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中川隆 koaQ7Jey コメント履歴 No: 100238
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[文化2] ゆとり教育を推進した三浦朱門の妻 曽野綾子がした事 _ これがクリスチャン 中川隆
170. 中川隆[-13010] koaQ7Jey 2019年1月14日 07:57:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22222]
止めようのない中国の勃興を、日本はなぜそれほど苦々しく思うのだろう?
2019年1月11日 Andre Vltchek New Eastern Outlook
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-4b9d.html

 小説の閃きを得ようとして、早足の散歩したものだが、三重県の古い田舎の寺院からほど遠くない所に子供用の美しいブランコがあった。二年前、ブランコが錆び、放置され、手入れされていないのに気が付いた。昨日、ブランコ施設を囲んで、場所を閉鎖する黄色いテープを見た。遊び場を無くすという取り返しがつかない決定が既にされたように思える。

 一日前、豊かな名古屋駅で、贅沢なレストラン街を宣伝する大きな広告のすぐ下で、年がいったホームレスの男が眠っているのに気が付いた。

 約350,000人の住民がいる四日市市では、極めて一部を除く、ほとんど全てのバス路線がなくなった。市のまさに中心、近鉄駅真正面の大理石プロムナードに彫られた、優雅で、ユニークな、輝く十二宮図も消えていた。四日市を、名古屋と、実際ほとんど中部日本全体のために機能しているセントレア国際空港とを接続する湾の高速フェリーは、市の助成金が干上がり、操業停止した。今人々が飛行機に乗るには、湾を巡る有料道路約70キロを、燃料を費やしてドライブし、通行料と空港駐車料金を支払わなければならない。公共地、あるいは稲田だったものは、急速に憂うつな駐車場に換えらつつある。中部でも、遥か南西の長崎市でも、北の根室でもそれは起きている。

 ホームレスがいたるところにいる。急速に価値を失うにつれ、自動車(今日本には一人当たりアメリカより多くの自動車がある)は適切に処分するには多くの費用がかかるので、稲田の真ん中や、かつて美しかった森の端で朽ちている。田舎の村全体が、実際ゴーストタウンに変わり、人口が減少している。国じゅう至る所、錆び、まずい都市計画と公共施設の深刻な欠如がある。

 日本は衰退しつつある。日本は、惰性で、地球上最も金持ちの国々の首位にしがみついていたので、何年も、目を半分閉じて、それを無視するのは可能だった。しかしもはやそうではない。悪化は今や余りに目立っている。

 衰退は、フランスやアメリカやイギリスの一部の地域で目にするほど徹底的なものではない。だがそれは衰退だ。楽天的な、意気揚々とした国造りの日々は終わっている。自動車産業や他の企業は、そのライフスタイルを要求して、文字通り国を共食いしている。小都市では、運転者は、もはや横断歩道の歩行者に配慮しない。都市計画者にとっては、自動車が最優先で、一部の都市計画者は、自動車業界から賄賂を得ている。多くの場所が今や自動車以外では行けない。ほとんど何の公共運動具もなく、新しい公園もない。最も洗練された食物生産を誇りにしていた日本は、今や健康に良くない食料だらけの、いくつかのコンビニエンスストア・チェーンに完全に圧倒されている。

 何世代もの間、人々は、繁栄する、強力な、社会的に均衡した日本を築くため、彼らの暮らしを犠牲にしてきた。今、国民は、主に強力な企業、要は、大企業を支持するために生きていることは疑いようがない。日本には、独自の別のモデルがあったものだったが、今ライフスタイルは北米やヨーロッパで見られるものとさほど変わらない。日本は歴史上、二度、「世界に開き」(つまり、西側権益と、グローバル資本主義経済に対して)、アジア文化にとって徹底的に異質な概念を受け入れることを強いられた。結果は速やかに現れたが、要するに、徹底的に破滅的だった。

*

 第二次世界大戦後、日本は占領を受け入れなければならなかった。憲法はアメリカによって書かれた。敗北したが、再建し、地球上最も豊かな国々に加わろうと固く決意して、日本は、まず朝鮮への残忍な侵略を支援して(いわゆる「朝鮮戦争」)欧米との協力を始めた。日本は、独立を完全に断念し、欧米全般、特にアメリカの外交政策と区別するのが次第に不明瞭になった外交政策に完全に身をゆだねた。終戦から現在に至るまで、マスコミは東京の政権に支配され、検閲されている。日本の国営放送局NHK同様、主要な日本の新聞は、少なくともアメリカかイギリスの主流放送局の一社が「属」国マスコミが、どのように報じるべきかという基調の例を示さない限り、重要な海外記事の一つたりも、放送したり、掲載したりしないのだ。この点に関し、日本のマスコミは、インドネシアやケニアのような国々のマスコミと同じだ。もし「民主主義」が、人々による支配を意味するなら、日本は確かに「民主主義国家」ではない。伝統的に、日本人は、国に仕えるために暮らしてきたが、おそらく、これはさほど悪い概念ではなかったろう。それは少なくとも大多数にとって機能していたのだ。だが今、国民は、大企業の利益のために、自らの暮らしを犠牲にするよう期待されている。

 日本人は支配者に強奪される時でさえ反抗しない。彼らは衝撃的なほど従順だ。

 日本は衰退しているだけではない。日本は自分の失敗を、伝染病のように広めようとしている。日本は実際、その従順で従属的な外交、国内政策を広め、それを美化している。奨学金を通して、日本は継続的に貧しい東南アジア諸国や世界の他の地域からの何万人もの熱心な学生を洗脳し、知性的に効果的に去勢している。

*

 その間、文字通り「隣の」中国は科学研究、都市計画と社会政策でリードしている。今やその憲法の一部の「生態学的文明」で、中国は有機食糧生産と同様、代替エネルギー源や、公共輸送機関を発展させる上で、日本より遥かに先行している。2020年までに、中国の広大な領土全てで、極端な極貧地域はなくなるだろう。

 中国で、それはすべて共産党の赤旗の下で行われるが、日本の大衆は、それを嫌悪し、拒絶するよう教えられている。

 途方もない中国の決意、熱意、非凡な才能や社会主義精神は、現代日本や、日本を操る欧米支配者連中の、硬直化した、保守的で失地回復論精神と比較すれば明らかに優れている。この対照は実に衝撃的で、慣れない目で見ても極めて明らかだ。

 国際舞台では、日本企業が、国中を略奪し、政府を堕落させている一方、中国は、古き良き共産主義の国際主義的理想で、大陸全体の立ち直りを支援している。欧米は、中国と、その素晴らしい努力をけがすべく最善を尽くし、日本は新しい侮辱さえ発明して、同じことをしているが、真実を隠蔽するのは一層困難になっている。アフリカ人と話をすれば、何が起きているかすぐにわかる。中国を旅すれば、全てが一層明確になる。物事を見ないよう、たんまり金をもらっていない限りは。

*

 学んで、経済、社会システムを完全に変えると決めるのではなく、日本は負けっぷりの悪い国に変わっている。日本は、独立した政策、共産主義の看板の下で成功した中国が嫌いなのだ。人々のために設計された新しい美しい都市を造ったがゆえに中国が嫌いなのだ。地方や、環境を救うべく最善を尽くすことに対してさえ中国を憎んでいる。中国が、政治的に、社会的に、学問的にさえ、完全に独立しているので、中国が嫌いなのだ。

 中国は、欧米学界と裏取引をしようとしたが、ゲームはほとんどイデオロギー的侵入と中国の知的独立崩壊に近い状態に至り、命取りになった。だが少なくとも危険は確認され、欧米による破壊活動は、手遅れになる前、いわば真夜中5分前に素早く止められた。

 日本では、欧米グローバル帝国主義政権への服従と協力が、一種道徳的名誉の印になる。様々なアメリカやイギリス大学の日本人卒業生が、ほとんど地球丸ごと惑星を破壊しているシステムに協力しながら、自分の成功の大きい証明を象徴するかのように、大学卒業証書を額に入れ壁に掛けている。

*

 私はおよそ15年前、中国人観光客が、日本中いたる所で、新幹線のプラットホームに立って、カメラを用意して、夢見ていたのを覚えている。新幹線が通過すると、彼らはため息をついたものだ。

 今、中国には世界で最も大規模な最高速新幹線ネットワークがある。中国の列車は日本やフランスのものより快適で、比較にならないほど安い。皆が旅行できるよう、値段が付けられているのだ。

 中国人女性は、日本のデパート商品を、悲しげに注視したものだった。中産階級は、iPhoneを所有することを夢見ていた。中国人の日本観光客が、日本人と同様、優雅に服を着ている今、iPhoneは贅沢とは思われておらず、実際、ファーウェイや他の中国メーカーは今アップルより良い電話を製造している。

 私は同様に中国人の日本観光客が、近代建築や国際コンサートホールや優雅なカフェやブティックでどれほど感銘を受けたかを覚えている。

 今、北京や上海の文化的生活は、東京や大阪と比較にならないほど豊かだ。中国の近代建築はより立派で、中国の都市と地方両方の生活には、まだ日本での実施からほど遠い新しいアイデアがある。

 日本で公共遊び場が放棄されたり、駐車場に換えられたりしている間に、中国は川や湖地域を埋め、公共地に変え、巨大あるいは小さな新公園を建設している。

 日本の遍在する広告の代わりに、中国では、地下鉄でさえ、社会主義の美徳、団結、深い思いやりと平等について語る機知に富んだ教育的な漫画が多くの幹線に置いてある。エコロジー文明が基本的に至る所で「広告されている」。

 日本人は一層憂うつになるが、中国では確信ある微笑を全ての各段階で見ることができる。

 中国は上昇しつつある。それは止めようがない。中国の経済成長(政府は、もはや実際、余り経済成長に興味を持っていない)ゆえではなく、中国市民の生活の質が着実に向上しているためだ。

 それこそ、本当に重要な全てではあるまいか? 我々は、寛容で近代的な共産主義制度の下で、人々の生活を改善することが明らかに可能だ。人々が微笑えんでいる限り、人々が教養を身につけ、健康で幸せである限り、我々は明らかに勝っている!

*

 一部の人々は、いまだに自然のままの日本の森や湖という魔法のイメージを追いかけている。そう確かに、懸命に探索すれば、そういうものはまだある。喫茶店や木々、素晴らしい小川。だが人は懸命に努力しなければならず、日本の都市も地方も、醜い電線が至る所に架けられ、腐朽した自動車や、奇妙な鉄塔や、手入れされていない公共地で一杯な中、完ぺきな場面を捜して、編集しなければならない。金が貯まる限り、利益がある限り、何でもありなのだ。

 日本人は、この主題に関して、自分たちの感情を、系統立てて説明するのは難しい。だが要約すればこうだ。日本人は、かつて占領し、苦しめた国が、自分たちよりずっとうまくやっていることに落胆を感じているのだ。日本の帝国主義者にとって、中国人は単に「人間より劣る連中」だった。決して明言されてはいないが、日本は、欧米文化と欧米の力だけを尊重していたのだ。今や中国の「人間より劣る連中」は、大洋底を探検し、飛行機を作り、地球上で最高速の列車を運用し、素晴らしい芸術映画を制作している。

 一方、日本は何をしているだろう? 自撮り、ビデオゲーム、ばかばかしい無意味な虚無的な漫画、愚かなソーシャルメディア、創意皆無のポルノや、装飾「芸術」のなだれ、ポップ音楽や大量生産の自動車。日本の人々は意気消沈している。私は日本で30年暮らした経験があり、日本を親密に知っており、日本が好きだ。日本の多くのことが好きだが、明らかにそれが実際崩壊し、変化しているのを目にしているのだ。日本はそれを認めて、変わることを拒否している。

 私はその方向が好きなので、中国と働いている。私は近代的共産党モデル(私は決して「四人組」や、連中のカルトや貧困美化の熱心な支持者ではなかった)が好きだ。まもなく全ての中国人を金持ちにし、虐げられた世界全部を、同様に裕福にするのだ!

 だが、それは日本が欲するものではない。しばらくの間、日本は「独特だ」と感じていた。日本はアジアの唯一の金持ち国だった。欧米に、金持ちであることを許されている唯一のアジアの国だった。アパルトヘイト時代、日本人は南アフリカで「名誉白人」だと定義されていた。それは日本が欧米文化を受け入れたからだ。日本は、征服された国を助けるのではなく、ヨーロッパ人と北アメリカ人と一緒に、世界を略奪することに決めたからだ。色々な意味で、それは一種の政治的、道義的な売春だったが、それはうまみがあった。実にうまみがあった。それでその倫理観は全く論じられなかったのだ。

 今中国は、共産党の賢明な指導体制と、中央計画組織の下で、勇気、努力、人々と、全ての才能で勃興している。まさに、日本人が嫌うよう洗脳されたものの下で。

 これはいらだたしい。恐ろしい。すると、帝国に対する、あらゆる服従や、屈辱やお辞儀は無駄だった野田ろうか? 結局、勝利するのは中国だ。人間性に対して、最も素晴らしい奉仕をしている共産主義だ。

 そう、日本はいらだっている。最近、世論調査では、日本人のおよそ80%が中国人が嫌いだと言っている。

 私は日本のあらゆる地域の人々と話す中、日本人は潜在意識で、何十年間も「負け馬」に賭けていたと感じていると確信している。日本人は、それを言葉で表現するには余りに誇り高い。日本人は、それをじっくり熟考するのを余りに恐れている。だが日本の生活は、少なくとも多くの人々にとって、明らかに無意味で、陰鬱で、憂うつになっている。国が成功裏に非政治化される中、革命は地平線上に見えないままでいる。

 中国は、友人に囲まれ、独立して、自信を持って、建設し、発明し、苦闘し、前進している。

 日本は拘束され、自由を奪われている。日本は動くことができない。日本は、もはや動き方や、抵抗方法さえ分からない。

 それが、日本が中国が嫌いな理由だ!

 Andre Vltchekは哲学者、小説家、映画製作者で調査ジャーナリスト。彼は Vltchek’s World in Word and Imagesの創作者で、Revolutionary Optimism, Western Nihilism含めて多くの本を書ている作家。オンライン誌 「New Eastern Outlook」独占記事。

記事原文のurl:https://journal-neo.org/2019/01/11/why-is-japan-so-bitter-about-unstoppable-rise-of-china/


日本は拘束され、自由を奪われている。日本は動くことができない。日本は、もはや動き方や、抵抗方法さえ分からない。
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-4b9d.html

http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/492.html#c170

[近代史3] 勝又壽良 _ 中国・朝鮮ヘイトでグローバリズム礼賛のアホ経済評論家 中川隆
12. 中川隆[-13012] koaQ7Jey 2019年1月14日 08:23:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

中国ヘイトの勝又壽良さんは中国の事が何もわかっていないですね:


中国、「奇妙」昨年末は腐敗闘争圧勝宣言し今度は腐敗運動「継続宣言」2019年01月14日


習近平国家主席は12月14日に開かれた政治局会議で、反腐敗との戦いに「圧勝を収めた」と宣言した。2012年の共産党大会後に同運動が始まって以来の「勝利宣言」だった。ところが、年が明けた1月13日、汚職摘発を担う中央規律検査委員会の全体会議終了後のコミュニケでは、「効果のある抑制措置を増やし、反腐敗運動の圧倒的な勝利を揺るぎなく発展させる」と強調した。一体、どちらが本当なのか。

正味1ヶ月足らずの間に、反腐敗闘争で全く意味の違うことを言い出した。この裏には、習氏をめぐる「暗闘」が繰り広げられていると見るほかない。昨年12月の「勝利宣言」は、党内融和を図るべく、「これ以上は腐敗取締をしない」というサインを出した。ところが、これに乗じて、「反習」の動きが始ったのであろう。

中国高官であれば、程度の差はあっても誰でも「収賄」をやっている。習氏が、政敵を陥れるには「賄賂調査」をやれば効果的と知り抜いている。そこで、増長してきた「反習」の動きを止めるために、「腐敗闘争継続」を宣言して、「反習派」を牽制しているのであろう。

『日本経済新聞 電子版』(1月13日付)は、「習氏、反腐敗緩めず、中国規律委の全体会合」と題する記事を掲載した。

(1)「中央規律検査委員会は、毎年初めに開かれており、2019年は11日に開幕した。コミュニケは金融分野の腐敗や収賄、職権乱用のほか職務怠慢などを重点分野として列挙。党や政府を見回る巡視制度を強化する方針を打ち出した。習氏を核心とする党中央が統一的な行動を取るべきだとも指摘した。習氏は開幕日の演説で、『国を治めるには必ず先に党を治め、党が中国の特色ある社会主義事業の大黒柱となることを確保しなければならない』と指摘。共産党の一党支配を続けるには自浄作用が必要だと訴え、『党中央の決定と配置は必ず毅然ときめ細かく実行に移さなければならない』と語った」

習氏は、共産党(党員数8900万人)が13億8600万人の国民を治めると臆面もなく言い切っている。13億人台の国民を収めるのは、中国国民のはずだ。習氏は、中国国民が自ら国を治められないほど、「民度が低い」と言っているようなものである。なんと、傲慢なエリート主義に酔っていることか。中国の腐敗を止めるには、孫文が『三民主義』で指摘したように、国民が選挙権を持つことだ。国民の監視が行き届けば、いくら賄賂が中国文化と言えど、歯止めがかかるはずだ。

(2)「開幕に先立って規律委が公表した18年の規律違反による処分件数は62.1万件と17年比17.8%増えた。16年比では1.5倍となった。規律委はあらゆる公職者の摘発を担う新機関『国家監察委員会』が18年3月に発足し、捜査対象が広がったことが処分増加の一因だと説明した。一方、習氏が『大虎』と呼んだ高官の摘発ペースは減速しており、閣僚級の処分は17年より7人少ない51人だった。規律委は『(庶民に近い)末端組織への監督を強化した』と説明した」

18年の規律違反による処分件数は、62万1000件という。党員数8900万人から見ると、0.7%である。この比率は、多いか少ないか問わないが、収賄するのは政府高官であろう。

ところで、昨年末に習氏はなんと言っていたか。それを見ておきたい。

『大紀元』(12月17日付)は、「中国、反腐敗運動で圧勝宣言、米中対立で危機的な状態の反映との分析」と題する記事を掲載した。

(3)「中国の習近平国家主席は14日に開かれた政治局会議で、反腐敗との戦いに『圧勝を収めた』と宣言した。2012年の共産党大会後に同運動が始まって以来の『勝利宣言』となった。同発言について、貿易問題に端を発した米中対立が先鋭化するなか、中国共産党政権は執政の危機にさらされ、『内部の団結』を優先させた、と専門家は分析した。反腐敗運動の進展について、習主席は昨年10月の共産党大会で汚職対策が『圧倒的な態勢』に入ったと述べていた」

昨年末の反腐敗闘争勝利宣言は、偽りのものだったことがわかる。習氏が、米中貿易戦争で不利な立場に立たされて、やむなく「これ以上は取り締まらない」と言わざるを得なかった。習氏の権力基盤は、決して安泰でないことを証明している。事実、1月になって「反習」の動きが活発化しているのであろう。

(4)「この勝利宣言が反腐敗の収束を意味するものではないとの分析が出ている。北京大学の荘徳水教授は『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト』の取材に対して、反腐敗の取り組みが6割ほどしか進んでいないと圧勝までまだ程遠いと述べた。香港紙『蘋果日報』の記事は、この圧勝宣言が共産党政権の危機を意味すると分析した。米中対立で経済状況が悪化し、執政危機に立たされている今、止むを得ず『団結』をアピールし、『一丸となって外敵と戦う必要があるからだ』という」

下線を引いた部分では、習氏の「圧勝宣言」は共産党危機の証明と見ていた。今年1月の「闘争圧勝宣言」は、まさにそれを裏付けている。

私の「メルマガ21号」は、危機に立つ中国共産党を分析した。どうか、読んでいただきたい。


コメント

1 中川隆 :中国人は自分が金が欲しくて賄賂を貰っている訳じゃないですからね 2019年01月14日 08:21 id:Hzo3bHu40


中国人は自分が属する宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されているんですね。

もし賄賂を貰わなければ宗族から追放されて生きて行けなくなるので、止めるのは不可能なのです。
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/archives/14983542.html?1547421694#comment-1
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/142.html#c12

[近代史3] 溝口健二 祇園の姉妹 (松竹 1936年)

祇園の姉妹 (松竹 1936年)


監督 溝口健二

脚本 依田義賢

撮影 三木稔

配給 松竹キネマ

公開 1936年10月15日

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E7%A5%87%E5%9C%92%E3%81%AE%E5%A7%89%E5%A6%B9?ref=watch_html5


キャスト

おもちゃ(芸妓):山田五十鈴

梅吉(芸妓):梅村蓉子

古沢新兵衛(木綿問屋):志賀迺家辨慶

おえみ(古沢の妻):久野和子

定吉(古沢の番頭):林家染之助
おはん(定吉の妻):三枡源女
工藤三五郎(呉服屋):進藤英太郎
おまさ(工藤の妻):いわま櫻子
木村保(工藤の番頭):深見泰三
聚楽堂(骨董屋):大倉文男
梅龍(芸妓):葵令子
お千代(扇家の女将):滝沢静子
立花(運転手):橘光造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E3%81%AE%E5%A7%89%E5%A6%B9


祇園の姉妹:溝口健二の世界
続壺齋閑話 (2013年8月21日 18:04)


溝口健二は生涯にわたって、男に踏みつけにされながらも健気に生きていく女たちを描き続けたが、その作風にとってターニングポイントとなったのが、「浪華悲歌」とこの「祇園の姉妹」である。溝口は、浪華悲歌では、父や兄の犠牲となって身を崩していく一人の少女をリアルに描いたのだったが、この作品では、祇園の芸妓姉妹の生きざまを描いている。芸妓であるから、もとより男の弄びものには違いないが、それでもやはり人間であることにも違いはない。では、芸妓でありながら人間らしく生きるのは不可能ごとなのか。そんな思いを込めて、溝口はこの映画の中でも、男に翻弄される女たちの生き方を描いているのである。

主人公は、祇園の芸妓である梅吉(梅村蓉子)、おもちゃ(山田五十鈴)の姉妹。彼女らは、芸妓のうちでも格下らしく、しがない暮らしをしている。姉の方はそんな境遇に満足しているが、妹の方は満足しない。金持ちの旦那を見つけて、何一つ不自由のない楽な生活がしてみたい。つまらぬ男の言いなりになって、あくせくするのはまっぴらだ。男なんてワテらの敵やさかい、そいつらをだまして金を巻き上げるのは理に適っている、と女学校出の知恵を働かせながら言うのである。そんな妹を姉は、そんなこというたら世間に顔向けでけへん、と諌めるのだが、妹の方は、世間がワテらを人間らしく扱うてくれたか、といって反発するのである。


姉には馴染みの旦那、古沢(志賀迺家辨慶)がいるのだが、その旦那の店が倒産する。この映画は、倒産した店が売りに出され、商品が競売にかけられるシーンから始まるのだ。倒産した責任を女房から追及され、さんざん罵られた古沢は、腹を立てて家を飛び出し、姉妹の住んでいる家に居候にやってくる。そんな古沢を姉の方は受け入れるのだが、妹の方はとんでもないことだと思う。そこで女だてらに知恵を絞って一計を弄する。この落ちぶれ旦那を適当に追い出して、もっと甲斐性のある旦那を姉に世話しようというのだ。


妹は自分のところに足しげく通ってくる呉服屋の番頭をたぶらかして、上等の着物を姉のために拵える。それでもって姉の値打ちを上げようというのだ。一方、古沢の昔馴染みである骨董屋をたぶらかして、金を出させ、その金の一部を古沢にやって、この路銀をもってどこへなりと行ってくれという。それが姉の意思だと聞かされた古沢は、仕方なく出ていく。古沢が居なくなったことを知った姉は、古沢のことを水臭いと言うのだが、そんな姉のところに、骨董屋が口説きにやって来たりする。


一方、番頭が商品を横流ししていることを察した呉服屋の主人(新藤栄太郎)が、姉妹の家に乗り込んでくる。しかし応対に出たおもちゃの色仕掛けにあって、すっかり鼻の下を長くしてしまう。ミイラ取りがミイラになったというやつだ。この場面が非常に面白い。おもちゃは、呉服屋に向かって「おぶーを、さしあげます」といいながら、ちゃぶ台のところに尻を持って行って、呉服屋を差し招く。そしてビールの栓をスポンと抜く。すっかりうれしくなった呉服屋は、そもそもの用事のことなどすっかり忘れて、おもちゃの色仕掛けに夢中になってしまう。


この場面では、「おぶー」とは飲み物と云う意味で使われているらしい。しかし、違う場面では、姉の梅吉が男に向かって「ぶぶ」といいながらお茶を差しだしている。この「ぶぶ」なら、東京地方の若い人も、今でも言っているのではないか。


さて、おもちゃは呉服屋をたぶらかして、まんまと自分の旦那になってもらう。洒落た服を着て、小遣にも不自由しなくなる。男をだましていい生活をするのが女の甲斐性だとするおもちゃの信念が順調に実現しつつあるようだ。


しかし、順調に進んでいた歯車の動きが、ちょっとしたことで狂いだす。品物を横流ししていたことで主人から謹慎を命じられていた呉服屋の番頭が、おもちゃに会いたくなって、姉妹の家に訪ねてくるのだ。その途中、かつて古沢の店の番頭だった男と出会い、古沢がいまでは番頭のやっている店に居候をしていることを聞かされ、そのことを梅吉に話す。びっくりした梅吉は、番頭を残して一人飛び出して行ってしまう。そこへ、おもちゃを連れた呉服屋がやってきて、番頭を厳しくなじり、クビだと云い渡す。そこで、腹を立てた番頭は、呉服屋の女房に旦那の浮気をあらいざらい暴露するとともに、おもちゃにも復讐してやろうと考えるのである。


なお、番頭が主人の不始末を女房に言いつけるのは、この主人が婿養子だということを暗示しているのだろう。倒産した木綿問屋の古沢もやはり婿養子だった。彼は養子としての責任が果せなかったために、家を出て梅吉の世話になるしか道がなかったわけだ。


画面が飛んで、おもちゃのもとに一人の男が訪ねてくる。御座敷から声がかかったので、迎えに来たというのだ。すっかり信用したおもちゃは、ちょっと待っておくれやす、といって鏡を前に身支度をする。その化粧をするシーンが何ともいえず色気がある。この映画のなかでもっとも印象に残るシーンだ。鏡を覗き込みながら、鬘を被り、鬢のあたりを櫛の先で整えるところなどは、日本の女の色気を集約したような感じをさせる。この演技をしたときの山田五十鈴はまだ二十歳になっていなかったのだが、それでもこれだけの色気を感じさせるというのはたいしたものだ。もっとも、この時に彼女は既に出産の経験があったそうだから、今日の女性とは比較できないかもしれないが。


車に乗せられるやいなや、おもちゃは騙されていることを思い知る。車は座敷があるという方向とは別の方向を目指して走っているからだ。そのうち、一人の男が助手席から顔を出しておもちゃを罵る。その男とは、おもちゃに食い物にされた呉服屋の番頭だ。


場面は飛んで、姉の梅吉の所に、おもちゃが大けがをして病院に担ぎ込まれたという知らせが入る。姉が病院に駆けつけてみると、処置が終わったところらしく、おもちゃが看護婦におんぶされて現れる。おもちゃは、なんでこんな目にあわされなあかんね、といってさかんに叫んでいる。男たちにタクシーの外へ放り出され、大怪我をさせられたというのだ。そんなおもちゃに、梅吉はいい加減にせいといって諭すのだが、おもちゃは「ワテはこんなことくらいで男に負けてへん」といって強がるのだ。


おもちゃは、男からこっぴどい目に合わされたわけだが、姉の梅吉の方も男(古沢)に捨てられる。義絶された女房から許してもらったのだ。こんな次第で、この姉妹は二人揃って男からひどい目に合わされるわけである。それでも姉の方は、男をうらもうとはしない。そんな姉を妹はふがいないと思う。姉は世間体を気にするが、妹の方は、世間がいったい何してくれた、というわけだ。


この映画のラストシーンは、浪華悲歌とは違って、山田五十鈴は颯爽と歩いてはいないが、それは怪我をして歩けないからだ。怪我が治って歩けるようになったら、きっと颯爽と歩いて男どもを見下してやる。そんな心意気が、山田五十鈴の表情からは伝わってくる。


なおこの映画は、現在見られるバージョンでは69分という長さであるが、本来は90分以上あったそうだ。どの部分が脱落したのかについては良くわからぬが、大筋は貫かれているようである。現在のバージョンでも十分鑑賞に耐える。
http://blog2.hix05.com/2013/08/post-627.html


▲△▽▼


『祇園の姉妹/Sisters of the Gion(1936年)』〜溝口健二監督の女性ハードボイルド・和風ノワール映画


フィルム・ノワール及びハードボイルド映画というと1941年の『マルタの鷹』を起源とすることが多いようですが、それに遡る事5年前の昭和11年の日本において女性を主人公としたハードボイルド映画が存在していたことをご存知でしょうか?。それが今回ご紹介する1936年製作『祇園の姉妹』という山田五十鈴主演の溝口健二監督作品です。

一般的には男性に翻弄される芸妓の悲喜劇的人間模様を描いた作品として扱れているかと思いますが(まぁ、その通りなのですが)、この映画は山田五十鈴がファム・ファタールとして欲望に駆られた男性達を翻弄するフィルム・ノワールであり、『マルタの鷹』のハンフリー・ボガートやダシール・ハメットの『血の収穫』やその翻案である黒澤明の『用心棒』の主人公のように状況を常に自分の都合の良いように誘導してリアルタイムに物語が改変されていくのを楽しむハードボイルド映画でもあるのです。


✱溝口健二に関して

溝口は1898年(明治31年)の東京生まれ。大工の父親の元に三人姉弟の真ん中生まれで、若い頃は絵師に弟子入りしたり洋画を学んだり浅草オペラや落語や講談、外国・日本文学に耽溺したそうです。1920年に俳優志願(!)で日活向島撮影所に出入りするうちに助監督になり、1923年に監督デビューしています(以上wiki情報ですが前々回扱ったフリッツ・ラングやエイゼンシュタイン同様、建築関連の家に生まれて後に美術に興味を持って映画界入りというのが偶然といえども時代性というか共通していて興味深いです)

溝口というと日本映画界を代表するトップクラスの巨匠であり、ゴダール(※)から最近のマーティン・スコセッシの『沈黙‐サイレンス‐』に至るまで世界的な映画作家に直接的な影響を与え続けている監督です。

生涯に86本(溝口健二監督作品リストを参照)もの作品を撮っていますが、その初期作品は残念な事に現存するものが少なく、現在ではで36本しか残っていません(ですので失われた作品に関しては淀川さんの「映画は語る」のような本を読んで激しく嫉妬するしか現状なす術はありません)。

この作品に関しても本来は95分の上映時間のうち、69分しか見る事が出来ません。しかしながら現存するこの69分の映画のどこのカットを切っても、溝口の斬新な才能と美学とこだわりの執念が溢れ出す圧倒的な強度を持った傑作と呼ぶにふさわしい映画だという事が分かります。

<(※)溝口のお墓参りをするゴダール(1966年)。好きな監督を三人と聞かれて「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えた話は有名>

✱祇園の姉妹/Sisters of the Gion

まずこの映画にはそのファースト・カットから驚かされます。軽快なオープニングタイトルバックの音楽とは裏腹に事業に失敗した木綿問屋の”古沢”はんの家財道具が競売にかけられている殺伐とした光景が、まるで絵巻物のような滑らかな横スクロールの移動撮影(及びパン)でその日本家屋の中を現実の部屋の中を隅々まで見渡すかのようなパノラミックな長廻しによって捉えられます。

この冒頭のシーンだけでももう何か只ならぬ異様な溝口時空の映画空間に引き込まれてしまいます。

そしてこの溝口のお家芸ともいえる長廻しに関してですが筈見恒夫との芸談においてこれは人間の心理を盛り上げていきたいから、ああいう手法を自然に選んだのだと以下のように語っています(*1)。

一つの構図の動きの中で人間の心理が盛り上がってくる。そいつをカットして、ポツンと切るのが惜しくなるんだ。そのまま押せるだけ押していきたい。それが、ああいう手法になったんで、特に意識したり、奇をてらったりしたわけじゃない。

この言葉は非常に興味深いです。まるで現実と虚構(つまり映画)の区別のつかない偏執狂的に凝り性な映画狂人が現実に嫉妬して、自身の映画の中に人間そのものを閉じ込めて再現しようと虚構を限りなく現実に近づけようとする映画的欲望の結果が溝口時空の正体という風に僕には思えるからです。

そして官僚的なお仕事的にワンシーンをワンカットで撮るというのではなく、人間の心理でカットの長さが決まるという事も溝口の映画を見れば納得できる特徴です。

さて、映画の方ですが、”嫁入り道具が売られるとは思いもしなんだ”と愚痴る奥方を尻目に”わしはおまえと一緒に国に帰らへんでぇ”と外に飛び出て祇園の色町に向かう”古沢”はんですが、この日本家屋のセットから切り替わる京都のロケーションがまた素晴らしいです。

細い京都の裏通りを縦の構図に捉え、花と番茶売りの掛け声が聞こえたり、着物姿の通行人とすれ違ったりする薄暗い路地の通りをスポット的にあたる陽の日差しと建物の影の中を通り抜けて移動するのがなんとも和風ノワールな雰囲気です。

そしてこの映画の魅力はなんといっても芸妓姉妹の妹役で”おもちゃ”という役名を演じる当時19歳の山田五十鈴です。まずは彼女の登場シーンが素晴らしいです。

あくびをしながらシュミーズ姿で京都弁を喋りながら歯磨きしたり髪をとかしたり、化粧をしたり服を着たり牛乳を飲んだりという日常芝居をするという一度見たら忘れる事が出来ない強烈な印象を残すシーンで登場します。

そして破産した”古沢”はんを居候させると言い出した義理を重んじる姉とは対照的に「男はんちゅう男はんはみんなわてらの仇(かたき)や、にっくいにっくい敵や!それこそわてら、男はんちゅうのをひどい目にあわせたってもええのや、いいや、あわしちゃる!」というなんかタランティーノの登場人物みたいにすぐにでもキルビルしそうなバイオレンスなセリフを早口の京都弁でまくし立てるのです。

いやーしびれますね。カッコいいです。これホントに1936年の映画?という感じのハードボイルドなモダンガールぶりです。彼女は傾向主義的とも言われている悲劇的なラストに至るまでこの苛烈でハードボイルドなヒロインを演じます。


しかもさらにこのバイオレントでハードボイルドでファム・ファタールなヒロインが口八丁手八丁で男をたぶらかすのがさらにこの映画の喜劇的ともいえる側面の面白さで、山田五十鈴のコメディエンヌぶりと溝口演出の巧みさを存分に堪能できます。

中でも何回みても笑ってしまうのが、呉服屋の旦那が奉公人の”木村”はんが”おもちゃ”に貢いだ反物を取り返そうと諫めに乗り込んできたのが、話を聞くうちに徐々に彼女に懐柔されてしまうシーンです。

最初玄関近くに座っていたのが「こっちきて一杯どうどす。茶茶(ぶぶ)がわりどすさかいに。それにだぁれもいやしませんし。」といってビールを差し出されて部屋の奥の長火鉢のところに誘導され、いつの間にか羽織を脱がされ、家着の丹前まで着せられて挙げ句の果てには”おもちゃ”のパトロンにされてしまうという抱腹絶倒のシーンです。

このシーンは山田五十鈴の京都弁の妙もさることながら、玄関先から部屋の奥まで自在に収縮する溝口時空の空間設計も素晴らしいです。


といった感じで生き生きとした京都弁と役者の演技、入念に設計された日本家屋内の空間演出とそれに対比されるように開放的でみずみずしい屋外のロケーションとノワールな路地裏、とどれをとっても素晴らしい映画です。

さすが公開時のキネ旬1位及び1959年の「日本映画60年を代表する最高作品ベストテン」において第2位に選ばれた作品です。しかしそういう歴史的な一時点の評価が意味を成さないほどまでに溝口と山田五十鈴が作り出した映画空間が時空を超えて今現在のこの時空に迫ってくるというのがこの映画の時代を超えた魅力です。
http://callmesnake1997.hatenablog.com/entry/SistersoftheGion


溝口健二は極左のマルキストだったのでヨーロッパの映画人に人気が有るのですね。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/158.html

[近代史3] 溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年)

溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年)

監督 溝口健二

脚本 依田義賢

原作 井原西鶴

音楽 斎藤一郎

撮影 平野好美

配給 東宝

公開 1952年4月17日


動画
http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?c1=&ch_userid=jpchan04&prgid=46330510
https://www.nicovideo.jp/tag/%E8%A5%BF%E9%B6%B4%E4%B8%80%E4%BB%A3%E5%A5%B3

キャスト

お春:田中絹代

奥方:山根寿子

勝之介:三船敏郎

扇屋弥吉:宇野重吉

お春の父新左衛門:菅井一郎

笹屋嘉兵衛:進藤英太郎
笹屋番頭文吉:大泉滉
菊小路:清水将夫
菱屋太三郎:加東大介
磯部弥太衛門:小川虎之助
田舎大尽:柳永二郎
お局吉岡:浜田百合子
待女岩橋:市川春代
お局葛井:原駒子
老尼妙海:毛利菊枝
笹屋女房お和佐:沢村貞子
松平晴隆:近衛敏明
重役真鍋金右衛門:荒木忍
重役田代甚左衛門:上代勇吉
丸屋主人七左衛門:高松錦之助
用人篠崎久門:水野浩
笹屋の大番頭治平:志賀廼家辨慶
所司代役人:坂内永三郎
老人:玉島愛造
丸屋の番頭:石原須磨男
貸衣装屋:横山運平
お熊:出雲八重子
お杉:平井岐代子
お仙:金剛麗子
待女柚垣:草島競子
中宿の女将:津路清子
扇屋の客:国友和歌子
女乞食:衣笠淳子
丸屋の仲居おきん:林喜美枝
丸屋の仲居おたま:大和久乃
お春の母とも:松浦築枝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%B6%B4%E4%B8%80%E4%BB%A3%E5%A5%B3


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「西鶴一代女」と「ボヴァリー夫人」「女の一生」「居酒屋」

昨日は、ネットの無料動画で、溝口健二監督を世界的に有名にした「西鶴一代女」を観ましたが、酷く暗い映画で落ち込んでしまいました(苦笑)。

昭和27年の作品です。この作品は、ヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞し、翌年は「雨月物語」、翌々年は「山椒太夫」でも獲得して、3年連続の栄誉を授かり、すっかり「世界の溝口」の名を不動のものとしました。「3人好きな監督を挙げよ」と聞かれた仏ヌーベルバーグのジャン・リュック・ゴダール監督が「溝口、ミゾグチ、みぞぐち」と答えたことは有名です。

今でも、日本よりフランスの方が溝口健二研究家が多いぐらいですが、これ程、暗い映画をフランス人が好むとは意外でした。

田中絹代主演で、若き三船敏郎も最初に登場します。田中絹代演じるお春は、3万石の殿様の側室となって世嗣ぎを産んで頂点を極めたかと思ったら、運命の悪戯で落魄して、苦界に堕ちて、堕ちて、堕ちまくる話で、これ程ついていない女性もいないぐらいです。そんな女性は、フランスにはフロベールの「ボヴァリー夫人」を始め、モーパッサン「女の一生」のジャンヌ、ゾラ「居酒屋」のジェルベーズと結構多く描かれ、なあんだ、薄幸女性は、フランス人好みだったわけですか。
https://keiryusai.com/archives/2413

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西鶴一代女:溝口健二の世界


溝口健二の映画「西鶴一代女」は、井原西鶴の小説「好色一代女」が原作だ。だが、原作を忠実に再現したものではない。ストーリーがかなり自在に変えられているほかに、作品のテーマというべきものが、まるで違っている。西鶴の小説は、好色女の自由奔放な一代記を描いたものだが、溝口健二の映画の主人公はただの好色女ではない。溝口が描いた女は、ある意味で時代の犠牲者だったのであり、彼女は時代の抑圧に耐えなから、人間的な尊厳を失わずに生きたということになっている。

周知のとおり、西鶴の小説家としての原点は「好色一代男」だ。この小説の中で西鶴は、世之介という架空の男に仮託して、人間の好色な業をえげつないまでに描いたのであるが、「好色一代女」もその延長上にある作品だ。世之介を女にかえただけで、人間の好色の本質を追求しようとする態度は共通している。好色一代女の主人公には、男である世之介とちがって名前はないが、一人の女として存在感を持ち、好色なことにかけて世之介に劣ってはいない。彼女もまた、世之介も顔負けするほど貪欲に性的快楽を追求する人間として描かれている。

西鶴の原作では、名前のない女主人公は、宮中の召使いから始まって、踊り子、大名の妾、島原遊郭の太夫、女郎、寺小姓、坊主の妾、祐筆、商家の女中、歌比丘尼等々を経て最後は尼僧で終わるのだが、その間に経験する境遇は、当時(17世紀の日本)において、およそ女性にとって考えられたあらゆる職業に及んでいると思われる。西鶴の女主人公は、これらの境遇を転々と渡り歩きながら、そのたびに男を誘惑して、性的快楽を謳歌するのである。

溝口健二は、原作の女主人公にお春という名前を与えてやったうえで、そのお春が、宮中の女中勤めに始まって様々な境遇を渡り歩き、最期には尼僧となって遍歴するという筋立てについては、おおむね西鶴の作品に負っている。しかし、西鶴の女主人公と違って、この映画の女主人公は、自分の意思で男を誘惑するのではなく、他人の意思に翻弄されて致し方なく身を売るような羽目に陥り、そのたびに身を持ち崩して最後には夜鷹にまで転落する。それでもなお、人間としての自尊心は失わない。そんな高貴な心性の女性として描き上げるのである。この点、溝口一流の女性賛美のひとつの典型であるともいえる。

映画は夜鷹の集団を映すことから始まる。彼女らの一人お春(田中絹代)が、寺の中の羅漢像の群に目をやるうち、その一つの顔が昔の男の顔に重なる。その男とは、宮中勤めをしていた時に言い寄ってきた男なのであった。西鶴の原作では、主人公の女は羅漢像に重ねて今まで出会ってきた男たちの一人一人の顔を思い浮かべることになっており、その中にこの男の顔は出てこない。だから、この場面は溝口特有の仕掛けなのである。

さて、その男(三船敏郎)とお春とはねんごろな中になったのだが、そのことが、封建時代の世には不届き千万というので、二人はお上に逮捕され、男は打ち首、お春は父母ともども洛外追放の処分に付されてしまう、という理不尽な目に合うのである。

男は打ち首にされる際に、言い残すことはないかと役人に言われて、遺言めいた言葉を残す。それは、「何故、男女慕いあうのが悪いのでございます。何故それが不義なのかわかりませぬ。身分などというのもがなくなって、誰でも自由に恋のできる世の中が来ますように。お春さま、真実の思いに結ばれて生きなされ」というものだった。

17世紀の日本人がこんなことをいうとはとても考えがたく、実際に西鶴の原作にも出てこない。溝口健二が勝手にもち込んだ部分なのだが、彼がわざわざこういう言葉を入れたのには、時代背景も作用していたのであろう。この映画が公開されたのは1952年、日本社会は戦後民主主義が花開こうとしていた時代だった。溝口はそんな時代精神を背景にして、男女の自由恋愛の思想を、場違いなところに織り込んだものらしい。

ともあれ、男の遺言を聞かされたお春は、以後「真実の思いに結ばれて生きて行こう」と決意したが如く、次々と数奇な境遇に身をゆだねていくのである。

お春にとって、次の重大な転機は、さる大名の妾になる事だった。世継ぎが出来ず、お家断絶の危機に瀕した大名家が、家臣に妾を探させる。家臣は、妾になる女の条件を記した紙を持って京都にやって来る。だがなかなか条件にあう女が見当たらない。そこへ、野山の園遊会の席上踊っていたお春が目に留まる。彼女のあらゆる部分が、妾になれる女の条件を備えているというわけなのだ。

こうして、大名の妾となったお春は一人の男子を出産する。しかし世継ぎを生んだお春にはもう用はないというわけで、お春はなんだかんだと因縁をつけられて大名家から追い出されてしまうのである。

この部分は西鶴の原作とは違っている。西鶴の原作では、子どもが生まれるとはなっていない。そのかわりに、大名が日に日に衰弱していく。それは大名が女の色香に惑わされ、あまりにあちらの度を過ごした結果であるとして、追い出されるということになっている。

追い出されて実家に帰ってくると、お前の出世をあてこんで借金が増えてしまったので、それを返すために、島原に行ってくれと父親からいわれる。親の欲のために、身を売れと言われるわけである。しかし、お春は反抗することもなく、いわれるままに身を売るのである。

映画ではこの先、商家の女中となっておかみさんの髪を結ったり、やっと持つことをできたささやかな所帯が、亭主を盗賊に殺されることで失ったり、尼寺に世話になるようになったものの、寺の中でセックスしているところを住職に見られて追い出されたり、商家の丁稚と駆け落ちした途端にその丁稚が連れ去られたりと、数奇な人生を送り、その旅に身を一段下へと持ち崩すうち、ついには乞食の境遇に落ちてしまう。

乞食になったお春が寺の門前で三弦をつま弾いていると、ある行列が通り過ぎる。その行列の中心には、お春の子どもが駕籠に乗っている。無論お春にそんなことはわからぬが、何かにせかされるように、その行列をじっと見つめるのだ。

衰弱しきったお春は、夜鷹の集団に助けられ、それが縁になって自身も夜鷹になる。ここで残酷な場面が出てくる。客だと思って男についていくと、あるところに案内される。そこには複数の男たちがいたのだが、お春を案内した男は彼らに向かってお春の顔を見せ、化け猫には騙されるなと忠告する。それがあまりにも人を馬鹿にした話なので、さすがのお春も逆上する。そして、腹いせに化け猫の真似をしてみせる。しかし、もらった金を放り出すようなことまではしない。いくら気位の高いお春でも、さすがにそこまでする気力は残っていないのだ。

ここで、画面は冒頭のシーンにもどるというわけなのだ。冒頭のシーンに続いて、三船敏郎が「真実の思いに結ばれて生きなされ」といった言葉を、お春は思い出すのだが、果して自分の人生は、この忠告に応えたものとなっただろうか。

ここで画面は更に一転して、お春が息子のいる大名家に召し戻されるという話に変る。この運命の急変に、お春は戸惑いつつも喜ぶのだが、その大名家に行ってみると、過酷な話が待っていた。

自分が召し戻されたのは他でもない。大名の世継ぎの母親が売春をしているということが表沙汰になってはゆゆしきことだ。だから、お前を国元に幽閉するというのだ。だが、その前に一度だけ子どもにあわせてやろう、といわれるが、面と向かっての対面ではない。子どもが邸内を歩いている姿を、庭の一隅から遠目に見るだけだというのだ。

お春が庭の一隅に、大勢の家来に囲まれながらかしこまっていると、目の前を子どもが通り過ぎる。子どもはお春の方に目を向けるまでもなく、スタスタと通り過ぎてしまう。その後をお春が追いかける。周囲の家来たちが制止しようとするが、わたしはあの子の母ですと毅然といって、なおも追いかけると、家来たちはみなその場にかしこまる。

そうこうするうちに、お春の姿はどこかに消えてしまい、彼女を乗せて国元に旅立つはずだった籠だけが、無残な姿で取り残される。

このあたりの場面が、この映画のクライマックスといってよいのではないか。お春はこれまでの生涯にわかって、常に他人の意思に服従して生きてきたが、最期には自分の意思を通すわけだ。たとえ自分の息子であっても、息子のために自分の人生を犠牲にするのはいやだ。せめて人生の最後なりとも、自分の意思に従って、自由に生きてみたい。お春のそんな意思が感じとれるのだ。

ラストシーンは、尼僧となったお春が念仏をあげながら、家々を角付して歩くシーンである。お春が念仏をあげると、家から出てきて、お布施をくれる者もいる。窓を開けて両手を振り、追い払おうとするものもいる。だがお春の心はどんなことがあっても乱れない。いまやこの世のあらゆる束縛から解放されて、ひたすら我が道をゆく。そういう悟りの境地が成立している。それ故、念仏の題目は、「請願成就」と聞こえるのだ。

なお、この映画には、日本の伝統音楽が効果的に使われている。浄瑠璃などがそのままの形で使われているほか、伝統的な日本音楽と西洋音楽とをミックスさせて、独自の音の世界を現出させている。その意味でも、この映画には非常に面白いところがある。
https://movie.hix05.com/mizoguchi/mizo105.saikaku.html


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凄絶な陶酔の美学  溝口健二 「西鶴一代女」


今晩は、今日も昨日に引き続き溝口健二の作品を紹介しますね。
紹介する作品は「西鶴一代女」です。この作品はまさに天才溝口による凄絶な一作でした。
今日はYou Tubeで映像を見つけることが出来ましたので、それを最後に紹介しますね。
(尚この記事も再投稿になりますので、一度お読みになった方はご了承下さい)

この作品を初めて見たのが18才位の時、幸運にも銀座の『並木座』のスクリーンでした。しかしその映像の凄まじい呪縛力!まさに監督の溝口自身が完全にこの作品に酔っています!!物事に酔う者が、他の者にその素晴らしさを伝えることができる。この映画は当にこの言葉をそのまま実践して出来上がったような見事な作品です。
また主人公「お春」を描く監督溝口のどこまでも厳しいリアリズムの眼!私にとっての陶酔と呪縛の上映時間は瞬く間に過ぎていきました。

周知のように溝口は戦後この作品を制作するまで全くの不調でした。「歌麿をめぐる五人の女」(46年、松竹京都)や「夜の女たち」(48年、松竹京都)で、幾分の立ち直りは見せましたが、やはり戦前の幾多の名作には遠い出来栄えと言わざるを得ませんでした。そこに黒澤明のような新しい才能の台頭や、時代の流れを敏感に感じ取った溝口の焦りや足掻きを感じることも出来ます。しかし監督としての溝口はこの一作で戦前の幾多の名作を凌ぐ傑作を作り上げました。

映画が始まります。斎藤一郎の箏をフューチャーした格調高い音楽が流れ、クレジット・タイトルが現れてきます。この芸術性の高さ!いかにも溝口作品のオープニングです。

映画のファースト・シーンは荒れた奈良の流れ寺の夜、薄曇に浮かぶ月がさっと黒雲に隠れていきます。
すると「にいさん、にいさん、」と言う声が聞こえ、厚化粧の娼婦お春(田中絹代)が客を引いています。しかし、客は一向に付きません。カメラはじっとそのお春を後ろからワン・シーンで捉え続けていきます。この冷徹なまでのカメラ・ワークと人間観察の凄まじさ!

客が付かなかったお春は寺の羅漢堂へと足を運んでいき、羅漢像を一つ一つ見つめていきます。その内、羅漢像にかつて自分と経験のあった男の面影を見つけていくことになります。「ふふ、似てるわ」!
このあたりの溝口の演出の妙。ここにお春の人生とこの映画の主題が総て集約されています!!お春は積年の疲労からかその場に倒れ込んでしまいます。若い頃のお春は御所に勤める女中でした。しかし運命と男に翻弄され続け身を持ち崩し遂には・・・。

田中絹代の体を張ったような体当たりの演技が見事!彼女はここで、18歳から老年した母親の役までを、溝口の演出に応えて見事に演じ切っています。しかし18歳の生娘を演じて何の違和感も感じさせないあたりは完全に舌を巻いてしまいます!!この時彼女は43歳!!

女優には老年すると引退するか、スクリーンに老醜をさらけ出していくかという2種類のタイプがあります。
前者の代表が原節子とするなら、後者の最右翼がこの田中絹代です。しかしこの後半の老いた母の演技は凄まじい。ここでの彼女の演技は時に震撼をも誘います。また娼婦の実情を若い衆に知らせる世話人に買われ、皆の前で老醜を暴露された後に演じる化け猫の演技の凄み!!

原作は井原西鶴の「好色一代女」、溝口と脚本の依田義賢は原作から主人公の好色の部分を取り除き、
男に騙されながらも恨むことのない無垢な女性像を作り上げます。ここではその狙いがまた見事に成功しています。このあたりはあのフェリーニの「カビリアの夜」(57年)を連想させますが、これはそれに先立つ5年も前の作品です。

しかしこの作品での透徹したリアリズムは見事です。ワン・シーン・ワン・カットとリアリズムは本来相反する技法なんですが、溝口はその両者を見事に融合させ芸術の領域にまで昇華させているのはさすがです。

中でも江戸の松平氏の側室探しのシーンはユーモラスで最高です。溝口は大勢の側室候補を通りに一堂に並べてワン・シーンでこの場を描き尽くします。この演出の妙の見事さ!
映画は落ちぶれたお春が、自分の生んだ松平家の幼い嫡男の籠をじっと凝視するシーンで頂点を迎えます!
カメラはお春の前で止まる籠を映し出し、籠が開きお春がわが子の姿を見た瞬間、音声が総て止まります。お春のこの時の表情とそれに続く嗚咽!!そこに尺八の音楽が流れていきます。このシーンの演出はもう溝口の独壇場で、完全に脱帽!!

ラストはどこからともなく声明が聞こえて、諸国を行脚するお春のシーンで終わります。お春の人生は仏教と出会うことで初めて救済されていきます。この宗教=仏教による救済の眼の確かさ!
また夫であった扇屋弥平(宇野重吉)が殺され、老尼(毛利菊枝)の下へ行くあたりから仏教の無常の概念が色濃く描かれていくのもまた出色の演出です。

これぞ溝口作品の真髄!この作品は溝口芸術の粋を凝集した彼の狂気のような傑作です。
私にとっては「近松物語」(54年)と並ぶ戦後の溝口作品のベスト・ワンです!!まだ御覧になっていない方には是非お薦めする作品です!!

余談ですが、この作品の製作者児井英生はそれまで娯楽作品一辺倒の製作者でしたが、生涯に一度だけ赤字になってもいいから芸術作品を作りたいということで、この作品のプロデュースに取り掛かり、溝口に監督を任せたそうです。事実この作品は興行的には振るわず、彼のプロデュースした作品の中で唯一の赤字を記録した作品だったそうです。しかし良くぞ赤字覚悟でこの作品をプロデュースしてくれましたね!!

この作品がヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞して、フランスではこの作品一作で溝口が神格化されたことを考えると一層その感を深くします!!
https://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/35291667.html

溝口健二は極左のマルキストだったのでヨーロッパの映画人に人気が有るのですね。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/159.html

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
145. 中川隆[-13011] koaQ7Jey 2019年1月14日 10:01:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
天皇の金塊、金の百合とは?

【天皇の金塊とは】
天皇の金塊とは、「金の百合」といわれているものである。
「金の百合」とは、金塊と財宝は天皇家所有の財産である、として1937年に名づけられた。
宮中の歌会始めのお題をあてた名前だった。

1945年(昭和20年)6月1日深夜、日本陸軍がアジア12カ国から奪った巨万の財宝をフィリピン各地の175ヶ所のトンネル地下サイトに隠し終えた。
最後に爆破した、地下倉庫8号サイト一ヶ所に蓄えられた金塊の量だけでも、たとえば3〜4世紀前に西欧に開設された全銀行が保管した金塊の総量と、第一次世界大戦時に世界一の金塊保有量(公称3千数百トン)を誇ったアメリカの全量の10倍を上回る勘定(数万トン?)であった。
つまり残る174箇所の地下サイトに保管された金塊財宝の総量は計り知れなかった。
175箇所のサイトに秘蔵された推定金塊総量は未確認だが、現地の信頼できる筋からの情報では、アメリカのCIAとイギリスの情報機関MI-6が15年間に推定した全サイトの金塊埋蔵量は合計14万1000トン。その内訳は、バチカンの名義分が1万4000トン、日本皇室の名義分2万4000トン、残りの10万トン余りは名義が特定出来ない(強奪先が不明)とのこと。

財宝を隠すのを現地で指揮していたのは、キムスと呼ばれた竹田宮恒徳(つねのり)(皇族)であった。


【天皇の金塊がどうやって集めら(強奪さ)れたか】
日本陸軍の高級官僚たちは、天皇の名のもとに、日本将兵と日本から呼び寄せた愛国者団体の黒龍会や玄洋社のリーダーや手下の荒くれ者たち、中国の地下組織の構成員たちを使って、アジア12カ国から金銀財宝を強奪した。
 12カ国とは、
 朝鮮半島、満州、中国、インドシナ半島、インドネシア、フィリピンなど。

 各国の政府の金庫や民族の祖先を祭る場所、銀行、博物館、華僑の会社金庫、個人住宅の裏庭など、ありとあらゆる場所にある金銀財宝(「金の百合」)を漁って強奪した。

強奪した金塊財宝類は、朝鮮半島から船と飛行機で日本に運ばれた。
これを軍人や政府官僚たちは「戦利接収品」と呼んだ。
これらの金塊財宝は、日本銀行の本支店、横浜正金銀行や第一銀行、三和銀行、それに何箇所かの博物館などに保管された。
金塊の一部は金貨やインゴッドに鋳造して流通された。
その他の金塊財宝は陸海両軍の倉庫に保管された。
戦後、隅田川の運河に面した東京月島の倉庫からは数十億円規模の金塊を詰めた木箱が、日銀の地下室からは数百億円を優に超えるダイヤモンドがアメリカ兵に押収されている。
占領軍の将校が、「これほど豊富な資金を持ちながら、なぜ日本が戦争に敗れたのか。。。」とつぶやいた、というエピソードが残っている。


【フィリピンの地下に隠された天皇の金塊(の一部)】
アジア諸国から強奪してきた金塊財宝はフィリピンにも集められた。
しかし1943年ごろからフィリピンと日本を結ぶ洋上航路は連合軍の潜水艦に封鎖され、日本に送れなくなった。
そこでやむなくフィリピン各地の地下(175ヶ所のトンネルサイト)に分散退蔵することとなった。

分散退蔵に従事した人々の様子をベン・バルモス・ハーミン(将校の世話係 兼 現地案内)は語っている。
 サン・フェルナンドの前線本部では軍人将兵より多い数の民間の専門家たちがいた。
 ・天然洞穴の空間や地面を掘削してトンネルを通したり、そのトンネルを繋いで地下構造物を拡大新設する民間人。
 ・鉱山技師、地質学者、建築家など。
 ・セラミック塗料で加工して地盤や地肌を偽装する職人、地下施設の随所に爆薬を装置して侵入者を防ぐ破壊専門家、同様に有毒化学物質とシアン化合物が自然粉砕するガラス類と化学薬品の科学者など。
 ・作品の年代や作者、歴史価値を判定する陶磁器専門の人。
 ・金の含有量の検査や鋳造、鉱物資源を分析する人。
 ・青銅製品や書画骨董類、それに歴史遺産に精通する大学教授や博物館の学芸員。
 ・仏像仏具の価値に審美眼を持つ日本の著名な寺院の仏僧。
 ・アジア全域の地形や地理に通じた専門家。
 ・日銀、三井、三菱、住友、第一銀行や横浜正金銀行から出向して、アジア12カ国政府と銀行所有の膨大な数の債権類や紙貨幣、それに財務資料や帳簿類を調べる行員たち。
 彼らは、地下構造物とその空間に退蔵する金塊財宝の鑑定と保存をするために働いていた。
 奴隷として作業させられていたのは、朝鮮人・中国人・フィリピン人、それにイギリスやオランダの捕虜たち。
 管理していたのは”日本人ヤクザ”たちであった。

 各サイトは地中で繋がっており、メインとなる8号サイトの出入り口を爆破してしまえば、他の空間も連鎖的に破壊できる構造になっていた。

 1945年6月1日、その8号サイトを爆発処理したのは、昭和天皇の従兄弟、陸軍中佐 竹田宮恒徳(つねのり)と、フィリピン防衛を指揮した陸軍大将 山下奉文(ともゆき)とベン・バルモス・ハーミン。

地下で繋がったトンネルサイトの所在を示す精密な地図(暗号で示された)は、キムスこと竹田が潜水艦で日本に持ち帰った。


【そして、中盤へ。】
そんな風にして集めた金塊だが、そもそも戦争事業者である世界金融資本家たちの、さらに上位にあるロイヤル・ファミリーの私有物である、と言う。
そして、この構造が明らかにされたのは、「金の百合」資金で大統領の座を買い取った、フェルディナンド・マルコス、の裁判が行われたためである、と言う。

少しだけ書く。
マルコスは地下から天皇の金塊の一部を、地下から掘り出し(これも巨大な量)、換金していた。
そしてマルコス裁判では、その換金の過程が解る、金融世界の大物たちの関わった証拠となる資料が公表された。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=237926


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c145

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
146. 中川隆[-13010] koaQ7Jey 2019年1月14日 10:02:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
竹田恒和の父親は中国で組織的な財宝略奪を指揮した人物
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901130000/
2019.01.14 櫻井ジャーナル

 日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長を訴追するための予審手続をフランスの司法当局は始めたと伝えられている。2020年に開催が予定されている東京オリンピックの招致に絡む贈賄容疑だという。

 昨年(2018年)11月19日に東京地検特捜部は日産自動車の会長だったカルロス・ゴーンと代表取締役のグレッグ・ケリーを逮捕したが、これと竹田の予審手続を関連付ける見方もあるようだが、フランス当局が捜査を開始したのは2016年だ。

 国際陸上競技連盟(IAAF)の会長だったラミン・ディアクの息子に関係するシンガポールの銀行口座に約2億2300万円の送金があり、IOC委員の買収が目的だったのではないかという疑惑が持たれたとされている。この支払いを認めたのが招致委員会の理事長だった竹田だった。

 竹田恒和の父、竹田恒徳もJOCの委員長だった。任期は1962年から69年、つまり1964年の東京オリンピックを挟んだ時期にあたる。

 竹田恒徳は昭和天皇のいとこにあたり、ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、1937年から敗戦まで秩父宮雍仁の下で組織的な財宝の略奪、いわゆる「金の百合」を指揮していた。この秩父宮と竹田恒徳はジョセフ・グルーと近い関係にある。

 グルーはいとこのジェーンが結婚した相手はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥。グルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 こうした背景があるため、グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていた。特に親しかったとされている松岡洋右の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しい関係にあった。

 第2次世界大戦で敗北した日本の進む方向を決めたのはウォール街を後ろ盾とするジャパン・ロビーだが、その中心的存在もグルー。日本の戦前レジームと戦後レジームはつながっているのだ。

 金の百合で略奪された財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手順になっていたが、途中で日本への輸送が不可能になり、相当量がフィリピンに隠された。その隠し場所を聞き出すために日本軍の将校を尋問したのがエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際は戦時情報機関OSSのオフィサーだった。

 竹田は戦後、邸宅を堤義明の西武グループに売却、そこに建てられたのが高輪プリンスホテルだ。敗戦で資産を失ったという演出だったが、実際は資産を隠していたと言われている。堤義明は1989年から90年にかけてJOCの会長を務めた。

 竹田恒和は日本とアメリカの深層海流とつながっている。フランス支配層はそこを意識しているのだろうか?


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c146

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
37. 中川隆[-13009] koaQ7Jey 2019年1月14日 10:03:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
天皇の金塊、金の百合とは?

【天皇の金塊とは】
天皇の金塊とは、「金の百合」といわれているものである。
「金の百合」とは、金塊と財宝は天皇家所有の財産である、として1937年に名づけられた。
宮中の歌会始めのお題をあてた名前だった。

1945年(昭和20年)6月1日深夜、日本陸軍がアジア12カ国から奪った巨万の財宝をフィリピン各地の175ヶ所のトンネル地下サイトに隠し終えた。
最後に爆破した、地下倉庫8号サイト一ヶ所に蓄えられた金塊の量だけでも、たとえば3〜4世紀前に西欧に開設された全銀行が保管した金塊の総量と、第一次世界大戦時に世界一の金塊保有量(公称3千数百トン)を誇ったアメリカの全量の10倍を上回る勘定(数万トン?)であった。
つまり残る174箇所の地下サイトに保管された金塊財宝の総量は計り知れなかった。
175箇所のサイトに秘蔵された推定金塊総量は未確認だが、現地の信頼できる筋からの情報では、アメリカのCIAとイギリスの情報機関MI-6が15年間に推定した全サイトの金塊埋蔵量は合計14万1000トン。その内訳は、バチカンの名義分が1万4000トン、日本皇室の名義分2万4000トン、残りの10万トン余りは名義が特定出来ない(強奪先が不明)とのこと。

財宝を隠すのを現地で指揮していたのは、キムスと呼ばれた竹田宮恒徳(つねのり)(皇族)であった。


【天皇の金塊がどうやって集めら(強奪さ)れたか】
日本陸軍の高級官僚たちは、天皇の名のもとに、日本将兵と日本から呼び寄せた愛国者団体の黒龍会や玄洋社のリーダーや手下の荒くれ者たち、中国の地下組織の構成員たちを使って、アジア12カ国から金銀財宝を強奪した。
 12カ国とは、
 朝鮮半島、満州、中国、インドシナ半島、インドネシア、フィリピンなど。

 各国の政府の金庫や民族の祖先を祭る場所、銀行、博物館、華僑の会社金庫、個人住宅の裏庭など、ありとあらゆる場所にある金銀財宝(「金の百合」)を漁って強奪した。

強奪した金塊財宝類は、朝鮮半島から船と飛行機で日本に運ばれた。
これを軍人や政府官僚たちは「戦利接収品」と呼んだ。
これらの金塊財宝は、日本銀行の本支店、横浜正金銀行や第一銀行、三和銀行、それに何箇所かの博物館などに保管された。
金塊の一部は金貨やインゴッドに鋳造して流通された。
その他の金塊財宝は陸海両軍の倉庫に保管された。
戦後、隅田川の運河に面した東京月島の倉庫からは数十億円規模の金塊を詰めた木箱が、日銀の地下室からは数百億円を優に超えるダイヤモンドがアメリカ兵に押収されている。
占領軍の将校が、「これほど豊富な資金を持ちながら、なぜ日本が戦争に敗れたのか。。。」とつぶやいた、というエピソードが残っている。


【フィリピンの地下に隠された天皇の金塊(の一部)】
アジア諸国から強奪してきた金塊財宝はフィリピンにも集められた。
しかし1943年ごろからフィリピンと日本を結ぶ洋上航路は連合軍の潜水艦に封鎖され、日本に送れなくなった。
そこでやむなくフィリピン各地の地下(175ヶ所のトンネルサイト)に分散退蔵することとなった。

分散退蔵に従事した人々の様子をベン・バルモス・ハーミン(将校の世話係 兼 現地案内)は語っている。
 サン・フェルナンドの前線本部では軍人将兵より多い数の民間の専門家たちがいた。
 ・天然洞穴の空間や地面を掘削してトンネルを通したり、そのトンネルを繋いで地下構造物を拡大新設する民間人。
 ・鉱山技師、地質学者、建築家など。
 ・セラミック塗料で加工して地盤や地肌を偽装する職人、地下施設の随所に爆薬を装置して侵入者を防ぐ破壊専門家、同様に有毒化学物質とシアン化合物が自然粉砕するガラス類と化学薬品の科学者など。
 ・作品の年代や作者、歴史価値を判定する陶磁器専門の人。
 ・金の含有量の検査や鋳造、鉱物資源を分析する人。
 ・青銅製品や書画骨董類、それに歴史遺産に精通する大学教授や博物館の学芸員。
 ・仏像仏具の価値に審美眼を持つ日本の著名な寺院の仏僧。
 ・アジア全域の地形や地理に通じた専門家。
 ・日銀、三井、三菱、住友、第一銀行や横浜正金銀行から出向して、アジア12カ国政府と銀行所有の膨大な数の債権類や紙貨幣、それに財務資料や帳簿類を調べる行員たち。
 彼らは、地下構造物とその空間に退蔵する金塊財宝の鑑定と保存をするために働いていた。
 奴隷として作業させられていたのは、朝鮮人・中国人・フィリピン人、それにイギリスやオランダの捕虜たち。
 管理していたのは”日本人ヤクザ”たちであった。

 各サイトは地中で繋がっており、メインとなる8号サイトの出入り口を爆破してしまえば、他の空間も連鎖的に破壊できる構造になっていた。

 1945年6月1日、その8号サイトを爆発処理したのは、昭和天皇の従兄弟、陸軍中佐 竹田宮恒徳(つねのり)と、フィリピン防衛を指揮した陸軍大将 山下奉文(ともゆき)とベン・バルモス・ハーミン。

地下で繋がったトンネルサイトの所在を示す精密な地図(暗号で示された)は、キムスこと竹田が潜水艦で日本に持ち帰った。


【そして、中盤へ。】
そんな風にして集めた金塊だが、そもそも戦争事業者である世界金融資本家たちの、さらに上位にあるロイヤル・ファミリーの私有物である、と言う。
そして、この構造が明らかにされたのは、「金の百合」資金で大統領の座を買い取った、フェルディナンド・マルコス、の裁判が行われたためである、と言う。

少しだけ書く。
マルコスは地下から天皇の金塊の一部を、地下から掘り出し(これも巨大な量)、換金していた。
そしてマルコス裁判では、その換金の過程が解る、金融世界の大物たちの関わった証拠となる資料が公表された。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=237926



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竹田恒和の父親は中国で組織的な財宝略奪を指揮した人物
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901130000/
2019.01.14 櫻井ジャーナル

 日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長を訴追するための予審手続をフランスの司法当局は始めたと伝えられている。2020年に開催が予定されている東京オリンピックの招致に絡む贈賄容疑だという。

 昨年(2018年)11月19日に東京地検特捜部は日産自動車の会長だったカルロス・ゴーンと代表取締役のグレッグ・ケリーを逮捕したが、これと竹田の予審手続を関連付ける見方もあるようだが、フランス当局が捜査を開始したのは2016年だ。

 国際陸上競技連盟(IAAF)の会長だったラミン・ディアクの息子に関係するシンガポールの銀行口座に約2億2300万円の送金があり、IOC委員の買収が目的だったのではないかという疑惑が持たれたとされている。この支払いを認めたのが招致委員会の理事長だった竹田だった。

 竹田恒和の父、竹田恒徳もJOCの委員長だった。任期は1962年から69年、つまり1964年の東京オリンピックを挟んだ時期にあたる。

 竹田恒徳は昭和天皇のいとこにあたり、ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、1937年から敗戦まで秩父宮雍仁の下で組織的な財宝の略奪、いわゆる「金の百合」を指揮していた。この秩父宮と竹田恒徳はジョセフ・グルーと近い関係にある。

 グルーはいとこのジェーンが結婚した相手はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥。グルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 こうした背景があるため、グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていた。特に親しかったとされている松岡洋右の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しい関係にあった。

 第2次世界大戦で敗北した日本の進む方向を決めたのはウォール街を後ろ盾とするジャパン・ロビーだが、その中心的存在もグルー。日本の戦前レジームと戦後レジームはつながっているのだ。

 金の百合で略奪された財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手順になっていたが、途中で日本への輸送が不可能になり、相当量がフィリピンに隠された。その隠し場所を聞き出すために日本軍の将校を尋問したのがエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際は戦時情報機関OSSのオフィサーだった。

 竹田は戦後、邸宅を堤義明の西武グループに売却、そこに建てられたのが高輪プリンスホテルだ。敗戦で資産を失ったという演出だったが、実際は資産を隠していたと言われている。堤義明は1989年から90年にかけてJOCの会長を務めた。

 竹田恒和は日本とアメリカの深層海流とつながっている。フランス支配層はそこを意識しているのだろうか?


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c37

[近代史3] 南京大虐殺、南京での組織的略奪とその隠蔽は昭和天皇が直々に命令して実行させた? 中川隆
1. 中川隆[-13008] koaQ7Jey 2019年1月14日 10:04:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

天皇の金塊、金の百合とは?

【天皇の金塊とは】
天皇の金塊とは、「金の百合」といわれているものである。
「金の百合」とは、金塊と財宝は天皇家所有の財産である、として1937年に名づけられた。
宮中の歌会始めのお題をあてた名前だった。

1945年(昭和20年)6月1日深夜、日本陸軍がアジア12カ国から奪った巨万の財宝をフィリピン各地の175ヶ所のトンネル地下サイトに隠し終えた。
最後に爆破した、地下倉庫8号サイト一ヶ所に蓄えられた金塊の量だけでも、たとえば3〜4世紀前に西欧に開設された全銀行が保管した金塊の総量と、第一次世界大戦時に世界一の金塊保有量(公称3千数百トン)を誇ったアメリカの全量の10倍を上回る勘定(数万トン?)であった。
つまり残る174箇所の地下サイトに保管された金塊財宝の総量は計り知れなかった。
175箇所のサイトに秘蔵された推定金塊総量は未確認だが、現地の信頼できる筋からの情報では、アメリカのCIAとイギリスの情報機関MI-6が15年間に推定した全サイトの金塊埋蔵量は合計14万1000トン。その内訳は、バチカンの名義分が1万4000トン、日本皇室の名義分2万4000トン、残りの10万トン余りは名義が特定出来ない(強奪先が不明)とのこと。

財宝を隠すのを現地で指揮していたのは、キムスと呼ばれた竹田宮恒徳(つねのり)(皇族)であった。


【天皇の金塊がどうやって集めら(強奪さ)れたか】
日本陸軍の高級官僚たちは、天皇の名のもとに、日本将兵と日本から呼び寄せた愛国者団体の黒龍会や玄洋社のリーダーや手下の荒くれ者たち、中国の地下組織の構成員たちを使って、アジア12カ国から金銀財宝を強奪した。
 12カ国とは、
 朝鮮半島、満州、中国、インドシナ半島、インドネシア、フィリピンなど。

 各国の政府の金庫や民族の祖先を祭る場所、銀行、博物館、華僑の会社金庫、個人住宅の裏庭など、ありとあらゆる場所にある金銀財宝(「金の百合」)を漁って強奪した。

強奪した金塊財宝類は、朝鮮半島から船と飛行機で日本に運ばれた。
これを軍人や政府官僚たちは「戦利接収品」と呼んだ。
これらの金塊財宝は、日本銀行の本支店、横浜正金銀行や第一銀行、三和銀行、それに何箇所かの博物館などに保管された。
金塊の一部は金貨やインゴッドに鋳造して流通された。
その他の金塊財宝は陸海両軍の倉庫に保管された。
戦後、隅田川の運河に面した東京月島の倉庫からは数十億円規模の金塊を詰めた木箱が、日銀の地下室からは数百億円を優に超えるダイヤモンドがアメリカ兵に押収されている。
占領軍の将校が、「これほど豊富な資金を持ちながら、なぜ日本が戦争に敗れたのか。。。」とつぶやいた、というエピソードが残っている。


【フィリピンの地下に隠された天皇の金塊(の一部)】
アジア諸国から強奪してきた金塊財宝はフィリピンにも集められた。
しかし1943年ごろからフィリピンと日本を結ぶ洋上航路は連合軍の潜水艦に封鎖され、日本に送れなくなった。
そこでやむなくフィリピン各地の地下(175ヶ所のトンネルサイト)に分散退蔵することとなった。

分散退蔵に従事した人々の様子をベン・バルモス・ハーミン(将校の世話係 兼 現地案内)は語っている。
 サン・フェルナンドの前線本部では軍人将兵より多い数の民間の専門家たちがいた。
 ・天然洞穴の空間や地面を掘削してトンネルを通したり、そのトンネルを繋いで地下構造物を拡大新設する民間人。
 ・鉱山技師、地質学者、建築家など。
 ・セラミック塗料で加工して地盤や地肌を偽装する職人、地下施設の随所に爆薬を装置して侵入者を防ぐ破壊専門家、同様に有毒化学物質とシアン化合物が自然粉砕するガラス類と化学薬品の科学者など。
 ・作品の年代や作者、歴史価値を判定する陶磁器専門の人。
 ・金の含有量の検査や鋳造、鉱物資源を分析する人。
 ・青銅製品や書画骨董類、それに歴史遺産に精通する大学教授や博物館の学芸員。
 ・仏像仏具の価値に審美眼を持つ日本の著名な寺院の仏僧。
 ・アジア全域の地形や地理に通じた専門家。
 ・日銀、三井、三菱、住友、第一銀行や横浜正金銀行から出向して、アジア12カ国政府と銀行所有の膨大な数の債権類や紙貨幣、それに財務資料や帳簿類を調べる行員たち。
 彼らは、地下構造物とその空間に退蔵する金塊財宝の鑑定と保存をするために働いていた。
 奴隷として作業させられていたのは、朝鮮人・中国人・フィリピン人、それにイギリスやオランダの捕虜たち。
 管理していたのは”日本人ヤクザ”たちであった。

 各サイトは地中で繋がっており、メインとなる8号サイトの出入り口を爆破してしまえば、他の空間も連鎖的に破壊できる構造になっていた。

 1945年6月1日、その8号サイトを爆発処理したのは、昭和天皇の従兄弟、陸軍中佐 竹田宮恒徳(つねのり)と、フィリピン防衛を指揮した陸軍大将 山下奉文(ともゆき)とベン・バルモス・ハーミン。

地下で繋がったトンネルサイトの所在を示す精密な地図(暗号で示された)は、キムスこと竹田が潜水艦で日本に持ち帰った。


【そして、中盤へ。】
そんな風にして集めた金塊だが、そもそも戦争事業者である世界金融資本家たちの、さらに上位にあるロイヤル・ファミリーの私有物である、と言う。
そして、この構造が明らかにされたのは、「金の百合」資金で大統領の座を買い取った、フェルディナンド・マルコス、の裁判が行われたためである、と言う。

少しだけ書く。
マルコスは地下から天皇の金塊の一部を、地下から掘り出し(これも巨大な量)、換金していた。
そしてマルコス裁判では、その換金の過程が解る、金融世界の大物たちの関わった証拠となる資料が公表された。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=237926




146. 中川隆[-13010] koaQ7Jey 2019年1月14日 10:02:15: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告
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竹田恒和の父親は中国で組織的な財宝略奪を指揮した人物
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901130000/
2019.01.14 櫻井ジャーナル

 日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長を訴追するための予審手続をフランスの司法当局は始めたと伝えられている。2020年に開催が予定されている東京オリンピックの招致に絡む贈賄容疑だという。

 昨年(2018年)11月19日に東京地検特捜部は日産自動車の会長だったカルロス・ゴーンと代表取締役のグレッグ・ケリーを逮捕したが、これと竹田の予審手続を関連付ける見方もあるようだが、フランス当局が捜査を開始したのは2016年だ。

 国際陸上競技連盟(IAAF)の会長だったラミン・ディアクの息子に関係するシンガポールの銀行口座に約2億2300万円の送金があり、IOC委員の買収が目的だったのではないかという疑惑が持たれたとされている。この支払いを認めたのが招致委員会の理事長だった竹田だった。

 竹田恒和の父、竹田恒徳もJOCの委員長だった。任期は1962年から69年、つまり1964年の東京オリンピックを挟んだ時期にあたる。

 竹田恒徳は昭和天皇のいとこにあたり、ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、1937年から敗戦まで秩父宮雍仁の下で組織的な財宝の略奪、いわゆる「金の百合」を指揮していた。この秩父宮と竹田恒徳はジョセフ・グルーと近い関係にある。

 グルーはいとこのジェーンが結婚した相手はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥。グルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 こうした背景があるため、グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていた。特に親しかったとされている松岡洋右の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しい関係にあった。

 第2次世界大戦で敗北した日本の進む方向を決めたのはウォール街を後ろ盾とするジャパン・ロビーだが、その中心的存在もグルー。日本の戦前レジームと戦後レジームはつながっているのだ。

 金の百合で略奪された財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手順になっていたが、途中で日本への輸送が不可能になり、相当量がフィリピンに隠された。その隠し場所を聞き出すために日本軍の将校を尋問したのがエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際は戦時情報機関OSSのオフィサーだった。

 竹田は戦後、邸宅を堤義明の西武グループに売却、そこに建てられたのが高輪プリンスホテルだ。敗戦で資産を失ったという演出だったが、実際は資産を隠していたと言われている。堤義明は1989年から90年にかけてJOCの会長を務めた。

 竹田恒和は日本とアメリカの深層海流とつながっている。フランス支配層はそこを意識しているのだろうか?


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/131.html#c1

[リバイバル3] 株で儲ける方法教えてあげる(こっそり) 新スレ 中川隆
176. 中川隆[-13007] koaQ7Jey 2019年1月14日 10:30:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

Bridgewater、世界同時株安で資産14%増加
グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート2019年1月13日
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8156


世界最大のヘッジファンドであるBridgewaterは世界同時株安が話題になった2018年の相場で14.6%(費用差し引き後)の利益を上げた。CNBC(原文英語)が伝えている。世界同時株安を受け、2018年のヘッジファンドの平均パフォーマンスが11月末の数値で2%の損失となるなかで、際立ったパフォーマンスと言えるだろう。

ダリオ氏の逆転劇

Brigdewaterの創業者レイ・ダリオ氏の相場観はここでも伝えてきた通りであり、それだけに14.6%の最終リターンには感慨深いものがある。ダリオ氏は2018年の初めに相場予想を大きく外しているからである。

ダリオ氏は2018年1月、ダボス会議で株式に大幅に強気な姿勢を示した。ここでも報じた通り、株式を保有しなければ「馬鹿を見る」という強い表現で株高予想を表明した。

•世界最大のヘッジファンドの2018年株式市場上昇予想「現金保有は馬鹿を見る」 (2018/1/24)


市場はこれから大量の現金に溺れることになる。それは強力な緩和となり、市場は恐らく吹き上がることになるだろう。言葉を変えれば、現金をそのまま保有している投資家は馬鹿を見ることになる。

しかし、市場はこのダリオ氏の発言から1週間と経たない内に急落を始めることとなった。当時の米国株チャートを持ち出してみよう。

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8156


まさにダリオ氏の発言が頂点という冗談のような状況なのだが、このままでは終わらないのがダリオ氏の凄いところである。

ダリオ氏はこの急落を受けても一度は株高予想を維持した。論拠が弱いことは以下の記事でも指摘しているが、ダリオ氏の発言は次のようなものである。

•世界最大のヘッジファンド: 世界同時株安は取るに足らない一時的調整 (2018/2/7)


それでもこうした大きな急落は、より長期的な観点で見れば取るに足らない調整に過ぎない。株価上昇が一旦停止すれば買いを入れようとする資金が大量に存在している。次に何が起こるかということが一番重要なのだ。

しかし、この発言から1週間と経たずに、ダリオ氏は自分の見解を修正することになる。株高予想は間違いだと認めたのである。

•世界最大のヘッジファンド、株高予想を撤回、世界同時株安は数日では終わらない (2018/2/13)

読者はこの転身をどう受け取っただろうか? 世界最高のヘッジファンドマネージャーでもこの程度だと落胆しただろうか? しかし筆者は、ダリオ氏のこの転身を賞賛したいのである。

何故か? それは、自分が間違いを犯したとき、それにいち早く気付くということは、投資家にとって非常に重要な能力の1つだからである。

もし相場観の間違いに市場よりも早く気付くことが出来たならば、その投資家は間違ったとしても損失を受けずに済む。これが投資家にとって一番望ましい状況である。しかし気付くのが遅れたとしても投資家には挽回の余地があるということをダリオ氏は示したのである。

自分の間違いを分析するダリオ氏

筆者が関心したのは自分の誤りに対するダリオ氏の誠実さである。ダリオ氏は自分の誤りを冷静かつ誠実に分析し、それを自分のブログに公開した。


われわれの計算によれば、一般的には企業利益の増加(株式にとってプラス)が金利上昇(資産価格全体にとってマイナス)よりも速い場合は差し引きで上げ相場になるはずである。

また投資家や企業などの預金に大量の現金が余っている場合(それは事実余っている)、株式市場は最後の一噴きをするはずであり、それは債券市場にとってマイナス(金利上昇)となるはずである。それは中央銀行に金融引き締めを促し、それが古典的な株式市場の天井となる。

これが10日前までわたしが想定していたシナリオである。

しかしダリオ氏はこの分析を撤回する。


しかし、最近の景気刺激、経済成長、賃金上昇などを見ると、状況はわたしが想定するよりも少し進んでいたらしい。こうしたニュースは当然ながら債券市場において金利を押し上げ、株価に影響することになった。

そしてダリオ氏は今後の状況について考察する。


株式市場の天井まであとどれくらいあるかということは、厳密には分からない。しかし債券市場の天井を過ぎたことは確かである。

金融市場には何年にもわたって楽観が積み上がっているため、われわれはこの混乱が何日かで終わるものだとは思っていない。恐らく、より大きな急落が来ることになるだろう。

そしてそれは事実そうなったのである。

https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8156

ダリオ氏の言った通り、米国株の天井は2018年1月ではなく10月となった。そしてダリオ氏はそれに着々と備えてきたのだろう。ダリオ氏はその間、淡々とポジションを調整していたようである。

•世界最大のヘッジファンド、株式買い持ちを大幅減額、空売り増強か (2018/5/16)

そして株式市場は10月に頂点を付け、そして2度目の世界同時株安へと突入した。

•世界最大のヘッジファンド: 世界同時株安の原因は米国利上げ (2018/11/16)

10月以降の下落開始後は、ダリオ氏には以前の困惑はなく、淡々と状況について語っている。ダリオ氏は自分の空売りポジションについては多くを語らなかったが、言葉を選びながら次のように述べていた。


われわれのポジションについて話すつもりはないが、(長い沈黙の後)少なくとも上方向のポジションは、あまり見込みがないし、そちらに賭けるのはリスクに見合っていない。

空売りには言及していない。しかしこの相場環境で利益を上げているということは、やはり上記の相場観に基づいて空売りをしていたと考えるのが妥当だろう。

結論

こうして世界最高のヘッジファンドマネージャーは復活したのである。今後、投資家にとって問題となるのはアメリカの中央銀行の対応であり、それが利下げになるのか、量的引き締めの停止になるのかで、市場の今後のシナリオは変わってくるだろう。

•パウエル議長発言は世界同時株安を止められるか? (2019/1/7)

筆者の個人的な懸念は、ダリオ氏が金利の上下を重視していることである。筆者は金利ではなく量的引き締めが世界同時株安の主要な原因であると考えている。

その意味で、ここからは投資家が自分の相場観をより試される相場となるだろう。筆者はそれを楽しみにしている。

2018年の株式市場に関しては、ダリオ氏よりもわたしや債券投資家ガントラック氏の方が正確だったと言うべきだろうと思う。しかし、今後もそうあり続けるという保証はない。もしかしたら今後はダリオ氏の見解の方が正しいかもしれない。そのようにして、投資家は相場を通して自分の答え合わせをしてゆくのである。

•世界同時株安を予想できた理由と株価下落の原因 (2018/10/28)

いずれにしても、ダリオ氏の見事な復活劇を祝福したいと思う。投資家にとっては、自分が間違った時の対応が一番難しいのである。
https://www.globalmacroresearch.org/jp/archives/8156


うーん、単に S&P がエリオット波動で

3-3-5

の拡大型フラット修正 A-B-C になったというだけで、チャートが読める人なら誰でもわかる簡単な予測なんですけどね。

AI を使わない ヘッジファンドのレベルは大したことないのかな?


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c176

[リバイバル3] 修善寺温泉「あさば」 にはもう泊まってはいけない 中川隆
223. 中川隆[-13006] koaQ7Jey 2019年1月14日 11:05:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

579 名無しさん 2018/12/04 01:19:22

星のや京都、紅葉シーズンに2人で17万。それも1年以上前にインターネット予約した時点で引き落とされてびっくりしました。
行ってみたら、内装設備の御粗末さにまたまたびっくり。二度と行きません。



581 匿名さん 6時間前

>>579 : 名無しさん
地元なので星のや京都に泊まったことも、泊まりたいと思ったこともなく、二人で17万は考えられない。

前身の嵐峡館は二食付き1万8000円からと安く行きやすかった。
10倍の価値、見た目ありません。

余り悪評が多いので、ネット検索した一部を抜粋した。

マスコミ誌や旅行情報誌のラグジュアリー感や、おもてなしの妙とは裏腹に、口コミサイト等インターネット上や、ツイッターに今溢れ返るのは、星野リゾートに対する凄まじい悪評や罵声雑言だ。

各星野のホテル、旅館名名指しで悪評が書かれている。急速な運営施設の拡大に採用や教育、育成が追い付かず、ハードワークに耐えかねて離職者が増加し、接客等サービスの質の低下。インターネット上で拡散し続ける悪評の数々はやがて来る総崩れを暗示しているかもしれないと書かれていたが、同感です。


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/514.html#c223

[リバイバル3] オールド マランツ 中川隆
46. 中川隆[-13005] koaQ7Jey 2019年1月14日 11:23:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

凄いぞ!自作マランツ7型プリアンプ - 「音楽&オーディオ」の小部屋 2019年01月14日


話が分かりやすいように、丁度1か月前の昨年(2018年)の12月12日に投稿した記事(一部)から入らせてもらおう。

(Nさん宅の)オーディオルームに入るなり「いつもお世話になってま〜す。あれっ、いったい何やってんすか?」

Nさんが机の前で沈思黙考されている。

  

「実はねえ、この度Mさんがマランツ7Kを購入してねえ。試聴に行ったんだけど、これがもう素晴らしい音でねえ。大いに触発されて手持ちの部品で何とか作ってみたいものだと寄せ集めて(マランツ7の)回路図を研究しているところなんだ。」

以上のとおりの記事だったが、このプリアンプ「マランツ7」はおよそ60年前の製品なのにいまだに人気の衰えを知らず、逆にますます価値が高まってさえいる。有為転変の激しいオーディオ機器だが、こういうプリアンプもたいへん珍しい。

たとえばオークションで「プリアンプ」(真空管)で検索すると、いまだに「マランツ7型回路で作成」という記載をよく見かけるのがその証拠。

そのNさんから4日ほど前にお電話があった。

「あけましておめでとうございます。今年の正月はマランツ7型プリアンプの製作にかかりっきりでした。やっとどうにか完成したので聴きに来ませんか。」

「はい喜んでお伺いします。ついでにPADのSPケーブルが使えるようになりましたので持って行きたいのですがいかがでしょうか。」

「エッ、PAD!それは興味があるねえ。どうぞ持ってきてください。」


結論から言えば「Nさん自作のマランツ7」は素晴らしい音だった。「アルテックA5」が朗々と鳴って何ら不満を感じなかった。

    

よくお話を伺ってみると「マランツ7」型は感度が高いのでコンデンサーや抵抗の材質によって音が豹変するとのこと。

惜しいことに長期保管中だった「バンブルビー」のコンデンサーは容量が抜けたのが多くて2割程度しか使えず、その一方、抵抗の方はアレンブラッドリーが無事ですべて統一出来たとのこと。

当初はノイズが盛大に出て、3日間ほどコンデンサーをとっかえひっかえの調整の連続だったがようやく落ち着いたそうだ。

   

マランツ7型は我が家でも使っているが掛け値なしに「いい音」がすることを実感した。

詳しく伺うと、オーディオ界では「マランツ7党」として独自の世界が築かれており、程度のいいものから悪いものまでレストアされたものが専門店によって販売されていて、オリジナルに近い最高級品は350万円なり!

「マランツ7」じゃないと出ない音があるというのはよくわかります。

かって「ソウル・B・マランツ」氏(アメリカ)が個人用に製作したプリアンプが評判を呼び、その後広く普及したわけだが「採算を度外視した性能のいい製品を作り続けると会社が倒産する。」のは、マランツ社も例外ではなかった。

逆に言えばオーディオ業界で長持ちしている会社は「?」かもねえ(笑)。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/a69c0a28f83cdaf3c67617d877678ef3
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/635.html#c46

[リバイバル3] 管球アンプのブーンと云うノイズについて 中川隆
19. 中川隆[-13004] koaQ7Jey 2019年1月14日 11:28:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

ノイズ取り・・・ - Mr.トレイルのオーディオ回り道 2019年01月13日

オリンパスシステムの高域用パワーアンプを入れ替えて、「ノイズ」に苦しんでいます。サブシステムでRCA接続では「ノイズ」は有りませんでした。サブシステムはRCA接続専用なのでXLR接続は試せません。

オリンパスシステムは「オールバランス伝送」にしていますので、すべての接続ケーブルはXLRケーブルにします。このXLRケーブルにしますと「ノイズ」が出ます。

昨日は、真空管を入れ替えして見たり、内部配線を確認したりとやっていましたが、最終的に入力のXLRケーブルの差し込み方でノイズの出方が変わります。XLRケーブルをMD用の物と入れ替えて見てもノイズは変わりません。MDではノイズなしで使えました。

本来は「ノイズレス」になる筈ですが思い通りになりません。
1)アンプ自体に問題はない(真空管も問題なし)
2)XLRケーブル自体も問題なし

問題点はケーブルのXLR端子とアンプ側のXLRソケットとの相性の問題だと辿り着きました。良い角度と深さが合えばノイズはなくなると思います。もう少し時間がかかりそうです。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/751f4b64aea0657305c73e891403f131


ノイズが止まった 2019年01月14日


昨日は一日「ノイズ対策」で終わりました。XLRケーブルのプラグとソケットの相性で対策しました。同じケーブルを使ってMD機を鳴らしてもノイズが無かったので、基本的な処は問題ないと判断しました。

見栄え的には何も変わっていませんがノイズはほぼ無くなりました。どう云う状態で「ノイズ」が出るのか?をじっくり調べて対応策を取りました。XLRケーブルも「自作品」です。今回のケーブルは中古のプラグを使いましたので、ピンの出方に若干のバラツキが出ていた様です。単純に「敏感な部分」には正常な物を持ってくれば収まります。

「ノイズ」が出ている状態では「音楽」を楽しめません。何とか「ノイズレス」の状態になりましたので、午後からはCDをかけて楽しみました。これで一安心です。
https://blog.goo.ne.jp/nishikido2840/e/20ecb6215e8b78b1b22c22276dc443d0
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/770.html#c19

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
133. 中川隆[-13003] koaQ7Jey 2019年1月14日 12:37:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

2019年1月14日
ゴーン容疑者、オランダの統括会社から700万ユーロの報酬=仏紙

[パリ 13日 ロイター] - フランスの経済紙レゼコー(電子版)は13日、ルノー(RENA.PA)・日産自動車(7201.T)連合の前会長、カルロス・ゴーン容疑者がオランダにある日産と三菱自動車(7211.T)の統括会社を通じて700万ユーロ(800万ドル)の支払いを受けたと報じた。

報道によると、日産と三菱自は2017年6月、両社の従業員や管理職にボーナスを支払うためオランダに「日産三菱BV」を設立した。

同統括会社の取締役は当初、同社からボーナスを受け取るはずではなかったが、ゴーン氏は2018年2月に同社の従業員として採用され、支払いを受ける資格を得た。他の取締役はこうした事実を知らなかったという。

日産の広報担当者のコメントは得られていない。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c133

[お知らせ・管理20] これが阿修羅に巣食う電通工作員 中川隆
246. 中川隆[-13002] koaQ7Jey 2019年1月14日 12:39:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

2019年1月14日
コラム:世界をむしばむデジタル監視国家に「対抗軸」はあるか

[4日 ロイター] - 新たな年を特徴づけるテーマは、大幅に性能を向上させた電子的監視体制と、民主的コントロールの弱体化との、有害な対決が起きる可能性である。


このリスクに対する解毒剤は民主主義の精神と市民的自由だが、いずれも世界中で逆風にさらされている。まだ死んではいないが調子は優れず、放置されている場合もある。

世界で人口が最も多い2カ国、すなわち中国とインド(両国合わせて世界人口の約37%を占める)は、全国規模のデジタル監視・分類システムを導入している。こうしたシステムは、市民権を充実させるために必要な個人情報の収集と、国家による監視・介入能力の強化を組み合わせたものだ。

中国のシステムは、14億人もの国民の行動を監視し、国家と共産党が定義する「良い」活動を表彰し、「悪い」活動に懲罰を与えることをあからさまに追求している。これは、宗教主導の社会の世俗バージョンである。聖職者たちが仲介する神の戒律に代わるのが、国家が定める基準だ。国を支配する共産党が、カール・マルクスの哲学の解釈に、いまや憲法にまで書き込まれた「中国の特色ある新時代の社会主義に関する習近平思想」という装飾をあしらい、事実上の無謬性を主張している。

中国の「社会信用システム」は、顔・声・指紋の認識テクノロジーを、インターネット利用や教育に関する選択、ソーシャルネットワークなど公私にわたる行動の監視、さらに膨大な有給の情報提供者ネットワークが提供する不穏な活動に関する報告と結びつけている。

中国政府は、これらの要素を使って国民ひとりひとりの社会的・政治的・職業的、そして私的な活動についての全体像を描き出し、キャリアその他の選択において有利に働くポイントを付与し、あるいは権利や昇進の機会、移動の自由を奪うことによって反社会的・反共産党的な行動に懲罰を与える。

システムに関する党公式の説明は、「信用度の高い人は大空の下で自由に散策することができるが、信用度の低い人は1歩歩くのも難しくなる」とうたっている。すでに表彰・懲罰の付与は開始されている。2019年中に対象範囲を全国に拡大し、2020年までにすべての国民の監視を実現することが目標だ。

インドの「アドハー」(ヒンディー語で「基礎」の意)と呼ばれる国民識別カード技術は、中国と同じくらい包括的なものをめざしているが、プライバシーへの介入はさほど意図されていない。

ソフトウェア起業家のナンダン・ニレカニ氏が発案した「アドハー」は、任意参加の試みとして始まった。ニレカニ氏が願ったのは「どれほど貧しく不遇であろうと、すべてのインド人を国家から『見える』存在にすること」である。昨年以降、一部の州では「アドハー」が任意加入ではなくなっている。強制加入制にし、生活必需品や高等教育、政府補助金や医療へのアクセスと結びつける構想がある。

「アドハー」がプライバシーの権利を侵害しているという異議申立ては複数の裁判所に提出されており、市民的自由を擁護する活動家と国家のあいだの争いとなっている。


西側の民主主義国家には、中国どころかインド程度のデジタル監視の野望もない。とはいえ、米国家安全保障局の文書が2013年にリークされた影響で、西側諸国の情報機関の多くは、法的な予防措置を強化したうえではあるが、すべての市民の通信を監視する合法的な権限を与えられるようになった。

最も強力な民主主義国家である米国は、最も優れたデジタル企業が誕生し、本拠を置く国となっている。だが、フェイスブックを筆頭とするこうした企業に対しては、プライバシーを保護できるのか、また違法なヘイトスピーチやニュースの仮面を被った秘密のプロパガンダを排除する、あるいは少なくともその存在を摘発できるのかという問いが、一般社会や各国政府から突きつけられている。

フェイスブックの創業者、ザッカーバーグ・最高経営責任者(CEO)氏はかつて、情報を非公開にしておくことはもはや「社会規範」ではないという見解を述べた。その後、彼は明らかに意見を変えた、あるいは変えたふりをせざるをえなかった。それでもフェイスブックやその他のテクノロジー企業のビジネスモデルは、広告出稿企業と個人情報を共有するという点に依存し続けている。

独裁的な世界が広がり、抑圧を強めるのと時を同じくして、こうした展開の重要性や範囲が大きくなっている。

研究者のヤシャ・モンク氏とロベルト・ステファン・フォア氏は、昨年発表されて波紋を呼んだ論文において、「四半世紀というスパンのなかで、リベラル民主主義は、前例のないほど強い経済という立場から、前例のないほど弱い経済という立場へと移行していった」と指摘した。両氏は、20世紀を通じてリベラル民主主義が世界で優位に立っていた理由は、リベラリズムの魅力でも民主主義の魅力でもなく、富の創出という模範を示したことにあると考えている。

紛れもない独裁体制のほかにも、米国やイタリア、ポーランド、ハンガリーなどでは、民主的な選挙を経てポピュリスト政権が成立している。こうした政権は、移民や性的マイノリティ、民族的マイノリティや非政府組織(NGO)といったテーマに関しては、部分的に独裁主義的なやり方を採用するのが普通である。最も新しくこの顔ぶれに加わったブラジルのボルソナロ大統領は、先住民に与えられた土地を脅かし、性的少数者(LGBT)を人権保全省による保護対象から外すといった動きを見せている。

独裁的指導者や国家主義的なポピュリスト政治家が、新たな監視能力とその国民統制能力を、人権に深く配慮しながら活用するとは考えにくい。少なくとも、彼らが冷遇したいと考えている人々の人権は顧みないだろう。特に中国のシステムの場合は顕著だが、こうした監視能力は、過去から引き継いだリベラルな政策や慣習を根本的に変えてしまいたいと考える指導者によって利用される可能性が高い。

危険なのはテクノロジーではない。

一般市民や裁判所、報道機関、市民社会の仕組みが自由と活気を保っているような成熟した民主主義社会であれば、たまの例外や事故はあっても、脅威への対抗や公的領域の効率化といったニーズに沿った形でテクノロジーを利用することができるだろう。また、テクノロジーの利用についてしっかりとした議論を行い、世論の重みを感じさせ、政策を変更していくことができる。

民主主義が独裁的な権力の前に崩壊するという予測が実現するのは、一般市民がそれを許してしまう場合に限られる。2019年は、統制がさらに強まる年であってはならない。リベラルな精神が復活する年にしなければならないのだ。
https://jp.reuters.com/article/lloyd-surveillance-idJPKCN1P50GE
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c246

[昼休み54] 中国 _ 悪夢の監視社会 中川隆
20. 中川隆[-13001] koaQ7Jey 2019年1月14日 12:40:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

2019年1月14日
コラム:世界をむしばむデジタル監視国家に「対抗軸」はあるか

[4日 ロイター] - 新たな年を特徴づけるテーマは、大幅に性能を向上させた電子的監視体制と、民主的コントロールの弱体化との、有害な対決が起きる可能性である。


このリスクに対する解毒剤は民主主義の精神と市民的自由だが、いずれも世界中で逆風にさらされている。まだ死んではいないが調子は優れず、放置されている場合もある。

世界で人口が最も多い2カ国、すなわち中国とインド(両国合わせて世界人口の約37%を占める)は、全国規模のデジタル監視・分類システムを導入している。こうしたシステムは、市民権を充実させるために必要な個人情報の収集と、国家による監視・介入能力の強化を組み合わせたものだ。

中国のシステムは、14億人もの国民の行動を監視し、国家と共産党が定義する「良い」活動を表彰し、「悪い」活動に懲罰を与えることをあからさまに追求している。これは、宗教主導の社会の世俗バージョンである。聖職者たちが仲介する神の戒律に代わるのが、国家が定める基準だ。国を支配する共産党が、カール・マルクスの哲学の解釈に、いまや憲法にまで書き込まれた「中国の特色ある新時代の社会主義に関する習近平思想」という装飾をあしらい、事実上の無謬性を主張している。

中国の「社会信用システム」は、顔・声・指紋の認識テクノロジーを、インターネット利用や教育に関する選択、ソーシャルネットワークなど公私にわたる行動の監視、さらに膨大な有給の情報提供者ネットワークが提供する不穏な活動に関する報告と結びつけている。

中国政府は、これらの要素を使って国民ひとりひとりの社会的・政治的・職業的、そして私的な活動についての全体像を描き出し、キャリアその他の選択において有利に働くポイントを付与し、あるいは権利や昇進の機会、移動の自由を奪うことによって反社会的・反共産党的な行動に懲罰を与える。

システムに関する党公式の説明は、「信用度の高い人は大空の下で自由に散策することができるが、信用度の低い人は1歩歩くのも難しくなる」とうたっている。すでに表彰・懲罰の付与は開始されている。2019年中に対象範囲を全国に拡大し、2020年までにすべての国民の監視を実現することが目標だ。

インドの「アドハー」(ヒンディー語で「基礎」の意)と呼ばれる国民識別カード技術は、中国と同じくらい包括的なものをめざしているが、プライバシーへの介入はさほど意図されていない。

ソフトウェア起業家のナンダン・ニレカニ氏が発案した「アドハー」は、任意参加の試みとして始まった。ニレカニ氏が願ったのは「どれほど貧しく不遇であろうと、すべてのインド人を国家から『見える』存在にすること」である。昨年以降、一部の州では「アドハー」が任意加入ではなくなっている。強制加入制にし、生活必需品や高等教育、政府補助金や医療へのアクセスと結びつける構想がある。

「アドハー」がプライバシーの権利を侵害しているという異議申立ては複数の裁判所に提出されており、市民的自由を擁護する活動家と国家のあいだの争いとなっている。


西側の民主主義国家には、中国どころかインド程度のデジタル監視の野望もない。とはいえ、米国家安全保障局の文書が2013年にリークされた影響で、西側諸国の情報機関の多くは、法的な予防措置を強化したうえではあるが、すべての市民の通信を監視する合法的な権限を与えられるようになった。

最も強力な民主主義国家である米国は、最も優れたデジタル企業が誕生し、本拠を置く国となっている。だが、フェイスブックを筆頭とするこうした企業に対しては、プライバシーを保護できるのか、また違法なヘイトスピーチやニュースの仮面を被った秘密のプロパガンダを排除する、あるいは少なくともその存在を摘発できるのかという問いが、一般社会や各国政府から突きつけられている。

フェイスブックの創業者、ザッカーバーグ・最高経営責任者(CEO)氏はかつて、情報を非公開にしておくことはもはや「社会規範」ではないという見解を述べた。その後、彼は明らかに意見を変えた、あるいは変えたふりをせざるをえなかった。それでもフェイスブックやその他のテクノロジー企業のビジネスモデルは、広告出稿企業と個人情報を共有するという点に依存し続けている。

独裁的な世界が広がり、抑圧を強めるのと時を同じくして、こうした展開の重要性や範囲が大きくなっている。

研究者のヤシャ・モンク氏とロベルト・ステファン・フォア氏は、昨年発表されて波紋を呼んだ論文において、「四半世紀というスパンのなかで、リベラル民主主義は、前例のないほど強い経済という立場から、前例のないほど弱い経済という立場へと移行していった」と指摘した。両氏は、20世紀を通じてリベラル民主主義が世界で優位に立っていた理由は、リベラリズムの魅力でも民主主義の魅力でもなく、富の創出という模範を示したことにあると考えている。

紛れもない独裁体制のほかにも、米国やイタリア、ポーランド、ハンガリーなどでは、民主的な選挙を経てポピュリスト政権が成立している。こうした政権は、移民や性的マイノリティ、民族的マイノリティや非政府組織(NGO)といったテーマに関しては、部分的に独裁主義的なやり方を採用するのが普通である。最も新しくこの顔ぶれに加わったブラジルのボルソナロ大統領は、先住民に与えられた土地を脅かし、性的少数者(LGBT)を人権保全省による保護対象から外すといった動きを見せている。

独裁的指導者や国家主義的なポピュリスト政治家が、新たな監視能力とその国民統制能力を、人権に深く配慮しながら活用するとは考えにくい。少なくとも、彼らが冷遇したいと考えている人々の人権は顧みないだろう。特に中国のシステムの場合は顕著だが、こうした監視能力は、過去から引き継いだリベラルな政策や慣習を根本的に変えてしまいたいと考える指導者によって利用される可能性が高い。

危険なのはテクノロジーではない。

一般市民や裁判所、報道機関、市民社会の仕組みが自由と活気を保っているような成熟した民主主義社会であれば、たまの例外や事故はあっても、脅威への対抗や公的領域の効率化といったニーズに沿った形でテクノロジーを利用することができるだろう。また、テクノロジーの利用についてしっかりとした議論を行い、世論の重みを感じさせ、政策を変更していくことができる。

民主主義が独裁的な権力の前に崩壊するという予測が実現するのは、一般市民がそれを許してしまう場合に限られる。2019年は、統制がさらに強まる年であってはならない。リベラルな精神が復活する年にしなければならないのだ。
https://jp.reuters.com/article/lloyd-surveillance-idJPKCN1P50GE
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/181.html#c20

[近代史3] 溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年) 中川隆
1. 中川隆[-13000] koaQ7Jey 2019年1月14日 13:27:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

しかし、よくこんな不細工なババアを主役にしたな。

日本で溝口健二が全然人気無いのはこのオバサンの顔を見ただけで憂鬱になるからさ。

ヨーロッパではオペラで60歳の女性歌手が16歳の町娘を演じたりするから、女優の容姿については語らない習慣が有るし、アジア女はそういう容姿なんだと思っているのかもしれない。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/159.html#c1

[昼休み54] 『小笠原誠治の経済ニュースゼミ』の小笠原誠治氏は完全なアホだった 中川隆
51. 中川隆[-12999] koaQ7Jey 2019年1月14日 13:49:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
日銀の量的緩和政策は失敗に終わった…目的を果たせなかったのはなぜか=吉田繁治 2018年12月25日
https://www.mag2.com/p/money/612611


日本には現在、4,099兆円の金融資産があります。この資産はどこでどのように使われているのでしょうか。その内訳の詳細から今後の展望について解説します

日本にある4,099兆円のマネーは、どのように投資されているのか

すべての金融資産は、国内と海外の誰かの負債である

当メルマガでは前回、資金の供給源になる世帯(1,848兆円)、企業(1,176兆円)、政府が管理する金融資産(572兆円)と、日銀の負債(503兆円)の内容を見て行きました。

わが国の合計では、現金、預金、株式、証券の合計で4,099兆円のマネーがあるのです。後編では、この4,099兆円が、どの主体に、どんな理由で貸し付けられているのか(=投資されているのか)を見て行きます。

(注)株式も、企業にとっては返済の順位がもっとも低く、解散のときに純資産から返済される「劣後債の負債」です。株の利益配当は、借り入れの金利に相当します。株主にとっては、持ち株は金融資産ですが、企業にとっては預かり資本になる負債です。国債を含む証券は、返済順位が高い優先債です。株も証券も、その持ち手から発行元への貸付金です。この貸付金は、持ち手にとっては金融資産、借り手にとっては負債です。預金は持ち手の金融資産ですが、銀行にとっては負債です。

「すべての金融資産=国内と海外の誰か負債」という構造をもっています。金融資産が価値をもつには負債が返済できるものであり、利払いもできることが必要です。

返済できない負債は、価値の低い不良債権になります。4,099兆円になった金融資産が価値を保ち続けるには、借り手が、増えた負債の返済ができ、利払いができるという条件がなければならない。

この点で、政府の負債である国債はどうでしょう。国債が増えたため、政府は1%以下の低い金利しか払えない。普通の金利は3%から5%ですが、その金利になると、政府は利払いのための借り入れが増えるという「破産の過程」にはいります。

企業は、1985年からの日銀の金融緩和を起点とした土地バブルの時期、返済できない借り入れを増やして、土地を買いました。担保だった土地は1992年から下落し、銀行の貸し出しが、銀行の自己資本合計を超える不良債権になった(約200兆円)。この不良債権のため、1998年の金融機関が倒産する金融危機に至ったのです。

政府の対抗策は、ゼロ金利と国債を買う量的緩和と、銀行への資本注入でした。2008年の米国のリーマン危機と同じです。

企業はその後、借り入れによる増加設備を抑え、借り入れの返済をしました。一方で、負債がどんどん膨らんだのが、政府部門です。


わが国の負債

(1)世帯の負債は318兆円(2018年6月末)

世帯の負債は、住宅ローンと自動車ローン、カード、消費者ローンなど318兆円です。住宅ローンは、2018年で193兆円と集計されています(住宅金融支援機構)。1年に21兆円(130万件)くらいが貸し出されています。平均残存期間は約10年です。

日本の世帯の負債は少ない。一方で、世帯の金融資産は、1,848兆円ですから、「1,848兆円−318兆円=1,530兆円」が負債を引いた純金融資産。1世帯当たりでは2,886万円です。

(2)企業部門の負債は1,736兆円

世帯の貯蓄を借りる企業部門の負債は、借入金と証券(株式を含む)で1,736兆円です。

借入金    396兆円
証券    1,031兆円(うち上場株式589兆円)
その他負債  307兆円(買掛金など)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
負債合計  1,736兆円

負債総額は1,736兆円です。ただし企業は金融資産を1,176兆円持っているので、純負債は560兆円(平均2.2億円)と少ない。

前述したように、土地バブル崩壊以降、設備投資を抑えて、キャッシュフロー(=減価償却費+利益−税金−配当)で、借入金の返済をしてきたからです。

国の資金循環では、GDPの成長期の正常な姿は、
・世帯の預金の増加分を、
・企業が銀行から借り、
・設備投資をすることです。
1980年年代までの資金循環がこれでした。

【世帯の預金と国債発行】
1990年代からは、世帯の預金は1年に約40兆円も増えているのに、企業は借り入れをしない。

誰が預金増加を吸収したのか?政府の国債です。政府が国債を発行して預金増加を吸収し、資産バブル崩壊後のGDPが減少する経済への対策としての公共投資を行った。90年代の10年で400兆円の公共投資というおおきなものでした。90年代から、政府の国債の増発が1年に40兆円と大きくなっています。

・1990年代の10年は、公共投資のための国債発行
・2000年代からは、増えた社会保障費(特に年金、医療費)の支払いが主目的の国債発行


政府の負債は1,291兆円

1990年代から、企業に代わって30兆円から40兆円/年で増えてきたのが、政府の負債です。

【GDPの原理】
「所得=消費+貯蓄」です。「GDP=消費+投資=需要」です。「貯蓄=投資」にならないと貯蓄に見合う投資がない。ケインズが指摘した需要不足から経済は不況になり、失業が増えます。つまり、貯蓄の増加に見合う借り入れがあり、借り入れが投資にならないと、経済は不況化します。


2000年代は企業の借り入れ増は減り、設備投資が減りました。企業は、資金不足の部門から資金余剰のある貯蓄の主体になったのです。

世帯と企業の貯蓄の増加(30兆円〜40兆円/年)を吸収したのは、正常な経済のときの企業ではなく、財政が赤字の政府部門でした。

政府は、国債という負債証券を発行して余剰貯蓄を吸収し、それを財政支出(政府需要)に使いました。

毎年、30兆円から40兆円も大きくなった政府の負債は、2018年6月時点で以下です。

【政府の負債】
借入金     159兆円(金融機関からの借り入れ)
国債残高   1,087兆円(日銀所有が471兆円:営業毎旬報告)
その他負債    46兆円
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
政府負債合計 1,292兆円

前稿で述べたように、政府は572兆円の金融資産を「管理」しています。この金融資産は、例えば年金基金(残高170兆円:18年9月末)のように、国民が保険として給料から天引きされて納めてきた国民の所有資産です。政府のものではない。政府はそれを管理しているだけです。

政府管理の金融資産572兆円を政府の負債1,292兆円から引いて、政府の純負債は720兆円とするエコノミストがいます。これは、「所有と、管理での専有」を区分できない誤りです。政府の負債は、1,292兆円から自治体と政府の日銀当座預金を引いたものとみるべきでしょう。

税収を上回る財政支出で、政府負債は年30〜40兆円の赤字に

<政府負債の問題は、償還がなく増え続けること>

政府負債の問題は、税収を上回る財政支出のため、構造的な赤字が1年30〜40兆円で続くことです。

政府の借り入れは毎年30兆円から40兆円は増えていきます。1%分が2.2兆円になる消費税に換算すると、財政赤字は16%分に相当します。

現在、日銀のゼロ金利策のため国債の利払いは9兆円と、とても少ない(2018年度)。残高となっている既発国債の、平均の約定金利が0.9%に低下しているからです。

<利払い額はむしろ減ってきた>

1990年から、国債の残高は6倍に増えましたが、日銀の金利の低下策のため利払い費は変わっていないのです。

政府が国債発行の抑制をしないのは、国債の残高が増えても金利低下のため、一般会計からの国債の利払い額が増えないためでもあります。借金を6倍に増やしても金利が下がって利払いが減った企業と同じです。

<日銀の保有国債は43%>

2012年4月からの量的緩和(日銀が金融機関から国債を買って通貨を発行)のため、国債の1087兆円(地方債を含む)のうち、日銀の保有が471兆円に増え、日銀の構成比は、43%に増えています。

日銀は2019年も、国債を40兆円買い増すでしょう。日銀の国債所有は「471+40兆円=511兆円」になる。毎年の新規国債の発行分に相当する国債は、日銀が買い取っているのです。

新発債分の国債は、事実上、市場引き受け(金融機関の買う受け)ではない。日銀が全額を買い取っているため、金融市場の資金収支では、国債が発行されいないことと同じです。

<出口政策は不可能>

リーマン危機のあとの大きかった金融緩和からの出口政策として、利上げをしている米国FRBと、量的緩和を停止したユーロのECBの方針に反して、日銀は国債の買いを停止して「出口政策」に向かうことはできない。

日銀が国債の買い上げ額を順次減らすテーパリング策を採ると、
・マイナス金利(8年債以下)
・0.093%の金利(10年債)
・0.347%の金利(15年債)
・0.953%の金利(40年債)
である国債の金利が高騰します

(注)国債価格は、金利1%の上昇につき8%(80兆円)下落します。


民間金融機関は日銀が買ってくれない限り、マイナス金利、0.1%の金利、0.3%の金利の国債を発行額分、買うことはない。

<ゼロ金利の国債への入札がある理由>

現在、例えば0.1%の約定金利の国債に金融機関が入札しているのは、直後に、日銀がそれより低い金利で(=国債価格は額面より高く)買ってくれる量的緩和を続けているからです。この買いがあるので、低い金利の国債を買っても日銀への売りで利益が出るからです。

日銀が出口政策に転じ、国債を増加買いしなくなれば、利下げによる国債価格上昇の利益はなくなります。逆に、金利上昇による国債価格の下落リスクが、高まります。国債の利益は、発行金利のみになります。マイナス金利の国債は、買った側が利払いをしなければならない。直接に損をする国債を買うことは、ない。



現在のマイナス金利と超低金利の国債は、もっていれば日銀が買ってくれるという期待から売れているのです。試みに、日銀が国債の買いを2019年4月から停止と発表してみて下さい。
市場の金利は、ほぼ1か月で3%に向かって上がり、国債価格は平均で24%下がるでしょう。

<金利の上昇と既発国債の下落:1%で81兆円>

さらに、出口政策で金利が上がると、1,087兆円の既発国債は1%の金利の上昇につき、7.5%(=81兆円)は価格が下がります。

国債の持ち手(儀日銀と金融機関)には、金利1%上昇につき81兆円の国債時価の保有損が生じるのです。

既発国債の価格下落と金利の上昇(借換債と新発債(合計149兆円:2018年)、利払いの増加による政府財政の破産を避けるためには、日銀は国債の買い増し(=量的緩和)を続けねばならない。

<政府の予定>

政府が語らない予定は、物価の上昇と所得の上昇(=税収が増える)、および消費税の増税により、次第に40兆円の財政赤字を減らして年度予算の国債依存を低下させていくことでしょう。

2019年には、円金利の大きな上昇はない。あっても、わずかでしょう。財政破産もない。2020年はどうか、2021年は?となると怪しくなります。政府財政は、金利が3%になるだけで破産に向かうからです。
対外純投資324兆円(2018年6月末)

日本は、
・貿易収支は時々赤字になっても、年間では黒字である(4.0兆円:2017年)
・海外投資の利回りと海外生産からの所得が約20兆円(2017年)ある
・ほぼ、両者を合計した額である、経常収支は22兆円の黒字です(2017年)
※参考:財務省 国際収支の推移

<国の経常収支と、資本収支の関係>

経常収支の黒字分が、資本収支(現金の流れ)では出超になって赤字になります。経常収支+資本収支=国際収支=0、です。海外の国債の買い、証券・株の買い、海外工場へ投資は資本(=マネー)の海外流出であり、国の資金収支では赤字になります。

(注)メディアや評論家が時々、国際収支が黒字というのは、経常収支というべきことの間違いです。

日本は経常収支の黒字のため海外へ資本を流出し、その資金の赤字の結果が対外資産の残高になっています。株を買うと現金が減る(現金収支は赤字)ことと同じです。一方、借り入れは、資金収支ではお金が入って来るので黒字になります。貸付は現金が減るので、資金収支では赤字です。

海外から日本への投資は、日本にとっては対外負債です。以下のような内容です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
対外資産 998兆円   対外負債 674兆円
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
海外証券   574兆円    円証券  392兆円
対外貸付   156兆円    借入金  181兆円
その他    286兆円    その他  101兆円
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
対外純資産  324兆円

この対外純資産の残高324兆円が、資金上では円の海外流出分です。これは対外純貸付といっても同じです。ドル国債を買うことは、米国政府に対する貸付と同じことです。

<円の海外流出>

1995年以降の日本は、世界で一番金利が低い。このため、比較金利(イールドスプレッド)の高いドル国債、ユーロ債を買って来ました。

株も同じです。米国株の値上がりが大きかった。このため、銀行と投資家が米国株を買った。これらの合計が、上表の海外証券574兆円です。

海外貸付の増加も、国内の貸付金利(0.6%)より海外の金利の高いからです(三大メガバンク)。

その他の主なものは、工場の直接投資です(174兆円)。国内の生産コストが高いので、海外生産をするようになってきたのです。

トヨタでは、国内の生産が319台、海外生産が582万台と、1.8倍です。日産はもっと多い。国内生産は102万台、海外生産は4.7倍の474万台です。ホンダも、海外生産が5倍です(2017年)。

これが工場の直接投資です。海外の販売が大きな自動車では、海外工場での生産がはるかに多くなっています。
※参考:自動車産業ポータル 2017年 日系メーカー世界生産台数

2000年以降、国内の設備投資を増やさず、海外に工場投資をしてきたのが日本です。



対外資産998兆円、対外負債674兆円の結果が対外純資産324兆円です。金利の低い円は、海外に324兆円純流出したのです。

長期金利は、「実質GDPの期待成長率+期待物価上昇率」です。1995年以降の23年間、円の金利は世界1低い。これは、日本GDPの成長期待と物価の上昇予想が、主要国で一番低いということです。

(注)タックスヘイブン目的の、海外からの資本流入が多いため、利下げしてスイスフランの買いを抑制しているスイスと並んで低い。スイスの10年債の利回りは-0.159%です。

<海外(特に米国)のための異次元緩和だったのか>

このゼロ金利のため、円は海外に流出しました。日銀の量的緩和の目的は、国内の銀行貸し付けを増やして、企業の投資と世帯の商品需要を増やして、物価を上げることでした。

しかし、国内の貸付の増え方は、異次緩和前の2%〜3%増と同じであり変化がない。異次元と銘打った量的緩和は、2%の物価上昇という政策目的の達成には、完全に失敗しています。

代わりに、経済成長力が日本より高いために、金利のつく海外への貸付と証券購入が増えました。「日銀は海外(特米国)のために量的緩和を行った」と言えるくらいでした。

ここまでは、日本の資金循環の2018年6月時点での残高と、内容の動きです。

次回メルマガでは、金利と国債価格のカギになっている日銀の異次元緩和の先行きを予想します。通貨変動(円高、円安)を含んで、日本経済のカギにもなるものがここにあるからです。米国FRBとECBの金融政策も関連します。



http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/319.html#c51

[リバイバル3] 北海道の最低市町村ランキング 中川隆
189. 中川隆[-12998] koaQ7Jey 2019年1月14日 13:53:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

中国人ハイヤー会社、新千歳で続々参入 訪日客狙う 白タク摘発も一因
1/14(月) 10:12配信 北海道新聞


タクシー、ハイヤーが並ぶ新千歳空港のタクシープール。中国人の個人旅行客の増加に伴い、千歳市で新規参入する会社が急増している


 【千歳】千歳市内でハイヤー会社の新規参入が相次いでいる。2018年度は昨年11月末までに11社が参入し、計22社と17年度から倍増した。大半は中国人の経営とみられ、新千歳空港を利用する中国人の個人旅行客が増加の一途をたどっていることを受け、営業は好調だ。急増の背景には、無許可で客を乗せて営業する「白タク行為」への取り締まりが、全国的に強化されていることもある。

【動画】アジア最大級客船 中国人2300人乗せ室蘭寄港
.

 千歳市郊外にあるハイヤー会社の前には、黒塗りの高級ワゴン車などがずらりと並ぶ。中国人の男性社長(36)が、昨年6月に立ち上げた。日本に永住帰国した中国人ら14人を運転手として雇用し、予約は中国の旅行会社を通じてのみ受け付ける。夏、冬の観光シーズンには12台の営業車がフル稼働する。
.


中国人ハイヤー会社、新千歳で続々参入 訪日客狙う 白タク摘発も一因


多くの外国人観光客で混雑する新千歳空港国際線ターミナルビル=2018年9月


注文絶えず

 北海道運輸局によると、料金は30分間3640〜3880円の間で、各社が決める。男性社長の会社は昨夏、1カ月間の売り上げが1千万円を超える月もあった。今年は2月上旬が中華圏の旧正月で、訪日客もピークを迎える。「『いくらでも払うから車を出してほしい』という話がひっきりなしにくる」(社長)。

 関係者によると、運転手が日本語も中国語も話せ、観光案内やレストランの予約をしてくれるなど利便性が高いのが、人気の理由という。昨年12月に家族5人で1週間、ハイヤーを利用した香港の男性(56)は「重い荷物を持って歩かなくていいし、コミュニケーションも取れて安心だった」と話す。

 運輸局によると、15〜17年度、新規のタクシー・ハイヤー営業許可申請件数は道内全体で年間0〜2社だったのに対し、18年度は昨年11月末現在で15社に上った。うち11社が千歳に集中したのは、新千歳空港から道内各地に向かう客も各地から空港に戻る客のいずれも、1年間を通して乗せられる利点があるためだ。

 申請の際、運輸局は「代表者の国籍は確認しない」とするが、ハイヤー業界の関係者は「多くは中国人の経営」とみる。実際、千歳に参入した会社の代表者には、中国人とみられる名前が並ぶ。

 最近は、白タク行為を行ったとして中国人の逮捕が相次ぐ。17年には沖縄県と大阪府で、18年は東京で道路運送法違反(白タク行為)の疑いで中国籍の男らが逮捕された。道内でも苫小牧署が18年9月、中国からの観光客を自家用車に乗せて代金を受け取ったとして、苫小牧市内に住む中国籍の男と妻を逮捕した。
.

免許取得も

 こうした状況も「中国人経営者の参入が増えた一因」と指摘する業界関係者もいる。18年度は、営業車の運転に必要な第2種免許を取得する中国人も増加。道警運転免許試験課によると、14〜17年度の外国人合格者は年間6〜16人で推移していたが、18年度は昨年11月末までに91人。うち中国人は78人を占める。

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/588.html#c189

[近代史3] 勝又壽良 _ 中国・朝鮮ヘイトでグローバリズム礼賛のアホ経済評論家 中川隆
13. 中川隆[-12997] koaQ7Jey 2019年1月14日 14:57:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
中国ヘイトの勝又壽良さんは中国の事が何もわかっていないですね _ 2 :


中国、「対米持久戦」意図的に退却戦法を取って必ず「復活する?」2019年01月14日


「孫子の兵法」の本家・中国が、米中貿易戦争で米国に押しまくられている。これは、米国に負けた振りをして「戦力」を温存している証拠。必ず、中国は米国に打ち勝つであろうという、「三国志演義」を彷彿とさせるコラムが登場した。

『朝鮮日報』(1月13日付)は、「中国は米国に敗れたのか」と題するコラムを掲載した。筆者は、同紙のアン・ヨンヒョン論説委員である。

(1)「現在の米中貿易戦争は、米国が乾杯する方向に向かっているように思える。実際に軍事力、経済力、技術力などで米国は中国を圧倒している。中国が短期間で追い付くことは不可能だ。それでも昨年には、全世界の特許出願件数の40%を中国が占めた。7年連続で世界トップだ。米国の特許出願件数は中国の半分にも満たない。最近米国による制裁のターゲットになった通信設備大手、華為(ファーウェイ)は年間売上高の14%を研究開発に充てる。アップルやクアルコムよりも多い」

中国の特許件数が多いことを過大評価している。基礎技術の足りない中国の特許は、その中身が薄いことで有名である。特許申請すると政府から補助金が出るので、補助金目当ての特許申請である。現に、特許期間の更新をしない比率が多い。この事実こそ、「役にも立たない中国特許」の真相だ。


(2)「中国の戦略的な伝統に諸葛亮の『空城計』がある。かなわない敵が攻撃してきた場合、正面から戦って全滅したり、後のことを考えずに降伏したりせず、あえて自分の陣地に悠々と敵を招き入れる戦略だ。敵は待ち伏せを恐れ、下手に手出しできない。中国が市場を完全に開放したとしても、米国企業が自国内のように振る舞うことは難しいだろう。中国市場があっという間に『ブラックホール』と化す経験を何度もしてきたからだ」

このパラグラフは、『三国志演義』の読み過ぎである。WTO(世界貿易機関)のルール改定が、日米欧の三極で話を詰めている。従来のような「中国一人勝ち」を許さないルールに改め、違反したらWTOから追放する「罰則」が待っている。これまで、中国の「空城計」に騙されてきた米欧企業は結束して、中国に対抗する構えだ。多民族国家・米国の「知恵」を甘く見ていると、中国は首根っこを抑えられる。

今回は、先進国全体が中国に立ち向かう態勢を取っている。これまで、米国トランプ大統領の「米国第一」に泣かされてきた日欧が、あえて米国へ対抗せずに米国と共同で、中国包囲網をつくっている。これは、中国に野放図な発展を許していると、世界秩序が破壊されるという危機感が強まっている結果だ。「ファイブ・アイズ」(米・英・豪・カナダ・ニュージーランド)の5ヶ国が結束して、中国の世界諜報戦に立ち向かっている。日本も密接な関係を持って協力している。中国には同盟国が存在しないのだ。中国が包囲網をつくられたら、クモの糸に絡まれるようなものだろう。中国は、調子に乗ってはいけないのだ。

(3)「中国共産党にとっては、米国の全方位攻勢がかえって有り難いかもしれない。『外部勢力による攻撃』は、ぐんぐん成長した市民社会の自由化要求と少数民族の独立意欲を弾圧する絶好の口実になる。構造調整に伴う失業も米国のせいにできる。中国にとって最大の悪夢は、経済難と社会不安が重なり、政治的危機に発展することだが、現在の中国には共産党に代わる政治勢力はない。現在の米中貿易戦争が20〜30年後、結果的に中国を勢いづける可能性がある。米中の覇権争いは始まったばかりだ」

今年の中国経済は、設備投資が大幅に落込む「中期循環」(10年に1度)の年に当っている。過去の「9が付く年」は、すべて低成長に落込み、「経済難と社会不安が重なり、政治的危機に発展」した。その典型例が、1989年の天安門事件だ。今年の低成長経済を予想すると、「何が起るか分らない」情勢である。中国共産党が崩壊することはないにしても、習近平氏の権威が揺さぶられるだろう。

中国経済が20〜30年後に、米国に勝てる可能性はあるだろうか。劇的な少子高齢化の進行で、中国は最大の労働力不足に直面する。総人口に占める生産年齢人口比率は、米国を下回るという人口動態統計が出ているのだ。つまり、中国の経済成長率は今の日本並に低下している。これで、米国に勝てるはずがない。「三国志演義」は中華民族の世界で起ったことである。世界史を舞台にする「三国志演義」の再演はあり得ない。四方八方が、すべて中国の敵になっているのだ。この冷厳な事実を見落としてはならない。

コメント

1 名無しさん 2019年01月14日 11:33 id:7h75OgxJ0

「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」というのが孫子の言葉です。
統計で散々誤魔化しを入れて、ために自分自身の経済力が分からなくなっているのですから、
「スパイをいかに用いるか」という方法論ばかり孫子に学んでいる場合じゃないだろうと。
大体、戦に勝つために「できることをできないように見せ、相手を油断させよ」という記述こそあれ、
逆に「できないことをできるように見せよ」とは書いていないのです。
どうしてもやむにやまれず敵国と矛を構える他ない時に、「本当はできませんでした」ではあまりにリスキーだからであって、
「逆は必ずしも真ならず」の典型だと思います。

共産党員のエリートたちには、ちゃんと孫子を最初から読み直してこいと言ってやりたいです。


2 中川隆:中国は普通の戦争でも、貿易戦争でも勝った事は一度も無いんですよ。 2019年01月14日 14:54 id:Hzo3bHu40
>>1
中国は普通の戦争でも、貿易戦争でも勝った事は一度も無いんですよ。

というより、過去すべての戦いで負けているにもかかわらず最後は中国人だけが生き残っているというのが過去の歴史ですね。

中国は人口が多過ぎるから餓死者が何億人か出た方が将来の為だし、
シベリアや日本に中国人移民を送り込んで人口を増やせば国ごと乗っ取れるし

そういう戦略なのですね
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/archives/14984593.html?1547445264#comment-2

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/142.html#c13

[リバイバル3] CD 専用プレーヤー EAR Acute Classic _ ティム・デ・パラヴィチーニの世界 中川隆
58. 中川隆[-12996] koaQ7Jey 2019年1月15日 06:16:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

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[リバイバル3] OPPO Sonica DAC _ 音楽がわからないアホ・オーディオマニアが絶賛する超お買い得品(?)だけど… 中川隆
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[近代史3] 溝口健二 お遊さま(大映 1951年)

溝口健二 お遊さま(大映 1951年)

監督 溝口健二
原作 谷崎潤一郎 芦刈
脚本 依田義賢
撮影 宮川一夫
美術 水谷浩
音楽 早坂文雄
製作年 1951年
配給 大映


動画
https://www.youtube.com/watch?v=VxQye8mJuCc

https://www.youtube.com/watch?v=uVN1px8gIZ8
https://www.youtube.com/watch?v=VQK6g-EDm8I


キャスト
田中絹代 お遊さま
乙羽信子 お静
堀雄二 槙之助
平井岐代子 おすみ
金剛麗子 おつぎ
柳永二郎 栄太郎
進藤英太郎 久左衛門
小林叶江 乳母
横山文彦 番頭一
藤川準 番頭二
芝田総二 番頭三
久原亥之典 丁稚
藤代鮎子 女中
南部彰三 医者
小松みどり 女将
相馬幸子 生花の師匠
石原須磨男 僧侶

▲△▽▼


お遊さま:溝口健二の世界

溝口健二は、戦中から戦後にかけてつまらぬ映画を何本も作ったが、「お遊さま」もそうした駄作の一つである。にもかかわらず筆者がここに取り上げるのは、これが谷崎の小説を映画化したものだからである。谷崎の原作「芦刈」の、あの独特の世界を溝口がどう映画化したか、そしてどのような理由で失敗したか、それに興味があった。

原作の「芦刈」には、大まかに言って二つの眼目がある。一つは、谷崎と思しき老人が能「芦刈」の舞台である淀川の溜りで幽霊と出会い、その幽霊から昔語りを聞かされるという点、もう一つは、その幽霊の語る話と言うのが、男の口を通しての女人礼賛になっているという点である。この小説の最も大きな特徴は、男の目から見た女の美しさ・素晴らしさを、それこそ極楽の蓮華を見たように語る所にある。その女人礼賛が、谷崎一流の粘っこい文体に乗って、聞くものをして恍惚とさせるわけである。

ところが溝口は、原作の眼目を二つとも無視した。この映画には幽霊などは出てこず、従って幽霊の語る怪しげな物語ではなく、現実の出来事として描かれている。その点で、原作の持つ幽玄の趣きを甚だしく軽視している結果になっている。また、男の目からではなく、女の視線に寄り添って映画が作られている。その結果、映画の中の女は、男が礼賛する対象ではなく、自分で自分の美を誇る自立した女となってしまっている。自分で自分の美を誇るというのは、ある種の矛盾であるから、その点で、この映画は破綻せざるを得ない宿命を負っているわけである。

溝口が、女に寄り添いながら、女の視点から映画作りをしたということはよく知られている。それはそれで、素晴らしい方法と言える。だが、そうした方法は、「芦刈」のような小説の世界には、あまり、というか全く、相応しくない。

こうした欠陥は、原作を考慮に入れるから一層目につくわけで、そうした事情を無視して一個の独立した映画作品として見たらどう映るか。そのように見た場合でも、これが著しく女の視点に支配されているということは否めない。二人の姉妹のうち姉に惚れこんだ男が、姉とは結婚できないまでも、親族の立場から親しく往来できることを期待して妹と結婚するという筋書きは、男の立場に立てば不自然ではないが(事実原作では全く不自然に感じられない)、女の立場からすると、つまり女のほうから望んでそうしたということになると、極めて不自然に映る。やはり谷崎の原作のような不道徳な作品は、女の視点から描くには相応しくないと言うべきである。女を不道徳な存在として描くのは、溝口の本意でもなかろう。

こうした事情を抜きにして、細かいところには、それなりに見どころがある。お遊を演じた田中絹代は、彼女の持っている美しさがもっともよく出ているのではないか。乙羽信子には気の毒だが、二人が並ぶと、田中の美しさが引き立ち、乙羽のほうは、添え物のように見える。これでは男がこちらの方に心を奪われるのも無理はない、と思わせるくらいだ。田中は小柄な女性だったそうだが(身長が150センチちょっと)、全体が小作りで、しかも顔が細面にできていたので、あまり小さく見えない。一方乙羽のほうは、背丈が高い上に顔の幅も広いので、田中とふたり並ぶと、大女に見える。少なくとも美人には見えない。乙羽にとっては実際気の毒千万というほかはない(筆者は乙羽ファンだったのでなおさら)。

映画の中で、姉妹が男を含めて三人で謡曲を歌う場面が出てくる。「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波のうらはすみうき」という、能「芦刈」の一節である。ところがこれに伴奏しているのが、能の囃方ではなく、雅楽というのが溝口らしい。どういうつもりでこのような演出をしたのか。まさか、能と雅楽の区別がつかなかったわけでもあるまい。

映画のラストに近い部分がダラけているのも気になる。クライマックスに向って盛り上がって行くと言うよりも、ダラダラと続きながら(内容は女の世帯やつれだ)、なんとなく終わる、そんな感じだ。これは、女の立場を重んじすぎるからである。女の生き方を強調したい気持ちはわからぬではないが、そのあまり女人礼賛というテーマがボヤけてしまうのでは、何のためにこの映画を作ったのかもわからなくなろうというものだ。
https://movie.hix05.com/mizoguchi/mizo113.oyu.html


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谷崎潤一郎「蘆刈」と溝口健二の「お遊さま」 

◇お遊さま
谷崎潤一郎「蘆刈」が原作の溝口作品。
冴えわたる宮川一夫のカメラが鮮烈に印象を残す逸品。

原作となる「蘆刈」は谷崎の古典傾斜の時代の中での傑出した作品のひとつに数えられているもの。

1932年の作。時代は昭和大恐慌から満州事変を経て、暗い脚音がせまりつつある時代である。

谷崎「蘆刈」は、大和物語や世阿弥の謡曲の同名の物語を下敷きにしているが、落ちぶれた男が女の姿を垣間見るというテーマ以外はさして物語には関係はない。

この女性を仰ぎ見る落ちぶれた男という関係性のみ谷崎が引き取り、夢幻模様の中で、不思議な男女の関係を、さらにその子から回想させるという非常に凝った小説である。

映画は、ふとしたきっかけで出会った美しい女性への許されない思慕、そしてそれがその女性の妹を媒介としながら、のっぴきならない関係性へと落ち込んでいき、ついに零落を招いていく流れをきっちりと描きだしている。

原作との違いを参考までにいくつか。

映画「お遊さま」は、零落した果てにお遊さまの妹との子供を授かるも、すぐに母は死んでしまう。その子供はお遊さまに引きとられてしまい、そのまま育てられることになる結末。

お遊さまを頂点として、そこから姉にかしづく妹−主人公の男−その子供という階層ができている原作の構造は引き継がれながら、蘆が生い茂る水無瀬に消えていく主人公がラストシーンとなるのが映画。

原作は、もっと複雑な物語構造となっているばかりか、魅惑するお遊さまとその残酷な禁断の主従関係を、かなりきわどく描写している。

映画ではつかわれていた、主人公の男の息を止めたりするシーン(谷崎のお得意のマゾヒズム表現です)はともかくとして、妹は冬の季節には足を暖めるために布団に入らされ姉の足を抱かされていたり、子供ができて乳が張っている姉の母乳を口をつけて飲んでいたりする。

そのような、耽美的で性愛的なエピソードを織り交ぜながら、物語を幻ともつかぬ男(妹と男の子供)に語らせて、丁寧に絵巻物のように綴りとるのが、この「蘆刈」の名作たるところ。

溝口作品「お遊さま」では、そのような重層的な物語構造を省きながら、圧倒的なカメラの美学で魅せていく映画となっている。

もともと、この物語は「お遊さま」の妹がポイントとなっていて、姉への崇拝を二代に渡る隷属関係に昇華させていくのは、この妹が鍵となっている。

崇拝の対象となる田中絹代のお遊さまが圧倒的な美しさを誇らねばならない一方、切なさや儚さを前に出しながらも、切羽詰った思慕を悪魔的に秘めている妹が重要になる。

乙羽信子は、これをしっかり演じている。

溝口健二は、すでに40を越えて華麗さも衰えつつあった田中絹代に、あなたをもっと美しく撮ると宣言したらしい。実際にそれだけの役柄なのであり、この映画の焦点はそこにあるといってもいいのだが、ちょっときついかな・・・現在の観客にとっては。
http://masterlow.net/?p=282


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谷崎潤一郎『蘆刈』と溝口健二『お遊さま』

 JR京都線から阪急電鉄へ乗り換える方法はふたつあり、一つ目は正攻法的に大阪駅まで行って梅田で乗り換えるというものなのだが、二つ目はJR山崎駅でいったん電車を降り、阪急大山崎駅まで町をすこしだけ歩くというものであった。その時僕はJR京都駅から何駅だったか忘れたが、とにかく阪急の駅に行かねばならず、どこかで阪急の路線に乗り換えなければならなかった。別に急ぐ用事ではなかったが、インターネットの乗換案内をみると後者の方が少しばかり早く目的地に着くということでもあったので、山崎駅で電車を降りてみることにした。京都-大阪間で山崎といえば、豊臣秀吉が明智光秀を討ち取った山崎の戦いのことを思い出して、何かそれらしいものでも見つけることができたらという目論見もあった。山崎駅から大山崎駅までの道のりには別段変わったものはなく、結局古戦場の名残は何も見つけることができなかったのだけれども、あとで調べてみると、山崎駅の裏に見えていた山が、あの天下分け目の天王山であったらしい。現在はサントリーのウィスキー工場が建っていて、なるほどこの辺りは名水の採れる土地柄であるようであった。谷崎潤一郎の「蘆刈」に出てくる水無瀬の宮が、その近くにあるということは全く知らなかったので行くことはなかったのだが、そこにも名水が湧くということがこの小説でも紹介されている。

 そういうことで僕は「蘆刈」の舞台を少しだけ歩いたことがあった。大阪と京都、JRと阪急、明智と豊臣という色々なものごとの狭間にある変な土地、というイメージがなんとなくあって、だんだんとゆめまぼろしの度合いが上がっていくような「蘆刈」の作りにのっけから入り込むことができたような気がする。とはいってもそれは少し出来すぎな話で、実際は、舞台が山崎のあたりであるのを知るまでにも時間がかかったし、そこが自分の見知っている土地であるのを喜んだのも束の間、主人公の「私」が実際に街できつねうどんを食べる辺りまではなかなか小説が読み進まなかった。あのきつねうどんはなんだか美味しそうで、ああいう状況で出てくるにあたって、最も似つかわしい食べ物のような気がした。その後も瓶入りの正宗や、瓢箪入りの日本酒など、妙に魅力的な食べ物に興味を惹かれるうちに、物語の本腰であるお遊さまの話が始まっていた。

 このお遊さまの話が面白いのは、お遊という一つ人物が、強烈な力をもって慎之助とお静を惹きつけているからであり、またその様が読者である僕にとっても面白かったからだろう。お遊がなぜそのように人を惹きつけるのかという理由はなかなかつかみ辛く、そうだからそうとしか言いようのないところもあるのだけれども、小説中に少しだけその理由のようなものが説明されている。いわく、お遊には演技性のようなものがあるというのだ。この部分はかなり僕にとって興味深かった。おそらく凡百の書き手ならば、こうしたお遊のような人物を描写する際に「彼女には全く芝居がかったところがなく、ごく自然な高貴さ、洗練さをその身に纏っていた」とかなんとかいうようなことを書くのではないのだろうか。というか、この部分を最初に読んだとき、お遊に芝居気がないという描写を読んで驚いているような僕は、上のような描写を十分にする可能性がある。

 芝居気というものはどういうものなのだろうか。それは「科(しな)」とか「外連」とかいうものに近いかもしれない。いや、言葉を置き換えただけでは何の説明にもならないのでもう少し考えてみることにするけれども、なにか一つの行動を起こすときに、普通の人がするような所作でそれをせずに、なにか普通とは別のルール(作法)に従ってことを為すことを芝居がかるとここでは言っているような気がする。うちかけを着て琴を弾くということも、本当の貴族の娘ならば何の違和感も覚えさせないのだろうが、お遊は裕福な育ちではあるが、町屋の娘であり、それは普通のことではない。そのあたりのズレが芝居気をうみだしているのだろう。思い出してみれば『春琴抄』の春琴も町屋の娘ながら、盲目という境遇ゆえに特権的な地位が家から与えられていて、それ故に雅な性格をしているという人物だった。彼女にも芝居気というようなものが多分にあるような気がする。そしてその芝居気は春琴が顔に傷を負って、佐助が目をつぶして以後、一層強まっていくし、そのような描写も実際にあったような気がする 。このような高貴な振る舞いと実際の地位のズレがうみだす芝居気が谷崎文学に登場する女性像において重要な気がするような気がするけれども、ここまで言っておいて、そんなことは全く重要ではないのではないかという気持ちの方が今は強い。仮にうまれも育ちも完全に雅な、姫かなんかがいたとしても、その人物は谷崎文学の中でしっかりと男の信仰を集めそうな気がする。お遊や春琴が町屋の娘であるのは、それぞれの作品の時代背景の設定に則っていて、かつ谷崎が書き得たのが、こうした暮らしの娘だったからであり、つまりは作品のリアリティーを保つためではないだろうか。

 そうした人物造形におけるリアリティーは優れたもので、それはおしずの描写においても言えることだと思う。この小説ではお遊に劣らずおしずもなかなか魅力的な人物として描かれているが、僕が一番好きなのは、慎之助との結婚後にお遊も交えて遊ぶようになったおしずが、二人をくっつけようとして、慎之助を困らせるという場面だ。サディスティックな気のあるお遊に対して、「忍ぶおんな」であるおしず、という単純な対比を超えたものがそこにはきちんと存在している。谷崎潤一郎の文学はSMの文学だという宣伝文句を見ることがよくある。この前NHKでやっていた『春琴抄』の特集は「谷崎は実はマゾヒストだった!?」というような作りだったし、柴門ふみの『日本レンアイ文学のすすめ』というエッセイでも谷崎はそんなような扱いだった。マゾヒズムを抜きにして谷崎潤一郎の文学を語るのは不自然なことかもしれないが、そればかりで語るのも不自然で、作家やその作品を矮小化しているような気もする。とはいえ、谷崎潤一郎のことを何も知らない人に対して「この谷崎っていうひとは妖しい心をよびさますアブナイ愛の魔術師 なんだよ〜」といって谷崎の本をお勧めするのもそれはそれで悪いことではないような気もする。そもそも多くの人は谷崎潤一郎の本をお勧めされても谷崎の本を読まない。「この谷崎っていう人はお堅い文豪みたいななりをしてるけど、実はSMのこととか書いちゃうような妖しい人なんだよ〜〜」っていう宣伝文句は谷崎に全く興味のない人に対して送られたギリギリのメッセージなのだろう。こういう問題は、昨今とても流行っている(ように感じられる)文豪のキャラクター化という問題にもつながっていくが、そこに目くじらを立てるのも少し大人げない気がするのでこの話はこの辺でやめにして、溝口健二の映画についての話をすることにしよう。

 溝口健二の1951年の映画に『お遊さま』というのがある。これは谷崎の『蘆刈』を映画化したものなのだが、あまり有名な作品ではない。確かにところどころ、溝口らしいきれいなカットはあるのだが、そこまで目を引くようなものがないのだ。これはどうもキャスティングによるところが多いような気がする。お遊を演じるのは田中絹代、おしずは乙羽信子である。有体に言ってしまえば、この映画の中で圧倒的な存在感を放たなくてはいけないはずの田中絹代が乙羽信子に喰われかけてしまっているのだ。

 そうした役者のパワーバランスを考慮してのことかどうかは知らないが、脚本はそこそこ大きな原作からの改変が施されている。映画はおしずと慎之助のお見合いの場面から始まる。そこで慎之助はお遊を見初める。原作にあった枠構造は取り払われているのだが、これは大きな問題ではない。問題はその後で、おしずと慎之助が仮の結婚をしたところからなのだが、ここでクローズアップされるのはお遊、おしず、慎之助の奇妙な関係の方ではなく、「忍ぶ女」としてのおしずなのである。自分を犠牲にしてお遊と慎之助の幸せを願う健気な女としておしずは描かれる。このようなおしずの態度にほだされて慎之助はおしずとの子どもを作る。しかし、おしずは慎之助との子どもを出産する際に、なんとも涙ぐましい感じで死んでしまう。その子供を慎之助がお遊の元へ届けるというところで物語が終わる。映画の後半部ではお遊は半ば退場したも同然となってしまうのだ。たしかにこのようなおしずの新解釈には見るところもあって、興味深かったのだが、全体を通してみるとちぐはぐな印象は避けられない。

 田中絹代は当時四十代前半で、前年に作られた木下惠介の『婚約指環』に出演した際には「老醜」という誹りさえも受けていたらしい。さらにその数年後に作られる『山椒大夫』(1954)では老婆の役 をこなしているくらいなので決して、1951年当時若かったとはいえない。しかし、『お遊さま』におけるキャスティングの微妙さは、彼女の年齢からくるものではない。少なくとも『お遊さま』での田中絹代は年齢を感じさせる容姿、雰囲気はしておらず、乙羽信子と姉妹だという設定にも無理はない。田中絹代にはお遊が持つ浮世離れしたような雰囲気を作ることが出来なかったのだ。

 田中絹代はなんだかヴィヴィアン・リーに似ているような気がして、それは顔の造形が似ているという意味ではなくて、作品の中でのオーラというか立ち位置が似ているということがいいたいのだけれど、二人ともいってみれば強い女性であったり、汚れ役をするのが上手い。ヴィヴィアン・リーも『アンナ・カレーニナ』は全然良いとは思わなかったけれども、『欲望という名の電車』や『風と共に去りぬ』は素晴らしい。田中絹代も『夜の女たち』や『西鶴一代女』はよい。これってつまりは世間の一般的な評価と全く同じで、なんら特別なことや真新しいことは言っていないのだが、観たところそうなのだから仕方がない。

 そういうことで田中絹代を先頭に立てて発進した企画が、途中で、今が旬の乙羽信子を中心にしたものにシフトしていったという経緯を考えてみることもできよう。

 溝口健二が田中絹代に対して恋心を抱いていたというのは有名な話で、この時どうだったのかはよくわからないけれども、ものの本に田中絹代の次のようなエピソードが書いてあった。『溝口健二の世界』の著者、佐藤忠男は国際近代美術フィルムミュージアムの「田中絹代特集」の『お遊さま』の回において田中絹代と会った。そこで田中絹代は『お遊さま』について次のように語る。引用してみよう。

じつはこの映画、この特集のはじめのプランには入っておりませんでしたの。それをわたしがとくにお願いして入れていただきました。この映画を撮ったとき、溝口先生がこうおっしゃったのです。君ももう年で、若くてきれいな役はもうこなくなる。だからぼくが、さいごに君のいちばんきれいな映画をとってあげよう……って (佐藤忠男『溝口健二の世界』平凡社、2006年、422頁)

 なんとも美しい話ではあるが、田中絹代はこの中途半端な作りの映画に納得していたのだろうか。

 そしてここからは完全に僕の邪推なのだけれども、溝口はこの時、谷崎的な「蘭たけた女性」というものを上手く表現できなかったことを後悔して、後にもう一度同じ題材で映画を撮り直したのではないだろうか。その作品というのが1954年の『近松物語』だ。この頃の溝口は乗りにのっていた。『西鶴一代女』、『雨月物語』、『山椒大夫』という傑作をヴェネチア国際映画賞に送りこみ、三年連続入賞させるという稀なことを成していた。『近松物語』は近松門左衛門の『大経師昔暦』を下敷きにした戯曲『おさん茂兵衛』の映画化である。ヒロインのおさんを演じているのは香川京子なのだが、これは非常に当たり役であり、この映画自体は谷崎の作品とは全く関係はないにもかかわらず、谷崎作品のヒロイン像を体現しているかのようである。

 『近松物語』の時代設定は不義密通が極刑となっていた江戸時代。ヒロインのおさんは暦の販売を独占して富を築いていた大経師の御寮人である。卑しからぬ家の出ではあるが、家が零落してしまったために、大経師の元へ嫁に出されていた。しかし、大経師はおさんを遊ばせるだけ遊ばせておいて、自分は下女に手を出している。このあたりの境遇もお遊に似ている。そしてある手違いからおさんは手代の茂兵衛と不義密通の疑いをかけられてしまう。二人で逃避行をしているうちに、本当に通じ合ってしまう、というのが『近松物語』の大きな筋立てだ。

 茂兵衛がかねてから抱いていた恋慕の思いを聞き、心中を嫌がるさまであったり、山中を逃避行するうちに、足をくじいてしまい、茂兵衛の肩を借りているという状況であるのに、一緒に過ごすことが出来て人生で一番楽しいと言ってしまう少しずれたところだったり、おさんの身を案じて一人出頭をしようとして姿を隠した茂兵衛のことを追いかけて叱責をするさまであったりと、香川京子の演じるおさんの行動すべてが雅でやんごとないのだが、そこには谷崎が描く女性像に通ずるものがある。身を隠していた茂兵衛におさんが縋り付くという場面があるのだが、そこで茂兵衛はおさんの怪我した足に接吻を繰り返す。そうしたところもなんだか谷崎らしい。そして『近松物語』で最も美しいシーンの一つに琵琶湖でおさんと茂兵衛が心中をしようとするというものがあるのだが、ここはなんだか『蘆刈』に描かれた山崎を思い出させる。

 そういった感じで、なにかと『近松物語』に、僕は『蘆刈』と『お遊さま』の影をみてしまう。『近松物語』が『お遊さま』の作り直しだという考えは、繰り返すけれども僕の勝手な推測で、何の根拠もないのだけれども、とにかく『近松物語』はよい作品である。
http://ittaigennjitu.blog.fc2.com/blog-entry-31.html

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●『お遊さま』

田中絹代に似ていると家内がかつて職場の年配者に言われたことがあって、その頃から何とはなしに田中絹代の映画に関心を持った。京都文化博物館のフィルム・シアターで『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』を見てからは、溝口監督が田中絹代に惚れていたことを知り、なお興味が募った。

右京図書館で同作のDVDがあって、それを去年12月に借りて来てもう一度見た。そして以前このブログに書いた同作の感想で多少記憶違いを書いていることに気づいたが、それはそのままにしておく。同作のDVDを借りる2か月ほど前、新藤兼人が書いた『小説 田中絹代』を買って読み、溝口と田中の関係はよりいっそうわかった。新藤監督が『ある映画監督の生涯』を撮った最大の理由は溝口と田中の関係に関心があったからと言ってよい。

映画で新藤は田中にインタヴューし、溝口との関係をずばり質問している。それをさらりと交わす田中は見事で、さすが肝が据わっている。だが、新藤はやすやすと引き下がらない。溝口は田中のことが好きであったが、どうすれば振り向いてくれるかといったようなことを言っていたと田中にぶつけると、田中は溝口は面白みのない人物であったと素っ気ない。これは真実の思いだろうか。そのようにつれない田中であるのに、溝口が新作に取りかかり、自分が起用されるとなると、まるで喜び勇んでといった趣で京都の撮影所に行った。そしてインタヴューでは、溝口を男にするためには、すべてを投げ打ってもよいと思っていたと語る。これは溝口を大尊敬していたからだが、田中の語りっぷりは、惚れた男のためには命を投げ出すほどの覚悟を自分は持っていたといったように受け取れる。そのような田中の思いを溝口が感じ取り、そしてどうにか一緒になりたいと願っていたのではないだろうか。

溝口には発狂した妻がいたから、田中と結婚することは出来なかったかもしれないが、後に溝口はほかの女性と結婚するから、田中と一緒に暮らすことは可能であったろう。そうならなかったのは、田中にその気がなかったと考えるしかないが、ふたりが一度も抱き合ったことがなかったのだろうか。『ある映画監督の生涯』ではヴェネツィア映画祭に参加した田中と溝口のカラー写真が何枚か写り、それらは筆者には新婚旅行に見える。その旅行がふたりの間柄の最も親密な時であったと思えるほどだが、ほかにも日本の映画関係者が随行したので、一緒の部屋に泊まることは出来なかったのではないか。あるいは、映画人には暗黙の了解があって、ふたりは夫婦同然の関係を持ったかもしれない。だが、『ある映画監督の生涯』での田中のインタヴューを見る限り、ふたりはプラトニック・ラヴの関係で終わったと思える。そのためにも溝口は田中を頻繁に起用し、名作を撮ることが出来た。ふたりの間に緊張感が持続したからだ。これが肉体関係があると、田中に別な色気のようなものが出て、厳しい溝口が期待する演技をこなすことが出来なかったのではないか。
 溝口は田中に惚れて、周囲の半ば反対のような思いをよそに田中を使い続けた。そのことを痛いほど知っている田中であったから、溝口の名を高めるためにどのような努力も惜しまないと腹をくくっていた。溝口はそういう田中が心強く、味気ない私的な生活の中で大きな潤いになっていたであろう。映画を撮ることしか生き甲斐がない状態で、田中の存在は大きな光であり続けたと思う。そのことは溝口の作品で田中がどういう配役となっているかを見ればわかるだろう。『雨月物語』はその一例だ。溝口田中のコンビの作品の有名どころはみんな見たいと思っているが、去年の秋に『お遊さま』のDVDを買った。「日本名作映画集26」とあって、全集の1枚のようだ。廉価なのでどうせなら全集全部を見たいが、他にどういう作品があるのかまだ調べていない。こういうシリーズこそ図書館に完備してほしいものだ。

『お遊さま』は谷崎潤一郎の原作で、小説では「芦刈」という題であったと思う。能の有名な演目で、同じ題名の小説は美術評論家の加藤一雄も書いている。これを読みたいと思いながら、古書は高価でまだ入手していない。また谷崎の原作はいつでも読めるが、これも未読だ。映画化した後か前か知らないが、溝口と田中は谷崎と会っている。谷崎がこの映画のことをどう思ったかはわからないが、小説は監督が違えば内容が違うから、どんな仕上がりであっても黙認したであろう。それに『お遊さま』は映画としては面白く仕上がっている。谷崎の原作とは違った箇所が多いといった評価は筆者はどうでもよい。違ってあたりまえだ。また、谷崎が監督を務めて撮っても、最高級のものが仕上がるはずがない。そう考えるならば、『お遊さま』は溝口が田中を主役に据えているのであるから、原作の望む限りの名作として差し支えない。1951年の撮影で、筆者が生まれた年だ。そう思って見ると、なおさら楽しい。京都が主に舞台となり、田中演じるお遊さまが暮らす大阪の船場、そして最後の方では伏見や東京が舞台になる。街並みは実に興味深いが、セットもあるだろう。たとえば、大阪の高麗橋の橋柱が映る。そこでお遊さまは眩暈を起こし、妹の見合い相手の男にたまたま見つけられて男の家に運ばれる。高麗橋付近は今ではビルだらけで、この映画のような江戸時代風のたたずまいが1951年頃にあったとはとても思えない。だが、お遊さまが暮らす大きな屋敷はセットではないし、今でも似た建物は同地区にわずかにあるので、51年は高麗橋がまだ木造であったのかと思いたくなる。

ともかく、全編が日本風で、洋風の建物は登場しない。主な登場人物はみな和服で、これは谷崎の好みを反映したのかもしれない。その前時代的な雰囲気が実によい。それを味わうだけでもこの映画を見る価値がある。ただし、白黒映像でしかもあまり鮮明でない。廉価なDVDであるからと思うが、最新の技術でもっと鮮明なものに蘇らないものか。また、カラーであればどれほど美しかったかと思わせられる場面が多い。キモノの色合いはもちろんだが、新緑や建物の内外など、せっかくの色合いは鑑賞者が想像しなくてはならない。

 「お遊さま」と題名は主人公をうまく表現している。夫に死なれ、子どもをひとり抱えながら、夫の親の家で優雅に暮らしている。経済的には何の不自由もない。お遊さまには義理の妹がひとりある。お静という名前で、乙羽信子が演じる。結婚適齢期で、そのお見合いの場面から映画は始まる。京都の東山だろうか、林の中で慎之介がひとりで待っていると、花嫁が結わう文金高島田姿のお静が地味なキモノを着たお遊さまと、もうひとりおつきの女性に引率されてやって来る。慎之介は若いお静が見合い相手で思わねばならないのに、お遊さまに一目ぼれしてしまう。ここからがこの映画の悲劇の始まりだ。

お静は姉を慕っていて、姉のためならどんな苦労も耐えるという覚悟がある。ここは少し理解しにくいが、お遊さまがあまりに完璧な女性であるので、妹は自分を影がうすいと思っているのだろう。見合いは仲人の女性が企画したもので、慎之介は彼女からお静のことを訊かれて、あまり気乗りしない様子を見せる。すでにお遊さまが心に入っているのだ。慎之介は独立した骨董商で、仲人にお遊さまの家に商売で出入り出来ないかと相談する。ある日、お遊さまの琴の演奏会に慎之介と仲人は呼ばれて出かける。お遊さまの演奏する様子を見てふたりは驚く。香を焚き、燭台を 灯し、お遊さまは平安時代さながらの衣裳だ。田中は琴の演奏が多少出来たのだろうか。『小説 田中絹代』には楽器は演奏出来ないと書いてあったように思う。だが、本作での琴の爪弾きは見事に音楽と合っている。撮影部分だけは練習したのだろう。それにしても堂に入っている。こういうところに田中の風格が出ている。

それを言えば、本作は全編田中の魅力を見せるためだけに企画されたと言ってよく、よほど溝口が田中にぞっこんであったことがわかる。本作当時田中は42歳、乙羽は27、慎之介を演じる堀雄二は29で、慎之介が13歳年上のお遊さまに一目惚れするのは少々苦しい設定だが、そういう大人の女が好きな男もいる。実際、本作でのお遊さまは人生の甘いも辛いも知り尽くした貫禄が見え、一種妖艶さが漂っている。田中の大阪の船場言葉は実に見事で、それひとつ取っても今の女優は足元に及ばない。また、その理由もわからないだろう。

お遊さまは容易に慎之介に対しての思いを見せない。そのことを慎之介は痛いほど感じている。双方の微妙な感情を描き過ぎず、鑑賞者がいろいろと想像出来ることが、この映画を魅力あるものにしている。先に書いた高麗橋での場面は、慎之介がお遊さまの琴の演奏を聴いた後、仲人にお遊さまと一緒になりたいと本音を漏らしてからの出来事だ。お遊さまは慎之介の家を訪れるつもりが、橋のたもとで眩暈を起こして倒れかかった。それを慎之介が助け、自宅に運んで布団に寝かせたところ、慎之介はつい感情を抑え切れずにお遊さまの顔に触れんばかりになる。その瞬間慎之介はさっとその場を離れるが、その様子をお遊さまは感じ取り、慎之介が下を向いている様子を盗み見る。この場面はとてもぞくぞくさせる。お遊さまは慎之介に好意を持たれていることを悟ったはずだが、妹と結婚するように慎之介を諭す。そして、慎之介もお静もお遊さまの言いなりになって結婚する。

 結婚式の場面で慎之介は「芦刈」を歌う。この能の演目の内容を知らなければ本作の意味はよくわからないだろう。映画の最後でも慎之介は「芦刈」を歌うが、「芦刈」の結末と本作の結末とは全くそぐわないから、映画の物語のその後はお遊さまと慎之介がともに暮らすことになることが想像出来る。だが、映画の最後では慎之介はお静との間に生まれた子を、育ててくれるようにと懇願の手紙とともにお遊さまに残して去るから、やはりふたりは生涯顔を見合わないと考えるしかない。

話が一気に進んだが、お遊さまは慎之介と畜生道の仲となっていると噂が立ったりしながらも、慎之介はお静と結婚する。そして東京に行って商売をするが、落ちぶれてしまう。その理由は描かれない。お静は夫の意中の女性がお遊さまであることを結婚前から知りながらも、慎之介と暮らし、やがて破れた障子の粗末な部屋で病気になって死ぬ。一方のお遊さまはお静の結婚前に子どもを病で呆気なく失くし、舅から再婚を薦められる。やがて伏見の造り酒屋の大金持ちと結婚したはいいが、飽きられて小椋池の近くの屋敷でひとり住まいとなり、また趣味の琴に生きる生活を続ける。慎之介は屋敷に赴き、そんなお遊さまの姿を遠くに見ながら、お静が生んだ子を置いて去る。その子を見つけたお遊さまは喜んで育てる決心をするところで映画は終わる。3人とも不幸と言えば言える。

慎之介が仲人にいみじくも言ったように、お遊さまは経済的に恵まれてはいるが、再婚せずに家の中で趣味三昧の生活を送ることが幸福であろうか。結局男よりも豪勢な暮らしを取った女と見る意見もあろうが、当時はお遊さまのような身の処し方は普通であったろう。慎之介が仲人にお遊さまを長年待った理想の女性だと言うと、仲人はお遊さまと暮らすには一緒に逃げなければならないと返す。そういう生き方をお遊さまが選択しなかったのは、妹の相手と思ったことと、また慎之介では頼りなかったのだろう。であるから、その後お遊さまは別の男に嫁ぐ。しかもまた金持ちだ。お遊さまにはお静が送ったような貧乏生活は似合わない。名前がそれを示している。また、慎之介としてはそうした手の届かない高嶺の花であるからお遊さまを慕い続けた。本作で描かれるような三角関係が実際にあるわけがないと思うのは勝手だが、慎之介の態度は谷崎の考えにあるものだ。また、筆者にもわかる。そういう理想の女を思い描き続けたいのは、女が穢れとは無縁であってほしいからだ。世の中には安っぽい女がいればその反対に生涯縁のないような立派な女がいるはずだ。そう思わない安っぽい男もいるが、谷崎はそうではなかった。そういう理想の女は手が届かないからよい。添い遂げられなくてもひとりの女を生涯愛し続ける男はいるし、それこそが男の純情と言おうか、生き甲斐になる場合もある。ちょうど溝口監督が田中絹代に抱いた感情もそれに似ていたのだろう。溝口田中のコンビがあっての本作で、筆者にはとても印象深い作品になった。
https://uuuzen.exblog.jp/17685056/


脚本も酷いけど、田中絹代が不細工なオバサン顔でオーラが全く感じられないので、槙之助が単に気が小さく意志薄弱なマザコン・ダメ男にしか見えないんですね。

しかし、ヨーロッパの映画人は何故こんなどうしようもない駄作しか作れない溝口健二がそんなに好きなのかな?

日本の風景や街並みがエキゾチックで美の桃源郷だと錯覚してしまうのかも。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/160.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
100. 中川隆[-12994] koaQ7Jey 2019年1月15日 06:33:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
溝口健二 お遊さま(大映 1951年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/160.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c100
[近代史3] 溝口健二 お遊さま(大映 1951年) 中川隆
1. 中川隆[-12993] koaQ7Jey 2019年1月15日 07:12:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

田中絹代がヨーロッパの映画人に人気の理由


北米海外生活 - 5ちゃんねる掲示板

白人男は何故日本のブスが好きなのか
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/northa/1125625740/

2白人男は何故日本のブスが好きなのか 2
https://life7.5ch.net/test/read.cgi/northa/1153201560/


_____


アジア女性はブスほど白人にもてる


40 : :03/04/10 10:54 ID:OUWqCGJs

あいつらの美的感覚を疑うよ。
ゴーゴーバーでも何でこんな美人が残ってて
ブスがお持ち帰りされるんだろうと不思議に思うよ。
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237

368 :とろん:2007/04/08(日) 20:11:57 ID:E/acou04

ファランはなんであんな色黒な不細工な女を好むのだろう。
タイの普通の女性も首をかしげていた。


369 :ももんが:2007/04/08(日) 20:22:30 ID:+HPbzazM

> HYPERLINK "http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237"> HYPERLINK "http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237"368

毛唐に言わせれば、そのほうがエキゾチックなんだとよw
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237

女の口のあたりが鼻より先に突き出しているところがタイ式土人 HYPERLINK "http://blog.fc2.com/tag/%C7%E4%BD%D5%C9%D8"売春婦によくある特徴。

何度も書いたように、「売春とは限らないじゃないか」という抗弁はマレーシアも含め東南アジアではまったく無効。連れの女を売春婦に見られたくなかったら、女にそれらしい格好をさせ、自分もそれらしい格好をしてそれらしく振舞うべき。(ここが日本なら無料奉仕かもしれないし女のほうが買っているかもしれないといえるが=肉便器)

タイの白人などは、バーの女との契約を競い合ったりする。なかには売春婦の取り合いでバービアで喧嘩を始めるやつもいる。彼らから見てイカシている売春婦を連れ歩くことはむしろ自慢なのである。彼らは、いかにも売春婦という感じの女をそのまま得意げに連れ歩く。

タイでは、わざわざ身寄りのない娘を探してきて結婚する白人男も少なくない。そんな娘はたいてい売春婦。タイに定住するのが主目的だろうが、身寄りのない娘なら親族にたかられる虞がないという考えかららしい。もっとも、たかってくるのが親族だけとも限らないが。

私は以前、ある白人に、どうして白人男性はあんなに醜い女をいつも連れ歩きたがるのだろうか、と真面目に聞いてみたことがある。

というのは、中年を過ぎたような白人男性が売春婦丸出しの女を連れて歩いていることが多すぎるので、私にはどうしてもその動機が理解できなかったからである。
彼らは毎日セックスしたい年齢でもないだろうし、まして誰とでもいいから毎日セックスしたいという歳ではない。金をかけてまで醜い女を連れ歩く意味がどこにあるのか、バーで客をとっていた売春婦と同じ空間で生活するだけでも気持ち悪くないのか、という素朴な疑問である。

その人はわりと誠実な人で、真面目に答えてくれた。彼によれば、彼らが連れ歩く売春婦は「スーツケースのプラグのようなもの」だそうである。プラグとは「詰め物」という意味。スーツケースの荷物が動き回らないように隙間に詰めるものということである。

なお「土人」という言葉を私は誹謗の言葉として使っているのではない。これは客観的な性質なのである。

タイ社会は、自己の中にある「土人」性を十分に自覚している。
「土人」を制度化し、「土人搾取」のシステムを内包しているのがタイの社会なのである。

これは「土人」とそうでない人がいるという意味ではない。そうではなくて、上流色白タイ族であっても、自分自身も白人の前ではいつでも「土人」として最低に卑屈に振舞えるように、それ以上に、タイ社会の中の「弱い部分」を自分以下の「土人」として徹底的に卑下し搾取し、外国人に奴隷として容易に売り払える体制のことである。

この意味でタイこそはアジアの「土人売春国家体制」の大元であり震源地たる「便所国家」なのであって、KLで見るようなものはまったくその「ひこばえ」に過ぎない。(私はその震源地を見る気力をもうなくしたので、KLあたりにいてひこばえを見ているのである)
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-4.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/160.html#c1

[近代史3] 溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年) 中川隆
2. 中川隆[-12992] koaQ7Jey 2019年1月15日 07:13:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

田中絹代がヨーロッパの映画人に人気の理由


北米海外生活 - 5ちゃんねる掲示板

白人男は何故日本のブスが好きなのか
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アジア女性はブスほど白人にもてる


40 : :03/04/10 10:54 ID:OUWqCGJs

あいつらの美的感覚を疑うよ。
ゴーゴーバーでも何でこんな美人が残ってて
ブスがお持ち帰りされるんだろうと不思議に思うよ。
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368 :とろん:2007/04/08(日) 20:11:57 ID:E/acou04

ファランはなんであんな色黒な不細工な女を好むのだろう。
タイの普通の女性も首をかしげていた。


369 :ももんが:2007/04/08(日) 20:22:30 ID:+HPbzazM

> HYPERLINK "http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237"> HYPERLINK "http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237"368

毛唐に言わせれば、そのほうがエキゾチックなんだとよw
http://www.unkar.org/read/society6.2ch.net/21oversea/1049826237


女の口のあたりが鼻より先に突き出しているところがタイ式土人 HYPERLINK "http://blog.fc2.com/tag/%C7%E4%BD%D5%C9%D8"売春婦によくある特徴。

何度も書いたように、「売春とは限らないじゃないか」という抗弁はマレーシアも含め東南アジアではまったく無効。連れの女を売春婦に見られたくなかったら、女にそれらしい格好をさせ、自分もそれらしい格好をしてそれらしく振舞うべき。(ここが日本なら無料奉仕かもしれないし女のほうが買っているかもしれないといえるが=肉便器)

タイの白人などは、バーの女との契約を競い合ったりする。なかには売春婦の取り合いでバービアで喧嘩を始めるやつもいる。彼らから見てイカシている売春婦を連れ歩くことはむしろ自慢なのである。彼らは、いかにも売春婦という感じの女をそのまま得意げに連れ歩く。

タイでは、わざわざ身寄りのない娘を探してきて結婚する白人男も少なくない。そんな娘はたいてい売春婦。タイに定住するのが主目的だろうが、身寄りのない娘なら親族にたかられる虞がないという考えかららしい。もっとも、たかってくるのが親族だけとも限らないが。

私は以前、ある白人に、どうして白人男性はあんなに醜い女をいつも連れ歩きたがるのだろうか、と真面目に聞いてみたことがある。

というのは、中年を過ぎたような白人男性が売春婦丸出しの女を連れて歩いていることが多すぎるので、私にはどうしてもその動機が理解できなかったからである。
彼らは毎日セックスしたい年齢でもないだろうし、まして誰とでもいいから毎日セックスしたいという歳ではない。金をかけてまで醜い女を連れ歩く意味がどこにあるのか、バーで客をとっていた売春婦と同じ空間で生活するだけでも気持ち悪くないのか、という素朴な疑問である。

その人はわりと誠実な人で、真面目に答えてくれた。彼によれば、彼らが連れ歩く売春婦は「スーツケースのプラグのようなもの」だそうである。プラグとは「詰め物」という意味。スーツケースの荷物が動き回らないように隙間に詰めるものということである。

なお「土人」という言葉を私は誹謗の言葉として使っているのではない。これは客観的な性質なのである。

タイ社会は、自己の中にある「土人」性を十分に自覚している。
「土人」を制度化し、「土人搾取」のシステムを内包しているのがタイの社会なのである。

これは「土人」とそうでない人がいるという意味ではない。そうではなくて、上流色白タイ族であっても、自分自身も白人の前ではいつでも「土人」として最低に卑屈に振舞えるように、それ以上に、タイ社会の中の「弱い部分」を自分以下の「土人」として徹底的に卑下し搾取し、外国人に奴隷として容易に売り払える体制のことである。

この意味でタイこそはアジアの「土人売春国家体制」の大元であり震源地たる「便所国家」なのであって、KLで見るようなものはまったくその「ひこばえ」に過ぎない。(私はその震源地を見る気力をもうなくしたので、KLあたりにいてひこばえを見ているのである)
http://ibrahim.blog49.fc2.com/blog-entry-4.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/159.html#c2

[近代史3] 溝口健二 お遊さま(大映 1951年) 中川隆
2. 中川隆[-12991] koaQ7Jey 2019年1月15日 07:39:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

日本女性がヨーロッパの映画人に人気の理由


戦前、日本の売春婦は、その小柄さ、その恥じない快楽主義、そして彼女たちの自尊と誠実さを込めた甘美なサービスで、国際的な評判を得ていた。

彼女たちは、主要都市の街外れにある、壁で囲まれ、飾り立てられた街区に住み、働いていた。その最も著名なものは、東京の吉原で、きらめく提灯とごった返す小路を持つ40エーカー〔16万m2〕ほどの治安の良い一画を形成し、金張りの龍と朱塗りの門、着飾った客引きや曲芸師と砂糖菓子売り、格子を通して垣間見える池や庭と縁側や格子窓の向こうの女たちといった、集積された東洋の魅惑と悪徳の場であった。

 空襲を生き延びたそうした女たちは、首都圏全体に霧散していた。少しでも英語が話せるものは、特殊慰安施設協会に雇われ、郊外の古びた宿屋や、同協会が下町に作ったキャバレーや売春宿で、そのサービスを提供するのを待ち構えていた。

アメリカ人による需要は、ついには、横浜の「ビック・ティッツ〔「大きなおっぱい」の意〕・バー」や。東京の「ハード・オン〔「勃起した」の意〕・カフェ」のような目立った歓楽場所を生みだし、占領が始まって1ヶ月も経たない時点で、歓迎されるとみられる所では、目立たないようにながら、あたかも偶然を装い、そうした女たちが商売を始めていた。

 米兵のうちには、まるで麻薬の幻覚であるかのような、そうした初期の出来事を経験したものがいる。日本の地方で、武器の隠し場所を捜索していた元第8軍団の軍曹が、1945年10月末のある日の経験を述べている。


 彼と同僚は、その日、東京の東方にある小さな海辺の町のほこりっぽい広場に、彼らの乗るジープを止めた。そこで彼らが、昼食のためにK号携帯糧食を開こうとしていた時、シルクハットを被り、黒く盛装した一人の紳士がやってきて、たどたどしい英語で、粗末な場所だがその屋根の下で、食事を摂ったらいかがかと申し出てきた。彼は、ジープの後方バンパーに立ち、海を見下ろす崖の上へと、砂利道を案内した。竹藪の前で車を止めさせ、崖の淵にある、古い宿屋へと小道を下った。

その玄関では、着物を着た四人の麗しい娘が、彼らの靴を脱がせ、二階の、漆塗りの食卓の置かれた畳敷きの部屋へと通した。座布団が差しだされ、ふすまが開けられると、素晴らしい景色がそこに広がり、眼下では波が磯に砕け散っていた。女中が、K号携帯糧食に加えるべく、ビール、おひつに入ったほかほかのご飯、数々の前菜を持って入ってきた。娘たちは、間違った英語をにぎやかにしゃべり、はしを使って米兵たちにそれを食べさせた。そして、指やマッチ棒やビール瓶をもちいた接客ゲーム――言葉を超越した遊び――を彼らに教えた。とっくり入りの燗のついた酒も出され、それを杯で飲んだ。

やがて、食事と歓談に満腹したところで、娘たちが言った。「お風呂に入りましょう」。

 折り返した階段を下りて、崖下のほら穴状の部屋へと案内された。その岩の床はおだやかに傾斜し、一方の壁は海に向かった開口部だった。その床の中央に、タイル張りの湯気をあげる浴槽があった。

娘たちは着物を取り、男たちの服を脱がせ始めた。娘たちは、手おけで火傷しそうなその熱いお湯を自らあびた。その行為は繰り返され、兵士たちは大喜びしてそれをまねた。皆がそうして洗い終わった時、娘たちは浴槽の中に身を沈めた。男たちは、それに従い、その40度を越える熱いお湯に体を入れ、ゆっくりと首までつかったが、火傷はしないようだった。彼女たちは、兵士たちの顔を手ぬぐいでふいて、女中が運んできたビールを小さなグラスで飲ませた。遠くでは、崖の影が、海面の上に長く延びていた。

 皆がよく浸かった頃、女中が清潔な木綿の浴衣を持ってきて、男たちはそれを着て、その帯を前で結び、その結び目を背に回すことを教わった。そして娘たちは、彼らを、二階の個室へと案内した。そこでは、畳の床の上に厚い布団が敷かれ、またしても、ビールが幾本か、食膳の上に並べられていた。

一人の娘が、「アメリカ風の愛し方をして」と、軍曹に手を巻きつけながら言った。軍曹は、一瞬息をのみ、圧倒され、夢中となって、そして、それを拒むには自分が余りに誇らしくなっているのを感じていた。

翌朝、彼は一人で眼を覚ました。隣の部屋の仲間を起こし、そのぜいたくな遊びの代金を請求された場合を心配して、彼らの手持ちの金をかき集めた。

女中がお茶とご飯をもってきた。朝食の後、彼らは、その黒の盛装の男にそれでよいかを尋ねた。その男は、その代金は、一人につき、煙草二箱で結構と言った。玄関では、昨夜の相手をしてくれた娘たちが、靴べらを手にして待っており、満面の笑みをうかべて礼をして、彼らが帰途につくのを見送った。


 そのような、初期の接触がもたらした体験や物語は、親密関係無しといった公式占領政策をアメリカのMPによって徹底させることを不可能にした。ジャングルで闘ってきた精鋭部隊が、すべて「米国内」に帰還し終わるまでに、そうした女たちは、米国人宿泊所や定期的な一掃取締についてのあらましを知っていた。

連合軍隊員によって占められたかつての日本軍兵舎や武器改造工場は、消灯時ともなると、ヒールの音や漂う香水の香り、溜息や何かのきしみ音などが響く、不可思議な時間帯となった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/160.html#c2

[近代史3] 溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年) 中川隆
3. 中川隆[-12990] koaQ7Jey 2019年1月15日 07:42:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

日本女性がヨーロッパの映画人に人気の理由


戦前、日本の売春婦は、その小柄さ、その恥じない快楽主義、そして彼女たちの自尊と誠実さを込めた甘美なサービスで、国際的な評判を得ていた。

彼女たちは、主要都市の街外れにある、壁で囲まれ、飾り立てられた街区に住み、働いていた。その最も著名なものは、東京の吉原で、きらめく提灯とごった返す小路を持つ40エーカー〔16万m2〕ほどの治安の良い一画を形成し、金張りの龍と朱塗りの門、着飾った客引きや曲芸師と砂糖菓子売り、格子を通して垣間見える池や庭と縁側や格子窓の向こうの女たちといった、集積された東洋の魅惑と悪徳の場であった。

 空襲を生き延びたそうした女たちは、首都圏全体に霧散していた。少しでも英語が話せるものは、特殊慰安施設協会に雇われ、郊外の古びた宿屋や、同協会が下町に作ったキャバレーや売春宿で、そのサービスを提供するのを待ち構えていた。

アメリカ人による需要は、ついには、横浜の「ビック・ティッツ〔「大きなおっぱい」の意〕・バー」や。東京の「ハード・オン〔「勃起した」の意〕・カフェ」のような目立った歓楽場所を生みだし、占領が始まって1ヶ月も経たない時点で、歓迎されるとみられる所では、目立たないようにながら、あたかも偶然を装い、そうした女たちが商売を始めていた。

 米兵のうちには、まるで麻薬の幻覚であるかのような、そうした初期の出来事を経験したものがいる。日本の地方で、武器の隠し場所を捜索していた元第8軍団の軍曹が、1945年10月末のある日の経験を述べている。


 彼と同僚は、その日、東京の東方にある小さな海辺の町のほこりっぽい広場に、彼らの乗るジープを止めた。そこで彼らが、昼食のためにK号携帯糧食を開こうとしていた時、シルクハットを被り、黒く盛装した一人の紳士がやってきて、たどたどしい英語で、粗末な場所だがその屋根の下で、食事を摂ったらいかがかと申し出てきた。彼は、ジープの後方バンパーに立ち、海を見下ろす崖の上へと、砂利道を案内した。竹藪の前で車を止めさせ、崖の淵にある、古い宿屋へと小道を下った。

その玄関では、着物を着た四人の麗しい娘が、彼らの靴を脱がせ、二階の、漆塗りの食卓の置かれた畳敷きの部屋へと通した。座布団が差しだされ、ふすまが開けられると、素晴らしい景色がそこに広がり、眼下では波が磯に砕け散っていた。女中が、K号携帯糧食に加えるべく、ビール、おひつに入ったほかほかのご飯、数々の前菜を持って入ってきた。娘たちは、間違った英語をにぎやかにしゃべり、はしを使って米兵たちにそれを食べさせた。そして、指やマッチ棒やビール瓶をもちいた接客ゲーム――言葉を超越した遊び――を彼らに教えた。とっくり入りの燗のついた酒も出され、それを杯で飲んだ。

やがて、食事と歓談に満腹したところで、娘たちが言った。「お風呂に入りましょう」。

 折り返した階段を下りて、崖下のほら穴状の部屋へと案内された。その岩の床はおだやかに傾斜し、一方の壁は海に向かった開口部だった。その床の中央に、タイル張りの湯気をあげる浴槽があった。

娘たちは着物を取り、男たちの服を脱がせ始めた。娘たちは、手おけで火傷しそうなその熱いお湯を自らあびた。その行為は繰り返され、兵士たちは大喜びしてそれをまねた。皆がそうして洗い終わった時、娘たちは浴槽の中に身を沈めた。男たちは、それに従い、その40度を越える熱いお湯に体を入れ、ゆっくりと首までつかったが、火傷はしないようだった。彼女たちは、兵士たちの顔を手ぬぐいでふいて、女中が運んできたビールを小さなグラスで飲ませた。遠くでは、崖の影が、海面の上に長く延びていた。

 皆がよく浸かった頃、女中が清潔な木綿の浴衣を持ってきて、男たちはそれを着て、その帯を前で結び、その結び目を背に回すことを教わった。そして娘たちは、彼らを、二階の個室へと案内した。そこでは、畳の床の上に厚い布団が敷かれ、またしても、ビールが幾本か、食膳の上に並べられていた。

一人の娘が、「アメリカ風の愛し方をして」と、軍曹に手を巻きつけながら言った。軍曹は、一瞬息をのみ、圧倒され、夢中となって、そして、それを拒むには自分が余りに誇らしくなっているのを感じていた。

翌朝、彼は一人で眼を覚ました。隣の部屋の仲間を起こし、そのぜいたくな遊びの代金を請求された場合を心配して、彼らの手持ちの金をかき集めた。

女中がお茶とご飯をもってきた。朝食の後、彼らは、その黒の盛装の男にそれでよいかを尋ねた。その男は、その代金は、一人につき、煙草二箱で結構と言った。玄関では、昨夜の相手をしてくれた娘たちが、靴べらを手にして待っており、満面の笑みをうかべて礼をして、彼らが帰途につくのを見送った。


 そのような、初期の接触がもたらした体験や物語は、親密関係無しといった公式占領政策をアメリカのMPによって徹底させることを不可能にした。ジャングルで闘ってきた精鋭部隊が、すべて「米国内」に帰還し終わるまでに、そうした女たちは、米国人宿泊所や定期的な一掃取締についてのあらましを知っていた。

連合軍隊員によって占められたかつての日本軍兵舎や武器改造工場は、消灯時ともなると、ヒールの音や漂う香水の香り、溜息や何かのきしみ音などが響く、不可思議な時間帯となった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/159.html#c3

[近代史3] 溝口健二 お遊さま(大映 1951年) 中川隆
3. 中川隆[-12989] koaQ7Jey 2019年1月15日 07:51:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

日本女性がヨーロッパの映画人に人気の理由 _ 2


母さん。僕、天使を見たんだよ。本当だよ

私の行きつけのソープは岐阜の金津園、総額35000円の店だった。
当時私はスデに常連の部類になっており、店員もなじみになっていた。
あろうことかあるとき私に店がダブルブッキングをぶちかました!
(俺を誰だと思ってるんだ)

当然に店は平謝り、最高の女性を付けるから勘弁してくれとの事。
吹くじゃねぇか。この手のパターンで良い女が付いたためしは無いが、ここは、なじみの店員の顔を立ててやることにした。
貴様の大風呂敷に付き合ってやる。
。。。。。

私は期待薄だった。
ところがその女性は徹底的に違っていた、部屋に入るなり電気を暗くしていきなりディープキス。
いつもと違うぞ。私は面食らった。
彼女は私の口の中を舐め回しながら器用に私の服を1枚づつ脱がして行き、私の全身にキスの嵐を浴びせつつもいつのまにか自分も全裸になっている。

そしてシズシズとひざまづくと唐突に洗っていない私のチンポをフェラし始めたのだ。
チンポは当然ギンギンで破裂しそうになっている。通常の2割増しだ。(当社比)
それはそれはとてもやさしいフェラだった、慈しむようなフェラだ。

僕の亀頭に彼女の舌が微妙なタッチでまとわりつく筆で撫でられているようだ。
声が出そうだった。
これが一生続けばいいのにと思った。
が、彼女はすぐにフェラを止め、私をベッドに横にした。

そして彼女は天を突いた私のチンコを優しくつかむのだ、まさか?

彼女は遠慮がちに私の上に跨ってきた。
ずぶずぶと入っていく、「ナマだ」 うわ、死ぬほど気持ちが良い。
それもそのはず私は当時プライベートを含め生挿入した事がなかったのだ。

彼女はゆっくり動き出した、(ちゅぷっ、ちゅくっ)静けさの中に、お互いの性器同士が生でこすれる音がする。

こんな気持ちが良いSEXは初めてだ。

「もう出ちゃいそっ、いいの?」
「うん、キテ」
彼女は吐息まじりにそう言うと、ほんの少しだけスピードを早めた。

射精が永遠に続きそうなほどの快感に体が包まれた。

(ちなみに彼女の中に入っていたのは多分30秒くらいだけ)まさに秒殺です。
実際はもっと早かったかも。

イク瞬間ケンシロウの声が聞こえてきた。
「天に帰る時が来たのだ」(嘘)

僕がイってしまった後も彼女は僕のチンコが萎えるまで挿入したままだった。

しばらくして、彼女は体を引き上げる。
彼女からチンポが抜けると彼女のアソコからポタポタと僕の体に精液が落ちてきた。
中に出したのだ、という実感がさらに湧いた。

すごい。これが本当のSEXなんだ、
比べれば今までのゴムツキのSEXなんてお遊びではないか!

彼女はベッドで放心状態で寝ている横に添い寝して僕を優しく見つめた。

そして、当然「早いのね」などとは言わず、

「私のお○こ気持ち良かった? 今日は一杯しようね」

と微笑んだ。
(母さん。僕、天使を見たんだよ。本当だよ)
ここまでで、まだ出会って10分足らずだった(ここは100分の店)
そしてその後、マットで一発。ベットで一発。もちろん全部中出しです。

彼女はイスでも風呂でも暇さえあれば挿入してくるし、咥えてくるしとても礼儀正しいし、何も言う事ありませんでした。(アンタにゃ教える事など何もない)
まさか33000円の大衆ソープでこんな高級ソープなみのサービスを受けるとは…。
非常にギモンです。何か病気を含めて心配になってしまう。

聞けば、彼女はあの阪神大震災で住んでいた家を無くし、岐阜へ流れて来たのだという。

彼女は以前神戸の福原にある超高級ソープに在籍し、念願のマンションを購入したばかりだったが、地震によって10階建てのマンションが5階建てくらいの高さに潰れてしまったらしい。
(まったくもって恐ろしい話だ:彼女は笑ってたけど…)

ちなみに彼女は7階に住んでいたので難を逃れたと言うはなしだった。

なお、その店は総額75000円だったそうです。(そりゃ、サービス良い訳だ)

金津園のも6万円以上の高級ソープはあるんですが、なぜあそこに居たんでしょうか?

謎です。 しかし翌月、彼女は店から姿を消していました。
http://www.ippu-do.com/so-pu.htm


149 :名無しさん@入浴中[sage]:2007/01/19(金) 14:25:40 ID:F0YiZrFB0

いままでで思い出に残るのは
ラテンのみゆき
迎賓館の舞咲
プレジの一夜

特にみゆきは絶品だったなあ・・・遠い目・・・

今は伝説となってしまった みゆきさんは出勤すると自分の持ち部屋に行き、毎日食事も取らずに付きっぱなしであとは店の車で帰るだけです。
彼女の技は基本に忠実なだけで、特筆すべき点は何らないのです。

マットにせよイスにせよベッドにせよ・・・どこにでもあるありきたりです。

彼女が今あるのは、類まれなる演技力・記憶力・心配り・顧客管理 だと思われます。
それプラス、2時間限定でお客さんの恋人になりきる努力。
それぞれのお客さんの趣向にあわせるコツ。それを見抜く眼力。
ああ、来て良かった、また来ようと思わせるような最善の努力です。

彼女は普段から装飾品の一切をしていません。ネックレス・ピアス・ネイル等々
爪はいつも綺麗に切り揃えてあるだけです。服装も華美ではありません。
そんなものが無くても、彼女自身があるだけで男性にとっては十分なのです。
彼女が現在の地位になるまで、吉原や他の地域で足掛け4年掛かっています。

それだけの歳月を要して、コツコツと積み上げて今の彼女があるわけです。
まさにローマは一日にしてならずと言ったところでしょうか。
http://okazu.bbspink.com/soap/kako/1030/10304/1030415082.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/160.html#c3

[近代史3] 溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年) 中川隆
4. 中川隆[-12988] koaQ7Jey 2019年1月15日 07:52:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

日本女性がヨーロッパの映画人に人気の理由 _ 2


母さん。僕、天使を見たんだよ。本当だよ

私の行きつけのソープは岐阜の金津園、総額35000円の店だった。
当時私はスデに常連の部類になっており、店員もなじみになっていた。
あろうことかあるとき私に店がダブルブッキングをぶちかました!
(俺を誰だと思ってるんだ)

当然に店は平謝り、最高の女性を付けるから勘弁してくれとの事。
吹くじゃねぇか。この手のパターンで良い女が付いたためしは無いが、ここは、なじみの店員の顔を立ててやることにした。
貴様の大風呂敷に付き合ってやる。
。。。。。

私は期待薄だった。
ところがその女性は徹底的に違っていた、部屋に入るなり電気を暗くしていきなりディープキス。
いつもと違うぞ。私は面食らった。
彼女は私の口の中を舐め回しながら器用に私の服を1枚づつ脱がして行き、私の全身にキスの嵐を浴びせつつもいつのまにか自分も全裸になっている。

そしてシズシズとひざまづくと唐突に洗っていない私のチンポをフェラし始めたのだ。
チンポは当然ギンギンで破裂しそうになっている。通常の2割増しだ。(当社比)
それはそれはとてもやさしいフェラだった、慈しむようなフェラだ。

僕の亀頭に彼女の舌が微妙なタッチでまとわりつく筆で撫でられているようだ。
声が出そうだった。
これが一生続けばいいのにと思った。
が、彼女はすぐにフェラを止め、私をベッドに横にした。

そして彼女は天を突いた私のチンコを優しくつかむのだ、まさか?

彼女は遠慮がちに私の上に跨ってきた。
ずぶずぶと入っていく、「ナマだ」 うわ、死ぬほど気持ちが良い。
それもそのはず私は当時プライベートを含め生挿入した事がなかったのだ。

彼女はゆっくり動き出した、(ちゅぷっ、ちゅくっ)静けさの中に、お互いの性器同士が生でこすれる音がする。

こんな気持ちが良いSEXは初めてだ。

「もう出ちゃいそっ、いいの?」
「うん、キテ」
彼女は吐息まじりにそう言うと、ほんの少しだけスピードを早めた。

射精が永遠に続きそうなほどの快感に体が包まれた。

(ちなみに彼女の中に入っていたのは多分30秒くらいだけ)まさに秒殺です。
実際はもっと早かったかも。

イク瞬間ケンシロウの声が聞こえてきた。
「天に帰る時が来たのだ」(嘘)

僕がイってしまった後も彼女は僕のチンコが萎えるまで挿入したままだった。

しばらくして、彼女は体を引き上げる。
彼女からチンポが抜けると彼女のアソコからポタポタと僕の体に精液が落ちてきた。
中に出したのだ、という実感がさらに湧いた。

すごい。これが本当のSEXなんだ、
比べれば今までのゴムツキのSEXなんてお遊びではないか!

彼女はベッドで放心状態で寝ている横に添い寝して僕を優しく見つめた。

そして、当然「早いのね」などとは言わず、

「私のお○こ気持ち良かった? 今日は一杯しようね」

と微笑んだ。
(母さん。僕、天使を見たんだよ。本当だよ)
ここまでで、まだ出会って10分足らずだった(ここは100分の店)
そしてその後、マットで一発。ベットで一発。もちろん全部中出しです。

彼女はイスでも風呂でも暇さえあれば挿入してくるし、咥えてくるしとても礼儀正しいし、何も言う事ありませんでした。(アンタにゃ教える事など何もない)
まさか33000円の大衆ソープでこんな高級ソープなみのサービスを受けるとは…。
非常にギモンです。何か病気を含めて心配になってしまう。

聞けば、彼女はあの阪神大震災で住んでいた家を無くし、岐阜へ流れて来たのだという。

彼女は以前神戸の福原にある超高級ソープに在籍し、念願のマンションを購入したばかりだったが、地震によって10階建てのマンションが5階建てくらいの高さに潰れてしまったらしい。
(まったくもって恐ろしい話だ:彼女は笑ってたけど…)

ちなみに彼女は7階に住んでいたので難を逃れたと言うはなしだった。

なお、その店は総額75000円だったそうです。(そりゃ、サービス良い訳だ)

金津園のも6万円以上の高級ソープはあるんですが、なぜあそこに居たんでしょうか?

謎です。 しかし翌月、彼女は店から姿を消していました。
http://www.ippu-do.com/so-pu.htm


149 :名無しさん@入浴中[sage]:2007/01/19(金) 14:25:40 ID:F0YiZrFB0

いままでで思い出に残るのは

ラテンのみゆき
迎賓館の舞咲
プレジの一夜

特にみゆきは絶品だったなあ・・・遠い目・・・

今は伝説となってしまった みゆきさんは出勤すると自分の持ち部屋に行き、毎日食事も取らずに付きっぱなしであとは店の車で帰るだけです。
彼女の技は基本に忠実なだけで、特筆すべき点は何らないのです。

マットにせよイスにせよベッドにせよ・・・どこにでもあるありきたりです。

彼女が今あるのは、類まれなる演技力・記憶力・心配り・顧客管理 だと思われます。
それプラス、2時間限定でお客さんの恋人になりきる努力。
それぞれのお客さんの趣向にあわせるコツ。それを見抜く眼力。
ああ、来て良かった、また来ようと思わせるような最善の努力です。

彼女は普段から装飾品の一切をしていません。ネックレス・ピアス・ネイル等々
爪はいつも綺麗に切り揃えてあるだけです。服装も華美ではありません。
そんなものが無くても、彼女自身があるだけで男性にとっては十分なのです。
彼女が現在の地位になるまで、吉原や他の地域で足掛け4年掛かっています。

それだけの歳月を要して、コツコツと積み上げて今の彼女があるわけです。
まさにローマは一日にしてならずと言ったところでしょうか。
http://okazu.bbspink.com/soap/kako/1030/10304/1030415082.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/159.html#c4

[近代史3] 溝口健二 近松物語(大映 1954年)

溝口健二 近松物語(大映 1954年)

監督 溝口健二
脚本 依田義賢
音楽 早坂文雄
撮影 宮川一夫
配給 大映
公開 1954年11月23日


動画
https://www.youtube.com/watch?v=JoepTq9tmfw
https://www.youtube.com/watch?v=xud7n9bxWs4
https://www.youtube.com/watch?v=NuXn1AI3Bj4
https://www.youtube.com/watch?v=6QWNmxdJIOA


キャスト

茂兵衛:長谷川一夫

おさん:香川京子

お玉:南田洋子

大経師以春:進藤英太郎(東映)

助右衛門:小沢栄太郎

源兵衛:菅井一郎

岐阜屋道喜:田中春男(東宝)

院の経師以三:石黒達也

おこう:浪花千栄子

鞠小路侍従:十朱久雄
公卿の諸太夫:荒木忍
赤松梅龍:東良之助
僧侶:葛木香一
黒木大納言:水野浩(東映)
検校:天野一郎
お蝶:橘公子
船宿の女中:金剛麗子
茶店の老婆:小松みどり
おたつ:小林加奈枝
おその:仲上小夜子
おかや:小柳圭子
堅田の役人:伊達三郎
宿の番頭:石原須磨男
切戸の庄屋:横山文彦
村役人:藤川準
梅垣重四郎:玉置一恵

近松門左衛門作の人形浄瑠璃の演目『大経師昔暦』(だいきょうじ むかしごよみ、通称「おさん茂兵衛」)を下敷きにして川口松太郎が書いた戯曲『おさん茂兵衛』を映画化した作品である。脚本は、近松の『大経師昔暦』と、西鶴の『好色五人女』の「おさん茂右衛門」の二つを合体させたものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%9D%BE%E7%89%A9%E8%AA%9E


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近松物語:溝口健二の世界

溝口健二の映画「近松物語」は、近松門左衛門の世話浄瑠璃「大経師昔暦」を下敷きにしている。近松はこの浄瑠璃を、30年以上も前に起きた事件に取材した。それは「おさん茂兵衛」と呼ばれた不義密通事件で、男女の不幸な愛の顛末が民衆の深い同情を呼んでいた。そこで近松は、二人の三十三回忌にあわせて、この事件の顛末を世話浄瑠璃に仕立てたのである。

この事件というのは、京都の大経師以春の妻おさんが手代の茂兵衛と不義密通したというもので、丹後の国に逃げたところを捉えられて、二人の間をとりなした下女のお玉ともども、洛中引き回しの上、粟田口で処刑されたというものである。徳川時代には、不義密通はもっとも重い犯罪であり、露見すれば死罪を免れず、本人たちはもとより、その間を取り持っただけの人間まで処刑されたわけである。

この事件を文芸作品に取り入れたのは、西鶴が最初だった。西鶴はこの事件の二年後に、好色五人女の話の一つとして、この事件を書いた。西鶴は例によって、おさん茂兵衛の恋も、好色な男女の間の色恋沙汰として描いている。したがって不幸な男女への同情といったものはない。二人の死は自業自得のこととして、突き放した視点から見られているのである。

これに対して近松は、二人は好色な気持ちから密通をしたのではなく、運命のいたずらに翻弄された不幸なカップルとして描き出している。西鶴におけるように、二人は互いに愛し合っているわけではなく、たまたま不義密通という、たいへんな事態に落ちこんでしまった、運の悪いカップルなのだ。

近松の浄瑠璃の筋書きは、次のようなものである。大経師以春の妻おさんは、実家から金を無心されるが、夫の以春に遠慮して、手代の茂兵衛に相談する。茂兵衛は主人の印鑑を借り出して、それで金を借用しようとするが、主人に見破られて、問い詰められる。するとそこに下女のお玉が出てきて、そのお金は私から頼んだのですといって、なんとかとりなそうとする。おさんは後で、お玉に礼をいうが、思いがけないことを聞かされる。意俊が毎晩のように寝室にやってきて困っているというのだ。そこでおさんは、自分がお玉の替え玉となって、忍び込んできた意俊を懲らしめようとする。

一方、茂兵衛のほうは監禁されていたところを抜け出してお玉の部屋にやって来る。昼間にお玉が自分をかばってくれたことに対して、礼をいうつもりだったのである。ところがお玉の部屋には思いかけずおさんがいた。そこへ以春がやってきて、二人は不義密通をしていたことにされてしまうのである。

二人は何とか逃亡して丹後まで逃げていくが、大経師の家に出入りしていた百姓に見とがめられて、ついに捕まってしまう。一方お玉の方は、二人をどん底に突き落とした責任の一端を感じて、みずから進んで叔父に切られて死ぬのである。

近松のこの筋書きを、溝口はおおむねの所採用している。しかし、決定的に異なる部分がある。それは、おさんと茂兵衛は、単に不義密通をしたのではなく、深く愛し合ったというふうに作り替えた点である。それ故、この映画は、不幸な男女の悲恋物語としての性格を持つに至った。悲恋でも特別の悲恋、誰もが胸を塞がれるような、とびきりの悲恋物語になっている。

映画は、大経師の家の前を、市中引き回しの行列が通り過ぎていくシーンから始まる。馬上には縄で結ばれ合った男女が乗り、高札には、この者どもは不義密通をした咎で、磔に処せられる旨が書いてある。やがて二人は並んで十字架に磔になる。その光景が、おさんと茂兵衛の運命を暗示しているわけである。

前半はほぼ、近松の筋書き通りに進んでいく。おさんを演じるのは香川京子、茂兵衛は長谷川一夫、お玉は南田洋子、以春は進藤栄太郎である。

前半では、おさん茂兵衛は互いに愛しあっているようには見えない。二人は主人の妻と手代の関係であり、茂兵衛はおさんをお家さまと呼び、おさんは茂兵衛を呼び捨てにする。

二人の関係が劇的に変化するのは、琵琶湖での心中未遂の場面からである。世をはかなんだおさんは死ぬ決意をし、それに茂兵衛もお供することとして、二人で船に乗って琵琶湖に身を投げようとする。その時に、茂兵衛が思わぬ告白をする。以前からおさんを慕っていたというのだ。それを聞いたおさんは、俄然態度を変え、こう言い放つ。「おまえの今の一言で、死ねんようになった、死ぬのはいやや、生きていたい」

おさんのこの言葉が、この映画の全体を語っているといってもよい。この言葉によって、二人は恋人同士として、本当に結ばれるのである。そして結ばれた二人は、なるべく長く生き続けようとし、生きている限りは愛しあおうと決意するのである。

しかし、二人には、あまり残された時間はなかった。丹後の山中に潜んでいたところを捕まえられ、いったんは引き離されてしまう。この時点では、以春は事件を公にするつもりがなく、闇に葬るつもりだった。二人を引き離しておさんを連れ帰れば、なんとか表沙汰にならずにすむだろうと考えていたわけである。また、おさんのほうも、ここで茂兵衛をあきらめていれば、あるいは死なずにすんだかもしれない。

しかし、おさんには茂兵衛と別れることはできなかった。以春から実家に預けられ、思案しているところに、これも父親の愛によって助けられた茂兵衛がやって来る。おさんの母親(浪花千栄子)は、おさんの思いを遂げさせようとするが、おさんの兄が後難を畏れて、密告する。こうして捉えられた二人は、市中引き回しになって、処刑場へと向かっていくのである。

このように溝口は、おさん茂兵衛の物語を、たんなる好色や不運な巡り合わせということにとどめるのではなく、悲恋物語として描いた。そして、男女の純粋な愛が、様々な封建的束縛によって押しつぶされていく過程を、怒りをこめて描いた、といえるのではないか。西鶴一代女のなかでは、身分不相応の恋をした男(三船敏郎)が、愛し合うことの何処が悪いのかと叫んだわけだが、この映画の中でも、その叫びと同じものが響き渡っている。おさんが、「茂兵衛、茂兵衛」と絶叫する声が、その響きを象徴しているのではないか。

溝口の他の作品と同様、この映画の中でも、極悪人といってよいような男たちが多数出てくる。以春も悪党として描かれているが、それはまだ生ぬるい悪党で、モットひどい奴らが沢山出てくる。なかでもひどいのは、おさんの兄だ。この兄(田中春男)は、妹に金の無心をし、その金で放蕩放題をする一方、おさんと茂兵衛が自分にとって危険と察すると、さっさと密告して、二人をどん底に突き落とすような真似をするのである。こうした悪漢は、これまでの溝口映画には常に出てくるキャラクターなのだが、こんなに悪どいキャラクターは前後に見当たらぬほどだ。

その一方、おさんと茂兵衛の純真な心が観客の胸を打つ。香川京子は気品を漂わせながら愛に生きる女を演じ、長谷川一夫は最高の二枚目ぶりを発揮していた。溝口の映画では、二枚目というのはとかく情けない男として描かれるのが通例であるのだが、長谷川一夫演じる茂兵衛は、二枚目でありながら、芯のしっかりした男らしい男として描かれている。これは、長谷川一夫という俳優の雰囲気がそうさせた面もあるのだろう。

こんなわけで、溝口晩年の名声高き四部作のうち、この映画は独特の輝きを放っている。最後の場面で、馬上の二人が、互いに手を結び合い、見つめ合いながら、幸せそうな表情をする。その表情が、見ている者の心まで洗い清めてくれる。そんなところが、筆者にはたまらない魅力として映るのだ。
https://movie.hix05.com/mizoguchi/mizo108.tikamatu.html

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溝口健二監督「近松物語」

溝口健二監督「近松物語」は確かに名作だ。しかし、何度考えてもちょっと複雑な気持ちになる映画だ。


時は江戸時代。所は京都。若く美しいおさんは、武士同様の格式を持つ裕福な大店の内儀である。主人は商売はやり手だが吝嗇で、若い女中に手を出すような好色爺だ。おさんに金の無心に来る母と道楽者の兄。この縁組は、経済的に苦しいおさんの実家が、金銭的援助を当て込んで成立させたものだ。

おさんの立場は弱く、まるで実家から差し出された人身御供だ。
もっとも、一番理不尽に虐げられているのは、好色爺に手籠めにされつつ「奉公人は耐えるしかない」「腹に収めろ」と手代の茂兵衛に諭される女中のお玉だろう。

封建的身分制度社会、不平等は当たり前というわけで、江戸時代、こんなものなわけだが、やはりなんとも理不尽だ。


兄の借金の申し込みをどうしよう。という話をおさんが茂兵衛に相談し…内儀が奉公人に金の工面の相談って、そりゃ筋が違うし内儀失格でしょ、に始まり、茂兵衛が、主人の印を不正利用して金を工面しようとして同僚にみつかり…と、ダメダメな対応が積み重なる。
そして、あれよあれよという間に、様々な偶然も重なり、おさんと茂兵衛に不義密通の嫌疑をかけられ、2人は逃走する。共通するのは「もうあの家はいや」ということ。江戸時代の価値観的には、最重要とされる嫁ぎ先、奉公先の「家」が心からいやということだ。
といっても、もともと茂兵衛がおさんを「お慕い申して」おり、おさんも茂兵衛を憎からず思っているのは明らかだ。2人の逃避行は、おさんが割と強引に茂兵衛を誘っていて、おさんがイノセントな悪女にすらみえる。しかし、腹を決めてことにかかっているというわけでもなく、おさんは追っ手に動揺し、追っ手は振り切れないと心中を決意する。

有名な水上での小舟のシーンは彼岸の美しさだ。琵琶湖での入水直前の茂兵衛がおさんへ想いを告白し、おさんが「死ぬのは嫌や。生きていたい」ときっぱりとした生への希求へ転換する。

そして追っ手のかかる中、展望のみえない逃避行が続けられることになる。


恋愛というものが魅力的なのは、それが社会制度(当時の封建的身分制度)やしがらみを打破するような破壊力を持ちうるからだ。

このまま不義密通の嫌疑事件がなかったとして、おさんと茂兵衛の人生が「幸せ」であったかといえばそうは思わない。

おさんは厄介な実家を抱え、お金の引け目で弱い立場だし、茂兵衛は手代という奉公人の立場であり、出世したにしても身を粉にしてお店のため働くだけの人生だったろう。

2人とも、個人の幸福を追求するなどということは人生でついぞなかった可能性が高い。

しかし2人は、ひょんなことから、自らの意思で恋愛という「我儘」を押し通すことになる。

2人は茂兵衛の実家に逃れたものの、おさんは追手に捕まり、連れ戻される。

茂兵衛は捕えられたが逃げ出し(逃がした茂兵衛の父親は多分殺されただろう)、おさんのもとに向かう。

おさんの実家の場面は、母と兄がエゴ丸出しという意味でなかなかの名場面だと思う。
おさんの母と兄はとにかく婚家に戻るよう、激しく責めたてる。もともと、こんな事態を招いた発端は、母と兄の度重なる金の無心なわけだが、そこに言及はしない。
「帰れ」と吠える兄は正直者だ。おさんの母の説得がありがちでリアルだ。

「おっかはん、あんたの気持ち、よーお分かりまっせ」
どう分かってるんだ???
「大経師(おさんの婚家)や岐阜屋(おさんの実家)のためを思うて言うのと違いまっせ。大経師に帰ることが一番あんたの身のためやと思う」

これははっきり大嘘だ。正しくは「わてらのためにお願いだから帰ってくれ」だ。しかし、これと同じような台詞を聞いたことのある人も、言ったことのある人も、沢山いるだろう。「自分の都合のために他人に我慢を強いる」ことはなかなかあからさまに言えない。そして真っ赤な偽善が登場する。自己の保身のためなら、こんな台詞も真顔で言ってしまえるのだ。人間は。

そこへ茂兵衛がやってくる。再会した2人は、おさんの母の説得にもかかわらず、別れることをきっぱり拒む。
おさんは、実家のために生きる人身御供的な人生を拒むのだ。

そして不義密通の罪で市中引き回しの上、磔となることすら甘受する。
最後、2人は罪人として馬上にあっても晴れ晴れした顔で刑場に向かう。  


1954年のこの映画にある価値観は、江戸時代のものではなく、近代のものだ。
「個人が幸福を追求することをきっぱり肯定する」というメッセージが明らかで、私はこの作品がとても好きだ。


しかし、この映画を観終わったとき私は怒りさえ感じていた。何に?
茂兵衛役の長谷川一夫に。

まず、最初の登場シーンで「げげっ」と思ってしまった。
茂兵衛初登場は、「どうしても茂兵衛でないとあかん」という客がきた、と呼ばれて、病床から茂兵衛が起き上がるシーンである。茂兵衛は働き者の手代という設定のはずなのに、茂兵衛が起き上がった瞬間、「いや、この人、相当祇園で遊んでるでしょ。なにこのしたたるような色気」と思ってしまった。どうみても「貧しい山奥出身で丁稚奉公からたたき上げた働き者の手代」じゃない。

とにかく全編を通じて、長谷川一夫は、「自分をどう美しくみせるか」ということに注力している。
その意味では確かにプロである。一つ一つの所作も実に美しい。

しかし「作品や役を理解して表現する」という発想は彼にはない。

ラストシーンに至っては、引き回されている2人を仰ぎ見るかつての同じお店の奉公人の「お家さんのあんな明るいお顔を見たことがない。茂兵衛さんも、晴れ晴れした顔色で。ほんまに、これから死なはるんやろか」という台詞の後、馬上の茂兵衛の顔が映されるのだが、茂兵衛の顔は伏し目がちでちっとも晴れ晴れしていない。むしろドナドナだ。

どれだけ台本無視。

仮にラストの台詞がなくて長谷川のあの表情で終わったとしたら「おさんの恋情という狂気にひきずられた哀れな茂兵衛。ファムファタルにより破滅させられた男の物語」になってしまう。

それはそれでありな作品だ。
しかし台詞とそれに対応する表情がまったく違うというのは無しだろう。

私としては「折角の名作なのに。茂兵衛役が長谷川一夫なことで残念な作品に」と思ってしまったのだ。

「大人の事情」を考えると長谷川一夫の振る舞いは正しいのかもしれない。

二枚目スター長谷川一夫の起用は、社長命令で決まっていたことだったという。

映画は膨大な製作費がかかる。興行的に失敗することは極力避けたい。
集客したいからこそスターである長谷川一夫を起用したわけだ。
そして長谷川一夫ファンの女性達は当然「かっこよくて色気のしたたるような二枚目の長谷川一夫」を期待している。
むしろ、台本に忠実に「素朴で働き者の茂兵衛」を演じたら、期待に肩すかしを食わされた長谷川ファンから大ブーイングをくらっただろう。

茂兵衛という役を設定に忠実に表現するメリットは、長谷川一夫にも映画会社にもなかった。

自分に求められている役割は何かということを長谷川一夫は正確に知っていたし、それは溝口健二監督も同様だっただろう。

そう思うと、監督の意図ガン無視であっても長谷川一夫は正しい。

でも。

私は溝口健二監督が妥協なく撮った「近松物語」を観たかった。茂兵衛役はちゃんと「茂兵衛」であって欲しかった。そして、最後は晴れ晴れとこの世のしがらみから解放され、突き抜けた、ある意味での勝者であって欲しかった。
客観的に状況をみれば、2人はおさんの嫁ぎ先の商家を取り潰して借金をチャラにしたい、また、今ある利権を簒奪したい者どもの思惑にまんまと利用されて、さらし者にされ磔になる哀れな弱者である。
しかし、2人の主観としては違う。2人は例え社会の秩序を壊そうとも、周囲を破壊しようとも、己の意志を貫き「生きた」のだ、というコントラストがちゃんとみたかった。

未練がましくそう思ってしまう。
http://d.hatena.ne.jp/falken1880/20130907

▲△▽▼

溝口健二の1951年の映画に『お遊さま』というのがある。これは谷崎の『蘆刈』を映画化したものなのだが、あまり有名な作品ではない。確かにところどころ、溝口らしいきれいなカットはあるのだが、そこまで目を引くようなものがないのだ。これはどうもキャスティングによるところが多いような気がする。お遊を演じるのは田中絹代、おしずは乙羽信子である。有体に言ってしまえば、この映画の中で圧倒的な存在感を放たなくてはいけないはずの田中絹代が乙羽信子に喰われかけてしまっているのだ。

 そうした役者のパワーバランスを考慮してのことかどうかは知らないが、脚本はそこそこ大きな原作からの改変が施されている。映画はおしずと慎之助のお見合いの場面から始まる。そこで慎之助はお遊を見初める。原作にあった枠構造は取り払われているのだが、これは大きな問題ではない。問題はその後で、おしずと慎之助が仮の結婚をしたところからなのだが、ここでクローズアップされるのはお遊、おしず、慎之助の奇妙な関係の方ではなく、「忍ぶ女」としてのおしずなのである。自分を犠牲にしてお遊と慎之助の幸せを願う健気な女としておしずは描かれる。このようなおしずの態度にほだされて慎之助はおしずとの子どもを作る。しかし、おしずは慎之助との子どもを出産する際に、なんとも涙ぐましい感じで死んでしまう。その子供を慎之助がお遊の元へ届けるというところで物語が終わる。映画の後半部ではお遊は半ば退場したも同然となってしまうのだ。たしかにこのようなおしずの新解釈には見るところもあって、興味深かったのだが、全体を通してみるとちぐはぐな印象は避けられない。

 田中絹代は当時四十代前半で、前年に作られた木下惠介の『婚約指環』に出演した際には「老醜」という誹りさえも受けていたらしい。さらにその数年後に作られる『山椒大夫』(1954)では老婆の役 をこなしているくらいなので決して、1951年当時若かったとはいえない。しかし、『お遊さま』におけるキャスティングの微妙さは、彼女の年齢からくるものではない。少なくとも『お遊さま』での田中絹代は年齢を感じさせる容姿、雰囲気はしておらず、乙羽信子と姉妹だという設定にも無理はない。田中絹代にはお遊が持つ浮世離れしたような雰囲気を作ることが出来なかったのだ。

 田中絹代はなんだかヴィヴィアン・リーに似ているような気がして、それは顔の造形が似ているという意味ではなくて、作品の中でのオーラというか立ち位置が似ているということがいいたいのだけれど、二人ともいってみれば強い女性であったり、汚れ役をするのが上手い。ヴィヴィアン・リーも『アンナ・カレーニナ』は全然良いとは思わなかったけれども、『欲望という名の電車』や『風と共に去りぬ』は素晴らしい。田中絹代も『夜の女たち』や『西鶴一代女』はよい。これってつまりは世間の一般的な評価と全く同じで、なんら特別なことや真新しいことは言っていないのだが、観たところそうなのだから仕方がない。

 そういうことで田中絹代を先頭に立てて発進した企画が、途中で、今が旬の乙羽信子を中心にしたものにシフトしていったという経緯を考えてみることもできよう。

 溝口健二が田中絹代に対して恋心を抱いていたというのは有名な話で、この時どうだったのかはよくわからないけれども、ものの本に田中絹代の次のようなエピソードが書いてあった。『溝口健二の世界』の著者、佐藤忠男は国際近代美術フィルムミュージアムの「田中絹代特集」の『お遊さま』の回において田中絹代と会った。そこで田中絹代は『お遊さま』について次のように語る。引用してみよう。

じつはこの映画、この特集のはじめのプランには入っておりませんでしたの。それをわたしがとくにお願いして入れていただきました。この映画を撮ったとき、溝口先生がこうおっしゃったのです。君ももう年で、若くてきれいな役はもうこなくなる。だからぼくが、さいごに君のいちばんきれいな映画をとってあげよう……って (佐藤忠男『溝口健二の世界』平凡社、2006年、422頁)

 なんとも美しい話ではあるが、田中絹代はこの中途半端な作りの映画に納得していたのだろうか。

 そしてここからは完全に僕の邪推なのだけれども、溝口はこの時、谷崎的な「蘭たけた女性」というものを上手く表現できなかったことを後悔して、後にもう一度同じ題材で映画を撮り直したのではないだろうか。その作品というのが1954年の『近松物語』だ。この頃の溝口は乗りにのっていた。『西鶴一代女』、『雨月物語』、『山椒大夫』という傑作をヴェネチア国際映画賞に送りこみ、三年連続入賞させるという稀なことを成していた。『近松物語』は近松門左衛門の『大経師昔暦』を下敷きにした戯曲『おさん茂兵衛』の映画化である。ヒロインのおさんを演じているのは香川京子なのだが、これは非常に当たり役であり、この映画自体は谷崎の作品とは全く関係はないにもかかわらず、谷崎作品のヒロイン像を体現しているかのようである。

 『近松物語』の時代設定は不義密通が極刑となっていた江戸時代。ヒロインのおさんは暦の販売を独占して富を築いていた大経師の御寮人である。卑しからぬ家の出ではあるが、家が零落してしまったために、大経師の元へ嫁に出されていた。しかし、大経師はおさんを遊ばせるだけ遊ばせておいて、自分は下女に手を出している。このあたりの境遇もお遊に似ている。そしてある手違いからおさんは手代の茂兵衛と不義密通の疑いをかけられてしまう。二人で逃避行をしているうちに、本当に通じ合ってしまう、というのが『近松物語』の大きな筋立てだ。

 茂兵衛がかねてから抱いていた恋慕の思いを聞き、心中を嫌がるさまであったり、山中を逃避行するうちに、足をくじいてしまい、茂兵衛の肩を借りているという状況であるのに、一緒に過ごすことが出来て人生で一番楽しいと言ってしまう少しずれたところだったり、おさんの身を案じて一人出頭をしようとして姿を隠した茂兵衛のことを追いかけて叱責をするさまであったりと、香川京子の演じるおさんの行動すべてが雅でやんごとないのだが、そこには谷崎が描く女性像に通ずるものがある。身を隠していた茂兵衛におさんが縋り付くという場面があるのだが、そこで茂兵衛はおさんの怪我した足に接吻を繰り返す。そうしたところもなんだか谷崎らしい。そして『近松物語』で最も美しいシーンの一つに琵琶湖でおさんと茂兵衛が心中をしようとするというものがあるのだが、ここはなんだか『蘆刈』に描かれた山崎を思い出させる。

 そういった感じで、なにかと『近松物語』に、僕は『蘆刈』と『お遊さま』の影をみてしまう。『近松物語』が『お遊さま』の作り直しだという考えは、繰り返すけれども僕の勝手な推測で、何の根拠もないのだけれども、とにかく『近松物語』はよい作品である。
http://ittaigennjitu.blog.fc2.com/blog-entry-31.html

▲△▽▼

溝口健二作品「近松物語」で、私、内弟子助監督がした仕事
 平成20年1月 宮嶋八蔵
http://katsu85.sakura.ne.jp/chikamatu.html

1.近松門左衛門のこと

江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作者。本名、杉森信森。平安堂・巣林子(そうりんし)
 などと号。越前の人。歌舞伎では阪田藤十郎と浄瑠璃では竹本義太夫と提携。竹本座の座付作者。狂言本二十数編、浄瑠璃百数十曲を作り、義理人情の葛藤を題材に人の心の美しさを描いた。作「出世景清」「国性爺合戦」「曽根崎心中」「心中天の網島」「女殺油地獄」「傾城(けいせい…遊女の事)仏の原」など。(1658〜1724)

2.制作1954年11月

3.制作意図封建社会の過酷な制度の下に、愛情を契機として、人間性の自覚を獲得したものが、死を以って償わねばならなかった、悲劇を描き、現在に対する示唆とした。

4.映像の説明に入る前に溝口組の映画「近松物語」の制作順序を紹介します。

「近松物語スタッフルーム」前の宮嶋八蔵 


参考資料料 宮嶋八蔵のノートメモより】


1)参考資料  

  @日本風俗図会A大日本交通史・駅停史考 B刑罰珍書集 C都名所図会 D近松名作集E変態刑罰史・拷問・拷問刑罰史 F日本女装 神坂雪佳編全7巻 明治39年発行G淀川両岸一覧 4冊本 文久元年刊など H嬉遊笑覧 I浮世絵 J古燈器大観  

Kその他

   下のは宮嶋八蔵のノートメモ

4)台本の中身を紹介します。

5) 「近松物語」 仕出し参考・その他

 @この時代の扮装テストの参考に使用したものです。
 宮嶋八蔵が資料作成したもの (トレーシング・ペーパーへ参考の絵を全て手書きで写しとって青写真に仕上げたもの) 日本風俗図会他より。

 @ 日本女装   
この時代の扮装テストの参考に使用したものです。

A 手ぬぐいの被り物と頭巾
   
  ◆以下の図会もすべてこのように宮嶋八蔵が参考資料から書き写したものです。

 手ぬぐいは別名「三尺」と言われ端につけた紐を腹の前で結ぶ。垂れた三尺を股に挟んで紐の中を通して前へ垂らすと越中ふんどしとなる。広げた三尺二枚を背中に掛けて平たいタスキのように胸の近くで四隅を結ぶと手ぬぐい襦袢となる。この時代からあったものですが、伊藤大輔監督の「王将」の中で阪田三吉に手ぬぐい襦袢を着せています。そちらの資料の発端は、「喜田川守定著の近世風俗史・原名守定漫稿」にも載っています.・・・ちょつと横道にそれました。

B 被り物・頭上運搬

C この時代の上流階級女性の髪形

 この時代の上流階級の女性の髪型は、日本髪の後方に張り出た部分(タボ)が特にぐっと大きく長いのです。このした二つ目の男性の髷が立っているのは床乱れの洒落でしょう。3


D 仕出しなど京都町人、庶民風俗


E 扮装テストの写真

                   このようにして、扮装テストの写真を全部撮るのです

2) 大経師とは

 絵巻・仏画などを表具した経師の長で、宮廷の御用をつとめたもの、奈良の幸徳井氏・加茂氏より新暦を受けて大経師暦を発行する特権を与えられた。

 @・暦は一般庶民の生活設計の基本となっていました。これを見本として使いました。


12    参考にした暦の表と中身の一部 このドラマの時代のものではない。


 A・そしてこれを映画用に作ったのが下の暦です。13

 B・朝日新聞社から2007年5月に発行された国際シンポジウム溝口健二、没後50年「MIZOGUTHI2006」の記録 の53ページで阿部和重氏(小説家・映画批評家)は近松物語の冒頭の場面について「大経師の屋敷のなかを見ていくと、画面の中に障子戸がたくさん出てきます。茂兵衛を演じている長谷川一夫が屋根裏のようなところで作業しているのですが、そこには格子戸がバーっといっぱい置いてあって彼が障子を貼っています。その障子を…」と話されていますが、先ほど述べましたように大経師は絵巻・仏画などを表具した経師の長で、茂兵衛はそこの手代職人ですから表具の仕事はしても障子貼りなどはしないのです。それは下女中の仕事です。
 映画の場面は表具をしているのです。

4) この写真は前にも紹介したものですが、撮影準備にかかる前の監督と主役の初顔合わせのスナップです。これを見て皆さんも感じられることでしょうが、二人とも同じようにこの仕事を一緒にするのが嫌で視線も合わさず嫌な思いが顔立ちにも現れていると思われるでしょう。そんな雰囲気の中で近松物語の仕事の準備は始まりました。
 5)先に紹介しましたような資料、その他参考の写真などで「近松物語スタッフルーム」は図書館のように埋まるのです。
その資料から必要なものをトレースして青写真に仕上げて衣装部、小道具、美粧部、結髪部、俳優部、録音部、撮影部、と各裏方に配ります。
セット飾りと全出役の持ち道具、被り物は小道具の仕事です。他所の組では美術部の責任ですが、溝口組の助監督は美術部にも注文を出せねばなりません。普通チーフは考証の仕事には直接タッチする事は少なくセカンドは特報、予告編、サードとフォースが考証の主体となります。
 6)
@香盤が出来てロケーションハンチングを、している間にチーフ以外の助監督はズラ合わせ、メーク、衣装合わせの打ち合わせ準備をするのです。
Aいつもの長谷川さんのずらは中剃りがしてあるのに、髷が太いのです。それをリアルに修正してもらう為に土俵に上がる時の力士の髷(大銀杏)でなく、常の力士の顔写真を持って説得に行きました。それと他にその時代の浮世絵なども見せたのです。時代風俗などは考慮せず、スターとしての自分好みのズラから離れてもらうことは大変な事でした。長谷川さんには会社の美粧部ではなく、長谷川さんの思い通りになる長谷川さん個人の美粧、ズラ係りがいたのです。衣装なども自分で選んで居られたのです。先の髷直しに関して写楽の大首の版画を見せたことは、勝田友巳さんの「スクリーンの向こうから 聞き語り 香川京子」  長谷川一夫A編と「団子串刺し式 私の履歴書」 にも述べています。


7)香盤の一部分を紹介 

 ・香盤の名称の由来は、劇場楽屋入口の受付の窓際に小屋にかかっている役者の出勤がわかるように板に俳優さんの名前が羅列してあって、その下に3センチばかりの丸棒を差し込む穴がほってあります。その板の事を香盤と呼びました。そんなところから映画の各シーンによる役者の出る場面の主体として組まれた便利帳のことです。

 場面はロケ、オープンセットに分け場面の名称と季節、朝昼晩の時刻、夫々の場面の芝居の内容、特殊撮影道具、クレーン、移動、効果…雨、雪、スモーク等これ以上の細かい説明はできませんので実際に使ったこの香盤を見て下さい。香盤はサード、フォース、フィフスの若い助監督が書きます。チーフはこれを見て撮影予定表を書きます。チーフには2種類の型の人がいます。現場ほっとけ段取り屋と撮影現場を主体とする作品主義の助監督の2種類あるのです。これについては別の紙面で紹介します。

5.「近松物語」の映像からの説明はシークエンス毎にしていきます。

1)<オープニング>

(1)・仕出しを含めて京都の雰囲気の中に大店の大経師の家の表、セット表の間で大経師の社会的立場、経済 的な位置、暦の独占事業、宮内庁、宮家との関係等を一挙に説明してしまう。これはドラマ構成の定石で あ ります。登場人物(主役)の紹介もすぐに始まります。(2)<大経師屋の茂兵衛>

  ・道喜が妹のおさんに借金を申し込みに来た場面
   2カット目の2人のバストサイズで借金申し込みから又かというのでおさんの座り込みにつけて、道喜も座 る 場面のキャメラポジションは溝口先生が指示されたものです。それを宮川さんのキャメラが心情的に見事 にとらえていました。目の高さ、伏せたポジション、ロウであふったキャメラ位置(俯瞰、目の高さ、ロウポジションは夫々に異なった心理的表現を持つのです。)目の高さはセリフを聞いて見たままの表現。俯瞰で抑えたアングルでは感情がヘナヘナと崩れた感じを表現するのです。これ以外にローポジションであふ って人物を捉えた場合には落ち着いて優美で尊厳を持って自信に溢れたような表現になります。皆さんがご存じの立像や胸像は目の高さより上にあって見る人はそれを仰ぎ見ることになります。
  これらはキャメラアングルを決める1年生ですが早撮りの安物映画ではこんな1年生の事も守られていないのす。

3)大経師の以春 

 (1)構成上の複線となる引き回しの場面は日本刑罰史や日本残酷物語、拷問刑罰史などを参考にしていす。 罪状を書いた紙の大きい旗は捨て札と呼びます。横に並んだ木札は刑場に立てるものです。引き回し関係者は非人、手下と書いて、てかと読みます。非人はさんばら髪で髷は結えません。手下頭は、髷は結えますが黒元結を使わねばなりません。普通の人は白い元結(もっとい)を使います。彼らの総元締めは弾左エ門と言います。 
  
・次に刑場晒し場の夜景は台本になかったところを監督が追加されたものです。処刑は引き回しの時に担いでいた槍を使います。槍を掴む手もとの上に、荒縄を巻くのです。槍先を伝って落ちる血潮のぬめりを防ぐのす。男は股の間の支え棒で開脚の姿勢になります。女は股が開くのを避けてまっすぐのまま十字架に架けられます。処刑係りは、一人の十字架に非人、手下は二人配置されます。罪人の目の前に槍先を掛け声と一緒に「ありゃ、ありゃ、ありゃ」と三度合わせ打つのです。次に両脇から反対の肩先まで槍の穂先が三寸程見えるまで貫くのです。「ありゃ、ありゃ、ありゃ」と掛け声を掛けながら目の前に槍先が合わさった時には罪人はすでに気を失っていたと書かれてありました。(拷問刑罰史)

21_3

    拷問刑罰史より

上図 刑罰珍書集より 
下図 近松名作集・変態刑罰史・都名所図会より書き写す

【写真】 引き回しの写真
j.●この写真は物語のはじめに、おさんが店の者と一緒に見た引き回しの場面です。

 処刑について詳しく述べましたのは、このように一場面といえども溝口組は、調べ物をおろそかにしないのです。調べ物は美術、小道具係ではなく助監督サード以下の仕事なのです。
 調べ物をしていて、このような封建時代の無茶苦茶な人間差別がわかるのです。
 近松物語全体のストーリの悲劇も人間差別から成り立っているのです。

4)おさんの頼み

【写真】   おさんと茂平

・以春が横になっている部屋の襖模様は大胆な刷毛目です。今に伝わる日本だけのモダニズムです。

・茂兵衛の逃げたのを知る夜の場面では、番頭の助右衛門が手燭をもって廊下を来ます。光源は助右衛門が持つ手燭だけでありますが、その動きに従ってその周囲も動くのです。これは照明技師、岡本健一さんの素晴らいリアリズム照明であります。岡本健一さんの照明は細かい1キロライトや手持ちのライトで林のように被写体を囲み助右衛門の動きにつけてその細かいライトも夫々に動かすのです。このような丁寧なリアリズム照明の出来る技師に会った事はありません。宮川キャメラマンと岡本照明技師は仕事についての論争(喧嘩か?)をよくやるのです。私は揉め事と勘違いをして止めに入ろうとした時、溝口先生に腕を掴まれて引き戻されました。暫らくして先生から「あれが本物を作ってくれるのだよ」とポツリと教えて戴いたのです。


 5)東寺の森    

P7・茂兵衛がおさんを担いで河を渡る場面のロケ地は嵐山の東公園です。ライテングの為に助監督がおさんと茂兵衛の代わりのスタンドインをしたのです。先輩助監督の土井茂さんの背中に私は子供が背負われるようにおぶさっていました。本番では長谷川さんは見事に美しく斜め背負いをしたのです。土井助監督と私は思わず「いかれたねぇ。みごとやねぇ。けれどあの抱えはきつい力がいるでぇ。」この場面は一回でOKとなりました。美しさにおいては、長谷川さんの勝。リアリズムの先生もクソリアリズムではないと思いました。どんな芝居でも品位と形の奥にある心情を大切にされる溝口先生の勝でもあります。勝負は五分五分でしょうか。

6)伏見の船宿  

 ・伏見の船宿の行燈(あんどん)は古燈器大観より出しています


7)初暦の祝儀・大経師の奥の座敷

    ●。これは今説明している場面ではありません。十朱さんの紹介として出しました・
     ・鞠小路侍従(十朱久雄さん)の芝居は小返しで何回もテストがされました。振り付けは絶対にしない溝口先生が「あなたは、公卿で生活が膨らんでも、骨とう品や趣味の蔵物を金に換え、それも高い立場から大経師に接しているのです。そう云う立場を声にして下さい。」という注文でしたがうまくいきません。そこで初めて溝口先生の助け船が入りました。先生は自分の頭を二三度指先でこつきながら、「声は、ここから出しているような人もあるのです。言葉は生活習慣の集積ですからねぇ。」十朱さんのセリフと芝居は労働を知らない道楽公卿の類型的表現として演出されたのです。(先生は演出という言葉がお嫌いでした。映画は監督です。詳しく述べますと長くなりますので別項に譲りますが演出らしき指導をされたのはこの時が初めてでした。)


8)お役所の手配り

(1)伏見のまちはずれで役人の検問  

・この映画では長谷川さんのお客に対するサービス的形芝居と溝口先生のリアリズムとの勝負だと云うような気持ちでスタッフ全員が固唾を吞んでいました。長谷川さんのサービス形芝居の例としては、「ねずみ小僧忍び込み控え」では部屋を観察しようとする長谷川(ねずみ小僧)さんが、襖を開けるのに腕を交差させて引き手を両側に押すのです。そして部屋の様子を見廻すのです。その見廻す動きも非常に大きいのです。襖を開けるのに腕を交差させるような動きは普通の人間生活では絶対ありません。これに近いような動きは溝口式リアリズムとは相いれないのです。ここではそれに似たハッと驚く悔しいような心情の時には下唇を噛むというような類型に繋がります。不思議な事に「ねずみ小僧忍び込み控え」も長谷川さんと香川さんが主役でした。樽の陰にいる二人の芝居を見て照明技師の岡本さんが「はっちゃん、茂兵衛でない長谷川さんが出てきたぞ」と話かけられました。


(2)堅田の宿

 ・役所の同心の手先が御用聞きです。御用聞きは、銭形平次も御用聞きと言う事になっていまして、十手なども持っているのですが本当は大嘘です。同心が自分のポッケトマネーで前科者等(闇の世界に詳しい者)を雇っていたのです。お上の役人の象徴である十手等は持てません。これに出てくる伊達三郎君が演ずる堅田の役人がリアルな本当の御用聞きなのです。


(3)琵琶湖  船の中(セット)  

 告白による恋情の爆発

 茂平がおさんと小舟の中で心中しょうとするところ、いまわの水際の恋情の打ち明けでおさんもそれに感動して愛の爆発となる。芝居の動きが激しくなるから船も揺れるだろう、その揺れを助けようと水の中へ入ると監督が腕を掴んで「いらん!」
と言われました。監督は俳優に「君ッ… 茂平ですよッ。形芝居は駄目です!反射して下さい。気持ちが爆発するんだよ!胸が突き当たるんだ!」 NG本番……そして二人は狂気のようにぶつかり抱き合ったまま舟底に転げる。OKとなる。当然舟は抱き合いと転倒の衝撃で強烈に揺れていました。(おさんの方が先に茂平の胸に飛び込んでいたのです。)

  
 9)茂兵衛の決断

 (1)峠の上(鷹ヶ峰ロケ)の茶店におさんを置いて茂兵衛が去る。それに気付いたおさんが追うのですが、長谷川さんの姿はキャメラ位置から見ると豆粒のように小さいのです。普通このように主役が小さくて動きが激しいような場合は吹き替えを使いますが溝口組では使いません。
私は長谷川さんが駆け降りる処のボサの陰に隠れていました。四,五回テストはあったと思います。長谷川さんは私が隠れているボサまで来ると、ハァハァと息を切らせながら「八ちゃん、溝口さんはいっつもこんなふうなんか…。」私はそんなことはないとは言えませんので「ハァ…、こんなものですね…。」と答える以外はありませんでした。
   10)旅路の果て  

11)親不孝者  

・汚い実家の小屋に隠れていた所あたりから省略して飛ばします。茂兵衛の里、おやじさんとの関係等は完全リアリズム演出です。

12)再会

 (1)岐阜屋のはなれ屋敷と庭   

C   ・裏庭の入口は薄暗くて裏庭は離れの光がこぼれている。というようなライテングでした。裏木戸から茂兵衛が羽織を被り物のように頭上を被って入ってくるのです。その時はシルエットのようですが離れ座敷の漏れた灯りの処でパラリと被り物を外します。すると、綺麗な長谷川さんが現れたのです。思わず助監督の土井さんと私が顔を見合わせたのです。「又、長谷川さんが現れた。いかれたねぇ。」あの汚い小屋にいて、山道を歩いて来てこんなに奇麗なはずはありません。茂兵衛がおさんと会う強烈な再会の恋情が爆発するのですが、監督の文句は何もありませんでした。これから後の芝居も音楽も歌舞伎の下座音楽風に変わります。歌舞伎は舞台のホルマリズム芝居にあるものですから、座付作家の近松門左衛門の世界へ入るのです。舞台の板の上の芝居が合うのでしょう。地道のリアリズムから舞台の板の上へ戻ったのです。それに合わせて付拍子も入ります。 


13)不義密通の罪


 (1)烏丸通り 引き回し
  

 ・この時、引き回しを見て大経師の元使用人が語っているセリフを私の台本から移します。台本b40

   ・おかや 「お気の毒に…… どんなお気持ちやろ」
    お蝶   「不思議やなあ……お家さんのあんな明るいお顔を見たことがない。
         茂兵衛さんも、晴れ晴れした顔色で……これが死にゆく人やろうか」
 
  ・この2人の綱掛けもリアリズム(調べた上)非情に残酷に縛りあげられている程2人の握りあう手の愛の喜びが観客の胸を打ってくるのです。顔、頭の作りは2人とも歌舞伎の舞台のような美しさにしてあります。


(2)これが総合録音のダビングリスト

(3)これが総合録音のリストです。一部を紹介します。
25*エンドも作者は近松門左衛門ですから下座の拍子木(木の音)で終わっています。
  (大ラストは歌舞伎の伝統的な様式美の内に終わらせているのです。)

* 追加

・初号試写の後、溝口監督と長谷川さんの2人の顔色には優しいゆとりの笑みがありました。撮影前の初顔合わせのスナップ写真を思い出して下さい。
長谷川さんは、その後溝口さんともう一度仕事がしたいと言われたのを聞いています。
溝口先生もそのような気持ちでいられました。

   ・溝口監督最後の作品になるべき「大阪物語」(この作品の準備中に病気で入院されたのです。)準備の初日に(長谷川一夫さんのお嬢さんである、スター候補のようこさんでしたか「大阪物語で貴方の役を用意してますからよろしく」と溝口先生の伝言をお伝えしました。

    お嬢さんはそれを聞いてキョトンとされていました。
こんな仕事はプロデュウサーの仕事なのですが……。
http://katsu85.sakura.ne.jp/chikamatu.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/161.html

[近代史3] 溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年) 中川隆
5. 中川隆[-12987] koaQ7Jey 2019年1月15日 09:20:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

2002年2月下旬

吉原(東京)
ラテンクォーター みゆき(早川いづみ)

店総合…80点
姫総合…100点
リップ…100点
マット…100点
本気度…100点

2. Posted by はたぼー October 23, 2011 03:28

ラテンクォーターのみゆきさん、 ホントに素敵な女性でした
ちょっとロリ系で

アソコに入れているのかアナルに入れているのか分からなかったなぁ

幸せになっていることを祈ります
http://blog.livedoor.jp/zqy1tomr6o/archives/240240.html#comments

2003年02月04日(火) ある風俗嬢の引退

ある有名風俗嬢が引退した。
ラテンクォーターのみゆきさんという。

もっとも、彼女のことは噂でしか知らない。
インターネットはおろか、店のアルバムにも載っていなかったらしいが、
連日予約で埋まっていたという。
しかも予約は常連客で埋まるため、
新規で彼女にに入ることはよほど運がよくなければ難しいという話しであった。
もっとも情報源が「2ちゃんねる」だから真偽のほどは定かではない。

去年の10月頃だっただろうか、
ラテンクォーターからみゆきさんの先行予約受け付けのお知らせがきた。
詳しくは忘れたが、たしか
「11月1、3、5、7、...、29日の15:00からの枠について、
 10月の某日朝10時から特別に予約を受け付ける」
というものだった。
しかも、電話予約後 3日以内に総額の65000円を店に入金し、
その後 客のキャンセルによる返金は一切なし、という超強気の内容であった。

俺なんぞはこれを見て、1カ月以上先の予定なんぞ誰が分かるか!
いくらなんでもナメすぎじゃねぇか! と思ったが、
予約が非常に困難だと言うのは単なる噂ではなかったようで、
全枠すぐに埋まったらしい。
その後、朝9:00からの枠の追加予約が行なわれ、
12月もやはり同様の先行予約のお知らせがあった。

1日おきに口開けからびっしり埋まっている仕事をかかえ、
しかもその一部は先払いされているのだから、
そのプレッシャーたるや相当のはずである。
彼女に少なからず興味をいだいたが、
いかんせん、店の傍若無人なやり方が気に食わなかった。

そうこうして年は開けて、1月15日、
その店からメールマガジンが届いた。
「新人情報」、「二輪車お奨め情報」等が続いた最後に、
こう付け加えられていた。
少々ためらわれたが、全文、引用する。

◆みゆき退店について◆
当店在籍していました、 みゆき ですが1月15日をもちまして退店いたしました。
退店理由は、寿退店です。
 
・みゆきからのメッセージです

精神的にも肉体的にもとても疲れました。
2月を最後に、引退しようと密かに考えていましたが、
二度と戻らない決心で、本日、引退することになりました。
とてもお世話になってありがとうございました。

私は、婚約しました。
一人の男性につくしていくことに決めました。
本日、連絡先をすべて解約しましたので、
一人一人お伝えできなかったことをお許し下さい。
そして、皆様からのメッセージもお受け取りできないことをお許し下さい。
皆さまと出会えて良かったです。
たくさん可愛がってくれてどうもありがとうございました。

ラテンクォーターを今後ともどうか宜しくお願いします。
ずっと変わらないマイペースなラテンクォーターであり続けてくれるように、
今後は、陰ながら祈っていたいと思います。
ラテンクォーターにお客様たちを残していきたいです。
これが、私にできる最後のお仕事です。
お店の方、みゆきのお客様たちをどうか宜しくお願いします。
みゆきのお客様たちがが、ラテンクォーターで素敵な女の子と出会えてくれることを 願ってます。

お世話になりました。
みゆき

今まで応援して頂きまして本当に有難う御座いました。

真実は知るべくもないが、
上の文章が単なる上っ面の言葉だけでないことは間違いない。

実際に彼女に入ったことのある人はどう感じているのかと思い、
2ちゃんねるのスレをのぞいてみた。
すると、

501 :名無しさん@入浴中 :03/01/15 22:18 ID:01tjgyL4
   たった今、心にぽっかり穴があきますた。

を皮切りに、(以下少々長いが、2ちゃんねるから引用)

504 :名無しさん@入浴中 :03/01/15 23:18 ID:NMbLOu0z
   みゆき引退だな。。。。。

505 :名無しさん@入浴中 :03/01/15 23:30 ID:01tjgyL4
   ダンナを頃してみゆきを吉原に呼び戻せ!俺のストーキングの成果を見よ!
   ・・・なんていう奴が出ませんように。

506 :名無しさん@入浴中 :03/01/15 23:47 ID:cJMsOQ/Z
   みゆきを獲得した男がうらやますい〜
   毎晩あの激しいSEXを独占か〜

   伝説のNO.1が寿引退・・・・ラテンにぽっかり穴が空いたな
   携帯も解約済みの上、メルマガ流してくれたよな
   綺麗に去ってくれてありがと
   さみしいけど幸せをねがってるよ

   みゆきちゃん、ありがとう!!
   おつかれさま

508 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 03:21 ID:mo86WZaI
   みゆきさま〜!!

509 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 08:12 ID:Lmg2S/OW
   >>506

   店のメルマガ目を通して無かったよ。貴方のおかげで引退を知りました。
   ガ〜〜〜〜〜〜〜ン

   あ〜〜〜あ お気に入り姫いなくなっちゃったな。
   二度とラテンに行くことも無いだろう。
   ただ以前みたいに、寿退店がカモフラージュであって欲しいと願ってるが
   鯖落までしてるんだから本当だろうなぁ… ガックシ

510 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 08:27 ID:s6fPVV1j
   みゆき以上の姫いないよ
   仕事も手につかない

511 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 08:46 ID:Lmg2S/OW
   >>509

   同感です。
   あれだけ気を使ってくれてお客の事考えてくれる姫はいなかったなぁ。
   婚約者って客だったんだろうか?
   不謹慎だが解消されてカンバックして欲しいと思う反面
   幸せにと思う事半々だな。
   あ〜〜〜〜〜あ ワイン風呂良かったなぁ。

512 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 08:51 ID:Lmg2S/OW
   それにしても 引退記事 メルマガの一番上に明記すべきだよ。
   ラテンにとっちゃ大大問題だったのに。
   あんなに下じゃみゆきの顧客は見ねぇ〜って。
   去年の先行予約とか何だったんだろうなぁ〜 新規顧客の掘り起こしか?
   店側から辞める前に顧客を開拓してくれとでも言われてたのかな?
     みゆきの顧客は増えるが
   店の顧客は増えねぇのに。。。

513 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 10:04 ID:G0Gz75ku
   客をみんな差別なく大切にしてくれた姫だからこそ
   あれだけの顧客を維持できたんだと思うよ。
   客だけでなく、店の事や在籍姫のことまでいつも気にかけていた。
   先行予約は決してただの新規開拓なんかじゃなかったよ。
   ラテン話題を売る為に自ら考えた手段だったんだよ。
   自分が叩かれても店に話題を呼んであげようと必死に考えていたよ。
   自身の羽を自ら織って影で支えた偉大な人だった。

514 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 10:24 ID:Lmg2S/OW
   >>513

   そう言えばいつも店が流行って欲しいみたいな事言ってたけ…
   おおお マジで鶴の恩返しみたいだったかも。
   でも、俺には休暇だと言ってた(他のお客は知らないけど)
   せめて真実言ってもらえれば
   お別れにもう1回会いに行ったのに… 残念。
   随分お世話になったから余計にそう感じるよ。

515 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 10:25 ID:Lmg2S/OW
   まるで通夜で思い出を語り合ってるみたいだな(W

516 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 10:45 ID:knIDc3a3
   いやー客に軽々と引退を話す姫じゃなかろう
   誰にも告げず店に客を残す みゆきさんらしいよ
   もういなくなるよ〜という行動はとっていたよな
   言葉で告げないけど、
   持ち部屋の荷物片付けることで客に伝えようとしてくれたんじゃないの
   綺麗な終わりだった

517 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 11:48 ID:Lmg2S/OW
   これでラテンの顧客300人前後減るんだろうなぁ少し心配だ。

   お店としては出来る限り辞めて欲しくなかったんだろうけど。
   最後の方は見ていて少し辛そうだったからしょうがないな。

と続いていた。
みゆきさんがどんな女性であったのか、
また彼女の引退で客がどう感じているかが伺い知れる。
噂のかたまり「2ちゃんねる」といえども、
どれが本当でどれがウソかは分かるものだ。

風俗はもちろん時間から時間までの遊びである。
しかし、人と人とのふれ合いである以上、
分かっていてもそう単純に割り切れないところがあるのだ。
自分の経験とダブって見えて、切なさを禁じえない。
しかし、たとえ馴染みの女の子が去り、心に吹き荒ぶ荒野が広がったとしても、
気がつけばチンポは再びおっ立っているのだ。
それが男である。
たくましく生きねばならない。
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/month?id=42702&pg=200302

January 29, 2007
ラテンクォーター みゆき(早川いづみ)

もう上がっちまったが姫だが、ラテンのみゆきは慶応卒だったらしい。

真偽の程は別として、100人を悠に越える常連の
予約を公平に受け、さばくため、貸切はおろか、Wすら受けずに
一休一勤の全コマを一月先まで常に売り切っていた、伝説の嬢だ。

パスワードを知ることの出来た幸運な常連は、
直接個人HPで予約状況を確認し、彼女にメールで予約を入れる。

一時期店に管理を任せたが、ダブルブッキングなどのトラブルが発生した為、
以降引退まで全ての予約は彼女が完璧に個人管理した。

予約の前日、すなわち公休日には
明日の確認メールを各常連宛に、逢瀬を期待させる一言を添えて個別に送る。

逢瀬の後には決して次をねだらぬトーンで、
かつ逢いに行った男の自尊心を確実に満たしてくれる丁寧な礼が届く。

11月の解禁日以降はヴィラージュヌーボを自費で仕入れ、
訪れる客全てに振る舞い、
クリスマスには個別のメッセージを
少ない休みの時間を削ってグリーティングカード形式のメールで
百数十人の顧客全てに送る。

決して饒舌ではないが、何より多くを語る眼差しに込められた気持ちは
うたかたの逢瀬の間は、全ての客にとって真実だった。

最後のメリークリスマスを通った回数の多寡に関わらず
連絡先のわかる全ての客に送り終えた後、
年が変わり彼女の出勤は突然途絶えた。

一月余りの後、店のHPに引退を告げるメッセージと
個人HP を閉鎖しメールアドレスを無効にする事の詫びを残し、
彼女はこの世界から完全に姿を消した。

見事な引き際だった。
http://blog.livedoor.jp/zqy1tomr6o/archives/240240.html


泡姫の人気は容姿と全然関係無いみたいですね。

溝口健二のヨーロッパでの人気も日本人にはわからないだけなんでしょうね。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/159.html#c5

[近代史3] 溝口健二 お遊さま(大映 1951年) 中川隆
4. 中川隆[-12986] koaQ7Jey 2019年1月15日 09:21:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]


2002年2月下旬

吉原(東京)
ラテンクォーター みゆき(早川いづみ)

店総合…80点
姫総合…100点
リップ…100点
マット…100点
本気度…100点

2. Posted by はたぼー October 23, 2011 03:28

ラテンクォーターのみゆきさん、 ホントに素敵な女性でした
ちょっとロリ系で

アソコに入れているのかアナルに入れているのか分からなかったなぁ

幸せになっていることを祈ります
http://blog.livedoor.jp/zqy1tomr6o/archives/240240.html#comments

2003年02月04日(火) ある風俗嬢の引退

ある有名風俗嬢が引退した。
ラテンクォーターのみゆきさんという。

もっとも、彼女のことは噂でしか知らない。
インターネットはおろか、店のアルバムにも載っていなかったらしいが、
連日予約で埋まっていたという。
しかも予約は常連客で埋まるため、
新規で彼女にに入ることはよほど運がよくなければ難しいという話しであった。
もっとも情報源が「2ちゃんねる」だから真偽のほどは定かではない。

去年の10月頃だっただろうか、
ラテンクォーターからみゆきさんの先行予約受け付けのお知らせがきた。
詳しくは忘れたが、たしか
「11月1、3、5、7、...、29日の15:00からの枠について、
 10月の某日朝10時から特別に予約を受け付ける」
というものだった。
しかも、電話予約後 3日以内に総額の65000円を店に入金し、
その後 客のキャンセルによる返金は一切なし、という超強気の内容であった。

俺なんぞはこれを見て、1カ月以上先の予定なんぞ誰が分かるか!
いくらなんでもナメすぎじゃねぇか! と思ったが、
予約が非常に困難だと言うのは単なる噂ではなかったようで、
全枠すぐに埋まったらしい。
その後、朝9:00からの枠の追加予約が行なわれ、
12月もやはり同様の先行予約のお知らせがあった。

1日おきに口開けからびっしり埋まっている仕事をかかえ、
しかもその一部は先払いされているのだから、
そのプレッシャーたるや相当のはずである。
彼女に少なからず興味をいだいたが、
いかんせん、店の傍若無人なやり方が気に食わなかった。

そうこうして年は開けて、1月15日、
その店からメールマガジンが届いた。
「新人情報」、「二輪車お奨め情報」等が続いた最後に、
こう付け加えられていた。
少々ためらわれたが、全文、引用する。

◆みゆき退店について◆
当店在籍していました、 みゆき ですが1月15日をもちまして退店いたしました。
退店理由は、寿退店です。
 
・みゆきからのメッセージです

精神的にも肉体的にもとても疲れました。
2月を最後に、引退しようと密かに考えていましたが、
二度と戻らない決心で、本日、引退することになりました。
とてもお世話になってありがとうございました。

私は、婚約しました。
一人の男性につくしていくことに決めました。
本日、連絡先をすべて解約しましたので、
一人一人お伝えできなかったことをお許し下さい。
そして、皆様からのメッセージもお受け取りできないことをお許し下さい。
皆さまと出会えて良かったです。
たくさん可愛がってくれてどうもありがとうございました。

ラテンクォーターを今後ともどうか宜しくお願いします。
ずっと変わらないマイペースなラテンクォーターであり続けてくれるように、
今後は、陰ながら祈っていたいと思います。
ラテンクォーターにお客様たちを残していきたいです。
これが、私にできる最後のお仕事です。
お店の方、みゆきのお客様たちをどうか宜しくお願いします。
みゆきのお客様たちがが、ラテンクォーターで素敵な女の子と出会えてくれることを 願ってます。

お世話になりました。
みゆき

今まで応援して頂きまして本当に有難う御座いました。

真実は知るべくもないが、
上の文章が単なる上っ面の言葉だけでないことは間違いない。

実際に彼女に入ったことのある人はどう感じているのかと思い、
2ちゃんねるのスレをのぞいてみた。
すると、

501 :名無しさん@入浴中 :03/01/15 22:18 ID:01tjgyL4
   たった今、心にぽっかり穴があきますた。

を皮切りに、(以下少々長いが、2ちゃんねるから引用)

504 :名無しさん@入浴中 :03/01/15 23:18 ID:NMbLOu0z
   みゆき引退だな。。。。。

505 :名無しさん@入浴中 :03/01/15 23:30 ID:01tjgyL4
   ダンナを頃してみゆきを吉原に呼び戻せ!俺のストーキングの成果を見よ!
   ・・・なんていう奴が出ませんように。

506 :名無しさん@入浴中 :03/01/15 23:47 ID:cJMsOQ/Z
   みゆきを獲得した男がうらやますい〜
   毎晩あの激しいSEXを独占か〜

   伝説のNO.1が寿引退・・・・ラテンにぽっかり穴が空いたな
   携帯も解約済みの上、メルマガ流してくれたよな
   綺麗に去ってくれてありがと
   さみしいけど幸せをねがってるよ

   みゆきちゃん、ありがとう!!
   おつかれさま

508 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 03:21 ID:mo86WZaI
   みゆきさま〜!!

509 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 08:12 ID:Lmg2S/OW
   >>506

   店のメルマガ目を通して無かったよ。貴方のおかげで引退を知りました。
   ガ〜〜〜〜〜〜〜ン

   あ〜〜〜あ お気に入り姫いなくなっちゃったな。
   二度とラテンに行くことも無いだろう。
   ただ以前みたいに、寿退店がカモフラージュであって欲しいと願ってるが
   鯖落までしてるんだから本当だろうなぁ… ガックシ

510 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 08:27 ID:s6fPVV1j
   みゆき以上の姫いないよ
   仕事も手につかない

511 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 08:46 ID:Lmg2S/OW
   >>509

   同感です。
   あれだけ気を使ってくれてお客の事考えてくれる姫はいなかったなぁ。
   婚約者って客だったんだろうか?
   不謹慎だが解消されてカンバックして欲しいと思う反面
   幸せにと思う事半々だな。
   あ〜〜〜〜〜あ ワイン風呂良かったなぁ。

512 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 08:51 ID:Lmg2S/OW
   それにしても 引退記事 メルマガの一番上に明記すべきだよ。
   ラテンにとっちゃ大大問題だったのに。
   あんなに下じゃみゆきの顧客は見ねぇ〜って。
   去年の先行予約とか何だったんだろうなぁ〜 新規顧客の掘り起こしか?
   店側から辞める前に顧客を開拓してくれとでも言われてたのかな?
     みゆきの顧客は増えるが
   店の顧客は増えねぇのに。。。

513 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 10:04 ID:G0Gz75ku
   客をみんな差別なく大切にしてくれた姫だからこそ
   あれだけの顧客を維持できたんだと思うよ。
   客だけでなく、店の事や在籍姫のことまでいつも気にかけていた。
   先行予約は決してただの新規開拓なんかじゃなかったよ。
   ラテン話題を売る為に自ら考えた手段だったんだよ。
   自分が叩かれても店に話題を呼んであげようと必死に考えていたよ。
   自身の羽を自ら織って影で支えた偉大な人だった。

514 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 10:24 ID:Lmg2S/OW
   >>513

   そう言えばいつも店が流行って欲しいみたいな事言ってたけ…
   おおお マジで鶴の恩返しみたいだったかも。
   でも、俺には休暇だと言ってた(他のお客は知らないけど)
   せめて真実言ってもらえれば
   お別れにもう1回会いに行ったのに… 残念。
   随分お世話になったから余計にそう感じるよ。

515 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 10:25 ID:Lmg2S/OW
   まるで通夜で思い出を語り合ってるみたいだな(W

516 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 10:45 ID:knIDc3a3
   いやー客に軽々と引退を話す姫じゃなかろう
   誰にも告げず店に客を残す みゆきさんらしいよ
   もういなくなるよ〜という行動はとっていたよな
   言葉で告げないけど、
   持ち部屋の荷物片付けることで客に伝えようとしてくれたんじゃないの
   綺麗な終わりだった

517 :名無しさん@入浴中 :03/01/16 11:48 ID:Lmg2S/OW
   これでラテンの顧客300人前後減るんだろうなぁ少し心配だ。

   お店としては出来る限り辞めて欲しくなかったんだろうけど。
   最後の方は見ていて少し辛そうだったからしょうがないな。

と続いていた。
みゆきさんがどんな女性であったのか、
また彼女の引退で客がどう感じているかが伺い知れる。
噂のかたまり「2ちゃんねる」といえども、
どれが本当でどれがウソかは分かるものだ。

風俗はもちろん時間から時間までの遊びである。
しかし、人と人とのふれ合いである以上、
分かっていてもそう単純に割り切れないところがあるのだ。
自分の経験とダブって見えて、切なさを禁じえない。
しかし、たとえ馴染みの女の子が去り、心に吹き荒ぶ荒野が広がったとしても、
気がつけばチンポは再びおっ立っているのだ。
それが男である。
たくましく生きねばならない。
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/month?id=42702&pg=200302

January 29, 2007
ラテンクォーター みゆき(早川いづみ)

もう上がっちまったが姫だが、ラテンのみゆきは慶応卒だったらしい。

真偽の程は別として、100人を悠に越える常連の
予約を公平に受け、さばくため、貸切はおろか、Wすら受けずに
一休一勤の全コマを一月先まで常に売り切っていた、伝説の嬢だ。

パスワードを知ることの出来た幸運な常連は、
直接個人HPで予約状況を確認し、彼女にメールで予約を入れる。

一時期店に管理を任せたが、ダブルブッキングなどのトラブルが発生した為、
以降引退まで全ての予約は彼女が完璧に個人管理した。

予約の前日、すなわち公休日には
明日の確認メールを各常連宛に、逢瀬を期待させる一言を添えて個別に送る。

逢瀬の後には決して次をねだらぬトーンで、
かつ逢いに行った男の自尊心を確実に満たしてくれる丁寧な礼が届く。

11月の解禁日以降はヴィラージュヌーボを自費で仕入れ、
訪れる客全てに振る舞い、
クリスマスには個別のメッセージを
少ない休みの時間を削ってグリーティングカード形式のメールで
百数十人の顧客全てに送る。

決して饒舌ではないが、何より多くを語る眼差しに込められた気持ちは
うたかたの逢瀬の間は、全ての客にとって真実だった。

最後のメリークリスマスを通った回数の多寡に関わらず
連絡先のわかる全ての客に送り終えた後、
年が変わり彼女の出勤は突然途絶えた。

一月余りの後、店のHPに引退を告げるメッセージと
個人HP を閉鎖しメールアドレスを無効にする事の詫びを残し、
彼女はこの世界から完全に姿を消した。

見事な引き際だった。
http://blog.livedoor.jp/zqy1tomr6o/archives/240240.html


泡姫の人気は容姿と全然関係無いみたいですね。

溝口健二のヨーロッパでの人気も日本人にはわからないだけなんでしょうね。


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/160.html#c4

[近代史3] 溝口健二 瀧の白糸(入江プロダクション 1933年)

溝口健二 瀧の白糸(入江プロダクション 1933年)


監督 溝口健二
脚本 東坊城恭長他
原作 泉鏡花 義血侠血
撮影 三木茂
配給 新興キネマ
公開 1933年

動画
https://www.youtube.com/watch?v=eeXJmVOQ0X8
https://www.youtube.com/watch?v=B74VapoUl1o

出演

入江たか子(瀧の白糸=水島友)

岡田時彦(村越欣弥)

村田宏寿(南京出刃打)

菅井一郎(岩淵剛蔵)

見明凡太郎(新蔵)

滝鈴子(撫子)

浦辺粂子(お銀)

溝口健二監督作品。サイレント映画。88分。
5つプリントが現存するが、ラストシーンが欠落したものや、ラストシーンを含むものの欠落や傷が多いものなど、不完全なプリントしか残されていない。このため、フィルムセンターにより欠落部分を補い、ラストシーンを修復したデジタルリマスター版が作成されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E3%81%AE%E7%99%BD%E7%B3%B8


▲△▽▼

滝の白糸:溝口健二の世界


溝口健二はサイレント時代に大家としての風格を示した。彼のサイレント映画は新派狂言を映画化したものが殆どだ。それらは彼の属していた日活向島撮影所のカラーを反映していた面もあったようだ。残念なことにそれらの殆どは失われてしまったが、「滝の白糸」については、現存する痛んだフィルムをもとに編集されたデジタル・リマスター版を見ることができる。これは「カチューシャ」のメロディをバックに、字幕と弁士による読み上げをともなったもので、わかりやすい。

原作は泉鏡花の小説をもとにした新派劇。これは女の意地をテーマにしたもので、惚れた男のために自分の生涯を犠牲にした女が、その男のために殺人を犯した挙句、検事に出世した男によって裁かれながらも、男の出世した姿を喜びながら自殺するという筋書きなのだが、それが日本人の心に訴えかけるものがあって、何度も映画化されたほか、舞台やテレビドラマにも取り上げられた。

滝の白糸というのは、女芸人の芸名である。この女芸人は、水芸と言って、水を使った手品芸のようなものを興行しており、一座を引き連れて北陸道を渡り歩いている。その途中で知り合った一人の男、この男は乗合馬車の御者なのだが、なかなか男前ということもあって、女は一目惚れしてしまうのだ。その一目惚れした男と、たまたま金沢の橋の上で深夜に再会した女は、是非もなく男に入れ込んでしまう。その挙句、男が金に窮して勉学をあきらめねばならぬと聞き、自分がお前の後ろ盾になってやろうと申し出る。その時の女の言い分が面白い。「あたしが貢いであげようじゃありませんか」と言うのである。男が、何故、と聞くと、「お前さんに可愛がってもらいたいのさ」と女は答え、こうして二人は結ばれるわけなのである。こんな男女の結びつきは、今の日本ではなかなかない。だが明治・大正の頃まではあったのだろう。でなければこの映画が、長く日本人に愛されてきた理由が説明できない。

女は男の出世を唯一の希望にして生きてゆく。その女(滝の白糸=入江たか子)が一座を率いて旅回りをするシーンがなかなか見せる。昔の芸人の世界では、男も女も平等のようだ。才覚のあるものが上に立って人を率い、皆を食わせるのだ。だが芸人稼業は厳しい。とくに水芸の場合には、冬はなかなか興業が成立しない。そんなこともあって、滝の白糸は経済的に追い詰められてゆき、男への仕送りもできなくなる。そんな状況に直面して、女は高利貸しに体を売って金を工面する。ところが恥をしのんで得た金を、ならずものに奪われてしまう。それを高利貸しの仕組んだ罠だと思い込んだ女は、高利貸しのもとへ文句を言いにゆくが、帰って再度姦淫されようとするところを、誤って殺してしまう。

こうして殺人犯の嫌疑を受けた女は、法の裁きの前に引き立てられる。その裁きを担当する検事の一人に、自分の愛する男がいたのだ。官憲は当初、高利貸し殺害の犯人は他の男(白糸を襲った芸人)だと疑い、白糸には重大な嫌疑をかけてはいなかったのだが、白糸の愛する男(岡田時彦)は、白糸が自分のために殺人を犯したということを確信する。そしてその確信に立って、白糸を尋問する。その尋問の場面がまた興味深い。検事は理屈や証拠にもとづいて白糸を追及するのではなく、彼女の情に訴えて、自分の罪を告白せよと迫るのだ。

このあたりは、いかにも情緒的で、今の時代の司法感覚からは隔絶しているように思えるのだが、泉鏡花にとっては、これが人間自然の情に従った正しい行いというふうに映ったのだろう。その証拠に白糸は、自分への嫌疑がさしせまっていないことをわかっていながら、男の情にほだされて正直に白状してしまい、その場で舌を噛み切って死んでしまうのである。彼女を死なしめた男のほうも、自分のしたことに責任を感じ、拳銃で自殺してしまうのだ。

なんとも救いのない話というべきだが、新派劇と言うのはだいたい、こうした救いのない話を好んで取り上げたものなのである。ともあれ、溝口と言えば、男によって食い物にされる女たちの意地を描き続けたという印象が強いので、この映画のように、自ら進んで男のために身を犠牲にするというのは、やや意外な印象を与える。だが女の立場から世の中を見るという溝口の基本的な視点は、この映画のなかでもすでに貫かれている。溝口はやはり、女に拘った映画を作り続けた作家だったと言えるのである。

白糸を演じた入江たか子が、なかなかすごい印象を与える。第一、非常に美しい。高峰秀子は入江たか子を戦前の日本映画を代表する美人女優として称揚したが、実際その言葉に偽りはないと思わされるほど、この映画の中の入江たか子は美しく見える。その美しさは、彼女の外見からだけではなく、彼女の内心からもにじみ出てくるように感じられる。風格があるのだ。芸人を演じながら、人間としての矜持を感じさせる。

なお、この映画は、入江たか子のプロダクション製作というクレジットがついている。この時代には、片岡千恵蔵や嵐寛寿郎などが、大手映画会社から独立してプロダクションを作る動きが広まっていたが、女優が独立プロを作ったのは入江が初めてだったらしい。その入江のために溝口が、どんな事情で一肌脱いだのかはわからないが、どうも溝口はこの時に入江の風下に入ったことを男の恥だと思ったらしく、その後入江に対して意趣返しのような意地悪をしたという臆説が流されている。本当のところはわからない。
https://movie.hix05.com/mizoguchi/mizo114.takino.html

▲△▽▼

女優・高峰秀子は、戦前の女優で一番美しかったのは入江たか子であったと、回想したという。

なるほど、滝の白糸は美しい。容貌ばかりでなく、鉄火肌、捨て身の「誠」が滲み出る美しさ、姐御の貫禄、遊芸の色気、温もりを伴った美しさなのである。それは、村越が下宿の老婆に「姉さんから仕送りをしてもらっている」と話していたことからも瞭然であろう。もとはと言えば、自分の悪ふざけが村越の運命を狂わせた、その償いのためだけに彼女は生き、死んで行ったのである。その「誠」を知ってか、知らずか村越も後を追う。

「女性映画」の名手・成瀬巳喜男は「女のたくましさ」を描出することに長けている。
一方、「女性映画」の巨匠・溝口健二が追求したのは「女の性」、(成瀬に向けて)「強いばかりが女じゃないよ」という空気が漂う、渾身の名作であった、と私は思う。お見事!
https://nasino.muragon.com/entry/252.html

▲△▽▼

曲解・滝の白糸

「滝の白糸」といえば、ポピュラーすぎてもう十分に知り尽くしていた積もりでいたので、自分としては「なにをいまさら」という気持ちが強すぎて、もう随分と長い間この溝口作品を見ていませんでした。

多分没後50年というこんな機会でもなければ、これほど超有名な悲恋物語「滝の白糸」を、あえて見ることも、また、見ようという気持ちが動くこともなかったと思います。

しかし、考えてみれば、この「滝の白糸」は、溝口健二の作品群のなかでも格別に重要な位置を占めている作品ですし、溝口健二の作品系列を考えるうえから、そしてまた、この作品以後、夥しく撮られていくこととなる亜流作品への影響を考えるうえからも、「大悲恋物語」という固定観念に囚われることなく、もっと自由な発想で、この歴史的な名作「滝の白糸」を鑑賞できたらいいなと考え、今回は、じっくりと腰をすえてこの作品を見てみようと思い立ちました。

そんなふうに見ていくと、白糸と欣弥が辿るふたりの関係の壮絶悲惨な破綻が、そのまま恋の成就として完結する暗黙の大前提になっているはずの彼らの関係が、それほどゆるぎなく完全無欠か少し疑問が湧いてきました。

「滝の白糸」を見ながら、いつも思うのですが、激しい恋に身をこがし、やがて自ら破滅していく白糸の激情に目を奪われていると、この映画のもうひとりの主人公・村越欣弥の姿が霞んでしまうことがいつも気になっていました。

それでなくとも地味目な岡田時彦が演じる村越欣弥の存在感の希薄さが、その思いを一層強くさせるのかもしれません。

燃え尽きるような激しく生きた白糸に比べ、村越欣弥もまた同じように白糸の思いをしっかりと受け止めて、彼女に応えることができたのかといえば、残念ながら常に疑わしい思いに囚われ続けたと言わざるを得ません。

白糸は、愛する人のためなら、人殺しさえも厭わない激しい恋に身を挺します。

欣弥は、黙秘を続ける白糸がもし自白すれば彼女は死刑になると分かっていながら、あえて彼女に自白するよう、そして潔く法の裁きに服すよう勧め、そして彼女が死刑判決を受けるや、欣弥自らもまた自殺を遂げるというこの物語の結末は、白糸と欣弥が完全無欠な愛情を保っていたならば「大悲恋物語」たり得るわけですが、どうもここがどうしても納得できないのです。

高名な女芸人として裏社会のなにもかもを知り尽くし、人気の水芸一座を切り回してきたような、かなりダークなカリスマ性を持った親分肌の女性と、乗合馬車のしがない御者でしかない青年との組み合わせに、普通の感覚からすると、これを「愛」なんかで結びつけるのには、かなり無理があるのではないかと思ってしまうのです。

きっとそれは、この二人の関係の出発点を「苦学生・村越欣弥に対し好意と善意から学費を援助してあげる」とでも設定しておかないと、白糸が金のために刃傷沙汰におよぶ血なまぐさい修羅場が、単に金銭をめぐって欲望と欲情とが絡み合うどろどろの、騙し合いと殺し合いにすぎない単なる痴情事件と堕し、物語としての収拾がつかなくなってしまうからだろうと思います。

例えば、白糸は金の力で村越欣弥の体を買ったのだと想定してみましょう。

優れた統率者なら一座の中から情事の相手を選ぶことの危険、つまり自分の支配力を自から弱め破壊するような常軌を逸した行為を選ぶとはどうしても考えにくい、単なる遊びの相手なら、なんの力もなく、弱弱しい男、金の力が最も効果的に伝わる貧しい男・つまり村越欣弥こそが望ましかったのだという気がします。

この映画の初めの部分では、白糸を「男嫌い」と紹介して、それとなく彼女の純潔性を強調しているのは、村越欣弥とだけ一本で結び合わせる劇的効果を狙ったミエミエの設定なのでしょうが、当然ここには嘘の匂いが付きまといます。

現実の、実話ふうな下世話な解釈を当て嵌めるとすると、おそらく白糸には、欣弥の学費以外の、むしろメインは別のどうしても必要な金があって、そのために金貸しを殺したのに、その理由付けに、とってつけたような村越欣弥の存在を無理やり結びつけたのではないかと考えてしまいました。

もはや反証が困難なくらいに追い詰められ、ついに事実を告白しなければならない破目に陥ったとき、海千山千のテダレの女芸人なら、苦し紛れに「私は愛する人のために、人を殺めた」くらいなことは言ってのけるかもしれません。

「自分は金欲しさから、金貸しを刺し殺した。ざまあみろ」なんて言うよりは、世間的な受けを計算してもその方がずっと有利だったでしょうし。

こう考えてくると、この物語の裏には、もうひとつの物語・村越欣弥の物語が隠し絵のように秘められているような気がしてなりません。

映画では、欣弥は、法に服させるために黙秘を続ける白糸を説諭して殺人を犯したことを自白させます。

そして白糸が死刑判決を受けると同時に、欣弥自身もピストル自殺をしてしまいます。

それほどまでに法に服することが大切だったのか、しかし、最も愛する人を、お互いがそれぞれの死に追いやってまで、それほどの犠牲をはらってまで、法は守るべき大切なものなのかという結論で、本当に「滝の白糸」はいいのか、迷いました。

最愛の人を死なしてまで法の大切さをアピールするなんて、どこにそんな必要があるでしょうか。

欣弥の自殺する理由をふたつほど考えてみました。

ひとつは、死刑判決を受けた白糸の後を追って(実際は、収監されているだけで刑の執行はまだのようですが)自殺するという悲恋物語の側面、もうひとつは、白糸が因業な金貸しを殺し、そして強奪したその金の一部を(検事の職にあるという)自分が受け取ってしまったという罪の意識が考えられると思います。

いままでの自分は、もっぱら前者のすっきりとした悲恋物語の考え方を疑いもなく支持し、欣弥が何故自ら死を選んだのか深く考えたことはありませんでした。

ラストの法廷の場において白糸に自白を迫ったあの時点で、欣弥は既に自ら死ぬことを決意したと思わないと、この物語の辻褄が合わなくなります。

そのとき欣弥は、彼女のいないこの世になど生きていても仕方がないと考えたのか、あるいは死を賭けてまで法を守ることを選び遵法の精神に殉じたのか、しかし、僕は、おそらくこのいずれでもないと思います。

例えばひとつの仮定として、こんなふうに考えたことがありました。

白糸の嘘の自白をそのまま黙認して、彼女から金を奪った殺人の嫌疑の掛かっている「親分」に罪を被せ、彼女に自由を与える、検事なら別に出来ない仕事ではなかっただろうと。

白糸を心から愛し、そして命より大切な人と思うなら、「法」くらい捻じ曲げて晴れて彼女と幸せに暮らすことを選ぶことだって不可能なことではなかったはずだし、むしろそうする方が、人を殺め法を犯してまで欣弥に尽くそうとした白糸の思いに報いる黒い愛の行為に相応しいような気がするくらいです。

欣弥もまた法に背いて罪を犯すことによって、白糸と同じ地平に立ち、身も心も彼らの恋は初めて完全に合致することが出来るのだと考えたのでした。

社会の底辺で生きる貧しい青年が、そのどん底から這い上がるために、立身出世→向学心を質に取られて、やくざな女芸人に金で買われ、「若さ」を慰みものにされて、やっと果たした夢のような任官のときに、立ちふさがったのが白糸だったのだと思います。

屈辱的な醜聞に未来を閉ざされ、そしてやっと手に入れかけた将来を滅茶苦茶にされた青年は、その閉塞状況になかで死を選ぶより他に方法がなかったのでしょう。

ましてや、虚偽の裁きを駆使して白糸を助けるなど、欣弥には考えられもしなかったことだったと思います。

むしろ、間接的に殺人の片棒を担がされ、自分を脅かし続けた白糸をこそ、法の力によってまずは滅する必要があったのではないか、という気さえするくらいです。

村越欣弥という男は、もしかしたら明治という時代において蹉跌を生きた象徴のような青年だったかもしれません。
https://sentence.exblog.jp/4224364/

▲△▽▼


原作・泉鏡花。
脚本なしで撮影が強行された「傑作」の舞台裏
溝口健二Vol.3

福田 和也
大正十二年、第一作「愛に甦へる日」を撮ってから十年の修業の後、はじめて溝口健二は、日本映画史に残る傑作をものにした。『瀧の白糸』である。昭和八年、キネマ旬報のベスト2に選ばれた。

 原作は泉鏡花の『義血侠血』。当時、お姫様女優として絶大な人気を得ていた入江たか子が主演し、制作も入江のプロダクションが行った。

 水芸の芸人、水島友が、奇縁により元士族の馬丁、村越欣弥と知り合う。友は、村越に学費を送る事を約束するが、一座は次第に衰微し、ついに高利貸の脅迫の下、貞操を失った上に画策により借りた金も強奪されてしまう。半狂乱になった友は高利貸を殺し、金を持って東京に向かう・・・。

 入江たか子の、当時としては長身でボリュームのあるプロポーションが画面を照らすように撮られており、岡田時彦演じる欣弥の白皙とあいまって稀有な映像美を作りだしている。もっとも撮影を担当した三木茂は、溝口が脚本なしに撮影を強行したので、大いに閉口したという(『瀧の白糸』はサイレント映画だった)。溝口を問い詰めて、『義血侠血』が原作だと教えてもらって、漸くストーリーを呑み込んだ。

敵国に万歳を叫ぶゆとりの時代

 しかし、撮影現場は大変な熱気だったという。

「第一ね、昼の休みっていう時にね、一人もスタジオの外へ出ない、入江なども全然出ないですよ、岡田は具合が悪いから、ステージの中に寝台持ってきてあるんだ。寝台で休んでね、病、相当悪くなりかかっていたからね。この熱気というものが、わからんわけがない、皆わかっている。皆にわかってることは、僕に反映するよ。こうしてま、出来ましたよ。これは古今未曾有のできでしたなあ」と製作者の渾大防五郎は語っている(『ある映画監督の生涯』)。

 『義血侠血』は、不思議な命運を辿った小説である。明治二十七年十一月一日から同三十日まで読売新聞に「なにがし」という署名で掲載された後、翌年四月に春陽堂から単行本『なにがし』として出版された。同書には尾崎紅葉と鏡花の名前が連署されているが、奥付は紅葉名義だった。以後、『なにがし』は、明治三十四年までに五刷を重ねた。紅葉の死後、明治四十三年になってはじめて『鏡花集第一巻』に鏡花の作品として収録されている。

 弟子の作品を師匠が自分の物として発表することは、明治どころか昭和初期まではたいして珍しい事ではなかった。師匠がその名前を貸してやる事は、ある種の「恩恵」と捉えられてさえいたのである。

 明治生命保険相互会社の創業者、阿部泰蔵の四男として生まれた阿部章蔵は、明治生命に勤める傍ら、水上瀧太郎というペンネームで作家活動を行い、『三田文学』を中心に小説を発表していた。

 水上は、泉鏡花に心酔していた。「小学時代に『誓之巻』を読んで以来、先生の作品によって、自分はこの世に生れて来た甲斐のある事を痛感した」(『貝殻追放抄』「はじめて泉鏡花先生に見ゆるの記」)というのだから只事ではない。

湯島天神 泉鏡花の小説の舞台ともなった境内(東京・文京区)には、彼の揮毫した筆塚が残る

 留学中には、久保田万太郎に頼んで、鏡花の新刊の全てを購入して貰っていた。

 瀧太郎を鏡花の家に連れて行ってくれたのも、万太郎であった。

 「あらためて久保田さんに紹介されて御挨拶をしたが、その時不思議に思ったのは、泉先生のおじぎをなさる時の手つきだった。両手とも拇指と他の指で軽い輪をこしらえ、甲の方を畳につけて頭をさげるのである。これも後で知ったのだが、極端なきれい好きでかつもろもろの黴菌を誰にも増してこわがる先生は、畳の上に手をつく事を避けておられるのであった。/(中略)東向の二階の縁側に近く、硝子のはまった障子にぴったり寄せた小机に、裸のままの硯と、筆が一本のっていた。

 それが先生の御仕事をなさるところで、ちいさい机は紅葉先生の遺品だとうかがった。/驚いたのはこの室の兎だった。違棚にも、本箱の上にも、小机の上にも、数限りなく、耳をつったて、眼をくるくるさせてかしこまっている。手焙がある、状さしがある、文鎮がある、香水の瓶がある、勿論おもちゃは多勢である。陶器のもある、木彫のもある、土細工もある、紙細工もある、水晶のもある、硝子のもある、あらゆる種類の兎公だ。『女仙前記』や『後朝川』のような兎の働く小説のあるのも無理はない。

 先生はステッキの頭にさえ、小村雪岱さんの図案にもとづく銀の兎をつけて散歩の御伴を仰せつける。/先生は話上手だ。少しかすれた声が座談には持って来いで、紅葉先生御在世の頃の事をおたずねすると、当時の文壇の有様や、作者の話をして下さる。水府の箱を膝のところに引つけて、合間々々に吸われるが、とんと吸殻を灰に落して煙管を手から放す時は、必ずその吸口に千代紙でこしらえた赤坊の小指ほどの筒をかぶせる。これもやはり黴菌よけで、敢て煙管と限らず、鉄瓶の口にもかぶせてある。もとより奥さんの御細工である」(同前)

 だが、瀧太郎は文雅に耽溺する作家ではなかった。企業経営者でありながら、ジャーナリズムの頽廃、軍人、官僚の横暴を厳しく批判する潔癖と責任感を備えていた。

 たとえば、京都帝国大法学部教授の市村光恵の話。水上はロンドンから横浜に帰る船で市村と一緒になった。当時、第一次世界大戦の最中だったが、市村は大のドイツ贔屓でその主義をけして曲げようとしなかったという。

 「日本はその時独逸を敵として戦っているというのに、この博士は大戦の結果は必ず独逸が勝利を得、英仏露の聯合軍が敗北すると確説し、或時は英人を集めてその手に手に杯を持たせ、麦酒をつぎ、円陣を作り、自分はその中央に立って、独逸皇帝万歳を叫んだ。聯合軍の万歳が叫ばれるものと予期していた英吉利人どもは、あっけにとられて為す所を知らなかった」(同前「独逸皇帝万歳」)

 それから二十二年後、支那事変下の世相を顧みて、水上はこう書いている。

「当時の世の中には何といってもゆとりがあった。英吉利こそは同盟国であり、共同策戦にあたっているというのに、当面の敵独逸皇帝の万歳を、英吉利人及我が海陸軍人の面前において叫び、周囲の人々はこれを笑って済ませたのである。もしも今日英吉利皇帝の万歳を叫ぶものがあったと想像して見るがいい。狂人と認められれば幸いで、正気の沙汰と考えられたら、非国民か売国奴として、忽ち袋叩
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/17131


▲△▽▼

滝の白糸・残菊物語 溝口健二 

都内の名画座で行われている溝口健二特集。
滝の白糸、と、残菊物語、を観た。

新藤兼人『ある映画監督の生涯』dvd に収録されている佐藤忠男と新藤兼人の音声解説はめっぽう面白く、ツタヤで2週間借りっぱなし、毎日、何度も連続してみても飽きることがない。なかでも、入江たか子と、田中絹代は圧倒的存在感である。むろん、気品の高さ、美しさ、では入江たか子。はじめてこのビデオを観たとき、うわさにきく入江たか子を観たときは息が止まりそうであった。。。 日本女性特有の美、と奥ゆかしさ、というものをそれまで信じていなかったが、「ある映画監督の生涯」にインタビュイーとして登場した入江たか子を観たとき、外国女性にはあり得ないものがある、と確信した。入江たか子はこのインタビューを行ったとき、すでに高齢であったが、気品と香華、。。女性の魅力というものは年令を超えている。

滝の白糸は入江たか子が22歳で出演し、みずからプロデュースをやった映画。無声映画であるが、流れるようなストーリー。75分の作品である。入江は妖艶。

残菊物語。佐藤忠男は上記の音声解説でこのように語っている。ある英国評論家に佐藤が、溝口でベストは何か?と尋ねたところ残菊だ、と直ちに相手が答えた、と。 140分を超える長さである。ストーリー自体はありふれた夫婦物語。妻が世間の無理解に逆らって夫を助ける話である。溝口映画でもかなり長い部類に入るが長さは全く感じなかった。この作品をdvd解説で新藤は次のように言っている。ストーリ自体は古いが、この映画のテーマは普遍性があります、と。

新藤は女性と問題を多く起こしたがその結果、奥さんが発狂した(と、溝口は信じていた)。幼いときから溝口は多くの女性に取り巻かれ助けられた。溝口の映画は妻(女性)にタイする贖罪意識から作られている。 映画を観おわってハタと気が付いた。新藤兼人自身が溝口の後を追っているのだ、と(女性に対する贖罪と感謝)。新藤における最大の女性はむろん母親である。 残菊物語の語り直しは、新藤の「愛妻物語」である。

両映画とも、ラストが素晴らしかった。

ある映画監督の生涯 溝口健二の記録(田中絹代)1975年
http://www.youtube.com/watch?v=7YGXnjUiWXE

芸術家同士の愛情と対立と尊敬。

実生活ではたとえ結婚できなくても。。「(溝口)先生からそう想われている、ということは、結婚したも同然。。。そうじゃございません?新藤さん! そうじゃございませんか?」
新藤は田中絹代へのインタビューが成功しなかったらこの映画(ある映画監督の生涯)はあきらめよう、と覚悟を決めてインタビューに臨んだという。新藤の必死の食い下がりに、田中も応じた。気迫と感動のインタビューである。


解説対談で新藤兼人は、溝口と田中は男女の仲になった、と明かしている。ベネツア映画祭に参加したときホテルでのことである。わたしは大いに驚いた。もちろんインタビューで田中はこのことを明かすわけはないし、インタビューする新藤だってこのことをまだ知っていない。

新藤「(男女関係になったことは)よかったとおもいますよ。田中絹代は溝口健二が恋いこがれた女性ですから。。。」。。わたしは胸が熱くなった。
https://furuido.blog.so-net.ne.jp/2013-06-02


▲△▽▼


入江たか子

入江 たか子(いりえ たかこ、本名・東坊城 英子(ひがしぼうじょう ひでこ)、1911年(明治44年)2月7日 - 1995年(平成7年)1月12日)は、明治から昭和期の日本の映画女優。


東京市四谷区(現・新宿区)に生まれる。
子爵東坊城家の出身で父の東坊城徳長は子爵、貴族院議員。

1922年(大正11年)、その父が亡くなり生活に困窮するも文化学院中学部に入学。油絵を習っていたが、関東大震災で家は半壊し、手放さなければならなくなった。

1927年(昭和2年)、文化学院を卒業後、日活京都撮影所の俳優で兄の東坊城恭長(後に監督・脚本家)を頼って京都に移る。同年、兄の友人で「エラン・ヴィタール小劇場」の主宰者野淵昶に請われて女優として新劇の舞台に立つ。それを観た内田吐夢の目に留まり、その勧めに従い同年、日活に入社。

同年、内田監督の『けちんぼ長者』で映画デビュー。華族出の入江の、突然の映画界デビューは、当時の世を騒然とさせた。

以後、村田実の『激流』、内田の『生ける人形』、溝口健二の『東京行進曲』などに主演し、たちまち、日活現代劇人気ナンバー1女優の地位につく。

1931年(昭和6年)、千恵蔵プロを主宰していた片岡千恵蔵が、入江の現代劇での芸者役を見て「入江は時代劇に向いている」と認め、『元禄十三年』(稲垣浩監督)で相手役に抜擢。時代劇初出演を果たした。

「入江ぷろ」の創設

1932年(昭和7年)、新興キネマと提携して映画製作会社入江ぷろだくしょんを創立。当時、阪東妻三郎などスター男優が次々と独立プロダクションを作っていたが、女優の独立プロも現代劇の独立プロも「入江ぷろ」が初めてであった。

この時代、入江たか子は日本映画界最高の位置にあった。
その第1作は溝口健二監督、中野英治共演による『満蒙建国の黎明』だった。
この作品は満州建国を背景に川島芳子からヒントを得た超大作で海外ロケを行い、半年の製作日数をかけた大々的なものだった。

この後、日活の俳優、田村道美と結婚し、のちにたか子のマネージャー・プロデューサーとなる。田村が自らの人気を考えて結婚を公表せず、籍も入れない別居生活であったため、兄の恭長は田村を嫌い、映画界を辞める。結婚10年後に子供が生まれ、これを機に法的にも結婚する。

1933年(昭和8年)、泉鏡花の名作『滝の白糸』をまた溝口監督で撮り、大好評となる。ところが、溝口は一女優の入江ぷろだくしょん作品の監督ということに屈辱を感じていたため、強引に実体のない名前だけの「溝口プロダクション」という名前をその横に列記させてもらい体面を保っていた。

続いて、サナトリウム(療養所)に勤務する美貌の看護師を演じた、久米正雄原作の『月よりの使者』が空前の大ヒットとなる。

1935年(昭和10年)頃は人気の絶頂にあり、この年のマルベル堂プロマイドの売り上げでは、1位が入江たか子、2位が田中絹代であった。

しかし、1937年(昭和12年)に吉屋信子の人気小説を映画化した『良人の貞操』のヒットを限りに「入江ぷろだくしょん」は解散、東宝と契約。

1937年(昭和13年)、長谷川一夫の東宝入社記念映画『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督)に出演。

1941年(昭和16年)、『白鷺』(島津保次郎監督)に出演。零落した美妓に扮し、泉鏡花の当たり狂言を原作とする「流れて動いて生きる、それが女というものでしょうか」との名ゼリフが評判となった。

戦時下に相次ぐ兄3人の死に直面し、仕事に対する情熱も冷めかけ、戦後は病気がちとなり、それに輪をかけるように主役の仕事も減っていった。1950年(昭和25年)にはバセドウ病の宣告を受け、無理を押して仕事をしながら入院費を工面し、ようやくのことで1951年(昭和26年)末になり大手術を受け、命を取り留める。


退院後は仕事をとることもままならなかったが、大映と年間4本の契約を結ぶ。その大映に戦前鈴木澄子主演であてた「化け猫映画」のリメイクの企画が持ち上がり、その主役の話が持ち込まれた。

生活のためと割り切り引き受け、1953年(昭和28年)、大映京都で『怪談佐賀屋敷』(荒川良平監督)に主演する。迫真の演技が受け映画は大当たり、次々と化け猫役が舞い込んだが、一方で「化け猫女優」のレッテルを貼られる。

更に1955年(昭和30年)、溝口監督の『楊貴妃』に出演。先述のように、かつて入江ぷろだくしょんという一女優の独立プロに雇われの身であったことを恥じていたことから入江に反感を持っていた溝口は、入江の演技に執拗な駄目出しをした上、

「そんな演技だから化け猫映画にしか出られないんだよ」

とスタッフ一同の面前で口汚く罵倒するという嫌がらせを行った。

執拗ないじめに耐えきれなかった入江は降板、その後は女優として満足な役が与えられなくなった。

1959年(昭和34年)、芸能界に見切りをつけ、銀座に「バー・いりえ」を開き、実業界に転身する。その後は娘の女優、入江若葉の夫の店である有楽町のとんかつ店を手伝いながら余生を過ごした。その間、黒澤明の『椿三十郎』、市川崑の『病院坂の首縊りの家』、大林宣彦の『時をかける少女』、同じく大林の『廃市』に請われて出演し、話題となった。

娘の若葉によると、かつて化け猫を演じた姿を「女優の生き様として知って欲しい」と、若葉に往年の化け猫映画を進んで見せたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B1%9F%E3%81%9F%E3%81%8B%E5%AD%90

極左でマルキストの溝口健二は入江たか子みたいな貴族階級の人間を憎悪していたんですね。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/162.html

[近代史3] 溝口健二 お遊さま(大映 1951年) 中川隆
5. 中川隆[-12985] koaQ7Jey 2019年1月15日 10:28:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

溝口健二は気品の有る上流階級の美女が大嫌いだった


滝の白糸・残菊物語 溝口健二 

都内の名画座で行われている溝口健二特集。
滝の白糸、と、残菊物語、を観た。

新藤兼人『ある映画監督の生涯』dvd に収録されている佐藤忠男と新藤兼人の音声解説はめっぽう面白く、ツタヤで2週間借りっぱなし、毎日、何度も連続してみても飽きることがない。なかでも、入江たか子と、田中絹代は圧倒的存在感である。むろん、気品の高さ、美しさ、では入江たか子。はじめてこのビデオを観たとき、うわさにきく入江たか子を観たときは息が止まりそうであった。。。 日本女性特有の美、と奥ゆかしさ、というものをそれまで信じていなかったが、「ある映画監督の生涯」にインタビュイーとして登場した入江たか子を観たとき、外国女性にはあり得ないものがある、と確信した。入江たか子はこのインタビューを行ったとき、すでに高齢であったが、気品と香華、。。女性の魅力というものは年令を超えている。

滝の白糸は入江たか子が22歳で出演し、みずからプロデュースをやった映画。無声映画であるが、流れるようなストーリー。75分の作品である。入江は妖艶。

残菊物語。佐藤忠男は上記の音声解説でこのように語っている。ある英国評論家に佐藤が、溝口でベストは何か?と尋ねたところ残菊だ、と直ちに相手が答えた、と。 140分を超える長さである。ストーリー自体はありふれた夫婦物語。妻が世間の無理解に逆らって夫を助ける話である。溝口映画でもかなり長い部類に入るが長さは全く感じなかった。この作品をdvd解説で新藤は次のように言っている。ストーリ自体は古いが、この映画のテーマは普遍性があります、と。

新藤は女性と問題を多く起こしたがその結果、奥さんが発狂した(と、溝口は信じていた)。幼いときから溝口は多くの女性に取り巻かれ助けられた。溝口の映画は妻(女性)にタイする贖罪意識から作られている。 映画を観おわってハタと気が付いた。新藤兼人自身が溝口の後を追っているのだ、と(女性に対する贖罪と感謝)。新藤における最大の女性はむろん母親である。 残菊物語の語り直しは、新藤の「愛妻物語」である。

両映画とも、ラストが素晴らしかった。

ある映画監督の生涯 溝口健二の記録(田中絹代)1975年
http://www.youtube.com/watch?v=7YGXnjUiWXE

芸術家同士の愛情と対立と尊敬。

実生活ではたとえ結婚できなくても。。「(溝口)先生からそう想われている、ということは、結婚したも同然。。。そうじゃございません?新藤さん! そうじゃございませんか?」
新藤は田中絹代へのインタビューが成功しなかったらこの映画(ある映画監督の生涯)はあきらめよう、と覚悟を決めてインタビューに臨んだという。新藤の必死の食い下がりに、田中も応じた。気迫と感動のインタビューである。


解説対談で新藤兼人は、溝口と田中は男女の仲になった、と明かしている。ベネツア映画祭に参加したときホテルでのことである。わたしは大いに驚いた。もちろんインタビューで田中はこのことを明かすわけはないし、インタビューする新藤だってこのことをまだ知っていない。

新藤「(男女関係になったことは)よかったとおもいますよ。田中絹代は溝口健二が恋いこがれた女性ですから。。。」。。わたしは胸が熱くなった。
https://furuido.blog.so-net.ne.jp/2013-06-02

▲△▽▼

女優・高峰秀子は、戦前の女優で一番美しかったのは入江たか子であったと、回想したという。

なるほど、滝の白糸は美しい。容貌ばかりでなく、鉄火肌、捨て身の「誠」が滲み出る美しさ、姐御の貫禄、遊芸の色気、温もりを伴った美しさなのである。それは、村越が下宿の老婆に「姉さんから仕送りをしてもらっている」と話していたことからも瞭然であろう。もとはと言えば、自分の悪ふざけが村越の運命を狂わせた、その償いのためだけに彼女は生き、死んで行ったのである。その「誠」を知ってか、知らずか村越も後を追う。

「女性映画」の名手・成瀬巳喜男は「女のたくましさ」を描出することに長けている。
一方、「女性映画」の巨匠・溝口健二が追求したのは「女の性」、(成瀬に向けて)「強いばかりが女じゃないよ」という空気が漂う、渾身の名作であった、と私は思う。お見事!
https://nasino.muragon.com/entry/252.html

▲△▽▼

入江たか子

入江 たか子(いりえ たかこ、本名・東坊城 英子(ひがしぼうじょう ひでこ)、1911年(明治44年)2月7日 - 1995年(平成7年)1月12日)は、明治から昭和期の日本の映画女優。


東京市四谷区(現・新宿区)に生まれる。
子爵東坊城家の出身で父の東坊城徳長は子爵、貴族院議員。

1922年(大正11年)、その父が亡くなり生活に困窮するも文化学院中学部に入学。油絵を習っていたが、関東大震災で家は半壊し、手放さなければならなくなった。

1927年(昭和2年)、文化学院を卒業後、日活京都撮影所の俳優で兄の東坊城恭長(後に監督・脚本家)を頼って京都に移る。同年、兄の友人で「エラン・ヴィタール小劇場」の主宰者野淵昶に請われて女優として新劇の舞台に立つ。それを観た内田吐夢の目に留まり、その勧めに従い同年、日活に入社。

同年、内田監督の『けちんぼ長者』で映画デビュー。華族出の入江の、突然の映画界デビューは、当時の世を騒然とさせた。

以後、村田実の『激流』、内田の『生ける人形』、溝口健二の『東京行進曲』などに主演し、たちまち、日活現代劇人気ナンバー1女優の地位につく。

1931年(昭和6年)、千恵蔵プロを主宰していた片岡千恵蔵が、入江の現代劇での芸者役を見て「入江は時代劇に向いている」と認め、『元禄十三年』(稲垣浩監督)で相手役に抜擢。時代劇初出演を果たした。

「入江ぷろ」の創設

1932年(昭和7年)、新興キネマと提携して映画製作会社入江ぷろだくしょんを創立。当時、阪東妻三郎などスター男優が次々と独立プロダクションを作っていたが、女優の独立プロも現代劇の独立プロも「入江ぷろ」が初めてであった。

この時代、入江たか子は日本映画界最高の位置にあった。
その第1作は溝口健二監督、中野英治共演による『満蒙建国の黎明』だった。
この作品は満州建国を背景に川島芳子からヒントを得た超大作で海外ロケを行い、半年の製作日数をかけた大々的なものだった。

この後、日活の俳優、田村道美と結婚し、のちにたか子のマネージャー・プロデューサーとなる。田村が自らの人気を考えて結婚を公表せず、籍も入れない別居生活であったため、兄の恭長は田村を嫌い、映画界を辞める。結婚10年後に子供が生まれ、これを機に法的にも結婚する。

1933年(昭和8年)、泉鏡花の名作『滝の白糸』をまた溝口監督で撮り、大好評となる。ところが、溝口は一女優の入江ぷろだくしょん作品の監督ということに屈辱を感じていたため、強引に実体のない名前だけの「溝口プロダクション」という名前をその横に列記させてもらい体面を保っていた。

続いて、サナトリウム(療養所)に勤務する美貌の看護師を演じた、久米正雄原作の『月よりの使者』が空前の大ヒットとなる。

1935年(昭和10年)頃は人気の絶頂にあり、この年のマルベル堂プロマイドの売り上げでは、1位が入江たか子、2位が田中絹代であった。

しかし、1937年(昭和12年)に吉屋信子の人気小説を映画化した『良人の貞操』のヒットを限りに「入江ぷろだくしょん」は解散、東宝と契約。

1937年(昭和13年)、長谷川一夫の東宝入社記念映画『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督)に出演。

1941年(昭和16年)、『白鷺』(島津保次郎監督)に出演。零落した美妓に扮し、泉鏡花の当たり狂言を原作とする「流れて動いて生きる、それが女というものでしょうか」との名ゼリフが評判となった。

戦時下に相次ぐ兄3人の死に直面し、仕事に対する情熱も冷めかけ、戦後は病気がちとなり、それに輪をかけるように主役の仕事も減っていった。1950年(昭和25年)にはバセドウ病の宣告を受け、無理を押して仕事をしながら入院費を工面し、ようやくのことで1951年(昭和26年)末になり大手術を受け、命を取り留める。


退院後は仕事をとることもままならなかったが、大映と年間4本の契約を結ぶ。その大映に戦前鈴木澄子主演であてた「化け猫映画」のリメイクの企画が持ち上がり、その主役の話が持ち込まれた。

生活のためと割り切り引き受け、1953年(昭和28年)、大映京都で『怪談佐賀屋敷』(荒川良平監督)に主演する。迫真の演技が受け映画は大当たり、次々と化け猫役が舞い込んだが、一方で「化け猫女優」のレッテルを貼られる。

更に1955年(昭和30年)、溝口監督の『楊貴妃』に出演。先述のように、かつて入江ぷろだくしょんという一女優の独立プロに雇われの身であったことを恥じていたことから入江に反感を持っていた溝口は、入江の演技に執拗な駄目出しをした上、

「そんな演技だから化け猫映画にしか出られないんだよ」

とスタッフ一同の面前で口汚く罵倒するという嫌がらせを行った。

執拗ないじめに耐えきれなかった入江は降板、その後は女優として満足な役が与えられなくなった。

1959年(昭和34年)、芸能界に見切りをつけ、銀座に「バー・いりえ」を開き、実業界に転身する。その後は娘の女優、入江若葉の夫の店である有楽町のとんかつ店を手伝いながら余生を過ごした。その間、黒澤明の『椿三十郎』、市川崑の『病院坂の首縊りの家』、大林宣彦の『時をかける少女』、同じく大林の『廃市』に請われて出演し、話題となった。

娘の若葉によると、かつて化け猫を演じた姿を「女優の生き様として知って欲しい」と、若葉に往年の化け猫映画を進んで見せたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B1%9F%E3%81%9F%E3%81%8B%E5%AD%90

極左でマルキストの溝口健二は入江たか子みたいな貴族階級の人間を憎悪していたんですね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/160.html#c5

[近代史3] 溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年) 中川隆
6. 中川隆[-12984] koaQ7Jey 2019年1月15日 10:29:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

溝口健二は気品の有る上流階級の美女が大嫌いだった


滝の白糸・残菊物語 溝口健二 

都内の名画座で行われている溝口健二特集。
滝の白糸、と、残菊物語、を観た。

新藤兼人『ある映画監督の生涯』dvd に収録されている佐藤忠男と新藤兼人の音声解説はめっぽう面白く、ツタヤで2週間借りっぱなし、毎日、何度も連続してみても飽きることがない。なかでも、入江たか子と、田中絹代は圧倒的存在感である。むろん、気品の高さ、美しさ、では入江たか子。はじめてこのビデオを観たとき、うわさにきく入江たか子を観たときは息が止まりそうであった。。。 日本女性特有の美、と奥ゆかしさ、というものをそれまで信じていなかったが、「ある映画監督の生涯」にインタビュイーとして登場した入江たか子を観たとき、外国女性にはあり得ないものがある、と確信した。入江たか子はこのインタビューを行ったとき、すでに高齢であったが、気品と香華、。。女性の魅力というものは年令を超えている。

滝の白糸は入江たか子が22歳で出演し、みずからプロデュースをやった映画。無声映画であるが、流れるようなストーリー。75分の作品である。入江は妖艶。

残菊物語。佐藤忠男は上記の音声解説でこのように語っている。ある英国評論家に佐藤が、溝口でベストは何か?と尋ねたところ残菊だ、と直ちに相手が答えた、と。 140分を超える長さである。ストーリー自体はありふれた夫婦物語。妻が世間の無理解に逆らって夫を助ける話である。溝口映画でもかなり長い部類に入るが長さは全く感じなかった。この作品をdvd解説で新藤は次のように言っている。ストーリ自体は古いが、この映画のテーマは普遍性があります、と。

新藤は女性と問題を多く起こしたがその結果、奥さんが発狂した(と、溝口は信じていた)。幼いときから溝口は多くの女性に取り巻かれ助けられた。溝口の映画は妻(女性)にタイする贖罪意識から作られている。 映画を観おわってハタと気が付いた。新藤兼人自身が溝口の後を追っているのだ、と(女性に対する贖罪と感謝)。新藤における最大の女性はむろん母親である。 残菊物語の語り直しは、新藤の「愛妻物語」である。

両映画とも、ラストが素晴らしかった。

ある映画監督の生涯 溝口健二の記録(田中絹代)1975年
http://www.youtube.com/watch?v=7YGXnjUiWXE

芸術家同士の愛情と対立と尊敬。

実生活ではたとえ結婚できなくても。。「(溝口)先生からそう想われている、ということは、結婚したも同然。。。そうじゃございません?新藤さん! そうじゃございませんか?」
新藤は田中絹代へのインタビューが成功しなかったらこの映画(ある映画監督の生涯)はあきらめよう、と覚悟を決めてインタビューに臨んだという。新藤の必死の食い下がりに、田中も応じた。気迫と感動のインタビューである。


解説対談で新藤兼人は、溝口と田中は男女の仲になった、と明かしている。ベネツア映画祭に参加したときホテルでのことである。わたしは大いに驚いた。もちろんインタビューで田中はこのことを明かすわけはないし、インタビューする新藤だってこのことをまだ知っていない。

新藤「(男女関係になったことは)よかったとおもいますよ。田中絹代は溝口健二が恋いこがれた女性ですから。。。」。。わたしは胸が熱くなった。
https://furuido.blog.so-net.ne.jp/2013-06-02

▲△▽▼

女優・高峰秀子は、戦前の女優で一番美しかったのは入江たか子であったと、回想したという。

なるほど、滝の白糸は美しい。容貌ばかりでなく、鉄火肌、捨て身の「誠」が滲み出る美しさ、姐御の貫禄、遊芸の色気、温もりを伴った美しさなのである。それは、村越が下宿の老婆に「姉さんから仕送りをしてもらっている」と話していたことからも瞭然であろう。もとはと言えば、自分の悪ふざけが村越の運命を狂わせた、その償いのためだけに彼女は生き、死んで行ったのである。その「誠」を知ってか、知らずか村越も後を追う。

「女性映画」の名手・成瀬巳喜男は「女のたくましさ」を描出することに長けている。
一方、「女性映画」の巨匠・溝口健二が追求したのは「女の性」、(成瀬に向けて)「強いばかりが女じゃないよ」という空気が漂う、渾身の名作であった、と私は思う。お見事!
https://nasino.muragon.com/entry/252.html

▲△▽▼

入江たか子

入江 たか子(いりえ たかこ、本名・東坊城 英子(ひがしぼうじょう ひでこ)、1911年(明治44年)2月7日 - 1995年(平成7年)1月12日)は、明治から昭和期の日本の映画女優。


東京市四谷区(現・新宿区)に生まれる。
子爵東坊城家の出身で父の東坊城徳長は子爵、貴族院議員。

1922年(大正11年)、その父が亡くなり生活に困窮するも文化学院中学部に入学。油絵を習っていたが、関東大震災で家は半壊し、手放さなければならなくなった。

1927年(昭和2年)、文化学院を卒業後、日活京都撮影所の俳優で兄の東坊城恭長(後に監督・脚本家)を頼って京都に移る。同年、兄の友人で「エラン・ヴィタール小劇場」の主宰者野淵昶に請われて女優として新劇の舞台に立つ。それを観た内田吐夢の目に留まり、その勧めに従い同年、日活に入社。

同年、内田監督の『けちんぼ長者』で映画デビュー。華族出の入江の、突然の映画界デビューは、当時の世を騒然とさせた。

以後、村田実の『激流』、内田の『生ける人形』、溝口健二の『東京行進曲』などに主演し、たちまち、日活現代劇人気ナンバー1女優の地位につく。

1931年(昭和6年)、千恵蔵プロを主宰していた片岡千恵蔵が、入江の現代劇での芸者役を見て「入江は時代劇に向いている」と認め、『元禄十三年』(稲垣浩監督)で相手役に抜擢。時代劇初出演を果たした。

「入江ぷろ」の創設

1932年(昭和7年)、新興キネマと提携して映画製作会社入江ぷろだくしょんを創立。当時、阪東妻三郎などスター男優が次々と独立プロダクションを作っていたが、女優の独立プロも現代劇の独立プロも「入江ぷろ」が初めてであった。

この時代、入江たか子は日本映画界最高の位置にあった。
その第1作は溝口健二監督、中野英治共演による『満蒙建国の黎明』だった。
この作品は満州建国を背景に川島芳子からヒントを得た超大作で海外ロケを行い、半年の製作日数をかけた大々的なものだった。

この後、日活の俳優、田村道美と結婚し、のちにたか子のマネージャー・プロデューサーとなる。田村が自らの人気を考えて結婚を公表せず、籍も入れない別居生活であったため、兄の恭長は田村を嫌い、映画界を辞める。結婚10年後に子供が生まれ、これを機に法的にも結婚する。

1933年(昭和8年)、泉鏡花の名作『滝の白糸』をまた溝口監督で撮り、大好評となる。ところが、溝口は一女優の入江ぷろだくしょん作品の監督ということに屈辱を感じていたため、強引に実体のない名前だけの「溝口プロダクション」という名前をその横に列記させてもらい体面を保っていた。

続いて、サナトリウム(療養所)に勤務する美貌の看護師を演じた、久米正雄原作の『月よりの使者』が空前の大ヒットとなる。

1935年(昭和10年)頃は人気の絶頂にあり、この年のマルベル堂プロマイドの売り上げでは、1位が入江たか子、2位が田中絹代であった。

しかし、1937年(昭和12年)に吉屋信子の人気小説を映画化した『良人の貞操』のヒットを限りに「入江ぷろだくしょん」は解散、東宝と契約。

1937年(昭和13年)、長谷川一夫の東宝入社記念映画『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督)に出演。

1941年(昭和16年)、『白鷺』(島津保次郎監督)に出演。零落した美妓に扮し、泉鏡花の当たり狂言を原作とする「流れて動いて生きる、それが女というものでしょうか」との名ゼリフが評判となった。

戦時下に相次ぐ兄3人の死に直面し、仕事に対する情熱も冷めかけ、戦後は病気がちとなり、それに輪をかけるように主役の仕事も減っていった。1950年(昭和25年)にはバセドウ病の宣告を受け、無理を押して仕事をしながら入院費を工面し、ようやくのことで1951年(昭和26年)末になり大手術を受け、命を取り留める。


退院後は仕事をとることもままならなかったが、大映と年間4本の契約を結ぶ。その大映に戦前鈴木澄子主演であてた「化け猫映画」のリメイクの企画が持ち上がり、その主役の話が持ち込まれた。

生活のためと割り切り引き受け、1953年(昭和28年)、大映京都で『怪談佐賀屋敷』(荒川良平監督)に主演する。迫真の演技が受け映画は大当たり、次々と化け猫役が舞い込んだが、一方で「化け猫女優」のレッテルを貼られる。

更に1955年(昭和30年)、溝口監督の『楊貴妃』に出演。先述のように、かつて入江ぷろだくしょんという一女優の独立プロに雇われの身であったことを恥じていたことから入江に反感を持っていた溝口は、入江の演技に執拗な駄目出しをした上、

「そんな演技だから化け猫映画にしか出られないんだよ」

とスタッフ一同の面前で口汚く罵倒するという嫌がらせを行った。

執拗ないじめに耐えきれなかった入江は降板、その後は女優として満足な役が与えられなくなった。

1959年(昭和34年)、芸能界に見切りをつけ、銀座に「バー・いりえ」を開き、実業界に転身する。その後は娘の女優、入江若葉の夫の店である有楽町のとんかつ店を手伝いながら余生を過ごした。その間、黒澤明の『椿三十郎』、市川崑の『病院坂の首縊りの家』、大林宣彦の『時をかける少女』、同じく大林の『廃市』に請われて出演し、話題となった。

娘の若葉によると、かつて化け猫を演じた姿を「女優の生き様として知って欲しい」と、若葉に往年の化け猫映画を進んで見せたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B1%9F%E3%81%9F%E3%81%8B%E5%AD%90

極左でマルキストの溝口健二は入江たか子みたいな貴族階級の人間を憎悪していたんですね。

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/159.html#c6

[近代史3] 勝又壽良 _ 中国・朝鮮ヘイトでグローバリズム礼賛のアホ経済評論家 中川隆
14. 中川隆[-12983] koaQ7Jey 2019年1月15日 11:10:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

中国・朝鮮ヘイトの勝又壽良さんは中国・朝鮮の事が何もわかっていないですね

北朝鮮、「異例」金正恩は習近平会談でなぜメモ取る「二重人格」2019年01月15日

北朝鮮の金正恩委員長は、中国の国家主席習近平氏と会談する際、必ずメモを取っている。生徒が先生に教えを請う形であり、首脳会談には似つかわしくない光景だ。中国のTVは、この場面を意図的に繰り返し流し、中国の優位性を誇示している。

金正恩氏は、今回も特別列車を利用して訪中した。その理由について、いろいろと取り沙汰されている。帰途、土産物を沢山積み込む必要上、特別列車を仕立てているというのだ。経済制裁中で、中国は北朝鮮への輸出が制約されている。ところが、列車に積めば税関を通すわけでもなく、遠慮なく北朝鮮へ「禁輸品」を持ち込めるという解釈である。


『朝鮮日報』(1月14日付)は、「習近平主席の言葉をメモする金正恩委員長」と題するコラムを掲載した。筆者は、同紙のアン・ヨンヒョン論説委員である。

(1)「金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長は先日、66年前の金日成主席と全く同じ服装で4回目の中国訪問を行った。しかし中国側の対応は当時と全く違っていた。中国の最高指導部とされる共産党政治局常務委員7人のうち、金正恩氏と食事をしたのは習近平・国家主席と王滬寧書記の2人だけだった。金正日(キム・ジョンイル)総書記の時も常務委員全員が会談や食事に同席していた。金正恩氏は中国を4回訪問したが、常務委員全員と食事をしたことはまだない。中国は北朝鮮との上下関係を明確にする儀典をすでにはじめているようだ」

中国は、金正恩氏を迎えるに当たり「臣下」という扱いをしている。格下扱いだ。金日成や金正日の時代は、中国最高指導部の常務委員全員が会食に出席した。正恩氏の場合、習近平国家主席と王滬寧書記の2人だけだという。北朝鮮は、中国の庇護を求めて行動しているのだからやむを得まい。

(2)「中国国営テレビ(CCTV)は今回の中朝首脳会談を報じる際、金正恩氏が習主席の言葉についてメモを取る様子を意図的に3−4回映し出した。中国の国家主席が地方の官吏を指導するような光景だ。金正恩氏は北朝鮮では神にも等しい立場にあるため、誰かの言葉をメモする様子など想像もできないだろう。CCTVは金正恩氏が習主席の歓迎に感謝の意を伝えたと報じたが、その歓迎と関心については『関懐(配慮や思いやり)』という言葉を使っていた。上の立場が下の立場に示す関心と配慮に感謝したという意味だ。金正恩氏をさりげなく『下の人間』と表現していたのだ」

今の北朝鮮は、中国をバックに米国と首脳会談をしようという苦肉の演出だ。中国には、米国への橋渡しを依頼し、経済封鎖の一部解除を実現すべく助力を依頼している。問題は、北朝鮮が本当に核放棄の意思があるのか。時間稼ぎの手段に使っているのか。そういう疑惑が付きまとっている。

実は、金正恩氏の発言や周囲の状況をAI(人工知能)で分析したところ、「北朝鮮は『核・経済並進路線』を放棄しておらず、2020年に核保有国になることを目指しているとの結果が出た」(『朝鮮日報』1月4日付)。この分析方法は、2016年に米国の大統領選挙でトランプ大統領の当選を予測したことでも知られるという。システムダイナミクスは複数の事象間の動態的な関係を把握し、それを視覚化する理論である。

外交交渉で、AIが登場したのは珍しい。ついでに、日韓対立の結末をこのAIによる分析では、どういう形になるかぜひ聞いて見たいものだ。


(3)「中国は韓国に対しても同じように扱っている。中国は国内でさほど職責が高くない人物を駐韓大使として送り、文在寅(ムン・ジェイン)大統領が中国に派遣した特使は2回もテーブルの下座に座らせた。香港行政長官や地方官が習主席に報告をするのと同じような席の配置だ。これに対して同じ頃に中国を訪問した日本、ベトナム、ラオスの特使は習主席と対等に並んで座った。文大統領自身も訪中の際には露骨な形でぞんざいに扱われた。中国が韓国を飼い慣らそうとする意図が明らかだ」

中国は、北朝鮮のみならず韓国も「格下」扱いをしている。韓国は、中国へ卑屈になっているのと対照的に、日本へやりたい放題である。日本は、中国のように露骨な対応を韓国に対して行なわないことが、逆に韓国を増長させているのであろう。韓国には、「忖度」という相手の心を思いやる繊細さがないのだ。

コメント

1 中川隆:北朝鮮はアメリカと中共が協力して作った国 2019年01月15日 11:06 id:ZoHXmFYy0

北朝鮮はアメリカと中共が協力して作った国

朝鮮の支配階級は3000年前から漢民族ですしね

北朝鮮がミサイル打ったり、核開発するから、日本が高価な防衛ミサイルを買ってくれたり、思いやり予算を沢山出してくれるのですね。

北朝鮮の拉致も、北朝鮮政府が単独でそんな自国に損な事をやる筈がないので
アメリカが指示してやらせたんですね

慰安婦問題や南京大虐殺で中国・朝鮮が騒いでいるのもアメリカの指示だとわかっています


所謂、分割統治という植民地支配の方法ですね。
中国・朝鮮・日本が仲良くなってアメリカに対抗してくると困るのです
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/archives/15005018.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/142.html#c14

[近代史3] 溝口健二 お遊さま(大映 1951年) 中川隆
6. 中川隆[-12982] koaQ7Jey 2019年1月15日 13:25:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

男が不細工なフィリピン女性にメロメロになる理由

★フィリピンパブはなぜ男を狂わせる?

 全身火だるま状態でフィリピンパブに突入――。こんな派手な事件が愛知県で起きた。
 被害に遭ったのは西尾市の「ショーパブ ズー」。13日午後11時50分ごろ、男性が
灯油をかぶって火だるまになり、店内に飛び込んで死亡した。鉄筋2階建ての1階部分
140平方メートルのうち100平方メートルが焼けたという。

(中略)


 客がフィリピン女性にメロメロになるケースが多い。いったい、何がいいのか。

「一番の魅力は性格です」とはフリーライターの出町柳次氏だ。

「フィリピン女性はラテンのノリがあり、屈託のない明るさで接客するんです。しかも
優しくてフレンドリー。頼みもしないのに“疲れてるでしょ”と手のひらのマッサージを
してくれ、毎朝“おはようメール”で起こしてくれたりもします。思い込みの強い客は
相手が自分にホレていると錯覚してしまうのです」

 セックスでも献身的だ。

「スペイン系の血が流れている女性は肌が白く、見事なモデル体形。カトリックの教えも
あって、とことん男に尽くします。ベッドでは“もういいよ”と言うまでフェラや全身
ナメをたっぷりしてくれるし、感度も抜群。事後は靴下をはかせ、髪をとかしたりして
くれる。ヘソのそうじまでする女性もいます。ほかの国のホステスと奉仕の精神が違う
のです」(風俗ライターの蛯名泰造氏)

 一度、付き合ってみたいものだ。

日刊ゲンダイ - 2013/2/16 7:00
http://netallica.yahoo.co.jp/news/20130216-00000003-a_aaac

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/160.html#c6

[近代史3] 溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年) 中川隆
7. 中川隆[-12981] koaQ7Jey 2019年1月15日 13:26:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

男が不細工なフィリピン女性にメロメロになる理由

★フィリピンパブはなぜ男を狂わせる?

 全身火だるま状態でフィリピンパブに突入――。こんな派手な事件が愛知県で起きた。
 被害に遭ったのは西尾市の「ショーパブ ズー」。13日午後11時50分ごろ、男性が
灯油をかぶって火だるまになり、店内に飛び込んで死亡した。鉄筋2階建ての1階部分
140平方メートルのうち100平方メートルが焼けたという。

(中略)


 客がフィリピン女性にメロメロになるケースが多い。いったい、何がいいのか。

「一番の魅力は性格です」とはフリーライターの出町柳次氏だ。

「フィリピン女性はラテンのノリがあり、屈託のない明るさで接客するんです。しかも
優しくてフレンドリー。頼みもしないのに“疲れてるでしょ”と手のひらのマッサージを
してくれ、毎朝“おはようメール”で起こしてくれたりもします。思い込みの強い客は
相手が自分にホレていると錯覚してしまうのです」

 セックスでも献身的だ。

「スペイン系の血が流れている女性は肌が白く、見事なモデル体形。カトリックの教えも
あって、とことん男に尽くします。ベッドでは“もういいよ”と言うまでフェラや全身
ナメをたっぷりしてくれるし、感度も抜群。事後は靴下をはかせ、髪をとかしたりして
くれる。ヘソのそうじまでする女性もいます。ほかの国のホステスと奉仕の精神が違う
のです」(風俗ライターの蛯名泰造氏)

 一度、付き合ってみたいものだ。

日刊ゲンダイ - 2013/2/16 7:00
http://netallica.yahoo.co.jp/news/20130216-00000003-a_aaac

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/159.html#c7

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
16. 中川隆[-12980] koaQ7Jey 2019年1月15日 16:01:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

今上陛下の学友は語る「明仁皇太子はテスト中カンニングしてたよ」
http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-673.html

こんにちは、スキャットマンジョンがブームのヘカテ―です。

(今の子スキャットマンジョンなんて知らないだろうなー)

ヤフオクである雑誌を落札しました。

『流動 1971年10月号』

日本人にとって天皇制や天皇とは何かを問う論文が並ぶ中、

座談会に興味を引かれました。

議題は「皇太子『明仁親王』」

出席者は村松剛、黛敏郎、藤島泰輔、中村菊男の4名

そこで今上陛下の学友だった藤島泰輔がこんなことを言っています。


村松 安倍能成さんが院長になったでしょう。あのころ新聞記事に談話が出て、皇太子の成績は遺憾ながら”中の下”といっておりましたね。

藤島 理科系はわりにお得意でしたけれども、文科系、とくに国語とか漢文は不得意のようでした。だから高等科から大学へ進まれるときに、皇太子さんは理科系に行きたかった。それを政治へ行けと言われたらしいのです。得意の学科では才能を示される場合がありましたね。何の試験だったか忘れましたけれど、皇太子さんが隣の生徒から写しているわけですよ。(笑)そうしたら先生が壇の上から言いにくそうな顔をして、「殿下、隣をあまりご覧になりますと、カンニングと間違えられますよ」(笑)

村松 いまの陛下は成績は知らないけれども、非常に優秀な方だし、皇后は成績抜群でしたよ。皇太子似なかったんですね。

隣の人の答案をカンニングする皇太子

衝撃的ですね。

両親は成績優秀なのに跡取り息子はアホ

平成の皇太子殿下は実に立派な成績だったと報じられています。

藤島泰輔はこうも言っています。


藤島 ポスト天皇の問題が注目されるようになってきてから、週刊誌などからコメントを求められて困るんですけど、私はできるだけ天皇のご在位の期間が長いことを望みますと言っているんです。やっぱり天皇と皇太子さんとは違うと思いますね。これはわれわれ在学のころから感じていたことですけれども、皇太子さんは人に議論をふっかけるのが非常に好きで、その議論も絶対自分が勝たなきゃいけない。だからしまいにはみんな議論がはじまると逃げましたからね。大学卒業からいま十五年ぐらいたっているけれども、その間の同級生に関する皇太子の交友関係を見ても、いやなことを言うのはみんな遠ざける風潮がありまして、抵抗のない連中が最後に残った。そうしたことをみていますと、帝王の素質としてちょっと疑問です。非常にこまかいところまでこだわる。私自身と皇太子のあいだにも事件があったわけですけれども、とっても小さいことにいつまでもくよくよこだわっておられるんで、正直言いますと同級生で心ある連中はもう投げています。


なんかすっごーく嫌な奴ですね。

平成の皇太子ご夫妻は学友のインタビューなんかをご婚約のころから追って見ても誰もが絶賛するだけで、非難する人はいません。今もそれは一緒ですね。皇太子殿下の御学友がマスコミに向けて「今の皇太子はダメです」と言っている様子を見たことがありません

「細かいことにうるさい」、美智子さまと一緒ですね。

平成の皇太子ご一家がお気の毒です。ちっちゃいことをいつまでも根に持つような人が自分たちの上にいるんだから。

そして耳が痛いことを言う者は遠ざける。

ダメな奴と言われても文句は言えません。

ちなみに藤島泰輔はダメダメな皇太子さんの弟の常陸宮さまをこう評価しています。


藤島 ご兄弟を比べてみますと、常陸宮さんのほうが明治、大正、昭和ときた歴代天皇の感じが非常にあり、天皇さまの持っていらっしゃる、あるいは大正天皇が持っておられた一種のぎこちなさみたいなものを受け継いでおられる。 ぼくたちのイメージからいうとどうも常陸宮さんからうける感じの方が天皇じゃないかという気がするんですけどね。


常陸宮さまの方が天皇にふさわしいってことですね。


さらにこの4人は美智子さまにもダメだししています。


藤島 美智子さんは庶民の代表というか、皇室を民主化するのは自分だという妙な意気ごみがあったらしくて、最近聞いて驚いたのは、週刊誌の記者を集めた皇太子夫妻の記者会見で、最前列の記者がたばこをくわえたら、美智子さんがマッチをすってつけたという。(笑)

黛 それではホステスだ。

村松 なにか根本的なところで思い違いをしているようですね。(笑)


「なにあの勘違い女。バッカじゃないの」と笑っています。

平成はこのダメだしされた昭和の皇太子夫妻を崇めていますが、昭和を振り返ると平成の賞賛が胡散臭くなるますね。


コメント 14 :



明仁って性格めっちゃ悪そう。

>皇太子さんは人に議論をふっかけるのが非常に好きで、その議論も絶対自分が勝たなきゃいけない。

>だからしまいには
>みんな議論がはじまると逃げましたからね。

>大学卒業からいま十五年ぐらいたっているけれども、
>その間の同級生に関する皇太子の交友関係を見ても、

>いやなことを言うのはみんな遠ざける風潮がありまして、
>抵抗のない連中が最後に残った

>非常にこまかいところまでこだわる。

>私自身と皇太子のあいだにも事件があったわけですけれども、

>とっても小さいことにいつまでもくよくよこだわっておられるんで、
>正直言いますと
>同級生で心ある連中はもう投げています。

(明仁って性格悪いんだね)としか思えない。
そして周囲に残るのはイエスマンとか、明仁本人ではなく明仁が持つ肩書きを利用したい人ばかり。

だから平成の今生()ってのは・・・以下自粛。

>週刊誌の記者を集めた皇太子夫妻の記者会見で、
>最前列の記者がたばこをくわえたら、
>美智子さんがマッチをすってつけたという。(笑)

>それではホステスだ。

>なにか根本的なところで思い違いをしているようですね。(笑)

日本国籍を放棄して、インドネシア国籍を取得して、ムスリムになってメッカ巡礼をしたという某第三夫人が「ミッチーとアタクシは同じよ。」と言ったそうですが、このエピソードを読むと納得します。

しかもミッチーの手はコンスになってるし。
そういえば某第三夫人は「北朝鮮のキム家とは古くから交流がある。」「拉致被害者は北朝鮮に感謝しろ。北朝鮮へ帰れ。」とも発言している。

今生()も、その妻もだなんて、本当に嫌な平成だわ。
2015-05-02(15:32) :



本当に嫌な奴

>文科系、とくに国語とか漢文は不得意のようでした。

国語と漢文が不得意な皇太子ってどうよ。

>皇太子さんは人に議論をふっかけるのが非常に好きで、その議論も絶対自分が勝たなきゃいけない。

うへー。
人に議論をふっかけるくせに自分が勝たなきゃ気がすまないとか、最低ですね。
最終的には「僕は皇太子(今なら天皇)だぞ!」で〆そう。
嫌な奴な上に器がちっちゃい。

>その間の同級生に関する皇太子の交友関係を見ても、
>いやなことを言うのはみんな遠ざける風潮がありまして、
>抵抗のない連中が最後に残った。

残ったのが橋本明みたいな人間です。
しかも、根っこではヘーカを馬鹿にしてることがよくわかります。
島津貴子さんの旦那様の島津久永さんも同級生ですが、人間こうも年のとり方が違うのかと思います。

>週刊誌の記者を集めた皇太子夫妻の記者会見で、
>最前列の記者がたばこをくわえたら、美智子さんがマッチをすってつけたという。(笑)

これは有名ですね。
それにしても昭和の皇太子夫妻の目の前で記者がたばこをくわえるとか、全然敬意を持たれてませんね。
2015-05-02(16:15) :



想像の遥か斜め上を行くキンジョー

ヘカテー様、ヤフオクで落札されたんですかw
おめでとうございます!!
そして中身を教えて下さってありがとう!!
もう、衝撃だわ〜。隣の答案を覗き見・・・!?
今上って情けない学生だったんですね。ここまでとは!!
2chでは女子の校舎の方を向いて男子校舎から立ちしょ○したとかまで書かれていますけど、例え噂でもここまで言われるのはヘーカに原因が有るからでしょうね。やりかねないと!!
ご学友の皆様、是非、真実を語って下さいませ!!
2015-05-02(16:24) :


努力と根気

苦手だからこそ勉強する。

「苦手な教科を得意科目へ」とまでは思いません。
何も「物理は苦手だったけれど大学で物理を専攻して、ノーベル賞をとった」までなって欲しいなんて周囲は言ってはなかったと思います。

運動や芸術と違って、勉学は本当に努力すれば何とかはなります。
文系、理系問わず。

目に見える結果が現れない時もあります。
何回挑戦しても理解できない部分もあります。
けれども繰り返しやる事で、ある日ポンと出来るようになる。

試されるのは「何度でも挑戦する心」=「努力と根気」。
これがないから、ハゼだのタヌキだのコロコロと変わるのだと思います。

そして「皇室を民主化した」のは昭和の天皇皇后両陛下です。

ヘーセーは「美談」と「美辞麗句」に溢れた「独裁」。
そんなヘーセーの周囲にいる「友人」達も推して知るべしです。
2015-05-02(18:02) :


同世代の噂。

浩宮の成績はよくも悪くもなかった。
礼宮の成績は壊滅的だった。
紀宮の成績はわからないが運動神経は切れていた。
平成の皇太子殿下と同世代の私が耳にした過去の噂です。
浩宮は昭和天皇の命を受けた浜尾侍従が、自分の家庭を犠牲にして育て上げた。もしも、外国ばかり行っている両親のもとで放置されていたら、酷いことになっていたんじゃないでしょうかね。弟妹同様。
2015-05-02(18:10) :


Re: 同世代の噂。

実は学習院卒業生の読者の方より浩宮さまは本当におできなると教えてもらいました。
2015-05-02(20:50) :



妙に納得…

明仁さんと美智子さん、実に的確に欠点をビシッと指摘されていますねー。あまりにも的を射過ぎていて納得してしまいました。明仁さんはとにかく昔から狭量でみみっちい男だったんだなあと情けなくなりました。
あと、美智子さんの
>皇室を民主化するのは自分だという妙な意気ごみ
という指摘もなるほど、と思いました。今でもそのおかしな意気込み(?)は悪い方向に継続中のように見えます。

昭和帝―常陸宮殿下―徳仁皇太子殿下―敬宮愛子内親王殿下、
このラインこそ「本物・王道」と言えるのでしょうね。

ちなみにヘカテー様が触れているスキャットマン・ジョンは、吃音(どもり)に悩み、その吃音を逆手にとり歌にして昇華させたものが「スキャットマン」という曲だそうですね。苦手な部分、コンプレックスに感じる部分を克服して成功をおさめた人であると言えます。明仁さんはご自分の苦手な部分を努力して克服しようとしたことはあったのでしょうか?「自分には無理だ、やーめた。後は周りの人たちが何とかしてくれるだろう、ボクは皇太子であり天皇になるんだから」という甘えた態度でいた明仁さんの姿は容易に想像できます。
2015-05-02(22:21) :


昭和を懐かしむ

ヘカテーさま

すごい雑誌を手に入れられましたね。
それにしても、藤島さんという方は、肝が据わってますね。普通の人では、なかなか、ここまでは言えません。
昭和46年といえば、美智子さんが「アタクシ、いじめられてまーす」と大声で言いふらしてた時代ですよ。
この後、嫌がらせとかされなかったでしょうか。ちょっと心配。

それと揚げ足とるようですけれど、射手座さまのコメントにある

>浩宮の成績はよくも悪くもなかった  これは本当だと思います。

勉学熱心でいらしたけれど、決して秀才ではなかったと聞いたことがあります。
浩宮様が優れていらっしゃったのは、お人柄です。
生来の資質、プラス浜尾侍従の養育の賜物といっていいでしょう。
同窓の方が優秀と言われているのは、多分このお人柄のことだと思われます。
2015-05-02(22:50) :


なんで自慢しないか。

浩宮礼宮紀宮に関して、浩宮がとにかく真面目な努力家と言うこと以外、よい噂がなかったんです。
昭和の皇太子は悪い話しかなかった。
ひげのトモさんは長女の聡明さを言いたくてウズウズしてた。なんで美智子妃は、浩宮の聡明さを自慢しなかったのかしら。美智子妃、目立ちたがりの自慢好き。

…自分の自慢だけ。

あ〜なるほど。
2015-05-03(11:05) :


御三方のご様子

私が聞いた話では

皇太子殿下:天才肌ではないが、努力家でコツコツと真面目に学業に取り組む学者タイプ。

あーや:コイツにつける薬はナシ

さーや:文学的才能に関して言えばもしかしたら3人の中では一番頭がよかったかもしれないが、とにかく性格が最悪。運動神経は壊滅的。
2015-05-03(13:41) :



成績もお人柄も最高

礼宮は問題外、浩宮さまは真面目な努力家、紀宮が一番優秀らしいと、なんとなくそう思っていました。

しかし浩宮さまをよく知る人に聞いたのですが、浩宮さまはものすごく頭がよいとのこと。それに加えて謙虚で慎重で真面目で努力家。

雅子さまとお二人響き合い高め合い、もうすぐ素晴らしい御代が到来するでしょうね。
2015-05-03(22:23) :

下の下?

カンニングをしているのに、「中の下」な成績ってコトは、本当の実力は「下の下」ってコトですよね〜。

天皇は尊敬対象?・・いや、もう人としてどうよ?としか言えないな。
2015-05-04(00:51) :


明仁皇太子が学習院大学を卒業していないのは・・・

「出席日数が足りなくて学習院大学を卒業できなかった。」というのが表向きの理由ですが、
(出席日数ではなくて単位が取れていなかったからでしょ。)と言われていました。
2015-05-04(22:48) :


藤島氏とジャニーズ事務所

だいぶ前に知ったのですが、この学友の藤島泰輔氏って、奥さまはあの「ジャニーズ事務所」の副社長のメリー喜多川さんなんですね。

つまり、多くの男性タレントを擁し、テレビ業界を牛耳るジャニー喜多川氏は、藤島氏の義兄ということになります。

お嬢さんも、同事務所の副社長で、系列の芸能事務所の経営者でもあるとか。
金八先生に生徒役で出てましたね、大昔。

ウィキペディアによると、藤島氏は馬主でもあり、かなりの資産家だったようですね。
だから、今上についても臆することなくズバズバと本当の事を書けたのかもしれません。

いずれにしても、今上のご学友といっても、この年代ですでにこういう家族・親族構成の学習院出身者がいるというのは、世間一般のイメージとはだいぶ異なるものでしょうね。
2015-05-06(18:45) :

http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-673.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c16

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
17. 中川隆[-12979] koaQ7Jey 2019年1月15日 18:06:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
岡山藩の当主だった池田家(旧侯爵)に嫁いだ、昭和天皇第四皇女:順宮(よりのみや)厚子内親王→池田厚子さんのこと。

昭和6年(1931年)生まれで、今上天皇のすぐ上の姉君にあたられる。
夫君の池田隆政氏は岡山畜産界に貢献され、ご結婚後に開園した「池田動物園」の経営者でもある。

順宮殿下=池田厚子さんについては、昔から何らかの障害をお持ちの「ごゆっくり」さん?との噂が根強く、敬宮愛子ちゃんがもしもそうだったら一体どうなるのかという議論のときしばしば引き合いに出される。

しかし実際のところ、順宮の皇女時代はもちろん、降嫁された後も、何らスキャンダルに巻き込まれること無く、穏やかにお暮らしになっていらっしゃる。子供時代からご挨拶も普通にできるし、愛子のような「逆さバイバイ」現象も見られず「不登校」も起こさなかったことから、愛子と一緒に考えるわけにはいかない、比較対照にするのも失礼だという声が多い。
http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E3%81%95%E3%82%93


池田厚子さんがご覧になったたった一度の昭和天皇が怒った顔と泣き顔
http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-1742.html

『別冊女性自身 皇室特集号 天皇から紀宮まで激動の70年』

という本をヤフオクで落札しました

昭和46年4月発売なのでタイトルの天皇は昭和天皇のことです

「天皇陛下の素顔」

というコーナーで初孫である東久邇信彦さんと第四子である池田厚子さん(順宮さま)が手記を寄せられてます。

今回は池田厚子さんのエピソードをご紹介します。
この時池田厚子さんは40歳、昭和天皇70歳でした。

池田厚子さんが見た父帝のただ一度の怒った顔
私が学習院高等科のときでございました。学校での英語のテストの成績が悪かったときのことでした。
父陛下は、きっと私をおにらみになり、

「バイニング夫人について特別な勉強もうけているのに、これはどういうわけか」

おたずねになられたのでございます。そのきびしくこわいお顔。私は身のすくむ思いでございました。初めて見る父陛下のきびしいおつつけのお顔。

でもいまは、もっとも懐かしい、それが父陛下のお顔になっています。後にも先にも父陛下から身のすくむほど叱られたのは、このときだけでございました。叱るとき、叱られるとき、親子の情は深まるものと申しますが、いま思い出すと、‟私のことを心配してくださっている”としみじみ父陛下の愛情を感じるお顔でございます。

ズルさせようとかそういう考えは昭和天皇にはありません。
勉強を怠ければちゃんと叱ったのです。

だから皇太子である継宮が単位が足りなくて留年になると言われても、圧力をかけたりして進級させようとされなかったのですね。(明仁皇太子が礼宮がカンニングさえできない程バカだったのに進学&進級させたのとはまったく違う)

昭和天皇に怒られたらそりゃ怖いだろうな。

さてもう一つが池田厚子さんがご覧になった昭和天皇の泣き顔

最後に、あれこれ思い出してきました父陛下のお顔のなかで、最も私の心に深く刻みこまれているお顔のこと。

それは昭和三十六年、東久邇家に嫁がれた成子様(注・厚子さんの姉君に当たる)が宮内庁病院で大勢のお子様とご主人を残して亡くなられた日のことでございます。

徹夜で母陛下と看病になられた父陛下は目を真っ赤にし、泣いておられたのでございます。私が陛下の、父陛下のお涙がこぼされるお顔を拝見したのは、これが初めてでございました。

東久邇成子さんのご子息である壬生基博さんは後にこうお話されてます。
(東久邇家に生まれ秀彦というお名前でしたが、壬生家の養子に入られてお名前を基博に変えられました)

なんていうか、母が息を引き取ったとき、陛下が「どうもありがとう」っていうふうに、ぽつりといわれたのがね、ずっと私の記憶の底に焼き付いてて。

これは、大人になって考えると、最後まで手を尽くされた侍医さんや看護婦さんに対してそういふふうにいわれたということなんでそうけれども、そうじゃなくてね、死んでいった母親の病床に付き添った皆全員に対してそういわれたのではないのか、と。実際にはわかりませんけれど、その陛下のお言葉が、私は非常に印象に残っております。
(「第一章 陛下のお誕生日に漫画をプレゼント 対談東久邇信彦・壬生基博」『思い出の昭和天皇』光文社 1989年12月発行)

昭和天皇のありがとうという言葉は東久邇成子さんにもかけられた言葉だと思います。

「私たちの子どもとして生まれてきてくれてありがとう」

東久邇信彦さんは成子さんを亡くされてから昭和天皇の白髪が増えたと仰ってます。

あの昭和天皇が涙を流した程のわが子との別れ

あまりにも大きな大きな存在を失った昭和天皇と良子さまに対して昭和の皇太子夫妻がやった仕打ちは絶対に許されるものではありません。

那須で静養中の昭和天皇と良子さまの元へまだ亡くなられてから1か月も経たないうちに夫婦でやって来て、自分たちの不平不満を夜10時まで訴え続けた明仁皇太子と美智子皇太子妃

昭和天皇はたった一言だけ仰った。

「よくわかった」

話の内容ではなく、

「お前たちがわが子を失った親の悲しみもわからないような血も涙もない人間ということがよくわかった」

という意味のように思えます。

http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-1742.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c17

[近代史3] 知恵遅れの皇太子の嫁にされた上に、皇族全員から陰湿な苛めに遭った美智子妃殿下は復讐の鬼と化した 中川隆
7. 中川隆[-12978] koaQ7Jey 2019年1月15日 18:14:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

秋篠宮殿下の結婚の時
https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/4ded0ef0c822b10a736e379bfadad5a2

 

もう25年以上も前の話ですし、知らない人も多いんですよね。

秋篠宮殿下の「結婚」に関しては結婚前からいわゆるバッシング対象であったと思われます。

理由は

 浩宮の結婚が決まっていなかった事

 美智子皇后にとって学習院出身の嫁は好ましくなかった事

この2点です・・・って考えると全てのつじつまがあうでしょう?

世の中が「こんなお嬢様がいたのか」と大喜びして「紀子ちゃんフィーバー」が起き、常盤会がもろ手を挙げて賛成して「今回はうちからお妃が出た」と鼻高々になっている横で、実は「昭和天皇の喪中なのに婚約を強行した」と雑誌やテレビが伝えていました。

いくら説明しても「昭和天皇の服喪期間に婚約」という言葉が取り消される事はなく今に至っているわけです。

宮内庁も今回の眞子様の結婚のように「KKの仕事に配慮して」なんて言わなくて、粛々と「服喪令には違反していない」という事で進めていました。

浩宮が成年式を迎えた時から「お妃選び」が始まり、毎週のように雑誌を賑わせ、久邇さんだ北白川さんだ、服部さんだ・と名前が上がる中、突如マスコミに登場したのが小和田雅子さんです。

あの当時は、識者の方や皇室尊崇派の間では小和田雅子さんはありえないという意見で一致していました。

なぜなら当時の皇族の結婚に関しては暗黙の了解で

 家柄が3代にさかのぼり、犯罪者や精神疾患者がいないこと

というのが大前提になっていたからです。

小和田雅子さんの祖父はチッソの社長。日本一の公害を起こした企業のトップで、彼自身様々なトラブルを抱えていたし、父親は外務省の官僚。後ろ暗さは天下一品。

ゆえに「いくらお金があってもダメなものはダメ」と言われていたのです。

後藤田さんによる「皇室に筵旗が立つ」という有名な言葉がありましたし。

事実かどうかわかりませんが、浩宮と小和田雅子さんの結婚には昭和天皇も反対していたと言われます。

しかし。浩宮の小和田さんへの執着はすごいものがあり、イギリスで小和田さんが「私は浩宮様と結婚する気はありません」と言ってもめげなかった。

めげなかった理由は

 政治家・外務省を通じて彼女を説得してみせるという裏取引があった

 美智子皇后が彼女の学歴を気に入っていた

という事があるのではありませんか?

最近公になってきて、果たしてそれが本当かどうかわかりませんが、保守派からぜひ久邇晃子さんを・・と言われてお見合いしたけど浩宮は気に入らず、世継ぎの結婚はそもそも好き嫌いではありませんのでそれで決定しょうとした時、美智子妃が「久邇家の退職金をお支度に使わせるのも気の毒だし、あちら(小和田)はおできになるし」の一言で結婚が消えてしまった。

久邇晃子さんはオックスフォード、東大に入って精神科医になりました。

もしスムーズに久邇晃子さんと浩宮が結婚を決めていたら秋篠宮の結婚はもっと遅かったし、紀子様は予定通り海外留学を果たしその上でご結婚されたかもしれません。

秋篠宮殿下の言葉を借りましょう。

<結婚にむけた準備>

文仁 :

少し時計の針を進めましょう。

私が大学を卒業したのが1988年ですが,その年の夏から暫くの間英 国に滞在しました。

この間,昭和天皇のご不例と崩御があったことから,しばしば日本に帰ることに なりました。

日本にいる間は,諸行事に参列するためだったのですが,そのおりに,将来のことにつ いていろいろと話す機会にもなりました。

そして,1989年の9月に公表するに至りました。

これはい わゆる結納に当たる正式な婚約ではなく,皇室会議の議を経て婚約が内定したということを発表する 機会でした。

 私自身の結婚式を9月30日に控えていた8月末、突如礼宮様の婚約が発表され、お父様と並んであるく川嶋紀子さんの映像が流れました。

 実は私の夫は次男で長男の兄は独身。

 それが郡山宮夫妻にはものすごく気に入らない事で「お兄ちゃんの結婚まで待て」と散々言われました。しかし、義兄には付き合っている女性がいるわけでもなかったし、別に今時弟が先に結婚してもいいじゃないかとわりと強行突破したんですね。

 でも礼宮様のおかげで「兄より先に弟が結婚しても差し支えない」という事になり、文句を言われなくなりました。そういう意味で私は秋篠宮ご夫妻には「恩」があります。

服喪中のこうした発表は異例なことと思った人がいたようですが,1951年7月の順宮 (現池田厚子)様の発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後で,しかも当時参考としていた旧皇室服喪 令によると,私たちの発表時期より一段階重い服喪期間中でしたので,手続きを終えたという発表は 前例にもあり問題ないと宮内庁は判断したわけです。

 現皇室典範の服喪令にしますと祖父母が亡くなった場合の服喪期間は150日(5か月)

150日を3つの時期に分け

1段階 → 30日

2段階 → 30日

3段階 → 90日

ですから、池田厚子さんの婚約発表は第二段階で行われたという事になります。

それに比べると礼宮の婚約内定は9月ですから150日をとうに超えていたという事になります。

にも関わらず「喪中」と言い続けたのは、庶民が勝手に「服喪期間は1年」と思っていたからでしょう?

服喪期間1年というのは天皇の配偶者とその子供の場合で、今上と皇后、香淳皇后の服喪期間の事です。

この1年を3期にわけて

1段階 → 30日

2段階 → 30日

3段階 → 305日

です。この「段階」というのは庶民でいうところの「初七日」「四十九日」など心のけじめをつける為の区切りでそれによって喪服の色も変わってきます。

池田厚子さんの時は誰も「喪中なのに」と言わなかったのに礼宮の時はやたら「喪中」と叫び

 礼宮のわがままで結婚を強行(紀子ちゃんと結婚できなければ皇族やめるなどの報道)

 川島紀子の「妃」への野心(妃になりたくてなったんだから苦労して当たり前などの報道)

の印象操作をしたかったのではないかと思います。

確か、あの頃、特に何度も報道されたのは皇后の「長幼の序というものがありますよ」と説得したという話。

母の忠言に耳を貸さない、貸さなかった礼宮の印象操作が大きくなされました。

そして,私たちの結婚の時期についてです。

秩父宮両殿下のご婚儀が1928年9月末で,昭和天皇の 即位の礼が同年の11月初旬。その間は2ヶ月もなく,大変だったことを両陛下が聞いていらしたそう です。

そのようなことから,私たちのときには,結婚から同じ年の11月予定の即位の礼までにある程 度の時間があったほうがよいとのことで,私が帰国した直後に式がおこなわれることになりました。

紀子 :とてもありがたい思し召しを賜り,感謝申し上げております。

 ここでもう一人、川島紀子嬢の入内を心から喜んでいる方がいらっしゃいました。それが秩父宮妃です。

  秩父宮妃は会津藩出身。川嶋家の祖母も会津藩士・池上四郎の子孫。宮妃は同じ会津の血を引くお妃の誕生をとってもとっても喜ばれ、多分結婚を後押しし、自分達が結婚した時の例をあげて急いだほうがよいとアドバイスされたのではないかと思います。

 秋篠宮の結婚 →1990年6月29日

  即位の大礼 → 1990年11月

当時、浩宮妃は決定しておらず暗礁に乗り上げていた状態。

皇后を支える「妃」の存在がない事に宮内庁も危惧していたと思われます。

ゆえに紀子妃は結婚早々「筆頭宮家の妃」として皇族方上に並んだのです。

秋篠宮両殿下の結婚を別な側面から見ると、非常に興味深い事がわかりますね。

 正田美智子入内に反対していた香淳皇后一派である秩父宮妃の後押しがあった

 正田美智子入内によって煮え湯を飲まされた常盤会の後押しがあった

この事が皇后のプライドをいたく傷つけた事は想像に難くない。

最初は「官舎にすむ貧乏学者の娘」程度にしか見ていなかったのに、敵対勢力が息を吹き返してしまった・・・これは何とかしないと、潰さないと自分の存在が否定される事になると皇后は思った事でしょう。

秩父宮妃の紀子妃への「愛情」かたから見てても微笑ましく、さっさと自分が勤めていた結核予防会の名誉総裁を譲られました。

自分が元気なうちに紀子妃をきちんとしたお妃として支えようと思われていたのでしょう。

そういう事がますます美智子妃の気持ちを逆なでしたのではないかと。

・紀子妃堕胎説

・川嶋教授の怒鳴り込み説

などは結婚直後から口コミで広がっていきましたが、そんな芸当が出来る組織は一つしかないと私は思っています。皇后の気持ちを忖度し動く勢力、それらをあえて止めない皇后。そしてわけがわからないままに翻弄されてきた宮家の歴史があるのです。

本当に皇后の「恨み」はすさまじいもので、2000年続いた皇室を自分達の代で終わらせても構わない程に憎々しいのです。

美智子妃としてどれだけ「いじめられた」と考えて来たかはわかりません。

お金と美貌と才能があるのになぜ認められないのか、戦前戦後のひずみの中で「血筋」を持たないというどうしようもない事に対してのコンプレックスは火山のマグマのようにフツフツと湧き上がっていたに違いありません。

女性というのは歳をとればとる程、結婚した頃の「恨み」は増幅するもので、例えば里帰りがままならなかったとか、子育てを否定されたとか、女官に指図されたとか、服装についてあれこれ言われたとか、そりゃあ細かく覚えていては一層悔しくなるもの。秋篠宮殿下が結婚した頃は、反対派の秩父宮妃も高松宮妃も生きていましたから。

それに実母の正田富美さんが週刊誌に残した謎の言葉「何もかも約束が違った」「今私が口を開けば困る人が50や100人はいる」もあり、結婚前に何か約束事があった、しかしそれは守られなかった、ゆえに恨みは一層募ったという事です。

(この時の「約束」は里帰りを多くするとか、昭和天皇に目通りが叶うとかそんなレベルの話ではないと思っています)

僅か23歳だった紀子妃はそんな大人達の積年の対立の中で筆頭宮妃となったのです。

小和田雅子さんは

・3代前まで家柄が遡れない半島出身の「なりすまし」疑惑

・母方の江頭家は部落出身疑惑が強い

・日本一の公害病を起こし、今なお係争中であるチッソの代表者を祖父に持つ

という出自と完璧な発達障害を持って生まれた女性でした。

今まで、皇后が小和田雅子さんを庇うのは「自分より出来が悪いから安心できる」と言われて来ましたが、私はそれ+浩宮に共通する発達障害に親しみを持っているからではないかと思います。

久邇晃子さんのような血筋も頭脳も完璧な女性を皇太子妃にしてしまったら、息子の「障害」がより明るみに出ると思ったのかもしれません。

副産物である愛子内親王の障害まで果たして予想がついたかどうかはわかりませんが皇后にとって愛子内親王は「普通の子」であって、少なくとも「ねむの木学園」の子達とは違うと(これもまた差別ですが)思っている節があります。

今回の眞子内親王の結婚に関しては、将来的に「ただ一人の皇女」として愛子内親王を残す為にはよきことであり、頭脳明晰で分別がつく内親王などはさっさと降嫁して欲しいでしょう。

将来の女帝のいとこのレベルが上では具合が悪いのです。

おりしも、KKという小和田雅子さんを男バージョンにしたような相手を望まれ、皇后にとっては眞子様はとっても「いい孫」です。

「お父様達も回りの反対を押し切って学生結婚したじゃない」ともし、眞子様がおっしゃったとしたら、それは間違っています。

眞子様のご両親こそ、国民から祝福を持って迎えられ懸念を示していたのは今上と皇后のみだったのですから。

むしろ、眞子様は「お父様達のおっしゃる事もわかるし、正しいと思う。でも私は従えない。無理だから」って所ではありませんか?

「なぜですか?」と問うても「だって私がしたい事と違うから」としか言いようがないでしょう。ここで親や回りがいくら「内親王としての矜持」「内親王としての分別」「将来の天皇の姉としての自覚」を促しても「小さい頃から人一倍厳しく育てられていつも真っ先に叱られて、笑いたい時に笑えなかったし泣きたい時に泣けなかった」なんて言われたらもう言い返せないですよね。

あの東宮一家のありようを間近で見てきたら両親の行動全てが「偽善」としか映らないです。叱りやすい自分にだけ叱る、とかそんなに正しい事をいうなら私に言うんじゃなくてまずあっちでしょ!くらいな気持ち?

KKを否定するなら皇太子妃も否定するんだよね?

世の中に伯父様一家程不可思議で非常識な人たちがいますか?それを思えばなぜ自分の結婚が否定されるのかわかりません。

理屈じゃなくてこれは感情の問題です。

だから自ら失敗し、傷ついて思い知る必要があるのです。

いくら一時金があっても年収250万で都内の一等地マンション住まいは大変です。ご友人たちはみなそれ相応の方に嫁ぐでしょうし、ある時、ふっと惨めさが襲ってくる事があるでしょう。

弟君が大変な立場に追い込まれ身動きできなくなっても助ける事すら出来ないと知った時、初めて「失敗した」と思うかもしれません。

帝国ホテルでの結婚もKKにしては身分不相応すぎます。

お金もない、家柄もない、血筋もない、親族もいない、真っ当な仕事もない、ぜーんぶ嫁の実家頼みのKKがいつまでほくそ笑んでいられるか、もしいざこざがあれば、やっぱり皇后のように恨みを募らせるでしょうね。

ああ、怖い。この悪循環。
https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/4ded0ef0c822b10a736e379bfadad5a2
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/118.html#c7

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
18. 中川隆[-12977] koaQ7Jey 2019年1月15日 18:33:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

以下、真偽不明ですが一応転記しておきます:

【知恵遅れ】 明仁天皇糾弾スレ 【貧乏神】 [無断転載禁止]©2ch.net
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1451289479?v=pc

2幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 16:59:56.39ID:uOKkYfq4

歴史のおさらい

・水戸藩の遺訓によると、徳川が危なくなったら皇統を取り替えて満洲を攻略しろとある。

・幕末に伊藤博文が孝明天皇を暗殺、岩倉具視は睦仁皇太子を暗殺。

・満洲人を父祖に持つ大室寅之祐が明治天皇になりすまして即位。

・明治天皇は無類の女好きで、妾の一人の柳原愛子が田中光顕の子を産んで、それが大正天皇になる。

・ちなみに照憲皇太后は睦仁皇太子の婚約者だったので、明治天皇とは夫婦関係はないので「皇后」とはされなかった。

・幕末維新のどさくさに紛れて朝鮮人キーセンの朱貞明が公家にはいり込んで大正天皇の后になる。

・大正天皇は病弱だったが、とても賢くて元老たちが疎ましく思う。恐らく幼少期に毒を盛られた。

・大正天皇は嘉仁皇太子時代に率直な人柄と気さくな性格で国民に大人気になる。

・大正天皇と貞明皇太后は偽装結婚で、裕仁天皇の実の父は樺山愛輔。他の兄妹も全員父親が違うという。

・近親婚を重ねた島津の血が皇室に入るのを嫌った連中が「宮中某重大事件」を起こす。実際に香淳皇后は知能が低かった。

・明仁誕生の際には「このままでは日本は滅亡だ」と病院で大騒ぎになったという。

・三笠宮には双子の妹がおり、これを巡る裕仁天皇と秩父宮の骨肉の争いで2.26事件勃発。

・2.26事件の首謀者の一人であり、ナチスのスパイだったゾルゲは処刑される。

・昭和20年の正月の皇族会議の際に裕仁天皇は「このままでは負けるので、早く白旗を上げよう」と提案するも、
貞明皇太后が「私が祈祷すれば日本は決して負けない。神国不滅だ」として家族全員が呆れる。

・今の皇統に正統性がないとした自称天皇が多数出現。その一人の三浦芳聖は、戦前に不敬罪覚悟で
田中光顕に直訴すると、頭山満に面通しされた。

・アメリカは戦犯として昭和26年のサンフランシスコ講和会議前に貞明皇太后を暗殺する。

・明仁と美智子の結婚もアメリカの差し金で決定。柳原白蓮などが強行に反対。

・第一子の浩宮皇太子は無事誕生するも、入江侍従長が美智子皇太子妃を強姦して秋篠宮が生まれる。

3幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:00:32.42ID:uOKkYfq4

光格天皇以来、幕府に頭をおさえつけられて京都で貧乏な生活をしていた朝廷は
幕府の権威の低下に乗じて復権を企て、それに長州や水戸藩なども一枚噛んでいた
わけなのだが、黒船来航とコレラ大流行でもはや孝明天皇の権威も地に落ちてしまった。

だから創価学会、天理教、金光教などの新興宗教が雨後の竹の子の如く出現した。
天皇の権威低下は、長州のテロリストには好都合だった。彼らは「尊皇」でなければ、 「攘夷」でもない。単に「天皇の権威」を利用して日本国を徳川から簒奪したゴロツキに過ぎなかった。

伊藤博文は孝明天皇を刺殺、岩倉具視は睦仁皇太子を毒殺し、長州の片田舎に居た満州人を「明治天皇」に偽装させたわけだ。だから睦仁の婚約者だった美子とは夫婦関係はない偽装結婚で、だから生前から「皇后」と呼ばれることもなかった。

大正天皇の生母は柳原愛子だが、明治十年の西南戦争の二年後に出産している。

この西南戦争では西郷隆盛がいわゆる「西郷札」を乱発し、戦後はその回収に政府は大わらわ、 緊縮財政で松方デフレになってしまった。

没落した旗本たちは娘を身売りせざるえず、 宮城=皇居では毎晩乱交パーティがくり広げられていたという。その際に明治天皇のお手付きだった柳原愛子は、土佐の田中光顕の子を身籠った。これが後の大正天皇である嘉仁だった。

しかるに、孝明天皇と明治天皇と大正天皇と昭和天皇はまったくの赤の他人であり、テロリスト伊藤博文が自分の悪行を隠すために「万世一系」などという笑止千万な嘘を捏造したのだ。

4幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:00:45.51ID:uOKkYfq4

幸ちゃんは明仁は単なる知恵おくれかと思っていたが、直接やりとりして救いようのない人間の屑であると認識した。

明仁は「長引く不況や少子高齢化で国民生活が疲弊しているのに、何か国民に言うことはないか」と問われて「いや、それよりも戦争の記憶の伝承を」とかほざいたんだろ。

だったら貞明皇太后はどうなんだ? 既に昭和20年1月の御前会議で裕仁天皇、三笠宮、秩父宮などが食卓を囲んで

「このままでは日本は必ず負ける。早く白旗を上げたほうがいい」

という意見で一致していたのに、貞明皇太后は

「それはだめだ。神国不滅だ。自分がお祈りすれば必ずアメリカに勝てる」


などと豪語したという。東京大空襲で皇居も延焼し、さらに米軍機から機銃掃射を受けて貞明皇太后は「死ぬかと思った。やっと国民と一体になれた」と言ったそうじゃないか。

裕仁天皇は母親に逆らえなかったので戦争が長引き、多くの人命と財産が失われた。

貞明皇太后は昭和26年の主権回復前に急死しているが、アメリカが暗殺したのだろうね。キーセンの最期としては適当なのかも知れないけど、戦地で死んだり満州で悲惨な目に遭った国民はたまったもんじゃないよ。

明仁はバカだから、長年の念願だったパラオへ行ってみて、歓迎されるどころか憎まれていることにやっと気づいたようだね。早く死ねばいいよ。

5幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:01:15.11ID:uOKkYfq4>>378>>392

キーセンの貞明皇太后は勝手に宮中祭祀を変えたから関東大震災が起こったのだ。
当時の大正天皇は重篤な病気だったので、これも貞明皇后の所業だ。降伏を長引かせて被害を拡大させたのも貞明皇太后だ。おまけに裕仁の父親は樺山愛輔だし。

樺山愛輔
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Aisuke_Kabayama.jpg

裕仁天皇
http://ameblo.jp/hirai-h/image-11656042516-12726176349.html

明仁
http://media.liveauctiongroup.net/i/8165/9616691_1.jpg?v=8CCE2C66D0651D0

6幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:01:39.56ID:uOKkYfq4

血を引いているので顔がそっくり

田中光顕
http://sakawa-kankou.jp/images/tanaka_main.jpg


http://www.ndl.go.jp/portrait/JPEG_L/349-434/s0095l.jpg

大正天皇
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Emperor_Taish%C5%8D.jpg

92右や左の名無し様2016/02/18(木) 02:15:14.46ID:kuZDvTaD
>>2
大正天皇の皇后であった朱貞明は朝鮮人キーセンではない

* 「朱貞明」は→中国の明王朝をおこした「朱家の末裔」だよ
* 中国の明を興した朱元章(日本では光武帝)の子孫が
→大正天皇の皇后で昭和天皇の生母である朱貞明(家系ロンダリングして九条節子)だよ

もともと天皇家は渡来人だから
中国の明王朝の血が日本の皇室に入ったわけだ

因みに明王明の朱家は中国人ではなく客家人だ
朱家→朱貞明は中国人ではなく客家人

客家人は中国人のユダヤと云われる民族で
客家の出自はシルクロードの民と云われるペリシテ人
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1451289479?v=pc
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c18

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
19. 中川隆[-12976] koaQ7Jey 2019年1月15日 19:07:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]


誰もせいでもありゃしない、みんなおいらが悪いのさ、と世間はそう思っているが。2014.10.18
http://2002mar.blog.fc2.com/blog-entry-859.html

この歌詞のフレーズ、何の歌だったか忘れたが、だがそうは思っていない人間がいる、その人間とは次期126代天皇となる浩宮成仁皇太子殿下である。

父である今上天皇陛下,継宮明仁親王としてお生まれになり1952年、皇太子として立太子され、その後天皇として即位、現在に至る。

ただ陛下の幼少時、現在とはしきたりが違い,満2歳から家族とは切り離され東宮御所でお育ちになったとある。現皇太子成仁殿下はといえば、美智子皇后陛下の強い要望によりナルちゃん憲法なる教育方針の基で、自らが教育なさったとある。だが結果的にこれは大失敗だったと言わざるを得ない、しかし、それは別にしても何故、皇后陛下がご自分で教育する事に拘ったのか、それの理由についてこうではなかったのか、そんな説がある、

浩宮成仁親王殿下、幼少時より知恵遅れであり、薄らだった、その為に母である美智子皇后、長男という事もあって不憫に思い、人一倍愛情をかけたかった、だからこそ皇室のしきたりに従わなかった。

この説、現在の皇太子殿下を見ていると妙に説得力があるし、しかもなぜ、美智子皇后が皇太子夫妻について何も発言されないかがよく分かるからである。

天皇陛下をはじめとして美智子皇后陛下、ご高齢、お体が丈夫ではないのに、何故、病身を押してまでと思う程公務という激務をこされている。一方息子の皇太子は、御所の清掃団、会釈とか訳の分からん、展覧会や観劇、鑑賞だとか、中身がまったくないスカスカ公務、これが公務と呼ばれるかどうか疑わしいものもある。そりゃそうである、長い時間と大がかりな準備、そして警護の為の動員、だが、雅子の体調の波、直前,ドタキャン、数えきれない。

もう、来なくても結構、こういう声が国内では圧倒的、海外公務では通常、夫と妻、これが、公式行事では常識にも拘らず、独りぼっち公務、その所作も情けない限り、海外では皇太子は頭が弱い、皇太子妃は精神に異常がある基地外として認知されており、海外公務自体が日本皇室の恥さらし以外、何物でもない。

私はこれら、美智子皇后のおやりになっている行動、何か息子の不出来を恥じての贖罪の行動に見えてしまう。おお甘に育ててしまった、明らかに子育ての失敗、しかし、それを公には認める事が出来ない、だがこのバカ息子の皇太子はそんな母の思いさえ、解らない、ただただ、自分が選んでしまった基地外嫁に振り回され嬉々としているな情けなさ。

良く、世間で重大犯罪を犯した息子の罪に、母が土下座して息子の罪を詫びている母の姿を見るが、なぜか、その姿が皇后の慰霊地行脚や被災地行脚の訪問とダブル。

誰のせいでもありゃしない、みんなおいらが悪いのさ、、、、その通りである、東宮の行状、惨状、皇室権威の失墜、東宮を囲む魑魅魍魎。闇勢力の跋扈、暗躍、その元凶はまさしく、薄ら飲み屋、盆暗ナル殿下である。

この皇太子殿下、おつむの働きが足りない、背が足りない、毛はない、ないないずくしではあったが結婚するまでは浜尾侍従やら周りに殿下を支える人間があって上手く隠してきた、だが、殿下本来の姿を知る邪悪な人間があってこれは利用できる、そんな企みが策動しはじめた、それが小和田雅子という女と結婚したことによってそれらの企みが成就しかかっている、これが現在の東宮の状況である。

昭和天皇がこの皇太子の結婚に大反対、だが天皇の崩御を待っていたかのように、何故、雅子ではいけないのですか、として結婚、つまるところ、この盆暗が自ら撒いた種が全ての原因である、だが残念ながら本人はそうは思っていない。

小和田雅子、朝鮮ルーツ、部落疑惑のこの女性、神道でいえば厄病神であり、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教では悪魔、サタンであり、仏教でいえば地獄からの使者であったわけなのだが、だが男性経験しかなかった殿下,毒の花の匂いにいかれてしまった。

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結婚パレードに振られた3色旗、ご存じ創価学会のシンボルカラー

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海外独りぼっち公務のお粗末

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おしかけ公務で海外に、だが扱いは粗雑、ま、見た目嫁のきてがない五十過ぎの百姓の跡取り風小男、情けない。


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習 近平、中国国家主席の夫人であり現役人民解放軍少将でもある人間に、へらへら、

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反日策謀家の朝鮮人国連事務総長に取り込まれて、ふんふん、でお水の総裁とか、、、、

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妻がいながら尿漏れでズボンは染みだらけ、しっかり振り切らんかい。巨根で下着に収まりきらないという話もあるが!!

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義父の借金返済の為に皇室お宝、ネットオークションで窃盗販売,馬鹿だから、取り扱った品に自分が映りこんでしまった


まだまだ、この盆暗殿下の阿呆写真、数々あるが、ご本人、マゾヒズムの化があるらしく、雅子に灰皿をぶんなげられて頭にたんこぶを作ろうが、張り飛ばされて突き指ならぬ骨折をしようが、いまだに雅子命、とにもかくにも、今上天皇陛下がお亡くなりになるのを待つ、、僕ちゃん、次の天皇、だもんね、、雅子とはわかれましぇーんよ、だって全力でお守りしますなんて言っちゃったもんね、愛子ねえ~、言ってもわかんないし、一体誰に似たのか?、、僕ちゃん、どうしていいか、とにかく雅子のいう通りしていれば、雅子ご機嫌だし、朝鮮焼酎真露や朝鮮どぶろくマッコリを飲ませてくれるなら、雅子の母国に行って、ごめん、日本は悪かったくらいの事は言ってもいいじゃん、
ま、そんな事で後はよろしくねえ〜

もう、薄ら全開で収集のつかない行状である、ところで仮にこの薄ら殿下が126代天皇として即位、当然、年号も変わる筈、今は平成であるが何という年号になるのか、明治、大正、昭和、平成ときたが、まさか、極悪元年、何て年号、、、、

その状況、見たくもあり、見たくもなし、複雑な心境ではあるが、とにかく、この盆暗を廃太子にする、難しい事だとおもう、

それより、あちら側に逝って頂く、ハイチのブードウ教の呪術師や、ボルネオの祈祷師に頼んでみる、、、、、、どうだろうか


と思って調べたら、呪でXXす、これは対象相手がまともな人間にしか効かないそうで、脳タリンや薄らには効かないとあった。正に最強で最悪の殿下である。


色々書いてきたが、ちょっと褒めすぎたかもしれない、反省しきりである。
http://2002mar.blog.fc2.com/blog-entry-859.html



2017/03/16 美智子皇后と徳仁皇太子の異常性


正田美智子という人物が入内して皇太子妃となり、皇后となってのほぼ60年間を歴史的に振り返ると、極めて異常性に満ちたものに見えて仕方がない。

日本が当時のアメリカ大統領、ルーズベルトによって強引に対アメリカ戦に引きずり込まれて以来、数々の非人道的な攻撃に曝されて降伏させられ、アメリカが犯した全ての犯罪の罪を押し付けて負わされ、天皇を戦犯の人柱として絞首刑にせんとした企みが、昭和天皇の捨て身の戦法に、逆に感激してしまった占領軍代表のダグラス・マッカーサー元帥は、作戦を変えて、日本国民の崇敬の対象である皇室に最も下賤な人物を送り込んでかく乱し、土足で踏み荒らして軽蔑の対象にすり替える戦法取ったが、これが見事に的中し、正しい目を持つ日本人には皇室に対して猜疑心を掻き立て、無知な国民には穢れた皇室をそのまま受け入れて支那や朝鮮半島の人々に蔑(さげす)まれるよう緻密に計画を立てたようだ。

ここでえり抜かれた工作員が正田美智子という女狐であった。

 彼女は自分の立場を十分に認識し、知恵遅れの皇太子に近づき、これを篭絡した。

明仁皇太子の教育にはアメリカからはバイニング夫人の英語教育もあった筈だが、教育効果はなかったようだし、宮内庁の教育係として有名な小泉信三氏も関わっていたが、彼の影響と言えば、GHQの意向通り、正田美智子を皇太子に近づけたことで、その罪はやはり大きいだろう。

彼も、美智子も、それにもちろんバイニング夫人もキリスト教徒である。

美智子は自分の影の力を十分考慮して、かなりの邪魔な人物を抹殺して来ているようだ。

そんな彼女だから、彼女の日本的な倫理観は期待できないようで、既に何人かの男性の噂も囁かれていた。

未だにカトリック教徒らしい様相を捨て去ろうとしないのも異常である。

彼女の異常性を列挙すれば、

1.明仁天皇という存在を無視するかのように、例えば、共産党員の葬儀に出るといった単独行動が目につく。

2.それに、公衆を前にして彼女自身の単独発言が多すぎる。


従来皇后というお立場から、天皇を差し置いて、単独でインタビューをしたり、感想を述べたりするのは極めて異常であるのに、これに異を唱える人がいないのも不思議と言えば不思議。いやしくも、天皇の后(きさき)たる身分で、「この一年、身内の全員がつつがなく過ごせたことは幸いな事でした…」と、自分の個人生活だけしか関心のないような発言は以ての外である。

それに、身内が本当につつがないのか?それなら拒食症の孫娘の激やせは偽物なのか…?

辺りに異臭をまき散らしている息子の人工膀胱状態はつつがないことなのか?

その息子の嫁に至っては「南無妙法蓮華経」以外受け付けていないのに、それでよいというのか。嘘で固めた皇室など見たくもないわ。


 徳仁皇太子に至っては、態々記者会見を開いてまでして、誰かに創作してもらった原稿を棒読みする長談話は自分の馬鹿さを紹介しているようなものである。廃太子と異名をとっていることを全く知らないらしい。

それに目が悪いのなら、原稿を読む時に眼鏡位かけたらどうでしょうねえ。大抵のマスメディアは素通りして、何事もなかったように見えるが、実際の本人の声を聞く限りでは「般若心経(はんにゃしんぎょう)」を「はんにゃしんきょう」と読み違いしていたようです。振り仮名を読み違えるとは、恥の上塗りである。

それに分かりもしない内容をくどくどと説教するのは聞いている方がうんざりするのが常識だから、そんなこと位、将来国民の上に坐して日本の象徴となる人は肌で感じ取って欲しいというものである。記者会見というものの殆どは先に原稿を手渡しておいて行うやり方は極めて形式的なものだから、こんなやり方を選ぶのは余り賢い人のすることではない。早く、自分の不適性を悟って、秋篠宮にバトンタッチしたらかえって国民各位から賞賛されると思いますが・・・。
http://shouwahitoketa.blog.fc2.com/blog-entry-540.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c19

[近代史3] 知恵遅れの皇太子の嫁にされた上に、皇族全員から陰湿な苛めに遭った美智子妃殿下は復讐の鬼と化した 中川隆
8. 中川隆[-12975] koaQ7Jey 2019年1月15日 19:08:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

誰もせいでもありゃしない、みんなおいらが悪いのさ、と世間はそう思っているが。2014.10.18
http://2002mar.blog.fc2.com/blog-entry-859.html


この歌詞のフレーズ、何の歌だったか忘れたが、だがそうは思っていない人間がいる、その人間とは次期126代天皇となる浩宮成仁皇太子殿下である。

父である今上天皇陛下,継宮明仁親王としてお生まれになり1952年、皇太子として立太子され、その後天皇として即位、現在に至る。

ただ陛下の幼少時、現在とはしきたりが違い,満2歳から家族とは切り離され東宮御所でお育ちになったとある。現皇太子成仁殿下はといえば、美智子皇后陛下の強い要望によりナルちゃん憲法なる教育方針の基で、自らが教育なさったとある。だが結果的にこれは大失敗だったと言わざるを得ない、しかし、それは別にしても何故、皇后陛下がご自分で教育する事に拘ったのか、それの理由についてこうではなかったのか、そんな説がある、

浩宮成仁親王殿下、幼少時より知恵遅れであり、薄らだった、その為に母である美智子皇后、長男という事もあって不憫に思い、人一倍愛情をかけたかった、だからこそ皇室のしきたりに従わなかった。

この説、現在の皇太子殿下を見ていると妙に説得力があるし、しかもなぜ、美智子皇后が皇太子夫妻について何も発言されないかがよく分かるからである。

天皇陛下をはじめとして美智子皇后陛下、ご高齢、お体が丈夫ではないのに、何故、病身を押してまでと思う程公務という激務をこされている。一方息子の皇太子は、御所の清掃団、会釈とか訳の分からん、展覧会や観劇、鑑賞だとか、中身がまったくないスカスカ公務、これが公務と呼ばれるかどうか疑わしいものもある。そりゃそうである、長い時間と大がかりな準備、そして警護の為の動員、だが、雅子の体調の波、直前,ドタキャン、数えきれない。

もう、来なくても結構、こういう声が国内では圧倒的、海外公務では通常、夫と妻、これが、公式行事では常識にも拘らず、独りぼっち公務、その所作も情けない限り、海外では皇太子は頭が弱い、皇太子妃は精神に異常がある基地外として認知されており、海外公務自体が日本皇室の恥さらし以外、何物でもない。

私はこれら、美智子皇后のおやりになっている行動、何か息子の不出来を恥じての贖罪の行動に見えてしまう。おお甘に育ててしまった、明らかに子育ての失敗、しかし、それを公には認める事が出来ない、だがこのバカ息子の皇太子はそんな母の思いさえ、解らない、ただただ、自分が選んでしまった基地外嫁に振り回され嬉々としているな情けなさ。

良く、世間で重大犯罪を犯した息子の罪に、母が土下座して息子の罪を詫びている母の姿を見るが、なぜか、その姿が皇后の慰霊地行脚や被災地行脚の訪問とダブル。


誰のせいでもありゃしない、みんなおいらが悪いのさ、、、、その通りである、東宮の行状、惨状、皇室権威の失墜、東宮を囲む魑魅魍魎。闇勢力の跋扈、暗躍、その元凶はまさしく、薄ら飲み屋、盆暗ナル殿下である。

この皇太子殿下、おつむの働きが足りない、背が足りない、毛はない、ないないずくしではあったが結婚するまでは浜尾侍従やら周りに殿下を支える人間があって上手く隠してきた、だが、殿下本来の姿を知る邪悪な人間があってこれは利用できる、そんな企みが策動しはじめた、それが小和田雅子という女と結婚したことによってそれらの企みが成就しかかっている、これが現在の東宮の状況である。

昭和天皇がこの皇太子の結婚に大反対、だが天皇の崩御を待っていたかのように、何故、雅子ではいけないのですか、として結婚、つまるところ、この盆暗が自ら撒いた種が全ての原因である、だが残念ながら本人はそうは思っていない。

小和田雅子、朝鮮ルーツ、部落疑惑のこの女性、神道でいえば厄病神であり、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教では悪魔、サタンであり、仏教でいえば地獄からの使者であったわけなのだが、だが男性経験しかなかった殿下,毒の花の匂いにいかれてしまった。

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結婚パレードに振られた3色旗、ご存じ創価学会のシンボルカラー

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海外独りぼっち公務のお粗末

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おしかけ公務で海外に、だが扱いは粗雑、ま、見た目嫁のきてがない五十過ぎの百姓の跡取り風小男、情けない。


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習 近平、中国国家主席の夫人であり現役人民解放軍少将でもある人間に、へらへら、

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反日策謀家の朝鮮人国連事務総長に取り込まれて、ふんふん、でお水の総裁とか、、、、

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妻がいながら尿漏れでズボンは染みだらけ、しっかり振り切らんかい。巨根で下着に収まりきらないという話もあるが!!

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義父の借金返済の為に皇室お宝、ネットオークションで窃盗販売,馬鹿だから、取り扱った品に自分が映りこんでしまった


まだまだ、この盆暗殿下の阿呆写真、数々あるが、ご本人、マゾヒズムの化があるらしく、雅子に灰皿をぶんなげられて頭にたんこぶを作ろうが、張り飛ばされて突き指ならぬ骨折をしようが、いまだに雅子命、とにもかくにも、今上天皇陛下がお亡くなりになるのを待つ、、僕ちゃん、次の天皇、だもんね、、雅子とはわかれましぇーんよ、だって全力でお守りしますなんて言っちゃったもんね、愛子ねえ~、言ってもわかんないし、一体誰に似たのか?、、僕ちゃん、どうしていいか、とにかく雅子のいう通りしていれば、雅子ご機嫌だし、朝鮮焼酎真露や朝鮮どぶろくマッコリを飲ませてくれるなら、雅子の母国に行って、ごめん、日本は悪かったくらいの事は言ってもいいじゃん、
ま、そんな事で後はよろしくねえ〜

もう、薄ら全開で収集のつかない行状である、ところで仮にこの薄ら殿下が126代天皇として即位、当然、年号も変わる筈、今は平成であるが何という年号になるのか、明治、大正、昭和、平成ときたが、まさか、極悪元年、何て年号、、、、

その状況、見たくもあり、見たくもなし、複雑な心境ではあるが、とにかく、この盆暗を廃太子にする、難しい事だとおもう、

それより、あちら側に逝って頂く、ハイチのブードウ教の呪術師や、ボルネオの祈祷師に頼んでみる、、、、、、どうだろうか


と思って調べたら、呪でXXす、これは対象相手がまともな人間にしか効かないそうで、脳タリンや薄らには効かないとあった。正に最強で最悪の殿下である。


色々書いてきたが、ちょっと褒めすぎたかもしれない、反省しきりである。
http://2002mar.blog.fc2.com/blog-entry-859.html

2017/03/16 美智子皇后と徳仁皇太子の異常性


正田美智子という人物が入内して皇太子妃となり、皇后となってのほぼ60年間を歴史的に振り返ると、極めて異常性に満ちたものに見えて仕方がない。

日本が当時のアメリカ大統領、ルーズベルトによって強引に対アメリカ戦に引きずり込まれて以来、数々の非人道的な攻撃に曝されて降伏させられ、アメリカが犯した全ての犯罪の罪を押し付けて負わされ、天皇を戦犯の人柱として絞首刑にせんとした企みが、昭和天皇の捨て身の戦法に、逆に感激してしまった占領軍代表のダグラス・マッカーサー元帥は、作戦を変えて、日本国民の崇敬の対象である皇室に最も下賤な人物を送り込んでかく乱し、土足で踏み荒らして軽蔑の対象にすり替える戦法取ったが、これが見事に的中し、正しい目を持つ日本人には皇室に対して猜疑心を掻き立て、無知な国民には穢れた皇室をそのまま受け入れて支那や朝鮮半島の人々に蔑(さげす)まれるよう緻密に計画を立てたようだ。

ここでえり抜かれた工作員が正田美智子という女狐であった。

 彼女は自分の立場を十分に認識し、知恵遅れの皇太子に近づき、これを篭絡した。

明仁皇太子の教育にはアメリカからはバイニング夫人の英語教育もあった筈だが、教育効果はなかったようだし、宮内庁の教育係として有名な小泉信三氏も関わっていたが、彼の影響と言えば、GHQの意向通り、正田美智子を皇太子に近づけたことで、その罪はやはり大きいだろう。

彼も、美智子も、それにもちろんバイニング夫人もキリスト教徒である。

美智子は自分の影の力を十分考慮して、かなりの邪魔な人物を抹殺して来ているようだ。

そんな彼女だから、彼女の日本的な倫理観は期待できないようで、既に何人かの男性の噂も囁かれていた。

未だにカトリック教徒らしい様相を捨て去ろうとしないのも異常である。

彼女の異常性を列挙すれば、

1.明仁天皇という存在を無視するかのように、例えば、共産党員の葬儀に出るといった単独行動が目につく。

2.それに、公衆を前にして彼女自身の単独発言が多すぎる。


従来皇后というお立場から、天皇を差し置いて、単独でインタビューをしたり、感想を述べたりするのは極めて異常であるのに、これに異を唱える人がいないのも不思議と言えば不思議。いやしくも、天皇の后(きさき)たる身分で、「この一年、身内の全員がつつがなく過ごせたことは幸いな事でした…」と、自分の個人生活だけしか関心のないような発言は以ての外である。

それに、身内が本当につつがないのか?それなら拒食症の孫娘の激やせは偽物なのか…?

辺りに異臭をまき散らしている息子の人工膀胱状態はつつがないことなのか?

その息子の嫁に至っては「南無妙法蓮華経」以外受け付けていないのに、それでよいというのか。嘘で固めた皇室など見たくもないわ。


 徳仁皇太子に至っては、態々記者会見を開いてまでして、誰かに創作してもらった原稿を棒読みする長談話は自分の馬鹿さを紹介しているようなものである。廃太子と異名をとっていることを全く知らないらしい。

それに目が悪いのなら、原稿を読む時に眼鏡位かけたらどうでしょうねえ。大抵のマスメディアは素通りして、何事もなかったように見えるが、実際の本人の声を聞く限りでは「般若心経(はんにゃしんぎょう)」を「はんにゃしんきょう」と読み違いしていたようです。振り仮名を読み違えるとは、恥の上塗りである。

それに分かりもしない内容をくどくどと説教するのは聞いている方がうんざりするのが常識だから、そんなこと位、将来国民の上に坐して日本の象徴となる人は肌で感じ取って欲しいというものである。記者会見というものの殆どは先に原稿を手渡しておいて行うやり方は極めて形式的なものだから、こんなやり方を選ぶのは余り賢い人のすることではない。早く、自分の不適性を悟って、秋篠宮にバトンタッチしたらかえって国民各位から賞賛されると思いますが・・・。
http://shouwahitoketa.blog.fc2.com/blog-entry-540.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/118.html#c8

[近代史02] イリーナ・スルツカヤ _ Let it be 中川隆
13. 中川隆[-12974] koaQ7Jey 2019年1月15日 19:54:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019.01.15
支配層はショー・ビジネスを人心を操る重要な道具として使っている


 人心を操作する上でショー・ビジネスは重要な役割を果たしてきた。その影響力を西側の支配層が知ったのはベトナム戦争当時だろう。

 ベトナムでテト攻勢があった1968年当時、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズやミック・ジャガー、ビートルズのジョン・レノン、ドアーズのジム・モリソン、あるいはジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンなどのロック・スターも戦争に反対する意思を示していた。

 こうした人々が戦争反対で連携した場合、支配層は侵略戦争の継続が困難になる可能性が高かったのだが、こうした支配層にとって幸運なことに、平和を訴えるスターたちは次々に死んでいく。

 例えば、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたというジョーンズは1969年7月にプールで死亡(殺人の目撃証言がある)、その5ヶ月後にはオルタモントで音楽フェスティバルでローリング・ストーンズ演奏中にメレディス・ハンターという若者が銃を構えながらステージに登るという出来事もあった。

 1969年にはマフィアがヘンドリックスを誘拐、マネージャーになった元MI6(イギリスの対外情報局)マイク・ジェフリーが自身のマフィア人脈を使って救出したとされているが、ジェフリーが誘拐を計画したとも疑われている。ヘンドリックスを麻薬漬けにしたのはジェフリーだともいう。モリソンが変死した2ヶ月後、ヘンドリックスは問題のマネージャーを解雇、その翌日にヘンドリックスは死亡した。1970年には反戦コンサートへの参加を計画してジョプリンがヘロインの過剰摂取で死亡している。

 1970年代に活動を休止していたレノンは1976年にビートルズの再結成に向けて動き始め、1980年10月にはシングル曲「スターティング・オーバー」をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表して本格的に音楽活動を再開させた。

 新曲を発表する前年、1979年12月にNATOは83年にパーシング2ミサイルをNATO加盟国に配備することを決定、核戦争を懸念する声が世界的に高まり、反戦/反核運動が盛り上がっていた。そのタイミングでレノンが復活することを支配層が恐怖したことは想像に難くない。レノンは1980年12月、マーク・チャップマンに射殺された。

 モリソンは別の側面でも注目されている。父親のジョージ・ステファン・モリソンはトンキン湾事件当時、アメリカ海軍の空母ボノム・リシャールの艦長としてそのトンキン湾にいたのだ。

 フランク・ザッパの父親、フランシス・ザッパが情報機関の仕事をしていたことも知られている。化学戦の専門家だったのである。

 親イスラエル派として有名なトニー・ブレアはイギリスの首相になる前、1994年1月に妻のチェリー・ブースとイスラエル政府の招待で同国を訪問、帰国して2カ月後にはロンドンのイスラエル大使館で富豪のマイケル・レビーを紹介された。その後、レビーはブレアの重要なスポンサーになる。

 そのレビーは音楽業界で成功した実業家。1960年代から70年代にかけて興行主として活動、マグネット・レコードを創設、後に会社を売って資産を築いている。

 ハリウッドや有力メディアと情報機関との関係は本ブログでも繰り返し書いてきたが、アメリカの音楽業界にも情報機関のネットワークが張り巡らされている。1977年にリリースされたイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」の中に「1969年からスピリッツはない」という歌詞がある。アメリカ音楽会の状況と理解することも可能だ。

 日本も似たような状況になっているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901150000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/551.html#c13

[近代史02] 小沢一郎先生を襲った恐怖とは 中川隆
94. 中川隆[-12973] koaQ7Jey 2019年1月15日 19:55:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019.01.15
支配層はショー・ビジネスを人心を操る重要な道具として使っている

 人心を操作する上でショー・ビジネスは重要な役割を果たしてきた。その影響力を西側の支配層が知ったのはベトナム戦争当時だろう。


 ベトナムでテト攻勢があった1968年当時、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズやミック・ジャガー、ビートルズのジョン・レノン、ドアーズのジム・モリソン、あるいはジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンなどのロック・スターも戦争に反対する意思を示していた。


 こうした人々が戦争反対で連携した場合、支配層は侵略戦争の継続が困難になる可能性が高かったのだが、こうした支配層にとって幸運なことに、平和を訴えるスターたちは次々に死んでいく。


 例えば、レノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたというジョーンズは1969年7月にプールで死亡(殺人の目撃証言がある)、その5ヶ月後にはオルタモントで音楽フェスティバルでローリング・ストーンズ演奏中にメレディス・ハンターという若者が銃を構えながらステージに登るという出来事もあった。


 1969年にはマフィアがヘンドリックスを誘拐、マネージャーになった元MI6(イギリスの対外情報局)マイク・ジェフリーが自身のマフィア人脈を使って救出したとされているが、ジェフリーが誘拐を計画したとも疑われている。ヘンドリックスを麻薬漬けにしたのはジェフリーだともいう。モリソンが変死した2ヶ月後、ヘンドリックスは問題のマネージャーを解雇、その翌日にヘンドリックスは死亡した。1970年には反戦コンサートへの参加を計画してジョプリンがヘロインの過剰摂取で死亡している。


 1970年代に活動を休止していたレノンは1976年にビートルズの再結成に向けて動き始め、1980年10月にはシングル曲「スターティング・オーバー」をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表して本格的に音楽活動を再開させた。


 新曲を発表する前年、1979年12月にNATOは83年にパーシング2ミサイルをNATO加盟国に配備することを決定、核戦争を懸念する声が世界的に高まり、反戦/反核運動が盛り上がっていた。そのタイミングでレノンが復活することを支配層が恐怖したことは想像に難くない。レノンは1980年12月、マーク・チャップマンに射殺された。


 モリソンは別の側面でも注目されている。父親のジョージ・ステファン・モリソンはトンキン湾事件当時、アメリカ海軍の空母ボノム・リシャールの艦長としてそのトンキン湾にいたのだ。


 フランク・ザッパの父親、フランシス・ザッパが情報機関の仕事をしていたことも知られている。化学戦の専門家だったのである。


 親イスラエル派として有名なトニー・ブレアはイギリスの首相になる前、1994年1月に妻のチェリー・ブースとイスラエル政府の招待で同国を訪問、帰国して2カ月後にはロンドンのイスラエル大使館で富豪のマイケル・レビーを紹介された。その後、レビーはブレアの重要なスポンサーになる。


 そのレビーは音楽業界で成功した実業家。1960年代から70年代にかけて興行主として活動、マグネット・レコードを創設、後に会社を売って資産を築いている。


 ハリウッドや有力メディアと情報機関との関係は本ブログでも繰り返し書いてきたが、アメリカの音楽業界にも情報機関のネットワークが張り巡らされている。1977年にリリースされたイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」の中に「1969年からスピリッツはない」という歌詞がある。アメリカ音楽会の状況と理解することも可能だ。


 日本も似たような状況になっているだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901150000/

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/296.html#c94

[近代史3] 勝又壽良 _ 中国・朝鮮ヘイトでグローバリズム礼賛のアホ経済評論家 中川隆
15. 中川隆[-12972] koaQ7Jey 2019年1月16日 07:38:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
中国・朝鮮ヘイトの勝又壽良さんは中国・朝鮮の事が何もわかっていないですね _ 2


韓国、「新国防白書」米を基軸に中国を優先し安保体制「日本三番手」2019年01月16日

 

日本政府は昨年12月、安全保障政策の基本的指針である「2018年の防衛計画の大綱」を決めた。2010年と2013年の防衛大綱では、安全保障協力パートナーとして韓国が、米国に続いて登場した。今回の防衛大綱では米国、豪州、インド、東南アジアに次いで5番目に韓国が明記されている。これは、中国の海洋膨張を共同で防ぐ目的である。韓国が外れたのは、信頼度が落ちた結果である。

韓国が、先に発表した『新国防白書』では、米国との同盟を基軸にして中国との協力を優先する。日本を三番手に落としてきた。日本がすでに、韓国を五番手に格下げしているので、韓国もこれに対抗して日本を格下げすることになったもの。「おあいこ」である。

韓国は、日本へ報復したつもりで胸の溜飲を下げているだろう。だが、この「新国防白書」は米国がどう反応するか見物である。米中関係が「冷戦状態」になっている中で、その両方の国に韓国の安保体制を委ねるという、前代未聞のストーリーが展開するからだ。米国は、ますます韓国への信頼度を低めるにちがいない。韓国は、中国にも「通じる」危険性を秘める訳で、極めて厄介な存在となってきた。

日本の安保体制は、中国軍の膨張を防ぐ点にある。韓国は、その中国と手を組むと言うのである。日本にとっての韓国は「リスクのある国」となってきた。韓国が、防衛面で日本から離れるのは、願ったり叶ったりの事態であろう。「旭日旗」を意味もなく蛇蝎(だかつ)のように嫌う韓国軍と共同歩調はとれないのだ。

もともと、日本は韓国への信頼度が極めて薄い関係にある。安全保障面でこれまで「つながって」きたのは、米国という触媒によって関係を持ってきたにすぎない。米国も、韓国には嫌気がさしており、日米が揃って韓国との溝を深めれば、韓国は立ちゆかぬはずである。日本は、感情論の韓国に振り回されてきただけに、日韓関係を冷静に見る上で、チャンスとなった。

『中央日報』(1月15日付)は、「新しい国防白書から韓日が基本価値を共有、文言削除」と題する記事を掲載した。

(1)「韓国国防部が15日に刊行した『2018国防白書』の中の周辺国との国防交流協力に関する部分で、韓中協力が韓日協力よりも先に記述され、韓日間の『基本価値を共有』という記述も削除されていたことが分かった。今回の国防白書では、『わが軍は韓半島(朝鮮半島)と北東アジア地域の平和と安定のために韓米同盟を基盤に、中国、日本、ロシアと国防協力関係を発展させている』と記述した。前回の2016年版では、韓日国防交流協力を先に記述して韓中、韓露はその後に紹介していた」

日本は、韓国に重要な軍事機密情報を提供している。人工衛星や日本海で得た北朝鮮軍の動向などだ。日本は今後、こういう機密情報も韓国へ通報する義務もないし中止すべきである。日本という存在がいかに大きいか。それを韓国に自覚させるために、手を引くべきだろう。

(2)「また、『第3節 国防交流協力』の中の『韓日国防交流協力』の部分で、『韓日両国は地理的、文化的に近い隣国であり、世界平和と繁栄のために共に協力していかなければならないパートナー』と表現した。2016版では韓日関係について、『韓日両国は自由民主主義と市場経済の基本価値を共有しており、北東アジア地域はもちろん、世界の平和と繁栄のために共に協力していかなければならない隣国』と記述していた。2018年版からは『自由民主主義と市場経済基本価値の共有』という文言が消えたのだ」

下線を引いた部分は、極めて象徴的である。日韓には、「自由民主主義と市場経済基本価値の共有がなくなった」としている。韓国の文政権は、北朝鮮との統一を前提にして、教科書の書換えを始めている。韓国の国是は「自由と民主主義」だが、この中から「自由」を削除している。北朝鮮の「人民民主主義」と歩調を合わせるためだ。

韓国には、「市場経済基本価値」も消えかけている。文政権になってから始めた「最低賃金の大幅引上げ」は、経済実勢(市場経済基本価値)を無視してものだ。皮肉にも、韓国は日本との間に、「自由民主主義と市場経済基本価値の共有がなくなった」というが、それは、韓国自身が捨て去った事柄である。日本を誹謗する積もりの表現が、韓国自身のことを指していることに気付くべきだろう。

(3)「一部では、このような国防白書の記述の変化は、韓国大法院(最高裁)の日帝強制徴用賠償判決や『レーダー照射葛藤』などをめぐって両国関係が悪化した影響だという分析が出ている。またこれに先立ち、日本政府が韓日関係に関連して『基本的価値を共有』という文言を政府関連文書から削除したことも影響を及ぼしたと分析されている。日本外務省は2015年3月、ホームページの『最近の日韓関係』の項目で、『わが国と自由と民主主義、市場経済などの基本的価値を共有する重要な隣国』という韓国についての文言を削除し、『最も重要な隣国』という表現に変更していた」

これで、日韓それぞれ長年にわたり相手国に抱いてきた不平不満が、すっかり洗い流された感じもする。もはや、過去のことを持出されて賠償しろとか謝罪しろと言われなくなろう。必要最低限の交流だけに止めて、冷却期間をおくべきだ。



コメント

1 中川隆:そもそもアメリカは最初から中共と同盟国 2019年01月16日 07:35 id:S9zJu4q30

そもそもアメリカは最初から中共と同盟国で、アメリカの製造業の工場もすべて中国に移転している。

北朝鮮はアメリカと中共が協力して作った国

周恩来とキッシンジャーは日本がアメリカと中国の潜在敵国だから
日本には絶対に再軍備させない、核武装させないという密約をしている。

トランプ現象は最近の一時的なものだから、すぐにアメリカと中国は同盟関係に戻る
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/archives/15027898.html?1547591717#comment-1

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/142.html#c15

[リバイバル3] マルクスはやはり正しかった _ もうすぐ共産革命の嵐が吹き荒れる時代がやって来る 中川隆
230. 中川隆[-12971] koaQ7Jey 2019年1月16日 09:12:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

2019年01月16日
富裕層より生活保護者のほうが経済に貢献している?


生活保護者は支給した全額を消費してくれるので、お荷物どころか最良の消費者といえる

画像引用:http://livedoor.blogimg.jp/monkey_papa0822-fb_parfect/imgs/1/8/18ecf5a9.jpg

富裕層が出ていくと日本は困るのか

最近日本からアメリカなどに移住する富裕層が増えているそうで、理由は資産に課税されるからだそうです。

このニュースは「富裕層が日本から出ていったら大変だ」というニュアンスで報道されていたが、本当に大変なのでしょうか?

一般的な理解では日本の上位1%の富裕層が日本から出ていくと、日本はその分貧乏になる気がします。



どの国でも資産の50%くらいは上位10%ほどの富裕層が所有していて、日本も例外ではありません。

日本政府は相続税の最高税率を55%とし、富裕の世襲を断ち切る方針を示しています。

アメリカではバフェットやビルゲイツのような超富裕層が、相続税を一切払わず子供に資産を受け継げる。


その仕組みは慈善団体に資産全額を寄付することで、息子や娘は団体役員に収まります。

団体理事や役員は寄付がもっとも多い人が収まり、世襲が可能で税金は1ドルもかかりません。

そして慈善団体は「営利事業を行い」利益の一部を恵まれない人に寄付し、一部を出資者に配当します。


つまりアメリカの慈善団体は非課税の投資会社と同じで、株や土地や企業買収で利益を挙げて出資者に還元しています。

このような制度は日本にはないので、富裕層からはとても魅力的でしょう。

問題は富裕層が出ていったら日本はその分貧しくなるのかでした。

富裕層より生活保護者の方がお金を使っている。

富裕層は生活に必要な金額の数百倍や数万倍ものお金を持っているので、大半を資産運用に使っています。

たとえば資産100億円年収10億円の人は、毎月の生活費100万円以内としたら、保有資産の1万分の1しか毎月消費していません。

大半は株式や投資信託や土地を買って運用して、新たなお金を増やし続けます。


それも経済貢献には違いないのだが、富裕層だからと言って毎月フェラーリを買う訳ではなく、毎年豪邸を建てたりもしません。

富裕層になったら普通に生活するだけではお金を使いきれなくなり、使っても使ってもお金は増えていきます。

つまり富裕層とは多額の資産を保有しているけれども、一切消費しない人たちだと定義できます。


逆に貧困層の代表とされる生活保護世帯では、お金がないので受け取った金額を100%消費に使います。(多少の貯金は認められている。)

生活保護を受けていない貧困世帯は借金を背負っていることが多いので、100%どころかもっと消費しているでしょう。

すると貧困者や生活保護者は「資産の全額を毎月消費する人達」と定義できます。


よく言われる話で富裕層対象の減税とか給付金を実施しても経済効果はほとんどありません。

富裕層は受け取った給付金の分を資産運用に回すだけで、1円も消費に使わないので経済効果がゼロです。

対する貧困層は政府から受け取った金を100%使い切ってくれるので、景気対策効果は抜群です。


このように富裕層がいくら資産を持っていても、それは永遠に消費されない「死んだ金」です。

富裕層が出ていったら投資家が居なくなる気がしますが、投資に国境はないので海外投資家が日本に投資してくれます。

このように考えると富裕層が出ていくデメリットは特になく、むしろ資産の不均衡を是正するために出て行って貰えば良い。
http://www.thutmosev.com/archives/78735398.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/704.html#c230

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
76. 中川隆[-12970] koaQ7Jey 2019年1月16日 09:45:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]


457名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 10:14:28.83ID:SNiUinBB

そもそも、ヨーロッパ貴族は BGM的にクラシックを聴いていたんだよ

デッカ・デコラ とか ジョーダン・ワッツ ステレオーラ とか貴族しか買えない最高級品でもBGM専用機というのが有るからね


460名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 10:20:53.21ID:SNiUinBB

YG+FM+dCS の1億円のシステムで女性ヴォーカルや紅白みたいなアホ音楽を真剣に聴いている日本の成金と

デッカ・デコラでヘンデルやモンテヴェルディをBGM的に流しているイギリス貴族と

どっちが知性が上かだよね

462名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 10:29:22.54ID:VdyF+2zm>>464

音質向上に知性や経験は必要だか聴くジャンルでバカにするのは筋違い、最高音質でエロ動画見てる奴カッコいいと思う


464名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 10:52:54.26ID:SNiUinBB
>>462
>聴くジャンルでバカにするのは筋違い、

ドストエフスキーの読者と探偵小説の読者の知性が同じだと思うバカは一人もいないだろ

465名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 10:55:05.76ID:SNiUinBB

まあ、IQ が高いか低いかで人間の優劣を判断するのは良くないんだけど

文学や芸術や科学は IQ が高い人にしか理解できないからなあ

466名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 10:57:51.29ID:SNiUinBB

IQ 低い成金がオーディオを買う時は

物理特性や原音に近いかどうかだけで判断するから

YG とか マジコみたいな どうしようもないダメ・スピーカーを買いたくなるんだな

467名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 11:00:45.67ID:SNiUinBB

YG や マジコ使ってるアホ成金は

ゴッホやセザンヌの絵より、同じ場所から撮った写真の方が
分解度や色彩感が正確だから、優れていると思ってるんだな

468名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 11:09:32.05ID:RoEgRcLj

ここまでのどちらの意見でも、どのような認識でも
ピュアオーディオのバブルはもうこないという見通しになることに遺憾の意

469名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 11:11:05.18ID:j3A3WhrP

オマエラがピュアオーディオの将来を指示している

470名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/12(土) 11:20:18.00ID:SNiUinBB

YG や マジコを何千万円も出して買うより 中古品で

デッカ デコラ 200万円

QUAD ESL57 18万円

を買うのが正解

しかし、音がわからないアホ成金は YG や マジコの方を買うんだよな


491名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 10:30:07.67ID:kQlv1nTe>>495

せめて国産だけでも、そのスピーカー専用のアンプ発売しなきゃ、基本どんなSPでも鳴らせる設計じゃコスパも出音もたいした製品にならない
つか、アンプ聴き比べできるの東京名古屋大阪以外は勘で購入なんてありえへん、ネットで聞いても結局試聴ありきじゃ拡販は無理


492名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 10:38:57.86ID:0TXolKeK

初代stax は78dB の静電型スピーカーと専用のアンプを出していて、
欧米の専門家から世界最高の音質と言われていたけど

菅野沖彦やステレオサウンドの評論家が完全に黙殺したので、日本では全く売れなかった

日本からいくら物凄い傑作が生まれても、エレクトリみたいに日本の評論家に金積まないと売れないんだ

493名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 10:44:07.35ID:0TXolKeK

菅野沖彦先生は亡くなられたけど、エレクトリは引き続き宜しくね。
エレクトリ以外からの輸入品はすべてゴミなので絶対に買っちゃダメだよ:

株式会社エレクトリ|音響機器・映像機器の輸入商社
弊社取扱いブランド

AMPZILLA(アンプジラ):プリアンプ、パワーアンプ
Atacama(アタカマ):オーディオラック
ATC(エーティーシー):スピーカーシステム、プリアンプ、パワーアンプ
EMT(イーエムティー):カートリッジ、シェル、プリアンプ
FIRST WATT(ファーストワット):パワーアンプ
HEGEL(ヘーゲル):アンプ、CDプレーヤー、DAコンバーター
MAGICO(マジコ):スピーカーシステム
McIntosh(マッキントッシュ):プリアンプ、パワーアンプ、インテグレーテッドアンプ
MERGING(マージング):DAコンバーター
METRONOME(メトロノーム):CDプレーヤー、DAコンバーター、アンプ
NORDOST(ノードスト):AVケーブル
PASS(パス):プリアンプ、パワーアンプ、フォノEQ、スピーカーシステム
stst(エスティーエスティー):アナログプレーヤー
WesternElectric(ウェスタン・エレクトリック)):プリアンプ、パワーアンプ、CDプレーヤー、真空管

494名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 11:33:07.58ID:ORczZynw>>496

ラジカセやレコードプレーヤーで音楽聴くと
不満が出る
オーディオ機器揃えると劇的に音が良くなった
音楽媒体もレコードやテープだから
取っ替え引っ替えが当たり前だったけど
デジタルになって音もそこそこ良くなれば
普通の人は満足だし音楽を沢山入れられて
自由にセレクトできればわざわざCDやDVDに
場所をとられて出してセットしてしまって
なんて面倒くさいことしたくない
オーディオ機器があればBluetoothで
飛ばしてスピーカーで聴ける
これからのオーディオはそういう方向に行くこと
は否定できないんじゃないか

496名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 12:15:35.86ID:kQlv1nTe
>>494
デジタルになってピュア的には逆に手間も金もかかるけどな

500名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 13:04:40.21ID:CvTlnjiN

アニオタ相手に高額イヤホンを売るのが主流になるのではないかな。
ツイッター見てるとオーディオに金使ってる人はほぼ確実にアニオタ。

501名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 13:13:38.18ID:0TXolKeK

ヘッドフォンやイヤホンで1年間も音楽聴いていると耳鳴り・聴覚障害になって
医者にかかっても永遠に治らない

502名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 13:16:04.45ID:A+5+Ra3J

10年後のオーディオ市場
1.一般人は音源スマホとBluetoothスピーカー。
2.ちょっとオーディオ好き一般人ならBluetoothレシーバー付きデジタルアンプをテレビと組み込み合わせ、スマホ音源と併用。
3.オーディオマニアはアナログアンプでテレビとは別に使用。

1と2はシンプルで機材点数が少ないので安価。
ネットワークは3は買うが2は買わない?
アナログアンプ自体がステータスでなくマニア専用のものに。アナログアンプはBluetoothと相性が悪く、一般人に相手にされない。
DAC内蔵アナログアンプなど何とか生きていそう。

503名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 13:22:20.85ID:0TXolKeK

スマホも WiFi もBluetoothスピーカーも電磁波障害で脳腫瘍や癌になるからはやる訳無い

504名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 15:16:07.10ID:A+5+Ra3J>>505>>510

CDPやネットワークプレーヤーを売りたいオーディオメーカーにとって、スマホとBluetoothで音源を完結させたいライトユーザーは頭痛のタネだと思います。
相手にするかしないかは重要な経営判断。マニア相手のマーケットは小さ過ぎる。

510名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 21:18:33.11ID:his5o0fJ
>>504
CDPは今後も数は売れない気がするがなあ。
と言うか今はDAC以降に高額なシステムを組んでいても
音源を収めてるのはNAS等のマスストレージでネットワークプレーヤー
を介して聞いてるのが結構いるのでは?


506名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 15:50:51.06ID:0TXolKeK

ワンルームマンションでは本棚1ケ置くのがやっとだから、ブックシェルフ・スピーカーなんて無理なんだよ

パソコン付属の1900円のスピーカーで聴くしかないな


512名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 07:39:40.34ID:YpM8a+5P

大編成をホログラムのように形成しつつ低音パートのあるべき位置から音が出るようにするのはお金がかかるのよ

513名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 10:55:30.00ID:la8yWgKa>>516

人々は音楽を聴かなくなった


514名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 11:32:45.16ID:S+FPSEl6

聴くような音楽が無くなった

515名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 11:59:25.18ID:E6ezDpnU

モーツアルトやベートーヴェンの名曲は余程の名演でなければクラシックファンは聴かない

昔はフルトヴェングラーの新しいライブが出る度に買っていたファンが沢山居たけど
最近の演奏家でそれだけの名演をする人は一人もいないから、聴きたいものが無いんだ

女性ボーカル聴くより、風俗行って生の声聞いた方がいいしね


518名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 13:58:05.93ID:CDSSZnBf>>524

昔はとか最近はって今より昔の方が良かった事例など全ての分野において何ひとつない事実

519名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 16:12:58.52ID:td6MQvHu

ソースがデジタルになったころ、デジタル対応とかいって商売ネタ
今、ハイレゾ対応。
対応することあんの?
するようなことしてから衰退が始まった。
それ以外、技術的に革新的な進歩ってあったの?
人間の感性は、それにともなって向上したのか?
100万以上するゴールドムントのCDPのの中身が1万円のパイオニアのCDPだったってどんだけ馬鹿にしてるのよ。

520名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 16:23:39.61ID:yf95yE9Q

本当に革新的なものは、
オーディオメーカーが
作りたくないモノ。

521名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 16:26:42.39ID:M4u2ImU3

音はメカだけでは決まらんよ
電源でも端子でも筐体でも音は変わる

ヴァイオリン一つも忠実に録音再生できてないのに
進歩を止めて衰退とかされては困るんだよな

522名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 16:40:30.88ID:CDSSZnBf

未だにGTRが最速だと言い張る人には何を言っても、、

523名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 16:44:00.85ID:S+FPSEl6

GTOに決まってんだろ

524名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 16:54:50.39ID:E6ezDpnU
>>518
>昔はとか最近はって今より昔の方が良かった事例など全ての分野において何ひとつない事実


ウェスタンのアンプよりいいのはまだ出てないだろ

531名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 23:08:42.07ID:YpM8a+5P
>>524
肉声を出すには最適なのは認める
いかんせんレンジが狭すぎるし仕方なく足した低域がモノラルでは低音パートの定位が出ないしオケが聴けない


  
488名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 10:21:39.25ID:0TXolKeK

スーパーCD より LP の方が遥かに音いいし

アンプでもスピーカーでもウェスタンよりいいのは一つも出てないし

最新で1930年代のより音が良くなった製品は一つもないんだよ

489名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 10:23:20.41ID:0TXolKeK>>497

俺は毎日、昔のビクターの安物の小型手廻し蓄音機で
ブルーノワルターやワインガルトナーのSP盤を聴いてるけど
それよりいい音を聴いた事は今迄一度も無い

オーディオは70年前から全然進歩してないんだ

497名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 12:51:51.36ID:Oi3+jGrf
>>489
そう思ってんのなら蓄音機で聴けばいい
私はしっかりと進化しているように見受けられる


490名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/13(日) 10:29:38.78ID:0TXolKeK

現時点で簡単に手に入る一番いい音はこれかな:

・ Western Electric WE555 Driver (1926)
http://mikami.a.la9.jp/audio/starplayer/starplayer.htm
http://mikami.a.la9.jp/audio/we555_r1/we555_r1.htm
http://mikami.a.la9.jp/audio/we555_r2/we555_R2.htm
http://mikami.a.la9.jp/audio/expr2023/expr2023.htm

・ G.I.P.Laboratory GIP-555 - 555W : WE555 ドライバーのレプリカ
http://www.gip-laboratory.com/seihin555.html

・G.I.P.Laboratory Western Electric WE555 のレプリカ・ドライバーを使ったスピーカーシステム

@) G.I.P.Laboratory GIP-12A horn system : Western Electric WE555 のレプリカ・ドライバー使用
片チャンネル寸法: W:1143 × H:1715 × D:1194, 片チャンネル重量 92kg
http://www.gip-laboratory.com/seihin12system.html


A) G.I.P.Laboratory GIP-30154 horn system : Western Electric WE555W のレプリカ・ドライバー使用
片チャンネル寸法: W:1735 × H:1336 × D:660, 片チャンネル重量 280kg
http://www.gip-laboratory.com/seihin30154hornsystem.html


525名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 18:25:52.46ID:Hjip2HxC>>526

スピーカーは解析技術のせいかすごく進歩していると思う
特にトールボーイタイプ
これをテレビの両脇において
映画もテレビもyoutubeもピュアオーディオと同時に楽しめる

好きな音楽を聴きながらyoutuberの人の温泉動画を見てると温泉でリラックスしている気分になります


526名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 18:47:35.63ID:Hjip2HxC
>>525
4k動画で素人でもNHKに負けない動画が撮影できる
本人が好きなこと、楽しいことを情熱をこめて伝えようとするyoutuberが爆発的に増えている
ということがあるので、
美しい自然とか観光地とかお散歩動画とかキャンプとか温泉とか巨大重機とかの動画を見ながら
音楽を聴くことができます

527名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 19:06:31.17ID:E6ezDpnU>>528

温泉動画聴くのに1億円の装置が必要か?


529名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 20:08:49.62ID:E6ezDpnU>>530>>532

パソコン付属の1500円のスピーカーで十分だろ

530名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/14(月) 21:18:47.91ID:Hjip2HxC
>>529
それで不満が無いというのならそれでいい

ただせっかく高品質の機器が手ごろな価格で入手できる環境にあることにも気づいてほしいとは思います


532名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/15(火) 18:34:32.89ID:sluNdOy3
>>529
Bluetoothスピーカーでも十分。
PCがBluetoothを発信するか
事前の確認が必要ですが。
小音量なら大差ないですよ。

533名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/15(火) 19:06:34.77ID:qzNJ22Pl

TVの音声としてなら 16p2WAY程度で十分。
ハリウッド映画でバンバン爆発するなら+20pサブウーファーで十分。
ROCKやPOP、アイドルのライブ映像流すのでも16pの時点で十分。
クラシック流すとなると・・・30p3WAY以上が欲しくなる。
そして30p3WAYとか使うと・・・普段のTV用音声としては低音うざすぎて邪魔くさい。

534名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/15(火) 19:16:26.01ID:AVTHvb+6>>542

最近の20cm2発なら、598スピーカー全盛期の30cmよりも低域が充実してるんだよなぁ

結構高いけど

542名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 00:14:45.94ID:RCdE/Epb
>>534
カタログスペックで どれだけ周波数が下に伸びてても、
2発使ってても 20pは20pの音しかしないよ。

だからこそ (低音うざすぎて)使いにくくてほろんだ30p3WAYの代わりになれてる。

535名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/15(火) 19:22:21.79ID:pJp3Admg

この連休近畿地方のヨドバシのオーディオコーナー行ってきたけど、ピュアオーディオコーナーに人が全然居なくて、この市場終わってるなぁと思った。
そりゃ、日本のメーカーも新製品出さないわw Bluetoothスピーカーに新規のお客さんが完全に食われてる。ガチで衰退するやろww


537名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/15(火) 21:28:46.96ID:sluNdOy3

家の近くにヨドバシあるけど、オーディオ売り場は雑然として売り物も少ない。何も置いてない棚がいくつもあり、人がいる様子もない。カタログは散乱してるし、改装中の工事現場みたいだった。消滅しそうな雰囲気だった。

538名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/15(火) 21:35:40.45ID:+q1D67KR

オーディオファイル=フルトヴェングラーのファン
女性ヴォーカルのファン=風俗マニア

なんだよ


フルトヴェングラーを聴いた事もないアホが高いオーディオ買う訳ないだろ

539名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/15(火) 22:09:13.93ID:yD5HkWVm

フルベンなんか聞いたら、高いオーディオなんてアホクサw
ってなるだろw
オーディオが良くなって有難みが増すのは、ワルターとかセル辺りからかな?

540名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/15(火) 22:28:55.92ID:+q1D67KR

クラシックファンというのは要するに、

フルトヴェングラー - ベルリンフィル のティンパニの轟きを聴きたいだけなんだ

だから、周波数レンジは 100Hz - 4000Hz さえ出れば十分なんだ

WE91B やオートグラフ は大体そのレンジだから 300B や昔のタンノイが人気有るんだ


543名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 07:09:26.60ID:MVrFLGtV>>544

クラシックファンは

Wilhelm Furtwängler Coriolan, overture - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QoultibNlus

Beethoven - Symphony n°7 - Berlin - Furtwängler 1943 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-CNrGqHKoa8

Beethoven - 9ª Sinfonia - completa - gravada em 1942 - Furtwängler - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jJMSxjgqqdA

のティンパニが凄絶に鳴ってくれる装置が欲しいだけなんだ。

だから今でもクラシックファンにはオートグラフやヴァイタボックス コーナーホーンが断然人気で

YG や マジコや B&W は洟も引っ掛けられないんだ

544名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 07:11:05.72ID:l7AgVfrs
>>543
クラシックファンだけど、そういう決めつけやめてくれない?

546名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 07:23:11.45ID:MVrFLGtV

>>544
>クラシックファンだけど、そういう決めつけやめてくれない?

カラヤンとかポリーニ聴いてるアホ・クラシックファンについてはわからない

演奏の違いが判らないんから、オーディオの優劣もわからないんだ


545名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 07:20:54.84ID:MVrFLGtV

クラシックファンのオーディオマニアは要するに、

フルトヴェングラー・ベルリンフィル のティンパニの轟きを聴きたいだけなんだから

周波数レンジは 100Hz - 4000Hz で十分なんだ 。それより広がると響きが薄くなって凄絶さが無くなる。

クラシックファンのオーディオマニアに一番人気が有るアンプはウェスタンの WE91A、WE86B、WE124 

1937年ということでWEの映画システムのトランスがほとんど載っています。

特に91アンプは入力トランスの285Aも出力トランスの171Aも、ともに100〜6000Hzの再生帯域なのでその間にどんなに広帯域の高NFBアンプを持ってこようと特性はトランスによって決まってしまいます。


Western Electric Amplifier の周波数帯域

WE86 : 40〜10000 Hz
WE91 : 50〜 8000 Hz

なにせ入力トランスも出力トランスも100〜6000 Hz ですから。
http://n-nobo.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/1-eeb8.html


547名無しさん@お腹いっぱい。2019/01/16(水) 08:17:42.95ID:MVrFLGtV

クラシックファンのオーディオマニアは誰でも同じだけど

ピアノなら

Vladimir Horowitz - Chopin Ballade No. 1 (live 1946) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KG1VSAWQNJk

mussorgsky Pictures at an Exhibition, Horowitz (1951) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=llr9zcPTjGo


の低音が凄まじく鳴って欲しいだけ。

周波数レンジは 100Hz - 4000Hz で十分
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/pav/1497707977/

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c76

[近代史3] 昔の日本映画は熱かった _ 高畑勲 野坂昭如_火垂るの墓 (スタジオジブリ 1988年)

高畑勲 スタジオジブリ 『火垂るの墓』 1988年 東宝

動画
https://www.youtube.com/watch?v=hGQHI1jueQs&list=PLG_ONUVOCj1csxhQCbHe4uIwvHaF4IOK3

監督・脚本 高畑勲

原作 野坂昭如

音楽 間宮芳生

挿入歌 - 「埴生の宿」(原題「Home Sweet Home」)

配給 東宝 1988年4月16日


アニメ映画『火垂るの墓』(英題:Grave of the Fireflies)が、新潮社の製作で1988年(昭和63年)4月16日から東宝系で公開された。制作はスタジオジブリ、監督・脚本は高畑勲。挿入歌としてアメリータ・ガリ=クルチの「埴生の宿(原題:Home, Sweet Home)」が使われた。

原作同様に清太の死が冒頭で描かれ、幽霊になった清太の「僕は死んだ」というナレーションから始まってカットバックしていき、神戸大空襲から清太が死地となる駅構内へ赴くまで原作の構成をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写(原作では清太が池で泳いでいる間に死んでいる)や、ラストで清太が去って行った後の山から見える景色が現代の神戸の街のシルエットに繋がる構成などはアニメオリジナルである。

作中で画面が赤くなる時は、清太と節子の幽霊が登場し近くで見ており、記憶を何度も繰り返し見つめていることを意味し、阿修羅のように赤く演出されている[9][注釈 3][注釈 4]。ただしアニメ絵本ではこの部分は大幅に省略され、ラストで現代の神戸の街を見ている2人が赤い状態の幽霊であることを示唆する場面があるのみである。アニメ絵本は概ね映画本編を忠実になぞっているが、唐突に出てきた台詞・行動・場面等の説明がなされている。

キャスト

公開当時、清太の声を担当した辰巳努は16歳1ヶ月、節子の声を担当した白石綾乃は5歳11ヶ月で、共に作品舞台と同じ関西地区の出身者である。清太、節子の母の声を担当した志乃原良子も大阪出身であり、他にも、同じ関西が舞台である高畑勲の作品『じゃりン子チエ』に出演経験のある山口や表淳夫も含めた関西出身の俳優が多数出演しており、本職のアニメ声優はほとんど起用されていない。


清太 声 - 辰巳努
本作の主人公。14歳(中学3年〔旧制〕)。
劇中で、通っていた神戸市立中〔旧制〕は空襲で全焼したことが清太により言及。家も焼け出され、母も死去し、幼い妹・節子と共に西宮の親戚の家に行くが、叔母と折り合いが悪くなり自由を求めて節子と共にその家を出る。衰弱する節子に食べ物を与えるため盗みをするなど必死になるが、栄養失調で節子を失い、1945年(昭和20年)9月21日夜、清太自身も三宮駅構内で栄養失調のため衰弱死した。同時に節子の遺骨が入ったドロップの缶は駅員に放り投げ出されていった。

アニメ映画では死の直前、意識が朦朧としても節子のことを考えていた。盗みを始めた理由についてアニメ絵本では節子が病気になりかかっているので「なんとかしなければならないと思ったため」という記述がある。


節子 声 - 白石綾乃
本作のヒロイン。4歳。清太の妹。
母の言葉や着物のことを覚えている。清太から母が亡くなったことは聞かされず、病院に入院していると誤魔化されていたが、中盤で、実は叔母から母が既に亡くなったことを聞き、知っていたことが判明する。

栄養失調から来る衰弱のため体に汗疹や疥癬ができ、髪には虱がつき、何日も下痢が続いていた。その影響で徐々に目も虚ろになり焦点もあっておらず、死の直前は清太の言葉もほとんど通じていなかった。この際、おはじきをドロップと思って舐めたり、石を御飯だと勘違いするほど思考力が落ちていた。

スイカを食べた後、目を覚ます事はなく息を引き取った。彼女の遺体は清太によって大事にしていた人形、財布等と共に荼毘に付され、遺骨はドロップの缶に納められた。

死因については、栄養失調や弱による死亡説のほか、冒頭の空襲で軍需工場の出火により有毒物質を含む黒煙の雨粒を体内に取り込んだためとする説がある。劇中で何度か「左眼が痛い」と発言しているのもそれに起因している。幼く免疫力が低かったことや栄養失調が重なったため、清太よりも早く死に至ったとする説である。ただしこの説は清太と節子の栄養状態が同一水準だった場合を前提としており、劇中には盗みに入った家で清太だけが盗み食いをする描写があるため、仮説の一つにとどまる。

ドロップが好きで、手持ちを全て食べつくし、衰弱し何を食べたいかを聞かれ最後に「またドロップ舐めたい」と語っていたが叶うことはなかった。アニメ絵本で清太は節子を荼毘に付す直前、「もう一度ドロップ舐めさせてあげたかった」と述壊している。

モデルは、戦時中に栄養失調で亡くなった原作者の妹である。

なお節子役を演じた白石は「節子と同年輩で関西弁の子役」という監督の要望で起用され、マネージャーから口伝えにセリフの指導を受けプレスコで収録を行った。

志乃原は白石について「本当にいい子でした」と述べている。また辰巳努は「あの子のおかげでだいぶやりやすかった。あの子の声やから、最後の節子が死にそうになるところで、思わず素直にセリフが出てしまったのかもしれません」と述べている。


清太・節子の母 声 - 志乃原良子
兄妹の母親。心臓が悪い(原作においては節子を出産した後に心臓病を患ったと説明されている)。

気立ての良い、上品な美人。2人より先に防空壕に行こうとしていた際に空襲に被災、全身に大火傷を負い重篤となる。包帯も取れない状態で、腕の一部が焼け蛆虫がついており、清太が駆けつける直前に昏睡状態に陥り、そのまま死亡。清太は節子に真実を話すことができず、「西宮の回生病院に入院している」ことにしている。

なお、アニメ映画では、清太は母の遺骨を納めた箱を叔母の家についた直後に庭に隠した。原作では棚の上の戸袋に隠し、中盤で母の死が節子に知れてからは、母の遺骨は布引町近くの春日野墓地に埋葬されていると節子に告げ、まだ防空壕の中にあるにもかかわらず清太はそういう希望を語っている。

清太が持っていた7,000円の貯金(現在のレートで1328万円)は「母がもしもの時のために銀行に預けてくれていたものである」と劇中では言及。

なお、清太が泥棒で捕まり、殴られた際に節子が清太にかけた言葉は、原作では「母の口調」とあり、アニメ絵本では「母が昔、節子が泣く度に言った台詞」と書かれている。母親の登場シーンは事実上、冒頭のみで後は回想シーンなどで登場する。

清太が回想した母と節子と海に行った場面は劇中では特に説明がないが、アニメ絵本や原作の記述によると1年前の出来事とされている。

清太・節子の父 兄妹の父親で海軍大尉。
戦争に出征しているため、劇中では写真と回想シーンでのみ登場する。

モデルは野坂の実父とされる。

清太は昔、父の観艦式を見たと言及しており、節子が生まれる前から、海軍にいたことが示唆されている。この観艦式は原作では1935年(昭和10年)10月となっている。

戦争に出征してからは清太が手紙を出しても連絡が着かなくなっていたが戦争終了後、父の乗った連合艦隊は全滅していたことが判明する。
なお、父が乗り込んだとされる高雄型重巡洋艦摩耶は1944年(昭和19年)10月のレイテ沖海戦でフィリピンのパラワン水道において米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没している。ただし769名(士官47名、下士官兵722名)が救助されていることから、本当の生死は不明である。また、特にネットでは彼が摩耶の艦長であるとする言説が散見されるが、劇中でそのことを裏付ける内容は一切示されていない。


親戚の叔母さん 声 - 山口朱美
西宮在住。清太と節子を一時的に引き取る。
当初はうまくいっていたが、次第に諍いが絶えなくなる。
原作では「未亡人」「小母さん」と表記され、清太の父親の従弟が夫だった。

清太と節子を預かることは清太の言及によると約束になっていたようであり、叔母の言動から母も叔母の家に疎開する予定だった模様。

原作ではお互い空襲で家が焼けたら身を寄せ合う約束だったと記され、アニメ絵本でも、状況によっては叔母が清太達の家に疎開する可能性も示唆されている。

勝手に出て行ったのは清太達で叔母は直接的に追い出す言動は取っていないが、引き止めもせずにせいせいし、原作では、2人を疫病神と呼び、「横穴へ住んどったらええ」と言っている。

叔母さんの娘
女学生。三つ編みの清楚な風貌の少女。
節子に下駄をプレゼントする、母が自分達の食器にだけ米を盛り清太と節子には雑炊しか与えなかった際は居心地の悪そうな素振りを見せる描写がある。


叔母宅の下宿人
学生。眼鏡をかけた、真面目そうな青年。
劇中で名前は呼ばれておらず絵コンテ集で確認できる。
叔母に愛想を尽かされ庭で煮炊きする清太と節子を見て、気の毒がる素振りをするが、下宿人という立場からか積極的な擁護まではしなかった。

叔母の台詞では勤労奉仕に熱心に参加している模様。
原作では、家には娘と、商船学校在学中の息子・幸彦と、神戸税関に勤めている下宿人がおり、下宿人は闇の食料ルートに詳しく缶詰などを持ってきて、叔母の娘の気をひこうとしている。

賞歴

日本カトリック映画大賞
ブルーリボン特別賞
文化庁優秀映画
国際児童青少年映画センター賞
シカゴ国際児童映画祭・最優秀アニメーション映画賞を受賞。同映画祭の子供の権利部門第1位に選出。
第1回モスクワ児童青少年国際映画祭・グランプリを受賞。
英「Time Out」誌とクエンティン・タランティーノが選ぶ第二次世界大戦映画ベスト50の第10位を獲得[13]。
ハリウッド・リポーター選出の大人向けアニメ映画のベスト10において7位にランクインした。

製作の経緯

映画『火垂るの墓』は、1988年(昭和63年)の公開時、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』と同時上映されているが、先に企画された『となりのトトロ』は、当初、60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった。そこで同時上映作品として高畑勲監督作品『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。

最終的に、両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で公開された。アニメ映画界の二大巨頭の代表作、しかも作風も物語も印象も全く相反する内容の作品を一緒に観ることができたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。評論家からは好評で『キネマ旬報』誌の日本映画ベストテンでは6位に食い込んでいる。

両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行した。東映動画でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であった。

結果として宮崎側が新しく参入したスタッフを中心に制作したのに対し、高畑側は近藤や美術監督の山本二三など旧知のベテランを集めた。

高畑は後年の回想で、近藤を獲得することが(人材面での)「最優先、いや絶対的な課題」であったと述べ、それ以外のメンバーについては自ら勧誘には動かなかったとしている。

当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び、結果的に長編2本の同時進行となった。

しかし、彩色の作業がどうしても公開までに完了しないことが判明する。
高畑は、大幅なカットで破綻させることなく観客の鑑賞に堪える方法を百瀬義行とともに検討し、「『演出意図』としての必然性が感じられれば、見る人に受け入れてもらえるのではないか」という「苦肉の策」で、1988年(昭和63年)4月の公開時点では清太が野菜泥棒をして捕まる場面などを色の付かない白味・線撮りの状態で上映することとなった。

これらの箇所は公開後も制作を続け、後に差し替えられている。
鈴木敏夫によると、公開が間に合わないという話になった際、高畑は同様に未完成版を公開したポール・グリモーの『王と鳥』(『やぶにらみの暴君』)のように未完成になった経緯の説明を冒頭に付けて公開する提案をして、鈴木がそれを断ると、2箇所彩色が抜けることを明かし、鈴木はその状態での公開を承諾したという。

わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて1991年(平成3年)に『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰することになる(おもひでぽろぽろも本作と同じように過去の思い出しである)。


監督の意図

高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが(「決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」とも)、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。

高畑は、兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものであると解説し、特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたいと語っている。

また、「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と述べている。

時代描写

高畑勲のリアリズム志向により、1945年(昭和20年)当時の風景が忠実に再現された[注釈 11]。作画に参加した庵野秀明が、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦「摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写することを求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わった。

登場人物の会話は関西出身の俳優や声優を起用したネイティヴな関西弁である。「キイキ悪い(体調が悪い、病気の意)」、「(二本松の)ねき(脇、近くという意味)」などといった現在ではほとんど使われることがなくなった古い表現も、原作小説のままに使用されている。ただし、いわゆる神戸弁ではなく、大阪弁に近い言い回しに統一されている点が異なる。

反響・評価など


原作者の野坂は、映画公開前年に発表した文章「アニメ恐るべし」の中で、「いわゆるアニメの手法で飢えた子供の表情を描き得るものかと、危惧していたのだが、これはまったくぼくの無知のしるし、スケッチをみて、本当におどろいた。(中略)ぼくの舌ったらずな説明を、描き手、監督の想像力が正しく補って、ただ呆然とするばかりであった」とその緻密さに驚き、場所も含めたその描写によって自分が「眼をそむけつづけてきた」過去と「今は、少し正直に向き合っている」と記している。

『となりのトトロ』のような楽しいアニメを見ようと映画館を訪れ、楽しいトトロを見た後に『火垂るの墓』を見て、衝撃を受ける、涙が止まらない、茫然自失で席から立ち上がれない観客が続出したという。そのため、「上映の順番を逆にしてくれればよかったのに」という声も少なくなかった(一部映画館では、順番を入れ替えて上映されている館もあった)。

舞台となった西宮市の西宮回生病院、香櫨園浜・夙川駅・夙川公園、ニテコ池(貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川などを、モデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともある。


黒澤明は『火垂るの墓』を見て感動するが、宮崎駿監督の作品と勘違いしてしまい、宮崎に賞賛の手紙を送っている。受け取った宮崎は複雑な顔をしたという。ただ、一番好きだというわけではなく、最近の作品の中ではよかったということで褒めていたのだと、娘である黒澤和子が語っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93
 

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野坂昭如「火垂るの墓」と高畑勲『火垂るの墓』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/54/4/54_KJ00009719186/_pdf/-char/ja


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「火垂るの墓」原作との違いを改めて検証、改めて高畑勲恐るべし
http://news.nicovideo.jp/watch/nw3433182
2018年4月13日 09時45分 ライター情報:近藤正高


4月5日に亡くなったアニメーション映画監督の高畑勲を追悼して、その代表作のひとつ「火垂るの墓」が、今夜9時からの日本テレビ・金曜ロードSHOW!で急遽放送されることになった。ちょうど今月は、「火垂るの墓」が、宮崎駿監督の「となりのトトロ」とともに公開されてから30年の節目でもある。なお、原作は、作家の野坂昭如が自らの戦争体験をもとに書いた同名小説で、こちらはちょうど50年前の1968年に直木賞を受賞している(発表は前年)。


正直にいえば、私は高畑勲の「火垂るの墓」をこれまで何となく敬遠してきた。これは原作者である野坂昭如への思い入れがそうさせてきたのかもしれない。少年時代の自分にとって野坂は、ときにCMで畳の被り物をして歌う愉快なおじさんであり、あるいは放言、暴言も辞さずあらゆることを斬る論客だった。また、長じて最初に読んだ彼の小説が『エロ事師たち』だったことも大きい。同作といい、愛聴していた「マリリン・モンロー・ノー・リターン」などの野坂の歌といい、戦災孤児を描いた『火垂るの墓』とはイメージも内容もことごとく遠いものに思われた。ましてやアニメ映画化された「火垂るの墓」のイメージは、この作家が持つ猥雑な雰囲気とはなはだしい齟齬を感じさせた。


それが今回、ほぼ初めて映画版「火垂るの墓」をDVDで観たところ、胸に迫るものがあり、いままで避けてきたことを反省した。それとあわせて、原作小説もあらためて読んでみたのだが、話の筋は同じとはいえ、やはり映画とは別物という感想を持った。


『火垂るの墓』の原作と映画の違いについては、日本文学者の越前谷宏(龍谷大学教授)が「野坂昭如「火垂るの墓」と高畑勲『火垂るの墓』」という論文(『日本文学』2005年4月号、日本文学協会)でくわしく検証している。ここでもそれを踏まえながら、見ていきたい。


■清太とおばさんは具体的にどんな関係だったのか


越前谷の論文では、原作もアニメも「幼い兄妹が実母と死別し、他人の冷遇に耐えきれず、逃亡漂白する継子譚の定型」を踏んでいるとしたうえで、《だが、原作にはあったはずの幾つかのノイズが、アニメでは消されてしまっている》と指摘している。


たとえば、主人公の清太と未亡人である「小母さん」の血縁の距離。清太と妹の節子が母親を神戸大空襲で亡くしたあと、身を寄せるこの小母さんは、劇中では「遠い親戚」としか語られず、具体的に兄妹とどのような関係であったのかには触れられていない。これに対し原作では、「父の従弟(いとこ)の嫁の実家」とはっきり書かれている。つまり、小母さんから見れば清太は、娘の夫の従兄の息子であり、まったく血のつながりのない、かなり遠い関係なのだ。


しかし映画ではそれについての説明はない。しかも音声で聞く「小母さん」(よその年配の女性を指す場合、表記はこうなる)は、親戚の「伯母さん」「叔母さん」と区別がつかない。したがって、原作を読まずに観る人たちは、「小母さん」がなぜここまで兄妹につらく当たるのか、よくわからないのではないか。ちなみに原作では、小母さんが兄妹の食事は別々にすると言い放つ場面で、《さすがすぐ出ろとはいわなかったが、いいたい放題いいはなち、それもまた無理ではない、ずるずるべったりにいついたけれど、もともと父の従弟(いとこ)の嫁の実家なので》と、清太が彼女に厄介者扱いされる事情が説明されている(以下、原作からの引用は新潮文庫版『アメリカひじき・火垂るの墓』より)。


越前谷論文はこのほか、海軍大尉の息子という特権的な立場にあった清太が、母の死後、小母さんとの力関係において逆転するという皮肉な視点が、映画からは消し去られているとも指摘する。具体的には、原作における《遠足の時のラムネ菓子、グリコしかもってえへん貧乏な子に林檎わけたった》という一文や、あるいは《四年前、父の従弟の結婚について、候補者の身もと調べるためこのあたりを母と歩き、遠くあの未亡人の家をながめた》といったくだりは、映画には出てこない。後者についていえば、ほんの4年前(太平洋戦争の始まる直前か)には、未亡人=小母さんは清太たち家族から値踏みされる立場にあったことを意味し、その後の残酷なまでの立場の逆転を強調している。


■「火垂るの墓」は反戦映画を意図したものではなかった


越前谷論文は、以上のような例をあげたうえで、《高畑は、原作にあったノイズを丁寧に除去することによって、純粋な〈悲劇〉に仕立て上げてしまったようだ》と書き、また《観客の側にも、アニメをお馴染みの継子物語のフレームに沿って解釈・受容しようとする姿勢があったのではないか》と指摘する。


ただし、そもそも高畑はこの映画について《決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた》と強調している(『スタジオジブリ作品関連資料集II』スタジオジブリ)。野坂もまた、自分の作品が《もし、かわいそうな戦争の犠牲者の物語に仕立て上げられたら、なおぼく自身、いたたまれない》と語っていた(「アニメ恐るべし」、スタジオジブリ・文春文庫編『ジブリの教科書4 火垂るの墓』文春ジブリ文庫)。


しかし観た人たちの受けとめ方は、高畑と野坂の意図とは違った。ふたをあけてみれば、観客の圧倒的多数がこの作品を「反戦映画」と受け取ったのだ。これに対し高畑は、《私はあらためて、それはそれで当然なのだ、と反省させられたわけです》と、映画公開後の講演で述べている(「映画を作りながら考えたこと」、高畑勲『映画を作りながら考えたこと』徳間書店)。


観客がそう受けとめたのは、空襲のシーンなど戦争の描写を高畑ができるかぎりリアルに描こうと努めたことも大きいのだろう。たとえば、空襲時、米軍の戦闘機B29から次々と投下されたM69、「モロトフのパン籠」と呼ばれた焼夷弾がどのようにして落とされ、火の雨となって降り注がれたのか、そのメカニズムを調べるため、高畑は自衛隊にまで演出助手を取材に行かせたほどだった(「「モロトフのパン籠」の謎」、『映画を作りながら考えたこと』)。


■清太は戦時中にタイムスリップした現代少年だった?


とはいえ、高畑にとって戦争はあくまで物語の背景にすぎない。それ以上に彼が描きたかったのは、泥沼のような人間関係から逃れ、二人だけで生きようとした幼い兄妹の姿であった。高畑は、《清太のとったこのような行動や心のうごきは、物質的に恵まれ、快・不快を対人関係や存在の大きな基準とし、わずらわしい人間関係をいとう現代の青年や子供たちとどこか似てはいないだろうか》と、この映画の意図が現代社会への問題提起にあったことを示唆している(「「火垂るの墓」と現代の子供たち」、『映画を作りながら考えたこと』)。


高畑は原作を読んだとき、清太少年について《まるで現代の少年がタイムスリップして、あの不幸な時代にまぎれこんでしまったように思えてならな》かったという(「「火垂るの墓」と現代の子供たち」)。とすれば、映画「火垂るの墓」は、もし現代の子供が戦時中にまぎれこんだら? という仮定にもとづく一種のシミュレーションともいえるかもしれない。


こうした意図から、高畑は清太と節子の兄妹を徹底的に世間から隔絶した存在として描いている。そこには原作から設定を変更している部分すらある。たとえば、原作では、清太が終戦を知ったのは8月15日当日だが、高畑はこれを1週間後に変えている。兄妹が世間から隔絶された生活を送っていたことを強調するためだろう。


あるいは、節子が死んで清太が自ら火葬する場面も、原作では《市役所へ頼むと、火葬場は満員で、一週間前のがまだ始末できんといわれ》と、そうせざるをえなかった事情が説明されている。ひるがえって映画ではこのくだりが省かれているため、清太が自分一人だけで節子を見送ろうと決めたという印象を受ける。


■原作者に「アニメ恐るべし」と言わしめる


高畑は映画制作にあたり、《原作の語り口そのものを生かせないかなと思うわけです。あれは、明らかに清太からみている話だと思うんですよね。客観的に書いてある部分でも、やはり清太の気持ちを通してみているんです。そういう意味で、その語り口を何か生かす方法はないかと……》と、野坂との対談で語っていた(高畑勲・野坂昭如「清太と節子の見た“八月十五日”の空と海はこの上なくきれいだった」、『映画を作りながら考えたこと』)。


実際、できあがった映画は「昭和20年9月21日夜 ぼくは死んだ」という清太のモノローグから始まるとおり、彼の視点から物語が描かれている。だが、これについて前出の越前谷論文は、《アニメは、見つめる清太の物語ではなく、清太によって見つめられる節子の物語として受容されてきたようだ》と指摘する。ここでもつくり手の意図と観客の受け取り方にズレが生じたというわけだ。


それも無理からぬことで、映画に登場する節子は、そのあどけなさを見事に視覚化したキャラクターに加え、声優に起用した当時5歳の白石綾乃のリアルな演技もあいまって強烈な印象を私たちに与えた。いまや新潮文庫版『火垂るの墓』のカバーにも、洗面器をヘルメット代わりにかぶった節子が敬礼している画(スタジオジブリのスタッフだった近藤喜文・山本二三・保田道世による)が用いられ、そこに清太の姿はない。


小説、映画にかぎらず、強い力を持った作品は、ときに作者の意図を超えて人々に受け入れられることがある。高畑勲の「火垂るの墓」はその最たる例といえそうだ。


なお、原作者の野坂には終戦時1歳と、4歳という設定の節子よりも幼い妹がいた。小説『火垂るの墓』は彼女との実体験をもとに書かれている。だが、現実と小説は必ずしも同じではない。現実の野坂少年(終戦時14歳)は、妹(実際には彼の養父母の娘で、血のつながりはなかったようだが)の食べ物を盗み食いしたり、頭を殴ったりすることもしばしばであったという。後年、「舞台再訪 私の小説から」というエッセイで彼は、《ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、今になってくやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを発したのだ、ぼくはあんなにやさしくはなかった》とつづっている(『朝日新聞』1969年2月27日付)。


野坂はかつて『火垂るの墓』を映像化することは絶対に不可能だと思っていたが、映画の制作が決まり、高畑らスタッフと一緒に舞台を歩き、ラフスケッチを見せてもらううち、その思いが吹っ切れたという。彼がこのことを告白した文章は、《しみじみアニメ恐るべし》との言葉で締められていた(「アニメ恐るべし」)。


はたしてできあがった映画では、清太が原作以上に、自分を犠牲にしてでも妹を守ろうとする姿が印象に残り、涙を誘う。それは戦争というものがもたらす悲惨さを、私たちに実感させてあまりある。野坂ならずとも、「アニメ恐るべし」「高畑勲恐るべし」と言わずにはいられない。
(近藤正高)

▲△▽▼


「火垂るの墓」 ジブリで最も暗い作品が今も持つ重要性(BBC NEWS JAPAN−2018年4月16日)
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/268.html
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-43779881


「火垂るの墓」 ジブリで最も暗い作品が今も持つ重要性 2018年04月16日
ヘザー・チェン記者 BBCニュース


STUDIO GHIBLI
「何でホタル、すぐ死んでしまうん?」


日本アニメ界の巨人スタジオジブリは、「となりのトトロ」など明るい内容の名作で知られるが、同社が30年前に発表した、第2次世界大戦時を舞台にした「火垂るの墓」は、今も強く心に響くメッセージを持っている。

野坂昭如氏による1967年の同名小説を原作とし、今月5日に死去した伝説的なアニメーション監督でスタジオジブリの共同創設者、高畑勲氏が製作したアニメ映画は、第2次世界大戦末期の日本で必死に生き延びようとする、孤児の兄妹の物語だ。

映画の冒頭から結末は予告されている。独りぼっちの少年、清太は三宮駅で餓死する。所持品から清掃員が見つけたのは、ドロップ缶に入った少量の灰と骨のかけらだった。何の変哲もない缶は近くの野原に投げ捨てられ、空に向かった清太の魂は4歳の妹、節子の魂と再開する。

2人をホタルの群れが囲み、物語は始まる。「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」――清太の声による、耳に残るナレーションが入る。

ジブリ作品の一つではあるものの、「火垂るの墓」は一般的な子供向け映画とは全く違う。明るい気持ちにさせるそれまでの作品とは一線を画し、多くの人が観るのをためらうような悲惨な物語だ。しかし、映画評論家で歴史家の故ロジャー・イーバート氏は、「戦争映画として最も偉大な作品の一つ」だと称賛した。

2000年に書かれた批評で、イーバート氏は、「アニメ映画はその最初期から、子供たちや家族のための『漫画』だった。しかし、それらの映画が存在するのは安全地帯に限られ、涙は誘っても悲しみを味わせることはなかった。『火垂るの墓』による感情体験は、アニメに対する考えを変えさせるほど力強い」と述べた。


GKIDS
清太と節子の兄妹愛は戦争の意味をあらためて問い直させている


第2次世界大戦末期に激しさを増した米軍による空襲は、主人公たちが住む神戸も襲う。

戦争に悲劇は付き物だが、この映画が描く物語の力強さには、高畑監督自身の経験がかかわっている。戦争時に少年だった監督は、当時住んでいた岡山市で大規模な空襲に遭った。


Keystone/Getty Images
1945年に神戸を空襲する米軍のB29爆撃機


細やかな描写と印象派的な効果によって、高畑監督は戦争が人々に与える影響をリアルによみがえらせている。

米国の編集者で、日本のマンガ・アニメ業界を論じた「Japanamerica(ジャパナメリカ)」の著者、ローランド・ケルツ氏は、「火垂るの墓」のワンシーンについて、非常に悲劇的ながら「心が奪われるような美しさ」があると話す。

ケルツ氏は、「漁師の集団が、湾の向こうで炎に包まれた神戸の街を見つめている。空をなめるように炎が上がるなか、漁師たちの後ろ姿が映し出される」と語る。「惨劇の静けさ。誰も動かないが、彼らの衝撃が伝わってくる。まさにシェルショック状態を表したシーンで、恐ろしいと同時にものすごく美しい」


GKIDS
飢餓と病気が蔓延した日本で、兄妹の希望は崩れていく


戦争を生き延びる


シンガポール国立大学・日本研究学科のリム・ベン・チュウ准教授は、「火垂るの墓」は現在でも色あせないどころか、重要性がこれまで以上に高まっていると指摘する。

リム氏は、「『火垂るの墓』が注目すべき映画なのは、さまざまなメッセージを含むなかで、命の大切さを強調している点が挙げられる。取り返しのつかない悲劇、戦争中の日本人が耐えなくてならなかった苦難を描いているが、観る人はなぜ第2次世界大戦が起きてしまったのかを自ら問う必要がある」と述べた。

「過去の日本の軍国主義を知ることも、映画中の出来事に対するより良い理解を助け、すべての戦争に対する一般的な人間感情を培う。それは将来の戦争を予防する、より効果的な方法になる」


GKIDS
Image caption お互いを思いやる二人は孤児になり、生き延びることはできなかった


前出のケルツ氏はこうも語っている。「『火垂るの墓』には、二義性や人生への後悔など豊かな物語性がある。その点だけで今も色あせていない。切羽詰った状況での英雄性や気高さの欠如の物語であり、その点では、ほぼアンチハリウッド映画だ」

「ハリウッド映画なら、困難なときにはヒーローが必要だと信じさせようとするだろう。高畑勲は反対の弱さを表現する。困難なときに最も必要なのは謙虚さ、忍耐、自己抑制だと。それによって生き延びられるのだと」


GKIDS
映画評論家のイーバート氏は「アニメに対する考えを変えさせるほど力強い」と述べた


希望の象徴


「火垂るの墓」は、ジブリ映画としては最も暗い映画の一つだと言われているかもしれないが、熱心なファンたちは、「不当な評価を受けている」とするこの作品や、作品から得られる身につまされる教訓について、議論に再び火をつけるのをやめなかった。発表から30年がたった今でも、議論は活発だ。多くの人々にとって、戦争が人々に与える影響は今も、人々から強い反応を生む。

ある「火垂るの墓」ファンはYouTubeで、「アニメが過剰な表情や、性的なコンテンツ、陳腐な10代の恋愛ばかりだと思っている人は、『火垂るの墓』を観るといい。自分の間違いが完璧に証明されるだろう」とコメントしている。

米掲示板サイト「レディット」ユーザーのあるファンは、ホタルが象徴するものについて語っている。「ホタルには、主人公たちの街を焼いた焼夷(しょうい)弾と希望と忍耐力を表す二重の意味が込められていて、いつまでも心に残る映画の象徴になっている」。

ジブリのファンのレベッカ・リーさんはフェイスブックに、「トランプ政権が誕生し、世界中で多くの人がナショナリズムに染まるなかで、この映画の必要性はこれまでになく高まっている」と書いた。

「この映画は第2次世界大戦の隠喩で、2人の登場人物が死ぬというだけの映画ではない。『火垂るの墓』は、盲目的で反省のないナショナリズムや、それに従った人々の苦い結末について語っている。この映画は悲しいから傑作なのではなく、得られる教訓によって傑作になっている」


(英語記事 Grave of the Fireflies: The haunting relevance of Studio Ghibli's darkest film)


岡田斗司夫ゼミ4月15日号「本当は10倍怖い『火垂るの墓』〜アニメ界の怪物・高畑勲監督追悼特集」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=1YD51SO3s2k&vl=ja

岡田斗司夫「火垂るの墓」と「おおかみこどもの雨と雪」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=8tyUTXjvjk8


____


岡田斗司夫 「火垂るの墓は兄が妹を殺した話。全然泣けない」
https://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/news/1385129967/


1 : ミッドナイトエクスプレス(新疆ウイグル自治区):2013/11/22(金) 23:19:27.72 ID:oeWwqQmxP ?PLT(12050)

岡田斗司夫
「その罪悪感から生きる気力をなくして兄も死んでしまったという話」
「見ててこれが分からない奴は国語のできないアホ」
http://www.youtube.com/watch?v=8tyUTXjvjk8


38 : スリーパーホールド(北海道):2013/11/23(土) 00:02:41.25 ID:h6jOrlJy0

野坂昭如「僕は清太ほどやさしくはなかった」
おまえら、これはファンタジーなんだよ


133 : パロスペシャル(千葉県):2013/11/23(土) 17:22:53.10 ID:ej18BQMy0

野坂クズすぎワロエナイ

・泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせた

・食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えなかった。
 妹は誰にも看取られることなく餓死している


▲△▽▼


火垂るの墓の清太は私だ 2018-04-22
https://www.rupannzasann.com/entry/2018/04/22/173813


先日、火垂るの墓の監督で知られる高畑勲監督がお亡くなりになられました。

その追悼という事で、岡田斗司夫さんが火垂るの墓についての解説動画を

Upされました。

その動画での解説内容が目からうろこだったので、

ご紹介します。


岡田斗司夫ゼミ4月15日号「本当は10倍怖い『火垂るの墓』〜アニメ界の怪物・高畑勲監督追悼特集」
https://www.youtube.com/watch?v=1YD51SO3s2k


1時間近い動画ですが、1時間ずっと、「へ〜、ほ〜」と感心させられっぱなしでした。

一番意外だった点は、

高畑監督は、戦争の悲惨さを描きたいわけでも、

お涙ちょうだいな話を書きたいわけでもなく、

人のエゴについて考えさせられる文芸作品として

火垂るの墓を作ったという点です。

鑑賞後も思い出して、

あの場面はこういうことだったのではないだろうかと

ああでもない、こうでもないと考えさせられる映画を作りたかったのです。

トトロとの同時上映という事もあり、上映当時から高畑監督のその思いは、

あまり表に積極的には出されていませんでした。

その点を非常に分かりやすく解説している動画です。

この動画を見た後で、火垂るの墓を見てみたのですが、

一切泣かずに通してみることができました。

火垂るの墓を泣かずに見たいう話を聞いたら、

「こいつ、サイコパスかよ・・・・」と思うと思いますが、

本来は、泣かずに冷静に見るべき映画なのです。

むしろ高畑監督は、映画に感情移入して泣きながらの鑑賞ではなく、

一歩ひいて冷静な目で俯瞰で見てほしいと考えていたようです。

これは高畑監督の作品すべてに言える特徴です。

母を訪ねて3千里でも、よくよく見直してみると主人公マルコの

子ども特有の身勝手なイライラするわがままさがきちんと

描かれています。

母を訪ねて3千里を思い出してみても、そのような性格の悪さ

を思い出せないのは、宮崎駿の作画のうまさで

印象を良くしているからなのです。

今回は、その一歩ひいた感覚で見ることができました。

俯瞰で見る火垂るの墓

冒頭部分

感動しないで俯瞰で火垂るの墓を見た時に、チェックしてもらいたい点を

順に説明していきます。

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まず、冒頭で駅で死にかけている清太の場面ですが、

ここで、おにぎりをくれる女性がいます。

これは、戦中戦後の大変な時期が舞台ですが、

そのような時代でも親切な人は一定数いて、助けを求めれば

助けてもらえる可能性が十分にあるということを暗示しています。

つまり、清太が死につつあるのは、必ずしも時代のせいや戦争のせいではない

という事が分かります。

開始1分の冒頭にしてすでに、戦争のひどさをメインに

描いた映画ではないことが分かります。

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そしてその後、清太は死に絶えるわけですが、

おにぎりはなくなっています(笑)

誰かが持って行ってしまったわけですね。

これでまた、良い人ばかりの夢物語ではない、時代の厳しさを見せつけます。

清太以外にも死にかけている子供たちがいますし。

ただの子供向けのアニメとして作るなら、わざわざそんな後味の悪いことを

する必要がありません。

後味の悪いことをちりばめてあるのが、火垂るの墓です。

天才宮崎に対する、怪物高畑の異名がよく分かります。

戦争が激化するまでの清太と節子

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さて、話は母を空襲で無くし、西宮に疎開した話に飛びます。

ちなみに映画の2年前くらいがこの場面です。

もう太平洋戦争に突入している時代なのに、カルピスを飲み、

氷で冷やされた冷やしそうめんを食べています。

海軍将校の地位の父親を持つ家族なので、大変恵まれた家庭です。

そこでぬくぬくと育ったのが清太と節子です。

疎開して疎開先のおばさんと仲悪くなるまで

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疎開先の娘から、節子は下駄を買ってもらいます。

それについて、清太は会釈するだけで、

きちんと声に出してありがとうとは伝えません。

ここですでに、清太のいけ好かない感じが出始めます。

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同年代の子供や、疎開先の娘、下宿している青年が朝から

勤労動員に行ってタダ働きをさせられているのに、清太は家でゴロゴロしています。

せめて、おばさんの手伝いくらいすればいいのに、おばさんから嫌味を言われても、

謝りもしません。

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自分たちの食器も洗いません。今まで母親が全部やってくれていたのでしょう。

ここらへんから、本格的におばさんに疎開先のおばさんに嫌われ出します。

働かない

手伝わない

愛想無い

飯だけは人一倍食べる

ニート4原則丸出しです。

疎開先のおばさんに嫌われて

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戦時中というのに、陽気にオルガンを弾いて叱られます。

オルガンを弾けるというあたりもお坊ちゃん感があります。

ここでも叱られても、不満そうに目をそらすだけで謝りもしません。

まさに引きこもりニートの感じです。

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空襲があれば、普通同世代の男子なら近所の人と協力して消火活動をしたり、

救助活動をするのですが、真っ先に逃げてしまいます。

本来なら海軍将校の息子ということで、率先して動くことを求められる

ところなのに、節子と自分の安全確保しか考えていません。

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この場面も、わざとこの構図で高畑監督は描いています。

塩の配給も少なく、塩不足から皆は海に海水を取りに行き、

そこから塩を作っています。

そんな中二人は、節子のあせもを直すために海に来たではありますが、

ただただ海で遊んでいます。

塩水を持って帰ったり、カニを捕まえて持って帰ったりすれば、

おばさんも喜ぶでしょうに、そんなこと全く考えていません。f:id:rupannzasann:20180422144210j:image

自分の母親の所持品だった着物を売りに出して、代わりに白米を

貰った時は、節子は落ち込んでいますが、

清太はうれしくて白米を抱きしめています。

形見より白米を優先しました。

ミニマリストの私としてはそれでも良しと思いますが、

形見まで断捨離はかなりの上級者です。

2人に厳しく接するおばさん

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働かない、手伝わない、ただ遊んでいる二人におばさんは厳しく接していきます。

きちんとお国のために働いている自分の娘には具だくさんの雑炊を、

ぷらぷらしている二人には具を避けた雑炊を注ぎます。

それに気がついた娘は顔を赤らめますが、特にそのことを批判はしません。

内心、当然だと思っているわけです。

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でも、そもそも配給制の時代ですから食べ物は十分にはありません。

普段の家での食事は、雑炊と漬物のみという食事をおばさんたちもしています。

とくにおばさんは、お国のために働いている娘と下宿人の雑炊は具だくさんにしていますが、自分の雑炊は具はその半分くらいです。

娘&下宿人>おばさん>節子&清太の順なのです。

娘&下宿人の勤務先で食べるお弁当には白米のお弁当を持たせます。

自分は家では昼食にも雑炊を食べていると思われます。

ココから見てわかるように、決しておばさんはいじわるな人というわけではなく、

働かざる者食うべからずを実践しているだけなのです。

疎開先を飛び出す2人

そのような言動に反抗して、謝りもせず二人は家を飛び出ます。

それがなぜできたかというと、母親が銀行に7000円貯金してくれていたからです。

今のお金にして1300万円にもなるという金額ですが、終戦間際なので、

ハイパーインフレ状態でしょうから、価値として

50万円くらいにしかならないかもしれません。

でも、そのお金をおばさんにわたして、うまく食料などと代えてもらって、

節制していけば数か月生活できる価値はあったはずです。

それなのに、その当時物資不足からめったに手の入らなかった土鍋や

七輪などを買い集めることで、4000円使ってしまいます。

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そして白米のご飯を炊いて、食べてしまいます。

おなかを壊していて、栄養失調気味だった節子のことを考えれば、

栄養豊富な玄米に野菜を入れて、雑炊にして食べることが栄養&節約から

考えてベストでした。それが坊ちゃん育ちの清太にはわかりません。

楽しく二人でキャンプ生活

しばらくは、ノンストレスで楽しく二人で生活をします。

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その一場面で蛍をたくさん捕まえて、蚊帳の中にはなす場面があります。

有名なシーンです。

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そのきれいな情景を見ながら眠りにつきます。

蛍の寿命は成虫になってから数日です。

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翌朝、蛍が死にまくっています。

それをお墓に埋めてあげます。

火垂るの墓です。

この時に、疎開先のおばさんからおかあさんが死んだことを聞かされていたことを

清太に伝えます。清太は節子にはお母さんは入院していると伝えていました。

おばさんの家にいた時に、夜中節子が「おかあさん〜」と泣き出す場面がありますが、

それはおばさんから母親の死を聞いたからなのでしょう。

母親の死、蛍の死をだぶらせて命のはかなさと、蛍からしたら清太と節子も

ひどい存在であったことを暗示します。

ただの子供向けアニメなら、蛍キレイ〜だけで終わるところです。

宮崎駿ならそうするでしょう。でも怪物高畑はそんなきれいごとを許しません。

上手くいかなくなる二人の生活

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体調崩した節子のために、清太は野菜泥棒を繰り返すようになるのですが、

その現場を見つけた畑の持ち主は、

清太を過剰なくらいにぼこぼこにします。

「妹が病気なんです、かんにんしてください」と言っても、容赦無しです。

この場面もいろいろ考えさせられますよね。

清太は節子の病気を理由に自己正当化していますが、

野菜くださいと頼みには行っていないのです。

それが煩わしいから盗んだのです。頼めば野菜のクズくらいはもらえたはずです。

世渡りが下手な腐れ隠キャ丸出しです。

ゲスの極み清太

そして、今後は盗みはしないと誓うかと思いきや、

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空襲で皆が逃げていく方向と逆方向に走っていく清太

いったい何をする気でしょうか?

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火事場泥棒です!

売れそうな着物をバッグと服の下に詰め込んでパクって行きます。

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そして、焼夷弾の雨を降らしてゆくアメリカのB29に対して、

「いいぞ、もっとやれ!」という鬼畜発言(笑)

自分たちを苦しめるこの地域、大人たちへの逆恨み&

盗みの絶好のチャンスをくれてありがとう〜ってなもんです。

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そして、この高笑い!

大泥棒です。

節子の体調悪化

清太がそのような事を繰り返していくうちに、

節子の体調はドンドン悪くなります。病院に行っても栄養失調としか言われませんが、

冒頭で2回、最初の空襲の時に目に何か入ったことを言っているので、

悪い化学物質が入っていたのかもしれません。

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病院帰りに、大きな屋敷に氷を運ぶ業者に遭遇します。

戦時中でも金があるところにはあり、今までと変わらないぜいたくな生活を

していることを示しています。

もしかしたら、この家に、タダ働きでも何でもしますので助けてくださいと

泣いて頼めば節子を助けられたかもしれません。

もちろん、清太はそんなことしません。

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いよいよ節子が弱ってきたので、清太は残りの貯金もすべて下ろして

栄養の付く食べ物を買ってきます。

金あったんかい!泥棒する前に、さっさとおろして来いよw

2人の最後の晩餐と高畑監督のいじわる

節子にスイカを少し食べさせて、「残りのスイカここにおいておくから食べてな」

と伝えて、鶏肉と卵の雑炊を清太は作ります。

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その雑炊を並べて、食べようとするころには節子は死んでしまいます。

一番の感動のピークですよね。

清太はその晩、死んだ節子を抱いたまま寝ます。

その後、怪物高畑の演出の怖さが光ります。それがこの場面です。

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鍋いっぱいの雑炊を一晩で、清太が全部食べきっている・・・・

死んだ節子を抱きながら、清太は鍋いっぱいの雑炊を一人で食べたのです。

妹が死のうが腹は減る。

そして、その横の箱は母親の遺骨の入っている箱です。

この画面に、死と生が同時に表現されているのです。

この瞬間は、時間にしてわずか1秒です。気がつかんわw

いやいや、雑炊を食べている場面は無いから、もしかしたら、

清太妹に食べさせられなかった雑炊を捨てたのかもしれない。

そう思った人にとどめを刺す場面がその直後にあります。

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スイカ一個丸々一人で一晩で食べてる〜

さっきの雑炊は少し見えにくい配置で描かれましたが、

このスイカはアップで写されます。

すげえな〜高畑監督。容赦ない。

感動してんじゃない、冷静に見てみろ、これが人の性だと言わんばかりです。

高畑監督の悪い癖は、このように分かりにくい暗示を

ところどころにちりばめておいて、

何で気がつかないないんだ!と嘆くところです。

もう少しわかりやすくしてもらわないと難しいっす!

節子が死んで

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その後の清太は終始無表情のまま、炭を買ってきて

淡々と涙を流すことなく節子を火葬します。

普通に考えれば、悲しみをこらえているとも考えられますが、

この無表情のまま、死体の節子の横で鍋いっぱいの雑炊と

スイカ1個を食べた清太の感情をどうとらえるべきでしょうか?

単純な悲しみではないでしょう。

後悔もあるでしょうし、ほっとした安堵の気持ちもあるかもしれないし、

もうどうでもいいやという無気力なのかもしれない。

現代文の問題でこの時の清太の気持ちとしてあてはまるものを答えよ

というものが出たらお手上げです。

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そのような清太たちのいる池の上のほうにある大きな屋敷では、

疎開先から帰ってきた金持ちの娘たちが、アメリカのレコードを蓄音機

から流しながら、「やっぱり自宅はいいわね〜」と話しています。

明らかに、悲しみに浸らせる気が無い演出です。

悲しませるなら、いらない演出です。

泣くな、冷静に考えよ!と高畑監督はくぎを刺すわけです。

ラストシーン

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そして、最後は現在の神戸の街を見ている清太と節子の姿で終わります。

清太と節子は成仏できていないのです。

普通のアニメなら、清太が死んだときに父親と母親も迎えに来て、

家族4人天国に行くという感じになるはずです。

それを許さないのが高畑監督。

清太の気持ちひとつで救えたはずの節子への贖罪からなのか

成仏できずに彷徨う清太。

カトリックでは、天国にも地獄にも行けなかった人が罪の浄化を終えるまでいる場所を

煉獄(れんごく)と呼びます。

清太は自分の気持ちひとつで節子を救えたであろう過去の状況を、

何度も繰り返し見せられるという罰を受けているのかもしれません。

そして、そこに天国へ行っていたはずの節子も引きずり込んで留めているの

かもしれません。

そう考えると救いの無い、怖いお話です。

冷静に見ていくと、清太が悪い!という事になるのですが、

でもだれしも清太的な要素はあります。

だれしも善人ではない。清太だけを責められない。

清太たちに冷たくした疎開先のおばさんだって責められない。

そのような意味で火垂るの墓の清太は私自身であるのです。

能力もないくせに、プライドだけ高い、

コミュ症の若者がどのような末路をたどるのかをバブル期に

もうすでに予見していたのですね。

ん〜怪物・高畑勲おそるべし!

他のシリーズも見直してみよう〜っと
https://www.rupannzasann.com/entry/2018/04/22/173813


▲△▽▼


2018.08.24 
火垂るの墓の原作とアニメ映画の違いを比較!あまりに忠実すぎて驚いた
https://kotoyumin.com/hotaru-no-haka-difference-3988

火垂るの墓原作とアニメ映画の違いってあるの?

火垂るの墓と言えばスタジオジブリの高畑勲監督のアニメ映画が有名ですよね。

でもこの原作の小説を読んだ人ってかなり少ないのでは?

原作小説の作者は野坂昭如です。野坂昭如の実体験をもとにした、半自伝的小説。

それがこの火垂るの墓です。

火垂るの墓はアニメ映画ですら見るのが辛くて、

「とても素晴らしい作品ではあるけれど、繰り返し見たいとは思わない」

そんな映画じゃないですか?

だから原作小説があるというのは知ってても、
原作小説はもっとひどいんじゃないか
悲しい物語で原作までは読む気しないわ

そんなふうに思う人が多いでしょう。

実は私もそうでした。高等遊民を名乗っておきながら、火垂るの墓の原作小説ですら今まで読まずに生きてました。

しかし高畑勲監督の逝去のニュース。

火垂るの墓が追悼記念としてテレビ放送されます。

「もうこの機会を逃したら原作小説の火垂るの墓を読むこともないだろう。」

そう思って読んでみました。

火垂るの墓原作小説は30ページに満たない短編

まず1つお伝えしたいのは、かなり短い小説であること。
普通、小説といえば200ページくらい。
ちょっと長いと300ページくらい

しかし火垂るの墓はもう短編小説くらいの量です。ページ数で言えば30ページぐらいの小説なんです。

「こんな短い小説だったのか!」

というのがまず一番の驚きでした。

原作あらすじ


ウィキペディアからあらすじを引用します。

とはいえウィキペディアはわかりにくいあらすじなので適宜読みやすく編集しました。


(オープニング)

1945年(昭和20年)9月21日、清太は三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。

(本編)
4歳の節子と兄14歳の清太。6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、おばさんの家に身を寄せることになる。

(おばさんとの生活と横穴暮らし)
戦争が進むにつれて、二人を邪魔扱いするおばさん。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心。

近くの貯水池のほとりにある防空壕の中で暮らし始める。しかし、配給は途切れがちで、情報や近所付き合いもないので、食料が得られない。節子は徐々に栄養失調で弱っていった。

清太は畑から野菜を盗み、空襲で火事場泥棒し、時には見つかり殴られた上に派出所に突き出されながらも飢えをしのいだ。

(衰弱する節子)
ある日、川辺で倒れている節子を発見した清太。病院に連れていくも医者に「滋養を付けるしかない」と言われる。

銀行から貯金を下ろして食料の調達に走る最中、日本が降伏して戦争は終わったことを知った。清太は日本が敗戦し、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。

節子に食べ物を食べさせるものの既に手遅れで、節子は終戦から7日後の8月22日に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を去る。

その清太もまた栄養失調に侵されており、身寄りも無い。三ノ宮駅に寝起きする戦災孤児の一人として野垂れ死んだ。清太は他の2、30体の死体と共に荼毘に付され、無縁仏として納骨堂へ収められた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93

まあひどい話です。

原作とアニメの違いはほぼなし!非常に忠実な再現


そして原作とアニメの違いですが、これは正直言ってほとんどありません。

よくほかの原作小説のドラマ化・アニメ化・映画化は、
人物設定は変えるわ
勝手に新たな人物を作るわ、
ストーリーは変えるわ
全然違う結末にするわ

やりたい放題ですよね。

そのような設定変更がアニメ映画にはほとんどありません。これが驚きでした。

野坂昭如氏自身こう言ってます。

「自分の作品が実写化されれば、もう自分の作品とは関係ない。いくら換骨奪胎されても構わない。」

そんなことをおっしゃっています。しかし、、、

「火垂るの墓についてはちょっと思い入れがある。だから、あんまり設定変更されたりストーリーをいじくられると嫌だなぁ」

そう思っていたそうです。

そして高畑勲氏からアニメ化の話が。

打ち合わせをしたりして試作や絵を野坂昭如さんに見せました。

野坂昭如さんは驚愕したそうです。

「実写映画では絶対に再現不可能な、戦時中の神戸の街並みや田んぼがそっくり再現されている。」

そう感じたそうです。「アニメ恐るべし」という文章も野坂昭如さんが残しています。

節子の年齢は実話と小説で異なる。アニメは小説に合わせている

節子の違いは?

原作と実話との違いは、節子の年齢ですね。

野坂昭如さんの実際の妹さんは2歳に満たないくらいの女の子でした。ほとんど喋れもしない。

しかし『火垂るの墓』原作小説およびアニメ版では4歳の妹になっています。

なのでだいぶ自分でも歩けるし、しゃべることもできます。

清太の違いは?

清太の違いはほとんどありません。14歳の少年。

父親は海軍の大尉で、もともとは裕福だった。物語の冒頭で神戸の三宮駅で死亡することも同じです。

お母さん(母親)の違いは?

清太と節子のお母さんも、原作とアニメでほとんど変わりがないです。

2人よりも防空壕に先に避難しようとした際に空襲に襲われ全身に大やけどを負います。

上半身を包帯でぐるぐる巻きのミイラにされる。

意識が戻ることなく、清太と話をすることもなく、亡くなります。

おばさんの違いは?

西宮のおばさん。これもとても重要な人物ですね。本当に嫌な役になっているこのおばさんですが、原作でも嫌な役は変わっていません。

原作では、2人のお母さんと、おばさんとの間で「もしもお互いが困った場合は助け合いましょう」という約束をしていました。

なので、清太と節子がやってきたときは受け入れますが、
どうしても疎ましくなったり、
自分の子供の方が可愛かったり、
愛国心の欠片もない清太のそぶりにイラついたりします。

アニメでは特に言及されていませんが、原作小説では2人のことを「疫病神」とよんで「横穴にすんどったらええわ」といいます。

その他のシーンも忠実

まあ本当に原作に忠実な映画だなというのは総評です。

これは原作が30ページほどという短い作品であるためでしょうね。

1時間半ほどのアニメ映画で充分に原作の内容を反映できたのだと思います。
節子の汗疹や疥癬で真っ赤になった背中を、川辺で洗ってやるシーン
畑泥棒して、農夫に見つかり、度がすぎるくらいに殴られるシーン
交番に連れてかれ、おまわりさんが農夫をなだめるシーン

あらゆるシーンが本当に忠実に再現されているなぁと思いました。

戦争が救いがたいのは、敵からの攻撃ももちろんですが、こうやって身の回りの人間関係が根底から裏切られたり覆されたりするということがありますね。

空襲を受けて火事場泥棒を始めた清太。

戦火に燃える街と空の爆撃機を見て「いいぞ〜、やれやれ」とはしゃぐシーンがあります。

ここが、優れた描写だなと思って。

つまり、清太の周りの人間だけが心がすさんでいるのではありません。清太と節子はかわいそうなんですけど、清太は決して清い心を持っていたわけではないです。

清太自身も
人間関係のこじれ
飢えと泥棒

を経験して、心がどんどん荒んでいくのです。

まとめ 原作小説は読んだ方がいい

火垂るの墓の原作小説とアニメ映画の違いについてご紹介しました。

本当にびっくりするくらい原作に忠実な映画だとわかりました。

ほんとはっきり違うのは、実話における節子の年齢だけですね。
実話では2歳。
原作小説とアニメでは4歳。

だから原作とアニメでは違いはないです。ほぼ全て、見事なまでに再現されています。

ぜひこれを機会に、野坂昭如さんの原作小説を読んでみてください。

原作小説は文体がすごいんですよ。

1文1文がとっても長くて、人物のセリフも、地の文も関西弁が入り混じってる。

本当にうねうねしている文書というか、擬古文なんです。

だからといって読み難いわけではなく、まぁ俗っぽく言えば「声に出して読みたい日本語」に収録されてもいいような文体なのです。

ぜひこの機会に、原作小説を、お手にとってみてください。
https://kotoyumin.com/hotaru-no-haka-difference-3988

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/163.html

[近代史3] 昔の日本映画は熱かった _ 高畑勲 野坂昭如_火垂るの墓 (スタジオジブリ 1988年) 中川隆
1. 中川隆[-12969] koaQ7Jey 2019年1月16日 10:37:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

野坂昭如 アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4101112037/asyuracom-22


火垂るの墓 Grave of the Fireflies

著者 野坂昭如

発行日 1967年10月

発行元 文藝春秋

『火垂るの墓』(ほたるのはか)は、野坂昭如の短編小説で、野坂自身の戦争体験を題材とした作品である。兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わずに栄養失調で悲劇的な死を迎えていく姿を描いた物語。愛情と無情が交錯する中、蛍のように儚く消えた2つの命の悲しみと鎮魂を、独特の文体と世界観で表現している。


1967年(昭和42年)、雑誌『オール讀物』10月号に掲載され、同時期発表の『アメリカひじき』と共に翌春に第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。単行本は両作併せて1968年(昭和43年)3月25日に文藝春秋より刊行された。文庫版は新潮文庫より刊行されている。翻訳版はAlycia Davidson訳(英題: Grave of the Fireflies)をはじめ、各国で行われている。


作品構成・文体

文体は、関西弁の長所を生かした「饒舌体」の文体ながらも、無駄のない独特のものとなっている。

物語の構成は、冒頭にまず物語の結末部分が描かれ、駅構内で死んでいった主人公の少年の腹巻の中から発見されたドロップ缶を駅員が放り投げると、その拍子に蓋が開いて缶の中から小さい骨のかけらが転げ出し、蛍が点滅して飛び交う。そして、その骨が少年の妹の遺骨であることの説明から、カットバックで時間が神戸大空襲へ戻っていき、そこから駅構内の少年の死までの時間経過をたどる効果的な構成となっており、印象的で自然な流れとなっている。


作品背景

『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲により自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。

野坂は幼児期に生母と死別したのち、神戸で貿易商を営んでいた叔母夫婦の養子となったが、前述の神戸大空襲で住んでいた家は全焼。当時14歳だった野坂は1歳の義妹とともに西宮市満池谷町の親類宅に身を寄せたり、あるいはその近くのニテコ池の南側に広がる谷間に10ヶ所ほどあった防空壕で過ごすなどの経験を実際にしている。

ただし、「空襲で父母をなくした」は詐称であり、養父は実際に空襲で行方不明となっていたが、養母は大怪我をしながら生きており、元から一緒に暮らしていた養祖母も健在だった。

野坂は戦中から戦後にかけて2人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかし西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂は、その家の2歳年上の美しい娘(三女・京子)に夢中であり、幼い妹・恵子(物語とは異なりまだ1歳6ヶ月で、8月22日に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実はない。

野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという。

西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している。

こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いた。「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあった。「恵子」という名前を、『エロ事師たち』の主人公の義娘の名前に付けたのは、妹への思いがあったからだという。

野坂は妹の恵子について次のように述べている。


一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。

(中略)

ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。
— 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」


あらすじ

1945年(昭和20年)9月21日、清太は省線(現在のJR東海道本線(通称・JR神戸線))三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には妹・節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。

太平洋戦争末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区[注釈 1])に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。

最初のうちは順調だった共同生活も戦争が進むにつれて、2人を邪魔扱いする説教くさい叔母との諍いが絶えなくなっていった。居心地が悪くなった清太は節子を連れて家を出ることを決心し、近くの満池谷町の貯水池のほとりにある防空壕の中で暮らし始めるが[注釈 2]、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていった。清太は畑から野菜を盗んだり、空襲で無人となった人家から火事場泥棒し、時には見つかり殴られた上に派出所に突き出されながらも飢えをしのいだ。

ある日、川辺で倒れている節子を発見した清太は、病院に連れていくも医者に「滋養を付けるしかない」と言われたため、銀行から貯金を下ろして食料の調達に走る最中に日本が降伏して戦争は終わったことを知った。清太は日本が敗戦し、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。

節子に食べ物を食べさせるものの既に手遅れで、節子は終戦から7日後の8月22日に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を去る。

その清太もまた栄養失調に侵されており、身寄りも無いため三ノ宮駅に寝起きする戦災孤児の1人として野垂れ死んだ。清太は他の2、30体の死体と共に荼毘に付され、無縁仏として納骨堂へ収められた。

その後物語の冒頭1945年(昭和20年)9月21日、鉄道構内で衰弱し霊的な存在となった清太は節子と再会し自分たちが生きていた頃を思い浮かべ見つめ続ける。それから2人は現代の時代まで成仏せずに迷い続けた。


直木賞の選評

『アメリカひじき』と一緒に受賞し、選考委員の評価は総じて高いもので、反対派はいなかった。

海音寺潮五郎は、「大坂ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない」と評し、「後者(火垂るの墓)の結末は明治調すぎて、古めかしすぎて乗って行けなかったが、自伝的なものがありそうだから、こうせざるを得なかったのであろう」と述べている。

水上勉は、「出来がよく、野坂氏の怨念も夢もふんだんに詰めこまれて、しかも好短篇の結構を踏み、完全である。感動させられた」と述べ、松本清張は、「私の好みとしては『アメリカひじき』よりも『火垂るの墓』をとりたい。だが、野坂氏独特の粘こい、しかも無駄のない饒舌体の文章は現在を捉えるときに最も特徴を発揮するように思う」と評している。

川口松太郎は、「直木賞作家の本命とはいい難く、君の技量は逆手だ。文章のアヤの面白さに興味があって事件人物の描写説得は二の次になっている」とし、「野坂君が独特の文体の上に、豊かな内容をもり込む作家になってくれたらそれこそ鬼に金棒だ」と助言をしている。

大佛次郎は、「この装飾の多い文体で、裸の現実を襞深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向けていない」とし、「作りごとでない力が、底に横たわって手強い」と評している。

柴田錬三郎は、「さまざまの話題をマスコミにまきちらし乍ら、とにもかくにも、文壇へふみ込んで来たその雑草的な強さは、敬服にあたいする。私は、『火垂るの墓』に感動した。劇作者的文章が、悲惨な少年少女の最後を描いて、効果をあげたことは、われわれ実作者に深く考えさせるところがあった」と高い評価をしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93



▲△▽▼


2015年12月10日
追悼、野坂昭如! 『火垂るの墓』よりも圧倒的に後味が悪い傑作小説とは?
https://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201512_post_8221.html

「焼け跡闇市やみいち派」を自称した作家で、元参議院議員の野坂昭如(のさか・あきゆき)が9日心不全で亡くなっていたことがわかった。

 自身の戦争体験を基に書かれた『火垂るの墓』で直木賞を受賞。その後、高畑勲監督のもと、スタジオジブリがアニメ化したことで、老若男女が知る大作家となった。ちなみに、映画の公開時、『火垂るの墓』と『となりのトトロ』は2本立てで同時上映されていた。筆者が見た時の上映は「火垂る」→「トトロ」であったが、ネットなどの情報によると「トトロ」→「火垂る」の会場もあったようだ。

 おそらく、幼少期に『火垂るの墓』を見た子どもたちは、大人になっても戦争に対する考え方の一部に野坂イズムが残り続けていることだろう。戦争によって罪のない人々が死に、どこにでもいる普通の人間が、悪魔にもなる――。そして、戦争期間中まさに"餓鬼"として生きた記憶は戦争が終わった後も残り続ける。その残酷さを強烈に表現した"救いのない"作品が

『アメリカひじき・火垂るの墓』(新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%B2%E3%81%98%E3%81%8D%E3%83%BB%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%8E%E5%9D%82-%E6%98%AD%E5%A6%82/dp/4101112037


に収録されている短編『死児を育てる』だ。


■短編『死児を育てる』で描かれた戦争

 この話は、主人公である久子が、かわいがっていたはずの2歳の実子(伸子)を絞め殺した場面から始まる。警察に「なぜ殺した?」と問われる久子は、夫と出会い、伸子を生んだところから回想し始める。しかし、伸子にミルクを与え始めた頃を思い出したとき、実妹文子との記憶を思い出す。

昭和18年の春。久子が小学校5年生の時、文子が誕生。久子は文子をかわいがった。しかし、小型爆弾の破片で母が即死すると、久子の心は不安定になり、泣く文子を失神させるまで殴るなどの虐待が始まる。挙句の果てには、文子の分の配給まで自分で食べ、栄養が必要な2歳の妹には重湯しか与えなくなる。

「私は、自分が生きるためには、文子などどうでもよかった」(p.156より引用)
 
 そして、広島と長崎に原爆が投下され、終戦間近の昭和20年8月13日。警戒警報が発令されると、急に母親の死が久子の脳裏にフラッシュバックし、妹を土蔵に置いたまま、死んだ母の影を追ってほんの束の間、彷徨い歩く。そして土蔵に戻ると、文子の体はねずみに食べられ、血まみれで死んでいたのだった。

「妹の命を奪った、文子を殺したことを、私は鮮明に覚えていた。皮肉なことに、それは自分の産んだ伸子の成長とともに、文子の死んだ年に近づくにつれ、予感が次第に形を明らかにし、伸子は、私の罪をそのあどけない笑い顔や、たどたどしい言葉つきで、するどく指弾する(中略)タイムマシーンがあったら、ここにあるクッキーやあめやゴーフルや、あの土蔵で最後は泣くこともできずに寝たっきりだった文子に届けてやりたい」(p.156より引用)

 久子が伸子を殺してしまった理由は、成長するにしたがって、伸子の顔が文子に見えたからだったのだ。最後に久子が刑事に語る台詞があるが、その救いのなさはぜひ作品を読んで知ってほしい。

野坂自身、神戸の空襲後に、1歳4カ月の妹を栄養失調で亡くしている。妹の肌はあせもとシラミでまだらだったそうだ。この時の記憶と、もっと妹をかわいがっておけばよかったという後悔のもと小説化されたのが『火垂るの墓』である。しかし、野坂の妹に対するトラウマは『死児を育てる』のほうがより残酷でストレートに表現されているのかもしれない。愛していたはずの肉親を自分が思い描いていたように大切にできない悲しさと孤独。戦争があぶりだす人間の残酷な本性を描いた傑作をいまいちど読んでみてはいかがだろうか。





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野坂昭如
この国のなくしもの PHP研究所 1997
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%97%E3%82%82%E3%81%AE%E2%80%95%E4%BD%95%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%92%E5%8E%BB%E5%8B%A2%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E9%87%8E%E5%9D%82-%E6%98%AD%E5%A6%82/dp/4569557228


『この国のなくしもの』野坂昭如 松岡正剛の千夜千冊
https://1000ya.isis.ne.jp/0877.html


何が日本人を去勢させたのかということを、野坂昭如独自の視点と文体で“私的”に書いた。「一度の敗戦で文化、伝統を棄て、自らの歴史について考えることを止めた、国家とはいうまい、こんな民族はない。また、五十年以上前の勝利国のいうがままになっている例もない」ということを書いた。

 この手の、現代日本の社会批判や不戦か批判をめぐる本はゴマンとあるが、5冊を選ぶというなら本書をぜひ入れたい。その理由を以下に説明する。

 第1に、そもそもぼくは野坂昭如の長きにわたるファンなのである。まず作品がべらぼうにいい。スブやんを通して欠如としてのエロティシズムを描いた『エロ事師たち』、俊夫と京子がアメリカ人夫妻をホームステイさせた顛末の奥に日本人の悲哀を衝いた『アメリカひじき』、ここまで「負」の領域に入っていけるのかと驚かせた植物的兄妹相姦とでもいうべき異様を綴り抜いた『骨餓身峠死人葛』、いずれも傑作だった。

 作品がよかったってエッセイがいいとはかぎらない例もゴマンとあるが(たとえば川端康成から村上龍まで)、野坂の場合は作品とエッセイは同じ質感と緊張をもっていて、その両者にまったく齟齬がない。『この国のなくしもの』にもそれが生きている。問題意識もちゃんと一貫している。その理由はおいおいわかる。

 第2に、特異な文体がいい。文体など日本社会批判と関係がないとおもわれるかもしれないが、そんなことはない。いま、日本人はスタイルを見失っているのである。コードが借り物なのは古代以来でかまわないが、それを独得モードにしていない。つまりそこに日本のスタイルがない。

 野坂はデビュー以来ずっとスタイルにこだわってきた。レインコートも、黒眼鏡も、野坂アニミズムも。これはやってみるとわかるのだが、半分はどこかデラシネな遊びの気分が必要で、残り半分ではそうとうの根性がいる。タモリと話したときも、「最初はともかくもね、いったん選んだ黒眼鏡をそのままどんな時もしつづけるのは、かなり覚悟がいるんですわ」と言っていた。まして国家とのスタンスをどうするか。そのスタイルを頑くなに貫くのは、並大抵ではない。とくに戦争と敗戦にかかわった世代にとって、このスタイルだけがその後の人生だといってよいものがある。

 話が広がってしまったが、こういうスタイルのなかで文体は、個人が選ぶスタイルのなかでも最も柔らかくて最もリプレゼンタティブなものである。

 一度や二度、おもしろい文体を綴るのはなんとかなるが、いったん演じた特異な文体をそのまま維持しようとするのは、かなり難しい。そこに何かが宿らないではやりきれまい。野坂はどのようにしたのだろうとおもっていたが、本書には次のようにあった。

 「初めて小説を書いたのは、昭和38年、32歳の夏である。書きはじめると小説とは何ぞやみたいな感じとなり、カッコつければ、ものに憑かれたごとく約60枚を仕上げ、読み返すと助詞を省いているし、延々と「、」でつないで「。」がないし、行替えも少ない。全く意識しなかったが江戸期の戯文体に似ている」と。

 なるほど、最初は夢中だったのだろう。だが、よくぞそれを貫いた。貫いたどころではない、さらに磨き上げたのだ。典型的な例として『骨餓身峠死人葛』(ほねがみとうげほとけかずら)の冒頭を例に出す。こんなふうなスタイルなのだ。  


入海からながめれば、沈降海岸特有の複雑に入りくんだ海岸線で、針葉樹におおわれた岸辺、思いがけぬところに溺れ谷の、陸地深く食いこみ、その先は段々畠となって反りかえる。南に面した地方のそれとことなり、玄海の潮風まともな受けるこのあたりでは、耕して天空にいたるといった旅人の感傷すら許さぬ気配、人間の孜々たる営みを自然のあざわらうようで、それは、いずれもせんたんちいさいながら激しい瀬をもつ岬の、尾根となって谷あいをかこみつつ、背後の、せいぜい標高四百メートルに満たぬ丘陵にのびる、その高さに似合わぬ険しい山容のせいであろう。

 ここまでで一文章。読点は最後にひとつ。息が長いなどというのではなく、ひたすらに濃い。そのうえで言葉の選び方、続き方、絡み方、捨て方、煽り方、いずれも酔わせる。この文体そのものに野坂昭如がいる。

 ちなみに『骨餓身峠死人葛』は奇怪な物語だったが、なんとも忘れがたい。
 大正時代に葛作造という男が北九州の山中に炭坑をおこして「葛炭坑」と名付けた。食い詰め者、風来、犯罪者がここに集まってバラック集落ができる。昭和の不況下、さらに素性の知れぬ者たちがふえていくが、炭坑の設備は不十分なもの、どんどん死人が出た。死人はそこらの林の中に埋められ、卒塔婆一本だけがそこに立てられた。

 いつごろからかこの卒塔婆に葛に似た寄生植物がまとわりつくようになり、山の者はこれをホトケカズラ(死人葛)とよんだ。作造の娘のたかをは、なぜかこの植物に魅せられる。たかをは兄の節夫にせがんでホトケカズラを庭に植え移すために炭坑からもってきてもらう。ところがいくら丹精こめても育たない。長老は、この花は死人の血肉を啜って生きよるばってん、平地じゃ無理でござっしょうという。

 ある夜、ふと節夫が目をさますと隣のたかをがいない。胸騒ぎをおぼえて庭に出てみると、新聞にくるんだ赤児をホトケカズラの根元に埋めている。産み月近い女から小遣い三円で譲ってもらってきたらしい。節夫が恐ろしい質問「それでお前が殺したとか」をすると、たかをは「勝手に死によったとよ」。途端、節夫は妹をいとおしく思う。

 こうして兄と妹は禁忌を犯しあい、交わるようになる。やがて肺病で蔵に寝ていた節夫は自分の死期をさとり、この兄ちゃんを土に埋めてくれ、美しか花の咲くじゃろうけんと言う‥‥。だいたいこんな話だが、まあ、物凄い作品である。

 第3に、野坂昭如はいつも生と死を一緒に持っている。これがいい。焼跡闇市派といわれるだけあって、根っから敗北を抱えている。ホトケカズラのように。それゆえ何を書いても主題がそこからビームのように照射されている。

 本書には、還暦間近の野坂が戦後を振り返って、日本が去勢状態のまま活力を完全に失っていると見えるだけでなく、かつては岡晴夫の歌の「晴れた空、そよぐ風」だけでも、一抹ではあっても強烈な「生」を感じたのに、いまはあらゆる「物」に囲まれてもそれが感じられないのは、これは「日本の未来」すらないことではないかという判断が一貫する。

 ときどきは、本土決戦をしたうえでの敗北だったらこんなにも去勢にならなかったのではないかといった危ない言葉も散見するが、このくらいの発言すら許容できなくなっているのが、いまの日本なのである。もっと書いてもらってもよかった。

 いまはあっさり説明してしまったが、実は野坂の日本去勢論はホトケカズラの根が深いところから出ている。『アメリカひじき』を例にするが、これは大阪の中学生だった俊夫が敗戦をきっかけにして、何もかもの価値が転倒してしまったということを底辺においた小説で、これを読んで、ぼくは名状しがたい困惑に立ち会った。

 父は戦死、母は病身のまま、妹を抱えて俊夫は焼跡闇市を這いまわった野坂そっくりの俊夫が主人公で、この俊夫は日本人がたった一日をさかいに、米兵をアメリカさんと呼び、怪しげな英語をあやつって、なんとか食いつなぐことだけが日常になったことに苛ついている。けれどもその俊夫も、戦後20年もたつとCMプロダクションを動かせるほどになっていた。

 そこへ、妻の京子がハワイ旅行のときに世話になったヒギンズ老夫妻が日本旅行するのでホームステイしてもらいたいと言い出す。こうしてアメリカ人2人と親子3人の日々が始まるのだが、けれども、どうも何かの勝手がちがう。京子は老夫妻のあまりの図々しさにしまいに腹をたててしまった。ところが俊夫は、この老夫婦が図々しければ図々しいほど、ついつい過剰な接待をし、卑屈になっていく。そんなふうにしたいわけではないのに、だ。それはかつて米軍物資の紅茶の葉っぱを「これがアメリカのひじきか」と煮て食ってみたときの、あの味気なさに似ていた‥‥。

 こんなふうに終わる『アメリカひじき』であるが、ここには一口に悲哀のおかしみと片付けられない日本人の「いやなもの」か如実に抉り出されていた。

 野坂が『アメリカひじき』を書いたのは昭和42年だった。『骨餓身峠死人葛』は昭和44年。まさに高度成長下の日本。

 野坂はこのあたりで俊夫との決別を図ることにする。それが昭和49年の参議院議員選挙の東京地方区立候補だったというのは、よほどやむにやまれぬものか、憤懣やるかたないものがあったのだろうが、これで落選したのちは、日本、天皇、戦争飢餓、言語文化、日本人の体たらく、少女犯罪、性思想、差別問題を沈思饒舌に表現するようになって、これは読者でもある日本人にとってはかえってよかったかもしれない。

 さて、第4に、野坂昭如の思索や観察や表現にはどこかに必ず意外な因果律が奏でられているのが、いい。

 たとえば本書には、ホームレスが街にあふれるのは学生アルバイトのせいだという指摘があって、ハッとさせた。学生が大学に入ったとたんにスキーだ、旅行だ、海外だ、コンサートだと好きな費用を稼ぐために茶髪のままにさっさとカネをもっていくから、ホームレスにならないですんだ者たちが交通整理・公園清掃・倉庫番・コンビニ店員などの軽労働に就労できないようになったというのが、野坂の推察なのである。

 日本人が無宗教であると考えすぎていることにも文句がある。日本人は万物に何かが宿ると考えているのだから、それを宗教学じゃあるまいし、神道か仏教かキリスト教か新宗教かなどと区別して見るよりも、その何かを一人一人が多様にもっていることを宗教とみなせばいいじゃないかという見方である。

 そこで第5に、急いであげておくが、野坂が腹の底から重視しているのは日本人は「懼れ」や「惧れ」をどうしたのかという絶叫なのである。

 ぼくが知るかぎりは、この、日本人から薄れつつある「懼れ」と「惧れ」の消息を問題にしている議論はまことに少ないようにおもう。野坂もこのことに言葉を多くはしていない。しかし、「懼れ」と「惧れ」こそはまるでこそこそと後ずさりしてしまったかのように、日本からなくなっているかなり大きなものなのだ。

 本書には抽象的な議論も嘲笑的な議論も一行もない。野坂の中学生から還暦におよんだ日本人としての日々の実感を、当時の学校の先生の言葉やセーターへの愛着やブルセラ少女や文壇バーの変遷を通して、綴った。

 そこに去勢日本になった原因が摘発しているかといえば、必ずしもそういう指摘には富んではいないのだが、それなのに日本社会を野坂流のスタイルで語る手法こそもう少し広まってもよいと思わせるのは、つまりは、とくに結論も提案もないのに本書に愛着をおぼえるのは、野坂が「東京裁判史観から懸命の脱出」をしようとしているということ、そのことがずうっと脈打っていたからだった。

 野坂さん、ぼくもよく、こんなふうに思うことがあります。日本人は全員が小林正樹監督の『東京裁判』を5回くらいは見るべきである、と。

参考¶

ぜひ付け加えたいことがある。昨年、野坂昭如はNHKの「人間講座」で「終戦日記を読む」を9回にわたって話しこんだ。これがすばらしかった。全部を見ることはできなかったのだが、胸が詰った。スタイルもよかった。野坂さん、あのビデオ、取り寄せたい。
 


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野坂昭如の自己弁護小説 『火垂るの墓』 「昭如」と「清太」の違い - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=hjoSgGVGlzo

妹の食べるものを僕自身が奪って食べて生き延びたということのほうのね、負い目のほうが、戦争とか何とかよりも、はるかに僕個人にとって大きな・・・まあ、負い目と言うと大げさですしね。

普段、僕なんか大変調子よく生きているわけだから、自分だってほとんど忘れてはいるわけですけども、まあ、年に何度か思い出すわけね。

それが小説っていう形で嘘をついたためにね、逆に非常に深い傷になって僕の中に残っちゃいましたね。

本来なら、僕はもっと残酷な兄貴だったんですね。
で、残酷な兄であることを逃げて、小説を書いて、その小説によって僕は今、稼いでいるわけで。

で、またアニメーションになれば、またお金が入るかもわかりませんね。
それで僕は贅沢をするかもわからないですね。

で、もう、なんか二重三重にね、鬼畜米って言われてた相手から家畜の餌をいただいて僕は生き延びているわけだし。

一方においては、自分自身が食べるべきものをかっぱらって生き延びながら、そのかっぱらった相手を小説というようなものに仕立てて、また金を稼いでるわけです。

しかも、その時に、あたかも自分がそうであったかのごとき主人公を設定して自分を甘やかしているっていうか、そういった、すべての、なんか、自分の営みの負い目を今ここで直面しなきゃならないっていう感じで言うと、僕にとっては非常に苦痛は苦痛なんです。

朗読テープのおまけの 『野坂昭如 自作を語る』 から

「ぼくが口に含み、咀嚼して柔らかくし、与えようとする。気持ちの上ではそうでも、フッと飲み込んでしまうのだ。二度三度繰り返すと、後は開き直って、妹の分まで平らげ、罪の意識はない。」(15ページ)

「現実のぼくは架空の 『清太』 ほど妹にやさしくなかった。夜泣けば頭を小突き、するとおとなしくなる。こんなに小さくても泣けば痛い目に会うとわかるのか。かわいそうで涙が滲むが、二、三日後、またなぐる。ずっと後になり、乳児の首は弱く、頭に対するちょっとした打撃でも軽い脳震盪を起こし、五、六秒失神することがあると医者に聞いて、愕然としたのだ。妹は気を失っていたのか。」(58ページ)

「六月五日から八月二十一日までの、ぼくと妹の過ごした日々に、ほぼ基づいている。妹の歳、場所は違う。なにより作中でぼくらしき同年の兄は餓死してしまう。痩せ衰えるばかりの妹を、兄は懸命に 『自分の指を切って、油で炒めて食べさせたろ』 とさえ思う。自分の食いぶちを与え、妹のために盗む。現実は逆。まだ肉のついていたころ、赤ん坊特有のプクプクしたふとももに、ぼくは食欲を覚えた。罪深くその時に感じたことだが、妹のために咀嚼してやるつもりの炒り大豆カスを、ふと喉へすべらしてしまう。野荒しの収穫は、おおかた響子への貢物となった。なにより、ぼくの気持ちは響子に傾倒していた。妹は邪魔っけなだけ。」(94ページ)

「泣けばなぐる。向いの旋盤屑積めた南京袋の上に置く。伶子の尻に点々と赤いものがあり、虫刺されではなく、袋から突き出た鉄屑の鋭い切っ先による跡。伶子は首がすわらなくなり、もとより言葉を失い、一日寝たきり。」(116ページ)

「伶子の異常な痩せ方に驚いたのは八月二十一日夜。(中略)十八日、配給があった。亡くなるまでの五日間、なんとか妹の口にし得るものを手にした。伶子は少し食べたように思う。木製のスプーンに残った粥、唾で柔らかくした乾パン。ぼくの胃袋に収まってしまったが。」(119ページ)

「母、祖母のかたわらに身を置きたくなくて、さかしらげな言葉を弄し、ぼくは逃げたのだ。伶子の死は自分の責任じゃない。だが、骨と皮の素っ裸を豆殻にくるまれた伶子の遺体眼にして、痛そうだと、いやたしかに痛みが伝わった。同時にぼくはホッとしていた。罪の意識じゃない。自分だけ生き残ったことのやましさなどてんからない。」(126ページ)

『わが桎梏の碑』(野坂昭如著)から

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『わが桎梏の碑』(野坂昭如著)から

「家の経済状態がきわめて危なっかしくなっていたのだ。借金が約五千万円、利子が年にほぼ四百万、妻はあると信じている定期預金、保険はとっくに下し、また解約。特別な浪費をしたわけじゃない。

(中略)八十八年、『火垂るの墓』がアニメーション映画化され、多くの観客を集めた。つれて文庫が売れた。収入が増えたのはありがたいが、ぼくはなんとも居心地が悪い。

(中略)昭和四十二年初夏の頃、当時、練馬に住んでいたのだが六本木の喫茶店で待つ編集者のもとへタクシーで届け、これがデッドラインギリギリ、文字通り書き飛ばして、読み直しもしていない。

(中略)アニメなればこそ克明に再現。パイロットフィルムは眼にしたが、完成作品を観ていない。やみくもに書いたことは事実。細部は直後に忘れてしまったが、大筋は憶えているし、書いた時の自分の気持ちになると、日を追うごとに鮮明となって、つまり、自己弁護小説とわかる。」(9、10、11ページ)

「待合室に大勢の老人女子供がいて、死体をかかえながら、ぼくはいたたまれない恥ずかしさを感じた。妹のあわれな死を悲しむ、かわいそうに思うより、ただ一刻でも早く、人目のないところへ行きたい。」(14ページ)

「ぼくが口に含み、咀嚼して柔らかくし、与えようとする。気持ちの上ではそうでも、フッと飲み込んでしまうのだ。二度三度繰り返すと、後は開き直って、妹の分まで平らげ、罪の意識はない。」(15ページ)

「ここでぼくは両親、妹の死を確信した。悲しみはない。開放感があった。母の表情口調物腰考え方、すべてを嫌い、ひたすら父を慕っていた。その前で優等生ぶり、父が素直にぼくの嘘出まかせを信じると、罪深く思い、また重荷でもある。」(38ページ)

「現実のぼくは架空の『清太』ほど妹にやさしくなかった。夜泣けば頭を小突き、するとおとなしくなる。こんなに小さくても泣けば痛い目に会うとわかるのか。かわいそうで涙が滲むが、二、三日後、またなぐる。ずっと後になり、乳児の首は弱く、頭に対するちょっとした打撃でも軽い脳震盪を起こし、五、六秒失神することがあると医者に聞いて、愕然としたのだ。妹は気を失っていたのか。」(58ページ)

「この短編は好評だった。もちろん嬉しいのだが、誉められるほどに、気持ちに滓の如く、鬱々たるものが増殖。六月五日から八月二十一日までの、ぼくと妹の過ごした日々に、ほぼ基づいている。妹の歳、場所は違う。なにより作中でぼくらしき同年の兄は餓死してしまう。痩せ衰えるばかりの妹を、兄は懸命に『自分の指を切って、油で炒めて食べさせたろ』とさえ思う。自分の食いぶちを与え、妹のために盗む。現実は逆。まだ肉のついていたころ、赤ん坊特有のプクプクしたふとももに、ぼくは食欲を覚えた。罪深くその時に感じたことだが、妹のために咀嚼してやるつもりの炒り大豆カスを、ふと喉へすべらしてしまう。野荒しの収穫は、おおかた響子への貢物となった。田螺、野草を貝の小鍋で煮た。しかし一歳三、四ヶ月では食べられない。なにより、ぼくの気持ちは響子に傾倒していた。妹は邪魔っけなだけ。」(94、95ページ)

「ぼく一人が怯えていた。どうせお終いだと、どこまで身に沁みて思ったか。伶子に対する態度もぞんざいになった。泣けばなぐる。向いの旋盤屑積めた南京袋の上に置く。伶子の尻に点々と赤いものがあり、虫刺されではなく、袋から突き出た鉄屑の鋭い切っ先による跡。伶子は首がすわらなくなり、もとより言葉を失い、一日寝たきり。」(116ページ)

「伶子の異常な痩せ方に驚いたのは八月二十一日夜。(中略)十八日、配給があった。亡くなるまでの五日間、なんとか妹の口にし得るものを手にした。伶子は少し食べたように思う。木製のスプーンに残った粥、唾で柔らかくした乾パン。ぼくの胃袋に収まってしまったが。」(119ページ)

「伶子の死を母と祖母にどう告げればいいのか。四人一緒にいたとしても、あの衰えぶり。八月の大阪近郊の主食配給がどんな具合だったか知らないが、春江より良かったとは思えない。

いちばん弱い存在だった伶子は生きのびれなかったろう。しかし、母、祖母のかたわらに身を置きたくなくて、さかしらげな言葉を弄し、ぼくは逃げたのだ。伶子の死は自分の責任じゃない。だが、骨と皮の素っ裸を豆殻にくるまれた伶子の遺体眼にして、痛そうだと、いやたしかに痛みが伝わった。同時にぼくはホッとしていた。罪の意識じゃない。自分だけ生き残ったことのやましさなどてんからない。」(126、127ページ)

「合掌という行為が伶子の亡骸と結びつかないのだ。自分に対する弁解かもしれない。焼けるまで彼岸に墓参り、盆にお迎え火を焚き、なにより、四年前、妹が亡くなって、仏教のしきたりあらまし心得ている。だが、伶子を焼いて以来、気持ちにしろ形にしろ、その冥福を祈ったことがない。」(141ページ)

「栄養失調気味の多い中で、盗みにより飽食していたぼくの体つきはマシにみえたのか、すっかり気落ちしたぼくに、三高陸上部の二人が合格したら入部しろと勧めた。」(187ページ)
 
「ぼくが両側の房の並ぶ通路で身体検査をされた時に見たそうだが、『お前、魔羅で食える。いいもの持ってるじゃないか。』と言った。その意味するところはまったくわからなかったが、奇妙な自信がついた。事情が事情のせいだが、ぼくを力づけた一言といえば、まずこれだろう。きみの文体はおもしろいとか、『醜悪無惨な世界をえがいていて、だが作者は常にやさしい』などの誉め言葉より、ずっと印象に残っている。」(201ページ)


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/163.html#c1

[近代史3] 昔の日本映画は熱かった _ 高畑勲 野坂昭如_火垂るの墓 (スタジオジブリ 1988年) 中川隆
2. 中川隆[-12968] koaQ7Jey 2019年1月16日 10:40:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

『火垂るの墓』はアニメでしか表現できない

終戦60年スペシャルドラマ『火垂るの墓―ほたるのはか―』

動画
https://www.youtube.com/watch?v=HNYtpbaOs8Y
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93+%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E


原作 - 野坂昭如(『アメリカひじき・火垂るの墓』 新潮文庫刊)
脚本 - 井上由美子

音楽 - 沢田完
エンディングテーマ - Bank Band「生まれ来る子供たちのために」

製作・著作 - 日本テレビ

終戦60年スペシャルドラマ『火垂るの墓―ほたるのはか―』として2005年(平成17年)11月1日の火曜日21:00 - 23:54に日本テレビ系で放送された。

「ドラマ・コンプレックス」第一弾番組でもある。

撮影は当時の風景を可能な限り再現するために、神戸周辺のみならず日本各地をロケして行われた。視聴率は21.2%を記録した。アニメでは描写されなかった部分(清太達の名字、父親がいかにして戦争に出掛けたか、叔母が清太達を引き取ることになった経緯、清太が通う学校描写)が描かれた。本編のDVDは2006年(平成18年)2月22日発売された。

ドラマ版の製作に当たって、野坂昭如は

「ドラマは、原作を離れて自由である。ぼくの小説が戦後60年経った現在、違う形となり、今を生きる人たちに、戦争の惨たらしさを少しでも伝えられれば、原作者として有難いこと」

とのメッセージを寄せている。

番組終了後、

「このドラマはフィクションですが、世界中には今も清太や節子のように戦火の中に暮らしている子供たちが数多くいます。

」と視聴者にメッセージを寄せている。


キャスト(ドラマ)

横川家 横川 清太 - 石田法嗣
原作では設定のなかった学校が、エリート進学校である神戸一中(野坂昭如が当時在学していた神戸市立中とは異なる)に設定された。アニメ映画と同様駅員に節子の遺骨が入ったドロップの缶は放り投げ出されるが、久子に拾われた。


横川 節子 - 佐々木麻緒
アニメ映画とは違い、人形や財布等はなく、そのまま遺体は清太によって荼毘に付された。


横川 清 - 沢村一樹
清太・節子の父、海軍大佐。1943年夏、出征の際、息子の清太に自分の代わりに大黒柱として母の京子と妹の節子を守り抜くよう言い聞かせた。戦争終了後、実は既に死亡していたことが判明する。


横川 京子 - 夏川結衣
清太・節子の母。

澤野家 澤野 久子 - 松嶋菜々子
親戚の叔母。半年前に嫁ぎ先の源蔵の実家を空襲で失い疎開してきた。京子に頼まれ清太と節子を預かり当初は好意的に接していたが、帰りを待っていた源造が戦死し清太達が持ってきた食料を自分の子供たちに与える為諍いが絶えなくなっていき、なつには「鬼」と比喩された。冒頭の2005年(現代)では95歳で大往生を迎え死去し、遺骨を拾われた。


澤野 源造 - 伊原剛志
久子の夫、大工。
疎開先で赤紙が届き、1943年夏、「必ず生きて帰ってくる」と家族に伝え出征。その後、1945年にソルモン諸島のルバング島で玉砕し、吉岡 利之により戦死通告が届く。

澤野 なつ - 井上真央(二役)
久子の長女。清太と節子死後、形見であるドロップの缶は60年後まで所持する事になる。

澤野 善衛 - 要潤
源造の末弟で足が悪く杖を使用している。戦争終了後、老人に絡まれている清太を助けた後、久子に貯金を取り上げられそのまま家を後にする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/163.html#c2

[近代史3] 昔の日本映画は熱かった _ キタキツネ物語 (サンリオ 1978年)

キタキツネ物語 1978年版

監督・脚本・編集:蔵原惟繕

企画・動物監督:竹田津実

音楽:佐藤勝、タケカワユキヒデ

歌唱:町田義人、ゴダイゴ、朱里エイコ

主題歌:「赤い狩人」(作詞:奈良橋陽子、三村順一、作曲:タケカワユキヒデ)

製作:サンリオ

配給:東宝東和

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E7%8B%90%E7%8B%B8%E7%9A%84%E6%95%85%E4%BA%8B?ref=watch_html5
https://www.youtube.com/watch?v=5PpKlcuTnfw

タケカワユキヒデ - 小さな翼 - ニコニコ動画GINZA
http://www.nicovideo.jp/watch/nm12478122  


ナレーション:岡田英次
モノローグ:大林丈史、朱里エイコ


キタキツネの観察と撮影を行っていた、獣医師の竹田津実が企画・動物監督。
素材映像の撮影に4年、その後、竹田津が飼育していたキタキツネの映像が撮影されて、製作された。

2013年、公開35周年記念と銘打ってリニューアル版が上映された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D%E7%89%A9%E8%AA%9E


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キタキツネ物語 35周年リニューアル版
劇場公開日 2013年10月19日

厳しい自然の中を生き抜くキタキツネ一家の姿を描き、観客動員230万人の大ヒットとなったドキュメンタリードラマ「キタキツネ物語」(1978)を、製作・公開から35周年を記念してリニューアル。

北海道オホーツクの地に流氷に乗ってやってきたキタキツネのフリップは、愛する妻レイラと出会い、5匹の子どもに恵まれる。フラップは家族を守るため、襲い来る大自然の猛威や人間の脅威にも立ち向かっていく。

未公開部分を含めた約100時間におよぶフィルムを再編集し、最新の技術で高画質化。
声優陣も一新し、父フラップの声を佐藤隆太、妻レイラを平野綾、一家を見守る柏の木のナレーションを西田敏行が担当する。
http://eiga.com/movie/78512/


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キタキツネ物語 35周年リニューアル版に関するみんなの感想


赤羽 弘明 Akahane@1koto 8月26日

『キタキツネ物語 35周年リニューアル版』 小学校の頃、初めて観た映画。
音楽と共に懐かしさに浸れると思ったのがいけなかった。
再編集されて音楽も変わるとこんなに不快に感じることがあるのか。
懐かしさを期待して観ては絶対にいけない一本


神代TOUCH ME@BED_TIME_EYES 2013年11月4日

『キタキツネ物語 35周年リニューアル版音楽が最悪!町田義人のあの大名曲を外すのは大愚行。apricotの歌も不快。映画自体もボンヤリした出来。蔵原監督は後身を育てられずか。やっぱりアスミック配給は信用できねぇな。


僕等がいなかった@sa9237a 2013年10月23日

『キタキツネ物語 35周年リニューアル版』当時あんなに大ヒットしたのに、時代が変わるこれほどとつまらなくなってしまうものなのか。今となっては、キタキツネなんぞ珍しくもなく編集に騙されている感が。


s
祐吉@Yu_Luck 2013年10月13日

『キタキツネ物語 35周年リニューアル版』。映像を残したリメイク作品(と言っていい)。
もともとドキュメンタリーとして疑わしい作品けど、観客のイマジネーションを削ぐナレーション・台詞・歌にげんなり。自然の厳しさや残酷さは薄まった印象。
http://coco.to/movie/35129

s



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キタキツネ物語 (1978) 監督蔵原惟繕

2013年版は最悪、1978年版は素晴らしい
z mvz***** さん 」 2013年10月22日 20時27分


2013年版観たあと、再度、見ましたが

音声、音楽、ストーリー構成、
説得力ありました。
野生種と人間、家畜、
野生動物の生存競争を
柏の木、唄や音楽で表現しています。

2013年版はバラエティー番組ですよね。
監督がソフトバンクのCMで白い犬が喋るんだから、
キタキツネを喋らせようと煩くて、酷すぎなセリフ。

全てのシーンは1978年版オリジナルが勝ります。

2013年版で満足している方々、
1978年版観れば、2013年版の改悪がわかります。
http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%82%AD%E3%83%84%E3%83%8D%E7%89%A9%E8%AA%9E/146374/review/2013%E5%B9%B4%E7%89%88%E3%81%AF%E6%9C%80%E6%82%AA%E3%80%811978%E5%B9%B4%E7%89%88%E3%81%AF%E7%B4%A0%E6%99%B4%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%84/8/?c=2&sort=lrf


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小宮郁生@yamicoke 2013.10.14 18:47

「キタキツネ物語 リニューアル版」

残酷なシーンをごっそりカットしてすっかりマイルド化。

5匹の子宝に恵まれたのに、長男を遺して全滅…という凄絶さがキモだったはず。

子別れの儀式からラストシーンまでほぼ直結。
ここまで変えて「動物に危害は加えていません」なんて欺瞞以外の何者でもないよ!
http://matome.naver.jp/odai/2138175073489073401

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竹田津 実(獣医師・写真家・エッセイスト) 『キタキツネとの半世紀』
https://www.youtube.com/watch?v=pNwRKuaxHkQ

竹田津 実

大分に育った「虫が大好き」少年は、動物園の園長になろうと決めて岐阜の大学で
獣医学を学びます。実際に進んだ道は、牛や馬など「産業動物」を扱う獣医師。

「まだ観ていない動物がいちばん多い」北海道へ赴任し、以来その地で半世紀を
すごしてきました。家畜診療所勤務のかたわら、傷ついた野生動物のめんどうをみ、自然の再生・創成をめざす運動に参加し、傷んだ土壌の回復に力をつくし......と­、行動するナチュラリストとして歩んできた年月の中で、一貫して続けたのがキタキツネの観察でした。多くの個体を自然の中で観察し、自宅で入院治療をほどこし、出産・育児を間近で補助し記録するなど、長期にわたるキツネとの関わりはじつに多面的です。

トーハチ、セン、メンコ、ヘレン......と名前のついたキツネたちの個性もいろい­ろ。その長いつきあいを振り返って、竹田津さんは言います――

「キツネを観ればヒトが見え­る!」と。

さて、そのこころは!?

「キツネについてのわたしの卒論」=『キタキツネの十二か月』を刊行した竹田津さんの、興味のつきない"キツネ話"を聞きましょう!


【講師紹介】

竹田津 実(たけたづ・みのる)

1937年、大分県生まれ。獣医師。

1963年より北海道東部の小清水町農業共済組合家畜診療所勤務。

1965年以来、小清水町においてキタキツネの生態調査を続ける。

1972年、傷ついた野生動物の保護・治療・リハビリ作業を始め、

1979年からはナショナル・トラスト「オホーツクの村」建設運動に参加。

2008年、北海道文化賞を受賞。

映画『キタキツネ物語』企画・動物監督。

著書『子ぎつねヘレンがのこしたもの』(偕成­社)が『子ぎつねヘレン』として映画化される。

『えぞ王国 写真北海道動物記』(新潮社)、『オホーツクの十二か月』(福音館書店/第54回産経­児童出版文化賞JR賞および第2回福田清人賞受賞)、『野生からの伝言』(集英社)、­『どうぶつさいばん ライオンのしごと』(文/偕成社)、「シリーズ・北国からの動物記」(アリス館)ほか­、写真集・エッセイ・絵本のテキストに多数の仕事がある。

2004年より、北海道中央部の東川町に在住。
https://www.youtube.com/watch?v=pNwRKuaxHkQ


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キタキツネ飼育日記 (ちくま文庫) 竹田津実
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/448002638X/ref=tmm_pap_used_olp_sr?ie=UTF8&condition=used&qid=&sr=


 竹田津先生・・・キタキツネ好きの間では、有名な方なのではないでしょうか!

 あの!映画「キタキツネ物語」の企画、動物監督さんとして、あまりに有名なのですが、実は獣医さんなんですね。しかも、写真家でエッセイストという、何足のわらじを履いてらっしゃるのか^^;(笑)。

 この本の表紙の可愛い女の子は、竹田津先生の1番下の娘さんのこるりちゃんです♪

 そして抱いているのは、オスギツネの「フロク」ちゃんです。

 養狐場(毛皮にするためにキツネを飼っているところT_T;)から、母親が興奮して他の兄弟たちを噛み殺してしまい、たった1匹生き残った「フロク」ちゃんだけが、先生のお宅にやってきました。

 その飼育係りを言い出したのが、娘さんのこるりちゃんだったわけです。

 シーズンを通しての、1人と1匹の微笑ましい交流の模様が、写真集の中にあふれています♪

 ああ、家の中を子ギツネが数匹、ウロウロウロ・・・考えただけで、かっ可愛い〜〜♪♪
 (大変でしょうけど^^;)

 そして、何を隠そうこの「フロク」ちゃんこそ、映画「キタキツネ物語」にて、野生のキツネの身替わりで出演していたキタキツネなのです!!

 立派なスタント、いえいえ主演キツネくんなのです!!

 6才で亡くなるまで、竹田津先生宅で幸せに暮らした「フロク」ちゃんの一生が描かれています。

 この本は、続編があるのですが、まだゲットしていませんT_T;!いつの日か、きっと!!
http://home.catv.ne.jp/kk/gen/book14.htm


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北海道新聞 (夕刊) 1999年(平成11年)9月24日(金曜日)


今日も狐日和 − 竹田津 実 −

このシーズンも又、自分が自由にできる時間のほとんどをキツネに使ってしまった。キツネを追い始めて35年がとっくに過ぎようとするのに、なんという体たらくと、相手のいいなりになる我身に、ほんの少し腹を立てている。いつの頃(ころ)からか私はキツネにうまく使われていると思うようになっていた。

観察を始めてからの数年間、キツネはひたすら私の視界の中には登場するもんかという意志を示し続けた。

やっと見つけた観察には最良の場所に住む家族は今日から本格的にと考えたその朝、さっさと引越しをしてしまったし、冬から時々餌(えさ)をあたえてきげんをとっていた雌個体は子供を生んだ直後に交通事故であっさりあの世とやらに行ってしまった。

そこでとうとうある年、もう今年はキツネを観察(み)るのはやめようと決めた。その直後、「先生、よくなれたキツネがいますよ」とお百姓さんのSさんから電話。

出かけてみると、この雌個体はなんと玄関だけではなく奥座敷までみてくれと言ったのである。私はわずか半年でキツネのほとんどをみせてもらったと思った程である。でもそれで終わり。それから数年、キツネたちは・・・ハイ、ここまでヨ−、とばかりそれ以上の世界はみせてくれなかった。

そうなると全てに飽きっぽい私は、「これまでだナ−、そろそろ別な種をのぞくか」と思ってしまう。

ところが敵はその時を待ってましたとばかり「こんな生き方のキツネもいます」と、一夫多妻の一家を目の前に登場させたのである。

「へえ−、こりゃ面白い」などと喜んで数年たつと、それも見慣れた風景となり、ついつい隣の芝生が気になり始める。

するとまた、また待ってましたとばかり、今度はヘルパー軍団を登場させるという作戦をキツネ達はとったのであった。

かくしていつの間にかというより、とうとう35年も付き合わされているのである。
・・・で君はここ数年何をやっている、と聞かれると、「死をみつめている」と答えることにしている。

数年前、東京で「キツネを追って30年」という写真展をやった。友人達が集まって小さな・・・というより私にとってはとても大きなパーティーをやってもらった。そしてこれもよくある話だが、いろんな人々から「ごくろうさん」といった意味の挨拶(あいさつ)をいただいた。その中に、

「まさか次は40年・・・というのをやるつもりじゃあないだろうな・・・」

といったものがあった。むろん、私自身もう十分という気持ちであったし、何度かの浮気でキツネたちにもその都度登場させる駒(こま)が不足気味だということを感じていたので「・・・もう終わりです。次はカラスをやります」と宣言した程だった。

ところがそれを聞きつけた敵が最初の切り札ともいうべきものを用意したのである。

昔からよく使われる「死んでやる」というのをキツネたちが演じ始めたのだった。それも誰か代表を送り込んでみせるのではない。全員が出演者になろうとしているように見えるのである。

普通、交通事故は別にして、私たちは野生動物の死をみる機会は少ない。なのにここ数年、多くの地で「キツネが死んでいます」という報告、それも道路ではなく多くが倉庫や牛舎、豚舎の中で発見されている。

ほとんどの個体が体毛はボロボロとなり、皮膚は厚いカサブタでおおわれ、顔は変形し、「お化けみたい」な姿で死んでいる。

疥癬(かいせん)病。ヒゼンダニの一種が原因の寄生虫病だ。ダニが皮膚の中を食い進み、トンネルを全身に造るという、キツネにとってはすさまじい症状を呈する重い疾患なのである。

トンネル状になった皮膚は当然のことながら毛がぬけ、細菌の感染を受けて衰弱・・・やがて死へとつながってゆく。死体が牛舎や豚舎で発見されることが多いのは脱毛したために暖かい場所を求めてたどりついた所なのだ。

原因が人間のほんの小さな行動、それもやさしさからだと分かって私たちは息をのんでいる。

キツネが道端に出てくる。「やあ、かわいい」と誰かがつぶやき、車を止める。相手はじっとこちらを見つめている。何かないかなとポケットをさぐる。バッグの中には・・・。

「あった、あった。これをあげよう」といって窓からパッとなげた。キツネが近づき、うまそうではないが食べる。車の中の人は「うん、今日はいいことをした」と幸せな気持ちになってアクセルをふかせる。唯(ただ)それだけの話。
だが彼等の死の多くの原因がここにあった。

与えたものが多くはスナック菓子であったことである。キツネは肉食動物。肉食動物にとってスナック菓子の甘さは適度な下剤となる。毎日下剤を与えられた動物がいかなる運命をたどるか。答えは明白であった。

自己の免疫が低下し、結果として体は寄生した虫たちの天下となるのである。まず観光地のキツネたちが消えた。そしてそれはジワジワと周辺に広がっている。
食べられる。だが食べ物ではない・・・物を与えられた生命の行く末を「お前はちゃんと見ろ!!」と彼等は私にいっている。「それはやがてお前さんたちもたどる道ではないのかね」と言いたげでもある。

35年間みつづけた私のフィールドのキツネの数は今年四分の一になってしまった。


(たけたづ・みのる = 獣医師、網走管内小清水町在住)
http://www.sip.or.jp/~tohro/kitune.htm


▲△▽▼

森の診療所の獣医・竹田津実さん
「限りなく犯罪に近い、言われなくなってほっとしている」 2013/03/06
http://bigissue-online.jp/2013/03/06/taketazu-san/


野生の患者は、野生からの伝言者。選ばれて、自然の今を伝えに来る

“北海道東川町に森の診療所を開く竹田津実さん。
30年間、傷ついた野生動物の保護、治療、リハビリに無償で取り組んできた。そんな竹田津さんが綴る、野生動物と巡り合う日々。

野生動物は無主物。その診療は犯罪行為!

野生たちの診療を始めて30年が過ぎた。バカなことである。やっとここ7〜8年は犯罪者扱いされなくなったが、それ以前は立派な法律違反者としてお上ににらまれていた。

野生動物は無主物。誰のものでもありませんと法は定めている。ところが「……ならば私が」とカスミ網やワナなどを仕掛けとらえて焼き鳥なんぞにされたらたまらんと、国家は数種の法をかぶせた。捕ってはなりません。当然飼うこともいけませんと明記した。

そこで道端で苦しむ野生を見て助けなくてはと思わず手を出した人……多くは子供か老人と呼ばれる人たちである……がいたらどうなるか。立派な法律違反者となったのである。

「あの先生のところへ……」と考えて走る。すると当然あの先生も犯罪者の仲間入り。

かくして心優しき子供やお年寄りは咎人となり、心ならずも受けた獣医師もその仲間入りを果す。

そのうえ……これを特に言いたい……獣医師は貧乏となる。

無主物である野生の生き物はお金を持って来ない。かわいそうだと思わず手を出した人たちには診療費、入院費の支払いの義務がない。当たり前である。もしお金を支払うとその患者はあなたのものですかと問われる。そうですとは言えない。言えば、私は立派な犯罪者であると自白しているようなもの。誰ひとりお金は支払わないのである。

ついでに言うと、傷つき病んで苦しんでいる生き物たちを見ても、見て見ぬふりをし、知らん顔を決め込む者たちをこの国では良しとしている。正常と言っている。なんだか気味が悪い。


先生、それって殺すことではないですか?


以上が、野生動物の診療所を取り巻く現状であった。

これが7〜8年前から少しずつ変わった。なぜか知らない。なにはともあれ現場を見て「限りなく犯罪に近い」と言われなくなってほっとしている。

30年前、二人の少年がやって来た。抱えたダンボールの中にはトビがいた。「飛べません。かわいそうです。治してやってください」と言った。

「家畜以外は診ませんよ」と言ってみたが、半分泣き顔になっている兄弟……二人は兄弟であった……には帰ってくれとは言えない。そこで理由探しをした。幸い(?)当のトビは検査の結果、翼の骨の一部が欠損していることがわかった。これなら十分な理由になった。

そこでレントゲン写真を見せて説明をする。すると「どうしましょう」とつぶやく。そこで技術者としていかにもまっとうな理由(安楽死)を口にした。これがまずかった。「安楽死とはなんですか」と聞くので説明するに、兄弟は少し考えて「先生、それって殺すことではないですか」ときた。

これは少し困った。獣医師は生き物を助けるためにあるもの……といった世間の常識に背を向けるわけにはいくまいと身構えて見せたが、うまい答えが登場しない。ぶつぶつ言った挙句、「まあそんなことだな」と予定外の台詞が飛び出してしまったのである。一瞬間があって「ワー」という兄弟の泣き声に、私はただただ立ちすくんだのである。

ともかく帰ってもらおうという作戦。「なんとかしよう。ともかく今日は帰りなさい」と説得する。「ナントカシマショウ」を連発。帰ってしまえばこっちのもの。「安楽死を選択しよう」と決めていたのである。

ところが敵(?)もさる者。当方の魂胆を見抜く。そして言ったセリフ。「明日も来てみます」ときた。来られたらアウト。ともかくトビの命は1日伸びることになった。

次の日、兄弟はやって来た。肉片を持ってきて「ピーコ、ほれ、おいしいよ」と言いながら餌を食べさせ帰っていった。「明日も来てみます」という言葉を残して。

それが1週間も続くと私ももう技術者としての一つの作業をあきらめていた。

トビと兄弟と獣医師の妙な関係は、その後半年間も続く。結局トビの死という現実が登場するまで。

兄弟は別れを納得し、獣医師は兄弟の気持ちに寄り添うことを学ぶ。そんな技術屋が一人くらいいてもいいのかなとつぶやきながら。


どうして診療所に来た?今日も探す野生の企み

それから数年たった年の5月。

我が家の玄関は大騒ぎとなっていた。次々と患者がやって来た。本来であれば喜ばしいことだが、野生動物の診療所としては逆である。

お金を払わないものたちが押し寄せると、当然のことながら貧乏になり、やがて倒産の憂き目にあう。

そのときもこれは間違いなく夜逃げを考えなくては……といった繁盛ぶりとなった。

患者は小型の渡り鳥、コムクドリである。次々とやって来た。2羽、5羽、はては7羽も一つのダンボールで運ばれて来る軍団もあった。病状は中毒病、明らかに農薬の集団中毒であった。散布された農薬に苦しむ虫たちを腹いっぱい食べた鳥たちが二次被害にかかったということだろう。ともかくにも大騒動を強いて、あげく9割が死んで終わった。

おびただしい死骸を目の当たりにして、彼らがなぜ我が家の玄関の戸をたたいたのかを考えてみることにした。豊かだ豊かだといわれる北の大地が予想以上に農薬に汚染されている現実にたどり着く。

それに対するささやかではあるが多くのお百姓さんの参加する作業がこのことをきっかけに始まったのである。


以来、私は私の診療台の上に横たわる野生の患者が「どうしてここに来たのか」という理由を聞くことにしている。しつこく、詳細に。

いつの間にか、患者たちは自然の今を伝えるためにやって来たに違いないと思うようになっている。しかも選ばれて来るような気がする。草原の草のかげや森の奥深くで彼らはときどき会議を開き、今度はこの問題について誰を送り出そうかなんて企らんでいるように思えるのである。野生からの伝言者として。

馬鹿みたいな作業が続いている。そのバカみたいな作業の中に隠された野性の企みを私は今日も探そうとしている。
http://bigissue-online.jp/2013/03/06/taketazu-san/


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映画原作 『子ぎつねヘレンがのこしたもの』
著者:竹田津 実 発行:偕成社 価格:735円(税込)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4035509507/qid=1136942763/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl


道路わきで保護され、獣医の竹田津先生のところへつれてこられたキタキツネの子ヘレンは、目が見えず、耳も聞こえないようだ。
しかし、先生夫妻の懸命な介護で、ヘレンは初めて母ぎつねを呼ぶ声を発し……。
小さいけれどかけがえのない命の重さをつづる感動のノンフィクション。

 
 
初めてつれてこられた子ぎつね

初めてつれてこられた子ぎつねは体重1020グラム、生後30日くらいの雌。呼吸数、体温、脈拍数いずれも異常はなかったが、視覚、聴覚、そして嗅覚までもが失われていた。三重苦の偉人ヘレン・ケラーにちなみ、子ぎつねはヘレンと名づけられた。
 
 
入院のための全身シャンプー
ゴシゴシ、ジャブジャブ洗われても、ヘレンはあまりいやがらなかった。
 
 
シャンプー後はドライヤーで体を乾かす。このときもヘレンはじっとしたまま。

 
 
入院患者のキツネのメンコ、先生夫妻と一緒にピクニックにきたヘレン
海岸にはエゾエンゴサクが咲き始めていた。


ピクニック先で、竹田津先生に抱かれる子ぎつねヘレン。気持ちよさそうに眠っている。

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「ばかなことだけどいいな」と思えることが、実は子どもには大切
……映画『子ぎつねヘレン』原作者 竹田津実さん
https://www.manabinoba.com/index.cfm/6,7023,12,html


獣医として長年、野生動物の保護、治療に取り組んできた竹田津実さん。
野生動物との付き合いを通して人間の子どもを見ることで、人間世界の教育のおかしさが浮かび上がってくる。

 
  獣医として長年、野生動物の保護、治療に取り組んできた竹田津実さん。野生動物との付き合いを通して人間の子どもを見ることで、人間世界の教育のおかしさが浮かび上がってくる。人間的になるとは、動物として不自然になることなのか? 親も教師も、人間は動物である、という前提に立ち返って考え直す必要があるのかもしれない。  


インタビュアー 高篠栄子 (学びの場.com編集長)


野生動物のための診療所を始めるまで

----まず、竹田津さんの子ども時代のことからお聞かせ願いますか?

僕が育ったところはとにかく田舎で、いつも親から「家の外で遊ぶように」といわれました。たぶん私の世代は、「勉強しろ」と言われなかった最後の世代だと思います。それに今のようにパソコンやインターネットもなく、情報量が少なかったのも幸せだった。

高校を卒業して就職しましたが、体をこわして辞めなければなりませんでした。そして、大学に入ろうと思ったわけです。それで専攻を選ぶ際に、小さいとき動物園の園長になりたかったことを思い出して獣医学科を選びました。情報がなかったので、獣医になれば動物園の園長になれると思っていたわけです。でも、大学に入ってすぐに、獣医になるだけでは園長になれないことがわかりました。せっかく入学したのにいきなり夢が敗れてしまった。


大学時代は、カナダのアルバータ州へ行って獣医をしたかったんですが、その話がダメになって、北海道でウシとウマを診る診療所に就職しました。その診療所で、結局28年働きました。

当時はウシ一頭一頭すべてに愛称が付いていました。それが1960年代になると、ウシに愛称を付けなくなりました。そのころからウシを生き物として見るのではなく、ミルクを出す機械として見るようになったのだと思います。

そういう流れが空しくなって、ならばとその対極に位置する野生動物のための診療所を始め、今に至ります。

野生動物を診る、ということは、飼い主がいないわけですから、診療費がもらえない。だから『アニマ』などの雑誌に原稿を書き、写真を載せてもらって収入を得ていました。


うっとうしいもの、きたないものを閉じこめている

----最近、学校でも凶悪な事件が起き、子どもたちが「命」を軽んじている、とよく言われます。

それは当然だと思います。昔は、人が家で死ぬのはあたりまえだった。でも、最近では家庭で「死」を見ることはほとんどありません。だから今は、「命」というのは単なる言葉でしかない。

「死」というものは決して美しいものではありません。現代は、だれでもが「うっとうしいもの」、「きたないもの」から目を背け、どこかに閉じ込めたがっています。こういう時代にあっては、命について論議をするのは空しくなってきます。


たとえば学校で動物を飼おう、という場合、育てるのがなるべく簡単な動物を選ぶ傾向があります。つまり、その時点ですでにある種の「選択」がなされているわけです。

「命」や「生命」について本当に論議しようと思うなら、都市にどれだけ「うっとうしいもの」「きたないもの」「不合理なもの」を取り込んでいくか、そういう哲学が必要だと思います。

----野生動物とずっと付き合ってこられて、どんなことが見えてきましたか?

僕もよく「人間と同じように対等に動物とも付き合う」とも言いますが、僕なんかもやはり動物を上から見ていることが多いと思います。「……してやっている」という態度が出てしまうから、動物もなかなか気を許しません。

うちの4人目の子どもは、幼稚園に行かせませんでした。それで、娘は友達がいないのでうちで入院している動物を友だととして、まったく対等に付き合って育ちました。そうすると、本当に動物と対等になれるんですね。


たとえば僕なんか酔っぱらってキツネのしっぽを踏んでしまうことがあります。するとキツネは怒って噛みついてきます。そんなとき、僕は「あっ、悪かった、悪かった」とキツネに謝ってしまいます。

娘がどうするか見ていると、キツネに噛みつき返しています(笑)。

そうすると、すごくキツネは喜ぶ。嫌なことは嫌、嬉しいことは嬉しい、とお互い意思表示をして、兄弟のような関係になるからです。でも、それは子どもだからできることであって、大人になると、動物と対等に付き合うのは難しいかもしれません。


 

発せられた「信号」に応えれば十分

----竹田津さんご自身は、どのようにお子さんたちを育てられましたか?

僕がどんなふうに子どもを育ててきたか考えてみると、動物に対するのと同じだったと思います。つまり、子どもからある信号が発せられると、それを受け取って応える、ということです。それを延々とやってきただけだと思います。「助けて」という信号を受け取ったら、助けてやる。僕はそれで十分だと思います。それを通じて、子どもはどんな信号を発したら親がどんなことをしてくれるか理解していきます。


信号、といっても言葉ではありません。口で言ってうまくいくなら口で言いますよ。

人間というのはおかしなもので、口で言えばうまくいくと誤解している。
「話せばわかる」なんて完全な誤解です。
「話せばわかったような振りをする」が本当です。
言葉だけでお互いにわかり合うことはできません。


たとえば、「助けて」という信号は、誰でも受け取ることができます。
でも、実際に「助けて」という信号を発している動物を私のところに連れてくるのは、小学校4年生までの子どもと、60歳以上のご老人です。小学校5年生以上になると、「助けて」という信号を受け取っても、「見て見ぬ振り」ができるようになるからです。

小学校4年生までは「見て見ぬ振り」ができない。「見て見ぬ振り」ができるようになったのは、大人になった、人間的になった、ということでしょうか? 

そうやって考えてみると、「見て見ぬ振りができる」大人たちがつくる社会が、「優しい社会」「豊かな社会」であるはずかない。

子どもたちは、本当に自由になったことがない
----最近の子どもたちを見て、特に感じられることはどんなことですか?


僕のところで子どもたちを預かることがあるんですが、最初に

「ここでは親がやってはいけないということ、先生がやってはいけないということをなんでもやっていい。ただ、死ぬことだけはダメ」

といいます。そういうと、だいたいの子どもは30分か1時間ぐらい立ちすくみます。
だから「指示されることがなにひとつない自由」は恐怖以外のなにものでもないんです。こんな子どもたちが増えて、本当の教育が成り立っているとは、僕には思えません。


----今の子どもは小さい時から受験勉強をさせられたり、毎日習い事で忙しかったり、自分で自由に考えて行動することが少なくなっているからなのでしょうか。

そういうことが好きなのは大人であって、子どもはそうではありません。子どもの時代は子どもらしく過ごしてもらいたいと思います。小さい頃から、「そんなこと必要ないじゃないか」というものがたくさんあります。


そんなことより、猫を一匹愛して、猫の死に立ち会ったほうがずっといいですよ。

今まで生きていたものが息をしなくなって、だんだん体温が落ちていくのを実際に立ち会うと、100人の子ども100人がかならず大泣きします。あの大泣きはいいですね。

そういう、自分の心の底から大泣きするような経験が少なくなっているのでしょうか。そうではなくて、こういう泣き方をすればお母さんが何かしてくれるんじゃないか、と予定しながら泣く泣き方がどんどん増えてきているんじゃないでしょうか。

「ばかなことだけど、いいな」と思ってもらえたら

インタビューを終えた高篠編集長と竹田津先生
たくさんの命を見守ってきた竹田津先生の瞳は、眼鏡の奥でとても優しく微笑んでいました。


----これから映画をご覧になる方に、何かメッセージがありますか?


映画の脚本は本とは違いますし、俳優が演じると我々とはまた違うわけですけれど、どうしてあんなばかなことやっているんだろう、と思っていただければありがたいですね。

ばかなこと、というのは、子どもたちにとっても必要なことなんです。

僕の書いた本が売れたということは、「ばかなことだけどいいな」と思ってくれた人がいたんだと思います。

いつも起承転結があって、正しいことをすると正しい結果が出る、そうではない世界ってたくさんあるじゃないですか。そういう世界についてみんなが共感を持ってくれたらいいと思います。

(聞き手:高篠栄子/構成・文:堀内一秀/PHOTO:言美 歩)
https://www.manabinoba.com/index.cfm/6,7023,12,html


▲△▽▼

子ぎつねヘレン 動画
http://www.dailymotion.com/video/xqi7gg_helen-the-baby-fox-2006-part-1_fun
http://www.dailymotion.com/video/xqi7hs_helen-the-baby-fox-2006-part-2_fun
http://www.dailymotion.com/video/xqi7i9_helen-the-baby-fox-2006-part-3_fun
http://www.dailymotion.com/video/xqi7jn_helen-the-baby-fox-2006-part-4_fun
http://www.dailymotion.com/video/xqi7lw_helen-the-baby-fox-2006-part-5_fun

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/164.html

[リバイバル3] 中川隆 _ 美術・文芸関係投稿リンク 中川隆
104. 中川隆[-12967] koaQ7Jey 2019年1月16日 11:27:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

昔の日本映画は熱かった _ キタキツネ物語 (サンリオ 1978年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/164.html

http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c104
[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 賀来千香子・佐野史郎 ずっとあなたが好きだった (TBS 1992年)

昔のテレビ・ドラマは面白かった _ ずっとあなたが好きだった (TBS 1992年)


1992年 TBS テレビドラマ 『ずっとあなたが好きだった』

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%9A%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F++%E8%A9%B1+&sp=mAEB


放送期間
1992年7月3日 - 9月25日(13回)

制作局 TBS
脚本 - 君塚良一
音楽 - 小林武史
主題歌 - サザンオールスターズ「涙のキッス」(タイシタレーベル)


キャスト


主人公

西田(大岩) 美和
演 - 賀来千香子
宮城県仙台市出身。高校生の頃にマネージャーをしていたラグビー部の大岩と交際していたが、高校3年の七夕の夜初めて二人だけで松島旅行に出かけ朝帰りした後、それを知った大岩を追っかけしていた同級生が自殺。その際に遺書に逆恨みが書かれており濡れ衣を着せられ、大岩との仲を壊された過去を持つ。この事件は近所で知らない人がいないほど有名になってしまう。東京の短大を卒業後、新高輪プリンスホテルの結婚式場に就職。29歳で父の強引な勧めで、桂田冬彦と見合い結婚をするが、同時期に大岩と再会。冬彦との結婚生活にギャップを感じたこともあり、心が揺れる。のちに冬彦の子を妊娠していたことを承知で離婚。大岩と再婚した。

主人公の関係者

大岩 洋介
演 - 布施博
美和の高校の同級生で元恋人。高校時代はラグビー一筋でその推薦で大学に進み卒業後、サントス建設[5]実業団のラグビーチームで活躍していたが、バブル経済崩壊で会社が傾いたためチーム解散の憂き目に遭う。大岩は美和との事件の後、美和に電話や手紙を出していたが美和の父が間に入って取り合わずに焼き捨てるなどしていたため、その事実を美和が知るのは結婚後のことだった。美和との復縁の為、交際していた律子に別れを告げるが、律子の自殺未遂などで窮地に立たされる。しかし紆余曲折を経て、ついに美和と結ばれる。典型的なスポーツマンで大雑把で少々、無頓着な面が見られる。


中井 律子
演 - 宮崎ますみ
大岩の所属するチームのマネージャー。基本的には明るく、さっぱりした性格だが、結婚の約束をしていた大岩との破局を受け入れることが出来ず、妊娠したと嘘をついた挙げ句、自殺未遂騒動を起こしてしまう。チーム解散の後、海外赴任を引き受け、大岩の元を去って行った。


桂田 冬彦
演 - 佐野史郎
東京大学出身[6]でエリート銀行員。美和を深く愛しているが、マザコン的な性格を始め、様々な性癖が元で結婚生活がうまく行かず、大岩と再会した美和から離婚を切り出され、嫉妬から嫌がらせを展開したこともある(現在のストーカーの概念に通じる言動が、随所に見られる)。物語中盤、仕事で会社に損害を与えるミスをしてしまい、銀行を退職。その後、消費者金融会社(現在のヤミ金融系と思われる)に就職した。母親とのトラブルの直後、離婚を承諾。亡くなった冬彦の父が西田のお菓子が好物で冬彦は子供の頃に店を訪れたことがありその時から美和に恋心を抱いていた。のちに見合いで再婚することになる。


桂田家

桂田 悦子
演 - 野際陽子
冬彦の母。夫は銀行員だったが冬彦が小さい時に死別している。女手ひとつで息子を育てたこともあり、非常にプライドが高く、厳格な性格。しかし息子に対しては非常に甘く溺愛しており、息子のため西田家への切り札を振りかざすこともある。物語終盤、美和との離婚を決めた冬彦との言い争いの末、冬彦に刺されてしまう。


西田家

西田 春子
演 - 高田敏江
美和の母。心優しく美和の理解者ではあるが、夫・常雄には逆らえない。

西田 常雄
演 - 橋爪功
美和の父。仙台で和菓子屋を経営。美和を気に掛けてはいるが、店の経営資金融資が、桂田家の口添えであることから、美和の離婚・大岩との復縁を認めることが出来ない。娘の高校時代の事件を裏切りだと感じており、その以降信用していなかったが、物語終盤、大岩と和解した。

中井家

中井 健治
演 - 小沢仁志
律子の兄。妹を自殺未遂に追い込んだ大岩を憎悪する。


北野家

北野 知子
演 - 中村久美
美和の友人。結婚生活に悩む美和の良きアドバイザーだが、自身の流産でショックを受けたこともある。

北野 啓一
演 - 明石家さんま(友情出演・第5話ゲスト)知子の夫。


美和たちの後輩

浅井 なつみ
演 - 坂井真紀
美和たちが通っていた高校の生徒。幸治の子供を妊娠してしまい、悩むが後に産むことを決断。

佐藤 和也
演 - 長澤ユキオ

高田 幸治
演 - 川原永詩(現・田辺誠一)
浅井なつみの彼氏。美和たちが通っていた高校のラグビー部所属。恋人・浅井なつみの妊娠に動揺し、洋介に相談。小説版では、両親に勘当された設定。

各話 放送日 サブタイトル 演出 視聴率

VOL.1 1992年7月3日 危険なお見合結婚 生野慈朗 13.0%
VOL.2 1992年7月10日 セックスしない夫 13.9%
VOL.3 1992年7月17日 氷の微笑 加藤浩丈 15.3%
VOL.4 1992年7月24日 妻の過去は許さない! 14.1%
VOL.5 1992年7月31日 涙の誕生日 桑波田影信 17.4%
VOL.6 1992年8月7日 離婚裁判 生野慈朗 18.1%
VOL.7 1992年8月14日 ビデオテープの告白 15.7%
VOL.8 1992年8月21日 性生活の不一致 桑波田影信 20.5%
VOL.9 1992年8月28日 悪夢の妊娠 23.8%
VOL.10 1992年9月4日 人形の家 生野慈朗 20.6%
VOL.11 1992年9月11日 姑の罠 桑波田影信 22.3%
VOL.12 1992年9月18日 冬彦の狂気 生野慈朗 29.6%
最終回 1992年9月25日 NO SIDE! 34.1%

平均視聴率 19.9%(視聴率は関東地区・ビデオリサーチ社調べ)


ストーリーそのものは「昔の恋人と結ばれなかったヒロインが、マザコン男と結婚したが、夫や姑の身勝手な振る舞いに耐え切れなくなり、昔の恋人とヨリを戻す」というもの。

当時のトレンディドラマ全盛時代においては、特にヒットする要素はないように思われたが、佐野や野際の強烈な演技が話題となり、じわじわと視聴率を上げた。

劇中で示された特異で極端なマザコン男性像は「冬彦さん現象」と言われる一大ブームを作り、初回は13.0%しかなかった視聴率は、最終回では34.1%をマーク。1992年の民放連続テレビドラマの中で最高視聴率となった。

「マザコン」「冬彦さん」は、この年の流行語に選ばれた。

このドラマ放送から数年後、当時のプロデューサー貴島が編成部長時代に、日本テレビの土屋敏男編成部長(当時)と対談した際「最初はロミオとジュリエットみたいな話にするはずだった」点と、「もともと冬彦はマザコンではなかったが、冬彦が指に血を出した際、母親役の野際が口で止血するアドリブを見て、急遽マザコンキャラに変えた」と述懐している。

また後年、君塚が自著で

「自分は愛についてのドラマを書いたつもりである」

「佐野が評判になったため、当初作っていたプロットから大幅に変更し脚本を書き直して冬彦の出番を増やした」

と述べている。


一方、佐野は冬彦を演じるにあたって犯罪を題材に取った作品が多い劇作家・山崎哲の戯曲や論文を参考にしたと自著で回想しており、冬彦を語る上で欠かせない唇を歪めて「んん〜」と唸り声を発する演技も佐野が当時生後間もなかった長女・八雲のぐずる声を自宅で聞いて考案したものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9A%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/165.html

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
77. 中川隆[-12966] koaQ7Jey 2019年1月16日 12:39:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

CDのスペクトラム(周波数帯域) Uploaded Jan.28th,2010
http://web1.kcn.jp/oshikuma_lab/theatertopics4.html


市販CDソース(新旧)の中から優秀録音と思われるものを含めてそのスペクトラムを調べて各々のソースに必要とされる帯域とそのピークエネルギ−に対する情報を得ることにする。測定は各ジャンル毎に分類して行った。測定サンプル数は多くないが傾向を把握することができる。詳細な測定結果を次に示す。

1) オーケストラのスペクトラムは全帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっている。フルバンドジャズやフュージョンのスペクトラムは広帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっており、オーケストラ同様に全体のバランスをチェックする目的に適している。


2) 大太鼓の基音は約40Hzであるから、大太鼓を十分再生するには40Hz以上の再生帯域が必要である。一方、オルガン曲では、測定した2曲共にアナログ録音であるが、約30Hzから録音されている。オルガン曲を十分再生するには30Hz以上の再生帯域が必要である。


3) オーケストラやフルバンドジャズのピーク音圧は高いので、広帯域特性とダイナミックレンジを備えたスピーカを選択することが必要である。


4) これらとは対照的に小編成のジャズ、室内楽、ソロ楽器、ボーカルの帯域は相対的に狭いので、広帯域でなくとも必要とする帯域をカバーするスピーカであれば大きな問題は発生しないと思われる。

かって、故池田圭氏宅で男性ボーカル録音をWE555で試聴したことがあったが、再生帯域上の問題は感じられず堂々とした再生音が得られていたと記憶している(WE555+15Aホーンの組み合わせによる音圧周波数特性は 5kHz以上でロールオフ特性となるが、高音域成分の少ない男性ボーカル帯域を再生する目的には特性上の問題は少ない)。


5) (1)、(4)からスピーカ再生帯域は、通常言われているクラシック向き、ジャズ向きという分類でなく、種類や編成によることがわかる。

以下の測定では、測定用として特性を管理したCDプレーヤと半導体アンプ(プリ部)を用いて、プリ出力として得られる各曲のピーク値を記録している。


オーケストラ

スペクトラムは全帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっているため、全体のバランスをみる目的に適している。

橙: ミネソタオーケストラ/RR907CD/Track7(Tchaikovsky/Hopak from Mazeppa)/Eiji Oue
緑: ドイツグラモフォンベストレコーディング(Stereo Sound Reference Record Vol.9)/C30G00102/Track10&11(ストラヴィンスキー火の鳥)/ブーレーズ指揮、シカゴ交響楽団
紫: ワーグナー ニベルングの指輪/SICC20008/Track2(ワルキューレの騎行)/ジョージ・セル指揮, クリーブランドオーケストラ
黄: ストラビンスキー春の祭典/SICC 20040/Track2-3/ブーレーズ指揮,クリーブランドオーケストラ
青: ベートーベン前奏曲集/TDGD90013/Track2(Coriolan)/サー・コリン・デイヴィス指揮, バイエルン放送交響楽団


室内楽

測定した2曲の帯域は狭く高域のエネルギーが少ない。広帯域特性よりも質感の再生が重要となってくる。

緑: モーツァルト ピアノトリオ/UCCG-1285/Track7/アンネ・ソフィー・ムター, アンドレ・プレヴィン, ダニエル・ミュラー・ショット
紫: ヴィヴァルディ 四季/UCCP-9057/Track1(春 第一楽章)/イ・ムジチ


オルガン

2曲共にアナログ録音であるが、約30Hzから録音されており、低域テスト用として十分である。

緑: サンサーンス交響曲第3番/3UCCD7056/Track2/エルネスト・アンセルメ指揮, スイス・ロマンド管弦楽団
紫: 菅野レコーディング Best Sound Selection/SSSA1(TGGS119)/Track2(JSバッハ/オルガン・コラール)


ピアノ曲

測定した3曲のスペクトラムは、非常によく似ており、帯域は70Hz-数kHzとなっている。

紫: リスト 超絶技巧練習曲/UCCG-1440/Track13(ラ・カンパネラ)/アリス=紗良オット
緑: 献呈/TOCE55880/Track3(ショパン 幻想即興曲)/蔵島由貴
橙: Stereo Sound Best Sound Selection柳沢功力/SSRR1/Track7(シューベルト 楽興の時)/内田光子


弦楽器(ソロ)

バイオリンソロに比べてチェロソロは低域に伸びており、しかも高域にもスペクトラムが広がっている。スペクトラムの観点からみるとチェロがソロ楽器として全帯域のスムーズなつながりのテストに用いることができる。

緑: バッハ & イザイ/NF-53002/Track7(Obsession)/ジョゼフ・リン(violin)
紫: 菅野レコーディング Best Sound Selection/SSSA1(TGGS119)/Track1(パガニーニの主題による変奏曲/ヤーノシュ・シュタルケル(cello))


女性ボーカル

4曲/4人とも非常によく似た狭帯域スペクトラムとなっている。8kHz付近のピークに違いがありレベルこそ低いものの声の特徴に影響を与える(聴感上の違いと一致する)。ボーカルを生かすために伴奏のエネルギーが控えめとなっていることが読み取れる。

紫: イタリア歌曲集/POCL1753/Track1(アラゴネーゼ)/チェチーリア・バルトリ(メッゾ・ソプラノ)
青: スペイン歌曲集/457 726/Track4(エリザベート・シュワルツコップ(ソプラノ))
橙: 鮫島有美子/SD104/Track2(この道)
緑: さくら横丁/VICC60276-3/Track3(からたちの花)/佐藤美枝子


男性ボーカル

男性ボーカルは女性ボーカルに比べて数100Hzのエネルギーが大きいことが特徴であり、この帯域の再生能力が影響する。また、5-10kHz付近のピークはレベルこそ低いものの声の特徴に影響を与える。

緑: ロンドンベストレコーディング(Stereo Sound Reference Record Vol.9)/C30L00101/Track4(ペーター・シュライアー(バリトン))
紫: スペイン歌曲集/457 726/Track1(ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ(バリトン))


ジャズ&フュージョン

フルバンドジャズやフュージョンのスペクトラムは広帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっており、オーケストラ同様に全体のバランスをチェックする目的に適している。オーケストラやジャズのピーク音圧は高いので、広帯域かつ大音圧再生可能なスピーカを選択することが必要である。

一方、これらとは対照的に、小編成のジャズの帯域は50Hz-5kHzに偏っており、新旧録音で大差ない。そのため、古典的な30-38cmシングルコーンでも再生できそうな特性である。

緑: My Funny Valentine/TKCV-35348/Track6(It's all right with me)/Eddie Higgins Quartet
紫: 甦るビッグバンドサウンド/MLZJ2001/Track10(シング・シング・シング)/角田健一ビッグバンド
橙: マーカスミラー/VICJ-61266/Track9(シルバー・レイン)
青: Alfie/A9111/Track1(Alfie's Theme)/Sonny Rollins with orchestra conducted by Oliver Nelson

ポップス

スペクトラムの主要な帯域は、50Hz-5kHz程度で低域のエネルギーを必要する一方、高域にかけてなだらかに減衰する。中低域中心の伴奏とボーカルという構成となっているためと思われる。

緑: ビートルズフォアエバー(1993年版)/UND-2/Track3(Rock and Roll Music)/ザ・ビートルズ
橙: Stereo Sound Best Sound Selection ノンサッチ/SSRR2(WQCP745)/Track1(After the Gold Rush)/k.d.Lang
青: Stereo Sound Best Sound Selection ノンサッチ/SSRR2(WQCP745)/Track8(Tan Bi)/Youssou N'Dour
紫: 大吟醸/YCCW0034/Track8(時代)/中島みゆき
黄: Taking a Chance on Love/SICP 632/Track5(I won't dance)/Jane Monheit, Michael Buble

http://web1.kcn.jp/oshikuma_lab/theatertopics4.html



http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c77

[リバイバル4] ウェスタン・エレクトリック 300B を使ったアンプ 中川隆
7. 中川隆[-12965] koaQ7Jey 2019年1月16日 12:44:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

CDのスペクトラム(周波数帯域) Uploaded Jan.28th,2010
http://web1.kcn.jp/oshikuma_lab/theatertopics4.html


市販CDソース(新旧)の中から優秀録音と思われるものを含めてそのスペクトラムを調べて各々のソースに必要とされる帯域とそのピークエネルギ−に対する情報を得ることにする。測定は各ジャンル毎に分類して行った。測定サンプル数は多くないが傾向を把握することができる。詳細な測定結果を次に示す。


1) オーケストラのスペクトラムは全帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっている。フルバンドジャズやフュージョンのスペクトラムは広帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっており、オーケストラ同様に全体のバランスをチェックする目的に適している。


2) 大太鼓の基音は約40Hzであるから、大太鼓を十分再生するには40Hz以上の再生帯域が必要である。一方、オルガン曲では、測定した2曲共にアナログ録音であるが、約30Hzから録音されている。オルガン曲を十分再生するには30Hz以上の再生帯域が必要である。


3) オーケストラやフルバンドジャズのピーク音圧は高いので、広帯域特性とダイナミックレンジを備えたスピーカを選択することが必要である。


4) これらとは対照的に小編成のジャズ、室内楽、ソロ楽器、ボーカルの帯域は相対的に狭いので、広帯域でなくとも必要とする帯域をカバーするスピーカであれば大きな問題は発生しないと思われる。

かって、故池田圭氏宅で男性ボーカル録音をWE555で試聴したことがあったが、再生帯域上の問題は感じられず堂々とした再生音が得られていたと記憶している(WE555+15Aホーンの組み合わせによる音圧周波数特性は 5kHz以上でロールオフ特性となるが、高音域成分の少ない男性ボーカル帯域を再生する目的には特性上の問題は少ない)。


5) (1)、(4)からスピーカ再生帯域は、通常言われているクラシック向き、ジャズ向きという分類でなく、種類や編成によることがわかる。

以下の測定では、測定用として特性を管理したCDプレーヤと半導体アンプ(プリ部)を用いて、プリ出力として得られる各曲のピーク値を記録している。


オーケストラ

スペクトラムは全帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっているため、全体のバランスをみる目的に適している。

橙: ミネソタオーケストラ/RR907CD/Track7(Tchaikovsky/Hopak from Mazeppa)/Eiji Oue
緑: ドイツグラモフォンベストレコーディング(Stereo Sound Reference Record Vol.9)/C30G00102/Track10&11(ストラヴィンスキー火の鳥)/ブーレーズ指揮、シカゴ交響楽団
紫: ワーグナー ニベルングの指輪/SICC20008/Track2(ワルキューレの騎行)/ジョージ・セル指揮, クリーブランドオーケストラ
黄: ストラビンスキー春の祭典/SICC 20040/Track2-3/ブーレーズ指揮,クリーブランドオーケストラ
青: ベートーベン前奏曲集/TDGD90013/Track2(Coriolan)/サー・コリン・デイヴィス指揮, バイエルン放送交響楽団

室内楽

測定した2曲の帯域は狭く高域のエネルギーが少ない。広帯域特性よりも質感の再生が重要となってくる。

緑: モーツァルト ピアノトリオ/UCCG-1285/Track7/アンネ・ソフィー・ムター, アンドレ・プレヴィン, ダニエル・ミュラー・ショット
紫: ヴィヴァルディ 四季/UCCP-9057/Track1(春 第一楽章)/イ・ムジチ

オルガン

2曲共にアナログ録音であるが、約30Hzから録音されており、低域テスト用として十分である。

緑: サンサーンス交響曲第3番/3UCCD7056/Track2/エルネスト・アンセルメ指揮, スイス・ロマンド管弦楽団
紫: 菅野レコーディング Best Sound Selection/SSSA1(TGGS119)/Track2(JSバッハ/オルガン・コラール)

ピアノ曲

測定した3曲のスペクトラムは、非常によく似ており、帯域は70Hz-数kHzとなっている。

紫: リスト 超絶技巧練習曲/UCCG-1440/Track13(ラ・カンパネラ)/アリス=紗良オット
緑: 献呈/TOCE55880/Track3(ショパン 幻想即興曲)/蔵島由貴
橙: Stereo Sound Best Sound Selection柳沢功力/SSRR1/Track7(シューベルト 楽興の時)/内田光子

弦楽器(ソロ)

バイオリンソロに比べてチェロソロは低域に伸びており、しかも高域にもスペクトラムが広がっている。スペクトラムの観点からみるとチェロがソロ楽器として全帯域のスムーズなつながりのテストに用いることができる。

緑: バッハ & イザイ/NF-53002/Track7(Obsession)/ジョゼフ・リン(violin)
紫: 菅野レコーディング Best Sound Selection/SSSA1(TGGS119)/Track1(パガニーニの主題による変奏曲/ヤーノシュ・シュタルケル(cello))

女性ボーカル

4曲/4人とも非常によく似た狭帯域スペクトラムとなっている。8kHz付近のピークに違いがありレベルこそ低いものの声の特徴に影響を与える(聴感上の違いと一致する)。ボーカルを生かすために伴奏のエネルギーが控えめとなっていることが読み取れる。

紫: イタリア歌曲集/POCL1753/Track1(アラゴネーゼ)/チェチーリア・バルトリ(メッゾ・ソプラノ)
青: スペイン歌曲集/457 726/Track4(エリザベート・シュワルツコップ(ソプラノ))
橙: 鮫島有美子/SD104/Track2(この道)
緑: さくら横丁/VICC60276-3/Track3(からたちの花)/佐藤美枝子

男性ボーカル

男性ボーカルは女性ボーカルに比べて数100Hzのエネルギーが大きいことが特徴であり、この帯域の再生能力が影響する。また、5-10kHz付近のピークはレベルこそ低いものの声の特徴に影響を与える。

緑: ロンドンベストレコーディング(Stereo Sound Reference Record Vol.9)/C30L00101/Track4(ペーター・シュライアー(バリトン))
紫: スペイン歌曲集/457 726/Track1(ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ(バリトン))

ジャズ&フュージョン

フルバンドジャズやフュージョンのスペクトラムは広帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっており、オーケストラ同様に全体のバランスをチェックする目的に適している。オーケストラやジャズのピーク音圧は高いので、広帯域かつ大音圧再生可能なスピーカを選択することが必要である。

一方、これらとは対照的に、小編成のジャズの帯域は50Hz-5kHzに偏っており、新旧録音で大差ない。そのため、古典的な30-38cmシングルコーンでも再生できそうな特性である。

緑: My Funny Valentine/TKCV-35348/Track6(It's all right with me)/Eddie Higgins Quartet
紫: 甦るビッグバンドサウンド/MLZJ2001/Track10(シング・シング・シング)/角田健一ビッグバンド
橙: マーカスミラー/VICJ-61266/Track9(シルバー・レイン)
青: Alfie/A9111/Track1(Alfie's Theme)/Sonny Rollins with orchestra conducted by Oliver Nelson


ポップス

スペクトラムの主要な帯域は、50Hz-5kHz程度で低域のエネルギーを必要する一方、高域にかけてなだらかに減衰する。中低域中心の伴奏とボーカルという構成となっているためと思われる。

緑: ビートルズフォアエバー(1993年版)/UND-2/Track3(Rock and Roll Music)/ザ・ビートルズ
橙: Stereo Sound Best Sound Selection ノンサッチ/SSRR2(WQCP745)/Track1(After the Gold Rush)/k.d.Lang
青: Stereo Sound Best Sound Selection ノンサッチ/SSRR2(WQCP745)/Track8(Tan Bi)/Youssou N'Dour
紫: 大吟醸/YCCW0034/Track8(時代)/中島みゆき
黄: Taking a Chance on Love/SICP 632/Track5(I won't dance)/Jane Monheit, Michael Buble

http://web1.kcn.jp/oshikuma_lab/theatertopics4.html

http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/107.html#c7

[リバイバル3] 最近のオーディオ業界の状況 中川隆
78. 中川隆[-12964] koaQ7Jey 2019年1月16日 13:02:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

☆ 私と蓄音器EMGマークZ との出会い その1 ☆
http://emgmark7.com/dish.html


私は昭和23年生まれで今年2013年で65歳になります。大田区、久が原に中学時代までいました。。そこには祖父の卓上蓄音器(ビクトローラVV1−90)が家にあり私が4〜5歳の頃、姉がゼンマイを巻き聴いていました。小さいながらも、黒い盤が回るのを見たり、中を覗き込んだり、後ろに回って誰かが中にいて唄っているのではないかと、その当時は不思議に思ったものでした。

また父は音キチでステレオに凝りマッキントシュのアンプやタンノイのスピーカなどが沢山転がっていました。私が中学時代にどっちのスピーカの音が良いか、よく聴き比べを父に頼まれ、何回も聴き比べをしていくうちに耳が肥えていったように思います。

そんな環境で育ったため私は大学では音響の専門機関である財団法人―小林理学研究所と関連のある大学へ行き物理の中でも音響学の勉強をしました。専門は室内音響で当時のコンサートホールの残響時間や室内の周波数特性の測定でした。

40年位前になりますが、その当時の新宿厚生年金会館のホール音響はひどいものでした、ニニー・ロッソが毎年日本に来てクリスマスコンサートをしていました、トランペットをニニーが吹くと1秒くらい遅れて後ろの壁から反射して聞こえて来ます。壁や天井・床が並行のため反射して戻ってきます。そんなことで小林理研に依頼があり部屋の残響時間や周波数特性の測定に駆り出されたことを今でも思い出します。

もちろん今ではコンサートホールは並行な壁や天井はなく音の良いホールになりましたが、いまだに音の悪いホールは初台のオペラシテイー位になりました。

その後、私は補聴研究室へ配属になり、補聴器のフィッテイングの研究をし、昭和60年に独立、補聴器フィッテイング研究所を設立、当時、補聴器のフィッテイングの技術が世界的に無かったため、外耳道の鼓膜面までの共鳴を考慮した調整法を確立し、現在では、日本全国から補聴器の調整を求めて来所されます。

また趣味としては、父からステレオ装置を譲り受け、CDの音を聞いていましたが、なかなか良い音に巡り合えず、昔聴いた蓄音器の音が懐かしく思っていました。しかし蓄音器には全く知識が無く、踏み込めないでいました。

そんな時、15年位前から、私は茶道を始め、毎年正月には初釜をして楽しんでいました。9年位前に知人から港南台に茶室を造った家があるので見に行かないかと誘われ訪問しましたら、そこの旦那さんが蓄音器を持たれており久しぶりに聴かせていただきました。昔聴いた懐かしい音に感動し、そこで初めて銀座に蓄音器の老舗シェルマンがあることを教えてもらいました。

2003年11月21日、東銀座のシェルマンに行きました。二階に上がり磯貝社長にお目にかかり、言いました。

『ここに並んでいる蓄音器を順番に聴かせて下さい、私が聞いて一番音の良いと思う蓄音器を一台購入します。』

その当時は蓄音器に関する知識が全く無く、1台目は確かアメリカのものだと言っていました、聴いた瞬間、音の抜けが悪く、ボーカルは遠くで唄っている声でした。

二番目はイギリスのもので、一番大型のサイズだと言う2種類でした、アメリカのとは違い音の抜けは良かったです、大きさは同じでしたが、後の方が音の艶がありました。

4番目は上にラッパが出ていてこれもイギリス製と言っていました。大きな音で鳴っていましたが、低音と高音のバランスが悪く低音ばかりが大きく聞こえます。しかも低音が絞まらずボンボンと聞こえます。

5台目も同じメーカーでフロア型でした。これを聴いた瞬間、鳥肌が立つようでした。高音も良く出ていて、低音もズンズンと絞まっています。高音と低音のバランスがとても良く、ボーカルは音がフォーカスされ、目の前で唄ってくれているようでした。音楽が終わらないうちに、これを下さいと言っていました。

あと2〜3台未だ聴いていない蓄音器はあったのですが、もうこれ以上の蓄音器はないだろうとその時、思いました。蓄音器の知識が全く無い訳ですから、頼りになるのは私の耳だけでした。若い頃から耳は訓練していたため、スピーカからの音楽を聴いて周波数特性がある程度描ける位の耳は持っていました。

この蓄音器マークZの周波数特性はピーク・デップの無い比較的フラットな特性で、しかも今まで聴いた蓄音器の中でも高音から低音まで良く再生している広帯域特性とその時、判断しました。これが、私が初めてEMGマークZに出会った瞬間でした。


☆ 蓄音器 EMGマークZ とは! その2 ☆

それから1週間くらいして、自宅にマークZを設置にシェルマンの磯貝社長が来られました。設置を見ながら社長に聞きました。

『この蓄音器はシェルマンでは何台位扱いましたか?』

かなりの台数が出ているだろうと、予想していたのですが、以外な回答でした。

実はこの蓄音器はシェルマンでは、初めてと言うこと、EMGの蓄音器の中でも大変珍しく幻の蓄音器と言われている事を聞きビックリしました。

では、日本では何台位入って来ていますか?と聞くと、数年前に梅屋さんが初めて入手し、世界の蓄音機の本に掲載されている写真がその実物で、多分これが1台目ではないか、しかしこの蓄音器は回転むらがあったと聴いているとのこと。今日納めたこの蓄音器がおそらく日本で2台目ではないかと思うと言われていました。

そんなに珍しい蓄音器だと言うことを全く知らずに手に入れた事に感銘しました。そして、更にこの蓄音器について知りたいと思い、書物を探しましたがなかなか見当たりませんでした。インターネットでEMG蓄音器で検索すると静岡の林コレクションが見つかり、早速、連絡を取り遊びに静岡の林コレクションへ出向きました。

なんと林静雄さんもEMGの熱烈な愛好者で、EMGの息子さんのジョー・E・ジンと家族ぐるみで交流があり、以前に家族でイギリスの自宅に遊びに行った話をいろいろとお聞きし大変、参考になりました。静岡にお邪魔した時に聴かせて頂いたEMGマーク\もマークZ程ではないが、乗用車に乗るためにコンサートなどの移動用に便利な蓄音器と思い求めました。鎌倉のコンサートで使用していたマーク\はこの時に求めたものです。

林さんにお聞きしましたら、EMGの息子さんの家に殆どんの蓄音器の機種が残っていたが、マークZだけが息子さんの家にはすでに無かったそうです。EMGの蓄音器をあれ程、情熱を持って集められておられる林さんでもマークZには未だ一度も出会ったことが無いと言う話を聞き、益々この蓄音器に興味が出て文献を探すことにしました。

間もなくしてE,M,G,STORYと言う書物が見つかりました。この書物によると、マークZは1928年7月に発売され、1927年に出たHMV202より共鳴管は少し短めだが、マークZの音は繊細で、今まで世に出た蓄音器の中でも、低音から高音まで一番広帯域である。EMGの蓄音器の中でも一番良いモデルである。と書かれており、HMVの蓄音器を意識して造った事が読み取れます。

また、林さんに指摘されて初めて知って調べましたら、マークZは世界の蓄音機ではホーンはパピエ・マーシュ(紙)と書いてありますが、本当はエボナイトだと言うことが本を読んで分かりました。実際にマークZの下から頭を入れて、見えない部分をカッターで削ってみました、紙の上にコーテイングしているのではなく、確かにエボナイトむき出しでした。このことで、低音がズンズンと絞まった音の理由が分かりました。

低音は波長が長いため、材料が軽くて軟らかいと振動で動き音が歪ます。低音を再生するには、重くて硬い材料が良いのですが、HMVのように金属にすると重すぎて移動が困難になります。そこで、金属でなく、紙でない、中間のエボナイトを採用したことが成功した一因と思います。

更に箱に入れてホーンの周りを固定したことで低周波数でもホーンが動かず歪の少ない音になったと思われます。また更に調べていくとEMGは全ての蓄音器がエクスポーネンシャルホーンと言うこと、これは全ての周波数の共鳴がホーンの真ん中に音像が出来、ボーカル等は、点音源になることです。従ってボーカルは声がフォーカスされ、そこで唄っているようにリアルに聞こえます。

また他社の大型蓄音器はリエントラントホーンと言う構造、これは点音源にならず、横に広がった線音源になります。しかも共鳴管の途中で管を二つに分けたため、聴く場所によって、上のスピーカから出た音と、下のスピーカーから出た音で干渉し、ある周波数では位相が反転すると言うとんでもないことが起こっているのです。聴くと音はフォーカスされず、広がってしまいます。カメラで言えばピンボケの状態です。しかし、一長一短があります。エクスポーネンシャルホーンはどの位置で聴いても位相が反転するようなことは起こらず、ボーカルやバイオリンソロなどはとても良いのですが、大編成の交響曲などは、点音源のため、全ての音が真ん中に集中し広がりが無くつまらない音になります。

リエントラントホーンはフォーカスはしないものの、交響曲は広がりがあり聴き易くなります。オールマイテーの蓄音器はリエントラントホーンかもしれません。このように蓄音器の構造を調べて行くと、EMG蓄音器の中でもマークZだけに、エボナイトを使用したこと、またマークZだけが、ホーンを箱に入れて固定したことで、EMGの蓄音器の中でも最高の音を造ることが出来たと思われます。

またEMGがHMVよりも更にハイファイの音を求めたため、エクスポーネンシャルホーンに執着したこともうなずけます。

このように私は、良い音の蓄音器が見つかると、どうして音が良いかを音響的に解明していく事に興味を持っています。また音の良くない蓄音器に出会うと、どうして音が悪いかを音響的に解明しようとします。その点では少し異色の趣味かもしれません。 

   


☆ 蓄音器EMGマークZ その3 ☆

私はこの蓄音器マークZの音がとても気に入り、もう1台、イギリスでマークZが出たら購入することを磯貝社長に伝えましたら、翌年、もう1台出て来ました、残念なことに、すでにモーターは電気に交換されていましたが、音は問題無く繊細な音を聞かせてくれています。

マークZの箱の模様は一台一台、異なっており、箱はデザイン会社 に注文して製作したそうです。2か月前にマック杉崎さんとお会いしましたら、初めのマークZはマックさんが所有されていたそうで、その後手放されて、現在は茨城県石岡の 世界的蓄音器マニアと私が思っている、青柳さんが所有されています。

2004年の雑誌、ステレオサウンドNo153に菅野沖彦さんのレコード演奏家訪問に青柳さんの自宅の写真 が載っておりマークZがあるのにビックリして磯貝さんにすぐ連絡しましたらこの蓄音器が一台目のものと分かりました。この機種はEMG STORYの本の写真に掲載されているものと同一で、模様が放射状になっている蓄音器です。この写真の実物が日本に入って来たことになり、林さんがEMGの息子さんの家に行ったときにはマークZだけは無かった、 つまり、既に日本に来ていた事になりつじつまが合います。

ではEMGの蓄音器はいったい何台位、造られたのでしょうか?
文献によると、マーク]は150台、マーク]aが75台、 マーク]bがオーバーサイズを含めても、たった50台だそうです。マークWが350台、マーク\が350台。

ではマークZはと言うと、これは記録が無く推測でしかないそうですが 数十台のようです。この数を見ると]bが50台と言うことは、もう既に日本にその殆どが入って来てしまったようで、もうイギリスで見つけようとしても難しい状況になっているようです。 しかもマークZは市場に出ることが殆ど無いことからかなり製造した台数は少ないと想像されます。

私は、こんなに良い音の蓄音器を独り占めしてはいけないと思い、8年前から 毎年10月の戸塚のフォーラム祭りの市民持ち込み企画に申し込み、EMG蓄音器クラブとして9時から4時まで約7時間コンサートを開催し、毎年70人くらいの方が聞きにきてくれています。去年は年を召したご婦人の方が一番で来られて最後までおられ、曲をリクエストされていました。毎年2〜3人ですが、EMGのマークZの音を日本ではどこで聴けるのか、検索をかけると私の掲示板に書かれているマークZの記事を読み、連絡が入ります。自宅に来られてマークZを聴いてもらうと、その音にびっくりされて帰られます。今度上京した時には、自分のSPレコード盤を持参するので、また是非聴かせて欲しいと言われます。

そんな方が全国に15人位おられるため、EMG蓄音器クラブなるものを 8年前に立ち上げました。会員は全国に散らばっているため、全員が一同に会する事はありませんが、クラブの年1回の行事として、毎年10月にコンサートを開催している訳です。

蓄音器の老舗シェルマンでは、以前に蓄音器の周波数特性の測定をするため、私が以前、所属していた小林理学研究所に依頼をしたそうですが、見積もりが高額のため実現出来なかったそうです。 そんなことで、私がシェルマンの蓄音器の周波数特性を測定するようになりました。

新しい蓄音器が入荷すると、周波数特性を取り、音を聞き良い音の蓄音器は店に展示する前に 私がゲット出来る特典があります。

平成17年にHMV194の素晴らしい音に巡り合いました。やはり聴いた瞬間にこの蓄音器を下さいと言っていました。

HMVのフロア型蓄音器ですが、もともとリエントラントホーンは音が良くないと言う私の先入観があったのですが、この194を聴いて考えが変わりました。後で周波数特性を測定しましたら、図―1のように200Hzから3000Hzまで周波数がフラットでした。その後も他の194を沢山聞きましたが、これ程の蓄音器に未だ出会っていません。

図―2はマークZの周波数特性です。周波数特性だけで音の良し悪しは勿論分かりませんが、一つの参考データです。

蓄音器の周波数の測定には2種類あり、一つは、周波数特性測定用のSPレコード盤があります。三分の一オクターブバンド毎の純音が録音されており再生しながら、騒音計でレベルを読み取って行きグラフを作成します。

もう一つの方法はクリック音を再生しマイクで受けてその信号をファースト・フーリエ変換(FFT)と言う手法でパソコンで計算し周波数軸に変換します。クリック音はレコード盤に縦に傷を一定間隔で入れ、再生します。

下の図は前者の方法で測定したものです。蓄音器によっては、ある機種の蓄音器は4台位測定しても周波数特性が殆ど不変と言うものもありますし、ある機種では、4台測定すると4台共、周波数が異なると言う機種もあります。蓄音器の周波数特性を図にして発表することも考えましたが、蓄音器の優劣に直結する可能性があり、差し控えております。

以上、私が9年前にEMGに出会い現在までやって来た事です。あまり参考にはならないと思いますが、最後までお付き合い頂きありがとうございました。なお今年の4月、湘南SPレコード愛好会にEMGマークZを持参しますので、興味のある方は聴きに来て下さい。

☆ 蓄音器による鉄針・ソーン針・竹針の周波数特性の違い ☆
ゲストルーム
一般的に鉄の針は強い音、竹の針は柔らかい音と言うイメージがあるが、一体どのような周波数特性なのか大変興味があるところです。今回は蓄音器シェルマンの2階でHMV203の蓄音器をお借りして、実験を行いました。

図−3の赤線が鉄針ミデイアムを使用したときの周波数特性。青線がソーン針を使用した時、黒線が竹針を使用した時のものです。

まず、黒(竹針)と青(ソーン針)を比較してみると、250Hzでは両者とも同じレベルの90dBSPLであることが分かります。

500Hzでは8dBソーン針の方が音が大きい、1KHz、2KHz、4KHzでは10dBソーン針の方が音が大きいことが読み取れます。

即ち、低音域よりも高音域の方が竹針の減衰が大きいことが分かります。

次に赤(鉄針)と黒(竹針)を比較しますと、250Hz以下の低音部分は4dB位、鉄針の方が音が大きいことが分かります。しかし高音域1KHz,2KHzでは15dB位、4KHzでは約20dB位鉄針の方が音が大きいことが読み取れます。

従って竹針は低音域よりも高音域の減衰が多いため、音が柔らかく感じる訳です。この図を見るとソーン針は鉄針と竹針の略中間の特性と言うことが分かります。何かの参考になれば、幸いです。 


☆ 蓄音器の周波数特性 ☆


初めて銀座のシェルマンに伺い、聴かせていただいた時の蓄音器の特性を後日、測定させていただきました。最初に聴いたのがアメリカ製のビクトローラ・クレデンザでした、その時の蓄音器の特性が図―5の赤線の特性です。

500Hzが80dBSPLと他の蓄音器と比較すると10dBから20dBも弱いことが分かります。500Hzが弱いと音の抜けが悪い事につながります。この蓄音器もシェルマンで中も解体しメンテナンスが済んだ状態でした。

またこの図の黒線はもう1台別のクレデンザの特性です。このようにクレデンザは製造期間が長かったことと、製造台数が多かったため、中の構造に多少の変更などがあり、周波数特性にかなりのバラツキが見られます。

黒線の特性は500Hzが102dBSPLも出ていて、音の抜けはかなり良いです。クレデンザには当たり外れがありますので、音を良く聴いて抜けの良い蓄音器を選ぶことが必要です。

次に聴いたのがイギリスのHMV202とHMV203でした。その時の周波数特性を図―6と図―7に示します。サイズはどちらも同じと言うことですが、

比較すると500Hzで202型は90dBSPL,203型は100dBSPL出ていて、10dBも203型が出ています。従って音の抜けの良いのは203型かもしれません。HMV202と203型は比較的個体によるバラツキは少ないようです。

次に聴いたのが図ー8のEMG ]bオーバーサイズでした。周波数特性を見ても、明らかなように1KHzと500Hzは100dBSPLも出ているのに、3KHzでは80dBと高音域が出ていないことが分かります。エクスポーネンシャル・ホーンの径が大きくなり共鳴管の長さが長くなるほど、高音域の減衰が大きく、低音と高音のバランスが悪い事が分かります。

そして、最後に聴いて、鳥肌が立つようだったのが、EMGマークZアップライト・グランド型でした。その特性が図―2です。フラットに近い特性が読み取れるでしょうか?

このように、私の耳で聞いて感じたことが周波数特性を取って見ると、略特性に出ている事が分かります。私が蓄音器の音を聞いて聴き終わらないうちに、購入を決めたのは、図ー2のマークZと図―1のHMV194の2台だけでした。


☆ 針の太さの違いによる、周波数特性の変化 ☆

鉄針のラウド(太針)とソフト(細針)は、いったい、どのような周波数特性になっているのでしょうか?

一般的にはラウドは大きい音、ソフトは小さい音と言うイメージがあるが本当にそうでしょうか?

私もこのことには、大変興味があり、蓄音器の老舗シェルマンの二階をお借りして実験を行いました。使用の蓄音器はEMG―]bです。図−4の赤線がラウド(太針)の特性であり、黒線がソフト(細針)の特性です。

これを比較すると、1000Hzから低い音は、どちらも同じ大きさの100dBSPL音ですが、2000Hzでは、5dB位太い針の方が音が大きい、また3000Hzでは約8dB.4000Hz以上の高音域では、約10dB位太い針の方が音が大きい事が分かります。

従って、針の太さがラウドとは、全体の音が大きくなるのではなく、高音域が出るのがラウドと言う事になります。針の太さを太くすればするほど、高音域が出てきます。これは、ソーン針でも同じ結果になりますので、高音域を出したい時は太い針を使用した方が良い事になります。

しかし、どちらの針も騒音計で音圧レベルを測定すると略同じレベルになります。何故かと言うと500Hz〜1000Hzの音のレベルが100dBSPLもあり、高音域3000Hz〜4000Hzでは、太い針で90dBSPL、細針で80dBSPL位なので、全体の音のエネルギーはどちらの針も同じ略100dBSPLと言うことになります。
http://emgmark7.com/dish.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c78

[近代史02] 驚異の音質を誇ったエジソン式蓄音器が滅びた理由 中川隆
30. 中川隆[-12963] koaQ7Jey 2019年1月16日 13:03:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

☆ 私と蓄音器EMGマークZ との出会い その1 ☆
http://emgmark7.com/dish.html


私は昭和23年生まれで今年2013年で65歳になります。大田区、久が原に中学時代までいました。。そこには祖父の卓上蓄音器(ビクトローラVV1−90)が家にあり私が4〜5歳の頃、姉がゼンマイを巻き聴いていました。小さいながらも、黒い盤が回るのを見たり、中を覗き込んだり、後ろに回って誰かが中にいて唄っているのではないかと、その当時は不思議に思ったものでした。

また父は音キチでステレオに凝りマッキントシュのアンプやタンノイのスピーカなどが沢山転がっていました。私が中学時代にどっちのスピーカの音が良いか、よく聴き比べを父に頼まれ、何回も聴き比べをしていくうちに耳が肥えていったように思います。

そんな環境で育ったため私は大学では音響の専門機関である財団法人―小林理学研究所と関連のある大学へ行き物理の中でも音響学の勉強をしました。専門は室内音響で当時のコンサートホールの残響時間や室内の周波数特性の測定でした。

40年位前になりますが、その当時の新宿厚生年金会館のホール音響はひどいものでした、ニニー・ロッソが毎年日本に来てクリスマスコンサートをしていました、トランペットをニニーが吹くと1秒くらい遅れて後ろの壁から反射して聞こえて来ます。壁や天井・床が並行のため反射して戻ってきます。そんなことで小林理研に依頼があり部屋の残響時間や周波数特性の測定に駆り出されたことを今でも思い出します。

もちろん今ではコンサートホールは並行な壁や天井はなく音の良いホールになりましたが、いまだに音の悪いホールは初台のオペラシテイー位になりました。

その後、私は補聴研究室へ配属になり、補聴器のフィッテイングの研究をし、昭和60年に独立、補聴器フィッテイング研究所を設立、当時、補聴器のフィッテイングの技術が世界的に無かったため、外耳道の鼓膜面までの共鳴を考慮した調整法を確立し、現在では、日本全国から補聴器の調整を求めて来所されます。

また趣味としては、父からステレオ装置を譲り受け、CDの音を聞いていましたが、なかなか良い音に巡り合えず、昔聴いた蓄音器の音が懐かしく思っていました。しかし蓄音器には全く知識が無く、踏み込めないでいました。

そんな時、15年位前から、私は茶道を始め、毎年正月には初釜をして楽しんでいました。9年位前に知人から港南台に茶室を造った家があるので見に行かないかと誘われ訪問しましたら、そこの旦那さんが蓄音器を持たれており久しぶりに聴かせていただきました。昔聴いた懐かしい音に感動し、そこで初めて銀座に蓄音器の老舗シェルマンがあることを教えてもらいました。

2003年11月21日、東銀座のシェルマンに行きました。二階に上がり磯貝社長にお目にかかり、言いました。

『ここに並んでいる蓄音器を順番に聴かせて下さい、私が聞いて一番音の良いと思う蓄音器を一台購入します。』

その当時は蓄音器に関する知識が全く無く、1台目は確かアメリカのものだと言っていました、聴いた瞬間、音の抜けが悪く、ボーカルは遠くで唄っている声でした。

二番目はイギリスのもので、一番大型のサイズだと言う2種類でした、アメリカのとは違い音の抜けは良かったです、大きさは同じでしたが、後の方が音の艶がありました。

4番目は上にラッパが出ていてこれもイギリス製と言っていました。大きな音で鳴っていましたが、低音と高音のバランスが悪く低音ばかりが大きく聞こえます。しかも低音が絞まらずボンボンと聞こえます。

5台目も同じメーカーでフロア型でした。これを聴いた瞬間、鳥肌が立つようでした。高音も良く出ていて、低音もズンズンと絞まっています。高音と低音のバランスがとても良く、ボーカルは音がフォーカスされ、目の前で唄ってくれているようでした。音楽が終わらないうちに、これを下さいと言っていました。

あと2〜3台未だ聴いていない蓄音器はあったのですが、もうこれ以上の蓄音器はないだろうとその時、思いました。蓄音器の知識が全く無い訳ですから、頼りになるのは私の耳だけでした。若い頃から耳は訓練していたため、スピーカからの音楽を聴いて周波数特性がある程度描ける位の耳は持っていました。

この蓄音器マークZの周波数特性はピーク・デップの無い比較的フラットな特性で、しかも今まで聴いた蓄音器の中でも高音から低音まで良く再生している広帯域特性とその時、判断しました。これが、私が初めてEMGマークZに出会った瞬間でした。


☆ 蓄音器 EMGマークZ とは! その2 ☆

それから1週間くらいして、自宅にマークZを設置にシェルマンの磯貝社長が来られました。設置を見ながら社長に聞きました。

『この蓄音器はシェルマンでは何台位扱いましたか?』

かなりの台数が出ているだろうと、予想していたのですが、以外な回答でした。

実はこの蓄音器はシェルマンでは、初めてと言うこと、EMGの蓄音器の中でも大変珍しく幻の蓄音器と言われている事を聞きビックリしました。

では、日本では何台位入って来ていますか?と聞くと、数年前に梅屋さんが初めて入手し、世界の蓄音機の本に掲載されている写真がその実物で、多分これが1台目ではないか、しかしこの蓄音器は回転むらがあったと聴いているとのこと。今日納めたこの蓄音器がおそらく日本で2台目ではないかと思うと言われていました。

そんなに珍しい蓄音器だと言うことを全く知らずに手に入れた事に感銘しました。そして、更にこの蓄音器について知りたいと思い、書物を探しましたがなかなか見当たりませんでした。インターネットでEMG蓄音器で検索すると静岡の林コレクションが見つかり、早速、連絡を取り遊びに静岡の林コレクションへ出向きました。

なんと林静雄さんもEMGの熱烈な愛好者で、EMGの息子さんのジョー・E・ジンと家族ぐるみで交流があり、以前に家族でイギリスの自宅に遊びに行った話をいろいろとお聞きし大変、参考になりました。静岡にお邪魔した時に聴かせて頂いたEMGマーク\もマークZ程ではないが、乗用車に乗るためにコンサートなどの移動用に便利な蓄音器と思い求めました。鎌倉のコンサートで使用していたマーク\はこの時に求めたものです。

林さんにお聞きしましたら、EMGの息子さんの家に殆どんの蓄音器の機種が残っていたが、マークZだけが息子さんの家にはすでに無かったそうです。EMGの蓄音器をあれ程、情熱を持って集められておられる林さんでもマークZには未だ一度も出会ったことが無いと言う話を聞き、益々この蓄音器に興味が出て文献を探すことにしました。

間もなくしてE,M,G,STORYと言う書物が見つかりました。この書物によると、マークZは1928年7月に発売され、1927年に出たHMV202より共鳴管は少し短めだが、マークZの音は繊細で、今まで世に出た蓄音器の中でも、低音から高音まで一番広帯域である。EMGの蓄音器の中でも一番良いモデルである。と書かれており、HMVの蓄音器を意識して造った事が読み取れます。

また、林さんに指摘されて初めて知って調べましたら、マークZは世界の蓄音機ではホーンはパピエ・マーシュ(紙)と書いてありますが、本当はエボナイトだと言うことが本を読んで分かりました。実際にマークZの下から頭を入れて、見えない部分をカッターで削ってみました、紙の上にコーテイングしているのではなく、確かにエボナイトむき出しでした。このことで、低音がズンズンと絞まった音の理由が分かりました。

低音は波長が長いため、材料が軽くて軟らかいと振動で動き音が歪ます。低音を再生するには、重くて硬い材料が良いのですが、HMVのように金属にすると重すぎて移動が困難になります。そこで、金属でなく、紙でない、中間のエボナイトを採用したことが成功した一因と思います。

更に箱に入れてホーンの周りを固定したことで低周波数でもホーンが動かず歪の少ない音になったと思われます。また更に調べていくとEMGは全ての蓄音器がエクスポーネンシャルホーンと言うこと、これは全ての周波数の共鳴がホーンの真ん中に音像が出来、ボーカル等は、点音源になることです。従ってボーカルは声がフォーカスされ、そこで唄っているようにリアルに聞こえます。

また他社の大型蓄音器はリエントラントホーンと言う構造、これは点音源にならず、横に広がった線音源になります。しかも共鳴管の途中で管を二つに分けたため、聴く場所によって、上のスピーカから出た音と、下のスピーカーから出た音で干渉し、ある周波数では位相が反転すると言うとんでもないことが起こっているのです。聴くと音はフォーカスされず、広がってしまいます。カメラで言えばピンボケの状態です。しかし、一長一短があります。エクスポーネンシャルホーンはどの位置で聴いても位相が反転するようなことは起こらず、ボーカルやバイオリンソロなどはとても良いのですが、大編成の交響曲などは、点音源のため、全ての音が真ん中に集中し広がりが無くつまらない音になります。

リエントラントホーンはフォーカスはしないものの、交響曲は広がりがあり聴き易くなります。オールマイテーの蓄音器はリエントラントホーンかもしれません。このように蓄音器の構造を調べて行くと、EMG蓄音器の中でもマークZだけに、エボナイトを使用したこと、またマークZだけが、ホーンを箱に入れて固定したことで、EMGの蓄音器の中でも最高の音を造ることが出来たと思われます。

またEMGがHMVよりも更にハイファイの音を求めたため、エクスポーネンシャルホーンに執着したこともうなずけます。

このように私は、良い音の蓄音器が見つかると、どうして音が良いかを音響的に解明していく事に興味を持っています。また音の良くない蓄音器に出会うと、どうして音が悪いかを音響的に解明しようとします。その点では少し異色の趣味かもしれません。 

   


☆ 蓄音器EMGマークZ その3 ☆

私はこの蓄音器マークZの音がとても気に入り、もう1台、イギリスでマークZが出たら購入することを磯貝社長に伝えましたら、翌年、もう1台出て来ました、残念なことに、すでにモーターは電気に交換されていましたが、音は問題無く繊細な音を聞かせてくれています。

マークZの箱の模様は一台一台、異なっており、箱はデザイン会社 に注文して製作したそうです。2か月前にマック杉崎さんとお会いしましたら、初めのマークZはマックさんが所有されていたそうで、その後手放されて、現在は茨城県石岡の 世界的蓄音器マニアと私が思っている、青柳さんが所有されています。

2004年の雑誌、ステレオサウンドNo153に菅野沖彦さんのレコード演奏家訪問に青柳さんの自宅の写真 が載っておりマークZがあるのにビックリして磯貝さんにすぐ連絡しましたらこの蓄音器が一台目のものと分かりました。この機種はEMG STORYの本の写真に掲載されているものと同一で、模様が放射状になっている蓄音器です。この写真の実物が日本に入って来たことになり、林さんがEMGの息子さんの家に行ったときにはマークZだけは無かった、 つまり、既に日本に来ていた事になりつじつまが合います。

ではEMGの蓄音器はいったい何台位、造られたのでしょうか?
文献によると、マーク]は150台、マーク]aが75台、 マーク]bがオーバーサイズを含めても、たった50台だそうです。マークWが350台、マーク\が350台。

ではマークZはと言うと、これは記録が無く推測でしかないそうですが 数十台のようです。この数を見ると]bが50台と言うことは、もう既に日本にその殆どが入って来てしまったようで、もうイギリスで見つけようとしても難しい状況になっているようです。 しかもマークZは市場に出ることが殆ど無いことからかなり製造した台数は少ないと想像されます。

私は、こんなに良い音の蓄音器を独り占めしてはいけないと思い、8年前から 毎年10月の戸塚のフォーラム祭りの市民持ち込み企画に申し込み、EMG蓄音器クラブとして9時から4時まで約7時間コンサートを開催し、毎年70人くらいの方が聞きにきてくれています。去年は年を召したご婦人の方が一番で来られて最後までおられ、曲をリクエストされていました。毎年2〜3人ですが、EMGのマークZの音を日本ではどこで聴けるのか、検索をかけると私の掲示板に書かれているマークZの記事を読み、連絡が入ります。自宅に来られてマークZを聴いてもらうと、その音にびっくりされて帰られます。今度上京した時には、自分のSPレコード盤を持参するので、また是非聴かせて欲しいと言われます。

そんな方が全国に15人位おられるため、EMG蓄音器クラブなるものを 8年前に立ち上げました。会員は全国に散らばっているため、全員が一同に会する事はありませんが、クラブの年1回の行事として、毎年10月にコンサートを開催している訳です。

蓄音器の老舗シェルマンでは、以前に蓄音器の周波数特性の測定をするため、私が以前、所属していた小林理学研究所に依頼をしたそうですが、見積もりが高額のため実現出来なかったそうです。 そんなことで、私がシェルマンの蓄音器の周波数特性を測定するようになりました。

新しい蓄音器が入荷すると、周波数特性を取り、音を聞き良い音の蓄音器は店に展示する前に 私がゲット出来る特典があります。

平成17年にHMV194の素晴らしい音に巡り合いました。やはり聴いた瞬間にこの蓄音器を下さいと言っていました。

HMVのフロア型蓄音器ですが、もともとリエントラントホーンは音が良くないと言う私の先入観があったのですが、この194を聴いて考えが変わりました。後で周波数特性を測定しましたら、図―1のように200Hzから3000Hzまで周波数がフラットでした。その後も他の194を沢山聞きましたが、これ程の蓄音器に未だ出会っていません。

図―2はマークZの周波数特性です。周波数特性だけで音の良し悪しは勿論分かりませんが、一つの参考データです。

蓄音器の周波数の測定には2種類あり、一つは、周波数特性測定用のSPレコード盤があります。三分の一オクターブバンド毎の純音が録音されており再生しながら、騒音計でレベルを読み取って行きグラフを作成します。

もう一つの方法はクリック音を再生しマイクで受けてその信号をファースト・フーリエ変換(FFT)と言う手法でパソコンで計算し周波数軸に変換します。クリック音はレコード盤に縦に傷を一定間隔で入れ、再生します。

下の図は前者の方法で測定したものです。蓄音器によっては、ある機種の蓄音器は4台位測定しても周波数特性が殆ど不変と言うものもありますし、ある機種では、4台測定すると4台共、周波数が異なると言う機種もあります。蓄音器の周波数特性を図にして発表することも考えましたが、蓄音器の優劣に直結する可能性があり、差し控えております。

以上、私が9年前にEMGに出会い現在までやって来た事です。あまり参考にはならないと思いますが、最後までお付き合い頂きありがとうございました。なお今年の4月、湘南SPレコード愛好会にEMGマークZを持参しますので、興味のある方は聴きに来て下さい。

☆ 蓄音器による鉄針・ソーン針・竹針の周波数特性の違い ☆
ゲストルーム
一般的に鉄の針は強い音、竹の針は柔らかい音と言うイメージがあるが、一体どのような周波数特性なのか大変興味があるところです。今回は蓄音器シェルマンの2階でHMV203の蓄音器をお借りして、実験を行いました。

図−3の赤線が鉄針ミデイアムを使用したときの周波数特性。青線がソーン針を使用した時、黒線が竹針を使用した時のものです。

まず、黒(竹針)と青(ソーン針)を比較してみると、250Hzでは両者とも同じレベルの90dBSPLであることが分かります。

500Hzでは8dBソーン針の方が音が大きい、1KHz、2KHz、4KHzでは10dBソーン針の方が音が大きいことが読み取れます。

即ち、低音域よりも高音域の方が竹針の減衰が大きいことが分かります。

次に赤(鉄針)と黒(竹針)を比較しますと、250Hz以下の低音部分は4dB位、鉄針の方が音が大きいことが分かります。しかし高音域1KHz,2KHzでは15dB位、4KHzでは約20dB位鉄針の方が音が大きいことが読み取れます。

従って竹針は低音域よりも高音域の減衰が多いため、音が柔らかく感じる訳です。この図を見るとソーン針は鉄針と竹針の略中間の特性と言うことが分かります。何かの参考になれば、幸いです。 


☆ 蓄音器の周波数特性 ☆


初めて銀座のシェルマンに伺い、聴かせていただいた時の蓄音器の特性を後日、測定させていただきました。最初に聴いたのがアメリカ製のビクトローラ・クレデンザでした、その時の蓄音器の特性が図―5の赤線の特性です。

500Hzが80dBSPLと他の蓄音器と比較すると10dBから20dBも弱いことが分かります。500Hzが弱いと音の抜けが悪い事につながります。この蓄音器もシェルマンで中も解体しメンテナンスが済んだ状態でした。

またこの図の黒線はもう1台別のクレデンザの特性です。このようにクレデンザは製造期間が長かったことと、製造台数が多かったため、中の構造に多少の変更などがあり、周波数特性にかなりのバラツキが見られます。

黒線の特性は500Hzが102dBSPLも出ていて、音の抜けはかなり良いです。クレデンザには当たり外れがありますので、音を良く聴いて抜けの良い蓄音器を選ぶことが必要です。

次に聴いたのがイギリスのHMV202とHMV203でした。その時の周波数特性を図―6と図―7に示します。サイズはどちらも同じと言うことですが、

比較すると500Hzで202型は90dBSPL,203型は100dBSPL出ていて、10dBも203型が出ています。従って音の抜けの良いのは203型かもしれません。HMV202と203型は比較的個体によるバラツキは少ないようです。

次に聴いたのが図ー8のEMG ]bオーバーサイズでした。周波数特性を見ても、明らかなように1KHzと500Hzは100dBSPLも出ているのに、3KHzでは80dBと高音域が出ていないことが分かります。エクスポーネンシャル・ホーンの径が大きくなり共鳴管の長さが長くなるほど、高音域の減衰が大きく、低音と高音のバランスが悪い事が分かります。

そして、最後に聴いて、鳥肌が立つようだったのが、EMGマークZアップライト・グランド型でした。その特性が図―2です。フラットに近い特性が読み取れるでしょうか?

このように、私の耳で聞いて感じたことが周波数特性を取って見ると、略特性に出ている事が分かります。私が蓄音器の音を聞いて聴き終わらないうちに、購入を決めたのは、図ー2のマークZと図―1のHMV194の2台だけでした。


☆ 針の太さの違いによる、周波数特性の変化 ☆

鉄針のラウド(太針)とソフト(細針)は、いったい、どのような周波数特性になっているのでしょうか?

一般的にはラウドは大きい音、ソフトは小さい音と言うイメージがあるが本当にそうでしょうか?

私もこのことには、大変興味があり、蓄音器の老舗シェルマンの二階をお借りして実験を行いました。使用の蓄音器はEMG―]bです。図−4の赤線がラウド(太針)の特性であり、黒線がソフト(細針)の特性です。

これを比較すると、1000Hzから低い音は、どちらも同じ大きさの100dBSPL音ですが、2000Hzでは、5dB位太い針の方が音が大きい、また3000Hzでは約8dB.4000Hz以上の高音域では、約10dB位太い針の方が音が大きい事が分かります。

従って、針の太さがラウドとは、全体の音が大きくなるのではなく、高音域が出るのがラウドと言う事になります。針の太さを太くすればするほど、高音域が出てきます。これは、ソーン針でも同じ結果になりますので、高音域を出したい時は太い針を使用した方が良い事になります。

しかし、どちらの針も騒音計で音圧レベルを測定すると略同じレベルになります。何故かと言うと500Hz〜1000Hzの音のレベルが100dBSPLもあり、高音域3000Hz〜4000Hzでは、太い針で90dBSPL、細針で80dBSPL位なので、全体の音のエネルギーはどちらの針も同じ略100dBSPLと言うことになります。
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[近代史3] 勝又壽良 _ 中国・朝鮮ヘイトでグローバリズム礼賛のアホ経済評論家 中川隆
16. 中川隆[-12962] koaQ7Jey 2019年1月16日 13:22:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

中国・朝鮮ヘイトの勝又壽良さんは中国・朝鮮の事が何もわかっていないですね _ 3


韓国、「ダボス会議」文氏は今年も欠席、内弁慶で「経済論不発」2019年01月16日

文大統領は、先進国と異なる経済政策を追求すると大見得を切っている。成長を追わず平等な分配を目指す、と大学生の書くレポートのような内容である。ご自身は、得意満面だが一度、国際会議の場でそういう崇高な理念を語って見るべきだ。

スイスのダボスで、来週22〜25日まで開催される世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)は、安倍首相やドイツのメルケル首相ら60カ国・地域の首脳らが参加する。世界経済フォーラムが15日発表した。各国首脳の名前の中に韓国大統領はない。昨年に続き今年も欠席する。

韓国は、最低賃金を2年間で約3割も大幅に引き上げるので、失業率は高まり成長率が低下する事態に追い込まれている。この独善的な経済政策が、国民を不安の坩堝に落とし込んでいるが、ご本人は全く意に介さず、だ。自らのこういう経済哲学が、国際的にどのように評価されているか聞いて見るべきだろう。現実には、その勇気もなくダボス行きを回避している。

今年のダボス会議では、安倍首相がメルケル・ドイツ首相と並んでメインになる。その発言は世界に発信されるが、韓国では違う点で注目が集まっている。それは、日韓の主催する晩餐会が、同日同時刻だというのだ。これは、全くの偶然というが、日本は安倍首相、韓国は康外相がそれぞれ主宰する。韓国メディアは、この晩餐会のほうに注目している。


『朝鮮日報』(1月16日付)は、「ダボス会議、韓日、よりによって同じ日に晩さん会開催」と題する記事を掲載した。

(1)「スイスで開幕する世界経済フォーラムの年次総会(ダボス会議)で、韓国政府と日本政府がそれぞれ開く晩さん会が同じ日の同じ時刻に行われることが15日、分かった。最近韓日関係が悪化している中で、両国政府主催の晩さん会の日まで重なったものだ。昨年に引き続き、今年も文在寅(ムン・ジェイン)大統領の代わりに康京和長官が出席するが、「立食晩さん会」形式で韓国企業や国際機関関係者など約50人を招待するという、規模があまり大きくない、つつましい行事となる」

ダボス会議は、世界的な名物となっており、世界企業の経営者と政治家が集う貴重な場である。外資を呼び込む上で、これに優る会議はないと高く評価されているのだ。韓国が、世界で位置を高めるには是非とも文大統領が参加すべき会議である。

(2)「一方、同時刻に日本政府は安倍晋三首相が主宰する「日本の夜」行事を開くとのことだ。世界の政財界関係者が多数出席する盛大な晩さん会にする方向で進められている。安倍首相は今回のダボス会議で世界各国の主な最高経営責任者(CEO)と相次いで会談を行う。外交消息筋は『例年なら日程を調整して双方の行事にお互い出席し合うこともできたはずだが、それだけ意思疎通がないということだ』と話す。昨年は『韓国の夜』行事が一日先に開かれ、日本の関係者も多数出席していた。この消息筋はまた、『招待の対象となる主な人物は異なるが、韓国と日本の晩さん会が同時刻に行われるため、対照的に映る可能性が高い』とも言った」

日韓が主宰する晩餐会が、同日同時刻になったのは、日韓が事前に時間調整しなかったためという。これだけ日韓で問題が起ると、担当者同士が接触する機会も減るから、連絡が途絶えるのだろう。韓国は、「日本なんて」という気持ちでいても、同日同時刻の開催では、どうしても比較される。今から「敗戦」覚悟のようだ。「反日」の報いをスイスで受ける感じだ。

(3)「韓国政府当局者は、『康京和長官の日程上の都合で、『日本の夜』と偶然重なったが、日本と張り合う構図というわけではない』『日本の場合、首脳が主導する行事なので規模が大きいが、韓国は出席者間の対話が可能な規模で行うので、より充実した会となるだろう』と語った。しかし、一部では『韓国政府は外交のすそ野を広げる機会を自ら放棄した』と指摘する声も上がっている」

日本と対立したばかりに、韓国は50人程度の内輪の集まりだという。ならば、スイスで開く必要はなく、ソウルで行なうのも一緒である。せっかくの機会を自らの狭い視野で捨てるに等しい愚行となった。「反日」とは、こういう結果になる最初の例となろう。

コメント

1 中川隆:文大統領の経済政策は基本的には正しいのですけどね 2019年01月16日 13:19 id:S9zJu4q30

文大統領の経済政策は基本的には正しいのですけどね

富裕層は生活に必要な金額の数百倍や数万倍ものお金を持っているので、大半を資産運用に使っています。

資産100億円年収10億円の人は、毎月の生活費100万円以内としたら、保有資産の1万分の1しか毎月消費していません。
大半は株式や投資信託や土地を買って運用して、新たなお金を増やし続けます。

富裕層になったら普通に生活するだけではお金を使いきれなくなり、使っても使ってもお金は増えていきます。

逆に貧困層は、お金がないので給料を100%消費に使います。

よく言われる話で富裕層対象の減税とか給付金を実施しても経済効果はほとんどありません。

富裕層は受け取った給付金の分を資産運用に回すだけで、1円も消費に使わないので経済効果がゼロです。

対する貧困層は政府から受け取った金を100%使い切ってくれるので、景気対策効果は抜群です。

このように富裕層がいくら資産を持っていても、それは永遠に消費されない「死んだ金」です。

ただ、韓国の場合は、富裕層が韓国ではなく海外の資産家だというのが問題なのですね。
最低賃金を上げるだけでなく、同時に法人税や株式への配当課税・売却益への課税を強化しないと上手くいかないのです。
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/archives/15037643.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/142.html#c16

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 賀来千香子・佐野史郎 ずっとあなたが好きだった (TBS 1992年) 中川隆
1. 中川隆[-12961] koaQ7Jey 2019年1月16日 13:52:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

1993年 TBS テレビドラマ 誰にも言えない

前年の1992年に大ヒットしたドラマ『ずっとあなたが好きだった』の事実上の続編。


動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%AA%B0%E3%81%AB%E3%82%82%E8%A8%80%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84++%E8%A9%B1+


放送期間 1993年7月9日 - 9月24日(12回)
制作局 TBS
脚本 君塚良一
オープニング 松任谷由実 「真夏の夜の夢」


話数 放映日 サブタイトル 演出 視聴率

第1話 1993年7月9日 私を凌辱した男 生野慈朗 24.9%
第2話 1993年7月16日 隣に棲む悪魔 19.9%
第3話 1993年7月23日 罠に堕ちていく夫 横井直行 17.0%
第4話 1993年7月30日 不幸を呼ぶ蛇 23.1%
第5話 1993年8月6日 恥ずかしい写真 生野慈朗 19.1%
第6話 1993年8月13日 八月の濡れた抱擁 20.7%
第7話 1993年8月20日 深夜のお仕置き 横井直行 21.8%
第8話 1993年8月27日 お義母さんが好き 福澤克雄 24.7%
第9話 1993年9月3日 夫をレイプした男 生野慈朗 26.1%
第10話 1993年9月10日 地獄に堕ちる蛇 横井直行 26.6%
第11話 1993年9月17日 加奈子の逆襲 生野慈朗 27.6%
最終話 1993年9月24日 REINCARNATION 33.7%

平均視聴率 23.8%(視聴率は関東地区・ビデオリサーチ社調べ)
関西地区での最高視聴率39.2%(最終回)。


キャスト

北沢(松永) 加奈子
演 - 賀来千香子
短大入学と同時に上京。卒業後は新宿のデパートに就職。そこで来店客として知り合った麻利夫と交際。未婚で妊娠するが、別れを告げられたことから中絶。医師から不妊の宣告を受ける(高校在学中にも中絶経験がある)。のちに不動産仲介業の事務員に転職。部屋探しにやって来た伸吾と揉めたことがきっかけで親密になり結婚。伸吾には内緒で不妊治療に通っていたが、隣に越して来た麻利夫から付きまとい行為・それに伴う周囲の誤解を受け悩む。麻利夫に監禁された際に反撃し、麻利夫を刺す。警察沙汰になるが、正当防衛が認められる。事件解決後に転居。伸吾との間に双子の女児を出産する。前作(ずっとあなたが好きだった)と加奈子の関係性は西田美和(演 - 賀来千賀子)と大岩洋介(演 - 布施博)との「実子」。加奈子には「兄」がおり、その兄が美和と桂田冬彦(演 - 佐野史郎)との子供。全てが「輪廻」で因果であること、兄はすでに死亡していることが最終話内で加奈子自身から語られている。


高木(山田) 麻利夫
演 - 佐野史郎
加奈子の元恋人で弁護士。交際していた加奈子から妊娠を告げられるも、その頃、担当した裁判で知り合った美雪を騙し結婚。山田書房の社長の座と同時に、加奈子との復縁を狙い、住所を突き止めると隣の部屋へ引っ越し、エキセントリックな言動で周囲を恐怖に陥れる。言葉巧みに周囲を丸め込んでゆく策略家だが、のちに加奈子への気持ちがエスカレート。拉致監禁・放火などを引き起こしたことが元で、山田家を破綻寸前に追い込んでしまう。この時に、少年期の家庭環境・亡くなった父との確執・自分を捨て、駆け落ちをした母への思いが明らかになる。最終回では、美雪の気持ちを知って離婚を思い留まる。のちに生まれた子供と共に逗子の海岸付近へ移住。山田書房の社内にて、著作権を始めとする法律関連の部署に配属されていることが自身のセリフで語られる。ノベライズ版では、1957年3月28日生まれ。母の名は芳江と設定されている。前作(ずっとあなたが好きだった)の桂田冬彦(演 - 佐野史郎)が美和と離婚した後、再婚相手の女性との間に設けた「実子」であることから、加奈子の兄と麻利夫は「異母兄弟」の関係に当たる。最終話内で加奈子自身から語られ、真実を知ることになる。


山田 美雪
演 - 山咲千里
一見、誠実そうな麻利夫の態度に心惹かれ結婚を決意。山田家の跡取りとして育てられたが、結婚後もスチュワーデスの仕事を続けており、出版社の業務に携わっていた様子は見られない。母親に対して依存心が強いことと同時に、加奈子に対して嫉妬心と憎悪に近い感情を抱き、後に麻利夫と加奈子の過去を知ると、「嘘をついた」ことで麻利夫に強烈なおしおきを据えるなど、ワガママで甘えん坊な印象があるが、基本的には明るい性格で、麻利夫に対して健気な想いを抱いており、のちに離婚を強要した母に反発。やり直しと母からの自立を決意する。男児を出産後は穏やかな性格となり、再会した加奈子に笑顔を見せた。絵心がある。


山田 愛子
演 - 野際陽子
山田書房の社長で美雪の母。実業家としてのプライドは高いが、美雪に対して甘い面と占いを信じ込んでしまう面から、周囲が見えなくなりヒステリックになってしまうことも多く、誤解から加奈子を敵視。身辺調査をした上で罵倒したり、伸吾との離婚を強要する等、さまざまな嫌がらせを展開する。後に麻利夫を社長に昇格させるが、彼の起こしたトラブルに巻き込まれ失脚。反逆者に企業を乗っ取られてしまう(以前、麻利夫に弁護を依頼した社内クーデターの残党とみられる)。美雪からの自立宣言を受けた後、山田書房に残留しメセナ部門を担当。穏やかな性格に変貌したと麻利夫のセリフで語られている。


松永 伸吾
演 - 羽場裕
一加奈子の夫。さっぱりした気性・体育会系的な面と同時に、不可抗力による前科やゲイを疑われたり、大学への進学を断念させられたという過去などもあり、思慮の浅さ・学歴などへのコンプレックスが見受けられる。麻利夫の罠にはまり、山田書房へ転職し、社長室関連の業務を担当したこともあるが、加奈子から秘密を打ち明けられた直後、麻利夫に対して毅然と立ち向かい、のちに知人の紹介でスポーツ用品の営業へと転職。同時に転居を決意する。新居購入に関しては、2回とも実家から援助を受けていた様子。趣味は釣りなど。


___


前年の1992年に大ヒットしたドラマ『ずっとあなたが好きだった』の事実上の続編。前作の脚本家・君塚良一とプロデューサー・貴島誠一郎が再びコンビを組んで送り出したサスペンス調の恋愛ドラマ。

妻がいながらも、かつての恋人に異常な執着心を発揮する麻利夫のエキセントリックな言動がさらに強調され、事実上の主役となっている。最終的には、物語は自分自身の理不尽な愛に葛藤する麻利夫の苦悩にまで迫っていくことになる。

高木麻利夫の言動は、現在のストーカーの概念に、ほぼあてはまる[1]。そして劇中で語られる彼の育った環境も、そういったトラブルを引き起こす性格が形成されやすい状況である。

後年、君塚は著書で「次回予告を視聴者が見て引きつけられそうなシーンをいくつか作り、それを組み合わせて本編のストーリーを作っていった」と語っている。

『ずっとあなたが好きだった』の正式な続編と解釈することには、登場人物の苗字、時代背景など随所に矛盾が存在するが、前作を意識したシーンが多数登場し、最終的に設定上の意外なつながりが明かされることが物語の鍵となっている。なお、1993年の12月29日と12月30日の16:00〜17:54に放送された『誰にも言えない 総集編』には賀来千香子が『ずっとあなたが好きだった』の登場人物、美和として登場するシーンが新撮影部分として追加された。

放映終了後に発行されたノベライズ版では、加奈子・麻利夫らは1950年代後半生まれと設定され、加奈子が秘密を知った経歴もテレビドラマとは異なっている。

この作品が放映された1993年はドラマの当たり年で、民放テレビドラマで最高視聴率30%以上が5本も出たが、このドラマは前作同様好調な視聴率を叩き出し、初回24.9%と好発進した勢いが衰えることなく、最高視聴率は33.7%(関東地区、年間第2位)であった(関西では最高視聴率39.3%で年間最高視聴率)。

主題歌は松任谷由実が「真夏の夜の夢」を提供し、この曲も『ずっとあなたが好きだった』の主題歌「涙のキッス」同様大ヒットし、ミリオンセラーを記録した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%B0%E3%81%AB%E3%82%82%E8%A8%80%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/165.html#c1

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 賀来千香子・佐野史郎 ずっとあなたが好きだった (TBS 1992年) 中川隆
2. 中川隆[-12960] koaQ7Jey 2019年1月16日 13:56:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

佐野史郎が語る「冬彦さんは平成のゴジラだった」
佐野史郎ロングインタビュー(前編)「文春オンライン」編集部 2018/06/09
http://bunshun.jp/articles/-/7663


心理サスペンス『限界団地』(東海テレビ・フジテレビ系)で連続ドラマ初主演を務める佐野史郎さん。その役どころ寺内誠司は“異常な老人”で、「冬彦さん」を思い出す人もいるかもしれない。あの、妻に不倫されるマザコン男の怪演から26年。あらためて佐野さんに「冬彦さんとは何だったのか」を伺いました。


視聴率をどうしても意識してしまいますでしょう?

――連続ドラマの主演は初めてなんですね。

佐野 ありがたいことに映画は主演デビューでしたし(林海象監督『夢みるように眠りたい』86年)、舞台や映画、単発のドラマなどではフロントに立って仕事をすることは今までにずいぶんやってきたんですが、地上波の連続ドラマっていうのがね、またこれまでと違った責任を感じるんですよ。


『限界団地』第2話より ◆オトナの土ドラ『限界団地』(東海テレビ・フジテレビ系)毎週土曜日23:40〜放送。第2話は6月9日24:05〜、第3話は6月23日放送予定

『限界団地』第2話より ◆オトナの土ドラ『限界団地』(東海テレビ・フジテレビ系)毎週土曜日23:40〜放送。第2話は6月9日24:05〜、第3話は6月23日放送予定

――テレビの地上波だからこその責任ですか?

佐野 視聴率をどうしても意識してしまいますでしょう? それは脇役の冬彦をやっていた時でさえそうでしたから、主演となると重いですよ(笑)。『ずっとあなたが好きだった』が放送された時代って、今からもう26年も前になりますけど、あの頃はフジテレビの月9、トレンディードラマが全盛で、W浅野で視聴率30%超えみたいな世界でしたよね。TBSは数字的に苦労していたから、視聴率というのは一つの目標であり、モチベーションでもありました。ただ僕は主演の賀来千香子さんと布施博さんに次ぐポジションでしたから、フロントマンとしての責任はそこまで実感していなかったかもしれない。でも今回は主演ということで感じざるを得ません。


親分肌ではないんです

――視聴率も担う、座長のようなプレッシャーというか……。

佐野 うーん、ところが僕には意識的にみんなをまとめようという「座長気質」、親分肌みたいなところが見当たらない(笑)。ただ、似たような感覚かなと思っているのは、人気ドラマのゲスト主役の心境。あれはもう死に物狂いでやるんです。なぜかというと、その回の視聴率はゲスト主演次第だから。


――近いところでは長澤まさみさん主演の月9『コンフィデンスマンJP』に映画マニアの食品会社社長の役でゲスト主演されていましたね。

佐野 あのマニアぶりは、僕の実人生の嗜好とも重なり楽しい仕事でしたけど(笑)、それにしてもゲスト主演というのは言い訳無用の恐ろしさが付きまとうんです。そう考えると連続ドラマの主演って、怖いですよ。


あの頃と、時代の空気感が似ている

――団地が舞台のドラマですが、主役のお話がきた時はどんな感想を持ちましたか?

佐野 尋常じゃない老人の役ですから、その意味では当然、26年前のマザコン男、桂田冬彦のことも頭に浮かびましたし、比べられるだろうことも覚悟の上、僕自身も意識しています。冬彦への挑戦ですかね? 人生でこういう強烈な役柄を、もう一度連続ドラマでやることになるとは思わなかったですけどね。


――巡り合わせだな、という印象ですか。

佐野 そうですね、時代の空気感もあの頃と似ているな、なんてことも思ったりしました。

――『ずっとあなたが好きだった』で冬彦さんを演じたのは1992年、平成4年のことです。

佐野 あの年は、いわゆるバブル崩壊直後で、経済も恋愛も生きる糧にならないのであれば、一体何を心の糧にして喜びを得たらいいんだろう……とか、それでも家族や共同体は必要なんだろうかとか、そういう時代のムードがあったと思うんです。冬彦の役は、そういう時代背景を探りながら演じていったつもりです。あれから26年、この2018年だってハラスメントの問題しかり、いろんな価値観が変わりつつあるし、国内外の情勢、経済、様々な不安定要因もあって決して明るい材料ばかりではないですよね。四半世紀の時間を経て、冬彦的なるものがまた復活するということは、大げさかもしれませんけど「歴史は繰り返す」という感じさえしています。


冬彦ってゴジラと一緒じゃないですか

――92年の流行語にはきんさん・ぎんさんの「うれしいような、かなしいような」もありましたが、「冬彦さん」も流行語に選ばれましたよね。

佐野 「冬彦さん現象」と呼ばれるような社会現象になったわけですけど、「冬彦=マザコン男」というキャラクターだけが一人歩きしてしまったことには、ちょっと思うところはあったんです。

――どういうことですか?

佐野 別にキャラクターを演じるために冬彦をやっていたわけじゃないんだ、という気持ちですかね。もちろん、物事がヒットするためにはわかりやすいキャラクターが必要かもしれません。ただ本当に大切なことは、なぜそのキャラクターとなって現れるかという、その背景だと思うんです。キャラクターでいえば、僕はあの時、冬彦という男は怪獣だと思って演じていたんです。


――冬彦さんは怪獣?

佐野 僕がゴジラファンだから言うわけじゃないんですけど、冬彦って、自分は何も悪いことしていないのに、母親の過剰な期待とか、自分ではどうにもできない環境によってああいう人格形成になって、周囲から化け物のように扱われてしまった人なんですよ。それって、ゴジラと一緒じゃないですか。そして、結婚相手が初恋の人に走って傷つけられ、溜まりに溜まったものを哀しみとともに一気に吐き出す。ただただ、正直に生きている人だと思う。でも、いつの時代も、正直すぎること、イノセントであることは世の中から怖れられ、排除され、葬られる運命にあるような気がします。社会にとってはその時代の価値観を崩してしまうかもしれない恐ろしい存在だから。


――冬彦=ゴジラ説! なるほど納得です。

佐野 もっと言いますとね、ゴジラの特撮監督・円谷英二はアメリカの怪獣映画『原子怪獣現わる』や『キングコング』に対抗するものを作ろうと考えたわけです。それは巨大タコのような怪獣という案もあったのですが、ゴジラを始め、その後の怪獣たちは日本の古代からの信仰の龍蛇信仰や山岳信仰を踏襲して……ってどんどんマニアックな話になっちゃうな(笑)。

そこに木馬があったから

――冬彦さんはその「出現してしまった」人なんですよね。

佐野 そうそう。実は『ずっとあなたが好きだった』の脚本を書かれた君塚良一さんも、プロデューサーの貴島誠一郎さんも、僕と同じく特撮ファンで、特にゴジラとウルトラマンが大好き。君塚さんはウルトラマンシリーズの脚本を手がけた金城哲夫さんや上原正三さん、『快獣ブースカ』『仮面ライダー』の脚本も手がけた市川森一さんの手法も勉強されているから、何となく冬彦への共通理解はあったかもしれないです。


――ドラマの視聴率は初回13%から最終回34.1%に急上昇するわけですが、それに刺激されるようにして佐野さんの演技もエスカレートしていくところはありませんでしたか?

佐野 途中から冬彦が世間の注目を一気に集め始めたこともあって、役が勝手に動き始めちゃった感じはありました。だから、変なことをやろう、強い演技をしようとは思いませんでした。むしろ抑えようとしたくらいで。とにかく、人格にはリアリティを失わなせいようにしようと、無茶苦茶なことやってもその発露だけはしっかりと伝えなければと思っていました。冬彦が木馬に乗りながら「他の男に僕の子どもを抱かせるなんて……あああ〜〜っ! 許さないぞ〜!」って言う、あのよくテレビドラマの歴史などで使われるシーンも、そこに木馬があったから乗ったまでで(笑)。


平成という時代の予言の物語

――まさに佐野さんの俳優人生にとって「冬彦さん」は重要な役柄だったと思いますが、今あらためて「冬彦さん現象」とは何だったと思いますか?

佐野 平成の始まり、でしたよね? 平成という時代の予言の物語とでもいうか……。それはゴジラが備え持つような不安の象徴であったのかもしれません。


――冬彦さんは東大出のエリート銀行員で、ディーリングを担当していましたが、それも関連しているでしょうか。

佐野 彼は取引で大失敗して、勤め先の銀行に大損害を与えてクビになりますよね。そういう意味で冬彦はまさに、バブル崩壊、平成4年という不安定な時代、3年の助走を経て動き始めた平成時代の始まりの象徴のような気がします。

――最近では90年代にはまだ生まれていない子から「冬彦さんだ!」って言われることがあるそうですね。

佐野 小学生とかにね(笑)。動画配信なんかで観ているんだと思いますけど、まさか四半世紀後に小学生があのドラマを観るなんて、当時誰も思ってなかったから、びっくりしますよ。僕だって、平成最後にもう一度“冬彦的なるもの”を演じることになるとは思わなかった。

“怪優”佐野史郎が「フジテレビをぶっ壊す」と思ってた時代
佐野史郎ロングインタビュー(後編)「文春オンライン」編集部 2018/06/09
http://bunshun.jp/articles/-/7664


『限界団地』(東海テレビ・フジテレビ系)で連続ドラマ初主演を務める佐野史郎さん。冬彦さんから井伊直弼まで、数々の役柄を演じてきたからこその演技の秘密を伺いました。役者歴40年以上の名優が語るバイプレーヤー論とは?


テレビで見た団地への憧れ

――主演される『限界団地』はその名の通り団地が舞台です。佐野さんには「団地の思い出」はありますか?

佐野 僕は昭和36年まで練馬にいて、7歳から島根県の松江で過ごしましたから団地には縁がなかったんですよね。松江は県庁所在地とはいえ、その頃はほんとに田舎の風景で、クラスの半分は農家の子。その子たちは農繁期の刈り入れ時になると午前中で帰っていました。家の手伝いだから。ただ、テレビなんかで文化住宅や団地の映像は目にしていたから、なんとなくの憧れはありました。


佐野史郎さん ©山元茂樹/文藝春秋

佐野史郎さん ©山元茂樹/文藝春秋

――松江から上京されるのは74年、昭和49年のことですね。

佐野 高校卒業して、表現の道に進みたくて東京に出てきたんですが、一人暮らしする時に団地への憧れって、まだやっぱりありましたね。友だちが荻窪団地に住んでいて、倍率が高いだの、入居手続きが面倒だの話を聞いていると羨ましいというか。僕は阿佐ヶ谷の木造モルタルのアパートに住んでました。この前、そこを通りかかったんですけど、でっかいマンションが建っちゃっててショックだったな。お隣のラーメン屋さんもなくなってた。

なぜこのドラマが平成最後の年に放送されるのか

――思い出のラーメン屋さんだったんですか。

佐野 劇団員時代でお金もなかったから、醤油を借りに行ったりしたんですよ(笑)。100円持ってって「メンマください」ってお願いしたら、どっさり差し入れしてくれたりね。メンマつまみながら仲間と酒を飲んだのもいい思い出です。


――歴史の長い団地には今や「昭和遺産」的な側面を持つ部分もありますが、佐野さんはこの『限界団地』のお話がきたときにどんなことを感じましたか?

佐野 正直言うと、主役をどう演じようかと考える前に、なぜ団地を舞台にしたドラマがこの平成最後の年に企画として成立したのかなって、まず、その理由を知りたいと思いました。時代の気配というか。

唐十郎さんから受けた影響

――時代の気配。

佐野 お話をいただいたときに「なぜ今この企画なのか?」と、今に照らし合わせて考えてしまうのは、劇団時代の恩師、唐十郎さんの影響が大きいのかもしれません。僕は20代の頃に唐さんが座長の「状況劇場」で舞台に立っていたんです。唐さんの戯曲ってたとえば『由比正雪』にしても、江戸の始まりとは何だったのかということを、戦後史やその当時の60年代のことを重ね合わせながら描いているんですよね。そこから学んだのは、コメディーにしろ、ホラーにしろ、ハートウォーミングなドラマにしろ、それこそ冬彦が出てくるようなドラマにしろ、演じるうえで大切なことは、「なぜ今この作品が生まれ出ようとしているのか、それを読み解くこと」なんです。


――佐野さんの俳優論の根っこにあるものという気がします。

佐野 個人史を大きな歴史の流れに照らしながら、作品を探るということかもしれないですね。この『限界団地』も、憧れの団地が次第に齢を重ね、昭和で解決できなかった問題群がそのまま平成に引き継がれ、その平成もまた終わりを迎えようとしている、そんな時代背景を象徴していると思います。家族観、共同体のあり方を含め、結論の出ていない問題が「団地」という場所に集約されているというか。


――特に住宅というのは、時代の家族観を反映しますよね。

佐野 冬彦の翌年に、再び賀来千香子さんとご一緒した『誰にも言えない』で住まいに設定されていたのは南大沢の高層マンションの最上階でした。なんというか、それこそ現実がドラマのオープンセットのような空間で、虚実が転倒するような空気が漂っていた気がしますね。

井伊直弼の最期を演じながら思ったこと

――佐野さんは歴史上の人物も数多く演じていらっしゃいます。過去を生きた実在の人物に取り組むときには、どんな心構えで臨まれるのでしょう?

佐野 その人物に対して失礼のないように演じようとしています。犯罪者を演じる場合は、被害者に対して失礼のないように気をつける。そこだけは、大事にしています。


――今年の大河ドラマ『西郷どん』では井伊直弼を演じられました。

佐野 直弼公については「安政の大獄」が圧政であったと批判されがちですよね。たしかに過ぎていたところはあったかもしれません。ただ、非情の選択をしなければ、世の中が収まらなかった上の覚悟であったのだと思います。そうした想いが葬られ封じ込められた直弼公の「この国を頼む」という想いを、桜田門外で倒幕派に首を斬られる最後の表情に込め、演じました。

――なんとも言えない表情での最期でした。

佐野 歴史というのは、どうしても勝者の視点で語られることが多いですよね。直弼公の圧政が批判されるのも、それは勝者の側からの歴史観だからでしょう。彦根に足を運んで学んだのは、彼が文武両道の非凡な人物であり、禅を極め、能楽師であり、茶人としても一期一会を旨とした広い世界観を持つ政治家だったということ。そうした人物像を、これまでの価値観の中に一石投じてみたかったんです。


『226』で青年将校を演じた時の怖さ

――歴史に封じ込められた「敗者」で言えば、応仁の乱を描いた大河ドラマ『花の乱』では、8代将軍・足利義政の弟で、後継となりながらも次期将軍の座に就けなかった足利義視を演じられましたし、映画『226』では急進派の青年将校・栗原安秀中尉を演じています。

佐野 栗原中尉は奇しくも僕と同じ松江の出身なんです。キャスティングした方はそんなことを知らずに依頼してくださったんですが、あの時はさすがに怖いというか、背筋が伸びるような思いがしましたね。あの時も、2・26事件が起きた昭和11年とは何だったのか、青年将校たちはなぜ急進的にならざるを得なかったのか、クーデターが鎮圧された無念とはどんなものだったのか、ずいぶん考えました。

“主役と脇役”はあるのか

――佐野さんの、勝者の歴史観とは違った視点を大切にする姿勢にも繋がるのかもしれませんが、これまで主役ではなく数々の名脇役を演じてこられての「バイプレーヤー論」とは何でしょうか。

佐野 そうですね……、歴史と一緒で、どんな縮尺で物事を見るかで主役も脇役も同じと言えば同じなんですよ。何が歴史の転換点だったのか、誰が時代の主役だったのかなんて、歴史の縮尺の度合いで変わってきますからね。そりゃ、若い頃は「芝居に主役も脇役もないんだ」なんて言われても「いや、あるじゃん」って思ってましたよ(笑)。でも主演であろうがエキストラであろうが、ワンカットワンカットで言えばそこに存在するという意味では同等ですよね? ただ、それが全体として、編集されて1つの見方を提示する作品になったときに、主役と脇役が生まれてくる。


「フジテレビ、もうぶち壊してやろうぜ」

――『ずっとあなたが好きだった』の冬彦さんは、主役の賀来千香子さん、布施博さんに次ぐ役どころでクレジットされていましたよね。でも、「冬彦さん現象」によって主役を喰っちゃったという思いはありませんでしたか?

佐野 いやあ、あの時はどう思ってたかな……。今だから思うのかもしれないけど、僕も30代で若かったし、もともとパンクをガンガン聴いて、ロックバンドやってるような人間ですから、乱暴なところは内側に秘めてますよ、実は(笑)。ただそれは、主役のお二人に対してってことではなくて、テレビドラマの約束事をぶっ壊してやるとか、それこそプロデューサーの貴島(誠一郎)さんと言っていたんだけど、恋愛やってるフジテレビをぶっ壊すぞ的な闘争心。「もう、ぶち壊してやろうぜ」みたいなのはあったかな(笑)。そうして、今はフジテレビで「限界団地」をやるという(笑)。


――先ほど、「冬彦さん=ゴジラ説」が唱えられましたけど、封じ込められた人物としての冬彦さんは、ある種の主役だった気もします。

佐野 振り返ればね。だから偉いとかそういうことではなくて、誰が物語を先導していくかにおいては、どの役であっても“主役”になれるということかもしれません。

憧れのバイプレーヤーは

――佐野さんは「状況劇場」を辞めた直後の頃に、ひと月ずっと小津安二郎の映画を観て過ごしたことがあるそうですね。

佐野 ひと月どころじゃないですよ。20代の終わりに、小津だけじゃなくて、成瀬巳喜男、清水宏……観られる限りね。


――佐野さんの憧れるバイプレーヤーってどなたでしょうか。

佐野 そうだなあ……、バイプレイヤーというか、尊敬する昭和の俳優さんたちだと、天本英世さん、岸田森さん、佐藤慶さん、小松方正さん、戸浦六宏さん、植木等さん……笠智衆さん、吉田輝雄さん。一番尊敬しているのは佐分利信さん。佐分利信さんはやっぱり好きですね。

――ちゃぶ台の前に座ると出てくるあの父性みたいなものですか?

佐野 『お茶漬の味』ね。佐分利信のお父さん役って何もしないでしょう(笑)。山村聰さんも好きなんですけど、ああいうどっしりした感じの構え方に、僕もちょっとは影響を受けています。まあ、僕はあんな風にできなくて、チョコチョコやってますけど、こういうふうに佐分利信、山村聰に影響を受けた俳優が60を過ぎてどんな俳優になっていくのか、僕自身、これからがたまらなく楽しみです。

さの・しろう/1955年生まれ。
山梨で生まれ、東京は練馬を経て島根県の松江市で育ち上京、75年に劇団シェイクスピア・シアターの創設に参加。80年から4年半、唐十郎主宰の「状況劇場」に所属した。86年に映画『夢みるように眠りたい』(林海象監督)主演で映画デビュー。『ぼくらの七日間戦争』などの出演を経て、92年TBS系ドラマ『ずっとあなたが好きだった』の桂田冬彦役で大ブレイクする。2018年『限界団地』で連続ドラマ初主演。俳優活動のほか、故郷松江にゆかりのあるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品の朗読を現在も続けている。



http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/165.html#c2

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 賀来千香子・佐野史郎 ずっとあなたが好きだった (TBS 1992年) 中川隆
3. 中川隆[-12959] koaQ7Jey 2019年1月16日 13:57:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

「母殺し」が象徴するもの
http://www.j-phyco.com/category1/entry70.html


混沌としていて、人の心はもちろんのこと、自分の本心さえも見えにくい現代社会。自分自身との「対話」を重視したユングの心理学は、現代を生きる私たちに何らかのヒントを与えてくれるハズです。


「ユング心理学の世界へようこそ」トップ > ユング心理学の基礎 > 「母殺し」が象徴するもの


グレート・マザーとの対決


ユング心理学の中に、
「母親殺し」というドぎつい表現が出てきます。

「えっ、ユングって少年犯罪の心理にも詳しいの?」
…と誤解してしまう方もいらっしゃるかもしれませんよね(笑)。

ユングの言う「母親殺し」は、あくまでも“たとえ”。
実際に母親を殺すわけではありません。

母親殺しが象徴しているのは、人間の「心理的な成長」、
つまり、母親殺し=母離れということになりますね。

人間が心理的に成長していくプロセスにおいて、
一人前になるためにどうしても克服しなければならないテーマを、

ユングは「母殺し」言い方で表現したのです。

このテーマは、実は、世界各国の神話や民話にも登場するエピソード。
後述しますが、日本に伝わる伝承にも、

この“母親殺し”に相当するエピソードが登場します。

それにしてもなぜ、克服すべきテーマを母親になぞらえるのか?
それは、ユングが唱えた「元型論」の

「グレードマザー=太母」が持つ意味に起因しています。
このグレートマザーは、

「無条件で愛を与え、守ってくれる」「受け入れてくれる」…といった
一般的に言われる“母親”のイメージの他に、

「束縛する」「飲み込んでしまう」
といったネガティブなイメージも内包しています。

確かに、母親って、口うるさいところがありますし、ともすれば
過干渉で子どもの可能性をつぶしてしまう存在でもありますからね(汗)

そのため、このグレートマザー=母親と対決をして、
それに勝つ、殺してしまうことが求められるというわけ。

それで初めて「一人前になれる」ということです。

日本人は“母親殺し”が難しい?


前述した通り、日本に伝わる伝承にも、
ユングが言うところの「母親殺し」のエピソードは登場しています。

最もポピュラーなのは、
素戔鳴尊(スサノオノミコト)の八岐大蛇退治。

素戔鳴尊は、八岐大蛇を退治して、
奇稲田姫(くしなだひめ)を救いました。

そして、大蛇の尾から草薙剣(三種の神器)を奪ったのです。

…と、ここまでは、
「素戔鳴尊が男として一人前になるためのエピソードなのね」

「これが、ユングの言う“母親殺し”なんだな」
と、納得しながら読めるのですが、問題はここからです。

彼は、せっかく手に入れた草薙の剣を、
姉である天照大神に献上してしまいます。

“支配者”になるために
「なくてはならないアイテム」であるにも関わらず、です!

しかも、献上した相手、天照大神は、
自分の“母親代理”とも言える存在。

つまり、母離れが完全にはできていなかったということですね(苦笑)

この伝承のエピソードも踏まえ、
ユング心理学の権威である河合隼雄先生は、

「日本の男はみんな永遠の少年だ」
とおっしゃっています。

つまり、いつまでも“母親殺し”ができない
=母離れができない=精神的に一人前になれない!

みなさんの周りにも、いわゆる“マザコン”が多いのでは(笑)?

「父親殺し」との比較


さて、母親殺しは
「成長に不可欠なプロセス」「母離れ」を意味するわけですが、

では、“父親殺し”はどのような意味があるのでしょうか。

これは、ユングよりも
ノイマン(ジョン・フォン・ノイマン。ユング派の心理学者)の

考え方を紹介したほうが分かりやすいでしょう。

ノイマンによれば、
「母殺し」と「父殺し」とでは意味が異なるのだとか。

「母殺し」は太母からの自我の自立を、一方の「父殺し」は、
古い文化を否定して新しい文化を創造する心の働きを

意味しているのだと言います。

確かに、父親や“父性”は古い慣習や伝統、
文化を象徴するものでもありますから、こういった古いものを

打ち破って新しいものを作るという意味で捉えられるのは
あながち不思議な話ではありません。

ちなみに、ユングによれば、「母親殺し」や「父親殺し」は
愛の挫折や愛の倒錯から生まれるのではないとのこと。

つまり、個人的な感情云々から生ずるエピソードではなく、
「より元型的な心のメカニズム」、

誰もが通る道として捉えられています。

ですから、

「うちの子が私に対して攻撃的なのは、育て方が悪かったからだ」

と自分を責める必要はありません。
子どもは自分自身の“内的な成長”ゆえに、必然的な傾向として

母親から自立していこうとするものなのです。
親としては、むしろ喜ぶべきことなのではないでしょうか!







▲△▽▼

西洋のおとぎ話では、王子様が「閉じこめられたお姫様を救出する」お話がよく出てきますが、そのようなテーマが古くから多くの人の心を揺さぶり、言い伝えられてきたことも、深層心理学的に解釈すると、納得できそうですね。
それは、私たちの生の「本来の課題」を表しているわけですから・・・。
http://twinbells.blogo.jp/archives/1704385.html


大学時代、児童文学の講義でグリム童話を通して人間の成長過程についてユング心理学的に学んだのですが。

その時に教授が使ったテキストが、河合隼雄先生の


昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社+α文庫)
https://www.amazon.co.jp/%E6%98%94%E8%A9%B1%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4-%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6%E3%81%A8%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%A0%E7%AB%A5%E8%A9%B1-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE-%CE%B1%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B2%B3%E5%90%88/dp/4062560313?SubscriptionId=AKIAJLD6FH2TADXIQKDQ&tag=amebablog-a2307499-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4062560313

でした。

その中で、「金の鳥」のような冒険譚で主人公が魔物に捕らわれている王女を救出し、後に結婚する、というパターンがありますが、このパターンのストーリーに登場する王女は、アニマと呼ばれる男性の深層心理の内にある理想の女性像の象徴であるとユング心理学では言われているそうです。

その一方で、「白雪姫」や「いばら姫(ペロー童話でいうところの眠れる森の美女)」に登場する、ヒロインの王女を救出する王子が、女性の深層心理の理想の男性像をアニムスと呼ぶそうです。

今年、HeleneさんのメールリーディングやThambaさんの対面リーディングセッションを受けたことで、私のツインソウルである、初恋の相手にとってのアニマが私自身であり、彼が私にとってのアニムスでもあるようでいて、私自身に自分の本質がプリンセスであることを気づかせる役割を担ったトリックスターでもある、ということがはっきりしました。

一口にツインソウルと言いますが、関係性というか、お互いの相手に対する役割だとか立ち位置は、それぞれ違うと思います。

ただ、対等のパートナーである場合が多いとは思うのですが、こういうパターンもある、という一例ではあると思います。

男性性、女性性の象徴としてのツインソウルのあり方としては、わかりやすいパターンだとは思います。

女性にとってはある意味、理想的な関係と言えるのかもしれませんね。


ただ、対等ではないので、相手と自分の気持ちに多少の温度差があるのはどうなんだろう?と思います(°д°;)
https://ameblo.jp/gotokuhime/entry-12336322098.html

ソフィア (sophia)
http://twinbells.blogo.jp/archives/1704385.html


「万学の祖」といわれた偉大な哲学者アリストテレス。
この名を聞いたことのない人はまずいないでしょう。

このアリストテレスが第一哲学と称する『形而上学』という著述があります。
そこでは、いわゆる「存在」に関するさまざまな問題が扱われているわけですが、
「形而上学(metaphysics)」という言葉は、アリストテレスの数々の著作を編集する際、「自然学関係の諸巻(physica)」の後に置かれた諸巻という意味で作られたとされる“metaphysica” がもとになっているようです。

meta は超越を意味しますので、“metaphysica” とは自然を超越したもの、「超自然学」を意味します。
自然の背後にあるもの、いわゆる“あちら”の世界についての学問。
(自然と訳される physis は、そもそも「生まれ出たもののすべて」を意味します)

深層心理学的に、ちょっと大胆に言ってしまうと、
“無意識”にあるものの探究、と言い換えることもできるのではないでしょうか。

この『形而上学』について、アリストテレスはまた、「ソフィアをあつかう学」とも称していますが、ソフィア sophia とは、ギリシア語で「知恵」を意味することを鑑みますと、ソフィアをあつかう学(第一哲学)とは、われわれの 「存在根本についての知恵に関する学」 であり、「万物を動かす原理である不動の動者、神(と呼ばれる存在)を探究する学問」であるといえます。


西洋世界において意味深い「ソフィア」の存在について、ユングはあくまでも心理学の観点から、男性の無意識に存在する、“高次のアニマ”*であると述べています。

* アニマとは男性の無意識の中に存在しているとされる、普遍的な女らしさの元型。ソフィアは第四段階の叡智のアニマ。



(ゲーテの『ファウスト』における)「永遠にして女性的なるもの」
(ソフィア)は錬金術の≪智慧≫を具現化したものとして登場する。


ソフィアは、(中略)「楽園の」あるいは「神的な」人間、すなわち
「自己」である。


転移の心理学転移の心理学
著者:C.G. ユング
販売元:みすず書房
(2000-10)


また、前回記事で書いたグノーシス主義では、『旧約聖書』で「最初の人間」とされているアダムとイブに、2人が“無知の闇”に閉じこめられていることを知らせるため、智慧の女神ソフィアがヘビを遣わしたとされています。

『旧約聖書』において、知識の木の実を食べるようそそのかした悪魔の使いとされるヘビを、グノーシス主義では礼拝の対象としていたのです。

(正統派キリスト教、異端派グノーシス主義における、“ヘビ”のこのアンビバレンスな捉え方も、今日は触れませんが、非常に意味のあることです。
ちなみにユングは、自分の心の深層に導いてくれる存在として、緑のヘビを描いています。)


私たち人間は、自我が芽生えてこそ、他者の存在のみならず、自分の“存在”をも認知できるようになります。
“無知の闇”(無意識)を抜け出してこそ、「人」となるわけです。
(赤ん坊が幼児に成長する過程を見ていると、それがよく分かります。)

闇を完全に光で満たすことはもちろん不可能ですが、そこに何があるのか、少しずつ明かりを灯していくことこそ、「ソフィアをあつかう学」につながるのだと、私には思われます。


「人間の肉体に閉じこめられて解放をまっている『霊魂』『本来的自己』『光の粒子』」
である、グノーシス主義における女神ソフィアを、ユングが解釈したように、私たちのこころの深くにある「自己」と考えると(この場合はあくまでも男性心理からの視点で、ユングは、アニマとセルフを同一視している部分があることが研究者によって指摘されている)、やはり、わたしたち人間一人ひとりが、自身の“無意識の声”を聞いていくこと、“認識(グノーシス)”すること。
そして、“無知の知(闇)”の自覚を出発点に、“ソフィア(叡智)の救済”へ努めることは、たとえそれが終わりのない道であっても、とても意味のあることなのです。

それは、以前のブログで書いた「ホントの自己実現」の生き方と同義です。


西洋のおとぎ話では、王子様が「閉じこめられたお姫様を救出する」お話がよく出てきますが、そのようなテーマが古くから多くの人の心を揺さぶり、言い伝えられてきたことも、深層心理学的に解釈すると、納得できそうですね。
それは、私たちの生の「本来の課題」を表しているわけですから・・・。


【参考文献】   
竹内 昭 『哲学案内』 梓出版社 (2004-04)
筒井 賢治 『グノーシス (講談社選書メチエ)』 講談社 (2004-10-09)
山中康裕監修 『ユング心理学 (雑学3分間ビジュアル図解シリーズ)』 PHP研究所 (2007-02)
        
http://twinbells.blogo.jp/archives/1704385.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/165.html#c3

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
20. 中川隆[-12958] koaQ7Jey 2019年1月16日 14:04:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

愛子さまの発達障害を隠蔽する皇室と、率直なベルギー王室 2017-10-02
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/72df9481351cc53443287a68f5115e5d

皇后陛下が、ファビオラ元王妃の葬儀で訪れたベルギー王室。

フィリップ王とマティルド王妃の次男(第3子)が発達障害で特別療育を受けていることは国民は無論のこと、世界中に率直に語られています。

 

左からエレオノール王女。手を繋いでいるのがガブリエル王子(11歳)

真ん中が将来のベルギー女王陛下、エリザベート王女(13歳) 

エリザベート王女が手をつないでいるのが、エマニュエル王子(8歳)で、この王子に発達障害があり、障害児専門療育を受けていらっしゃいます。

発達障害だからといって、むろんベルギー国民はそれを貶めないし

淡々と受け入れ見守っています。

世界も、ただ単なる事実として受け止めているだけで、そしる人は誰もいません。

そして日本の皇室は・・・・

「ご優秀」と情報が流され、将来は天皇陛下にとまで
持ち上げられ・・・・・そのために反発の声が愛子さまを取り囲み、
常に取り沙汰され批判を浴びる立場に追いやられています。

6歳の悠仁さまがお出来になった玉串奉奠が出来ず、順番を
守って歩くことすら出来ないお姿が国民の前にもはや露わなのに
「ご優秀」「末は東大」「留学」「愛子さま女帝論」

その嘘を正当化するために、あろうことかありもしないイジメ問題を針小棒大にでっち上げ、わずか8歳の男の子を全国民の前で皇太子は吊し上げ、可哀想にその子は転校。きっと生涯のトラウマ。
一生皇室を敬うことはないでしょう。その男の子が築く家庭の家族も。

親と周辺が寄ってたかって一人の女の子を追い詰め、
そのために、その子はしじゅう俎上に上げられ、鋭い視線を
浴びねばなりません。これは虐待なのではないでしょうか。

真相が世界に漏れた時、児童の福祉に厳しい欧米諸国が
東宮夫妻をどういう目で見るか・・・・・それは日本の評価にも
つながるでしょう。

「不敬」という一語を脳に注入され麻痺して、常識的な判断力すら
持つことを放擲した、愚かしい一群が日本にはいます。

東宮の嘘は、天皇皇后両陛下、秋篠宮両殿下をも国民に対して、強制的に嘘つきにしてしまっています。皇室への信頼を落とすばかりです。

不敬とは、東宮夫妻のことではないのですか?

そして「愛子さま女帝論」の本が出る、日本のこの虚偽に満ちた
寒々しい風景。

やはり玉串奉奠が出来ていなかった愛子さま 【拡散自由】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/7e452e923b37adfc000abe449edbc97c

後ろ向きに下がるという動作がお出来にならない。

そして非常に率直に申し上げれば、ご両親共に程度の差はあれ「ごゆっくりさん」の傾向がお有りかと存じます。

拙ブログでは、東宮はご家族で皇籍を離れられ、母子ともに穏やかに療養に専念され、全ては秋篠宮殿下にお譲りなさることを、願っています。 

Mathilde's husband King Philippe, meanwhile, had taken the couple's third child Prince Emmanuel to the Eureka school in Kessel-Lo, Leuven – a school specialised in teaching children with learning disabilities just 20 kilometres away from Brussels.

フィリップ王に付き添われ、特別学級に通われるエマニュエル王子。最初は兄王子と同じ学校に通われていたそうですが、2年前に
ご両親が、特別学級に移すことを国民に発表されたようです。

涙が滲みました。とてもあたたかで、幸せそうな写真。きれいで品のいい父子です・・・・。

遠い日本から応援しています。 

一方、姉のエリザベート女王は三ヶ国語でのスピーチという、個性。

愛子さまと同じご年齢でしょうか。

「ご優秀」で「おきれい」とはこういう女王を云います。

2014年10月 式典にて3ヶ国語でのスピーチ披露

皮肉なことにエリザベート女王が愛子さまと同じご年齢なら、フィリップ国王が皇太子と同じ54歳です。何でしょうか、この典型的対照感は?

写真左から ガブリエル王子 エリザベス王女  マチルド王妃 エレオノール王女 

フィリップ国王 エマニュエル王子  エマニュエル王子はお父さんが大好きなんですね。

秋篠宮家のように、自然な家族の絆、幸せ感が伝わって来ますね。

愛子さま中学入学式に笑顔で「楽しみにしています」(14/04/06)

愛子さま「はじがどござばず(ズズっ)鼻をすする」

記者 質問する

愛子さま「(雅子妃に)なんて、いえばいいの?」

ささやき女将雅子さま「(楽しみにしてます)」

愛子さま「だのじびにじでばず」

愛子さまの状態を悪いとは思っていません。ただ、ふさわしい療育を
お与えしないのが児童虐待だと言ってます。

それに幼女期からの替え玉説濃厚。

中等科入学。

卒業

????

中等科卒業して、高等科になりました。

   

髪の毛、抜けて。

何が何やら、誰が誰やら?

ぬぼーっとした雰囲気の、こちらは疑いもなくご本人、愛子さま。

https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/72df9481351cc53443287a68f5115e5d

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c20

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
21. 中川隆[-12957] koaQ7Jey 2019年1月16日 19:08:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

浩宮徳仁伝説
https://sites.google.com/site/dosukono/dosu-ko-no-jiken-bo/hironomiya-naruhito-densetsu

ナルちゃん・ヒロシこと、徳仁親王にまつわる伝説というか事件簿です。


■第1期−初等科入学前−■

•4歳誕生日を前に母美智子さまが「(浩宮は)食事などでも魔法みたいに自然にテーブルに出てくるものだと思いがちのようです」と語る事件

『美智子さまの気品―陛下とお子さま、そしてお孫さまと歩まれた50年』江森敬治、主婦と生活社(2008年)より

 皇太子さまの四歳の誕生日を前に皇后美智子さまは、

「この四年間、強く感じたことですが、第三者が真剣に働いている姿を見る機会に恵まれていません。たとえば、食事などでも魔法みたいに自然にテーブルに出てくるものだと思いがちのようです。それで、まだ小さい時に、手を引いて大膳で料理を作っているところをわざわざ見せに行ったこともあります」と、述べられている。

•3歳誕生日パーティーで「オサルノ カゴヤダ ホイサッサ」と歌った後、レコードのノイズ音「プツン、プツン」を口再生する事件

•交通博物館見学でパトカー模型を目にして「アッ、警視庁ダ。警視庁モッテルヨ。ボク警視庁モッテルヨッ」事件

『明星増刊』1964年5月緊急号<かわいいおもちょいナルちゃん言葉>、p141より
 昭和38年2月23日、ナルちゃんは満3歳のお誕生日を迎えられました。(中略)

美智子さまがお作りになったバースデー・ケーキの3本のロウソクを勢いよく吹き消されたナルちゃんは『おサルのかごや』を歌い始めました。

「オサルノ カゴヤダ ホイサッサ」ご一同が拍手しようと手をおかまえになったとき、とつぜん「プツン、プツン」と声を出されて、ご一同びっくり。

「ナルちゃん、いまの“プツンプツン”ってなーに」正田恵美子さんがおたずねすると、
「レコードがそういったよ」とケロリとされていました。“プツン”“プツン”という音がしたのです。

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 ことしの2月26日、鷹司平通氏がおつとめになっている交通博物館にいらしったナルちゃんは、ミニカーがずらりと並んでいる前にじーっと立っておられましたがとつぜん、

「アッ、警視庁ダ。警視庁モッテルヨ。ボク警視庁モッテルヨッ」とパトカーを指さして大喜びでした。

参考ようつべ:4歳浩宮のおしゃべり「19931231皇太子妃誕生物語5」 2:20〜


•子供が茶碗を叩いて面白がって遊ぶのはよくあることだが、徳仁の場合はお母さまに二度三度言われても、お父さまにお尻を叩かれても止めず、ついには罰として外に出されるまで茶碗叩きを止めない、異様過ぎる茶碗叩き遊び熱中事件


『浩宮さま』浜尾実著、p52〜より抜粋

 浩宮さまは、両陛下からはもちろんのこと、私からもよく叱られたものであった。

 お食事のことで両陛下が厳しかったために、お叱りをうけるのはお食事の前後が多かったようである。一般にスプーンを使って自分で食べられるようになった子供は茶碗を叩いて面白がることがある。浩宮さまもそういう時期があった。

 「イケマセン」と皇后さまがやさしく言われるのだが一度でお止めになるときとそうでないときがある。

 二度三度言われてもおききにならないときは、陛下のご出馬となる。陛下はしばしば浩宮さまのお尻を叩かれた。あるときはその茶碗叩きをお止めにならないという理由で庭にだされたこともあった。


≪Part1592-703発掘奥様によるご紹介≫

•1964年3月に皇太子殿下(当時)と美智子さま・浩宮(4)が千葉県房総半島旅行、吉田屋旅館で初めてスリッパを出されどうしてよいのかわからず固まってしまう、ごゆっくり風味事件

ソース:2007/11/07秋の皇室番組SPでの「皇太子ご一家房総旅行でのスリッパ履き替えエピソード」


•1964年10月浩宮(4)はじめての学習院幼稚園運動会、「カゼをひかれたあと」との理由で何故か一人だけござの上で寝転がる姿を披露事件

ソース:『週刊平凡』サヨナラ1964写真集あの日あの時12月10日増刊号<ボクは赤組 秋の運動会>グラビア


•5歳のみぎり(昭和40年10月上旬頃)、当時の皇太子ご一家が軽井沢静養で作家・川端康成氏の山荘を訪れ、その際浩宮は挨拶もなしにビスケットを6つ7つ立て続けに食い、そのまま「おさきに」とだけ言って去り、川端氏に「かういふ習はしがおありなのだらうか」( ゚д゚)ポカーソとせしめる事件

ソース:東京新聞昭和41年1月4日初出、『川端康成全集』に「美智子妃殿下」というタイトルで収録


•幼少時の家族ハイキング時、皇太子殿下(=今上陛下)は常にリュックの中に分厚い植物図鑑をお持ちになり興味のある植物を見つけては立ち止まって調べられるのに、一方浩宮はマイペースでどんどん歩きたいと陛下と一緒に立ち止まらなくてはならないのが面白くなく、ある時お二方は険悪な雰囲気に…それを美智子様がとりなした事件

『岳人』1997年6月号へのナルちゃん寄稿文より、参考ナレーション入りようつべ映像

五歳のとき、父に連れられて初めて、離山(はなれやま)へ登って以来、軽井沢近辺の山々を歩くのが好きになった。父は山登りの途中、たとえ花のない植物であっても、興味を抱いて足を止めおもむろにリュックサックから分厚い原色日本植物図鑑を取り出す。そのたびに、頂上に早く着きたいという私の望みは絶たれるのであった。母の回想によれば、父のたびたびの停車に業を煮やしたのか、山頂に到着したとき父と私との間には一種険悪なムードが漂っていたそうである。

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『岳人』2005年10月号 東京新聞編集局長水野和伸<山での皇太子さま 担当記者同行記>記事 p18より

足慣らしという奥多摩の棒ノ折山では、(徳仁)殿下一行のペースの速さにギブアップする記者が続出した。

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※今上陛下(当時皇太子殿下)によるゆったりハイキング理由については、重い荷物・機材を運んでいる随行員とマスコミ記者を気遣ってのことと言われている。大人になったナルちゃんがこの配慮を理解できたかについては、後掲「だらしないですね」事件からして、かなり疑わしいと言わざるを得ない。

■第2期−初等科時代−■

•小学校低学年時代、当時の東宮侍医であった緒方安雄氏のポケットに勝手に手を突っ込んで飴を奪い取る、ほとんどサル並みの振る舞いをしていた事件


元東宮侍医医学博士・緒方安雄著『妃殿下と若宮さま 東宮御所で過した日々』サンケイドラマブックス26(サンケイ新聞社出版局、昭和48年=1973年3月15日1刷発行)、p174より

 それはいつごろであったろうか?
たぶん浩宮さまが小学初年級ごろであったと思う。

 私は煙草を吸わないのでそのかわりにドロップを数個いつもポケットにいれていて、ときどきなめることにしていた。

ある日のこと、私の上衣のポケットがふくれているのに気づかれたのか、突然ポケットに手を入れて、そこにはいっているドロップをつまみ出された。

「これアメ? 食べてもいい?」

 とお聞きになる。私は躊躇した。妃殿下が正しく行っていらっしゃる宮さまの食生活を破る恐れがあるからだ。

 しかし、ついには負けて、どうぞということになり、宮さまは嬉しそうに、そしておいしそうになめていらっしゃる。


•幼少時、遊び相手だった養育係浜尾実東宮侍従の息子さんと一緒に、東宮御所で飼っていた熱帯魚を解剖してそれをそのまま放置し遊びに出かけ、父上である明仁皇太子殿下に片付けをしなかったことをこっぴどく叱られる事件


浜尾実著『ほめ方上手の親学―頭のいい子になる急所しつけ法』青春出版社プレイブックス新書(1984年)

 東宮御所である日、小さな事件がありました。

 私(=浜尾実氏)の息子は宮さまと年齢が近かったこともあって、お遊び相手としてときどき御所にうかがっていたのですが、宮さまのお部屋にある水槽から熱帯魚をとり出し、二人で解剖してしまったのです。いくつか年上の私の息子のほうが率先してやったに違いないのですが、その解剖した魚の残骸をそのままにしておいたのが殿下に見つかってしまったからたいへんです。

 そのとき宮さまは殿下から大目玉をいただいたのですが、殿下のお叱りは魚を解剖したからということでなく、魚の残骸の後片付けをしないでお庭に遊びに出かけてしまったということだったのです。

 俗にいわれる「ナルちゃん憲法」の一つに「”ながら病”はできるだけ避けること。靴を履くときなども『靴を履いたらおんもネ』といいながら靴を履くことだけに集中させること」という項目があります。

 宮さまはこのとき、涙で顔をクシャクシャにさせながら、ぞうきんで床をふいておられました。


≪Part1565-504・523発掘奥様によるご紹介≫

•1967年8月18日長野県軽井沢静養中、浜尾実東宮侍従とともに小諸市の青果市場を社会見学する当時7歳4ヶ月のナルちゃん、見学最中に桃の甘い匂いが漂い、食欲が刺激されたのか思わず指を咥える、小学校低学年とはいえお出かけの場で幼稚すぎる振る舞いでは?事件

ソース:『女性自身』1993年9月14日号<発掘!皇太子さま桃のいい匂いに思わず指が…26年前の夏休み、長野県小諸市の青果市場で可愛いハプニング>グラビア


•1967年11月30日礼宮2歳誕生日、7歳9ヶ月の徳仁が一家映像撮影中主役の弟にばかり注目が集まっているのが不満で世話をしているお母様の気を引くためか、急に顔をチャッキー表情にして大声で喚く事件

参考:YTVミヤネ屋2008/09/08よりキャプ連結画像


•叱られた徳仁が罰として夜家の外に出されるも、夜の庭についてお母さまに熱心に語り、叱られた意味を全く理解していない事件

『妃殿下と若宮さま 東宮御所で過した日々』元東宮侍医医学博士・緒方安雄 サンケイドラマブックス26(サンケイ新聞社出版局、昭和48年=1973年3月15日1刷発行)、p44より

 若宮さま方は、六歳頃までに、かなり厳しいしつけをお受けになる。お父さま殿下に、暗いお部屋に入れられたり、夜のお外に出されたことも、おありになる。しかし、お叱りになる一方、十分おかわいがりになる。この二つはしつけに欠くことのできぬ両輪である。

(中略)

 両宮さまの叱られぶりも、それぞれ面白い。

浩宮さまは、放り出された夜のお庭の素晴らしさを、夢中になって、お母さまにご報告になった。


•叱られた徳仁が罰として廊下に立たされ晒されている状態が嫌になり、無邪気に一緒にいた弟礼宮を巻き込み歌を歌ってごまかす事件

『妃殿下と若宮さま 東宮御所で過した日々』元東宮侍医医学博士・緒方安雄 サンケイドラマブックス26(サンケイ新聞社出版局、昭和48年=1973年3月15日1刷発行)、p45-46より

浜尾侍従は、この浩宮さまのお仕置きの別の光景を、次のように話している。

 浩宮さまが罰として立たされた廊下は、侍従やその他の職員が通るところで、罰せられるつらさよりも、これらの人に見られることのほうがつらかったようだ。

 そのうちに礼宮さまが、

「お兄ちゃま、なにしているの? ボクもいっしょにいてあげるよ」

 というふうに並んでお立ちになった。が、ていさいの悪いことには変わりがない。そこで、浩宮さまは、一計を思いつかれた。それは歌を歌うことであった。歌っていれば罰で立たされているとは誰も思わないであろうというわけか。

ともあれ浩宮さまは、大きな声で歌いはじめた。礼宮さまは、とつぜん歌いはじめたお兄ちゃまの口もとをポカンと見ておられたが、ご自分は何をなすべきかを、すぐに了解され決意したようで、ご自分もたどたどしく歌いはじめになった。まさに二重唱というべきである。

 このご様子をご覧になった妃殿下は、

「もう叱られたことを忘れてしまったでしょうね」

 と、思わずほほえまれ、やがて、ご自分も楽しそうに合唱に加わられた。
 内舎人があまりやかましく、お叱りしたとき、浩宮さまは私のいた第二内廷の部屋へはいっていらして、

「ああ、ボクは内舎人になりたいよ。叱ってばかりいればいいんだもの」と、心からではなく、なかばからかう気持ちで嘆いていらしたことがあった。そのときお兄さまといっしょだった礼宮さまも、
「そうだ、そうだ」と、協同作戦をとっていらした。


•学習院初等科入学した頃の授業参観にて、教科書を読むだけのことにも四苦八苦、母上美智子さまの顔色を変えさせる事件

『週刊朝日』1980年10月24日号、p37より やんごとなき方々の御日常

 浩宮様が学習院初等科へ入学されたころの話。

たまたま美智子妃も参加された授業参観の日、なんのはずみか宮様に順番が当たり、教科書を読まれるはめになった。しかし、なかなかすんなりと読めず、四苦八苦される彼を見て、だんだん美智子妃の顔色が変っていった。
 とどめは先生の、

「お家でもう少し勉強してきなさい」

の一言であった。美智子妃は、がっくりと首うなだれ、すごすごと帰途につかれたのである。


•昭和45年(1970年)4月、浩宮と礼宮兄弟二人だけで大阪万博を見学することに。浩宮はこの大阪万博で「一回だけ」の約束だったアトラクションに「もう一度乗りたい」と言い張り、同行した養育係の浜尾実侍従がそれを許してしまう事件が発生。兄弟が行く先々は当然警備で閉切り、待たされたり利用を制限された一般人もいた。浜尾実氏が後年TVインタビュー(1972年4月放映「ぼくら一年生」)で笑いながらそのエピソードを披露するが、当時そのあおりを食らって待たされた人々はたまったものではない。


当時画像:1970年4月 同上大阪万博を兄弟二人だけで見学する浩宮と礼宮(赤服コンパニオンの後列左端は浜尾実侍従)

浩宮様と浜尾実さん ttp://jp.youtube.com/watch?v=SIl3AIvPELw
&youtube(http://jp.youtube.com/watch?v=SIl3AIvPELw)

1972年4月15日放送「ぼくら一年生」引用映像あり、5分15秒あたりから
女性司会:昭和45年大阪で開かれた万博。

浜尾実 :いろいろなところをお供しておりますとね、帰ってから、浜尾さんああいうものがあったね、あれはよかったねとか、面白かったねと、いろいろおっしゃってくださるんですけども、実は私は見てるようなふりをして全然見てない(笑)宮さまのことが心配で、怪我をなさらないだろうか、転ばれないだろうか、少し寒くて風邪ひかれないだろうかとかいうことばかり気にしておりますのでね。ほとんど憶えてないんです。

女性司会:大変ですねえ。

浜尾実 :(笑)

女性司会:本当あの、浩宮さまは本当に子供らしいというか、嬉しそうですね。なんかこれあの待望の(浩宮がボートアトラクションに乗っている映像について)、2回お乗りになられたんでしょ。

浜尾実 :一度というお約束だったんだけども、「浜尾さんもう1回いいでしょ」とおっしゃって2回お乗りになったんですね。

女性司会:それであんな嬉しそうな。

浜尾実 :これは番外なんです(笑)

•大阪万博見学で、偶々一緒になった小学生の女の子に執着し、当人はその場から去ってしまったのに「あの子がいないといやだ」と探し回らせ周囲を困らせる事件

ニュース速報+板より【皇室】 眞子さまと佳子さま、卒業式★2

802 名無しさん@十周年 sage 2010/03/22(月) 22:12:30 ID:gdgyskiR0
>>784
うちの叔母は大阪万博の時に浩宮様と一緒に自動車に乗るイベントで選ばれたんだ
でも派手がましくて拒んだら、浩宮様が絶対この子でないと嫌だっておっしゃられて、
場内放送で探されて強制的に乗せられたんだよ
その話し聞かされてそこまで執着するって意外だと思った。


•大阪万博にて取材カメラの前で「シェー」をしてみせる事件

•一家で浜名湖静養の折り、養殖ウナギを見学した浩宮は自分では手を出さず、浜尾実東宮侍従に「つかんでみたら」と言う、自分が嫌なことを他人である大人に命じてやらせようとする臆病ぶり事件

『週刊現代』2009/1/24号<再生&激変'09年の論点/雅子妃には「離婚」という選択肢もありうる>当時浜名湖同行取材していた渡辺みどり記事より引用

 皇太子と秋篠宮の性格の違いを物語るエピソードで思い出されるのが昭和40年代にご家族で浜名湖に行かれたときのことです。養殖されているウナギの桶を覗きこんでいた浩宮は、自分では手を出さず、東宮侍従の浜尾実さんに「つかんでみたら」とおっしゃった。一方の礼宮は桶にひょいと手を入れ、ウナギをつかんで振り回したんです。いま皇室のなかで、秋篠宮の存在感がだんだんと大きくなっているように感じられますが、あのときのお二人の様子は、鮮明な記憶として残っています。


•学習院短大OG奥様書き込み“「ナルイニさんは授業中に前席の男の子のうなじを舐めたらしい。」という噂を聞いたこともありました。”&color(#004a95,#99FF00){2ch書き込み}

■第3期−中等科時代−■

•学習院中等科に進学した浩宮、成績表を持ち帰り「おたたさま、お点が赤座布団の上に乗っかっているよ」と母美智子さまに報告。成績の悪さを赤いアンダーラインで注意書きされるほどに勉強は不出来だった事件。


•3歳の妹紀宮について12歳浩宮が言葉を求められ、「サーヤはキラキラで一生懸命ね」と年齢の割に幼すぎる発言、取材記者が何とかフォローしてあげる事件&color(#004a95,#99FF00){2ch書き込み}


Part1555-918 可愛い奥様 sage 2009/05/21(木) 16:02:50 ID:+Iwr5zMqO

サーヤの三歳(白いワンピース着てスキップしてる写真付)のお誕生日の記事に、兄の浩宮さまの妹評が載っていた。

“サーヤはキラキラで一生懸命ね”

私が今でもその記事を覚えているのは、その後に続く記者の方の〆の文章のせい。
“意味はわからないが何となくわかる表現。”って書いてあった。

当時浩宮さまは12歳6年生なのに、妹のこと聞かれた答えが記者さんに目一杯フォローされてるって、子ども心にもびっくりした。
何となく雅子さんと話が合うわけだよね。

Part1556-20 可愛い奥様 sage 2009/05/21(木) 19:00:02 ID:QVqmm75/0
>>前スレ918
>サーヤの三歳(白いワンピース着てスキップしてる写真付)のお誕生日の記事に、兄の浩宮さまの妹評が載っていた。
>“サーヤはキラキラで一生懸命ね”

>当時浩宮さまは12歳6年生なのに

サーヤ3歳の誕生日なら1972年の4月18日。
ナルさんは1960年2月の早生まれだから12歳中1だよ。


•一家で雪道を歩いている折、すぐ隣で父上皇太子殿下が滑って転んだのにぼーっとしたまま何もしない事件

ソース:1972年冬 雪道で滑って転んだ父上に手を差し伸べる礼宮と、見ているだけの浩宮

•中学生のとき、知人に送った年賀状で「賀正」の賀の字の貝が横一本足りなかったのが、はっきりTV画面に映った事件

•中等科時代、数学の家庭教師の授業を受けていた折、問題の答を間違えることが嫌でなかなか解答を示そうとしなかった事件

浩宮の学習院高等科時代の主管=担任であった小坂部元秀著『浩宮の感情教育』飛鳥新社(2001年)、p21-22より

 ――高等科の数学科の佐藤茂人教諭が、中等科時代の浩宮の家庭教師をつとめていたことがある。その時の話で、浩宮は自信がないと練習問題の解答をなかなか示そうとしなかったとか。数学の誤答を提出することを、嘘をつくことと同義に考えていたという。中等科の彼には「誤答」→「嘘をつくこと」=「いけないこと」という、常識では考えられない思考の枠がはめられていたといえよう。

•中等科時代、東宮御所で家庭教師の授業を受けているときに「窓を少し開けた方がいいね」と言われて窓を全開、「もう少し閉めて」と言われて今度は全部ぴたっと閉めてしまう、窓の開け閉め加減が理解できない事件


小坂部元秀著『浩宮の感情教育』飛鳥新社(2001年)、p73-73より

 この学年の相(原文ママ)主管の佐藤茂人教諭が、浩宮の中等科時代に数学の家庭教師を引き受けていたことは先に述べた。

冬の東宮御所での勉強中、部屋の暖房が利きすぎているので

「窓をすこしあけた方がいいね」と言うと、全部開放し、しばらくして
「もうすこし閉めて」と言うと、ぴたっと閉めてしまった。

 ――「浩宮には、窓をちょうどよく開けたり閉めたりするってことが出来ないんだ。自分で窓をしめたりあけたりする習慣が、小さい時からなかったんだろうね」と佐藤さんは言い「だから家庭教師に行った時には、なるたけ自分の部屋の窓のあけしめをやらせたんですよ」と語ってくれた。

 きちんと決められたことはできるが、きわめて日常的な、小さい時からわれわれが日々の生活の中で自然に身につけるもの、生活の知恵ともいえないような文字通り「瑣事」にうとい点が浩宮にあるのは、やはり否めなかった。

 美智子妃の母親としての細かい心づかいがあったとしても、あの東宮御所で多くの側仕えの人々に付き添われた生活では、そこまではカバーできなかったということだろう。


•中等科3年生当時の徳仁を美智子さまが「浩宮の人柄のなかに、わたくしでも習いたいような美しいものを見いだしています」と評する、反抗期には全く無縁っぽい「PURE」風味で寧ろ心配すべきじゃないの?事件

河原敏明著『美智子さまのおことば 愛の喜び・苦悩の日々』講談社文庫(1997年)、p112より

客観的に満足かということではなく、わたくしの感じで言えば、浩宮の人柄のなかに、わたくしでも習いたいような美しいものを見いだしています。浩宮を大切に思っているとしか申し上げようがございません。(昭和49年10月お誕生日記者会見)

•中等科修学旅行の宿泊先部屋で枕投げが始まり、同級生の皆は空気を読んで浩宮には当たらないように投げ合っていたのだが、それが「おもしろくなかった(原文ママ)」浩宮はある男子生徒の後頭部を枕で力任せに叩き、その生徒は思わず反撃、ナル顔面に枕がヒットし大量鼻血事件

≪週刊女性2010年3月30日号 学習院“深イイ”話7連発 その3 修学旅行の枕投げの夜に起こった…皇太子さま流血事件≫

■第4期−高等科時代−■

•1976年、知的障害児童施設「ねむの木学園」の宮城まり子園長がご招待を受け園児の絵画作品を持参し東宮御所参内、皆夢中になって鑑賞しているのを面白く思わなかったのか「わたくしのは?」と当時高等科の浩宮が空気読めない発言、それに間髪入れず「あなたのは、1枚残らずちゃんっと、しまってございますよ」とKY徳仁のあしらい方を心得すぎな母美智子さま、絵画で注目を集める知的障害児童の存在に次々代天皇予定者が嫉妬事件

2009年4月12日皇室日記スペシャル「両陛下がはぐくまれたねむの木の絆」より


久能靖:どういうきっかけだったんですか、最初に(美智子さまと)お会いになったのは?

宮城まり子:最初? きちっとお会いしたのは、絵を見たいからって言うので、東宮へ絵を持っていったんですよね。で、見ていただいたとき、皆夢中になっちゃったんですよ。

ったら今の皇太子が、ちょっと嫉妬心かな、「わたくしのは?」とお聞きになったの。ったら皇后さまがね、間髪入れずに「あなたのは、1枚残らずちゃんっと、しまってございますよ」と仰ったの。

そしたらニコーッと笑って、「そう、ありがとう」って言われたときの、その間髪入れずのお母さまの答っていうのは、これは素敵なお母さんだなーって思いました。
http://www.youtube.com/watch?v=r9nybvlRBss
&youtube(http://www.youtube.com/watch?v=r9nybvlRBss)

※当事件は『女性自身』2009/4/21号 p52<ご成婚50年愛の秘話「皇后さまは“日本中の子どものお母さま”」>宮城まり子氏記事でも触れられ、1976年の出来事と判明している。浩宮が誕生日を迎え新年度に入っていれば、16歳高等科2年生である。

•まだ学生の時、テレビに映って本人が「子供の頃に、僕の家には国道が走っているって言ったら、級友に驚かれまして...(笑)」と無邪気に言っていた事件

•学習院時代の皇太子は人の噂になるほどの存在感がなかったらしい。担任の先生も「身分がなければ記憶に残らない生徒だった」といわれてる事件

•学生時代に教室の掃除をした時に、皇太子の机を動かそうとして机が倒れ中から寒い点数の答案用紙(本来なら親に見せるもの)がいくつも出てきて、皇太子は「エヘヘヘヘ…」と笑ってごまかした事件

•同級生がトイレでタバコを吸ってる間見張りに立たされてた、断るでもなく注意するでもなくただただ利用される事件


『週刊現代』1993年1月23日号 p25より引用

 一方、皇太子は学習院高等科3年のころ、殿下の悪友仲間が学校のトイレの中でタバコを吸った。そのとき、たまたま居合わせた殿下に、「先生が通りかかったら教えてくれ」と、廊下での見張りを頼んだ。頼まれた殿下は抵抗するでもなく、
「あ、そう」

 と数分間の見張り役をお引き受けになったそうです。


•テニスをしてる女子生徒に玉拾いを命令されてた事件

•学生時代、学食のカレーを肉多めに盛ってもらおうとして、厨房担当の女性にたしなめられた事件

小坂部元秀著『浩宮の感情教育』飛鳥新社(2001年)、p67より

 ごく稀にではあったが、浩宮も高等科食堂を利用することがあった。浩宮自身が食堂の昼食に興味を持ったためかもしれない。

カレーライスを注文して、食堂の賄いの女性に

「お肉をたくさん入れてください」と頼んだが「高等科のカレーライスは安いでしょう、だからお肉はあまり入っていないのよ」と言われて
「そうですか」と納得していた。そんなこともあった。

 生徒は普通、食堂のカレーライスがどの程度のものか、よく知っていたから「お肉をたくさん……」などという場違いな注文を口にすることもなかったが、そんなところにも世間知らずという意味での浩宮らしさが覗いていた。

•学習院男子高等科二年時、第二学国語として選択履修していたフランス語を、恐らく浩宮の頭脳スペックでは授業についていけなくなって放棄、それについて担任が尋ねると「ええ、いろいろ事情がありまして……」と誤魔化す事件

小坂部元秀著『浩宮の感情教育』飛鳥新社(2001年)、p23-25より

 このあと(補足:当時の皇太子殿下と美智子妃殿下揃っての父母面談で話題が変わり)美智子妃は

「二年になってフランス語をやめてしまいましたが、苦手と申しましょうか、ちょっと不安があったようなのです」

と、浩宮のフランス語の選択放棄について触れた。浩宮は高等科一年で第二外国語として選択履修していたフランス語をに、二年になるに当たって放棄していた。
私がこの件について、五月はじめのホームルームのあと、浩宮に雑談風に
「フランス語をやめたんだね」と訊くと、

浩宮は少し眩しそうな目つきをして

「ええ、いろいろ事情がありまして……」と曖昧な応え方をした。私はそれ以上深く追求しようとは思わなかった。


 高等科では一年次に必修の英語以外に第二外国語として、ドイツ語、フランス語のいずれかを選択必修できるコースがある。しかし第二外国語は、二年、三年と進むにつれて負担が大きくなり、三年では一日に少なくとも一時間、ときには二時間連続の曜日もあって、その日は朝から五十分授業が八時限で夕方五時に終了という具合である。そのため二年になる段階で諦めて選択放棄する生徒があった。

 浩宮もおそらく、その学習負担増と、そこからくる全般的な成績の低下を懸念したのではないか。学習院大学への内部進学推薦基準は、高等科の一、二、三年の全教科平均点が各学年六十点以上というハードルが設けられていた。フランス語の担当教員にきいたところでも、フランス語の成績は他教科に比べて低かったようだ。

「ご本人も“いろいろと事情がありまして……”と、言っておられました」

「そうですか」

 両殿下は顔を見合せ

「将来のことを考えて、英語の他にフランス語も馴れておいた(原文ママ)方がよろしいかと思い、高等科に進むときに薦めたのですけれど……」

 と美智子妃はやや残念そうな表情であった。フランス語は、やはり海外からの国賓などを念頭に置いての将来的な配慮の一環だったのだ、と私は納得した。

 フランス語の選択放棄について美智子妃がとくに話題としたのは、浩宮が私に訊かれたことをご両親との間で話したためかもしれない。いわば浩宮の「いろいろと事情がありまして……」という発言についての微妙なフォローだったのかもしれない。


•1978年3月31日午後、東宮御所で開かれた浩宮高等科・礼宮初等科卒業を祝う会にて、礼宮がピアノ曲、浩宮がバイオリンを演奏し、その後に浩宮が当時の大ヒット曲だった石川さゆり「津軽海峡冬景色」をピアノ伴奏付きで2番まで独唱した事件

■第5期−成人後、婚約前−■

•1980年2月23日二十歳になった浩宮、成年式でいつもより早い7時頃に起きなければならないため、弟礼宮・妹紀宮・東宮職員らから借りた全部で5つの目覚まし時計で“万全の体制”をとらなければならないほどに早起きが苦手事件


•大学時代にコンパに参加。会費はいいですからと遠慮した仲間に向かって「いや、ちゃんとカンパしますよ」と浩宮が差し出したのは500円ぽっきり、お友達はジョークか本気か悩んだらしい事件&color(#004a95,#99FF00){2ch書き込み}


•大学史学科での飲み会で酔っ払い「院歌を歌いましょう!」と一人盛り上がる事件&color(#004a95,#99FF00){2ch書き込み}


Part1755-156 可愛い奥様 sage 2010/03/16(火) 09:05:50 ID:UTf05b8U0

知り合いに学習院大学文学部史学科で皇太子の同級生がいたんて、また聞きで聞いた
浩宮エピです。

史学科で泊まりの旅行があったときに、当時の浩宮が酔っ払っちゃって、

「みなさん!さあ、院歌を歌いましょう!」って一人で盛り上がったんだって。
当時から空気読めなかったのかも…

それで、みんなが「殿下、うるさいからもう寝なよ」と部屋に連れて行ったそうな。


•大学時代、飲み会で急性アルコール中毒に陥った友人を「じゃ、後はよろしく」とほかの友人に世話を押し付けその場を立ち去った事件

•大学オーケストラ合宿にて団員たちが酒盛り、別室にいた徳仁が楽しげな声が聞こえてくるのでそれに気付き宿の屋根を伝って窓から闖入押しかけ参加、飲み会終了後に廊下から戻ってくる徳仁を目にした見張り番役侍従たちは吃驚仰天事件≪週刊現代2009/10/10号≫


•1983-1985年イギリス留学中に日本人旅行者に「うっそー!」と言われたが、 「うっそー!」の本義がわからず事件

ソース:徳仁親王著『テムズとともに 英国の二年間』学習院教養新書7


•御成婚のおりに皇太子殿下の御学友(多分英国人)が テレビで学生時代の殿下のゲーム好き(マイコン)について語っていた事件

•イギリス留学時、現地のディスコ(?)に逝ったらファッションチェック(懐)に引っ掛かり(Gパン履いててダメだったんだよね)、入れてもらえなかった事件

•イギリス留学時代に生まれて初めてコインランドリーを使うことになり、洗濯物を詰め入れすぎて(恐らくこれも入れ過ぎた)洗剤の泡が洗濯機からあふれ出す事件

『女性自身』1993年3月18日号p49より、徳仁親王著『テムズとともに―英国の二年間』(学習院創立125周年企画の学習院叢書、非売品)の孫引き箇所

私は手順どおりに機械の中に洗濯物を入れ、洗剤を注ぎ、お金を入れた。四十分ほどで出来上がると聞いていたので、四十分後に再び地下のローンドリー(孫引き原文ママ)に行ってみた。すると、あたりは泡だらけである。よく見ると泡は明らかに私が使用した洗濯機から流出している。そばにはあきれ顔の一人の学生がいた。

「これは、君のか。泡があふれているよ」と彼は言った。洗濯物の詰め過ぎであった。

•(もちろん日本の皇太子であることは店員は知らなくて)しかし懲りずに2度目はわざわざ違うディスコを選び入り込んだ事件

•留学中の寮にブルック・シールズと柏原芳恵ちゃんのシールを張る事件

•1984年春、私的にパリ・ジュネーブ・南仏そしてイタリアベニスを旅行、カメラ持参で写真を撮りまくり、時には手持ちフィルムを使い果たしてしまい現地一等書記官に閉まっていたカメラ屋で追加フィルムを買わせる事件

『フライデー』1984年11月23日創刊号<『フライデー』にも投稿していただきたい殿下の「必撮」ポーズ>記事
p17より引用

 今春、殿下は学位論文完成のための研修旅行として、パリ、ジュネーブ、南仏、イタリアなどを訪問されたが、古都ベニスでの“必撮”ぶりは、ことのほかだったという。この旅行、殿下ご自身がプランを立てた私的なものであったが、それはそれ、ローマからは堀駐イタリア大使が、ミラノからは田辺総領事が、という具合に案内人が駆けつけた。・・中略・・夕方には小松一等書記官が、すでにクローズになったカメラ屋で、追加フィルムの購入を頼み込んだほど。このご旅行で、殿下はフィルム200本ほどお撮りになったというから、プロ顔負けの撮影量だろう。

•1985年2月22日イギリス留学中の報告を兼ねた25歳誕生日発表記者会見にて理想のお妃像を聞かれ、「ティファニーであれやこれやと買物する人では困ります」と、特定メーカーを名指ししてネガティブ発言事件【テファニー】

•1985年秋イギリス留学からの帰国した折の会見にて「英国王室の警備を見て感じるが、日本の警備は過剰警備との印象を受ける。人数も多く目立ちすぎる」警備が厳しいのと自由がないのを指摘事件

•軽井沢静養で弟礼宮とテニス、その折にどうやって入手したか不明だが1986年7月23日英国アンドリュー王子&セーラ妃結婚記念Tシャツを着て登場、そのまま平気でTV撮影取材も受けてしまう事件

1986年8月7日 軽井沢町千ヶ滝テニスコートでテニスを楽しまれる浩宮と礼宮、浩宮の着ているTシャツは英アンドリュー王子とセーラ妃との結婚記念顔写真入り
1986年8月 カラー映像からの兄弟の軽井沢静養テニス姿、徳仁Tシャツは青色でした

同上英国アンドリュー王子とセーラ妃結婚記念Tシャツ着用姿が、松崎敏弥著『浩宮さまのとっておき会話』表紙に

•浩宮と小和田雅子が全く同じ『FOCUS』1986/10/17号に掲載され、その発売の翌週スペイン・エレナ王女レセプションパーティーで二人が出会う、偶然にしてはあまりに出来すぎな「運命の出会い」事件

•1986年9月18日スペイン王室エレナ王女歓迎レセプションの挨拶で小和田雅子に決め顔上目遣いで見上げられ一目惚れし、後に7年越しの初恋を実らす事件(本当は初恋は別の人)

•エレナ王女パーティの直ぐ翌日、柏原芳恵のコンサートに行かれたとき東宮御所に咲く、エリザベス女王が紀宮に贈った特別品種の薔薇を持参して行った事件

参考画像:1986年10月19日 雅子に出会ったエレナ王女パーティーの翌日、新宿区厚生年金会館で開かれた歌手・柏原芳恵のデビュー7周年リサイタルにバラの花を持参して駆けつけた浩宮当時26歳

•1987年4月25日高円宮邸での夕食会に招かれ、同じく招待されていた小和田雅子とツーショットに、兄のように慕っていた高円宮が齎した後年のgdgd状態につながる大きなきっかけ事件

『美智子さまから雅子さまへ プリンセスへの道』河原敏明、ネスコ(1993年)
p65-66より引用

入省して三週間目の四月二十五日に、雅子さまは高円宮邸に一人招かれる。高円宮ご夫妻と浩宮、雅子さまの四人だけだった。英国人カップルも招かれていたが、「都合で欠席」とされた。

 お二人は、高円宮夫妻とともに会食した。浩宮は、同年三月に訪問したネパール、ブータン、インドのアルバムを用意していた。写真は浩宮がご自分で撮ったものである。

・・中略・・

話ははずみ、たった四人のホームパーティは、数時間にもおよんだ。雅子さまがその日帰宅したのは、夜遅くなってからだった。

•1988年5月第7回俊友会定期演奏会にてビオラソロを担当(ホルツバウアー作曲、ヴィオラとコントラバスのための協奏曲)、開演前に挨拶した礼宮殿下が「…その…ヴィオラのソロがいささか技量不足ではないかと思って(会場笑)、あの…多々お聴きづらいところもあるかと思いますが(会場爆笑)、どうぞ皆さまあの…がまんして、最後までゆっくりお楽しみいただければ、と思っております」、弟に謙遜の代弁をさせたのかと思いきや本当に物凄いびよらソロだった事件

•祖父である昭和帝崩御のその翌日、様々な儀式が執り行われる中で浩宮の表情は平然としていて歩き方も胸を張ったツッタカター事件

•昭和帝崩御後、ご一家で陵墓について話し合ってた時ただ一人「それでは先に失礼します」と引き上げた事件。滅多に人を非難する事が無かったという実妹・紀宮から「(お兄様は)無責任ですよ」となじられたとも言われている。【あとよろ】

•榊原郁恵もお好きであったらしい事件

•大場久美子もお好きであったらしい、要するにボインちゃん好み事件

•報道関係者や取り巻きの中に自分好みの美人を発見すると「お写真一枚よろしいですか。あんまりお美しいものですから」と見境なしにナンパしてた事件

•しかも外国でも同じことをして、スウェーデンの美人女性記者に写真をねだり、スウェーデンの新聞に「日本の皇子は○○嬢のハートを射止めることができるか?」とからかい記事を書かれ国境を越えて馬鹿にされちゃったよ事件

•ブルックシールズを皇居に招待事件

参考画像:1990年10月25日 来日中だった女優ブルック・シールズを浩宮が宮内庁を通じて私的に招いたという記事(フォーカス平成2年11月9日号)

•趣味の登山ではウィスキー持参でお楽しみが専ら、また重い機材を運んで登山に同行する取材記者に向かって「だらしないですね」と荷物を持つ必要が無い自分の立場をすっかり忘れ軽口を叩く事件

•1992年常念岳登山した折、山小屋「常念小屋」にて徳仁が出発の際、控えていた侍従たちが駆け寄り、スリッパを脱ぎ散らかしたのを見て、「ウチの連中はお行儀が悪くて困りますね」と苦笑、「山田さん(=常念小屋主人)、二人でスリッパをそろえましょう」と言い、侍従があわてて手伝おうとすると「いいよ。君たちはそこにいなさい」と制する、スリッパを揃えるのはいいことだが山小屋主人にいちいち部下の不始末を告げて手伝わせるのはちょいといかがなものか、脱ぎ散らかした当人に片付けさせるのが筋では?事件≪週刊現代2009/10/10号≫

■第6期−婚約・結婚後−■

•婚約記者会見にて、雅子が「その(プロポーズ受け入れを)考えている過程で殿下からは心を打つような言葉をいくつかいただきました。そのひとつは、これは(1992年)11月の後半だったと思いますけれども、私に対して、『皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』というふうにおっしゃってくださいました」とのたまったことで、本当に徳仁がそんなことを口走ったかどうかも不明な台詞を、全世界に向けて言質としてとられてしまう事件

http://www.youtube.com/watch?v=V_4dzPPspME
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•婚約記者会見にて「皇后美智子さまが嫁がれた際様々な苦労があったと聞きますが…」という記者質問に対して、「皇后陛下(=自分の母親)からはそのような(苦労)話は一切うかがっておりません。私が拝見しておりまして、いつも明るく楽しい方ですので、ちょっと私にはそのようなこと(=入内後のたいへんな苦労)があったと言われても、ちょっとピンとこないところがあるわけなんです」と回答、当時はめでたい席で過去の母親苦労話に言及するのを回避したかと思いきや、マジで母親が見えないところで努力し苦労してきたことを長男の癖に理解できてないんじゃないの?事件
http://www.youtube.com/watch?v=MFcmObfKyhs
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•結婚の儀を終え宮中装束で写真撮影、これまでの成婚時宮中装束写真と比較すると、徳仁の袴下赤色部分がほとんど隠れてる、秘密足袋疑惑事件【秘密靴】

•結婚の儀を終え洋正装で写真撮影、雅子の広がったスカートの前裾横に立ち、低身長隠しで真横に並ばず若干前に出ていることがバレバレ事件

•結婚パレード後、雅子と立ち位置が逆になる、早速打ち合わせがgdgd息が合わない事件

•結婚早々雅子はベッドをともにしてくれず、朝一緒に起きることもしないので、朝食の席では雅子が現れるのをじっと待ち続ける事件

•まだお子が出来る前、皇太子がパーティーかなんかの席で 「 ボ ク は 元 気 で す 」発言事件

•コウノトリとオーケストラのジョーク続く事件
http://news.kyodo.co.jp/kyodonews/2001/masako/rightmenue/goroku.html

•雅男のイヤリングを拾ってあげた事件

現場画像:1993年10月9日 岩手県行啓で特別養護老人ホーム視察、雅子が落としたイヤリングを拾う皇太子

•お客様にお茶をだす時の茶托を廃止する事件


『週刊文春』2001年12月13号<総力特集雅子妃ご出産 初めて明かされるとっておきの十大秘話>記事 p50より

【茶托を出さない理由】乃万暢敏(のまのぶとし)さん

 殿下は子供の頃から、自分に厳しく人に優しいという方でした。そして気配りを重要視される方です。たとえば、御所では、ある時からお客様にお茶をだす時の茶托をやめました。漆塗りの立派な茶托が、熱くなった湯のみの糸底にぴったりと吸い付いて持ち上がってしまうことがありますよね。その茶托が落ちて大きな音を立てると、タダでさえ慣れない御所で緊張されているお客様が、痛々しいほど緊張される。だったら茶托はやめて、くつろいでお茶をどうぞ、という気配りなのです。


•雅男が妊娠、その定期健診に100%同行し仕事ちゃんとしてるの?事件
まとめ画像:2001年 雅子妊娠中、皇太子が全検診に付き添った記録一覧

■第7期−愛子ちゃん誕生後−■

•内親王誕生後毎日宮内庁病院に通った事件(異例)

•夫婦で我が子愛子命名事件(異例)

•愛子誕生前は子供ができないことについて「コウノトリのご機嫌に任せて」とごまかし続けていたくせに、2002年4月2日愛子誕生についての夫妻会見で「地球上に人類が誕生してからこの方,絶えることもなく受け継がれているこの命の営みの流れの中に,今私たちが入ったということ,そういうことに新たな感動を覚えました」自分たち夫婦が長い間小梨だったことを忘れたかのような配慮なし発言事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}

•アイボと雅子に傘をさしてあげた事件

•平成15年(2003年)元旦発表ご一家画像で、床に大量の玩具をぶちまけて愛子を遊ばせ、雅子と床にぺったんと乙女座りした徳仁があやしている姿が全国配信されてしまう事件

•「お父様」でなく「パパ」と呼ばせる事件【うずらちゃん】【愛ちゃんパパ】
参考:「あそこに行ったらうみへびがいるわね、おとうさま」東宮家とは真逆の子育てをなさっていることがよく分かる秋篠宮家ようつべ映像

•アイボ抱っこしまくりついでに一般人の子供も抱っこしまくり事件

参考画像:『女性自身』6/24号<皇太子ご一家・公園での「おふれあい」全会話!「愛ちゃん」とどんなお話、したのかな?>モノクログラビア記事

•神宮外苑でのアイボ公園デビュー散歩の時、昼間から売店で酒を買って飲んでた事件

•映画試写会で来日した豊乳女優アンジェリーナ・ジョリーの乳に見とれ、その谷間ジロジロ長時間凝視光景をテレビで放映される事件

参考画像:2003年9月2日 同上「トゥームレイダー2」チャリティー試写会にて、アンジェリーナ・ジョリーと握手するのに顔でなく胸元に視線がいってる皇太子


•嫁雅子が娘愛子を連れて軽井沢篭城中(2004年3月25日〜4月26日)、4月24日第15回全国「みどりの愛護」のつどいで国営吉野ヶ里歴史公園内を独りぼっち視察、その式典中に涙を流して泣く事件&color(#004a95,#99FF00){2ch書き込み}

•2004年雅子軽井沢篭城中、両陛下・秋篠宮両殿下・紀宮殿下と皇居で会食後、母上皇后陛下の手を取って涙を流す事件

ソース:『週刊新潮』2005年5月4日号<雅子さま深夜の帰宅事件と皇太子殿下が御所で泣いた夜>、徳島新聞2009年2月27日<共同通信社社会部長・宮城孝治氏講演 平成皇室の光と陰『公あっての私』考え方の違い 両陛下ら苦悩>記事に『フライデー』2009年9月25日号でも蒸し返される。

■第8期−人格否定発言、その後−■

•平成16年(2004年)5月10日デンマーク・ポルトガル・スペイン訪問前記者会見=人格否定会見、会見終わりに「人格否定」とはどういうことかと記者から尋ねられ、「外国訪問できないことを含めて、雅子も私もいろいろ悩んだ」発言事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}

•泥酔して「もう、離婚したい…」とつぶやいた疑惑?事件&color(#004a95,#99FF00){2ch書き込み}

•平成17年(2005年)歌会始お題「歩み」にて、「頂きにたどる尾根道ふりかへりわがかさね来し歩み思へり」もうじきボクチン天皇だ〜とバカ丸出し且つ不吉不敬極まりない歌を詠んだ事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}

•雅子が長野県スペシャル・オリンピックSOドタキャンした理由を尋ねたオバちゃんに対して、「(直前の奥志賀)スキーで疲れたから」発言事件

•2005年2月21日収録・45歳誕生日会見に嫁祖母でありチッソ江頭豊の妻である江頭寿々子をフルネームで呼び、ドロシー・ロー・ノルト女史の詩を持ち出してアイボを笑うなと無言で恫喝する事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}

•2005年愛知万博視察のヨルダン館にて「死海」の水のプールを見学。阪神淡路大震災を尻目に強行した1995年の同国訪問に触れ、案内役の関係者に「阪神大震災が起こり途中で日本に戻ったため、死海は見られなかったので、また行きたいです」と発言事件

•雅子が宮中祭祀に参加しなくなったことを心配した職員が皇太子にこのままでいいのかと尋ねたところ、皇太子は「参加しなくていいよ」と返事、その職員は「そう言われちゃったらしょうがないよ」と周囲に漏らすしかなかった事件


『週刊文春』2005年12月29日号<雅子さま「誕生日の乱」皇室記者オフレコ解禁!大座談会 皇太子ご夫妻への風当たり>p29-30より

A 「皇太子はどこまでも雅子さまをお庇いになる」と言う関係者もいます。それはご立派なことです。しかし雅子さまが宮中の祭祀にあまり参加されなくなった頃、ある職員が心配して皇太子にこのままでいいのかと尋ねたそうです。皇太子のご返事は「参加しなくていいよ」でした。その職員は「そう言われちゃったらしようがないよ」と周囲に漏らしていたそうです。

C 最近、皇太子殿下のことを心配する声はよく聞きますね。殿下はあまりにお優しすぎるんです。妃殿下のことが心配で心配で、お立場のことまでお考えになる余裕がないのでしょう。

B 残念だったのは、ご静養中とはいえ、皇太子ご夫妻が終戦記念日にテニスをされたこと。今年は戦後六十年で、両陛下のサイパン訪問や那須の千振開拓地訪問がありましたから、余計に目立ってしまいましたね。

A 終戦記念日のテニスは御所の職員にも評判が良くなかったですね。「殿下は幼い頃から戦没者慰霊に取り組む両陛下のお姿を見てお育ちのはずなのに、いったいどうされてしまったのか」という声が聞こえてきましたよ。確かに“戦争の記憶の継承”を非常に大事にされてきた平成皇室だけに、あそこは東宮職がフォローして差し上げるべきだったのではないでしょうか。

•メキシコ水フォーラムに出席するも、口に出るのはま雅子の事ばかりだったよ事件【(゚Д゚)ハァ?な回答シリーズ】

•トリノオリンピック入賞者を招いた茶会で、どの選手にもアイボの話をし呆れられた事件

•同上トリノオリンピック慰労茶会で、スピードスケートの岡崎朋美選手が言った「愛子さまにも将来スピードスケートを…」社交辞令に対し、「(愛子は)フィギュアスケートをやっているので」とけんもほろろだった事件

岡崎氏証言画像:2006年5月12日 第20回オリンピック冬季競技大会(=トリノ五輪)入賞者等招待の慰労茶会

•2005年・2007年・2008年の8月那須御用邸静養で遊びに出かけた那須ファミリー牧場にて「よーしパパ、メリーゴーランド乗っちゃうぞー」事件
参照:2005年メリーゴーランド画像/2007年メリーゴーランド画像/2008年メリーゴーランド画像

•2006年9月上旬山形県での地方公務宿泊先ホテルで、収穫時期の外れたラ・フランスの生ジュースを、「皇族は缶・ビンジュースを飲めない(生ジュースでないとダメ)」などと明らかな嘘を吐いてまでいきなり所望事件

ソース:『週刊新潮』2007年2月22日号<初公開!これが「皇族接遇マニュアル」だ


▼「お絞りは固めに」「便座カバーは白」「御先導は2〜3歩左斜め前を」

▼「ラ・フランスのジュースを飲みたい」皇太子の一言でホテルは大混乱

BSE騒ぎの中で、陛下に「オクステイルスープ」を出したシェフは……

▼天皇家をお迎えする施設や自治体に対して宮内庁が出した「お迎えマニュアル」が流出。>


•2006年9月13日甥っ子・悠仁親王殿下命名の儀を鳥海山登山にかこつけてブッチするも、天候不良で最後まで登頂できず事件

•2007年8月24日、この夏の甲子園で初優勝を飾った佐賀北高校校長へ「私も応援しました」という内容のメッセージが届けさせる、決勝対戦相手の広島広陵高校立ち場なし事件

ソース:2007年08月25日付スポニチ紙面記事


•平成20年(2008年)歌会始お題「火」にて、「蒼(あを)き水たたふる阿蘇の火口より噴煙はのぼる身にひびきつつ」と自分が実際に見学した阿蘇山の光景を歌にするも、阿蘇山旅行経験者からは「阿蘇山の火口にある湖はバスクリン色かシャンプーのメリット色で、到底“蒼き水”なんてものではないのでは??」と大勢の人に疑問を抱かれる事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}

•2007年12月大分訪問にて児童養護施設と保育所などを兼ねる「Plaza Puer光の園」を視察、家庭環境には決して恵まれてないと推察できる子供ら相手に「愛ちゃんパパです」と暢気に自己紹介事件

•2008年2月13日羽毛田宮内庁長官が前年徳仁が誕生日会見で語った「(両陛下と)お会いする機会をつくっていきたい」表明から参内回数が増えていないことを取り上げ異例の“苦言”定例会見、それに対し2008年2月21日誕生日会見で「家族のプライベートな事柄ですので,これ以上立ち入ってお話しをするのは差し控えたいと思います」と、両陛下と東宮家の関係については公的なものではないので回答しないという立場をとる事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}

•そのくせ自分のマーキングジョギングや、雅子愛子の「電車でGO!」体験は、テレビカメラを呼んで撮影させてまで公表事件

•平成20年(2008年)2月の48歳誕生日会見にて、健康維持方法としてジョギングについて語る徳仁、「私自身は一回のジョギングでこの赤坂御用地の中を2周から3周するのですけれども,先月1か月間で,100キロメートルを超える距離を走りました」それって自慢というより寧ろ仕事が無くて超暇ってことでは?事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}

•同じく平成20年(2008年)2月の48歳誕生日会見にて、「テニスや,回数は少ないですけれども,登山やスキーも私の健康維持には欠かせません」とまるでスキー旅行要望雅子の代弁事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}

•平成20年(2008年)6月11日ブラジル訪問前記者会見にて相変わらずの「お医者様」発言、そして雅子がブラジル訪問に同行しない件について、

「(ブラジルは無理だが)今の雅子の体調にもうまく耐えられるのではないかと思われるような,そういうものが将来出てきた場合には,その場合として考えていければというような意味です。いずれにしましても,そのような訪問が雅子の回復の上でも役立つものであればということを強く考えております。」

と公式訪問前会見でブラジルに超配慮なし発言をしでかす事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}

•2008年6月ブラジルで開かれる日本人移住100周年式典などに出席する皇太子の人となりを知ってもらおう企画で、なんと20年以上前の著書『テムズとともに』(学習院教養新書、1993年出版)がポルトガル語で翻訳されることに。ネタ無しで今更翻訳出版のタイムラグもさることながら、出版にあたって皇太子が寄せた「ブラジルの読者のみなさんには、青年時代の私が本国から遠く離れた英国という地において経験し、あるいは感じた事柄の中に、何らかの関心を見いだしていただければ幸いです」との文章も収録。遠い異国の地での生活体験については日系ブラジル移民の方々の方がどう見ても豊富なのに、何故かたかだか1983-1985年・二年間の留学経験ぽっちで上から目線のナルちゃん文章。同翻訳本は3000冊出版され、地元の病院、日本人学校、在日ブラジル人学校などに配られたとのこと。……そんな数少ない著書翻訳事件


•2008年7月1日、せんべいこと創価学会の聖教新聞第一面にて、徳仁ブラジル訪問でのパラナ州移住100年祭にてSGI青年部500人が演奏と演技を披露したという記事が思いっきり掲載、池田大作長男で跡継ぎと目される池田博正SGI副会長とばっちり同じ壇上にのぼり、昼食会も同席するという、本当に本当に本当にマジで洒落にならない事件


•2008年8月那須静養、りんどう湖ファミリー牧場行楽で同行の雅子妹池田礼子一家と足漕ぎボートに乗り、ボートペダルまで踏んで差し上げちゃう事件


•2008年9月13日、学習院百周年記念会館で開かれたウルトラセブンイベントの<超ウルトラ>サプライズゲストとして登場≪Part1323-522/773/836、Part1324-435/444複数mixi情報≫、前日12日からの両陛下葉山ご静養への合流お誘いを「東宮仮御所への引っ越しもあっていろいろとお忙しいということではないか(MSN産経皇室ウィークリー9/13)」と断り、両陛下よりセブンを優先させる事件

補足:秋篠宮殿下は葉山ご静養に合流し、13日に東大農学部で開かれた「三蔵経学術シンポジウム」に葉山から足を運びご出席、そしてまた葉山にお戻りになっている。


•2008年10月9日北京五輪入賞者らとの茶会、フェンシング・フルーレ銀メダリスト太田雄貴選手に「愛子と一緒に観戦しましたが、愛子から『ルールが全くわからない』と聞かれ、『僕もわからない』と答えました」とのたまい、逆に太田選手の側から「ルールも含めて少しずつ日本の中で広まればいいですかね」とフォローされてしまう事件


•2009年2月5日ベトナム訪問前公式記者会見にて、ベトナムベトナムgdgdg牛歩会見をして時間稼ぎをし、体調不良の陛下と公務と雅子マターについての質問には予定時間になったからと司会進行の大森茂侍従が一方的に強引打ち切り強行、宮内記者会は6日野村一成東宮大夫に「取材の制限、妨害に等しい」と抗議文提出、同日野村東宮大夫が「予定時間を厳格に守ろうとするあまり記者会見を終了させたもので、率直におわびする」謝罪文発表、そんな前代未聞会見事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}

参考:共同通信2/6魚拓
参考:日テレノーカット工房ベトナム訪問前徳仁会見映像


•2009年2月20日徳仁49歳誕生日記者会見前の質問事項すり合わせにて、「雅子が久しぶりに臨んだ宮中祭祀(=同年1月7日昭和天皇二十年祭)についてもぜひ触れてください」と、都合のいい記者質問を自分からおねだりする事件

『AERA』2010年1月4・11日合併増大号<陛下が触れない雅子さまの病状>p22より引用

 2009年雅子さまのスタートは好調に思われた。

(中略。新年一般参賀・昭和天皇二十年祭である皇霊殿の儀・なるほど展・WBC・みどりの愛護について何年何ヶ月ぶりと説明が入る)

 この時期の雅子さまの充実ぶりは、こんなエピソードからも伝わってくる。

「雅子さまががんばっていらっしゃる姿を国民のみなさまにもお伝えしたかったのでしょう。皇太子さまは2月23日のご自身の誕生日に向けての記者会見で、宮内庁記者会からの質問事項に『雅子が久しぶりに臨んだ宮中祭祀についてもぜひ触れてください』といった趣旨のご希望を述べられたそうです」(宮内庁関係者)


•2009年2月20日徳仁49歳誕生日記者会見にて、「愛子が赤坂御用地で遊んでいるときに,眞子内親王様や佳子内親王様に声をかけていただいて一緒にお遊びしたりしたこともあります」発言、自分より年少で班位も低い姪に「様」付け事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}


•2009年2月20日徳仁49歳誕生日記者会見にて「雅子は頑張り過ぎてしまい、その後の公務をすることが難しくなる」といったことをのたまい、関連質問で「雅子ヒが頑張りすぎるって何をさ?」とつっこまれgdgd回答、そのまま終了したがなんと約20分後のカメラマンが撤収作業をしている最中に戻ってきて「雅子は周囲の期待もありますので、1つの公務をする場合には全力を傾けることがあります。1つの公務をする場合、それだけ多くの日数をとって、そのための準備をする。やはりそれに伴って、結果としては疲れが残ることもありますので、次から次へと新しい公務をするということはまだ難しい、ということを申し上げたかったわけです」と付け加える、またも前代未聞会見事件


参考:産経新聞2/23魚拓


•延長&一旦退出後舞い戻ってきての追加説明2009年2月20日徳仁49歳誕生日記者会見終了後のオフレコ懇談会で、ベトナム訪問に同行していてバレンタインチョコを徳仁に渡した女性記者にお礼の言葉を述べたのはよかったが、「(中川昭一財務大臣へべれけ会見の話題から)お酒はまあ飲みますが、甘いものはあまり好きではありません。“両刀遣い”じゃないんですよ」と言っちゃう事件≪週刊文春2009/3/12号≫


•延長&一旦退出後舞い戻ってきての追加説明2009年2月20日徳仁49歳誕生日記者会見終了後のオフレコ懇談会お開き時に、「これにて一件落着!」と遠山の金さん(杉良太郎)のモノマネをしてみせる能天気事件≪週刊文春2009/3/12号≫

•2009年2月徳仁49歳誕生日映像で、「優秀な愛ちゃんに英語教育してます!」アピールのためか東宮一家が英語カルタ「Alphabet Zoop」に興じている場面を撮影させるが、徳仁が手にしているカードは全部上下逆さまだった事件

参考画像:「Alphabet Zoop」表面と裏面の図柄と、カードを手にしている愛子と徳仁。トランプとは異なり、両面ともに上下が決まっている図柄であることに注目。
参考動画:日テレにこにこアルバム 5分30秒あたりから「Alphabet Zoop」、英語カルタが上下逆さまでもおかまいなしな徳仁。雅子も似た傾向があり、手持ちの札を揃えて見やすくするという知恵は働かないらしい光景。


•2009年3月7日ワールド・ベースボール・クラシックのアジアラウンド日本対韓国戦があった夜、東宮家にプライベート電話をかける間柄の某氏が夜8時半〜9時頃緊急の要件にて何度も電話をかけるも応対に出ず、夜9時半過ぎにようやく電話に出た徳仁が第一声で『佐藤君(仮名)、見てるかなっ! 素晴らしい試合だね』と、自分が友人をシカトしていたことも理解していないんじゃないか事件≪週刊現代2009/10/10号≫


•2009年5月9日毎年恒例両陛下との粟の種籾蒔きに東宮一家が仔犬「ゆり」を同伴し参内、皇居から退出する移動ワゴン車で一家の主が犬より下座に座る事件【(奥)】

•2009年7月16日長崎県佐世保市にて開催の第45回献血運動推進全国大会にて、3年前に7歳の息子を病気で亡くし、治療のための輸血体験を発表した主婦に「うちの娘も7歳です」「寂しくないですか」KY発言事件【(゚Д゚)ハァ?な質問シリーズ】【八大行啓】


•もう小学生である愛子と両側からそれぞれ手をつないだ雅子と徳仁が茶会にお出まし、愛子が何かゴニョゴニョ話しているのを、『今、歯が抜けて聞きづらいでしょう。愛子は○○○○と言ってるんですよ』と説得力に乏しいフォロー事件


•2010年徳仁50歳誕生日発表用映像を庭園にて一家三人&飼い犬ゆりで撮影、雅子と愛子がしゃがんでゆりを弄り回している仲間に入ろうとしたものの、ゆりに舐められそうになった瞬間慌てて手を引っ込めそそくさと立ち上がり、実は犬苦手なのがバレバレになってしまう事件

参考映像:日テレにこにこアルバム 5分10秒あたりから徳仁犬苦手バレバレシーンあり。


•2010年3月3日ガーナ及びケニア訪問前記者会見にて、関連質問で「妃殿下のアフリカに対する関心,殿下からご覧になって,どういった部分に特におありでしょうか,お聞かせください」と問われ、

「そうですね,アフリカが抱えている様々な問題,全体に対してあると思いますし,具体的にどの問題というのはなかなか難しいかもしれないのですけれども,もちろん貧困の問題ですとか,それから教育の問題,さらには環境問題なども含めて,非常に幅広くアフリカの問題に対して関心を寄せているというふうに,私には感じられます」

との具体性も何もあったものではない漠然とした回答、夫妻でアフリカ問題について話したこともないだろとバレバレ事件&color(#FFFFFF,#9933CC){宮内庁公式情報}


https://sites.google.com/site/dosukono/dosu-ko-no-jiken-bo/hironomiya-naruhito-densetsu
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c21

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
22. 中川隆[-12956] koaQ7Jey 2019年1月16日 19:11:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

>>21 の別リンク

ナルちゃんこと、浩宮徳仁親王にまつわる伝説というか事件簿です。http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/Naru
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c22

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
23. 中川隆[-12955] koaQ7Jey 2019年1月16日 19:15:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

浩宮さま
http://kabanehosi.seesaa.net/article/179941260.html

■週刊朝日1980年10月24日号

やんごとなき方々の御日常

浩宮様が学習院初等科へ入学されたころのこと。
たまたま美智子妃も参加された授業参観の日、宮様に順番が当たり、教科書を読まれるはめになった。
しかし、なかなかすんなりと読めず、四苦八苦される彼を見て、だんだん美智子妃の顔色が変っていった。
とどめは先生の、「お家でもう少し勉強してきなさい」の一言であった。
美智子妃は、がっくりと首うなだれ、すごすごと帰途につかれたのである。

■天皇家のユーモア光文社2000年発行 「女性自身」皇室取材班

「お母様、お点がひとつ“赤座ぶとん”の上に乗ってるよ」
浩宮さまが学習院中等科1年のとき。
一学期が終わり、成績表を持って帰られた浩宮さまは、
こんなことを言いながら美智子さまへお渡しになったことがある。
美智子さまは「あら、“赤座ぶとん”って何でしょう?」と、成績表を開いてご覧になった。
浩宮さまの言う“赤座ぶとん”とは、要注意を意味する赤いマークで、
そのマークの上に成績の数字が書いてあったのだ。これには美智子さまも思わず噴き出され、
「しっかり勉強なさい」とおっしゃるだけで、叱ることも忘れてしまわれたという。

■ほめ方上手の親学 浜尾実

東宮御所である日、小さな事件がありました。
私(※浜尾氏)の息子は宮さまと年齢が近かったこともあって、
お遊び相手としてときどき御所にうかがっていたのですが、
宮さまのお部屋にある水槽から熱帯魚をとり出し、二人で解剖してしまったのです。
いくつか年上の私の息子のほうが率先してやったに違いないのですが、
その解剖した魚の残骸をそのままにしておいたのが
殿下に見つかってしまったからたいへんです。
そのとき宮さまは殿下から大目玉をいただいたのですが、
殿下のお叱りは魚を解剖したからということでなく、
魚の残骸の後片付けをしないでお庭に遊びに出かけてしまったということだったのです。
俗にいわれる「ナルちゃん憲法」の一つに「”ながら病”はできるだけ避けること。
靴を履くときなども『靴を履いたらおんもネ』といいながら
靴を履くことだけに集中させること」という項目があります。
宮さまはこのとき、涙で顔をクシャクシャにさせながら、ぞうきんで床をふいておられました。


■浩宮の感情教育

小坂部元秀著 飛鳥新社(2001年)
ごく稀にではあったが、浩宮も高等科食堂を利用することがあった。
浩宮自身が食堂の昼食に興味を持ったためかもしれない。
カレーライスを注文して、食堂の賄いの女性に「お肉をたくさん入れてください」と頼んだが
「高等科のカレーライスは安いでしょう、だからお肉はあまり入っていないのよ」と言われて
「そうですか」と納得していた。そんなこともあった。
生徒は普通、食堂のカレーライスがどの程度のものか、よく知っていたから
「お肉をたくさん……」などという場違いな注文を口にすることもなかったが、
そんなところにも世間知らずという意味での浩宮らしさが覗いていた。

 ――高等科の数学科の佐藤茂人教諭が、中等科時代の浩宮の家庭教師をつとめていたことがある。
その時の話で、浩宮は自信がないと練習問題の解答をなかなか示そうとしなかったという。
数学の誤答を提出することを、嘘をつくことと同義に考えていたという。
中等科の彼には「誤答」→「嘘をつくこと」=「いけないこと」という、
常識では考えられない思考の枠がはめられていたといえよう。

この学年の相主管の佐藤茂人教諭が、浩宮の中等科時代に数学の家庭教師を引き受けていたことは先に述べた。
冬の東宮御所での勉強中、部屋の暖房が利きすぎているので「窓をすこしあけた方がいいね」と言うと、
全部開放し、しばらくして「もうすこし閉めて」と言うと、ぴたっと閉めてしまった。
 ――「浩宮には、窓をちょうどよく開けたり閉めたりするってことが出来ないんだ。
自分で窓をしめたりあけたりする習慣が、小さい時からなかったんだろうね」と佐藤さんは言い
「だから家庭教師に行った時には、なるたけ自分の部屋の窓のあけしめをやらせたんですよ」と語ってくれた。
きちんと決められたことはできるが、きわめて日常的な、小さい時からわれわれが日々の生活の中で
自然に身につけるもの、生活の知恵ともいえないような文字通り「瑣事」にうとい点が浩宮にあるのは、
やはり否めなかった。美智子妃の母親としての細かい心づかいがあったとしても、
あの東宮御所で多くの側仕えの人々に付き添われた生活では、そこまではカバーできなかったということだろう。

貸切バスを使う場合には沿道の警備に所轄署の警官が配備され、沿道の交通信号も浩宮の乗ったバスは
ノンストップで走行できるよう手動で操作される。沼津遊泳実習、多摩湖畔マラソン大会の往復、
八幡平登山合宿の際の岩手県下の交通などはこのスタイルだった。
従ってとくに東京都下を往復することになる多摩湖マラソンの場合、学年別クラス順に走るバスで
浩宮クラスの後に続く車両は殆ど例外なく赤信号でストップさせられた。一般の、関係ない車も同様であった。
それは浩宮の乗ったバスをノンストップで通過させるため、青信号を無理に継続させたり
逆に赤信号を随時青に切り換えたりするその皺寄せが後続車両や横断車両にきたのであった。
他のクラスからは「ひでえなあ」という声もきかれた。当然浩宮のバスの前後には覆面パトカーが先導し追尾した。


美智子妃は「二年になってフランス語をやめてしまいましたが、苦手と申しましょうか、
ちょっと不安があったようなのです」
と、浩宮のフランス語の選択放棄について触れた。
浩宮は高等科一年で第二外国語として選択履修していたフランス語をに、二年になるに当たって放棄していた。
私がこの件について、五月はじめのホームルームのあと、浩宮に雑談風に「フランス語をやめたんだね」と
訊くと、浩宮は少し眩しそうな目つきをして「ええ、いろいろ事情がありまして……」と曖昧な応え方をした。
私はそれ以上深く追求しようとは思わなかった。
高等科では一年次に必修の英語以外に第二外国語として、ドイツ語、フランス語の
いずれかを選択必修できるコースがある。
しかし第二外国語は、二年、三年と進むにつれて負担が大きくなり、
三年では一日に少なくとも一時間、ときには二時間連続の曜日もあって、
その日は朝から五十分授業が八時限で夕方五時に終了という具合である。
そのため二年になる段階で諦めて選択放棄する生徒があった。
浩宮もおそらく、その学習負担増と、そこからくる全般的な成績の低下を懸念したのではないか。
学習院大学への内部進学推薦基準は、高等科の一、二、三年の全教科平均点が各学年六十点以上という
ハードルが設けられていた。フランス語の担当教員にきいたところでも、
フランス語の成績は他教科に比べて低かったようだ。
「ご本人も“いろいろと事情がありまして……”と、言っておられました」
「そうですか」
両殿下は顔を見合せ
「将来のことを考えて、英語の他にフランス語も馴れておいた方がよろしいかと思い、
高等科に進むときに薦めたのですけれど……」
と美智子妃はやや残念そうな表情であった。フランス語は、やはり海外からの国賓などを念頭に置いての
将来的な配慮の一環だったのだ、と私は納得した。
フランス語の選択放棄について美智子妃がとくに話題としたのは、
浩宮が私に訊かれたことをご両親との間で話したためかもしれない。
いわば浩宮の「いろいろと事情がありまして……」という発言についての微妙なフォローだったのかもしれない。

宮内庁東宮職と学習院中高等科教員チーム「クラブ服部」とのテニスマッチが、浩宮在学中は年に一回
東宮御所のコートで開かれた。浩宮はじめ、当時初等科在学中だった礼宮も参加して、土曜の午後を楽しんだ。
緑に囲まれたコートからは四谷界隈の高層ビルが別世界のものとして望まれた。
東宮職メンバーのテニスのレベルの前に「クラブ服部」のメンバーは完敗することが多かった。
試合後懇親会があり、ビールなどが出て、浩宮、礼宮も出ていた。
その席で浩宮が「アーヤは負けそうになると、おこってラケットを放り出すんだから」
と笑いながら話していたのが印象に残っている。両者の対比としても面白かったが、
浩宮が他の人間に対して思ったことを直截に述べることは珍らしかったからだ。
肉親の弟ということで、リラックスした状況の中では、いかにも人間的な発言――というか、
当り前のどこにでもいる兄と弟の間柄をかいま見た瞬間でもあった。礼宮は子供っぽく、
しかしちょっと恥しそうに笑っていた。浩宮は二年生ぐらいからは、ビールなどもかなり飲んでいた。
浩宮の学友として賀屋(原文ママ)も参加していた。彼は浩宮と並んで観戦したり、
東宮職メンバーの一員として浩宮とダブルスを組んだりした。
彼は懇親会終了後、教員たちとともに四谷へ出て、二次会に流れる教師連に誘われると喜んで付いてきた。
居酒屋に入って、末席に座った彼は、おひらきになるまでビールを飲みながら付き合い、にこにこして帰って行った。

卒業アルバムの撮影時、「浩宮はなんら躊躇することなく(教師の)私の隣に腰をおろした。
こういう時の浩宮は、形容矛盾を敢えて冒せば、不自然なくらい自然だった。普通の高校生だったら、
多少のためらいや照れ、戸惑いや反発など、なんらかの感情的反応をみせるものだが、
浩宮はこういう場合、そんな反応とは見事に無縁だった」
「(海外からの来訪者が学校を見学したとき) 「殿下からご挨拶を」と促されると、高校生ばなれした
特徴ある悠揚迫らぬ落ち着きぶりで一行を見渡しながら、いわば常套的な決まり文句を少しも照れずに
ゆっくり述べることで、それなりに格好がついていた。こういう場の挨拶は、結局このような紋切り型が
最も適わしいのかもしれないと、 思わずこちらが錯覚しそうになるほどだった」


浩宮の作文には、青年らしい葛藤とか苦悩とか怒りとか、あるいは悲しみ、喜びなどの感情がなくて、
淡々としていた。礼宮の方は、なかなか着眼点が鋭くおもしろかった。


学習院時代の皇太子は人の噂になるほどの存在感がなかった。
「身分がなければ記憶に残らない生徒だった」


■週刊現代1993年1月23日号
一方、皇太子は学習院高等科3年のころ、殿下の悪友仲間が学校のトイレの中でタバコを吸った。
そのとき、たまたま居合わせた殿下に、「先生が通りかかったら教えてくれ」と、廊下での
見張りを頼んだ。頼まれた殿下は抵抗するでもなく、「あ、そう」と、数分間の見張り役を
お引き受けになったそうです。

■写真集プリンス浩宮 文藝春秋1987年
写される立場を学ぶため、カメラマンが近くでフラッシュをたいても皇太子ご夫妻(当時)の意向でそのままに。
勤労奉仕団に小さい頃からあいさつ。最初万歳三唱に驚いていたようだが3歳には慣れた。
毎週日曜日は皇居へ。途中で侍従女官とすれ違ったときは自転車から降りてあいさつ。
沖縄豆記者の席には幼稚園時代から加わった。
幼稚園時代、浩宮の車だけが目白通りから幼稚園の中に入る特例になっていたため
「どうしてなの。僕は歩くよ」と通りで降りようとしたこともあった。
「記憶しなければならない四つの日」以外にも、学童疎開船対馬丸が沈没した時間に黙祷。

チャールズダイアナが到着の大阪空港に皇族を代表して浩宮が出迎え、翌日は修学院離宮へ。
チャールズ夫妻は国賓より一ランク下の公賓として来日だったため、空港に皇族の出迎えは必要ない。
もし出迎える場合でも、皇位継承権が下位の皇族でないと前例に釣り合わない。
皇室内部から、浩宮の大阪行きに反対する意見もあった。

試しに東宮御所内でハンドルを握ったことはあっても、免許は断念。
大学時代、毎日同じ服を着ていても平気、というくらい服装には無頓着。
学食にてご飯を多く盛られてしまった女子学生に「よく食べる人は分かるんですね」。
女子学生に「どちらがダイエットできるか、やってみましょう」と持ち掛ける。
NHKを訪問したとき、
「今日はスタジオは静かですが、おとといみたいな日は、大変だったでしょうね」と、金日成死亡説を話題に。
音楽部管弦楽団歓迎会自己紹介にて
「ぼくは皇居の、とある倉庫で生まれました。病院だったらしいのですが、
エレベーターも故障しているようなひどいところで‥」
「音楽部の演奏を初めて聴いたのは初等科の頃でした。随分、下手だな、と思ったものです」。
中等科時代、むずかしい漢字を書くときなどは、罫線からはみ出してしまうことがあった。
音楽担当藤原先生、「リズム感は抜群というほどではないが、メロディーを”うたう”ことにかけては
素晴らしい素質をお持ちです」「考えられないくらいゆったりしたテンポの、
個性的、かつ情熱的な演奏(シューマン子供の情景ピアノ演奏を聞いて)」。
合宿など旅先に、自分でヒット曲を録音、編集したカセットテープを持参することも。
曲名を書いたメモも付いていて”浩宮殿下が選んだヒットメドレー”という趣向。
カラオケは演歌が多いが、歌い方は感情をこめたカンツォーネ調。
ゼミ仲間と喫茶店に入ったとき、ちょうど「紅茶のおいしい喫茶店」が流れていた。
手ぶりを真似しながら歌ってみせ、さらに「新曲があるんだ」と誰も知らない柏原芳恵の新曲を披露。
ブラジル旅行にて「ブラジルには美人が多く、とても素晴らしい」と感想を漏らす。
サンパウロ大学で同世代の学生に天皇制について質問され、「天皇は百二十四代続いているが、
その理由は精神的な象徴だったという感じです」と答えた。
英国留学中は、チャールズ皇太子のケンブリッジ大在学中と同じ”最大級”の警備体制だった。
(寮の隣室に警護官二人が交代で寝泊まり、昼間のガードは警護官一人、はチャールズと同じだった)
“フォーカス事件”の女性は、反響の大きさに勤め先を辞めるハメになった。
浩宮はその後も気軽に記念写真に応じ続けたため、特ダネにならなくなった。愛用のカメラで記者団を
“逆フォーカス”するようになった。
イタリア旅行、ペルチーニ大統領昼食会の食後酒はグラッパ。
ナポリで食事の際は、グレコ・ディ・トゥーフォ。イタリア人も驚く健啖家ぶりを発揮。
英国の本屋には売っていなかったため、ニューヨーク五番街の本屋ではシールズと
ジェーン・フォンダの写真集を買い込んだ。
ロッキーマウンテン国立公園では、カウボーイハットをかぶって岩の上から右手で
ピストルを撃つしぐさをしてみせた。米国のカメラマンたちは大喜びだった。
米国の食事は口に合ったようで「マクドナルドのハンバーガー」とカリフォルニア・ワインがお気に入りとなった。
各地で健啖家ぶりを発揮し、体重が三キロ以上増えた。
「日本に帰ったら不自由な生活は覚悟しています」と同行記者団に語った。

■「わたくしのは?」
両陛下がはぐくまれたねむの木の絆1/3〜3/3
http://www.youtube.com/watch?v=2axVq1Hia7Q
http://www.youtube.com/watch?v=r9nybvlRBss
http://www.youtube.com/watch?v=373UGG8uMlg

久能靖:どういうきっかけだったんですか、最初に(美智子さまと)お会いになったのは?
宮城まり子:最初? きちっとお会いしたのは、絵を見たいからって言うので、
東宮へ絵を持っていったんですよね。で、見ていただいたとき、皆夢中になっちゃったんですよ。
ったら今の皇太子が、ちょっと嫉妬心かな、「わたくしのは?」とお聞きになったの。
皇后さまがね、間髪入れずに
「あなたのは、1枚残らずちゃんっと、しまってございますよ」と仰ったの。
そしたらニコーッと笑って、「そう、ありがとう」って言われたときの、
その間髪入れずのお母さまの答っていうのは、これは素敵なお母さんだなーって思いました。

■妃殿下と若宮さま 東宮御所で過した日々
元東宮侍医医学博士・緒方安雄 サンケイドラマブックス26
それはいつごろであったろうか?たぶん浩宮さまが小学初年級ごろであったと思う。
私は煙草を吸わないのでそのかわりにドロップを数個いつもポケットにいれていて、
ときどきなめることにしていた。
ある日のこと、私の上衣のポケットがふくれているのに気づかれたのか、
突然ポケットに手を入れて、そこにはいっているドロップをつまみ出された。
「これアメ?食べてもいい?」とお聞きになる。
私は躊躇した。妃殿下が正しく行っていらっしゃる宮さまの食生活を破る恐れがあるからだ。
しかし、ついには負けて、どうぞということになり、
宮さまは嬉しそうに、そしておいしそうになめていらっしゃる。

■川端康成全集 第十二巻収録「美智子妃殿下」より
思いがけないことには、皇太子殿下が愛宕山の帰りにお迎えにおいでになった。
この夏は浩宮さまをお鍛えになるおつもりで、
小浅間をはじめ、軽井沢の小山を六つか七つお登りになったそうだが、
その日は愛宕山にお登りになる予定で、冷雨のなかを実行されたらしい。
愛宕山もてっぺんのあたりは車が行かない。
私の山小舎の下の細道へおいでになった皇太子殿下は、洋服の半身がお濡れになっていた。
少しお休みくださいませんか、というと浩宮さまとごいっしょに山小舎へあがっていらした。
浩宮さまはおなかがすいてらしたのか、ビスケットを六つ七つ、たてつづけに召しあがった。
そして間もなく、「おさきに。」とおっしゃって、おひとりでさっさと扉をお出になろうとした。
こういう慣わしがおありなのだろうか。
浩宮さまがお出になって、皇太子皇太子妃両殿下もお帰りになった。
妃殿下は皇太子殿下のお車で、皇太子のご運転は石のごろごろを避けて、
お静かで、お見送りの私たちは胸をなでおろした。
もし、東京で皇太子殿下のご運転などとわかれば騒ぎで、これも軽井沢のご自由のひとつであろう。

■美智子さまのおことば 愛の喜び・苦悩の日々
河原敏明 講談社文庫
「客観的に満足かということではなく、わたくしの感じで言えば、浩宮の人柄のなかに、
わたくしでも習いたいような美しいものを見いだしています。
浩宮を大切に思っているとしか申し上げようがございません。」(昭和49年)
浩宮について
「中等科までは寄り道の多い子でした。
仏像などきれいな物を見ると、いつまでも見つめていて、
これではクラス全体から遅れてしまうのではないか、と心配になったことがありました。」
礼宮さまの将来について
「礼宮は浩宮に比べて、将来幅広い選択ができる立場にいますが、
それだけにしっかりした価値観、判断力を持ち、
浩宮を助けて、よい皇室をつくっていってもらいたいと思います。
言わなくても、礼宮は必ずそうしてくれるでしょう」(昭和52年)
浩宮さまのお妃について
「あれこれ希望することは、お上がりになる方に
一つの決まった枠を与えることになるので控えたく思います。
ただ、伝統の世界は奥行きの深い世界ですので、気長に経験を積み、
なにごともあたたかくはくぐみ育てる方であっていただければ、とそれだけを考えています。」(昭和53年)

■朝日新聞1986年10月20日朝刊14版
芳恵さんバラをどうぞ 浩宮さまリサイタルへ
浩宮さまは十九日午後、東京・新宿の厚生年金会館で開かれた歌手柏原芳恵さんの
デビュー七周年リサイタルを楽しまれた。
ご自身が柏原さんのファンで、英国留学中は自室に写真をはっておられたといわれ、
主催者からのお願いに応じられた。
白黒のツートンカラーのセーター、ベージュのズボンという気軽な服装で劇場に着かれた浩宮さまは、
お出迎えの柏原さんからレコードや写真集を受け取られると、
お返しに、用意された一輪のピンクのバラを贈られた。
このバラは五十七年に来日したミッテラン仏大統領から皇太子ご一家に
「プリンセス・サヤコ」と命名されて贈られた新品種で、
東宮御所の庭に植えられたもの。同日朝、切り取ってお持ちになったという。

■テムズとともに 浩宮徳仁
オックスフォード大学では、それまでの研究との関連から
英国の水上交通史を研究しようと思っていたが、入学当初は具体的な内容のめどは立っていなかった。
私にとって英国史は専門外の分野で、交通や流通といった問題はその時代背景を把握していなければ
なかなか理解しにくいことはいうまでもないし、英国中世の水上交通を研究する場合、
17世紀ごろまでの史料はラテン語で書かれているため、今までまったく勉強したことがない
ラテン語の史料を読まなければならないことが入学直後の私が直面した問題であり、
二年間でこれをどう克服し研究を進めていくかは緊急の課題になった。

■フライデー1984年11月23日創刊号
<『フライデー』にも投稿していただきたい殿下の「必撮」ポーズ>
今春、殿下は学位論文完成のための研修旅行として、
パリ、ジュネーブ、南仏、イタリアなどを訪問されたが、
古都ベニスでの“必撮”ぶりは、ことのほかだったという。
この旅行、殿下ご自身がプランを立てた私的なものであったが、それはそれ、
ローマからは堀駐イタリア大使が、ミラノからは田辺総領事が、という具合に案内人が駆けつけた。(中略)
夕方には小松一等書記官が、すでにクローズになったカメラ屋で、追加フィルムの購入を頼み込んだほど。

■皇居のなかで思う新宮中物語
昭和60年刊 サイマル出版会 武田龍夫(前式武官)
浩宮殿下は....外国人記者団から『天皇制は将来消滅するという声もあるが?』
との質問に対して、何も答えられなかったという出来事については、わたしは判断を下しかねている。
...私の思い過ごしであることを願うが、それがもし、将来天皇たるべきお方の教育環境の結果だとしたら、
いささか気がかりなことであるといわざるを得ない。
現代といおう時代に適応して、機知やユーモアを含んだ回答でうまく切り返すか、
あるいはまじめに誠意実にこたえられた、
という印象を与えるような答弁をしていただきたいと思うのである。

■週刊文春2001年12月13号
乃万暢敏さん
殿下は子供の頃から、自分に厳しく人に優しいという方でした。
そして気配りを重要視される方です。
たとえば、御所では、ある時からお客様にお茶をだす時の茶托をやめました。
漆塗りの立派な茶托が、熱くなった湯のみの糸底にぴったりと吸い付いて
持ち上がってしまうことがありますよね。そ
の茶托が落ちて大きな音を立てると、
タダでさえ慣れない御所で緊張されているお客様が、痛々しいほど緊張される。
だったら茶托はやめて、くつろいでお茶をどうぞ、という気配りなのです。

■宇野精一(漢学者・東大名誉教授)文藝春秋
浩宮、礼宮にもご進講した。
浩宮は「すべて見通すような眼をしておられるので、
よく理解しているはずと、ついこちらが安心してしまうところがありました」

■アエラ2008年3月10日号
渡辺みどり「平成の即位の礼を前にしたある日、デザイナーが打ち合せで皇居を訪れると
皇太子さまもひょっこり現れた。お召しになる十二単を持ち上げ
「おたたさま、ずいぶん重いのね」とニコニコしながら話した。
母君を慕う様子が目に浮かぶ。(当時29歳)

■皇室ウイークリー(153)
2010.10.9 07:00 
今週は45年前に行われた学習院幼稚園の運動会を取り上げたい。
主役は当時5歳だった皇太子さま(浩宮さま)だ。
「ナルちゃん楽しい半日 学習院幼稚園の運動会」。昭和40年10月4日の産経新聞朝刊は
そんな見出しで、浩宮さまの元気なご様子を伝えている。浩宮さまは綱引きとタマ入れの競技にご出場。
「顔をまっかにしてふんばったり、元気にタマをなげる姿に、ご両親はいかにも楽しそう」。
当時皇太子だった陛下の様子も「ほかのパパ、ママにまじって、三角帽子をかぶり、二人一組で、
フラフープの輪をくぐりながらのかけっこ。こんどはナルちゃんが大声援」と紹介している。
他社の報道だが、当時皇太子妃だった皇后さまは、礼宮さま(秋篠宮さま)の出産を間近に
控えていたため、母子が手を取って踊るフォークダンスはご見学の予定だったが
「浩宮さまは相手の先生をすっぽかしておかあさまのところに走り寄られていた」。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/101009/imp1010090701001-n1.htm

■平成16年 大分
http://www.pref.oita.jp/10400/chiji/kaiken/h16/0715/
記者 主務官に質問ですが、時間付けのことですが、午前中の舞鶴清流苑について
2階の生活支援ハウスの予定を10分とってあったのが
実際は2分程度で終了されてしまったのですが、
これはどのような状況でそうなったのですか。
行啓主務官 ご案内される方が、緊張されたのだと思います。
予定をしていたのですが現実にはそうなってしまったということだと思います。
記者 同じことなんですが、午後も献血ルームを25分とっていたのですが、
これも10分少々で終わってしまったのですが。
行啓主務官 私もよくわかりませんが、事情があってのことと推察いたします。
広瀬知事 ただ、随分ご熱心にお声をかけていただいておりました。

皇太子さまのご発言・お声掛け

高齢者デイサービスセンターでの踏み台による訓練を見て
 「どうですか、効き目はありますか」
プールの器具を見て
「それぞれ皆さん、強度が違うはずなんですが大丈夫ですか」
「どこの筋肉に効くのですか」
訓練してる人に
「効き目はありますか」
盲導犬を伴った目の不自由な方に
「犬を飼っていくのは大変でしょうけれども」
貼り絵をされていた言葉の不自由な方に
「おもしろいですか」
2階の生活支援ハウス居住者のレクリエーションルームで
「楽しいですか」


(昭和六十三年二月十九日  二十八歳のお誕生日を前に)
問:歴史上の天皇で、理想の天皇は誰がいますか?
浩宮殿下 具体的にどの天皇というふうに名前をあげるのはむずかしいと思いますけれども、
やはり政治的な実権を持たなかった天皇、政治的に余り活動されていない
精神的な存在であった天皇ということになると思います。


“皇太子ご一行様”の自然破壊山行
http://www.convention.co.jp/ip/hira/kinyoubi.html(リンク切れ)
週刊金曜日 1998.7.3(225号)「新・傷だらけの百名山 7(最終回)」加藤久晴氏
「"皇太子ご一行様"の自然破壊山行 」
「小屋もルートもアンチ・ナチュラル」
皇太子さんが登る山は事前に登山道を整備し、笹や雑草なども刈り取られるそうだ。
(前略)
登山道は道幅が広く、明るい。登山道周辺の樹木や薮がところ構わず伐られていて、
やたらに見通しが良いのだ。笹もしっかり刈られている。
まるでブルドーザーで強引に伐り拓いた道のようだ。急登もあるが歩き易くできている。
不思議なことに導標はまったくない。
しかし、道ははっきりしているので迷うことなく稜線に出ることができる。
稜線から先は新品づくしである。真新しく立派な導標と、案内板に木道。
新品の導標と案内板には、これ見よがしに「環境庁」と「新潟県」の文字がしっかりと刻まれている。
滑稽を通り越して怒りを覚えるのが、玉子石の案内板である。
玉子石が出来た由来が書かれているのだが、大きすぎて景観をぶち壊しにしている。
それに、この案内板を立てるために湿原をはじめとして、周辺の自然をかなり壊しているはずなのだ。
小学校の理科室じゃないのだ。山の中にこんなもの要らない。
案内板に麗々しく、名前を運ねている環境庁と新潟県にレッドカードだ。ったく!
湿原と池塘(ちとう)に山影が美しく映える平ヶ岳ピークの景観を、
この場遠いな案内板が台無しにしていることに役人たちは気付かないのだろうか!
下ってきてから、地元の山岳関係者に聞くと、ショートカットルートも木道も案内板も、
皇太子の山行が決まってから突貫工事で造られたという。
とくに登山道の工事が大変で、地元から約70人の人間が駆り出され、ルート作りをさせられた。
見通しが良い道を作ることが至上命令で、丈の高い草や樹木をめったやたらと伐り払った。
「お陰で、登山道には、滑ったときに掴まる笹っ葉もねえ」
地元の人たちは、自嘲気味に嘆く。自然破壊もいいところである。
そして、湿原内の木道はともかく、ピーク周辺に、過剰な道標や案内板など
余計な來雑物(きようざつぶつ)を作り、仕事をしていることを皇族に売りこむために
名前を誇示する中央官庁と自治体。税金を使って何をやっているのか。
“整備不十分”と書いてあるにもかかわらず、中ノ岐林道がそれほど悪路でもないのは
皇太子一行を通すために手入れしたからであろう。
稜線へ出るまでのルートに導標が一切ないのも、一般道ではなく、
あくまでも皇太子一行のために作った登山道だからであろう。
言うなれば、平ヶ岳のショートカット利用者は、税金で作られた、
皇族山行の傷あとのうえを歩かされているのだ(なお、現在、中ノ岐林道のゲートは閉鎖されていて、
地権者から鍵を借りなければ入れない。周辺一帯は地元の共有林になっている)。
遊歩道の先の立派な山小屋。皇太子宿泊予定地にされると、ほとんどの山小屋が新改築してしまう。
宮内庁からは、オーバーなことはしないでくれというお達しが来るが、
頭の中が旧態依然の山小屋オーナーは、一世一代の名誉とばかり、大散財をする。
その結果、豪華なシャンデリア輝く応接間を持つ新館が、とんでもない山の中に忽然と現われ、
一般登山者をシラケさせる。宮内庁は、特別なことをするな、と言うが警備陣からは、
「当日は、一般登山者と報道陣を、皇太子と同じ建物に泊めるな」と言われる。
そこでオーナーたちは、「面倒」とばかり、借金もかえりみず立派な新館を作ってしまう。
さらに、山小屋関係者を悩ませるのが、皇太子専用の風呂とトイレを作れという宮内庁の指示。
皇太子が「苗場山」(2145メートル)へ登ったときに不幸にして白羽の矢が立ったのが
村営の「苗場山頂ヒュッテ」。国有地内なので建設省に申請してトイレ・風呂用の敷地借用の許可をとり、
突貫工事にかかったが、天侯不順で、資材を上げるヘリコプターがなかなか飛べず、
関係者は冷汗ものだったという。
何とか皇太子来荘には間に合ったのだが、皇太子は風呂には入らずじまい。
おまけに借地に建てた風呂場なので、“皇太子ご一行様”が去ると今度は解体工事である。
何という税金の無駄遺いであろうか。


岳人1997年6月号
皇太子様寄稿文
「五歳のとき、父に連れられて初めて、離山(はなれやま)へ登って以来、
軽井沢近辺の山々を歩くのが好きになった。
父は山登りの途中、たとえ花のない植物であっても、
興味を抱いて足を止めおもむろにリュックサックから分厚い原色日本植物図鑑を取り出す。
そのたびに、頂上に早く着きたいという私の望みは絶たれるのであった。
母の回想によれば、父のたびたびの停車に業を煮やしたのか、
山頂に到着したとき父と私との間には一種険悪なムードが漂っていたそうである。」

岳人2005年10月号
東京新聞編集局長水野和伸
山での皇太子さま 担当記者同行記
足慣らしという奥多摩の棒ノ折山では、(徳仁)殿下一行のペースの速さにギブアップする記者が続出した。

「天皇の儀礼」より浩宮徳仁6歳時
美智子様(当時皇太子妃)への手紙
6.jpg
「おたたちゃま、あかちゃんうまれておめでとう」と書いたつもり


心に残る人々近代文藝社 杉本毅 平成6年
PM 4:08 分娩。新宮様啼泣。(宮内庁発表午後4時15分)
分娩時及直後活動配置状況
1.分娩後直ちに小林御用掛、柏木婦長は新生児と共に沐浴室へ、杉本毅学士分泌物吸引器を使用して
新生児の蘇生にあたる。吸引とO2を多少与へた程度、一呼吸後啼泣。
生まれたときはしばらく親王の泣き声が聞こえず、医師たちは青ざめた。
しかし、分娩台の前で待ちかまえていた杉本医局員によって素早く吉の中の用水を吸引され、
酸素を与えられると、たちまち顔色がピンク色に染まった。
元気な産声が部屋中に響き渡ったのはその時だった。その瞬間、緊張の糸がほぐれたように、
どこからともなくため息が聞こえてきた。
予定より一週間も早いのだから未熟児の覚悟もしていたが、小林教授がそれ以上に心配したのは仮死だった。
幸いにして産声が聞こえたことで、それが杞憂に終わったことに胸を撫で下ろした。

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


さまざまなエピソード(拾い物)※真偽不明のものも有り

お酒好き
朝から酒臭いと宮内庁記者の間では評判
愛飲しているのは、「百年の孤独」という焼酎
地方公務で、特に有名な産地ではなくても「こちらの地酒はおいしいそうですね」と、
まるで挨拶のように酒を所望される。

テニス
東大テニス部では、浩宮さまのテニスのお相手をさしだすにあたって
「上手に、それと悟られぬよう負けてくれる男子選手」を選抜していた。

ビオラ
学習院OBオーケストラのコンサート
テュッティーの細かい音符についていけてなくて、ほとんど飛ばして弾いていた。
最後の「ジャン!終わり」で皆が弾き終わって弓を上げて止まる所で追いついてつじつまをあわせていた。

ある音楽雑誌の編集後記
「皇太子のあの表情付けも何もないビオラ演奏に自分は象徴としての皇室を感じた」


ビオラジョーク
バイオリンが下手な人がビオラにまわされる。
皇太子さまは以前はバイオリンを弾いていた。
小澤征爾にきつく演奏を批判され、その後ビオラに転向。
主旋律を奏でる主役的バイオリンよりも、
どちらかというと縁の下の力持ち的楽器を結局選ばれた。
ご本人の篤実なご性格のあらわれ。(と雑誌では褒め称えた)

皇室番組で浩宮さま時代、中学生の頃、彼が知人に宛てた年賀状が映し出された。
賀正の「賀」の横棒が一本、足りなかった。

「浩宮様は御所では自分ひとりに対してだけ皆が話し掛けるので、
「明日ここの問題やってきなさい」 とクラス全員に向かって宿題を言っても、
自分もその中に含まれていると思わず宿題を毎日やってこない日が続いた。」

学習院高等科では浩宮さまが入ってから、試験結果の順位表を張り出すことをやめた。
理由は浩宮さまの名前が張り出されることはありえないから。
学習院は、皇族のためなら校規もかえる学校。
学年成績優秀者を表彰する決まりも、浩宮の学年で廃止になった。

高等科時代、男系の意味がどうしてもわからなかった浩宮さま
浩宮さまは他数名と追試験を受けた。
先生は気を利かして、絶対浩宮さまがすらすら書くであろう
Y染色体についての記述問題ひとつだけ出した。
ところが浩宮さまは書けなかった。その試験はそのまま不問に付され、無事卒業
他の追試メンバーも無事卒業。

以前の皇太子さまはきちんとした取り巻きがいて、足りないところもうまく隠されていた。
マスメディアによる印象操作もされてきた。
ご結婚後、だんだんメッキがはがれてきた。

スピードスケートの岡崎さんに
皇太子 「スケートの格好を愛子がしています」
岡崎さん「それでは是非スピードスケートを」
皇太子「いえ、フィギアをしています」

イギリスに留学中、同じ時期にそこにいた日本人の留学生は
ご学友になるためのご指導を宮内庁関係者から受けた。接し方、言葉遣い、話す内容。
「あまり難しいお話はなさらないように。 中学生だと思ってお話しください。

「ヤマトの王朝」
「ある企業関係者」による皇太子評
「かれは健康ではあろうが、ハンサムには程遠く、頭がよいという話は聞いたことがない。
オックスフォードに留学していたのに英語は下手で、
ヴィオラは弾くがうまくはない。退屈で凡庸な人間で、洗練されたところはまるでない」

(13) 皇太子殿下が1992年のセビリア万博に見えて、今までスペインワインを飲んだことがないが、
フランスワイン、イタリアワインより美味しいと言われた。殿下のお名前を出すのはどうかと思うが、
第三者の著名人によるPRは効果あるのではないか?
http://www.club-nippon-spain.jp/report48.html

  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇
2015年3月21日(土)
[BSプレミアム]
地球最後の未踏地帯を単独踏破した探検家・角幡唯介と、
千日回峰行という命がけの荒行を達成した僧侶・塩沼亮潤。
対談

塩沼「例えば、千日回峰行をします。
千回歩きましたといって、何か社会的な価値があるでしょうか。これは余談になるのですけれども、
以前、皇太子殿下が吉野の蔵王堂にいらっしゃいましたときに、
管長様に「千日回峰行をしたらどうなるんですか?」とお尋ねになられました。
そのときに「千日回峰行を満行した者は阿闍梨と呼ばれますが、
社会的には何の価値もないものです」とお答えしておられました。
ですから、行をしたというだけでは何の意味もないのです。
よく師匠から、行が終わったら、行を捨てなさいと言われましたが、
そういう肩書ですとか、そういうものを“はな”にかけたりするような生き方だけはしないように、
ということでしょう。
ですから、自分自身を厳しく見つめ直していくことが一番の目的だと思います」


  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

「それなら僕は結婚しない」
週刊ポスト1990年6月22日号
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1237525064363.jpg

「小和田さんでなければ(結婚の話は)ご破算にしましょう」
週刊現代2009年10月10日号
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1255108279054.jpg


http://kabanehosi.seesaa.net/article/179941260.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c23

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
24. 中川隆[-12954] koaQ7Jey 2019年1月16日 19:17:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

皇室に行方~プリンス浩宮
http://maruga935.blog8.fc2.com/blog-entry-2017.html


写真集プリンス浩宮から。

@試しに東宮御所内でハンドルを握ったことはあっても、免許は断念。

皇族で免許を取得しようとした中で、唯一免許が取得出来なかったのが徳仁
コメントの返信にも書いたけど
当時、あたかも立場上から危険回避の為に免許は断念と言っている風だが
実は、取得するだけの技術と能力が無かったというのを昔聞いた事が有る
実際、今上陛下も皇太子時代免許を取得し、弟宮を乗せたこともあったはず
「対向車が無いんで変だな?と思ったら、交通規制で陛下の車だけが走行していたと後で知った」
というエピもあったはず
秋篠宮殿下も習得されたし、紀宮様も習得
皇位継承者第一のお立場だった皇太子時代の陛下、
同じく皇位継承者の直系男児の秋篠宮殿下、
徳仁よりずっと年下の紀宮様もあっさり普通に合格された

徳仁だけが何故?

窓もほどほどに閉める事も出来ず
学習院時代、全開か閉め切るかの両極端しかできないというエピ
これは
何かをしながら、何かに注意を払うという高度な事が出来ないということ
風が入り過ぎないか、室内が適温になるにはどの程度開ければいいか
ということすら考える知力も無く
考えようとすることもしない←ここが、徳仁の徳仁らしいポイント

これが徳仁の人となりを表すエピの一つ

運転免許をとれるよう、練習するだけの立派な環境が有るのに
とれるまで努力するようなことをしない

A大学時代、毎日同じ服を着ていても平気、というくらい服装には無頓着。

無頓着と言うより、周囲に用意してもらわないと何も出来ない、
そして、自分からは「何かを考えたり」「何かを用意したり」しない
しないままできたらか、何時までも出来ないまま

それが

皇族として何年も繰り返してきた事なのに
他国の王家の葬儀に
側近が喪服でいる中、徳仁1人紺のスーツで出向いても分からない

葬儀に何を着て行くのかも理解出来ないから
喪服が用意してもらえていない事もわからないというエピ

今迄、何も考えず何も努力せず何にも無関心だったから
こんな今の醜態が有る

徳仁の今は、原因があっての結果なのだと言う事


B学食にてご飯を多く盛られてしまった女子学生に「よく食べる人は分かるんですね」。


どんだけ不躾無神経な事かも理解出来ない頭だから
思った事をそのまま口にする

それは
知能の低さまるだし
ということ

小さいな子供が大声で、あの人○○だねーと叫んでしまうのと同じ

雅子も同じ
思った事を深く考えず周囲に気を配る事もしないから、直ぐ言葉にして口に出す
相手に失礼であろうと、場の空気を壊そうとも平気

つまり
相手を思いやる
とか
場の空気を読んで気遣う
と言う事が
出来ない

理性を欠いた本能的行為


C女子学生に「どちらがダイエットできるか、やってみましょう」と持ち掛ける。

思った事を本能の赴くまま口にする無能

DNHKを訪問したとき、「今日はスタジオは静かですが、おとといみたいな日は、「大変だったでしょうね」と、金日成死亡説を話題に。

自分の立場も
自分が何人なのかも
そこがどこだかも
何一つ分からない

口を開いても開かなくても
碌な事しかしないし、言えない

凡庸で気の利いた事も言えない男と
会話をしたことのある企業マンに言われる所以


E音楽部管弦楽団歓迎会自己紹介にて「ぼくは皇居の、とある倉庫で生まれました。病院だったらしいのですが、エレベーターも故障しているようなひどいところで‥」「音楽部の演奏を初めて聴いたのは初等科の頃でした。随分、下手だな、と思ったものです」。


恐らく、徳仁としては
ユーモアとウィットにとんだ内容のつもりで書いたと思われる

頭の悪さと発達障害の典型

こんな馬鹿だから
会見文は紀宮様が代筆されることになったと
そう言われて当然だろう

口を開けば無神経
何かやらせても碌でもなく
挨拶させたらこの体たらく

だけど
自分でそれがどういう事なのかが分からない
それは
知能

そして

当時、認知度が低かった発達障害の療育を受けず
自身でも努力をしてこなかった人となり


F中等科時代、むずかしい漢字を書くときなどは、罫線からはみ出してしまうことがあった。

バランスや見通しを立てられないのが知能の低さ
この枠に収めるには、この位の位置からこの位の大きさで書き始めないとはみ出る
という想像力の欠落

同時に色んな事を注意しながら、
幾つもの操作しなければならない運転免許の取得が出来なかったのと同じ
他に
洗濯機に洗剤一箱全部入れたのもそう
また
学食で後の人の事を考えず「自分のには肉を多めに入れてくれ」とリクエストするのもそう

嫁と一緒にドタキャンドタ出や
献上品おねだり、ラッシュ時の交通規制等を平気でするのも
空気が読めない、見通しが立てられない想像力の欠落という
理性の無さ、知能の低さ

G音楽担当藤原先生、「リズム感は抜群というほどではないが、メロディーを”うたう”
ことにかけては素晴らしい素質をお持ちです」「考えられないくらいゆったりした
テンポの、個性的、かつ情熱的な演奏(シューマン子供の情景ピアノ演奏を聞いて)」


ド下手の域を超えたド下手
最早メロディ云々の話しではなく、音楽ですら無かったと言う


H合宿など旅先に、自分でヒット曲を録音、編集したカセットテープを持参することも。
曲名を書いたメモも付いていて”浩宮殿下が選んだヒットメドレー”という趣向。
カラオケは演歌が多いが、歌い方は感情をこめたカンツォーネ調。


こう言う事はまめまめしい上、
一人称二人称三人称の使い分けも出来ない

自分と他者の境界線の無さ

所謂、学者肌的な探究心等ではなく
単なる、自己満足なカラオケ好き嗜好
学習や研究は興味ないが
自分の趣味嗜好には熱心

Iゼミ仲間と喫茶店に入ったとき、ちょうど「紅茶のおいしい喫茶店」が流れていた。
手ぶりを真似しながら歌ってみせ、さらに「新曲があるんだ」と誰も知らない柏原芳恵の新曲を披露。


恐らくだが
あくまで想像でしかないが
未発表曲を教えてくれというおねだりを
柏原本人か事務所に徳仁がしたのでは?と
思って見たり

だから、自慢して披露した

自分だけは知ってるんだぞ

絶賛発売中の新曲を、マスコミの前で口にして貰えるなら
宣伝効果になるかもしれないが、
柏原側が宣伝の為に未発表曲を徳仁に教えることに
何もメリットは無い

徳仁がこんな友人だけを相手に披露して見せるのは
あくまで、徳仁の虚栄心とみていいだろう

故に、徳仁から知りたがったと類推する

かなり前にも読んだ事あったけど
改めて読んでみて
ゾッとしたんで
感想を書いて見た

雅子がどうこうとか
家族との確執がとか
そう言う事ではない

雅子と同じ

最初っから徳仁は天皇の器ではないということ

天皇の器ではない人が
天皇になろうとしているから
雅子と縁を結ぶ事になったのだろうと

そういう

自爆夫婦なのである

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2013-07-24
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[1933] Re: 皇太子の出自

> 徳仁皇太子が、今上天皇陛下の実子ではなく、徳川恒孝の子で、田布施の朝鮮勢力が今上天皇陛下の子としたという話もあります。

(ヾノ・∀・`)ナイナイ
2013-07-26 23:39
まるが@
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[1926] Re: タイトルなし


> 入内が入台になっていましたわ。
> 荷台に乗った荷物みたいだったから

パチンコ台入れ替えっぽくにも見えますしね
それも
雅子にあってるかもですねw
2013-07-26 19:44
まるが@
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[1925]

この前にコメント入れた者です。
今見直してみたら
入内が入台になっていましたわ。
失礼しました。
荷台に乗った荷物みたいだったから
つい間違えてしまいました。訂正いたします。
雅子的にはピッタリなのですがね・・

2013-07-26 17:11

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[1908] いいかげんにしなさい!

ここのブログの皇室に関する内容は、ほとんど犯罪ですよ。

意図的にデマを流すのはやめなさい!

皇太子は一定の成績できちんと学習院を卒業してますが、どうしようもなかったのが秋篠宮だったことは同世代の人間ならだれでも知ってます。
大学どころか、中学卒業の学力もないくせに、皇后の親族を駆使して、裏口でいくつも博士号取得の弟のほうが明らかに異常です。
皇室特権で最低の成績でもぐりこんだ法学部政治学科の出身なのに、なんで理学博士なのでしょうか?
中央官庁に勤務する人の中でも、秋篠宮の馬鹿ぶりは有名です。
英語もしゃべれませんし。

また、紀子妃が無理やり喪中に皇室に入り込んできた違和感は、いまだに残っています。お妃候補でもなんでもなかったにもかかわらず。
当時、いろいろ良くない噂がありましたよ。学習院の人に聞くとかなり信憑性の高いものでした。

雅子さまは、長期間お妃候補として追い掛け回されて報道され気の毒でした。

どういう意図でデマを流し、皇太子ご夫妻を貶めているのかしりませんが、警告に値すると思います。
いい加減にしなさい!
2013-07-25 16:54

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[1907]

日本神界の神様は
皇太子として生まれた浩の宮を
最初は歓迎して祝福をお与えになったはずです。
しかし長い間
この残念な皇子を見続けてきた結果
護りの御手を 引く事になさったに違いないと感じます。
雅子の入台に始まる浩の転落人生。
それまでは ポヨヨーンな感じでも、
浜尾さんをはじめとする頼りがいのある昔の日本人らしい侍従のお陰で
品格と穏やかな
様子が保たれていたと記憶しています。今の浩の顔付きときたら、下品、強欲、不遜、傲慢、馬鹿全て隠しようがない。顔は履歴書とは良く言ったもの。
そんな浩に
日本神界の神はレッドカードを突き付けた。
自分の子供が皇太子になるものと信じて疑わなかった浩と雅子には二重のロックがかけられましたね。
一つ
女の子であったこと。

二つ
その娘が知恵遅き 子だったこと。
それでも悪あがきを続けて、なんとか
女性天皇にしようとしている所に
悠仁様のご誕生!

あからさまに悠仁様を無視し続けているにもかかわらず
益々上がって行く秋篠宮家の人気。
イギリスに王女が生まれれば 愛子にも追い風が吹くはず、と 得意満面で女児の誕生を待っていたら あら〜、まさかの王子様ですってよ。
私達国民はもしかしたら千年に一度くらいにしか見られないものすごい
ドラマを拝見しているのではないでしょうか?
希代の悪党夫婦のこの後はいかに?
2013-07-25 11:17

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[1906] 殿下は出んか

随分以前のことですが 徹子の部屋で ある人が 「皇太子様に許可をいただきましたので…」とお断りしてから 話していましたが 数人で 皇太子にお会いした。そして みんなで机を壁際に運ぶことになった。そしたら 皇太子も手伝ってくれたけど 机と壁に挟まれて 身動きできなくなって 一言「殿下は出んか」とおっしゃったとか。
笑って話していたけど 机と壁に挟まれるって…???と思ったので 覚えていました。
壁際に移動させれば 挟まれないように自分はどの位置に動くか そんなことさえ???なのと。
幼い頃から 日常の些細な事でも 繰り返し繰り返し訓練していれば あるいは少しはどうにかなっていたのでしょうか。もともと 無理なお子さんだったのでしょうかねぇ。
祭祀のやりかたも 覚えられないのかもしれませんね。
2013-07-25 10:00
きび
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[1904] ホントに...

そうですよね。
振り返ってみると、???な皇太子殿下のエピは数多い。
当時はおかしな印象を持ちつつも、周囲の諸々のカバーによって、そういう方向へ流れていかぬようにされてきたのでしょう。
天皇皇后両陛下への敬愛の念になんら変わりはありませんが、やはり、皇太子殿下に関することではとても残念に思うことが多いです。
まさか本当に、ご自分の代で終わっても仕方ないなどと思われていないでしょうか?最近の両陛下の公務の対応、東宮家への対応から、そんな印象さえ持ってしまいます。
実は秋篠宮両殿下やサーヤ様がそれを一番よくご存知で、ずっと悩まれているのでは?という気もしてきました。
なんだかすごーく不安...

2013-07-25 08:15
私もママ
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[1903] 記者会見で

私の母は皇室が好きで、尊敬していて、カレンダーも毎年飾るくらいだったのですが、皇太子が結婚について記者会見で、富士山の何合目という例え方を何度もされているのを見て、同じ質問しかできない記者たちをバカじゃないかと言っておりましたが、そんな質問しかさせてもらえなかったorそんな質問しか答えられなかったということが、このトピを見てよくわかりました。
母は説明するまでもなく、娘に対する皇太子夫妻の態度や育て方を見て、拒否派になっております。カレンダーを飾るのもやめてしまいました。
2013-07-25 08:10
アッシュ
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[1902] お察しします

昔々は浜尾さんがいていろいろカバーしてくれました。
今はネットによりごまかすことができなくなりました。自らの愚かさで側近を追い出したのも間違いでしたね。
おでんかは、雅子という最強のキ印をパートナーにあれこれ自爆ww

両陛下、宮内庁はおでんかの即位については秋篠宮様にフォローさせて
なんとか対面を繕うおつもりでいたかもしれませんが、時すでに遅し。最早国民は色々気づいてしまいました。
私は両陛下を敬愛しておりますが、
もうとっくにご引退されてもいいお歳でいらっしゃるのに満身創痍でご公務されるお姿を拝見すると、
不敬ながら、「かわいそうな長男」可愛さのあまり
どこかで何かを間違われたのではないかと思い心が痛みます。
2013-07-25 00:09
hana
URL
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[1900] 庶民の目

庶民はお互いの生の感情や生活を、或る意味晒しつつ生きています。それを視てみぬ振り、摩擦が起きないように気配りをしながら生きている。
その為か、観察眼とか直感とか鋭い人は怖いほどです。

「洪宮様は、ちゃんとしたお嫁さんが来れば大丈夫。」と口癖のように言っていた近所のお年寄りが思い出されます。

考えてみれば、あちこちにキーワードとかが転がっていたのですね。
2013-07-24 22:32
雑草


http://maruga935.blog8.fc2.com/blog-entry-2017.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c24

[近代史3] 天皇家では何時から知恵遅れや発達障害の子供しか生まれなくなったのか? 中川隆
25. 中川隆[-12953] koaQ7Jey 2019年1月16日 19:22:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

私のせいで申し訳ないと謝った浩宮 大声で食ってかかった礼宮
http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-561.html?sp


比べてみよう そうしよう
2015/03/0610:58 19 -
白文鳥さまよりコメントを戴きました。

税金泥棒で思い出した

「税金泥棒!!」この同じ言葉を浴びせられた止ん事無き御兄弟の対応の違い。

皇太子殿下@学習院文化祭、コーラを販売していらした(萌え)。
他校の男子生徒の心無い発言に女生徒が教師を呼び、その場は収まる。
皇太子殿下、駆けつけた教師に「私のせいで申し訳ない。」と頭を下げ謝罪。

バカで有名な次男@喫茶店ル○ワール
サラリーマンの正直な一声に(鯰には言いたくなりますよね、わかります(・ω´・*))、SPが止めるのを見越した上で「なんだとコノヤロウ!」と大声で食ってかかる。

因みに学習院ОBの方が私の友人に、皇太子殿下のご立派さを色々教えてくれたそうです。
そこまで御自身を律しなくとも・・・と、周囲が心配する程に真面目で誠実だったそうです。

「弟は?」と訊いたら「いや、あまりよく知らなくて。」という返事。
えっ!?煤i°Д°*)だって弟の鯰の同級生なのに!?変だよそれと、当時は笑ったのですが、言えないエピばかりだったんだな〜と、今なら解ります。


コメントありがとうございます。

「税金泥棒」と皇族は言われるらしいですね。

皇太子殿下はさすがですね。
なんでここまで真面目なんだろう。
やっぱり浜尾侍従が育て、昭和天皇の薫陶を受けたからでしょう。
昭和天皇について、誕生日の記者会見でエピソードを交えてお話しされていました。
悪口を言われたのは自分なのに自分のせいで騒ぎになったと頭を下げる。
なかなかできないことですよ。

それに引きかえ

礼宮のアホさ

≫SPが止めるのを見越した上で「なんだとコノヤロウ!」と大声で食ってかかる。

少年マンガの雑魚キャラか!

列外派みたいな新規のちっちゃいブログですら、

学習院OBOGの方やその関係者から話を聞いた方からコメントを戴きます。

浩宮→誰もが絶賛するお人柄
礼宮→とにかくバカひたすらアホ

どうしてここまで兄弟で差がついているのか不思議です。
http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-561.html?sp



▲△▽▼


「 私のせいで申し訳ないと謝った浩宮 大声で食ってかかった礼宮」のコメント一覧
http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-561.html?sp&m2=res


私も言いたいさん

No title
昔、某省庁の関連機関に勤務している人に聞いたことがあります。その機関には、秋篠宮が「お勉強のため」に時々来ていたそうな。「秋篠宮って、おバカなんでしょ?」と聞いた私に、「秋篠宮はまじめだよ。外国に行く前には必ずうちに勉強に来るから。」ということでした。(お取り巻きにとっては金づるでしょうなあ、と心の中で毒づいた私です。)

あるとき、キコマコカコ(とその人が言った)がついてきて、マコカコが退屈だろうからとドラエモンのぬいぐるみを差し出したら、キコさまがさっと手を払い、頭を振ってノーのジェスチャーをしたのだそうな。さすが、皇室ではドラエモンなんかは見せてはいけないらしい、と感心したのだとか。

秋篠さんちは厳しく躾をした、ということになっているようですが・・・ドラエモンなんか見せないほど厳しい躾をした結果、「こいつ超ムカツク」などという言葉使いをする娘に育ちましたとさ。

某省庁は、皇室関連方面からの要請にはほぼ言いなりなのではないか、と疑っています。某省庁だけでなく、どこの組織でも、皇室や皇后の実家筋から言われれば、言うことを聞かないわけにはいかないというところなのでしょう。○田家周辺は、目立たないようにわが世の春を謳歌して来たのでしょうね。

今まで読ませていただいているだけでしたが、なぜか急にスイッチが入ってしまってご挨拶もなしに乱入してしまいました。失礼しました。今度書き込みすることがあれば、ちゃんとHNを名乗ってご挨拶してからにしたいと思います。
2015/03/0612:42 URL 編集

まりんさん

どうでもいいですが。
過去は過去でいいのでは?
現在の行動を見て判断することも必要な気がしますー。
過去にどれだけ優秀でも犯罪者になる人もいますし、逆もまた然り。
皇太子様は確かにお優しいと思いますよ。
ただ、人の上に立つ方は、時には非情だと思われる判断も必要な時もありますしね。


2015/03/0612:58 URL 編集

まるさん

なんで?
>ただ、人の上に立つ方は、時には非情だと思われる判断も必要な時もありますしね。

象徴天皇にそんなものは必要ありませんよ。
2015/03/0621:25 URL 編集

ぬりこさん

非常な判断って?
一企業の社長や、アメリカの大統領、日本で言えば総理大臣は、何かを生かすために、別の何かを切り捨てる判断をしなければならない時もあるでしょう。
しかし、天皇陛下とは、そのような方なのでしょうか。
一体、皇太子殿下に何を切り捨てさせたいのでしょうか?
恐らくは、妃殿下を、ということでしょうが、生憎、殿下は決して妃殿下を手放すことはありませんよ。そのような脅しに屈する方ではありません。妃殿下の存在そのものが、殿下に力を与えているので、引き離したいのでしょうが。
2015/03/0622:34 URL 編集

九重さん

Re:どうでもいいですが。
過去と現在はきりはなせるものではありません。
過去に行ったすべてのことが現在の自分を形成している。
「昔は馬鹿だったけど今は賢くなった」という例は無いわけじゃないけど、そういう例は稀有だし、もしそういう例があるとすれば、人生の途中でなにか魂を丸ごと変えてしまうようなできごとがあったはずです。

皇太子さまは、ただお優しいだけではありません。こうと信じたことはあくまでも貫いていく強さをお持ちのお方です。それはただの頑固一徹ではなく、強靭な思考力に基づいた頑固さだと思います。

一方弟は、というと、若いころからバカで有名。勉強嫌いで素行もわるい。人生の途中でなにか魂をゆすぶられるような体験をしたわけではない。
ということは、今でもバカのまんまです。
それは、子供たちで証明されていますね。

2015/03/0623:18 URL 編集

南さん

浩宮様こそ本物の皇族
皇族という立場でありながら成績は落第レベルの礼宮様ならともかく、浩宮様に向かって税金泥棒などと罵声を浴びせる輩がいるなんて信じられません。浩宮様は何も悪くないのに、むしろ悪口を言われて傷付いていらっしゃるでしょうに謝りなさるなんて、何だか悲しいですね。
愛子様もそうやって苛められてお可哀想でしたね。
浩宮様はきっと何度も税金泥棒と罵声を浴びせられたのでしょうね。そして何度も「申し訳ない」と謝ったのでしょうね。

礼宮様は……………………もう知りません(笑)
本当の税金泥棒は平成四人組なのになあ…………

皇太子殿下はお優しすぎるゆえに、病気の雅子様に強く言えない、なんて何かの記事に批判があるくらいでした。まぁどうせ、しょうもない雑誌の嘘記事でしょうけど。でも私は皇太子殿下はそこら辺の弱っちい優しさとは違うと思います。税金泥棒と言われても「申し訳ない」と謝るくらいの心の強さをお持ちの方ですよ。
皇太子殿下の優しさに救われた方は沢山いると思います。
我が国の象徴であり、国民の幸せを祈って下さる存在が非情な判断って必要ですか?
2015/03/0701:24 URL 編集

射手座さん

まりんさんへ。
確かに、非情な判断は必要かも。
昔から今に至るまで、枚挙の暇もないほどの愚行を繰り返して来た弟宮と、これからも「皇族特権」にすがりつき、国民の税金を浪費しまくる、ズルなしには生きてゆけない、弟一家の「皇籍剥奪」くらいのことはしなくちゃね〜。
2015/03/0710:40 URL 編集

オロナイン軟膏さん

この時のアーヤから・・・
あの18才少年を思い浮かべた。

自分がチヤホヤされていると嬉しい。
自分が罵声されても取り巻きがいれば平気。でも取り巻きがいないとオロオロする。
自分より人気ある人間が妬ましい。


どこかの「ヒゲの叔父様」は、
10才にも満たない姪っ子が相撲観戦して大歓迎されて大歓声で迎えられたら「こんな時に行かなくてもいいのに」とムカついたんだよね。

自分にはωついている子供がいるのに、一人娘しかいない兄貴のほうが予算も職員も多いから「うちにも金よこせ。人よこせ。」と言わせてるんだよね。

うん、アーヤって小者だわ。


2015/03/0714:21 URL 編集

ひいらぎさん

No title
今回のエピソードは、現在の皇太子殿下そのままのお姿につながりますね。どんな報道にも宮内庁や娘を使って反論することもなく、やるべき公務をアピールすることもなく、淡々と自身の役割をこなしていらっしゃいます。その姿勢は雅子様、愛子様に受け継がれています。

税金泥棒と軽はずみな発言をする人は、税金の大切さを本当に考えてるか、公務とは何か考えているのでしょうか。

出歩き公務、自己犠牲アピールは本当に国民が求めるものでしょうか。偉大だった昭和天皇の頃のご公務とは明らかに違います。

そんなに東宮の公務に不満があるのなら、リョーヘーカに引退してもらうのが一番ですね。
目立ちたがり屋で自分が一番でないと気がすまなそうなリョーヘーカを差し置いて、公務アピールする無神経さは、東宮ご一家にありません。
あ、秋篠宮がいましたね。親子そろって、報道に不満があれば率直に文句を言わずにはいられないご性格ですし。

兄弟そろって、昔も今もお変わりないようで。


2015/03/0715:09 URL 編集

原さん

>ただ、人の上に立つ方は、時には非情だと思われる判断も必要な時もありますしね。

私もまる様、ぬりこ様に同意です。
非情な判断が必要な天皇などを据えているつもりなど毛頭もないですが。
そういえば、秋篠宮邸は異動になり他所へ行くことになると「卒業おめでとう」などと言われるんだそうですねぇ。
よっぽどですよ、こんなこと言われてるなんて。

そうそう総理大臣といえば、野望の宮妃が5分リーク妊娠で国会をぶっ潰したときの小泉元総理の一連の表情が私は忘れられません。
最初は雅子様のご懐妊だと思われたのでは?喜ばしそうな顔をなさっていたし、わざわざ大事な国会中に持ってきたメモだったわけですしね。
ところが違った、違うとわかったところで冷笑を浮かべていたように見えました。
まるで「やってくれたよ」とでも言うような。
総理大臣にまで登りつめた方だから、政治における汚い手も根回しなどの政治の裏も表もよくご存知の方だったでしょうに、それでも皇族がそんな禁じ手のような汚いことをしてくるとは予想だにしていなかったのでしょう。
冷笑のあとの侮蔑の表情は、自分の政策を想定しないどころかありえない手で皇族が叩き潰してきたことよりも、男子を選別したであろうことなどへの嫌悪の方を感じたのではと思わずにはいられない映像でした。
2015/03/0719:49 URL 編集
http://retsugaiha.blog.fc2.com/blog-entry-561.html?sp&m2=res

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c25

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
134. 中川隆[-12952] koaQ7Jey 2019年1月16日 22:24:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
社内調査で私的流用が次々…日産がゴーンに損害賠償請求へ
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/245552
2019/01/16 日刊ゲンダイ


 日産自動車がカルロス・ゴーン前会長の姉との間で実体のないコンサルタント契約を結び、2003〜16年に総額75万5000ドル(約8200万円)の報酬を不当に支払っていたことが、日産の社内調査で明らかになった。

 日産は03年3月、ゴーン被告の名前で姉に「グローバル寄付諮問委員会の委員兼アドバイザーとして契約する」との書簡を送っていたが、この委員会は存在せず、姉がコンサルタント業務をしていた形跡もないという。姉には追加ボーナスが支払われた記録もあるという。

 また、日産はレバノンでほとんど事業を行っていないにもかかわらず、ゴーン被告の指示で正式の社内手続きを経ずに、レバノンの3つの大学に巨額の寄付をしていた。そのうちのひとつ、セントジョセフ大学には11〜15年に総額100万ドル(約1億800万円)を寄付していた。

 5年前にブラジル・リオデジャネイロにあるヨットクラブの会員権をゴーン名義で取得する費用として6万3000ドル(約680万円)を支払った記録も見つかった。

 ほかにリオやパリ、ベイルートでの邸宅の購入・改修費用など総額36億円を超える私的流用も明らかになった。

 日産はこうした内部調査の結果を受け、15日までにゴーン被告に損害賠償を請求する方針を固めた。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c134

[リバイバル3] 高峰秀子の引き出し 中川隆
2. 中川隆[-12951] koaQ7Jey 2019年1月16日 23:10:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
高峰秀子(@HidekoTakamine)さん Twitter
https://twitter.com/HidekoTakamine
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/583.html#c2
[近代史3] 秋篠宮文仁  僕の父親は一体誰なんでしょう? 皆さんも一緒に探してください 中川隆
8. 中川隆[-12950] koaQ7Jey 2019年1月17日 06:23:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

皇室に関する酷い噂が世間に広く流布しています。
以下、真偽不明ですが一応転記しておきます:


【知恵遅れ】 明仁天皇糾弾スレ 【貧乏神】 [無断転載禁止]©2ch.net
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1451289479?v=pc


2幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 16:59:56.39ID:uOKkYfq4

歴史のおさらい

・水戸藩の遺訓によると、徳川が危なくなったら皇統を取り替えて満洲を攻略しろとある。

・幕末に伊藤博文が孝明天皇を暗殺、岩倉具視は睦仁皇太子を暗殺。

・満洲人を父祖に持つ大室寅之祐が明治天皇になりすまして即位。

・明治天皇は無類の女好きで、妾の一人の柳原愛子が田中光顕の子を産んで、それが大正天皇になる。

・ちなみに照憲皇太后は睦仁皇太子の婚約者だったので、明治天皇とは夫婦関係はないので「皇后」とはされなかった。

・幕末維新のどさくさに紛れて朝鮮人キーセンの朱貞明が公家にはいり込んで大正天皇の后になる。

・大正天皇は病弱だったが、とても賢くて元老たちが疎ましく思う。恐らく幼少期に毒を盛られた。

・大正天皇は嘉仁皇太子時代に率直な人柄と気さくな性格で国民に大人気になる。

・大正天皇と貞明皇太后は偽装結婚で、裕仁天皇の実の父は樺山愛輔。他の兄妹も全員父親が違うという。

・近親婚を重ねた島津の血が皇室に入るのを嫌った連中が「宮中某重大事件」を起こす。実際に香淳皇后は知能が低かった。

・明仁誕生の際には「このままでは日本は滅亡だ」と病院で大騒ぎになったという。

・三笠宮には双子の妹がおり、これを巡る裕仁天皇と秩父宮の骨肉の争いで2.26事件勃発。

・2.26事件の首謀者の一人であり、ナチスのスパイだったゾルゲは処刑される。

・昭和20年の正月の皇族会議の際に裕仁天皇は「このままでは負けるので、早く白旗を上げよう」と提案するも、
貞明皇太后が「私が祈祷すれば日本は決して負けない。神国不滅だ」として家族全員が呆れる。

・今の皇統に正統性がないとした自称天皇が多数出現。その一人の三浦芳聖は、戦前に不敬罪覚悟で
田中光顕に直訴すると、頭山満に面通しされた。

・アメリカは戦犯として昭和26年のサンフランシスコ講和会議前に貞明皇太后を暗殺する。

・明仁と美智子の結婚もアメリカの差し金で決定。柳原白蓮などが強行に反対。

・第一子の浩宮皇太子は無事誕生するも、入江侍従長が美智子皇太子妃を強姦して秋篠宮が生まれる。


3幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:00:32.42ID:uOKkYfq4

光格天皇以来、幕府に頭をおさえつけられて京都で貧乏な生活をしていた朝廷は
幕府の権威の低下に乗じて復権を企て、それに長州や水戸藩なども一枚噛んでいた
わけなのだが、黒船来航とコレラ大流行でもはや孝明天皇の権威も地に落ちてしまった。

だから創価学会、天理教、金光教などの新興宗教が雨後の竹の子の如く出現した。
天皇の権威低下は、長州のテロリストには好都合だった。彼らは「尊皇」でなければ、 「攘夷」でもない。単に「天皇の権威」を利用して日本国を徳川から簒奪したゴロツキに過ぎなかった。

伊藤博文は孝明天皇を刺殺、岩倉具視は睦仁皇太子を毒殺し、長州の片田舎に居た満州人を「明治天皇」に偽装させたわけだ。だから睦仁の婚約者だった美子とは夫婦関係はない偽装結婚で、だから生前から「皇后」と呼ばれることもなかった。

大正天皇の生母は柳原愛子だが、明治十年の西南戦争の二年後に出産している。

この西南戦争では西郷隆盛がいわゆる「西郷札」を乱発し、戦後はその回収に政府は大わらわ、 緊縮財政で松方デフレになってしまった。

没落した旗本たちは娘を身売りせざるえず、 宮城=皇居では毎晩乱交パーティがくり広げられていたという。その際に明治天皇のお手付きだった柳原愛子は、土佐の田中光顕の子を身籠った。これが後の大正天皇である嘉仁だった。

しかるに、孝明天皇と明治天皇と大正天皇と昭和天皇はまったくの赤の他人であり、テロリスト伊藤博文が自分の悪行を隠すために「万世一系」などという笑止千万な嘘を捏造したのだ。


4幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:00:45.51ID:uOKkYfq4

幸ちゃんは明仁は単なる知恵おくれかと思っていたが、直接やりとりして救いようのない人間の屑であると認識した。

明仁は「長引く不況や少子高齢化で国民生活が疲弊しているのに、何か国民に言うことはないか」と問われて「いや、それよりも戦争の記憶の伝承を」とかほざいたんだろ。

だったら貞明皇太后はどうなんだ? 既に昭和20年1月の御前会議で裕仁天皇、三笠宮、秩父宮などが食卓を囲んで

「このままでは日本は必ず負ける。早く白旗を上げたほうがいい」

という意見で一致していたのに、貞明皇太后は

「それはだめだ。神国不滅だ。自分がお祈りすれば必ずアメリカに勝てる」


などと豪語したという。東京大空襲で皇居も延焼し、さらに米軍機から機銃掃射を受けて貞明皇太后は「死ぬかと思った。やっと国民と一体になれた」と言ったそうじゃないか。

裕仁天皇は母親に逆らえなかったので戦争が長引き、多くの人命と財産が失われた。

貞明皇太后は昭和26年の主権回復前に急死しているが、アメリカが暗殺したのだろうね。キーセンの最期としては適当なのかも知れないけど、戦地で死んだり満州で悲惨な目に遭った国民はたまったもんじゃないよ。

明仁はバカだから、長年の念願だったパラオへ行ってみて、歓迎されるどころか憎まれていることにやっと気づいたようだね。早く死ねばいいよ。


5幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:01:15.11ID:uOKkYfq4>>378>>392

キーセンの貞明皇太后は勝手に宮中祭祀を変えたから関東大震災が起こったのだ。
当時の大正天皇は重篤な病気だったので、これも貞明皇后の所業だ。降伏を長引かせて被害を拡大させたのも貞明皇太后だ。おまけに裕仁の父親は樺山愛輔だし。

樺山愛輔
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Aisuke_Kabayama.jpg

裕仁天皇
http://ameblo.jp/hirai-h/image-11656042516-12726176349.html

明仁
http://media.liveauctiongroup.net/i/8165/9616691_1.jpg?v=8CCE2C66D0651D0


6幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:01:39.56ID:uOKkYfq4

血を引いているので顔がそっくり

田中光顕
http://sakawa-kankou.jp/images/tanaka_main.jpg


http://www.ndl.go.jp/portrait/JPEG_L/349-434/s0095l.jpg

大正天皇
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Emperor_Taish%C5%8D.jpg

92右や左の名無し様2016/02/18(木) 02:15:14.46ID:kuZDvTaD
>>2
大正天皇の皇后であった朱貞明は朝鮮人キーセンではない

* 「朱貞明」は→中国の明王朝をおこした「朱家の末裔」だよ
* 中国の明を興した朱元章(日本では光武帝)の子孫が
→大正天皇の皇后で昭和天皇の生母である朱貞明(家系ロンダリングして九条節子)だよ

もともと天皇家は渡来人だから
中国の明王朝の血が日本の皇室に入ったわけだ

因みに明王明の朱家は中国人ではなく客家人だ
朱家→朱貞明は中国人ではなく客家人

客家人は中国人のユダヤと云われる民族で
客家の出自はシルクロードの民と云われるペリシテ人
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1451289479?v=pc

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c8

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
147. 中川隆[-12949] koaQ7Jey 2019年1月17日 06:28:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

皇室に関する酷い噂が世間に広く流布しています。
以下、真偽不明ですが一応転記しておきます:

【知恵遅れ】 明仁天皇糾弾スレ 【貧乏神】 [無断転載禁止]©2ch.net
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1451289479?v=pc


2幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 16:59:56.39ID:uOKkYfq4

歴史のおさらい


・明治天皇は無類の女好きで、妾の一人の柳原愛子が田中光顕の子を産んで、それが大正天皇になる。

・大正天皇と貞明皇太后は偽装結婚で、裕仁天皇の実の父は樺山愛輔。他の兄妹も全員父親が違うという。

・近親婚を重ねた島津の血が皇室に入るのを嫌った連中が「宮中某重大事件」を起こす。実際に香淳皇后は知能が低かった。

・明仁誕生の際には「このままでは日本は滅亡だ」と病院で大騒ぎになったという。

・三笠宮には双子の妹がおり、これを巡る裕仁天皇と秩父宮の骨肉の争いで2.26事件勃発。

・2.26事件の首謀者の一人であり、ナチスのスパイだったゾルゲは処刑される。

・昭和20年の正月の皇族会議の際に裕仁天皇は

「このままでは負けるので、早く白旗を上げよう」

と提案するも、 貞明皇太后が

「私が祈祷すれば日本は決して負けない。神国不滅だ」

として家族全員が呆れる。


・アメリカは戦犯として昭和26年のサンフランシスコ講和会議前に貞明皇太后を暗殺する。

・明仁と美智子の結婚もアメリカの差し金で決定。柳原白蓮などが強行に反対。

3幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:00:32.42ID:uOKkYfq4


大正天皇の生母は柳原愛子だが、明治十年の西南戦争の二年後に出産している。

この西南戦争では西郷隆盛がいわゆる「西郷札」を乱発し、戦後はその回収に政府は大わらわ、 緊縮財政で松方デフレになってしまった。

没落した旗本たちは娘を身売りせざるえず、 宮城=皇居では毎晩乱交パーティがくり広げられていたという。その際に明治天皇のお手付きだった柳原愛子は、土佐の田中光顕の子を身籠った。これが後の大正天皇である嘉仁だった。

しかるに、孝明天皇と明治天皇と大正天皇と昭和天皇はまったくの赤の他人であり、テロリスト伊藤博文が自分の悪行を隠すために「万世一系」などという笑止千万な嘘を捏造したのだ。


4幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:00:45.51ID:uOKkYfq4

幸ちゃんは明仁は単なる知恵おくれかと思っていたが、直接やりとりして救いようのない人間の屑であると認識した。

明仁は「長引く不況や少子高齢化で国民生活が疲弊しているのに、何か国民に言うことはないか」と問われて「いや、それよりも戦争の記憶の伝承を」とかほざいたんだろ。

だったら貞明皇太后はどうなんだ? 既に昭和20年1月の御前会議で裕仁天皇、三笠宮、秩父宮などが食卓を囲んで

「このままでは日本は必ず負ける。早く白旗を上げたほうがいい」

という意見で一致していたのに、貞明皇太后は

「それはだめだ。神国不滅だ。自分がお祈りすれば必ずアメリカに勝てる」


などと豪語したという。東京大空襲で皇居も延焼し、さらに米軍機から機銃掃射を受けて貞明皇太后は「死ぬかと思った。やっと国民と一体になれた」と言ったそうじゃないか。

裕仁天皇は母親に逆らえなかったので戦争が長引き、多くの人命と財産が失われた。

貞明皇太后は昭和26年の主権回復前に急死しているが、アメリカが暗殺したのだろうね。キーセンの最期としては適当なのかも知れないけど、戦地で死んだり満州で悲惨な目に遭った国民はたまったもんじゃないよ。

明仁はバカだから、長年の念願だったパラオへ行ってみて、歓迎されるどころか憎まれていることにやっと気づいたようだね。早く死ねばいいよ。


5幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:01:15.11ID:uOKkYfq4>>378>>392

キーセンの貞明皇太后は勝手に宮中祭祀を変えたから関東大震災が起こったのだ。
当時の大正天皇は重篤な病気だったので、これも貞明皇后の所業だ。降伏を長引かせて被害を拡大させたのも貞明皇太后だ。おまけに裕仁の父親は樺山愛輔だし。

樺山愛輔
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Aisuke_Kabayama.jpg


裕仁天皇
http://ameblo.jp/hirai-h/image-11656042516-12726176349.html

明仁
http://media.liveauctiongroup.net/i/8165/9616691_1.jpg?v=8CCE2C66D0651D0


6幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:01:39.56ID:uOKkYfq4

血を引いているので顔がそっくり

田中光顕
http://sakawa-kankou.jp/images/tanaka_main.jpg


http://www.ndl.go.jp/portrait/JPEG_L/349-434/s0095l.jpg


大正天皇
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Emperor_Taish%C5%8D.jpg


92右や左の名無し様2016/02/18(木) 02:15:14.46ID:kuZDvTaD
>>2
大正天皇の皇后であった朱貞明は朝鮮人キーセンではない

* 「朱貞明」は→中国の明王朝をおこした「朱家の末裔」だよ
* 中国の明を興した朱元章(日本では光武帝)の子孫が
→大正天皇の皇后で昭和天皇の生母である朱貞明(家系ロンダリングして九条節子)だよ

もともと天皇家は渡来人だから
中国の明王朝の血が日本の皇室に入ったわけだ

因みに明王明の朱家は中国人ではなく客家人だ
朱家→朱貞明は中国人ではなく客家人

客家人は中国人のユダヤと云われる民族で
客家の出自はシルクロードの民と云われるペリシテ人
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1451289479?v=pc

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c147

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
148. 中川隆[-12948] koaQ7Jey 2019年1月17日 06:33:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

皇室に関する酷い噂が世間に広く流布しています _ 2


御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り

そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて

毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ

それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけです

だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです

東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです

他の連中も

そういうシステムで戦争が進んでいく訳です
http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes

おまけにこの連中 命令は全て口頭で記録は一切残さなかったらしい。
この代わりに命令の記録を残した連中が東京裁判で責任とらされたようだ。

東京裁判というのは関係者の皆さん全てご存知の上での猿芝居ではなかったのかとも思う


ゴマすり東条さんは毎日三回は 昭和天皇の所へ顔を出して、御用聞きしてたんだ

それである日、昭和天皇が真珠湾を攻撃しろと言ったんで、へいへいとその通りにしたというのが真実

戦前は天皇が認めないと法律も通せなかった

南京大虐殺も広田弘毅が中止を具申したが、昭和天皇が頑としてつっぱねたからああなった。



http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c148

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
149. 中川隆[-12947] koaQ7Jey 2019年1月17日 06:35:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

皇室に関する酷い噂が世間に広く流布しています _ 3


吉田茂は昭和天皇の指示で御前会議の内容を毎回、細大漏らさず すべてアメリカに伝えていた


アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。


日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/07/post_3bbd.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c149

[近代史3] 昔の日本映画は熱かった _ 成瀬巳喜男 あらくれ(東宝 1957年)

成瀬巳喜男 あらくれ(東宝 1957年)

監督 成瀬巳喜男
脚本 水木洋子
原作 徳田秋声
音楽 斎藤一郎
撮影 玉井正夫
配給 東宝
公開 1957年5月22日

動画
https://www.youtube.com/watch?v=tfe9oP_Co3I


キャスト

高峰秀子 - お島
上原謙 - 鶴さん
森雅之 - 浜屋
加東大介 - 小野田
東野英治郎 - お島の父
岸輝子 - お島の母
宮口精二 - お島の兄・壮太郎
中北千枝子 - お島の姉・おすず
坂本武 (松竹) - お島の養父・喜助
本間文子 - お島の養母・おとら
谷晃 - 作太郎
林幹 - 植源の隠居
田中春男 - 植源の隠居の息子・房吉
三浦光子 (東映) - おゆう
千石規子 - 浜屋の妻・お君
中村葉子 - 浜屋の子供・絹子
平兮淳司 - 浜屋の子供・正夫
横山運平 (新東宝) - 浜屋の爺さん
志村喬 - 精米所の主人
清川玉枝 (大映) - おしん
中村是好 - 温泉宿の主人
音羽久米子 - 温泉宿の主人のお上さん・さと
沢村貞子 - お島の伯母
高堂国典 - 小野田の父・金七
賀原夏子 - 印刷屋のお上さん・おとく
丹阿弥谷津子 - お花の師匠
仲代達矢 - 木村
出雲八重子 - 髪結
三浦常男 - 小僧順吉
左卜全 - 駄菓子屋のお爺さん
馬野都留子 - 駄菓子屋のお婆さん
佐田豊 - 芝の店の職人
大村千吉 - 根津の店の職人
沢村いき雄 - 学校の門番
平奈淳司 - お君の子・正夫
中村葉子 - お君の子・絹子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%8F%E3%82%8C_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

▲△▽▼

成瀬巳喜男「あらくれ」を観る  「あるがまま」の世界はどう描かれたか
http://kssa8008.hatenablog.com/entry/2017/05/16/001016

 高峰秀子が演じるお島は、現在も含めて、日本映画にはまず見当たらないヒロインだろう。お島が、勝気で、行動的で、時に亭主に手が出るほど男勝りだから、ということではない。その無節操、無道徳ぶりが際立っているからである。そういう意味で、このヒロイン像は空前絶後といえるだろう(これは非難しているのではない)。

 原作は大正期4年に読売新聞に連載された徳田秋聲の長編小説「あらくれ」。原作とは違う面も多いが、成瀬は原作をよく咀嚼しているのだろう。お島の浮き沈み多い波乱の半生を、成瀬巳喜男は、淡々と、非情に描いていく。

 時代は大正期。お島(高峰秀子)は農家の養女として育てられたが、養家の息子との結婚を嫌がり出奔。人の勧めで東京の缶詰問屋の嫁に入るが、夫(上原謙)とも折り合いが悪くなり離婚。雪国の旅館に女中として奉公するうちに、若主人(森雅之)とわりない仲になるが、引き離され上京。洋服仕立て屋で仕事をするうちに、そこの職人(加東大介)と一緒に独立。そこそこの成功を収めるが、夫の浮気などもあって、再び店の職人(仲代達矢)と共に再び独立しようと決意するところで映画は終わる。

 一人の女性の流転の半生というと、運命や時代に翻弄される薄幸のヒロイン像を思い浮かべたくなるが、お島にはおよそ薄幸というような言葉は似合わない。次々と男と交渉を重ねていくわけだが、悪女というのも、奔放というのもあてはまらない。お島は、その時々に懸命なだけだ。なんとか人の世話にならないで生きていきたい、すこしでもいい生活をしたいともがく結果がそういうことになる。

 彼女にも、もちろん恋愛感情や愛情はあるが、生活が成り立たなければ、常に打算が優先する。結果だけを見れば、無節操・無道徳に男を利用し渡り歩いているようだが、彼女は特に後悔も反省もしない。そうしなければ生きていけないからそうしただけの話だからだ。お島の生きている世界では、実は無節操・無道徳が当然であり、誰もが大なり小なり打算の中で生きているからだ。だから、彼女は、だれからも非難されない。

 

 無節操・無道徳なのは、何もお島だけではない。缶詰問屋の夫(上原謙)は、今度の嫁は丈夫だろう、と聞かれ前の嫁は身体が弱くて往生したのでと笑いながら話す。お島の垢抜けない着物の選択や、締まりのない着こなしに一々注文をつけ、妊娠したお島の子どもが自分の子ではないのでは疑う。その上、昔馴染みの人妻に秋波を送る。

 浜屋の若主人(森雅之)は、妻が肺病で療養中。商売の才はなく、母に牛耳られている。いつも静かに書物を読んでいるいわば田舎のインテリなのだが、おずおずとだが自分からお島と関係を持つ。公然の関係になっても母の女主人は特に叱責するでもなく、世間体があるからと、更に山奥の温泉宿にお島を移す。そんなことはよくあるからだ(女主人にも愛人がいる)。若主人は、母に逆らえない。ぐずぐずと未練を残すが妻も家も捨てられない。

 お島は、実家の父に引き戻され、再び上京して洋服仕立て屋で働き始めるが、腕のある職人(加東大介)を誘って自立を図る。

「あんたは、あたしがつきあった男の中で一番男ぶりが悪いわ」これが、お島が職人に言うセリフだ。およそ若い男女にありそうな甘い関係はない。

 最初は苦労するが、お島の才覚もあって、店はそこそこ繁盛する。夫は商売に飽きて、商売第一な、お島にも辟易して、妾をこしらえる。お島はお島で、上京した浜屋の若主人と逢引をしたりする。

 誰もが無軌道で無道徳。ここでは高邁な理想とか浮き立つような夢とかが語られることはない。現実の生活を、自分の身の上を、少しでもよくするために懸命にはなるが、一応の格好がつくとそこで満足して、また下り道に向かう。

 お島は、次々と男を変えていくが、普通の恋愛映画などと比べると、どこか根本的に情愛に欠けた女に思えてくる。だが、現実の世界では実はこれが普通で、必要以上にロマンチックでは生きられない。

 成瀬巳喜男は、お島に特別な感情移入をしない。善悪の判断もしない。非難も称賛もしない。淡々と、時に冷徹にお島とお島を取り巻く「あるがまま」の生活、「あるがまま」の世界を描いていく。それはまた、徳田秋聲の描いた小説の世界だからである。

 この映画を見ていると、今の私たちの生活も世界も、実は少しも変わっておらず、周りには多くのお島が、懸命に、だが無自覚に生き続けているように思えてくる。

 この映画、もっととりあげられてもよい秀作なのだが、やっぱり地味すぎるのか。それは、原作が地味だということも影響しているのかもしれない。


 徳田秋聲は明治以降最大の作家の一人であるが、最も語られることの少ない作家でもある。自然主義文学の大家とか、私小説の極北とか、いろいろ言われるし、たしかに「あらくれ」のほかにも「黴」「足跡」「縮図」などは文学年表にも載っているだろうが、読んでいる人は少ないだろう。秋聲は多作な作家で(全42巻の全集が刊行されている)、実は多くの長編小説を書いているのだが、もともとストーリーの起伏が乏しいため映画向きではないのだと思う。それでも、随分映画や舞台になった作品もあるようだが(不勉強で調べていない)、成瀬巳喜男による秋聲の映画化作品は「あらくれ」だけのようだ。だが、「浮雲」「めし」などの林芙美子作品の映画化や「流れる」(幸田文 原作)などを見ると、成瀬が秋聲の作品をとりあげた必然性のようなものがあるように思える。

※ 高峰秀子は好演。どこか情に乏しく、男勝り。時には亭主にも亭主の妾にかぶりついていく「あらくれ」た女という設定は意外と柄にあっているのか。

※ この映画を見て、本棚から「あらくれ」を引っ張り出したのだが、秋聲は歳を取ってから読んでも相変わらずなかなか手強い。こちらは感想を書くのにも手がかかりそうだ。

※ 映画に出てくる大正時代の風俗描写もなかなか面白い。最初の頃のお島の着物姿は確かにだらしなくて、チャラチャラした感じだがそれが次第に垢抜けていく様子が映像で見事に示されていく。雪国のモンペ、藁ぐつで 移動する芸者だとか、ドレスのような洋服姿で、自転車にまたがり商売のために街中を駆け巡るお島の姿なども頷かせるものがある。

※ 浜屋の女主人とそのパトロンが花札に興じているシーンがあるが、秋聲 の小説には実に花札をする場面がけっこうあって、男も女も花札をよくやる。花札が日常的に行われている様子がこの映画で見るとよくわかる。
http://kssa8008.hatenablog.com/entry/2017/05/16/001016

▲△▽▼

映画「あらくれ」について

 今年は、コ田秋声の「あらくれ」が発表されてちょうど百年目に当たる。ということで、前期の文学史の講義で、「あらくれ」を読売新聞の初出形でひたすら読むという授業をして、ささやかなオマージュを捧げた。辛抱強く出席してくれた七、八人の学生のみなさんに感謝する。結局一番為になったのは私自身であり、以前とは違い、「あらくれ」後半の面白さにとても強く印象づけられた。フロベールにとって「ボヴァリー夫人」が特別なテクストであるように、「あらくれ」は秋声の中で特別なテクストである。テーマの切実性では「黴」、純粋な文章の魅力という意味では「足迹」や「爛」、カオスに満ちた異様な怪物性という点では「仮装人物」を挙げるべきだろうが、秋声の作品の中で「あらくれ」は言わば「フィロソフィー」的な意味での特異点として輝いている。

 授業の最後の二回を使って成瀬巳喜男の映画「あらくれ」をVHSで見たのだが(まだDVD化していないようだ)、これも新たな発見があって面白かった。成瀬は戦前に既に「あらくれ」の映画化を考えていたが果せず、戦後自由に取材できるようになって、はじめて撮ることができたという。しかし成瀬の意気込みとは逆に、客入りは良くなかった。成瀬映画に対する従来の批評や研究においても、「あらくれ」はあまり評価されてはいない。しかし原作と比べながら見ると、非常におもしろい映画である。

 映画では、原作の最初の部分はカットされ、お島と最初の夫の缶詰屋の鶴さんとの夫婦生活から始まる。昔はこのカットが不満だったが、改めて見直すと、これはこれでそういうものとして見れば受け入れられる。原作は、荒川のほとりに始まり、山の温泉で終わるという「水」のイメージの差異的反復がテクストの動力になっているのだが、映画では「水」のイメージは、お島がホースで小野田に水をぶっかける場面と、ラストのどしゃぶりの町の中でお島が去って行く場面(原作にない映画のオリジナルシーン)の2カ所に切り詰められる(浜屋と初めて結ばれた翌朝に現場となった風呂場の水を抜くシーンや、お島が家出をして川のほとりで浜屋と父親に発見されるという原作の一つの山場になっている挿話がなくなったのは残念だった)。また性についての記述も映画では大体カットされ(せりふに幾つか残っているが)、原作の頽廃的で無倫理的な雰囲気は映画にはない(たとえば原作では腕の入れ墨を見せてお島を魅了する若い職人は、映画で仲代達矢が演じるが、入れ墨の場面はなく、もっと健康的で戦後的な好青年になっている)。原作は「明治」から「大正」へと進む時代の流れを背景にしていたが、映画は、「明治」の部分を切り捨て「大正」だけをクローズアップする。そこでは原作における母との葛藤を軸とした家族論的主題は消滅し(お島を流産させるのは原作では母だが、映画では自分で階段から転げ落ちる)、女性の創業物語としての面も希薄となって、水平的な夫婦の関係のみに焦点が絞られる。まさに「戦後民主主義」(大正デモクラシーの反復としての)から見た「あらくれ」と言える。

 しかしそのような世界観の矮小化にもかかわらず、「あらくれ」は美しく感動的な映画である。私は原作のせりふが往年の名優たちの口からそのまま語られるだけで感動してしまうので、客観的ではないのだが、配役はかなりうまく行っている気がする。お島役の高峰秀子はもっとドスの利いた迫力があればというところもあるが、美しく撮れているので問題はない。一瞬だけ出てくる作太郎もユニークで、もっと出番があればと思った。上原謙の鶴さん、森雅之の浜屋も良い。特に森は少し爺むさいが、浜屋のアンニュイな雰囲気を良く現している。加東大介の小野田は、達者にうまく演じているとは思うが、私自身はもっと無骨でいかつい感じをイメージしていた。風俗考証は木村荘八ということで、大正時代の雰囲気を手堅く美しく再現しているが、最も印象に残るのはやはり「女唐服」を着たお島が自転車で疾走するところである。わずかな部分だが、この映画のベストショットと言えるかもしれない。

 そして今回見直して私が驚いたのは、お島と浜屋が逢引きして「金色夜叉」 の活動写真を見る場面である。そこでは貫一が自分を裏切ったお宮を足蹴にする有名な場面が映画内映画として弁士の語りつきで写される。これは原作にはない場面であるが、それだけに成瀬の批評がここに込められているとも受け取れる。この場面は途中で映画フィルムが焼き切れて中断してしまうのだが、それは尾崎紅葉の文学を否定して成立した秋声の文学を現しているようであり、お宮のような受動的なあり方を拒絶するお島の位相、そして無声映画を否定するトーキーをも同時に示しているのかもしれない。
http://franzjoseph.blog134.fc2.com/blog-entry-66.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/166.html

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
38. 中川隆[-12946] koaQ7Jey 2019年1月17日 06:41:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

皇室に関する酷い噂が世間に広く流布しています。
以下、真偽不明ですが一応転記しておきます:


【知恵遅れ】 明仁天皇糾弾スレ 【貧乏神】 [無断転載禁止]©2ch.net
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1451289479?v=pc


2幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 16:59:56.39ID:uOKkYfq4

歴史のおさらい


・明治天皇は無類の女好きで、妾の一人の柳原愛子が田中光顕の子を産んで、それが大正天皇になる。

・大正天皇と貞明皇太后は偽装結婚で、裕仁天皇の実の父は樺山愛輔。他の兄妹も全員父親が違うという。

・近親婚を重ねた島津の血が皇室に入るのを嫌った連中が「宮中某重大事件」を起こす。実際に香淳皇后は知能が低かった。

・明仁誕生の際には「このままでは日本は滅亡だ」と病院で大騒ぎになったという。

・三笠宮には双子の妹がおり、これを巡る裕仁天皇と秩父宮の骨肉の争いで2.26事件勃発。

・2.26事件の首謀者の一人であり、ナチスのスパイだったゾルゲは処刑される。

・昭和20年の正月の皇族会議の際に裕仁天皇は

「このままでは負けるので、早く白旗を上げよう」

と提案するも、 貞明皇太后が

「私が祈祷すれば日本は決して負けない。神国不滅だ」

として家族全員が呆れる。


・アメリカは戦犯として昭和26年のサンフランシスコ講和会議前に貞明皇太后を暗殺する。

・明仁と美智子の結婚もアメリカの差し金で決定。柳原白蓮などが強行に反対。


3幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:00:32.42ID:uOKkYfq4


大正天皇の生母は柳原愛子だが、明治十年の西南戦争の二年後に出産している。

この西南戦争では西郷隆盛がいわゆる「西郷札」を乱発し、戦後はその回収に政府は大わらわ、 緊縮財政で松方デフレになってしまった。

没落した旗本たちは娘を身売りせざるえず、 宮城=皇居では毎晩乱交パーティがくり広げられていたという。その際に明治天皇のお手付きだった柳原愛子は、土佐の田中光顕の子を身籠った。これが後の大正天皇である嘉仁だった。

しかるに、孝明天皇と明治天皇と大正天皇と昭和天皇はまったくの赤の他人であり、テロリスト伊藤博文が自分の悪行を隠すために「万世一系」などという笑止千万な嘘を捏造したのだ。


4幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:00:45.51ID:uOKkYfq4

幸ちゃんは明仁は単なる知恵おくれかと思っていたが、直接やりとりして救いようのない人間の屑であると認識した。

明仁は「長引く不況や少子高齢化で国民生活が疲弊しているのに、何か国民に言うことはないか」と問われて「いや、それよりも戦争の記憶の伝承を」とかほざいたんだろ。

だったら貞明皇太后はどうなんだ? 既に昭和20年1月の御前会議で裕仁天皇、三笠宮、秩父宮などが食卓を囲んで

「このままでは日本は必ず負ける。早く白旗を上げたほうがいい」

という意見で一致していたのに、貞明皇太后は

「それはだめだ。神国不滅だ。自分がお祈りすれば必ずアメリカに勝てる」


などと豪語したという。東京大空襲で皇居も延焼し、さらに米軍機から機銃掃射を受けて貞明皇太后は「死ぬかと思った。やっと国民と一体になれた」と言ったそうじゃないか。

裕仁天皇は母親に逆らえなかったので戦争が長引き、多くの人命と財産が失われた。

貞明皇太后は昭和26年の主権回復前に急死しているが、アメリカが暗殺したのだろうね。キーセンの最期としては適当なのかも知れないけど、戦地で死んだり満州で悲惨な目に遭った国民はたまったもんじゃないよ。

明仁はバカだから、長年の念願だったパラオへ行ってみて、歓迎されるどころか憎まれていることにやっと気づいたようだね。早く死ねばいいよ。


5幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:01:15.11ID:uOKkYfq4>>378>>392

キーセンの貞明皇太后は勝手に宮中祭祀を変えたから関東大震災が起こったのだ。
当時の大正天皇は重篤な病気だったので、これも貞明皇后の所業だ。降伏を長引かせて被害を拡大させたのも貞明皇太后だ。おまけに裕仁の父親は樺山愛輔だし。

樺山愛輔
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Aisuke_Kabayama.jpg


裕仁天皇
http://ameblo.jp/hirai-h/image-11656042516-12726176349.html

明仁
http://media.liveauctiongroup.net/i/8165/9616691_1.jpg?v=8CCE2C66D0651D0


6幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB 2015/12/28(月) 17:01:39.56ID:uOKkYfq4

血を引いているので顔がそっくり

田中光顕
http://sakawa-kankou.jp/images/tanaka_main.jpg


http://www.ndl.go.jp/portrait/JPEG_L/349-434/s0095l.jpg


大正天皇
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Emperor_Taish%C5%8D.jpg


92右や左の名無し様2016/02/18(木) 02:15:14.46ID:kuZDvTaD
>>2
大正天皇の皇后であった朱貞明は朝鮮人キーセンではない

* 「朱貞明」は→中国の明王朝をおこした「朱家の末裔」だよ
* 中国の明を興した朱元章(日本では光武帝)の子孫が
→大正天皇の皇后で昭和天皇の生母である朱貞明(家系ロンダリングして九条節子)だよ

もともと天皇家は渡来人だから
中国の明王朝の血が日本の皇室に入ったわけだ

因みに明王明の朱家は中国人ではなく客家人だ
朱家→朱貞明は中国人ではなく客家人

客家人は中国人のユダヤと云われる民族で
客家の出自はシルクロードの民と云われるペリシテ人
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1451289479?v=pc



▲△▽▼

皇室に関する酷い噂が世間に広く流布しています _ 2

御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り

そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて

毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ

それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけです

だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです

東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです

他の連中も

そういうシステムで戦争が進んでいく訳です
http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes


おまけにこの連中 命令は全て口頭で記録は一切残さなかったらしい。
この代わりに命令の記録を残した連中が東京裁判で責任とらされたようだ。

東京裁判というのは関係者の皆さん全てご存知の上での猿芝居ではなかったのかとも思う


ゴマすり東条さんは毎日三回は 昭和天皇の所へ顔を出して、御用聞きしてたんだ

それである日、昭和天皇が真珠湾を攻撃しろと言ったんで、へいへいとその通りにしたというのが真実


戦前は天皇が認めないと法律も通せなかった

南京大虐殺も広田弘毅が中止を具申したが、昭和天皇が頑としてつっぱねたからああなった。






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皇室に関する酷い噂が世間に広く流布しています _ 3

吉田茂は昭和天皇の指示で御前会議の内容を毎回、細大漏らさず すべてアメリカに伝えていた


アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。
http://mayo.blogzine.jp/blog/2008/07/post_3bbd.html


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c38

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
39. 中川隆[-12945] koaQ7Jey 2019年1月17日 06:52:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

昭和天皇が GPモルガンの手先のスパイでなかったら太平洋戦争は勝っていた


大東亜戦争で真に反省すべき事『大東亜戦争 日本は「勝利の方程式」を持っていた!』2018/12/22
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_6.html


「勝てる戦争をなぜ負けたのか」という反省をしていないので、我々は当時の弱点を今もひきずっている。


■1.開戦直前に正式に採択された「勝てる戦略」があった。

 大東亜戦争に関する自虐史観には、次の二つの側面がある。

 1)「世界を侵略した悪い戦争」
 2) 何十倍もの国力を持つアメリカと戦って「勝てるはずのない愚かな戦争」

 このうち、1)の「悪い戦争」のウソはアメリカの共和党系の歴史学者や政治家により明らかにされつつあり、特にスターリンが日米を戦わせて漁夫の利をさらった史実が近年の秘密文書の公開などでも裏付けられてきた。[a]

 もう一つ、2)の「勝てるはずのない愚かな戦争」という見方に関しても、歴史文書の解明が進み、それが捏造された自虐史観であることが分かってきた。最近、出版された茂木弘道(もてき・ひろみち)氏の『大東亜戦争 日本は「勝利の方程式」を持っていた!』[1]は、この点を史実で明らかにした労作である。

 それも歴史の後智恵から「こうすれば勝てた」という「タラ・レバ」論ではなく、開戦直前に大本営政府連絡会議で正式に採択された国家戦略があった、というのである。

 茂木氏は、日本がこの戦略をそのまま実行していたら、十二分に勝てた(といっても、アメリカを征服するのではなく、日本の自存自衛とアジア諸国の独立を勝ち得て、有利な停戦に持ち込む)戦略であることを史実をもとに論証している。

 しかも、なぜ、この戦略が実行されなかったのかも、史実を通じて分析している。そこから出てくるのは、なぜ勝てる戦いをみすみす負けてしまったのか、という真の反省である。その真の反省が行われていない事から、当時の弱点を現代日本も引き摺っている。


■2.開戦前は日本の戦力が優勢だった

 まず戦略の前提として、開戦前の日米の戦力を比較しておこう。[1, p89、一部弊誌にて簡略化] 日本に比べて、米国太平洋側、および米国全体の優劣を○×で表しておく。

        日本    米国    米国
           (太平洋側) (大西洋側を含む合計)
  戦艦    10    11○   17○
  空母    10     3×    7×
  巡洋艦   38    32×   37×
  駆逐艦  112    84×  172○
  潜水艦   65    30×  111○
  航空機 4800     ?  5500○

 戦艦数では若干負けていたが、翌年完成する大和、武蔵を含めれば米国の太平洋側戦力は上回っていた。空母、巡洋艦では日本は米国全体に対しても優勢だった。駆逐艦、潜水艦でも米国の太平洋側戦力は凌駕していた。

 航空機数では日本は米国全体の87%。数は多少劣勢だが、零戦の性能ははるかに米軍機を上回っていた。開戦劈頭のフィリピン攻撃では、台湾から渡洋攻撃した零戦34機を2倍近い米戦闘機群が包囲して大空中戦が展開されたが、米軍機44機が撃墜されたのに対し、零戦の損害は1機のみであった。

 米国が工業力をフル回転させて大艦隊、大航空戦力を投入できたのは開戦2年目以降であるから、当初2年ほどは、日本が質だけでなく、量的にも米軍を凌駕していたのである。

 このデータから見れば、日本が米国相手に「勝てるはずのない愚かな戦い」をした、という見方は事実に悖(もと)る事が分かる。開戦2年以内に勝負をつければ、日本が日露戦争のように優勢のまま停戦に持ち込む、という可能性は十二分にあった。そして、実際にそれを目指した戦略が立てられていたのである。


■3.「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」

 開戦直前の昭和16(1941)年11月15日、大本営政府連絡会議は「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を採択した。アメリカ、イギリス、オランダ、蒋介石政権に対する戦争の「終末を促進」するための戦略案である。当時気鋭の経済学者たちを動員して各国の抗戦力調査を行い、それに基づいて立案された戦略であった。

 その冒頭の方針が、すべてを語っている。()の数字は説明のために弊誌で挿入したものである。また、かな、漢字などは読みやすく変えている。正確な原文は[1]を見ていただきたい。

__________
方針1 (1)速やかに極東における米英蘭の根拠を転覆して自存自衛を確立するとともに、(2)更に積極措置により蒋政権の屈服を促進し、(3)独伊と提携してまず英の屈服を図り、(4)米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。[1, p47]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 (1)の「極東における米英蘭の根拠を転覆して自存自衛を確立」とは、当時のわが国はABCD(米英中蘭)包囲網で資源輸入を絶たれ、国家の生存を脅かされていたからである。そこで日本は、開戦劈頭、電撃的な攻勢によりマレーシア、インドネシアなど南方資源地帯を確保した。

 特に石油に関しては、昭和17年2月、陸軍空挺部隊の活躍でインドネシアのパレンバン石油基地を無傷で確保できた。当時の日本の年間石油必要量およそ4百万トンに対して、年産約3百万トンの石油が確保でき、さらに技術者の努力により、これを6百万トンにまで拡大できた。こうして、(1)「極東における米英蘭の根拠を転覆して自存自衛を確立」する戦略は、見事に達成されたのである。


■4.「英米の主力艦は、もはやインド洋にも太平洋にもいない」

 (2)の「蒋政権の屈服」と(3)の「英の屈服」の鍵がインド洋にあった。まず、米英から蒋介石政権への軍事援助物資は、大西洋からアフリカ喜望峰を回ってインド洋を北上し、インドのカルカッタ港などから中国大陸の奥地に逃げ込んだ蒋介石政権に送られていた。

 インド洋の制海権はどうだったのか。開戦直後のシンガポールを拠点とするイギリスの不沈艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは日本の航空戦隊の爆撃と魚雷攻撃により沈められていた[b]。

 イギリスのチャーチル首相はこの報告にショックを受けて、「英米の主力艦は、もはやインド洋にも太平洋にもいない。・・・このひろびろとした海域のいたるところで、日本は主導権を握ったのだ」と書いている。

 チャーチルの言うように、インド洋で日本は「主導権」を握る事ができた。112隻の駆逐艦や65隻の潜水艦の相当部分をインド洋に投入すれば、蒋介石政権への軍事物資を積んだ輸送船を次々と沈めて、その「屈服」を実現することは容易だったろう。

 そうすれば、蒋介石は日本との講和に応じたはずだ。もともと日本は中国大陸に領土的野心があったわけではない。蒋介石が英米の支援をあてにして、和平交渉に応じないからこそ、孫文の門下で蒋介石の先輩格にあたる汪兆銘に政権を樹立させていた[c]。英米からの支援が途絶えれば、蒋介石も膝を屈して汪兆銘との連立政権に参加し、中国戦線も終結していたろう。


■5.ドイツの懇請

 (3)の「英の屈服」もインド洋が鍵だった。というのは、英国はインドやオーストラリア、ニュージーランドからの食料や資源の輸入に頼っており、インド洋を抑えれば、イギリス経済の息の根を止めることができるからである。

 さらに、ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア軍はアフリカ北岸をスエズ運河に向かって進撃していた。スエズ運河を抑えればイギリスへの中東の石油供給をストップできる。さらに東進すれば、中東の油田そのものが手に入る。

 スエズ運河を守っているイギリス軍を支援していたのはアメリカで、その援助物資はアフリカ東岸を伝ってインド洋を北上していた。これも日本軍がインド洋を抑えていれば、止めることができる。実際に昭和17(1942)年3月27日の日独伊混合専門委員会でドイツは日本に次の懇請をしている。

__________
 日本海軍がこの際、独伊のエジプト侵攻に策応し、アフリカ東岸を北上する敵側の補給動脈を撃滅する作戦を実施するよう、特別の配慮を望む。[1, p121]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 実際には、日本海軍はこの懇請を無視したので、アメリカは「アフリカ東岸を北上する補給動脈」を通じて最新鋭のM4戦車300両と自走砲100門を送る事ができ、これが決め手となってロンメル将軍は退却を余儀なくされたのである。ドイツからみれは、日本はなんと頼りにならない同盟国かと地団駄を踏んだ事だろう。


■6.米英の悲鳴

 インド洋の制海権の戦略的重要性は、ドイツのみならず、米英もも気づいていた。アメリカのマーシャル参謀長もこう悲鳴を上げている。

__________
 ドイツのロンメル将軍やクライスト(JOG注:ドイツの名将)が中東からやってくる。中東の全域がドイツとイタリアに制圧される。東から日本軍がやってきてインド洋が制圧されそうだ。アメリカとしては打つ手がないではないか。[1, p123]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 チャーチルもルーズベルト大統領あての書簡で、こう書いている。

__________
 今、日本がセイロン島と東部インドからさらに西部インドへ前進してくれば対抗できない。蒋介石支援ルート、ペルシャ湾経由の石油ルートやソ連支援ルートが遮断される。[1, p123]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「ソ連支援ルート」とは、アメリカの軍事物資がこれまたインド洋を通り、インドやイランを経由してソ連に送られていたのである。その量たるや、航空機1万4700機と、日本の零戦の全生産量に匹敵した。それ以外に戦車7千両、トラック37万台、食料448万トンなどのおよそ半分がインド洋経由だった。これらを止めれば、ソ連はドイツの攻勢に屈服していただろう。

 そうすれば、ドイツ軍は全勢力を対英戦線に投入できることになり、英国の運命は風前の灯(ともしび)だった。実にドイツの勝利の足を引っ張ったのは日本軍がインド洋を無視したことであった。


■7.「インドの独立を刺激す」

 チャーチルが恐れた「日本がセイロン島と東部インドからさらに西部インドへ前進してくれば」という作戦は、ごく一部だが実施された。昭和17(1942)年4月、南雲機動部隊がセイロンのコロンボを空襲して基地施設に損害を与え、付近の洋上で重巡2隻を撃沈、さらに西岸のツリンコマリ基地を空襲して大打撃を与え、小型空母ハーミスを撃沈した。

 この頃にはマレーシア、シンガポールの英軍から離脱したインド兵たちを日本軍が組織化して、シンガポールで4万5千人からなるインド国民軍が発足していた[d]。5月にはインド独立運動の指導者スバス・チャンドラ・ボースが東京で東條英機首相と会見し、インドに向けて独立を呼びかけるラジオ放送を行っていた。[e]

 ボース率いるインド国民軍をセイロンからインドに上陸させていれば、全インドが立ち上がって即座に英軍を追い出したろう。実際に「腹案」では、「英の屈服」のための「要領」の一つに「インドの独立を刺激す」を含めている。

 東南アジアとインドの植民地を失い、オーストラリア、ニュージーランドからの資源食料輸入が途絶え、中東の油田も失ったら、イギリスも屈服せざるを得ないだろう。日本はイギリスの命綱を断ち切る力を持っていた。チャーチルの悲鳴も当然であった。


■8.なぜこの「腹案」が実行できなかったのか

 中国もイギリスも「屈服」したら、自ずから「(4)米の継戦意志を喪失せしむる」が実現したろう。もともとルーズベルト大統領は「海外のいかなる戦争に巻き込まれることもない」事を選挙公約として当選したのである。それほど、米国民は遠くはなれたアジアやヨーロッパでの戦争に巻き込まれることを嫌っていた。

 そのためにルーズベルトは苦心して、日本を経済的に追いつめ、真珠湾攻撃という最初の一発を撃たせて、米国を「裏口からドイツとの戦争に巻き込んだ」(共和党下院リーダー、ハミルトン・フィッシュ議員)のである[e]。

 日本がこの「腹案」をきちんと実行していれば、蒋介石政権とイギリスが「屈服」し、そうなればアメリカも継戦意志を失って、適当なところで日本の優勢のうちに「戦争終末」を迎える事ができた可能性が高い。

 しかし、現実の大東亜戦争は、この「腹案」から大きく逸脱して、真珠湾攻撃で米国民を激昂させ、さらにミッドウェーやガダルカナルなど、戦略的にほとんど価値のない戦線で日本軍は消耗していったのである。

 なぜ、大本営で正式採択され、しかもドイツが懇請し、英米指導者が恐れたこの「腹案」を実行できなかったのか。茂木氏は著書の後半で、この分析を行っている。読者には、ぜひ直接、氏の著書にあたって、この問題を考えていただきたいと思う。

 一つだけ種明かしをすると、真珠湾攻撃であまりにも鮮やかな戦果を上げたので、さらに米国を痛めつけて米国民の志気を喪失させよう、という方向に走ってしまった事が挙げられる。やられたらかえってファイトを燃やすという米国民の気質も、また米国の工業力も無視した空想的戦略だった。

 経済学者たちの冷静な分析の結果から引き出された現実的な戦略を無視して、何の裏付けもない空想的な戦略に走る。これは現在の9条教と同じ非合理な精神構造ではないか。「勝てるはずのない愚かな戦争」という自虐史観に目くらましされて、真の反省をしていないので、我々はこの非合理的精神構造から抜け出せないのである。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(951) ルーズベルト大統領が播いた「竜の歯」 〜 日米戦争、冷戦、そして共産中国
 共産主義者に操られたルーズベルト大統領が、日本を開戦に追い込み、ソ連を護り育て、世界に戦争の危機をばらまいた。
http://blog.jog-net.jp/201605/article_4.html

b. JOG(270 もう一つの開戦 〜 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅
 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog270.html

c. JOG(140) 汪兆銘〜革命未だ成功せず
 売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。中国の国民の幸せのために。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog140.html

d. JOG(508) インド独立に賭けた男たち(上)〜 シンガポールへ
 誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の姿に、彼らは共に戦う事を決意した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog508.html

e. JOG(509) インド独立に賭けた男たち(下)〜 デリーへ
 チャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、インド国民の自由独立への思いに火を灯した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog509.html

f. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog096.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 茂木弘道『大東亜戦争 日本は「勝利の方程式」を持っていた! ―実際的シミュレーションで証明する日本の必勝戦略』★★★、ハート出版、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4802400713/japanontheg01-22/


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_6.html



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いわんかな#18【日米開戦の真実・後編 米共産主義スパイと山本五十六】 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=qK-aTkDVrzg&app=desktop
https://www.youtube.com/watch?v=RnHViHclRlg&app=desktop

収録日:2018年12月6日

出演:(左から順に)

日下公人(評論家)
塩見和子(日本太鼓財団理事長・国際同時通訳の第一人者)
馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使・元防衛大学校教授)
渡辺惣樹
堤堯(ジャーナリスト・元文藝春秋編集長)
福島香織(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
高山正之(ジャーナリスト・元産経新聞記者)
志方俊之(軍事アナリスト・元陸上自衛官陸将)

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c39

[近代史02] 君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか? 中川隆
150. 中川隆[-12944] koaQ7Jey 2019年1月17日 07:14:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

昭和天皇も蒋介石もフランクリン・ルーズベルト大統領が世界を共産化しようとしていたのに気付かなかった


中共はアメリカが毛沢東を支援して作らせた国だし、朝鮮戦争は八百長戦争で
韓国と北朝鮮の対立はヤラセだというのが定説になりつつありますね。

というより、大東亜戦争はスターリンとルーズベルトが組んで世界を共産化する為に行ったというのが有力な説で、天皇一族や蒋介石は反共だったのでアメリカに潰されたのです。

北朝鮮は八百長戦争の朝鮮戦争をやって、アメリカと中共が協力して作った国です。

北朝鮮がミサイル打ったり、核開発するから、日本が高価な防衛ミサイルを買ってくれたり、思いやり予算を沢山出してくれるのですね。

北朝鮮の拉致も、北朝鮮政府が単独でそんな自国に損な事をやる筈がないので
アメリカが指示してやらせたんですね

慰安婦問題や南京大虐殺で中国・朝鮮が騒いでいるのもアメリカの指示だとわかっています。

所謂、分割統治という植民地支配の方法ですね。
中国・朝鮮・日本が仲良くなってアメリカに対抗してくると困るのです。

アメリカは最初から中共と同盟国で、アメリカの製造業の工場をすべて中国に移転した後に為替操作して超円高にし、意図的に日本の輸出産業を壊滅させています。

周恩来とキッシンジャーは日本をアメリカと中国の共通の仮想敵国として
日本には絶対に再軍備させない、核武装させないという密約をしています。

1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976



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[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学ぶ] 7 (日米近代史 1-3)
「 ロシア革命」と裏で支援した人達 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=dhyXzcOIrwI&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=8&app=desktop


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史2-3)
[支那事変]とは 日本 対 [ソ連 英 米] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=r4qS9LFuQG0&index=9&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=2yQ72lCQUNg&index=10&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


2018/04/15 に公開
馬渕睦夫さん 元特命全権大使 駐キューバ 駐ウクライナ兼モルドバ

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[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656


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トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第28代アメリカ合衆国大統領である。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党大統領である。


進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた。1912年の大統領選挙では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。

1885年にブリンマー大学(英語版)で歴史学および政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。1888年にコネチカット州のウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。

1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration )において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウ(英語版)と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]。

合衆国大統領としては、当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、ここまでの成果は慈善家のクリーブランド・ドッジ(英語版)の協力なしには得られなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3

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フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt [ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt], 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。

民主党出身の第32代大統領(1933年 - 1945年)


世界恐慌、第二次世界大戦時のアメリカ大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人。彼の政権下でのニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ合衆国の経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される[3]。

ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領でもある。

その一方、日独伊の枢軸国勢力を敵視する一方でソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取り、その侵略行為を黙認したことは後に批判の対象となった。中華民国に対しては、日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行っていた上に、同国との利権も多かったために「中国びいき」と言われた。

ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のジョージ・ワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は2選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条1951年)、正式に大統領は2期までと定められた。

アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯[要出典]を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。

ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。

保守派の中でも、ロナルド・レーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。

ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。

また、最高裁判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民に強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判をまねいただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代のジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。

在任日数4422日は、アメリカ合衆国大統領史上最長の任期である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88


 
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アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ
「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0-%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E3%81%99%E3%82%8B-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4584136823/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1546955741&sr=8-3&keywords=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB+%E6%9C%AC


「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」…近現代史の裏には必ず彼らがいる!

米大統領のウィルソンやルーズベルトを操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。

社会主義者=国際金融資本家。「東京裁判史観」を打ち破る渾身の一冊!!

アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか?


「東京裁判史観」を正面から打ち破る一冊! !
「ロシア革命」「支那事変」「日米戦争」……、
近現代史の裏には必ず彼らがいる!

ウィルソン大統領やルーズベルト大統領を操り、日本とアメリカを戦わせた勢力に迫る―。


日米の“真の和解"のために、著者渾身の書下ろし!

■ メディアを支配するものが世界を支配する

■ 国際社会は「国益」のぶつかり合い

■ ウィルソン大統領の「ロシア革命礼賛」の謎

■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html#c150

[近代史02] 昭和天皇が戦争狂になった訳 中川隆
40. 中川隆[-12943] koaQ7Jey 2019年1月17日 07:16:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

昭和天皇も蒋介石もフランクリン・ルーズベルト大統領が世界を共産化しようとしていたのに気付かなかった


中共はアメリカが毛沢東を支援して作らせた国だし、朝鮮戦争は八百長戦争で
韓国と北朝鮮の対立はヤラセだというのが定説になりつつありますね。

というより、大東亜戦争はスターリンとルーズベルトが組んで世界を共産化する為に行ったというのが有力な説で、天皇一族や蒋介石は反共だったのでアメリカに潰されたのです。

北朝鮮は八百長戦争の朝鮮戦争をやって、アメリカと中共が協力して作った国です。

北朝鮮がミサイル打ったり、核開発するから、日本が高価な防衛ミサイルを買ってくれたり、思いやり予算を沢山出してくれるのですね。

北朝鮮の拉致も、北朝鮮政府が単独でそんな自国に損な事をやる筈がないので
アメリカが指示してやらせたんですね

慰安婦問題や南京大虐殺で中国・朝鮮が騒いでいるのもアメリカの指示だとわかっています。

所謂、分割統治という植民地支配の方法ですね。
中国・朝鮮・日本が仲良くなってアメリカに対抗してくると困るのです。

アメリカは最初から中共と同盟国で、アメリカの製造業の工場をすべて中国に移転した後に為替操作して超円高にし、意図的に日本の輸出産業を壊滅させています。

周恩来とキッシンジャーは日本をアメリカと中国の共通の仮想敵国として
日本には絶対に再軍備させない、核武装させないという密約をしています:


1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976



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[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学ぶ] 7 (日米近代史 1-3)
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[馬渕睦夫さん ][今一度歴史を学び直す] 7 (日米近現代史3-3)
なぜアメリカは日本に戦争を仕掛けたのか? - YouTube 動画
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2018/04/15 に公開
馬渕睦夫さん 元特命全権大使 駐キューバ 駐ウクライナ兼モルドバ

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https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:

国難の正体――日本が生き残るための「世界史」 – 2012/12/25 馬渕睦夫 (著)

「国難」とは「グローバリズム」という潮流のことです。

グローバリズムとは、「民営化」「規制緩和」という拒否できない美名のもとに強烈な格差社会を生み出し、各国の歴史や文化を破壊します。「世界史」といえば、「国家」間の対立や同盟の歴史と教科書で習ってきました。しかし、戦後世界史には国家の対立軸では解けない謎が沢山あります。

日本では対米関係ばかり論じられますが、じつはアメリカを考える上でイギリスの存在は欠かせません。政治も経済も日本はなぜこれほど低迷しているのか。元大使が2013年に向け緊急提言!


戦後世界史の謎

▶東西冷戦は作られた構造だった

▶なぜ毛沢東の弱小共産党が中国で権力を握れたのか

▶朝鮮戦争でマッカーサーが解任された本当の理由

▶アメリカはベトナム戦争に負けなければならなかった

▶なぜかアメリカ軍占領後アフガニスタンで麻薬生産が増大した

▶「中東の春」運動を指導するアメリカのNGO

https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93%E2%80%95%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%80%8D-%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4862860656


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トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson, 1856年12月28日 - 1924年2月3日)は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第28代アメリカ合衆国大統領である。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党大統領である。


進歩主義運動の指導者として1902年から10年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から13年までニュージャージー州知事を務めた。1912年の大統領選挙では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位ではなく、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。

1885年にブリンマー大学(英語版)で歴史学および政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。1888年にコネチカット州のウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。

1887年に執筆した論文『行政の研究』(The Study of Administration )において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウ(英語版)と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]。

合衆国大統領としては、当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、ここまでの成果は慈善家のクリーブランド・ドッジ(英語版)の協力なしには得られなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3

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フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt [ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt], 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。

民主党出身の第32代大統領(1933年 - 1945年)


世界恐慌、第二次世界大戦時のアメリカ大統領であり、20世紀前半の国際政治における中心人物の1人。彼の政権下でのニューディール政策と第二次世界大戦への参戦による戦時経済はアメリカ合衆国の経済を世界恐慌のどん底から回復させたと評価される[3]。

ラジオを通じて国民との対話を重視した。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。また、アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領でもある。

その一方、日独伊の枢軸国勢力を敵視する一方でソビエト連邦の独裁者ヨシフ・スターリンに対する容共的な姿勢を取り、その侵略行為を黙認したことは後に批判の対象となった。中華民国に対しては、日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行っていた上に、同国との利権も多かったために「中国びいき」と言われた。

ルーズベルトはアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のジョージ・ワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は2選までというのが慣例だったが、戦時・有事を理由に1940年・1944年の大統領選に立候補し当選した。後に憲法が改正され(修正第22条1951年)、正式に大統領は2期までと定められた。

アメリカ経済の回復は同時に、第二次世界大戦が起こるまでの間、デトロイト市の大工業地帯[要出典]を枢軸国に対する「民主主義の兵器廠」に発展させた。これは戦後、アメリカが国際的な覇権を握る原動力となった。ルーズベルトの平和に対する国際組織の展望は死後に国際連合として結実した。

ルーズベルトの評価は立場で大きく分かれる。リベラル派(自由主義)から見ると、ニューディール政策をはじめとしたケインズ福祉国家的政策の開始は「恐慌への対策を具体化したもの」として評価され、「はじめて本格的な貧困層対策に取り組んだ」大統領として評価される。それまで南部の地域政党的色彩が強かった民主党に「世界恐慌の結果発生した貧困層の救済」という新たな目的を打ち出し、この2つの支持基盤を合わせる事によって「ニューディール連合」と呼ばれる大きな民主党支持基盤を形成してその後数十年に渡る議会における民主党の優位をもたらした。

保守派の中でも、ロナルド・レーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛した。他方、小さな政府を唱える保守派はニューディールにきわめて否定的な評価をしており、民主党のニューディール連合を崩すことで1980年代以降の共和党の勢力拡大は成功したといえる。

ニューディール政策については、現在でも経済学者の間でその評価は分かれている。

また、最高裁判事の人事への介入による三権分立の民主主義原則への抵触や、大戦中に日系アメリカ移民に強制収容を行った事や、政権期間を通じて行われたアフリカ系アメリカ人公民権運動に対する事実上の妨害という人種差別的観点から行われた政策は、その立場を問わず各方面からの大きな批判をまねいただけでなく、アメリカにおける人種差別の解消を遅らせる要因の1つとなった。

民主党政権としての「貧困層」と「人種マイノリティ」という別々の背景を持ったアメリカ社会における弱者に対する矛盾した態度の解決は、1960年代のジョン・F・ケネディとリンドン・B・ジョンソンの政権まで持ち越された。

在任日数4422日は、アメリカ合衆国大統領史上最長の任期である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88


 
▲△▽▼


アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ
「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する – 2015/10/9 馬渕 睦夫(著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E3%81%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%82%93%E3%81%A0-%E3%80%8C%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AE20%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%92%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E3%81%99%E3%82%8B-%E9%A6%AC%E6%B8%95-%E7%9D%A6%E5%A4%AB/dp/4584136823/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1546955741&sr=8-3&keywords=%E9%A6%AC%E6%B8%95%E7%9D%A6%E5%A4%AB+%E6%9C%AC


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日米の“真の和解"のために、著者渾身の書下ろし!

■ メディアを支配するものが世界を支配する

■ 国際社会は「国益」のぶつかり合い

■ ウィルソン大統領の「ロシア革命礼賛」の謎

■ 大資本家は社会主義者である

■ 共産主義者はなぜ殺人に“不感症"なのか

■ 「ワシントン会議」こそ大東亜戦争の火種

■ アメリカは中国を舞台に、日本に“参戦"していた

■ ルーズベルト大統領も国際主義者だった! 他


【目次より】

序 章 【米露に対する「安倍外交」の真髄】
世界は日本に期待している!
・アメリカの「対露制裁解除」の鍵を握る安倍外交
・「中国の暴走」を抑えるには、ロシアを味方にせよ 他

第一部 【ウィルソン大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本を「敵国」としたのか
I「日米関係」の歴史
II アメリカの社会主義者たち
III「共産ロシア」に対する日米の相違
IV 人種差別撤廃と民族自決
v 運命の「ワシントン会議」

第二部 【支那事変の真相】
アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか
I 狙われた中国と満洲
II「西安事件」の世界史的意義
III 中国に肩入れするアメリカ

第三部 【ルーズベルト大統領時代のアメリカ】
アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか
I ルーズベルト政権秘話
II 仕組まれた真珠湾攻撃
III 日本を戦争へ導く「アッカラム覚書」

終 章 【これからの日米関係】
「グローバリズム」は21世紀の「国際主義」である
・アメリカの正体とは?
・「グローバリズム」と「ナショナリズム」の両立は可能か 他


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html#c40

[近代史3] 勝又壽良 _ 中国・朝鮮ヘイトでグローバリズム礼賛のアホ経済評論家 中川隆
17. 中川隆[-12942] koaQ7Jey 2019年1月17日 07:45:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

今日、

勝又壽良のワールドビュー
http://hisayoshi-katsumata-worldview.com/

にコメントしようとしたら、コメント禁止になっていました。

自分の書いた事に自信が有るなら、反論すればいい事なんですけどね。
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/142.html#c17

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 志田未来 秘密 (テレビ朝日 2010年)

テレビ朝日 テレビドラマ 秘密


動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%A7%98%E5%AF%86++%E5%B0%8F%E8%81%B0+


放送期間 2010年10月15日 - 12月10日(9回)

原作 東野圭吾
脚本 吉田紀子


キャスト

杉田藻奈美・直子 - 志田未来
杉田平介 - 佐々木蔵之介
橋本多恵子 - 本仮屋ユイカ
小坂洋太郎 - 橋本さとし
吉本和子 - 池津祥子


第1話 2010年10月15日 東野圭吾!! 伝説のベストセラー 心は38歳、体は16歳の妻
第2話 2010年10月22日 東野圭吾原作〜今夜16才の妻を抱く!!
第3話 2010年10月29日 東野圭吾原作〜16才の妻、同窓会へ!!
第4話 2010年11月5日 東野圭吾原作〜私の記憶が消える日!!
第5話 2010年11月12日 東野圭吾原作〜妊娠!! 唐木希浩
第6話 2010年11月19日 東野圭吾原作〜許されない恋の始まり
第7話 2010年11月26日 東野圭吾原作〜妻の恋人
第8話 2010年12月3日 最終章〜妻との永遠の別れ…
最終話 2010年12月10日 運命は妻を二度奪う…そして驚愕最終回!!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E5%AF%86_(%E6%9D%B1%E9%87%8E%E5%9C%AD%E5%90%BE)

▲△▽▼

秘密が、愛を、濃密にする。

ごく平凡な3人家族を襲った突然の“悲劇”。 すべてはその瞬間から始まった--。

妻と娘を乗せたバスが崖から転落。 妻は死亡し、娘は奇跡的に助かる。 ところが… そのとき誰もが想像すらしなかった事態が起こっていた。 助かった娘の体には妻の魂が宿っていたのだ!

その日から、一家の切なく奇妙な“秘密”の生活が始まる…。

大人気作家・東野圭吾氏がブレイクするキッカケとなった感動のロングセラー傑作長編ミステリー『秘密』。

母親の魂が宿った女子高生・杉田藻奈美を演じるのは志田未来。

そんな娘(=妻)の存在に大きく揺れ動く男・杉田平介役には佐々木蔵之介。

25歳差の演技派2人を迎えて珠玉の名作『秘密』が連続ドラマとなって蘇ります。

(C)原作 東野圭吾著『秘密』(文藝春秋刊)(C)テレビ朝日


1. 第1話
2007年夏。電機メーカーに勤務する杉田平介(佐々木蔵之介)は、いつもとさほど変わらない一日を過ごしていた。家の中では長野の実家に行くことになった妻・直子(石田ひかり)と娘・藻奈美(志田未来)が慌しく準備をしていた。平介はそんな2人を送り出した。さらりと、ごく普通に。そして、そんなありふれた日常の幸せを実感することもなく--。 しかし数時間後、そんなありふれた日常が一瞬にして消える事件が起こる。妻と娘がいない家でひとり晩酌をしていた平介に、耳を疑うようなニュースがテレビ画面から飛び込んできた。それは、直子と藻奈美を乗せたバスが崖から転落したことを知らせる緊急ニュースだった。 (C)原作 東野圭吾著『秘密』(文藝春秋刊)(C)テレビ朝日
48 分 初公開日: 2010年10月15日


2. 第2話
姿は藻奈美(志田未来)だが、その魂は亡くなったはずの母・直子(石田ひかり)--誰にも信じてもらえないであろう<秘密>を抱えた平介(佐々木蔵之介)と直子(=藻奈美)の新しい生活が始まった。ところが事故後、初登校した“直子”に衝撃的な出来事が降りかかる。なんと、クラスメートの相馬春樹(竜星涼)に突然キスされたのだ! 藻奈美から春樹のことなど聞いたこともなかった“直子”は凍りつき、春樹を突き飛ばして逃げ去る。 (C)原作 東野圭吾著『秘密』(文藝春秋刊)(C)テレビ朝日
48 分 初公開日: 2010年10月22日


3. 第3話
平介(佐々木蔵之介)と直子(石田ひかり)宛てに、大学のサークル同窓会の案内状が届いた。直子の魂は今も娘・藻奈美(志田未来)の体に宿っているが、世間的に直子は死んだことになっている。どう考えても、堂々と2人揃って同窓会に出席することは不可能だ…。平介は同窓会のことを直子に伝えるべきかどうか悩む。 一方、直子は藻奈美の彼氏・相馬(竜星涼)をきちんとふることを決意。春樹に「お父さん(=平介)に心配をかけるわけにはいかない。今はお父さんのそばにいて、身の回りのお世話や家事をしてあげたい」と告げ、別れを切り出す。 (C)原作 東野圭吾著『秘密』(文藝春秋刊)(C)テレビ朝日
48 分 初公開日: 2010年10月29日


4. 第4話
娘・藻奈美(志田未来)の魂と妻・直子(石田ひかり)の体を奪ったバス事故。あの事故を引き起こした亡き運転手・梶川幸広(吹越満)は、札幌に住むサワダミカコという女性に毎月10万以上の金を3年半にもわたり送金していた…。梶川の妻・征子(堀内敬子)からその事実を聞かされて以来、平介(佐々木蔵之介)はサワダミカコの正体と梶川の送金理由が気になって、頭から離れずにいた。 そんななか平介と直子は、事故の日に直子と藻奈美が向かうはずだった長野を訪れることに。 (C)原作 東野圭吾著『秘密』(文藝春秋刊)(C)テレビ朝日
48 分 初公開日: 2010年11月5日


5. 第5話
年が明けた。平介(佐々木蔵之介)、直子(石田ひかり)、藻奈美(志田未来)の3人で明るい食卓を囲んだ去年までの正月とは打って変わり、今年の杉田家には淋しい空気が漂っていた…。そんななか、“藻奈美”として生きることを決意した直子は受験に向け、元旦から猛勉強を開始する。 やがて新学期が始まり、藻奈美の担任・多恵子(本仮屋ユイカ)が杉田家を訪ねてきた。藻奈美のことで話があるという多恵子。なんでも、藻奈美が医学部を志望しているというのだ。本人から一度も相談されたことのなかった平介は、驚きを隠せない。 (C)原作 東野圭吾著『秘密』(文藝春秋刊)(C)テレビ朝日
48 分 初公開日: 2010年11月12日


6. 第6話
藻奈美(志田未来)の魂と直子(石田ひかり)の体を奪ったバス事故を引き起こした運転手・梶川幸広(吹越満)の妻・征子が心筋梗塞で亡くなった。平介(佐々木蔵之介)、そして藻奈美として生きる直子は通夜に参列する。その後、通夜から戻った平介に、征子の娘・逸美(日向ななみ)から電話がかかってきた。どうしても平介に渡したいものがあるという。直子の提案で、平介は逸美を自宅へ招くことに。やがて逸美が杉田家にやって来た。彼女が平介に差し出したのは、なんと梶川幸広がいつも身に着けていた懐中時計。しかも、蓋の裏には3歳くらいの男の子の写真が貼ってあり…。 (C)原作 東野圭吾著『秘密』(文藝春秋刊)(C)テレビ朝日
48 分 初公開日: 2010年11月19日


7. 第7話
札幌出張の際に、バス運転手・梶川幸広(吹越満)と前妻の息子・文也(田中圭)に会った平介(佐々木蔵之介)。しかし、文也は家庭を捨ててほかの女と逃げた父のことを恨んでおり、平介が渡そうとした梶川の形見も受け取ろうとはしなかった。藻奈美(志田未来)の魂と直子(石田ひかり)の身体を奪った事故を起こすほど身をすり減らして働きながら、前妻の姉・沢田美香子に送金していた梶川の意図は何だったのか。そして、美香子はなぜ送金の事実を文也には隠していたのか…。平介はもやもやとした気持ちが収まらないまま、東京へと戻る。 (C)原作 東野圭吾著『秘密』(文藝春秋刊)(C)テレビ朝日
48 分 初公開日: 2010年11月26日

8. 第8話
藻奈美(志田未来)の姿をした直子(石田ひかり)との生活が続くなか、平介(佐々木蔵之介)は急速に焦りを感じていた。直子が自分から離れていくような恐怖に襲われていたからだ。直子を繋ぎ止めたい--平介の一途な想いは、盗聴器を仕掛けたり、相馬春樹(竜星涼)と直子のデート現場に押しかけて邪魔をするなど、卑劣な行動となって表に出た。「お願いだから、私をこれ以上苦しめないで」--直子と平介の関係は、取り返しがつかないほどまでに破綻しようとしていた…。 (C)原作 東野圭吾著『秘密』(文藝春秋刊)(C)テレビ朝日
48 分 初公開日: 2010年12月3日

9. 最終話
身体は藻奈美(志田未来)だが、心は直子(石田ひかり)--バス事故以降、周囲には秘密で妻との奇妙な生活を送っていた平介(佐々木蔵之介)。ところが突然、ずっと消えたままだった藻奈美の魂が戻ってきた! それ以来、藻奈美の魂はたびたび戻ってくるようになる。状況だけ見れば、依然として奇妙であることには変わらなかった。だが、平介は久々に家族3人で暮らす幸せを噛み締め、この状態がずっと続けばいいと願う。 (C)原作 東野圭吾著『秘密』(文藝春秋刊)(C)テレビ朝日
48 分 初公開日: 2010年12月10日
https://www.amazon.co.jp/dp/B01LXZZ1ZN

▲△▽▼


秘密 (文春文庫) – 2001/5/1 東野 圭吾 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%98%E5%AF%86-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%B1%E9%87%8E-%E5%9C%AD%E5%90%BE/dp/4167110067

妻・直子と小学5年生の娘・藻奈美を乗せたバスが崖から転落。妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、死んだはずの妻だった。その日から杉田家の切なく奇妙な“秘密”の生活が始まった。

映画「秘密」の原作であり、98年度のベストミステリーとして話題をさらった長篇


運命は、愛する人を二度奪っていく。

自動車部品メーカーで働く39歳の杉田平介は妻・直子と小学5年生の娘・藻奈美と暮らしていた。

長野の実家に行く妻と娘を乗せたスキーバスが崖から転落してしまう。
妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、死んだはずの妻だった。
その日から杉田家の切なく奇妙な“秘密"の生活が始まった。

外見は小学生ながら今までどおり家事をこなす妻は、やがて藻奈美の代わりに 新しい人生を送りたいと決意し、私立中学を受験、その後は医学部を目指して共学の高校を受験する。

年頃になった彼女の周囲には男性の影がちらつき、 平介は妻であって娘でもある彼女への関係に苦しむようになる。

98年度ベストミステリーとして話題をさらい、広末涼子主演で映画化、志田未来主演で連続ドラマ化もされた東野圭吾の出世作。累計200万部突破の伝説のベストセラー。

▲△▽▼

東野圭吾 秘密 のあらすじ 妻が娘で娘が…???
2016年6月25日 [文学/あらすじ, 東野圭吾]
http://rhinoos.xyz/archives/20387.html


今回は現代日本屈指の人気作家、
東野圭吾さんのミリオンセラー
『秘密』(1998)で行ってみます。
 


もちろんこれ、2010年のテレビドラマ
(佐々木蔵之介、志田未来主演)の
原作ですし、その前には広末涼子さん、
小林薫さん出演、滝田洋二郎監督で
映画化もされています(1999)。


さて、一口に「あらすじ」を、といっても、
話の骨子だけでいいという場合から、
読書感想文を書くんだから分析・解説
つきの詳しいものがほしいという
場合まで、千差万別でしょう。

そこで出血大サービス((((((ノ゚听)ノ

「ごく簡単なあらすじ」と
「やや詳しいあらすじ」の
2ヴァージョンを用意しましたよ~~(^^)у

ごく簡単なあらすじ(要約)
まずはぎゅっと要約した
「ごく簡単なあらすじ」。


杉田平介の妻・直子はバスの転落事故で
死亡するが、その意識は身体だけ
生き残った11歳の娘・藻奈美の中で
生き続ける。

世間的には娘になりすます直子は、
成績優秀で私立中学を経て有名進学校へ
と進むが、男子との交際のことなどで
平介との間に波風が立つ。

  
やがて藻奈美の身体に藻奈美の
意識が復活し、直子の意識と交替
する「二重人格」の状態になる。

藻奈美と直子の2人格は交換日記の
ようなノートで意思を伝え合うが、
直子の意識は徐々に弱まる。

藻奈美は直子の指示通り、二人の
最初のデートの場所へ平介を誘い、
そこで……


どうでしょう?

え? これだけじゃ意味ない?

ハハハ、まあそうでしょうね。

本当は父娘以外にも多くの個性的な
登場人物が絡み合って進む本格的な
長編小説をムリヤリ凝縮し、
しかも一応、ネタバレを避けてますしね。

では、様子見にちょっとだけ
テレビドラマの方を覗いてみて
もらいましょうか。


ん? やっぱりよくわからん?

そういうわけでやはり「やや詳しい」
ヴァージョンのあらす」を読んでいただく
ことになるわけですね、ハイ;^^💦

やや詳しいあらすじ
では始めましょう。

わかりやすさのため「起承転結」の4部に分け、
もちろんラストまで包み隠さず完全ネタバレありで
参りますので、結末を知りたくない人は
読まないでくださいね;^^💦

ひっかかるかもしれない部分には【CHECK!】印で
注釈を入れていますが、うるさいと思う人は
飛ばしてください。

なお「 」内及び「”」印のグレーの
囲みは原文(上記文庫本)からの引用です。


🌓【起】
自動車部品メーカー社員、39歳の
杉田平介は愛妻・直子と11歳の娘・
藻奈美との3人で暮らしていた。

1985年冬、長野の実家に向かう
直子と藻奈美の2人が乗った
スキーバスが崖から転落。

2人は病院に運ばれたものの、
直子は死亡し、藻奈美は一時は
回復不能といわれながらも、
奇跡的に助かる。


が、意識を回復した藻奈美のその
意識は実は直子のものとわかる。

「あたしがあの子の
身体を奪っちゃった。
あの子の魂を追い出して……」

  2ac43d78d6bda892ba304df76eb43f04_s

この信じがたい事態に戸惑いながら、
平介と直子(身体は藻奈美)は、
世間にはあくまで父娘と見せかけて
生活していくことにする。

直子は仏壇の引き出しに入れてあった
結婚指輪を、かつて自分が作り
藻奈美が大切にしていた
テディベアの頭の後ろに縫い込む。

「正体は二人だけの秘密ね」


🌓【承】
直子は小学校に通い始め、平介は
バス事故の「被害者の会」に出席。

会には死亡した運転手の妻である
梶川征子が現れて謝罪するが、
相手にされない。

会の終了後、平介は新宿駅で征子を
見かけ、階段で彼女が倒れたので、
タクシーで自宅まで送る。


その後、連絡を取り合うようになり、
亡夫(梶川幸広)の超過労働や、
札幌にいる前妻とその子に仕送りを
していたことなどを知っていく。

     shame-799097__180

やがて直子に初潮があり、
「あっちのほう」どうする?
「我慢していられる?」と尋ねる。

「そんな……じつの娘と。
しかも小学生の」
「じゃあほかの女の人と
するってこと?」といった
微妙な会話が交わされる。


藻奈美に自分のようなただの
専業主婦になってほしくないと
思う直子は私立中学受験を目指し、
担任の若い美人教師、橋本多恵子と
平介との接触が増える。

その橋本に気があるのではと
直子はからかうが、それは事実で
平介は欲求不満のとき多恵子を妄想。

橋本の側でも運動会の日に弁当を
用意してくれるなど好意を示す。

    teacher

遺族会が一周忌に企画した事故現場への
慰霊旅行のあと、梶川征子が病死。

その葬儀に出た平介は娘の逸美から
父の遺品として古い懐中時計を
渡される。

蓋が開かないので専門店で開けて
もらうと、蓋の裏に幸広の子らしい
5歳くらいの男児の写真。


札幌出張の際に梶川の前妻、
根岸典子を訪ねるが、息子の
大学生、文也によって拒絶される。


🌓【転】
有名私立女子中学に進学した直子は
そこでも成績優秀で、医学部に
入りたいから、高校は共学の
進学校を目指すと宣言。

その動機には男への欲求も?
と平介は疑うが、ともかく
猛勉強して有名進学校へ進学。

 

高校では体力も必要だからと
テニス部に入り、練習で遅く帰って
食事の支度もするという多忙な生活。

不満がたまった平介はつい「男と
玉遊びをしてる」などと悪態をつき、
二人の間は気まずくなる。


お盆休み、十年ぶりに直子の実家に
帰省した平介は、義父の三郎に再婚
すればいいと言われ、直子自身にも
聞かれて「いいんだ」と答える。


テニス部の一年先輩、相馬春樹から
直子への電話が繁くなり、心穏やかで
なくなった平介はついに電話盗聴
セットを仕掛け、二人の仲を探る。

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クリスマスイブ、平介は盗聴で探知
した待ち合わせ場所にが姿を現し、
直子と相馬を驚かす。

「なぜだめなんですか」と問う相馬に
「世界が違うんだよ」と平介。
「私や娘が生きている世界と、
君のいる世界は、全く別物なんだ」


帰宅後、「あたしはふつうにしてた
だけよ」と訴える直子に、妻である
以上「ふつうにする権利なんかない」
と平介は言い放つ。

「若い身体を手に入れて、もう一度
人生をやり直せるような気に
なっているようだけど、それは
あくまで俺の許せる範囲内
だってことを忘れるな」

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俺は今でも浮気もしていないし、
再婚のことも考えてない。

小学校の橋本先生が好きで
「交際したい」とも思ったが、結局
電話すらしなかったのは「おまえを
裏切りたくなかったからだ」


一月半ば、クラスで行くスキーの
チラシを破り捨ててみせた直子に
「俺のこと、憎んでるのか」と平介。

そうではなく「途方に暮れてるだけ」
「そうだな。俺もだよ」という会話の
あと、「ねえ、あれしようか」と直子。


二人はベッドでふれ合い「あれ」を
試みるが、平介の中の何かが拒否し、
「やめよう」…「そうね」…。


🌓【結】
別用で上京した根岸典子と会った平介は、
梶川は自分が実父ではないことを知り
ながら文也を愛し、大学進学後は毎月
必ず10万円を仕送りするように
なっていたのだと知る。

家族の幸せが自分の幸せだと語っていた
という梶川の生き様に打たれ、平介は
自分も、直子が藻奈美として生きて
いくことの幸せを願う気持ちになる。


帰宅して「長い間、苦しめて悪かった」
と詫びると、直子は泣いて自室へ。

眠って目覚めると、パジャマ姿で
庭を見下ろしていた直子が
「お父さん、あたし、〔中略〕
どうしてここにいるのかな」

 
藻奈美の意識が戻ったのだ。

その後、彼女の身体には直子の意識と
藻奈美のそれとが交互に出入りする。

「二重人格」の状態となったのだが、
直子の人格は出現頻度が徐々に減り、
二人の人格は交換日記のような
ノートで意思を伝え合う。


七月、就活で平介の会社に来た大学院
生の根岸文也が、平介に面会を求め、
以前の非礼を詫びる。

平介が是非にと誘って、夕食を家で
一緒にということなり、藻奈美に電話。

二人で帰宅し挨拶すると、文也と
藻奈美の「視線が空中で絡んだ」。

       097778

勉強も見てくれた文也を見送ってから、
藻奈美は、明日の土曜日、横浜の
山下公園に連れて行ってと頼む。

平介と直子が最初にデートしたこの
場所へというノートでの指示という。


その日、山下公園のベンチで海を
見ながら松任谷由実の曲を流すと、
直子の人格が現れ、「ありがとう。
さようなら。忘れないでね」。


数年後、25歳になった大学助手、
藻奈美と文也との結婚式。

梶川幸広の形見の懐中時計が動かないので
松野時計店へ行った平介は、9年前、
直子がテディベアに縫い込んだ指輪を
藻奈美が取り出して自分用に
作りかえさせたことを知る。

二人の「秘密」を知っていたことから、
直子は実は消えておらず、藻奈美の
演技を続けているだけなのでは
ないかと平介は考え始める。


文也を控え室に連れて行った平介は
「殴らせてくれ」「二発だ」と
拳を固めるが、振り上げる前に
涙があふれ、声がかれるほど泣く。

まとめ
さあ、いかがでした? 

さすがによく出来たミステリーで、
しかも主題は夫婦愛。

さらにそこに父娘間の情愛が微妙に
絡むので、これはもうグッと来て
しまう読者が多いのも頷けます。


直子の意識がほんとうはまだ生きて
いるのか…と匂わせて謎のまま閉じる
オープン・エンデイングもよい。

ただ私個人の感想として言わせてもらえば、
むしろそこ(45章)で終わってしまった
方がよかったのでして、ラストの
46章は蛇足の感が大きいですね。


なぜって、主人公が花婿に言う
「殴らせろ」ってのは、
あまりにも通俗的で古臭い
クリッシェ(決まり文句)。


これを使ってまとめようとしたことで、
作品全体の品性を下げてしまったのでは?
と東野氏のために憂える次第です。


いや、そこでこそ泣ける…という
意見もあるでしょうし、それは
それで結構なんですけどね。


さて、読書感想文を書こうという場合も
ネタはすでに十分ご覧に入れたと思います。

考えさせられる名言やポイントも
泣かされる展開も、いくつも
拾うことが出来ますよね。
http://rhinoos.xyz/archives/20387.html


http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/167.html

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 志田未来 秘密 (テレビ朝日 2010年) 中川隆
1. 中川隆[-12941] koaQ7Jey 2019年1月17日 08:24:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

広末涼子 秘密 (東宝 1999年)


動画
https://www.youtube.com/watch?v=W-N2h-q4Rl0


監督 滝田洋二郎
原作 東野圭吾
脚本 斉藤ひろし


キャスト

杉田藻奈美・直子 - 広末涼子
杉田平介 - 小林薫
杉田直子(入れ替わり前まで) - 岸本加世子


個人賞
第23回 日本アカデミー賞 優秀主演女優賞(広末涼子)
第23回 日本アカデミー賞 優秀主演男優賞(小林薫)
第23回 日本アカデミー賞 優秀助演女優賞(岸本加世子)
第33回 シッチェス・カタロニア国際映画祭 最優秀女優賞(広末涼子)
第33回 シッチェス・カタロニア国際映画祭 最優秀脚本賞(斉藤ひろし)
第4回 日本インターネット映画大賞 監督賞(滝田洋二郎)
第4回 日本インターネット映画大賞 主演女優賞(広末涼子)
第4回 日本インターネット映画大賞 主演男優賞(小林薫)

作品賞
第7回 フランス・ジュネーブ国際テレビ映画祭 グランプリ
第2回 イタリア・ウーディネ極東映画祭 最優秀作品賞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E5%AF%86_(%E6%9D%B1%E9%87%8E%E5%9C%AD%E5%90%BE)  

「秘密/滝田洋二郎;1999年劇場公開作品」
 
 雪山でバスの転落事故に遭った直子(岸本加世子)とその娘の藻菜美(広末涼子)は救急病院に収容されるが、直子は手当ての甲斐なく死亡し、藻菜美だけがかろうじて生き残る。しかし、昏睡から目覚めたとき、鏡を覗き込んだ直子の目に映ったのは藻菜美の顔だった。つまり、藻菜美が意識を取り戻したとき、その意識は直子のものだったのだ。夫の平介(小林薫)は事実を知って混乱するが、やがて直子は藻菜美としてその人生を全うすることを決意する・・・。

 登場人物の人格が入れ替わってしまうという設定の作品はけっこうある。代表的なものは大林宣彦の「転校生」だが、二人の人間の意識がそっくりそのまま入れ替わる、などという現象はさすがにフィクションの中だけに起こるものであるものの、一人の人間の意識が別の人格に取って代わられる、という現象は現実に起こりうる。解離性同一性障害、つまり俗に言う「多重人格」である。

 ある人間の「魂」が別の人間に乗り移り、その人を支配してしまう現象をオカルトの世界では「憑依」と呼ぶのだが、それも一種の解離性同一性障害として捉えることができる。通常の多重人格では、新たな人格は独自に創り出されることが多いが、当人が自らを他に実在する人物である、と思い込んでいれば、その人格が実は創作か否か判断することは難しい。現実に、ジョン・レノンを殺したマーク・チャップマンは一説によると自らをジョン・レノンであると思い込んでおり、殺害事件はその延長線上にあった(本物を殺害することで自らが世界に唯一のジョン・レノンになろうとした)とも言われている。

 基本的にファンタジー作品なので、登場人物はありえない話をあっさり信じてしまう。現実に自分の娘がこんなことを言い始めれば、普通ならまず統合失調症を疑って精神科医に診せるところだが、それでは物語が成り立たない。藻菜美(の中にいる直子)が話す二人の結婚前のエピソードを聞かされ、平介はいとも簡単にそれが直子だと確信するのだが、よく考えればそんな話は平介がいないところで母子の会話として話されていたかも知れず、藻菜美が母の話を自らの記憶だと誤認している可能性もなくはない。

 そう思いながら本編を観続けていると、広末の演技力の限界もあるのだろうが、やはりこの話はファンタジーとしてよりも、一種の解離性同一性障害の症例として観るべきではなかろうか、という気分が抜け切れなかった。

   

 娘の体内に宿る妻に触れられないジレンマに悩む平介を見かねて、直子がある決意をする中盤から物語は急展開を見せる。この手の「憑依」ものの定番は、憑依した何者かが結局は宿主に体を返し、自らは消え去っていくというものだが、本編もまた表面上はその通りの展開を見せる。ある日突然藻菜美は「藻菜美」本人として目覚めるのだ。藻菜美の人格は直子の人格と交互に現れ、やがて藻菜美の方が優位に立って直子の影は次第に薄くなっていく。

 やがて、完全にもとに戻った藻菜美はバス事故を起こした運転手の遺児である文也(金子賢)と結婚するのだが、このあたりの展開はやや唐突で、しかも結婚指輪を封入したぬいぐるみを唐突に伏線として登場させるなど、かなり無理のある話になってしまった。結局のところ直子は消え去ってなどおらず、元に戻った藻菜美はすべて直子の演技であり、それが表題の意味するところであったわけだが、正直言ってこのあたりの演出はあまりうまいとは思えず、定番の展開に酔いしれていた観客に冷水を浴びせるような結末になってしまった。

 原作ではこのあたりを映画ほど断定的に描いてはおらず、主人公の夫は憑依という現象それ自体をも完全には信じていないようなのだが、こうした曖昧さを受け入れる余地は、映画という何でも光と影で表現しなければならないジャンルには、存在しづらいのかもしれない。・・・
http://sky.ap.teacup.com/kasatosi/169.html

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/167.html#c1

[近代史3] 昔のテレビ・ドラマは面白かった _ 志田未来 秘密 (テレビ朝日 2010年) 中川隆
2. 中川隆[-12940] koaQ7Jey 2019年1月17日 08:41:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]

東野圭吾 秘密 の意味を理解するのは心理学の知識が有っても非常に難しいですね。


おそらく、

直子自体は完全に死んでいて、藻奈美の無意識内の直子の記憶が人格化されて憑依状態になっていた

という設定でしょう。

ポイントは 娘が母に飲み込まれる母娘の一体的関係 と 憑依現象 の二つでしょう。


娘が母に飲み込まれる母娘の一体的関係

2017.08.10
女性の心理的発達に関する一試論:過食症症例の面接過程と夢の分析を通じて (思春期青年期精神医学,5(1):63-76,1995.)
http://koteraclinic.jp/monograph/187


女性の心理的発達に関する一試論

─過食症症例の面接過程と夢の分析を通じて─

A STUDY OF FEMININE PSYCHOLOGICAL DEVELOPMENT : The Psychoanalysis of the Interviews and the Dreams of a Female Bulimia Case

小寺 隆史※

※浅香山病院精神神経科 〒590堺市今池町3-3-16

Takashi Kotera : Department of Psychiatry, Asakayama Hospital


抄録: 女性の心理的成長を考える上で、それが阻害されている多くの症例に、「娘が母に飲み込まれる母娘の一体的関係」というモチーフが散見される。このような状況は、女性の心理的発達の原始的な段階と考えられると同時に、かなり後まで残存し、その影響を背後から与える構造でもある。

一方、この母娘の一体的関係に割って入るものは男性性に他ならない、それ故、このような女性にとって「男性像は父親も含め侵入的、侵略的なものとして認識される」ことが多い。このモチーフはギリシャ神話のデメテルとコレーの物語にその典型を見ることができる。この侵略的男性像を受容することによって、女性は強固な母娘関係から脱することができる。今回、過食・嘔吐を主訴として来院した21歳の女性の面接過程と夢の過程について、以上の文脈からの分析を試みた。その中から母親との関係の編み直し、男性像の変遷、女性性の受容、といったテーマを抽出し、母娘の一体的関係から、次の段階に展開する移行期を見ることができた。

Key words: Primitive mother-daughter relationship,

Invading male image, Demeter and Kore, Hades, Bulimia


1.はじめに

臨床場面において、女性のクライエントと会っていると、母親との結び付きが強固で、そこに“娘が母に飲み込まれる母娘の一体的関係”というモチーフが見いだされる例に数多く出会う。それ故、このモチーフは女性の心理を考える上で重要な視点を与えるものの一つではないかと思われる。このような女性の状態に関して、Neumann,E.11)はそれを「女性の自我が、母性的な無意識や母性的な自己といまだ結ばれたままでいる自己保存の段階」と指摘している。Ne-umannは女性の発達と男性の発達との基本的差異について、男性の場合、最初の対象である母から異化することのなかに自己発見を達成するのに対し、女性の場合、母との同化のなかに自己を発見することができ、そのため「あの原初の関係にみられる母親との関係は引き続いて存続することがある。」と指摘している。そしてこの母娘の関係が母権制社会の中心的心理構造をなしていると考えている。つまり、彼のいう原初的母娘関係とは、単に女性の発達のprimitiv-eな段階という意味にとどまらず、母権制社会を支えるarchaicな心理構造でもある。この母権制社会の心理構造については、これに先立つBachofen,J.J. 2)の研究がある。

また、Freud,S.5)もこの構造に言及しており、「婦人の本質のかなりのものが、根源的な母親への愛着の中に残ったままになっており、男性の方向へ向かう、正しい変換をしないでしまうという可能性もある」と述べている。Freudは女性の愛の対象が母親から父親へと「性の変換を経なければならない」点が男性の発達と根本的に異なることを強調している。さらに「エディプス・コンプレックスは、女性の場合にはかなり長い発達の最終成果」であるとし、女児の発達においてはプレエディパールな母子関係が男児に比べて延長し、かなり後まで存続し続ける場合がありうることを示唆している。Freud派における女性の研究としては、Deutsch,H.4)によるものが重要である。彼女は思春期・青年期の女性の心理に関して、この時期に、幼児期の発達課題が再現することを指摘したうえで、「エディプス・コンプレックスを卒業するばかりではなく、思春期前期と早期思春期に始まった働き、すなわち母親との古くかつ根深く、いっそう原始的な絆を大人にふさわしいものに編み直すこと」が、その課題となることを述べている。Blos,P.3)も思春期女性の症状形成がその強力な母娘関係に起因していることを指摘している。また、中村10)は青年期女性の治療に関してエディプス的葛藤に先立つ「母子関係がさまざまの意味で問われる」と指摘している。 Deutsch、 Blos、 中村ら、これらの研究者は共通して、思春期・青年期の女性において、母娘関係の課題の比重が男性の場合より高いことを示唆している。このことと、上記のNeumannの指摘、F-reudの指摘は整合するものと思われる。即ち、女性の幼児期において残存しやすいこの関係は、その分、女性の思春期・青年期にも課題性の比重が高いものと考え得る。

さて、一方このような母娘関係が思春期・青年期に強固に存続している場合、“男性は父親も含め侵入的、侵略的なものとして認識される”ことが往々にして起こりやすいのではないかという臨床上の印象がある。このことに関して、Neumann,E.12)は、このような母と娘の一体感があるとき、「女性が心理的または社会的に母系集団のなかに留まり、(略)女性的なものとの一体化とそれへの接近は、男性的なものの排除とそれへの冷淡さを生まずにはいない。」「女性がそこで経験する男性的なものとは、敵対的な征服者にして否定的な略奪者ということになる。」と述べている。そしてこのような、侵害的な男性像を女性が受容し、それが肯定的で親和的な男性像に変容して行く中で、女性は強固な母娘関係を脱し次の段階へと展開して行くものと考えられる。この展開は幼児期の発達にも、思春期の発達にも、螺旋状にくりかえされるものであろう。また、その母娘関係の様態によって、その男性像の侵略性もさまざまなスペクトルをもつことが予想される。幼児期においては、最初の男性像として、父親が現出するだろうが、母との結び付きが未分化である場合、父親像は侵略的となり、その関係の中に入れず、除外されてしまう危険性がある。(母親との両価的関係を解決するものとしての父親の役割について、Abelin,E.1)の発達的研究がある。)また、思春期においては、“異性の受容”という大きな課題に直面しなければならず、それまでの展開性が不十分であればあるほど、男性像の侵略性は顕著なものとなるだろう。そして、それが展開するためには、男性像は一旦は侵略的なままで受け入れなければならないという、一つの筋道が考えられる。(このモチーフは後述するギリシア神話:デメテル・コレー・ハーデスの物語に、典型的に現れる。)その場合は、母娘関係は一旦切断されたうえで、新たな関係として編み直されるのではなかろうか。(もちろん、この筋道は巨視的な筋道であり、微視的には、男性の侵入と、母娘関係の改編は相補的に起こるものと考えられる。)また一方、母娘の結び付きが強く、男性が弾き飛ばされてしまう場合も臨床的に見受けられる。

以上のような観点から、本小論においては、過食・嘔吐を訴えて来院した21才の女性が、就職という一つの節目を乗り越えて行く過程を一例として提示し、その夢分析を含む面接過程のなかから「母への取り込まれとそこからの離脱」「そこに現出する侵略的な男性像とその変容」といったモチーフを抽出しようと思う。その二つの文脈を軸として青年期の女性の心理的成長について考察を試みたい。

2,症例の概略

◆症例:B子(21才 女性)

◆主訴と現病歴:過食・嘔吐を主訴として来院した。初診時大学の4回生在学中であったが、大学1年生のときより過食症状が出現し、大学3年生頃より太るのがいやになり過食後吐くようになった。過食はひどいときはほぼ毎日あった。このとき161 の身長に対し、体重は55 まで増えたが初診時は46 まで減少している。初診時過食は週1回程度であった。初診時の母親からの情報では、大学4年生になってから、実家に帰宅時、情動が高まり大声で泣き叫びつづけたり、ドアをたたきつづけるということが幾度かあったという。また、自殺をほのめかす発言が幾度かあったという。

◆生活歴:中学・高校と女子校。中学校の途中で親の意見により公立中学から私立の女子中学に転校している。初診時大学4回生在学中。大学の選択についても、主に母親の意見で決まっている。なお、B子の実家は大都市圏にあり、通っている大学は地方都市にある。◆家族歴:父、母、兄、本人、妹の5人家族。兄は境界例人格障害の診断にて、筆者の勤める病院に受診歴がある。

3,面接と夢の過程

面接は大学の夏休みを利用して行われた。筆者の勤める病院は、B子の実家の近くの大都市圏にあり、また、B子の兄もこの病院に受診歴があることから、当院に来院したと言う。この際、受診がB子の意思でなされたのか、母親の意向でなされたのか、あるいはその両方であるのかは、あまり明確ではないままに面接が開始された。この、本人の意向なのか母親の意向なのかが不明確であること自体が、この症例の特徴であることに筆者は後に気づくことになる。面接過程においては、主訴であった過食・嘔吐の訴えはあまり前面に出ないで、家族関係などに関する話題が中心となっていった。また、面接期間中に手首を尖ったもので刺すという自傷行為が出現した。(このとき手首は傷だらけになっていた。)面接は、一般外来にて予約制にて行った。予約はそのつど次回日時を決め、最初の4回は1週間間隔、少し安定してきた4回目以降は2週間間隔で、2カ月間に7回の面接を行い、一応の終結となった。ただし、夏休み中に終わるというような契約で始まったものではない。その間に全部で15の夢が報告され、今回はその中から重要と思われる5つの夢を選んで提出した。また、夢の分析については[考察]の欄でまとめて述べる。なお、治療の中で、夢の解釈を返すことはほとんどせず、夢についての本人の連想を聞いたり、夢を媒介として話し合うことが多かった。これは、筆者が夢自体に治癒力があると考えているためで、あえて治療者が夢の意味を解釈することをせず、夢を真ん中において、患者と治療者があたりを散策し、「夢自体に語らせる」というようなイメージで治療をすすめた。

なお、「」内はB子及び家族の発言、『』はB子がノートに記録して来た夢の内容、それらの内の()内は筆者による補足、内は筆者の発言である。


◎第1回面接

初回面接の最初に過食・嘔吐の問題が訴えられたが、初回面接の中でも、その後の面接の中でも過食・嘔吐の問題は重大なテーマとして繰り返されるということはなく、むしろ家族の話題が中心となった。筆者は受診の目的の明確化を図るよりは、B子の話について行く方向を選んだ。以下は面接でのやりとりである。

「過食症で受診したんですが、おかしいのはそれが一番ではなくて、食べるのは自分のすることがないときに食べ、そのあと太るのがいやで吐くんです。」

<何が一番問題なのかな?>

「わからないけど・・・今下宿している。家を出たかったから。おかしくなったのは3年前から。父は信用できない人で、私は母に守ってもらって育った。将来私が家族をささえないといけないと思って。将来に、私の夢がないのです。結婚も・・離婚しなかったらいいとか・・暴力ふるわなかったらいいとか・・・父は母に暴力をふるった。私にもふるった。警察を呼んだこともあった。私は無力感を感じた。生理は1年間止まっている。」

この回の最後で、この面接についてこれからどうしますかとの筆者の問いに対し、ここに通いますと言う。薬は飲みたくないとのことで不投薬にした。あなたの心の風景を知りたいのでと夢の記録と提出を提案するとB子は承諾し次回から夢の記録を持参してもらうこととする。本人退室後、母親が面会を求めて入室し、今までの経過をやつぎばやに述べて、薬をだしてほしいと言ったが、本人と話し合って決めたことだからと母親を説得し不投薬とした。これは、娘の不都合な点を羅列的に述べ、それを「除去してほしい」と訴える母親の姿勢の中に、母親の娘に対する支配性の強さを筆者が直感したため、少なくとも治療者が母親が娘を支配するための代理人とされないように、歯止めをかけておくというねらいもあった。

◎第2回面接(前回から1週間後)

1週間後、B子は夢の記録を持って受診した。過食の問題には触れずに母親との関係を語り出した。前回、守ってくれるものとして語られた母親が、今回はB子を困惑させるものとして語られた。

「1週間疲れました。毎日母の言葉にいちいち反応して、泣いてしまって目もはれている。どんどんいらいらがひどくなっている。

母は私の言ったことに間髪入れずに違うと言う。それで昔のすべてのいやだったことが思い出される。」

母親の言葉が直接的にB子の情動を刺激しているように語られ、問題の重心はむしろ母親に移されて語られている。ここに母親との間の自我境界の不鮮明さを筆者は感じていた。また、問題の重心の母親への移動は投影性同一視の問題を示唆していると考えられた。このことについては考察にて後述する。

また今回も、父親はいわば悪者として語られる。

「自分も母親と同じように満足できない人生を歩むのではないかと心配する。父親は信頼したくても信頼してはいけない人なのです。人間的に冷たい気持ちをもっている。あの人を理解しようとすると、こっちが変になる。私はあの人を自分から排除したい。父親は母、兄、私と一緒に電車に乗るときは自分だけ違う車両に乗る。生活費が乏しくても自分の小遣いは確保する。生命保険もすべて解約した。」 このような日常的な話題が一段落ついたところで、記録してきた夢を読んでもらい、それについて連想を聞くという方法をとった。[夢1]

『大きい部屋で、輪になって踊る。2人がペアになって踊る。私はうまく踊れない。少しの間1人の友人と輪から抜けて、へやのはしで踊っているのを見ている。後で輪の中に入れてもらったが私の右手にいる人(踊っている相手)が、前の人(B子の前にその人が踊っていた相手)の方が良かったと言い、心の中で、悲しい思いをするが、笑いながら、ごめんねと言う。私は上手に踊れるつもりだったが、また同じように踊れなかった。回りの皆は楽しそうに踊っている。』

(連想)

「今、彼がいるんだけれど、男の子との付き合い方が全くわからなくて。クラブに入っても男子と1年間しゃべれなかった。うわべだけならしゃべれたけれど。大学2年の終わりまではクラブの女子は私1人だった。2年の終わりに女子2人が入ってきた。仲の良い2人で、私は仲良くなれなかった。その2人の女の子はクラブの男の子とすぐに仲良くなってしまって、夜、下宿を行き来したり。心の中では嫉妬心、羨ましさ、劣等感でいっぱいだった。そのころ、私はクラブの1人の男子と付き合っていた。3年生でふられた。そして、その人は新しく入って来た女の子と付き合うようになって、それがとてもつらかった。そのころから生理が止まった。ふられた男の子と4カ月後によりをもどした。私は彼のことを好きじゃない。ずっと、初めから、今まで好きという感情がない。それより心おきなく思ったことをしゃべれる方がうれしい。」

◎第3回面接(前回から1週間後)

この回では友人に対する関係の取り方が話題となった。ここでも、B子の対象(ここでは友人)に依存している姿がうかがえる。ここで筆者は彼女の対象に依存している自らの姿を彼女自身が気づけるよう、また、対象(相手)が自分の期待どうりに動かないときに生じる葛藤を、自らの心の中に包含することが、実は対象からの独立性を確保することになることを、以下のような働きかけのなかで提示しようと試みている。いわばここで対象からの分離、自我境界の強化を働きかけのテーマとしている。

「落ち着いてきているような気もするけれど、立ち直れないような気もする。閉じこもったままみたいな。」

「自分の中でどうしても納得できないときどう処理してるんですか?例えば、友達が泣きながら電話して相談してきたら、私は次の日私からその子に電話する。でも、逆の立場なら、友達は私に電話してきてくれない。」

<相手はこちらの期待どうりに動いてくれないこと、多いよね。>「そうです。」

<そのとき悲しい情けない気持ち起こって来るでしょう。>

「そう、それです。」

<その気持ちは自分の中にあるもので、それを消そうとして相手を動かすとなってきたら、その分、相手に頼ってるということになってくるよね。>

「わかります。そのとおりと思います。結局、友達に頼ってることになるんですね。」

<もし、その気持ちを自分の中に置いとけたら・・相手から自由になれるんだけどね。>

◎第4回面接(前回から1週間後)

この回、自分が憎く、その自分を消してしまいたいという自傷行為が報告される。尖ったもので手首を突き、手首はそのため傷だらけであった。その反面、過食した日は1日すべてが悪いのではない、という発言がなされる。これは自傷行為にみられる極端化した思考に対し、程度感覚をふまえた思考が部分的にではあるが、可能であることを示している。筆者はその重要性を指摘し、印象に残すねらいの発言を入れている。 またこの回より、部分的にではあるが、落ちつくときがあることを報告している。現実状況についても、明るい展望が開けつつあり、就職について某公共機関の事務職の一次試験に合格したことが報告された。以下はそのやりとりである。

「起伏が激しい。落ちつくときは前より落ちつく。イライラするときは自分が憎くて・・・アーっとなる。」

<どうなるの?>

「怒りとイライラがたまらないほど噴き出してきて、自分をたたくとか、はさみで手首をついた。自分が嫌い、もう無くなればいいのにって。でも落ち着いたらなんでこんなことになったんだろうと・・・過食しても1日が全部だめなんじゃないと思える。」

<全部だめ、とならないのは、大切なことだよ。だめな部分もあるけど、いい部分もあるって思えるのはね。>

「就職試験の1次試験にパスした。うれしかったのは苦手な作文で通ったこと。でも、悪かったのは、就職の願書を出さないといけなくて、特技、本人希望が書けなかった。自分からアピールすることができない。」

[夢2]

『(略)妹を見ると、妹の前髪と後髪にカーラが巻いてあった。どうしたのかと聞くと、母にしてもらったと言う。私はまえからその髪型にしてみたいと思っていたので、怒りがこみあげ母親に抗議しに行った。どうして私の気持ちを逆なでするの、どうして私の気持ちを分かってくれないの、と私は大声をはりあげた。母親とは面と向かっていたが、母親がバケツに汲んだ水を持ち上げた。私にぶっかけるのかと思ったが、母はその水を自分からかぶった。

家族で奈良に旅行に行った。あるお寺に泊まることにしており、どんな所か見に行った。お坊さんが、寝る場所を案内してくれたが、そこはお寺の本堂で、大きい大仏さんがどーんと座っている。その大仏さんに向かい合って、ふとんが敷かれていた。でも、私だけ1人離れている。大仏さんの横に黄色い菊の花と、誰か亡くなった男の人の写真が飾られており、私は気持ち悪くなり、母親に、ここはいやだ、こわくて寝れそうにないと言った。母は私も小さいとき、そういう思いをしたことがあるよ、と言った。それから、お寺を出て、歩いて行った。そして、うどん屋さんが見えてきて、母親が食べて行こうと言った。私はお腹一杯だからいいと言ったが、母はそういうときもあるの。食べて行きましょうと言う。私は後ろを歩く兄と父に、行きたくないよねえと同意を求める。すると2人とも行かなくてもいいと言って、うどん屋を通りすぎようとした。そのとき、母は急に胸を押えて倒れそうになった。私は母が、私が健康でいるうちに早く自立しなさいと言っているように思えた。』

(連想)

「兄と父に同意を求めるのはめずらしいこと。家族の要は母親だった。兄妹同士の関係も希薄。」

[夢3]

『学校から帰る前の教室で、教室には私を含めて4人の高校生の同級生が残っている。(略)私が傘を持って教室を出ようとすると、1人の子が「Bちゃん」と呼んだ。私は振り返って、何か言われるのを待っていたが、クラスのもう1人の子がその子に耳打ちして、その子は「何でもないよ。ばいばい。」と言った。その子は何か言いたげな顔をしていた。私は呼びに来た友人と階段をかけ降りて、下足室に出た。私の下駄箱の横に大人の男の人が立っていて、私がごそごそ履きかえていると「乱暴だな。」とぼそっと言った。近くに、その大人の人の知り合いの男の子が立っていたので、私はその子に「私のことみたい。」と言った。「おまえのこと?」「うん、私の靴ね運動靴なんだから。」と言って、靴をポンとほうり投げた。まわりは黒い靴ばかりだが、私の靴だけ運動靴だった。男の子はへえーと言たげな顔をしていた。私は下足室から出た。さあ、帰ろうとしたとき、服の両脇のリボンがほどけているのを思い出し、しっかりと結びなおした。』

(連想)

「学校は高校。教室の3人は高校の制服を着た高校3年生。私と、私と一緒に帰った子と、下足室の男の子の3人は私服を着た小学校6年生。その男の子は小学校6年生のときの同級生。心理的に成長できてないのかなあと。小学校のときは活発でいたずらしていた。いたずらが一番楽しかった。一番思い出が生き生きしていた。Bちゃんと呼んだ子は高校の同級生。仲がよかった。高卒後も手紙のやりとりがあった。恋に悩む子。手紙で恋の葛藤を書いてきてたのに、私には、それが読み取れなかった。返事に何を書いてたんだろうかと思う。(彼女は、夢の中で)忠告のような、アドバイスのようなことを言おうとしていたよう。」

◎第5回面接(前回から2週間後)

この回から、B子の発言は落ち着きを取り戻して来たという内容に重点が移ってくる。それと同時に自己受容が幾許か可能となって来たことを示す発言も出現する。

「良くなって来ている。らくになってきている。しばられていたものから、放たれたような気がする。でもイライラしたら自分をたたいたりする。はさみで手首をつっついてしまった。包丁でも少しつっついた。」

「コンピューターの人生ゲームをしていて、大学入試で2浪してしまった。こんなこともあるんだ、望みをかなえられないときもある。やってみてできなかったら、それでもいいと思えるようになった。できることしかしなかったから。」

「家の周りを走っていて、中学校のときの運動クラブのことを思い出し、クラブはやっててよかったと思えるようになった。以前は否定していたが昔のことを否定しなくてもよいと思えるようになった。」[夢4]

『女の子が、一生懸命に、紙を探している。何をしているのかと聞くと、ある人の退部届けを探しているのだという。退部届が受理されないように抜き出すつもりのようだ。彼女はその人と以前つきあっていて、最近別れたばかりだが、クラブまでやめられるのは、いやだそうだ。彼女と一緒に、下へむかうエレベーターに乗った。エレベーターの中で会話を交わすが、そのとき、彼女は、彼がやさしかったこと、クラブに入ってすぐにまわりの人に内緒でつきあいだしたこと、でも一部の後輩に知られてしまって、その後輩が、やってられないと言ってクラブをやめたことを話してくれた。笑顔で話していたが、その表情には少し悲しみが感じられた。』

(連想)

「クラブは大学のクラブ。女の子は、私の彼がいったん私をふってつきあっていた子。この子のことは嫌いだった。日本人形みたいなきれいな子で、センスとか良くて。(夢の中での)話し方は、私の話し方と良く似ていた。悲しくても笑いながら話すところなど。やっと、彼女の存在を認めることができた。自分の中に受け入れられない面があった。」

<あなたに無くて、彼女にあったものって思い付く?>

「きれいなこと。物事にあまりこだわらない。感じがいい、生き生きした面。男の子と平気で話すし、男の子の家に押しかけて行ったりするし。お化粧もうまくて,セクシャルな彼女。」

◎第6回面接(前回から2週間後)

この回では就職の内定が出たり、また、失敗には終わっているものの、初めて父親との会話を持とうとしたことなど、現実場面の進展が語られる。

「事務職に内定した。でも、2次試験パスしたらの話。今までは自分の心の中に入り込んでいたけれど、今からは外を向いて行こうと思う。」

「お父さんに、私がいままでこうだったからと言うと、お父さんは自分は自分で立ち直った、お前は弱いと言った。これでは話にならないと思った。」

◎第7回面接(前回から2週間後)

この回で就職決定の報告がなされる。B子は某公共機関の事務職と、某官庁への就職試験の両方に合格する。母親は後者を勧めるがB子は自分で前者を選ぶ決心をする。

「就職が決まった。事務職の2次試験に受かったから。母親は官庁の方がいいと言った。いつも母に従ってきたが、やっぱり自分で決めた。自分で決めれたのが良かった。以前、自分では選択できないのではないかと思っていた。今の(在学中の)大学にしたのもそうだった。今回は自分で決めたから責任がある。」

「もう、手首も突いていない。こないだの診察から今日までアーっとなるのは1回だけだった。」

<ちょっとは自分のこと好きになれそう?>

「うん・・・死にたいと思い詰めることがなくなった。結局、自分で決められなかったから、その結果に責任を持てなかった。」

[夢5]

『私ともう一人の人が一緒に手をつないで逃げている。こわくて、こわくてたまらない。追いかけて来る人(男性)は、石をなげてくる。石が当たると体の中に入ってくる。骨の間を石が通過するのが分かる。前へ前へ逃げるときには、石が当たるときも当たらないときもある。でも、追いかけてくる人をかわそうと、後ろに下がると必ず2回続けて石が当たる。ズボッ、ズボッと石が体の中に入り込む鈍い音がする。しばらく休んでいると、石がお腹の前のほうに出てきた。肉と皮の間にはさまっている。私はこれから逃げて走るとき、邪魔だからと言って、皮がめくれるのも構わず、石を体から取った。横に母親がいて、大丈夫?と聞く。大丈夫だからと言って、パシッ、パシッと取る。私のお腹は赤くただれたようになった。』

(連想)

「本当に怖い夢だった。逃げているのもこわいけど、逃げても石が当たる。とりあえず前に逃げないと当てられる。石は直方体の石。グレー。石を取るとき痛かった。半分目をつぶって。投げてくる人は2個づつ連続で投げてくる。後ろに、と言うのは少し逃げてかわすこと。」

<当たると痛いの?>

「いや、ズボーって音がする。一緒に逃げている人はたぶん男の人。顔は見ていない。中性って感じ。女性でもない。(略)私は女の子してないし。昔から、自分自身を大切にしていない。自分を自分でかわいがることができないんです。今、考えると過食して吐くというのもおかしいな・・・」

<おかしいというのは?>

「自分がきらいで、吐くとすっきりするから。自分をかわいがっている行為ではない。赤くただれたというのは、吐いたときに母親に、食道が赤くただれると言われたことがある。吐くのは自分がいやなときしかしない。」

<吐くというのは自分を受け容れないことかもしれないね。>

「これはいらないって、放り出してるのかもしれない・・・私は・・例えば家族とか。 家族に感謝している。就職にしても、家族がささえてくれた。口出しもしないで、必要な援助はしてくれた。今からは自分の人生は自分の人生と。幸せになるかもしれないし、不幸せになるかもしれないし。今までは周囲に私を幸せにして欲しいと思っていたけれど、不幸でも自分で対処していけばいいと考えられるようになった。」

この回の面接では一段落がついたという雰囲気がB子と筆者の間に漂っていた。当初より、B子との面接では彼女の判断を引き出しそれを尊重することが治療的にも重要と考え、その姿勢をとってきたため、ここでも<ちょっと一段落ついたみたいだけれど、この面接はどうする?>とB子の意向を聞くと、「ええ、今日で一応おわりにしようかなと思います。」と答えたので、一応の終結となった。

4.考察

この症例について、様々な問題点を抽出することができると考えられるが、ここでは先述したように第一に母に取り込まれている娘、そこからの脱出というテーマ、第二にそこに現れる男性像の変遷という2つの視点から考察を進めたい。

1)母への取り込まれと離脱のテーマ

初回面接において、B子は「母に守ってもらって育った」と述べる一方、父親を迫害者としてとらえていることを述べた。しかし一方第2回面接においては、「毎日母の言葉に一々反応して泣いてしまって(略)母は私の言ったことに間髪入れずに違うと言う。それで昔のすべてのいやだったことが思い出される。」と述べ、母親の言葉に直接的に動揺させられてしまうことを語った。このことが、母親からの情報にあった「家の中で大声で泣き叫びつづける」という行為となっていたようである。初回面接で語られた母親像と第2回面接にて語られた母親像とは手のひらを返したように異なっており、2つの母親像は split している。さらに、第2回面接での発言では問題点の重心が母親の側にあるように語られている。このことは、自分の問題領域を相手の問題領域に移し替えているわけで、投影性同一視の機制が働いている可能性が考えられる。これらは重層的に母娘の境界の不鮮明さを示唆するものでもあろう。また、この来院自体が本人の意向であるのか、母親の意向であるのかが、不明確であったこともこのことと軌を一にするものであろう。母親は、初回面接において、B子が退出した後1人で入室し、B子の問題点を羅列的に並べて述べ、薬を出して欲しいと言っている。ここで母親は、娘の心の悩みを理解しようとはせず、すぐにそれを取ろうとしており、葛藤の共有が困難な人であることを示唆している。このことは母親が自らの心に生じた葛藤を娘に一方的に投影し、娘を操作することでそれを取り除こうとしている姿勢と捉えることもでき、ここに母親の側の、娘に対する投影性同一視の機制を読み取ることができる。葛藤を内面にしっかりと抱えることによって人間は対象からの自律性を獲得できることを考えると、母親の葛藤を内面に抱えられないこの傾向は、娘との間の自我境界の不全と平行しており、このことは鏡像的に娘にもあてはまる特徴となっていると考えられる。

さて、このような境界の不明確な母−娘関係がこの面接過程の中で、微妙に変容をとげる。それは、まず夢2で自分のことを分かってくれないと抗議する“夢の中の自分〃(以後、夢自我と表現する)に対して、夢の中の母親はバケツの水を娘にかけるのではなく、自ら被る。ここで夢自我は自分が水をかけられると思っているが、夢はそれと反対の展開となる。さらに、夢の後半、母親がうどん屋に入ろうと提案するにもかかわらず、夢自我はそれを拒否する。その際、現実場面では話もろくにしない関係にある、兄、父に同意を求めている。

明らかに、この夢は現実のそれまでの母−娘関係とは異なった関係の可能性を提示している。現実場面で母は娘にとって反抗できないもの、動かしがたいもの、「言い争うと、いつも母の方が正しい」ような存在であるが、その絶対性はこの夢では相対化されている。また、母親は正しくて、父親は誤っているという現実のB子のイメージはこの夢の中では逆転している。

Jung,C.G.はじめ多くの研究者が、夢が現実の自我に対して補償的な機能を果すと考えている。Jung,C.G.は、「夢はそのときの意識状態に対して補償的に行動する」7)と述べ、補償という概念を用いることについて「意識と無意識とは、(略)互いに補い合って一つの全体を形作るからである。」8)と説明している。この夢の補償的な機能を視野に入れることは必然的に夢の目的志向的観点を我々に要求する。Jungは「夢には前方への連続性もある(略)夢は意識的な精神生活に目に立つほどの影響を残すことがある」7)と述べている。この夢2の場合にも補償的、目的志向的な機能を考えることは的外れなことではないだろう。この夢が提示した新しい関係可能性は、その後現実のものとして展開する。即ち、第7回面接において、B子は母親の勧める就職をやめ、自らが選んだ職場への就職を決意する。そして「自分で決めれたのがよかった。自分で決めたのだから責任がある。」と述べている。またこの夢2の最後で、母は胸を押えて倒れる。これは飲み込む母の、ひいては母娘一体関係の象徴的死とも考え得る。ここで「母が早く自立しなさいと言っているように思えた」とB子が印象を述べているのは、この夢の本質をついている。

2)男性像の変遷

さて、ここでもう一つの視点としてこの症例にとっての男性像について考察を進めたい。Neumann,E.11)12)は母−娘関係が未分化で一体性の強い状態を「女性の自我が、母性的な無意識や母性的な自己といまだ結ばれたままでいる」状態として、これを女性の「自己保存の段階」と表現している。さらにこの状態の中に「女性の自分自身ならびに男性にたいする特有の関係の仕方を規定している母権的心理というものが、まざまざとうかがえる」と述べている。この状態が往々にして、「男性的なものの排除とそれへの冷淡さを生まずにはいない」とし、男性がその中では侵入者としてとらえられることを指摘している。このモチーフをギリシャ神話の女神デメテルとその娘コレー(ペルセポネー)の神話が象徴的に表現していると述べている。その物語りの概略は次のようなものである。


『デメテルは大地の守護神であり、豊饒と収穫の女神である。デメテルには愛しい娘、ペルセポネー(コレー)がいた。ある日、ペルセポネーは仲の良い娘たちと花畑で、思い思いに花を摘んでいた。そのとき、突然大地が割れ、冥界の主神ハーデスが、黒馬のひく戦車に乗って出現しペルセポネーを略奪する。デメテルは必死にペルセポネーを探し、この間デメテルの恨みのために、大地は枯れ果て飢餓が地上を覆う。これに手を焼いたゼウスの調停によって、ペルセポネーは母に会うことを許され、地上に戻る。しかしこのとき、ペルセポネーはハーデスが手渡したザクロの実を4粒食べてしまう。冥界のザクロは、もしそれを食べれば冥界の住人になるという「禁断の木の実」であった。このためペルセポネーは1年の内、4カ月だけ、冥界に住まなくてはならなくなった。その4カ月の間、地上は暗い冬に覆われる。その後、冥界にもどったときのペルセポネーはハーデスの妻となり、冥界の堂々たる王妃として君臨したという。』

(丹羽隆子著「ギリシャ神話」6)より抜粋)

この神話においては男性は冥界の主神ハーデスとして現れ、コレーを冥界に誘拐する。本症例においても第1回面接で「父は信用できない人で」「父は母に暴力をふるった。私にもふるった。警察を呼んだこともあった。私は無力感を感じた。」と語られるように、父親は侵害者、悪者としてとらえられている。父親像は男性像の一つの重要な柱となるものである。先述したようにこの悪い父親像は、夢2において補償的にとらえ直される。また、夢2において大仏の横に亡くなった男性の写真がおかれ、夢自我は家族と離れてその写真のそばで寝なければならなくなる。ここに、男性は冥界の存在として現出している。女性の夢に男性が死者として現れることはまれなことではない。Neumann,E.は母性世界という観点から見るとき、女性にとって男性の接近は常に分離を意味し、ひいては死としての意味を持っていることを指摘している。11)そして、それを「死の結婚」のモチーフとして取り上げ、この体験によって、少女は女性になると述べている。13)ハーデスが冥界の神であることの意味もここにある。この夢にも分離と死のテーマが織り込まれている。このとき、夢自我は母親に怖いと訴え、それに対して母親が「私も小さいときそういう思いをしたことがあるよ。」と言っているのが印象的である。現実の母親と父親の関係を考慮すると、母親にとって、今でも男性性受容の問題が解決していない可能性が濃厚である。そうだとすれば、夫が侵略者として現出するのも夫側の要因だけではないように思われる。Jung,C.G.9)は、「デメテル/コレーは男性に異質の、そして男性を寄せつけぬ母と娘の体験領域を表現している。」と述べている。しかし一方、この夢2はB子が母親との一体感を断ち切る男性像との本当の意味での出会いへの導入をも示しているように思われる。いわば、これから始まる長い物語の序章としての意味が考えられる。B子には現実にボーイフレンドがいるが、「好きだと思ったことはない」が「話をきいてくれてたら良い」というように、彼女にとっては部分対象としてしか立ち現れておらず、例えば夢に現れたような侵略者としての側面をも包含した全的対象とはなっていない。

一方、女性にとっての男性像の成熟は自らの女性性の受容と切り離して考えることはできない。それらは表裏をなす事象と言えるだろう。夢1では他の同級生がうまくダンスを踊っている中で、自分だけがうまく踊れず、ペアにおいて女性としての役割がうまくとれない。連想において、つきあっていたボーイフレンドが他の女性に取られるという経験を思い出している。この夢はいわば彼女の紹介夢としてとらえることができる。夢3の夢自我は小学校時代のおてんばな少女の段階に未だ留まっており、思春期の課題である女への脱皮を通過していないことを表現している。つまり彼女の靴だけが運動靴で周りは黒の革靴である。恋に悩む同級生が夢自我になにかを言おうとするのも印象的である。連想においてもB子は自らの心理的未熟性に言及している。しかし、この夢の最後で女性性を象徴するかのようなリボンを結び直しているのは、彼女における女性性の受容が前向きに動き出していることを暗示しているのではなかろうか。夢4においてB子が嫌っていた実在の女性が夢に登場する。この女性は夢1の連想にて述べられた彼女のボーイフレンドを横取りした女性である。B子によるとセクシャルな女性で、男性との交際も活発で、いわばB子とは対称的な女性である。ところがB子は夢の中のその女性の話し方が自分とどこか似ていたと言っている。つまりこの女性は、彼女が今まで発達させてこなかった彼女自身の半面を象徴しているのではなかろうか。しかもそれが、全く遠い存在としてではなく、かなり夢自我に近い存在として立ち現れている。また、彼女がこの夢をみることによって、その女性を初めて認めることができるようになったと語っていることはこの仮説の傍証となるものである。

彼女の女性性受容がこのように開示してくるとそれと平行して男性像も活動を開始する。夢5において夢自我は男性に追跡され、攻撃を受ける。夢2における冥界の存在(死者)としてあらわれた男性がありありと生き返って活動を開始したとも考られる。ここで夢自我はもう一人の中性的な男性と一緒に逃げているが、この男性には侵略的な側面はなく、去勢された男性といったおもむきで、現実の彼女とボーイフレンドとの関係を彷彿とさせる。この追いかけて来る男性と、一緒に逃げる男性とはどちらも部分対象的でありB子の中のsplitした男性像と考えることができる。Winnicott,D.W.14)は部分対象について「部分対象または部分対象としかいいようのないものとの関係は本能欲動が負荷されているわけだが、これは生のままの報復恐怖をひきおこす。」と述べている。

ここで追って来る男性は直方体の石を2つペアで投げて来る。この石については女性に侵入するものとしてphalicな象徴としての解釈も成立するだろう。またさまざまな解釈可能性があると思われるが、いずれにしてもこの石が何らかの彼女が受け取るべき課題を意味していることは確かなようである。彼女がそれを避けようとすればするほど石は確実に彼女に命中している。

また、彼女が自分の体内に入った石を自分で処理することができていることは重要なことと思われる。心配げに見守る母親を尻目に彼女は「大丈夫」と言いながら独自の対処をしているわけで、母が直面してきた問題を今度はB子が自分の問題として受け止めているかのようである。さらに、その石を取り出す際に生じた腹部の赤い瘢痕から、B子は自分の過食・嘔吐を連想している。彼女にとっての嘔吐が女性としての自分の受容困難という意味をもっていることは彼女自身がこの夢をみたあと連想していることからも確かであろう。しかしさらに一方でこの嘔吐には母親とは違う自分独自の対処という積極的な意味も考えることができるのではなかろうか。夢はそちらの意味をも示唆しているように思われる。

この最後の夢5は、彼女の男性像の変遷という文脈からも今後、多くの課題が山積していることを示している。例えば、夢自我は追いかけて来る男の顔も一緒に逃げている男の顔も見ることができていない。その分それらは未分化な位置に置かれている。当然のことながら追って来る男性は自我に親和的なものにはなっておらず、男性像が受容されたとは言い難い。この夢はむしろ問題提起の夢である。この意味からも筆者はB子の問題が解決したとは思っていない。いわば第1段落が終わったわけで、将来再び彼女が面接の再開を求めて来院する可能性は大きいと思われる。その際には第2、第3の段落が展開されることが予想される。

5.結語

この症例は女性の心理的発達過程における母娘の一体的関係という段階から一歩踏み出そうとする移行の段階にいるものと考えられる。その際この一体的関係に割って入ろうとするものは男性性に外ならない。それ故男性は侵略者、略奪者として立ち現れる。この症例の夢2において男性は、冥界の存在として出現した。その後の夢5では侵略者として、彼女を追いかける。女性にとって外的、内的になんらかの形でその侵略を受容することがこの段階から次の段階に展開するために必要となるが、彼女はまだそれを達成したとはいえず、将来の課題として残されている。しかし全くの拒否となっているのではなく、彼女が受容の方向に動き始めていることも事実である。またこれら男性像の活動と平行して、夢の中での彼女と母親との関係は、微妙な変化をとげており、これらのことは治療者に明るい展望を与えている。

最後に本小論を書くにあたり、さまざまな貴重な御意見を下さった大阪大学医学部精神医学教室の井上洋一先生と浅香山病院院長の高橋尚武先生に心から感謝の意を表します。


文献

1)Abelin,E.: The role of the father in the separation-individuation process, In: McDevitt, J.B. & Sttlage, C.F. (eds.): Separation-Individuation. International Universities Press, New York, 1971.

2)Bachofen,J.J.: Das Mutterrecht.Verlag von Krais & Hoffmann, Stuttgart, 1861. 岡 道雄,河上倫逸, 監訳: 母権論, みすず書房, 東京, 1991.

3)Blos,P.: Modification in Classical Psychoanalytical Model of Adolescence. In: Adolescent Psychiatry. Vol.7, The University of Chicago Press Ltd., London, 1979.

4)Deutsch,H.: Psychology of Woman. Vol.1, Grune & Statton, New York, 1944. 懸田克躬訳: 若い女性の心 理(1), 日本教文社,東京,1964.

5)Freud,S.: Female sexuality. (1931.) The Standard Edition of Complete Psychological Work of Sigmund Freud. Vol.21, The Hogarth Press, London, 1961. 懸田克躬, 高橋義孝他 訳: 女性の性愛について (フロイト 著作集5), 人文書院, 京都, 1969.

6)丹羽 隆子:ギリシャ神話, 大修館書店, 東京,1985.

7)Jung,C.G.: Allgemeine Gesichtspunkute zur Psychologie des Traumes. (1948.) Die Gesammelten Werke von C.G.Jung. Bd8,Walter-Verlag AG., Olten, 1967. 秋山さと子, 野村美紀子 訳: 夢の心理学(ユングの人間論 ), 思索社, 東京,1980.

8)Jung,C.G.: Die Beziehungen zwischen dem Ich und dem Unbewuβten. (1935.) Die Gesammelten Werke von C.G.Jung. Bd7, Walter-Verlag AG., Olten, 1964. 松代洋一, 渡辺学訳: 自我と無意識, 思索社, 東京, 1984.

9)Jung,C.G. und Ker nyi,K.: Einf hrung in das Wessen der Mythologie. Rhein-Verlag AG., Z rich, 1951. 杉浦忠夫訳: 神話学入門, 晶文社, 東京, 1971.

10)中村瑠木子:前青年期・青年期前期女子の精神療法の一技法,小此木啓吾編,青年の精神病理 2, 弘文堂, 東京,1980.

11)Neumann,E.: Zu seelischen Entwicklung des Weiblichen. Ein Kommentar zu Apuleius . Rascher & Cie. AG., Z rich, 1952. 河合隼雄 監修, 玉谷直實, 井上博嗣訳:アモールとプシケー ————女性の 自己実現———, 紀伊国屋書店, 東京, 1973.

12)Neumann,E.: Zur Psychologie des Weiblichen. Rascher & Cie.AG., Z rich, 1953. 松代洋一, 鎌田輝男訳: 女性の深層, 紀伊國屋書店, 東京, 1980.

13)Neumann,E.: Die Groβe Mutter. Bollingen Series XL . Phantheon, New York, 1955. Rhein-Verlag,Z rich, 1956. 福島章,町沢静夫,大平健一他訳: グレート・マザー, ナツメ 社, 東京, 1982.

14)Winnicott,D.W.: The Maturational Process and the Facilitating Environment. The Hogarth Press Ltd, London, 1965. 牛島定信訳: 情緒発達の精神分析理論, 岩崎学術出版, 東京, 1977.
http://koteraclinic.jp/monograph/187


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『私という他人 〜多重人格の精神病理〜』を読んで その@ — 幻聴が聞こえたら
http://www.gennchougakikoetara.com/index.php?id=watasi
2005年1月8日

 最近、

H・M・クレックレー、C・H・セグペン[著]川口正吉[訳]『私という他人 〜多重人格の精神病理〜』(講談社プラスアルファ文庫)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/406256145X/


を読みました。この本は1973年に邦訳・発行されたハードカバーの文庫版なのですが、著者の患者であったイブ・ホワイトという名の女性の、多重人格症状の発症から回復までの過程について書かれています。精神的な分野の書籍であり、今回は、この本の内容について触れていくことにします。

 一連の出来事は、彼女がひどい頭痛に悩まされはじめ、町の診療所に行くことにより始まります。その診療所の医者にクレックレー・セグペン精神科クリニックを紹介されるのですが、実は、そのクリニックの治療者が著者であるクレックレーとセグペンの両博士であり、彼女に対しての精神療法による治療が始まることとなるのです。そして、その治療の過程で著者は、当時、非常に珍しい症状であった多重人格症状の症例に接することとなったのでした。

 治療者である著者は、面接を行うことによりイブ・ホワイトの話(症状)を聞いてきます。彼女は、夫婦生活をする中で、度々、夫に腹を立てられ、時には平手で打たれる事があると告白し、自分では何故そういうことを夫にされるのか理解できないと言います。著者も、この小さな女性と接した感触では、性格が大人しく、腹を立てられるようなことをするとは想像できない。夫が尋常な男ではないのか、それとも、他に何か原因があるのか。問題の原因を探りはじめることになります。

(本書、第1章「それは偏頭痛からはじまった」17頁より)
 彼女はしばしば、「目がくらむような」頭痛と形容した。どんな意味でこの形容詞を使っているのか、なかなか正確にはわからなかった。どうも字義どおりに視覚を失う、あるいはまったく見えなくなるということではなさそうであった。ただ、偏頭痛の患者によく見られるような視覚障害があったことだけは事実のようであった。彼女はまた、頭痛発作のあとに意識喪失があるともいった。彼女が意識的に説明を避けたというのではないが、こうした発作期間にいったい何が起こったというのか、診療者ははっきりとした意味合いをつかむことがむずかしかった。

 ときに、彼女のいう言葉から、ただの卒倒だったのではないかと思われるフシもなくはなかった。たるいは彼女のいうのが、もっと悪質な記憶喪失を意味しているのではないかと疑われることもあった。しかし、神経病学検査では、脳腫瘍の徴候は見られず、意識喪失を起こすような他の器質障害の徴候も見られなかった。また痙攣症の病歴も彼女にはなかった。

[中略]

 彼女のパーソナリティ(人格)は誰が見ても、異常とか強烈とかの特徴の全く欠けた、どんな驚くべき可能性もありようのない、ごく陳腐なものであった。

 治療を始めて数週間で彼女はかなり良くなり、もう意識喪失の発作を訴えなくなったので、事態は好転したかに思われました。しかし、安心したのもつかの間、その後、彼女は夫であるラルフ・ホワイトに連れ添われて再度診療所にやって来ます。ラルフが語るには、妻の気質が時々奇妙に変化し、それが原因で彼が癇癪を起こすことがある、とのこと。また、そういう事件があったにもかかわらず、彼は妻のことを、そういう病的な面を除いては大体において魅力的な女性、非常に貞淑で、辛抱強く、子供に対して献身的な、良い母親であると見ています。

(同、第2章「幻聴を聞く」23頁より)
 「先生、こんなやさしいしっかりした女が人を怒らせるなんて、とても信じられないでしょう。ですがそれは事実なんです。僕が悪いのかもしれません。いや、妻はあまりに善良すぎて、そのために時々、僕は癇癪を起こすのかもしれません……先生は妻のいいところばかり見ていらして、それに慣れきっていられるのです。もし先生も……それとは全然ちがった反面……それが出たとすれば……どう解釈すると当惑されると思います」

 もっと詳しく話してくれと私たちは頼んだ。イブはときとすると、いつもの辛抱強さと冷静さとは似ても似つかない様子で、別人のように振る舞うことがあるという。

 その後、治療者の症状を解決させようという努力の効果が表れたのか、夫婦の間柄はかなりよくなったように察せられました。しかし、再度ラルフから期待を裏切る手紙が来ます。ひどい頭痛がぶり返したので、なるべく早く面接をお願いしたいとのこと。診察室でイブ・ホワイトに会うと、ひどい頭痛が続いて、生活が極めて惨めだったと訴えられます。そして、彼女は、何度も繰り返し同じ不思議な夢を見ると告白します。

(同26頁より)
 医師は、催眠術をかけてみようかといった。

 彼女は別にいやな顔もせずに承諾した。何度もすぐさめて、うまくいかなかったが、最後にやっと催眠状態になった。医師は、眠っている彼女に、そのままもう一度夢を語ってくれるよう命じた。そして目が覚めてからその夢が現実の経験とどの部分で一致しているのか、よく考えてみるのだとよといいふくめた。

 催眠状態からさめたあとで、彼女は、夢のその部屋が彼女の存在全体を意味しているらしいこと、よどんだ汚水は夫がカトリック教会のメンバーだという意味らしいことを、きわめてスラスラと申したてた。こう見ると、夢と現実とはまったく一致しているのであって〜[中略]。

[中略]

 この夢の解釈で新しい事実が発見されたわけではない。
彼女がこれまで意識的には、そしてはっきりとは気づいていないことが、一つでもこの夢の解釈で明らかになったというものではなかった。だが夢の解釈を医師と話しあうことは、彼女がこれまでの面接でふれることを避けていた重要な意味を持つある部分の感情を、明瞭に彼女に意識させるには役だったようである。

 事実、彼女自身も驚いたように、頭痛は突如として消え去った。彼女はすっかり元気を回復して診療室を辞していった。精神治療医(セグペン)がこれまでの面接で見たこともないほど彼女の気持ちはほぐれ、明るくはればれとしていた。


 それから約1年間、イブ・ホワイトの状態はかなり良好な状態を保ちます。しかし、ある日、治療者の元に彼女から一通の手紙が来るのでした。夫と、とり返しのつかない争いを起こしてしまった、という内容の手紙です。催眠術による治療は有効であったが、このケースでは、約1年間しか効果が続かなかったようです。

(同27頁より)
 大変な喧嘩、そのあと夫も妻も逆上して、もはや二人の関係もこれまでだと宣言しあった。ラルフはすぐ一人で家に帰り、妻があとで衣類や自分の品物をとりにくるのを待った。

 彼女がもどってくると、態度がまるで変わっていた。夫は、妻のほほえみ、やさして声のちょうしにびっくりしてしまった。彼女は、何事もなかったかのように、夫の頬に軽く接吻し、いつものとおり家の中の仕事をやりだした。彼女の行動に当惑をおぼえながらも、夫は妻の態度に心がやわらぎ、妻が、あの時のはげしい憎悪と破局的な意向を何かの考えでひるがえしたのだろうと思って気をやすめた。今さらあの喧嘩のことを持ち出して危機をおしすすめるべきではないと考えた。それからの数日、家庭は平和にあふれ、夫婦の間柄はこれまでにないようなものであった。

 するとある日の夕方、旅行に出かけるつもりか、スーツケースに物をつめている妻を見つけた。彼女は冷静で、事務的で、そして軽く微笑していた。夫は何気なく、なぜ旅行の支度をするのかと妻に聞いた。

 「なぜ……?私、フローのところへ出かけるのでしょ?」

 彼女は、夫の質問にびっくりしたような表情で答えた。夫がなぜそんなわかりきったことを聞くのか彼女はとまどっている様子であった。悲劇的な終わり方をした先ほどの旅行は、じつはこのフローのところを訪ねたことであった。

[中略]

 「おい、何をバカいっているんだ。君のフローを訪ねる旅行はもうすんだじゃないか!」と夫は声を荒げて妻をなじった。彼女はただ呆然とするだけであった。

 治療者との面接でも彼女は、納得がいかない、フロー夫妻を訪ねて数日を過ごしたことも、あとから夫が来たことも、全然覚えていない、と言いました。これはひどい記憶喪失だと思った医師は、再度彼女に催眠術をかけることにします。すると、フロー(従姉妹)と仲良く数日を過ごしたことを明瞭に思い出すことができるのでした。しかし、 夫との口論の原因については、なぜか曖昧なことしか言えず、おかしなフシも見られました。

 治療者は、面接をしているときの彼女の穏やかな態度と、夫の述べる、喧嘩の際の彼女のはげしい行動との間に辻褄の合わないものを感じ取ります(夫の証言は、その口論の場に居合わせたフローの夫に会うことにより誇張でないことが証明されていました)。その後、治療者との面接により少し自信を取り戻した彼女は夫に伴われて帰っていくのですが、直後に手紙が届きます。それも、未完の手紙であり、途中で突然、筆跡と内容が変わっている手紙なのです。その変わり様は、子供がイタズラ書きしたように、同一人物が書いたとは、とうてい思えないようなものなのでした。この手紙を受け取り、医師は様々な可能性を模索します。

(同36頁より)
 これまでイブ・ホワイトはいつも変わりなく慎重で実直な人柄であって、几帳面なくらい誠実な女であった。その真面目な彼女が、正気でこんないたずらをするとは、とうてい考えられない。とすれば、コロンビア市の従姉妹を訪問したときの健忘発作という事実と考えあわせて、この場合も、それに似たようなごく短時間の夢遊病、あるいは遁走(フユーグ)が発生したのかもしれない。それが医師のいちおうの説明であった。


 この手紙の一件から一週間もせず、著者は、今度は夫であるラルフから連絡を受けることになります。彼女が、今度は夫に相談なしに町に行き、非常に高価なドレスをたくさん買い込んできたという。それで急遽、翌日に面接することになるのですが、会うと、また彼女はそのことについて何も知らないと言います。彼女は、夫の怒りを(誤解を?)解けずにいる、子供も失うかもしれない、そういう不安により地獄にいるように苦しめられている、そう察せられるのでした。

 自分を救って欲しいとすがるような目で医師の方をまじまじと見る彼女。治療者である医師との間に、緊迫した沈黙の時間が生まれます。その時、医師は深い呼吸をし、自分でも何故そうしたかわからないのですが、微かにほほえみます。すると、彼女の意識の中で何かの変化が起きたのか、初めて幻聴の体験を告白するのでした。それまで、彼女の性格もあり告白できないでいたのです。彼女も、幻聴という異常現象から統合失調症(精神分裂病)という重い精神病をイメージし、精神病院に入れられて、二度と外に出られないことを恐れていたのでした。

(同41頁より)
 「もう、何ヶ月にもなります。あの声が聞こえだしてから。めったにしかないのですけれども……」

 ところが、ここ数日はそれがとても頻繁になってきて、いまではどうしても避けることができなくなってきた。聞こえるのはいつも女の声である。誰の声だかどうしてもわからない。が、聞き慣れた声のように思われることが時々ある。その声は軽快な調子のしゃべり方で、時どき下品な言葉を使う−と彼女はいった。

[中略]

 精神病者の幻聴というものは、通例こんなにはっきりした声を聞くものではない。精神病者は、聞きなれぬ声がしゃべるその内容に恐怖を覚えはするが、異常な知覚そのものをとくに恐ろしいと思うことはめったにない。幻聴を聞く精神病者はほとんど一様に、自分の聞く声が現実にある声だと考えている。彼らはラジオとか、レーダーとか、あるいは無限の距離に音波を発射する放射性物質、さらには霊能者の内部に潜む心霊体に、目には見えぬ波動が作用してそうした声が聞こえてくるのだ、と絶対に信じている。

 精神分裂病の患者は、幻聴が精神病の一つの証拠だとはけっして思っていない。幻聴の声が現実のものでないと、いくら説明してやっても、とうてい彼らを納得させることはできないのである。

 これに反して、イブ・ホワイトの反応の仕方はまことに奇妙なものであった。すなわち、彼女は、精神病学の理論としては重症の精神病者にだけしか起こらないはずの幻聴を感じると同時に、それに対して正気で健康な通常人のするような反応を示しているのであった。

 今回は、ここまでの内容で筆を置かせていただきます。全29章の中の、はじめの2章についてのみ触れていったのですが、それだけの内容の中にも、有益な情報が多くあるように私には感じられました。最初は激しい頭痛、そして、意識の喪失を訴えるイブ・ホワイト嬢。脳に問題があるのかというと、脳腫瘍などの異常はないという。そして、夫による証言では、妻の気質が変わり別人のように振る舞うことがあるとのこと。病院にかかるほどの問題を抱えていなくても、気分屋であったり、時として別人のように振る舞う人は、現在の日本にも多く見られるのではないでしょうか。

 その後、頭痛がひどく、日常が惨めで、不思議な夢を繰り返し見るという彼女の訴えにより著者は催眠術という方法よる治療を試みます。その結果、一年間ほど症状は好転するのでした。催眠術というと、私はブライアン・L・ワイズ[著]『前世療法』を連想しますが、ワイズ氏のケースでは、退行催眠により患者の病気の原因になった時期まで記憶を遡ることを試みたところ、患者の生前にまで記憶が遡ってしまい、そこから新しい事態が展開されていくのでした。

 話を元に戻します。治療から約一年後、再び彼女に事件が起こりはじめます。夫からの視点によると、彼女は気質が変わることがあり、癇癪を起こしたり、そうかと思うと、そのことをすっかり忘れていたりする。彼女にしてみたら、頭痛で悩まされる上に、自分がしてもいないことで夫に激しく怒られ不条理に感じるし、気分は沈む。不安にもなる。解決することがむずかしい状態に、彼女たちはおかれているように察せられます。

 著者が再度催眠術による治療を行うと、彼女は忘れていた記憶を大部分思い出すのですが、問題の核心については何故か曖昧なことしか言えません。そして、後になって、彼女が幻聴の体験をしていながら告白できないでいたことが発覚するのでした。彼女は、幻聴が聞こえることにより自分は統合失調症であるのかと疑うのですが、私の場合と同じく、幻聴という症状により統合失調症と診断され、精神病院に入院、二度と外の世界に出られないことをイメージし、彼女はクリニックの治療者である著者にも言えないでいたのです。しかし、ある切っ掛けにより治療者との信頼関係が気づかれることにより、、遂に彼女は告白することになるのでした。

 著者によると、精神病患者の幻聴と、彼女の幻聴との間には明確な差異があります。それは、精神病患者は現実の声と幻聴との区別をすることができないのですが、彼女は幻聴を幻聴だと認識し、現実の声と区別することができるということです。ともかく、彼女のこの幻聴の告白により、治療に関しても新しい展開を迎えることになるのでした。
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『私という他人 〜多重人格の精神病理〜』を読んで そのA — 幻聴が聞こえたら
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今回も、前回に引き続き『私という他人 〜多重人格の精神病理〜』の内容について触れていきたいと思います。前回、イブ・ホワイト夫人は幻聴の体験についての告白をしました。その後、彼女は精神病と診断されていないことに安心しながらも、娘を手放すことに対する恐れ、夫との問題、などにより神経をすり減らし続けます。そして、頭痛の回数は増え、激しくなり、意識が喪失することも多くなっていくのでした。

 そんなある日、医師が彼女と面接している最中に、信じられないような事件が起こります。彼女に聞こえる「女性の声」が話題であり、その声のことをうまく説明しようとして、彼女が考えあぐねていたときでした。

(本書、第3章「もう一人の女」44頁より)
 彼女の考え込んでいる目の表情が、ほとんど凝視の形をおびてきた。イブは、瞬間、眩暈を感じたらしかった。突然、彼女の姿勢が変化しはじめた。彼女の体はおもむろにこわばっていき、ついに硬直したまっすぐな座り方になった。と、見なれない、わけのわからない表情が彼女の顔をサッとかすめた。が、次の瞬間にはそれも消えて、完全な無表情となった。容ぼうのあらゆる線が、ほとんど認められないくらいの、さざ波が立つような変化で移っていくように思われた。しばらくのあいだ、何かひじょうに計り知れぬ神秘的な表情がそこにただよっていた。両目を閉じ、彼女は両手をコメカミにやり、そこを強く押さえ、急激な痛みと闘うように交互に上下へひねりながら、顔をしかめた。かすかな震えが彼女の体全体を通り過ぎた。

 それから−両手は軽くおろされた。そして彼女の姿勢は、医師がこれまでこの患者について目撃したことのないゆったりとしたものに、たわいなくほぐれていった。青い目がぽっかりと見開いた。すばやい大胆なほほえみ……。

「ハイ!……そこなの、先生(ドック)!」

 人格が交代する瞬間の描写についての記述になります。イブ・ブラックという未知の人格が、イブ・ホワイト人格と交代して医師の前に初めて現れたのでした。記述から、喋り方が変わっているだけではなく、姿勢なども変化していることが理解できます。

(本書、第3章「もう一人の女」49頁より)
 ここでもうすこしくわしく、この新しい幽霊の女と、消えさったイブ・ホワイトとの外見上のちがいを説明しておこう。あの平凡なイブ・ホワイトが、内気な稀に見るしとやかさと節度とをわきまえた女性であるのにたいし、新しく出現したこの女は、子供のようにものおじしない気質、エロチックでいたずらっぽい流し目、滾々と湧き出るような活力、遊びを求める貪婪な意欲などが特徴であった。このまるで屈託のない女は、イブ・ホワイトとその悩みを、人ごとのように口にし、イブ・ホワイトを指すのに「彼女」という三人称を用い、自分自身とのあいだにはっきりとした境界線をもうけていた。

(中略)

 二人の女性のあいだの数えきれないほどのちがい−態度、物腰、表情、姿勢、反射の度合い、視線、眉のかたむけ方、目の動き、そういったもののすべては、たしかにこの女が全く別人であることを主張しているかに見えた。だが、そうした差異が実際何であるかと正面きって問われると、まったくどう返答していいかわからなくなるのであった。

 二つの人格の間には数多くの異なる特徴があり、例え同じ肉体を共有しているにしても、同一人物であるようには感じられないし、その差異をうまく解釈することができない、ということです。つまり、ある人が二重人格者と会い両人格と接した場合、それぞれ別の人と会ったように感じるのですが、それが何であるのかよく理解できない、そういう状態です。二重人格という症例は、精神科医もめったにお目にかかるものではなく、その解釈に著者自身が非常に困らされるのでした。

(本書、第5章「二重人格−その人格交代に直面して」87頁より)
 多重人格はしばしば、ヒステリーの一形態だといわれる。これまでに報告されたケースでは、たしかに、意識の分裂を示すとともに、転換ヒステリーの古典的なまちがいのない症候を示しているものが少なくはなかった。誰でも知っているように、ヒステリー患者はひじょうに暗示にかかりやすく、芝居がかった行動をする。こうしたヒステリー患者が、自分はいますばらしいものを発見しつつあると思いこんでいる医師の熱心な呼びかけに答えて、凝りに凝った、信じられないくらいの仕草をやってのけ、観察者の期待にそうような、いや観察者の想定を上まわるような変貌を見せるであろうことは、想像にかたくない。

 読者も見聞きされただろうが、およそ薄気味のわるい怪奇な現象−たとえば空中浮遊だとか、死者との通信だとか、物理的な力が働いていないのに物が動くとか、遠隔の人と会話をするとかいう現象−は、むかしは「騒ぐ霊(ポルターガイスト)」の仕業だと思われていたのだが、今日でも、相当の学識ある人でさえ、これを死者の心霊によるものだと信じているようである。ところがよく調べてみると、術者はたいてい、じつは悪意のないヒステリー症の少女か何かなのであって、彼女をあやつる黒幕の人物の命令するままに、無意識のうちに行動し、演技が度重なるにつれてますます芝居がかり、神秘性をおび、ついには信じがたいまでの「奇跡」をやってのけるにすぎないのである。

 多重人格の解釈について書かれていますが、ヒステリー症の一形態だといわれることが多いのだそうです(本書が執筆されたのは1958年です)。また、著者は、ポルターガイスト現象について、黒幕の人物に操られたヒステリー症の少女か何かが引き起こしている、との解釈をされています。

 私は、そういうことも多くあるのかなと感じます。もう、心霊的な世界には怪しげな山師が多数潜んでおり、詐欺的な行為を多くしてきたために信頼性を失っているという現状があるように感じるからです。そのことも一因となり、学識ある人々の多くは心霊的な世界について語ることを嫌がるのではないでしょうか。つまり、物欲に囚われているような人間は、精神的な世界について語ってはいけないということです。特に、金儲けや虚栄心のために精神世界・心霊的なものを利用してきた人々が少なからずおり、結局は、そういった行為が心霊的なものの信頼性を低めてきたのでした。

(本書、第6章「孤独な魂の記憶」99頁より)
 だが、いま直面している患者は、ありきたりの精神障害とはまったくちがう。私たちは二十年近く、共同で精神科クリニックを経営してきたのだが、イブ・ホワイトのようなユニークなケースに出会ったのは、これがはじめてである。この患者は無数のむずかしい問題を提起し、いかなる不測の可能性を秘めているかもわからない希有のケースである。

 精神医学の教科書ではしばしば、二重人格はヒステリーという周知の名称のもとに、他の意識分離症といっしょに分類されている。だが私たちには、この患者をはたしてヒステリーの分類に入れていいかどうか自信がなかった。彼女がはたしてヒステリーに共通なありきたりの反応を示すかどうか疑わしく思った。この患者には、私たちの知識の限界をはっきりと自覚させる何かがあった。人間という統一体あるいは人間の生命という小さな核的事実をとりまいて、そこに広がる無限の神秘性についてわれわれの知識がいかに乏しいか、そしてまた精緻な精神病理学の諸理論がいかに疑わしく、頼りないかを思い知らしめる何ものかがあった。

 著者は、このイブ・ホワイトのケースを、ヒステリー症として分類していいかどうか悩みます。著者の知識を超えるものが現状としてあり、自分たちの力の限界を自覚させられたからでした。

 心霊的な知識からは、このケースを霊魂の交代だと解釈しすることができます。霊魂が交代する。だから、肉体以外の部分は全て交代する。そういう解釈になりますし、著者は、それを無限の神秘性として感じられているのではないでしょうか。また、心霊的な精神病の解決方法として、霊媒に霊を憑依させて解決していく、というやり方があり、そのことについては後述します。

(本書、第6章「孤独な魂の記憶」110頁より)
 観察期間中、彼女には多い隠された、あるいはごく初期の、精神分裂病の徴候はなかった。また分裂病質傾向すら全然見られなかったということを、とくにここで強調しておきたい。よく、一件常人であって、行動も言語も非の打ちどころのない合理性をもっていながら、その内側の奥深い個所にきわめてかすかな分裂病的な異常さが隠されており、何かのはずみに察しても、彼女の動作、姿勢、その他いっさいの外部に現れる部面で、おかしな気味のわるい徴候などは毛筋ほども見られなかったのである。

 彼女には、多重人格といわれる人格の交代は起こっていたが、現実と幻覚を混合するといったような一般的に統合失調症患者に見られる傾向はなかった、ということです。

(本書、第7章「意識がとぎれた間」131頁より)
 イブ・ホワイトと対座しながら、治療者は静かに、イブ・ブラックの名を呼んだ。そして、何も知らないこの患者に、直接に話しかけてくれと、医師は要求した。

 反応はただちに、しかも印象的に表れた。イブ・ホワイトの顔は、突如として表情を失い、中略。すべての表情と感情とをはぎとられた空白の一瞬がすぎて、その顔には、原始の驚きともいうべきむきだしの感情が表れた。そして寸時の沈黙ののち、彼女の相貌は、またいつもの静かな落ち着きをとりもどした。かすかな、聞き取れぬほどのため息を一つもらし、彼女はおもむろに、ささやくようにいった。

 「……ありえないことですわ」

 患者の心は深部から揺すぶれ、乱された。彼女の医師はその午後ずっと彼女につきそってやらなければならないと思った。彼女の感情が、この不気味な、恐ろしい自己了解に順応していくように、できるだけ彼女を力づけてやらなければならないと思った。

 これは、著者とイブ・ブラックがあらかじめ話しあい、イブ・ホワイトにもう一つの人格(イブ・ブラック)の存在を知らせるため、彼女にその声をわざと聞かせたのでした。それは、イブ・ホワイトにもあらかじめ説明してから、意識の奥の方からイブ・ブラックが語りかけたわけです。

 イブ・ブラックの方は、イブ・ホワイトの考えていることがわかるといい、その存在を以前から知っていました。しかし、イブ・ホワイトの方は、それまでイブ・ブラックの存在を全く知らなかったので、著者は、その存在を知らせることが治療の役に立つと考え、彼女に幻聴(イブ・ブラックの声)を聞かせたのでした。

(本書、第9章「第二の人格はいつできたか」160頁より)
 私たちは、イブ・ブラックとの対談で、彼女がイブ・ホワイトの幼少期からずっと独立の生活をもっていたと聞かされて、驚くとともに、その真実を疑った。イブ・ブラックなるものが、患者のここ数年経験した破壊的な情動ストレスから生まれた産物らしいと推測していた私たちは、これをまた例のイブの誇大な作り話の一つではないかと思っていた。彼女は、二十年前、あるいはそれ以前の挿話を、隠しだてせずに語った。みんな、彼女が出現した話で、いたずらをしたり、両親のいいつけに従わなかったというような話ばかりであった。

(中略)

 私たちが両親と面談するにおよんで、イブ・ブラックの語った挿話のあるものは、両親その他の家族の証言で、これを裏づけることができた。(中略)。両親ともイブ・ブラックが私たちに話したことのあるいくつかの事件を記憶していた。

 イブ・ブラックは二十年前から記憶をもっており、その記憶が両親の証言で裏づけられた、とのことです。これはイブ・ホワイトにとっては、信じられないような、恐ろしいことではないでしょうか。自分の知らないところで、自分のことを知っていて、考えていることもわかる人格(霊魂)がいたのですから。しかも、イブ・ブラックの場合は、時どき肉体に表面化しては問題を引き起こし、後始末はイブ・ホワイトにとばかりに、責任は取らずにまた奥に引っ込んでいくのでした。こうなってくると、興味は、どうしてこのような事態になったのか、どうしたら問題が解決するのか、という方に移ります。


(本書、第10章「自殺願望」176頁より)
 ごくはじめのころの面接で、イブ・ブラックはこういうことがあった。彼女の中のイブ・ホワイトの記憶(memory)が、ごくわずかの時間ではあるが、ひどく妨げられることがあった。それは、イブ・ブラックの支配がなおつづいていながら、しかも彼女の交代人格が必死にもがきでようとするので、意識にありつこうとする両者の争いがはげしくなり、いっときどちらが勝ちをしめるかわからないようなきわどい一時期に、そのような記憶の妨げが起こるということができる。いつもできるとはかぎらないが、時々はできる、といった。しかし、これをするには、かなり不快な努力がいるので、めったにそうはしないのだという。

 恐ろしいことに、イブ・ブラックにはイブ・ホワイトの記憶を妨げる能力があるのでした。イブ・ブラックの場合は、滅多にそういうことはしないとのことでしたが、もしも、そういう行為ばかりするとなると、「『霊感者スウェデンボルグ』にみる幻覚の心霊的解釈」における、憑依霊と同様の行為をしている、より悪質な霊であるということになるのではないでしょうか。

(本書、第11章「誰にも本当のことは言えない」188頁より)
 「偽善者」という言葉がある。その人の主張、自負が、実際の行動とあまりにくいちがっている場合、彼は「偽善者」といわれるのだが、そのくいちがいが極端な場合は、彼は「二重の人生を送っている」といわれる。

 このように、意識からしりぞけられシャットアウトされた傾向、態度、性質が、その人の心の内奥に、気づかれぬまま一つの潜在能力として存在し続けるという説は、けっして根拠のないものではない。かく、意識からしりぞけられ分離されたものが、何かのきっかけで動員され組織化され、ついには一つの目に見えるものとして表面に表れてくる−それがいわゆる二重人格の中の第二の人格であると説明されているわけである。

 この考えにもとづけば、治療の道はおのずから明らかであろう。すなわち、二つの人格相互認知をすすめてゆき、最終的な再統合へもってゆくということである。かくて、数十ヶ月にわたり、おのおののイブを一歩一歩その幼児期までたどっていかせるという努力がつづけられた。

 何らかの原因により、一つの肉体に二つの人格が宿るという状態になり、片方は真面目で、もう片方は不真面目なのでした。そして、時どき、不真面目な方の人格が肉体を支配しトラブルが起こる、という構図になります。著者は、人格が分離した幼児期まで記憶をたどること、そして、二つの人格の相互認知をすすめることが、この問題を解決する治療方法であるといいます。

 「C.A.ウィックランド著『精神科医ウィックランド博士の迷える霊との対話』」にみられるように、精神病の心霊的な治療方法として、精神病患者に取り憑いている憑依霊を霊媒に憑依させ、霊能者(この場合は精神科医)がその憑依霊と対話することにより、解決を探る(病気を治していく)というやり方があります。実は、このイブ・ホワイトとイブ・ブラックのケースについても、これら心霊的なケースとの類似性が見られるのでした。肉体を支配している主人格(この場合は、イブ・ホワイト)に対して、非協力的(この場合は、イブ・ブラック)であったり、攻撃的な他人格がおり、主人格が苦しめられるという構図がそうです。そして、そういった不満分子の理解を得ることが、問題解決のポイントであると考えられています。

(本書、第13章「内向を深める性格、外向に走る性格」217頁より)
 しかしながら、ミス・ブラックのロールシャッハ・テストが、私たちが依頼した臨床心理学者によって、「ホワイト夫人のそれよりはるかに健全である」と解釈されたことは注目に値する。この臨床心理学者によれば、イブ・ブラックの記録はヒステリー傾向が顕著であるのに対して、ホワイト夫人には、「しめつけられている感じ、不安状態、強迫神経症傾向」が見られるという。(後略)。

 これは、現代人の生き方の違いにも通じる両人格の間の差異になります。抑制的で大人しい性格のイブ・ホワイトよりも、開けっぴろげで我慢を知らないイブ・ブラックの方が、精神的には健康であるということです。

 現代の日本にも、流行を追い、クラブに踊りに行き、乱痴気騒ぎが大好きで、大した向上心もなく日々を生きているA君と、本を多く読み、勉学に打ち込み、倫理・道徳的な生活規範で自分を縛り、目標を持ち日々生きているB君がいます。私は大体はB君でありたいと思っていますが、実は、精神的にはA君の方が健康的であるといわれています。A君はストレスを感じない生き方をしているのに対して、B君は、自分をより向上させるためにストレスを溜める生活をしているからです。

 では、みんなA君のような生き方をするのがいいかというと、私は決していいとは思いません。B君のように目標を持ち努力し、時には、人の道に外れない範囲内で羽目を外し、ストレスをうまく処理して生きていくことが、最良の方法ではないのでしょうか。つまり、バランス良く生きていくことが大事であるように感じます。

(本書、第13章「内向を深める性格、外向に走る性格」219頁より)
イブ・ホワイト
 つつしみぶかく、控えめで、ある点では聖女に近い。
 顔は静かな甘美さを示す。休んでいるときの表情は悲しみをじっと噛みしめているといったふうである。
 声にはいつもやわらかでなだらかな抑揚があり、つねに、ひときわ女性的な抑制に支配されている。

(中略)

 過酷な環境に苦しみ、悲劇に恐れおののき、そうした中でわが子を守りぬこうとする健気な努力は非常に印象的であるが、本質的には破れやすいものであるだけに、いいようのない悲壮感を誘う。はたから見て、いまの環境にやがて圧しつぶされるのではないかと、ハラハラさせられる。
 ナイロンに対するアレルギーはない。

イブ・ブラック
 どう見ても、パーティ・ガールで、抜け目がなく、子供のように見栄っぱりで、自己中心的である。
 顔はピクシーのようで、目は、いたずら小僧が瞳の奥からのぞいているように、躍っている。
 表情は変化しやすく、いつも何かおもしろいことがしたくてたまらないといった衝動的な光をただよわす。目つきはカゼのごとく移りやすい。顔には悲壮のかげがまったくない。時どき子供のあどけなさを見せるが、ほんとうは、それは表面だけの無邪気さである。
 声はすこししわがれている"ディスカルチュアな"(本人の住む文化的枠組みから逸脱した)ところがあり、陽気さと、相手をなぶるひびきがある。

(中略)

 およそ思索的などではない。真剣になることは、彼女にとっては、退屈なバカバカしいことである。男はこの女を見るとすぐおもしろい女だと感じ、人好きのする女だと思うだろう、そういう魅力がある。つまらぬ日常経験の細かいことまで、異常な好奇心で観察しようとする。そして不思議にも、「じわじわとくる外部世界の汚濁が伝染してこない安全地帯に引っこんでおり」、あらゆる精神的苦悩と悲哀とから離れて安泰である。
 彼女の皮膚は時どきナイロンによってジンマシンを起こすと本人がこぼしている。だから「出ている」ときは、靴下を長時間はかないようにしている。


 イブ・ホワイトとイブ・ブラック、両者の性格の違いについての記述になりますが、これはもう、完全な別人だということがわかります。そして、イブ・ブラックは20年前からの記憶があるといいます。それでは、なぜ、その時からの記憶があるのか、ということが疑問として生まれてくるのです。そして、両人格の間の相互理解がこの症例の解決策になると著者は考え、その方向での治療が行われていきます。この、両人格の相互理解が達成されたら、症状は好転するのか、どういう結果を招くのか、非常に気になるところです。

 わたしは、この両人格を心霊的に霊魂であると考えていますが、何らかの事件が二十年前に起こり、それまでは一つであった人格なり魂が、二つに分かれたのではないかと考えている点において、精神科医である著者の解釈と何も異なるところはありません。

 丁度、太陽のように一つの丸い球体が、ヒョウタンのような形状を経て、二つの球体に分かれるような感じに分かれたのではないかとイメージしています。そして、片方の真面目で責任感のある霊魂(人格)が普段は肉体を支配し、もう片方の不真面目な方の霊魂(人格)が奥の方に引っ込んでいたということになります。両者は分裂する前はバランスのよい人格であったが、分裂時に、「真面目で病的な人格」と「不真面目で生き生きとした人格」とに分かれた、と考えることができます。

 また、別の話になりますが、この本の内容について考えていて、クローン人間を連想することがありました。クローン人間とは、ある人間と遺伝子配列が全く同一の複製人間のことです。一人の人間にさえ、複数の人格が存在することがあるというのに、それが、クローン人間ではどうなるのか。イブ・ホワイトの肉体のクローンを作成したら、そのクローン人間にもイブ・ホワイトとイブ・ブラックという二つの人格が宿るのでしょうか。非常に興味深い点だと思います。

 それでは、今回は以上の内容で筆を置かせていただきます。
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『私という他人 〜多重人格の精神病理〜』を読んで そのB — 幻聴が聞こえたら
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今回も、前回からの続きを書いていきたいと思いますが、少々お伝えしておかなければならないことがあります。題名にある通り、H・M・クレックレー著『私という他人 〜多重人格の精神病理〜』を読んだことが、今回の連載を書き始めるきっかとなっています。

 しかし、現在、たった一冊の本を読んだことにより多くのことを理解したと考えることは浅はかであった、と実感している次第です。どういうことかといいますと、先日、酒井和夫著『分析・多重人格のすべて』l(リヨン社)という著書を読んだのですが、これが非常に勉強になる本でした。そして、『私という他人』についても多くの頁数が割かれており、私の認識が改められるとともに、今回の連載の締めくくり方に関してかなりの路線変更が必要であることが判明したのでした。そのことをご了承いただけますよう、お願いいたします。

 以下、『分析・多重人格のすべて』内、「私という他人の要約」の一部からなります。

本書「多重人格のはじまりの物語」67頁より
 面接を進めるにつれて、イブ・ブラックは患者が流産した時からではなく、患者の幼児期からすでに時々出現していたことが明らかになった。そして、記憶の奥に眠る<陶器の青いコップ>のことが語られるようになった。

 ところが、今度はイブ・ホワイトの頭痛が再び悪化し、第三の人格であるジェーンが出現したのである。
 ジェーンは、二人のイブの中間物というべき人格で、円熟した、奥行きのある人格であった。ジェーンは以前の記憶はなく、まさにゼロからの出発であったが、どんどんと奥を自分のものとし、三人の人格の中で大きな地位を占めていった、そして一人の肉体をこの三人が共有する混乱のなかで、患者は夫との離婚を決意したのだった。

 くり返される面接のなかで、セグペン博士が催眠下で<青いコップ>のことについて探索するにつれて、あの見栄っぱりのイブ・ブラックが涙を流し、「私の形見に赤いドレスを持っていて」と懇願した。そしてイブ・ホワイト、ジェーンが出現したところで患者は両手でこめかみをおさえ、いきなりバンシー(恐ろしい泣き声で家人の死を予言する女妖精)のような悲鳴をあげる。

 そして第四の人格であるエブリン・ホワイトが誕生したのである。

 エブリンは幼児期に<青い陶器のコップ>で遊んでいた時に母に呼ばれ、祖母の葬儀に参列し、祖母の死顔に触るという儀式を強要されたことを思い出した。

 そして、この瞬間に一つの新しい人格が溶接されたのである。

 その後の変化は、「分裂していた人格が融合してしまったあと、彼女自身が見いだした個性を形成していく過程」であり、やがてエブリン・ホワイトはアール・ランカスターという男性と結婚し、ようやく幸福な人生を手に入れるのである。

 このようにこの物語は、三人の人格が一つの肉体を共有するという混乱した状況から、人格の分裂の根本的な原因である、祖母の葬儀での外傷体験を想起することによって人格の統合が得られたというハッピーエンドなのであるが、現実は少し違っていた。

 以上。要約より。イブ・ホワイトの症状について、やはり幼児期に原因があったのでした。解離性同一性障害(多重人格障害)の発症の原因の多くは幼児期の性的虐待による心の傷であり、退行催眠により原因となった事件までさかのぼり、再体験することが治療に有効だといわれています。イブ・ホワイトのケースでは、葬儀の際に祖母の死に顔に触ることを強要されたこと、それが発症の原因であり、治療の過程で退行催眠を行い事件を再体験することにより、人格が統合してハッピーエンドになった、と『私という他人』においては記述されています。

 しかし、後になってから、『私という他人』の内容は、実際の現実とは違っていたことが明らかにされました。それは、イブ(クリス)自身と、彼女のよき理解者である従姉妹・そして心理学者でもあるエレン、による共著『私は多重人格だった(私はイブ-ある多重人格者の自伝)』によって明かされるのでした。本書は、イブの真実の姿を正確に描こうとしたものであり、彼女は良くなっていなかったのです。実際は、第三の人格であるジェーンが自分が消えゆく危機に際して自殺を図り、盲目のレディが登場したのでした。そして、再度、頭痛と人格変換の日々が始まります。このような過程のなかで、イブは少しずつ自分自身を統合していったのでした。

 つまり、治療者であるセグペン博士とクレックレー博士は、無意識のうちに中立性を失い、その著作は少なからず主観的な内容になってしまっていたということです。イブは著作の最後で「48年もして初めて私は自由になった」と宣言しますが、『私という他人』の内容(ハッピーエンド)とは全く矛盾した宣言です。

 セグペン・クレックレーの両博士は、イブの人格を統合させて、それで治療が終わった、問題は解決されたとしたのですが、実際の彼女は、その後も苦しみ続けたわけです。では、どうすれば解離性同一性障害(多重人格障害)は解決するのか?治療するためのプロセスについて、『分析・多重人格のすべて』から抜粋して見ていきます。

本書「多重人格の治療」215頁より抜粋(箇条書き)
@多重人格の治療には、二つの異なった側面からのアプローチがある。

A一つは精神分析療法だが、その治療効果は疑わしい。

Bもう一つは催眠法であり、数年にわたる根気よい治療が必要である。

C催眠とは解離状態を作り出す技術であり、解離することは否定的な側面ばかりではない。自己の痛みを解離することにより、生存の役に立つ。解離状態は、無意識の扉を開くための重要な鍵なのである。

D多重人格の原因は、幼児期からの無数のトラウマになっている出来事に対する、本人が知らずに行っている防衛のメカニズムにある。

Eそれに対して、催眠は解離状態を人為的にコントロールする技術。

Fマッピングとは、さまざまな人格が個性と悩みを抱えているが、それぞれの人格と人格の関係、人格の特性を、あたかも地図を作るように配置し、一望できるようにすること。複雑な関係を整理する作業は、精神内界の探求の糸口になる。

Gマッピングが可能になる条件は、催眠なしで出現する人格たちと良好な関係を築く、それらの人格をあるがままに認め受け入れる、このことにより、各人格は安心して治療者と接触できるようになる。各人格に対して、普通のカウンセリングの技法で接して治療を行うことも可能であり、それは望ましいことだ。

H患者の許可がない限り、決して入ってはいけない部屋を心の中に創り、確実なものにしていく。

Iマッピング以降、患者は幼児期から思春期迄のつらい体験の再体験が求めれるが、そんなときにも、心の中に安全な部屋を持っていれば、「いつも安心して帰っていける場所」として、新たな傷を受ける可能性を最小限にできる。

J全人格に「自己催眠」を学んでもらい「自分をリラックスさせる技法」を会得してもらう。それは、ある人格から別の人格にスイッチすることを自分の意志で出来るようになる基礎的な訓練になる。このような心を守る方法を身につけてから、本格的な治療をはじめる。

K感情の再体験をする。ありありと当時の状況を想い出して、その時の感情をその時のままに感じ取る経験をすること。心の古傷をリアルに、現実のものとして再体験することは、その傷を取り除く上で、とても重要になる。傷を更に深くすることを避けるため、最初は催眠下で比較的強い人格に軽度のトラウマを再体験するように試みる。催眠下の想起で歯の治療を想い出させれば、現実に痛みを伴って想い出すことが可能。同じように、催眠下で、思春期に出会った不快な記憶を想起させると、実際にその時の不快−苦痛な感情を経験し「解放」される。

L多重人格の成因の仮説によれば、幼児期の性的虐待のような避けることのできなかった、自分の力ではどうすることもできないような経験を直接感じなくてすむように、人格を解離させて、自分を守ってきたのである。しかも各人格はそれらのつらい出来事を忘れている。そこで、人格のなかで比較的自己のコントロールをする力の強い者を選んで、治療の出発点にし、その人格を鍵として治療を行う。

M人格同士の友好関係を強化し、多くの記憶を共有させるように、催眠法を用いて変えさせる。どのようにマッピングを変化させたら、最も安全で本来の自己に近くなるかを洞察し、治療に協力する人格を選び、協力させ、それぞれの人格に記憶体験をさせて、それをできるだけ多くの人格が共有するように方向づける。

N人格を融合させようとしてはいけない。多重人格障害を単一の人格とすることは、現実に無理なだけでなく、非倫理的とさえ言える。多重人格であることが問題なのではなく、問題は、それぞれの人格が不幸であり、何らかの傷を持っていて、回復できていない点にある。

 以上、非常に有益な情報であるように感じます。とても印象に残ったのは、治療の目的が分裂した人格の統合ではないということです。そうではなく、分裂してしる各人格の心のケアを行い、お互いの人格相互の理解を深め、治療者に対しても協力的になっていくように促す。そうして、心の中でしこりになっているものを徐々に取り除いて、精神的な健康を取り戻していく、それが目的だということです。

 ところで、病気の治療を霊的に行う場合、大きく分けて二つのやり方があります。一つは、取り憑いている霊を追い払うというやり方です。その霊が障害を引き起こしているので、その場から排除してしまえばいい。そういう考え方によります。そして、もう一つは、取り憑いている霊を諭して、理解・協力を得るというやり方です。治療者である霊能者が、霊と直接話をすることにより、霊を納得させ問題を解決するのです。現在、前者より後者の方が、より高度であり正しい治療の仕方だといわれています。

 それは、悪い影響を与えている霊を追い払っても、なにも根本的な解決にはならないからです。その場から居なくなっても存在していることに代わりはないので、いつ戻ってくるかもしれない。それに対して、霊を納得させるということは、問題が根本から解決されたことになります。

 そして、そういった心霊的な治療のプロセスと本書「多重人格の治療」における治療プロセスの間には、類似性を感じずにはいられないのでした。人格であれ霊魂であれ、治療者に対して協力してもらう、そして、それぞれの人格(霊魂)に相互理解を深めてもらい、しこりになっている問題を解決していく、そういうプロセスを経るという点において非常に似ている点があるのではないでしょうか。

 最後に、私は今回、自分にとっては全く関係のない病気だとばかり考えていた多重人格を扱い、とてもよかったと感じています。それは、非常に勉強になったということです。幻聴とは関係がない話だと思ったら、イブ・ホワイトは幻聴体験をしており、その告白が重要なポイントになっていました。そして、いくつもの人格が登場することにより、心霊的な世界とのつながりを感じさせられました。何より、治療法に関する記述(『分析・多重人格のすべて』)は非常に勉強になるもののように感じます。やはり、本を読むことに得られるものは、非常に多くあるようです。

 それでは、今回で『私という他人 〜多重人格の精神病理〜』についての連載を終わります。
http://www.gennchougakikoetara.com/index.php?id=watasi3


▲△▽▼


多重人格者だった恋人の話
http://an.to/haru/

僕が実際に体験した不思議な恋愛についてお話します。

三年程前、僕はある一人の女性と付き合っていました。

彼女は僕よりもいくつか年上だったのですが、子供っぽい雰囲気を持つ人でした。
容姿から喋り方、仕草まで全てが幼い子供のような人でした。
今思うと、彼女は本当に子供だったのかも知れません。

付き合い始めた切っ掛けは、偶然にもお互いに一目惚れだったのです。

もちろん、初めて会った日から交際を始めたのでは無く、それから随分経ってから交際が始まりました。

最初はお互いに容姿から好きになったのですが、喋ってみると趣味などの共通点も多く、気が付くと彼女の全てを好きになっていました。

共通の友達がいたのですが、彼女の事を好きな友人がいた為、仲間内では内緒で交際をしていました。

友人に隠し事をするのはいい事ではありませんが、共有する秘密を持つ事でより親密な関係になっていったのだと思います。

極々普通のカップルで相思相愛、何の不満も無くお互いに幸せな日々を過ごしていました。

しかし、ある日を境に信じられない展開になります。

話の始まりは、彼女と付き合って半年ほど経ったある日の事です。
いつものように彼女が夕飯の支度を、僕はその横でお手伝いをしていました。
料理を作りながら二人で仲良く話をしていると…

何が切っ掛けか分かりませんが、突然、彼女は僕の事を忘れてしまったのです。
半年付き合っていて、今の今まで話していて、喧嘩したワケでも無く、唐突に

「あなた誰?」

と真顔で言われたのです。

僕には何が起きたのか理解できませんでした。
何を話しても僕の事を思い出してくれないのです。

何故、自分がここにいるのか?
何故、知らない貴方と料理を作っているのか?

彼女は僕に質問をマシンガンのように浴びせました。

しかし、状況を理解できず混乱している僕に彼女の問いに答える余裕はありませんでした。

最初はイタズラかと思いましたが、少し落ち着いてから順を追って話をしてみると、どうやら本当に僕の事を知らないみたいなのです。

そして、彼女の喋り方や仕草は明らかに僕の知っている彼女では無かったのです。
言うなれば完全に別人でした。

事態を把握できないまま、僕は自分自身の事や僕の知っている彼女の事などを彼女に話す事から始めました。

そして彼女の話を聞いている内に彼女が多重人格である事が分かりました。

今、話をしている彼女は僕の知らない人格の彼女だったのです。

つまり、彼女からしても僕とは初対面なので、まったく知らない人だったのです。
しかし、僕の事を知ったもう一つの人格の彼女はその後も頻繁に僕の前に出てくるようになりました。

これを境にごく普通の幸せな恋愛から現実離れした特異な恋愛に変わっていったのです。

後になって知った事なのですが、彼女は幼い頃に家族から受けた虐待が原因で人格が分離してしまったようです。

本当に極一部の人にしか当てはまらない事なのですが、そういった虐待などの経験を持つ人の中には、通常の思い出を記憶する場所とは別のところに辛い思い出を記憶してしまう人がいるのです。

簡単に言うと辛い事を記憶する場所が別に用意されているのです。

人の人格は経験…、つまり記憶から作られていると言っても過言ではありません。
辛い事を別の場所に記憶すると、その記憶が溜まるにつれて一つの別人格が生まれてくるのです。

言わば同じ一つの身体の中にまったく違う過去を持った二人の人間が存在するようになるのです。

一つの人格は普通の生活を送ってきた記憶しかないので、とても純粋な子供のような性格です。

社会に出すのが怖いほど純粋過ぎる性格でした。

もう一つの人格は、家族からの虐待など辛い事だけを味わってきた人格です。

精神的にはとても強いのですが、やはり辛い現実ばかりを見てきた為に、考え方が曲がった部分も多く、性格はツンツンしていて突っ張った印象を受ける人格でした。

しかし、彼女は自分が辛い思いをしてまで、もう一人の純粋な自分をずっと守ってきたのです。

気の強い人格の彼女は口調もきつく、多少接し辛いところもありましたが、今まで辛い思いをしてきたのだと思うと、僕は彼女のきつい性格を嫌いになる事はできませんでした。

元々はもう一人の自分を守る為に生まれてきた人格なので、きつい口調の中にたまに優しさを垣間見ることもあり、次第にその人格の彼女の事も好きになり始めました。

純粋な人格が妹だとすると、気の強い人格の彼女はまるでお姉さんのようでした。
知識も豊富なので、もしかしたら今まで殆どの時間は気の強い彼女が過ごしてきたのかも知れません。

それほどに辛い時間が多かったと言う事でしょうか…。

出会った頃の僕は、純粋な人格の彼女を好きだったのです。

気の強い彼女は付き合い始めの頃は、僕の前に出てくる事も無かったからです。

次第に僕は両方の人格を好きになっていたのですが、そこで問題が起きたのです。
気の強い人格の彼女が純粋な性格の彼女に対して嫉妬をし始めたのです。

それは僕が純粋な性格の人格の彼女をも好きだったからです。

それに対し気の強い人格の彼女は強く嫉妬しました。

僕にはどっちか一方の人格だけを好きになる事なんてできませんでした。
人格は二人であれ、身体は一つしかない一人の女性なのですから。

その一人の女性を人格によって好き・嫌いと別ける事など僕にはできません。
ただ僕自身もまるで二人の女性を愛しているような、そんな錯覚に陥っていたのも事実です。

そこで僕が導いた答えは二つの人格を一つにする、つまり多重人格を治すという事でした。

ここまで極端に違う性格を一つにしたらどういう人格になるかなんて想像できません。

しかし、一つにする事は今後の彼女の為を考えても必要な事だと思いました。

僕なりに色々と調べたのですが、多重人格と言うのは一度かかると癖になるらしいのです。

最初は辛い事だけを別の場所に記憶する事から始まるのですが、それに慣れてしまうと無意識に辛い事以外の思い出も複雑に記憶する場所を別けてしまうのです。
その場所が増えれば増えるほど人格も増えていきます。

それは彼女にとって日常で差し支えになる事は言うまでもありません。
僕は彼女の人格を一つに統一させる事を決意したのです。

人格を一つにするのに必要なのは、別々に別れた全ての記憶を繋げるという事です。

それぞれの人格から彼女の記憶を聞き出す事から始まりました。

彼女の記憶をたどって行くと、小学生の頃の親の離婚が原因で母親が暴力を振るうようになった事から人格が別れ始めた事が分かりました。
この時期を境に彼女の兄も暴力を振るい始めました。

背後を蹴られ階段から突き落とされたり、沸騰した鍋の中の湯に顔を突っ込まれそうになったりなど…
殺されてもおかしく無い程の酷い虐待だったようです。

本来ならば守ってもらえるはずの家族に殺されそうになるという、とても残酷な話でした。

頼れる相手のいない彼女は鏡の中の自分に相談して自分自身を慰めるようになっていったのです。

そして、鏡の中の自分が今の自分とはまったく違う人格だと信じ込み、その人格に憧れを抱くようになったのです。

当時、小学生であった彼女にはあまりに過酷な環境だったのでしょう。
行き場を無くした彼女は、自分を守る為に徐々に新しい人格を作っていったのです。

まるで鏡の中の自分を現実の存在にするように…。
この話は気の強い人格の彼女から聞いたものです。

純粋な人格の彼女はまったく知らない事実です。

しかし、その事実を彼女に話さなくては症状は改善されません。
純粋な人格の彼女は家族を愛していました。
家族にも優しかった時期があるのです。

それは両親が離婚する前でした。
全ての歯車は両親の離婚を境にずれ始めたのです。

離婚の事や女手一つで子供二人を養って行く厳しさが原因で、母の精神状態はストレスで限界に達していたのでしょう。

優しかった母は子供に暴力を奮うようになり、それまで仲良く遊んでくれていた兄も次第に彼女に対し暴力を奮うようになり、彼女は孤立していったのです。

純粋な人格の彼女はそんな虐待の記憶は無く、優しいお母さん、頼りになるお父さん、一緒に遊んでくれるお兄さんの記憶しかありません。

そんな彼女に真実を語る事は、家族との綺麗な思い出を壊してしまう事になるのだろうと思いました。

しかし、真実を知らないままでは彼女の症状は改善されないでしょう。

彼女の悲しむ顔を見るのは僕もとても辛かったのですが、ありのままを話す事にしました。

家族による虐待があった事から、中には第三者による性的な虐待を受けた話もありました。

その話を聞いた僕も辛かったですが、事実を知った彼女はもっと辛かった事でしょう。

それを物語るかのように、純粋な彼女は気の強い彼女に何度も入れ替わろうとしていました。

気の強い彼女が出てくる度に、僕は純粋な人格の彼女を出すように頼みました。
そういった事を繰り返しながら、ゆっくりとゆっくりと真実を彼女に伝えて言ったのです。

最初は僕の話を信じず、ただ泣くだけだった彼女も次第に信じ始めました。

時間はかかりましたが、最後には全ての事実を彼女は受け止める事ができました。
せめてもの救いが、家族と彼女は既に離縁しているので二度と虐待を受ける事は無いと言う事です。

彼女には身内がいません。

家族と離縁してからは、付き合っていた彼氏と同棲するなどして暮らしていました。

幸いにも彼女はかなりの美貌の持ち主であった為に、男性には困った様子も無く、恋人と別れたとしてもすぐに新しい彼氏を見つけ同棲をする事ができたようです。

中には多重人格の症状に気付いた彼氏もいたようですが、彼女のあまりの変貌振りについていけずに別れた人も多いようです。

治そうと試みた彼氏もいたのですが、結果的には失敗に終わり、精神的な辛さから別れてしまうケースが殆どでした。

その度に彼女は自分の居場所を探さなくてはいけないかったのです。
そういった不安定な生活が彼女を苦しめたのは言うまでもありません。

記憶の糸を繋げていくにつれて彼女に変化が表れ始めました。

今までは一人の人格が出ている時はもう一人の人格は暗闇の中に閉じ込められて身動きが取れないような状態であったようですが、症状が改善するにつれてその暗闇が無くなっていったのです。

暗闇が晴れる事によって、一人の人格が今何処にいて何をしているか、もう一人の人格が認識できる状態になったのです。

少なくともこれからは、それぞれの人格で記憶が違ってくる事は無くなったのです。

それから毎日のように彼女の記憶が分離しないように、一日の終わりに今日は何をしたかなど詳しく聞くようにしました。

普通の人には簡単な事でも彼女のように記憶障害を持つ人にとっては、一日全ての行動を正確に思い出す事は容易な事では無いのです。

それでも日が経つに連れ、彼女の症状が次第に良くなっていくのが分かりました。

そして、暫く経ったある日…。
ついに彼女の中の二つの人格が一つになる時が来たのです。

これほど突然に多重人格の症状に終止符を打たれるなど思ってもいませんでした。
もしかしたら、彼女の中の暗闇が取り除かれた時から、いつでも多重人格を治せる状態にあったのかも知れません。

あとは彼女の決意次第だったのでしょう。

彼女の話によると、多重人格を治すにはどちらかの人格が今後の人格のベースになる必要があるようなのです。

つまり、どちらか一方の人格は完全に消えてしまうという事です…。

もちろん、僕にはそれを選ぶ事はできません。
もし選ぶ事ができたとしても、僕には答えは出せなかったでしょう。

消えてしまう人格にとっては、それは永遠の眠りなのです…。

僕は二つの人格を共に同じくらいに好きでした。

二人の人格を愛していた僕にとって、どちらが選ばれるにせよ、それを受け入れる事ができそうにありませんでした。

僕の心の準備も出来ていない内に

「消えるのは私の方だよ。」

と、気の強い彼女が言いました。

気の強い彼女が今まで見せた事のないくらいに悲しい顔をしていました。
今思うと、彼女自身、どちらの人格がベースになるかなど選ぶ事はできなかったのでしょう。

ただ、僕に気を使って…、まるで彼女自身の意思で消える事を決意したかのように…

そう演じようとしていたのではないでしょうか…。

元々、彼女は純粋な人格を守る為に生まれてきた人格です。

自分の存在意義から残るのは自分じゃない…、そう自覚していたと思います。
僕は彼女との思い出など絶え間なく話し、最後の時間を過ごしました。

絶え間なく話しをした事は、彼女の気を紛らわす為でもありましたが…

何よりも、話を止めたら、すぐに彼女が消えていなくなってしまいそうだったからです。

彼女は何も言わずに話す僕の顔を見つめていました。

彼女に僕の声が届いているのか、それさえも分かりませんでした。
それでも僕は話を続けました。

しかし、彼女の意識が薄れていくのがはっきりと分かりました。
意識の限界を感じたのか、彼女は少し笑みを浮かべて

「ありがとう…。」

と、呟きました。
それが彼女の最後の言葉です。

彼女は小さな体を震わせ、大粒の涙を流していました。
気の強い彼女が見せた最初で最後の涙です。

僕は震える彼女の体を包み込む様に抱きしめました。
もっと話をしたかったけど言葉にする事もできず、そのまま静かに抱きしめていました。

本当にこれで良かったのか?
と、僕は何度も何度も自分の胸に問い掛けました。

そんな僕の想いとは裏腹に、彼女は苦しみから解放されたかのよう、まるで生まれたての赤ちゃんの様な表情を浮かべていました。

彼女を苦しめてきた全ての物を心の底から憎みました。
家族から愛を与えられず、虐待を受け、性的な暴行など受け、幼い心に深い傷を負い…。

何が起きているのか、誰に助けを求めてもいいかも分からない。
とても言葉では表せない程に、辛く悲しい体験をしてきたのでしょう。

「もう何も辛い事は無いよ…。」

せめて今だけでも気持ちよく眠りについて欲しいと願いました。

彼女が消えた後、彼女が存在した事を証明するものは何も残りません。

人の死は記録に残りますが、彼女のように人格だけの存在では何一つ記録には残りません。

彼女にとって、それは言い表せない程の孤独感だったと思います。

「体が二つあったらいいのにね。」

時折、彼女が言っていた言葉の意味の深さを改めて感じさせられました。

暫くすると、彼女の体の震えも収まり、彼女は深い眠りについた様でした。
僕は眠る彼女を静かに見つめていました。

このまま目を覚まさないかと思う程に静かに眠っていました。
それからどのくらいの時間が流れたのか、僕には分かりません。
ふと、彼女の体が動いたかと思うと、彼女は目をゆっくりと開けました。
その眼差しは、今まで僕と話していた彼女のものではありませんでした。

目を覚ました彼女は、幼さは残っているものの何処か垢抜けたような、そんな印象を受けました。

気の強い彼女とまではいきませんが、何処と無く大人っぽく見えました。
二つの人格が一つになったようです。
僕も彼女も望んだ結果です。

彼女が生きていく為、そして、僕と彼女が一緒にいる為。
そう信じてやまなかったから、二人で困難を乗り越える事ができたのです。
しかし、人格の統合は想像もしない結末を招いたのです。

一見、今までで言う純粋な人格の彼女なのですが…。
記憶が繋がり全てを知った彼女は、今までの彼女とは大きく違うところもありました。

記憶が繋がる事で人を知り、人を疑う事を覚えました。

人を疑う事は時には必要な事です。
しかし、僕は疑う事を知らない純粋な彼女に惹かれていたのも事実です。
望んだ結果であるはずなのに…、僕は不安を感じ始めていました。

彼女は、僕を含めたこの世の中に対する見方が変わりました。

疑う事を知った彼女が、僕だけ疑わないなどと都合の良い事はありません。
彼女には今まで経験してきた全ての記憶があるのです。

幼い頃にあのような辛い経験をした彼女が、そう簡単に人の事を信じれるはずは無いのです。

二つの人格を一つにすると言う事は二つの人格を失う事…。
そう気付いたのは僕と彼女の関係に終焉が迫っていた頃でした。

僕は彼女の多重人格を治す事に二人の未来があると盲目的に信じるあまり、一つになった彼女にどのような変化が起きるかなど考えもしなかったのです。

一時期は結婚という話も出ていたのですが、次第にそういった話をする機会も無くなってきていました。

そして時は経ち、僕と彼女は別れる事になりました。

別れた事は辛かったのですが、それでも月日が経つにつれ精神的にも落ち着きを取り戻し始めました。

あの時の状況の変化に耐えれる程に、もう少し僕に精神的な強さがあればと悔やみました。

しかし、多重人格が治った事で彼女の為になったのならそれは満足です。

あれから数年の月日が経ちました。

彼女が受けた幼い頃の心の傷は一生背負い続ける事でしょう。
だけど、せめて今は幸せな生活を送っている、そう信じ願います。
http://an.to/haru/


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 僕の実際に経験した変わった恋愛についてお話します。
http://an.to/haru/i/


2年程前に僕はある一人の女性と付き合っていました。

彼女は僕よりもいくつか年上だったのですが子供っぽい雰囲気を持つ人でした。
見た目も僕の方が断然年上に見られる事が多かったです。

容姿から喋り方や仕草まで全てが幼い感じでした。

よく真夜中に寝ている僕を強引に起こしてコンビニに一緒にアイスを買いに行こうと誘うなど少しワガママな面もありました。

都内でも近くにコンビニの無いところに住んでいるのでバイクに乗って一番近いコンビニまで行ってました。

寝ぼけた頭で二人乗りはちょっと怖かったですが…。(^^;

何だかんだ言っても彼女の事が好きだったのでどんな形であれ一緒に過ごす時間はとても幸せでした。

ワガママな面も含めて僕は彼女の事を愛していました。
最初は偶然にもお互いに一目惚れだったのです。

悪い言い方をすれば顔だけで好きになってしまったのですが喋ってみると趣味などの共通点も多く気が付いたら彼女の全てを好きになっていました。

ごく普通のカップルでお互いに幸せだったのですが,ある事を切っ掛けに意外な方向へ急展開するのです。

その話をする前に言ってしまうのですが最終的には彼女とは別れる事になります。
この事が無ければ彼女と別れる事は無かっただろうとまで言い切る事はできませんが少なくともその要因にはなった事は確かです。

それではその話をしていきます。

話の始まりは彼女と付き合って半年ほど経ったある日の事です。

二人で一緒にいる時に何が原因か分からないのですが、彼女はいきなり僕の事を忘れてしまったのです。

半年付き合っていて今の今まで話していて喧嘩したワケでも無く、いきなり「あなたは誰?」と彼女は言い出したのです。

僕には何が起きたのか理解できませんでした。
何を話しても僕の事を思い出してくれないのです。

最初はイタズラかと思いましたがどうやら本当に僕の事を知らないみたいなのです。

そして彼女の喋り方や仕草は明らかに僕の知っている彼女では無かったのです。
言うなれば完全に別人でした。

事態を把握できないまま僕は自分自身の事や僕の知っている彼女の事などを彼女に話す事から始めました。

そして彼女の話を聞いている内に彼女が多重人格だという事が分かりました。

今、話をしている彼女は僕の知らない人格の彼女だったのです。

つまり彼女からしても僕とは初対面なのでまったく知らない人だったのです。
この事を切っ掛けに僕の事を知ったその人格の彼女はその後も頻繁に僕の前に出てくるようになりました。

これを境にごく普通の幸せだった恋愛から特異な恋愛に変わっていったのです。

後になって知った事なのですが彼女は幼い頃に家族から受けた虐待が原因で人格が分離してしまったようです。

本当に極一部の人にしか当てはまらない事なのですが、そういった虐待などの経験を持つ人の中には通常の思い出を記憶する場所とは別のところに辛い思い出を記憶してしまう人がいるのです。

簡単に言うと辛い事を記憶する場所が別に用意されているのです。

人の人格は経験…つまり記憶から作られていると言っても過言ではありません。

辛い事を別の場所に記憶してその記憶が溜まるにつれて一つの別人格が生まれてくるのです。

言わば同じ一つの身体の中にまったく違う過去を持った二人の人間が存在するようになるのです。

一つの人格は普通の生活を送ってきた記憶しかないので純粋な普通の性格です。
無知すぎる程の純粋な性格でした。

もう一つの人格は家族からの虐待など辛い事のみを味わってきた人格です。
精神的にはとても強いのですが、やはり辛い現実ばかりを見てきた為に考え方が曲がった部分も多く性格はきつい印象を受ける人格でした。

しかし彼女は自分が辛い思いをしてまでもう一人の純粋な自分をずっと守ってきたのです。

気の強い人格の彼女は口調もきつく多少接し辛いところもありましたが、今まで辛い思いをしてきたのだと思うと僕は彼女のきつい性格を嫌いになる事はできませんでした。

元々はもう一人の自分を守る為に生まれてきた人格なのできつい口調の中にたまに優しさを垣間見ることもあり、次第にその人格の彼女の事も好きになり始めました。

純粋な人格が妹だとすると気の強い人格の彼女はまるでお姉さんのようでした。
知識も豊富なのでもしかしたら今まで殆どの時間は気の強い彼女が過ごしてきたのかも知れません。

それほどに辛い時間が多かったと言う事でしょうか…。
出会った頃の僕は純粋な人格の彼女を好きだったのです。

気の強い彼女は付き合い始めの頃は僕の前に出てくる事も無かったからです。

次第に僕は両方の人格を好きになっていたのですがそこで問題が起きたのです。
気の強い人格の彼女が純粋な性格の彼女に対して嫉妬をしはじめたのです。

それは僕が純粋な性格の人格の彼女をも好きだったからです。それに対し気の強い人格の彼女は強く嫉妬しました。

僕にはどっちか一方の人格だけを好きになる事なんてできませんでした。
人格は二人であれ身体は一つしかない一人の女性なのですから。

その一人の女性を人格によって好き、嫌いと別ける事は僕にはできません。
ただ僕自身もまるで二人の女性を愛しているような錯覚に陥っていたのも事実です。

そこで僕が導いた答えは二つの人格を一つにする、つまり多重人格を治すという事でした。

ここまで極端に違う性格を一つにしたらどういう人格になるかなんて想像できません。

しかし一つにする事は今後の彼女の為を考えても必要な事だと思いました。
僕なりに色々と調べたのですが多重人格と言うのは一度かかると癖になるらしいのです。

最初は辛い事だけを別の場所に記憶する事から始まるのですが、それに慣れてしまうと無意識に辛い事以外の思い出も複雑に記憶する場所を別けてしまうのです。
その場所が増えれば増えるほど人格も増えていきます。

それは彼女にとって日常で差し支えになる事は言うまでもありません。
ですから僕は彼女の人格を一つにまとめる事を決意したのです。

人格を一つにするのに必要なのは別々に別れた全ての記憶を繋げるという事です。
それぞれの人格から彼女の記憶を聞き出す事から始まりました。

彼女の記憶をたどって行くと小学生の頃の親の離婚が原因で母親が暴力を振るうようになった事から人格が別れ始めた事が分かりました。
この時期を境に彼女の兄も暴力を振るい始めました。

背後を蹴られ階段から突き落とされたり、沸騰した鍋の中の湯に顔を突っ込まれそうになったりなど…殺されてもおかしく無い程の酷い虐待だったようです。

本来ならば守ってもらえるはずの家族に殺されそうになるというとても残酷な話でした。

頼れる相手のいない彼女は鏡の中の自分に相談して自分自身を慰めるようになっていったのです。

そして鏡の中の自分が今の自分とはまったく違う人格だと信じ込みその人格に憧れを抱くようになったのです。

当時、小学生であった彼女にはあまりに過酷な環境だったのでしょう。

行き場を無くした彼女は自分を守る為に徐々に新しい人格を作っていったのです。
まるで鏡の中の自分を現実の存在にするように…。

この話は気の強い人格の彼女から聞いたものです。
純粋な人格の彼女はまったく知らない事実です。

しかしその事実を彼女に話さなくては症状は改善されません。
純粋な人格の彼女は家族を愛していました。
家族にも優しかった時期があるのです。

それは両親が離婚する前でした。
全ての歯車は両親の離婚を境にずれ始めたのです。

離婚の事や女手一つで子供二人を養って行く厳しさが原因で母の精神状態はストレスで限界に達していたのでしょう。

優しかった母は子供に暴力を奮うようになり、それまで仲良く遊んでくれていた兄も次第に彼女に対し暴力を奮うようになり彼女は孤立していったのです。

純粋な人格の彼女はそんな虐待の記憶は無く優しいお母さん、お父さん、お兄さんの記憶しかありません。

そんな彼女に真実を語る事は家族との綺麗な思い出を壊してしまう事になるのだろうと思いました。

しかし真実を知らないままでは彼女の症状は改善されないでしょう。

彼女の悲しむ顔を見るのは僕としても辛かったのですがありのままを話す事にしました。

家族による虐待があった事から、中には第三者による性的な虐待を受けた話もありました。

その話を聞いた僕も辛かったですが事実を知った彼女はもっと辛かった事でしょう。

それを物語るかのように純粋な彼女は気の強い彼女に何度も入れ替わろうとしていました。

気の強い彼女が出てくる度に僕は純粋な人格の彼女を出すように頼みました。
そういった事を繰り返しながらゆっくりとゆっくりと事実を彼女に伝えて言ったのです。

最初は僕の話を信じずにただ泣くだけだった彼女も次第に信じ始めました。

時間はかかりましたが最後には全ての事実を彼女は受け止める事ができました。
せめてもの救いが家族と彼女は既に離縁しているので二度と虐待を受ける事は無いと言う事です。

彼女には身内がいません。

家族と離縁してからは付き合っていた彼氏と同棲するなどして暮らしていました。
幸いにも彼女はかなりの美貌の持ち主であった為に男性には困った様子も無く恋人と別れたとしてもすぐに新しい彼氏を見つけ同棲をする事ができたようです。

中には多重人格の症状に気付いた彼氏もいたようですが彼女のあまりの変貌振りについていけずに別れた人も多いようです。

治そうと試みた彼氏もいたのですが結果的には失敗に終わり精神的な辛さから別れてしまうケースが殆どでした。

その度に彼女は自分の居場所を探さなくてはいけないかったのです。
そういった不安定な生活が彼女を苦しめたのは言うまでもありません。

記憶の糸を繋げていくにつれて彼女の症状が目に見えて改善されて行くのが分かりました。

今までは一人の人格が出ている時はもう一人の人格は暗闇の中に閉じ込められて身動きが取れない状態であったようですが、症状が改善するにつれてその暗闇と言うのが無くなっていったのです。

つまり暗闇が晴れる事によって一人の人格が今、何処にいて何をしているのかがもう一人の人格が認識できる状態になったのです。

これで今後はそれぞれの人格で記憶が違ってくる事は無くなったのです。

暗闇が取り除かれてから数日後、ついに彼女の中の二つの人格が一つになる時がきました。

想像では少しずつ症状が改善されていくものと思っていたのですがある日突然、多重人格の症状に終止符を打たれるとは思ってもいませんでした。
もしかしたら彼女の中の暗闇が取り除かれた時からいつでも一つになれる状態だったの知れません。

あとは彼女の決意次第だったのでしょう。

彼女の話によると多重人格を治すにはどちらかの人格が今後の人格のベースになる必要があったのです。

それはどちらか一方の人格が完全に消えてしまうという事らしいのです。
もちろん僕には選ぶ事はできません。答えは彼女自身の中で決められる事なのです。

もし選ぶ権利があったとしても僕には答えは出せなかったでしょう。

何故なら僕は二つの人格を共に同じくらいに好きだったわけですし、消えてしまう方の人格にとってはそれは永遠の眠りなのですから…。

二人の人格を愛していた僕にとってはどちらが選ばれるにせよ辛く悲しい事です。

僕の心の準備も出来ていない内に気の強い彼女が「消えるのは私の方だよ。」と言いました。

気の強い彼女は今まで見せた事のないくらいに悲しい顔をしていました。
元々彼女は純粋な人格を守る為に生まれてきた人格です。
自分の存在理由から残るのは自分じゃないと判断したのでしょう。

僕は彼女との思い出など絶え間なく話しました。
それは彼女の気を紛らわすためでもありましたが、話を止めたらすぐにでも彼女が消えていなくなってしまいそうだったからかも知れません。

彼女は何も言わずに話す僕の顔を見つめていました。
彼女の耳に僕の言葉が聞こえているのかも分かりませんでしたがそれでも僕は話し続けました。

しかし彼女の意識が薄れていくのがはっきりと分かりました。
意識の限界を感じたのか彼女は少し笑みを浮かべて

「ありがとう…」

とつぶやきました。

それが彼女の最後の言葉です。

彼女は小さな体を震わせ涙を流していました。
気の強い彼女が見せた最初で最後の涙です。
僕は震える彼女の体を包み込むように抱きしめました。

もっと話をしたかったけど言葉にする事もできずにそのまま静かに抱きしめていました。

本当にこれで良かったのか?と僕は何度も自分の胸に問い掛けました。
そんな僕の想いとは裏腹に彼女は苦しみから解放されたかのようにまるで生まれたての赤ちゃんの様な表情を浮かべていました。

彼女を苦しめてきた全ての物を心より憎みました。

家族から愛を与えられずに虐待を受け、性的な暴行なども受けた人生。
誰に助けを求めてもいいか分からない。
言葉では表せない程に辛かったのでしょう。

「もう何も辛い事は無いよ…」
せめて今だけでも気持ちよく眠りについて欲しいと心から願いました。

間もなく体の震えも収まり彼女は眠りについた様でした。

僕は横に眠る彼女をずっと見つめていました。
このまま目を覚まさないかと思うほどに静かに眠っていました。

暫くして彼女の体が少し動いたかと思うと彼女は目をゆっくりと開けました。
それは今まで僕と話していた彼女ではありません。

目を覚ました彼女は純粋な性格の人格を少しあか抜けさせたような雰囲気でした。
気の強い彼女とまではいきませんが、純粋な性格の彼女は何処となく見た目も大人っぽくなっていました。

どうやら二つの人格が一つになったようです。

もちろんそれは僕も彼女も願っていた事なのですが、僕にとっては失ったものも大きかったようです。

一見、今までで言う純粋な人格の彼女なのですが記憶が繋がり全てを知った彼女は今までの彼女とは大きく違うところもありました。

記憶が繋がる事で人を知り人を疑う事を覚えました。
確かに多少は人を疑う事も必要です。

しかし疑う事を知らない純粋な彼女を僕は好きだったのも事実です。
望んだ結果であるはずなのに何処か僕と彼女の歯車が噛み合わなくなっていました。

一時期は結婚の話もしていたのですが次第にそういった話をする機会も無くなっていました。

それから暫くして僕と彼女は別れる事になりました。
結局、最後まで僕は彼女に馴染む事ができなかったのです。

僕自身、精神力を使い果たしていた事もあり人格が一つになった彼女を見る気力も残っていなかったのです。

僕の精神的な弱さが仇になった別れでした。

最後の最後に僕自身で彼女を幸せにする事ができなかったのが悔やまれます。
せめて彼女が今、幸せな生活を送っている事を願います。
そして虐待で苦しむ人達が少しでも減ってくれる事を願います。
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