1. 中川隆[-5863] koaQ7Jey 2018年1月24日 11:41:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
「ぼくのほうは、なぜ人間があえて自殺しようとしないのか、その原因を探求しているんで、それだけのことなんです。でも、こんなことはどうでもいい」
「あえてしないというのは?自殺が少ないというわけでも?」
「非常に少ないですね」
「ほんとうにそうお考えですか?」
彼はすぐには答えず、立ちあがって、何か考えこみながら部屋の中を行ったり来たりしはじめた。
「あなたの考えだと、人間に自殺を思いとどまらせているのは何なのです?」
私はたずねた。
私たちが何を話していたのかを思い出そうとでもするように、彼はぼんやりとこちらを見た。
「ぼくは……ぼくはまだよくわかりません……
二つの偏見が思いとどまらせていますね、二つのこと。二つきりです。
一つはたいへん小さなことで、もう一つはたいへん大きなことです。
でも、その小さなことも、やはり大きなことにはちがいない」
「小さなことというと?」
「痛いことです」
「痛いこと?そんなことが重要ですかね……この場合に?」
「いちばんの問題ですよ。二種類の人があって、非常な悲しみや憎しみから自殺する人たち、でなければ気がちがうとか、いや、なんでも同じだけれど……
要するに、突然自殺する人たちがいます。この人たちは苦痛のことはあまり考えないで、突然です。
ところが思慮をもってやる人たち――この人たちはたくさん考えますね」
「思慮をもってやる人なんかがいるものですかね?」
「非常に多いですね。もし偏見がなければもっと多いでしょう。非常に多い。みんなです」
「まさかみんなとはね」
彼は口をつぐんでいた。
「でも、苦痛なしに死ぬ方法はないものですかね?」
「ひとつ想像しててみてください」
彼は私の前に立ちどまった。
「大きなアパートの建物ほどもある石を想像してみてください。
それが宙に吊るしてあって、あなたはその下にいる。もしそれがあなたの頭の上に落ちてきたら、痛いですかね?」
「建物ほどの石?もちろん、こわいでしょうね」
「ぼくはこわいかどうかを言ってるんじゃない、痛いでしょうかね?」
「山ほどの石、何十億キロのでしょう?痛いも何もあるものですか」
「ところが実際にそこに立ってごらんなさい。
石がぶらさがっている間、あなたはさぞ痛いだろうと思って、ひどくこわがりますよ。
どんな第一流の学者だって、第一流の医者だって、みんなこわがるにちがいない。だれもが、痛くはないと承知しながら、だれもが、さぞ痛いだろうとこわがる」
「なるほど、では第二の原因は、大きいほうは?」
「あの世です」
「というと、神罰ですか?」
「そんなことはどうでもいい。あの世、あの世だけです」
「でも、あの世なぞまるで信じていない無神論者だっているでしょうに?」
彼はふたたび押し黙った。
「あなたは、たぶん、自分に照らして判断されているんじゃありませんか?」
「だれだって自分に照らしてしか判断できませんよ」
彼は赤くなって言った。
「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、はじめてえられるのです。これがすべての目的です」
「目的?でも、そうなったら、だれひとり生きることを望まなくなりはしませんか?」
「ええ、だれひとり」
彼はきっぱりと言いきった。
「人間が死を恐れるのは、生を愛するからだ、ぼくはそう理解しているし」
と私が口をはさんだ。
「それが自然の命ずるところでもあるわけですよ」
「しれが卑劣なんです、そこにいっさいの欺瞞のもとがあるんだ!」
彼の目がぎらぎらと輝きだした。
「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。いまは苦痛と恐怖ばかりですよ。
いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。
そういうふうに作られてもいる。いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。
いまの人間はまだ人間じゃない。幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。
生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。
苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる」
「してみると、いまは神がいるわけですね、あなたの考えだと?」
「神はいないが、神はいるんです。
石に痛みはないが、石からの恐怖には痛みがある。神は死の恐怖の痛みですよ。
痛みと恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。
そのとき新しい生が、新しい人間が、新しいいっさいが生まれる……
そのとき歴史が二つの部分に分けられる――ゴリラから神の領域までと、神の領域から……」
「ゴリラまでですか?」
「地球と、人間の肉体的な変化までです。
人間は神になって、肉体的に変化する。
世界も変るし、事物も、思想も、感情のずべても変る。
どうです、そのときは人間も肉体的に変化するでしょう?」
「生きていても、生きていなくても同じだということになったら、みんな自殺してしまうだろうし、それが変化ということになりますかね」
「それはどうでもいい。欺瞞が殺されるんです。
最高の自由を望む者は、だれも自分を殺す勇気をもたなくちゃならない。
そして自分を殺す勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破った者です。
その先には自由がない。ここにいっさいがあって、その先には何もないんです。
あえて自分を殺せる者が神でう。
いまや、神をなくし、何もなくなるようにすることはだれにもできるはずです。
ところが、だれもまだ一度としてそれをしたものがない」
「あのときはまだ自分が幸福なことを知らなかったんです。
きみは葉を見たことがありますか、木の葉を?」
「ありますよ」
「ぼくはこの間、黄色い葉を見ましたよ、緑がわずかになって、端のほうから腐りかけていた。風で舞ってきたんです。
ぼくは十歳のころ、冬、わざと目をつぶって、木の葉を想像してみたものです。
葉脈のくっきり浮き出た緑色の葉で、太陽にきらきら輝いているのをです。
目をあけてみると、それがあまりにすばらしいので信じられない、それでまた目をつぶる」
「それはなんです、たとえ話ですか?」
「いいや……なぜです? たとえ話なんかじゃない、ただの木の葉、一枚の木の葉ですよ。木の葉はすばらしい。すべてがすばらしい」
「すべて?」
「すべてです。人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないから、それだけです。これがいっさい、いっさいなんです!
知るものはただちに幸福になる。その瞬間に。あの姑が死んで、女の子が一人で残される——すべてすばらしい。ぼくは突然発見したんです」
「でも、餓死する者も、女の子を辱めたり、穢したりする者もあるだろうけれど、それもすばらしいのですか?」
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃぐしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。
すべてがすばらしいことを知る者には、すばらしい。
もしみなが、すばらしいことを知るようになれば、すばらしくなるのだけれど、すばらしいことを知らないうちは、ひとつもすばらしくないでしょうよ。
ぼくの考えはこれですべてです、これだけ、ほかには何もありません」
「きみは自分がそんなに幸福だということをいつ知ったのです?」
「先週の火曜日、いや、水曜日です、もう深夜をすぎて水曜日になっていたから」
「どんなきっかけで?」
「覚えていません、自然とです。部屋の中を歩いていて……これはどうでもいいことだな。ぼくは時計を止めましたよ、二時三十七分でした」
「時が静止するしるしにですか?」
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