンジェリカルが米国民の恐怖を煽れば煽るほど、「どうせ先はないんだから」と自暴自棄の心境に陥り、犯罪に走る者は増えていったのだろう。

潜在的罪悪感や不安感は、潜在的犯罪者を増加させていき、米国民の人心を荒廃させて行ったのである。

「人のふり見て我がふり直せ」と言う。
経団連が武器輸出を求めた結果、内閣が勝手に、当座米国にのみミサイルを輸出することに決めてしまったが、これは米国の轍を踏むことになるだろう。
潜在的罪悪感を合理化する装置としての宗教は、日本において国家神道と靖国である。

次第に国粋主義者が再度増えて行っている現状を、よく考えてほしい。
米国の事実上支配下に入っている日本では、精神的には戦後の混乱が続いたままなのである。
恐らく、潜在的罪悪感や社会の矛盾を合理化するために、日本人の多数が、再び自発的に国家神道と靖国に縋り始めたのである。

それを否定する者に対して、「非国民」扱いが始まっている。
戦後の精神的混乱を「日教組の偏向が」等とする、安易な合理化を続けているようでは、昭和初期と同じ状況を自ら作り出してしまうだろう。

そして、潜在的罪悪感と社会の矛盾を合理化するのに、靖国では駄目だと考える人々が新・新興宗教に縋っていくのである。
この状況が長く続けば、オウムのような極端な教義を必要とする人々が増えていくはずだ。

武器輸出は、第二・第三のオウムを作り出し、アーレフを強化する。
エゴイズム、利己主義と物質主義、利益優先主義、選民思想などの、「アメリカナイゼーション」が「グローバリズム」の名で一層進行していけば、犯罪発生率が増加するのは当然である。


物事は連鎖していると考えるのは、東洋的発想らしいが、過去の清算が充分に済まないならば、潜在的罪悪感や不安感が、国を誤った方向へと導くのは避けがたいだろう。

良い商品を世界に供給するのを止めて、死の商人への道を進むのが、日本国の将来のために素晴らしいことと思いますか。
経済的論理のみを追求すれば、犯罪発生率は高まり、要人暗殺や報道機関への武力攻撃等の右翼テロが頻発する時代をもたらすだろう。
その先にあるのは、五‐一五事件(1932年犬養毅首相暗殺)、二‐二六事件(1936年陸軍クーデター)のような時代が来るだろう。

貴方は、奥田経団連会長や小泉首相が、そういうことまで考えて武器輸出を決めたと思いますか。

重要案件が国会の議決を経ないで決まる事態は、民主主義の形骸化の進行です。
「誰がなっても変らない」と賢しらに言う人々が多数日本にはいますが、本来、日本の未来を選ぶのは、国民の一票の筈です。
貴方は、どんな未来を選びたいと考えていますか?
何もせずに他人(政治家や官僚)のせいにするというのも、一つの選択であり、その選択に相応しい未来が待っているはずです。


【福音派】聖書の外典・偽書と「聖書の絶対不可謬性」

キリスト教史の中で、旧約聖書が正式に聖典の扱いを受けるようになった歴史は意外に浅く、トリエント公会議(1545)の時である。
2世紀には既に旧約聖書を認めない派が存在し、それに反対するためにも4世紀に聖書のラテン語訳が始まり、397年「正典」が一応決まった。

特に、ヨハネの黙示録を新約に残すかどうかで、随分揉めたらしい。
東方正教会は、長く認めていなかったという。

1世紀末に書かれたもので、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」の著者とは別人が書いているが、今でも諸説あり、作者が福音書作者でないと文献学等で否定されていることを聞くと激怒する宗派もあるらしい。

どの文書が聖書として認められるべきか否かで、長く揉めて来た歴史というのは、大抵の宗教にあることだ。例えば、「北伝仏教の経典の多数は偽書である」という研究もある(「梅原猛の授業 仏教」をご参照下さい)

そんな歴史があるのに、特に、キリスト教原理主義者達を中心に「聖書の絶対不可謬性」を固く信じているキリスト教徒が結構いるのだそうだ。

聖書の中には、これを聖書に含めるかで揉めた文書があるという歴史等を、清教徒は全く知らなかったらしい。そのため、アメリカを中心に「聖書の絶対不可謬性」という、珍奇な教義をもつ教団が多いのだそうだ。

しかも、彼らが「間違いがない」と主張するのは、大抵、本来は聖典ではなかった旧約聖書のほうで、新約と違って間違いだらけの書物だ。
281投稿者:狂ったアメリカ人の精神構造  投稿日:2007年06月10日(日) 08時50分55秒


旧約聖書は盲信されると、世界の迷惑になる話が多すぎるのだ。

聖書と言っても旧約聖書は、基本的に泊付けのために導入されたものであり、どう考えても新約聖書の「神」と矛盾している。
旧約聖書の「神」は、所詮民族宗教の神なので、イエスと違い、人を幸福にすることのない神なのだ。

その「神」とイエスが三位一体であると言ったものだから、それから、キリスト教の神は相当残虐な「神」に変化し、教会の教えも残虐なものに変質してしまったのかもしれない。

ローマカトリックが新教の発生と共に今までの教会のあり方を見直して現在に至るのと対照的に、「自分達こそ、(旧教の輩と違って)汚れなき者である」と主張し続けて来た人々は、随分人殺しが好きな人々になっていき、全く自分達の行動を振り返ろうとはしない。

「神に選ばれた」とか「(自分達だけは)清浄なるものである」とか、「アメリカは『神の国』である」とか言うのは、明らかな(誇大)妄想である。
民族宗教の神ならともかく、キリスト教の神が、そんなに驕り高ぶり尊大で、「自分達は選ばれているから何をやっても許される」といった論理で他国民を無差別虐殺するような信者を、そんなに高く評価するだろうか。

「汝の敵のために祈れ」と言った神がだ。

聖書を書き記したのは所詮古代ユダヤ人であり、聖書の中にサハラ以南の黒人、インド以東のアジア人、北米南米・オーストラリア・ミクロネシアの現地人の存在が書かれていないのは、単に、当時の古代ユダヤ人の知識が足らなかっただけである。


ところが、「聖書の絶対不可謬性」を盲信する人々は、聖書に出て来ない人々を「人間として認めてはならない」という、見解になりがちだ。

清教徒が最初にこの考え方を米国に伝え、英国の清教徒が奴隷貿易を擁護した。自分達は清い名を名乗り、その行動は実に血なまぐさい。

聖書が誤っていることを認めぬ代わりに、世界や現実のほうを自分達の信念に合わせようとすると、随分多数の人々の人権を侵害し、戦争を次々起こし、多数の国を弱体化させ、...たくさんの異教徒をアジア・アフリカ・南北アメリカで殺さなければならない。
実際に、合わせようと今まで努力してきたのが、アメリカ合衆国という国の「裏の歴史」ではないのだろうか。

「キリスト教原理主義のアメリカ」(p.94)では、「聖書の絶対不可謬性」を信じる信者の割合を表示している。

 ユニタリアン・ユニバーサリスト        6%
 統一キリスト教会              12%
 アメリカン・福音ルーテル教会        21%
 エビスコーパル・チャーチ(聖公会)     22%
 統一長老派教会               25%
 統一メソディスト教会            34%
 エホヴァの証人               51%
 チャーチ・オブ・クライスト         55%
 サザン・バプティスト会議          58%
 チャーチ・オブ・ナザレン          58%
 アセンプリーズ・オブ・ゴッド        65%
 ユナイテッド・ペンテコスタイル・チャーチ  69%
 チャーチ・オブ・ゴッド           80%
http://hoffnungenlied.cocolog-nifty.com/kaizen/cat1966234/index.html


「敵を妥協せず徹底的に叩く」というアメリカの精神的背景について
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html
アメリカに移住したピューリタンは、「キリスト教原理主義」を貫いて、「エルサレムの建国」を「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」として、西部開拓(実際は先住民殺戮)を推し進めた。


この「キリスト教原理主義」の精神性が連綿と続いているという。

「キリスト教原理主義」は聖書(:福音)絶対であるのと同時に、選民思想であるという。これが他部族みな殺しを正当化させているとのこと。


元々、ヨーロッパ自体が

「古代・地中海周辺における皆殺し戦争の結果としての共同体の徹底破壊」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=330205

により、選民思想も登場してきているという背景があります。


ヨーロッパは、17世紀中頃に徹底殺戮の宗教戦争(:「神」と「悪魔」の戦い)をやめる条約を取り交わしました。しかし、アメリカ(に渡った移民)はその後も長きにわたって、みな殺しの殺戮を繰り広げてきたことが、今尚「敵を妥協せず徹底的に叩く」という精神性に繋がっているのだと思います。


以下、

『世界を操るグローバリズムの洗脳を解く(馬渕睦夫著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%93%8D%E3%82%8B%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%B4%97%E8%84%B3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4908117144


からの紹介です。

****************************

■アメリカを新しいエルサレムの地にする

イギリスでピューリタン革命が起こる前、宗教的な迫害を受けたピューリタンの一部の人たちは、新天地を求めてイギリスからアメリカ大陸に向いました。1620年にピルグルム・ファーザーズがメイフラワー号でアメリカに渡ったのです。

ピューリタン(清教徒)というのは、purity(純水、清浄)という言葉から来たものですが、文字通り、宗教的な純粋、純化を求めていた人たちです。


彼らは、当時のカソリックの腐敗した状況を見て、ルターの宗教改革をさらに徹底してやらなければいけないと考えました。

ある意味で、キリスト教の原理主義であり、相当極端な過激な思想であったと思われます。それゆえに、イギリス国内での迫害も強かったのでしょう。ピューリタンたちはイギリスで食い詰めた最下層の人たちだったという説もあります。


いずれにせよ、彼らの一部はイギリスを逃れてアメリカに移住しました。

彼らピューリタンは、司祭の言葉ではなく、聖書の言葉こそ神の言葉と考えて、聖書の言葉を忠実に実践しようとしました。そして「この地に自分たちにとってのエルサレムを建国しよう」と考えたのです。


ピューリタンたちは旧約聖書を重視しましたが、旧約聖書に忠実に従ったという点ではユダヤ人たちと考え方は同じです。

ユダヤ人は自分達を選民と考えていましたが、ピューリタンも自分達を現代の選民と考えて、アメリカという地をエルサレムにして、神の福音を世界に伝えようと考えました。これが「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」と呼ばれるものです。建国の精神に立ち戻って考えれば、アメリカと言うのは宗教国家であることが分かります。

彼らは、神の福音を伝えることを使命と考えていましたから、それを妨害する勢力は皆敵と見なしました。その観点に立てば、先住民の殺戮も正当化されました。


そして神の福音を妨害する勢力を西へ、西へとなぎ倒していったのがフロンティア・スピリットです。フロンティア・スピリットは、ピューリタニズムと表裏一体です。

西へ、西へと進んでいって最終的にたどり着いたのがカリフォルニア。そこから先は海に遮られています。しかし、太平洋を越えて福音を伝えようと考え、アメリカはハワイ、フィリピンに進出し、さらに日本、中国にも福音を伝えようと考えました。

このように、アメリカのたどってきた歴史は、マニフェスト・デスティニーの歴史と考えると筋が通ります。


■宗教国家のアメリカには「妥協」がない

現代のアメリカには、ピューリタニズムの精神はもうほとんど残っていません。アメリカの国体はすっかり変わってしまいました。国体は変質してしまいましたが、彼らのマニフェスト・デスティニーの考え方は変わっていません。アメリカ的な発想を世界に普及させる、あるいは押し付けるというやり方を続けています。つまり、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を世界に広げることが、一貫したアメリカの世界戦略です。


彼らは、「自分達は植民地主義者ではない。帝国主義者ではない」とずっと主張し続けていますが、実際の現象を見れば、遅れてきた帝国主義者の様相を呈しています。彼らは「門戸開放」という言葉を使いましたが、言い方を変えれば、「オレたちにも分け前をよこせ」という意味です。


神の福音を伝えることが目的であったにせよ」、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を広げることが目的であったにせよ、実質的には帝国主義と同じです。


建国の経緯を見れば、アメリカと言う国の本質は宗教国家であることが見えてきます。宗教を広げることを理念としている以上、彼らに妥協というものはありません。その点を理解しておくことが重要です。宗教国家の側面は、アメリカの戦争のやり方にも影響しています。


ヨーロッパにおける戦争というのは、妥協が成立することがよくあります。17世紀に宗教戦争によって疲弊しきったヨーロッパ諸国は、1648年にウェストファリア条約を結んで宗教戦争を止めることを決めました。


宗教戦争というのは、「神」と「悪魔」の戦いですから、悪魔は徹底的に叩くほかなく、どちらかが破滅するまで行われます。続けていけば際限が無くなり、ヨーロッパ全体が破壊されてしまうため、宗教を理由とした戦争を止めるウェストファリア条約が結ばれました。


ウェストファリア条約以降は、ヨーロッパでは戦わずして対立が終わることもありましたし、話し合いによって妥協が成立することもありました。

アメリカの場合は、選民思想によるマニフェスト・デスティニーが根本にあるため、アメリカにとっての戦争は、いずれも宗教戦争的意味合いが濃く、彼らには妥協というものがありません。


第二次世界大戦においては、アメリカは日本を徹底的に攻撃して壊滅状態に追い込みました。その後の占領政策では日本の国体を徹底的に潰そうとしました。一切の妥協はありませんでした。それが宗教国家のやり方です。

今は、ピューリタニズムのアメリカ的な精神を持った人たちは、ほとんどいなくなりました。アメリカの国体が変質して、宗教国家の要素はなくなっていますが、妥協しないやり方は変わっていません。
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html#c5

[リバイバル3] かぐらスキー場 (かぐら・三俣・田代スキー場) 中川隆
117. 中川隆[-10688] koaQ7Jey 2019年4月10日 08:52:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1353]

2019 3 19 かぐら 衝撃の光景 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=a2-HCrtNQS8


2019/03/21 に公開

既にコントロールを失って、このコースに突っ込んだか?
初めてのスキー場で、このモーグルコースを知らずに突っ込んだか?
冒頭からコマ送りで見ると、どうやら後者のように思われます。

いつものスキー場でも見通せない場所では、転倒者がいるかも知れないと、減速して視認した上で滑りましょう。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/779.html#c117

[リバイバル3] スキーに行こう _ 年取っても できるスポーツはスキーだけ 中川隆
76. 中川隆[-10687] koaQ7Jey 2019年4月10日 08:52:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1354]


2019 3 19 かぐら 衝撃の光景 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=a2-HCrtNQS8


2019/03/21 に公開

既にコントロールを失って、このコースに突っ込んだか?
初めてのスキー場で、このモーグルコースを知らずに突っ込んだか?
冒頭からコマ送りで見ると、どうやら後者のように思われます。

いつものスキー場でも見通せない場所では、転倒者がいるかも知れないと、減速して視認した上で滑りましょう。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/773.html#c76

[リバイバル3] コブ斜面の滑り方  中川隆
20. 中川隆[-10686] koaQ7Jey 2019年4月10日 08:53:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1355]


2019 3 19 かぐら 衝撃の光景 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=a2-HCrtNQS8


2019/03/21 に公開

既にコントロールを失って、このコースに突っ込んだか?
初めてのスキー場で、このモーグルコースを知らずに突っ込んだか?
冒頭からコマ送りで見ると、どうやら後者のように思われます。

いつものスキー場でも見通せない場所では、転倒者がいるかも知れないと、減速して視認した上で滑りましょう。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/818.html#c20

[リバイバル3] スキー用ヘルメット 中川隆
17. 中川隆[-10685] koaQ7Jey 2019年4月10日 08:54:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1356]


2019 3 19 かぐら 衝撃の光景 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=a2-HCrtNQS8


2019/03/21 に公開

既にコントロールを失って、このコースに突っ込んだか?
初めてのスキー場で、このモーグルコースを知らずに突っ込んだか?
冒頭からコマ送りで見ると、どうやら後者のように思われます。

いつものスキー場でも見通せない場所では、転倒者がいるかも知れないと、減速して視認した上で滑りましょう。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/774.html#c17

[リバイバル3] ヒヤリ・ハット体験 _ スキー事故で半身不随になりたくなかったら… 中川隆
37. 中川隆[-10684] koaQ7Jey 2019年4月10日 08:54:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1357]


2019 3 19 かぐら 衝撃の光景 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=a2-HCrtNQS8


2019/03/21 に公開

既にコントロールを失って、このコースに突っ込んだか?
初めてのスキー場で、このモーグルコースを知らずに突っ込んだか?
冒頭からコマ送りで見ると、どうやら後者のように思われます。

いつものスキー場でも見通せない場所では、転倒者がいるかも知れないと、減速して視認した上で滑りましょう。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/778.html#c37

[近代史3] 認知症と糖尿病の原因はサラダ油とパーム油だった 中川隆
20. 中川隆[-10683] koaQ7Jey 2019年4月10日 09:12:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1358]

✤調味料の安全な食べ方

  ❈食用植物油・・・リノール酸の物には問題が山積!

  食用植物油で不安なのは、原材料が遺伝子組み換え食品かもしれないということ。大豆、菜種、コーン、綿実の油だと、遺伝子組み換えの不安があります。

  オリーブ油、ベに花油、米ぬか油、ゴマ油なら不安はありません。不安のもう1点。これまで安全な植物油の代名詞としてもてはやされてきた「リノール酸」に、疑問が出てきた事。

  @リノール酸は、悪玉コレステロールの値を下げるだけでなく、善玉コレステロールも下げてしまう。 A血栓や脳卒中などを起こしやすい

  B酸化しやすく、発癌性があり、老化の原因物質とも言われる活性酸素を発生させかねない。このように、いろいろ不安点が指摘されるようになりました。

  因みに、リノール酸は、ベに花油や大豆油、綿実油、コーン油等にたくさん含まれています。代わって脚光を浴びているのが「オレイン酸」です。

  オリーブ油にとても多い成分です。料理にオリーブ油を使う地中海沿岸地方の人には動脈硬化が少ない。イタリア料理等は、どれもこれも脂肪たっぷりなのに・・・。

  その秘密がオレイン酸にあるらしいことが分かってきました。しかも、何度使っても酸化しないのです。「α-リノレイン酸」も注目されています。脳の働きに関係するDHA、脳梗塞や心筋梗塞などを予防するEPAを作る働きがあるというのです。ところが、オレイン酸も、研究が進むにつれ、やはり健康への害が指摘されてきました。

  何事もバランスが大事ということです。そこで登場してきたのが「機能性植物油」。ヘルシーなイメージが強い植物油、リノール酸、オレイン酸、α-リノレイン酸に、厚生省の指針に基ずく割合で脂肪酸を配合した植物油です。また、「体に脂肪がつきにくい」植物油が、厚生労働省の特定保健用食品の指定を受け、肥満や 生活習慣病の予防に役立つとして売り出されました。この他、「臭いが付きにくい油」「台所の汚れが1/6になる油」等、使い易さを売り物にした植物油も出回っています。

  しかし、これらの原材料の殆どが、大豆、菜種、コーンなので、国内産100%とうたっているもの以外は遺伝子組み換えの不安が残ります。

  食用植物油を生で使うなら、熱に弱いリノール酸含有率の高い油でも構わないが、揚げたり、炒めたりして使うなら、オレイン酸含有率が高い「オリーブ油」「新ベに花油(オレイン酸を高くした油)」「米ぬか油」「菜種油」などが良いでしょう。また、「ゴマ油」もセサミノールという成分が熱による酸化を防ぐので、揚げ油に適しています。


_________


  ❈バター・・・”動物性脂肪”を摂り過ぎると、動脈硬化や血栓の原因に

  バターには添加物の不安がありません。バターは動物性脂肪で、ファットスプレッドは植物性脂肪だからファットスプレッドの方が健康に良いと思っている人が多いようです。

  でも、動物性脂肪も大切。ストレスから身を守るホルモンや、性ホルモンの材料になったりと、体にとって大切な働きをしています。しかし、動物性脂肪を摂り過ぎると、コレステロールが溜まって動脈硬化や血栓が起こりやすくなるというのも事実。だから、ちょうど良いのは、植物性脂肪と動物性脂肪を2対1の割合で摂ること。

  ところで、バターの塩分は1.8%くらい。結構あります。料理にバターを使う場合は、一緒に入れる塩を控えめにすること。

_________


  ❈ファットスプレッド・・・マーガリンよりも脂肪分が少ない

  脂肪分をぐっと抑えた「ファットスプレッド」が、マーガリンに代わって登場。マーガリンは脂肪分が80%以上なのに、ファットスプレッドは35〜75%と低め。不安な添加物はまずありません。「リノール酸の多い、ベに花油使用」と銘打ったものもあり、1時大部もてはやされました。しかし、最近ではリノール酸の過剰摂取は良くないという説もあります。パンには何時もファットスプレッド、というのは避けるべきです。同じものの摂り過ぎは、いずれにしてもあまりよくありません。時々はバターを使いましょう。

  尚、ファットスプレッドは脂肪分が少なく、水分が多い。保存料も使っていないので、マーガリンよりもカビやすいです。きちんと冷蔵庫で保管しましょう。

  
____


  ❈ドレッシング・・・「ノンオイル」=”カロリー0”ではありません。

  洋風、和風、中華風とドレッシングの種類も増えました。また、ノンオイルの「ドレッシングタイプ調味料」も出回っています。では、一般の「分離液状ドレッシング」の添加物は、やや不安のある「甘味料(甘草、ステピア)」が使われたり、食用植物油脂には、遺伝子組み換えの心配がある大豆油、菜種湯、コーン油が原材料として使われていたりします。「ドレッシングタイプ調味料」の場合は「増粘多糖類」の中に発癌性の不安がある「カラギーナン」が使われていることがあります。

  唯、ノンオイルなので、食物性油脂は使っていません。ということで、どちらも全く安心というわけではりませんが、遺伝子組換え食品の不安から見れば、 「ドレッシングタイプ調味料」のほうが安心ということに。さて、一口にノンオイルと言っても、食品によって意味が少し違ってきます。缶詰めなどで「ノンオイル」「無脂肪」と表示するには、100g当たりの脂肪が0.5g以下でなければなりません。ところが、ドレッシングの場合は当面、100g中3g以下で良いとされています。

  油脂の使用は極力抑えてはいるが脂質が0というわけではないのです。ダイエットや健康管理の為にカロリー計算をしている人は、カロリー表示をよく確認してください。

__________


  ❈マヨネーズ・・・摂り過ぎは太るもと!

  世の中には、マヨネーズの熱烈なファンがいて、チャーハンを作るときにサラダ油の代わりにマヨネーズを使ったり、納豆にマヨネーズを入れたりと、意外な組み合わせを楽しんでいるようです。今やマヨネーズは食生活に欠かせない調味料。ですが、果たしてマヨネーズは安心な食品なのでしょうか?マヨネーズは、植物油と酢を卵黄と一緒に混ぜて乳化状にしたもの。添加物はアミノ酸系調味料ぐらいで、それほど大きな不安はありません。不安といえば、使っている食用植物油脂が遺伝子組換え油脂(大豆、菜種、コーン、綿実)かもしれない点。ベに花油を使っている物は、その心配はありません。近頃では、ノンオイル類や、「卵をいれて混ぜるだけ」というキャッチフレーズの半固体状ドレッシングのマヨネーズタイプも出回っています。しかし、このタイプは、増粘多糖類などの添加物が使われている不安もあります。

  さて、安心な食べ方ですが、マヨネーズの脂肪分が気になる人には、キウイやブロッコリーを刻んで混ぜることをお勧めします。キウイやブロッコリーは体内で油の分解を早めてくれます。また、マヨネーズタイプの添加物が心配な人は、青海苔を混ぜ込めば良いでしょう。青海苔には乳化剤などの添加物を無毒化する効果があるのです。
http://www.long-life.net/new_page_804.htm
http://www.long-life.net/new_page_805.htm
http://www.long-life.net/new_page_806.htm
http://www.long-life.net/new_page_807.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/329.html#c20

[近代史3] 塩はヒマラヤ・ブラック岩塩を使おう 中川隆
1. 中川隆[-10682] koaQ7Jey 2019年4月10日 09:13:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1359]

✤調味料の安全な食べ方

  ✲塩・・・多く摂り過ぎると、人体を危険にさらす

  最近、様々な自然塩が出回っています。どの塩も、食品添加物などの不安はありません。「食塩」は、イオン交換膜製法で作られています。これは、海水に溶けているプラスイオンのナトリウムとマイナスイオンの塩素を電気的に海水から集めて、ナトリウム塩素とするものです。塩化ナトリウム分が高く(99%)、昔の塩のようにマグネシウム、カリウムといったミネラル分(にがり分)は殆ど含まれていません。「天日塩」は、オーストラリアやメキシコの塩田で海水を自然乾燥させた天日塩を輸入。

  水に溶かし、不純物を取り除いて再生したものです。地域名をつけて○○塩とうたった塩も売られています。しかし、実際にその地域で、塩田法にのっとって作られた自然塩は、殆どないと考えてよいでしょう。また、最近、海洋深層水塩が話題になっています。海洋学で海洋深層水といえば、深さ3000〜5000m程度の海水のことですが、現在、一般的には深さ300m程度の水を指しているようです。さて、世間で言われているように、この海洋深層水塩は、自然塩の中で最も効率的にミネラル(Mg、Ca)を補給できるのでしょうか?私達の1日の食塩の摂取量(塩分とは違う)を、多くても2gとします。その2gを深層水塩で摂ると、カルシウムの摂取量は成分計算から31mgとなります。これは、30〜49才の日本人栄養所要量である600mgの1/200です。含有量が多いと言われるマグネシウムでも、1日栄養所要量の約1/13にしかならないのです。

  このように考えてみると、塩からミネラル分を補おうとするには無理があることが分かります。どのタイプの塩を選んでも左程変わりはありません。

  後は、味などの好みの問題でしょう。高いお金を出してまで選ぶ意味は小さいと思います。栄養については、ミネラルの心配するより、塩の摂り過ぎに注意することの方が大切ではないかと思います。尚、2002年固結防止剤として、フェロシアン化合物が許可されました。健康への悪影響はないようです。
http://www.long-life.net/new_page_804.htm
http://www.long-life.net/new_page_805.htm
http://www.long-life.net/new_page_806.htm
http://www.long-life.net/new_page_807.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/332.html#c1

[近代史3] 不健康な食生活で寿命が縮む……最大の原因は塩分 中川隆
6. 中川隆[-10681] koaQ7Jey 2019年4月10日 09:13:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1360]
✤調味料の安全な食べ方

  ✲塩・・・多く摂り過ぎると、人体を危険にさらす

  最近、様々な自然塩が出回っています。どの塩も、食品添加物などの不安はありません。「食塩」は、イオン交換膜製法で作られています。これは、海水に溶けているプラスイオンのナトリウムとマイナスイオンの塩素を電気的に海水から集めて、ナトリウム塩素とするものです。塩化ナトリウム分が高く(99%)、昔の塩のようにマグネシウム、カリウムといったミネラル分(にがり分)は殆ど含まれていません。「天日塩」は、オーストラリアやメキシコの塩田で海水を自然乾燥させた天日塩を輸入。

  水に溶かし、不純物を取り除いて再生したものです。地域名をつけて○○塩とうたった塩も売られています。しかし、実際にその地域で、塩田法にのっとって作られた自然塩は、殆どないと考えてよいでしょう。また、最近、海洋深層水塩が話題になっています。海洋学で海洋深層水といえば、深さ3000〜5000m程度の海水のことですが、現在、一般的には深さ300m程度の水を指しているようです。さて、世間で言われているように、この海洋深層水塩は、自然塩の中で最も効率的にミネラル(Mg、Ca)を補給できるのでしょうか?私達の1日の食塩の摂取量(塩分とは違う)を、多くても2gとします。その2gを深層水塩で摂ると、カルシウムの摂取量は成分計算から31mgとなります。これは、30〜49才の日本人栄養所要量である600mgの1/200です。含有量が多いと言われるマグネシウムでも、1日栄養所要量の約1/13にしかならないのです。

  このように考えてみると、塩からミネラル分を補おうとするには無理があることが分かります。どのタイプの塩を選んでも左程変わりはありません。

  後は、味などの好みの問題でしょう。高いお金を出してまで選ぶ意味は小さいと思います。栄養については、ミネラルの心配するより、塩の摂り過ぎに注意することの方が大切ではないかと思います。尚、2002年固結防止剤として、フェロシアン化合物が許可されました。健康への悪影響はないようです。
http://www.long-life.net/new_page_804.htm
http://www.long-life.net/new_page_805.htm
http://www.long-life.net/new_page_806.htm
http://www.long-life.net/new_page_807.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/328.html#c6

[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
148. 中川隆[-10680] koaQ7Jey 2019年4月10日 09:33:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1361]
2019-04-09
アメリカの脅しが、怖くなくなった時代に。
http://www.kanekashi.com/blog/2019/04/6193.html


トルコはNATOの一員で少し前まではロシアと敵対していたが、ここ数年でロシアとの関係を深めている。

さらにシリア内戦でも、国連主導の協議が停滞するのを横目にアサド政権を支援するロシアとイラン、反体制派を支えるトルコが両者の和平協議を主導。過激派組織「イスラム国」(IS)に対する掃討作戦が進んだ。

さらにアメリカを驚かさせたのは、アメリカ兵器を買って軍整備しているトルコが、ロシア製防空システムのS-400を購入を宣言した事だ。

アメリカ政府は強く反発、S-400を購入するならF-35戦闘機を供給しないと脅したが、全く脅しに成らなかった!

プーチンとエルドアンを含むロシアとトルコの高官がモスクワに集まり、会議を開いた。

その記者会見でプーチンがトルコをはめちぎっている記事をトルコ放送(TRT)が一面にあげているします。

既に世界の警察(本当は世界のやくざのドン)であったアメリカが、トルコになめられている始末だ。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

https://www.trt.net.tr/japanese/toruko/2019/04/09/erudoanda-tong-ling-tonogong-tong-ji-zhe-hui-jian-denoputinlu-da-tong-ling-nofa-yan-1179799 TRT(トルコの放送局)より

■エルドアン大統領との共同記者会見でのプーチン露大統領の発言

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、同国は天然ガスに関して価格および量の観点からトルコに対して責務を果たしていると述べた。

レジェプ・ターイプ・エルドアン大統領は、午後に訪問したロシアでプーチン大統領と第8回トルコ・ロシア・ハイレベル協力評議会会合の議長を務めた。

両首脳はその後、共同記者会見を開いた。

会見でプーチン大統領は、「イドリブでソチ合意の枠組みで確かに進展がある」と話した。

「トルコと経済および地域の安全保障に関してあらゆる困難にもかかわらず極めて有益な協力を進めている」と述べたプーチン大統領は、次のように語った。

「トルコと共に自国通貨による貿易を含めた経済的な独立を確保するためにできる限りのすべてのことを行っている」

プーチン大統領は、トルコに対して天然ガスに関する価格および量の観点から責務を果たしているとも語った。

プーチン大統領は、トルコとロシア間でS-400地対空ミサイルシステムを含めた軍事技術面でも協力が拡大したと指摘し、

「トルコと経済および地域の安全保障に関してあらゆる困難にもかかわらず極めて有益な協力を進めている。文化面および教育面における協力も取り上げた。トルコは、ロシア人観光客のお気に入りになった状況にある。トルコがロシア国民に提供している安全な休暇の機会は、この分野における進展に重要な貢献をしている」と述べた。

ロシアがトルコ国民に適用しているビザ問題も取り上げられたと明かしたプーチン大統領は、

「トレーラーの運転手のほか、サービスパスポートを所有する国民にもビザなし制度の利用が決定された」と述べた。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c148

[リバイバル3] 苗場スキー場の元高級リゾートマンションが遂に10万円になった 中川隆
526. 中川隆[-10679] koaQ7Jey 2019年4月10日 10:32:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1362]

2019年04月10日
田舎の人が一人1台車を持てる理由 維持費が都会の半額

駐車場代が無料だと車維持費は驚くほど安い

住む地域によって住民税や水道・ガスなど公共料金はかなり違うのは良く知られている。

水道代、ガス代ともに同じ量を使って高い自治体と安い自治体では3倍ほど差がある。

安いのは都市部で、ガスや水道は人口が密集しているほど安くなり、過疎地ほど高くなる。



自動車はこれとは逆に、過疎地ほど維持費が安くなり、都会ほど維持費が高くなります。

地域で変動する費用としては駐車場代が大きく、バブルの頃は都心で1台分の駐車場を借りるのに月10万円も必要だった。

現在東京23区の月極駐車場相場は、中央区が5万2千円で練馬区が1万8000円とされています。( 駐車場コンシェルジュより)


人気エリアだと3万円以上、不人気エリアだと3万円以下のような相場で、平均すると3万円程度です。

大坂では平均2万円ほどで、屋根付きだと2万円以上で屋根なし不人気エリアでは2万円以下程度です。

例えば東京で100万円のクルマを買ったとして、駐車場代が年36万円なので3年で108万円になり車本体より高くなる。


これではばかばかしいので東京で軽自動車はあまり売れず、高級車や外国車が良く売れます。

駐車場代が年36万円かかるので、それに合わせて高い車を買わざるを得ないというのが東京の車事情です。

大坂はもう少しましですが、やはり年24万円の駐車場代がかかるので、車両代金とくらべると割高です。

田舎の人が車2台持ちできる理由

一方田舎では駐車場代は月1万円以下で、アパートでは駐車場無料という場合もあります。

郡部の「村」では車庫証明不要の地域もあり、駐車場コストは完全にゼロになります。

ある程度の都会ではたとえ持ち家でも、車を止めておく土地の購入費用や維持費を負担しています。


駐車場が無料だと中古で軽自動車を買ったら維持費は年間15万円程度(ガソリン代除く)東京なら約53万円かかります。

これには車両代とガソリンが含まれないが、駐車場無料地域では合計しても年間40万で済むでしょう。

田舎では月3万円で軽自動車を使えるのに対し都会では年80万円、月6万5千円が必要です。


しかも「どうせ年36万円駐車場を払うので高い車を買いたい」という理由で高級車や大型車を買います。

すると東京の自動車維持費は年100万円、月9万円程度になり田舎の人の3倍も払っています。

加えて都会では外出時の駐車場も有料な上に料金が高く、駐車違反で検挙される確率も高いです。


水道代やガス代は田舎の方が3倍高いが、自動車では都会のほうが2倍から3倍高い。

だから田舎の人は一人一台ずつ車を買い、一家に2台や3台あったりします。
http://www.thutmosev.com/archives/79524890.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/565.html#c526

[近代史3] 1000円/kg 以下の安物の味噌は買ってはいけない 中川隆
5. 中川隆[-10678] koaQ7Jey 2019年4月10日 12:14:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1363]

✤調味料の安全な食べ方

  ✲味噌・・・出し入り味噌は、塩分がかなり高い物も!

  味噌は日本人の食生活に欠かせない伝統的な食品です。以前は漂白剤の「亜硫酸塩」などを使ったものもあったが、今は添加物の不安はありません。

  選ぶ時に大切なのは、パッケージの表示の見抜き方です。「国産大豆使用」とあっても、実際は輸入大豆も合わせて使っている場合が殆どです。

  残留農薬などは製造過程で殆ど取り除かれるが、遺伝子組換え大豆かもしれない不安が残ります。そこで、「国産大豆100%」のものを選べば大丈夫です。

  「純正」という表示をよく見かけるが、これは、保存料や漂白剤を使っていないという意味です。しかし、今の味噌は添加物を使わないのが殆どで、もともと、どの味噌も純正と言えるのです。 「無添加」の表示は、添加物はもちろん、発酵を止める酒精(アルコール)も使っていないもの。「生味噌」は、酒精を添加せず、加熱もせず、酵母を生きた状態でパックしたもの。価格の割には味にそれほど差はりません。「天然醸造」は自然の気温で1年くらいかけて発酵させたものです。

  しかし、実際は3ヵ月位の速醸の味噌が殆どで、本物の天然醸造がどれだけあるかは疑問です。アミノ酸などの調味料を加えた「出し入り味噌」は、かなり塩分が高いものを見かけます。栄養成分を見て、食塩が100g当たり12%未満のものを選ぶとよいでしょう。味噌汁が、日本人の塩分摂り過ぎの原因のように言われたこともあるが、今は、辛口味噌でも12〜13%ぐらいで、かなり塩分を抑えています。気になる人は、成分表示を確かめて、10%前後の物を選びましょう。

  「薄塩」「減塩」と表示されていても、基準とする数字があいまいなので、当てにはなりません。味噌汁は薄味を心がけることが第1です。具には、塩分の害を減らす働きがあるカリウムやヨードを含む、わかめ、とろろ昆布、さつま芋、ジャガ芋などを積極的に使いましょう。1日に1度も味噌汁を飲まない人の60%が偏った食事をしているそうで、味噌汁を飲む回数が増えるに従って、料理の品数と使う材料の種類が増え、食事評価も高くなる傾向があるそうです。

_______


❈即席味噌・・・即席の発泡スチロールカップは、環境ホルモンが溶け出る不安が!

  お湯を入れてかき混ぜるだけの即席味噌汁。簡単に味噌汁の豊かな味わいが楽しめるとあって、結構売れているようです。食品添加物は「調味料(アミノ酸等)」と「酒精(アルコール)」ぐらいで、不安点はありません。心配といえば、塩分が濃いめな事。そこで、栄養成分の表示が付いていて、塩分が10%以下と分かる物を選ぶのがポイントです。カップ入り味噌汁の場合は、紙カップを選ぶことです。発砲スチロールの場合、熱湯を注いだ時に、環境ホルモンが溶け出す不安があるので要注意。

  また、塩分の害を減らすカリウムを多く含む具の味噌汁を選べば安心、例えば、わかめ、ホウレン草、納豆、油揚げなどを使ったものを。尤も、これらの具が入っていても使っている量が少ないので 、さらにわかめを加えることをお勧めします。また、カリウムの多い具がもともと入っていない即席みそ汁には、必ずわかめや油揚げ、ゆば、干しシイタケなどを加えるようにしましょう。

___________

  ❈粉末ダシ・・・風味成分を上回るたくさんの添加物が使われている。

  「カツオ風味」「煮干し風味」などの風味調味料、いわゆる粉末ダシは、粉末や顆粒を溶かして使うタイプのものです。カツオや煮干しの絵があると、原料の大半が鰹節や煮干しと思いがちです。ところが違うのです。カツオ風味を例に取っていうと、成分はたいてい、次のようなもの。アミノ酸系の調味料(主にグルタミン酸Na) が3割、砂糖が2割、鰹節エキスが1割、鰹節粉末1割、つまり、風味成分よりも、アミノ酸系などの調味料が主体のものが多いのです。JASでも、風味調味料は、鰹節等の風味成分が1割以上あれば良いことになっています。さて、カツオ風味の風味調味料の原材料名を見れば分かるように、添加物は結構多いのです。

  ティーバッグ形式の天然だしは、全くの無添加です。どちらが良いかは一目量然。ティーバッグ形式のだし(煮干しの粉末など)は、鍋に放り込んでちょっと煮たてるだけで、本物のだしがとれます。意外に知られていないが、スーパーなどで簡単に手に入ります。自分でいちいち鰹節や昆布でだしを取る事が面倒な人にお勧めです。

  その代り、値段は少々割高です。尚、アミノ酸系調味料は塩味を感じにくくする為、どうしても味付けが塩分過剰になりがち。これもちょっと問題です。


__________


  ❈醤油・・・「本醸造」「天然醸造」「丸大豆醤油」・・・、違いが分かります?

  以前は添加物が多く使われていた醤油ですが、現在はカビを防ぐ酒精(アルコール)が添加されているくらいです。だから、あまり不安はありません。

  それより、ラベルの表示の意味を知っておくことが大切です。「本醸造」→醤油の8割はこれ。大豆に小麦、塩を加えて作ります。「天然醸造」→本醸造の中でも、高温にならないように管理して醸造したもの。中身は本醸造とそれほど変わりはありません。「丸大豆醤油」→丸ごとの大豆を使うので、深い旨味が出ると言われていますが、それほど味に差は感じられません。普通の醤油は、丸大豆から食用油を搾りとった後の脱脂大豆を使います。この場合、原材料名は「脱脂加工大豆」となっています。

  大豆で心配なのは、輸入大豆(脱脂加工大豆も含む)の遺伝子組み換えの不安です。この不安を除くには、「国産大豆100%」か「有機栽培(米有機農産物基準)丸大豆」の表示があるものを選びます。「減塩醤油」→醤油は普通、塩分が16〜18%位。これを半分の9%ほどに控えたのが減塩醤油です。買うときは、栄養表示の数字が 9%程度になっているか確かめること。塩分11〜14%のものは「うす塩」「あさ塩」「あま塩」と呼ばれています。尚、「うす口醤油」は、減塩と違います。

  色を薄くした醤油で、塩分はむしろ19〜20%と多めなので注意を。さて、今の醤油は、以前に比べて旨味成分が増え、味にコクが出てきました。しかし、コクがあり過ぎて塩味が分からなくなり、醤油を入れ過ぎる不安も。安心な食べ方は、醤油を使い過ぎないこと、これにつきます。 

__________


  ❈味淋・・・「本ミリン」以外のものには、塩分が含まれている。

  煮ものや照り焼きなどに使い、甘味と照りをつけるみりん。和食には欠かせない調味料です。最近では、昔んがら尾「本みりん」以外にも、「ミリンタイプ発酵調味料」 「ミリン風調味料」等が出回ってます。どれも添加物は入っているが、心配にはおよびません。それよりも、本ミリン以外の物に入っている塩分に注目することの方が、健康にとって重要です。では、それぞれの違いは、「本ミリン」は、もち米と米麹を焼酎の中で糖化、熟成させ、醸造用と類などを添加したもの。アルコール分も12%ほど入っています。「ミリンタイプ発酵調味料」は、うるち米を米麹で糖化、アルコール発酵させて、食塩、糖類及びアルコールを調合したもの。本ミリンとの違いは、もち米の代わりにうるち米を使っていることと、食塩が入っていること。アルコール度数は本ミリン並に高いが、塩を添加しているので、酒屋以外でも買えます。

  「ミリン風調味料」は、水飴、ブドウ糖や旨味調味料(グルタミン酸など)、酸味料、アルコール(1%以下)を混ぜて作った甘味調味料です。

  本ミリン以外の物を使うときは、味付けの塩を少し控えめにすること。また、ミリン風味調味料は、開栓すると腐敗しやすいので保存に注意。


_________


❈酢…価格の差ほど、うま味成分や品質に差はなし!

  酢には、優れた殺菌・防腐の効果があります。また、汚染物質を引き出したり、発癌性を抑える効果もあると言われます。ビタミンCを壊す酵素を抑える働きもあります。

  このように、酢は食品の安全を守る性質があるのですが、種類はいろいろ。「米酢」は、米だけで作られていると思うかも知れませんが、原材料は米と醸造用アルコール。

  米だけというのは、「純米酢」というラベル表示のあるものだけです。「穀物酢」は、米、小麦、コーン、醸造用アルコールで作くられています。原材料のコーンには遺伝子組み換えの心配もあります。「黒酢」の色は、アミノ酸が褐変したもの。長い醸造期間中に、次第にこの褐変が起こる為、品質の良い高級品という  イメージがあります。しかし、価格の差ほど、旨み成分や品質に差はありません。かって、酢の品質をテストしてみたことがあります。たくさんの製品を分析して、アミノ酸(天然の旨み成分)の数を知らべたのです。旨味成分の多い「上」のランクに入った物が半数以上。ところが価格のほうはどうかというと、100〜1800円と 開きが大きい。「中」のランクの酢は3割。価格は100円未満〜500円台のものばかりで、100円台が大半。「下」はやはり100円未満〜500円台。

  300円台のものが多かったのは意外でした。こうなると、高い物が質が良いとは限りません。どれを選ぶかはお好み次第。尚、酢は添加物の不安はありません。
http://www.long-life.net/new_page_804.htm
http://www.long-life.net/new_page_805.htm
http://www.long-life.net/new_page_806.htm
http://www.long-life.net/new_page_807.htm

✤加工食品・おかずの安全な食べ方


✲豆腐…輸入大豆には遺伝子組み換えの不安もあり!

  健康の為には、毎日食べたい豆腐。でも、果たして豆腐は安全な食品なのでしょうか?特に不安な添加物はないので大丈夫です。不安といえば、ただ1つ。

  原材料の大豆です。国産大豆使用と表示してあっても、実は原料の大豆の1部にしか国産大豆を使っていない製造業者が多いのです。では、残りは何を使っているのかというと、アメリカからの輸入大豆。そして、輸入大豆といえば、遺伝子組換え大豆の不安が出てきます。そこで、その不安をクリアする選び方。

  国産大豆100%の表示のものを探すこと。次に、良い豆腐の選び方。凝固剤「塩化マグネシュウム含有物」と表示されている物を選んで下さい。

  これは、いわゆる「にがり」です。豆腐の凝固剤には、塩化マグネシウム含有物、硫酸カルシウム、グルコノデルタラクトンの3種類があります。

  どれも安心度からすると差はないが、同じ大豆の量からできる豆腐の数が違います。塩化マグネシウム含有物を使ったものを1とすると、硫酸カルシウムでその1.3倍、グルコノデルタラクトンは約1.7倍の量の豆腐ができます。つまり、豆腐1丁の栄養分は、塩化マグネシウム含有物(にがり)で作ったものが1番多いという事なのです。

  同じ値段なら、にがりを使った物の方が栄養価が高く、得な感じがしませんか?尚、消泡剤(グリセリン脂肪酸エステル)は使わないにこしたことはないが、かといって、それほど心配はありません。では、より安心な豆腐の食べ方は。買ってきたら、すぐパックから出して、水につけます。これが安心のテクニック。凝固剤や消泡剤などが水に溶けだすし、にがり臭さもとれて美味しくなります。すぐに食べない場合は、タッパーウエア等に水を張り、移し替えて冷蔵庫にしまっておきましょう。


  ✲油揚げ・・・揚げ油の中に添加物が入っている?

  豆腐を薄く切って揚げた物が油揚げ。前の項で述べたように、材料の豆腐には、不安な添加物は使われていません。それでも気になる点が3つ。

  1つは、「丸大豆」「国産大豆」という表示の場合、豆腐と同じように、輸入大豆が使われていて、遺伝子組換え大豆かも知れない不安があります。

  2つめは、揚げ油の種類が分からないこと。遺伝子組換え食用油が使われているかもしれません。

  3つ目は、揚げ油の持ち込み添加物として(揚げ油に添加物が入っている)、酸化防止剤の「BHA」が使われているかもしれない不安です。

  さて、遺伝子組換え大豆が不安なら、「遺伝子組換え大豆は使用していません」という表示がある物、あるいは「国産大豆100%」の物を選んでください。

  揚げ油については、次にご紹介する安心の食べ方で不安解消。油揚げを使う前に熱湯をかけるか、熱湯をくぐらせて油抜きを。油分が熱湯に溶けてとれるので、揚げ油の添加物BHAがあったとしても減らせますし、遺伝子組換え食用油の不安も少なくなります。さらに、油臭さもとれて、料理の味もスッキリします。

✲納豆・・・“健康食品の王様”の最も効果的な食べ方とは?

  「納豆は大豆と納豆菌で作る無添加食品。全く安心!」と太鼓判を押したいところですが、もしかしたら、おおもとの材料の大豆に遺伝子組換え食品を使っているかもしれないという心配があります。パッケージに「国産大豆100%」と表示してある物を選べば安心。この表示以外の納豆には輸入大豆が使われていることが多く、遺伝子組換え大豆の不安はぬぐえません。「極小」「超極小」とうたった物、「炭火発酵」「本格熟成」と、作り方を特徴ずけたもの、更に「有機栽培無農薬」として OCIA(アメリカのオーガニック認定団体)のマークがついたものが出回っているが、栄養価や味、品質に変わりはありません。ところで、「輸入大豆だと、 ポストハーベスト農薬が不安」という声も聞かれますが、あまり心配する必要はありません。納豆は製造過程で水に浸すので、農薬などの不安物質が残っていても、水に溶けだしてしまいます。さらに、大豆に含まれている食物繊維が、有害物質を体の外に出してくれるのです。さて、納豆を食べる時は、できるだけ「ねばり」を出して食べることをお勧めします。ねばりが納豆菌の活動を活発にし、O-157等の食中毒菌に対する力を高めてくれるからです。また、粘りの中に含まれる「ナットウキナーゼ」は血栓を溶かす作用もあります。納豆を長く置くと、チロシンというアミノ酸の結晶ができてジャリジャリしますが、心配はいりません。

  それでも、製造されてから5日目をめどに食べましょう。その方が美味しくいただけます。


✲総菜・煮物・・・意外に多くの不安添加物が使われている!

  和風の煮物は「お袋の味」の代表格。添加物など使わない、昔ながらのおかずのイメージが強いのですが、スーパーやコンビニなどで売られている惣菜・煮物は、ちょっと違います。パケージの裏の原材料名の表示をよく見ると、保存料などの添加物が結構入っている。

  例えば、惣菜の代表「きんぴら」の原材料名の表示を見ても、「リン酸(Na)」、甘味料の「甘草」等の不安な添加物が使われていたりします。 

  この他、よく見かける不安添加物に、保存料の「ソルビン酸K」、甘味料の「ステビア」などがあります。ところが同じキンピラでも、「調味料(アミノ酸)」すら入っていない優れものも出回るようになってきました。表示をよく見て、安心な物を探しましょう。

  安心度を少しでも高めるために、市販の惣菜を食べる時は、味噌汁も一緒に摂ることを忘れずに。発酵食品である味噌は免疫力を高める力に優れており、また大豆に含まれるポリフェノールが強い抗酸化作用を発揮するからです。また、味噌汁の具には、カルシウムや食物繊維、解毒のビタミンA、C、Eをたっぷり含んだワカメやほうれん草などをたくさん入れましょう。市販の惣菜・煮物によく使われるリン酸塩などの添加物の害を消してくれます。


  ✲ふりかけ・・・良いふりかけ・不安なふりかけの見分け方

  ふりかけには意外にも添加物がたくさん使われています。特に子供むけのキャラクターふりかけには添加物が多いので要注意。子供が大好きな味に近ずける為、

  そして色とりどりにする為、様々な添加物を使っているのです。ふりかけは、ゆでるなど手を加えて添加物を減らすことはできませんから、安心の度合いは選び方1つにかかっています。そこで、良いふりかけの見分け方。ふりかけは、添加物をかなりたくさん使ったものと、殆ど使っていないものとが極端なようです。

  よく見かけるもので、特に避けた方が良いのは「コチニール(カルミン)色素」を使ったふりかけ。また、甘味料の「甘草」「ステビア」も、できれば避けたいものです。

  探すのは大変ですが、「調味料」(アミノ酸等)」までも原材料名の表示に入っていないものならいうことなし。いずれにしても、無添加に近いふりかけ以外は、あまり回数を多く食べないこと。また、手軽に安心度を高める方法もあります。赤しそ(ゆかり)を混ぜることです。しそはβ-カロチン、ビタミンC、カリウムがたっぷりで、添加物の害を防ぎます。他にも、青のりを混ぜるのも良いアイデアです。しそと同じ成分があり、害を防いでくれます。自家製のふりかけなら、とても安心、手作リしてはいかがでしょう。煮干しの粉とすりゴマを同量、青のりを好みの量加えて、すり鉢でよくすりつぶす。味を見て物足りない時には、塩少々加える。

 これで完全無添加のふりかけの完成です。とても手軽でおいしく、健康にもいいので、お試しください。


  ✲かまぼこ・・・でんぷんの含有量が5%以上のものは避ける

  最近では、非常に質の良いかまぼこが出回るようになってきました。一切添加物を使わず、でん粉の含有量が0%のものなどです。でんぷんの量は、多くても4%までの物がいいでしょう。でんぷんの量が多いほど、添加物が使われるようになります。そして、次の添加物が入っている物は避けましょう。

  保存料の「ソルビン酸」「ソルビン酸K」が含まれている物。「リン酸塩」「赤色106号」など数字がついた着色料、「コチニール(カルミン)色素」が添加されているものもバツ。但し、原材料名にリン酸塩を表示していなくても、原料のすり身に「持ち込み添加物」として入っている場合もあり、いずれにしても不安は残ります。

  そこで、安心して食べる方法→かまぼこをなるべく薄く切り、しゃぶしゃぶのようにお湯にサッとくぐらせて食べるのがポイント。お湯に触れる面積を広くすれば、添加物が溶け出し易くなります。お湯にくぐらせることで、添加物だけでなく、アクや塩分も減らせて、味も一段と良くなります。

✲タラコ…調味料(アミノ酸等)表示の物は、直火の高温で焼くと発癌物質が!

  タラコはスケトウダラの卵を塩漬けにしたもの。赤いものほどおいしそうなイメージがあるが、あの赤は着色料によるもの。本当の色はもっと白っぽいものです。

  安心の為には、「赤色102号」など数字のついた着色料や、「コチニール(カルミン)色素」を使っていない、白っぽい物を選びます。では、「無着色タラコ」と表示されている物は安心かというと、そうでもないのです。着色料を使っていないだけで、着色料の代わりに発色剤の「亞硝酸塩」を使っている物が多いのです。

  これではどっちもどっち。但し、亜硝酸塩を使った時には同時にビタミンCの添加物が義務ずけられ、発色剤の害を防ぐ効果があります。完璧に安全なのは、無添加、無着色、おまけに「調味料(アミノ酸)」すら使っていないタラコです。さて「タラコは焼いた方が好き」という人も多いと思いますが、焼くなら、調味料(アミノ酸等)の表示があるものは避けること。何故かというと、アミノ酸の主体であるグルタミン酸Naは、直火の高温で発癌物質となる不安があるからです。

  タラコを焼くときは、ちょっと焼き色をつける程度に。焦げた部分は発癌物質になる心配があるので、焦がさないこと。

  また、焼きタラコは、大根オロシで和えることをお勧めします。ビタミンCが、グルタミン酸Naの高温による発癌物質、焦げの発癌物質の害を防ぎます。


  ✲漬けもの ・・・「塩分抑えめ」に比例して添加物が増える

  塩分摂り過ぎが生活習慣病を招くと言われ、食生活はおしなべて塩分を抑える方向に進んでいます。漬物もしかり。ところが、漬物の低塩化と反比例するように、添加物が増える傾向にあります。それだけに選び方が大切になります。原材料名の表示に「黄色4号」等数字がついた着色料が入った物は避けます。

  「ソルビン酸K」は当然のこと、甘味料の「甘草」「ステビア」もなるべく避けたいものです。特に、ステビアは、漬物には純度の悪い物を使う事があり、遺伝毒性が心配されます。妊娠中の女性はとくに要注意です。なかには、殆ど添加物の入っていない漬物もあるので、必ず表示を確かめて、少しでも不安のない物を選ぶ

  習慣を身につけましょう。また、買ってきた漬物は、漬け汁を捨てるのが鉄則。漬け汁の中に添加物がたくさん溶け出しているからです。出来れば、サッと1回水洗いしてから食べれば、さらに添加物を減らすことができて安心です。尚、漬物いついては、農産物の原産地表示が義務ずけられるようになりました。


  ✲佃煮・・・発癌性の疑いもある「安息香酸」「ソルビン酸K」が入った物は選ばない。

  佃煮は昔から伝わる保存食。よもや保存料などの添加物は使っていないだろうと思ったら大間違いです。昆布、アミ、牛肉の佃煮などが人気ですが、スーパーやコンビニでパッケージの裏を見れば分かる通り、案外、添加物が多く使われていたりするので要注意。もともと保存食の為に塩分が多く使われていたのですが、最近では減塩の薄味の物が喜ばれるようになってきました。そこで、塩分を減らす代わりに、食べ続けると安全性が疑わしい保存料「安息香酸」「ソルビン酸K」を使った物が出回るようになりました。これらは発癌性の疑いもあるので選ばないことが肝心です。他に要注意なのが「リン酸塩」「甘草」「ステビア」。

  買ってきたら冷蔵庫に保管し、あまり時間がたたないうちに食べることです。食べる時、昆布など洗える物はサッと1回お湯に通します。添加物も減り、塩分も減らすことができます。お湯に通すと味が落ちるのではという心配は無用です。却ってあっさりして、美味しくなります。しかし、「調味料(アミノ酸等)」さえ使っていない全く無添加の佃煮も出回っています。出来るだけ安心できるものを探しましょう。


✲干物・・・添加物や焦げの害を防ぐ1番いい方法

  アジ、イワシ、サンマ、カレイ・・・。昔の干物と違って、近頃の干物は水分が多く、ふっくら柔らかくなっています。かっては水分が40%以下だったのに、今では70%近いものが多く、塩味も程々です。実は作り方も違い、現在では天日干しではなく、火力乾燥が殆どです。

  水分が多く、塩分が少なければ傷みやすいのですが、保存料は殆ど使われていません。それでも、保存料の「ソルビン酸K」を使っているものがたまにあります。原材料名にこの表示があったら買うのは止めること。他に、よく使われている添加物は「リン酸塩」。

  食塩を減らすと弾力が付きにくいので、食感を良くする為に添加することが多いのです。これも避けます。一方、添加物はビタミンCというのも増えてきました。これこそ、良い干物です。話は変わるが、干物と漬物を一緒に食べるのは禁物です。この事は意外に知られておらず、干物に多いジメチルアミンと、漬物に含まれる亞硝酸塩は体の中で一緒になると、発癌物質を作る不安があるというのが理由です。

  また、干物のを焼いた時にできる焦げも、発癌物質の可能性があります。こうした不安を解消し、添加物や焦げの害を防いでくれる強い味方が、大根おろしのビタミンCです。昔から、焼き魚には大根おろしが付きものでしたが、その理由はこんなところにあったのです。

  また、最近では、アジやサバの開きなどについては、原材料の原産地表示が義務化されました。
http://www.long-life.net/new_page_800.htm
http://www.long-life.net/new_page_801.htm
http://www.long-life.net/new_page_802.htm
http://www.long-life.net/new_page_803.htm

✤魚・貝の安全な食べ方


❈魚(3)・・・安全に食べる為の“賢い下味テクニック”

  魚から汚染物質を出すのに、最も効果的な調味料とは? 醤油や味噌、酒粕は染み込む力が強く、その分、逆にいろいろな汚染物質を引き出す力を持っています。

  ですから、醤油や味噌、酒粕で下味をつける方法は、魚を安全に食べる賢いテクニックです。下味をつけた後、煮る、焼く、揚げる。調理法はいろいろです。

  まず、醤油を主体とした調味液を倍に薄めて魚をつけ、5分程置いてから取り出し、新しい調味液で煮付けます。カレイやメバルの煮漬けはこの方法で。1度、調味液につけて汚染物質を引き出し、改めて煮込む事で安全度を高めます。ブリ、カツオ、カジキマグロなどは、醤油を主体にした調味液に5分ほど漬けた後、つけ焼きや照り焼きに。

  「サバの竜田揚げ」「アジの南蛮漬け」「イサキの香り揚げ」などの料理は、調味液で下味をつけてから揚げ物にします。また、つけて1日ほど置いた味噌漬けや粕漬けを焼く時は、味噌や酒粕を丁寧に落します。床の味噌や酒粕は、魚から染み出た汚染物質が残っているわけですから、もったいなくても捨てること。 


___


  ❈魚(4)・・・水煮、湯こぼし安全度アップ

  「サバの味噌煮」を作る時は、サバを筒切りにして、たっぷりの熱湯をかけます、クセを取ると同時に、油に溶け込みやすい有機塩素系農薬やダイオキシンなど、化学汚染物質を減らす効果があります。「ブリ大根」を作る時も、ブリを脂抜きする為に熱湯をかけて霜降りにします。安全の効果はサバと同じ。

  イワシを煮る時。煮立たせたお湯に酢を加え、頭を落とし、ワタを取ったイワシをサッと茹でます。お湯の中に農薬などの汚染物質が溶け出すので安心です。

  茹でたお湯は捨てましょう.この後、煮汁に生姜や梅干しを加えて煮込みます。そして、「タラちり」チリ鍋に入れる前に、アク抜きの為、湯こぼしもすると良いと言われれる。

  この湯こぼしも、汚染物質を取り除くのに効果あり。是非実行しまましょう。このように1度、水煮や湯こぼしをして脂分やアクを取る方法は、いろいろな魚料理の下ごしらえとして昔から行われているが、同時に徐毒の効果が高く、安全調理のテクニックとして大変有効でs。

  ❈貝・・・国内産の方が不安が少ない

輸入物が1年中出回っていますが、国内産の貝のほうがいくらか不安は少ないのです。中でも旬のものを選べば安心。アサリの旬は晩秋から春咲き。

  シジミは1年中ですが、寒シジミが1番良いでしょう。ハマグリは10〜3月。牡蠣の旬は11〜2月。下ごしらえをしっかりすれば、さらに安心度は高まrます。

  まず、塩抜き。アサリやハマグリは海に済む貝なので、海水程度の塩水に1晩付けます。塩分3%。舐めてみるとしょっぱく感じるぐらいの塩辛さです。   

  シジミは淡水、或いは淡水と海水が混じり合った所に住んでいるから、こちらは真水に1晩つけます。どちらの貝も、静かで薄暗い所に貝を置いてリラックスさせると、呼吸しながら砂を吐きます。その時、貝の中に溜まった汚染物質も一緒に吐き出されるのです。貝は意外に汚れてるので、よく洗いましょう。

  砂抜きが終わったら、水道の水を流しながら、貝をいくつか手にとって、こすり合わせて洗います。むき身の場合は、笊ざるにいれて塩少々を振り、ボウルの中で振り洗い、これで汚染物質を減らせます。アオヤギなどを刺身にするときは、笊にいれて鍋の中の熱湯にとおし、すぐに冷水につけて冷まします。良く水を切ること。

  汚染物質がお湯の中に溶けだして安心です。牡蠣は内湾養殖のため、様々な汚染物質がたまっていることが多いのですが、昔ながらの大根おろしの中に牡蠣をいれてかき混ぜ、笊に上げます。ボウルの中に水を流しながら、笊を2,3回振り洗い。こうして、汚れた大根おろしを流してしまえば安心です。

  この方法は、むき身のアサリやシジミにも応用できます。大根おろしは、汚染物質を引き出す力がとても強いのです。古くから伝わる料理の知恵に脱帽です。

  貝料理の中でも、最も安心なのは酢の物。下ごしらえは、割酢(酢を水で倍に薄めたもの)で酢洗い。そのあと、本格的に酢の物を作ります。食べる時に、  酢を飲まないこと。酢の中に汚染物質が溶け出しているかもしれません。
http://www.long-life.net/new_page_825.htm
http://www.long-life.net/new_page_826.htm
http://www.long-life.net/new_page_827.htm


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/336.html#c5

[近代史3] 酒粕をもっと食べよう 中川隆
7. 中川隆[-10677] koaQ7Jey 2019年4月10日 12:49:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1364]


酒粕の種類にはどんなものがある?酒粕の選び方のポイント 2017年3月24日
https://www.sake-kasu.com/blog/?p=344


スーパーやドラッグストア、通販などで、酒粕が売られているのをよく目にすると思います。しかし、形状や色・量がさまざまで、どう選んだらいいかわからない人も多いのではないでしょうか。酒粕の味や種類の違い、選び方のポイントについてまとめました。

酒粕の種類にはどんなものがある?


酒粕はその形状や製法によっていくつかの種類に分けられます。代表的なものを見ていきましょう。

板粕

スーパーでよく売られている、四角い板状の酒粕です。日本酒を絞る際、自動圧搾機を使うことで酒粕が板状となって残ります。これをカットしてそのまま商品にしているのです。そのままでは固いので、水でふやかしたり練ったりして使います。

ばら粕

圧搾機からこぼれたものや、柔らかすぎて板状にならなかった酒粕を集めたものです。品質としては板粕と同じですが、板粕よりも柔らかく溶けやすいのが特徴です。


練り粕

酒粕を練り合わせて、やわらかいペースト状に加工したものです。ばら粕よりもさらに溶けやすく、野菜や魚を漬ける際にも使われます。


踏込粕(土用粕)

酒粕を半年前後熟成発酵させたもので、茶色や黄金色をしています。地方によって踏込粕、土用粕、押し粕などと名前が変わり、踏込粕のことを練り粕と呼ぶ場合もあります。コクや甘みが強く、奈良漬けなどの漬け物によく使われます。スーパーで「漬物用」として茶色い酒粕が売られていたら踏込粕のことです。


その他の酒粕

最近は機械化や人手不足によって板粕をとらない酒造も多く、ばら粕を練り込んでふたたび板状に成形したタイプも売られています。この場合、日本酒の栄養がそのまま残っている板粕よりも風味は劣ります。また、「甘酒用」「漬け物用」と細分化されて売られていることも増えています。

酒粕の味は使うお酒によって変わる!


酒粕は、日本酒を作る過程で残る絞りカスです。そのため、原料となるお酒の種類によって、味や風味が大きく変わります。大まかな日本酒の種類の見分け方を見ていきましょう。

純米酒

純米酒は、米と米麹だけで作られているお酒のこと。製造過程でアルコール添加がされていないため、米本来の味わいが強く出ます。


吟醸酒

吟醸酒は、米を40%以上削り、磨いて作られたお酒です。50%削ったものを大吟醸酒といい、さらに磨く手間がかかります。吟醸酒は香りが強く、雑味が少ない味わいが特徴。吟醸酒の酒粕は板状にはならず、ばら粕や練り粕の形状で売られます。強く絞らないため、日本酒の栄養価が多く残りますが、少量しかとれません。


普通酒

吟醸や大吟醸に当てはまらないもので、醸造アルコールを白米重量の10%以上使用したものや、調味料を添加したものなどさまざまです。


酒粕は生きている食材

スーパーなどで売られている安価な酒粕の中には、加熱されて酵母が死滅しているものもありますが、基本的には酒粕は発酵食品であり酵素が生きています。そのため、時間が経つほど発酵が進んで味や香り、色合いが変化していきます。

例えば色なら、白から黄色、黄色からピンク色、ピンク色から褐色…と変化し、半年ほど放置するとこげ茶色や黒に近い色に変わります。また、絞りたての酒粕は固めで、フレッシュな香りがしますが味はぼんやりとしています。次第に熟成が進むと香りは薄まるものの、しっとりとした柔らかさが出てきて、味にもコクが増します。

そのまま食べたり料理に使ったりする場合は絞りたてを、漬け物に使うなら熟成させたものなど、用途に応じて使い分けることも可能です。

酒粕の購入方法と保存方法

それでは、酒粕の購入・保存方法について見ていきましょう。

酒粕はどこで買えるの?

・スーパーで買う
・酒屋で買う
・酒蔵で買う
・インターネットで買う

酒粕は1年中購入できますが、旬は新酒が出回りはじめる冬です。主に1月?4月の間に出回る酒粕なら、フレッシュで栄養価の高いものが手に入りますよ。

スーパーでも手に入るものの、おすすめは酒蔵から直接買うことです。最近は、大きい酒蔵ならネット通販を行っているところも多くあります。もし近所に酒蔵があるなら、ネット通販よりも安くて新鮮な酒粕が手に入るかもしれませんよ。


酒粕の保存方法

酒粕は300g?500gの小分けタイプから、1kg?3kg程度の大袋まであります。特に酒蔵から買う場合は1kg単位での販売が多いでしょう。多く買うほうがお得になることもあります。

そんなに買っても一度に使い切れない!と思うかもしれませんが、記載されている消費期限はあくまで目安。酒粕にはアルコールが含まれているため、よほどのことがない限り腐りにくい食材なのです。常温で置いておいても発酵が進むだけで、腐ることはほとんどありません。気になる場合は冷蔵庫などの涼しい場所で保管すれば発酵が止まり、長期間の保存が可能です。

また、酒粕は冷凍保存が可能です。100gずつなど使いやすいサイズにラップで平たく小分けし、チャックのついた袋に入れて冷凍しておけば、いつでもフレッシュな状態で使えますよ。


酒粕は種類に応じて上手に使い分けよう

酒粕と一口に言っても、元になるお酒の種類や製法によって、味わいや使い方が異なります。ちょっとした料理には安いもの、味がダイレクトにわかる料理には酒蔵のものを使うなど、使い分けてみてもいいですね。余ってしまって発酵が進んだ酒粕なら、漬け物に使うこともできます。たくさんの種類がある酒粕を、自分なりに楽しんでみてくださいね。
https://www.sake-kasu.com/blog/?p=344
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/334.html#c7

[近代史3] 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 中川隆
33. 中川隆[-10676] koaQ7Jey 2019年4月10日 13:27:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1365]
2019.04.10
生活水準が欧州以上に高かったリビアを軍事的に破壊したのは米国などの外部勢力


 リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が「民主化」という旗印の下で破壊されたのは2011年のことだった。それを西側では「アラブの春」と名づけたが、その実態はアメリカ、イギリス、フランスをはじめとする国々による侵略にほかならなかった。リビアの内部対立を利用、地上部隊としてのアル・カイダ系武装集団と連携したNATO軍による侵略したのである。

 侵略によって破綻国家と化したリビアでは現在、トリポリを拠点し、国連を後ろ盾とするGNA(政府)が存在している。そのトリポリにベンガジを拠点とする武装勢力のLNAが迫っている。

 LNAを指揮しているハリファ・ハフタルとは1960年からCIAに保護され、アフタルに従う武装グループはアメリカで軍事訓練を受けてきた。この武装勢力は2011年の侵攻作戦へも参加している。

 アメリカなどの侵略国はリビアより1カ月遅れてシリアに対しても同じような侵略戦争を始めたが、シリアはリビアと違って深刻な内部対立はなく、政府軍も強かった。

 それに対し、侵略勢力はサラフ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心とする傭兵をシリアへ集中させ、武器/兵器も供給する。マイケル・フリン中将を局長とするDIA(国防情報局)が​2012年8月にホワイトハウスへ提出した報告書​の中で、バラク・オバマ大統領が主張するような穏健派は存在せず、主力はサラフ主義者やムスリム同胞団だと指摘している。

 武装勢力としてはアル・ヌスラ(AQIと実態は同じだと指摘されていた)の名前を挙げているが、オバマ政権の政策はシリアの東部(ハサカやデリゾール)にサラフィ主義者の支配地域を作ることになるとも警告していた。ダーイッシュの出現を見通していたと言える。

 ダーイッシュが売り出されたのは2014年。その件でオバマ政権内は揉め、フリン局長は退役を余儀なくされる。

 退役後の2015年8月、アル・ジャジーラの番組に出演したフリンは司会者からダーイッシュの出現を阻止しなかった責任を問われたが、自分たちの任務は提出される情報の正確さをできるだけ高めることにあり、​その情報に基づいて政策を決定するのはバラク・オバマ大統領の役目​だと答えている。オバマ政権の政策がダーイッシュを作り上げたと言える。


 そのダーイッシュは残虐さを演出、それを口実としてアメリカ軍は2014年からシリアに対する空爆を開始、シリア国民を殺すと同時にインフラを破壊していく。その間、ダーイッシュは勢力を拡大していった。

 オバマ大統領は2015年に戦争体制を強化する。つまり2015年2月に国防長官がチャック・ヘイゲルからアシュトン・カーターへ、また統合参謀本部議長が同年9月にマーチン・デンプシーからジョセフ・ダンフォードへ交代になった。

 オバマ大統領が新議長としてダンフォードを指名したのは2015年5月。ロシアがシリア政府の要請で軍事介入したのはダンフォードが新議長に就任した直後の9月30日だ。ロシア軍はアメリカ軍と違い、侵略勢力を本当に攻撃、ダーイッシュの支配地域は急速に縮小していった。

 ロシア軍か介入しなかったリビアは殺戮と略奪が横行する破綻国家になったが、カダフィ時代はヨーロッパを上回る生活水準を維持していた。

 カダフィ体制では教育、医療、電力料金が無料、農業は元手なしで始めることができた。リビアが産油国だということもあるが、石油価格は1リットル0.14ドルにすぎなかった。欧米の食い物になってきたアフリカを自立させるために独自の通貨、ディナールという金貨を導入しようとした。これが欧米支配層を恐怖させ、軍事侵略に踏み切らせたと言われている。

 シリアでダーイッシュなど傭兵集団が敗走していた2016年、LNAのハフタルはロシアを訪問、軍事的な支援を求めた。門前払いにはしなかったが、すでに破綻国家と化しているリビアに対する本格的な支援をロシアは約束していない。

 アメリカのマイケル・ポンペオ国務長官はリビア情勢について「軍事的な解決はない」と発言しているが、軍事的にリビアを破壊したのはアメリカをはじめとする勢力だった。まさに笑止千万。

 ロシアのウラジミル・プーチン大統領は2015年9月28日、シリアへ軍事介入する直前に国連の安全保障理事会で演説し、その中で「民主主義や進歩の勝利ではなく、暴力、貧困、そして社会的惨事を我々は招いてしまった。生きる権利を含む人権を少しでも気にかける人はいない。こうした事態を作り上げた人びとに言いたい:あなたは自分たちがしでかしたこと理解しているのかと。」そして「うぬぼれ、自分は特別で何をしても許されるという信念に基づく政策は捨てられなかった。」と語っている。

 言うまでもなく、この「あなた」はアメリカをはじめとする西側の好戦派を指している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904100000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c33

[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
6. 中川隆[-10675] koaQ7Jey 2019年4月10日 14:05:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1366]

JBLがウレタンエッジを採用してからクラシックも聴けるようになった代わり、あの弾むようなべースの音は影を潜めてしまいました、と同時にJBL独特のジャズっぽさも消えて音が没個性化されたような気がします。

昔のランサー101 に代表される不織布のエッジに変わってウレタンが採用されるようになってクラシックも聴けるようになりました。しかしこのウレタンは弱点もあります。10年近く経つとウレタンがボロボロに崩れてしまうことです。

JBLの音、と言えばL−101に代表される太く、逞しく、迫力満点の音、そしてD−130の軽やかで、弾むようなリズミカルな音といずれもジャズに特化したような音が一番印象的です

異常とも言えるあの 4343ブームの再来は最早あり得ないでしょう。


_____

 JBL 礼賛
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jacke842nov/html/jbl/koment.html

1.序 章…JBLの人気の秘密は?

ジャズレコードの再生にはなくてはならないスピーカーJBL…
今は国産のスピーカーも全く遜色の無い音質ですが、ジャズ喫茶全盛当時スピーカーと言えばJBL…

たまにアルティックを見かけるぐらいで、それ程JBLは人気がありました。
最もその頃のジャズ喫茶のカートリッジの定番と言えばシュアでしたから、ジャズの本場米国のスピーカーとカートリッジの組み合わせは、正にジャズのためにあったようなものでした。長い歴史と、その国の風土国民性、そして生活の慣習に培われた伝統の音楽は、例え再生音楽とは言え容易に日本人に真似のできるところではなかったのかもしれません。

JBLがそれ程人気があった理由の一つは、やはりその音質でしょう。

紙臭さが全く無く、生の音に限りなく近い再生音は魅了されるに充分でした。オーディオ専門誌でも圧倒的な支持を得ていますし、このような記事がその人気に拍車をかけたことは否めませんが、それを別にしても音にうるさいジャズ喫茶の殆どがJBLを採用していたことを思えばその人気は本物でした。


JBL人気のもう一つの理由はデザインの素晴らしさでしょう。

単体ユニット、完成品のどれを取っても非のうちどころがありません。もう一方の雄であるアルティックは米国流の考え方で、音質が全てに優先する、という合理性に沿ったものです。あの包み込まれるような空気感を伴った音質は魅力的です。ジャズ喫茶で聴く限りは何ら不満はありません。むしろアルティックを採用している店主に拍手を送りたくなります。

それでも私個人としては使う気になれません。物には全て形、色、質感があります。

「デザインで音を聴くわけじゃない!」と言ってしまえばそれまでですが、人間の五感の一つでもある視覚に訴える効果は絶大な物があります。元々アルティックは劇場用、JBLはコンシュマー用ですから当然の成り行きかもしれませんが…

JBL賞賛大ブローの序章ですが、JBLとて30年近く昔と今では製品も様変わりです。

これはJBLの一オールドファンの回顧録、懐古趣味といえるものですから、興味をお持ちの方だけお読みになって下さい。


2.フルレンジ一発…D−130

27年前になりますが、当時JBLはかなり高価で高嶺の花でした。

ジャズ喫茶と言えど後の4343に代表される大型フロアータイプを設置しているお店は
少なくランサー101やL−88ノバなどが記憶に残っています。
L−101を使用していた御茶ノ水の「響」にはよく行きました。大理石と手彫り組子のデザインは斬新でかつ日本的で一目見てJBLの虜になってしまいました。
LE−14Aと175DLH(通称蜂の巣ホーン)の音は圧倒的なパワーで腹に響いてきました


              

     L-88ノヴァ       L-101ランサー        D-130
             LE-8T


どうしてもJBLを手に入れたい、と思いましたが、完成品ではとても手が出ない。

その頃フルレンジのLE−8Tや、D−130を国産のBOXに入れたスピーカーが流行っていました。
そこで御茶ノ水の「オーディオユニオン」で進巧舎のBOXに入れたものを購入しました。

JBLはプロ仕様で製品化したものを、型番や多少仕様を変えてコンシュマー用にも出しています。D−130も元々はPAや楽器用のプロ用でした。能率は滅法高く、センタードームの採用でトーンコントロールを使えば上限は1万Hzぐらいまで出ます。

このスピーカーはジャズのためにある、と言っても過言ではない、それもピアノトリオには抜群の威力を発揮します。フルレンジですから、定位はバッチリでその音色といい、軽やかでリズミカル、よく弾むしなやかさとパワーに即応答するレスポンスの良さは飛びぬけていました

唯一の泣き所は当然ながら重低音が出ないこと(勿論高音も厳しいですが、ジャズのトリオを聴く限りにおいては不満はありません)オーケストラものでは音がダンゴ状になることです。私はクラシックも聴きますので、シンフォニーのffなどでは量感に乏しく音も一塊で役者不足の感を否めません。

元々JBLのスピーカーはクラシックの再生は得意ではありません。L−101のバイオリンは余りに太く、馬力がありすぎて、繊細感に欠けるものですし、分解能もそんなに良くない、クラシックも聴けるようになった、と言われ始めたのは4343出現以後ではないかと思います。
クラシックは欧州のスピーカーの得意とするところで、オーディオもその地域の長い歴史と伝統に培われた音楽に根ざすものである、といえます。
 

話がそれますが陰影の多いクラシックは少し音が湿っていた方がニュウアンスがよくでる、逆にジャズは音がカラッとしていないと欲求不満になる、これはスピーカーの能率とも関係があってジャズ向きは例外無く能率がいい、何か実際の音楽をスピーカーに閉じ込めてしまった様で面白いとは思いませんか?


               
   73年頃、両サイドが D-130         K-130       
D-130オリジナルBox入れ(ハ−ツ・フィールド) 


 

3. JBLのデザインの象徴…L−200B

D−130のジャズ再生における素晴らしさは認めつつも、前途のような物足りなさとオーディオにのめり込め始めていた私は、一大決心をしてなけなしの有り金をはたき、その上ローンを組んで(正直なところ殆どローンでした)L−200Bを購入しました。

これはプロユースの4331Aのコンシュマー版で2wayです。プロ仕様ではホーンツウィーターを追加できますが、コンシュマーではできません。3wayはL−300です。

このBOXはかなり斬新なデザインでJBLの面目躍如たるものがあります。特にバーガンディの海綿状のグリルは、ほかでは見られないユニークなものです。
これは凸凹の連続的なデザインで、音の拡散にもそれなりの効果があったのではないかと思います。今考えると、6帖一間で聴いてるわけですから、もとより音量など上げられる筈もありません。そんな条件下で無駄な抵抗をしたものだ、という気もします。

しかし実用性一点張りでは趣味は限られてしまいます。限られたスペース、限られた条件下のもとで一つ一つ努力しながら自分の音にしていく、その過程が楽しみでもあり、苦しみでもある、それこそが趣味たるオーディオの醍醐味ではないでしょうか?

どの段階で一線をひくか、その見極めこそ大事なのではないか、と思います。


L−200Bも最初は音が硬く、全くなじまない、半年ぐらい駄目だったと思います。

何かそれまでのD−130とは明らかに違う、紛れも無くJBLの音なのですが、微妙なニュウアンスが異なる、低音は重くて弾まない、やたら中音が威勢がいい、2wayなのにどうも音がチグハグに聞こえる…

今考えると思い当たることばかりですが、なにせパワーを入れられないから、なじむまで時間を要しました。ウオルナットのオイルフィニッシュの香りが消える頃には音らしくなってきましたが、それからもかなり時間を要したように思います。


             

  海綿状のグリルがユニークな L-200B    4331コンポーネント
          4331A


JBLがウレタンエッジを採用し始めたのはこの頃からではなかったか、と思います
良くも悪くもウレタンです。クラシックも聴けるようになった代わり、あの弾むようなべースの音は影を潜めてしまいました、と同時にJBL独特のジャズっぽさも消えて音が没個性化されたような気がします。


                          
        76〜80年頃、下のスピーカーが L-200B             もう一方のコーナーのL-200B

4. オーディオ界のバブル…4343

その頃の、オディーオ誌の試聴におけるリファレンススピーカーと言えばJBL4343が標準になっていました。本来4343はプロユースのスタジオモニターなのですが、これが一般受けしてしまった。いわゆる4343ブームです。

JBLもそのへんは心得たもので、これだけの人気があるならわざわざコンシュマー版を出す必要もないとばかりBOXがグレイに黒のグリル、ウオルナットにブルーのグリルの2機種だけで、他の機種のようなプロ用とコンシュマー用を分けた製品作りはやりません。恐らくこれだけ高価なスピーカーがかなりの台数販売されたのは前代未聞でしょう。

4wayというマルチ構成は周波数帯域の最もつながりの難しい構成ですが、それを見事に解決しているのも4343の人気に貢献したのではないかと思います。そして、その性能の割には比較的コンパクトで一般のオーディオファイルでも使える大きさ、つまりはハード面でJBLのトップレベルでありながら、場違いな点さえ気にしなければ6帖間にも収まる、というJBLの技術力の高さと、巧みなビジネス戦略がマニアの心を揺さぶって、それに拍車をかけるように各オーディオ誌がこぞって賞賛した、という充分な下地もあったかもしれません。

もう一つの大きなポイントはやはりそのデザインです。

グリルを取るとバッフル表面はポートの穴なども含めて日本人ならもっと丁寧に上手に仕上げるのではないか、という気がしますがユニット本体のデザイン、各ユニットのレイアウトは正に機能美の結集したものと言ってよく不要な飾りの一切無い見事なものだと思います。


                    
                 
          4344     4344MK-U


4343は一世を風びしましたが、私自身はL−200Bの2wayと比較して、格段の差は感じませんでした。最もフルパワーに近い音量で、最低でも20帖ぐらいのルームで聞けば分解能の違いとか、それなりの差は現れるのでしょうけど、普通に聞く分にはそれ程遜色無い、いずれも製品としての完成度が高い、ということでしょう。

一時46cmウーファーを搭載した4345もありましたが、やり過ぎの感じを否めません。

現在は 4344MKU になっています。各ユニットの改良と、ユニットのレイアウトを見なおしてよりスムーズな音の繋がりと位相を整えたものと思います。
現在ではオーディオから大分遠ざかっていますので、4344の人気の程は解かりませんが異常とも言えるあの 4343ブームの再来は最早あり得ないでしょう。

昔のランサー101 に代表される不織布のエッジに変わってウレタンが採用されるようになってクラシックも聴けるようになりました。しかしこのウレタンは弱点もあります。10年近く経つとウレタンがボロボロに崩れてしまうことです。

JBLの音、と言えばL−101に代表される太く、逞しく、迫力満点の音、そして D−130 の軽やかで、弾むようなリズミカルな音といずれもジャズに特化したような音が一番印象的です

スピーカーにも得意不得意があってよく、万能というのは反面独特の個性を失っているのかもしれません!       
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jacke842nov/html/jbl/koment.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html#c6

[リバイバル4] 上杉研究所 交流点火 無帰還 300B シングルアンプ U・BROS-300AH 中川隆
16. 中川隆[-10674] koaQ7Jey 2019年4月10日 14:28:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1367]

175名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/10(水) 14:24:19.36ID:VWsF9Evk

存命時の上杉佳男氏と三浦氏のステレオサウンド誌での対談は面白かったな。

上杉氏はケーブルでは音が変わらないの一点張り、三浦氏はケーブルにも吟味すべきと主張。

まさにアンプ設計に素材の吟味を全くしなかった上杉氏らしい姿勢。
古いタイプのアンプ技術者だったって事だね。

一方で一緒に参加してた柳沢氏は「自分の試聴ノートを見ても矢張り高額なケーブルの方が好ましい印象が書いてある」とその対談で語ってた。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/pav/1554757282/l50
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/121.html#c16

[リバイバル4] 上杉研究所 交流点火 無帰還 300B シングルアンプ U・BROS-300AH 中川隆
17. 中川隆[-10673] koaQ7Jey 2019年4月10日 14:38:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1368]

177名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/10(水) 14:33:32.12ID:VWsF9Evk

自分で聴いても上杉のアンプは精彩に欠ける音だったんだよな。
Air Tight は上杉より遥かに音が良く、オーディオノートは更にその上を行く音だった事に比べると、値段は一人前、音は半人前という感を持った。
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/121.html#c17

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
26. 中川隆[-10672] koaQ7Jey 2019年4月10日 16:33:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1369]
ヒトラーとその側近たち 2017年 07月 11日
https://jamal.exblog.jp/25633646/

 レニ・リーフェンシュタールの『回想』を読み続ける傍ら映像で「ヒトラーと6人の側近たち」を見続ける。

BS歴史館シリーズでルドルフ・ヘスとリーフェンシュタールも見ているのだが、フリーアナウンサー渡辺真理の進行で東海大教授の鳥飼行博氏ともう一人という2人のコメンテーターによって語られる内容はとても興味深い。

「6人の側近」中昨日はハインリヒ・ヒムラーについいてみてみた。というのも大分以前ベルハルト・シュリンクの『朗読者』のレビユーを書くにあたって僕としては異例の膨大な資料集めをしノート付けをした。本文にはその半分程度しか活かすことができなかったが、後の為に使えるだろうと思い保存してあった。昨日それを読み返してみたが意味不明な箇条書きも多かったものの結構利用価値のある記述もあって残しておいてよかった部分も多い。しかし何故記録したのか不明な部分については当時本文を書く際には有効だったものが、今となってはわからないことが多々あって賞味期限切れとしか言いようがない。今更ながらノートというのはつけ方が難しものであると思わされる。

それはともかく昨日ふと目についた記述にニュールンベルグ裁判におけるヘルマン・ゲーリングの証言である。ホロコーストのことなのかどうかは不明だがこうある。

「虐殺があったことは間違いないだろうが、自分たちは関与していない。そんな事実も知らなかった」

「ヒトラー自身もこのような虐殺を知らなかった」

と証言している。

じゃあ誰がやったことにしているのかとなった時、昨日のハインリヒ・ヒムラーの映像をみるなかでなるほどこいつならという印象を残した。

ヒトラーがヒムラーと強制収容所を視察したのはたった1回きりでヒトラーは「よくできた施設だ」と感想を述べた程度でその後一切関与していないかのような印象を与える。

ゲーリングにしてもユダヤ人は軍需工場などで貴重な労働力とするほか、強制収容所を教育的配慮で規則的生活、清潔、有効な労働経験・・・などの場として活用する風な発言をしていた。

また僕のノートの記述にラウル・ヒルバーグという人物が

「ユダヤ人絶滅の全作業を担った官庁はなかったし、特定の機関が創出されることもなく、特定の予算も割かれなかった」

というのもある。

 ヒトラーもゲーリングも関与せずいったいどうやってあのような組織的虐殺がなされたのか。「ユダヤ人問題」として提言され主張されるにあたって間違いなくヒトラーも側近たちも支持者や国民にむけて「約束」した筈であり、ゲットー囲い込みや収容所送りから抹殺までの民族的淘汰が現実に行われたということの間に何かしらのトリックを用いて知らぬ存ぜぬを装ったたとしか言いようがない。

大量虐殺は国際法違反。もし敗戦となって罪を問われることを想定するということは当然想定内だったろう。その為のスケープゴートを用意しておかねばならない。多分その一人にヒムラーがいたと思えるのだ。

昨日の映像でもヒムラーを猟奇的人物として強調している。彼が指揮するSSの為の城はユダヤ人による無償の労働にによって豪奢につくられ、ヒムラーの部屋には多分ユダヤ人の大腿骨を用いた3本脚の椅子や人間の皮膚で装丁されたヒトラーの『我が闘争』など尋常な神経ではないヒムラー像をうかがわせるものであった。また目標の為には人の命など顧慮する必要はないという内容の演説もあり非情さを伺わせ、そういうことがSS隊員に伝播し行動化されたなかのひとつがユダヤ人への扱いとなったことは頷ける。

こういうわかりやすい行動をするヒムラーに比べれば他の側近の姑息さはらしいといえばらしいのであって、そのなかでミュンヘン一揆以来のヒトラーの側近であり副総統の地位にあったルドルフ・ヘスなどは純真なナチ党員だったと言えよう。ミュンヘン一揆でヒトラーと共に投獄され、投獄中は『我が闘争』執筆の秘書として働いた。ナチス党が政権をとると副総統の地位に就くがなぜか重大なことさえ知らされない蚊帳の外的存在として扱われた。しかし彼のヒトラーへの忠誠心は強く何かの役に立ちたい一心だったようで、イギリス本土への空爆や侵攻が不成功に終わり逆襲される事態となって、打開策を求めて単独イギリスにわたるというありえない暴挙をしでかしたかどでヒトラーの逆鱗にふれる。それ以後要職をはく奪されたまま終戦となるがニュールンベルグ裁判では他の戦犯とは異なりあくまでナチスへの忠誠と正当性を証言している。当然のことながら戦犯として終身刑となり90歳を超えるまで牢のなかの住人として生涯を過ごすことになった。

「朗読者」のレビューの為のノートの約半分はユダヤ人問題とホロコーストに関するものだったが、この著の大事なところはそれとはあまり関係がない。ただ「教会の火事」事件に関与してハンナがSS隊員としてとった行動及びその報告書の記述が彼女のものかどうかが審判された時、文盲だった彼女が筆跡鑑定のために証言台で文字を書かされる段になってそれを拒否して「私が書きました」と証言する場面がある。この「教会の火事」とは有名な「水晶の夜」事件のことであろう。ユダヤ人の教会「シナゴーク」を焼き払う事件が発端となってユダヤ人の経営する商店の排斥、ゲットーへの囲い込みそして強制収容所への移送、ホロコーストという悲劇の始まりを告げる事件だった。

これもまたナチス時代の悲運を描いた作品であったことを思い出す。
https://jamal.exblog.jp/25633646/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c26

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
27. 中川隆[-10671] koaQ7Jey 2019年4月10日 16:36:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1370]


ヒトラーと6人の側近たち [VHS] カスタマーレビュー


偏向放送の見本 ある意味必見 2011年8月28日

90年代のドイツで作成された番組で、いかにも当時のドイツを反映した事実のねじ曲げ、悪意ある解釈に満ちている。

つまり、「ナチスに少しでも加担したものはたとえどんな理由であれ(祖国を守るために戦った軍人であっても)すべて悪!」という単純極まりない信念がありありと感じられるということだ。

いい例がカール・デーニッツの回である。ただの海軍軍人で政治にほとんど関心がなかった彼をメンゲレやゲッベルスと一緒に「側近」と纏めているところがまず笑えるのだが、少し番組の内容に触れてみよう。

まず番組は当時の海軍兵士を登場させ、「デーニッツは海軍司令官として戦争に参加したのだから戦死者に対して責任がある!」と言わせる。軍人として当然の行為が罪になるらしい。

どうやら「なんでヒトラーに逆らわなかったんだ!」と言いたいらしいのだが、そもそも軍とは国家に対し忠誠を誓うものであり、ヒトラーが国家元首であった以上、自分の信念がどうであれその命令に従うのは当然のことである。これはデーニッツに限らず、ドイツ軍全体の共通認識であり、アメリカやイギリスなど連合軍諸国でも同様であった(ドイツ軍は伝統的に、特にそうした意識が強かったのは確かだが)。

次にヒトラーの国防軍再建について触れ、「軍は功名心からこのヒトラーの決定を歓迎した」という意味合いのナレーションが入る。もうこの時点でこの番組に何も期待してはいけないことがわかるだろうが一応説明すると、国土の地政学的条件に対して著しく小規模に抑えられた国軍再建は当時のドイツ軍人全ての悲願だった。
近代軍の使命は第一に祖国の防衛であり、軍人たちは己の使命を果たすために必要十分の軍備を整える必要があったからこそヒトラーを歓迎したのであって「功名心」などというくだらないものからではない。ハインツ・グデーリアンの言うように「軍人こそ戦争を嫌う生き物はいない」のであり、番組制作者が視聴者に思い込ませたがっているように、戦争をしたくて再軍備に賛成したわけではない。現にデーニッツも開戦にはショックで日記にそのことを記しているのだが、この番組の目的は真実を伝えるところにはないので、どうでもよいのである。

さらにUボート戦術について。潜水艦の無警告射撃は第一次世界大戦からの常識なのだが、番組はそれについての説明を一切することなく「無警告でイギリスの船を撃沈した」といい、デーニッツが戦争のルールを知らない冷酷非情な人間であると印象づけようと涙ぐましい努力をしている。

アセニア号撃沈事件については言い訳のしようがないが、あれは敵艦と誤認したことによる事故であって、別に客船としってわざと沈めたわけではない。が勿論番組はデーニッツが意図的に沈めたような言い方をしている。

このような誤認による事故は連合国側でもあったし、実際のドイツ海軍は可能な限り撃沈した船からの溺者救助を行うなど規律はかなり良かったのだが、言うまでもなく番組では説明されていない。

傑作なのは続いてスカパ・フローに停泊していた戦艦ロイヤル・オークについても「無警告で撃沈した」とナレーションに言わせているところだ。言うまでもなくすでに戦争は始まっているのであり、敵の軍艦を見つけ次第攻撃しようとなんの問題もない。

おそらくこのテレビ番組位の制作者は、戦場で敵の兵士を見つけてもすぐに攻撃するのは許されないことであり、「見つけましたよー」と敵兵に声をかけなければならないと思っているのだろう。まこと驚嘆すべき思考の持ち主である。

というように、番組開始10分もしない内にこれだけ露骨な悪意ある編集を見せられて唖然としてしまった。ギュンター・プリーンがナチス党員であったことに触れてないことがかえって不自然に思えるほどの凄まじさである。

かのゲッベルス氏もかくや、と思わせるほどのプロパガンダぶり、この制作スタッフが当時のナチス・ドイツにいたならば、さぞ優秀な宣伝員になれただろう。

以上まとめると、とてもまともな番組とは言いがたいのだが、「事実に悪意ある解釈をすることで、無知な視聴者にそれが正しい解釈であると思わせ、制作者の意図通りの認識を与える」という古今のメディアの問題点を象徴したかのようなモノであり、その点においては特筆すべきものがある。私に先立って書かれたレビューからもそのことは窺い知れよう。

デーニッツは晩年「総統を押し付けられたのはとんでもない迷惑だった。あれのせいで私の軍人としての生涯は台無しだ」と語ったという。

たしかに自分の死後、このような名誉毀損ものの番組で偏見に満ちた好き勝手な人物像を作られ、それを無責任なメディアによって流布されたのだから、迷惑というレベルの話ではなかっただろう。デーニッツのためにも、「10年と20日間―デーニッツ回想録」を読んでみようと思う。
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A86%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%81%B4%E8%BF%91%E3%81%9F%E3%81%A1-VHS/dp/B00005RS1L/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A86%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%81%B4%E8%BF%91%E3%81%9F%E3%81%A1&qid=1554881754&s=gateway&sr=8-1-fkmrnull
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c27

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
28. 中川隆[-10670] koaQ7Jey 2019年4月10日 16:39:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1371]

第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月 本筋6:ドイツ降伏〜ヒトラー側近達のその後〜
担当:林梅雪

●敗軍の将達は・・・  今回は、ヒトラーの側近達がドイツ降伏後にどうなったかについて御紹介します。

 1945年4月30日、ドイツの指導者アドルフ・ヒトラー総統は、新妻エヴァ・ヒトラーと共にベルリンの総統地下壕で自殺します。さらに翌5月1日、ヒトラーの側近で後継首相に指名されていたヨゼフ・ゲッベルス宣伝相も、子供6人と妻を道連れに総統地下壕で自殺しました。

 残りの側近や使用人は総統地下壕から逃走を開始しますが、ほとんどがソ連軍に拘束されました。そして、ヒトラーにより後継ナチス党党首に指名されていたマルティン・ボルマン総統官房長は、脱出中行方不明となり、翌年のニュルンベルク軍事裁判では欠席のまま死刑判決を受けていましたが、1972年にベルリン市内で遺骨が発見され、脱出中に死亡(爆死)していたことが明らかとなります。

 5月1日22時20分、北ドイツにいた後継大統領カール・デーニッツ海軍大元帥は、ラジオ放送で「4月30日、ヒトラー総統は官邸前で一兵士として戦車と戦い、壮烈な戦死を遂げられた」と自殺を戦死にすりかえて発表。しかし、ドイツ国民のほとんどがヒトラーの死に興味や関心を示しませんでした。

 反逆者としてすべての地位を剥奪され、SS(親衛隊)に自宅軟禁されていたヘルマン・ゲーリング国家元帥は、ブラウヒッチェ陸軍元帥をアメリカのアイゼンハワー将軍(のち大統領)のもとに急派し、SSからの保護を訴え、国家元帥として話し合いたいと申し出ましたが、完全に無視されます。ゲーリングはこの後捕虜となり、ニュルンベルク裁判に出廷。

 同じく、反逆罪ですべての地位を剥奪された親衛隊隊長ハインリヒ・ヒムラー。
 彼はデーニッツ新政府のもとに赴くも、ここでも厄介扱いされ、偽の身分証明書を持ち逃亡生活に入ります。しかし、ドイツ降伏後の5月23日逮捕。取調べで彼は自分がヒムラーであることを認め、その直後、隠し持っていた青酸カリを仰ぎ死亡しました。

 その、デーニッツ新大統領は、ナチス色を薄めるためにヒトラーが遺言で指名した人物ではなく、自身で新閣僚を任命します。デーニッツはヒトラーの側近だったヨアヒム・フォン・リッベントロープ外相に電話をかけ、「新外相にふさわしい人物を推薦して欲しい」と、遠まわしに彼に罷免を言い渡します。

 その結果、しばらくしてリッベントロープからデーニッツに電話がかかってきます。

 ところが彼は「新外相にふさわしいのはヨアヒム・フォン・リッベントロープだ」と述べます。当然、この厚かましい要求は退けられ、新外相にはヒトラー内閣の閣僚であった貴族、シュベリン・フォン・クロージク伯爵が任命されています。

 アルベルト・シュペーア軍需相は、ナチス党員でヒトラーの側近でしたが、優秀な人材であったため留任し、国民の食料と生活の維持のための実際的な計画に着手。

 こうして新政府らしい形が出来上がり、デーニッツはイギリスのモントゴメリー陸軍元帥に降伏を申し出ました。なお、当初は英米だけと講和し、ソ連とは戦闘を続行しようとしたデーニッツでしたが、最終的には全面的降伏することに決定。

 5月7日、ドイツは連合国への無条件降伏文書に署名し、ここにヨーロッパ戦線での戦闘は終結(ドイツ降伏)。ナチス・ドイツは名実ともに崩壊した。

●ニュルンベルク裁判と判決 ヒトラーの側近達は次々と逮捕され、21名がニュルンベルクで裁判にかけられた。裁判は、被告同士の罪のなすりあい、法廷戦略、また連合国側の不和などで混乱もみられたが、1946年9月に結審。11月には判決が下された。

 ヘルマン・ゲーリング元国家元帥、ヨアヒム・フォン・リッベントロープ元外相、オーストリア元首相ザイス・インクヴァルトら11名は絞首刑(但し、ゲーリングは刑執行直前に服毒自殺)。ルドルフ・ヘス元総統代理ら3名は終身刑。ルドルフ・ヘスは長くドイツのシュパンダウ刑務所で服役しましたが、1987年に93歳で自殺しました(遺族は他殺説を主張)。

 アルベルト・シュペーア元軍需相ら2名は禁固20年の刑、コンスタンティン・フォン・ノイラート元外相は禁固15年の刑、さらにカール・デーニッツ元大統領は禁固10年の刑を受け、1956年出獄、1980年に89歳でその生涯を閉じています。

 一方、宣伝省のニュースキャスターに過ぎなかったが起訴されたハンス・フリッチェ、シャハト元財務相、フランツ・フォン・パーペン元首相は無罪判決を言い渡されます。パーペンは、1932年に首相を務め、ヒトラー内閣では副首相(後オーストリア、トルコ大使)を務めた人物です。

●逃亡者達 ナチス・ドイツ幹部の中には、逃亡機関の支援を受けて南米に逃亡する者もいました。ユダヤ人大量虐殺の責任者であったアドルフ・アイヒマンはアルゼンチンに逃亡しましたが、1961年イスラエル諜報部に察知され逮捕。イスラエルに連行され、翌年処刑されています。

 そして、アウシュヴィッツ強制収容所で残酷な人体実験を行った医師ヨセフ・メンゲレ博士も南米に逃れましたが、1979年にブラジルで溺死したといわれています。
http://www.uraken.net/rekishi/syusen10.html





http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c28

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
29. 中川隆[-10669] koaQ7Jey 2019年4月10日 16:53:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1372]

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20


ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c29

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
30. 中川隆[-10668] koaQ7Jey 2019年4月10日 17:21:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1373]

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c30
[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
7. 中川隆[-10667] koaQ7Jey 2019年4月10日 17:38:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1374]

アメリカのモニター・スピーカー

・Western Electric TA7388 (1930年代) :  映写室用モニタースピーカーシステム , TA4189 フルレンジスピーカー + TA7355メタルキャビネット + WE95Aアンプ
https://blog.goo.ne.jp/kobmina/e/660c449fabb8b587763c63e6ac6199f9
http://www43.tok2.com/home/temasumo/article/2006/r-tec0601_(03)WE398A-single-monitor-power-amp_AtarashiT.pdf

・G.I.P.Laboratory GIP-225 : Western Electric の映写室用モニタースピーカーシステム TA7388 のレプリカ
http://www.gip-laboratory.com/seihin4189.html
http://www.gip-laboratory.com/seihin225system.html

・ALTEC LANSING 601 (1943)

・ALTEC LANSING 604 (1945)

・ALTEC LANSING 604E (1967)

・ALTEC LANSING 605B (1967)

・ALTEC LANSING 601-8D (1970)

・JBL 4320 (1971)

・JBL 4350 (1973)

・JBL 4343/4343WX (1976)

・JBL 4344 (1982)

・JBL 4348 (2002)

・JBL 4311B/4311BWX (1979)

・JBL 4312 (1982)

・UREI 811B (1984)

・UREI 813 (1984)

・Westlake Audio TM-1 (1971)

・Westlake Audio TM-2 (1974)

・Westlake Audio HR-1/HR-2/HRV-2 (1979)

・Westlake Audio TM-3/TMV-3/TM-4 (1981)

・Westlake Audio TM-1/TM-2mkII/TMV-2mkII (1982)

・Westlake Audio TM-6 (1982)

・Westlake Audio HR-7F (1982)

・Westlake Audio BBSM-6 (1982)

・Westlake Audio BBSM-10 (1984)

・Westlake Audio BBSM-15 (1990)

・Westlake Audio Referenceシリーズ Tower SM-1 : 4100万円・ペア/税抜

・Westlake Audio Referenceシリーズ SM-1F

・Westlake Audio Referenceシリーズ TM-3
http://www.avseartron.com/Referencer_series.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html#c7

[リバイバル3] どうしようもないダメスピーカー JBL 4343 がバカ売れした理由 中川隆
8. 中川隆[-10666] koaQ7Jey 2019年4月10日 17:40:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1375]

JBLの名作スピーカー


・JBL D130(1948)


・ JBL Hartsfield D30085 初期型 (1954) : 2 wayシステム, ドライバー 375SIG + ウーファー 150-4C
・ JBL Hartsfield D30085 中期型 (1959〜1963) ; 3 wayシステム, ドライバー 375SIG + ウーファー LE15A + トィーター 075
・ JBL Hartsfield D30085 replica 1 (1970年頃) : 外見だけ同じで中身は別物
http://island.geocities.jp/umanose8818/harts/hartsfield.html


・ JBL Hartsfield D30085 replica 2 (2017) ケンリックサウンド復刻版 : 630万円・ペア/税抜
http://jbl43.com/?pid=57641713

・JBL Paragon D44000 (1957)
http://audio-heritage.jp/JBL/speaker/paragon.html
http://fukuroo3.com/paragon1.html
http://fukuroo3.com/paragoninfo.html
http://fukuroo3.com/paragon55.html

・ JBL Paragon D44000 replica (2013) ケンリックサウンド復刻版 : 548万円・税抜
http://jbl43.com/?pid=49469572

・JBL Olympus (1960年)


▲△▽▼


JBL の可もなく不可もない民生用スピーカー


・JBL LE15A (1962)
・JBL LE8T (1962)

____


・JBL Project K2 S9500 (1989)

・JBL Project K2 S5500 (1993)

・JBL Pjoject K2 S9800 (2001)


▲△▽▼


JBL のダメダメ・モニタースピーカー


・JBL 4320 (1971)

・JBL 4350 (1973)

・JBL 4343/4343WX (1976)

・JBL 4344 (1982)

・JBL 4348 (2002)

・JBL 4311B/4311BWX (1979)

・JBL 4312 (1982)


▲△▽▼


JBLのダメダメ・民生用スピーカー


・JBL EVEREST DD55000 (1986)

・JBL Project EVEREST DD66000 (2006) : 560万円・ペア/税抜

・JBL Project EVEREST DD67000 (2012) : 600万円・ペア/税抜
https://www.ippinkan.com/SP/jbl_page1.htm

・JBL Project K2 S9900 (2009) : 370万円・ペア/税抜
http://kakaku.com/item/K0000021389/spec/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/944.html#c8

[リバイバル3] 魔性の歌姫 Lowther 中川隆
8. 中川隆[-10665] koaQ7Jey 2019年4月10日 18:46:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1376]

スピーカーコーナー No.9 ☆2019/02版
http://shinkuukan2.web.fc2.com/Speaker/09/Speaker09.html


◇◇◇◇◇ 2019/2/13 〜 3/16 【更新】 ◇◇◇◇◇
 2/13 久しぶりにスピーカー紹介。一本増えました、ローサーのPM7です。
 3/16 ようやくバックロードの箱が出来上がりました。

◇ 革のエッジ

 ローサーのエッジが無いリペア用スピーカーを英国から格安で・・・
北国のドクターM氏にエッジとダンパーを柔らかい革に張り替えて貰いました。


◇ PM7 

 PM7の張り替えが終り・・・送られてきましたので、取りあえずの後面解放の箱に入れて・・・
手前がPM7です・・・後ろは同じくローサーのPM6・・・
バックロードホーンが出来上がるまでの間エージングを兼ねての試聴です。


◇ 裏側

 スピーカーのフレームと大きなアルニコマグネットは塗装して無いです・・・
コーン紙の補強の入れ方も手持ちのローサーとは違います・・・色々有る様ですネ
では試聴です。
 アンプは2A3シングルプレートで・・・
平面バッフルでの感想ですが、以外に低音が出ています。

◇3/16 製作工程

 バックロードホーンは、とても素人では出来ない話ですので(上手にお作りに成る方もいらっしゃいますが)・・・ 此処はアッサリプロの家具屋さんにお願いしました。
 写真(作成途中の様子を頂きました、ありがとうございます)を見ると・・・ヤッパリ任せて良かった・・・と思います。


◇3/16 吸音材

 箱が出来上がって来ましたので・・・先ずは吸音材をユニットの後ろ部分だけ取り付けて・・・ 音出しです。
 ううん・・・ローサーの豪放さが失われて聴きやすいのですが、ローサーの音では無いな・・・


◇3/16 ユニット

 箱との接触部分に緑色のフェルトを貼りました・・・ PM3のイメージです、此処は見え無いのですが・・・ネ 吸音材を取り払って、ユニットを付けます。

◇ 埃よけ


◇3/16 埃よけ

 ユニットの前にスケスケの埃よけを付けました。
 昔・・・こんな感じのクライスラーのスピーカーがありましたね・・・ご存じの方はオーディオの大ベテランです。


◇3/16 正面

 大きさもほどほどですので、オーディオフェアにも持ってゆけます。
 塗装色は赤茶色の半艶・・・時間と共に落ち着いた渋さが出てくると思います。

◇3/16 PM7

 全体の響きの豊かさは、後ろの箱にかないませんが・・・中々善戦しています。
 直熱三極管で聴くボーカル、弦楽器・・・ 防熱五極管で聴くコンチェルト、JAZZ・・・アンプとの相性も有り組み合わせを楽しんでいます。

----------------------------------------------------------------------------------

 2/13・・・このままでも良い感じです、フリーエッジの効果でしょうか・・・

 3/16・・・バックロードホーンもまたいい感じです。追加のテストも・・・有るかも・・・

http://shinkuukan2.web.fc2.com/Speaker/09/Speaker09.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/685.html#c8

[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
184. 中川隆[-10664] koaQ7Jey 2019年4月10日 20:42:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1377]

留学生大量失踪の東京福祉大、元教授が緊急会見。
元総長が「120億のカネが入るわけだよ」と会議で発言。金儲けのために留学生受け入れか
4/10(水) 19:03配信 HARBOR BUSINESS Online
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190410-00189873-hbolz-soci



◆渦中の東京福祉大、元教授が緊急記者会見

 大量の留学生が行方不明となった東京福祉大学(東京都豊島区)。同大学の教授だった田嶋清一氏は4月10日に記者会見を開き、元総長である中島恒雄氏が「金儲け」のために留学生を大量に受け入れていたと告発した。

 同大学では、2018年度に「研究生」として受け入れた留学生3200人のうち、688人が行方不明となっている。2016年度からの3年間では累計で1400人が所在不明になっているという。

「研究生」とは、学部の正規課程に進学するための準備として、日本語や日本文化を学ぶ留学生のことを指す。授業に出席するのは、週に10時間以上でよいという。

 同大が大量の留学生を受け入れたのは、収入の確保が目的だったのではないかと指摘されてきた。

◆「そしたら、ガバチョガバチョじゃん」

 田嶋さんは2011年9月に行われた会議の議事録と録音データを公開。実際に、中島氏から「金儲け主義」とも思えるような発言があったと指摘した。議事録によると、経営学部の新設を目指す会議の中で、中島氏は以下のような発言をしている。

「120億の金が入るわけだよ、専門学校で。大学より大規模になっちゃう、もうかるの。何でそれをやらんの。聞いてんだよ、おい」

「そいで4年間やりゃあ、上手にやりゃ、おまえ、今の勝手な試算だけど、120億入るって。どうだ伊藤、すごいだろ、おまえ。このアイデアは」

「そしたら、ガバチョガバチョじゃん」

(表記は全て議事録ママ)

 これ以外にも中島氏は、“いくら儲かるのか”という話を繰り返ししている。田嶋氏は、「学校運営の目的が、教育や研究ではなく、金儲けにすぎなくなっている」と中島氏を批判した。

◆出所後も大学の経営に関与

 中島氏は2008年1月に強制わいせつ罪で逮捕され、懲役2年の実刑判決を受けている。それ以降、表向きは大学の教育と研究に関与してこなかったが、実際には影響力を保持し続けていた。今年3月末の職員研修会にも参加し、大学側に問題はないことや報道が誤っていることを主張していたという。

 女子留学生への不適切な行為もあったという。田嶋氏は「十数年前から自宅に女子留学生を宿泊させています。中島氏に近しい人物によると『留学生たちに夜の相手をさせている』といいます」と話す。裁判で意に反した性行為があったことを認められた留学生や示談金を支払われた留学生もいる。

◆「留学生30万人計画」の影で留学生が食い物にされている

 指宿昭一弁護士は、「こういう大学があってもいいのか」と同大のあり方を批判する。

「留学生は金儲けの道具ではありません。『留学生30万人計画』の影で、こうした不適切な学校に食い物にされる留学生が後を絶ちません。大学と中島氏の責任を明確にするべきでしょう」

 2008年に策定された「留学生30万人計画」。留学ビザの発給基準も緩和され、2018年5月には、大学や日本語学校などに在籍する外国人留学生が約29万8000人に達した。こうした拙速な受け入れが、大量の留学生の行方不明というひずみをもたらしたと考えられる。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190410-00189873-hbolz-soci
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c184

[近代史3] 性欲を満たすために行く場所ではなかった!? 意外と知られていない吉原の実態 中川隆
3. 中川隆[-10663] koaQ7Jey 2019年4月11日 05:50:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1378]
2019年04月05日
男性が遊女に望んだ無理な理想

江戸時代の遊女は、「わっさり」した様子が望ましいとされていたようです。

「わっさり」とは、「ちいさな物事には、こだわらない様子」で、「おっとりしている」ということらいいのですが、この時代遊女に求められた理想像には窮屈なものもあったようです。https://woman.mynavi.jp/article/150211-19/より

**************************

遊女が「まことの遊女」、つまりは一流とされるには、色々な基準をクリアすることが必要でした。中でも江戸時代の上方(関西)の文化をリードした作家・井原西鶴の言葉によると、「まことの遊女」とされる重要条件のひとつが「恋ならば、いかなる者にも情けをかけてこそなり」ということ。 つまり、一流の遊女ならば「あなたに恋するすべての男性を、平等に、丁寧に接客してこそ」と解かれているわけですが、つまりは「聖女になりなさい」といわれているようなものですよね。 さらに続くのが「見た目や性格が気に入らない相手はもちろん、どんな病気の人ですら嫌がらずに接してやれ」という部分で、そういうのは理想でしょうし、男性の夢でしょうが、ハッキリいって無理です。病気の話はまた今度するとして、どうやって遊女たちは男性の幻想に応えたか、というと、今も昔も同じでキャラを作ったのですね。

江戸時代には多くの遊女についてのエッセイが残されており、その中で「わっさり」した様子の遊女こそ望ましい……という論調が多いわけです。「わっさり」という字面は、現代語の「あっさり」と似ていますが、少しニュアンスが違います。「ちいさな物事には、こだわらない様子」で、「おっとりしている」ことなんですね。

遊女はいわば「会いに行けるアイドル」ではありましたが、この時代、もっともアイドル的な要素は「お姫様らしさ」なんですね。「高貴さ」という属性が、現代では考えられないくらいのフェロモン要素だったのです。そして、しょせんはイミテーションにせよ、高級な遊女にもお姫様のような、「わっさり」とした振る舞いが大事だったのです。ホントにバカっぽいのも論外なんですが、知的な部分が目立ちすぎると、これまたダメなのですよ。

それでは遊女たちが「わっさり」と自分を見せるために行った具体的な努力のひとつに、食欲をセーブすることが挙げられます。特別に心を許した男性の前以外では、遊女はお酒を口にする程度。どんなに豪華なご馳走が出されても、またどんなに空腹でも、パクパク食べてしまうのは慎んだのだそうです。 これは遊女だけでなく、当時の一般女性も同じです。家族や夫に相当するくらい、親しい間柄の男性の前でのみ、飲み食いしてもOKという、現代では考えにくいルールがあったわけですね。 遊郭によっては自分が抱えている遊女たちに、普段は満足にご飯も食べさせず、お客が付いた時に、どんどん高い料理を注文、ケータリングさせ、その時だけは(店にマージンが入るため)ガンガン食べてもいいよという風にしている、悪質な場合もありました。遊女は食べたくても食べにくいのですから、酷い話ですよねぇ。

とにかく食事関係、料理関係で遊女にはNG項目が多く、たとえば食材の名前やら調理法などを知り尽くしてることを明らかにするのもダメでした。現在でも家庭料理を作って振る舞いたがったり、会食や合コンの席で、テキパキと取り分けしたり、出しゃばる女性の男性ウケは(案外)悪いのと似ているかもしれません。当時も仕切り屋っぽい女性は、敬遠されがちだったのです。

しかーし、いくらおっとり振る舞っても、お布団の中に入ってからのプレイ時間が長いのはダメなんです。そんな遊女は二流の証。優秀とされる遊女ほど、実質的なプレイ時間は短く、男性はいわば瞬殺でした。「能ある鷹は爪を隠す」式に、おっとりした部分と、猛禽のように、獲物を一瞬で仕留める強さを併せ持つ遊女こそが一流だとされたのでした。 昼は聖女、夜は娼婦なキャラの女性が最高という表現がありますが……江戸時代のハイステイタスな遊女はそれ以上に、矛盾する要素をいくつも備えている必要があったのです。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2019/04/3546.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/152.html#c3

[近代史02] サルはなぜサルか 2 _ タイ人が微笑む理由 中川隆
14. 中川隆[-10662] koaQ7Jey 2019年4月11日 06:13:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1379]

日本人が知っておくべき“微笑みの国”の素顔 2019年4月11日
タイではなぜ、「クーデター」が成功するのか?
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/15894



 3月24日、タイでは2014年のクーデターから5年を経て民政移管のための総選挙が行われた。前回は2011年だったから、じつに8年ぶりとなる。

 この間、選挙権を持ちながらも投票機会のなかった若者は少なくなく、今回の総選挙における初有権者(First Time Voters)は750万人前後を数える。少年から青年への時期、彼らは赤シャツで表象されるタクシン派と国王のシンボルカラーである黄シャツを身に着けた反タクシン派の間で数年に亘って繰り返されてきた激しい街頭抗争を目の当たりにしてきたはずだ。それだけに、今後のタイ政治を占ううえでも、彼らの投票動向が注目されたのである。


iStock / Getty Images Plus / Boontoom

タイの政治が「何でもあり」と言われる所以

 3月24日に投票が行われ、翌25日午後2時には中央選挙管理委員会が選挙結果を発表した。だがあくまでも暫定結果であり、公式結果は5月9日まで明らかにされない。なぜ、こんなにも時間がかかるのか。

 暫定議席数にもかかわらず、プラユット暫定首相の続投を目指す「国家国民の力党」とタクシン派の「タイ貢献党」――2大政党を中心として、下院各党の暫定議席数に応じて連立政権構想が打ち出される。なかには公式結果発表まで動かず、“洞ヶ峠”を決め込む政党もある。

 それだけではない。比例区の議席結果に不満を持ち、比例区選出方法に問題ありとする政党や市民団体からは、憲法裁判所への提訴の動きも出始めた。議席配分が不公平というわけだ。この提訴を憲法裁判所が「是」と判断したなら、これまでの判例からして今次総選挙に無効の判断が下される可能性も否定できない。そうなった場合、3月24日に示された民意は文字通り幻と化してしまう。

 若者の支持を集め第3党に躍り出たと伝えられる「新未来党」のタナトーン党首は4月6日、2015年6月に発生した騒動事件に関わる煽動と被疑者隠匿容疑で警察当局の取り調べを受けている。有罪となった場合、同党首は最悪9年の禁固刑に処されるだけでなく、憲法裁判所が同党に解党を求める可能性すらある。

 加えるに中央選挙管理委員の資質を問い、同委員会の正当性に疑義を呈する市民団体まで現れたのである。

――「何でもあり」と形容されるタイの政治だが、総選挙後のこうした動きを見ただけでも、何とも判り難い。

 日本のメディアでは、今回の選挙を「軍政延長か、民主化か」といった単純な視点で捉えがちだが、この種のステレオタイプな報道では、「微笑みの国」の政治文化の真相は伝わらないどころか、日本人に誤解を与えかねない。

なぜ、クーデターが成功するのか?

「国王を元首とする民主制度」を理解するカギとして、先ずは王国であるタイの歴代憲法の基本構造が我が明治憲法に近いこと――代表例「国軍の統帥権は国王に属す」――を指摘しておく。

 それを踏まえたうえで日本における出来事を例に、2つの「もし」を想定してみたい。

 ひとつめの「もし」は、昭和11(1936)年2月に発生した2・26事件において、「昭和維新」を掲げて決起した青年将校の行動を、昭和天皇が「是」としていたら、である。

 2・26事件に際し昭和天皇は「朕が股肱の臣を傷つける行為は断固として許されない」と立腹し、自ら軍を率いて反乱軍の討伐に乗り出すとの決意を明らかにしたと伝えられる。昭和天皇の意志が明らかになった時点で青年将校らが掲げた「錦旗革命」は否定され、彼らは「反乱軍」と見做されてしまった。かくして「昭和維新」は潰えたのである。

 日本のメディアがクーデターと報ずるタイの政変――タイ語では「パティワット(革命)」と呼ぶ――は、国政の混乱、あるいは国軍内の主導権争いが原因となって国軍が軍事出動することで発生してきた。その際、クーデター陣営が掲げる大義名分の基調は「『国王を元首とする民主制度』の守護」である。


iStock Editorial / Getty Images Plus / tassapon

 決起した時点ではあくまでも非合法団体であるクーデター陣営だが、国王が允許した段階で合法団体に変質し国政の全権を掌握することとなる。ここに、2・26事件とタイにおいて成功したクーデターを分けるポイントが潜んでいるように思える。

 最も新しい2014年のクーデターを例にすれば、プラユット陸軍司令官をトップとしてインラック政権打倒を掲げたクーデター陣営(国家平和維持団)は、国王の裁可を得て国政の全権を掌握する国家平和維持評議会(NPKC/プラユット陸軍司令官が議長)へと合法性が与えられ、その下に同議長が首相を兼務する暫定政権を成立させ国政を執行することになった。


カギを握るのは「陸軍司令官」

 暫定政権発足に前後して立法議会(時に制憲議会)が招集され、クーデターによって停止された憲法に代わる新しい憲法の制定を進める一方で、暫定期間における国会の機能を果たす。この間は、「国王を元首とする民主制度」に基づく暫定憲法が施行される。立法議会の議員はクーデター陣営――現在はNPKC――によって指名されることにも留意しておく必要がある。

 さらに理解を促すために、次の3点を指摘しておく必要があろうか。

 第1が既存利益集団ともいえる「A(王室)・B(官僚)・C(資本家)・M(国軍)複合体」である。あるタイの政治学者が提起した分析だが、じつは立法議会議員は例外なくABCM複合体から選ばれ、基本的には民政移管後の上院に横滑りする。

 第2が首相・国防大臣・陸軍司令官の関係である。当然のように人事権は首相⇒国防大臣⇒陸軍司令官のルートで上から下に行使されるが、陸軍司令官はクーデターを発動することで首相に対する生殺与奪の権を握る。いわば陸軍司令官はクーデター発動という“非常事大権”を保持しているゆえに首相以上の権限を持つことから、首相が国防大臣と陸軍司令官を兼任した時に政権は最も安定する。現在のプラユット暫定首相の場合、最も信頼するプラウイット大将が国防大臣を務めている。

 第3が国軍組織上の権限である。制度上は陸軍・海軍・空軍の上部に統合機関として国軍最高司令部が置かれているが、同司令官は実働部隊を持たないゆえに一種の儀礼職に近い。かくて最強の実力組織を掌握する陸軍司令官が事実上国軍のトップに位置し、政権の後ろ盾となる。だがクーデター指導者となり得るがゆえに、常に「クーデター発動の意思」を問われる。昨年10月に就任したアピラット陸軍司令官もまた新任会見で記者から問われたが、明言を避けた。将来を想定すればこそ自らの手足を縛る必要はない、ということだ。

 こうした権力の仕組みの中で、<クーデター決起(憲法・国会停止)⇒ 暫定政権(新憲法制定)⇒ 総選挙 ⇒ 民政移管 ⇒ 国政混乱 ⇒ クーデター>という政治過程が繰り返されてきた。

 以上が「国王を元首とする民主制度」の骨格といえる。総選挙を経た後も、新政権が成立するまで国政の全権を掌握しているのはクーデターを成功させた集団――現在でいうならばNPKCであることを忘れてはならない。

タクシンとは“ホリエモン”のような存在

 以上を前提にして次なる「もし」だが、仮に陸軍が強い政治的影響力を発揮していた昭和20年以前に全盛期の「ホリエモン」が現れ、財閥によって形作られてきた財界の仕組みに打撃を与える一方、莫大な原資で政党を再編・糾合して国政を動かすようになっていたら、である。そうなった場合、既存勢力は危機感を持ち、身構え、態勢を整え、糾合してホリエモン勢力の包囲・阻止に動いたはずだ。

 タクシンとは言ってみれば、このホリエモンのような存在である。こう考えてこそ、2005年から続くタクシン派と反タクシン派の激しい対立の背景が浮かび上がり、2014年のクーデターから今回の総選挙を経て、現在も継続する混乱状況の底流を捉えることができる。

 そこで注目すべきは、2017年夏の国民投票を経て公布された現行憲法に従って制定された現在の選挙法だろう。

 全国に350の小選挙区を設けると同時に、150の比例議席は全国の小選挙区選挙で投じられた総得票数から割り出された基数によって各政党に配分される。だが、当該政党が小選挙区で獲得した議席数が同党に割り当てられるはずの比例議席数を上回っていたなら、比例議席はゼロとなる。小選挙区で最多議席を獲得したタイ貢献党の比例議席がゼロだったのは、この規定が適用された結果なのだ。


iStock / Getty Images Plus / Rawf8

 この制度は「下院の民主的運営を目指し巨大政党による独裁阻止」を“大義名分”として定められた。その背景に見え隠れするのは、2000年初頭の政権掌握以降の総選挙において常に下院過半数を押さえ単独政権を維持してきたタクシン派に対する危機感である。

 法制度面で不利な立場を跳ね返そうとタクシン派が打った新たな試みが、昨秋結党された若手中心の「国家維持党」である。タクシン派を2党に分け全国の支持票を分散させることで、比例区での議席ゼロを回避しようと狙ったに違いない。

タクシン派が繰り出した「究極のポピュリズム」

 国家維持党は総選挙が近づいた2月初旬、現国王の姉に当たるウボンラット王女を同党首相候補に擁立し一気に攻勢に出た。タイでは各政党が首相候補を擁立して総選挙に臨み、候補者個人ではなく政党を選ぶ。首相公選制のような仕組みでもあるが、首相は必ずしも下院議員である必要はないから、著名人を担ぎ出せば選挙戦を有利に展開することができる。究極のポピュリズムといえるだろう。

 すでに王室を離れているうえに社交界の花形として全国に知られた同王女である。彼女を擁立することで選挙活動に弾みを付けようとしたはずだ。だが王女擁立が表明された当日深夜、「王族の政治参加は不可」との国王声明が伝えられ、国家維持党の狙いは脆くも外れた。3月に入るや、「国王を元首とする民主制度」を制度面で監視する憲法裁判所が、王女擁立が憲法に抵触することを理由に国家維持党に対し解党を、同党幹部に対しては10年間の政治活動禁止を命じた。かくてタクシン派はタイ貢献党による“片肺飛行”のまま選挙戦に臨まざるを得なかったのである。

 なお、ここで2005年2月の総選挙以降、憲法裁判所が議会内外でタクシン派を押さえる方向に働いてきたことを記しておきたい。

日本人が知っておくべき“微笑みの国”の素顔

 5月4日の戴冠式当日を挟んだ数日間、タイは国を挙げての祝賀ムードに包まれる。であればこそ当面は政治休戦となり、5月9日の総選挙結果公式発表を待って連立政権を巡る政界再編劇が本格化するだろう。その際、連立の軸は上院の250議席に加え下院118議席を擁する国家国民の力党を背景にしたプラユット暫定首相にあることは間違いない。

 だがタクシン派の存在――小選挙区で137議席を持ち、東北部を拠点に一定の支持層を維持するタイ貢献党――を無視するわけにはいかない。すでに「タクシン」は元首相個人を指すというより、ABCM複合体に対して「ノー」の意を示す政治的記号となったのではないか。

 3月30日、タイ政府は官報でタクシン元首相による一連の振る舞いを「悪劣」と見做し、現国王は前国王が同元首相に与えた一切の勲章を29日付けで剥奪したことを明らかにした。4月7日には首相退任以降も許されていた「国土防衛志願者軍団大団長」の称号の使用が禁止されたことで、王室とタクシン元首相の関係は絶たれたことになる。

 じつは国王戴冠式を司る最高責任者の立場に在るシリントーン王女は4月3日から10日まで訪中し、北京、上海、江西、福建、香港、マカオを回った。4日には王毅国務委員兼外交部長と会談している。なお、同王女の訪中は今回で48回目。おそらく同王女以上に訪中回数を重ねている外国要人はいないだろう。それほどまでに同王女と中国の関係は深い。

――以上、タイが国是とする「国王を元首とする民主制度」に則って、政治面から“この国のかたち”を考えてみた。

 日本の外交、経済にとってタイが東南アジアにおける重要なカウンター・パートであることは明らかだ。いま「微笑みの国」は新しい「国王を元首とする民主制度」の許で変貌を遂げようとしている。であればこそ「軍政延長か、民主化か」といった類のステレオタイプの視点を捨て、タイの政治文化の変化を読み取ることが、いまこそ求められているのではないか。



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/398.html#c14

[近代史3] 中野剛志 _ アメリカで大論争の「現代貨幣理論」とは何か 中川隆
6. 中川隆[-10661] koaQ7Jey 2019年4月11日 07:53:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1380]
2019年4月10日  財政拡大容認論「MMT」台頭に投資家はどう備えるべきか

「民主社会主義者」を自称するサンダース上院議員(写真中央)の流れをくむ民主党の新星アレクサンドリア・オカシオ=コルテス下院議員(写真右)は、拡張財政容認論を支持 Photo:AP/AFLO


 米国で現代貨幣理論(MMT: Modern Monetary Theory)を巡る論争が熱を帯びている。拡張財政容認論とも言えるMMTに対してはさまざまな意見や批判があるのは承知しているが、資産運用業に従事する者として、ここではMMTが台頭してきた社会的な背景を整理した上で、マーケットへの潜在的な影響に焦点を置いて考えてみたい。

時代のキーワードは民主社会主義

 MMT派の急先鋒であるステファニー・ケルトンNY州立大学教授は、バーニー・サンダース上院議員が2016年の米大統領選挙に立候補したときの経済アドバイザーだった。泡沫候補の1人にすぎなかったサンダース氏は、格差是正を訴えてミレニアム世代の支持を獲得し、最後までヒラリー・クリントン氏と民主党の指名候補の座を争った。

 サンダース氏の公約は医療の国民皆保険化、最低賃金の引き上げ、インフラへの投資拡大、大学教育の無料化など政府支出の増大を伴うものが中心だが、財政赤字の拡大を一時的に容認してでも格差を是正する方が政策順位は高い、という主張の理論武装としてMMTが用いられたのだ。

 格差是正を求める動きは、2018年の中間選挙で米国史上最年少の女性下院議員となったアレクサンドリア・オカシオ=コルテス氏に引き継がれている。母親がプエルトリコ出身の移民でNY州ブロンクス生まれの同氏は、28歳という若さにもかかわらず予備選で現職の民主党重鎮を破り、一気に知名度を上げた。民主社会主義者を自称し、医療や教育など市民権の平等を訴えており、若年層やマイノリティからの人気ぶりは「キング牧師の再来」と形容されるほどだ。

 オカシオ=コルテス氏は富裕層への増税を主張しているが、同時に財政赤字の拡大にも寛容で、MMT支持者としての顔も見せている。ちなみに前述のケルトン教授は現在、キング牧師により組織された貧困層救済活動「Poor People’s Campaign」の経済対策アドバイザーを務めているが、オカシオ=コルテス氏とも経済政策面で連携していると推察される。


 こうした政治的な地殻変動は、SNSでつながった若年層や低所得層が「富裕層の富裕層による富裕層のための政治」を変える影響力を持ち始めたことを意味している。

 彼らは財政赤字を言い訳に政府支出を渋り、富裕層には減税する米国流資本主義に不満を感じており、民主的に選ばれた政権が社会主義的なアプローチで所得を再分配してくれることに希望を見いだしている。

 米国で「社会主義」という単語がこれほどまでにネット上で語られることは、おそらく今までになかっただろう。英国でもジェレミー・コービン党首率いる労働党が「国民のための量的緩和」を訴えて2017年の総選挙で躍進するなど、民主社会主義は今や世界的なキーワードになっている。


焦点はFRBの独立性が大きく損なわれるか否か

 「市場VS政府」という所得の再分配を巡る伝統的な議論が、低金利・低成長という環境変化のせいで「量的金融緩和VS現代貨幣理論」という非伝統的な方法論へとエスカレートした――。 これが、筆者が考えるMMT台頭の背景である。

 現時点では民主社会主義を掲げる候補者を擁立しても民主党が2020年の大統領選挙に勝てる見込みが高いわけではなく、市場にはMMTの主張に沿った拡張財政政策が実行されることを想定した動きは見られない。しかしこれから本格化する大統領選挙を通じて、民主社会主義政策に米国民の支持が集まるようであれば、マーケットは突如としてその影響を織り込み始めると予想する。

 おそらくそれは株式市場にとって芳しいものではあるまい。過去20年間に先進国で政権を取った中道左派政党には、英国の労働党(1997-2010)、ドイツの社会民主党(1998-2005)、日本の民主党(2009-2012)、フランスの社会党(2012-2016)などの例がある。

 彼らは構造改革を重視し、必ずしも拡張財政に依存したわけではなかったが、結果的に英独では悲惨指数(消費者物価と失業率の和)が上昇し、日仏では政府債務残高が増加するなど、経済を改善させることはできなかった。


 また中道左派政党は企業に対して一定の負担を求める傾向があるのも株価にはネガティブだ。特に民主党が政権を取れば、温室効果ガスや自社株買い、タックスヘイブン(租税回避地)などの規制強化に動く公算が大きく、成長株への下落圧力が強まることになろう。

 債券市場にとっても金利上昇が待ち受けていよう。ちなみに筆者は民主党のMMT派による政策がハイパーインフレを引き起すような危機的状況をもたらすとは考えていない。なぜなら民主社会主義派は財政赤字拡大よりも富裕層への増税を優先しているし、過去においても民主党の方が共和党よりも財政赤字を抑制してきたという事実があるからだ。

 しかし市場がこの点を警戒しているのは明らかで、財政赤字のわずかな拡大に対しても債券市場が過剰に反応することは想像に難くない。

 投資家はどう対応すべきだろうか。市場の初期反応がインフレ警戒的なものになるとの見方に立てば、ゴールドや原油といった商品市場が有望だ。物価連動債や不動産投資信託(REIT)にもインフレ抵抗力を見いだすことができる。株式では医療や教育、インフラ関連の銘柄に投資機会があろう。

 ただし米連邦準備制度理事会(FRB)の独立性が大きく損なわれたと市場が受け止めた場合は、一段と踏み込んだ資産の組み替えが必要になる。特にドル安への対応は必須だ。日本や欧州でも同様の政策が実施されると考える人々は、仮想通貨に避難先を見いだそうとするかもしれない。

 繰り返しになるが、このような反応は、市場が政策転換の可能性を感じ始めたときに突然巻き起こってくるだろう。その時期を前もって知ることは難しいが、米国の世論が民主社会主義にどこまで寛容であるかを測るリトマス紙として、これからのMMT論争の行方を注目しておきたい。

*本稿は、ダイヤモンド・オンラインの特設サイト「政策・マーケットラボ」に掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいています。
https://diamond.jp/articles/-/199118

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/314.html#c6

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
170. 中川隆[-10660] koaQ7Jey 2019年4月11日 10:44:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1382]

ゴーンという「怪物」を生んだのは誰か 日産“権力闘争史”から斬る
4/11(木) 8:00配信 ITmedia ビジネスオンライン
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190411-00000031-zdn_mkt-bus_all&p=1


 日産自動車のカルロス・ゴーン前会長を巡る一連の事件が日夜、報道されている。4月4日には中東の日産販売代理店に送金した日産の資金を自らに還流させ、同社に損害を与えた会社法違反(特別背任容疑)の疑いで、東京地検特捜部が4度目の逮捕に踏み切った。8日には日産が臨時株主総会を開き、ゴーン前会長らを取締役から解任する人事案を可決。ゴーン前会長の弁護団は、彼が無実を主張する動画を9日に公開するなど、応酬が続いている。

【画像】「ゴーン報道の第一人者」井上久男氏の経歴

 本事件の行方や真相に注目が集まる一方で、意外と着目されてこなかったのが、そもそも「ゴーンという人物は結局、日本の企業社会において何者だったのか」という問いだ。わが国を代表する企業を救った“英雄”としてたたえられた人物は一転、今や会社を思うがままに支配した“怪物”のように報じられている。

 果たして今回の事件は、“異邦人”であるゴーン前会長個人の才能や人格に起因するものなのか。それとも、こうした存在を生み出す土壌がそもそも日産にあったのか。

 『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』(文藝春秋社)を2月に上梓したジャーナリスト・井上久男氏は、朝日新聞の記者だった1999年、「日産・ルノー提携」をスクープし、独立後も長きにわたって日産とゴーン前会長を追い続けてきた。井上氏は同書の中で、日産という企業の成り立ちや権力闘争史をひもとくことによって、ゴーン前会長が日産を救い、そして独裁に至った背景を丹念に描いている。ゴーン・日産報道の「第一人者」に、“怪物”が生まれた真の要因について直撃した。

 ――井上さんは朝日新聞の経済部記者時代から今に至るまで、長く日産とゴーン前会長に向き合い取材を続けてきました。『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』では事件を読み解くだけでなく、日産という会社の成り立ちについても明治期にまでさかのぼり、日産の構造的な問題に踏み込んで検証しています。実は日産ではゴーン前会長の登場前から社内で派閥抗争が繰り広げられ、サラリーマン社長の独裁者に周囲がおもねる構図が繰り返されてきたという指摘は衝撃的で、創業者一族が経営に関わってきたトヨタ自動車とは対照的です。なぜ日産では社内抗争が起きやすかったのでしょうか。

井上: 率直に言うと、日産は「都会のエリート」が集まる会社でした。今はそれほどではありませんが、理系も文系も東京大学卒が多く(当時、東大合格者を多く輩出していた)東京都立の日比谷高校や戸山高校、神奈川県立湘南高校の卒業生に「(社内で)石を投げれば当たる」と言われていました。東大卒であることは当たり前で、高校閥で争っていたんですね。役員にも日比谷・戸山高の出身者が多かったのです。

 非常にクレバーでスマートだが計算高く、自分に損か得かでしか判断しない人が、トヨタに比べると多かったと思います。トヨタも今では変わりましたが、かつては地方の国立大卒が多かった。そういう人たちを(入社後)鍛えていく会社だったとも言えます。

 でも、日産は入社した時点でいわば(その人の人生にとって)“頂点”なのです。自分の哲学などは殺して、出世のために権力者にゴマをすっていく「超サラリーマン」のようなイメージの人が多かった。


独裁と抗争の“権力闘争史”

――本書でも社長在任時に自身の銅像を作らせた川又克二氏(日本興業銀行からの転籍)、強引なグローバル戦略を進めた石原俊氏、第二労組のトップという立場で権力を掌握した塩路一郎氏と、独裁の系譜と抗争のドラマが描かれています。

井上: 塩路氏や石原氏の支配下は、「車やモノ作りが好きかどうか」より、いかに権力者に食い込めるかという世界でした。「超サラリーマン」のような人が集まった会社で、権力者が出ても(社員が)刺し違えたり「あなた(のやり方は)おかしいですよ」と言ったりせず、自分の損得のため従ってしまう。

 日産は日本を代表する企業です。社会的な信用もあり、金を湯水のように使えました。しかし99年ごろまでには、気が付いたら経営危機に陥っていました。

――石原氏による米国を初めとしたグローバル戦略といった失敗が続いた上、それまで融資してくれていた日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)が、山一證券などの倒産を目の当たりにして、自社の経営に注力しなければならなくなり、日産どころではなくなったのですね。結局、当時の塙義一社長が外資からの資本受け入れを決断し、最終的に提携を受け入れたルノーが再建のために日産へ送り込んだのがゴーン前会長でした。

井上: ゴーン前会長がやったこととは、モノづくりや販売の面で続いていた権力闘争や足の引っ張り合いのリセットでした。

 また、日産では取引先との関係が健全ではありませんでした。例えば自動車というものは2〜3万点の部品で作られていて、サプライヤーの企業から購入しています。日産では(社員の)天下り先がそういった会社でした。本社の購買部門の担当者とは後輩や先輩の関係なので、高額な部品を「なあなあ」の関係で購入していました。

 一方、トヨタは違っていました。もちろん(サプライヤーである)グループ企業に本社の社員が役員や部長として移ったりもしますが、あくまで厳しいマネジメントを敷いています。部品メーカーに対して「生かさぬよう殺さぬよう」鍛え上げることで、トヨタ本体と同様に筋肉質な企業にしていったのです。

 そうでなかった日産にメスを入れたのがゴーン前会長でした。私はその判断については間違っていなかったと思う。多くの人が(ゴーン体制下で)リストラされましたが、日産本体を含めてこのように“外科手術”をしなくては、全部が沈没していたでしょう。


「独裁者」となる転機

――ルノーとの提携直後に日産を再生させた手腕については、やはり評価しているのですね。

井上: 日産で当時、開発コストに加えて特に課題だったのが過剰な設備です。自動車メーカーは設備投資額が大きいだけに、動いていない設備や人員を持つと一気に赤字になる。日産は人を切って工場を閉鎖するという「痛みを伴う改革」をしないと、沈没する状態でした。

 (日産・ルノー提携時の)塙社長を初めとした日本人幹部も、こうした問題の根幹は分かっていたと思います。しかし彼らにはしがらみがあった。実はゴーン前会長はあらゆる局面でこうした“使われ方”をされてきた人物でした。(やはり再建で活躍した)ルノーもいわば往年の(日本の)国鉄のような状態で、危機感がありませんでした。リストラが必要だったため、彼が連れてこられたのです。

――その後、「独裁者」となる転機は何だったのでしょうか。

井上: 2005年までの彼の経営者としての実績は優れていたと思います。いわば「救急救命医」として高い能力を持っていました。だから04〜05年ごろに辞めてビッグ3(ゼネラルモーターズなど米自動車メーカー上位3社)のどこかにでも移れば、かつてのマッカーサーのように(離日後も日本で)尊敬される存在になっていたかもしれない。

 西川広人社長も言っていましたが、(05年に)ルノーのCEOにも就任して権力が「一極集中」しました。かつては現場に足しげく通い、社員の言うことにも耳を傾けていた。しかし、ルノーCEO就任後は1カ月のうち日本にいるのは1週間くらいになり、社内にゴーン前会長の目が行き届かなくなりました。

 しかも日産はリストラが終わり、いわば「集中治療室から出た普通の体」になりました。健康な体になってサプリや漢方薬を飲み、継続的な成長を続けるべき時になってもゴーン前会長はリストラを続けました。彼の経営手腕と日産の状態がマッチしなくなってきたのです。

 製品開発にお金を掛けたり、値引きしなくても顧客が欲しがる車を作ったりする点については、彼はあまり得意ではありませんでした。しかし05年に両社のトップになることで誰も文句が言えなくなった。そして07年に日産はゴーンの社長就任以来、初の減益になりました。コスト削減をし過ぎたことで現場が疲弊し、やり方を変えなくてはいけなくなっていたのに、です。社内でも「ゴーン流経営の限界」がささやかれていました。

 ただ08年のリーマンショックでトヨタやホンダが大きく落ち込む中、日産はリカバリーが早かった。車種やコストの削減など、ゴーン前会長が大胆に決断したのです。11年の東日本大震災時も、多くのメーカーのサプライチェーンが断絶しましたが、12年3月期決算ではトヨタとホンダが減収減益だった一方、日産は増収増益でした。即座に判断できる「救急救命医的な能力」はやはり優れているのです。

 しかし、リストラとコスト削減中心の施策の「化けの皮」は既にはがれていました。リーマンショックと震災でゴーン前会長が能力を発揮してしまい、(それまでの失点が)塗りつぶされてしまった。

 その後、13年の中間決算では他社が震災から復活していたのに、やはり日産だけが減益になりました。新興国やEV(電気自動車)に投資し過ぎたゴーン前会長の経営ミスだと思います。ゴーン前会長は責任を問われるべきだったのに、その責任を部下(当時の志賀俊之・最高執行責任者)に押し付けました。ゴーン経営は「変質」してしまった。


「化けの皮」がはがれた

――一連の事件が起きたとされる時期も、確かに「変質後」のタイミングと一致するようですね。

井上: 本事件と絡めると、特別背任容疑での立件内容の1つは、自身の資産管理会社を通じた為替スワップ取引で多額の損失が出たため、08年に評価損を日産側に付け替えた、というものです。(金融商品取引法違反として立件されている有価証券報告書の)虚偽記載も10年からとされています。経営者としての「化けの皮」がはがれ、会社の私物化も進んだのではないでしょうか。

 独裁が進む一方で、現場はどんどんひどい状態になっていきました。完成検査の不正問題でも、17年に内部告発がありました。法律で決まった検査をきっちりやらなかったのは、検査員の数を減らしコスト削減をしたのも要因としては大きかったのです。社員の中には「ゴーン流経営」に我慢ならなかった人も多かったのではないでしょうか。

――確かに独裁が社内の反発を生み、逮捕に至る内部通報を生んだ経緯は理解できます。一方で、かつて日産の第二労組トップとして権勢を誇り、社内の敵派閥から女性スキャンダルをマスコミにリークされて失脚した塩路氏の例を見ると、ゴーン事件は日産の歴史の中で実は特殊な例でもないという印象を受けます。

井上: 日産は「都会のエリート」が集まり、彼らは自分にプラスかどうかでしか社内で判断をしない。いわば“権力のモンスター”が生まれやすい土壌があったのです。モンスターを制御できなくなり外の力を借りようとして、塩路氏の問題もゴーン事件も起きたのではないでしょうか。塩路氏の件は(労組トップが会社権力を乱用しているという)労使の話であり、本来は社内で解決すべき問題でした。しかし、マスコミに写真を渡して女性関係やヨットの問題を書き連ねさせ、「こんなひどい労組のトップがいる」と追い出したのです。

 本来なら「塩路さんおかしいですよ」と社内で指摘すべきだったのです。ゴーン問題も、社内のコーポレートガバナンスが効いているところで処置すべきだった。刑事事件化するかはさておき、社内の内規に触れている話が多かったのですから。取締役会で会長の解任動議を出すべきで、その後に刑事告発するのがきれいな流れだったと思います。

 しかしそれはできない状況だった。(実力者の1人だった)志賀氏と西川社長の仲が悪く、日本人取締役が一枚岩となってゴーン前会長の行為をただすことができず、ゴーン前会長と差し違える度胸もなかった。引きずりおろせないほどゴーン前会長も“モンスター化”していて、検察という国家権力を利用するしかなかったのです。日産は違うと言っていますが、これは「クーデター」だと見られても仕方ない。企業が不祥事を解決する方法としては異例だから、そう言われるのです。

“モンスター”が生まれた真因

――結局、日産でこうして“モンスター”が生まれた真の要因は何だったのでしょうか。決して、ゴーン前会長個人の問題だけではないと感じます。

井上: 「忖度(そんたく)」がモンスターを生むのです。「あの人(トップ)がどう思うんだろう」と忖度していくと、(トップは)ますますモンスターになっていく。日産にも忖度はあったと思います。そして、忖度は「頭のいい人」にしかできないことですから。

――ありがとうございました。「都会のエリート」が集まった日産ならではの現象であると同時に、日本企業では極めて普遍的な問題なのですね。後編では、井上さんがインタビューで見定めたゴーン前会長の素顔と、「どうすればこの“モンスター”を制御できるのか」を問いたいと思います。
(服部良祐、今野大一)


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c170

[昼休み54] カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた 中川隆
30. 中川隆[-10659] koaQ7Jey 2019年4月11日 10:45:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1383]

ゴーンという「怪物」を生んだのは誰か 日産“権力闘争史”から斬る
4/11(木) 8:00配信 ITmedia ビジネスオンライン
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190411-00000031-zdn_mkt-bus_all&p=1


 日産自動車のカルロス・ゴーン前会長を巡る一連の事件が日夜、報道されている。4月4日には中東の日産販売代理店に送金した日産の資金を自らに還流させ、同社に損害を与えた会社法違反(特別背任容疑)の疑いで、東京地検特捜部が4度目の逮捕に踏み切った。8日には日産が臨時株主総会を開き、ゴーン前会長らを取締役から解任する人事案を可決。ゴーン前会長の弁護団は、彼が無実を主張する動画を9日に公開するなど、応酬が続いている。

【画像】「ゴーン報道の第一人者」井上久男氏の経歴

 本事件の行方や真相に注目が集まる一方で、意外と着目されてこなかったのが、そもそも「ゴーンという人物は結局、日本の企業社会において何者だったのか」という問いだ。わが国を代表する企業を救った“英雄”としてたたえられた人物は一転、今や会社を思うがままに支配した“怪物”のように報じられている。

 果たして今回の事件は、“異邦人”であるゴーン前会長個人の才能や人格に起因するものなのか。それとも、こうした存在を生み出す土壌がそもそも日産にあったのか。

 『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』(文藝春秋社)を2月に上梓したジャーナリスト・井上久男氏は、朝日新聞の記者だった1999年、「日産・ルノー提携」をスクープし、独立後も長きにわたって日産とゴーン前会長を追い続けてきた。井上氏は同書の中で、日産という企業の成り立ちや権力闘争史をひもとくことによって、ゴーン前会長が日産を救い、そして独裁に至った背景を丹念に描いている。ゴーン・日産報道の「第一人者」に、“怪物”が生まれた真の要因について直撃した。

 ――井上さんは朝日新聞の経済部記者時代から今に至るまで、長く日産とゴーン前会長に向き合い取材を続けてきました。『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』では事件を読み解くだけでなく、日産という会社の成り立ちについても明治期にまでさかのぼり、日産の構造的な問題に踏み込んで検証しています。実は日産ではゴーン前会長の登場前から社内で派閥抗争が繰り広げられ、サラリーマン社長の独裁者に周囲がおもねる構図が繰り返されてきたという指摘は衝撃的で、創業者一族が経営に関わってきたトヨタ自動車とは対照的です。なぜ日産では社内抗争が起きやすかったのでしょうか。

井上: 率直に言うと、日産は「都会のエリート」が集まる会社でした。今はそれほどではありませんが、理系も文系も東京大学卒が多く(当時、東大合格者を多く輩出していた)東京都立の日比谷高校や戸山高校、神奈川県立湘南高校の卒業生に「(社内で)石を投げれば当たる」と言われていました。東大卒であることは当たり前で、高校閥で争っていたんですね。役員にも日比谷・戸山高の出身者が多かったのです。

 非常にクレバーでスマートだが計算高く、自分に損か得かでしか判断しない人が、トヨタに比べると多かったと思います。トヨタも今では変わりましたが、かつては地方の国立大卒が多かった。そういう人たちを(入社後)鍛えていく会社だったとも言えます。

 でも、日産は入社した時点でいわば(その人の人生にとって)“頂点”なのです。自分の哲学などは殺して、出世のために権力者にゴマをすっていく「超サラリーマン」のようなイメージの人が多かった。


独裁と抗争の“権力闘争史”

――本書でも社長在任時に自身の銅像を作らせた川又克二氏(日本興業銀行からの転籍)、強引なグローバル戦略を進めた石原俊氏、第二労組のトップという立場で権力を掌握した塩路一郎氏と、独裁の系譜と抗争のドラマが描かれています。

井上: 塩路氏や石原氏の支配下は、「車やモノ作りが好きかどうか」より、いかに権力者に食い込めるかという世界でした。「超サラリーマン」のような人が集まった会社で、権力者が出ても(社員が)刺し違えたり「あなた(のやり方は)おかしいですよ」と言ったりせず、自分の損得のため従ってしまう。

 日産は日本を代表する企業です。社会的な信用もあり、金を湯水のように使えました。しかし99年ごろまでには、気が付いたら経営危機に陥っていました。

――石原氏による米国を初めとしたグローバル戦略といった失敗が続いた上、それまで融資してくれていた日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)が、山一證券などの倒産を目の当たりにして、自社の経営に注力しなければならなくなり、日産どころではなくなったのですね。結局、当時の塙義一社長が外資からの資本受け入れを決断し、最終的に提携を受け入れたルノーが再建のために日産へ送り込んだのがゴーン前会長でした。

井上: ゴーン前会長がやったこととは、モノづくりや販売の面で続いていた権力闘争や足の引っ張り合いのリセットでした。

 また、日産では取引先との関係が健全ではありませんでした。例えば自動車というものは2〜3万点の部品で作られていて、サプライヤーの企業から購入しています。日産では(社員の)天下り先がそういった会社でした。本社の購買部門の担当者とは後輩や先輩の関係なので、高額な部品を「なあなあ」の関係で購入していました。

 一方、トヨタは違っていました。もちろん(サプライヤーである)グループ企業に本社の社員が役員や部長として移ったりもしますが、あくまで厳しいマネジメントを敷いています。部品メーカーに対して「生かさぬよう殺さぬよう」鍛え上げることで、トヨタ本体と同様に筋肉質な企業にしていったのです。

 そうでなかった日産にメスを入れたのがゴーン前会長でした。私はその判断については間違っていなかったと思う。多くの人が(ゴーン体制下で)リストラされましたが、日産本体を含めてこのように“外科手術”をしなくては、全部が沈没していたでしょう。


「独裁者」となる転機

――ルノーとの提携直後に日産を再生させた手腕については、やはり評価しているのですね。

井上: 日産で当時、開発コストに加えて特に課題だったのが過剰な設備です。自動車メーカーは設備投資額が大きいだけに、動いていない設備や人員を持つと一気に赤字になる。日産は人を切って工場を閉鎖するという「痛みを伴う改革」をしないと、沈没する状態でした。

 (日産・ルノー提携時の)塙社長を初めとした日本人幹部も、こうした問題の根幹は分かっていたと思います。しかし彼らにはしがらみがあった。実はゴーン前会長はあらゆる局面でこうした“使われ方”をされてきた人物でした。(やはり再建で活躍した)ルノーもいわば往年の(日本の)国鉄のような状態で、危機感がありませんでした。リストラが必要だったため、彼が連れてこられたのです。

――その後、「独裁者」となる転機は何だったのでしょうか。

井上: 2005年までの彼の経営者としての実績は優れていたと思います。いわば「救急救命医」として高い能力を持っていました。だから04〜05年ごろに辞めてビッグ3(ゼネラルモーターズなど米自動車メーカー上位3社)のどこかにでも移れば、かつてのマッカーサーのように(離日後も日本で)尊敬される存在になっていたかもしれない。

 西川広人社長も言っていましたが、(05年に)ルノーのCEOにも就任して権力が「一極集中」しました。かつては現場に足しげく通い、社員の言うことにも耳を傾けていた。しかし、ルノーCEO就任後は1カ月のうち日本にいるのは1週間くらいになり、社内にゴーン前会長の目が行き届かなくなりました。

 しかも日産はリストラが終わり、いわば「集中治療室から出た普通の体」になりました。健康な体になってサプリや漢方薬を飲み、継続的な成長を続けるべき時になってもゴーン前会長はリストラを続けました。彼の経営手腕と日産の状態がマッチしなくなってきたのです。

 製品開発にお金を掛けたり、値引きしなくても顧客が欲しがる車を作ったりする点については、彼はあまり得意ではありませんでした。しかし05年に両社のトップになることで誰も文句が言えなくなった。そして07年に日産はゴーンの社長就任以来、初の減益になりました。コスト削減をし過ぎたことで現場が疲弊し、やり方を変えなくてはいけなくなっていたのに、です。社内でも「ゴーン流経営の限界」がささやかれていました。

 ただ08年のリーマンショックでトヨタやホンダが大きく落ち込む中、日産はリカバリーが早かった。車種やコストの削減など、ゴーン前会長が大胆に決断したのです。11年の東日本大震災時も、多くのメーカーのサプライチェーンが断絶しましたが、12年3月期決算ではトヨタとホンダが減収減益だった一方、日産は増収増益でした。即座に判断できる「救急救命医的な能力」はやはり優れているのです。

 しかし、リストラとコスト削減中心の施策の「化けの皮」は既にはがれていました。リーマンショックと震災でゴーン前会長が能力を発揮してしまい、(それまでの失点が)塗りつぶされてしまった。

 その後、13年の中間決算では他社が震災から復活していたのに、やはり日産だけが減益になりました。新興国やEV(電気自動車)に投資し過ぎたゴーン前会長の経営ミスだと思います。ゴーン前会長は責任を問われるべきだったのに、その責任を部下(当時の志賀俊之・最高執行責任者)に押し付けました。ゴーン経営は「変質」してしまった。


「化けの皮」がはがれた

――一連の事件が起きたとされる時期も、確かに「変質後」のタイミングと一致するようですね。

井上: 本事件と絡めると、特別背任容疑での立件内容の1つは、自身の資産管理会社を通じた為替スワップ取引で多額の損失が出たため、08年に評価損を日産側に付け替えた、というものです。(金融商品取引法違反として立件されている有価証券報告書の)虚偽記載も10年からとされています。経営者としての「化けの皮」がはがれ、会社の私物化も進んだのではないでしょうか。

 独裁が進む一方で、現場はどんどんひどい状態になっていきました。完成検査の不正問題でも、17年に内部告発がありました。法律で決まった検査をきっちりやらなかったのは、検査員の数を減らしコスト削減をしたのも要因としては大きかったのです。社員の中には「ゴーン流経営」に我慢ならなかった人も多かったのではないでしょうか。

――確かに独裁が社内の反発を生み、逮捕に至る内部通報を生んだ経緯は理解できます。一方で、かつて日産の第二労組トップとして権勢を誇り、社内の敵派閥から女性スキャンダルをマスコミにリークされて失脚した塩路氏の例を見ると、ゴーン事件は日産の歴史の中で実は特殊な例でもないという印象を受けます。

井上: 日産は「都会のエリート」が集まり、彼らは自分にプラスかどうかでしか社内で判断をしない。いわば“権力のモンスター”が生まれやすい土壌があったのです。モンスターを制御できなくなり外の力を借りようとして、塩路氏の問題もゴーン事件も起きたのではないでしょうか。塩路氏の件は(労組トップが会社権力を乱用しているという)労使の話であり、本来は社内で解決すべき問題でした。しかし、マスコミに写真を渡して女性関係やヨットの問題を書き連ねさせ、「こんなひどい労組のトップがいる」と追い出したのです。

 本来なら「塩路さんおかしいですよ」と社内で指摘すべきだったのです。ゴーン問題も、社内のコーポレートガバナンスが効いているところで処置すべきだった。刑事事件化するかはさておき、社内の内規に触れている話が多かったのですから。取締役会で会長の解任動議を出すべきで、その後に刑事告発するのがきれいな流れだったと思います。

 しかしそれはできない状況だった。(実力者の1人だった)志賀氏と西川社長の仲が悪く、日本人取締役が一枚岩となってゴーン前会長の行為をただすことができず、ゴーン前会長と差し違える度胸もなかった。引きずりおろせないほどゴーン前会長も“モンスター化”していて、検察という国家権力を利用するしかなかったのです。日産は違うと言っていますが、これは「クーデター」だと見られても仕方ない。企業が不祥事を解決する方法としては異例だから、そう言われるのです。

“モンスター”が生まれた真因

――結局、日産でこうして“モンスター”が生まれた真の要因は何だったのでしょうか。決して、ゴーン前会長個人の問題だけではないと感じます。

井上: 「忖度(そんたく)」がモンスターを生むのです。「あの人(トップ)がどう思うんだろう」と忖度していくと、(トップは)ますますモンスターになっていく。日産にも忖度はあったと思います。そして、忖度は「頭のいい人」にしかできないことですから。

――ありがとうございました。「都会のエリート」が集まった日産ならではの現象であると同時に、日本企業では極めて普遍的な問題なのですね。後編では、井上さんがインタビューで見定めたゴーン前会長の素顔と、「どうすればこの“モンスター”を制御できるのか」を問いたいと思います。
(服部良祐、今野大一)


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html#c30

[リバイバル3] 古いアンプやスピーカーにはリスクが有る 中川隆
50. 中川隆[-10658] koaQ7Jey 2019年4月11日 10:57:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1384]

今月はアンプの修理で終わりそう・・・ - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年04月11日
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/a8ae0334394aa45d92fcb5a226731b8a

今月はパワーアンプの修理で終わりそうです。先週ディネッセンのアンプを修理に出しました。早くだせば良いモノを1年半もグズグズしてほったらかして・・・。今頃になって修理に出して・・・。

そのディネッセンのアンプの修理が終わったそうで、金曜日(12日)にオーディオ道場に取りに行きます。ディネッセンのアンプの不具合は「残留ノイズ」でした。早く確認をしたいと思っています。

その次の修理品を持っていきます。今度は2台。いずれもパワーアンプ。

1)パイオニア M4・・・パワーSW不良
2)ケンソニック P300・・・SW ON後の立ち上がり不良及びRch出力不安定

修理費用もバカに出来ません。今月は不用品を処分していますが殆ど修理代に消えそうです。古いアンプには部品不良は付き物・・・と思って諦めています。本来はオーバーホールすべきでしょうが、40年以上前のアンプをオーバーホールなんて完璧にはできません。何故なら交換パーツが無いからです。不具合部分を「代用品」に置き換えるぐらいしかできないのが実情。不具合部品を代用品に交換して「オーバーホール」等と云って高額な請求をするところが有りますので要注意です。結局はその時不具合を起こしていない「消耗品」がまた壊れます。耐用年数も有ります。使っていればどこか消耗します。

修理は割り切ってやるしか有りません。コンデンサーのメーカーで音色が変わる事は知っていますが、それよりもケーブルで変わる音の方が大きいです。重箱の隅をつつく様な事には拘りません。それよりも「使える事」の方が大事です。使えなければただのゴミになります。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/832.html#c50

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
31. 中川隆[-10657] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:17:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1385]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c31
[ホロコースト2] ホロコースト認めて禁固刑逃れを狙ったアービングの失敗は醜態 木村愛二
1. 中川隆[-10656] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:20:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1386]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/717.html#c1

[ホロコースト5] 第3章 「ガス室」は実在したか?−−「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)   西岡昌紀
1. 中川隆[-10655] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:21:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1387]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/192.html#c1

[ホロコースト6] アウシュヴィッツには、戦後多くのドイツ人の女性や子供、老人などが収容された。--看守の多くはユダヤ人だった。 西岡 西岡昌紀
1. 中川隆[-10654] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:22:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1388]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/208.html#c1

[ホロコースト6] ダッハウの謎−−過去の「ガス室」目撃証言はどうなったのか?    西岡昌紀 西岡昌紀
42. 中川隆[-10653] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:23:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1389]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/205.html#c42

[ホロコースト6] 「ユダヤ人絶滅」の命令書は発見されて居ない。−−「ユダヤ人問題の最終的解決」とはソ連への強制移住を意味した。  西岡昌紀
4. 中川隆[-10652] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:23:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1390]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/210.html#c4

[ホロコースト6] ディーゼル・エンジンの一酸化炭素でガス室を作れるか?−−「ホロコースト」の教義の科学的不合理 西岡昌紀
2. 中川隆[-10651] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:23:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1391]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/211.html#c2

[ホロコースト5] ツィクロンB(サイクロンB)について     西岡昌紀 西岡昌紀
1. 中川隆[-10668] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:24:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1374]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/172.html#c1

[ホロコースト5] アウシュヴィッツの歩き方(重要なお知らせ)   これから現地に行く皆さんへ 西岡昌紀
1. 中川隆[-10667] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:24:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1375]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/183.html#c1

[ホロコースト6] (書評) 芝健介著 『ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 』(中公新書)    西岡昌紀 西岡昌紀
6. 中川隆[-10666] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:25:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1376]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/188.html#c6

[ホロコースト6] (書評)シュロモ ヴェネツィア著『私はガス室の「特殊任務」をしていた』    西岡昌紀 西岡昌紀
4. 中川隆[-10665] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:25:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1377]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/187.html#c4

[ホロコースト5] はじめに−−「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌紀 西岡昌紀
1. 中川隆[-10664] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:26:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1378]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/195.html#c1

[ホロコースト5] 第5章 真の悲劇は何だったのか?−−「アウシュヴィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌紀
1. 中川隆[-10663] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:26:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1379]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/190.html#c1

[ホロコースト2] ホロコースト神話の深層に潜む「二十世紀のファウスト」紹介 木村愛二
1. 中川隆[-10662] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:27:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1380]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/801.html#c1

[ホロコースト3] ホロコーストの嘘分からずに議論しても何の役にも立たぬ 木村愛二
1. 中川隆[-10661] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:29:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1381]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0601/holocaust3/msg/324.html#c1

[ホロコースト2] 「ホロコ−ストは作り話」心底賛成ドイツ元首相発言の歴史的背景 木村愛二
1. 中川隆[-10660] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:29:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1382]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/795.html#c1

[ホロコースト2] 放送法違反のNHKアウシュビッツ5夜シリーズvs電網事典 木村愛二
4. 中川隆[-10659] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:31:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1383]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/294.html#c4

[ホロコースト5] 「『ガス室』の真実」第一章(「マルコポーロ」廃刊事件)全文(転載自由)   西岡昌紀 西岡昌紀
1. 中川隆[-10688] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:33:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1354]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/160.html#c1

[ホロコースト4] ホロコースト神話の最大の嘘はヒトラーという悪魔 木村愛二
1. 中川隆[-10687] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:33:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1355]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/07/holocaust4/msg/292.html#c1

[ホロコースト2] 『ホロコースト産業』日本版メディア商売・NHK・朝日新聞お粗末 木村愛二
1. 中川隆[-10686] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:34:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1356]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/837.html#c1

[ホロコースト2] ホロコーストの語源的な用例としての位置付けでは正解 木村愛二
1. 中川隆[-10685] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:34:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1357]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/808.html#c1

[ホロコースト3] ホロコーストはユダヤの仕業(戦争板) 木村愛二
1. 中川隆[-10684] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:35:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1358]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0601/holocaust3/msg/558.html#c1

[ホロコースト2] ホロコースト「生き残り証言」は大嘘の創作と判明した。 木村愛二
1. 中川隆[-10683] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:35:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1359]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/634.html#c1

[ホロコースト5] 第2章 「ユダヤ人絶滅計画」は実在したか−−「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌紀
1. 中川隆[-10682] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:36:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1360]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/193.html#c1

[ホロコースト5] アウシュビッツに「シラミ駆除用のガス室」があったことは公知の事実です。 tk
1. 中川隆[-10681] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:36:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1361]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/142.html#c1

[ホロコースト5] あとがきにかえて−−「アウシュヴィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌紀 西岡昌紀
1. 中川隆[-10680] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:37:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1362]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/187.html#c1

[ホロコースト5] 第4章 「証言」の問題−−「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌紀 西岡昌紀
1. 中川隆[-10679] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:37:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1363]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/191.html#c1

[ホロコースト2] ナチス公文書公開はホロコーストの嘘の解明の決定版か 木村愛二
1. 中川隆[-10678] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:38:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1364]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/875.html#c1

[ホロコースト5] 第6章 「ホロコースト」の政治学−−「アウシュヴィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌 西岡昌紀
1. 中川隆[-10677] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:38:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1365]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/189.html#c1

[ホロコースト2] ナチス公文書 今秋5000万件公開 ホロコースト解明へ|産経新聞 white
1. 中川隆[-10676] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:39:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1366]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/872.html#c1

[ホロコースト3] アウシュヴィッツの犠牲者数の変遷 侵略の正確な実像をとらえるために 提供人D
1. 中川隆[-10675] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:40:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1367]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0601/holocaust3/msg/179.html#c1

[ホロコースト3] ジェノサイドは歴史的事実の問題、ホロコーストは現在継続中の戦争プロパガンダの問題 たけ(tk)
1. 中川隆[-10716] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:41:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1326]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0601/holocaust3/msg/515.html#c1

[ホロコースト2] ホロコースト「八百長」「ブッシュとナチスの結託」政府公文書 木村愛二
1. 中川隆[-10715] koaQ7Jey 2019年4月11日 12:41:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1327]

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ヒトラーと6人の側近たちU 第2回 「ヨーゼフ・メンゲレ」- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Cpvlu5x61zg
https://www.youtube.com/watch?v=sL0qQAgzlKQ
https://www.youtube.com/watch?v=VJ0MY-Zh7_Q

ヒトラーと6人の側近たち 第4回 「ハインリヒ・ヒムラー」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=PDdJSgUOlZM
https://www.youtube.com/watch?v=b20mQhYvtrk
https://www.youtube.com/watch?v=8yPk1HiKGIc

ニュルンベルク裁判=ナチスの戦争犯罪を裁く - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oHvlif112rg



http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/695.html#c1

[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
239. 中川隆[-10720] koaQ7Jey 2019年4月11日 13:12:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1322]


2019年4月11日
中間層が縮小、所得の伸び悩みとコスト上昇で=OECD

[パリ 10日 ロイター] - 経済協力開発機構(OECD)は10日、先進国で中間層が縮小していると指摘した。賃金の上昇ペースが住宅価格や教育費、医療費の上昇に追い付いていないことが背景という。

OECDは中間層をその国の平均所得の75─200%に相当する世帯と定義している。加盟36カ国のほとんどの人が中間層に含まれる。

しかし、OECDのリポートによると、データが入手可能な加盟国における中間層の割合は現在61%と1980年代の64%から緩やかに低下している。

また中間層の割合は世代間でも縮小し、1942─64年に誕生したベビーブーム世代が20代のころに中間層に占めた割合が68%だったのに対し、1983─2002年に生まれたミレニアル世代では60%となった。

OECDは、所得の伸びが抑制されていることが中間層縮小の一因とみている。

一方、中間層の生活の柱となる住宅などの価格はインフレ率を大幅に上回るペースで上昇している。教育、医療にかかるコストも増えている。

OECDは、こうした状況と同時に労働者は職の不安定さにも直面していると指摘。近年、自動化が進んだことで中間層の6人に1人の職が脅かされているとの見解を示した。

また中間層の20%以上は支出が収入を上回り、生活のために債務を抱える状況が増えているという。

OECDのグリア事務局長は、声明で「現在の中間層は、荒波の中のボートのような様相が強まっている。政府は国民の懸念に耳を傾け、中間層の生活水準を向上させる必要がある」と指摘した。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c239

[リバイバル3] 三瓶温泉で泉質断然 No.1 の「湯元旅館」が塩素消毒・濾過・加熱・循環湯の国民宿舎さんべ荘に絶対に敵わない理由 中川隆
18. 中川隆[-10719] koaQ7Jey 2019年4月11日 15:06:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1323]


投稿日:2018年7月6日
三瓶温泉の源泉に一番近い宿 (三瓶温泉 湯元旅館)
きくりんさんゲスト [入浴日: 2017年10月13日 / 2時間以内]

三瓶温泉の街中から少し山道を登った先の森の中に佇む、昭和33年に開業した木造2階建ての温泉旅館。外観は古い旅館の趣きをそのままに、館内はモダンに改装されて蕎麦カフェやマッサージ処も併設しています。平日の午前中、日帰り入浴(要連絡)してみました。

入浴料500円は、玄関を入って正面の受付で。右手へ廊下を進み、突き当たりを左折した先に2つの浴室があります。40分貸切制で、今回は左側の広い方を利用。棚に籐籠が並ぶ脱衣場には、ドライヤーなし。貸しタオルが置かれているのは、茶濁湯の時に有難いです。脱衣場の壁のドアが開いていて、隣の小さな方へ往き来でき、誰もいないので覗いてみると、こちらは4人サイズの石造り内湯でした。

さて、広い方の浴室に入ると、右側に1人分のシャワー付カランと左側手前に1人分の蛇口がある洗い場。アメニティは一般的なものです。窓際に5人サイズの岩風呂があり、黄褐色に濁ったナトリウムー塩化物泉(源泉名: 三瓶温泉)が、源泉かけ流しにされています。泉温36.6℃を、加温・加水せずそのまま供給。案内してくれたお姉さんが「温ければ、オレンジ色のコックを捻って下さい」と教えてくれました。高い石組みの湯口から滝のように流れてくる源泉は無色透明で、口に含むと鉄臭がして炭酸味。底に粉状の湯の花が沈殿していて、かきまぜると茶褐色というより、100%オレンジジュースのような色に。さすが、三瓶山麓の源泉から最も近い湯処です。壁には苔が根付き、歴史も感じます。窓から山の景色を眺めつつ、濃厚な湯を満喫できました。
https://onsen.nifty.com/ooda-onsen/onsen009771/kuchikomi/0000187056/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/528.html#c18

[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
240. 中川隆[-10718] koaQ7Jey 2019年4月11日 16:39:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1324]
2019年4月11日
焦点:揺らぐスウェーデンの平等社会、富裕層減税で格差拡大へ

[ストックホルム 10日 ロイター] - 平等な社会だと世界的に定評のあるスウェーデンだが、社会民主労働党率いる政府が導入する高所得者層向けの減税策により、富裕層と貧困層の格差が拡大することになる。

概要が10日発表された今回の減税策は、昨年9月の総選挙によってどの政党も過半数を握れない「ハングパーラメント(宙吊り議会)」に陥った中道左派と中道右派が政党間で合意した妥協策の一環だ。反移民を掲げる極右スウェーデン民主党を政権から排除する狙いがある。

これは、ドイツやデンマークといった欧州諸国の政治家が直面しているジレンマを映す鏡とも言える。こうした国々の主要政党は、左派と右派の対立を隠すか、あるいはポピュリスト(大衆主義)政党に権力の一端を担わせるかの選択を迫られている。

だが、多くのスウェーデン国民は治安や教育、高齢者介護などの公共サービスに不満を募らせており、富裕層への減税により、格差の拡大に根ざしているとみられる外国人嫌いや大衆主義的な感情がさらに悪化する恐れがある、とアナリストは警鐘を鳴らしている。

今回の減税策では、70万スウェーデンクローナ(約840万円)を超える年間所得者に上乗せされていた5%の税金が廃止される。この追加課税は1990年代初頭の経済危機時に財政支援のため導入されたものだ。

スウェーデンの高所得層に対する課税率は約60%と依然、他の多くの国と比べて群を抜いて高いとはいえ、来年実施される減税措置により、同国社会における「持てる者」と「持てざる者」の格差が拡大する可能性が高い。同国は近年、富裕税廃止を含めた高所得者層を利する一連の政策を打ち出してきた。

世界的に最も平等な社会を擁するスウェーデンだが、経済協力開発機構(OECD)によれば、他の先進諸国よりも速いペースで貧富の格差が拡大している。社会全体に所得がいかに平等に分配されているかを計測するため、OECDは「ジニ係数」を使用している。

2019年予算で導入された富裕層への減税や他の広範囲な所得減税による200億クローナの減収は、高齢者介護や海外援助向け予算の削減、環境税の引き上げによって一部相殺されることになる。

こうした措置について、福祉大国スウェーデンを築き上げ、平等と公平さの基準とみなされている社会をつくった党の価値観に対する裏切りだと、中道左派の政権与党・社会民主労働党の一部議員は反発している。

「それは民主主義を守ることであり、われわれの党にとっては、1人も見捨てられることのない福祉国家を守ることだ」と、同党のマーカス・カリファテイデス議員は言う。「スウェーデンはもはや、そのような社会ではない」

だが他の多くの人にとって、反移民のスウェーデン民主党を排除することはその代償を払うに値する。

「高所得層への減税が、格差を和らげるわけではない」とマグダレナ・アンダーソン財務相は3月29日、ロイターに語った。「社会民主労働党の優先事項でないことは確かだが、議会で過半数を得る必要があり、妥協せざるを得ない」

昨年9月の総選挙では、社会民主労働党は過去1世紀以上で最悪の大敗を喫する一方、亡命希望者に門戸を閉ざす政策を掲げる、欧州連合(EU)懐疑派のナショナリスト政党、スウェーデン民主党は議席数を伸ばし第3党に躍進した。

こうした事態を打開するため、社会民主労働党と緑の党は、協力と引き換えに所得減税や、賃貸住宅・労働市場の自由化を求める中道・右派の各政党と、4年間にわたる73項目から成るプログラムで合意した。

<それほど平等なのか>

こうした措置は福祉大国スウェーデンの立役者には耐えられないかもしれないが、何年も続いている変化の一端にすぎない。

世界の富裕層に関するクレディ・スイスの調査によると、スウェーデンの最富裕層1%が自国に占める富の割合は、米国のそれよりも大きい。

「経済的な貴族社会が復興しているようなものだ」と、スウェーデン労働組合連合のチーフエコノミスト、オラ・ペターソン氏は言う。

スウェーデンでは一部の国で見られるような社会的混乱はないものの、多くのスウェーデン人は、2013年に首都ストックホルムで発生した暴動や、犯罪組織による暴力事件の急増は、欧州でポピュリストの躍進をもたらしているような社会的分断の表れだと感じている。


Slideshow (2 Images)


1970年代まで続いた歴代の社会民主労働党政権は、富裕層に対し、高額な所得税や富裕税、相続税や贈与税、固定資産税を課してきた。

スウェーデンの家具小売り大手イケア創業者イングバル・カンプラード氏ら多くの富裕層は、自身の資産を海外で保有した。

こうした海外流出に直面したスウェーデンは、市場志向の改革に着手し、小規模ビジネスや起業家を優遇した。

長年かけて引き下げられ、緩和された富裕税は2007年に廃止された。高額な固定資産税は上限7812クローナの手数料に取って代わった。

相続税も廃止された。一方、英国では、相続を受ける者は32万5000ポンド(約4700万円)を超えた場合には40%の税金を支払わなければならない。

同時に、超低金利政策が取られた10年間で、不動産と株式の価値が急上昇し、所得の大半を月給ではなくキャピタルゲイン(株式などの譲渡益)で稼ぐ人々が増加した。

中道右派政権は2006─14年、所得減税に着手した。上乗せ分を除く最高税率は1970年代後半の約90%から60%程度に引き下げられた。福祉給付もカットされた。

「スウェーデンは世界最高の国だ。富裕層にとってはね」と、社会民主労働党の元議員で現在は医療分野のビジネスマンに転向したヤン・エマヌエル・ヨハンソン氏はユーチューブ動画で皮肉に語っている。

スウェーデンで人気のリアリティー番組シリーズ「ロビンソン」で優勝した有名人で富豪のヨハンソン氏は、格差拡大は、街で暴動が起きるなど社会全体にとって代償を伴うと警告する。

「自分は特権階級の1人で、自宅周辺に高い壁を築くことができるとも言える。もしくは、地下鉄に乗る人たちに降りかかる災いは、いずれロールスロイスを運転する人たちにも災いとなることを認識する必要がある、とも言えるだろう」

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c240

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
32. 中川隆[-10717] koaQ7Jey 2019年4月11日 18:42:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1325]

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c32
[リバイバル3] スキー場の選択は雪質だけで決めよう 中川隆
167. 中川隆[-10716] koaQ7Jey 2019年4月11日 20:53:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1326]

スキー場積雪ランキング 2019年4月11日更新
https://weather.goo.ne.jp/ski/ranking/
.

1 月山夏

山形 積雪量 1000cm
.

2大雪山黒岳

道北 積雪量 470cm
.

3ロッテアライリゾート

新潟 積雪量 453cm
.

4夏油高原

岩手 積雪量 380cm
.

5シャルマン火打

新潟 積雪量 360cm
.

6谷川岳天神平

群馬 積雪量 360cm
.

7奥只見丸山

新潟 積雪量 350cm
.

8ニセコマウンテンリゾート グラン・ヒラフ

道央 積雪量 320cm
.

9HAKUBA VALLEY 白馬八方尾根

長野 積雪量 305cm
.

10野沢温泉(やまびこゲレンデ)

長野 積雪量 305cm
.

11八甲田

青森 積雪量 300cm
.

12赤倉観光リゾート

新潟 積雪量 280cm
.

13天元台高原

山形 積雪量 270cm
.

14HAKUBA VALLEY 栂池高原

長野 積雪量 270cm
.

15札幌国際

道央 積雪量 270cm
.

16HAKUBA VALLEY エイブル白馬五竜

長野 積雪量 270cm
.

17かぐら

新潟 積雪量 260cm
.

18キロロスノーワールド

道央 積雪量 260cm
.

19HAKUBA VALLEY Hakuba47ウィンタースポーツパーク

長野 積雪量 255cm
.

20秋田八幡平

秋田 積雪量 250cm
.

21ニセコアンヌプリ国際

道央 積雪量 250cm
.

22GALA湯沢

新潟 積雪量 240cm
.

23グランデコスノーリゾート

福島 積雪量 230cm
.

24志賀高原 焼額山

長野 積雪量 220cm
.

25野沢温泉

長野 積雪量 220cm
.

26竜王スキーパーク

長野 積雪量 210cm
.

27星野リゾート 猫魔

福島 積雪量 210cm
.

28安比高原

岩手 積雪量 205cm
.

29志賀高原 横手山・渋峠

長野 積雪量 205cm
.

30富良野

道北 積雪量 203cm
.

31志賀高原 熊の湯

長野 積雪量 200cm
.

32丸沼高原

群馬 積雪量 200cm
.

33中山峠

道央 積雪量 200cm
.

34奥志賀高原

長野 積雪量 195cm
.

35山形蔵王温泉(ユートピアゲレンデ)

山形 積雪量 195cm
.

36たんばらスキーパーク

群馬 積雪量 190cm
.

37志賀高原中央エリア 高天ヶ原マンモス

長野 積雪量 190cm
.

38志賀高原中央エリア 一の瀬ファミリー

長野 積雪量 190cm
.

39川場

群馬 積雪量 190cm
.

40神立高原

新潟 積雪量 180cm
.

41サホロリゾート

道東 積雪量 165cm
.

42山形蔵王温泉(中央ゲレンデ)

山形 積雪量 160cm
.

43高鷲スノーパーク

岐阜 積雪量 110cm
.

44ハンターマウンテン塩原

栃木 積雪量 100cm
.

45山形蔵王温泉(上の台ゲレンデ)

山形 積雪量 80cm
.

46山形蔵王温泉(横倉ゲレンデ)

山形 積雪量 65cm


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/782.html#c167

[リバイバル3] ロッテアライリゾート 中川隆
21. 中川隆[-10715] koaQ7Jey 2019年4月11日 20:54:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1327]

スキー場積雪ランキング 2019年4月11日更新
https://weather.goo.ne.jp/ski/ranking/
.

1 月山夏

山形 積雪量 1000cm
.

2大雪山黒岳

道北 積雪量 470cm
.

3ロッテアライリゾート

新潟 積雪量 453cm
.

4夏油高原

岩手 積雪量 380cm
.

5シャルマン火打

新潟 積雪量 360cm
.

6谷川岳天神平

群馬 積雪量 360cm
.

7奥只見丸山

新潟 積雪量 350cm
.

8ニセコマウンテンリゾート グラン・ヒラフ

道央 積雪量 320cm
.

9HAKUBA VALLEY 白馬八方尾根

長野 積雪量 305cm
.

10野沢温泉(やまびこゲレンデ)

長野 積雪量 305cm
.

11八甲田

青森 積雪量 300cm
.

12赤倉観光リゾート

新潟 積雪量 280cm
.

13天元台高原

山形 積雪量 270cm
.

14HAKUBA VALLEY 栂池高原

長野 積雪量 270cm
.

15札幌国際

道央 積雪量 270cm
.

16HAKUBA VALLEY エイブル白馬五竜

長野 積雪量 270cm
.

17かぐら

新潟 積雪量 260cm
.

18キロロスノーワールド

道央 積雪量 260cm
.

19HAKUBA VALLEY Hakuba47ウィンタースポーツパーク

長野 積雪量 255cm
.

20秋田八幡平

秋田 積雪量 250cm
.

21ニセコアンヌプリ国際

道央 積雪量 250cm
.

22GALA湯沢

新潟 積雪量 240cm
.

23グランデコスノーリゾート

福島 積雪量 230cm
.

24志賀高原 焼額山

長野 積雪量 220cm
.

25野沢温泉

長野 積雪量 220cm
.

26竜王スキーパーク

長野 積雪量 210cm
.

27星野リゾート 猫魔

福島 積雪量 210cm
.

28安比高原

岩手 積雪量 205cm
.

29志賀高原 横手山・渋峠

長野 積雪量 205cm
.

30富良野

道北 積雪量 203cm
.

31志賀高原 熊の湯

長野 積雪量 200cm
.

32丸沼高原

群馬 積雪量 200cm
.

33中山峠

道央 積雪量 200cm
.

34奥志賀高原

長野 積雪量 195cm
.

35山形蔵王温泉(ユートピアゲレンデ)

山形 積雪量 195cm
.

36たんばらスキーパーク

群馬 積雪量 190cm
.

37志賀高原中央エリア 高天ヶ原マンモス

長野 積雪量 190cm
.

38志賀高原中央エリア 一の瀬ファミリー

長野 積雪量 190cm
.

39川場

群馬 積雪量 190cm
.

40神立高原

新潟 積雪量 180cm
.

41サホロリゾート

道東 積雪量 165cm
.

42山形蔵王温泉(中央ゲレンデ)

山形 積雪量 160cm
.

43高鷲スノーパーク

岐阜 積雪量 110cm
.

44ハンターマウンテン塩原

栃木 積雪量 100cm
.

45山形蔵王温泉(上の台ゲレンデ)

山形 積雪量 80cm
.

46山形蔵王温泉(横倉ゲレンデ)

山形 積雪量 65cm


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/935.html#c21

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
34. 中川隆[-10713] koaQ7Jey 2019年4月11日 22:03:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1329]
>>33 に別リンク追加

【白人文化 X】 @a ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c34

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
192. 中川隆[-10712] koaQ7Jey 2019年4月12日 07:25:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1330]
平野憲一の株のお話 2019.04.12 日銀の挑発?
http://kasset.blog.fc2.com/

 最近の日本株は閑散状態と言うだけでは無く、寄り付きは米欧次第、中間は上海総合指数次第、引けは日銀ETF買い次第と言うだらしなさですが、その日銀ETF買いの根拠となるTOPIXこの日の前引けは1600.6ポイントで前日比0.44%の下げでした。

今年に入ってからの買い実績の前引け下げ率の最低は0.52%でしたが、この日は0.44%しか下げておらず、本来なら買いが入らないような展開でしたが、記録更新の買いが入りました。

0.52%が最低だったので、なんとなく0.5%下げ以上が買いの条件の様に言われていましたが、これで0.4%の下げでも買う事になるのでしょうか。若干事件です。

 しかも。今年に入ってからの1日に買う最高は704億円(他の項目の買いは除く)でしたが、4月から705億円に上がっています。この1億円増にどんな意味があるのか、何か株価や日銀への疑心暗鬼に陥っている投資家への日銀からの挑発の様な感じがします。「しっかりしろ、日銀の方針は不動だ!信じろ!」と筆者には聞こえます。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c192

[リバイバル3] 伝説の静電型スピーカー QUAD ESL57・ESL63 中川隆
88. 中川隆[-10711] koaQ7Jey 2019年4月12日 07:41:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1331]

223名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 14:02:28.60ID:w6mDT2zK>>224

>安くて良い音なんてものは存在しない
>良い音は値段に比例する


2000万円の YG よりヤフオクで 8万円で売ってる中古の QUAD ESL63 の方が遥かにいい音だけどね


224名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 14:41:21.30ID:55o1EY6c
>>223
それはお前の耳が腐れ耳なだけ。
クォードのESL63など今のスピーカーならB&Wの805D3より情報量は少なく、音場も狭く、古臭いクソの様な音。

一方でYGのソニアXVjrは滅多にないフルスケールのサウンドステージが出る上に、生演奏より切れば血が出る様な生々しさがある。
特に鮮度感は今までに地球上で出た全てのスピーカーとは次元が違う。
本当に再生音楽の画期といえる。

今後スピーカーはソニア以前とソニア以降と言われるのでは?と思うほど。

225名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 14:58:28.60ID:w6mDT2zK>>226
>>224
YGのソニアXVjr はダイナミック型だし、低能率だから弱音部がすべてマスクされるんだよ

静電型に敵う訳ないだろ


226名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:05:26.60ID:55o1EY6c>>227
>>225
静電型は低音が出ない、下手にサブウーファーを繋ぐと音の違いに愕然とする、大きな音が出ない、というどうしようもない問題点を抱えているからな。

その上、ESL-63は無理に球面波を出そうとして、コンデンサーなどで音を遅延させているがそれがまた音質を甘くさせている。

実際、ディレイ回路を全て撤去したクロスビーの改造ESL-63を聴いたこともあるが、全く別物と言って良い音の鮮度だった。

更にはトランスを使うから、帯域制限も出る。

今、静電型が減っているのはそんな色んな問題点から。


227名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:17:58.97ID:69RVxWo9>>228
>>226
それよりも静電型は集塵機ってのが敬遠されるんじゃね? 

228名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:22:26.55ID:55o1EY6c
>>227
それもあるね。

マーチンローガン は振動板を洗えたらしい。

229名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:25:21.26ID:w6mDT2zK

>静電型は低音が出ない、下手にサブウーファーを繋ぐと音の違いに愕然とする、大きな音が出ない、というどうしようもない問題点を抱えているからな。


ドイツ QUAD ESL57専用サブウーファ
QUAD Musikwiedergabe
http://www.quad-musik.de/html/catalogue.html

ESL57 (QA) subwoofer, the round shaped.

They come without an edge, easy to turn to optimize there performance in the room.
Not only prepared to fit with the 57 design, but also an ideal solution for third party electrostatics.

We deliver them as a pair including an active crossover

You can have them in various colours and/or with wooden top and bottom plates
http://www.quad-musik.de/html/subround.html


ドイツ QUAD ESL63 専用サブウーファ
QUAD Musikwiedergabe
http://www.quad-musik.de/html/catalogue.html


The ESL63 subwoofer, the professional.

Well designed to function as a stand which lift the ESL63 in a better listening position and to extend the low end of the frequency range.
http://www.quad-musik.de/html/sub631.html

230名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:27:00.37ID:55o1EY6c

今まで静電型スピーカーに組み合わせて音に違和感がなかったのはエンテックと、アコースティックラボのサーボウーファだけだな。

サーボがかかってないとダメな様だが、今はどちらのメーカーのサブウーファーもディスコン。

231名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:28:05.84ID:69RVxWo9

静電型はストロークができないから面積を稼げば低音でるんじゃ?
昔のアクースタットなんかそれなりに聴けたぞ?

232名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:29:27.03ID:w6mDT2zK

ステレオサウンドはドイツ QUAD の新製品を報道管制を敷いて葬り去ろうとしてるんだよ

まともな販売代理店が一つも出て来ないというのが何かなー

233名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:45:43.98ID:ta8+ITZ1

結局最後は陰謀論という闇

234名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:47:21.36ID:69RVxWo9>>235

わからんけどね
集塵機になって下手すれば火花散るようなスピーカー怖くね?

235名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:50:12.97ID:55o1EY6c
>>234
ESL-63も梅雨時にはパチパチとノイズが発生して、ユーザーはこれは持病と言ってた。
結局はウィルソンのシステム5に交換した。

236名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 15:51:56.51ID:55o1EY6c

かといってゴミが溜まりにくい構造だったマーチンローガン のCLSは音が良くなく、ESL-63proの方が音は良かった。
マーチンローガン もモノリスは良かったが、あんまり売れなかったよな。

237名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 16:00:29.22ID:w6mDT2zK

スタックスの静電型スピーカーと専用アンプは欧米では評価高かったのに何故ダメになったのかな?

日本で評価されたスピーカーはスタックスの静電型スピーカーひとつだけだよね。


238名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 16:03:39.45ID:69RVxWo9
>>237
スタックスのアンプはロビンソンがベタぼれして使ってたからね
ソニーも静電型作ってたよ
評価ならONKYOのグランセプターあるね

239名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 16:14:16.61ID:55o1EY6c
>>237
スタックスも創業社長が逝去されて一気に金が借りられなくなり、今はイヤースピーカー専門メーカーとなった。

コンデンサースピーカーはあまり良いと思わなかったが、 イヤースピーカーのSR-Ωは凄い音だった。

今も継続品があり、少し前に聴いたが矢張り凄い音。


240名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 16:18:00.57ID:69RVxWo9
>>239
俺はΣ長年持ってたなぁ
あんまり出番は無かったけど良い音だったよ

241名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 16:18:02.56ID:ta8+ITZ1
>>237
うんにゃ
SONYのARシリーズは高評価だよ
ユニットはスキャンティピーピングだけどなw
マジコのいっちゃん高くてええもんは、YLのユニットだ

243名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 17:12:48.74ID:55o1EY6c
>>241
あのマジコの変なホーン型スピーカーなんて全く売れてないよ。
QシリーズやMシリーズが実質的なマジコのハイエンド機。

そもそもYLはオーディオノートが合併したが全製品カタログ落ちして、もう作ってないし。

267名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 19:15:34.89ID:Ww9HCJo8

>>265
お前の耳ではそう聴こえるんだろw

ESL-63の方がESL-63proより音が良いと感じる人の耳は信用しない。


269名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 19:32:57.64ID:pANt1zcq

理想的でなければ使えないと言い切ってしまうと、

理想的なものは何も無い現状では音楽を聴くこともできなくなってしまうから、
妥協に化粧を重ねたものを良しとするのは現実的で良い選択である。

しかしその一方で、信号どおりに変換・増幅する理想の機材を追求しなければ向上は無いし、
それぞれの人間においても録音、再生技術を追及することが必要で向上もする。

妥協で満足するか、理想を追求するか、両方の立場があって良くて、一人の人間の中でさえ共存し得る。
もちろん共存させたうえでなら、
敢えてケチをつけあって罵倒や煽りあいをするのも趣味として否定されるべきものではない

それどころか、レスのやりとりで他人の意見を聞き入れて、自説を曲げてしまうのは厳に慎むべきである。
ここの住人は良く訓練されており、どこまでも平行線の見事な展開で安心できる。

270名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 19:37:34.15ID:w6mDT2zK>>271

QUAD ESL63でテープを聴く GRFのある部屋

昨年の九月に、千葉で『QUADを聴く会』に招かれ、QUAD22・QUADU・ESLのヴィンテージラインで Nagra IV-SJ改の4トラックテープを聴いていただきました。

掛かったテープとは時代が合っているのでしょうか、ESLの常識を超える素晴らしい音がしました。

その折、次回は11月頃にも今度はESL63で鳴らそうと言うことになりましたが、
どうしても都合が付かず年を越してしまいました。

前回の22・QUADU・ESLは真空管の時代でしたが、今回の44・405U・ESL63PROは二十年ぐらい時代が経ち、CD時代直前の機器です。音質も音場もESLとは大きく異なります。モニター用に開発されたPROは、辛口で甘さはあまり感じられません。

その意味では民生用の63の方が使い易い様にも思えます。
https://tannoy.exblog.jp/12636196/


誰が聴いても

ESL57 >> ESL63 >> ESL63pro

なんだよ。

菅野沖彦さんも ESL63 >> ESL63pro という評価だった。

271名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 19:45:43.12ID:Ww9HCJo8
>>270
菅野氏の評はあんまりアテにならん。
菅野氏が使っていたマッキンのトランジスタアンプはオレは嫌いな音だったし。
マッキンは真空管式は良いんだが。

オレが聴いた感じでは正に
ESL-63pro>>ESL-63>>>ESL-57
という感じ。

碌な音のしないコンデンサー型スピーカーの中ではESL-63PROは自分で使っても良いかと考えたくらい。

272名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 19:57:33.47ID:w6mDT2zK

QUAD ESL63

透徹繊細という言葉が、ESL63の枕詞に相応しいだろう。史上もっとも色付けが少ないスピーカーである、スタジオモニター用途のPRO63とは違い、家庭用での音楽再生の最高峰を目指して作られた製品である。

モデル名の63とは開発が始まった1963年から由来している。そして18年という歳月を掛けて1981年に発売された。プロ用機とは違い、 本機はホールトーンの再生を最大の特徴としており、内振りにした近接ニアフィールドセッティングでは部屋の影響は少ないのに、大変豊かな「残響音」を聴かせてくれる。

ただの無彩色なソッけない音を連想してはいけない。その再生音は非常に濃厚で、
バラード曲ではヴォーカル音像の濃密さに驚くだろう。この後で聴いた
JBLの大型モニターの音が「随分スッキリして聴こえる」と感じられるほどの
濃厚なヴォーカルだ。白熱灯を本機に当てて使うとネットの内側が透けて見えるのだが、僅か数ミクロンという薄い振動版が激しく振動している姿が薄明りに照らしだされる。

パーカッションの微細信号の再生では、パルシブな反応性の高さ、 繊細な表現力はダイナミック型の比ではない。家庭用として常識的な音量の制限下では現代でも通用する魅力的な再生を聴かせてくれる。声楽や弦楽の小編成の再生は白眉で、熱烈なファンを世界中に多数生み出した

ESL63は音は他では得られない素晴らしいものです、

集合住宅で周囲に気を使いながらのリスニングでヴォーカル再生を追求したい方
に強く推奨したいと思います。この"ホールトーン"が生み出す音色の暖かさ、柔らかさ、艶やかさと比類ない透明感が見事に併立した世界は、他では得られないものだと思います。


274名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 20:09:02.48ID:w6mDT2zK

コンデンサースピーカーの終焉

コンデンサー型(プレーナー型)のスピーカーがなぜ廃れたのか?

それはWILSON AUDIOの登場によって、ダイナミック型スピーカーの性能限界がブレイクスルー迎えた為でした。


とはいえ、実際にはあのQUAD ESLの繊細さは出ませんけどね。

コンデンサー型の精細感、繊細さの表現力がまあまあ出て、ダイナミック型の低音と実在感と併有できるので廃れてしまったというのが正確です。

音場型スピーカは、やはりWILSON、AVALONが定番でしょう。

個人的にはとても高価ですが、背が高い YGアコースティックが好きですね。
YGが歴然と一番サウンドステージが広く、窮屈さを感じさせない、スムースで
広大なスケール感を感じるからです。

275名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 21:50:35.91ID:Ww9HCJo8

YGもSonja XVjrを聴くまではそんなに凄いとは思わなかったけどな。

Sonja XVjrは別格だけどね。
なんとあの値段なのに日本で10ペア以上も出ているという。
羨ましい奴らめ。

242名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 16:42:06.85ID:NvbO/FNd

オーディオ界隈のツイッターやブログ見てるとさ思うんだよ
手段と目的が逆になってる人が多いなって

オーディオ機器を楽しむ目的の為の手段が音楽を聴くになってる人の多い事
それを否定はしないけどね
でもこうなったら純粋に音楽を聴いて楽しむって事は出来なくなりそう


244名無しさん@お腹いっぱい。2019/04/11(木) 17:21:49.56ID:69RVxWo9
>>242
正解はないし好みも変わる
仕方ないんじゃないかね
俺は専用ルーム造ってから弄ることがほぼ無くなったけどね
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/pav/1554757282/
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/682.html#c88

[近代史3] 財務省は何故日本を滅ぼそうとしているのか? 中川隆
11. 中川隆[-10710] koaQ7Jey 2019年4月12日 11:46:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1332]

いわんかな#22-1【消費増税に関する財務省のウソを暴く】- YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=WDsh9fBulmU

2019/04/11 に公開

<ゲスト・プロフィール>
橋洋一(たかはし よういち)
嘉悦大学教授・(株)政策工房会長・元財務官僚 1955年生まれ
東京大学理学部数学科 / 経済学部経済学科 卒業
小泉内閣・第一次安倍内閣ではブレーンとして活躍


「いわんかな」〜日本の国益を考える会〜 第22回 第1部(前半)
収録日:2019年4月4日

出演:(左から順に)

塩見和子(日本太鼓財団理事長・国際同時通訳の第一人者)
日下公人(評論家)
馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使・元防衛大学校教授)
高橋洋一 (今回のゲスト プロフィールは上部に)
堤堯(ジャーナリスト・元文藝春秋編集長)
福島香織(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
高山正之(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
志方俊之(軍事アナリスト・元陸上自衛官陸将)

「消費増税」のウソには3つある

@「財政破綻」を理由に消費税増税の嘘 
A「消費税は社会保障にあてる」の嘘 
B「消費増税しても景気は悪くならない」の嘘。 

さらには「日本の借金は一人頭860万円」のウソや、「年金は破綻する」のウソも発覚!なぜ財務省と経済系記者や経済学者は、これほどまでにウソを重ねるのか?

=========================

<目次的な!>

・『「消費増税」は嘘ばかり』高橋洋一(PHP新書 / 2019年2月発売)
 ※Hanada5月号に堤堯氏の書評あり
・消費増税だけでなく、国家財政についてもよくわかる一冊
・財務省のウソとは何のことか?
・「消費増税」のウソには3つある
@財政破綻を理由に消費増税
A消費税は社会保障にあてる
B消費増税しても景気は悪くならない
・<IMF 財政モニター / IMF Fiscal Monitor>
 国家財務の債務だけではなく資産も含めたレポート
(バランスシートの分析)IMFは、日本は債務国では無くプラマイゼロの状態と発表(2018年10月のレポート)
・このIMFレポートは、新聞テレビ等で伝えられていない
・高橋洋一氏が作った「バランスシート」(貸借対照表)
 資産・負債・資本が記されており企業の決算時に使用される 
 国家財政に導入したのは高橋洋一氏が初めて(1995年)
・最初は財務省の差し金によりお蔵入りになったが(日本の財政に問題がないことがバレてしまうため)、小泉内閣時(2004年)に公表された
・いまだかつて日本のバランスシートについては新聞記事にはなっていない(財務省のレクチャーがないから書けない)
・日本の財政破綻の確率は?
 →5年間以内→1%未満(1%未満の確率は人間には認知できない)
・財政破綻の議論で負けたことはない高橋氏
・財政破綻を理由にした消費増税はウソ(8:28)
・「日本の借金は一人頭860万円」のウソ
・例えば、トヨタの借金は一人頭7000万円
・日経新聞の借金は一人頭1億円
・資産と負債の状況を見れば、日本はカナダに次いで2番目に良い
・「消費増税は社会保障に」のウソ(12:15)
・年金は破綻するのか?→まず破綻しない
・「年金の破綻」もウソ
・個人がもらう年金の損得は平均年齢とあわせて考える、平均年齢まで生きればトントン
・年金は単純な原理でできているのでまず破綻しない
・「景気動向指数」グラフから消費増税と景気の推移を見る 
・「消費増税しても景気は悪くならない」のウソ(16:40)
・財務省はなぜそんな嘘をつくのか?
・消費増税で予算上の税収(歳入)は増えるが実際は増えない
・予算上増えればよい、各省へばらまくことができるため
・多くの予算をばらまくことが出来ると出世ができる
・経済を良くする<出世、それが財務省
・お役所関連団体にある「埋蔵金」(へそくり)について(22:20)
・100はある独立行政法人等の機関に年間数兆円の国費がつぎ込まれている
・高橋氏は小泉内閣時、5年間で40兆円を「埋蔵金」からでひねり出した
・『財務省が隠す650兆円の国民資産』高橋洋一(講談社 / 2011年)
・財務省(大蔵省)幹部を出版界重鎮が囲むパーティに堤堯氏が突撃した時のエピソード
・財務事務次官の香川氏から直接聞いた話
・『政治家も官僚も国民に伝えようとしない 増税の真実』(SB新書 / 2019年3月発売)でも香川氏について書いた(P40)
・香川俊介(1956年 - 2015年)
財務事務次官(第11代)消費増税を推進し2012年の3党合意・税と社会保障の一体改革を主導した 過去には竹下内閣の官房副長官だった小沢一郎の秘書官を務めた(食道がんで59歳で死去)※高橋洋一氏の財務省内での1つ先輩
・何もわからない小沢一郎に知恵を与えたのが香川氏
・消費税が社会保障目的税となるのは世界でも例がないこと
・復興税も論外、経済的見地から見て恥ずかしいもの
・五百籏頭 真(1943年 - )
 政治学者 兵庫県立大学理事長、神戸大学名誉教授、防衛大学校名誉教授、東日本大震災復興構想会議議長 など歴任
 福田康夫政権時に外交・防衛分野でブレーンとして活躍
・予算の配分権を持っている財務官僚が一番強い(32:15 馬渕)
・ウソさえも通す力(傲慢さ)が財務省にはある
・財務省の体質こそ戦後日本の象徴
・財務省のブリーフがないと記事が書けない記者がほとんど→なぜそうなっているのか?
・記者は財務諸表を読めない、数字のことがまったくわからないから、人から聞かないと何も書けない
・文章は読めるが数表が読めない人は多い
・トマス・ピケティのぶ厚い本もほとんどが数表→読めない人多い
・記者(だいたい文系)は下手に間違ったことを書きたくないから、財務省のブリーフが必要となる構図
・財政研究会
 財務省内にある新聞やテレビ局の記者が常駐する記者クラブのこと。(略して財研)経済記者内でのステータスは高いようです
・研究しなくて聞いてるだけなので、財政傾聴会とすべき(37:15 高山)
・防衛省から財務省へ、予算交渉の実態話(志方)
・理科系(技術系・数字系)の思考法でやれば、橋を作ることも、戦闘機を買うことも、何でも計算できる。
・安全保障のことも戦争の確率をいかに下げるかの問題、計算できる
・ベネフィットをすべて数字で言えば、財務省への予算要求も通る
・数字も無く(感情論等で政治家が)要求すると、要求官庁側の立場は弱くなり財務省の言いなりになる
・軍事は合理性の塊、数字で言えるから好きな世界(高橋)


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/151.html#c11

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
35. 中川隆[-10709] koaQ7Jey 2019年4月12日 15:45:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1333]

【白人文化 X】 @d アウシュビッツの真実 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=EV7nMcajBrs

▲△▽▼


アウシュヴィッツの大量殺戮装置
ジャン‐クロード・プレサック、ロベルト‐ヤン・ファン・ペルト
歴史的修正主義研究会試訳・抄訳 最終修正日:2003年5月1日
http://revisionist.jp/pressac/pressac_01.htm

本試訳は当研究会が、研究目的で、Jean-Claude Pressac withRobert-Jan Van Pelt, The Machinery of Mass Murder at Auschwitz, Anatomy ofthe Auschwitz Death Camp, edited by Y. Gutman and M. Berenbaum,IndianaU.P.を試訳したものである。ただし、167にもおよぶ脚注は、ほぼすべてがアルヒーフ資料の典拠番号であるので、歴史叙述に直接関係しているもの以外は、省略した。

 誤訳、意訳、脱落、主旨の取り違えなどもあると思われるので、かならず、原文を参照していただきたい。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の焼却棟とガス室の設計、建設、使用、改造、破壊。

 本小論は、アウシュヴィッツ・ビルケナウでドイツ人がユダヤ人その他に対して採用した絶滅装置の歴史である。これは、アウシュヴィッツの収容所に建設されたナチス親衛隊の建設局の文書を10年間にわたって研究したことにもとづいている。これらの資料の3分の2はモスクワに保管されている。それらは1945年にソ連軍によって捕獲されてから、ソ連の解体までは研究のために利用できなかった。残りは、アウシュヴィッツ国立博物館の所有物としてアウシュヴィッツに残っていた。

 ベルリンの壁が崩壊した年(1989年)、プレサックは、アウシュヴィッツのガス室と焼却棟の建設の歴史を扱った本を発表した(注1 Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chamber, trans. Peter Moss (New York, 1989).)。それは、オスヴィエチム(ポーランド)、コブレンツの連邦文書館(ドイツ)、ヴァイマールの国立文書館(当時は東ドイツ)、ヤド・ヴァシェム文書館(イスラエル)の資料にもとづいていた 。そして、ソ連(今日ではロシア)中央文書館の資料の研究が可能となったのは、1991年であったので、著者の以前の結論のいくつかは修正しなくてはならなかった。

 1928年、ハンブルクからの二人の技術者ハンス・フォルクマンとカール・ルードヴィヒが新しい種類の焼却炉の特許権を出願した。それまでは、標準的な焼却炉は、棺を受け入れる加熱室もしくは炉室と燃焼器から構成される中心部を持っていた。この中心部に加えて、燃焼ガスからの熱を熱交換機を介して炉室に戻す節約機があった。節約機は、焼却の初期の過程で燃焼器を閉じ、燃焼をすでに炉に吸収されたエネルギーで続けることを可能にした。しかし、問題点もあった。節約機は燃料を節約したが、建設費用が高価であった。積み重ねられた回路の複雑なシステムは、炉全体の3分の2以上も占めた。フォルクマンとルードヴィヒは、扱いにくい節約機を、圧縮された冷気を炉室に送り込むことにもとづくもっと安価なシステムで置き換えることで、コスト軽減を目指した。

 特許権は期待された富をもたらさず、1934年までに、フォルクマン・ルードヴィヒ・システムはドイツのマーケットから姿を消した。しかし、別の会社がこの考え方に資本を投資することができた。工業用溶鉱炉で有名であったエルフルトのトップフ・ウント・ゼーネ社の焼却棟建設部の技術者クルト・プリュファー(図1)がフォルクマンとルードヴィヒのアイディアを採用し、1935年には、トップフ社は、様々なドイツの焼却棟に、節約機ではなく圧縮空気を使った7つのガス燃料炉を設置した 。



図1:クルト・プリュファー、トップフ・ウント・ゼーネ社の技術者、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の炉の建設者。State Archives Weimar, file 2/555a.

 トップフ社の焼却炉は名声を博し、1937年には新しいマーケットが開拓されていった。5月、ミュンヘンのSS指導部は、ダッハウの強制収容所に焼却棟を建設することを決定し、炉の入札を行なった。それまで、ナチスの強制収容所は、収容所で死んだ囚人の遺体を焼却するために近くの町の焼却棟を使っていたが、収容所の死亡率が、民間の焼却棟の処理能力を超えることもしばしばであったからである。

 アラクのヴァルター・ミューラー社がSSの入札に応じた。この会社は、地元のSSの宿舎やダッハウのSS訓練キャンプの中央暖房システムを建設するなど、ミュンヘンのSSと緊密な関係を持っていた。ミューラー社は、節約機なしで圧縮空気装置を持った1炉室炉の建設(図2)を提案した。そのコストは9250マルクであり、1937年当時は3700ドル、今日では37000ドルほどに等しい。


図2:ダッハウの焼却棟に使うために、ヴァルター・ミューラーが提案した、大理石のネオ・ギリシア風切妻壁をもつ1炉室炉。Archives of the Memorial Place, Dachau,file 943.

 ミューラー社は、使用頻度を増やせば多くの節約が可能であると主張した。冷たい炉は新しく焼却を始めるにあたって175kgの石炭を必要とするが、前日に使用されていれば、わずか100 kgですむ。同日の二回目、三回目の焼却は、圧縮空気のおかげで、余分な燃料を必要としないであろう。それ以後の焼却には、少量のエネルギーが必要なだけであろうというのである。しかし、ミューラー炉は建設されなかった。収容所の大規模な再編成が優先されており、ダッハウその他の収容所に焼却棟を設置するという考えは、一時的に放棄された。

 1939年春、焼却棟問題は、ふたたび焦眉の課題となった。このときまでに、ベルリンの新しい事務局が、強制収容所でのSSの建設活動を統制するようになっていた。このSS中央予算建設局は焼却棟の建設と稼働のための資金を持っており、トップフ・ウント・ゼーネ社にダッハウの契約を与えた。プリュファーは、強制収容所には、ミューラー社が提案したような、大理石のギリシア風の切妻壁で装飾された頑丈な民間用の炉は必要ないことを知っていたからである。そのかわりに、プリュファーが提案したのは、二つの炉室、燃料オイルバーナー、炉室に圧縮空気を吹き込むシステム、強制通風をそなえたむき出しの可動炉であった。その能力は、1時間で2体であった。SS中央予算建設局は、8750マルク(1992年では35000ドル)であったこの簡素で効率的なモデルを採用した。

 炉がダッハウで稼働し始めたのは、プリュファーがブッヘンヴァルトから注文を受けた1939年末であった。ブッヘンヴァルト収容所当局は、1938年6月に焼却棟を設置する必要性を最初に提起していた。エルフルトに近いブッヘンヴァルトはプリュファーの二つの炉のモデルの試験場となった。

 最初のモデルは(図3)、ダッハウの可動式モデルの固定式バージョンであった。その基本コスト7753マルク(1992年で31000ドル)は、ダッハウの炉よりも安価であった。この値下げが可能となったのは、ブッヘンヴァルトではSSの提供した囚人労働を利用することができたためであった。SSはまた、セメント、石灰、砂、煉瓦などの資材を無償で提供した。この基本コストに加えて、煙突の強化通風機構に1250マルク(1992年で6000ドル)が必要であった。



M:モーター

Dlg:強制空気送風機

L:死体

m:炉室

Ö:オイル・バーナー

Rk:導管

Zv:強化通風

K:煙突

PS:馬力

図3:ブッヘンヴァルトに設置されたトップフ・ウント・ゼーネ社製の固定式2炉室オイル燃料炉の図面。すべての図面はプレサックの作成した図面からものであり、版権は彼にある。

 トップフ社がダッハウの炉の建設を始める頃までに、ポーランドがドイツとソ連のあいだで分割された。ドイツは1919年以前の東部領土を回復しただけではなく、第一次大戦以前にはロシア領ポーランド、オーストリア領ポーランドに帰属していた領土を併合した。ここには、オスヴィエチム、ドイツ人のいうところではアウシュヴィッツの町も含まれていた。人口12000名の町は、重要な鉄道交差点に位置しており、ベルリン、ワルシャワ、リヴォフ(レンベルク)、ウィーンと結びついていた。そして、ザソレ郊外には、戦争状態が終わってからは廃屋となっていたポーランド軍の兵営が22あった。

 1940年初頭、SSは以前の軍隊の基地に、10000名のポーランド人囚人の検疫のための収容所を設置することを決定した。収容所には焼却炉が備えられることになっていた。SS中央予算建設局は、アウシュヴィッツに可動式2炉室オイル燃焼炉と、フリュッセンベルク強制収容所の炉の見積もりを出すようにトップフ社に要請した。3月、SS中央予算建設局は、それぞれ9000マルク(1992年では36000ドル)で二つの炉を生産するようにトップフ社に命令した。

 新しい契約はプリュファーを喜ばせたに違いないが、それは、彼が受け取る2%のコミッションのためばかりではなかった。彼は、ダッハウ、ブッヘンヴァルト、フリュッセンベルク、アウシュヴィッツにトップフ社の炉を建設することによって、マーケットを広げることができ、それを独占できるかもしれなかったからである。彼の唯一の障害は、コリ社であった。コリ社はベルリンのSS高官と良い関係を持っていたので、ザクセンハウゼン強制収容所に、可動式1炉室オイル燃焼炉を2ユニット設置する契約を結んでいた(図4)。この成功は、その他の受注ももたらした。結局、コリ社は、様々な強制収容所に12の炉を建設した。そのうち5つは、程度の差こそあれよく維持されており、いまだにポーランドに存在している。


図4:ザクセンハウゼンに設置されたコリ社製の可動式1炉室オイル・バーナー炉の図面。Archives of the Auschwitz-Birkenau State Museum,negative 6671.

 1940年5月10日、ドイツ軍は低地諸国とフランスを攻撃し、ガソリン、石油、燃料オイルがドイツでは配給制となった。強制収容所のすべての炉はオイル・バーナーを使っていたので、焼却棟が燃料不足に陥った。コリ社はトップフ社よりもこの新しい事態にうまく対処していた。わずか1ヶ月前、コリ社は、マウトハウゼン収容所に、石炭バーナーを使った固定式1炉室炉を売却する交渉を行なっていた。それは5月5日に稼働し始め、まもなく、稼働している唯一の収容所の炉となった。トップフ社は燃料不足を予見しておらず、炉が稼働を停止してしまったとの理由で、ダッハウとブッヘンヴァルトからの不満の総攻撃を浴びた。トップフ社は、SS中央予算建設局がフリュッセンベルクとアウシュヴィッツの注文をキャンセルするのではないかと悩み始めた。

 5月末、アウシュヴィッツ新建設局は、注文中の可動式炉は石炭を使うべきであるとトップフ社に伝えた。プリュファーは、簡単には採用できない可動式モデルに取り組むのではなく、前にブッヘンヴァルトに提供されていた固定式の2炉室炉の再設計を行なうことを決意した(図5)。アウシュヴィッツとフリュッセンベルクの炉には修正がなされた。すなわち、炉と煙突を結ぶ地下の導管の両側に2つの外部石炭バーナーを加えたものであった。


図5:ブッヘンヴァルトに設置されたトップフ社製の固定式2炉室炉図面、石炭燃料に修整。記号は図3と同様。G:石炭ガス放出機。

 プリュファーがブッヘンヴァルト・モデルを再設計していたので、アウシュヴィッツ新建設局は6月28日に、旧陸軍基地の古い火薬庫を新しい焼却棟のための建築現場に採用し始めた。もう一人のトップフ社の監督官ヴィルヘルム・コッホが7月5日に到着した。彼らは、スペースを有効に活用するために、地下の排気管に対して、炉を90度回転させることを決定した。20日後、炉がアウシュヴィッツに設置された(図6)。



S:(導管のなかの)調節器

Sz:強制通風

Sch:煙だまり

図6:アウシュヴィッツ・タイプの石炭燃料のトップフ社製固定2炉室炉の図面。排気:1時間4000㎥の煙。

 この炉は、1時間に4000㎥の煙を排気する電気式の強制通風システムを備えており、冷気を炉室に流し込む電動通風機を備えていたので、1939年のダッハウのモデルよりも50%も効率的であった。トップフ社でのプリュファーの上司であるフリッツ・ザンダーとパウル・エルドマンは10時間に30−36体を、20時間のサイクルで70体を処理できると見積もっていた。炉は1日に3時間のメンテナンスが必要であった。しかし、炉をテストすることはできなかった。建設局は、10mの煙突を完成させていなかった。8月15日になってやっとすべてが整い、最初の焼却が、のちにアウシュヴィッツTとして知られるようになる焼却棟で行なわれて、満足のいく結果となった。

 その後の焼却も問題なく進んだ。だから、任命されたばかりのアウシュヴィッツ新建設局長SS部長シュラヒターは、実験の1ヶ月後に、SS中央予算建設局に、焼却棟が欠陥なく作動していることを伝えている。シュラヒターには、トップフ社に満足するもう一つの理由があった。25%少々も炉のコストを引き上げる炉モデルの根本的改変にもかかわらず、会社は価格の引き上げをしないと決定していた 。余分なコストを愛国的に吸収し、炉の品質を維持することで、トップフ社はさらなる受注の道を開いたのである。

 トップフ社は、アウシュヴィッツに設置されたような新しいモデルの炉をフリュッセンベルクには提供しなかった。会社は、もともと合意されていた可動式2炉室炉の建設をエルフルトで完了していたにもかかわらず、7月初頭、補助的な石炭バーナーを備えたこの炉をグーゼンのマウトハウゼン付属収容所に設置すべきであると伝えられた。ブッヘンヴァルト・モデルよりは小さいグーゼン用の炉は、後ろに石炭バーナーをつける余地がなかった。だから、トップフ社は両側にユニットを付け加えたので、幅は倍になってしまった。

 プリュファーは、コリ社が影響力を持っていたマウトハウゼンに足場を得たことに喜んでいた。10月末、彼はマウトハウゼンに旅行し、そこで建設局長のSS副官ビュヒナーと会った。彼らは、グーゼンにもう一つの炉を、マウトハウゼンに計画されている囚人収容所にもう一つの炉を建設することを話し合った。プリュファーは、アウシュヴィッツの新建設局が最初と同じような第二の炉を建設することをトップフ社に求めてきていることを指摘して、ビュヒナーに、アウシュヴィッツ・タイプの固定式2炉室炉をグーゼン用に売却した。ビュチナーは、死亡率が1炉室炉か2炉室炉のどちらを求めているのか知らなかったので、囚人病院の炉については関与しようとしなかった(結局は、彼は2炉室炉に落ち着いた)。

 1940年12月、アウグスト・ヴィリングがトップフ社からグーゼンにやってきて、可動式炉を設置した 。途中、彼はダッハウにより、既存の可動炉に二つの石炭バーナーを付け加えた(図7)。1941年2月4日までに、ヴィリングはダッハウとグーゼンでの仕事を完了した。二つの収容所は、オイルから石炭バーナーに改造する費用2000マルクを支払わなくてはならなかった。しかし、炉はうまく稼働した。1時間に2体の処理という見積もりの点で、グーゼンの炉(図8)はアウシュヴィッツ・モデルよりも強力ではなかった。しかし、それは満足以上に稼働した。とくに、1941年11月、600の死体を12日間の作業で処理したときにはそうであった。


図7:アウグスト・ヴィリングが2つの石炭バーナーを側面に付け加えたダッハウのトップフ社製可動式炉。


M:モーター

Dlg:強制空気送風機

L:死体

m:炉室

Ö:オイル・バーナー

Rk:導管

Zv:強化通風

K:煙突

G:石炭バーナーガス放出機

煙の流れ:オイル/コークス→炉室→導管→強化通風→煙突

図8:最初はダッハウに設置され、のちに、石炭燃料に変更されてグーゼンに設置されたトップフ社製2重オイル燃料炉の図面。

 アウシュヴィッツでは、焼却棟に第二の新しい2炉室炉を建設する準備が進んでいた。トップフ社は最初のものと同じ価格を提示していたが(7753マルク)、そこには強制通風換気扇は入っていなかった。これは見落としではなかった。プリュファーは、すでに設置されている換気扇で二つの炉には十分であると考えていた。1940年12月19日、プリュファーは第二の炉の場所を決定するためにアウシュヴィッツを訪問した。シュラヒターの代理ヴァルター・ウルバンチュクが彼に同行した。ウルバンチュクは翌年の10月まで焼却棟の建設に責任を負った。彼らは、第一の炉に並んで、第二の炉を建設することを決定した。

 プリュファーは、ウルバンチュクに、別のトップフ社員カール・シュルツェを呼んで、二つの炉がきっちりした、換気されないスペースに設置された場合、隣接する検死室と死体安置室にトラブルが生じるかどうか調べさせたらどうかと提案した。ウルバンチュクはこの提案にしたがった。シュルツェは数日間で、検死室と死体安置室から空気を引き出す限定的な換気システムを設置する提案を提出した(図9)。新建設局は、シュルツェに、炉室を修理するわけではないとの理由で、1784マルクの提案を修正するように求めた 。



Sezierraum:検死室(10回の空気交換)

Vorraum:玄関

Aufbahrungsraum:(死体)配置室

Waschraum:洗浄室

Leichenraum:死体安置室(20回の空気交換)

So:煙だまり

Sz:強制通風

Ofenraum:炉

Kokslager:石炭室

Gebläse:送風機

K:煙突

図9:アウシュヴィッツの焼却棟Tの構造。おそらく、排気システムを始めて配置した図面である。カール・シュルツェが1940年11月30日のトップ社の青写真D.57999にもとづいて1940年12月9日に作成したもの。排気:1時間6000㎥、1.5馬力のモーター。

 1941年1月初頭、アウシュヴィッツの焼却棟の第一の炉が壊れ、第二の炉の建設が緊急に必要となった。1月17日、壊れた炉を修理し、第二の炉を建設する資材を積んだ貨物列車がエルフルトを出発した。作業は1月20日に始まり、1ヶ月後に終わった。しかし、トップフ社は、焼却棟の換気のための修正された設計図を送っておらず、建設が緊要となったために、シュラヒターはフリードリヒ・ボース社に目を向けた。ボース社はSSの看守区画に中央暖房装置を設置しようとしていた。換気システムのために必要な資材と技術を持っていたので、ボース社はそれを2月23日から3月1日のあいだに建設した。ゲシュタポのSSペリー・ブロードはそれについて、「(焼却棟の)屋根からでている大きなカーブしたパイプ、それは、大きな騒音をカットし、焼却室(と死体安置室)の空気を清浄にするために設計された換気装置、死体安置室の天井には換気扇があった」と記している。われわれが検証した新建設局の青写真は、ブロードの記述を確証している。

 一方、シュルツェは焼却棟のなかの検死室と死体安置室の換気問題に取り組んでいた。これらの部屋は依然として、二つの集合パイプからでたものによって換気されていた。これらのパイプは、天井の隅に入り、排気された煙突の送風機につながっており、1時間に6000㎥の空気を排気した。このシステムは1727マルクであり、シュルツェが行なった修正のためにパイプが短くなったために、最初の装置よりも54マルク安かった。炉のホール(320u)は、4つの開口部を持った垂直のパイプによって個別に換気されていた。それは200番の送風機とつながっており、送風機は75馬力であり、1時間に3000㎥の空気を排気した。これも煙突とつながっており、757マルクであった(図10)。


図10:カール・シュルツェが二番目に設計した1941年2月13日のアウシュヴィッツの焼却棟Tの排気システムの推定構造。排気a:1時間3000㎥、0.75馬力のモーター。排気b:1時間6000㎥、1.5馬力のモーター。D:強制通風、X:(平面から見て)炉の上の吸気パイプ、Y:結合パイプと結び付けられた吸気袖(平面から見て)

 暖かい空気について、シュルツェが必要としていたのは、1時間に10㎥という係数だけであった。トップフ社はこの分離した通風を暖かい空気が死体安置室にはいるのを防ぐためと正当化していた。シュルツェの考え方は簡単であった。まったく新しい計画を提出するかわりに、新しい仕様に対応する第二の案を第一の案に足したのである。前の研究にもとづくというやり方は、のちのビルケナウの焼却棟の換気システムを作成するときにも、ルールとなっている。2月15日、新建設局は、この案を否定し、通風は別個の煙だまりを通過するのではなく、炉から直接に煙だまりのなかにはいるべきであると主張した。

 2月24日、第三案がスケッチされた(図11)。死体安置室の空気排気は変わらないままであり、5つの垂直吸入装置が水平の集合パイプに結びついており、それらは炉の煙突に向かっていた。検死室の換気は、シャッターのような吸気網ととって代わった。4つの開口部を持つパイプが炉の上を走っていた。3つの集合パイプは、炉室の上で合流し、その流れは、550番の送風機に吸い込まれていた。それは3馬力のモーターを持ち、1時間8300㎥の空気を吹き出し、炉から煙突まで空気を入れた。この装置のための資材は1884マルクであり、その組立資材は596マルクであった。この提案は、3月15日にウルバンチュクによって採用され、彼は、トップフ社にできる限り短期間に、それを製造して運んでくるように求めた。会社は、6ヶ月、あるいは8月15日までかかると見積もった。


図11:カール・シュルツェが三番目に設計した1941年2月24日のアウシュヴィッツの焼却棟Tの排気システムの構造。排気:1時間8300㎥、3馬力のモーター。Z:垂直に置かれた、シャッターのような吸気網。

 SS長官ヒムラーは1941年3月1日に初めてアウシュヴィッツを訪問しているが、それは収容所の歴史のなかで分水嶺であった。ヒムラーは、30000名を収容できるまで収容所を拡大し、さらに、近くのビルケナウに100000人を収容できる収容所を建設することを決定した。さらに、彼は、IGファルベンに、メタノールと人造ゴムを生産する工業地帯を建設するために10万の囚人を提供し、収容所地域での農業生産を増大させ、収容所の作業場を発展させることを決定した。ヒムラーはまた、軍需プラントが収容所の近くに設置されるとも述べた。

 10万の捕虜がアウシュヴィッツにコロニーを建設するための労働力として使われることになっていた。町とその周辺部をゲルマン化するための膨大な計画では、アウシュヴィッツはパイロット計画であり、東部地区でのその他の収容所のドイツ人・コロニーの苗床であった。1年半にわたって、ブレスラウからの建築技師がこの町の計画に従事した。ナチスが1943年1月31日にスターリングラートで敗北してやっと彼の仕事は終わった。

 ヒムラーの計画は、アウシュヴィッツの焼却棟での進行中の活動に影響を与えなかった。第二の炉は、適切な通風装置がなかったので、不満足な結果となった。シュラヒターは、トップフ社との交渉に不満足であったので、問題を自分で解決することにした。煙突の高さを20mに増やしたので、通風装置がふたたび必要となったのである。

 もう一つの厄介な問題は、収容所の政治部長SS少尉マキシミリアン・グラブナーが近くで生活していることから生まれた問題であった。グラブナーは、焼却棟のすぐ後ろの建物をゲシュタポの尋問のために、また死体安置室を処刑のために使っていた。二つの炉が稼働しているとき、それは日常的に大量の熱を排出したので、死体安置室から空気を排気するはずである換気システムは、その中に炉室から熱風を送り込んでいた。これを避ける唯一の方法は、死体安置室から換気システムを切り離すことであるが、暑い夏の空気のなかではうまくいかなかった。グラブナーは、建設局にこの「スキャンダル」を申し立て、死体安置室に二つの換気扇、一つは新鮮な空気を入れるもの、もう一つは空気を排気するものを備えること、煙だまりを経過する初期のプランに一致させるように求めた。

 連続的焼却は、グラブナーの不満以上の事態を呼び起こした。それは煙突を詰まらせたのである。すべての焼却は6月23日から28日にかけて停止され、鉄のたがで煙突掃除がなされた。

 エルフルトのトップフ社では、焼却棟の換気システムはほとんど完成しており、マウトハウゼンの注文に関する作業はスムースに進行していた。しかし、8月18日に、マウトハウゼンの新しい建設部長SS中尉ノイマンからの書簡が届き、グーゼンの炉のための注文をキャンセルしてきた。ノイマンはまた、すでに運ばれてきていた耐火資材をのぞいて、すべてのものへの支払いを拒絶した。プリュファーは怒りながらも、事態が別の炉の注文に波及することを恐れて、グーゼンの炉のキャンセルを受け入れた。2週間以内に、プリュファーは、グーゼンの炉をアウシュヴィッツの炉に転用することができた。9月16日、ウルバンチュクは第三の2炉室炉を焼却棟の検死室に設置するように命じ、プリュファーは、これにはグーゼンの炉が適していると考えていた。トップフ社のなかで新しい注文に怒った唯一の人物は、シュルツェであった。彼が焼却棟の換気システムを変更しなくてはならなかったのは、これが三回目だったからである(図12)。


図11:カール・シュルツェが四番目に設計した1941年9月末のアウシュヴィッツの焼却棟Tの最終的排気システムの推定構造。排気:1時間8300㎥、3馬力のモーター。

 9月24日、ノイマンは、もともとのグーゼンの炉が壊れたので、トップフ社と再度契約した。この炉を設置したヴィリングは、グーゼンに戻り、そこで10月11日から11月10日まで働いた。その後、プリュファーはマウトハウゼンとの更新された関係を利用しようとした。彼は、SS予算建設局との関係をうまく利用した。その結果、10月16日、ノイマンはベルリンからの電話を受け、ハイダーという名のSSの副官から、アウシュヴィッツ・タイプの2炉室炉に関して、トップフ社に即時注文するように命じられた。ノイマンはこの命令に礼儀正しくしたがったが、この強制的な契約をサボタージュするためにトップフ社に対する秘密のキャンペーンを始めた。その結果、二つの炉のすべての部品が集められるのには一年以上もかかった。マウトハウゼンはトップフ社の資材の保管を拒絶していたので、これはグーゼンに限ってのことであった。1943年1月、トップフ社が炉の建設の現場監督の来訪時期を質問すると、ノイマンはそのような施設は予定されていないと回答した。

 アウシュヴィッツでは、捕虜収容所建設の準備が始まっていたが、それはヒムラーがビルケナウに建設を命じたものであった。1941年10月1日、SS予算建設局長SS准将ハンス・カムラーがSS大尉カール・ビショフを収容所建設の監督の特別事務局長に任命した。ビショフはその日から仕事に就いた。

 ビショフは1935年から空軍に所属しており、北フランスとベルギーで準士官として勤務し、イギリス攻撃を行なう飛行場を設置した。そのときに、彼はやはり空軍に勤務していたカムラーと知り合った。バトル・オブ・ブリテン後には、ビショフには残された仕事はなく、SSに移ったカムラーはビショフにも同じようにしないかと提案した。彼は、ビショフに将校の階級と、巨大な捕虜収容所の建設長官としての独立した権限を与えた。

 ビショフはこの申し出を受け入れたが、それは、建設局の設計部門の長官として自分の部下を任命する権限について交渉してからのことであった。彼が念頭に置いていたのは、オーストリアの建築家ヴァルター・デヤコであった。彼は、短期間シュラヒターのもとで働き、SS予算建設局に1941年秋に雇われた。カムラーが同意すると、ビショフはアウシュヴィッツを訪問し、仕事を始めた。デヤコは10月24日に続くことになっていたが、ビショフは新しい主任設計技師の到着を待たずに、仕事を始めた。

 ビショフが監督し始めてから1週間以内に、彼の事務所は125000名の囚人の収容所の最初の計画を提出した。それは、3つの区画に分かれた大きな施設を提案していた。1つの区画は囚人の検疫、2つの区画は囚人の居住であった。10月14日に作られた第二の計画は、検疫収容所と残りの区画に鉄道線を導入していた。

 設計を作り上げていくにつれて、ビショフは10万の捕虜を扱う予定である自分の収容所が1万の囚人を予定していた中央収容所の焼却棟に依存することはできないことを悟った。だから、10月11日、彼はトップフ社に電報をうって、プリュファーをアウシュヴィッツに派遣するように要請した。プリュファーは10日後にやってきて、彼とビショフは次の2日間で親密となった。二人は互いのことが好きであった。二人とも第一次大戦のベテラン軍人で、専門的な建築家であり、精力的に激務をこなし、自分たちのキャリアを自分自身で作り上げてきた人物であったからである。

 プリュファーは、ビショフに、3つの焼却炉室を1つの炉にまとめ、必要な数の炉を並列させることで、捕虜収容所に必要な焼却能力を達成できると説得した。1つの比較的コンパクトな建物を使って、大きな焼却能力を生み出すことができるというのである。3炉室炉は、トップフ社の2炉室モデルの自然の発展のようであった。その配置は効率と経済性を結びつけていた(図13)。プリュファーは4炉室モデルをあえて提案しようとはしなかった。


図13:ブッヘンヴァルト(2ユニット)とアウシュヴィッツ(10ユニット)に設置されたトップフ社製3炉室炉の図面。Rk:導管。

 プリュファーは、8000名の囚人に1つの炉室と仮定したので、15の炉室で十分であろうと計算した。3つの炉室を持った5つの炉、それらは共通の煙突で結びつけられていた。プリュファーは、各炉が30分で2体を処理し、それゆえ、施設全体では1時間に60体、あるいは24時間で1440体処理できると計算した。昼夜兼行で操業すれば、理論的には、新しい焼却棟は、3、4ヶ月で計画中の収容所の囚人全員を焼却することができた。

 建物は、ビルケナウではなく、アウシュヴィッツ中央収容所の行政当局の建物の反対側、現存の焼却棟の後ろ側に予定された。プリュファーは、55−66m×12mの焼却棟を計画した。その中央には、大きな炉室があった。それに隣接して、石炭貯蔵庫、解剖のために選別された死体の洗浄・死体安置室、現存の焼却棟の検死室――それは第三の炉と交代される――にかわる検死室が存在した。中央の翼には、ゴミ焼却炉、強制通風を作り出す2つの換気扇、二重の煙突が置かれることになっていた。地下には、2つの大きな死体安置室が置かれるはずであった。1つの死体安置室は「新鮮な」死体を、もう1つの死体安置室は焼却予定の死体を保管した。エレベーターは死体安置室を炉と検死室につなげていた。プリュファーとビショフは、炉のホール、検死室、地下の2つの死体安置室から空気を排気するための換気システムを設計することシュルツェに委託した。現存の焼却棟の配置と一致させて、死体安置室の一つは、新鮮な空気をもたらすシステムを備えるはずであった。

 デヤコはプリュファーが出発しようとしたころに、アウシュヴィッツに到着した。彼の仕事は、技術者のスケッチを設計図とすることであった。彼は二つの設計図を作成した。平面図と立面図であった(図14)。この計画のなかで、彼は、死体安置室の規模を次のように示した。すなわち、「B.Keller(Belufteterkeller、通風室)」を7m×30m、「L.Keller(Leichenkeller、死体安置室)」を8m×60m。ベルリンでSS予算建設局のために働いていた建築技師ヴェルクマンも、この問題に取り組むように求められた。彼の焼却棟は、プリュファーのもともとのスケッチに改良を加えたものであった。それは、立面図ではいっそう記念建築的であり、図面では実際的なものであった(図15、16)。例えば、ヴェルクマンは、地上の入り口から地下の死体安置室への死体の輸送を容易とするために、滑降路を設置した。彼は、死体安置室の長さを固定せず、その両方を「L.Keller」として設計した。あらゆる点で、デヤコのデザインよりも改良されていたので、ヴェルクマンの提案が受け入れられ、カムラーによって署名され、11月20日にアウシュヴィッツに送られた。


図14:SS少尉ヴァルター・デヤコがアウシュヴィッツの焼却棟のために作成した1941年10月24日の図面。地上平面図(下)と立面図。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-146 and 502-1-285.


図15:SS建築家ヴェルクマンがアウシュヴィッツの焼却棟のために作成した1941年11月の図面。地下平面図(下)と立面図。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-146.


図16:SS建築家ヴェルクマンがアウシュヴィッツの焼却棟のために作成した1941年11月の図面。地上平面図(下)と立面図。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-146 and 502-2-146.

 一方、エルフルトでは、トップフ社が、新しい焼却棟のための炉の設計に従事していた。3炉室炉の炉室全体のサイズは、2炉室炉のそれよりも大きかったので、会社は、強制通風用の換気扇の数を2から3に増やすことを決定した。さらに、全体の排気能力を1時間あたり20000㎥から120000㎥にまで増やすことを決定した。会社のオーナー兄弟の一人エルンスト・ヴォルフガング・トップフは、「設置される設備は適切であり、うまく設計されている」と保証した。

 コスト見積もりは、アウシュヴィッツは安上がりとなることを示唆していた。各3炉室の炉は、せいぜい6378マルク(1992年で25400ドル)、ゴミ焼却のための炉は、わずか4474マルク(1992年で18000ドル)であった。全体としての計画は(52237マルク1992年で205000ドル)となった。この価格には煙だまりにつながる地下の煙ダクトの建設が含まれていたが、3つのダクトに共通の煙だまりは含まれていなかった。さらに、換気システムのコストも含まれておらず、それはさらに 7795マルク(1992年で31000ドル)必要であった。

 シュルツェは、各部屋の1時間当たりの換気能力を 10㎥と見積もっていた。ために、彼は、排気・吸入を行う483㎥のB.Kellerのために、2つの2馬力の通風機を持った二重のシステムを作動させることを提案した。これは、1時間に 4800㎥の新鮮な空気を部屋の中に入れ、4000㎥の空気を部屋から出すことができた。B.Kellerの2倍のサイズであったL.Kellerは、排気だけが行われ、1時間に10000㎥の空気を排気する5.5馬力の通風機を持った換気システムを備えることになっていた。同じようなシステムは、L.Kellerとほぼ同じ大きさである炉室にも設置されるはずであった。解剖室は全体で 300uであり、1時間に3000㎥の空気を排気することのできるシステムが備えられるはずであった。このころ、会社の2人のオーナーのうち年長のルードヴィヒ・トップフが、建設部隊での一般の兵士として祖国に奉仕するために招集された。会社のメンバーはこれに腹を立てていた。独身のルードヴィヒは、攻撃的でタフな弟よりも扱い安かったからであった(弟は結婚しており、それゆえ兵役を免除されていた)。プリュファーは、できるならば、ルードヴィヒの兵役免除を獲得するためにビショフの助けを求めた。彼は、ルードヴィヒが3炉室の炉の建築に指導的な役割を果たしており、新しい焼却棟は彼の監督なしでは完成されることができないと偽って、兵役の免除の要請を正当化した。ビショフはこれに成功し、ルードヴィヒは除隊した。エルフルトに戻ると、彼は、自分の軍事的な義務すべてから引き上げることに成功した。しかし彼はビショフに借りを作ってしまった。

 プリュファーの焼却の「魔術師」としての名声は、SS予算建設局内で、ますます高まっていった。1941年11月中旬、SS予算建設局部の作業部長であるSS少佐ヴィルツが、プリュファーをベルリンに招いた。会話のテーマは、ロシアのモギリョーフに「焼却棟」を設置することであった。プリュファーは、炉室の数を炉ごとに3つから4つに増やすことが技術的に可能であるとの結論に達していた。そして彼は、4つの炉室を持った二重の炉(図17)が基本要素として適切であるとヴィルツに提案した。二つの要素は、8つの炉室を持った1つのユニットを提供するはずであった。



G:放出機

M:炉室

S:煙だまり

図17:トップフ社製4炉室炉の図面

 アウシュヴィッツの炉と比較すると、モギリョーフの炉は単純であった。それは木材を燃料としていたので、バーナー発生器を閉じるドアも内部の熱絶縁材も持っていなかった。それはまた安かった。8つの炉室を持った1つのユニットは、わずか13800マルク(1992年で 55200ドル)、すなわち、1つの炉室あたり1725マルク(アウシュヴィッツに設置されていた3炉室の炉室あたり2126マルクおよび2炉室の炉室あたり5000マルクとの比較)。SS予算建設局は32の炉室を持つ4つのユニットを建設しようとしており、12月4日にトップフ社と合意に達した。全体の仕事は55200マルク(1992年で 220000ドル)であった。

 いつもの通りSSは急いでおり、ヴィルツは、プリュファーに、契約調印後1週間以内にモギリョーフに出発してほしいと求めた。彼は現場を視察し、炉のための耐火資材の輸送に同行するはずであった。12月19日、トップフ社は、契約の半額の支払い、すなわち27600マルクの支払いを要求した(それは1942年5月に支払われた)。12月30日、4つの炉室を持った1つのユニットがモギリョーフに運ばれた。しかし、さらに15000マルクがトップフ社に支払われたにもかかわらず、モギリョーフではそれ以上何も起こらなかった 。

 モギリョーフの契約が進んでいたころ、トップフ社はアウシュヴィッツの焼却棟Tに第三の炉を設置することについて面倒を見なくてはならなかった。11月20日、マールという名の監督官が炉の土台を設置し始めた。彼は3週間働いたが、続けることはできなかった。なぜならば、ザクセンのコルディツのコルメナー・シャモッテンヴェルケ社が煉瓦をトップフ社に送っていなかったからであった。マールはエルフルトに戻った。

 マールが出発した直後、チクロンBを使った最初のガス処刑が、アウシュヴィッツのブロック11の地下室で実行された。シアン化水素の丸薬であるチクロンBは、フランクフルトのデゲシュ社によって作られ、ハンブルクのテシュ・シュタベノフ社によって供給されていた。それは4つのサイズ(200g、500g、1kg、1.5kg)の金属製の缶によって利用できた。チクロンBは不活性の多穴性の媒体であり、無防備な使用者に無臭性のガスの存在を警告するために、刺激剤を含んでいた。大半の条件の下では、この殺虫剤は危険ではなかった。シアン化水素は27℃で気化するにすぎなかったからであった。チクロンBがアウシュヴィッツに最初に導入されたのは1940年7月であった。その時には、以前のポーランド軍の兵営を燻蒸消毒するために使われた。その兵営には収容所のSSの看守たちが住むはずであった。チクロンBは1940年から1941年には燻蒸消毒に使われていた 。

 1941年12月、チクロンBは初めて殺虫ではなく強制収容所の治療不能の250名の囚人と600名のソ連軍捕虜を殺すために使われた(注62 私は、最初のガス処刑が1941年9月に行われたというダヌータ・チェクの説を否定する。ヤン・ゼーンは、ソ連軍捕虜の最初のガス処刑は、1941年11月にゲシュタポのチームが1ヶ月間訪問したのちに起こったと述べているからである。ゼーンの説の方が信頼できそうである。ブロック11の地下室に入る前には、2日間の換気が必要であったと述べているからである。Danuta Czech, Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau 1939-1945 (Reinbek bei Hamburg, 1989), 117 and 119; Jan Sehn, Concentration Camp Oswiecim-Brzezinka (Warsaw, 1957), p. 105.)。ヘス(当時そこを離れていた)によると、即死であった。2日後も生き続けた犠牲者もおり、第2回の毒の投与が必要であったと主張している者もいる。殺人者たちは実験を行なっていた。彼らは、まだ、どのくらいの量のチクロンBが致死性であるのか、どのぐらいの人々に対して致死性であるのか知らなかったし、シアン化水素が27℃でやっと気化することも十分に知ってはいなかった。ブロック11の地下は暖められていなかった。850名の犠牲者を焼却するという作業も予想されていなかった問題であった。第二の炉を作る突貫作業が必要となった。

 実験が終了すると、ブロック11の地下室は、換気設備を備えていないので、ガス室としては理想的ではないことが明らかとなった。また、ブロック11と焼却棟との間は非常に離れていた。殺人者たちは、収容所のメインストリートを使って850名の死体を運ぶことを嫌っていた。焼却棟の死体安置室が、もっと効率的なガス室として推奨された。そこは、毒ガスを排気することのできる機械的換気システムを備えており、1階の構造になっているので、屋根に作られた3つの穴からチクロンBを投入することが容易であった。

 焼却棟Tの死体安置室のなかの新しいガス室は、1942年1月から5月までに断続的にうまく作動した。5月には、第三の炉を建設するために閉じなくてはならなかった。そのときまで、この焼却棟はガス処刑に必要な「隠匿性」を確保しえないことが明らかとなった。トップフ社の人間が、新しい炉の建設に着手した直後、ガス処刑をビルケナウに移すことが決定された。

 1941−42年、ビルケナウは次第に中央収容所に統合されていった。12月1日、中央収容所の建設局とビショフの捕虜収容所特別建設局がビショフを長とする新しい組織、上部シレジア、アウシュヴィッツ、武装SS・警察中央建設局に合同した。1942年1月中旬から2月初頭の間、建設局は、前年11月のヴェルクマンの設計にもとづいて、新しい捕虜収容所焼却棟のための8つの青写真を作成した。デヤコは、ヴェルクマンの設計に細かな修正を加え、煙突を再配置し、焼却作業のための第三の部屋を地下に付け加えた。死体安置室3とされたこの部屋は、死体を登録のために受け入れることになっていた。中央収容所の焼却棟の配置は、変わらないままであった。

 1942年1月末、プリュファーは、アウシュヴィッツに戻り、焼却棟Tのための第三の炉の建設を計画し、新しい焼却棟に加えて、ビルケナウに補助焼却施設を建設する可能性を討議した。それは、ビショフの希望にこたえてのことであったろう。プリュファーは、強制送風機を持たず、構造的に鉄の使用量が少なくてすむ、2つの3炉室炉を備えた焼却棟を提案した。炉は共通の煙突の周辺に置かれたので、コストは14652マルク(1992年では58600ドル)であった(図18、19)。



S:(地下導管の)調節器

A:分離バルブ

R:導管

L:死体

m:炉室

G:発生器

S:シャフトカバー


図18:アウシュヴィッツの焼却棟の焼却システム用のトップフ社製のむき出しの3炉室炉の図面


図19:2つの単純化された3炉室炉を備えた、ビルケナウの補助焼却棟の配置図。

 しかし、SS経済管理中央局(SS予算建設局の強力な後継者)の建設局長となったカムラーは、2月27日に訪問すると、この計画を破棄した。彼は、ビルケナウに新しい焼却棟を建設する方が重要であると提案した。トップフ社は心穏やかではなかった。しかし、SSが、破棄された計画の研究に社が投資した1769.26マルク(1992年では7500ドル)に配慮してくれるのかと要求することを差し控えていた。支払いは行われたが、お金を受け取ったことを後悔するような事態がやって来た。

 3月中旬、ビショフはシュルツェから新しい計算を受け取った。オリジナルの数値を検討したのち、ビショフはビルケナウに建設予定の新しい焼却棟の換気システムの全体の能力を1時間32600㎥から45000㎥に増やすことを決定した。これによってもっとも影響を受けた部屋は、1時間4800㎥から8000㎥、すなわち66%の増加となるB.Kellerであった。ビショフは4月2日にシュルツェの新しい提案を採用した。彼は、トップフ社に会社の青写真での設計を収容所で作成されたものにあわせるように求めた。これは、B.KellerがL.Keller1に、L.KellerがL.Keller2となることを意味した。トップフ社の設計は修正され、5月8日にアウシュヴィッツに戻された。

 4月30日、貨車がエルフルトからアウシュヴィッツに到着したが、それには、11トンの資材が積まれており、そこには新しいビルケナウの焼却棟に建設される5つの3炉室炉のための金属資材の3分の2,強制送風機のすべて、焼却棟Tの第三の2炉室炉に必要な鉄材、すべての空調装置が含まれていた。貨車の中身の大半が保管された。第三の2炉室炉のための鉄材だけが、すぐ使われた。

 同時に、プリュファーは2つの3炉室の第一の炉のブッヘンヴァルトでの建設も監督していた。彼は、早期に完成させることによってビルケナウに5つの同じような炉を建設する前に具体的なデータが入手できると期待していた。5月末、炉は強制送風機をのぞいて完成した。5月29日、トップフ社はビショフに、3炉室炉と3馬力のモーターのために保管されている送風機の一つをブッヘンヴァルトのために貸してくれるように求めた。アウシュヴィッツがこれでうまくやっていけるのか、トップフ社は欠落した部品を再び作らなくてはならなかったのかどうか、これについてはわからない。何が起こったとしても、最初のブッヘンヴァルトの炉が稼動したのは、8月23日、第二の炉が稼動し始めたのは10月3日であった。プリュファーは、稼動ののちに、アウシュヴィッツのもともとの見積もりを修正した。プリュファーは、ビルケナウの新しい焼却棟の5つの炉が焼却できるのは、24時間で800体であると結論した。これは、前年の1440というオリジナルな数字よりもはるかに低かった。

 5月、ヘスは、ビルケナウの灌木の端にある小さな小屋(「赤い小屋」)を新しいガス室に選んだ。それは修理中の最初の焼却棟の死体安置室に取って代わるものだった。60−80uのこの家は、2室から構成されており、その中に500名が押し込まれた。ドアは密閉されており、窓は覆われており、小さな開口部がチクロンBの投入のために開けられていた。2つの部屋からガスを排気するための機械的換気設備は設置されていなかった。処刑は夕方行われるはずであった。そして、すべての囚人が死んだのちに、ドアが開けられ、一晩中開けられたままであった。夜明けになって、死体を安全に運び出し、灌木のなかの埋葬地に運ぶことが可能となった。ブンカー1として知られるようになるこの設備は、その月に稼働し始めた(1942年5月)。

 その間、中央収容所の焼却棟は、修復・修繕された。5月30日、すべての準備が整ったかのようであったが、3つの炉が稼働し始めると、うまくいかなかった。煙突のたがが壊れ、深い亀裂が石造部分に現れ、政治部のメンバーは、煙突が自分たちの事務所を破壊することをおそれ始めた。ビショフは調査を命令し、報告にもとづいて、カムラーが完全なオーバーホールを認めた。

 地元の専門家、ミスロヴィツからのロベルト・ケーラー技師は、25−30mの新しい煙突を推薦した。グラブナーは怒って、煙突は10mを超えてはならないと要求した。ケーラーは、10mの煙突を地下の20mの導管と結びつけ、「仮装の」30mの煙突を作ることによってグラブナーの要求を満足させることができると考えた。しかし、これを行なうスペースがなかった。ビショフはトップフ社に代案を求めた。会社は15mで十分であると答えた。ケーラーは12mの導管をトップフ社の煙突と結びつけ、27mを達成した。作業は6月12日に始まった。

 このときまで、アウシュヴィッツはユダヤ人を殺害するにあたってはまったく周辺的な役割しか果たしていなかった。中央建設局の文書館の資料の証拠は、収容所を虐殺目的で使い始めたのは、やっと1942年6月からのことであったことを示している。この結論は、ヒムラーがヘスにビルケナウは1941年夏に殺人センターとなると述べたという1946年のヘスの陳述と矛盾している。われわれが研究した証拠は、ヘスが1941年と1942年を混同したことを示している。ヒムラーは、1942年6月初頭に、収容所の将来の使用に関して伝えるために、ヘスをベルリンに召喚したに違いない。アウシュヴィッツを選択した一つの条件は、1941年か1942年に適用された。すなわち、収容所のすばらしい鉄道関係である。しかし、もう一つの重要な要因が1941年末に登場した。一日に1440名(あるいは800名にすぎなかった)焼却する能力を持った特別な焼却棟の存在である。ヒムラーがアウシュヴィッツに関心を寄せたのは、この二つの条件の結びつきであった。

 大量殺人は7月1日に始まった。問題が生じた。焼却棟がまだ計画中であったからである。5月17日から、100名の囚人部隊が、建物の基礎を掘り起こしていたにすぎなかった。さらに、ブンカー1は、ガスを排気する機械的な換気設備を持っていなかったので、継続的なガス処刑には使用できなかった。さらに、収容所は資材不足であった。しかし、これらの事情はヒムラーにとっては屁理屈であった。彼は、ヘスが解決策を見つけると確信していた。

 ブンカー1からさほど離れていないところに、白壁のもう一つの農家があった。105uで、「赤い小屋」よりもわずかに大きかった。ヘスは、そこをブンカー1とおなじようにガス室に改造することにした。そこには800名を収容することができた。

 ビショフは、換気についての助言を求められた。彼は、チクロンBの製造者であるデゲシュ社の社長ペテルス博士の論文を思い出した。それは、たがいに並んだ10㎥の8つの小さなガス室を持つチクロンBを使った殺菌駆除システムを記述していた。各室は、二つのガス気密ドア(金属製か木製)を持っており、一つは物品を汚れサイドに、もう一つはそれを清潔サイドに移すものであった。それは暖房のための放熱器、内部空気循環装置を持っていた。それは、最初に、殺菌駆除される物品に媒体を規則的に伝え、次に、60−90分の措置が終わると、効果的な排気を行なった。ペテルス論文は、1941年12月に、デヤコがアウシュヴィッツの将来の囚人受け入れ窓口に19の同様なガス室(2列)をもった殺菌駆除施設の設置を提案したときに、彼の発想の源となっていた。デゲシュ社は、殺菌駆除室は各50㎥でなければならないと提案していた。

 小さな農家の両側にドアを持った平行に配置された部屋を設置することは簡単であった。しかし、循環通風を提供する放熱器は問題を生みだした。このシステムはボース社によって設置されねばならず、輸送するためには、長い遅延を覚悟しなくてはならなかったからである 。放熱器は放棄され、50㎥の4つの並列のガス室を設置するという修正だけがなされた。ガス室は風上に向けられていたので(ビルケナウでは北−南)、自然の換気で十分であると考えられた。毒ガスを投入する方法は、ブンカー1と同様であった。各室あたりチクロンBの一つか二つの500g包みを使うと、ほぼ即死であった。「白い小屋」すなわちブンカー2は1942年末頃稼働した。

 アウシュヴィッツでは大量死をもたらすにあたって、自然と人間が競争していた。SSの医師は5月に、未処置の水に起因する腸チフスの蔓延に直面した。6月末、SS将校、収容所の17の民間会社の社員は収容所の水を飲むことを禁止された。ミネラルウォーターが無料で提供された。発疹チフスの勃発が事態をさらに悪くした。収容所の医師は驚いた。彼らは、防疫措置(検疫、毛髪の切断)と衛生措置(毛髪の消毒、シャワー)が、疫病の媒体者であるシラミを除去することで、収容所への疫病の侵入を防止すると考えた。

 困難は、殺菌駆除処置の対象とはなっていない自由労働者、民間労働者から生じた。彼らは毎日囚人と接触していたからである。1942年中旬、アウシュヴィッツ地区(強制収容所群と居住区)の新しい配置が、1000名の民間労働者を雇用する民間企業にもたらされた。彼らは許可を受けた環境のなかで居住した。作業現場のスタッフやボスたちはアウシュヴィッツの町から徴発した家やアパートに居住したが、労働者の大半は、収容所に隣接した木造のバラックに居住した。7月1日、最初のチフスの発病が労働者バラックで起こり、続く2日間のあいだに、新たに3例が起こった。

 囚人の死亡率が上昇した。1940年5月から12月までに、毎月220名が死んだ。1941年1月から7月までに、この数は三倍となった。1941年8月から12月までに、それは1000名に達した。1942年までに、それは4000名を越えた。不衛生状態はどうしようもない状態となった。周辺地域にチフスが拡大することを防止しなくてはならなかった。7月10日、部分的な隔離が宣言された。

 しかし、たとえ収容所の出口が封鎖されたとしても、入り口は開放されていた。ユダヤ人を積んだ貨車が到着し始めていた。7月4日、囚人の最初の選別が、スロヴァキア系ユダヤ人に適用され、労働に不適格と判断された人々は、即座にガス処刑された。1週間のあいだに、この手順は日常的となった。

 一方、収容所で歓迎を受けた人物はヒムラーとカムラーであり、彼らは7月17日に収容所にやってきて、再定住とIGファルベン群の進行を巡察した。ビショフは、自分の上司に、設計図、青写真、縮小モデルを使って説明した。その後、収容所の様々な農業・工業作業の見学が続いた。午後、ヒムラーはオランダ系ユダヤ人の選別と不適格者がブンカー2でガス処刑されるのを見学した。その後、彼は、モノヴィツのIGファルベン者の作業現場に向かった。大レセプションが日没まで続いた。

 翌日、ヒムラーは、中央収容所を視察した。彼は建設中の3つのトップフ社製2炉室炉と焼却棟の新しい煙突を見学した。その他いくつかの見学ののちに、ヒムラーはヘスに、作業を促進し、収容所の収容能力を100000から200000に増やし、ブンカーの後ろにあった死体の詰まった壕を除去するように命令した。ヘスは昇進し、SS大佐となった。ヒムラーが戻ってくることはなかった。

 ヘスは収容所の不衛生な状態をヒムラーから隠すことに成功したが、チフスは蔓延していた。ヒムラーが出発してから1週間のうちに、状況は破局的となった。7月23日、収容所は完全な隔離状態に置かれた。あらゆるものが即座に殺菌駆除されなくてはならなかった。個人の所有物、バラック、建物、作業場。数トンのチクロンBが収容所の救済に必要であった。大量のチクロンBを入手する唯一の方法は、経済管理局の手を借りることであった。ヒムラーをだましたことを認めたくなかったので、アウシュヴィッツのSSは疫病が流行し始めたのは、ヒムラーが去ってからのことであったと説明した。7月22日、ベルリンは2トン半のチクロンBを積んだトラックの出発を許可した。1週間後、第二のトラックが出発した。しかし、これでも不足であった。

 8月20日頃、疫病はまだ猖獗をきわめていたが、チクロンBの蓄えは消えていた。アウシュヴィッツ当局は、状況をコントロールすることができないことを意味してしまうので、これ以上多くのシアン化水素を注文することをためらっていた。そのとき、誰かが、ユダヤ人のガス処刑に言及することによってチクロンBの購入を正当化するというアイディアを思いついた。経済管理局の高官は、ユダヤ人が殺虫剤によって殺されていることを知っていたが、どれほどの毒が必要であるのかは知らなかった。事実は、1000名の移送者を殺すには、わずか4kgのシアン化水素が必要なだけであった。ガス室で作業に必要な量の3000%も水増しすることによって、SSはそこから95%を殺菌駆除用に汲み上げたのである。トリックはうまくいった。8月26日と9月14日、ビルケナウでの不適格者の清算を意味する「特別措置」「特別行動」のために、大量のチクロンBを購入することが許可された。

 これらのことすべては、収容所にはまだまったく焼却棟が存在しないときに起こった。第三の炉の設置と新しい煙突の建設のために、焼却棟は3ヶ月間使うことができず、とくに、その処理能力の停止は、チフスによる死亡者が倍増したときに明らかとなった。(ヘスは、この停止を1941年から42年にかけての冬としている。) それゆえ、焼却しなくてはならない10000の死体が、ガス処刑された労働不適格なユダヤ人の死体とともに、ビルケナウの灌木の壕のなかに埋められていた。8月8日に、新しい煙突が完成したのち、3炉室炉は最大の処理能力(1日に200−250体)で稼動した。これは、8月13日に煙突に損傷を与えた。明らかに、最初の焼却棟は耐用年数を失ってきたのである。

 多くのユダヤ人が到着するとすぐに殺害されたので、2ヶ月前にも、新しい焼却棟の完成はもっとも緊急の課題であった。6月18日、5トンの資材を積んだ貨車がエルフルトを出発した。5つの3炉室炉の失われた部品、ゴミの焼却炉、強制通風のための3つの新しい送風機の資材であった。1.5馬力のモーターが8月6日に続いた。

 7月初頭、中央建設局は、ビルケナウの建設に関与していた二つの会社、すなわちフタ社とレンツ社を焼却棟の骨組みの建設の入札に招いた。レンツ社は人材の不足を理由にこれを拒否した。7月13日、フタ社は133756.65マルク(1992年では535000ドル)で建物の建設を請け負うという提案を受け入れた。会社は8月10日の月曜日に作業を開始することに同意した。

 アウシュヴィッツ建設局は、経済管理局と3ヶ月後に作成した報告のなかで、「特別行動」によってもたらされた状況によって、新しい焼却棟をすぐに建設する必要があると示唆した。この陳述は、アウシュヴィッツがユダヤ人の絶滅の場所として最終的に選択され、新しい焼却棟が本質的な役割を果たすことを正式に表明したものであった。この焼却棟は、もともとは捕虜収容所のための通常の衛生設備として計画されたものであったが、プリュファーの商業的な確信、職業的な情熱、創造的天才、ビショフとの友好関係のおかげで、新しい重要性を獲得した。

 ゆっくりとではあるが、経済管理局のメンバーは、「ユダヤ人問題の最終解決」を新しい焼却棟の処理能力と結びつけ始めた。ビショフはビルケナウに第二の焼却棟の建設を考え始めた。ヒムラーは、収容所は200000人を収容すべきであると命令しており、中央建設局は7月末には拡大された収容所の設計を完了した。人口の増加は、さらなる焼却棟の建設を意味した。ビショフは建築学的なバランスを取るために、二つの建物を、たがいに対称形に建設することを決定した(図20)。焼却炉室の数は、30に増加され、6670名に一つとなった。しかし、輸送列車が次々と到着したのでこれだけでは十分ではなかったであろう。


図20:ヒムラーは1942年に収容所の収容人員を20万人にまで拡大せよとの命令を出したが、それにこたえて作成されたビルケナウの計画図。Archives of the Auschwitz-Birkenau State Museum,file BW 2/10.

 プリュファーはストックを受け取りに、8月18日にアウシュヴィッツにやってきた。一日後、収容所当局は、2つの焼却棟の建設を認めた。一つは建設中のもの(もともとは捕虜収容所のためのもの)、もう一つは収容所の拡張に対応して計画されたものであった。プリュファーは新しい契約で80000マルク(1992年で320000ドル)を獲得した。

 予備的な研究がプリュファーの道を切り開いていた。ビショフは15の炉室を持った第二の焼却棟を第一のものと並んで建設することを決定していた。彼はまた、ヒムラーの命令によって、埋めるのではなく焼かなくてはならないとされた「製品」を収容するためにブンカー1と2に並ぶ焼却棟も考えていた。多くの焼却棟が考えられていたので、ビショフは新しい名称を考え出した。アウシュヴィッツの既存の焼却棟は焼却棟Tと呼ばれた。焼却棟UからXまではビルケナウに建設されるはずであった。焼却棟UとVは5つの3炉室炉を備え、焼却棟WとXは2つのむき出しの3炉室炉を備えるはずであった。焼却棟Wはブンカー2の隣に、焼却棟Xはブンカー1の隣に建設されるはずであった。(建設計画にもとづく別の設計図では、焼却棟UはBW(Bauwerk)30と、焼却棟VはBW30aと、焼却棟WはBW30b、焼却棟XはBW30cとなっている。)

 プリュファーは、焼却棟WとXの技術的側面を考えていた。プリュファーは、前年に最初のビルケナウの焼却棟にむき出しの3炉室炉を提案していたが、それはその後進展していなかった。すぐさま解決する必要に迫られていたので、プリュファーは4炉室を持ったモギリョーフの2重炉を提案した。その製品はすでに生産過程にあったので、エルフルトの工場はすぐにそれを製造できたからである。ビショフはプリュファーの考えを受け入れて、8月14日に青写真を書かせた 。それは、2つの煙突を持った2重炉の簡単なレイアウトであった。死体安置室の配置図は不完全なままであった(図21)。


図21:ビルケナウの焼却棟Wのための、4炉室2重炉を持つ焼却システムの図面。W.C.:便所、Sas:せき止めと倉庫

 8月19日朝、プリュファーは資材が保管されているアウシュヴィッツ駅の倉庫に出かけ、5つの3炉室炉のすべての部品の資材が到着しており、良い条件のもとで保管されているかを調べた。彼は、エルフルトから4月14日に送られてきた11トンの資材のうち、金属資材の大半がマウトハウゼンの第二の2炉室炉のためのものであることを発見した。それらは、SS中尉ノイマンの戦略によってエルフルトの倉庫に残っていた。プリュファーはこの間違いを利用することに決めた。

 昼食後、プリュファーは、SS少尉フリッツ・エルトルが議長を務める(ビショフはベルリンに召喚されていた)建設局の会議で、煙突の専門家ロベルト・ケーラーと会談した。彼らは、ブッヘンヴァルトで最初の3炉室炉に取りかかったばかりであったマルチン・ホリクが到着したのちすぐに、焼却棟Uの5つの炉の建設を始めることを決定した。ケーラーは炉を並べ、地下の導管と3つのダクトを持った共通の煙突を建設することになった。

 プリュファーは、モギリョーフへの輸送準備が完了していた4炉室二重炉を焼却棟WとXに設置することを提案した。彼は、SS経済管理局が、情報を知らされており、ロシア建設局と資材の移送について交渉していることを知った。ケーラーは4つの煙突に責任を負っていた。安全な側にたつために、中央建設局はケーラーに、むき出しの3炉室炉を持った改良された焼却棟の見積もりを出すように求めた。ビショフはモギリョーフの計画の採用に依然として疑問を抱いていた。とくに、4つの焼却棟の同時建設のために必要な4人の現場監督を即座に用意できなかったためであった。

 焼却棟WとXが大量殺人に関与していることは、会議の参加者全員に自明のことであった。エルトルは、この会議での報告中で、ビルケナウの森のブンカー1と2を「特別行動のための浴場施設」と呼んでいる(図22)。ケーラーは彼の会社をこれらの「特別作業」に関与させた会議で個人的な責任を負っていた。プリュファーはこのような仕事を自分の会社にさせる全権を持っていなかった。だから、彼は独自に行動した。しかし、彼は、自分の上司ルードヴィヒ・トップフがSSのおかげで兵役免除になったので、自分を支持してくれると確信していた。


図22:1943年6月2日のアウシュヴィッツ・ビルケナウ地区の地図。立ち入り禁止地区(Sperrgabiet)が掲載されている。そこでは、ブンカー1と2(「赤い小屋」、「白い小屋」)とよばれた殺人室があった。Central State Special Archives, Moscow, files 502-1-88.

 最終議題は、焼却棟Uの対称型である焼却棟Vであった(図20)。それは最後に建設されることになっていた。作業の開始は、必要な鉄材を確保するための国家保安中央本部との交渉にまったく依存していたからである。ここで、プリュファーは自分が、今朝気づいた間違った資材搬送の存在を指摘し、事態の緊急性を考慮すれば、アウシュヴィッツにマウトハウゼンの2炉室炉を即座に建設すべきであると提案した。

 翌日、SS軍曹ヨーゼフ・ヤニシュは、プリュファーとケーラーを伴って、ビルケナウに行き、彼らに焼却棟Uの作業現場をみせた。エルフルトに戻る前に、プリュファーは焼却棟WとXのための単純化された4つの3炉室炉あるいはモギリョーフ炉の手書きの確認書か注文書を要求した。エルトルは経済管理局(ビショフはまだ到着していなかったので彼ではない)と相談したのちに、8月24日に事態を収めた。ビショフがベルリンから戻ってきたとき、彼はエルトルが勝手に行動したことで彼を責めた。彼がとくに怒ったのは、マウトハウゼンの炉をエルフルトに返送したエルトルの決定であった。

 アウシュヴィッツ中央建設局は、数千の囚人を利用できたにもかかわらず、自前でビルケナウの焼却棟の建設を進めることはできなかった。そのメンバーはかなり単純な労働現場を運営することができた一方で(木造のバラックあるいは居住家の建設)、彼らはもっと技術的な計画に対しては外からの援助を必要としていた。特別な会社の民間技師による研究と当該の会社が派遣した何人かの現場作業員によって実行された実際の建設のためにも、外部からの援助が不可欠であった。ビショフは関係をうまく調整するために、各計画に特別指導者を割り当てた。特別指導者は民間会社と交渉し、作業の進行を監督し、仕事が順調に終わるかどうかを監視した。

 11の民間会社がビルケナウの新しい焼却棟の建設に関与した。トップフ社は炉を建設し、換気システムを設置するはずであった。ミスロヴィツのケーラー社は煙突を建設するはずであった。カトヴィツェのフタ社は、焼却棟Uの外壁作業にすでに取り組んでいたが、焼却棟Vのすべてを建設することに合意する前に、焼却棟Wと焼却棟Xの建設に着手し始めていた。フタ社の下請け会社の一つブレスラウのヴェダグ社は、焼却棟Uと焼却棟Vの地下室の防水を行なった。ベルリンの大陸水工事会社によって始められていた焼却棟Uの下水は、グライヴィツのカール・ファルク社、カトヴィツェのトリトン社によって続けられた。後者はのちに焼却棟V、焼却棟W、焼却棟Xの下水もあつかった。ボイテンのコンラート・ゼグニッツ社は、4つの建物の屋根を設計し、部品を製造したが、実際に設置したのはインダストリエ・バウA.Gであった。ビエリツのリーデル・ウント・ゼーネ社は、すでに終了していた焼却棟Wと焼却棟Xの外壁の建設にあたってフタ社と交代した。グライニツのクルーゲ社は、焼却棟Wと焼却棟Xの炉の建設にあたってトップフ社を支援した。各作業現場は100−150名の人員を雇い、うち、3分の2は囚人で、3分の1が民間人であり、全員が各社からの現場監督に指示されていた。

 フタ社は、8月末には、焼却棟Uの二つの死体安置室の床と壁を終了した。しかし、それらは防水のためにアスファルト処置をされなくてはならなかった。フタ社はヴェダグ社にこれを依頼した。ヴェダグ社はこれを受け入れたが、アスファルトは配給制であり、社はそれを十分にストックしていなかったので、必要量から割り当てを除去することを求めなくてはならなかった。ヴェダグ社は通常の手順にしたがって申し込んだが、それは、長く待たねばならないか、最悪の場合には拒否されることを意味した。申し込みが長引くのを避けるために、ビショフは経済管理局に手を回した。その結果、希望通りのアスファルトが10月末に発送されたので、焼却棟Uと焼却棟Vの死体安置室に対して、地下水が冬に上昇する直前に防水処理が行なわれた。

 トップフ社がこの秋に直面した一つの問題は、モギリョーフのために設計されていた、石炭よりも木材を使った二重4炉室炉を改造することであった。さらに、内部絶縁と放熱機を閉めるドアが必要であった。これらの部品にはさらに3258マルクかかった。9月8日、二つの完全な8炉室炉の建設資材(鉄材と耐火煉瓦)12トンが鉄道でエルフルトを出発した。それは、9月16日にアウシュヴィッツに到着した。資材はトップフ社の二人の現場監督マルチン・ホリックとヴィルヘルム・コッホによって検査・署名された。彼らは焼却棟Uの5つの炉の土台に着手したばかりであった。

 注目すべきは、ビショフもプリュファーも炉の価格の問題についてまだ切り出していなかったことである。10月末、建設局は最終的に、価格を問い合わせた。トップフ社は8炉室炉が13800マルクであると返信した。最終的な見積もりは、アウシュヴィッツのSSが所有するドイツ装備工場の金属作業所がいくつかの仕事を担当することを考慮して、12972マルクに減った。

 9月23日の朝、経済管理局長ポールが突然アウシュヴィッツに姿を見せ、チクロンBのすべてがどこへ行ったのか調査した。ポールは最初に中央建設局に行き、収容所の全体図を説明させ、完成した建物、建設中のもの(ビルケナウの4つの焼却棟を含む)、まだ設計中のものの見取り図を入手した。彼がチクロンBについて尋ねたとき、彼は、それはシラミとユダヤ人の同時破壊のためのものであるとの説明を受けた。ポールはこの話題についてこれ以上質問しなかった。腸チフスとマラリアを防止するために、彼は浄化プラントの建設の促進を推奨した。

 しかし、中央建設局の当座の関心は少々異なった性質のものであった。9月25日、ビショフは焼却棟Vのための焼却装置をトップフ社に注文した。それは、ゴミ処理装置を持っていない点をのぞくと、焼却棟Uと同一であった。焼却棟Vを最後に建設するという8月末の合意にもかかわらず、ビショフは、それは焼却棟Xよりも急ぐべきであるという結論に達した。

 シレジアの冬の到来によって、ブンカー1と2を使うことはますます困難となった。戸外の気温は下がり続け、シアン化水素はうまい具合に気化しなくなっていた。1942年10月末、中央建設局はガス処刑をブンカー1と2から焼却棟の部屋に移すことを考え始めた。そのためには、トップフ社に換気システムの青写真を送ってもらうことが是非必要であった。1週間以内に、焼却棟U、焼却棟Vの送風換気システムを設置する青写真と、焼却棟Tの換気システム――4月に到着していたが、設置されていなかった――の最終青写真を受け取った。

 焼却棟Uの死体安置室をガス室に改造することが決定された。そのような決定を示唆しているのは「リーク」である。すなわち、資料(書簡、青写真、写真)における焼却棟の通常ではない使用についての言及であり、それは人間の大量殺害以外では説明することができない。それは、11月27日に起こった。そのとき、ビショフの助手の一人ヴォルターがトップフ社に、焼却棟Uの死体安置室に換気システムを設置するための金属工の親方を求めた。彼の同僚ヤニッシュは正式の現場監督であったが、この要請を拒否した。ヴォルターはビショフにメモを送り、何が起こったのかを明らかにした。このノートのなかで、彼は焼却棟Uの死体室を「特別地下室」(Sonderkeller)と呼んでいる。リークはこれだけではない。ビルケナウの完成のために必要な120の資材項目は12月10−18日に作成されている。それは「捕虜収容所(特別行動の実施)」というキャプションがつけられているが、それは、殺人作業を意味している。

 別のリークは、デヤコが焼却棟を虐殺機能に適用させ始めたときに生じた。炉のホールとサービス・ルームを持つ地上には、改造は必要ではなかったが、地下は新しい機能に対応して改造しなくてはならなかった。建設中の建物は、地上から2つの地下の死体安置室に容易に死体を移動させるために階段の中央に滑降路を提供していた。しかし、ガス処刑される犠牲者はガス室となる死体安置室に歩いて降りていくことができた。このため、死体滑降路はまったく不必要となり、取り除かれねばならなかった。

 12月19日、デヤコは、犠牲者のための階段のついた新しい地下の配置をスケッチした(図面2003)。青写真のキャプションによると、階段は死体安置室への唯一のアクセスであった。このことは、厳密にいうと、死者は階段を歩いて降りていかなくてはならないことを意味していた。青写真が建築現場30と30aに届いたのは非常に遅かった。このために、コンクリートの滑降路はすでに設置されてしまっていた。のちに、SSがガス室に独自の階段を持った脱衣室(死体安置室2)を付け加えるように決定したとき、滑降路が入り口につながる場所は、犠牲者の通路と重ねられた。滑降路の入り口は破壊されたが、その出口は板で覆われた。

 デヤコは、階段と滑降路をどこに配置するかという単純な問題以上の難題に直面した。11月までに、SSはブンカー1と2での作業になれてきていた。そこでは、脱衣バラックで服を脱いだ犠牲者はブンカーでガス処刑され、その死体は壕に埋められていた。この手順を焼却棟にも適用する必要があった。焼却棟Uと焼却棟Vについては、ガス室として(換気設備を持つ)死体安置室1を選択することは自明であった。SSは、残った二つの死体安置室もガス室として使うことを計画した。5つの3炉室炉は高い処理能力を持っているので、作業が促進されると誤解していたからである。この配置では、戸外の脱衣室が不可欠であった。そして、この戸外の脱衣室は、中央入り口を経由して、2つのホールを結びつける別の階段と直接つながっていなくてはならなかった。さらに、(排気だけの)死体安置室2に吸気システムを付け加えることによって換気システムを改良しなくてはならなかった。炉がテストされ、その能力が見積もられると、二つのガス室の「製品」を処理する能力がないことが明らかとなった。その結果、死体安置室2は脱衣室となった。この配置では、排気はまったく不要であった(犠牲者の死臭を換気するのは、自然換気でも容易であった)。

 結局、死体安置室1はガス室には大きすぎた。1943年末、焼却棟Uと焼却棟Vの作業を「正常化」するために、収容所行政当局は、ガス室を二つに分け、24時間で1000名の新しい到着者(労働不適格者)を殺害するのに、100u以下のスペースをわりあてた。

 1942年8月の焼却棟Wと焼却棟Xの最初のスケッチは、焼却部分だけを提示していた。10月中旬、屋根の建設に責任を負っていたコンラード・ゼグニッツ社は、最終的な配置図面を描いた。炉のホールは48×12mの大きな死体安置室(576u)によって拡張された。それは、これが「一連の手順の鎖の終わり」として使われることを意味していた。犠牲者の脱衣とガス処刑はブンカー2で依然として行われていたが、死体は焼却棟Wの死体安置室に保管されそこで焼却されることになっていた。

 その後、SSはガス室(ストーブ暖房)を建物の中央に置こうとした。この結果、犠牲者は脱衣室からガス室へ、8炉室を持った炉のホールへと移動することになった。焼却棟Wと焼却棟Xには機械的な換気システムが設置されていなかったので、自然換気によるガス室の換気には、偶発的に毒ガスにふれるという危険がともなっていた。ガス室を焼却炉からできるかぎり離しておくことが決定された。最初の配置の修正は、ガス室を炉のホールの反対側に置いた。この結果、犠牲者は、ガス室から死体安置室、8炉室炉のホールに移動することになった。この配置の難点は、脱衣室がまったくないことであった。戸外にバラックを建てる必要があった。

 焼却棟Wと焼却棟Xの焼却能力は、焼却棟Uと焼却棟Vの能力よりもはるかに低かったので、そのガス室も小さくなくてはならなかった。SSは、犠牲者の小グループを処理する低い能力のガス室(100u)を作って、断続的な作業を行なおうとした。1943年1月11日、SSは焼却棟Wの殺人プロセスの最終的な青写真を確定した。

 すでに見てきたように、この考え方には、外部の脱衣室の建設が必要であった。しかし、資金を節約するために、良い天気の時には、犠牲者は戸外で脱衣することが決定された(1944年夏には実際にそうであった)。冬には、中央のホールは脱衣室と死体安置室の二重の役割を果たした。犠牲者は建物の中に入ってきて、脱衣し、ついで裸のままで二つのガス室に歩いていった。殺されると、彼らは中央ホールまで引きずられていき、焼却されるまでそこに横たえられた。この手順は、とくにダッハウの新しい焼却棟の合理的な配置と比較すると、機能的な観点からは、劣っていた。ダッハウでは、犠牲者は入り口から暖房装置を持つ脱衣室に入り、その後、暖房装置と換気装置を持つガス室(「シャワー室」)に歩いていった。死体は、死体安置室に運ばれ、炉のホールに置かれた。ダッハウのガス室は、機械的排気システムを備えていたので中央に置かれた。幸運なことに、それは使われることはなかった。

 ガス室と焼却炉を設計することとそれを建設することは別のことであった。アウシュヴィッツでさえ、SSができることには限界があった。チフスはかなり押さえ込まれていたが、それにもかかわらず、予期せぬやり方で、作業の進行に影響を与えた。11月、アウシュヴィッツの状況は、周辺地域の住民の関心の対象となり始めた。住民たちは収容所のチフスの件を良く知っており、鉄条網を越えたその拡散をおそれていた。

 11月17日、ビエリツの町での公聴会で、地域の相談役は、2例のチフスの発生を指摘した。アウシュヴィッツからの一人のポーランド人女性が病気にかかった。彼女は、カール・ファルク社の民間労働者で、16才になる息子を介して感染していたので、原因は収容所にあった。プレチシャウの別の女性は、11月3日にチフスで死んだ。彼女の夫は、収容所建設に従事する自由労働者であった。地域の相談役は、SSが民間労働者と感染した囚人との接触を禁止しなかったことを非難した。彼は、検疫隔離の厳格な遵守を求めた。12月4日、地域の相談役、強制収容所守備隊の医師、SS少佐エドゥアルド・ヴィルツ、各種の地域、市、政治、軍事、保健衛生の担当者の全体総会がアウシュヴィッツで開かれた。さらに3つのチフスの発生の原因が収容所であることが明らかになった。ヴィルツはSSに対する非難を認めようとしなかった。検疫隔離は厳格に実行されており、それゆえ、感染はSSの責任ではないというのである。アウシュヴィッツ市長は、収容所からのSS隊員と民間人(緑の腕章でわかった)がアウシュヴィッツの鉄道駅で肩をすり寄せているのを目撃したと指摘している。このことが、論点、すなわち、年末休暇問題とかかわっていた。年末休暇は12月25日に始められ、関係者は丹念に消毒されて、出発前の三週間は隔離状態におかれることが決定された。

 32社の関係者は、検疫隔離が21日間に引き延ばされたことを知ると、激怒した。彼らはさらに、12月10日に、フタ社とレンツ社が担当する宿営収容所の民間労働者が病気に倒れたときにいっそう憤激した。21日の期間を守ることは、12月31日以前には年末休暇をとることができないことを意味していた。アウシュヴィッツに数ヶ月も拘束されていた民間人はうんざりしており、12月17日、18日に作業現場から年末休暇に入り始めた。12月18日、収容所のゲシュタポの干渉と、会社幹部との激論の末に、収容所当局は降伏し、1000名の民間労働者が1942年12月23日から1943年1月4日に年末休暇をとることを認めた。

 この退去がさらに、焼却棟の完成を遅らせた。カムラーへの報告のなかで、エルトルは、焼却棟Uは1月31日、焼却棟Wは2月28日、焼却棟Vは3月31日までに完成するようにとのビショフの命令を伝えている。これは平均2ヶ月の遅れであった。焼却棟Xについては、日付は設定されていない。新しい目標日付を伝えられたカムラーは、作業の進行について毎週報告するように主張した。ヒムラーからの指令に喚起されて、ヘスの副官はこのような伝達を拒否したが、結局、報告は書簡で送られた。

 ビショフは、あらゆる障害を乗り越えて焼却棟Uを1月31日までに完成させようとした。彼はトップフ社に、オリジナルなスケジュールにしたがって、必要な資材を配送しなくてはならないこと、焼却棟Uと焼却棟Vは1月31日までに、焼却棟Wと焼却棟Xは3月31日までに完成するようにしなくてはならないことを伝えた。プリュファーは、調整のためにアウシュヴィッツに来ることを求められた。

 プリュファーに先立って、ハインリヒ・メッシングが到着した。彼は1月4日にエルフルトを出発し、翌日の早朝アウシュヴィッツに到着し、すぐに、焼却棟Uに赴いて、そこで10日間、煙突の強制通風システムの設置に取り組んだ。その後、メッシングはまったく休みを取らず、日曜日(8時間働いた)をのぞいて、毎日11時間働いた。焼却棟Uのための3つの強制通風システムは1月26日までに完成することになった。しかし、焼却棟はまだ完全ではなかった。焼却のスピードをコントロールする圧縮空気送風機がまだ設置されていなかった。メッシングは、1月26日にそれを設置し始め、2月7日にその仕事を終えた。

 1月29日、ビショフ、キルシネク、プリュファーが建築現場30、30a、30b、30cを巡察した。SS少尉キルシネクは作業現場の状況について詳しい報告を書いた。プリュファーはキルシネクの報告に影響されて、自分独自の報告を書き、それはカムラーに送られた。焼却棟Uはまだ稼働していなかったけれども、プリュファーはそれがほぼ完成したと述べ、2月15日までには完全に稼働し始めることを約束した。カムラーはこの報告を受けて、ビショフをSS突撃指導者に昇進させた。2月29日のカムラーの書簡には、彼が焼却棟Uの死体安置室1を「Vergasungkeller(ガス処理室)」としているもう一つのリークがある。

 ビショフはカムラーに対して自分をかばってくれたことに恩義を感じて、「中央サウナ」での個人物品の殺菌駆除のための4つの温風室を発注することで彼に報いた。それは39122マルクという破格の値段であった。その一方で、彼は、コリ社による同じような設備にはわずか5000マルクとしている。さらに、彼はトップフ社に、焼却棟Vでのゴミ焼却炉(5791マルク)、焼却棟Vの1500kgの積載能力の臨時のエレベーター(968マルク)、焼却棟Uと焼却棟Vの常設エレベーター(9371マルク)を発注している。

 エレベーターの発注は、ビショフがそれを上部シレジアでは発見できなかったことを示している。フタ社はガス室と炉室を結ぶわずか一つの中古の貨物エレベーターだけしか発見できなかった。それは、2月初頭に焼却棟2に設置された。焼却棟Vのために臨時のエレベーターを発見すること、ハードワークにも耐えられる常設のエレベーターを探し出す課題は、トップフ社に委ねられた。チューリンゲン地方で探す方が簡単であると考えられたからである。たしかに、プリュファーはビショフが必要としたものをすぐに見つけだした。エルフルトの会社グスタフ・リンゼ社が、750kgの積載量をもつ貨物エレベーターを提供した。それは、ケーブルを二重にすることによって、積載量を1500kgまで増やすことができた(図23)。


図23:エルフルトのグスタフ・リンゼ社がアウシュヴィッツに提供し、焼却棟Vに設置された貨物エレベーターの図面。Archives of the Auschwitz-Birkenau State Museum,file BW 37/4, no. 723.

 プリュファーはまた、新しい焼却棟Yの発注も受けた。それは基本的に戸外の焼却のための壕であった(25148マルク)。このようにして、プリュファーは、自分の立場とビショフの困難を利用して、余計にかかる労働コストは別として、総額90000マルク(1992年では360000ドル)の契約を結んだことになる。

 このとき、トップフ社と中央建設局は、中央建設局がプリュファーに作業現場を監督するために週に2、3日アウシュヴィッツにやってくるように求めるという、細かい条件を結んでいた。プリュファーはこの条件を守らなかったが、そのかわりに、マルチン・ホリクとアルノルド・ゼイファースを2月初頭にアウシュヴィッツに派遣した。プリュファーはまた、換気システムの設置のために、第二の金属工の親方を派遣することを約束していたが、この人物はやって来なかった。焼却棟Uの換気システムの設置は、様々な下請け業者が義務を守らなかったために停滞した。その結果、もともとは2月8日に予定されていたガス室(死体安置室1)の吸気・排気システムの設置が遅れた。失われていた部品が2月11日に到着した。この3日間の遅れはビショフをいらいらさせ、彼はカムラーに不平を述べた。とくに、トップフ社の最後の発送に死体安置室2の排気のためのモーターが入っていなかったときには、不機嫌であった。

 中央建設局とトップフ社が2月11、12日に交換した書簡と電報は死体安置室1のための木製の送風機について言及している。これは死体安置室がガス室として使われたことを確証している。ビショフとプリュファーは、濃縮されたシアン化水素(1㎥あたり20g)が混じった空気の排気には非腐食性の換気扇が必要であると考えた(図24)。


図24:非腐食性の木製の換気扇。Bruno Eck, Ventilatoren, 3rd edition (Berlin:Springer-Verlag, 1957), p. 388.初版は1937年に刊行された。

 焼却棟Uに必要なもう一つの装置は、シアン化水素の痕跡を探す検知器であった。トップフ社でのプリュファーとシュルツェの上司ザンダーとエルドマンはこの必要を伝えられた。ザンダーは検知器を求めて数社にあたった。中央建設局は2月26日の電報のなかで、ガス室は検知器なしでは完成させることができないので、ガス検知器をすぐにアウシュヴィッツに配送するように強く要請している。

 もう一つの関心は、ガス室のなかの換気システムであった。死体安置室として計画されていたので、強い吸気と弱い排気のシステムとして計画されていた。ガス室としては、それはそれとは逆に作動しなくてはならない。ザンダーとプリュファーは3月2日に中央建設局に次のように書いている(図25:ドイツ語オリジナル)。

「焼却棟U。われわれは、『合意されたように10のガス検知器の即時の配送。見積りはのちに』というあなたの電報を受け取ったことを認めます。この件に関して、2週間われわれは、シアン化水素の痕跡を示す装置に付いて5社にあたりました。3社からは否定的な解答を受け取り、残りの2社については回答を待っています。この件に関するさらなる情報を入手したときには、この装置を作っている会社とコンタクトをとることができるようにおはからいすることができるでしょう。ハイル・ヒトラー。」


図25:ビルケナウに建設中の焼却棟Uのガス室の換気システムに関する、1943年3月2日の、中央建設局あてのトップフ・ウント・ゼーネ社の書簡。Central State Special Archives, Moscow, files 502-2-313.

 建設局はこの手紙を受け取った。この手紙は3月5日に焼却棟Uのなかに致死性のガス室が存在したもう一つのリークである。

 もう一つの最後の問題は、煙突の周囲の3つの強制通風について起こった。煙突から換気システムへの熱の移動がシステムを使っているすべての部屋の温度を高くするからである。プリュファーは2月19日のこの欠点を指摘し、余分な熱を死体安置室1に移しかえすことを提案した。これは、本来ならば冷たくなくてはならない死体安置室がガス室となったことを明らかに示していた。死体安置室を暖めることはチクロンBの急速な気化をもたらすからである。2月22日SSはこの計画をすぐに認め、トップフ社はアウシュヴィッツに1時間あたり9000−10000㎥の能力を持った銑鉄製の送風機をアウシュヴィッツに送った。これは522マルク(1992年では2100ドル)であった 。

 製造されていない比較的小さな部品は、三つ又のかたちで、強制通風と送風機を持った部屋の天井のロフトに配置される金属製の結合パイプであった。煙突のスライド式調節器が空気の流入をコントロールした。作動する送風機による温風の流入が、ガス室に流れ込み、そこを前もって暖めた。それは毒ガスの発生を促進した。結合パイプの発注は1070マルクで公式に3月6日に承認された。それは1週間のあいだで製造された。

 シュルツェは3月1日にアウシュヴィッツに行き、プリュファーは3月4日に彼に合流した。その日、焼却棟Uの5つの3炉室炉が、プリュファー、シュルツェ、建設局と政治部のSS隊員、ベルリンからのSS高官の前で初めて試運転された。このために、体重の重い50名の死体がブンカー2で選別され、焼却棟Uに運ばれて、そこで焼却された。特別労務班員の火夫ヘンリク・タウバーの大まかな見積もりでは、焼却は45分続いた。手に時計を持って焼却時間を計っていた将校は、計画よりも遅いと記している。この試運転ののち、プリュファーは、炉が十分に乾燥していないと判断し、1週間使用しないで暖めるべきであると推奨した。

 3月10日、シュルツェとメッシングは、焼却棟Uのガス室の吸気と排気システムをテストした。メッシングは3月11日と13日にも作業しているので、装置は完全ではなかったのであろう。3月13日の土曜日の夕方、換気システムは稼働しうると宣言された。

 同じ夜、クラクフのゲットーからの2000名のユダヤ人から選別された1492名の女、子供、老人が新しい焼却棟で殺された。6kgのチクロンBが天井を支える柱の間の4つの鉄網柱の穴に投入された。5分間ですべての犠牲者が死んだ。吸気(1時間に8000㎥)と排気(同じ強さ)システムが作動し、15−20分後には、3−4分で一回更新される空気は十分にきれいになったので、特別労務班員がまだ熱いガス室にはいることができた。この最初のガス処刑では、特別労務班員はガスマスクをつけていた。死体は引き離され、貨物エレベーターのところまで引きずられていった。毛髪は切り取られ、金歯は引き抜かれ、結婚指輪と宝石ははずされた。炉のホールに引き上げられると、死体は炉室の前の広い場所に引きずられ、炉に放り込まれた。1492体の焼却には2日かかった。

 焼却棟Uのガス室は稼働し始めたけれども、まだ完成していなかった。クラクフのユダヤ人を清算したのち、焼却棟Uはサロニカからの2191名のギリシア系ユダヤ人がガス処刑される3月20日まで停止していた。死体が焼却されるので、強制通風のレベルまで火が噴き、それはオーバーヒートをもたらした。プリュファーとシュルツェは、現場に呼び出され、3月24日に損害を調査した。3月25日、彼らは強制通風を除去することを決定し、ガス室を前もって暖めておく可能性を放棄した。さらに、彼らは、ガス室の排気システムのための木製の送風機を金属製に取り替えた。腐食の危険性が過大評価されていたからである。3月中、メッシングは脱衣室の換気システムにかかり続け、それは3月31日に終了した。その日、脱衣バラックが壊され、犠牲者は西側に作られた階段から脱衣室に入った。

 焼却棟Uが最終的に引き渡されたのは3月31日であり、費用は554500マルク(1992年では2215000ドル)であった。建物の受領書メモは、死体安置室1がガス気密ドア、4つの「鉄網投入装置」(チクロンBをガス室に投入するための鉄網柱)、4つの「木製カバー」を備えていたことを示している。脱衣室となった死体安置室2の排気システムにはモーターがつけられなかった。このシステムは不要であったからである。

 4月初頭、焼却棟Uは何の問題もなく作動していた。しかし、ある日、スライド式調節器がうまく機能しないことが発見された。さらに調査すると、内部の内張が壊れていること、地下の結合導管の形が悪くなっていることが明らかとなった。中央建設局はプリュファーに電話して、対処方法を尋ねた。彼は、煙突のための新しい青写真を送ることを約束し、ラインラント地方に商用に出かけた。彼はこれがトップフ社の問題とは考えていなかったからである。彼の会社が煙突を建設したわけではなかったからである。青写真がつかないと、中央建設局は何回も電報をうってこれを求めた。さらに、焼却棟Vのゴミ焼却炉の熱が100のシャワーのための水を温めるために利用できないかどうか研究することを求めていた。4月15日、プリュファーはエルフルトに戻り、2日後にアウシュヴィッツに向かうことを約束した。彼は4月19日にアウシュヴィッツに到着し、SSをなだめ、新しい煙突の青写真を約束し、少々がっかりして、焼却棟Wの炉の保証が消滅したこと、中古の資材を使って建設された炉をもはや修復することはできないことを記した。にもかかわらず、彼は機械的換気が行われれば、ガス室は依然として使用しうると見積もった。彼は、焼却棟Wと焼却棟Xのための2つの排気システムを2510マルクで発注し、4月20日にエルフルトに戻った。

 焼却棟Uは5月22、23日に停止した。ケーラー社が煙突のゴミを清掃した。仕事は5月29日に完了したが 、プリュファーの青写真がまだ届いていなかったので、修理を始めることができなかった。それが届いたのはやっと1ヶ月後のことであった。中央建設局、トップフ社、ケーラー社のあいだの書簡では、損害と停滞の原因を相手になすりつけていることが見て取れる。

 3月の焼却棟Uの完成が遅れたために、焼却棟Wの方が早く、3月22日に公式に収容所管理当局に引き渡されるという結果となった。それは、203000マルク(1992年には810000ドル)であった。ここでもまた、建物の使用目的をわれわれに伝えているリークがある。2月28日、西側部分の内装を完成させていたリーデル・ウント・ゼーネ社の監督官が、堅い木製の「窓」をさしはさまなくてはならなかった。毎日の作業報告で、彼は、「ガス気密ドア」をさしはさんだと報告している。3月2日、彼はガス気密ドアが設置されている場所にアスファルトをしき詰めなくてはならなかったときに、彼はその日の末尾に「ガス室にアスファルトをしき詰めた」と記している 。

 焼却棟Wの最初のガス処刑は、うまくいかなかった。フェイスマスクをつけたSS隊員が、小さなはしごを登って「窓」に向かい、ついで、片方の手でそれを開け、別の手でチクロンBを投下しなくてはならなかったからである。このアクロバット的な繰り返しが、6回も繰り返されなくてはならなかった。ガス気密ドアがガスを排気するために開かれたとき、自然換気が効果的ではないことがわかった。空気の流通をはかるために、北の廊下にドアが作られなくてはならなかった。

 焼却棟Wの二重4炉室炉がうまく稼働したのは、短期間にすぎなかった。プリュファーが価格を安くしようとしたために、それを単純なものとしたので、問題が起り始めた。2週間の過重な稼働ののちに、炉はひび割れた。コッホが耐火土で割れ目を埋めたが、それは再び現れた。5月中旬までに炉はふたたび使えなくなり、焼却棟Wはまったく稼働を停止した。

 プリュファーは、資材の劣悪さを非難したが、自分に責任があることを知っていた。事実、プリュファーは、炉がその稼働開始1ヶ月以上前から、問題を生みだしていることを知っていた。2月、プリュファーは、モギリョーフの原型が炉の中心に偏った設計のために亀裂を生んでいることを伝えられた。このモデルの炉(図26)の構成ユニットでは、2つの炉室と発生器、発生器と煙の排気のための中央ダクトとのあいだの炉室が、発生器から離れているほかの炉室よりもかなり熱くなってしまう。温度差が耐火煉瓦のあいだに衝撃をもたらし、それが亀裂を生み出してしまうのである。



Rk:導管(煙だまりへ)

Es:マンホール

S:調節器

M:炉室

Fk:炎の導管

K:石炭供給器

A:切断バルブ

図26:ビルケナウの焼却棟W8炉室炉の原型の構成ユニットの図面。C:煙を排出するための中央ダクト、2つの炉室を地下の煙導管につなげている。

 焼却棟Wの炉について何もすることができなかったので、プリュファーは、焼却棟Xの炉の修正を決定した。彼はその構造を再設計し、炉室を再グループ化して、端におかれた、二つのダクトでそれを囲んだ(図27)。この新しい配置は、炉を「厚くし」、それを「補強した」。しかし、プリュファーは、亀裂の根本的な原因、側面の発生器を除去することはできなかった。焼却棟Xは4月4日に配送されたが、ガス室の気密ドアは4月16−17日まで設置されなかった 。


→、←、↑:煙の流れ

図27:ビルケナウの焼却棟Wの8炉室炉の強化型の構成ユニットの図面。C1、C2:煙を排出するための周辺ダクト、2つの炉室を地下の煙導管につなげている。

 一方、焼却棟Vの作業は進行していた。5月初頭、メッシングはガス室を設置した。収容所の焼却能力は焼却棟Wが作業停止しており、焼却棟Uも停止していたので、劇的に低下していたために、焼却棟Vを完成させる緊急の必要が生じた。中央収容所の焼却棟Tと、過重な作業をした場合停止するかもしれない弱い炉を持った焼却棟Xだけが稼働していた。焼却棟Vが引き渡されたのは6月24日であった。詳しい発送状には、死体安置室1にはガス気密ドアと14の(偽)シャワーが含まれていることが記されているが、その二つは死体安置室の機能にはふさわしくないものであった。焼却棟Uと同様に、死体安置室2(脱衣室、メッシングによって二度このように記されている)を排気するためのモーターは設置されなかった。

 1週間以内に、焼却棟Uは操業を再開し、中央建設局は、SS経済管理局に、動物の死体の「ユニット」70−100kgとして計算する、収容所の毎日の焼却能力を示す報告を提出している。そこには、公式の数字と潜在的な能力の大きな相違があったようである。焼却棟Tは340kgに対して250 kg。焼却棟UとVは1400 kgに対して1000 kg。焼却棟WとXは768 kgに対して500 kgであった。(実際の能力はもちろん、すべての焼却棟が稼働しているわけではないので、もっと低かった)。にもかかわらず、この数字はある点では有効であった。10 kgの二人の子供と、50 kgの女性を焼却する時間は、70 kgの男性を焼却する時間に等しかったのである。このために、重さを人数に換算すると、1から3までの掛け算の係数が必要となり、焼却棟の能力の人数的な統計数字は、そのどれを採用するかにかかってしまった。焼却棟WとXの見積もり能力は、炉室がUとVと同様の能力を持っていると仮定して、焼却棟Uをもとに計算された。

 しかし、見積もりは楽観的以上のものであった。6月末、焼却棟Wは使えなくなり、Uは停止した。7月末、焼却棟Tは政治部の要請で使えなくなった。Xに関しては、U(修理された)とVがユダヤ人の日々の移送者集団を扱うのに十分であるので、9月以降は使わないことになった。

 ケーラー社は、6月22日に、焼却棟Uの煙突の内部のオーバーホールを始めた。作業は1ヶ月続いた。ついで中央建設局は、トップフ社に、まだ保証期間中の地下の煙ダクトの修理を要請した。中央建設局は、ドイツ装備会社の金属工場が作った新しい調節器を設置した。この作業は8月末までかかった。3ヶ月の停止ののちに、焼却棟Uは9月に再度稼働した。

 誰が余分の費用を出すかという問題が未解決であった。問題は、9月10、11日に議論された。中央建設局は、トップフ社が損害に責任があると考えていた。2つの単純化された3炉室炉(1942年にカムラーが進めた計画)をもった焼却棟の研究のために支払われた1769.36マルクには、ケーラー社の焼却棟2の煙突のための青写真と統計計算が含まれていると誤解されていたためであった。トップフ社は資材をケチったとケーラー社を非難し、ケーラー社はこれを否定した。トップフ社は新しい装置の青写真をケーラー社に提供していた。しかし、トップフ社はこの計画が適切に実行されているかどうか監視できなかったので、あらゆる責任を免れていると考えていた。ケーラー社だけが問題の本質を提起する勇気を持っていた。煙突の損傷は焼却棟Uの過剰稼働によるというのである。結局、合意がはかられなかったので、中央建設局は、かかった費用を3つに分割した。4863.90マルクをそれぞれが、1621.90マルクずつ負担した 。

 トップフ社と中央建設局との関係は9月以降急速に悪化した。双方ともが不満を持っていた。建設局は、焼却棟Wの炉の失敗と焼却棟Uの煙突の問題の件でトップフ社を批判し、一方、トップフ社は泥沼に陥りつつあることを理解し始めていた。枢軸国の戦局が急速に悪化すると、トップフ社の幹部は、連合国の勝利のあとの自社の将来について考え始めた。彼らは状況が絶望的であることを悟った。

 とくに、トップフ社が悟ったのは、SSとの協力が収入を与えてくれるだけの楽な仕事ではないことであった。第一に、SSは最小の請求書さえも点検した。その上、支払いはきわめて遅かった。1943年、8月20日、中央建設局はトップフ社に90000マルク借りていた。資金を回収するには、何回もの督促の手紙が必要であった。最後に、SSは気まぐれで、一貫していなかった。トップフ社が数日間頭を悩まして作成した計画を、SSは説明なく廃棄することがあった。たとえば、焼却棟Yであり、それは日の目を見なかった。焼却棟UとVの死体安置室の予備暖房、焼却棟Vの100のシャワーである。あるいは、焼却棟Tの換気システムのように、もはや必要のないものを発注することがあった。

 トップフ社とアウシュヴィッツの最後の関係は、1944年に発生した。建設局の新しい局長SS少佐ヴェルナー・ヨハンは、ハンガリー系ユダヤ人の即時の到着を予想して、UとVが完全に稼働することを望んだ。また、1943年9月以来使われていなかったWとXの再稼働を望んだ。彼はトップフ社に、焼却棟UとVに常設のエレベーターを設置し、大量ガス処刑のために焼却棟WとXのガス室に排気システムを設置することを希望した。非常な困難と、軍需省とSS経済管理局からの干渉を受けながら、2つのエレベーターは1944年5月にアウシュヴィッツに発送された。しかし、それを設置する時間がなかった。焼却棟Xへの排気システムの設置は、その資材の一部が1月から倉庫にあったので、5月に行なわれた。2つのガス室と廊下は480㎥であり、焼却棟UとVの死体安置室1とほぼ同じであった。シュルツェはこのために、同じパワーの排気システムを計画した。3.5馬力のモーターを持った450番の送風機であり、1時間に8000㎥の能力を持っていた(図28)。第二の換気システムは設置されなかった。



O:チクロンBガスを投入する開口部

G:ガス気密ドア

X:暖房ストーブ

S:ストーブの煙突

C:汚染された空気を排出するダクト

図28:1943年6月にカール・シュルツェが設計し、1944年5月に設置されたビルケナウの焼却棟Xのガス室の排気システムの図面。平面図(上)、A−Bの断面図(下)

 1944年5月6月のハンガリー系ユダヤ人の大量虐殺はおもに焼却棟U、V、Xで行なわれた。焼却棟Xの炉はすぐに満杯となり、ガス室に沿って掘られた壕のなかで、犠牲者は戸外で焼却された。ブンカー2が小グループを処理するためにふたたび稼働し、その死体は30uの壕のなかで焼却された。チクロンBが不足するようになった夏の終わり頃、犠牲者は焼却棟Xとブンカー2の焼却壕のなかに並べられた。

 数千の女性、子供、老人が炎のなかに消えていくなかで、中央建設局とトップフ社は金勘定をしていた。中央建設局は、1943年の最後と1944年の2月初頭に高額な請求額を実際に支払っていた。しかし、建設局はトップフ社がドイツ装備会社金属工場に委託していた仕事、トップフ社が様々な作業現場で必要とした細かな仕事について、トップフ社が支払うことを要求した。たとえば、2ヶ月間レンタルされた酸素シリンダーのコストは、2.10マルクであった。借用されたモーターオイルは、8.25マルクに達した。トップフ社は総額9000マルクに達する請求書を申告した。総額は7500マルクに減らされた。

 2つの8炉室炉の件がきわめてデリケートな問題として残った。ルスランド・ミッテ建設局は、トップフ社に55520マルクでモギリョーフのための4つの炉を発注しており、2つの設置で、総額42600マルク支払っていた。アウシュヴィッツ中央建設局は、27600マルクで2つの炉を発注しており、1つの設置で10000マルク支払った。トップフ社は、6つの炉をそれぞれ13800マルクで売却したと考えていたが、ビルケナウの2つの炉はモギリョーフへの発送から引き抜かれていた。2つの建設局は、トップフ社に30200マルク(6つの炉)ではなく2600マルク(4つの炉)の差引残高の支払い義務を負っており、アウシュヴィッツ建設局はそれに配慮することに合意していた。実際には、トップフ社が建設したのはビルケナウの2つの炉とモギリョーフの1つの半分であり、それは34500マルクであった。だから、不正に着服した18000マルクを返却すべきであった。2600マルクの補足的なクレジットを受け入れることによって、それはまさに20700マルク(1992年では83000ドル)の利益を生んだ。それはアウシュヴィッツのSSとの喧嘩の代償であった。馬鹿を見たのは、ルスランド・ミッテ建設局であった。

 1944年10月7日、ビルケナウの特別労務班が反乱を起こした。労務班員の多くが寝泊まりしていた焼却棟Wは放火された。SSはこれを残酷に鎮圧した。建物は崩壊し、炉の金属部分は溶かされて、鉄道駅に保管された。

 11月末、ヒムラーからの口頭の命令で、ガス処刑は中止された。12月初頭に結成された解体部隊が、焼却棟UとVを解体した。焼却棟Xは使われ続けたが、「自然死」した人間の焼却という「正規」の使われ方であった。

 1945年1月中旬までに、焼却棟UとVはまったく崩壊し、その残骸にはアスファルトがかけられた。収容所群は1月18日に疎開した。1月20日正午、SSは焼却棟UとVの残骸を爆破した。まだ存在していた焼却棟Xは1月22日午前1時にダイナマイトで爆破された。1月27日、ソ連軍の兵士が、4つの建物の雪で覆われた残骸のもとに到着した。

 合衆国第三軍は、その3ヶ月後の4月11日にブッヘンヴァルトを解放した。アイゼンハウワーが収容所を訪れた。ブッヘンヴァルトの焼却棟の2つの3炉室炉はトップフ社の名声を高めた。第三帝国は5月8日に降伏した。5月30日、調査ののち、合衆国憲兵隊はプリュファーを逮捕した。ルードヴィヒ・トップフは5月30−31日に自殺した。プリュファーは6月13日に釈放され、アメリカ人から炉の注文を受けることにさえ成功した。合衆国の調査官は、会社の本部を捜査することを怠り、アウシュヴィッツのガス室建設でのトップフ社の役割を理解できなかった。

 6月14−21日、エルンスト=ヴォルフガング・トップフとプリュファーはアウシュヴィッツでSSと結んだすべての契約を破棄した。米軍はソ連地区となったエルフルトから撤退したので、トップフの弟はアメリカ軍とともに6月21日に西へ移動し、技術的・工業的文書以外の資産を残していった。

 7月3日、ソ連がエルフルトを占領した。10月11日、ソ連軍は、プリュファーとトップフ兄弟についてトップフ社の開発部長グスタフ・ブラウンに尋問した。1946年3月4日、ソ連はブラウン(臨時の社長となっていた)、ザンダー、プリュファー、シュルツェを逮捕した。エルドマンは共産主義組合に登録されていたので、拘禁を免れた。ブラウンは25年間の収容所送りとなったが、1955年に釈放された。プリュファーの運命は知られていないが、彼と残りの技師はおそらくブラウンと同じ運命をたどったのであろう。アメリカ人とは異なって、ソ連人はアウシュヴィッツの建設にあたってのプリュファーの役割にすぐ気がついた 。

 エルンスト=ヴォルフガング・トップフは1949年にヴィスバーデンで会社を再建しようとしたが、資金が不足しており、再建は失敗した。ヴィスバーデン支社は1963年に解散した。彼は法的なトラブルを経験することはなかった。ただし、彼のもとに残ったただ一人の技術者マルチン・クレットナーが1950年に焼却炉の特許権を恥知らずにも申告するという大失態をやらかした。この事件は、当然にもスキャンダルとなり、ヴィム・ファン・レールの戯曲『未解決の特許』の背景となった。この戯曲は1963年にロンドンで上演された。

 ビショフは穏やかに戦後の生活を送り、1950年に死んだ。建設局の二人のメンバーヴォルター・デヤコとフリッツ・エルトルだけが法廷の前に立たされた。デヤコは青写真部長として、すべての青写真を見ていた。エルトルは1942年8月19日のアウシュヴィッツでのプリュファーとケーラーとの悪名高い会議の議長を務めた点で告訴された。そのとき、ビショフはベルリンにいて、新しい焼却棟のための数少ない青写真に署名した。1972年1月にウィーンで開かれた二人の「焼却棟の建築技師」の裁判は、二人の釈放を持って終わった。

 本小論を準備するにあたって、以下の文書館を利用した。ロシア中央国立特別文書館(モスクワ)、10月革命文書館(モスクワ/10月革命)、ヴァイマール国立文書館(ヴァイマール)、カトヴィツェ国立文書館(カトヴィツェ)、ブッヘンヴァルト記念文書館(ブッヘンヴァルト)、ダッハウ記念文書館(ダッハウ)、アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館文書館(オスヴィエチム)、ヤド・ヴァシェム文書館(イェルサレム)、ベルリン資料センター(ベルリン)コブレンツ連邦文書館(コブレンツ)、ヴィスバーデン商工業室(ヴィスバーデン)、パリ現代史資料センター(パリ)、ポーランドにおけるヒトラー一派の犯罪中央調査委員会(ワルシャワ)、産業保護国立研究所(コンピエーヌ)、ウィーン最高裁判所(ウィーン)。
http://revisionist.jp/pressac/pressac_01.htm


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c35

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
36. 中川隆[-10708] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:40:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1334]

【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ホロコースト否認、ホロコースト否定論と呼ばれるものがあります。

それは、第二次大戦中にナチスドイツによって行われた、ユダヤ人の民族絶滅政策(=ホロコースト)をねつ造、あるいは誇張であるという主張全般のことを指すのですが、これは比較的に日本などでは「ありえそうな話」ということで、主にネットを中心に信じている人も多い言説です。これは「マルコポーロ廃刊事件」が日本で騒動を起こしたことが由来しています。

戦後世界史最大のタブー。
ナチ「ガス室」はなかった。

http://www7.plala.or.jp/nsjap/marco/marco0.html

私はとりあえず、ホロコーストがあった、なかったについては、よくわからない、というスタンスで、ホロコーストを否認する主張がどのような経過を辿って今に至るのか、歴史を追ってみたいと思います。あくまで「ニッチな世界史」です。

まずこれを見てください。

ホロコーストとかいう史上最大の作り話

http://fknews-2ch.net/archives/37988034.html

まあ、まずは下の方のコメント欄をご覧ください。

賛否両論ですよね。

ホロコースト否認に同意、賛同する人もたくさんいますし、否定論を否定する人もいます。数えてはいませんが、否定論肯定派の方が数は多いような気がしませんか? 日本のネットユーザーの間では、割と受け入れられている・・・そう考えてよさそうです。

ホロコーストは多数の物的証拠と証言がわんさと溢れているとされています。そして何よりドイツ政府が公的に認めて謝罪していますし、ルドルフ・ヘースやアドルフ・アイヒマンなどのホロコーストに関わったSS隊員も、ユダヤ人の大量虐殺を否定するようなことを主張していません。そもそも疑う理由がないようにも思えます。にもかかわらず、これだけ現代日本人の心をつかむ理由とは・・・わくわくしてきましたねw

では、ホロコースト否認の要点はなんなのでしょうか?上記サイトを参照してみましょう。

ううむ、けっこうボリュームがありますね。私的にこのサイトの主張を上から順番にまとめてみますと・・

@ホロコーストに疑問を持っただけで言論弾圧を受けるのはおかしい。

Aユダヤ人絶滅を指示する命令書が見つかっていない。ヒトラーも「絶滅を示唆する言葉」を一度しか使っていない

Bガス室は存在したかどうかが疑わしい。

CツィクロンBは高価だし、特性上人間の大量殺戮にはむいていない。

D犠牲者の数が多すぎて統計と合わない。陰謀論のにおいがする。

E被害者の証言や主張につじつまが合わない部分がある。

Fガス室で青酸ガスが使われた痕跡がない。(「ロイヒターレポート」を引き合いに出す)

G焼却炉の能力を考えれば、そんなにたくさん灰にできたはずがない。

H「肯定論者」が「否定論者」を相手にしないのが変。言論封殺っぽい。(@に近い主張か)
http://3rdkz.net/?p=434


I南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

・・・・・・

あっ、これだけか。思ったより少なかったですね。

そもそも、ホロコースト否定論はいつごろから言われだしたことなのでしょうか? 少しお勉強してみましょう。


ホロコースト否定論の歴史

ホロコースト否定論は、1948年のフランスの社会主義者、ポール・ラシニエの著作「オデュッセウスの嘘」から始まったとされています。まあ、この辺はWikipediakが詳しいので引用させていただきますと・・


しかしラッシニエ自身の主張そのものは、「ガス室で殺された人数は通説ほど多いものでもないと思われる」という程度のものであり、ラッシニエ自身は虐殺自体を否定してなどいなかった。ところがアメリカの歴史見直し研究所 (IHR) は、ラッシニエの著書を英訳するに当たって、「ガス室で死んだ人間は全くいなかった」とし、彼の主張を改竄している。現在でも否認論者達はラッシニエを「ホロコースト修正主義の父」と呼び、現在も彼の著作をホロコーストに関する通説に異議を申し立てた学術的な研究として引用している

おやおや、改竄されたと書いていますね。。彼はフランスレジスタンス活動の英雄で、なおかつブーヘンヴァルト強制収容所に拘禁されていた人物なので、その経歴からもナチスに親和的な発言をするはずがないと考えられています。

ただし、ブーヘンヴァルトは絶滅収容所ではなかったのですから(全部で6つの絶滅収容所は全てポーランドにあったというのが通説)、組織的なガス殺を見なかったという主張は特別おかしなものではないですし、著作にもいろいろと問題が指摘されているようです。

1960年代、70年代と、ホロコーストを否定する、或いは既存の通説を修正する研究や刊行物が次々と出版されますが、1985年にホロコーストを否定する意見や主張を《侮辱罪》として処罰する法律が施行されると、目に見えてこれらの研究は下火になったそうです。

しかし、1988年2月25日、フレッド・A・ロイヒターという名の米国のエンジニアが、アメリカからポーランドへ飛びアウシュビッツのガス室を調査しました。そして、そこで『アウシュビッツでツィクロンBなる毒ガスで殺害された人は一人もいなかった』という結論を出しました。その研究レポートは、のちに『ロイヒターレポート』と呼ばれ、アウシュビッツや絶滅政策を否認する、否定論者たちの聖典となったのですが、これがいかにして作成されたのか、という顛末を説明します。


Fred A. Leuchter

ドイツ出身の出版業者、エルンスト・ツンデルはホロコーストを否認する内容の出版物を配布したとして、アウシュビッツの生存者サビーネ・シトロンから告発され、1985年には懲役15ヶ月の判決を受けていましたが、オンタリオの控訴審裁判所はこの判決を棄却し、再審を指示していました。

同じく否定論者の、フランスの文学者ロベール・フォーリンソンはツンデルと話し合ってロイヒターに連絡を取りました。ロイヒターは米国の刑務所の毒ガス処刑施設の開発と建設に関する専門家と見なされていましたので、その視点でアウシュビッツを調査し、毒ガスによる大量殺戮が行われなかったと「学問的に」証明できると思って依頼したわけです。

ロイヒターはあまり深いことを考えずにこれを快諾し、たったの一週間で帰国し、たったの一ヶ月で「ロイヒターレポート」をまとめました。

トロントの裁判所は、この「ロイヒターレポート」に、学問的価値や意義を認めませんでした。あまりに素人くさい内容だったからと言われています。それどころかロイヒターは検事による反対尋問の際に、自分はエンジニアとしての専門教育を受けたことがないこと、持っている修士は哲学修士であって工学修士ではないこと、を告白するハメになりました。

結局ツンデルは9か月の懲役刑を受け、「ロイヒターレポート」は彼一人の免罪にさえ全く不十分という有様でした(ツンデルは最高裁で無罪になりましたが、それは言論の自由を尊重する立場を最高裁が重視したからです。ロイヒターレポートが認められたわけではありません 後述)。にもかかわらずなぜ「聖典」になってしまったのでしょうか?

1989年、「ロイヒターレポート」はドイツやフランス、イギリスの極右活動家によって出版されました。その副題には「ポーランドのアウシュビッツ、ビルケナウ、マイダネクにおけるいわゆるガス室についてのあるエンジニアの報告」とありました。まるで公平な第三者が科学的な検証をしたかのような印象を与えます。

それは科学の体裁をとり、もっともらしく書かれていました。調査期間がたったの一週間だったことや、アウシュビッツの壁面を公的機関の立ちあいなしに削り取ったこと(つまり本当にアウシュビッツから削ったのかもわからない)も、ロイヒターが問題の分野にまったく無知で、工学の専門教育をまったく受けたことがないことも、すべて伏せられていました。

その後も「ロイヒターレポート」と同様の主張を行う刊行物が出版され続けましたが、2006年、否定論の核心的論客であったデヴィッド・アーヴィングが、オーストリアにおいて起訴されました。その場において「私は1989年にホロコーストを否定したが、1991年にアイヒマン論文を読んでからは認識を改めた」「ナチスは数百万人のユダヤ人を殺した」「具体的な数字は知らない。私はホロコーストの専門家ではない」と、自らの否定説を撤回する発言を行い、修正論者は理論的核心を完全に喪失しました。


さて、ここまでざーっと見てきましたが、上記サイトにおける10個の要点を今一度確認してみましょう。

@ホロコーストに疑問を持っただけで言論弾圧を受けるのはおかしい。

これはやはりWikipediaが参考になります。


国連では1965年に人種差別撤廃条約を採択、1966年には国際人権規約が採択された。同B規約20条2項には「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」とある。ホロコースト修正主義者は人種差別の罪で告発されることもある。否認論者はこれらは「表現の自由」の侵害であると主張しているが、欧州人権裁判所はガロディ裁判で「明確に立証されたホロコースト」に対して虚偽であるとして異論を唱えることは、人種主義とナチズムの復興をはかり、反ユダヤ主義を激化させる目的があると認定している。同裁判所は否認論の表現を認めることは、かえって人権の基礎となる正義と平和を侵害するものであるとしている。

多くの日本人は勘違いしていますが、言論の自由とは「何でも言っていい権利」ではありません。「言ってはいけない言葉」もあるんです。それは上にも書いてあります、、、、


差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道

・・・です。

つまり、ヘイトスピーチです。ヘイトスピーチは古今東西の民族絶滅政策=ジェノサイドの第一段階と見なされています。

これはいかに言論の自由が保障された国においても、言ってはいけない! これは覚えておくと良いかと思います。

全部読んでくださいね。


欧州人権裁判所はガロディ裁判で「明確に立証されたホロコースト」に対して虚偽であるとして異論を唱えることは、人種主義とナチズムの復興をはかり、反ユダヤ主義を激化させる目的があると認定している。同裁判所は否認論の表現を認めることは、かえって人権の基礎となる正義と平和を侵害するものであるとしている。

・・ということですね。
http://3rdkz.net/?p=434&page=2

これに基づき当のドイツでは・・・


1994年からドイツでは「ホロコースト否定」が刑法で禁じられており、違反者は民衆扇動罪(第130条)で処罰される。オーストリアにも同様の法律がある。なお「民主主義に敵対する言論や結社の自由は認めない」という理念は極右と極左の双方に向けられており、旧西ドイツの最高裁判所は1956年にドイツ共産党に対し解散命令を下した。これはドイツが第二次大戦の教訓から「自由の敵には自由を与えない」とする、いわゆる「戦う民主主義」を採ったためであるが、同時に国家による言論弾圧に対する嫌悪感を生み出すとの立場もある。

こういうスタンスでずっと来ています。強権的だと批判もあります。しかし、ナチズムが選挙で権力を獲得した歴史を苦々しく思うドイツが、こういう処置を取ることを、誰が責められるでしょうか。。。

つまり、ホロコーストを否認することは、言論弾圧を受けているのではなく、民衆に憎悪をまき散らし、再びホロコーストに類じた民族抹殺政策を主導する人物としてみなされているのです。あるいはホロコーストの生存者(著しい苦痛を受けた、家族を喪った人々)を侮辱することになるために逮捕されます。

Aユダヤ人絶滅を指示する命令書が見つかっていない。ヒトラーも「絶滅を示唆する言葉」を一度しか使っていない


ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人殲滅戦の遂行を公言している。これはあくまで過激な表現のプロパガンダに過ぎない,と誤解したドイツ人,連合国指導者もいた。

ヒトラーの政治的遺書


わたしやドイツ人が,1939年に戦争を欲したというのは真実ではない。この戦争は,意図的に,ユダヤ人やユダヤ人の利益のために働く国際的政治家によって,引き起こされた。——和平提案が拒否されたのは,イギリスの政治家の指導者が戦争を欲したのであり,国際的ユダヤ人international Jewryによるプロパガンダによって影響を受けている国際ビジネス界が戦争を欲したからである。

わたしは,非常に明白に,次の点を示してきた。それは、ヨーロッパの諸国民が、国際金融財政の陰謀家によって売り渡される単なる株券のように扱われるなら、このような人種民族であるユダヤ人は,殺人犯であり、責任をとらせられるべきであるということだ。さらに,疑いもないことだが,今度こそ、数百万ヨーロッパ・アーリア人の子弟が餓死し,数百万の男が死を被り,都市で数千万の婦人と子供が焼かれ空襲で殺されるのであれば,そのことは,本当に犯罪者の連中が,より人間的な手段によってではあっても,その罪を贖うことなしには,済まされない。

—–祖国の敵との戦争を継続すること願うのは言うまでもない。——

以上、最後にわたしは国民の指導者とその僕が人種諸法を遵守し、全世界に毒素を撒き散らす国際的ユダヤ人に対し、仮借なき抵抗をなさんことを要求するものである。

ベルリンにて 1945年4月29日 午前4時  ADOLF HITLER

以上、鳥飼研究所より

http://www.geocities.jp/torikai007/war/1943/holocaust.html


ヒトラーは「ユダヤ人種の殲滅・・・」演説を、第二次世界大戦開戦前夜のこととしてしばしば引用して語っているなど、ユダヤ人への宣戦布告として認識していた。
またヒトラーは1920年8月23日に「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外にはその被害から逃れる方法はない」と演説したことや、1934年1月21日にチェコスロバキア外相フランティシェク・チヴァルコフスキーに対して「我々はユダヤ人を殲滅するつもりである」などと述べた例など、ユダヤ人絶滅ととれる発言を行ったことは一度きりではない。

全然一度ではないですねえ。。。

命令書がないことに関しては、ホロコーストは超極秘の国家機密でしたので、口頭命令が基本でした。しかしヴァンゼー会議議事録やヒムラーの発言、ゲッベルスの日記など、文書で照会できるものは残っています。また、以下を参照。


ナチ支配下においては、「総統命令の秘匿」および「人道犯罪の隠蔽」は日常的であった。障害者、同性愛者および労働不能者などに対する組織的な大量虐殺は、T4作戦(戦後の呼称)として既に1939年より行われており、ガス殺も主要な手段の一つとして用いられていた。それは続く14f13作戦に発展し、「社会的に不要な存在」として虐殺される対象は段階的に拡大した。T4作戦の延長がホロコーストであり、その手法はホロコーストに応用された。T4作戦もまた法制化されておらず、ヒトラーによる文書命令は秘密裏になされた。また、この作戦の関係組織には徹底したカムフラージュが行われていた。

以上、ホロコースト否認より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E5%90%A6%E8%AA%8D#.E3.83.A9.E3.83.83.E3.82.B7.E3.83.8B.E3.82.A8.E3.81.AE.E3.82.AC.E3.82.B9.E5.AE.A4.E3.81.B8.E3.81.AE.E7.96.91.E5.95.8F

多分、「一度しか言ってない」との主張をした人は、あからさまな嘘でも言ったもん勝ち、と思っているか本当に「我が闘争」を読んでいないのでしょう。。

Bガス室は存在したかどうかが疑わしい。

いや、なぜこういう疑問が生じたのか、この人の心の闇を解析する作業から始めないといけないのだろうか、と少し暗い気持ちになりましたが、なんのことはないですね。要は第Tアウシュビッツで死体安置所がガス室に改装された件と、ガス室とされた部屋の壁からシアン化合物の残留物が検出されなかったから「そもそもガス室とされた場所でガス殺が行われていたのか?」と疑問に思った、と。そういうことのようです。

私は、アウシュビッツにも行ったことはありますが、第Tアウシュビッツのガス室や焼却場は復元されたものですが、第Uアウシュビッツ=ビルケナウには破壊されたガス室の跡がありました。ダッハウにも行きましたけど、ガス室はありましたし、そこではこれはテスト用に建設されたガス室だ、と説明が書いてありました。設計図も同時に展示されています(ガス室の設計図がないという主張もあるのですが、これは嘘です)。

まあ、この方が「そもそもガス室とされた場所でガス殺が行われていたのか?」と疑問に思った根拠として挙げられているのは、上記の「ロイヒターレポート」です。まあ上でも書いているのでもう一度読んでほしいのですが、ロイヒターはアメリカの囚人処刑用のガス室の専門家を自称(でも実際には専門教育は受けていないのです)していて、ナチのガス室がアメリカのガス室と、全然共通点がない、似ていない、アメリカのガス室を参考にしていないのはおかしい、とまで言ってしまっている人なんですが、このことはアウシュビッツの生存者が「41年から42年の対米戦争の真っ最中に、ナチがユダヤ人を大量に殺戮するためのガス室の設計を、わざわざアメリカにまで行って尋ねなかったことがよほど不思議らしい」と皮肉を書いていますが、これがすべてを物語っているでしょう。真面目に語るのも馬鹿馬鹿しいですね。

しかし、事実をよく知らない人は、修正主義者の言いがかりに真面目に反論しない姿を見て不安になるものらしいのでしっかり書いておきますが、「ロイヒターレポート」では、ガス室とされた場所でシアン化合物の残留物が見つからなかったことを、シラミ駆除用の部屋では検出されたことを引き合いに出しておかしいと疑問を呈しているわけです。アメリカのガス室では当然検出されるそうなんです。

しかし、アメリカのガス室は、たった一人の囚人を殺すために、致死量の10~20倍の青酸ガスを用いました。これは、囚人が苦しむだけ苦しんで死にぞこなうことを防ぐための「人道的措置」ですが、ナチのガス室は数百人を一度に狭い部屋に閉じ込め、ぎゅう詰めにして致死量ぎりぎりの量の青酸ガスで殺していたのです。ぎゅう詰めにされた人々は酸素を求めてパニックに陥り、呼吸の数がアメリカのガス室の囚人よりずっと多かったわけです。このため、壁に残留物が残るほど青酸ガスが余らなかったのです。実際ナチのガス室ではしばしば死にぞこなった人がいたそうです。

青酸ガスが26度以上でないと気化しないことを挙げ、冬はどうしていたんだという修正主義者もいますが、ぎゅう詰めにされた狭い室内では、上記のごとく人々はパニックに陥ってたくさん呼吸をします。それにより室温は容易に26度に達し、人々は青酸ガスを吸いこんで死んでいきました。


また、ツィクロンBはかなり高価な薬剤でしたし、取扱いも手間のかかるものでしたが、なぜわざわざナチスがこれを採用したのか不明です。
自分で開発したサリンでいいじゃん。

青酸ガスが高価だったという感覚は、たった一人の死刑囚に致死量の数十倍の量を使用していたアメリカガス室と比較した、ロイヒターレポートの影響と思われます。アメリカでは確かにガス処刑はコスト対効果が悪いと見なさてれいました。ロイヒターはこの通説を利用したのです。ロイヒターはまた、一人一人の専有面積を考えるとガス室が狭すぎる、などと頓珍漢なことを言っていたらしいですが、これは専門家から「まるでナチがユダヤ人をくつろがせるためにガス室を設計したと言わんばかり」と一笑に付されています。

サリンでいいじゃん。というのは本当にそれこそお粗末な意見ですね。新型の神経ガスを民間人を殺すために使ったとなると、それこそアメリカやソ連によって化学攻撃による報復を正当化することになります。使えたはずがありません。歴史上でもそんなことをしたのはサダム・フセインただ一人です。イラン・イラク戦争でクルド人相手に使ったのですが、相手は報復の手段を持たぬ国なき流浪の民でした。それにサリンは毒性が強すぎて扱いが困難で、使用した実績もありませんでした。そんな状況でもし、簡単なつくりの収容所のガス小屋で使ったりしたら、兵士や警備兵にも大きな被害が出たでしょう。地下鉄サリン事件を目の当たりにした日本人でさえ、こんなおかしな主張をしてしまうのはとても残念ですね。。

それに、ガス殺用のツィクロンBは、無臭だったんですよ。もともと青酸ガスは無臭なんですが、それだと漏れ出た時などに危険を察知するのが遅れるわけでしょう?そこで誤用を防ぐためにシラミ駆除用のツィクロンBには刺激物による臭素をつけるようにと法律で義務付けられていました。しかし、ガス殺用のツィクロンBにはこの臭いをわざわざ消すように特注されたものが使われていました。発注したのはナチス親衛隊(SS)で、受注したのはドイツ害虫駆除有限会社(デゲジュ社)です。ツィクロンBがホントに害虫駆除用に使われていたのなら、なぜそんな臭いを消すような工作が必要だったのでしょうか。もちろん発注書は全て完璧に残っています。

死体安置所がガス室に改装された理由は、それが焼却炉に近接していたという理由に加え、この窓のない部屋に残留する毒ガスを換気装置で素早く吸出し、また新たな犠牲者を入室させることができたから、とされています。

また、解放後のアウシュビッツで見つかった、293もの麻袋の中に女性の頭髪が詰められていましたが、クラクフの法医学研究所は、持ち込まれたこれらの頭髪から「青酸反応が見られる」とはっきり明記しています。

また、ガス室が全部ツィクロンBだったというのも完全な勘違い(というか無知?)で、トレブリンカをはじめとした初期の絶滅収容所は、一酸化炭素ガスやディーゼルエンジンの排ガスを利用したガス有蓋車が、ガス殺に利用されていました。また各絶滅収容所では、銃や飢餓による虐殺もメインの手段でした。全ての犠牲者が整然とガスで殺されたわけではありません。

この説明でCとFの回答にもなっていると思います。

D犠牲者の数が多すぎて統計と合わない。陰謀論のにおいがする。

ホロコーストの犠牲者数の内わけに議論の余地があるのは確かですが、それはSS特殊部隊による移動抹殺作戦による銃殺、6つの絶滅収容所によるそれぞれのガス殺数、労働によって餓死に追い込まれた人々の数が、それぞれ研究の見解によって説にばらつきがあるからです。

修正主義者は戦後のユダヤ人人口の統計からみても、犠牲者は20万から100万人程度ではないか、とする説を採用して声高に主張するのですが、定説とほとんど同じ550〜600万人ではないか、という統計のほうがはるかに多いのです。修正主義者は特に根拠もなく、自分たちの主張にぴったりと合う少ない数字を意図的に選んで根拠として採用しているのです。目的はナチ犯罪の矮小化で、このような数字のトリックを使ってあまり知識のない人に「ナチの犯罪は大したことなかったんじゃないか」と思わせて引き込むことが目的なのです。

また、一般に流布されている通説に誤りが多いことも、修正主義者を利しています。

中にはアウシュビッツで600万人が殺されたと信じている人もいますが、これは通説とはまったく異なります。アウシュビッツを解放したソ連は400万人説を主張していましたが、これは誇張で、ソ連崩壊後に西側の調査が入り、いろいろばらつきがあるものの、現在は100~150万人がアウシュビッツの犠牲者とされています。これはホロコースト全体から見ればわずか6分の1に過ぎません。他はアウシュビッツ稼働前に存在していたベウジェツ、ソビボル、ヘウムノ、トレブリンカ、マイダネクなどの他5つの絶滅収容所や、SS特殊部隊による移動抹殺作戦によって命を落としたと考えられています。
http://3rdkz.net/?p=434&page=3

第Uアウシュビッツ=ビルケナウで、ガス室に向かって走らされる裸の人びと。命がけの隠し撮りです。

アウシュビッツ以外の絶滅収容所で、最も多くの人が死んだのはトレブリンカで、トレブリンカのガス室は一酸化炭素ガスが使用され、銃殺や人工飢餓によって全部で90万人が死亡したとされています。移動抹殺作戦によって銃殺されたユダヤ人の数は、90~250万人と推計されています。銃殺作戦の個々の事例には疑いの余地がないほどに証拠がたくさん残っています。

holoca2
SS特殊部隊による集団銃殺。ユダヤ人全てを処刑するよう命令を受けていた。

horocaust
同上。これは映像も残っています。

holo3
これもSS特殊部隊の有名な写真です。

数字にばらつきがあるのは、ナチが「タイルコマンド1005」などの証拠隠滅を専門の仕事とする特殊部隊を活用していたことや、戦争中の混乱や東西冷戦による調査の遅れによって数字が不正確になっている可能性があるからとされています。

しかし、内わけにはばらつきがあるものの、戦後から現在まで、ユダヤ人の犠牲者総数は550~600万人以上で、これはあまり変わっていません。

E被害者の証言や主張につじつまが合わない部分がある。


西側にある収容所:比較的自由に調査が出来る。→ガス室発見できず
東側にある収容所:情報が閉ざされがちで、調査が難しい。→「ガス室」あり

という状況に。これが偶然とは思えません。

これも無知が原因です。。よく色々ふっかけてくるものですよね。。

偶然ではもちろんありません。ナチは最初に手に入れた占領地ポーランドのユダヤ人を絶滅させることに力を注ぎました。これはオディロ・グロボクニクSS中将が実行した「ラインハルト作戦」と呼ばれるものです。ポーランドには欧州最大のユダヤ人コミュニティがあり、国民の10%近くがユダヤ人で、そのほとんどは都市部に在住していました。これらを集中的に短期間で殺すために、絶滅収容所がすべてポーランド各地に建設されたことはまったく状況と矛盾しません。「ラインハルト作戦」の結果、ポーランドユダヤ人の90%に当たる300万人が殺されました。これは各絶滅収容所の死亡者数の総計と矛盾していません。ナチはこれを手際よくやってのけたのです。

また、アウシュビッツは特にナチ占領地域のほぼ中心に位置していました。占領地のどこからでもアウシュビッツに移送して殺すことは容易でした。

上記のように、まったく疑問に思うようなところではありません。

G焼却炉の能力を考えれば、そんなにたくさん灰にできたはずがない。

これは本当に馬鹿正直な疑問ですね。死体がすべて焼却炉できっちり骨にされたわけではありません。焼却炉の能力は確かに不十分でしたので、その辺に穴を掘ってガソリンぶっかけて焼き殺したり、火炎放射器やナパーム充填剤を使用したりして「野焼き」にされた人々もたくさんいました。これは「サウルの息子」などのような映画作品や、生存者による手記「トレブリンカ叛乱」などの本でも確認できる事実です。しかも「野焼き」中の写真も多数残っています。

Auschwitz
「野焼き中」とのことで超有名な写真です。どう見ても死体を焼却場以外の場所で焼いています。これまで捏造だと言われたら命がけでこの写真を撮った人は報われませんね。。

treb
トレブリンカの火葬場跡。ただの巨大な穴でした。ソ連軍が来る前にSSによって証拠隠滅のために破壊されましたが、人骨が片付けきれずに残されていました。

焼かれて残った骨は囚人を使って砕いて灰にしました。水辺で灰を乗せて待機するトラックの写真などが連合軍の空軍作戦機による撮影で多数残されています。

H「肯定論者」が「否定論者」を相手にしないのが変。言論封殺っぽい。(@に近い主張か)

これは@と同じなんで省略したいところですが、否定論者は既に存在している証拠をあまりに無視し過ぎていると思うのです。言いがかりに近いですし、平然と嘘の証拠や、とっくに否定されている資料を再びもっともらしく持ち出したりします。。これらに反論することを面倒がっていると、↑のように言われるわけですが、実際よく知らない人がそのやり取りを見ていると、否定論者が感情論ばかりになって反論できていない、というように見えるようです。だからこそ、何度使い古された反論でも、また同じことを言わねばならない、と思われるのです(だからこの記事を書いたわけなのですが)。

I南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

南京とホロコーストはまったく個々の事例ですし、話がややこしくなるんでここでは南京大虐殺については言及しませんが、大衆の「信じたいものしか信じない」「聞きたくないものには耳を塞ぐ」という性質を巧みに利用した案件と思われるのです。


さあ、いかがですか? 上の2ちゃんねる系のリンクも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけということがわかっていただければよいのですが。特に「ロイヒターレポート」によるところが大きく、ロイヒターの意見はいまや完全に否定されています。

@〜Iまで全て説明したつもりですが、頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げない傾向にあります。。せめてよく知らないけど・・という人が「ホロコーストなんか本当にあったのぉ?」などと安易に口にしない、ネットに書き込まないことを切に願ってやみません。その言葉で誰かが傷ついているかもしれないことを想像してくださいね。貴方の軽はずみな言動で、日本のことが大嫌いになる外国人がきっといますよ。


あまり難解な専門書を勧めてもとっつきにくいでしょうから、こちらの本をお勧めします。修正主義者の典型的なプロパガンダの手口と、それに対する反論が短くまとめられています。

参考文献
アウシュヴィッツと(アウシュヴィッツの嘘) (白水Uブックス) – 2005/6/7
ティル・バスティアン (著), 石田 勇治 (他) (編集, 翻訳)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4560720800/ref=as_li_tf_il?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4560720800&linkCode=as2&tag=hissyo-22


http://3rdkz.net/?p=434&page=4



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c36

[ホロコースト2] マウトハウゼン収容所でも「ガス室」の大嘘? バルセロナより愛を込めて
1. 中川隆[-10707] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:53:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1335]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/105.html#c1

[ホロコースト5] 第3章 「ガス室」は実在したか?−−「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)   西岡昌紀
2. 中川隆[-10706] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:54:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1336]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/192.html#c2

[ホロコースト2] ホロコースト認めて禁固刑逃れを狙ったアービングの失敗は醜態 木村愛二
2. 中川隆[-10705] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:54:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1337]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/717.html#c2

[ホロコースト3] アウシュヴィッツの犠牲者数の変遷 侵略の正確な実像をとらえるために 提供人D
2. 中川隆[-10704] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:55:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1338]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/0601/holocaust3/msg/179.html#c2

[ホロコースト6] アウシュヴィッツには、戦後多くのドイツ人の女性や子供、老人などが収容された。--看守の多くはユダヤ人だった。 西岡 西岡昌紀
2. 中川隆[-10703] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:56:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1339]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/208.html#c2

[ホロコースト6] ダッハウの謎−−過去の「ガス室」目撃証言はどうなったのか?    西岡昌紀 西岡昌紀
43. 中川隆[-10702] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:57:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1340]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/205.html#c43

[ホロコースト6] 「ユダヤ人絶滅」の命令書は発見されて居ない。−−「ユダヤ人問題の最終的解決」とはソ連への強制移住を意味した。  西岡昌紀
5. 中川隆[-10701] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:57:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1341]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/210.html#c5

[ホロコースト6] ディーゼル・エンジンの一酸化炭素でガス室を作れるか?−−「ホロコースト」の教義の科学的不合理 西岡昌紀
3. 中川隆[-10700] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:58:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1342]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/211.html#c3

[ホロコースト5] ツィクロンB(サイクロンB)について     西岡昌紀 西岡昌紀
2. 中川隆[-10699] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:58:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1343]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/172.html#c2

[ホロコースト5] アウシュヴィッツの歩き方(重要なお知らせ)   これから現地に行く皆さんへ 西岡昌紀
2. 中川隆[-10698] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:59:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1344]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/183.html#c2

[ホロコースト6] (書評)シュロモ ヴェネツィア著『私はガス室の「特殊任務」をしていた』    西岡昌紀 西岡昌紀
5. 中川隆[-10697] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:59:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1345]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/09/holocaust6/msg/187.html#c5

[ホロコースト5] はじめに−−「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌紀 西岡昌紀
2. 中川隆[-10696] koaQ7Jey 2019年4月12日 18:59:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1346]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/195.html#c2

[ホロコースト3] ジェノサイドは歴史的事実の問題、ホロコーストは現在継続中の戦争プロパガンダの問題 たけ(tk)
2. 中川隆[-10731] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:00:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1311]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/0601/holocaust3/msg/515.html#c2

[ホロコースト2] ホロコースト神話の深層に潜む「二十世紀のファウスト」紹介 木村愛二
2. 中川隆[-10730] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:01:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1312]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/801.html#c2

[ホロコースト2] ホロコースト「生き残り証言」は大嘘の創作と判明した。 木村愛二
2. 中川隆[-10729] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:01:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1313]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/634.html#c2

[ホロコースト2] 放送法違反のNHKアウシュビッツ5夜シリーズvs電網事典 木村愛二
5. 中川隆[-10728] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:02:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1314]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/294.html#c5

[ホロコースト5] アウシュビッツに「シラミ駆除用のガス室」があったことは公知の事実です。 tk
2. 中川隆[-10727] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:02:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1315]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/142.html#c2

[ホロコースト5] 第4章 「証言」の問題−−「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌紀 西岡昌紀
2. 中川隆[-10726] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:02:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1316]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/191.html#c2

[ホロコースト2] ホロコースト「八百長」「ブッシュとナチスの結託」政府公文書 木村愛二
2. 中川隆[-10725] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:03:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1317]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/695.html#c2

[ホロコースト2] ナチス公文書公開はホロコーストの嘘の解明の決定版か 木村愛二
2. 中川隆[-10724] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:03:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1318]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/875.html#c2

[ホロコースト5] 第6章 「ホロコースト」の政治学−−「アウシュヴィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌 西岡昌紀
2. 中川隆[-10723] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:03:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1319]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/189.html#c2

[ホロコースト5] 第2章 「ユダヤ人絶滅計画」は実在したか−−「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌紀
2. 中川隆[-10722] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:04:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1320]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/193.html#c2

[ホロコースト5] あとがきにかえて−−「アウシュヴィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)  西岡昌紀 西岡昌紀
2. 中川隆[-10721] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:04:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1321]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/187.html#c2

[ホロコースト3] ホロコーストの嘘分からずに議論しても何の役にも立たぬ 木村愛二
2. 中川隆[-10720] koaQ7Jey 2019年4月12日 19:05:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1322]

日本の右翼は南京大虐殺や従軍慰安婦問題をねつ造と断言し、ホロコーストもねつ造であると印象付けている。

これは、日本の修正論者に顕著な言説です。ネットでは南京大虐殺や慰安婦問題を捏造と決めつけて異論を全く聞こうとさえしない人で溢れています。これらとホロコースト否定論を同列に並べて「戦勝国による捏造に苦しむ僕たち敗戦国」という図式を露骨に打ち出して共感を集め、さもホロコーストが「南京や慰安婦と同じ」捏造であるとする先入観を植え付けようとしています。

2ちゃんねるも、「マルコポーロ」も海外のネオナチ、修正主義者の大胆な仮説(=トンデモ理論)を焼き直しただけです。

頑迷な修正論者はあくまでどれほど論破されようとも、頑として自説を曲げません:


詳細は


【世紀の捏造?】”ホロコースト否認”を科学する【”ガス室はなかった”は本当か】2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=434


ユダヤ人虐殺を否定する人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=TLyZAbmpQvM

アウシュビッツ裁判 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=RcMf2W_5wF4

ドキュメント=ホロコースト生存者の証言 FC2 Video - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8S7eetmh7Tc


http://www.asyura2.com/0601/holocaust3/msg/324.html#c2

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
37. 中川隆[-10755] koaQ7Jey 2019年4月12日 20:30:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1287]

【ヒトラーを支えた共犯者たち】ナチスの最も極悪な10人 2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=13


ナチスドイツに実在した極悪人を10人ばかり選んでみました。
本当はもっといっぱいいるんですけどね。。

アドルフ・アイヒマン
Adolf Eichmann

ユダヤ人問題の《スペシャリスト》

Eichmann

オーストリア出身の親衛隊(SS)中佐。

ナチスドイツの巨大な秘密警察機構、《国家保安本部(RSHA)》のゲシュタポB4課(ユダヤ人問題担当)に所属し、ナチ占領区の1100万人にも及ぶユダヤ人を絶滅収容所に送り込む仕事をしていた。

アイヒマンは凡庸な男であったが、ユダヤ人問題のスペシャリストになろうと研鑽を重ね、いつしかその道のプロとみなされるようになった。上司のラインハルト・ハイドリヒに見出され、絶滅収容所行きの膨大な量の鉄道ダイヤを管理する立場になった。その仕事を熱心に続け、戦争が敗戦に傾いてもなおユダヤ人の絶滅と、ドイツ本国への移送に執念を燃やし、一人でも多く殺すことに情熱を傾け続けた。

戦後はヴァチカンの手を借りてアルゼンチンに逃亡したが、1960年、イスラエル諜報機関「モサド」によって確保されイスラエルで死刑判決を受けた。これは死刑が存在しないイスラエルでの最初で最後の死刑となった。彼の体は一時間にもわたって吊るされ、死体は焼かれ、灰は散布された。

アイヒマンによって数百万人が絶滅収容所へ送られ、そのほとんどが虐殺されたとみられている。

ラインハルト・ハイドリヒ
Reinhard Heydrich

《金髪の野獣》と呼ばれた秘密警察と諜報部のボス

Reinhard Tristan Eugen Heydrich

親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーによって見出され、ナチスドイツの親衛隊諜報機関(SD)の長官に就任後、ドイツ警察と親衛隊の融合をわずか数年で成し遂げた男である。彼の力で最悪の秘密警察機構《国家保安本部(RSHA)》が産み落とされた。RSHAは、終戦までの各所の弾圧や恐怖政治、ユダヤ人の大虐殺の実行犯として働いた。更にRSHAは強制収容所をも支配し、戦時下における礼状なしの逮捕と強制収容所への拘禁を行うことが出来た。

独ソ戦が始まると、ハイドリヒの命令によって対ユダヤ・パルチザン・共産党員のための特殊部隊(アインザッツグルッペン)が編成される。アインザッツグルッペンはわずか数千人規模の部隊であったが、SDやゲシュタポ、各警察から人員が引き抜かれ、現地の血に飢えたウクライナ・ラトヴィア傭兵を吸い込み、進撃する国防軍の背後で何の罪もない人々を手当たり次第に殺し始めた。わずか一年足らずで数十万人の無辜の民が銃殺された。

1942年1月には、ヴァンゼー会議として知られるユダヤ人絶滅のための会議を招集し、ユダヤ人をいかに絶滅させるかを、各省庁の実力者と話し合った。

9月には総統命令によってプラハに着任し、労働者階級の優遇と、即決裁判と公開処刑など、いわゆる飴と鞭の政策で、ほんの短期間で抵抗勢力を消滅させてしまった。その手腕にイギリス諜報機関はハイドリヒを危険視し、大量報復を招くと知りながらも暗殺を決行。暗殺は成功するが実行犯は全員死亡、関係ない人々まで関与を疑われて大量に死刑となった。

この暗殺に《総統》は怒り狂い、無関係の村リディツェ、レジャーキの消滅を指示。命令は実行に移され、二つの村が地図から消えた。

ハイドリヒが産み落としたRSHAはその後も帝国領内で恐怖政治を滞りなく続け、その地位はナチス崩壊のその瞬間まで微塵も揺るがなかった。

ヨーゼフ・ゲッベルス
Joseph Goebbels

嵐を巻き起こす《国民啓蒙省》

Joseph Goebbels

ナチスドイツには《国民啓蒙省》という珍妙な省があった。その大臣の地位にあったのがゲッベルスである。ゲッベルスの作り出すデマゴーグや、綿密に練り上げられた演説を前にすると、人々は黙り込み熱心に耳を傾けた。ゲッベルスの大衆を魅了する声の調子、誰でも理解できる精確な表現、辛辣なジョーク、容赦ない攻撃性、彼は大衆を扇動し、興奮させ、茫然とさせることができた。

しかし、ゲッベルスはナチ政権内において常に異端児であった。特に私生活では、その口のうまさと権威を傘に来て、手当たり次第に女性と関係を結んだ。ヒトラーがチェコをいかに手にするか思案していた時期に、チェコ人女性と不倫関係に溺れてスキャンダルとなった。

政権中枢から彼は軽く見られ、重要な計画もゲッベルスには知らされなかった。
http://3rdkz.net/?p=13

しかし、ヒトラーはゲッベルスの大衆扇動術を必要としていた。来るべき戦争に備えて国民を総動員し、覚悟を決めさせるためである。

ゲッベルスの言葉によって、男たちは兵士となり、女たちは未来の兵士を量産する工場となった。やがて、スターリングラードで大敗北し、東部戦線の戦局が傾いても、ゲッベルスは勝利がすぐそこにあるかのように《総力戦》を国民に要求し、ありとあらゆる人々が戦争に協力させられた。

そして、ドイツは滅びた。数百万の国民の命を道連れにして。《ハーメルンの笛吹き男》ゲッベルスは、自らの妻と5人の子供をを巻き添えにして殺した後自殺。それが彼の最期の殺人となった。


フリードリヒ・イェッケルン
Friedrich Jeckeln

《缶詰イワシ方式》という処刑法を確立した大物戦犯

yekkeru

独ソ戦開始にあたり、ハイドリヒが急遽編成したSDと保安警察の移動殺戮部隊は、主にバルト三国やウクライナ、ベラルーシで活発に活動した。当初は男のゲリラや政治将校を標的としていたが、徐々に女や子供などの非戦闘員にも殺戮が及び始める。

9月、ウクライナ首都キエフが陥落すると、イェッケルンはキエフに住まうユダヤ人を一網打尽にする計画を立て、9月下旬にはバビ・ヤール渓谷の処刑場でたった2日間で33771人のユダヤ人が銃殺された。手を下したのはイェッケルン麾下のゾンダーコマンド4aや警察、ウクライナの極右民兵たちで、女子供を問わない大虐殺となった。

犠牲者は物品を略奪され、衣服を脱がされ、バビ・ヤール渓谷まで歩かされた。そして処刑場まで着くと少人数のグループに分けられ地面に横たわるように命令された。その後銃殺班が哀れな犠牲者を処刑する。そして死体が何とか隠れる程度に土をかぶせ、また別のグループを呼び出して銃殺する。・・・・この手順が繰り返された。

これは《イェッケルン方式(あるいは缶詰イワシ方式)》と呼ばれる処刑法で、人間を完全にモノとして扱い、墓穴利用の効率性を極限まで追求するこの方法は、ただ残酷というだけでなくある種の薄気味悪さすら感じさせる。

その後もイェッケルンの計画によって、ラトヴィアのリーガ近郊の森の中でも3万人近くのユダヤ人が銃殺される。以降も、彼は様々な場所で移動殺戮部隊の銃殺や破壊活動、パルチザン狩りを指揮・監督した。戦争後期には《武装親衛隊》大将へ就任し、第五SS義勇山岳軍団の軍団長となったが、ソ連軍に拘束されて死刑となる。


オスカル・ディルレヴァンガー
Oskar Dirlewanger

ベラルーシを血の海に沈めた犯罪者旅団のボス

Oskar Paul Dirlewanger

恩赦を受けた犯罪者、密猟者、ソ連兵捕虜によって編成された教化部隊があった。その司令官についたのがこのディルレヴァンガーだ。司令官からして筋金入りの狂人で、第一次大戦やスペイン内戦にコンドル軍団の一員として戦った華々しい経歴と、政治学博士の肩書の裏には、婦女暴行や変態性欲、ユダヤ人の強姦など、常に背徳と犯罪行為が伴っていた。また、彼はアルコールと薬物の依存症で、生来から粗暴な気質を持っていた。

ディルレヴァンガー特務旅団は、独ソ戦で最も過酷なパルチザン戦が繰り広げられた、ベラルーシや西部ソ連地域で本能のままに暴れまわり、旅団の通った跡に残るのは、黒焦げの廃墟と死体の山だけだった。特に彼らが好んだのは、納屋の中に村人を詰め込めるだけ詰め込み、火を放って生きたまま焼き殺すことだった。逃げようとするものがあれば機関銃で撃ち殺した。ディルレヴァンガー旅団はベラルーシだけで3万人以上を殺害したという。

また、イェッケルンの指揮下で行われた「マラリア熱作戦」では、ディルレヴァンガー旅団によってユダヤ人やゲリラ、その疑いのある者1万人が銃殺された。ベラルーシで任務に就いていたドイツ軍・警察は、1日の殺害人数をノルマとして割り当てられ、大抵は村や町を包囲して機関銃で皆殺しにするか、納屋に詰め込んで焼き殺すか、地雷の処理を無理やりやらせて爆死させたりしてノルマを達成した。

1944年にはポーランドの首都ワルシャワで叛乱の火の手が上がるが、その時たまたま近くにいたディルレヴァンガー旅団が呼び出された。

旅団は、通りを一つ占領するたびにその周辺の建物から住民を「避難させる」と誘い出し、広場に追い立てて機関銃で皆殺しにしていった。旅団の通った後には誰一人動く者はいなかった。老人も婦人も子供も皆殺しにされて死体は山と積まれた。そしてそれらにガソリンをかけて火を放ったのだ。虐殺のあとは爆破した建物で埋めた。病院も襲われ負傷者、病人、看護婦、医者や助手など全て射殺されたという。

ディルレヴァンガーはその後も戦い続けたが、やがて重傷を負い、ポーランド人ゲリラによって処刑されたと伝えられている。
http://3rdkz.net/?p=13&page=2


オトマール・フォン・フェアシュアー
Otmar von Verschuer

「死の天使」メンゲレの師

Otmar von Verschuer

大戦中、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長の地位にあり、ナチ時代のドイツにおいて人種優生学や遺伝生物学を研究していた。アウシュビッツの「死の天使」ヨーゼフ・メンゲレは彼の弟子にあたる。メンゲレが双子を用いた人体実験を繰り返していたことは有名だが、フォン・フェアシュアーはメンゲレよりもずっと前から双子に着眼して様々な医学実験を行っていた。彼はまさにその道の権威であった。

メンゲレはアウシュビッツ医師の立場を利用して、ユダヤ人や双子の囚人に非道な人体実験を行ったが、研究レポートは全て師であるフォン・フェアシュアーに送られていた。それら研究書類はトラック二台分にもなったという。

フォン・フェアシュアーはヒムラーによって許可を得てアウシュビッツでの人体実験を指導・監督していた。メンゲレは手足となって動いていたに過ぎなかったのである。メンゲレは、殺されたジプシーや発疹チフスに感染させられたユダヤ人、双子の体の一部や、眼球、内臓、骨や血液のサンプルなどをベルリンの師に送っていたことがわかっている。

戦後の調査で、フォン・フェアシュアーがホロコーストをはじめとしたナチの破壊的な人種偏見の思想的バックボーンとして君臨していたという、いくつもの証拠が見つかったが、彼は訴追されることなく、ミュンスター大学の遺伝学教授に就任。更に、彼はアメリカの優生学協会の一員として、その道の権威として君臨し続けたという。

1969年、メンゲレの闇の実験の全貌を明かすことなく、自動車事故によってフォン・フェアシュアーはこの世を去った。カイザー・ヴィルヘルム協会はマックス・プランク協会と名を変え、今なお存在している。


ヴィクトル・ブラック
Viktor Brack

障害者安楽死計画「T4」とホロコーストの技術面を補佐したSS医師

Viktor Brack

ナチスドイツの悪名高い障害者安楽死計画「T4作戦」の主催者となった男である。

1939年10月、ヒトラーは、精神障害者安楽死計画の実行を指示した。この頃帝国公衆衛生局の連絡担当官の地位にあったのがヴィクトル・ブラックであった。

ブラックは、1939年12月、ティアガルテン4番地にある自分の事務所を「T4作戦」の本部とした。帝国公衆衛生局の庁舎内ではなく、ブラックの事務所を使ったのは、政府が精神障害者を抹殺していることを秘匿するためであった。障害者安楽死計画により、終戦までに27万5,000人の障害者がガス殺、投薬注射などによって殺害された。

その後、ブラックは、《ルブリン管区親衛隊及び警察指導者(SSPF)》オディロ・グロボクニク親衛隊中将の推挙を受けて、絶滅収容所におけるガス殺の技術面をサポートした。

1941年には、ユダヤ人を断種するための強制不妊化処置として、X線を使用した方法を考案。ヒムラーにこの方法を認めるようにと手紙を書き、ヒムラーはアウシュビッツの囚人で実験することを許可した。

彼はSS隊員でもあり、親衛隊上級大佐にまで出世したが、戦後は数々の非道な行為に加担した罪を問われ、絞首刑となった。ナチス時代に障害者の安楽死センターとして機能したハダマ―精神病院の記念碑にはこう書かれている。

    人間よ、人間に敬意を!


テオドール・アイケ
Theodor Eicke

強制収容所世界の創始者

Theodor Eicke

生来から粗暴な気質の持ち主で、第一次世界大戦には歩兵として出征し、いくつも勲章を受けるが敗戦後の動乱の中で職を転々とし、苦い挫折を味わった。そして、ヒトラーの親衛隊(SS)に活路を見出すが、同僚の党員とたびたび衝突を起こし、あろうことかナチ党員の爆殺謀議のかどで懲役刑を言い渡されてしまう。ナチ政権成立後は他の党幹部ともめ事を起こし、なんと精神病院へ入院させられてしまう。

しかし、《親衛隊全国指導者》ヒムラーはアイケの粗暴な気質を頼りにした。1934年の《長いナイフの夜》の際にはレーム粛清において重要な一翼を担い(レームを銃殺したのがアイケである)、その後はヒムラーより《強制収容所総監及び警備長官》に任命され、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーヘンヴァルト、リヒテンベルクといった強制収容所を支配下におさめ、その警備部隊として《髑髏部隊(SS-TV)》を結成する。《SS-TV》は軍隊式に編成され、後の武装SSの重要な戦力となる。
http://3rdkz.net/?p=13&page=3


ダッハウやザクセンハウゼンには、強制収容所部隊の司令部が置かれていただけでなく、強制収容所官吏の兵士たちに情け容赦ない強者の哲学を教え込む研修地としての側面があった。髑髏部隊の兵士たちは、ナチ党に反抗する「内部の敵」と戦う態度を求められ、敵に対する寛容さは弱さの印であるという信念を徹底的に叩き込まれていたのである。囚人に対する数々の拷問メニューも、ダッハウなど初期の強制収容所にて開発され、模倣されて行った。このような異常な教育を受けた兵士たちが、のちに武装SSとして前線に立った時、捕虜や民間人、ゲリラに対して情け容赦ない残虐行為に及ぶのは無理からぬことであった。

《髑髏》は武装SSに加入して強力に軍隊化され、西方電撃戦や独ソ戦でも第一線の矢面に立たされた。司令官は誰あろうアイケが就任したが、彼とその部下は西部ソ連地域で包囲下に晒されながらも異常に狂信的に戦い、部隊のほとんどが全滅するまで戦い続けた。アイケ自身も43年の2月に敵情視察中に乗機を撃墜されて戦死。

アイケは自らが挫折に満ちた人生であったため、髑髏部隊の隊員には、前科者やごろつき、無学な者であろうと広く採用した。そんな彼らはアイケに恩義を感じ、アイケのことを「親父」と呼んだ。彼らはアイケの命令以外は意に介さなかったという。髑髏部隊は、そのような実に奇妙な部隊であった。アイケ戦死の際には、その死体の回収のための特別部隊が編成され、部下たちは数々の苦難をはねのけ、アイケの亡骸を回収し、師団本部へと送って埋葬した。


オディロ・グロボクニク
Odilo Globocnik

《ラインハルト作戦》の責任者

OdiloGlobocnik

独ソ戦が開始されて以降、ポーランドなど、ナチの東部占領地域において、ゲットーが急遽作られ、ユダヤ人たちはその中に押し込められていた。しかし1942年以降、これらのゲットーは順次解体され、着々と建設が進められていた絶滅収容所へと大量に移送されて行くことになる。これはのちに《ラインハルト作戦》と呼ばれた。

グロボクニクは、元はオーストリアのウィーン大管区長の地位にあったが、汚職によって罷免され、ヒムラーによって引き立てられて《ルブリン管区親衛隊及び警察指導者》となる。名誉回復の場を求めたグロボクニクは、ホロコーストの最も汚く、かつ重要な仕事を熱心に遂行した。絶滅収容所の設置と、ガス室による殺害方法をヒムラーに提案したとされている。

グロボクニクによって、総督府全体のゲットーがすべて解体され、そこで生活していたユダヤ人たちは皆絶滅収容所へと送られ命を落とした。ラインハルト作戦の犠牲者は300万人に及んだ。

しかし、戦況が傾くと、各絶滅収容所で叛乱の火の手が上がった。ヒムラーは各絶滅収容所の閉鎖と証拠隠滅を指示し、ラインハルト作戦は終了となる。以降はアウシュビッツが殺戮の主舞台となる。

グロボクニクは自らの罪の重さを知っていたのか、1945年5月に英兵の捕虜になると、即座に青酸カプセルを噛み砕いて自殺した。


ハインリヒ・ヒムラー
Heinrich Himmler

《総統》の狂気を代行する者

himmler

ナチスドイツ最悪の暴力機関「親衛隊」の最高指導者である。田舎の校長先生のような風貌の通り、性格も真面目な公務員タイプだったそうで、彼の人柄からそのとてつもない犯罪を想像することは難しい。だがSSの歴史は彼の人生であり、SSの犯罪は彼の犯罪である。

ハイドリヒを見出し、アイケを引き立て、グロボクニクを送り込み、医師たちに人体実験を許可し、障害者抹殺計画《T4》やジプシー絶滅計画《ポライモス》を命令し、同性愛者を弾圧し、占領各地で金髪碧眼の子供たちをドイツ本国へと拉致して親衛隊家族に育てさせ、常にヒトラーの影で主の狂気を代理執行した。終戦間際には裏切り者や臆病者を処刑するために部下をフル活用し、第三帝国の最期の瞬間まで恐怖政治を主催した。

ヒトラーはがなり立てただけだが、それを狂的な真面目さで実行したのは、全てヒムラーだった。彼は主の妄想に疑いをさしはさむことなく、人々を血の海に沈め続けたにもかかわらず、終戦間際には裏切り騒動を起こして自分だけ助かろうとしたが、彼の犯罪はあまりに途方もなかった。戦後すぐに捕虜になったが青酸カリを噛んで自殺。裁かれることもなくあっさりと死亡した。


ナチズムによって命を失った、2500万人以上の人々の冥福をお祈りします。
http://3rdkz.net/?p=13&page=4
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c37

[近代史3] 平和よりも、もっと大切なものがある 中川隆
6. 中川隆[-10754] koaQ7Jey 2019年4月12日 20:50:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1288]

法律がイスラム教の棄教を認めてもムスリムコミュニティーが認めないし、怖いから誰も助けてくれない 2019年04月11日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12451616996.html

イスラム法上では棄教は死刑ですが、女性は終身刑としたり、棄教への刑罰に反対したりする改革派もいます。しかし、死刑を支持するムスリムが多数という事実があります。

一件穏健に見えますが、偽装棄教(タキーヤ)を認める学派の存在は気休めにもなりません。


もしかしたら、『イスラームをやめる自由』はないのでは?という質問がされるかもしれません。

確かに、イスラームの決まりでは、ムスリムがイスラームをやめることはできません。

しかし、心の自由はあります。

イスラームでは、ムスリム同士でも他人の内面の信仰をとやかく言うことを禁じています。

ですから、イスラームを信じなくなった人がいても、それが心の信条である限りは問題はありません。

ただ、そのことを広言することは、他の人にイスラームを捨てるよう求めることと同じですから、それは禁止しています。

それを、内部での争いを呼ぶ行為と考えているのです。
— 『イスラームという生き方-その50の魅力-』イスラーム文化センター、2007年4月20日、P.17「心の自由」

イスラム教における棄教

「心の自由がある」と言いながら棄教を広言できないのです。広言の程度も明確ではありません。そこがまた不安を煽ります。

棄教を、辺りを憚らずに言うことがどうして「他の人にイスラームを捨てるよう求めること」になるのか意味がよくわかりませんが、要は棄教を隠せということでしょう。

この説明をもっと簡単に言うとやっぱり、「棄教できない」 です。

イスラムは「心だけの宗教」ではないので、生活全般をムスリムのままで変えてはいけないならそれは棄教できないことと同じなのです。

今日本でも、宗教が政治社会体制と一体化しているイスラム教が勢力を拡大し続けています。書店でもイスラムをやさしく解説する本が目立ち始めました。

私が書店で見た優しい感じの入門書ではありませんが、内科医のfujipon様が、「イスラム教の論理」(著者:飯山陽)という本の紹介(感想)を書かれています。少し紹介します。

https://blogos.com/article/324974/?p=1


私たちはイスラム教の教義や論理について全く知らないにもかかわらず、私たちの価値観に反しない理解可能なイスラム教徒だけが「正しい」イスラム教だと決めつける傾向にあります。

テロなどの後、「良い」イスラム教徒と「悪い」イスラム教徒という風に私たちが区別しますが、これは非イスラム教徒側の価値観や尺度で見る勝手な憶測であるということです。


世界には様々な価値観を持つ人がいます。その中には私たちにとって好ましく、憧れの対象となるような人々もいれば、全く関わりたくないような人々もいます。私たちは一般に、それを「多様性」という言葉で肯定的に受け入れます。しかし世界にはこの「多様性」を否定的に捉え、世界はひとつの価値観に収斂されなければならないと考える人々もいます。

イスラム教という宗教は後者に属します。イスラム教徒ではない人にとってあまり嬉しいことではありませんが、それが事実です。イスラム教徒は従来の国家や地域の枠組みを越えた地球規模の拡大を目指すという意味では確かにグローバル化を志向しますが、それは私たちの考えるグローバル化とは全く異なるものなのです。

しかし、イスラム教徒が新しく侵入する場合には、私たちの社会が「多様性は善」としていることを利用して、その多様性の一部が自分たちムスリムだと言って入り込みます。


イスラム教徒にとっては国境も国民国家も民主主義もグローバル化も、所詮は「人間の産物」にすぎません。しかしイスラム教はそうではありません。イスラム教徒にとってのイスラム教は、神が人間に恩恵として与えたものです。神の恩恵であるイスラム教が、人間の産物である民主主義に優越するのは、彼らにとっては「当然のこと」です。

国境や国籍が意味をなさないと考えるところがグローバリストに好かれています。


私はイスラム教の研究者で、イスラム教について大学で教えたり、メディアで解説したり、ものを書いたりするのが仕事ですが、それらを続ける中ではっきりとわかったことがひとつあります。それは、日本人のイスラム教に対するアレルギーは非常に強い、ということです。

日本人の中にはイスラム教について単に知らないとか関心がないというよりは、それについては知りたくない、積極的に遠ざけたいという反応を示す人が少なくありません。

その理由のひとつは、イスラム教が日本人の考える宗教の枠組みの外にあるように感じるからかもしれません。日本人は概ね、宗教というのは個人の心の内面に関与し世界平和に貢献するものだと考える傾向にあります。

しかしもし、宗教というのは個人の心の内面「だけ」に関与し世界の平和「だけ」に貢献するものだと規定してしまうと、個人の行動に関与し世界を戦いへと駆り立てるような宗教は「宗教ではない」ことになります。

イスラム教はまさしく信者の行動を規定し、イスラム教による世界征服を目的とする宗教ですから、日本人的感覚で見ると「そんなものは宗教とはいえない」「そんな宗教は不要である」、といったリアクションが直ちにひきおこされます。

日本の中東イスラム研究者や日本人イスラム教徒らが「イスラム教は平和の宗教」と連呼する理由のひとつは、そう宣伝しないと日本人にはイスラム教が理解できないし、受け入れられないと考えているからです。しかしいくら日本人感覚にあわせてイスラム教をわかりやすいかたちに「改竄」しようとしても、イスラム教の真理は変わりません。

ダイヤグリーン

日本人が考える宗教は心の領域ですから、社会生活に影響を与えることはほぼありません。もともと八百万の神々が受け入れられているので、キリスト教やイスラム教もその中の一つくらいにしか考えていないのかもしれませんが、そうだとしたらあまりにも危険です。

その寛容さとイスラムへの無知を利用されて乗り込まれてしまったのです。

日本では信教の自由が憲法で保障されているから、イスラム教の棄教も大丈夫というあなた、彼らムスリムのコミュニティがそう思わなければ意味がないことに気付かないのでしょうか?次をご覧ください。

以前の記事を部分的に再掲します。

ソマリアからスウェーデンのイェーテボリに移民として来たQamar Cleasson(Qamar Osman)がFacebookに投稿したという動画上矢印についての記事です。

彼女は、クリスチャンに化けて、ソマリア人の改宗者を探す活動をしていました。

そして、コミュニティが怖くてイスラム教徒だと言い続けていた隠れクリスチャンを見つけると、それをFBに投稿してソマリコミュニティに広めているのです。

また、お金のない女性を買収してカナダへ行かせ、カトリック教会を舞台に難民たちの中に潜入させ騙して改宗させた自分たちの活動を自慢しています。そしてモスクから出てくる人々に褒められてメッカに送ろうと言われたと謙遜しています。

Muslima Fakes Christianity to Infiltrate, SPY on Somali Christian Church - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=aCaWZ7JeQ2M

動画前半を訳すとこんな感じです。


汚らわしい女のうちの一人はK○○・A○○です。(動画では本名で出ています)

ハルゲイザのイサック(ソマリランド※のイサック族のこと)です。今から写真を見せます。

(※ソマリアから事実上の分離再独立を遂げたソマリランド共和国の首都)

彼女はヒジャブを被り私は絶対にキリスト教徒ではない、と言います。

『何人かの女性たちが私を騙して、集まりに連れていきました。』

『彼女たちは私の写真を撮って、だからクリスチャンだと言うのです。』

私(Qamar Cleasson)はK○○と教会で会いました。

教会ではキリスト教の信仰が教えられていて、彼女の子供達は洗礼を受けました。

嘘は言えません。彼女は洗礼を受けていません。

彼女は恥ずかしがり屋で大勢の前で受けたくないと言いました。

彼女は私に言いました、

『牧師さんは非公開で洗礼してくれるかしら?みんなに髪の毛が濡れるのを見られたくない。』

彼女は見栄えを気にしていたのです。洗礼を拒否したのではありません。

彼女はイスラム教徒として育ちましたので、洗礼を内密にしてほしかったのです。

彼女はキリスト教徒でした。

イサックの人々、ソマリランドの人々、habar yoonisの部族よ、

K○○・A○○はクリスチャンです。私のFBに写真を貼っておきます。

この女は「私の名前はK○○・A○○です。私はイスラム教徒でクリスチャンでは決してありません。」こう言ったのです。

私とK○○は教会で初めて会いました。

私たちはこんな風に『ハレルヤ、ハレルヤ、神のお恵みがありますよう』にと言っていたのです。

彼女はクリスチャンでした。私はクリスチャンの彼女を3年間知っていました。

(〜後略〜)

西側は、イスラムフォビア取り締まりにしか興味がなく、名指しされた改宗者は恐怖から身を隠すことを余儀なくされ、警察はリソースが足りなくて何もできないと言っているそうです。

こういう社会って怖くないですか?

社会は一人一人が作っています。こういう集まりがあちらこちらにできてくると、恐怖に縛られ、公権力よりも地元実力者の支配下に自らの意思で入っていくことになるのです。


日本では外国人に慣れていないせいか彼らに及び腰で法の適用が甘いです。

国民主権と言いながら、実際には裁判官がさじ加減であり得ないような判決を出す国です。

イスラム関係の事件は、上記のソマリア人のように現地の警察が無視するのです。

日本だって同じです。ご記憶ありますか?

「悪魔の詩」訳者殺人事件は恐ろしい事件なのに警察はまともに動きませんでした。

原作者はイギリスの警察が保護していて大丈夫でも、それを翻訳した人たちが複数殺された事件です。日本では翻訳した筑波大学の教員が、見せしめに殺されました。外国人ムスリムの犯行が疑われるも外交関係というか、ムスリムが怖くて日本政府は何もしませんでした。

(日本政府が強く出る相手は従順な日本人に限定されています。)

なぜ?という問いに論理的な答えがあり、それを基に動くのが私たちの暮らす社会です。

なぜ?という問いに「神がそう言った」という社会を日本に作らせてはいけないと思います。

「今まで日本人は外国から様々なものを受け入れて取捨選択や融合によって独自の文化を築いてきた」、そのような自信はイスラム教を受けいれる経験としては全く役に立ちません。

イスラム教側にそのような文化や考えがないからです。

これは良し悪しではなく、事実として真面目に受け止め考えなくてはいけないことです。

私達と全く価値観が違うのです。話せばわかるという思い込みはむしろムスリムに失礼です。

そのままのイスラムを認めて受け入れれば、日本の統治が行き届かない場所が増えるでしょう。

前出の著者でイスラム研究者の飯山陽氏のこちらの記事もぜひご覧ください。

なぜイスラム教では「宗教に強制なし」なのに「棄教=死刑」なのか?(2019年2月1日金曜日)
http://www.iiyamaakari.com/2019/02/blog-post.html

また、日本人がハラルフードを金儲けだと考えていることに対するツイートもあります。左下矢印

中国共産党も金儲けが好きですが、私達より利口ですね。

彼女は、『「アジアのイスラム教徒は穏健だ」という思い込みはイスラム過激派には一切当てはまりません』と述べています。

日本は世界最大のムスリム人口を抱えるインドネシアからも嬉しそうに移民を奨励しています。インドネシアはFGM(女性器切除)が盛んですが、彼女たちの後遺症を日本の公的保険でカバーしますか?インドネシアでは国中にイスラム過激派のスリーパー(実行までは一般市民として生活する過激派)がいます。もう日本にもスリーパーはいるかもしれませんね。

今私たちは離島ではなく本土で領土を失いつつあることに気付きましょう。



https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12451616996.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/339.html#c6

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
38. 中川隆[-10753] koaQ7Jey 2019年4月12日 22:24:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1289]

【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】 2017/5/11
http://3rdkz.net/?p=250


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。

なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。

非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。

目次
実験T 低圧・低温実験
実験U 海水を飲料にする実験
実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究
実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験
実験X 毒物接種実験
実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集
実験Z マラリア実験
実験[ 双子実験
実験\ 強制不妊化実験
実験] 飢餓実験

なぜこんなことが起こったか


実験T 低圧・低温実験

低圧・酸欠下での救出実験

hypothermiaドイツ空軍が高度12000メートルに達するジェット機を開発したまでは良かったが、人体がそのような超高度環境にどのような反応を見せるのか、ということに関して信頼できるデータはまだなかった。そこで、ドイツ空軍軍医大尉であり、親衛隊将校でもあったジクムント・ラッシャー博士は、《ライヒスフューラー(親衛隊全国指導者=ヒムラー)》へ手紙を書き、ダッハウ収容所の死刑囚を用いた人体実験の許可を求めた。

1942年3月、ヒムラーは実験を許可し、ラッシャー大尉の責任において、超高度における人体の反応の観察や、パラシュートや特殊機材を用いた救出を実用化するための危険な人体実験が行われた。超高度の低圧環境下で被験者を酸欠の状態に留め置き、どれぐらいの時間をかけて被験者が死亡するのか、またどのようなタイミングでしかるべき処置を行えば彼を救出できるのか、ありとあらゆる場面を想定して実験が行われた。当然のごとく実験は死者が続出したが、ラッシャーは死にゆく被験者の行動を観察し、心電図を記録した。そして、屍を解剖し、肺や心臓、脳の血管の空気塞栓の状況などを記録。逐一ライヒスフューラーへ報告していた。

実験に駆り出された200人の囚人のうち、実に80名の被験者が死亡した。

低体温・冷却からの蘇生実験

freeze
冷却実験の様子

ラッシャーとその協力者たちは、ダッハウにて更に人体実験を行うことにした。今度は海難事故などにより寒冷下に晒された人体を、いかに蘇生・回復できるか、といった実験である。やはりパイロットを救出することを前提とした実験であったが、実際にはダッハウの囚人300名を4〜12℃に冷却した水の中につけ、体を極限まで冷やしたのち、いかにすれば効率よく回復できるかを試すもので、この実験で90名が死亡。今日においてもこの実験結果が国際的専門誌に引用されているという。

この実験は当初よりライヒスフューラーの関心を買った。ヒムラーは冷え切った肉体を温めるためには、同じ人間の皮膚の接触。つまり、裸の女性による抱擁が効果があるのではないか、と考えた(ヒムラーはしばしばこのようなロマンチズムに基づく推測を実践させた)。ラッシャーはヒムラーの意向に沿ってダッハウ収容所より若い女性4名を召喚。そのうちの一人があまりにも見事なアーリア人種の肉体的特徴を備えていたため、ラッシャーは彼女を実験に使用することを拒否したという。つまり、被験者は下等人種とみなされたスラブ人やソ連兵捕虜であり、これを裸で温める乙女がアーリア系であってはならないというのである。この逸話からもわかる通り、人体実験は激しい人種差別の賜物であった。ちなみに女性の体で温める方法は非効率で到底実用に耐えないものであったという。

この実験は、場所を変えてアウシュビッツ収容所でも行われた。アウシュビッツのほうがより寒く、広大で実験が目立たなかったからだという。つまり、被験者は多くの場合、「苦しみにより悲鳴をあげた」からである。ラッシャーは被験者に麻酔をかけることを禁止し、なんら苦しみを緩和するための努力をしなかった。

ある実験では、ソ連軍将校2名がアウシュビッツで、水桶の中に裸で入らされた。通常なら60分程度で意識を失い、死亡するのだが、このソ連将校2名は3時間経過した頃に「同志…銃殺してくれないか」と頼んだという。その後、二人は握手を交わし、「さよなら、同志よ」と言った。ポーランド人の助手が見兼ねてクロロフォルムで二人に麻酔をかけようとしたが、ラッシャーはピストルを突きつけ、これを制止した。二人は5時間後にようやく死亡し、死体は解剖するためミュンヘンに送られた。

ラッシャー夫妻は子供に恵まれず、子供を誘拐、金銭で買い取って自らの子であるとして育てていた。これが明るみに出るとライヒスフューラーは激怒。ラッシャーは多くの囚人を殺害したダッハウにおいて、自らも処刑された。戦争が終わる直前だった。よって戦後もラッシャーは裁きにはかけられず、協力者たちは全ての責任を、同じく死亡したヒムラーとラッシャーにかぶせることに成功。この非道な人体実験で裁かれた者は結局誰一人としていない。

実験U 海水を飲料にする実験

この実験は、やはり海難事故に遭遇し、海の上を漂流することになったパイロットを救うために企画された。

二人の科学者が海水を飲料にするための試みを始めた。シェーファー教授が海水から塩分を分離するための設備を開発しようとして成功したが、これには多額の費用が掛かるため実用性なしと判断された。一方空軍技師ベルカが開発した「ベルカティカ」という薬品は海水の味を飲める程度に変えてしまうもので、この薬品はコストパフォーマンスにも優れ、大量に生産された。

しかし、すぐにこのベルカ方式の海水を飲むと、「より渇きがひどくなる」という声が上がり始めた。味を調整しただけで海水は依然として多量の塩分を含んでいたし、飲みすぎることで渇きが悪化し、下痢すら引き起こすことが分かった。

どちらの方法で渇きを解決するのか、ダッハウ収容所内で再度人体実験が行われた。被験者はいくつかのグループに分けられた。数日間にわたって海水を飲むもの、ベルカ方式の海水を1日500cc飲むもの、1000cc飲むもの、シェーファー方式で精製された水を飲むもの、などである。

被験者はブーヘンヴァルト収容所から連れてこられたジプシーたち40名であった。彼らは表向きは志願であった。実験の詳細についてきちんと説明を受けた上、実験前10日間は完璧な航空兵糧食3000キロカロリーを摂取し、健康管理を入念に行ったうえでの実験であり、死亡した者、後遺症が出た者はいないとされている。しかし、実験は著しく苦しく不快なものとなり、被験者の中には清掃班のバケツの中の汚水を飲んだり、モップから垂れたしずくを舐めた者がいたという。このような実験が本当にすべて志願だったと言えるだろうか?ましてや被験者のほとんどは賤民と見なされていたジプシーである。これは戦後の裁判で検察の激しい疑惑をかい、追及を受け、実験を主導した者たちは禁固15年〜終身刑を受けた。

ただし、実験で重篤な障害を受けた者、死亡した者がいなかったのは確かなようである。フランス人の医療助手や被験者のジプシーのうち数名が、宣誓供述書を提出し、実験を主導した科学者たちの恩赦請求を行っている。

実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究

発疹チフスのワクチン接種実験

東部戦線や各収容所で猛威を振るった発疹チフスから、前線兵士を救うための人体実験がブーヘンヴァルトとナッツヴァイラー各収容所にて行われた。

実験は1942年の春ごろから1944年の末まで続けられた。

それまで存在していた発疹チフスのワクチンは、病気の症状を軽減させることはできても、本来の目標たる免疫力の獲得、つまり病気に罹らずに済む、というものではなかった。これを深刻にとらえたSS上層部の医師団や衛生担当者たちは、人体実験の施行を強く主張。ブーヘンヴァルト内にウィルス研究部が設立され、SS軍医や権威ある熱帯医学者などが参加した。

実験は数十種類にも及ぶ各種ワクチンを接種した上で、数週間の間隔を置いたのち、人為的に発疹チフスに感染させるというものだった。対照群として設置された群は、ワクチン接種群と比較するために、単にチフスに感染させられた。

ワクチンを接種した者たちも、多くの場合、高熱や頭痛など、「発疹チフスの症状」に悩まされた。

被験者に選ばれた者たちは、ドイツ人の刑事犯、ポーランド人、ソ連兵捕虜、ジプシーなどである。健康状態が優良なものたちが数百人選び出され、少なくとも150名以上が死亡した。ブーヘンヴァルトの医師、シューラーSS大尉は終戦間近で自殺したが、彼の業務日誌が囚人によって廃棄を免れた。その中には、他にも黄熱病、チフス、コレラ、ジフテリアに対するワクチンや薬物の効果で800人の被験者が人体実験にかけられたことが示唆されている。

伝染性肝炎ウィルスの研究のための人体実験

独ソ戦が始まると、黄疸症状に悩まされる兵士が非常に増えた。致死的な病ではなかったが、発病者が多く、軍の作戦能力を衰えさせるものとして研究が開始された。肝炎はそれまでバクテリアによる感染と考えられていたが、細菌学者のドーメン軍医大尉がウィルスを発見し、培養するためSSがウィルス株の管理権を要求したがドーメンは拒否して独りで研究を続けていた。

各所からの圧力に耐えかねたドーメンは、ついにザクセンハウゼン収容所内で、囚人に対して人為的に肝炎ウィルスを感染させる人体実験を行った。これは《帝国医師総監(=エルンスト・グラヴィッツ)》の強い要請だった。ドーメンは良心の呵責に苦しめられ、実験が開始されたのは1944年も9月になる頃だった。
http://3rdkz.net/?p=250


アウシュビッツから、子供や青年からなる11人の囚人がザクセンハウゼンにやってきてドーメンに委ねられた。ザクセンハウゼンの第二病棟において彼らの世話をしていた古参囚人ブルーノ・マイヤーは、実験の内容について記録を残している。以下に引用する。


ドーメン博士は医療器具カバンから一本の斜めに歯のついたゾンデを取り出してサウル・ホルンフェルトの背後へ近づき、指で彼の背中を探りました。そしてゾンデを当て、子供の背中の筋肉を通して深く体の中まで突き刺しました。サウル・ホルンフェルトは痛みのあまり、自分の小さな拳を噛みました。急いで私は彼の前へ歩み寄り、声を押し殺して、しっかりしろと言いました。涙で見えない目で彼は私を見ました。そして、医者が再びゾンデを突き刺しました。(中略)その後、私は、ドーメン博士がゾンデから長い針を抜き、ゾンデの開口部に急いで試験管をあてがうのを見ました。黒っぽい血が試験管の中へ滴り落ちました。小さな組織も、―—多分肝臓の一部だったでしょう——少しその中に混じっていました。



結局、肝炎ウィルスを人為的に感染させる実験は成功しなかった。ドーメン博士や囚人たちがその後どうなったかは明らかではないが、博士は戦後実験結果を発表している。

医療用ゾンデ
医療用ゾンデ

第V収容所 1 share 1 user
【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内


少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか...


実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験

人為的にガス壊疽を作り出す実験

1942年5月、《国家保安本部(RSHA)》長官及び、ボヘミア・モラヴィア保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒがイギリス諜報部の襲撃を受けて重傷を負った。治療の責任者は武装SSの顧問外科医カール・ゲプハルトであったが、ゲプハルトの飛行機は延着したので直接手術に携わったのはプラハの医師二名である。ゲプハルトは《総統》とヒムラーの個人的な電話を何度も受けた。ヒトラーは自分の主治医であるモレル博士を派遣するとまで言った。

しかしハイドリヒは処置の甲斐なく6月2日に死亡。ゲプハルトはその後ヒムラーと謁見し、「ハイドリヒの死はドイツがこれまで経験したことのない巨大な敗北であった」と《総統》が考えていることを知らされた。ゲプハルトには汚名返上の機会が与えられた。ハイドリヒ長官が負傷による敗血症によって死亡したことを受け、至急、スルフォンアミドの効果を調べる人体実験の実行が決まった。

実験の舞台に選ばれたのは女性専用の強制収容所ラーフェンスブリュックであった。実験の目的は、当時未解明な部分が多かったガス壊疽という症状を分析し、有効な治療方法を見つけ出すことであった。そして、同時に戦場で多く見られる通常の傷口を調べ、有効な治療法を探す目的もあった。

被験者はザクセンハウゼン強制収容所から連れてこられた男性囚人や、ポーランドの抵抗運動に携わった女性囚人たちである。彼らはわざとけがを負わされ、木片やガラス片を傷口に練りこまれた。

《帝国医師総監》グラヴィッツは、実験場を視察し、被験者に死者が出ていないことに対して実験が手ぬるいと感じ、本物の銃創を彼女たちに負わせるように、と命令した。ゲプハルトはこの命令を拒否したが、より傷口の状態を悪化させることに努力したことに変わりはなかった。彼女たちは下腿の血管を結紮され、壊疽性の腐敗病原体を接種させられたりした。そのうえで彼女たちは処置も受けられず何日も放置され、本物のガス壊疽の症状により3名が死亡した。

人為的にひどい敗血症に陥らせた上でスルフォンアミドの効力を実験したが、傷を負わされただけで何の処置も受けられない囚人もいた。実験内容は1943年の5月にベルリンの軍医大学校で発表されたが、出席者の中で被験者の人権について申し述べた者は一人もいなかった。

他人の骨を移植して治療効果を見る実験

ラーフェンスブリュック強制収容所内で、女性を使って行われた他の実験群は骨の再生と骨の移植の実験である。

肩胛骨を他方から他方へ移す実験が行われた。肩胛骨を除去されたのは、ラーフェンスブリュックの精神病患者の女性であった。この女性は肩胛骨を抜き取られた後速やかに薬殺された。肩胛骨を移されたのは、ホーエンリーヘンの血管の癌により肩胛骨を失った若者で、彼は癌を再発することなく生きながらえたという。

この実験のほかにラーフェンスブリュック収容所内で、神経再生、筋肉再生の各実験、切断やその他の実験が行われたといわれるが、その規模や詳細は不明である。収容所医師の一人、ローゼンタール博士は、負傷に苦しみ、助かる見込みのない重症の囚人を20〜30人、楽に死なせるためにモルヒネを過剰投与したと断言している。

実験X 毒物接種実験

イペリッドガス

大戦期間中、ザクセンハウゼン、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフの各強制収容所内でびらん性(皮膚をただれさせる作用)のイペリッドガス(=マスタードガス)の人体実験が行われた。これは例によってヒムラーの命令だった。

イペリッドガスによる負傷の度合いと、効果的な治療法を見つけることがその目的である。この実験はストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士などが主にかかわった。

この毒ガス実験については、ナッツヴァイラーのカポ(囚人頭)であったフェルディナント・ホルの生々しい証言が残っている。


囚人たちは真っ裸にされ、次から次へと実験室の中に入ってきました。彼らは前膊から10センチほどの箇所にその液体を塗られましたが、その時私が彼らの腕を抑えていなければなりませんでした。その後、処置を施された被験者たちは隣の部屋へ行き、そこで腕を広げたまま約1時間立っていなければなりませんでした。約10時間もすると、あるいはもっと長かったかもしれません、火傷が、それも全身に出てくるのです。盲目になった人々もいました。ひどい苦しみで、被験者たちのそばにはとてもいられないほどでした。その後、被験者たちは毎日写真を撮られました。しかもすべての傷の箇所を、つまり全ての火傷の箇所を写真に撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。(中略)内臓、肺などは全て完全に腐食していました。その後の数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2か月続けられました。



実験は何度も行われ、平均して毎回7~8名の死者が出た。生き残った者たちも後遺症の残った体でアウシュビッツやベルゲンベルゼンに送られた。

硝酸アコニチン弾丸の創痍研究


極秘事項

帝国医師ー親衛隊警察、主席衛生官

日誌番号 秘364/44 ムルゴウスキー

1944.9.12

硝酸アコニチン弾丸について

SS少佐ディング博士、ウィマン博士、および筆者立ち合いで1944年9月11日、5人の死刑囚に、毒物である硝酸アコニチン結晶入りの弾丸(直径7.65o)を用いて実験を行った。被験者を寝かせ、左大腿に1発撃ちこんだが、2人では弾丸は貫通、後になっても毒作用は出なかったので、実験から除いた。(中略)

3人の症状は驚くほど一致していた。最初は異常がなかったが、20分から25分後に動きが不穏となり、遅れて、よだれが少し出始めた。しきりに飲み込もうとしたが、量が増えて飲み込めないほどになり、ついには、泡を含んだよだれが口から漏れてきた。それから、吐き気、嘔吐が始まった…。

約90分後、1人の呼吸が深くなり、同時に運動不穏も増強した。呼吸は浅く速くなった。同時に強い吐き気が現れたが、吐こうとしても何も出なかった。指を4本付け根まで口に深く入れて吐こうとしたが吐けず、顔は真っ赤になるだけだった。

他の2人の顔は早い時期から蒼白になっていた。他の症状は同じだった。運動不穏の出現は遅れたが、極めて強くなり、棒立ちになったかと思うと、また、床に身を投げ出した。白目をむき、手や腕は意味のない動きをした。最後に、不穏の程度は弱くなり、瞳孔は極度に散大、被験者は静かに横たわるだけだった。1人には咬筋の痙攣が現れ、尿失禁が認められた。3人の死亡は、受傷後それぞれ、121,123、および129分であった。
http://3rdkz.net/?p=250&page=2


総括 およそ38mgの硝酸アコニチンを詰めた弾丸による創自体はひどいものではなかったが、2時間後に致死的な中毒が現れた。中毒症状の出現は、受傷後20分から25分で、主要症状は、流涎、瞳孔径の変化、腱反射消失、運動不穏、強い吐き気であった。

講師医学博士ムルゴウスキー、SS上級大佐、主席衛生官

上の手記と一致するかは不明だが、ザクセンハウゼン収容所で死刑囚を用いた毒の弾丸の実験が行われた、との展示がある。その射撃手はムッソリーニ救出の特殊部隊を率いた、オットー・スコルツェニーSS中佐である。

実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集

hiltストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士は、1942年の2月にヒムラーにあてて手紙を書き、ユダヤ人、共産党員、赤軍政治将校の頭蓋骨収集の許可を求めた。ヒムラーはおおいに関心を持ち、ヒルトに自分の政治的権力の全てを委ねてこれを支援した。

当時、ナチスドイツはありとあらゆる人種の頭蓋骨を収集して、その形態を測定したり、歪んだ人種優生学に基づく様々な研究を行っていた。しかし、ユダヤ人に関しては当時サンプルを獲得する術があまりなかったらしい。独ソの開戦はその状況を打開する最良の機会となった。既にホロコーストは開始され、ユダヤ人と共産党や政治将校は同一視されていた。彼らの頭蓋骨を一定量獲得し、データを取得することで、占領地において効率よくユダヤ人や政治将校と、その他の民族の鑑別を容易にし、効率的に撃滅できる、というのが彼らのデタラメな論理であった。

ヒルトとその協力者たちが、いかにしてそれらのサンプルを選定したかは定かでない。既に収容所にいたユダヤ人なのか、占領地から生きたまま拉致してきた政治将校や捕虜たちだったのか、とにかく、彼らがアドルフ・アイヒマンを通してアウシュビッツの囚人約120名を、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフ各収容所の実験施設へ送ったのは確かである。

それら120名の囚人は「首から上を傷つけぬように」ガスによって殺害され、合成アルコール入りの水槽の中で保存された。ヒルト博士はそれらの死体を細かく解剖。

ヒルトは戦後逃亡先で自殺した。

実験Z マラリア実験

ベルリンのロバート・コッホ研究所所長で、熱帯医学部門長であったクラウス・シリング博士は、1936年の現役引退後も、イタリアでマラリアのワクチンの開発研究を続けていた。1941年末、内務省保健衛生事業担当官のレオナルド・コンティ博士によってダッハウ強制収容所で研究ができることを勧められ、翌2月のはじめから実験を開始。1945年の3月半ばに74歳のシリングが手術を受けるためにミュンヘンにでかけたあと、ヒムラーが実験中止を命令した。(敗戦が近かったからであろうか?)

シリングの3年にわたる実験でおよそ1000人がマラリアに感染させられ、330人が死亡した。

実験[ 双子実験

ベルリン、ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長のオトマール・フォン・フェアシュアーは、双子に関する研究を手広く行っていたが、戦争が始まると弟子のSS大尉、ヨーゼフ・メンゲレ博士をアウシュビッツに送り込んだ。彼はアウシュビッツの降車上に自ら赴いて、何千もの双子を集めてコレクションし、過酷な人体実験を行った。

mengere
ヨーゼフ・メンゲレ

メンゲレは、静脈をつなぎ合わせてシャム双生児を人工的に作ろうとしたり、眼球に薬品を注射して瞳の色を変えようとした。また、チフス菌を注射して病気の経過を血清学的に記録した。また頭蓋骨の収集もぬかりなく行われ、それらの実験報告を師のフェシュアーに送っていた。メンゲレは3000対の双子を人体実験にかけ生き残ったのは100名だけだった。


ある生存者の報告

ある日、私の双子の兄のチビが特別実験のために連れていかれた。メンゲレは、最初から、チビに非常に興味を持っていた。なぜか知らないが、比較的歳のいった双生児であったからかもしれない。

メンゲレはチビを何回となく手術した。脊椎手術で麻痺となり、走れなくなった。

性器も除去してしまった。4回名の手術後、チビには2度と会えなかった。

私の気持ちがどんなだったか、あなたに言えないし、言葉にも表せない。

私は父、母、兄2人を失っていたのに、また双子の兄もなくしてしまった。


メンゲレは1979年に逃亡先のブラジルで海水浴中に死亡した。

実験\ 強制不妊化実験

ナチの歪んだ人種思想は戦争前から活発ではあったが、独ソ戦の開始と共に東方民族絶滅の意志はますます固くなるばかりだった。その手段としてずっと論議されてきたのが、断種措置による強制的な不妊化処置の遂行であった。

ナチの断種の施策は大きく分けると3つの経過をたどった。

薬品による断種

カラジューム・セグイヌム(サトイモ科の観葉植物の一種)を接種することによって、特に男性は生殖不能となるとされ、この植物を大量に栽培しようとするのだがコスト面で実用に耐えないことが分かった。ヒムラーは農業に大変関心が高い男であったため、カラジューム・セグイヌムの構成要素の分析を進め、人体実験を行うべし、との命令を発した。

しかし、これを命じられたコッホ博士はありきたりな動物実験を行うのみにとどめ、命令を事実上サボタージュした。それはあまりに実用性がなく、他の方法がどんどん進んでいたからであった。

放射線による断種

帝国公衆衛生局に所属し、障碍者の断種・殺害計画に関与したヴィクトル・ブラック博士は、放射線による断種の研究と人体実験の許可をヒムラーに求めた。それまで行われていた外科手術に頼る方法では、あまりに労力とコスト面で現実味がなかったからである。

これをヒムラーは許可し、第Uアウシュビッツ(=ビルケナウ)や女性収容所のラーフェンスブリュックで、それぞれ放射線による断種の試みが行われた。若い適齢期の男女は、何の説明もないままに不意に呼び出され、性器や子宮、睾丸付近にレントゲンを照射された。

彼らの多くは火傷を負い、傷口は膿み、そのような体で重労働につかされた。歩けなくなったものは銃殺・ガス殺された。

レントゲン照射後数週間してから、男性囚人は外科的に睾丸を摘出された。レントゲンの効果がどの程度であったかを検証するためであったとされる。しかし、レントゲン照射を受けた囚人たちは局部に重傷を負い、結局は絶滅収容所の中で死んでいった。

ブラック博士は、この不妊化処置を「殺すよりはマイルドな方法」と認識していたらしく、裁判で「絶滅政策を緩和するためにあえて提案した方法だった」と証言した。法廷はこの詭弁を却下し、ブラックを死刑に処した。

子宮内の刺激作用による断種

drclaubergこの方法は、ケーニッヒスヒュッテの医学博士クラウベルク教授によって開発された。教授はもともと卵管閉鎖による不妊を治療する方法を開発して有名になった人物だった。

1933年にナチ党に入党し、その医学の知識を、今度は「下等人種」の断種のために傾けようとしていた。
http://3rdkz.net/?p=250&page=3


クラウベルクはヒムラーと協議し、外科手術を用いることなく不妊化させる方法を話し合った。教授が考えていたのは卵管にホルマリン溶液を注入するという方法だった。ヒムラーはアウシュビッツにクラウベルクの実験施設を作るよう、部下のルドルフ・ヘースに命令した。

約500人の女性がクラウベルクの前に引き出され、狂気の実験の犠牲となった。収容所に響き渡る女性の悲鳴の原因は何のか、あの医師は囚人にいったい何をしているのか調べようと、女性看守が飛んできたこともあったほどであった。

実験により少なくとも7人の女性が死亡。残った囚人のうち、何人がガス室に送られたかは不明である。

教授は1945年にはラーフェンスブリュック収容所へ移り、35人の女性に人体実験を行った。戦後は赤軍に捕まり25年の判決を受けるがのちに恩赦。ドイツに戻るとドイツ当局に再逮捕され、57年、拘留中に死亡した。

実験] 飢餓実験

ナチスドイツのユダヤ人絶滅政策は、経済学と一体不可分であった。一体どれほどのユダヤ人を労働力として活用し、1日に与える食事量はどの程度で、平均してどのぐらいの期間働かせたのち餓死させ、最終的にいついつまでに何人殺すのか……

このような狂気の経済学を日夜考え、そろばんをはじき、実践するために各省庁に協力を仰ぎ……ドイツ人の官僚的気質がこれ以上上等に発揮された機会はなかった。

飢餓実験はいわば、このようないわば「虐殺の経済学」とも呼べるものの産物だった。

慢性的な食糧不良に苦しむドイツで、何百万、ともすれば一千万以上にも及んだソビエト兵捕虜やユダヤ人、障害者、ジプシー、同性愛者に与える食糧はなかった。与えるとしたら、元を取るために働かせるためだった。

ナチ親衛隊上層部とドイツ医師会は結託し、下等人種や民族の宿敵たちを、無駄なく効率よく餓死させる方法を考えあい、実験を繰り返した。

いかにすれば、働かせながら餓死させることができるだろうか。どのくらいのカロリーを与えれば良いのだろう。どのような食事のメニューにすれば良いのだろう。どのような栄養素を継続的に断ち、代わりに何を摂取させれば良いのだろうか。

ナチの飢餓実験が、実を結んだ結論は、囚人に決してタンパク質を与えないことだった。代わりにジャガイモやパンなど、少量の炭水化物を摂取させる。このようにしてゆっくりと確実に餓死させることができるのだ。これは一見食糧を与えているようにも見えるため、諸外国からの批判を交わすためにも有効な方法だった。

知的障害者に対する飢餓実験

ミュンヘン、ハール州立精神病院内のエグルフイング施設にかつて「T4作戦」の実行地があった。「T4作戦」はナチの歪んだ優生学に基づく、身体障害者・精神障害者・発達障害児童の抹殺作戦である。これは39年のポーランド侵攻以前からドイツ国内で水面下で実行されていた。エグルフイングの施設長、ヘルマン・プファンミュラー博士は、ナチ・イデオロギーが掲げる「価値のない命」の概念を強く信じており、T4作戦にも当初から参加していた。

彼は「無駄飯ぐらい」(特に小児)を殺す方法として特殊な飢餓セラピーとでもいうような方法を研究していた。

1939年に心理学の学生がエグルフイングの施設内に見学実習に来た。プファンミューラーはその際学生を小児病棟へ案内した。その時に学生が目にしたものとは・・


15〜25人の1歳〜5歳までの子供が寝かされていた。プファンミューラーはこの病棟で特に詳しく自分の考えを明らかにした。次のように要約される彼の説明は驚くほど率直でかなり強く記憶に残っている。彼曰く、『こいつら(子供たち)はナチ党員の私にとって民族のお荷物だ。殺す(殺るという言い方もした)にしても毒や注射は使わない。外国の新聞や赤十字のお偉方にまた非難されるだけだ。方法は皆さんがわかるようにはるかに簡単で自然なのだ』こう言いながら彼は施設の常勤と思われる看護婦に一人の子供をベッドから引き出させ、死んだウサギでも見せるように皆に見せて、専門家ぶった冷笑を浮かべながら『これはあと2、3日はもつだろう』というようなことを言った。太ったニヤニヤ顔、肉付きのよい手に捕まえられてひいひい泣く骨と皮の子供、周りにうじゃうじゃいる飢えた子どもたち、その光景は目に焼きついている。プファンミュラーは食物の供給を急に止めるのではなく、徐々に減らすと説明していた。



エグルフイングにはいわゆる「飢餓病棟」が2つあった。1943年1月から終戦までの約2年3ヶ月の間、患者に肉や脂肪を与えることは禁止された。

被収容者は野菜、ジャガイモ、1日辺り一切れのパンしか与えられなかった。これはプファンミュラーがかつて在職していたカウフボイレン施設で’効き目’が確認された食べ物で、胃を満たすが、次第次第に目的に導く。脂肪分を与えないと彼らはほっておいても死亡する。これはプファンミュラーによる工夫で、多くの施設で効果が証明されているとされている。

彼の飢餓病棟では子供、大人約444人が飢餓に追い込まれ、餓死させられた。戦後、米軍に逮捕された後、裁判で彼は「安楽死作戦は合法だった。昔からあった考え方(障害者を殺すこと)だった」というようなことを述べたという。彼は6年間収監されたがその後はなんなく出所し、75歳まで生きた。

ソビエト兵捕虜に対する飢餓実験

1941年の秋、ハンブルク大学の講師ハインリヒ・ベルニング博士は、軍衛生局総監督部より「水腫病の医学研究」を委託された。実験の材料に使われるのはソ連兵捕虜で、そのための専門施設がハンブルク=ヴァンツベックに設置された。

ベルニングによれば、飢餓水腫が発生するためには、かなり長期にわたって1日のたんぱく質摂取量が、30gを下回るようにせねばならない、とされた。ベルニングは本物の飢餓水腫を実験によって作り出し、それを観察し、飢えた人間が長い段階を経て体重が減少して行き、すぐに疲れやすくなり、性欲がなくなり、頭痛を覚え、めまいがするようになるさまを記録していた。

また、彼は捕虜の下腹部が膨張する様子を観察している。寒さや労働が水腫を強めた。

ベルニングは餓死した捕虜の胃や腸の形態変化を観察して記録。彼は戦後も偉大な博士として活躍、ナチ時代の実験を裁かれることはなかった。

なぜこんなことが起こったか

ナチ占領地が拡大すると同時に、彼らは大量の劣等人種を獲得した。未曽有の総力戦により、ドイツ人は兵士も銃後も含めて、皆命がけの戦争を戦い、窮乏を耐え忍んでいた。占領地ではお互いの全存在を抹消し尽すほどの殺戮と憎悪の応酬が続いていた。

そんな時世の中、「民族の宿敵」や「足手まとい」が、安全圏で食糧を与えられ、何もせずに安穏と暮らす、なんことを決して許さない人々がいた。それがナチの医学界や、上層部、とりわけハインリヒ・ヒムラーであった。

大量の実験サンプルが入手でき、彼らを一箇所にまとめて閉じ込めることができる今、戦争の勝利のために人体実験を行うのは、ナチ上層部にとっては「当然のこと」であった。

そして、人体実験は激しい人種偏見の賜物であった。ユダヤ人やスラブ人、ジプシーは人間とはみなされなかった。ジプシーを実験材料にすることを拒否する科学者はいたが、それは「人間」と比較することが難しい、という理由だった。

曖昧な人種理論の証拠探しという側面もあった。人種が優れている、劣っているなどというのは、今日においては疑似科学であることは誰も疑わない。何をもって「優れて」おり、何をもって「劣って」いるのかなど、そんな定義が歴史上存在したことは一度としてない。

にもかかわらず、ナチはアーリア人が優秀で、ユダヤ人が劣等だと決めつけた。それは政治が勝手に言い始めたことで、これを裏付けるために科学が総動員された。ナチの医学者たちは血眼になってアーリア人が優秀で、それ以外がそれよりも劣るという「証拠」を見つけようとした。それは髪や瞳の色であったり、顎の形であったり、背の高さであったりした。
http://3rdkz.net/?p=250&page=4


ヒトラーやヒムラーは、理想的な北欧人種とは程遠い外見である。ゲッベルスは足が不自由で身体障碍者である。にもかかわらず、ドイツ国民は「ハーメルンの笛吹き男」が奏でるメロディに踊らされるがままに、ヨーロッパ全土を破壊し、滅亡に追い込んだ。この歴史の奇妙を解明することは、今後においても決してできないに違いない。我々にできることは茫然と立ちすくみ、とりあえず人種差別に反対することだけであろう。
http://3rdkz.net/?p=250&page=5
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c38

[近代史3] 欧米人が植民地経営の方法として洗練させていった分割統治政策とは 中川隆
16. 中川隆[-10752] koaQ7Jey 2019年4月12日 22:40:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1290]
アウシュビッツ絶滅収容所 労働を通じた絶滅

ドイツ人は囚人の食事を極限まで減らした上で、最大の労働効果をあげようとカロリー計算までしていたそうです。囚人が厳しい労働を通じて死んで行くことが望ましかったのです。

石切り作業や土木工事などの厳しい労働に駆り出された者たちは短期間で死亡しました。反面、厨房作業員はつまみ食いできたので人気の仕事でした。また技術者や医療従事者は優遇されました。死体の片付けや荷物の仕分けなどを行うゾンダーコマンドはかなり食事を優遇されましたが、証拠隠滅のため数か月おきに全員処刑されました。

カポという囚人頭はほかの囚人を暴力で統率しました。食事を優遇され、個室も与えられたといいます。カポになれたのは主にドイツ人刑事犯など、比較的ナチ思想のヒエラルキーの中では高い地位にいた者たちです。カポは囚人ではありましたが、残虐行為を働いたとして戦後訴追された者もいます。

囚人に階級をつけ、食糧に差をつけることで、彼らがお互いに憎みあうように仕向け、団結することを防ごうという目論見があります。
http://3rdkz.net/?p=182
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/297.html#c16

[近代史3] アメリカの極秘文書が伝える天才ヒトラーの意外な素顔 中川隆
39. 中川隆[-10751] koaQ7Jey 2019年4月12日 22:46:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1291]

【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内 2017/5/10
http://3rdkz.net/?p=182

少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。

アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか?

一言でいえば、ドイツ政府が作った、ドイツ民族の敵を絶滅させるための場所です。

ドイツ民族の敵

ユダヤ人だけに限らず、同性愛者、共産主義者、ソビエト兵捕虜、エホバの証人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)……などなどです。(余談ですが「ニート=労働忌避者」も絶滅対象でした)

その他の絶滅収容所

ほかにヘウムノ、ベウジェツ、トレブリンカ、マイダネク、ソビボルなどがありました。アウシュビッツはその中でも最も大きく、最も新しく、最も長く使われた絶滅収容所です。

第Tアウシュビッツ、第Uアウシュビッツ=ビルケナウ、第Vアウシュビッツ=モノヴィッツが存在していました。モノヴィッツは現存していません。

アウシュビッツという名

ポーランドのオフィシエンチムのドイツ語の呼び名です。ドイツの支配領域のほぼ中心に位置していました。

Auschwitzmap

絶滅収容所はポーランドにだけ建設された

戦後間もなくの頃は、ダッハウやマウトハウゼンも絶滅収容所と考えられていましたが、現在はドイツ国内に絶滅収容所はなかったというのが通説です。

収容所長ルドルフ・ヘース

rudolf

髑髏部隊出身

1900年生まれ。最終階級はSS中佐。1934年に強制収容所総監テオドール・アイケの下で親衛隊(SS)《髑髏部隊(SS-TV)》へ入隊し、ダッハウ収容所で勤務。収容所官吏としてのキャリアを積む。親衛隊全国指導者ヒムラーによって抜擢され、アウシュビッツ所長に就任してからは、収容所近くに家を構えて、家族と共にそこで暮らし、殺戮を監督した。

250万人殺したと証言

ナチスの黒い虐殺機構の歯車の一部となってからは、一度として上に盾突くこともなく、人々をガスと強制労働と人工的飢餓により殺し続けた。戦後の裁判では250万人を殺したと証言。(アウシュビッツの死者は100〜150万人と推定されている)

絞首刑

1947年にポーランドの人民政府によって絞首刑にされる。処刑の地は皮肉にもアウシュビッツ構内であった。ヘースは死の間際、「人々は私もまた、心を持った一人の人間だったとは信じられないだろう」「命令だから実行せねばならなかった」という言葉を残した。

a8
ヘースを処刑したという絞首台

アウシュビッツにはどうやって行くのか?

a4

アウシュビッツミュージアムは一年中誰でも訪れることができます。

バスが便利

国鉄「クラクフ本駅」からバスで1時間40分ぐらい。鉄道でオフィシエンチム駅まで行って歩くことも可能だが、より長い時間がかかる上に、駅からミュージアムまでは20〜30分程度歩くことになる。料金も少し高い。バスがオススメです。

冬季以外はガイドが必要

ガイドを雇うことで、送り迎えを世話してくれます。冬場以外は、アウシュビッツの中に入るには専門ガイドの随伴が必要です。中の案内と送り迎えがセットになっていることもしばしば。詳しくは旅行会社に問い合わせてください。専門ガイドには、有名な日本人ガイドの中谷剛氏がオススメです。ポーランド人のガイドにも日本語を話せる人はいます。

古都クラクフ

クラクフはワルシャワから特急で約3時間程度の場所にある古都です。よく京都に例えられます。旧市街は中世の景観が残る、とても美しい街です。

アウシュビッツミュージアム

開館時間

午前8時だが、閉館は季節によって異なる。冬季は午後3時まで。夏季は午後7時まで入場できます。

写真

撮影は基本的に自由だが、フラッシュは禁止。一部の展示物は撮影禁止。

ガイド

4~10月は第Tアウシュビッツは専門ガイドを雇わなければ入れない。冬季は自由。日本語ガイドは中谷剛氏(3000円ぐらい)。英語がわかるなら英語ガイドのほうが安い(500円ぐらい)。集団ガイドなので英語がわからなくてもついていくだけで参加は可能。でもどうせならじっくり観るためにも日本語ガイドがオススメです。

連絡バス

第Tアウシュビッツと第Uアウシュビッツ間は徒歩で20分。連絡バスが走っているので利用するのが普通です。

写真の紹介

アウシュビッツ博物館は広大で、おそらく丸一日かけたとしても全部見て回ることはできないでしょう。

a3
第Tアウシュビッツ

a23
囚人から奪ったトランク

a24
大量の靴

a22
同じく食器

a21
義手義足

a20
同じく眼鏡

a15
ビルケナウの鉄条網

a16
囚人を輸送した貨車

a17
ビルケナウの囚人バラック

a18
ビルケナウの全景

a5
毒ガス、チクロンBの缶

a10
再建されたガス室

a11
チクロンBを投下した穴

a12
焼却炉

a9
焼却炉の煙突

a25
ビルケナウのトイレ

a14
ビルケナウの入り口「死の門」

a6
囚人頭カポの部屋

a7
銃刑場

アウシュビッツで何が行われたか?

略奪

ユダヤ人などの絶滅対象の人々は、アウシュビッツに到着するとまず身に着けているものを脱がされ、荷物や物品を略奪されました。金目の物を隠し持っていた場合は大抵その場で銃殺されました。

また、移送前から嘘情報で荷物をたくさん持って来させた上でそれらを略奪したり、トランクだけ別の貨車で運ぶからと、トランクに名前や住所を書かせたうえでそれらを奪ったりしました。トランクの持ち主は大抵家族やコミュニティごと絶滅させられましたので、トランクには引き取り手もなく、博物館に大量に展示されています。

その他、眼鏡、被服、食器、義手義足、靴、ユダヤ教のお祈りの際に使う布など、あらゆるものが略奪されました。ドイツ政府はそれらの略奪品を再利用したり、それができない場合は破棄しました。それら膨大な量の略奪品も博物館に展示されています。

a26
ドイツ人は略奪した品物の種類や数を几帳面に記録しました

1945年1月、アウシュビッツを解放したソ連軍は、倉庫内に大量の仕分けられた略奪品が残されているのを発見しました。また、記録によれば、解放前の一か月間で大量の物資がアウシュビッツから持ち出されたことがわかっています。それでも運びきれなかった品はSSが倉庫に放火して証拠を消そうとしましたが、それらはあまりに膨大な量で、全ての証拠を消しきることはできませんでした。

労働を通じた絶滅

ドイツ人は囚人の食事を極限まで減らした上で、最大の労働効果をあげようとカロリー計算までしていたそうです。囚人が厳しい労働を通じて死んで行くことが望ましかったのです。

石切り作業や土木工事などの厳しい労働に駆り出された者たちは短期間で死亡しました。反面、厨房作業員はつまみ食いできたので人気の仕事でした。また技術者や医療従事者は優遇されました。死体の片付けや荷物の仕分けなどを行うゾンダーコマンドはかなり食事を優遇されましたが、証拠隠滅のため数か月おきに全員処刑されました。

カポという囚人頭はほかの囚人を暴力で統率しました。食事を優遇され、個室も与えられたといいます。カポになれたのは主にドイツ人刑事犯など、比較的ナチ思想のヒエラルキーの中では高い地位にいた者たちです。カポは囚人ではありましたが、残虐行為を働いたとして戦後訴追された者もいます。

囚人に階級をつけ、食糧に差をつけることで、彼らがお互いに憎みあうように仕向け、団結することを防ごうという目論見があります。

ガス殺

第Tアウシュビッツに1つ。第Uアウシュビッツに4つのガス室と焼却場から成る「クレマトリウム」という巨大な施設がありました。囚人たちはアウシュビッツに到着するとまず「労働可能」「人体実験」「無価値」と三つに分けられました。「無価値」と認定された者は即座にガス室へ送り込まれて殺害されました。

「無価値」と認定されたのは主に身長120cm以下の児童、妊婦、老人、病人、障碍者です。

また収容所のひどい環境で働けなくなった病人や衰弱した者はすぐに殺されました。

医学実験

アウシュビッツでは、「死の天使」と呼ばれたメンゲレ医師をはじめ、たくさんの医師がいました。彼らは囚人を使って本国では試せないような人体実験を行っていました。外科手術の練習をしたり、双子を用いた奇妙な実験がその代表です。


第V収容所 26 shares 4 users
【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。目次実験T 低圧・低温実験実験U 海水...

拷問・公開処刑

14万の収容者に対して、警備兵は数千名でした。しかもそのほとんどはウクライナ人の傭兵で、ドイツ人のSS隊員は多くありませんでした。

秩序を維持するため、警備兵は囚人をことあるごとに虐待し、拷問を加え、公開処刑にしました。木の杭に縛り付けたり、鞭打ち刑など拷問メニューは多岐にわたりました。

囚人たちは、SSやウクライナ兵に目をつけられないよう、目立たぬように振る舞い、決して彼らと目を合わせませんでした。

戦後、アウシュビッツはどのように語られたか

死者数

1945年1月27日にアウシュビッツはソ連軍によって解放されました。戦後、ニュルンベルク裁判で、アウシュビッツの死者は400万人と認定され、所長ルドルフ・ヘースは絞首刑にされました。

しかし、ソ連崩壊後に新たな資料が開け放たれ、アウシュビッツでの死者はもっとずっと少ないことが分かりました。今では100〜150万人説が有力です。

総勢はあまり変わっていない

ただし、ホロコースト全体で、ユダヤ人の犠牲者は500〜600万人説が有力で、これは昔からあまり変わっていません。絶滅収容所はアウシュビッツの他に5か所もありましたし、特殊部隊アインザッツグルッペンや警察、地元傭兵などによる移動抹殺作戦による死者は90〜250万人に上ると推定されています。また、ソビエト兵捕虜は劣悪な環境下で人工飢餓による虐殺で、200〜300万人が殺されたと見られています。

その他、《夜と霧》政策や《T4》作戦による犠牲者、通常の戦闘による死者をあわせるとナチズムによって命を失った人は、ヒトラーが政権をとってから、たったの12年間で2000万人以上という推計もあります。


終わりに

最初は野次馬根性で行ったことは否めませんが、実際行ってみるとけっこうひるみます。しかし、いまだにここで行われたことに現実味を感じられないでいます。想像をはるかに上回って広い場所で、第Vアウシュビッツ=モノヴィッツは40の下部収容所を傘下に収めていたそうで、なおその広さを想像することができません。

あまりに途方もない規模で行われた犯罪であるため、アウシュビッツやホロコーストの全貌はいまだに解明されていない部分も多くあります。特に、上記したようにモノヴィッツには謎が多いです。色々と興味深い場所なのは確かなので、クラクフを訪れた際には一度見て行かれてはいかがでしょうか?
http://3rdkz.net/?p=182
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/207.html#c39

[リバイバル3] 現生人類の起源 中川隆
28. 中川隆[-10750] koaQ7Jey 2019年4月13日 07:42:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1292]
2019年04月11日
人類がチンパンジーと分岐したとする定説は事実なのか?1~1960年以前は人類アジア起源説

人類は、500万年前、チンパンジーとの共通祖先から分岐したというのが定説になっているが、その定説はどのような根拠で成立したのか?
1960年以前は化石を元にしたアジア起源説だったのが、次第に、分子時計を前提とした分子系統学によってアフリカ起源説に塗り替わっていったらしい。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

●1932年、インドのシワリク高原でラマピテクスの上顎・下顎と歯の化石(1400〜800万年前)。歯列や犬歯・臼歯の形や質が類人猿よりも人類に似ていたので、60年代にはラマピテクスが人類の直系祖先とされるようになった。人類はラマピテクス以前に分岐したとされ、当時の人類学の教科書では、類人猿とヒトの分岐は4000〜3000万年前と書かれていた。

●1960年代に分子系統学による種間距離の測定が始まる。

グッドマンは、抗原抗体反応の大きさを使って霊長類種間の免疫学的距離を推定した。
ヒトの血清タンパク質をウサギに注射すると、ウサギはヒト血清タンパク質に対する抗体をつくる。その抗体を含むウサギの血清(抗ヒトタンパク質血清)をヒトやサルの血清と混ぜる。ヒトの血清とは強く抗原抗体反応を起こし沈殿物が多く出る。チンパンジーやゴリラの血清との反応よりも、オランウータンの血清との反応は明らかに弱かった。反応が強いほど、ヒトの血清タンパク質とアミノ酸配列が似ていると考えて、グッドマンはオランウータンよりもチンパンジー・ゴリラの方がヒトに近いと結論づけた。

1967年、サリッチとウィルソンは免疫抗体法で推定したヒトや類人猿の免疫学的距離に分子時計の考え方を導入して、分岐年代を推定した。
ヒト・チンパンジー・オナガザルの血清アルブミン抗体をつくり、ヒトや類人猿、オナガザルの血清と反応させ、ヒト・チンパンジー・ゴリラ・ウランウータン・テナガザルの免疫学的距離を推定、ヒトはオランウータンよりもチンパンジー・ゴリラに近縁であると結論づけた。

さらに、種間の免疫学的距離の常用対数が2種の分岐年代に比例すると仮定して相対的な分岐年代を推定。オナガザルと類人猿が分岐した絶対年代を化石記録から3000万年前と固定。そこから計算してチンパンジー・ゴリラとヒトが分岐したのを500万年前と推定した。

●分子生物学者と化石学者(1400万年前のラマピテクス説)との間で論争が始まるが、次第に分子系統学派が優勢になってゆく。

例えば、1970年代には、雑種DNA形成法による遺伝的距離の測定が始まる。
比較する動物の二本鎖DNAをほぐして一本鎖にし、混ぜ合わすと二種のDNAが組み合わさった雑種DNAができる。二種の動物のDNAでは塩基配列が少しずつ違うので、雑種DNAでは、元のDNAのような結合対は組めなくなり、熱的に不安定になる。熱安定性の低下の度合いを図ることで、DNA塩基が異なっている割合を推定する。これが雑種DNA形成法。

1977年、サリッチとクローニンは、免疫学的距離と雑種DNA形成法による遺伝的距離を測り、オランウータンが分かれたのが1100〜900万年前、ヒト・チンパンジー・ゴリラが分かれたのが500〜400万年と結論づけた。

1978年、パキスタンのポトワール高原でシヴァピテクスと呼ばれる類人猿の顔面と頭蓋片の化石が発見された。化石形状からシヴァピテクスがオランウータンの祖先とされると同時に、ラマピテクスもシヴァピテクスのメスであり、オランウータンの祖先と看做されるようになる。1980年代以降、人類のアジア起源説は廃れ、500万年前アフリカ起源説が学界の定説となった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【参考】

『新しい霊長類学』京都大学霊長類研究所 講談社ブルーバックス
『ヒトはどのようにしてつくられたか』山極寿一 岩波書店
『シリーズ進化学5 ヒトの進化』斎藤成也 岩波書店
『DNA人類進化学』宝来聡 岩波科学ライブラリー
『DNAに刻まれたヒトの歴史』長谷川正美 岩波書店
『アナザー人類興亡史』金子隆一 技術評論社
http://bbs.jinruisi.net/blog/2019/04/3567.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/735.html#c28

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
10. 中川隆[-10749] koaQ7Jey 2019年4月13日 07:49:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1293]

Western Amp
http://www.yasunaga.co.jp/WE/WEamp.html

このページはアメリカWestern Electricのアンプ情報を掲載しています。私が現在使用しているアンプの数々です。 WE20B,WE46C,WE49,EW62,WE118,WE124,WestrxRA1474,RA1479等

WE46Cの詳しい写真があります。

Inside ofWE46C Power Amp 205DPPpage

This WE46C is so nice sound in Push Pull amprifire.

WE49 (264C X 2 ) Line Amp

49の電源

WE62 (262A X 1) Line Amp


WE118 para pushpull amp

WE124 amp


WE118 amp para push pull ( 6J7x2,6L6x4,274Ax1)

WE124 amp ( WE348Ax2,WE350Bx2,WE274B )

WE124 amp ( WE348Ax2,WE350Bx2,WE274B )

Altec 1569 para pushpull amp. (6CA7x4,5U4Gx2,6CG7x2)

Westrex RA1474 X 2, RA1479 powersupply. このプリアンプはAシェルのレコード用に使用しています。マーリック*のLC付き。*現エルタス社の社長が昔作ったトランス。 Westrex RA1474D X 2, RA1479 powersupply. これはOrtofonトランス付きのGシェルに使用。前段のトランスはパスして使用。




このリアイコライザーはLCRでまぼろしのマーリック製です。音がいい カートリッジの最高はときかれたら迷わずOrtofon トランス付きのGシェルと答えます。当然古いやつ!


 最高の電源、ただしWE300A,WE274A刻印,WE348AメッシュWE351,WE313CAなどすべてWEの球を使用しないと最高の音は望めません。特にWE300Aの音がきめて! だれかWE300Aを譲ってください。

24V Tungar power supply バルブ電源 WE288A Tungar Bulb. Trans is made by Hiroshima Trans. This wasmade by Mr.Izummi live in Hiroshima.  WE20B電源、年代違いで2台あります。140Vから300VのB電源が取りだせます。


Western のアンプの最高は?

 Westernのアンプの最高はWE59,60,61,62だと言われています。WE59に使用されている出力管はWE252Aです。この球は1930年より1978年まで製造、57A,59A,59B,67A アンプに、10A,11A,15A,16A, RTE; D-96566 Navy RTE、309A Police Radio等に使用されました。つい最近TUBEWORLDで数千ドルで売っていましたが、買いそびれてしまいました。残念!ただし1949年当時は252Aは20.00ドル、300Bで6.95ドル、350Bが15.20ドルでした。

http://www.yasunaga.co.jp/WE/WEamp.html
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c10

[ホロコースト2] マウトハウゼン収容所でも「ガス室」の大嘘? バルセロナより愛を込めて
2. 中川隆[-10748] koaQ7Jey 2019年4月13日 08:18:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1294]
【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】 2017/5/11
http://3rdkz.net/?p=250


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。

なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。

非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。

目次
実験T 低圧・低温実験
実験U 海水を飲料にする実験
実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究
実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験
実験X 毒物接種実験
実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集
実験Z マラリア実験
実験[ 双子実験
実験\ 強制不妊化実験
実験] 飢餓実験


なぜこんなことが起こったか

実験T 低圧・低温実験

低圧・酸欠下での救出実験

hypothermiaドイツ空軍が高度12000メートルに達するジェット機を開発したまでは良かったが、人体がそのような超高度環境にどのような反応を見せるのか、ということに関して信頼できるデータはまだなかった。そこで、ドイツ空軍軍医大尉であり、親衛隊将校でもあったジクムント・ラッシャー博士は、《ライヒスフューラー(親衛隊全国指導者=ヒムラー)》へ手紙を書き、ダッハウ収容所の死刑囚を用いた人体実験の許可を求めた。

1942年3月、ヒムラーは実験を許可し、ラッシャー大尉の責任において、超高度における人体の反応の観察や、パラシュートや特殊機材を用いた救出を実用化するための危険な人体実験が行われた。超高度の低圧環境下で被験者を酸欠の状態に留め置き、どれぐらいの時間をかけて被験者が死亡するのか、またどのようなタイミングでしかるべき処置を行えば彼を救出できるのか、ありとあらゆる場面を想定して実験が行われた。当然のごとく実験は死者が続出したが、ラッシャーは死にゆく被験者の行動を観察し、心電図を記録した。そして、屍を解剖し、肺や心臓、脳の血管の空気塞栓の状況などを記録。逐一ライヒスフューラーへ報告していた。

実験に駆り出された200人の囚人のうち、実に80名の被験者が死亡した。

低体温・冷却からの蘇生実験

freeze
冷却実験の様子

ラッシャーとその協力者たちは、ダッハウにて更に人体実験を行うことにした。今度は海難事故などにより寒冷下に晒された人体を、いかに蘇生・回復できるか、といった実験である。やはりパイロットを救出することを前提とした実験であったが、実際にはダッハウの囚人300名を4〜12℃に冷却した水の中につけ、体を極限まで冷やしたのち、いかにすれば効率よく回復できるかを試すもので、この実験で90名が死亡。今日においてもこの実験結果が国際的専門誌に引用されているという。

この実験は当初よりライヒスフューラーの関心を買った。ヒムラーは冷え切った肉体を温めるためには、同じ人間の皮膚の接触。つまり、裸の女性による抱擁が効果があるのではないか、と考えた(ヒムラーはしばしばこのようなロマンチズムに基づく推測を実践させた)。ラッシャーはヒムラーの意向に沿ってダッハウ収容所より若い女性4名を召喚。そのうちの一人があまりにも見事なアーリア人種の肉体的特徴を備えていたため、ラッシャーは彼女を実験に使用することを拒否したという。つまり、被験者は下等人種とみなされたスラブ人やソ連兵捕虜であり、これを裸で温める乙女がアーリア系であってはならないというのである。この逸話からもわかる通り、人体実験は激しい人種差別の賜物であった。ちなみに女性の体で温める方法は非効率で到底実用に耐えないものであったという。

この実験は、場所を変えてアウシュビッツ収容所でも行われた。アウシュビッツのほうがより寒く、広大で実験が目立たなかったからだという。つまり、被験者は多くの場合、「苦しみにより悲鳴をあげた」からである。ラッシャーは被験者に麻酔をかけることを禁止し、なんら苦しみを緩和するための努力をしなかった。

ある実験では、ソ連軍将校2名がアウシュビッツで、水桶の中に裸で入らされた。通常なら60分程度で意識を失い、死亡するのだが、このソ連将校2名は3時間経過した頃に「同志…銃殺してくれないか」と頼んだという。その後、二人は握手を交わし、「さよなら、同志よ」と言った。ポーランド人の助手が見兼ねてクロロフォルムで二人に麻酔をかけようとしたが、ラッシャーはピストルを突きつけ、これを制止した。二人は5時間後にようやく死亡し、死体は解剖するためミュンヘンに送られた。

ラッシャー夫妻は子供に恵まれず、子供を誘拐、金銭で買い取って自らの子であるとして育てていた。これが明るみに出るとライヒスフューラーは激怒。ラッシャーは多くの囚人を殺害したダッハウにおいて、自らも処刑された。戦争が終わる直前だった。よって戦後もラッシャーは裁きにはかけられず、協力者たちは全ての責任を、同じく死亡したヒムラーとラッシャーにかぶせることに成功。この非道な人体実験で裁かれた者は結局誰一人としていない。

実験U 海水を飲料にする実験

この実験は、やはり海難事故に遭遇し、海の上を漂流することになったパイロットを救うために企画された。

二人の科学者が海水を飲料にするための試みを始めた。シェーファー教授が海水から塩分を分離するための設備を開発しようとして成功したが、これには多額の費用が掛かるため実用性なしと判断された。一方空軍技師ベルカが開発した「ベルカティカ」という薬品は海水の味を飲める程度に変えてしまうもので、この薬品はコストパフォーマンスにも優れ、大量に生産された。

しかし、すぐにこのベルカ方式の海水を飲むと、「より渇きがひどくなる」という声が上がり始めた。味を調整しただけで海水は依然として多量の塩分を含んでいたし、飲みすぎることで渇きが悪化し、下痢すら引き起こすことが分かった。

どちらの方法で渇きを解決するのか、ダッハウ収容所内で再度人体実験が行われた。被験者はいくつかのグループに分けられた。数日間にわたって海水を飲むもの、ベルカ方式の海水を1日500cc飲むもの、1000cc飲むもの、シェーファー方式で精製された水を飲むもの、などである。

被験者はブーヘンヴァルト収容所から連れてこられたジプシーたち40名であった。彼らは表向きは志願であった。実験の詳細についてきちんと説明を受けた上、実験前10日間は完璧な航空兵糧食3000キロカロリーを摂取し、健康管理を入念に行ったうえでの実験であり、死亡した者、後遺症が出た者はいないとされている。しかし、実験は著しく苦しく不快なものとなり、被験者の中には清掃班のバケツの中の汚水を飲んだり、モップから垂れたしずくを舐めた者がいたという。このような実験が本当にすべて志願だったと言えるだろうか?ましてや被験者のほとんどは賤民と見なされていたジプシーである。これは戦後の裁判で検察の激しい疑惑をかい、追及を受け、実験を主導した者たちは禁固15年〜終身刑を受けた。

ただし、実験で重篤な障害を受けた者、死亡した者がいなかったのは確かなようである。フランス人の医療助手や被験者のジプシーのうち数名が、宣誓供述書を提出し、実験を主導した科学者たちの恩赦請求を行っている。

実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究

発疹チフスのワクチン接種実験

東部戦線や各収容所で猛威を振るった発疹チフスから、前線兵士を救うための人体実験がブーヘンヴァルトとナッツヴァイラー各収容所にて行われた。

実験は1942年の春ごろから1944年の末まで続けられた。

それまで存在していた発疹チフスのワクチンは、病気の症状を軽減させることはできても、本来の目標たる免疫力の獲得、つまり病気に罹らずに済む、というものではなかった。これを深刻にとらえたSS上層部の医師団や衛生担当者たちは、人体実験の施行を強く主張。ブーヘンヴァルト内にウィルス研究部が設立され、SS軍医や権威ある熱帯医学者などが参加した。

実験は数十種類にも及ぶ各種ワクチンを接種した上で、数週間の間隔を置いたのち、人為的に発疹チフスに感染させるというものだった。対照群として設置された群は、ワクチン接種群と比較するために、単にチフスに感染させられた。

ワクチンを接種した者たちも、多くの場合、高熱や頭痛など、「発疹チフスの症状」に悩まされた。

被験者に選ばれた者たちは、ドイツ人の刑事犯、ポーランド人、ソ連兵捕虜、ジプシーなどである。健康状態が優良なものたちが数百人選び出され、少なくとも150名以上が死亡した。ブーヘンヴァルトの医師、シューラーSS大尉は終戦間近で自殺したが、彼の業務日誌が囚人によって廃棄を免れた。その中には、他にも黄熱病、チフス、コレラ、ジフテリアに対するワクチンや薬物の効果で800人の被験者が人体実験にかけられたことが示唆されている。

伝染性肝炎ウィルスの研究のための人体実験

独ソ戦が始まると、黄疸症状に悩まされる兵士が非常に増えた。致死的な病ではなかったが、発病者が多く、軍の作戦能力を衰えさせるものとして研究が開始された。肝炎はそれまでバクテリアによる感染と考えられていたが、細菌学者のドーメン軍医大尉がウィルスを発見し、培養するためSSがウィルス株の管理権を要求したがドーメンは拒否して独りで研究を続けていた。

各所からの圧力に耐えかねたドーメンは、ついにザクセンハウゼン収容所内で、囚人に対して人為的に肝炎ウィルスを感染させる人体実験を行った。これは《帝国医師総監(=エルンスト・グラヴィッツ)》の強い要請だった。ドーメンは良心の呵責に苦しめられ、実験が開始されたのは1944年も9月になる頃だった。
http://3rdkz.net/?p=250


アウシュビッツから、子供や青年からなる11人の囚人がザクセンハウゼンにやってきてドーメンに委ねられた。ザクセンハウゼンの第二病棟において彼らの世話をしていた古参囚人ブルーノ・マイヤーは、実験の内容について記録を残している。以下に引用する。


ドーメン博士は医療器具カバンから一本の斜めに歯のついたゾンデを取り出してサウル・ホルンフェルトの背後へ近づき、指で彼の背中を探りました。そしてゾンデを当て、子供の背中の筋肉を通して深く体の中まで突き刺しました。サウル・ホルンフェルトは痛みのあまり、自分の小さな拳を噛みました。急いで私は彼の前へ歩み寄り、声を押し殺して、しっかりしろと言いました。涙で見えない目で彼は私を見ました。そして、医者が再びゾンデを突き刺しました。(中略)その後、私は、ドーメン博士がゾンデから長い針を抜き、ゾンデの開口部に急いで試験管をあてがうのを見ました。黒っぽい血が試験管の中へ滴り落ちました。小さな組織も、―—多分肝臓の一部だったでしょう——少しその中に混じっていました。



結局、肝炎ウィルスを人為的に感染させる実験は成功しなかった。ドーメン博士や囚人たちがその後どうなったかは明らかではないが、博士は戦後実験結果を発表している。

医療用ゾンデ
医療用ゾンデ


第V収容所 1 share 1 user
【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内


少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか...


実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験

人為的にガス壊疽を作り出す実験

1942年5月、《国家保安本部(RSHA)》長官及び、ボヘミア・モラヴィア保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒがイギリス諜報部の襲撃を受けて重傷を負った。治療の責任者は武装SSの顧問外科医カール・ゲプハルトであったが、ゲプハルトの飛行機は延着したので直接手術に携わったのはプラハの医師二名である。ゲプハルトは《総統》とヒムラーの個人的な電話を何度も受けた。ヒトラーは自分の主治医であるモレル博士を派遣するとまで言った。

しかしハイドリヒは処置の甲斐なく6月2日に死亡。ゲプハルトはその後ヒムラーと謁見し、「ハイドリヒの死はドイツがこれまで経験したことのない巨大な敗北であった」と《総統》が考えていることを知らされた。ゲプハルトには汚名返上の機会が与えられた。ハイドリヒ長官が負傷による敗血症によって死亡したことを受け、至急、スルフォンアミドの効果を調べる人体実験の実行が決まった。

実験の舞台に選ばれたのは女性専用の強制収容所ラーフェンスブリュックであった。実験の目的は、当時未解明な部分が多かったガス壊疽という症状を分析し、有効な治療方法を見つけ出すことであった。そして、同時に戦場で多く見られる通常の傷口を調べ、有効な治療法を探す目的もあった。

被験者はザクセンハウゼン強制収容所から連れてこられた男性囚人や、ポーランドの抵抗運動に携わった女性囚人たちである。彼らはわざとけがを負わされ、木片やガラス片を傷口に練りこまれた。

《帝国医師総監》グラヴィッツは、実験場を視察し、被験者に死者が出ていないことに対して実験が手ぬるいと感じ、本物の銃創を彼女たちに負わせるように、と命令した。ゲプハルトはこの命令を拒否したが、より傷口の状態を悪化させることに努力したことに変わりはなかった。彼女たちは下腿の血管を結紮され、壊疽性の腐敗病原体を接種させられたりした。そのうえで彼女たちは処置も受けられず何日も放置され、本物のガス壊疽の症状により3名が死亡した。

人為的にひどい敗血症に陥らせた上でスルフォンアミドの効力を実験したが、傷を負わされただけで何の処置も受けられない囚人もいた。実験内容は1943年の5月にベルリンの軍医大学校で発表されたが、出席者の中で被験者の人権について申し述べた者は一人もいなかった。

他人の骨を移植して治療効果を見る実験

ラーフェンスブリュック強制収容所内で、女性を使って行われた他の実験群は骨の再生と骨の移植の実験である。

肩胛骨を他方から他方へ移す実験が行われた。肩胛骨を除去されたのは、ラーフェンスブリュックの精神病患者の女性であった。この女性は肩胛骨を抜き取られた後速やかに薬殺された。肩胛骨を移されたのは、ホーエンリーヘンの血管の癌により肩胛骨を失った若者で、彼は癌を再発することなく生きながらえたという。

この実験のほかにラーフェンスブリュック収容所内で、神経再生、筋肉再生の各実験、切断やその他の実験が行われたといわれるが、その規模や詳細は不明である。収容所医師の一人、ローゼンタール博士は、負傷に苦しみ、助かる見込みのない重症の囚人を20〜30人、楽に死なせるためにモルヒネを過剰投与したと断言している。

実験X 毒物接種実験

イペリッドガス

大戦期間中、ザクセンハウゼン、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフの各強制収容所内でびらん性(皮膚をただれさせる作用)のイペリッドガス(=マスタードガス)の人体実験が行われた。これは例によってヒムラーの命令だった。

イペリッドガスによる負傷の度合いと、効果的な治療法を見つけることがその目的である。この実験はストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士などが主にかかわった。

この毒ガス実験については、ナッツヴァイラーのカポ(囚人頭)であったフェルディナント・ホルの生々しい証言が残っている。


囚人たちは真っ裸にされ、次から次へと実験室の中に入ってきました。彼らは前膊から10センチほどの箇所にその液体を塗られましたが、その時私が彼らの腕を抑えていなければなりませんでした。その後、処置を施された被験者たちは隣の部屋へ行き、そこで腕を広げたまま約1時間立っていなければなりませんでした。約10時間もすると、あるいはもっと長かったかもしれません、火傷が、それも全身に出てくるのです。盲目になった人々もいました。ひどい苦しみで、被験者たちのそばにはとてもいられないほどでした。その後、被験者たちは毎日写真を撮られました。しかもすべての傷の箇所を、つまり全ての火傷の箇所を写真に撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。(中略)内臓、肺などは全て完全に腐食していました。その後の数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2か月続けられました。



実験は何度も行われ、平均して毎回7~8名の死者が出た。生き残った者たちも後遺症の残った体でアウシュビッツやベルゲンベルゼンに送られた。

硝酸アコニチン弾丸の創痍研究


極秘事項

帝国医師ー親衛隊警察、主席衛生官

日誌番号 秘364/44 ムルゴウスキー

1944.9.12

硝酸アコニチン弾丸について

SS少佐ディング博士、ウィマン博士、および筆者立ち合いで1944年9月11日、5人の死刑囚に、毒物である硝酸アコニチン結晶入りの弾丸(直径7.65o)を用いて実験を行った。被験者を寝かせ、左大腿に1発撃ちこんだが、2人では弾丸は貫通、後になっても毒作用は出なかったので、実験から除いた。(中略)

3人の症状は驚くほど一致していた。最初は異常がなかったが、20分から25分後に動きが不穏となり、遅れて、よだれが少し出始めた。しきりに飲み込もうとしたが、量が増えて飲み込めないほどになり、ついには、泡を含んだよだれが口から漏れてきた。それから、吐き気、嘔吐が始まった…。

約90分後、1人の呼吸が深くなり、同時に運動不穏も増強した。呼吸は浅く速くなった。同時に強い吐き気が現れたが、吐こうとしても何も出なかった。指を4本付け根まで口に深く入れて吐こうとしたが吐けず、顔は真っ赤になるだけだった。

他の2人の顔は早い時期から蒼白になっていた。他の症状は同じだった。運動不穏の出現は遅れたが、極めて強くなり、棒立ちになったかと思うと、また、床に身を投げ出した。白目をむき、手や腕は意味のない動きをした。最後に、不穏の程度は弱くなり、瞳孔は極度に散大、被験者は静かに横たわるだけだった。1人には咬筋の痙攣が現れ、尿失禁が認められた。3人の死亡は、受傷後それぞれ、121,123、および129分であった。
http://3rdkz.net/?p=250&page=2

総括 およそ38mgの硝酸アコニチンを詰めた弾丸による創自体はひどいものではなかったが、2時間後に致死的な中毒が現れた。中毒症状の出現は、受傷後20分から25分で、主要症状は、流涎、瞳孔径の変化、腱反射消失、運動不穏、強い吐き気であった。

講師医学博士ムルゴウスキー、SS上級大佐、主席衛生官


上の手記と一致するかは不明だが、ザクセンハウゼン収容所で死刑囚を用いた毒の弾丸の実験が行われた、との展示がある。その射撃手はムッソリーニ救出の特殊部隊を率いた、オットー・スコルツェニーSS中佐である。

実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集

hiltストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士は、1942年の2月にヒムラーにあてて手紙を書き、ユダヤ人、共産党員、赤軍政治将校の頭蓋骨収集の許可を求めた。ヒムラーはおおいに関心を持ち、ヒルトに自分の政治的権力の全てを委ねてこれを支援した。

当時、ナチスドイツはありとあらゆる人種の頭蓋骨を収集して、その形態を測定したり、歪んだ人種優生学に基づく様々な研究を行っていた。しかし、ユダヤ人に関しては当時サンプルを獲得する術があまりなかったらしい。独ソの開戦はその状況を打開する最良の機会となった。既にホロコーストは開始され、ユダヤ人と共産党や政治将校は同一視されていた。彼らの頭蓋骨を一定量獲得し、データを取得することで、占領地において効率よくユダヤ人や政治将校と、その他の民族の鑑別を容易にし、効率的に撃滅できる、というのが彼らのデタラメな論理であった。

ヒルトとその協力者たちが、いかにしてそれらのサンプルを選定したかは定かでない。既に収容所にいたユダヤ人なのか、占領地から生きたまま拉致してきた政治将校や捕虜たちだったのか、とにかく、彼らがアドルフ・アイヒマンを通してアウシュビッツの囚人約120名を、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフ各収容所の実験施設へ送ったのは確かである。

それら120名の囚人は「首から上を傷つけぬように」ガスによって殺害され、合成アルコール入りの水槽の中で保存された。ヒルト博士はそれらの死体を細かく解剖。


ヒルトは戦後逃亡先で自殺した。

実験Z マラリア実験

ベルリンのロバート・コッホ研究所所長で、熱帯医学部門長であったクラウス・シリング博士は、1936年の現役引退後も、イタリアでマラリアのワクチンの開発研究を続けていた。1941年末、内務省保健衛生事業担当官のレオナルド・コンティ博士によってダッハウ強制収容所で研究ができることを勧められ、翌2月のはじめから実験を開始。1945年の3月半ばに74歳のシリングが手術を受けるためにミュンヘンにでかけたあと、ヒムラーが実験中止を命令した。(敗戦が近かったからであろうか?)

シリングの3年にわたる実験でおよそ1000人がマラリアに感染させられ、330人が死亡した。

実験[ 双子実験

ベルリン、ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長のオトマール・フォン・フェアシュアーは、双子に関する研究を手広く行っていたが、戦争が始まると弟子のSS大尉、ヨーゼフ・メンゲレ博士をアウシュビッツに送り込んだ。彼はアウシュビッツの降車上に自ら赴いて、何千もの双子を集めてコレクションし、過酷な人体実験を行った。

mengere
ヨーゼフ・メンゲレ

メンゲレは、静脈をつなぎ合わせてシャム双生児を人工的に作ろうとしたり、眼球に薬品を注射して瞳の色を変えようとした。また、チフス菌を注射して病気の経過を血清学的に記録した。また頭蓋骨の収集もぬかりなく行われ、それらの実験報告を師のフェシュアーに送っていた。メンゲレは3000対の双子を人体実験にかけ生き残ったのは100名だけだった。


ある生存者の報告

ある日、私の双子の兄のチビが特別実験のために連れていかれた。メンゲレは、最初から、チビに非常に興味を持っていた。なぜか知らないが、比較的歳のいった双生児であったからかもしれない。

メンゲレはチビを何回となく手術した。脊椎手術で麻痺となり、走れなくなった。

性器も除去してしまった。4回名の手術後、チビには2度と会えなかった。

私の気持ちがどんなだったか、あなたに言えないし、言葉にも表せない。

私は父、母、兄2人を失っていたのに、また双子の兄もなくしてしまった。


メンゲレは1979年に逃亡先のブラジルで海水浴中に死亡した。

実験\ 強制不妊化実験

ナチの歪んだ人種思想は戦争前から活発ではあったが、独ソ戦の開始と共に東方民族絶滅の意志はますます固くなるばかりだった。その手段としてずっと論議されてきたのが、断種措置による強制的な不妊化処置の遂行であった。

ナチの断種の施策は大きく分けると3つの経過をたどった。

薬品による断種

カラジューム・セグイヌム(サトイモ科の観葉植物の一種)を接種することによって、特に男性は生殖不能となるとされ、この植物を大量に栽培しようとするのだがコスト面で実用に耐えないことが分かった。ヒムラーは農業に大変関心が高い男であったため、カラジューム・セグイヌムの構成要素の分析を進め、人体実験を行うべし、との命令を発した。

しかし、これを命じられたコッホ博士はありきたりな動物実験を行うのみにとどめ、命令を事実上サボタージュした。それはあまりに実用性がなく、他の方法がどんどん進んでいたからであった。

放射線による断種

帝国公衆衛生局に所属し、障碍者の断種・殺害計画に関与したヴィクトル・ブラック博士は、放射線による断種の研究と人体実験の許可をヒムラーに求めた。それまで行われていた外科手術に頼る方法では、あまりに労力とコスト面で現実味がなかったからである。

これをヒムラーは許可し、第Uアウシュビッツ(=ビルケナウ)や女性収容所のラーフェンスブリュックで、それぞれ放射線による断種の試みが行われた。若い適齢期の男女は、何の説明もないままに不意に呼び出され、性器や子宮、睾丸付近にレントゲンを照射された。

彼らの多くは火傷を負い、傷口は膿み、そのような体で重労働につかされた。歩けなくなったものは銃殺・ガス殺された。

レントゲン照射後数週間してから、男性囚人は外科的に睾丸を摘出された。レントゲンの効果がどの程度であったかを検証するためであったとされる。しかし、レントゲン照射を受けた囚人たちは局部に重傷を負い、結局は絶滅収容所の中で死んでいった。

ブラック博士は、この不妊化処置を「殺すよりはマイルドな方法」と認識していたらしく、裁判で「絶滅政策を緩和するためにあえて提案した方法だった」と証言した。法廷はこの詭弁を却下し、ブラックを死刑に処した。

子宮内の刺激作用による断種

drclaubergこの方法は、ケーニッヒスヒュッテの医学博士クラウベルク教授によって開発された。教授はもともと卵管閉鎖による不妊を治療する方法を開発して有名になった人物だった。

1933年にナチ党に入党し、その医学の知識を、今度は「下等人種」の断種のために傾けようとしていた。
http://3rdkz.net/?p=250&page=3


クラウベルクはヒムラーと協議し、外科手術を用いることなく不妊化させる方法を話し合った。教授が考えていたのは卵管にホルマリン溶液を注入するという方法だった。ヒムラーはアウシュビッツにクラウベルクの実験施設を作るよう、部下のルドルフ・ヘースに命令した。

約500人の女性がクラウベルクの前に引き出され、狂気の実験の犠牲となった。収容所に響き渡る女性の悲鳴の原因は何のか、あの医師は囚人にいったい何をしているのか調べようと、女性看守が飛んできたこともあったほどであった。

実験により少なくとも7人の女性が死亡。残った囚人のうち、何人がガス室に送られたかは不明である。

教授は1945年にはラーフェンスブリュック収容所へ移り、35人の女性に人体実験を行った。戦後は赤軍に捕まり25年の判決を受けるがのちに恩赦。ドイツに戻るとドイツ当局に再逮捕され、57年、拘留中に死亡した。

実験] 飢餓実験

ナチスドイツのユダヤ人絶滅政策は、経済学と一体不可分であった。一体どれほどのユダヤ人を労働力として活用し、1日に与える食事量はどの程度で、平均してどのぐらいの期間働かせたのち餓死させ、最終的にいついつまでに何人殺すのか……

このような狂気の経済学を日夜考え、そろばんをはじき、実践するために各省庁に協力を仰ぎ……ドイツ人の官僚的気質がこれ以上上等に発揮された機会はなかった。

飢餓実験はいわば、このようないわば「虐殺の経済学」とも呼べるものの産物だった。

慢性的な食糧不良に苦しむドイツで、何百万、ともすれば一千万以上にも及んだソビエト兵捕虜やユダヤ人、障害者、ジプシー、同性愛者に与える食糧はなかった。与えるとしたら、元を取るために働かせるためだった。

ナチ親衛隊上層部とドイツ医師会は結託し、下等人種や民族の宿敵たちを、無駄なく効率よく餓死させる方法を考えあい、実験を繰り返した。

いかにすれば、働かせながら餓死させることができるだろうか。どのくらいのカロリーを与えれば良いのだろう。どのような食事のメニューにすれば良いのだろう。どのような栄養素を継続的に断ち、代わりに何を摂取させれば良いのだろうか。

ナチの飢餓実験が、実を結んだ結論は、囚人に決してタンパク質を与えないことだった。代わりにジャガイモやパンなど、少量の炭水化物を摂取させる。このようにしてゆっくりと確実に餓死させることができるのだ。これは一見食糧を与えているようにも見えるため、諸外国からの批判を交わすためにも有効な方法だった。

知的障害者に対する飢餓実験

ミュンヘン、ハール州立精神病院内のエグルフイング施設にかつて「T4作戦」の実行地があった。「T4作戦」はナチの歪んだ優生学に基づく、身体障害者・精神障害者・発達障害児童の抹殺作戦である。これは39年のポーランド侵攻以前からドイツ国内で水面下で実行されていた。エグルフイングの施設長、ヘルマン・プファンミュラー博士は、ナチ・イデオロギーが掲げる「価値のない命」の概念を強く信じており、T4作戦にも当初から参加していた。

彼は「無駄飯ぐらい」(特に小児)を殺す方法として特殊な飢餓セラピーとでもいうような方法を研究していた。

1939年に心理学の学生がエグルフイングの施設内に見学実習に来た。プファンミューラーはその際学生を小児病棟へ案内した。その時に学生が目にしたものとは・・


15〜25人の1歳〜5歳までの子供が寝かされていた。プファンミューラーはこの病棟で特に詳しく自分の考えを明らかにした。次のように要約される彼の説明は驚くほど率直でかなり強く記憶に残っている。彼曰く、『こいつら(子供たち)はナチ党員の私にとって民族のお荷物だ。殺す(殺るという言い方もした)にしても毒や注射は使わない。外国の新聞や赤十字のお偉方にまた非難されるだけだ。方法は皆さんがわかるようにはるかに簡単で自然なのだ』こう言いながら彼は施設の常勤と思われる看護婦に一人の子供をベッドから引き出させ、死んだウサギでも見せるように皆に見せて、専門家ぶった冷笑を浮かべながら『これはあと2、3日はもつだろう』というようなことを言った。太ったニヤニヤ顔、肉付きのよい手に捕まえられてひいひい泣く骨と皮の子供、周りにうじゃうじゃいる飢えた子どもたち、その光景は目に焼きついている。プファンミュラーは食物の供給を急に止めるのではなく、徐々に減らすと説明していた。



エグルフイングにはいわゆる「飢餓病棟」が2つあった。1943年1月から終戦までの約2年3ヶ月の間、患者に肉や脂肪を与えることは禁止された。

被収容者は野菜、ジャガイモ、1日辺り一切れのパンしか与えられなかった。これはプファンミュラーがかつて在職していたカウフボイレン施設で’効き目’が確認された食べ物で、胃を満たすが、次第次第に目的に導く。脂肪分を与えないと彼らはほっておいても死亡する。これはプファンミュラーによる工夫で、多くの施設で効果が証明されているとされている。

彼の飢餓病棟では子供、大人約444人が飢餓に追い込まれ、餓死させられた。戦後、米軍に逮捕された後、裁判で彼は「安楽死作戦は合法だった。昔からあった考え方(障害者を殺すこと)だった」というようなことを述べたという。彼は6年間収監されたがその後はなんなく出所し、75歳まで生きた。

ソビエト兵捕虜に対する飢餓実験

1941年の秋、ハンブルク大学の講師ハインリヒ・ベルニング博士は、軍衛生局総監督部より「水腫病の医学研究」を委託された。実験の材料に使われるのはソ連兵捕虜で、そのための専門施設がハンブルク=ヴァンツベックに設置された。

ベルニングによれば、飢餓水腫が発生するためには、かなり長期にわたって1日のたんぱく質摂取量が、30gを下回るようにせねばならない、とされた。ベルニングは本物の飢餓水腫を実験によって作り出し、それを観察し、飢えた人間が長い段階を経て体重が減少して行き、すぐに疲れやすくなり、性欲がなくなり、頭痛を覚え、めまいがするようになるさまを記録していた。

また、彼は捕虜の下腹部が膨張する様子を観察している。寒さや労働が水腫を強めた。

ベルニングは餓死した捕虜の胃や腸の形態変化を観察して記録。彼は戦後も偉大な博士として活躍、ナチ時代の実験を裁かれることはなかった。

なぜこんなことが起こったか

ナチ占領地が拡大すると同時に、彼らは大量の劣等人種を獲得した。未曽有の総力戦により、ドイツ人は兵士も銃後も含めて、皆命がけの戦争を戦い、窮乏を耐え忍んでいた。占領地ではお互いの全存在を抹消し尽すほどの殺戮と憎悪の応酬が続いていた。

そんな時世の中、「民族の宿敵」や「足手まとい」が、安全圏で食糧を与えられ、何もせずに安穏と暮らす、なんことを決して許さない人々がいた。それがナチの医学界や、上層部、とりわけハインリヒ・ヒムラーであった。

大量の実験サンプルが入手でき、彼らを一箇所にまとめて閉じ込めることができる今、戦争の勝利のために人体実験を行うのは、ナチ上層部にとっては「当然のこと」であった。

そして、人体実験は激しい人種偏見の賜物であった。ユダヤ人やスラブ人、ジプシーは人間とはみなされなかった。ジプシーを実験材料にすることを拒否する科学者はいたが、それは「人間」と比較することが難しい、という理由だった。

曖昧な人種理論の証拠探しという側面もあった。人種が優れている、劣っているなどというのは、今日においては疑似科学であることは誰も疑わない。何をもって「優れて」おり、何をもって「劣って」いるのかなど、そんな定義が歴史上存在したことは一度としてない。

にもかかわらず、ナチはアーリア人が優秀で、ユダヤ人が劣等だと決めつけた。それは政治が勝手に言い始めたことで、これを裏付けるために科学が総動員された。ナチの医学者たちは血眼になってアーリア人が優秀で、それ以外がそれよりも劣るという「証拠」を見つけようとした。それは髪や瞳の色であったり、顎の形であったり、背の高さであったりした。
http://3rdkz.net/?p=250&page=4

ヒトラーやヒムラーは、理想的な北欧人種とは程遠い外見である。ゲッベルスは足が不自由で身体障碍者である。にもかかわらず、ドイツ国民は「ハーメルンの笛吹き男」が奏でるメロディに踊らされるがままに、ヨーロッパ全土を破壊し、滅亡に追い込んだ。この歴史の奇妙を解明することは、今後においても決してできないに違いない。我々にできることは茫然と立ちすくみ、とりあえず人種差別に反対することだけであろう。
http://3rdkz.net/?p=250&page=5

http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/105.html#c2

[ホロコースト2] ホロコースト認めて禁固刑逃れを狙ったアービングの失敗は醜態 木村愛二
3. 中川隆[-10747] koaQ7Jey 2019年4月13日 08:19:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1295]
【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】 2017/5/11
http://3rdkz.net/?p=250


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。

なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。

非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。

目次
実験T 低圧・低温実験
実験U 海水を飲料にする実験
実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究
実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験
実験X 毒物接種実験
実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集
実験Z マラリア実験
実験[ 双子実験
実験\ 強制不妊化実験
実験] 飢餓実験


なぜこんなことが起こったか

実験T 低圧・低温実験

低圧・酸欠下での救出実験

hypothermiaドイツ空軍が高度12000メートルに達するジェット機を開発したまでは良かったが、人体がそのような超高度環境にどのような反応を見せるのか、ということに関して信頼できるデータはまだなかった。そこで、ドイツ空軍軍医大尉であり、親衛隊将校でもあったジクムント・ラッシャー博士は、《ライヒスフューラー(親衛隊全国指導者=ヒムラー)》へ手紙を書き、ダッハウ収容所の死刑囚を用いた人体実験の許可を求めた。

1942年3月、ヒムラーは実験を許可し、ラッシャー大尉の責任において、超高度における人体の反応の観察や、パラシュートや特殊機材を用いた救出を実用化するための危険な人体実験が行われた。超高度の低圧環境下で被験者を酸欠の状態に留め置き、どれぐらいの時間をかけて被験者が死亡するのか、またどのようなタイミングでしかるべき処置を行えば彼を救出できるのか、ありとあらゆる場面を想定して実験が行われた。当然のごとく実験は死者が続出したが、ラッシャーは死にゆく被験者の行動を観察し、心電図を記録した。そして、屍を解剖し、肺や心臓、脳の血管の空気塞栓の状況などを記録。逐一ライヒスフューラーへ報告していた。

実験に駆り出された200人の囚人のうち、実に80名の被験者が死亡した。

低体温・冷却からの蘇生実験

freeze
冷却実験の様子

ラッシャーとその協力者たちは、ダッハウにて更に人体実験を行うことにした。今度は海難事故などにより寒冷下に晒された人体を、いかに蘇生・回復できるか、といった実験である。やはりパイロットを救出することを前提とした実験であったが、実際にはダッハウの囚人300名を4〜12℃に冷却した水の中につけ、体を極限まで冷やしたのち、いかにすれば効率よく回復できるかを試すもので、この実験で90名が死亡。今日においてもこの実験結果が国際的専門誌に引用されているという。

この実験は当初よりライヒスフューラーの関心を買った。ヒムラーは冷え切った肉体を温めるためには、同じ人間の皮膚の接触。つまり、裸の女性による抱擁が効果があるのではないか、と考えた(ヒムラーはしばしばこのようなロマンチズムに基づく推測を実践させた)。ラッシャーはヒムラーの意向に沿ってダッハウ収容所より若い女性4名を召喚。そのうちの一人があまりにも見事なアーリア人種の肉体的特徴を備えていたため、ラッシャーは彼女を実験に使用することを拒否したという。つまり、被験者は下等人種とみなされたスラブ人やソ連兵捕虜であり、これを裸で温める乙女がアーリア系であってはならないというのである。この逸話からもわかる通り、人体実験は激しい人種差別の賜物であった。ちなみに女性の体で温める方法は非効率で到底実用に耐えないものであったという。

この実験は、場所を変えてアウシュビッツ収容所でも行われた。アウシュビッツのほうがより寒く、広大で実験が目立たなかったからだという。つまり、被験者は多くの場合、「苦しみにより悲鳴をあげた」からである。ラッシャーは被験者に麻酔をかけることを禁止し、なんら苦しみを緩和するための努力をしなかった。

ある実験では、ソ連軍将校2名がアウシュビッツで、水桶の中に裸で入らされた。通常なら60分程度で意識を失い、死亡するのだが、このソ連将校2名は3時間経過した頃に「同志…銃殺してくれないか」と頼んだという。その後、二人は握手を交わし、「さよなら、同志よ」と言った。ポーランド人の助手が見兼ねてクロロフォルムで二人に麻酔をかけようとしたが、ラッシャーはピストルを突きつけ、これを制止した。二人は5時間後にようやく死亡し、死体は解剖するためミュンヘンに送られた。

ラッシャー夫妻は子供に恵まれず、子供を誘拐、金銭で買い取って自らの子であるとして育てていた。これが明るみに出るとライヒスフューラーは激怒。ラッシャーは多くの囚人を殺害したダッハウにおいて、自らも処刑された。戦争が終わる直前だった。よって戦後もラッシャーは裁きにはかけられず、協力者たちは全ての責任を、同じく死亡したヒムラーとラッシャーにかぶせることに成功。この非道な人体実験で裁かれた者は結局誰一人としていない。

実験U 海水を飲料にする実験

この実験は、やはり海難事故に遭遇し、海の上を漂流することになったパイロットを救うために企画された。

二人の科学者が海水を飲料にするための試みを始めた。シェーファー教授が海水から塩分を分離するための設備を開発しようとして成功したが、これには多額の費用が掛かるため実用性なしと判断された。一方空軍技師ベルカが開発した「ベルカティカ」という薬品は海水の味を飲める程度に変えてしまうもので、この薬品はコストパフォーマンスにも優れ、大量に生産された。

しかし、すぐにこのベルカ方式の海水を飲むと、「より渇きがひどくなる」という声が上がり始めた。味を調整しただけで海水は依然として多量の塩分を含んでいたし、飲みすぎることで渇きが悪化し、下痢すら引き起こすことが分かった。

どちらの方法で渇きを解決するのか、ダッハウ収容所内で再度人体実験が行われた。被験者はいくつかのグループに分けられた。数日間にわたって海水を飲むもの、ベルカ方式の海水を1日500cc飲むもの、1000cc飲むもの、シェーファー方式で精製された水を飲むもの、などである。

被験者はブーヘンヴァルト収容所から連れてこられたジプシーたち40名であった。彼らは表向きは志願であった。実験の詳細についてきちんと説明を受けた上、実験前10日間は完璧な航空兵糧食3000キロカロリーを摂取し、健康管理を入念に行ったうえでの実験であり、死亡した者、後遺症が出た者はいないとされている。しかし、実験は著しく苦しく不快なものとなり、被験者の中には清掃班のバケツの中の汚水を飲んだり、モップから垂れたしずくを舐めた者がいたという。このような実験が本当にすべて志願だったと言えるだろうか?ましてや被験者のほとんどは賤民と見なされていたジプシーである。これは戦後の裁判で検察の激しい疑惑をかい、追及を受け、実験を主導した者たちは禁固15年〜終身刑を受けた。

ただし、実験で重篤な障害を受けた者、死亡した者がいなかったのは確かなようである。フランス人の医療助手や被験者のジプシーのうち数名が、宣誓供述書を提出し、実験を主導した科学者たちの恩赦請求を行っている。

実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究

発疹チフスのワクチン接種実験

東部戦線や各収容所で猛威を振るった発疹チフスから、前線兵士を救うための人体実験がブーヘンヴァルトとナッツヴァイラー各収容所にて行われた。

実験は1942年の春ごろから1944年の末まで続けられた。

それまで存在していた発疹チフスのワクチンは、病気の症状を軽減させることはできても、本来の目標たる免疫力の獲得、つまり病気に罹らずに済む、というものではなかった。これを深刻にとらえたSS上層部の医師団や衛生担当者たちは、人体実験の施行を強く主張。ブーヘンヴァルト内にウィルス研究部が設立され、SS軍医や権威ある熱帯医学者などが参加した。

実験は数十種類にも及ぶ各種ワクチンを接種した上で、数週間の間隔を置いたのち、人為的に発疹チフスに感染させるというものだった。対照群として設置された群は、ワクチン接種群と比較するために、単にチフスに感染させられた。

ワクチンを接種した者たちも、多くの場合、高熱や頭痛など、「発疹チフスの症状」に悩まされた。

被験者に選ばれた者たちは、ドイツ人の刑事犯、ポーランド人、ソ連兵捕虜、ジプシーなどである。健康状態が優良なものたちが数百人選び出され、少なくとも150名以上が死亡した。ブーヘンヴァルトの医師、シューラーSS大尉は終戦間近で自殺したが、彼の業務日誌が囚人によって廃棄を免れた。その中には、他にも黄熱病、チフス、コレラ、ジフテリアに対するワクチンや薬物の効果で800人の被験者が人体実験にかけられたことが示唆されている。

伝染性肝炎ウィルスの研究のための人体実験

独ソ戦が始まると、黄疸症状に悩まされる兵士が非常に増えた。致死的な病ではなかったが、発病者が多く、軍の作戦能力を衰えさせるものとして研究が開始された。肝炎はそれまでバクテリアによる感染と考えられていたが、細菌学者のドーメン軍医大尉がウィルスを発見し、培養するためSSがウィルス株の管理権を要求したがドーメンは拒否して独りで研究を続けていた。

各所からの圧力に耐えかねたドーメンは、ついにザクセンハウゼン収容所内で、囚人に対して人為的に肝炎ウィルスを感染させる人体実験を行った。これは《帝国医師総監(=エルンスト・グラヴィッツ)》の強い要請だった。ドーメンは良心の呵責に苦しめられ、実験が開始されたのは1944年も9月になる頃だった。
http://3rdkz.net/?p=250


アウシュビッツから、子供や青年からなる11人の囚人がザクセンハウゼンにやってきてドーメンに委ねられた。ザクセンハウゼンの第二病棟において彼らの世話をしていた古参囚人ブルーノ・マイヤーは、実験の内容について記録を残している。以下に引用する。


ドーメン博士は医療器具カバンから一本の斜めに歯のついたゾンデを取り出してサウル・ホルンフェルトの背後へ近づき、指で彼の背中を探りました。そしてゾンデを当て、子供の背中の筋肉を通して深く体の中まで突き刺しました。サウル・ホルンフェルトは痛みのあまり、自分の小さな拳を噛みました。急いで私は彼の前へ歩み寄り、声を押し殺して、しっかりしろと言いました。涙で見えない目で彼は私を見ました。そして、医者が再びゾンデを突き刺しました。(中略)その後、私は、ドーメン博士がゾンデから長い針を抜き、ゾンデの開口部に急いで試験管をあてがうのを見ました。黒っぽい血が試験管の中へ滴り落ちました。小さな組織も、―—多分肝臓の一部だったでしょう——少しその中に混じっていました。



結局、肝炎ウィルスを人為的に感染させる実験は成功しなかった。ドーメン博士や囚人たちがその後どうなったかは明らかではないが、博士は戦後実験結果を発表している。

医療用ゾンデ
医療用ゾンデ


第V収容所 1 share 1 user
【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内


少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか...


実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験

人為的にガス壊疽を作り出す実験

1942年5月、《国家保安本部(RSHA)》長官及び、ボヘミア・モラヴィア保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒがイギリス諜報部の襲撃を受けて重傷を負った。治療の責任者は武装SSの顧問外科医カール・ゲプハルトであったが、ゲプハルトの飛行機は延着したので直接手術に携わったのはプラハの医師二名である。ゲプハルトは《総統》とヒムラーの個人的な電話を何度も受けた。ヒトラーは自分の主治医であるモレル博士を派遣するとまで言った。

しかしハイドリヒは処置の甲斐なく6月2日に死亡。ゲプハルトはその後ヒムラーと謁見し、「ハイドリヒの死はドイツがこれまで経験したことのない巨大な敗北であった」と《総統》が考えていることを知らされた。ゲプハルトには汚名返上の機会が与えられた。ハイドリヒ長官が負傷による敗血症によって死亡したことを受け、至急、スルフォンアミドの効果を調べる人体実験の実行が決まった。

実験の舞台に選ばれたのは女性専用の強制収容所ラーフェンスブリュックであった。実験の目的は、当時未解明な部分が多かったガス壊疽という症状を分析し、有効な治療方法を見つけ出すことであった。そして、同時に戦場で多く見られる通常の傷口を調べ、有効な治療法を探す目的もあった。

被験者はザクセンハウゼン強制収容所から連れてこられた男性囚人や、ポーランドの抵抗運動に携わった女性囚人たちである。彼らはわざとけがを負わされ、木片やガラス片を傷口に練りこまれた。

《帝国医師総監》グラヴィッツは、実験場を視察し、被験者に死者が出ていないことに対して実験が手ぬるいと感じ、本物の銃創を彼女たちに負わせるように、と命令した。ゲプハルトはこの命令を拒否したが、より傷口の状態を悪化させることに努力したことに変わりはなかった。彼女たちは下腿の血管を結紮され、壊疽性の腐敗病原体を接種させられたりした。そのうえで彼女たちは処置も受けられず何日も放置され、本物のガス壊疽の症状により3名が死亡した。

人為的にひどい敗血症に陥らせた上でスルフォンアミドの効力を実験したが、傷を負わされただけで何の処置も受けられない囚人もいた。実験内容は1943年の5月にベルリンの軍医大学校で発表されたが、出席者の中で被験者の人権について申し述べた者は一人もいなかった。

他人の骨を移植して治療効果を見る実験

ラーフェンスブリュック強制収容所内で、女性を使って行われた他の実験群は骨の再生と骨の移植の実験である。

肩胛骨を他方から他方へ移す実験が行われた。肩胛骨を除去されたのは、ラーフェンスブリュックの精神病患者の女性であった。この女性は肩胛骨を抜き取られた後速やかに薬殺された。肩胛骨を移されたのは、ホーエンリーヘンの血管の癌により肩胛骨を失った若者で、彼は癌を再発することなく生きながらえたという。

この実験のほかにラーフェンスブリュック収容所内で、神経再生、筋肉再生の各実験、切断やその他の実験が行われたといわれるが、その規模や詳細は不明である。収容所医師の一人、ローゼンタール博士は、負傷に苦しみ、助かる見込みのない重症の囚人を20〜30人、楽に死なせるためにモルヒネを過剰投与したと断言している。

実験X 毒物接種実験

イペリッドガス

大戦期間中、ザクセンハウゼン、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフの各強制収容所内でびらん性(皮膚をただれさせる作用)のイペリッドガス(=マスタードガス)の人体実験が行われた。これは例によってヒムラーの命令だった。

イペリッドガスによる負傷の度合いと、効果的な治療法を見つけることがその目的である。この実験はストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士などが主にかかわった。

この毒ガス実験については、ナッツヴァイラーのカポ(囚人頭)であったフェルディナント・ホルの生々しい証言が残っている。


囚人たちは真っ裸にされ、次から次へと実験室の中に入ってきました。彼らは前膊から10センチほどの箇所にその液体を塗られましたが、その時私が彼らの腕を抑えていなければなりませんでした。その後、処置を施された被験者たちは隣の部屋へ行き、そこで腕を広げたまま約1時間立っていなければなりませんでした。約10時間もすると、あるいはもっと長かったかもしれません、火傷が、それも全身に出てくるのです。盲目になった人々もいました。ひどい苦しみで、被験者たちのそばにはとてもいられないほどでした。その後、被験者たちは毎日写真を撮られました。しかもすべての傷の箇所を、つまり全ての火傷の箇所を写真に撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。(中略)内臓、肺などは全て完全に腐食していました。その後の数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2か月続けられました。



実験は何度も行われ、平均して毎回7~8名の死者が出た。生き残った者たちも後遺症の残った体でアウシュビッツやベルゲンベルゼンに送られた。

硝酸アコニチン弾丸の創痍研究


極秘事項

帝国医師ー親衛隊警察、主席衛生官

日誌番号 秘364/44 ムルゴウスキー

1944.9.12

硝酸アコニチン弾丸について

SS少佐ディング博士、ウィマン博士、および筆者立ち合いで1944年9月11日、5人の死刑囚に、毒物である硝酸アコニチン結晶入りの弾丸(直径7.65o)を用いて実験を行った。被験者を寝かせ、左大腿に1発撃ちこんだが、2人では弾丸は貫通、後になっても毒作用は出なかったので、実験から除いた。(中略)

3人の症状は驚くほど一致していた。最初は異常がなかったが、20分から25分後に動きが不穏となり、遅れて、よだれが少し出始めた。しきりに飲み込もうとしたが、量が増えて飲み込めないほどになり、ついには、泡を含んだよだれが口から漏れてきた。それから、吐き気、嘔吐が始まった…。

約90分後、1人の呼吸が深くなり、同時に運動不穏も増強した。呼吸は浅く速くなった。同時に強い吐き気が現れたが、吐こうとしても何も出なかった。指を4本付け根まで口に深く入れて吐こうとしたが吐けず、顔は真っ赤になるだけだった。

他の2人の顔は早い時期から蒼白になっていた。他の症状は同じだった。運動不穏の出現は遅れたが、極めて強くなり、棒立ちになったかと思うと、また、床に身を投げ出した。白目をむき、手や腕は意味のない動きをした。最後に、不穏の程度は弱くなり、瞳孔は極度に散大、被験者は静かに横たわるだけだった。1人には咬筋の痙攣が現れ、尿失禁が認められた。3人の死亡は、受傷後それぞれ、121,123、および129分であった。
http://3rdkz.net/?p=250&page=2

総括 およそ38mgの硝酸アコニチンを詰めた弾丸による創自体はひどいものではなかったが、2時間後に致死的な中毒が現れた。中毒症状の出現は、受傷後20分から25分で、主要症状は、流涎、瞳孔径の変化、腱反射消失、運動不穏、強い吐き気であった。

講師医学博士ムルゴウスキー、SS上級大佐、主席衛生官


上の手記と一致するかは不明だが、ザクセンハウゼン収容所で死刑囚を用いた毒の弾丸の実験が行われた、との展示がある。その射撃手はムッソリーニ救出の特殊部隊を率いた、オットー・スコルツェニーSS中佐である。

実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集

hiltストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士は、1942年の2月にヒムラーにあてて手紙を書き、ユダヤ人、共産党員、赤軍政治将校の頭蓋骨収集の許可を求めた。ヒムラーはおおいに関心を持ち、ヒルトに自分の政治的権力の全てを委ねてこれを支援した。

当時、ナチスドイツはありとあらゆる人種の頭蓋骨を収集して、その形態を測定したり、歪んだ人種優生学に基づく様々な研究を行っていた。しかし、ユダヤ人に関しては当時サンプルを獲得する術があまりなかったらしい。独ソの開戦はその状況を打開する最良の機会となった。既にホロコーストは開始され、ユダヤ人と共産党や政治将校は同一視されていた。彼らの頭蓋骨を一定量獲得し、データを取得することで、占領地において効率よくユダヤ人や政治将校と、その他の民族の鑑別を容易にし、効率的に撃滅できる、というのが彼らのデタラメな論理であった。

ヒルトとその協力者たちが、いかにしてそれらのサンプルを選定したかは定かでない。既に収容所にいたユダヤ人なのか、占領地から生きたまま拉致してきた政治将校や捕虜たちだったのか、とにかく、彼らがアドルフ・アイヒマンを通してアウシュビッツの囚人約120名を、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフ各収容所の実験施設へ送ったのは確かである。

それら120名の囚人は「首から上を傷つけぬように」ガスによって殺害され、合成アルコール入りの水槽の中で保存された。ヒルト博士はそれらの死体を細かく解剖。


ヒルトは戦後逃亡先で自殺した。

実験Z マラリア実験

ベルリンのロバート・コッホ研究所所長で、熱帯医学部門長であったクラウス・シリング博士は、1936年の現役引退後も、イタリアでマラリアのワクチンの開発研究を続けていた。1941年末、内務省保健衛生事業担当官のレオナルド・コンティ博士によってダッハウ強制収容所で研究ができることを勧められ、翌2月のはじめから実験を開始。1945年の3月半ばに74歳のシリングが手術を受けるためにミュンヘンにでかけたあと、ヒムラーが実験中止を命令した。(敗戦が近かったからであろうか?)

シリングの3年にわたる実験でおよそ1000人がマラリアに感染させられ、330人が死亡した。

実験[ 双子実験

ベルリン、ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長のオトマール・フォン・フェアシュアーは、双子に関する研究を手広く行っていたが、戦争が始まると弟子のSS大尉、ヨーゼフ・メンゲレ博士をアウシュビッツに送り込んだ。彼はアウシュビッツの降車上に自ら赴いて、何千もの双子を集めてコレクションし、過酷な人体実験を行った。

mengere
ヨーゼフ・メンゲレ

メンゲレは、静脈をつなぎ合わせてシャム双生児を人工的に作ろうとしたり、眼球に薬品を注射して瞳の色を変えようとした。また、チフス菌を注射して病気の経過を血清学的に記録した。また頭蓋骨の収集もぬかりなく行われ、それらの実験報告を師のフェシュアーに送っていた。メンゲレは3000対の双子を人体実験にかけ生き残ったのは100名だけだった。


ある生存者の報告

ある日、私の双子の兄のチビが特別実験のために連れていかれた。メンゲレは、最初から、チビに非常に興味を持っていた。なぜか知らないが、比較的歳のいった双生児であったからかもしれない。

メンゲレはチビを何回となく手術した。脊椎手術で麻痺となり、走れなくなった。

性器も除去してしまった。4回名の手術後、チビには2度と会えなかった。

私の気持ちがどんなだったか、あなたに言えないし、言葉にも表せない。

私は父、母、兄2人を失っていたのに、また双子の兄もなくしてしまった。


メンゲレは1979年に逃亡先のブラジルで海水浴中に死亡した。

実験\ 強制不妊化実験

ナチの歪んだ人種思想は戦争前から活発ではあったが、独ソ戦の開始と共に東方民族絶滅の意志はますます固くなるばかりだった。その手段としてずっと論議されてきたのが、断種措置による強制的な不妊化処置の遂行であった。

ナチの断種の施策は大きく分けると3つの経過をたどった。

薬品による断種

カラジューム・セグイヌム(サトイモ科の観葉植物の一種)を接種することによって、特に男性は生殖不能となるとされ、この植物を大量に栽培しようとするのだがコスト面で実用に耐えないことが分かった。ヒムラーは農業に大変関心が高い男であったため、カラジューム・セグイヌムの構成要素の分析を進め、人体実験を行うべし、との命令を発した。

しかし、これを命じられたコッホ博士はありきたりな動物実験を行うのみにとどめ、命令を事実上サボタージュした。それはあまりに実用性がなく、他の方法がどんどん進んでいたからであった。

放射線による断種

帝国公衆衛生局に所属し、障碍者の断種・殺害計画に関与したヴィクトル・ブラック博士は、放射線による断種の研究と人体実験の許可をヒムラーに求めた。それまで行われていた外科手術に頼る方法では、あまりに労力とコスト面で現実味がなかったからである。

これをヒムラーは許可し、第Uアウシュビッツ(=ビルケナウ)や女性収容所のラーフェンスブリュックで、それぞれ放射線による断種の試みが行われた。若い適齢期の男女は、何の説明もないままに不意に呼び出され、性器や子宮、睾丸付近にレントゲンを照射された。

彼らの多くは火傷を負い、傷口は膿み、そのような体で重労働につかされた。歩けなくなったものは銃殺・ガス殺された。

レントゲン照射後数週間してから、男性囚人は外科的に睾丸を摘出された。レントゲンの効果がどの程度であったかを検証するためであったとされる。しかし、レントゲン照射を受けた囚人たちは局部に重傷を負い、結局は絶滅収容所の中で死んでいった。

ブラック博士は、この不妊化処置を「殺すよりはマイルドな方法」と認識していたらしく、裁判で「絶滅政策を緩和するためにあえて提案した方法だった」と証言した。法廷はこの詭弁を却下し、ブラックを死刑に処した。

子宮内の刺激作用による断種

drclaubergこの方法は、ケーニッヒスヒュッテの医学博士クラウベルク教授によって開発された。教授はもともと卵管閉鎖による不妊を治療する方法を開発して有名になった人物だった。

1933年にナチ党に入党し、その医学の知識を、今度は「下等人種」の断種のために傾けようとしていた。
http://3rdkz.net/?p=250&page=3


クラウベルクはヒムラーと協議し、外科手術を用いることなく不妊化させる方法を話し合った。教授が考えていたのは卵管にホルマリン溶液を注入するという方法だった。ヒムラーはアウシュビッツにクラウベルクの実験施設を作るよう、部下のルドルフ・ヘースに命令した。

約500人の女性がクラウベルクの前に引き出され、狂気の実験の犠牲となった。収容所に響き渡る女性の悲鳴の原因は何のか、あの医師は囚人にいったい何をしているのか調べようと、女性看守が飛んできたこともあったほどであった。

実験により少なくとも7人の女性が死亡。残った囚人のうち、何人がガス室に送られたかは不明である。

教授は1945年にはラーフェンスブリュック収容所へ移り、35人の女性に人体実験を行った。戦後は赤軍に捕まり25年の判決を受けるがのちに恩赦。ドイツに戻るとドイツ当局に再逮捕され、57年、拘留中に死亡した。

実験] 飢餓実験

ナチスドイツのユダヤ人絶滅政策は、経済学と一体不可分であった。一体どれほどのユダヤ人を労働力として活用し、1日に与える食事量はどの程度で、平均してどのぐらいの期間働かせたのち餓死させ、最終的にいついつまでに何人殺すのか……

このような狂気の経済学を日夜考え、そろばんをはじき、実践するために各省庁に協力を仰ぎ……ドイツ人の官僚的気質がこれ以上上等に発揮された機会はなかった。

飢餓実験はいわば、このようないわば「虐殺の経済学」とも呼べるものの産物だった。

慢性的な食糧不良に苦しむドイツで、何百万、ともすれば一千万以上にも及んだソビエト兵捕虜やユダヤ人、障害者、ジプシー、同性愛者に与える食糧はなかった。与えるとしたら、元を取るために働かせるためだった。

ナチ親衛隊上層部とドイツ医師会は結託し、下等人種や民族の宿敵たちを、無駄なく効率よく餓死させる方法を考えあい、実験を繰り返した。

いかにすれば、働かせながら餓死させることができるだろうか。どのくらいのカロリーを与えれば良いのだろう。どのような食事のメニューにすれば良いのだろう。どのような栄養素を継続的に断ち、代わりに何を摂取させれば良いのだろうか。

ナチの飢餓実験が、実を結んだ結論は、囚人に決してタンパク質を与えないことだった。代わりにジャガイモやパンなど、少量の炭水化物を摂取させる。このようにしてゆっくりと確実に餓死させることができるのだ。これは一見食糧を与えているようにも見えるため、諸外国からの批判を交わすためにも有効な方法だった。

知的障害者に対する飢餓実験

ミュンヘン、ハール州立精神病院内のエグルフイング施設にかつて「T4作戦」の実行地があった。「T4作戦」はナチの歪んだ優生学に基づく、身体障害者・精神障害者・発達障害児童の抹殺作戦である。これは39年のポーランド侵攻以前からドイツ国内で水面下で実行されていた。エグルフイングの施設長、ヘルマン・プファンミュラー博士は、ナチ・イデオロギーが掲げる「価値のない命」の概念を強く信じており、T4作戦にも当初から参加していた。

彼は「無駄飯ぐらい」(特に小児)を殺す方法として特殊な飢餓セラピーとでもいうような方法を研究していた。

1939年に心理学の学生がエグルフイングの施設内に見学実習に来た。プファンミューラーはその際学生を小児病棟へ案内した。その時に学生が目にしたものとは・・


15〜25人の1歳〜5歳までの子供が寝かされていた。プファンミューラーはこの病棟で特に詳しく自分の考えを明らかにした。次のように要約される彼の説明は驚くほど率直でかなり強く記憶に残っている。彼曰く、『こいつら(子供たち)はナチ党員の私にとって民族のお荷物だ。殺す(殺るという言い方もした)にしても毒や注射は使わない。外国の新聞や赤十字のお偉方にまた非難されるだけだ。方法は皆さんがわかるようにはるかに簡単で自然なのだ』こう言いながら彼は施設の常勤と思われる看護婦に一人の子供をベッドから引き出させ、死んだウサギでも見せるように皆に見せて、専門家ぶった冷笑を浮かべながら『これはあと2、3日はもつだろう』というようなことを言った。太ったニヤニヤ顔、肉付きのよい手に捕まえられてひいひい泣く骨と皮の子供、周りにうじゃうじゃいる飢えた子どもたち、その光景は目に焼きついている。プファンミュラーは食物の供給を急に止めるのではなく、徐々に減らすと説明していた。



エグルフイングにはいわゆる「飢餓病棟」が2つあった。1943年1月から終戦までの約2年3ヶ月の間、患者に肉や脂肪を与えることは禁止された。

被収容者は野菜、ジャガイモ、1日辺り一切れのパンしか与えられなかった。これはプファンミュラーがかつて在職していたカウフボイレン施設で’効き目’が確認された食べ物で、胃を満たすが、次第次第に目的に導く。脂肪分を与えないと彼らはほっておいても死亡する。これはプファンミュラーによる工夫で、多くの施設で効果が証明されているとされている。

彼の飢餓病棟では子供、大人約444人が飢餓に追い込まれ、餓死させられた。戦後、米軍に逮捕された後、裁判で彼は「安楽死作戦は合法だった。昔からあった考え方(障害者を殺すこと)だった」というようなことを述べたという。彼は6年間収監されたがその後はなんなく出所し、75歳まで生きた。

ソビエト兵捕虜に対する飢餓実験

1941年の秋、ハンブルク大学の講師ハインリヒ・ベルニング博士は、軍衛生局総監督部より「水腫病の医学研究」を委託された。実験の材料に使われるのはソ連兵捕虜で、そのための専門施設がハンブルク=ヴァンツベックに設置された。

ベルニングによれば、飢餓水腫が発生するためには、かなり長期にわたって1日のたんぱく質摂取量が、30gを下回るようにせねばならない、とされた。ベルニングは本物の飢餓水腫を実験によって作り出し、それを観察し、飢えた人間が長い段階を経て体重が減少して行き、すぐに疲れやすくなり、性欲がなくなり、頭痛を覚え、めまいがするようになるさまを記録していた。

また、彼は捕虜の下腹部が膨張する様子を観察している。寒さや労働が水腫を強めた。

ベルニングは餓死した捕虜の胃や腸の形態変化を観察して記録。彼は戦後も偉大な博士として活躍、ナチ時代の実験を裁かれることはなかった。

なぜこんなことが起こったか

ナチ占領地が拡大すると同時に、彼らは大量の劣等人種を獲得した。未曽有の総力戦により、ドイツ人は兵士も銃後も含めて、皆命がけの戦争を戦い、窮乏を耐え忍んでいた。占領地ではお互いの全存在を抹消し尽すほどの殺戮と憎悪の応酬が続いていた。

そんな時世の中、「民族の宿敵」や「足手まとい」が、安全圏で食糧を与えられ、何もせずに安穏と暮らす、なんことを決して許さない人々がいた。それがナチの医学界や、上層部、とりわけハインリヒ・ヒムラーであった。

大量の実験サンプルが入手でき、彼らを一箇所にまとめて閉じ込めることができる今、戦争の勝利のために人体実験を行うのは、ナチ上層部にとっては「当然のこと」であった。

そして、人体実験は激しい人種偏見の賜物であった。ユダヤ人やスラブ人、ジプシーは人間とはみなされなかった。ジプシーを実験材料にすることを拒否する科学者はいたが、それは「人間」と比較することが難しい、という理由だった。

曖昧な人種理論の証拠探しという側面もあった。人種が優れている、劣っているなどというのは、今日においては疑似科学であることは誰も疑わない。何をもって「優れて」おり、何をもって「劣って」いるのかなど、そんな定義が歴史上存在したことは一度としてない。

にもかかわらず、ナチはアーリア人が優秀で、ユダヤ人が劣等だと決めつけた。それは政治が勝手に言い始めたことで、これを裏付けるために科学が総動員された。ナチの医学者たちは血眼になってアーリア人が優秀で、それ以外がそれよりも劣るという「証拠」を見つけようとした。それは髪や瞳の色であったり、顎の形であったり、背の高さであったりした。
http://3rdkz.net/?p=250&page=4

ヒトラーやヒムラーは、理想的な北欧人種とは程遠い外見である。ゲッベルスは足が不自由で身体障碍者である。にもかかわらず、ドイツ国民は「ハーメルンの笛吹き男」が奏でるメロディに踊らされるがままに、ヨーロッパ全土を破壊し、滅亡に追い込んだ。この歴史の奇妙を解明することは、今後においても決してできないに違いない。我々にできることは茫然と立ちすくみ、とりあえず人種差別に反対することだけであろう。
http://3rdkz.net/?p=250&page=5

http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/717.html#c3

[ホロコースト5] アウシュヴィッツの歩き方(重要なお知らせ)   これから現地に行く皆さんへ 西岡昌紀
3. 中川隆[-10746] koaQ7Jey 2019年4月13日 08:19:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1296]
【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】 2017/5/11
http://3rdkz.net/?p=250


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。

なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。

非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。

目次
実験T 低圧・低温実験
実験U 海水を飲料にする実験
実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究
実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験
実験X 毒物接種実験
実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集
実験Z マラリア実験
実験[ 双子実験
実験\ 強制不妊化実験
実験] 飢餓実験


なぜこんなことが起こったか

実験T 低圧・低温実験

低圧・酸欠下での救出実験

hypothermiaドイツ空軍が高度12000メートルに達するジェット機を開発したまでは良かったが、人体がそのような超高度環境にどのような反応を見せるのか、ということに関して信頼できるデータはまだなかった。そこで、ドイツ空軍軍医大尉であり、親衛隊将校でもあったジクムント・ラッシャー博士は、《ライヒスフューラー(親衛隊全国指導者=ヒムラー)》へ手紙を書き、ダッハウ収容所の死刑囚を用いた人体実験の許可を求めた。

1942年3月、ヒムラーは実験を許可し、ラッシャー大尉の責任において、超高度における人体の反応の観察や、パラシュートや特殊機材を用いた救出を実用化するための危険な人体実験が行われた。超高度の低圧環境下で被験者を酸欠の状態に留め置き、どれぐらいの時間をかけて被験者が死亡するのか、またどのようなタイミングでしかるべき処置を行えば彼を救出できるのか、ありとあらゆる場面を想定して実験が行われた。当然のごとく実験は死者が続出したが、ラッシャーは死にゆく被験者の行動を観察し、心電図を記録した。そして、屍を解剖し、肺や心臓、脳の血管の空気塞栓の状況などを記録。逐一ライヒスフューラーへ報告していた。

実験に駆り出された200人の囚人のうち、実に80名の被験者が死亡した。

低体温・冷却からの蘇生実験

freeze
冷却実験の様子

ラッシャーとその協力者たちは、ダッハウにて更に人体実験を行うことにした。今度は海難事故などにより寒冷下に晒された人体を、いかに蘇生・回復できるか、といった実験である。やはりパイロットを救出することを前提とした実験であったが、実際にはダッハウの囚人300名を4〜12℃に冷却した水の中につけ、体を極限まで冷やしたのち、いかにすれば効率よく回復できるかを試すもので、この実験で90名が死亡。今日においてもこの実験結果が国際的専門誌に引用されているという。

この実験は当初よりライヒスフューラーの関心を買った。ヒムラーは冷え切った肉体を温めるためには、同じ人間の皮膚の接触。つまり、裸の女性による抱擁が効果があるのではないか、と考えた(ヒムラーはしばしばこのようなロマンチズムに基づく推測を実践させた)。ラッシャーはヒムラーの意向に沿ってダッハウ収容所より若い女性4名を召喚。そのうちの一人があまりにも見事なアーリア人種の肉体的特徴を備えていたため、ラッシャーは彼女を実験に使用することを拒否したという。つまり、被験者は下等人種とみなされたスラブ人やソ連兵捕虜であり、これを裸で温める乙女がアーリア系であってはならないというのである。この逸話からもわかる通り、人体実験は激しい人種差別の賜物であった。ちなみに女性の体で温める方法は非効率で到底実用に耐えないものであったという。

この実験は、場所を変えてアウシュビッツ収容所でも行われた。アウシュビッツのほうがより寒く、広大で実験が目立たなかったからだという。つまり、被験者は多くの場合、「苦しみにより悲鳴をあげた」からである。ラッシャーは被験者に麻酔をかけることを禁止し、なんら苦しみを緩和するための努力をしなかった。

ある実験では、ソ連軍将校2名がアウシュビッツで、水桶の中に裸で入らされた。通常なら60分程度で意識を失い、死亡するのだが、このソ連将校2名は3時間経過した頃に「同志…銃殺してくれないか」と頼んだという。その後、二人は握手を交わし、「さよなら、同志よ」と言った。ポーランド人の助手が見兼ねてクロロフォルムで二人に麻酔をかけようとしたが、ラッシャーはピストルを突きつけ、これを制止した。二人は5時間後にようやく死亡し、死体は解剖するためミュンヘンに送られた。

ラッシャー夫妻は子供に恵まれず、子供を誘拐、金銭で買い取って自らの子であるとして育てていた。これが明るみに出るとライヒスフューラーは激怒。ラッシャーは多くの囚人を殺害したダッハウにおいて、自らも処刑された。戦争が終わる直前だった。よって戦後もラッシャーは裁きにはかけられず、協力者たちは全ての責任を、同じく死亡したヒムラーとラッシャーにかぶせることに成功。この非道な人体実験で裁かれた者は結局誰一人としていない。

実験U 海水を飲料にする実験

この実験は、やはり海難事故に遭遇し、海の上を漂流することになったパイロットを救うために企画された。

二人の科学者が海水を飲料にするための試みを始めた。シェーファー教授が海水から塩分を分離するための設備を開発しようとして成功したが、これには多額の費用が掛かるため実用性なしと判断された。一方空軍技師ベルカが開発した「ベルカティカ」という薬品は海水の味を飲める程度に変えてしまうもので、この薬品はコストパフォーマンスにも優れ、大量に生産された。

しかし、すぐにこのベルカ方式の海水を飲むと、「より渇きがひどくなる」という声が上がり始めた。味を調整しただけで海水は依然として多量の塩分を含んでいたし、飲みすぎることで渇きが悪化し、下痢すら引き起こすことが分かった。

どちらの方法で渇きを解決するのか、ダッハウ収容所内で再度人体実験が行われた。被験者はいくつかのグループに分けられた。数日間にわたって海水を飲むもの、ベルカ方式の海水を1日500cc飲むもの、1000cc飲むもの、シェーファー方式で精製された水を飲むもの、などである。

被験者はブーヘンヴァルト収容所から連れてこられたジプシーたち40名であった。彼らは表向きは志願であった。実験の詳細についてきちんと説明を受けた上、実験前10日間は完璧な航空兵糧食3000キロカロリーを摂取し、健康管理を入念に行ったうえでの実験であり、死亡した者、後遺症が出た者はいないとされている。しかし、実験は著しく苦しく不快なものとなり、被験者の中には清掃班のバケツの中の汚水を飲んだり、モップから垂れたしずくを舐めた者がいたという。このような実験が本当にすべて志願だったと言えるだろうか?ましてや被験者のほとんどは賤民と見なされていたジプシーである。これは戦後の裁判で検察の激しい疑惑をかい、追及を受け、実験を主導した者たちは禁固15年〜終身刑を受けた。

ただし、実験で重篤な障害を受けた者、死亡した者がいなかったのは確かなようである。フランス人の医療助手や被験者のジプシーのうち数名が、宣誓供述書を提出し、実験を主導した科学者たちの恩赦請求を行っている。

実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究

発疹チフスのワクチン接種実験

東部戦線や各収容所で猛威を振るった発疹チフスから、前線兵士を救うための人体実験がブーヘンヴァルトとナッツヴァイラー各収容所にて行われた。

実験は1942年の春ごろから1944年の末まで続けられた。

それまで存在していた発疹チフスのワクチンは、病気の症状を軽減させることはできても、本来の目標たる免疫力の獲得、つまり病気に罹らずに済む、というものではなかった。これを深刻にとらえたSS上層部の医師団や衛生担当者たちは、人体実験の施行を強く主張。ブーヘンヴァルト内にウィルス研究部が設立され、SS軍医や権威ある熱帯医学者などが参加した。

実験は数十種類にも及ぶ各種ワクチンを接種した上で、数週間の間隔を置いたのち、人為的に発疹チフスに感染させるというものだった。対照群として設置された群は、ワクチン接種群と比較するために、単にチフスに感染させられた。

ワクチンを接種した者たちも、多くの場合、高熱や頭痛など、「発疹チフスの症状」に悩まされた。

被験者に選ばれた者たちは、ドイツ人の刑事犯、ポーランド人、ソ連兵捕虜、ジプシーなどである。健康状態が優良なものたちが数百人選び出され、少なくとも150名以上が死亡した。ブーヘンヴァルトの医師、シューラーSS大尉は終戦間近で自殺したが、彼の業務日誌が囚人によって廃棄を免れた。その中には、他にも黄熱病、チフス、コレラ、ジフテリアに対するワクチンや薬物の効果で800人の被験者が人体実験にかけられたことが示唆されている。

伝染性肝炎ウィルスの研究のための人体実験

独ソ戦が始まると、黄疸症状に悩まされる兵士が非常に増えた。致死的な病ではなかったが、発病者が多く、軍の作戦能力を衰えさせるものとして研究が開始された。肝炎はそれまでバクテリアによる感染と考えられていたが、細菌学者のドーメン軍医大尉がウィルスを発見し、培養するためSSがウィルス株の管理権を要求したがドーメンは拒否して独りで研究を続けていた。

各所からの圧力に耐えかねたドーメンは、ついにザクセンハウゼン収容所内で、囚人に対して人為的に肝炎ウィルスを感染させる人体実験を行った。これは《帝国医師総監(=エルンスト・グラヴィッツ)》の強い要請だった。ドーメンは良心の呵責に苦しめられ、実験が開始されたのは1944年も9月になる頃だった。
http://3rdkz.net/?p=250


アウシュビッツから、子供や青年からなる11人の囚人がザクセンハウゼンにやってきてドーメンに委ねられた。ザクセンハウゼンの第二病棟において彼らの世話をしていた古参囚人ブルーノ・マイヤーは、実験の内容について記録を残している。以下に引用する。


ドーメン博士は医療器具カバンから一本の斜めに歯のついたゾンデを取り出してサウル・ホルンフェルトの背後へ近づき、指で彼の背中を探りました。そしてゾンデを当て、子供の背中の筋肉を通して深く体の中まで突き刺しました。サウル・ホルンフェルトは痛みのあまり、自分の小さな拳を噛みました。急いで私は彼の前へ歩み寄り、声を押し殺して、しっかりしろと言いました。涙で見えない目で彼は私を見ました。そして、医者が再びゾンデを突き刺しました。(中略)その後、私は、ドーメン博士がゾンデから長い針を抜き、ゾンデの開口部に急いで試験管をあてがうのを見ました。黒っぽい血が試験管の中へ滴り落ちました。小さな組織も、―—多分肝臓の一部だったでしょう——少しその中に混じっていました。



結局、肝炎ウィルスを人為的に感染させる実験は成功しなかった。ドーメン博士や囚人たちがその後どうなったかは明らかではないが、博士は戦後実験結果を発表している。

医療用ゾンデ
医療用ゾンデ


第V収容所 1 share 1 user
【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内


少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか...


実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験

人為的にガス壊疽を作り出す実験

1942年5月、《国家保安本部(RSHA)》長官及び、ボヘミア・モラヴィア保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒがイギリス諜報部の襲撃を受けて重傷を負った。治療の責任者は武装SSの顧問外科医カール・ゲプハルトであったが、ゲプハルトの飛行機は延着したので直接手術に携わったのはプラハの医師二名である。ゲプハルトは《総統》とヒムラーの個人的な電話を何度も受けた。ヒトラーは自分の主治医であるモレル博士を派遣するとまで言った。

しかしハイドリヒは処置の甲斐なく6月2日に死亡。ゲプハルトはその後ヒムラーと謁見し、「ハイドリヒの死はドイツがこれまで経験したことのない巨大な敗北であった」と《総統》が考えていることを知らされた。ゲプハルトには汚名返上の機会が与えられた。ハイドリヒ長官が負傷による敗血症によって死亡したことを受け、至急、スルフォンアミドの効果を調べる人体実験の実行が決まった。

実験の舞台に選ばれたのは女性専用の強制収容所ラーフェンスブリュックであった。実験の目的は、当時未解明な部分が多かったガス壊疽という症状を分析し、有効な治療方法を見つけ出すことであった。そして、同時に戦場で多く見られる通常の傷口を調べ、有効な治療法を探す目的もあった。

被験者はザクセンハウゼン強制収容所から連れてこられた男性囚人や、ポーランドの抵抗運動に携わった女性囚人たちである。彼らはわざとけがを負わされ、木片やガラス片を傷口に練りこまれた。

《帝国医師総監》グラヴィッツは、実験場を視察し、被験者に死者が出ていないことに対して実験が手ぬるいと感じ、本物の銃創を彼女たちに負わせるように、と命令した。ゲプハルトはこの命令を拒否したが、より傷口の状態を悪化させることに努力したことに変わりはなかった。彼女たちは下腿の血管を結紮され、壊疽性の腐敗病原体を接種させられたりした。そのうえで彼女たちは処置も受けられず何日も放置され、本物のガス壊疽の症状により3名が死亡した。

人為的にひどい敗血症に陥らせた上でスルフォンアミドの効力を実験したが、傷を負わされただけで何の処置も受けられない囚人もいた。実験内容は1943年の5月にベルリンの軍医大学校で発表されたが、出席者の中で被験者の人権について申し述べた者は一人もいなかった。

他人の骨を移植して治療効果を見る実験

ラーフェンスブリュック強制収容所内で、女性を使って行われた他の実験群は骨の再生と骨の移植の実験である。

肩胛骨を他方から他方へ移す実験が行われた。肩胛骨を除去されたのは、ラーフェンスブリュックの精神病患者の女性であった。この女性は肩胛骨を抜き取られた後速やかに薬殺された。肩胛骨を移されたのは、ホーエンリーヘンの血管の癌により肩胛骨を失った若者で、彼は癌を再発することなく生きながらえたという。

この実験のほかにラーフェンスブリュック収容所内で、神経再生、筋肉再生の各実験、切断やその他の実験が行われたといわれるが、その規模や詳細は不明である。収容所医師の一人、ローゼンタール博士は、負傷に苦しみ、助かる見込みのない重症の囚人を20〜30人、楽に死なせるためにモルヒネを過剰投与したと断言している。

実験X 毒物接種実験

イペリッドガス

大戦期間中、ザクセンハウゼン、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフの各強制収容所内でびらん性(皮膚をただれさせる作用)のイペリッドガス(=マスタードガス)の人体実験が行われた。これは例によってヒムラーの命令だった。

イペリッドガスによる負傷の度合いと、効果的な治療法を見つけることがその目的である。この実験はストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士などが主にかかわった。

この毒ガス実験については、ナッツヴァイラーのカポ(囚人頭)であったフェルディナント・ホルの生々しい証言が残っている。


囚人たちは真っ裸にされ、次から次へと実験室の中に入ってきました。彼らは前膊から10センチほどの箇所にその液体を塗られましたが、その時私が彼らの腕を抑えていなければなりませんでした。その後、処置を施された被験者たちは隣の部屋へ行き、そこで腕を広げたまま約1時間立っていなければなりませんでした。約10時間もすると、あるいはもっと長かったかもしれません、火傷が、それも全身に出てくるのです。盲目になった人々もいました。ひどい苦しみで、被験者たちのそばにはとてもいられないほどでした。その後、被験者たちは毎日写真を撮られました。しかもすべての傷の箇所を、つまり全ての火傷の箇所を写真に撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。(中略)内臓、肺などは全て完全に腐食していました。その後の数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2か月続けられました。



実験は何度も行われ、平均して毎回7~8名の死者が出た。生き残った者たちも後遺症の残った体でアウシュビッツやベルゲンベルゼンに送られた。

硝酸アコニチン弾丸の創痍研究


極秘事項

帝国医師ー親衛隊警察、主席衛生官

日誌番号 秘364/44 ムルゴウスキー

1944.9.12

硝酸アコニチン弾丸について

SS少佐ディング博士、ウィマン博士、および筆者立ち合いで1944年9月11日、5人の死刑囚に、毒物である硝酸アコニチン結晶入りの弾丸(直径7.65o)を用いて実験を行った。被験者を寝かせ、左大腿に1発撃ちこんだが、2人では弾丸は貫通、後になっても毒作用は出なかったので、実験から除いた。(中略)

3人の症状は驚くほど一致していた。最初は異常がなかったが、20分から25分後に動きが不穏となり、遅れて、よだれが少し出始めた。しきりに飲み込もうとしたが、量が増えて飲み込めないほどになり、ついには、泡を含んだよだれが口から漏れてきた。それから、吐き気、嘔吐が始まった…。

約90分後、1人の呼吸が深くなり、同時に運動不穏も増強した。呼吸は浅く速くなった。同時に強い吐き気が現れたが、吐こうとしても何も出なかった。指を4本付け根まで口に深く入れて吐こうとしたが吐けず、顔は真っ赤になるだけだった。

他の2人の顔は早い時期から蒼白になっていた。他の症状は同じだった。運動不穏の出現は遅れたが、極めて強くなり、棒立ちになったかと思うと、また、床に身を投げ出した。白目をむき、手や腕は意味のない動きをした。最後に、不穏の程度は弱くなり、瞳孔は極度に散大、被験者は静かに横たわるだけだった。1人には咬筋の痙攣が現れ、尿失禁が認められた。3人の死亡は、受傷後それぞれ、121,123、および129分であった。
http://3rdkz.net/?p=250&page=2

総括 およそ38mgの硝酸アコニチンを詰めた弾丸による創自体はひどいものではなかったが、2時間後に致死的な中毒が現れた。中毒症状の出現は、受傷後20分から25分で、主要症状は、流涎、瞳孔径の変化、腱反射消失、運動不穏、強い吐き気であった。

講師医学博士ムルゴウスキー、SS上級大佐、主席衛生官


上の手記と一致するかは不明だが、ザクセンハウゼン収容所で死刑囚を用いた毒の弾丸の実験が行われた、との展示がある。その射撃手はムッソリーニ救出の特殊部隊を率いた、オットー・スコルツェニーSS中佐である。

実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集

hiltストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士は、1942年の2月にヒムラーにあてて手紙を書き、ユダヤ人、共産党員、赤軍政治将校の頭蓋骨収集の許可を求めた。ヒムラーはおおいに関心を持ち、ヒルトに自分の政治的権力の全てを委ねてこれを支援した。

当時、ナチスドイツはありとあらゆる人種の頭蓋骨を収集して、その形態を測定したり、歪んだ人種優生学に基づく様々な研究を行っていた。しかし、ユダヤ人に関しては当時サンプルを獲得する術があまりなかったらしい。独ソの開戦はその状況を打開する最良の機会となった。既にホロコーストは開始され、ユダヤ人と共産党や政治将校は同一視されていた。彼らの頭蓋骨を一定量獲得し、データを取得することで、占領地において効率よくユダヤ人や政治将校と、その他の民族の鑑別を容易にし、効率的に撃滅できる、というのが彼らのデタラメな論理であった。

ヒルトとその協力者たちが、いかにしてそれらのサンプルを選定したかは定かでない。既に収容所にいたユダヤ人なのか、占領地から生きたまま拉致してきた政治将校や捕虜たちだったのか、とにかく、彼らがアドルフ・アイヒマンを通してアウシュビッツの囚人約120名を、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフ各収容所の実験施設へ送ったのは確かである。

それら120名の囚人は「首から上を傷つけぬように」ガスによって殺害され、合成アルコール入りの水槽の中で保存された。ヒルト博士はそれらの死体を細かく解剖。


ヒルトは戦後逃亡先で自殺した。

実験Z マラリア実験

ベルリンのロバート・コッホ研究所所長で、熱帯医学部門長であったクラウス・シリング博士は、1936年の現役引退後も、イタリアでマラリアのワクチンの開発研究を続けていた。1941年末、内務省保健衛生事業担当官のレオナルド・コンティ博士によってダッハウ強制収容所で研究ができることを勧められ、翌2月のはじめから実験を開始。1945年の3月半ばに74歳のシリングが手術を受けるためにミュンヘンにでかけたあと、ヒムラーが実験中止を命令した。(敗戦が近かったからであろうか?)

シリングの3年にわたる実験でおよそ1000人がマラリアに感染させられ、330人が死亡した。

実験[ 双子実験

ベルリン、ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長のオトマール・フォン・フェアシュアーは、双子に関する研究を手広く行っていたが、戦争が始まると弟子のSS大尉、ヨーゼフ・メンゲレ博士をアウシュビッツに送り込んだ。彼はアウシュビッツの降車上に自ら赴いて、何千もの双子を集めてコレクションし、過酷な人体実験を行った。

mengere
ヨーゼフ・メンゲレ

メンゲレは、静脈をつなぎ合わせてシャム双生児を人工的に作ろうとしたり、眼球に薬品を注射して瞳の色を変えようとした。また、チフス菌を注射して病気の経過を血清学的に記録した。また頭蓋骨の収集もぬかりなく行われ、それらの実験報告を師のフェシュアーに送っていた。メンゲレは3000対の双子を人体実験にかけ生き残ったのは100名だけだった。


ある生存者の報告

ある日、私の双子の兄のチビが特別実験のために連れていかれた。メンゲレは、最初から、チビに非常に興味を持っていた。なぜか知らないが、比較的歳のいった双生児であったからかもしれない。

メンゲレはチビを何回となく手術した。脊椎手術で麻痺となり、走れなくなった。

性器も除去してしまった。4回名の手術後、チビには2度と会えなかった。

私の気持ちがどんなだったか、あなたに言えないし、言葉にも表せない。

私は父、母、兄2人を失っていたのに、また双子の兄もなくしてしまった。


メンゲレは1979年に逃亡先のブラジルで海水浴中に死亡した。

実験\ 強制不妊化実験

ナチの歪んだ人種思想は戦争前から活発ではあったが、独ソ戦の開始と共に東方民族絶滅の意志はますます固くなるばかりだった。その手段としてずっと論議されてきたのが、断種措置による強制的な不妊化処置の遂行であった。

ナチの断種の施策は大きく分けると3つの経過をたどった。

薬品による断種

カラジューム・セグイヌム(サトイモ科の観葉植物の一種)を接種することによって、特に男性は生殖不能となるとされ、この植物を大量に栽培しようとするのだがコスト面で実用に耐えないことが分かった。ヒムラーは農業に大変関心が高い男であったため、カラジューム・セグイヌムの構成要素の分析を進め、人体実験を行うべし、との命令を発した。

しかし、これを命じられたコッホ博士はありきたりな動物実験を行うのみにとどめ、命令を事実上サボタージュした。それはあまりに実用性がなく、他の方法がどんどん進んでいたからであった。

放射線による断種

帝国公衆衛生局に所属し、障碍者の断種・殺害計画に関与したヴィクトル・ブラック博士は、放射線による断種の研究と人体実験の許可をヒムラーに求めた。それまで行われていた外科手術に頼る方法では、あまりに労力とコスト面で現実味がなかったからである。

これをヒムラーは許可し、第Uアウシュビッツ(=ビルケナウ)や女性収容所のラーフェンスブリュックで、それぞれ放射線による断種の試みが行われた。若い適齢期の男女は、何の説明もないままに不意に呼び出され、性器や子宮、睾丸付近にレントゲンを照射された。

彼らの多くは火傷を負い、傷口は膿み、そのような体で重労働につかされた。歩けなくなったものは銃殺・ガス殺された。

レントゲン照射後数週間してから、男性囚人は外科的に睾丸を摘出された。レントゲンの効果がどの程度であったかを検証するためであったとされる。しかし、レントゲン照射を受けた囚人たちは局部に重傷を負い、結局は絶滅収容所の中で死んでいった。

ブラック博士は、この不妊化処置を「殺すよりはマイルドな方法」と認識していたらしく、裁判で「絶滅政策を緩和するためにあえて提案した方法だった」と証言した。法廷はこの詭弁を却下し、ブラックを死刑に処した。

子宮内の刺激作用による断種

drclaubergこの方法は、ケーニッヒスヒュッテの医学博士クラウベルク教授によって開発された。教授はもともと卵管閉鎖による不妊を治療する方法を開発して有名になった人物だった。

1933年にナチ党に入党し、その医学の知識を、今度は「下等人種」の断種のために傾けようとしていた。
http://3rdkz.net/?p=250&page=3


クラウベルクはヒムラーと協議し、外科手術を用いることなく不妊化させる方法を話し合った。教授が考えていたのは卵管にホルマリン溶液を注入するという方法だった。ヒムラーはアウシュビッツにクラウベルクの実験施設を作るよう、部下のルドルフ・ヘースに命令した。

約500人の女性がクラウベルクの前に引き出され、狂気の実験の犠牲となった。収容所に響き渡る女性の悲鳴の原因は何のか、あの医師は囚人にいったい何をしているのか調べようと、女性看守が飛んできたこともあったほどであった。

実験により少なくとも7人の女性が死亡。残った囚人のうち、何人がガス室に送られたかは不明である。

教授は1945年にはラーフェンスブリュック収容所へ移り、35人の女性に人体実験を行った。戦後は赤軍に捕まり25年の判決を受けるがのちに恩赦。ドイツに戻るとドイツ当局に再逮捕され、57年、拘留中に死亡した。

実験] 飢餓実験

ナチスドイツのユダヤ人絶滅政策は、経済学と一体不可分であった。一体どれほどのユダヤ人を労働力として活用し、1日に与える食事量はどの程度で、平均してどのぐらいの期間働かせたのち餓死させ、最終的にいついつまでに何人殺すのか……

このような狂気の経済学を日夜考え、そろばんをはじき、実践するために各省庁に協力を仰ぎ……ドイツ人の官僚的気質がこれ以上上等に発揮された機会はなかった。

飢餓実験はいわば、このようないわば「虐殺の経済学」とも呼べるものの産物だった。

慢性的な食糧不良に苦しむドイツで、何百万、ともすれば一千万以上にも及んだソビエト兵捕虜やユダヤ人、障害者、ジプシー、同性愛者に与える食糧はなかった。与えるとしたら、元を取るために働かせるためだった。

ナチ親衛隊上層部とドイツ医師会は結託し、下等人種や民族の宿敵たちを、無駄なく効率よく餓死させる方法を考えあい、実験を繰り返した。

いかにすれば、働かせながら餓死させることができるだろうか。どのくらいのカロリーを与えれば良いのだろう。どのような食事のメニューにすれば良いのだろう。どのような栄養素を継続的に断ち、代わりに何を摂取させれば良いのだろうか。

ナチの飢餓実験が、実を結んだ結論は、囚人に決してタンパク質を与えないことだった。代わりにジャガイモやパンなど、少量の炭水化物を摂取させる。このようにしてゆっくりと確実に餓死させることができるのだ。これは一見食糧を与えているようにも見えるため、諸外国からの批判を交わすためにも有効な方法だった。

知的障害者に対する飢餓実験

ミュンヘン、ハール州立精神病院内のエグルフイング施設にかつて「T4作戦」の実行地があった。「T4作戦」はナチの歪んだ優生学に基づく、身体障害者・精神障害者・発達障害児童の抹殺作戦である。これは39年のポーランド侵攻以前からドイツ国内で水面下で実行されていた。エグルフイングの施設長、ヘルマン・プファンミュラー博士は、ナチ・イデオロギーが掲げる「価値のない命」の概念を強く信じており、T4作戦にも当初から参加していた。

彼は「無駄飯ぐらい」(特に小児)を殺す方法として特殊な飢餓セラピーとでもいうような方法を研究していた。

1939年に心理学の学生がエグルフイングの施設内に見学実習に来た。プファンミューラーはその際学生を小児病棟へ案内した。その時に学生が目にしたものとは・・


15〜25人の1歳〜5歳までの子供が寝かされていた。プファンミューラーはこの病棟で特に詳しく自分の考えを明らかにした。次のように要約される彼の説明は驚くほど率直でかなり強く記憶に残っている。彼曰く、『こいつら(子供たち)はナチ党員の私にとって民族のお荷物だ。殺す(殺るという言い方もした)にしても毒や注射は使わない。外国の新聞や赤十字のお偉方にまた非難されるだけだ。方法は皆さんがわかるようにはるかに簡単で自然なのだ』こう言いながら彼は施設の常勤と思われる看護婦に一人の子供をベッドから引き出させ、死んだウサギでも見せるように皆に見せて、専門家ぶった冷笑を浮かべながら『これはあと2、3日はもつだろう』というようなことを言った。太ったニヤニヤ顔、肉付きのよい手に捕まえられてひいひい泣く骨と皮の子供、周りにうじゃうじゃいる飢えた子どもたち、その光景は目に焼きついている。プファンミュラーは食物の供給を急に止めるのではなく、徐々に減らすと説明していた。



エグルフイングにはいわゆる「飢餓病棟」が2つあった。1943年1月から終戦までの約2年3ヶ月の間、患者に肉や脂肪を与えることは禁止された。

被収容者は野菜、ジャガイモ、1日辺り一切れのパンしか与えられなかった。これはプファンミュラーがかつて在職していたカウフボイレン施設で’効き目’が確認された食べ物で、胃を満たすが、次第次第に目的に導く。脂肪分を与えないと彼らはほっておいても死亡する。これはプファンミュラーによる工夫で、多くの施設で効果が証明されているとされている。

彼の飢餓病棟では子供、大人約444人が飢餓に追い込まれ、餓死させられた。戦後、米軍に逮捕された後、裁判で彼は「安楽死作戦は合法だった。昔からあった考え方(障害者を殺すこと)だった」というようなことを述べたという。彼は6年間収監されたがその後はなんなく出所し、75歳まで生きた。

ソビエト兵捕虜に対する飢餓実験

1941年の秋、ハンブルク大学の講師ハインリヒ・ベルニング博士は、軍衛生局総監督部より「水腫病の医学研究」を委託された。実験の材料に使われるのはソ連兵捕虜で、そのための専門施設がハンブルク=ヴァンツベックに設置された。

ベルニングによれば、飢餓水腫が発生するためには、かなり長期にわたって1日のたんぱく質摂取量が、30gを下回るようにせねばならない、とされた。ベルニングは本物の飢餓水腫を実験によって作り出し、それを観察し、飢えた人間が長い段階を経て体重が減少して行き、すぐに疲れやすくなり、性欲がなくなり、頭痛を覚え、めまいがするようになるさまを記録していた。

また、彼は捕虜の下腹部が膨張する様子を観察している。寒さや労働が水腫を強めた。

ベルニングは餓死した捕虜の胃や腸の形態変化を観察して記録。彼は戦後も偉大な博士として活躍、ナチ時代の実験を裁かれることはなかった。

なぜこんなことが起こったか

ナチ占領地が拡大すると同時に、彼らは大量の劣等人種を獲得した。未曽有の総力戦により、ドイツ人は兵士も銃後も含めて、皆命がけの戦争を戦い、窮乏を耐え忍んでいた。占領地ではお互いの全存在を抹消し尽すほどの殺戮と憎悪の応酬が続いていた。

そんな時世の中、「民族の宿敵」や「足手まとい」が、安全圏で食糧を与えられ、何もせずに安穏と暮らす、なんことを決して許さない人々がいた。それがナチの医学界や、上層部、とりわけハインリヒ・ヒムラーであった。

大量の実験サンプルが入手でき、彼らを一箇所にまとめて閉じ込めることができる今、戦争の勝利のために人体実験を行うのは、ナチ上層部にとっては「当然のこと」であった。

そして、人体実験は激しい人種偏見の賜物であった。ユダヤ人やスラブ人、ジプシーは人間とはみなされなかった。ジプシーを実験材料にすることを拒否する科学者はいたが、それは「人間」と比較することが難しい、という理由だった。

曖昧な人種理論の証拠探しという側面もあった。人種が優れている、劣っているなどというのは、今日においては疑似科学であることは誰も疑わない。何をもって「優れて」おり、何をもって「劣って」いるのかなど、そんな定義が歴史上存在したことは一度としてない。

にもかかわらず、ナチはアーリア人が優秀で、ユダヤ人が劣等だと決めつけた。それは政治が勝手に言い始めたことで、これを裏付けるために科学が総動員された。ナチの医学者たちは血眼になってアーリア人が優秀で、それ以外がそれよりも劣るという「証拠」を見つけようとした。それは髪や瞳の色であったり、顎の形であったり、背の高さであったりした。
http://3rdkz.net/?p=250&page=4

ヒトラーやヒムラーは、理想的な北欧人種とは程遠い外見である。ゲッベルスは足が不自由で身体障碍者である。にもかかわらず、ドイツ国民は「ハーメルンの笛吹き男」が奏でるメロディに踊らされるがままに、ヨーロッパ全土を破壊し、滅亡に追い込んだ。この歴史の奇妙を解明することは、今後においても決してできないに違いない。我々にできることは茫然と立ちすくみ、とりあえず人種差別に反対することだけであろう。
http://3rdkz.net/?p=250&page=5

http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/183.html#c3

[ホロコースト5] 第3章 「ガス室」は実在したか?−−「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(転載自由)   西岡昌紀
3. 中川隆[-10745] koaQ7Jey 2019年4月13日 08:19:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1297]
【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】 2017/5/11
http://3rdkz.net/?p=250


ナチスドイツの非人道的な人体実験の数々をわかる限りまとめました。

なるべく信頼できそうな資料だけを使用し、誇張することがないよう心がけました。

非常に残酷で吐き気を催す事実が記載されているため、観賞要注意とします。

目次
実験T 低圧・低温実験
実験U 海水を飲料にする実験
実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究
実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験
実験X 毒物接種実験
実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集
実験Z マラリア実験
実験[ 双子実験
実験\ 強制不妊化実験
実験] 飢餓実験


なぜこんなことが起こったか

実験T 低圧・低温実験

低圧・酸欠下での救出実験

hypothermiaドイツ空軍が高度12000メートルに達するジェット機を開発したまでは良かったが、人体がそのような超高度環境にどのような反応を見せるのか、ということに関して信頼できるデータはまだなかった。そこで、ドイツ空軍軍医大尉であり、親衛隊将校でもあったジクムント・ラッシャー博士は、《ライヒスフューラー(親衛隊全国指導者=ヒムラー)》へ手紙を書き、ダッハウ収容所の死刑囚を用いた人体実験の許可を求めた。

1942年3月、ヒムラーは実験を許可し、ラッシャー大尉の責任において、超高度における人体の反応の観察や、パラシュートや特殊機材を用いた救出を実用化するための危険な人体実験が行われた。超高度の低圧環境下で被験者を酸欠の状態に留め置き、どれぐらいの時間をかけて被験者が死亡するのか、またどのようなタイミングでしかるべき処置を行えば彼を救出できるのか、ありとあらゆる場面を想定して実験が行われた。当然のごとく実験は死者が続出したが、ラッシャーは死にゆく被験者の行動を観察し、心電図を記録した。そして、屍を解剖し、肺や心臓、脳の血管の空気塞栓の状況などを記録。逐一ライヒスフューラーへ報告していた。

実験に駆り出された200人の囚人のうち、実に80名の被験者が死亡した。

低体温・冷却からの蘇生実験

freeze
冷却実験の様子

ラッシャーとその協力者たちは、ダッハウにて更に人体実験を行うことにした。今度は海難事故などにより寒冷下に晒された人体を、いかに蘇生・回復できるか、といった実験である。やはりパイロットを救出することを前提とした実験であったが、実際にはダッハウの囚人300名を4〜12℃に冷却した水の中につけ、体を極限まで冷やしたのち、いかにすれば効率よく回復できるかを試すもので、この実験で90名が死亡。今日においてもこの実験結果が国際的専門誌に引用されているという。

この実験は当初よりライヒスフューラーの関心を買った。ヒムラーは冷え切った肉体を温めるためには、同じ人間の皮膚の接触。つまり、裸の女性による抱擁が効果があるのではないか、と考えた(ヒムラーはしばしばこのようなロマンチズムに基づく推測を実践させた)。ラッシャーはヒムラーの意向に沿ってダッハウ収容所より若い女性4名を召喚。そのうちの一人があまりにも見事なアーリア人種の肉体的特徴を備えていたため、ラッシャーは彼女を実験に使用することを拒否したという。つまり、被験者は下等人種とみなされたスラブ人やソ連兵捕虜であり、これを裸で温める乙女がアーリア系であってはならないというのである。この逸話からもわかる通り、人体実験は激しい人種差別の賜物であった。ちなみに女性の体で温める方法は非効率で到底実用に耐えないものであったという。

この実験は、場所を変えてアウシュビッツ収容所でも行われた。アウシュビッツのほうがより寒く、広大で実験が目立たなかったからだという。つまり、被験者は多くの場合、「苦しみにより悲鳴をあげた」からである。ラッシャーは被験者に麻酔をかけることを禁止し、なんら苦しみを緩和するための努力をしなかった。

ある実験では、ソ連軍将校2名がアウシュビッツで、水桶の中に裸で入らされた。通常なら60分程度で意識を失い、死亡するのだが、このソ連将校2名は3時間経過した頃に「同志…銃殺してくれないか」と頼んだという。その後、二人は握手を交わし、「さよなら、同志よ」と言った。ポーランド人の助手が見兼ねてクロロフォルムで二人に麻酔をかけようとしたが、ラッシャーはピストルを突きつけ、これを制止した。二人は5時間後にようやく死亡し、死体は解剖するためミュンヘンに送られた。

ラッシャー夫妻は子供に恵まれず、子供を誘拐、金銭で買い取って自らの子であるとして育てていた。これが明るみに出るとライヒスフューラーは激怒。ラッシャーは多くの囚人を殺害したダッハウにおいて、自らも処刑された。戦争が終わる直前だった。よって戦後もラッシャーは裁きにはかけられず、協力者たちは全ての責任を、同じく死亡したヒムラーとラッシャーにかぶせることに成功。この非道な人体実験で裁かれた者は結局誰一人としていない。

実験U 海水を飲料にする実験

この実験は、やはり海難事故に遭遇し、海の上を漂流することになったパイロットを救うために企画された。

二人の科学者が海水を飲料にするための試みを始めた。シェーファー教授が海水から塩分を分離するための設備を開発しようとして成功したが、これには多額の費用が掛かるため実用性なしと判断された。一方空軍技師ベルカが開発した「ベルカティカ」という薬品は海水の味を飲める程度に変えてしまうもので、この薬品はコストパフォーマンスにも優れ、大量に生産された。

しかし、すぐにこのベルカ方式の海水を飲むと、「より渇きがひどくなる」という声が上がり始めた。味を調整しただけで海水は依然として多量の塩分を含んでいたし、飲みすぎることで渇きが悪化し、下痢すら引き起こすことが分かった。

どちらの方法で渇きを解決するのか、ダッハウ収容所内で再度人体実験が行われた。被験者はいくつかのグループに分けられた。数日間にわたって海水を飲むもの、ベルカ方式の海水を1日500cc飲むもの、1000cc飲むもの、シェーファー方式で精製された水を飲むもの、などである。

被験者はブーヘンヴァルト収容所から連れてこられたジプシーたち40名であった。彼らは表向きは志願であった。実験の詳細についてきちんと説明を受けた上、実験前10日間は完璧な航空兵糧食3000キロカロリーを摂取し、健康管理を入念に行ったうえでの実験であり、死亡した者、後遺症が出た者はいないとされている。しかし、実験は著しく苦しく不快なものとなり、被験者の中には清掃班のバケツの中の汚水を飲んだり、モップから垂れたしずくを舐めた者がいたという。このような実験が本当にすべて志願だったと言えるだろうか?ましてや被験者のほとんどは賤民と見なされていたジプシーである。これは戦後の裁判で検察の激しい疑惑をかい、追及を受け、実験を主導した者たちは禁固15年〜終身刑を受けた。

ただし、実験で重篤な障害を受けた者、死亡した者がいなかったのは確かなようである。フランス人の医療助手や被験者のジプシーのうち数名が、宣誓供述書を提出し、実験を主導した科学者たちの恩赦請求を行っている。

実験V 発疹チフス接種実験と伝染性肝炎ウィルス研究

発疹チフスのワクチン接種実験

東部戦線や各収容所で猛威を振るった発疹チフスから、前線兵士を救うための人体実験がブーヘンヴァルトとナッツヴァイラー各収容所にて行われた。

実験は1942年の春ごろから1944年の末まで続けられた。

それまで存在していた発疹チフスのワクチンは、病気の症状を軽減させることはできても、本来の目標たる免疫力の獲得、つまり病気に罹らずに済む、というものではなかった。これを深刻にとらえたSS上層部の医師団や衛生担当者たちは、人体実験の施行を強く主張。ブーヘンヴァルト内にウィルス研究部が設立され、SS軍医や権威ある熱帯医学者などが参加した。

実験は数十種類にも及ぶ各種ワクチンを接種した上で、数週間の間隔を置いたのち、人為的に発疹チフスに感染させるというものだった。対照群として設置された群は、ワクチン接種群と比較するために、単にチフスに感染させられた。

ワクチンを接種した者たちも、多くの場合、高熱や頭痛など、「発疹チフスの症状」に悩まされた。

被験者に選ばれた者たちは、ドイツ人の刑事犯、ポーランド人、ソ連兵捕虜、ジプシーなどである。健康状態が優良なものたちが数百人選び出され、少なくとも150名以上が死亡した。ブーヘンヴァルトの医師、シューラーSS大尉は終戦間近で自殺したが、彼の業務日誌が囚人によって廃棄を免れた。その中には、他にも黄熱病、チフス、コレラ、ジフテリアに対するワクチンや薬物の効果で800人の被験者が人体実験にかけられたことが示唆されている。

伝染性肝炎ウィルスの研究のための人体実験

独ソ戦が始まると、黄疸症状に悩まされる兵士が非常に増えた。致死的な病ではなかったが、発病者が多く、軍の作戦能力を衰えさせるものとして研究が開始された。肝炎はそれまでバクテリアによる感染と考えられていたが、細菌学者のドーメン軍医大尉がウィルスを発見し、培養するためSSがウィルス株の管理権を要求したがドーメンは拒否して独りで研究を続けていた。

各所からの圧力に耐えかねたドーメンは、ついにザクセンハウゼン収容所内で、囚人に対して人為的に肝炎ウィルスを感染させる人体実験を行った。これは《帝国医師総監(=エルンスト・グラヴィッツ)》の強い要請だった。ドーメンは良心の呵責に苦しめられ、実験が開始されたのは1944年も9月になる頃だった。
http://3rdkz.net/?p=250


アウシュビッツから、子供や青年からなる11人の囚人がザクセンハウゼンにやってきてドーメンに委ねられた。ザクセンハウゼンの第二病棟において彼らの世話をしていた古参囚人ブルーノ・マイヤーは、実験の内容について記録を残している。以下に引用する。


ドーメン博士は医療器具カバンから一本の斜めに歯のついたゾンデを取り出してサウル・ホルンフェルトの背後へ近づき、指で彼の背中を探りました。そしてゾンデを当て、子供の背中の筋肉を通して深く体の中まで突き刺しました。サウル・ホルンフェルトは痛みのあまり、自分の小さな拳を噛みました。急いで私は彼の前へ歩み寄り、声を押し殺して、しっかりしろと言いました。涙で見えない目で彼は私を見ました。そして、医者が再びゾンデを突き刺しました。(中略)その後、私は、ドーメン博士がゾンデから長い針を抜き、ゾンデの開口部に急いで試験管をあてがうのを見ました。黒っぽい血が試験管の中へ滴り落ちました。小さな組織も、―—多分肝臓の一部だったでしょう——少しその中に混じっていました。



結局、肝炎ウィルスを人為的に感染させる実験は成功しなかった。ドーメン博士や囚人たちがその後どうなったかは明らかではないが、博士は戦後実験結果を発表している。

医療用ゾンデ
医療用ゾンデ


第V収容所 1 share 1 user
【人類の負の遺産】アウシュビッツ絶滅収容所の解説と観光案内


少し前に、独りでドイツとポーランドを旅行しました。その際にアウシュビッツ絶滅収容所跡地を訪れました。想像よりも遥かに広大な施設で、展示を全部観ることは不可能でした。そこで得た知見や体験をまとめたいと思います。アウシュビッツ絶滅収容所とはなんなのか...


実験W スルフォンアミド実験と骨移植実験

人為的にガス壊疽を作り出す実験

1942年5月、《国家保安本部(RSHA)》長官及び、ボヘミア・モラヴィア保護領副総督ラインハルト・ハイドリヒがイギリス諜報部の襲撃を受けて重傷を負った。治療の責任者は武装SSの顧問外科医カール・ゲプハルトであったが、ゲプハルトの飛行機は延着したので直接手術に携わったのはプラハの医師二名である。ゲプハルトは《総統》とヒムラーの個人的な電話を何度も受けた。ヒトラーは自分の主治医であるモレル博士を派遣するとまで言った。

しかしハイドリヒは処置の甲斐なく6月2日に死亡。ゲプハルトはその後ヒムラーと謁見し、「ハイドリヒの死はドイツがこれまで経験したことのない巨大な敗北であった」と《総統》が考えていることを知らされた。ゲプハルトには汚名返上の機会が与えられた。ハイドリヒ長官が負傷による敗血症によって死亡したことを受け、至急、スルフォンアミドの効果を調べる人体実験の実行が決まった。

実験の舞台に選ばれたのは女性専用の強制収容所ラーフェンスブリュックであった。実験の目的は、当時未解明な部分が多かったガス壊疽という症状を分析し、有効な治療方法を見つけ出すことであった。そして、同時に戦場で多く見られる通常の傷口を調べ、有効な治療法を探す目的もあった。

被験者はザクセンハウゼン強制収容所から連れてこられた男性囚人や、ポーランドの抵抗運動に携わった女性囚人たちである。彼らはわざとけがを負わされ、木片やガラス片を傷口に練りこまれた。

《帝国医師総監》グラヴィッツは、実験場を視察し、被験者に死者が出ていないことに対して実験が手ぬるいと感じ、本物の銃創を彼女たちに負わせるように、と命令した。ゲプハルトはこの命令を拒否したが、より傷口の状態を悪化させることに努力したことに変わりはなかった。彼女たちは下腿の血管を結紮され、壊疽性の腐敗病原体を接種させられたりした。そのうえで彼女たちは処置も受けられず何日も放置され、本物のガス壊疽の症状により3名が死亡した。

人為的にひどい敗血症に陥らせた上でスルフォンアミドの効力を実験したが、傷を負わされただけで何の処置も受けられない囚人もいた。実験内容は1943年の5月にベルリンの軍医大学校で発表されたが、出席者の中で被験者の人権について申し述べた者は一人もいなかった。

他人の骨を移植して治療効果を見る実験

ラーフェンスブリュック強制収容所内で、女性を使って行われた他の実験群は骨の再生と骨の移植の実験である。

肩胛骨を他方から他方へ移す実験が行われた。肩胛骨を除去されたのは、ラーフェンスブリュックの精神病患者の女性であった。この女性は肩胛骨を抜き取られた後速やかに薬殺された。肩胛骨を移されたのは、ホーエンリーヘンの血管の癌により肩胛骨を失った若者で、彼は癌を再発することなく生きながらえたという。

この実験のほかにラーフェンスブリュック収容所内で、神経再生、筋肉再生の各実験、切断やその他の実験が行われたといわれるが、その規模や詳細は不明である。収容所医師の一人、ローゼンタール博士は、負傷に苦しみ、助かる見込みのない重症の囚人を20〜30人、楽に死なせるためにモルヒネを過剰投与したと断言している。

実験X 毒物接種実験

イペリッドガス

大戦期間中、ザクセンハウゼン、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフの各強制収容所内でびらん性(皮膚をただれさせる作用)のイペリッドガス(=マスタードガス)の人体実験が行われた。これは例によってヒムラーの命令だった。

イペリッドガスによる負傷の度合いと、効果的な治療法を見つけることがその目的である。この実験はストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士などが主にかかわった。

この毒ガス実験については、ナッツヴァイラーのカポ(囚人頭)であったフェルディナント・ホルの生々しい証言が残っている。


囚人たちは真っ裸にされ、次から次へと実験室の中に入ってきました。彼らは前膊から10センチほどの箇所にその液体を塗られましたが、その時私が彼らの腕を抑えていなければなりませんでした。その後、処置を施された被験者たちは隣の部屋へ行き、そこで腕を広げたまま約1時間立っていなければなりませんでした。約10時間もすると、あるいはもっと長かったかもしれません、火傷が、それも全身に出てくるのです。盲目になった人々もいました。ひどい苦しみで、被験者たちのそばにはとてもいられないほどでした。その後、被験者たちは毎日写真を撮られました。しかもすべての傷の箇所を、つまり全ての火傷の箇所を写真に撮られました。だいたい5日か6日後に最初の死者が出ました。(中略)内臓、肺などは全て完全に腐食していました。その後の数日間に、この実験でさらに7名が死にました。実験は約2か月続けられました。



実験は何度も行われ、平均して毎回7~8名の死者が出た。生き残った者たちも後遺症の残った体でアウシュビッツやベルゲンベルゼンに送られた。

硝酸アコニチン弾丸の創痍研究


極秘事項

帝国医師ー親衛隊警察、主席衛生官

日誌番号 秘364/44 ムルゴウスキー

1944.9.12

硝酸アコニチン弾丸について

SS少佐ディング博士、ウィマン博士、および筆者立ち合いで1944年9月11日、5人の死刑囚に、毒物である硝酸アコニチン結晶入りの弾丸(直径7.65o)を用いて実験を行った。被験者を寝かせ、左大腿に1発撃ちこんだが、2人では弾丸は貫通、後になっても毒作用は出なかったので、実験から除いた。(中略)

3人の症状は驚くほど一致していた。最初は異常がなかったが、20分から25分後に動きが不穏となり、遅れて、よだれが少し出始めた。しきりに飲み込もうとしたが、量が増えて飲み込めないほどになり、ついには、泡を含んだよだれが口から漏れてきた。それから、吐き気、嘔吐が始まった…。

約90分後、1人の呼吸が深くなり、同時に運動不穏も増強した。呼吸は浅く速くなった。同時に強い吐き気が現れたが、吐こうとしても何も出なかった。指を4本付け根まで口に深く入れて吐こうとしたが吐けず、顔は真っ赤になるだけだった。

他の2人の顔は早い時期から蒼白になっていた。他の症状は同じだった。運動不穏の出現は遅れたが、極めて強くなり、棒立ちになったかと思うと、また、床に身を投げ出した。白目をむき、手や腕は意味のない動きをした。最後に、不穏の程度は弱くなり、瞳孔は極度に散大、被験者は静かに横たわるだけだった。1人には咬筋の痙攣が現れ、尿失禁が認められた。3人の死亡は、受傷後それぞれ、121,123、および129分であった。
http://3rdkz.net/?p=250&page=2

総括 およそ38mgの硝酸アコニチンを詰めた弾丸による創自体はひどいものではなかったが、2時間後に致死的な中毒が現れた。中毒症状の出現は、受傷後20分から25分で、主要症状は、流涎、瞳孔径の変化、腱反射消失、運動不穏、強い吐き気であった。

講師医学博士ムルゴウスキー、SS上級大佐、主席衛生官


上の手記と一致するかは不明だが、ザクセンハウゼン収容所で死刑囚を用いた毒の弾丸の実験が行われた、との展示がある。その射撃手はムッソリーニ救出の特殊部隊を率いた、オットー・スコルツェニーSS中佐である。

実験Y ユダヤ人の頭蓋骨収集

hiltストラスブール国立大学教授のアウグスト・ヒルト博士は、1942年の2月にヒムラーにあてて手紙を書き、ユダヤ人、共産党員、赤軍政治将校の頭蓋骨収集の許可を求めた。ヒムラーはおおいに関心を持ち、ヒルトに自分の政治的権力の全てを委ねてこれを支援した。

当時、ナチスドイツはありとあらゆる人種の頭蓋骨を収集して、その形態を測定したり、歪んだ人種優生学に基づく様々な研究を行っていた。しかし、ユダヤ人に関しては当時サンプルを獲得する術があまりなかったらしい。独ソの開戦はその状況を打開する最良の機会となった。既にホロコーストは開始され、ユダヤ人と共産党や政治将校は同一視されていた。彼らの頭蓋骨を一定量獲得し、データを取得することで、占領地において効率よくユダヤ人や政治将校と、その他の民族の鑑別を容易にし、効率的に撃滅できる、というのが彼らのデタラメな論理であった。

ヒルトとその協力者たちが、いかにしてそれらのサンプルを選定したかは定かでない。既に収容所にいたユダヤ人なのか、占領地から生きたまま拉致してきた政治将校や捕虜たちだったのか、とにかく、彼らがアドルフ・アイヒマンを通してアウシュビッツの囚人約120名を、ナッツヴァイラー、シュトルートホーフ各収容所の実験施設へ送ったのは確かである。

それら120名の囚人は「首から上を傷つけぬように」ガスによって殺害され、合成アルコール入りの水槽の中で保存された。ヒルト博士はそれらの死体を細かく解剖。


ヒルトは戦後逃亡先で自殺した。

実験Z マラリア実験

ベルリンのロバート・コッホ研究所所長で、熱帯医学部門長であったクラウス・シリング博士は、1936年の現役引退後も、イタリアでマラリアのワクチンの開発研究を続けていた。1941年末、内務省保健衛生事業担当官のレオナルド・コンティ博士によってダッハウ強制収容所で研究ができることを勧められ、翌2月のはじめから実験を開始。1945年の3月半ばに74歳のシリングが手術を受けるためにミュンヘンにでかけたあと、ヒムラーが実験中止を命令した。(敗戦が近かったからであろうか?)

シリングの3年にわたる実験でおよそ1000人がマラリアに感染させられ、330人が死亡した。

実験[ 双子実験

ベルリン、ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優生学研究所所長のオトマール・フォン・フェアシュアーは、双子に関する研究を手広く行っていたが、戦争が始まると弟子のSS大尉、ヨーゼフ・メンゲレ博士をアウシュビッツに送り込んだ。彼はアウシュビッツの降車上に自ら赴いて、何千もの双子を集めてコレクションし、過酷な人体実験を行った。

mengere
ヨーゼフ・メンゲレ

メンゲレは、静脈をつなぎ合わせてシャム双生児を人工的に作ろうとしたり、眼球に薬品を注射して瞳の色を変えようとした。また、チフス菌を注射して病気の経過を血清学的に記録した。また頭蓋骨の収集もぬかりなく行われ、それらの実験報告を師のフェシュアーに送っていた。メンゲレは3000対の双子を人体実験にかけ生き残ったのは100名だけだった。


ある生存者の報告

ある日、私の双子の兄のチビが特別実験のために連れていかれた。メンゲレは、最初から、チビに非常に興味を持っていた。なぜか知らないが、比較的歳のいった双生児であったからかもしれない。

メンゲレはチビを何回となく手術した。脊椎手術で麻痺となり、走れなくなった。

性器も除去してしまった。4回名の手術後、チビには2度と会えなかった。

私の気持ちがどんなだったか、あなたに言えないし、言葉にも表せない。

私は父、母、兄2人を失っていたのに、また双子の兄もなくしてしまった。


メンゲレは1979年に逃亡先のブラジルで海水浴中に死亡した。

実験\ 強制不妊化実験

ナチの歪んだ人種思想は戦争前から活発ではあったが、独ソ戦の開始と共に東方民族絶滅の意志はますます固くなるばかりだった。その手段としてずっと論議されてきたのが、断種措置による強制的な不妊化処置の遂行であった。

ナチの断種の施策は大きく分けると3つの経過をたどった。

薬品による断種

カラジューム・セグイヌム(サトイモ科の観葉植物の一種)を接種することによって、特に男性は生殖不能となるとされ、この植物を大量に栽培しようとするのだがコスト面で実用に耐えないことが分かった。ヒムラーは農業に大変関心が高い男であったため、カラジューム・セグイヌムの構成要素の分析を進め、人体実験を行うべし、との命令を発した。

しかし、これを命じられたコッホ博士はありきたりな動物実験を行うのみにとどめ、命令を事実上サボタージュした。それはあまりに実用性がなく、他の方法がどんどん進んでいたからであった。

放射線による断種

帝国公衆衛生局に所属し、障碍者の断種・殺害計画に関与したヴィクトル・ブラック博士は、放射線による断種の研究と人体実験の許可をヒムラーに求めた。それまで行われていた外科手術に頼る方法では、あまりに労力とコスト面で現実味がなかったからである。

これをヒムラーは許可し、第Uアウシュビッツ(=ビルケナウ)や女性収容所のラーフェンスブリュックで、それぞれ放射線による断種の試みが行われた。若い適齢期の男女は、何の説明もないままに不意に呼び出され、性器や子宮、睾丸付近にレントゲンを照射された。

彼らの多くは火傷を負い、傷口は膿み、そのような体で重労働につかされた。歩けなくなったものは銃殺・ガス殺された。

レントゲン照射後数週間してから、男性囚人は外科的に睾丸を摘出された。レントゲンの効果がどの程度であったかを検証するためであったとされる。しかし、レントゲン照射を受けた囚人たちは局部に重傷を負い、結局は絶滅収容所の中で死んでいった。

ブラック博士は、この不妊化処置を「殺すよりはマイルドな方法」と認識していたらしく、裁判で「絶滅政策を緩和するためにあえて提案した方法だった」と証言した。法廷はこの詭弁を却下し、ブラックを死刑に処した。

子宮内の刺激作用による断種

drclaubergこの方法は、ケーニッヒスヒュッテの医学博士クラウベルク教授によって開発された。教授はもともと卵管閉鎖による不妊を治療する方法を開発して有名になった人物だった。

1933年にナチ党に入党し、その医学の知識を、今度は「下等人種」の断種のために傾けようとしていた。
http://3rdkz.net/?p=250&page=3


クラウベルクはヒムラーと協議し、外科手術を用いることなく不妊化させる方法を話し合った。教授が考えていたのは卵管にホルマリン溶液を注入するという方法だった。ヒムラーはアウシュビッツにクラウベルクの実験施設を作るよう、部下のルドルフ・ヘースに命令した。

約500人の女性がクラウベルクの前に引き出され、狂気の実験の犠牲となった。収容所に響き渡る女性の悲鳴の原因は何のか、あの医師は囚人にいったい何をしているのか調べようと、女性看守が飛んできたこともあったほどであった。

実験により少なくとも7人の女性が死亡。残った囚人のうち、何人がガス室に送られたかは不明である。

教授は1945年にはラーフェンスブリュック収容所へ移り、35人の女性に人体実験を行った。戦後は赤軍に捕まり25年の判決を受けるがのちに恩赦。ドイツに戻るとドイツ当局に再逮捕され、57年、拘留中に死亡した。

実験] 飢餓実験

ナチスドイツのユダヤ人絶滅政策は、経済学と一体不可分であった。一体どれほどのユダヤ人を労働力として活用し、1日に与える食事量はどの程度で、平均してどのぐらいの期間働かせたのち餓死させ、最終的にいついつまでに何人殺すのか……

このような狂気の経済学を日夜考え、そろばんをはじき、実践するために各省庁に協力を仰ぎ……ドイツ人の官僚的気質がこれ以上上等に発揮された機会はなかった。

飢餓実験はいわば、このようないわば「虐殺の経済学」とも呼べるものの産物だった。

慢性的な食糧不良に苦しむドイツで、何百万、ともすれば一千万以上にも及んだソビエト兵捕虜やユダヤ人、障害者、ジプシー、同性愛者に与える食糧はなかった。与えるとしたら、元を取るために働かせるためだった。

ナチ親衛隊上層部とドイツ医師会は結託し、下等人種や民族の宿敵たちを、無駄なく効率よく餓死させる方法を考えあい、実験を繰り返した。

いかにすれば、働かせながら餓死させることができるだろうか。どのくらいのカロリーを与えれば良いのだろう。どのような食事のメニューにすれば良いのだろう。どのような栄養素を継続的に断ち、代わりに何を摂取させれば良いのだろうか。

ナチの飢餓実験が、実を結んだ結論は、囚人に決してタンパク質を与えないことだった。代わりにジャガイモやパンなど、少量の炭水化物を摂取させる。このようにしてゆっくりと確実に餓死させることができるのだ。これは一見食糧を与えているようにも見えるため、諸外国からの批判を交わすためにも有効な方法だった。

知的障害者に対する飢餓実験

ミュンヘン、ハール州立精神病院内のエグルフイング施設にかつて「T4作戦」の実行地があった。「T4作戦」はナチの歪んだ優生学に基づく、身体障害者・精神障害者・発達障害児童の抹殺作戦である。これは39年のポーランド侵攻以前からドイツ国内で水面下で実行されていた。エグルフイングの施設長、ヘルマン・プファンミュラー博士は、ナチ・イデオロギーが掲げる「価値のない命」の概念を強く信じており、T4作戦にも当初から参加していた。

彼は「無駄飯ぐらい」(特に小児)を殺す方法として特殊な飢餓セラピーとでもいうような方法を研究していた。

1939年に心理学の学生がエグルフイングの施設内に見学実習に来た。プファンミューラーはその際学生を小児病棟へ案内した。その時に学生が目にしたものとは・・


15〜25人の1歳〜5歳までの子供が寝かされていた。プファンミューラーはこの病棟で特に詳しく自分の考えを明らかにした。次のように要約される彼の説明は驚くほど率直でかなり強く記憶に残っている。彼曰く、『こいつら(子供たち)はナチ党員の私にとって民族のお荷物だ。殺す(殺るという言い方もした)にしても毒や注射は使わない。外国の新聞や赤十字のお偉方にまた非難されるだけだ。方法は皆さんがわかるようにはるかに簡単で自然なのだ』こう言いながら彼は施設の常勤と思われる看護婦に一人の子供をベッドから引き出させ、死んだウサギでも見せるように皆に見せて、専門家ぶった冷笑を浮かべながら『これはあと2、3日はもつだろう』というようなことを言った。太ったニヤニヤ顔、肉付きのよい手に捕まえられてひいひい泣く骨と皮の子供、周りにうじゃうじゃいる飢えた子どもたち、その光景は目に焼きついている。プファンミュラーは食物の供給を急に止めるのではなく、徐々に減らすと説明していた。



エグルフイングにはいわゆる「飢餓病棟」が2つあった。1943年1月から終戦までの約2年3ヶ月の間、患者に肉や脂肪を与えることは禁止された。

被収容者は野菜、ジャガイモ、1日辺り一切れのパンしか与えられなかった。これはプファンミュラーがかつて在職していたカウフボイレン施設で’効き目’が確認された食べ物で、胃を満たすが、次第次第に目的に導く。脂肪分を与えないと彼らはほっておいても死亡する。これはプファンミュラーによる工夫で、多くの施設で効果が証明されているとされている。

彼の飢餓病棟では子供、大人約444人が飢餓に追い込まれ、餓死させられた。戦後、米軍に逮捕された後、裁判で彼は「安楽死作戦は合法だった。昔からあった考え方(障害者を殺すこと)だった」というようなことを述べたという。彼は6年間収監されたがその後はなんなく出所し、75歳まで生きた。

ソビエト兵捕虜に対する飢餓実験

1941年の秋、ハンブルク大学の講師ハインリヒ・ベルニング博士は、軍衛生局総監督部より「水腫病の医学研究」を委託された。実験の材料に使われるのはソ連兵捕虜で、そのための専門施設がハンブルク=ヴァンツベックに設置された。

ベルニングによれば、飢餓水腫が発生するためには、かなり長期にわたって1日のたんぱく質摂取量が、30gを下回るようにせねばならない、とされた。ベルニングは本物の飢餓水腫を実験によって作り出し、それを観察し、飢えた人間が長い段階を経て体重が減少して行き、すぐに疲れやすくなり、性欲がなくなり、頭痛を覚え、めまいがするようになるさまを記録していた。

また、彼は捕虜の下腹部が膨張する様子を観察している。寒さや労働が水腫を強めた。

ベルニングは餓死した捕虜の胃や腸の形態変化を観察して記録。彼は戦後も偉大な博士として活躍、ナチ時代の実験を裁かれることはなかった。

なぜこんなことが起こったか

ナチ占領地が拡大すると同時に、彼らは大量の劣等人種を獲得した。未曽有の総力戦により、ドイツ人は兵士も銃後も含めて、皆命がけの戦争を戦い、窮乏を耐え忍んでいた。占領地ではお互いの全存在を抹消し尽すほどの殺戮と憎悪の応酬が続いていた。

そんな時世の中、「民族の宿敵」や「足手まとい」が、安全圏で食糧を与えられ、何もせずに安穏と暮らす、なんことを決して許さない人々がいた。それがナチの医学界や、上層部、とりわけハインリヒ・ヒムラーであった。

大量の実験サンプルが入手でき、彼らを一箇所にまとめて閉じ込めることができる今、戦争の勝利のために人体実験を行うのは、ナチ上層部にとっては「当然のこと」であった。

そして、人体実験は激しい人種偏見の賜物であった。ユダヤ人やスラブ人、ジプシーは人間とはみなされなかった。ジプシーを実験材料にすることを拒否する科学者はいたが、それは「人間」と比較することが難しい、という理由だった。

曖昧な人種理論の証拠探しという側面もあった。人種が優れている、劣っているなどというのは、今日においては疑似科学であることは誰も疑わない。何をもって「優れて」おり、何をもって「劣って」いるのかなど、そんな定義が歴史上存在したことは一度としてない。

にもかかわらず、ナチはアーリア人が優秀で、ユダヤ人が劣等だと決めつけた。それは政治が勝手に言い始めたことで、これを裏付けるために科学が総動員された。ナチの医学者たちは血眼になってアーリア人が優秀で、それ以外がそれよりも劣るという「証拠」を見つけようとした。それは髪や瞳の色であったり、顎の形であったり、背の高さであったりした。
http://3rdkz.net/?p=250&page=4

ヒトラーやヒムラーは、理想的な北欧人種とは程遠い外見である。ゲッベルスは足が不自由で身体障碍者である。にもかかわらず、ドイツ国民は「ハーメルンの笛吹き男」が奏でるメロディに踊らされるがままに、ヨーロッパ全土を破壊し、滅亡に追い込んだ。この歴史の奇妙を解明することは、今後においても決してできないに違いない。我々にできることは茫然と立ちすくみ、とりあえず人種差別に反対することだけであろう。
http://3rdkz.net/?p=250&page=5

http://www.asyura2.com/08/holocaust5/msg/192.html#c3

   前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > 中川隆 koaQ7Jey > 100275  g検索 koaQ7Jey

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。