23. 中川隆[-13584] koaQ7Jey 2018年11月12日 18:21:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20575]
日本統治時代の朝鮮人徴用(抜粋)
日中戦争期
労務動員計画
「労務動員計画」を参照
1937年に日中戦争がはじまると、1938年3月南次郎朝鮮総督が日本内地からの求めに応じ、朝鮮人渡航制限の解除を要請し、1934年の朝鮮人移入制限についての閣議決定を改正した[24][18]。1938年4月には国家総動員法が、1939年7月には国民徴用令が日本本土で施行された(朝鮮では1944年9月から実施[25])。同じ1939年7月、朝鮮総督府は労務動員計画を施行し、朝鮮から労働者が日本に渡るようになった[26][18]。1939年以降、日本政府の労務動員計画によって毎年人員・配置先が決定され、朝鮮総督府によって地域が割り当てられ計画人員の達成が目標とされた[27]。水野直樹はこの当時、「募集方式の段階から会社・事業所の募集は行政機関、警察の支援を得ていた」としている[27]。
山口公一[28]もまた「1939年に開始される朝鮮人強制連行は戦争の長期化によって日本の労働力不足が深刻化すると同時に朝鮮内での軍需工業の拡張にともない、朝鮮人を労働力として強制的に動員するためのものであった。」と説明している。山口は、日本政府の労務動員計画を3段階に分け、@39年1月からの「募集形式」A42年からの「官斡旋方式」B44年9月からの「徴用令方式」があったとし、その最初の募集の段階から、行政・警察当局による強力な勧誘があった。したがって「募集とは言っても実態は強制連行」であると主張している[29][30]。
≪↑募集で応募した場合でも、実態は強制連行だったという事 ≫
松代大本営建設の徴用
1944年11月11日から着工された松代大本営建設における徴用の場合、当初は朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が、1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が交代で作業した。延べ人数では西松組・鹿島組県土木部工事関係12万人、付近の住民などの勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人だった[50]。
「勤労報国隊」「勤労報国会」そして学生や生徒,児童などの日本人も工事に携わっていた[51]。しかしその労働は過酷であり[52]、松代大本営の地下壕の掘削は、そのほとんどが朝鮮人の手で進められたという[53]。
「松代」で働かされていた朝鮮人の中には、給金がもらえるものがいたし、「怪我や病気なんかするとすぐに病院にいけた」と言う者もいた[54]。しかし一方でその生活は極めて劣悪であり、3k労働である上に、食事はコーリャンに塩をかけたもので、量も少なく栄養失調や目が見えなくなった人もいたという[55]。
また、朝鮮語を話しただけでもリンチを受け、あまりに酷い扱いに耐え切れず逃げ出すと見せしめに拷問を受けたという証言もある[56][57]。そして天皇の「ご座所」を掘った朝鮮人180名は、秘密漏洩を防ぐため殺害されたとも言われている[58]。
≪↑こりゃ なんぼ やり玉に挙げられても文句は言えないな ≫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E5%BE%B4%E7%94%A8
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以上 このリンクを 徹底的に読めば 弁解の余地など微塵もない労働搾取であった事は明白である
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/392.html#c23