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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100249
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[近代史3] 有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか? 中川隆
1. 中川隆[-12439] koaQ7Jey 2019年2月05日 09:28:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

尖閣・千島 お隣の国 武田邦彦 (中部大学)
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尖閣・千島 お隣の国(8) 占領されると領土が拡がる中国 武田邦彦 (中部大学)


 支那という地域を理解するのに、まだまだその歴史を勉強しなければならない。それはまず、この地図だ。


https://plaza.rakuten.co.jp/silvermouse/diary/201102250000/


 この地図は歴史家・宮崎淳子先生が画かれたもので、中華民国ができた時の支那地域の支配図である。もともと中華民国ができる前の国が「清」だったが、清は満州族の国家で、モンゴル、新疆、チベットとの「連邦国家」だった。


 清の前の王朝である明が周辺諸国に嫌われ、清は良い状態を保ったのは、清が連邦国家だったからで、「清の領土」というけれど、モンゴル、新疆、チベットは広い自治権が認められていたし、満洲はもともと宗主だから、別格だった。


 このような経過があったので、清の終わりの袁世凱や、孫文が中華民国を作った時には、その支配は「昔の秦」の領域だった。ここで少し歴史的な地域分配を見てみよう.


 まず最初に「統一国家」を作った秦であるが、揚子江を中心として北は黄河、南は南シナ海、西は山で囲まれた地域に支配圏があったことがわかる。秦という国がチャイナという国名の元であり、それが漢字で支那と書かれることはすでに書いた。


 それから後、新しい王朝は支配する地域が少し違うけれど、おおよそ秦の領土に近い。たとえば、秦からかなり年代がたった明は結構、領土が広かったが、それでも次のような図になる.

 秦に比べて少し山岳の方に入っているけれど、そのほかは同じだ。東と南ははともに海だからあまり検討する必要はないが、問題は「北」である。秦の時代も明の時代も北からの異民族の侵入が特に怖かったので、その防御のために万里の長城をつくった。


 万里の長城を作ったのが、秦と明だったのはそれほど偶然ではない。秦は漢民族が「統一国家」を作った時にフト気がつくと「北」だけが危ないことがわかり、秦の始皇帝が「万里の長城」を作った。


 明の時には国家を作った人にも北方民族の血がかなり流れていたが、それでも当面、元が北に帰った後の土地をもらったと言うこともあって、やはり北が怖かった。そこで北京のすぐ北に万里の長城を作ったのである.


 「万里の長城」というのは「国境」だから、支那地域の北の領土は万里の長城という事は確定している.


 その北にはモンゴルと満州がある。中国の歴史で今のところ大失敗しているのが、満州民族だ。中国というところは普通の常識では考えられないことをする。


 たとえば、「漢人は漢人を平気で殺す」ということで、たとえば前漢の末には国民に4人に3人が殺された。


 中国人は何でも食べるというけれど、時によっては人間も食べた.約束を破る、裏切るなども普通に行われるが、それを日本人の倫理観で考えてはダメで、人間は動物だから、動物のように「その時の自分に得になるように動く」のが摂理でもある。


 「尖閣諸島はもともと日本の領土だ」などと言ってもムダで、「尖閣諸島が何も無ければ日本のもの、資源があれば中国のもの」というのが中国流の倫理観なのである.


 そんな倫理観の支那に満州人が侵入した。それが「清」で、大いに繁栄して、モンゴル、新疆、チベットとも連邦を組んで、大帝国をつくった。モンゴルの時代を除けば、中国で歴史的な「最大版図」になったのである.


 ところが、不思議なことが起こった。


 清朝はもともと満州族が作ったのだから、支那は満州に占領されていたのが清朝だ。その清朝が衰えて、満州に帰った。そして、もともと漢の時代に「中国」の領土だった「支那(秦、china)」の地域に中華民国ができた。


 その次に驚くべき事が起こったのだ。


 それは「中華民国」が「満洲は俺の領土だ」と言ったことだった。中華民国は支那の国だから、武力があれば支那を統一するだろう。それは秦や明が万里の長城から南を領土にしたのと同じだから、「支那は中国人の固有の領土」と言っても不思議ではない。


 ところが、満洲はずっと満洲人の領土だから、満洲人が支那地域を占領していたのを引き上げて、満洲に戻ったのだから、満洲は支那ではない。満洲が支那を占領していたのだから、満洲が支那を「領土」と宣言することはあるが、占領されていた支那が満洲を領土にするというのは「世界の常識」から言えば「逆」である。


 たとえば、次のような話をすればさらに理解が深まる.


 豊臣秀吉が朝鮮に出兵して北京まで進軍しようとした。日本では「そんなことはできなかった」と思う人が多いだろうが、さすが豊臣秀吉だ。支那の地域は漢から三国時代が終わると、支那には人がいなくなり、次々と北方民族が占領していたのだ。だから、「支那の北方民族の一つの日本が北京を占領する」というのはごく普通のことである.


 そして日本軍が朝鮮を占領し、さらに駒を進めて北京から揚子江ぐらいを占領したとする。しばらくは秀吉も生きていて、大陸の占領が成功したので、首都も中間の平壌に移したが、100年ぐらいして大陸にも興味が無くなり、日本軍は日本に引き揚げたとする.


 占領された支那は新しい王朝ができる。そうすると、奇妙な論理が登場するだろう.それは、「日本は中国だ」ということである。


 支那を満洲が占領した。しばらくして満洲が支那を放棄して故郷に戻ると、支那は「満洲は中国だ」と言った。


 もし、日本が支那を占領し、しばらくして支那を放棄して日本に帰ると、支那は「日本は中国だ」と言っただろう.


 つまり、武力にも工業にも頼ることができない支那の人はそれなりに生きるすべを身につけていた。それは


「自分のものは自分のもの、他人のものは自分のもの、自分の土地を占領した人の土地は自分のもの」


という「なんでも自分のもの」という主義である。


 これを中華思想という。

(平成22年12月22日 執筆)
https://plaza.rakuten.co.jp/silvermouse/diary/201102250000/


尖閣・千島 お隣の国(9) 中華思想


 昨年、中華思想とは「自分が中心で周りは属国」ということで、周囲の国を尊敬するどころか、鮮卑とか、凶奴とかいうようにひどい名前をつけて「呼び名でさげすむ」というのが特長で、そして、やがてその「さげすんでいた人」が力をつけて「自分の主人」になると、さすがに主人をさげすむ訳にはいかないので、「同列」にする。つまり、さげすんでいた人の領土を自分の領土と同格に格上げして、その土地を自分の土地にするという思想であることを述べた。


(ややこしいので、一度、読んでも分からないぐらいだが・・・)


 つまり中華思想での「格上げ」というのは「満洲の人に占領されたから、満洲は支那の領土になる」ということになる.現在の満洲が支那の領土になっているのは、「支那が満洲を占領したから」ではなく、逆に「満洲が支那を占領したから」である。


 でも、このような巧妙な事を実施するには作戦がいる。タダで人の土地を手に入れるのだから戦略はかなり高度でなければならない。


 普通は戦争で土地を手に入れるのだから、それと比べれば、平和主義といえば平和主義だ.


 まず、第一に文化程度を高めておくことだ。常に田舎者が東京に来て恐れおののくようにしておくということと同じである.


 支那の国に行くと「祖先はこんなに偉かった、墳墓の大きさに驚いたか!。こんなに綺麗な飾り物がある、この絹は素晴らしいだろう。美味しい中華料理も、女性も綺麗でエレガントだ・・・」と続く。


それには大きな宮殿もいるし、宮殿までの道路も広くて両側には虎の彫り物も欲しい・・・ということで「支那の文化」ができた。


 今でも、日本から支那に行く陽気で単純で偉い人は、これにすっかり引っかかる。みんな笑顔で迎えてくれるし、美味しいご飯は食べられる.万里の長城も宮殿の素晴らしく「さすが、中国4000年!」と感激して、日本の技術をソックリ差し上げてくる人もいる。


だが、もともと支那の歴史は2000年、それも中抜け、虐殺、属国の歴史だが、それらは全て、隠されている.


 なかなか、素晴らしい作戦だ。


 つまり、支那の文化は「負ける文化」であり、「負けても繁栄する」という戦略をもっている。だから、「勝つ文化」、つまりヨーロッパの文化が清の時代にやってくると支那はこと軍事力ではひとたまりもなく破れた。


そこで、清王朝はそれまでの支那文明とはまったく違う文明を受け入れた.


 日清戦争で支那が日本に負けて「支那文化」を捨てたということが岡田英弘先生の本に書かれているが、それはそうだろう。小さな属国と思っていたところにいとも簡単に負けてしまったからだ。


でも、その時に捨てたのは政治、軍事、社会、技術などであり、中華思想は捨てていない。だから、「勝つ国」が、「負けても勝つ中華思想」と一緒だからややこしくなっている。


 もう一つの中華思想の戦略は、「ウソを記録する」という方法である.


 「過去に起こったこと」を記録するときに、「できるだけ事実に忠実に記録する」という方法と、「自分に有利になるように記録する」というのがある。


 事実だから事実をそのまま記録すれば良いじゃないかというけれど、人間の社会というのはそれほど単純ではない.たとえば2010年に日本と中国の間で起こった尖閣諸島問題でも、少し前から日本の図書館から古い地図が抜き取られているという事件がある。


 日本と中国の間には古くからいろいろな歴史がある。それがそのまま残っていると中国には不利な記録もあるが、それを早く消してしまえば、新しく「作り上げた歴史」を書くことができるからだ。


 だから、日本と中国、朝鮮の古地図に関係するところが無くなっている.だれが破ったり盗んだりしているのか分からない。普通に考えると、関係する中国か韓国の人が自国に有利になるように歴史を消しているとも採れるし、逆に日本人が中国や朝鮮に対して圧力をかけようとして謀略をしているのかも知れない。


 事実はかくのごとく複雑であり、なかなか明確には分からないのである.だから、その間隙をついて、「歴史を自分の有利なように書き換える」というのはきわめて単純な「だまし」の方法になる.


 言ったことはそのうちに消えるし、事実そのものも分からなくなる。でも、書いた物はそのまま残るので、書いた方が勝ちであることを支那は知っていた.


「王朝を開いた皇帝はこのように英雄であり、人格が高かった」、「周囲の野蛮な国を平定して国に平和をもたらした」、「中興の祖の**帝の時に最大版図になった」というような事であり、そして地図にはその王朝の「最大版図」を記録して、後は捨てる.


 そうすると、あたかもその王朝の領土は「最大版図」であるような錯覚に陥る.


 たとえば、前漢や後漢の領土として知られている地図は、「平均的な領土」でもなければ「固有の領土」でもない。もともと「国境」がハッキリしていないのだから、「固有の領土」なるものはない。「書いたが勝ち」で最大版図がその王朝の領土であったことになる.


 先に豊臣秀吉の大陸攻撃と、もし秀吉が北京に首都をおいたら日本は中国に編入されているということを書いたが、日本と中国の常識がいかに違うかを、今度も領土について示してみたい。


 この地図は「大日本帝国」の「最大版図」である。今の日本は自虐的で、かつ世界の孤児だから、このような地図を示すと「侵略を正当化するのか!」と叱られる.でも、中国は常に「最大版図」しか示さないことに注意すべきである.


 支那の王朝の「領土」をもし日本の教科書に書いてあるように示せばこのようになるということで、それを叱っても意味がない.日本の思想で日本国を示せば、南は千島から北は沖縄になるが、中華思想で示せば、大日本帝国の時の最大版図になるということだ。


 中国人が日本人なら、この地図の「色分け」はしない。もともと日本領土だったところ、朝鮮と満洲、フィリピンなどを色わけすると、そこは日本とは違うように見える.


ところが、全部を同じ色で塗って、「日本」と書けば、何回か見ている内に「ほんとうの日本はこんなに大きかった」と錯覚する.


 それが今の中国と言っている領土の範囲なのだ。


 それではなぜ歴史学者が、支那の王朝の領土を「事実」に基づかずに「公的に示された最大版図」を示すのだろうか? それは中華思想そのものにある。つまり、人間は自己の責任を問われるのを恐れるから、「お墨付き」のあるものを使いがちであり、それが間違ったものでも使っていると本当になるという深い考えが含まれているからである.


 筆者は自然科学者としてよく経験しているが、科学の専門家でも、専門が細かく分かれているので、自分の研究対象以外のところは「当たり障りなく、公的なデータ」を使いたがる傾向がある。


 最近見られるその典型例が「地球温暖化が起こっていて、原因は人為的に排出されるCO2」という「社会現象」である。もちろん温暖化もCO2も自然科学なのだが、現実にデータを持ち、研究をしているのは一部の気象学者と地球物理学者、それに温暖化に興味のある学者だけである。


そのほかの人は自然科学者も含めて「大勢の人が言っている」とか、中華思想的な場合は「公的な方が正しい」と判断している。


 つまり、「ウソでも公的に記録されれば現実になる」という中華思想はけっこう人の認識の弱点を巧みに突いている.


 まとめると、


1.  自分と同じになれば他人のものは自分のもの。だから占領される毎に領土が増える.


(普通なら「取られた」と思うがその反対)


2.  人は「事実」より「公的に記録されたもの」を真実と錯覚する。だから事実が何かを調べる必要は無く、公的に記録すればそれが事実になる.


 なかなか巧妙な思想である.


 ここに書いたことは、中国を批判しようとか、日本の占領を正当化しようということではまったくない。中国を理解するためには、日本の考えを離れて、中国人の見方を取り入れなければならないということである。

(平成23年1月3日 執筆)
http://takedanet.com/archives/1013800798.html

尖閣・千島 お隣の国(11) 中国のまとめ 武田邦彦 (中部大学)


2010年の尖閣諸島の事件のあと、中国内地で反日暴動が起きた。


 中国は国境紛争が絶えない。北からロシア、モンゴル、チベット問題、インド、ビルマやタイ、ベトナム、それにフィリピンなどと国境や海で接していて、中国がつねに膨張主義なので、隣国とぶつかる。


 でも、中国で起こる「反**暴動」というのはほとんどが日本を対象にしている。それは日本が中国の一部を占領したことがあるという人がいるが、それなら、ロシア、モンゴルなども同じだが、日本だけに反感が強い.


 このことを普通に考えると、「中国人は日本人を恐れている」ということになるが、それに加えて「あまりに特殊な国、日本」というのがあると筆者は考えている.


 「日本は恐ろしい」という感情は中国もアメリカも持っていて、その対抗心がでるのだと思う. 


 ところで、この暴動を報道した日本のテレビで、「襲われたイトーヨーカ堂は、四川大地震の時に物資を供給するため徹夜で店を片付けて翌日の営業にそなえた。そして2億円の義援金を集めて寄付したのに・・・」と報道していた。


 確かに日本人向けの報道としては良いが、中国を理解するという点では疑問がある。つまり、中国には「恩」という考え方はあまりハッキリしていない。もともと英語では「恩」という単語すらない。「恩」という概念は「日本だけ」と考えておいた方が国際的には良いと思う.


 一体、「恩」という中身は何だろうか?人間は自分の時にならないことをすることがあるだろうか? 自然の中に人間ということを考えると「恩」は「見返りを考えて長期投資する」ということに見えるから、イトーヨーカ堂は単に長期投資の先を間違ったという事に過ぎない。


 筆者は日本人だから「恩」はとても大切と思うが、それは日本が四方を海で囲まれ、単一民族(アイヌやクマソも同一としている)で、天皇陛下をいただいているというまったく特殊な環境にあるからである。


 自分が特殊なのに相手が「普通」だからといって批判するのは問題である.


 中国人の「ウソ」というのは「国」がない民族の当たり前の行為であり、利害関係で全ての行動が決まり、今日、会う人と明日、会うとは限らず、何かを他人にしても、その他人が明日、遠くに行ってしまったら、現実的にその人を追っかけていくことはできない。


 中国では何時も、その日その日なのである。


 2010年の尖閣諸島の領有権について考えてみる.中国の考え方では、


1. 一度でも領有したことがある土地は自分の土地だという中華思想、


2. 尖閣諸島に資源がなければ興味がないが、資源があれば資源が見つかった時から権利を主張するのは当たり前、


ということだ。このような考え方は中国の歴史から来ている。「本来、領土とはどうあるべきか」というのとは違う. これに対して、日本は、


1. 領土というのは歴史的に長く実質支配していたところである、


2. 「公的な手続き」、つまり国際的に尖閣諸島の領有を宣言している、


3. 損得で態度を変えるのは卑怯だ、


という感覚を持っているが、これも日本の歴史と強く関係している.地続きの隣国がある国と回りが海の国の差も大きい.


 だから、意見は合わない.意見を合わせるためには、


1. お互いの言い分をよく聞く、


2. お互いの文化の違いをよく聞く、


3. 「正義」を争っているのか、それとも「習慣」、「利権」の問題なのかをハッキリする、


というようなことが必要だろう.


 中国流に言えば、「尖閣諸島は中国と日本の間にあるから、力でその所属を決める必要がある」ということだ。


 歴史的に領土とは、


1. 最初に発見し、


2. そこにその国の国民がいて、


3. ある程度、長く住み、


4. 軍事力、政治力、経済力で支配する、


ということが必要だ。


 尖閣諸島は誰が最初に発見したか分からないし、日本人が住んでいた分けでもない。ボンヤリと「琉球の領土」であって、「江戸時代は琉球王朝は中国の属国、明治の終わりから日本の領土」ということだ。


 だから、国際常識に従えば、軍隊が強い方が領有することになる。言い分だけなら決定打がない。


 


ところで、日本人の多く(調査によると94%)が尖閣諸島を欲しがっている.その理由は、


1. 漠然と領土を失いたくない、


2. 千島列島、竹島などの問題があり、尖閣諸島で譲るとどんどん領地が狭くなるかもしれない、


3. 資源がある、


4. なにしろ中国が憎い、


などである。しかし、日本の政策というのは大きく変化していないだろうか? あれほど日本中が熱して1年も経たないのに、尖閣諸島も、資源も、そして「国家機密」もすでに遠くに行きつつある.歴史的な動きからみると余りに早い世論の関心のようにも思う.

(平成23年1月20日 執筆)
http://takedanet.com/archives/1013800822.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html#c1

[近代史3] 有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか? 中川隆
2. 中川隆[-12438] koaQ7Jey 2019年2月05日 09:33:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

尖閣列島は有史以来ずっと台湾先住民の漁場で、琉球とは何の関係も無かった

「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明
      井上  清 Kiyoshi INOUE
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html


筆者紹介:1913年高知県生まれ。1936年東京大学文学部卒業。京都大学名誉教授であったが、2001年11月23日87歳で逝去された。著書に「条約改正」「日本現代史T=明治維新」「日本の軍国主義」「部落問題の研究」「日本女性史」「日本の歴史・上中下」等がある。

この論文は、1972年10月現代評論社から出版された井上清氏の著書『「尖閣」列島−−釣魚諸島の史的解明』が釣魚諸島問題と沖縄の歴史との2部構成であるうち、釣魚諸島問題に関する第1部の全文であり、1996年に著者の同意を得、転載するものです(転載責任=巽良生1996-10-14)。なお、本論文は、1996年10月10日第三書館から上記と同じ書名で再刊されました。

Copyright by K. Inoue 1972

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内容:

1なぜ釣魚諸島問題を再論するか
2日本政府などは故意に歴史を無視している
3釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
4清代の記録も中国領と確認している
5日本の先覚者も中国領と明記している
6「無主地先占の法理」を反駁する
7琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった
8いわゆる「尖閣列島」は島名も区域も一定していない
9天皇制軍国主義の「琉球処分」と釣魚諸島
10日清戦争で日本は琉球の独占を確定した
11天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を九年間うかがいつづけた
12日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った
13日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である
14釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である
15いくつかの補遺

林子平「三国通覧図説」付図「琉球三省并三十六島之図」、釣魚諸島位置図、釣魚諸島略図

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  一 なぜ釣魚諸島問題を再論するか
 昨年(一九七一年)の十一月はじめ、私ははじめて沖縄を旅行した。主要な目的は、沖縄の近代史と、第二次大戦における日本軍の「沖縄決戦」の真実を研究し、とくに二十余年にわたる米軍の占領支配とそれに抗する沖縄人民の偉大なたたかいの歴史に学ぶために、沖縄の土地と人間に、親しく接し、沖縄のいろいろな人の考えや気持をできるだけ理解し感じ取ることであった。むろん、そのための文献も得たいと思った。

 私はさらに、いま日本と中国の間に深刻な領有権争いのまとになっている、沖縄本島と中国の福建省とのほぼ中間、台湾基隆(キールン)の東およそ百二十浬(かいり)の東中国海に散在する、いわゆる「尖閣列島」は果して昔から琉球領であったかどうか、それをたしかめる史料を得たいとも願っていた。私の貧弱な琉球史に関する知識では、この島々が琉球王国領であったという史料は見たことがないので、沖縄の人に教えを受けたいと思っていた。

 さいわいこの旅行中に、沖縄の友人諸氏の援助をうけて、私は、いわゆる「尖閣列島」のどの一つの島も、一度も琉球領であったことはないことを確認できた。のみならず、それらの島は、元来は中国領であったらしいこともわかった。ここを日本が領有したのは、一八九五年、日清戦争で日本が勝利したさいのことであり、ここが日本で「尖閣列島」とよばれるようになったのは、なんと、一九〇〇年(明治三十三年)、沖縄県師範学校教諭黒岩恒の命名によるものであることを知った。

 これは大変だ、と私は思った。「尖閣列島」−−正しくは釣魚諸島あるいは釣魚列島とでもよぶべき島々(その根拠は本文で明らかにする)−−は、日清戦争で日本が中国から奪ったものではないか。そうだとすれば、それは、第二次大戦で、日本が中国をふくむ連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降伏した瞬間から、同宣言の領土条項にもとづいて、自動的に中国に返還されていなければならない。それをいままた日本領にしようというのは、それこそ日本帝国主義の再起そのものではないか。

 領土問題はいたく国民感情をしげきする。古来、反動的支配者は、領土問題をでっちあげることによって、人民をにせ愛国主義の熱狂にかりたててきた。再起した日本帝国主義も、「尖閣列島」の「領有」を強引におし通すことによって、日本人民を軍国主義の大渦の中に巻きこもうとしている。

 一九六八年以来、釣魚諸島の海底には広大な油田があると見られている。またこの近海は、カツオ・トビウオなどの豊富な漁場である。経済的にこれほど重要であるだけでない。この列島はまた、軍事的にもきわめて重要である。ここに軍事基地をつくれば、それは中国の鼻先に鉄砲をつきつけたことになる。すでにアメリカ軍は、一九五五年十月以来、この列島の一つである黄尾嶼(こうびしょ、日本で久場島という)を、五六年四月以来赤尾嶼(せきびしょ、日本で久米赤島とも大正島ともいう)を、それぞれ射爆演習場としている。そして日本政府は本年五月十五日、ここがアメリカ帝国主義から日本に「返還」されるとともに、ここを防空識別圏に入れることを、すでに決定している。またこの列島の中で最大の釣魚島(日本で魚釣島)には、電波基地をつくるという。周囲やく十二キロ、面積やく三百六十七へクタールで、飲料水も豊富なこの島には、ミサイル基地をつくることもできる。潜水艦基地もつくれる。

 この列島の経済的および軍事的価値が、大きければ大きいほど、日本支配層のここを領有しようという野望も強烈になり、この領有権問題で、人民をにせ愛国主義と軍国主義にかりたてる危険性も重大になる。すでに一九七〇年九月、これらの島がまだ米軍の支配下にあった当時でさえ、日本政府は、海上自衛隊をして、この海域で操業中の中国台湾省の漁船団を威嚇してその操業を妨害させたことがある。また本年五月十二日には、政府は、五月十五日以降は、もし台湾省その他の中国人がこの海域に来た場合には、出入国管理令違反として強制退去させ、さらに、もし彼らが上陸して建物をたてた場合には、刑法の不動産侵奪罪を適用することとし、海上保安部と警察をして取締りに当らせると決定している(『毎日新聞』一九七二・五・一三)。こうして中国人の「不法入域」などのさわぎをつくりあげて、国民を反中国とにせ愛国主義にかりたてる舞台は、すでにでき上っている。

 それだけに、この島に関する歴史的事実と国際の法理を、十分に明らかにすることは、アジアの平和をもとめ、軍国主義に反対するたたかいにとっては、寸刻を争う緊急の重大事である。私は、沖縄の旅行から帰ると、すぐこの列島の歴史を調べにかかった。そして年末には、ここは本来は無主地であったのではなく、中国領であることは、十六世紀以来の中国文献によって確かめられること、日本の領有は、日本が日清戦争に勝利して奪いとったものであることを、ほぼ確認することができた。

 まだはっきりしない点も多かった。ことに日本の領有経過には、重要な点で、わかっていないこともあった。しかし、私はそのときすでに、七二年一月初めには西ドイツ旅行に出発することにきまっており、それはもはや変更できなかった。そこで私は、とりあえず、わかっていることだけまとめて、「釣魚諸島(尖閣列島等)の歴史と帰属問題」という小論を書き、歴史学研究会機関誌『歴史学研究』七二年二月号(一月下旬発行)にのせてもらうことにした。またその『歴研』論文の要旨を、一般向けに簡単に書いた「釣魚諸島(尖閣列島など)は中国領である」という一文を、日本中国文化交流協会機関誌『日中文化交流』二月号にのせることにした。

 そのとき私は、次のように考えていた。

 −−もともと中国の歴史はあまり勉強していなく、まして中国の歴史地理を研究したことは一度もない私が、沖縄の友人や京都大学人文科学研究所の友人諸君の援助を受けて、一カ月余りで書き上げたこの論文には、欠陥の多いことはわかっている。私などには見当もつかぬ史料で、専門家にはすぐ思い当るような文献も、たくさんあるだろう。しかし、とりあえず、いま急がなければならないのは、釣魚諸島の帰属問題を正しく解決して、日本帝国主義が、この問題で国民の間ににせ愛国主義をあおりたて、現実に外国の領土侵略の第一段階を完了する(それが完了されれば第二段階以後はきわめて容易になる)のを、くいとめるために、歴史家は歴史家なりに、できるだけのことを、とにかくやることである。りっぱな、完成された論文ではなくても、基本的な事実はこうだと、いまわかっていることだけでも、すぐ出すことが大切だ。この拙い論文でも、まだ歴史家は誰も公然と発言していない釣魚諸島問題の歴史学的論議をさそう一助ともなれば、つまり玉をみがく他山の石の役目は果せるであろう。−−

 こんな考えで、本年一月はじめに小論を『歴研』編集部に渡したまま、私はヨーロッパへ旅立ち、三カ月ほどして、三月の末に帰国した。その間に、小論は学界に何の反応もおこさなかった。まじめに小論を批判し、誤りを正し、足らざるを補うてくれる論文が、一つも出なかったばかりか、小論を全面的に誤りとするものもなかった。

 要するに、小論はすっかり無視され黙殺されている。

 小論自体のなりゆきなどはどうでもよい。たが、釣魚諸島は無主地であったのではなく、元から中国領であったし、現在も中国領であるという中国の主張が、歴史解釈についての科学的で具体的な反論もなしに、高飛車に否定されて、日本の領有が既成事実とされていくことは、日本帝国主義の外国領土侵略とにせ愛国主義のあおり立てが、現に始まったことであり、日本人民の運命にかかわることであると、何らの誇張もなしにあえていわねばならない。

 琉球政府や日本政府が、中国の主張を全く無視しているだけでなく、私の旅行中の短い間に、日本軍国主義の復活に反対と称する日本共産党も、佐藤軍国主義政府と全く同じく、いやそれ以上に強く、「尖閣列島」は日本領だと主張し、軍国主義とにせ愛国主義熱をあおり立てるのに、やっきとなっていた。社会党も、日中国交回復、日中友好に力をいれていながら、「尖閣列島」は日本領だと主張することは、政府および反中国の日共と全く同じである。『朝日新聞』をはじめ大小の商業新聞も、いっせいに筆をそろえて、政府と同じ主張を書きたてていた。じつにみごとな、そして何という恐ろしい、「国論の一致」ではないか。

 この「国論」と真向うから対決し、日本帝国主義の釣魚台略奪をゆるすなと、公然と人民によびかけ、たたかっているのは、政治党派としては、現在のところいわゆる新左翼のセクトが一つあるだけである。去年の秋には、べつの新左翼の組織が、同じようにたたかっていたが、その派の指導部が変わってからは、もはや釣魚諸島のことはとりあげなくなった。ほかのいわゆる新左翼諸派も、全く釣魚諸島問題をかえりみようともしない。日中友好の諸団体さえ、その機関紙誌に、日本側の主張の根拠のないことをつこうとする「研究会」の文章をのせたり、また釣魚諸島は中国領だという個人の署名入りの文章をのせたりするものはあっても、それらの団体が、その団体として、公然と、日本政府の中国領釣魚諸島略奪に反対する、ということを公式に決定し、反対運動を展開しているものは、一九七二年六月はじめの現在までに、まだ一つもあらわれていない。沖縄では、私が旅行した当時すでに、労働組合もふくめすべてのいわゆる民主団体も、「尖閣列島の開発」に、早くも熱をあげていた。

 まことに重苦しい情況である。そうであればあるほど、私たちはいっそうの勇気と情熱をもって、その打開に立ち向わねばならない。私は、あらためて、釣魚諸島の歴史の研究にとりくんだ。ことに今度は、明治維新以後、日本政府は、どのようにして、どんな情勢下に、釣魚諸島を領有していったかの解明に、力をそそいだ。幸いにして友人諸君の援助をうけて、重要なことはほぼ明らかになった。まだ足りない点もある。たとえば完全を期するためには、見なければならぬ地図で、まだ、探し当てていないのもある。イギリス海軍の一八八〇年代前後の水路誌には、釣魚諸島が中国領であることを明示する記述がありそうに思われるのに、それを見ることができていないのも、何とも気がかりである。

 けれども、気のついたかぎり、前回の小論の足りないことは補い、あやまりは訂正することができた。それゆえ、私は、ここでいちおうの区切りをつけて、急進展する情勢にちかずけるため、あえてこれを印刷に付する。

 この論文の主要な課題は二つある。

 第一は、釣魚諸島はもともと無主地でなくて中国領であった、ということを確認することである。これは、前回の小論で、叙述のしかたはまことにたどたどしかったが、基本的には達成したと信ずる。今回は、さらに有力な史料をいくつか加え、叙述を整理し、前回よりもいっそうはっきり、ここが中国領であることを明らかにできた。この部分は前回の論文と、重複するところが相当あるのは、さけがたいことである。

 第二は、日本がここを領有した経過と事情を、明らかにすることである。これは、前回の小論では、きわめて不十分であった。今回は、この領有が日清戦争の勝利に乗じた略奪であることを、当時の政府の公文書によって、かなりくわしく明らかにできた。そして、私はここに、前回の論文の不十分というよりも誤りを訂正しなければならない。

 すなわち、前論で、この略奪を日清戦争における日本の勝利と結びつけたのは正しかったが、さらにこれを日清講和条約(下関条約)第二条と直接に結びつけ、台湾とその付属島嶼を奪った中に、釣魚諸島もふくまれているかのように書いたのは、正しくなかった。正確にいえば、台湾と澎湖島は下関条約第二条により、公然明白に強奪したのであり、釣魚諸島はいかなる条約にもよらず、対清戦勝に乗じて、中国および列国の目をかすめて窃取したのであった。しかもこの強奪と窃取は、時間的につらなっているのみか、政治的にも一体不可分のものであった。このことを論証するのが、本論の第二の課題である。

 本論にあやまりがあれば正し、足りないことは補ってくださるよう、読者のみなさんの御援助をお願いする。

二 日本政府などは故意に歴史を無視している
 現在の釣魚諸島領有権争いにおいて、日本側が最初に、公的にその領有を主張したのは、一九七〇年八月三十一日、アメリカの琉球民政府の監督下にある琉球政府立法院が行なった、「尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」であった。それは日本領であるという根拠については、「元来、尖閣列島は、八重山石垣市宇登野城の行政区域に属しており、戦前、同市在住の古賀商店が、伐木事業及び漁業を経営していた島であって、同島の領土権について疑問の余地はない」といい、これ以上に日本領有の根拠を示したものではなかった。

 この立法院決議をうけて、琉球政府は、同年九月十日「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」という声明を出し、さらに同月十七日、「尖閣列島の領土権について」という声明を発表した。後者は、琉球政府がこの列島の領有権を主張する根拠を系統的にのべている。それは、まず一九五三年十二月二十五日の琉球列島米国民政府布告第二十七号により、尖閣列島はアメリカ民政府および琉球政府の管轄区域にふくまれていることをのべ、つづけて次のようにのべている。

 (1)この島々は、十四世紀の後半ごろには、中国人によってその存在を知られており、中国の皇帝が琉球国王の王位を承認し、これに冠や服を与えるために琉球に派遣する使節−−冊封使(さくほうし)−−が、中国の福州から琉球の那覇の間を往来したときの記録、たとえば『中山傳信録』や『琉球国志略』その他に、これらの島々の名が見える。また琉球人の書いた『指南広義』付図、『琉球国中山世鑑』にも、この島々の名が見える。

 しかし、「十四世紀以来、尖閣列島について言及してきた琉球側及び中国側の文献のいずれも、尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはありません。これらの文献はすべて航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図においてか、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣列島の島嶼の名をあげているにすぎません。本土の文献としては、林子平の『三国通覧図説』があります。これには、釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼(いわゆる尖閣列島の島々−−井上)を中国領であるかの如く扱っています。しかし『三国通覧図説』の依拠した原典は、『中山傳信録』であることは、林子平自身によって明らかにされています。彼はこの傳信録中の琉球三十六島の図と航海図を合作して、三国通覧図説を作成いたしました。このさい三十六島の図に琉球領として記載されていない釣魚台、黄尾嶼などを、機械的に中国領として色分けしています。しかし傳信録の航海図からは、これらの島々が中国領であることを示すいかなる証拠も見出しえないのであります。」

 要するにこの列島は、「明治二十八年(一八九五年)に至るまで、いずれの国家にも属さない領土として、いいかえれば国際法上の無主地であったのであります。」

 (2)「明治十二年(一八七九年)沖縄に県政が施行され、明治十四年に刊行、同十六年に改正された内務省地理局編纂の『大日本府県分割図』には、尖閣列島(尖閣群島のあやまり−−井上)が、島嶼の名称を付さないままにあらわれている。」そのころまでここは無人島であったが、明治十七年(一八八四年)ごろから、古賀辰四郎がこの地でアホウ鳥の羽毛や海産物の採取事業をはじめた。「こうした事態の推移に対応するため、沖縄県知事は、明治十八年九月二十二日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています。」

 (3)「さらに一八九三年(明治二十六年)十一月、沖縄県知事より、これまでと同様の理由をもって、同県の所轄方と標杭の建設を内務及び外務大臣に上申して来たため、一八九四年(明治二十七年)十二月二十七日、内務大臣より閣議提出方について外務大臣に協議したところ、外務大臣も異議がなかった。」そこで「翌一八九五年(明治二十八年)一月十四日閣議決定で、沖縄県知事の上申通り標杭を建設させることにした。」

 (4)「さらにこの閣議決定にもとづいて、明治二十九年四月一日、勅令第十三号を沖縄県に施行されるのを機会に、同列島に対する国内法上の編入措置が行はれています。」

 琉球政府の声明は、これにつづけて、右の「国内法上の編入措置」について、るる説明というよりも弁明をしている。その部分もふくめて、この声明の全文は、一見、ありのままの史実をのべているかのようで、ひじょうに多くの重大なごまかしやねじまげがあり、また重要な事実を、故意にかくしてもいる。それらは後にいちいちばくろする。

 本年(一九七二年)に入ってから、日本政府外務省の統一見解(三月八日)、朝日新聞社説(三月二十日)、日本社会党の統一見解案(三月二十五日)、日本共産党の見解(三月三十日)、そのほか多くの政党や新聞の尖閣列島日本領論が出されたが、それらはいずれも、右の琉球政府声明以上にくわしい、あるいは新しい「論拠」を示したものではない。そしてそれらはみな、その「尖閣列島」領有権の主張の根底を、これらの島は、一八九五年に日本政府が領有を閣議決定するまでは無主地であった、ということに置いている。じっさい、そうしないで、これらが中国領であったことを認めれば、「無主地の先占」なる近代現代の植民地主義・帝国主義の国際法上の「法理」をこじつける余地すらもなくなる。しかるにその彼らの全主張の根底について、彼らは、何ら史料にもとづく科学的な証明をしていない。

 外務省は、「尖閣列島は明治十八年(一八八五年)以降、政府が再三にわたって現地調査を行ない、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡が無いことを慎重に確認した上で」、明治二十八年一月十四日の閣議決定で、「正式にわが国の領土に編入することとしたものである」というだけである。この「清国の支配が及んでいる痕跡が無い」というのは、一八八五年(明治十八年)、沖縄県令らがこの地は中国領かもしれないからという理由で、直ちにこれを日本領とすることにちゅうちょしたのに対して、内務卿山県有朋が即時領有を強行しようとして、これらの島は『中山傳信録』に見える島と同じ島であっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見へ申サズ」(本論文第十一節を参照)と主張したことのくりかえしにすぎない。

 共産党の「見解」は次の通り。「尖閣列島についての記録は、ふるくから、沖縄をふくむ日本の文献にも、中国の文献にも、いくつか見られる。しかし、日本側も中国側も、いずれの国の住民も定住したことのない無人島であった尖閣列島を、自分に属するものとは確定しなかった。」「中国側の文献にも、中国の住民が歴史的に尖閣列島に居住したとの記録はない。明国や清国が、尖閣列島の領有を国際的にあきらかにしたこともない。尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である。」

 朝日新聞社説も、これと同じようなことしかいわない。「尖閣列島の存在は、すでに十四世紀の後半には知られており、琉球や中国の古文書には、船舶の航路目標として、その存在が記録されている。だが尖閣列島を自国の領土として明示した記録は、これらの文献には見当らず、領土の帰属を争う余地なく証明するような歴史的事実もない。」

 日共や朝日新聞はこのように、明・清時代の中国が「尖閣列島」の領有を国際的に明確にしたことはないなどと、たいへん確信ありげに断定しているが、このさい彼らは、何ら科学的具体的に歴史を調べているのではなく、佐藤軍国主義政府とまったく同じく、現代帝国主義の「無主地」の概念を、封建中国の領土に非科学的にこじつけて、しぶんたちにつごうの悪い歴史を抹殺しようとしているのである。政府にしても政党にしても、短い声明の中で、いちいち歴史的論証をするわけにもいかないだろうが、何らかの形で、彼らの機関紙誌なり、パンフレットなりで、その証明をすることは、これだけ重大な国際問題に対処するための、政府や公党たるものの責任ではないか。しかし、彼らはいっこうにそれをやろうとはしない。政府やこれらの政党の御用学者はたくさんあるのに、彼らも、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄のほかには、あえて歴史的説明を公表したものはまだ一人もあらわれていない。

三 釣魚諸島は明の時代から中国領として知られている
 日共の見解や朝日新聞の社説は、「尖閣列島」に関する記録が「古くから」日本にも中国にも「いくつかある」が、どれもその島々が中国領だと明らかにしたものはないなどと、十分古文献を調べたかのようなことをいうが、実は彼らは古文献を一つも見ないで、でたらめをならべているにすぎない。むろん「尖閣列島」という名の島についての明治以前の記録は、中国にも日本にも一つもあるはずがない。そして釣魚島とそのならびの島々に関する「古い」(というのは、明治以前のこととする)記録も、日本にはただ一つしかない。林子平の『三国通覧図説』(一七八五年刊)の付図の「琉球三省并三十六島之図」のみである。それは、一九七〇年の琉球政府声明がのべているように、中国の冊封副使徐葆光(じょほうこう)の『中山傳信録』の図によっている。それだから価値が低いのではなくて、価値がきわめて高いことは後にくわしくのべる。

 琉球人の文献でも、釣魚諸島の名が出てくるのは、羽地按司朝秀(後には王国の執政官向象賢 こうしょうけん)が、一六五〇年にあらわした『琉球国中山世鑑』(註)巻五と、琉球のうんだ最大の儒学者でありまた地理学者でもあった程順則(ていじゅんそく)が、一七〇八年にあらわした『指南広義』の「針路條記」の章および付図と、この二カ所しかない。しかも『琉球国中山世鑑』では、中国の冊封使陳侃(ちんかん)の『使琉球録』から、中国福州より那覇に至る航路記事を抄録した中に、「釣魚嶼」等の名が出ているというだけのことで、向象賢自身の文ではない。

 (註)伊波普猷、東恩納寛惇、横山茂共編『琉球史料叢書』第五にあり。

 また程順則の本は、だれよりもまず清朝の皇帝とその政府のために、福州から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣魚島などのことが書かれている「福州往琉球」の航路記は、中国の航海書および中国の冊封使の記録に依拠している。しかも、このとき程順則は、清国皇帝の陪臣(皇帝の臣が中山王で、程はその家来であるから、清皇帝のまた家来=陪臣となる)として、この本を書いている。それゆえこの本は、琉球人が書いたとはいえ、社会的・政治的には中国書といえるほどである。

 つまり、日本および琉球には、明治以前は、中国の文献から離れて独自に釣魚諸島に言及した文献は、実質的にはひとつも無かったとさえいえる。これは偶然ではない。この島々は、琉球人には、中国の福州から那覇へ来る航路に当るということ以外には、何の関係もなかったし、風向きと潮流が、福建や台湾から釣魚諸島へは順風・順流になるが、琉球からは逆風・逆流になるので、当時の航海術では、きわめてまれな例外はいざ知らず、琉球からこの島々へは、ふつうには近よれもしなかった。したがって琉球人のこの列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。彼らが独自にこの列島に関して記述できる条件もほとんどなかったし、またその必要もなかった。

 琉球および日本側とは反対に、中国側には、釣魚諸島についての文献はたくさんある。明・清時代の中国人は、この列島に関心をもたざるをえない事情があった。というのは、一つには琉球冊封使の往路はこの列島のそばを通ったからであり、また一つには、十五、六世紀の明朝政府は、倭寇(わこう)の中国沿海襲撃に備えるために、東海の地理を明らかにしておかねばならなかったから。

 この列島のことが中国の文献に初めて見えるのは、紀元何年のことか、それを確かめることは私にはできないが、おそくも十六世紀の中期には、釣魚諸島はすでに釣魚島(あるいは釣魚嶼)、黄毛嶼(あるいは黄尾山、後の黄尾嶼)、赤嶼(後の赤尾嶼)などと中国名がつけられている。

 十六世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、一五三四年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使陳侃の『使琉球録』がある。それによれば、使節一行の乗船は、その年五月八日、福州の梅花所から外洋に出て、東南に航し、鶏籠頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、十日に釣魚嶼などを過ぎたという。

 「十日、南風甚ダ迅(はや)ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇(いとま)アラズ。(中略)十一日夕、古米(くめ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」

 琉球冊封使は、これより先一三七二年に琉球に派遣されたのを第一回とし、陳侃は第十一回めの冊封使である。彼以前の十回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、−−それ以外の航路はない−−その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらは、もともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に一五六二年の冊封使となった郭汝霖(かくじょりん)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。

 その郭の使録には、一五六二年五月二十九日、福州から出洋し「閏五月初一日、釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風アラバ、即チ姑米(くめ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。

 上に引用した陳・郭の二使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深二千メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は琉球地方を界する山だというのは、同じことを、ちがった角度からのべていることは明らかである。

 そして、前に一言したように、琉球の向象賢の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に五月十日と十一日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派のはげしい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の記述がそのまま採用されていることは、久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領ではないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことを示している。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものは無い」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領ではないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの側も」、すこしも書いていない。

 なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというとき、その「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう一日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。

 こうみてくると、陳侃が、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の記述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなどは、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。

 政府、日本共産党、朝日新聞などの、釣魚諸島は本来は無主地であったとの論は、恐らく、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄が雑誌『中国』七一年九月号に書いた、「尖閣列島の領有権と『明報』の論文」その他でのべているのと同じ論法であろう。奥原は次のようにいう。

 陳・郭二使録の上に引用した記述は、久米島から先が琉球領である、すなわちそこにいたるまでの釣魚、黄尾、赤尾などは琉球領ではないことを明らかにしているだけであって、その島々が中国領だとは書いてない。「『冊封使録』は中国人の書いたものであるから、赤嶼が中国領であるとの認識があったならば、そのように記述し得たはずである」。しかるにそのように記述してないのは、陳侃や郭汝霖に、その認識がないからである。それだから、釣魚諸島は無主地であった、と。

 たしかに、陳・郭二使は、赤嶼以西は中国領だと積極的な形で明記し「得たはずである」。だが、「書きえたはず」であっても、とくにその必要がなければ書かないのがふつうである。「書きえたはず」であるのに書いてないから、中国領だとの認識が彼らにはなかった、それは無主地だったと断ずるのは、論理の飛躍もはなはだしい。しかも、郭汝霖の「界」の字の意味は、前述した以外に解釈のしかたはないではないか。

 おそくとも十六世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(こそうけん)が編纂した『籌海図編』(ちゅうかいずへん)(一五六一年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本である。

 本書の巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当るか、いちいちの考証は私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。

 この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の巻一は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国領以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。

 一九七一年十二月三十日の中華人民共和国外交部声明の中に、「早くも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域にふくまれており」というのは、あるいはこの図によるものであろうか。じっさいこの図によって、釣魚諸島が当時の中国の倭寇防衛圏内にあったことが知られる。このことについて、日共の「見解」は、「尖閣列島は『明朝の海上防衛区域にふくまれていた』という説もあるが、これは領有とは別個の問題である」などという。しかし、自国の領土でもない、しかも自国本土のもっとも近い所からでも二百浬以上もはなれている小島を防衛区域に入れるのは、いまの日本の自衛隊が、中国領の釣魚諸島を日本の「防空識別圏」にいれるのをはじめ、アメリカや日本など近代現代の帝国主義だけのすることであって、それと同じことを、勝手に明朝におしつけて、防衛区域と領有は別だなどというのは、釣魚諸島はどうでもこうでも中国領ではなかったと、こじつけるためのたわごとにすぎない。

四 清代の記録も中国領と確認している
 以上で、釣魚諸島は中国領であったことを確認できる記録が、十六世紀の中ごろには少なくとも三つあることが明らかとなった。それ以前のことについての記録は、私はまだ知ることができていないが、記録の有無にかかわらず、釣魚諸島が中国人に知られ、その名がつけられた当初から、中国人はここを自国領だと考えていたにちがいない。もっとも、最大の釣魚島でも、後にのべるように、海岸からすぐけわしい山がそそり立ち、平地は、もっとも広い所で、当時の技術水準では、数人しかおれないような小島を、彼らが重視したとも思われないが、さりとてそんな小島をわざわざ沿海防衛図に記入しているのを見ても、彼らがこれを無主地と考えたはずもない。そして十六世紀の中頃に、三つの文献がここをはっきり他国領と区別して記述しているのは、偶然ではあるまい、このころは、中国の東南沿岸は倭寇になやまされており、倭寇との緊張関係で、中国人はその東南沿海の自国領と他国領との区別に敏感にならざるをえなかったのだから。

 郭汝霖の後には、明朝の冊封使は、一五七九年、一六〇六年、一六三三年と三回渡琉している。そのはじめの二回の使録を私は読んだが、それらには、陳・郭二使録のような、琉球領と中国領の「界」に関する記述はない。最後の使節の記録は、一部分の引用文しか見てないので、領界についての記述の有無はわからない。この後まもなく明朝は滅び、清(しん)朝となり、琉球王は清朝皇帝からも、前代と同様に冊封をうける。清朝の第一回の冊封使は、一六六三年に入琉しているが、その使記にも、中・琉の領界の記述はない。

 このように、陳・郭以後の使節にしばらくは領界の記述がないことも、奥原によって、釣魚諸島無主地論の一根拠とされているが、どうしてそんな理屈がひねり出せるものか、わけがわからない。後代の使節は、みな陳・郭以来の歴代の使記をよく読んでいる(もともと冊封使記は、当時および後世の朝廷とその琉球使節に読ませるために書かれた、公用出張の報告書の性質をもつものである。琉球政府などが、わざと軽視しているような、たんなる私的な航海記ではない。)。それゆえ彼らは、赤嶼と久米島が中・琉の領界であることも十分承知していたわけであるが、彼ら自身の使記に、それを書きつけるほどの特別の関心または必要がなかったまでのことである。

 ところが清朝の第二回目の冊封使汪楫(おうしゅう)は、一六八三年に入琉するが、その使録『使琉球雑録』巻五には、赤嶼と久米島の間の海上で、海難よけの祭りをする記事がある。その中に、ここは「中外ノ界ナリ」、中国と外国との境界だ、と次のように明記している。

 「二十四日(一六八三年六月)、天明ニ及ビ山ヲ見レバ則チ彭佳山也……辰刻(たつのこく)彭佳山ヲ過ギ酉(とり)刻釣魚嶼ヲ遂過ス。……二十五日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何(いくばく)モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風涛大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・かぶとをつけ、刀を抜いて)舷(ふなばた)ニ伏シ、敵ヲ禦(ふせ)グノ情(さま)ヲナス。之ヲ久シウシテ始メテヤム。」

 そこで汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相手が答えた。

「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。

 汪楫は重ねて問うた。

「界ハ何ニ於テ辯ズルヤ。」(その界はどうして見分けるのですか)。相手は答えた。

「曰ク懸揣スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ頃者(ただいま)ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆(おく)度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」

 右の文には少々注釈が必要であろう。釣魚諸島は、中国大陸棚が東海にはり出したその南のふちに、ほぼ東西につらなっている。列島の北側は水深二百メートル以下の青い海である。列島の南側をすこし南へ行くと、にわかに水深千数百から二千メートル以上の海溝になり、そこを黒潮が西から東へ流れている。とくに赤尾嶼付近はそのすぐ南側が深海溝になっている。こういう所では、とくに海が荒れる。またここでは、浅海の青い色と深海の黒潮との、海の色の対照もあざやかである。

 この海の色の対照は、一六〇六年の冊封使夏子楊(かしよう)の『使琉球録』にも注目されており、前の使録の補遺(私は見ていない−−井上)に『蒼水ヨリ黒水ニ入ル』とあるのは、まさにその通りだ」とある。そして清朝の初めには、このあたりが「溝」あるいは「郊」、または「黒溝」、「黒水溝」などとよばれ、冊封使の船がここを通過するときには、豚と羊のいけにえをささげ、海難よけの祭りをする慣例ができていたようである。過溝祭のことは、汪楫使録のほかに、一七五六年入琉の周煌の『琉球国志略』、一八〇〇年入琉の李鼎元(りていげん)の『使琉球録』および一八〇八年入琉の斉鯤(さいこん)の『続琉球国志略』に見えている。

 これらの中で、汪楫の使記は、過溝祭をもっともくわしくのべているばかりでなく、溝を郊と書き、そこはたんに海の難所というだけでなく、前に引用した通り、「中外ノ界ナリ」と明記している点で、もっとも重要である。しかもこの言葉が、ここをはじめて通過した汪楫に、船長か誰かが教えたものであることは、こういう認識が、中国人航海家の一般の認識になっていたことを思わせる。

 さらに周煌は『琉球国志略』巻十六「志余」で、従来の使録について、そのとくに興味ある、または彼が重視した記述を再確認しているが、その中で彼は、汪楫の記述を要約し、「溝ノ義ヲ問フ、曰ク中外ノ界ナリ」という。すなわち彼は汪楫とともに、赤尾嶼と久米島の間が「中外ノ界」であると確認し、赤尾嶼以西が中国領であることを、文字の上でも明記している。なお『琉球国志略』は、すぐ後にのべる『中山傳信録』とならんで、中国人のみならず琉球人・日本人にも広く読まれた本で、句読、返り点を施した日本版も一八三一年(天保二年)に出ている。また斉鯤は、赤尾嶼を過ぎた所で「溝ヲ過グ、海神ヲ祭ル」と書くだけであるが、彼の使記は、周煌使記の後をつぐ意味の『続琉球国志略』と名づけられているのだから、その中で周煌の記述に批判や訂正のないかぎり、彼も汪・周とともに、ここを中外の界としていたことは明らかである。これでもなお、赤嶼以西が無主地であったとか、中国側のどの文献にも釣魚諸島が中国領であると明示したものはない、などといえようか。

 斉鯤の前の封使李鼎元だけは、赤嶼ではなくて釣魚嶼の近くで過溝祭をしているのみならず、「琉球ノ夥長(かちょう)」(航海長)は「黒溝有ルヲ知ラズ」といったと記し、かつ李自身もその存在を否定している。彼は徹底した経験主義の自信家であり、自分の航海が、往復ともまれにみる順風好天で、すこしも難航しなかったという体験を基にして、先人の記録よりも琉球人航海家の言を信じた。ただしこの場合、彼の関心はもっぱら海の難所という点に集中されていて、「中外ノ界」という意味の溝(郊)については、彼は何ものべていない。したがって海の難所という意味の溝を否定した李鼎元ただ一人の体験に追従して、彼の前と後の封使がともに認めている「中外ノ界」を否定することは、とうていできない。

 のみならず、この「界」は、汪楫の次、周煌の前の使節徐葆光(一七一九年入琉)の有名な『中山傳信録』によっても確かめられる。

 徐葆光は、渡琉にあたって、その航路および琉球の地理、歴史、国情について、従来の不正確な点やあやまりを正すことを心がけ、各種の図録作製のために、とくに中国人専門家をつれていったほどである。彼は琉球王城のある首里に入るとすぐ、王府所蔵の文献記録の研究をはじめ、前に紹介した程順則および程より二十歳も若いが、彼につぐ当時の大学者−−とくに琉球の王国時代を通じて地理の最大の専門家蔡温(さいおん)(註)を相談相手とし、八カ月間琉球のことを研究した。

 (註)蔡温は、福州に三年間留学して、地理・天文・気象を専攻した。後に王府の執政官となり、琉球の産業開発と土木に、前後に比類のない貢献をした。(前出『琉球史料叢書』第五巻の東恩納寛惇による「解説」)

 『中山傳信録』は、こうして書かれたものであるから、その記述の信頼度はきわめて高く、出版後まもなく日本にも輸入され、日本の版本も出た。そして本書および前記の『琉球国志略』が、当時から以後明治初年までの、日本人の琉球に関する知識の最大の源となった。この書に、程順則の『指南広義』を引用して、福州から那覇に至る航路を説明している。それは、従来の冊封使航路と同じく、福州から、鶏籠頭をめざし、花瓶、彭佳、釣魚の各島の北側を通り、赤尾嶼から姑米山(久米島)にいたるのだが、その姑米山について「琉球西南方界上鎮山」と註している。

 この註は、これまで釣魚諸島を論じた台湾の学者や日本の奥原らみな、『指南広義』の著者程順則自身の註であると解しているが、私の見た『指南広義』の原文には、そのような註はない。私見では、これは引用者徐葆光の註である。その考証はここでは略すが(註)、これが程順則のものでも、徐葆光のものでも、実質的には同じである。というのは、徐は、滞琉中はもとより帰国後も、たえず程と意見を交換して『中山傳信録』を書いたので、この書は両人の共著といっても言いすぎではないから。

 (註)この考証は、『歴史学研究』一九七二年二月号の小論でひと通りのべた。

 もしも徐葆光が、久米島を琉球の「西南方界」とだけ書いていたら、それは正確ではないことになる。八重山群島の与那国島が琉球列島の西のはてであり、しかもそこは久米島よりはるかに南でもあるから。琉球の正確な西南界が八重山群島にあることは、『中山傳信録』の著者も知っており、彼は、八重山群島について、「此レ琉球極西南属界ナリ」と、きちんと説明している。彼がこのことを知りながら、なおかつ久米島について、「琉球西南方界上鎮山」と註したのは、「鎮」という字に重要な意味がある。

 「鎮」とは国境いや村境いの鎮め、「鎮守」の鎮であり、中国の福州から、釣魚諸島を通って、琉球領に入る境が久米島であり、それは琉球の国境の鎮めの島であるから、この説明に界上鎮山の字を用い、またここが琉球王国の本拠である沖縄本島を中心とする群島の西南方であるから、これを「琉球西南方界上鎮山」と書き、純粋に地理的に全琉球の極西南である八重山群島については、「此レ琉球極西南属界ナリ」と書きわけたのである。つまり中国人徐葆光(あるいは琉球人程順則)は、久米島が中国→琉球を往来するときの国境であることを、「西南方界上鎮山」という註で説明したのである。その「界」の一方が中国であることは、郭汝霖が「赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ」とのべたときの「界」と同じである。

五 日本の先覚者も中国領と明記している
 これまで私は、もっぱら明朝の陳侃、郭汝霖、胡宗憲および清朝の汪楫、徐葆光、周煌、斉鯤の著書という、中国側の文献により、中国と琉球の国境が、赤尾嶼と久米島の間にあり、釣魚諸島は琉球領でないのはもとより、無主地でもなく、中国領であるということが、おそくとも十六世紀以来、中国側にははっきりしていたことを考証してきた。この結論の正しいことは、日本側の文献によって、いっそう明白になる。その文献とは、先に一言した林子平の『三国通覧図説』の「付図」である。

 『三国通覧図説』−−以下の文では略して『図説』ということもある−−とその五枚の「付図」は、「天明五年(一七八五年)秋東都須原屋市兵衛梓」として最初に出版された。その一本を私は東京大学付属図書館で見たが、その「琉球三省并三十六島之図」は、たて五十四・八センチ、横七十八・三センチの紙に書かれてあり、ほぼ中央に「琉球三省并三十六嶋之図」と題し、その左下に小さく「仙台林子平図」と署名してある。この地図は色刷りであって、北東のすみに日本の鹿児島湾付近からその南方の「トカラ」(吐葛刺)列島までを灰緑色にぬり、「奇界」(鬼界)島から南、奄美大島、沖縄本島はもとより、宮古、八重山群島までの本来の琉球王国領(註一)は、うすい茶色にぬり、西方の山東省から広東省にいたる中国本土を桜色にぬり、また台湾および「澎湖三十六島」を黄色にぬってある(註二)。そして、福建省の福州から沖縄本島の那覇に至る航路を、北コースと南コース二本えがき、その南コースに、東から西へ花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台、黄尾山、赤尾山をつらねているが、これらの島は、すべて中国本土と同じ桜色にぬられているのである。北コースの島々もむろん中国本土と同色である。

 (註一)沖縄本島の北側の与論島から鬼界島に至る、奄美大島を中心とする群島は、もと琉球王国領であったが、一六〇九年島津氏が琉球王国を征服した後、これらの島々は島津の直轄領地とされた。そのことは『中山傳信録』著者も林子平もよく知っていたが、それでも、これらの島々は琉球三十六島のうちに入れるのが、中、琉、日のどの国の学者にも共通している。

 琉球の蔡温が『琉球国中山世鑑』の誤りを正した父の著書を、いっそう正確に改修した『中山世譜』(一七二五年序)の首巻には、「琉球輿地名号会記」と地図があるが、それも、全琉球を中山および三十六島とし、鬼界カ島までを琉球にいれている。子平より大分前の新井白石の『南島志』(一七一九年)も、そうしている。もちろん釣魚諸島は琉球三十六島の中に入っていない。

 (註二)林子平が台湾の色を中国本土と区別して書いている理由を正確に断定することはできないが、およその推定はできる。すなわち、『図説』の付図の中には、次にのべる東アジア全図というべきものがあるが、それには、子平がはっきり日本領と見なしている小笠原諸島を、日本本土および九州南方の島や伊豆諸島とはちがう色にぬってある。これから類推すると、彼は台湾は中国領ではあっても本土の属島ではないと見て、ちょうど小笠原島が日本領であっても九州南島などのように本土の属島とはいいがたいので、本土とは別の色にしたのと同じく、台湾をも中国本土やその属島とは別の色にしたのではあるまいか。

 この図により、子平が釣魚諸島を中国領とみなしていたことは、一点のうたがいもなく、一目瞭然であり、文章とちがって、こじつけの解釈をいれる余地はない。『図説』の付図には「三国通覧輿地路程全図」という、「朝鮮、琉球、蝦夷并ニカラフト、カムサスカ、ラッコ島等数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」もあるが、日本を中心として北はカムチャッカ、南は小笠原、西は中国に至る広範囲の、いわば東アジア全図にさえ、釣魚諸島のような、けし粒ほどの島が−−ほかの多くのはるかに大きい島も描いてないのに−−、はっきり描かれ、それも中国本土と同じ色にぬられている。子平の『図説』にとっては、各国の範囲、その界を明確にすることは、決定的に重要であったので、釣魚諸島をはぶくわけにはいかなかったのであろう。

 子平の琉球図は、彼が『図説』の序文で「此ノ数国ノ図ハ小子敢テ杜撰スルニアラズ……琉球ハ元ヨリ中山傳信録アリ、是ヲ証トス」と誇らしげに書いている通り、『中山傳信録』の地図に拠ったものである。しかし彼はそれを無批判にうのみにしたのではない。子平は『中山傳信録』および子平の時代までの日本人の琉球研究の最高峰である新井白石の『琉球国事略』などを研究し、自分の見聞を加えて、『図説』の本文と地図を書いたのである。そして『傳信録』の図には、国による色わけはないのに、林子平は色をぬりわけた。

 このことについて先の琉球政府声明は、子平は、『中山傳信録』に三十六島以外は琉球領とはしていないので、その外である釣魚島などを機械的に中国領として色分けしたのだ、そんなものに価値はないという。これは何とも気の毒なほど苦しい言いのがれである。子平は決して「機械的に」色分けしたのでないことは、図そのものにも明白である。すなわち、彼は中国領であることはよく知られている台湾、澎湖を中国本土とちがう色にぬり、釣魚諸島は本土と同色にぬっている。これをみても彼が琉球三十六島以外の島々はみな一律に中国本土と同じ色にしたのでないことは明らかである。子平は『中山傳信録』をよく研究し、そこに久米島が「琉球西南方界上鎮山」とあるのにより、その文を私が前節で解釈したのと同じく、ここを中国領と琉球領との界とし、ここに至るまでの釣魚諸島は中国領であることを信じて疑わなかったのであろう。そしてそのことをとくに明らかにする色分けをしたのである。

 じっさい、『中山傳信録』の姑米島の註は、郭汝霖や陳侃の使記の、すでに引用した記述と同じく、久米島から東が琉球領であり、その西の島々は中国領であることを明らかにしていると解するのが、漢文の読み方としてしごく当然のことである。

 私は『歴史学研究』二月号に、釣魚島の沿革を書いたとき、まだ『三国通覧図説』とその「付図」の天明五年版本を見ていなかった。そのとき私が使ったのは、一九四四年に東京の生活社が出版した『林子平全集』第二巻の活版本であった。その付図は国ごとの色わけはしてなかったので、私はたんに、子平の地図では、釣魚諸島は琉球と区別していることを指摘するにとどまった。いま原版を見ると、このようにはっきり中国領であることを色で示しているではないか。

 それだけでなく、京都大学付属図書館の谷村文庫には、「琉球三省并三十六島之図」の江戸時代の彩色写本が二種類ある。それには、「林子平図」あるいは「三国通覧図説附図」の写しということはどこにも書いてないが、一見して、子平の図の写しということは明らかである。その一つ(仮にこれを甲図という)は、『図説』の付図五枚−−蝦夷、琉球、朝鮮、小笠原島のそれぞれの図および前記の日本を中心として「数国接壌ノ形勢ヲ見ル為ノ小図」−−を、丈夫な和紙に、多分同一人が筆写した一組みの中に入っている。これは、琉球は赤茶色に、中国本土および釣魚諸島などはうすい茶色に、日本は青緑色に、台湾、澎湖は黄色にぬり分けてある。

 もう一種の図(これを乙図と名づけよう)は、琉球を黄色に、中国の本土と釣魚諸島を桜色に、台湾をねずみ色に、そして日本を緑にぬり分けてある。

 なお谷村文庫には、『三国通覧図説』付図の「朝鮮八道之図」の写本が、三種類あり、そのうちの一種は、前記琉球図の甲と一組みになっているものであり、もう一種は、前記琉球図の乙と同じ紙質の紙に、恐らく同一の筆者と思われる筆跡で書かれている。そしてこの朝鮮八道図と琉球図の乙には、元の所蔵者のものと思われる同一の朱印がおしてある。残りのもう一種は、原版をかなり精密に模写したものである。これと一組みになっていた琉球図その他の写本もあったにちがいないと推定されるが、そうだとすれば、原版のほかに、琉球図の写本−−というよりも、『三国通覧図説』の付図五枚一組の写本が、少なくとも三種類はあったことになる。

 さらに京都大学国史研究室には、もう一種の「琉球三省并三十六島之図」の江戸時代の彩色写本がある。

 周知のように、林子平はこの『三国通覧図説』および『海国兵談』の著作・出版により、幕府から処罰され、これらの版木も没収されてしまった。彼は日本人の近代的民族意識の先駆者であった。彼が『図説』を著述したのは、日本周辺の地理をよく知ることは、日本の国防−−徳川幕府とか諸藩とか、あれこれの封建領主あるいはその総体の防衛ではなく、それらを超えた次元の「日本」の防衛のために、緊急の必要であると考えたからであり、また、その緊要の知識を、たんに幕府や諸藩の役人あるいは武士階級にだけ独占させず、「貴賎ト無ク文(官)武(官)ト無ク」、「本邦ノ人」=日本民族のすべてにひろめねばならない−−なぜなら、事は日本の防衛にかかわる日本民族の問題であるから−−として、あえてこの書を出版した。しかも付図は色刷りにして、異なった国と国との位置関係が一目でわかるように心を使った。

 このように一介の知識人が、あえて日本の防衛を日本人民にうったえるという、まさに近代的民族主義的な思想と行動が、徳川幕府封建支配者の怒りにふれたのである。しかし、子平は日本人の近代民族的意識の成長を代表し、かつ、それに支えられていた。それゆえ、発売も発行も禁止された彼の本は、『海国兵談』も『三国通覧図説』も、争って読まれ、語られ、写され、ひろげられていった。

 さらにまた、『三国通覧図説』は、早くも一八三二年には、ドイツ人の東洋学者ハインリッヒ・クラプロート(Heinrich Klaproth)によって、フランス語に訳され出版されている。付図も原版と同じ色刷りである(註)。これにより、本書が国際的にもいかに重視されていたかということ、また釣魚諸島が中国領であることは西洋人にも知られていたということがわかる。

 (註)私はまだこの仏訳本を見ていないが、大熊良一『竹島史稿』の二二ページに、クラプロートの経歴とその『図説』翻訳に関する紹介がある。また台湾の『政大法学評論』第六期に、同書の琉球図の色刷りがある。

 林子平のような日本の民族的自覚の先駆者が、当時までの中国人、琉球人また日本人の、琉球地理研究の最高峰であり集大成である、徐葆光や新井白石の著書を十分に研究し、民族の防衛を日本のすべての人にうったえるために精魂こめて書き、あえて出版した本、そして徳川封建支配者の弾圧に抗して、愛国的知識人の間にひろめられていき、国際的にも重視された本の図に、釣魚諸島は中国領であることが明記されているのである。こういう本の記述をしも、明治の天皇制軍国主義者とその子孫の現代帝国主義者およびその密接な協力者日本共産党などはまったく無視して、釣魚諸島は無主地であったなどと、よくもいえたものである。

六 「無主地先占の法理」を反駁する
 琉球と釣魚諸島に関する、十六世紀から十八世紀にいたる、中国人、琉球人および日本人の最良の文献が、一致して、釣魚諸島は中国領であることを明らかにしているのに、あるいは、その中国語文章表現が現代の法律文とはちがうことを利用して、勝手にその意味をねじまげ、あるいは、どうにもねじまげることの不可能な地図については、それは機械的に色分けしたにすぎないなどと、軽薄なおのれの心をもって真剣な先覚者の苦心をおとしめる。このような議論の相手をするのは、いささかめんどうくさくなってきたが、そうも言ってはおれない。彼らが、二言めにはもち出す「国際法上の無主地先占の法理」なるものについて、駁撃しておかねばならない。

 彼らは、一八八五年に釣魚諸島を奪いとろうとした天皇制軍国主義の最も熱烈な推進者、最大の指導者、陸軍中将、内務卿山県有朋と同じく、いくら明・清の中国人が釣魚諸島の存在を知り、それに中国語の名をつけ、記録していても、ここに当時の中国の政権の、「支配が及んでいる痕跡がない」、つまり、いわゆる国際法の領土先占の要件としての実効的支配が及んでいない、だからここは無主地であった、などという。

 それでは、その「国際法」とはどんなものか。京都大学教授田畑茂二郎の書いた、現代日本の標準的な国際法解説書である『国際法T』(有斐閣『法律学全集』)には、国際法の成立について、次のようにのべている。すなわち、ヨーロッパ近世の主権国家の相互の間で、「自己の勢力を維持拡大するため、激しく展開された権力闘争」において、それが余りにも無制限に激化するのを「合理的なルールに乗せ限界づけるために、国際法が問題とされるようになった」(一六ぺージ)。この「合理的なルール」とは、私見では、つまりは強者の利益にすぎなかった。そのことは、とくに「無主地の先占の法理」において顕著である。田畑は次のように書いている。「戦争の問題とならんで、いま一つ、近世初頭の国際法学者の思索を強く刺戟したものは、新大陸、新航路の発見にともない展開された、植民地の獲得、国際通商の独占をめざした、激しい国家間の闘争であった。」この植民地争奪の激化に直面して、「国家間の行動を共通に規律するものとして(もっともこの場合には、他国に対して自国の行動を正当づけるといった動機が、多くの場合背景になっていたが)、国際法に関する論議がさかんに行なわれた。領域取得の新しい権原として、先占(occupatio)の法理がもち出され、承認されていったのも、こうした事情であった」(一九ぺージ)。

 「他国に対して自国の行動を正当づける」ために、もち出された「法理」が、「国際法」になるというのは、つまり強国につごうのよい論理がまかり通るということである。無主地先占論はその典型で、スペイン人、ポルトガル人が、アメリカやアジア、アフリカの大陸、太平洋の島々を、次から次へと自国領土=植民地化しているうちは、「発見優先」の原則が通用していた。それに対してオランダやイギリスが、競争者として立ちあらわれ、しだいにスペイン、ポルトガルに優越していくとともに、オランダの法学者グロチウスが、「先占の法理」をとなえだしたのである。それはオランダやイギリスにつごうのよい理論であって、やがてそれが「国際法」になった。

 先占の「法理」なるものが、いかに欧米植民地主義・帝国主義の利益にのみ奉仕するものであるかは、「無主地」の定義のしかたにも端的に出ている。田畑教授より先輩の国際法学者、東京大学名誉教授横田喜三郎の『国際法U』(有斐閣『法律学全集』)によれば、無主地の「最も明白なものは無人の土地である」が、「国際法の無主地は無人の土地だけにかぎるのではない。すでに人が住んでいても、その土地がどの国にも属していなければ無主の土地である。ヨーロッパ諸国によって先占される前のアフリカはそのよい例である。そこには未開の土人が住んでいたが、これらの土人は国際法上の国家を構成していなかった。その土地は無主の土地にほかならなかった」(九八ぺージ)。これはまたなんと、近世ヨーロッパのいわゆる主権国家の勝手きままな定義ではないか。こういう「法理」で彼らは世界中を侵略し、諸民族を抑圧してはばからなかった。

 横田も先占「法理」の成立について、「一五世紀の末における新発見の時代から、一八世紀のはじめまでは、新しい陸地や島を発見した場合に、それを自国の領土であると宣言し、国旗をかかげたり、十字架や標柱をたてたりして、それで領土を取得したことになるとされた」という。しかし、十九世紀には、それだけではだめで、「多くの国によって、先占は土地を現実に占有し支配しなければならないと主張され、それがしだいに諸国の慣行となった」。「おそくとも一九世紀の後半には、国際法上で先占は実効的でなければならないことが確立した」(九八〜九九ぺージ)。「先占が実効的であるというのは、土地を現実に占有し、これを有効に支配する権力をもうけることである。そのためには、或る程度の行政機関が必要である。わけても、秩序を維持するために、警察力が必要である。多くの場合にはいくらかの兵力も必要である」(九九ぺージ)。

 これも何のことはない、軍事・警察的実力で奪いとり保持したものが勝ちということである。このように近代のヨーロッパの強国が、他国他民族の領土を略奪するのを正当化するためにひねりだした「法理」なるものが、現代帝国主義にうけつがれ、いわゆる国際法として通用させられている。この「法理」を、封建時代の中国の王朝の領土に適用して、その合法性の有無を論ずること自体が、歴史を無視した、現代帝国主義の横暴である。

 ヨーロッパ諸国のいわゆる領土先占の「法理」でも、十六、七世紀には、新たな土地を「発見」したものがその領有権者であった。この「法理」を適用すれば、釣魚諸島は、中国領以外の何ものでもない。なぜなら、ここを発見したことが確実に証明されるのは、中国人の発見であり、その発見した土地に、中国名がつけられ、その名は、中国の公的記録である冊封使の使録にくり返し記載されているから。

 しかも、その使録の釣魚諸島を記載している部分を、琉球王国の非中国派の宰相向象賢も、その王国の年代記に引用し、承認している。日本の近代民族主義の先駆者林子平も、承認している。そしてその子平の本を西洋の東洋学者も重視している。つまり国際的にも中国領であることが確認されている。十六世紀ないし十八世紀に中国領であったものに、二十世紀の帝国主義の「国際法理」なるものを適用して、その要件をみたしていないという理由で、あらためてこれを無主地とすることが、どうしてゆるされよう。

 かりに、「先占は実効的でなければならない」という現代帝国主義の「法理」を釣魚諸島に適用するとしても、この小さな無人島に行政機関をもうけるなどということは、明・清の時代には不可能であり無用でもあった。現代の先占についても、横田は次のようにのべている。
「先占される土地の状態によっては、この原則(実効的支配の原則−−井上)をそのまま適用することができないこと、その必要がないこともある。たとえば無人島のような場合で、行政機関をもうけ警察力や兵力を置くことは、実際的に必要がない。住むことができないような場合には、それを置くこともできない。」

 明・清時代の釣魚諸島は、まさにこのような、人が定住することもできない無人の小島であった。だから、そこに現代的な「実効的支配」の痕跡を見出そうとしても、そんなものはありえないことは自明である。横田によれば「このような場合には、附近にある陸地や島に、行政機関や警察力を置いて、無人島が海賊の巣にならないよう、ときどき見廻って、行政的な取締りを行ない、必要があれば、相当な時間のうちに、軍艦や航空機を派遣できるようにしておけば、それで十分である。」

 これはもちろん現代において可能な処置である。「軍艦や航空機」も、レーダーも無線電信機もない昔のことではない。しかも「人の住むことのできないような島」が、「海賊の巣」になることもありえないから、ここを「ときどき見廻る」必要もない。とすれば、いったい明・清の中国人は、釣魚諸島をどうすれば、現代日本の帝国主義政府やその密接な協力者日本共産党などを満足させる「実効的支配の痕跡」を残すことができよう? 明・清の中国人が、後世に残すことのできた唯一のことは、この島の位置を確認し、それに名をつけ、そこに至る航路を示し、それらのことすべてを記録しておくことだけであった。そして、「それで十分である!」

 しかも明朝の政府は、それ以上のこともしている。明の政府は、釣魚諸島をも海上防衛の区域に加え、倭寇防禦策を系統的にのべた書物、『籌海図編』に、その位置とその所管区を示していたのである。これはつまり横田のいう「附近の島や陸地に行政機関や警察力を置いて……」ということの、明代版にほかならない。

 こういったからとて私は、明・清の中国政府や中国人が、現代帝国主義の「国際法理」にかなうよう、釣魚島の「先占」をしていたなどと説明する必要はみとめない。彼らは、彼らの死後数百年たち、二十世紀になって、「先占の法理」などで彼らの領土に文句をつけられようなどとは夢にも思わなかったにちがいない。ただ、彼らがここを彼らの領土であると確認していたればこそ、現代帝国主義の先占論をもってしても、ここが中国領であったという歴史的事実を否定できない証拠が残っているということを、明らかにしたまでのことである。

七 琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった
 これまでの各節により、釣魚諸島はおそくとも明の時代から中国領であったことが、中国人はもとより琉球人、日本人にも確認されていたことが明らかにされたが、琉球人は、この列島のことをどう見ていたか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の『琉球国中山世鑑』と程順則の『指南広義』の二種しか現在までに知られておらず、その両書ともこれらの島を中国名で記載し、中国領と見なしていたことは、すでにのべた。この外に、文献ではなくても、釣魚諸島についての琉球人の口碑伝説が何かあるだろうか。

 『地学雑誌』の第一二輯第一四〇〜一四一巻(一九〇〇年八〜九月)にのった沖縄県師範学校教諭黒岩恒の論文「尖閣列島探険記事」には、明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖縄県美里間切(まきり)詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだした報告書を引用しているが、それには、「魚釣(よこん)島と申所は久米島より午未(うまひつじ)の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八里程」とある。この島は、位置と地形から見て釣魚島であることは明らかだが、そうだとすれば、琉球ではこの当時、漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。また同年九月二十二日付で、沖縄県令西村捨三が山県内務卿に上げた上申書(註)は、「久米赤嶋、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ……」という。この久米赤嶋は中国文献の赤尾嶼、久場島は黄尾嶼であることは後文で資料をあげる。魚釣島は釣魚島である。

 (註)『日本外交文書』第一八巻「雑件」の「版図関係雑件」。全文は第一一節に示す。

 県令の上申書では、「古来」、このようによんでいたというが、釣魚島を魚釣島というのは、琉球王国をほろぼして沖縄県とした天皇政府の役人が考えついたことであって、琉球人民のよび方は、「ヨコン」(あるいはユクンもしくはイーグン)といっただけであろう。その一証拠として、前記の「尖閣列島探険記事」のつぎの記述をあげることができる。

 「釣魚島、一に釣魚台に作る。或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-suと記せるもの是なり(本章末の付註を参照−−井上)。沖縄にては久場島を以てす。されど本島探険(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふる時は、古来『ヨコン』の名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが、近年に至り、如何なる故にや、彼我称呼を互換し、黄尾嶼を『ヨコン』、本島を久場と唱ふるに至りたれば、今俄かに改むるを欲せず。」

 ここには、釣魚島が琉球では「魚釣」島と書かれていたとも、よばれていたとも、のべてはいない。琉球人は、もとはこの島を「ヨコン」といい、黄尾を「クバ」といったのが、最近はなぜか、その名が入れ替ったというだけである。

 さらに、沖縄本島那覇出身の琉球学の大家東恩納寛惇の『南島風土記』(一九四九年五月序)にも、「釣魚島」とあって魚釣島とは書いてない。またその島について同書は、「沖縄漁民の間には、夙(はや)くから『ユクン・クバシマ』の名で著聞しているが、ユクンは魚島、クバシマは蒲葵(こば)島の義と云はれる」という。これでは、ユクン(あるいはヨコン)が元の名か、クバシマが元の名かわからない。

 また石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」には「八重山の古老たちは、現在でも尖閣列島のことを、イーグンクバシマとよんでいる。これは二つの島の名を連ねたもので、イーグン島は魚釣島のことであり、クバ島は文字通りクバ島を指している。しかし個々の島名をいわず、このように呼んで尖閣列島全体を表現する習慣となっているわけである」という(総理府南方同胞援護会機関誌『沖縄』五六号)。

 牧野は「イーグンクバシマ」は釣魚一島の名ではなくて、釣魚、黄尾両島の琉球名であり、かついわゆる「尖閣列島」の総称でもあるというが、この説は正しいだろうと私は推測する。琉球列島のうち釣魚諸島にもっとも近いのは、八重山群島の西表(いりおもて)島で、およそ九十浬の南方にある。沖縄本島から釣魚島は二百三十浬もある。釣魚島付近に行く機会のあるものは、中国の福州から那覇へ帰る琉球王国の役人その他とその航路の船の乗組員のほかには、琉球では漁民のほかにはないから、地理的関係からみて、八重山群島の漁民が、沖縄群島の漁民よりも、たびたび釣魚諸島に近より、その形状などを知っていたと思われる。それゆえ、八重山で生活している研究家の説を私はとる。

 もし牧野説の方が正しければ、東恩納が「ヨコン・クバシマ」を釣魚一島の名とするのは、かんちがいということになる。そして、一九七〇年の「現在でも」、八重山の古老は魚釣島(釣魚島)をイーグンといい、久場島(黄尾嶼)をクバシマとよんでいるならば、そのことと、一九〇〇年に黒岩が、元は釣魚島をヨコン−−ヨコン(Yokon)・ユクン(Yukun)・イーグン(Yigun)は同じ語であろう−−といい、黄尾嶼をクバシマといったのが、「近年に至り」、そのよび名が入れ替わったと書いているのとは、相いれないように見える。その矛盾は、どう解釈すれば解消するか。十九世紀のある時期までは、釣魚がヨコン(イーグン)、黄尾がクバであり、一九〇〇年ごろは釣魚はクバ、黄尾はヨコン(イーグン)、とよばれ、その後また、いつのころか、昔のように釣魚をヨコン(イーグン)、黄尾をクバとよぶようになって現在に至る、と解するほかにはあるまい。

 何ともややこしい話であるが、とにかく、この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。

 現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。

 那覇出身の東恩納によれば、「ヨコン」とは琉球語で魚の意味であるそうだが、同じ琉球でも八重山の牧野は、前記の「小史」で「イーグンとは魚を突いてとる銛(もり)のことで島の形から来たものと思はれる」という。

 この是非も琉球語を知らない私には全然判断できない。もしもヨコンとイーグンが同語であり、その意味は牧野説の方が正しいとすれば、銛のような形によってイーグン(ヨコン)とつけられた名前が、そうかんたんに、ほかの、それとは形状のまったくちがった島の名と入れ替わるとも思われない。

 黄尾嶼は、全島コバでおおわれており、コバ島というにふさわしいが、その形は銛のような形ではなく、大きな土まんじゆうのような形である。

 釣魚島は南北に短く東西に長い島で、その東部の南側は、けわしい屏風岩が天空高く突出している。これを銛のようだと見られないこともない。しかし、その形容がとりわけピッタリするのは、釣魚島のすぐ東側の、イギリス人がPinnacle(尖塔)と名づけ、日本海軍が「尖頭」と訳した(後述)岩礁である。もしも「イーグン」が銛であるなら、八重山の漁民は、操業中に風向きや潮流の情況により釣魚・尖頭・黄尾の一群の群島の近くに流され、銛の形をした尖頭礁から強い印象をうけ、これらの島を、特定のどれということなく、イーグンと名づけ、また、その中の黄尾嶼の中腹から山頂にかけて全島がクバ(コバ)でおおわれているので、これをクバともいい、この全体をイーグンクバシマとよんだのではないか(ピナクルから釣魚へは西へほぼ三浬、黄尾へは北へやく十三浬、そして黄尾と釣魚の間はやく十浬で、これを一群の島とする。赤尾は黄尾から四十八浬も東へはなれているので、この群には入らない)。

 ただし、イーグンは銛、ヨコン(ユクン)は魚の意味で、この二つは別の語であるなら、またちがった考え方をしなければならないが、私にはそこまで力が及ばない。

 『南島風土記』はまた、『指南広義』に、那覇から福州へ行くのに、「『那覇港ヲ出デ、申(さる)ノ針(西々南の羅針)ヲ用ヒテ放洋ス、辛酉(かのととり)(やや北よりの東)ノ針ヲ用ヒテ一更半(一更は航程六〇華里)ニシテ、古米山並ニ姑巴甚麻(くばしま)山ヲ見ル』とある『姑巴甚麻』は、これ(釣魚島)であろう」という。これは東恩納ともあろう人に似合わない思いちがいである。この「姑巴甚麻山」は、久米島の近くの久場島(また木場島、古場島)で、『中山傳信録』その他に「姑巴訊(正しくはさんずいへんであるが、JIS漢字に無いためごんべんで代用する−巽)麻山」と書かれている島のことでなければ、地図と照合しないし、那覇から福州への正常な航路で、釣魚島を目標に取ることもありえない。それゆえ、右の引用文によって、釣魚島が、『指南広義』の書かれたころ(一七〇八年)からすでに、コバシマと琉球人によばれていたということはできない。

 要するに、釣魚島が琉球人に「コバシマ」(クバシマ)とよばれるようになったのは何時ごろのことか、推定する手がかりはない。また、「ヨコン」(ユクン)あるいは「イーグン」といわれはじめた年代を推定する手がかりもない。さらに琉球人が黄尾嶼を久場島といい、赤尾嶼を久米赤島とよんだのも、いつごろからのことか、確定はできない。ただこの二つの名は、文献の上では、私の知り得たかぎり、琉球の文献ではなくて中国の清朝の最後の冊封使の記録に出てくる。

 すなわち一八六六年(清の同治五年、日本の慶応二年)の冊封使趙新(ちょうしん)の使録『続琉球国志略』(註)の巻二「針路」の項に、彼の前の冊封使の航路を記述した中で、道光十八年(一八三八年)五月五日、福州から海に出て、「六日未刻(ひつじのこく)、釣魚山ヲ取リ、申(さる)刻、久場島ヲ取ル……七日黎明、久米赤島ヲ取ル、八日黎明、西ニ久米島ヲ見ル」と書いてある。そして趙新自身の航路についても、同治五年六月九日、福州から海に出て、「十一日酉(とり)刻、釣魚山ヲ過ギ、戌(いぬ)刻、久場島ヲ過グ、……一二日未(ひつじ)刻、久米赤島ヲ過グ」という。この久場島と久米赤島は、それぞれ黄尾嶼と赤尾嶼に当る。

 (註)斉鯤の使録と同名であるが、著者も著作年代も巻数もちがう別の本である。

 趙新がどうして中国固有の島名を用いないで、日本名を用いたのか、その理由はわからない。しかし、彼はその船の琉球人乗組員が久場島とか久米赤島とかいうのを聞いていたから、その名で黄尾嶼・赤尾嶼を記載したのであろう。そうだとすれば、琉球人が、それらの名称を用いたのは、おそくも十九世紀の中頃までさかのぼらせることはできよう。また、黄尾・赤尾について日本名を用いた趙新が、釣魚については依然として中国固有の名を用いているのは、その船の琉球人乗組員も、まだこの島については、ヨコンともユクンまたはイーグンとも名づけていなかったのか、あるいは彼らはすでにそうよんでいても、それに当てるべき漢字がなかったので、趙新は従来通りの中国表記を用いたのであろうか。

 また、琉球では、元来は釣魚をヨコンといい、黄尾をクバとよんでいたのが、「近年に至り」その名が入れ替わったという黒岩の説と趙新使録の記述とを合わせ考えれば、黒岩のいう「近年」とは、明治維新以後のいつごろかからであることがわかる。

 いずれにしても、琉球人が釣魚諸島の島々を琉球語でよびはじめたのは、文献の上では十九世紀中頃をさかのぼることはできない。彼らは久しく中国名を用いていたであろう。それはそのはずである。彼らがこの島に接したのは、まれに漂流してこの島々を見るか、ここに漂着した場合か、もしくは、中国の福州から那覇に帰るときだけであって、ふつうには琉球人と釣魚諸島とは関係なかった。冊封使の大船でも、那覇から中国へ帰るときには、風向きと潮流に規制されて、久米島付近からほとんどまっすぐに北上して、やがて西航するのであって、釣魚諸島のそばを通ることはないし、まして、小さな琉球漁船で、逆風逆流に抗して、釣魚諸島付近に漁業に出かけることは、考えられもしなかった。したがって、この島々の名称その他に関する彼らの知識は、まず中国人から得たであろう。そして、琉球人が琉球語でこれらの島の名をよびはじめてから後でも、上述のように、明治維新後もその名はいっこうに一定しなかった。それほど、この島々と琉球人の生活とは関係が浅かった。

 次の節であげるイギリス軍艦「サマラン」の艦長バルチャーの航海記には、同艦が一八四五年六月十六日、黄尾嶼を測量した記事がある。その中に、同嶼の洞穴に、いく人かの漂流者の一時の住いのあとがあったことをのべている。バルチャーは、「その漂流者たちは、その残してある寝床が、Canoe(カヌー、丸木船)に用いる材料とびろうの草でつくられていることから察して、明らかにヨーロッパ人ではない」という。漂民たちは、天水を飲み、海鳥の卵と肉を食って生きていたろうとバルチャーは推測している。この遭難者たちは、福建あるいは台湾あたりの中国人か、それとも琉球人であろうか。洞穴内に彼らの遺体が無いことから察すれば、彼らは幸運にも、救助されたのであろうか。もし救けられたとすれば、誰が彼らを救い出したのだろうか。中国人の大きな船が救いだした公算は、琉球の小舟が救う公算より大きい。

 これまでの各節により、釣魚諸島はおそくとも明の時代から中国領であったことが、中国人はもとより琉球人、日本人にも確認されていたことが明らかにされたが、琉球人は、この列島のことをどう見ていたか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の『琉球国中山世鑑』と程順則の『指南広義』の二種しか現在までに知られておらず、その両書ともこれらの島を中国名で記載し、中国領と見なしていたことは、すでにのべた。この外に、文献ではなくても、釣魚諸島についての琉球人の口碑伝説が何かあるだろうか。

 『地学雑誌』の第一二輯第一四〇〜一四一巻(一九〇〇年八〜九月)にのった沖縄県師範学校教諭黒岩恒の論文「尖閣列島探険記事」には、明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖縄県美里間切(まきり)詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだした報告書を引用しているが、それには、「魚釣(よこん)島と申所は久米島より午未(うまひつじ)の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八里程」とある。この島は、位置と地形から見て釣魚島であることは明らかだが、そうだとすれば、琉球ではこの当時、漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。また同年九月二十二日付で、沖縄県令西村捨三が山県内務卿に上げた上申書(註)は、「久米赤嶋、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ……」という。この久米赤嶋は中国文献の赤尾嶼、久場島は黄尾嶼であることは後文で資料をあげる。魚釣島は釣魚島である。

 (註)『日本外交文書』第一八巻「雑件」の「版図関係雑件」。全文は第一一節に示す。

 県令の上申書では、「古来」、このようによんでいたというが、釣魚島を魚釣島というのは、琉球王国をほろぼして沖縄県とした天皇政府の役人が考えついたことであって、琉球人民のよび方は、「ヨコン」(あるいはユクンもしくはイーグン)といっただけであろう。その一証拠として、前記の「尖閣列島探険記事」のつぎの記述をあげることができる。

 「釣魚島、一に釣魚台に作る。或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-suと記せるもの是なり(本章末の付註を参照−−井上)。沖縄にては久場島を以てす。されど本島探険(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふる時は、古来『ヨコン』の名によって沖縄人に知られしものにして、当時に在っては、久場島なる名称は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるものなりしが、近年に至り、如何なる故にや、彼我称呼を互換し、黄尾嶼を『ヨコン』、本島を久場と唱ふるに至りたれば、今俄かに改むるを欲せず。」

 ここには、釣魚島が琉球では「魚釣」島と書かれていたとも、よばれていたとも、のべてはいない。琉球人は、もとはこの島を「ヨコン」といい、黄尾を「クバ」といったのが、最近はなぜか、その名が入れ替ったというだけである。

 さらに、沖縄本島那覇出身の琉球学の大家東恩納寛惇の『南島風土記』(一九四九年五月序)にも、「釣魚島」とあって魚釣島とは書いてない。またその島について同書は、「沖縄漁民の間には、夙(はや)くから『ユクン・クバシマ』の名で著聞しているが、ユクンは魚島、クバシマは蒲葵(こば)島の義と云はれる」という。これでは、ユクン(あるいはヨコン)が元の名か、クバシマが元の名かわからない。

 また石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」には「八重山の古老たちは、現在でも尖閣列島のことを、イーグンクバシマとよんでいる。これは二つの島の名を連ねたもので、イーグン島は魚釣島のことであり、クバ島は文字通りクバ島を指している。しかし個々の島名をいわず、このように呼んで尖閣列島全体を表現する習慣となっているわけである」という(総理府南方同胞援護会機関誌『沖縄』五六号)。

 牧野は「イーグンクバシマ」は釣魚一島の名ではなくて、釣魚、黄尾両島の琉球名であり、かついわゆる「尖閣列島」の総称でもあるというが、この説は正しいだろうと私は推測する。琉球列島のうち釣魚諸島にもっとも近いのは、八重山群島の西表(いりおもて)島で、およそ九十浬の南方にある。沖縄本島から釣魚島は二百三十浬もある。釣魚島付近に行く機会のあるものは、中国の福州から那覇へ帰る琉球王国の役人その他とその航路の船の乗組員のほかには、琉球では漁民のほかにはないから、地理的関係からみて、八重山群島の漁民が、沖縄群島の漁民よりも、たびたび釣魚諸島に近より、その形状などを知っていたと思われる。それゆえ、八重山で生活している研究家の説を私はとる。

 もし牧野説の方が正しければ、東恩納が「ヨコン・クバシマ」を釣魚一島の名とするのは、かんちがいということになる。そして、一九七〇年の「現在でも」、八重山の古老は魚釣島(釣魚島)をイーグンといい、久場島(黄尾嶼)をクバシマとよんでいるならば、そのことと、一九〇〇年に黒岩が、元は釣魚島をヨコン−−ヨコン(Yokon)・ユクン(Yukun)・イーグン(Yigun)は同じ語であろう−−といい、黄尾嶼をクバシマといったのが、「近年に至り」、そのよび名が入れ替わったと書いているのとは、相いれないように見える。その矛盾は、どう解釈すれば解消するか。十九世紀のある時期までは、釣魚がヨコン(イーグン)、黄尾がクバであり、一九〇〇年ごろは釣魚はクバ、黄尾はヨコン(イーグン)、とよばれ、その後また、いつのころか、昔のように釣魚をヨコン(イーグン)、黄尾をクバとよぶようになって現在に至る、と解するほかにはあるまい。

 何ともややこしい話であるが、とにかく、この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。

 現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。

 那覇出身の東恩納によれば、「ヨコン」とは琉球語で魚の意味であるそうだが、同じ琉球でも八重山の牧野は、前記の「小史」で「イーグンとは魚を突いてとる銛(もり)のことで島の形から来たものと思はれる」という。

 この是非も琉球語を知らない私には全然判断できない。もしもヨコンとイーグンが同語であり、その意味は牧野説の方が正しいとすれば、銛のような形によってイーグン(ヨコン)とつけられた名前が、そうかんたんに、ほかの、それとは形状のまったくちがった島の名と入れ替わるとも思われない。

 黄尾嶼は、全島コバでおおわれており、コバ島というにふさわしいが、その形は銛のような形ではなく、大きな土まんじゆうのような形である。

 釣魚島は南北に短く東西に長い島で、その東部の南側は、けわしい屏風岩が天空高く突出している。これを銛のようだと見られないこともない。しかし、その形容がとりわけピッタリするのは、釣魚島のすぐ東側の、イギリス人がPinnacle(尖塔)と名づけ、日本海軍が「尖頭」と訳した(後述)岩礁である。もしも「イーグン」が銛であるなら、八重山の漁民は、操業中に風向きや潮流の情況により釣魚・尖頭・黄尾の一群の群島の近くに流され、銛の形をした尖頭礁から強い印象をうけ、これらの島を、特定のどれということなく、イーグンと名づけ、また、その中の黄尾嶼の中腹から山頂にかけて全島がクバ(コバ)でおおわれているので、これをクバともいい、この全体をイーグンクバシマとよんだのではないか(ピナクルから釣魚へは西へほぼ三浬、黄尾へは北へやく十三浬、そして黄尾と釣魚の間はやく十浬で、これを一群の島とする。赤尾は黄尾から四十八浬も東へはなれているので、この群には入らない)。

 ただし、イーグンは銛、ヨコン(ユクン)は魚の意味で、この二つは別の語であるなら、またちがった考え方をしなければならないが、私にはそこまで力が及ばない。

 『南島風土記』はまた、『指南広義』に、那覇から福州へ行くのに、「『那覇港ヲ出デ、申(さる)ノ針(西々南の羅針)ヲ用ヒテ放洋ス、辛酉(かのととり)(やや北よりの東)ノ針ヲ用ヒテ一更半(一更は航程六〇華里)ニシテ、古米山並ニ姑巴甚麻(くばしま)山ヲ見ル』とある『姑巴甚麻』は、これ(釣魚島)であろう」という。これは東恩納ともあろう人に似合わない思いちがいである。この「姑巴甚麻山」は、久米島の近くの久場島(また木場島、古場島)で、『中山傳信録』その他に「姑巴訊(正しくはさんずいへんであるが、JIS漢字に無いためごんべんで代用する−巽)麻山」と書かれている島のことでなければ、地図と照合しないし、那覇から福州への正常な航路で、釣魚島を目標に取ることもありえない。それゆえ、右の引用文によって、釣魚島が、『指南広義』の書かれたころ(一七〇八年)からすでに、コバシマと琉球人によばれていたということはできない。

 要するに、釣魚島が琉球人に「コバシマ」(クバシマ)とよばれるようになったのは何時ごろのことか、推定する手がかりはない。また、「ヨコン」(ユクン)あるいは「イーグン」といわれはじめた年代を推定する手がかりもない。さらに琉球人が黄尾嶼を久場島といい、赤尾嶼を久米赤島とよんだのも、いつごろからのことか、確定はできない。ただこの二つの名は、文献の上では、私の知り得たかぎり、琉球の文献ではなくて中国の清朝の最後の冊封使の記録に出てくる。

 すなわち一八六六年(清の同治五年、日本の慶応二年)の冊封使趙新(ちょうしん)の使録『続琉球国志略』(註)の巻二「針路」の項に、彼の前の冊封使の航路を記述した中で、道光十八年(一八三八年)五月五日、福州から海に出て、「六日未刻(ひつじのこく)、釣魚山ヲ取リ、申(さる)刻、久場島ヲ取ル……七日黎明、久米赤島ヲ取ル、八日黎明、西ニ久米島ヲ見ル」と書いてある。そして趙新自身の航路についても、同治五年六月九日、福州から海に出て、「十一日酉(とり)刻、釣魚山ヲ過ギ、戌(いぬ)刻、久場島ヲ過グ、……一二日未(ひつじ)刻、久米赤島ヲ過グ」という。この久場島と久米赤島は、それぞれ黄尾嶼と赤尾嶼に当る。

 (註)斉鯤の使録と同名であるが、著者も著作年代も巻数もちがう別の本である。

 趙新がどうして中国固有の島名を用いないで、日本名を用いたのか、その理由はわからない。しかし、彼はその船の琉球人乗組員が久場島とか久米赤島とかいうのを聞いていたから、その名で黄尾嶼・赤尾嶼を記載したのであろう。そうだとすれば、琉球人が、それらの名称を用いたのは、おそくも十九世紀の中頃までさかのぼらせることはできよう。また、黄尾・赤尾について日本名を用いた趙新が、釣魚については依然として中国固有の名を用いているのは、その船の琉球人乗組員も、まだこの島については、ヨコンともユクンまたはイーグンとも名づけていなかったのか、あるいは彼らはすでにそうよんでいても、それに当てるべき漢字がなかったので、趙新は従来通りの中国表記を用いたのであろうか。

 また、琉球では、元来は釣魚をヨコンといい、黄尾をクバとよんでいたのが、「近年に至り」その名が入れ替わったという黒岩の説と趙新使録の記述とを合わせ考えれば、黒岩のいう「近年」とは、明治維新以後のいつごろかからであることがわかる。

 いずれにしても、琉球人が釣魚諸島の島々を琉球語でよびはじめたのは、文献の上では十九世紀中頃をさかのぼることはできない。彼らは久しく中国名を用いていたであろう。それはそのはずである。彼らがこの島に接したのは、まれに漂流してこの島々を見るか、ここに漂着した場合か、もしくは、中国の福州から那覇に帰るときだけであって、ふつうには琉球人と釣魚諸島とは関係なかった。冊封使の大船でも、那覇から中国へ帰るときには、風向きと潮流に規制されて、久米島付近からほとんどまっすぐに北上して、やがて西航するのであって、釣魚諸島のそばを通ることはないし、まして、小さな琉球漁船で、逆風逆流に抗して、釣魚諸島付近に漁業に出かけることは、考えられもしなかった。したがって、この島々の名称その他に関する彼らの知識は、まず中国人から得たであろう。そして、琉球人が琉球語でこれらの島の名をよびはじめてから後でも、上述のように、明治維新後もその名はいっこうに一定しなかった。それほど、この島々と琉球人の生活とは関係が浅かった。

 次の節であげるイギリス軍艦「サマラン」の艦長バルチャーの航海記には、同艦が一八四五年六月十六日、黄尾嶼を測量した記事がある。その中に、同嶼の洞穴に、いく人かの漂流者の一時の住いのあとがあったことをのべている。バルチャーは、「その漂流者たちは、その残してある寝床が、Canoe(カヌー、丸木船)に用いる材料とびろうの草でつくられていることから察して、明らかにヨーロッパ人ではない」という。漂民たちは、天水を飲み、海鳥の卵と肉を食って生きていたろうとバルチャーは推測している。この遭難者たちは、福建あるいは台湾あたりの中国人か、それとも琉球人であろうか。洞穴内に彼らの遺体が無いことから察すれば、彼らは幸運にも、救助されたのであろうか。もし救けられたとすれば、誰が彼らを救い出したのだろうか。中国人の大きな船が救いだした公算は、琉球の小舟が救う公算より大きい。

八 いわゆる「尖閣列島」は島名も区域も一定していない
 琉球人が、琉球語で釣魚諸島の島々をヨコン(イーグン)とかクバとかよぶようになっても、彼らがこれを「尖閣列島」とよんだことは、一九〇〇年以前には一度もない。この名は、じつに西洋人がこの群島の一部につけた名をもとにして、一九〇〇年につけられたものである。

 西洋人が釣魚諸島の存在を何時ごろから知るようになったか、それについて私も多少の考証はしているが、本論文にはそこまで書く必要はあるまい。確実に言えることは、十九世紀の中頃には、釣魚島をHOAPIN−SAN(または−SU)、黄尾嶼をTIAU−SUというのは、すでに西洋人の地図の上では定着していたということである。また、彼らは釣魚島の東側にある大小の岩礁群をPINNACLE GROUPSまたはPINNACLE ISLANDSとよんでいた。

 イギリス軍艦「サマラン」(SAMARANG)は、一八四五年六月、恐らく世界で最初に、この諸島を測量しているが、その艦長サー・エドワード・バルチャー(Sir Edward Balcher)の航海記(註)に、十四日、八重山群島の与那国島の測量を終えた同艦は、そこからいったん石垣島に立ちもどり、その夕方「海図上のHOAPIN−SAN群島をもとめて航路を定めた」という。このホアピンサンは釣魚島のことである。

 (註)"NARRATIVE OF THE VOYAGE OF HMS SAMARANG DURING THE YEARS 1843〜46", by CAPTAIN SIR EDWARD BALCHER : LONDON 1848.

 サマラン号は、その翌日、PINNACLE ISLANDS(ピナクル諸嶼)を測量し、十六日、TIAU−SU(黄尾嶼)を測量した。これらの測量の結果は、一八五五年に海図として出版されている(註)。この海図およびサマラン艦長の航海記の記述が、この後のイギリス海軍の海図および水路誌のホアピン・スーとチアウ・スーの記述の基礎になっていると思われる。

 (註)"THE ISLANDS BETWEEN FORMOSA AND JAPAN WITH THE ADJACENT COAST OF CHINA" 1855.

 そして、明治維新後の日本海軍の『水路誌』のこの海域の記述は、最初はほとんどもっぱらイギリス海軍の水路誌を典拠としていたようである。

 さきに引用した総理府の南方同胞援護会機関誌『沖縄』には、一八八六年(明治十九年)三月刊行の海軍省水路局編纂発行『寰瀛水路誌』巻一、下、第十篇の釣魚諸島に関する記述がある。

 この「編纂縁起」によれば、「其第十編ハ即チ洲南諸島ニシテ、明治六年海軍大佐柳楢悦ノ実験筆記ニ拠リ、支那海針路誌第四巻(一八八四年英国海軍水路局編集刊行、第二版−−井上)及ビ沖縄志ヲ以テ之ヲ補フ」という。

 右にいう柳大佐の「実験筆記」も「沖縄志」も私は見ていないが、この水路誌は釣魚島を「和平山(ホアピンサン)島」と漢字で書いて英語名のルビをつけ、黄尾嶼は「低牙吾蘇(チヤウス)島」、赤尾嶼は「爾勒里(ラレリ)岩」と書いている。これらは、それぞれ、Hoapin-San, Tiau-Su, Raleigh Rockと、前記英国軍艦サマラン号の航海記に書かれている島嶼のことであり、これが一八八四年版の『英国海軍水路誌』によるものであることは明らかである。

 なお、前掲の雑誌『沖縄』に抄録されている日本海軍の水路誌は、この後も上記の島々を、以下のように書いている。

 一八九四年(明治二十七年)七月刊『日本水路誌』第二巻は、カタカナで「ホアピンス島」、「チャウス島」、「ラレー岩」と記す。

 一九〇八年(明治四十一年)十月の第一改版『日本水路誌』第二巻は、「魚釣島(Hoapin-Su),「黄尾嶼(Tiau-Su),「赤尾嶼(Raleigh Rock)」とする。すなわち、釣魚島を当時の内務省などと同じく「魚釣島」とし、黄尾、赤尾は漢字で中国の古来の名称通り書き、いずれもその下に英語名を書いてある。黄尾を久場島とし赤尾を久米赤島とするなどの琉球名はつけていない。この点はこの後も一貫している。これにより、「魚釣島」だけが日本の役所で一定共通の名となったが、他の島は、海軍と内務省とでもちがっていたことがわかる。

 一九一九年(大正八年)七月刊『日本水路誌』第六巻では、「魚釣島」、「黄尾嶼」、「赤尾嶼」とだけ書く。これまであった英語名はすっかりなくなった。 一九四一年(昭和十六年)三月刊行『台湾南西諸島水路誌』も、「魚釣島」、「黄尾嶼」、「赤尾嶼」と書くが、何故か赤尾嶼だけには「赤尾嶼(セキビ)」としている。あるいはこれは雑誌『沖縄』にこれを抄録したさいに、こうなったのであろうか。

 古くから日本にも知られている釣魚諸島の名称を、その中国名でも、また琉球名でも記載せず、イギリス名で記載するほどイギリス一辺倒の初期の日本海軍水路誌の釣魚島に関する説明は、イギリス海軍水路誌のもとになったサマラン号航海記の記述と、文章までほとんど同じである。

 サマラン号の航海記の一節(第一巻第九章、三一八ぺージ)を、なるベく直訳して次にかかげよう。これをAとする。

 「ホアピン・サンの最高点は一、一八一フィートである。島の南側は、この高さからほとんど垂直に西北西の方向に断ち切られている。その他の部分は東向きに傾斜しており、その斜面には、良質の水の細流がたくさんある。居住者または来訪者の痕跡は全然なかった。じっさい土地は半ダースの人を容れるにも不十分である。」

 「艦上から見たこの島の上部の地層は、北東に深く傾斜した層理の線を示していた。そのために水流は容易に北東側の海岸に流れる。この水の供給が一時的なものでないことは、多くの天然の池に、淡水魚がいることによって明らかである。そしてその池は、ほとんどみな海に連結しており、水草がいっぱい茂っていて、池をおおいかくしている。」

 次は一八九四年六月版の『日本水路誌』第二巻の一節である。これをBとする。

 「此島の南側最高処(一、一八一呎(フィート))より西北に向へる方は、削断せし如き観を呈す。此島に淡水の絶ゆることなきは、諸天然池に淡水魚の生育せるを以て知るべし。而して此池は皆海と連絡し、水面には浮萍一面に茂生す。(中略)此島は地六、七名の人を支ふるにも不十分にして、人居の跡なし。」

 AとBを比べれば、Bの『日本水路誌』の記述は、サマラン航海記のAの部分をたいへん上手に簡潔に翻訳しているといってもいいくらいである。

 以上によって、明治維新後の日本人の釣魚諸島に関する科学的知識は、ほとんどみなイギリス海軍の書物や図面によって得られたものであることがわかる。そして、尖閣列島という名も、イギリス海軍のいうPinnacle Islandsを、日本海軍が「尖閣群島」あるいは「尖頭諸嶼」と翻訳したことに由来する。

 『寰瀛水路誌』には、Pinnacle Islandsのことを「尖閣群島」と漢字で書き、その横に「ピナクルグロース」とルビをつけている。この「グロース」はグループス(Groups)のPの音が脱落したものであろう。これが一八九四年の『日本海軍水路誌』第二巻では「ピンナクル諸嶼」となり、一九〇八年の水路誌では「尖頭諸嶼」となっている。「ピナクル」とは元来はキリスト教会の尖塔形の屋根のことをいう。釣魚島の東側の列岩の中心の岩礁の形が、ピナクル形であるので、イギリス人が、この列岩を Pinnacle Islands と名づけたのであろう。それを日本海軍で尖閣群島または尖頭諸嶼と訳したわけである。

 そして、釣魚島、尖閣群島(尖頭諸嶼)および黄尾嶼を総称して、「尖閣列島」というのは、すでに再三言及した黒岩恒が一九〇〇年にこう名づけたことに始まる。彼は一八九八年(明治三十一年)に『地質学雑誌』第五巻に「尖閣群島」という文章をのせていることが、大城昌隆編『黒岩恒先生顕彰記念誌』の「年譜」にのっているが、私はまだその論文を見ていないので、その地名がどの範囲をさすか知らない。彼は前に引いた一九〇〇年の報告、「尖閣列島探険記事」で、次のように書いている。

 「ここに尖閣列島と称するは、我沖縄島と清国福州との中央に位する一列の小嶼にして、八重山列島の西表(いりおもて)島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り。本列島より沖縄島への距離は二百三十哩、福州への距離もまた略(ほぼ)相似たり。台湾島の基隆へは僅に二百二十余哩を隔つ。帝国海軍省出版の海図(明治三十年刊行)を案ずるに、本列島は、釣魚嶼、尖頭諸嶼、及び黄尾嶼より成立し渺(びょう)たる蒼海の一粟なり。(中略)而して此列島には未だ一括せる名称なく、地理学上不便少なからざるを以て、余は窃かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり。」

 尖閣列島の名は、『地学雑誌』のこの論文によって、はじめて地理学界に広く知られるようになった。それ以前にはこういう名称はない。

 しかるに奥原は前にあげた論文に、『寰瀛水路誌』を引用し、それにすでに「尖閣群島」とあるとだけ書き、あたかもこの名が黒岩の名づけた「尖閣列島」と同じ範囲であるかのように、読者に印象づけようとしている。この尖閣群島がピナクル諸嶼であることは、奥原は百も承知であるのに、わざとあいまいな書き方をするのである。

 また、例の琉球政府の「尖閣列島の領土権について」の声明は、「明治十四年に刊行、同十六年に改訂された内務省地理局編纂の大日本府県分割図には、尖閣列島が、島嶼の名称を付さないままにあらわれている」というが、この『大日本府県分割図』の沖縄県の地図には、「尖閣列島」なるものはない、「尖閣群島」があるだけである。そしてその「群島」は、ピナクル諸嶼のことである。それをあたかも今日のいわゆる尖閣列島の名がすでに、その当時あって、それが地図上で沖縄県に入っているかのようにみせかけるのは、琉球政府も、まことにつまらぬ小細工をするものである。

 さらに、いっそうこっけいなのは、日本社会党国際局の「尖閣列島の領有問題についての社会党の統一見解案」である。それは、多分琉球政府の右の声明をうのみにしただけで、じっさいにその地図を見て検討することもなく、「尖閣群島」(ピナクル諸嶼)と黒岩の名づけた尖閣列島との混同の上に立って、「いわゆる尖閣列島は、一八八一年(明治十四年)、当時の政府内務省地理局の手により、沖縄県下に表示されるなど、一連の領有意思の表示をへて」などというのである。この地図のどこに「尖閣列島」領有の意思があろう。

 さて、黒岩がこの人さわがせな名をつけた尖閣列島の範囲は、彼が明記している通り、釣魚島、ピナクル諸嶼および黄尾嶼の総称であって、赤尾嶼はふくんでいない。それは地理学的には当然のことで、赤尾嶼は黄尾嶼から四八浬もはなれているので、釣魚などと一群をなしているのではなく、黒岩の前記報告も、この島については一言もしていない。そして、琉球政府が一九七〇年九月十日に発表した「尖閣列島の領有権及び大陸棚資源の開発権に関する主張」は、「北緯二十五度四十分から二十六度、東経百二十三度二十分から百二十三度四十五分の間に散在する尖閣列島」という。この範囲は、黒岩が名づけた尖閣列島と同じ範囲で、赤尾嶼(北緯二五度五五分、東経一二四度二四分)はふくんでいない。

 しかし、同じ琉球政府が右の声明の一週間後に出した、たびたび引用する「尖閣列島の領土権について」という声明では、「明治二十八年一月の閣議決定は、魚釣島(釣魚島−−井上)と久場島(黄尾嶼−−井上)に言及しただけで、尖閣列島は、この島の外に、南小島及び北小島と沖の北岩、沖の南岩ならびに飛瀬と称する岩礁(南小島から飛瀬までは、ピナクル諸嶼のこと)、それに久米赤島(赤尾嶼−−井上)から成っております」という。琉球政府も、尖閣列島の範囲について、赤尾嶼を入れたり出したり、いっこうに定まらない。

 以前の海軍水路部あたりは、はっきりしているかと思うと、これも、さに非ず。一九〇八年までの水路誌には、釣魚、黄尾とその間のピナクル諸嶼を総括する名称も、それに赤尾を加えて総括する名称も、全然記載されていない。ところが、一九一八年の水路誌には、「尖頭諸嶼」という名称で、「尖頭諸嶼ハ沖縄群島ト支那福州トノ略中央ニ在リ、……、黄尾嶼、魚釣島、北小島、南小島及沖ノ北岩、沖の南岩ヨリ成ル。魚釣島ハ其最大ナルモノナリ」という。

 上記の北小島から沖の南岩までの岩礁はピナクル諸嶼のことであり、同じ水路誌が、一九〇八年九月には「尖頭諸嶼(Pinnacle Is.)」と記し、一八九四年七月には「ピンナクル諸嶼」、そして一八八六年には「尖閣群島(ピンナツクルグロース)」と記したものである。それが、一九一九年には、前記の通り、黒岩恒の名づけた「尖閣列島」と同じ区域をさすことになっている。さらに右の水路誌は「此等諸嶼ハ位置ノ関係上古来琉球人ニ知ラレ、尖頭諸嶼、尖閣列島、或ハ Pinnacle Islands 等ノ名称ヲ有ス」と、念入りの説明をしているが、ここでは、黒岩の命名した尖閣列島も、イギリス海軍のつけたピナクル・アイランヅも、またその訳語として日本海軍水路部自身が以前に用いた「尖頭諸嶼」も、何もかもごたまぜにしている。

 一九四一年の『台湾南西諸島水路誌』は、一九一九年の水路誌と同じく「尖頭諸嶼」をかかげ、その範囲も、一九年版と同じである。そして「尖頭諸嶼ハ位置ノ関係上、古来琉球人ニ知ラレ、尖閣列島トモ呼バレタリ、外国人ハ之ヲPinnacle Islands と称セリ」という。ここでは、「尖閣列島」というのは、「古来」琉球人にそうよばれていた、この地域の旧名であり、現在は尖頭諸嶼というかのような書き方である。

 いまの日本外務省の本年三月九日の「尖閣列島領有権に関する統一見解」は、「尖閣列島は……明治二十八年一月十四日に現地に標杭を建設するとの閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものである」というからには、明治二十八年の閣議で標杭を建設するとした島、すなわち魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)だけとなる。ピナクル諸嶼さえも入らないことになる。もっともピナクル諸嶼は、釣魚と黄尾の間にあるから、これは、とくに言及しなくても、「尖閣」の中にふくまれているものとみなしてもよいが、赤尾嶼はどうしても入らない。しかし、現実には、政府は赤尾嶼も「尖閣列島」の中に入れて中国から盗み取ろうとしている。

 日本共産党の「見解」も、外務省と同じで、「尖閣列島」の範囲を明示しないが、「一八九五年一月に、日本政府が魚釣島、久場島を沖縄県の所轄とすることをきめ、翌九六年四月に尖閣列島を八重山郡に編入し…」という。これでは、「尖閣列島」とは、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)のことをいうと解するほかない。このばあいも、両島の中間のピナクル諸嶼は自動的にふくむとすると、これも黒岩恒の命名した尖閣列島の区域と同じである。ところが声明の後段には、「一九四五年以降、尖閣列島は沖縄の一部としてアメリカ帝国主義の政治的軍事的支配下におかれ、列島中の大正島(赤尾礁または久米赤島)および久場の両島も米軍の射爆場にされ……」という。ここでは赤尾嶼まで「尖閣列島」に入っている。日共の宮本委員長さん、いったい尖閣列島とはどの範囲をいうのか、しっかりした典拠によって明示したらどうですか。

 琉球政府も、日本外務省も、日本共産党も、黒岩恒が地理学的根拠をもって明示した尖閣列島と、黒岩がそれからはずしている赤尾嶼をともに日本領土としたいのだが、彼らといえども、赤尾嶼をふくめた尖閣列島なる名称は、公的にはもとより私的にも、未だかつて存在したことがないのを、内心では知っているので、明確に一義的に尖閣列島とはこの範囲だと言うことができず、まず黒岩のつけた名称をあげて、後でこっそり赤尾嶼をその中に加えるのである。

 領土問題を、こんな風にコソ泥のようにしかあつかえないのは、帝国主義者としても、何とみみっちいことだろう。

 また、黒岩のつけた尖閣列島という地理学的名称は、一度も日本国によって公認されたことはない。それゆえ、軍事的必要から地理の記述には厳密性をもっとも強く要求する海軍の水路誌でさえ、後になると、前記のように尖閣列島とは、その地域の古い名称のことと思いちがいして、その名を用いず、本来はピナクル諸嶼のみの訳名であった「尖頭諸嶼」の名を総称として用いている。ところが、いまの日本政府や琉球政府は、尖閣列島とよぶ。ただしその範囲はでたらめである。日共はそのでたらめ政府に盲従追随するのみである。

 「尖閣列島は歴史的に日本領土であることは、争う余地はない」などと、日本政府、琉球政府、日本共産党、大小の商業新聞はいっせいにいうが、ごらんの通り、その範囲さえ明確でなく、またその名称も「尖閣列島」とも「尖頭諸嶼」ともいって確定しておらず、さらにその列島の個々の島の名称すら、政府機関内ですら魚釣島のほかは一定していない。黄尾嶼は久場島といい、しかもその久場島がある時期は釣魚島であったり他の時期は黄尾嶼であったりする。赤尾嶼はまた久米赤島というかと思うと、いつのまにか大正島ともいう。海軍は黄尾嶼、赤尾嶼というかまたは英語名でしか記録しない。地域の名称もその範囲もはっきりしない領土などというものが、どこにあろう。このことは、たんに名称だけの問題ではなく、政治的実質的に重要な意味がある。これは日本天皇制が、これらの島を「領有」したその仕方、他国領を盗みとったということから、必然に生じた現象である。このことは第一三節で改めて論ずる。

 (付註)イギリスの海図などのHOAPIN-SAN または HOAPIN-SU が釣魚島であり、TIAU-SU が黄尾嶼であることは、地図およびその島に関する記述を見れば明らかである。しかし、これらの名称の由来は、明らかでない。東恩納の『南島風土記』は「海図にホアピンスウとあるのは、黄尾嶼の華音である」という。この説はまちがいであろう。現在中国の共通語で「黄尾」はファンウェイという。また福建地方の語でもウンボエといい、ホアピンあるいはそれに似た音ではない。

 また、黒岩恒は、釣魚島は一名「和平島」ともいうと書いている。もしこれが正しければ、HOAPINは「和平」の中国音をローマ字表記したものといえる。しかし、私は中国の古い文献でこの島を「和平」島(あるいは嶼)と書いてあるのを見たことがない。もしここを「和平」島と書くとすれば、それは、本来中国語でそうよばれていたからではなくて、ローマ字でHOAPINと書かれている中国音に「和平」という字を当てたのであろうか。そして最初にそうしたのは日本海軍の最初の水路誌の作者ではあるまいか。

 あえて私の推測をいえば、「ホアピンスウ」というよび名は、釣魚島から西ヘ二つめの花瓶嶼(ホアピンスウ)の中国音を、西洋人があやまって釣魚島にあてたものであろう。本論文の第三章にあげた『籌海図編』の「沿海山沙図」では、西から東への島の順が、彭加山、釣魚嶼、化瓶山、黄尾山……となっているが、歴代の琉球冊封使録や『中山傳信録』などでは、花瓶嶼、彭隹(佳)山、釣魚台の順でつらなっている。中国人にこういう島名の入れちがいがありえたとすれば、西洋人がまさに釣魚島とあるべき島を花瓶嶼=ホアピンスウの名でよぶことも大いにありうるであろう。そしてその「ホアピン」に「和平」という漢字を日本海軍の翻訳者が当てたのであろう。

 また、TIAU-SUは恐らくは中国語の釣嶼(釣魚嶼の略)のローマ字表記であろう。その字を釣魚島そのものにあてないで、その東北の黄尾嶼にあてたのも、Hoapin-Suを、花瓶嶼の二つ東の釣魚島にあてたのと同じ性質のことであろう。

九 天皇制軍国主義の「琉球処分」と釣魚諸島
 琉球人さえも、「イーグンクバシマ」の存在を知っているというていどで、その島々と日常の関係もなく、まして日本人は、一部の先覚者のほかには、ふつうの武士や民衆は、その存在さえも知らなかった幕末期に、釣魚諸島を日本領だと称して領有しようとするこころみなどのあるわけもなかった。

 幕末の騒乱期にも、徳川幕府は、南方では伊豆南方の無人島(小笠原島)を、イギリス、アメリカと争って日本領にとりこもうとし、北方では樺太における日本領とロシア領の境界について、ロシアに一歩も譲らず対抗していた。西方では幕府役人および長州の桂小五郎(後の木戸孝允)らは、一八六〇年代に早くも朝鮮侵略を構想(註)していた。これほど辺境の領土に対する関心が深く、領土拡張の要求もはげしかった幕府であり、その幕府をも「夷狄」に屈従すると攻撃してやまなかった勤王派ではあったが、彼らのうちの誰一人として、琉球を併合しようとか、その清国との関係を断ち切らせようとか考えるものはなかった。まして琉球の先の無人の小島、釣魚諸島については、関心をよせるものさえなかった。

 (註)井上清『日本の軍国主義』U所収「征韓論と軍国主義の確立」にこの具体的事実をあげてある。

 一八六八年(明治元年)、勤王派は徳川幕府を倒して天皇政権をうちたてた。七一年(明治四年)には、諸藩も廃止され、天皇を唯一最高の専制君主とする高度の中央集権の統一国家がつくられた。そのころすでに天皇政府は、朝鮮、台湾、そして琉球を征服する野心をいだいていた。この三地域への天皇制の政策は、たがいに深く関連しており、一体となって天皇制の軍国主義をきわだたせている。そして、その軍国主義が、やがて釣魚諸島にも食指をのばす。それゆえ、天皇政府と釣魚諸島の関係を論ずるに先立ち、琉球処分を中心として、天皇制軍国主義の展開を見ておかねばならない。

 廃藩置県により、島津藩も廃止されたので、天皇政府は、従来島津藩の属領でその封建的植民地であった琉球王国をも、天皇政府の属領になったものとみなした。ただし、琉球王国が清国に朝貢し、清の皇帝から冊封を受けることを禁止したのではなく、従来通り清国と宗属関係を保つことを認めていた。

 この翌七二年、天皇政府は、琉球人民が台湾東岸に漂着してそこの住民に殺された事件(七一年十一月のこと)を利用して、日本人民たる琉球人のために仇をうつと称し、清国領である台湾を侵略しようとした。その侵略を正当化する一つの根拠として、琉球王国は日本領であり、その人民は日本国民であり、清国の属国民ではないとする必要にせまられた。そこで、政府はあれこれと討議したあげく、七二年九月、「琉球尚泰」(琉球国王尚泰とはいわない)を、日本天皇が琉球藩王に封じ、華族に列し、金三万円を賜わるとともに、琉球の外交事務はすべて日本外務省が管轄する、とした。尚泰王自身および王府は、こうされることに強く反対したが、天皇政府は、あるいは威圧し、あるいは外務省高官が口頭で、琉球の「国体・政体」は今まで通りでよろしい、その外交事務は本省で管するが、琉球と清国との関係は従来のままでよい、などと甘い言葉でだましたりして、一時をごまかした。

 天皇政府の台湾遠征は、アメリカの駐日公使デ・ロングC.E.de LONG と、彼の推薦により七二年十一月以降外務省の顧問となったアメリカの退役将軍のル・ジャンドルLe GENDREの強力な支援と指導のもとに、七四年(明治七年)七月に強行される。彼らがこれを正当化する口実としたのは、第一は、前記の通り「日本人」が殺されたということ、第二は、その「日本人」を殺した「生蕃」の土地は、現代風にいえば、国際法上の無主地であり、「生蕃」は中国属領民ではないというこじつけであった。この後の論法には、現在の釣魚諸島無主地論の論法と共通する点がある。

 すなわち、当時の外相副島種臣は、台湾遠征を正当化する下地をつくるために、一八七三年北京に行き、六月九日、北京駐在イギリス公使に会った。そのとき公使が、もし清国政府が、台湾はわが属領であるから、政権はわれより加えるといったら、どうするかと問うたのに対し、副島は次のように答えている。

 「此ノ権清ニ在リト云フヲ得ザルノ証跡有リ、生蕃ノ地ニ清国ヨリ嘗テ官吏ヲ派シ置ク事無ク、清ノ輿地図(全国地図)ニ生蕃ノ地名ヲ記載スルヲ見ズ、且ツ数年前、米人曾テ清ノ政府ニ告ゲズシテ彼ノ地ニ入リ、蕃人ト戦ヒ(ル・ジャンドルのことをさす)、又生蕃自ラ米人ト約ヲ結ブコトヲ得タリ。清国モシ彼ヲ属下ト謂ハバ、和戦、結約、彼レガ自ラ為スニ任セ、政府之ヲ知ラズシテ可ナル乎。我ハ此故ヲ以テ、清ノ政府ハ生蕃ノ地に於ケル権ノ及ブ可キ無シト謂へルナリ。」(『日本外交文書』第六巻)

 また六月二十一日、副島は駐清の柳原公使をともない、清国の外交部である総理衙門を訪い、台湾人の琉球人殺害について会談した。そのとき、日本側ではもっぱら柳原公使が発言するが、彼はたくみに相手を誘導して、台湾の「生蕃」は「之ヲ化外ニ置キ甚ダ理スルヲ為サザルナリ」と言わせる。そして柳原は、「貴大臣既ニ生蕃ノ地ハ政教ノ及バザル所ト謂ヒ、又旧来其ノ証跡有リテ、化外孤立ノ蕃夷ナレバ、タダ我ガ独立国ノ処置ニ帰スルノミ」と言い放って、ひきあげた。柳原は、台湾住民の一部に清国の「教化」が及んでいないという儒教的政治思想の概念と、政権が及んでいないという近代国際法的概念とは、全く別の問題であることは百も承知しながら、あえて両者を同一視し、「蛮地」は教化の外だと清国がいうのを、近代国際法にいわゆる実効的支配がなされていない「無主地」であるとこじつけて、侵略を正当化する根拠としたのである。そして、この翌年、台湾侵略を実行した後、清国の、当然の厳重な抗議を受けるが、それにたいしては、清国は「蛮地」は「化外の地」と言ったのではないかという論法で対抗する。

 このような、中国語の概念と表現を近代的概念にねしまげる論法を、陳侃・郭汝霖の使録や『中山傳信録』の、久米島と赤尾嶼に関する記述の解釈に用いたのが、釣魚諸島の無主地論である。

 七四年の台湾侵略のさいは、日本の実力では、まだ清国の実力およびイギリスの動向に抗して、「蛮地」=無主地論をおし通すことはできなかったが、この後、天皇政府の軍国主義と侵略の野望はいっそう強められた。その侵略の当面の目標を、天皇政府は、イギリスの示唆と支持をうけて、天皇政権成立の早々からねらっていた朝鮮に集中する。ところが、朝鮮国王は琉球国王と同様に、以前から形の上では清国に朝貢し、その外臣となっていたのだから、もし日本が、琉球王国を琉球「藩」とした後も、「藩」王の清朝への朝貢・臣属を認めたままでいるならば、そのことは、朝鮮国を完全に清朝の勢力から切りはなし、やがて日本の属領にしようという大政策の妨げにもなり得る。

 そこで一八七五年七月、天皇政府は、琉球「藩」王に、清朝との朝貢・冊封関係をきっぱり断つことを厳命し、かつ、王の上京と「藩」政の大改革を強要した。また琉球王らの反抗を鎮圧するために、那覇の郊外に、琉球人民の土地を強制収用して熊本鎮台(後の師団)の分営を設けた。琉球王や士族らは、これに必死に抵抗し、ひそかに清朝に援助をもとめた。清朝は、日本政府に、清の「属邦」(琉球)の朝貢を禁じたことについて、再三抗議したが、有効な琉球王援助は何もできなかった。

 この間に天皇政府は、七五年九月、軍艦「雲揚」をして、朝鮮の江華島付近の漢江に不法侵入させ島の守備兵を挑発させた。守備兵はついに発砲のよぎなきに至った。天皇政府はただちにその「罪」を問うとして、陸海軍の全力をあげて朝鮮に攻め入る準備をし、その圧力を背景にして、翌七六年二月、朝鮮に最初の「修好条約」をおしつけ、ついで八月、貿易規則をおしつけた。

 それらの条約は、日本が外国におしつけることのできた最初の不平等条約であった。「修好条約」により、日本は朝鮮の釜山その他を開港させ、そこに居留地をもうけ、居留民の治外法権を定めた。貿易規則では、「当分の間」日朝両国とも輸出入関税は無税、そして日本は朝鮮の開港場で日本の通貨(紙幣をふくむ)を以て自由に朝鮮人から物資を買い入れることができると定めた。これは、日本が早くも朝鮮を政治的に従属させ、朝鮮経済を日本資本のほしいままな略奪の場としたことを意味する。しかもこの苛酷な不平等条約の第一条には、空々しくも、「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」と書いてあった。それは、朝鮮国は清国の属邦ではないということを規定したもので、その裏には、やがては朝鮮を日本の属国にしようとする野望がかくされていた。十一年後の日清戦争の種火は、早くもここに日本によって点火された。

 朝鮮強圧の成功の勢いに乗じて天皇政府は、あくまで清の「属邦」たることをやめようとしない琉球「藩」の「処分」を急いだが、日朝修好条約おしつけの翌年は、政府は西南戦争の大乱を乗切るのに全力をとられた。それにようやく勝利して、そのさしあたりの後始末もほぼかたづいた一八七九年(明治十二年)四月、政府は四百五十名の軍隊と百六十人の警官隊とで、三百年このかた軍隊というものは設けたことのない琉球「藩」王を弾圧して、うむをいわせず藩を廃止し、これを天皇政府直轄の沖縄県とし、旧藩王は強制的に東京に移住させた。

 いわゆる「琉球処分」はここに完了した。これを、もともと琉球人は本土日本人と同一民族でありながら、政治的に分立していたのが、いまや政治的にも単一の日本民族国家に統一されたのだ、と解釈する説が支配的であるが、私はその説には反対である。

 琉球では、十二世紀に最初の小国家が成立し、十四世紀に沖縄本島で三つの国が分立し、十五世紀の末に全土を統一した国家ができるが、それらの国は、日本の歴代の国家権力とは対等につきあう独立国で、十四世紀末から中国の皇帝にだけ朝貢臣属していた。やがて十七世紀初めに島津藩に征服され、以後は島津の苛酷な搾取と支配を受けることになったが、それでも琉球王国はなお独自の国家として存在し、中国の王朝にも朝貢していた。この国が、近代天皇制によって名実ともに独自の国家的存在を奪われ、中国への臣属も断ち切られ、天皇制の植民地にされたのが「琉球処分」の歴史的内容である。私はすでに、この問題を歴史的に、また民族理論的に、くわしく論じて(註)あるので、関心のある人はそれらを見ていただきたい。

 (註)岩波講座『日本歴史』第十六巻「近代」Vにのせた「沖縄」(一九六二年)。中野好夫編『沖縄問題を考える』(一九六八年、東京、太平出版社)に書いた「日本歴史の中の沖縄」。全国解放教育研究会編、雑誌『解放教育』第四号(一九七一年十月号)の小論「沖縄差別とは何か」)。

一〇 日清戦争で日本は琉球の独占を確定した
 一八七二〜七九年の琉球処分の時期の天皇政府は、辺境の帰属問題を解決し、自己の支配領域を確定すると同時に、できればそれを拡張することに夢中であった。「琉球処分」以外の事実を年代順にあげれは、以下のような諸事件がある。 一八七三年九月〜十月、政府内における征韓論の大論争。西郷隆盛ら征韓派の敗退。 一八七四年二月〜十二月、台湾侵略。

 一八七五年五月、ロシアとの千島・樺太交換条約に調印。幕末以来の樺太における日露の領界争いに、日本の大譲歩で結末をつけた。日本は樺太の南半部に対して早くからもっていた権利をすべて放棄し、同島の全部をロシアの領有とする、その代償として、ロシアは千島列島のうちのウルップ島以北という、南樺太とは経済的価値も軍事地理的重要性も、当時としてはけたはずれに低い島々を日本に譲り、エトロフ島以南の元からの日本領と合わせて、千島全島を日本領とすることになった。

 一八七六年二月、朝鮮に日朝修好条約をおしつけ、ついでその付属貿易規則をおしつける。これは、強大なロシアに、領土的利益と国家的威信をともにむしり取られた代償を、弱小の隣国の侵略に見出そうとしたことであり、また前述のように「琉球処分」の推進と切りはなせない。

 一八七六年十月、小笠原諸島を日本政府の管轄とすることを、諸外国に通告した。同島については、イギリスとアメリカが、幕末に無主地の先占による領有権を主張し、日本と対立していた。近代国際法理論のみからいえば、英・米の主張にも、日本におとらないだけの根拠があったので、英・米があくまでもその権利を主張すれば、日本がここを独占することは不可能であったろう。しかし、アメリカ政府はその当時は、遠隔の地に領土をもつことは不利であるとの思想が強く、一八七三年には、小笠原島に関する領有権の主張を全面的にとりやめて日本を支持した。イギリスはなおその権利を主張していたが、これも、その全アジア政策の長期展望に立って、太平洋の小島のことで日本と深く対立するよりも、ここは譲って、日本をイギリスの味方にひきつけ、東アジアにおける大英帝国の前哨として利用する方が有利であると考え、七五年から日本の主張を遠まわしの方法で、みとめた。そのおかげで日本はこの領有権を確立(註)し、上記の通告が可能になった。

(註)このことは、『日本外交文書』第五〜九巻(明治五〜九年)の、小笠原島関係の文書をみれば容易に確認できよう。幕末の幕府と英・米との交渉は、大熊良一『千島小笠原島史稿』を参照。

 上の年代記で明らかな通り、天皇政府は、ロシアやイギリスやアメリカとは対抗できず、これらには全面的に譲歩するか、またはその好意に頼っただけであり、その反面では、朝鮮国、清国および琉球国へは、一貫して強圧、拡張の政策をとって、自己の支配領域を拡張しようとした。しかし、実力の不足はどうしようもない。いったんはむりやり中国との関係を断ち切らせ、「処分」=併合した旧琉球王国領についても、ある条件のもとでは、その一部分を清国にゆずろうとしていた。この琉球分島問題は、釣魚諸島の帰属問題と、この時点では関連はないが、後には重要な関連をもってくるので、かんたんにこの経過をのべておこう。

 日本の「琉球処分」に対しては、琉球王国を数百年来の属国とみなしていた清国は、日本が琉球王の朝貢をさしとめたときから、抗議していた。そして七九年四月四日、日本が完全に琉球を併合すると、五月十日、清国政府は北京駐在の日本公使宍戸(王+幾 たまき)に、日本の処置は承認できないと申し入れた。これより琉球の領有について、日清両国間の一年半にわたる交渉がはじまる。その間に、たまたま東アジアを旅行中のアメリカの前大統領グラントが、清国の依頼により、日清間の調停をこころみたこともあり、まず清国側から、本来の琉球−−「琉球中山」=沖縄本島および「琉球三十六島」−−を三分し、北部の十七世紀以来島津藩に直轄されていた奄美群島を日本領とし、中部の沖縄本島を主とする群島は、元の琉球王の領土として王国を復活させ、南部の宮古・八重山群島は清国領とするという、琉球三分案を出した。

 日本側はこれを一蹴した。それと同時に政府は、琉球を清国との取引きの元手にすることを考えた。すなわち、もし清国がすでに諸外国にあたえている、また将来他国にあたえるであろう「通商の便宜」−−清国内地通商の自由その他−−を、日本人にも一律に均霑(きんてん)させることに同意し、そのことを現行の日清修好条規の追加条約とするならば、その代りに日本は、宮古・八重山群島を清国領とし、沖縄群島以北を日本領として、琉球を二分しようというのである。

 このいわゆる「分島・改約」の日本案に対して、清国政府内では、種々の異論があった。そのときたまたまロシアとの間に、伊犁(いり)地方の国境紛争がおこったので、清国の総理衙門では、琉球問題は日本に譲歩して早く解決し、日清関係を親密にしてロシアを孤立させる方が得策であるとの意見が有力になった。その結果、一八八〇年十月、総理衙門は宍戸公使と、日本案による分島・改約の条約案を議定した。

 ところが、この後で、清国政府内で、またも北洋大臣李鴻章らが強硬に分島・改約に反対した。そのため清国代表は議定した条約案に調印できなくなった。そのうちに十一月一日、中国側は宍戸公使に、分島・改約案については、皇帝が南洋・北洋の両大臣の意見を待った上で、改めて日本側に通告するであろう、といってきた。 宍戸はその不当を責め、翌一八八一年一月五日、中国側に、「貴国はわが好意をしりぞけて、すでに両国代表間で議定したことを、自ら棄てたからには、今後は永遠に、我国の琉球処置について貴国の異議はうけいれない」との趣旨の文書をたたきつけ、憤然として帰国した。

 (註)『日本外交文書』第一三、一四巻「琉球所属に関し日清両国紛議一件」。王芸生『六十年来中国与日本』第一巻。

 琉球分界の日清交渉はこうして決裂したが、日本政府はこのときはまだ、宍戸公使が清国にたたきつけた文書のように、今後琉球問題についてはいっさい清国にとりあわないとの方針を定めていたわけではなかった。宍戸の帰国後も、外務卿井上馨は、天津駐在領事竹添進一郎に、李鴻章と非公式に会談してその腹をさぐらせた。竹添は八一年十二月十四日、李と会談し、その様子を詳細に本省に報告するとともに、李の真意は、宮古・八重山二島を得て、そこに琉球王を復活させたいというにある、日本は李の希望をいれ、その代り日清修好条規の改約を実現するのが上策である、今をおいて日清条約改正の好機はない、と意見具申した。これに対して井上外相は、翌一八八二年一月十八日、竹添領事に、ひきつづき李の意向をさぐるよう訓令し、また政府の分島問題についての次のような考えを知らせた。(『日本外交文書』第一九巻、「日清修好條規通商章程改正ニ関スル件」付記一六)

 宮古・八重山二島を割与するだけで李が満足するなら、「土地ノ儀ニ付テハ当方ニ聊カモ異議コレ無ク候」、また琉球王を立てるというのが、日本の割与した二島に、清国政府が旧琉球王尚泰の親類または子を立てて王とするということなら、これも「別ニ異議ナシ」。しかし、日本がいったん廃王した尚泰その人を、再び日本で王に立てることはできない。

 この後の竹添と李との非公式話し合いの進行状況はわからないが、結果からみると、井上外相の右の考え方の線により再び日清の正式交渉ということにはならなかった。

 ついで、八三年三月、日本政府は来る四月二十九日で満期になる、日清修好条規付属の貿易規則の改定交渉を清国に申し入れた。これに対して五月、清国の駐日公使は井上外相に、日本はこの改約と琉球問題とを一体にして交渉するかどうか、と問うてきた。それに対して外相は、つぎのように答えている。

 琉球問題は、「前年宍戸公使ヲシテ貴政府ト和衷ヲ以テ御商議ニ及バセ候処、貴政府ニテ御聴納コレ無キヨリ、事スデニ九分ニ及ンデ一分ヲ欠キ居候」、この問題と、満期になった貿易規則の改定とは全く別のことであり、当然別に交渉すべきであると、わが政府は考える(『日本外交文書』第一六巻、「日清修好條規通商章程改正ニ関スル件」)。

 この通り、井上外相ないし日本政府も、琉球問題はまだ最終的に解決していないことを認めていた。いいかえれば、八〇年に日清両国代表が議定した分島・改約案に、清国政府がすみやかに調印しないので、以後の交渉を日本側がうち切ったことをもって、その時から琉球全島が日本の独占となったと確定したのではない。琉球問題はまだ交渉すべき懸案であると、日本政府も認めていたのである。

 井上外相の右の回答をうけた清国側は、琉球問題と一体としない貿易規則改定のみの交渉には応ぜず、そのまま一八八六年に至った。この年は、日本の対欧米条約の改正交渉が進行していたので、井上外相は、その交渉を有利にするために、日清条約の改正の促進を強く希望し、三月、公使として北京に赴任する塩田三郎に、現行の日清条約改正の交渉方を訓令した。そのさいとくに、条約改正に琉球問題を決してからめないよう、入念に注意した。塩田公使は四月二十二日から、清国側と条約改正の交渉をはじめた。清国側は、しばしばその交渉に琉球問題をからめてきたが、日本側はそれをたくみにすりぬけた(註)。こうして琉球領有権に関する日清間の対立は、そのまま放置されて、八年後の日清戦争に至る。

 (註)『日本外交文書』第一九巻、「日清修好條規通商章程ニ関スル件」。なお条約交渉は一八八八年(明治二十一年)九月までつづけられる。その交渉で、日本は欧米なみの地位・権利を得て清国に優越しようとするが、清国は多くを譲歩しないので、日本の方から交渉を打ち切った。

 日本はこのとき、対欧米の条約改正交渉を有利にするために、中国に対して欧米諸国なみの優位に立つ新しい日清条約を結ぶことを望んでいたが、しかも、その日清条約交渉と、琉球分島の問題とをきびしく切り離したのは何故であろうか。八〇年の日清交渉では、琉球を日清間で分割する代償に、条約改定をかちとろうとしたし、その後も清国側は、分島すれば改約に応ずる意向を原則的には変えていないこと、したがって早く改約するには、それと分島をからめるのが有利であることは、井上外相も承知していながら、あえて八三年以来は、両者を切り離したのは何故か。

 その理由は、すでに、天皇政府は、きわめて近い将来の日清戦争を予期し、その準備を精力的に進めており(註)、清国ともっとも近い琉球の南部を、清国に渡すことはもはや決してできなかったからであろう。ここが清国領になれば、それは、戦争のさい清国が日本を攻撃する有力な根拠ともなり、日本がここを領有すれば、清国本土の南部や台湾への進攻根拠地にもできるのに、どうしてここを譲ることができよう。いま急いで譲ったりしないでも、近い将来には、日本の全琉球独占の既成事実を清国はいやでも認めざるを得なくなると、政府は考えたことであろう。

 沖縄がもっぱら軍事的見地から重要視されていたことは、たとえば日清戦争中の一八九五年一月、貴族院で「沖縄県々政改革建議」が可決されたとき、提案理由の説明でも、討論でも、「沖縄の地たる、東洋枢要の地」、「軍事上の枢要の地」ということのみくり返し強調され、その要地の県政を改革して「海防に備へねばならぬ」ことが力説されたことに、端的にあらわれている(琉球政府編『沖縄県史』四、「教育」第六編第二章。『大日本帝国議会誌』)。

 (註)天皇政府は早くから「征韓」をめざし、そのために清国との対立を深めていたが、一八八二年朝鮮の壬午事変(朝鮮兵士の朝鮮政府および日本人軍事教官に対する叛乱とソウル市民の反日闘争が結合した事件)の直後から、朝鮮の支配権をめぐって清国との戦争をめざした軍備大拡張とそのための大増税をはじめる。さらに一八八四年十一月、朝鮮で、日本と結びついた金玉均ら開化党がクウデターで政権をとるが、わずか三日で、清国に支援せられた朝鮮保守派の反撃でつぶされ、ソウルの日本公使は生命からがら日本へ逃げ帰った。これより日清両国の朝鮮出兵となり、日清戦争の危機が切迫した。しかし、このときは、まだ日本政府は戦争する自信がなかったので、翌八五年四月、首相伊藤博文が自ら全権使節として天津に行き、李鴻章と談判して、「天津条約」を結び、日清両国の朝鮮からの同時撤兵、今後の朝鮮出兵は相互に通告することなどをきめた。これより天皇政府は、対清戦争準傭のために軍備、政治、外交、財政、思想、そのほかあらゆる方面で、国力をかたむける。

 政府の日清戦争準備の影は、沖縄県そのものにも濃くうつされる。井上外相が、日清条約改正交渉では、それに琉球問題をからませることを断乎として拒否したのと同じ八六年三月、「大日本帝国」の軍隊をつくりあげてきた最高の指導者であり、対清戦争のもっとも熱烈な推進者であり、時の内務大臣でもある山県有朋中将が、天皇の侍従をしたがえて、沖縄の視察に行った。その翌八七年四月には、沖縄県知事に長州出身の予備役陸軍少将福原実が任命された。沖縄の知事に軍人が任命されたのはこれが初めてである。そしてその秋十一月には、首相伊藤博文が、陸軍大臣大山巌、海軍軍令部長仁礼(にれ)景範らを従え、当時の日本最精鋭の軍艦三隻をひきいて、六日間も沖縄を視察した。伊藤はこのとき「命ヲ奉ジテ琉球ヲ巡視ス」と題する漢詩をつくっている。その句に曰く「誰カ知ル軍国辺防ノ策、辛苦経営ハ方寸ノ中(註)」と。こううたった伊藤はもとより、内相の肩書の山県中将の琉球視察も、対清戦争準備のためであることは疑いない。

 (註)比嘉春潮『沖縄の歴史』(一九五九年、沖縄タイムス社刊)

 その準備があらゆる面ですっかり完了し、しかも清国には対日戦備は思想的政治的には全然なく、軍備もようやく近代化に着手したばかりというとき、一八九四年七月、日本は、イギリス帝国主義の支援とはげましをうけて(註)、宣戦布告もせず、二十五日、海軍が豊島沖で清国艦隊を不意打ちし、二十九日、陸軍が朝鮮の牙山・成歓で清国陸軍を不意打ちして、対清戦争を開始した。その後で八月一日、ようやく宣戦を布告した。

 (註)井上清『条約改正』(岩波新書)に詳述した。

 戦争は従来の国家関係の断絶であるから、開戦とともに自動的に、交戦国間のすべての条約も懸案も消滅する。そして戦後には講和条約にもとづき、新しい国家関係がつくられる。日清戦争で勝利した日本は、下関の講和条約にもとづいて、政府が年来希望していた以上に日本の特権を定めた、新しい通商条約・貿易規則などを清国にのみこませた。

 琉球問題も、日清開戦と同時に、もはや名実ともに両国の懸案ではなくなった。下関講和会議でも、日本側はもとより清国側も、琉球のことは何ら問題にしなかった。したがって、講和条約にも、琉球に関することが一字も書かれるはずもない。すなわち、日清両国の新関係の創出=講和のさい、日本がそれまでに琉球につくりあげていた既成事実に対して、清国が何らの異議も出さなかったことによって、その既成事実は確立された。いいかえれば、日本は日清戦争の勝利によってはじめて、清国の琉球に対するいっさいの歴史的権利・権益を最終的に消滅させ、日本の琉球独占を確立したのである。

一一 天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を九年間うかがいつづけた
 朝鮮・中国に対する侵略戦争の準備強化との関連で、天皇政府が琉球を重視し、その全島を日本の独占とする方針を確定した後の一八八五年(明治十八年)、はじめて琉球と、中国本土の間の海に散在する釣魚諸島が、天皇政府の視野に入ってきた。

 これより先一八七九年、琉球藩が沖縄県とせられた直後に、福岡県出身の古賀辰四郎という冒険的な小資本家が、さっそく那覇に移り住み、沖縄近海の海産物の採取、輸出の業をはじめた。そのうちに一八八五年(註)、古賀は「久場島」(釣魚島)に航して、ここに産卵期のアホウ鳥が群がることを発見し、その羽毛を採取して大いにもうけることを思いたった。彼は那覇に帰って、その事業のための土地貸与を沖縄県庁に願い出たらしい。

 (註)従来、古賀は「明治十七年」(一八八四年)にこの島を「発見」し、翌八五年沖縄県庁に、この島で営業するために借地願いを出したといわれているが、明治二十八年(一八九五年)六月十日付で古賀が内務大臣に出した「官有地拝借願」には、「明治十八年沖縄諸島ヲ巡航シ舟ヲ八重山島ノ北方九拾海里ノ久場島ニ寄セ……」という。前掲『沖縄』五六号)

 「尖閣列島」は無主地の先占による合法的な日本領であると主張する、琉球政府や日本共産党その他は、もっぱら、古賀の釣魚島「開拓」という、平和的経済的な動機から同島の日本領有が進められたかのようにいう。一八八五年に政府がこの島に目をつけるにいたった直接のきっかけは、あるいは古賀の「開拓」願いが出されたことにあったかもしれないが、政府がここを日本領にとりこもうとしたのは、たかがアホウ鳥の羽毛を集めるていどのことのためではなく、この地の清国に対する上での軍事地理的意義を重視したからであった。そのことは、一八八三年以来の政府の琉球政策が何よりもまず軍事的見地からのみたてられ実行されてきたことから、容易に類推されるし、また八五年以降の釣魚諸島領有の経過の全体をみれば、いっそう明白となる。

 琉球政府や日共は、八五年に古賀の釣魚島開拓願いをうけた沖縄県庁が、政府に、この島を日本領とするよう上申したかのようにいうが、事実はそうではなく、内務省がこの島を領有しようとして、まず、沖縄県庁にこの島の調査を内々に命令した。それに対して、沖縄県令は八五年九月二十二日次のように上申している。

 「第三百十五号
     久米赤島外二島取調ノ儀ニ付上申
 本県ト清国福州間ニ散在セル無人島取調ノ儀ニ付、先般、在京森本本県大書記官ヘ御内命相成候趣ニ依リ、取調ベ致シ候処、概略別紙(別紙見えず−井上)ノ通リコレ有リ候。抑モ久米赤島、久場島及ビ魚釣島ハ、古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ、シカモ本県所轄ノ久米、宮古、八重山等ノ群島ニ接近シタル無人ノ島嶼ニ付キ、沖縄県下ニ属セラルルモ、敢テ故障コレ有ル間敷ト存ゼラレ候ヘドモ、過日御届ケ及ビ候大東島(本県ト小笠原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違シ、中山傳信録ニ記載セル釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼ト同一ナルモノニコレ無キヤノ疑ナキ能ハズ。

 果シテ同一ナルトキハ、既ニ清国モ旧中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラズ、ソレゾレ名称ヲモ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ。依テ今回ノ大東島同様、踏査直チニ国標取建テ候モ如何ト懸念仕リ候間、来ル十月中旬、両先島(宮古・八重山)へ向ケ出帆ノ雇ヒ汽船出雲丸ノ帰便ヲ以テ、取リ敢へズ実地踏査、御届ケニ及ブベク候条、国標取建等ノ儀、ナホ御指揮ヲ請ケタク、此段兼テ申上候也

  明治十八年九月二十二日
           沖縄県令 西村捨三
   内務卿伯爵 山県有朋殿」

 この上申書によって、いくつかの重要なことがわかる。

 第一に、内務省は沖縄県に、福州・琉球間の無人島の「取調べ」を「内命」したのはなぜか。なぜ公然と正式に命令しなかったか。

 第二に、ここには、それらの島に「国標」=日本国の領土であるとの標柱を建設する問題が出されているが、これは沖縄県が言い出したことか、内務省が言い出したことか。

 この二つの問題は関連する。国標取建ては、上申書の文脈から見て内務省の発案にちがいない。内務省−−内務卿は天皇制軍国主義の最大の推進者山県有朋である−−は、琉球をもっぱら軍事的見地から重視するとともに、その先の島々も日本領とする野心をいだき、その実現のために必要な調査を沖縄県に命じた。ただし、事が国際関係にふれ、日本と清国がはげしく対立している現状で、公然と正式に命令すると、どういう障害がおこるかわからないので、「内命」したのであろう。

 第三に、この内命をうけた沖縄県では、「久米赤島」などを日本領とし沖縄県に属させてもよさそうなものだが、必ずしもそうはいかない、とためらっている。その理由は、これらの島々が『中山傳信録』に記載されている釣魚島などと同じものであると思われるからである。同じものとすれば、この島々のことはすでに清国側でも「詳悉セル(くわしく知っている)ノミナラズ、各々名称ヲモ附シ、琉球航海ノ目標ト為セシコト明ラカナリ」。つまり、これは中国領らしい。「依テ」この島々に、無主地であることの明白な大東島と同様に、実地踏査してすぐ国標を建てるわけにはいかないだろう、としたのである。

 沖縄県令の以上のようなしごく当然な上申書を受けたにもかかわらず、山県内務卿は、どうしてもここを日本領に取ろうとして、そのことを太政官の会議(後の閣議に相当する)に提案するため、まず十月九日、外務卿に協議した。その文は、たとえ「久米赤島」などが『中山傳信録』にある島々と同じであっても、その島はただ清国船が「針路ノ方向ヲ取リタルマデニテ、別ニ清国所属ノ証跡ハ少シモ相見ヘ申サズ」、また「名称ノ如キハ彼ト我ト各其ノ唱フル所ヲ異ニシ」ているだけであり、かつ「沖縄所轄ノ宮古、八重山等ニ接近シタル無人ノ島嶼ニコレ有リ候ヘバ」、実地踏査の上でただちに国標を建てたい、というのであった。この協議書は、釣魚諸島を日本領にする重要な論拠に、この島が沖縄所轄の宮古・八重山に近いことをあげているが、もしも八〇〜八二年の琉球分島・改約の方針が持続されていたら、こういう発想はできなかったであろう。

 これに対し外務卿井上馨は、次のように答えている。

 「十月廿一日発遣
 親展第三十八号
           外務卿伯爵 井上 馨
  内務卿伯爵 山県有朋殿

 沖縄県ト清国福州トノ間ニ散在セル無人島、久米赤島外二島、沖縄県ニ於テ実地踏査ノ上国標建設ノ儀、本月九日付甲第八十三号ヲ以テ御協議ノ趣、熟考致シ候処、右島嶼ノ儀ハ清国国境ニモ接近致候。サキニ踏査ヲ遂ゲ候大東島ニ比スレバ、周回モ小サキ趣ニ相見ヘ、殊ニ清国ニハ其島名モ附シコレ有リ候ニ就テハ、近時、清国新聞紙等ニモ、我政府ニ於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促ガシ候モノコレ有ル際ニ付、此際ニワカニ公然国標ヲ建設スル等ノ処置コレ有リ候テハ清国ノ疑惑ヲ招キ候間、サシムキ実地ヲ踏査セシメ、港湾ノ形状并ニ土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ、国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方然ルベシト存ジ候。
 且ツサキニ踏査セシ大東島ノ事并ニ今回踏査ノ事トモ、官報并ニ新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ候間、ソレゾレ御注意相成リ置キ候様致シタク候。
 右回答カタガタ拙官意見申進ゼ候也。」

 この外務卿の回答は、山県内務卿とはちがって、清国との関係を重視している。山県は、たとえ中国が島名をつけてあっても、(1)中国領であるとの証跡がなく、(2)島の名称は、日本と清国でちがうというだけのことで気にすることはない、そして(3)八重山に近い、(4)無人島であるから、日本領にしよう、というのだが、井上外務卿は、そういう論点には一つも同意しないばかりか、かえって、(1)それらの島は沖縄に近いと同様に中国の「国境」(中国本土のこと)にも近いことを強調し、(2)ことに清国ではその名をつけていることを重視する、(3)清国人は、日本が台湾近くの清国の島(釣魚諸島もその一つである)を占領することを警戒し、日本を疑っている。こういうさいだから、いま国標をたてるのは反対であるという。

 つまり、井上外務卿は、沖縄県の役人と同様に、釣魚諸島は清国領らしいということを重視し、ここを「このさい」「公然」と日本領とするなら、清国の厳重な抗議を受けるのを恐れたのである。それゆえ彼は、日本がこの島を踏査することさえ、新聞などにのらないよう、ひそかにやり、一般国民および外国とりわけ清国に知られないよう、とくに内務卿に要望した。しかし、この島を日本のものとするという原則は、井上も山県と同じである。ただ、今すぐでなく、清国の抗議を心配しなくてもよいような「他日ノ機会」にここを取ろうというのである。山県も井上の意見を受けいれ、この問題は太政官会議にも出さなかった。

 ついで同年十一月二十四日付で、沖縄県令から内務卿ヘ、かねて命令されていた無人島の実地調査の結果を報告し、かつ、「国標建設ノ儀ハ、嘗テ伺(うかがい)書ノ通リ、清国トノ関係ナキニシモアラズ、万一不都合ヲ生ジ候テハ相済マザルニ付キ、如何取計(はか)ライ然ルベキヤ」、と至急の指揮をもとめた。これに対しては、内務・外務両卿の連名で、十二月五日、「書面伺ノ趣、目下建設ヲ要セザル儀ト心得ベキ事」と指令した。

(註)以上の沖縄県、内・外両卿の往復文書はすべて、『日本外交文書』第一八巻「雑件」中の「版図関係雑件」にある。また前掲の『沖縄』五六号にもある。

 以上の政府文書により、一八八五年の政府部内および沖縄県の釣魚諸島領有をめぐる往復は、(1)まず内務省が、この地方領有の意図をもって沖縄県にその調査を内命したこと、(2)沖縄県は、ここは中国領かもしれないので、これを日本領とするのをためらったこと、(3)しかもなお内務省は領有を強行しようとしたこと、(4)外務省もまた、中国の抗議を恐れていますぐの領有には反対したこと、(5)その結果内務省もいちおうあきらめたこと、を示している。

 ところが琉球政府の例の声明「尖閣列島の領土権について」は、「尖閣列島は明治十年代の前半までは無人島であったが、十七年頃から古賀辰四郎氏が、魚釣島、久場島などを中心に、アホウ鳥の羽毛、綿毛、ベッ甲、貝類などの採取等を始めるようになった。こうした事態の推移に対応するため、沖縄県知事は、明治十八年九月二十二日、はじめて内務卿に国標建設を上申するとともに、出雲丸による実地踏査を届け出ています」という。 これは、どんなに事実をねじまげていることか。

 第一に、内務卿が先に沖縄県知事に釣魚島の調査を内命したことをかくし、第二に、沖縄県はここが清国領であるかもしれないからとの理由で国標建設をちゅうちょする意見を上申しているのに、それをあべこべにして、沖縄県から現地調査にもとづいて国標の建設を上申したようにいつわる。しかも第三に、古賀の釣魚島における事業の発展が、沖縄県の国標建設上申の機縁となっていることにしているが、このときはまだ古賀の事業は計画段階である。第四に、内務卿の意見に外務卿が、清国との関係悪化のおそれを理由に反対し、そのため内務卿もこのさいはあきらめざるをえなかったことを、すっかりかくしてしまっている。そして第五に、沖縄県が出雲丸による現地調査の結果を報告した同年十一月の「伺」でも、同県は重ねて、釣魚諸島に国標をたてることは、「清国トノ関係ナキニシモアラズ」としてためらっている。このこともすっかりかくしてしまい、たんに九月に現地調査をすると届け出たことのみしか書かない。その書き方も、調査結果を届け出て、それにもとづいて国標建設を上申したといわんばかりである。歴史の偽造もはなはだしい。

 この後も、日清両国の関係は、日本側から悪化させる一方であり、日本の対清戦争準備は着着と進行した。その間に、古賀辰四郎の釣魚島での事業も緒についた。そして一八九〇年(明治二十三年)一月十三日、沖縄県知事は、内務大臣に、次の伺いを出した。

 「管下八重山群島石垣島ニ接近セル無人島魚釣島外二島ノ儀ニ付、十八年十一月五日第三百八十四号伺ニ対シ、同年十二月五日付ヲ以テ御指令ノ次第モコレ有候処、右ハ無人島ナルヨリ、是マデ別ニ所轄ヲモ相定メズ、其儘ニ致シ候処、昨今ニ至リ、水産取締リノ必要ヨリ所轄ヲ相定メラレタキ旨、八重山役所ヨリ伺出デ候次第モコレ有リ、カタガタ此段相伺候也」(前掲『日本外交文書』第二三巻、「雑件」)

 沖縄県のこの態度は、八五年とはまったく反対である。今度は清国との関係は一言もせず、県から積極的に、古賀の事業の取締りを理由に、日本領として沖縄県の管轄にされるように願っている。このときの知事は、かつての西村県令が内務省土木局長のままで沖縄県令を兼任していたのとはちがって、内務省社寺局長から専任の沖縄県知事に転出した丸岡莞爾といい、沖縄に天皇制の国家神道を強要しひろめるのに努力した、熱烈な国家主義者である。そういう知事なればこそ、釣魚諸島と清国との関係はあえて無視して、古賀の事業取り締りを口実に、ここを日本領にとりこもうと積極的に動いたのであろう。

 これに対する内務、外務両省の協議の文書は見えないが、政府が何の指令もしなかったことは、次の節にかかげる明治二十七年(一八九四年)十二月二十七日付、内務大臣より外務大臣への協議書で知られる。

 さらにおどろくべきことに、日清戦争の前の年一八九三年(明治二十六年)十一月二日、沖縄県知事−−薩摩出身の有名な軍国主義者で沖縄人民をもっとも苛酷に圧制した、悪名高い奈良原繁−−は、一八九〇年一月の上申と同じ趣旨で、「魚釣島」(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を同県の所轄とし、標杭を建設したい旨を、内務、外務両大臣に上申した。これに対しても、両大臣は九〇年の上申に対するのと同様に、一年以上も何らの協議もしなかった(註)。

 (註)『日本外交文書』第一八巻「版図雑件」の「付記」「久米赤島、久場島及ビ魚釣島版図編入経緯」と題する文書に、「明治二十六年十一月二日、更ニ沖縄県知事ヨリ、当時ニ至リ本件島嶼へ向ケ漁業等ヲ試ムル者有ルニ付キ、之ガ取締ヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄ト為シ、標杭建設シタキ旨、内務外務大臣へ上申アリタリ、依テ二十七年十二月二十七日、内務大臣ヨリ……外務大臣へ協議……」とある。これで、二十六年十一月の沖縄県の上申は、一年以上も政府によって放置せられていたことがわかる。

 それのみでない、日清戦争が始められる明治二十七年になってもまだ、開戦前か後かわからないが、いずれにしても日本の清国に対する戦勝が確実になる以前のことであるが、例の古賀辰四郎が、釣魚島開拓の許可願いを沖縄県に出したところ、県は「同島の所属が帝国のものなるや否や不明確なりし為に」、その願いを却下した。そこで古賀は、「さらに内務・農商務両大臣に宛て請願書を出すと同時に、上京して親しく同島の実況を具陳して懇願したるも」、なお許可せられなかった。

 右のことは、『沖縄毎日新聞』の明治四十三年(一九一〇年)一月一日−九日号に連載された、「琉球群島における古賀氏の業績」という、古賀をたたえる文(註)中に書かれているが、もしも政府が、釣魚島を無主地と本心から見なしていたら、すでに対清戦備はほとんど完了している、あるいは開戦後かもしれないこの時点でもなお、同島の帰属不明ということで、古賀の請願を許可しない理由はないはずである。政府は、実はそこを中国領と知っていればこそ、まだ中国を打ち破っていないうちは、なおも慎重を期していたのであろう。

 (註)この新聞記事は、那覇市編集『那覇市史』史料篇第二巻に収録。

 天皇政府はこうして、一八八五年に釣魚諸島を中国から奪う腹をきめながら、そのための「他日ノ機会」を、九年間うかがいつづけた。

一二 日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った
 政府が古賀の懇願をしりぞけてまもなく、九年このかた待ちに待っていた、釣魚諸島略奪の絶好の機会がついに到来した。宣戦布告に先立つ日本軍の清国軍不意打ちで火ぶたを切った日清戦争で、日本の勝利が確実になった九四年末こそ、その機会であった。このとき天皇政府は断然、釣魚諸島を日本領とすることにふみ切った。まず十二月二十七日、内務省から外務省へ、去年十一月の沖縄県知事の申請に回答して、魚釣島と久場島に標杭をたてさせることについて、秘密文書で協議した。その本文は次の通りである(傍註は『日本外交文書』編者のもの【都合上傍註は内記載に変更した:巽】 )。

 「秘別第一三三号
 久場島、魚釣島へ所轄標杭建設ノ儀、別紙甲号ノ通リ沖縄県知事ヨリ上申候処、本件ニ関シ別紙乙号ノ通リ明治十八年貴省ト御協議ノ末指令ニ及ビタル次第モコレ有リ候へドモ、其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ、別紙閣議提出ノ見込ニコレ有リ候条、一応御協議ニ及ビ候也

  明治廿七年十二月廿七日
          内務大臣子爵 野村 靖(印)
   外務大臣子爵 陸奥宗光殿」

 この文末にいう「別紙」閣議を請う文案は次の通り。

 「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島、魚釣島ハ、従来無人島ナレドモ、近来ニ至リ該島へ向ケ漁業等ヲ試ムル者コレ有リ、之ガ取締リヲ要スルヲ以テ、同県ノ所轄トシ標杭建設致シタキ旨、同県知事ヨリ上申コレ有リ、右ハ同県ノ所轄ト認ムルニ依リ、上申ノ通リ標杭ヲ建設セシメントス。 右閣議ヲ請フ」

 この協議書は、九年前の同じ問題についての協議書とちがって、とくに朱書の「秘」とされていることが注目される。政府はよほどこの問題が外部にもれるのを恐れていたとみえる。

 外務省もこんどは何の異議もなかった。年が明けて一八九五年(明治二十八年)一月十一日、陸奥外相は野村内相に、「本件ニ関シ本省ニ於テ別段異議コレ無キニ付、御見込ノ通リ御取計相成リ然ルベシト存候」と答えた。ついで同月十四日の閣議で、前記の内務省の請議案文通りに、魚釣島(釣魚島)と久場島(黄尾嶼)を沖縄県所轄として標杭をたてさせることを決定、同月二十一日、内務大臣から沖縄県知事に、「標杭建設ニ関スル件請議ノ通リ」(註)と指令した。

 (註)『日本外交文書』第二三巻、「八重山群島魚釣島ノ所轄決定ニ関スル件」の「付記」。

 八五年には、清国の抗議をおそれる外務省の異議により、山県内務卿の釣魚諸島領有のたくらみは実現できなかった。九〇年の沖縄県の申請にも、政府は何の返事もしなかった。九三年の沖縄県の再度の申請さえ政府は放置した。それだのに、いま、こんなにすらすらと閣議決定にいたったのは何故だろう。その答えは、内務省から外務省への協議文中に、かつて外務省が反対した明治十八年の「其ノ当時ト今日トハ事情モ相異候ニ付キ」という一句の中にある。

 明治十八年と二十七年との「事情の相異」とは何か。十八年には古賀辰四郎の釣魚島における事業は、始まったばかりか、あるいはまだ計画中であったが、二十七年にはすでにその事業は発展し、「近来同島ニ向ケ漁業ヲ試ムル者アリ」、政府をしてその取締りの必要を感じさせるようになった、ということであろうか。それも「事情の相異」の一つとはいえる。しかし、それが唯一の、あるいは主要な「相異」であるならば、その相異はすでに明治二十三年にははっきりしている。その相異を理由に、沖縄県が、釣魚島に所轄の標杭をたてたいと上申したのに対して、政府は何らの指令もせずに四年以上もすごした。さらに二十六年十一月に、沖縄県が前と同じ理由で重ねて標杭建設を上申したのに対しても、政府は返事をしなかった。その政府が二十七年十二月末になって、そのとき沖縄県から改めて上申があったわけではないのに、突如として一年以上も前の上申書に対する指令という形で、釣魚諸島の領有に着手したのであるから、漁業取締りの必要が生じたということは、九年前と今との「事情の相異」の唯一の点でないのはもとより、主要な点でもありえない。決定的な「相異」は、べつのところになければならない。

 明治二十三年にも二十六年にも、政府はまだ日清戦争をはじめてはいない。さらに二十七年に古賀が釣魚島開拓を願い出た月日が、日清戦争前であればもとよりのこと、たとえ開戦直後であっても、まだ日本は清国に全面的に勝利していたわけではない。だが、その年十二月初めには、すでに日本の圧倒的勝利は確実となり、政府は講和条件の一項として、清国から台湾を奪い取ることまで予定している。これこそが、釣魚諸島を取ることに関連する「事情」の、以前といまとの決定的な「相異」である。

 日清戦争は、陸でも海でも日本軍の連戦連勝であった。九四年九月、日本陸軍は朝鮮の平壌の戦闘で、海軍は黄海の海戦で、いずれも決定的な勝利をかちとった。つづいて陸軍の第一軍は、十月下旬までにことごとく鴨緑江を渡り、十一月中旬には大東溝・連山関を攻略、第二軍は、十月下旬に清国遼東半島の花園口に上陸、十一月上旬に金州城を奪い、大連湾砲台を攻略し、同月二十一日には連合艦隊と協力して旅順口をも占領した。この間に海軍は、清国海軍の主力北洋艦隊を、渤海湾口の威海衛にひっそくさせた。

 戦局の推移を注目していたイギリスは、早くも十月八日、駐日公使をして、日本政府に講和の条件を打診させた。そのころから政府は、日本の圧倒的勝利を確信し、清国から奪い取るベき講和条件の具体的検討をはじめた。その重要条件の一つは、台湾を割譲させることであった。

 清国側でも、総理衙門の恭親王らは、十月初めにすでに、清国の敗戦をみとめて早期講和を主張しており、十一月初めには、抗戦派の総帥である北洋大臣李鴻章も、早く講和するほかないことをさとった。

 この情勢の中で、十一月末から十二月初めにかけて、これから大陸では厳寒に向う冬期において、日本はどのような戦略をとるべきか、大本営では意見が分れた。一方は、勢いに乗じてただちに北京まで進撃せよと主張した。他方は、冬期はしばらく兵を占領地にとどめ、陽春の候をまって再び進撃せよ、という。

 このとき首相伊藤博文は、明治天皇の特別の命令により、文官でありながら、本来は陸海軍人のみによって構成される大本営の会議に列席していた。彼は十二月四日、冬期作戦に関する論争を批判し、独自の戦略意見を大本営に提出した。その要旨は次の通りである。

 北京進撃は壮快であるが、言うべくして行なうべからず、また現在の占領地にとどまって何もしないのも、いたずらに士気を損うだげの愚策である。いま日本のとるべき道は、必要最小限の部隊を占領地にとどめておき、他の主力部隊をもって、一方では海軍と協力して、渤海湾口を要する威海衛を攻略して、北洋艦隊を全滅させ、他日の天津・北京への進撃路を確保し、他方では台湾に軍を出してこれを占領することである。台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決しておこらない。最近わが国内では、講和のさいには必ず台湾を割譲させよという声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがよい(春畝公追頌会編『伊藤博文傳』下)。

 大本営は伊藤首相の意見に従った。威海衛攻略作戦は、翌一八九五年一月下旬に開始され、二月十三日、日本陸海軍の圧勝のうちに終った。この間に台湾占領作戦の準備も進み、九五年三月の中ごろ、連合艦隊は台湾の南端をまわって澎湖列島に進入し、その諸砲台を占領した。さらに、ここを根拠地として、台湾攻略の用意をととのえているうちに、日清講和談判が進行して、清国をして台湾を割譲させることは確実となったので、連合艦隊は四月一日佐世保に帰航する。

 天皇政府が釣魚諸島を奪い取る絶好の機会としたのは、ほかでもない、政府と大本営が伊藤首相の戦略に従い、台湾占領の方針を決定したのと同時であった。一八八五年には、政府は、釣魚諸島に公然と国標をたてたならば、清国の「疑惑ヲ招キ」紛争となることをおそれたのだが、いま日本が釣魚諸島に標杭をたてても、清国には文句をつけてくる力などはない。たとえ抗議してきても一蹴するまでのことである。政府はすでに台湾占領作戦を決定し、講和のさいには必ずここを清国から割き取ることにしている。この鼻息荒い政府が、台湾と沖縄県との間にある釣魚島のような小さな無人島は、軍事占領するまでもない、だまって、ここは沖縄県管轄であると、標杭の一本もたてればすむことである、と考えたとしてもふしぎではない。

 釣魚諸島を沖縄県管轄の日本領としようという閣議決定は、このようにして行なわれた。しかるに本年三月八日の外務省の「尖閣列島」の領有権に関する「見解」は、「尖閣列島は、明治十八年以降、政府が再三にわたって現地調査を行ない、単にこれが無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、同二十八年一月十四日、現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行ない……」という。これがいかにでたらめであるかは、本論文のこれまでの各節によって、まったく明白であろう。

 明治政府が釣魚諸島の領有に関して現地調査をしたことは、一八八五年の内務大臣内命による沖縄県の調査があるだけである。しかもその調査結果を内務省に報告したさいの沖縄県令の「伺」は、「国標建設ノ儀ハ、清国トノ関係ナキニシモアラズ、万一不都合ヲ生ジ候テハ相スマズ」と、この島に対する清国の権利を暗にみとめて、国標の建設をちゅうちょしている。すなわち沖縄県の調査の結果は、この島の日本領有を正当化するものにはならなかった。この後政府は改めてこの地の領有権関係の調査をしたことはない。したがって、これらの島々に「清国の支配が及んでいないことを慎重に確認した」というのも、まったくのうそである。そんなことを「慎重に確認した上で」、釣魚諸島領有の閣議決定はなされたのではない。一八八五年には清国の抗議を恐れなければならなかったが、いまは対清戦争に大勝利をしており、台湾までも奪いとる方針を確定しているという、以前と今との決定的な「事情の相異」を、「慎重に確認」した上で、九五年一月の閣議決定はなされたのである。

 閣議決定とそれによる内務省から沖縄県への指令(一月二十一日)は、日清講和条約の成立(九五年四月十七日調印、五月八日批准書交換)以前のことである。したがって、いま政府がいうように、その閣議決定によって釣魚諸島の日本領編入が決定されたとすれば−−閣議で領有すると決定しただけでは、現実に領有がなされたということにはならないが、かりにいま政府のいう通りだとすれば、それらの島は、日清講和条約第二条の清国領土割譲の条項によって日本が清国から割き取ったものには入らない。しかし、講和条約の成立以前に奪いとることにきめたとしても、これらの島々が歴史的に中国領であったことは、すでに十分に考証した通りである。その中国領の島を日本領とすることには、一八八五年の政府は、清国の抗議をおそれて、あえてふみきれなかったが、九五年の政府は、清国との戦争に大勝した勢いに乗じて、これを取ることにきめた。

 すなわち、釣魚諸島は、台湾のように講和条約によって公然と清国から強奪したものではないが、戦勝に乗じて、いかなる条約にも交渉にもよらず、窃かに清国から盗み取ることにしたものである。

一三 日本の「尖閣」列島領有は国際法的にも無効である
 日本が「尖閣列島」を「領有」したのは、時期的にたまたま日清戦争と重なっていただけのことで、下関条約によって台湾の付属島嶼として台湾とともに清国に割譲させたものではない、したがってこの地はカイロ宣言にいうところの、「日本国が清国人から盗取した」ものではない、というものがある。たとえば日本共産党の「見解」がそれである。たしかに、この地は下関条約第二条によって公然と正式に日本が清国から割き取ったものではない。けれども、この地の日本領有は、偶然に日清戦争の勝利の時期と重なっていたのではなく、まさに日本政府が意識的計画的に日清戦争の勝利に乗じて、盗み取ったものである。このことは、本論の前二節に詳述した、一八八五年以来の本島の領有経過によって明白である。

 朝日新聞の社説「尖閣列島と我が国の領有権」(一九七二年三月二十日)は、もし釣魚諸島が清国領であったならば、清国はこの地の日本領有に異議を申し立てるべきであった、しかるに「当時、清国が異議を申立てなかったことも、このさい指摘しておかねばならない。中国側にその意思があったなら、日清講和交渉の場はもちろん、前大戦終了後の領土処理の段階でも、意思表示できたのではなかろうか」という。

 しかし、日清講和会議のさいは、日本が釣魚諸島を領有するとの閣議決定をしていることは、日本側はおくびにも出していないし、日本側が言い出さないかぎり、清国側はそのことを知るよしもなかった。なぜなら例の「閣議決定」は公表されていないし、このときまでは釣魚島などに日本の標杭がたてられていたわけでもないし、またその他の何らかの方法で、この地を日本領に編入することが公示されてもいなかったから。したがって、清国側が講和会議で釣魚諸島のことを問題にすることは不可能であった。

 また、第二次大戦後の日本の領土処理のさい、中国側が日本の釣魚諸島領有を問題にしなかったというが、日本と中国との間の領土問題の処理は、まだ終っていないことを、この社説記者は「忘れて」いるのだろうか。サンフランシスコの講和会議には、中国代表は会議に招請されるということさえなかった。したがって、その会議のどのような決定も、中国を何ら拘束するものではない。また当時日本政府と台湾の蒋介石集団との間に結ばれた、いわゆる日華条約は、真に中国を代表する政権と結ばれた条約ではないから−−当時すでに中華人民共和国が、真の唯一の全中国の政権として存在している−−その条約は無効であって、これまた中華人民共和国をすこしも拘束するものではない。すなわち、中国と日本との間の領土問題は、まだことごとく解決されてしまっているわけではなく、これから、日中講和会議を通じて解決されるべきものである。それゆえ、中国が最近まで、釣魚諸島の日本領有に異議を申し立てなかったからとて、この地が日本領であることは明白であるとはいえない。

 明治政府の釣魚諸島窃取は、最初から最後まで、まったく秘密のうちに、清国および列国の目をかすめて行なわれた。一八八五年の内務卿より沖縄県令への現地調査も「内命」であった。そして外務卿は、その調査することが外部にもれないようにすることを、とくに内務卿に注意した。九四年十二月の内務大臣より外務大臣への協議書さえ異例の秘密文書であった。九五年一月の閣議決定は、むろん公表されたものではない。そして同月二十一日、政府が沖縄県に「魚釣」、「久場」両島に沖縄県所轄の標杭をたてるよう指令したことも、一度も公示されたことがない。それらは、一九五二年(昭和二十七年)三月、『日本外交文書』第二三巻の刊行ではじめて公開された。

 のみならず、政府の指令をうけた沖縄県が、じっさいに現地に標杭をたてたという事実すらない。日清講和会議の以前にたてられなかったばかりか、その後何年たっても、いっこうにたてられなかった。標杭がたてられたのは、じつに一九六九年五月五日のことである。すなわち、いわゆる「尖閣列島」の海底に豊富な油田があることが推定されたのをきっかけに、この地の領有権が日中両国側の争いのまととなってから、はじめて琉球の石垣市が、長方型の石の上部に左横から「八重山尖閣群島」とし、その下に島名を縦書きで右から「魚釣島」「久場島」「大正島」およびピナクル諸嶼の各島礁の順に列記し、下部に左横書きで「石垣市建之」と刻した標杭をたてた(註)。これも法的には日本国家の行為ではない。

 (註)「尖閣群島標柱建立報告書」、前掲雑誌『沖縄』所収。

 つまり、日本政府は、釣魚諸島を新たに日本領土に編入したといいながら、そのことを公然と明示したことは、日清講和成立以前はもとより以後も、つい最近まで、一度もないのである。「無主地」を「先占」したばあい、そのことを国際的に通告する必要は必ずしもないと、帝国主義諸国の「国際法」はいうが、すくなくとも、国内法でその新領土の位置と名称と管轄者を公示することがなければ、たんに政府が国民にも秘密のうちに、ここを日本領土とすると決定しただけでは、まだ現実に日本領土に編入されたことにはならない。

 釣魚諸島が沖縄県の管轄になったということも、何年何月何日のことやら、さっぱりわからない。なぜならそのことが公示されたことがないから。この点について、琉球政府の一九七〇年九月十日の「尖閣列島の領有権および大陸棚資源の開発権に関する主張」は、この地域は、「明治二十八年一月十四日の閣議決定をへて、翌二十九年四月一日、勅令第十三号に基づいて日本の領土と定められ、沖縄県八重山石垣村に属された」という。

 これは事実ではない。「明治二十九年勅令第十三号」には、このようなことは一言半句も示されていない。次にその勅令をかかげる。

 「朕、沖縄県ノ郡編成ニ関スル件ヲ裁可シ、茲(ここ)ニコレヲ公布セシム。

  御名御璽

 明冶二十九年三月五日

        内閣総理大臣侯爵 伊藤博文

        内務大臣     芳川顕正

  勅令第十三号

第一條 那覇・首里区ノ区域ヲ除ク外沖縄県ヲ盡シテ左ノ五郡トス。

 島尻郡  島尻各間切(まきり)、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島、鳥島及ビ大東島

 中頭郡  中頭各間切

 国頭郡  国頭各間切及ビ伊江島

 宮古郡  宮古諸島

 八重山郡 八重山諸島

第二條 郡ノ境界モシクハ名称ヲ変更スルコトヲ要スルトキハ、内務大臣之ヲ定ム。

  附則

第三條 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム。」

 この勅令のどこにも、「魚釣島」や「久場島」の名はないではないか。むろん「尖閣列島」などという名称は、この当時にはまだ黒岩恒もつけていない。琉球政府の七〇年九月十七日の声明「尖閣列島の領土権について」は、右の三月の勅令が四月一日から施行されたとして、そのさい「沖縄県知事は、勅令第十三号の『八重山諸島』に尖閣列島がふくまれるものと解釈して、同列島を地方行政区分上、八重山郡に編入させる措置をとったのであります。……同時にこれによって、国内法上の領土編入の措置がとられたことになったのであります」という。

 これはまた恐るべき官僚的な独断のおしつけである。勅令第十三号には、島尻郡管轄の島は、いちいちその名を列挙し、鳥島と大東島という、琉球列島とは地理学的には隔絶した二つの島もその郡に属することを明記しているのに、八重山郡の所属には、たんに「八重山諸島」と書くだけである。この書き方は、これまで八重山諸島として万人に周知の島々のみが八重山に属することを示している。これまで琉球人も、釣魚諸島は八重山群島とは隔絶した別の地域の島であり、旧琉球王国領でもないことは、百も承知である。その釣魚諸島を、今後は八重山諸島の中に加えるというのであれば、その島名をここに明示しなければ、「公示」したことにはならない。当時の沖縄県知事が、釣魚諸島も八重山群島の中にふくまれると「解釈」したなどと、現在の琉球政府がいくらいいはっても、釣魚島や黄尾嶼が八重山郡に属すると、どんな形式でも公示されたことはない、という事実を打ち消すことはできない。

 じっさい、この勅令は、もともと釣魚諸島の管轄公示とは何の関係もない、沖縄県に初めて郡制を布く(これまで郡制は沖縄県にはなかった)ということの布告にすぎないのである。

 釣魚諸島は、事実上は何年何月何日かに沖縄県管轄とせられたのであろう。あるいはそれは明治二十九年四月一日であったかもしれない。しかし、そのことが公示されたことがないかぎり、いま政府などがさかんにふりまわす帝国主義の「国際法」上の「無主地先占の法理」なるものからいっても、その領有は有効に成立していない。

 明治政府は、どこかの無主地の島を新たに日本領土としたばあいには、その正確な位置、名称および管轄を公示することの決定的重要性はよく知っていた。釣魚諸島を奪いとる四年前、一八九一年(明治二十四年)、小笠原島の南々西の元無人島を日本領土に編入したさいにも、まず同年七月四日、内務省から外務省に次のように協議した。

 「小笠原島南々西沖合、北緯二十四度零分ヨリ同二十五度三十分、東経百四十一度零分ヨリ同百四十一度三十分ノ間ニ散在スル三個ノ島嶼ハ、元来無人島ナリシガ、数年来、内地人民ノ該島ニ渡航シ、採鉱、漁業ニ従事スル者コレ有ルニ付キ、今般該島嶼ノ名称、所属ニ関シ、別紙閣議ニ提出ノ見込ニコレ有リ候。然ルニ右ハ国際法上ノ関係モコレ有ルベシト存候ニ付キ、一応御協議ニ及ビ候也。」

 「別紙」の閣議提出案には、この島の緯度・経度を明記し、かつ、「自今小笠原島ノ所属トシ、其ノ中央ニ在ルモノヲ硫黄島ト称シ、其ノ南ニ在ルモノヲ南硫黄島、其ノ北ニ在ルモノヲ北硫黄島ト称ス」と、その所属と島名の案も示してある。外務省もこれに異議なく、ついで閣議決定をへて、明治二十四年九月九日付勅令第百九十号として、『官報』に、その位置、名称及び所管庁が公示された。さらに、そのことは当時の新聞にも報道せられた(『日本外交文書』第二四巻「版図関係雑件」、『新聞集成明治編年史』)。

 さらに、釣魚諸島の「領有」より後のことであるが、一九〇五年(明治三十八年)、朝鮮の鬱陵島近くの、それまでは「松島」あるいは「リャンコ島」として、隠岐島や島根県沿岸の漁民らに知られていた無人島を、新たに「竹島」と名づけて日本領に編入(註)したさいも、一月二十八日に閣議決定、二月十五日、内務大臣より島根県知事に「北緯三十七度三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島ヲ竹島ト称シ、自今其ノ所属隠岐島司ノ所管トス。此ノ旨管内ニ告示セラルベシ」と訓令した。そして島根県知事は、二月二十二日内相訓令通りの告示をした(大熊良一「竹島史稿」)。

 (註)この「竹島」を日本領としたことは、朝鮮国領土の略奪であると朝鮮側が主張していることは、周知のことであろう。私はまだこの問題を十分に研究していないが、この領有は無主地の先占であるという、自民党調査役大熊良一の「竹島史稿」の説には、大いに疑問をもっている。

 「竹島」領有の経過を詳述した自由民主党調査役大熊良一は次のようにのべている。「このような(竹島領有のばあいのような)閣議決定の領土編入についての公示が、直ちに国の主権に及ぶという手続きは、明治初年いらい明治政府によってとられてきた慣行であり、こうした事例によって無主の島嶼が日本国領土に編入された事例が多くある。硫黄島(一八九一年)や南鳥島(一八九八年)さらに沖の鳥島(一九二五年)などの無人の孤島が、日本国の領土に編入され、それが国際的にも認知されるに至った公示の手続きは、すべてこの竹島の国土編入の手続きと同じように、地方庁たる府県告示をもって行なわれたのである。」(硫黄島は前記の通り、勅令で公示されている−−井上)

 帝国主義支配政党である自由民主党調査役でさえ、この通り、新領土編入の場合にはその公示を必要とすることをみとめているが、釣魚諸島の領有についてだけは、それがまったく行なわれていない。日本政府は、この島々の緯度・経度も、名称も、所轄も、どんな形式によっても、ただの一度も公示せず、すべて秘密のうちに、日清戦争の勝利に乗じて、勝手に、いつのまにか日本領ということにしてしまった。これを窃かに盗んだといわずして何といおう。

 こういう次第であるから、現在政府や日本共産党や諸新聞が「尖閣列島」と称している島々の地理的範囲も、どこからどこまでのことか、いっこうにはっきりしない。またその「列島」内の個々の島の名称も、政府部内においてさえ、海軍省と内務省系統とはよび名がちがう。このことはすでに本論文の第七、八節でくわしくのべた。也国の領土を、内心ではそうと気づきながら、「無主地」だなどとこじつけ、こっそり盗みとるから、その「領有」を公示もできず、その「領有」の年月日も、その地域の正確な範囲も、位置も、その名称すらも一義的に確定できないのである。

 これが、彼らのいう「無主地の先占」の要件を一つも充たしていないことは、彼らが「硫黄島」や「竹島」を領有したしかたとくらべてみれば、誰にもすぐわかるであろう。

 釣魚諸島は本来無主地ではなく、れっきとした中国領であった。この地に「無主地の先占」の法理を適用すること自体が本来不可能であるが、かりに無主地であったと仮定しても、その「先占」なるものも、この通り日本領編入を有効に成立させるのに必要な法的手続きを行なっていない。真の無主地を、あるいは本気で無主地と信じている土地を、何らの悪意もなく領有するのではなく、内心では中国領と知りながら、戦勝に乗じてそこをかすめとるから、こういうことにならざるをえないのである。これはどうりくつをつけてみても、合法的な領有とはいえない。

 一八九五年、日清講和条約第二条で、台湾を日本が領有すると、ただちに、台湾の南側と、当時はスペイン領であったフィリピン群島との境界を、スペイン政府が問題にした。これについては、日本とスペイン両国府の交渉があり、同年八月七日の両国政府共同宣言(註)で、「バシー海峡ノ航行シ得ベキ海面ノ中央ヲ通過スル所ノ緯度平行線ヲ以テ、太平洋ノ西部ニ於ケル、日本国及ビスペイン国版図ノ境界線ト為スベシ」ということ、その他が決定され、日本領台湾とフィリピンの境界は明確にされた。

 (註)『日本外交文書』第二八巻第一冊「西太平洋ニ於ケル領海ニ関シ日西両国宣言書交換ノ件」。

 また同じ下関条約で日本が領有することになった、台湾の西側の澎湖列島の範囲については、条約にその緯度・経度が明示されていたから、これと中国その他の領土との境界も、はじめから明確であった。

 ただ、台湾およびその付属島嶼の北側と東側の境界については、講和条約に何の規定もなく、また、それに関する清国と日本との別段の取りきめも行なわれなかった。清国政府は、台湾はおろか本土の要地遼東半島までも一時は日本に割譲をよぎなくされるほどの敗戦の打撃で、いまだ一度も放棄したことのない琉球に対する清国の歴史的権利を主張する力さえ失っていた。まして琉球と台湾の中間にあるけし粒のような小島の領有権を、いちいち日本と交渉して確定するゆとりはなかったであろう。日本政府はそれをもっけの幸いとして、琉球に関する中国のいっさいの歴史的権利を自然消滅させるとともに、かねてからねらっていた釣魚島から赤尾嶼に至る中国領の島々をも、盗み取ってしまったのである。

一四 釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である
 日本政府や日本共産党が、どんなに歴史を偽造し、ねじまげ、事実をかくし、帝国主義の国際法なるものをもてあそんでも、中国の領土は中国の領土であり、日本が盗んだものは盗んだものである。

 したがって、日本が第二次世界大戦に敗れ、中国をふくむ連合国の対日ポツダム宣言を無条件に受諾して降伏した一九四五年八月十五日(降伏文書に正式調印したのは九月二日)から、釣魚諸島は、台湾・澎湖列島や「関東州」などと同じく、自動的にその本来の領有権者である中国に返還されているはずである。なぜなら、ポツダム宣言は、降伏後の日本の領土に関して、「カイロ宣言の条項は実行される」と定めてあり、そのカイロで発せられた中国、イギリス、アメリカの三大同盟国の共同宣言は、「三大同盟国の目的は……満洲、台湾、澎湖島のような、日本国が清国人から盗取したすべての地域を、中華民国に返還することにある」とのべているから(カイロ宣言中の「中華民国」は現在では、全中国の唯一の政権である中華人民共和国と読み替えるべきである)。

 釣魚諸島を盗み取った一八九五年以後に、日本政府がここを国内法的にどうあつかい、ここにどんな施設をしようとも、また古賀辰四郎が一八九六年九月、多年の宿願を達して釣魚全島を政府から「借地」し、そこで事業を盛大に営んだとしても、それらのことは、現在この島を日本領とする根拠には、まったくなり得ない。また、日本が盗み取っていた期間に、中国からそれについて一度も抗議が出なかったとしても、そのことは、「日本国が清国人から盗取したすべての地域」は中国に返還されなければならないという、カイロ宣言の実行を規定したポツダム宣言の効力に、何の影響もあたえるものではない。

 さらに、また日本が連合国に降伏した一九四五年八月以後も、アメリカ帝国主義が琉球列島とともに中国領釣魚諸島を占領しつづけ、さらに一九五二年四月二十八日発効のサンフランシスコ講和条約で、釣魚諸島をもひきつづき米軍の支配下に置くことが定められたことも、それらの島が歴史的に中国領であるという事実をすこしも変更するものではない。したがって現在、アメリカ政府から、釣魚諸島の「施政権」が、「南西諸島」の米軍施政権にふくまれるものとして、日本に「返還」されても、そのことによって、釣魚諸島があらためて日本領になるのではない。どこまでいっても、中国のものは中国のものである。

 それにもかかわらず、あらゆる歴史の真実と国際の正義にさからって、日本帝国主義は釣魚諸島を、いま、「尖閣列島」の名で、再び中国から奪い取ろうとしている。そして中国が、釣魚諸島はずっと昔から中国の領土である、この不法略奪はゆるさない、と正当な主張をすれば、日本政府のみならず、軍国主義・帝国主義に反対と自称する日本共産党も日本社会党も大小の商業新聞も、ことごとく、完全に帝国主義政府に同調して、何らの歴史学的証明もせず、高飛車に、ここが歴史的に日本領であることは自明であるとして、日本人民を、にせ愛国主義・排外主義・軍国主義の熱狂にかりたてようとしている。

 かつての天皇制軍国主義は、その最初の海外侵略のほこ先を、イギリスまたはアメリカにはげまされ、支持され、指導までされて、まず朝鮮・台湾に向け、それとの関連で、島津藩の半植民地琉球王国を名実ともに滅ぼして天皇制の植民地とし、やがて日清戦争に突入した。そしてその戦争の勝利が確実となるやいなや、琉球の向うの中国領釣魚諸島を盗み取った。これが近代日本の支配者が奪いとった百パーセント外国領土の最初の地であった。そしてこの天皇制軍国主義は、その後の日本帝国主義の、とめどもない朝鮮、中国、アジアの侵略につらなり「発展」していった。

 それとまったく同じ型の道を、いま、第二次大戦の惨敗から再起した日本帝国主義支配層は、アメリカ帝国主義にはげまされ、援助され、指導どころか指揮までうけて、まっしぐらに突進している。一九六五年の「日韓条約」、六九年の佐藤・ニクソン共同声明、そして本年五月十五日発効の「南西諸島」−−琉球と釣魚諸島その他の島−−の「施政権」をアメリカから日本に「返還」するという日米協定による、これらの地域の日米共同軍事基地化は、明治の天皇制軍国主義の歩んだと同じ道である。そして釣魚諸島が、日本の奪いとる外国領土の最初の地であるということまで、天皇制軍国主義そっくりそのままである。この次のねらいは台湾と朝鮮であろうか。

 火事は最初の一分間に消しとめなければならない。いまわれわれが、日本支配層の釣魚諸島略奪を放任するならば、やがて加速度的に日本帝国主義のアジア侵略の大火は燃えひろがるであろう。ただし、朝鮮人民、中国人民、アジア人民は、昔のように日本帝国主義の野望の実現をゆるすことは、決してないであろう。

 帝国主義反対、軍国主義反対と、どんなに声高くさけんでも、アジア革命勝利を百万遍となえても、現実に、具体的に、その日本帝国主義・軍国主義が、すでに中国領釣魚諸島に侵略の手を着けていることに反対してたたかわなければ、そのいわゆる帝国主義・軍国主義反対は、現実には日本帝国主義・軍国主義を是認し支持することにしかならない。

 ましてや、「尖閣列島は日本領である」などといって、帝国主義政府と緊密に協力しながら、「尖閣列島」の軍事的利用はゆるさない、ここを平和の島にせよなどという、日本共産党などは、日本帝国主義の積極的な共犯者である。帝国主義が他国の領土を奪い取るのに全力をあげて協力しておいて、さてその奪い取ったものの使い方に、平和主義をよそおう注文をつけるのは、きわめて悪質な人だましである。これと同じことを、かつて一九二七年以来の日本帝国主義の中国侵略のさい、社会民衆党その他の右翼社会民主主義者がやった。いまの日共はそれと瓜二つである。

 「尖閣列島は日本のものでもない、中国のものでもない、それは人民のものである。われわれは、日本と中国の国家権力の領土争いには、どちらにも反対である」などといって、いかにも国際主義の人民の立場に立っているかの如く幻想するものがある。これこそ掛値なしの「革命的」空論である。その空論で現実の日本帝国主義を支援するものである。

 この地上から、いっさいの帝国主義と搾取制度が消滅させられ、いっさいの階級がなくなり、したがって国家も死滅する、遠い将来のことはいざ知らず、現在、すべての具体的現実的な、生きた人間は、階級に編成され、国家に区分されている。この現代の、生きた人民の国際主義の最大の任務は、帝国主義に反対することである。とりわけ帝国主義国の人民は、何よりもまず自国の帝国主義に反対しなげればならない。たとえ自国帝国主義と他の帝国主義国とが戦争した場合にさえ、国際主義の人民・プロレタリアートは自国帝国主義に反対してたたかう。決してどちらにも反対などといってすましてはいない。まして自国帝国主義が、現代世界の反帝勢力の拠点である中国の領土を盗むのに反対しないような、反帝はありえない。現在、われわれが日本帝国主義の釣魚諸島略奪に反対するのは、それがまさに日本帝国主義の当面の侵略の目標であり、その達成によって日本帝国主義がいっそう侵略を拡大する出発点がつくられるからである。とくに中国領をとろうとするからそれに反対するのではなくて、外国領土を取ろうとする、これが再起した日本帝国主義の出発点であるから、今、すぐ、その出発点をつぶさなければならないのである。そうするのは、中国びいきの人であろうとなかろうと、中国のためにするのではなく、日本帝国主義下にある日本人民の国際主義の貫徹としてであり、だれよりもまず日本人民自身のためである。人民、あるいはプロレタリアートを、生命のない、抽象的観念と化してしまい、「人民」は日中両国家の領土争いには反対である、などとの空論にふけることは、日本帝国主義に反対する日本人民の国際主義のたたかいに水をぶっかけ、日本帝国主義を助けるものでしかない。

 またある人々は次のようにいう。軍国主義に反対の日本人民は、いま日本と中国との国交回復に全力をあげるべきである。そのためにまず解決すべきことは台湾問題である。日本の支配者たちをして、完全に蒋介石一派と絶縁して日台条約を破棄させ、台湾省は中国の一省であり、台湾省をもふくめて全中国を支配する唯一の政権は中華人民共和国であるということを公式に認めさせ、その中国と日本との国交回復をかちとることが当面の中心課題であって、釣魚諸島問題は、国交回復後に、日中両国政府が平和五原則にもとづいて話し合いで解決されるだろう、それまで釣魚諸島問題をさわぎたてない方がよい、などというのである。

 この説は、公然と明示されていないけれども、ひじょうに広く存在している。この説は、いま釣魚諸島問題をもちだせば、大衆は軍国主義者のあおるにせ愛国主義のとりこになり、反中国になり、日中国交回復をさまたげるものとみなしている。それと同時にこの主張は、中国政府は釣魚諸島問題が日中国交正常化の妨げにならないよう配慮している、と伝えられているのを頼りにしている。このように日本人民を信じないで、中国外交の賢明巧妙に頼るだけで、日本軍国主義とたたかうことが、どうしてできよう。われわれ日本人民は、中国政府のきめの細かい巧妙な外交に頼ってわれわれ自身のたたかいを放棄するのではなく、反対に今のうちにこそ、すなわち日中が国交正常化して、次の平和条約の交渉に移った段階で必然に釣魚諸島の帰属が日中両国政府間の交渉の重大案件として大きく前面に出て来る以前にこそ、われわれは声を大にして、釣魚諸島に関する歴史と道理を人民にうったえ、日本帝国主義の中国領釣魚諸島略奪反対のたたかいを広範に展開すべきである。いまそうしないで、この問題が日中政府間交渉の議題に上ったときに、ようやく、釣魚諸島は中国領だと正論を宣伝しようとしても、そのときはすでにおそし、政府、自民党、日共をはじめ各政党とマス・コミがいっせいにあおる、尖閣列島は日本のものだ、中国に屈服するな、などという反中国のにせ愛国主義と軍国主義の猛焔が、日本中をつつんでいることだろう。

 釣魚諸島略奪反対のたたかいは、後日ではなく、まさに今日、日本人民が全力をあげてとりくむべき、日本軍国主義・帝国主義反対の闘争の当面の焦点である。このたたかいに目をつむって、反帝も反軍国主義もありえない。釣魚諸島略奪反対の闘争と日中国交回復の闘争とを、切りはなしたり、甚しきは対抗させたりすることは、じつは日帝を援助することである。本気で、まじめに、具体的に、日本帝国主義軍国主義に反対してたたかおう。そのたたかいの、当面の最大の緊急の焦点である、日本帝国主義軍国主義の中国領釣魚諸島略奪反対に、全力をあげよう。

一五 いくつかの補遺
 この原稿が印刷所に入ってから後に、私は二つの、それぞれにちがった意味で、興味ある雑誌を見た。一つは、朝日新聞社発行の『朝日アジアレビュー』第十号である。これには「尖閣列島」問題が特集されている。もう一つは台湾の学粋雑誌社編『学粋』第十四巻第二期「釣魚台是中国領土専号」である(本年二月十五日付発行)。これらの論文を、いちいち紹介批評するのは、ここでの私の目的ではなく、これらに触発されて、私が考えたことを、本論文の補遺として、二、三書いておきたい。

 『朝日アジアレビュー』の高橋庄五郎の「いわゆる尖閣列島は日本のものか」の一節は、東恩納寛惇が琉球諸島は元来日本領であったことの証拠の一つとして、「オキナワ」その他の島名が日本語であることの意義を指摘しているのを引用し、その論法を釣魚諸島問題に適用し、これらの島が中国名であることに注意をうながしている。

 釣魚諸島は、明・清の時代には無人島ではあったが、決して無名の島ではなかった。りっぱな中国名をもっていた。ふつう国際法上の「無主地」として「先占」の対象になる島は、無人島であるばかりでなく、無名の島である。大洋中に孤立した無人島で、かつ、それに何国語の名もついていないならば、それは無主地であるとみなすことができようが、それに、れっきとした名称がついているばあいには、その名称をつけた者の属している国の領土である可能性が多い。

 釣魚諸島は、明・清時代の中国人の琉球への航路目標にされた。福州から琉球へ航するさい、まずこれこれの島を目標にし、ついでこれこれの島を目標にすると航路を確定するためには、その島々の位置を明らかにし、一定の名称をつけておかなければならない。こうして釣魚諸島には中国人によって中国語名がつけられ、かつそのことが中国の公的文献に記録され、伝承された。しかもその島々は、中国の沿海にあり、中国領であることは自明の島々につらなっている。のみならず、その島々のさらに先につらなる島は琉球語名がつけられており、はっきりと琉球領として中国語名の釣魚諸島とは区別されている。こういうばあいに、その中国名の島々を、「無主地」だなどと中国人はもとより琉球人も考えるわけはない。まして、本文でくわしく論じたように、中国名の赤尾嶼と琉球名の久米島との間が、「中外ノ界ナリ」と明記されている中国の文献が二つもあり、江戸時代日本人のこの島々を記録した唯一の文献『三国通覧図説附図』も、ここをはっきり中国領としているのだから、これでもなお、「無主地」ということは、とうていできない。

 高橋論文によって、私は島名の重要性を教えられたのだが、その論文が、釣魚諸島は下関条約第二条によって清国から日本に奪いとられたのではないか、としている疑問には、私は否定的に答える。高橋が指摘している通り、台湾・澎湖諸島とその付属島嶼の受け渡しは、「実に大ざっぱな形だけの受け渡し」であったことはまちがいない。それゆえ私も、『歴史学研究』二月号にのせた論文を書いたときは、高橋と同じように考えていたが、いまは本文第一二、一三節に書いた通り、ここは台湾略取と同時に、かつ台湾略取と政治的にも不可分の関連をもって、げんみつに時間的にいえば台湾より少し早く、法的には非合法に何らの条約にもよらず、清国から窃取したと考える。もしこの島々が、下関条約第二条にいう台湾付属の島(地理学的なことではない)として、台湾とともに日本に割譲されたものであれば、どうしてこの島は台湾総督の管下になくて沖縄県に所属させられたのか説明できない。明治十八年以来、天皇政府がこの島を盗みとろうとねらいつづけた全過程をみれば、この盗み取りが、日清戦争の勝利と不可分ではあるが、下関条約第二条との直接の関係はないと言わざるをえない。

 『朝日アジアレビュー』の奥原敏雄の「尖閣列島と領土帰属問題」は、「尖閣列島」日本領論者がいよいよその帝国主義的強盗の論理をむき出しにしたものとして「興味」深い。彼は書いている、「無主地を先占するに当っての国家の領有意思存在の証明は、国際法上かならずしも、閣議決定とか告示とか、国内法による正規の編入といった手続きを必要とするものではない。先占による領域取得にあたって、もっとも重要なことは実効的支配であり、その事実を通じ国家の領有意思が証明されれば十分である」(二〇ぺージ上段)と。彼はまた、「尖閣列島の自然環境や居住不適性を考えるならば、現実的占有にまで至らなくても、国家の統治権が一般的に及んでいたことを立証することができれば、国際法上列島に対する日本の領有権を十分に主張しうるといえよう」(二一ぺージ上段)ともいう。

 中国の封建王朝の領土支配の諸形態のうちの一つに、近代現代の主権国家の領土支配と同じしかたのいわゆる実効的支配が行なわれていないからといって、そこは「無主地」だと強弁する奥原が、日本国家の行為については、「尖閣列島」は自然環境が悪くて人が住むのに適していないから、そういう地域は「現実的占有」をしなくても、領有を「公示」しなくても、また日本領編入の国内法上の手続きをしなくても、日本政府がここを日本領とするときめて支配すれば、日本領である、とにかく、オレの領土として支配している所はオレの領土だ、というのである。これほど帝国主義的な自分勝手の議論がまたとあろうか。彼がこのように、なりふりかまわず、居直り強盗の論法をふりまわさざるをえないということこそ、釣魚諸島日本領論の完全な破綻を自らばくろするものである。

 奥原は、このような居直り強盗の論法で、明治十八年以来日本はここを領有し、「統治行為」を行なってきたのだと、あれこれの事をあげているが、ここが明治十八年以前に「無主地」であったという論証は、一字もしていない。彼はそれ以前の論文で、陳侃や郭汝霖の記述は、釣魚諸島が琉球領でないことを示すだけで、中国領であることを示すものではない、それは無主地であった、ということは証明ずみであるかのようによそおっている。だが、その説に対しては、私は『歴史学研究』本年二月号で、批判を加え、陳・郭の文章をどう読むのが正しいかを明らかにし、さらに、汪楫の使録で、赤尾嶼以西が中国領であることは、文言の上でも明確にされているという史料もあげておいた。奥原はこの批判に対しては、一言半句も反論もせず、すっかり無視したかのようである。彼は反論できないのである。

 釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる「先占」論も一挙に全面的に崩壊する。私はその証明を、今回の論文で、前回の『歴史学研究』論文よりも、いっそう明確にしたが、私見をさらに補強する史料が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪(ほうごう)という人の「『日本一鑑』和所記釣魚嶼」という論文である。

 『日本一鑑』は、一五五五年に、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により日本に派遣された鄭舜功(ていしゅんこう)が、九州滞在三年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確である。こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない。

 『朝日アジアレビュー』の特集の巻頭言「尖閣を日中正常化の障碍とするな」は、「尖閣列島」が歴史的には中国領であったことを、抹殺しようとつとめている。

 いわく「共産圏では大体、欧米より国家主義が強い。チェコで案内書の一節におどろかされた。いわく−−われらの祖先は、かつてアドリア海から北海にいたる地域を支配していた、と。

 妙な話だと思い、よく読んでみると、その大国は神聖ローマ帝国のこと。チェコの首都プラハは、大帝国の首都でもあったのである。

 歴史主義もこの場合ご愛嬌だが、世界各国がそれぞれの最盛期における版図を現在もし主張すれば、たいへんな騒動になるだろう。

 尖閣列島の問題も、歴史主義だけではかたづかない。」

 この一文はまるで、現代中国が、歴史上の中国の最大版図をいまの中国領であると主張しているかのように読者に印象づける。そして、同誌編集部のつくった「尖閣列島問題年史」は、一八七二年、日本政府が琉球国王尚泰を琉球藩王としたことからはじまり、それ以前の、陳侃使録以来、釣魚島が中国領と記録されている長い時代については、一字も書こうとしない。歴史をまったく無視抹殺している。

 この年表によれば、明治十八年九月、沖縄県令がここを沖縄県所管とする国標をたてるよう内務卿に上申したことになっている。これはうそである。事実は、内務卿が国標をたてようとして沖縄県に調査を内命したのに対して、沖縄県は調査の結果、ここは中国領らしいとの理由で、国標建設をためらう意見を出した。このことは本文にくわしくのべた。

 またこの年表は、一八八六年三月「海軍水路部『寰瀛水路誌』に尖閣列島に関する調査結果を発表」と書いている。これでみると、いかにも日本海軍が独自に調査したようであるが、実はそれは英国海軍水路誌の記述の抄訳であったことも、本文で明らかにした。さらにこの年表は、一八九六年四月一日「勅令第一三号による郡制の沖縄県施行により、沖縄県知事は尖閣列島を八重山郡に編入後国有地に指定(魚釣島、久場島、南小島、北小島)」とある。勅令第十三号云々のでたらめも本文で明らかにした。

 『朝日アジアレビュー』はこのように歴史を抹殺しながら、「国際問題に関心をもつ日本人の多くは、尖閣問題について語りたがらない。中国に悪く思われはせぬか、商売上の損になってはこまる、といった発想法であろう。だが意見は意見として述べないのは、信頼をえる道ではあるまい」などと、現在の事実をもねじまげる。

 「尖閣」問題について、国際関係に関心をもつ専門家も、歴史家も語ろうとしないのは事実である。私が『歴史学研究』にこの問題に関する論文を寄稿したら、編集長は、それをのせたということで、委員会でつるしあげられたらしい。釣魚諸島は歴史的に中国領であって無主地ではないことを考証した、学術論文を専門雑誌にのせることさえ、容易ではない。

 このようなことが起るのは、何も日本人が中国に気がねしてではない。まさにその逆である。日本の権力者、ジャーナリズム、右翼および日本共産党の顔色をうかがうからである。歴史学的にも、国際法論的にも、釣魚諸島は無主地だったとか、日本の領有は無主地の先占であるとか、まじめに、事実を事実とし論理を論理とするかぎり、いえたものではない。しかし、そういわないで、ここは中国領であったと正しいことをいえば、「国益に反する」「売国奴」として、さまざまの中傷・迫害をうける。領有問題がもっと尖鋭になれば、正論を吐くものへの迫害もいっそう尖鋭になろう。まして、議員選挙では、この正論は必ずしも得票と結びつかない。それどころか、自分自身がにせ愛国主義を克服しておらず、大衆は領土欲が強いものとひとりぎめにしている人々には、釣魚問題で正論をはけば大いに得票がへるだろうと恐ろしくてならない。議員候補者たらんとする者や政党はみなそう思っているので、日本共産党のように、積極的に、「尖閣は日本領だ」とどなりたてて、「にせ愛国主義」をあおって票をかせごうとするか、そこまでだらくできないものは黙っている、ということになるのである。学者でも、中国に気がねではなくて、日本の国家主義と日共に気がねして、正論をはくことがこわい以上は、「沈黙は黄金なり」をきめこんでいるのである。

 そして、「次元の低い国家主義」に反対と称する『朝日アジアレビュー』は、この島々の歴史をまったく無視して、歴史的論文は一篇ものせないばかりか、年表からさえも、これが中国領であることを示す事はすっぱりと切り棄てて、その上に巻頭言で、専門家よ、歴史にこだわるな、ここが日本領であると大声でさけべと煽動しているのである。

 こういう危険な状況に対して、反帝とか反軍国主義とか日中友好とかをいう人々が、毅然として立ちむかい、真実を真実として公然と発言することを切望する。「尖閣の問題は、歴史的事実がどうか、法律の上でどちらが正しいか、私などにはよくわからないので、だまっているほかない」などと、いいかげんな逃げ口上はやめて、わからなければ研究し調査して、どんどん発言しようではないか。これは、よくわからないですませられるような問題ではない。再起した日本帝国主義軍国主義に反対するかどうか。われわれ日本人民の前途にかかわる決定的な問題である。

 (一九七二年六月十一日追記。『中国研究月報』六月号)
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html#c2

[近代史3] 有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか? 中川隆
3. 中川隆[-12437] koaQ7Jey 2019年2月05日 09:36:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

井上清著の『「尖閣」列島 ――釣魚諸島の史的解明』(初版1972/再刊1996)
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html


は CML で岡山の野田さんが「大変、説得力をもつ論文」という詞書を添えられて紹介の労をとってくださっていましたので、私も読みました。そして、領有権と先占権についての私のこれまでの考え方がきわめて視野の狭い見方であり、考え方であったことに気づかされました。故井上清教授は日本外務省と日本共産党の領有と先占の考え方について完膚なきまでに徹底批判しています。


■「尖閣」列島 ――釣魚諸島の史的解明(井上清 初版1972/再刊1996)

先に中国側サイトで紹介されている井上教授の主張と「尖閣諸島問題」のホームページ及び「日本の領有は正当 尖閣諸島 問題解決の方向を考える」という赤旗の論評を読み比べて比較考証した際には気づかず、「尖閣諸島問題」の「中国の文献」の記述及び「尖閣諸島は明代・清代などの中国の文献に記述が見られますが、それは、当時、中国から琉球に向かう航路の目標としてこれらの島が知られていたことを示しているだけであり、中国側の文献にも中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住したことを示す記録はありません」という赤旗の論評の方に論の正当性を感じていたのですが、改めて故井上教授の上記論文の全文を熟読して井上教授の論の正しさを確認するに到りました。

尖閣諸島の領有に関する故井上教授の主張の要点は、下記の解釈の徹底さと正しさにあるように思います。


(1)『使琉球録』(1534年に中国の福州から琉球の那覇に航した明の皇帝の冊封使陳侃著)の「乃属琉球者」(乃チ琉球ニ属スル者ナリ)の解釈

(2)『重編使琉球録』(1562年に冊封使となった郭汝霖著)の「界琉球地方山也」(琉球地方ヲ界スル山ナリ)の解釈

(3)『籌海図編(胡宗憲が編纂した1561年の序文のある巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」)にまたがって地図として示されている「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が西から東へ連なっている事実の解釈。

(4)『使琉球雑録』巻五(1683に入琉清朝の第2回目の冊封使汪楫の使録)の「中外ノ界ナリ」(中国と外国の界という意味)の解釈

(5)『中山傳信録』(1719年に入琉した使節徐葆光の著)の姑米山について「琉球西南方界上鎮山」と記されている「鎮」(国境いや村境いを鎮めるの意。「鎮守」の鎮)の解釈

もちろん、故井上教授の「無主地先占の法理」なる国際法が「近代のヨーロッパの強国が、他国他民族の領土を略奪するのを正当化するためにひねりだした『法理』」でしかないこと、またその「法理」が「現代帝国主義にうけつがれ、いわゆる国際法として通用させられている」という論証からも多くのことを学びました。

そうして故井上清教授の論の徹底性と正しさに学びながら、杉原さんがCMLで紹介されている「他国の手が及んでいない領土を先に発見したり、先占したりすることでそれを自国領だと宣言しうるという発想そのものを俎上にのせる必要がある」(『北方領土問題』、岩下明裕、中公新書)という考え方などにも学び、尖閣沖中国漁船衝突事件によって改めて、あるいはにわかにクローズアップされるようになった尖閣諸島の領有権の帰属の問題、また「先占」取得に関する現在の国際法法理は、国際社会における最高意思の主体を国家とみなす1648年以来現代まで続いているウェストファリア体制(国民国家体制)のパワー・ポリティクスに基づく法理といわなければならないものであること。17世紀以来のパワー・ポリティクスに基づく「国家主権」を結果的に優先させてきた古い時代の法理(その法理は、近現代の植民地主義・帝国主義の国際法上の法理としても当然通用してきたわけですが)に基づく国際法を根拠にして「先占」取得の正当性を主張するたとえば外務省や日本共産党の考え方はいまや時代錯誤の考え方というべきであり、早急に改められなければならない考え方というべきだろう、ということに気づかされました。

私の先のエントリにおける「先占」取得に関する国際法法理を支持する考え方は、まったく視野の狭いものでした。領有権と先占の問題について先のエントリで述べた私の考え方は誤りであったことを認め、改めたいと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/8635877.html

私も歴史学者の故井上清教授の政治的立場を知らないわけではありません。しかし、井上論文の評価と彼の政治的立場は無関係ではありませんが切り離して考えるべきだと思います。そうしないと正しい論文評価はできません。論は論自体として読むのが正統な読み方だと思います。

さて、井上論文で指摘されている尖閣諸島の領有権の帰属の問題、また「先占」取得の問題を読み込むにあたって、私の中にあった第一の問題意識は、「尖閣諸島は明代・清代などの中国の文献に記述が見られますが、それは、当時、中国から琉球に向かう航路の目標としてこれらの島が知られていたことを示しているだけであり、中国側の文献にも中国の住民が歴史的に尖閣諸島に居住したことを示す記録はありません」(赤旗論評「日本の領有は正当 尖閣諸島 問題解決の方向を考える」)と捉える赤旗の論評は正確なものといえるかどうかという点にありました。

この点について井上論文は以下の論証をしています。

■「尖閣」列島 ――釣魚諸島の史的解明(井上清 初版1972/再刊1996)

第1。『使琉球録』(陳侃 1534年)に記述のある「乃属琉球者」(乃チ琉球ニ属スル者ナリ)の解釈と『重編使琉球録』(郭汝霖 1562年)に記述のある「界琉球地方山也」(琉球地方ヲ界スル山ナリ)の解釈について

以下、井上論文の該当部分を少し長いですが論証に必要な範囲内で要約します。

(1)『使琉球録』(陳侃 1534年)には次のような記述がある。「十日、南風甚ダ迅(はや)ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目接スルニ暇(いとま)アラズ。(中略)十一日夕、古米(くめ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ」。

(2)『重編使琉球録』(郭汝霖 1562年)には次のような記述がある。「閏五月初一日、釣嶼ヲ過グ。初三日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再一日ノ風アラバ、即チ姑米(くめ)山(久米島)ヲ望ムベシ」。

(3)上に引用した陳・郭の二使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深二千メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は琉球地方を界する山だというのは、同じことを、ちがった角度からのべていることは明らかである。

(4)なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというとき、その「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう一日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。

(5)こうみてくると、陳侃が、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の記述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなどは、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。

(6)政府、日本共産党、朝日新聞などの、釣魚諸島は本来は無主地であったとの論は、恐らく、国士館大学の国際法助教授奥原敏雄が雑誌『中国』七一年九月号に書いた、「尖閣列島の領有権と『明報』の論文」その他でのべているのと同じ論法であろう。奥原は次のようにいう。/陳・郭二使録の上に引用した記述は、久米島から先が琉球領である、すなわちそこにいたるまでの釣魚、黄尾、赤尾などは琉球領ではないことを明らかにしているだけであって、その島々が中国領だとは書いてない。「『冊封使録』は中国人の書いたものであるから、赤嶼が中国領であるとの認識があったならば、そのように記述し得たはずである」。しかるにそのように記述してないのは、陳侃や郭汝霖に、その認識がないからである。それだから、釣魚諸島は無主地であった、と。/たしかに、陳・郭二使は、赤嶼以西は中国領だと積極的な形で明記し「得たはずである」。だが、「書きえたはず」であっても、とくにその必要がなければ書かないのがふつうである。「書きえたはず」であるのに書いてないから、中国領だとの認識が彼らにはなかった、それは無主地だったと断ずるのは、論理の飛躍もはなはだしい。しかも、郭汝霖の「界」の字の意味は、前述した以外に解釈のしかたはないではないか。

上記の故井上教授の論証に私は「尖閣諸島は明代・清代などの中国の文献に記述が見られますが、それは、当時、中国から琉球に向かう航路の目標としてこれらの島が知られていたことを示しているだけであ」るという赤旗論評以上の説得力を感じます。郭汝霖のいう「界」が赤旗論評にいう「航路の目標」以上の当時の中国人の領有意識を示している記述であることは明らかというべきであろう、と井上教授ならずとも私も思います。


このまま故井上教授の論を引用していると本メールはあまりにも長くなりすぎますのでこれ以上の井上論文からの引用は避けたいと思います。各自におかれて先のメールで私が挙げた井上論文の5つの論点のうちの残された論点、すなわち、

(3)『籌海図編(胡宗憲が編纂した1561年の序文のある巻一「沿海山沙図」の「福七」〜「福八」)にまたがって地図として示されている「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」、「黄尾山」、「橄欖山」、「赤嶼」が西から東へ連なっている事実の解釈。
(4)『使琉球雑録』巻五(1683に入琉清朝の第2回目の冊封使汪楫の使録)の「中外ノ界ナリ」(中国と外国の界という意味)の解釈
(5)『中山傳信録』(1719年に入琉した使節徐葆光の著)の姑米山について「琉球西南方界上鎮山」と記されている「鎮」(国境いや村境いを鎮めるの意。「鎮守」の鎮)の解釈

の論点を熟読していただければ私としても幸いに思います。

ただ、坂井さんが「もう一つ、私が井上論文に違和感を感じるのは『七 琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった』と、断言しているところです。その箇所を何回読み返しても、それは本当なのかという疑問はわいてきます」という疑問を述べられていますので、この点について故井上教授の論をもう少し引用させていただこうと思います。この点について井上教授は次のように言っています。

琉球人の文献でも、釣魚諸島の名が出てくるのは、羽地按司朝秀(後には王国の執政官向象賢)が、一六五〇年にあらわした『琉球国中山世鑑』(略)巻五と、琉球のうんだ最大の儒学者でありまた地理学者でもあった程順則が、一七〇八年にあらわした『指南広義』の「針路條記」の章および付図と、この二カ所しかない。しかも『琉球国中山世鑑』では、中国の冊封使陳侃の『使琉球録』から、中国福州より那覇に至る航路記事を抄録した中に、「釣魚嶼」等の名が出ているというだけのことで、向象賢自身の文ではない。/また程順則の本は、だれよりもまず清朝の皇帝とその政府のために、福州から琉球へ往復する航路、琉球全土の歴史、地理、風俗、制度などを解説した本であり、釣魚島などのことが書かれている「福州往琉球」の航路記は、中国の航海書および中国の冊封使の記録に依拠している。

上記から釣魚諸島(尖閣諸島)に関する中国の文献に比して琉球人の文献は圧倒的に少ないこと、と言うよりも2冊しかないことがわかります。琉球人による同地に関する文献が少ないということは、琉球人の同地との関係も少なかったこと、「琉球人と釣魚諸島との関係は浅かった」ことをも客観的に推察させるものです。

さらに井上教授は琉球人の口碑伝説である『地学雑誌』や琉球学の大家である東恩納寛惇の『南島風土記』、さらには石垣市の郷土史家牧野清の「尖閣列島(イーグンクバシマ)小史」などなどの著作も探索し、釣魚諸島に関する琉球名称に混乱があることを指摘し次のように述べます。

この両島の琉球名称の混乱は、二十世紀以後もなお、その名称を安定させるほど琉球人とこれらの島との関係が密接ではないということを意味する。もしも、これらの島と琉球人の生活とが、たとえばここに琉球人がしばしば出漁するほど密接な関係をもっているなら、島の名を一定させなければ、生活と仕事の上での漁民相互のコミュニケイションに混乱が生ずるので、自然と一定するはずである。/現に、生活と仕事の上で、これらの列島と密接な関係をもった中国の航海家や冊封使は、この島の名を「釣魚」「黄尾」「赤尾」と一定している。この下に「島」、「台」、「嶼」、「山」とちがった字をつけ、あるいは釣魚、黄尾、赤尾の魚や尾を略することがあっても、その意味は同じで混乱はない。しかし、生活と密接な関係がなく、ひまつぶしの雑談で遠い無人島が話題になることがある、というていどであれば、その島名は人により、時により、入れちがうこともあろう。ふつうの琉球人にとって、これらの小島はそのていどの関係しかなかったのである。こういう彼らにとっては、「魚釣島」などという名は、いっこうに耳にしたこともない、役人の用語であった。

上記の井上論文の推定は学術的な資料探索に基づく根拠を持つ推定というべきであり、そこに琉球人を差別するなどの意図は微塵も感じられません。妥当な推定だと私は思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/8679002.html
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/8679031.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html#c3

[近代史3] 有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか? 中川隆
4. 中川隆[-12436] koaQ7Jey 2019年2月05日 09:37:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

問題は尖閣が琉球人のテリトリーかどうかという事ですね。

歴史的にも位置的にも尖閣は沖縄圏ではなく台湾圏なのです。

従って、無人島だからといって勝手に日本人が居住する事自体が犯罪になるのです:


縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古諸島・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。

これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


どうやら日本人は中国人より遥かに悪賢かったという事みたいですね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html#c4

[近代史3] 有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか? 中川隆
5. 中川隆[-12435] koaQ7Jey 2019年2月05日 09:41:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

尖閣列島は有史以来ずっと台湾先住民の漁場で、琉球とは何の関係も無かった _ 2

尖閣はむかしのエンジンのない船では、沖縄から行くのが難しい。

尖閣・沖縄の間を黒潮の激流(時速5kmほど)が流れていて、深い海であり
魚も少なく横断して尖閣まで行って、沖縄に帰って戻りにくい。

ところが台湾からだと順流と逆流を利用して、魚釣島まで魚を取って往復しやすい。
だからむかしから尖閣は台湾圏の漁民の漁場として利用されてきました。

大型船が福州から沖縄に行く時にも、黒潮の流れを利用して台湾北部に出て
魚釣島経由で沖縄に訪問し、逆に沖縄から福州に帰るときには黒潮を横断し
北部に流された形で魚釣島には寄らず、魚山経由で帰ってる(林子平図より)


尖閣と沖縄の間は深くて、黒潮の奔流が流れて横断は難しいが、大陸棚で浅瀬
の多い台湾・尖閣間は順流と逆流が複雑に流れて、どちらかの潮の流れに乗って
移動しますから心配はいりません。黒潮の色が黒いのは尖閣と沖縄の間。
黒潮の奔流といってもだいたい時速5kmくらいの、人間が歩く程度のスピードです。


>>07 貧しい先島諸島の漁民たちは、小さなサバニしか持っていなかったと思う

小さなサバニでは尖閣までは行けても、帰るのが大変だったでしょう。
黒潮に流されて那覇の方まで行き、そこから又先島に帰ってくるコースかな。
魚は帰り着く前に腐ってしまうかもな!

>>07 最近でも沖縄から尖閣列島周辺に出漁する漁船はいない。

この前のテレビでは石垣島からマグロ船が出てますが、高級で値の張る
マグロだけを狙っているのでしょう。さもなければ遠くには行かない。
大間の本マグロだったら大きなのは1匹で数百万という。
http://www.asyura2.com/12/china3/msg/270.html#c5


尖閣の領有権について現時点で確実なのは


西表や石垣島も10世紀までは台湾原住民が住んでいた。

沖縄-尖閣間は波が荒くて明治時代以前の小さな漁船では尖閣に行けない。

沖縄の人間も尖閣の事は殆んど知らなかった。

尖閣は台湾原住民が石器時代からずっと漁場としていた海域だから台湾の領土に決まってる。

中国人はそういう事を知らなかったから何も言わなかっただけ


尖閣諸島は中華人民共和国の領土では有り得ない


現在中国の支配地域・場所には、古くは夏〜殷、周王朝以来いろんな民族がやってきて興亡した場所であると言うだけで、中国という国家自体に何千年も歴史がある訳ではありません。

中国(中華人民共和国)自体は1949年10月1日に建国したばかりで、まだ建国60年を漸く越えたばかりの世界でも最も歴史の浅い新しい国の1つです。
(私の生まれたときどころか小学校入学時にさえ、まだなかった国です)
それまでの約300年間は異民族である女真族→後金→満州族(と順次呼称が変わります)が清朝として支配していた場所です。

ここでのテーマではありませんがついでに一言書いておきますと、中国と我が国の領土問題となるのは、中華人民共和国成立後の支配地域だけのことであって、中国自身が滅ぼした異民族(満州族)が持っていた領土に関して、征服?した中華人民共和国がとやかく言う権利はありません。

満州族に奪われていた領土の回復かと言うと、その前の明朝では今の東北地方・満州の地を支配したことがないのですから、現東北地方に関しては領土回復ではなく新たな征服者に過ぎません。

チベットにいたっては清朝さえも支配さえしていなかったのに、中華人民共和国成立後侵略支配を始めたものです。

清朝に支配地域に関して中華人民共和国が何らかの権利を持っているでしょうか?
中華人民共和国は清朝から禅譲を受けた国ではなく、中華民国が清朝を滅ぼした後に中華民国を追い出して樹立した国ですから、中華民国に滅ぼされた清朝の旧領域について何らの主張する権限もありません。

モンゴル帝国・元が明朝成立後北辺の故地に撤退した後、モンゴル諸族の領域だった(明朝の領域ではありません・・この諸族の中から後金・女進続が興って明を滅ぼして清朝を樹立するのです)女真族以外の諸族はなおモンゴルの故地に割拠(と言っても遊牧生活で移動しているので確たる領域意識がなかったでしょう)したままでした。

その辺に今のモンゴル人民共和国が成立しているのですが、これも中華人民共和国の論理(一旦中国地域を征服した異民族の本国もみんな自分のもの・・)を使えば、モンゴル族が明朝から追い出されたときにその本国も独立国ではなく明朝の支配下に入るべきだったことになる・・だから今のモンゴルも中華人民共和国領土として併呑しても良いことになります。

秀吉が、もしも明朝を倒して支配していた場合、その後明の支配を諦めて日本に引き上げても中国の領土と言われてしまいかねませんでした。(秀吉が明まで行かないで良かった!良かった!)

我が国は尖閣諸島を中華民国からも清朝からも、尖閣諸島を奪ったものではありませんが、奪った奪わないの議論以前に中華人民共和国が成立後にその国が一旦領土とした部分から何も取っていないのは時間軸から見ても明らかです。

後から出来たアメリカ合衆国が、元はインディアンがこの辺にも住んでいたからと言ってカナダや中米地域までの領有を主張するのはおかしなことです。

尖閣諸島を我が国が領土化したときには中華人民共和国はなかったのですから、何故中華人民共和国の領土から盗めるのか、論理矛盾も甚だしい主張となります。

中華人民共和国による尖閣諸島領有の主張は、仮に日本が実力で奪ったというのが正しいとしても、中華人民共和国がの国が出来る前のことですから、今のイタリアが古代ローマ帝国の版図を基準に今のフランスやギリシャやエジプト、トルコ等に侵略されていると主張しているようなことになります。

領土を返すべきかどうかは第二次世界大戦後秩序以降に限るとしても、そもそも中華人民共和国建国前に遡るならば、彼ら中華人民共和国自身が、今の領土を戦後の1949年に武力で中華民国から奪ったものですから(チベット侵攻=併呑も建国後のことです)中華民国やチベットに返すべきでしょう。

一般には、中国の歴史と言うと、黄河及び長江流域に興亡したいろいろな民族による王朝史をいうのですが、(私も正確で端的な表現が難しい・・上記のようにまどろっこしい表現になりますので、そのように便宜表現してきました)現在のイタリアにはなお法王庁が現存しているにも拘らず古代ローマ帝国と全く別ものである・・イタリアの歴史とは言わないのが世界の常識だと言えば分りよいでしょう。

その地域の歴史とそこにある国の歴史と同一視出来るならば、アメリカ合衆国も何千年も前からインディアンがいたので世界でも古い国の1つになります。

アンデスやアステカの古い歴史を持つ地域の国々は、すべて何千年の歴史があると言えることになります。

ここまで言い出したら、その国の歴史、民族の歴史などという概念自体が無意味になります。

客観的なその地域の歴史・・南アメリカ大陸の歴史、北アメリカ大陸の歴史としては意味がありますが・・・。

北アメリカ大陸の氷河期あるいは500年前からの歴史を知って、今のアメリカ人気質を推測する手がかりが得られるでしょうか?

むしろ今のアメリカ人のルーツ・・人口構成(黒人が何万人、ヒスパニック系、ドイツ系何人、フランス系何万人アジア系等々)を知って、それぞれの気質を研究した方が意味があります。
http://www.inagakilaw.com/asof/wordpress/2012/10/19/


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html#c5

[近代史3] 有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか? 中川隆
6. 中川隆[-12434] koaQ7Jey 2019年2月05日 09:43:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

尖閣列島は有史以来ずっと台湾先住民の漁場で、琉球とは何の関係も無かった _ 3


沖縄人ルーツ「日本由来」 南方系説を否定

沖縄タイムス 9月17日(水)6時0分配信


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140917-00000005-okinawat-oki.view-000


 琉球大学大学院医学研究科の佐藤丈寛博士研究員と木村亮介准教授らを中心とする共同研究グループは琉球列島の人々の遺伝情報を広範に分析した結果、台湾や大陸の集団とは直接の遺伝的つながりはなく、日本本土に由来すると発表した。

これまでも沖縄本島地方についての研究データはあったが、八重山・宮古地方も含め、大規模に精査した点が特徴。英国に拠点がある分子進化学の国際専門雑誌「モレキュラーバイオロジーアンドエボリューション」の電子版(1日付)に掲載された。

 木村准教授は「沖縄の人々については、東南アジアや台湾などに由来するといういわゆる『南方系』との説もあったが、今回の研究はこれを否定している。沖縄の人々の成り立ちを明らかにする上で貴重なデータになる」と話している。

 研究では、沖縄本島、八重山、宮古の各地方から計約350人のDNAを採取。1人当たり50万カ所以上の塩基配列の違いを分析した。

 また、宮古・八重山諸島の人々の祖先がいつごろ沖縄諸島から移住したのか検証したところ、数百年から数千年と推定され、最大でも1万年以上さかのぼることはないとの結果が出た。

宮古・八重山ではピンザアブ洞穴人(2万6千年前)や白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴人(2万年前)の人骨が発見されており、現在の人々の祖先なのか関心を呼んできたが、主要な祖先ではないことを示している。

 一方、港川人(1万8千年前)については、沖縄本島地方の人々の主要な祖先ではない可能性が高いとみられるものの、さらなる精査が必要という。

 共同研究に携わったのはそのほか、北里大学医学部や統計数理研究所など。

 琉球列島内で見ると、沖縄諸島と宮古諸島の集団は遺伝的な距離が比較的離れており、八重山諸島の集団が中間に位置していることも判明した。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html#c6

[近代史3] 有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか? 中川隆
7. 中川隆[-12433] koaQ7Jey 2019年2月05日 09:48:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

琉球民族は純然たる日本人


先島諸島(さきしましょとう)は、日本の南西諸島に属する琉球諸島のうち、南西部に位置する宮古列島・八重山列島の総称である。尖閣諸島を含めることもある。沖縄県に所属する。

宮古列島 宮古島
池間島
大神島
来間島
伊良部島
下地島
多良間島
水納島

八重山列島 石垣島
竹富島
小浜島
黒島
新城島
西表島
鳩間島
由布島
波照間島
与那国島

尖閣諸島 魚釣島
久場島
大正島

先史時代の先島諸島では縄文文化の影響は殆ど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。
約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つポリネシアと同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代もシャコガイ貝斧などがみられ、これもフィリピン方面との文化的関係が考えられている。
約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『続日本紀』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島を指すといわれる。

14世紀から15世紀に沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年に石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。
1609年、薩摩国の島津氏による琉球王国侵攻以降、薩摩の過酷な搾取に窮した琉球王府は先島諸島に対して人頭税を導入し、ここから搾取した。このため、先島の各地には子供や妊婦を処分する遺構が残されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%B3%B6%E8%AB%B8%E5%B3%B6#.E5.85.88.E5.B3.B6.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2


縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古諸島・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。

これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。

約800年前ごろになるとカムイヤキや鍋形土器などがみられるようになり、本島地方と近しい文化をもつようになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。

なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。

高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


琉球民族の系統

以下は遺伝子の研究から、九州以北の住民と南西諸島(奄美群島以南)の住民との比較のため参考として記するものである。ただし、遺伝的な近さと遠さは民族概念と一致するものではない。

九州以北の住民とは同じ祖先をもつことが最近の遺伝子の研究で明らかになっている。

また、中国南部及び東南アジアの集団とは地理的には近く昔から活発な交易がおこなわれていたため九州以北の住民と違いその影響があったと考えられていたが、遺伝子の研究からそれらの集団とは比較的離れていることが判明している。

九州以北の住民との近縁性と共にそれを介して北海道のアイヌ民族との近縁性も指摘されている。高宮広士が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、考古学などの研究も含めて

南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測され、それまで居住していた奄美・沖縄諸島と先島諸島の2グループの先住民に取って代わったと考えられている。これらのことから九州以北とは遺伝的・人類学的にみても明瞭な境界線を引くことは難しい。

政治的な人種論に対する批判として指摘されることは、日本列島の住民は複数の人種の混血であり、その混血度は地域によって異なることである(沖縄県民を含めた日本人は他国に比べれば混血度は少ないとされる)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E6%B0%91%E6%97%8F

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html#c7

[近代史3] 有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか? 中川隆
8. 中川隆[-12432] koaQ7Jey 2019年2月05日 09:51:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

琉球民族は純然たる日本人


先島諸島(さきしましょとう)は、日本の南西諸島に属する琉球諸島のうち、南西部に位置する宮古列島・八重山列島の総称である。尖閣諸島を含めることもある。沖縄県に所属する。

尖閣諸島(沖縄県石垣市-島・離島)の地図|マピオン
https://www.mapion.co.jp/m2/25.84785063,123.60446323,16/poi=L0630053


宮古列島 宮古島
池間島
大神島
来間島
伊良部島
下地島
多良間島
水納島

八重山列島 石垣島
竹富島
小浜島
黒島
新城島
西表島
鳩間島
由布島
波照間島
与那国島

尖閣諸島 魚釣島
久場島
大正島

先史時代の先島諸島では縄文文化の影響は殆ど見られず、台湾との共通点が指摘される土器が多く見つかっている。
約2500年前から無土器文化(料理には同様に無土器文化を持つポリネシアと同じく石焼を多く用いたと考えられている)に入るが、この時代もシャコガイ貝斧などがみられ、これもフィリピン方面との文化的関係が考えられている。
約800年前ごろからカムイヤキや鍋形土器など、本島さらには北方との関係がみられるようになる。記録としては、『続日本紀』に、714年(和銅7年)に「信覚」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島を指すといわれる。

14世紀から15世紀に沖縄本島に興った琉球王国による海上交易の中継地として次第にその影響圏に置かれた。1500年に石垣島の按司オヤケアカハチが反旗を翻すと、尚真王は征討軍を編成するが、宮古島の豪族・仲宗根豊見親が先鋒となって石垣島に上陸し、オヤケアカハチを討ち取った。これによって先島のほぼ全域が琉球王国の支配下に入ったが、与那国島では女首長サンアイイソバ(サカイイソバともいう)による独立状態がしばらく続いた。

1609年、薩摩国の島津氏による琉球王国侵攻以降、薩摩の過酷な搾取に窮した琉球王府は先島諸島に対して人頭税を導入し、ここから搾取した。このため、先島の各地には子供や妊婦を処分する遺構が残されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%B3%B6%E8%AB%B8%E5%B3%B6#.E5.85.88.E5.B3.B6.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2


縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古諸島・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。

これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。

約800年前ごろになるとカムイヤキや鍋形土器などがみられるようになり、本島地方と近しい文化をもつようになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。

なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。

高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2


琉球民族の系統

以下は遺伝子の研究から、九州以北の住民と南西諸島(奄美群島以南)の住民との比較のため参考として記するものである。ただし、遺伝的な近さと遠さは民族概念と一致するものではない。

九州以北の住民とは同じ祖先をもつことが最近の遺伝子の研究で明らかになっている。

また、中国南部及び東南アジアの集団とは地理的には近く昔から活発な交易がおこなわれていたため九州以北の住民と違いその影響があったと考えられていたが、遺伝子の研究からそれらの集団とは比較的離れていることが判明している。

九州以北の住民との近縁性と共にそれを介して北海道のアイヌ民族との近縁性も指摘されている。高宮広士が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、考古学などの研究も含めて

南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測され、それまで居住していた奄美・沖縄諸島と先島諸島の2グループの先住民に取って代わったと考えられている。これらのことから九州以北とは遺伝的・人類学的にみても明瞭な境界線を引くことは難しい。

政治的な人種論に対する批判として指摘されることは、日本列島の住民は複数の人種の混血であり、その混血度は地域によって異なることである(沖縄県民を含めた日本人は他国に比べれば混血度は少ないとされる)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E6%B0%91%E6%97%8F

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html#c8

[近代史3] 台湾は中国では有り得ない

台湾は中国では有り得ない


【東京発信・Cool Eyes】第21回 歴史学者・宮脇淳子 台湾を語る - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=J-MM1p7gPXw


鄭成功氏前の台湾・台湾出兵・旧慣調査と台湾私法等
(2018年7月収録)

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html

[近代史3] 台湾は中国では有り得ない 中川隆
1. 中川隆[-12431] koaQ7Jey 2019年2月05日 10:29:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

台湾先住民は長江の稲作漁労民が 3000年前に黄河文明の漢民族に追われて台湾に逃げてきた移民


日本人のガラパゴス的民族性の起源

1-2. 日本と関連民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度 rev.1

台湾先住民

  台湾の一般市民は漢民族の「O3」系ですが、先住民は長江文明・楚系の「O1」75%の遺伝子集団なのです。

日本列島とは相当異なるのです。

にもかかわらず日本人が台湾人に感じる親近感はルーツの福建省など華南出身の台湾漢民族が持つ黄河系の中でも 特に長江文明との交配系の漢民族「O3」遺伝子に起因するのでしょう。

  日本人の中に「O1」は全体では少ないのですが、中国地方のようにY-DNA「O1」が突出して多い特殊な地域があり 日本人には違和感がない遺伝子であることも親近感の一因でしょう。

  中国地方は「O2b」「O2b1」も多く、「O1」と合わせなんと50%も占める日本列島の中で独特の長江文明系が主流の土地柄 (水田稲作農耕が発達していたはずで恐らく「瑞穂の国」の原型の土地でしょう)なのです。

古代に独特の勢力を誇った吉備氏は恐らくそのY-DNA「O1」と「O2」の長江文明系大集団だった可能性が極めて高いのです。

  スンダランドから北上した「D2」「C1」は当時陸続きの台湾部分には住み着かずにそのまま日本列島部分に進んだようです。 理由は勿論わかりませんが、 もっと北を目指していたからかもしれません。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm


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日本人のガラパゴス的民族性の起源
0-0. 日本人の源流考 rev.1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1


0.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたる
 まで狩猟採集の原始生活から前進せず、ホモエレクトスの生活レベルのままだったの
 か?

・出アフリカを決行した結果、分化したシ−ラカンス古代4亜型の中でY-DNA「D」、
 Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸
 島、アフリカなどの僻地に残った集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩
 猟採集から抜け出せなかったのか?

・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸
 でホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると
 出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。

2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens=解剖学的現生人類)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」は かなり遅れて進化したと考えられていた様だが、最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、 8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、 原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。


Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化したが、


  この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。
Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、Y-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化した。

  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。
  この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデル
  タール人の亜型の可能性だってありえる。


 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではない プロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、 ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。

3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」と「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級として ネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。
  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族で100%の頻度である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。

この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「郡」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。
  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。
  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、

  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

  これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも 遺伝子が繋がっているのだから。恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。

8.余談

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけです。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた Y-DNA「O2」(旧O3)がもたらしてきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が近代までに確立「出来なかったか/出来たか」の違いなのでしょう。)
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html#c1

[近代史3] 台湾は中国では有り得ない 中川隆
2. 中川隆[-12430] koaQ7Jey 2019年2月05日 10:43:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

台湾を乗っ取った中国人(漢民族)の悪質な嘘

ほとんどの日本人が台湾人は漢民族であると考えている。実は、なによりわれわれ戦後の台湾人が「お前たちはもともと漢民族である中国人なのだ」という教育を受けてきたのだから、日本人がそう思うのも致し方ない面がある。しかし、これは間違いなのである。


台湾人は漢民族ではない―知っておきたい隣国の真実
2009/02/01/Sun

■最新の研究結果―南島語族の起源は台湾  

台湾では人口の八四%が所謂「本省人」で、一四%が戦後中国から渡って来た「外省人」、そして二%が原住民とされるが、これまで本省人は清国統治時代(一六八三〜一八九五)に移民してきた漢民族の子孫で、原住民はそれ以前に東南アジアから渡って来たマレー・ポリネシア民族(オーストロネシア語族=南島語族)と説明するのが常識だった。

そうした中、「マレー・ポリネシア人の起源は台湾だ」との研究結果が、一月下旬の米誌「サイエンス」で発表された。

これはニュージーランドのオークランド大学の地域言語学研究によるもの。東南アジア、太平洋地域での四百種以上の言語をコンピューターで分析し、簡単な動詞、動物、色、数字などの基本的な語彙の比較から、同語族の移動ルートを割り出したのだ。

その結果「南方民族は五千二百年前に台湾を出発し、東南アジアで約一千年滞留。その後の一千年以内の時間内でフィージー、サモア、トンガに至り、そこで約一千年留まった後、さらにポリネシアへ進出。最後はニュージーランド、ハワイ、そしてイースター島へと拡散して行った」と言う。ちなみにニュージーランドでは、マオリ族が定住したのは今から七、八百年前とのことだ。

研究グループによると「丸木舟を用いる優れた航行技術があったため、速いスピードで太平洋諸島に拡散できた。偉大な人類の移動の旅だった」とのこと。まさに壮大なロマンを書き立てる話である。

ちなみに最近のDNA研究からも、台湾を南方語族の起源とする結果が出ており、台湾の原住民にとっては誇りともなろうが、ここで台湾人全体が考えなくてはならないことがある。

■台湾人は漢民族移民の子孫ではなかった

沈建徳氏はこれまで、統計学の観点から、台湾の人口の歴史的変遷を克明に調査し、台湾の「本省人」が清国統治時代に同化(漢民族化)させられた原住民の子孫であり、移民の子孫とするのは古文献上の記録の政治的捏造であることを突き止めた人物。その研究成果の正しさは、医学界での住民のDNA調査でも裏付けられているのである。

だがこの事実を台湾人がなかなか受け入れようとしないのは、国民党の中国人化教育の影響、そして原住民を蔑視する伝統意識(これも漢化の影響)などと言った理由考えられるようだ。

そのため血統上は異なっても、漢民族意識があるかぎり、台湾人は漢民族のままである。しかし台湾人は中国の漢民族との比較を通じ、自分たちが異質の存在であることを知り、台湾人意識(台湾人としての誇りの意識)を高めているはずである。日本人から見ても台湾人は、漢民族よりも正直でやさしく、開放的な性格を持っており、民族的なDNAの違いが感じられる。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-644.html


一六二四年、オランダ人が台湾を統治することになる。それが台湾人が体験した初めての国家としての権力であった。

 著名な統計学者である沈建徳氏の著書『台湾常識』によれば、当時の台湾の人口は五〇万人だったという。今から一〇年ほど前までは、台湾では原住民のことを「山胞」、つまり山に住んでいる民族と呼んでいた。しかし、確かに三分の二は山でも、三分の一は平野である。住みやすい平野に人が住まなくて、山にばかり住んでいるなどというおかしなことはない。実は、当時の台湾人のうち二〇万人は山に、三〇万人は平野に住んでいたのである。

 余談だが、当時の台湾でいちばんの資源は鹿だった。台湾産の鹿の皮がとても綺麗だったので、日本の武士は好んで兜の飾りにしていたという。

●台湾に来たがらなかった中国人

 オランダ人は台湾を統治するために、中国から労働者を輸入する。その数は七〇〇〇人から八〇〇〇人で、五〇万人のなかの八〇〇〇人だ。人口の一・六パーセントにすぎない。

 鄭成功が清に負けて台湾に逃げてきたのが一六六一年であるから、オランダの統治は三八年間つづいたことになる。今、台湾人が中国人の子孫であり後裔であるという根拠は、鄭成功が多くの中国人を連れて海を渡ってきたことに求められている。しかし、一六六一年の台湾の人口は六二万人であり、中国からやってきたB成功一族と彼の軍隊はそのなかのたった三万人なのである。

 その一族が台湾を統治したのは二二年間で、清朝によって滅ぼされた。当時の台湾の人口は七二万人になっており、そのとき清朝が連れてきた軍隊はほんの数千人だ。なぜ中国人が台湾に行きたがらないかというと、当時の台湾はまさに瘴癘の地だったからだ。瘴癘とは風土病のことだが、マラリアをはじめ猩紅熱、腸チフス、百日咳など、ありとあらゆる伝染病が台湾に蔓延していた。「台湾に一〇人行けば七人死んで一人逃げ帰る。残るのはせいぜい二人」という中国のことわざが残っているほどだ。

 実際、清朝は二〇〇年間にわたって台湾を統治するが、その間、統治者は三年交替だった。三年交替の統治者で生きて中国に帰れたのはほんの数人、一〇人を超えていない。もちろん統治者としてやって来るわけであるから、いちばんよい食事、いちばんよい環境、いちばんよい住まい、つまりいちばんよい衛生状況を保てたはずだったが、その彼らがほとんど台湾で死んでしまうほど台湾の風土病は怖かった。

 そして、一八九五(明治二八)年に日本が台湾を領土としたときの人口は二五〇万人だったが、そのとき、清朝出身者のほとんどは中国に引き揚げている。だから、このように歴史をたどってみれば、われわれ台湾人が漢民族であるという認識はいかに間違っているかがよくわかるのである。

●税金のために漢民族になろうとした原住民

 清は、いろいろな階級に分けて台湾人を統治した。漢人、つまり漢民族しか苗字を持っておらず、原住民のことは、野蛮人を指す「蕃」を使って「生蕃」「熟蕃」と呼んだ。この戸籍制度は、日本の統治時代まで使われている。

 熟蕃というのは漢民族と一緒に住んでいる、人を殺さない原住民を指す。山に住んでいる原住民は首を狩る。そのことを「出草」という。自分が一人前の男であることの証明として人の首を狩り、狩った首はお飾りとして自分の家の前に棚を作って並べておく。この首の数が多ければ多いほど立派な男ということになる。私のなかでときどき血が騒ぐのは、その遺伝子のせいかもしれない。

 生蕃には重税が課せられ、熟蕃はやや軽い。漢人はいちばん軽い。そうすると、熟蕃は競って漢人になろうとする。そこで、当時の清朝は「では、あなたの名前は林にしましょう。あなたは王にしましょう」と苗字を与えた。苗字のない原住民は競って苗字のある漢民族になろうとしたのである。生蕃もできるだけ熟蕃になろうとした。だから、台湾人が漢民族であるというのは統治者の政策によってつくられた虚像でしかない。要は名前を漢人風にしただけのことであり、表面だけを見て漢人と言っていたのである。

●血液学からも台湾人は漢人でない

 台湾の人口は、一六二四年の五〇万人から一九四五年にはざっと六〇〇万人になった。環境などを考慮すると、その成長率は非常に合理的な数字である。清朝統治の二〇〇年間には、台湾に渡るなという禁止令があった。それは、台湾が非常に長いこと海賊の巣になっていたので、人が増えることは好ましくなかったからで、できるだけ台湾に渡らせないようにしようというのが清の姿勢だった。

 日本が統治した当時の人口は二五〇万人で、もちろん日本統治の五〇年間に中国から台湾に移住してきた中国人はほとんどいなかった。正常な人口の成長で、五〇年間で六〇〇万人になったのである。ただ一九四五年以降、台湾から引き揚げた日本人は約四〇万人いたから、総数としては六四〇万人ということになる。そのなかにもし中国人がいたとしても、ごくわずかなのだ。

 血液学的調査でも、台湾人が漢人でないことは証明されている。台湾の馬偕記念病院の血液学の教授である林媽利先生は人間のリンパ球の遺伝子を調べて、すでに台湾人と漢民族の遺伝子がまるっきり違うことを証明しているのだ。

 台湾人は漢民族ではなかったのだ。

http://kb-news.at.webry.info/200904/article_15.html


昭和二十年の八月十五日、日本が第二次世界大戦、つまり大東亜戦争に敗れた年、私たちが住んでいる台湾は、今まで祖国と言ってきた日本国から切り離され、選択の余地無しに中国人にさせられてしまいました。
君たちの祖国はこっちだよと言葉に蜜つけて侵入してきた外来政府は、実に天使の面を被った悪魔でした。国籍を失った台湾人は、それから中国人となり、そして中国籍になったその時から、悲惨を極める奈落の底に落とされ、イバラの道に追い込まれてしまいました。 

外来政府は、謀反を起こしたという烙印を押し、四十年もの長い年月にわたり″戒厳令″という名目で殺戮を繰り返したのです。台湾全土の人民を震撼させたあの忌まわしい二・二八事件で殺された人の数は、当時の政府の圧力により報道されていません。学生、若者、医者、学識ある者、特に財産を有する者など、死者は三万人にも上ると言われていますが、確実な数字は今でも分からないそうです。因みに当時の台湾の人口は、六百万人でした・・・
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4795276897/aoiumi-22/ref=nosim/


一九四七年二月二七日、台北市で闇タバコを販売していた女性を、支那人である国民党政府の官憲が摘発した。この女性が土下座して許しをえようとしたにもかかわらず、支那人官憲は銃剣の柄で殴打しただけけでなく、商品、所持金を没収した。この時、タバコ売りの女性に同情して、集まった台湾人民衆に向かってこの支那人官憲が発砲したさいに、無関係な台湾人を射殺し逃亡。

 この事件によって台湾人の人々が、二八日に市庁舎に押しかけたが、そのデモ隊に向かって支那人憲兵隊は市庁舎の屋上から機関銃にて、無差別に発砲し、多くの台湾人が殺害される。

 その後、蒋介石の命令により支那本土から派遣された支那兵による第二一師団と憲兵隊が、台湾一般市民に対しての無差別的な発砲や、裁判官・医師・役人など日本統治下で高等教育を受けたエリート層が目標とされ投獄・拷問などにより虐殺される。

基隆では針金を台湾人の手に刺し込んで縛って束ね、チマキと称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込むという醜い虐殺もおこなわれた。この手に針金を通すというやり方は、支那人そして、それに事大して生きてきた朝鮮人など特有の残虐さを感じる。

 この支那人による台湾人への虐殺事件によって、約二八〇〇〇人が殺害・処刑されました。

 一九八七年まで継続していたこの時に発令された戒厳令下、支那人による白色テロと呼ばれる恐怖政治が永らく続く。そんな台湾において、「民主化」が実現するのは、当時の李登輝総統が一九九二年に刑法を改正し、言論の自由が認められるまで待たなければならなかった。
http://www.tamanegiya.com/syoukaiseki20.2.28.html


台湾人の無差別な殺戮は高雄・基隆から始まり、約2週間で全島を鎮圧した。殺戮には機関銃が使用されたが、手のひらに針金を刺し、数人1組に繋いだり、麻袋に詰めて海や河に投げ捨てたり、また、処刑前に市中引き回しを行い、処刑後は数日間放置されたり、と今世紀に生きる近代文明の人間がなしえる業とは思えぬ野蛮きわまりない手口だった。

3月14日、警備総司令部により「粛奸工作」が開始される。「粛奸工作」の対象は、事件に直接関与していない者も多く含まれ、社会的指導者はもとより、危険人物と見られた民意代表、教授、弁護士、医者、作家、教師など、多くの知識人が逮捕された。意図的に日本教育を受けた知識人を根こそぎ粛清するかのようである。このため、台湾の知識人の存在は一時期の間空白となってしまう。

「二・二八事件」の関係者の逮捕は1949年になって緩和されるが、「要注意人物」の逮捕はまだ暫く続くのであった。国民党の発表によると、事件後1ヶ月に殺された台湾人は28,000に上る。これは50年の日本統治において日本軍によって殺戮された台湾人の数に匹敵する。また、有罪判決を受けて有期・無期の投獄に処せられた人数は計り知れないという。

国民党の台湾における「二・二八事件」に対する過剰な殺戮と鎮圧は国際社会の痛烈な批判を浴びた。国共内戦で劣勢にあり米国の援助が必要だった国民党は、米国の駐中国大使の抗議を受けると、蒋介石は米国の意向を無視できず、4月22日、陳儀を免職、5月1日に南京に召還した。余談になるが、陳儀は1950年に、中国共産党と通じたして反逆罪で逮捕、やがて処刑された。

日本統治下では「法の支配」、「法治国家」の精神を植え付けられ、国民党にもそれを期待していた。日本統治下では、いくら政府を批判しても、悪法とは言えども、治安警察法などの法によって裁判と処罰を受けていた。しかし、国民党は抵抗するものを手当たり次第に「鉄砲」で裁く事しかしなかったのだ。

http://tokyo.cool.ne.jp/masakim/Taiwan/History/history9.html

なぜ台湾人は台湾語を話していませんか?
作者:TAN Uichi(タン・ウイチー)(2008年の秋に来日)

台湾の歴史をあまり知らない人にとって、ちょっと理解できない
でしょう。韓国人は韓国語で話しているのではないでしょうか。
どうして台湾人は台湾語で話していませんか。あるいは話せませ
んか。

実は僕は、日本に来て、一番うれしいのは、自由に台湾語で話せ
ることです。

ちょっと変でしょう?台湾で台湾語を話してはいけませんか。自
分の国で自分の言葉を話したら、どうにかなるのでしょうか。

台湾では、1945年以前、中国語が話せる人はほとんどいませ
んでした。しかし、その4年後、中国の内戦で負けた中国国民党
が台湾に逃げてきました。

中国の統治者からみると、台湾人は日本人の奴隷になってしまい
ました。そのため、愛国教育、反日教育、中国語教育が入りまし
た。学校で、中国語しか使えません。台湾語を話したら、罰金を
払わなければなりませんでした。

また、このような、「犬カード」と言われるものを、首に掛けさ
られました。「方言を使いません。国語で話します」と書いてあ
りました。

そのせいで、大勢の台湾人はアイデンティティーが変わりました。
自分自身が中国人だと考える人が多くなり、台湾語で喋っている
人は、なにか、変な人、低いレベルの人、格好悪い、と見られま
した。

僕は高校時代までその差別について、あまり知りませんでした。
しかし、大学時代のある日、クラスメートとバスケットボールを
していた時に、つい台湾語が出ました。そのとき、「お前、人間
の言葉を話せ!」と叱られました。

みなさん聞こえますか。「人間の言葉を話せ!」と叱られました。

前、本で読んだ「台湾人の悲哀」は、これなのかと気がつきまし
た。僕は本当に悔しくて、恨めしかったです。

それから他の人を啓蒙しようと、いろいろな活動をしましたが、
やはり、一般の人を無関心にさせるのが最高の統治方法です。
「自分のことしか興味がない。自分が将来出世できるかどうかが
心配だ。そんな暇はない」という言葉がよく聞こえてきました。

1980年代後半から、中国国民党は革命を避けるために自由化
の政策を採り、政党や言論の自由などの禁止をやめました。確か
に、人々のアイデンティティーが変わってきました。がしかし、
中身はあまりかわっていません。学校の教育は中国を中心にして
続いています。

また、台湾語の罰金は、もう必要なくなりました。なぜなら、み
んなが中国語の正統性を信じるようになって、台湾語を話さなく
なってきたからです。つまり、多くの人々は独裁者が作成した価
値観でそのまま生きています。

選挙があっても、民主的のようになっても、台湾語で話す人は、
前と同じように差別されました。それでも台湾人の国でしょうか。

最近、『海角七号(ハイチャオチーハウ、かいかくななばん、ハ
イカクチッホー)』という映画のおかげで、その影響があって、
台湾語を学ぶ日本人の若者が増えているといいます。本当です。
私も知っています。

台湾人が変わらなければ、いつか台湾語がなくなってしまうかも
しれません。将来は日本語のために日本に来るのではなく、台湾
語のために来るかもしれません。

残念ながら、外国の日本に来て、台湾人と台湾語で話すようにな
りました。これから、尊厳をもって、自信をもって、台湾で台湾
語を話すようになって欲しいです。少なくとも今の自分がどうし
てそうなったのかちゃんと分かってほしいです。


平成21年7月31日
JET日本語学校日本語スピーチコンテスト最優秀賞受賞作品
http://blog.livedoor.jp/hjm2/archives/51373250.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html#c2

[近代史3] 台湾は中国では有り得ない 中川隆
3. 中川隆[-12429] koaQ7Jey 2019年2月05日 10:45:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ポリネシア人のルーツと移民の流れ


トール・ヘイエルダールが唱えた南米からの植民説、ベン・フィニーらが唱えたアジアからの植民説があるが、1975年にハワイで建造された双胴の航海カヌー、ホクレアによる数々の実験航海や、言語学的・人類学的な各種の検証により、現在では東南アジア説が定説となっている。

アボリジニーの祖先となったオーストラロイド系の民族は中国大陸から約5万年前にスンダランドに移住。一部は後に現在のオーストラリアへ渡る(その逆で、彼等がアフリカ、南アジアからスンダランド経由で北東アジアに移住していったという見解もある。)のだが、ポリネシア人の祖先とされるラピタ人の移住はもう少し後の時代である。

ラピタ人はオーストロネシア語を話すモンゴロイド系の民族で、元々は台湾にいたのだが、その一部は紀元前2500年頃に南下を開始した。この時に別のグループは黒潮や対馬海流に乗って日本列島にも渡っており、縄文人の骨格との類似性から、縄文人と現在のポリネシア人を形成した人種は共通するとされている。ちなみに日本語は文法がアルタイ諸語のものであるが、音韻体系はポリネシア語の属するオーストロネシア語族と共通している部分がある。

一方、南下したグループはフィリピンを経て紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島に到達した。ラピタ人はここで進路を東に変え、紀元前1100年頃にはフィジー諸島に 到達する。現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。サモアに到達した時点 でラピタ人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、その間に現在のポリネシアの文化が成立していったと考えられている。

再び東への移住を開始するのは紀元1世紀頃からで、ポリネシア人たちはエリス諸島やマルキーズ諸島、ソシエテ諸島にまず移住した。その後、ソシエテ諸島を中心に300年頃にイースター島、400年頃にハワイ諸島、1000年頃にクック諸島やニュージーランドに到達した。ポリネシア人の移住の動きはこれ以降は確認されていないのだが、ポリネシア人の主食のひとつであるサツマイモは南米原産であり、西洋人の来航前に既にポリネシア域内では広くサツマイモが栽培されていたため、古代ポリネシア人は南米までの航海を行っていたのではないかと推測されている。


生活

元来のポリネシア人の生活は極めてシンプルで石器や貝殻を用いた漁撈を主としていた。カヌー製作や航海技術に卓越した知識を保有し、天体や波のうねりなどから各島の位置を察知し、頻繁な海上交流を行っていた。漁法は環礁での単純捕獲のほか、投槍、漁網、釣り針、毒など多彩な手段を用いていたことが判明している[3]。通常の魚だけでなくカニ、エビ、ナマコなど様々な魚介類を捕食しており、特に外洋での危険を伴うサメやクジラの捕獲は胃袋を満たすだけでなく個人の名声を高める手段のひとつでもあった。

食材を葉にくるんで蒸焼きにするウム料理が一般的で、魚介類のほかにはタロイモ、ヤムイモ、バナナ、ココヤシ、パンノキ、サツマイモなどの農作物が採られた。一部儀礼の際には犬肉や豚肉も食される[1]。飲料はメラネシア人などと同じくコショウ科植物の根を原料としたカヴァが飲まれていたが、アルコール性飲料は一般的では無かった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html#c3

[近代史3] 台湾は中国では有り得ない 中川隆
4. 中川隆[-12428] koaQ7Jey 2019年2月05日 10:50:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

沖縄の人々、ルーツは「日本由来」 南方系説を否定 2014年9月17日


 琉球大学大学院医学研究科の佐藤丈寛博士研究員と木村亮介准教授らを中心とする共同研究グループは琉球列島の人々の遺伝情報を広範に分析した結果、台湾や大陸の集団とは直接の遺伝的つながりはなく、日本本土に由来すると発表した。これまでも沖縄本島地方についての研究データはあったが、八重山・宮古地方も含め、大規模に精査した点が特徴。英国に拠点がある分子進化学の国際専門雑誌「モレキュラーバイオロジーアンドエボリューション」の電子版(1日付)に掲載された。

琉球列島の人々の成り立ち

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/gallery/44163?ph=1

 木村准教授は「沖縄の人々については、東南アジアや台湾などに由来するといういわゆる『南方系』との説もあったが、今回の研究はこれを否定している。沖縄の人々の成り立ちを明らかにする上で貴重なデータになる」と話している。

 研究では、沖縄本島、八重山、宮古の各地方から計約350人のDNAを採取。1人当たり50万カ所以上の塩基配列の違いを分析した。

 また、宮古・八重山諸島の人々の祖先がいつごろ沖縄諸島から移住したのか検証したところ、数百年から数千年と推定され、最大でも1万年以上さかのぼることはないとの結果が出た。宮古・八重山ではピンザアブ洞穴人(2万6千年前)や白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴人(2万年前)の人骨が発見されており、現在の人々の祖先なのか関心を呼んできたが、主要な祖先ではないことを示している。

 一方、港川人(1万8千年前)については、沖縄本島地方の人々の主要な祖先ではない可能性が高いとみられるものの、さらなる精査が必要という。

 共同研究に携わったのはそのほか、北里大学医学部や統計数理研究所など。

 琉球列島内で見ると、沖縄諸島と宮古諸島の集団は遺伝的な距離が比較的離れており、八重山諸島の集団が中間に位置していることも判明した。
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/44163


沖縄県先島諸島の住民、遺伝的に本島と最も近いことが判明 台湾先住民や東南アジア系とは近縁性なし 2009/10/23(金)


先島住民 遺伝的に本島と近く 琉大と東大大学院研究 台湾先住民と近縁性なし

 先島諸島(宮古島、石垣島)の住民は沖縄本島住民と遺伝的に近く、いわゆる「琉球クラスター(集団)」の一つであることが22日までに、琉球大学医学部と東京大学大学院の共同研究で分かった。

考古学的には沖縄本島と先島諸島は約1000年前まで文化的交流は少なく、先島諸島は台湾先住民を含む東南アジアの海洋民との共通点が多いとされてきた。
しかし、今回の研究で現在の先島住民は遺伝的には沖縄本島に最も近く、台湾先住民との近縁性はないことが明らかになった。(黒島美奈子)


 研究は琉大医学部形態機能医科学講座解剖学第一分野研究室と、東大大学院新領域創成科学研究科が共同で実施。

2007年に3代続けて住む石垣島の高校生63人、宮古島の高校生66人、沖縄本島の専門学校生95人の歯形、血液、唾液(だえき)を採取し分析した。


 結果、母方の遺伝を示すミトコンドリアDNA配列は沖縄本島、宮古島、石垣島が琉球クラスターに属し、台湾先住民とは離れた系統に位置した。

同じく父方の遺伝を示すY染色体データに基づく系統樹でも3島の集団は、台湾先住民とは離れた。

 歯形の分布では沖縄本島の今帰仁、嘉手納の住民と、宮古島、石垣島の住民は、
歯の幅が狭い上に唇と舌の間の歯ぐきが太く、日本や東アジアなど、ほかのどの地域とも異なる位置に存在することも分かった。

 琉球大学医学部の石田肇教授は

「活発な文化的・遺伝的交流があったとされる琉球王朝時代に、琉球クラスターができあがったのではないか」

と推測する。

 日本人の起源に関する研究でアイヌ民族と琉球人はともに東南アジア起源の縄文時代人の直接の子孫であるとされてきたが、石田教授は

「琉球クラスターは昔からある縄文集団に、ある時点でほかからの移入があり、個性的な要素を持った可能性がある」

と分析した。


ソース 沖縄タイムス 10/23
http://logsoku.com/thread/yutori7.2ch.net/news4plus/1256302453/

アイヌ人・琉球人・本土日本人はGm遺伝子ではどういう違いが認められるのだろうか。

  このグラフはもちろん現代の人々のデータである。従って松本によれば、例えばアイヌの人々のデータは、遺伝学的に60〜70%の純粋さしかないという。しかしそれでも、本土日本人との同化が進んだ現代において、奇跡的なデータといわねばならない。

 また宮古島の人々は一般の沖縄の人との間に言葉が通じない、あるいは民俗的にも違いが見られる人々であるという。上図のデータはそういう風に出来るだけ本来の姿に近づける努力をした結果の数値であると、松本は言う。

まずアイヌ人と琉球諸島人とくに宮古人とは、非常に高い青のag遺伝子と、極端に低い赤のafb1b3遺伝子をもつという明らかな等質性が認められる。アイヌ人と琉球人が二重構造モデルにもあるように、縄文人の直接の子孫の可能性がGm遺伝子からも窺える。しかもそのGm遺伝子の頻度は、きわめて北方的であり、南方系の可能性はほとんどない。

しかし奄美から与那国までの集団は、afb1b3遺伝子の頻度が非常に低い、極めて北方的な遺伝子セットになっている。アイヌ系と言ってもいいのかもしれない。
 そしてひとたび台湾に入ると、afb1b3が76%という高頻度の南方的なGm遺伝子のセットになる。ab3stという北方蒙古系の標識遺伝子も台湾ではほとんど認められない。

 すなわちGm遺伝子で見ると、日本の南西諸島と台湾とでは断崖絶壁というような集団間の違いがある。もし海上の道を南方の集団が島伝いに北上したとするなら、そういう絶壁のような遺伝子の断絶は見られず、なだらかに南方要素が大から小へ、北方要素が小から大へ推移するはずである。

 したがって、 松本秀雄は言っている。

 −−「現在の日本民族の基層となっている原日本民族が南方から琉球諸島、奄美大島を島づたいに遡上し、原日本民族を形成した」ということは、Gm遺伝子の分布に基づいた人類遺伝学的検証の結果では、全く考え難いことである。もし、南方から遡上したとするならば、南方型蒙古系の標識遺伝子・赤のafb1b3は与那國のみならず、琉球、奄美大島においても、もっと高い値を示すはずである。(p.109)
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_08.html


縄文人、アイヌ人、琉球人と日本人は遺伝子は非常に近い。

台湾原住民と台湾内省人の遺伝子は非常に近い。

しかし、(縄文人・アイヌ人・琉球人・日本人) と (台湾原住民・台湾内省人) は完全に別グループ


台湾原住民と台湾内省人の遺伝子は非常に近い:

Gm遺伝子の頻度
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_08_2Ysennsyokutai_karamita_sosenn..html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html#c4

[近代史3] 有史以来ずっと台湾先住民の漁場だった尖閣諸島はどこの国の領土になるのか? 中川隆
9. 中川隆[-12427] koaQ7Jey 2019年2月05日 10:53:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
沖縄の人々、ルーツは「日本由来」 南方系説を否定 2014年9月17日


 琉球大学大学院医学研究科の佐藤丈寛博士研究員と木村亮介准教授らを中心とする共同研究グループは琉球列島の人々の遺伝情報を広範に分析した結果、台湾や大陸の集団とは直接の遺伝的つながりはなく、日本本土に由来すると発表した。これまでも沖縄本島地方についての研究データはあったが、八重山・宮古地方も含め、大規模に精査した点が特徴。英国に拠点がある分子進化学の国際専門雑誌「モレキュラーバイオロジーアンドエボリューション」の電子版(1日付)に掲載された。


琉球列島の人々の成り立ち

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/gallery/44163?ph=1


 木村准教授は「沖縄の人々については、東南アジアや台湾などに由来するといういわゆる『南方系』との説もあったが、今回の研究はこれを否定している。沖縄の人々の成り立ちを明らかにする上で貴重なデータになる」と話している。

 研究では、沖縄本島、八重山、宮古の各地方から計約350人のDNAを採取。1人当たり50万カ所以上の塩基配列の違いを分析した。

 また、宮古・八重山諸島の人々の祖先がいつごろ沖縄諸島から移住したのか検証したところ、数百年から数千年と推定され、最大でも1万年以上さかのぼることはないとの結果が出た。宮古・八重山ではピンザアブ洞穴人(2万6千年前)や白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴人(2万年前)の人骨が発見されており、現在の人々の祖先なのか関心を呼んできたが、主要な祖先ではないことを示している。

 一方、港川人(1万8千年前)については、沖縄本島地方の人々の主要な祖先ではない可能性が高いとみられるものの、さらなる精査が必要という。

 共同研究に携わったのはそのほか、北里大学医学部や統計数理研究所など。

 琉球列島内で見ると、沖縄諸島と宮古諸島の集団は遺伝的な距離が比較的離れており、八重山諸島の集団が中間に位置していることも判明した。
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/44163

沖縄県先島諸島の住民、遺伝的に本島と最も近いことが判明 台湾先住民や東南アジア系とは近縁性なし 2009/10/23(金)


先島住民 遺伝的に本島と近く 琉大と東大大学院研究 台湾先住民と近縁性なし

 先島諸島(宮古島、石垣島)の住民は沖縄本島住民と遺伝的に近く、いわゆる「琉球クラスター(集団)」の一つであることが22日までに、琉球大学医学部と東京大学大学院の共同研究で分かった。

考古学的には沖縄本島と先島諸島は約1000年前まで文化的交流は少なく、先島諸島は台湾先住民を含む東南アジアの海洋民との共通点が多いとされてきた。
しかし、今回の研究で現在の先島住民は遺伝的には沖縄本島に最も近く、台湾先住民との近縁性はないことが明らかになった。(黒島美奈子)


 研究は琉大医学部形態機能医科学講座解剖学第一分野研究室と、東大大学院新領域創成科学研究科が共同で実施。

2007年に3代続けて住む石垣島の高校生63人、宮古島の高校生66人、沖縄本島の専門学校生95人の歯形、血液、唾液(だえき)を採取し分析した。


 結果、母方の遺伝を示すミトコンドリアDNA配列は沖縄本島、宮古島、石垣島が琉球クラスターに属し、台湾先住民とは離れた系統に位置した。

同じく父方の遺伝を示すY染色体データに基づく系統樹でも3島の集団は、台湾先住民とは離れた。

 歯形の分布では沖縄本島の今帰仁、嘉手納の住民と、宮古島、石垣島の住民は、
歯の幅が狭い上に唇と舌の間の歯ぐきが太く、日本や東アジアなど、ほかのどの地域とも異なる位置に存在することも分かった。

 琉球大学医学部の石田肇教授は

「活発な文化的・遺伝的交流があったとされる琉球王朝時代に、琉球クラスターができあがったのではないか」

と推測する。

 日本人の起源に関する研究でアイヌ民族と琉球人はともに東南アジア起源の縄文時代人の直接の子孫であるとされてきたが、石田教授は

「琉球クラスターは昔からある縄文集団に、ある時点でほかからの移入があり、個性的な要素を持った可能性がある」

と分析した。


ソース 沖縄タイムス 10/23
http://logsoku.com/thread/yutori7.2ch.net/news4plus/1256302453/

アイヌ人・琉球人・本土日本人はGm遺伝子ではどういう違いが認められるのだろうか。

  このグラフはもちろん現代の人々のデータである。従って松本によれば、例えばアイヌの人々のデータは、遺伝学的に60〜70%の純粋さしかないという。しかしそれでも、本土日本人との同化が進んだ現代において、奇跡的なデータといわねばならない。

 また宮古島の人々は一般の沖縄の人との間に言葉が通じない、あるいは民俗的にも違いが見られる人々であるという。上図のデータはそういう風に出来るだけ本来の姿に近づける努力をした結果の数値であると、松本は言う。

まずアイヌ人と琉球諸島人とくに宮古人とは、非常に高い青のag遺伝子と、極端に低い赤のafb1b3遺伝子をもつという明らかな等質性が認められる。アイヌ人と琉球人が二重構造モデルにもあるように、縄文人の直接の子孫の可能性がGm遺伝子からも窺える。しかもそのGm遺伝子の頻度は、きわめて北方的であり、南方系の可能性はほとんどない。

しかし奄美から与那国までの集団は、afb1b3遺伝子の頻度が非常に低い、極めて北方的な遺伝子セットになっている。アイヌ系と言ってもいいのかもしれない。
 そしてひとたび台湾に入ると、afb1b3が76%という高頻度の南方的なGm遺伝子のセットになる。ab3stという北方蒙古系の標識遺伝子も台湾ではほとんど認められない。

 すなわちGm遺伝子で見ると、日本の南西諸島と台湾とでは断崖絶壁というような集団間の違いがある。もし海上の道を南方の集団が島伝いに北上したとするなら、そういう絶壁のような遺伝子の断絶は見られず、なだらかに南方要素が大から小へ、北方要素が小から大へ推移するはずである。

 したがって、 松本秀雄は言っている。

 −−「現在の日本民族の基層となっている原日本民族が南方から琉球諸島、奄美大島を島づたいに遡上し、原日本民族を形成した」ということは、Gm遺伝子の分布に基づいた人類遺伝学的検証の結果では、全く考え難いことである。もし、南方から遡上したとするならば、南方型蒙古系の標識遺伝子・赤のafb1b3は与那國のみならず、琉球、奄美大島においても、もっと高い値を示すはずである。(p.109)
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_08.html


縄文人、アイヌ人、琉球人と日本人は遺伝子は非常に近い。

台湾原住民と台湾内省人の遺伝子は非常に近い。

しかし、(縄文人・アイヌ人・琉球人・日本人) と (台湾原住民・台湾内省人) は完全に別グループ


台湾原住民と台湾内省人の遺伝子は非常に近い:

Gm遺伝子の頻度
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_08_2Ysennsyokutai_karamita_sosenn..html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/214.html#c9

[近代史3] 台湾は中国では有り得ない 中川隆
5. 中川隆[-12426] koaQ7Jey 2019年2月05日 11:01:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
中国最大のタブー、台湾問題


 ここしばらくの間、仕事に追われ、日記を書かない間に、あっという間に3ヶ月近くが過ぎてしまいました。読者の方からも催促のメールをいただきました。申し訳ありませんでした。今後も仕事の関係で、間が空くことが多々あると思いますが、この日記はどのような形であっても書き続けていくつもりですので、よろしくお願いいたします。

 さて、今回は長いあいだ取り上げたいと思いながら、なかなか書けなかった問題、台湾問題について書きたいと思います。

 8月の末、エミリー・ラウという香港立法会の女性議員が台湾で「台湾人の前途は台湾人が自ら決めるべきである」と発言しました。中国の一部のメディアはこの問題を大きく取り上げ、ラウ氏が「台湾独立を吹聴した」と断定し、激しく攻撃しました。そして、ついには「中国の領土の統一を維持する」という内容を含んだ基本法を擁護するという宣誓に反した(香港の立法会の議員は就任の際、基本法を守る趣旨の宣誓をする)として、「虚偽の宣誓をした罪」で警察が調査する騒ぎに発展しました。

 いろいろなメディアでラウ氏の発言を見ましたが、「台湾独立を支持する」と発言しているものは一つもありませんでした。ただ、「台湾人が自らの将来を決めるべき」と言っているだけです。しかも、ラウ氏は大陸に比べたら相対的には自由な発言が可能な香港の議員です。にもかかわらず、「台湾独立派」と決め付けられ、メディアの集中砲火を浴び、ついには警察沙汰にまでなってしまったのを見たとき、正直なところ、恐ろしいなあ、と思ったものです。

 もし、中国人との共通認識を得るのが最も難しい問題を一つ挙げろと言われたら、私は台湾問題を挙げます。私はこれまで多くの中国人と台湾問題について討論しましたが、この問題ほど、日本人と中国人の観念の違いというものを強く感じさせる問題はありません。

 「台湾は大陸と統一するべきか、それとも独立するべきか」。「台湾問題」と呼ばれる問題の核心を一言で言えば、こういうことになるでしょう。中国ではほとんど99.9%の人が「台湾は大陸と統一すべき」と考えているように思います。共産党の一党独裁を批判したり、江沢民や胡錦涛を批判することはメディア上ではほぼ不可能ですが、日常生活の中ではごく普通に行われています。しかし、「台湾統一」に異を唱えることは民間でもかなり困難といっていいでしょう。これに反対することは中国ではほとんどタブーと言ってもいいと思います。

 この問題について、日本人である私が「統一すべき」または「独立すべき」などという権利はないでしょう。しかし、私が少なくとも思うのは、ラウ氏と同様、「台湾のことは台湾の人たちが決めるべきだ」ということです。つまり、多数の人が統一したいと思うなら統一する、独立したいと思うなら独立する、ということです。「民主主義」という考えに慣れ親しんだ日本人にとって、この考えはごく普通のものだと思います。

 ところが、中国でこのようなことを口にしたら、どこに行っても賛同を得られないだけでなく、激しい批判の対象になります。

 かつて、こんなことがありました。私が武漢に留学した最初の年、留学生を対象にした「中国文化」という授業に参加していました。授業の始まる前、台湾の話になり、私は先のような考えを先生に言いました。すると、先生は急に興奮しはじめました。

 「君、それは間違っている。台湾は中国のものだ。なぜ、そう言えるのか、これから説明しよう」

 そう言うと、中国文化の講義はそっちのけで、台湾問題についての「講義」を始めました。普通、授業は約2時間で、間に10分休憩が入るのですが、先生は、休憩を取る様子も全くなく、まるまる2時間熱弁を振るい続け、とうとう台湾問題だけで、授業が終わってしまいました。この時は、中国人の台湾問題に対する執着ぶりに本当に驚いたものです。

 しかし、先生の言う「台湾は中国の一部だ」という論理は「もし台湾が独立したら、アメリカの台湾に対する影響力が増し、中国にとって脅威になる」「中国はこんなに台湾に譲歩している」といった、「大陸側からの論理」を並べるばかりで、当の台湾の人たちがどう考えているか、という論理は全く見られませんでした。また、「日本だって北方領土は自国の領土だと言って譲らないだろう。それと同じことだ」と言いました。私は、北方領土の問題は2国間のどちらに属するかという問題であり、独立か統一かという問題とは性質が違うと言った上で、沖縄のことを取り上げました。

  「沖縄でも独立を主張する人がいますが、もし沖縄の半数以上の人が独立に賛成するなら、当然、独立を認めるべきだと思います」

 私がこう言った時の先生の驚愕とも困惑ともつかぬ表情を忘れられません。先生には私のこのような観念が全く理解できなかったのです。もちろん、日本人でも沖縄の過半数の人が賛成しようが、独立には反対だという人もたくさんいるでしょうし、日本政府も簡単に独立を認めるとは思えません。しかし、少なくとも中国人のような「統一」への極度な執着は日本人にはないと思います。

 また、こんなこともありました。近くの大学で、毎週「漢語角」というのを開いていました。これは、「イングリッシュ・コーナー」の中国語版で、中国人学生と留学生が中国語で交流する場でした。私も一度それに参加したことがあります。その時は、留学生の参加が少なかったらしく、私が日本人だと知るや、多くの中国人学生たちが何重にも私を取り囲み、次々と質問を浴びせ始めました。そんな中で、ふと台湾のことも話題に上りました。ある女子学生が言いました。

「台湾の人たちのほとんどは統一を望んでいるのに、李登輝らの一部の人間が妨害しているのよ」

 私は、これは明らかに現状と違うことを言っていると思ったので、それに反論しました。すると、彼女はやや語気を強めて、反論してきました。同時に、私を取り囲んでいた中国人学生たちの雰囲気が急に殺気立ってきたのを感じました。私は身の危険を感じ、慌てて彼女の主張を受け入れるようなことを適当に言い、話題を変えました。

  中国人たちが台湾を中国の一部分と主張するのには、いろいろな理由があります。明の時代から中国の領土だった、日本がポツダム宣言を受託した時に、台湾の中国への返還を約束している、国際社会のほとんどの国が、台湾を中国の一部分と認めている、といったものです。

 こうした国際法や歴史的経緯からすると、確かに台湾は中国の一部だと言えるのかもしれません。しかし、私が中国人たちの意見に違和感を感じるのは、彼らの多くに、台湾の人たちは一体なにを望んでいるのか、もし統一を望まない人がいるなら、それはなぜなのか、ということを真剣に考えている人があまりいないということです。その前に、中国人の多くは、台湾の歴史や現状をほとんど知らない、あるいは知らされていないという現状があります。

 中国人のほとんどは、「本省人」「外省人」という言葉すら知りません。本省人というのは、明の時代に台湾に渡り、ずっと台湾に住みついている人たち、外省人というのは、共産党との戦いに敗れた国民党とともに1949年に台湾に渡った人たちです(このほかに、もっと以前から台湾に住んでいる少数民族もいます)。国民党の統治が始まってからは、本省人は様々な面で差別されつづけ、それに対する反抗は、徹底的に弾圧されました。

1947年の2.28事件では2万人前後の犠牲者が出たと推計されています(92年の台湾政府の調査による)。このような、本省人と外省人の対立、いわゆる「省籍矛盾」は今でも存在しています。統一派には外省人が多く、独立派には本省人が多いのは、このためです。人口の比率では、本省人の方が圧倒的に多いため、世論調査をして、統一を望むという人の比率は、低くなっています(2002年11月の行政院研究発展考核委員会の世論調査によると、台湾独立 32.3%、両岸統一 21.8% 、現状維持 19.7%となっています )。したがって、もし台湾をどうしても統一したいというなら、まず台湾のこうした現状をつかみ、どうしたら台湾の人たちが統一を望むようになるのか、ということを考えなければならないはずです。

 しかし、残念ながら、大陸の人たちの中にはこのような思考方法はほとんど見られません。あるのは、まず、先にも述べたような「台湾の大多数の人たちは統一を望んでいるのに、一部の人たちが妨害している」という根拠のない思い込みです。

 「アメリカや日本が軍事上、台湾の独立を望んで策動しているために、台湾が統一されない」と外部に原因を求める人もいます。アメリカや日本にこのような考えを持っている人がいないとは言えないにしても、少なくとも政府レベルにおいてはアメリカも日本も「一つの中国」の原則を認めているわけで、このような「外因論」は全く成り立たないのですが、こうした根拠のない論理が多くの人たちに信じられています。

 統計的に見て、統一を望んでいる人が多数派ではないのを知っている人たちもいます。しかし、その人たちも「これは台湾のメディアが民衆を『誤導』(誤った道に導くこと)しているのだ」と言います。民主化された台湾のメディアは少なくとも大陸よりは自由であること、また、あえて言うなら、台湾のメディアにおいては国民党系の力のほうが強いことなどを考えれば、このような主張も全く的外れですが、現実にはこのような論理がまかり通っています。

 そして、もう一つあるのは次のような考え方です。

 「台湾は中国の一部だ。したがって、台湾の統一・独立については台湾の人たちの投票によってではなく、全中国人の投票によって決められるべきだ」

 これは、台湾で統一を支持するひつが少ない現実に対応した新たな論理と言えるでしょう。しかし、これは「一つの中国」をすでに前提にした論理で、台湾の人たちからして見れば、すでに独自の政府も持っている一つの「国」の運命を、全く別の政治体制を持っている「国」の人たちによって決められるべきだなどという主張が受け入れ難いでしょう。

 いずれにしても、ほとんどの中国人は台湾が統一されない理由を一部の「台湾独立派」、アメリカや日本などの外国の「策動」に求め、決して大陸自らに原因を求めようとしません。また、台湾を大陸と対等な対象と見ず、まるで子供か何かのように見る考え方があるように思います。このような考え方がある限り、台湾の人たちが進んで統一に向かうことはないのではないでしょうか。

 さて、それでは中国には台湾問題に対する異論は存在しないのでしょうか?私が最初に「台湾独立容認論」に触れたのは、ある理系の大学の先生に会った時でした。その先生は言いました。

 「台湾もチベットも独立したければすればいいんですよ。独立した結果、統一したほうが有利だとわかれば、こちらが何も言わなくても向こうから頭を下げてきますよ。唐の時代もそうだったでしょう。こんなことを私が言ったと決してほかの人に言ってはいけませんよ。大変なことになりますから」

 この先生の考え方は、本当の意味での台湾独立支持ではなく、やはり戦略的な統一論と言えます。

 台湾問題について、以前この日記でも書いたA先生に訊いたことがあります。A先生ならきっと、他の中国人とは違う考えが聞けると思ったのです。

  「先生、私は台湾のことは台湾の人たちが決めるべきだと思うのですが、先生はどう思いますか?」

 私がこう訊くと、A先生の顔が苦渋に満ちた表情に変わりました。そして、言いました。

  「その問題に答えることはとても難しい」

  「先生、もし答えにくかったら無理に答えなくてもいいですよ。すみません、こんな問題を訊いてしまって」

  「いや、いいんだよ。ただ、一つだけ言えば、解放当時の中国ではレーニンの唱えた『民族自決権』ということが盛んに強調されたが、その後の中国では『民族自決権』ということがほとんど言われなくなった」

 これがA先生のギリギリの回答でした。私はこれを聞いて、A先生が圧倒的大多数の中国人とは違う考え方を持っていることが知りました。しかし、授業で天安門事件の時の学生運動を絶賛するなど、タブーを恐れず発言してきたA先生ですら、このような形でしか台湾問題を語れないのを見たとき、中国でこの問題について統一に異を唱えることがいかに困難で、プレッシャーの大きいことなのかを思い知らされました。

 それでは、当の台湾の人たちはどう考えているのでしょうか?私が武漢に留学していた当時、台湾の留学生が数人いました。彼らは皆、独立も統一も望んではいませんでした。ただ、「現状維持」を望んでいました。これは、多くの台湾人の考えを代表していると言えるのでしょう。

 一人の台湾人留学生がこんなことを言ったことがあります。

 「中国が日本に侵略されたのは、中国があまりにも遅れていて、愚かで、腐敗していたからだよ。これは日本の責任じゃなくて、中国の問題だよ」

 私はこれを聞いて、びっくりしました。こんなことを大陸の人が言ったら袋叩きに合うでしょう。しかも彼はこれを卑下した感じではなく、実に爽やかな様子で言い放ちました。まるで他の国のことにようです。そうです。彼にとっては「中国」は自分の国ではないのです。彼の話を聞いて、大陸と台湾の間には、いかに大きな溝があるのかを思い知らせれました。そして、多くの大陸の人たちは全くといっていいほどこの溝の大きさを理解していないように思いました。

 留学時代、ある中国人の友人が言いました。

 「台湾は中国の一部という考え方は、僕らにとっては理屈じゃない。骨の髄まで染み込んだ考え方なんだ」

 一体、なぜ中国人がここまで台湾に執着するのか。一つには、かつて日本を含む列強に侵略され、台湾を含む領土を切りきざまれた歴史があるように思います。中国人と話していると、チベットや新疆が独立して領土が縮小し、国家が弱体化することへの恐怖とも言える感情を感じることがあります。そのトラウマとも言えるものは侵略された民族のみが理解できるものなのかもしれません。そして、そのトラウマを知るもののみが台湾への執着を理解できるのかもしれません。

 しかし、それなら、なおのこと、大陸の人たちには台湾の人たちの心にもっと思いを寄せてほしいと思います。大陸の人たちと台湾の人たちがいかに違うのかを理解してほしいと思います。本当に統一を望むのなら、それが第一歩であると思います。

2003.10.7
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/kangomei/

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html#c5

[近代史3] 台湾は中国では有り得ない 中川隆
6. 中川隆[-12425] koaQ7Jey 2019年2月05日 11:04:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

領土と国 台湾 武田邦彦 (中部大学)


尖閣列島、竹島、そして根室四島(北方四島という呼び名はいかにも「日本ではない」という感じがするので、ここでは根室四島と呼ぶ)が注目を集めています。そこで、この問題を整理することにしました。

「領土」と言うからには、その前提として「国」がなければならないのは当然です。そして、日本に住んでいると歴史が長いことと、四方が海なので国というのは「大昔からあるもの」と考えがちですが、世界では「国」や「国境」がハッキリしている方が珍しいということをまずは頭に入れなければなりません。その意味で「固有の国土」などというものはほとんど無いのです。

たとえば、台湾ですが、明治初期の台湾は「清」という中国の国が軍隊を派遣していましたが、「清の国土」なのか「清の勢力範囲」なのかはハッキリしていませんでした。

明治4年に琉球王国のご用船が難破して台湾に漂着した時、乗員69人の内、54名が斬首されるという事件がありました。今の常識では考えられませんが、「今の常識」はまさに「今の常識」であり、これを歴史的なことにそのまま適応するのは不適切です。

ともかく、琉球王国も「国かどうかハッキリしない」という時期だったので、琉球政府に代わって日本政府がこの事件について清に賠償を求めます。難破して漂着した人を殺害するのですから、もし「国」であればその国の政府が賠償しなければなりません。

ところが清は「台湾の中国人がやったのなら別だが、現地人がやったのだから俺には責任がない」と回答しました。この回答でわかることは台湾は清のものではなく清の一部が台湾に駐留していたということです。私たちは現代人ですから、どうしても「どこの国か?」と聞きたくなりますが、昔(たった150年ほど前)でも、「地域」があっても「国」ではないところは多かったのです。

かくして紆余曲折はあったのですが、日本軍が台湾に上陸して報復します。ところが、中国の守備隊は台湾を守るのではなく、台湾の人を殺戮し、台北を放棄して逃げてしまいます。このことも、台湾は「清の領土」ではなく「清の軍隊が駐留していた」と言うことを示します。後に整理しますが、「中国」というのは「地域」の名称であって、「中国」という「国」ができたのは共産党が中国を統一したごく最近の事です。

建国は1949年ですからまだ60年ほどしか経っていません。これは政治的な意味合いではなく学問的な解釈で、詳しくは歴史学者宮脇先生とシアターテレビジョンの「現代のコペルニクス」で詳しく解説をしています。

結局、台湾は歴史的に「国」であったことはなく、日本と清の間の戦争(日清戦争)のあとの下関条約で「清の統治下」から「日本の統治下」に入り、まもなく1915年に「内地延長主義」、つまりそれまでの「植民地統治」から「日本国の延長」ということにかわり、歴史的にははじめて台湾は「日本国」という国の一部になったのです。

私が「日本国は千島列島(占守島)から台湾まで」と言っているのは、政治的とか、良い悪いではなく、単純に歴史的には有史以来、台湾が国になったのは日本国の一部になってからという意味です。

たとえば、アメリカ合衆国というのは最初は北アメリカの一部に13州を作って独立したのですが、その後、西に進み、インディアンやメキシコなどと戦って、州を増やして今のアメリカ大陸の「国」ができたのです。カリフォルニアがアメリカ合衆国の一部であるということと同じく、台湾は日本であるということになります。

その後、日本が戦争に負けて台湾を放棄し、そのすぐ後(日本が降伏した1945年8月の2ヶ月後)、中華民国という国(中国ではない)が台湾に進駐して「実効支配」している状態です。

200年前の状態という意味では台湾は台湾人(中国は台湾を植民地にしていたので、インドとイギリスの関係と同じ)のもの、100年前というと日本国、そして50年前というと誰のものでもないということになります。もし、台湾をもともとの人に返すということなら台湾人(1945年に移ってきた中華民国人ではなく、もともとの台湾人)という事になります。

もちろん、領土は政治的、感情的なものですから、このようなことを言うと日本を支持してくれている今の台湾の人からも文句を言われますが、歴史的にはこのような事だったということです。

そうなると、台湾と琉球の間で台湾に近い尖閣諸島は誰のものなのでしょうか?少し長くなりましたので、また書きます。

(平成24年8月28日)
http://takedanet.com/archives/1013802659.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html#c6

[近代史3] 台湾は中国では有り得ない 中川隆
7. 中川隆[-12424] koaQ7Jey 2019年2月05日 11:05:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2016年08月03日
沖縄と台湾とハワイの違い
http://thutmose.blog.jp/archives/64595428.html


日本時代の高砂族、既に琉球の人口の半分しか居なかった。
http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/2/2/22a0d499.jpg


台湾先住民

台湾総統に就任した蔡英文は16の先住民族代表を総統府に招き、過去400年の権利侵害を謝罪しました。

唐突な行動に見えたが、後からやってきた華人が先住民から全てを奪ったと説明しました。

蔡英文の母方の祖母は少数民族の出身とされ、父方は中国系の豪商で、裕福な家庭で育ったとされています。

台湾には中国大陸からいわゆる中国人や漢民族が渡ってくる前から、先住民族が暮らしていました。

日本列島にいわゆる縄文人が暮らしていた頃、琉球、台湾、北海道、千島、樺太などでも同じような人々が暮らしていた。

縄文人は人種の名前ではなく、種々雑多な部族や人種が多くの島で混在していました。


これらの島々に最初に住んだ人々は、氷河期に地続きだったので、歩いてやってきたと言われている。

氷河期が終わり島々は海で区切られたが、木製の船で断続的に渡ってきた人々が加わって、多様な人種が混ざり合った。

こうして同じ島でも別な民族が同居するようになり、台湾でも多くの部族あるいは民族が存在している。


大陸では秦の始皇帝以降、大陸を統一する国家が出現し、そうした大国は台湾島にも政府機関を置いた。

だがそれは自国の一部という事ではなく、今で言う領事館のようなもので、台湾における権益確保が目的だった。

台湾島を最初に領有した国家はオランダで、1624年年から1662年まで領有していた。


平地から追われた台湾先住民

外国に占領される事で初めて台湾にも国家意識が生まれ、中国系の鄭成功が占領したが20年ほどで滅んだ。

その後は清国が政府機関を置いていたが、「化外の地」と呼び自国の領土ではないとわざわざ宣言していた。

日清戦争で清国から日本に帰属が移り、日本は敗戦で領有権を放棄し、現在は中華民国が占領している。


この間の台湾先住民の生活はどうだったかというと、先史時代の人口は良く分かっていません。

台湾先住民の人口調査を始めておこなったのは日本帝国で1905年に戸別調査を実施している。

1905年の台湾全体の人口は約303万9千人、高山族は76,443と記されていました。


現在の台湾先住民の人口は約48万人で、台湾の人口の約2%を占めています。

1600年以前の台湾島では、この立場が逆で、先住民が圧倒的多数だったと想像できる。

1632年、江戸時代初期の琉球の人口が約10万人、一時18万人に増えたが地震と津波で江戸末期には13万人でした。


中世以前の琉球の潜在的な人口が10万人程度とすると、台湾島はずっと大きいので、元々40万人くらい住んでいた可能性が高い。

台湾先住民は島の大部分を漢民族に取られ、高山族の呼び名の通り、限られた高山で暮らしている。

これを琉球、つまり沖縄やハワイと比べると興味深い事がわかります。


台湾先住民と琉球人の違い

先ほど書いたように江戸時代以前の琉球の人口は10万人という所で、江戸末期には13万人でした。

もっとも琉球では王に収める税金を逃れる為、住民の人数を少なく申告するのが一般的だったとする説があります。

ともあれ、琉球人の子孫である直系の沖縄人は沖縄県の人口の80%以上を占めています。


沖縄県に住んでいる琉球系の人が約100万人、本土に住んでいる人が120万人と言われ、合計220万人まで増えています。

人数が増えれば発言力も増すわけで、最近沖縄県が基地問題などで強気なのは、偶然ではありません。

琉球人の人口は140年で15倍以上に増え、基地が在るとはいえ沖縄の大半を「所有」しています。


現代の沖縄人はヤマトがいかに横暴に、琉球を搾取し弾圧したかを言いたがるが、事実はまるで逆だと分かります。

江戸時代に薩摩と幕府が「人頭税」など苛烈な搾取を行ったというのは沖縄で定説に成っていますが、これも事実ではありません。

幕府や薩摩が琉球に税を課した事は無く、琉球王が独自にやっていた事です。


それどころか幕府と薩摩は琉球が破綻するのを防ぐ為に、物資や資金や人的援助を行って、幕末まで助けていました。

もう一つの孤島の先住民、ハワイ先住民と比べると、ヤマトの琉球人への優遇ぶりは一層はっきりしてきます。

ハワイには数十万人の先住民が住んでいたが、1778年にキャプテンクックがハワイを「発見した」と称してから侵略が始まった。


ハワイと沖縄の違い

最初西洋諸国は少人数で小さな船だったため、国交を結んだり交易したりしてハワイは栄えた。

だが小船が大型船になり蒸気船に代わると、大勢の宣教師や移民や軍隊が移住してきてきて、伝染病を持ち込みました。

ハワイ先住民は人口が10分の1程度に減ったとされ、これ幸いとアメリカは「住民投票」でアメリカに併合しました。


先住民が減少したことで白人が多数派になり、白人は銃を持っているので、先住民を支配できたのです。

現在純粋なハワイ先住民は僅か8000人で、混血を含めて24万人がハワイに居住しているとアメリカ政府は発表しています。

自分の土地というものは持っておらず、厄介者のような存在になっている。


離島に限らず、世界の多くの先住民はこんな感じで暮らしていて、元の居住地にそのまま住んでいる琉球人は稀有な例外なのです。

アメリカ先住民のいわゆるインディアンとか、アジア諸国の先住民の多くも、先祖の土地を追い出されています。

追い出されたからこそ「先に住んでいた人」と呼ばれるのですが、琉球人は「今も住んでいる」ので先住民ではない。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html#c7

[近代史3] 台湾は中国では有り得ない 中川隆
8. 中川隆[-12423] koaQ7Jey 2019年2月05日 11:06:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

台湾は人民解放軍の上陸作戦に勝てる(ニューズウィーク) 
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/354.html

2018年10月4日(木)17時10分 タナー・グリーア(フォーリン・ポリシー誌記者) ニューズウィーク

台湾で毎年恒例の「漢光」軍事演習では海岸線での撃退作戦も TYRONE SIU-REUTERS


<注目すべき2つの研究から予測する中台戦争のシナリオと、台湾が知るべき自らの「勝ち目」>

昨秋の中国共産党第19回党大会でのこと。延々3時間に及ぶ習近平(シー・チンピン)国家主席の演説で最も盛大な拍手を受けたのは次の一節だった。

「われわれには、台湾の分離独立を目指すいかなる計画も打ち破る強固な意志と完璧な自信、そして十分な能力がある。誰であれ、どんな組織であれ、どんな政治勢力であれ、中国からその領土の一部を奪い取るような行為は断じて許さない」

勇ましいが、別に目新しい発言ではない。台湾の「分離独立派」を相手にして中国が負けるはずはなく、その再統一は歴史の必然だ。いざとなれば人民解放軍は台湾の軍勢を打ち破り、力ずくで台湾の民主主義を破壊できる。中国共産党は一貫して、そう主張してきた。

そんな発言をあえて繰り返したのは、台湾総統の蔡英文(ツァイ・インウェン)と与党・民主進歩党(民進党)の独立志向を本気で警戒している証拠だ。最近は台湾海峡周辺での軍事的威嚇も執拗に繰り返している。

しかし、中国には本当に台湾を武力制圧する力があるのだろうか。確かに国力の差は歴然としている。しかし小さな台湾が巨人・中国からの攻撃を自力で撃退するというシナリオにも、一定の現実味がある。

実際に中国と台湾の軍隊が激突した場合を想定し、結果を予測した詳細な研究がある。米タフツ大学の政治学者マイケル・ベックリーによるものと、シンクタンク「プロジェクト2049研究所」フェローのイアン・イーストンの著書『中国侵攻の脅威/台湾防衛とアジアにおけるアメリカの戦略』だ。

■中国の危ないギャンブル

どちらの研究も人民解放軍の出した統計や訓練マニュアル、計画文書などを分析し、米国防総省と台湾国防部がそれぞれに行ったシミュレーションなどの情報も踏まえている。

そこから導かれる「中台戦争」の様相は、中国共産党が繰り返す大言壮語とは大きく異なるものだ。台湾海峡を挟んだ戦争で中国が勝利するのは確実でも必然でもない。むしろ危険なギャンブルになりかねない。

中国側のシナリオによれば、このギャンブルはミサイルによる先制攻撃で始まる。人民解放軍のロケット部隊は、何カ月も前からひそかに準備を進めているはずだ。そして第1撃を放った瞬間から上陸作戦が始まる日まで、台湾の沿岸部にミサイルの雨を降らせる。標的は空軍基地や通信系統、レーダー設備、交通の要所、官公庁などだ。

それと同時に、ひそかに台湾島内に潜伏していた中国側のスパイや特殊部隊が要人の暗殺作戦を開始する。標的は蔡総統や民進党の幹部、閣僚、主要な言論人や科学者、技術者とその家族などだ。

この段階での目標は2つ。まずは台湾空軍機の大部分を地上で破壊し、指揮系統を混乱させて制空権を確保すること。もう一つの目標は台湾社会を麻痺させること。総統が死亡し、通信が遮断され、移動の手段も奪われ、交通機関が使えなくなれば、軍人たちの士気も下がり、混乱状態に陥るはずだ。そうなったら、いよいよ本格的な上陸作戦の始まりだ。

■上陸1週間で台北攻略

この作戦は壮大な規模になる。何万隻もの船(その多くは徴発された民間船だろう)が動員され、総勢100万の部隊を乗せて台湾海峡を渡る。護衛の戦闘爆撃機も出撃する。

混乱し分断された台湾の兵士たちは、やがて弾薬も尽きて海岸からの退却を余儀なくされる。上陸した中国軍は海岸線に拠点を築き、さらに内陸部を目指す。ここから先は簡単だ。

     

既に制空権を確保しているから、中国の空軍機はどこでも空爆できる。一方で地上の侵攻部隊は孤立した台湾兵の残党を次々に敗走させる。上陸から1週間もあれば、中国軍は台北を占領できる。2週間もあれば戒厳令を発し、島全体をアメリカや日本からの反撃に備える前線基地とすることができる。

これが中国側の描くベストなシナリオだ。しかし、そう簡単に運ぶ保証はない。そもそも先制攻撃で台湾側の「意表を突く」のは至難の業だ。

まず、海峡を渡れるのは4月か10月だけだ。1年のうち、台湾海峡の気象条件が良好なのは4月と10月の各4週間しかない。

それに、大艦隊が海を渡る大掛かりな作戦で「意表を突く」のは不可能だ。しかも台湾の情報機関は中国本土に深く潜入している。イーストンの推定では戦闘開始の60日以上前に上陸作戦の準備中と判明し、台湾だけでなく日米両国も警戒態勢に入る。そして最初のミサイルが発射される30日以上前に、警戒は確信に変わるという。

それだけ時間の余裕があれば、台湾側はいろいろできる。軍隊の主な施設を山間部のトンネルに移し、無防備な港湾から艦船を退避させる。中国側の工作員などとおぼしき者の身柄を拘束する。周辺海域に機雷を敷設する。地上部隊を島内各地に分散・偽装する。島全体に戦時体制を敷き、予備役165万人に武器を配る。

台湾島の西部海岸で上陸作戦が可能と思える場所は13カ所しかない。その全てで、既に備えはできている。想定される上陸地点には地下トンネルが縦横に張り巡らされている。装備品などを隠すコンクリートの地下倉庫もある。浜辺から内陸部に通じる境界に沿った地面には鋭い葉先を持つ植物が茂る。海岸地帯には化学工場が多いので、無差別に爆撃すれば有毒ガスが拡散する恐れもある。

開戦間近となれば、どの海岸にも容赦ない防御網が築かれているはずだ。台北に通じるルートは厳重に警戒されており、いざ非常事態となれば爆弾を仕掛けるなどして進撃を阻む用意ができている。


広東省で上陸作戦の訓練をする中国の海兵隊(17年8月) ZHOU QIQING-CHINA NEWS SERVICE-VCG/GETTY IMAGES

中国側の資料によると、高層ビルや岩山の間にワイヤを張り渡し、ヘリコプターを墜落させる仕掛けもある。トンネルや橋、高架道などには、ぎりぎりの段階で破壊できるように弾薬が仕掛けられる。建物が密集した都市部ではおのおのの建物が小さな要塞と化し、激しい市街戦が繰り広げられるだろう。

こうした防衛戦の怖さを理解するには、人民解放軍の歩兵の身になって考えてみればいい。ご多分に漏れず、きっと貧しい地方の農村出身者だ。生まれてこの方、台湾が中国に太刀打ちできるはずはないと教え込まれ、分離独立派に身の程を思い知らせてやるつもりでいる。

■上陸部隊は撃退される

ところが、現実はそう甘くない。あと数週間で戦闘開始というタイミングで、安徽省の祖父母に仕送りをしていた上海のいとこが失業する。台北からの電信送金が全面的に停止され、台湾企業で働く数百万の中国人への給与支給も止まったからだ。

彼は戦闘開始を広東省汕尾で待つ。なじみのない華南地方の森で3週間、戦闘の特訓を受けるのだ。外部からの情報は遮断されているが、噂は耳に入る。昨日の列車が10時間遅れたのは鉄道事情ではなく、妨害工作のせいだという。今日の噂では、広東省湛江で海兵隊の第1旅団長が暗殺された。繰り返される停電が本当に計画的なものなのかも、疑問に思えてくる。

そして上陸部隊の集結する福建省福州に到着した頃には、中国軍の無敵神話も疑わしくなる。当地の軍事施設はミサイル攻撃を受けて瓦礫の山だ。台湾から飛来するミサイルより台湾へ撃ち込まれるミサイルのほうが多いはずだと思って気を取り直しても、とうてい適応できない。度重なる空爆の衝撃により、軍隊への信頼感が薄れていく。

恐るべき一斉攻撃を浴びるのは揚陸艦に乗り込んでからだ。立派な強襲揚陸艦に乗り込める彼は幸運なほうだ。急きょ商船を改造した揚陸艦もある。

この日のために台湾側が用意した潜水艦が魚雷を撃ち込んでくるかもしれない。上空の戦闘機からアメリカ製の対艦ミサイルが飛んでくるかもしれない。内陸部の地下基地を飛び立ったF16戦闘機が接近してくる。

死者が一番多いのは機雷による被害だ。海峡を渡ってきた艦隊の目前に、場所によっては幅13キロの帯のような機雷の海が広がる。荒波にもまれて船酔いする歩兵の彼は、乗り込んだ揚陸艦の幸運を祈るしかない。

海岸に近づくにつれ、彼の心理的圧力は高まる。イーストンの研究によれば、岸に向かう最初の船は突如として海面から立ち上る炎の壁に行く手を阻まれる。炎は水面下に設置された数キロに及ぶ石油パイプラインから噴き出す。

幸運にも搭乗艦が炎をくぐり抜けても、上陸後には「有刺鉄線、鉄条網、スパイクストリップ、地雷、対戦車障害物、竹槍、倒木、トラック、廃車になった車など」の障害物が1キロ以上にわたって配置されている。

彼にとっては分が悪い戦いだ。たとえば90〜91年の湾岸戦争で、アメリカ主導の多国籍軍は8万8500トンの銃弾を使ったが、イラクの移動式ミサイル発射車両を1台も破壊できなかった。その後のコソボ紛争でも、NATO軍の78日間にわたる空爆は、セルビア側の移動式ミサイル発射装置22台のうち、3台を破壊したにすぎない。中国空軍の攻撃の成功率が、これ以上に高いと考える理由はない。

哀れな歩兵が上陸時の集中攻撃を生き延びたとしても、その先の進軍は苦難の連続だ。まず台湾軍の主力部隊、そして各地の都市やジャングルに散らばる165万人の予備役、地雷原やブービートラップ、瓦礫の山などが待ち受けている。

実戦の経験がなく、しかも無敵の中国軍という宣伝を信じ込んでいた歩兵にとっては手に余る想定外の事態だ。

こうしたシナリオに現実性があるからこそ、中国軍の将校用マニュアルには彼らの不安が色濃く反映されている。戦争が大きな賭けになることを、彼らは知っている。だからこそ中国政府は、少しでも台湾に武器が供与されることに猛反発する。中国軍が無敵でないことは、彼ら自身がよく理解している。

アメリカのアナリストによれば、敵国の沿岸部で攻撃側が空・海軍力の優位を維持することは技術的に非常に難しい。コスト面でも、防衛側のほうが攻撃側より有利だ。軍艦を建造するより、それを破壊するミサイルを買うほうが安上がりだ。

■敗北主義こそが真の脅威

つまり、今は守る側が有利な時代。だから台湾は、中国ほどの軍事予算を計上しなくても中国軍の侵攻を食い止められる。

台湾の人たちは、この事実に気付くべきだ。筆者は台湾で徴兵された兵士や職業軍人に直接取材したが、彼らは一様に悲観的だった。兵士の士気の低下は、徴兵制度の深刻な運営上の問題を反映している。熱心な愛国者さえも、徴兵期間の経験で軍隊に幻滅してしまう。

同様に問題なのは、自国の防衛力に対する台湾人の知識の欠如だ。最近の世論調査によると、台湾人の65%が中国軍の攻撃を阻止する台湾軍の能力に「自信がない」ことが分かった。

台湾には中国の侵攻を阻止する軍事力があることを島民にアピールする取り組みがなされない。一方、台湾と正式な国交を維持する国がどんどん減っているといった無意味な指標で住民は悲壮感を募らせている。

中国軍の作戦は、士気を失った台湾軍を圧倒し、服従させるように計画されている。最も重要な戦場は、台湾人の心の中なのかもしれない。台湾の民主主義にとって、敗北主義は中国の兵器よりも危険なものだ。

アメリカや日本も、台湾の防衛についてはもっと楽観的かつ強気になるべきだ。確かに台湾軍は、上陸した中国軍を抑えられるのは2週間と予測している。だが中国軍も、2週間以内に台湾を制圧できなければ戦争に負けると考えている。

中国と台湾の軍事予算の差は大きく、差は広がる一方だが、台湾は中国の侵略を抑止するために中国と同等な軍事費など必要としない。必要なのは侵攻を思いとどまらせるに足る武器を購入する自由だ。そのためにはアメリカ議会を説得する必要があるが、その政治的バトルに台湾が勝利すれば、中国も台湾侵攻を諦めるはずだ。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/215.html#c8

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口

チャンネル桜の常連 西岡力の悪質な詐欺の手口


西岡力 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B

【Front Japan 桜】西岡力 - YouTube 動画
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&ei=ePdYXKf8J4r58QWkxL9o&q=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E6%A1%9C+%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B&btnK=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&oq=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E6%A1%9C+%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B&gs_l=psy-ab.3..0i30.2188.5483..5738...0.0..0.122.358.0j3......0....2j1..gws-wiz.....0.QcYJ-7bHNxs


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従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html

朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html

日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが…
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html

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2018.12.09
【トンデモ】保守による徴用工問題の否定論
(西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析」『歴史認識問題研究』2, 2018.3)
https://rondan.net/740


Contents

1 はじめに
2 やはり朝日新聞の陰謀
3 「強制連行」と「徴用」
4 「8割は自らの意志で出稼ぎ」だから「強制連行」ではないという謎理論
5 まとめ


はじめに

燻っていた徴用工問題について、とうとう韓国大法院(最高裁)が新日鉄住金(旧新日本製鉄)に賠償命令を下しました。今後、個人が日本企業に対して賠償請求する動きが加速するでしょう。

もちろん日本無罪を主張する保守にとってこれほどの屈辱はないわけで、早速、SNS上では日韓断交などを声高に叫ぶ輩が沸いています。議論は個人請求権の問題にとどまらず、徴用工への人格攻撃にまで発展していることは誠に残念なことです。しかし本当に日本の国益を考えるならば、隣国と仲良くすべきなのは明らかです。奇妙なプライドを捨てて良好な信頼関係を築いてさえいれば、このような事態にはならなかったでしょう。

このような動きのなか今回紹介したいのは、2018年3月に『歴史認識問題研究』という学術風雑誌の第2号に掲載された西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析」という論文風文章です。

この『歴史認識問題研究』という雑誌は保守系論調を発表するる傾向が強く、執筆者の西岡力氏も慰安婦問題などで日本無罪論を主張する論客の一人として知られます。

保守というのは不思議な生き物で、保守であれば必ず慰安婦問題も日本無罪論、そしてこの徴用工問題も一様に否定します。そして興味深いことに、慰安婦問題否定論の理論と、この徴用工問題否定論には共通点が見出せます。その点を中心に今回は、本論文の「はじめに」と「第一章 統計から見た朝鮮人「強制連行」説の破綻」を検討していきたいと思います。

やはり朝日新聞の陰謀

慰安婦問題の裏に朝日新聞の陰謀を主張している筆者の西岡氏は、この徴用工問題も朝日新聞が元凶だと冒頭部で宣言します。


韓国の文在寅大統領が2017年8月17日の記者会見で、いわゆる徴用工問題について「強制徴用された者個人が、三菱などをはじめとする相手の会社に対して持つ民事上の権利はそのまま残っている」として、1965年の協定で解決しているという従来の韓国政府の見解を覆した。これに他して日本政府は即時に抗議したし、日本のマスコミも一斉に批判した。歴史問題で韓国に同情的な朝日新聞も、欲18日の社説で「未来志向的な日本との関係を真剣に目指すなら、もっと思慮深い言動に徹するべきだ」と、文大統領を責めた。
しかし、実は文発言はわが国の一部政治家や外務官僚、そして朝日新聞などが誘発したものだった。文大統領は同年8月15日の演説で、以下のように述べている。
〈この間、日本の多くの政治家と知識人が両国間の過去と日本の責任を直視しようという努力をしてきました。その努力が日韓関係の未来的内的な発展に寄与してきました。こうした歴史認識が日本の国内政治の状況によって変わらないようにしなければなりません。〉
文大統領は、河野洋平元外相や朝日新聞らが行ってきた「事実を調べずにまず謝罪し人道的立場という理屈をつけてカネを払う」という対韓謝罪路線を高く評価し、筆者らや産経新聞、そして安倍晋三政権などが「事実に基づき、言うべきことは言う」という対韓是々非々路線を適していることを、非難しているのだ。

朝日新聞は社説で文大統領の徴用工発言を責めているのに、この発言の裏には朝日新聞がいるという謎理論です。しかもその根拠とされる文大統領の8月15日演説では「日本の多くの政治家と知識人が両国間の過去と日本の責任を直視しようという努力をしてきました」と言っているだけで、朝日新聞のことなど一言も言及していません。にもかかわらず、想像力たくましい西岡氏は、「河野洋平元外相・朝日新聞vs筆者ら・産経新聞・倍晋三政権」という有りもしない対立構造を一方的に提示します。しかも後者の立場を「事実に基づき、言うべきことは言う」という対韓是々非々路線と評価しています。ということは、慰安婦問題は事実に基づいて安倍首相は謝罪したということになるのですが、この矛盾に気付いておられるのでしょうか?


「強制連行」と「徴用」


ところで慰安婦問題を論じるうえで、それが「強制連行」であったのかどうかが大きな焦点となります。もちろんこの徴用工問題でも、その連行が強制であったのかどうかが重大な論点となります。

そして当然、保守論客である西岡氏は「強制連行」ではなく「戦時動員」であり、その労働も決して「奴隷労働」ではなかったと主張します。そしてその根拠は、「強制連行」ならば家族と離散しているはずであるが、彼らは家族を連れて日本に移動してきたこと、らしいです。

しかしこの主張は苦しいものです。「徴用」の「徴」の字は「呼び出す」「召し出す」の意味ですから、「自由意思に基づいて応募した」という意味にはなりません。

したがって「徴用」は「強制連行」の意味でも理解し得ます。ただし「強制連行」といっても、「首輪や足枷をつけて連行された」という意味だけに直結するわけではありません。たとえば赤紙によって「徴兵」されたとしても、その人は憲兵に取り押さえられて無理やり徴兵検査や戦場に連行されていくわけではないのと同様です。当時、赤紙配達員は「おめでとうございます」といって赤紙を届けていたそうです。本人はたとえ行きたくなくても、社会的圧力に屈して、自らの意思でそこに行かなければならないのです(喜んで戦地に行った人も少なからずいたようですが)。まして、当時朝鮮半島は植民地支配されており、その宗主国の意向に基づく徴用であったことも重要でしょう。

このような言葉の問題は従軍慰安婦問題をめぐっても確認されます。たとえば、その英訳は「Sex slave」なのか「Comfort woman」なのかという問題です。後者「Comfort woman」がより直訳なのですが、それではその重大性が伝わらないということで前者「Sex slave」の訳語が選ばれる場合もあります。しかし「Sex slave」(性奴隷)という語は意味が強すぎるきらいもあるため、この語が本当に相応しいかどうか非常に難しい問題です。もちろん保守は慰安婦は売春婦で自由意思があったから「Sex slave」(性奴隷)は全くないと主張するのであり、非保守は人権や人道上の問題を考えれば「Sex slave」(性奴隷)が相応しいと主張するわけです。

この様な言葉の選択をめぐる争いは、その問題の全体をイメージ付ける上で極めて重要なのですが、本筋の議論を措いて、時として言葉遊びになってしまってしまう場合もあるように思えます。

「8割は自らの意志で出稼ぎ」だから「強制連行」ではないという謎理論

また西岡氏は、@終戦時の在日朝鮮人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていたこと、A植民地時代の朝鮮で人口が増加したことや、B朝鮮からの不法渡航者が強制送還されていたことなどを根拠に「強制連行」を否定していますが、この主張にはやや問題があります。

まず、@「終戦時の在日朝鮮人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていた」ですが、これは明らかにオカシナ主張です。というのも「在日朝鮮人の全てが徴用工として来たわけないこと」は当然の前提です。そして、西岡氏自らが、終戦時の日本内地朝鮮人人口うち二割が動員現場(徴用先)にいたことを統計的に指摘しています。つまり、その二割の人々が今回の徴用工問題の焦点となっているのであり、その他の八割が焦点になっているわけではないのです。このオカシナ主張は、従軍慰安婦問題を論じるときに、「自らの意志で売春婦になった」論にも共通するものです。

そして、A「植民地時代の朝鮮で人口が増加した」、B「朝鮮からの不法渡航者が強制送還されていた」の問題も同様に、徴用された方々の人権とは全く無関係の話です。いくらそうだったからと言って、徴用された人がいるという事実には全く関係のないことです。こういうのを議論のすり替えというのです。日本な朝鮮半島に投資していたから、日本に侵略意思は無かった論とよく似ています。

まとめ

このように西岡氏の徴用工問題否定論は、従軍慰安婦問題否定論と非常に論旨がよく似ています。
1徴用工問題の裏に「朝日新聞」の存在を勝手に錯綜。(⇒慰安婦問題は「朝日新聞」の報道によって生まれた)

2「徴用」であるにも関わらず、言葉遊びで「強制連行」性を否定。(⇒慰安婦は売春婦のこと、性奴隷じゃないから「強制連行」性はない。)
3「在日朝鮮人の八割が出稼ぎで日本に来た」「不法渡航者は強制送還した」と言って話をすり替えて、残り二割の徴用工問題を矮小化。(⇒「あいつらは売春婦で金儲けのために慰安婦になった」「ルール違反で呼び寄せられた慰安婦を親元に返した」)

というようにまとめられるでしょう。また別の論文・記事では、徴用工の待遇について「貯金もできた!」「幸せだった!」という論調も他で見られますが、それもまた「慰安婦は高給取りだった!」と同じ理論です。恐るべき理論の一致と見るべきか。

徴用工がどれだけ悲惨であったのかは「花岡事件」を調べればよく解りますし、中国人徴用工四万人のうち七千人が亡くなった事実からも明らかでしょう。


(野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社, 2009を参照)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E2%80%95%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%BC%B7%E5%88%B6%E9%80%A3%E8%A1%8C%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%A0%B4%E3%81%8B%E3%82%89-%E9%87%8E%E6%B7%BB-%E6%86%B2%E6%B2%BB/dp/4784513345

*なお私個人の見解としては、「今になって韓国が突然方針転換して個人請求権を認めた」という点については、今後の日韓関係の行く末を考えるうえで憂慮すべき問題であり、その妥当性などについて種々に再検討する必要があると思います。しかし、だからといって徴用工を個人攻撃して、徴用工問題を矮小化するという保守の議論には賛同できません。
https://rondan.net/740

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
1. 中川隆[-12422] koaQ7Jey 2019年2月05日 12:01:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

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4. 中川隆[-12421] koaQ7Jey 2019年2月05日 12:06:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2018.12.09
【トンデモ】保守による徴用工問題の否定論
(西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析」『歴史認識問題研究』2, 2018.3)
https://rondan.net/740


Contents

1 はじめに
2 やはり朝日新聞の陰謀
3 「強制連行」と「徴用」
4 「8割は自らの意志で出稼ぎ」だから「強制連行」ではないという謎理論
5 まとめ


はじめに

燻っていた徴用工問題について、とうとう韓国大法院(最高裁)が新日鉄住金(旧新日本製鉄)に賠償命令を下しました。今後、個人が日本企業に対して賠償請求する動きが加速するでしょう。

もちろん日本無罪を主張する保守にとってこれほどの屈辱はないわけで、早速、SNS上では日韓断交などを声高に叫ぶ輩が沸いています。議論は個人請求権の問題にとどまらず、徴用工への人格攻撃にまで発展していることは誠に残念なことです。しかし本当に日本の国益を考えるならば、隣国と仲良くすべきなのは明らかです。奇妙なプライドを捨てて良好な信頼関係を築いてさえいれば、このような事態にはならなかったでしょう。

このような動きのなか今回紹介したいのは、2018年3月に『歴史認識問題研究』という学術風雑誌の第2号に掲載された西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析」という論文風文章です。

この『歴史認識問題研究』という雑誌は保守系論調を発表するる傾向が強く、執筆者の西岡力氏も慰安婦問題などで日本無罪論を主張する論客の一人として知られます。

保守というのは不思議な生き物で、保守であれば必ず慰安婦問題も日本無罪論、そしてこの徴用工問題も一様に否定します。そして興味深いことに、慰安婦問題否定論の理論と、この徴用工問題否定論には共通点が見出せます。

その点を中心に今回は、本論文の「はじめに」と「第一章 統計から見た朝鮮人「強制連行」説の破綻」を検討していきたいと思います。

やはり朝日新聞の陰謀

慰安婦問題の裏に朝日新聞の陰謀を主張している筆者の西岡氏は、この徴用工問題も朝日新聞が元凶だと冒頭部で宣言します。


韓国の文在寅大統領が2017年8月17日の記者会見で、いわゆる徴用工問題について「強制徴用された者個人が、三菱などをはじめとする相手の会社に対して持つ民事上の権利はそのまま残っている」として、1965年の協定で解決しているという従来の韓国政府の見解を覆した。これに他して日本政府は即時に抗議したし、日本のマスコミも一斉に批判した。歴史問題で韓国に同情的な朝日新聞も、欲18日の社説で「未来志向的な日本との関係を真剣に目指すなら、もっと思慮深い言動に徹するべきだ」と、文大統領を責めた。

しかし、実は文発言はわが国の一部政治家や外務官僚、そして朝日新聞などが誘発したものだった。文大統領は同年8月15日の演説で、以下のように述べている。

〈この間、日本の多くの政治家と知識人が両国間の過去と日本の責任を直視しようという努力をしてきました。その努力が日韓関係の未来的内的な発展に寄与してきました。こうした歴史認識が日本の国内政治の状況によって変わらないようにしなければなりません。〉

文大統領は、河野洋平元外相や朝日新聞らが行ってきた「事実を調べずにまず謝罪し人道的立場という理屈をつけてカネを払う」という対韓謝罪路線を高く評価し、筆者らや産経新聞、そして安倍晋三政権などが「事実に基づき、言うべきことは言う」という対韓是々非々路線を適していることを、非難しているのだ。

朝日新聞は社説で文大統領の徴用工発言を責めているのに、この発言の裏には朝日新聞がいるという謎理論です。しかもその根拠とされる文大統領の8月15日演説では「日本の多くの政治家と知識人が両国間の過去と日本の責任を直視しようという努力をしてきました」と言っているだけで、朝日新聞のことなど一言も言及していません。にもかかわらず、想像力たくましい西岡氏は、「河野洋平元外相・朝日新聞vs筆者ら・産経新聞・倍晋三政権」という有りもしない対立構造を一方的に提示します。しかも後者の立場を「事実に基づき、言うべきことは言う」という対韓是々非々路線と評価しています。ということは、慰安婦問題は事実に基づいて安倍首相は謝罪したということになるのですが、この矛盾に気付いておられるのでしょうか?


「強制連行」と「徴用」


ところで慰安婦問題を論じるうえで、それが「強制連行」であったのかどうかが大きな焦点となります。もちろんこの徴用工問題でも、その連行が強制であったのかどうかが重大な論点となります。

そして当然、保守論客である西岡氏は「強制連行」ではなく「戦時動員」であり、その労働も決して「奴隷労働」ではなかったと主張します。そしてその根拠は、「強制連行」ならば家族と離散しているはずであるが、彼らは家族を連れて日本に移動してきたこと、らしいです。

しかしこの主張は苦しいものです。「徴用」の「徴」の字は「呼び出す」「召し出す」の意味ですから、「自由意思に基づいて応募した」という意味にはなりません。

したがって「徴用」は「強制連行」の意味でも理解し得ます。ただし「強制連行」といっても、「首輪や足枷をつけて連行された」という意味だけに直結するわけではありません。たとえば赤紙によって「徴兵」されたとしても、その人は憲兵に取り押さえられて無理やり徴兵検査や戦場に連行されていくわけではないのと同様です。当時、赤紙配達員は「おめでとうございます」といって赤紙を届けていたそうです。本人はたとえ行きたくなくても、社会的圧力に屈して、自らの意思でそこに行かなければならないのです(喜んで戦地に行った人も少なからずいたようですが)。まして、当時朝鮮半島は植民地支配されており、その宗主国の意向に基づく徴用であったことも重要でしょう。

このような言葉の問題は従軍慰安婦問題をめぐっても確認されます。たとえば、その英訳は「Sex slave」なのか「Comfort woman」なのかという問題です。後者「Comfort woman」がより直訳なのですが、それではその重大性が伝わらないということで前者「Sex slave」の訳語が選ばれる場合もあります。しかし「Sex slave」(性奴隷)という語は意味が強すぎるきらいもあるため、この語が本当に相応しいかどうか非常に難しい問題です。もちろん保守は慰安婦は売春婦で自由意思があったから「Sex slave」(性奴隷)は全くないと主張するのであり、非保守は人権や人道上の問題を考えれば「Sex slave」(性奴隷)が相応しいと主張するわけです。

この様な言葉の選択をめぐる争いは、その問題の全体をイメージ付ける上で極めて重要なのですが、本筋の議論を措いて、時として言葉遊びになってしまってしまう場合もあるように思えます。

「8割は自らの意志で出稼ぎ」だから「強制連行」ではないという謎理論

また西岡氏は、

@終戦時の在日朝鮮人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていたこと、
A植民地時代の朝鮮で人口が増加したことや、
B朝鮮からの不法渡航者が強制送還されていたこと

などを根拠に「強制連行」を否定していますが、この主張にはやや問題があります。

まず、

@「終戦時の在日朝鮮人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていた」

ですが、これは明らかにオカシナ主張です。というのも「在日朝鮮人の全てが徴用工として来たわけないこと」は当然の前提です。そして、西岡氏自らが、終戦時の日本内地朝鮮人人口うち二割が動員現場(徴用先)にいたことを統計的に指摘しています。つまり、その二割の人々が今回の徴用工問題の焦点となっているのであり、その他の八割が焦点になっているわけではないのです。このオカシナ主張は、従軍慰安婦問題を論じるときに、「自らの意志で売春婦になった」論にも共通するものです。

そして、

A「植民地時代の朝鮮で人口が増加した」、

B「朝鮮からの不法渡航者が強制送還されていた」


の問題も同様に、徴用された方々の人権とは全く無関係の話です。いくらそうだったからと言って、徴用された人がいるという事実には全く関係のないことです。こういうのを議論のすり替えというのです。日本な朝鮮半島に投資していたから、日本に侵略意思は無かった論とよく似ています。

まとめ

このように西岡氏の徴用工問題否定論は、従軍慰安婦問題否定論と非常に論旨がよく似ています。


1徴用工問題の裏に「朝日新聞」の存在を勝手に錯綜。(⇒慰安婦問題は「朝日新聞」の報道によって生まれた)

2「徴用」であるにも関わらず、言葉遊びで「強制連行」性を否定。(⇒慰安婦は売春婦のこと、性奴隷じゃないから「強制連行」性はない。)

3「在日朝鮮人の八割が出稼ぎで日本に来た」「不法渡航者は強制送還した」と言って話をすり替えて、残り二割の徴用工問題を矮小化。(⇒「あいつらは売春婦で金儲けのために慰安婦になった」「ルール違反で呼び寄せられた慰安婦を親元に返した」)


というようにまとめられるでしょう。また別の論文・記事では、徴用工の待遇について「貯金もできた!」「幸せだった!」という論調も他で見られますが、それもまた「慰安婦は高給取りだった!」と同じ理論です。恐るべき理論の一致と見るべきか。

徴用工がどれだけ悲惨であったのかは「花岡事件」を調べればよく解りますし、中国人徴用工四万人のうち七千人が亡くなった事実からも明らかでしょう。


(野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社, 2009を参照)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E2%80%95%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%BC%B7%E5%88%B6%E9%80%A3%E8%A1%8C%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%A0%B4%E3%81%8B%E3%82%89-%E9%87%8E%E6%B7%BB-%E6%86%B2%E6%B2%BB/dp/4784513345

*なお私個人の見解としては、「今になって韓国が突然方針転換して個人請求権を認めた」という点については、今後の日韓関係の行く末を考えるうえで憂慮すべき問題であり、その妥当性などについて種々に再検討する必要があると思います。しかし、だからといって徴用工を個人攻撃して、徴用工問題を矮小化するという保守の議論には賛同できません。
https://rondan.net/740
 

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html#c4

[近代史3] 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 中川隆
9. 中川隆[-12420] koaQ7Jey 2019年2月05日 12:26:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2019.02.05
【南京事件】入城後の「虐殺行為」を報告するアメリカ公文書「793.94/12134」
https://rondan.net/14679

Contents

1 第三者も報告していた南京アトローシティ
2 屁理屈をこねる否定論者
3 アメリカ公文書「793.94/12134」の南京実情
4 南京周辺部の報告
5 原文:793.94/12134
6 極東国際軍事裁判速記録第58号(A検察側立証段階8)昭和21年8月29日


第三者も報告していた南京アトローシティ

南京事件で不法な虐殺行為はあったのか?

常識的に考えて被害者の証言と、加害者の証言が一致しており、加えて当時の新聞記事やら埋葬記録やらが残っていれば、それらの情報はたとえ互いに少々食い違っていたとしても、何らかの「事実」を反映していると考えることが普通です。つまり南京事件において「不法殺戮や残虐行為はあった」ということです。

しかし南京事件は既にイデオロギーの闘いになっていて、それをどうしても否定したい方々は、「中国側の証言は一切信用できない」とか、「日本側の証言者は中共に洗脳されている」とか、「伝聞は一切当てにならない」とか無茶苦茶な理論を展開します。

中国側証言であれ、日本側証言であれ、伝聞であれ、示し合わせていないのに同じく不法殺戮に言及しているのであれば、 確かにお互いに食い違う箇所があったとしても、何らかの「事実」に由来すると考えるのは常識です。



屁理屈をこねる否定論者

このような常識が通じないため、南京事件論争は不毛で馬鹿々々しい議論を延々と繰り返しています。南京事件など無かったと極端なことを言いだす方々は、肯定側がどんな証拠を出しても、屁理屈をこねてそれを否定します。

たとえるならば、30人いたお店で「万引き事件」が起きたとします。そのうち20人が万引きを目撃して、19人は右手で盗ったと証言し、1人だけ左手で盗ったと証言したとします。常識的に考えれば、「左手で盗った」という証言は見間違いであると判断され、証言内容に食い違いがあったとしても「万引きがあった」という事実が正しいことは認定されます。

なぜかこの常識が「南京事件論争」では全く通用しません。上記のたとえを用いるならば、左手と右手とで証言に食い違いがあるから「万引きがあったという事実は認定できない 」 と言い出したり、その場にいた人の中で「万引きを見ていない」と言う人もいるから「万引きはなかった」と言い出したりするようなものです。挙句、仮に万引き犯が「万引きしました」と自白しているのに、証言は当てにならないと言い出します。

ネット上で、南京事件そのものを否定する輩というのは、本当にこの程度のレベルです。そしてこの程度のレベルの問題に答える為に、肯定論者たちは、わざわざ第三国の資料を持ってきたり当時の日記を掘り起こしたりして丁寧に詳細にこれを説明しています。肯定側の前衛を担っている笠原十九司氏は1990年代前半に「学問的に結着した」と評価していますが、それから20年以上たった現在においても不毛な争いが延々と続いているのは恐るべきというものでしょう。


アメリカ公文書「793.94/12134」の南京実情

本ブログでは、これまであまり注目を浴びてこなかったアメリカ公文書を中心に、南京事件に関連する通信文を紹介しています。これら通信文には、支那事変で上海〜南京に攻め込んだ日本軍が、不法殺戮・強姦・略奪・放火など蛮行の限りを尽くしたことが報告されており、南京事件に関する中国側と日本側の証言の真正性を裏付けるものです。

今回紹介するのは、1月19日に送信されたアメリカ公文書「793.94/12134」です。この通信文は、東京裁判において南京事件の証拠として提示されていますが、現在出版されている和訳速記録には、公文書の所在が記されておらず、加えて日付間違いがあるためか(1月22日となっている)、これまでの南京関連書やウェブサイトではあまり注目を集めてきませんでした。ゆえに本ブログにおいてこれを紹介することには意味があるでしょう。

まず占領直後の南京市内の様子について、ボイントン牧師は次のように証言しています。


占領初期の数日の間に南京のアメリカ大学校舎において、およそ百件のレイプ事件が報告されている。これらの報告を私のもとに持ってきたボイントン氏(国民基督教会議)は次のように述べた。「日本軍入城後すぐに南京にやって来た日本大使館員たちは、避難地域の内外を問わず、泥酔の狂乱、殺人、レイプ、略奪が公然と行われているのを見て慄いていた。
793.94/12134


南京市内の地獄絵図が目に浮かびます。

これに続いてこの通信文では、当地の軍司令部が蛮行の抑止に無策であったこと、日本国内の輿論に訴えてこの惨状を止めようと提案までしています。

事実、この惨状を知った軍政府は、あわてて1938年1月4日付けで「軍紀風紀に関する通牒」を下達してます。このような軍政府の対応からも、このアメリカ公文書が伝える内容の真正性が担保されるているでしょう。

南京周辺部の報告

またこの通信文「793.94/12134」では、南京のみならず、蘇州・杭州・上海周辺でも同様の事態が生じていると報告しています。


蘇州と杭州から目撃者が報告をもたらすと約束を受けた。そこ(蘇州と杭州)においても日本軍の行動は同様に酷い。そして、上海近郊の確認された話については現在入手しつつある。
793.94/12134


この通信文が打たれてから六日後の1938年1月25日に、これらの地域の惨状を伝えた通信文「793.94/12207」が打たれています。


【上海周辺部について】
中国の報告書(そのうちのいくつかは疑いなく信頼できる)は、中国の民間人の殺害、女性へのレイプ、および私有財産の略奪および放火があったことを示している。南島についてはアメリカの医師と宣教師が、レイプ事件、約80人の中国人民間人の射殺、そして日本人がその地域を占領した直後に中国人の私有財産の放火や略奪の数々を報告している。南島の状況は徐々に改善していますが、レイプ事件はまだ時々報告される。
793.94/12207



【杭州について】
杭州のアメリカ人宣教師の報告によると、12月24日から1月5日の間に、

1)日本軍による女性へのおびただしいレイプ、
2)中国人の私有財産の略奪および破壊、
3)アメリカや他の外国の教会私有地に避難することを拒否した女性は、多くの場合、日本の兵士たちに引きずり出されてレイプされた。日本の軍警察のかなりの勢力が現在市内で機能しており、状況は改善した。
793.94/12207


【蘇州について】
我々が調査した全ての店、銀行、住居は押し入られ、そして制服を着た日本人兵士たちがこれらの建物に出入りし、出て来て絹の束・アイダーダウンのキルト・枕・衣服などを積んでいたのが目撃されました。この略奪は、それを行っている兵士たち個人の利益のために行われていたものではありません。そうではなくて、日本軍の利益ために、しかも当局者の認知と同意のもとに行わたものです。そのことは、軍隊トラックにこの略奪物うちのいくらかが載せられているのを我々が見た事実によって証明されます。私たちは軍司令部の前に止まっている一台の大きなトラックの上に、素晴らしい黒檀の家具が載っているのを見ました。蘇州の日本人によるそのような強盗のすべてが酷いものだったが、最悪の事案を言わればならない…すべての階級の中国人女性に対して日本人侵略者たちの暴行がありました。他の多くの市や町でも同様の憂鬱が疑いなく起こったが、宣教師が自分の持ち場に戻ることが許可されるまで、しっかりとした報告は受け取られそうにない。
793.94/12207

このような通信文を踏まえるならば、南京のみならず長江デルタ地帯全体で、日本軍によるアトローシティ(残虐行為)が組織的に広く行われていたと考えられます。。

原文:793.94/12134

The Ambassador in Japan (Grew) to the Secretary of State

Tokyo, January 19, 1938—noon.
[Received January 19—7 a.m.]

My British colleague has given me for my confidential information a paraphrase of a telegram dated January 15, from the British Embassy at Shanghai reporting actions of Japanese troops at Nanking. As we have had no detailed reports on this subject from Shanghai or elsewhere I am cabling the text which was furnished to me as follows:

“I have been supplied confidentially with two separate and completely reliable reports, from an American missionary at Nanking and a missionary doctor at Wuhu who remained at their posts when the Japanese entered these cities, regarding the atrocities committed by the Japanese Army. Reports quote approximately 100 authenticated cases of rape in the American University Buildings in Nanking in the first few days of the occupation.

The Reverend Boynton of the National Christian Council who brought me these reports stated that the Japanese Embassy officials who reached Nanking shortly after the entry of the Japanese troops were horrified when they saw the orgy of drunkenness, murder, rape and robbery, which was going on openly in and around the refugee zone. Failing to make any impression on the military commander, whose attitude of callous indifference makes it probable that the army was deliberately turned loose on the cit yas a punitive measure, and despairing of getting cable through to Tokyo owing to military control, Embassy officials had even suggested to the missionaries that the latter should try and get publicity for the facts in Japan so that the Japanese Government would be forced by public opinion to curb the army.

I have been promised eye witness reports from Soochow and Hang-chow where the behavior of the Japanese troops was equally bad and stories, apparently authenticated, regarding their behavior, in the neighborhood of Shanghai are now coming in”.

Repeated to Peiping for relay to Hankow.

Grew

Cf. Foreign Relations of the United States Diplomatic Papers, 1938, The Far East, Volume III, pp. 37-38.

極東国際軍事裁判速記録第58号(A検察側立証段階8)昭和21年8月29日

一九三八年一月二十二日
 南京及蕪湖ニ於ケル日本人ノ残虐

 一月二十一日正午 東京発一月十九日正午三九号電ノ転送

 英国ノ同僚ハ本日秘扱情報トシテ南京ニ於ケル日本軍隊ノ行動ヲ報告スル在上海英国大使館ヨリノ一月十五日附電報ノ訳文ヲ小官ニ提供セリ。本件ニ関シテハ上海其ノ他ヨリ詳報ヲ入手シ居ラザルニ依リ、取アヘズ提供サレタル本文ヲ電達ス。「小官ハ秘扱ニテ二個ノ別々ノ且信頼シテ可ナリト思ハルル日本軍ノ残虐行為ニ関スル報告ヲ、日本兵入城ノ際各々ノ持場ニ留マリ居リタル南京ノ米宣教師及蕪湖ノ宣教師医師ヨリ受ケタリ。占領ノ初期ニ於テ南京米国大学校舎内ニテ確カメラレタル強姦事件約百件。 之等ノ報告ヲ小官ニ齎シタル国民基督教会議ノ「ボイントン(Boynton)師ノ曰フ所ニテハ、日本大使館員ニシテ日本軍入城後間モナク南京ニ到着シタルモノハ、泥酔ノ宴楽、殺戮・強姦及強奪ガ避難地域ノ内外ニテ公然ト行ハレ居ルヲ見テ戦慄シ居リタリ。彼等ハ軍司令官ニ注意ヲ促サントセシモ果サズ。結局其司令官ガ無情無関心ナル態度ナルガ為ニ、刑罰ノ方法トシテ南京ニ臨ムニ故意ニ放漫トナリタルモノノ如シト観察シ居リ、又、東京ニ打電連絡セントスルモ電報ガ軍管理ナル為、之亦、強望ナリ。依テ大使館職員ハ宣教師ニ、彼等宣教師ヨリ日本内ニ之等事実ヲ公表スル如ク試ミ、日本政府ガ輿論ニヨリ軍隊ヲ抑制スル様ニ仕向ケテハ如何、トノ話アリタル程ナリ。蘇州及杭州ヨリ目撃者ノ報告ヲ齎スベク約束ヲ受ケタリ。之等二地ニ於ケル日本軍隊ノ行動ハ同様不良ニシテ、上海近傍ニ於ケル彼等ノ行動ニ関シ確認サレタリト称セラルル事実談を只今入手シツツアリ。

 北京に転電ス、北平ハ更ニ漢口ニ中継セヨ。

 上記報告ニ付入手セル情報アラバ通知乞フ。南京ニ送リ上海ニ転電乞フ。
ジョンソン
https://rondan.net/14679
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/129.html#c9

[近代史3] 朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由 中川隆
5. 中川隆[-12419] koaQ7Jey 2019年2月05日 13:19:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

花岡事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

花岡事件(はなおかじけん)は、1945年6月30日に秋田県北秋田郡花岡町(現・大館市)の花岡鉱山で中国人労務者が蜂起し、日本人を殺害し、その後鎮圧された事件[1]。戦後、過酷な労働環境について損害賠償請求裁判が提訴された。


日中戦争の長期化と太平洋戦争の開始にともない、日本国内の労働力不足は深刻化し、政府は産業界の要請を受け、1942年(昭和17年)11月27日に「国民動員計画」の「重筋労働部門」の労働力として中国人を内地移入させることを定めた「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定した[2]。試験移入を行なった後、「一九四四年国家動員計画需要数」に捕虜を含む中国人労務者3万人の動員計画が盛り込まれた。

鉱山労働力が不足した戦争末期には、花岡川の改修工事などを請負った鹿島組により1944年7月以降に現地移入した中国人は986人に上り、1945年6月までにうち137人が死亡した。中国人労働者は過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜、国民党将校耿諄の指揮のもと800人が蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。しかし7月1日、憲兵、警察、警防団の出動により、釈迦内村(現・大館市)の獅子ヶ森に籠っていた多数の労働者も捕らえられ拷問などを受け、総計419人が死亡した。死体は10日間放置された後、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で3つの大きな穴が掘られ、埋められた。この後も状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が死亡した[3]。終戦後の10月7日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れた際、棺桶から手足がはみ出ている中国人の死体を発見した。外務省管理局は『華人労務者就労事情調査報告』において、死因については彼等の虚弱体質などによるものとして、過酷な労働条件が死因ではないと主張しているが、終戦後に彼等を手当てした高橋実医師によれば、彼等が帰国するまでの約2か月の間、一人の死者も出なかったという[4]。

1946年9月11日の秋田裁判判決では蜂起を指導した事件の首謀者に有罪判決が下されたが、アメリカ軍による横浜軍事裁判では、第七分所(秋田県花岡 藤田組花岡鉱業所)から11名が裁判にかけられ、1948年3月1日に鹿島組関係者の4名と大館警察署の2名の計6名に有罪判決が下され、そのうち鹿島組の3名が絞首刑の判決を受けた後、終身刑等へ減刑されている。

損害賠償訴訟とその後

1985年8月、当時、蜂起を指導した事件の首謀者である耿諄は、外信を紹介する『参考消息』で、花岡事件40周年の慰霊祭が行われたことを知った。その後耿は来日したが、当時の鹿島組(現鹿島建設)が「一切の責任はない、中国労工は募集によって来た契約労働者である、賃金は毎月支給した、遺族に救済金も出している、国際BC級裁判は間違った裁判である」と主張していることを知り、鹿島と再び闘う意志を持った。1989年、耿は公開書簡として、鹿島に以下の要求を行った。

・鹿島が心から謝罪すること

・鹿島が大館と北京に「花岡殉難烈士記念館」を設立し、後世の教育施設とすること

・受難者に対するしかるべき賠償をすること


1990年1月より、新美隆、田中宏、華僑の林伯耀を代理人として、鹿島との交渉が始まった。7月5日の共同発表[5]では、鹿島が花岡事件は強制連行・労働に起因する歴史的事実として認め、「企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」と明記された。

しかし、鹿島はその後、

・「謝罪」は「遺憾」の意味である(残念に思うが、謝る気はないという意味)。

・記念館の設立は絶対に認めない。

・賠償は認められない、供養料として1億円以下を出すことはあり得る。日中共同声明で中国側の賠償請求権は放棄されている。


と主張し、実質的には責任はないという見解を示した。1995年耿諄ら11名は、中国政府が個人による賠償請求を「阻止も干渉もしない」と容認姿勢を見せたことから、鹿島に損害賠償を求めて提訴した(弁護団長:新美隆)。要求内容は、耿が最初に要求した三条件であった。

耿諄らは中国におり、また高齢であることから頻繁な来日出廷は困難だったので、実際は新美、田中、林が原告の主導権を握った。1997年、東京地方裁判所は訴追期間の20年を経過しており、時効であるとして訴えを棄却した。原告は東京高等裁判所に控訴したが、原告となった元作業員らの証人尋問は行われず、新村正人裁判長は和解を勧告した。

和解

2000年11月29日に東京高裁で和解が成立。被告の鹿島側が5億円を「花岡平和友好基金」として積み立て救済することで決着が図られた。和解の内容は、以下の通りである。

1.当事者双方は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認する。ただし、被控訴人(被告。鹿島のこと)は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了承した。

2.鹿島は問題解決のため、利害関係人中国紅十字会に5億円を信託し、中国紅十字会は利害関係人として和解に参加する。

3.信託金は、日中友好の観点に立ち、花岡鉱山現場受難者の慰霊及び追悼、受難者及び遺族らの生活支援、日中の歴史研究その他の活動経費に充てる。

4.和解は、花岡事件について全ての未解決問題の解決を図るものである。受難者や遺族らは、今後国内外において一切の請求権を放棄する。原告以外の第三者より、鹿島へ花岡事件に関して賠償請求が行われた場合、中国紅十字会と原告は、責任を持って解決し、鹿島に何らの負担をさせないことを約束する。


この和解は、成立直後から日本の戦後補償を実現していく上で「画期的」なものとする報道が多かったが、野田正彰の取材によれば、この和解は弁護団側の独断によるもので、原告の本意ではなかったという。耿は、鹿島の謝罪を絶対条件とし、記念館の建設も希望、賠償額は譲歩してもよいと、田中らに意見した。耿は、和解の受け入れを迫る新美らに、負けても損害はないことを確認した上で「和解を受け入れなければ負けるというなら負けよう、負けても妥協せず、踏みとどまるならば道義的には勝利したことになり、百年後(暗に死後を意味する)も彼等の罪業を暴く権利がある」と意見し、和解には同意しないが黙認するという態度を取った。

しかし、新美らは和解を急ぎ、鹿島の出す金は賠償金ではないことも法的責任を認めないことも伏せ、和解の正文は伝えられなかった。耿は和解の内容を知ると「騙された」と怒り、耿など原告・遺族の一部は「献金」の受け取りを断ったという。また、2001年8月には「屈辱的和解」に反対する声明を出した。耿にとってこの結果は全面敗訴に他ならず、その上謝罪のない金を受け取ることは侮辱でしかなかったのである。

野田がこのことを毎日新聞[6]に寄稿すると、田中と林は野田に会いたいと人を介して伝え、会談した。田中は「直前に北京に出向いて骨子を示し、耿諄さんらの了承を得た」と主張し、林も「耿諄はすっかり英雄になったつもりでいる」と耿を批判した。さらに「耿諄は中山寮で人を殺しており、苦しんでいるはずだ」「耿諄はすっかり痴呆化しているそうだ」とも述べたという。野田は「田中らは負けて何も得られないよりも、どこかで妥協しカネを貰っていくのが幸せなのだ」と確信して疑わず、その結果原告の思いを軽視したと批判している。これらの野田の主張に対して、田中は同じく『世界』に「花岡和解の事実と経過を贈る」とする文章を寄稿し「野田は和解の基本的な事実経過について誤解しており、和解条項について原告団の了解を得ている」と反論した。

中国紅十字会に信託された補償金

その後「花岡平和友好基金」として中国紅十字会に信託された5億円は被害者本人やその遺族に支払われたが、千龍網が報じたところによると、補償金を受け取ったのは全被害者のうち半数の500人程度で、受け取った額も当初支払いが予定されていた額の半額程度だったという。中国紅十字会は基金の残高や用途について発表しておらず、中国国内では「基金の半分は中国紅十字会が自らの手数料として差し引いた」との見方もある[7]。中国紅十字会はこれを否定しているが、花岡事件を描いた著書『尊厳』の著者である李旻は「中間で巨額の資金が消え、金はどこに行ったか誰も知らない」と指摘している。


日本政府に対する訴訟

その後、花岡事件などに関連して、当時花岡鉱山などで強制労働に従事していた中国人の元労働者とその遺族らが、日本政府に対し計約7,150万円の支払いを求める訴訟を、2015年6月26日に大阪地方裁判所に起こした。同事件に絡んで日本政府を訴えるのは初のケースとなる。原告らは「中国人を拉致・連行し、強制労働に従事させた上、戦後も事実の隠蔽を続けた」と主張。また、劣悪な労働条件などが事件の背景として存在するにもかかわらず、憲兵などが拷問・弾圧を加えたとも主張している[8]。

2019年1月29日、大阪地方裁判所(酒井良介裁判長)で判決があり、請求を棄却した[9]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html#c5

[近代史3] 朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由 中川隆
6. 中川隆[-12418] koaQ7Jey 2019年2月05日 13:45:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

花岡事件の証言
http://kisarazu.org/?page_id=62

戦時後期におきた花岡事件、日本人が知らなくてはならない昭和史の貴重な証言だと考え、抜粋して掲載しました。

著書には花岡事件に関わった人たちの戦後が書かれていますが、「本当の昭和史」編纂にあたって、なにより事件の被害者の証言に重点を置きました。

日本は本当に戦後が終わったのでしょうか?

歴史を正しく検証して、後世に伝える努力を全ての日本人に期待します。


前文省略〜

1971年9月5日、9月にはいった北海道は、すでに秋の気配が濃くなっていた。札幌市にある小さな中華料理店「北京飯店」の二階の一室に差し込んでくる暮れ時の陽にも、秋のおとずれがひそんでいた。

 この日の朝から、李振平・林樹森・劉智渠さんの三人から、わたしは話を聞いていた。三人とも太平洋戦争中の1944年に中国で日本軍に捕えられ、日本に強制連行されて秋田県の花岡鉱山で働かされたが、敗戦後は花岡事件の裁判の証人として日本に残され、そのまま日本に永住している人たちであった。花岡事件の起きた秋田県に生まれ、十年ほど前から強制連行されてきた中国人や花岡事件を調べてきたわたしは、その生き残りである三人をようやくの思いで探しあてて、林さんのお店の一室で話を聞いていた。

 振平さんも樹森さんも智渠さんも、温和な、礼義の正しい人たちであった。たどたどしい日本語で、二十数年前の記憶をさぐりながら話してくれた。しかし、次第に話が進んで花岡鉱山での強制労働に移り、日本人の補導員にささいなことから殴られ、蹴られて、仲間たちが次々と死んでいく場面になると、三人の目に涙がひかり、こぶしでテーブルを叩きながら語りつづけた。口調が激しくなってくると、中国の言葉になったが、語りつづける三人には聞き取りをしているわたしのことは眼中になくなり、二十数年前のいまわしい記憶をえぐり出してくるように語りつづけた。

 三人の話の一つ一つが、日本や日本人に突きつけている戦争責任の刃であった。わたしは三人の話の重さをからだで感じながら、ふと、二十数年前の一つの記憶を思い出していた。

 三人が強制連行されてきた花岡鉱山と同じ秋田県北の小さな村に、わたしは1935年に生まれた。太平洋戦争がはじまった1941年に国民学校へ入学し、敗戦の年は五年生であった。田植が終わってまもないある日、中国人の俘虜たちが花岡鉱山で暴動を起こして、わたしの村の山奥にも逃げてきたという話が、村中に伝えられた。花岡鉱山とわたしの村との間には、幾重にも重なった山と深い谷とがあるのに、それを越えて逃げてきたのだった。逃亡してきた俘虜たちは、山菜取りに行った娘を焼いて食ったとか、山奥の農家から牛や馬などを盗んで食っているという話も伝わり、村の人びとは恐怖にふるえあがった。

 日中は村中の男たちが動員されて、カマや竹ヤリなどを持って山狩りに歩き、夜になると山から集落に通じている道々にたき火をして夜警がついた。家々では竹ヤリを何本もつくり、食事の時は障子に立て、野良仕事に出る時は持って歩いた。寝る時は枕元に竹ヤリやナタなどを置き、いざという時にはいつでも手に持てるようにした。暗くなると外出する人もなく、空襲に備えて薄暗くした電灯の下に集まり、息を殺したようにひっそりとしながら夜を過ごした。

 こうして恐怖の日が三日ほどすぎて、山奥の炭焼き小屋にひそんでいた二人の俘虜が捕えられた。その晩は竹ヤリもナタも土間に置かれ、村中は喜びに湧いた。

 その翌日、捕えた俘虜を見に来いという知らせが役場からきたので、わたしの分校でも五年生以上の児童が、六キロも離れた本村まで見に行った。役場前の焼けつくような土の上に坐らされている中国人は、大勢の人が囲んでいるのでよく見えなかった。じりじりと照りつける太陽の下で、両手をうしろにして縛られている裸の上半身が、人垣が揺れるたびに見えた。かつかつガツガツに痩せたからだをおおっている肌の色は、人の肌には見えないほど汚れていた。

 「チャンコロのバカヤロー」
 「ぶっ殺してしまエー」

 周囲の人垣から、さかんに罵声がとんでいた。中国人は日本の敵であり、日本人を殺して食った鬼のような人間だということを頭から信じていたわたしたちは、先生の号令に合わせて、「チャンコロの人殺し」と叫びながら、中国人を囲んでいる人垣の外を、何度も何度も廻った……。

激した口調で語っている三人の前で、二十数年前の記憶を思い出しながら、「わたしも加害者だったのだ」と、胸が痛んだ。三人のそばにいることが耐えられなくなり、部屋からとび出していきたい衝動にかられた。「お前は聞き取りという第三者みたいなことをやっているが、それでいいと思っているのか」と、自身を責め立てられてならなかった。 

この日の一日にわたる聞き取りのあとも、聞き洩らした部分や不足な点を聞くために、何ども札幌に三人を訪ねた。この間に日中国交回復も行われたが、その時の三人の喜びようはたいへんなものであった。

しかし、それと同時に、中国での日本軍の戦争処理はもちろんのこと、日本国内での戦争処理にも頬っかむりをつづけている政府に対する三人の怒りは、非常に強かった。国と国との国交は回復したが、それを支える一人ひとりの両国民のつながりが回復する根になるのは、自分たちが過去に犯してきた行為に、ちゃんと後始末をつけるのが第一だという意味のことを、三人からきびしい口調で言われた。まったくそのとおりである。私は言葉もなくうなだれるよりなかった。

花岡事件が起きた大館市の人々のなかにも、「あれは戦争が生み落とした事件であり、いまさらそんなことを掘り出してなんになる」という空気が非常に強い。私はここ十年ほどの間に、何十回となく現地に足を運んできたが、この事件に取り組んだ当初も現在も、その空気はほとんど変わっていない。むしろ、この傾向が強くさえなってきている。というのは、なんらかの形で中国人の強制労働や花岡事件に関係のあった人たちが、地元の政界や実業界などのトップに立っている人が多くなっているために、「臭いものには蓋」式になっているのである。また、あの忌わしい事件には触れたくないと思っている人や、秋田県の恥だと考えている人も多く、わたしも直接に、あるいは間接に、「花岡事件をいじくりまわしていると、君の将来にとってプラスにならない」と、何度も注意された。

この著の中心をなしている三人の話は、三人の生き方の強さ、戦争のむごたらしさと同時に、わたしたち日本人に、戦争責任とは何か、人間が生きるとは何かということを、日常の生活感覚のなかで「問い」かけている。その「問われ方」は、人によってさまざまであろうが、問われたからといって、すぐに答えなくともいい。なによりもまず、三人の話の事実に「問われてほしい」という願いを込めてまとめている。

著者 野添憲治   1975年

中国人強制連行の証言記録

前文中略

東条英機内閣決定事項
昭和17年11月27日 華人労働者内地移入に関する閣議決定
昭和18年4月〜11月 華北労務者内地移入実施要項にて試験移入
昭和19年2月28日 華人労務者内地移入の促進に関する件、時間会議決定

「労工狩り」の実態

 次官会議で「華人労務者内地移入ノ促進二関スル件」が決定したことによって、中国人労務者の移入が本格化していくのだが、現地で労務者を集めるのを「労工狩り」といった。しかし、実際には、中国内で労働者を集める労工狩りは、軍部の手によって日中戦争のころから大々的におこなわれていた。とくに、北支方面軍司令官の多田駿が、1940年8月から10月にかけて八路軍との大戦で大損害を受けて首になり、1941年に岡村寧次が司令官となって、三光政策〈殺光(殺しっくす)、焼光(焼きつくす)、略光(うばいっくす)〉を実施するようになってから、いっそう苛酷をきわめるようになった。

 1941年8月下旬から9月初旬にかけて、中国華北の山東省博山西方地区で北支那方面軍一二軍の手で実行された博西作戦の労工狩りは、次のようなものであった。

真夜中の一二時、たたき起こされた私たちは、『こんどの作戦は、土百姓どもを一人残さず全部つかまえるんだ』という中隊長池田中尉の怒号のもとに、重い足を引きずりながら歩きつづけ、ようやく夜が明けたころ、風一つなく朝餉の煙が真っ直ぐに立つ、平和で静かな二百余戸の部落の近くに中隊は停止した。しばらくして分隊長松下伍長が、小隊長のところから帰ってくるなりいった。

 『オイツ、出発だ。部落にはいったら、片っぱしから老百姓(中国での農民の俗称)をとっ捕まえるんだ。いいか・・・。』というが早いか、道に半分あまり倒れている高梁の幹を、ブキブキ踏み倒し、部落に向かって歩き出した。

 分隊が部落にはいると、静かであった村が、カタカタ、ドンドン、バタクバタリ、ガチャンガチャンと、急に暴風でも来たように、一瞬にして嵐に化した」
※大木伸治「労工狩り」『三光−日本人の中国における戦争犯の告白』(光文社刊所収)

 こうして日本軍は、中国人の男を見つけるとかたっぱしから捕え、中国の東北地方や華北の鉱山、港湾荷役、軍事基地に連行して働かせていた。また、労工狩りで捕えられた中国人のなかには、初年兵の度胸試しの材料にされて、殺されていった人も多かった。

 中国での人狩り作戦は、二つの目的を持っていた。一つは、人狩りによって捕えた中国人を労務者として使う一方、奪った食糧は日本軍が現地補供として食べていた。もう一つは、日本軍の勢力の薄い地区を無人無物に近い状態にして、中国の抗戦の主体である八路軍を弱体化させる、という目的を持っていた。それだけに、1942年の閣議で中国労務者の内地移入が決められると、それを錦の御旗として労工狩りは激化していった。

 しかし、なんの罪もない中国の民衆が、暴風のような一瞬の労工狩り作戦に襲われ、夫や息子を奪われ、妻子を強姦や足蹴で痛めつけられ、食糧を持ち去られるうえに家まで焼き払われるのは、悲惨そのものであった。さきに引用した博西作戦の労工狩りは、次のようにつづいている。

 私たちは、隣の家の中を、つぎつぎと手当たりしだいにひっくりかえして見たが、ここでも、四十すぎと思われる女と、七、八歳の男の子が、隅のほうにちぢこまっていた。あせった私たちは、庭の隅まで、置いてあるものは全部放り投げた。奇麗に丸め、積み重ねた高梁を、半分あまり銃剣で突き倒していた時、私は手に異様なものを感じた。

 『おいツ、阿部、何かいるぞー』半ば後足で、おそるおそる、そっと高梁の束をかきわけた。一ツニツ三ツ目のとき、『アッ』私と阿部は後に一歩飛びさがった。そこには、日焼けした真っ黒な顔に、何か強い決心でもしているかのように、唇を噛みしめた四十歳(ぐらい)の男がうずまっていた。手に何も持っていない老百姓風と見た私は、おどろいて後にさがった姿勢をとり直すと、『コノ野良ッ。ビックリさせやがる。オイッ、阿部ッ、こいつは民兵かも知れんぞツ』と、いきなりグルグル巻きに縛りつけた。

手当たりしだいに引っ掻き回す暴行を、不安気にジッと見ていた先刻の女は、『快走々々』(早く歩け)と蹴り飛ばされ、罵倒されながら引きずられて行くこの姿を見ると、地面に頭を押しつけ、『老百姓老百姓大人々々』と声をあげて泣きながら、何か哀願している。子供は、銃剣の恐しさも忘れて、男の足にしがみついて、言葉のわからない私でも、この母子が何を訴えているのかわかった。『コンチクショウッ。こいつがこの野良を隠したんだッ。助けてくれなんてもってのほかだッ』

 私は、泥靴で女の肩から首筋を力まかせに踏みつけた。しかし、女は、『大人々々』と、何度も何度も頭をさげて泣いて哀願していたが、最後にもうどうにもならない。と見たのか、這うように家の中にはいって行くと、ボロ布に包んだ煎餅を両手で抱え、だいじそうに持ってくると、男の腰紐にくくりつけようとしがみついた。

 私たちはこれを見ると、『このあまツ、嘗めやがって。チェッ、人間並みに人の前でいちゃつきやがってツ』女の手より布包みをもぎとると、私は、『こんな本の葉っぱみたいなものを食っていやがるのかツ』と地べたに叩きつけ、軍靴で蹴り飛ばした。楊柳の葉がまじった煎餅がほうぼうに散った。子供を抱えるように、踏みつぶされた煎餅を、両手で地に伏し抱いている女の目から落ちる大きな涙は、ポタリポタリと煎餅の上に落ちている。

 『大人々々』土にまみれた煎餅を寄せ集め、哀願する女は、ジッと奥歯を噛みしめ、足にすがる子供をじっと見つめ、何か言っている男の顔を見ては、声をあげて涙を流していた。白酎の小ガメを片手に、先刻の婦人をいままで強姦していた小川が、のっそりはいって来た。

 『何をしているんだツ』キョロリとあたりを見回した。

 『ハア、こいつを連れて行こうとしたら、しがみついて離れないんです』私は、子供を殴りつけながら小川に言った。

 『馬鹿野良ッ。大の男が二人もかかって何をしているんだッ。手前ら嘗められているんだッ。そのガキも連れて行けッ。背のうぐらいはかつげるだろう』

 男にしがみついている子供の襟首を、わし掴みに表に引きずり出した。

 『大人々々、小孫(子供)、老百姓』と、気が狂ったように女は絶叫して、子供の足にしがみつこうとした。

 『ええい。うるさいアマだッ』私は阿部といっしょに女の横腹を銃床でドーンと突きあげた。

 こうして部落の隅々から、畑の中から荒らしまわった私たちは、十二時すぎ、部落の一角に中隊が集合した。腰の曲がった老人から子供まで150余名の老百姓が、取り囲んだ銃剣の中に坐らせられている」(大木伸治「労工狩り」『三光』)

 このような労工狩りは、日本の軍隊の手で中国のあらゆる所でくり返されていた。そのなかでもとくに労工狩りがひどかったのは、1942年9月から12月にかけて山東省でおこなわれた二一軍作戦であった。この時は大包囲作戦(うさぎ狩り作戦とも言った)という戦法をとり、包囲の網をだんだんと縮めていき、そのなかにいるものは敵兵であろうと住民であろうと、全部を捕虜にするというものだった。このうさぎ狩り作戦は、次のようにして実施された。

 「その作戦には、中国には真鐘の洗面器が多いのですが、その洗面器を持って、兵隊の銃を肩にかついで洗面器を叩いて歩き、それで海岸線や鉄道沿線に向って押したわけです。洗面器を叩いて一里歩くところもあるし、二里のところもあるし、それで部隊のぽうぽうで火が燃えるわけですよ。部落から部落をずっと押して行って、一八歳から四五歳までの男を全部集める。それと山羊、牛、豚、真鐘類を全部集めるわけです。部落民にそれを全部持たして一定の地域に集合させるわけです。

 そこに軍のトラックがきて、山羊は山羊、真鐘は真鐘、人員は人員でまと砂て連れていくのです。つまり戦闘が目的ではなく、物資掠奪と人員の徴発が目的なんです。これを10月から12月の末まで二ヵ月やったわけです。その集めた人はどうなったかというと、青島に相当大きい体育場があるわけですが、集めた男を収容したんです。しかし、そこに入りきれないで、第一公園の競馬場に入れたわけです。その数は何千だか何万だかわからんのです。それが青島から船でどっちに行ったのかわからないのですよ。花岡鉱山で中国人の捕虜が死んだということをきいたんですが、その人達は実際は捕虜じやないわけですよ。実際は捕虜でもなければ八路軍でもない農民ですよ」(大野貞美「真相」1958年6月号)

その後も日本軍は、「一九秋山東作戦」(昭和一九年秋山東省での作戦の意味)、「二〇春山東作戦」を次々とおこなって、大々的な労工狩りをしていった。逃げる者や反抗する者は射殺するように命令されていたので、収容所に引致される前に殺害された人も多かった。次の証言もそのことをよく示している。

 うさぎ狩りで捕えられた中国人はうしろ手に縛られ、「われわれの自動車隊のトラックによって運ばれた。まがり角やなにかの所で、トラックの速度がにぶると、彼らのうちのあるものは脱走を企てた。だが、彼らがトラックからとびおりてかけだせば、すぐトラックの上から日本車の機関銃や小銃にねらいうちされ、死んでいった」(元独立自動車第六四大隊の一下士官の証言)

 こうして狩り集められた中国人は、青島捕虜収容所をはじめ、済南・石門・大同・北京・郁鄙・徐州・塘浩の収容所に集められた。このうち青島と塘活は日本への乗船地なので、他の収容所にいれられた人たちも、日本に連行される時はこの二つのどれかに集結された。どれも北支那方面軍が直接に管理する収容所で、所長には軍人がなり、門には日本軍の衛兵所があり、着剣した兵隊が守っていた。収容所の周囲は電流を通じた鉄条網で囲んであるほか、さらにトーチカで囲み、二人の兵隊が絶えず巡回していた。運よく生きたまま収容所にいれられても、日本車に捕えられた瞬間から、中国人の生命はないも同様であった。しかも、その捕虜収容所の生活がまた、たいへんなものであった。

当時、第五九師団の陸軍伍長だった五十嵐基久は、済南捕虜収容所の模様を次のように証言している。

 「収容所の中には土間にアンペラがしいてあり、捕虜にされた中国人たちはそこに寝おきしていた。寝具はなく、暖房も全くなかった。中国人の医者と称する者がいたが、病気になっても、殆どほうっておいた。

伝染病らしくなれば病舎という物置小屋のようなところに隔離した。死ねば穴に投ぜられた。中国人たちを収容所の外に出すようなことはほとんどなかった」また、日鉄鉱業釜石鉱業所の出張員が中国人を連行してくるために青島収容所に行った時の模様を、「バラック建てで40〜50坪のところに700〜800名をおしこみ、暖、冷の処置なく疲労と寒気のため病人続出、その中より死亡者多数が出ていた」と語っている。50坪の小屋に800人が収容されていると、どんなにすくなく見ても一坪に16である。すし詰めにしないと、収容できるものではない。

 捕虜収容所に集められた中国人は、日本へ連行される直前に、財団法人華北労工協会・日華労務協会・国民政府機関・華北運輸公司・福日華工会社などの、強制連行を代行している統制機関に渡された。そのあと日本政府は、厚生省が指定した全国135事業所とのあいだに、「供出」と「使用」の契約書をとりかわしている。中国から乗船した数は3万8935人だが、「外務省報告書」によると、死亡者は次のようになっている。

 日本に上陸するまでの船内で564人が死亡し、さらに上陸後に、135事業所へ到着するまでのあいだに、248入が死亡している。各事業所に到着したのは3万8213人であった。連行される途中でもいかにひどい取扱いをしたかは、死亡したこの数字からだけでも知ることができる。

 しかも、どうにか各地の事業所に到着することができた中国人たちも、日本の企業や日本人の残虐非道な扱いのなかで、次々と犠牲となっていった。敗戦後の1945年12月7日に集団送還がされるまでに、事業場内死亡5,999人、集団送還後死亡19人の合計6,830人もの中国人が殺されている。乗船した総数3万8,935人にたいし6,830人が死亡しており、死亡者の比率は17・5%にあたる。しかも、そのうちの4,000柱近い遺骨がまだ日本全土に散らばっているほか、約500入を越すと推定されている日本に
残った中国人は、いま、各地でひっそりとこの世に生きていると見られている。

 これが中国人強制連行のあらましだが、中国人労務者を導入した135事業所のなかでも、秋田県北にある同和鉱業花岡鉱業所の工事を請負っていた、鹿島組(現在の鹿島建設)花岡出張所に連行されてきた中国人の死亡者がとびぬけて多いのである。三回にわたって花岡鉱山に連行されてきた986人のうち、死亡者が418入と、他の事業所に比べると、比較にならないほどの高率なのである。もう一つは、3万8,935人の中国人を連行して、6,830人も死亡させながら、不充分な形でも敗戦後に裁きがおこなわれたのは、花岡鉱山の鹿島組関係者だけだったことである。花岡鉱山でだけなぜ裁判が実施されたのかであるが、日本が敗戦となる約一ヵ月半ほど前の1945年6月30日の夜に、あまりにも少ない食糧や補導員たちの虐待に中国人が蜂起したからであった。蜂起の後処理が残虐をきわめ、数日間のうちに100人近い死亡者を出
したほか、蜂起の指導者たち13人は秋田市の監獄に押送され、国防保安法第十六条による戦時騒擾殺人罪で、無期懲役などの判決を受けたのだった。

 だが、敗戦後に日本へ駐留した米軍によって、今度は花岡鉱山の鹿島組関係者が逮捕され、米第八軍軍事法廷は、三人の補導員に絞首刑、鹿島組花岡出張所長に終身刑、大館警察署長と巡査部長には重労働二十年の判決を下した。だが、1953年頃にどの人も仮出所して責任はあいまいになったほか、連合軍裁判では、もっとも責任が重いはずの鹿島組社長をはじめとする日本建設工業会に所属する各社の最高責任者、華北労工協会などの労務統制機関の責任者、鹿島組の労務員、蜂起して山の中に逃げこんだ中国人を竹ヤリなどで殺した在郷軍人・青年団員・警防団員などは、裁判からはずされてその責任を問われることがなかったのである。

 花岡鉱山に連行された中国人の中から、裁判の証人として23人が送還されずに日本へ残された。しかし、裁判が終っても中国に帰らずに、そのまま日本にとどまった方が4人いる。北海道の札幌市にいる李振平(旧李光栄)・林樹森(旧劉当路)・劉智渠(旧劉沢)の三氏と、大阪にいる宮耀光氏の四氏であったが、1973年9月に林樹森氏が亡くなっているので、現存者は三氏である。 

    この記録は、宮氏を除いた三氏からの聞き書きが主体となってつくられている。

中国から花岡鉱山へ

「戦争と花岡鉱山」

 花岡鉱山は秋田と青森の県境にひろがる鉱山地帯にある、中規模のヤマでみる・この鉱山がその姿をあらわしたのは、他の鉱山にくらべると遅く、1885年に地元の人によって発見されてからだった。その後、鉱主も何度かかわったり、採掘が中止になったり、また再開されるという歴史を繰り返して、1915年に合名会社藤田組に経営が移った。その翌年から新しい鉱床が続々と発見されて大鉱山に成長し、1944年には花岡鉱業所として独立している。

 花岡鉱山は鉄道から距離的に近いうえに、良質の銅・鉛・亜鉛などを産出するので、採算のとれる鉱山として知られていたが、日中戦争がはじまったころから、軍需産業として生産が拡大されていった。太平洋戦争に突入すると、いっそう大幅な生産が要求されるようになり、1942年には花岡鉱山そのものが軍需工場に指定されて、月産3万トンから5万トンの生産が義務づけられ、増産につぐ増産がつづけられていった。

 だが、設備の不備、機械の不足、施設の老朽化などによって、産出量はなかなか伸びなかった。しかし、生産目標の達成は軍部からの至上命令であり、それがまた企業の利益とも結びついていたため、目標達成のために大量の人力を投入しなければならなかった。花岡鉱業所に残されている資料によると、鉱山の稼働員数は戦争が激化してくるにつれて、表1(下の「花岡鉱業所稼働工程表図」にも見られるように増大していった。とくに、最大の労働力を擁した1944年前後には、1万3,000人もの稼働人員を数えることができた。


◆その当時の稼働人員の内訳をみると、次のようになっている。

直轄人4,500人
朝鮮人4,500人(延べ人員)
徴用工
 挺身隊300〜400人
 勤奉隊300〜400人
 学徒隊300人
俘虜米人(英豪人含む)300人(最大の時は480人)
華人徴用工(東亜寮)298
諸負業者人夫 1,500人

となっている。鉱山労働者以外の人たちが、いかに多く鉱山労働に狩り出されていたかがわかる。

 さらに戦争が激化してくるにつれて、鉱山労働者も兵役につくようになったほか、怪我や病気などで入坑できなくなった坑夫の補充ができないために、労働力不足はいっそう深刻になっていった。そのため、徴用工の名目で国内から
狩りだされた寡婦・娘・少年たちまでが鉱山に動員され、15歳前後の少年たちや、20歳前後の娘たちまでが、坑内での地下労働を強制されるようになった。花岡鉱山ではこのように労需に追われて生産をあげるという形で、厖大な利益を確保している鉱山経営からすると、日本人も朝鮮人も働く道具の一つにすぎないことを、この事実は語っている。

 七ツ館事件後も、花岡鉱山では乱掘をつづけたが、いくつかの坑道の上を流れている花岡川の流れを変更しないと、七ツ館坑以外でもいつまた陥落が発生し、落盤や浸水などによって、発掘が中止されかねない事態になっていた。この危険を取りのぞくには、花岡川の流れを大幅に変更する必要があり、鉱山では水路変更計画を立案した。しかし、この水路変更の工事が火急を要することはわかっていても、増産に追われるだけで精一杯の花岡鉱山の手では、工事をおこなうのはムリな状態であった。そこで、鉱山採掘の一部を請負っている鹿島組に、この水路変更の工事を請負わせることになったが、鹿島組にしても新規の工事に労務者を集めてくることは不可能であった。この時に鹿島組で目をつけたのが、日本への連行が本決まりになった中国人労務者を使用することだった。

 鹿島組花岡出張所が、敗戦後に外務省へ提出した「華人労務者就労顛末報告」のなかで、その経過を次のように説明している。

 「工事を緊急きわまる短期間内に完成しようとしたため、大量の労務者を必要とし、その獲得に努力したが、時あたかも国運をかける大東亜戦争中期から後期におよび、日本人、朝鮮人労務者の充員はまったく至難の状態にあり、この唯一の解決策として昭和17年11月27日、日本政府決定による『華人労務者内地移入二関スル件』にもとづいて、華人労務者の急きょ移入就労をはかり、可及的速やかに工事竣工を期そうとした。そしてこの導入方針として、本社ならびに受け入れ事業場においてしばしば移入方針ならびに対策にかんする打合会を開き、内務、外務、厚生、軍需など関係各省の指示、指導事項にもとづいて慎重かつ万全を期し、統制団体である日本土木統制組合の援助と斡旋をうけ、現地供出機関である華北労工協会との契約諸項を遵守履行しようとつとめた」

 この報告書は全体にわたってあまりにもそらぞらしく、しかも責任のがれに終始した書き方をしているが、ともかく強制連行されてきた中国人は、こうして花岡鉱山の鹿島組花岡出張所に収容されて働くことが決まったのだった。

〜証言


李振平 
1921年に河北省河間県に生まれる。小学校卒業後に三年間ほど農業を手伝ったあと、人民解放義勇軍に入ったが、日本車に捕えられ、花岡鉱山に強制連行される。花岡鉱山では第一中隊第二小隊長として強制労働に従事。蜂起の時は主謀者のI人となり、秋田刑務所に入れられるが、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。中国代表部で衛兵の仕事をしたあと、東京や横浜などを転々と仕事をかえて移り住み、1956年に札幌に移る。札幌でも職をいくつかかえたあと、中国貿易輸出入の会社をつくり、現在はその社長をしている。

妻のほかに一男一女の子どもがある。

林樹森 
1917年に河北省寧普県に生まれる。小学校卒業後、会社勤めをしながら医者になる勉強をつづけ、やがて人民解放義勇軍に身を投じて医療の仕事に従事中に日本軍に捕えられ、花岡鉱山に強制連行され、看護班の仕事をした。敗戦後は病人の看護のために日本へ残り、そのまま裁判の証人となり、のちに中国代表部の衛兵の仕事をする。代表部を1953年にでてすぐに札幌に渡り、数々の仕事を転々とかえたあと、食堂を営む。1973年9月のある日、病苦と食堂の経営不振から服毒して自殺を図ったが、発見が早く助かるが、
9月26日に肝臓疾患に急性肺炎を併発して死亡。なお、知人たちがカネを出しあって、1973年の暮れにははじめて中国に行くことが決まっており、ふるさとの中国では二歳の時に生き別れた長男が、三十年ぶりの再会を待っていた矢先の死であった。死後には妻と中学二年生を頭に三人の子どもが残された。

 劉智渠 
1920年に河北省薪県郡均鎮に生まれる。小学校卒業後は。家業の農業に従事。十七歳で人民解放義勇軍に入る。一時、家に帰って農業をやり、二十歳の時に再び解放義勇軍に入り、日本軍に捕えられて、花岡鉱山に連行される。花岡鉱山では看護班に所属し、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。1964年10月に札幌に渡り、小さな屋台店から商売の仕事に入り、現在は新山観光株式会社の社長をしている。1951年に中国人俘虜犠牲者善後委員会が発行した「花岡事件」は氏のロ述によるもので、もっとも早く花岡事件の全貌を伝えた貴重な記録である。妻と一男一女がある。

李 
わたしね、1921年7月15日に河北省河間県に生まれたが、小さい時のこと、あまり覚えていないからね。小学校に入って終わったのが16歳の時で、中学校に行くつもりだったけど、もう日本の兵隊が毎日来るから、とても学校に歩いてられないでしょ。わたしだけでなく、ほとんどの子どもたち、そのために学校にいくのやめた。わたしの家、普通の農家だったので、農業の仕事手伝っていたが、一ヵ月のうちの半分は逃げていた。日本兵が襲ってきて、逃げなくてはダメだから、仕事にならないの。それでも三年くらいは農業の手
伝いしていたが、日本兵の来るの、だんだん多くなって、まったく仕事にならなくなってしまったさ。


 林 
日本兵、襲ってくるでしょ。逃げおくれて殺されたり、捕えられて連れていかれた同じ年ごろの人、かなりいたさ。
 李 友だち殺されたり、肉親を殺された人など、多かった。どうせ、毎日逃げとるでしょ。若い時だし、戦いしないとどうしようもないので、戦うこと決めた。いちばん最初に入ったのは人民解放義勇軍で、賀竜の部隊であった。それからゲリラになって、あっちこっち転戦して歩いたが、その間に、わたしたちの部隊のなかで、何百人も死んでしまった。ゲリラの戦いは、苦労ばかり多い。村に行くと、日本兵に見つかるから、行けないでしょ。夜中にこそっと行っても、村の人たちみんな逃げていない。家に残ったもの、日本兵来てみんな徴発して、なんにもない。腹減ってくると、ドロ水飲むね。死んだ人の上を、靴で踏みつけて歩く時もあるさ。ベトナム人の苦しみ、自分の体験とおしてよくわかる。戦争ひどいよ。

 林 
中国に来た日本兵、悪いの人多いよ。わたしの村に日本兵襲ってきたとき、妊娠している女の人を、何人もの日本兵が追いかけた。妊娠している人よく走れないよ。すぐつかまって、中国人も見てる前で、何人もの日本兵が強姦する。それ終わると、銃の先についた剣で妊娠した女の腹裂いて、赤子とりだすと、銃の先に刺して振りまわして、みんなで笑ってる。

日本兵、犬畜生より悪いね。あんなことばかりした日本兵、日本に帰ってきて、自分の家庭に入って、どんな顔して生きとるのか思うと、こわい感じするね。

 李
 1941年の春、わたしたちのゲリラ部隊、日本車に包囲された。包囲された距離、だんだん狭くなってくる。そのとき、わたしたちの部隊、鉄砲のタマも満足になく、武器も使えなくて、一週間でみんなつかまってしまった。あのとき、だいぶつかまった。つかまった人どれくらいだったかは、あっちこっち連れていかれて一緒でなかったので、よくわからない。一ヵ所にまとめられて、収容所まで歩くとき、何十人、何百人かがひと組になって連れていかれ、あっちこっちの収容所に入れられた。あのとき捕えられた人のなかで、中国の
東北の炭鉱に連れていかれた人も、だいぶいた。わたしと一緒に、石家荘の収容所に連れてこられたのは、十数人だったが、日本に連れてこられたのはわたしひとりだけね。石家荘の収容所には、1,000人くらいの人、つかまって入っていた。収容所は、日本軍が管理してた。わたしらいる時、収容所から逃げたの二人いたが、一人はすぐに銃で撃たれたね。一人は逃げたが、まもなく捕えられて収容所に連れてくると、みんなの見てる前で殴られたり、蹴られたりして、殺されたね。見せつけね。日本に連れてこられる時、石家荘の収容所の生活あまりひどく、みんなからだ弱っていた。からだ悪い状態のまま、日本に連れてこられた。 自分で立って歩けないような、からだの弱っている人ばかり、日本に来たさ。


 林
 わたしも石家荘の収容所に二ヵ月半ほどいたが、あそこでみんなからだ痛めた。食べもの悪く水も満足にないから、みんな栄養不良になったわけね。

李 収容所の食べもの、コウリャンのご飯と、醤油少し入ったスープだけね。それも一日に二回だけで、野菜や塩など、ぜんぜんないからね。あのとき、わたしたちなぜからだ悪くなったかといえば、河北省の人、コウリャンは少し食べることあるが、ご飯として食べたことないわけね。コウリャンは、アルコールの精がほとんどでしょ。コウリャンのご飯食べると、大便が出ないの。便所に行って、箸のようなものでえぐると、ポロポロ出てくるわけね。

 河北省では、コウリャンは豚の食べるもの。食べるもの少ないし、食べたものもこうだから、だんだんとからだ悪くなってくるの。そのうちにからだ弱ってきて、歩くこともできなくなってきた。一ヵ月以上も、歩けないでいた。石家荘に二ヵ月ばかりいて、わたしは這いながら、京の収容所に行く汽車に乗ったよ。

林 
北京の収容所で、わたしは李さんと一緒になったわけね。


李 
収容所の中じゃ、わからなかったけどね。石家荘から北京に行くとき、貨物の汽車に乗せられた。逃げられんように、有蓋車に乗せられて、戸を閉めてカギをするから、中にいる人、空気とれないの。あのとき、ちょうど六月の暑い時で、みんな縛られて、貨車の中に投げ込まれたでしょ。ひとつの貨車に25人も入ればいっぱいになるのに、100人以上も投げ込まれたでしょ。みんな豚みたいに、からだの上にからだのせていた。空気あまり入ってこないから、汽車が走ると、板目の狭いすき間からもれてくるわずかな空気に、鼻や口を押しつけてのみこんだね。おなかの方すくのはもちろん苦しいが、水いちばんほしいね。みんな縛られて、水ほしい、水ほしいって、声たてて泣くね。誰か小便あったら、それ自分で飲みたい気持になるの。その苦しみといったら、いまでも忘れられない……。北京の収容所に着いたら、ここはアワのご飯ね。アワのご飯は、河北省の人食べ馴れているし、消化もいいし、ここにIヵ月くらいいたら、どうにか立って歩けるようになった。やはり、栄養不良
で、みんなからだ悪くしてしまったわけね。ちょっと食べものよくなると、すぐ元気になるのだから、食べものがどんなに悪いか、わかるわけね。

中国での林さん

林 
わたしは1,917年に、河北省寧普県に生まれた。自分の家の先祖、みな医者だったが、わたしは、小学校でた16歳のとき、会社に入って働いたの。その会社の空気が、どうもわたしの性に合わない。その会社にあんまりいないで、やめて家に帰って、いろいろ考えてみた。うちの先祖はみな医者だから、わたしも医者になること考えて、こんどは北京に行くと、北京大学の医学部に入って、漢方薬の勉強した。ここで三年ばかり勉強してから、またくにに帰ってきたが、親は医者よりも商人になれと言った。二十歳すぎてから、また会社
に入った。その会社は、日本の綿会社の出張所であった。この会社に一年とちょっといたが、人いった頃は仕事なかなか盛んで、忙しかったね。


劉 
蘆溝橋事件の起きる前は、日本兵来ても、それほど悪いことしなかったね。悪いことやったけど、あんまりでなかった。この事件起きて、中国と日本と戦ってから、もうダメね。日本兵、中国人見つけると、殺して歩くという状態になったからね。
林 わたしね、蘆溝橋事件が起きるまで、綿会社に働いていた。この事件あって、中日戦争はじまったでしょ。そしたら、日本の兵隊毎日まわってくるさ。綿は綿花からとって、日本に輸出していた。戦争はじまって、輸出もできなくなった。会社にいても、仕事ぜんぜんないでしょ。いてもいなくても同じなので、会社やめてさ、また自分の家に帰ったの。家にいると仕事ないから、これからどういうふうに生きるか考えた。わたしの先祖、みんな医者でしょ。北京で医者の勉強したので、その方面で進もうと考えた。本買って読んだり、近所
の医者のところに住込みのようにして働きにいったりして、医者の勉強した。二十五歳のころになると、ようやく病人を診れるようになったさ。ところが、日に日に戦争ひどくなって、田舎の村にも日本兵が朝早くからやってくるさ。逃げれば危ないし、逃げなくとも危ないでしょ。もうどうにもならないさ。村の中にいて、落ち着いて暮らせなくなった。そのとき、考えたね。わたしの先祖や家族で、軍隊に入っている人、ひとりもいない。これではダメだと考えて、わたしは軍隊に入ることにしたさ。戦わないと自分たちの国、守れないからね。ほんとの軍隊ではないけど、八路軍の下に民兵みたいなものあるので、わたしはそこに入ったさ。わたしは軍服も着てないし、鉄砲も持ってないし、大きなカバン持って歩いていた。カバンの中にはいろいろな薬や、注射器など入れていた。そのころ、ゲリラの部隊の人が病気したり、怪我したりすると、あっちの村、こっちの村と、分散して農家にあずかるさ。その村の責任ある人のところに行き、病人のいる農家に行くさ。わたしは病人をみて、治療するさ。わたしがゲリラの部隊に入ったのは、こういう仕事するためだったからね。毎日のように、あっちこっちとまわって、病人をみて歩いたさ。



 わたしはゲリラの部隊にいたから、銃持って戦ったがね。食べもの少ないし、病気になったり、怪我する人も多かったさ。そういう人と一緒だと、戦えないし、逃げられないし、村の農家に頼んで置いていくからね。林さん、その人たちのことみていたわけね。


 日本兵は毎日、ひどいことばかりやってたさ。いまでも忘れられないこと、いっぱいあるよ。ある日の早い朝、昼はあぶないから、わたしは隣の村へ、まだ暗いうちに出発した。わたしが村を出てまもなく、日本兵はわたしのいた村を包囲した。日本兵は一軒一軒の農家襲って、食べものやニワトリなど、片っぱしから奪って車に積む。それから、女の人見つけると、片っぱしから一カ所に集めて、着物を全部はぎとって裸にした。四十人以上もの女の人たちに銃剣向けて、裸の踊りさせるね。まわりに集まった日本兵、その踊り見て、やんやとはやしたてる。恥ずかしさに負けた女の人たち、そばを流れてる川に、走ってとび込んでいく。川を流れていく女たちに、日本兵は鉄砲うってみんな殺したさ。わたし、高い木にのぼってかくれ、その様子見ていたが、あまりのひどさに、涙もでなかった。中国人はこんなこと、決してやらないよ。


 日本兵は男の人と同じに、抵抗もできない女や子ども、それに年寄りも手当たり次第に殺したし、蹴ったりしてかたわにしたからね。戦場になった中国の人たち、いくら被害受けたかわからないよ。


 村を襲う日本兵、まだ人が寝ているような、朝早くにやってくること多いさ。二回目に襲われた時は、山奥の農家にいた。その時は日本兵来たのに早く気がつき、自転車に乗って逃げたが、鉄砲どんどんうってくるので、自転車タマだらけになった。着ていた服にも、タマ当たったね。からだにタマ当たらなかったから、なんとか逃げることできた。だが、三回目の時はもうダメね。日本兵が来たのに気づいた時は、もう村が囲まれていたから、逃げるにも逃げられない。そのまま捕えられたのが、ゲリラに入って五ヵ月目のことさ。わたしは兵士だから仕方ないが、村の家には、兵士でない普通の人たくさんいるよ。日本兵来たとき、「わたし兵士じゃない、民間人だ」と叫んだ人も、みんな捕えられた。日本兵から見ると農民か、普通の民間人か、兵士なのか、よくわからないよ。それに、日本兵は働く人つかまえにくるのだから、男の人とみれば、八歳ごろの子どもでも、六十歳を越した年寄りでも、片っぱしから引っぱっていくのだからね。



 あとでわかったのだが、彼ら日本兵の目的は、人狩りだったからね。


 日本兵につかまった人、みんな広場に集められたさ。どの人も、着のみ着のままで、なんにも持ってないね。みんな広場の土の上に、坐らされたさ。日本兵の偉い人が、何かさかんに言ってるけど、何を言ってるのかぜんぜんわからないの。わたしそれを見ながら、あの人は何を言ってるかわからないけど、いいことではないと考えたよ。実際にそうなったが、わたしにはその時、妻と二歳になる子どもがいたの。もうどうなっても仕方ないさ、と覚悟はしてるけど、やはり心残るね。偉い人の話が終わって、しばらくたってから、向こうの農家の庭先に、土の固まりがあるでしょ。日本兵がその土くれ拾って、坐っている人の上になげるでしょ。その土くれ頭に当たった人をナワで縛り、トラックのそばに連れていって乗せるの。最初はなにやっているのかわからず、おかしかったけど、この土くれが頭に当たったらたいへんね。抵抗なんかできないまま、トラックに乗せられて、連れていかれるのさ。わたしの頭に土くれ当たった時は、目の前が真っ暗になった。トラックに人がいっぱい乗ると、
土くれなげるのやめて、トラックは走ったさ。それから石家荘の収容所に連れていかれて、トラックからぞろぞろ落とされたさ。


 石家荘の収容所に入ったら、みんな同じね。普通の民間人も、八路軍も、蒋介石の兵士もいる。年は八歳ごろの子どもから、上は七〇歳近い老人もいたさ。

林 
わたしの入った石家荘の収容所は、テント張りになっていた。建物の収容所には、つかまった人がいっぱいいて、人りきれないのでテント張ったらしいが、テントは雨露防ぐだけで、まわりには何にもないの。わたしらはここに連れていかれると、着ているもの全部ぬがされてしまったさ。逃走するの防ぐために、裸にしたわけね。夜になっても、土間にアンペラも敷かないし、空いた場所には小便や痰、吐いたものや下痢したものが散らばっているので、横になることもできないさ。食べるものも、一日に二回だけね。コウリャンの飯が小さな碗にもられて、一つだけ配られるの。腹へるし、寒いし、疲れはでてくるし、このまま死ぬんじゃないかと、何回も思ったね。

李 
わたしは建物の中で寝たよ。蒲団はないが、板の上にちゃんと寝たからね。同じ収容所でも、違ってたわけね。

林 
テントの中でも、飢えと疲れと寒さで、死ぬ人多かったよ。夜が明けると、日本兵が巡視にまわってくるさ。地面に横になってる人あれば、軍靴で蹴ったり、棒で殴ったりするね。生きてる人は、それでビックリして立ち上がるけど、死んだ人は動かないからね。死んだ人があると、そばの人に死体かつがせて、収容所のうしろの方に運んでいくわけね。わたしも二回、死んだ人運んでいったが、そこに大きな穴が掘ってあって、穴が死体でいっぱいになると、上に土かぶせるの。野良犬が夜中にその死体を掘りにきて、人間の骨をバリバリと音させて食ってる音、よく聞こえた。石家荘の収容所は、まるで地獄だったさ。

李 
テントの収容所のご飯、どうだったか。

林 
コウリャンの飯と、醤油が少し入って、ニラの刻んだのちょっと浮かんでいるスープだけ。李さんたちと同じね。コウリャン飯食べると、大便でないから、みんな苦しんだ。これでからだ悪くした人、多いね。あとで北京の収容所に行ったら、アワのご飯ね。これは自分たちもよく食べるから、おいしく食べた。これで、わたしもからだよくなったさ。


中国での劉さん

劉 
わたしの生まれたの、河北省蘇県郡均鎮で、1920年のことね。河北省には工業ないから、どの家も農家ね。わずかより土地ないから、中国でももっとも貧乏な地方さ。つくったものは、半年くらいあるかどうか。あと食べるものないから、働かなければならないけど、働く仕事もあまりないよ。小麦の刈る時と、秋の収穫の時に、土地を多く持ってる農家に、日給で働きに行くの。一年に三ヵ月くらいより、働くことできないよ。働いても、食事代くらいのものさ。1937年、数えで一七歳のとき、ゲリラ戦はじまり、わたしも参加した。その当時の中国では、百姓の金持たち、みんなライフルあるからね。10万人とか20万人に警察ひとりよりいないから、治安の維持できないでしょ。畠いくら持っていれば、ライフルー丁持っている義務あったの。そのライフルぜんぶ出して、カネのある人はカネ出して、人あれば人出して、協力して抗日するのやったの。指導者は遠くから来て、わたしたち組織された。武器あまりないから、わたしたちのような少年、なんにも持ってないさ。腕章だけしか持ってないからね。もう少しよくなれば、手榴弾持っているだけさ。はじめのころ、まだ日本の軍隊いなかったが、そのうちに北京方面からやってきた。わたしたち、あまり戦争の訓練受けてないから、日本兵来たら、山の中に逃げた。こんど、日本兵ビラまいたの。手榴弾とピストルを持っていなければ、許されて自分の家に帰れる、過去は問わないということ、ビラに書いてあるの。わたしなんにも持ってないから、こんど家に戻って、また農業やったの。こんな人、多かったよ。だけど、まだゲリラとつながりあるでしょ。わたし少年だから、目立たないけど、大人では恨みのある人、日本兵に密告されるでしょ。日本兵すぐ来て、調べもしないで首を斬る。多くの人、こうして殺された。二十歳のとき、百姓の仕事やめて、またゲリラに入った。八路軍もかなり組織されていたから、わたしも三ヵ月の訓練受けた。それから選ばれた人、また三ヵ月の訓練受けた。わたし生まれてはじめて、学校に入ったよ。この時はじめて、抗日の思想教えられたね。わたし、物心ついてから、安心して寝たことないよ。

李 
わたしたちの少年時代、いつも何かに襲われてる感じで、ピクピクしていた。

劉 
訓練終わってから、ゲリラになって、日本兵と戦ったさ。1944年の4月のことね。まだ朝の暗いうちに、わたしたち4人、隊長の命令受けて、河北定県の停車場に行ったの。今晩おこなわれることになっている、敵の鉄道破壊に備えて、土地の情勢をさぐりに行ったわけね。鉄道のまわり調べていると、突然、銃声がしたの。わたしたち、すぐに逃げようとしたけど、15、6人が射撃しながら進んできた。わたしたちも応戦したけど、すぐ弾丸なくなって、捕えられたの。この部隊、偽政府(汪精衛政権)の鉄道護路隊の中国人ね。二人の日本兵いて、指導していた。こんど、両手うしろに縛られて、汽車に乗せられた。わたしの着いたの、石門俘虜収容所ね。日本の将校と通訳に訊問されて、何回もピンクやゲンコツ貰ったけど、わたし、訓練受けた組織の一人だから、殺されると思った。訊問終わると、全部着物ぬがされて、裸にされて、テントの中に入れられたの。わたしの入ったテントの中、真っ裸の人、1,000人ぐらいもしゃがんでいるよ。しゃがみつづけていると、足とか腰痛くなるでしょ。少しでも動くと、監視の日本兵走ってきて、梶棒で叩くの。夜になっても、横になることできないの。着物つけてないし、土でしょ。横になりたくともできないさ。夜になると、テントのなか、夜風が吹き抜けるので、寒いの。ひと晩中、ふるえていた。眠ると、このまま死んでしまう気持ね。眼閉じたり、開いたり、眠つたのか、眠らないのか、自分でもわからないね。



 石門収容所の食べ物、どうだったか。

劉 
林さんたちと同じよ。コウリャン飯で、一人に小さな碗で一つ。二口か三口食べると、もうおしまいね。腹なでても、どこにご飯人ったか、ぜんぜんわからない。これが、一日に二回だけでしょ。こんど、水もないの。1,000人もいるテントに、水はひと桶よりこないでしょ。分けることできないくらい、少ないからね。日本戦争に負けるまで、飲み水で苦しんだね。わたしのいたテントの中でも、たくさんの人死んだ。死んだ人たちの顔、いまでもちゃんと思い出せるね。5月に入ってから、わたしたちに着物渡されたの。その着物きる
と、収容所の庭に集められたでしょ。日本人の将校、「こんど、特別な恩典で、お前たちを北京の西苑更生隊に送ることになった。一日も早く、真人間になれ」と叫んでるの。このことの意味、通訳でわかったのだけど、すぐ汽車に乗せられた。この車、荷物とかカマス運搬する有蓋車だから、窓もなければ、坐席もないの。手をうしろに縛られて100人ほど乗ると、貨車の戸閉められて、外からカギかけられるでしょ。李さんの場合と同じね。空気人ってこないでしょ。その貨車に、一昼夜くらい乗ったけど、食べ物も水も、一回も配られないの。

飢えはなんとか我慢できるけど、喉の渇き、とても我慢できないの、水ほしい、水ほしい、と狂い出しそうになった。わたしの乗ってた車で、一人窒息で死んだ。西苑更生隊に着くと、こんどは建物の中に入れられたの。石門収容所みたいにテントでないから、坐ったり、横になることもできたね。


李 
食べる物どうだった……。

劉 
トウモロコシのお粥、一日に二回配られるの。量少ないけど、コウリャンのご飯よりいいよ。ここで嬉しかったこと、水いくらでも飲めたことね。構内に溝あって、山の上から、水どんどん流れてくるの。毎日、その水飲むことできるの。この水のおかげで、どれくらいの入、助かったかわからないね。ここでも、たくさんの人死んだ。日本兵に殴られて死ぬ人もあったし、食べ物少いから、からだ弱いの人、すぐ病気になるの。病気になると、隔離室に送られるの。隔離室に入ったら、もう終わりね。元気になってもどってきた人、わたし見たことない。隔離室に行くと、底が引き出し式になった、大きな棺桶おいてあるの。この棺桶、一度に十数人の屍体入るね。亡くなると、次々にその棺桶に入れて、一杯になると、わたしたちにそれかつがせるの。遠くに運んでいくと、深い穴掘ってあるの。その上に棺桶おいて、引き出しを引くと、屍体が穴の中に落ちるようになっているの。その上に土かぶせて、次に運んだ時に、その上にまた屍体落としてくるわけね。たくさんの人死んで、部屋の中、広い感じになっていくでしょ。すると、また新しい人たち、どっとやってきた。そうだ、西苑にいた時のことで、いまでも忘れることできないのある。ある日、わたしたち昼食していると、広場に集まれと命令きたでしょ。外に出ると、広場の真ん中に国旗立てる旗竿あって、裸にされた一人の中国人、縛られているの。通訳の説明だと、屍体運んで行った途中に逃げて、捕えられたもので、これから処刑するというの。歩兵銃を持った一小隊来ると、銃の先に、銃剣つけていた。こんど、二人の兵隊、隊長の命令で、銃剣つき出して、縛られた人に突撃していったでしょ。からだに二本の銃剣ささった時の叫び声、いまでも聞こえるよ。それ終わると、死んだ人のからだに、二人の兵隊が組になって、次々と突撃していくの。一小隊みんな突き終わると、縛られた人のからだ、めちゃくちゃになっていたさ。殺された人たちのこと思うと、いまでも胸痛いよ。


地獄のような貨物船

李 
北京の収容所に二ヵ月ばかりいて、それから青島の収容所に運ばれた。この間に、多くの人死んだよ。青島に三日ほどいてから、こんど船に乗せられたけど、船に乗る前は、どこに連れていくとも、ぜんぜん知らされなかった。船に乗せられて、どこに連れていかれるのか考えると、覚悟していても、不安で仕方なかったさ。船に乗るのことはじめてだから、不安も大きいわけね。


林 
わたしはね、北京の収容所から汽車に乗せられて青島に着いたけど、収容所には一泊だけで、船に乗せられた。どこに連れていかれるのか、誰も知らないからね。船に乗るとき、日本の兵隊が銃持って、両側についていたさ。逃げられるといけないからね。このとき、一緒に船に乗った人、確か300人と聞いた。


劉 
わたしたち、西苑にいた人には、日本に連れていくと、はっきり言ったよ。七月の中ごろのことね。わたしたちに着物渡して、広場に集めたでしょ。そこで、「君たち、日本に送って土工の仕事させる」と、日本の将校言ったよ。こんど、日本に行くこと選ばれた人たち汽車に乗せられたでしょ。めずらしく客車だったけど、どの出入口にも日本の兵隊ついて、きらきら光る銃剣持っているさ。きらきらの光る銃剣見るたびに、殺された人のこと思い出して、胸が痛いよ。途中、日本兵の油断見て、一人の中国人、窓からとび出して逃げたの。
それ見た日本兵、めちゃくちゃに銃うったけど、命中したかどうか、汽車そのまま走ったからわからない。青島収容所に一泊して、次の日、船に乗せられた。この船、日本に行く船と、わたしわかっていた。                       


李 
わたし知らないから、どこに連れていくのか、ぜんぜんわからないよ。みんなうしろ手になわで縛られて、日本の兵隊、銃剣持って両側に並んでいるあいだ通って、船に乗ったの、七月中旬ごろのことね。船に乗ったら、また汽車の中と同じ状態よ。わたしたち乗った船、石炭運ぶ貨物船でしょ。石炭いっぱい積んでいて、わたしたちその石炭の上に乗せられた。船に乗るとなわとかれたけど、七月ごろの黄海のなか、もう真夏でしょ。石炭のつまった船倉に入れられて、しかも頭の上に、厚い鉄の蓋してあるから、暑いったらないよ。まる
でセイロの中みたいに暑い。

林 
石炭の上に坐ると、鉄の蓋までのあいだ、いくらもないね。背の高い人、頭つくくらいの高さよ。それに、陸が見える間は、逃げられるといけないから、鉄の蓋しまったままでしょ。甲板の上にも出さないの。それでもね、水入れてよこすとき、ちょっと蓋あけた時に、船倉からとびだして、海にとびこんだ人あったけど、助かったかどうかね。陸から、だいぶ離れた様子だったからね。

李 
船の中、水ないでよ。食糧も、わたしたち食べるもの、ぜんぜんないでしょ。持ってきたトウモロコシの粉あっても、船倉の中、水も火もないから、マントウつくることできないの。結局、わずかに配られる水と、粉をまぜて固め、ボロボロのマントウみたいなものつくって、一つ一つ配給した。生のマントウ、少しずつちぎって食べたけど、これ食べると、いっそう水飲みたくなるの。喉から胸にかけて、渇きで、火ついたみたいに痛むの。

林 
水一日、たった一回より配給ないでしょ。その水でマントウつくるから、一人にひと口かふた口より渡らない状態よ。        

李 
日本の船員きて、船のなか、水たくさんないから、みんな我慢して、少しずつ飲んでくれと言われた。だけど、船倉のなか、セイロの中に入ってるみたいに暑いでしょ。我慢のできない人、大勢いて泣いとるよ。泣いてもしようがないけど、苦しければ泣くね。泣いても声だけで、涙でてこないよ。あのとき、船の中に一週間ばかりいたけど、死ぬような毎日ね。

劉 
港から船でた二日目の晩に、鉄の蓋あけてくれて、甲板に出ることできた時あったの。港から遠くなって、逃げることできないと考えたわけね。海にとび込んでも、死ぬだけのこと、誰の目にもはっきりしているからね。そのとき、誰か小さいバケツ見つけて、みんなのズボンのひもはずしてつなぎ、長くして海の水汲んだね。みんなでその水飲んだけど、黄海の水、にがくて、辛くて飲めないの。口に入れて、ちょっと飲んだけど、みんな吐いたよ。それでも、水ほしい人、うんと飲んだけど、その人たち、後でもっと苦しんだよ。口の中や喉かきむしって、苦しがったね。


李 
わたしたちの乗った船、沖縄にひと晩とまったね。船のどこか壊れたの、修理する音したけど、アメリカの飛行機の空襲あって、船停泊しても、わたしたちのこと、甲板に出さないの。日本軍、勝っていることばかり聞いてたから、アメリカの飛行機の空襲見て、わたしたちびっくりしたね。

林 
確か、琉球にも、ひと晩ぐらい停泊したね。アメリカの飛行機きて、船進めることできないわけね。五日目から、船の中の水なくなったといって、水ぜんぜんくれないさ。石炭むれて、船倉の中の空気、まるでストーブの中に顔入れてるみたいに苦しいさ。船の中の生活、収容所の生活より、もっともっと苦しい。からだ弱ってるの人多いから、船に酔う人多いでしょ。便所あっても、行くことできないから、石炭の上にやるでしょ。その匂いもひどいよ。


劉 
船の中での生活、ほんとに苦しかったね。食べる物いっぱいあっても、船倉の中で、船酔いひどいから、食べたかどうかわからないね。

李 
わたしたちの乗った船、だいたい一週間で、目本の下関に着いたね。船降りるとき、ちゃんと歩けるの人、そんなにいないよ。食べるもの少ないし、水ぜんぜんないでしょ。それに、最後の二目くらい、歩くこともできないから、足立たないの。船降りると、整列して点呼やったけど、300人乗ってきたのが、297人になっていたよ。一人はトラックで青島の収容所から、船に運ばれる間に逃げて、射たれて死んだでしょ。一人は海にとび込んだし、一人は病気で死んだね。病死した人、そのまま海に投げられて、終わりになったさ。

林 
点呼終わると、日本軍の命令で、ボロボロの服着てるの、ぜんぶぬいで棄てたさ。それから風呂に入って、全身消毒された。いい服配給になって、それ着た。わたしたち下関に着いた晩、ここに泊まったけど、ご飯も水もぜんぜんこないの。


李 
日本は魚の国でしょ。日本に着くと、うんと魚食べられると思ってたけど、水も渡してくれないよ。次の日ね、おにぎり二つくれたの。何日も食べてないから、みんなそのおにぎり、呑みこんでしまった人多いよ。下関から花岡まで、四日間も汽車に乗っていたけど、この間にもらったの、駅の弁当一つだけね。木の弁当箱まで、バリバリ食べたいような気持ね。あのときの297人の人たち、五十歳以上の人たち20人くらい、一六歳より少ない少年が6入ぐらいでしよ。あとの人はみんな、二十代から三十代の青壮年たちでしよ。いちばん腹の減る年ごろに、四日の間に駅の弁当一つで、水もなんにもないから、おなかすいて気違いのようになるの。あたりまえのことね。

林 
わたしたち乗せられた汽車、有蓋車でしょ。その貨車の中に押し込められカギかけられるから、中に空気入ってこないの。中国で乗った時の汽車と同
じね。みんな壁の板張りの、板と板の隙間に口や鼻つけて、空気吸ったよ。でも、汽車とまると、空気人ってこないでしょ。その時は汽車の中、もう地獄のような暑さね。とまった汽車、出発するとき、みんな隙の方に倒れてしまうの。立っていること、ぜんぜんできないくらい、みんな弱っているわけね。

劉 
汽車走ったり、とまったりするけど、わたしたちのこと、貨車の外に出さないでしょ。大便、小便、みんな貨車の中ね。夏の暑い時でしょ。空気あまりないから、その匂いだけでも、からだ弱るね。

李 
花岡に着いたの、汽車に乗って、四日目の昼のことね。貨車のドアあけられても、立って線路に降りることのできる人、何人もいないよ。みんな貨車から線路にころがり落ちたさ。わたしね、貨車から落ちた時に腰打って、息止まったような気持して、しばらく立てなかったさ。するとね、日本の憲兵来て、木刀で突くの。やっと立っても、ふらふらして歩くことできないの。


林 
花岡に着いた日、はっきり覚えてないけど、確か八月八日のことね。わたしたち花岡に着くまで、汽車の中で二人死んだから、花岡に来たの295人ね。よく途中で死なないで、花岡まで来ることできたと、いまでも不思議に思うね。

苛酷な労働の中で(中山寮の中国人)

 中国で捕えられてのちの苦しい収容所生活のあと、貨車、貨物船、貨車と乗り継いでの強制連行の旅が、それこそ死の旅そのものであったことは、前章の三人の話から十分に知ることができる。太平洋戦争も末期に入って、海上や国内の交通は安全を保てなくなってきており、食糧不足もかなり深刻になってきていた。それにしても、真夏に、立っていることもできないほど多くの中国人を貨車の中に押し込めたまま、不足している食べ物はともかくとして、ふんだんにある空気や水さえ十分にあたえようとしなかった。貨物船で下関に着いてから花岡鉱山に到着する四日の間に、中国人たちが口にすることができた食べ物は、駅弁一つにすぎなかった。しかも、食べ物もあたえないでカツカツにやせ細った中国人を花岡鉱山に連行して、水路変更工事という大規模な土木工事をやらせようというのだから、たいへんなことであった1944年8月8日に花岡鉱山に連行されてきた第一次の295人の中国人たちは、鉱山の近くにある姥沢につくられた寮に収容された。その寮は鉱山町から三キロほど離れており、かなり急な勾配の山道を登らなければならなかった。寮の名は中山寮といったが、中山寮の建っている場所からは、民家が一軒も見えなかったし、鉱山町からも中山寮は見えなかった。日本人の目から中国人を隔離すると同時に、中国人からも日本人を隔離していた。

 中山寮は三棟の建物から成り立っていた。寮の中は汽車のように真ん中が通路で、両側が板を敷いた座席と寝床の兼用で、上下の二段となっていた。板間の上に坐ると、背の高い人は頭がつかえるほど低かった。中央に石油ランプが一つ下がって、ほの白い光で殺風景な部屋を照らしていた。もう一棟の片側には、食堂、炊事場、事務所、補導員の宿直室、倉庫などが並んでいた。

 二棟の大きな建物から少し離れたところに、重病人を収容する部屋のほかに、遺骨安置室と看護人のいる看護棟が建っていた。この看護棟の近くに死体焼き場があったが、後になってたくさんの人が死ぬようになると、死体を焼く木や、遺骨を入れる木箱の支度ができなくなったので、穴を掘って埋めるようになった。そのため、中山寮の近くにある山の中腹は、人を埋めた穴が並んで鉢巻き状となり、それが鉱山町からもはっきりと見えた。のちにこの山は、地元の人たちから鉢巻き山とよばれるようになり、恐怖の目で見られるようになった。

花岡鉱山に連行された中国人たちの一日は、ようやく朝が明けたばかりの山間で鳴り響く軍用ラッパの音ではじまった。ラッパの音で目が覚めると、板の間に坐った。着たきりなので着替える必要はないし、布団は一枚も配られなかったので、たたむ仕事もなかった。顔を洗う手拭も歯ブラシもないので、坐ったまま大きなあくびを二、三回やり、上げた手をおろした拍子に目を何度かこすり、それから顔を二、三回なでると、朝の準備は終わった。

 ようやく朝の陽がさしてきたころ、食事が配られた。朝食は昨晩の食事と同じに、味もあまりついてない煮たフキ1本と、饅頭が一つだけであった。みんなは呑み込むようにして食べた。

 食事が終わると、中山寮の前に整列した。伊勢寮長代理や現場の補導員たちも集まり、東京の宮城に向って遥拝した。それが終わると、伊勢寮長代理の訓話がはじまった。

「みんなはじめて花岡に来だのだから、特別待遇として最初の一週間だけ休憩をあたえるが、その後は本格的な作業に入ってもらう。だが、この一週間も遊んでいるのはもったいないから、寮の整理をする以外の人は、山を開墾して畑をつくることにする。この仕事も大東亜建設に尽す義務のひとつだから、なまけたりしないで精いっぱいに働け……」

 訓話は通訳から伝えられた。その後で、全員の編成がおこなわれた。全員を1大隊とし、その下に中隊を置き、中隊の下に小隊を置いた。小隊の中では、10人の班編成をした。最初は三中隊、9小隊に分けられたが、1945年に入って第二次と第三次とが連行されてきてからは、4中隊、12小隊に分けられた。最初の編成を図で示すと、下図のようになる。

 大隊長には耿諄がなったほか、副隊長には羅世英、書記には劉玉卿、軍需長には任鳳岐、看護長には劉玉林が任命された。また、中隊長には李克金、張金亭、王成林が任命されたし、小隊にもそれぞれ小隊長が置かれた。林樹森と劉智渠は看護班に所属していたし、李振平は第二小隊長であった。

 また、鹿島組花岡出張所と、中山寮とに勤務して、直接に中国人たちを扱った日本人は、次の人たちであった。(なお、年齢は全部が1944年8月現在である)

鹿島組花岡出張所

所長は河野正敏(40)で、中山寮長も兼ねていたが、中山寮に出向くことはあまりなく、出張所にいることが多かった。河野の下に労務課長の柴田三郎(45)、労務係の高久兼松、佐藤勇蔵、配給係の塚田亀夫などのほかに、女子事務員も合めて約20人前後の人たちが勤務していた。


中山寮
 もと裁判所の書記であった寮長代理の伊勢知得(40)の下に、庶務が2人、補導員が8人、医務担当が1人いた。しかし、医務担当の高橋豊吉は医師の資格もない元衛生兵で、一日に看護棟に一回顔を出すだけで、あとは中山寮の中にいたが、病人に手をかけることはほとんどなかった。また、鉱山病院の大内正医師は、死亡書を言いなりに書くだけで、病人の治療にあたることはあまりなかったという。

 しかも、伊勢と庶務の越後谷義勇、補導員の石川忠助をのぞいた7人は、全員が兵隊経験を持っていた。それも、7人のうちの6人が中国大陸帰りの傷痍軍人であり、中国人に対してもっとも狂暴にふるまったのは、この人たちだったのである。中国の戦場で中国人たちを虫ケラ同様に扱った軍隊生活を、花岡で中国人連行者の上に再現させたのだった。中国帰りの6人は、片言にしても中国語のわかる人たちであった。その6人とは、小畑惣之介(32)、福田金五郎(35)、古谷四郎(25)、長崎辰蔵(30)、猪股清(30)、檜森昌治(35)であった。また、補導員の一人である清水正夫(25)は中国混血で、中国語が非常に上手だった。

この清水もまた、思いっきりに狂暴の牙をふるって、多くの人たちを死に追いやり、中国人からもっとも憎しみの目を向けられた一人であった。三人の会話の中にも出てくるが、軍需長になった任鳳岐はその地位を利用し、それでなくとも少ない食糧の中から、その量をごまかして中国人に食べさせずに、家に帰る補導員に渡したり、自分で売って遊廓に行くなどの行為で憎しみを買い、蜂起の時にはいちばん先に殺された。この二人の例でもわかるように、血のつながる同胞たちを自分の手で痛めつけ、苦しませたということは、今日的問題としても十分に考えたい事実である。

 それに、兵役経験のない越後谷義勇(19)と石川忠助(40)の二人は、あまり中国人をかばいすぎるとして、同僚たちから快く思われていなかった。この二人は、しばしば中国人を助けたり、こっそりとかくれて食べ物などをあたえていた。そのため、蜂起は二人が宿直でない晩を選んで実行されたことでもわかるように、中国人たちから信頼されていた。中国人にたいして狂暴を振わなかったのが、兵役経験のない二人であったことも、さきにあげた事実と同様に、考えたい問題である。

 このほかに、大館警察署長の三浦太一郎、その下にいた特高警察の後藤健三などが、中国人たちを監視するために、毎日のように中山寮や作業現場に来ていた。また、華北労工協会から通訳として派遣されてきていた于傑臣と、同じく華北労工協会から来て本部にいた木村初一などがいた。

こうした状況の中で、第一次連行者の295人は重労働についたのである。特別待遇の一週間がすぎると、本格的な重労働に入った。早朝から数キロも離れた現場に行くと、花岡川の流れを変更する工事に取りかかった。しかし、土木機械は一つもなく、なわで編んだモッコと、スコップやツルハシだけという人の力だけをあてに、岩石の多い平地に幅二丈に深さ三丈の川を掘るのだから、現場で働く中国人にとっては、重労働の連続そのものであった。

 しかも、毎日の食べ物といえば、一回に小さな饅頭一つと、フキかゴボウの煮たのが一本というように、極端に貧しかった。また、衣服も不十分そのもので、雪が降りはじめても、着ているのはシャツ1枚だけであった。また、板間のベッドにはゴザさえも敷いておらず、雪が降りだしてから毛布が一枚だけ配られるという状態だった。

 また、鹿島組補導員たちの残虐な数々の行為は、多くの中国人たちを死に追いやったり、一生不治の怪我をさせたりした。食べ物が悪くてからだが弱っているために、掘った川底から土や石を運び上げることができないといっては梶棒で殴られ、腹が減るので裏山で草を取って食べているのが見つかると、死のリンチを受けるという状態だった。ほとんど毎日のように仲間たちが殴る蹴るの暴行を受けて殺されたり、栄養失調と重労働のために、20歳代の若者たちが次々と看護棟に送り込まれていった。看護棟には医者がくることはなかった  し、薬もひとかけらもあたえられなかったので、林さんの記憶によると、看護棟に入った人で再び丈夫になったのは一人だけで、あとの人たちは死んでいったという。

 1944年夏から1945年の夏にかけてというように、日本の戦局がますます悪化してきた状況下での出来事であり、「戦時中だから仕方なかったのだ」と、中国人たちにたいする行為を弁護する人が、現在でもかなりいる。だが、三回にわたって鹿島組花岡出張所で連行してきた986人のうち、死亡者は418入と多いのにくらべて、同じ場所の同和鉱業花岡鉱業所に連行されてきた298人のうち、死亡者は11人だったことをあわせて考えると、いかに鹿島組の場合がひどかったかがわかる。

食糧を奪う補導員

 敗戦後に民間団体の手で作成された『現地調査報告書』には、次のような話が収録されている。中国人が連行されてきたころに、花岡の役場に勤めていた人は、「すべてのことが軍の秘密だといって役場には知らされず、食糧の配給のことも、県から直接にやられていた。何人きたのか、どうして死んだのか、なんで死んだのかも役所ではわからなかった。食糧はピンハネされていたようで、真っ黒い蕗二本、皮をむかないものと、まん頭一ツわたされていたのを見ました。汪精衛の方からよこされて、鉱山に直接に使われていた人達は、同じ配給であったそうだが、わり合いしっかりしていたから、鹿島組は本当にひどいことをしたものだ」と語っている。

 この話でもわかるように、鹿島組に連行されてきた中国人が、とくに苛酷な扱いを受けたのであった。それは、毎日の重労働と同じように、中国人たちがもっとも苦しめられた食べ物の場合もそうであった。それでなくとも少なく配給される食糧の中から、鹿島組の幹部や中山寮の補導員たちが、自家用として運んでいったり、あるいは大量に売り払って飲み食いのカネにされていたのである。食べ物が少ないために多くの中国人たちが栄養失調となりそれが原因で病気になったり、あるいはからだが弱って仕事ができないといっては、補導員
に殴り殺されていったのである。

 補導員たちの多くは、大館市から中山寮にかよっていたが、戦時中に大館市大町に住んでいた嶋田展代さん(故嶋田普作代議士の長女)は、その当時の記憶を次のように語っている。

 「わたしたちのいた大町の管原さん宅の奥のいちばんいい部屋に、花岡鉱山の鹿島組出張所長をしていた河野正敏さん一家が借りられていました。そこには、立派な防空壕(わたしたちも何度か入りました)があり、それは母から聞いた話によると、朝鮮人(当時は中国人とは言わなかった)がつくったものだそうです。わたしたちはいつも食糧難でしたが、奥の河野さん宅には、見たこともない角砂糖があったり、うどん粉があったり、美しい奥様がいつもきれいにしていらしたのが、まるで別世界のように、わたしには見えました」

 『現地調査報告書』の中でも、蜂起した時に殺された補導員の近所に住んでいる人の話として、「彼らの家では、いつも食糧が豊富であった。われわれのところはますますひどい状況になっていくのに、彼らの食生活はますます豊かになった。彼らが中国人の食べ物をピンハネしているのだと噂されていた。中国人に殺されたと聞いて、近所では、当然だと話しあった」と記録されているのをみても、食糧が補導員の手で勝手に持ち出されており、しかもその量は、近所の噂になるほど多かったのである。

 食べ物だけではなく、毎日の労働についても同じであった。中国人たちがあまりにも少ない食べ物の増加や、労働条件の改善などを要求するたびに、鹿島組ではその報復として、翌日から建設週間というのを計画し、さらに厳しい労働を押しつけてくることがしばしばだった。建設週間に入ると、補導員の指定した普段よりも多い一日の仕事量を達成しない組は、暗くなっても帰寮したり、食事をとったり、休んだりすることが許されず、真夜中までも働かされた。

 目撃者の一人は、「食べものがひどい上に労働の過重は、とても朝鮮人の比ではなかったのです。夏の日の長いころですが、日もすっかり暮れてうすぐらくなってから、ふっと泣き声が耳につく。出てみるとあの人たちです。水路工事に使う長い杉の立木を、二人で、さきっぽとさきっぽをかついでいる。二人とも顔は見えないが、足など火箸みたいにやせている。腹はすいている。木は重い。二人はちょうど四つ五つの子供が泣くように悲しくて泣く時のように、暗がりに木の重みでふらつきながら、こう、声をひいて泣いているのです。すると横についている監督が、これみろとばかりに棍棒でなぐる」と言っている。
(松田解子「花岡鉱山をたずねて」−『新しい世界』より 


 少ない食べ物と、長時間にわたる厳しい労働の中で、多くの人たちが怪我をしたり、あるいは病気になったりして看護棟入りをしたり、仕事ができないといっては、補導員に殴る蹴るの扱いを受けて死んでいった。ある時、看護棟入りをする人や、死亡者が続出することが鹿島組本社の注意をひき、一人の医師が鉱山病院から中山寮に派遣されたことがあった。しかし、この医師は病気の治療にきたのではなく、本当の病気なのか、それとも仮病を使っているのかを検査に来たのだった。答える声にちょっとでも力があったり、歩いたりすることのできる人はみんな仮病と診断され、看護棟から中山寮に移されて補導員に梶棒をくわされてから、強制的に現場へ追い出されていった。

 やがて、花岡鉱山にも冬が訪れ、みぞれの降る季節となり、地面は凍りつくようになった。しかし、秋田の冬がはじめての中国人には、夏シャツの上に一組の作業衣が支給されただけで、目撃者のある坑夫は、「冬でも丸はだかに近いぼろシャツ一枚に、背中に雪よけの菰、足にはぼろわらを巻いて、凍った水に脛から股までひたして働かされていた」と『現地調査報告書』の中で語っている。しかも、寮で寝る時に着る一枚の毛布が渡されたのも、雪が降り出してからのことであり、それまでは板の上に着たきりの姿で横になっていたというから、正気の沙汰ではなかった。厳しい冬が終わりをつげるころになると、約八ヵ月前に295人が花岡鉱山に来たのにその三分の一にあたる90人ほどの人たちが死んでいたほか、再起不能の病人や怪我人が40人近くでていた。働く人が減っていくにつれて、仕事は生き残った人たちの上に重くのしかかるようになった。だが、死んでいく人はますます多くなり、工事を順調にすすめていくことができなくなってきた鹿島組では、再び中国人たちを連行してくる計画をたてた。そして1945年5月に587人、同じく6月4日に98人の中国人たちを、新しく花岡鉱山に連行してきたのだった。

 新しく中国人たちがやってくると、鹿島組の補導員たちはその見せしめとして、何人かの中国人を多くの人たちの面前で殺害していった。しかも、食べ物はいっそう悪くなってきたほか、秋田県労働課の指示によって、これまでよりも朝晩二時間の作業時間の延長を中心とした工事突貫期間が実施された。こうした残虐な仕打ちの中で、多くの中国人たちは、「生きているよりは、死んだ方が楽だ」と考えるようになった。

毎日の死体焼き

 林 
花岡鉱山についた晩、会食するのこと言っていた。なに出るか楽しみにしてたら、夜遅くなってから出たの、イワシー匹と饅頭一つね。寮の中に、わたしたちのご飯つくる人いないでしょ。わたしたちの中から料理つくれる人選んでつくったから、遅くなったの。饅頭ね、うどん粉少しより入ってないの。あとはリンゴのカスとか、ドングリの粉でしょ。あとは知らない草みたいなもの、いっぱい入っている。ふわふわしないから、ぜんぜん饅頭の味しないの。だけど、おなか空いてるから、イワシと饅頭、すぐになくなったさ。イワシの頭も骨も、みんな食べた。大きい骨も、残さないね。

 李 
配給のうどん粉、もともと少ないのに、寮長や補導員たち、その粉家に持っていったり、売って、夜、外へ飲みに歩くか、遊びに行くかするでしょ。もともと少ないもの、こうして取るから、もっと少なくなるわけね。足りない分は、山のドングリの粉とか、リンゴのカスとか、干した草などまぜて、饅頭つくるの。その饅頭も、小さいったらないの。わたしたち、重労働者でしょ。一人で一回に、10個以上も食べられる大きさよ。それがたった一個でしょ。しかも、おなかの空いてる時でも、うどん粉の少ない饅頭固くて、ノドを落ちていかないの。そのままの状態で食べた人もいたけど、わたしはその饅頭ほぐして、おかゆ作るの。昼は現場に出るからそんなことできないが、朝と晩はいつもおかゆにして食べた。おかゆにすると、ノド落ちてゆくね。

 劉 
まったくあの饅頭、人間の食べるものでないの。腹の中に入ったら、30分もすると、下痢になってしまうの。下痢はじまると、足とか手とか腫れてくるさ。その腫れたところ指で押すと、ぽこんとひっこむの。中国でつかまえられた時から、食べものこの状態でしょ。からだ弱ってくるのも、当然のことね。

 李 
花岡に着いた次の日に、班編成やったさ。このこと、鹿島組からの命令ね。耿諄大隊長は、船に乗ったとき、もう決まっていたさ。この人、国民党軍の上尉で、性格弱いところあったけど、なかなかできる人ね。その下に、中隊を全部で四つ作って、中隊長置いたの。

 中隊の下に小隊つくって、それから10人の班にしたの。1中隊の中に3小隊つくったから、全部で12小隊あって、その上に小隊長いるの。1つの班には、班長いるの。このほかに、書記、軍需長、看護長がいて、看護長の下に看護班あって、三人の人いたの。これ、だいたいの班編成ね。わたしは前にも言ったけれど、第一中隊の第二小隊やったの。班編成終わると、鹿島組の人や補導員たち、これからの生活とか仕事のこと、隊長や中隊長とか小隊長を集めて教えたね。わたしたちや小隊長、そのこと班の人たちに伝えるわけね。


 劉 
わたしと林さん、看護班にいたでしょ。花岡に着いて三日間、寮の中やまわり整理したね。寮の前に井戸掘ったり、便所つくるの仕事もした。ほかの人たち、畑つくるの仕事した。こんど、川を掘る仕事に出ると、病人とか怪我人が出てきたね。

 林 
看護班の仕事、病人のひと看護することより、死んだ人を焼くの仕事多かった。人死ぬと、寮のうしろにある山に運んでいくの。それから木集めて焼いて、最初は骨をカメに入れたけど、こんど、だんだん多く死ぬのでカメなくなり、木の箱つくって入れたさ。わたしたちのいる看護班の小屋、寮と少し離れたところにあったでしょ。わたしたちのいる部屋と、働けない重病人のいる部屋があって、その奥に、遺骨の箱置いた安置室あったの。わたし中国で、医者のような仕事したでしょ。それで看護班に入ったけど、薬一つもないし、包帯もないよ。重病の人あっても、怪我した人あっても、水でひやしてやるか、背中とか腹さすってやるだけね。結局、病気になると死ぬだけね。大きな怪我した人も同じさ。高橋という、元衛生兵の医務担当の人いたけど、この人、わたしより病気のこと知らないから、なんにもやらないの。一日に一回だけ、看護室に、「どうした」と、顔を出すだけね。鉱山病院にも、大内正という医者いて、わたしたち中国人のことみることになってたけど、看護室に来て治療に当たったの、一回もないでしょ。死んだ人あると、死亡届を書きにくるだけね。その時も、事務所に来て、補導員から聞いたまま書くだけさ。わたしたちにも聞かない。自分で死体みて、手をふれて調べたこと、一回もないの。一日に何人も死ぬ日つづくと、病院で聞き。ながら、死亡届書いたこともあったさ。病気になる人多いのに、医者もこうでしょ。わたしのほかは、誰も病気のこと知らない。わたし、病気の原因わかっても、薬ないからなんにもしてやれない。死ぬのを待っているだけね。


李 
病気といっても、ほんとの病気の人、少ないよ。食べ物悪いし、少しだけでしょ。普通の日でも、朝6時から晩の6時まで、土方の仕事するでしよ。からだやせてふらふらして、どの人もちょっと強い風吹くと、倒れてしまうよ。足の太さも、腕より細いからね。みんな、栄養失調と寒さからきてる病気ね。だから、倒れて重病室に運ばれると、みんな確実に死ぬわけね。死ぬの日、遅いか、早いだけのことね。重病室に入って、生きのびた人、一人だけね。

 林 
わたしたち中山寮に入った最初のとき、死ぬ人あまりいなかったが、日がたっていくと、死ぬ人多くなってきた。だんだんと、からだ弱まってきたからね。はじめての時は、何日かおきに一人か二人死んでいたが、冬に入ると、一日に二人も三人も死ぬ日あるよ。病気になる人も、だんだんと多くなってくるさ。結局、倒れたらダメよ。これ、李さんの言うとおりね。わたし看護班にいたから、中国人のからだのこと、よくわかるの。少しカゼひいて、現場に出られない状態になって、看護棟に運ばれてくるでしょ。それから三日か四日、長くとも一週間寝ていると、もう終わりさ。ぜったいに死ぬよ。病気になって、仕事に出ないと、それでなくとも量の少ない饅頭の大きさ、また小さくなるの。いくらも食べることできないから、からだもっと弱って、病気に勝てないわけね。


 劉 
それでも夏の間、わたしたち山に登って、よく草食べたさ。昼の休み、いくらかあるでしょ。補導員たちに見つからないように、いろいろな草食べたさ。これで、わたしたちだいぶ助かったね。こんど、雪が降ると、この草食べることできないわけね。雪食べても、腹いっぱいにならないからね。

 李 
食べものこんなに悪くて少ないうえに、中山寮の設備も、ぜんぜんダメだからね。わたしたち花岡鉱山に来たの、8月の半ばのことでしょ。昼は暑いけど、夜はもう寒いからね。わたしたち、日本の気候に馴れてないから、とくに寒いの。寝るところ、上下二段のベッドで、板は敷いとるけど、蒲団も毛布も、一枚もないの。着替えるものも持ってないから、そのままごろっと横になるだけね。腕枕にして寝たの。疲れてるから眠るけど、夜中に寒さに気がついて、何度も何度も目が覚めるの。だから、夜も十分に眠れないからいからだもっと疲れるわけね。

 林 
せめて、アンペラぐらい敷いとるといいけど、それもないからね。中山寮のあるところ、かなり高い山の中腹でしょ。夜になると、冷たい風吹きおろしてくるから、寒いの。羽目板の隙間から、その寒い風入ってくると、からだカタカタふるえてくるの。足縮めて、丸くなって寝ても、寒くて死にそうな思いね。


 劉 
中山寮の中に、風呂もないでしょ。からだ、垢だらけでしょ。カミソリもないから、頭の髪やひげ、のび放題さ。一枚きりの衣服、ぼろぼろでしょ。わたしたちの姿、地獄で難行苦行している亡霊みたいさ。

難儀な川掘り作業

 李 
仕事もきついからね。花岡に来て三日間は、寮の中の片づけや、寮のまわりの整理したでしょ。それから四日間は、特別待遇ということで、土方の仕事に出ないで、山を開墾して、畑づくりの仕事したの。この期間終わると、川を掘る仕事に出ることになったでしょ。朝は五時になると、軍用ラッパ鳴って、起こされるでしょ。寒いし、おなかすいとるから、その前に目覚ましていること多いね。顔洗う水もないし、手拭もないから、朝の仕度は、便所に行くだけさ。朝のご飯は、饅頭一つに、皮のついたままのフキ煮たの一本か、細いゴボ
ウの煮たの一本か出て、もう終わりでしょ。わたしはおかゆに煮て食べたから、時間少しかかったけど、腹いっぱいにならないから、あとは水飲むだけね。その水も、あんまり多く飲んでいるの補導員に見つかると、すぐ棍棒とんでくるから、水もあまり飲めないよ。


 林 
労働するの時間、朝の6時からはじまるでしょ。中山寮から川掘る現場まで、かなり遠いね。わたしたちの看護班も、はじめは病人いないから、土方の仕事に歩いたよ。誰か死ぬ人あると、中山寮に運んできて、焼いたけどね。

 李 
遠いさ。あれ、四キロはあるよ。それに、山の坂道が半分以上あるからね。朝くだっていく時はいいけど、晩に帰る時はたいへんさ。途中で息切れて、何度も休むね。休むの見つかると、補導員の梶棒とんでくるから、息切れそうになっても、なかなか休めないの。仕事は、平たい地面のところ深く掘って、水流してくる川つくることでしょ。仕事のやり方、補導員が大隊長に話して、大隊長から中隊長、それからわたしたち小隊長、それから班長に伝わっていくの。仕事の終わる時間、だいたい午後の6時となってるけど、6時に帰れる人、
何人もいないさ。ひとりが一日働く分として、川を掘る面積、1uずつ割り当てられるの。6時までにその分の仕事終わった人は帰れるけど、その分終わらなかったら、暗くなっても帰れないさ。晩の8時ころまで働く人もいたさ。


 劉 
仕事のできない人、わたしたちの寝るころ、中山寮に帰ってくる人もいた。ふらふらして、寮の中も歩けない状態ね。指でポンと押すと、倒れてしまいそうな歩き方ね。その人、次の朝、また6時に仕事に行くでしょ。何日もしないうちに、看護に運ばれてきて、死んでしまうわけね。ひとり一日に1uの面積掘るの仕事、あまりひどいよ。


 林 
現場で働く人、何班にも分けられたでしょ。一班は10人だから、10u割り当てられるわけね。平たい地面のところ、川に掘るわけだから、石が多いでしょ。その掘った石、川の上に運び上げないといけないけど、力ないから、上に運び上げるの仕事、たいへんさ。何十キロもある大きな石、三人か四人かかっても、上にあげることできないの。途中まで上げて、力なくなって、また川に掘った底に落としてしまうこともあるの。そのこと、補導員に見つかるでしょ。牛の皮の干したムチや、棍棒でもって、上に運べない人たちのこと叩く
の。倒れるとカネのついた軍靴で、倒れてる人のからだ、どんどん踏んで叱るの。こうして殺された人、かなり多いさ。

 李 
もっとひどいのことね、晩の8時か9時までかかっても、10uの割り当てられた分、掘れない班もあるでしょ。遅くなって、坂道ふらふらに登って、中出寮に帰ってきても、こんど夜のご飯減らされるの。その時によって、三分の一に減らされるか、半分に減るかするから、からだぜんぜんダメになるね。働きながら倒れる人、多くなってきたの。倒れて重病室に運ばれると、もう終わりさ。あの時の状態、どの人もガラガラにやせて、歩いてもふらふらだから、大きな石運べないの、当然のことよ。


 林 
わたしね、誰とだったか二人で、遠い山から、長い杉の木かつがされたことあったの。生木の長い木だから、重いでしょ。川掘っているところまで来ないうちに、暗くなってしまったの。足ふらふらして、おなかすいて目まいするでしょ。わたしの相棒倒れたの。すると補導員来て、梶棒で叩くでしょ。泣きながら立ち上かって、また二人でよろよろ運ぶの。夜の8時、現場に着くと、二人ともあと動けないの。補導員の清水が、早く寮に帰れと、また梶棒ふるってくるさ。このとき、もう死んでもいいと思った。わたしの相棒、そのとき清水に腕折られて、一生かたわになったよ。


 李 
補導員のろくでなしは、一つの中隊に二人か三人、一つの小隊長に一人はついているからね。わたしたちを殺すために、補導員がいるようなものさ。


 劉 
わたしたちのからだ、やせ細って、歩くのもふらふらの状態でしょ。ところが補導員、なにを食べてるか知らないが、みんな元気でしょ。その元気な人たち、わたしたちのことカー杯に叩くのだから、たまったものでないよ。補導員たちのからだ、肥ってくるほど、わたしたち死に近づいていくような状態だったさ。


 林 
わたしたち、日本人のことばよくわからないね。補導員に「オーイツ」と呼ばれると、もう叩かれるか、踏みつけられるかでしょ。この叫ぶの聞くと、もうからだ固くなったさ。いまでも補導員たちの叫ぶの声、よくわかるね。

 李 
補導員たち、中国のことばわかるの人多いね。ほとんどの人たち、わたしたちの言うのわかるの。だからわたしたち、あまり文句や悪口、言ったりできないの。そのこと聞こえると、また棍棒とんでくるからね。花岡鉱山の普通の人たちも、補導員と同じ態度の人ほとんどね。わたしたち、寮から現場に行く途中に、鉱山社宅とか、家のそば通って行くでしょ。わたしたちのこと見ると、大きな声出して笑うし、子どもたちは、わたしたちのこと見ると石投げてよこした。助けてくれた人、少しはあったかもわからないが、わたしには一度もなかったね。わたしたち髪ぼうぼうに伸びて、ひょろひょろにやせて、目ぎょろぎょろして、風呂に入ったのこと一度もないから、からだの匂いするからね。きたないお化けか思って近づかないの、あたりまえのことね。

 林 
わたしも民間の人に助けられたこと、一度もないさ。わたしたちと道路で会うと、道路わきまで逃げて、黙って見ていたさ。わたし、いまでも思い出すこと、一つあるの。わたしたち、道路に何か食べられるもの落ちていると、なんでも拾って食べたでしょ。そのこと、補導員見つけると、「こら、犬ども」と叫んで、叩くでしよ。腹減ってるから、食べられそうなものあると、なんでも拾って食べたい気持ね。そのこと毎日見ている人、道路のそばに住んでいる女の人ね。わたしたち通ると、腐ったような食べ物、わざと道路に投げてよこすの。わたしたち、それほしいけど、補導員そのこと見てるから、手出せないでしょ。ひとりの入、我慢できなくて、それ拾って口に入れたら、補導員走ってきて、梶棒で何度も頭とか顔叩いたの。その人、片方の耳から血出して倒れたけど、その入、それから片方の耳聞こえなくなったの。ひどいことする女の人いるね。わたしその時のこと思うと、いまでもその女の人の顔わかるよ。憎いよ。草食べて飢えしのぐ。


 李 
花岡にいた時のわたしたちは、日曜も祭日も、ぜんぜんなかったさ。休んだ日、1944年の大晦日に半日と、1945年の元旦の一日だけね。あとの日、どんなに天気の悪い日でも、仕事に出た。しかも、食べ物悪いうえに、少ないでしょ。どの人も、骨と皮ばかりにやせて、生きた顔してる人、ひとりもいないよ。

 林 
わたしたちほとんどの人、農家の生まれで、小さい時から労働してきたから、働くのこと、なんともないよ。働くのこと、好きな人多いよ。だけど、花岡では、食べる物少しよりくれないで、無理に労働させるでしょ。からだ弱って、歩く力のない人、石運ぶ力のない人あると、棍棒で殴ったり、小突いたりするわけでしょ。これではどうにもならないよ。働くこと好きな人でも、働くことできないよ。


 劉 
中国にいた時も、わたしたち、そんなにいい生活してなかったさ。八路軍に入ってからの生活、苦しかったこと多い。食べ物もいいもの少なかったけど、たくさん食べていたからね。腹いっぱい食べると、力出てくるし、働けるけど、饅頭一つに、ゴボウかフキの煮たの半分か一本では、働く力出てこないのは当然ね。

林 
あんまり腹減ってしようがないから、昼休みの時間になると、補導員のいない時に、そっと山に登って、草を取って食べるの人多いよ。だけど、日本の草のこと、どれ食べられるか、食べられない草か、わたしたちよくわからないでしょ。草食べたあと、腹痛む人もあったし、口から白いアワふいて、山ころげまわって苦しんで死んだ人も、一人か二人あったさ。
そのこと見ても、腹減ってくると、また草食べに行くでしょ。わたしたちの手にはいる食べ物といえば、草とか水よりないからね。

劉 
その草食べるのことも、補導員がいるとダメだからね。草食べているの見つかると、また梶棒で殴られるからね。わたしたち、腹減って苦しんでいること、いちばんよく知っているの、補導員たちでしょ。その補導員たち、わたしたち草食べているの見ると、怒るわけでしょ。どんな気持の人たちか、ぜんぜんわからないよ。


李 
夏の間は、それでも草食べられるからいいが、秋になるとその草も枯れて、食べられないからね。食べる物、どこからも拾うことできなくなるよ。しかも、秋だんだん深くなると、骨と皮ばかりにやせたからだ、寒さいちばんこたえるさ。わたしたちの着てるもの、下関に着いた時にもらった夏用の一重物が、二枚よりないよ。履物も破れてしまって、素足がまる見えさ。雪とか、凍った砂とか、冷たい水とか、いつも入ってくるからね。足は凍傷にかかって、感覚なくなっているよ。手袋なんか、一つもないよ。素手で、凍った土や石、雪つかんで働いたさ。


林 
靴下もぜんぜんないからね。雪降ってから、ワラを少しずつ集めて、貯めておくの。そのワラ貯ってから、履くものつくってはいたさ。このワラの靴はいても、足だけかくせることできるけど、あとはかくせないから、濡れるだけね。秋田の冬、雪が深いでしょ。多い時は、腰までも雪があるさ。その雪の中で、半分も破れた履物の上に、ワラで編んだ靴のようなものはくだけで、仕事に出るのだから、苦しいの当然よ。あの時の凍傷のあと、いまも寒くなると痛むね。この傷のあと痛むと、あのころのこと思うよ。忘れようとしても、わたしのからだ忘れさせてくれないわけね。

 李 
着るものだって、ボロボロの下着の上に、薄くて黒いワイシャツのようなもの、たった一枚でしょ。薄いから、強い風吹くと、肌に風ささってくるね。雪降ってる日だと、からだみんな濡れてるから、とくに寒いさ。冬になってから、セメントの入ってきた紙の袋見つけて、ワイシャツの下にその紙まいて、着た人もいたさ。セメントの袋そんなにないから、あたらない人は、ワラで編んだゴザみたいなもの着てる人もいるさ。わたしも、はじめはセメントの袋見つけて着だけど、紙だから濡れるとすぐ破れるから、俵をゴザのように、自分
で編み直しだの着たさ。強い風の吹く日は、ゴザの上からからだに風をとおしてくるから、寒いよ。ぶるぶるふるえて、働くこともできないさ。わたしたち、まるでドロボウみたいなかっこうしていたさ。吹雪の強い日は、寒くて、唸るような声たてて、泣いとる人多いよ。雪の中で働いていて、倒れると、もうそのまま死んでいること多いね。倒れてから死ぬのじゃなくて、死んでから雪の上に倒れる人多いね。

 林 
死んでいく人、最初からわたしたちの手にかかるさ。わたしと劉さん、看護班にいたからね。花岡に来た最初のころは、一人ひとりていねいに焼いていたし、遺骨入れるカメもあったさ。ところが、だんだん多く死んで、焼く木が不足したり、遺骨入れるカメとか、木箱なくなってきたでしょ。こんど、山に丸い穴掘って、一人ひとり埋めて、だれ死んだかわかるように、本に名前書いて立てたよ。これ、あとで掘ったけど、誰のものかちゃんとわかるさ。こんど、冬になって、病気になる人多くなって、一日かひと晩に、五人も六人も死ぬ日がつづくようになったよ。もっと多くの人、一日かひと晩のうちに死んだこともあったさ。こんな時、わたしたち三人の看護班だけで、死んだ人運んだり、穴掘ったりすること、間に合わないの。土凍ってるから、そんなに穴も掘れないでしょ。わたしたちの中でも、病気の人いたからね。こんど、からだの弱い人、三人か四人、死んだ人運んだり、埋めたりする仕事、専門にやるようになったさ。それでも間に合わないと、わたしたちも手伝うさ。こんど、伊勢寮長代理の命令で、山の中腹に、大きな穴掘ったね。深さもだいぶあるさ。わたしと李さんの二人、戦争終わってから、そこに行ってみたことあるけど、大きな一つの穴に、遺骨掘った人の話聞くと、八十何人が入っていたと言っていた。死んだ人、山の中腹にかついでいくと、その穴に入れて、上の方に土かぶせるのでなく、白い石灰あるでしょ、その石灰まいて終わりさ。次の日に、また死んだ人あると、その上にまた死体入れて、石灰まくわけね。その大きな穴から掘られた人、全部そうして埋めたから、どこの人かわからないよ。三日と
か四日、死んだ人なくて、その穴のところに行かないでいると、犬とか猫とか、いたちが穴の中に入って、人間の屍体、食べていることもあるさ。腕とか足とか、食われてなくなっているところもあるさ。食われて散らばっているもの、誰の腕か足か、もうわからないね。冬になって、雪深くなるでしょ。中腹の穴のところまで、運んでいけないことあるさ。その時は、中山寮のそばに雪の穴掘って、死んだ人その穴に埋めて、あとで雪少なくなってから、穴に運んで埋めたこともあったさ。これ、わたしたち勝手にやったことでなく、鹿島組か補
導員の命令ね。生きとる時も、わたしたち虫ケラのようにされたが、死んでからも同じだったさ。

 李 
冬の寒い時のこと、口で言えない苦しみね。着ているもの少ないし、はいとるもの破れとるでしょ。しかも、仕事は川をつくるのことだから、掘った溝の中に、雪のまざった水、膝まであることもあるさ。着物は、上から下まで、全部濡れとるでしょ。暗くなってから、中山寮に帰るね。手足しびれて、やせた足や手の肌の色、黒いような、死んだ人の色のようになって腫れてるよ。こんな時の手足、どんなに叩かれても、痛くないの。火で、腫れた手足あたためると、こんど痛むの。あまりの痛さに、火にあたって、ヒエヒエ泣いとる人いるよ。濡れた着物つけたまま、火にあたって乾かすでしょ。花岡に来てから、一度も洗ったことないから、乾くと鮫の皮みたいにザラザラしてくるから、ぜんぜんあたたまらないさ。冬がきても、着物つけたまま、あとなんにもないから、ベッドの板の上に横になっているだけでしょ。寒いから、ひと晩中ふるえつづけているさ。次の朝、起きようとしても、足とか手が動かないの。板の上に起きあがって、足や手をだんだんに動かして、歩けるように馴らしていくさ。晩に寝る時、次の朝、生きて目が覚めるのかなと、いつも思ったよ。


 林 
わたしたち看護棟にいること多いから、その苦しみは、李さんたちほどでなかった。食べ物悪い、着るもの少ない、夜も寒くて眠れないのつづけば、病人の多くなるの当然さ。冬になってから、いったん病室に送りこまれてくると、次の朝に死んでること多いさ。からだ弱って弱って、死にそうになってから、病室に来るからね。看護棟には、薬も病入用の食べ物もないから、どうしようもないよ。

劉 
雪がたくさん積ってから、第三中隊の人、二人にかつがれて病室に運ばれてきたことあった。彼のからだ、全身びしよ濡れで、氷のように冷えていたさ。目固く閉じて、人事不省になっているの。補導員に殴られて、ダムの中に落ちた二人が、引き上げられてきたわけね。手足にさわると、氷のように冷たいし、耳にロつけて名前呼んでも、ぜんぜん動かないの。胸のあたりに、小さな温みあって、低い息が聞こえるので、生きてるのこと知らせているわけね。だけど、看護棟に火もないから、お湯もやれないし薬もないでしょ。いろいろ考えたあげく、わたし庭に出て、死んだ人焼くための薪持ってきて、火燃やして、暖めてやろうと思っだの。薪持ってこようとしたら、軍需係の任鳳岐が来て、「薪どこに持っていくのか」言うの。「病人のこと温めるためさ」と言うと、この薪、死人を焼くためのものだから、ダメだというの。任鳳岐の奴、もう中国人の心忘れていたわけね。彼の反対で、薪持ってこれなかったけど、そのとき、怒りが胸いっぱいになって、どうすることもできなかった。その晩のうちに、病人は死んだけど、次の日、彼のからだ温めてやることができなかった薪で、彼の屍体焼いたの。口惜しいので、涙流れて仕方なかったよ。

死人の肉を食べる

李 
正月近くなってから、軍隊用の毛布、一人に一枚配給されたよ。この毛布かぶって寝てから、夜も眠られるようになったね。だけど、外はもっと寒くなってきたでしょ。こんど、配給になった毛布ね、からだから腕、それに足と、研究して上手に巻いて、その上にシャツ着て毛布をかくし、外の仕事に出たよ。これやると、あまり寒くないからね。このこと、補導具に見つかると、大変よ。梶棒とんできたり、蹴られたりするからね。ほとんどの人、毛布巻いたけど、この毛布のおかげで、死なないで助かった人、だいぶあるよ。あの毛布着なかったら、わたしも寒さに負けて、死んでいたかもしれないさ。

林 
わたしたち看護班も、毛布からだに巻いたよ。これで、前に比べると暖かくなったけど、こんど、うんとシラミ出たね。わたしたちに配られた毛布についてきたか、日本軍につかまってから、風呂に入ったこと、ただの一度もないでしょ。着替えるものもないから、からだも着物もアカだらけだからね。自分たちのからだから湧いたのか知らないけど、いっぱいからだについたよ。仕事から帰って、小さい饅頭食べて、お湯腹いっぱいのんで、きょうも生きられたと思っとると、シラミの奴、動き出してくるの。痒くて痒くて、もう黙っていられないの。背中に手入れてかくと、皮膚弱っているから、すぐ傷ついて、血流れるの。腹のあたりに、手入れてかくと、爪の間に、シラミ何匹もはさまってくるよ。一人のからだに、何百匹とついとるから、大変よ。夜中にも痒くて、何度も目が覚めるね。着替えるものないから、シラミのついた着物、洗うこともできないからね。


李 
シラミも、昼間は出ないね。なんにも痒くないの。寒いから、シラミも動かないわけね。


劉 
もう一つある。シラミわたしたちのからだの血吸っても、わたしたちのからだ、昼間は半分死んでるでしよ。感じない、ということもあるね。


林 
シラミたくさん湧いて、間もなく正月になったね。わたしたち、花岡に来たころは、誰も時計持ってる人いないし、中山寮の中に、暦もなかったの。あとでわかったことだけど、わざと暦、寮に置かなかったわけね。最初のうちは、誰もきょうは何日か、知らずにいたね。こんど、病人が出るようになって、死ぬ人たくさん出てくると、死んだ人の死亡報告書かく必要あったから、わたしたちの看護棟にだけ、暦一枚きたね。その暦で、はじめてきょう何日かということ、わかるようになったよ。正月きたことも、その暦でわかったね。


李 
大晦日の晩だったかね。日本に来て、わたしたちはじめて肉食べたの。あの時のうまかったこと、いまでも忘れることできないよ。よく覚えてるよ。


林 
大晦日の日、馬の頭と内臓が、わたしたち中出寮に渡されたわけね。肉のいい部分、鹿島組の人とか、補導員たち家に持っていったさ。わたしたち、その頭と内臓、料理したの。みんなで同じ部屋に集まって、食べたさ。


李 
あとのき、食べ終わってから、部屋の中に集まってる人見たけど、中国から一緒に花岡へ来た295人のうちで、死んだ人が90人ばかり、病気の人が40人ばかりいたね。年寄の人はほとんど死んで、あれは焦補学だったか、ひとりより生きていなかったさ。来年の大晦日の時には、この中から何人の顔見られるか、と誰かが言ったとき、部屋の中の人たち、しんとなったこと、いまでも覚えてるよ。今晩か、あすに死ぬの、殺される人、どの人か誰も知らないからね。自分かもしれないからね。

林 
わたしたち花岡に来てから休んだの、大晦日の午後と、元旦の一日だけね。大晦日は肉食べたけど、元旦になると、もうなんにもごっそうはないさ。いつもの小さな饅頭一つと、ゴボウかフキの煮だの、半分か一本だけだからね。


李 
正月すぎてから、この食べ物では、わたしたちのからだもたない。仕事のするのもムリだから、もっと食べる量、多くしてほしいと、わたしたち何度も、鹿島組の河野所長に要求したさ。鹿島組の事務所、中山寮から少し離れたところにあるの。そこに、大隊長や中隊長などと一緒に行って、河野所長の前に坐って、土に頭つけて、もっと量多くしてくれと頼んだよ。とくに、病人の食べ物、わたしたちと同じ量にしてほしいと頼んだよ。病気になったり、からだ弱くなって働くのことできなくなると、看護棟に入れられるでしょ。働かなくなると、食べ物の量も、半分にされてしまうわけね。半分のものもらってきて、カユにして食べていたでしょ。それでなくても小さい饅頭が、半分になるわけでしょ。病人だから、体力つけなければいけないのに、これでしょ。だから、病人になって看護棟に来る人たち、みんな死んでいくわけね。その病人たちの食べ物、わたしたちの食べるのと、同じ量にしてくれと要求すると、事務所の人たち来て、なに言うかと、わたしたちのこと梶棒で叩いたり、軍靴で踏みつけたりするの。もっと困ったこと、わたしたち、もっと食べる物多くしてほしいと要求に行くと、次の日から何日かのあいだ、饅頭の大きさ、もっと小さくなることね、見せしめに、小さくするわけね。これにはわたしたち、ほんとに困ったよ。


劉 
正月すぎてから、変わったこともう一つあるよ。正月の前の饅頭の中にも、リンゴのカスとかドングリの粉入っていたが、本当のウドン粉も、いくらか入ってたさ。正月すぎると、饅頭の中に、ウドン粉ぜんぜん入っていないさ。リンゴのカスもわずかより入らなくなって、なんだかわからない木の皮の粉など、入っているの。口の中に饅頭入れると、臭くて、砂みたいにザリザリして、固くて、とても食べられたものでないの。こんな食べ物ばかりつづくから、からだの弱い人、年寄の人、栄養ぜんぜんとれないから、どんどん死んでいくよ。冬になって、雪いっぱい積もると、食べ物、どこからも拾えないからね。


李 
からだやせて、腹の減る日つづくと、頭のおかしくなる人出てきたね。からだの弱い人、これに早くかかるよ。真夜中に食べ物のこと叫んで、とび起きる人も出てくるさ。わたしの小隊に、李相子という人いた。この人、からだ非常に弱いから、仕事の現場に、とても連れていかれないの。伊勢寮長代理に何度も頼んで、冬のころから、この人に、死んだ人焼いたり、土に埋めたりする仕事させていた。林さんたち看護班のほかに、そんなことだけする人、三人か四人いたからね。それだけ、死んでいく人多かったわけね。現場か、中山寮で死んだ人あると、裏の山に運んでいくの。木集めて屍体焼いたり、木集められない時、穴掘って埋めたりすること、専門にやっていた。そうした人焼くの仕事する人、わたしたち労働する人たちより、食べ物の量が少ないの。病人よりは、いくらか多いけどね。結局、あの人我慢できなくなったわけね。ある晩、わたし発見したね。寝るところの上に、木でつくった自分の箱持ってるの。わたしはじめは、なんの箱かなと思っていた。いつかの晩、李相子が、その箱の中に手入れて、なにか食べているの見たの。なにを食べているのかな思って、次の日、彼がいない時に、その箱の中、さがしてみたでしょ。箱の中に、焼いた、赤いような肉人っているの。寮の中に、勝手に食べられる肉あるわけないから、なんの肉か、ぜんぜん見当つかないの。最初、これが人間の肉とは、思わなかったさ。彼に、これなんの肉か聞いたの。はじめは、いくら聞いても、言わなかったが、何度も聞いてるうちに、人間の肉であること言ったの。わたしびっくりして、その箱取り上げて、食べないように言ったの。だけど、また何日かすると、また人間の肉持ってきて、食べるの。わたしも、一回は叩いたさ。死んだ人の肉食べるのこと、人間のすることでないと言ってね。それに、死んだの人、もしか伝染病あるかもしれないでしょ。お前は、人間でないと怒ったの。あとで、考えたね。そのころのわたしたち、口の中に入れるものあったら、なんでも入れたい気持ね。そのこと、人間のやることじゃないけど、腹減ってるの状態、もう一年近くつづいとるわけでしょ。その苦しみの気持、わたしにもよくわかるの。腹減ってる時の苦しい状態、いま話しても、わかっ   てもらえないことね。


林 
わたし、人間の肉食べること見たことないが、耿大隊長の言うの、聞いたことあるの。耿大隊長が看護棟に来て、死んだ人を焼きに行く人の中で、缶詰のフタで、屍体の肉とって食べとる人いる、これはいかんと言っていた。李相子のほかにも、かなりの人、人間の肉食べたらしい。


李 
人間の肉食べられてることわかった時、この姿、こんどはわたしの姿になるかもしれないと思った。わたしも、我慢できなくなったら、人間の肉でも何でも、食べる気持になるだろうと思ったの。このこと、あの当時のわたしたちの本当の気持ね。
 


蛮行重ねる補導員

林 
花岡鉱山には、わたしたち中国人のほかに、朝鮮の人と、アメリカの捕虜も来ていること、知ってはいたの。アメリカの人とは、あまり近づかせないようにしていたけど、朝鮮の人とは、仕事のやり方わからないことあると、現場に来て、働きながら教えてくれることあったの。そんな時、昼一緒に食べるの見ると、朝鮮の人、わたしたちよりいいもの食べとるね。わたしたちのように、ひょろひょろにやせていないの。わたしたち、腹減らしているの見て、自分たちの食べ残したものとか、余分な食べ物とか、こっそり持ってきて、補導員の見てない時に、それをくれるの。そんないい人、朝鮮の人の中にも、何人もいたよ。その時の嬉しかったこと、いまでも忘れないよ。どこの国でも、いい人はいるよ。朝鮮の人たちの着てる服も、わたしたちのものより厚いし、いいもの着てるから、寒くないわけね。


李 
そのこと、アメリカ人の場合も同じね。わたしたちと顔合わせること、ほとんどないし、近づかせないようにしていたわけね。わたしたちの中山寮より上の方の、一キロばかり離れたところに寮あって、そこに入っているの知っていたよ。アメリカ人の寮にいる人、どれくらいかよく知らないが、400人くらいはいたね。アメリカの人の食べる物、わたしたちよりずっといいの。わたし、見たことあるの。アメリカ人の食べる物、トラックか馬車で途中まで運んでくるでしょ。それから上は、道路悪いから、わたしたちの寮のすぐ上におろ
して、それからアメリカの人が、上の寮に運んでいくの。おろして運ぶ時に、袋や俵、破れるのがあるでしょ。その破れた穴から、中に入っているもの、こぼれるの。アメリカの人、そのこぼれたの拾って、一生懸命にポケットに入れたり、口に入れるかしとるの、わたし見たの。あれは米でないけど、麦かなにかね。わたしたちより、ずっといいもの食べているさ。わたし、その場所に一度行って、10粒くらい拾って食べたことあるけど、本物の麦かなにかね。味でわかるよ。わたしたち、現場へ働きに行く途中、ときどき働きに出るアメリカ人と、道路ですれ違うことあるの。わたしたち言葉わからないし、話しかけるところ補導具に見つかると、梶棒とんでくるから、誰も話しかけないよ。お互いに顔見たまま、通りすぎるだけね。アメリカ人の場合も、わたしたち中国人より、からだやせていないでしょ。顔色もいいよ。わたしたち中国人だけね。ひょろひょろにやせているの。


 劉 
いちばん悪いの、補導員や鹿島組の人たちね。わたしたちに配給にきたもの、家に持っていくわけね。それでなくとも少ない食べ物、ますます少なくなるわけね。わたしたちと同じ中国人で、軍需長の任鳳岐も悪いの。この人、宿直して次の夕方に家に帰る補導員に、わたしたちにきた配給の中からとったもの、紙とか袋に包んで、渡しているの何回も見たよ。彼だけね、一緒に来た中国人の中で、太っているのは。それでなくとも少ない食べ物の中から、補導員がいいものだけ家に持っていくから、わたしたちの分、ますます少なくなるわけね。あの任鳳岐のろくでなしのために、何人の人、飢えて死んだかわからないよ。だから、彼だけは殺されたの。同胞を売ったから、補導員と同じに、皆の憎しみかっていたわけさ。蜂起のとき彼いちばん先に殺された。殺されるの理由、十分あったさ。同胞を売って、自分だけまるまると太ってること、許されないよ。


 林 
わたしたち、補導員のこと、鬼とか、豚とか、鬼豚とか呼んでいたけど、その鬼のような補導員の中で、二人だけ、わたしたちの味方する人いたよ。一人は越後谷義勇さんね。戦争終わってから、この越後谷さんを、わたしたち札幌に招待したことあるけど、越後谷さんに助けられた人多いね。


 李 
越後谷さんの家、花岡から離れた早口にあったでしょ。宿直にあたらない晩、早口の家に帰るね。次の朝、鉱山に働きに来る時、自分の家から、米とかアワみたいなもの、少し持ってくるの。補導員に見つからんように、服のポケットにかくして持ってくるから、少ないわけね。こんど、わたしたちの仕事の現場で、お湯わかしてるでしょ。その大きな湯わかしの中に、ポケットの米そっと入れて火にかけると、薄いおカユみたいなものできるでしょ。そのおカユみたいなお湯、わたしたちに飲ませてくれるの。ほかの補導員見ても、お湯飲んでるとしか見えないでしょ。越後谷さんが現場に来ない時は、晩に寮の中で、わざとお湯わかして、そのお湯の中に米とかアワとか入れて、わたしたちの寝てるところに持ってきてくれるの。服のポケットに、いろいろな食べ物入れてきて、ほかの補導員のいない時、そっと渡してくれたりしたの。わたしたち、その食べ物で、どんなに助かったかわからないさ。鬼みたいな寮の中の日本人にも、こんないい人もいたね。

 林 
正月の元旦のことね。あの時も、越後谷さん、早口から中山寮まで来たね。自分の家でつくったもち持ってくると、小さく切って、わたしたちに配ったの。寮の中の人多いし、少しより持ってこないから、食べた人少ないけど、その気持ね、嬉しいの。越後谷さんのような人、もっと花岡にいると、蜂起なんかなかったね。だから、蜂起の時も、越後谷さんのこと、殺さないように気を配った。越後谷さん宿直室に泊まっている晩に蜂起すると、暗いから、彼どこにいるかわからないでしょ。間違って殺すと、たいへんということになるからね。だから、彼の泊まっていない晩選んで、蜂起をやったの。補導員とか、鹿島組の日本人だったら、誰でもいいから殺せばいいということではなかったさ。悪いことしない人は、殺したくないという気持は、誰にでもあったの。


 劉 
越後谷さんね。この人、まだ少年でしょ。仕事も、事務所で帳面つけてるのこと多いの。直接に、中国人の働いてる現場に来ること、少ないからね。わたしたちのいた看護棟には、毎日のように来たけどね。この人、まだ若いから、軍隊教育みたいなもの、あまり身につけていなかったわけね。越後谷さんのほかに、補導員の中に、もう一人、いい人いたでしょ。


林 
いたいた、石川ね、石川忠助さんね。この石川さんも、わたしたちのこと、助けてくこと多いよ。越後谷さんみたいに、食べる物持ってくることもあったし、あまり殴ったりしなかったからね。補導員の中で二人だけね、わたしたちのこと考えてくれた人は。あとの人たち、みんな鬼豚だったさ。


 李 
この石川さんも、わたしたちの目の前で、二人の中国人を、殴って殺しだの知ってるょ。石持てないほどからだ弱っている人、梶棒で叩けばそのまま倒れてすぐに死ぬの、あたりまえのことね。それも、頭とか顔とか、どこでも叩くのだから、どうにもならないよ。それでも石川さん、福田とか清水にくらべたら、はるかにいい人ね。


 林 
梶棒で叩く時、めくらめっぽうに、どこでも好き勝手に叩くでしょ。梶棒歯にあたると、みんなバサッと落ちるね。梶棒で頭とか顔叩かれて、痛いでしょ。痛いから、頭とか顔に、手あげるでしょ。こんど、その手を叩くの。どの人も、一本か二本か、みんな指が折れとるよ。ひどいものさ。補導員の中でも、小畑と福田がいちばんひどかったさ。この清水わたしたちと同じ中国人でしょ。父か、母だったか、中国の人ね。それで、中国人に悪いのことするのだから、どうしようもないよ。背の低い小畑、この人いちばん悪い。何十人の人
殺したかわからないよ。寮長代理の伊勢、この人も根性の悪い人ね。ひどいことばかりしたよ。戦後になって、この伊勢と、一度会ったことあるよ。伊勢は大館の市役所の職員になって、立派な服着ていたけど、わたしのこと見ても、なんにも言えないの。下ばっかり見ているね。

 李 
食べ物悪くて、栄養失調が原因で死んだり、補導員に殺されたりした人、春になると100人越していたよ。わたしたちと一緒に花岡に着いた人、295人でしょ。そのうちの三分の一の人、死んでしまったわけね。からだ弱って、看護棟の中にいる人も、30人くらいだったさ。中山寮の中に、あまり人いなくなったよ。からっぽになってきたさ。わたしの小隊の中でも、十何人か死んでいたからね。ところが、冬終わって、雪消えると、川掘るの仕事がほんとにはじまったでしょ。働けるの人、半分くらいよりいないから、生き残った人たちの仕事、ますます多くなるの。雪の中でひと冬生きて、どの人もからだ弱ってきてるでしょ。それに仕事多くなってきたから、たいへんよ。

 劉 
寒いのから、暖かくなってくると、からだ疲れて、ダメになってくるのね。春になって、看護棟に来るの人、多くなってきたからね。新しい中国の人たち、中山寮に連れてこられたの、この時ね。

蜂起する中国人(繰り返される拷問)

 中国人たちが残忍非道な虐待に抗して蜂起したのは、1945年6月30日の深夜のことであるが、それまでに死亡した中国人は、次のとおりであった。

1944年8月8日の第一次連行者295人のうち121人。
1945年5月5日の第二次連行者587人のうち23人。
6月4日の第三次連行者98人のうち4人。

前後三回にわたって連行されてきた980人のうち、140人が死んでいるが、このほかに病気や殴られた怪我で身動きのできないのが約50人、一生不治の怪我をした人が生存者の四分の一くらいにおよぶといわれる状態であった。
    〈このままでいると、みんなが殺されてしまう〉

 中国人たちはせっぱつまった脅迫感におびやかされ、こう考えるようになっていた。敗戦 直後に、花岡鉱山に派遣されて中国人を診断した高橋実医師は、
「もはやかれらは、死か抵抗かのいずれかを選ぶよりほかに道はなくなった。それは、このひとびとがついに奴隷であることにがまんしきれなくなった日”であった」(「ひとつの事実」−『社会評論』 一九四六年七月号)と書いているが、まさにそのとおりであった。こうした状況の中で、蜂起は計画され、実行されたのであった。

 蜂起の計画は、耿大隊長をはじめ、中隊長や小隊長たちの間で、綿密な計画と周到な準備のもとにすすめられた。第二次や第三次連行者たちが洩らした消息、「日本の戦況は日一日と不利になり、空襲も激しさを加えているから、日本本土への上陸作戦も間近い」という情報が、蜂起の計画をいっそう早めた。

 蜂起の計画は、6月30日の晩飯のあとに、耿大隊長から全員に伝えられた。

 「李克金は20人を連れて、事務所の窓口を守る。劉玉卿は30人を連れて、四方の要地に伏兵をおく。これは、補導員の脱出と逃亡を防ぐのだ。李黒成は電話線の切断を担任する。張金亭は20人を連れて、室内に入って敵を殺す。それから張賛武は比較的強壮な同志80人を連れて、米国人俘虜収容所の日本兵を襲撃する。劉錫方は20人の同志を連れて、花岡警察局を襲撃する。看護班の任務は、外で全員が漱起したのを見すまして、直ちに病人を山の上に移すのである。そして最後に、羅士英の監督の下に放火し、中山寮全部を焼き払う。

手を下すのは、深夜、補導員たちの熟睡したのを見てやる。このために今晩は、全員が本当に寝てしまってはならない。仕事を分担された同志たちはすべて鍬をこっそり身辺に隠し敵を殺す武器にする」(劉智渠述・劉永姦・陳苓芳記『花岡事件−日本に俘虜となった一中国人の手記』中国人俘虜犠牲者善後委員会刊)だが、このように綿密な計画をたてたにもかかわらず、待っているのにしびれをきらした張金亭が、まだそれぞれの人が任務の部署につかないうちに、軍需室に入って任鳳岐を殺した。任の悲鳴があまりにも高かったので、補導員の逃亡を防ぐために配置されることになっていた人たちが、まだ寮の中にいるうちに、補導員の宿直室になだれ込んだ。猪股清と檜森昌治の二人は宿直室で殺され、あとは窓を破って逃亡した。そのうち、小畑惣之介と長崎辰蔵は追いつめられて殺されたが、あとの人たちは逃げていった。そして五分もたたないうちに、事件を知らせるサイレンが、深夜の鉱山町に鳴りわたったのである。

 このため、計画の中にあった米軍人俘虜の解放も、花岡警部派出所の攻撃も、中山寮の放火も中止となり、約800人の中国人たちは、われ先にと暗闇の中に逃亡していった。しかも、リーダーもなく、サイレンが高々と鳴り響く暗い夜中に、ひょろひょろにやせた人たちの逃走なだけに、決して早いものではなかった。朝が明けて気がつくと、かなり遠くまで逃げたつもりのものが、花岡鉱山が目の前に見える高さ250メートルほどの岩場の多い獅子ヶ森という山の中腹に、大部分の中国人たちがいたのである。しかも、病人や落伍者たちは、蜂起してから二時間もたたないうちに、寮からそれほど離れていない場所で捕えられた。獅子ヶ森にたてこもらなかった中国人は、山を越した隣の村とか、国道に添って青森県境に逃げるなど、ほとんどの人がバラバラになった。

 花岡鉱山での中国人の蜂起は、大きな衝動をあたえた。その鎮圧のために多くの警官や民間人が集められたが、『秋田県警察史』(下巻)はその状況を次のように記録している。

 「事件発生の7月1日から、平静になった7月6日まで、大館、花輪、扇田、鷹巣、米内沢、ニツ井、能代、青森県大鰐の各警察署で動員した延人員は、警察官494人、警防団7,544人、一般民間人13,654人、計21,692人で、このほか警察部をはじめ県内各署から延536人が取調べなどで動員された。また、秋田、青森各地区憲兵隊、弘前憲兵司令部から延222人、仙台俘虜収容所第七分所(花岡町所在)から警備隊員延25人、秋田地区警備隊から7人が出動した。花岡町における民間団体としては在郷軍人179人、鉱山青年学校延122人、警防団延128人、鉱山警備隊延52人、鉱山男子義勇隊延127人、同女子義勇延140人、鹿島組延724人、秋田士建121人、清水組延155人が出動した」警察の資料によると、延べ24,106人が鎮圧に動員されたのだが、このように厳重に警戒された中で、空腹と疲労で衰弱しきった中国人は次々と捕縛され、花岡鉱山の共楽館という劇場の広場に集められた。しかも、獅子ケ森などで抵抗した十数人の中国人は、日本刀とか竹ヤリなどで殺されたが、殺した人たちというのが警察とか憲兵ではなく、民間人である消防団員や青年団員などであった。

 また、獅子ケ森からさらに遠くへ逃げた人たちも、各町村の消防団員や青年団員などに捕えられて、花岡鉱山に引っぱられてきた。その当時、花岡鉱山に勤めていたある娘さんは、目撃したことをこう語っている。
                  
「小坂線の汽車の中で、二人ずつつながれてくるのをみた。フラフラしているのに、力いっぱい丸太でなぐられていた。本当にかわいそうなものだった。それでもその時、敵の国の人間だと教えられていたから、にくいと思ってみていた」(『現地調査報告書』)また、山奥に逃げ込んで、山狩りされて捕えられた人たちの場合も、悲惨なものであった。隣の早口村の山奥にある山田集落に逃げた中国人の模様を、消防団長は次のように語っている。

「この山田部落にも、五、六人の中国人が山を越えて逃げてきた。警察から、部落に放火するかもしれないから、消防団でつかまえてつれてきてほしいと連絡があり、二人つかまえて花岡の共楽館につれていったが、二人でしばられ、坐らされていたのを目撃した。その二、三日後、山田部落の保滝沢で三人つかまえたが、ヒローコンパイその極に達し、ロもきけない状態であった。中国戦線から復員した若者二人が中国語で話しかけたが、返事もできない状態で、それが気にくわぬと軍靴で顔をふむ、蹴る、殴るをした。この人たちが殴ったためかどうかは知らぬが、とにかく三人とも死んでしまった」(『現地調査報告書』)

 こうして共楽館前に集められた中国人たちは、二人ずつうしろ向きに縛ら
れ、砂利の上に坐らされた。真夏の太陽がジリジリと照りつける炎天下に、水も食べ物もあたえられず、三日三晩にわたって拷問と虐殺がつづけられた。共楽館前の広場での中国人を見た鉱山労働者は「全くフラフラにつかれはててから逃げだしたのだろうから、つかまえられて共楽館前につれてこられただけで、死んでいたものが多かったろう。全部二人ずつ後手にしばられて、坐らされていた。あの暑い時、三日三晩も坐らされ、たたかれたのだから、ただでさえたまったものではない。便所へゆくのも二人つながれたまま、死んだ相手をひきずりながら、みな用を足していた。出る小使はみな血であった。ところが、水ものまされずのどがかわききった彼等は、それに口をつけてのんでいるものもあった。本当に気の毒だ、かわいそうだと思っても、ピストルや剣をつきつけた将校がゴウ然とかまえて、憲兵や警官を指揮しているのを見ると、誰も口にだせるものではなかった。言ったらすぐにやられる。血気の多いものはぶんなぐったり、つついたりした人も沢山あった。あの当時は、あの様な気持にされてしまっていたのだ」と語っている。(『現地調査報告書』)

三日三晩にわたって、残虐非道な拷問を受けて殺された中国人は、113人であった。


敗戦後も重労働続く

 四日目に、花岡派出所の留置場に入れられている主謀者の13人を除いて、再び全員が中山寮に収容された。こんどは、棍棒を待った補導員にかわって、武装した警官が監視にあたるようになった。数日後からは、主食の饅頭に混っているものがいくらか少なくなったほかは、以前と変わらない重労働がつづけられるようになった。この後も、病気で倒れる人や、警官などに殴られて死ぬ人などが、あとをたたなかった。

 その当時、大館警察署長として鎮圧の先頭に立った三浦太一郎は、二七年後にそのことを回顧して、次のように語っている。

 「(蜂起して)つかまえた人たちは、共楽館へ連れていかれました。ところがね、アメーバ赤痢だとか、いろいろな病気をもった連中でしょ。だから、鉱山の慰安施設である共楽館の中に入れるわけにはいかないと鉱山側がしぶるんですな。考えればムリもないが、そのとき私は腹がたった。そうこうしているうちに、警防団が出てきたりして、警備隊とか応援にきた入らが、結局、共楽館に集められたんです。あとで広場に放置したということになってしまったが、二日目からは、食糧もちゃんと与えましたよ。共楽館で拷問が行われたといいますが、そんなことはない。あえいでいる中国人の顔へ水をふきかけてやり、助けてやったりしたものです。横浜のB級裁判では、そんな証言は取り上げられなかった。『敗戦国民が何をいうのか』のひとことで終わりですよ」
(「日本で中国人は何をされたか」−『潮』一九七二年五月号)


 三浦が言うように、中国人にたいして拷問も虐待もなく、食糧もちゃんとあたえられていたとすれば、共楽館前だけで121人の死亡者が出るはずがない、と考えるのが普通であろう。一方、花岡派出所の留置場に入れられた13人のリーダーたちは、一週間にわたって拷問を受けたのちに、秋田市の秋田刑務所に移されたが、その状況を『秋田県警察史』(下巻)では、こう記している。

 「事件発生以来逃亡者の捜査、逮捕に主力を傾注した結果、7月7日にいたり752人を逮捕、謀議参加または殺人実行行為者としてつぎ13人を国防保安第十六条第二項の戦時騒擾殺人罪で送局した。

(筆者注・カッコ内は年齢)
 首魁=耿淳(30)謀議参与=李克金(28)孫道敦(44)張金亭(32)趙書林(36)劉錫財(32)劉玉郡(30)劉玉林(37)殺人=宮耀光(22)李広衛(27)張賛武(23)楷万斌(27)李秀深(23)」

 だが、8月15日に日本が無条件降伏をした二日後の8月17日に、内務省主管防諜委員会から敗戦にともなう「華人労務者ノ取扱」について、関係者に通達が出された。その内容は、中国人の労務を中止し、賃金を払い、衣食を支給し、留置者は即時釈放し、死亡者の遺骨を整理し、送還の準備をせよ。というものであった。

 しかし、こうした通達がとどいても、鹿島組花岡出張所では中国人たちを解放するどころか、敗戦前とまったく同じ状態のままで、強制労働をつづけさせた。鹿島組傘下の死亡者を見ると、八月は49入、9月は68人、10月は51人が死亡している。

 その後、9月2日に日本は連合軍の降伏文書に署名し、長くて暗い戦争は正式に終わった。

日本軍が捕虜にした連合国軍人や抑留者にたいしても、

 一、捕虜と被抑留者を虐待したものの処罰
 二、捕虜と被抑留者にたいする解放、保護、送還
 三、捕虜と被抑留者にかんする報告

の三点をくり入れた「降伏文書」や「連合国最高司令官総司令部一般命令第一号」などが発令され、中国人の強制連行と労役も終わりをつげたにもかかわらず、鹿島組花岡出張所の中国人たちには、戦争状態がつづいていたのだった。

 花岡の中国入たちが日本の敗戦を知ったのは、日本がポツダム宣言を受諾してから1ヵ月半もすぎた9月中旬のことである。ある日、一台の飛行機が花岡の上空に飛んでくると、花岡にある仙台俘虜収容所第七分所のアメリカとオーストラリア人たちに、物資を投下した。

 はじめて日本の敗戦を知った中国人たちは、すぐに仕事をやめて中山寮に帰り、今後の対処の仕方などを検討した。しかし、そこに入ってきた鹿島組の係員は、「仕事に出ないと飯を食べさせない」と威嚇するし、三浦大館署長も寮に入ってくると、「指示を聞かない人は容赦をしない」とおどした。

 中国人たちが敗戦の内容を知ったのは、その翌日に、花岡派出所に留置されていた通訳の于傑臣が釈放されて中山寮にもどってからだった。日本は無条件降伏をしたことや、耿隊長たち一三人は秋田刑務所で無事であることも知らされた。耿隊長たちはすでに死刑にされたと、中国人には知らされていたからだった。

 このことは、秋田刑務所に収容されている13人の場合も同じであった。ポツダム宣言受諾後も日本の敗戦は知らされず、戦争状態がそのままつづいていた。しかし、1945年9月15日に、秋田に進駐する第八先遣隊として、ページ少佐以下の将校たちが山形県の新庄からジープで秋田入りすることが決まったが、その四日前の9月11日に、秋田地方裁判所では、起訴していた13大の中国人に、大急ぎで判決をいいわたしたのである。

 叛乱罪を主張した憲兵隊が解散され、特高もなくなってしまったにもかかわらず、「『戦時』の騒擾殺人罪を、『戦後』に裁判した」(石飛仁『中国人強制連行の記録』太平出版社)のであった。しかも、占領軍が進駐してくることを知って、その直前にあわてたように裁判をしたのである。形式的にしろ、中国人たちの弁護にあたった秋田市弁護士会長は、この時の「法廷は国法の尊厳に輝いていた。わずかに法灯を守りつづけた人たちが、世評をよそに三ヵ月の苦労をつづけて、今日の判決に導いた誠意に慰められた」と、判決後に語ったという。
(赤津益造『花岡暴動』三省堂新書)


 
虫ケラのように殴殺

 林 
新しい中国の人たち来だの、あれは春になってからのことだったね。はじめに600人ばかり来て、それからひと月ばかり遅れて、また100人ばかり来たさ。その人たちみんな入ったから、こんど、中山寮の中狭くなったね。一人分のベッドに、二人も三人も寝るようになったさ。新しく来た人たち、わたしたちみたいにひょろひょろやせてないし、元気な人多いでしょ。それに、中山寮のいろいろなこと、知らない人多いからね。新しい人たち来た時、何人もの人たち、補導員に殴り殺されたよ。見せしめね。


 李 
わたしの小隊に、薛同道という人いたの。この人のからだ大きいから、とくに腹減るわけね。その日も、腹減ってどうしようもないから、仕事の途中に、裏山に登って、青くのびた草食べていたわけね。仕事終わって、寮に帰る点呼とったら、わたしの小隊でひとり足りないわけね。補導員が小畑だから、とくに悪いよ。小畑は、「逃げたに違いない。みんなで探せ」と、山とか田んぼとか探した。そのとき、裏山で草食べてる薛さん見つかったさ。縛って寮の前に連れてくると、新しく花岡に来た人たち集めて、みんな見ている前で、梶棒で叩いたね。頭でも、首でも、背中でも、どんなとこでも、好き勝手に叩くさ。倒れると、こんど踏むわけね。薛さんのからだ、血流れて、腫れてくるの。気失った薛さん、病室に運び込まれて、ひいひいと苦しそうに呻いて、三日後に死んでいったさ。わたし、薛さん死んだ晩、病室から寮に帰ってくると、耿大隊長に言ったね。「わたしたち、このままでは生きられない。生きる方法ないか」と。耿大隊長、黙って首を振るだけのことね。


 林 
からだ弱って、看護棟に運ばれて来た人に、趙老人という人いた。花岡に来た年寄の中で、いちばん長く生きたの、この趙老人ね。この人に、趙青児という息子いて、わたしと同じ看護班にいたの。親子で一緒に、日本軍につかまったわけね。趙老人が息引きとった時、趙青児そばにいて、大声でおんおん泣きだしたさ。そこに、小畑人ってきて、泣いている趙青児のこと足で蹴って、「死ぬやつは死なしておけ。泣くやつあるか」と叫ぶわけね。自分の親死んで、悲しくない人、どこにいるね。日本人の補導員、畜生よりもひどい人ばかりね。
人間の心、ひとかけらも持っていないよ。

 劉 
誰だったか、中国に帰るのことできた人でね、空腹の日つづくから、頭おかしくなったわけね。いつだったか、お昼の時、自分の分の饅頭食べてから、ほかの現場に、食べる物下さいと行ったわけね。そのこと補導員に見つかって、半殺しになったの。叩かれたり、煙草の火つけられたり、レール真っ赤に焼いて、足の間に挾まれたりして、お尻の肉、焼けとけちやったよ。あの人、いまでもお尻の肉ないと思うよ。看護棟に運ばれてきたけど、薬もないから、たいへんさ。傷ひどくなって、もう死ぬ状態になったさ。その時、日本の敗戦の
ことわかって、アメリカのペニシリン手に入ったの。それに、食べ物もよくなったでしょ。あの人、めずらしく助かったわけね。敗戦わかるの、もう一週間おくれていたら、いのちなかったね。この人の助かった理由、第三回目に来た人で、まだあまりからだ弱っていなかったの。わたしたちと同じに来た人だったら、もう助からなかったね。

 李 
新しい中国の人たち来てまもなく、仕事する時間、朝と晩で二時間ほど長くなったでしょ。それに、食べる物悪いから、腹減ってくるの当然さ。腹減って、草食べてるの見つかると、叩いて殺したり、片輪になるほど叩いて怪我させるのだから、ひどいよ。もっとひどいこと、同じ中国人に梶棒で叩かせることね。道路に捨ててあるもの拾って食べたとか、歩きながら道端の草引っぱって食べたとか、理由にならないようなことで、縛って寮に連れてくると、わたしたちを集めるの。一人ひとりに梶棒持たせて、縛ってある人のこと、叩かせるわけね。はじめのうちはいくら言われても、誰だって殴ったりしないでしょ。すると、補導員たち、命令きかないといって、叩かない人たちのこと、殴るの。どんなことされるかわからないし、殴られると痛いから、叩くようになるの。相手が痛くないように、叩こうとするから、力人らないでしょ。そのこと悪いといって、また叩くの。何人かで一人の人を叩いて、気が遠くなって倒れるでしょ。そのこと見ると、補導員たち喜ぶわけね。こんなひどいことないよ。人間のやることじゃないよ。


 林 
見せしめということもあったけど、中国人にそんなことやらせて、喜んでるわけね。叩かれる人もたいへんだが、叩く人もたいへんなわけね。

 李 
一日に一人か二人か、補導員に叩かれて死ぬ人あるよ。怪我して動けない人も、どんどん増えていくね。補導員たち、悪いことした人を叩き倒すと、こんど、わたしたち中隊長や小隊長集めて、「お前たち、教育するの足りない。だから、草食べに歩く。人の捨てたもの、拾って食べるのは、人間のクズだ」と、わたしたちのこと叩くの。死ぬほどは叩かないけど、毎日だからたいへんさ。自分の生きるの、あとIヵ月あるか、ニカ月あるか、そのたびに考えたよ。叩かれた人、すぐに死んでいくから、そのこと、いつ自分の身の上にふりかかってくるかわからないさ。


 林 
叩かれると、すぐ死ぬ人多いよ。気絶して、看護棟に運ばれてくるでしょ。その晩のうちに、血吐いて死ぬ人ほとんどね。どんなにひどい殴られ方したか、これだけでもわかるね。


 劉 
棍棒で殴ったり、殴り殺したりするのこと、寮の中でもあったさ。栄養のある補導員たち、力いっぱい、思いっきり殴るからね。いまくらいの元気あれば、棒で少し叩かれても、死ぬことないよ。栄養失調になって、ようやく息しているの状態で、歩いても空腹でめまいするからね。叩かれて倒れても、わざと倒れたと思うとるから、倒れた人のこと、また叩くから死ぬわけね。だから、1945年の三月ごろになると、一日に五、六人も倒れることあって、蜂起する時は、みんな倒れてしまうの状態だったからね。蜂起したの原因、これ一つね。


 李 
毎日のように誰か殺される日つづいていたとき、劉沢玉も、夜中に食べる物さがしに出たの、見つかったの。寮の前とかうしろに、ちょろちょろの水流れる小さい川、たくさんあるの。その小さい川の中に、小さなカニとか魚がたくさんいるからね。補導員が寝た夜中に、川に行って、それ取って食べるわけね。たくさんの人、夜中に寮から出て、それ取って食べたけど、運悪く、劉さん見つかったわけね。ひと晩、縛られたまま、寮のそとになげられていた。次の朝、わたしたち小隊以上の人、みんな事務所に集められたさ。伊勢が劉さんの罪のこと説明してから、わたしたちに、劉さんのこと殴らせようとしたの。だけど、わたしたち前に、同胞の人殴って、気絶させたことあったでしょ。その時、どんなことあっても、わたしたち殴り殺されても、同胞を殴ることはしまいと、相談して決めていたの。こんど、わたしたちに叩くように、脅迫したり、殴ったりしたけど、誰も叩く人いないでしょ。そのこと悪いといって、劉さんのこと裸にして、六人も七人もかかって、好き勝手に棍棒で叩いたり、靴はいた足で蹴ったり、踏んだりするの。劉さん痛いから、大声あげて、泣きながら机の下に逃げていくでしょ。机の下から引っぱってきて、またどんどん叩くの。気絶するでしょ。バケツに水汲んできて、倒れとる劉さんにかけるで史よ。気がつくでしょ。また、「このヤロウー」と叫んで叩くの。事務所の中、劉さんの大便でたのとか、晩に食べたカニの吐いたのとか、いっぱいちらばったね。もう弱って、立って逃げられないね。それでもまだ叩くから、こんど、転んで逃げるでしょ。からだに大便とか、吐いたのとかつくの。それ、人間のかっこうじゃないね。こんど、清水がね、鉱山で使うレールあるでしょ。そのレール、炊事場のかまどの火で、赤く焼いたの持ってきたの。あの時のこと、いまでもはっきりと覚えとるよ。息もつけないほどになって、倒れとる劉さんの股に、その赤く焼けたレール差し込んだの。劉さん、悲鳴あげて、その赤く焼けたレール、手でよけようとするでしょ。手が黒い煙だして、焼けていくの。焼ける音もするさ。こんど、補導員が何人も寄って、劉さんの手とか足押さえて、股にそのレールあてたの。部屋の中、人の焼けた煙で、いっぱいになったさ。劉さん、こうして殺されたの。わたしたち、そのこと全部見ていた。手助けすると、自分も殺されるかわからないから、誰も黙っていたけど、そのやり方、あまりにもひどいよ。


 林 
苦しい殺され方した劉さんのこと思うと、いまでも涙出るよ。あの朝早く、事務所に来いと、看護棟にいたわたしたちに連絡あったでしょ。わたしと誰か三人か四人か、事務所に行ったでしょ。劉さんの屍体、早く持って行けと叫ばれて、看護棟に運んだけど、もうその時死んでいたよ。めちゃくちゃに殴られて、顔の形もちゃんとわからないくらいにね、殴られて、顔の形、変わっているの。殴られたところとか、レールで焼かれた股とか、血が出たり、ベトベトしているの。もうこれ、人間の姿じゃないよ。病室に入れたでしょ。あまりのひどい仕打ちに、病気とか怪我の人たち、みんな声出して泣いたさ。そこに清水の鬼豚人ってきて、「泣いているの誰だ。早く埋めてしまえ」と、どなって歩くの。その朝のうちに、穴掘って埋めたけど、劉さんの殺され方、いちばんひどいね。

蜂起を計画

 李 
わたしの寝ている部屋、大隊長のすぐ隣なの。劉さんが殺された夜中に、わたし、大隊長のところに、話にいったの。「このままではわたしたち、いつ殺されるかわからない。早く逃げよう」と言ったの。大隊長、このとき覚悟決めたね。これ、蜂起のはじまりなの。わたしたちの蜂起、戦争敗けるの時までのびていたら、もっと多くの人たち殺されていたね。わたしたち、どうせ死ぬか、殺されるかするの、わかっていたさ。朝くると早く起こされ、仕事に出るでしょ。夜は暗くなってから、寮に帰ってくるでしょ。食べ物ぜんぜん悪いから、
立って歩くのもようやくの状態よ。それに、毎日のように、誰か殺されてるでしょ。生きていく気持、ぜんぜんないよ。早く死にたい、死ねばいまより楽になる、そう考えている人ほとんどね。どうせ、遅いか早いか、わたしたち殺される。このまま殺されるのだったら、わたしたちの同胞殺したり、わたしたちを苦しめた奴らを、この手で殺してやれというのが、当時のわたしたちの気持ね。このままにしていると、わたしたちみんな殺されるという気持、どの人にもあったさ。蜂起して、失敗しても、もともとさ。どうせ、一ヵ月か二ヵ月すれば、自分にも殺されるの当たるの、確実でしょ。生き残れる道、一つもないからね。日本まもなく敗けるのわかっていたら、もっと我慢して待っていたよ。中山寮に新聞もラジオも、なんにもないから、戦争どうなっているか、ぜんぜんわからないでしょ。新しく中国から来た人たちの話聞くと、日本の戦争、かなり苦しくなってることわかったけど、一ヵ月半の後に敗戦になるほど敗けてきていること、わたしたちぜんぜんわからないでしよ。死んでもともと、生きるには蜂起するよりほかになかったさ。


 劉 
わたしは看護班にいたから、その蜂起のこと、相談されたことなかったけど、一度でいいから、早く中国に帰りたい気持、誰にもあったね。病室で死んでいく人たちのほとんど、最後に、中国に帰りたいとか、母とか、妻、子どもの名前よんで、息引きとっていったからね。


 李 
いちばん最初に、蜂起の計画を相談したの、大隊長の耿譚でしよ、それに趙樹林、李克金とわたしの四人だったの。みんな劉沢玉の殺されるの見た、中隊長と小隊長たちね。相談するとしても、たいへんよ。昼は、とてもできる相談じやないでしょ。話してるの見つかるだけで、殴られるからね。劉さんの殺された日の晩、仕事から帰って、饅頭一つの夕食終わって寝たでしょ。夜中に、何回か補導員がまわってくるね。そのまわってくるの終わって、次にまわってくるまで、四人で大隊長のところに集まったの。そこで、蜂起すること決めたの。この計画、補導員たちに洩れるとたいへんでしょ。はじめから、多くの人に、話拡げないようにしたの。補導員まわってくるから、あまり長い時間、相談もできないでしょ。ちょっと集まって、相談するでしょ。こんど、便所に立ったふりして、また自分のところにもどって寝るでしょ。そんなこと、ひと晩に何回もやって、だんだんと相談固めていったの。計画かなり固まってから、口の固い人にだけ、またこの計画の話拡げていったの。蜂起の計画に参加したの、8入だったよ。あとの人たち、このことぜんぜん知らないさ。蜂起する晩になってから、全員に知らせたわけね。


 林 
わたしたちに知らされたの、蜂起の晩の9時ころだったからね。はじめはビックリしたけど、みんな、すぐその気になったからね。

 李 
計画の中で、わたしたちどうするか、詳しく決めて、その担当も決めたの。近くに、朝鮮の人たちの入ってる、東亜寮というのあったの。その寮のこと、知っている人多いよ。アメリカ兵のいるところは、知らない人多いね。アメリカ兵いることわかっていたし、だいたいの方角も見当つくが、場所は知らない。最初の計画から、わたしたちだけでなく、東亜寮の朝鮮人やアメリカ兵も解放して、一緒に立ちあがるのこと決めていたの。わたし、中国でゲリラの経験あるでしょ。からだ強くて、ゲリラの経験あるの70入ばかり連れて、東亜寮とかアメリカ兵のいる寮の日本人襲って、武器とりあげて、解放した人たち一緒に連れていく計画だったの。確か劉錫さんだったか、彼は20人くらいの同志連れて、花岡の警察派出所襲って、武器奪うことにしていたの。武器がいくらかあるの、知っていたからね。わたしたちの手に、武器ぜんぜんないでしょ。蜂起しても、武器ないと、なんにもできないでしょ。わたしたちだけで、800入くらいでしょ。それに、朝鮮人が300人くらい、これにアメリカ兵たち入れると、1,300人くらいになると考えたの。これに武器あれば、たいへん力になるという計画だったの。夜中に蜂起して、山の中に逃げるわけね。食糧も倉庫から持っていくから、当分食べられるでしょ。皆で山の中を逃げて、海に出るの。海の港か浜に、ボートか船あったら、それ盗んで乗り、中国に帰りたいと考えたの。それだけわたしたち、中国に帰りたかったの。わたしたち、かなり詳しく計画したよ。宿直室に寝てる補導員を襲う人たち、窓から逃げる人を待ち伏せする人たち、電話の線を切る人など、みんな決めたの。

 劉 
わたしたち看護人に伝えられた仕事、全員が蜂起したの見て、山に病人を運ぶことだったさ。


李 
病気とか怪我の人たち、たくさんいたからね。計画どおりみんなやってから、中山寮に火つけて、焼くことにしていたの。計画できて、実行することになったでしょ。わたしと張金亭さんの二人、その日、仮病使って休んだの。腹痛くて、仕事に出られないといってね。昼の間に、寮の中とか、事務所の様子など、二人で詳しくさぐったの。そしたら、補導員の中でもいちばん悪いの小畑と福田が、その晩は家に帰ることになっていた。それに、わたしたちによくしてくれる越後谷さん、この晩は泊まりに当たっているのわかったの。いい人は、殺されないでしょ。夜中に襲うと、どの人かわからないから、殺してしまうかもしれないからね。計画に参加した人たち、飯場に帰ってきてから、そのこと相談したの。やはり、そのことダメと決まったの。こんど、蜂起のする日、6月30日の深夜に延期したの。誰の気持も同じね。わたしたちによくしてくれた人、殺されないからね。6月30日の日も、わたし仮病使って休んだけど、その日、誰か補導員の一人来て、「お前、仮病使っている」と、寝ている上から、どんどん叩かれたけど、吐くの真似して、寝ていたの。30日の晩、越後谷さんともう一人の石川さんの二人、寮に泊まらないことわかったの。あとの補導員とか通訳たち、みんな寮に泊まることわかったでしょ。この日よりないと、この晩に蜂起すること決めたの。だけど、早く知らせると、どこから洩れるかわからないでしょ。蜂起する直前まで、秘密にしておいたの、いつものように小さい饅頭食べて、みんなでシラミ取りしたりして、寝る時になってから、中隊長や小隊長が自分の部下に、蜂起のこと伝えたの。その時の時間、
もう9時すぎていたと思うよ。

早すぎた蜂起

李 
蜂起のことみんなに伝えてからまもなく、小畑が見回りに来たの。戸開けて入ってくると、大きな足音たてて、部屋のなか回って、出て行ったね。わたし、身動きもしないで黙っていたけど、からだ汗ビッショリさ。蜂起の計画のこと、バレるのじやないか、誰か小畑の前にとび出して、蜂起のこと知らせるのではないかと思って、ピクピクしたよ。それから11時までの時間の長いこと、たいへんよ。からだ疲れてるけど、眼冴えているでしょ。眠ること、とてもできないさ。あまり部屋の外に出ると、あやしまれるから、ダメでしょ。寝ながら、いろいろのこと考えたさ。もう死ぬかもしれないからね。でも、わたしたち中国人に ひどいことばかりした補導員たちに、まもなく復讐するのことできるから、死んでも残念だという気持、あまりなかったね。ただ、一度中国に帰りたいの気持、これ、強かったさ。


林 
わたしのいる看護棟の病人とか、わたしたち看護班が蜂起のこと知ったの、看護長の劉玉林が知らせてくれてからのことね。病気の人たち、劉さんの話、黙って聞いていたね。補導員の奴らに、もっともひどい仕打ちされたの、病人たちだからね。それなのに、自分の手で仕返しのできないこと、残念なわけね。みんなの気持、蜂起うまくいってくれと、祈るようだったさ。蜂起はじまると、みんなで助けあって、山に逃げていくこと、わたしたちにきた命令ね。


劉 
蜂起の計画知らされてから、怪我の人、たいへんだったさ。傷口とか折れた手足とか、ちゃんとしておかないとダメでしょ。だけど、包帯もぜんぜんないでしょ。こんど、わずかに残っている着物さいて、包帯つくったの。だけど、準備してるのこと、補導員に見つかると、たいへんだからね。かくれて、少しずつやったの。

李 
夜中の11時ころ、わたしたちこっそり起きると、それぞれの部署につく人たち、起こして回ったの。どの人もみんな、目だけギョロギョロさせて、目覚ましたまま寝ていたね。自分の担当するの場所、みんな決まっていたけど、もう一度、確認して歩いたの。わたしは蜂起がはじまる前に、中国にいた時にゲリラの経験のある人70人ばかり連れて、東亜寮の近くまで行って、蜂起の起こるの待っている予定だったの。蜂起はじまると、すぐに日本人の監督襲って、朝鮮の人、解放することになっていたでしょ。ところが、わたしたち70人ばかり集まって、東亜寮に向かおうとしていた時、寮の中で、ギャアという大きな男の悲鳴聞こえてきたの。わたし、ビックリして寮の中に入ったでしょ。もう、任鳳岐が殺されているの。張金亭が早まって、事務所とか宿直室の窓口とか、その他の部署にみんながつかないうちに、任の奴を殺してしまったわけね。いま考えると、張の気持もわかるさ。蜂起の時間がくるの、いまかいまかと、居ても立ってもいられない気持ね。それで、我慢できなくて、手を出してしまったわけね。だけど、計画より早く、任が殺されたでしょ。その悲鳴、あまりにも大きかったわけでしょ。寝ている補導員たちに聞こえて、逃げられるとたいへんでしょ。寮の中暗いのに、計画よりも蜂起早まったものだから、みんなあわてたわけね。手にスコップとかツルハシとか持って、勝手に宿直室にとび込んでいったの。だけど、逃げるのに備えて、宿直室の窓の外を囲むことになっていた人たち、まだ部署についていなかったわけね。しかも、宿直室の中、暗いでしょ。誰がどこに寝ているか、ぜんぜんわからないからね。あとでわかったけど、このとき、宿直室の中で殺しだの、檜森と猪股の二人だけね。あとの人たち、みんな窓から逃げたの。それを追いかけて殺したの、長崎と小畑だけさ。あとの補導員たちに、逃げられてしまったわけね。生き残った福田、これいちばん悪いね。清水も助かったさ。いちばん悪いのことした補導員たち、殺せなかったわけね。計画より早く、やってしまったからさ。こんど、それからがたいへんだったさ。逃げた補導員たち、すぐ会社とか、警察に走っていくでしょ。それから大騒ぎになること、わかっていたからね。計画より早くやったために、アメリカ兵とか朝鮮人の解放もダメ、警察を攻撃することもできな
かったし、寮に火つけることも、やれなかったさ。食べ物も、つくる時間なかったからね。最初の計画ちょっと狂っただけで、みんなダメになってしまったの。


林 
わたしたち、中山寮から離れた看護棟にいたでしょ。蜂起のあるの、いまか、いまかと待っていたさ。待っている時間、長いわけね。我慢して、心を落ち着けて、待っていたさ。

夜中になって、寮の方で人の叫ぶ声したでしょ。それからたくさんの人が叫ぶ声とか、ガラスの割れる音とか、板が破れる音とかするね。劉さん、起きあがると、ランプに火つけたでしょ。みんな、起きあがったね。計画だと、補導員たち殺してから、食べ物たくさんつくり、それ食べてから持っていくことだったから、あまりあわてなかったの。時間があるからね。

だけど計画失敗したのこと、知らせてきたでしょ。食べ物つくる時間ない、すぐ山に逃げろと、知らせがきたでしょ。はじめの計画だと、50人ばかりいた病人たち、みんなで手分けして、一緒に連れて行くことだったけど、このことできなくなったわけでしよ。早く逃げないと、警察やってくるというので、起きあがれる人たち、我慢して起きて、病室から出たの。

起きあがって歩けない人たち、入口まで這い出してきたね。這うこともできない人たち、「待ってくれ」「ぼくも連れていってくれ」と、病室の中で叫んでるの。わたしたち何人かの看護人、歩けない人たち助けたり、背負ったりして病室の外に出たけど、重病の人多いでしょ。とても、みんな連れていけないの。寮の人たち、バラバラになって逃げ出していくの、暗い中で見えるでしょ。わたしたちも、気がせくわけね。早く逃げていきたい気持、誰でも同じさ。

計画だと、看護棟にも火つけて、焼くつもりだったの。だけど、動けない重病人たち、病室の中に残っているから、焼くのことできないでしょ。そのままにして、逃げたの。看護棟のそばに、水の流れる小さな川あるさ。その川が流れてくる山に、逃げ出していったの。外は暗いでしょ。どこに逃げていけばいいのか、ぜんぜんわからないからね。

李 
計画失敗したものだから、逃げた補導員たち、すぐ鉱山町に走ったでしょ。寮の中の人たち、まだ半分も逃げないうちに、下の方で警報のサイレン鳴ったり、半鐘鳴ったりするの、聞こえてくるでしょ。鉱山町の中で、電灯とかたいまつの明り、激しく動くの見えるの。

そんなこと見たり、聞いたりすると、早く逃げたいという気持、強くなってくるね。不安も出てくるでしょ。みんな、どこに逃げていくというあてもなく、走り出してしまうわけね。

それに、武器もぜんぜんないでしょ。何人かの人、スコップとかツルハシ持って逃げたけど、それもわずかな人たちね。重いから、走る途中で捨てた人、ほとんどさ。食べる物持った人も、何人かいたけど、それもわずかね。ほとんどの人たち、手ぶらで逃げていったの。暗いから、どこに逃げていけばいいのか、わからないわけね。中山寮からかなり離れたところに、高い山あるの、前から見て知っていたでしょ。暗い中で、その高い山だけ、ちゃんと見えるわけね。その山のかげに逃げれば、遠くまで逃げられると考えていたから、その山に向かって逃げたの。何人か先になって走ると、その後についてみんな走っていくわけね。田んぼとか鉄道とか越えて逃げたその山、岩とか本とかいっぱいあって、ひどいさ。暗いから先見えないし、あわてて逃げるから、岩にぶつかったり、木にぶつかったりして、手からも足からも、血が出るわけね。それでも、ぜんぜん痛いと思わないの。早く遠くへ逃げていきたい気持で、どの人も夢中だからね。この山の名前、後になって聞いたけど、獅子ヶ森というところね。これ覚えたの、ずっと後のことさ。

林 
わたしたち病人と一緒だから、そんなに走れないでしょ。あっちの谷のぼる、こっちの山のぼるでしょ。坂ころがり落ちたり、本にぶつかって倒れる人多いの。だから、長い時間歩くと、みんなバラバラになってしまったさ。病室からいくらか外に出て、あとはそのままという重病の人も、わりに多かったよ。


李 
いま考えると、もっといい逃げ方あったね。いまになると、そのことよくわかるけど、あの時はべつね。獅子ヶ森という山、わたしたち逃げていく目標でなかったけど、どこに逃げていけばいいのかわからないから、見える高い山を目標にしたわけね。はじめに計画した時、どの方角に逃げていくか、ちゃんと決めていたの。だけど、はじめの計画狂ったでしょ。先になって、みんなを引っぱっていく人、いなくなってしまったさ。みんなバラバラに逃げたから、どうにもならないよ。それでも、かなり遠くまで逃げた考えでいたけど、朝が来て、あたり見えてくると、わたしたちたくさんの人がのぼっている山のすぐ下に、家があるわけね。花岡鉱山も、ちょっと遠くの目の前に見えるさ。ぜんぜん遠くに逃げていないわけね。それに、夜明けると、もう警察とか、消防団の人とか、いっぱいの人たち、わたしたちのいる山を取り囲むようにしているのが見えるの。夜、明けると、わたしたちのからだ、もうふらふらね。骨ばかりにやせて、食べ物少ない毎日だったでしょ。そのからだで、ひと晩寝ないで、歩きつづけたわけでしょ。もう、腹の中になんにも入っていないさ。空腹になっても、山の上だから、飲む水もないの。これだから、戦いになっても、どうにもならないよ。山に来た時、もう膝ガクガクして、動けなかったからね。食べ物あったら、もっと遠くへ逃げられたけど、そんなものないから、とても無理ね。戦ってすぐに負けるの、わかっていたの。

拷問の明け暮れ

林 
夜明けても、わたしたち病人と一緒だから、ぜんぜん遠くへ逃げられないわけね。わたしも、看護棟からどれくらい逃げたかな。いくらも離れていなかったさ。朝が明けたころ、警察の人が来て、わたしたち看護班を捕えたね。疲れてるから、戦うのことぜんぜんできないよ。わたしたち捕えられると、二人がひと組に縛られて、トラックに乗せられたさ。病人は逃げることできないから、そのままね。病人たち、山からまた病室に運ばれたの、いつのことかわからないよ。わたしたち乗せたトラック、花岡派出所の近くに、大きな鉱山の劇場あるでしょ。その劇場の前、砂利敷いた広場ね。その広場に降ろされたの。縛られたまま砂利の上に、正座させられたから、足とか嬬痛いよ。この広場に連れてこられたの、わたしとか劉さん、いちばん最初ね。坐らされると、手拭で目かくしされたでしょ。目かくししたの、わたしたちの首、斬り落とすためかな思ったね。その方が、叩き殺されたり、食べ物なくて餓え死にさせられるより、ずっと楽だと思ったさ。こんな苦しいのことイヤだ、早く死にたいと思っていたから、死ぬのこわくなかったさ。


 李 
岩山に集まったの、何人いたかな。少なく見ても、300人はいただろうかね。何力所かに固まっていたけど、どの人も、動けないほど疲れているね。食べる物ぜんぜんないでしょ。太陽高くなってくると、暑いでしょ。みんな、動くこともできないさ。わたしたちのいる岩の山囲んで、警察とか消防団とかの人たち、いっぱいいるの見えるでしょ。人乗せたトラック、どんどん走ってくるでしょ。どうなるのか、だんだん心配になってくるでしょ。朝だいぶ進んでから、警察とか消防団の人たち、いっせいにわたしたちのいる山に登ってき
たね。みんな、鉄砲とか、日本刀とか、竹ヤリとか持っているでしょ。わたしたちの中で、武器持っている人、誰もいないさ。こっちが負けるのこと、確実にわかるからね。それでもわたしたち、鉄砲とか日本刀持って、山登ってくる人たちに、石投げたり、棒きれふったりして戦ったさ。でも、かなわないわけね。鉄砲でうたれたり、日本刀で斬られたりで、何人もの人たち、山の上で殺されたね。こんど、捕えられるでしょ。二人が一組に縄で縛られて、山から下って、花岡の劇場の前まで歩かされたの。トラックに乗せられた人もいたけど、トラックの数少ないから、歩かされた人多いよ。わたしたちのこと見た農家の人とか、鉱山の人たち、石投げてきたり、ツバ吐いてよこしたりするの。なにか大声で言ってるけど、その意味わからないよ。だけど、蜂起のこと、怒っていることだけは確かね。劇場の前に着いたでしょ。ふらふらで、倒れた人もいたよ。こんど、二人一組に、背中合わせに縛られて、砂利の上に坐らされたの。ちょうど、真夏でしょ。食べ物もくれないし、水もないでしょ。目の前ぼんやりして、なんにも見えないほど、ふらふらになったの。でも、二人が一緒に縛られとるでしょ。一人ふらふらすると、二人とも倒れてしまうの。すると、警官とか憲兵が走ってくると、そのこと悪いといって、棍棒で頭とか背中を、パンパンと叩ぐの。二人一緒だから、坐らされても疲れるわけね。それに、一人のひと弱っていると、二人とも倒れるから、叩かれることも多いわけね。


 劉 
昼ころになると、真夏の太陽、ジリジリと照りつけるからね。前の晩、小さい饅頭一つ食べただけで、ひと晩、田んぼの中走ったり、山登ったりしたわけでしょ。もう、誰の腹の中にも、なんにも入っていないさ。しかも、暑い太陽、まともに受けているからね。砂利の上に坐るから、脚が痛むさ。少し動くと、梶棒とんでくるでしょ。地獄よりもひどいところさ。

 林 
いちばん苦しいの、水飲みたいことね。口の中とか喉、ピリピリ痛むよ。「水ほしい」「水ちょうだい」と、何人もの人たち言ったよ。そのこと言うと、何か大声で叫びながら、棍棒とんでくるの。いま考えても、よく生きていたと思うよ。憲兵の中で、ひどい人もいたよ。水飲みたい言うと、桶に水汲んで、わたしたちのそばに持ってくるでしょ。その水、ヒシャクに汲んで、目の前につき出してよこすの。飲みたいでしょ。うしろに縛られている人を引っぱって、顔を近づけていくわけね。すると、その水の入ったヒシャク、だんだん遠くしていくの。こんど、倒れるでしょ。そのこと悪いと、また棍棒とんでくるわけね。最後にその水、目の前の砂利にあけたり、頭にふっかけたりするの。水、頭から顔に伝わって、流れるでしょ。その水、舌を出してなめるの。そのことおかしいといって、みんなで笑うの。あんなことやる人に、人間の心ないよ。日本の人、ひどいことばかりするの多いね。


 李 
劇場の前、引っぱられてきた人で、だんだんいっぱいになってきたでしょ。そのわたしたちのこと見ようと、女の人とか、子どもとか、たくさん来たね。何か大声で叫んで、わたしたちの顔に、ツバ吐いて、帰っていく女の人もいたよ。子どもの中には、わたしたちのいるところに来て、顔とか腕とか、叩いて歩くのもいたよ。遠くから、石投げてよこす女の子どももいるね。わたしたち縛られてるから、そんなことされても、よけることできないよ。黙って、睨みつけているだけね。こんど、二日目になって、生死のあいださまようようになると、睨みつけることもできないさ。されるがままの状態ね。


 林 
砂利の上に、三日二晩も坐らされていたけど、食べ物とか水、ぜんぜんぐれないの。夜になっても、横になって、寝ることもできないの。四日目になって、スイトンみたいなもの、お椀にたった半分だけ出たね。いま考えても、生きていたこと、まったく不思議ね。みんな、疲れと空腹で、ふらふらしているでしょ。倒れる人、多くなるわけね。どうにもならなくなって倒れると、そのこと悪いといって、棍棒で叩かれるから、死ぬ人多くなるわけね。死んでも、そのままにしておくよ。二人一緒に縛られとるうち、一人死んでもそのままにしておくでしょ。わたしの背中に縛られた人、名前も誰かわからないよ。からだの弱い人だったわけね。劇場の前に引っぱられてきた日の夕方、もう死んだよ。死んだ相手のからだ、だんだん固くなってくるでしょ。すると、重くなっていくの。一人でもたいへんなのに、死んだの人ひとり背負っているのだから、苦しいさ。こんど、次の日になると、死んだ人、だんだん臭いしてくるの。重くて、臭いしてきて、どうにもならないよ。こんど、晩になるでしょ。犬とか、猫とか、何匹も集まってくるの。死んだ人の足とか手とか、食べようとするの。食べるもの奪い合って鳴いたり、骨を噛むの音、夜中になると聞こえてくるの。生きてる人にも、かぶりついてくるの。わたしの膝にも、爪かけてきた猫いたけど、追うにしても、声出ないよ。疲れて、からだぜんぜん動かせないさ。わたしは食べられなかったけど、あとで聞くと、食べられた人もいたわけね。地獄よりもひどいところだったさ。


劉 
わたしたちのからだ、裸のような状態だからね。昼は暑いし、こんど、朝方は寒いでしよ。寒くて、からだがカタカタさ。これじゃ、なにをされなくとも、死んでしまうさ。


 李 
わたし、劉さんとか林さんみたいに、劇場の前に坐らされたの、半日くらいのことね。わたしたち捕えられて、連れてこられると、すぐに言ったの。蜂起のこと、わたしたち計画した、わたしたちの手でやった、ほかの人たち関係ない、早く寮に帰してほしいとね。わたしたちリーダー13人、すぐに花岡派出所に連れていかれたさ。ほんとは、計画に参加したの8人ね。だけど、あとの5人、わたしたちのちょっとした不用意のために、リーダーの中に入れられたの。8人はみんな、もう覚悟決めてるからいいけど、あとの5人、泣いてるよ。わたしたち関係ない、殺されるのイヤだと。その人たちの気持、よくわかるね。自分たちで計画したことでないからね。わたしたち、あとでそのこと何回も言ったけど、警察で認めてくれないよ。わたしたち13人のほかに、中心になった人、まだいるかと、ほかの人たち拷問にかけて、聞いたわけね。からだとか、ズボンとかに、いくらか血のついてる人いるでしょ。すると、その人、日本人殺した犯人でないかと、拷問にかけるの。リーダーになった人たち、
必ず殺される、生きられると、誰も思っていないからね。


 林 
病人でも同じだったさ。自分で転んで、傷つけて、血流してる人いるでしょ。その人、補導員のこと殺した人かもしれないと、劇場の中に連れていくの。劇場の中、拷問にかける場所ね。何時間かたって、劇場の中から運ばれてくるでしょ。もう動けないね。病人のひと拷問にかけるのだから、当然ね。劇場の中から、死んで出てくる人もいたね。劇場の中、どんなことあったか知らないけど。


 李 
わたしたち13人、花岡の派出所に入れられたでしよ。こんど、どんな計画して、誰と誰が補導員たち殺したか、詳しく自白させようとしたの。だけど、誰もそのこと、詳しく言わないの。どの人も、わたしたちみんなでやった、あとの人たち、ぜんぜん関係ないと言うだけでしょ。こんど、調べてる警官たち怒ってね。一人ひとり、劇場の中に連れていくの。天井の高い、がらんとした劇場ね。人った時に、とうとうここで殺されるのかと思ったよ。劇場の中に入るでしょ。何人かで、ビンタンくわせるの。わたしたち、立ってもふらふらの状態でしょ。一つビンタンくうと、もうその場に倒れるさ。倒れると、また立だされるでしょ。するとまた、ビンタンとんでくるの。そんなこと、何回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、長い木の腰掛けあるでしよ。その腰掛けに、仰むけに縛りつけられるの。それから、桶に水汲んできて、口と鼻から注ぎ込むの。苦しくて、息もつけないでしょ。からだ動かそうとしても、縛られとるから、動けないでしょ。「苦しい!」と叫ぼ
うとしても、口とか鼻に水いっぱい入ってるから、声出ないでしょ。また、そんな元気もないから、気を失ってしまうわけね。ところが、気失ってしまうと、こんど、腰掛けを逆さに立てるの。頭が下になるでしょ。すると、からだの中に入った水、こんど、口や鼻から出るでしょ。水出ると、わたしたち息を吹き返すわけね。その時の苦しいこと、とても言えないよ。ひと思いに殺してくれと、何度も叫んだよ。声にならないけどね。息を吹き返すでしょ。すると、また腰掛け水平にして、口と鼻にまた水を注ぎ込むの。気を失うと、また腰掛け逆立てにするでしょ。こんなこと、三回もつづけてやられると、もうダメよ。自分の力で、派出所まで歩いて帰れないよ。リヤカーに乗せて運ばれて、留置場の中に放っぽり出されるの。わたしだけでなく、13人、みんな同じことやらされるでしょ。でも、8人の誰も自白しないでしょ。5人は関係ないから、わたしじゃないと叫ぶだけね。こんど、次の日になると、また、劇場の中に連れていかれるの。こんどまた、なにをされるかわからないから、恐いさ。

 通訳来て、みんな白状しろ、許してやるからと言うでしょ。だけど、ひと口も言わないでしょ。こんど、太い注射器持ってくるの。桶の中の水、その注射器の中にいっぱい入れるでしょ。ハシゴの上に、わたしのからだ縛りつけて、その注射器腹にさして、水を腹の中に入れるの。何度もやると、やせてへこんでる腹、丸くふくらんでくるの。誰か靴のまま腹の上にあがって、腹の上ではねて、ふくれた腹ふむの。すると、口とか耳とか鼻からとか、腹の中の水、ふき出してくるの。その時の苦しいこと、たいへんよ。このこと、四回も五回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、天井から垂してある針金に、両方の親指縛りつけて、その針金を、上に巻き上げるでしょ。からだ宙吊りになると、こんど、尻でも脚でも、棍棒でめちゃくちゃに殴るの。痛いから、ぶらん、ぶらんと動くでしょ。親指の皮、べろっと抜けて、からだ下に落ちるの。そのとき、ほとんどの人、気絶してしまっているけど、まるで、犬か猫みたいな扱い方されたね。

生き地獄の毎日

 林 
わたしたち共楽館の前の広場に、三日二晩いたけど、食べ物も水も、ぜんぜんないでしょ。一日に一回は、共楽館の中に引っぱられて、お前、暴動に参加したろ、人殺したろと、拷問受けるでしょ。わたしそのこと知らない、わたし関係ないと言っても、信用しないの。嘘つくなと、殴る、蹴るをつづけるわけね。共楽館の中で死んだ人、建て物のわきに運んできて、積んでおくよ。三日の間に死んだ人、何人いたかな。いっぱい積んであったさ。20人くらいはいたね。広場でも死んだ人多いね。昼も夜も、あっちこっちで死ぬよ。昼は死ぬ人わかるけど、暗い時は、誰死んだかわからないよ。朝になって、明るくなると、死んでる人見えてくるの。あっちでも、こっちでも、死んだ人見えるわけね。死んだ人も、そのまま広場に捨てられてあるでしょ。朝になるでしょ。ハエがいっぱい飛んでくるの。死んだ人の口とか目とか、ハエがついて黒くなっているさ。そのハエこんど、生きてるわたしたちの口とか鼻にも、飛んでくるでしょ。わたしたちのこと、死んでいると思っているわけね。いま思うと、ハエも区別つかないほどになっているわけね、生きとる人か、死んだ人か……。それくらい、生きとる人もひどくなっていたわけね。


 李 
わたしたち13人、ひどい拷問受けたけど、殺そうとしなかったね。憲兵とか、警官たち言うに、お前たち日本人殺した、裁判にかけて死刑にする、それまで、殺さないで生かしておく、というようなこと、わたしたちに言うの。わたしたち、日本語よくわからないから。それでも、同じこと何度も言われるから、言ってることの意味、わかってきたけどね。いま考えても、あんなにされて、生きていたの、不思議なくらいね。わたしたち13人、花岡派出所の留置場に一週間ほどいたけど、一日に少ない時で三回、多い時だと五回から六回
も、共楽館の中に引っぱり出されて、いろいろな方法で拷問受けた。わたしたち8人が責任者、わたしたち計画した、日本人も殺したこと、何回もしゃべってあるでしょ。だから警察の人たち、蜂起のこと全部、ちゃんとわかっていたわけね。それでも、留置場から引っぱり出して、殴ったり、叩いたり、水槽の中に水入れて、その水にわたしたちの首つかまえて、入れたりするの。もう、なにも言うことないでしょ。それでも、拷問するわけね。


 林 
わたしたち、砂利の上に坐らされて三日目になると、もう坐っているのことできないさ。みんな、いまにも倒れそうに、ふらふらしているさ。何日も、水もなければ、食べ物もないでしよ。舌も唇も、カサカサして、火がついたように熱いさ。夜中に、小雨があったの。両手縛られてるから、雨掬うことできないでしょ。顔流れてくる雨、舌出してなめるの。その雨のうまいこと。半分死んでいたのが、この雨で生き返ったわけね。わたしだけでなく、この雨で生きのびた人、かなり多いよ。四日目の昼ころ、スイトンみたいなもの、椀に半分配られて、それ食べたでしょ。こんど、スイトン食べてから、中山寮に帰ることになったの。

共楽館から中山寮まで、距離だいぶあるね。それに、坂道多いでしょ。縛られていた縄とかれて、歩けと言われても、立てる人いないよ。石ころの上に、三日二晩も坐ってたわけでしょ。膝とかすねに、大きな傷ついてるの。その傷の中に、砂利とか土とか、いっぱい入っとるでしょ。なんとか立っても、歩くと、こんど傷痛むの。平たいところだと、なんとか立って歩いたけど、坂道になると、とても歩けないでしょ。みんな這ってのぼったけど、膝とかすねの傷、石とか砂にぶつかるから、痛いでしよ。血が流れてくるの。痛いから、黙ってるでしょ。すると、早く歩けと、棍棒とんでくるの。泣いても、声出ないし、涙も出てこないさ。共楽館から寮まで行く途中に、死んだ人もいるよ。四日目に寮にもどって、次の日、わたしたち看護人に、共楽館の広場の屍体、片づけるように命令されたの。だけど、自分で動くこともできない人、ほとんどでしょ。どうやって死んだ人たち、山の上まで運んでくるのことできるね。

 劉 
あのとき、看護長もいないから、わたしと林さん、交渉したね。わたしたちの力で、運んでくることできないと……。このとき、殴らないで、そのことわかってくれたね。そんなこと、花岡に来てからはじめてのことね。それだけ、わたしたちの弱っているの、わかったわけね。こんど、わたしたちに、大きな穴、二つ掘らせたの。わたしたちその時、この大きな穴に、死んだたくさんの同胞たちの屍体埋めるのかな、それとも、わたしたちが殺されて埋められるのかな、と考えたね。穴できて、何日かあとに、朝鮮の人たち、広場から屍体運んでくると、大きな二つの穴に、たくさんの屍体投げ入れて、土かぶせたの。わたしたち看護班の人たち、同胞たちの屍体の上に、土かぶせたの。大きな二つの穴のほかに、小さな穴、もう一つ掘ったの。その穴の中に、任鳳岐をひとりだけ埋めろというの。わたしたちの同胞を食いものにした入、死んだ後も特別の扱いうけること、不満で仕方なかったけど、一人だけ埋めたよ。命令だからね。日本、戦争に負けてから、わたし三回ばかり、花岡鉱山に行ったよ。遺骨のことで行ったのだけど、二回目に行った時、日本の赤十字とか、東京の華僑総会の人たちとも一緒ね。大きな穴二つあって、その穴の中に、まだたくさんの骨残っているの。その骨拾って、水で洗って、干してから箱に入れたけど、これが広場で殺された人たちの骨ね。何日も、水も食べる物もなくて殺され、何十人も一つの穴に投げ込まれて、骨はバラバラに捨てられて、あまりかわいそうで、涙ばかり出たよ。


林 
わたしたち看護班は、次の日から働いたけど、ほかの人たち、二日目から仕事に出たの。仕事に出る朝、みんなを寮の前に集めて、共楽館の前で、わたしたちを拷問する時、指揮をとった三浦署長と、河野所長の訓話あったの。日本の通訳、そのこと、わたしたちに知らせてくれたけど、そのとき、耿太隊長以下13人の主犯たち、すでに死刑になっている、と話あったの。わたしたちそのこと聞いて、ビックリしたの。なかには、鼻すすりあげて泣く人もいたけど、いま考えると、李さんたちまだ、花岡派出所の中にいたわけね。そんな嘘言って、わたしたちのこと、脅したわけね。

劉 
わたしたちは次の日から働いたし、工場で働く人は、二日目から仕事に出だけど、食べ物の量、前よりいくらか多くなったほかは、なんにも変わったことないね。仕事はきついし、補導員のかわりに剣を下げた警官が監督につくようになっても、わたしたちのこと殴るの、前と同じね。蜂起する前より楽になったことぜんぜんないよ。

敗戦後も戦争状態

 李 
わたしたち、花岡派出所に入れられて何日目かな、こんど、通訳の于傑臣も投げ込まれてきたの。このとき、みんなビックリしたさ。夜中になって、見回りの人あまり来なくなってから、みんなで彼に聞いたの。蜂起の状態のことも、わたしたちぜんぜん知らなかったからね。わたしたち殺したの、檜森と猪股が寮の中で、小畑と長崎が寮の外で、あとの補導員たち生きていること知ったの。そのこと聞いて、みんなガックリしたね。こんど、大館警察署の留置場から、両手を前に縛られて、トラックに乗せられたの。どこに連れていかれるのか、ぜんぜん知らされないでしょ。銃殺される場所に連れていかれるのかなと、何度も考えたりしてね。トラックに長い時間乗せられて、大きな町の中とおって、こんどトラックが停まって蹴り落されたけど、そこが秋田刑務所だったの。于は秋田の刑務所に来なかったから、ぜんぶで13人来たわけね。

 林 
蜂起のあと、通訳は日本人がやっていたよ。于傑臣のこと、ぜんぜん見かけなかったから、蜂起のとき、殺されたのかと思ったよ。あとで、留置場から出てきて、わたしたちに日本の敗戦のこと、知らせてくれたけど、戦争終わってからも、いつ中国に帰ったのか知らないよ。わたしたちと、まったくべつに来た人だからね。


 李 
秋田刑務所の中で、わたしたち、一人ひと部屋ね。毎日、取り調べ受けたし、殴られることもあったけど、ご飯は三回あるし、蒲団あるし、ゆっくり眠れるし、刑務所の中、天国だと思ったさ。だけど、刑務所のご飯の量、ぜんぜん少ないの。ご飯の中味、大豆三分の一、麦三分の一、米三分の一ね。ぜんぶ食べても、ふた口か三口でなくなるよ。お腹の中、ぜんぜん感じないわけね。わたし、いつもご飯くるでしょ。こんど、箸で、椀の中の大豆一つ一つとって、数えながら食べるの。お椀の中に大豆、だいたい30粒ほど入っているの。

 大豆食べ終わると、こんどは麦を箸で拾って、これも数えながら食べるの。麦は、だいたい50粒ほど入っているね。大豆と麦食べると、米はいくらもないから、すぐ食べ終わるさ。なんにもすることないから、一日三回、こんな食べ方して、時間をかけていたさ。こんど、独房の中に、小さな窓あるでしょ。その窓見ながら、太陽どこまでくると、三回のご飯のくる時間、わかるようになったの。太陽の動くの見ながら、ご飯まだかなと、そのことばかり考えていたよ。だけど、お椀に半分くらいのご飯だと、すぐにお腹すくでしょ。便所に立ってもいけないよ。立つただけで、もう頭ふらふらするの。刑務所に来て10日ばかりたったある晩、わたし、夢見たの。中国で別れたままの兄弟とか、亡くなった母のことなど、みんな夢の中に出てきたの。刑務所の朝、早いでしょ。六時になると、みんな起きるの。ひとり部屋だけど、隣の人と、話しすることできるの。わたし、朝起きると、夢見たのこと、隣の人に言ったの。兄弟や母たち、夢の中に出てきた、なにか悪いのこと、なければいいがと…。そのあとですぐ、ご飯運ばれてきたの。いつもの日より、ご飯のくる時間早いの。これ、ちょっとおかしい、何事かある、わたしの夢当たったと思ったよ。ご飯食べると、たくさんの人来て、独房の戸のカギとって、わたしたち13人、みんな外に出されたの。ははあ、、、きょうはこのまま銃殺されて、いのちなくなる日かな思った。13人手錠かけられて、トラックに乗せられたの。わたしたち乗ったあとに、おにぎりも積んだの。わたしそれ見て、いよいよほんとだ、人殺すとき、腹いっぱい食べさせて殺すと、わたし聞いていた。いつか死刑にされると思っていたから、べつにこわくないけど、腹いっぱいに食べて殺されるのこと、いい気持と思った。トラックで遠くに運ばれて、人目のつかないところで殺される、そう思ったの。ところが、わたしたち降ろされたの、裁判所の前ね。裁判所の中で、わたしたち13人並んだでしょ。こんど、警察の人来て、わたしたちを片っぱしから殴っていくの。なんで殴られるのか、ぜんぜんわからないよ。裁判官たち、わたしたち殴られるの見ていても、なんにも言わないの。なかには、笑って見ている人もいるよ。この日、第一回の裁判あったわけね。はじめの時に、わたしたち、自分の国の住所とか家族の名前、どうして日本に連れて来られたか、ぜんぶ言ったの。ほんとのこと言って、通訳されるでしょ。わきに立ってる警察の人、嘘つくなと殴るの。嘘でないよ。わたしの言ってること、ほんとのことね。ほんとのこと言うと、殴られるのだから、どうしようもないよ。わたしたち言ったあとで、検事の人かな、わたしたち13人に言ったの。あんたたち、暴動起こした、何人もの日本人殺した、中国人の誰と誰が、日本人の誰を殺した、とちゃんと言うの。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よくわからないよ。でも、聞いてわかっただけでは、みんな嘘のことね。日本人の補導員殺したのことだって、誰がやったのか、わたしたちでもわからないよ。それを、誰と誰がやったことにしているから、おかしいわけね。第一回の裁判あってから、10日くらいたってからのことかな。夜中に、刑務所の上の空、たくさんの飛行機とぶ音聞こえるの。まもなく、すぐ近くで、爆弾の落ちる音とか、機関銃の音とか、聞こえてくるの。わたし中国にいた時、中国解放義勇軍のゲリラしてたわけでしょ。だから、戦争はじまっていること、わかるの。わたしたちにも厚い帽子くばられて、一人ひとりに、銃砲待った憲兵がついたの。戦争で日本が負けてきていること、ぜんぜん知らされていないでしょ。どこの飛行機来ているのか、どうして爆弾落とされているのか、わからないね。だけど、たいへんなことになっていることだけは、わかったね。看守の顔も、憲兵の顔も、ひどく変わっていたからね。その次の日か、二日後のことかな、刑務所の中に吊しているもの持ち去ったり、貼り紙を剥いだりしているの。いま思うと、このとき、日本は戦争に負けていたわけね。そのことかくして、わたしたちに教えてくれないから、日本の人たちなにをやっているのか、不思議だったよ。なにやっているんだろと、隣の人と話したけど、誰もほんとのこと、わからないよ。


 林 
中山寮にいたわたしたちも、同じだったさ。蜂起の時のムリが出たり、食べ物の量、前と同じに少ないから、病人どんどん多くなってくるの。看護棟の中いっぱいになると、寮の中にも、病人の部屋つくったよ。いま考えると、日本が戦争に負けてからも、同じように重労働させられ、食べ物も少ないから、中国人は毎日のように死んでいったさ。日本が戦争に負けてからでもさ……。8月ころから、鹿島組の人とか、警官たちの様子、かなり変わってきたことわかったけど、まさか、日本が戦争に負けたとは、誰も思わないからね。そんな
こと聞くと、殴り殺されることわかっているから、誰も聞かないからね。わたしたち、日本が戦争に負けたことわかったの、9月に入ってからのことだったさ。いつの日だったか、はっきり覚えてないけど、わたしたちの働いている頭の上、すれすれに飛行機とんできたの。それから、落下傘に大きな荷物つけて、いくつも、いくつも落としていったの。その荷物、同じ花岡鉱山に捕虜になってきている、アメリカ兵のものだってことわかったの。もう戦争終わったのこと、そのことでわかったの。それまでは、誰も知らせてくれなかったからね。


 李 
刑務所にいるわたしたちに、暦渡してくれないでしょ。独房にいると、ほかのこと見ることもできないから、きょう何日か、ぜんぜんわからないわけね。飛行機の爆撃あって、刑務所の中の貼り紙剥がされて、だいぶたってから、第二回の裁判開かれたの。このとき、無期懲役は誰と誰、15年の懲役は誰と誰と判決あったけど、わたしたち日本のことば、ぜんぜんわからないでしよ。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よく聞きとれないよ。こんど、刑務所に帰ってから、隣の人と話し合って、その隣の人また隣の人と話し合って、
死刑になったのは誰なのか、無期になったのは誰なのか、確かめ合ったの。耿太隊長一人が死刑で、わたしは確か、15年の懲役だったようだけど、はっきりしないの。このとき、判決あってから、裁判官言うの。この裁判に不服だったら、上告することできる日本の法律ある。上に上告するのこと、いっこうにかまわないと言うの。だけど、わたしたちその方法わからないよ。わたしたち弁護士いるのかどうか、ぜんぜんわからないからね。どうやればできるのか、相談する人もいないからね。

 林 
それ、ことばだけのことね。わたしたち、上にもっていったとしても、勝てるわけないでしょ。だいいち、もっていく方法知らないのだからね。上にもっていっても、簡単に負けるさ。そして、死刑か、懲役ね。


李 
あとで開いたけど、わたしたちの判決あったの、日本が戦争に負けたあとの9月になってからと聞いて、ビックリしたさ。だけど、正直言って、死刑になると思っていたから、15年の懲役と聞いて、軽いと思ったの。


後文省略〜

以上、日本が行った「労工狩り」中国人強制連行の記録よる被害者の証言を終わりますが、野添憲治・著「花岡事件の人たち」には政府と企業戦後処理、などが書かれています。現在を生きる私たちにとっては想像を絶する事件と、戦後処理のみすぼらしさや責任逃れなど、目を覆いたくなる恥ずかしさを覚えます。
http://kisarazu.org/?page_id=62
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html#c6

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
2. 中川隆[-12417] koaQ7Jey 2019年2月05日 13:47:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

花岡事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

花岡事件(はなおかじけん)は、1945年6月30日に秋田県北秋田郡花岡町(現・大館市)の花岡鉱山で中国人労務者が蜂起し、日本人を殺害し、その後鎮圧された事件[1]。戦後、過酷な労働環境について損害賠償請求裁判が提訴された。

日中戦争の長期化と太平洋戦争の開始にともない、日本国内の労働力不足は深刻化し、政府は産業界の要請を受け、1942年(昭和17年)11月27日に「国民動員計画」の「重筋労働部門」の労働力として中国人を内地移入させることを定めた「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定した[2]。試験移入を行なった後、「一九四四年国家動員計画需要数」に捕虜を含む中国人労務者3万人の動員計画が盛り込まれた。

鉱山労働力が不足した戦争末期には、花岡川の改修工事などを請負った鹿島組により1944年7月以降に現地移入した中国人は986人に上り、1945年6月までにうち137人が死亡した。中国人労働者は過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜、国民党将校耿諄の指揮のもと800人が蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。しかし7月1日、憲兵、警察、警防団の出動により、釈迦内村(現・大館市)の獅子ヶ森に籠っていた多数の労働者も捕らえられ拷問などを受け、総計419人が死亡した。死体は10日間放置された後、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で3つの大きな穴が掘られ、埋められた。この後も状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が死亡した[3]。終戦後の10月7日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れた際、棺桶から手足がはみ出ている中国人の死体を発見した。外務省管理局は『華人労務者就労事情調査報告』において、死因については彼等の虚弱体質などによるものとして、過酷な労働条件が死因ではないと主張しているが、終戦後に彼等を手当てした高橋実医師によれば、彼等が帰国するまでの約2か月の間、一人の死者も出なかったという[4]。

1946年9月11日の秋田裁判判決では蜂起を指導した事件の首謀者に有罪判決が下されたが、アメリカ軍による横浜軍事裁判では、第七分所(秋田県花岡 藤田組花岡鉱業所)から11名が裁判にかけられ、1948年3月1日に鹿島組関係者の4名と大館警察署の2名の計6名に有罪判決が下され、そのうち鹿島組の3名が絞首刑の判決を受けた後、終身刑等へ減刑されている。


損害賠償訴訟とその後

1985年8月、当時、蜂起を指導した事件の首謀者である耿諄は、外信を紹介する『参考消息』で、花岡事件40周年の慰霊祭が行われたことを知った。その後耿は来日したが、当時の鹿島組(現鹿島建設)が「一切の責任はない、中国労工は募集によって来た契約労働者である、賃金は毎月支給した、遺族に救済金も出している、国際BC級裁判は間違った裁判である」と主張していることを知り、鹿島と再び闘う意志を持った。1989年、耿は公開書簡として、鹿島に以下の要求を行った。

・鹿島が心から謝罪すること

・鹿島が大館と北京に「花岡殉難烈士記念館」を設立し、後世の教育施設とすること

・受難者に対するしかるべき賠償をすること


1990年1月より、新美隆、田中宏、華僑の林伯耀を代理人として、鹿島との交渉が始まった。7月5日の共同発表[5]では、鹿島が花岡事件は強制連行・労働に起因する歴史的事実として認め、「企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」と明記された。

しかし、鹿島はその後、

・「謝罪」は「遺憾」の意味である(残念に思うが、謝る気はないという意味)。

・記念館の設立は絶対に認めない。

・賠償は認められない、供養料として1億円以下を出すことはあり得る。日中共同声明で中国側の賠償請求権は放棄されている。


と主張し、実質的には責任はないという見解を示した。1995年耿諄ら11名は、中国政府が個人による賠償請求を「阻止も干渉もしない」と容認姿勢を見せたことから、鹿島に損害賠償を求めて提訴した(弁護団長:新美隆)。要求内容は、耿が最初に要求した三条件であった。

耿諄らは中国におり、また高齢であることから頻繁な来日出廷は困難だったので、実際は新美、田中、林が原告の主導権を握った。1997年、東京地方裁判所は訴追期間の20年を経過しており、時効であるとして訴えを棄却した。原告は東京高等裁判所に控訴したが、原告となった元作業員らの証人尋問は行われず、新村正人裁判長は和解を勧告した。


和解

2000年11月29日に東京高裁で和解が成立。被告の鹿島側が5億円を「花岡平和友好基金」として積み立て救済することで決着が図られた。和解の内容は、以下の通りである。

1.当事者双方は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認する。ただし、被控訴人(被告。鹿島のこと)は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了承した。

2.鹿島は問題解決のため、利害関係人中国紅十字会に5億円を信託し、中国紅十字会は利害関係人として和解に参加する。

3.信託金は、日中友好の観点に立ち、花岡鉱山現場受難者の慰霊及び追悼、受難者及び遺族らの生活支援、日中の歴史研究その他の活動経費に充てる。

4.和解は、花岡事件について全ての未解決問題の解決を図るものである。受難者や遺族らは、今後国内外において一切の請求権を放棄する。原告以外の第三者より、鹿島へ花岡事件に関して賠償請求が行われた場合、中国紅十字会と原告は、責任を持って解決し、鹿島に何らの負担をさせないことを約束する。


この和解は、成立直後から日本の戦後補償を実現していく上で「画期的」なものとする報道が多かったが、野田正彰の取材によれば、この和解は弁護団側の独断によるもので、原告の本意ではなかったという。耿は、鹿島の謝罪を絶対条件とし、記念館の建設も希望、賠償額は譲歩してもよいと、田中らに意見した。耿は、和解の受け入れを迫る新美らに、負けても損害はないことを確認した上で「和解を受け入れなければ負けるというなら負けよう、負けても妥協せず、踏みとどまるならば道義的には勝利したことになり、百年後(暗に死後を意味する)も彼等の罪業を暴く権利がある」と意見し、和解には同意しないが黙認するという態度を取った。

しかし、新美らは和解を急ぎ、鹿島の出す金は賠償金ではないことも法的責任を認めないことも伏せ、和解の正文は伝えられなかった。耿は和解の内容を知ると「騙された」と怒り、耿など原告・遺族の一部は「献金」の受け取りを断ったという。また、2001年8月には「屈辱的和解」に反対する声明を出した。耿にとってこの結果は全面敗訴に他ならず、その上謝罪のない金を受け取ることは侮辱でしかなかったのである。

野田がこのことを毎日新聞[6]に寄稿すると、田中と林は野田に会いたいと人を介して伝え、会談した。田中は「直前に北京に出向いて骨子を示し、耿諄さんらの了承を得た」と主張し、林も「耿諄はすっかり英雄になったつもりでいる」と耿を批判した。さらに「耿諄は中山寮で人を殺しており、苦しんでいるはずだ」「耿諄はすっかり痴呆化しているそうだ」とも述べたという。野田は「田中らは負けて何も得られないよりも、どこかで妥協しカネを貰っていくのが幸せなのだ」と確信して疑わず、その結果原告の思いを軽視したと批判している。これらの野田の主張に対して、田中は同じく『世界』に「花岡和解の事実と経過を贈る」とする文章を寄稿し「野田は和解の基本的な事実経過について誤解しており、和解条項について原告団の了解を得ている」と反論した。

中国紅十字会に信託された補償金

その後「花岡平和友好基金」として中国紅十字会に信託された5億円は被害者本人やその遺族に支払われたが、千龍網が報じたところによると、補償金を受け取ったのは全被害者のうち半数の500人程度で、受け取った額も当初支払いが予定されていた額の半額程度だったという。中国紅十字会は基金の残高や用途について発表しておらず、中国国内では「基金の半分は中国紅十字会が自らの手数料として差し引いた」との見方もある[7]。中国紅十字会はこれを否定しているが、花岡事件を描いた著書『尊厳』の著者である李旻は「中間で巨額の資金が消え、金はどこに行ったか誰も知らない」と指摘している。


日本政府に対する訴訟

その後、花岡事件などに関連して、当時花岡鉱山などで強制労働に従事していた中国人の元労働者とその遺族らが、日本政府に対し計約7,150万円の支払いを求める訴訟を、2015年6月26日に大阪地方裁判所に起こした。同事件に絡んで日本政府を訴えるのは初のケースとなる。原告らは「中国人を拉致・連行し、強制労働に従事させた上、戦後も事実の隠蔽を続けた」と主張。また、劣悪な労働条件などが事件の背景として存在するにもかかわらず、憲兵などが拷問・弾圧を加えたとも主張している[8]。

2019年1月29日、大阪地方裁判所(酒井良介裁判長)で判決があり、請求を棄却した[9]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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花岡事件の証言
http://kisarazu.org/?page_id=62

戦時後期におきた花岡事件、日本人が知らなくてはならない昭和史の貴重な証言だと考え、抜粋して掲載しました。

著書には花岡事件に関わった人たちの戦後が書かれていますが、「本当の昭和史」編纂にあたって、なにより事件の被害者の証言に重点を置きました。

日本は本当に戦後が終わったのでしょうか?

歴史を正しく検証して、後世に伝える努力を全ての日本人に期待します。

前文省略〜

1971年9月5日、9月にはいった北海道は、すでに秋の気配が濃くなっていた。札幌市にある小さな中華料理店「北京飯店」の二階の一室に差し込んでくる暮れ時の陽にも、秋のおとずれがひそんでいた。

 この日の朝から、李振平・林樹森・劉智渠さんの三人から、わたしは話を聞いていた。三人とも太平洋戦争中の1944年に中国で日本軍に捕えられ、日本に強制連行されて秋田県の花岡鉱山で働かされたが、敗戦後は花岡事件の裁判の証人として日本に残され、そのまま日本に永住している人たちであった。花岡事件の起きた秋田県に生まれ、十年ほど前から強制連行されてきた中国人や花岡事件を調べてきたわたしは、その生き残りである三人をようやくの思いで探しあてて、林さんのお店の一室で話を聞いていた。

 振平さんも樹森さんも智渠さんも、温和な、礼義の正しい人たちであった。たどたどしい日本語で、二十数年前の記憶をさぐりながら話してくれた。しかし、次第に話が進んで花岡鉱山での強制労働に移り、日本人の補導員にささいなことから殴られ、蹴られて、仲間たちが次々と死んでいく場面になると、三人の目に涙がひかり、こぶしでテーブルを叩きながら語りつづけた。口調が激しくなってくると、中国の言葉になったが、語りつづける三人には聞き取りをしているわたしのことは眼中になくなり、二十数年前のいまわしい記憶をえぐり出してくるように語りつづけた。

 三人の話の一つ一つが、日本や日本人に突きつけている戦争責任の刃であった。わたしは三人の話の重さをからだで感じながら、ふと、二十数年前の一つの記憶を思い出していた。

 三人が強制連行されてきた花岡鉱山と同じ秋田県北の小さな村に、わたしは1935年に生まれた。太平洋戦争がはじまった1941年に国民学校へ入学し、敗戦の年は五年生であった。田植が終わってまもないある日、中国人の俘虜たちが花岡鉱山で暴動を起こして、わたしの村の山奥にも逃げてきたという話が、村中に伝えられた。花岡鉱山とわたしの村との間には、幾重にも重なった山と深い谷とがあるのに、それを越えて逃げてきたのだった。逃亡してきた俘虜たちは、山菜取りに行った娘を焼いて食ったとか、山奥の農家から牛や馬などを盗んで食っているという話も伝わり、村の人びとは恐怖にふるえあがった。

 日中は村中の男たちが動員されて、カマや竹ヤリなどを持って山狩りに歩き、夜になると山から集落に通じている道々にたき火をして夜警がついた。家々では竹ヤリを何本もつくり、食事の時は障子に立て、野良仕事に出る時は持って歩いた。寝る時は枕元に竹ヤリやナタなどを置き、いざという時にはいつでも手に持てるようにした。暗くなると外出する人もなく、空襲に備えて薄暗くした電灯の下に集まり、息を殺したようにひっそりとしながら夜を過ごした。

 こうして恐怖の日が三日ほどすぎて、山奥の炭焼き小屋にひそんでいた二人の俘虜が捕えられた。その晩は竹ヤリもナタも土間に置かれ、村中は喜びに湧いた。

 その翌日、捕えた俘虜を見に来いという知らせが役場からきたので、わたしの分校でも五年生以上の児童が、六キロも離れた本村まで見に行った。役場前の焼けつくような土の上に坐らされている中国人は、大勢の人が囲んでいるのでよく見えなかった。じりじりと照りつける太陽の下で、両手をうしろにして縛られている裸の上半身が、人垣が揺れるたびに見えた。かつかつガツガツに痩せたからだをおおっている肌の色は、人の肌には見えないほど汚れていた。

 「チャンコロのバカヤロー」
 「ぶっ殺してしまエー」

 周囲の人垣から、さかんに罵声がとんでいた。中国人は日本の敵であり、日本人を殺して食った鬼のような人間だということを頭から信じていたわたしたちは、先生の号令に合わせて、「チャンコロの人殺し」と叫びながら、中国人を囲んでいる人垣の外を、何度も何度も廻った……。

激した口調で語っている三人の前で、二十数年前の記憶を思い出しながら、「わたしも加害者だったのだ」と、胸が痛んだ。三人のそばにいることが耐えられなくなり、部屋からとび出していきたい衝動にかられた。「お前は聞き取りという第三者みたいなことをやっているが、それでいいと思っているのか」と、自身を責め立てられてならなかった。 

この日の一日にわたる聞き取りのあとも、聞き洩らした部分や不足な点を聞くために、何ども札幌に三人を訪ねた。この間に日中国交回復も行われたが、その時の三人の喜びようはたいへんなものであった。

しかし、それと同時に、中国での日本軍の戦争処理はもちろんのこと、日本国内での戦争処理にも頬っかむりをつづけている政府に対する三人の怒りは、非常に強かった。国と国との国交は回復したが、それを支える一人ひとりの両国民のつながりが回復する根になるのは、自分たちが過去に犯してきた行為に、ちゃんと後始末をつけるのが第一だという意味のことを、三人からきびしい口調で言われた。まったくそのとおりである。私は言葉もなくうなだれるよりなかった。

花岡事件が起きた大館市の人々のなかにも、「あれは戦争が生み落とした事件であり、いまさらそんなことを掘り出してなんになる」という空気が非常に強い。私はここ十年ほどの間に、何十回となく現地に足を運んできたが、この事件に取り組んだ当初も現在も、その空気はほとんど変わっていない。むしろ、この傾向が強くさえなってきている。というのは、なんらかの形で中国人の強制労働や花岡事件に関係のあった人たちが、地元の政界や実業界などのトップに立っている人が多くなっているために、「臭いものには蓋」式になっているのである。また、あの忌わしい事件には触れたくないと思っている人や、秋田県の恥だと考えている人も多く、わたしも直接に、あるいは間接に、「花岡事件をいじくりまわしていると、君の将来にとってプラスにならない」と、何度も注意された。

この著の中心をなしている三人の話は、三人の生き方の強さ、戦争のむごたらしさと同時に、わたしたち日本人に、戦争責任とは何か、人間が生きるとは何かということを、日常の生活感覚のなかで「問い」かけている。その「問われ方」は、人によってさまざまであろうが、問われたからといって、すぐに答えなくともいい。なによりもまず、三人の話の事実に「問われてほしい」という願いを込めてまとめている。

著者 野添憲治   1975年

中国人強制連行の証言記録

前文中略

東条英機内閣決定事項
昭和17年11月27日 華人労働者内地移入に関する閣議決定
昭和18年4月〜11月 華北労務者内地移入実施要項にて試験移入
昭和19年2月28日 華人労務者内地移入の促進に関する件、時間会議決定

「労工狩り」の実態

 次官会議で「華人労務者内地移入ノ促進二関スル件」が決定したことによって、中国人労務者の移入が本格化していくのだが、現地で労務者を集めるのを「労工狩り」といった。しかし、実際には、中国内で労働者を集める労工狩りは、軍部の手によって日中戦争のころから大々的におこなわれていた。とくに、北支方面軍司令官の多田駿が、1940年8月から10月にかけて八路軍との大戦で大損害を受けて首になり、1941年に岡村寧次が司令官となって、三光政策〈殺光(殺しっくす)、焼光(焼きつくす)、略光(うばいっくす)〉を実施するようになってから、いっそう苛酷をきわめるようになった。

 1941年8月下旬から9月初旬にかけて、中国華北の山東省博山西方地区で北支那方面軍一二軍の手で実行された博西作戦の労工狩りは、次のようなものであった。

真夜中の一二時、たたき起こされた私たちは、『こんどの作戦は、土百姓どもを一人残さず全部つかまえるんだ』という中隊長池田中尉の怒号のもとに、重い足を引きずりながら歩きつづけ、ようやく夜が明けたころ、風一つなく朝餉の煙が真っ直ぐに立つ、平和で静かな二百余戸の部落の近くに中隊は停止した。しばらくして分隊長松下伍長が、小隊長のところから帰ってくるなりいった。

 『オイツ、出発だ。部落にはいったら、片っぱしから老百姓(中国での農民の俗称)をとっ捕まえるんだ。いいか・・・。』というが早いか、道に半分あまり倒れている高梁の幹を、ブキブキ踏み倒し、部落に向かって歩き出した。

 分隊が部落にはいると、静かであった村が、カタカタ、ドンドン、バタクバタリ、ガチャンガチャンと、急に暴風でも来たように、一瞬にして嵐に化した」
※大木伸治「労工狩り」『三光−日本人の中国における戦争犯の告白』(光文社刊所収)

 こうして日本軍は、中国人の男を見つけるとかたっぱしから捕え、中国の東北地方や華北の鉱山、港湾荷役、軍事基地に連行して働かせていた。また、労工狩りで捕えられた中国人のなかには、初年兵の度胸試しの材料にされて、殺されていった人も多かった。

 中国での人狩り作戦は、二つの目的を持っていた。一つは、人狩りによって捕えた中国人を労務者として使う一方、奪った食糧は日本軍が現地補供として食べていた。もう一つは、日本軍の勢力の薄い地区を無人無物に近い状態にして、中国の抗戦の主体である八路軍を弱体化させる、という目的を持っていた。それだけに、1942年の閣議で中国労務者の内地移入が決められると、それを錦の御旗として労工狩りは激化していった。

 しかし、なんの罪もない中国の民衆が、暴風のような一瞬の労工狩り作戦に襲われ、夫や息子を奪われ、妻子を強姦や足蹴で痛めつけられ、食糧を持ち去られるうえに家まで焼き払われるのは、悲惨そのものであった。さきに引用した博西作戦の労工狩りは、次のようにつづいている。

 私たちは、隣の家の中を、つぎつぎと手当たりしだいにひっくりかえして見たが、ここでも、四十すぎと思われる女と、七、八歳の男の子が、隅のほうにちぢこまっていた。あせった私たちは、庭の隅まで、置いてあるものは全部放り投げた。奇麗に丸め、積み重ねた高梁を、半分あまり銃剣で突き倒していた時、私は手に異様なものを感じた。

 『おいツ、阿部、何かいるぞー』半ば後足で、おそるおそる、そっと高梁の束をかきわけた。一ツニツ三ツ目のとき、『アッ』私と阿部は後に一歩飛びさがった。そこには、日焼けした真っ黒な顔に、何か強い決心でもしているかのように、唇を噛みしめた四十歳(ぐらい)の男がうずまっていた。手に何も持っていない老百姓風と見た私は、おどろいて後にさがった姿勢をとり直すと、『コノ野良ッ。ビックリさせやがる。オイッ、阿部ッ、こいつは民兵かも知れんぞツ』と、いきなりグルグル巻きに縛りつけた。

手当たりしだいに引っ掻き回す暴行を、不安気にジッと見ていた先刻の女は、『快走々々』(早く歩け)と蹴り飛ばされ、罵倒されながら引きずられて行くこの姿を見ると、地面に頭を押しつけ、『老百姓老百姓大人々々』と声をあげて泣きながら、何か哀願している。子供は、銃剣の恐しさも忘れて、男の足にしがみついて、言葉のわからない私でも、この母子が何を訴えているのかわかった。『コンチクショウッ。こいつがこの野良を隠したんだッ。助けてくれなんてもってのほかだッ』

 私は、泥靴で女の肩から首筋を力まかせに踏みつけた。しかし、女は、『大人々々』と、何度も何度も頭をさげて泣いて哀願していたが、最後にもうどうにもならない。と見たのか、這うように家の中にはいって行くと、ボロ布に包んだ煎餅を両手で抱え、だいじそうに持ってくると、男の腰紐にくくりつけようとしがみついた。

 私たちはこれを見ると、『このあまツ、嘗めやがって。チェッ、人間並みに人の前でいちゃつきやがってツ』女の手より布包みをもぎとると、私は、『こんな本の葉っぱみたいなものを食っていやがるのかツ』と地べたに叩きつけ、軍靴で蹴り飛ばした。楊柳の葉がまじった煎餅がほうぼうに散った。子供を抱えるように、踏みつぶされた煎餅を、両手で地に伏し抱いている女の目から落ちる大きな涙は、ポタリポタリと煎餅の上に落ちている。

 『大人々々』土にまみれた煎餅を寄せ集め、哀願する女は、ジッと奥歯を噛みしめ、足にすがる子供をじっと見つめ、何か言っている男の顔を見ては、声をあげて涙を流していた。白酎の小ガメを片手に、先刻の婦人をいままで強姦していた小川が、のっそりはいって来た。

 『何をしているんだツ』キョロリとあたりを見回した。

 『ハア、こいつを連れて行こうとしたら、しがみついて離れないんです』私は、子供を殴りつけながら小川に言った。

 『馬鹿野良ッ。大の男が二人もかかって何をしているんだッ。手前ら嘗められているんだッ。そのガキも連れて行けッ。背のうぐらいはかつげるだろう』

 男にしがみついている子供の襟首を、わし掴みに表に引きずり出した。

 『大人々々、小孫(子供)、老百姓』と、気が狂ったように女は絶叫して、子供の足にしがみつこうとした。

 『ええい。うるさいアマだッ』私は阿部といっしょに女の横腹を銃床でドーンと突きあげた。

 こうして部落の隅々から、畑の中から荒らしまわった私たちは、十二時すぎ、部落の一角に中隊が集合した。腰の曲がった老人から子供まで150余名の老百姓が、取り囲んだ銃剣の中に坐らせられている」(大木伸治「労工狩り」『三光』)

 このような労工狩りは、日本の軍隊の手で中国のあらゆる所でくり返されていた。そのなかでもとくに労工狩りがひどかったのは、1942年9月から12月にかけて山東省でおこなわれた二一軍作戦であった。この時は大包囲作戦(うさぎ狩り作戦とも言った)という戦法をとり、包囲の網をだんだんと縮めていき、そのなかにいるものは敵兵であろうと住民であろうと、全部を捕虜にするというものだった。このうさぎ狩り作戦は、次のようにして実施された。

 「その作戦には、中国には真鐘の洗面器が多いのですが、その洗面器を持って、兵隊の銃を肩にかついで洗面器を叩いて歩き、それで海岸線や鉄道沿線に向って押したわけです。洗面器を叩いて一里歩くところもあるし、二里のところもあるし、それで部隊のぽうぽうで火が燃えるわけですよ。部落から部落をずっと押して行って、一八歳から四五歳までの男を全部集める。それと山羊、牛、豚、真鐘類を全部集めるわけです。部落民にそれを全部持たして一定の地域に集合させるわけです。

 そこに軍のトラックがきて、山羊は山羊、真鐘は真鐘、人員は人員でまと砂て連れていくのです。つまり戦闘が目的ではなく、物資掠奪と人員の徴発が目的なんです。これを10月から12月の末まで二ヵ月やったわけです。その集めた人はどうなったかというと、青島に相当大きい体育場があるわけですが、集めた男を収容したんです。しかし、そこに入りきれないで、第一公園の競馬場に入れたわけです。その数は何千だか何万だかわからんのです。それが青島から船でどっちに行ったのかわからないのですよ。花岡鉱山で中国人の捕虜が死んだということをきいたんですが、その人達は実際は捕虜じやないわけですよ。実際は捕虜でもなければ八路軍でもない農民ですよ」(大野貞美「真相」1958年6月号)

その後も日本軍は、「一九秋山東作戦」(昭和一九年秋山東省での作戦の意味)、「二〇春山東作戦」を次々とおこなって、大々的な労工狩りをしていった。逃げる者や反抗する者は射殺するように命令されていたので、収容所に引致される前に殺害された人も多かった。次の証言もそのことをよく示している。

 うさぎ狩りで捕えられた中国人はうしろ手に縛られ、「われわれの自動車隊のトラックによって運ばれた。まがり角やなにかの所で、トラックの速度がにぶると、彼らのうちのあるものは脱走を企てた。だが、彼らがトラックからとびおりてかけだせば、すぐトラックの上から日本車の機関銃や小銃にねらいうちされ、死んでいった」(元独立自動車第六四大隊の一下士官の証言)

 こうして狩り集められた中国人は、青島捕虜収容所をはじめ、済南・石門・大同・北京・郁鄙・徐州・塘浩の収容所に集められた。このうち青島と塘活は日本への乗船地なので、他の収容所にいれられた人たちも、日本に連行される時はこの二つのどれかに集結された。どれも北支那方面軍が直接に管理する収容所で、所長には軍人がなり、門には日本軍の衛兵所があり、着剣した兵隊が守っていた。収容所の周囲は電流を通じた鉄条網で囲んであるほか、さらにトーチカで囲み、二人の兵隊が絶えず巡回していた。運よく生きたまま収容所にいれられても、日本車に捕えられた瞬間から、中国人の生命はないも同様であった。しかも、その捕虜収容所の生活がまた、たいへんなものであった。

当時、第五九師団の陸軍伍長だった五十嵐基久は、済南捕虜収容所の模様を次のように証言している。

 「収容所の中には土間にアンペラがしいてあり、捕虜にされた中国人たちはそこに寝おきしていた。寝具はなく、暖房も全くなかった。中国人の医者と称する者がいたが、病気になっても、殆どほうっておいた。

伝染病らしくなれば病舎という物置小屋のようなところに隔離した。死ねば穴に投ぜられた。中国人たちを収容所の外に出すようなことはほとんどなかった」また、日鉄鉱業釜石鉱業所の出張員が中国人を連行してくるために青島収容所に行った時の模様を、「バラック建てで40〜50坪のところに700〜800名をおしこみ、暖、冷の処置なく疲労と寒気のため病人続出、その中より死亡者多数が出ていた」と語っている。50坪の小屋に800人が収容されていると、どんなにすくなく見ても一坪に16である。すし詰めにしないと、収容できるものではない。

 捕虜収容所に集められた中国人は、日本へ連行される直前に、財団法人華北労工協会・日華労務協会・国民政府機関・華北運輸公司・福日華工会社などの、強制連行を代行している統制機関に渡された。そのあと日本政府は、厚生省が指定した全国135事業所とのあいだに、「供出」と「使用」の契約書をとりかわしている。中国から乗船した数は3万8935人だが、「外務省報告書」によると、死亡者は次のようになっている。

 日本に上陸するまでの船内で564人が死亡し、さらに上陸後に、135事業所へ到着するまでのあいだに、248入が死亡している。各事業所に到着したのは3万8213人であった。連行される途中でもいかにひどい取扱いをしたかは、死亡したこの数字からだけでも知ることができる。

 しかも、どうにか各地の事業所に到着することができた中国人たちも、日本の企業や日本人の残虐非道な扱いのなかで、次々と犠牲となっていった。敗戦後の1945年12月7日に集団送還がされるまでに、事業場内死亡5,999人、集団送還後死亡19人の合計6,830人もの中国人が殺されている。乗船した総数3万8,935人にたいし6,830人が死亡しており、死亡者の比率は17・5%にあたる。しかも、そのうちの4,000柱近い遺骨がまだ日本全土に散らばっているほか、約500入を越すと推定されている日本に
残った中国人は、いま、各地でひっそりとこの世に生きていると見られている。

 これが中国人強制連行のあらましだが、中国人労務者を導入した135事業所のなかでも、秋田県北にある同和鉱業花岡鉱業所の工事を請負っていた、鹿島組(現在の鹿島建設)花岡出張所に連行されてきた中国人の死亡者がとびぬけて多いのである。三回にわたって花岡鉱山に連行されてきた986人のうち、死亡者が418入と、他の事業所に比べると、比較にならないほどの高率なのである。もう一つは、3万8,935人の中国人を連行して、6,830人も死亡させながら、不充分な形でも敗戦後に裁きがおこなわれたのは、花岡鉱山の鹿島組関係者だけだったことである。花岡鉱山でだけなぜ裁判が実施されたのかであるが、日本が敗戦となる約一ヵ月半ほど前の1945年6月30日の夜に、あまりにも少ない食糧や補導員たちの虐待に中国人が蜂起したからであった。蜂起の後処理が残虐をきわめ、数日間のうちに100人近い死亡者を出
したほか、蜂起の指導者たち13人は秋田市の監獄に押送され、国防保安法第十六条による戦時騒擾殺人罪で、無期懲役などの判決を受けたのだった。

 だが、敗戦後に日本へ駐留した米軍によって、今度は花岡鉱山の鹿島組関係者が逮捕され、米第八軍軍事法廷は、三人の補導員に絞首刑、鹿島組花岡出張所長に終身刑、大館警察署長と巡査部長には重労働二十年の判決を下した。だが、1953年頃にどの人も仮出所して責任はあいまいになったほか、連合軍裁判では、もっとも責任が重いはずの鹿島組社長をはじめとする日本建設工業会に所属する各社の最高責任者、華北労工協会などの労務統制機関の責任者、鹿島組の労務員、蜂起して山の中に逃げこんだ中国人を竹ヤリなどで殺した在郷軍人・青年団員・警防団員などは、裁判からはずされてその責任を問われることがなかったのである。

 花岡鉱山に連行された中国人の中から、裁判の証人として23人が送還されずに日本へ残された。しかし、裁判が終っても中国に帰らずに、そのまま日本にとどまった方が4人いる。北海道の札幌市にいる李振平(旧李光栄)・林樹森(旧劉当路)・劉智渠(旧劉沢)の三氏と、大阪にいる宮耀光氏の四氏であったが、1973年9月に林樹森氏が亡くなっているので、現存者は三氏である。 

    この記録は、宮氏を除いた三氏からの聞き書きが主体となってつくられている。


中国から花岡鉱山へ

「戦争と花岡鉱山」

 花岡鉱山は秋田と青森の県境にひろがる鉱山地帯にある、中規模のヤマでみる・この鉱山がその姿をあらわしたのは、他の鉱山にくらべると遅く、1885年に地元の人によって発見されてからだった。その後、鉱主も何度かかわったり、採掘が中止になったり、また再開されるという歴史を繰り返して、1915年に合名会社藤田組に経営が移った。その翌年から新しい鉱床が続々と発見されて大鉱山に成長し、1944年には花岡鉱業所として独立している。

 花岡鉱山は鉄道から距離的に近いうえに、良質の銅・鉛・亜鉛などを産出するので、採算のとれる鉱山として知られていたが、日中戦争がはじまったころから、軍需産業として生産が拡大されていった。太平洋戦争に突入すると、いっそう大幅な生産が要求されるようになり、1942年には花岡鉱山そのものが軍需工場に指定されて、月産3万トンから5万トンの生産が義務づけられ、増産につぐ増産がつづけられていった。

 だが、設備の不備、機械の不足、施設の老朽化などによって、産出量はなかなか伸びなかった。しかし、生産目標の達成は軍部からの至上命令であり、それがまた企業の利益とも結びついていたため、目標達成のために大量の人力を投入しなければならなかった。花岡鉱業所に残されている資料によると、鉱山の稼働員数は戦争が激化してくるにつれて、表1(下の「花岡鉱業所稼働工程表図」にも見られるように増大していった。とくに、最大の労働力を擁した1944年前後には、1万3,000人もの稼働人員を数えることができた。


◆その当時の稼働人員の内訳をみると、次のようになっている。

直轄人4,500人
朝鮮人4,500人(延べ人員)
徴用工
 挺身隊300〜400人
 勤奉隊300〜400人
 学徒隊300人
俘虜米人(英豪人含む)300人(最大の時は480人)
華人徴用工(東亜寮)298
諸負業者人夫 1,500人

となっている。鉱山労働者以外の人たちが、いかに多く鉱山労働に狩り出されていたかがわかる。

 さらに戦争が激化してくるにつれて、鉱山労働者も兵役につくようになったほか、怪我や病気などで入坑できなくなった坑夫の補充ができないために、労働力不足はいっそう深刻になっていった。そのため、徴用工の名目で国内から
狩りだされた寡婦・娘・少年たちまでが鉱山に動員され、15歳前後の少年たちや、20歳前後の娘たちまでが、坑内での地下労働を強制されるようになった。花岡鉱山ではこのように労需に追われて生産をあげるという形で、厖大な利益を確保している鉱山経営からすると、日本人も朝鮮人も働く道具の一つにすぎないことを、この事実は語っている。

 七ツ館事件後も、花岡鉱山では乱掘をつづけたが、いくつかの坑道の上を流れている花岡川の流れを変更しないと、七ツ館坑以外でもいつまた陥落が発生し、落盤や浸水などによって、発掘が中止されかねない事態になっていた。この危険を取りのぞくには、花岡川の流れを大幅に変更する必要があり、鉱山では水路変更計画を立案した。しかし、この水路変更の工事が火急を要することはわかっていても、増産に追われるだけで精一杯の花岡鉱山の手では、工事をおこなうのはムリな状態であった。そこで、鉱山採掘の一部を請負っている鹿島組に、この水路変更の工事を請負わせることになったが、鹿島組にしても新規の工事に労務者を集めてくることは不可能であった。この時に鹿島組で目をつけたのが、日本への連行が本決まりになった中国人労務者を使用することだった。

 鹿島組花岡出張所が、敗戦後に外務省へ提出した「華人労務者就労顛末報告」のなかで、その経過を次のように説明している。

 「工事を緊急きわまる短期間内に完成しようとしたため、大量の労務者を必要とし、その獲得に努力したが、時あたかも国運をかける大東亜戦争中期から後期におよび、日本人、朝鮮人労務者の充員はまったく至難の状態にあり、この唯一の解決策として昭和17年11月27日、日本政府決定による『華人労務者内地移入二関スル件』にもとづいて、華人労務者の急きょ移入就労をはかり、可及的速やかに工事竣工を期そうとした。そしてこの導入方針として、本社ならびに受け入れ事業場においてしばしば移入方針ならびに対策にかんする打合会を開き、内務、外務、厚生、軍需など関係各省の指示、指導事項にもとづいて慎重かつ万全を期し、統制団体である日本土木統制組合の援助と斡旋をうけ、現地供出機関である華北労工協会との契約諸項を遵守履行しようとつとめた」

 この報告書は全体にわたってあまりにもそらぞらしく、しかも責任のがれに終始した書き方をしているが、ともかく強制連行されてきた中国人は、こうして花岡鉱山の鹿島組花岡出張所に収容されて働くことが決まったのだった。


〜証言


李振平 
1921年に河北省河間県に生まれる。小学校卒業後に三年間ほど農業を手伝ったあと、人民解放義勇軍に入ったが、日本車に捕えられ、花岡鉱山に強制連行される。花岡鉱山では第一中隊第二小隊長として強制労働に従事。蜂起の時は主謀者のI人となり、秋田刑務所に入れられるが、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。中国代表部で衛兵の仕事をしたあと、東京や横浜などを転々と仕事をかえて移り住み、1956年に札幌に移る。札幌でも職をいくつかかえたあと、中国貿易輸出入の会社をつくり、現在はその社長をしている。

妻のほかに一男一女の子どもがある。


林樹森 
1917年に河北省寧普県に生まれる。小学校卒業後、会社勤めをしながら医者になる勉強をつづけ、やがて人民解放義勇軍に身を投じて医療の仕事に従事中に日本軍に捕えられ、花岡鉱山に強制連行され、看護班の仕事をした。敗戦後は病人の看護のために日本へ残り、そのまま裁判の証人となり、のちに中国代表部の衛兵の仕事をする。代表部を1953年にでてすぐに札幌に渡り、数々の仕事を転々とかえたあと、食堂を営む。1973年9月のある日、病苦と食堂の経営不振から服毒して自殺を図ったが、発見が早く助かるが、
9月26日に肝臓疾患に急性肺炎を併発して死亡。なお、知人たちがカネを出しあって、1973年の暮れにははじめて中国に行くことが決まっており、ふるさとの中国では二歳の時に生き別れた長男が、三十年ぶりの再会を待っていた矢先の死であった。死後には妻と中学二年生を頭に三人の子どもが残された。


 劉智渠 
1920年に河北省薪県郡均鎮に生まれる。小学校卒業後は。家業の農業に従事。十七歳で人民解放義勇軍に入る。一時、家に帰って農業をやり、二十歳の時に再び解放義勇軍に入り、日本軍に捕えられて、花岡鉱山に連行される。花岡鉱山では看護班に所属し、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。1964年10月に札幌に渡り、小さな屋台店から商売の仕事に入り、現在は新山観光株式会社の社長をしている。1951年に中国人俘虜犠牲者善後委員会が発行した「花岡事件」は氏のロ述によるもので、もっとも早く花岡事件の全貌を伝えた貴重な記録である。妻と一男一女がある。


李 
わたしね、1921年7月15日に河北省河間県に生まれたが、小さい時のこと、あまり覚えていないからね。小学校に入って終わったのが16歳の時で、中学校に行くつもりだったけど、もう日本の兵隊が毎日来るから、とても学校に歩いてられないでしょ。わたしだけでなく、ほとんどの子どもたち、そのために学校にいくのやめた。わたしの家、普通の農家だったので、農業の仕事手伝っていたが、一ヵ月のうちの半分は逃げていた。日本兵が襲ってきて、逃げなくてはダメだから、仕事にならないの。それでも三年くらいは農業の手
伝いしていたが、日本兵の来るの、だんだん多くなって、まったく仕事にならなくなってしまったさ。


 林 
日本兵、襲ってくるでしょ。逃げおくれて殺されたり、捕えられて連れていかれた同じ年ごろの人、かなりいたさ。
 李 友だち殺されたり、肉親を殺された人など、多かった。どうせ、毎日逃げとるでしょ。若い時だし、戦いしないとどうしようもないので、戦うこと決めた。いちばん最初に入ったのは人民解放義勇軍で、賀竜の部隊であった。それからゲリラになって、あっちこっち転戦して歩いたが、その間に、わたしたちの部隊のなかで、何百人も死んでしまった。ゲリラの戦いは、苦労ばかり多い。村に行くと、日本兵に見つかるから、行けないでしょ。夜中にこそっと行っても、村の人たちみんな逃げていない。家に残ったもの、日本兵来てみんな徴発して、なんにもない。腹減ってくると、ドロ水飲むね。死んだ人の上を、靴で踏みつけて歩く時もあるさ。ベトナム人の苦しみ、自分の体験とおしてよくわかる。戦争ひどいよ。

 林 
中国に来た日本兵、悪いの人多いよ。わたしの村に日本兵襲ってきたとき、妊娠している女の人を、何人もの日本兵が追いかけた。妊娠している人よく走れないよ。すぐつかまって、中国人も見てる前で、何人もの日本兵が強姦する。それ終わると、銃の先についた剣で妊娠した女の腹裂いて、赤子とりだすと、銃の先に刺して振りまわして、みんなで笑ってる。

日本兵、犬畜生より悪いね。あんなことばかりした日本兵、日本に帰ってきて、自分の家庭に入って、どんな顔して生きとるのか思うと、こわい感じするね。


 李
 1941年の春、わたしたちのゲリラ部隊、日本車に包囲された。包囲された距離、だんだん狭くなってくる。そのとき、わたしたちの部隊、鉄砲のタマも満足になく、武器も使えなくて、一週間でみんなつかまってしまった。あのとき、だいぶつかまった。つかまった人どれくらいだったかは、あっちこっち連れていかれて一緒でなかったので、よくわからない。一ヵ所にまとめられて、収容所まで歩くとき、何十人、何百人かがひと組になって連れていかれ、あっちこっちの収容所に入れられた。あのとき捕えられた人のなかで、中国の
東北の炭鉱に連れていかれた人も、だいぶいた。わたしと一緒に、石家荘の収容所に連れてこられたのは、十数人だったが、日本に連れてこられたのはわたしひとりだけね。石家荘の収容所には、1,000人くらいの人、つかまって入っていた。収容所は、日本軍が管理してた。わたしらいる時、収容所から逃げたの二人いたが、一人はすぐに銃で撃たれたね。一人は逃げたが、まもなく捕えられて収容所に連れてくると、みんなの見てる前で殴られたり、蹴られたりして、殺されたね。見せつけね。日本に連れてこられる時、石家荘の収容所の生活あまりひどく、みんなからだ弱っていた。からだ悪い状態のまま、日本に連れてこられた。 自分で立って歩けないような、からだの弱っている人ばかり、日本に来たさ。


 林
 わたしも石家荘の収容所に二ヵ月半ほどいたが、あそこでみんなからだ痛めた。食べもの悪く水も満足にないから、みんな栄養不良になったわけね。

李 収容所の食べもの、コウリャンのご飯と、醤油少し入ったスープだけね。それも一日に二回だけで、野菜や塩など、ぜんぜんないからね。あのとき、わたしたちなぜからだ悪くなったかといえば、河北省の人、コウリャンは少し食べることあるが、ご飯として食べたことないわけね。コウリャンは、アルコールの精がほとんどでしょ。コウリャンのご飯食べると、大便が出ないの。便所に行って、箸のようなものでえぐると、ポロポロ出てくるわけね。

 河北省では、コウリャンは豚の食べるもの。食べるもの少ないし、食べたものもこうだから、だんだんとからだ悪くなってくるの。そのうちにからだ弱ってきて、歩くこともできなくなってきた。一ヵ月以上も、歩けないでいた。石家荘に二ヵ月ばかりいて、わたしは這いながら、京の収容所に行く汽車に乗ったよ。


林 
北京の収容所で、わたしは李さんと一緒になったわけね。


李 
収容所の中じゃ、わからなかったけどね。石家荘から北京に行くとき、貨物の汽車に乗せられた。逃げられんように、有蓋車に乗せられて、戸を閉めてカギをするから、中にいる人、空気とれないの。あのとき、ちょうど六月の暑い時で、みんな縛られて、貨車の中に投げ込まれたでしょ。ひとつの貨車に25人も入ればいっぱいになるのに、100人以上も投げ込まれたでしょ。みんな豚みたいに、からだの上にからだのせていた。空気あまり入ってこないから、汽車が走ると、板目の狭いすき間からもれてくるわずかな空気に、鼻や口を押しつけてのみこんだね。おなかの方すくのはもちろん苦しいが、水いちばんほしいね。みんな縛られて、水ほしい、水ほしいって、声たてて泣くね。誰か小便あったら、それ自分で飲みたい気持になるの。その苦しみといったら、いまでも忘れられない……。北京の収容所に着いたら、ここはアワのご飯ね。アワのご飯は、河北省の人食べ馴れているし、消化もいいし、ここにIヵ月くらいいたら、どうにか立って歩けるようになった。やはり、栄養不良
で、みんなからだ悪くしてしまったわけね。ちょっと食べものよくなると、すぐ元気になるのだから、食べものがどんなに悪いか、わかるわけね。


中国での林さん

林 
わたしは1,917年に、河北省寧普県に生まれた。自分の家の先祖、みな医者だったが、わたしは、小学校でた16歳のとき、会社に入って働いたの。その会社の空気が、どうもわたしの性に合わない。その会社にあんまりいないで、やめて家に帰って、いろいろ考えてみた。うちの先祖はみな医者だから、わたしも医者になること考えて、こんどは北京に行くと、北京大学の医学部に入って、漢方薬の勉強した。ここで三年ばかり勉強してから、またくにに帰ってきたが、親は医者よりも商人になれと言った。二十歳すぎてから、また会社
に入った。その会社は、日本の綿会社の出張所であった。この会社に一年とちょっといたが、人いった頃は仕事なかなか盛んで、忙しかったね。


劉 
蘆溝橋事件の起きる前は、日本兵来ても、それほど悪いことしなかったね。悪いことやったけど、あんまりでなかった。この事件起きて、中国と日本と戦ってから、もうダメね。日本兵、中国人見つけると、殺して歩くという状態になったからね。
林 わたしね、蘆溝橋事件が起きるまで、綿会社に働いていた。この事件あって、中日戦争はじまったでしょ。そしたら、日本の兵隊毎日まわってくるさ。綿は綿花からとって、日本に輸出していた。戦争はじまって、輸出もできなくなった。会社にいても、仕事ぜんぜんないでしょ。いてもいなくても同じなので、会社やめてさ、また自分の家に帰ったの。家にいると仕事ないから、これからどういうふうに生きるか考えた。わたしの先祖、みんな医者でしょ。北京で医者の勉強したので、その方面で進もうと考えた。本買って読んだり、近所
の医者のところに住込みのようにして働きにいったりして、医者の勉強した。二十五歳のころになると、ようやく病人を診れるようになったさ。ところが、日に日に戦争ひどくなって、田舎の村にも日本兵が朝早くからやってくるさ。逃げれば危ないし、逃げなくとも危ないでしょ。もうどうにもならないさ。村の中にいて、落ち着いて暮らせなくなった。そのとき、考えたね。わたしの先祖や家族で、軍隊に入っている人、ひとりもいない。これではダメだと考えて、わたしは軍隊に入ることにしたさ。戦わないと自分たちの国、守れないからね。ほんとの軍隊ではないけど、八路軍の下に民兵みたいなものあるので、わたしはそこに入ったさ。わたしは軍服も着てないし、鉄砲も持ってないし、大きなカバン持って歩いていた。カバンの中にはいろいろな薬や、注射器など入れていた。そのころ、ゲリラの部隊の人が病気したり、怪我したりすると、あっちの村、こっちの村と、分散して農家にあずかるさ。その村の責任ある人のところに行き、病人のいる農家に行くさ。わたしは病人をみて、治療するさ。わたしがゲリラの部隊に入ったのは、こういう仕事するためだったからね。毎日のように、あっちこっちとまわって、病人をみて歩いたさ。



 わたしはゲリラの部隊にいたから、銃持って戦ったがね。食べもの少ないし、病気になったり、怪我する人も多かったさ。そういう人と一緒だと、戦えないし、逃げられないし、村の農家に頼んで置いていくからね。林さん、その人たちのことみていたわけね。



 日本兵は毎日、ひどいことばかりやってたさ。いまでも忘れられないこと、いっぱいあるよ。ある日の早い朝、昼はあぶないから、わたしは隣の村へ、まだ暗いうちに出発した。わたしが村を出てまもなく、日本兵はわたしのいた村を包囲した。日本兵は一軒一軒の農家襲って、食べものやニワトリなど、片っぱしから奪って車に積む。それから、女の人見つけると、片っぱしから一カ所に集めて、着物を全部はぎとって裸にした。四十人以上もの女の人たちに銃剣向けて、裸の踊りさせるね。まわりに集まった日本兵、その踊り見て、やんやとはやしたてる。恥ずかしさに負けた女の人たち、そばを流れてる川に、走ってとび込んでいく。川を流れていく女たちに、日本兵は鉄砲うってみんな殺したさ。わたし、高い木にのぼってかくれ、その様子見ていたが、あまりのひどさに、涙もでなかった。中国人はこんなこと、決してやらないよ。



 日本兵は男の人と同じに、抵抗もできない女や子ども、それに年寄りも手当たり次第に殺したし、蹴ったりしてかたわにしたからね。戦場になった中国の人たち、いくら被害受けたかわからないよ。



 村を襲う日本兵、まだ人が寝ているような、朝早くにやってくること多いさ。二回目に襲われた時は、山奥の農家にいた。その時は日本兵来たのに早く気がつき、自転車に乗って逃げたが、鉄砲どんどんうってくるので、自転車タマだらけになった。着ていた服にも、タマ当たったね。からだにタマ当たらなかったから、なんとか逃げることできた。だが、三回目の時はもうダメね。日本兵が来たのに気づいた時は、もう村が囲まれていたから、逃げるにも逃げられない。そのまま捕えられたのが、ゲリラに入って五ヵ月目のことさ。わたしは兵士だから仕方ないが、村の家には、兵士でない普通の人たくさんいるよ。日本兵来たとき、「わたし兵士じゃない、民間人だ」と叫んだ人も、みんな捕えられた。日本兵から見ると農民か、普通の民間人か、兵士なのか、よくわからないよ。それに、日本兵は働く人つかまえにくるのだから、男の人とみれば、八歳ごろの子どもでも、六十歳を越した年寄りでも、片っぱしから引っぱっていくのだからね。



 あとでわかったのだが、彼ら日本兵の目的は、人狩りだったからね。



 日本兵につかまった人、みんな広場に集められたさ。どの人も、着のみ着のままで、なんにも持ってないね。みんな広場の土の上に、坐らされたさ。日本兵の偉い人が、何かさかんに言ってるけど、何を言ってるのかぜんぜんわからないの。わたしそれを見ながら、あの人は何を言ってるかわからないけど、いいことではないと考えたよ。実際にそうなったが、わたしにはその時、妻と二歳になる子どもがいたの。もうどうなっても仕方ないさ、と覚悟はしてるけど、やはり心残るね。偉い人の話が終わって、しばらくたってから、向こうの農家の庭先に、土の固まりがあるでしょ。日本兵がその土くれ拾って、坐っている人の上になげるでしょ。その土くれ頭に当たった人をナワで縛り、トラックのそばに連れていって乗せるの。最初はなにやっているのかわからず、おかしかったけど、この土くれが頭に当たったらたいへんね。抵抗なんかできないまま、トラックに乗せられて、連れていかれるのさ。わたしの頭に土くれ当たった時は、目の前が真っ暗になった。トラックに人がいっぱい乗ると、
土くれなげるのやめて、トラックは走ったさ。それから石家荘の収容所に連れていかれて、トラックからぞろぞろ落とされたさ。



 石家荘の収容所に入ったら、みんな同じね。普通の民間人も、八路軍も、蒋介石の兵士もいる。年は八歳ごろの子どもから、上は七〇歳近い老人もいたさ。


林 
わたしの入った石家荘の収容所は、テント張りになっていた。建物の収容所には、つかまった人がいっぱいいて、人りきれないのでテント張ったらしいが、テントは雨露防ぐだけで、まわりには何にもないの。わたしらはここに連れていかれると、着ているもの全部ぬがされてしまったさ。逃走するの防ぐために、裸にしたわけね。夜になっても、土間にアンペラも敷かないし、空いた場所には小便や痰、吐いたものや下痢したものが散らばっているので、横になることもできないさ。食べるものも、一日に二回だけね。コウリャンの飯が小さな碗にもられて、一つだけ配られるの。腹へるし、寒いし、疲れはでてくるし、このまま死ぬんじゃないかと、何回も思ったね。


李 
わたしは建物の中で寝たよ。蒲団はないが、板の上にちゃんと寝たからね。同じ収容所でも、違ってたわけね。


林 
テントの中でも、飢えと疲れと寒さで、死ぬ人多かったよ。夜が明けると、日本兵が巡視にまわってくるさ。地面に横になってる人あれば、軍靴で蹴ったり、棒で殴ったりするね。生きてる人は、それでビックリして立ち上がるけど、死んだ人は動かないからね。死んだ人があると、そばの人に死体かつがせて、収容所のうしろの方に運んでいくわけね。わたしも二回、死んだ人運んでいったが、そこに大きな穴が掘ってあって、穴が死体でいっぱいになると、上に土かぶせるの。野良犬が夜中にその死体を掘りにきて、人間の骨をバリバリと音させて食ってる音、よく聞こえた。石家荘の収容所は、まるで地獄だったさ。


李 
テントの収容所のご飯、どうだったか。


林 
コウリャンの飯と、醤油が少し入って、ニラの刻んだのちょっと浮かんでいるスープだけ。李さんたちと同じね。コウリャン飯食べると、大便でないから、みんな苦しんだ。これでからだ悪くした人、多いね。あとで北京の収容所に行ったら、アワのご飯ね。これは自分たちもよく食べるから、おいしく食べた。これで、わたしもからだよくなったさ。

中国での劉さん

劉 
わたしの生まれたの、河北省蘇県郡均鎮で、1920年のことね。河北省には工業ないから、どの家も農家ね。わずかより土地ないから、中国でももっとも貧乏な地方さ。つくったものは、半年くらいあるかどうか。あと食べるものないから、働かなければならないけど、働く仕事もあまりないよ。小麦の刈る時と、秋の収穫の時に、土地を多く持ってる農家に、日給で働きに行くの。一年に三ヵ月くらいより、働くことできないよ。働いても、食事代くらいのものさ。1937年、数えで一七歳のとき、ゲリラ戦はじまり、わたしも参加した。その当時の中国では、百姓の金持たち、みんなライフルあるからね。10万人とか20万人に警察ひとりよりいないから、治安の維持できないでしょ。畠いくら持っていれば、ライフルー丁持っている義務あったの。そのライフルぜんぶ出して、カネのある人はカネ出して、人あれば人出して、協力して抗日するのやったの。指導者は遠くから来て、わたしたち組織された。武器あまりないから、わたしたちのような少年、なんにも持ってないさ。腕章だけしか持ってないからね。もう少しよくなれば、手榴弾持っているだけさ。はじめのころ、まだ日本の軍隊いなかったが、そのうちに北京方面からやってきた。わたしたち、あまり戦争の訓練受けてないから、日本兵来たら、山の中に逃げた。こんど、日本兵ビラまいたの。手榴弾とピストルを持っていなければ、許されて自分の家に帰れる、過去は問わないということ、ビラに書いてあるの。わたしなんにも持ってないから、こんど家に戻って、また農業やったの。こんな人、多かったよ。だけど、まだゲリラとつながりあるでしょ。わたし少年だから、目立たないけど、大人では恨みのある人、日本兵に密告されるでしょ。日本兵すぐ来て、調べもしないで首を斬る。多くの人、こうして殺された。二十歳のとき、百姓の仕事やめて、またゲリラに入った。八路軍もかなり組織されていたから、わたしも三ヵ月の訓練受けた。それから選ばれた人、また三ヵ月の訓練受けた。わたし生まれてはじめて、学校に入ったよ。この時はじめて、抗日の思想教えられたね。わたし、物心ついてから、安心して寝たことないよ。


李 
わたしたちの少年時代、いつも何かに襲われてる感じで、ピクピクしていた。


劉 
訓練終わってから、ゲリラになって、日本兵と戦ったさ。1944年の4月のことね。まだ朝の暗いうちに、わたしたち4人、隊長の命令受けて、河北定県の停車場に行ったの。今晩おこなわれることになっている、敵の鉄道破壊に備えて、土地の情勢をさぐりに行ったわけね。鉄道のまわり調べていると、突然、銃声がしたの。わたしたち、すぐに逃げようとしたけど、15、6人が射撃しながら進んできた。わたしたちも応戦したけど、すぐ弾丸なくなって、捕えられたの。この部隊、偽政府(汪精衛政権)の鉄道護路隊の中国人ね。二人の日本兵いて、指導していた。こんど、両手うしろに縛られて、汽車に乗せられた。わたしの着いたの、石門俘虜収容所ね。日本の将校と通訳に訊問されて、何回もピンクやゲンコツ貰ったけど、わたし、訓練受けた組織の一人だから、殺されると思った。訊問終わると、全部着物ぬがされて、裸にされて、テントの中に入れられたの。わたしの入ったテントの中、真っ裸の人、1,000人ぐらいもしゃがんでいるよ。しゃがみつづけていると、足とか腰痛くなるでしょ。少しでも動くと、監視の日本兵走ってきて、梶棒で叩くの。夜になっても、横になることできないの。着物つけてないし、土でしょ。横になりたくともできないさ。夜になると、テントのなか、夜風が吹き抜けるので、寒いの。ひと晩中、ふるえていた。眠ると、このまま死んでしまう気持ね。眼閉じたり、開いたり、眠つたのか、眠らないのか、自分でもわからないね。



 石門収容所の食べ物、どうだったか。


劉 
林さんたちと同じよ。コウリャン飯で、一人に小さな碗で一つ。二口か三口食べると、もうおしまいね。腹なでても、どこにご飯人ったか、ぜんぜんわからない。これが、一日に二回だけでしょ。こんど、水もないの。1,000人もいるテントに、水はひと桶よりこないでしょ。分けることできないくらい、少ないからね。日本戦争に負けるまで、飲み水で苦しんだね。わたしのいたテントの中でも、たくさんの人死んだ。死んだ人たちの顔、いまでもちゃんと思い出せるね。5月に入ってから、わたしたちに着物渡されたの。その着物きる
と、収容所の庭に集められたでしょ。日本人の将校、「こんど、特別な恩典で、お前たちを北京の西苑更生隊に送ることになった。一日も早く、真人間になれ」と叫んでるの。このことの意味、通訳でわかったのだけど、すぐ汽車に乗せられた。この車、荷物とかカマス運搬する有蓋車だから、窓もなければ、坐席もないの。手をうしろに縛られて100人ほど乗ると、貨車の戸閉められて、外からカギかけられるでしょ。李さんの場合と同じね。空気人ってこないでしょ。その貨車に、一昼夜くらい乗ったけど、食べ物も水も、一回も配られないの。

飢えはなんとか我慢できるけど、喉の渇き、とても我慢できないの、水ほしい、水ほしい、と狂い出しそうになった。わたしの乗ってた車で、一人窒息で死んだ。西苑更生隊に着くと、こんどは建物の中に入れられたの。石門収容所みたいにテントでないから、坐ったり、横になることもできたね。


李 
食べる物どうだった……。


劉 
トウモロコシのお粥、一日に二回配られるの。量少ないけど、コウリャンのご飯よりいいよ。ここで嬉しかったこと、水いくらでも飲めたことね。構内に溝あって、山の上から、水どんどん流れてくるの。毎日、その水飲むことできるの。この水のおかげで、どれくらいの入、助かったかわからないね。ここでも、たくさんの人死んだ。日本兵に殴られて死ぬ人もあったし、食べ物少いから、からだ弱いの人、すぐ病気になるの。病気になると、隔離室に送られるの。隔離室に入ったら、もう終わりね。元気になってもどってきた人、わたし見たことない。隔離室に行くと、底が引き出し式になった、大きな棺桶おいてあるの。この棺桶、一度に十数人の屍体入るね。亡くなると、次々にその棺桶に入れて、一杯になると、わたしたちにそれかつがせるの。遠くに運んでいくと、深い穴掘ってあるの。その上に棺桶おいて、引き出しを引くと、屍体が穴の中に落ちるようになっているの。その上に土かぶせて、次に運んだ時に、その上にまた屍体落としてくるわけね。たくさんの人死んで、部屋の中、広い感じになっていくでしょ。すると、また新しい人たち、どっとやってきた。そうだ、西苑にいた時のことで、いまでも忘れることできないのある。ある日、わたしたち昼食していると、広場に集まれと命令きたでしょ。外に出ると、広場の真ん中に国旗立てる旗竿あって、裸にされた一人の中国人、縛られているの。通訳の説明だと、屍体運んで行った途中に逃げて、捕えられたもので、これから処刑するというの。歩兵銃を持った一小隊来ると、銃の先に、銃剣つけていた。こんど、二人の兵隊、隊長の命令で、銃剣つき出して、縛られた人に突撃していったでしょ。からだに二本の銃剣ささった時の叫び声、いまでも聞こえるよ。それ終わると、死んだ人のからだに、二人の兵隊が組になって、次々と突撃していくの。一小隊みんな突き終わると、縛られた人のからだ、めちゃくちゃになっていたさ。殺された人たちのこと思うと、いまでも胸痛いよ。

地獄のような貨物船

李 
北京の収容所に二ヵ月ばかりいて、それから青島の収容所に運ばれた。この間に、多くの人死んだよ。青島に三日ほどいてから、こんど船に乗せられたけど、船に乗る前は、どこに連れていくとも、ぜんぜん知らされなかった。船に乗せられて、どこに連れていかれるのか考えると、覚悟していても、不安で仕方なかったさ。船に乗るのことはじめてだから、不安も大きいわけね。


林 
わたしはね、北京の収容所から汽車に乗せられて青島に着いたけど、収容所には一泊だけで、船に乗せられた。どこに連れていかれるのか、誰も知らないからね。船に乗るとき、日本の兵隊が銃持って、両側についていたさ。逃げられるといけないからね。このとき、一緒に船に乗った人、確か300人と聞いた。


劉 
わたしたち、西苑にいた人には、日本に連れていくと、はっきり言ったよ。七月の中ごろのことね。わたしたちに着物渡して、広場に集めたでしょ。そこで、「君たち、日本に送って土工の仕事させる」と、日本の将校言ったよ。こんど、日本に行くこと選ばれた人たち汽車に乗せられたでしょ。めずらしく客車だったけど、どの出入口にも日本の兵隊ついて、きらきら光る銃剣持っているさ。きらきらの光る銃剣見るたびに、殺された人のこと思い出して、胸が痛いよ。途中、日本兵の油断見て、一人の中国人、窓からとび出して逃げたの。
それ見た日本兵、めちゃくちゃに銃うったけど、命中したかどうか、汽車そのまま走ったからわからない。青島収容所に一泊して、次の日、船に乗せられた。この船、日本に行く船と、わたしわかっていた。                       


李 
わたし知らないから、どこに連れていくのか、ぜんぜんわからないよ。みんなうしろ手になわで縛られて、日本の兵隊、銃剣持って両側に並んでいるあいだ通って、船に乗ったの、七月中旬ごろのことね。船に乗ったら、また汽車の中と同じ状態よ。わたしたち乗った船、石炭運ぶ貨物船でしょ。石炭いっぱい積んでいて、わたしたちその石炭の上に乗せられた。船に乗るとなわとかれたけど、七月ごろの黄海のなか、もう真夏でしょ。石炭のつまった船倉に入れられて、しかも頭の上に、厚い鉄の蓋してあるから、暑いったらないよ。まる
でセイロの中みたいに暑い。


林 
石炭の上に坐ると、鉄の蓋までのあいだ、いくらもないね。背の高い人、頭つくくらいの高さよ。それに、陸が見える間は、逃げられるといけないから、鉄の蓋しまったままでしょ。甲板の上にも出さないの。それでもね、水入れてよこすとき、ちょっと蓋あけた時に、船倉からとびだして、海にとびこんだ人あったけど、助かったかどうかね。陸から、だいぶ離れた様子だったからね。


李 
船の中、水ないでよ。食糧も、わたしたち食べるもの、ぜんぜんないでしょ。持ってきたトウモロコシの粉あっても、船倉の中、水も火もないから、マントウつくることできないの。結局、わずかに配られる水と、粉をまぜて固め、ボロボロのマントウみたいなものつくって、一つ一つ配給した。生のマントウ、少しずつちぎって食べたけど、これ食べると、いっそう水飲みたくなるの。喉から胸にかけて、渇きで、火ついたみたいに痛むの。


林 
水一日、たった一回より配給ないでしょ。その水でマントウつくるから、一人にひと口かふた口より渡らない状態よ。        


李 
日本の船員きて、船のなか、水たくさんないから、みんな我慢して、少しずつ飲んでくれと言われた。だけど、船倉のなか、セイロの中に入ってるみたいに暑いでしょ。我慢のできない人、大勢いて泣いとるよ。泣いてもしようがないけど、苦しければ泣くね。泣いても声だけで、涙でてこないよ。あのとき、船の中に一週間ばかりいたけど、死ぬような毎日ね。


劉 
港から船でた二日目の晩に、鉄の蓋あけてくれて、甲板に出ることできた時あったの。港から遠くなって、逃げることできないと考えたわけね。海にとび込んでも、死ぬだけのこと、誰の目にもはっきりしているからね。そのとき、誰か小さいバケツ見つけて、みんなのズボンのひもはずしてつなぎ、長くして海の水汲んだね。みんなでその水飲んだけど、黄海の水、にがくて、辛くて飲めないの。口に入れて、ちょっと飲んだけど、みんな吐いたよ。それでも、水ほしい人、うんと飲んだけど、その人たち、後でもっと苦しんだよ。口の中や喉かきむしって、苦しがったね。

李 
わたしたちの乗った船、沖縄にひと晩とまったね。船のどこか壊れたの、修理する音したけど、アメリカの飛行機の空襲あって、船停泊しても、わたしたちのこと、甲板に出さないの。日本軍、勝っていることばかり聞いてたから、アメリカの飛行機の空襲見て、わたしたちびっくりしたね。


林 
確か、琉球にも、ひと晩ぐらい停泊したね。アメリカの飛行機きて、船進めることできないわけね。五日目から、船の中の水なくなったといって、水ぜんぜんくれないさ。石炭むれて、船倉の中の空気、まるでストーブの中に顔入れてるみたいに苦しいさ。船の中の生活、収容所の生活より、もっともっと苦しい。からだ弱ってるの人多いから、船に酔う人多いでしょ。便所あっても、行くことできないから、石炭の上にやるでしょ。その匂いもひどいよ。

劉 
船の中での生活、ほんとに苦しかったね。食べる物いっぱいあっても、船倉の中で、船酔いひどいから、食べたかどうかわからないね。


李 
わたしたちの乗った船、だいたい一週間で、目本の下関に着いたね。船降りるとき、ちゃんと歩けるの人、そんなにいないよ。食べるもの少ないし、水ぜんぜんないでしょ。それに、最後の二目くらい、歩くこともできないから、足立たないの。船降りると、整列して点呼やったけど、300人乗ってきたのが、297人になっていたよ。一人はトラックで青島の収容所から、船に運ばれる間に逃げて、射たれて死んだでしょ。一人は海にとび込んだし、一人は病気で死んだね。病死した人、そのまま海に投げられて、終わりになったさ。


林 
点呼終わると、日本軍の命令で、ボロボロの服着てるの、ぜんぶぬいで棄てたさ。それから風呂に入って、全身消毒された。いい服配給になって、それ着た。わたしたち下関に着いた晩、ここに泊まったけど、ご飯も水もぜんぜんこないの。


李 
日本は魚の国でしょ。日本に着くと、うんと魚食べられると思ってたけど、水も渡してくれないよ。次の日ね、おにぎり二つくれたの。何日も食べてないから、みんなそのおにぎり、呑みこんでしまった人多いよ。下関から花岡まで、四日間も汽車に乗っていたけど、この間にもらったの、駅の弁当一つだけね。木の弁当箱まで、バリバリ食べたいような気持ね。あのときの297人の人たち、五十歳以上の人たち20人くらい、一六歳より少ない少年が6入ぐらいでしよ。あとの人はみんな、二十代から三十代の青壮年たちでしよ。いちばん腹の減る年ごろに、四日の間に駅の弁当一つで、水もなんにもないから、おなかすいて気違いのようになるの。あたりまえのことね。


林 
わたしたち乗せられた汽車、有蓋車でしょ。その貨車の中に押し込められカギかけられるから、中に空気入ってこないの。中国で乗った時の汽車と同
じね。みんな壁の板張りの、板と板の隙間に口や鼻つけて、空気吸ったよ。でも、汽車とまると、空気人ってこないでしょ。その時は汽車の中、もう地獄のような暑さね。とまった汽車、出発するとき、みんな隙の方に倒れてしまうの。立っていること、ぜんぜんできないくらい、みんな弱っているわけね。


劉 
汽車走ったり、とまったりするけど、わたしたちのこと、貨車の外に出さないでしょ。大便、小便、みんな貨車の中ね。夏の暑い時でしょ。空気あまりないから、その匂いだけでも、からだ弱るね。


李 
花岡に着いたの、汽車に乗って、四日目の昼のことね。貨車のドアあけられても、立って線路に降りることのできる人、何人もいないよ。みんな貨車から線路にころがり落ちたさ。わたしね、貨車から落ちた時に腰打って、息止まったような気持して、しばらく立てなかったさ。するとね、日本の憲兵来て、木刀で突くの。やっと立っても、ふらふらして歩くことできないの。


林 
花岡に着いた日、はっきり覚えてないけど、確か八月八日のことね。わたしたち花岡に着くまで、汽車の中で二人死んだから、花岡に来たの295人ね。よく途中で死なないで、花岡まで来ることできたと、いまでも不思議に思うね。


苛酷な労働の中で(中山寮の中国人)

 中国で捕えられてのちの苦しい収容所生活のあと、貨車、貨物船、貨車と乗り継いでの強制連行の旅が、それこそ死の旅そのものであったことは、前章の三人の話から十分に知ることができる。太平洋戦争も末期に入って、海上や国内の交通は安全を保てなくなってきており、食糧不足もかなり深刻になってきていた。それにしても、真夏に、立っていることもできないほど多くの中国人を貨車の中に押し込めたまま、不足している食べ物はともかくとして、ふんだんにある空気や水さえ十分にあたえようとしなかった。貨物船で下関に着いてから花岡鉱山に到着する四日の間に、中国人たちが口にすることができた食べ物は、駅弁一つにすぎなかった。しかも、食べ物もあたえないでカツカツにやせ細った中国人を花岡鉱山に連行して、水路変更工事という大規模な土木工事をやらせようというのだから、たいへんなことであった1944年8月8日に花岡鉱山に連行されてきた第一次の295人の中国人たちは、鉱山の近くにある姥沢につくられた寮に収容された。その寮は鉱山町から三キロほど離れており、かなり急な勾配の山道を登らなければならなかった。寮の名は中山寮といったが、中山寮の建っている場所からは、民家が一軒も見えなかったし、鉱山町からも中山寮は見えなかった。日本人の目から中国人を隔離すると同時に、中国人からも日本人を隔離していた。

 中山寮は三棟の建物から成り立っていた。寮の中は汽車のように真ん中が通路で、両側が板を敷いた座席と寝床の兼用で、上下の二段となっていた。板間の上に坐ると、背の高い人は頭がつかえるほど低かった。中央に石油ランプが一つ下がって、ほの白い光で殺風景な部屋を照らしていた。もう一棟の片側には、食堂、炊事場、事務所、補導員の宿直室、倉庫などが並んでいた。

 二棟の大きな建物から少し離れたところに、重病人を収容する部屋のほかに、遺骨安置室と看護人のいる看護棟が建っていた。この看護棟の近くに死体焼き場があったが、後になってたくさんの人が死ぬようになると、死体を焼く木や、遺骨を入れる木箱の支度ができなくなったので、穴を掘って埋めるようになった。そのため、中山寮の近くにある山の中腹は、人を埋めた穴が並んで鉢巻き状となり、それが鉱山町からもはっきりと見えた。のちにこの山は、地元の人たちから鉢巻き山とよばれるようになり、恐怖の目で見られるようになった。

花岡鉱山に連行された中国人たちの一日は、ようやく朝が明けたばかりの山間で鳴り響く軍用ラッパの音ではじまった。ラッパの音で目が覚めると、板の間に坐った。着たきりなので着替える必要はないし、布団は一枚も配られなかったので、たたむ仕事もなかった。顔を洗う手拭も歯ブラシもないので、坐ったまま大きなあくびを二、三回やり、上げた手をおろした拍子に目を何度かこすり、それから顔を二、三回なでると、朝の準備は終わった。

 ようやく朝の陽がさしてきたころ、食事が配られた。朝食は昨晩の食事と同じに、味もあまりついてない煮たフキ1本と、饅頭が一つだけであった。みんなは呑み込むようにして食べた。

 食事が終わると、中山寮の前に整列した。伊勢寮長代理や現場の補導員たちも集まり、東京の宮城に向って遥拝した。それが終わると、伊勢寮長代理の訓話がはじまった。

「みんなはじめて花岡に来だのだから、特別待遇として最初の一週間だけ休憩をあたえるが、その後は本格的な作業に入ってもらう。だが、この一週間も遊んでいるのはもったいないから、寮の整理をする以外の人は、山を開墾して畑をつくることにする。この仕事も大東亜建設に尽す義務のひとつだから、なまけたりしないで精いっぱいに働け……」

 訓話は通訳から伝えられた。その後で、全員の編成がおこなわれた。全員を1大隊とし、その下に中隊を置き、中隊の下に小隊を置いた。小隊の中では、10人の班編成をした。最初は三中隊、9小隊に分けられたが、1945年に入って第二次と第三次とが連行されてきてからは、4中隊、12小隊に分けられた。最初の編成を図で示すと、下図のようになる。

 大隊長には耿諄がなったほか、副隊長には羅世英、書記には劉玉卿、軍需長には任鳳岐、看護長には劉玉林が任命された。また、中隊長には李克金、張金亭、王成林が任命されたし、小隊にもそれぞれ小隊長が置かれた。林樹森と劉智渠は看護班に所属していたし、李振平は第二小隊長であった。

 また、鹿島組花岡出張所と、中山寮とに勤務して、直接に中国人たちを扱った日本人は、次の人たちであった。(なお、年齢は全部が1944年8月現在である)


鹿島組花岡出張所

所長は河野正敏(40)で、中山寮長も兼ねていたが、中山寮に出向くことはあまりなく、出張所にいることが多かった。河野の下に労務課長の柴田三郎(45)、労務係の高久兼松、佐藤勇蔵、配給係の塚田亀夫などのほかに、女子事務員も合めて約20人前後の人たちが勤務していた。


中山寮
 もと裁判所の書記であった寮長代理の伊勢知得(40)の下に、庶務が2人、補導員が8人、医務担当が1人いた。しかし、医務担当の高橋豊吉は医師の資格もない元衛生兵で、一日に看護棟に一回顔を出すだけで、あとは中山寮の中にいたが、病人に手をかけることはほとんどなかった。また、鉱山病院の大内正医師は、死亡書を言いなりに書くだけで、病人の治療にあたることはあまりなかったという。

 しかも、伊勢と庶務の越後谷義勇、補導員の石川忠助をのぞいた7人は、全員が兵隊経験を持っていた。それも、7人のうちの6人が中国大陸帰りの傷痍軍人であり、中国人に対してもっとも狂暴にふるまったのは、この人たちだったのである。中国の戦場で中国人たちを虫ケラ同様に扱った軍隊生活を、花岡で中国人連行者の上に再現させたのだった。中国帰りの6人は、片言にしても中国語のわかる人たちであった。その6人とは、小畑惣之介(32)、福田金五郎(35)、古谷四郎(25)、長崎辰蔵(30)、猪股清(30)、檜森昌治(35)であった。また、補導員の一人である清水正夫(25)は中国混血で、中国語が非常に上手だった。

この清水もまた、思いっきりに狂暴の牙をふるって、多くの人たちを死に追いやり、中国人からもっとも憎しみの目を向けられた一人であった。三人の会話の中にも出てくるが、軍需長になった任鳳岐はその地位を利用し、それでなくとも少ない食糧の中から、その量をごまかして中国人に食べさせずに、家に帰る補導員に渡したり、自分で売って遊廓に行くなどの行為で憎しみを買い、蜂起の時にはいちばん先に殺された。この二人の例でもわかるように、血のつながる同胞たちを自分の手で痛めつけ、苦しませたということは、今日的問題としても十分に考えたい事実である。

 それに、兵役経験のない越後谷義勇(19)と石川忠助(40)の二人は、あまり中国人をかばいすぎるとして、同僚たちから快く思われていなかった。この二人は、しばしば中国人を助けたり、こっそりとかくれて食べ物などをあたえていた。そのため、蜂起は二人が宿直でない晩を選んで実行されたことでもわかるように、中国人たちから信頼されていた。中国人にたいして狂暴を振わなかったのが、兵役経験のない二人であったことも、さきにあげた事実と同様に、考えたい問題である。

 このほかに、大館警察署長の三浦太一郎、その下にいた特高警察の後藤健三などが、中国人たちを監視するために、毎日のように中山寮や作業現場に来ていた。また、華北労工協会から通訳として派遣されてきていた于傑臣と、同じく華北労工協会から来て本部にいた木村初一などがいた。

こうした状況の中で、第一次連行者の295人は重労働についたのである。特別待遇の一週間がすぎると、本格的な重労働に入った。早朝から数キロも離れた現場に行くと、花岡川の流れを変更する工事に取りかかった。しかし、土木機械は一つもなく、なわで編んだモッコと、スコップやツルハシだけという人の力だけをあてに、岩石の多い平地に幅二丈に深さ三丈の川を掘るのだから、現場で働く中国人にとっては、重労働の連続そのものであった。

 しかも、毎日の食べ物といえば、一回に小さな饅頭一つと、フキかゴボウの煮たのが一本というように、極端に貧しかった。また、衣服も不十分そのもので、雪が降りはじめても、着ているのはシャツ1枚だけであった。また、板間のベッドにはゴザさえも敷いておらず、雪が降りだしてから毛布が一枚だけ配られるという状態だった。

 また、鹿島組補導員たちの残虐な数々の行為は、多くの中国人たちを死に追いやったり、一生不治の怪我をさせたりした。食べ物が悪くてからだが弱っているために、掘った川底から土や石を運び上げることができないといっては梶棒で殴られ、腹が減るので裏山で草を取って食べているのが見つかると、死のリンチを受けるという状態だった。ほとんど毎日のように仲間たちが殴る蹴るの暴行を受けて殺されたり、栄養失調と重労働のために、20歳代の若者たちが次々と看護棟に送り込まれていった。看護棟には医者がくることはなかった  し、薬もひとかけらもあたえられなかったので、林さんの記憶によると、看護棟に入った人で再び丈夫になったのは一人だけで、あとの人たちは死んでいったという。

 1944年夏から1945年の夏にかけてというように、日本の戦局がますます悪化してきた状況下での出来事であり、「戦時中だから仕方なかったのだ」と、中国人たちにたいする行為を弁護する人が、現在でもかなりいる。だが、三回にわたって鹿島組花岡出張所で連行してきた986人のうち、死亡者は418入と多いのにくらべて、同じ場所の同和鉱業花岡鉱業所に連行されてきた298人のうち、死亡者は11人だったことをあわせて考えると、いかに鹿島組の場合がひどかったかがわかる。


食糧を奪う補導員

 敗戦後に民間団体の手で作成された『現地調査報告書』には、次のような話が収録されている。中国人が連行されてきたころに、花岡の役場に勤めていた人は、「すべてのことが軍の秘密だといって役場には知らされず、食糧の配給のことも、県から直接にやられていた。何人きたのか、どうして死んだのか、なんで死んだのかも役所ではわからなかった。食糧はピンハネされていたようで、真っ黒い蕗二本、皮をむかないものと、まん頭一ツわたされていたのを見ました。汪精衛の方からよこされて、鉱山に直接に使われていた人達は、同じ配給であったそうだが、わり合いしっかりしていたから、鹿島組は本当にひどいことをしたものだ」と語っている。

 この話でもわかるように、鹿島組に連行されてきた中国人が、とくに苛酷な扱いを受けたのであった。それは、毎日の重労働と同じように、中国人たちがもっとも苦しめられた食べ物の場合もそうであった。それでなくとも少なく配給される食糧の中から、鹿島組の幹部や中山寮の補導員たちが、自家用として運んでいったり、あるいは大量に売り払って飲み食いのカネにされていたのである。食べ物が少ないために多くの中国人たちが栄養失調となりそれが原因で病気になったり、あるいはからだが弱って仕事ができないといっては、補導員
に殴り殺されていったのである。

 補導員たちの多くは、大館市から中山寮にかよっていたが、戦時中に大館市大町に住んでいた嶋田展代さん(故嶋田普作代議士の長女)は、その当時の記憶を次のように語っている。

 「わたしたちのいた大町の管原さん宅の奥のいちばんいい部屋に、花岡鉱山の鹿島組出張所長をしていた河野正敏さん一家が借りられていました。そこには、立派な防空壕(わたしたちも何度か入りました)があり、それは母から聞いた話によると、朝鮮人(当時は中国人とは言わなかった)がつくったものだそうです。わたしたちはいつも食糧難でしたが、奥の河野さん宅には、見たこともない角砂糖があったり、うどん粉があったり、美しい奥様がいつもきれいにしていらしたのが、まるで別世界のように、わたしには見えました」

 『現地調査報告書』の中でも、蜂起した時に殺された補導員の近所に住んでいる人の話として、「彼らの家では、いつも食糧が豊富であった。われわれのところはますますひどい状況になっていくのに、彼らの食生活はますます豊かになった。彼らが中国人の食べ物をピンハネしているのだと噂されていた。中国人に殺されたと聞いて、近所では、当然だと話しあった」と記録されているのをみても、食糧が補導員の手で勝手に持ち出されており、しかもその量は、近所の噂になるほど多かったのである。

 食べ物だけではなく、毎日の労働についても同じであった。中国人たちがあまりにも少ない食べ物の増加や、労働条件の改善などを要求するたびに、鹿島組ではその報復として、翌日から建設週間というのを計画し、さらに厳しい労働を押しつけてくることがしばしばだった。建設週間に入ると、補導員の指定した普段よりも多い一日の仕事量を達成しない組は、暗くなっても帰寮したり、食事をとったり、休んだりすることが許されず、真夜中までも働かされた。

 目撃者の一人は、「食べものがひどい上に労働の過重は、とても朝鮮人の比ではなかったのです。夏の日の長いころですが、日もすっかり暮れてうすぐらくなってから、ふっと泣き声が耳につく。出てみるとあの人たちです。水路工事に使う長い杉の立木を、二人で、さきっぽとさきっぽをかついでいる。二人とも顔は見えないが、足など火箸みたいにやせている。腹はすいている。木は重い。二人はちょうど四つ五つの子供が泣くように悲しくて泣く時のように、暗がりに木の重みでふらつきながら、こう、声をひいて泣いているのです。すると横についている監督が、これみろとばかりに棍棒でなぐる」と言っている。
(松田解子「花岡鉱山をたずねて」−『新しい世界』より 


 少ない食べ物と、長時間にわたる厳しい労働の中で、多くの人たちが怪我をしたり、あるいは病気になったりして看護棟入りをしたり、仕事ができないといっては、補導員に殴る蹴るの扱いを受けて死んでいった。ある時、看護棟入りをする人や、死亡者が続出することが鹿島組本社の注意をひき、一人の医師が鉱山病院から中山寮に派遣されたことがあった。しかし、この医師は病気の治療にきたのではなく、本当の病気なのか、それとも仮病を使っているのかを検査に来たのだった。答える声にちょっとでも力があったり、歩いたりすることのできる人はみんな仮病と診断され、看護棟から中山寮に移されて補導員に梶棒をくわされてから、強制的に現場へ追い出されていった。

 やがて、花岡鉱山にも冬が訪れ、みぞれの降る季節となり、地面は凍りつくようになった。しかし、秋田の冬がはじめての中国人には、夏シャツの上に一組の作業衣が支給されただけで、目撃者のある坑夫は、「冬でも丸はだかに近いぼろシャツ一枚に、背中に雪よけの菰、足にはぼろわらを巻いて、凍った水に脛から股までひたして働かされていた」と『現地調査報告書』の中で語っている。しかも、寮で寝る時に着る一枚の毛布が渡されたのも、雪が降り出してからのことであり、それまでは板の上に着たきりの姿で横になっていたというから、正気の沙汰ではなかった。厳しい冬が終わりをつげるころになると、約八ヵ月前に295人が花岡鉱山に来たのにその三分の一にあたる90人ほどの人たちが死んでいたほか、再起不能の病人や怪我人が40人近くでていた。働く人が減っていくにつれて、仕事は生き残った人たちの上に重くのしかかるようになった。だが、死んでいく人はますます多くなり、工事を順調にすすめていくことができなくなってきた鹿島組では、再び中国人たちを連行してくる計画をたてた。そして1945年5月に587人、同じく6月4日に98人の中国人たちを、新しく花岡鉱山に連行してきたのだった。


 新しく中国人たちがやってくると、鹿島組の補導員たちはその見せしめとして、何人かの中国人を多くの人たちの面前で殺害していった。しかも、食べ物はいっそう悪くなってきたほか、秋田県労働課の指示によって、これまでよりも朝晩二時間の作業時間の延長を中心とした工事突貫期間が実施された。こうした残虐な仕打ちの中で、多くの中国人たちは、「生きているよりは、死んだ方が楽だ」と考えるようになった。


毎日の死体焼き

 林 
花岡鉱山についた晩、会食するのこと言っていた。なに出るか楽しみにしてたら、夜遅くなってから出たの、イワシー匹と饅頭一つね。寮の中に、わたしたちのご飯つくる人いないでしょ。わたしたちの中から料理つくれる人選んでつくったから、遅くなったの。饅頭ね、うどん粉少しより入ってないの。あとはリンゴのカスとか、ドングリの粉でしょ。あとは知らない草みたいなもの、いっぱい入っている。ふわふわしないから、ぜんぜん饅頭の味しないの。だけど、おなか空いてるから、イワシと饅頭、すぐになくなったさ。イワシの頭も骨も、みんな食べた。大きい骨も、残さないね。


 李 
配給のうどん粉、もともと少ないのに、寮長や補導員たち、その粉家に持っていったり、売って、夜、外へ飲みに歩くか、遊びに行くかするでしょ。もともと少ないもの、こうして取るから、もっと少なくなるわけね。足りない分は、山のドングリの粉とか、リンゴのカスとか、干した草などまぜて、饅頭つくるの。その饅頭も、小さいったらないの。わたしたち、重労働者でしょ。一人で一回に、10個以上も食べられる大きさよ。それがたった一個でしょ。しかも、おなかの空いてる時でも、うどん粉の少ない饅頭固くて、ノドを落ちていかないの。そのままの状態で食べた人もいたけど、わたしはその饅頭ほぐして、おかゆ作るの。昼は現場に出るからそんなことできないが、朝と晩はいつもおかゆにして食べた。おかゆにすると、ノド落ちてゆくね。


 劉 
まったくあの饅頭、人間の食べるものでないの。腹の中に入ったら、30分もすると、下痢になってしまうの。下痢はじまると、足とか手とか腫れてくるさ。その腫れたところ指で押すと、ぽこんとひっこむの。中国でつかまえられた時から、食べものこの状態でしょ。からだ弱ってくるのも、当然のことね。


 李 
花岡に着いた次の日に、班編成やったさ。このこと、鹿島組からの命令ね。耿諄大隊長は、船に乗ったとき、もう決まっていたさ。この人、国民党軍の上尉で、性格弱いところあったけど、なかなかできる人ね。その下に、中隊を全部で四つ作って、中隊長置いたの。

 中隊の下に小隊つくって、それから10人の班にしたの。1中隊の中に3小隊つくったから、全部で12小隊あって、その上に小隊長いるの。1つの班には、班長いるの。このほかに、書記、軍需長、看護長がいて、看護長の下に看護班あって、三人の人いたの。これ、だいたいの班編成ね。わたしは前にも言ったけれど、第一中隊の第二小隊やったの。班編成終わると、鹿島組の人や補導員たち、これからの生活とか仕事のこと、隊長や中隊長とか小隊長を集めて教えたね。わたしたちや小隊長、そのこと班の人たちに伝えるわけね。


 劉 
わたしと林さん、看護班にいたでしょ。花岡に着いて三日間、寮の中やまわり整理したね。寮の前に井戸掘ったり、便所つくるの仕事もした。ほかの人たち、畑つくるの仕事した。こんど、川を掘る仕事に出ると、病人とか怪我人が出てきたね。


 林 
看護班の仕事、病人のひと看護することより、死んだ人を焼くの仕事多かった。人死ぬと、寮のうしろにある山に運んでいくの。それから木集めて焼いて、最初は骨をカメに入れたけど、こんど、だんだん多く死ぬのでカメなくなり、木の箱つくって入れたさ。わたしたちのいる看護班の小屋、寮と少し離れたところにあったでしょ。わたしたちのいる部屋と、働けない重病人のいる部屋があって、その奥に、遺骨の箱置いた安置室あったの。わたし中国で、医者のような仕事したでしょ。それで看護班に入ったけど、薬一つもないし、包帯もないよ。重病の人あっても、怪我した人あっても、水でひやしてやるか、背中とか腹さすってやるだけね。結局、病気になると死ぬだけね。大きな怪我した人も同じさ。高橋という、元衛生兵の医務担当の人いたけど、この人、わたしより病気のこと知らないから、なんにもやらないの。一日に一回だけ、看護室に、「どうした」と、顔を出すだけね。鉱山病院にも、大内正という医者いて、わたしたち中国人のことみることになってたけど、看護室に来て治療に当たったの、一回もないでしょ。死んだ人あると、死亡届を書きにくるだけね。その時も、事務所に来て、補導員から聞いたまま書くだけさ。わたしたちにも聞かない。自分で死体みて、手をふれて調べたこと、一回もないの。一日に何人も死ぬ日つづくと、病院で聞き。ながら、死亡届書いたこともあったさ。病気になる人多いのに、医者もこうでしょ。わたしのほかは、誰も病気のこと知らない。わたし、病気の原因わかっても、薬ないからなんにもしてやれない。死ぬのを待っているだけね。


李 
病気といっても、ほんとの病気の人、少ないよ。食べ物悪いし、少しだけでしょ。普通の日でも、朝6時から晩の6時まで、土方の仕事するでしよ。からだやせてふらふらして、どの人もちょっと強い風吹くと、倒れてしまうよ。足の太さも、腕より細いからね。みんな、栄養失調と寒さからきてる病気ね。だから、倒れて重病室に運ばれると、みんな確実に死ぬわけね。死ぬの日、遅いか、早いだけのことね。重病室に入って、生きのびた人、一人だけね。


 林 
わたしたち中山寮に入った最初のとき、死ぬ人あまりいなかったが、日がたっていくと、死ぬ人多くなってきた。だんだんと、からだ弱まってきたからね。はじめての時は、何日かおきに一人か二人死んでいたが、冬に入ると、一日に二人も三人も死ぬ日あるよ。病気になる人も、だんだんと多くなってくるさ。結局、倒れたらダメよ。これ、李さんの言うとおりね。わたし看護班にいたから、中国人のからだのこと、よくわかるの。少しカゼひいて、現場に出られない状態になって、看護棟に運ばれてくるでしょ。それから三日か四日、長くとも一週間寝ていると、もう終わりさ。ぜったいに死ぬよ。病気になって、仕事に出ないと、それでなくとも量の少ない饅頭の大きさ、また小さくなるの。いくらも食べることできないから、からだもっと弱って、病気に勝てないわけね。


 劉 
それでも夏の間、わたしたち山に登って、よく草食べたさ。昼の休み、いくらかあるでしょ。補導員たちに見つからないように、いろいろな草食べたさ。これで、わたしたちだいぶ助かったね。こんど、雪が降ると、この草食べることできないわけね。雪食べても、腹いっぱいにならないからね。


 李 
食べものこんなに悪くて少ないうえに、中山寮の設備も、ぜんぜんダメだからね。わたしたち花岡鉱山に来たの、8月の半ばのことでしょ。昼は暑いけど、夜はもう寒いからね。わたしたち、日本の気候に馴れてないから、とくに寒いの。寝るところ、上下二段のベッドで、板は敷いとるけど、蒲団も毛布も、一枚もないの。着替えるものも持ってないから、そのままごろっと横になるだけね。腕枕にして寝たの。疲れてるから眠るけど、夜中に寒さに気がついて、何度も何度も目が覚めるの。だから、夜も十分に眠れないからいからだもっと疲れるわけね。


 林 
せめて、アンペラぐらい敷いとるといいけど、それもないからね。中山寮のあるところ、かなり高い山の中腹でしょ。夜になると、冷たい風吹きおろしてくるから、寒いの。羽目板の隙間から、その寒い風入ってくると、からだカタカタふるえてくるの。足縮めて、丸くなって寝ても、寒くて死にそうな思いね。


 劉 
中山寮の中に、風呂もないでしょ。からだ、垢だらけでしょ。カミソリもないから、頭の髪やひげ、のび放題さ。一枚きりの衣服、ぼろぼろでしょ。わたしたちの姿、地獄で難行苦行している亡霊みたいさ。


難儀な川掘り作業

 李 
仕事もきついからね。花岡に来て三日間は、寮の中の片づけや、寮のまわりの整理したでしょ。それから四日間は、特別待遇ということで、土方の仕事に出ないで、山を開墾して、畑づくりの仕事したの。この期間終わると、川を掘る仕事に出ることになったでしょ。朝は五時になると、軍用ラッパ鳴って、起こされるでしょ。寒いし、おなかすいとるから、その前に目覚ましていること多いね。顔洗う水もないし、手拭もないから、朝の仕度は、便所に行くだけさ。朝のご飯は、饅頭一つに、皮のついたままのフキ煮たの一本か、細いゴボ
ウの煮たの一本か出て、もう終わりでしょ。わたしはおかゆに煮て食べたから、時間少しかかったけど、腹いっぱいにならないから、あとは水飲むだけね。その水も、あんまり多く飲んでいるの補導員に見つかると、すぐ棍棒とんでくるから、水もあまり飲めないよ。


 林 
労働するの時間、朝の6時からはじまるでしょ。中山寮から川掘る現場まで、かなり遠いね。わたしたちの看護班も、はじめは病人いないから、土方の仕事に歩いたよ。誰か死ぬ人あると、中山寮に運んできて、焼いたけどね。


 李 
遠いさ。あれ、四キロはあるよ。それに、山の坂道が半分以上あるからね。朝くだっていく時はいいけど、晩に帰る時はたいへんさ。途中で息切れて、何度も休むね。休むの見つかると、補導員の梶棒とんでくるから、息切れそうになっても、なかなか休めないの。仕事は、平たい地面のところ深く掘って、水流してくる川つくることでしょ。仕事のやり方、補導員が大隊長に話して、大隊長から中隊長、それからわたしたち小隊長、それから班長に伝わっていくの。仕事の終わる時間、だいたい午後の6時となってるけど、6時に帰れる人、
何人もいないさ。ひとりが一日働く分として、川を掘る面積、1uずつ割り当てられるの。6時までにその分の仕事終わった人は帰れるけど、その分終わらなかったら、暗くなっても帰れないさ。晩の8時ころまで働く人もいたさ。


 劉 
仕事のできない人、わたしたちの寝るころ、中山寮に帰ってくる人もいた。ふらふらして、寮の中も歩けない状態ね。指でポンと押すと、倒れてしまいそうな歩き方ね。その人、次の朝、また6時に仕事に行くでしょ。何日もしないうちに、看護に運ばれてきて、死んでしまうわけね。ひとり一日に1uの面積掘るの仕事、あまりひどいよ。


 林 
現場で働く人、何班にも分けられたでしょ。一班は10人だから、10u割り当てられるわけね。平たい地面のところ、川に掘るわけだから、石が多いでしょ。その掘った石、川の上に運び上げないといけないけど、力ないから、上に運び上げるの仕事、たいへんさ。何十キロもある大きな石、三人か四人かかっても、上にあげることできないの。途中まで上げて、力なくなって、また川に掘った底に落としてしまうこともあるの。そのこと、補導員に見つかるでしょ。牛の皮の干したムチや、棍棒でもって、上に運べない人たちのこと叩く
の。倒れるとカネのついた軍靴で、倒れてる人のからだ、どんどん踏んで叱るの。こうして殺された人、かなり多いさ。


 李 
もっとひどいのことね、晩の8時か9時までかかっても、10uの割り当てられた分、掘れない班もあるでしょ。遅くなって、坂道ふらふらに登って、中出寮に帰ってきても、こんど夜のご飯減らされるの。その時によって、三分の一に減らされるか、半分に減るかするから、からだぜんぜんダメになるね。働きながら倒れる人、多くなってきたの。倒れて重病室に運ばれると、もう終わりさ。あの時の状態、どの人もガラガラにやせて、歩いてもふらふらだから、大きな石運べないの、当然のことよ。


 林 
わたしね、誰とだったか二人で、遠い山から、長い杉の木かつがされたことあったの。生木の長い木だから、重いでしょ。川掘っているところまで来ないうちに、暗くなってしまったの。足ふらふらして、おなかすいて目まいするでしょ。わたしの相棒倒れたの。すると補導員来て、梶棒で叩くでしょ。泣きながら立ち上かって、また二人でよろよろ運ぶの。夜の8時、現場に着くと、二人ともあと動けないの。補導員の清水が、早く寮に帰れと、また梶棒ふるってくるさ。このとき、もう死んでもいいと思った。わたしの相棒、そのとき清水に腕折られて、一生かたわになったよ。


 李 
補導員のろくでなしは、一つの中隊に二人か三人、一つの小隊長に一人はついているからね。わたしたちを殺すために、補導員がいるようなものさ。


 劉 
わたしたちのからだ、やせ細って、歩くのもふらふらの状態でしょ。ところが補導員、なにを食べてるか知らないが、みんな元気でしょ。その元気な人たち、わたしたちのことカー杯に叩くのだから、たまったものでないよ。補導員たちのからだ、肥ってくるほど、わたしたち死に近づいていくような状態だったさ。


 林 
わたしたち、日本人のことばよくわからないね。補導員に「オーイツ」と呼ばれると、もう叩かれるか、踏みつけられるかでしょ。この叫ぶの聞くと、もうからだ固くなったさ。いまでも補導員たちの叫ぶの声、よくわかるね。


 李 
補導員たち、中国のことばわかるの人多いね。ほとんどの人たち、わたしたちの言うのわかるの。だからわたしたち、あまり文句や悪口、言ったりできないの。そのこと聞こえると、また棍棒とんでくるからね。花岡鉱山の普通の人たちも、補導員と同じ態度の人ほとんどね。わたしたち、寮から現場に行く途中に、鉱山社宅とか、家のそば通って行くでしょ。わたしたちのこと見ると、大きな声出して笑うし、子どもたちは、わたしたちのこと見ると石投げてよこした。助けてくれた人、少しはあったかもわからないが、わたしには一度もなかったね。わたしたち髪ぼうぼうに伸びて、ひょろひょろにやせて、目ぎょろぎょろして、風呂に入ったのこと一度もないから、からだの匂いするからね。きたないお化けか思って近づかないの、あたりまえのことね。


 林 
わたしも民間の人に助けられたこと、一度もないさ。わたしたちと道路で会うと、道路わきまで逃げて、黙って見ていたさ。わたし、いまでも思い出すこと、一つあるの。わたしたち、道路に何か食べられるもの落ちていると、なんでも拾って食べたでしょ。そのこと、補導員見つけると、「こら、犬ども」と叫んで、叩くでしよ。腹減ってるから、食べられそうなものあると、なんでも拾って食べたい気持ね。そのこと毎日見ている人、道路のそばに住んでいる女の人ね。わたしたち通ると、腐ったような食べ物、わざと道路に投げてよこすの。わたしたち、それほしいけど、補導員そのこと見てるから、手出せないでしょ。ひとりの入、我慢できなくて、それ拾って口に入れたら、補導員走ってきて、梶棒で何度も頭とか顔叩いたの。その人、片方の耳から血出して倒れたけど、その入、それから片方の耳聞こえなくなったの。ひどいことする女の人いるね。わたしその時のこと思うと、いまでもその女の人の顔わかるよ。憎いよ。草食べて飢えしのぐ。

 李 
花岡にいた時のわたしたちは、日曜も祭日も、ぜんぜんなかったさ。休んだ日、1944年の大晦日に半日と、1945年の元旦の一日だけね。あとの日、どんなに天気の悪い日でも、仕事に出た。しかも、食べ物悪いうえに、少ないでしょ。どの人も、骨と皮ばかりにやせて、生きた顔してる人、ひとりもいないよ。


 林 
わたしたちほとんどの人、農家の生まれで、小さい時から労働してきたから、働くのこと、なんともないよ。働くのこと、好きな人多いよ。だけど、花岡では、食べる物少しよりくれないで、無理に労働させるでしょ。からだ弱って、歩く力のない人、石運ぶ力のない人あると、棍棒で殴ったり、小突いたりするわけでしょ。これではどうにもならないよ。働くこと好きな人でも、働くことできないよ。


 劉 
中国にいた時も、わたしたち、そんなにいい生活してなかったさ。八路軍に入ってからの生活、苦しかったこと多い。食べ物もいいもの少なかったけど、たくさん食べていたからね。腹いっぱい食べると、力出てくるし、働けるけど、饅頭一つに、ゴボウかフキの煮たの半分か一本では、働く力出てこないのは当然ね。


林 
あんまり腹減ってしようがないから、昼休みの時間になると、補導員のいない時に、そっと山に登って、草を取って食べるの人多いよ。だけど、日本の草のこと、どれ食べられるか、食べられない草か、わたしたちよくわからないでしょ。草食べたあと、腹痛む人もあったし、口から白いアワふいて、山ころげまわって苦しんで死んだ人も、一人か二人あったさ。
そのこと見ても、腹減ってくると、また草食べに行くでしょ。わたしたちの手にはいる食べ物といえば、草とか水よりないからね。


劉 
その草食べるのことも、補導員がいるとダメだからね。草食べているの見つかると、また梶棒で殴られるからね。わたしたち、腹減って苦しんでいること、いちばんよく知っているの、補導員たちでしょ。その補導員たち、わたしたち草食べているの見ると、怒るわけでしょ。どんな気持の人たちか、ぜんぜんわからないよ。


李 
夏の間は、それでも草食べられるからいいが、秋になるとその草も枯れて、食べられないからね。食べる物、どこからも拾うことできなくなるよ。しかも、秋だんだん深くなると、骨と皮ばかりにやせたからだ、寒さいちばんこたえるさ。わたしたちの着てるもの、下関に着いた時にもらった夏用の一重物が、二枚よりないよ。履物も破れてしまって、素足がまる見えさ。雪とか、凍った砂とか、冷たい水とか、いつも入ってくるからね。足は凍傷にかかって、感覚なくなっているよ。手袋なんか、一つもないよ。素手で、凍った土や石、雪つかんで働いたさ。


林 
靴下もぜんぜんないからね。雪降ってから、ワラを少しずつ集めて、貯めておくの。そのワラ貯ってから、履くものつくってはいたさ。このワラの靴はいても、足だけかくせることできるけど、あとはかくせないから、濡れるだけね。秋田の冬、雪が深いでしょ。多い時は、腰までも雪があるさ。その雪の中で、半分も破れた履物の上に、ワラで編んだ靴のようなものはくだけで、仕事に出るのだから、苦しいの当然よ。あの時の凍傷のあと、いまも寒くなると痛むね。この傷のあと痛むと、あのころのこと思うよ。忘れようとしても、わたしのからだ忘れさせてくれないわけね。


 李 
着るものだって、ボロボロの下着の上に、薄くて黒いワイシャツのようなもの、たった一枚でしょ。薄いから、強い風吹くと、肌に風ささってくるね。雪降ってる日だと、からだみんな濡れてるから、とくに寒いさ。冬になってから、セメントの入ってきた紙の袋見つけて、ワイシャツの下にその紙まいて、着た人もいたさ。セメントの袋そんなにないから、あたらない人は、ワラで編んだゴザみたいなもの着てる人もいるさ。わたしも、はじめはセメントの袋見つけて着だけど、紙だから濡れるとすぐ破れるから、俵をゴザのように、自分
で編み直しだの着たさ。強い風の吹く日は、ゴザの上からからだに風をとおしてくるから、寒いよ。ぶるぶるふるえて、働くこともできないさ。わたしたち、まるでドロボウみたいなかっこうしていたさ。吹雪の強い日は、寒くて、唸るような声たてて、泣いとる人多いよ。雪の中で働いていて、倒れると、もうそのまま死んでいること多いね。倒れてから死ぬのじゃなくて、死んでから雪の上に倒れる人多いね。


 林 
死んでいく人、最初からわたしたちの手にかかるさ。わたしと劉さん、看護班にいたからね。花岡に来た最初のころは、一人ひとりていねいに焼いていたし、遺骨入れるカメもあったさ。ところが、だんだん多く死んで、焼く木が不足したり、遺骨入れるカメとか、木箱なくなってきたでしょ。こんど、山に丸い穴掘って、一人ひとり埋めて、だれ死んだかわかるように、本に名前書いて立てたよ。これ、あとで掘ったけど、誰のものかちゃんとわかるさ。こんど、冬になって、病気になる人多くなって、一日かひと晩に、五人も六人も死ぬ日がつづくようになったよ。もっと多くの人、一日かひと晩のうちに死んだこともあったさ。こんな時、わたしたち三人の看護班だけで、死んだ人運んだり、穴掘ったりすること、間に合わないの。土凍ってるから、そんなに穴も掘れないでしょ。わたしたちの中でも、病気の人いたからね。こんど、からだの弱い人、三人か四人、死んだ人運んだり、埋めたりする仕事、専門にやるようになったさ。それでも間に合わないと、わたしたちも手伝うさ。こんど、伊勢寮長代理の命令で、山の中腹に、大きな穴掘ったね。深さもだいぶあるさ。わたしと李さんの二人、戦争終わってから、そこに行ってみたことあるけど、大きな一つの穴に、遺骨掘った人の話聞くと、八十何人が入っていたと言っていた。死んだ人、山の中腹にかついでいくと、その穴に入れて、上の方に土かぶせるのでなく、白い石灰あるでしょ、その石灰まいて終わりさ。次の日に、また死んだ人あると、その上にまた死体入れて、石灰まくわけね。その大きな穴から掘られた人、全部そうして埋めたから、どこの人かわからないよ。三日と
か四日、死んだ人なくて、その穴のところに行かないでいると、犬とか猫とか、いたちが穴の中に入って、人間の屍体、食べていることもあるさ。腕とか足とか、食われてなくなっているところもあるさ。食われて散らばっているもの、誰の腕か足か、もうわからないね。冬になって、雪深くなるでしょ。中腹の穴のところまで、運んでいけないことあるさ。その時は、中山寮のそばに雪の穴掘って、死んだ人その穴に埋めて、あとで雪少なくなってから、穴に運んで埋めたこともあったさ。これ、わたしたち勝手にやったことでなく、鹿島組か補
導員の命令ね。生きとる時も、わたしたち虫ケラのようにされたが、死んでからも同じだったさ。


 李 
冬の寒い時のこと、口で言えない苦しみね。着ているもの少ないし、はいとるもの破れとるでしょ。しかも、仕事は川をつくるのことだから、掘った溝の中に、雪のまざった水、膝まであることもあるさ。着物は、上から下まで、全部濡れとるでしょ。暗くなってから、中山寮に帰るね。手足しびれて、やせた足や手の肌の色、黒いような、死んだ人の色のようになって腫れてるよ。こんな時の手足、どんなに叩かれても、痛くないの。火で、腫れた手足あたためると、こんど痛むの。あまりの痛さに、火にあたって、ヒエヒエ泣いとる人いるよ。濡れた着物つけたまま、火にあたって乾かすでしょ。花岡に来てから、一度も洗ったことないから、乾くと鮫の皮みたいにザラザラしてくるから、ぜんぜんあたたまらないさ。冬がきても、着物つけたまま、あとなんにもないから、ベッドの板の上に横になっているだけでしょ。寒いから、ひと晩中ふるえつづけているさ。次の朝、起きようとしても、足とか手が動かないの。板の上に起きあがって、足や手をだんだんに動かして、歩けるように馴らしていくさ。晩に寝る時、次の朝、生きて目が覚めるのかなと、いつも思ったよ。


 林 
わたしたち看護棟にいること多いから、その苦しみは、李さんたちほどでなかった。食べ物悪い、着るもの少ない、夜も寒くて眠れないのつづけば、病人の多くなるの当然さ。冬になってから、いったん病室に送りこまれてくると、次の朝に死んでること多いさ。からだ弱って弱って、死にそうになってから、病室に来るからね。看護棟には、薬も病入用の食べ物もないから、どうしようもないよ。


劉 
雪がたくさん積ってから、第三中隊の人、二人にかつがれて病室に運ばれてきたことあった。彼のからだ、全身びしよ濡れで、氷のように冷えていたさ。目固く閉じて、人事不省になっているの。補導員に殴られて、ダムの中に落ちた二人が、引き上げられてきたわけね。手足にさわると、氷のように冷たいし、耳にロつけて名前呼んでも、ぜんぜん動かないの。胸のあたりに、小さな温みあって、低い息が聞こえるので、生きてるのこと知らせているわけね。だけど、看護棟に火もないから、お湯もやれないし薬もないでしょ。いろいろ考えたあげく、わたし庭に出て、死んだ人焼くための薪持ってきて、火燃やして、暖めてやろうと思っだの。薪持ってこようとしたら、軍需係の任鳳岐が来て、「薪どこに持っていくのか」言うの。「病人のこと温めるためさ」と言うと、この薪、死人を焼くためのものだから、ダメだというの。任鳳岐の奴、もう中国人の心忘れていたわけね。彼の反対で、薪持ってこれなかったけど、そのとき、怒りが胸いっぱいになって、どうすることもできなかった。その晩のうちに、病人は死んだけど、次の日、彼のからだ温めてやることができなかった薪で、彼の屍体焼いたの。口惜しいので、涙流れて仕方なかったよ。


死人の肉を食べる

李 
正月近くなってから、軍隊用の毛布、一人に一枚配給されたよ。この毛布かぶって寝てから、夜も眠られるようになったね。だけど、外はもっと寒くなってきたでしょ。こんど、配給になった毛布ね、からだから腕、それに足と、研究して上手に巻いて、その上にシャツ着て毛布をかくし、外の仕事に出たよ。これやると、あまり寒くないからね。このこと、補導具に見つかると、大変よ。梶棒とんできたり、蹴られたりするからね。ほとんどの人、毛布巻いたけど、この毛布のおかげで、死なないで助かった人、だいぶあるよ。あの毛布着なかったら、わたしも寒さに負けて、死んでいたかもしれないさ。


林 
わたしたち看護班も、毛布からだに巻いたよ。これで、前に比べると暖かくなったけど、こんど、うんとシラミ出たね。わたしたちに配られた毛布についてきたか、日本軍につかまってから、風呂に入ったこと、ただの一度もないでしょ。着替えるものもないから、からだも着物もアカだらけだからね。自分たちのからだから湧いたのか知らないけど、いっぱいからだについたよ。仕事から帰って、小さい饅頭食べて、お湯腹いっぱいのんで、きょうも生きられたと思っとると、シラミの奴、動き出してくるの。痒くて痒くて、もう黙っていられないの。背中に手入れてかくと、皮膚弱っているから、すぐ傷ついて、血流れるの。腹のあたりに、手入れてかくと、爪の間に、シラミ何匹もはさまってくるよ。一人のからだに、何百匹とついとるから、大変よ。夜中にも痒くて、何度も目が覚めるね。着替えるものないから、シラミのついた着物、洗うこともできないからね。


李 
シラミも、昼間は出ないね。なんにも痒くないの。寒いから、シラミも動かないわけね。


劉 
もう一つある。シラミわたしたちのからだの血吸っても、わたしたちのからだ、昼間は半分死んでるでしよ。感じない、ということもあるね。


林 
シラミたくさん湧いて、間もなく正月になったね。わたしたち、花岡に来たころは、誰も時計持ってる人いないし、中山寮の中に、暦もなかったの。あとでわかったことだけど、わざと暦、寮に置かなかったわけね。最初のうちは、誰もきょうは何日か、知らずにいたね。こんど、病人が出るようになって、死ぬ人たくさん出てくると、死んだ人の死亡報告書かく必要あったから、わたしたちの看護棟にだけ、暦一枚きたね。その暦で、はじめてきょう何日かということ、わかるようになったよ。正月きたことも、その暦でわかったね。


李 
大晦日の晩だったかね。日本に来て、わたしたちはじめて肉食べたの。あの時のうまかったこと、いまでも忘れることできないよ。よく覚えてるよ。


林 
大晦日の日、馬の頭と内臓が、わたしたち中出寮に渡されたわけね。肉のいい部分、鹿島組の人とか、補導員たち家に持っていったさ。わたしたち、その頭と内臓、料理したの。みんなで同じ部屋に集まって、食べたさ。


李 
あとのき、食べ終わってから、部屋の中に集まってる人見たけど、中国から一緒に花岡へ来た295人のうちで、死んだ人が90人ばかり、病気の人が40人ばかりいたね。年寄の人はほとんど死んで、あれは焦補学だったか、ひとりより生きていなかったさ。来年の大晦日の時には、この中から何人の顔見られるか、と誰かが言ったとき、部屋の中の人たち、しんとなったこと、いまでも覚えてるよ。今晩か、あすに死ぬの、殺される人、どの人か誰も知らないからね。自分かもしれないからね。


林 
わたしたち花岡に来てから休んだの、大晦日の午後と、元旦の一日だけね。大晦日は肉食べたけど、元旦になると、もうなんにもごっそうはないさ。いつもの小さな饅頭一つと、ゴボウかフキの煮だの、半分か一本だけだからね。


李 
正月すぎてから、この食べ物では、わたしたちのからだもたない。仕事のするのもムリだから、もっと食べる量、多くしてほしいと、わたしたち何度も、鹿島組の河野所長に要求したさ。鹿島組の事務所、中山寮から少し離れたところにあるの。そこに、大隊長や中隊長などと一緒に行って、河野所長の前に坐って、土に頭つけて、もっと量多くしてくれと頼んだよ。とくに、病人の食べ物、わたしたちと同じ量にしてほしいと頼んだよ。病気になったり、からだ弱くなって働くのことできなくなると、看護棟に入れられるでしょ。働かなくなると、食べ物の量も、半分にされてしまうわけね。半分のものもらってきて、カユにして食べていたでしょ。それでなくても小さい饅頭が、半分になるわけでしょ。病人だから、体力つけなければいけないのに、これでしょ。だから、病人になって看護棟に来る人たち、みんな死んでいくわけね。その病人たちの食べ物、わたしたちの食べるのと、同じ量にしてくれと要求すると、事務所の人たち来て、なに言うかと、わたしたちのこと梶棒で叩いたり、軍靴で踏みつけたりするの。もっと困ったこと、わたしたち、もっと食べる物多くしてほしいと要求に行くと、次の日から何日かのあいだ、饅頭の大きさ、もっと小さくなることね、見せしめに、小さくするわけね。これにはわたしたち、ほんとに困ったよ。


劉 
正月すぎてから、変わったこともう一つあるよ。正月の前の饅頭の中にも、リンゴのカスとかドングリの粉入っていたが、本当のウドン粉も、いくらか入ってたさ。正月すぎると、饅頭の中に、ウドン粉ぜんぜん入っていないさ。リンゴのカスもわずかより入らなくなって、なんだかわからない木の皮の粉など、入っているの。口の中に饅頭入れると、臭くて、砂みたいにザリザリして、固くて、とても食べられたものでないの。こんな食べ物ばかりつづくから、からだの弱い人、年寄の人、栄養ぜんぜんとれないから、どんどん死んでいくよ。冬になって、雪いっぱい積もると、食べ物、どこからも拾えないからね。


李 
からだやせて、腹の減る日つづくと、頭のおかしくなる人出てきたね。からだの弱い人、これに早くかかるよ。真夜中に食べ物のこと叫んで、とび起きる人も出てくるさ。わたしの小隊に、李相子という人いた。この人、からだ非常に弱いから、仕事の現場に、とても連れていかれないの。伊勢寮長代理に何度も頼んで、冬のころから、この人に、死んだ人焼いたり、土に埋めたりする仕事させていた。林さんたち看護班のほかに、そんなことだけする人、三人か四人いたからね。それだけ、死んでいく人多かったわけね。現場か、中山寮で死んだ人あると、裏の山に運んでいくの。木集めて屍体焼いたり、木集められない時、穴掘って埋めたりすること、専門にやっていた。そうした人焼くの仕事する人、わたしたち労働する人たちより、食べ物の量が少ないの。病人よりは、いくらか多いけどね。結局、あの人我慢できなくなったわけね。ある晩、わたし発見したね。寝るところの上に、木でつくった自分の箱持ってるの。わたしはじめは、なんの箱かなと思っていた。いつかの晩、李相子が、その箱の中に手入れて、なにか食べているの見たの。なにを食べているのかな思って、次の日、彼がいない時に、その箱の中、さがしてみたでしょ。箱の中に、焼いた、赤いような肉人っているの。寮の中に、勝手に食べられる肉あるわけないから、なんの肉か、ぜんぜん見当つかないの。最初、これが人間の肉とは、思わなかったさ。彼に、これなんの肉か聞いたの。はじめは、いくら聞いても、言わなかったが、何度も聞いてるうちに、人間の肉であること言ったの。わたしびっくりして、その箱取り上げて、食べないように言ったの。だけど、また何日かすると、また人間の肉持ってきて、食べるの。わたしも、一回は叩いたさ。死んだ人の肉食べるのこと、人間のすることでないと言ってね。それに、死んだの人、もしか伝染病あるかもしれないでしょ。お前は、人間でないと怒ったの。あとで、考えたね。そのころのわたしたち、口の中に入れるものあったら、なんでも入れたい気持ね。そのこと、人間のやることじゃないけど、腹減ってるの状態、もう一年近くつづいとるわけでしょ。その苦しみの気持、わたしにもよくわかるの。腹減ってる時の苦しい状態、いま話しても、わかっ   てもらえないことね。


林 
わたし、人間の肉食べること見たことないが、耿大隊長の言うの、聞いたことあるの。耿大隊長が看護棟に来て、死んだ人を焼きに行く人の中で、缶詰のフタで、屍体の肉とって食べとる人いる、これはいかんと言っていた。李相子のほかにも、かなりの人、人間の肉食べたらしい。


李 
人間の肉食べられてることわかった時、この姿、こんどはわたしの姿になるかもしれないと思った。わたしも、我慢できなくなったら、人間の肉でも何でも、食べる気持になるだろうと思ったの。このこと、あの当時のわたしたちの本当の気持ね。
 


蛮行重ねる補導員

林 
花岡鉱山には、わたしたち中国人のほかに、朝鮮の人と、アメリカの捕虜も来ていること、知ってはいたの。アメリカの人とは、あまり近づかせないようにしていたけど、朝鮮の人とは、仕事のやり方わからないことあると、現場に来て、働きながら教えてくれることあったの。そんな時、昼一緒に食べるの見ると、朝鮮の人、わたしたちよりいいもの食べとるね。わたしたちのように、ひょろひょろにやせていないの。わたしたち、腹減らしているの見て、自分たちの食べ残したものとか、余分な食べ物とか、こっそり持ってきて、補導員の見てない時に、それをくれるの。そんないい人、朝鮮の人の中にも、何人もいたよ。その時の嬉しかったこと、いまでも忘れないよ。どこの国でも、いい人はいるよ。朝鮮の人たちの着てる服も、わたしたちのものより厚いし、いいもの着てるから、寒くないわけね。


李 
そのこと、アメリカ人の場合も同じね。わたしたちと顔合わせること、ほとんどないし、近づかせないようにしていたわけね。わたしたちの中山寮より上の方の、一キロばかり離れたところに寮あって、そこに入っているの知っていたよ。アメリカ人の寮にいる人、どれくらいかよく知らないが、400人くらいはいたね。アメリカの人の食べる物、わたしたちよりずっといいの。わたし、見たことあるの。アメリカ人の食べる物、トラックか馬車で途中まで運んでくるでしょ。それから上は、道路悪いから、わたしたちの寮のすぐ上におろ
して、それからアメリカの人が、上の寮に運んでいくの。おろして運ぶ時に、袋や俵、破れるのがあるでしょ。その破れた穴から、中に入っているもの、こぼれるの。アメリカの人、そのこぼれたの拾って、一生懸命にポケットに入れたり、口に入れるかしとるの、わたし見たの。あれは米でないけど、麦かなにかね。わたしたちより、ずっといいもの食べているさ。わたし、その場所に一度行って、10粒くらい拾って食べたことあるけど、本物の麦かなにかね。味でわかるよ。わたしたち、現場へ働きに行く途中、ときどき働きに出るアメリカ人と、道路ですれ違うことあるの。わたしたち言葉わからないし、話しかけるところ補導具に見つかると、梶棒とんでくるから、誰も話しかけないよ。お互いに顔見たまま、通りすぎるだけね。アメリカ人の場合も、わたしたち中国人より、からだやせていないでしょ。顔色もいいよ。わたしたち中国人だけね。ひょろひょろにやせているの。


 劉 
いちばん悪いの、補導員や鹿島組の人たちね。わたしたちに配給にきたもの、家に持っていくわけね。それでなくとも少ない食べ物、ますます少なくなるわけね。わたしたちと同じ中国人で、軍需長の任鳳岐も悪いの。この人、宿直して次の夕方に家に帰る補導員に、わたしたちにきた配給の中からとったもの、紙とか袋に包んで、渡しているの何回も見たよ。彼だけね、一緒に来た中国人の中で、太っているのは。それでなくとも少ない食べ物の中から、補導員がいいものだけ家に持っていくから、わたしたちの分、ますます少なくなるわけね。あの任鳳岐のろくでなしのために、何人の人、飢えて死んだかわからないよ。だから、彼だけは殺されたの。同胞を売ったから、補導員と同じに、皆の憎しみかっていたわけさ。蜂起のとき彼いちばん先に殺された。殺されるの理由、十分あったさ。同胞を売って、自分だけまるまると太ってること、許されないよ。


 林 
わたしたち、補導員のこと、鬼とか、豚とか、鬼豚とか呼んでいたけど、その鬼のような補導員の中で、二人だけ、わたしたちの味方する人いたよ。一人は越後谷義勇さんね。戦争終わってから、この越後谷さんを、わたしたち札幌に招待したことあるけど、越後谷さんに助けられた人多いね。


 李 
越後谷さんの家、花岡から離れた早口にあったでしょ。宿直にあたらない晩、早口の家に帰るね。次の朝、鉱山に働きに来る時、自分の家から、米とかアワみたいなもの、少し持ってくるの。補導員に見つからんように、服のポケットにかくして持ってくるから、少ないわけね。こんど、わたしたちの仕事の現場で、お湯わかしてるでしょ。その大きな湯わかしの中に、ポケットの米そっと入れて火にかけると、薄いおカユみたいなものできるでしょ。そのおカユみたいなお湯、わたしたちに飲ませてくれるの。ほかの補導員見ても、お湯飲んでるとしか見えないでしょ。越後谷さんが現場に来ない時は、晩に寮の中で、わざとお湯わかして、そのお湯の中に米とかアワとか入れて、わたしたちの寝てるところに持ってきてくれるの。服のポケットに、いろいろな食べ物入れてきて、ほかの補導員のいない時、そっと渡してくれたりしたの。わたしたち、その食べ物で、どんなに助かったかわからないさ。鬼みたいな寮の中の日本人にも、こんないい人もいたね。


 林 
正月の元旦のことね。あの時も、越後谷さん、早口から中山寮まで来たね。自分の家でつくったもち持ってくると、小さく切って、わたしたちに配ったの。寮の中の人多いし、少しより持ってこないから、食べた人少ないけど、その気持ね、嬉しいの。越後谷さんのような人、もっと花岡にいると、蜂起なんかなかったね。だから、蜂起の時も、越後谷さんのこと、殺さないように気を配った。越後谷さん宿直室に泊まっている晩に蜂起すると、暗いから、彼どこにいるかわからないでしょ。間違って殺すと、たいへんということになるからね。だから、彼の泊まっていない晩選んで、蜂起をやったの。補導員とか、鹿島組の日本人だったら、誰でもいいから殺せばいいということではなかったさ。悪いことしない人は、殺したくないという気持は、誰にでもあったの。


 劉 
越後谷さんね。この人、まだ少年でしょ。仕事も、事務所で帳面つけてるのこと多いの。直接に、中国人の働いてる現場に来ること、少ないからね。わたしたちのいた看護棟には、毎日のように来たけどね。この人、まだ若いから、軍隊教育みたいなもの、あまり身につけていなかったわけね。越後谷さんのほかに、補導員の中に、もう一人、いい人いたでしょ。


林 
いたいた、石川ね、石川忠助さんね。この石川さんも、わたしたちのこと、助けてくこと多いよ。越後谷さんみたいに、食べる物持ってくることもあったし、あまり殴ったりしなかったからね。補導員の中で二人だけね、わたしたちのこと考えてくれた人は。あとの人たち、みんな鬼豚だったさ。


 李 
この石川さんも、わたしたちの目の前で、二人の中国人を、殴って殺しだの知ってるょ。石持てないほどからだ弱っている人、梶棒で叩けばそのまま倒れてすぐに死ぬの、あたりまえのことね。それも、頭とか顔とか、どこでも叩くのだから、どうにもならないよ。それでも石川さん、福田とか清水にくらべたら、はるかにいい人ね。


 林 
梶棒で叩く時、めくらめっぽうに、どこでも好き勝手に叩くでしょ。梶棒歯にあたると、みんなバサッと落ちるね。梶棒で頭とか顔叩かれて、痛いでしょ。痛いから、頭とか顔に、手あげるでしょ。こんど、その手を叩くの。どの人も、一本か二本か、みんな指が折れとるよ。ひどいものさ。補導員の中でも、小畑と福田がいちばんひどかったさ。この清水わたしたちと同じ中国人でしょ。父か、母だったか、中国の人ね。それで、中国人に悪いのことするのだから、どうしようもないよ。背の低い小畑、この人いちばん悪い。何十人の人
殺したかわからないよ。寮長代理の伊勢、この人も根性の悪い人ね。ひどいことばかりしたよ。戦後になって、この伊勢と、一度会ったことあるよ。伊勢は大館の市役所の職員になって、立派な服着ていたけど、わたしのこと見ても、なんにも言えないの。下ばっかり見ているね。


 李 
食べ物悪くて、栄養失調が原因で死んだり、補導員に殺されたりした人、春になると100人越していたよ。わたしたちと一緒に花岡に着いた人、295人でしょ。そのうちの三分の一の人、死んでしまったわけね。からだ弱って、看護棟の中にいる人も、30人くらいだったさ。中山寮の中に、あまり人いなくなったよ。からっぽになってきたさ。わたしの小隊の中でも、十何人か死んでいたからね。ところが、冬終わって、雪消えると、川掘るの仕事がほんとにはじまったでしょ。働けるの人、半分くらいよりいないから、生き残った人たちの仕事、ますます多くなるの。雪の中でひと冬生きて、どの人もからだ弱ってきてるでしょ。それに仕事多くなってきたから、たいへんよ。


 劉 
寒いのから、暖かくなってくると、からだ疲れて、ダメになってくるのね。春になって、看護棟に来るの人、多くなってきたからね。新しい中国の人たち、中山寮に連れてこられたの、この時ね。


蜂起する中国人(繰り返される拷問)

 中国人たちが残忍非道な虐待に抗して蜂起したのは、1945年6月30日の深夜のことであるが、それまでに死亡した中国人は、次のとおりであった。

1944年8月8日の第一次連行者295人のうち121人。
1945年5月5日の第二次連行者587人のうち23人。
6月4日の第三次連行者98人のうち4人。

前後三回にわたって連行されてきた980人のうち、140人が死んでいるが、このほかに病気や殴られた怪我で身動きのできないのが約50人、一生不治の怪我をした人が生存者の四分の一くらいにおよぶといわれる状態であった。
    〈このままでいると、みんなが殺されてしまう〉

 中国人たちはせっぱつまった脅迫感におびやかされ、こう考えるようになっていた。敗戦 直後に、花岡鉱山に派遣されて中国人を診断した高橋実医師は、
「もはやかれらは、死か抵抗かのいずれかを選ぶよりほかに道はなくなった。それは、このひとびとがついに奴隷であることにがまんしきれなくなった日”であった」(「ひとつの事実」−『社会評論』 一九四六年七月号)と書いているが、まさにそのとおりであった。こうした状況の中で、蜂起は計画され、実行されたのであった。

 蜂起の計画は、耿大隊長をはじめ、中隊長や小隊長たちの間で、綿密な計画と周到な準備のもとにすすめられた。第二次や第三次連行者たちが洩らした消息、「日本の戦況は日一日と不利になり、空襲も激しさを加えているから、日本本土への上陸作戦も間近い」という情報が、蜂起の計画をいっそう早めた。

 蜂起の計画は、6月30日の晩飯のあとに、耿大隊長から全員に伝えられた。

 「李克金は20人を連れて、事務所の窓口を守る。劉玉卿は30人を連れて、四方の要地に伏兵をおく。これは、補導員の脱出と逃亡を防ぐのだ。李黒成は電話線の切断を担任する。張金亭は20人を連れて、室内に入って敵を殺す。それから張賛武は比較的強壮な同志80人を連れて、米国人俘虜収容所の日本兵を襲撃する。劉錫方は20人の同志を連れて、花岡警察局を襲撃する。看護班の任務は、外で全員が漱起したのを見すまして、直ちに病人を山の上に移すのである。そして最後に、羅士英の監督の下に放火し、中山寮全部を焼き払う。

手を下すのは、深夜、補導員たちの熟睡したのを見てやる。このために今晩は、全員が本当に寝てしまってはならない。仕事を分担された同志たちはすべて鍬をこっそり身辺に隠し敵を殺す武器にする」(劉智渠述・劉永姦・陳苓芳記『花岡事件−日本に俘虜となった一中国人の手記』中国人俘虜犠牲者善後委員会刊)だが、このように綿密な計画をたてたにもかかわらず、待っているのにしびれをきらした張金亭が、まだそれぞれの人が任務の部署につかないうちに、軍需室に入って任鳳岐を殺した。任の悲鳴があまりにも高かったので、補導員の逃亡を防ぐために配置されることになっていた人たちが、まだ寮の中にいるうちに、補導員の宿直室になだれ込んだ。猪股清と檜森昌治の二人は宿直室で殺され、あとは窓を破って逃亡した。そのうち、小畑惣之介と長崎辰蔵は追いつめられて殺されたが、あとの人たちは逃げていった。そして五分もたたないうちに、事件を知らせるサイレンが、深夜の鉱山町に鳴りわたったのである。

 このため、計画の中にあった米軍人俘虜の解放も、花岡警部派出所の攻撃も、中山寮の放火も中止となり、約800人の中国人たちは、われ先にと暗闇の中に逃亡していった。しかも、リーダーもなく、サイレンが高々と鳴り響く暗い夜中に、ひょろひょろにやせた人たちの逃走なだけに、決して早いものではなかった。朝が明けて気がつくと、かなり遠くまで逃げたつもりのものが、花岡鉱山が目の前に見える高さ250メートルほどの岩場の多い獅子ヶ森という山の中腹に、大部分の中国人たちがいたのである。しかも、病人や落伍者たちは、蜂起してから二時間もたたないうちに、寮からそれほど離れていない場所で捕えられた。獅子ヶ森にたてこもらなかった中国人は、山を越した隣の村とか、国道に添って青森県境に逃げるなど、ほとんどの人がバラバラになった。

 花岡鉱山での中国人の蜂起は、大きな衝動をあたえた。その鎮圧のために多くの警官や民間人が集められたが、『秋田県警察史』(下巻)はその状況を次のように記録している。

 「事件発生の7月1日から、平静になった7月6日まで、大館、花輪、扇田、鷹巣、米内沢、ニツ井、能代、青森県大鰐の各警察署で動員した延人員は、警察官494人、警防団7,544人、一般民間人13,654人、計21,692人で、このほか警察部をはじめ県内各署から延536人が取調べなどで動員された。また、秋田、青森各地区憲兵隊、弘前憲兵司令部から延222人、仙台俘虜収容所第七分所(花岡町所在)から警備隊員延25人、秋田地区警備隊から7人が出動した。花岡町における民間団体としては在郷軍人179人、鉱山青年学校延122人、警防団延128人、鉱山警備隊延52人、鉱山男子義勇隊延127人、同女子義勇延140人、鹿島組延724人、秋田士建121人、清水組延155人が出動した」警察の資料によると、延べ24,106人が鎮圧に動員されたのだが、このように厳重に警戒された中で、空腹と疲労で衰弱しきった中国人は次々と捕縛され、花岡鉱山の共楽館という劇場の広場に集められた。しかも、獅子ケ森などで抵抗した十数人の中国人は、日本刀とか竹ヤリなどで殺されたが、殺した人たちというのが警察とか憲兵ではなく、民間人である消防団員や青年団員などであった。

 また、獅子ケ森からさらに遠くへ逃げた人たちも、各町村の消防団員や青年団員などに捕えられて、花岡鉱山に引っぱられてきた。その当時、花岡鉱山に勤めていたある娘さんは、目撃したことをこう語っている。
                  
「小坂線の汽車の中で、二人ずつつながれてくるのをみた。フラフラしているのに、力いっぱい丸太でなぐられていた。本当にかわいそうなものだった。それでもその時、敵の国の人間だと教えられていたから、にくいと思ってみていた」(『現地調査報告書』)また、山奥に逃げ込んで、山狩りされて捕えられた人たちの場合も、悲惨なものであった。隣の早口村の山奥にある山田集落に逃げた中国人の模様を、消防団長は次のように語っている。

「この山田部落にも、五、六人の中国人が山を越えて逃げてきた。警察から、部落に放火するかもしれないから、消防団でつかまえてつれてきてほしいと連絡があり、二人つかまえて花岡の共楽館につれていったが、二人でしばられ、坐らされていたのを目撃した。その二、三日後、山田部落の保滝沢で三人つかまえたが、ヒローコンパイその極に達し、ロもきけない状態であった。中国戦線から復員した若者二人が中国語で話しかけたが、返事もできない状態で、それが気にくわぬと軍靴で顔をふむ、蹴る、殴るをした。この人たちが殴ったためかどうかは知らぬが、とにかく三人とも死んでしまった」(『現地調査報告書』)

 こうして共楽館前に集められた中国人たちは、二人ずつうしろ向きに縛ら
れ、砂利の上に坐らされた。真夏の太陽がジリジリと照りつける炎天下に、水も食べ物もあたえられず、三日三晩にわたって拷問と虐殺がつづけられた。共楽館前の広場での中国人を見た鉱山労働者は「全くフラフラにつかれはててから逃げだしたのだろうから、つかまえられて共楽館前につれてこられただけで、死んでいたものが多かったろう。全部二人ずつ後手にしばられて、坐らされていた。あの暑い時、三日三晩も坐らされ、たたかれたのだから、ただでさえたまったものではない。便所へゆくのも二人つながれたまま、死んだ相手をひきずりながら、みな用を足していた。出る小使はみな血であった。ところが、水ものまされずのどがかわききった彼等は、それに口をつけてのんでいるものもあった。本当に気の毒だ、かわいそうだと思っても、ピストルや剣をつきつけた将校がゴウ然とかまえて、憲兵や警官を指揮しているのを見ると、誰も口にだせるものではなかった。言ったらすぐにやられる。血気の多いものはぶんなぐったり、つついたりした人も沢山あった。あの当時は、あの様な気持にされてしまっていたのだ」と語っている。(『現地調査報告書』)

三日三晩にわたって、残虐非道な拷問を受けて殺された中国人は、113人であった。


敗戦後も重労働続く

 四日目に、花岡派出所の留置場に入れられている主謀者の13人を除いて、再び全員が中山寮に収容された。こんどは、棍棒を待った補導員にかわって、武装した警官が監視にあたるようになった。数日後からは、主食の饅頭に混っているものがいくらか少なくなったほかは、以前と変わらない重労働がつづけられるようになった。この後も、病気で倒れる人や、警官などに殴られて死ぬ人などが、あとをたたなかった。

 その当時、大館警察署長として鎮圧の先頭に立った三浦太一郎は、二七年後にそのことを回顧して、次のように語っている。

 「(蜂起して)つかまえた人たちは、共楽館へ連れていかれました。ところがね、アメーバ赤痢だとか、いろいろな病気をもった連中でしょ。だから、鉱山の慰安施設である共楽館の中に入れるわけにはいかないと鉱山側がしぶるんですな。考えればムリもないが、そのとき私は腹がたった。そうこうしているうちに、警防団が出てきたりして、警備隊とか応援にきた入らが、結局、共楽館に集められたんです。あとで広場に放置したということになってしまったが、二日目からは、食糧もちゃんと与えましたよ。共楽館で拷問が行われたといいますが、そんなことはない。あえいでいる中国人の顔へ水をふきかけてやり、助けてやったりしたものです。横浜のB級裁判では、そんな証言は取り上げられなかった。『敗戦国民が何をいうのか』のひとことで終わりですよ」
(「日本で中国人は何をされたか」−『潮』一九七二年五月号)


 三浦が言うように、中国人にたいして拷問も虐待もなく、食糧もちゃんとあたえられていたとすれば、共楽館前だけで121人の死亡者が出るはずがない、と考えるのが普通であろう。一方、花岡派出所の留置場に入れられた13人のリーダーたちは、一週間にわたって拷問を受けたのちに、秋田市の秋田刑務所に移されたが、その状況を『秋田県警察史』(下巻)では、こう記している。

 「事件発生以来逃亡者の捜査、逮捕に主力を傾注した結果、7月7日にいたり752人を逮捕、謀議参加または殺人実行行為者としてつぎ13人を国防保安第十六条第二項の戦時騒擾殺人罪で送局した。

(筆者注・カッコ内は年齢)
 首魁=耿淳(30)謀議参与=李克金(28)孫道敦(44)張金亭(32)趙書林(36)劉錫財(32)劉玉郡(30)劉玉林(37)殺人=宮耀光(22)李広衛(27)張賛武(23)楷万斌(27)李秀深(23)」

 だが、8月15日に日本が無条件降伏をした二日後の8月17日に、内務省主管防諜委員会から敗戦にともなう「華人労務者ノ取扱」について、関係者に通達が出された。その内容は、中国人の労務を中止し、賃金を払い、衣食を支給し、留置者は即時釈放し、死亡者の遺骨を整理し、送還の準備をせよ。というものであった。

 しかし、こうした通達がとどいても、鹿島組花岡出張所では中国人たちを解放するどころか、敗戦前とまったく同じ状態のままで、強制労働をつづけさせた。鹿島組傘下の死亡者を見ると、八月は49入、9月は68人、10月は51人が死亡している。

 その後、9月2日に日本は連合軍の降伏文書に署名し、長くて暗い戦争は正式に終わった。

日本軍が捕虜にした連合国軍人や抑留者にたいしても、

 一、捕虜と被抑留者を虐待したものの処罰
 二、捕虜と被抑留者にたいする解放、保護、送還
 三、捕虜と被抑留者にかんする報告

の三点をくり入れた「降伏文書」や「連合国最高司令官総司令部一般命令第一号」などが発令され、中国人の強制連行と労役も終わりをつげたにもかかわらず、鹿島組花岡出張所の中国人たちには、戦争状態がつづいていたのだった。

 花岡の中国入たちが日本の敗戦を知ったのは、日本がポツダム宣言を受諾してから1ヵ月半もすぎた9月中旬のことである。ある日、一台の飛行機が花岡の上空に飛んでくると、花岡にある仙台俘虜収容所第七分所のアメリカとオーストラリア人たちに、物資を投下した。

 はじめて日本の敗戦を知った中国人たちは、すぐに仕事をやめて中山寮に帰り、今後の対処の仕方などを検討した。しかし、そこに入ってきた鹿島組の係員は、「仕事に出ないと飯を食べさせない」と威嚇するし、三浦大館署長も寮に入ってくると、「指示を聞かない人は容赦をしない」とおどした。

 中国人たちが敗戦の内容を知ったのは、その翌日に、花岡派出所に留置されていた通訳の于傑臣が釈放されて中山寮にもどってからだった。日本は無条件降伏をしたことや、耿隊長たち一三人は秋田刑務所で無事であることも知らされた。耿隊長たちはすでに死刑にされたと、中国人には知らされていたからだった。

 このことは、秋田刑務所に収容されている13人の場合も同じであった。ポツダム宣言受諾後も日本の敗戦は知らされず、戦争状態がそのままつづいていた。しかし、1945年9月15日に、秋田に進駐する第八先遣隊として、ページ少佐以下の将校たちが山形県の新庄からジープで秋田入りすることが決まったが、その四日前の9月11日に、秋田地方裁判所では、起訴していた13大の中国人に、大急ぎで判決をいいわたしたのである。

 叛乱罪を主張した憲兵隊が解散され、特高もなくなってしまったにもかかわらず、「『戦時』の騒擾殺人罪を、『戦後』に裁判した」(石飛仁『中国人強制連行の記録』太平出版社)のであった。しかも、占領軍が進駐してくることを知って、その直前にあわてたように裁判をしたのである。形式的にしろ、中国人たちの弁護にあたった秋田市弁護士会長は、この時の「法廷は国法の尊厳に輝いていた。わずかに法灯を守りつづけた人たちが、世評をよそに三ヵ月の苦労をつづけて、今日の判決に導いた誠意に慰められた」と、判決後に語ったという。
(赤津益造『花岡暴動』三省堂新書)


 
虫ケラのように殴殺

 林 
新しい中国の人たち来だの、あれは春になってからのことだったね。はじめに600人ばかり来て、それからひと月ばかり遅れて、また100人ばかり来たさ。その人たちみんな入ったから、こんど、中山寮の中狭くなったね。一人分のベッドに、二人も三人も寝るようになったさ。新しく来た人たち、わたしたちみたいにひょろひょろやせてないし、元気な人多いでしょ。それに、中山寮のいろいろなこと、知らない人多いからね。新しい人たち来た時、何人もの人たち、補導員に殴り殺されたよ。見せしめね。


 李 
わたしの小隊に、薛同道という人いたの。この人のからだ大きいから、とくに腹減るわけね。その日も、腹減ってどうしようもないから、仕事の途中に、裏山に登って、青くのびた草食べていたわけね。仕事終わって、寮に帰る点呼とったら、わたしの小隊でひとり足りないわけね。補導員が小畑だから、とくに悪いよ。小畑は、「逃げたに違いない。みんなで探せ」と、山とか田んぼとか探した。そのとき、裏山で草食べてる薛さん見つかったさ。縛って寮の前に連れてくると、新しく花岡に来た人たち集めて、みんな見ている前で、梶棒で叩いたね。頭でも、首でも、背中でも、どんなとこでも、好き勝手に叩くさ。倒れると、こんど踏むわけね。薛さんのからだ、血流れて、腫れてくるの。気失った薛さん、病室に運び込まれて、ひいひいと苦しそうに呻いて、三日後に死んでいったさ。わたし、薛さん死んだ晩、病室から寮に帰ってくると、耿大隊長に言ったね。「わたしたち、このままでは生きられない。生きる方法ないか」と。耿大隊長、黙って首を振るだけのことね。


 林 
からだ弱って、看護棟に運ばれて来た人に、趙老人という人いた。花岡に来た年寄の中で、いちばん長く生きたの、この趙老人ね。この人に、趙青児という息子いて、わたしと同じ看護班にいたの。親子で一緒に、日本軍につかまったわけね。趙老人が息引きとった時、趙青児そばにいて、大声でおんおん泣きだしたさ。そこに、小畑人ってきて、泣いている趙青児のこと足で蹴って、「死ぬやつは死なしておけ。泣くやつあるか」と叫ぶわけね。自分の親死んで、悲しくない人、どこにいるね。日本人の補導員、畜生よりもひどい人ばかりね。
人間の心、ひとかけらも持っていないよ。


 劉 
誰だったか、中国に帰るのことできた人でね、空腹の日つづくから、頭おかしくなったわけね。いつだったか、お昼の時、自分の分の饅頭食べてから、ほかの現場に、食べる物下さいと行ったわけね。そのこと補導員に見つかって、半殺しになったの。叩かれたり、煙草の火つけられたり、レール真っ赤に焼いて、足の間に挾まれたりして、お尻の肉、焼けとけちやったよ。あの人、いまでもお尻の肉ないと思うよ。看護棟に運ばれてきたけど、薬もないから、たいへんさ。傷ひどくなって、もう死ぬ状態になったさ。その時、日本の敗戦の
ことわかって、アメリカのペニシリン手に入ったの。それに、食べ物もよくなったでしょ。あの人、めずらしく助かったわけね。敗戦わかるの、もう一週間おくれていたら、いのちなかったね。この人の助かった理由、第三回目に来た人で、まだあまりからだ弱っていなかったの。わたしたちと同じに来た人だったら、もう助からなかったね。


 李 
新しい中国の人たち来てまもなく、仕事する時間、朝と晩で二時間ほど長くなったでしょ。それに、食べる物悪いから、腹減ってくるの当然さ。腹減って、草食べてるの見つかると、叩いて殺したり、片輪になるほど叩いて怪我させるのだから、ひどいよ。もっとひどいこと、同じ中国人に梶棒で叩かせることね。道路に捨ててあるもの拾って食べたとか、歩きながら道端の草引っぱって食べたとか、理由にならないようなことで、縛って寮に連れてくると、わたしたちを集めるの。一人ひとりに梶棒持たせて、縛ってある人のこと、叩かせるわけね。はじめのうちはいくら言われても、誰だって殴ったりしないでしょ。すると、補導員たち、命令きかないといって、叩かない人たちのこと、殴るの。どんなことされるかわからないし、殴られると痛いから、叩くようになるの。相手が痛くないように、叩こうとするから、力人らないでしょ。そのこと悪いといって、また叩くの。何人かで一人の人を叩いて、気が遠くなって倒れるでしょ。そのこと見ると、補導員たち喜ぶわけね。こんなひどいことないよ。人間のやることじゃないよ。


 林 
見せしめということもあったけど、中国人にそんなことやらせて、喜んでるわけね。叩かれる人もたいへんだが、叩く人もたいへんなわけね。


 李 
一日に一人か二人か、補導員に叩かれて死ぬ人あるよ。怪我して動けない人も、どんどん増えていくね。補導員たち、悪いことした人を叩き倒すと、こんど、わたしたち中隊長や小隊長集めて、「お前たち、教育するの足りない。だから、草食べに歩く。人の捨てたもの、拾って食べるのは、人間のクズだ」と、わたしたちのこと叩くの。死ぬほどは叩かないけど、毎日だからたいへんさ。自分の生きるの、あとIヵ月あるか、ニカ月あるか、そのたびに考えたよ。叩かれた人、すぐに死んでいくから、そのこと、いつ自分の身の上にふりかかってくるかわからないさ。


 林 
叩かれると、すぐ死ぬ人多いよ。気絶して、看護棟に運ばれてくるでしょ。その晩のうちに、血吐いて死ぬ人ほとんどね。どんなにひどい殴られ方したか、これだけでもわかるね。


 劉 
棍棒で殴ったり、殴り殺したりするのこと、寮の中でもあったさ。栄養のある補導員たち、力いっぱい、思いっきり殴るからね。いまくらいの元気あれば、棒で少し叩かれても、死ぬことないよ。栄養失調になって、ようやく息しているの状態で、歩いても空腹でめまいするからね。叩かれて倒れても、わざと倒れたと思うとるから、倒れた人のこと、また叩くから死ぬわけね。だから、1945年の三月ごろになると、一日に五、六人も倒れることあって、蜂起する時は、みんな倒れてしまうの状態だったからね。蜂起したの原因、これ一つね。


 李 
毎日のように誰か殺される日つづいていたとき、劉沢玉も、夜中に食べる物さがしに出たの、見つかったの。寮の前とかうしろに、ちょろちょろの水流れる小さい川、たくさんあるの。その小さい川の中に、小さなカニとか魚がたくさんいるからね。補導員が寝た夜中に、川に行って、それ取って食べるわけね。たくさんの人、夜中に寮から出て、それ取って食べたけど、運悪く、劉さん見つかったわけね。ひと晩、縛られたまま、寮のそとになげられていた。次の朝、わたしたち小隊以上の人、みんな事務所に集められたさ。伊勢が劉さんの罪のこと説明してから、わたしたちに、劉さんのこと殴らせようとしたの。だけど、わたしたち前に、同胞の人殴って、気絶させたことあったでしょ。その時、どんなことあっても、わたしたち殴り殺されても、同胞を殴ることはしまいと、相談して決めていたの。こんど、わたしたちに叩くように、脅迫したり、殴ったりしたけど、誰も叩く人いないでしょ。そのこと悪いといって、劉さんのこと裸にして、六人も七人もかかって、好き勝手に棍棒で叩いたり、靴はいた足で蹴ったり、踏んだりするの。劉さん痛いから、大声あげて、泣きながら机の下に逃げていくでしょ。机の下から引っぱってきて、またどんどん叩くの。気絶するでしょ。バケツに水汲んできて、倒れとる劉さんにかけるで史よ。気がつくでしょ。また、「このヤロウー」と叫んで叩くの。事務所の中、劉さんの大便でたのとか、晩に食べたカニの吐いたのとか、いっぱいちらばったね。もう弱って、立って逃げられないね。それでもまだ叩くから、こんど、転んで逃げるでしょ。からだに大便とか、吐いたのとかつくの。それ、人間のかっこうじゃないね。こんど、清水がね、鉱山で使うレールあるでしょ。そのレール、炊事場のかまどの火で、赤く焼いたの持ってきたの。あの時のこと、いまでもはっきりと覚えとるよ。息もつけないほどになって、倒れとる劉さんの股に、その赤く焼けたレール差し込んだの。劉さん、悲鳴あげて、その赤く焼けたレール、手でよけようとするでしょ。手が黒い煙だして、焼けていくの。焼ける音もするさ。こんど、補導員が何人も寄って、劉さんの手とか足押さえて、股にそのレールあてたの。部屋の中、人の焼けた煙で、いっぱいになったさ。劉さん、こうして殺されたの。わたしたち、そのこと全部見ていた。手助けすると、自分も殺されるかわからないから、誰も黙っていたけど、そのやり方、あまりにもひどいよ。


 林 
苦しい殺され方した劉さんのこと思うと、いまでも涙出るよ。あの朝早く、事務所に来いと、看護棟にいたわたしたちに連絡あったでしょ。わたしと誰か三人か四人か、事務所に行ったでしょ。劉さんの屍体、早く持って行けと叫ばれて、看護棟に運んだけど、もうその時死んでいたよ。めちゃくちゃに殴られて、顔の形もちゃんとわからないくらいにね、殴られて、顔の形、変わっているの。殴られたところとか、レールで焼かれた股とか、血が出たり、ベトベトしているの。もうこれ、人間の姿じゃないよ。病室に入れたでしょ。あまりのひどい仕打ちに、病気とか怪我の人たち、みんな声出して泣いたさ。そこに清水の鬼豚人ってきて、「泣いているの誰だ。早く埋めてしまえ」と、どなって歩くの。その朝のうちに、穴掘って埋めたけど、劉さんの殺され方、いちばんひどいね。


蜂起を計画

 李 
わたしの寝ている部屋、大隊長のすぐ隣なの。劉さんが殺された夜中に、わたし、大隊長のところに、話にいったの。「このままではわたしたち、いつ殺されるかわからない。早く逃げよう」と言ったの。大隊長、このとき覚悟決めたね。これ、蜂起のはじまりなの。わたしたちの蜂起、戦争敗けるの時までのびていたら、もっと多くの人たち殺されていたね。わたしたち、どうせ死ぬか、殺されるかするの、わかっていたさ。朝くると早く起こされ、仕事に出るでしょ。夜は暗くなってから、寮に帰ってくるでしょ。食べ物ぜんぜん悪いから、
立って歩くのもようやくの状態よ。それに、毎日のように、誰か殺されてるでしょ。生きていく気持、ぜんぜんないよ。早く死にたい、死ねばいまより楽になる、そう考えている人ほとんどね。どうせ、遅いか早いか、わたしたち殺される。このまま殺されるのだったら、わたしたちの同胞殺したり、わたしたちを苦しめた奴らを、この手で殺してやれというのが、当時のわたしたちの気持ね。このままにしていると、わたしたちみんな殺されるという気持、どの人にもあったさ。蜂起して、失敗しても、もともとさ。どうせ、一ヵ月か二ヵ月すれば、自分にも殺されるの当たるの、確実でしょ。生き残れる道、一つもないからね。日本まもなく敗けるのわかっていたら、もっと我慢して待っていたよ。中山寮に新聞もラジオも、なんにもないから、戦争どうなっているか、ぜんぜんわからないでしょ。新しく中国から来た人たちの話聞くと、日本の戦争、かなり苦しくなってることわかったけど、一ヵ月半の後に敗戦になるほど敗けてきていること、わたしたちぜんぜんわからないでしよ。死んでもともと、生きるには蜂起するよりほかになかったさ。


 劉 
わたしは看護班にいたから、その蜂起のこと、相談されたことなかったけど、一度でいいから、早く中国に帰りたい気持、誰にもあったね。病室で死んでいく人たちのほとんど、最後に、中国に帰りたいとか、母とか、妻、子どもの名前よんで、息引きとっていったからね。


 李 
いちばん最初に、蜂起の計画を相談したの、大隊長の耿譚でしよ、それに趙樹林、李克金とわたしの四人だったの。みんな劉沢玉の殺されるの見た、中隊長と小隊長たちね。相談するとしても、たいへんよ。昼は、とてもできる相談じやないでしょ。話してるの見つかるだけで、殴られるからね。劉さんの殺された日の晩、仕事から帰って、饅頭一つの夕食終わって寝たでしょ。夜中に、何回か補導員がまわってくるね。そのまわってくるの終わって、次にまわってくるまで、四人で大隊長のところに集まったの。そこで、蜂起すること決めたの。この計画、補導員たちに洩れるとたいへんでしょ。はじめから、多くの人に、話拡げないようにしたの。補導員まわってくるから、あまり長い時間、相談もできないでしょ。ちょっと集まって、相談するでしょ。こんど、便所に立ったふりして、また自分のところにもどって寝るでしょ。そんなこと、ひと晩に何回もやって、だんだんと相談固めていったの。計画かなり固まってから、口の固い人にだけ、またこの計画の話拡げていったの。蜂起の計画に参加したの、8入だったよ。あとの人たち、このことぜんぜん知らないさ。蜂起する晩になってから、全員に知らせたわけね。


 林 
わたしたちに知らされたの、蜂起の晩の9時ころだったからね。はじめはビックリしたけど、みんな、すぐその気になったからね。


 李 
計画の中で、わたしたちどうするか、詳しく決めて、その担当も決めたの。近くに、朝鮮の人たちの入ってる、東亜寮というのあったの。その寮のこと、知っている人多いよ。アメリカ兵のいるところは、知らない人多いね。アメリカ兵いることわかっていたし、だいたいの方角も見当つくが、場所は知らない。最初の計画から、わたしたちだけでなく、東亜寮の朝鮮人やアメリカ兵も解放して、一緒に立ちあがるのこと決めていたの。わたし、中国でゲリラの経験あるでしょ。からだ強くて、ゲリラの経験あるの70入ばかり連れて、東亜寮とかアメリカ兵のいる寮の日本人襲って、武器とりあげて、解放した人たち一緒に連れていく計画だったの。確か劉錫さんだったか、彼は20人くらいの同志連れて、花岡の警察派出所襲って、武器奪うことにしていたの。武器がいくらかあるの、知っていたからね。わたしたちの手に、武器ぜんぜんないでしょ。蜂起しても、武器ないと、なんにもできないでしょ。わたしたちだけで、800入くらいでしょ。それに、朝鮮人が300人くらい、これにアメリカ兵たち入れると、1,300人くらいになると考えたの。これに武器あれば、たいへん力になるという計画だったの。夜中に蜂起して、山の中に逃げるわけね。食糧も倉庫から持っていくから、当分食べられるでしょ。皆で山の中を逃げて、海に出るの。海の港か浜に、ボートか船あったら、それ盗んで乗り、中国に帰りたいと考えたの。それだけわたしたち、中国に帰りたかったの。わたしたち、かなり詳しく計画したよ。宿直室に寝てる補導員を襲う人たち、窓から逃げる人を待ち伏せする人たち、電話の線を切る人など、みんな決めたの。


 劉 
わたしたち看護人に伝えられた仕事、全員が蜂起したの見て、山に病人を運ぶことだったさ。


李 
病気とか怪我の人たち、たくさんいたからね。計画どおりみんなやってから、中山寮に火つけて、焼くことにしていたの。計画できて、実行することになったでしょ。わたしと張金亭さんの二人、その日、仮病使って休んだの。腹痛くて、仕事に出られないといってね。昼の間に、寮の中とか、事務所の様子など、二人で詳しくさぐったの。そしたら、補導員の中でもいちばん悪いの小畑と福田が、その晩は家に帰ることになっていた。それに、わたしたちによくしてくれる越後谷さん、この晩は泊まりに当たっているのわかったの。いい人は、殺されないでしょ。夜中に襲うと、どの人かわからないから、殺してしまうかもしれないからね。計画に参加した人たち、飯場に帰ってきてから、そのこと相談したの。やはり、そのことダメと決まったの。こんど、蜂起のする日、6月30日の深夜に延期したの。誰の気持も同じね。わたしたちによくしてくれた人、殺されないからね。6月30日の日も、わたし仮病使って休んだけど、その日、誰か補導員の一人来て、「お前、仮病使っている」と、寝ている上から、どんどん叩かれたけど、吐くの真似して、寝ていたの。30日の晩、越後谷さんともう一人の石川さんの二人、寮に泊まらないことわかったの。あとの補導員とか通訳たち、みんな寮に泊まることわかったでしょ。この日よりないと、この晩に蜂起すること決めたの。だけど、早く知らせると、どこから洩れるかわからないでしょ。蜂起する直前まで、秘密にしておいたの、いつものように小さい饅頭食べて、みんなでシラミ取りしたりして、寝る時になってから、中隊長や小隊長が自分の部下に、蜂起のこと伝えたの。その時の時間、
もう9時すぎていたと思うよ。


早すぎた蜂起

李 
蜂起のことみんなに伝えてからまもなく、小畑が見回りに来たの。戸開けて入ってくると、大きな足音たてて、部屋のなか回って、出て行ったね。わたし、身動きもしないで黙っていたけど、からだ汗ビッショリさ。蜂起の計画のこと、バレるのじやないか、誰か小畑の前にとび出して、蜂起のこと知らせるのではないかと思って、ピクピクしたよ。それから11時までの時間の長いこと、たいへんよ。からだ疲れてるけど、眼冴えているでしょ。眠ること、とてもできないさ。あまり部屋の外に出ると、あやしまれるから、ダメでしょ。寝ながら、いろいろのこと考えたさ。もう死ぬかもしれないからね。でも、わたしたち中国人に ひどいことばかりした補導員たちに、まもなく復讐するのことできるから、死んでも残念だという気持、あまりなかったね。ただ、一度中国に帰りたいの気持、これ、強かったさ。


林 
わたしのいる看護棟の病人とか、わたしたち看護班が蜂起のこと知ったの、看護長の劉玉林が知らせてくれてからのことね。病気の人たち、劉さんの話、黙って聞いていたね。補導員の奴らに、もっともひどい仕打ちされたの、病人たちだからね。それなのに、自分の手で仕返しのできないこと、残念なわけね。みんなの気持、蜂起うまくいってくれと、祈るようだったさ。蜂起はじまると、みんなで助けあって、山に逃げていくこと、わたしたちにきた命令ね。


劉 
蜂起の計画知らされてから、怪我の人、たいへんだったさ。傷口とか折れた手足とか、ちゃんとしておかないとダメでしょ。だけど、包帯もぜんぜんないでしょ。こんど、わずかに残っている着物さいて、包帯つくったの。だけど、準備してるのこと、補導員に見つかると、たいへんだからね。かくれて、少しずつやったの。


李 
夜中の11時ころ、わたしたちこっそり起きると、それぞれの部署につく人たち、起こして回ったの。どの人もみんな、目だけギョロギョロさせて、目覚ましたまま寝ていたね。自分の担当するの場所、みんな決まっていたけど、もう一度、確認して歩いたの。わたしは蜂起がはじまる前に、中国にいた時にゲリラの経験のある人70人ばかり連れて、東亜寮の近くまで行って、蜂起の起こるの待っている予定だったの。蜂起はじまると、すぐに日本人の監督襲って、朝鮮の人、解放することになっていたでしょ。ところが、わたしたち70人ばかり集まって、東亜寮に向かおうとしていた時、寮の中で、ギャアという大きな男の悲鳴聞こえてきたの。わたし、ビックリして寮の中に入ったでしょ。もう、任鳳岐が殺されているの。張金亭が早まって、事務所とか宿直室の窓口とか、その他の部署にみんながつかないうちに、任の奴を殺してしまったわけね。いま考えると、張の気持もわかるさ。蜂起の時間がくるの、いまかいまかと、居ても立ってもいられない気持ね。それで、我慢できなくて、手を出してしまったわけね。だけど、計画より早く、任が殺されたでしょ。その悲鳴、あまりにも大きかったわけでしょ。寝ている補導員たちに聞こえて、逃げられるとたいへんでしょ。寮の中暗いのに、計画よりも蜂起早まったものだから、みんなあわてたわけね。手にスコップとかツルハシとか持って、勝手に宿直室にとび込んでいったの。だけど、逃げるのに備えて、宿直室の窓の外を囲むことになっていた人たち、まだ部署についていなかったわけね。しかも、宿直室の中、暗いでしょ。誰がどこに寝ているか、ぜんぜんわからないからね。あとでわかったけど、このとき、宿直室の中で殺しだの、檜森と猪股の二人だけね。あとの人たち、みんな窓から逃げたの。それを追いかけて殺したの、長崎と小畑だけさ。あとの補導員たちに、逃げられてしまったわけね。生き残った福田、これいちばん悪いね。清水も助かったさ。いちばん悪いのことした補導員たち、殺せなかったわけね。計画より早く、やってしまったからさ。こんど、それからがたいへんだったさ。逃げた補導員たち、すぐ会社とか、警察に走っていくでしょ。それから大騒ぎになること、わかっていたからね。計画より早くやったために、アメリカ兵とか朝鮮人の解放もダメ、警察を攻撃することもできな
かったし、寮に火つけることも、やれなかったさ。食べ物も、つくる時間なかったからね。最初の計画ちょっと狂っただけで、みんなダメになってしまったの。


林 
わたしたち、中山寮から離れた看護棟にいたでしょ。蜂起のあるの、いまか、いまかと待っていたさ。待っている時間、長いわけね。我慢して、心を落ち着けて、待っていたさ。

夜中になって、寮の方で人の叫ぶ声したでしょ。それからたくさんの人が叫ぶ声とか、ガラスの割れる音とか、板が破れる音とかするね。劉さん、起きあがると、ランプに火つけたでしょ。みんな、起きあがったね。計画だと、補導員たち殺してから、食べ物たくさんつくり、それ食べてから持っていくことだったから、あまりあわてなかったの。時間があるからね。

だけど計画失敗したのこと、知らせてきたでしょ。食べ物つくる時間ない、すぐ山に逃げろと、知らせがきたでしょ。はじめの計画だと、50人ばかりいた病人たち、みんなで手分けして、一緒に連れて行くことだったけど、このことできなくなったわけでしよ。早く逃げないと、警察やってくるというので、起きあがれる人たち、我慢して起きて、病室から出たの。

起きあがって歩けない人たち、入口まで這い出してきたね。這うこともできない人たち、「待ってくれ」「ぼくも連れていってくれ」と、病室の中で叫んでるの。わたしたち何人かの看護人、歩けない人たち助けたり、背負ったりして病室の外に出たけど、重病の人多いでしょ。とても、みんな連れていけないの。寮の人たち、バラバラになって逃げ出していくの、暗い中で見えるでしょ。わたしたちも、気がせくわけね。早く逃げていきたい気持、誰でも同じさ。

計画だと、看護棟にも火つけて、焼くつもりだったの。だけど、動けない重病人たち、病室の中に残っているから、焼くのことできないでしょ。そのままにして、逃げたの。看護棟のそばに、水の流れる小さな川あるさ。その川が流れてくる山に、逃げ出していったの。外は暗いでしょ。どこに逃げていけばいいのか、ぜんぜんわからないからね。


李 
計画失敗したものだから、逃げた補導員たち、すぐ鉱山町に走ったでしょ。寮の中の人たち、まだ半分も逃げないうちに、下の方で警報のサイレン鳴ったり、半鐘鳴ったりするの、聞こえてくるでしょ。鉱山町の中で、電灯とかたいまつの明り、激しく動くの見えるの。

そんなこと見たり、聞いたりすると、早く逃げたいという気持、強くなってくるね。不安も出てくるでしょ。みんな、どこに逃げていくというあてもなく、走り出してしまうわけね。

それに、武器もぜんぜんないでしょ。何人かの人、スコップとかツルハシ持って逃げたけど、それもわずかな人たちね。重いから、走る途中で捨てた人、ほとんどさ。食べる物持った人も、何人かいたけど、それもわずかね。ほとんどの人たち、手ぶらで逃げていったの。暗いから、どこに逃げていけばいいのか、わからないわけね。中山寮からかなり離れたところに、高い山あるの、前から見て知っていたでしょ。暗い中で、その高い山だけ、ちゃんと見えるわけね。その山のかげに逃げれば、遠くまで逃げられると考えていたから、その山に向かって逃げたの。何人か先になって走ると、その後についてみんな走っていくわけね。田んぼとか鉄道とか越えて逃げたその山、岩とか本とかいっぱいあって、ひどいさ。暗いから先見えないし、あわてて逃げるから、岩にぶつかったり、木にぶつかったりして、手からも足からも、血が出るわけね。それでも、ぜんぜん痛いと思わないの。早く遠くへ逃げていきたい気持で、どの人も夢中だからね。この山の名前、後になって聞いたけど、獅子ヶ森というところね。これ覚えたの、ずっと後のことさ。


林 
わたしたち病人と一緒だから、そんなに走れないでしょ。あっちの谷のぼる、こっちの山のぼるでしょ。坂ころがり落ちたり、本にぶつかって倒れる人多いの。だから、長い時間歩くと、みんなバラバラになってしまったさ。病室からいくらか外に出て、あとはそのままという重病の人も、わりに多かったよ。


李 
いま考えると、もっといい逃げ方あったね。いまになると、そのことよくわかるけど、あの時はべつね。獅子ヶ森という山、わたしたち逃げていく目標でなかったけど、どこに逃げていけばいいのかわからないから、見える高い山を目標にしたわけね。はじめに計画した時、どの方角に逃げていくか、ちゃんと決めていたの。だけど、はじめの計画狂ったでしょ。先になって、みんなを引っぱっていく人、いなくなってしまったさ。みんなバラバラに逃げたから、どうにもならないよ。それでも、かなり遠くまで逃げた考えでいたけど、朝が来て、あたり見えてくると、わたしたちたくさんの人がのぼっている山のすぐ下に、家があるわけね。花岡鉱山も、ちょっと遠くの目の前に見えるさ。ぜんぜん遠くに逃げていないわけね。それに、夜明けると、もう警察とか、消防団の人とか、いっぱいの人たち、わたしたちのいる山を取り囲むようにしているのが見えるの。夜、明けると、わたしたちのからだ、もうふらふらね。骨ばかりにやせて、食べ物少ない毎日だったでしょ。そのからだで、ひと晩寝ないで、歩きつづけたわけでしょ。もう、腹の中になんにも入っていないさ。空腹になっても、山の上だから、飲む水もないの。これだから、戦いになっても、どうにもならないよ。山に来た時、もう膝ガクガクして、動けなかったからね。食べ物あったら、もっと遠くへ逃げられたけど、そんなものないから、とても無理ね。戦ってすぐに負けるの、わかっていたの。


拷問の明け暮れ

林 
夜明けても、わたしたち病人と一緒だから、ぜんぜん遠くへ逃げられないわけね。わたしも、看護棟からどれくらい逃げたかな。いくらも離れていなかったさ。朝が明けたころ、警察の人が来て、わたしたち看護班を捕えたね。疲れてるから、戦うのことぜんぜんできないよ。わたしたち捕えられると、二人がひと組に縛られて、トラックに乗せられたさ。病人は逃げることできないから、そのままね。病人たち、山からまた病室に運ばれたの、いつのことかわからないよ。わたしたち乗せたトラック、花岡派出所の近くに、大きな鉱山の劇場あるでしょ。その劇場の前、砂利敷いた広場ね。その広場に降ろされたの。縛られたまま砂利の上に、正座させられたから、足とか嬬痛いよ。この広場に連れてこられたの、わたしとか劉さん、いちばん最初ね。坐らされると、手拭で目かくしされたでしょ。目かくししたの、わたしたちの首、斬り落とすためかな思ったね。その方が、叩き殺されたり、食べ物なくて餓え死にさせられるより、ずっと楽だと思ったさ。こんな苦しいのことイヤだ、早く死にたいと思っていたから、死ぬのこわくなかったさ。


 李 
岩山に集まったの、何人いたかな。少なく見ても、300人はいただろうかね。何力所かに固まっていたけど、どの人も、動けないほど疲れているね。食べる物ぜんぜんないでしょ。太陽高くなってくると、暑いでしょ。みんな、動くこともできないさ。わたしたちのいる岩の山囲んで、警察とか消防団とかの人たち、いっぱいいるの見えるでしょ。人乗せたトラック、どんどん走ってくるでしょ。どうなるのか、だんだん心配になってくるでしょ。朝だいぶ進んでから、警察とか消防団の人たち、いっせいにわたしたちのいる山に登ってき
たね。みんな、鉄砲とか、日本刀とか、竹ヤリとか持っているでしょ。わたしたちの中で、武器持っている人、誰もいないさ。こっちが負けるのこと、確実にわかるからね。それでもわたしたち、鉄砲とか日本刀持って、山登ってくる人たちに、石投げたり、棒きれふったりして戦ったさ。でも、かなわないわけね。鉄砲でうたれたり、日本刀で斬られたりで、何人もの人たち、山の上で殺されたね。こんど、捕えられるでしょ。二人が一組に縄で縛られて、山から下って、花岡の劇場の前まで歩かされたの。トラックに乗せられた人もいたけど、トラックの数少ないから、歩かされた人多いよ。わたしたちのこと見た農家の人とか、鉱山の人たち、石投げてきたり、ツバ吐いてよこしたりするの。なにか大声で言ってるけど、その意味わからないよ。だけど、蜂起のこと、怒っていることだけは確かね。劇場の前に着いたでしょ。ふらふらで、倒れた人もいたよ。こんど、二人一組に、背中合わせに縛られて、砂利の上に坐らされたの。ちょうど、真夏でしょ。食べ物もくれないし、水もないでしょ。目の前ぼんやりして、なんにも見えないほど、ふらふらになったの。でも、二人が一緒に縛られとるでしょ。一人ふらふらすると、二人とも倒れてしまうの。すると、警官とか憲兵が走ってくると、そのこと悪いといって、棍棒で頭とか背中を、パンパンと叩ぐの。二人一緒だから、坐らされても疲れるわけね。それに、一人のひと弱っていると、二人とも倒れるから、叩かれることも多いわけね。


 劉 
昼ころになると、真夏の太陽、ジリジリと照りつけるからね。前の晩、小さい饅頭一つ食べただけで、ひと晩、田んぼの中走ったり、山登ったりしたわけでしょ。もう、誰の腹の中にも、なんにも入っていないさ。しかも、暑い太陽、まともに受けているからね。砂利の上に坐るから、脚が痛むさ。少し動くと、梶棒とんでくるでしょ。地獄よりもひどいところさ。


 林 
いちばん苦しいの、水飲みたいことね。口の中とか喉、ピリピリ痛むよ。「水ほしい」「水ちょうだい」と、何人もの人たち言ったよ。そのこと言うと、何か大声で叫びながら、棍棒とんでくるの。いま考えても、よく生きていたと思うよ。憲兵の中で、ひどい人もいたよ。水飲みたい言うと、桶に水汲んで、わたしたちのそばに持ってくるでしょ。その水、ヒシャクに汲んで、目の前につき出してよこすの。飲みたいでしょ。うしろに縛られている人を引っぱって、顔を近づけていくわけね。すると、その水の入ったヒシャク、だんだん遠くしていくの。こんど、倒れるでしょ。そのこと悪いと、また棍棒とんでくるわけね。最後にその水、目の前の砂利にあけたり、頭にふっかけたりするの。水、頭から顔に伝わって、流れるでしょ。その水、舌を出してなめるの。そのことおかしいといって、みんなで笑うの。あんなことやる人に、人間の心ないよ。日本の人、ひどいことばかりするの多いね。


 李 
劇場の前、引っぱられてきた人で、だんだんいっぱいになってきたでしょ。そのわたしたちのこと見ようと、女の人とか、子どもとか、たくさん来たね。何か大声で叫んで、わたしたちの顔に、ツバ吐いて、帰っていく女の人もいたよ。子どもの中には、わたしたちのいるところに来て、顔とか腕とか、叩いて歩くのもいたよ。遠くから、石投げてよこす女の子どももいるね。わたしたち縛られてるから、そんなことされても、よけることできないよ。黙って、睨みつけているだけね。こんど、二日目になって、生死のあいださまようようになると、睨みつけることもできないさ。されるがままの状態ね。


 林 
砂利の上に、三日二晩も坐らされていたけど、食べ物とか水、ぜんぜんぐれないの。夜になっても、横になって、寝ることもできないの。四日目になって、スイトンみたいなもの、お椀にたった半分だけ出たね。いま考えても、生きていたこと、まったく不思議ね。みんな、疲れと空腹で、ふらふらしているでしょ。倒れる人、多くなるわけね。どうにもならなくなって倒れると、そのこと悪いといって、棍棒で叩かれるから、死ぬ人多くなるわけね。死んでも、そのままにしておくよ。二人一緒に縛られとるうち、一人死んでもそのままにしておくでしょ。わたしの背中に縛られた人、名前も誰かわからないよ。からだの弱い人だったわけね。劇場の前に引っぱられてきた日の夕方、もう死んだよ。死んだ相手のからだ、だんだん固くなってくるでしょ。すると、重くなっていくの。一人でもたいへんなのに、死んだの人ひとり背負っているのだから、苦しいさ。こんど、次の日になると、死んだ人、だんだん臭いしてくるの。重くて、臭いしてきて、どうにもならないよ。こんど、晩になるでしょ。犬とか、猫とか、何匹も集まってくるの。死んだ人の足とか手とか、食べようとするの。食べるもの奪い合って鳴いたり、骨を噛むの音、夜中になると聞こえてくるの。生きてる人にも、かぶりついてくるの。わたしの膝にも、爪かけてきた猫いたけど、追うにしても、声出ないよ。疲れて、からだぜんぜん動かせないさ。わたしは食べられなかったけど、あとで聞くと、食べられた人もいたわけね。地獄よりもひどいところだったさ。


劉 
わたしたちのからだ、裸のような状態だからね。昼は暑いし、こんど、朝方は寒いでしよ。寒くて、からだがカタカタさ。これじゃ、なにをされなくとも、死んでしまうさ。


 李 
わたし、劉さんとか林さんみたいに、劇場の前に坐らされたの、半日くらいのことね。わたしたち捕えられて、連れてこられると、すぐに言ったの。蜂起のこと、わたしたち計画した、わたしたちの手でやった、ほかの人たち関係ない、早く寮に帰してほしいとね。わたしたちリーダー13人、すぐに花岡派出所に連れていかれたさ。ほんとは、計画に参加したの8人ね。だけど、あとの5人、わたしたちのちょっとした不用意のために、リーダーの中に入れられたの。8人はみんな、もう覚悟決めてるからいいけど、あとの5人、泣いてるよ。わたしたち関係ない、殺されるのイヤだと。その人たちの気持、よくわかるね。自分たちで計画したことでないからね。わたしたち、あとでそのこと何回も言ったけど、警察で認めてくれないよ。わたしたち13人のほかに、中心になった人、まだいるかと、ほかの人たち拷問にかけて、聞いたわけね。からだとか、ズボンとかに、いくらか血のついてる人いるでしょ。すると、その人、日本人殺した犯人でないかと、拷問にかけるの。リーダーになった人たち、
必ず殺される、生きられると、誰も思っていないからね。


 林 
病人でも同じだったさ。自分で転んで、傷つけて、血流してる人いるでしょ。その人、補導員のこと殺した人かもしれないと、劇場の中に連れていくの。劇場の中、拷問にかける場所ね。何時間かたって、劇場の中から運ばれてくるでしょ。もう動けないね。病人のひと拷問にかけるのだから、当然ね。劇場の中から、死んで出てくる人もいたね。劇場の中、どんなことあったか知らないけど。


 李 
わたしたち13人、花岡の派出所に入れられたでしよ。こんど、どんな計画して、誰と誰が補導員たち殺したか、詳しく自白させようとしたの。だけど、誰もそのこと、詳しく言わないの。どの人も、わたしたちみんなでやった、あとの人たち、ぜんぜん関係ないと言うだけでしょ。こんど、調べてる警官たち怒ってね。一人ひとり、劇場の中に連れていくの。天井の高い、がらんとした劇場ね。人った時に、とうとうここで殺されるのかと思ったよ。劇場の中に入るでしょ。何人かで、ビンタンくわせるの。わたしたち、立ってもふらふらの状態でしょ。一つビンタンくうと、もうその場に倒れるさ。倒れると、また立だされるでしょ。するとまた、ビンタンとんでくるの。そんなこと、何回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、長い木の腰掛けあるでしよ。その腰掛けに、仰むけに縛りつけられるの。それから、桶に水汲んできて、口と鼻から注ぎ込むの。苦しくて、息もつけないでしょ。からだ動かそうとしても、縛られとるから、動けないでしょ。「苦しい!」と叫ぼ
うとしても、口とか鼻に水いっぱい入ってるから、声出ないでしょ。また、そんな元気もないから、気を失ってしまうわけね。ところが、気失ってしまうと、こんど、腰掛けを逆さに立てるの。頭が下になるでしょ。すると、からだの中に入った水、こんど、口や鼻から出るでしょ。水出ると、わたしたち息を吹き返すわけね。その時の苦しいこと、とても言えないよ。ひと思いに殺してくれと、何度も叫んだよ。声にならないけどね。息を吹き返すでしょ。すると、また腰掛け水平にして、口と鼻にまた水を注ぎ込むの。気を失うと、また腰掛け逆立てにするでしょ。こんなこと、三回もつづけてやられると、もうダメよ。自分の力で、派出所まで歩いて帰れないよ。リヤカーに乗せて運ばれて、留置場の中に放っぽり出されるの。わたしだけでなく、13人、みんな同じことやらされるでしょ。でも、8人の誰も自白しないでしょ。5人は関係ないから、わたしじゃないと叫ぶだけね。こんど、次の日になると、また、劇場の中に連れていかれるの。こんどまた、なにをされるかわからないから、恐いさ。

 通訳来て、みんな白状しろ、許してやるからと言うでしょ。だけど、ひと口も言わないでしょ。こんど、太い注射器持ってくるの。桶の中の水、その注射器の中にいっぱい入れるでしょ。ハシゴの上に、わたしのからだ縛りつけて、その注射器腹にさして、水を腹の中に入れるの。何度もやると、やせてへこんでる腹、丸くふくらんでくるの。誰か靴のまま腹の上にあがって、腹の上ではねて、ふくれた腹ふむの。すると、口とか耳とか鼻からとか、腹の中の水、ふき出してくるの。その時の苦しいこと、たいへんよ。このこと、四回も五回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、天井から垂してある針金に、両方の親指縛りつけて、その針金を、上に巻き上げるでしょ。からだ宙吊りになると、こんど、尻でも脚でも、棍棒でめちゃくちゃに殴るの。痛いから、ぶらん、ぶらんと動くでしょ。親指の皮、べろっと抜けて、からだ下に落ちるの。そのとき、ほとんどの人、気絶してしまっているけど、まるで、犬か猫みたいな扱い方されたね。


生き地獄の毎日

 林 
わたしたち共楽館の前の広場に、三日二晩いたけど、食べ物も水も、ぜんぜんないでしょ。一日に一回は、共楽館の中に引っぱられて、お前、暴動に参加したろ、人殺したろと、拷問受けるでしょ。わたしそのこと知らない、わたし関係ないと言っても、信用しないの。嘘つくなと、殴る、蹴るをつづけるわけね。共楽館の中で死んだ人、建て物のわきに運んできて、積んでおくよ。三日の間に死んだ人、何人いたかな。いっぱい積んであったさ。20人くらいはいたね。広場でも死んだ人多いね。昼も夜も、あっちこっちで死ぬよ。昼は死ぬ人わかるけど、暗い時は、誰死んだかわからないよ。朝になって、明るくなると、死んでる人見えてくるの。あっちでも、こっちでも、死んだ人見えるわけね。死んだ人も、そのまま広場に捨てられてあるでしょ。朝になるでしょ。ハエがいっぱい飛んでくるの。死んだ人の口とか目とか、ハエがついて黒くなっているさ。そのハエこんど、生きてるわたしたちの口とか鼻にも、飛んでくるでしょ。わたしたちのこと、死んでいると思っているわけね。いま思うと、ハエも区別つかないほどになっているわけね、生きとる人か、死んだ人か……。それくらい、生きとる人もひどくなっていたわけね。


 李 
わたしたち13人、ひどい拷問受けたけど、殺そうとしなかったね。憲兵とか、警官たち言うに、お前たち日本人殺した、裁判にかけて死刑にする、それまで、殺さないで生かしておく、というようなこと、わたしたちに言うの。わたしたち、日本語よくわからないから。それでも、同じこと何度も言われるから、言ってることの意味、わかってきたけどね。いま考えても、あんなにされて、生きていたの、不思議なくらいね。わたしたち13人、花岡派出所の留置場に一週間ほどいたけど、一日に少ない時で三回、多い時だと五回から六回
も、共楽館の中に引っぱり出されて、いろいろな方法で拷問受けた。わたしたち8人が責任者、わたしたち計画した、日本人も殺したこと、何回もしゃべってあるでしょ。だから警察の人たち、蜂起のこと全部、ちゃんとわかっていたわけね。それでも、留置場から引っぱり出して、殴ったり、叩いたり、水槽の中に水入れて、その水にわたしたちの首つかまえて、入れたりするの。もう、なにも言うことないでしょ。それでも、拷問するわけね。


 林 
わたしたち、砂利の上に坐らされて三日目になると、もう坐っているのことできないさ。みんな、いまにも倒れそうに、ふらふらしているさ。何日も、水もなければ、食べ物もないでしよ。舌も唇も、カサカサして、火がついたように熱いさ。夜中に、小雨があったの。両手縛られてるから、雨掬うことできないでしょ。顔流れてくる雨、舌出してなめるの。その雨のうまいこと。半分死んでいたのが、この雨で生き返ったわけね。わたしだけでなく、この雨で生きのびた人、かなり多いよ。四日目の昼ころ、スイトンみたいなもの、椀に半分配られて、それ食べたでしょ。こんど、スイトン食べてから、中山寮に帰ることになったの。

共楽館から中山寮まで、距離だいぶあるね。それに、坂道多いでしょ。縛られていた縄とかれて、歩けと言われても、立てる人いないよ。石ころの上に、三日二晩も坐ってたわけでしょ。膝とかすねに、大きな傷ついてるの。その傷の中に、砂利とか土とか、いっぱい入っとるでしょ。なんとか立っても、歩くと、こんど傷痛むの。平たいところだと、なんとか立って歩いたけど、坂道になると、とても歩けないでしょ。みんな這ってのぼったけど、膝とかすねの傷、石とか砂にぶつかるから、痛いでしよ。血が流れてくるの。痛いから、黙ってるでしょ。すると、早く歩けと、棍棒とんでくるの。泣いても、声出ないし、涙も出てこないさ。共楽館から寮まで行く途中に、死んだ人もいるよ。四日目に寮にもどって、次の日、わたしたち看護人に、共楽館の広場の屍体、片づけるように命令されたの。だけど、自分で動くこともできない人、ほとんどでしょ。どうやって死んだ人たち、山の上まで運んでくるのことできるね。


 劉 
あのとき、看護長もいないから、わたしと林さん、交渉したね。わたしたちの力で、運んでくることできないと……。このとき、殴らないで、そのことわかってくれたね。そんなこと、花岡に来てからはじめてのことね。それだけ、わたしたちの弱っているの、わかったわけね。こんど、わたしたちに、大きな穴、二つ掘らせたの。わたしたちその時、この大きな穴に、死んだたくさんの同胞たちの屍体埋めるのかな、それとも、わたしたちが殺されて埋められるのかな、と考えたね。穴できて、何日かあとに、朝鮮の人たち、広場から屍体運んでくると、大きな二つの穴に、たくさんの屍体投げ入れて、土かぶせたの。わたしたち看護班の人たち、同胞たちの屍体の上に、土かぶせたの。大きな二つの穴のほかに、小さな穴、もう一つ掘ったの。その穴の中に、任鳳岐をひとりだけ埋めろというの。わたしたちの同胞を食いものにした入、死んだ後も特別の扱いうけること、不満で仕方なかったけど、一人だけ埋めたよ。命令だからね。日本、戦争に負けてから、わたし三回ばかり、花岡鉱山に行ったよ。遺骨のことで行ったのだけど、二回目に行った時、日本の赤十字とか、東京の華僑総会の人たちとも一緒ね。大きな穴二つあって、その穴の中に、まだたくさんの骨残っているの。その骨拾って、水で洗って、干してから箱に入れたけど、これが広場で殺された人たちの骨ね。何日も、水も食べる物もなくて殺され、何十人も一つの穴に投げ込まれて、骨はバラバラに捨てられて、あまりかわいそうで、涙ばかり出たよ。


林 
わたしたち看護班は、次の日から働いたけど、ほかの人たち、二日目から仕事に出たの。仕事に出る朝、みんなを寮の前に集めて、共楽館の前で、わたしたちを拷問する時、指揮をとった三浦署長と、河野所長の訓話あったの。日本の通訳、そのこと、わたしたちに知らせてくれたけど、そのとき、耿太隊長以下13人の主犯たち、すでに死刑になっている、と話あったの。わたしたちそのこと聞いて、ビックリしたの。なかには、鼻すすりあげて泣く人もいたけど、いま考えると、李さんたちまだ、花岡派出所の中にいたわけね。そんな嘘言って、わたしたちのこと、脅したわけね。


劉 
わたしたちは次の日から働いたし、工場で働く人は、二日目から仕事に出だけど、食べ物の量、前よりいくらか多くなったほかは、なんにも変わったことないね。仕事はきついし、補導員のかわりに剣を下げた警官が監督につくようになっても、わたしたちのこと殴るの、前と同じね。蜂起する前より楽になったことぜんぜんないよ。


敗戦後も戦争状態

 李 
わたしたち、花岡派出所に入れられて何日目かな、こんど、通訳の于傑臣も投げ込まれてきたの。このとき、みんなビックリしたさ。夜中になって、見回りの人あまり来なくなってから、みんなで彼に聞いたの。蜂起の状態のことも、わたしたちぜんぜん知らなかったからね。わたしたち殺したの、檜森と猪股が寮の中で、小畑と長崎が寮の外で、あとの補導員たち生きていること知ったの。そのこと聞いて、みんなガックリしたね。こんど、大館警察署の留置場から、両手を前に縛られて、トラックに乗せられたの。どこに連れていかれるのか、ぜんぜん知らされないでしょ。銃殺される場所に連れていかれるのかなと、何度も考えたりしてね。トラックに長い時間乗せられて、大きな町の中とおって、こんどトラックが停まって蹴り落されたけど、そこが秋田刑務所だったの。于は秋田の刑務所に来なかったから、ぜんぶで13人来たわけね。


 林 
蜂起のあと、通訳は日本人がやっていたよ。于傑臣のこと、ぜんぜん見かけなかったから、蜂起のとき、殺されたのかと思ったよ。あとで、留置場から出てきて、わたしたちに日本の敗戦のこと、知らせてくれたけど、戦争終わってからも、いつ中国に帰ったのか知らないよ。わたしたちと、まったくべつに来た人だからね。


 李 
秋田刑務所の中で、わたしたち、一人ひと部屋ね。毎日、取り調べ受けたし、殴られることもあったけど、ご飯は三回あるし、蒲団あるし、ゆっくり眠れるし、刑務所の中、天国だと思ったさ。だけど、刑務所のご飯の量、ぜんぜん少ないの。ご飯の中味、大豆三分の一、麦三分の一、米三分の一ね。ぜんぶ食べても、ふた口か三口でなくなるよ。お腹の中、ぜんぜん感じないわけね。わたし、いつもご飯くるでしょ。こんど、箸で、椀の中の大豆一つ一つとって、数えながら食べるの。お椀の中に大豆、だいたい30粒ほど入っているの。

 大豆食べ終わると、こんどは麦を箸で拾って、これも数えながら食べるの。麦は、だいたい50粒ほど入っているね。大豆と麦食べると、米はいくらもないから、すぐ食べ終わるさ。なんにもすることないから、一日三回、こんな食べ方して、時間をかけていたさ。こんど、独房の中に、小さな窓あるでしょ。その窓見ながら、太陽どこまでくると、三回のご飯のくる時間、わかるようになったの。太陽の動くの見ながら、ご飯まだかなと、そのことばかり考えていたよ。だけど、お椀に半分くらいのご飯だと、すぐにお腹すくでしょ。便所に立ってもいけないよ。立つただけで、もう頭ふらふらするの。刑務所に来て10日ばかりたったある晩、わたし、夢見たの。中国で別れたままの兄弟とか、亡くなった母のことなど、みんな夢の中に出てきたの。刑務所の朝、早いでしょ。六時になると、みんな起きるの。ひとり部屋だけど、隣の人と、話しすることできるの。わたし、朝起きると、夢見たのこと、隣の人に言ったの。兄弟や母たち、夢の中に出てきた、なにか悪いのこと、なければいいがと…。そのあとですぐ、ご飯運ばれてきたの。いつもの日より、ご飯のくる時間早いの。これ、ちょっとおかしい、何事かある、わたしの夢当たったと思ったよ。ご飯食べると、たくさんの人来て、独房の戸のカギとって、わたしたち13人、みんな外に出されたの。ははあ、、、きょうはこのまま銃殺されて、いのちなくなる日かな思った。13人手錠かけられて、トラックに乗せられたの。わたしたち乗ったあとに、おにぎりも積んだの。わたしそれ見て、いよいよほんとだ、人殺すとき、腹いっぱい食べさせて殺すと、わたし聞いていた。いつか死刑にされると思っていたから、べつにこわくないけど、腹いっぱいに食べて殺されるのこと、いい気持と思った。トラックで遠くに運ばれて、人目のつかないところで殺される、そう思ったの。ところが、わたしたち降ろされたの、裁判所の前ね。裁判所の中で、わたしたち13人並んだでしょ。こんど、警察の人来て、わたしたちを片っぱしから殴っていくの。なんで殴られるのか、ぜんぜんわからないよ。裁判官たち、わたしたち殴られるの見ていても、なんにも言わないの。なかには、笑って見ている人もいるよ。この日、第一回の裁判あったわけね。はじめの時に、わたしたち、自分の国の住所とか家族の名前、どうして日本に連れて来られたか、ぜんぶ言ったの。ほんとのこと言って、通訳されるでしょ。わきに立ってる警察の人、嘘つくなと殴るの。嘘でないよ。わたしの言ってること、ほんとのことね。ほんとのこと言うと、殴られるのだから、どうしようもないよ。わたしたち言ったあとで、検事の人かな、わたしたち13人に言ったの。あんたたち、暴動起こした、何人もの日本人殺した、中国人の誰と誰が、日本人の誰を殺した、とちゃんと言うの。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よくわからないよ。でも、聞いてわかっただけでは、みんな嘘のことね。日本人の補導員殺したのことだって、誰がやったのか、わたしたちでもわからないよ。それを、誰と誰がやったことにしているから、おかしいわけね。第一回の裁判あってから、10日くらいたってからのことかな。夜中に、刑務所の上の空、たくさんの飛行機とぶ音聞こえるの。まもなく、すぐ近くで、爆弾の落ちる音とか、機関銃の音とか、聞こえてくるの。わたし中国にいた時、中国解放義勇軍のゲリラしてたわけでしょ。だから、戦争はじまっていること、わかるの。わたしたちにも厚い帽子くばられて、一人ひとりに、銃砲待った憲兵がついたの。戦争で日本が負けてきていること、ぜんぜん知らされていないでしょ。どこの飛行機来ているのか、どうして爆弾落とされているのか、わからないね。だけど、たいへんなことになっていることだけは、わかったね。看守の顔も、憲兵の顔も、ひどく変わっていたからね。その次の日か、二日後のことかな、刑務所の中に吊しているもの持ち去ったり、貼り紙を剥いだりしているの。いま思うと、このとき、日本は戦争に負けていたわけね。そのことかくして、わたしたちに教えてくれないから、日本の人たちなにをやっているのか、不思議だったよ。なにやっているんだろと、隣の人と話したけど、誰もほんとのこと、わからないよ。


 林 
中山寮にいたわたしたちも、同じだったさ。蜂起の時のムリが出たり、食べ物の量、前と同じに少ないから、病人どんどん多くなってくるの。看護棟の中いっぱいになると、寮の中にも、病人の部屋つくったよ。いま考えると、日本が戦争に負けてからも、同じように重労働させられ、食べ物も少ないから、中国人は毎日のように死んでいったさ。日本が戦争に負けてからでもさ……。8月ころから、鹿島組の人とか、警官たちの様子、かなり変わってきたことわかったけど、まさか、日本が戦争に負けたとは、誰も思わないからね。そんな
こと聞くと、殴り殺されることわかっているから、誰も聞かないからね。わたしたち、日本が戦争に負けたことわかったの、9月に入ってからのことだったさ。いつの日だったか、はっきり覚えてないけど、わたしたちの働いている頭の上、すれすれに飛行機とんできたの。それから、落下傘に大きな荷物つけて、いくつも、いくつも落としていったの。その荷物、同じ花岡鉱山に捕虜になってきている、アメリカ兵のものだってことわかったの。もう戦争終わったのこと、そのことでわかったの。それまでは、誰も知らせてくれなかったからね。


 李 
刑務所にいるわたしたちに、暦渡してくれないでしょ。独房にいると、ほかのこと見ることもできないから、きょう何日か、ぜんぜんわからないわけね。飛行機の爆撃あって、刑務所の中の貼り紙剥がされて、だいぶたってから、第二回の裁判開かれたの。このとき、無期懲役は誰と誰、15年の懲役は誰と誰と判決あったけど、わたしたち日本のことば、ぜんぜんわからないでしよ。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よく聞きとれないよ。こんど、刑務所に帰ってから、隣の人と話し合って、その隣の人また隣の人と話し合って、
死刑になったのは誰なのか、無期になったのは誰なのか、確かめ合ったの。耿太隊長一人が死刑で、わたしは確か、15年の懲役だったようだけど、はっきりしないの。このとき、判決あってから、裁判官言うの。この裁判に不服だったら、上告することできる日本の法律ある。上に上告するのこと、いっこうにかまわないと言うの。だけど、わたしたちその方法わからないよ。わたしたち弁護士いるのかどうか、ぜんぜんわからないからね。どうやればできるのか、相談する人もいないからね。


 林 
それ、ことばだけのことね。わたしたち、上にもっていったとしても、勝てるわけないでしょ。だいいち、もっていく方法知らないのだからね。上にもっていっても、簡単に負けるさ。そして、死刑か、懲役ね。


李 
あとで開いたけど、わたしたちの判決あったの、日本が戦争に負けたあとの9月になってからと聞いて、ビックリしたさ。だけど、正直言って、死刑になると思っていたから、15年の懲役と聞いて、軽いと思ったの。


後文省略〜


以上、日本が行った「労工狩り」中国人強制連行の記録よる被害者の証言を終わりますが、野添憲治・著「花岡事件の人たち」には政府と企業戦後処理、などが書かれています。現在を生きる私たちにとっては想像を絶する事件と、戦後処理のみすぼらしさや責任逃れなど、目を覆いたくなる恥ずかしさを覚えます。
http://kisarazu.org/?page_id=62


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c2

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
229. 中川隆[-12416] koaQ7Jey 2019年2月05日 13:57:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

千葉の小4女児虐待死 父、虚偽書面書かせる 児相「強要の可能性認識」
2/5(火) 13:00配信 毎日新聞

栗原勇一郎容疑者が長女に暴行を加えたとみられる現場のアパート(奥)=千葉県野田市山崎で25日午後5時50分、橋口正撮影


 千葉県野田市の小学4年、栗原心愛(みあ)さん(10)が死亡し、両親が傷害容疑で逮捕された事件で、一時保護解除後の2018年2月、父勇一郎容疑者(41)が心愛さんに「お父さんにたたかれたのはうそ」「4人で暮らしたい」などと書かせた書面を柏児童相談所に提示していた。児相が取材に明らかにした。児相はその翌々日、心愛さんに確認しないまま自宅に戻す決定をしており、専門家は児相の対応を批判している。

 心愛さんが17年11月、学校のいじめアンケートに「お父さんにぼう力を受けています」と記入したことから、児相は一時保護した。心愛さんは暴力について具体的に話したが、勇一郎容疑者は認めず、児相は同12月、勇一郎容疑者と引き離して同市内の父方の親族宅で暮らすことなどを条件に保護を解除した。

 児相によると、さらに心愛さんを自宅に戻すか判断するため、18年2月26日に職員が親族宅で、心愛さんを同席させずに勇一郎容疑者と面会。勇一郎容疑者は「今日にも連れて帰る」と強い口調で迫り、心愛さんが書いたとする書面を提示した。書面には「お父さんにたたかれたというのはうそです」「児童相談所の人にはもう会いたくないので来ないでください」「(父、母、妹と)4人で暮らしたいと思っていました」などと書かれていたという。

 児相は心愛さんに自分の意思で書いたのか確認しないまま、28日に自宅に戻す決定をした。心愛さんは3月上旬、自宅アパートに戻った。ところが同月下旬、児相職員が小学校で心愛さんと面会して確認したところ、「父親に書かされた」と打ち明けたという。

 児相は取材に「最初から書かされた可能性があるとは思っていた」と釈明したうえで、「父親が虐待を認めない中、自宅に戻すことはリスクと考えたが、学校内での見守りができており、何かあればすぐに介入できる体制をとっていたことから、総合的にみて自宅に帰した」としている。

 だが、児相は心愛さんが自宅に戻った後、一度も自宅訪問せず、勇一郎容疑者への面会もしなかった。学校に約1カ月間姿を見せなくなったことを知った後も訪問せず、心愛さんは1月24日深夜、自宅浴室で死亡しているのが見つかった。【町野幸、斎藤文太郎】

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c229

[近代史3] 日本円と日本の物価は異常に安過ぎる _ 1ドル=50円 が適正価格 中川隆
3. 中川隆[-12415] koaQ7Jey 2019年2月05日 17:08:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2019年02月05日
アメリカの高額医療費 日本の公的保険では保証されない

日本で虫垂炎の医療費約40万円で自己負担12万円、差額は全額自己負担になる

画像引用:恐怖!虫垂炎の手術に250万円掛かる国、アメリカ | 亀甲来良の生命保険BLOGhttp://www.ehoken.co.jp/blog/?p=154


国保や社保はアメリカでは通用しない

アメリカの医療費が高額なのは知られているが、日本人がアメリカに滞在している時も同じです。

日本人だから安くしてくれる訳ではないので、数千万円を請求される場合があります。

国保や社保では海外では海外療養費制度によって、かかった医療費も適用されるが、これには注意が必要です。




国保社保は例えば国内で10万円の治療費、同じ内容で海外で100万円の治療費である場合、10万円分にだけ適用されます。

国保社保の自己負担は3割なので、この場合は10万円の7割にあたる「7万円」だけが支給されます。

すると3割分の3万円と、国内と海外の医療費差額90万円の合計93万円が自己負担になります。


もう少し価格差が小さい場合、国内10万円で海外20万円では、差額の10万円と3割負担3万円の合計13万円が自己負担額になる。

アメリカのように日本の10倍以上もの医療費が予想される場合、国保や社保は役に立たないのが分かります。

逆に日本と同じ医療費や、日本より安い場合には海外療養費制度は有効と言えます。


そこで日本より医療費が高い国に旅行や滞在する場合は、民間の海外旅行保険などに加入する必要があります。

クレジットカードのオマケなどで付いてくる海外保険は数十万円から200万円程度が多く、日本の感覚では有り余る保証に思えます。

だがアメリカでは数日の入院でも数百万円、もっと長期だと数千万円の医療費が請求されます。

旅行保険に必ず加入する必要

可能性としては入院一日100万円から最大500万円も請求された事例があります。

通院の場合でも1回数万円から10万円ほど請求されるので、アメリカ人は手術しても入院しない人が居ます。

救急車も有料で1キロ1万円ほど、救急ヘリも同じくらいなので、ヘリで200キロ搬送されて200万円請求された人が居ます。


民間旅行保険の保険料は例えばアメリカ7日間では1人3000円、3か月では5万円前後になります。

補償される治療費は短期間1000万円、3か月は2000万円が多く100%万全ではないが予想される治療費の大半はカバーできます。

渡航期間3か月以上だと1年で17万円前後となり、かなり割高な印象を受けます。


裏を返すとそれほど高額な保険料を取らないと、保険会社が赤字になるほどアメリカの医療費が高いのです。

1週間程度の旅行なら3000円以内なので、ツアーのセットになっていない場合は必ず加入したほうが良いです。

短期旅行は問題ないとして長期間の留学や仕事の滞在で年18万は大きな負担です。


会社が払ってくれるなら問題ないが、自営業とかフリーランスや留学では保険料も含めて計画したほうが良い。
http://www.thutmosev.com/archives/78928540.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/189.html#c3

[近代史3] もうすぐ氷河時代が来る証拠 中川隆
7. 中川隆[-12414] koaQ7Jey 2019年2月05日 17:49:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

ヒマラヤの氷河、温暖化で3分の2が消滅する恐れ 報告書
2019年2月5日 16:49 発信地:カトマンズ/ネパール
http://www.afpbb.com/articles/-/3209740?cx_part=top_topstory&cx_position=4


【2月5日 AFP】北極、南極に次ぐ「第3の極」と呼ばれるヒマラヤ(Himalaya)山脈の氷河は、世界の温室効果ガス排出量が大幅に削減されない限り、2100年までにその3分の2が消滅する恐れがあるとする報告書が4日発行された。地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定(Paris Agreement)」が掲げた世界の平均気温上昇幅を1.5度に抑える目標が達成できても、ヒマラヤ山脈の氷河の3分の1が消滅する恐れがあるという。

 4日発行の報告書「Hindu Kush Himalaya Assessment(ヒンズークシ・ヒマラヤ地域アセスメント)」によると、ヒンズークシ・ヒマラヤ地域の氷河は、山脈地域に約2億5000万人と、そこから流れる川の流域に住む16億5000万人にとって死活的に重要な水源になっている。

 これらの氷河は、ガンジス川(Ganges)、インダス川(Indus)、黄河(Yellow River)、メコン川(Mekong)、イラワジ川(Irrawaddy)などを含み世界の河川系の中でも最重要とされている10河川系の水源となっており、数十億人に食料、エネルギー、新鮮な空気、そして収入を直接、間接的な形で提供している。氷河融解は大気汚染の悪化や異常気象の激化など、さまざまな影響を人間にもたらす。

 報告書は650ページで、ネパールの国際総合山岳開発センター(International Centre for Integrated Mountain Development、ICIMOD)が5年かけて作成した。研究者・政策専門家350人以上、185機関、執筆者210人、編集者20人、外部査読者125人が参加した。

 ICIMODのフィリップス・ウェスター(Philippus Wester)氏は、「地球温暖化は、非常に寒い氷河に覆われた8か国にまたがる(中略)山々の頂を、1世紀にも満たない間にむき出しの岩肌にしてしまう」と述べた。(c)AFP/Paavan MATHEMA
http://www.afpbb.com/articles/-/3209740?cx_part=top_topstory&cx_position=4
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/202.html#c7

[近代史3] 宮脇淳子 皇帝たちの中国  中川隆
4. 中川隆[-12413] koaQ7Jey 2019年2月05日 19:37:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

「番外編:皇帝たちの中国 その後の皇帝たち〜第十代同治帝・十一代光緒帝」
宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cBqwC5moJS0
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/139.html#c4
[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
3. 中川隆[-12412] koaQ7Jey 2019年2月05日 19:43:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

看板を使い分ける西岡力の狙い 2011/11/11
https://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/43537126.html


 怪人二十面相でもあるまいに、時と場合に応じて活動家「救う会」会長、文化人「国際基督教大教授」の看板を使い分け、世論を欺いているのが西岡力さんである。

 北朝鮮に行った事も見た事も無いのに、安明進(元北朝鮮工作員、実は韓国情報部要員)とグルになって北朝鮮に行って見てきた様な嘘をついて家族会を欺き、産経などのマスコミや拉致世論を誘導してきたことは再三指摘したので、今では知る人ぞ知る公知の事となった。

 しかし、西岡さん、反省することを自虐的と心得てか、これまでの嘘について謝罪するどころか、知らぬ顔の半兵衛。手を変え品を変え世論を欺いている。

 拉致問題を人権侵害と憤慨し、家族会に同情している人々の多くは、西岡さんがもともと憲法や人権を軽視する戦前肯定的な国家主義的思想の持ち主であることは知らないだろう。

 知らないままに無意識の中で、拉致問題は「人権侵害」から「主権侵害」へと刷りかえられ、マインドコントロールされている。

 西岡さんの思想をはっきりと示すのが、産経新聞の雑誌『正論』12月号の妄想文「危険水位を超えた『慰安婦』対日謀略」である。

 都合の悪い反対意見を謀略、工作と言い換えて封殺しようとするのは被害妄想症の西岡さんの常套手段だが、同一文でも「韓国が日本統治下の『慰安婦』問題を蒸し返し、これまでになく深刻な状況に陥っている」として、その背景を分析ならぬ妄想している。
 
 周知のように韓国の憲法裁判所は今年8月、「韓国政府が日本に元慰安婦の賠償を請求する外交交渉をしないのは憲法違反」とする判決を下した。それを受けて韓国外交通商部は9月、2国間協議を日本に提起した。

 それに対して西岡さんは「1965年の日韓基本条約に伴う請求権協定で両国間の個人の賠償請求権は消滅している。韓国憲法裁判決は外交上の常識を否定する倒錯した論理」と、身勝手な理屈で噛み付いている。
 
 さらに「事態がここまで悪化したのは、支援団体などが『慰安婦は日本国が強制した性奴隷』という歴史の虚構を国際社会に蔓延させたことが背景にある」とし、持論の「従軍慰安婦は娼婦」を持ち出して、被害妄想的な反論をしている。

 「親北朝鮮左派勢力による息の長い反日・日韓分断謀略工作の結実だ」にいたっては支離滅裂、病気というしかない。

 さらに、「日本が事なかれ的に謝罪を繰り返し、慰安婦強制連行の虚構を放置してきたことが、謀略勢力につけ込む隙を与えてきた。虚構の排除策に早急に取り組むべきだ」と“提言”しているが、所構わず噛み付く狂犬かと、首を傾げたくなる。

 拉致問題で反対意見を「北朝鮮工作員」「反日」と排撃する手法とそっくりである。
 
 今の世の中、妄言は捨てるほどあるが、小賢しい西岡さん、「東京基督教大学教授」の肩書きを使って、「大学教授がそこまで言うのだから、何か根拠があるのだろう」と素朴に信じる人々を取り込もうとしている。

 歴史門外漢らの出鱈目歴史教科書を作った「つくる会」代表の藤岡さんも東大教授の肩書きを使ったから、名刺にもこれからは気をつけなければならない。

 問題は、西岡さんが「救う会」会長の肩書きを隠している、つまり、使い分けていることだ。

 詐欺師でもあるまいに、あれこれ使い分けながら人々をたぶらかすのはいただけない。
 
 拉致問題は人権侵害と憤慨する人々が、「救う会」会長が女性の人権を蹂躙する暴言を吐いていると知ったらどう思うだろうか。反発、黙殺、「拉致問題は主権侵害だから矛盾しない」と肯定する、の三つであろう。

 西岡さんの狙いは最後の肯定派育成であるが、一般的にはそれをマインドコントロールという。

 西岡さんが拉致問題に首を突っ込んだのは人権に関心があったからではなく、持論の国家主義的な主張に使えるネタと判断したからだとの指摘が以前から出されていたが、外れていない。

 捏造情報でも何でも使って拉致問題をこじれさせてきたのは、日朝友好を妨害する政治的な目的と結び付いているとみられる。

 彼らの邪な思惑に振り回され、無為に歳月を費やす愚はもう繰り返してはならない。
https://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/43537126.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c3

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
4. 中川隆[-12411] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:00:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

なぜ加藤正夫=西岡力氏は、原善四郎氏が関東軍第三課に在籍していた事実を隠した論文を書いたのか
By satophone, on 2016年2月20日
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=160


「千田夏光が原善四郎氏とのインタビューを捏造したと言うデマの出所を検証してみる」
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=237

では、このデマの出所が、西岡力氏であることを検証してみた。

要約すると「インタビュー捏造」の根拠は、原参謀が関特演時に、実際は関東軍第一課に属していたにも関わらず、第三課で兵站業務を担当していたと原氏が語ったと、千田が書いたと言うことだけ。

実際の千田夏光による原善四郎氏インタビューを読んで確認してほしい。原善四郎氏が、関特演当時、三課ではなく一課の所属であったことはマチガイないと思われるが、わずか一ケ所、一字の間違いである。加藤正夫氏が、このマチガイを根拠に一点突破を図り、千田が原氏にインタビューをしたことをも、ウソと決めつけようとしているのは確かだが、成功しているかどうかは全くの別問題である。

千田が架空のインタビューをでっち上げ、それを自ら加藤氏に認めたと言う内容の箇所は、加藤氏の論文には全くない。それらしいのは、以下の2つの文章である。

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以上のように千田氏が昭和十四年の”慰安婦二万人動員計画”があったと主張する唯一の根拠は、原参謀の証言なのだ。

ただし原参謀の名前を出し、語らせているが、具体的に直接に原氏がはっきり語ったようには書いてはいない。”慰安婦二万人動員計画”にしても、原参謀の口からは、はっきりと断言しているわけではなく、伝聞をまとめたような感じすらする。そこに逃げ道をつくろうとしているのかもしれない。(P54〜55)

千田夏光氏とは一九九二年二回、電話で”関特演”に際しての慰安婦婦動員計画を中心に質問したことがあるが、その時の回答で「慰安婦二万動員計画、には、私の書物(昭和四八年刊)より先の昭和四〇年に武蔵大学教授島田俊彦氏の『関東軍』(中公新書)という本がある。この本の一七六ページに慰安婦二万人動員計画が書かれており、それが私の説の根拠だ」と語っている。つまり千田氏の書物にはタネ本があったということだ。

島田氏の『関東軍』の問題の個所には「原善四郎参謀が兵 隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して営業させた、という一幕もあった」と書かれていた。

ただし島田氏のこの本にも、前後の書き方からみて伝聞内容を文章にした感じが強かったため、確かめたいと思って武蔵大学人文学科事務所に照会したが、明治四一年生れの島田氏はすでに故人となっていたというわけだ。千田氏の著書のもう一つの重大なポイントは原参謀が「たまたま関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第三課に属していました。でも当時のことはよく憶えていないのですよ」(一〇三ページ)といったように書いている点である。前述したように原参謀は関東軍司令部第一課参謀であるから、千田氏が実際に原参謀と会見して取材したとすれば「第三課(兵站担当)でした」という書き方にはならないということである。

ということは千田氏が原参謀から直接取材して書いたかどうかの点で疑問ありといわねばならない。原参謀はすでに故人であるので確かめようはないわけだ。(P60)

出典:千田夏光「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993年2・3月号)
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関特演が昭和十四年と書いてるところなどご愛敬だが、加藤氏自身が「原参謀はすでに故人であるので確かめようはないわけだ」と、はっきり書いてある。千田が電話で「捏造を認めた」のなら、それこそ加藤氏ではないが、こんな書き方になるはずがない。インタビューがはっきりと「捏造」であると言われたら、千田も対応のしようがあっただろうが、実際は以上のような曖昧な記述である。これが千田の死後、西岡力氏によって、千田が「インタビューの捏造」を加藤氏に認めたことになるのだから、スゴイ話である。

では、原氏は関東軍第三課に属していたことはなかったのだろうか。これが今回の話題である。加藤氏は時期の明記も注釈もなしに、大見出しでこう書いている。
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原参謀は第三課所属ではない(注:大見出し)

千田氏の”慰安婦二万人動員計画”には次のような問題点をあげることができる。

第一、千田氏の本では、原善四郎参謀について「関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第三課に属していました(一〇三ページ)と書かれているが、筆者が防衛研究所図書館の史料を調べたところ、原氏は昭和一四年八月一日〜一六年一〇月五日の”関特演”の時には、関東軍司令部第一課參謀、一六年一〇月六日〜一七年一月一一日は參謀本部兵站總監部參謀、一八年八月二日〜終戦までは、関東軍司命部第四課(対満政策・内面指導)参謀、つまり軍政面の担当であったことが判明した(「主要部隊長參謀・在職期間等調査表」「陸軍職員表其の一の二=方面軍以上の軍」)。

そこで千田氏の著書での「原氏が関東軍第三課参謀として関特演の際に慰安婦二万人の募集を朝鮮総督府に依頼に行った」との記述は問題となる。原参謀の経歴には関東軍司令部第三課というのはないからだ。(P55)

出典:千田夏光「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993年2・3月号)
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ここで加藤氏は、はっきりと「原参謀の経歴には関東軍司令部第三課というのはないからだ」と書いている。「原参謀は第三課所属ではない」というのは、関特演時に第三課所属ではないので、文書の流れからもセーフとしても、原善四郎氏と原参謀が同一人物なのだから、完全なマチガイである。原氏が関特演の2年前、つまり加藤氏が原氏の経歴として挙げている以前の期間、第三課に属していたことが、文書に記録されているからである。これはある方にメールでご教示頂いたのだが、まあビックリである。

国立公文書館 アジア歴史資料センター 

標題:関東軍司令部将校高等文官職員表 (昭和14年4月10日調)

閲覧するには、検索欄にC13070956100と入力するだけである。原氏は1939年(昭和14年)当時、第三課付の大尉であったことが分かる。原善四郎氏は、第三課に属していたことがあったのだ。しかも、原氏の上司は、驚くべきことに、村上元曹長の千田夏光宛の手紙で、村上氏の上司として言及されている、磯矢伍郎大佐である。

もう一度、整理してみよう。加藤氏がわざわざ防衛研究所の史料によって調べた原氏の経歴は赤字、加藤氏が紹介した以前の原氏の経歴を補足したのが、青字の部分である。ちなみに、一課で関特演時に原氏の上司であったとされる今岡豊氏が、第一課で兵站担当の参謀であったのは、1939(昭和14)年12月1日〜1943(昭和18)年8月2日までである(加藤論文による)。
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1928(昭和3)年 陸軍士官学校卒業(40期)、任官
1938(昭和13)年 陸軍大学校卒業(50期)
1939(昭和14)年(4月10日調べ)関東軍司令部第三課(大尉)

1939(昭和14)年8月1日〜1941(昭和16)年10月5日:関東軍司令部第一課参謀
1941(昭和16)年10月5日〜1942年(昭和17)年1月11日:参謀本部兵站総監部参謀
1943(昭和18)年8月2日〜終戦まで:関東軍司令部第四課(対満政策・内面指導)参謀

出典:千田夏光「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993年2・3月号)(P55)より
————————————–

ここで疑問になるのが、加藤氏は、第一課の参謀になる前に原氏が第三課に所属していた事実を、知っていて敢えて書かなかったのだろうかということである。

メールで指摘してくれた方は、「杜撰な調査だ」と慎重な姿勢だが、もちろん杜撰なことはマチガイないのだが、どうもこれは知っていて、敢えて伏せたと考えた方がいいのではないかと思う。

もともと、原氏が関特演当時、第三課ではなく、第一課に所属していた参謀だったと言うのは、加藤論文に登場する、関特演当時の原氏の上司であった、今岡豊氏からの指摘だろうと思われるが、それが現代コリアの西岡氏の耳に入り、記事の構想を立て、実際のアリバイ的な裏付調査を、第三者の加藤氏が担当することになったのだろう。

今岡氏は、関特演時の兵站担当は一課であったと、雄弁に加藤氏に語るが、逆に今岡氏は組織改編の経緯や原氏が三課から異動してきた経緯を知っていたはずである。おそらく、原氏が三課にいたことは、彼らは意図的に知っていて隠したのである。「原善四郎」ではなく、「原参謀」と書けば、確かに第三課に所属したことはないことになるのだ。


【追記1】2016.02.06 ————————————————————–
原氏の経歴については、第四課時代のアヘン取引との関わりを、

旧満州での兵士の慰安所証言集
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=1414#furumi

で補足している。こちらも参照されたい。

(追記1.2の日付の方が記事の作成日時より古いのは、旧サイトから引っ越したため、本文を移動した日付が作成日付となっているためである)

【追記2】2016.02.06 ————————————————————–
ウィキペディアの「千田夏光」に以下の記述がある。

『従軍慰安婦正編』の中には原善四郎(関東軍参謀)に面会し、「連行した慰安婦は八千人」との証言を引き出したとの記述がある[3]。しかし、原の軍歴に間違いがあったため『正論』や『諸君!』で面会した事実に相次いで疑問が投げられた[4]。後に、千田は原の軍歴については、原と面会することなく確認しないまま他の書物を引き写したことを認めている[4]

「原と面会することなく確認しないまま他の書物を引き写したことを認めている」という文章の出典[4]として挙げられているのは、(加藤正夫「千田夏光著『従軍慰安婦』の重大な誤り」『現代コリア』1993年2・3月号、p55-6)であるが、加藤氏の論文にそのような記述は一切ない。

【追記3】2016.04.26 ————————————————————–
追記1の補足になるのだが、西岡氏が「原善四郎氏が第三課に属したことがない」と言い切っている文章があった。


ブログの方で書いた今後の予定の四番目の記事
http://satophone.wpblog.jp/?p=1856

で、触れている。

彼は20年以上も、いろいろな場所で、手を変え品を変え、ウソを垂れ流してきたわけである。
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=160
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c4

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
5. 中川隆[-12410] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:07:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

千田夏光が原善四郎氏とのインタビューを捏造したと言うデマの出所を検証してみる
By satophone, on 2016年2月20日
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=237


ネット上で、千田夏光が「従軍慰安婦正編」に掲載した、原善四郎関東軍参謀へのインタビューについて、千田が実際にインタビューなどせず、捏造したものだと言う「珍説」が飛び交っている。

ウィキペディアの日本語版では、実際は千田は原参謀に面会してはいない、別の書物の記述をもとにあたかも自分が面会したかのような嘘を書いたと認めたと、つい最近まで書かれていた。

事実無根だ出典を示すべきと言う抗議を受けて、度々消されるのだが、シツコクいつの間にか記述が復活すると言う、滑稽とばかりも言っていられないような状況にある。この文章を書いている時点(2015.11.22)では、復活していないが、放っておいたら、いずれまたデタラメで埋まるだろう(追記:間違いでした。2015.11.22時点でもきっちり記述が残ってます)。

アマゾンの書評も酷い。私はレビューをアマゾンさんで書かせてもらってるのだが、昔は慰安婦問題関係でヘタなことを書くと、有象無象の方々から2chよりヒドイよってたかっての総攻撃を受けたもので、千田の本のレビューなど目も当てられないデマデタラメのオンパレードである。産経新聞などは、既に看板シリーズ記事の「歴史戦」で、千田を吉田清治と同列の人間というレッテルを貼ってしまっている。だが、これだけ無内容な記事を、堂々と掲載する産経ですら、ウィキペディアにも書かれている、この有名なインタビュー捏造「疑惑」については触れていない。さすがに、全国紙では記事にはできないと判断したのだろう。産経もまだ、文春やWILLよりは少しだけマシと言うところか。


ならばこのデマの大元は誰なのだろうか。

最初に千田が本当にインタビューしたのかと言う疑問を呈したのは加藤正夫氏である。

加藤氏はあの西岡力氏が当時編集長をしていた現代コリアに「千田夏光『従軍慰安婦』の重大な誤り(1993年2・3月号)」を発表、以下のような論点で、関特演時の朝鮮人「慰安婦」の大量徴発はなかったと言う主張を展開した。真面目に論じるのもなんなので、テキトーに要約してみるが、以下のような論点である。

(1) 関特演時の関東軍の兵站担当参謀は多忙であり、とても慰安婦集めなどに関っているヒマはない。

(2) 当時の満州では朝鮮人経営の遊郭が、多数営業していたため、改めて「慰安婦」を「調達」する必要はない。

(3) 関特演の際の大量の兵士や軍馬の動員は極秘に準備されたもので、慰安婦集めのような目立つことをするわけがない。

(4) 慰安所建設の予算など記憶がないと、当時の陸軍省の予算担当者(加登川幸太郎氏)と原氏の上司である兵站主任参謀(今岡豊氏)が証言している。

(5) 関特演は二カ月の作戦予定であったので、慰安婦は必要としなかった。

(6) 千田は日債銀(旧朝鮮銀行、現あおぞら銀行)に、総督府の「慰安婦」徴発資料があると主張しているが資料などない。

加藤氏は、以上のように主張し、千田が本当に原氏にインタビューしたのか、島田俊彦「関東軍」をタネ本にして架空のインタビューを本に掲載したのではないかと疑問を呈した。

上記の6つの論点については別項を設けて検討するが、「ではないか」と言う回りくどい言い回しが連発、まあスカスカの論文である。

加藤氏は、結論として千田の主張にはタネ本があったと非難しているのだが、千田は原氏のインタビューのきっかけが島田俊彦氏の「関東軍」であることを、「従軍慰安婦正編」中で公言しているので、単なる言いがかりである。

結局のところ、インタビューがなかったとする根拠はだた一つ。インタビュー中で、千田が原善四郎氏の経歴を、「参謀一課」ではなく、「参謀三課」と書いていたことである。

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千田氏の著書のもう一つの重大なポイントは原参謀が「たまたま関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第三課に属していました。でも当時のことはよく憶えていないのです」(一〇三ページ)といったように書いている点である。

前述したように原参謀は関東軍司令部第一課参謀であるから、千田氏が実際に原参謀と会見して取材したとすれば「第三課(兵站担当)でした」という書き方にはならないという ことである。

ということは千田氏が原参謀から直接取材して書いたかどうかの点で疑問ありといわねばならない。原参謀はすでに故人であるので確かめようはないわけだが。原参謀の直属上官今岡兵站主任も「私も第一課参謀であり、第三課は”教育全般”を行うところで、課長は青木一枝大佐であった」と筆者に証言してくれたので、千田氏が原参謀が語ったという「関東軍第三課参謀で兵站担当であった」という発言はありえないことといわねばならない。(P60〜61)

出典:千田夏光著「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993/2・3号)
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参考までに言うと、インタビュー中、千田が参謀一課を参謀三課と記述しているのは一ケ所だけである。では、原氏は関特演時に、兵站担当の参謀ではなかったのだろうか。それならば確かに話が通らないということになるが、加藤氏は上記の記述の前に以下のように書いている。

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その今岡氏も筆者に「当時の関東軍の組織は第一課が”作戦”、第二課が”情報”、第三課は”教育全般”であった。第一課長は田村義富大佐で、第一課の中に兵站、交通、通信が含まれており、私も第一課の兵站主任であった。私の部下の兵站担当参謀は原善四郎少佐など五名の参謀がいたが、兵站の仕事は作戦準備が主で、作戦軍がいかにすれば十分な作戦ができるかということが最大日標で、莫大な軍需物資を集めて、必要な方面に確実に届けることのために毎日多忙をきわめていた。しかも時間的、地域的にきわめて制約された仕事をしており、作戦第一を考えるのが精一杯であった。原参謀は朝鮮軍との連絡の仕事もあって、朝鮮軍とは平時から密接に連絡し、特に兵站面での連絡は行っていたかもしれないが、朝鮮継督府に慰安婦の件を依頼に行くなどはなかったのではないか。慰安婦二万人動員計画、などは私は聞いていない。一万人の慰安所設備は莫大な予算が必要だが、そのようなものは私は知らない。今聞いてビックリしている」と述べていた。

今岡兵站主任の話から考えても、千田氏の書いていた「慰安婦二万人動員計画」があったとか、後方担当、兵站関係の仕事が、あたかも関特演、で増員された兵隊のための慰安婦集めにあったかのような書かれ方をしている点には大きな疑問がある。(P56)

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文中の今岡氏とは、当時、関東軍参謀一課の兵站主任の今岡豊氏である。その部下の一人に原氏が実際にいたとしたら、何の問題もない。一年前のノモンハン事件の時、参謀三課はまだ兵站(後方)担当だったから、千田の記憶が混乱していただけということだろう。当時は電池で動くテープレコーダーはないし、おそらく手帳片手のインタビューである。間違いなく、原善四郎氏は、関特演時、兵站担当の参謀であった。おまけに、ここでは原氏と朝鮮軍との強い関わりを示す話も出てきている。飛行機で当時の京城に飛ぶことなど、特別なことではなかったと言うことだ。この年は太平洋戦争が開戦した年だが、翌年(1942年)、朝鮮軍は南方軍から依頼を受けて、ビルマに703人の朝鮮人女性を「慰安婦」として送り出している。

引用した文章は、関東軍の兵站担当の参謀は、忙しくて慰安婦集めどころではなかったと言うことを主張するための文章だが、今岡氏の知らない指示が、朝鮮との関わりの深い原氏に出ていたとすればはどうだろうか。「部下」といっても、今岡氏がこまごまとした指示を出す立場にないことは、発言でうかがい知れる。だいたい、今岡氏が千田の本を読んだことがないはずがないのである。加藤氏に「今聞いて」ビックリしているところなど、ヘタな小芝居としか言いようがない。

当時の関東軍の司令官は梅津美治郎である。1938年3月の有名な「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(通称副官通牒)が出た時の陸軍次官である。通牒に梅津の印がはっきりと押されているから、梅津が陸軍の慰安所制度創設の時から、その全てを知りうる立場にいたことは疑いない。指示が原氏に出されたとしたら、梅津からだろう。今岡氏を通すかどうかの問題だけである。しかも、当時の朝鮮総督は、自由主義研究会理事の杉本幹夫の証言にあるように、元関東軍司令官の南次郎。朝鮮における徴兵の推進者である。「状況証拠」から言えば、むしろマックロなのだ。

千田は「従軍慰安婦 正編」を出すにあたって、多くの人にインタビューしている。例えば、旧満州の孫呉の軍医の話など、その後の慰安所研究や、同時期に孫呉にいた金井英一郎の証言とも合致する。そもそも、千田のインタビューが架空のものだとしたら、原氏に抗議されているはずである。千田に余計なことを書かれて、多大の迷惑を被ったと主張する、麻生軍医の娘である天児都氏の例もある。当然、天児は千田が麻生軍医と会わずに書いたなどと言うことは言っていない。麻生軍医とは会い、原氏とは会わずに捏造インタビューを書かねばならない理由は、私には考え付かない。

言及されている慰安所の設置に伴う経費については、秦郁彦氏は、虎頭(第四国境守備隊)の本原政雄憲兵の話として、関東軍司令部から「軍特殊慰安所開設ニ関スル件通達」と題した関東軍司令部の公文書が来て、駐屯地司令部は建設資材等の便宜供与を指示されたという証言を紹介している。つまり慰安所の建築費用は現地部隊の負担。別にこれは旧満州に限らない一般的な話である。

ともあれ、上記の加藤氏の記事は、掲載された「現代コリア」自体が、北朝鮮への「帰国事業」に邁進し、その後、日本の嫌韓言論人の先駆けとなった佐藤和己氏が創設した、いわくつきのところだったこともあり、特に何の反響も呼ばなかった。加藤氏の論文と前後し、上杉千年氏の千田批判(被害者女性に総督府の官斡旋の証言がない)が出たが、これも全貌社という、当時は珍しかった完全な「反共」まるだしの出版社から出たため、ほとんど話題にならなかった。

河野談話潰しを公言する、西岡氏の「盟友」である秦郁彦氏も、「慰安婦と戦場の性(1999)」の中で、千田に対する異論の紹介として、下記に引用した文章中、(4)の注記と言う形で、上杉氏の論文、草地貞吾、今岡豊両氏の談話と一緒くたにして加藤の論文に触れているが、内容についての言及すらなく、黙殺と言う態度に近い。しかも、秦氏本人は注釈もなしに、「元関東軍第一課兵站班(班長今岡豊中佐)の原少佐」と千田の原文を修正して書いてしまっている。秦氏ですら単なる誤記であると考えていると言うことだ。

秦氏は「慰安婦と戦場の性(1999)の中では、官斡旋による慰安婦連行と言うそれまでの持論を修正し、身売りか娼妓の慰安婦の鞍替えによるものとしているものの、この時、慰安婦の大量「調達」があったことについては、完全に認めているし、本が出版された同じ年に行われた、千田と秦氏の対談でも、インタビューがなかったと言う話など、まるで出てこない。この頃までは、千田捏造説など、世に広まるような状況では全くなかった。
———————————————
この関特演がらみで、多数の朝鮮人慰安婦も動員されたというエピソードが伝わっているが、その真偽をめぐって論争があるので、概略を観察しておきたい。初出の情報源は次の二つである。

「原善四郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して営業させた、という一幕もあった」(島田俊彦『関東軍』、中公新書、一九六五年、一七六ページ)

「関特演のとき兵站担当をやっていました。はっきり憶えていないが、朝鮮総督府総務局に行き依頼したように思います。それ以後のことは知りません。・・・だが各道に依頼し、各道は各郡へ、各郡は各面にと流していったのではないですか・・・一部に二万人と言われたが、実際に集まったのは八千人ぐらい」(原の千田夏光への談話、千田『従軍慰安婦』正篇、三一新書、一九七八年)

島田、千田の両方とも、出所は元関東軍第一課兵站班(班長今岡豊中佐)の原少佐である点は共通している。そして総督府が行政機構を通じて最末端の面(内地の村に相当)まで割り当てたらしいことから、慰安婦の「官幹旋」ではないか、との推測を生んだ。

しかし、名のりでた百数十人の元慰安婦たちから、この件に該当する申告が出ていないことから、疑問が出た。

また人数についても、兵士の新規増員は三十五万人だから、計画の慰安婦二万人は多すぎる、既に満州で稼業していた女性をふくめた数字ではないか、とも臆測された。それにしても新規増員の女性は何人ぐらいだったのか。

この点について、原参謀の助手役で「命令伝達・通達・配置指示及業者との接触等事務処理」を担当した村上貞夫曹長(のち中尉)は「記憶では三〇〇〇人ぐらいだったと思う。配置表は兵站班事務室の小生のロッカーに秘扱いで保管していたが終戦と共に処分したことと思う」と手記(一九七五年執筆)で回想している。(P97)

出典:慰安婦と戦場の性/秦郁彦 新潮社(1999)
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「村上元曹長の手記」と言うのが、またクセモノで、秦氏はこの手記が1975年に書かれたと記しているだけで、詳細を明示していない。おそらくは千田宛に書かれた村上元曹長の手紙であるが、これについては長くなるので別の機会に回す。

次にこの千田捏造説が復活するのが2002年、中川八洋氏が『歴史を偽造する韓国』の中で千田の批判を展開する。最後の一部のみここで引用し、内容は別に載せた。加藤氏の論文と似たりよったりなので、読んで頂かなくても構わないと思う。関特演時に連行された女性達が、戦地に到着したのが、10月頃だと判明しているので、それだけで半分近くが意味をなさなくなる文章である。全文、掲載しているサイトがあり、コピペすればいいだけなので貼り付けたと言うだけ。一応、こまごまと反論は、今後機会を見て書くつもりであるが、中川氏をよく知らないと言う方は、まだご活躍のようなので、検索して頂ければゲンナリするサイトにすぐ辿りつける。ご参考まで。
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千田夏光が明らかにしなければならない事項が、このほか三つある。第一は、本当に原善四郎にインタビューしたのか。インタビューの録音テープは存在するのか。第二は、「父(面長)」を語った韓国人(正編の111頁)は本当に実在するのか。第三は、これだけの虚偽創作は、個人で発案したのか、それとも背後の組織の命令によるのか。

出典:中川八洋『歴史を偽造する韓国』 徳間書店(2002)
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「それとも背後の組織の命令によるのか」と言うところなど、妄想がスパークしていると言う感じだが、ここでもまだ、「千田にインタビューしたのか」と、疑問形で、中川氏はインタビューが千田の捏造であるとは、断定はしていない。加藤、中川でないとすれば、デマの出所として考えられるのは、水間政憲氏とか、福島瑞穂氏の電話捏造事件の前科のある桜井よしこ氏、西岡力氏くらいだろうか。以下は、手元にあった2007年に出た西岡力氏の文庫本の文章である。西岡氏は、千田の原氏へのインタビューを長々と引用した後、このように記述する。
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このやりとりを読むと、関東軍が朝鮮総督府を使い慰安婦を調達したことは間違いないように錯覚してしまう。しかし、調べていくと、この記述は疑問が多い。千田は原参謀に会わずに、このやりとりを書いたのではないかという疑いがある。歴史教科書研究家の上杉千年氏の論文「『従軍慰安婦を切るーまぼろしの関特演従軍慰安婦二万人徴募要請(月曜評論平成四年九月二十八日号・その要旨が同氏検証従軍慰安婦」・一九九三年に収録されている)や現代史研究家である加藤正夫氏の調査によって、この原参謀証言も、以下のごとく信じるに足らないものであることが判明した。

加藤氏は「文藝春秋」に載った西岡論文を読み、九二年春頃、当時、私が編集長をしていた「現代コリア」編集部にやってきた。戦前生まれの加藤氏は堰を切ったように、慰安婦の軍による強制連行などなかったと語りはじめた。それから何回かお会いしてお話しする中で、原参謀の証言の疑問点を調査することに力を注ぐようになった。

なお秦郁彦は前掲著書「慰安婦と戦場の性」の中で、原参謀の助手役であったという村上貞夫曹長の1975年手記や元憲兵らの証言をもとに、関特演を機に満州でも軍専用の慰安所が開設されたが、朝鮮から楼主に連れられて朝鮮人慰安婦がやってきたのであって、権力による強制連行ではないと見ている。(P83〜84)

出典:よくわかる慰安婦問題 /西岡力 (2007)
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加藤氏の論文が、どういう経緯で出来上がったか、よく分かるというものだ。加藤氏は現代史研究家というが、ネットで検索しても、どういう経歴を持つ人なのか、皆目分からなかったが、なんのことはない、単なる西岡氏の知り合いである。当時、千田が「参謀三課」と書いたことは、原氏の周囲には広く知られていたはずである。加藤氏がわざわざ防衛庁まで原氏の経歴を調べにいって見つけたと言うより、ウワサの確認の役回りを引き受けたということだろう。中川八洋氏の主張と加藤氏の主張の内容も似たり寄ったりなので、実質は中川氏とも親しい西岡氏との合作ということか。だが、西岡氏もここでは「疑いがある」「信じるに足らないものであることが判明した」といった程度の書き方である。

ウィキペディアに書かれたような千田インタビュー捏造確定説は誰が言い始めたのだろうか。ということでネット検索してみたらすぐに引っ掛かった。

朝日・グランデール訴訟を支援する会

これは決定的な証拠だろう。デマの出所は西岡力氏だ(例によって)。「よくわかる慰安婦問題」は下記で引用した本の後に出たものだが、「疑いがある」というようにトーンダウンしているのは、さすがにやばいと思ったのだろう。いや、盟友の秦郁彦氏の本を改めて読んで、断定はマズイと思ったのかもしれない。けど、もう広まっちゃてるからね。どっちみちヤバヤバと思いますよ。
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「従軍慰安婦は日本軍に連行された」と言われたら 西岡力

Q:強制連行をしたという人の証言がありますが?

A:連行した側の証言には、済州島で日本軍と一緒に女性狩りを行ったとする吉田清治証言と千田夏光氏が著書『従軍慰安婦』の中で書いた関東軍参謀・故・原善四郎証言がある。吉田証言は秦郁彦教授の平成四年の現地調査によって信憑性がないことが暴露されたが、その前に平成元年8月14日付の済州新聞は次のようにでたらめだと断言していた。「(吉田の)本に記述されている、城山浦の貝ボタン工場で15?16人を強制徴収したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏付け証言する人はほとんどいない。島民たちはでたらめだと一蹴しており、この記録に対する一層の疑問を投げかけている。城山里の住人のチョン・オクタンさん(85歳)は「そんなことはなかった。250余世帯しかない村で15人も徴用していったならば大事件だが(略)当時そんなことはなかった」と断言した」。なお、朝日新聞は昭和57年9月2日、平成4年1月23日、同5月24日に吉田証言を詐しく伝えながら、いまだに訂正記事を出していない。テレビ朝日「朝まで生テレビ」平成5年9月の番組で吉田証言を詳しく伝え、いまだに訂正をしていない。

原参謀証言についても、千田氏は本の中では生前の原参謀に面会して「慰安婦を8000人連行した」ときいたと書いているが、現代史研究家加藤正夫氏が千田氏に原参謀の経歴などの誤りを問いただすと、実際は原参謀に面会してはいない、別の書物の記述をもとにあたかも自分が面会したかのような嘘を書いたと認めた。千田氏が参考にしたという書物にも、原参謀自身の証言は出ておらず、何の根拠もなく原参謀が慰安婦を連行したと書いているだけで史料価値はゼロだ。

出典(といってもコピペだが):「従軍慰安婦は日本軍に連行された」と言われたら 西岡力『韓国・北朝鮮の嘘を見破る』(文春新書)(2006)
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うーん、すごいなこりゃ。島田俊彦氏までインチキ学者扱いである。

参考までに、島田俊彦氏はこういう学者です。

https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65072856.html


まあ、私はヘタレだから、誰かさんのように訴えられたらイヤなので、「捏造」とはクチが裂けても言いませんがね(‘ω’)ノ。
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=237
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c5

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
6. 中川隆[-12409] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:10:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2018年11月30日
西岡力3つの大ウソ - 植村裁判資料室
https://sites.google.com/site/uemuraarchives/nishioka201809


「植村記者の記事は捏造」説が崩れた3つの理由

西岡力氏は1992年以来、慰安婦問題で植村隆さんが書いた記事を「重大な誤り」「捏造」と批判・攻撃してきました。しかし法廷で提出された証言や資料により、記事を「捏造」とする主張の論拠がいずれも誤っていることが明らかになっています。西岡氏による「捏造」説と、その誤りについて、以下にポイントを3つ示して説明します。 <甲につく数字は、証拠番号の略記>


ウソその1


西岡氏の主張@

植村氏は「『女子挺身隊』の名のもとで戦場に連行された」と、韓国人元慰安婦・金学順さん本人が語っていない経歴を加えた。

▽「初めて名乗り出た元慰安婦の女性の経歴について『《女子挺身隊》の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた』と書いたのだ。本人が語っていない経歴を勝手に作って書く、これこそ捏造ではないか」(正論2014年10月号=甲5)

▽「植村記者の記事には『挺身隊の名で戦場に連行され』とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係ありません」(週刊文春2014年2月6日号=甲7)

明らかになった事実@ 

金学順さん本人が「私は女子挺身隊だった」「強制的に引っ張って行かれた」と話している。

▽1991年8月14日の金学順さんインタビューについて伝える北海道新聞91年8月18日記事:「初対面のハルモニが『私は女子挺身隊だった』と切り出した」(甲50)

▽91年8月14日、金学順さんが名乗り出た初めての記者会見での発言:「16歳ちょっとすぎたくらいの(私)を引っ張って行って。強制的に。泣いて。出ていくまいと逃げ出したら、捕まって、離してくれないんです」(会見を伝える韓国KBSテレビの映像=甲109、発言の日本語訳=甲110)

▽金さんの会見を報じた翌8月15日付の韓国紙報道:東亜日報「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」(甲20)、中央日報「私は挺身隊だった」(甲21)。ハンギョレ新聞「私を連れて行った養父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした」(甲67、西岡氏の翻訳=甲67の2)

ウソその2


西岡氏の主張A

金学順さんは「親に身売りされて慰安婦になった」「四十円でキーセンに売られた」と話したのに、植村氏が記事で触れていない。

▽「このとき名乗り出た女性(金学順さん)は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではありません」(週刊文春2014年2月6日号=甲7)

▽「その女性が日本政府に対して裁判をおこした訴状を見ると、『四十円でキーセンにうられた』と書いてあったのです。その女性は韓国の新聞のインタビューでも、『自分はキーセンに売られた』と言っていたのです」(明日への選択2007年5月号)

▽「金氏がキーセンとして売られたことも書いていない。…あえて『キーセン』のことを書かないことで、強制連行をより強調したかったのか、誤報というよりも、明らかに捏造である」(中央公論2014年10月号=甲6)

明らかになった事実A

「親に身売りされて慰安婦になった」という表現は、金さんの訴状(甲16)にも、韓国紙の記事(甲67、西岡氏の翻訳=甲67の2)にもない。金さんがキーセン学校に入ったことと慰安婦にされたことは関係ない。

金学順氏は「養父は(日本軍)将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかへ連れさられてしまった」(乙10)、「姉さんと私は別の軍人たちに連行されました。…私たちにそのトラックに乗れと言うので乗らないと言いましたが、両側からさっとかつぎ上げられて乗せられてしまいました」(乙19)と明言しており、「日本軍によって戦場に連行されて慰安婦にされた」ことは明白。

西岡氏は、金さんは「親に身売りされて慰安婦になった」、「四十円でキーセンにうられた」と主張。論拠として、月刊『宝石』の臼杵敬子氏論文(1992年2月号=乙10)と『未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集1』に掲載された金学順氏の証言(乙19)を提出した。しかし、キーセン養成学校に通ったのは14歳の時で、慰安婦にされたのは17歳の時。キーセンと慰安婦にさせられたこととは関係ない。

ウソその3


西岡氏の主張B

義母の裁判を有利にするために記事を書いた。

▽「原告は、韓国人である義母の起こした裁判を有利にする目的で、義母から便宜をもらい、金学順がキーセンに身売りされた事実を意図的に隠し、あたかも金学順が吉田清治証言のような強制連行の被害者であるかのごとく、事実を改ざんして意図的な捏造により記事にした」(『よく分かる慰安婦問題』増補版第3刷=甲3)

▽「原告のリーダーが義理の母であったために、金学順さんの単独インタビューがとれたというカラクリです」(「いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から再考するサイト」=甲4)

明らかになった事実B

植村記者が金学順さんの第一報を書いたときの団体は義母の団体(遺族会)とは関係ない別団体。朝日新聞の第三者委員会報告書(甲64)は、「義母を利する目的」や「捏造」との説を否定している。

 まず植村氏が1991年に金学順さんの情報を聞いたのは義母からではなく当時の朝日新聞ソウル支局長からだった(MILE1991年11月号=甲13、小田川興・元ソウル支局長の陳述書=甲57)。金学順さんの第一報を書いたとき聞き取りをしていた団体は「韓国挺身隊問題対策協議会」で、義母の団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)とは関係ない別団体だった(甲9=文芸春秋2015年1月号、義母の梁順任氏の陳述書=甲158)。誤りを指摘され、西岡氏は訂正したとしている(正論15年2月号=甲107、正論15年3月号=甲108)。

朝日新聞の慰安婦報道を検証した第三者委員会は報告書(甲64)で「植村の取材が義母との縁戚関係に頼ったものとは認められないし、同記者が縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたともいえない」(42ページ)と書き、「義母を利する記事」との説や、植村記者の記事が捏造であるとの説を明快に否定した。

https://sites.google.com/site/uemuraarchives/nishioka201809
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c6

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
7. 中川隆[-12408] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:21:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2018-09-28
元朝日記者植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める
http://d.hatena.ne.jp/cangael/20180928/1538116722


●朝日を敵視する人たちの理由の一つが従軍慰安婦記事の「捏造」でした。
ところが、ところがです、「捏造」の論拠を「捏造」していたという!!


山崎 雅弘さんがリツイート

toriiyoshiki

@toriiyoshiki 9月26日

朝日新聞の従軍慰安婦についての記事を「捏造」だと非難してきた御本人が、自らの論拠が事実上の「捏造」だったことを認めるに至ったお粗末の顛末。これは裁判記録として残るから、もう言い抜けはできまい。


中島岳志

‏@nakajima1975 9月26日

『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める | 週刊金曜日オンラインhttp://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/26/antena-332/

f:id:cangael:20180927165203j:image:left

「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。


西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』2014年2月6日号で「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントした。


しかし、尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。金さんの記者会見を報じた韓国『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。


西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

森達也(映画監督・作家)

‏@MoriTatsuyaInfo

ここまでの展開はさすがに予想できなかった。思想信条は違っても尊敬できる人であってほしいのに、下劣すぎる本質がどんどん顕わになる。


●朝日の植村記者に対しては徹底した人身攻撃がありましたね。それなのに攻撃した側が「捏造」? 


内田樹さんがリツィート

岩上安身

@iwakamiyasumi 9月26日

櫻井よしこにしても、西岡力氏にしても、あれだけ激しい人身攻撃を繰り返し行い、植村氏の人生が変わるほど傷つけてきて、「捏造」でした、すみません、ですむか! 大勢の読者をも騙し、その中には煽動されて植村氏や周辺に脅迫に及ぶもの者まで出たのだ。筆を折れ!掲載媒体は廃刊せよ!

中野昌宏 Masahiro Nakano

@nakano0316

こういう結末。当然ですね。


『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める(週刊金曜日) - Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180926-00010000-kinyobi-soci … @YahooNewsTopics

22:34 - 2018年9月26日
http://d.hatena.ne.jp/cangael/20180928/1538116722
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c7

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
8. 中川隆[-12407] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:24:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2015年01月09日 21時32分 JST
植村隆氏、西岡力「救う会」会長を名誉毀損で提訴 1990年代の慰安婦報道巡り
https://www.huffingtonpost.jp/2015/01/09/uemura-takashi-nishioka-tsutomu_n_6444222.html


北星学園大(札幌市)非常勤講師で元朝日新聞記者の植村隆氏が、西岡力氏と文芸春秋社を相手取り、謝罪広告の掲載や1650万円の損害賠償などを求める訴訟を1月9日、東京地裁に起こした。

「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)会長で東京基督教大(千葉県印西市)教授の西岡力氏による1992年に雑誌「文芸春秋」に発表した記事などで名誉を傷つけられたとして、北星学園大(札幌市)非常勤講師で元朝日新聞記者の植村隆氏が、西岡氏と文芸春秋社を相手取り、謝罪広告の掲載や1650万円の損害賠償などを求める訴訟を1月9日、東京地裁に起こした。

弁護団によると、植村氏は1991年に元慰安婦へのインタビュー記事などを2本掲載。このうち慰安婦を「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」とした部分について、西岡氏が1998年ごろから「捏造」との主張を始め、雑誌「週刊文春」2014年2月6日号で「捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントしたことなどが名誉毀損であり、民事上の不法行為にあたるとしている。また、週刊文春については同号で、植村氏の転職が内定していた大学名を掲載し、嫌がらせの電話やメールなどの攻撃を集中させたことがプライバシーの侵害にあたると主張している。神原元弁護士は「植村氏を中傷するメディアはほかにもある。順次訴えていく」としている。

参議院議員会館の支援者集会で発言した植村氏は「高校生の娘の顔写真がネットにさらされ、誹謗中傷が書かれた。長男と同じクラスの同姓の子まで顔写真がさらされた。8月の朝日新聞の検証記事掲載後、週刊誌の記者が自宅に張り付いて盗撮したり、近所に聞き込みをかけた。家族や大学への脅迫は言論ではなく犯罪だ。文春や西岡氏の記事が、結果的に言論テロを誘発した。法的な責任を取って頂きたい。司法の場でも、私が『捏造記者』ではないことを証明したい」と述べた。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c8

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
9. 中川隆[-12406] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:26:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

【超悲報】慰安婦問題否定派旗手の西岡力、植村隆裁判で自らの「捏造」を小声で認める
2018年09月27日
http://blog.livedoor.jp/nanyade/archives/12523618.html

1: 名無しさん@涙目です。(やわらか銀行) [ニダ] 2018/09/26(水) 10:52:18.30 ID:PkL/5UQY0 BE:718678614-2BP(1500)

sssp://img.5ch.net/ico/anime_jyorujyu03.gif
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180926-00010000-kinyobi-soci

「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。
その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。

 東京地裁では、元「慰安婦」記事を「捏造」と記述され名誉を傷つけられたとして、元『朝日新聞』記者の植村隆・韓国カトリック大学客員教授が西岡氏らを相手取り、損害賠償などを求めた訴訟が2015年1月から続いている。

 植村氏は1991年8月、韓国での「慰安婦」問題に取り組む市民団体への取材やその聞き取り調査に応じた女性(のちに記者会見で名乗り出た金学順さん)の録音テープを聞いてスクープし、同年12月にも証言を記事化した。

 西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』2014年2月6日号で「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントした。

 しかし、尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。
金さんの記者会見を報じた韓国『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、
「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。

 西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

(佐藤和雄・ジャーナリスト、大学非常勤講師、2018年9月14日号)


4: 名無しさん@涙目です。(大阪府) [IT] 2018/09/26(水) 10:54:11.49 ID:LKdluHoH0

ネトウヨこれどーすんの?


5: 名無しさん@涙目です。(関東・甲信越) [TW] 2018/09/26(水) 10:54:22.37 ID:PdlzaaUNO

て…捏造


8: 名無しさん@涙目です。(茸) [AU] 2018/09/26(水) 10:56:36.24 ID:CXTZV/YW0

「買ってはいけない」でお馴染みの週刊金曜日


9: 名無しさん@涙目です。(京都府) [US] 2018/09/26(水) 10:56:57.87 ID:NI8w3FFo0

慰安婦強制とか事実に決まってるじゃん
21世紀になってもAV強要やってるジャップ様やど?


73: 名無しさん@涙目です。(catv?) [RU] 2018/09/26(水) 11:33:59.82 ID:U0lsHSA30

>>9
朝鮮人女衒にだまされたり強制はされたよな。


117: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 12:06:57.92 ID:sYz33jo50

>>73
今の外国人研修制度と同じだよな


155: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [RU] 2018/09/26(水) 12:38:50.04 ID:IGs3i5zT0

>>117
日本人がそうしてるから慰安婦強制もあったなんて根拠が薄弱すぎw
さっさと命令書なり証拠出してくりゃいいのにw


190: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 13:25:17.60 ID:sYz33jo50

>>155
研修生に借金させて連れてこいなんて書類があると思ってんの?


191: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/26(水) 13:31:55.96 ID:zKA4N5OL0

>>190
それについては日本悪くないから言ってもしょうがないね
現地の政府の責任だろ


200: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 14:35:28.78 ID:sYz33jo50

>>191
な、そっくりだろ?


18: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 10:59:49.02 ID:dCEj7CrB0

櫻井よしこもほぼ同じ形で間違えを認めたから
ほぼ裁判は負ける
でもネトウヨ的には不当判決で終了するwww
事実に当たることは絶対しないしなwww


19: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 11:01:11.30 ID:dCEj7CrB0

結局、西岡も櫻井も朝日バッシングしたかっただけなんだよなw
慰安婦問題をチープなウヨサヨ論争で仕掛けた張本人たち


21: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/26(水) 11:01:54.22 ID:ThB5b3Cx0

ネトウヨがこんなねつ造してるとパヨクなるぞ。


22: 名無しさん@涙目です。(アメリカ合衆国) [CN] 2018/09/26(水) 11:02:14.03 ID:zm5sEAif0

そんなことより植村が韓国の大学教授になってたことが驚き


242: 名無しさん@涙目です。(岡山県) [CN] 2018/09/26(水) 18:12:52.34 ID:K22T2Xjp0

>>22
そういやゆとり教育でおなじみ寺脇研は コリア国際学園だっけか


24: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/26(水) 11:03:13.29 ID:ntc9GOTM0

ネトウヨはこのニュース無視しそう


29: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 11:07:05.47 ID:dCEj7CrB0

あとあれだ
宮台が出てるビデオコムニュースでも言ってた
この裁判と吉田清治の話は全然関係ない
金学順の証言記事の裁判だから


36: 名無しさん@涙目です。(兵庫県) [JP] 2018/09/26(水) 11:10:41.01 ID:GmM5SkYg0

西岡って家族会から嘘つき野郎って追い出されてた奴だろ
内ゲバ状態の勝共学者連中を未だに囲ってる保守言論が悪いわ


38: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [US] 2018/09/26(水) 11:11:51.26 ID:YHq5TCGw0

ネトウヨ「それでも西岡先生は正しい」


71: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [US] 2018/09/26(水) 11:30:12.95 ID:JjjB+K8L0

>>38
ネトウヨの基本性質はオウム真理教信者と同じ


43: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [US] 2018/09/26(水) 11:15:14.28 ID:JjjB+K8L0

ネトウヨは詐欺師っていうのがどんどん証明されていくぞこれからも


44: 名無しさん@涙目です。(大阪府) [ニダ] 2018/09/26(水) 11:15:31.47 ID:umkYHZ4n0

慰安婦問題では西岡も桜井よし子も雑魚
朝日を謝罪に追い込んだ橋下にダメージ与えて初めて成果と言える

逆に言うと
パヨクは橋下にダメージ与えられないから
雑魚を相手に必死になってる


50: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 11:20:34.14 ID:WTwOG/UZ0

拉致被害者がらみで売り出して
順調だったのにな
とんだアホやな


66: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 11:26:24.97 ID:dCEj7CrB0

国際社会は朝日新聞なんて読んでない
すべて河野談話で有罪認定している
日本政府の正式なコメントでごめんなさいして
なおかつアジア女性基金と日韓合意で悪く無い奴がなんで金払ってるの?まで言われてるしw


76: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [EG] 2018/09/26(水) 11:36:43.03 ID:aM8ufD8B0

櫻井よしこも裁判で嘘こいてたってばれてたじゃん


113: 名無しさん@涙目です。(SB-iPhone) [NL] 2018/09/26(水) 12:05:49.17 ID:ULf1ZJ9O0

平時に外人を奴隷労働させる国が、戦時は強制連行も従軍慰安婦もやってないと言い張れんの?


123: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 12:10:34.57 ID:dCEj7CrB0

慰安婦問題は日韓が一番話しがズレてて
欧米政府や欧米メディアのほうがちゃんと捉えている
しかもこの問題はこれで終わらない
現場で問題が起きているのに止めなかったんだから確信犯
その中には日本人女性も被害に合ってた
つまりは日本軍が日本女性も生贄にしてたってことになる
そうすると、今右翼やっている奴ってバカなのか反日なのか?ってなる
非常に楽しみ
右翼が逆賊になるからwwwwwwww


129: 名無しさん@涙目です。(茸) [US] 2018/09/26(水) 12:16:07.36 ID:f4dNB7Ek0

ネトウヨさんさあネットで真実しちゃって結果は捏造だってさ
ほんとに日本の恥だわ


130: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [IL] 2018/09/26(水) 12:16:42.08 ID:V8Uc8Nz80

こいつか櫻井よしこの極右カルトは捏造しまくってんだな
それに騙されて鉄砲玉にされてるのが馬鹿なネトウヨという構図

この裁判も植村隆記者の完勝だろうな。


157: 名無しさん@涙目です。(庭) [US] 2018/09/26(水) 12:41:20.42 ID:G4yjKaXU0

しかし、こんな人ばかりだね
小林よしのりの戦争論とか、ゴー宣にハマって、5年くらいネトウヨだったけどさ、日本会議やら統一やら、そんなんばっかりだったな
恥ずかしい過去だよ
反省した
小林よしのりは上手く利用されたのか?


189: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 13:23:36.05 ID:7DvP3D350

ネトウヨが心の拠り所ってこんなイカサマな奴ばっかりだろう。
釣られたネトウヨが怒るどころか擁護する救いようの無いアホ。


202: 名無しさん@涙目です。(WiMAX) [US] 2018/09/26(水) 14:38:44.40 ID:AIcjwA7v0

西岡の信頼性が終わっただけで慰安婦問題自体には何の関係もないと思うぞ


277: 名無しさん@涙目です。(庭) [US] 2018/09/26(水) 21:29:27.38 ID:cJ/rvPDM0

今の実習生制度見たら、なんとなく察しがつくと思う。

現地ブローカーが甘言で現地の若者を騙して、借金を負わせて日本に連れてきて、条件と違う仕事をやらせたり、不当にピンハネしてて借金が全然返せないというパターンが増えてる。

日本企業がブローカーを使ってる可能性もある。
もしその場合、何か大きなトラブルがあれば、ブローカーだけでなく日本企業にも責任が出てくる。

戦前の慰安婦も同じだろう。日本軍が朝鮮のゼゲンを使って女性を集めさせた。
慰安所で女性を働かせるのも日本軍の許可が必要だった。

当然、日本軍にも責任は出てくるというわけだ。


287: 名無しさん@涙目です。(庭) [FR] 2018/09/26(水) 22:49:02.24 ID:Aj3asxj/0

慰安婦はいたと日本政府も認めてる。
問題は強制か商取引かのところ。


289: 名無しさん@涙目です。(SB-iPhone) [US] 2018/09/26(水) 22:51:28.39 ID:88S6sG1C0

>>287
強制か商取引かじゃねーし。
国が関与してるかどうかだからな。
業者が犯罪まがいに強制した事件だってあんだからさ。


315: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [EG] 2018/09/27(木) 02:59:51.00 ID:Lp/+ZIU00

小声で認めたってさ こいつら何なのマジでw


317: 名無しさん@涙目です。(関西地方) [US] 2018/09/27(木) 03:13:01.89 ID:LrVDFq5J0

産経の阿比留瑠比も返り討ちにされました


318: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/27(木) 03:18:53.93 ID:3CjjodTO0

これは信用を大きく落としたな。

http://blog.livedoor.jp/nanyade/archives/12523618.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c9

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
10. 中川隆[-12405] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:45:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

続き


1. 名無しさん
2018年09月27日 16:15
バカウヨは息を吐くように嘘を吐くからな
ほんとどうしようもないわ

2. 名無しの偉人さん
2018年09月27日 16:27
要するに、公的機関が癒着している悪質業者に肝心のところをアウトソーシングして責任回避しているという、今でもよくある構図。ここにメスを入れない限り本質を衝いた議論にはなりえないから、「日本ネトウヨvs.韓国反日愛国者」の論争はズレまくってしまう。

3. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 17:40
旧日本軍の従軍慰安婦問題では、単に女性たちの徴集時に軍が直接的に強制連行したのか否か、という点だけでは無く、
旧日本軍が主体的・主導的に設置・管理などしていた、軍の慰安所において、多くの女性達が、その自由意思を確保されない状況下で、日本の軍人・兵士ら相手の性的業務に使役させられた、という点が、広く問題になっているのであって、
日本で、いわゆる強制否定的なこと言ってる人達って、そういう点に正面から踏む込まず、問題を歪曲化・矮小化しようとしてるんだよな

4. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:21
そう言えば植村さんの娘にストーカーして嫌がらせしてたキモいネトウヨが居たよな
本当にネトウヨって人間の屑だね

5. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:21
戦前の日本でも悪質なゼゲンが貧しい村にいって、『うちの工場で働けば稼げるよ』等と若い娘達を騙して 売春婦として濃き使うのは決して珍しくはなかったよ。
この場合は給料なんてほとんど貰えなかったし、娘が逃亡したり客の付きが悪かったりしたら 元締からリンチを受けた。ほとんど奴隷状態だった。

日本の支配下だった朝鮮でも 同じようなことをやってたと考えるのが普通だよね。
従軍慰安婦は、日本軍が朝鮮人のゼゲンを使って女性を集めさせたんだから、どうしても日本軍の責任は出てくるよ。


6. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:27
つーか、コイツに限らず雑なデマを流す奴って何を考えて調べりゃばれる捏造をするんだ?
最終的に自説の説得力が弱まるだけだろうに。

8. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:38
※5
この手の表面だけ日本の責任を追及しつつ、実際は言い訳並べるコメ最近やたら出没してるな

※5とは関係ない話で、民間の悪質な労働と国家が絡んだ慰安婦問題を並べて語って矮小化を図ろうとする奴をたまに見るがガチでクソだと思う
あと、朝鮮の人間も加担してた的な話を出して論点をずらそうとする奴も時々見る

7. 名無しの偉人さん
2018年09月27日 18:38
※6
それはさ、別のコメント欄でも書いたんだが、彼らが本気で客観的事実と整合性のある話をしようとは思ってないからだよ。

彼らのやり口の源流って、ネット普及前夜の「自由主義史観」運動にまで遡れるんだけど、そこでの彼らの主張ってのが、
「歴史は客観的な真実を明らかにすることは不可能。だから、国民統合に役に立つ美しい話をすることに専念すべき。」
って事を露骨に言ってたわけよ。

ちなみに、この運動の提唱者は元バリバリの共産党員な。

9. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 20:44
ちなみに、2017年には強制連行についての新資料が見つかってる。


http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/193/meisai/m193164.htm

http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm

10. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 22:47
ネットで真実恐ろしや

11. 名無しの共和国人民
2018年09月28日 00:55
司法で負けまくるネトウヨさんw

12. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 05:55
西岡力や櫻井よしこが最悪の売国勢力だということは今や保革問わず常識。

13. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 08:33
嘘も百回繰り返せば…は司法の場では通用しなかったんやね

14. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 14:36
やっぱり捏造か嘘つき右翼

15. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 19:45
※7
いや、自由主義史観は左翼に対する批判から生まれたものだろ。中心になった連中も右翼か左翼からの離脱組がほとんどで共産主義関係ない。
中心となった藤村なんて共産主義関係の人脈に絶縁状みたいな手紙叩きつけてる。

16. ハンJ名無しさん
2018年09月29日 09:31
偏向報道を許さない(笑)ネトウヨガイジさん…
息を吐くように嘘をつくマスゴミ以下のガイジは自分の方だったね(ガッカリ

17. ハンJ名無しさん
2018年09月30日 10:52
業者にやらせたとしても依頼したのは
大日本帝国だから

18. ハンJ名無しさん
2018年10月01日 14:18
仲間内で通じるからと調子にのった末路
溢れでるバカな大学生感

19. 名無し
2018年10月07日 18:42
あの〜、左翼の皆さん、楽しく沸いてるとこ申し訳ないけど、
吉田清治も朝日新聞も「日本軍による慰安婦の強制連行は無かった」って認めてますけど?
http://blog.livedoor.jp/nanyade/archives/12523618.html


従軍慰安婦強制連行の吉田清治証言はやはり事実だった:

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c10

[近代史3] 従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ 中川隆
3. 中川隆[-12404] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:49:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

【超悲報】慰安婦問題否定派旗手の西岡力、植村隆裁判で自らの「捏造」を小声で認める
2018年09月27日
http://blog.livedoor.jp/nanyade/archives/12523618.html


1: 名無しさん@涙目です。(やわらか銀行) [ニダ] 2018/09/26(水) 10:52:18.30 ID:PkL/5UQY0 BE:718678614-2BP(1500)

sssp://img.5ch.net/ico/anime_jyorujyu03.gif
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180926-00010000-kinyobi-soci

「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。
その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。

 東京地裁では、元「慰安婦」記事を「捏造」と記述され名誉を傷つけられたとして、元『朝日新聞』記者の植村隆・韓国カトリック大学客員教授が西岡氏らを相手取り、損害賠償などを求めた訴訟が2015年1月から続いている。

 植村氏は1991年8月、韓国での「慰安婦」問題に取り組む市民団体への取材やその聞き取り調査に応じた女性(のちに記者会見で名乗り出た金学順さん)の録音テープを聞いてスクープし、同年12月にも証言を記事化した。

 西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』2014年2月6日号で「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントした。

 しかし、尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。
金さんの記者会見を報じた韓国『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、
「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。

 西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

(佐藤和雄・ジャーナリスト、大学非常勤講師、2018年9月14日号)


4: 名無しさん@涙目です。(大阪府) [IT] 2018/09/26(水) 10:54:11.49 ID:LKdluHoH0

ネトウヨこれどーすんの?


5: 名無しさん@涙目です。(関東・甲信越) [TW] 2018/09/26(水) 10:54:22.37 ID:PdlzaaUNO

て…捏造


8: 名無しさん@涙目です。(茸) [AU] 2018/09/26(水) 10:56:36.24 ID:CXTZV/YW0

「買ってはいけない」でお馴染みの週刊金曜日


9: 名無しさん@涙目です。(京都府) [US] 2018/09/26(水) 10:56:57.87 ID:NI8w3FFo0

慰安婦強制とか事実に決まってるじゃん
21世紀になってもAV強要やってるジャップ様やど?


73: 名無しさん@涙目です。(catv?) [RU] 2018/09/26(水) 11:33:59.82 ID:U0lsHSA30

>>9
朝鮮人女衒にだまされたり強制はされたよな。


117: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 12:06:57.92 ID:sYz33jo50

>>73
今の外国人研修制度と同じだよな


155: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [RU] 2018/09/26(水) 12:38:50.04 ID:IGs3i5zT0

>>117
日本人がそうしてるから慰安婦強制もあったなんて根拠が薄弱すぎw
さっさと命令書なり証拠出してくりゃいいのにw


190: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 13:25:17.60 ID:sYz33jo50

>>155
研修生に借金させて連れてこいなんて書類があると思ってんの?


191: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/26(水) 13:31:55.96 ID:zKA4N5OL0

>>190
それについては日本悪くないから言ってもしょうがないね
現地の政府の責任だろ


200: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 14:35:28.78 ID:sYz33jo50

>>191
な、そっくりだろ?


18: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 10:59:49.02 ID:dCEj7CrB0

櫻井よしこもほぼ同じ形で間違えを認めたから
ほぼ裁判は負ける
でもネトウヨ的には不当判決で終了するwww
事実に当たることは絶対しないしなwww


19: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 11:01:11.30 ID:dCEj7CrB0

結局、西岡も櫻井も朝日バッシングしたかっただけなんだよなw
慰安婦問題をチープなウヨサヨ論争で仕掛けた張本人たち


21: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/26(水) 11:01:54.22 ID:ThB5b3Cx0

ネトウヨがこんなねつ造してるとパヨクなるぞ。


22: 名無しさん@涙目です。(アメリカ合衆国) [CN] 2018/09/26(水) 11:02:14.03 ID:zm5sEAif0

そんなことより植村が韓国の大学教授になってたことが驚き


242: 名無しさん@涙目です。(岡山県) [CN] 2018/09/26(水) 18:12:52.34 ID:K22T2Xjp0

>>22
そういやゆとり教育でおなじみ寺脇研は コリア国際学園だっけか


24: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/26(水) 11:03:13.29 ID:ntc9GOTM0

ネトウヨはこのニュース無視しそう


29: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 11:07:05.47 ID:dCEj7CrB0

あとあれだ
宮台が出てるビデオコムニュースでも言ってた
この裁判と吉田清治の話は全然関係ない
金学順の証言記事の裁判だから


36: 名無しさん@涙目です。(兵庫県) [JP] 2018/09/26(水) 11:10:41.01 ID:GmM5SkYg0

西岡って家族会から嘘つき野郎って追い出されてた奴だろ
内ゲバ状態の勝共学者連中を未だに囲ってる保守言論が悪いわ


38: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [US] 2018/09/26(水) 11:11:51.26 ID:YHq5TCGw0

ネトウヨ「それでも西岡先生は正しい」


71: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [US] 2018/09/26(水) 11:30:12.95 ID:JjjB+K8L0

>>38
ネトウヨの基本性質はオウム真理教信者と同じ


43: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [US] 2018/09/26(水) 11:15:14.28 ID:JjjB+K8L0

ネトウヨは詐欺師っていうのがどんどん証明されていくぞこれからも


44: 名無しさん@涙目です。(大阪府) [ニダ] 2018/09/26(水) 11:15:31.47 ID:umkYHZ4n0

慰安婦問題では西岡も桜井よし子も雑魚
朝日を謝罪に追い込んだ橋下にダメージ与えて初めて成果と言える

逆に言うと
パヨクは橋下にダメージ与えられないから
雑魚を相手に必死になってる


50: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 11:20:34.14 ID:WTwOG/UZ0

拉致被害者がらみで売り出して
順調だったのにな
とんだアホやな


66: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 11:26:24.97 ID:dCEj7CrB0

国際社会は朝日新聞なんて読んでない
すべて河野談話で有罪認定している
日本政府の正式なコメントでごめんなさいして
なおかつアジア女性基金と日韓合意で悪く無い奴がなんで金払ってるの?まで言われてるしw


76: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [EG] 2018/09/26(水) 11:36:43.03 ID:aM8ufD8B0

櫻井よしこも裁判で嘘こいてたってばれてたじゃん


113: 名無しさん@涙目です。(SB-iPhone) [NL] 2018/09/26(水) 12:05:49.17 ID:ULf1ZJ9O0

平時に外人を奴隷労働させる国が、戦時は強制連行も従軍慰安婦もやってないと言い張れんの?


123: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 12:10:34.57 ID:dCEj7CrB0

慰安婦問題は日韓が一番話しがズレてて
欧米政府や欧米メディアのほうがちゃんと捉えている
しかもこの問題はこれで終わらない
現場で問題が起きているのに止めなかったんだから確信犯
その中には日本人女性も被害に合ってた
つまりは日本軍が日本女性も生贄にしてたってことになる
そうすると、今右翼やっている奴ってバカなのか反日なのか?ってなる
非常に楽しみ
右翼が逆賊になるからwwwwwwww


129: 名無しさん@涙目です。(茸) [US] 2018/09/26(水) 12:16:07.36 ID:f4dNB7Ek0

ネトウヨさんさあネットで真実しちゃって結果は捏造だってさ
ほんとに日本の恥だわ


130: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [IL] 2018/09/26(水) 12:16:42.08 ID:V8Uc8Nz80

こいつか櫻井よしこの極右カルトは捏造しまくってんだな
それに騙されて鉄砲玉にされてるのが馬鹿なネトウヨという構図

この裁判も植村隆記者の完勝だろうな。


157: 名無しさん@涙目です。(庭) [US] 2018/09/26(水) 12:41:20.42 ID:G4yjKaXU0

しかし、こんな人ばかりだね
小林よしのりの戦争論とか、ゴー宣にハマって、5年くらいネトウヨだったけどさ、日本会議やら統一やら、そんなんばっかりだったな
恥ずかしい過去だよ
反省した
小林よしのりは上手く利用されたのか?


189: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 13:23:36.05 ID:7DvP3D350

ネトウヨが心の拠り所ってこんなイカサマな奴ばっかりだろう。
釣られたネトウヨが怒るどころか擁護する救いようの無いアホ。


202: 名無しさん@涙目です。(WiMAX) [US] 2018/09/26(水) 14:38:44.40 ID:AIcjwA7v0

西岡の信頼性が終わっただけで慰安婦問題自体には何の関係もないと思うぞ


277: 名無しさん@涙目です。(庭) [US] 2018/09/26(水) 21:29:27.38 ID:cJ/rvPDM0

今の実習生制度見たら、なんとなく察しがつくと思う。

現地ブローカーが甘言で現地の若者を騙して、借金を負わせて日本に連れてきて、条件と違う仕事をやらせたり、不当にピンハネしてて借金が全然返せないというパターンが増えてる。

日本企業がブローカーを使ってる可能性もある。
もしその場合、何か大きなトラブルがあれば、ブローカーだけでなく日本企業にも責任が出てくる。

戦前の慰安婦も同じだろう。日本軍が朝鮮のゼゲンを使って女性を集めさせた。
慰安所で女性を働かせるのも日本軍の許可が必要だった。

当然、日本軍にも責任は出てくるというわけだ。


287: 名無しさん@涙目です。(庭) [FR] 2018/09/26(水) 22:49:02.24 ID:Aj3asxj/0

慰安婦はいたと日本政府も認めてる。
問題は強制か商取引かのところ。


289: 名無しさん@涙目です。(SB-iPhone) [US] 2018/09/26(水) 22:51:28.39 ID:88S6sG1C0

>>287
強制か商取引かじゃねーし。
国が関与してるかどうかだからな。
業者が犯罪まがいに強制した事件だってあんだからさ。


315: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [EG] 2018/09/27(木) 02:59:51.00 ID:Lp/+ZIU00

小声で認めたってさ こいつら何なのマジでw


317: 名無しさん@涙目です。(関西地方) [US] 2018/09/27(木) 03:13:01.89 ID:LrVDFq5J0

産経の阿比留瑠比も返り討ちにされました


318: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/27(木) 03:18:53.93 ID:3CjjodTO0

これは信用を大きく落としたな。

http://blog.livedoor.jp/nanyade/archives/12523618.html

_____

1. 名無しさん
2018年09月27日 16:15
バカウヨは息を吐くように嘘を吐くからな
ほんとどうしようもないわ

2. 名無しの偉人さん
2018年09月27日 16:27
要するに、公的機関が癒着している悪質業者に肝心のところをアウトソーシングして責任回避しているという、今でもよくある構図。ここにメスを入れない限り本質を衝いた議論にはなりえないから、「日本ネトウヨvs.韓国反日愛国者」の論争はズレまくってしまう。

3. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 17:40
旧日本軍の従軍慰安婦問題では、単に女性たちの徴集時に軍が直接的に強制連行したのか否か、という点だけでは無く、
旧日本軍が主体的・主導的に設置・管理などしていた、軍の慰安所において、多くの女性達が、その自由意思を確保されない状況下で、日本の軍人・兵士ら相手の性的業務に使役させられた、という点が、広く問題になっているのであって、
日本で、いわゆる強制否定的なこと言ってる人達って、そういう点に正面から踏む込まず、問題を歪曲化・矮小化しようとしてるんだよな

4. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:21
そう言えば植村さんの娘にストーカーして嫌がらせしてたキモいネトウヨが居たよな
本当にネトウヨって人間の屑だね

5. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:21
戦前の日本でも悪質なゼゲンが貧しい村にいって、『うちの工場で働けば稼げるよ』等と若い娘達を騙して 売春婦として濃き使うのは決して珍しくはなかったよ。
この場合は給料なんてほとんど貰えなかったし、娘が逃亡したり客の付きが悪かったりしたら 元締からリンチを受けた。ほとんど奴隷状態だった。

日本の支配下だった朝鮮でも 同じようなことをやってたと考えるのが普通だよね。
従軍慰安婦は、日本軍が朝鮮人のゼゲンを使って女性を集めさせたんだから、どうしても日本軍の責任は出てくるよ。

6. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:27
つーか、コイツに限らず雑なデマを流す奴って何を考えて調べりゃばれる捏造をするんだ?
最終的に自説の説得力が弱まるだけだろうに。

8. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:38
※5
この手の表面だけ日本の責任を追及しつつ、実際は言い訳並べるコメ最近やたら出没してるな

※5とは関係ない話で、民間の悪質な労働と国家が絡んだ慰安婦問題を並べて語って矮小化を図ろうとする奴をたまに見るがガチでクソだと思う
あと、朝鮮の人間も加担してた的な話を出して論点をずらそうとする奴も時々見る

7. 名無しの偉人さん
2018年09月27日 18:38
※6
それはさ、別のコメント欄でも書いたんだが、彼らが本気で客観的事実と整合性のある話をしようとは思ってないからだよ。

彼らのやり口の源流って、ネット普及前夜の「自由主義史観」運動にまで遡れるんだけど、そこでの彼らの主張ってのが、
「歴史は客観的な真実を明らかにすることは不可能。だから、国民統合に役に立つ美しい話をすることに専念すべき。」
って事を露骨に言ってたわけよ。

ちなみに、この運動の提唱者は元バリバリの共産党員な。

9. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 20:44
ちなみに、2017年には強制連行についての新資料が見つかってる。


http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/193/meisai/m193164.htm

http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm


10. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 22:47
ネットで真実恐ろしや

11. 名無しの共和国人民
2018年09月28日 00:55
司法で負けまくるネトウヨさんw

12. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 05:55
西岡力や櫻井よしこが最悪の売国勢力だということは今や保革問わず常識。

13. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 08:33
嘘も百回繰り返せば…は司法の場では通用しなかったんやね

14. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 14:36
やっぱり捏造か嘘つき右翼

15. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 19:45
※7
いや、自由主義史観は左翼に対する批判から生まれたものだろ。中心になった連中も右翼か左翼からの離脱組がほとんどで共産主義関係ない。
中心となった藤村なんて共産主義関係の人脈に絶縁状みたいな手紙叩きつけてる。

16. ハンJ名無しさん
2018年09月29日 09:31
偏向報道を許さない(笑)ネトウヨガイジさん…
息を吐くように嘘をつくマスゴミ以下のガイジは自分の方だったね(ガッカリ

17. ハンJ名無しさん
2018年09月30日 10:52
業者にやらせたとしても依頼したのは
大日本帝国だから

18. ハンJ名無しさん
2018年10月01日 14:18
仲間内で通じるからと調子にのった末路
溢れでるバカな大学生感

19. 名無し
2018年10月07日 18:42
あの〜、左翼の皆さん、楽しく沸いてるとこ申し訳ないけど、
吉田清治も朝日新聞も「日本軍による慰安婦の強制連行は無かった」って認めてますけど?
http://blog.livedoor.jp/nanyade/archives/12523618.html


▲△▽▼


従軍慰安婦強制連行の吉田清治証言はやはり事実だった:

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html#c3

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
11. 中川隆[-12403] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:50:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2018年9月27日 西岡氏に批判広がる


本人尋問で重要な証拠の改変や誤りを認めた被告西岡力氏への批判がネット上で広がっている。きっかけは、週刊金曜日が26日に「週刊金曜日オンライン」で公開した記事。「西岡力氏が自らの捏造認める」との見出しで、本人尋問の重要なポイントを報じている。この記事はすぐにYahoo!ニュースに転載され、さらにツイッターで拡散が始まった。ツイッターには、本人尋問を終えて東京地裁を出る西岡氏の姿をとらえた写真も貼りつけられていて、「西岡劇場」の様相を呈している。

『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める | 週刊金曜日オンライン

http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/26/antena-332/

以下は9月26日午後3時現在の#西岡力についてのタイムラインからの抜粋である。このほかに、中島岳志、平野啓一郎氏らの本文なしリツイートも多数ある。

※抜粋にあたっては、ツイート本文の一部を削ったものもある。
https://twitter.com/search?q=%EF%BC%83%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B&src=typd

■望月衣塑子

めちゃくちゃである。何の学術的裏付け、根拠もないまま植村氏を批判。結果、植村氏や家族や大学は誹謗中傷、脅迫に晒され続けた。その罪はあまりにも重い
■佐藤 章
この裁判記事によれば西岡力はほとんど捏造じゃないか。自分が捏造しておいて他者を捏造呼ばわりするのは学者として人として失格だろう。恐らくは櫻井よしこもそうだろう。植村隆は捏造などするような人間ではない。西岡と櫻井は、記者会見を開いて謝罪すべきだ。

■masa

慰安婦問題を少しかじったら誰もが知ってる名前だろう。そして、裁判で捏造を認めた、この人物は北朝鮮拉致被害者の「救う会」の会長でもある。では「家族会」は?一緒に多くの集会を開いているだろうから、YouTubeででも確認するとよいかもしれない。

■細かい情報‏

西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

■まりーべる321

#ヤフコメ が酷いですね。 #ネトウヨ さん達、いい加減にして欲しいです。

■World Peace Productions

#西岡力 本当に学者なのか?恥を知れ嘘つき野郎

■Hiroshi Takahashi

櫻井よしこさんも自分がウソ吐いたのを白状したし、西岡力さんも自分がウソ吐いたの白状したし、阿比留瑠比さんも自分の矛盾をアウェーの植村隆さんに突っ込まれて白旗上げたし、これだけウソ吐きのウソがばれてるのに、ウソを信じたい人たちは目を覚まさないんだよなー。


■佐藤 章‏
植村隆はぼくの昔の同僚だが、捏造などするような人間では決してない。人間である以上細かいミスはあるだろうが、優秀なジャーナリストであることは間違いない。捏造は、櫻井や西岡である。お仲間の杉田や小川のレベル、人間性を見てもよくわかる。
■渡辺輝人
酷いな。歴史修正主義って、日本語だと、修正なんて生易しいものじゃなくて、歴史の意図的改ざんなんだよね。

■ Hiroshi Takahashi

櫻井よし子に続いて右派の連中、ボロボロやんかw。

■想田和弘

シャレにならんな。→『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める

■ソウル・フラワー・ユニオン‏

西岡力。櫻井よしこといい阿比留瑠比といい、嘘をつきまくって結局白旗。汚辱にまみれたカルトの不誠実な人生。

■能川元一

西岡力も櫻井よしこも、実に軽々しく「捏造」という非難を他者に浴びせてきたから、自分たちのミスを「捏造」呼ばわりされても自業自得なんだよね。

■宋 文洲

嘘吐きはウヨの始まり

■m TAKANO‏

植村隆裁判で、事実に基づいた緻密な追求によって櫻井よしこに続いて西岡力も白旗を揚げざるを得ない状況に追い込まれた。いわゆる右派論客こそ捏造だらけであることが、この裁判を通じて明らかにされた。

■北丸雄二

「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力、捏造だったって。

■森達也(映画監督・作家)

ここまでの展開はさすがに予想できなかった。思想信条は違っても尊敬できる人であってほしいのに、下劣すぎる本質がどんどん顕わになる。

■tany

<西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めた> って、間違いじゃなくて<嘘をついた>だよね。 櫻井よしこやネトウヨはどうするんだろう。

■hiroshi ono

なんか、最近YuTubeでも歴史改ざんやヘイトまき散らす(自称)保守系ネット番組が相次いで締め出されたり、新潮の雑誌が休刊に追い込まれたり、櫻井よし子や今回の西岡力が裁判で自ら捏造デマ流してたこと認めたり、潮目が変わって来た感じ。日本の自浄作用に期待します。

■西大立目‏

結局「捏造」してるのは朝日叩いてる連中なんですよね。 小川榮太郎とか櫻井よしことか西岡力とか そしてコイツラは未だに「保守論壇誌」だの「産経新聞」だので朝日叩きのお仕事継続中

■デマを生む人信じる人の思考回路研究‏

「慰安婦問題」を否定する人々の拠り所とされてきた西岡力氏の言論。西岡氏は、元朝日新聞記者の植村隆氏の書いた慰安婦記事は捏造だ〜と言い続けてきた。しかし実際は逆で、西岡氏の方が自らの言論に都合よく事実を捏造していたことを東京地裁で認めた。

■you u you

これホントだったら大変なことだと思うんだけど。植村さんを叩いている人達は西岡さんに事実確認したほうがよくない?

■Kawase Takaya

人を嘘つき呼ばわりしていた奴が本当に嘘つきだった。これで事の理非が分からなければ、病膏肓に入るとしか。

■スワローヲタフク

西岡力って、確か「救う会」の会長で、アベのブレーンだよな。まさに、アベ政権に「巣食う会」になりましたとさwww

■河原 淳

櫻井よしこに続いて西岡力もー。 安倍首相を取り巻く右派論客のウソが次々に暴かれている。平然とウソをつき、他人を容赦なく攻撃し排斥する。安倍首相にも通じる。

■akabishi2‏

司会は櫻井よし子。救う会会長は西岡力。植村裁判で実質的に「捏造」を認めた2人が、拉致被害者の運動に深く関わっているのは偶然でもなんでもないことは、普通に考えればわかることなのに、誰もそのことを口にできないし書けないもんなー

■清水 潔‏

おいおい。 西岡氏は、植村氏の記事に対し「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメント。 しかし尋問で問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。

■T−T‏

櫻井よしこも西岡力も裁判でデマを認めて、いま沖縄知事選でデマが飛び交っていると問題になっているけど与党候補からはデマで困っているという声は出ていないということ。

■藤井 太洋

慰安婦=プロの娼婦説の引き金を引いた西岡力が、発端となった記事の捏造を認めたのか。大きな一歩になるな。 そもそも慰安所にはプロも、騙された人も強制連行された人もいたのだろう。だからといって移動の自由がない戦地の慰安所に収容していいわけがないのだ。

■河信基

この男が横田夫妻を操り、拉致問題を10年間拗らせた張本人。廃刊になった新潮45の常識外に偏った常連寄稿者の一人でもある。

■宿坊の掲示板ほぼbot‏

「慰安婦」問題否定派の旗手である西岡力氏。彼の論考や発言は、櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ

■Veem.atomic‏

朝日新聞の慰安婦問題、結局は捏造ではなくて、捏造だと言ってた西岡力氏が、否定の根拠を捏造(記憶違い)だと裁判で認めた訳だ。 朝日を責めてた人達、これからどうするんだろ? 謝罪するのかな?

■ウツボマン

しかし、安倍応援団、ひどいね。百田尚樹に青山繁晴、櫻井よしこに西岡力。小川榮太郎に山口敬之、竹田恒泰。よくもこれだけのメンバーを集められるもんだ。

■川上 哲夫

元朝日新聞記者・植村隆さんの、元「慰安婦」記事を「捏造」と週刊誌に書いた西岡力の記事こそが【捏造】であったことを本人が認めた。仕方なく認めた

■toriiyoshiki‏

「金曜日」の記事を読んで思うのは、西岡力氏の学者・研究者・言論人としてのモラル崩壊ぶりである。自説を補強するため、新聞記事のありもしない一節をでっち上げるなど、あってはならないこと、人並みの良心さえあればとても考えられないことである。

■toriiyoshiki

朝日新聞の従軍慰安婦についての記事を「捏造」だと非難してきた御本人が、自らの論拠が事実上の「捏造」だったことを認めるに至ったお粗末の顛末。これは裁判記録として残るから、もう言い抜けはできまい。

■ryozanpaku

『植村氏が起こした民事裁判で、西岡力氏は今年9月5日、植村氏を批判する根拠としていた元「慰安婦」の訴状と韓国紙の記事について、そのいずれも引用を誤っていたうえ、自らが記事を改竄していたことを認めた。植村氏の記事が「捏造だ」という主張はもはや根拠を失っている。』 西岡、謝れ!

■Joshua Martin あたま抱え中‏

2014年当時、西岡力に私もすっかり騙されていた。

「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。」→嘘でした!

「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」→加筆捏造でした!

■ウツボマン‏

こんな記事までチェックしてるのに、西岡力と櫻井よしこの嘘がバレたことに対するコメントはまだですか?

■二宮力

西岡力氏が救う会の会長だからな。拉致問題は解決しないよね。させるつもりもないのだろう。

■盛田隆二

「慰安婦」問題否定派の旗手・麗澤大学教授の西岡力氏。氏の論考は櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となってきたが、その西岡氏が『朝日』元記者・植村隆裁判の尋問で、自らの「捏造」を認めた。 ――植村氏の記事を「捏造」呼ばわりした西岡氏が「捏造」していた。

■michi-to‏

西岡力が自らの捏造(従軍慰安婦は日本軍の強制ではなく親に売られたという嘘)を認める。嘘ネタで慰安婦を誹謗した櫻井よしこ、百田。慰安婦に謝れ。

■根村恵介‏

レイプジャーナリスト、捏造記者、ウヨクエンタメ作家、お追従評論家…安倍晋三のまわりはいかがわしい人物だらけ。

■朝守飛阿弥

「「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた」…お粗末。

■名もなき投資家(一般市民)

【「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。(略)西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めた】 自称愛国者達の精神的支柱が崩壊

■結城秀二郎‏

慰安婦問題をめぐっては、さきに櫻井よしこ、最近では西岡力。いずれも裁判で敗訴、ねつ造告白。船橋市西図書館は、歴史修正主義の本を、とにかく処分してほしい。差別や偏見まるだしで、公営図書館の歴史書として置くわけにはゆくまいと思われる。

■雪之丞‏

この 西岡力 (拉致被害者救う会会長)とか、杉田水脈(新しい歴史教科書をつくる会理事) を擁護した 藤田信勝(新しい歴史教科書をつくる会副会長) とか、全員歴史歪曲派であることに注目しよう

■双極鑷子‏

「西岡力氏が自らの「捏造」認める」櫻井よし子と同じ、偽証罪の懲役を恐れたんだよね。今の社会なら、デマ屋として今までどおり生きていけるからなあ。

■Tommy‏

「『慰安婦』なんて捏造ダー」系の皆さんが、とても困ったことになってしまった。捏造と主張してきた西岡力が自らの捏造を認めてしまったのだから。とは言え、そういう人達がこれで考え方を変えるとも思えないが

■とも

ダブルスタンダードがダメなのは当たり前、嘘や捏造偽造がダメなのも当たり前、西岡力さんのように自分の主張を有利にするために文章を書き換えるのもダメなのは当たり前、人間を生産性がないなどと切り捨てるのがいけないのも当たり前。意見が違った相手でも思いやりを持つのも当たり前。

■アオイ模型:自宅療養中

「捏造」を主張していた側が「捏造」してたという、ありがちな展開。けど、今後もこれが「事実」として叫ばれ続けるんだろうね

■Noby Lucha Libre‏

西岡力や櫻井よし子や阿比留瑠比などが捏造と主張している内容はそれ自体が捏造。「この人はウソつき」というウソ。だまされた人々は怒りの矛先を不誠実な連中に向けるべきだろう。

■水谷千春

西岡力はあの八木秀次と同じ麗澤大学なのか。知らなかった。

■nitonasuk‏

こんな連中が関与すべき話では無い。繊細な問題だしナショナリズムを背景に解決できる問題でも無い。イデオロギー的に中立な両国の学者が時間をかけ解決すべきだ。

■適菜収。完全bot。

アホくさ。。でも、「捏造」を認めただけ、自称文芸評論家の小川榮太郎よりはマシだよね。

■中野昌宏 Masahiro Nakano‏

こういう結末。当然ですね。

■相原たくや

捏造を認めたということは、詐欺師であることを認めたわけである。全面的な謝罪の上で、筆を折るべきだろう。

■sara-K-HMJ‏

櫻井よしこや西岡力が故意に「親が売った」というデマを吐き被害者を貶めバカウヨがSNS上で蔓延させた。今もそのデマを根拠に被害者攻撃は続いている。安倍晋三や駐米大使もそのデマと同類の発言をしている。コイツラにきっちり責任をとらせろ

■omelette

【「私は40円で売られて,キーセンの修業を何年かして,その後,日本の軍隊のあるところに行きました」という元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると,「間違いです」と小声で認めた。】 元の物に無い文を勝手に作るのは、「間違い」ではなく、「捏造」

■能川元一‏

あの二人はなにか勘違いしたとか筆が滑ったとかであんなこと描いてるわけじゃない。あれは二人の世界観そのものなんだから。櫻井よしこや西岡力があれだけ法廷でド詰めされても「捏造記者」呼ばわりを謝罪もせず撤回もしてないのを見ればわかるじゃん。

■エリン

この 西岡力 って奴のデマに、脊髄反射で共感したのが 櫻井よしこ らであり、加害に加担した罪は大きい。西岡氏は大学教授を辞し、櫻井よしこは物書きとして筆を折るべきだ。

■もぎたてのいとうじん

なんだか、とてもいい加減だね。となると、この人の一部始終、信頼に値しない…と考えるべきじゃないかな。

以下略
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/09/blog-post_27.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c11

[近代史3] 従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ない 中川隆
1. 中川隆[-12402] koaQ7Jey 2019年2月05日 21:26:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2017年には強制連行についての新資料が見つかっています。


http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/193/meisai/m193164.htm

http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm


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国立公文書館から内閣官房副長官補室が2017年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書と答弁書
http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm

慰安婦「連行」文書提出 公文書館、内閣官房に

「慰安婦」資料に“強制連行” 「ご指摘のような記述」

紙氏質問主意書に政府回答

 安倍内閣は、日本軍「慰安婦」問題に関連する182点の資料を国立公文書館から新たに入手したことを認め、資料の中にある強制連行をしめす具体的な記述について、「ご指摘のような記述がされている」との答弁書を閣議決定した。日本共産党の紙智子参院議員の質問主意書への答弁。

 政府が認めた具体的な記述は、東京裁判やBC級戦犯の裁判記録の一部で、次のようなものです。

 「偽組織人員を利用し工場設立を宣伝し四方より女工を招致し麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した」(「桂林市民九名の宣誓供述書広西省」)

 「ある婦人と14歳になるその妹は、強制的に数週間、約50名の日本兵と雑居させられ、その虐待と暴行を受けました」(「カゾーラ・フエルナンの宣誓供述書」)

 「其の命により20名の少女・婦人等は自己の意思に基かずして(中略)慰安所に入所せしめたる上強制的に淫売婦たらしめたり」(「BC級ポンチャナック裁判・第13号事件」)

 政府の答弁書は「ご指摘の『「慰安婦」関係文書』は、いわゆる従軍慰安婦問題に関連する資料として初めて内閣官房に提出されたものである」とし、「ご指摘の『「慰安婦」関係文書』において、ご指摘のような記述がされている」と回答。6月27日に閣議決定しました。

 紙議員は、2月に国立公文書館がこれらの文書を政府に提出した後、文書の写しを入手。「『慰安婦』の強制連行を示す記述のある文書がない」としてきた政府にたいし、具体的な記述の有無を質問した。

 紙議員は「政府が、これらの記述を認めたことは問題解決の第一歩です。これが強制連行をしめす記述ではないというなら、強制連行とはどういうものなのか、説明するべきでしょう。高齢になった被害者たちのために一刻も早い解決をめざし、全力をつくします」と決意をのべた。


第193回国会(常会)

質問主意書

質問第一六四号

国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。

  平成二十九年六月十六日

紙 智子   

       参議院議長 伊達 忠一 殿

国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書

第193回国会(常会)

答弁書

答弁書第一六四号

内閣参質一九三第一六四号

  平成二十九年六月二十七日

内閣総理大臣 安倍 晋三   

       参議院議長 伊達 忠一 殿

参議院議員紙智子君提出国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。

 内閣官房副長官補室は、本年二月三日に国立公文書館から十九簿冊、百八十二点の日本軍「慰安婦」関係文書(以下「「慰安婦」関係文書」という。)を入手し、その写しを本年四月二十四日に紙智子事務所が受け取った。それらの文書について、以下質問する。


一 内閣官房副長官補室は、本年二月三日に国立公文書館から「慰安婦」関係文書を入手したのか。

四 「慰安婦」関係文書は、いわゆる東京裁判およびアジア各地で行われたBC級戦争犯罪裁判の関係文書であり、全部で十九簿冊、百八十二点の文書であるか。

一及び四について

 御指摘の「「慰安婦」関係文書」については、平成二十九年二月三日に、独立行政法人国立公文書館から、いわゆる従軍慰安婦問題に関連する資料として、百八十二点の資料が内閣官房に対して提出されている。また、お尋ねの「いわゆる東京裁判およびアジア各地で行われたBC級戦争犯罪裁判の関係文書」の意味するところが必ずしも明らかではないが、当該資料には、極東国際軍事裁判所の裁判又はアジア等で行われたいわゆるBC級戦争犯罪裁判に関する記載が含まれている。

二 「慰安婦」関係文書は、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(以下「内閣官房長官談話」という。)の時には入手していなかった文書であり、政府による「慰安婦」に関する調査において初めて入手したものであるか。

二について

 お尋ねの「政府による「慰安婦」に関する調査」の意味するところが必ずしも明らかではないが、御指摘の「「慰安婦」関係文書」は、いわゆる従軍慰安婦問題に関連する資料として初めて内閣官房に提出されたものである。

三 政府は、「慰安婦問題については、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、同月四日の内閣官房長官談話(中略)のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」と閣議決定(以下「本件閣議決定」という。)を行っているが、内閣官房副長官補室が内閣官房長官談話の発表以降に入手した「慰安婦」関係文書も、本件閣議決定でいうところの政府による「関係資料の調査」の対象となるべきものであり、今後、「政府が発見した資料」の範疇に含まれるものと考えられるが、如何か。

三について

 お尋ねの趣旨が必ずしも明らかではないが、御指摘の「関係資料の調査」については、政府としては、これまで、平成四年七月六日と平成五年八月四日の二度にわたり、その結果を発表したが、事柄の性質上、その後も新しい資料が発見される可能性はあることから、そのような場合には、関係省庁等に対して内閣官房に報告をするよう求めており、御指摘の「「慰安婦」関係文書」も、その求めに応じて内閣官房に報告されたものである。

五 「慰安婦」関係文書には、次の記述があるか、以下質問する。なお、原文はひらがな表記に直し、人名を伏せ字又は記号とする。

1 (政府の通し番号二九の二)「桂林市民九名の(桂林市内に於ける日本軍残虐行為)宣誓供述書広西省」に「偽組織人員を利用し工場設立を宣伝し四方より女工を招致し麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した」との記述があるか。

2 (政府の通し番号三〇の二)カゾーラ・フエルナンの宣誓供述書に「各地ではフランス人女子に対する凌辱行為も若干行われました。ある婦人と十四歳になるその妹は、強制的に数週間、約五十名の日本兵と雑居させられ、その虐待と暴行を受けました。その一人は発狂しました。彼女達は二人ともその後処刑されました。また別の例では(中略)更にまた数地方では原住民女子は売淫行為を強制されました」との記述があるか。

3 (政府の通し番号三一の一二)「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第25号事件(1名)」の法務省面接調査でバリ島海軍第三警備隊特別警察隊隊長からの聞き取りとして「私の一番恐れていた事件は、慰安所事件であった。これは慰安婦の中には、スラバヤから蘭軍下士官の妻君五人の外、現地人七十人位をバリ島に連れてきた件である。(中略)この外にも、戦中の前後約二百人位の婦女を慰安婦として奥山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ。私は終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、約七十万円を本件の工作費として貰い受け各村長を介して住民の懐柔工作に使った。これが完全に功を奏したと見え、一番心配した慰安所の件は一件も訴えが出なかった」との記述があるか。

4 (政府の通し番号三三の一)「BC級(オランダ裁判関係)ポンチャナック裁判・第13号事件(13名)」の起訴状に「本被告は(中略)特警隊が強制売淫をなさしむる目的を以て彼女等の意思に基かずして少女婦人を拉致せるを黙認せり。(中略)又本被告は〇〇に対しカタバンの少女・婦人等をポンチャナックに連れて来り慰安所に入所せしむべく命じたり。其の命により二十名の少女・婦人等は自己の意思に基かずして(中略)慰安所に入所せしめたる上強制的に淫売婦たらしめたり」との記述があるか。

 (政府の通し番号三三の三の二)同事件の判決文に「第一被告はポンチャナック特警隊分遣隊隊長としTKTに依り犯罪行為が行われたることを知りいたる上、多くの場合に自ら命令を与えたり(処刑、及び慰安所用に婦女を探すこと)」との記述があるか。

 同判決文に「斯かる最大級の野蛮なる振舞いをしても住民を絶えず恐怖におののかしむには未だ足りずとて、敵は婦女子を慰安所にいれて之に売淫を強制することに依り犯罪を重ねたり」との記述があるか。

5 (政府の通し番号三五の二)「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第69号事件(12名)」に「婦女達は交互にこの手術台に乗せられ一番検査に都合の良いやうな恰好をした。之を眺めているものが見て、大声で笑ひたてた。恐れと痛みから台から降りやうとすると、手荒く取扱はれた(中略)此の時〇〇の行動も極めて唾棄すべきものがあった。即ち、彼は煙草の火で陰毛や大腿部を焼いたりして、皆で大笑ひの種にした。(中略)三名の娘が失神したが、名は憶へていない。此の三名は正気づかせる為に打ち殴られたり、大声で怒鳴られたりした。既に第一日目である日曜日の午前中に十八名〜二十名の客がとられ、その上夜間にも仕事があった。月曜日の朝には既に数名の娘は起き上れず、歩けもしなかった。B姉妹は逃げ出して終った。然し、彼女達は火曜日の朝には警察の手に依って捕った。送り帰されて来てから、彼女等は裸にされ、洗濯夾を乳首につけられて、便所の掃除をさせられ、通りがかりの日本人から侮辱された。」との記述があるか。

6 (政府の通し番号三五の三六)前記第69号事件の判決に「被告は(中略)婦女子を抑留所より連行し之を慰安所に入れることが、たとえそれが自由意志にて行はれたにせよ、人道及び国際条約の侵反行為なりと悟る程には本件を深く考えざりき。(中略)(日本人)自らが設けたる抑留所の非人道的な悪状況(食料、宿舎)を利用して抑留所より志望者を募集すること自体が既に道義と人道に反する行為なるも、本件の場合はそれと共に又戦争の法規慣習に対する違反行為なり。更に「兵站係将校」」をも兼務しありたる被告は、斯かる計画を是認し、その計画に協力し、更に、本計画が如何に実行され、又その結果開設されたる慰安所が如何に経営せられたるやの監督を全く行はざりし事実に依り、犯罪行為に責任を負はざるべからず。(中略)被告は高級将校として和蘭人婦女子が一般的に、又、主義として日本人の慰安所に慰安婦として働くために抑留所を離るることを欲さざること及び斯かることは偽瞞乃至暴力を用ひて始めて可能なることを当然知りいたる筈なり。(中略)被告〇〇を強制売淫の為の婦女子の連行、売淫の強制、強姦なる戦犯行為に依り懲役15年に判決す」との記述があるか。

7 (政府の通し番号三六の七四)「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第106号事件(1名)」の〇〇中将に対する「判決文」に

 「次の部下が下記の刑に処せられていることを考慮し、即ち

 a 強制売春の為の婦女子のら致、売春強制及び強姦罪で死刑

 b 強制売春の為の婦女子のら致、売春強制罪で懲役十年

 c 被逮捕者の悪待遇罪で懲役七年

 d 被逮捕者の悪待遇及び強姦罪で懲役十六年

 e 強制売春の為の婦女子のら致罪で懲役二年

 f 売春強制罪で懲役二十年

 g 売春強制罪で懲役十年

 h 売春強制罪で懲役十五年

 i 売春強制罪で懲役七年

 j 強制売春の為の婦女子のら致、売春強制、強姦罪で懲役十五年

 (中略)この本人の自由意志に反してキャンプから連れてきた婦女子を遊女屋に入れることを容認したと言うことは、婦女及び娘達は、自己の意志に反してスマランの遊女屋に入れられたものであり、又、〇〇一味に対する事件の審理の際にも既に明らかにされた如く、彼女等は、如何なる条件の下にも遊女屋を出ることは許されず監禁され、上記判決に証拠充分と認められ且つ本件においても右判決に基いて確実と見られているが如く或は強姦或は悪待遇で売春を強制されたことが判明している故に、同時に彼の部下が犯した「売春強制」、「被逮捕者の悪待遇」及び「強姦」と言う戦争犯罪を容認したと言うことにもなることを考慮し(中略)本判決の頭初に掲げた被告人〇〇に対し、起訴事実のうち、証拠不十分のものについては無罪を、証拠充分のものについては売春の強制、強姦、監禁した者の悪待遇なる戦争犯罪に有罪を宣告し、よって懲役十二年の刑に処す」との記述があるか。

  右質問する。

http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/137.html#c1

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
601. 中川隆[-12401] koaQ7Jey 2019年2月05日 21:27:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]
2017年には強制連行についての新資料が見つかっています。

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/193/meisai/m193164.htm

http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm


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国立公文書館から内閣官房副長官補室が2017年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書と答弁書
http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm

慰安婦「連行」文書提出 公文書館、内閣官房に

「慰安婦」資料に“強制連行” 「ご指摘のような記述」

紙氏質問主意書に政府回答

 安倍内閣は、日本軍「慰安婦」問題に関連する182点の資料を国立公文書館から新たに入手したことを認め、資料の中にある強制連行をしめす具体的な記述について、「ご指摘のような記述がされている」との答弁書を閣議決定した。日本共産党の紙智子参院議員の質問主意書への答弁。

 政府が認めた具体的な記述は、東京裁判やBC級戦犯の裁判記録の一部で、次のようなものです。

 「偽組織人員を利用し工場設立を宣伝し四方より女工を招致し麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した」(「桂林市民九名の宣誓供述書広西省」)

 「ある婦人と14歳になるその妹は、強制的に数週間、約50名の日本兵と雑居させられ、その虐待と暴行を受けました」(「カゾーラ・フエルナンの宣誓供述書」)

 「其の命により20名の少女・婦人等は自己の意思に基かずして(中略)慰安所に入所せしめたる上強制的に淫売婦たらしめたり」(「BC級ポンチャナック裁判・第13号事件」)

 政府の答弁書は「ご指摘の『「慰安婦」関係文書』は、いわゆる従軍慰安婦問題に関連する資料として初めて内閣官房に提出されたものである」とし、「ご指摘の『「慰安婦」関係文書』において、ご指摘のような記述がされている」と回答。6月27日に閣議決定しました。

 紙議員は、2月に国立公文書館がこれらの文書を政府に提出した後、文書の写しを入手。「『慰安婦』の強制連行を示す記述のある文書がない」としてきた政府にたいし、具体的な記述の有無を質問した。

 紙議員は「政府が、これらの記述を認めたことは問題解決の第一歩です。これが強制連行をしめす記述ではないというなら、強制連行とはどういうものなのか、説明するべきでしょう。高齢になった被害者たちのために一刻も早い解決をめざし、全力をつくします」と決意をのべた。


第193回国会(常会)

質問主意書

質問第一六四号

国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。

  平成二十九年六月十六日

紙 智子   

       参議院議長 伊達 忠一 殿

国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書

第193回国会(常会)

答弁書

答弁書第一六四号

内閣参質一九三第一六四号

  平成二十九年六月二十七日

内閣総理大臣 安倍 晋三   

       参議院議長 伊達 忠一 殿

参議院議員紙智子君提出国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。


 内閣官房副長官補室は、本年二月三日に国立公文書館から十九簿冊、百八十二点の日本軍「慰安婦」関係文書(以下「「慰安婦」関係文書」という。)を入手し、その写しを本年四月二十四日に紙智子事務所が受け取った。それらの文書について、以下質問する。


一 内閣官房副長官補室は、本年二月三日に国立公文書館から「慰安婦」関係文書を入手したのか。

四 「慰安婦」関係文書は、いわゆる東京裁判およびアジア各地で行われたBC級戦争犯罪裁判の関係文書であり、全部で十九簿冊、百八十二点の文書であるか。

一及び四について

 御指摘の「「慰安婦」関係文書」については、平成二十九年二月三日に、独立行政法人国立公文書館から、いわゆる従軍慰安婦問題に関連する資料として、百八十二点の資料が内閣官房に対して提出されている。また、お尋ねの「いわゆる東京裁判およびアジア各地で行われたBC級戦争犯罪裁判の関係文書」の意味するところが必ずしも明らかではないが、当該資料には、極東国際軍事裁判所の裁判又はアジア等で行われたいわゆるBC級戦争犯罪裁判に関する記載が含まれている。


二 「慰安婦」関係文書は、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(以下「内閣官房長官談話」という。)の時には入手していなかった文書であり、政府による「慰安婦」に関する調査において初めて入手したものであるか。

二について

 お尋ねの「政府による「慰安婦」に関する調査」の意味するところが必ずしも明らかではないが、御指摘の「「慰安婦」関係文書」は、いわゆる従軍慰安婦問題に関連する資料として初めて内閣官房に提出されたものである。


三 政府は、「慰安婦問題については、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、同月四日の内閣官房長官談話(中略)のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」と閣議決定(以下「本件閣議決定」という。)を行っているが、内閣官房副長官補室が内閣官房長官談話の発表以降に入手した「慰安婦」関係文書も、本件閣議決定でいうところの政府による「関係資料の調査」の対象となるべきものであり、今後、「政府が発見した資料」の範疇に含まれるものと考えられるが、如何か。

三について

 お尋ねの趣旨が必ずしも明らかではないが、御指摘の「関係資料の調査」については、政府としては、これまで、平成四年七月六日と平成五年八月四日の二度にわたり、その結果を発表したが、事柄の性質上、その後も新しい資料が発見される可能性はあることから、そのような場合には、関係省庁等に対して内閣官房に報告をするよう求めており、御指摘の「「慰安婦」関係文書」も、その求めに応じて内閣官房に報告されたものである。


五 「慰安婦」関係文書には、次の記述があるか、以下質問する。なお、原文はひらがな表記に直し、人名を伏せ字又は記号とする。

1 (政府の通し番号二九の二)「桂林市民九名の(桂林市内に於ける日本軍残虐行為)宣誓供述書広西省」に「偽組織人員を利用し工場設立を宣伝し四方より女工を招致し麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した」との記述があるか。

2 (政府の通し番号三〇の二)カゾーラ・フエルナンの宣誓供述書に「各地ではフランス人女子に対する凌辱行為も若干行われました。ある婦人と十四歳になるその妹は、強制的に数週間、約五十名の日本兵と雑居させられ、その虐待と暴行を受けました。その一人は発狂しました。彼女達は二人ともその後処刑されました。また別の例では(中略)更にまた数地方では原住民女子は売淫行為を強制されました」との記述があるか。

3 (政府の通し番号三一の一二)「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第25号事件(1名)」の法務省面接調査でバリ島海軍第三警備隊特別警察隊隊長からの聞き取りとして「私の一番恐れていた事件は、慰安所事件であった。これは慰安婦の中には、スラバヤから蘭軍下士官の妻君五人の外、現地人七十人位をバリ島に連れてきた件である。(中略)この外にも、戦中の前後約二百人位の婦女を慰安婦として奥山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ。私は終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、約七十万円を本件の工作費として貰い受け各村長を介して住民の懐柔工作に使った。これが完全に功を奏したと見え、一番心配した慰安所の件は一件も訴えが出なかった」との記述があるか。

4 (政府の通し番号三三の一)「BC級(オランダ裁判関係)ポンチャナック裁判・第13号事件(13名)」の起訴状に「本被告は(中略)特警隊が強制売淫をなさしむる目的を以て彼女等の意思に基かずして少女婦人を拉致せるを黙認せり。(中略)又本被告は〇〇に対しカタバンの少女・婦人等をポンチャナックに連れて来り慰安所に入所せしむべく命じたり。其の命により二十名の少女・婦人等は自己の意思に基かずして(中略)慰安所に入所せしめたる上強制的に淫売婦たらしめたり」との記述があるか。

 (政府の通し番号三三の三の二)同事件の判決文に「第一被告はポンチャナック特警隊分遣隊隊長としTKTに依り犯罪行為が行われたることを知りいたる上、多くの場合に自ら命令を与えたり(処刑、及び慰安所用に婦女を探すこと)」との記述があるか。

 同判決文に「斯かる最大級の野蛮なる振舞いをしても住民を絶えず恐怖におののかしむには未だ足りずとて、敵は婦女子を慰安所にいれて之に売淫を強制することに依り犯罪を重ねたり」との記述があるか。

5 (政府の通し番号三五の二)「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第69号事件(12名)」に「婦女達は交互にこの手術台に乗せられ一番検査に都合の良いやうな恰好をした。之を眺めているものが見て、大声で笑ひたてた。恐れと痛みから台から降りやうとすると、手荒く取扱はれた(中略)此の時〇〇の行動も極めて唾棄すべきものがあった。即ち、彼は煙草の火で陰毛や大腿部を焼いたりして、皆で大笑ひの種にした。(中略)三名の娘が失神したが、名は憶へていない。此の三名は正気づかせる為に打ち殴られたり、大声で怒鳴られたりした。既に第一日目である日曜日の午前中に十八名〜二十名の客がとられ、その上夜間にも仕事があった。月曜日の朝には既に数名の娘は起き上れず、歩けもしなかった。B姉妹は逃げ出して終った。然し、彼女達は火曜日の朝には警察の手に依って捕った。送り帰されて来てから、彼女等は裸にされ、洗濯夾を乳首につけられて、便所の掃除をさせられ、通りがかりの日本人から侮辱された。」との記述があるか。

6 (政府の通し番号三五の三六)前記第69号事件の判決に「被告は(中略)婦女子を抑留所より連行し之を慰安所に入れることが、たとえそれが自由意志にて行はれたにせよ、人道及び国際条約の侵反行為なりと悟る程には本件を深く考えざりき。(中略)(日本人)自らが設けたる抑留所の非人道的な悪状況(食料、宿舎)を利用して抑留所より志望者を募集すること自体が既に道義と人道に反する行為なるも、本件の場合はそれと共に又戦争の法規慣習に対する違反行為なり。更に「兵站係将校」」をも兼務しありたる被告は、斯かる計画を是認し、その計画に協力し、更に、本計画が如何に実行され、又その結果開設されたる慰安所が如何に経営せられたるやの監督を全く行はざりし事実に依り、犯罪行為に責任を負はざるべからず。(中略)被告は高級将校として和蘭人婦女子が一般的に、又、主義として日本人の慰安所に慰安婦として働くために抑留所を離るることを欲さざること及び斯かることは偽瞞乃至暴力を用ひて始めて可能なることを当然知りいたる筈なり。(中略)被告〇〇を強制売淫の為の婦女子の連行、売淫の強制、強姦なる戦犯行為に依り懲役15年に判決す」との記述があるか。

7 (政府の通し番号三六の七四)「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第106号事件(1名)」の〇〇中将に対する「判決文」に

 「次の部下が下記の刑に処せられていることを考慮し、即ち

 a 強制売春の為の婦女子のら致、売春強制及び強姦罪で死刑

 b 強制売春の為の婦女子のら致、売春強制罪で懲役十年

 c 被逮捕者の悪待遇罪で懲役七年

 d 被逮捕者の悪待遇及び強姦罪で懲役十六年

 e 強制売春の為の婦女子のら致罪で懲役二年

 f 売春強制罪で懲役二十年

 g 売春強制罪で懲役十年

 h 売春強制罪で懲役十五年

 i 売春強制罪で懲役七年

 j 強制売春の為の婦女子のら致、売春強制、強姦罪で懲役十五年

 (中略)この本人の自由意志に反してキャンプから連れてきた婦女子を遊女屋に入れることを容認したと言うことは、婦女及び娘達は、自己の意志に反してスマランの遊女屋に入れられたものであり、又、〇〇一味に対する事件の審理の際にも既に明らかにされた如く、彼女等は、如何なる条件の下にも遊女屋を出ることは許されず監禁され、上記判決に証拠充分と認められ且つ本件においても右判決に基いて確実と見られているが如く或は強姦或は悪待遇で売春を強制されたことが判明している故に、同時に彼の部下が犯した「売春強制」、「被逮捕者の悪待遇」及び「強姦」と言う戦争犯罪を容認したと言うことにもなることを考慮し(中略)本判決の頭初に掲げた被告人〇〇に対し、起訴事実のうち、証拠不十分のものについては無罪を、証拠充分のものについては売春の強制、強姦、監禁した者の悪待遇なる戦争犯罪に有罪を宣告し、よって懲役十二年の刑に処す」との記述があるか。

  右質問する。

http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm

http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c601

[近代史3] 従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ 中川隆
4. 中川隆[-12400] koaQ7Jey 2019年2月05日 21:35:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2018.10.2
右派論壇の一時の勢いに陰り、慰安婦訴訟で「訂正」相次ぐ
次ぐ
山田厚史:デモクラシータイムス同人・元朝日新聞編集委員+ 
https://diamond.jp/articles/-/180999


 旧日本軍による強制はあったのか――。従軍慰安婦を巡る論争は、いま法廷に舞台を移している。

 戦後の歴史観をめぐる「歴史戦」が、論戦から法廷での淡々とした証拠調べ、事実認定へと変わってきた中で、朝日新聞を「記事取り消し」に追い込んだ弾劾の急先鋒だった評論家・ジャーナリストの櫻井よしこ氏や問題の「火付け役」西岡力・麗澤大学客員教授が、逆に裁判で主張の誤りを追及され、不本意な訂正に追い込まれている。

 最近でも、「新潮45」が性的少数者であるLGBTへの差別問題で休刊に追い込まれるなど、右派論壇の勢いに陰りが見える中で、歴史戦も右派は最前線で押し戻され気味だ。

産経、櫻井氏の文章を訂正
“孫引き”だった慰安婦「証言」

 6月4日の産経新聞の看板コラム「美しき勁き国へ」にこんな訂正が載った。

訂正の内容はこうだ。

「平成26年3月3日の当欄に『この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳の時再び継父に売られたなどと書いている。』とあるのを、『平成3年から4年に発行された雑誌記事、韓国紙の報道によると、この女性、金学順氏は14歳のときに親から養父に40円で売られ、17歳のときその養父によって中国に連れて行かれ慰安婦にされたという。』に訂正します」

 訂正された記事は、櫻井よしこ氏が2014年3月3日の「美しき勁き国へ」に載せた「真実をゆがめる朝日報道」と題する文章だ。

 慰安婦としての過去を証言した金氏を紹介した植村隆・元朝日新聞記者が書いた記事(1991年8月11日)を取り上げ、「捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断罪した。

 櫻井氏は「この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている。植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じず、慰安婦とは無関係の『女子挺身隊』と慰安婦が同じであるかのように報じた」と「美しき勁き国へ」で主張した。

 ところが、「訂正」によると、継父ではなく養父に40円でキーセンにとして売られたことなどという記述は「訴状」ではなく、韓国新聞や日本の雑誌に書かれたことの「孫引き」と櫻井氏は認めた。

 元慰安婦が自ら訴状にしたためたことと、メディアに載った記事の引用では、主張の根拠の重みがまるで違う。

 この「事実誤認」は札幌地裁で進められている民事訴訟で植村氏が指摘した。櫻井氏は法廷後の記者会見で「率直に改めたい」と認めた(2016年4月22日)。

 ところが産経新聞は訂正を渋り、植村氏は17年9月、東京簡裁に調停を申し立てた。裁判所の調停ででやっと産経新聞は訂正に応じたが、櫻井氏が「誤り」を認めてから訂正が出るまで2年近くかかった。

 産経は、この事実誤認を認めたら「歴史戦の敗退」を印象付ける、と憂慮したのだろうか。

「強制連行」に触れず
「人身売買」を主張

 同様の訂正はワック出版が発行する月刊誌「WiLL」(2018年7月号)でも出された。櫻井氏が書いた「朝日は日本の針路を誤らせる」(2014年4月号)の訂正で、産経の正論コラムと同時期にほぼ同じ論評が載った。


櫻井氏は論戦の最前線に立っているが「後ろにいる参謀役は西岡氏」と植村氏側は見ているようだ。札幌での訴訟は櫻井氏と同氏が寄稿した新潮社、ワック社、ダイヤモンド社を訴え、東京地裁では西岡氏と文藝春秋社を訴えた。

 9月5日、東京地裁民事103号法廷で行われた西岡氏に対する被告人本人尋問で、植村氏の代理人、穂積剛弁護士が西岡氏に問いただした。

「あなたは週刊文春2014年3月13日号で、(元慰安婦の金学順さんは)『強制連行されたのではなく、親に身売りされて慰安婦になった』と言っている。貧困のためにキーセンに身売りし、義父に慰安所に連れて行かれたことがポイントになっているが、身売りは14歳の時、慰安所はその3年後。義父に連れていかれた時が大事なポイントではないですか」

 これに対し、西岡氏は「両方とも大事です」と答えた。

 そこで穂積弁護士は、西岡氏が証拠として提出している月刊誌「宝石」(1992年10月号、光文社・すでに休刊)の記事を示し、こう尋ねた。

「ここに『私たちは日本の兵隊に取り囲まれ、将校と養父の間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです』として、その後私は慰安所に連れていかれ日本兵の相手をさせられた』という証言が書かれています。義父が売り飛ばしたのではなく日本軍が奪ったのではないですか」

 これに対し西岡氏は「そう書いてあるが、本当かどうか裏付けを取らないとわからない。私はその可能性はかなり小さいと思う」と答えた。

 穂積弁護士が「日本軍が武力で奪ったことことが本質だと思うが、全くあり得ない解釈でしょうか」と、重ねて問うと、西岡氏は「あり得ない解釈とはいえない。当時はそう考えるのが多数派だった」と答えた。

 この証人尋問で、西岡氏は、「軍による強制連行」は多数派の認識だった、と証言したのだ。

 櫻井氏も西岡氏も「養父に慰安婦にされた」ことを、「人身売買であって、強制連行ではない」ことの証拠にしている。しかし両氏がその証拠として提出した雑誌には、養父は駅で日本の将校に脅されて連れさられ、自分たちは日本兵に慰安所に連れて行かれた、と書かれていた。

 西岡氏が証拠とした韓国紙ハンギョレ新聞にも、金学順さんの言葉として「私を連れて行った義父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした」と報じている。

 いずれも「強制連行」を示す記述には触れず、自分の主張に都合のいい箇所だけを摘み食いして、「人身売買」というストーリーを仕立てあげたとも見える展開である。


「宝石」の記事で、金氏が仲間と一緒に日本兵に連行されたと証言していることについて、西岡氏は「裏付けが取れない」と言う。そして「その可能性はかなり小さい」というが、それは西岡氏の勝手な主観だろう。

「強制連行はなかった」という結論が先にあって、自分の歴史観に合う都合のいい事実だけを取りあげるということなら、それは学者としての良心が疑われかねない。

 西岡氏も、櫻井氏と同様に雑誌などの「孫引き」を事実かのように述べた誤りを犯したことを、「記憶違いだった」「私の言葉で要約した」と認めた。そして訂正については「裁判が終わってから必要があれば考える」と述べた。

 だが「率直に改めたい」と潔かった櫻井氏に比べると、往生際の悪さが印象に残った。

「歴史観修正」に注力
朝日元記者を標的に

 東京と札幌で進められている慰安婦問題をめぐる2つの訴訟の争点は同じだ。

(1)慰安婦にされた金氏に対する軍による「連行」の事実はあったのか、(2)「女子挺身隊」という言葉は朝鮮で慰安婦を表す表現として使われていたか、(3)植村氏は義母の裁判を有利にするため記事を書いたのか、である。

 植村氏は西岡氏らから、韓国人である義母が関係する元慰安婦などを支援する団体の運動と絡めて非難された。義母が関係する運動を手助けするため記事を書いた、つまり金氏が親に売られて慰安婦にされたのに、女子挺身隊として戦地に連行されたと捏造したというのだ。

 今回の二つの訴訟は、記事を「捏造」したと名指しされた植村氏が、名誉回復を求め、自身に向けられた憎悪のような攻撃に反撃するために起こしたものだ。

 裁判では、金氏だけでなく軍が関与して慰安婦にされた人たちの事例などが、植村氏側から証拠としていくつも提出されている。

「挺身隊」は、日本では勤労動員などに使われているが、韓国では慰安婦を表す言葉でもあった。

 櫻井氏がキャスターを務めた日本テレビでも「女子挺身隊という名の従軍慰安婦」という番組を放送した(82年3月)。産経新聞も1991年9月3日の紙面で、「第二次世界大戦中『挺身隊』の名のもとに、日本従軍慰安婦として戦場に駆かり出だされた朝鮮人女性たち」と書いている。

 植村氏が金学順さんの証言を書いたのもこのころ。挺身隊という言葉は韓国で慰安婦と同義語だった。


植村氏の義母・梁順任さんは韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会の役員をしていた。遺族会は金学順さんが日本政府を訴える賠償請求訴訟を支援したが、植村氏が最初に取材した当時は、金氏との接点はなく、訴訟の動きなどはなかった。

 植村氏が大阪社会部の記者として朝鮮問題に熱心であることを知っていた当時のソウル支局長が、金氏の証言テープがあることを伝え、取材させたと証言している。

 産経に集う右派論壇は、慰安婦問題を「歴史戦」と位置付け、戦後の歴史観の修正に力を注いできた。

 朝日新聞が、「済州島で慰安婦狩りがあった」という吉田清治氏の証言をもとにした82年9月の記事を「事実ではなかった」と取り消したことをきっかけに、「従軍慰安婦などなかった」という歴史修正の動きが力を増した。

 従軍慰安婦は儲かる仕事で、動機はカネだ。「強制連行」だとあおったのは朝日新聞で、歴史をねじ曲げた情報を世界に発信し、日本と日本人を卑しめた――。そんな言説が噴出した。標的が植村記者だった。

 金学順氏は、慰安婦とした初めて名乗り出て、顔をさらし悲劇を語った。生き証人の登場は「歴史修正」を目指す人たちにとって不都合だったのかもしれない。

 金氏は親に売られただけ。キーセンから慰安婦にされたのは養父のカネ儲けのためだ。挺身隊と慰安婦は関係ない。

 訴状に40円で売られたとあるのに、植村氏は記事で触れず、書かれてもいない「女子挺身隊として戦場に連行された」などと加筆した、と集中砲火を受けた。

右翼論壇の「やり過ぎ」
世論のバランス感覚が働く

 それだけではない。「週刊文春」は植村氏が朝日を退職して神戸松蔭女子学院大の教授になる、という情報を察知し「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という記事を掲載(2014年2月6日号)。この中で西岡氏は植村氏の記事を「捏造記事と言っても過言ではありません」と述べている。

 記事の掲載に際して「週刊文春」は神戸松蔭女子学院大にこんな質問状を送った。

「重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり、日本の国際イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されています。貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか」

 この記事が出ると、大学に電話やメールが殺到した。植村氏は事実上の就任辞退を迫られたという。

 記事を書いた元文春記者の竹中明洋氏は東京地裁の証人尋問で「思った以上に反響が大きかった」と述べた。


大学を追われた植村氏には、朝日新聞記者時代から務めていた北海道の北星学園大学非常勤講師として迎えられた職だけが残された。

 竹中記者は「『慰安婦火付け役』朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」と追い打ちをかけ、この時も大学に質問状を送り付けた。「大学教員としての適性には問題はないとお考えでしょうか」。

 記事は大学への攻撃に火をつけた。

「貴殿らは我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するものだ」との書き出しで、学生や教職員に危害が及ぶことを警告する脅迫文書が送られるようになる。

 脅しは家族にまで広がった。長女の写真が実名といっしょにネットにさらされ、「必ず殺す。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。絶対にコロス」などの脅迫文が繰り返し届けられた。

 それから4年がたち、憎悪のごとく吹き荒れた右派論壇の足元で、その主張の根拠が訂正された。裁判の過程で「捏造」は言いがかりであることが明らかにされつつある。

 最近では、力を増す差別的言論に便乗した「新潮45」が杉田水脈議員(自民党)を担いでLGBTに対する不条理な言説で世のひんしゅくを浴びた。

 上滑り気味の右翼論壇の「やり過ぎ」に世論のバランス感覚が働いているようにも見える。時の勢いに乗った右翼の「歴史戦」もまた、押し戻されつつある。

(デモクラシータイムス同人・元朝日新聞編集委員 山田厚史)



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html#c4

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
12. 中川隆[-12399] koaQ7Jey 2019年2月05日 21:36:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2018.10.2
右派論壇の一時の勢いに陰り、慰安婦訴訟で「訂正」相次ぐ
次ぐ
山田厚史:デモクラシータイムス同人・元朝日新聞編集委員+ 
https://diamond.jp/articles/-/180999


 旧日本軍による強制はあったのか――。従軍慰安婦を巡る論争は、いま法廷に舞台を移している。

 戦後の歴史観をめぐる「歴史戦」が、論戦から法廷での淡々とした証拠調べ、事実認定へと変わってきた中で、朝日新聞を「記事取り消し」に追い込んだ弾劾の急先鋒だった評論家・ジャーナリストの櫻井よしこ氏や問題の「火付け役」西岡力・麗澤大学客員教授が、逆に裁判で主張の誤りを追及され、不本意な訂正に追い込まれている。

 最近でも、「新潮45」が性的少数者であるLGBTへの差別問題で休刊に追い込まれるなど、右派論壇の勢いに陰りが見える中で、歴史戦も右派は最前線で押し戻され気味だ。

産経、櫻井氏の文章を訂正
“孫引き”だった慰安婦「証言」

 6月4日の産経新聞の看板コラム「美しき勁き国へ」にこんな訂正が載った。

訂正の内容はこうだ。

「平成26年3月3日の当欄に『この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳の時再び継父に売られたなどと書いている。』とあるのを、『平成3年から4年に発行された雑誌記事、韓国紙の報道によると、この女性、金学順氏は14歳のときに親から養父に40円で売られ、17歳のときその養父によって中国に連れて行かれ慰安婦にされたという。』に訂正します」

 訂正された記事は、櫻井よしこ氏が2014年3月3日の「美しき勁き国へ」に載せた「真実をゆがめる朝日報道」と題する文章だ。

 慰安婦としての過去を証言した金氏を紹介した植村隆・元朝日新聞記者が書いた記事(1991年8月11日)を取り上げ、「捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断罪した。

 櫻井氏は「この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている。植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じず、慰安婦とは無関係の『女子挺身隊』と慰安婦が同じであるかのように報じた」と「美しき勁き国へ」で主張した。

 ところが、「訂正」によると、継父ではなく養父に40円でキーセンにとして売られたことなどという記述は「訴状」ではなく、韓国新聞や日本の雑誌に書かれたことの「孫引き」と櫻井氏は認めた。

 元慰安婦が自ら訴状にしたためたことと、メディアに載った記事の引用では、主張の根拠の重みがまるで違う。

 この「事実誤認」は札幌地裁で進められている民事訴訟で植村氏が指摘した。櫻井氏は法廷後の記者会見で「率直に改めたい」と認めた(2016年4月22日)。

 ところが産経新聞は訂正を渋り、植村氏は17年9月、東京簡裁に調停を申し立てた。裁判所の調停ででやっと産経新聞は訂正に応じたが、櫻井氏が「誤り」を認めてから訂正が出るまで2年近くかかった。

 産経は、この事実誤認を認めたら「歴史戦の敗退」を印象付ける、と憂慮したのだろうか。

「強制連行」に触れず
「人身売買」を主張

 同様の訂正はワック出版が発行する月刊誌「WiLL」(2018年7月号)でも出された。櫻井氏が書いた「朝日は日本の針路を誤らせる」(2014年4月号)の訂正で、産経の正論コラムと同時期にほぼ同じ論評が載った。


櫻井氏は論戦の最前線に立っているが「後ろにいる参謀役は西岡氏」と植村氏側は見ているようだ。札幌での訴訟は櫻井氏と同氏が寄稿した新潮社、ワック社、ダイヤモンド社を訴え、東京地裁では西岡氏と文藝春秋社を訴えた。

 9月5日、東京地裁民事103号法廷で行われた西岡氏に対する被告人本人尋問で、植村氏の代理人、穂積剛弁護士が西岡氏に問いただした。

「あなたは週刊文春2014年3月13日号で、(元慰安婦の金学順さんは)『強制連行されたのではなく、親に身売りされて慰安婦になった』と言っている。貧困のためにキーセンに身売りし、義父に慰安所に連れて行かれたことがポイントになっているが、身売りは14歳の時、慰安所はその3年後。義父に連れていかれた時が大事なポイントではないですか」

 これに対し、西岡氏は「両方とも大事です」と答えた。

 そこで穂積弁護士は、西岡氏が証拠として提出している月刊誌「宝石」(1992年10月号、光文社・すでに休刊)の記事を示し、こう尋ねた。

「ここに『私たちは日本の兵隊に取り囲まれ、将校と養父の間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです』として、その後私は慰安所に連れていかれ日本兵の相手をさせられた』という証言が書かれています。義父が売り飛ばしたのではなく日本軍が奪ったのではないですか」

 これに対し西岡氏は「そう書いてあるが、本当かどうか裏付けを取らないとわからない。私はその可能性はかなり小さいと思う」と答えた。

 穂積弁護士が「日本軍が武力で奪ったことことが本質だと思うが、全くあり得ない解釈でしょうか」と、重ねて問うと、西岡氏は「あり得ない解釈とはいえない。当時はそう考えるのが多数派だった」と答えた。

 この証人尋問で、西岡氏は、「軍による強制連行」は多数派の認識だった、と証言したのだ。

 櫻井氏も西岡氏も「養父に慰安婦にされた」ことを、「人身売買であって、強制連行ではない」ことの証拠にしている。しかし両氏がその証拠として提出した雑誌には、養父は駅で日本の将校に脅されて連れさられ、自分たちは日本兵に慰安所に連れて行かれた、と書かれていた。

 西岡氏が証拠とした韓国紙ハンギョレ新聞にも、金学順さんの言葉として「私を連れて行った義父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした」と報じている。

 いずれも「強制連行」を示す記述には触れず、自分の主張に都合のいい箇所だけを摘み食いして、「人身売買」というストーリーを仕立てあげたとも見える展開である。


「宝石」の記事で、金氏が仲間と一緒に日本兵に連行されたと証言していることについて、西岡氏は「裏付けが取れない」と言う。そして「その可能性はかなり小さい」というが、それは西岡氏の勝手な主観だろう。

「強制連行はなかった」という結論が先にあって、自分の歴史観に合う都合のいい事実だけを取りあげるということなら、それは学者としての良心が疑われかねない。

 西岡氏も、櫻井氏と同様に雑誌などの「孫引き」を事実かのように述べた誤りを犯したことを、「記憶違いだった」「私の言葉で要約した」と認めた。そして訂正については「裁判が終わってから必要があれば考える」と述べた。

 だが「率直に改めたい」と潔かった櫻井氏に比べると、往生際の悪さが印象に残った。

「歴史観修正」に注力
朝日元記者を標的に

 東京と札幌で進められている慰安婦問題をめぐる2つの訴訟の争点は同じだ。

(1)慰安婦にされた金氏に対する軍による「連行」の事実はあったのか、(2)「女子挺身隊」という言葉は朝鮮で慰安婦を表す表現として使われていたか、(3)植村氏は義母の裁判を有利にするため記事を書いたのか、である。

 植村氏は西岡氏らから、韓国人である義母が関係する元慰安婦などを支援する団体の運動と絡めて非難された。義母が関係する運動を手助けするため記事を書いた、つまり金氏が親に売られて慰安婦にされたのに、女子挺身隊として戦地に連行されたと捏造したというのだ。

 今回の二つの訴訟は、記事を「捏造」したと名指しされた植村氏が、名誉回復を求め、自身に向けられた憎悪のような攻撃に反撃するために起こしたものだ。

 裁判では、金氏だけでなく軍が関与して慰安婦にされた人たちの事例などが、植村氏側から証拠としていくつも提出されている。

「挺身隊」は、日本では勤労動員などに使われているが、韓国では慰安婦を表す言葉でもあった。

 櫻井氏がキャスターを務めた日本テレビでも「女子挺身隊という名の従軍慰安婦」という番組を放送した(82年3月)。産経新聞も1991年9月3日の紙面で、「第二次世界大戦中『挺身隊』の名のもとに、日本従軍慰安婦として戦場に駆かり出だされた朝鮮人女性たち」と書いている。

 植村氏が金学順さんの証言を書いたのもこのころ。挺身隊という言葉は韓国で慰安婦と同義語だった。


植村氏の義母・梁順任さんは韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会の役員をしていた。遺族会は金学順さんが日本政府を訴える賠償請求訴訟を支援したが、植村氏が最初に取材した当時は、金氏との接点はなく、訴訟の動きなどはなかった。

 植村氏が大阪社会部の記者として朝鮮問題に熱心であることを知っていた当時のソウル支局長が、金氏の証言テープがあることを伝え、取材させたと証言している。

 産経に集う右派論壇は、慰安婦問題を「歴史戦」と位置付け、戦後の歴史観の修正に力を注いできた。

 朝日新聞が、「済州島で慰安婦狩りがあった」という吉田清治氏の証言をもとにした82年9月の記事を「事実ではなかった」と取り消したことをきっかけに、「従軍慰安婦などなかった」という歴史修正の動きが力を増した。

 従軍慰安婦は儲かる仕事で、動機はカネだ。「強制連行」だとあおったのは朝日新聞で、歴史をねじ曲げた情報を世界に発信し、日本と日本人を卑しめた――。そんな言説が噴出した。標的が植村記者だった。

 金学順氏は、慰安婦とした初めて名乗り出て、顔をさらし悲劇を語った。生き証人の登場は「歴史修正」を目指す人たちにとって不都合だったのかもしれない。

 金氏は親に売られただけ。キーセンから慰安婦にされたのは養父のカネ儲けのためだ。挺身隊と慰安婦は関係ない。

 訴状に40円で売られたとあるのに、植村氏は記事で触れず、書かれてもいない「女子挺身隊として戦場に連行された」などと加筆した、と集中砲火を受けた。

右翼論壇の「やり過ぎ」
世論のバランス感覚が働く

 それだけではない。「週刊文春」は植村氏が朝日を退職して神戸松蔭女子学院大の教授になる、という情報を察知し「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という記事を掲載(2014年2月6日号)。この中で西岡氏は植村氏の記事を「捏造記事と言っても過言ではありません」と述べている。

 記事の掲載に際して「週刊文春」は神戸松蔭女子学院大にこんな質問状を送った。

「重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり、日本の国際イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されています。貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか」

 この記事が出ると、大学に電話やメールが殺到した。植村氏は事実上の就任辞退を迫られたという。

 記事を書いた元文春記者の竹中明洋氏は東京地裁の証人尋問で「思った以上に反響が大きかった」と述べた。


大学を追われた植村氏には、朝日新聞記者時代から務めていた北海道の北星学園大学非常勤講師として迎えられた職だけが残された。

 竹中記者は「『慰安婦火付け役』朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」と追い打ちをかけ、この時も大学に質問状を送り付けた。「大学教員としての適性には問題はないとお考えでしょうか」。

 記事は大学への攻撃に火をつけた。

「貴殿らは我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するものだ」との書き出しで、学生や教職員に危害が及ぶことを警告する脅迫文書が送られるようになる。

 脅しは家族にまで広がった。長女の写真が実名といっしょにネットにさらされ、「必ず殺す。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。絶対にコロス」などの脅迫文が繰り返し届けられた。

 それから4年がたち、憎悪のごとく吹き荒れた右派論壇の足元で、その主張の根拠が訂正された。裁判の過程で「捏造」は言いがかりであることが明らかにされつつある。

 最近では、力を増す差別的言論に便乗した「新潮45」が杉田水脈議員(自民党)を担いでLGBTに対する不条理な言説で世のひんしゅくを浴びた。

 上滑り気味の右翼論壇の「やり過ぎ」に世論のバランス感覚が働いているようにも見える。時の勢いに乗った右翼の「歴史戦」もまた、押し戻されつつある。

(デモクラシータイムス同人・元朝日新聞編集委員 山田厚史)



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c12

[アジア13] 悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない 中川隆
602. 中川隆[-12398] koaQ7Jey 2019年2月05日 21:44:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231]

2018.10.2
右派論壇の一時の勢いに陰り、慰安婦訴訟で「訂正」相次ぐ
山田厚史:デモクラシータイムス同人・元朝日新聞編集委員+ 
https://diamond.jp/articles/-/180999


 旧日本軍による強制はあったのか――。従軍慰安婦を巡る論争は、いま法廷に舞台を移している。

 戦後の歴史観をめぐる「歴史戦」が、論戦から法廷での淡々とした証拠調べ、事実認定へと変わってきた中で、朝日新聞を「記事取り消し」に追い込んだ弾劾の急先鋒だった評論家・ジャーナリストの櫻井よしこ氏や問題の「火付け役」西岡力・麗澤大学客員教授が、逆に裁判で主張の誤りを追及され、不本意な訂正に追い込まれている。

 最近でも、「新潮45」が性的少数者であるLGBTへの差別問題で休刊に追い込まれるなど、右派論壇の勢いに陰りが見える中で、歴史戦も右派は最前線で押し戻され気味だ。

産経、櫻井氏の文章を訂正
“孫引き”だった慰安婦「証言」

 6月4日の産経新聞の看板コラム「美しき勁き国へ」にこんな訂正が載った。

訂正の内容はこうだ。

「平成26年3月3日の当欄に『この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳の時再び継父に売られたなどと書いている。』とあるのを、『平成3年から4年に発行された雑誌記事、韓国紙の報道によると、この女性、金学順氏は14歳のときに親から養父に40円で売られ、17歳のときその養父によって中国に連れて行かれ慰安婦にされたという。』に訂正します」

 訂正された記事は、櫻井よしこ氏が2014年3月3日の「美しき勁き国へ」に載せた「真実をゆがめる朝日報道」と題する文章だ。

 慰安婦としての過去を証言した金氏を紹介した植村隆・元朝日新聞記者が書いた記事(1991年8月11日)を取り上げ、「捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断罪した。

 櫻井氏は「この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている。植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じず、慰安婦とは無関係の『女子挺身隊』と慰安婦が同じであるかのように報じた」と「美しき勁き国へ」で主張した。

 ところが、「訂正」によると、継父ではなく養父に40円でキーセンにとして売られたことなどという記述は「訴状」ではなく、韓国新聞や日本の雑誌に書かれたことの「孫引き」と櫻井氏は認めた。

 元慰安婦が自ら訴状にしたためたことと、メディアに載った記事の引用では、主張の根拠の重みがまるで違う。

 この「事実誤認」は札幌地裁で進められている民事訴訟で植村氏が指摘した。櫻井氏は法廷後の記者会見で「率直に改めたい」と認めた(2016年4月22日)。

 ところが産経新聞は訂正を渋り、植村氏は17年9月、東京簡裁に調停を申し立てた。裁判所の調停ででやっと産経新聞は訂正に応じたが、櫻井氏が「誤り」を認めてから訂正が出るまで2年近くかかった。

 産経は、この事実誤認を認めたら「歴史戦の敗退」を印象付ける、と憂慮したのだろうか。

「強制連行」に触れず
「人身売買」を主張

 同様の訂正はワック出版が発行する月刊誌「WiLL」(2018年7月号)でも出された。櫻井氏が書いた「朝日は日本の針路を誤らせる」(2014年4月号)の訂正で、産経の正論コラムと同時期にほぼ同じ論評が載った。


櫻井氏は論戦の最前線に立っているが「後ろにいる参謀役は西岡氏」と植村氏側は見ているようだ。札幌での訴訟は櫻井氏と同氏が寄稿した新潮社、ワック社、ダイヤモンド社を訴え、東京地裁では西岡氏と文藝春秋社を訴えた。

 9月5日、東京地裁民事103号法廷で行われた西岡氏に対する被告人本人尋問で、植村氏の代理人、穂積剛弁護士が西岡氏に問いただした。

「あなたは週刊文春2014年3月13日号で、(元慰安婦の金学順さんは)『強制連行されたのではなく、親に身売りされて慰安婦になった』と言っている。貧困のためにキーセンに身売りし、義父に慰安所に連れて行かれたことがポイントになっているが、身売りは14歳の時、慰安所はその3年後。義父に連れていかれた時が大事なポイントではないですか」

 これに対し、西岡氏は「両方とも大事です」と答えた。

 そこで穂積弁護士は、西岡氏が証拠として提出している月刊誌「宝石」(1992年10月号、光文社・すでに休刊)の記事を示し、こう尋ねた。

「ここに『私たちは日本の兵隊に取り囲まれ、将校と養父の間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです』として、その後私は慰安所に連れていかれ日本兵の相手をさせられた』という証言が書かれています。義父が売り飛ばしたのではなく日本軍が奪ったのではないですか」

 これに対し西岡氏は「そう書いてあるが、本当かどうか裏付けを取らないとわからない。私はその可能性はかなり小さいと思う」と答えた。

 穂積弁護士が「日本軍が武力で奪ったことことが本質だと思うが、全くあり得ない解釈でしょうか」と、重ねて問うと、西岡氏は「あり得ない解釈とはいえない。当時はそう考えるのが多数派だった」と答えた。

 この証人尋問で、西岡氏は、「軍による強制連行」は多数派の認識だった、と証言したのだ。

 櫻井氏も西岡氏も「養父に慰安婦にされた」ことを、「人身売買であって、強制連行ではない」ことの証拠にしている。しかし両氏がその証拠として提出した雑誌には、養父は駅で日本の将校に脅されて連れさられ、自分たちは日本兵に慰安所に連れて行かれた、と書かれていた。

 西岡氏が証拠とした韓国紙ハンギョレ新聞にも、金学順さんの言葉として「私を連れて行った義父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした」と報じている。

 いずれも「強制連行」を示す記述には触れず、自分の主張に都合のいい箇所だけを摘み食いして、「人身売買」というストーリーを仕立てあげたとも見える展開である。


「宝石」の記事で、金氏が仲間と一緒に日本兵に連行されたと証言していることについて、西岡氏は「裏付けが取れない」と言う。そして「その可能性はかなり小さい」というが、それは西岡氏の勝手な主観だろう。

「強制連行はなかった」という結論が先にあって、自分の歴史観に合う都合のいい事実だけを取りあげるということなら、それは学者としての良心が疑われかねない。

 西岡氏も、櫻井氏と同様に雑誌などの「孫引き」を事実かのように述べた誤りを犯したことを、「記憶違いだった」「私の言葉で要約した」と認めた。そして訂正については「裁判が終わってから必要があれば考える」と述べた。

 だが「率直に改めたい」と潔かった櫻井氏に比べると、往生際の悪さが印象に残った。

「歴史観修正」に注力
朝日元記者を標的に

 東京と札幌で進められている慰安婦問題をめぐる2つの訴訟の争点は同じだ。

(1)慰安婦にされた金氏に対する軍による「連行」の事実はあったのか、(2)「女子挺身隊」という言葉は朝鮮で慰安婦を表す表現として使われていたか、(3)植村氏は義母の裁判を有利にするため記事を書いたのか、である。

 植村氏は西岡氏らから、韓国人である義母が関係する元慰安婦などを支援する団体の運動と絡めて非難された。義母が関係する運動を手助けするため記事を書いた、つまり金氏が親に売られて慰安婦にされたのに、女子挺身隊として戦地に連行されたと捏造したというのだ。

 今回の二つの訴訟は、記事を「捏造」したと名指しされた植村氏が、名誉回復を求め、自身に向けられた憎悪のような攻撃に反撃するために起こしたものだ。

 裁判では、金氏だけでなく軍が関与して慰安婦にされた人たちの事例などが、植村氏側から証拠としていくつも提出されている。

「挺身隊」は、日本では勤労動員などに使われているが、韓国では慰安婦を表す言葉でもあった。

 櫻井氏がキャスターを務めた日本テレビでも「女子挺身隊という名の従軍慰安婦」という番組を放送した(82年3月)。産経新聞も1991年9月3日の紙面で、「第二次世界大戦中『挺身隊』の名のもとに、日本従軍慰安婦として戦場に駆かり出だされた朝鮮人女性たち」と書いている。

 植村氏が金学順さんの証言を書いたのもこのころ。挺身隊という言葉は韓国で慰安婦と同義語だった。


植村氏の義母・梁順任さんは韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会の役員をしていた。遺族会は金学順さんが日本政府を訴える賠償請求訴訟を支援したが、植村氏が最初に取材した当時は、金氏との接点はなく、訴訟の動きなどはなかった。

 植村氏が大阪社会部の記者として朝鮮問題に熱心であることを知っていた当時のソウル支局長が、金氏の証言テープがあることを伝え、取材させたと証言している。

 産経に集う右派論壇は、慰安婦問題を「歴史戦」と位置付け、戦後の歴史観の修正に力を注いできた。

 朝日新聞が、「済州島で慰安婦狩りがあった」という吉田清治氏の証言をもとにした82年9月の記事を「事実ではなかった」と取り消したことをきっかけに、「従軍慰安婦などなかった」という歴史修正の動きが力を増した。

 従軍慰安婦は儲かる仕事で、動機はカネだ。「強制連行」だとあおったのは朝日新聞で、歴史をねじ曲げた情報を世界に発信し、日本と日本人を卑しめた――。そんな言説が噴出した。標的が植村記者だった。

 金学順氏は、慰安婦とした初めて名乗り出て、顔をさらし悲劇を語った。生き証人の登場は「歴史修正」を目指す人たちにとって不都合だったのかもしれない。

 金氏は親に売られただけ。キーセンから慰安婦にされたのは養父のカネ儲けのためだ。挺身隊と慰安婦は関係ない。

 訴状に40円で売られたとあるのに、植村氏は記事で触れず、書かれてもいない「女子挺身隊として戦場に連行された」などと加筆した、と集中砲火を受けた。

右翼論壇の「やり過ぎ」
世論のバランス感覚が働く

 それだけではない。「週刊文春」は植村氏が朝日を退職して神戸松蔭女子学院大の教授になる、という情報を察知し「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という記事を掲載(2014年2月6日号)。この中で西岡氏は植村氏の記事を「捏造記事と言っても過言ではありません」と述べている。

 記事の掲載に際して「週刊文春」は神戸松蔭女子学院大にこんな質問状を送った。

「重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり、日本の国際イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されています。貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか」

 この記事が出ると、大学に電話やメールが殺到した。植村氏は事実上の就任辞退を迫られたという。

 記事を書いた元文春記者の竹中明洋氏は東京地裁の証人尋問で「思った以上に反響が大きかった」と述べた。


大学を追われた植村氏には、朝日新聞記者時代から務めていた北海道の北星学園大学非常勤講師として迎えられた職だけが残された。

 竹中記者は「『慰安婦火付け役』朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」と追い打ちをかけ、この時も大学に質問状を送り付けた。「大学教員としての適性には問題はないとお考えでしょうか」。

 記事は大学への攻撃に火をつけた。

「貴殿らは我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するものだ」との書き出しで、学生や教職員に危害が及ぶことを警告する脅迫文書が送られるようになる。

 脅しは家族にまで広がった。長女の写真が実名といっしょにネットにさらされ、「必ず殺す。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。絶対にコロス」などの脅迫文が繰り返し届けられた。

 それから4年がたち、憎悪のごとく吹き荒れた右派論壇の足元で、その主張の根拠が訂正された。裁判の過程で「捏造」は言いがかりであることが明らかにされつつある。

 最近では、力を増す差別的言論に便乗した「新潮45」が杉田水脈議員(自民党)を担いでLGBTに対する不条理な言説で世のひんしゅくを浴びた。

 上滑り気味の右翼論壇の「やり過ぎ」に世論のバランス感覚が働いているようにも見える。時の勢いに乗った右翼の「歴史戦」もまた、押し戻されつつある。

(デモクラシータイムス同人・元朝日新聞編集委員 山田厚史)

http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html#c602

[近代史3] チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 中川隆
13. 中川隆[-12400] koaQ7Jey 2019年2月05日 23:20:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234]

2018年9月6日
速報!西岡力氏尋問
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/09/blog-post_52.html


【東京第13回口頭弁論】札幌に次ぎ東京でも劇的展開


西岡氏、重要な誤りと証言改変を認める

重要部分を削除し、引用には他記述を付加!

280分にわたる本人・証人尋問


次回11月28日に結審

大詰めの植村裁判最終盤。東京の法廷では劇的な展開があった。

東京訴訟の第13回口頭弁論は9月5日、東京地裁で開かれ、原告植村隆氏(元朝日新聞記者)と被告西岡力氏(元東京基督教大学教授)、証人の竹中明洋氏(元週刊文春契約記者)に対する人証調べ(本人および証人の尋問)が行われた。午前10時30分に始まった尋問は、竹中、植村、西岡氏の順に行われ、午後5時過ぎ終了した。

■裁判の核心にかかわる重大事態

西岡氏は、自身の記述に重要な誤りがあることを認め、韓国人元慰安婦・金学順さんの証言の重要な部分を削除したり、韓国紙の引用としてもとの記事にない記述を付け加えたりして「捏造」決めつけの根拠としたことも認めた。いずれも、この裁判の核心にかかわる重大な事態である。先の札幌訴訟・櫻井尋問と同じように、「捏造」決めつけの根拠は完全に崩壊した。植村氏への「名誉毀損」攻撃の違法性は法廷で明白になった。もはや西岡、櫻井両氏の抗弁は成立しないことを、両氏が認めたということである。


尋問後に今後の進行について意見交換と裁判官合議があり、植村弁護団が求めていた2人の証人尋問は不採用となった。このため、次回で審理は終了することになった。次回第14回口頭弁論は11月28日(水)午後2時から同法廷で開かれる。


この日の東京は、前日に関西を直撃した台風21号の余波の強風が吹いたが、初秋の強い日差しの下、最高気温は34度となり、きびしい残暑の1日となった。

裁判所が103号法廷に用意した傍聴席は94席。抽選予定の午前10時10分までに整列した人は84人だった。定員にわずかに満たなかったため抽選は行われず、全員が入廷できた。


午前10時27分、原克也裁判長と2人の裁判官が法廷に入った。弁護団席は植村氏側が14人、西岡氏側は2人が座っている。植村氏側には、中山武敏(団長)、宇都宮健児、黒岩哲彦弁護士や、札幌弁護団の渡辺達生、大賀浩一弁護士の姿もあり、午後には札幌から秀嶋ゆかり、小野寺信勝両弁護士も加わった。

「少し早いですが始めます」と原裁判長が宣言し、証拠に関する弁論手続きを終えて本人尋問が始まった。法廷全体に緊張した空気が張りりつめる中、本人尋問は淡々と進んだ。尋問内容を巡る異議の発出や、裁判長の注意や発言制止はほとんどなかった。午前10時半から午後5時過ぎまで、2回の途中休憩をはさんで尋問は正味4時間40分。東京訴訟では初めての長丁場となった。


■西岡氏、意図的な証言改ざん 

もっとも注目されたのは西岡氏の尋問だった。西岡氏は、植村氏の記事を「捏造」と決めつける根拠としている重要な事実について、訴状に書かれていないことを「訴状に書き」と紹介するなどの記述の誤りを認めた。さらに、穂積剛弁護士の追及により、韓国紙記事からの引用として金さんの証言を記述した論文で、もとの記事にない「40円で売られた」という記述を付け加えていたことを認め、「間違いです。気づいて訂正した」と述べた。さらに金さんの証言のうち、強制連行を裏付ける重要な部分を引用してこなかったことも認めた。「意図的な証言改ざん」ともいうべき記述について、穂積弁護士は「あなたは植村さんに対して、事案の全体像を正確に伝え読者の判断に委ねるべきだった、と批判するが、それは逆にあなたに向けれられるべきだ」と迫った。西岡氏は「批判はあり得るが、(その部分は)必要ないと思って書かなかった」と普通の口調で答えた。無責任で不誠実な答えではないか。廷内はざわつき、「それこそが捏造だ」と声を出す人もいた。


西岡氏は「金学順さんは人身売買によって慰安婦にさせられた」との従来の主張も繰り返し、植村さんの記事については、「いまも捏造だと思っている」とも述べた。植村氏への批判を「事実誤認」から「捏造」へとエスカレートさせた点については、「捏造とは、誤りようのない事実誤認のことを意味する」との新しい解釈を明かし、「私の植村批判は一貫している」と答えた。


■4年前の記憶失った?元文春記者 

吉村功志弁護士による竹中氏の尋問は、同氏が2014年1月と8月に書いた週刊文春の記事の取材意図と社会に与えた影響に絞られた。植村氏の大学教授就任内定(神戸松蔭女子学院大)と非常勤講師継続(北星学園大)にニュース価値があるのか、との問いに竹中氏は、「編集部デスクの指示によるものだった。指示に従うのは当然だった」と答えた。記事の重要な骨格となった秦郁彦氏と西岡氏への談話(コメント)取材の経緯については、「覚えてません」「記憶にありません」と繰り返した。
意味不明の答弁に廷内に失笑がもれる場面もあった。記事中にある「朝日新聞関係者」の発言について、今回提出した陳述書では「朝日新聞とは別のメディアの記者」から聞いた、と書いていることについて説明を求められると、「広い意味での朝日新聞関係者だが、必ずしも社員ではない」などと、しどろもどろな口調で答えていた。
尋問が終わった後、小久保珠美裁判官と原克也裁判長からも、デスクの取材指示の内容や秦、西岡両氏の関連文献を読んだ時期などについて、詳細な質問が飛んでいた。


■「不当なレッテルをはがして」と植村氏

植村氏の尋問は、主尋問を神原弁護士と永田亮弁護士が担当した。神原弁護士は、1991年8月と12月に植村氏が書いた記事について、西岡氏が「捏造」と決めつける根拠(@金さんは「女子挺身隊の名で連行された」とは言っていないA金さんはキーセン学校に通っていたB義母が幹部を務める団体の裁判を有利に進める動機があった、など)への反論を求めた。植村さんは3年8カ月前に提訴して以来、法廷と講演、執筆などで繰り返してきた説明を簡潔にまとめる形で答えた。裁判官席で背をきちんと伸ばし、植村氏の話に聴き入る小久保裁判官の表情が印象的だった。


永田弁護士は植村氏が受けた被害と損害を詳しく語るように求めた。本人、家族、大学への脅迫やいやがらせの実態も、提訴以来同じように語り続けられてきたことだが、植村氏は最近の動きとして、国内の大学教員への公募にはいまも応募しているがすべて書類選考ではねられていることを明かし、「私の生活はずたずたにされ、私の夢は断たれたままだ」と訴えた。

そして最後に裁判官席に向かって、「私は捏造記者ではありません。私は当時、被害者やその支援者団体の人々から聞き取った話を正確に記事にしたに過ぎません。裁判所に提出した証拠資料を精査していただければ、私が捏造記者ではない、ということは明らかだろうと思います。私にかけられた不当なレッテルをはがしてください。そのような判決を望みます」と語りかけた。


■枝葉末節な記憶はない

植村氏への反対尋問は、喜田村洋一弁護士が48分にわたって行った。喜田村弁護士の口調はいつものように静かで穏やか。しかし、声が小さくて聞き取れないこともあり、尋問の冒頭、傍聴席から「マイクの音量を上げるように」との声が飛んだ。

尋問は、植村さんが記事の前文で書いた「女子挺身隊の名で戦場に連行され」と、本文で書いた「(金さんは)だまされて慰安婦にさせられた」とのふたつの記述について、取材で聞いた証言テープの内容の詳細な記憶を含め、同じ質問が行きつ戻りつ、繰り返された。時折、喜田村弁護士の声が苛立ちで震えているように聞こえた。

植村氏は、「先ほどの竹中さんは4年前のことも良く知らないという。私が記事を書いたのは27年前。枝葉末節にかかわる記憶はまったくないが」と答え、記事はテープの聴き取りとその前日の取材、そしてそれまでの取材で得た知見に基づいていることを説明した。尋問の後、裁判官からの質問はなかった。

※尋問の主なやりとりは、続報に掲載します


■プレスセンター報告集会に130人

報告集会は、午後6時から8時過ぎまで日比谷のプレスセンター10階ホールで開かれた。出席者は130人。初めて来場したジャーナリストの姿が目立った。

弁護団報告は、東京の神原、永田、穂積弁護士と札幌の小野寺信勝、渡辺達生弁護士からあった。香山リカ氏と崔善愛氏の対談「慰安婦報道の真実とは」は新崎盛吾氏の司会で行われた。植村氏は、「週刊文春に書いた記事によって(神戸松蔭で)起こったことを、風の便りに聞いた、と言うような(無責任で不誠実な)記者にこんなにも貶められたが、(裁判で)不正確なインチキがぼろぼろ出てきている。まさにオセロゲームみたいに黒いものが一気に白いものになるように、いっしょに闘いましょう」と呼びかけた。
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/09/blog-post_52.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html#c13

[近代史3] 従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ 中川隆
5. 中川隆[-12399] koaQ7Jey 2019年2月05日 23:22:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234]


2018年9月6日
速報!西岡力氏尋問
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/09/blog-post_52.html


【東京第13回口頭弁論】札幌に次ぎ東京でも劇的展開


西岡氏、重要な誤りと証言改変を認める

重要部分を削除し、引用には他記述を付加!

280分にわたる本人・証人尋問


次回11月28日に結審

大詰めの植村裁判最終盤。東京の法廷では劇的な展開があった。

東京訴訟の第13回口頭弁論は9月5日、東京地裁で開かれ、原告植村隆氏(元朝日新聞記者)と被告西岡力氏(元東京基督教大学教授)、証人の竹中明洋氏(元週刊文春契約記者)に対する人証調べ(本人および証人の尋問)が行われた。午前10時30分に始まった尋問は、竹中、植村、西岡氏の順に行われ、午後5時過ぎ終了した。

■裁判の核心にかかわる重大事態

西岡氏は、自身の記述に重要な誤りがあることを認め、韓国人元慰安婦・金学順さんの証言の重要な部分を削除したり、韓国紙の引用としてもとの記事にない記述を付け加えたりして「捏造」決めつけの根拠としたことも認めた。いずれも、この裁判の核心にかかわる重大な事態である。先の札幌訴訟・櫻井尋問と同じように、「捏造」決めつけの根拠は完全に崩壊した。植村氏への「名誉毀損」攻撃の違法性は法廷で明白になった。もはや西岡、櫻井両氏の抗弁は成立しないことを、両氏が認めたということである。


尋問後に今後の進行について意見交換と裁判官合議があり、植村弁護団が求めていた2人の証人尋問は不採用となった。このため、次回で審理は終了することになった。次回第14回口頭弁論は11月28日(水)午後2時から同法廷で開かれる。


この日の東京は、前日に関西を直撃した台風21号の余波の強風が吹いたが、初秋の強い日差しの下、最高気温は34度となり、きびしい残暑の1日となった。

裁判所が103号法廷に用意した傍聴席は94席。抽選予定の午前10時10分までに整列した人は84人だった。定員にわずかに満たなかったため抽選は行われず、全員が入廷できた。


午前10時27分、原克也裁判長と2人の裁判官が法廷に入った。弁護団席は植村氏側が14人、西岡氏側は2人が座っている。植村氏側には、中山武敏(団長)、宇都宮健児、黒岩哲彦弁護士や、札幌弁護団の渡辺達生、大賀浩一弁護士の姿もあり、午後には札幌から秀嶋ゆかり、小野寺信勝両弁護士も加わった。

「少し早いですが始めます」と原裁判長が宣言し、証拠に関する弁論手続きを終えて本人尋問が始まった。法廷全体に緊張した空気が張りりつめる中、本人尋問は淡々と進んだ。尋問内容を巡る異議の発出や、裁判長の注意や発言制止はほとんどなかった。午前10時半から午後5時過ぎまで、2回の途中休憩をはさんで尋問は正味4時間40分。東京訴訟では初めての長丁場となった。


■西岡氏、意図的な証言改ざん 

もっとも注目されたのは西岡氏の尋問だった。西岡氏は、植村氏の記事を「捏造」と決めつける根拠としている重要な事実について、訴状に書かれていないことを「訴状に書き」と紹介するなどの記述の誤りを認めた。さらに、穂積剛弁護士の追及により、韓国紙記事からの引用として金さんの証言を記述した論文で、もとの記事にない「40円で売られた」という記述を付け加えていたことを認め、「間違いです。気づいて訂正した」と述べた。さらに金さんの証言のうち、強制連行を裏付ける重要な部分を引用してこなかったことも認めた。「意図的な証言改ざん」ともいうべき記述について、穂積弁護士は「あなたは植村さんに対して、事案の全体像を正確に伝え読者の判断に委ねるべきだった、と批判するが、それは逆にあなたに向けれられるべきだ」と迫った。西岡氏は「批判はあり得るが、(その部分は)必要ないと思って書かなかった」と普通の口調で答えた。無責任で不誠実な答えではないか。廷内はざわつき、「それこそが捏造だ」と声を出す人もいた。


西岡氏は「金学順さんは人身売買によって慰安婦にさせられた」との従来の主張も繰り返し、植村さんの記事については、「いまも捏造だと思っている」とも述べた。植村氏への批判を「事実誤認」から「捏造」へとエスカレートさせた点については、「捏造とは、誤りようのない事実誤認のことを意味する」との新しい解釈を明かし、「私の植村批判は一貫している」と答えた。


■4年前の記憶失った?元文春記者 

吉村功志弁護士による竹中氏の尋問は、同氏が2014年1月と8月に書いた週刊文春の記事の取材意図と社会に与えた影響に絞られた。植村氏の大学教授就任内定(神戸松蔭女子学院大)と非常勤講師継続(北星学園大)にニュース価値があるのか、との問いに竹中氏は、「編集部デスクの指示によるものだった。指示に従うのは当然だった」と答えた。記事の重要な骨格となった秦郁彦氏と西岡氏への談話(コメント)取材の経緯については、「覚えてません」「記憶にありません」と繰り返した。
意味不明の答弁に廷内に失笑がもれる場面もあった。記事中にある「朝日新聞関係者」の発言について、今回提出した陳述書では「朝日新聞とは別のメディアの記者」から聞いた、と書いていることについて説明を求められると、「広い意味での朝日新聞関係者だが、必ずしも社員ではない」などと、しどろもどろな口調で答えていた。
尋問が終わった後、小久保珠美裁判官と原克也裁判長からも、デスクの取材指示の内容や秦、西岡両氏の関連文献を読んだ時期などについて、詳細な質問が飛んでいた。


■「不当なレッテルをはがして」と植村氏

植村氏の尋問は、主尋問を神原弁護士と永田亮弁護士が担当した。神原弁護士は、1991年8月と12月に植村氏が書いた記事について、西岡氏が「捏造」と決めつける根拠(@金さんは「女子挺身隊の名で連行された」とは言っていないA金さんはキーセン学校に通っていたB義母が幹部を務める団体の裁判を有利に進める動機があった、など)への反論を求めた。植村さんは3年8カ月前に提訴して以来、法廷と講演、執筆などで繰り返してきた説明を簡潔にまとめる形で答えた。裁判官席で背をきちんと伸ばし、植村氏の話に聴き入る小久保裁判官の表情が印象的だった。


永田弁護士は植村氏が受けた被害と損害を詳しく語るように求めた。本人、家族、大学への脅迫やいやがらせの実態も、提訴以来同じように語り続けられてきたことだが、植村氏は最近の動きとして、国内の大学教員への公募にはいまも応募しているがすべて書類選考ではねられていることを明かし、「私の生活はずたずたにされ、私の夢は断たれたままだ」と訴えた。

そして最後に裁判官席に向かって、「私は捏造記者ではありません。私は当時、被害者やその支援者団体の人々から聞き取った話を正確に記事にしたに過ぎません。裁判所に提出した証拠資料を精査していただければ、私が捏造記者ではない、ということは明らかだろうと思います。私にかけられた不当なレッテルをはがしてください。そのような判決を望みます」と語りかけた。


■枝葉末節な記憶はない

植村氏への反対尋問は、喜田村洋一弁護士が48分にわたって行った。喜田村弁護士の口調はいつものように静かで穏やか。しかし、声が小さくて聞き取れないこともあり、尋問の冒頭、傍聴席から「マイクの音量を上げるように」との声が飛んだ。

尋問は、植村さんが記事の前文で書いた「女子挺身隊の名で戦場に連行され」と、本文で書いた「(金さんは)だまされて慰安婦にさせられた」とのふたつの記述について、取材で聞いた証言テープの内容の詳細な記憶を含め、同じ質問が行きつ戻りつ、繰り返された。時折、喜田村弁護士の声が苛立ちで震えているように聞こえた。

植村氏は、「先ほどの竹中さんは4年前のことも良く知らないという。私が記事を書いたのは27年前。枝葉末節にかかわる記憶はまったくないが」と答え、記事はテープの聴き取りとその前日の取材、そしてそれまでの取材で得た知見に基づいていることを説明した。尋問の後、裁判官からの質問はなかった。

※尋問の主なやりとりは、続報に掲載します


■プレスセンター報告集会に130人

報告集会は、午後6時から8時過ぎまで日比谷のプレスセンター10階ホールで開かれた。出席者は130人。初めて来場したジャーナリストの姿が目立った。

弁護団報告は、東京の神原、永田、穂積弁護士と札幌の小野寺信勝、渡辺達生弁護士からあった。香山リカ氏と崔善愛氏の対談「慰安婦報道の真実とは」は新崎盛吾氏の司会で行われた。植村氏は、「週刊文春に書いた記事によって(神戸松蔭で)起こったことを、風の便りに聞いた、と言うような(無責任で不誠実な)記者にこんなにも貶められたが、(裁判で)不正確なインチキがぼろぼろ出てきている。まさにオセロゲームみたいに黒いものが一気に白いものになるように、いっしょに闘いましょう」と呼びかけた。
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/09/blog-post_52.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html#c5

[昼休み54] 日本の官僚は悪い 中川隆
66. 中川隆[-12398] koaQ7Jey 2019年2月06日 00:02:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234]
またも基幹統計で不正発覚、政府への忖度は「サンプリングの誤差」を突いた官僚の犯罪だ=吉田繁治 2019年2月3日
https://www.mag2.com/p/money/631520


賃金統計ほか我が国の基幹統計の半数近い23統計で誤りが発覚して問題になっていますが、総務省は2月1日、所管する「小売物価統計」で新たに不正調査があったと発表しました。これらが意図的であれば、アベノミクスへの忖度であり、官僚の犯罪です。


官僚が日本をダメにする?厚労省ほか、不要な政府機関は多数ある

次々と発覚する基幹統計ミス

賃金統計をはじめとする、わが国の基幹統計の40%にあたる22で誤りがあったことが明らかになり、会期が始まった国会では政府が追及されています(編注:その後の追加調査で23統計にミスがあったと公表されていましたが、2月1日、総務省が新たに「小売物価統計」でも不正があったことを発表しています)。

行政の政策は、国家の統計に基づくものです。誤りが意図したものなら、官僚の犯罪です。

矢面の厚労省には「軽く済ませよう」という意図が見えます。しかし事実に基づかねばならない行政の統計不正と官僚の仕事ぶりは、見逃してはならないものでしょう。

「サンプリングの誤差」を使った官僚の犯罪か

40%の経済統計の数字を高く見せる誤りが、諸官庁で、同時に発生する確率は低い。証明はされなくても、サンプリングなどにおいて偽装があったことになるでしょう。

目的は、アベノミクスの成果への「忖度(そんたく)」でしょう。

GDPの統計においても、推計値の発表前には政府自民党の幹事長に対して、内閣府の幹部から内々の報告がある習慣であり、そのとき「鉛筆舐め」が行われていたのは、広く知られています。国民所得でもあるGDPの上昇率が高くなると、政権の支持が上がるからです。経済統計には、政治性が混じっています。

あらゆる統計には、標本を抽出するサンプリングにともなう誤差があります。サンプリング法では、ランダム抽出したデータから、母集団(全体)を推計します。そのとき推計の誤差が出るのです。

(注:政府統計で5300万世帯の全数が調査され、誤差がないのは、5年に1度の国勢調査だけです。調査員1人が50から100世帯を受け持つと、費用は、1回で650億円もかかるという。調査員の費用が大きいため、2010年からは、調査員に手渡しするか、郵送に変わっています。)

その誤差は、「{(回答比率 ×(1 – 回答比率)} ÷ サンプル数」の結果の平方根をとって2倍したのものです。

サンプルのYes・Noの比率が50%付近のときが、母集団(全体)との誤差は、もっとも大きくなります。



具体例を挙げて、その誤差がどれほどのものかを見てみましょう。

<事例>

ある商品に満足すると答えた人が50%の場合、サンプル数が500なら、母集団の満足度は、「50%±4.5%=45.5%〜54.5%」と推計されます(注:サンプル数が500の4倍の、2000のときの誤差は、その約半分の2.2%に縮小します。3000なら1.8%です)。

<サンプル数と誤差>

サンプル数500のときの統計結果には、母集団の全数調査とは、最大9ポイントの誤差の範囲が出ます。これが、統計の科学的な知見です。

厚労省が行っていた、東京都の、500人以上の会社の賃金統計では、全数調査するという規定があるのに、任意に(おそらくは選択して)1/3に絞っていたのが事実とすれば、このサンプリング誤差を利用したものになるでしょう。

英国の首相ディズレリーが言った、「世の中の嘘は3つある。嘘、大嘘、そして(サンプリングの)統計だ」ということになってしまっています。

今回発覚したことは、幹部官僚が、内閣からの高い人事評価を求めたことが原因である、みみっちい奸計(かんけい)に属することでしょう。

民間会社の賃金の上昇率が低く出たとすれば、何らかの「幹部による修正」が行われたはずだからです。そういった仕事は、「自分の妻や子どもには話せない」レベルの、醜悪なものです。

根源は、カルロス・ゴーンの報酬の、有価証券報告書への過小記載と同じ構造のものです。官僚に、同じ心理が忍び寄っているのでしょう。


厚労省ほか、必要のない政府機関はたくさんある

中央銀行の通貨発行は、西欧と米国では、19世紀まで、民間銀行が行ってきたことなので、中央銀行という機関は、解消できます。

年金保険、医療保険、介護費、雇用保険などは、厚労省ではなくても、監視制度を作れば民間の保険会社が行うことができます。税収からの補填金を入れる制度を作ればいい。

政府の産業行政を統括している経産省も、必要がない組織です。

外交も、民間機関が行えます。わが国の近代化の過程では必要性があった文科省、農水省、国土交通省も今は必要がない。

政府機関で必要なのは、税をつかさどる財務省、国民を守る国防省、犯罪を取り締まる警察と裁判所です。

省庁・公務員・代議士を減らせば増税も要らない

年金、医療、雇用を政府保険にする福祉国家を言った頃から、政府機関と財政が肥大し、借金である国債を発行する赤字が増えたのです。

国家を名乗る省庁の解消、公務員、代議士の削減が、真の行政改革でしょう。税率では、1/3以下の減税になります。消費税の増税も要らない。

税と福祉では、政府は、毎回、税と福祉費用が高い北欧を参照しますが、民間からの監視制度(オンブズマン)が強力な北欧とは行政の根本が違います。

日本には、国民による行政、民主的な監視制度が欠落しています。民主制として、代議士を選べるだけです。政府が直接民主制にしなかったのは、官僚制度で、戦前の天皇制の事務官を続けたからです。

わが国は米国の占領下で、憲法を作り、戦後の福祉国家を言って、設計を誤ったまま、約70年来ています。国民の多数派の意思があれば、自然ではない国家の体制は、改編と変更ができます。人口減少時代に向かう今、必要なことでしょう(注:極端と見られる少数派の意見であることは承知しています)。

福祉国家の前提条件

50代以下の人から、65歳以上に所得移転を行う福祉国家は、「働く人が増加し、国民所得が増える」ことを前提にして、成立します。

働く人の平均賃金が上がらなくなり(税収が増えず)、働く人は減って福祉の受給者が増えると、構造的な財政赤字になるのが福祉国家です。



わが国の年金・医療費の基本部分は、中国のような高度成長の終わりの時期だった1970年代に設計されています。この中で、民間の平均の実質賃金が減る中で、統計的な手盛りと、天下りで賃金と年金をあげてきた政府官僚、そして政治家のコストが高くなっています。


公務員の生涯報酬

GDP(国民所得)が増えなかった20年で、民間の平均に比較した公務員の生涯平均報酬は、高くなっています。

賃金を決める人事院勧告制度で、主に上場企業大手の賃金上昇率を参考にし、その上昇率に準じてきたからです。

年金や医療費の公務員共済保険は、もともと民間より厚い。80年代まで公務員報酬は低かったのです。

GDPが増えず、財政赤字だけが増えた90年代から、毎年、少しずつ変わってきました。1年ではわずかに見える1.5%違っても、30年では1.9倍になります。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/103.html#c66

[昼休み53] 千葉県にだけは住んではいけない 中川隆
230. 中川隆[-12397] koaQ7Jey 2019年2月06日 08:24:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234]

「『外に出すな』と言われた」=発覚恐れ、1カ月自宅に−千葉女児死亡で母供述
2/6(水) 5:29配信 時事通信


 千葉県野田市の小学4年、栗原心愛さん(10)が自宅で死亡し、両親が傷害容疑で逮捕された事件で、母親のなぎさ容疑者(31)が「夫に『外に出すな』と言われ、娘を1カ月ぐらい外出させていなかった」などと供述していることが6日、捜査関係者への取材で分かった。

 
 県警捜査1課などは、父親の勇一郎容疑者(41)が暴行の発覚を恐れ、心愛さんを人目に触れさせないよう指示していたとみている。

 野田市や県柏児童相談所によると、心愛さんは今年1月7日の始業式から学校を欠席し続けていた。勇一郎容疑者は同日、学校へ電話し、「曽祖母の体調が優れず、母親と一緒に沖縄の実家へ帰っている」と連絡。同11日には「沖縄にいる。登校は2月4日からになる」と改めて電話を入れていた。

 しかし、親族は県警の事情聴取に対し「今年に入ってからは千葉にいた」と説明。なぎさ容疑者は「1カ月ぐらい外出させなかった」と話していることから、心愛さんは死亡する同24日まで自宅に閉じ込められていた可能性が高い。県警はこの間、暴行を受け続けていた疑いがあるとみて調べている。 

http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c230

[昼休み52] 日本人女性2人、リゾート地・セブ島で知り合った韓国人の男2人と飲酒→集団強姦される…フィリピン 中川隆
280. 中川隆[-12396] koaQ7Jey 2019年2月06日 08:34:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234]
>>244 徴用工問題の本質

の続き

僕はチョンとチャンコロが大嫌いなんだけど、阿修羅は右翼の悪質な嘘ばかりで、もう黙っていられないから、真実を書いておくね _ 2


チャンネル桜の常連 西岡力は天性の詐欺師


西岡力 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B

【Front Japan 桜】西岡力 - YouTube 動画
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従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html

朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html

日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが…
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html

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2018.12.09
【トンデモ】保守による徴用工問題の否定論
(西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析」『歴史認識問題研究』2, 2018.3)
https://rondan.net/740


Contents

1 はじめに
2 やはり朝日新聞の陰謀
3 「強制連行」と「徴用」
4 「8割は自らの意志で出稼ぎ」だから「強制連行」ではないという謎理論
5 まとめ


はじめに

燻っていた徴用工問題について、とうとう韓国大法院(最高裁)が新日鉄住金(旧新日本製鉄)に賠償命令を下しました。今後、個人が日本企業に対して賠償請求する動きが加速するでしょう。

もちろん日本無罪を主張する保守にとってこれほどの屈辱はないわけで、早速、SNS上では日韓断交などを声高に叫ぶ輩が沸いています。議論は個人請求権の問題にとどまらず、徴用工への人格攻撃にまで発展していることは誠に残念なことです。しかし本当に日本の国益を考えるならば、隣国と仲良くすべきなのは明らかです。奇妙なプライドを捨てて良好な信頼関係を築いてさえいれば、このような事態にはならなかったでしょう。

このような動きのなか今回紹介したいのは、2018年3月に『歴史認識問題研究』という学術風雑誌の第2号に掲載された西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析」という論文風文章です。

この『歴史認識問題研究』という雑誌は保守系論調を発表するる傾向が強く、執筆者の西岡力氏も慰安婦問題などで日本無罪論を主張する論客の一人として知られます。

保守というのは不思議な生き物で、保守であれば必ず慰安婦問題も日本無罪論、そしてこの徴用工問題も一様に否定します。そして興味深いことに、慰安婦問題否定論の理論と、この徴用工問題否定論には共通点が見出せます。その点を中心に今回は、本論文の「はじめに」と「第一章 統計から見た朝鮮人「強制連行」説の破綻」を検討していきたいと思います。

やはり朝日新聞の陰謀

慰安婦問題の裏に朝日新聞の陰謀を主張している筆者の西岡氏は、この徴用工問題も朝日新聞が元凶だと冒頭部で宣言します。


韓国の文在寅大統領が2017年8月17日の記者会見で、いわゆる徴用工問題について「強制徴用された者個人が、三菱などをはじめとする相手の会社に対して持つ民事上の権利はそのまま残っている」として、1965年の協定で解決しているという従来の韓国政府の見解を覆した。これに他して日本政府は即時に抗議したし、日本のマスコミも一斉に批判した。歴史問題で韓国に同情的な朝日新聞も、欲18日の社説で「未来志向的な日本との関係を真剣に目指すなら、もっと思慮深い言動に徹するべきだ」と、文大統領を責めた。
しかし、実は文発言はわが国の一部政治家や外務官僚、そして朝日新聞などが誘発したものだった。文大統領は同年8月15日の演説で、以下のように述べている。
〈この間、日本の多くの政治家と知識人が両国間の過去と日本の責任を直視しようという努力をしてきました。その努力が日韓関係の未来的内的な発展に寄与してきました。こうした歴史認識が日本の国内政治の状況によって変わらないようにしなければなりません。〉
文大統領は、河野洋平元外相や朝日新聞らが行ってきた「事実を調べずにまず謝罪し人道的立場という理屈をつけてカネを払う」という対韓謝罪路線を高く評価し、筆者らや産経新聞、そして安倍晋三政権などが「事実に基づき、言うべきことは言う」という対韓是々非々路線を適していることを、非難しているのだ。

朝日新聞は社説で文大統領の徴用工発言を責めているのに、この発言の裏には朝日新聞がいるという謎理論です。しかもその根拠とされる文大統領の8月15日演説では「日本の多くの政治家と知識人が両国間の過去と日本の責任を直視しようという努力をしてきました」と言っているだけで、朝日新聞のことなど一言も言及していません。にもかかわらず、想像力たくましい西岡氏は、「河野洋平元外相・朝日新聞vs筆者ら・産経新聞・倍晋三政権」という有りもしない対立構造を一方的に提示します。しかも後者の立場を「事実に基づき、言うべきことは言う」という対韓是々非々路線と評価しています。ということは、慰安婦問題は事実に基づいて安倍首相は謝罪したということになるのですが、この矛盾に気付いておられるのでしょうか?


「強制連行」と「徴用」


ところで慰安婦問題を論じるうえで、それが「強制連行」であったのかどうかが大きな焦点となります。もちろんこの徴用工問題でも、その連行が強制であったのかどうかが重大な論点となります。

そして当然、保守論客である西岡氏は「強制連行」ではなく「戦時動員」であり、その労働も決して「奴隷労働」ではなかったと主張します。そしてその根拠は、「強制連行」ならば家族と離散しているはずであるが、彼らは家族を連れて日本に移動してきたこと、らしいです。

しかしこの主張は苦しいものです。「徴用」の「徴」の字は「呼び出す」「召し出す」の意味ですから、「自由意思に基づいて応募した」という意味にはなりません。

したがって「徴用」は「強制連行」の意味でも理解し得ます。ただし「強制連行」といっても、「首輪や足枷をつけて連行された」という意味だけに直結するわけではありません。たとえば赤紙によって「徴兵」されたとしても、その人は憲兵に取り押さえられて無理やり徴兵検査や戦場に連行されていくわけではないのと同様です。当時、赤紙配達員は「おめでとうございます」といって赤紙を届けていたそうです。本人はたとえ行きたくなくても、社会的圧力に屈して、自らの意思でそこに行かなければならないのです(喜んで戦地に行った人も少なからずいたようですが)。まして、当時朝鮮半島は植民地支配されており、その宗主国の意向に基づく徴用であったことも重要でしょう。

このような言葉の問題は従軍慰安婦問題をめぐっても確認されます。たとえば、その英訳は「Sex slave」なのか「Comfort woman」なのかという問題です。後者「Comfort woman」がより直訳なのですが、それではその重大性が伝わらないということで前者「Sex slave」の訳語が選ばれる場合もあります。しかし「Sex slave」(性奴隷)という語は意味が強すぎるきらいもあるため、この語が本当に相応しいかどうか非常に難しい問題です。もちろん保守は慰安婦は売春婦で自由意思があったから「Sex slave」(性奴隷)は全くないと主張するのであり、非保守は人権や人道上の問題を考えれば「Sex slave」(性奴隷)が相応しいと主張するわけです。

この様な言葉の選択をめぐる争いは、その問題の全体をイメージ付ける上で極めて重要なのですが、本筋の議論を措いて、時として言葉遊びになってしまってしまう場合もあるように思えます。

「8割は自らの意志で出稼ぎ」だから「強制連行」ではないという謎理論

また西岡氏は、@終戦時の在日朝鮮人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていたこと、A植民地時代の朝鮮で人口が増加したことや、B朝鮮からの不法渡航者が強制送還されていたことなどを根拠に「強制連行」を否定していますが、この主張にはやや問題があります。

まず、@「終戦時の在日朝鮮人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていた」ですが、これは明らかにオカシナ主張です。というのも「在日朝鮮人の全てが徴用工として来たわけないこと」は当然の前提です。そして、西岡氏自らが、終戦時の日本内地朝鮮人人口うち二割が動員現場(徴用先)にいたことを統計的に指摘しています。つまり、その二割の人々が今回の徴用工問題の焦点となっているのであり、その他の八割が焦点になっているわけではないのです。このオカシナ主張は、従軍慰安婦問題を論じるときに、「自らの意志で売春婦になった」論にも共通するものです。

そして、A「植民地時代の朝鮮で人口が増加した」、B「朝鮮からの不法渡航者が強制送還されていた」の問題も同様に、徴用された方々の人権とは全く無関係の話です。いくらそうだったからと言って、徴用された人がいるという事実には全く関係のないことです。こういうのを議論のすり替えというのです。日本な朝鮮半島に投資していたから、日本に侵略意思は無かった論とよく似ています。

まとめ

このように西岡氏の徴用工問題否定論は、従軍慰安婦問題否定論と非常に論旨がよく似ています。
1徴用工問題の裏に「朝日新聞」の存在を勝手に錯綜。(⇒慰安婦問題は「朝日新聞」の報道によって生まれた)

2「徴用」であるにも関わらず、言葉遊びで「強制連行」性を否定。(⇒慰安婦は売春婦のこと、性奴隷じゃないから「強制連行」性はない。)
3「在日朝鮮人の八割が出稼ぎで日本に来た」「不法渡航者は強制送還した」と言って話をすり替えて、残り二割の徴用工問題を矮小化。(⇒「あいつらは売春婦で金儲けのために慰安婦になった」「ルール違反で呼び寄せられた慰安婦を親元に返した」)

というようにまとめられるでしょう。また別の論文・記事では、徴用工の待遇について「貯金もできた!」「幸せだった!」という論調も他で見られますが、それもまた「慰安婦は高給取りだった!」と同じ理論です。恐るべき理論の一致と見るべきか。

徴用工がどれだけ悲惨であったのかは「花岡事件」を調べればよく解りますし、中国人徴用工四万人のうち七千人が亡くなった事実からも明らかでしょう。


(野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社, 2009を参照)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E2%80%95%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%BC%B7%E5%88%B6%E9%80%A3%E8%A1%8C%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%A0%B4%E3%81%8B%E3%82%89-%E9%87%8E%E6%B7%BB-%E6%86%B2%E6%B2%BB/dp/4784513345

*なお私個人の見解としては、「今になって韓国が突然方針転換して個人請求権を認めた」という点については、今後の日韓関係の行く末を考えるうえで憂慮すべき問題であり、その妥当性などについて種々に再検討する必要があると思います。しかし、だからといって徴用工を個人攻撃して、徴用工問題を矮小化するという保守の議論には賛同できません。
https://rondan.net/740
 


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花岡事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6


花岡事件(はなおかじけん)は、1945年6月30日に秋田県北秋田郡花岡町(現・大館市)の花岡鉱山で中国人労務者が蜂起し、日本人を殺害し、その後鎮圧された事件[1]。戦後、過酷な労働環境について損害賠償請求裁判が提訴された。


日中戦争の長期化と太平洋戦争の開始にともない、日本国内の労働力不足は深刻化し、政府は産業界の要請を受け、1942年(昭和17年)11月27日に「国民動員計画」の「重筋労働部門」の労働力として中国人を内地移入させることを定めた「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定した[2]。試験移入を行なった後、「一九四四年国家動員計画需要数」に捕虜を含む中国人労務者3万人の動員計画が盛り込まれた。

鉱山労働力が不足した戦争末期には、花岡川の改修工事などを請負った鹿島組により1944年7月以降に現地移入した中国人は986人に上り、1945年6月までにうち137人が死亡した。中国人労働者は過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜、国民党将校耿諄の指揮のもと800人が蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。しかし7月1日、憲兵、警察、警防団の出動により、釈迦内村(現・大館市)の獅子ヶ森に籠っていた多数の労働者も捕らえられ拷問などを受け、総計419人が死亡した。死体は10日間放置された後、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で3つの大きな穴が掘られ、埋められた。この後も状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が死亡した[3]。終戦後の10月7日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れた際、棺桶から手足がはみ出ている中国人の死体を発見した。外務省管理局は『華人労務者就労事情調査報告』において、死因については彼等の虚弱体質などによるものとして、過酷な労働条件が死因ではないと主張しているが、終戦後に彼等を手当てした高橋実医師によれば、彼等が帰国するまでの約2か月の間、一人の死者も出なかったという[4]。

1946年9月11日の秋田裁判判決では蜂起を指導した事件の首謀者に有罪判決が下されたが、アメリカ軍による横浜軍事裁判では、第七分所(秋田県花岡 藤田組花岡鉱業所)から11名が裁判にかけられ、1948年3月1日に鹿島組関係者の4名と大館警察署の2名の計6名に有罪判決が下され、そのうち鹿島組の3名が絞首刑の判決を受けた後、終身刑等へ減刑されている。


損害賠償訴訟とその後

1985年8月、当時、蜂起を指導した事件の首謀者である耿諄は、外信を紹介する『参考消息』で、花岡事件40周年の慰霊祭が行われたことを知った。その後耿は来日したが、当時の鹿島組(現鹿島建設)が「一切の責任はない、中国労工は募集によって来た契約労働者である、賃金は毎月支給した、遺族に救済金も出している、国際BC級裁判は間違った裁判である」と主張していることを知り、鹿島と再び闘う意志を持った。1989年、耿は公開書簡として、鹿島に以下の要求を行った。

・鹿島が心から謝罪すること

・鹿島が大館と北京に「花岡殉難烈士記念館」を設立し、後世の教育施設とすること

・受難者に対するしかるべき賠償をすること


1990年1月より、新美隆、田中宏、華僑の林伯耀を代理人として、鹿島との交渉が始まった。7月5日の共同発表[5]では、鹿島が花岡事件は強制連行・労働に起因する歴史的事実として認め、「企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」と明記された。

しかし、鹿島はその後、

・「謝罪」は「遺憾」の意味である(残念に思うが、謝る気はないという意味)。

・記念館の設立は絶対に認めない。

・賠償は認められない、供養料として1億円以下を出すことはあり得る。日中共同声明で中国側の賠償請求権は放棄されている。


と主張し、実質的には責任はないという見解を示した。1995年耿諄ら11名は、中国政府が個人による賠償請求を「阻止も干渉もしない」と容認姿勢を見せたことから、鹿島に損害賠償を求めて提訴した(弁護団長:新美隆)。要求内容は、耿が最初に要求した三条件であった。

耿諄らは中国におり、また高齢であることから頻繁な来日出廷は困難だったので、実際は新美、田中、林が原告の主導権を握った。1997年、東京地方裁判所は訴追期間の20年を経過しており、時効であるとして訴えを棄却した。原告は東京高等裁判所に控訴したが、原告となった元作業員らの証人尋問は行われず、新村正人裁判長は和解を勧告した。


和解

2000年11月29日に東京高裁で和解が成立。被告の鹿島側が5億円を「花岡平和友好基金」として積み立て救済することで決着が図られた。和解の内容は、以下の通りである。

1.当事者双方は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認する。ただし、被控訴人(被告。鹿島のこと)は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了承した。

2.鹿島は問題解決のため、利害関係人中国紅十字会に5億円を信託し、中国紅十字会は利害関係人として和解に参加する。

3.信託金は、日中友好の観点に立ち、花岡鉱山現場受難者の慰霊及び追悼、受難者及び遺族らの生活支援、日中の歴史研究その他の活動経費に充てる。

4.和解は、花岡事件について全ての未解決問題の解決を図るものである。受難者や遺族らは、今後国内外において一切の請求権を放棄する。原告以外の第三者より、鹿島へ花岡事件に関して賠償請求が行われた場合、中国紅十字会と原告は、責任を持って解決し、鹿島に何らの負担をさせないことを約束する。


この和解は、成立直後から日本の戦後補償を実現していく上で「画期的」なものとする報道が多かったが、野田正彰の取材によれば、この和解は弁護団側の独断によるもので、原告の本意ではなかったという。耿は、鹿島の謝罪を絶対条件とし、記念館の建設も希望、賠償額は譲歩してもよいと、田中らに意見した。耿は、和解の受け入れを迫る新美らに、負けても損害はないことを確認した上で「和解を受け入れなければ負けるというなら負けよう、負けても妥協せず、踏みとどまるならば道義的には勝利したことになり、百年後(暗に死後を意味する)も彼等の罪業を暴く権利がある」と意見し、和解には同意しないが黙認するという態度を取った。

しかし、新美らは和解を急ぎ、鹿島の出す金は賠償金ではないことも法的責任を認めないことも伏せ、和解の正文は伝えられなかった。耿は和解の内容を知ると「騙された」と怒り、耿など原告・遺族の一部は「献金」の受け取りを断ったという。また、2001年8月には「屈辱的和解」に反対する声明を出した。耿にとってこの結果は全面敗訴に他ならず、その上謝罪のない金を受け取ることは侮辱でしかなかったのである。

野田がこのことを毎日新聞[6]に寄稿すると、田中と林は野田に会いたいと人を介して伝え、会談した。田中は「直前に北京に出向いて骨子を示し、耿諄さんらの了承を得た」と主張し、林も「耿諄はすっかり英雄になったつもりでいる」と耿を批判した。さらに「耿諄は中山寮で人を殺しており、苦しんでいるはずだ」「耿諄はすっかり痴呆化しているそうだ」とも述べたという。野田は「田中らは負けて何も得られないよりも、どこかで妥協しカネを貰っていくのが幸せなのだ」と確信して疑わず、その結果原告の思いを軽視したと批判している。これらの野田の主張に対して、田中は同じく『世界』に「花岡和解の事実と経過を贈る」とする文章を寄稿し「野田は和解の基本的な事実経過について誤解しており、和解条項について原告団の了解を得ている」と反論した。


中国紅十字会に信託された補償金

その後「花岡平和友好基金」として中国紅十字会に信託された5億円は被害者本人やその遺族に支払われたが、千龍網が報じたところによると、補償金を受け取ったのは全被害者のうち半数の500人程度で、受け取った額も当初支払いが予定されていた額の半額程度だったという。中国紅十字会は基金の残高や用途について発表しておらず、中国国内では「基金の半分は中国紅十字会が自らの手数料として差し引いた」との見方もある[7]。中国紅十字会はこれを否定しているが、花岡事件を描いた著書『尊厳』の著者である李旻は「中間で巨額の資金が消え、金はどこに行ったか誰も知らない」と指摘している。


日本政府に対する訴訟

その後、花岡事件などに関連して、当時花岡鉱山などで強制労働に従事していた中国人の元労働者とその遺族らが、日本政府に対し計約7,150万円の支払いを求める訴訟を、2015年6月26日に大阪地方裁判所に起こした。同事件に絡んで日本政府を訴えるのは初のケースとなる。原告らは「中国人を拉致・連行し、強制労働に従事させた上、戦後も事実の隠蔽を続けた」と主張。また、劣悪な労働条件などが事件の背景として存在するにもかかわらず、憲兵などが拷問・弾圧を加えたとも主張している[8]。

2019年1月29日、大阪地方裁判所(酒井良介裁判長)で判決があり、請求を棄却した[9]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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花岡事件の証言
http://kisarazu.org/?page_id=62

戦時後期におきた花岡事件、日本人が知らなくてはならない昭和史の貴重な証言だと考え、抜粋して掲載しました。

著書には花岡事件に関わった人たちの戦後が書かれていますが、「本当の昭和史」編纂にあたって、なにより事件の被害者の証言に重点を置きました。

日本は本当に戦後が終わったのでしょうか?

歴史を正しく検証して、後世に伝える努力を全ての日本人に期待します。


前文省略〜

1971年9月5日、9月にはいった北海道は、すでに秋の気配が濃くなっていた。札幌市にある小さな中華料理店「北京飯店」の二階の一室に差し込んでくる暮れ時の陽にも、秋のおとずれがひそんでいた。

 この日の朝から、李振平・林樹森・劉智渠さんの三人から、わたしは話を聞いていた。三人とも太平洋戦争中の1944年に中国で日本軍に捕えられ、日本に強制連行されて秋田県の花岡鉱山で働かされたが、敗戦後は花岡事件の裁判の証人として日本に残され、そのまま日本に永住している人たちであった。花岡事件の起きた秋田県に生まれ、十年ほど前から強制連行されてきた中国人や花岡事件を調べてきたわたしは、その生き残りである三人をようやくの思いで探しあてて、林さんのお店の一室で話を聞いていた。

 振平さんも樹森さんも智渠さんも、温和な、礼義の正しい人たちであった。たどたどしい日本語で、二十数年前の記憶をさぐりながら話してくれた。しかし、次第に話が進んで花岡鉱山での強制労働に移り、日本人の補導員にささいなことから殴られ、蹴られて、仲間たちが次々と死んでいく場面になると、三人の目に涙がひかり、こぶしでテーブルを叩きながら語りつづけた。口調が激しくなってくると、中国の言葉になったが、語りつづける三人には聞き取りをしているわたしのことは眼中になくなり、二十数年前のいまわしい記憶をえぐり出してくるように語りつづけた。

 三人の話の一つ一つが、日本や日本人に突きつけている戦争責任の刃であった。わたしは三人の話の重さをからだで感じながら、ふと、二十数年前の一つの記憶を思い出していた。

 三人が強制連行されてきた花岡鉱山と同じ秋田県北の小さな村に、わたしは1935年に生まれた。太平洋戦争がはじまった1941年に国民学校へ入学し、敗戦の年は五年生であった。田植が終わってまもないある日、中国人の俘虜たちが花岡鉱山で暴動を起こして、わたしの村の山奥にも逃げてきたという話が、村中に伝えられた。花岡鉱山とわたしの村との間には、幾重にも重なった山と深い谷とがあるのに、それを越えて逃げてきたのだった。逃亡してきた俘虜たちは、山菜取りに行った娘を焼いて食ったとか、山奥の農家から牛や馬などを盗んで食っているという話も伝わり、村の人びとは恐怖にふるえあがった。

 日中は村中の男たちが動員されて、カマや竹ヤリなどを持って山狩りに歩き、夜になると山から集落に通じている道々にたき火をして夜警がついた。家々では竹ヤリを何本もつくり、食事の時は障子に立て、野良仕事に出る時は持って歩いた。寝る時は枕元に竹ヤリやナタなどを置き、いざという時にはいつでも手に持てるようにした。暗くなると外出する人もなく、空襲に備えて薄暗くした電灯の下に集まり、息を殺したようにひっそりとしながら夜を過ごした。

 こうして恐怖の日が三日ほどすぎて、山奥の炭焼き小屋にひそんでいた二人の俘虜が捕えられた。その晩は竹ヤリもナタも土間に置かれ、村中は喜びに湧いた。

 その翌日、捕えた俘虜を見に来いという知らせが役場からきたので、わたしの分校でも五年生以上の児童が、六キロも離れた本村まで見に行った。役場前の焼けつくような土の上に坐らされている中国人は、大勢の人が囲んでいるのでよく見えなかった。じりじりと照りつける太陽の下で、両手をうしろにして縛られている裸の上半身が、人垣が揺れるたびに見えた。かつかつガツガツに痩せたからだをおおっている肌の色は、人の肌には見えないほど汚れていた。

 「チャンコロのバカヤロー」
 「ぶっ殺してしまエー」

 周囲の人垣から、さかんに罵声がとんでいた。中国人は日本の敵であり、日本人を殺して食った鬼のような人間だということを頭から信じていたわたしたちは、先生の号令に合わせて、「チャンコロの人殺し」と叫びながら、中国人を囲んでいる人垣の外を、何度も何度も廻った……。

激した口調で語っている三人の前で、二十数年前の記憶を思い出しながら、「わたしも加害者だったのだ」と、胸が痛んだ。三人のそばにいることが耐えられなくなり、部屋からとび出していきたい衝動にかられた。「お前は聞き取りという第三者みたいなことをやっているが、それでいいと思っているのか」と、自身を責め立てられてならなかった。 

この日の一日にわたる聞き取りのあとも、聞き洩らした部分や不足な点を聞くために、何ども札幌に三人を訪ねた。この間に日中国交回復も行われたが、その時の三人の喜びようはたいへんなものであった。

しかし、それと同時に、中国での日本軍の戦争処理はもちろんのこと、日本国内での戦争処理にも頬っかむりをつづけている政府に対する三人の怒りは、非常に強かった。国と国との国交は回復したが、それを支える一人ひとりの両国民のつながりが回復する根になるのは、自分たちが過去に犯してきた行為に、ちゃんと後始末をつけるのが第一だという意味のことを、三人からきびしい口調で言われた。まったくそのとおりである。私は言葉もなくうなだれるよりなかった。

花岡事件が起きた大館市の人々のなかにも、「あれは戦争が生み落とした事件であり、いまさらそんなことを掘り出してなんになる」という空気が非常に強い。私はここ十年ほどの間に、何十回となく現地に足を運んできたが、この事件に取り組んだ当初も現在も、その空気はほとんど変わっていない。むしろ、この傾向が強くさえなってきている。というのは、なんらかの形で中国人の強制労働や花岡事件に関係のあった人たちが、地元の政界や実業界などのトップに立っている人が多くなっているために、「臭いものには蓋」式になっているのである。また、あの忌わしい事件には触れたくないと思っている人や、秋田県の恥だと考えている人も多く、わたしも直接に、あるいは間接に、「花岡事件をいじくりまわしていると、君の将来にとってプラスにならない」と、何度も注意された。

この著の中心をなしている三人の話は、三人の生き方の強さ、戦争のむごたらしさと同時に、わたしたち日本人に、戦争責任とは何か、人間が生きるとは何かということを、日常の生活感覚のなかで「問い」かけている。その「問われ方」は、人によってさまざまであろうが、問われたからといって、すぐに答えなくともいい。なによりもまず、三人の話の事実に「問われてほしい」という願いを込めてまとめている。

著者 野添憲治   1975年

中国人強制連行の証言記録

前文中略

東条英機内閣決定事項
昭和17年11月27日 華人労働者内地移入に関する閣議決定
昭和18年4月〜11月 華北労務者内地移入実施要項にて試験移入
昭和19年2月28日 華人労務者内地移入の促進に関する件、時間会議決定

「労工狩り」の実態

 次官会議で「華人労務者内地移入ノ促進二関スル件」が決定したことによって、中国人労務者の移入が本格化していくのだが、現地で労務者を集めるのを「労工狩り」といった。しかし、実際には、中国内で労働者を集める労工狩りは、軍部の手によって日中戦争のころから大々的におこなわれていた。とくに、北支方面軍司令官の多田駿が、1940年8月から10月にかけて八路軍との大戦で大損害を受けて首になり、1941年に岡村寧次が司令官となって、三光政策〈殺光(殺しっくす)、焼光(焼きつくす)、略光(うばいっくす)〉を実施するようになってから、いっそう苛酷をきわめるようになった。

 1941年8月下旬から9月初旬にかけて、中国華北の山東省博山西方地区で北支那方面軍一二軍の手で実行された博西作戦の労工狩りは、次のようなものであった。

真夜中の一二時、たたき起こされた私たちは、『こんどの作戦は、土百姓どもを一人残さず全部つかまえるんだ』という中隊長池田中尉の怒号のもとに、重い足を引きずりながら歩きつづけ、ようやく夜が明けたころ、風一つなく朝餉の煙が真っ直ぐに立つ、平和で静かな二百余戸の部落の近くに中隊は停止した。しばらくして分隊長松下伍長が、小隊長のところから帰ってくるなりいった。

 『オイツ、出発だ。部落にはいったら、片っぱしから老百姓(中国での農民の俗称)をとっ捕まえるんだ。いいか・・・。』というが早いか、道に半分あまり倒れている高梁の幹を、ブキブキ踏み倒し、部落に向かって歩き出した。

 分隊が部落にはいると、静かであった村が、カタカタ、ドンドン、バタクバタリ、ガチャンガチャンと、急に暴風でも来たように、一瞬にして嵐に化した」
※大木伸治「労工狩り」『三光−日本人の中国における戦争犯の告白』(光文社刊所収)

 こうして日本軍は、中国人の男を見つけるとかたっぱしから捕え、中国の東北地方や華北の鉱山、港湾荷役、軍事基地に連行して働かせていた。また、労工狩りで捕えられた中国人のなかには、初年兵の度胸試しの材料にされて、殺されていった人も多かった。

 中国での人狩り作戦は、二つの目的を持っていた。一つは、人狩りによって捕えた中国人を労務者として使う一方、奪った食糧は日本軍が現地補供として食べていた。もう一つは、日本軍の勢力の薄い地区を無人無物に近い状態にして、中国の抗戦の主体である八路軍を弱体化させる、という目的を持っていた。それだけに、1942年の閣議で中国労務者の内地移入が決められると、それを錦の御旗として労工狩りは激化していった。

 しかし、なんの罪もない中国の民衆が、暴風のような一瞬の労工狩り作戦に襲われ、夫や息子を奪われ、妻子を強姦や足蹴で痛めつけられ、食糧を持ち去られるうえに家まで焼き払われるのは、悲惨そのものであった。さきに引用した博西作戦の労工狩りは、次のようにつづいている。

 私たちは、隣の家の中を、つぎつぎと手当たりしだいにひっくりかえして見たが、ここでも、四十すぎと思われる女と、七、八歳の男の子が、隅のほうにちぢこまっていた。あせった私たちは、庭の隅まで、置いてあるものは全部放り投げた。奇麗に丸め、積み重ねた高梁を、半分あまり銃剣で突き倒していた時、私は手に異様なものを感じた。

 『おいツ、阿部、何かいるぞー』半ば後足で、おそるおそる、そっと高梁の束をかきわけた。一ツニツ三ツ目のとき、『アッ』私と阿部は後に一歩飛びさがった。そこには、日焼けした真っ黒な顔に、何か強い決心でもしているかのように、唇を噛みしめた四十歳(ぐらい)の男がうずまっていた。手に何も持っていない老百姓風と見た私は、おどろいて後にさがった姿勢をとり直すと、『コノ野良ッ。ビックリさせやがる。オイッ、阿部ッ、こいつは民兵かも知れんぞツ』と、いきなりグルグル巻きに縛りつけた。

手当たりしだいに引っ掻き回す暴行を、不安気にジッと見ていた先刻の女は、『快走々々』(早く歩け)と蹴り飛ばされ、罵倒されながら引きずられて行くこの姿を見ると、地面に頭を押しつけ、『老百姓老百姓大人々々』と声をあげて泣きながら、何か哀願している。子供は、銃剣の恐しさも忘れて、男の足にしがみついて、言葉のわからない私でも、この母子が何を訴えているのかわかった。『コンチクショウッ。こいつがこの野良を隠したんだッ。助けてくれなんてもってのほかだッ』

 私は、泥靴で女の肩から首筋を力まかせに踏みつけた。しかし、女は、『大人々々』と、何度も何度も頭をさげて泣いて哀願していたが、最後にもうどうにもならない。と見たのか、這うように家の中にはいって行くと、ボロ布に包んだ煎餅を両手で抱え、だいじそうに持ってくると、男の腰紐にくくりつけようとしがみついた。

 私たちはこれを見ると、『このあまツ、嘗めやがって。チェッ、人間並みに人の前でいちゃつきやがってツ』女の手より布包みをもぎとると、私は、『こんな本の葉っぱみたいなものを食っていやがるのかツ』と地べたに叩きつけ、軍靴で蹴り飛ばした。楊柳の葉がまじった煎餅がほうぼうに散った。子供を抱えるように、踏みつぶされた煎餅を、両手で地に伏し抱いている女の目から落ちる大きな涙は、ポタリポタリと煎餅の上に落ちている。

 『大人々々』土にまみれた煎餅を寄せ集め、哀願する女は、ジッと奥歯を噛みしめ、足にすがる子供をじっと見つめ、何か言っている男の顔を見ては、声をあげて涙を流していた。白酎の小ガメを片手に、先刻の婦人をいままで強姦していた小川が、のっそりはいって来た。

 『何をしているんだツ』キョロリとあたりを見回した。

 『ハア、こいつを連れて行こうとしたら、しがみついて離れないんです』私は、子供を殴りつけながら小川に言った。

 『馬鹿野良ッ。大の男が二人もかかって何をしているんだッ。手前ら嘗められているんだッ。そのガキも連れて行けッ。背のうぐらいはかつげるだろう』

 男にしがみついている子供の襟首を、わし掴みに表に引きずり出した。

 『大人々々、小孫(子供)、老百姓』と、気が狂ったように女は絶叫して、子供の足にしがみつこうとした。

 『ええい。うるさいアマだッ』私は阿部といっしょに女の横腹を銃床でドーンと突きあげた。

 こうして部落の隅々から、畑の中から荒らしまわった私たちは、十二時すぎ、部落の一角に中隊が集合した。腰の曲がった老人から子供まで150余名の老百姓が、取り囲んだ銃剣の中に坐らせられている」(大木伸治「労工狩り」『三光』)

 このような労工狩りは、日本の軍隊の手で中国のあらゆる所でくり返されていた。そのなかでもとくに労工狩りがひどかったのは、1942年9月から12月にかけて山東省でおこなわれた二一軍作戦であった。この時は大包囲作戦(うさぎ狩り作戦とも言った)という戦法をとり、包囲の網をだんだんと縮めていき、そのなかにいるものは敵兵であろうと住民であろうと、全部を捕虜にするというものだった。このうさぎ狩り作戦は、次のようにして実施された。

 「その作戦には、中国には真鐘の洗面器が多いのですが、その洗面器を持って、兵隊の銃を肩にかついで洗面器を叩いて歩き、それで海岸線や鉄道沿線に向って押したわけです。洗面器を叩いて一里歩くところもあるし、二里のところもあるし、それで部隊のぽうぽうで火が燃えるわけですよ。部落から部落をずっと押して行って、一八歳から四五歳までの男を全部集める。それと山羊、牛、豚、真鐘類を全部集めるわけです。部落民にそれを全部持たして一定の地域に集合させるわけです。

 そこに軍のトラックがきて、山羊は山羊、真鐘は真鐘、人員は人員でまと砂て連れていくのです。つまり戦闘が目的ではなく、物資掠奪と人員の徴発が目的なんです。これを10月から12月の末まで二ヵ月やったわけです。その集めた人はどうなったかというと、青島に相当大きい体育場があるわけですが、集めた男を収容したんです。しかし、そこに入りきれないで、第一公園の競馬場に入れたわけです。その数は何千だか何万だかわからんのです。それが青島から船でどっちに行ったのかわからないのですよ。花岡鉱山で中国人の捕虜が死んだということをきいたんですが、その人達は実際は捕虜じやないわけですよ。実際は捕虜でもなければ八路軍でもない農民ですよ」(大野貞美「真相」1958年6月号)

その後も日本軍は、「一九秋山東作戦」(昭和一九年秋山東省での作戦の意味)、「二〇春山東作戦」を次々とおこなって、大々的な労工狩りをしていった。逃げる者や反抗する者は射殺するように命令されていたので、収容所に引致される前に殺害された人も多かった。次の証言もそのことをよく示している。

 うさぎ狩りで捕えられた中国人はうしろ手に縛られ、「われわれの自動車隊のトラックによって運ばれた。まがり角やなにかの所で、トラックの速度がにぶると、彼らのうちのあるものは脱走を企てた。だが、彼らがトラックからとびおりてかけだせば、すぐトラックの上から日本車の機関銃や小銃にねらいうちされ、死んでいった」(元独立自動車第六四大隊の一下士官の証言)

 こうして狩り集められた中国人は、青島捕虜収容所をはじめ、済南・石門・大同・北京・郁鄙・徐州・塘浩の収容所に集められた。このうち青島と塘活は日本への乗船地なので、他の収容所にいれられた人たちも、日本に連行される時はこの二つのどれかに集結された。どれも北支那方面軍が直接に管理する収容所で、所長には軍人がなり、門には日本軍の衛兵所があり、着剣した兵隊が守っていた。収容所の周囲は電流を通じた鉄条網で囲んであるほか、さらにトーチカで囲み、二人の兵隊が絶えず巡回していた。運よく生きたまま収容所にいれられても、日本車に捕えられた瞬間から、中国人の生命はないも同様であった。しかも、その捕虜収容所の生活がまた、たいへんなものであった。

当時、第五九師団の陸軍伍長だった五十嵐基久は、済南捕虜収容所の模様を次のように証言している。

 「収容所の中には土間にアンペラがしいてあり、捕虜にされた中国人たちはそこに寝おきしていた。寝具はなく、暖房も全くなかった。中国人の医者と称する者がいたが、病気になっても、殆どほうっておいた。

伝染病らしくなれば病舎という物置小屋のようなところに隔離した。死ねば穴に投ぜられた。中国人たちを収容所の外に出すようなことはほとんどなかった」また、日鉄鉱業釜石鉱業所の出張員が中国人を連行してくるために青島収容所に行った時の模様を、「バラック建てで40〜50坪のところに700〜800名をおしこみ、暖、冷の処置なく疲労と寒気のため病人続出、その中より死亡者多数が出ていた」と語っている。50坪の小屋に800人が収容されていると、どんなにすくなく見ても一坪に16である。すし詰めにしないと、収容できるものではない。

 捕虜収容所に集められた中国人は、日本へ連行される直前に、財団法人華北労工協会・日華労務協会・国民政府機関・華北運輸公司・福日華工会社などの、強制連行を代行している統制機関に渡された。そのあと日本政府は、厚生省が指定した全国135事業所とのあいだに、「供出」と「使用」の契約書をとりかわしている。中国から乗船した数は3万8935人だが、「外務省報告書」によると、死亡者は次のようになっている。

 日本に上陸するまでの船内で564人が死亡し、さらに上陸後に、135事業所へ到着するまでのあいだに、248入が死亡している。各事業所に到着したのは3万8213人であった。連行される途中でもいかにひどい取扱いをしたかは、死亡したこの数字からだけでも知ることができる。

 しかも、どうにか各地の事業所に到着することができた中国人たちも、日本の企業や日本人の残虐非道な扱いのなかで、次々と犠牲となっていった。敗戦後の1945年12月7日に集団送還がされるまでに、事業場内死亡5,999人、集団送還後死亡19人の合計6,830人もの中国人が殺されている。乗船した総数3万8,935人にたいし6,830人が死亡しており、死亡者の比率は17・5%にあたる。しかも、そのうちの4,000柱近い遺骨がまだ日本全土に散らばっているほか、約500入を越すと推定されている日本に
残った中国人は、いま、各地でひっそりとこの世に生きていると見られている。

 これが中国人強制連行のあらましだが、中国人労務者を導入した135事業所のなかでも、秋田県北にある同和鉱業花岡鉱業所の工事を請負っていた、鹿島組(現在の鹿島建設)花岡出張所に連行されてきた中国人の死亡者がとびぬけて多いのである。三回にわたって花岡鉱山に連行されてきた986人のうち、死亡者が418入と、他の事業所に比べると、比較にならないほどの高率なのである。もう一つは、3万8,935人の中国人を連行して、6,830人も死亡させながら、不充分な形でも敗戦後に裁きがおこなわれたのは、花岡鉱山の鹿島組関係者だけだったことである。花岡鉱山でだけなぜ裁判が実施されたのかであるが、日本が敗戦となる約一ヵ月半ほど前の1945年6月30日の夜に、あまりにも少ない食糧や補導員たちの虐待に中国人が蜂起したからであった。蜂起の後処理が残虐をきわめ、数日間のうちに100人近い死亡者を出
したほか、蜂起の指導者たち13人は秋田市の監獄に押送され、国防保安法第十六条による戦時騒擾殺人罪で、無期懲役などの判決を受けたのだった。

 だが、敗戦後に日本へ駐留した米軍によって、今度は花岡鉱山の鹿島組関係者が逮捕され、米第八軍軍事法廷は、三人の補導員に絞首刑、鹿島組花岡出張所長に終身刑、大館警察署長と巡査部長には重労働二十年の判決を下した。だが、1953年頃にどの人も仮出所して責任はあいまいになったほか、連合軍裁判では、もっとも責任が重いはずの鹿島組社長をはじめとする日本建設工業会に所属する各社の最高責任者、華北労工協会などの労務統制機関の責任者、鹿島組の労務員、蜂起して山の中に逃げこんだ中国人を竹ヤリなどで殺した在郷軍人・青年団員・警防団員などは、裁判からはずされてその責任を問われることがなかったのである。

 花岡鉱山に連行された中国人の中から、裁判の証人として23人が送還されずに日本へ残された。しかし、裁判が終っても中国に帰らずに、そのまま日本にとどまった方が4人いる。北海道の札幌市にいる李振平(旧李光栄)・林樹森(旧劉当路)・劉智渠(旧劉沢)の三氏と、大阪にいる宮耀光氏の四氏であったが、1973年9月に林樹森氏が亡くなっているので、現存者は三氏である。 

    この記録は、宮氏を除いた三氏からの聞き書きが主体となってつくられている。


中国から花岡鉱山へ

「戦争と花岡鉱山」

 花岡鉱山は秋田と青森の県境にひろがる鉱山地帯にある、中規模のヤマでみる・この鉱山がその姿をあらわしたのは、他の鉱山にくらべると遅く、1885年に地元の人によって発見されてからだった。その後、鉱主も何度かかわったり、採掘が中止になったり、また再開されるという歴史を繰り返して、1915年に合名会社藤田組に経営が移った。その翌年から新しい鉱床が続々と発見されて大鉱山に成長し、1944年には花岡鉱業所として独立している。

 花岡鉱山は鉄道から距離的に近いうえに、良質の銅・鉛・亜鉛などを産出するので、採算のとれる鉱山として知られていたが、日中戦争がはじまったころから、軍需産業として生産が拡大されていった。太平洋戦争に突入すると、いっそう大幅な生産が要求されるようになり、1942年には花岡鉱山そのものが軍需工場に指定されて、月産3万トンから5万トンの生産が義務づけられ、増産につぐ増産がつづけられていった。

 だが、設備の不備、機械の不足、施設の老朽化などによって、産出量はなかなか伸びなかった。しかし、生産目標の達成は軍部からの至上命令であり、それがまた企業の利益とも結びついていたため、目標達成のために大量の人力を投入しなければならなかった。花岡鉱業所に残されている資料によると、鉱山の稼働員数は戦争が激化してくるにつれて、表1(下の「花岡鉱業所稼働工程表図」にも見られるように増大していった。とくに、最大の労働力を擁した1944年前後には、1万3,000人もの稼働人員を数えることができた。


◆その当時の稼働人員の内訳をみると、次のようになっている。

直轄人4,500人
朝鮮人4,500人(延べ人員)
徴用工
 挺身隊300〜400人
 勤奉隊300〜400人
 学徒隊300人
俘虜米人(英豪人含む)300人(最大の時は480人)
華人徴用工(東亜寮)298
諸負業者人夫 1,500人

となっている。鉱山労働者以外の人たちが、いかに多く鉱山労働に狩り出されていたかがわかる。

 さらに戦争が激化してくるにつれて、鉱山労働者も兵役につくようになったほか、怪我や病気などで入坑できなくなった坑夫の補充ができないために、労働力不足はいっそう深刻になっていった。そのため、徴用工の名目で国内から
狩りだされた寡婦・娘・少年たちまでが鉱山に動員され、15歳前後の少年たちや、20歳前後の娘たちまでが、坑内での地下労働を強制されるようになった。花岡鉱山ではこのように労需に追われて生産をあげるという形で、厖大な利益を確保している鉱山経営からすると、日本人も朝鮮人も働く道具の一つにすぎないことを、この事実は語っている。

 七ツ館事件後も、花岡鉱山では乱掘をつづけたが、いくつかの坑道の上を流れている花岡川の流れを変更しないと、七ツ館坑以外でもいつまた陥落が発生し、落盤や浸水などによって、発掘が中止されかねない事態になっていた。この危険を取りのぞくには、花岡川の流れを大幅に変更する必要があり、鉱山では水路変更計画を立案した。しかし、この水路変更の工事が火急を要することはわかっていても、増産に追われるだけで精一杯の花岡鉱山の手では、工事をおこなうのはムリな状態であった。そこで、鉱山採掘の一部を請負っている鹿島組に、この水路変更の工事を請負わせることになったが、鹿島組にしても新規の工事に労務者を集めてくることは不可能であった。この時に鹿島組で目をつけたのが、日本への連行が本決まりになった中国人労務者を使用することだった。

 鹿島組花岡出張所が、敗戦後に外務省へ提出した「華人労務者就労顛末報告」のなかで、その経過を次のように説明している。

 「工事を緊急きわまる短期間内に完成しようとしたため、大量の労務者を必要とし、その獲得に努力したが、時あたかも国運をかける大東亜戦争中期から後期におよび、日本人、朝鮮人労務者の充員はまったく至難の状態にあり、この唯一の解決策として昭和17年11月27日、日本政府決定による『華人労務者内地移入二関スル件』にもとづいて、華人労務者の急きょ移入就労をはかり、可及的速やかに工事竣工を期そうとした。そしてこの導入方針として、本社ならびに受け入れ事業場においてしばしば移入方針ならびに対策にかんする打合会を開き、内務、外務、厚生、軍需など関係各省の指示、指導事項にもとづいて慎重かつ万全を期し、統制団体である日本土木統制組合の援助と斡旋をうけ、現地供出機関である華北労工協会との契約諸項を遵守履行しようとつとめた」

 この報告書は全体にわたってあまりにもそらぞらしく、しかも責任のがれに終始した書き方をしているが、ともかく強制連行されてきた中国人は、こうして花岡鉱山の鹿島組花岡出張所に収容されて働くことが決まったのだった。


〜証言


李振平 
1921年に河北省河間県に生まれる。小学校卒業後に三年間ほど農業を手伝ったあと、人民解放義勇軍に入ったが、日本車に捕えられ、花岡鉱山に強制連行される。花岡鉱山では第一中隊第二小隊長として強制労働に従事。蜂起の時は主謀者のI人となり、秋田刑務所に入れられるが、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。中国代表部で衛兵の仕事をしたあと、東京や横浜などを転々と仕事をかえて移り住み、1956年に札幌に移る。札幌でも職をいくつかかえたあと、中国貿易輸出入の会社をつくり、現在はその社長をしている。

妻のほかに一男一女の子どもがある。


林樹森 
1917年に河北省寧普県に生まれる。小学校卒業後、会社勤めをしながら医者になる勉強をつづけ、やがて人民解放義勇軍に身を投じて医療の仕事に従事中に日本軍に捕えられ、花岡鉱山に強制連行され、看護班の仕事をした。敗戦後は病人の看護のために日本へ残り、そのまま裁判の証人となり、のちに中国代表部の衛兵の仕事をする。代表部を1953年にでてすぐに札幌に渡り、数々の仕事を転々とかえたあと、食堂を営む。1973年9月のある日、病苦と食堂の経営不振から服毒して自殺を図ったが、発見が早く助かるが、
9月26日に肝臓疾患に急性肺炎を併発して死亡。なお、知人たちがカネを出しあって、1973年の暮れにははじめて中国に行くことが決まっており、ふるさとの中国では二歳の時に生き別れた長男が、三十年ぶりの再会を待っていた矢先の死であった。死後には妻と中学二年生を頭に三人の子どもが残された。


 劉智渠 
1920年に河北省薪県郡均鎮に生まれる。小学校卒業後は。家業の農業に従事。十七歳で人民解放義勇軍に入る。一時、家に帰って農業をやり、二十歳の時に再び解放義勇軍に入り、日本軍に捕えられて、花岡鉱山に連行される。花岡鉱山では看護班に所属し、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。1964年10月に札幌に渡り、小さな屋台店から商売の仕事に入り、現在は新山観光株式会社の社長をしている。1951年に中国人俘虜犠牲者善後委員会が発行した「花岡事件」は氏のロ述によるもので、もっとも早く花岡事件の全貌を伝えた貴重な記録である。妻と一男一女がある。


李 
わたしね、1921年7月15日に河北省河間県に生まれたが、小さい時のこと、あまり覚えていないからね。小学校に入って終わったのが16歳の時で、中学校に行くつもりだったけど、もう日本の兵隊が毎日来るから、とても学校に歩いてられないでしょ。わたしだけでなく、ほとんどの子どもたち、そのために学校にいくのやめた。わたしの家、普通の農家だったので、農業の仕事手伝っていたが、一ヵ月のうちの半分は逃げていた。日本兵が襲ってきて、逃げなくてはダメだから、仕事にならないの。それでも三年くらいは農業の手
伝いしていたが、日本兵の来るの、だんだん多くなって、まったく仕事にならなくなってしまったさ。


 林 
日本兵、襲ってくるでしょ。逃げおくれて殺されたり、捕えられて連れていかれた同じ年ごろの人、かなりいたさ。
 李 友だち殺されたり、肉親を殺された人など、多かった。どうせ、毎日逃げとるでしょ。若い時だし、戦いしないとどうしようもないので、戦うこと決めた。いちばん最初に入ったのは人民解放義勇軍で、賀竜の部隊であった。それからゲリラになって、あっちこっち転戦して歩いたが、その間に、わたしたちの部隊のなかで、何百人も死んでしまった。ゲリラの戦いは、苦労ばかり多い。村に行くと、日本兵に見つかるから、行けないでしょ。夜中にこそっと行っても、村の人たちみんな逃げていない。家に残ったもの、日本兵来てみんな徴発して、なんにもない。腹減ってくると、ドロ水飲むね。死んだ人の上を、靴で踏みつけて歩く時もあるさ。ベトナム人の苦しみ、自分の体験とおしてよくわかる。戦争ひどいよ。

 林 
中国に来た日本兵、悪いの人多いよ。わたしの村に日本兵襲ってきたとき、妊娠している女の人を、何人もの日本兵が追いかけた。妊娠している人よく走れないよ。すぐつかまって、中国人も見てる前で、何人もの日本兵が強姦する。それ終わると、銃の先についた剣で妊娠した女の腹裂いて、赤子とりだすと、銃の先に刺して振りまわして、みんなで笑ってる。

日本兵、犬畜生より悪いね。あんなことばかりした日本兵、日本に帰ってきて、自分の家庭に入って、どんな顔して生きとるのか思うと、こわい感じするね。


 李
 1941年の春、わたしたちのゲリラ部隊、日本車に包囲された。包囲された距離、だんだん狭くなってくる。そのとき、わたしたちの部隊、鉄砲のタマも満足になく、武器も使えなくて、一週間でみんなつかまってしまった。あのとき、だいぶつかまった。つかまった人どれくらいだったかは、あっちこっち連れていかれて一緒でなかったので、よくわからない。一ヵ所にまとめられて、収容所まで歩くとき、何十人、何百人かがひと組になって連れていかれ、あっちこっちの収容所に入れられた。あのとき捕えられた人のなかで、中国の
東北の炭鉱に連れていかれた人も、だいぶいた。わたしと一緒に、石家荘の収容所に連れてこられたのは、十数人だったが、日本に連れてこられたのはわたしひとりだけね。石家荘の収容所には、1,000人くらいの人、つかまって入っていた。収容所は、日本軍が管理してた。わたしらいる時、収容所から逃げたの二人いたが、一人はすぐに銃で撃たれたね。一人は逃げたが、まもなく捕えられて収容所に連れてくると、みんなの見てる前で殴られたり、蹴られたりして、殺されたね。見せつけね。日本に連れてこられる時、石家荘の収容所の生活あまりひどく、みんなからだ弱っていた。からだ悪い状態のまま、日本に連れてこられた。 自分で立って歩けないような、からだの弱っている人ばかり、日本に来たさ。


 林
 わたしも石家荘の収容所に二ヵ月半ほどいたが、あそこでみんなからだ痛めた。食べもの悪く水も満足にないから、みんな栄養不良になったわけね。

李 収容所の食べもの、コウリャンのご飯と、醤油少し入ったスープだけね。それも一日に二回だけで、野菜や塩など、ぜんぜんないからね。あのとき、わたしたちなぜからだ悪くなったかといえば、河北省の人、コウリャンは少し食べることあるが、ご飯として食べたことないわけね。コウリャンは、アルコールの精がほとんどでしょ。コウリャンのご飯食べると、大便が出ないの。便所に行って、箸のようなものでえぐると、ポロポロ出てくるわけね。

 河北省では、コウリャンは豚の食べるもの。食べるもの少ないし、食べたものもこうだから、だんだんとからだ悪くなってくるの。そのうちにからだ弱ってきて、歩くこともできなくなってきた。一ヵ月以上も、歩けないでいた。石家荘に二ヵ月ばかりいて、わたしは這いながら、京の収容所に行く汽車に乗ったよ。


林 
北京の収容所で、わたしは李さんと一緒になったわけね。


李 
収容所の中じゃ、わからなかったけどね。石家荘から北京に行くとき、貨物の汽車に乗せられた。逃げられんように、有蓋車に乗せられて、戸を閉めてカギをするから、中にいる人、空気とれないの。あのとき、ちょうど六月の暑い時で、みんな縛られて、貨車の中に投げ込まれたでしょ。ひとつの貨車に25人も入ればいっぱいになるのに、100人以上も投げ込まれたでしょ。みんな豚みたいに、からだの上にからだのせていた。空気あまり入ってこないから、汽車が走ると、板目の狭いすき間からもれてくるわずかな空気に、鼻や口を押しつけてのみこんだね。おなかの方すくのはもちろん苦しいが、水いちばんほしいね。みんな縛られて、水ほしい、水ほしいって、声たてて泣くね。誰か小便あったら、それ自分で飲みたい気持になるの。その苦しみといったら、いまでも忘れられない……。北京の収容所に着いたら、ここはアワのご飯ね。アワのご飯は、河北省の人食べ馴れているし、消化もいいし、ここにIヵ月くらいいたら、どうにか立って歩けるようになった。やはり、栄養不良
で、みんなからだ悪くしてしまったわけね。ちょっと食べものよくなると、すぐ元気になるのだから、食べものがどんなに悪いか、わかるわけね。


中国での林さん

林 
わたしは1,917年に、河北省寧普県に生まれた。自分の家の先祖、みな医者だったが、わたしは、小学校でた16歳のとき、会社に入って働いたの。その会社の空気が、どうもわたしの性に合わない。その会社にあんまりいないで、やめて家に帰って、いろいろ考えてみた。うちの先祖はみな医者だから、わたしも医者になること考えて、こんどは北京に行くと、北京大学の医学部に入って、漢方薬の勉強した。ここで三年ばかり勉強してから、またくにに帰ってきたが、親は医者よりも商人になれと言った。二十歳すぎてから、また会社
に入った。その会社は、日本の綿会社の出張所であった。この会社に一年とちょっといたが、人いった頃は仕事なかなか盛んで、忙しかったね。


劉 
蘆溝橋事件の起きる前は、日本兵来ても、それほど悪いことしなかったね。悪いことやったけど、あんまりでなかった。この事件起きて、中国と日本と戦ってから、もうダメね。日本兵、中国人見つけると、殺して歩くという状態になったからね。
林 わたしね、蘆溝橋事件が起きるまで、綿会社に働いていた。この事件あって、中日戦争はじまったでしょ。そしたら、日本の兵隊毎日まわってくるさ。綿は綿花からとって、日本に輸出していた。戦争はじまって、輸出もできなくなった。会社にいても、仕事ぜんぜんないでしょ。いてもいなくても同じなので、会社やめてさ、また自分の家に帰ったの。家にいると仕事ないから、これからどういうふうに生きるか考えた。わたしの先祖、みんな医者でしょ。北京で医者の勉強したので、その方面で進もうと考えた。本買って読んだり、近所
の医者のところに住込みのようにして働きにいったりして、医者の勉強した。二十五歳のころになると、ようやく病人を診れるようになったさ。ところが、日に日に戦争ひどくなって、田舎の村にも日本兵が朝早くからやってくるさ。逃げれば危ないし、逃げなくとも危ないでしょ。もうどうにもならないさ。村の中にいて、落ち着いて暮らせなくなった。そのとき、考えたね。わたしの先祖や家族で、軍隊に入っている人、ひとりもいない。これではダメだと考えて、わたしは軍隊に入ることにしたさ。戦わないと自分たちの国、守れないからね。ほんとの軍隊ではないけど、八路軍の下に民兵みたいなものあるので、わたしはそこに入ったさ。わたしは軍服も着てないし、鉄砲も持ってないし、大きなカバン持って歩いていた。カバンの中にはいろいろな薬や、注射器など入れていた。そのころ、ゲリラの部隊の人が病気したり、怪我したりすると、あっちの村、こっちの村と、分散して農家にあずかるさ。その村の責任ある人のところに行き、病人のいる農家に行くさ。わたしは病人をみて、治療するさ。わたしがゲリラの部隊に入ったのは、こういう仕事するためだったからね。毎日のように、あっちこっちとまわって、病人をみて歩いたさ。



 わたしはゲリラの部隊にいたから、銃持って戦ったがね。食べもの少ないし、病気になったり、怪我する人も多かったさ。そういう人と一緒だと、戦えないし、逃げられないし、村の農家に頼んで置いていくからね。林さん、その人たちのことみていたわけね。



 日本兵は毎日、ひどいことばかりやってたさ。いまでも忘れられないこと、いっぱいあるよ。ある日の早い朝、昼はあぶないから、わたしは隣の村へ、まだ暗いうちに出発した。わたしが村を出てまもなく、日本兵はわたしのいた村を包囲した。日本兵は一軒一軒の農家襲って、食べものやニワトリなど、片っぱしから奪って車に積む。それから、女の人見つけると、片っぱしから一カ所に集めて、着物を全部はぎとって裸にした。四十人以上もの女の人たちに銃剣向けて、裸の踊りさせるね。まわりに集まった日本兵、その踊り見て、やんやとはやしたてる。恥ずかしさに負けた女の人たち、そばを流れてる川に、走ってとび込んでいく。川を流れていく女たちに、日本兵は鉄砲うってみんな殺したさ。わたし、高い木にのぼってかくれ、その様子見ていたが、あまりのひどさに、涙もでなかった。中国人はこんなこと、決してやらないよ。



 日本兵は男の人と同じに、抵抗もできない女や子ども、それに年寄りも手当たり次第に殺したし、蹴ったりしてかたわにしたからね。戦場になった中国の人たち、いくら被害受けたかわからないよ。



 村を襲う日本兵、まだ人が寝ているような、朝早くにやってくること多いさ。二回目に襲われた時は、山奥の農家にいた。その時は日本兵来たのに早く気がつき、自転車に乗って逃げたが、鉄砲どんどんうってくるので、自転車タマだらけになった。着ていた服にも、タマ当たったね。からだにタマ当たらなかったから、なんとか逃げることできた。だが、三回目の時はもうダメね。日本兵が来たのに気づいた時は、もう村が囲まれていたから、逃げるにも逃げられない。そのまま捕えられたのが、ゲリラに入って五ヵ月目のことさ。わたしは兵士だから仕方ないが、村の家には、兵士でない普通の人たくさんいるよ。日本兵来たとき、「わたし兵士じゃない、民間人だ」と叫んだ人も、みんな捕えられた。日本兵から見ると農民か、普通の民間人か、兵士なのか、よくわからないよ。それに、日本兵は働く人つかまえにくるのだから、男の人とみれば、八歳ごろの子どもでも、六十歳を越した年寄りでも、片っぱしから引っぱっていくのだからね。



 あとでわかったのだが、彼ら日本兵の目的は、人狩りだったからね。



 日本兵につかまった人、みんな広場に集められたさ。どの人も、着のみ着のままで、なんにも持ってないね。みんな広場の土の上に、坐らされたさ。日本兵の偉い人が、何かさかんに言ってるけど、何を言ってるのかぜんぜんわからないの。わたしそれを見ながら、あの人は何を言ってるかわからないけど、いいことではないと考えたよ。実際にそうなったが、わたしにはその時、妻と二歳になる子どもがいたの。もうどうなっても仕方ないさ、と覚悟はしてるけど、やはり心残るね。偉い人の話が終わって、しばらくたってから、向こうの農家の庭先に、土の固まりがあるでしょ。日本兵がその土くれ拾って、坐っている人の上になげるでしょ。その土くれ頭に当たった人をナワで縛り、トラックのそばに連れていって乗せるの。最初はなにやっているのかわからず、おかしかったけど、この土くれが頭に当たったらたいへんね。抵抗なんかできないまま、トラックに乗せられて、連れていかれるのさ。わたしの頭に土くれ当たった時は、目の前が真っ暗になった。トラックに人がいっぱい乗ると、
土くれなげるのやめて、トラックは走ったさ。それから石家荘の収容所に連れていかれて、トラックからぞろぞろ落とされたさ。



 石家荘の収容所に入ったら、みんな同じね。普通の民間人も、八路軍も、蒋介石の兵士もいる。年は八歳ごろの子どもから、上は七〇歳近い老人もいたさ。


林 
わたしの入った石家荘の収容所は、テント張りになっていた。建物の収容所には、つかまった人がいっぱいいて、人りきれないのでテント張ったらしいが、テントは雨露防ぐだけで、まわりには何にもないの。わたしらはここに連れていかれると、着ているもの全部ぬがされてしまったさ。逃走するの防ぐために、裸にしたわけね。夜になっても、土間にアンペラも敷かないし、空いた場所には小便や痰、吐いたものや下痢したものが散らばっているので、横になることもできないさ。食べるものも、一日に二回だけね。コウリャンの飯が小さな碗にもられて、一つだけ配られるの。腹へるし、寒いし、疲れはでてくるし、このまま死ぬんじゃないかと、何回も思ったね。


李 
わたしは建物の中で寝たよ。蒲団はないが、板の上にちゃんと寝たからね。同じ収容所でも、違ってたわけね。


林 
テントの中でも、飢えと疲れと寒さで、死ぬ人多かったよ。夜が明けると、日本兵が巡視にまわってくるさ。地面に横になってる人あれば、軍靴で蹴ったり、棒で殴ったりするね。生きてる人は、それでビックリして立ち上がるけど、死んだ人は動かないからね。死んだ人があると、そばの人に死体かつがせて、収容所のうしろの方に運んでいくわけね。わたしも二回、死んだ人運んでいったが、そこに大きな穴が掘ってあって、穴が死体でいっぱいになると、上に土かぶせるの。野良犬が夜中にその死体を掘りにきて、人間の骨をバリバリと音させて食ってる音、よく聞こえた。石家荘の収容所は、まるで地獄だったさ。


李 
テントの収容所のご飯、どうだったか。


林 
コウリャンの飯と、醤油が少し入って、ニラの刻んだのちょっと浮かんでいるスープだけ。李さんたちと同じね。コウリャン飯食べると、大便でないから、みんな苦しんだ。これでからだ悪くした人、多いね。あとで北京の収容所に行ったら、アワのご飯ね。これは自分たちもよく食べるから、おいしく食べた。これで、わたしもからだよくなったさ。


中国での劉さん

劉 
わたしの生まれたの、河北省蘇県郡均鎮で、1920年のことね。河北省には工業ないから、どの家も農家ね。わずかより土地ないから、中国でももっとも貧乏な地方さ。つくったものは、半年くらいあるかどうか。あと食べるものないから、働かなければならないけど、働く仕事もあまりないよ。小麦の刈る時と、秋の収穫の時に、土地を多く持ってる農家に、日給で働きに行くの。一年に三ヵ月くらいより、働くことできないよ。働いても、食事代くらいのものさ。1937年、数えで一七歳のとき、ゲリラ戦はじまり、わたしも参加した。その当時の中国では、百姓の金持たち、みんなライフルあるからね。10万人とか20万人に警察ひとりよりいないから、治安の維持できないでしょ。畠いくら持っていれば、ライフルー丁持っている義務あったの。そのライフルぜんぶ出して、カネのある人はカネ出して、人あれば人出して、協力して抗日するのやったの。指導者は遠くから来て、わたしたち組織された。武器あまりないから、わたしたちのような少年、なんにも持ってないさ。腕章だけしか持ってないからね。もう少しよくなれば、手榴弾持っているだけさ。はじめのころ、まだ日本の軍隊いなかったが、そのうちに北京方面からやってきた。わたしたち、あまり戦争の訓練受けてないから、日本兵来たら、山の中に逃げた。こんど、日本兵ビラまいたの。手榴弾とピストルを持っていなければ、許されて自分の家に帰れる、過去は問わないということ、ビラに書いてあるの。わたしなんにも持ってないから、こんど家に戻って、また農業やったの。こんな人、多かったよ。だけど、まだゲリラとつながりあるでしょ。わたし少年だから、目立たないけど、大人では恨みのある人、日本兵に密告されるでしょ。日本兵すぐ来て、調べもしないで首を斬る。多くの人、こうして殺された。二十歳のとき、百姓の仕事やめて、またゲリラに入った。八路軍もかなり組織されていたから、わたしも三ヵ月の訓練受けた。それから選ばれた人、また三ヵ月の訓練受けた。わたし生まれてはじめて、学校に入ったよ。この時はじめて、抗日の思想教えられたね。わたし、物心ついてから、安心して寝たことないよ。


李 
わたしたちの少年時代、いつも何かに襲われてる感じで、ピクピクしていた。


劉 
訓練終わってから、ゲリラになって、日本兵と戦ったさ。1944年の4月のことね。まだ朝の暗いうちに、わたしたち4人、隊長の命令受けて、河北定県の停車場に行ったの。今晩おこなわれることになっている、敵の鉄道破壊に備えて、土地の情勢をさぐりに行ったわけね。鉄道のまわり調べていると、突然、銃声がしたの。わたしたち、すぐに逃げようとしたけど、15、6人が射撃しながら進んできた。わたしたちも応戦したけど、すぐ弾丸なくなって、捕えられたの。この部隊、偽政府(汪精衛政権)の鉄道護路隊の中国人ね。二人の日本兵いて、指導していた。こんど、両手うしろに縛られて、汽車に乗せられた。わたしの着いたの、石門俘虜収容所ね。日本の将校と通訳に訊問されて、何回もピンクやゲンコツ貰ったけど、わたし、訓練受けた組織の一人だから、殺されると思った。訊問終わると、全部着物ぬがされて、裸にされて、テントの中に入れられたの。わたしの入ったテントの中、真っ裸の人、1,000人ぐらいもしゃがんでいるよ。しゃがみつづけていると、足とか腰痛くなるでしょ。少しでも動くと、監視の日本兵走ってきて、梶棒で叩くの。夜になっても、横になることできないの。着物つけてないし、土でしょ。横になりたくともできないさ。夜になると、テントのなか、夜風が吹き抜けるので、寒いの。ひと晩中、ふるえていた。眠ると、このまま死んでしまう気持ね。眼閉じたり、開いたり、眠つたのか、眠らないのか、自分でもわからないね。



 石門収容所の食べ物、どうだったか。


劉 
林さんたちと同じよ。コウリャン飯で、一人に小さな碗で一つ。二口か三口食べると、もうおしまいね。腹なでても、どこにご飯人ったか、ぜんぜんわからない。これが、一日に二回だけでしょ。こんど、水もないの。1,000人もいるテントに、水はひと桶よりこないでしょ。分けることできないくらい、少ないからね。日本戦争に負けるまで、飲み水で苦しんだね。わたしのいたテントの中でも、たくさんの人死んだ。死んだ人たちの顔、いまでもちゃんと思い出せるね。5月に入ってから、わたしたちに着物渡されたの。その着物きる
と、収容所の庭に集められたでしょ。日本人の将校、「こんど、特別な恩典で、お前たちを北京の西苑更生隊に送ることになった。一日も早く、真人間になれ」と叫んでるの。このことの意味、通訳でわかったのだけど、すぐ汽車に乗せられた。この車、荷物とかカマス運搬する有蓋車だから、窓もなければ、坐席もないの。手をうしろに縛られて100人ほど乗ると、貨車の戸閉められて、外からカギかけられるでしょ。李さんの場合と同じね。空気人ってこないでしょ。その貨車に、一昼夜くらい乗ったけど、食べ物も水も、一回も配られないの。

飢えはなんとか我慢できるけど、喉の渇き、とても我慢できないの、水ほしい、水ほしい、と狂い出しそうになった。わたしの乗ってた車で、一人窒息で死んだ。西苑更生隊に着くと、こんどは建物の中に入れられたの。石門収容所みたいにテントでないから、坐ったり、横になることもできたね。


李 
食べる物どうだった……。


劉 
トウモロコシのお粥、一日に二回配られるの。量少ないけど、コウリャンのご飯よりいいよ。ここで嬉しかったこと、水いくらでも飲めたことね。構内に溝あって、山の上から、水どんどん流れてくるの。毎日、その水飲むことできるの。この水のおかげで、どれくらいの入、助かったかわからないね。ここでも、たくさんの人死んだ。日本兵に殴られて死ぬ人もあったし、食べ物少いから、からだ弱いの人、すぐ病気になるの。病気になると、隔離室に送られるの。隔離室に入ったら、もう終わりね。元気になってもどってきた人、わたし見たことない。隔離室に行くと、底が引き出し式になった、大きな棺桶おいてあるの。この棺桶、一度に十数人の屍体入るね。亡くなると、次々にその棺桶に入れて、一杯になると、わたしたちにそれかつがせるの。遠くに運んでいくと、深い穴掘ってあるの。その上に棺桶おいて、引き出しを引くと、屍体が穴の中に落ちるようになっているの。その上に土かぶせて、次に運んだ時に、その上にまた屍体落としてくるわけね。たくさんの人死んで、部屋の中、広い感じになっていくでしょ。すると、また新しい人たち、どっとやってきた。そうだ、西苑にいた時のことで、いまでも忘れることできないのある。ある日、わたしたち昼食していると、広場に集まれと命令きたでしょ。外に出ると、広場の真ん中に国旗立てる旗竿あって、裸にされた一人の中国人、縛られているの。通訳の説明だと、屍体運んで行った途中に逃げて、捕えられたもので、これから処刑するというの。歩兵銃を持った一小隊来ると、銃の先に、銃剣つけていた。こんど、二人の兵隊、隊長の命令で、銃剣つき出して、縛られた人に突撃していったでしょ。からだに二本の銃剣ささった時の叫び声、いまでも聞こえるよ。それ終わると、死んだ人のからだに、二人の兵隊が組になって、次々と突撃していくの。一小隊みんな突き終わると、縛られた人のからだ、めちゃくちゃになっていたさ。殺された人たちのこと思うと、いまでも胸痛いよ。


地獄のような貨物船

李 
北京の収容所に二ヵ月ばかりいて、それから青島の収容所に運ばれた。この間に、多くの人死んだよ。青島に三日ほどいてから、こんど船に乗せられたけど、船に乗る前は、どこに連れていくとも、ぜんぜん知らされなかった。船に乗せられて、どこに連れていかれるのか考えると、覚悟していても、不安で仕方なかったさ。船に乗るのことはじめてだから、不安も大きいわけね。


林 
わたしはね、北京の収容所から汽車に乗せられて青島に着いたけど、収容所には一泊だけで、船に乗せられた。どこに連れていかれるのか、誰も知らないからね。船に乗るとき、日本の兵隊が銃持って、両側についていたさ。逃げられるといけないからね。このとき、一緒に船に乗った人、確か300人と聞いた。


劉 
わたしたち、西苑にいた人には、日本に連れていくと、はっきり言ったよ。七月の中ごろのことね。わたしたちに着物渡して、広場に集めたでしょ。そこで、「君たち、日本に送って土工の仕事させる」と、日本の将校言ったよ。こんど、日本に行くこと選ばれた人たち汽車に乗せられたでしょ。めずらしく客車だったけど、どの出入口にも日本の兵隊ついて、きらきら光る銃剣持っているさ。きらきらの光る銃剣見るたびに、殺された人のこと思い出して、胸が痛いよ。途中、日本兵の油断見て、一人の中国人、窓からとび出して逃げたの。
それ見た日本兵、めちゃくちゃに銃うったけど、命中したかどうか、汽車そのまま走ったからわからない。青島収容所に一泊して、次の日、船に乗せられた。この船、日本に行く船と、わたしわかっていた。                       


李 
わたし知らないから、どこに連れていくのか、ぜんぜんわからないよ。みんなうしろ手になわで縛られて、日本の兵隊、銃剣持って両側に並んでいるあいだ通って、船に乗ったの、七月中旬ごろのことね。船に乗ったら、また汽車の中と同じ状態よ。わたしたち乗った船、石炭運ぶ貨物船でしょ。石炭いっぱい積んでいて、わたしたちその石炭の上に乗せられた。船に乗るとなわとかれたけど、七月ごろの黄海のなか、もう真夏でしょ。石炭のつまった船倉に入れられて、しかも頭の上に、厚い鉄の蓋してあるから、暑いったらないよ。まる
でセイロの中みたいに暑い。


林 
石炭の上に坐ると、鉄の蓋までのあいだ、いくらもないね。背の高い人、頭つくくらいの高さよ。それに、陸が見える間は、逃げられるといけないから、鉄の蓋しまったままでしょ。甲板の上にも出さないの。それでもね、水入れてよこすとき、ちょっと蓋あけた時に、船倉からとびだして、海にとびこんだ人あったけど、助かったかどうかね。陸から、だいぶ離れた様子だったからね。


李 
船の中、水ないでよ。食糧も、わたしたち食べるもの、ぜんぜんないでしょ。持ってきたトウモロコシの粉あっても、船倉の中、水も火もないから、マントウつくることできないの。結局、わずかに配られる水と、粉をまぜて固め、ボロボロのマントウみたいなものつくって、一つ一つ配給した。生のマントウ、少しずつちぎって食べたけど、これ食べると、いっそう水飲みたくなるの。喉から胸にかけて、渇きで、火ついたみたいに痛むの。


林 
水一日、たった一回より配給ないでしょ。その水でマントウつくるから、一人にひと口かふた口より渡らない状態よ。        


李 
日本の船員きて、船のなか、水たくさんないから、みんな我慢して、少しずつ飲んでくれと言われた。だけど、船倉のなか、セイロの中に入ってるみたいに暑いでしょ。我慢のできない人、大勢いて泣いとるよ。泣いてもしようがないけど、苦しければ泣くね。泣いても声だけで、涙でてこないよ。あのとき、船の中に一週間ばかりいたけど、死ぬような毎日ね。


劉 
港から船でた二日目の晩に、鉄の蓋あけてくれて、甲板に出ることできた時あったの。港から遠くなって、逃げることできないと考えたわけね。海にとび込んでも、死ぬだけのこと、誰の目にもはっきりしているからね。そのとき、誰か小さいバケツ見つけて、みんなのズボンのひもはずしてつなぎ、長くして海の水汲んだね。みんなでその水飲んだけど、黄海の水、にがくて、辛くて飲めないの。口に入れて、ちょっと飲んだけど、みんな吐いたよ。それでも、水ほしい人、うんと飲んだけど、その人たち、後でもっと苦しんだよ。口の中や喉かきむしって、苦しがったね。


李 
わたしたちの乗った船、沖縄にひと晩とまったね。船のどこか壊れたの、修理する音したけど、アメリカの飛行機の空襲あって、船停泊しても、わたしたちのこと、甲板に出さないの。日本軍、勝っていることばかり聞いてたから、アメリカの飛行機の空襲見て、わたしたちびっくりしたね。


林 
確か、琉球にも、ひと晩ぐらい停泊したね。アメリカの飛行機きて、船進めることできないわけね。五日目から、船の中の水なくなったといって、水ぜんぜんくれないさ。石炭むれて、船倉の中の空気、まるでストーブの中に顔入れてるみたいに苦しいさ。船の中の生活、収容所の生活より、もっともっと苦しい。からだ弱ってるの人多いから、船に酔う人多いでしょ。便所あっても、行くことできないから、石炭の上にやるでしょ。その匂いもひどいよ。


劉 
船の中での生活、ほんとに苦しかったね。食べる物いっぱいあっても、船倉の中で、船酔いひどいから、食べたかどうかわからないね。


李 
わたしたちの乗った船、だいたい一週間で、目本の下関に着いたね。船降りるとき、ちゃんと歩けるの人、そんなにいないよ。食べるもの少ないし、水ぜんぜんないでしょ。それに、最後の二目くらい、歩くこともできないから、足立たないの。船降りると、整列して点呼やったけど、300人乗ってきたのが、297人になっていたよ。一人はトラックで青島の収容所から、船に運ばれる間に逃げて、射たれて死んだでしょ。一人は海にとび込んだし、一人は病気で死んだね。病死した人、そのまま海に投げられて、終わりになったさ。


林 
点呼終わると、日本軍の命令で、ボロボロの服着てるの、ぜんぶぬいで棄てたさ。それから風呂に入って、全身消毒された。いい服配給になって、それ着た。わたしたち下関に着いた晩、ここに泊まったけど、ご飯も水もぜんぜんこないの。


李 
日本は魚の国でしょ。日本に着くと、うんと魚食べられると思ってたけど、水も渡してくれないよ。次の日ね、おにぎり二つくれたの。何日も食べてないから、みんなそのおにぎり、呑みこんでしまった人多いよ。下関から花岡まで、四日間も汽車に乗っていたけど、この間にもらったの、駅の弁当一つだけね。木の弁当箱まで、バリバリ食べたいような気持ね。あのときの297人の人たち、五十歳以上の人たち20人くらい、一六歳より少ない少年が6入ぐらいでしよ。あとの人はみんな、二十代から三十代の青壮年たちでしよ。いちばん腹の減る年ごろに、四日の間に駅の弁当一つで、水もなんにもないから、おなかすいて気違いのようになるの。あたりまえのことね。


林 
わたしたち乗せられた汽車、有蓋車でしょ。その貨車の中に押し込められカギかけられるから、中に空気入ってこないの。中国で乗った時の汽車と同
じね。みんな壁の板張りの、板と板の隙間に口や鼻つけて、空気吸ったよ。でも、汽車とまると、空気人ってこないでしょ。その時は汽車の中、もう地獄のような暑さね。とまった汽車、出発するとき、みんな隙の方に倒れてしまうの。立っていること、ぜんぜんできないくらい、みんな弱っているわけね。


劉 
汽車走ったり、とまったりするけど、わたしたちのこと、貨車の外に出さないでしょ。大便、小便、みんな貨車の中ね。夏の暑い時でしょ。空気あまりないから、その匂いだけでも、からだ弱るね。


李 
花岡に着いたの、汽車に乗って、四日目の昼のことね。貨車のドアあけられても、立って線路に降りることのできる人、何人もいないよ。みんな貨車から線路にころがり落ちたさ。わたしね、貨車から落ちた時に腰打って、息止まったような気持して、しばらく立てなかったさ。するとね、日本の憲兵来て、木刀で突くの。やっと立っても、ふらふらして歩くことできないの。


林 
花岡に着いた日、はっきり覚えてないけど、確か八月八日のことね。わたしたち花岡に着くまで、汽車の中で二人死んだから、花岡に来たの295人ね。よく途中で死なないで、花岡まで来ることできたと、いまでも不思議に思うね。


苛酷な労働の中で(中山寮の中国人)

 中国で捕えられてのちの苦しい収容所生活のあと、貨車、貨物船、貨車と乗り継いでの強制連行の旅が、それこそ死の旅そのものであったことは、前章の三人の話から十分に知ることができる。太平洋戦争も末期に入って、海上や国内の交通は安全を保てなくなってきており、食糧不足もかなり深刻になってきていた。それにしても、真夏に、立っていることもできないほど多くの中国人を貨車の中に押し込めたまま、不足している食べ物はともかくとして、ふんだんにある空気や水さえ十分にあたえようとしなかった。貨物船で下関に着いてから花岡鉱山に到着する四日の間に、中国人たちが口にすることができた食べ物は、駅弁一つにすぎなかった。しかも、食べ物もあたえないでカツカツにやせ細った中国人を花岡鉱山に連行して、水路変更工事という大規模な土木工事をやらせようというのだから、たいへんなことであった1944年8月8日に花岡鉱山に連行されてきた第一次の295人の中国人たちは、鉱山の近くにある姥沢につくられた寮に収容された。その寮は鉱山町から三キロほど離れており、かなり急な勾配の山道を登らなければならなかった。寮の名は中山寮といったが、中山寮の建っている場所からは、民家が一軒も見えなかったし、鉱山町からも中山寮は見えなかった。日本人の目から中国人を隔離すると同時に、中国人からも日本人を隔離していた。

 中山寮は三棟の建物から成り立っていた。寮の中は汽車のように真ん中が通路で、両側が板を敷いた座席と寝床の兼用で、上下の二段となっていた。板間の上に坐ると、背の高い人は頭がつかえるほど低かった。中央に石油ランプが一つ下がって、ほの白い光で殺風景な部屋を照らしていた。もう一棟の片側には、食堂、炊事場、事務所、補導員の宿直室、倉庫などが並んでいた。

 二棟の大きな建物から少し離れたところに、重病人を収容する部屋のほかに、遺骨安置室と看護人のいる看護棟が建っていた。この看護棟の近くに死体焼き場があったが、後になってたくさんの人が死ぬようになると、死体を焼く木や、遺骨を入れる木箱の支度ができなくなったので、穴を掘って埋めるようになった。そのため、中山寮の近くにある山の中腹は、人を埋めた穴が並んで鉢巻き状となり、それが鉱山町からもはっきりと見えた。のちにこの山は、地元の人たちから鉢巻き山とよばれるようになり、恐怖の目で見られるようになった。

花岡鉱山に連行された中国人たちの一日は、ようやく朝が明けたばかりの山間で鳴り響く軍用ラッパの音ではじまった。ラッパの音で目が覚めると、板の間に坐った。着たきりなので着替える必要はないし、布団は一枚も配られなかったので、たたむ仕事もなかった。顔を洗う手拭も歯ブラシもないので、坐ったまま大きなあくびを二、三回やり、上げた手をおろした拍子に目を何度かこすり、それから顔を二、三回なでると、朝の準備は終わった。

 ようやく朝の陽がさしてきたころ、食事が配られた。朝食は昨晩の食事と同じに、味もあまりついてない煮たフキ1本と、饅頭が一つだけであった。みんなは呑み込むようにして食べた。

 食事が終わると、中山寮の前に整列した。伊勢寮長代理や現場の補導員たちも集まり、東京の宮城に向って遥拝した。それが終わると、伊勢寮長代理の訓話がはじまった。

「みんなはじめて花岡に来だのだから、特別待遇として最初の一週間だけ休憩をあたえるが、その後は本格的な作業に入ってもらう。だが、この一週間も遊んでいるのはもったいないから、寮の整理をする以外の人は、山を開墾して畑をつくることにする。この仕事も大東亜建設に尽す義務のひとつだから、なまけたりしないで精いっぱいに働け……」

 訓話は通訳から伝えられた。その後で、全員の編成がおこなわれた。全員を1大隊とし、その下に中隊を置き、中隊の下に小隊を置いた。小隊の中では、10人の班編成をした。最初は三中隊、9小隊に分けられたが、1945年に入って第二次と第三次とが連行されてきてからは、4中隊、12小隊に分けられた。最初の編成を図で示すと、下図のようになる。

 大隊長には耿諄がなったほか、副隊長には羅世英、書記には劉玉卿、軍需長には任鳳岐、看護長には劉玉林が任命された。また、中隊長には李克金、張金亭、王成林が任命されたし、小隊にもそれぞれ小隊長が置かれた。林樹森と劉智渠は看護班に所属していたし、李振平は第二小隊長であった。

 また、鹿島組花岡出張所と、中山寮とに勤務して、直接に中国人たちを扱った日本人は、次の人たちであった。(なお、年齢は全部が1944年8月現在である)


鹿島組花岡出張所

所長は河野正敏(40)で、中山寮長も兼ねていたが、中山寮に出向くことはあまりなく、出張所にいることが多かった。河野の下に労務課長の柴田三郎(45)、労務係の高久兼松、佐藤勇蔵、配給係の塚田亀夫などのほかに、女子事務員も合めて約20人前後の人たちが勤務していた。


中山寮
 もと裁判所の書記であった寮長代理の伊勢知得(40)の下に、庶務が2人、補導員が8人、医務担当が1人いた。しかし、医務担当の高橋豊吉は医師の資格もない元衛生兵で、一日に看護棟に一回顔を出すだけで、あとは中山寮の中にいたが、病人に手をかけることはほとんどなかった。また、鉱山病院の大内正医師は、死亡書を言いなりに書くだけで、病人の治療にあたることはあまりなかったという。

 しかも、伊勢と庶務の越後谷義勇、補導員の石川忠助をのぞいた7人は、全員が兵隊経験を持っていた。それも、7人のうちの6人が中国大陸帰りの傷痍軍人であり、中国人に対してもっとも狂暴にふるまったのは、この人たちだったのである。中国の戦場で中国人たちを虫ケラ同様に扱った軍隊生活を、花岡で中国人連行者の上に再現させたのだった。中国帰りの6人は、片言にしても中国語のわかる人たちであった。その6人とは、小畑惣之介(32)、福田金五郎(35)、古谷四郎(25)、長崎辰蔵(30)、猪股清(30)、檜森昌治(35)であった。また、補導員の一人である清水正夫(25)は中国混血で、中国語が非常に上手だった。

この清水もまた、思いっきりに狂暴の牙をふるって、多くの人たちを死に追いやり、中国人からもっとも憎しみの目を向けられた一人であった。三人の会話の中にも出てくるが、軍需長になった任鳳岐はその地位を利用し、それでなくとも少ない食糧の中から、その量をごまかして中国人に食べさせずに、家に帰る補導員に渡したり、自分で売って遊廓に行くなどの行為で憎しみを買い、蜂起の時にはいちばん先に殺された。この二人の例でもわかるように、血のつながる同胞たちを自分の手で痛めつけ、苦しませたということは、今日的問題としても十分に考えたい事実である。

 それに、兵役経験のない越後谷義勇(19)と石川忠助(40)の二人は、あまり中国人をかばいすぎるとして、同僚たちから快く思われていなかった。この二人は、しばしば中国人を助けたり、こっそりとかくれて食べ物などをあたえていた。そのため、蜂起は二人が宿直でない晩を選んで実行されたことでもわかるように、中国人たちから信頼されていた。中国人にたいして狂暴を振わなかったのが、兵役経験のない二人であったことも、さきにあげた事実と同様に、考えたい問題である。

 このほかに、大館警察署長の三浦太一郎、その下にいた特高警察の後藤健三などが、中国人たちを監視するために、毎日のように中山寮や作業現場に来ていた。また、華北労工協会から通訳として派遣されてきていた于傑臣と、同じく華北労工協会から来て本部にいた木村初一などがいた。

こうした状況の中で、第一次連行者の295人は重労働についたのである。特別待遇の一週間がすぎると、本格的な重労働に入った。早朝から数キロも離れた現場に行くと、花岡川の流れを変更する工事に取りかかった。しかし、土木機械は一つもなく、なわで編んだモッコと、スコップやツルハシだけという人の力だけをあてに、岩石の多い平地に幅二丈に深さ三丈の川を掘るのだから、現場で働く中国人にとっては、重労働の連続そのものであった。

 しかも、毎日の食べ物といえば、一回に小さな饅頭一つと、フキかゴボウの煮たのが一本というように、極端に貧しかった。また、衣服も不十分そのもので、雪が降りはじめても、着ているのはシャツ1枚だけであった。また、板間のベッドにはゴザさえも敷いておらず、雪が降りだしてから毛布が一枚だけ配られるという状態だった。

 また、鹿島組補導員たちの残虐な数々の行為は、多くの中国人たちを死に追いやったり、一生不治の怪我をさせたりした。食べ物が悪くてからだが弱っているために、掘った川底から土や石を運び上げることができないといっては梶棒で殴られ、腹が減るので裏山で草を取って食べているのが見つかると、死のリンチを受けるという状態だった。ほとんど毎日のように仲間たちが殴る蹴るの暴行を受けて殺されたり、栄養失調と重労働のために、20歳代の若者たちが次々と看護棟に送り込まれていった。看護棟には医者がくることはなかった  し、薬もひとかけらもあたえられなかったので、林さんの記憶によると、看護棟に入った人で再び丈夫になったのは一人だけで、あとの人たちは死んでいったという。

 1944年夏から1945年の夏にかけてというように、日本の戦局がますます悪化してきた状況下での出来事であり、「戦時中だから仕方なかったのだ」と、中国人たちにたいする行為を弁護する人が、現在でもかなりいる。だが、三回にわたって鹿島組花岡出張所で連行してきた986人のうち、死亡者は418入と多いのにくらべて、同じ場所の同和鉱業花岡鉱業所に連行されてきた298人のうち、死亡者は11人だったことをあわせて考えると、いかに鹿島組の場合がひどかったかがわかる。


食糧を奪う補導員

 敗戦後に民間団体の手で作成された『現地調査報告書』には、次のような話が収録されている。中国人が連行されてきたころに、花岡の役場に勤めていた人は、「すべてのことが軍の秘密だといって役場には知らされず、食糧の配給のことも、県から直接にやられていた。何人きたのか、どうして死んだのか、なんで死んだのかも役所ではわからなかった。食糧はピンハネされていたようで、真っ黒い蕗二本、皮をむかないものと、まん頭一ツわたされていたのを見ました。汪精衛の方からよこされて、鉱山に直接に使われていた人達は、同じ配給であったそうだが、わり合いしっかりしていたから、鹿島組は本当にひどいことをしたものだ」と語っている。

 この話でもわかるように、鹿島組に連行されてきた中国人が、とくに苛酷な扱いを受けたのであった。それは、毎日の重労働と同じように、中国人たちがもっとも苦しめられた食べ物の場合もそうであった。それでなくとも少なく配給される食糧の中から、鹿島組の幹部や中山寮の補導員たちが、自家用として運んでいったり、あるいは大量に売り払って飲み食いのカネにされていたのである。食べ物が少ないために多くの中国人たちが栄養失調となりそれが原因で病気になったり、あるいはからだが弱って仕事ができないといっては、補導員
に殴り殺されていったのである。

 補導員たちの多くは、大館市から中山寮にかよっていたが、戦時中に大館市大町に住んでいた嶋田展代さん(故嶋田普作代議士の長女)は、その当時の記憶を次のように語っている。

 「わたしたちのいた大町の管原さん宅の奥のいちばんいい部屋に、花岡鉱山の鹿島組出張所長をしていた河野正敏さん一家が借りられていました。そこには、立派な防空壕(わたしたちも何度か入りました)があり、それは母から聞いた話によると、朝鮮人(当時は中国人とは言わなかった)がつくったものだそうです。わたしたちはいつも食糧難でしたが、奥の河野さん宅には、見たこともない角砂糖があったり、うどん粉があったり、美しい奥様がいつもきれいにしていらしたのが、まるで別世界のように、わたしには見えました」

 『現地調査報告書』の中でも、蜂起した時に殺された補導員の近所に住んでいる人の話として、「彼らの家では、いつも食糧が豊富であった。われわれのところはますますひどい状況になっていくのに、彼らの食生活はますます豊かになった。彼らが中国人の食べ物をピンハネしているのだと噂されていた。中国人に殺されたと聞いて、近所では、当然だと話しあった」と記録されているのをみても、食糧が補導員の手で勝手に持ち出されており、しかもその量は、近所の噂になるほど多かったのである。

 食べ物だけではなく、毎日の労働についても同じであった。中国人たちがあまりにも少ない食べ物の増加や、労働条件の改善などを要求するたびに、鹿島組ではその報復として、翌日から建設週間というのを計画し、さらに厳しい労働を押しつけてくることがしばしばだった。建設週間に入ると、補導員の指定した普段よりも多い一日の仕事量を達成しない組は、暗くなっても帰寮したり、食事をとったり、休んだりすることが許されず、真夜中までも働かされた。

 目撃者の一人は、「食べものがひどい上に労働の過重は、とても朝鮮人の比ではなかったのです。夏の日の長いころですが、日もすっかり暮れてうすぐらくなってから、ふっと泣き声が耳につく。出てみるとあの人たちです。水路工事に使う長い杉の立木を、二人で、さきっぽとさきっぽをかついでいる。二人とも顔は見えないが、足など火箸みたいにやせている。腹はすいている。木は重い。二人はちょうど四つ五つの子供が泣くように悲しくて泣く時のように、暗がりに木の重みでふらつきながら、こう、声をひいて泣いているのです。すると横についている監督が、これみろとばかりに棍棒でなぐる」と言っている。
(松田解子「花岡鉱山をたずねて」−『新しい世界』より 


 少ない食べ物と、長時間にわたる厳しい労働の中で、多くの人たちが怪我をしたり、あるいは病気になったりして看護棟入りをしたり、仕事ができないといっては、補導員に殴る蹴るの扱いを受けて死んでいった。ある時、看護棟入りをする人や、死亡者が続出することが鹿島組本社の注意をひき、一人の医師が鉱山病院から中山寮に派遣されたことがあった。しかし、この医師は病気の治療にきたのではなく、本当の病気なのか、それとも仮病を使っているのかを検査に来たのだった。答える声にちょっとでも力があったり、歩いたりすることのできる人はみんな仮病と診断され、看護棟から中山寮に移されて補導員に梶棒をくわされてから、強制的に現場へ追い出されていった。

 やがて、花岡鉱山にも冬が訪れ、みぞれの降る季節となり、地面は凍りつくようになった。しかし、秋田の冬がはじめての中国人には、夏シャツの上に一組の作業衣が支給されただけで、目撃者のある坑夫は、「冬でも丸はだかに近いぼろシャツ一枚に、背中に雪よけの菰、足にはぼろわらを巻いて、凍った水に脛から股までひたして働かされていた」と『現地調査報告書』の中で語っている。しかも、寮で寝る時に着る一枚の毛布が渡されたのも、雪が降り出してからのことであり、それまでは板の上に着たきりの姿で横になっていたというから、正気の沙汰ではなかった。厳しい冬が終わりをつげるころになると、約八ヵ月前に295人が花岡鉱山に来たのにその三分の一にあたる90人ほどの人たちが死んでいたほか、再起不能の病人や怪我人が40人近くでていた。働く人が減っていくにつれて、仕事は生き残った人たちの上に重くのしかかるようになった。だが、死んでいく人はますます多くなり、工事を順調にすすめていくことができなくなってきた鹿島組では、再び中国人たちを連行してくる計画をたてた。そして1945年5月に587人、同じく6月4日に98人の中国人たちを、新しく花岡鉱山に連行してきたのだった。


 新しく中国人たちがやってくると、鹿島組の補導員たちはその見せしめとして、何人かの中国人を多くの人たちの面前で殺害していった。しかも、食べ物はいっそう悪くなってきたほか、秋田県労働課の指示によって、これまでよりも朝晩二時間の作業時間の延長を中心とした工事突貫期間が実施された。こうした残虐な仕打ちの中で、多くの中国人たちは、「生きているよりは、死んだ方が楽だ」と考えるようになった。


毎日の死体焼き

 林 
花岡鉱山についた晩、会食するのこと言っていた。なに出るか楽しみにしてたら、夜遅くなってから出たの、イワシー匹と饅頭一つね。寮の中に、わたしたちのご飯つくる人いないでしょ。わたしたちの中から料理つくれる人選んでつくったから、遅くなったの。饅頭ね、うどん粉少しより入ってないの。あとはリンゴのカスとか、ドングリの粉でしょ。あとは知らない草みたいなもの、いっぱい入っている。ふわふわしないから、ぜんぜん饅頭の味しないの。だけど、おなか空いてるから、イワシと饅頭、すぐになくなったさ。イワシの頭も骨も、みんな食べた。大きい骨も、残さないね。


 李 
配給のうどん粉、もともと少ないのに、寮長や補導員たち、その粉家に持っていったり、売って、夜、外へ飲みに歩くか、遊びに行くかするでしょ。もともと少ないもの、こうして取るから、もっと少なくなるわけね。足りない分は、山のドングリの粉とか、リンゴのカスとか、干した草などまぜて、饅頭つくるの。その饅頭も、小さいったらないの。わたしたち、重労働者でしょ。一人で一回に、10個以上も食べられる大きさよ。それがたった一個でしょ。しかも、おなかの空いてる時でも、うどん粉の少ない饅頭固くて、ノドを落ちていかないの。そのままの状態で食べた人もいたけど、わたしはその饅頭ほぐして、おかゆ作るの。昼は現場に出るからそんなことできないが、朝と晩はいつもおかゆにして食べた。おかゆにすると、ノド落ちてゆくね。


 劉 
まったくあの饅頭、人間の食べるものでないの。腹の中に入ったら、30分もすると、下痢になってしまうの。下痢はじまると、足とか手とか腫れてくるさ。その腫れたところ指で押すと、ぽこんとひっこむの。中国でつかまえられた時から、食べものこの状態でしょ。からだ弱ってくるのも、当然のことね。


 李 
花岡に着いた次の日に、班編成やったさ。このこと、鹿島組からの命令ね。耿諄大隊長は、船に乗ったとき、もう決まっていたさ。この人、国民党軍の上尉で、性格弱いところあったけど、なかなかできる人ね。その下に、中隊を全部で四つ作って、中隊長置いたの。

 中隊の下に小隊つくって、それから10人の班にしたの。1中隊の中に3小隊つくったから、全部で12小隊あって、その上に小隊長いるの。1つの班には、班長いるの。このほかに、書記、軍需長、看護長がいて、看護長の下に看護班あって、三人の人いたの。これ、だいたいの班編成ね。わたしは前にも言ったけれど、第一中隊の第二小隊やったの。班編成終わると、鹿島組の人や補導員たち、これからの生活とか仕事のこと、隊長や中隊長とか小隊長を集めて教えたね。わたしたちや小隊長、そのこと班の人たちに伝えるわけね。


 劉 
わたしと林さん、看護班にいたでしょ。花岡に着いて三日間、寮の中やまわり整理したね。寮の前に井戸掘ったり、便所つくるの仕事もした。ほかの人たち、畑つくるの仕事した。こんど、川を掘る仕事に出ると、病人とか怪我人が出てきたね。


 林 
看護班の仕事、病人のひと看護することより、死んだ人を焼くの仕事多かった。人死ぬと、寮のうしろにある山に運んでいくの。それから木集めて焼いて、最初は骨をカメに入れたけど、こんど、だんだん多く死ぬのでカメなくなり、木の箱つくって入れたさ。わたしたちのいる看護班の小屋、寮と少し離れたところにあったでしょ。わたしたちのいる部屋と、働けない重病人のいる部屋があって、その奥に、遺骨の箱置いた安置室あったの。わたし中国で、医者のような仕事したでしょ。それで看護班に入ったけど、薬一つもないし、包帯もないよ。重病の人あっても、怪我した人あっても、水でひやしてやるか、背中とか腹さすってやるだけね。結局、病気になると死ぬだけね。大きな怪我した人も同じさ。高橋という、元衛生兵の医務担当の人いたけど、この人、わたしより病気のこと知らないから、なんにもやらないの。一日に一回だけ、看護室に、「どうした」と、顔を出すだけね。鉱山病院にも、大内正という医者いて、わたしたち中国人のことみることになってたけど、看護室に来て治療に当たったの、一回もないでしょ。死んだ人あると、死亡届を書きにくるだけね。その時も、事務所に来て、補導員から聞いたまま書くだけさ。わたしたちにも聞かない。自分で死体みて、手をふれて調べたこと、一回もないの。一日に何人も死ぬ日つづくと、病院で聞き。ながら、死亡届書いたこともあったさ。病気になる人多いのに、医者もこうでしょ。わたしのほかは、誰も病気のこと知らない。わたし、病気の原因わかっても、薬ないからなんにもしてやれない。死ぬのを待っているだけね。


李 
病気といっても、ほんとの病気の人、少ないよ。食べ物悪いし、少しだけでしょ。普通の日でも、朝6時から晩の6時まで、土方の仕事するでしよ。からだやせてふらふらして、どの人もちょっと強い風吹くと、倒れてしまうよ。足の太さも、腕より細いからね。みんな、栄養失調と寒さからきてる病気ね。だから、倒れて重病室に運ばれると、みんな確実に死ぬわけね。死ぬの日、遅いか、早いだけのことね。重病室に入って、生きのびた人、一人だけね。


 林 
わたしたち中山寮に入った最初のとき、死ぬ人あまりいなかったが、日がたっていくと、死ぬ人多くなってきた。だんだんと、からだ弱まってきたからね。はじめての時は、何日かおきに一人か二人死んでいたが、冬に入ると、一日に二人も三人も死ぬ日あるよ。病気になる人も、だんだんと多くなってくるさ。結局、倒れたらダメよ。これ、李さんの言うとおりね。わたし看護班にいたから、中国人のからだのこと、よくわかるの。少しカゼひいて、現場に出られない状態になって、看護棟に運ばれてくるでしょ。それから三日か四日、長くとも一週間寝ていると、もう終わりさ。ぜったいに死ぬよ。病気になって、仕事に出ないと、それでなくとも量の少ない饅頭の大きさ、また小さくなるの。いくらも食べることできないから、からだもっと弱って、病気に勝てないわけね。


 劉 
それでも夏の間、わたしたち山に登って、よく草食べたさ。昼の休み、いくらかあるでしょ。補導員たちに見つからないように、いろいろな草食べたさ。これで、わたしたちだいぶ助かったね。こんど、雪が降ると、この草食べることできないわけね。雪食べても、腹いっぱいにならないからね。


 李 
食べものこんなに悪くて少ないうえに、中山寮の設備も、ぜんぜんダメだからね。わたしたち花岡鉱山に来たの、8月の半ばのことでしょ。昼は暑いけど、夜はもう寒いからね。わたしたち、日本の気候に馴れてないから、とくに寒いの。寝るところ、上下二段のベッドで、板は敷いとるけど、蒲団も毛布も、一枚もないの。着替えるものも持ってないから、そのままごろっと横になるだけね。腕枕にして寝たの。疲れてるから眠るけど、夜中に寒さに気がついて、何度も何度も目が覚めるの。だから、夜も十分に眠れないからいからだもっと疲れるわけね。


 林 
せめて、アンペラぐらい敷いとるといいけど、それもないからね。中山寮のあるところ、かなり高い山の中腹でしょ。夜になると、冷たい風吹きおろしてくるから、寒いの。羽目板の隙間から、その寒い風入ってくると、からだカタカタふるえてくるの。足縮めて、丸くなって寝ても、寒くて死にそうな思いね。


 劉 
中山寮の中に、風呂もないでしょ。からだ、垢だらけでしょ。カミソリもないから、頭の髪やひげ、のび放題さ。一枚きりの衣服、ぼろぼろでしょ。わたしたちの姿、地獄で難行苦行している亡霊みたいさ。


難儀な川掘り作業

 李 
仕事もきついからね。花岡に来て三日間は、寮の中の片づけや、寮のまわりの整理したでしょ。それから四日間は、特別待遇ということで、土方の仕事に出ないで、山を開墾して、畑づくりの仕事したの。この期間終わると、川を掘る仕事に出ることになったでしょ。朝は五時になると、軍用ラッパ鳴って、起こされるでしょ。寒いし、おなかすいとるから、その前に目覚ましていること多いね。顔洗う水もないし、手拭もないから、朝の仕度は、便所に行くだけさ。朝のご飯は、饅頭一つに、皮のついたままのフキ煮たの一本か、細いゴボ
ウの煮たの一本か出て、もう終わりでしょ。わたしはおかゆに煮て食べたから、時間少しかかったけど、腹いっぱいにならないから、あとは水飲むだけね。その水も、あんまり多く飲んでいるの補導員に見つかると、すぐ棍棒とんでくるから、水もあまり飲めないよ。


 林 
労働するの時間、朝の6時からはじまるでしょ。中山寮から川掘る現場まで、かなり遠いね。わたしたちの看護班も、はじめは病人いないから、土方の仕事に歩いたよ。誰か死ぬ人あると、中山寮に運んできて、焼いたけどね。


 李 
遠いさ。あれ、四キロはあるよ。それに、山の坂道が半分以上あるからね。朝くだっていく時はいいけど、晩に帰る時はたいへんさ。途中で息切れて、何度も休むね。休むの見つかると、補導員の梶棒とんでくるから、息切れそうになっても、なかなか休めないの。仕事は、平たい地面のところ深く掘って、水流してくる川つくることでしょ。仕事のやり方、補導員が大隊長に話して、大隊長から中隊長、それからわたしたち小隊長、それから班長に伝わっていくの。仕事の終わる時間、だいたい午後の6時となってるけど、6時に帰れる人、
何人もいないさ。ひとりが一日働く分として、川を掘る面積、1uずつ割り当てられるの。6時までにその分の仕事終わった人は帰れるけど、その分終わらなかったら、暗くなっても帰れないさ。晩の8時ころまで働く人もいたさ。


 劉 
仕事のできない人、わたしたちの寝るころ、中山寮に帰ってくる人もいた。ふらふらして、寮の中も歩けない状態ね。指でポンと押すと、倒れてしまいそうな歩き方ね。その人、次の朝、また6時に仕事に行くでしょ。何日もしないうちに、看護に運ばれてきて、死んでしまうわけね。ひとり一日に1uの面積掘るの仕事、あまりひどいよ。


 林 
現場で働く人、何班にも分けられたでしょ。一班は10人だから、10u割り当てられるわけね。平たい地面のところ、川に掘るわけだから、石が多いでしょ。その掘った石、川の上に運び上げないといけないけど、力ないから、上に運び上げるの仕事、たいへんさ。何十キロもある大きな石、三人か四人かかっても、上にあげることできないの。途中まで上げて、力なくなって、また川に掘った底に落としてしまうこともあるの。そのこと、補導員に見つかるでしょ。牛の皮の干したムチや、棍棒でもって、上に運べない人たちのこと叩く
の。倒れるとカネのついた軍靴で、倒れてる人のからだ、どんどん踏んで叱るの。こうして殺された人、かなり多いさ。


 李 
もっとひどいのことね、晩の8時か9時までかかっても、10uの割り当てられた分、掘れない班もあるでしょ。遅くなって、坂道ふらふらに登って、中出寮に帰ってきても、こんど夜のご飯減らされるの。その時によって、三分の一に減らされるか、半分に減るかするから、からだぜんぜんダメになるね。働きながら倒れる人、多くなってきたの。倒れて重病室に運ばれると、もう終わりさ。あの時の状態、どの人もガラガラにやせて、歩いてもふらふらだから、大きな石運べないの、当然のことよ。


 林 
わたしね、誰とだったか二人で、遠い山から、長い杉の木かつがされたことあったの。生木の長い木だから、重いでしょ。川掘っているところまで来ないうちに、暗くなってしまったの。足ふらふらして、おなかすいて目まいするでしょ。わたしの相棒倒れたの。すると補導員来て、梶棒で叩くでしょ。泣きながら立ち上かって、また二人でよろよろ運ぶの。夜の8時、現場に着くと、二人ともあと動けないの。補導員の清水が、早く寮に帰れと、また梶棒ふるってくるさ。このとき、もう死んでもいいと思った。わたしの相棒、そのとき清水に腕折られて、一生かたわになったよ。


 李 
補導員のろくでなしは、一つの中隊に二人か三人、一つの小隊長に一人はついているからね。わたしたちを殺すために、補導員がいるようなものさ。


 劉 
わたしたちのからだ、やせ細って、歩くのもふらふらの状態でしょ。ところが補導員、なにを食べてるか知らないが、みんな元気でしょ。その元気な人たち、わたしたちのことカー杯に叩くのだから、たまったものでないよ。補導員たちのからだ、肥ってくるほど、わたしたち死に近づいていくような状態だったさ。


 林 
わたしたち、日本人のことばよくわからないね。補導員に「オーイツ」と呼ばれると、もう叩かれるか、踏みつけられるかでしょ。この叫ぶの聞くと、もうからだ固くなったさ。いまでも補導員たちの叫ぶの声、よくわかるね。


 李 
補導員たち、中国のことばわかるの人多いね。ほとんどの人たち、わたしたちの言うのわかるの。だからわたしたち、あまり文句や悪口、言ったりできないの。そのこと聞こえると、また棍棒とんでくるからね。花岡鉱山の普通の人たちも、補導員と同じ態度の人ほとんどね。わたしたち、寮から現場に行く途中に、鉱山社宅とか、家のそば通って行くでしょ。わたしたちのこと見ると、大きな声出して笑うし、子どもたちは、わたしたちのこと見ると石投げてよこした。助けてくれた人、少しはあったかもわからないが、わたしには一度もなかったね。わたしたち髪ぼうぼうに伸びて、ひょろひょろにやせて、目ぎょろぎょろして、風呂に入ったのこと一度もないから、からだの匂いするからね。きたないお化けか思って近づかないの、あたりまえのことね。


 林 
わたしも民間の人に助けられたこと、一度もないさ。わたしたちと道路で会うと、道路わきまで逃げて、黙って見ていたさ。わたし、いまでも思い出すこと、一つあるの。わたしたち、道路に何か食べられるもの落ちていると、なんでも拾って食べたでしょ。そのこと、補導員見つけると、「こら、犬ども」と叫んで、叩くでしよ。腹減ってるから、食べられそうなものあると、なんでも拾って食べたい気持ね。そのこと毎日見ている人、道路のそばに住んでいる女の人ね。わたしたち通ると、腐ったような食べ物、わざと道路に投げてよこすの。わたしたち、それほしいけど、補導員そのこと見てるから、手出せないでしょ。ひとりの入、我慢できなくて、それ拾って口に入れたら、補導員走ってきて、梶棒で何度も頭とか顔叩いたの。その人、片方の耳から血出して倒れたけど、その入、それから片方の耳聞こえなくなったの。ひどいことする女の人いるね。わたしその時のこと思うと、いまでもその女の人の顔わかるよ。憎いよ。草食べて飢えしのぐ。


 李 
花岡にいた時のわたしたちは、日曜も祭日も、ぜんぜんなかったさ。休んだ日、1944年の大晦日に半日と、1945年の元旦の一日だけね。あとの日、どんなに天気の悪い日でも、仕事に出た。しかも、食べ物悪いうえに、少ないでしょ。どの人も、骨と皮ばかりにやせて、生きた顔してる人、ひとりもいないよ。


 林 
わたしたちほとんどの人、農家の生まれで、小さい時から労働してきたから、働くのこと、なんともないよ。働くのこと、好きな人多いよ。だけど、花岡では、食べる物少しよりくれないで、無理に労働させるでしょ。からだ弱って、歩く力のない人、石運ぶ力のない人あると、棍棒で殴ったり、小突いたりするわけでしょ。これではどうにもならないよ。働くこと好きな人でも、働くことできないよ。


 劉 
中国にいた時も、わたしたち、そんなにいい生活してなかったさ。八路軍に入ってからの生活、苦しかったこと多い。食べ物もいいもの少なかったけど、たくさん食べていたからね。腹いっぱい食べると、力出てくるし、働けるけど、饅頭一つに、ゴボウかフキの煮たの半分か一本では、働く力出てこないのは当然ね。


林 
あんまり腹減ってしようがないから、昼休みの時間になると、補導員のいない時に、そっと山に登って、草を取って食べるの人多いよ。だけど、日本の草のこと、どれ食べられるか、食べられない草か、わたしたちよくわからないでしょ。草食べたあと、腹痛む人もあったし、口から白いアワふいて、山ころげまわって苦しんで死んだ人も、一人か二人あったさ。
そのこと見ても、腹減ってくると、また草食べに行くでしょ。わたしたちの手にはいる食べ物といえば、草とか水よりないからね。


劉 
その草食べるのことも、補導員がいるとダメだからね。草食べているの見つかると、また梶棒で殴られるからね。わたしたち、腹減って苦しんでいること、いちばんよく知っているの、補導員たちでしょ。その補導員たち、わたしたち草食べているの見ると、怒るわけでしょ。どんな気持の人たちか、ぜんぜんわからないよ。


李 
夏の間は、それでも草食べられるからいいが、秋になるとその草も枯れて、食べられないからね。食べる物、どこからも拾うことできなくなるよ。しかも、秋だんだん深くなると、骨と皮ばかりにやせたからだ、寒さいちばんこたえるさ。わたしたちの着てるもの、下関に着いた時にもらった夏用の一重物が、二枚よりないよ。履物も破れてしまって、素足がまる見えさ。雪とか、凍った砂とか、冷たい水とか、いつも入ってくるからね。足は凍傷にかかって、感覚なくなっているよ。手袋なんか、一つもないよ。素手で、凍った土や石、雪つかんで働いたさ。


林 
靴下もぜんぜんないからね。雪降ってから、ワラを少しずつ集めて、貯めておくの。そのワラ貯ってから、履くものつくってはいたさ。このワラの靴はいても、足だけかくせることできるけど、あとはかくせないから、濡れるだけね。秋田の冬、雪が深いでしょ。多い時は、腰までも雪があるさ。その雪の中で、半分も破れた履物の上に、ワラで編んだ靴のようなものはくだけで、仕事に出るのだから、苦しいの当然よ。あの時の凍傷のあと、いまも寒くなると痛むね。この傷のあと痛むと、あのころのこと思うよ。忘れようとしても、わたしのからだ忘れさせてくれないわけね。


 李 
着るものだって、ボロボロの下着の上に、薄くて黒いワイシャツのようなもの、たった一枚でしょ。薄いから、強い風吹くと、肌に風ささってくるね。雪降ってる日だと、からだみんな濡れてるから、とくに寒いさ。冬になってから、セメントの入ってきた紙の袋見つけて、ワイシャツの下にその紙まいて、着た人もいたさ。セメントの袋そんなにないから、あたらない人は、ワラで編んだゴザみたいなもの着てる人もいるさ。わたしも、はじめはセメントの袋見つけて着だけど、紙だから濡れるとすぐ破れるから、俵をゴザのように、自分
で編み直しだの着たさ。強い風の吹く日は、ゴザの上からからだに風をとおしてくるから、寒いよ。ぶるぶるふるえて、働くこともできないさ。わたしたち、まるでドロボウみたいなかっこうしていたさ。吹雪の強い日は、寒くて、唸るような声たてて、泣いとる人多いよ。雪の中で働いていて、倒れると、もうそのまま死んでいること多いね。倒れてから死ぬのじゃなくて、死んでから雪の上に倒れる人多いね。


 林 
死んでいく人、最初からわたしたちの手にかかるさ。わたしと劉さん、看護班にいたからね。花岡に来た最初のころは、一人ひとりていねいに焼いていたし、遺骨入れるカメもあったさ。ところが、だんだん多く死んで、焼く木が不足したり、遺骨入れるカメとか、木箱なくなってきたでしょ。こんど、山に丸い穴掘って、一人ひとり埋めて、だれ死んだかわかるように、本に名前書いて立てたよ。これ、あとで掘ったけど、誰のものかちゃんとわかるさ。こんど、冬になって、病気になる人多くなって、一日かひと晩に、五人も六人も死ぬ日がつづくようになったよ。もっと多くの人、一日かひと晩のうちに死んだこともあったさ。こんな時、わたしたち三人の看護班だけで、死んだ人運んだり、穴掘ったりすること、間に合わないの。土凍ってるから、そんなに穴も掘れないでしょ。わたしたちの中でも、病気の人いたからね。こんど、からだの弱い人、三人か四人、死んだ人運んだり、埋めたりする仕事、専門にやるようになったさ。それでも間に合わないと、わたしたちも手伝うさ。こんど、伊勢寮長代理の命令で、山の中腹に、大きな穴掘ったね。深さもだいぶあるさ。わたしと李さんの二人、戦争終わってから、そこに行ってみたことあるけど、大きな一つの穴に、遺骨掘った人の話聞くと、八十何人が入っていたと言っていた。死んだ人、山の中腹にかついでいくと、その穴に入れて、上の方に土かぶせるのでなく、白い石灰あるでしょ、その石灰まいて終わりさ。次の日に、また死んだ人あると、その上にまた死体入れて、石灰まくわけね。その大きな穴から掘られた人、全部そうして埋めたから、どこの人かわからないよ。三日と
か四日、死んだ人なくて、その穴のところに行かないでいると、犬とか猫とか、いたちが穴の中に入って、人間の屍体、食べていることもあるさ。腕とか足とか、食われてなくなっているところもあるさ。食われて散らばっているもの、誰の腕か足か、もうわからないね。冬になって、雪深くなるでしょ。中腹の穴のところまで、運んでいけないことあるさ。その時は、中山寮のそばに雪の穴掘って、死んだ人その穴に埋めて、あとで雪少なくなってから、穴に運んで埋めたこともあったさ。これ、わたしたち勝手にやったことでなく、鹿島組か補
導員の命令ね。生きとる時も、わたしたち虫ケラのようにされたが、死んでからも同じだったさ。


 李 
冬の寒い時のこと、口で言えない苦しみね。着ているもの少ないし、はいとるもの破れとるでしょ。しかも、仕事は川をつくるのことだから、掘った溝の中に、雪のまざった水、膝まであることもあるさ。着物は、上から下まで、全部濡れとるでしょ。暗くなってから、中山寮に帰るね。手足しびれて、やせた足や手の肌の色、黒いような、死んだ人の色のようになって腫れてるよ。こんな時の手足、どんなに叩かれても、痛くないの。火で、腫れた手足あたためると、こんど痛むの。あまりの痛さに、火にあたって、ヒエヒエ泣いとる人いるよ。濡れた着物つけたまま、火にあたって乾かすでしょ。花岡に来てから、一度も洗ったことないから、乾くと鮫の皮みたいにザラザラしてくるから、ぜんぜんあたたまらないさ。冬がきても、着物つけたまま、あとなんにもないから、ベッドの板の上に横になっているだけでしょ。寒いから、ひと晩中ふるえつづけているさ。次の朝、起きようとしても、足とか手が動かないの。板の上に起きあがって、足や手をだんだんに動かして、歩けるように馴らしていくさ。晩に寝る時、次の朝、生きて目が覚めるのかなと、いつも思ったよ。


 林 
わたしたち看護棟にいること多いから、その苦しみは、李さんたちほどでなかった。食べ物悪い、着るもの少ない、夜も寒くて眠れないのつづけば、病人の多くなるの当然さ。冬になってから、いったん病室に送りこまれてくると、次の朝に死んでること多いさ。からだ弱って弱って、死にそうになってから、病室に来るからね。看護棟には、薬も病入用の食べ物もないから、どうしようもないよ。


劉 
雪がたくさん積ってから、第三中隊の人、二人にかつがれて病室に運ばれてきたことあった。彼のからだ、全身びしよ濡れで、氷のように冷えていたさ。目固く閉じて、人事不省になっているの。補導員に殴られて、ダムの中に落ちた二人が、引き上げられてきたわけね。手足にさわると、氷のように冷たいし、耳にロつけて名前呼んでも、ぜんぜん動かないの。胸のあたりに、小さな温みあって、低い息が聞こえるので、生きてるのこと知らせているわけね。だけど、看護棟に火もないから、お湯もやれないし薬もないでしょ。いろいろ考えたあげく、わたし庭に出て、死んだ人焼くための薪持ってきて、火燃やして、暖めてやろうと思っだの。薪持ってこようとしたら、軍需係の任鳳岐が来て、「薪どこに持っていくのか」言うの。「病人のこと温めるためさ」と言うと、この薪、死人を焼くためのものだから、ダメだというの。任鳳岐の奴、もう中国人の心忘れていたわけね。彼の反対で、薪持ってこれなかったけど、そのとき、怒りが胸いっぱいになって、どうすることもできなかった。その晩のうちに、病人は死んだけど、次の日、彼のからだ温めてやることができなかった薪で、彼の屍体焼いたの。口惜しいので、涙流れて仕方なかったよ。


死人の肉を食べる

李 
正月近くなってから、軍隊用の毛布、一人に一枚配給されたよ。この毛布かぶって寝てから、夜も眠られるようになったね。だけど、外はもっと寒くなってきたでしょ。こんど、配給になった毛布ね、からだから腕、それに足と、研究して上手に巻いて、その上にシャツ着て毛布をかくし、外の仕事に出たよ。これやると、あまり寒くないからね。このこと、補導具に見つかると、大変よ。梶棒とんできたり、蹴られたりするからね。ほとんどの人、毛布巻いたけど、この毛布のおかげで、死なないで助かった人、だいぶあるよ。あの毛布着なかったら、わたしも寒さに負けて、死んでいたかもしれないさ。


林 
わたしたち看護班も、毛布からだに巻いたよ。これで、前に比べると暖かくなったけど、こんど、うんとシラミ出たね。わたしたちに配られた毛布についてきたか、日本軍につかまってから、風呂に入ったこと、ただの一度もないでしょ。着替えるものもないから、からだも着物もアカだらけだからね。自分たちのからだから湧いたのか知らないけど、いっぱいからだについたよ。仕事から帰って、小さい饅頭食べて、お湯腹いっぱいのんで、きょうも生きられたと思っとると、シラミの奴、動き出してくるの。痒くて痒くて、もう黙っていられないの。背中に手入れてかくと、皮膚弱っているから、すぐ傷ついて、血流れるの。腹のあたりに、手入れてかくと、爪の間に、シラミ何匹もはさまってくるよ。一人のからだに、何百匹とついとるから、大変よ。夜中にも痒くて、何度も目が覚めるね。着替えるものないから、シラミのついた着物、洗うこともできないからね。


李 
シラミも、昼間は出ないね。なんにも痒くないの。寒いから、シラミも動かないわけね。


劉 
もう一つある。シラミわたしたちのからだの血吸っても、わたしたちのからだ、昼間は半分死んでるでしよ。感じない、ということもあるね。


林 
シラミたくさん湧いて、間もなく正月になったね。わたしたち、花岡に来たころは、誰も時計持ってる人いないし、中山寮の中に、暦もなかったの。あとでわかったことだけど、わざと暦、寮に置かなかったわけね。最初のうちは、誰もきょうは何日か、知らずにいたね。こんど、病人が出るようになって、死ぬ人たくさん出てくると、死んだ人の死亡報告書かく必要あったから、わたしたちの看護棟にだけ、暦一枚きたね。その暦で、はじめてきょう何日かということ、わかるようになったよ。正月きたことも、その暦でわかったね。


李 
大晦日の晩だったかね。日本に来て、わたしたちはじめて肉食べたの。あの時のうまかったこと、いまでも忘れることできないよ。よく覚えてるよ。


林 
大晦日の日、馬の頭と内臓が、わたしたち中出寮に渡されたわけね。肉のいい部分、鹿島組の人とか、補導員たち家に持っていったさ。わたしたち、その頭と内臓、料理したの。みんなで同じ部屋に集まって、食べたさ。


李 
あとのき、食べ終わってから、部屋の中に集まってる人見たけど、中国から一緒に花岡へ来た295人のうちで、死んだ人が90人ばかり、病気の人が40人ばかりいたね。年寄の人はほとんど死んで、あれは焦補学だったか、ひとりより生きていなかったさ。来年の大晦日の時には、この中から何人の顔見られるか、と誰かが言ったとき、部屋の中の人たち、しんとなったこと、いまでも覚えてるよ。今晩か、あすに死ぬの、殺される人、どの人か誰も知らないからね。自分かもしれないからね。


林 
わたしたち花岡に来てから休んだの、大晦日の午後と、元旦の一日だけね。大晦日は肉食べたけど、元旦になると、もうなんにもごっそうはないさ。いつもの小さな饅頭一つと、ゴボウかフキの煮だの、半分か一本だけだからね。


李 
正月すぎてから、この食べ物では、わたしたちのからだもたない。仕事のするのもムリだから、もっと食べる量、多くしてほしいと、わたしたち何度も、鹿島組の河野所長に要求したさ。鹿島組の事務所、中山寮から少し離れたところにあるの。そこに、大隊長や中隊長などと一緒に行って、河野所長の前に坐って、土に頭つけて、もっと量多くしてくれと頼んだよ。とくに、病人の食べ物、わたしたちと同じ量にしてほしいと頼んだよ。病気になったり、からだ弱くなって働くのことできなくなると、看護棟に入れられるでしょ。働かなくなると、食べ物の量も、半分にされてしまうわけね。半分のものもらってきて、カユにして食べていたでしょ。それでなくても小さい饅頭が、半分になるわけでしょ。病人だから、体力つけなければいけないのに、これでしょ。だから、病人になって看護棟に来る人たち、みんな死んでいくわけね。その病人たちの食べ物、わたしたちの食べるのと、同じ量にしてくれと要求すると、事務所の人たち来て、なに言うかと、わたしたちのこと梶棒で叩いたり、軍靴で踏みつけたりするの。もっと困ったこと、わたしたち、もっと食べる物多くしてほしいと要求に行くと、次の日から何日かのあいだ、饅頭の大きさ、もっと小さくなることね、見せしめに、小さくするわけね。これにはわたしたち、ほんとに困ったよ。


劉 
正月すぎてから、変わったこともう一つあるよ。正月の前の饅頭の中にも、リンゴのカスとかドングリの粉入っていたが、本当のウドン粉も、いくらか入ってたさ。正月すぎると、饅頭の中に、ウドン粉ぜんぜん入っていないさ。リンゴのカスもわずかより入らなくなって、なんだかわからない木の皮の粉など、入っているの。口の中に饅頭入れると、臭くて、砂みたいにザリザリして、固くて、とても食べられたものでないの。こんな食べ物ばかりつづくから、からだの弱い人、年寄の人、栄養ぜんぜんとれないから、どんどん死んでいくよ。冬になって、雪いっぱい積もると、食べ物、どこからも拾えないからね。


李 
からだやせて、腹の減る日つづくと、頭のおかしくなる人出てきたね。からだの弱い人、これに早くかかるよ。真夜中に食べ物のこと叫んで、とび起きる人も出てくるさ。わたしの小隊に、李相子という人いた。この人、からだ非常に弱いから、仕事の現場に、とても連れていかれないの。伊勢寮長代理に何度も頼んで、冬のころから、この人に、死んだ人焼いたり、土に埋めたりする仕事させていた。林さんたち看護班のほかに、そんなことだけする人、三人か四人いたからね。それだけ、死んでいく人多かったわけね。現場か、中山寮で死んだ人あると、裏の山に運んでいくの。木集めて屍体焼いたり、木集められない時、穴掘って埋めたりすること、専門にやっていた。そうした人焼くの仕事する人、わたしたち労働する人たちより、食べ物の量が少ないの。病人よりは、いくらか多いけどね。結局、あの人我慢できなくなったわけね。ある晩、わたし発見したね。寝るところの上に、木でつくった自分の箱持ってるの。わたしはじめは、なんの箱かなと思っていた。いつかの晩、李相子が、その箱の中に手入れて、なにか食べているの見たの。なにを食べているのかな思って、次の日、彼がいない時に、その箱の中、さがしてみたでしょ。箱の中に、焼いた、赤いような肉人っているの。寮の中に、勝手に食べられる肉あるわけないから、なんの肉か、ぜんぜん見当つかないの。最初、これが人間の肉とは、思わなかったさ。彼に、これなんの肉か聞いたの。はじめは、いくら聞いても、言わなかったが、何度も聞いてるうちに、人間の肉であること言ったの。わたしびっくりして、その箱取り上げて、食べないように言ったの。だけど、また何日かすると、また人間の肉持ってきて、食べるの。わたしも、一回は叩いたさ。死んだ人の肉食べるのこと、人間のすることでないと言ってね。それに、死んだの人、もしか伝染病あるかもしれないでしょ。お前は、人間でないと怒ったの。あとで、考えたね。そのころのわたしたち、口の中に入れるものあったら、なんでも入れたい気持ね。そのこと、人間のやることじゃないけど、腹減ってるの状態、もう一年近くつづいとるわけでしょ。その苦しみの気持、わたしにもよくわかるの。腹減ってる時の苦しい状態、いま話しても、わかっ   てもらえないことね。


林 
わたし、人間の肉食べること見たことないが、耿大隊長の言うの、聞いたことあるの。耿大隊長が看護棟に来て、死んだ人を焼きに行く人の中で、缶詰のフタで、屍体の肉とって食べとる人いる、これはいかんと言っていた。李相子のほかにも、かなりの人、人間の肉食べたらしい。


李 
人間の肉食べられてることわかった時、この姿、こんどはわたしの姿になるかもしれないと思った。わたしも、我慢できなくなったら、人間の肉でも何でも、食べる気持になるだろうと思ったの。このこと、あの当時のわたしたちの本当の気持ね。
 


蛮行重ねる補導員

林 
花岡鉱山には、わたしたち中国人のほかに、朝鮮の人と、アメリカの捕虜も来ていること、知ってはいたの。アメリカの人とは、あまり近づかせないようにしていたけど、朝鮮の人とは、仕事のやり方わからないことあると、現場に来て、働きながら教えてくれることあったの。そんな時、昼一緒に食べるの見ると、朝鮮の人、わたしたちよりいいもの食べとるね。わたしたちのように、ひょろひょろにやせていないの。わたしたち、腹減らしているの見て、自分たちの食べ残したものとか、余分な食べ物とか、こっそり持ってきて、補導員の見てない時に、それをくれるの。そんないい人、朝鮮の人の中にも、何人もいたよ。その時の嬉しかったこと、いまでも忘れないよ。どこの国でも、いい人はいるよ。朝鮮の人たちの着てる服も、わたしたちのものより厚いし、いいもの着てるから、寒くないわけね。


李 
そのこと、アメリカ人の場合も同じね。わたしたちと顔合わせること、ほとんどないし、近づかせないようにしていたわけね。わたしたちの中山寮より上の方の、一キロばかり離れたところに寮あって、そこに入っているの知っていたよ。アメリカ人の寮にいる人、どれくらいかよく知らないが、400人くらいはいたね。アメリカの人の食べる物、わたしたちよりずっといいの。わたし、見たことあるの。アメリカ人の食べる物、トラックか馬車で途中まで運んでくるでしょ。それから上は、道路悪いから、わたしたちの寮のすぐ上におろ
して、それからアメリカの人が、上の寮に運んでいくの。おろして運ぶ時に、袋や俵、破れるのがあるでしょ。その破れた穴から、中に入っているもの、こぼれるの。アメリカの人、そのこぼれたの拾って、一生懸命にポケットに入れたり、口に入れるかしとるの、わたし見たの。あれは米でないけど、麦かなにかね。わたしたちより、ずっといいもの食べているさ。わたし、その場所に一度行って、10粒くらい拾って食べたことあるけど、本物の麦かなにかね。味でわかるよ。わたしたち、現場へ働きに行く途中、ときどき働きに出るアメリカ人と、道路ですれ違うことあるの。わたしたち言葉わからないし、話しかけるところ補導具に見つかると、梶棒とんでくるから、誰も話しかけないよ。お互いに顔見たまま、通りすぎるだけね。アメリカ人の場合も、わたしたち中国人より、からだやせていないでしょ。顔色もいいよ。わたしたち中国人だけね。ひょろひょろにやせているの。


 劉 
いちばん悪いの、補導員や鹿島組の人たちね。わたしたちに配給にきたもの、家に持っていくわけね。それでなくとも少ない食べ物、ますます少なくなるわけね。わたしたちと同じ中国人で、軍需長の任鳳岐も悪いの。この人、宿直して次の夕方に家に帰る補導員に、わたしたちにきた配給の中からとったもの、紙とか袋に包んで、渡しているの何回も見たよ。彼だけね、一緒に来た中国人の中で、太っているのは。それでなくとも少ない食べ物の中から、補導員がいいものだけ家に持っていくから、わたしたちの分、ますます少なくなるわけね。あの任鳳岐のろくでなしのために、何人の人、飢えて死んだかわからないよ。だから、彼だけは殺されたの。同胞を売ったから、補導員と同じに、皆の憎しみかっていたわけさ。蜂起のとき彼いちばん先に殺された。殺されるの理由、十分あったさ。同胞を売って、自分だけまるまると太ってること、許されないよ。


 林 
わたしたち、補導員のこと、鬼とか、豚とか、鬼豚とか呼んでいたけど、その鬼のような補導員の中で、二人だけ、わたしたちの味方する人いたよ。一人は越後谷義勇さんね。戦争終わってから、この越後谷さんを、わたしたち札幌に招待したことあるけど、越後谷さんに助けられた人多いね。


 李 
越後谷さんの家、花岡から離れた早口にあったでしょ。宿直にあたらない晩、早口の家に帰るね。次の朝、鉱山に働きに来る時、自分の家から、米とかアワみたいなもの、少し持ってくるの。補導員に見つからんように、服のポケットにかくして持ってくるから、少ないわけね。こんど、わたしたちの仕事の現場で、お湯わかしてるでしょ。その大きな湯わかしの中に、ポケットの米そっと入れて火にかけると、薄いおカユみたいなものできるでしょ。そのおカユみたいなお湯、わたしたちに飲ませてくれるの。ほかの補導員見ても、お湯飲んでるとしか見えないでしょ。越後谷さんが現場に来ない時は、晩に寮の中で、わざとお湯わかして、そのお湯の中に米とかアワとか入れて、わたしたちの寝てるところに持ってきてくれるの。服のポケットに、いろいろな食べ物入れてきて、ほかの補導員のいない時、そっと渡してくれたりしたの。わたしたち、その食べ物で、どんなに助かったかわからないさ。鬼みたいな寮の中の日本人にも、こんないい人もいたね。


 林 
正月の元旦のことね。あの時も、越後谷さん、早口から中山寮まで来たね。自分の家でつくったもち持ってくると、小さく切って、わたしたちに配ったの。寮の中の人多いし、少しより持ってこないから、食べた人少ないけど、その気持ね、嬉しいの。越後谷さんのような人、もっと花岡にいると、蜂起なんかなかったね。だから、蜂起の時も、越後谷さんのこと、殺さないように気を配った。越後谷さん宿直室に泊まっている晩に蜂起すると、暗いから、彼どこにいるかわからないでしょ。間違って殺すと、たいへんということになるからね。だから、彼の泊まっていない晩選んで、蜂起をやったの。補導員とか、鹿島組の日本人だったら、誰でもいいから殺せばいいということではなかったさ。悪いことしない人は、殺したくないという気持は、誰にでもあったの。


 劉 
越後谷さんね。この人、まだ少年でしょ。仕事も、事務所で帳面つけてるのこと多いの。直接に、中国人の働いてる現場に来ること、少ないからね。わたしたちのいた看護棟には、毎日のように来たけどね。この人、まだ若いから、軍隊教育みたいなもの、あまり身につけていなかったわけね。越後谷さんのほかに、補導員の中に、もう一人、いい人いたでしょ。


林 
いたいた、石川ね、石川忠助さんね。この石川さんも、わたしたちのこと、助けてくこと多いよ。越後谷さんみたいに、食べる物持ってくることもあったし、あまり殴ったりしなかったからね。補導員の中で二人だけね、わたしたちのこと考えてくれた人は。あとの人たち、みんな鬼豚だったさ。


 李 
この石川さんも、わたしたちの目の前で、二人の中国人を、殴って殺しだの知ってるょ。石持てないほどからだ弱っている人、梶棒で叩けばそのまま倒れてすぐに死ぬの、あたりまえのことね。それも、頭とか顔とか、どこでも叩くのだから、どうにもならないよ。それでも石川さん、福田とか清水にくらべたら、はるかにいい人ね。


 林 
梶棒で叩く時、めくらめっぽうに、どこでも好き勝手に叩くでしょ。梶棒歯にあたると、みんなバサッと落ちるね。梶棒で頭とか顔叩かれて、痛いでしょ。痛いから、頭とか顔に、手あげるでしょ。こんど、その手を叩くの。どの人も、一本か二本か、みんな指が折れとるよ。ひどいものさ。補導員の中でも、小畑と福田がいちばんひどかったさ。この清水わたしたちと同じ中国人でしょ。父か、母だったか、中国の人ね。それで、中国人に悪いのことするのだから、どうしようもないよ。背の低い小畑、この人いちばん悪い。何十人の人
殺したかわからないよ。寮長代理の伊勢、この人も根性の悪い人ね。ひどいことばかりしたよ。戦後になって、この伊勢と、一度会ったことあるよ。伊勢は大館の市役所の職員になって、立派な服着ていたけど、わたしのこと見ても、なんにも言えないの。下ばっかり見ているね。


 李 
食べ物悪くて、栄養失調が原因で死んだり、補導員に殺されたりした人、春になると100人越していたよ。わたしたちと一緒に花岡に着いた人、295人でしょ。そのうちの三分の一の人、死んでしまったわけね。からだ弱って、看護棟の中にいる人も、30人くらいだったさ。中山寮の中に、あまり人いなくなったよ。からっぽになってきたさ。わたしの小隊の中でも、十何人か死んでいたからね。ところが、冬終わって、雪消えると、川掘るの仕事がほんとにはじまったでしょ。働けるの人、半分くらいよりいないから、生き残った人たちの仕事、ますます多くなるの。雪の中でひと冬生きて、どの人もからだ弱ってきてるでしょ。それに仕事多くなってきたから、たいへんよ。


 劉 
寒いのから、暖かくなってくると、からだ疲れて、ダメになってくるのね。春になって、看護棟に来るの人、多くなってきたからね。新しい中国の人たち、中山寮に連れてこられたの、この時ね。


蜂起する中国人(繰り返される拷問)

 中国人たちが残忍非道な虐待に抗して蜂起したのは、1945年6月30日の深夜のことであるが、それまでに死亡した中国人は、次のとおりであった。

1944年8月8日の第一次連行者295人のうち121人。
1945年5月5日の第二次連行者587人のうち23人。
6月4日の第三次連行者98人のうち4人。

前後三回にわたって連行されてきた980人のうち、140人が死んでいるが、このほかに病気や殴られた怪我で身動きのできないのが約50人、一生不治の怪我をした人が生存者の四分の一くらいにおよぶといわれる状態であった。
    〈このままでいると、みんなが殺されてしまう〉

 中国人たちはせっぱつまった脅迫感におびやかされ、こう考えるようになっていた。敗戦 直後に、花岡鉱山に派遣されて中国人を診断した高橋実医師は、
「もはやかれらは、死か抵抗かのいずれかを選ぶよりほかに道はなくなった。それは、このひとびとがついに奴隷であることにがまんしきれなくなった日”であった」(「ひとつの事実」−『社会評論』 一九四六年七月号)と書いているが、まさにそのとおりであった。こうした状況の中で、蜂起は計画され、実行されたのであった。

 蜂起の計画は、耿大隊長をはじめ、中隊長や小隊長たちの間で、綿密な計画と周到な準備のもとにすすめられた。第二次や第三次連行者たちが洩らした消息、「日本の戦況は日一日と不利になり、空襲も激しさを加えているから、日本本土への上陸作戦も間近い」という情報が、蜂起の計画をいっそう早めた。

 蜂起の計画は、6月30日の晩飯のあとに、耿大隊長から全員に伝えられた。

 「李克金は20人を連れて、事務所の窓口を守る。劉玉卿は30人を連れて、四方の要地に伏兵をおく。これは、補導員の脱出と逃亡を防ぐのだ。李黒成は電話線の切断を担任する。張金亭は20人を連れて、室内に入って敵を殺す。それから張賛武は比較的強壮な同志80人を連れて、米国人俘虜収容所の日本兵を襲撃する。劉錫方は20人の同志を連れて、花岡警察局を襲撃する。看護班の任務は、外で全員が漱起したのを見すまして、直ちに病人を山の上に移すのである。そして最後に、羅士英の監督の下に放火し、中山寮全部を焼き払う。

手を下すのは、深夜、補導員たちの熟睡したのを見てやる。このために今晩は、全員が本当に寝てしまってはならない。仕事を分担された同志たちはすべて鍬をこっそり身辺に隠し敵を殺す武器にする」(劉智渠述・劉永姦・陳苓芳記『花岡事件−日本に俘虜となった一中国人の手記』中国人俘虜犠牲者善後委員会刊)だが、このように綿密な計画をたてたにもかかわらず、待っているのにしびれをきらした張金亭が、まだそれぞれの人が任務の部署につかないうちに、軍需室に入って任鳳岐を殺した。任の悲鳴があまりにも高かったので、補導員の逃亡を防ぐために配置されることになっていた人たちが、まだ寮の中にいるうちに、補導員の宿直室になだれ込んだ。猪股清と檜森昌治の二人は宿直室で殺され、あとは窓を破って逃亡した。そのうち、小畑惣之介と長崎辰蔵は追いつめられて殺されたが、あとの人たちは逃げていった。そして五分もたたないうちに、事件を知らせるサイレンが、深夜の鉱山町に鳴りわたったのである。

 このため、計画の中にあった米軍人俘虜の解放も、花岡警部派出所の攻撃も、中山寮の放火も中止となり、約800人の中国人たちは、われ先にと暗闇の中に逃亡していった。しかも、リーダーもなく、サイレンが高々と鳴り響く暗い夜中に、ひょろひょろにやせた人たちの逃走なだけに、決して早いものではなかった。朝が明けて気がつくと、かなり遠くまで逃げたつもりのものが、花岡鉱山が目の前に見える高さ250メートルほどの岩場の多い獅子ヶ森という山の中腹に、大部分の中国人たちがいたのである。しかも、病人や落伍者たちは、蜂起してから二時間もたたないうちに、寮からそれほど離れていない場所で捕えられた。獅子ヶ森にたてこもらなかった中国人は、山を越した隣の村とか、国道に添って青森県境に逃げるなど、ほとんどの人がバラバラになった。

 花岡鉱山での中国人の蜂起は、大きな衝動をあたえた。その鎮圧のために多くの警官や民間人が集められたが、『秋田県警察史』(下巻)はその状況を次のように記録している。

 「事件発生の7月1日から、平静になった7月6日まで、大館、花輪、扇田、鷹巣、米内沢、ニツ井、能代、青森県大鰐の各警察署で動員した延人員は、警察官494人、警防団7,544人、一般民間人13,654人、計21,692人で、このほか警察部をはじめ県内各署から延536人が取調べなどで動員された。また、秋田、青森各地区憲兵隊、弘前憲兵司令部から延222人、仙台俘虜収容所第七分所(花岡町所在)から警備隊員延25人、秋田地区警備隊から7人が出動した。花岡町における民間団体としては在郷軍人179人、鉱山青年学校延122人、警防団延128人、鉱山警備隊延52人、鉱山男子義勇隊延127人、同女子義勇延140人、鹿島組延724人、秋田士建121人、清水組延155人が出動した」警察の資料によると、延べ24,106人が鎮圧に動員されたのだが、このように厳重に警戒された中で、空腹と疲労で衰弱しきった中国人は次々と捕縛され、花岡鉱山の共楽館という劇場の広場に集められた。しかも、獅子ケ森などで抵抗した十数人の中国人は、日本刀とか竹ヤリなどで殺されたが、殺した人たちというのが警察とか憲兵ではなく、民間人である消防団員や青年団員などであった。

 また、獅子ケ森からさらに遠くへ逃げた人たちも、各町村の消防団員や青年団員などに捕えられて、花岡鉱山に引っぱられてきた。その当時、花岡鉱山に勤めていたある娘さんは、目撃したことをこう語っている。
                  
「小坂線の汽車の中で、二人ずつつながれてくるのをみた。フラフラしているのに、力いっぱい丸太でなぐられていた。本当にかわいそうなものだった。それでもその時、敵の国の人間だと教えられていたから、にくいと思ってみていた」(『現地調査報告書』)また、山奥に逃げ込んで、山狩りされて捕えられた人たちの場合も、悲惨なものであった。隣の早口村の山奥にある山田集落に逃げた中国人の模様を、消防団長は次のように語っている。

「この山田部落にも、五、六人の中国人が山を越えて逃げてきた。警察から、部落に放火するかもしれないから、消防団でつかまえてつれてきてほしいと連絡があり、二人つかまえて花岡の共楽館につれていったが、二人でしばられ、坐らされていたのを目撃した。その二、三日後、山田部落の保滝沢で三人つかまえたが、ヒローコンパイその極に達し、ロもきけない状態であった。中国戦線から復員した若者二人が中国語で話しかけたが、返事もできない状態で、それが気にくわぬと軍靴で顔をふむ、蹴る、殴るをした。この人たちが殴ったためかどうかは知らぬが、とにかく三人とも死んでしまった」(『現地調査報告書』)

 こうして共楽館前に集められた中国人たちは、二人ずつうしろ向きに縛ら
れ、砂利の上に坐らされた。真夏の太陽がジリジリと照りつける炎天下に、水も食べ物もあたえられず、三日三晩にわたって拷問と虐殺がつづけられた。共楽館前の広場での中国人を見た鉱山労働者は「全くフラフラにつかれはててから逃げだしたのだろうから、つかまえられて共楽館前につれてこられただけで、死んでいたものが多かったろう。全部二人ずつ後手にしばられて、坐らされていた。あの暑い時、三日三晩も坐らされ、たたかれたのだから、ただでさえたまったものではない。便所へゆくのも二人つながれたまま、死んだ相手をひきずりながら、みな用を足していた。出る小使はみな血であった。ところが、水ものまされずのどがかわききった彼等は、それに口をつけてのんでいるものもあった。本当に気の毒だ、かわいそうだと思っても、ピストルや剣をつきつけた将校がゴウ然とかまえて、憲兵や警官を指揮しているのを見ると、誰も口にだせるものではなかった。言ったらすぐにやられる。血気の多いものはぶんなぐったり、つついたりした人も沢山あった。あの当時は、あの様な気持にされてしまっていたのだ」と語っている。(『現地調査報告書』)

三日三晩にわたって、残虐非道な拷問を受けて殺された中国人は、113人であった。


敗戦後も重労働続く

 四日目に、花岡派出所の留置場に入れられている主謀者の13人を除いて、再び全員が中山寮に収容された。こんどは、棍棒を待った補導員にかわって、武装した警官が監視にあたるようになった。数日後からは、主食の饅頭に混っているものがいくらか少なくなったほかは、以前と変わらない重労働がつづけられるようになった。この後も、病気で倒れる人や、警官などに殴られて死ぬ人などが、あとをたたなかった。

 その当時、大館警察署長として鎮圧の先頭に立った三浦太一郎は、二七年後にそのことを回顧して、次のように語っている。

 「(蜂起して)つかまえた人たちは、共楽館へ連れていかれました。ところがね、アメーバ赤痢だとか、いろいろな病気をもった連中でしょ。だから、鉱山の慰安施設である共楽館の中に入れるわけにはいかないと鉱山側がしぶるんですな。考えればムリもないが、そのとき私は腹がたった。そうこうしているうちに、警防団が出てきたりして、警備隊とか応援にきた入らが、結局、共楽館に集められたんです。あとで広場に放置したということになってしまったが、二日目からは、食糧もちゃんと与えましたよ。共楽館で拷問が行われたといいますが、そんなことはない。あえいでいる中国人の顔へ水をふきかけてやり、助けてやったりしたものです。横浜のB級裁判では、そんな証言は取り上げられなかった。『敗戦国民が何をいうのか』のひとことで終わりですよ」
(「日本で中国人は何をされたか」−『潮』一九七二年五月号)


 三浦が言うように、中国人にたいして拷問も虐待もなく、食糧もちゃんとあたえられていたとすれば、共楽館前だけで121人の死亡者が出るはずがない、と考えるのが普通であろう。一方、花岡派出所の留置場に入れられた13人のリーダーたちは、一週間にわたって拷問を受けたのちに、秋田市の秋田刑務所に移されたが、その状況を『秋田県警察史』(下巻)では、こう記している。

 「事件発生以来逃亡者の捜査、逮捕に主力を傾注した結果、7月7日にいたり752人を逮捕、謀議参加または殺人実行行為者としてつぎ13人を国防保安第十六条第二項の戦時騒擾殺人罪で送局した。

(筆者注・カッコ内は年齢)
 首魁=耿淳(30)謀議参与=李克金(28)孫道敦(44)張金亭(32)趙書林(36)劉錫財(32)劉玉郡(30)劉玉林(37)殺人=宮耀光(22)李広衛(27)張賛武(23)楷万斌(27)李秀深(23)」

 だが、8月15日に日本が無条件降伏をした二日後の8月17日に、内務省主管防諜委員会から敗戦にともなう「華人労務者ノ取扱」について、関係者に通達が出された。その内容は、中国人の労務を中止し、賃金を払い、衣食を支給し、留置者は即時釈放し、死亡者の遺骨を整理し、送還の準備をせよ。というものであった。

 しかし、こうした通達がとどいても、鹿島組花岡出張所では中国人たちを解放するどころか、敗戦前とまったく同じ状態のままで、強制労働をつづけさせた。鹿島組傘下の死亡者を見ると、八月は49入、9月は68人、10月は51人が死亡している。

 その後、9月2日に日本は連合軍の降伏文書に署名し、長くて暗い戦争は正式に終わった。

日本軍が捕虜にした連合国軍人や抑留者にたいしても、

 一、捕虜と被抑留者を虐待したものの処罰
 二、捕虜と被抑留者にたいする解放、保護、送還
 三、捕虜と被抑留者にかんする報告

の三点をくり入れた「降伏文書」や「連合国最高司令官総司令部一般命令第一号」などが発令され、中国人の強制連行と労役も終わりをつげたにもかかわらず、鹿島組花岡出張所の中国人たちには、戦争状態がつづいていたのだった。

 花岡の中国入たちが日本の敗戦を知ったのは、日本がポツダム宣言を受諾してから1ヵ月半もすぎた9月中旬のことである。ある日、一台の飛行機が花岡の上空に飛んでくると、花岡にある仙台俘虜収容所第七分所のアメリカとオーストラリア人たちに、物資を投下した。

 はじめて日本の敗戦を知った中国人たちは、すぐに仕事をやめて中山寮に帰り、今後の対処の仕方などを検討した。しかし、そこに入ってきた鹿島組の係員は、「仕事に出ないと飯を食べさせない」と威嚇するし、三浦大館署長も寮に入ってくると、「指示を聞かない人は容赦をしない」とおどした。

 中国人たちが敗戦の内容を知ったのは、その翌日に、花岡派出所に留置されていた通訳の于傑臣が釈放されて中山寮にもどってからだった。日本は無条件降伏をしたことや、耿隊長たち一三人は秋田刑務所で無事であることも知らされた。耿隊長たちはすでに死刑にされたと、中国人には知らされていたからだった。

 このことは、秋田刑務所に収容されている13人の場合も同じであった。ポツダム宣言受諾後も日本の敗戦は知らされず、戦争状態がそのままつづいていた。しかし、1945年9月15日に、秋田に進駐する第八先遣隊として、ページ少佐以下の将校たちが山形県の新庄からジープで秋田入りすることが決まったが、その四日前の9月11日に、秋田地方裁判所では、起訴していた13大の中国人に、大急ぎで判決をいいわたしたのである。

 叛乱罪を主張した憲兵隊が解散され、特高もなくなってしまったにもかかわらず、「『戦時』の騒擾殺人罪を、『戦後』に裁判した」(石飛仁『中国人強制連行の記録』太平出版社)のであった。しかも、占領軍が進駐してくることを知って、その直前にあわてたように裁判をしたのである。形式的にしろ、中国人たちの弁護にあたった秋田市弁護士会長は、この時の「法廷は国法の尊厳に輝いていた。わずかに法灯を守りつづけた人たちが、世評をよそに三ヵ月の苦労をつづけて、今日の判決に導いた誠意に慰められた」と、判決後に語ったという。
(赤津益造『花岡暴動』三省堂新書)


 
虫ケラのように殴殺

 林 
新しい中国の人たち来だの、あれは春になってからのことだったね。はじめに600人ばかり来て、それからひと月ばかり遅れて、また100人ばかり来たさ。その人たちみんな入ったから、こんど、中山寮の中狭くなったね。一人分のベッドに、二人も三人も寝るようになったさ。新しく来た人たち、わたしたちみたいにひょろひょろやせてないし、元気な人多いでしょ。それに、中山寮のいろいろなこと、知らない人多いからね。新しい人たち来た時、何人もの人たち、補導員に殴り殺されたよ。見せしめね。


 李 
わたしの小隊に、薛同道という人いたの。この人のからだ大きいから、とくに腹減るわけね。その日も、腹減ってどうしようもないから、仕事の途中に、裏山に登って、青くのびた草食べていたわけね。仕事終わって、寮に帰る点呼とったら、わたしの小隊でひとり足りないわけね。補導員が小畑だから、とくに悪いよ。小畑は、「逃げたに違いない。みんなで探せ」と、山とか田んぼとか探した。そのとき、裏山で草食べてる薛さん見つかったさ。縛って寮の前に連れてくると、新しく花岡に来た人たち集めて、みんな見ている前で、梶棒で叩いたね。頭でも、首でも、背中でも、どんなとこでも、好き勝手に叩くさ。倒れると、こんど踏むわけね。薛さんのからだ、血流れて、腫れてくるの。気失った薛さん、病室に運び込まれて、ひいひいと苦しそうに呻いて、三日後に死んでいったさ。わたし、薛さん死んだ晩、病室から寮に帰ってくると、耿大隊長に言ったね。「わたしたち、このままでは生きられない。生きる方法ないか」と。耿大隊長、黙って首を振るだけのことね。


 林 
からだ弱って、看護棟に運ばれて来た人に、趙老人という人いた。花岡に来た年寄の中で、いちばん長く生きたの、この趙老人ね。この人に、趙青児という息子いて、わたしと同じ看護班にいたの。親子で一緒に、日本軍につかまったわけね。趙老人が息引きとった時、趙青児そばにいて、大声でおんおん泣きだしたさ。そこに、小畑人ってきて、泣いている趙青児のこと足で蹴って、「死ぬやつは死なしておけ。泣くやつあるか」と叫ぶわけね。自分の親死んで、悲しくない人、どこにいるね。日本人の補導員、畜生よりもひどい人ばかりね。
人間の心、ひとかけらも持っていないよ。


 劉 
誰だったか、中国に帰るのことできた人でね、空腹の日つづくから、頭おかしくなったわけね。いつだったか、お昼の時、自分の分の饅頭食べてから、ほかの現場に、食べる物下さいと行ったわけね。そのこと補導員に見つかって、半殺しになったの。叩かれたり、煙草の火つけられたり、レール真っ赤に焼いて、足の間に挾まれたりして、お尻の肉、焼けとけちやったよ。あの人、いまでもお尻の肉ないと思うよ。看護棟に運ばれてきたけど、薬もないから、たいへんさ。傷ひどくなって、もう死ぬ状態になったさ。その時、日本の敗戦の
ことわかって、アメリカのペニシリン手に入ったの。それに、食べ物もよくなったでしょ。あの人、めずらしく助かったわけね。敗戦わかるの、もう一週間おくれていたら、いのちなかったね。この人の助かった理由、第三回目に来た人で、まだあまりからだ弱っていなかったの。わたしたちと同じに来た人だったら、もう助からなかったね。


 李 
新しい中国の人たち来てまもなく、仕事する時間、朝と晩で二時間ほど長くなったでしょ。それに、食べる物悪いから、腹減ってくるの当然さ。腹減って、草食べてるの見つかると、叩いて殺したり、片輪になるほど叩いて怪我させるのだから、ひどいよ。もっとひどいこと、同じ中国人に梶棒で叩かせることね。道路に捨ててあるもの拾って食べたとか、歩きながら道端の草引っぱって食べたとか、理由にならないようなことで、縛って寮に連れてくると、わたしたちを集めるの。一人ひとりに梶棒持たせて、縛ってある人のこと、叩かせるわけね。はじめのうちはいくら言われても、誰だって殴ったりしないでしょ。すると、補導員たち、命令きかないといって、叩かない人たちのこと、殴るの。どんなことされるかわからないし、殴られると痛いから、叩くようになるの。相手が痛くないように、叩こうとするから、力人らないでしょ。そのこと悪いといって、また叩くの。何人かで一人の人を叩いて、気が遠くなって倒れるでしょ。そのこと見ると、補導員たち喜ぶわけね。こんなひどいことないよ。人間のやることじゃないよ。


 林 
見せしめということもあったけど、中国人にそんなことやらせて、喜んでるわけね。叩かれる人もたいへんだが、叩く人もたいへんなわけね。


 李 
一日に一人か二人か、補導員に叩かれて死ぬ人あるよ。怪我して動けない人も、どんどん増えていくね。補導員たち、悪いことした人を叩き倒すと、こんど、わたしたち中隊長や小隊長集めて、「お前たち、教育するの足りない。だから、草食べに歩く。人の捨てたもの、拾って食べるのは、人間のクズだ」と、わたしたちのこと叩くの。死ぬほどは叩かないけど、毎日だからたいへんさ。自分の生きるの、あとIヵ月あるか、ニカ月あるか、そのたびに考えたよ。叩かれた人、すぐに死んでいくから、そのこと、いつ自分の身の上にふりかかってくるかわからないさ。


 林 
叩かれると、すぐ死ぬ人多いよ。気絶して、看護棟に運ばれてくるでしょ。その晩のうちに、血吐いて死ぬ人ほとんどね。どんなにひどい殴られ方したか、これだけでもわかるね。


 劉 
棍棒で殴ったり、殴り殺したりするのこと、寮の中でもあったさ。栄養のある補導員たち、力いっぱい、思いっきり殴るからね。いまくらいの元気あれば、棒で少し叩かれても、死ぬことないよ。栄養失調になって、ようやく息しているの状態で、歩いても空腹でめまいするからね。叩かれて倒れても、わざと倒れたと思うとるから、倒れた人のこと、また叩くから死ぬわけね。だから、1945年の三月ごろになると、一日に五、六人も倒れることあって、蜂起する時は、みんな倒れてしまうの状態だったからね。蜂起したの原因、これ一つね。


 李 
毎日のように誰か殺される日つづいていたとき、劉沢玉も、夜中に食べる物さがしに出たの、見つかったの。寮の前とかうしろに、ちょろちょろの水流れる小さい川、たくさんあるの。その小さい川の中に、小さなカニとか魚がたくさんいるからね。補導員が寝た夜中に、川に行って、それ取って食べるわけね。たくさんの人、夜中に寮から出て、それ取って食べたけど、運悪く、劉さん見つかったわけね。ひと晩、縛られたまま、寮のそとになげられていた。次の朝、わたしたち小隊以上の人、みんな事務所に集められたさ。伊勢が劉さんの罪のこと説明してから、わたしたちに、劉さんのこと殴らせようとしたの。だけど、わたしたち前に、同胞の人殴って、気絶させたことあったでしょ。その時、どんなことあっても、わたしたち殴り殺されても、同胞を殴ることはしまいと、相談して決めていたの。こんど、わたしたちに叩くように、脅迫したり、殴ったりしたけど、誰も叩く人いないでしょ。そのこと悪いといって、劉さんのこと裸にして、六人も七人もかかって、好き勝手に棍棒で叩いたり、靴はいた足で蹴ったり、踏んだりするの。劉さん痛いから、大声あげて、泣きながら机の下に逃げていくでしょ。机の下から引っぱってきて、またどんどん叩くの。気絶するでしょ。バケツに水汲んできて、倒れとる劉さんにかけるで史よ。気がつくでしょ。また、「このヤロウー」と叫んで叩くの。事務所の中、劉さんの大便でたのとか、晩に食べたカニの吐いたのとか、いっぱいちらばったね。もう弱って、立って逃げられないね。それでもまだ叩くから、こんど、転んで逃げるでしょ。からだに大便とか、吐いたのとかつくの。それ、人間のかっこうじゃないね。こんど、清水がね、鉱山で使うレールあるでしょ。そのレール、炊事場のかまどの火で、赤く焼いたの持ってきたの。あの時のこと、いまでもはっきりと覚えとるよ。息もつけないほどになって、倒れとる劉さんの股に、その赤く焼けたレール差し込んだの。劉さん、悲鳴あげて、その赤く焼けたレール、手でよけようとするでしょ。手が黒い煙だして、焼けていくの。焼ける音もするさ。こんど、補導員が何人も寄って、劉さんの手とか足押さえて、股にそのレールあてたの。部屋の中、人の焼けた煙で、いっぱいになったさ。劉さん、こうして殺されたの。わたしたち、そのこと全部見ていた。手助けすると、自分も殺されるかわからないから、誰も黙っていたけど、そのやり方、あまりにもひどいよ。


 林 
苦しい殺され方した劉さんのこと思うと、いまでも涙出るよ。あの朝早く、事務所に来いと、看護棟にいたわたしたちに連絡あったでしょ。わたしと誰か三人か四人か、事務所に行ったでしょ。劉さんの屍体、早く持って行けと叫ばれて、看護棟に運んだけど、もうその時死んでいたよ。めちゃくちゃに殴られて、顔の形もちゃんとわからないくらいにね、殴られて、顔の形、変わっているの。殴られたところとか、レールで焼かれた股とか、血が出たり、ベトベトしているの。もうこれ、人間の姿じゃないよ。病室に入れたでしょ。あまりのひどい仕打ちに、病気とか怪我の人たち、みんな声出して泣いたさ。そこに清水の鬼豚人ってきて、「泣いているの誰だ。早く埋めてしまえ」と、どなって歩くの。その朝のうちに、穴掘って埋めたけど、劉さんの殺され方、いちばんひどいね。


蜂起を計画

 李 
わたしの寝ている部屋、大隊長のすぐ隣なの。劉さんが殺された夜中に、わたし、大隊長のところに、話にいったの。「このままではわたしたち、いつ殺されるかわからない。早く逃げよう」と言ったの。大隊長、このとき覚悟決めたね。これ、蜂起のはじまりなの。わたしたちの蜂起、戦争敗けるの時までのびていたら、もっと多くの人たち殺されていたね。わたしたち、どうせ死ぬか、殺されるかするの、わかっていたさ。朝くると早く起こされ、仕事に出るでしょ。夜は暗くなってから、寮に帰ってくるでしょ。食べ物ぜんぜん悪いから、
立って歩くのもようやくの状態よ。それに、毎日のように、誰か殺されてるでしょ。生きていく気持、ぜんぜんないよ。早く死にたい、死ねばいまより楽になる、そう考えている人ほとんどね。どうせ、遅いか早いか、わたしたち殺される。このまま殺されるのだったら、わたしたちの同胞殺したり、わたしたちを苦しめた奴らを、この手で殺してやれというのが、当時のわたしたちの気持ね。このままにしていると、わたしたちみんな殺されるという気持、どの人にもあったさ。蜂起して、失敗しても、もともとさ。どうせ、一ヵ月か二ヵ月すれば、自分にも殺されるの当たるの、確実でしょ。生き残れる道、一つもないからね。日本まもなく敗けるのわかっていたら、もっと我慢して待っていたよ。中山寮に新聞もラジオも、なんにもないから、戦争どうなっているか、ぜんぜんわからないでしょ。新しく中国から来た人たちの話聞くと、日本の戦争、かなり苦しくなってることわかったけど、一ヵ月半の後に敗戦になるほど敗けてきていること、わたしたちぜんぜんわからないでしよ。死んでもともと、生きるには蜂起するよりほかになかったさ。


 劉 
わたしは看護班にいたから、その蜂起のこと、相談されたことなかったけど、一度でいいから、早く中国に帰りたい気持、誰にもあったね。病室で死んでいく人たちのほとんど、最後に、中国に帰りたいとか、母とか、妻、子どもの名前よんで、息引きとっていったからね。


 李 
いちばん最初に、蜂起の計画を相談したの、大隊長の耿譚でしよ、それに趙樹林、李克金とわたしの四人だったの。みんな劉沢玉の殺されるの見た、中隊長と小隊長たちね。相談するとしても、たいへんよ。昼は、とてもできる相談じやないでしょ。話してるの見つかるだけで、殴られるからね。劉さんの殺された日の晩、仕事から帰って、饅頭一つの夕食終わって寝たでしょ。夜中に、何回か補導員がまわってくるね。そのまわってくるの終わって、次にまわってくるまで、四人で大隊長のところに集まったの。そこで、蜂起すること決めたの。この計画、補導員たちに洩れるとたいへんでしょ。はじめから、多くの人に、話拡げないようにしたの。補導員まわってくるから、あまり長い時間、相談もできないでしょ。ちょっと集まって、相談するでしょ。こんど、便所に立ったふりして、また自分のところにもどって寝るでしょ。そんなこと、ひと晩に何回もやって、だんだんと相談固めていったの。計画かなり固まってから、口の固い人にだけ、またこの計画の話拡げていったの。蜂起の計画に参加したの、8入だったよ。あとの人たち、このことぜんぜん知らないさ。蜂起する晩になってから、全員に知らせたわけね。


 林 
わたしたちに知らされたの、蜂起の晩の9時ころだったからね。はじめはビックリしたけど、みんな、すぐその気になったからね。


 李 
計画の中で、わたしたちどうするか、詳しく決めて、その担当も決めたの。近くに、朝鮮の人たちの入ってる、東亜寮というのあったの。その寮のこと、知っている人多いよ。アメリカ兵のいるところは、知らない人多いね。アメリカ兵いることわかっていたし、だいたいの方角も見当つくが、場所は知らない。最初の計画から、わたしたちだけでなく、東亜寮の朝鮮人やアメリカ兵も解放して、一緒に立ちあがるのこと決めていたの。わたし、中国でゲリラの経験あるでしょ。からだ強くて、ゲリラの経験あるの70入ばかり連れて、東亜寮とかアメリカ兵のいる寮の日本人襲って、武器とりあげて、解放した人たち一緒に連れていく計画だったの。確か劉錫さんだったか、彼は20人くらいの同志連れて、花岡の警察派出所襲って、武器奪うことにしていたの。武器がいくらかあるの、知っていたからね。わたしたちの手に、武器ぜんぜんないでしょ。蜂起しても、武器ないと、なんにもできないでしょ。わたしたちだけで、800入くらいでしょ。それに、朝鮮人が300人くらい、これにアメリカ兵たち入れると、1,300人くらいになると考えたの。これに武器あれば、たいへん力になるという計画だったの。夜中に蜂起して、山の中に逃げるわけね。食糧も倉庫から持っていくから、当分食べられるでしょ。皆で山の中を逃げて、海に出るの。海の港か浜に、ボートか船あったら、それ盗んで乗り、中国に帰りたいと考えたの。それだけわたしたち、中国に帰りたかったの。わたしたち、かなり詳しく計画したよ。宿直室に寝てる補導員を襲う人たち、窓から逃げる人を待ち伏せする人たち、電話の線を切る人など、みんな決めたの。


 劉 
わたしたち看護人に伝えられた仕事、全員が蜂起したの見て、山に病人を運ぶことだったさ。


李 
病気とか怪我の人たち、たくさんいたからね。計画どおりみんなやってから、中山寮に火つけて、焼くことにしていたの。計画できて、実行することになったでしょ。わたしと張金亭さんの二人、その日、仮病使って休んだの。腹痛くて、仕事に出られないといってね。昼の間に、寮の中とか、事務所の様子など、二人で詳しくさぐったの。そしたら、補導員の中でもいちばん悪いの小畑と福田が、その晩は家に帰ることになっていた。それに、わたしたちによくしてくれる越後谷さん、この晩は泊まりに当たっているのわかったの。いい人は、殺されないでしょ。夜中に襲うと、どの人かわからないから、殺してしまうかもしれないからね。計画に参加した人たち、飯場に帰ってきてから、そのこと相談したの。やはり、そのことダメと決まったの。こんど、蜂起のする日、6月30日の深夜に延期したの。誰の気持も同じね。わたしたちによくしてくれた人、殺されないからね。6月30日の日も、わたし仮病使って休んだけど、その日、誰か補導員の一人来て、「お前、仮病使っている」と、寝ている上から、どんどん叩かれたけど、吐くの真似して、寝ていたの。30日の晩、越後谷さんともう一人の石川さんの二人、寮に泊まらないことわかったの。あとの補導員とか通訳たち、みんな寮に泊まることわかったでしょ。この日よりないと、この晩に蜂起すること決めたの。だけど、早く知らせると、どこから洩れるかわからないでしょ。蜂起する直前まで、秘密にしておいたの、いつものように小さい饅頭食べて、みんなでシラミ取りしたりして、寝る時になってから、中隊長や小隊長が自分の部下に、蜂起のこと伝えたの。その時の時間、
もう9時すぎていたと思うよ。


早すぎた蜂起

李 
蜂起のことみんなに伝えてからまもなく、小畑が見回りに来たの。戸開けて入ってくると、大きな足音たてて、部屋のなか回って、出て行ったね。わたし、身動きもしないで黙っていたけど、からだ汗ビッショリさ。蜂起の計画のこと、バレるのじやないか、誰か小畑の前にとび出して、蜂起のこと知らせるのではないかと思って、ピクピクしたよ。それから11時までの時間の長いこと、たいへんよ。からだ疲れてるけど、眼冴えているでしょ。眠ること、とてもできないさ。あまり部屋の外に出ると、あやしまれるから、ダメでしょ。寝ながら、いろいろのこと考えたさ。もう死ぬかもしれないからね。でも、わたしたち中国人に ひどいことばかりした補導員たちに、まもなく復讐するのことできるから、死んでも残念だという気持、あまりなかったね。ただ、一度中国に帰りたいの気持、これ、強かったさ。


林 
わたしのいる看護棟の病人とか、わたしたち看護班が蜂起のこと知ったの、看護長の劉玉林が知らせてくれてからのことね。病気の人たち、劉さんの話、黙って聞いていたね。補導員の奴らに、もっともひどい仕打ちされたの、病人たちだからね。それなのに、自分の手で仕返しのできないこと、残念なわけね。みんなの気持、蜂起うまくいってくれと、祈るようだったさ。蜂起はじまると、みんなで助けあって、山に逃げていくこと、わたしたちにきた命令ね。


劉 
蜂起の計画知らされてから、怪我の人、たいへんだったさ。傷口とか折れた手足とか、ちゃんとしておかないとダメでしょ。だけど、包帯もぜんぜんないでしょ。こんど、わずかに残っている着物さいて、包帯つくったの。だけど、準備してるのこと、補導員に見つかると、たいへんだからね。かくれて、少しずつやったの。


李 
夜中の11時ころ、わたしたちこっそり起きると、それぞれの部署につく人たち、起こして回ったの。どの人もみんな、目だけギョロギョロさせて、目覚ましたまま寝ていたね。自分の担当するの場所、みんな決まっていたけど、もう一度、確認して歩いたの。わたしは蜂起がはじまる前に、中国にいた時にゲリラの経験のある人70人ばかり連れて、東亜寮の近くまで行って、蜂起の起こるの待っている予定だったの。蜂起はじまると、すぐに日本人の監督襲って、朝鮮の人、解放することになっていたでしょ。ところが、わたしたち70人ばかり集まって、東亜寮に向かおうとしていた時、寮の中で、ギャアという大きな男の悲鳴聞こえてきたの。わたし、ビックリして寮の中に入ったでしょ。もう、任鳳岐が殺されているの。張金亭が早まって、事務所とか宿直室の窓口とか、その他の部署にみんながつかないうちに、任の奴を殺してしまったわけね。いま考えると、張の気持もわかるさ。蜂起の時間がくるの、いまかいまかと、居ても立ってもいられない気持ね。それで、我慢できなくて、手を出してしまったわけね。だけど、計画より早く、任が殺されたでしょ。その悲鳴、あまりにも大きかったわけでしょ。寝ている補導員たちに聞こえて、逃げられるとたいへんでしょ。寮の中暗いのに、計画よりも蜂起早まったものだから、みんなあわてたわけね。手にスコップとかツルハシとか持って、勝手に宿直室にとび込んでいったの。だけど、逃げるのに備えて、宿直室の窓の外を囲むことになっていた人たち、まだ部署についていなかったわけね。しかも、宿直室の中、暗いでしょ。誰がどこに寝ているか、ぜんぜんわからないからね。あとでわかったけど、このとき、宿直室の中で殺しだの、檜森と猪股の二人だけね。あとの人たち、みんな窓から逃げたの。それを追いかけて殺したの、長崎と小畑だけさ。あとの補導員たちに、逃げられてしまったわけね。生き残った福田、これいちばん悪いね。清水も助かったさ。いちばん悪いのことした補導員たち、殺せなかったわけね。計画より早く、やってしまったからさ。こんど、それからがたいへんだったさ。逃げた補導員たち、すぐ会社とか、警察に走っていくでしょ。それから大騒ぎになること、わかっていたからね。計画より早くやったために、アメリカ兵とか朝鮮人の解放もダメ、警察を攻撃することもできな
かったし、寮に火つけることも、やれなかったさ。食べ物も、つくる時間なかったからね。最初の計画ちょっと狂っただけで、みんなダメになってしまったの。


林 
わたしたち、中山寮から離れた看護棟にいたでしょ。蜂起のあるの、いまか、いまかと待っていたさ。待っている時間、長いわけね。我慢して、心を落ち着けて、待っていたさ。

夜中になって、寮の方で人の叫ぶ声したでしょ。それからたくさんの人が叫ぶ声とか、ガラスの割れる音とか、板が破れる音とかするね。劉さん、起きあがると、ランプに火つけたでしょ。みんな、起きあがったね。計画だと、補導員たち殺してから、食べ物たくさんつくり、それ食べてから持っていくことだったから、あまりあわてなかったの。時間があるからね。

だけど計画失敗したのこと、知らせてきたでしょ。食べ物つくる時間ない、すぐ山に逃げろと、知らせがきたでしょ。はじめの計画だと、50人ばかりいた病人たち、みんなで手分けして、一緒に連れて行くことだったけど、このことできなくなったわけでしよ。早く逃げないと、警察やってくるというので、起きあがれる人たち、我慢して起きて、病室から出たの。

起きあがって歩けない人たち、入口まで這い出してきたね。這うこともできない人たち、「待ってくれ」「ぼくも連れていってくれ」と、病室の中で叫んでるの。わたしたち何人かの看護人、歩けない人たち助けたり、背負ったりして病室の外に出たけど、重病の人多いでしょ。とても、みんな連れていけないの。寮の人たち、バラバラになって逃げ出していくの、暗い中で見えるでしょ。わたしたちも、気がせくわけね。早く逃げていきたい気持、誰でも同じさ。

計画だと、看護棟にも火つけて、焼くつもりだったの。だけど、動けない重病人たち、病室の中に残っているから、焼くのことできないでしょ。そのままにして、逃げたの。看護棟のそばに、水の流れる小さな川あるさ。その川が流れてくる山に、逃げ出していったの。外は暗いでしょ。どこに逃げていけばいいのか、ぜんぜんわからないからね。


李 
計画失敗したものだから、逃げた補導員たち、すぐ鉱山町に走ったでしょ。寮の中の人たち、まだ半分も逃げないうちに、下の方で警報のサイレン鳴ったり、半鐘鳴ったりするの、聞こえてくるでしょ。鉱山町の中で、電灯とかたいまつの明り、激しく動くの見えるの。

そんなこと見たり、聞いたりすると、早く逃げたいという気持、強くなってくるね。不安も出てくるでしょ。みんな、どこに逃げていくというあてもなく、走り出してしまうわけね。

それに、武器もぜんぜんないでしょ。何人かの人、スコップとかツルハシ持って逃げたけど、それもわずかな人たちね。重いから、走る途中で捨てた人、ほとんどさ。食べる物持った人も、何人かいたけど、それもわずかね。ほとんどの人たち、手ぶらで逃げていったの。暗いから、どこに逃げていけばいいのか、わからないわけね。中山寮からかなり離れたところに、高い山あるの、前から見て知っていたでしょ。暗い中で、その高い山だけ、ちゃんと見えるわけね。その山のかげに逃げれば、遠くまで逃げられると考えていたから、その山に向かって逃げたの。何人か先になって走ると、その後についてみんな走っていくわけね。田んぼとか鉄道とか越えて逃げたその山、岩とか本とかいっぱいあって、ひどいさ。暗いから先見えないし、あわてて逃げるから、岩にぶつかったり、木にぶつかったりして、手からも足からも、血が出るわけね。それでも、ぜんぜん痛いと思わないの。早く遠くへ逃げていきたい気持で、どの人も夢中だからね。この山の名前、後になって聞いたけど、獅子ヶ森というところね。これ覚えたの、ずっと後のことさ。


林 
わたしたち病人と一緒だから、そんなに走れないでしょ。あっちの谷のぼる、こっちの山のぼるでしょ。坂ころがり落ちたり、本にぶつかって倒れる人多いの。だから、長い時間歩くと、みんなバラバラになってしまったさ。病室からいくらか外に出て、あとはそのままという重病の人も、わりに多かったよ。


李 
いま考えると、もっといい逃げ方あったね。いまになると、そのことよくわかるけど、あの時はべつね。獅子ヶ森という山、わたしたち逃げていく目標でなかったけど、どこに逃げていけばいいのかわからないから、見える高い山を目標にしたわけね。はじめに計画した時、どの方角に逃げていくか、ちゃんと決めていたの。だけど、はじめの計画狂ったでしょ。先になって、みんなを引っぱっていく人、いなくなってしまったさ。みんなバラバラに逃げたから、どうにもならないよ。それでも、かなり遠くまで逃げた考えでいたけど、朝が来て、あたり見えてくると、わたしたちたくさんの人がのぼっている山のすぐ下に、家があるわけね。花岡鉱山も、ちょっと遠くの目の前に見えるさ。ぜんぜん遠くに逃げていないわけね。それに、夜明けると、もう警察とか、消防団の人とか、いっぱいの人たち、わたしたちのいる山を取り囲むようにしているのが見えるの。夜、明けると、わたしたちのからだ、もうふらふらね。骨ばかりにやせて、食べ物少ない毎日だったでしょ。そのからだで、ひと晩寝ないで、歩きつづけたわけでしょ。もう、腹の中になんにも入っていないさ。空腹になっても、山の上だから、飲む水もないの。これだから、戦いになっても、どうにもならないよ。山に来た時、もう膝ガクガクして、動けなかったからね。食べ物あったら、もっと遠くへ逃げられたけど、そんなものないから、とても無理ね。戦ってすぐに負けるの、わかっていたの。


拷問の明け暮れ

林 
夜明けても、わたしたち病人と一緒だから、ぜんぜん遠くへ逃げられないわけね。わたしも、看護棟からどれくらい逃げたかな。いくらも離れていなかったさ。朝が明けたころ、警察の人が来て、わたしたち看護班を捕えたね。疲れてるから、戦うのことぜんぜんできないよ。わたしたち捕えられると、二人がひと組に縛られて、トラックに乗せられたさ。病人は逃げることできないから、そのままね。病人たち、山からまた病室に運ばれたの、いつのことかわからないよ。わたしたち乗せたトラック、花岡派出所の近くに、大きな鉱山の劇場あるでしょ。その劇場の前、砂利敷いた広場ね。その広場に降ろされたの。縛られたまま砂利の上に、正座させられたから、足とか嬬痛いよ。この広場に連れてこられたの、わたしとか劉さん、いちばん最初ね。坐らされると、手拭で目かくしされたでしょ。目かくししたの、わたしたちの首、斬り落とすためかな思ったね。その方が、叩き殺されたり、食べ物なくて餓え死にさせられるより、ずっと楽だと思ったさ。こんな苦しいのことイヤだ、早く死にたいと思っていたから、死ぬのこわくなかったさ。


 李 
岩山に集まったの、何人いたかな。少なく見ても、300人はいただろうかね。何力所かに固まっていたけど、どの人も、動けないほど疲れているね。食べる物ぜんぜんないでしょ。太陽高くなってくると、暑いでしょ。みんな、動くこともできないさ。わたしたちのいる岩の山囲んで、警察とか消防団とかの人たち、いっぱいいるの見えるでしょ。人乗せたトラック、どんどん走ってくるでしょ。どうなるのか、だんだん心配になってくるでしょ。朝だいぶ進んでから、警察とか消防団の人たち、いっせいにわたしたちのいる山に登ってき
たね。みんな、鉄砲とか、日本刀とか、竹ヤリとか持っているでしょ。わたしたちの中で、武器持っている人、誰もいないさ。こっちが負けるのこと、確実にわかるからね。それでもわたしたち、鉄砲とか日本刀持って、山登ってくる人たちに、石投げたり、棒きれふったりして戦ったさ。でも、かなわないわけね。鉄砲でうたれたり、日本刀で斬られたりで、何人もの人たち、山の上で殺されたね。こんど、捕えられるでしょ。二人が一組に縄で縛られて、山から下って、花岡の劇場の前まで歩かされたの。トラックに乗せられた人もいたけど、トラックの数少ないから、歩かされた人多いよ。わたしたちのこと見た農家の人とか、鉱山の人たち、石投げてきたり、ツバ吐いてよこしたりするの。なにか大声で言ってるけど、その意味わからないよ。だけど、蜂起のこと、怒っていることだけは確かね。劇場の前に着いたでしょ。ふらふらで、倒れた人もいたよ。こんど、二人一組に、背中合わせに縛られて、砂利の上に坐らされたの。ちょうど、真夏でしょ。食べ物もくれないし、水もないでしょ。目の前ぼんやりして、なんにも見えないほど、ふらふらになったの。でも、二人が一緒に縛られとるでしょ。一人ふらふらすると、二人とも倒れてしまうの。すると、警官とか憲兵が走ってくると、そのこと悪いといって、棍棒で頭とか背中を、パンパンと叩ぐの。二人一緒だから、坐らされても疲れるわけね。それに、一人のひと弱っていると、二人とも倒れるから、叩かれることも多いわけね。


 劉 
昼ころになると、真夏の太陽、ジリジリと照りつけるからね。前の晩、小さい饅頭一つ食べただけで、ひと晩、田んぼの中走ったり、山登ったりしたわけでしょ。もう、誰の腹の中にも、なんにも入っていないさ。しかも、暑い太陽、まともに受けているからね。砂利の上に坐るから、脚が痛むさ。少し動くと、梶棒とんでくるでしょ。地獄よりもひどいところさ。


 林 
いちばん苦しいの、水飲みたいことね。口の中とか喉、ピリピリ痛むよ。「水ほしい」「水ちょうだい」と、何人もの人たち言ったよ。そのこと言うと、何か大声で叫びながら、棍棒とんでくるの。いま考えても、よく生きていたと思うよ。憲兵の中で、ひどい人もいたよ。水飲みたい言うと、桶に水汲んで、わたしたちのそばに持ってくるでしょ。その水、ヒシャクに汲んで、目の前につき出してよこすの。飲みたいでしょ。うしろに縛られている人を引っぱって、顔を近づけていくわけね。すると、その水の入ったヒシャク、だんだん遠くしていくの。こんど、倒れるでしょ。そのこと悪いと、また棍棒とんでくるわけね。最後にその水、目の前の砂利にあけたり、頭にふっかけたりするの。水、頭から顔に伝わって、流れるでしょ。その水、舌を出してなめるの。そのことおかしいといって、みんなで笑うの。あんなことやる人に、人間の心ないよ。日本の人、ひどいことばかりするの多いね。


 李 
劇場の前、引っぱられてきた人で、だんだんいっぱいになってきたでしょ。そのわたしたちのこと見ようと、女の人とか、子どもとか、たくさん来たね。何か大声で叫んで、わたしたちの顔に、ツバ吐いて、帰っていく女の人もいたよ。子どもの中には、わたしたちのいるところに来て、顔とか腕とか、叩いて歩くのもいたよ。遠くから、石投げてよこす女の子どももいるね。わたしたち縛られてるから、そんなことされても、よけることできないよ。黙って、睨みつけているだけね。こんど、二日目になって、生死のあいださまようようになると、睨みつけることもできないさ。されるがままの状態ね。


 林 
砂利の上に、三日二晩も坐らされていたけど、食べ物とか水、ぜんぜんぐれないの。夜になっても、横になって、寝ることもできないの。四日目になって、スイトンみたいなもの、お椀にたった半分だけ出たね。いま考えても、生きていたこと、まったく不思議ね。みんな、疲れと空腹で、ふらふらしているでしょ。倒れる人、多くなるわけね。どうにもならなくなって倒れると、そのこと悪いといって、棍棒で叩かれるから、死ぬ人多くなるわけね。死んでも、そのままにしておくよ。二人一緒に縛られとるうち、一人死んでもそのままにしておくでしょ。わたしの背中に縛られた人、名前も誰かわからないよ。からだの弱い人だったわけね。劇場の前に引っぱられてきた日の夕方、もう死んだよ。死んだ相手のからだ、だんだん固くなってくるでしょ。すると、重くなっていくの。一人でもたいへんなのに、死んだの人ひとり背負っているのだから、苦しいさ。こんど、次の日になると、死んだ人、だんだん臭いしてくるの。重くて、臭いしてきて、どうにもならないよ。こんど、晩になるでしょ。犬とか、猫とか、何匹も集まってくるの。死んだ人の足とか手とか、食べようとするの。食べるもの奪い合って鳴いたり、骨を噛むの音、夜中になると聞こえてくるの。生きてる人にも、かぶりついてくるの。わたしの膝にも、爪かけてきた猫いたけど、追うにしても、声出ないよ。疲れて、からだぜんぜん動かせないさ。わたしは食べられなかったけど、あとで聞くと、食べられた人もいたわけね。地獄よりもひどいところだったさ。


劉 
わたしたちのからだ、裸のような状態だからね。昼は暑いし、こんど、朝方は寒いでしよ。寒くて、からだがカタカタさ。これじゃ、なにをされなくとも、死んでしまうさ。


 李 
わたし、劉さんとか林さんみたいに、劇場の前に坐らされたの、半日くらいのことね。わたしたち捕えられて、連れてこられると、すぐに言ったの。蜂起のこと、わたしたち計画した、わたしたちの手でやった、ほかの人たち関係ない、早く寮に帰してほしいとね。わたしたちリーダー13人、すぐに花岡派出所に連れていかれたさ。ほんとは、計画に参加したの8人ね。だけど、あとの5人、わたしたちのちょっとした不用意のために、リーダーの中に入れられたの。8人はみんな、もう覚悟決めてるからいいけど、あとの5人、泣いてるよ。わたしたち関係ない、殺されるのイヤだと。その人たちの気持、よくわかるね。自分たちで計画したことでないからね。わたしたち、あとでそのこと何回も言ったけど、警察で認めてくれないよ。わたしたち13人のほかに、中心になった人、まだいるかと、ほかの人たち拷問にかけて、聞いたわけね。からだとか、ズボンとかに、いくらか血のついてる人いるでしょ。すると、その人、日本人殺した犯人でないかと、拷問にかけるの。リーダーになった人たち、
必ず殺される、生きられると、誰も思っていないからね。


 林 
病人でも同じだったさ。自分で転んで、傷つけて、血流してる人いるでしょ。その人、補導員のこと殺した人かもしれないと、劇場の中に連れていくの。劇場の中、拷問にかける場所ね。何時間かたって、劇場の中から運ばれてくるでしょ。もう動けないね。病人のひと拷問にかけるのだから、当然ね。劇場の中から、死んで出てくる人もいたね。劇場の中、どんなことあったか知らないけど。


 李 
わたしたち13人、花岡の派出所に入れられたでしよ。こんど、どんな計画して、誰と誰が補導員たち殺したか、詳しく自白させようとしたの。だけど、誰もそのこと、詳しく言わないの。どの人も、わたしたちみんなでやった、あとの人たち、ぜんぜん関係ないと言うだけでしょ。こんど、調べてる警官たち怒ってね。一人ひとり、劇場の中に連れていくの。天井の高い、がらんとした劇場ね。人った時に、とうとうここで殺されるのかと思ったよ。劇場の中に入るでしょ。何人かで、ビンタンくわせるの。わたしたち、立ってもふらふらの状態でしょ。一つビンタンくうと、もうその場に倒れるさ。倒れると、また立だされるでしょ。するとまた、ビンタンとんでくるの。そんなこと、何回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、長い木の腰掛けあるでしよ。その腰掛けに、仰むけに縛りつけられるの。それから、桶に水汲んできて、口と鼻から注ぎ込むの。苦しくて、息もつけないでしょ。からだ動かそうとしても、縛られとるから、動けないでしょ。「苦しい!」と叫ぼ
うとしても、口とか鼻に水いっぱい入ってるから、声出ないでしょ。また、そんな元気もないから、気を失ってしまうわけね。ところが、気失ってしまうと、こんど、腰掛けを逆さに立てるの。頭が下になるでしょ。すると、からだの中に入った水、こんど、口や鼻から出るでしょ。水出ると、わたしたち息を吹き返すわけね。その時の苦しいこと、とても言えないよ。ひと思いに殺してくれと、何度も叫んだよ。声にならないけどね。息を吹き返すでしょ。すると、また腰掛け水平にして、口と鼻にまた水を注ぎ込むの。気を失うと、また腰掛け逆立てにするでしょ。こんなこと、三回もつづけてやられると、もうダメよ。自分の力で、派出所まで歩いて帰れないよ。リヤカーに乗せて運ばれて、留置場の中に放っぽり出されるの。わたしだけでなく、13人、みんな同じことやらされるでしょ。でも、8人の誰も自白しないでしょ。5人は関係ないから、わたしじゃないと叫ぶだけね。こんど、次の日になると、また、劇場の中に連れていかれるの。こんどまた、なにをされるかわからないから、恐いさ。

 通訳来て、みんな白状しろ、許してやるからと言うでしょ。だけど、ひと口も言わないでしょ。こんど、太い注射器持ってくるの。桶の中の水、その注射器の中にいっぱい入れるでしょ。ハシゴの上に、わたしのからだ縛りつけて、その注射器腹にさして、水を腹の中に入れるの。何度もやると、やせてへこんでる腹、丸くふくらんでくるの。誰か靴のまま腹の上にあがって、腹の上ではねて、ふくれた腹ふむの。すると、口とか耳とか鼻からとか、腹の中の水、ふき出してくるの。その時の苦しいこと、たいへんよ。このこと、四回も五回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、天井から垂してある針金に、両方の親指縛りつけて、その針金を、上に巻き上げるでしょ。からだ宙吊りになると、こんど、尻でも脚でも、棍棒でめちゃくちゃに殴るの。痛いから、ぶらん、ぶらんと動くでしょ。親指の皮、べろっと抜けて、からだ下に落ちるの。そのとき、ほとんどの人、気絶してしまっているけど、まるで、犬か猫みたいな扱い方されたね。


生き地獄の毎日

 林 
わたしたち共楽館の前の広場に、三日二晩いたけど、食べ物も水も、ぜんぜんないでしょ。一日に一回は、共楽館の中に引っぱられて、お前、暴動に参加したろ、人殺したろと、拷問受けるでしょ。わたしそのこと知らない、わたし関係ないと言っても、信用しないの。嘘つくなと、殴る、蹴るをつづけるわけね。共楽館の中で死んだ人、建て物のわきに運んできて、積んでおくよ。三日の間に死んだ人、何人いたかな。いっぱい積んであったさ。20人くらいはいたね。広場でも死んだ人多いね。昼も夜も、あっちこっちで死ぬよ。昼は死ぬ人わかるけど、暗い時は、誰死んだかわからないよ。朝になって、明るくなると、死んでる人見えてくるの。あっちでも、こっちでも、死んだ人見えるわけね。死んだ人も、そのまま広場に捨てられてあるでしょ。朝になるでしょ。ハエがいっぱい飛んでくるの。死んだ人の口とか目とか、ハエがついて黒くなっているさ。そのハエこんど、生きてるわたしたちの口とか鼻にも、飛んでくるでしょ。わたしたちのこと、死んでいると思っているわけね。いま思うと、ハエも区別つかないほどになっているわけね、生きとる人か、死んだ人か……。それくらい、生きとる人もひどくなっていたわけね。


 李 
わたしたち13人、ひどい拷問受けたけど、殺そうとしなかったね。憲兵とか、警官たち言うに、お前たち日本人殺した、裁判にかけて死刑にする、それまで、殺さないで生かしておく、というようなこと、わたしたちに言うの。わたしたち、日本語よくわからないから。それでも、同じこと何度も言われるから、言ってることの意味、わかってきたけどね。いま考えても、あんなにされて、生きていたの、不思議なくらいね。わたしたち13人、花岡派出所の留置場に一週間ほどいたけど、一日に少ない時で三回、多い時だと五回から六回
も、共楽館の中に引っぱり出されて、いろいろな方法で拷問受けた。わたしたち8人が責任者、わたしたち計画した、日本人も殺したこと、何回もしゃべってあるでしょ。だから警察の人たち、蜂起のこと全部、ちゃんとわかっていたわけね。それでも、留置場から引っぱり出して、殴ったり、叩いたり、水槽の中に水入れて、その水にわたしたちの首つかまえて、入れたりするの。もう、なにも言うことないでしょ。それでも、拷問するわけね。


 林 
わたしたち、砂利の上に坐らされて三日目になると、もう坐っているのことできないさ。みんな、いまにも倒れそうに、ふらふらしているさ。何日も、水もなければ、食べ物もないでしよ。舌も唇も、カサカサして、火がついたように熱いさ。夜中に、小雨があったの。両手縛られてるから、雨掬うことできないでしょ。顔流れてくる雨、舌出してなめるの。その雨のうまいこと。半分死んでいたのが、この雨で生き返ったわけね。わたしだけでなく、この雨で生きのびた人、かなり多いよ。四日目の昼ころ、スイトンみたいなもの、椀に半分配られて、それ食べたでしょ。こんど、スイトン食べてから、中山寮に帰ることになったの。

共楽館から中山寮まで、距離だいぶあるね。それに、坂道多いでしょ。縛られていた縄とかれて、歩けと言われても、立てる人いないよ。石ころの上に、三日二晩も坐ってたわけでしょ。膝とかすねに、大きな傷ついてるの。その傷の中に、砂利とか土とか、いっぱい入っとるでしょ。なんとか立っても、歩くと、こんど傷痛むの。平たいところだと、なんとか立って歩いたけど、坂道になると、とても歩けないでしょ。みんな這ってのぼったけど、膝とかすねの傷、石とか砂にぶつかるから、痛いでしよ。血が流れてくるの。痛いから、黙ってるでしょ。すると、早く歩けと、棍棒とんでくるの。泣いても、声出ないし、涙も出てこないさ。共楽館から寮まで行く途中に、死んだ人もいるよ。四日目に寮にもどって、次の日、わたしたち看護人に、共楽館の広場の屍体、片づけるように命令されたの。だけど、自分で動くこともできない人、ほとんどでしょ。どうやって死んだ人たち、山の上まで運んでくるのことできるね。


 劉 
あのとき、看護長もいないから、わたしと林さん、交渉したね。わたしたちの力で、運んでくることできないと……。このとき、殴らないで、そのことわかってくれたね。そんなこと、花岡に来てからはじめてのことね。それだけ、わたしたちの弱っているの、わかったわけね。こんど、わたしたちに、大きな穴、二つ掘らせたの。わたしたちその時、この大きな穴に、死んだたくさんの同胞たちの屍体埋めるのかな、それとも、わたしたちが殺されて埋められるのかな、と考えたね。穴できて、何日かあとに、朝鮮の人たち、広場から屍体運んでくると、大きな二つの穴に、たくさんの屍体投げ入れて、土かぶせたの。わたしたち看護班の人たち、同胞たちの屍体の上に、土かぶせたの。大きな二つの穴のほかに、小さな穴、もう一つ掘ったの。その穴の中に、任鳳岐をひとりだけ埋めろというの。わたしたちの同胞を食いものにした入、死んだ後も特別の扱いうけること、不満で仕方なかったけど、一人だけ埋めたよ。命令だからね。日本、戦争に負けてから、わたし三回ばかり、花岡鉱山に行ったよ。遺骨のことで行ったのだけど、二回目に行った時、日本の赤十字とか、東京の華僑総会の人たちとも一緒ね。大きな穴二つあって、その穴の中に、まだたくさんの骨残っているの。その骨拾って、水で洗って、干してから箱に入れたけど、これが広場で殺された人たちの骨ね。何日も、水も食べる物もなくて殺され、何十人も一つの穴に投げ込まれて、骨はバラバラに捨てられて、あまりかわいそうで、涙ばかり出たよ。


林 
わたしたち看護班は、次の日から働いたけど、ほかの人たち、二日目から仕事に出たの。仕事に出る朝、みんなを寮の前に集めて、共楽館の前で、わたしたちを拷問する時、指揮をとった三浦署長と、河野所長の訓話あったの。日本の通訳、そのこと、わたしたちに知らせてくれたけど、そのとき、耿太隊長以下13人の主犯たち、すでに死刑になっている、と話あったの。わたしたちそのこと聞いて、ビックリしたの。なかには、鼻すすりあげて泣く人もいたけど、いま考えると、李さんたちまだ、花岡派出所の中にいたわけね。そんな嘘言って、わたしたちのこと、脅したわけね。


劉 
わたしたちは次の日から働いたし、工場で働く人は、二日目から仕事に出だけど、食べ物の量、前よりいくらか多くなったほかは、なんにも変わったことないね。仕事はきついし、補導員のかわりに剣を下げた警官が監督につくようになっても、わたしたちのこと殴るの、前と同じね。蜂起する前より楽になったことぜんぜんないよ。


敗戦後も戦争状態

 李 
わたしたち、花岡派出所に入れられて何日目かな、こんど、通訳の于傑臣も投げ込まれてきたの。このとき、みんなビックリしたさ。夜中になって、見回りの人あまり来なくなってから、みんなで彼に聞いたの。蜂起の状態のことも、わたしたちぜんぜん知らなかったからね。わたしたち殺したの、檜森と猪股が寮の中で、小畑と長崎が寮の外で、あとの補導員たち生きていること知ったの。そのこと聞いて、みんなガックリしたね。こんど、大館警察署の留置場から、両手を前に縛られて、トラックに乗せられたの。どこに連れていかれるのか、ぜんぜん知らされないでしょ。銃殺される場所に連れていかれるのかなと、何度も考えたりしてね。トラックに長い時間乗せられて、大きな町の中とおって、こんどトラックが停まって蹴り落されたけど、そこが秋田刑務所だったの。于は秋田の刑務所に来なかったから、ぜんぶで13人来たわけね。


 林 
蜂起のあと、通訳は日本人がやっていたよ。于傑臣のこと、ぜんぜん見かけなかったから、蜂起のとき、殺されたのかと思ったよ。あとで、留置場から出てきて、わたしたちに日本の敗戦のこと、知らせてくれたけど、戦争終わってからも、いつ中国に帰ったのか知らないよ。わたしたちと、まったくべつに来た人だからね。


 李 
秋田刑務所の中で、わたしたち、一人ひと部屋ね。毎日、取り調べ受けたし、殴られることもあったけど、ご飯は三回あるし、蒲団あるし、ゆっくり眠れるし、刑務所の中、天国だと思ったさ。だけど、刑務所のご飯の量、ぜんぜん少ないの。ご飯の中味、大豆三分の一、麦三分の一、米三分の一ね。ぜんぶ食べても、ふた口か三口でなくなるよ。お腹の中、ぜんぜん感じないわけね。わたし、いつもご飯くるでしょ。こんど、箸で、椀の中の大豆一つ一つとって、数えながら食べるの。お椀の中に大豆、だいたい30粒ほど入っているの。

 大豆食べ終わると、こんどは麦を箸で拾って、これも数えながら食べるの。麦は、だいたい50粒ほど入っているね。大豆と麦食べると、米はいくらもないから、すぐ食べ終わるさ。なんにもすることないから、一日三回、こんな食べ方して、時間をかけていたさ。こんど、独房の中に、小さな窓あるでしょ。その窓見ながら、太陽どこまでくると、三回のご飯のくる時間、わかるようになったの。太陽の動くの見ながら、ご飯まだかなと、そのことばかり考えていたよ。だけど、お椀に半分くらいのご飯だと、すぐにお腹すくでしょ。便所に立ってもいけないよ。立つただけで、もう頭ふらふらするの。刑務所に来て10日ばかりたったある晩、わたし、夢見たの。中国で別れたままの兄弟とか、亡くなった母のことなど、みんな夢の中に出てきたの。刑務所の朝、早いでしょ。六時になると、みんな起きるの。ひとり部屋だけど、隣の人と、話しすることできるの。わたし、朝起きると、夢見たのこと、隣の人に言ったの。兄弟や母たち、夢の中に出てきた、なにか悪いのこと、なければいいがと…。そのあとですぐ、ご飯運ばれてきたの。いつもの日より、ご飯のくる時間早いの。これ、ちょっとおかしい、何事かある、わたしの夢当たったと思ったよ。ご飯食べると、たくさんの人来て、独房の戸のカギとって、わたしたち13人、みんな外に出されたの。ははあ、、、きょうはこのまま銃殺されて、いのちなくなる日かな思った。13人手錠かけられて、トラックに乗せられたの。わたしたち乗ったあとに、おにぎりも積んだの。わたしそれ見て、いよいよほんとだ、人殺すとき、腹いっぱい食べさせて殺すと、わたし聞いていた。いつか死刑にされると思っていたから、べつにこわくないけど、腹いっぱいに食べて殺されるのこと、いい気持と思った。トラックで遠くに運ばれて、人目のつかないところで殺される、そう思ったの。ところが、わたしたち降ろされたの、裁判所の前ね。裁判所の中で、わたしたち13人並んだでしょ。こんど、警察の人来て、わたしたちを片っぱしから殴っていくの。なんで殴られるのか、ぜんぜんわからないよ。裁判官たち、わたしたち殴られるの見ていても、なんにも言わないの。なかには、笑って見ている人もいるよ。この日、第一回の裁判あったわけね。はじめの時に、わたしたち、自分の国の住所とか家族の名前、どうして日本に連れて来られたか、ぜんぶ言ったの。ほんとのこと言って、通訳されるでしょ。わきに立ってる警察の人、嘘つくなと殴るの。嘘でないよ。わたしの言ってること、ほんとのことね。ほんとのこと言うと、殴られるのだから、どうしようもないよ。わたしたち言ったあとで、検事の人かな、わたしたち13人に言ったの。あんたたち、暴動起こした、何人もの日本人殺した、中国人の誰と誰が、日本人の誰を殺した、とちゃんと言うの。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よくわからないよ。でも、聞いてわかっただけでは、みんな嘘のことね。日本人の補導員殺したのことだって、誰がやったのか、わたしたちでもわからないよ。それを、誰と誰がやったことにしているから、おかしいわけね。第一回の裁判あってから、10日くらいたってからのことかな。夜中に、刑務所の上の空、たくさんの飛行機とぶ音聞こえるの。まもなく、すぐ近くで、爆弾の落ちる音とか、機関銃の音とか、聞こえてくるの。わたし中国にいた時、中国解放義勇軍のゲリラしてたわけでしょ。だから、戦争はじまっていること、わかるの。わたしたちにも厚い帽子くばられて、一人ひとりに、銃砲待った憲兵がついたの。戦争で日本が負けてきていること、ぜんぜん知らされていないでしょ。どこの飛行機来ているのか、どうして爆弾落とされているのか、わからないね。だけど、たいへんなことになっていることだけは、わかったね。看守の顔も、憲兵の顔も、ひどく変わっていたからね。その次の日か、二日後のことかな、刑務所の中に吊しているもの持ち去ったり、貼り紙を剥いだりしているの。いま思うと、このとき、日本は戦争に負けていたわけね。そのことかくして、わたしたちに教えてくれないから、日本の人たちなにをやっているのか、不思議だったよ。なにやっているんだろと、隣の人と話したけど、誰もほんとのこと、わからないよ。


 林 
中山寮にいたわたしたちも、同じだったさ。蜂起の時のムリが出たり、食べ物の量、前と同じに少ないから、病人どんどん多くなってくるの。看護棟の中いっぱいになると、寮の中にも、病人の部屋つくったよ。いま考えると、日本が戦争に負けてからも、同じように重労働させられ、食べ物も少ないから、中国人は毎日のように死んでいったさ。日本が戦争に負けてからでもさ……。8月ころから、鹿島組の人とか、警官たちの様子、かなり変わってきたことわかったけど、まさか、日本が戦争に負けたとは、誰も思わないからね。そんな
こと聞くと、殴り殺されることわかっているから、誰も聞かないからね。わたしたち、日本が戦争に負けたことわかったの、9月に入ってからのことだったさ。いつの日だったか、はっきり覚えてないけど、わたしたちの働いている頭の上、すれすれに飛行機とんできたの。それから、落下傘に大きな荷物つけて、いくつも、いくつも落としていったの。その荷物、同じ花岡鉱山に捕虜になってきている、アメリカ兵のものだってことわかったの。もう戦争終わったのこと、そのことでわかったの。それまでは、誰も知らせてくれなかったからね。


 李 
刑務所にいるわたしたちに、暦渡してくれないでしょ。独房にいると、ほかのこと見ることもできないから、きょう何日か、ぜんぜんわからないわけね。飛行機の爆撃あって、刑務所の中の貼り紙剥がされて、だいぶたってから、第二回の裁判開かれたの。このとき、無期懲役は誰と誰、15年の懲役は誰と誰と判決あったけど、わたしたち日本のことば、ぜんぜんわからないでしよ。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よく聞きとれないよ。こんど、刑務所に帰ってから、隣の人と話し合って、その隣の人また隣の人と話し合って、
死刑になったのは誰なのか、無期になったのは誰なのか、確かめ合ったの。耿太隊長一人が死刑で、わたしは確か、15年の懲役だったようだけど、はっきりしないの。このとき、判決あってから、裁判官言うの。この裁判に不服だったら、上告することできる日本の法律ある。上に上告するのこと、いっこうにかまわないと言うの。だけど、わたしたちその方法わからないよ。わたしたち弁護士いるのかどうか、ぜんぜんわからないからね。どうやればできるのか、相談する人もいないからね。


 林 
それ、ことばだけのことね。わたしたち、上にもっていったとしても、勝てるわけないでしょ。だいいち、もっていく方法知らないのだからね。上にもっていっても、簡単に負けるさ。そして、死刑か、懲役ね。


李 
あとで開いたけど、わたしたちの判決あったの、日本が戦争に負けたあとの9月になってからと聞いて、ビックリしたさ。だけど、正直言って、死刑になると思っていたから、15年の懲役と聞いて、軽いと思ったの。


後文省略〜


以上、日本が行った「労工狩り」中国人強制連行の記録よる被害者の証言を終わりますが、野添憲治・著「花岡事件の人たち」には政府と企業戦後処理、などが書かれています。現在を生きる私たちにとっては想像を絶する事件と、戦後処理のみすぼらしさや責任逃れなど、目を覆いたくなる恥ずかしさを覚えます。
http://kisarazu.org/?page_id=62




3. 中川隆[-12412] koaQ7Jey 2019年2月05日 19:43:50: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
▲△▽▼

看板を使い分ける西岡力の狙い 2011/11/11
https://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/43537126.html


 怪人二十面相でもあるまいに、時と場合に応じて活動家「救う会」会長、文化人「国際基督教大教授」の看板を使い分け、世論を欺いているのが西岡力さんである。

 北朝鮮に行った事も見た事も無いのに、安明進(元北朝鮮工作員、実は韓国情報部要員)とグルになって北朝鮮に行って見てきた様な嘘をついて家族会を欺き、産経などのマスコミや拉致世論を誘導してきたことは再三指摘したので、今では知る人ぞ知る公知の事となった。

 しかし、西岡さん、反省することを自虐的と心得てか、これまでの嘘について謝罪するどころか、知らぬ顔の半兵衛。手を変え品を変え世論を欺いている。

 拉致問題を人権侵害と憤慨し、家族会に同情している人々の多くは、西岡さんがもともと憲法や人権を軽視する戦前肯定的な国家主義的思想の持ち主であることは知らないだろう。

 知らないままに無意識の中で、拉致問題は「人権侵害」から「主権侵害」へと刷りかえられ、マインドコントロールされている。

 西岡さんの思想をはっきりと示すのが、産経新聞の雑誌『正論』12月号の妄想文「危険水位を超えた『慰安婦』対日謀略」である。

 都合の悪い反対意見を謀略、工作と言い換えて封殺しようとするのは被害妄想症の西岡さんの常套手段だが、同一文でも「韓国が日本統治下の『慰安婦』問題を蒸し返し、これまでになく深刻な状況に陥っている」として、その背景を分析ならぬ妄想している。
 
 周知のように韓国の憲法裁判所は今年8月、「韓国政府が日本に元慰安婦の賠償を請求する外交交渉をしないのは憲法違反」とする判決を下した。それを受けて韓国外交通商部は9月、2国間協議を日本に提起した。

 それに対して西岡さんは「1965年の日韓基本条約に伴う請求権協定で両国間の個人の賠償請求権は消滅している。韓国憲法裁判決は外交上の常識を否定する倒錯した論理」と、身勝手な理屈で噛み付いている。
 
 さらに「事態がここまで悪化したのは、支援団体などが『慰安婦は日本国が強制した性奴隷』という歴史の虚構を国際社会に蔓延させたことが背景にある」とし、持論の「従軍慰安婦は娼婦」を持ち出して、被害妄想的な反論をしている。

 「親北朝鮮左派勢力による息の長い反日・日韓分断謀略工作の結実だ」にいたっては支離滅裂、病気というしかない。

 さらに、「日本が事なかれ的に謝罪を繰り返し、慰安婦強制連行の虚構を放置してきたことが、謀略勢力につけ込む隙を与えてきた。虚構の排除策に早急に取り組むべきだ」と“提言”しているが、所構わず噛み付く狂犬かと、首を傾げたくなる。

 拉致問題で反対意見を「北朝鮮工作員」「反日」と排撃する手法とそっくりである。
 
 今の世の中、妄言は捨てるほどあるが、小賢しい西岡さん、「東京基督教大学教授」の肩書きを使って、「大学教授がそこまで言うのだから、何か根拠があるのだろう」と素朴に信じる人々を取り込もうとしている。

 歴史門外漢らの出鱈目歴史教科書を作った「つくる会」代表の藤岡さんも東大教授の肩書きを使ったから、名刺にもこれからは気をつけなければならない。

 問題は、西岡さんが「救う会」会長の肩書きを隠している、つまり、使い分けていることだ。

 詐欺師でもあるまいに、あれこれ使い分けながら人々をたぶらかすのはいただけない。
 
 拉致問題は人権侵害と憤慨する人々が、「救う会」会長が女性の人権を蹂躙する暴言を吐いていると知ったらどう思うだろうか。反発、黙殺、「拉致問題は主権侵害だから矛盾しない」と肯定する、の三つであろう。

 西岡さんの狙いは最後の肯定派育成であるが、一般的にはそれをマインドコントロールという。

 西岡さんが拉致問題に首を突っ込んだのは人権に関心があったからではなく、持論の国家主義的な主張に使えるネタと判断したからだとの指摘が以前から出されていたが、外れていない。

 捏造情報でも何でも使って拉致問題をこじれさせてきたのは、日朝友好を妨害する政治的な目的と結び付いているとみられる。

 彼らの邪な思惑に振り回され、無為に歳月を費やす愚はもう繰り返してはならない。
https://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/43537126.html


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