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[自然災害21] 「火垂るの墓」と阪神大震災−−阪神大震災から22年   西岡昌紀

「火垂るの墓」と阪神大震災

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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8720918.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958133321&owner_id=6445842


阪神大震災から、22年が経ちました。

その22年目の日に当たる今日、ふと、思ひ出した事が有ります。

22年前の今日(1995年1月17日)、私は、東京で、作家の故・野坂昭如(のさかあきゆき)氏にお会ひして居ました。

或る会合で御一緒する目的で、銀座でお会ひしたのですが、二人で食事をしながら、その日起こった阪神大震災について、野坂氏から、驚くべき話を聞いたのです。

野坂氏は、「あれは、虫の知らせだったんだ。」と言ひました。

それは、当時、野坂氏が執筆してゐた、或る週刊誌のコラム(記憶では、週刊文春だったと思ひます)についてです。野坂氏に依ると、野坂氏は、阪神大震災が起こる少し前に、自分が書いてゐたその雑誌コラムに、「神戸は地震に備えるべきだ。」と書いてゐたと言ふのです。

周知の通り、野坂氏は、「火垂るの墓」の作者です。

「火垂るの墓」は、野坂氏の実体験に基づいて書かれた物語であり、戦争中から終戦直後の神戸の状況と、その中で、若き日の野坂氏が、飢餓に苦しみ、命を落とした自分の妹さんの死を語った作品です。ですから、その「火垂るの墓」の舞台であった神戸は、野坂氏にとって、特別な場所でした。

その神戸について、阪神大震災が起こるほんの少し前(数か月前、と野坂氏は言った気がします。)、野坂氏は、自分が担当してゐるコラムで、「神戸は、地震に備えるべきだ」と書いてゐたと言ふのです。

野坂氏は、興奮して居ました。そして、その事を「虫の知らせだったんだ。」と言って、私に語って聞かせてくれたのです。

今日、阪神大震災から22年目の日に、22年前の今日、野坂氏が私に言った「虫の知らせ」と言ふ言葉を、私は思ひ出しました。

平成29年(西暦2017年)1月17日(火)
阪神大震災から22年目の日に

西岡昌紀(にしおかまさのり・内科医)

(関連する記事)

「医師たちは何故足止めされたのか?−−阪神大震災の時、厚生省は何をしたか」)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7760795.html


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■阪神大震災から22年 遺族らが各地で犠牲者を悼む
(朝日新聞デジタル - 01月17日 06:06)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4387619


 6434人が亡くなった阪神・淡路大震災は17日、発生から22年を迎え、各地で遺族らが犠牲者を悼んだ。


 神戸市中央区の東遊園地では午前5時から「1・17のつどい」があった。「1995 光 1・17」の形に並べられた約7千本の竹灯籠(どうろう)に火がともされ、発生時刻の午前5時46分、遺族や市民らが黙禱(もくとう)した。


 神戸市の自宅が全壊し、妻の裕美子さん(当時32)を亡くした大鳥居慎司さん(58)=大阪府和泉市=が遺族代表としてあいさつ。「震災から22年、これだけ経つと、歴史の世界になってしまう。でも私にとっては歴史で済ますことはできない。夢の中でも妻に会って、これまでの話を聞いてもらいたい」と語った。


 兵庫県西宮市の西宮震災記念碑公園や同県淡路市(淡路島)の北淡震災記念公園などでも、参加者らが祈りを捧げた。

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http://www.asyura2.com/15/jisin21/msg/745.html

[日本の事件31] マルコポーロ廃刊事件に関するWikipediaの虚偽記載 −−「職務専念義務指導」など全く無かった。  西岡昌紀
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(拡散希望)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/68775982.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958374539&owner_id=6445842

今日(1月30日(月))は、マルコポーロ廃刊事件から22年目の日に当たります。この日に当たってひとつ、皆さんに知って頂きたい事が有ります。それは、Wikipediaの「マルコポーロ事件」の中に、全く事実ではない事が書かれてある事です。⇒https://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%8…

その虚偽の記述は、以下の部分です。

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厚生省による職務専念義務指導[編集]

廃刊発表の翌日の1月31日、当時厚生省職員であった西岡の行動に対し、厚生省は国家公務員法が規定する職務専念義務を西岡に求めるため、勤務病院幹部を通じ事件について今後一切発言をせず職務に専念するよう指導した。[10]。またその翌日に行われる事となった記者会見を中止するよう強い指導を実施した。厚生省直轄の勤務病院で「西岡はなかば軟禁状態に置かれた」と「西岡は」主張している。だが、警察への被害届は無く、後述するように実際には出入り自由であった。

記者会見当日の2月1日、西岡は、執筆記事への批判から精神不安定状態になりこのままでは病院から出られないのではないかと思いこみ、記者会見に出席しないという嘘を関係者に流し「厚生省側を安心させた」と思い込んだ上で、病院の前に迎えに来た『サンデー毎日』の車で都内の記者会見会場に向かった。厚生省からの職務専念義務指導について西岡は記者会見冒頭で官庁名は出さないままに強く批判した。しかし、翌日の朝日・毎日・読売・日経は、西岡による記者会見自体は伝えながら、西岡が記者会見冒頭で抗議した厚生省による「介入」については、裏づけ取材によりその事実が無く単に職務専念義務指導にすぎなかったため報道をしなかったことが明らかになっている。(ただし反連合国史観の論壇誌『正論』は「官庁による圧力」という西岡の主張を「西岡の主張」として報じている)

(2017年1月30日(月)現在の当該箇所文章)
https://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%8…

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マルコポーロ廃刊が発表された翌日(1995年1月31日(火))、私は、登院すると、直ちに院長室に呼び出され、当時の院長、事務長、その他の事務職員から、激しい言葉で攻撃を受け、今後一切の発言をするな、と言ふ要求を受けました。しかし、この日も、その翌日(同年2月1日(水))も、院長、事務長、他の事務職員も「職務に専念するように」などと言ふ言葉は、一回も口にして居ません。


ですから、彼らが院長室で私を取り囲み、大声を出して行なった私への要求は、「職務専念義務を西岡に求めるため」の行為では有り得ません。彼らは、ただひたすら、マスコミなどに発言をするなと、すさまじい言葉の数々を投げ掛けたのです。


それどころか、彼らは、病棟に行こうとした私を長時間にわたって院長室にとどめ、私の診療を妨害したのです。そして、はっきりと、診療とは何の関係も無い院外での私の発言について、中止を求めたのです。特に、記者会見について中止を求めました。これは、明白な職権乱用です。


そして、繰り返しますが、「職務専念指導」など有りませんでした。職務に専念しなかったのは、当時の院長と事務職員の方です。彼らこそ、私が病棟で仕事をして居ても、院長室に再度私を呼び出し、診療とは何の関係も無いマルコポーロ廃刊に関して、執拗に記者会見の中止を激しい言葉で強要しようとしたのですから。


Wikipediaのこの記述は明白な虚偽です。これを書いたのは、誰なのでしょうか?


私は、これまで、この脅迫に関与した厚生省末端職員の立場に配慮し、この件についての詳細を語るのを控えてきました。しかし、関係者の中心人物の一人が他界し、かつ、Wikipediaの影響力は無視できない者なのなので、事件発生から22年目に当たる今日、この記述が虚偽である事をここで指摘します。


又、この箇所も、悪質なウソです。


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「厚生省側を安心させた」と思い込んだ上で、病院の前に迎えに来た『サンデー毎日』の車で都内の記者会見会場に向かった。厚生省からの職務専念義務指導について西岡は記者会見冒頭で官庁名は出さないままに強く批判した。しかし、翌日の朝日・毎日・読売・日経は、西岡による記者会見自体は伝えながら、西岡が記者会見冒頭で抗議した厚生省による「介入」については、裏づけ取材によりその事実が無く単に職務専念義務指導にすぎなかったため報道をしなかったことが明らかになっている。

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先ず、「厚生省を安心させた」と思い込んで、と言ふ記述には、厚生省側が、私(西岡)が記者会見に出席する事を厚生省が知ってゐたと言ふ意味がこめられてゐますが、これは有り得ません。1月31日の午後5時、私が、病院の正門前で毎日新聞の車に飛び乗った際、私が、予定通り記者会見に出席する事を知ってゐた人は誰も居なかったからです。そして、「翌日の朝日・毎日・読売・日経は、西岡による記者会見自体は伝えながら、西岡が記者会見冒頭で抗議した厚生省による「介入」については、裏づけ取材によりその事実が無く単に職務専念義務指導にすぎなかったため報道をしなかったことが明らかになっている。」と言ふ記述も事実では有り得ません。何故なら、私が1月31日(火)の夜に記者会見会場(総評会館)でこの発言をした後、私のこの発言に対する質問は、どの記者からも無かったからです。


上述の様に、「職務専念義務指導」など全く行はれてゐなかったのですが、仮に、厚生省上層部が行なった脅迫行為が「職務専念義務指導に過ぎなかった」とマスコミが判断するのであれば、発言をした、当事者である私に、この点についての確認の質問、取材が無ければおかしい事は言ふまでも有りません。しかし、この記者会見の場で、私に対して、その様な質問は、全く有りませんでした。


そもそも、1月31日(火)の夜の私のこの発言の真偽を検証するのに、翌日の朝刊の締め切りまでの数時間の間にその検証が出来る筈も有りません。そして、スポーツ新聞各紙と「正論」は、私のこの発言を報道してゐるのです。

ですから、朝日、毎日、読売、日経が、私のこの発言を報道しなかったのは、「裏づけ取材によりその事実が無かった」事が確認されたからではありません。明らかに、政治的配慮です。

そもそも、「職務専念義務指導」などと言ふのは、普通の人は知らない言葉です。Wikipediaのこの虚偽記載には、厚労省関係者が直接、もしくは間接的に関与して居ると私は推察します。


2017年1月30日(月)
マルコポーロ廃刊事件から22年目の日に

西岡昌紀(内科医・元厚生省職員)

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http://www.asyura2.com/13/nihon31/msg/892.html

[自然災害21] 阪神大震災とマルコポーロ廃刊事件−−22年目の冬に   西岡昌紀
*
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8728423.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958380825&owner_id=6445842

あれから、22年が経ちました。


阪神大震災とマルコポーロ廃刊事件からです。


阪神大震災は、22年前(1995年)の1月17日の早朝起こり、6000人を超える人々の命を奪ひました。


又、マルコポーロ廃刊事件は、阪神大震災と同じこの年の1月17日(日)に発売された文藝春秋社の月刊誌「マルコポーロ」が、私が寄稿した記事(「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」)へのシオニスト団体からの抗議を切っ掛けに、同年1月30日(月)、同誌の突然の廃刊決定に至った事件です。


この二つの出来事は、私にとって、不可分の記憶と成ってゐます。


その為、毎年、1月17日が来ると、私は、阪神大震災が起きたあの日の事を思ひ出すと同時に、その日から1月30日のマルコポーロ廃刊までの時間を思ひ出します。

(関連する記事「マルコポーロ廃刊事件」)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html

特に、阪神大震災が起きた直後、当時、厚生省直轄の病院に勤務して居た私が、震災当日に、当時の私の病院院長に、被災地に行って医療活動に参加したいと申し出たのにも関はらず、院長からその許可が下りず、神戸からの報道を見ながら、関東で空しい時間を送らざるを得なかったあの時の焦燥感が心に蘇るのを、毎年この時期、私は、どうする事も出来ません。

(関連する記事:「医師たちは何故足止めされたのか?−−阪神大震災の時、厚生省は何をしたか」)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7760795.html


(関連する記事: 厚生省は何故国立病院職員の現地派遣を遅らせたのか?)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6253936.html

今年は、何故か、特にその気持ちが強かったのですが、その間に、私は、当時の或る雑誌記事を読み返しました。


それは、ジャーナリストの江川紹子さんが、阪神大震災発生とマルコポーロ廃刊の後、月刊『創』に寄稿した記事でした。


その冒頭を引用し、御紹介します。

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 明石市から被災地に入って、毎日少しずつ移動しながら8日目に西宮市に到着した。もちろん今回の阪神大震災の取材のためである。1月30日、今回の取材日程も最終日となった日の午後3時頃のことであった。携帯電話が鳴った。「突然ですが・・・」聞こえた文藝春秋社の月刊誌『マルコポーロ』のKデスクの声は暗く深刻だった。「マルコが廃刊となりました。今売られている号で最終号です。次号は出ません」「ウソでしょう。なぜ・・・」
 ユダヤ人のホロコーストを巡る記事が問題になって、ユダヤ人の団体から抗議を受けたとのこと。交渉中だったが、会社が廃刊を決め、それが産経新聞に出るという話だった。青天の霹靂とはまさにこのことだ。
 確かに私も問題の記事を読んで、疑問を抱いた。「こういうのを一方的に、無批判に出していいのかなあ」という思いもあった。ユダヤ人団体が抗議するのは当然と思いつつも、廃刊という結論だけを通告された身になってみれば、唖然とするばかりであった。なにしろ私は、『マルコポーロ』に掲載するために、震災の取材をしていたのだ。
 
(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号110ページより)

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江川さんが書いておられる様に、江川さんは、阪神大震災が発生した直後、被災地に急行し、毎日少しずつ移動しながら、現地の悲惨な状況を取材して居ました。その江川さんが、取材開始から8日目の1月30日、突然、電話で知らされたのが、御自分が取材して居る震災の状況についての記事が掲載される予定だったマルコポーロ誌が廃刊と成った言ふ知らせだったのです。

周知の通り、文藝春秋が、マルコポーロの廃刊を決定した理由は、私が寄稿した記事(「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」)に対するアメリカのシオニスト団体サイモン・ヴィーゼンソール・センター(SWC)からの抗議とそれによる影響が深刻化したから、とされて居ます。(本当の理由は、他に有ったとする説も有ります)


いずれにしても、同年1月30日(月)、文藝春秋社はマルコポーロの廃刊を発表し、それから大騒ぎが始まる訳ですが、この廃刊事件が、阪神大震災の発生直後に起きた為、被災地を取材して居た江川さんは、御自分の取材が無に成ると言ふ辛い目に遭ひます。


その悔しさを江川さんは、この記事の中で、こう書いてゐます。

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 廃刊とするにしても、その顛末をきっちり読者に報告してからやめるのが、読者への礼儀だろう。
 しかも、責任は他の筆者や読者に対してだけではなく、取材協力者に対してもある。私の場合、被災者たちに「次号の『マルコ』に掲載する」として取材している。中には「次号の『マルコ』を買うからね」と言ってくれた被災者もいた。私はもちろん送るつもりでいたのだが、「家がなくなったので、雑誌が出るころにはどこにいるか分からないから」と言われた。また、対策で多忙な中「『マルコポーロ』ならいいですよ」とインタビューに応じてくれた首長もいた。そういう人々への責任をどう考えているのだろうか。
 私は、住所がわかっている人たちに対しては手紙を書いて、せっかく協力してもらったが、それを掲載できないことを伝えた。しかし、伝えることができない被災者たちがいる。私はその人たちに申し訳なくてたまらない気持ちなのだが、文藝春秋社の幹部たちにはその思いはわかってもらえなかったようだ。田中社長の口から、とうとうそうした協力者たちへのお詫びは出なかった。
 
(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号118ページより)

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これを読む度に、私は、本当に辛い気持ちに成ります。


そのマルコポーロの廃刊について、江川さんは、次の様に書きます。


先ず、私が寄稿した記事については、


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  第一に、問題の記事をどう考えるかという点だ。私は前述のように、この記事を支持しない。

(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号113ページより)

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と、明確に述べて居ます。そして、そう断った上で、マルコポーロ廃刊直後に文藝春秋社とSWCのクーパー師が開いた共同記者会見に出席した際の事を踏まえて、この様に、文藝春秋を批判します。

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  第二の問題点は、サイモン・ウィーゼンタール・センターのとった、広告ボイコットという手法についての評価だ。(中略)この点についての私の結論を申し上げる。ウィーゼンタール・センターの今回の手法は、民主主義のルールを踏み越えていると思う。クーパー師は「広告拒否という強硬手段は異例なことだった。ボイコットは大変深刻な場合のみである」と述べたが、私はその答えでは納得できない。『マルコ』側は反論の機会を用意していた。(それが同じ号に掲載するべきだったことは前述の通りだが)。『マルコ』に西岡氏の記事の倍のスペースを求めて、同センターが調査したホロコーストの実態を伝えることもできた。あるいは謝罪を求めるにしても、『マルコ』で出された記事については『マルコ』誌上で詫びさせるのがスジだろう。ところが、同センターはなんの交渉もせず、広告主へのボイコット要請を行った。(今私の手元にあるマイクロ・ソフト宛のボイコット要請文書は1月19日付である)。当初から広告による圧力を行ったのだ。仮に文春あるいは『マルコ』編集部の側に交渉の誠意がない場合は、このような強硬手段もやむを得ないだろうが、この場合はそうではない。(中略)確かに、言論の自由は面倒くさい側面がある。分かり切ったことであっても、異論が出た時には、きちんと言論によって反論しなければならない。いちいちそうした手間をかけるのは、時に面倒なものだ。しかしそれは、いかなる内容のものであれ、優秀な独裁者を抱くよりも民主主義を選択している私たちにとって最も大切な原則の一つ言論の自由を守るための、いわば経費である。私たちが惜しんではならない手間ではないだろうか。自由な議論の中で、事実に反する言論は淘汰されていくだろう。

(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号115〜116ページより)

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そして、SWCについては、次の様に、批判します。

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 ウィーゼンタール・センターの今回の措置は、私にはアンフェアであるのみならず、ユダヤ人に対する漠然とした脅威を感じさせる要因になるのではないかとも危惧している。

(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号117ページより)

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今読むと、私は、江川さんのこの「危惧」の的確さには驚かずに居られません。そして、更には、江川さんが、この記事において、次の様に予言して居た事に、驚かずには居られません。


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  今回の事件で、ユダヤ人を巡る問題は完全なタブーになるだろう。前出の木村氏は、西岡氏と同じ立場で単行本を出す予定だが、「新聞広告は出してもらえないし、流通も通常のルートからは拒否されそうな状況」(出版社)という。ホロコースト否定でなくても、ユダヤ人批判は当分マスコミから消え失せるだろう。それがユダヤ人に対する新たな偏見や差別を生む危険は大いにある。同センターとは別に、冷静に(かつ 毅然と)交渉を持とうとしたイスラエル大使館が「これが原因で、強大なユダヤの力によって雑誌を廃刊させたなどといわれ、ユダヤに対する偏見を助長させないかと心配しています」(『週刊現代』に対するコメント)と危惧するのも当然だろう


(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号118〜119ページより)
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事件から22年が経った今、阪神大震災の只中で起きたこの事件について、当時、江川さんが書いてゐたこの記事を読み直すと、私は、江川さんお「予言」が当たってしまった事に驚かずには居られません。そして、後発生したオウム真理教による地下鉄神経ガス事件(1995年3月20日(月))の記憶と共に、これらの事件が起こった1995年と言ふ年の特異さに戦慄を覚えるばかりです。

平成29年(西暦2017年)1月30日(月)

マルコポーロ廃刊から22年目の夜に

西岡昌紀(にしおかまさのり)


関連する記事

(「医師たちは何故足止めされたのか?−−阪神大震災の時、厚生省は何をしたか」)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7760795.html


(厚生省は何故国立病院職員の現地派遣を遅らせたのか?)
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(「マルコポーロ」廃刊事件 (西岡昌紀(著)『アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか』 (日新報道・1997年)より))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html


(「マルコポーロは特攻隊だったんだ」−−戦後70年目の訃報)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8724442.html


(「火垂るの墓」と阪神大震災)
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(マルコポーロ廃刊事件から18年−−SWCを批判したユダヤ人たち)
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(ダッハウ収容所の謎−−「ガス室目撃証言」は信じうるか?)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6736682.html


(彼らにとって原爆とは何なのか?(2011年01月30日ミクシイ日記))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/5138919.html


(或る在日レスラーの言葉(2010年01月30日ミクシイ日記))
http://livedoor.blogcms.jp/blog/nishiokamasanori/article/edit?id=5138892


*

http://www.asyura2.com/15/jisin21/msg/753.html

[マスコミ・電通批評15] BPOの批判に居直るNHK−−STAP細胞報道の闇   西岡昌紀
*


http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8752330.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958749826&owner_id=6445842


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 この事件の全体の構図は極めて複雑で謎が多い。これほど謎が多い事件は日本の歴史全体を通してみても稀なのではないだろうか。

(佐藤貴彦(著)『STAP細胞 残された謎』(パレード・2015年)197ページ)
http://www.amazon.co.jp/STAP%E7%B4%B0%E8%83%9E-%E6%AE%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%AC%8E-Parade-books-%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6/dp/4434212273/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1452562919&sr=8-2&keywords=%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6


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1.BPOのNHK批判


 2月10日(金)、BPO(放送倫理・番組向上機構)が、3年前にNHKが放送したNHKスペシャル『調査報道 STAP細胞 不正の深層』(2014年7月27日放送)について、「名誉棄損の人権侵害が認められる」として、NHKに対して、再発防止に努めるよう勧告を行なった。
 これは、元理化学研究所研究員・小保方晴子さんが、この番組について、人権を侵害された、と申し立てた事に対するBPOの答え(結論)である。BPOの放送人権委員会は、同日、3年前に放送されたこのNHKスペシャルの一部において、「場面転換などへの配慮を欠いたという編集上の問題があり、小保方氏が元留学生作製のES細胞を不正行為により入手して混入し、STAP細胞を作製した疑惑があると受け取られる内容になっている」とし、「名誉棄損の人権侵害が認められる」と結論ずけている。
 BPOのこの結論に対し、小保方さんは、弁護士の三木秀夫氏を通じて、次の様なコメントを出している。

「NHKスペシャルから私が受けた名誉毀損の人権侵害や放送倫理上の問題点などを正当に認定していただいたことをBPOに感謝しております。国を代表する放送機関であるNHKから人権侵害にあたる番組を放送され、このような申し立てが必要となったことは非常に残念なことでした。本NHKスペシャルの放送が私の人生に及ぼした影響は一生消えるものではありません。(2017年2月10日 小保方 晴子)」


 一方、NHKは、これに対して、以下に述べるような「反論」を行なっている。(後述)この記事を書くにあたって、私は、本当は、BPOの発表の全文とNHKのコメントの全文を読者に紹介したいと思ったが、紙面の制約から難しいので、番組の問題部分の核心についてのみ、要約の形で論じる事をお許しいただきたい。BPOの発表とそれに対するNHKのコメントは、インターネットで全文を読めるので、是非、読者の皆さんは、自分で読んで頂きたいが、私は、そのNHKのコメント(反論)を読んで、本当に腹が立っている。その理由を、限られた誌面で、わかりやすく話そうと思う。


2.STAP細胞は、本当にES細胞だったのか?


 まず、私は、STAP細胞作製の発表に続いて、小保方晴子さんへのバッシングが始まった後、月刊WiLLとインターネットにおいて、以下の二つを自分の立場として表明し、マスコミ報道と理研の姿勢を批判して来た。それら二つの私の立場は、要約すれば、

(1)STAP細胞が存在するかどうかはわからない。
(2)小保方晴子さんが、ありもしないSTAP細胞なるものを捏造した証拠は示されていない。

 の二つである。私は、STAP細胞が存在するかどうかと言う問題における挙証責任と小保方さんが「捏造」を行なったという主張における挙証責任は、別のものである事を指摘した。これが、この問題の基本である。ところが、それにも関わらず、マスコミが、この二つの異なる挙証責任を混同している事を強く批判した。特に、(2)における挙証責任までをも小保方さんに転嫁しようとして来た事を厳しく批判した。裁判の場合と同じく、仮に小保方さんが「(ES細胞を使って)ありもしないSTAP細胞を捏造した」と主張するなら、その挙証責任は、小保方さんにではなく、そう主張する側にある。そう主張するマスコミが、証拠を提示する責任を持つのである。ところが、マスコミは、小保方さんの側に「捏造をしなかった事を証明しろ」と求めるがごとき報道を繰り返した。私は、これを強く批判した。私のこうした立場は、今でも変わっていない。そして、2014年12月26日に理研が発表した報告も、この(2)の状況を超える物ではない事を、WiLL誌上などで指摘している。
 理研は、小保方晴子さんが、若山照彦教授や故・笹井芳樹氏らと共同で発表したSTAP細胞なる細胞は、ES細胞であった可能性が高いと結論ずけた。そして、マスコミは、理研のこの見解が、この問題の「結論」であるかのような報道を行ない、小保方さんを「犯罪者」扱いしたまま、この問題を「収束」させた。しかし、小保方さんは、引き下がらなかった。小保方さんは、『あの日』を出版し、小保方さんが「ES細胞を使ってSTAP細胞の存在をでっち上げた」ような印象を作り出した若山照彦教授や毎日新聞社の須田桃子さんらの主張に具体的な事実を挙げて詳細な反論を展開した。それに対して、若山照彦教授も、小保方さんを批判した毎日新聞社の須田桃子さんも、沈黙を守っている。
 STAP細胞の実在性については、「再現されなかった」と言うが、再現されなかったのは、実験の後半部分である細胞からキメラを作製する段階などである。そして、このキメラ形成は、小保方さんではなく、若山照彦教授が担当した部分である。その部分について、若山教授が再現事件をしないと言うので、他の理研職員が作製を試みたがうまく行かなかったのである。一方、小保方さんは、自分が担当した実験の前半部分については、実験を再現している。それなのに、若山教授の担当した部分に再現性が得られなかった事まで小保方さんへの「疑惑」の理由にされているのである。
 更に、そのSTAP細胞が存在するかどうかについては、その後、同じ実験ではないが、解釈によっては、STAP細胞に似た細胞とも取れるiMuSCsと言う細胞の作製が、ネイチャー誌の姉妹誌であるオンライン専用媒体Nature.com SCIENTIFIC REPORTS の2015年11月号で掲載され、関心を集めている。
 科学史を振り返れば、がん遺伝子(オンコジーン)の存在も、最初の報告が為された1969年から10年後の1979年にようやく確認されている。そうした事を知れば、発表からわずか3年しか経っていない現在、若山教授の実験(キメラ作製)が再現されなかったと言う理由で、小保方さんの科学的主張を全否定する事も、ましてや小保方さんをペテン師呼ばわりする事も不当な事である事を読者は、理解されないであろうか?しかし、それでも、STAP細胞が存在するかどうかは、高度に専門的な科学上の問題である。従って、この記事においては論じない。ここでは、上述のNHKスペシャルの内容とそれに対するBPOの批判、及び、NHKのコメント(反論)についてのみ論じる事とする。

3.Nスペ『STAP細胞 不正の深層』は何を報じたか


 繰り返して言うが、STAP細胞が存在するかどうか?と言う科学上の問題と、小保方さんが、ES細胞を使って、ありもしない細胞を捏造したのか?と言う問題は、全く別の問題である。そして、後の問題については、「小保方さんが、若山研究室が保有していたES細胞を不正に入手して、STAP細胞の代わりにした」と言う主張が、まことしやかに流布されて来た。小保方さんに対するそうした疑惑(小保方さんが、若山研究室のES細胞を不正に入手して、STAP細胞であるかのように発表した。)は、元をたどると、何と、2ちゃんねるの書き込みにたどり着く。そして、それが、結局、2014年12月26日の理研の報告にまでつながるのであるが、その2ちゃんねるの書き込みから、理研の発表に至る2014年のおよそ半年間の流れの中で、大きな役割を果たしたのが、ここで論じているNHKスペシャル『STAP細胞 不正の深層』(2014年7月27日放送)だったのである。その内容を、この問題を追い続ける佐藤貴彦氏は、こう要約している。

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 かつてネットの掲示板、2ちゃんねる(6月18日)に次のような怪文書が載せられ話題になった。

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   小保方が引越しのどさくさに若山のところから盗んだ細胞が箱ごと発見されたことも公表しろよ。丹羽のTSもたくさん出てきただろ。

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 NHKの取材は、この2ちゃんねるの怪文書の内容を裏付ける形となった。しかし、注意してほしい。ここでは、「小保方がどさくさに盗んだ」となっている。
 若山研の引越しは2013年以降である。この時点では、すでにSTAP細胞作製の実験はほぼ終了している。若山氏と小保方氏がキメラマウスの作製に成功したのは2011年11月であるから、実験が終った後にES細胞を盗んでも意味がない。捏造に用いることは不可能なのである。
 ただ、NHKの番組では「引越しのどさくさに盗んだ」とまでは言っていない。しかし、「小保方氏が引越しのどさくさに留学生のES細胞を盗んだ」というこの話は、この後も小保方氏が告発されるネタとして用いられている。出所が同じ話であることは間違いない。
 また、この番組では、きわめて紛らわしい編集がなされている。すなわち、この番組では、(1)STAP細胞にアクロシンGFPが組み込まれていた。(2)若山研では、アクロシンGFPを組み込んだES細胞がつくられていた。(3)留学生の作ったES細胞が小保方氏の冷凍庫から見つかった。−−−という話が順番に述べられている。したがって、この番組の流れからすれば、「アクロシンGFPの入ったES細胞=留学生の作製したES細胞」であるかと想像した視聴者は多かったであろうと思われる。ところが、後になってわかることだが、留学生の作製したES細胞は、STAP細胞の捏造に用いられたとされるアクロシンES細胞とは何の関係もなかたのである。
 STAP細胞にアクロシンGFPが組み込まれていたことを述べておいて、その後にアクロシンの組み込まれていないES細胞が小保方氏の冷蔵庫に見つかったことをことさら問題にするという番組の編集の仕方は、かなり不自然に感じられる。STAP細胞実験とは何の関係もないES細胞のことを追及したところで、なんら事件解決の役には立たないからである。
 

(佐藤貴彦(著)『STAP細胞 残された謎』(パレード・2015年)22〜23ページ)
http://www.amazon.co.jp/STAP%E7%B4%B0%E8%83%9E-%E6%AE%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%AC%8E-Parade-books-%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6/dp/4434212273/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1452562919&sr=8-2&keywords=%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6


佐藤貴彦(さとうたかひこ)名古屋大学理学部卒 著書:『ラカンの量子力学』など

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 おわかり頂けるだろうか?これが、天下のNHKがやった「報道」である。編集によって、若山研究室に居た中国人元研究員が、小保方さんの「犯行」を裏ずける「証言」をしたかのような印象を作り出し、事件が進むさ中に、全国に放送したのである。
 当然と言うべきだろう。この番組のこうした手法を、BPOは、今回、次のように批判した。


「本件放送は、STAP細胞の正体はES細胞である可能性が高いこと、また、そのES細胞は、若山研究室の元留学生が作製し、申立人の研究室で使われる冷蔵庫に保管されていたものであって、これを申立人が何らかの不正手段によって混入してSTAP細胞を作製した疑惑があるとする事実等を摘示するものとなっている。これについては真実性・相当性が認められず、名誉棄損の人権侵害が認められる。」(BPO2017年2月10日)

 お読みの通りである。BPOの今回のこの判断は、上に引用した佐藤貴彦氏の批判とほぼ同じ批判である。天下のNHKが、こうして、BPOの批判を受けたのである。

4.NHKの居直り


 ところが、BPOのこの批判に対して、NHKは、次のように反駁した。


「放送人権委員会の判断の中で指摘された元留学生の作製したES細胞をめぐるシーンは、(1)小保方研究室の冷蔵庫から元留学生のES細胞が見つかったという事実、(2)小保方氏側は、保存していたES細胞について、「若山研究室から譲与された」と説明しているという事実、(3)一方、ES細胞を作製した元留学生にインタビューしたところ、小保方研究室の冷蔵庫から見つかったことに驚き、自分が渡したことはないと証言しているという事実を踏まえて、なぜこのES細胞が小保方研究室から見つかったのか、疑問に答えて欲しいとコメントしたものです。放送人権委員会が指摘しているような「小保方氏が、元留学生作製のES細胞を不正行為により入手し、STAP細胞を作製した疑惑がある」という内容にはなっていません。」(NHKのコメント)


 「開いた口が塞がらない」とは、この事である。あのような印象操作を編集によって行なっておきながら、「放送人権委員会が指摘しているような『小保方氏が、元留学生作製のES細胞を不正行為により入手し、STAP細胞を作製した疑惑がある』という内容にはなっていません。」(NHKのコメント)と言うのである。ならば、何故、あのような編集をしたのか?と言いたくなるのは、私だけだろうか?

5.疑惑の核心

  最後に、最も重要な問題を指摘して、この記事を終えよう。問題の中国人元留学生が作製したES細胞は、小保方さんが「捏造」に利用する事のできないものであった。従って、これは、小保方さんが「ES細胞を使ってありもしないSTAP細胞を捏造した」とする主張の物証には成り得ない。しかし、それでは、その中国人元留学生が作製したES細胞が、何故、小保方さんの冷蔵庫の中から見つかったのだろうか?
 タブーに触れよう。誰かが、小保方さんを陥れるために、そこに置いた可能性は絶対に無いだろうか?だが、そう仮定すると、小保方さんの冷蔵庫から自分が作製したES細胞が見つかったと聞かされた中国人元留学生が、「なぜそれがそこのあったのか?」と言って驚いた事は、当然であった事がわかるのである。そして、そこで、そのES細胞が「見つかった」理由も、明確に理解できないだろうか?


(終わり)


(関連するサイト)

(「週刊誌・TV野小保方叩きの異常」(月刊WiLL2014年6月号/文・西岡昌紀))
http://archive.fo/BT1s6


(「小保方殺し・9つの疑問」(月刊WiLL2015年2月号/文・西岡昌紀))
http://ironna.jp/article/921


西岡昌紀(にしおかまさのり) 1956年生まれ 内科医(神経内科)
著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)「放射線を医学する/ここがヘンだよ『ホルミシス理論』」(リベルタ出版・2014年)が有る。

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(以下資料)



http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170210/k10010872201000.html

STAP細胞 NHK番組にBPOが再発防止を勧告

2月10日 19時19分

NHKが3年前に放送したSTAP細胞の問題を検証した報道番組で、理化学研究所元研究員の小保方晴子氏が人権を侵害されたと申し立てたことについて、BPO=放送倫理・番組向上機構の委員会は「名誉毀損の人権侵害が認められる」として、NHKに対し、再発防止に努めるよう勧告しました。

続きを読む

3年前の7月に放送されたNHKスペシャル「調査報告 STAP細胞 不正の深層」について、理化学研究所元研究員の小保方晴子氏は人権を侵害されたとしてBPOに申し立てていました。

これについて、BPOの放送人権委員会は、10日、記者会見し、番組の一部について、「場面転換などへの配慮を欠いたという編集上の問題があり、小保方氏が元留学生作製のES細胞を不正行為により入手して混入し、STAP細胞を作製した疑惑があると受け取られる内容になっている」としたうえで、「名誉毀損の人権侵害が認められる」と指摘しました。

また、番組の放送直前に行われた小保方氏への取材について行き過ぎがあり、放送倫理上の問題があったとしました。
そのうえで、NHKに対し、再発防止に努めるよう勧告しました。

一方で9人の委員のうち2人が「人権侵害があったとまでは言えない」、「名誉毀損とするべきものではない」と、決定とは異なる意見を出しました。

決定について小保方氏は、代理人の弁護士を通じてコメントを出し、「私が受けた名誉毀損の人権侵害や放送倫理上の問題点などを正当に認定していただいたことをBPOに感謝しております。国を代表する放送機関であるNHKから人権侵害にあたる番組を放送され、このような申し立てが必要となったことは非常に残念なことでした。NHKスペシャルの放送が私の人生に及ぼした影響は一生消えるものではありません」としています。

一方、NHKは「BPOの決定を真摯(しんし)に受け止めますが、番組は関係者への取材を尽くし、客観的な事実を積み上げ、表現にも配慮しながら制作したもので、人権を侵害したものではないと考えます。今後、決定内容を精査したうえで、BPOにもNHKの見解を伝え、意見交換をしていきます。また、放送倫理上の問題を指摘された取材の方法については、再発防止を徹底していきます」としています。

BPO決定の概要(全文)

NHK(日本放送協会)は2014年7月27日、大型企画番組『NHKスペシャル』で、英科学誌ネイチャーに掲載された小保方晴子氏、若山照彦氏らによるSTAP細胞に関する論文を検証した特集「調査報告STAP細胞不正の深層」を放送した。
この放送に対し小保方氏は、「ES細胞を『盗み』、それを混入させた細胞を用いて実験を行っていたと断定的なイメージの下で作られたもので、極めて大きな人権侵害があった」などと訴え、委員会に申立書を提出した。
これに対しNHKは、「『STAP細胞はあるのか』という疑問に対し、客観的な事実を積み上げ、表現にも配慮しながら制作したものであって、申立人の人権を不当に侵害するようなものではない」などと反論した。
委員会は、申立てを受けて審理し決定に至った。委員会決定の概要は以下の通りである。

STAP研究に関する事実関係をめぐっては見解の対立があるが、これについて委員会が立ち入った判断を行うことはできない。委員会の判断対象は本件放送による人権侵害及びこれらに係る放送倫理上の問題の有無であり、検討対象となる事実関係もこれらの判断に必要な範囲のものに限定される。
本件放送は、STAP細胞の正体はES細胞である可能性が高いこと、また、そのES細胞は、若山研究室の元留学生が作製し、申立人の研究室で使われる冷凍庫に保管されていたものであって、これを申立人が何らかの不正行為により入手し混入してSTAP細胞を作製した疑惑があるとする事実等を摘示するものとなっている。これについては真実性・相当性が認められず、名誉毀損の人権侵害が認められる。

こうした判断に至った主な原因は、本件放送には場面転換のわかりやすさや場面ごとの趣旨の明確化などへの配慮を欠いたという編集上の問題があったことである。そのような編集の結果、一般視聴者に対して、単なるES細胞混入疑惑の指摘を超えて、元留学生作製の細胞を申立人が何らかの不正行為により入手し、これを混入してSTAP細胞を作製した疑惑があると指摘したと受け取られる内容となってしまっている。

申立人と笹井芳樹氏との間の電子メールでのやりとりの放送によるプライバシー侵害の主張については、科学報道番組としての品位を欠く表現方法であったとは言えるが、メールの内容があいさつや論文作成上の一般的な助言に関するものにすぎず、秘匿性は高くないことなどから、プライバシーの侵害に当たるとか、放送倫理上問題があったとまでは言えない。

本件放送が放送される直前に行われたホテルのロビーでの取材については、取材を拒否する申立人を追跡し、エスカレーターの乗り口と降り口とから挟み撃ちにするようにしたなどの行為には放送倫理上の問題があった。

その他、若山氏と申立人との間での取扱いの違いが公平性を欠くのではないか、ナレーションや演出が申立人に不正があることを殊更に強調するものとなっているのではないか、未公表の実験ノートの公表は許されないのではないか等の点については、いずれも、人権侵害または放送倫理上の問題があったとまでは言えない。

本件放送の問題点の背景には、STAP研究の公表以来、若き女性研究者として注目されたのが申立人であり、不正疑惑の浮上後も、申立人が世間の注目を集めていたという点に引きずられ、科学的な真実の追求にとどまらず、申立人を不正の犯人として追及するというような姿勢があったのではないか。委員会は、NHKに対し、本決定を真摯に受け止めた上で、本決定の主旨を放送するとともに、過熱した報道がなされている事例における取材・報道のあり方について局内で検討し、再発防止に努めるよう勧告する。

NHKのコメント

本日のBPO放送人権委員会決定についてのコメントは以下のとおりです。

小保方晴子氏が平成26年1月に発表した「STAP細胞」については、同年4月に理化学研究所が研究不正を認定しました。その後、理化学研究所が、本格的な調査を進める中、「STAP細胞はあるのか」「小保方氏の研究はどうなっていたのか」という疑問に世界的な関心が集まっていました。この番組は、その最中の同年7月、社会の関心に応えようと100人を超える研究者・関係者に取材を尽くし、2000ページを超える資料を分析して客観的な事実を積み上げ、表現にも配慮しながら制作・放送しました。番組の中の事実関係に誤りはありません。

STAP細胞については、理化学研究所による小保方氏の検証実験でも一度も作製に成功せず、世界的な話題となったネイチャー誌の論文も取り下げられました。番組の中では、遺伝子解析の結果として、STAP細胞は実際にはES細胞だった可能性を指摘しました。また、小保方氏の研究室の冷凍庫から元留学生が作製したES細胞が見つかった事実を放送しました。番組放送後の同年12月、理化学研究所が公表した調査報告書は、小保方氏が「STAP細胞」だとした細胞は、調べた限りすべてES細胞だったことも明らかにしています。

放送人権委員会の判断の中で指摘された元留学生の作製したES細胞をめぐるシーンは、(1)小保方研究室の冷凍庫から元留学生のES細胞が見つかったという事実、(2)小保方氏側は、保存していたES細胞について、「若山研究室から譲与された」と説明しているという事実、(3)一方、ES細胞を作製した元留学生本人にインタビューしたところ、小保方研究室の冷凍庫から見つかったことに驚き、自分が渡したことはないと証言しているという事実を踏まえて、なぜこのES細胞が小保方研究室から見つかったのか、疑問に答えて欲しいとコメントしたものです。放送人権委員会が指摘しているような「小保方氏が、元留学生作製のES細胞を不正行為により入手し、STAP細胞を作製した疑惑がある」という内容にはなっていません。

他の細胞の混入を防ぐことが極めて重要な細胞研究の現場で、本当に由来がわからない細胞が混入するのを防ぐ研究環境が確保されていたのか、そこにあるはずのないES細胞がなぜあったのか、国民の高い関心が集まる中、報道機関として当事者に説明を求めたものです。このシーンの前では、小保方氏がES細胞の混入を否定し、混入が起こりえない状況を確保していたと記者会見で述べたという事実についても伝えています。
今回の決定では、この番組の中で、「小保方氏が、元留学生作製のES細胞を不正行為により入手し、STAP細胞を作製した疑惑がある」と放送したとして人権侵害を認めています。
しかし、今回の番組では、STAP細胞は、ES細胞の可能性があることと、小保方氏の冷凍庫から元留学生のES細胞が見つかった事実を放送したもので、決定が指摘するような内容は、放送しておらず、人権侵害にあたるという今回の判断とNHKの見解は異なります。
また今回の決定では、委員会のメンバーのうち、2人の委員長代行がいずれも、少数意見として、名誉毀損による人権侵害にはあたらないという見解を述べています。
今回の番組は、STAP細胞への関心が高まる中、関係者への取材を尽くし、客観的事実を積み上げ、表現にも配慮しながら、制作したもので、人権を侵害したものではないと考えます。

BPOは、独立した第三者の立場から放送への苦情や放送倫理上の問題に対応し、正確な放送と放送倫理の高揚に寄与することを目的に、NHKと民放連が設立した組織であり、NHKとしてその勧告を真摯に受け止めるのは当然のことと考えます。
今後、決定内容を精査した上で、BPOにNHKの見解を伝え、意見交換をしていきます。
また、放送人権委員会が指摘した取材上の問題については、平成26年に番組が放送される前に、安全面での配慮に欠ける点があったとして小保方氏側に謝罪しましたが、今回の決定の中で改めて指摘されたことを重く受け止め、再発防止を徹底していきます。

*

http://www.asyura2.com/16/hihyo15/msg/314.html

[日本の事件31] NHKスペシャル『STAP細胞 不正の深層』の「人間失格」    西岡昌紀
*
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8754229.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958813010&owner_id=6445842


NHKスペシャル『STAP細胞 不正の深層』の「人間失格」


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 NHKはなぜこのような取材対象者にけがまで負わせるような取材をしたのだろうか。当時は社会的空気として、小保方氏は犯罪者であり、そのくらいのことはしてみかまわないという雰囲気が充満していた。『あの日』にはそうしたことが繰り返し書かれている。1994年の松本サリン事件で、第一通報者の河野義行氏に対して、警察のリークに全マスコミが「あたかも河野義行が犯人であるとの前提」で報道を行い、後に報道被害を与えたものとして大きな問題になったことを忘れてしまったのだろうか。

(渋谷一郎(著)「STAP細胞は何故潰されたのか」(ビジネス社・2016年)186ページ)


https://www.amazon.co.jp/STAP%E7%B4%B0%E8%83%9E%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%BD%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-~%E5%B0%8F%E4%BF%9D%E6%96%B9%E6%99%B4%E5%AD%90%E3%80%8E%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%80%8F%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F~-%E6%B8%8B%E8%B0%B7-%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4828418725/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1486949200&sr=8-1&keywords=%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E4%B8%80%E9%83%8E


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1.BPOがNHKスペシャルに「クロ」判定

 呆れて物が言へない。
 2月10日(金)、BPO(放送倫理・番組向上機構)が、或る判断を下した。それは、3年前にNHKが放送したNHKスペシャル『調査報道 STAP細胞 不正の深層』(2014年7月27日放送)についての判断である。
BPOは、この番組について、「名誉棄損の人権侵害が認められる」として、NHKに対して、再発防止に努めるよう勧告を行なった。
 この勧告は、元理化学研究所研究員・小保方晴子さんが、この番組について、人権を侵害された、と申し立てた事に対するBPOの結論である。BPOの放送人権委員会は、同日、3年前に放送されたこのNHKスペシャルの一部において、「場面転換などへの配慮を欠いたという編集上の問題があり、小保方氏が元留学生作製のES細胞を不正行為により入手して混入し、STAP細胞を作製した疑惑があると受け取られる内容になっている」とし、「名誉棄損の人権侵害が認められる」と結論ずけている。
 BPOのこの結論に対し、小保方さんは、弁護士の三木秀夫氏を通じて、次の様なコメントを出した。


「NHKスペシャルから私が受けた名誉毀損の人権侵害や放送倫理上の問題点などを正当に認定していただいたことをBPOに感謝しております。国を代表する放送機関であるNHKから人権侵害にあたる番組を放送され、このような申し立てが必要となったことは非常に残念なことでした。本NHKスペシャルの放送が私の人生に及ぼした影響は一生消えるものではありません。(2017年2月10日 小保方 晴子)」


 ところが、NHKは、これに対して、以下に述べるような「反論」を行なった。(後述)この記事を書くにあたって、私は、本当は、BPOの発表の全文とNHKのコメントの全文を読者に紹介したいと思ったが、紙面の制約から難しいので、番組の問題部分の核心についてのみ、要約の形で論じる事をお許しいただきたい。BPOの発表とそれに対するNHKのコメントは、インターネットで全文を読めるので、是非、読者の皆さんは、自分で読んで頂きたいが、私は、そのNHKのコメント(反論)を読んで、本当に呆れて物が言へない気持ちである、

2.STAP細胞は、本当にES細胞だったのか?

 理研は、小保方晴子さんが、若山照彦教授や故・笹井芳樹氏らと共同で発表したSTAP細胞なる細胞は、ES細胞であった可能性が高いと結論ずけた。そして、マスコミは、理研のこの見解が、この問題の「結論」であるかのような報道を行ない、小保方さんを「犯罪者」扱いしたまま、この問題を「収束」させた。しかし、小保方さんは、引き下がらなかった。小保方さんは、『あの日』を出版し、小保方さんが「ES細胞を使ってSTAP細胞の存在をでっち上げた」ような印象を作り出した若山照彦教授や毎日新聞社の須田桃子さんらの主張に具体的な事実を挙げて詳細な反論を展開した。それに対して、若山照彦教授も、小保方さんを批判した毎日新聞社の須田桃子さんも、沈黙を守っている。
 STAP細胞の実在性については、「再現されなかった」と言うが、再現されなかったのは、実験の後半部分である細胞からキメラを作製する段階などである。そして、このキメラ形成は、小保方さんではなく、若山照彦教授が担当した部分である。その部分について、若山教授が再現事件をしないと言うので、他の理研職員が作製を試みたがうまく行かなかったのである。一方、小保方さんは、自分が担当した実験の前半部分については、実験を再現している。それなのに、若山教授の担当した部分に再現性が得られなかった事まで小保方さんへの「疑惑」の理由にされているのである。
 更に、そのSTAP細胞が存在するかどうかについては、その後、同じ実験ではないが、解釈によっては、STAP細胞に似た細胞とも取れるiMuSCsと言う細胞の作製が、ネイチャー誌の姉妹誌であるオンライン専用媒体Nature.com SCIENTIFIC REPORTS の2015年11月号で掲載され、関心を集めている。
 科学史を振り返れば、がん遺伝子(オンコジーン)の存在も、最初の報告が為された1969年から10年後の1979年にようやく確認されている。そうした事を知れば、発表からわずか3年しか経っていない現在、若山教授の実験(キメラ作製)が再現されなかったと言う理由で、小保方さんの科学的主張を全否定する事も、ましてや小保方さんをペテン師呼ばわりする事も不当な事である事を読者は、理解されないであろうか?しかし、それでも、STAP細胞が存在するかどうかは、高度に専門的な科学上の問題である。従って、この記事においては論じない。ここでは、上述のNHKスペシャルについてのみ論じる。

3.Nスペ『STAP細胞 不正の深層』は何を報じたか


 ここで論じているNHKスペシャル『STAP細胞 不正の深層』(2014年7月27日放送)の内容を、この問題を追い続ける佐藤貴彦氏は、こう要約している。

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 かつてネットの掲示板、2ちゃんねる(6月18日)に次のような怪文書が載せられ話題になった。

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   小保方が引越しのどさくさに若山のところから盗んだ細胞が箱ごと発見されたことも公表しろよ。丹羽のTSもたくさん出てきただろ。

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 NHKの取材は、この2ちゃんねるの怪文書の内容を裏付ける形となった。しかし、注意してほしい。ここでは、「小保方がどさくさに盗んだ」となっている。
 若山研の引越しは2013年以降である。この時点では、すでにSTAP細胞作製の実験はほぼ終了している。若山氏と小保方氏がキメラマウスの作製に成功したのは2011年11月であるから、実験が終った後にES細胞を盗んでも意味がない。捏造に用いることは不可能なのである。
 ただ、NHKの番組では「引越しのどさくさに盗んだ」とまでは言っていない。しかし、「小保方氏が引越しのどさくさに留学生のES細胞を盗んだ」というこの話は、この後も小保方氏が告発されるネタとして用いられている。出所が同じ話であることは間違いない。
 また、この番組では、きわめて紛らわしい編集がなされている。すなわち、この番組では、(1)STAP細胞にアクロシンGFPが組み込まれていた。(2)若山研では、アクロシンGFPを組み込んだES細胞がつくられていた。(3)留学生の作ったES細胞が小保方氏の冷凍庫から見つかった。−−−という話が順番に述べられている。したがって、この番組の流れからすれば、「アクロシンGFPの入ったES細胞=留学生の作製したES細胞」であるかと想像した視聴者は多かったであろうと思われる。ところが、後になってわかることだが、留学生の作製したES細胞は、STAP細胞の捏造に用いられたとされるアクロシンES細胞とは何の関係もなかったのである。
 STAP細胞にアクロシンGFPが組み込まれていたことを述べておいて、その後にアクロシンの組み込まれていないES細胞が小保方氏の冷蔵庫に見つかったことをことさら問題にするという番組の編集の仕方は、かなり不自然に感じられる。STAP細胞実験とは何の関係もないES細胞のことを追及したところで、なんら事件解決の役には立たないからである。
 

(佐藤貴彦(著)『STAP細胞 残された謎』(パレード・2015年)22〜23ページ)
http://www.amazon.co.jp/STAP%E7%B4%B0%E8%83%9E-%E6%AE%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%AC%8E-Parade-books-%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6/dp/4434212273/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1452562919&sr=8-2&keywords=%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6


佐藤貴彦(さとうたかひこ)名古屋大学理学部卒 著書:『ラカンの量子力学』など

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 おわかり頂けるだろうか?これが、天下のNHKがやった「報道」である。編集によって、若山研究室に居た中国人元研究員が、小保方さんの「犯行」を裏ずける「証言」をしたかのような印象を作り出し、事件が進むさ中に、全国に放送したのである。
 当然と言うべきだろう。この番組のこうした手法を、BPOは、今回、次のように批判した。


「本件放送は、STAP細胞の正体はES細胞である可能性が高いこと、また、そのES細胞は、若山研究室の元留学生が作製し、申立人の研究室で使われる冷蔵庫に保管されていたものであって、これを申立人が何らかの不正手段によって混入してSTAP細胞を作製した疑惑があるとする事実等を摘示するものとなっている。これについては真実性・相当性が認められず、名誉棄損の人権侵害が認められる。」(BPO2017年2月10日)

 お読みの通りである。BPOの今回のこの判断は、上に引用した佐藤貴彦氏の批判とほぼ同じ批判である。天下のNHKが、こうして、BPOの批判を受けたのである。

4.NHKの居直り


 ところが、BPOのこの批判に対して、NHKは、次のように反駁した。


「放送人権委員会の判断の中で指摘された元留学生の作製したES細胞をめぐるシーンは、(1)小保方研究室の冷蔵庫から元留学生のES細胞が見つかったという事実、(2)小保方氏側は、保存していたES細胞について、「若山研究室から譲与された」と説明しているという事実、(3)一方、ES細胞を作製した元留学生にインタビューしたところ、小保方研究室の冷蔵庫から見つかったことに驚き、自分が渡したことはないと証言しているという事実を踏まえて、なぜこのES細胞が小保方研究室から見つかったのか、疑問に答えて欲しいとコメントしたものです。放送人権委員会が指摘しているような「小保方氏が、元留学生作製のES細胞を不正行為により入手し、STAP細胞を作製した疑惑がある」という内容にはなっていません。」(NHKのコメント)


 「開いた口が塞がらない」とは、この事である。あのような印象操作を編集によって行なっておきながら、「放送人権委員会が指摘しているような『小保方氏が、元留学生作製のES細胞を不正行為により入手し、STAP細胞を作製した疑惑がある』という内容にはなっていません。」(NHKのコメント)と言うのである。ならば、何故、あのような編集をしたのか?と言いたくなるのは、私だけだろうか?


5.太宰治の「人間失格」


 もうひとつ、NHKの「反論」の中で、笑った箇所がある。それは、これである。

 「この番組は、その最中の同年7月、社会の関心に応えようと100人を超える研究者・関係者に取材を尽くし、2000ページを超える資料を分析して客観的な事実を積み上げ、表現にも配慮しながら制作・放送しました。番組の中の事実関係に誤りはありません。」(NHKのコメント)

 NHKのこの「反論」を読んで、私は、太宰治の『人間失格』の一節を思い出した。それは、この一節である。


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 「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、岡本にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、岡本を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢(あ)うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬(ほおむ)られる)
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)


(太宰治『人間失格』(新潮文庫・2015年)100〜101ページ)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%A4%B1%E6%A0%BC%E3%80%90%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%80%91-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%9F-2-5-%E5%A4%AA%E5%AE%B0-%E6%B2%BB/dp/4101006059/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1484126902&sr=8-1&keywords=%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%A4%B1%E6%A0%BC%E3%80%80%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%AE%B0

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 NHKは、「社会の関心に応えようと100人を超える研究者・関係者に取材を尽くし、」あの番組(NHKスペシャル『STAP細胞 不正の深層』)を作ったのだそうである。しかし、ここでNHKが言う「社会」とは何だろうか?或いは、「研究者・関係者」とは、どんな人たちだろうか?それは、太宰治が『人間失格』のこの箇所で取り上げた「世間」と同じではないのだろうか?
 「社会」とは、NHKの事ではないのだろうか?そして、「研究者・関係者」とは、NHKの番組制作に都合の良い人たちばかりだったのではないだろうか?
 
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(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢(あ)うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬(ほおむ)られる)
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)

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 NHKスペシャル『STAP細胞 不正の深層』は、『人間失格』のこの会話に、余りにも符合している。


(終わり)

西岡昌紀(にしおかまさのり) 1956年東京生まれ 北里大学医学部卒 内科医(神経内科)
著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)「放射線を医学する/ここがヘンだよ『ホルミシス理論』」(リベルタ出版・2014年)が有る。

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(以下資料)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170210/k10010872201000.html

STAP細胞 NHK番組にBPOが再発防止を勧告

2月10日 19時19分

NHKが3年前に放送したSTAP細胞の問題を検証した報道番組で、理化学研究所元研究員の小保方晴子氏が人権を侵害されたと申し立てたことについて、BPO=放送倫理・番組向上機構の委員会は「名誉毀損の人権侵害が認められる」として、NHKに対し、再発防止に努めるよう勧告しました。

続きを読む

3年前の7月に放送されたNHKスペシャル「調査報告 STAP細胞不正の深層」について、理化学研究所元研究員の小保方晴子氏は人権を侵害されたとしてBPOに申し立てていました。

これについて、BPOの放送人権委員会は、10日、記者会見し、番組の一部について、「場面転換などへの配慮を欠いたという編集上の問題があり、小保方氏が元留学生作製のES細胞を不正行為により入手して混入し、STAP細胞を作製した疑惑があると受け取られる内容になっている」としたうえで、「名誉毀損の人権侵害が認められる」と指摘しました。

また、番組の放送直前に行われた小保方氏への取材について行き過ぎがあり、放送倫理上の問題があったとしました。
そのうえで、NHKに対し、再発防止に努めるよう勧告しました。

一方で9人の委員のうち2人が「人権侵害があったとまでは言えない」、「名誉毀損とするべきものではない」と、決定とは異なる意見を出しました。

決定について小保方氏は、代理人の弁護士を通じてコメントを出し、「私が受けた名誉毀損の人権侵害や放送倫理上の問題点などを正当に認定していただいたことをBPOに感謝しております。国を代表する放送機関であるNHKから人権侵害にあたる番組を放送され、このような申し立てが必要となったことは非常に残念なことでした。NHKスペシャルの放送が私の人生に及ぼした影響は一生消えるものではありません」としています。

一方、NHKは「BPOの決定を真摯(しんし)に受け止めますが、番組は関係者への取材を尽くし、客観的な事実を積み上げ、表現にも配慮しながら制作したもので、人権を侵害したものではないと考えます。今後、決定内容を精査したうえで、BPOにもNHKの見解を伝え、意見交換をしていきます。また、放送倫理上の問題を指摘された取材の方法については、再発防止を徹底していきます」としています。

BPO決定の概要(全文)

NHK(日本放送協会)は2014年7月27日、大型企画番組『NHKスペシャル』で、英科学誌ネイチャーに掲載された小保方晴子氏、若山照彦氏らによるSTAP細胞に関する論文を検証した特集「調査報告STAP細胞不正の深層」を放送した。
この放送に対し小保方氏は、「ES細胞を『盗み』、それを混入させた細胞を用いて実験を行っていたと断定的なイメージの下で作られたもので、極めて大きな人権侵害があった」などと訴え、委員会に申立書を提出した。
これに対しNHKは、「『STAP細胞はあるのか』という疑問に対し、客観的な事実を積み上げ、表現にも配慮しながら制作したものであって、申立人の人権を不当に侵害するようなものではない」などと反論した。
委員会は、申立てを受けて審理し決定に至った。委員会決定の概要は以下の通りである。

STAP研究に関する事実関係をめぐっては見解の対立があるが、これについて委員会が立ち入った判断を行うことはできない。委員会の判断対象は本件放送による人権侵害及びこれらに係る放送倫理上の問題の有無であり、検討対象となる事実関係もこれらの判断に必要な範囲のものに限定される。
本件放送は、STAP細胞の正体はES細胞である可能性が高いこと、また、そのES細胞は、若山研究室の元留学生が作製し、申立人の研究室で使われる冷凍庫に保管されていたものであって、これを申立人が何らかの不正行為により入手し混入してSTAP細胞を作製した疑惑があるとする事実等を摘示するものとなっている。これについては真実性・相当性が認められず、名誉毀損の人権侵害が認められる。

こうした判断に至った主な原因は、本件放送には場面転換のわかりやすさや場面ごとの趣旨の明確化などへの配慮を欠いたという編集上の問題があったことである。そのような編集の結果、一般視聴者に対して、単なるES細胞混入疑惑の指摘を超えて、元留学生作製の細胞を申立人が何らかの不正行為により入手し、これを混入してSTAP細胞を作製した疑惑があると指摘したと受け取られる内容となってしまっている。

申立人と笹井芳樹氏との間の電子メールでのやりとりの放送によるプライバシー侵害の主張については、科学報道番組としての品位を欠く表現方法であったとは言えるが、メールの内容があいさつや論文作成上の一般的な助言に関するものにすぎず、秘匿性は高くないことなどから、プライバシーの侵害に当たるとか、放送倫理上問題があったとまでは言えない。

本件放送が放送される直前に行われたホテルのロビーでの取材については、取材を拒否する申立人を追跡し、エスカレーターの乗り口と降り口とから挟み撃ちにするようにしたなどの行為には放送倫理上の問題があった。

その他、若山氏と申立人との間での取扱いの違いが公平性を欠くのではないか、ナレーションや演出が申立人に不正があることを殊更に強調するものとなっているのではないか、未公表の実験ノートの公表は許されないのではないか等の点については、いずれも、人権侵害または放送倫理上の問題があったとまでは言えない。

本件放送の問題点の背景には、STAP研究の公表以来、若き女性研究者として注目されたのが申立人であり、不正疑惑の浮上後も、申立人が世間の注目を集めていたという点に引きずられ、科学的な真実の追求にとどまらず、申立人を不正の犯人として追及するというような姿勢があったのではないか。委員会は、NHKに対し、本決定を真摯に受け止めた上で、本決定の主旨を放送するとともに、過熱した報道がなされている事例における取材・報道のあり方について局内で検討し、再発防止に努めるよう勧告する。

NHKのコメント

本日のBPO放送人権委員会決定についてのコメントは以下のとおりです。

小保方晴子氏が平成26年1月に発表した「STAP細胞」については、同年4月に理化学研究所が研究不正を認定しました。その後、理化学研究所が、本格的な調査を進める中、「STAP細胞はあるのか」「小保方氏の研究はどうなっていたのか」という疑問に世界的な関心が集まっていました。この番組は、その最中の同年7月、社会の関心に応えようと100人を超える研究者・関係者に取材を尽くし、2000ページを超える資料を分析して客観的な事実を積み上げ、表現にも配慮しながら制作・放送しました。番組の中の事実関係に誤りはありません。

STAP細胞については、理化学研究所による小保方氏の検証実験でも一度も作製に成功せず、世界的な話題となったネイチャー誌の論文も取り下げられました。番組の中では、遺伝子解析の結果として、STAP細胞は実際にはES細胞だった可能性を指摘しました。また、小保方氏の研究室の冷凍庫から元留学生が作製したES細胞が見つかった事実を放送しました。番組放送後の同年12月、理化学研究所が公表した調査報告書は、小保方氏が「STAP細胞」だとした細胞は、調べた限りすべてES細胞だったことも明らかにしています。

放送人権委員会の判断の中で指摘された元留学生の作製したES細胞をめぐるシーンは、(1)小保方研究室の冷凍庫から元留学生のES細胞が見つかったという事実、(2)小保方氏側は、保存していたES細胞について、「若山研究室から譲与された」と説明しているという事実、(3)一方、ES細胞を作製した元留学生本人にインタビューしたところ、小保方研究室の冷凍庫から見つかったことに驚き、自分が渡したことはないと証言しているという事実を踏まえて、なぜこのES細胞が小保方研究室から見つかったのか、疑問に答えて欲しいとコメントしたものです。放送人権委員会が指摘しているような「小保方氏が、元留学生作製のES細胞を不正行為により入手し、STAP細胞を作製した疑惑がある」という内容にはなっていません。

他の細胞の混入を防ぐことが極めて重要な細胞研究の現場で、本当に由来がわからない細胞が混入するのを防ぐ研究環境が確保されていたのか、そこにあるはずのないES細胞がなぜあったのか、国民の高い関心が集まる中、報道機関として当事者に説明を求めたものです。このシーンの前では、小保方氏がES細胞の混入を否定し、混入が起こりえない状況を確保していたと記者会見で述べたという事実についても伝えています。
今回の決定では、この番組の中で、「小保方氏が、元留学生作製のES細胞を不正行為により入手し、STAP細胞を作製した疑惑がある」と放送したとして人権侵害を認めています。
しかし、今回の番組では、STAP細胞は、ES細胞の可能性があることと、小保方氏の冷凍庫から元留学生のES細胞が見つかった事実を放送したもので、決定が指摘するような内容は、放送しておらず、人権侵害にあたるという今回の判断とNHKの見解は異なります。
また今回の決定では、委員会のメンバーのうち、2人の委員長代行がいずれも、少数意見として、名誉毀損による人権侵害にはあたらないという見解を述べています。
今回の番組は、STAP細胞への関心が高まる中、関係者への取材を尽くし、客観的事実を積み上げ、表現にも配慮しながら、制作したもので、人権を侵害したものではないと考えます。

BPOは、独立した第三者の立場から放送への苦情や放送倫理上の問題に対応し、正確な放送と放送倫理の高揚に寄与することを目的に、NHKと民放連が設立した組織であり、NHKとしてその勧告を真摯に受け止めるのは当然のことと考えます。
今後、決定内容を精査した上で、BPOにNHKの見解を伝え、意見交換をしていきます。
また、放送人権委員会が指摘した取材上の問題については、平成26年に番組が放送される前に、安全面での配慮に欠ける点があったとして小保方氏側に謝罪しましたが、今回の決定の中で改めて指摘されたことを重く受け止め、再発防止を徹底していきます。

*
http://www.asyura2.com/13/nihon31/msg/899.html

[社会問題9] 小林麻央さんの死に思ふ--患者への助言には責任が伴ふ   西岡昌紀

西岡昌紀のブログ

2017年06月26日12:43

小林麻央さんの死に思ふ

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8867434.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961193980&owner_id=6445842

既に大きく報道されて居る通り、フリー・アナウンサーの小林麻央さんが、乳癌により、34歳の命を閉じました。残された御家族の皆様に、心よりお悔やみを申し上げます。


自分は、乳癌の専門家ではありませんし、事実関係が良くわからない中で、こう言ふ事を書くべきかどうか迷ふ所は有ります。しかし、多くの患者さんへの影響を考え、医者の一人として、あえて、自分の思ふ所を述べたいと思ひます。


伝えられる所では、小林麻央さんは、乳癌と診断された際、主治医から勧められた手術法を断り、乳房の温存を優先させたとされて居ます。私は、この事が、とても気に成って居ます。


仮にそれが事実であったとすると、はっきり言ひますが、その段階で勧められた手術を早急に受けて居れば、彼女は助かった可能性が有るのではないか?と、思はないでは居られないのです。


こう言ふ事を言ふのは、亡くなった御本人と残された御遺族に鞭打つ事の様に思ふ方もおられるかも知れません。特に、報道では、それは、なかば「タブー」の様に成って居ます。しかし、私は、あえてそれを言おうと思ひます。その「タブー」を破る事が、小林さんの余りにも早すぎる死を無駄にしない道だと思ふからです。


繰り返しますが、私は乳癌については素人ですし、医学的情報も無いので、これは、今の時点で、私が抱く素朴な思ひにすぎません。


しかし、私が読んだところでは、小林麻央さんは、当初、主治医が勧めた手術を断ったと伝えられて居ます。医者である自分が思ふのは、どうしてそんな事をしたのだろうか?と言ふ事です。


その点について、世の人々は、「医者の説明が足りなかったのでは?」と想像するのかも知れません。しかし、現実に多くの患者と接する医者である私が、近年の社会情勢から想像してしまふ可能性は、違います。


私が想像するのは、「医者の説明が不十分だった」と言ふ可能性ではなく、逆に、彼女が周囲の人々から与えられる「情報」が多すぎたのではないか?と言ふ可能性です。情報不足ではなく、情報過多が有ったのではないか?と言ふ事です。


そして、更に想像を言へば、そうした過剰な「情報」を与えたのは、医者ではない人だったのではないか?と思ってしまひます。何故そんな「想像」をするかと言へば、そう言ふ事が、私の周辺でもとても多い、いや、多すぎるからなのです。


例を挙げるなら、「高血圧の薬は飲まない方が良い」とか「高血圧の薬は一度飲み始めるとやめられなくなる」と言ったウソを信じて居る患者さんが、本当に沢山居ます。恐ろしく成る程です。


そう言ふデマを信じて居る患者さん達に、「何処でそんなバカな話を聞いたのですか?」とお聞きすると、圧倒的に、身近な人々の口コミなのです。つまり、こうしたデマを広めて居るのは、無責任な素人(しろうと)達なのです。


テレビの健康番組やインターネットで読んだ一方的な話を真実だと硬く信じ込み、更には、それに自分の勝手な解釈を加えて語る人々がそこら中に居ます。そんな「健康デマ」の「布教」に邁進する素人たちが、そこら中で、「医者の言ふ事など信じるな」と言はんばかりの説教を自信満々で行なって居ます。しかし、彼らの言説は、根拠を欠いた一方的な「情報」である事が大部分です。


私は、声を大にして言ひたいと思ひます。たとえ信頼できる友人、あるいは家族であっても、素人は素人です。たとえ善意からであっても、病気の方たちに無責任な「情報」を与える事は、受けるべき手術を受けさせずに患者を死に至らしめる事も有ります。


医療関係者でない方は、周囲の御病人に、決して「医学」を教えようなどとしないで下さい。又、御病気の方は、医療関係者ではない人の意見に耳を傾けないで下さい。たとえ家族であっても、素人の意見は、セカンド・オピニオンではありません。たとえ、善意から語られた意見であっても、医学の素人である方たちの意見は、患者さんを誤った選択に導く可能性が、極めて大です。私は、この事を皆さんに強く訴えたいと思ひます。


小林麻央さんの御冥福を心よりお祈り致します。


2017年6月26日(月)

西岡昌紀(内科医)

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■がん遺児の心ケアを 元アナウンサー、闘病中に団体設立
(朝日新聞デジタル - 06月26日 12:03)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4638559

がん遺児の心ケアを 元アナウンサー、闘病中に団体設立
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2017年06月26日 12:03 朝日新聞デジタル


朝日新聞デジタル


写真娘と過ごす生前の小林真理子さん(2006年撮影、遺族提供)
娘と過ごす生前の小林真理子さん(2006年撮影、遺族提供)

 幼い子どもを残してフリーキャスターの小林麻央さんが他界した。子育てをしていてがんと初めて診断される人は年間5万6千人との推計もある。がんで親を亡くす子どもが多い中、がん遺児をサポートする取り組みが始まっている。


 がんで親を亡くした子どもの心をケアするNPO法人「AIMS(エイムス)」(東京都)の前身は、胃がんで亡くなった元NHKアナウンサーの小林真理子さん(享年43)が生前の2011年に立ち上げた。


 当時、真理子さんの娘は6歳。「自分の死後、まだ十分に思いを周囲に伝えられない娘の心のケアをどうしたらいいのか、小林さんは悩んでいました」。相談に乗っていたカウンセラーで明治学院大名誉教授の井上孝代さん(72)は振り返る。


 米などに比べ日本では親を亡くした子どものケアは進んでいないとされる。そんな実情を闘病中に知った真理子さん。AIMS立ち上げの翌月、「この世を無念にも去らざるを得ないパパやママの希望に少しでもなり、残された最愛の子どもたちの心の手助けができれば、幸いです」とメッセージを残して亡くなった。


 弟で弁護士の高井伸太郎さんや井上さんらが団体をNPO法人化。現在は、2カ月に1回程度、がんで親を亡くした子どもだけが参加し、悲しみなどをケアするプログラムを開く。


 そこでは、子どもたちが、誰を亡くしたかを順に話す。話したくない子どもは話さなくていい。研修を受けたスタッフに見守られるなかで子どもたちはおもちゃで自由に遊ぶ。気持ちを発散してもらうのがねらいだ。同じ境遇の子と知り合えることにも大きな意味があるという。高井さんは「子どもの心をケアする場を増やすことが大切。医療関係者らがつなげていく必要もある」と語る。


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西岡昌紀のブログ
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小林麻央さんの死に思ふ
(資料)週刊フライデー2009年7月31日号「スクープ・特定失踪者リスト入りへ!元担当刑事が爆弾証言した大阪小4女児行方不明事件『吉川友梨ちゃんは北朝鮮に拉致された!』」
吉川友梨ちゃん失踪事件----北朝鮮拉致を示唆するこれだけの事実
電子カルテがサイバー・テロ被害を拡大する!
二人のドイツ人-----リヒテルとゾルゲ

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http://www.asyura2.com/12/social9/msg/801.html

[原発・フッ素48] 東電・勝俣元会長ら3人、起訴内容否認 東京地裁初公判 ----広瀬隆氏の警告と東電の「予想」   西岡昌紀
*

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8869528.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961264283&owner_id=6445842

ノンフィクション作家の広瀬隆さんが、東日本大震災の8か月前(2010年6月17日)に書いて居た文章を御紹介します。驚かずに、お読み下さい。


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 実はこの最終原稿を書いている最中の2010年6月17日に、東京電力の福島第一原発二号機で、電源喪失事故が起こり、あわやメルトダウンに突入かという重大事故が発生したのだ。日本のマスコミは、20年前であれば、すべての新聞とテレビが大々的に報じたであろうが、この時は南アフリカのワールドカップ一色で、報道陣として国民を守る責務を放棄して、この深刻な事故についてほとんど無報道だった。ショックを受けた東京電力がくわしい経過を隠し、それを追求すべきメディアもないとは、実におそろしい時代になった。そもそもは、外部から発電所に送る電気系統が四つとも切れてしまったことが原因であった。勿論、発電機も原子炉も緊急停止したが、原子炉内部の沸騰が激しく続いて、内部の水がみるみる減ってゆき。ぎりぎりで炉心融解を免れたのだ。おそろしいことに、この発端となった完全電源喪失の原因さえ特定できないのである。この四日前の6月13日に福島県沖を震源とするかなり強い地震が原発一帯を襲っていたが、それが遠因なのか?いずれにしろ、事故当日には地震が起こっていないのに、このような重大事故が起こったのだから、大地震がくればどうなるか。

(広瀬隆『原子炉時限爆弾』(2010年・ダイヤモンド社)69〜70ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%82%89%E6%99%82%E9%99%90%E7%88%86%E5%BC%BE-%E5%BA%83%E7%80%AC-%E9%9A%86/dp/4478013594/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1347201516&sr=1-1

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お読みの通り、2010年6月の時点で、「地震が起こっていないのに、このような重大事故が起こったのだから、大地震がくればどうなるか。」と、広瀬氏は書いて居ます。

広瀬氏が予想し、著書の中で警告してゐた事を東電幹部達は、「予想出来なかった」と言ふのは、立派な過失ではないのでしょうか?


2017年6月30日(金)


西岡昌紀(内科医)

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■東電・勝俣元会長ら3人、起訴内容否認 東京地裁初公判
(朝日新聞デジタル - 06月30日 10:41)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4645379

東電・勝俣元会長ら3人、起訴内容否認 東京地裁初公判
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2017年06月30日 10:41 朝日新聞デジタル

朝日新聞デジタル


写真東京電力福島第一原発事故をめぐり強制起訴された元幹部3人の初公判で、東京地裁に入る元同社会長の勝俣恒久被告=30日午前9時18分、東京都千代田区、小玉重隆撮影
東京電力福島第一原発事故をめぐり強制起訴された元幹部3人の初公判で、東京地裁に入る元同社会長の勝俣恒久被告=30日午前9時18分、東京都千代田区、小玉重隆撮影

 東京電力福島第一原発事故を巡り、業務上過失致死傷罪で強制起訴された元会長の勝俣恒久被告(77)ら元幹部3人の初公判が30日、東京地裁(永渕健一裁判長)で始まった。3人は罪状認否の冒頭でいずれも謝罪した上で、「事故は予見できなかった」と無罪を主張した。


 ほかに起訴されたのは、いずれも元副社長の武黒一郎被告(71)と武藤栄被告(67)。最大時には約16万人が避難した世界最悪レベルの原子力事故で刑事責任を問われるのは、3人が初めて。


 裁判は、(1)東電が2008年3月に最大15・7メートルの津波が同原発を襲うとの計算をした後、事故の危険性を予見できたか(2)安全対策をしていれば事故を防ぐことができたか、が焦点だ。


 午前10時の開廷後、検察官役の指定弁護士が起訴状を朗読。勝俣氏は「津波と事故を予見することは当時、不可能だった」などと述べ、起訴内容を否認した。ほかの2人も無罪を主張した。


 起訴状によると、3人は、同原発が巨大な津波に襲われ、重大事故が発生することを予見しながら適切な安全対策を取らなかったため、2011年3月の東日本大震災に伴う津波で同原発の電源喪失などが起き、近くの病院の入院患者ら44人に避難を強いて死亡させたなどとされる。


 検察官役の指定弁護士は冒頭陳述で、3人は原発の安全を確保するため、最終的な義務と責任を負っていたと主張。勝俣氏については「意思決定に関わる会議に出席しており、実質的な指示、判断を行っていた」と指摘。武黒、武藤両氏もそれを補佐する立場にあったと訴えた。


 その上で、「津波はいつ来るかわからないのだから、予見できた時点で原発を停止しても対策を取る必要があった。遅くとも震災前には予見できた」と述べた。


*
http://www.asyura2.com/17/genpatu48/msg/353.html

[マスコミ・電通批評15] 尾頭ヒロミは、小保方晴子さんである。----「シンゴジラ」の隠されたメッセージ   西岡昌紀
*
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8994096.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1963660197&owner_id=6445842

みんな、何故気が付かないのだろうか?と思ひます。


「シンゴジラ」の尾頭ヒロミ課長補佐のイニシャルは、H・Oで、小保方春子さんと同じイニシャルです。その尾頭ヒロミが、「シンゴジラ」の中でこんなセリフを口にするのです。


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「分かりました分析は理研に任せます」

尾頭ヒロミ - 環境省自然環境局野生生物課長補佐

役 市川実日子

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この台詞を聞いたらわかるでしょう。小保方さんと同じイニシャルの尾頭ヒロミが、周囲のバッシングに負けずに自説を貫ながら、こんなセリフを口にするのです。「分析は理研に任せます」と。

強烈ではありませんか。これは、どう考えても小保方さんです。

その目で「シンゴジラ」を見て欲しいと思ひます。。周囲と違ふ事を言って、にらまれたこの課長補佐は、結局、正しかった事が証明されます。この尾頭ヒロミ(市川実日子)には、庵野監督が小保方さんに送ったエールが隠されて居ます。

庵野監督、ありがとう。小保方さんに代はtって、御礼を言ひます。

(参考サイト:小保方殺し・9つの疑問)

http://ironna.jp/

(関連記事)
https://www.youtube.com/watch?v=1iAz43DB-ME


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Twitterでゴジラ無双状態!「#シンゴジラ」ツイートは100万件にも
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=14&from=diary&id=4856548


Twitterでゴジラ無双状態!「#シンゴジラ」ツイートは100万件にも
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2017年11月13日 07:46 シネマトゥデイ


シネマトゥデイ


写真ゴジラ人気強し!画像は『怪獣王ゴジラ』(1956)のゴジラ Embassy Pictures Corporation / Photofest / ゲッティ イメージズ
ゴジラ人気強し!画像は『怪獣王ゴジラ』(1956)のゴジラ Embassy Pictures Corporation / Photofest / ゲッティ イメージズ

 12日、映画『シン・ゴジラ』が地上波初放送されると、Twitterのトレンドワードは「#シンゴジラ」「石原さとみ」「内閣総辞職ビーム」など『シン・ゴジラ』関連ワードで埋め尽くされた。さらに放送後の13日午前4時ごろにはハッシュタグ「#シンゴジラ」がついたツイートは累計100万件を突破した。


 映画『シン・ゴジラ』は昨年7月に劇場公開されると、興行収入82億5,000万円を記録。2016年の実写邦画興収ランキングでは1位にも輝いた(文化通信社調べ)。その話題作が地上波初放送されるとだけあり、放送前から放送局のテレビ朝日も放送前から特別番組を組むなどの力の入れようを見せていた。


 そして放送が始まると「ヤシオリ」「第二形態」「マフィア梶田」「巨大不明生物」「無人在来線爆弾」「高橋一生」「蒲田くん」「庵野さん」など劇中の展開やキャラクターの愛称、出演者&スタッフなどに関するワードが次々にTwitterのトレンドにランクイン。その勢いは「#シンゴジラ」のハッシュタグが一時、Twitterに表示される世界トレンドの1位に上るほどでもあった。


 さらには放送後には、「#シンゴジ実況」「#シンゴジラ地上波実況」などのタグで行われていた“実況”が収束していくと同時に、感想ツイートが爆発的に増加。Twitterのアプリ等ではそのトレンドのつぶやきの総数もワードと共に表示されるが、クライマックスに近づいた22時50分ごろには50万件ほどとされていた「#シンゴジラ」のハッシュタグでのツイート数が、13日0時近くには90万件の表示に。13日4時ごろにはついに100万件を超えた。


 昨年11月には、映画を観たファンが劇中の時系列にそってツイートする「#シンゴジ実況」が流行ったことも記憶に新しいが、今回の『シン・ゴジラ』地上波放送では、Twitterにはキャラクターによる名シーン名セリフなどのほかにも、個人の感想や考察などが拡散されていた。『シン・ゴジラ』の人気ぶりと“実況”との親和性の高さも実証される結果となったようだ。(編集部・井本早紀)


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http://www.asyura2.com/16/hihyo15/msg/364.html

[不安と不健康18] エイズ発見の「偶然」----アメリカ医学界にとって、エイズとは何だったのか? 西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9015728.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1963936174&owner_id=6445842

独り言を言ふ。アメリカの医学界において、HIVと呼ばれるウィルスは、「発見されなければならない」ウィルスだったのではないだろうか?この意味がわかる人は、相当の人だ。


1970年代から、アメリカの医学界は、莫大な研究費を投じて、ヒトのガン・ウィルスを発見しようとして来た。動物では、白血病を引き起こすウィルスなどが発見されて居たので、ヒトでも比較的容易に見つかると思ったのだろう。だが、ヒト・ガンウィルスは、なかなか見つからなかった。


ようやく、1980年に成って、ロバート・ギャロ(Robert Gallo)が、菌状息肉腫の患者から、今日HTLV−Iと呼ばれて居るヒトのレトロ・ウィルスを分離し、「発見」(?)した。このウィルスは、或る種の白血病、リンパ腫の原因に成るらしいので、一応、ヒト・ガンウィルスと見なせる。
...

しかし、これだけでは、それまで投じられた莫大な研究費に見合ふ成果とは言へない。だから、ギャロを始めとするアメリカ医学界の重鎮たちは、更に成果を上げなければならないと焦って居た筈だ。その頃である。アメリカでエイズと名付けられる病気の存在が報告され、注目されたのは。


エイズ(AIDS)は、1981年にその存在が認知(発見)された。そして、2年後の1983年に、エイズ患者の体内から、新しくウィルスが発見された。そのウィルスが、エイズの原因だとされ、HIV(ヒト免疫不全ウィルス)と名付けられた事は、誰もが知る通りだ。


ここで考えて欲しい事が有る。それは、もし、エイズと言ふ「新しい病気」が出現せず、更に、その「新しい病気」の原因とされるウィルスが「発見」されなかったら、アメリカの医学界で、何が起きて居ただろうか?と言ふ事だ。

そもそもの始まりは、ニクソン政権における「ガン征圧」計画だった。ケネディのアポロ計画に対抗して始められたらしいニクソン政権のこの計画は、ヒト・ガンウィルスの発見に集約されて行ったと見る事が出来るのではないか。しかし、そのヒト・ガンウィルスは、容易には発見されなかった。


ニクソン政権が発足した1969年から、ギャロがHTLV-Iの「発見」を報告するまで、ヒト・ガンウィルスは、発見されて居なかった。そして、そのHTLV-Iも、発癌において果たす役割は限られた物であった。ニクソン政権発足から投じられた莫大な研究費に見合ふ成果は得られて居なかったのだ。

だから、1980年代初めあたりで、「責任問題」が語られたとしても不思議は無い状況だった。その時、エイズが「出現」したのである。


アメリカの医学界は、ヒト・ガンウィルスの発見においては、投じられた研究費に見合った成果は上げられなかった。しかし、エイズと言ふ新しい病気が出現した時、その2年後には、「原因」とされるウィルスが発見されたのだ。そして、発見者は、当初、又してもギャロだとされた。


結局、「発見者」はギャロではない事に成った。しかし、とにもかくにも、アメリカで新たに出現したエイズと言ふ病気にアメリカの医学界は立ち向かった。そして、ウィルスを発見したのはフランスの科学者だったが、その発見に続く診断法(HIVテスト)開発では、ギャロが貢献した事に成った。


アメリカ医学界の重鎮たちは、ヒト・ガンウィルスの発見では、莫大な研究費を使ひながら、それに見合ふ様な成果を上げて居なかった。しかし、1981年、エイズが「出現」すると、あっと言ふ間に、その発見された「原因ウィルス」の診断キットを開発し、大きな貢献を果たした事に成る。


もちろん、偶然であろうが。


思ひ出すのは、NASAのハンセン博士だ。ハンセン博士は、1988年、アメリカ議会で「二酸化炭素による地球温暖化」が進行して居ると証言し、今日の「地球温暖化」大キャンペーンの口火を切るのに貢献した科学者だ。ハンセン博士は、NASAの科学者だったが、或る問題で窮地に立って居た。


それは、ハッブル望遠鏡の故障の問題である。莫大な費用を投じたハッブル望遠鏡が故障し、NASAは、アメリカ政府に対して、大きな負い目を負って居た。そのNASAの科学者であるハンセン博士が、議会で「地球温暖化」を証言し、今日の大キャンペーンが始まったのだ。


もちろん、偶然であろうが。


科学と政治の関係は複雑だ。そして、そこには、随分、色々な「偶然」が有るものである。

(終)

http://www.asyura2.com/16/health18/msg/595.html

[戦争b21] 真珠湾で献花した東條由布子さん(月刊HANADA・2017年3月号)    西岡昌紀
(月刊HANADA・2017年3月号より)
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%88%E5%88%8AHanada2017%E5%B9%B43%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E8%8A%B1%E7%94%B0%E7%B4%80%E5%87%B1%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E7%B7%A8%E9%9B%86/dp/B01MU1D42I/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1512793074&sr=8-1&keywords=Hanada+3


 安倍首相が、二〇一六年十二月二 十七日(日本時間二十八日朝)に真 珠湾を訪問した。そのニュースをテ レビで見ながら、私はある人のこと を思い出した。
  それは、東條由布子さん(1939−2013、以下、東條さんと記 す)である。誰もが知るとおり、東條 さんは、1941年、日本が真珠湾 を攻撃した際の総理大臣であった東條英機の孫にあたり、二〇一三年、 間質性肺炎で世を去った女性である。
 
 私が東條さんのことを思い出した 理由は、生前の東條さんから聞い た、東條さんが真珠湾を訪れた際の アメリカ側の対応についての話がと ても印象に残っていたからである。
 
 私が東條さんに初めて会ったのは 一九九九年であったから、おそらく は一九九〇年代のことと思われる。 東條さんは、ハワイを訪れたことが あった。
 
 それは、全く個人的な旅行であっ た。特別、真珠湾を訪れることを目 的にしたハワイ旅行ではなかった。
  アリゾナ記念館を訪れた東條さん は、まず、同記念館の館長を訪ねたの だそうである。そして同記念館の館 長に、「私は東條英機の孫です」と告 げた。私が印象深く覚えているのは、 それに対する同館館長の反応である。
  アリゾナ記念館の館長は、非常に 驚いた。東條さんは館長に、「自分は 東條英機の孫だが、ここで犠牲者のために花輪を捧げても良いだろう か?」と訊いた。館長は感動し、もち ろんである、と答えたそうである。
  そして、「不測の事態が起こるとい けないから」と言って、東條さんが花 輪を捧げる際、記念館の職員を横に 立たせて、東條さんが花輪を置くの を見守らせた。東條さんの話から判 断すると、アリゾナ記念館の館長 は、東條さんを最大級の敬意をもっ て迎えたようである。
  この話を聞いて、私は「東條さんら しいな」と思った。どこが東條さんら しいのか。東條英機の孫が来たと言 うことで、反発したアメリカ人が何 か不測の行為に及んだりすれば、ア リゾナ記念館に迷惑を掛けると思っ たのだろう。
 
 真珠湾攻撃当時の日本の総理大 臣、東條英機の孫である自分が来た ことを記念館館長にまずは知らせ、 「自分が花輪を捧げても良いだろう か?」と訊いたところ が、実に東條さんらし い。東條さんは、いつ もこうであった。いつ も人に気を使って、自 分を前に出さない人で あった。
 
 私と東條さんの出会 いについてここでは書 かないが、東條さんが他界するまで十四年間にわたって、 私は東條さんと懇意にさせていただ いていた。
 
 いろいろなことを語り合ったし、 私の友人を紹介することも多かった が、そんな東條さんについてもう一 つ、ある懐かしい思い出がある。そ れは、私が東條さんにお願いして、 東條家のお墓をお参りさせていただ いた時のことである。
合掌したもう一つの場所
 
 その年、マスコミは、小泉首相が 八月十五日に國神社に参拝するか しないかを喧 かまびす しく取り上げていた。 そんなマスコミの過熱報道にウンザ リさせられた私は、東條さんに電話 をかけた。
 
 そして東條さんに、東條家のお墓 にお参りさせていただけないか?   とお願いした。身内でも何でもない自分が、そんな厚かましいことをお 願いするのは失礼かとも思いなが ら、思い切ってかけた電話であった。
  だが東條さんは、とても喜んでくれ た。そして数日後、私は東條さんに 連れられて、東條家のお墓の前に立っ た。初夏の晴れた日のことであった。  高層ビル群が近くに見えるそのお 墓の前に、私は東條さんと二人で立 ち、初夏の陽光と木々の影のなかで 墓石に水をかけ、手を合わせた。
 
 その時、私の心をよぎったのは、 本来、静寂であるべき國神社を巡 る政治的喧 けん 噪 そう の喧しさと、私と東條 さんだけが立つその墓の前の静けさ の対照であった。 「A級戦犯」と呼ばれた人の霊が眠る 場所でありながら、不幸にして政治 的喧噪の場となってしまったその夏 の國神社と、ごくわずかの人々だ けが訪れる東條家の墓の周りの静けさは、不思議な対照であるように思 われた。
 
 私たちが、その東條家の墓をあと にしようとした時である。東條さん は私に、「もう一カ所、おいでいただ きたい所がございます」と言ったので あった。東條さんは、自分で運転す る車に私を乗せると、東條家の墓か らほど近いある場所に連れて行った。
 
 池袋のサンシャイン・ビルのすぐ 近くにある、七人の「A級戦犯」の慰 霊碑の前であった。
 
 そこはかつて、巣鴨プリズンがあ った場所だ。そして一九四八年十二 月二十三日、今上 じよう 天皇の誕生日に、 アメリカが東條さんの祖父、東條英 機氏を含む七人の「A級戦犯」の絞首 刑を執行した処刑場の跡である。
 
 東條家の墓を訪れて墓参りをした 私を、東條さんはその処刑場跡の慰 霊碑の前に連れて来たのであった。
 そして、そこで線香に火をつけ、私 とともにその七人の霊の前で、東條 さんは合掌したのだった。私は、こ の時のことが忘れられない。
 
 祖父である東條英機氏の霊が眠る 東條家の墓に私を連れて行ったあ と、東條さんは祖父とともに絞首台 の露と消えた「A級戦犯」たちの慰霊 碑の前に私を連れて来たのである。
 
 私は、東條さんのその心に打たれ た。私のような取るに足らない人間 でも、他の「A級戦犯」の霊のいる場 所に案内し、一緒に手を合わせてほ しいと希望する東條さんのその無私 な心に感動したのである。
 
 この時、風の悪戯 ずら で線香になかな か火がつかなかったことが、懐かし い思い出として脳裏に残っている。

 
 東條さんは真珠湾を訪れた際、アリゾナ記念館の館長に「自分が花輪 を捧げても良いだろうか?」と尋ね た。いま思えば、それは私が東條家 のお墓にお参りさせていただいた 時、自分の祖父以外の「A級戦犯」た ちの慰霊碑にも連れて行ったことに 通じる東條さんらしい気遣いだった と思う。何と優しい人だったのだろ うか。
 
 そんな東條さんの人柄を偲 しのぶ一方 で、私はいま、あることを考える。 それは、東條さんが「東條英機の孫で す」と名乗ってアリゾナの犠牲者に花 輪を捧げたことを、当時のアリゾナ 記念館館長をはじめとするアメリカ 人たちはどう受け止めたのだろう か?   ということである。   彼らはもしかすると、「東條英機の 孫が謝罪に来た」と受け止めたのでは なかったか?
 
 東條さんは、「謝罪」のためにアリゾナに花輪を捧げたのではなかった はずだ、と私は思う。それは、東條 さんと十四年間友人であった私が、 東條さんの歴史観や祖父・東條英機 氏について語った言葉を思い出して 確信することである。
 
 だが、アメリカ人たちはどう思っ たのか?  
 それはわからない。ただ、 過去に多くのアメリカ人と対話して 来た者としてちょっと心配してしま うのは、圧倒的多数のアメリカ人た ちが、あの戦争について持っている 知識と理解が極めて浅く、皮 ひ 相 そう だと いう事実である。
 
 アメリカ人の圧倒的大多数は、真 珠湾攻撃を日本からの一方的な攻撃 であり、多くは「騙し討ち」だと思っ ている。「ハル・ノート」のことなど、 その言葉すら聞いたことがない人が 多いのではないか。
 
 昔、ある非常に高学歴なアメリカ人と真珠湾攻撃について話をした 際、「ハル・ノート」について何も知 らなかったことに驚いたことがある。
 
 それどころか、そのアメリカ人は 真珠湾攻撃以前に、日本が大陸で蔣 介石と事実上の戦争をしていたこと すら知らなかった。
 
 こんなアメリカ人たちであるか ら、「東條英機の孫」がアリゾナに献 花したと聞けば、単純に「謝罪した」 と解釈したのではないか?   と思う のである。
 
 慰霊と謝罪は別のことである。だ が、それを区別して考えることは必 ずしも容易ではない。十二月二十七 日の安倍首相の真珠湾訪問を、東條 さんは天国でどう見ただろうか?


西岡昌紀(にしおかまさのり) 1956年、東京生まれ。主な著書に『アウシュヴィッツ 「ガス室」の真実/本当の悲劇は何だったのか?(』日新報 道・一九九七年)、『ムラヴィンスキー 楽屋の素顔(』リ ベルタ出版・二〇〇三年)、『放射線を医学する(』リベル タ出版)がある。


http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9018880.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1964076802&owner_id=6445842


https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%88%E5%88%8AHanada2017%E5%B9%B43%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E8%8A%B1%E7%94%B0%E7%B4%80%E5%87%B1%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E7%B7%A8%E9%9B%86/dp/B01MU1D42I/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1512793074&sr=8-1&keywords=Hanada+3


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http://www.asyura2.com/17/warb21/msg/417.html

[社会問題9] 「地下鉄サリン事件」の謎:日野原重明氏の驚くべき発言−−「青酸系サリン」とは何の事か?   西岡昌紀
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日野原重明氏の驚くべき発言−−地下鉄神経ガス事件の謎

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9090440.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1965699883&owner_id=6445842

1995年3月20日(月)に東京で起きた化学テロで使用された毒ガスは、(1)著しい縮瞳(2)呼吸困難(3)鮮紅色の皮膚をその症状とする物でした。


この内、(1)と(2)は、それが神経ガスであった事と一致します。ですから、使用された毒ガスが、神経ガスであった事は確かでしょう。しかし気に成るのは(3)です。

あの日、地下鉄に撒かれた毒ガスが、神経ガスであった事は確かでしょう。しかし私は、疑問を持って居ます。それは、この(3)鮮紅色の皮膚の問題が有るからです。

神経ガスには、サリン、タブン、VX、などが有ります。これらは皆、化学的には、有機リンです。そして、これらの有機リンは、副交感神経を刺激します。


その結果、縮瞳が起こり、気道の分泌物が増加します。ですから、縮瞳が顕著だった犠牲者達が、神経ガスに曝されたであろう事は、良く理解出来ます。しかし、皮膚が鮮紅色だったのは何故なのでしょうか?

私は、あの日、この化学テロの被害者たちの医療に当たった医師から直接話を聞きました。そして、その医師が言った次の言葉が忘れられないのです。

「始めは、一酸化炭素中毒かと思った。」

これが、その医師が私に言った言葉なのです。

一酸化炭素中毒の特徴は、皮膚が鮮紅色に成る事だからですが、それほど、あの日、地下鉄で化学テロに遭遇した被害者の皮膚は、鮮紅色だったのです。

もちろん、被害者たちは、一酸化炭素に曝された訳ではありません。縮瞳が著明だった事、呼吸困難を引き起こしてゐた事から判断して、神経ガスであった事は確かでしょう。しかし、サリンで皮膚が鮮紅色に成るのでしょうか?「一酸化炭素中毒かと思った」と、被害者の皮膚を見た医師が言った程に。

私は、文献を調べてみましたが、神経ガスの臨床症状に関する文献は極めて少なく、この点を文献的に確認する事は出来ませんでした。その上で今も思ふ事は、使はれたのは、神経ガスではあっただろうが、本当にサリンだったのか?或いは、サリンだけだったのか?と言ふ事なのです。

皮膚が鮮紅色に成ると言ふのは、一酸化炭素でないとすれば、シアノ基を持った物質ではないか?と、思ひます。

シアノ基(CN基)を持った神経ガスは有るのでしょうか?有ります。それは、タブン(tabun)です。歴史的には、サリンよりも先に、ドイツの化学者シュレーダーが、偶然、合成した最初の神経ガスです。そのタブンは、シアノ基を持つ物質です。あの日、タブンが撒かれた可能性は否定出来るのでしょうか?

こうした理由から、私は、1995年3月20日(月)に東京で起きた化学テロ事件を「地下鉄サリン事件」とではなく、「地下鉄神経ガス事件」と呼んで居ます。タブンが使用された可能性を否定出来るのか、分からないからです。


その地下鉄神経ガス事件(「地下鉄サリン事件」)に関して、驚くべき事実が有ります。それは、事件直後、聖路加国際病院院長(当時)だった日野原重明氏(1911〜2017)が、テレビカメラの前で行なった発言です。

事件直後、多くの被害者を受け入れた聖路加国際病院院長(当時)日野原重明氏は、テレビカメラの前で、「使はれたのは、青酸系サリン」と発表してゐるのです。しかし、「青酸系サリン」とは、何の事でしょうか?青酸系神経ガスと言ふ意味だったのではないのでしょうか?ならば、それは、タブンです。

私は、その動画を昨年(2017年)、日野原氏が他界された直後に、日野原氏の生涯を振る返るテレビ番組の中で見たのです。

日野原氏は、テレビカメラの前で、メモを手に、「使はれたのは、青酸系サリン」と言って居るのです。(この動画をネットで探したが、現時点では、まだ見つかりません。しかし、間違い無く、私は、それを見てゐます。)

「青酸系サリン」と言ふ言葉はおかしいのですが、これは、「青酸系神経ガス」の事なのではないでしょうか。つまり、日野原重明氏は、タブンが使はれた模様だと言ふ報告を受け、それを報告者が、「青酸系サリン」と書いた為、そのまま、それをテレビカメラの前で読み上げたのではないか?と思はれます。

仮にタブンが使用されたとする。その場合、問題に成るのは、オウムが、そのタブンを何処から入手したか?です。彼らは、自分達で、タブンを製造したのでしょうか?

この問題を追跡する有志が現れる事を期待します。

2018年3月20日(火)


西岡昌紀


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■地下鉄サリンから23年=駅員ら犠牲者追悼−事件遺族「次の段階に」・東京
(時事通信社 - 03月20日 09:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=5034446


 13人が死亡、6000人以上が負傷した1995年の地下鉄サリン事件から23年となった20日、現場の一つとなった東京都千代田区の東京メトロ(旧営団地下鉄)霞ケ関駅では、駅員が犠牲者に黙とうをささげ、遺族らと共に冥福を祈った。

 事件では、オウム真理教の信者が霞ケ関駅を通る3路線5本の電車内で猛毒ガスのサリンを散布。同駅では助役の高橋一正さん=当時(50)=と、代々木電車区助役の菱沼恒夫さん=同(51)=が犠牲となった。

 駅員16人はこの日、発生時刻に近い午前8時から事務室で黙とうをささげ、大友豊彦・霞ケ関駅務管区長(57)が献花台に花束を供えた。

 高橋さんの妻で地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人のシズヱさん(71)も献花に訪れた。「また来たよ」と夫に報告したといい、「年とともに涙もろくなって。いろいろな思いが交錯し、複雑な気持ちだ」と23年の歳月を振り返った。

 オウム真理教による一連の事件をめぐっては、元代表松本智津夫死刑囚(63)ら13人の死刑が確定しており、1月に全ての刑事裁判が終結。法務省は今月、死刑囚のうち元幹部7人を収容先の東京拘置所から仙台や名古屋、福岡など5カ所の拘置所に移送した。

 死刑執行に向けた準備との見方もあるが、同省は否定している。シズヱさんは「次の段階に入ったんだと思う。法に従って粛々と進めてほしい」と話した。 


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http://www.asyura2.com/12/social9/msg/851.html

[原発・フッ素50] 10万年核廃棄物を安全に管理しなければならない原子力発電は、本当に必要か?   西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9197513.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1967721741&owner_id=6445842


10万年です。


たかだか、この数十年間に私たちが使った電気の為に、私達の子孫は、10万年に渡って、核のゴミを安全に管理し続けなければならないのです。


日本の歴史は、大和朝廷の成立を391年であると仮定して、2000年も無いのです。

それなのに、この数十年間に使った電気の為に、10万年、核のゴミを安全に管理し続けなければならないのです。

石油も、石炭も、天然ガスも有り余って居ます。原子力発電など無くても、電力供給には何も困りません。


又、「二酸化炭素による地球温暖化」は、学界では、実は少数意見であり、専門家の多数派は、実は、信じて居ないSFです。仮に本当であったとしても、原子力発電は、実は、大量の石油を消費するので、結局、二酸化炭素を出す事に変はりは有りません。


それなのに、何故、こんな事(原子力発電)を続けなければいけないのですか?


2018年8月1日(水)


西岡昌紀

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原子炉内廃棄物 10万年保管へ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5226348


 原子力規制委員会は1日、原発の廃炉に伴い、原子炉内から出る汚染度が高い廃炉廃棄物の処分場の規制基準案を了承した。活断層や火山の影響が想定されない場所で、深さ70メートル以上の地下に埋め、放射線の影響がほぼなくなる約10万年後まで保管することが柱。


 原発の廃炉で出る低レベル放射性廃棄物は、放射能の強い順に「L1」から「L3」に3区分される。今回の基準案の対象はL1で、制御棒や燃料集合体を入れるケースなどが該当する。東京電力福島第1原発事故後の規制強化で廃炉が相次いでいるが、これまでL1の規制基準はなかった。


 基準案では、処分場を安定した地盤に作るよう電力会社に要求。長さ5キロ以上の断層近くは避け、過去約260万年間に火山活動がないことを文献や地質調査で確認する。石油や石炭、天然ガス、鉱物資源がある場所も、将来掘り返される恐れがあるため避ける。


 廃棄物は埋設後約300〜400年間、地下水に放射性物質が出ていないか定期的に監視する。その後は、国の許可なく処分場周辺を掘削することを禁じる。


 地上では、処分場から受ける追加被ばく線量を、国際基準に合わせて年0.3ミリシーベルト以下に抑えるよう要求。放射性廃棄物の容器が壊れるなど、遮蔽(しゃへい)機能の一部が損なわれた場合の放射線量を解析し、下回るかどうか確認する。


 規制委は今後、電力会社などから意見を聞いて規制基準を正式に決める。【岡田英】


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http://www.asyura2.com/18/genpatu50/msg/179.html

[社会問題9] 「2001年宇宙の旅」公開から半世紀---1968年の日本はこの映画をどう受け止めたか?   西岡昌紀

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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9219838.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968129351&owner_id=6445842


https://www.youtube.com/watch?v=e-QFj59PON4


1. 1968年夏の出来事

 皆さんは、「2001年宇宙の旅」(1968年・アメリカ)を御覧になっただろうか?


今年(2018年)は、この映画の公開から50年(半世紀)に当たる年である。


https://www.youtube.com/watch?v=e-QFj59PON4
(「2001年宇宙の旅」冒頭)

 1968年(昭和43年)と言えば、日本は、高度経済成長の只中にあり、そして、学園紛争とそれに連動した学生運動が、頂点に達した年である。世界を見れば、ベトナム
戦争が続き、中国は文化大革命の只中にあり、フランスでは「5月革命」が起こった。
 そして、8月には、ソ連軍のチェコスロヴァキア(当時)侵入があった年である。その
1968年、私は、小学校6年生の子供だった。その50年前の1968年夏、東京のテアトル東京で見た「2001年宇宙の旅」は、私にとって、単なる映画ではなく、人生
におけるひとつの出来事であった。

2.「この映画を一度で理解されたら、我々の失敗だ。」


 「2001年宇宙の旅」は、アーサー・クラークの小説を原作とするSFである。英語の現代は、「2001:A SPACE ODYSSEY」と言う物で、直訳すれば、「2001:宇宙のオデュッセイ」である。

 1968当時は、アポロ計画が進行中で、日本でも欧米でも、SFが人々の関心を集める時代だったが、この作品は、それまでの「SF]とは非常に異なる性格の「SF」であった。


https://www.youtube.com/watch?v=QSxI0OOjR0Y

 映画は、人類が、まだ、道具を使用して居なかった太古の地球で、人類の祖先である類人猿が、謎の黒い石板の様な物体(モノリス)に触れ、道具を使い始める逸話から始まり、一気に、宇宙時代に話は飛ぶ。そして、そこでも、その謎の黒い石板の様な物体(モノリス)が、月面上や木星に近い宇宙空間で、人間の前に現われるのだが、その過程で、人工知能が人間に反乱を起こす場面も有る。まだ、見て居ない人も居ると思ふので、映画の内容は、これ以上は書かないが、この映画は、極めて「難解」である。

https://www.youtube.com/watch?v=AXS8P0HksQo

 監督のスタンリー・キューブリック自身であったか、或いは、他の関係者が、公開当時、「この映画を一度で理解されたら、我々の失敗だ。」と言ったと言う真(まこと)しやかな逸話が有る。冗談だったのかも知れないが、それほど、この映画は難解である。

 映像の素晴らしさは、半世紀後の今日、見直しても、全く遜色が無いし、リヒャルト・
シュトラウスの「ツァラトゥストゥラはこう語った」やヨハン・シュトラウスの「青き
美しきドナウ」の映像との調和は、本当に素晴らしい。しかし、とにかく、内容は難解で、まるで、映像と音楽によるひとつの禅問答の様ですらある。哲学的と言うより、宗教的と言った方が正しい様な、高度に知的な作品である。(見て居ない人は、この記事を読んだ事を切っ掛けに、是非、見て欲しい。)

 この映画は、その後の日本の文化に大きな影響を与えた。手塚治虫氏や石ノ森章太郎
氏、桑田次郎氏などの劇画は、明らかに、この映画から大きな影響を受けて居る。又、リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストゥラはこう語った」が、今日、これほど有名になったのも、明らかに、この映画が切っ掛けである。実に、日本の戦後文化史に深い影響を与えた映画である。

3.この半世紀間の日本社会の変化

 その「2001年宇宙の旅」を、私が、今、ここで取り上げるのには、理由が有る。それは、この難解で哲学的、宗教的なこの映画を、当時、実の多くの日本の子供が見た事の意味が、2018年の日本にとって、顧(かえり)みるに値する事だと思うからである。

 「2001年宇宙の旅」は、10年後にリバイバル上映された。それから、VHSやDVDで繰り返し、多くの日本人がこれを見て居るが、この映画が「難解」と受け止められて居る事は、当時も今も同じである。しかし、半世紀前の1968年と現在の2018年を比較した時、当時小学生だった私が「変わった」と思う事は、あの時代は、子供が、この様な難解な映画をこぞって見たと言う事である。そして、この「何が何だか分からない映画」について、子供達が、夢中で議論し合ったという事なのである。それに対して、今の子供達は、この様な精神的体験をする事が稀に成って居るのではないか?と、私は、思うのである。それは、何故なのだろうか?

4.「子供達は素晴らしい」

 もう20年くらい前の事である。何気無く見て居たNHKの番組で、或る箏(こと)奏者の女性の話を耳にした事がある。

 どの地域の方かは記憶して居ないが、或る若い女性の箏奏者の女性が、あちこちの小学校を訪れて、子供達の前で、箏を演奏して居ると言う話であった。その女性が、インタビューニ答えて、多くの小学校で箏を演奏し、子供達に箏を聴かせてきた経験を回想する中で言った言葉は、こう言う言葉だったのである。


「子供達は、素晴らしい。」


 その箏奏者は、こう言う。「子供達は、本当に素晴らしいです。箏の古典を弾いても、耳を澄ましてじっと聞いてくれます。」ところが、先生たちは、違うのだと言う。


「それなのに、大人たちは、『アニメの曲をやって下さい。』とか、『そんな曲は難しい
から弾かないで下さい。』とか、そんな事ばかり言うんですね。子供達は、大人が思っているより、ずっと色々な曲がわかるのに。」

 記憶で書いて居るので、正確にこの通りの表現ではなかったと思うが、その女性箏奏者は、大旨この様に語って、子供達が、いかに知的で素晴らしいか、それに対して、先生たち大人は、子供をバカにして居て、すぐ「子供にそんな物はわかりません。」とか「アニメの曲をやって下さい」とか言うと言うのである。子供は、そんなに「馬鹿」なのだろうか?私は、ここに、学校の先生を始めとする日本の「大人」の劣化を見るのである。

5.「中学生でもわかるニュース」

 思い出すのは、昔、或るテレビ局のジャーナリストがぼやいた言葉である。1990年代であったと記憶するが、そのテレビ・ジャーナリストは、テレビの報道現場で、「中学生でもわかる」と言う言葉が、番組制作のモットーの様に使われている事に言及して、こう言った。

「中学生には、自分がわからないニュースが有る事を教える事が大事なんじゃないだろうか。」

 私は、その通りだと思った。学校もマスコミも、難しい話はせず、子供達にただ、「わかりやすい」話ばかりを聞かせようとして居るのではないだろうか。

 先程挙げた、小学校での箏の演奏の場合でも、先生たち大人が、子供に箏の古典作品などではなく、「アニメの曲」を聞かせようと考えるのは、とにかく、子供に「難しい話」をしても仕方が無いと言う、子供をバカにした考え方が、その土台に在るのではないか?私にはそう思えてならないのである。

 言わゆる「ゆとり教育」が導入された背景に何が有ったのか?は大きなテーマであり、単純ではないが、「ゆとり教育」導入の背景にも、こうした子供をバカにする大人たちの発想が有った様に思えてならないのである。

6.小学生がモノリスを論じた時代

 話を「2001年宇宙の旅」に戻そう。今から50年前、ベトナム戦争が続き、学園紛争が頂点を迎え、「5月革命」とチェコ事件が起きたあの年、私を含めた多くの小学生が、あの(難解な)「2001年宇宙の旅」を見た。そして、私は、今も良く思い出すが、夏休みに「2001年宇宙の旅」を見た私たち1968年の小学生は、「あの黒い板は何なのか?」「あのラスト・シーンの意味は何なのか?」を熱く論じ合ったのである。

 私も、私の友人たちも、何が何だか、さっぱりわからなかった。だが、わからないからこそ、私たち1968年緒小学生は、「2001年宇宙の旅」について、子供なりに熱く語り合い、議論をした。その知的体験は、素晴らしい物であった。

 自分にわからない世界が有る事、自分にわからない物語がある事、それを知っただけでも、「2001年宇宙の旅」を見たあの夏休みは、私たちにとって、素晴らしい夏休みだったのである。50年後の今も、私は、小学校のクラス会に行くと、必ず、一度は、この映画の話をして居る。

7.子供には、自分が分からない物が有る事を教えよ。

 私は、身近で、知人の子供が小学校を卒業して中学に入る事が有ると、良く「2001年宇宙の旅」のDVDをお祝いにプレゼントする。その後、プレゼントした子供に感想を聞くと、多くの場合、50年前の私と同様、この「訳がわからない」映画に強烈な印象を与えられ、刺戟を受けて居る事を知って、嬉しくなる。

 子供は、変わっていないのである。変わったのは、大人である。「子供にはそんな物は難し過ぎる」と言って、子供達を知的に過保護の状態に置き、「難しい物」を子供から遠ざけてしまった大人たちが悪いのである。

 子供達は素晴らしい。子供達には、もっと、もっと、難しい本、難しい話、難しい音楽、そして、「2001年宇宙の旅」の様な難しい映画を与えるべきなのである。

(終)

西岡昌紀(にしおかまさのり)


1956年東京生まれ。内科医(神経内科医)。著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道・1997年)、「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔』(リベルタ出版・2003年)、「放射線を医学する」(リベルタ出版・2014年)などが有る。近著は、「短編小説集『桜』2017」(文芸社・2017年)。

「2001年宇宙の旅」冒頭

https://www.youtube.com/watch?v=e-QFj59PON4

「2001年宇宙の旅」人類の夜明け

https://www.youtube.com/watch?v=QSxI0OOjR0Y

「2001年宇宙の旅」青き美しきドナウ

https://www.youtube.com/watch?v=xyjOjT8d8RI

「2001年宇宙の旅」人工知能との対決

https://www.youtube.com/watch?v=UgkyrW2NiwM

「2001年宇宙の旅」終はりの部分

https://www.youtube.com/watch?v=AXS8P0HksQo


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http://www.asyura2.com/12/social9/msg/859.html

[国際23] 「デルタ010」の謎----石原慎太郎が暴露した「大韓航空機撃墜」事件の闇   西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6764944.html


(2007年09月09日ミクシイ日記)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=556377247&owner_id=6445842
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=556481458&owner_id=6445842&org_id=556377247

 大韓航空機撃墜事件について、中曽根康弘元首相と石原慎太郎都知事が、その著書『永遠なれ、日本』(PHP出版・2001年)の中で、興味有る対談をして居るので、その一部を参考までに御紹介しておきます。


(以下引用)
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    KAL機撃墜事件の真相とは−−石原

 「中曽根さんの総理時代の話を伺いたいのですが、1983年にKAL(大韓航空)機がオホーツク海上でソビエト空軍によって撃墜されるという事件が起こりましたね。日本人乗客を含む269名の乗客と乗員すべてが死亡したのですが、空軍の戦闘機が民間機を撃墜したということで、世界を大いに震撼させました。

 この5年前には、やはりKAL機がムルマンスク上空に侵入して氷原に強制不時着させられた。それが今度はペトロバブロフスク上空を通過して、撃墜されたわけです。二つの戦略基地はソ連にとっては最重要戦略基地ですから、東西冷戦の最中、その上空を侵犯して撃墜させられるのはある意味で当たり前でもあります。

 この事件が日本にとって大きな意味を持っていたのは、撃墜されたKAL機のコックピットから成田の管制塔に向かって、交信が行われていたことです。これによって日本は、どの国にも先駆けて、この事件に関する重要な情報を入手することができた。
 とくに注目したいのは、「デルタ、010」という言葉です。じつは、この言葉は、大韓航空とアメリカのCIAの間に設けられた暗号だった。

その意味はいまだにわかりませんが、普通の国の飛行機が、アメリカの情報機関と暗号コードを交わすことなど考えられません。これは、あのときのKAL機が偶然、領空侵犯したのではなく、アメリカの意向を受けての行動だったことを、ほぼいい表している。
 もっとも、KAL機が何を目的としていたか、アメリカがそこに関与していたかどうかという真相は、すべて藪の中です。あの事件について国会でも、社会党の大出俊議員が私の書いたものも含めていろいろな情報をもとに質問しましたが、政府はアメリカの関与をいっさい否定しました。「デルタ、010」という暗号の存在も認めなかった。

 しかし私は政府はあの暗号の意味はもちろん、少なくとも中曽根さんをはじめ、高官の人たちは、なぜあの事件が起きたかも知っていると思っています。日本はKAL機との交信記録をはじめ、貴重な情報をいろいろと持っていた。また政府はこれを、かなりの部分アメリカに渡しましたが、その過程でアメリカからさまざまな情報を得ることもできたでしょう。
 私はこの事件を、韓国とソ連だけの問題ではなく、アメリカや日本も絡んだ、まさに冷戦構造の中でこそ起きた、特殊な事件だと思っています。もちろん、いまも言えないことはあるでしょうが、あれから20年近く経って、ぜひ中曽根さんの口から、当時のことについて、いろいろお聞きしたい。その前に、私はあの事件に強い関心があって、自分で出かけて当時のJAL、ANA、JAS大手三社の整備担当の重役と部長に一人一人会って確かめました。出発前にコックピットにいる三人のスタッフが、三人とも間違ってコースをインプットすることなど、百兆分の一もないと全員がいっていましたがね。」

(同書 140〜142ページより)
http://www.amazon.co.jp/%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E2%80%95%E5%85%83%E7%B7%8F%E7%90%86%E3%81%A8%E9%83%BD%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E3%81%AE%E8%AA%9E%E3%82%8A%E5%90%88%E3%81%84-%E4%B8%AD%E6%9B%BD%E6%A0%B9-%E5%BA%B7%E5%BC%98/dp/4569617018/ref=cm_cr-mr-title

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 この石原氏の発言に対して、中曽根元首相は、この対談において、こう発言して居ます。
(以下、中曽根元首相の発言より)

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 「あの事件では、大韓航空機を撃墜したソ連戦闘機とソ連のサハリン司令部との交信を、日本はすべてキャッチしていました。もっとも、交信はロシア語で行なわれていますから、内容を知るにはこれを翻訳するという一段階が必要です。撃墜が行なわれたのは、たしか夜中の二時か三時ごろですが、どのような内容が語られているかを突き止めて、私のもとへ第一報が入ったのは朝の六時ごろでした。
 ただ、このときは、「何かあった」という程度の情報です。「大韓航空機が撃墜された」と伝えられたのは、午前八時ごろです。そのときには、翻訳もほとんど完了していたようです。その後も、いろいろと情報を確認して、「ソ連の戦闘機が大韓航空機を撃墜したことに間違いない」と確定したのが、午前11時頃です。その時点で、韓国とアメリカだけには知らせろと指示を出しました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  いま石原さんが述べられた「デルタ、010」と称する暗号については全く知りません。初めて聞く話です。」

(同書142〜145ページより引用)
http://www.amazon.co.jp/%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E2%80%95%E5%85%83%E7%B7%8F%E7%90%86%E3%81%A8%E9%83%BD%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E3%81%AE%E8%AA%9E%E3%82%8A%E5%90%88%E3%81%84-%E4%B8%AD%E6%9B%BD%E6%A0%B9-%E5%BA%B7%E5%BC%98/dp/4569617018/ref=cm_cr-mr-title


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 皆さんは、お二人のこの対話をどう読まれるでしょうか。

 この本(『永遠なれ、日本』)の対談において、石原都知事が、この問題(大韓航空機撃墜事件)について語った言葉の別の部分を御紹介しておきます。

(以下同書における石原都知事の発言より引用)
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「大事なことをもう一つお聞きしたいのですが、安保理事会ではっきり公表したことで、ソビエトが撃墜したことは間違いない、ということになりました。
 このあとソビエトは、西側の記者を相手に公式会見を行いますが、ここでオルガコフという村夫子然とした参謀総長が出てきて、「KAL機はスパイ活動を行っていた」と主張しました。このスパイ疑惑を西側の記者は一笑に付していましたが、私はオルガコフのほうが正しいと思っています。

 先にもいったように、私はあのKAL機の行動は、アメリカに指示されて韓国が行ったものだと考えています。あのKAL機には当初、アメリカの国会議員も乗っていましたが、与党だった共和党の議員は、全員ほかの用事をつくってシアトルで降りています。野党である民主党の議員だけが乗っていて、事故にあい、死亡している。このあたりがアメリカの怖さであり、かつ、したたかさを感じるところですね。

 しかもKAL機が撃墜された日は、チュタラムというカスピ海にあるソビエトのミサイル基地から、新型のICBMをオホーツク海のあるところに打ち込む実験が行われる予定でした。そこでオホーツク海には、観測のために二十数隻のソビエトの観測船が集まっていた。このことも、KAL機のスパイ説を裏付ける一つになるでしょう。

 もちろんアメリカでは、スパイ説を完全に否定しています。『ワシントン・ポスト』では、国防総省と結託してこれを否定する記事を書いている。アメリカの偵察機はアリューシャン基地から出て、いつもソビエトに領空侵犯していた。このシルエットが遠くから見ると、ジャンボ機とそっくりな形をしている。そこで、これを誤認したのだろうという。

 ソビエトのオルガコフ参謀総長はこの件も含めて、「そんなことはない」と否定したのですが。これが非常に毅然とした態度で、私はやはりソビエトの参謀総長になるまでの男はバカではないと思った。

 またこの事件によってアメリカは、ソビエトの平時における防御体制が、いかにもろく、ずさんであるかを知ることができました。ソビエトも、それをさらしたことを自己認識した。そのためアメリカでは、今後ソビエトは容易に核の引き金を引くだろうと考えたという。

 戦略核とまでいかなくとも、戦術核の引き金ぐらいは簡単に引く。そういう認識を持って、その後の警戒態勢を強めたということです。いずれにせよ、あのとき真実を知っていた日本というのは、アメリカとソビエトの狭間にあって、非常に苦しい立場だったと思います。

 もっともこの件については、KAL機がスパイ活動を行っていたことも含めて、本当のところは中曽根さんも官房長官だった後藤田正晴さんも、永遠に口には出さないでしょうね。中曽根さんは総理をやるなかで、いろいろ人にいえない情報もたくさんお知りになられた。それを黙っていることも総理の重要な務めの一つでしょう。このことを私は以前、私の盟友だった中川一郎がなぜ死んだのか、中曽根さんに聞きに行ったときに強く感じました。(後略)」


(『永遠なれ、日本』145〜147ページより)
http://www.amazon.co.jp/%E6%B0%B8%E9%81%A0%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E2%80%95%E5%85%83%E7%B7%8F%E7%90%86%E3%81%A8%E9%83%BD%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E3%81%AE%E8%AA%9E%E3%82%8A%E5%90%88%E3%81%84-%E4%B8%AD%E6%9B%BD%E6%A0%B9-%E5%BA%B7%E5%BC%98/dp/4569617018/ref=cm_cr-mr-title

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 この後の、中川一郎氏の変死についての話も恐ろしいのですが、割愛します。


2007年9月9日

西岡昌紀


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http://www.asyura2.com/18/kokusai23/msg/761.html

[国際23] 「大韓航空機撃墜事件」の生存者情報----文春に持ち込まれたアメリカ人生存者についての未確認情報  西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9220738.html

1983年9月1日にに樺太沖で起きたとされる大韓航空機撃墜事件について、驚くべき情報が有ります。


それは、あの事件に、実は、生存者が居たと言ふ未確認情報です。


真偽は不明ですが、それなりの情報源から出て来た情報です。マスコミでは、全く報じられて居ないこの生存者情報について、私が聞いた話を以下に述べます。

1991年の8月、ロシアでクーデター未遂事件が起きた
事は、御記憶と思ひます。

その際、首都モスクワは混乱状態に陥りました。結局、
クーデターが失敗した事は皆さんが御存知の通りですが、
その際、混乱の中で、旧ソ連政府の公文書の多くが、
様々な個人によって持ち出されると言ふ、信じがたい
状況が生まれました。

私は、神奈川大学の常石敬一教授から、この混乱の際、
旧ソ連の原爆開発に関する文書を売りつけようとする人間
が居たが、断った、と言ふ話を聞いた事が有ります。
(相手の要求する金額が高かったからだったと記憶します)
そんな例を含めて、旧ソ連の政府公文書の多くが、混乱に
乗じて持ち出され、西側のマスコミに高く売りつけようと
する行為が横行したのですが、その時、ロシアから、日本
を代表する出版社である文藝春秋社に、にわかには信じが
たい情報がもたらされました。

その情報の内容は、クーデター未遂事件の混乱の中で、
1983年に樺太沖で起きたとされる大韓航空機撃墜事件
の際、実は、生存者が居たと述べた文書がみつかったとする
もので、その情報を受けて、当時の文春は、取材チームを
ロシアに派遣し、情報提供者に接触して、情報の真偽を
確かめようとしたのだそうです。

情報に依ると、生存者はアメリカ人で、地図にも載って
居ない核の町として知られるチェリャビンスクに幽閉されて
居る、と言ふ話だったのだそうです。

文春は、事の真偽を確認しようとかなり努力をしたそう
です。しかし、私にこの話を聞かせてくれた人物(文春
の高い地位に在った関係者)に依ると、「或る所から壁に
ぶつかって」結局、情報の真偽を確認出来無かったのだ
そうです。

もちろん、金目当てのガセネタであった可能性は十分
有ります。しかし、この情報を、当時の文春が真剣に
受け止め、取材チームをロシアに派遣して調査した事は、
事実なのです。


私が知って居る事実は、ただこれだけです。

皆さんは、どう思はれますか?


2007年8月30日(木)〜2007年9月1日(土)

2018年9月1日(編集)


西岡昌紀


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http://www.asyura2.com/18/kokusai23/msg/766.html

[国際23] A・J・P・テイラー(A・J・P・Taylor:1906−1990)の命日に---歴史への冷徹な眼差し   西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9223201.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968242015&owner_id=6445842

今日(9月7日(金))は、イギリスの歴史家A・J・P・テイラー(A・J・P・Taylor:1906−1990)の命日です。


(テイラーについての英文Wikipedia)
https://en.wikipedia.org/wiki/A._J._P._Taylor

(テイラーについての日本語Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/A%E3%83%BBJ%E3%83%BBP%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC


彼の死から、28年が経ちました。


テイラーは、オックスフォード大学で学び、イギリスで非常に高い地位と名声を得た歴史家です。


BBCなどでも、テイラーは、度々、登場し、イギリスを代表する歴史家の一人と見なされました人物ですが、1990年の今日(9月7日)、永くパーキンソン病を患った末に、84歳でこの世を去りました。

BBC documentary in 1961: Did Hitler cause the war?
            ↓
(BBCの討論番組:「ヒトラーが戦争の原因だったのか?」)

https://www.youtube.com/watch?v=-PadWQ-21LA

テイラーは、世界史の様々なテーマを研究し、著作を残しましたが、彼の著作の中で、最も有名なの物は、彼が1961年に発表した『第二次世界大戦の起源』(The Origins of the Second World War)と言ふ本であっただろうと思ひます。


その題名の通り、第二次世界大戦は、なぜ起きたか?を論じた本なのですが、様々な一次史料を示した上で、テイラーは、特に、1939年9月1日のドイツとポーランドの間の「開戦」に至るまでのヨーロッパの外交を論じ、この本において、ヒトラーには、意図して戦争を引き起こす積もりは無かったと言ふ結論を提示したのでした。


1961年と言へば、第二次世界大戦が終結して、まだ16年しか経って居ない時です。当時(1961年)の人々にとって、第二次世界大戦が終はったのは、今(2018年)の私達の感覚で考へれば、間も無く17年目と成る9・11同時多発テロ(2001年)や、小泉訪朝(2002年)くらいの過去だったと言ふ事が出来ます。当時の人々にとって、第二次世界大戦は、さほど遠い過去ではなかった時代です。その1961年に、テイラーは、ヒトラーは、意図的に戦争を起こしたのではない、ヒトラーは「戦争計画」など持ち合はせて居ないと、結論づけたのです。


それを、当時、既にイギリスを代表する歴史家が言ったのですから、この本は、大きな反響を呼びました。


「反響」と言ふより、猛反発を受けたのですが、そうした反発、批判に対して、テイラーは、こうした意味の事を言って、反論したのだそうです。

「我々は、第二次世界大戦を、17世紀のピューリタン革命を研究する様な客観的な姿勢で研究するべきなのだ。」


これは、私が、或る本で読んだ言葉ですので、正確にこの通りなのか分かりませんが、とにかく、批判に対して、テイラーは、自説を変えず、自分の見解を貫いたのだそうです。


面白いのは、「ヒトラーには、『戦争計画』など無かった。」と結論付けたために、「ドイツ寄り」とも見なされる事と成ったテイラー自身は、個人的には、大のドイツ嫌ひで、自分の祖国(イギリス)を愛する人だったと言ふ逸話です。


私は、テイラーのこうした人柄に関する話を、テイラーが他界した直後の英誌エコノミスト(The Economist)で呼んだのですが、それに依れば、テイラーは、自国(イギリス)の普通の人々を深く愛した人だったそうです。

つまり、テイラーは、冷徹で客観的な分析を重ねた上で、「ヒトラーは『戦争計画』など持って居なかった。」と結論づけた訳ですが、テイラーは、「ドイツびいき」だった訳でも何でもなく、個人的には、ドイツを嫌っており、そして、祖国イギリスを深く愛する愛国者だったのです。

私は、この事が、とても印象に残って居るのです。


彼の見解の当否とは別に、テイラーのこうした人柄と見解から私たちが学ばなければならない事は、歴史家は、祖国を愛する気持ちと事実を客観的に見る冷徹さの両方を持たなければならないと言ふ事です。

日本における「歴史」についての「論争」を見て居ると、テイラーの様に、自身の感情や好き嫌ひと事実を分析する冷徹さを峻厳に区別する姿勢に欠けて居るのではないか?と思はざるを得ない人を少なからず目にします。

第二次世界大戦に対するテイラーの見解の当否とは別に、私たちは、愛国心を含めた感情と事実の分析を混同してはいけないと言ふ歴史学の基本を彼から学ばなければならないと、私は、思ひます。

ところで、私が、テイラーの命日を何故、覚えてゐるかと言ふと、テイラーが他界したのが、湾岸危機(1990年)の最中だったからです。


そのおよそ1か月前、イラクが突然、クウェートに侵攻し、中東情勢の行方を世界中が固唾を呑んで見守って居た最中、『第二次世界大戦の起源』(1961年)の著者、テイラーは、この世を去ったのです。


それが、余りにも因縁めいて居たので、私は、彼の死の知らせに強い印象を受けたのです。


「歴史は鏡である。」と言ふ言葉が有りますが、あの時、翌年(1991年)1月17日の湾岸戦争開戦に至るまでの緊張の中で、私は、イラクのクウェート侵攻とドイツのポーランド侵攻(1939年9月1日)を何度も重ねて考え続けました。


それは、デジャ・ヴュ(deja vu)と呼ぶべき物でした。自分の目の前で進行する湾岸危機を見ながら、私は、1939年9月1日のドイツ・ポーランド開戦に至るまでの外交戦について、テイラーの『第二次世界大戦の起源』やその他の歴史書を読み、自分が学校やマスコミによって教えられて来た「歴史」は、信用出来る物ではない事に気が付いたのでした。


テイラーは、そんな私に、「後は、自分で考えろ」と言って、他界したかの様でした。

テイラーが生きて居たら、今の北朝鮮情勢、パレスチナ情勢、シリア情勢、中国情勢などをどう見ただろうか?と思はずに居られません。


2018年9月7日(金)

西岡昌紀(内科医)

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http://www.asyura2.com/18/kokusai23/msg/806.html

[戦争b22] 第二次世界大戦末期の性暴力---ロシアはドイツで何をしたか?   西岡昌紀
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9284453.html
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1969513160&owner_id=6445842

 次の記事をお読み下さい。これは、第二次世界大戦の末期に、或るドイツ人親子に起きた出来事です。


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  あれから半世紀がたった今でも、ヒルデガルド・ブーブリツは、恐怖の記憶におののいている。家族とともに東プロシアを逃げ出したときの体験だ。
  ある夜のこと、ブーブリツは家族や仲間と民家の地下室に隠れているところをソ連兵に見つかった。
  ソ連兵たちはまず、腕時計を巻き上げた。次に欲しがったのは、女だった。
「私たちの中に女性教師がいた。45歳で男性経験のない人だった。」と、ブーブリツは語る。
「彼女は、10人のソ連兵にレイプされた。血に染まった下着姿で戻ってくると、大声で泣き叫んだ」
  この教師の母親は、娘を抱きかかえてこう言ったという。−−「私がカミソリの刃を持っているから」。
  そして、親子は外に出ていった。
 「二人は森の中で死んでいた」と、ブーブリツは言う。


(アンドルー・ナゴースキー「終戦後の『民族大虐殺』」ニューズウィーク日本版1995年5月17日号42ページより)

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 一体、この親子が、何をしたと言ふのでしょうか?

       

   *    *    *    *    *


 第二次大戦末期、ドイツに侵入したソ連軍が、占領したドイツの町々で、子供や老人を含む多くのドイツ人女性を強姦、輪姦した事は、有名な事実です。首都ベルリンをはじめ、ドイツ東部のあらゆる地域で、ソ連軍の兵士たちは、ドイツの女性たちを徹底的に強姦しました。その中には、例えば、こんな事例すら有ったのです。


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 ドイツでは、老女から四歳の子供にいたるまで、エルベ川の東方で暴行されずに残ったものはほとんどいない、といわれている。あるロシア人将校は、一週間のうちに少なくとも250人に暴行されたドイツ人少女に出会いさすがに愕然とした、という記録が残されている。

(半藤一利「ソ連が満州に侵攻した夏」(文藝春秋社・1999年)274ページより)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BD%E9%80%A3%E3%81%8C%E6%BA%80%E6%B4%B2%E3%81%AB%E4%BE%B5%E6%94%BB%E3%81%97%E3%81%9F%E5%A4%8F-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8D%8A%E8%97%A4-%E4%B8%80%E5%88%A9/dp/4167483114/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1511835768&sr=8-1&keywords=%E3%82%BD%E9%80%A3%E3%81%8C%E6%BA%80%E5%B7%9E%E3%81%AB%E4%BE%B5%E6%94%BB%E3%81%97%E3%81%9F

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 これは、記述からお分かり頂ける通り、加害者であるソ連側が記録した事例です。そのソ連側の記録で、一人の少女が、「一週間のうちに少なくとも二百五十人(のソ連兵)」に強姦されたと報告されて居るのです。
 そして、これは、ソ連に占領された地域で起きたソ連兵による数え切れない数のドイツ人女性に対する強姦、輪姦のほんの一つに過ぎないのです。


 そうしたドイツ東部で起きた無数の悲劇の中で、私は、こんな恐ろしい事例が有ったと読んだ事が有ります。それは、ドイツ東部の或る町で、その町を占領したソ連軍が、その町のドイツ人女性たちを教会に集め、その教会の中で、それらの女性たちを強姦、輪姦したと言ふ事例です。
 教会の中で、です。皆さんは、その情景を想像できるでしょうか?キリストやマリアの像が有る教会の中で、そんな恐ろしい事が起きたのです。

 私は、キリスト教徒ではありません。しかし、この話を読んだ時、私は、衝撃を受けずには居られませんでした。


 戦時下、占領軍によって被占領地の女性が性暴力の犠牲に成る事は、ソ連軍以外の軍隊にも有った事です。ドイツ軍自体にも有りましたし、日本軍にも有りました。しかし、古代や中世を別とすれば、19世紀以降の世界史において、第二次世界大戦末期に、ソ連軍が、ドイツと満州で行なった集団強姦ほど大規模で残虐な事例は、他に無かったと断言して間違い有りません。沖縄でアメリカ軍が繰り返した性犯罪もひどい物でしたが、それすら、ソ連軍が、大戦末期、ドイツで繰り広げた強姦や輪姦に較べれば、較べ物に成らない程、ソ連軍のドイツでの性犯罪はひどい物だったのです。この時期(1945年春)、ソ連軍に占領されたエルベ川東部では、強姦されなかった女性は居なかった、とすら言はれる程、それは酷い物だったのです。(特に、それらの強姦犠牲者の中に、どれだけ多くの幼児が居たかを思ふと、鳥肌が立ちます。)


 ドイツ人は、本当に、一方的に「加害者」だったのでしょうか?

                           


  西岡昌紀

http://www.jca,apc.org/~altmedka/aus.html

(この記事は、私が、以前書いたメルマガの文章を編集、
 加筆した物です。)


ドイツの女性達が体験した悲劇(2007年05月08日ミクシイ日記再録)

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7246285.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/808.html

(併せてこちらの記事もお読み下さい)
      ↓
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7246204.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=427722414&owner_id=6445842
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/807.html


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■性暴力の撲滅に「行動を起こす時」 ノーベル平和賞会見
(朝日新聞デジタル - 12月10日 00:29)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5411708

 今年のノーベル平和賞の受賞者であるイラクの少数派ヤジディ教徒のナディア・ムラドさん(25)とアフリカ中部のコンゴ民主共和国で性暴力被害者に寄り添ってきた婦人科医のデニ・ムクウェゲさん(63)が9日、翌日の授賞式を前にノルウェーの首都オスロで記者会見した。2人は「今も多くの女性が性暴力の被害に苦しんでいる」と話し、国際社会に更なる行動を求めた。


 緊張した表情で会見に臨んだムラドさんは、受賞について「暴力で傷ついたすべてのヤジディ教徒にとって大きな日だ。この賞を(被害者救済への)扉を開けるものにしたい」と述べた。


 一方、多くの女性がいまだに元の生活に戻れないことや、3千人以上が過激派組織「イスラム国」(IS)に連れ去られて行方不明になっていることに言及。「(国際社会の)努力により進展もあるが、多くのことが残されている」と述べ、「(ISの)誰一人として法の下で裁かれていない。このままではいつかまた同じことが起きる」と訴えた。


 ムラドさんは2014年8月、ISに拉致され、「性奴隷」として人身売買された。3カ月後、ISが最重要拠点としていたイラク北部のモスルから脱出。15年にドイツに渡り、性暴力被害の実態を実名で証言してきた。


 イラクでは約36万人のヤジディ教徒が避難生活を強いられている。ムラドさんは「イラク政府からは数年間、何の助けもない。すべての人に人権が与えられることを望む」と述べ、政府に早急な対応を求めた。


 ムクウェゲさんは「紛争下での性暴力を非難するだけではなく、我々も市民も国際社会もメディアも、撲滅に向けて行動を起こす時だ」と訴えた。


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http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/455.html

[戦争b22] (書評)チャールズ・R・スコット(著)「スコット親子、日本を駆ける: 父と息子の自転車縦断4000キロ」 西岡昌紀
(書評)チャールズ・R・スコット(著)「スコット親子、日本を駆ける: 父と息子の自転車縦断4000キロ」 西岡昌紀


チャールズ・R. スコット著
エディション: 単行本
価格: ¥ 2,052

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E8%A6%AA%E5%AD%90%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E9%A7%86%E3%81%91%E3%82%8B-%E7%88%B6%E3%81%A8%E6%81%AF%E5%AD%90%E3%81%AE%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A%E7%B8%A6%E6%96%AD4000%E3%82%AD%E3%83%AD-%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BBR-%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88/dp/4314011238


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5つ星のうち 2.0

素晴らしい旅行記だが、原爆投下を正当化する記述には賛同出来無い。,

2015/11/25

By 西岡昌紀




http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E8%A6%AA%E5%AD%90%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E9%A7%86%E3%81%91%E3%82%8B-%E7%88%B6%E3%81%A8%E6%81%AF%E5%AD%90%E3%81%AE%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A%E7%B8%A6%E6%96%AD4000%E3%82%AD%E3%83%AD-%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BBR-%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88/dp/4314011238

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 アメリカは相手が違う考えを持っていることを許さない。自分の主張を認めるように「改宗」しなければならないのだ。
 
(マックス・フォン・シューラー(著)「『太平洋戦争』アメリカに嵌められた日本」(WAC・2015年)35ページ)

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 始めに、私は、この書評を書くべきかどうか迷った事を申し上げる事にする。

 この本は、アメリカ人であるチャールズ・スコット氏が、8歳の息子さんと二人で自転車に乗って日本列島を縦断した旅行の記録であり、父親として、スコット氏が成し遂げた事については、スコット氏を心から祝福したい。

 だが、この本の終はり近くの或る個所について、私は、矢張り、異議を唱えない訳には行かない。それは、この本のこの部分である。

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 大勢の見学者が、厳粛な表情で展示を見ていた。ショウとぼくも、ゆっくり順路を進み始めた。1945年の広島の市街地を、原爆が投下される前と後の二つの模型にしたものがあった。ショウは、二つの模型の間を何度も往復して、違いを指摘した。「建物がめちゃくちゃに壊れてる」。ショウは原爆の爆心地を示す赤いエリアを指さした。「パパ、あの辺りは何もなくなってるよ」
 ぼくたちは、日本の戦時下における広島の役割や、アメリカが原爆投下を決断するに至った経緯を説明する展示壁に沿って歩いた。ぼくは説明を読みながら、戦争の歴史的な背景が、もっと大きな枠組みで説明されていたらよかったのにと思った。そこには、日本の帝国主義の歴史についても、真珠湾攻撃についても、南京事件をはじめとするアジア諸国での日本軍の残虐行為についても、十分な説明がなかった。そのため、この展示から受ける印象は、アメリカが無慈悲な破壊者であり、日本はその被害者だというものだった。ぼくにはそれが、原爆投下の背景を深く掘り下げる貴重な機会を逸しているように思えた。

(本書332〜333ページ)

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 スコット氏は、広島への、そして、長崎への原爆投下が必要だった、と言ひたいのだろうか?では、スコット氏は、アメリカの歴史家が書いたこの文章をどう読むのだろうか?(少し長いが、スコット氏の為に英語の原文で引用する)

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Among the many remaining puzzles surrounding the decision to use the atomic bomb, perhaps the most intriguing concern two of the nation's highest World War U military leaders. A few years after Hiroshima and Nagasaki were destroyed, Admiral William D.Leahy went public with the following statement:

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It is my opinion that the use of this barbaric weapon at Hiroshima and Nagasaki was of no material assistance in our war against Japan. The Japanese were already defeated and ready to surrender...
My own feeling was that in being the first to use it, we had adopted an ethical standard common to the barbarians of the Dark Ages. I was not taught to make war in that fashion, and wars cannot be won by destroying women and children...

----------

Leahy was not what one might call a typical critic of American policy. Not only had the five-star admiral presided over the U.S. Joint Chiefs of Staff(and the Combined American-British Chiefs of Staff), but he had simultaneously been chief of staff to the commander-in-chief of the army and navy, serving Roosevelt in that capacity from 1942 to 1945 and Truman from 1945 to 1949. Moreover, he was a good friend of Truman's and the two men respected and liked each other; his public criticism of the Hiroshima decision was hardly personal.
We can imagine what it would mean today if General Colin Powell were to go public with a similar critique, say, of the massive bombing he presided over as chairman of the Joint Chiefs of Staff during the 1991 Persian Gulf War--and on decisions made by his friend President George Bush.
A similar puzzle concerns Dwight D.Eisenhower, the triumphant Supreme Commander of the Allied Expenditionary Force who directed British and American operation against Hitler--and also, sibsequently. of course, president pf the United States. In the midst of the Cold War--shortly after his famous Farewell Address criticizing the "military-industrial complex"--Eisenhower who went public with a statement about the Hiroshima decision.
Recalling the 1945 when Secretary of War Henry Stimson informed him the atomic bomb would be used against Japanese cities, Eisenhower stated.

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During his reciting of the relevant facts, I had been conscious of a feeling of depressing and so I voiced to him my grave misgivings, first on the basis of my belief that Japan was already defeated and that dropping the bomb was completely unnecessary, and secondly because I thought that our country should avoid shocking world opinion by the use of weapon whose employment was, I thought, no longer mandatory as a measure to save American lives. It was my belief that Japan was, at that very moment, seeking some way to surrender with a minimum loss of "face"...'

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Something clearly had caused Leahy and Eisenhower to break the unwritten rule that requires high officials to maintain a discreet silence in connection with controversial matters about which they have special knowledge. But as we shall see, Leahy and Eisenhower were not the only military figures who broke the rule. Moreover, less than a year after the bombing an extensive official study by the U.S. Strategic Bombing Survey published its conclusion that Japan would likely have surrendered in 1945 without atomic bombing, without a Soviet declaration of war, and without an American invasion.

(Gar Alperovitz "The Decision to use the Atomic Bomb"(Vintage Books,1995)pp.3-4)

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(以下同書同個所日本語訳)

 原子爆弾使用の決定にまつわる謎は数多くあるが、なかでも興味深いのは、第二次大戦の二人の最高司令官に関するものだろう。広島と長崎が破壊されてから数年後、ウィリアム・D・レイヒ海軍大将は次のように公言している。

   
    私の意見では、広島と長崎に対してこの残忍な
   兵器を使用したことは対日戦争で何の重要な助け
   にもならなかった。日本はすでに打ちのめされて
   おり、降伏寸前だった。・・・・・
    あれを使うことによって、われわれは暗黒時代
   の野蛮人なみの倫理基準を選んだことになると感
   じた。あのように戦争を遂行するようには教えら
   れなかったし、女、子供を殺すようでは戦争に勝
   利したとは言えない。・・・・

 レイヒは、アメリカの政策に対するいわゆる批判派ではなかった。この保守的な五つ星将軍はアメリカ統合参謀本部(米英合同参謀本部も)を取り仕切っていただけでなく、陸海軍最高司令官(大統領)の首席補佐官として、1942年から45年まではルーズベルト、45年から49年まではトルーマンに仕えていた。そればかりか、トルーマンの無二の親友で、二人はお互いに尊敬し合う間柄だった。広島への原爆投下の決定に対する公然たる批判は、決して個人的なものではなかった。
 今日で言えば、コリン・パウエル大将が、統合参謀本部議長時代の1991年の湾岸戦争における大規模空爆や、そして友人であるブッシュ大統領の決定を、公に批判することに匹敵する行為だと考えればいい。
 レイヒはなぜあえて口を開いたのか。広島から優に半世紀を経た今日も、この問いは尾を引いている。われわれに挑んでいる、と言ってもいい。
 もう一人、この第二次世界大戦の司令官よりももっと大きな存在の男に関しても、同じような謎がある。ドワイト・D・アイゼンハワーは、英米の対ヒトラー作戦を指揮した連合軍最高司令官であり、言うまでもなく、後のアメリカ合衆国大統領である。冷戦のさなか、「軍産複合体」を批判したあの有名な告別演説の直後に、アイゼンハワーは広島の決定についても公に発言している。1945年に日本の都市に対して原爆が使用されることをヘンリー・L・スティムソン陸軍長官から知らされたときのことを想起して、アイゼンハワーはこう述べている。

    彼が関連の事実を述べるのを聞いているうちに、
   自分が憂鬱になっていくのがわかって、大きな不安
   を口にした。まず、日本の敗色は濃厚で、原爆の
   使用はまったく不必要だという信念をもっていた。
   第二に、アメリカ人の命を救うために、もはや不可
   欠ではなくなっていた兵器を使用することによって
   世界の世論に波紋を広げることは避けるべきだと考
   えていた。日本はまさにあの時期に「面目」を極力
   つぶさない形で降伏しようとしていると、私は信じ
   ていた。・・・・

 高官は職務上知りえた議論の余地のある事柄について沈黙を守らなくてはならない、という不問律がある。それを破ってまでレイヒとアイゼンハワーが口を開いたのには、何か明快な理由があるはずだ。それに、これから見ていくように、軍幹部でルール破りをしたのは、レイヒとアイゼンハワーだけではない。原爆投下から一年とたたないうちに、アメリカ戦略爆撃調査による大がかりな研究も、原爆が投下されずとも、ソ連の参戦がなくとも、さらには、アメリカによる本土侵攻がなくとも、日本は降伏していただろうという結論を公刊している。

ガー・アルペロビッツ著 鈴木俊彦・岩本正恵・米山裕子・訳
『原爆投下決断の内幕』(上) ほるぷ出版 1995年
10〜12ページより

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どうだろうか。アメリカの歴史家が、こう述べて、原爆投下は、戦争を終結させる上で全く必要が無かったと述べて居るのである。スコット氏は、このアメリカ人歴史家の見解を否定するのだろうか?

そして、次に引用する広島での或る親子の別れをスコット氏はどう読むのだろうか?これは、1945年8月6日、広島に原爆が投下された直後、原爆で倒壊し、火災を生じた家の中で、母親を火の中に残してその場から逃げなければならなかった日本の子供の体験である。

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「・・・一緒に『お母ちゃん、お母ちゃん・・・』叫ぶと、お母ちゃんの声がしたから、その方向に向かって屋根板とか瓦礫を必死になってはいだ。ようやく体の一部が見えるようになったが、柱や壁が押さえつけていて、どうしても助けることができない・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・いよいよ火が迫ってきて、母親のところまでじりじりと焼けはじめたと。焼かれながら苦しみの中で、お母ちゃんが言うのに『早く逃げなさい、早く逃げないとあんたたちまで焼け死んでしまう・・・』そう叱り飛ばされるように言われてと、それでも子供たちはそこを離れようとしなかったが、もう熱くていたたまれなくなったので、二人は泣きながら逃げたそうです」−−

(江成 常夫 (著)『記憶の光景・十人のヒロシマ 』(小学館文庫) 26〜28ページより引用)

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幼い子供が、母親を生きたまま火の中に残し、立ち去らなければならなかったこの出来事を、スコット氏はどう読むのだろうか?

こんな書評(レビュー)は書きたくなかった。だが、ここで、この本の書評を書いて居る皆さんが、誰一人としてスコット氏の原爆についての文章を批判せず、この本に5つ星を与えて居るのを見て、私は、やむを得ず、この書評を書く事にした。

スコット一家に対する悪意は全く無い。だが、誰かが書かなければならないと思ったのでこの書評を書いた。

スコット一家の御多幸を心よりお祈りする。

(西岡昌紀・内科医)

*

http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/494.html

[戦争b22] ユダヤ人女性をソ連軍から守った日本の外交官たち    西岡昌紀
2019年05月08日

ユダヤ人女性をソ連軍から守った日本の外交官たち


https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1971455663&owner_id=6445842
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/79079066.html

1945年5月8日、ドイツは敗北し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は、終結します。


その前後、ベルリンを占領したソ連軍は、ベルリンの民間人に略奪や暴行を加えます。


中でも、ソ連兵による女性に対する暴行はひどい物でした。


その様な状況の中で、当時、ベルリンの日本大使館に、外交官として勤務して居た故・吉野文六氏(1918−2015)は、以下の様な体験をしておられます。それをお読みください。

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 扉を開けると、泥だらけの戦闘着に身を包んだソ連兵が3〜4名飛び込んできた。
「マダム、ダワイ(女を寄こせ)」と言う。
「ここには女はいない」と、吉野や他の大使館員たちが返答したが、ソ連兵は「マダム、ダワイ」を繰り返す。
 実は大使館にはドイツ人の女性タイピストが二人いる。二人ともユダヤ系だ。日本大使館は、あえてユダヤ系ドイツ人を雇用していた。親日だが反ナチスというドイツの知識人は多かった。そのような人々の依頼に応じて、日本大使館は、あえてユダヤ系ドイツ人を庇護したのだ。同盟国である日本の大使館に勤めているならばゲシュタポ(秘密国家警察)もうかつに手を出すことができない。ソ連軍が侵攻してきたドイツ東部で、無差別に婦女子が凌辱されたことについては、大使館にも正確な情報が入ってきていた。前線部隊にしばらく遅れてコミッサール(共産党員の政治将校)が入ってくる。それまで、ソ連軍は赤軍兵士によるレイプや略奪をあえて見逃し、一種の「ガス抜き」をさせているようだ。地下壕の底にマンホールがあった。二人のタイピストにはパンと水だけを与え、マンホールの蓋を閉め、隠れさせている。
 吉野らはソ連兵に対し、「日本はソ連と外交関係をもっている。国際法に基づき大使館の領域は不可侵権を享受するので、ここの立ち入ってはならない」と伝えるのだが、身振りと手振りと、ドイツ語とロシア語に共通する断片的な単語から、相手が言っていることはだいたい推察できる。
「国際法の不可侵権など知ったことじゃない。俺たちはスターリングラードから歩いてベルリンまで来たんだ。とにかくまず女を出せ!」 
 吉野を押しのけて、ソ連兵は地下壕に入ってきた。女を探索したが、見つからない。そこで、食料と万年筆や時計を略奪して出て行った。一人の兵士は、左腕の上のほうまで時計を6〜7個も巻き付けている。強い力で撒きすぎるものだから、ゼンマイが切れて動かなくなってしまう。そうすると、「ウーメリ(死んだ)」と言って、時計を投げ捨てる。
 二人のタイピストが無事でとりあえずよかった。その瞬間、吉野は横浜で舞っている許嫁(いいなづけ)の節子のことが気になった。横浜も空襲に遭ったはずだ。長野県松本で弁護士を開業する父勝六は電話を引いていたので、四月初めに国際電話で話をしたときには、父も母も元気ということだった。その頃までは、ベルリンの無線電話局が稼働していたので、日本との通話も可能だったのである。
 吉野は山に囲まれた故郷のことを思い出した。再び、両親や節子と顔を合わせることができるのだろうか。先のことは全く予測できなかった。


(佐藤優(著)『私が最も尊敬する外交官/ナチス・ドイツの崩壊を目撃した吉野文六』(講談社・2014年)20〜21ページ)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%8C%E6%9C%80%E3%82%82%E5%B0%8A%E6%95%AC%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98-%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E5%B4%A9%E5%A3%8A%E3%82%92%E7%9B%AE%E6%92%83%E3%81%97%E3%81%9F%E5%90%89%E9%87%8E%E6%96%87%E5%85%AD-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%84%AA/dp/4062148994/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E7%A7%81%E3%81%8C%E6%9C%80%E3%82%82%E5%B0%8A%E6%95%AC%E3%81%99%E3%82%8B&qid=1557007764&s=gateway&sr=8-1-fkmrnull


佐藤優(さとうまさる)
1960年埼玉県生まれ。85年同志社大学大学院進学研究科修士課程修了後、外務省入省。在英国、ロシア連邦日本国大使館勤務を経て、本省国際情報局分析第一課にて、主任分析官として対ロシア外交を担う。2002年背任と偽計業務妨害罪容疑で東京地検特捜部に逮捕される。512日間の勾留については、『国家の罠』(05年、第59回毎日出版文化賞特別賞受賞)に詳しい。09年最高裁で上告棄却、有罪が確定し、外務省を失職。その後、執筆、評論、講演活動に取り組む。

吉野文六(よしのぶんろく)
1918年長野県生まれ。40年東京帝国大学在学中に高等文官試験外交科、行政科、司法科試験合格。41年1月外務省に入省し、同年春に渡独。45年ベルリンの在ドイツ日本国大使館の地下壕で、ナチスドイツ第三帝国の崩壊を迎える。戦後、終戦連絡痴呆事務局(佐世保)、条約局法規課、国際経済局、経済協力局参事官等を経て、駐米公使時代から沖縄返還交渉に取り組む。71年アメリカ局長、75年外務審議官、77年駐西独大使。82年GATT閣僚会議日本政府代表を最後に、同年退官。

(上記の佐藤、吉野両氏の著者略歴は、2014年出版の本書カバーに在る物です。吉野氏は、2015年、他界されました。)

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これを読んで、皆さんは、驚かれないでしょうか?


「戦後」の一般的な歴史観では、ドイツはユダヤ人を迫害し、ソ連(ロシア)を含めた連合国は、そのドイツを打倒して、ユダヤ人を解放した事に成って居ます。


確かに、ドイツは、ユダヤ人を差別・迫害しました。その事自体は明白です。


しかし、その一方で、ドイツの首都ベルリンでは、この記述が語る様に、戦争末期においても、ベルリンで市民生活を送るユダヤ人達が居たのです。


そして、そのユダヤ人の中には、同盟国日本の大使館で、機密にも接する事の有るタイピストとして働く事が出来たのです。


更に、そのユダヤ人タイピストたちは、「解放軍」である筈のソ連(ロシア)軍の暴力を恐れて、枢軸国である日本の外交官によって守られた事をこの記述は物語って居ます。


つまり、ドイツが敗北するまで、ベルリンには、大使館でタイピストとして働くユダヤ人が居て、ドイツ人に庇護されて居たのに、ソ連(ロシア)がベルリンを占領してから、彼女たちは、連合国のひとつであるソ連(ロシア)の兵士の性暴力の恐怖にさらされ、枢軸国日本の外交官によって、ロシア人兵士による強姦から守られたと言ふのが、この記述が証言する史実なのです。


違ふでしょうか?


2019年5月8日(水)
ヨーロッパの大戦終結から74年目の日に


西岡昌紀

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/79079066.html

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http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/650.html

[社会問題10] 古川真人さん、おめでとうございます!−−芥川賞と私   西岡昌起

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9557410.html
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1974358715&owner_id=6445842


古川さん、おめでとうございます。


私は、昔、文春の親しい編集者と、「私(西岡)は、絶対に芥川賞を取れませんね!」と言って、二人で大笑ひした事が有ります。


http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html
(クリックして下さい。)


芥川賞が発表される度に、あの会話を思ひ出します。


2020年1月16日(木)

西岡昌紀(内科医)

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html


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第162回「芥川賞」は古川真人氏『背高泡立草』 「直木賞」は川越宗一氏『熱源』
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=5936811

日本文学振興会は15日、『第162回芥川龍之介賞・直木三十五賞』の選考会を東京・築地「新喜楽」で開き、芥川賞は古川真人氏(31)の『背高泡立草(せいたかあわだちそう)』(『すばる』十月号掲載)、直木賞は川越宗一氏(41)『熱源』(文藝春秋)に決定した。

【写真】ノミネート一覧 湊かなえら『落日』など

 古川氏は1988年7月29日福岡県福岡市生まれ。第一薬科大学付属高等学校卒。2016年『縫わんばならん』で第48回新潮新人賞を受賞しデビュー。同作は第156回芥川賞候補に選出。その後も『四時過ぎの船』で第157回、『ラッコの家』で第161回の同賞にノミネートされ、今回が四度目の正直で受賞となった。

 川越氏は1978年9月13日生まれ。大阪府大阪市出身。2018年『天地に燦たり』で第25回松本清張賞を受賞しデビュー。今回の受賞作『熱源』は第10回山田風太郎賞候補、第9回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞している。直木賞は初ノミネートでの受賞となった。

 両賞は1935(昭和10)年に制定。芥川賞は新聞・雑誌(同人雑誌を含む)に発表された純文学短編作品、直木賞は新聞・雑誌(同)・単行本として発表された短編および長編の大衆文芸作品の中から優れた作品に贈られる。前者は主に無名・新進作家、後者は無名・新進・中堅作家が対象となる。受賞者には正賞として時計、副賞として賞金100万円が与えられる。

 受賞者が都内および近郊在住の場合、発表当日に共同記者会見が行われる予定。贈呈式は2月下旬に都内で行われ、受賞者には正賞として時計、副賞として賞金100万円が与えられる。

 前期・第161回の芥川賞は今村夏子氏の『むらさきのスカートの女』、直木賞は大島真寿美氏の『渦 妹背山婦女庭訓(いもせ やまおんなていきん) 魂結(たまむす)び』が受賞した。

■第162回芥川龍之介賞 候補作(掲載誌)※作者五十音順・敬称略
木村友祐『幼な子の聖戦』(すばる十一月号)
高尾長良『音に聞く』(文學界九月号)
千葉雅也『デッドライン』(新潮九月号)
乗代雄介『最高の任務』(群像十二月号)
古川真人『背高泡立草』(すばる十月号)

■第162回直木三十五賞 候補作(出版社)
小川哲『嘘と聖典』(早川書房)
川越宗一『熱源』(文藝春秋)
呉勝浩『スワン』(KADOKAWA)
誉田哲也『背中の蜘蛛』(双葉社)
湊かなえ『落日』(角川春樹事務所)

■選考委員
【芥川賞】小川洋子、奥泉光、川上弘美、島田雅彦、堀江敏幸、松浦寿輝、宮本輝、山田詠美、吉田修一
【直木賞】浅田次郎、伊集院静、角田光代、北方謙三、桐野夏生、高村薫、林真理子、宮城谷昌光、宮部みゆき
※五十音順・敬称略


http://www.asyura2.com/18/social10/msg/264.html

[日本の事件32] マルコポーロ廃刊事件から25年   西岡昌紀

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9562553.html

1.「マルコポーロ」廃刊事件

「マルコポーロ」廃刊事件(1995年1月)から25年の時が流れた。四半世紀である。この年にあたって、事件の当事者として、あの事件は何であったのか?を2020年の視点で回想してみたい。

「マルコポーロ」廃刊事件は、文芸春秋社が発行していた月刊誌マルコポーロが、私(西岡昌紀)が執筆した記事「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」に対する抗議を切っ掛けに、廃刊となった事件である。その「抗議」には、広告ボイコットと言う手法が含まれていた。事件から25年が経ち、事件の事を知らない若い世代も多いと思うので、まずは、簡単に記事の内容と事件の経過を説明しよう。

記事の内容は、大旨、以下の通りである。――第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人を差別・迫害した事は、明白な史実である。しかし、従来の「定説」の主張の内、(1)ドイツは、ユダヤ人をただユダヤ人であると言うだけの理由で「絶滅」しようとした。(2)その「民族絶滅」の手段として、ドイツは、アウシュヴィッツをはじめとする複数の収容所に処刑用ガス室を作り、それらのガス室でユダヤ人ほかの人々を処刑した。と言う二つの主張には証拠が無い。(3)真実は、ナチス・ドイツは、確かにユダヤ人を差別・迫害し、収容所に収容したが、その目的は、ソ連を打倒した後、収容したユダヤ人をソ連領内に強制移住させる事だったのであり、それが、東部戦線におけるドイツの敗退によって不可能になった結果、アウシュヴィッツほかの収容所では衛生状態が悪化し、発疹チフスの大発生を招いた結果、多くのユダヤ人が、悲劇的な大量死を遂げた、と言うのが、歴史の真実である。しかし、連合軍は、こうした病死者の死体をガス室の犠牲者であったかの様に戦時宣伝の材料として使い、それが今日の「定説」に転化した。――こうした趣旨の論述を展開しながら、私は、ドイツの目標が「絶滅」ではなく、「強制移住」であったにせよ、こうしたドイツのユダヤ人政策は間違った物であり、ユダヤ人が体験した運命は悲惨であった、と述べて居る。

この記事には、細部に多くの間違いもあり、それらについては、この廃刊事件後、パソコン通信を通じて訂正と自己批判をした上で、2年後の1997年に、「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道)を出版し、マルコポーロの記事の誤った部分を訂正した。しかし、「マルコポーロ」の記事には、細部の誤りは有ったにせよ、何が歴史の真実だったのか?についての私自身の認識は、今も変わっていない。歴史問題としてのこの問題それ自体については、私は、1997年の上の著書で、詳細に論拠を示して、論じているので、それに譲る。今回、私が、語りたいのは、あの事件の裏で何が起きて居たかと、そして、この事件が、2020年の日本と世界にとって、いかなる意味を持って居るか?である。

2.私は、いかにしてこの問題を知ったか?

そもそも、私が、どの様にして、この問題の存在を知ったか?からお話ししよう。1987年に、私は、馬野周二氏の著作で、「ホロコースト」の通説に疑問を投げかける人々が居る事を知った。しかし、この時は、「何をバカな」と言う気持ちしか持たなかった。私は、固く「定説」を信じて居たのである。だが、1989年に、ニューズウィーク日本版が掲載した或る記事を読み、「ホロコースト」の基本的な事実関係について、実は、論争が存在すると言う驚くべき事実を知ったのである。それは、ニューズウィーク日本版1989年6月15日号に掲載された「ホロコーストに新解釈/『ユダヤ人は自然死だった』でゆれる歴史学会」と言う記事であった。記事の内容は、高名な歴史家であり、アメリカでは「左翼」と見なされているプリンストン大学のアーノ・メーヤー教授が、アウシュヴィッツで命を落としたユダヤ人の多くは、実は、病死で命を落としたのだ、とする見解を新著の中で発表し、非難を浴びている、と言うものであった。その記事の一部を紹介しよう。

「左翼をもって任じるこの著名な歴史家は、自らもヒトラー支配下のヨーロッパからの亡命者だ。1940年、家族とともにルクセンブルクから逃れてきたが、祖父の一人は強制収容所で亡くなっている。」

「メーヤーの主張を一言で言えば、ヨーロッパの全ユダヤ人を殺戮しようという意図的政策は、本来存在しなかったということだ。ユダヤ人絶滅計画はヒトラーの最も主要な妄想だったとする歴史家とは違って、メーヤーは当時の状況がもたらした産物だったとみる。つまり、ナチの他の衝動、なかでも対ソ連戦から自然発生的に生じた一つの結果にすぎないというのだ。メーヤーにとっては、ナチの指導者や陸軍将校、企業経営者といった当時ドイツを牛耳っていたエリートの反共主義こそが、あの戦争の原因なのだ。そしてユダヤ人絶滅は、反共主義の副産物にすぎない。『もし東部における電撃戦が成功していれば、ユダヤ人はおそらく虐殺されることなく、国外退去になっていただろう』とメーヤーは書く。ロシアとの泥沼戦争にはまりこんだ1941年秋になって初めて、ナチはユダヤ人大量虐殺を開始したのだと、彼は確信している。それ以降でさえ、メーヤーによればナチの多くは、殺戮よりも労働力としてユダヤ人を利用することに関心をもっていた。つまり多くのユダヤ人は、過酷な労働と飢えによって死んだというのだ。とりわけアウシュビッツでは「多くのユダヤ人が『人為的理由』よりも[過労や飢えといった]いわゆる「自然の理由」で死んでいった」と彼は述べ、銃殺や絞首刑、ガス室による死者のほうが少なかったとみている。」

(ニューズウィーク日本版1989年6月15日号「ホロコーストに新解釈/『ユダヤ人は自然死だった』でゆれる歴史学会」)

ここで、メーヤー(Mayer)のこうした見解の是非は論じない。又、そのメーヤーを極めて批判的に取り上げたニューズウィークのこの記事の評価も行わない。ここで、私がこの記事を紹介するのは、天下のニューズウィークが、極めて批判的な文脈の中でではあるが、この様な歴史家(メーヤー)が居る事を紹介していた事実を皆さんに知って頂きたいからである。そして、私が、この記事を読んで、「ホロコースト」の事実関係について、実は、この様な論争が存在する事を知った事を知って頂きたいからなのである。メーヤーの見解が正しいか、正しくないかは別として、とにかく、「自らもヒトラー支配下のヨーロッパからの亡命者」であり、「祖父の一人は強制収容所で亡くなっている。」プリンストン大学の教授が、こうした主張をしたのである。そして、それを極めて批判的にではあるが、ニューズウィークの様な権威ある雑誌が取り上げたのである。これを読んで、「ホロコースト」を巡る論争に関心を持たない人の方がおかしくはないだろうか?

3.私は、なぜ、この問題に関心を持ったか?

その後、私は、このメーヤーよりも更に根本的な疑問を投じる論者が、欧米に多数存在する事を知る。そして、彼らの著作の多くが、アメリカのIHR(Institute for Historical Review:歴史見直し研究所)と言う出版社から出版されている事を知り、アメリカからIHRの出版物を購入して、この論争についての知識を深める様になる。そして、1991年頃には、相当の資料を手元に置く様に成った。ただし、ここで誤解して頂きたくないのだが、私は、この問題(「ホロコースト」)にそれほど熱中した訳ではないのである。

私は、医者として働く一方で、社会の様々な事柄に関心を持って居た。特に、原発には深い関心を持って居た。(私は、反原発派である。)当初、私は、そうした様々な関心事のひとつとしてしか、この問題(「ホロコースト」)には関心が無かったのである。私は、「ホロコースト」よりは、原発問題や中東問題に関心が有ったし、同じ歴史問題でも、私の主たる関心は、むしろ他の様々な事柄に有った。だから、その私を「ホロコーストの研究家」などと呼ぶ方が居るが、それは、全くの「かいかぶり」である。又、この問題が、「ナチス」や「ユダヤ人」に関連する事柄なので、私が、「ナチス」や「ユダヤ人」に特別関心を抱く人間であるかの様に誤解している人が居るが、これも誤解である。繰り返して言うが、私には、「ホロコーストよりも関心の有る事柄が、沢山有ったのであって、「ナチス」も「ユダヤ人」も、私にとって、中心的な関心事では全くなかったのである。

では、その私が、何故この問題に、「それなりの」関心を持ったかと言えば、私が、それ以前から、マスコミに強い不信感を持って居たからである。私は、「ホロコースト」について、このメーヤー教授の様な論者が居る事を知って以来、日本のマスコミは、なぜ、この様な論争の存在を報じないのか?と考える様になった。それが、私が、この問題に関心を持った最大の理由なのである。ちなみに、過去数年、私が、SNSで「ホロコースト」に疑問を投じる投稿をすると、それに「いいね!」を押したりして共感を示す人の多くが、反原発派の人々であるのは、驚くばかりである。これは、偶然ではないだろう。

4.私は、なぜ、マルコポーロの記事を書いたか?

その私が、マルコポーロにあの記事書く様に成った経緯を話そう。上述の様に、私は、1989年に上のニューズウィークの記事を読んで以来、この問題に関心を持ち続けて来たが、私は、この問題よりも、他の様々な問題の方に自分の主たる関心を寄せて来た。だが、1994年になって、私は、この問題の重要性を再認識したのである。それは、この年に入って、ドイツで、「ホロコースト」に関する言論に対する規制が大幅に強化され、「ガス室」の実在性を疑ったりすると、禁固刑に処されると言った段階にまで、言論統制が強化されたからである。そして、何より私が恐ろしい事と感じたのは、朝日新聞をはじめとする日本のマスコミが、ドイツにおけるこうした言論規制の動きを肯定的に伝え始めた事であった。

私は、これは、ファシズムだと思った。そして、「言論の自由」を建前とする「民主主義社会」において、ひとつでも言論の自由に「例外」を設ければ、その「例外」は必ず拡大する事を確信した。だから、私は、何かをしなければならないと、思ったのである。全く無名だった私は、当初、自分自身がいずれかの媒体に記事を書くことは考えなかった。その代わりに、自分がそれまでに収集して来た英語の文献を名の有るジャーナリストや学者に提供して、そうした人々が問題提起を行なう手伝いをしよう、と考えたのである。

その目的で、私は、最初に、左翼系フリー・ジャーナリストの木村愛二氏に電話を掛けた。そして、「ホロコースト」について、実は、根本的な疑問を投じる人々が居る事を知って居るか?と尋ねた後、木村氏の要請に従って、木村氏に、英文資料の一部を、私が書いた説明とともに、郵送したのである。その後、しばらく間をおいてであったが、木村氏から電話がかかり、更に詳しく教えて欲しいと言う要請を受けた私は、木村氏に、自分が集めて来た大量の資料をコピーして、次々に木村氏に郵送した。すると、木村氏は、それらの資料を日本語の解説とともに、色々な人に郵送するべきだと私に勧めた。木村氏は、特に、私が書いた日本語の解説を褒めてくれたので、気を良くした私は、氏の助言に従って、自筆の解説文をダイレクト・メールにして、多くのジャーナリストや学者に送付したのであった。その結果、人数は少なかったが、一部の方たちから、私は、私の問題提起に対して、非常に肯定的な反応を得る事となった。そうした肯定的な反応を示した方の中には、共に故人なので、名を書くが、京都大学教授であった高坂正堯(こうさかまさとし)氏や作家の野坂昭如(のさかあきゆき)氏が居た。そして、当時、マルコポーロの編集長だった花田紀凱氏が居たのである。その花田マルコポーロ編集長からの要請を受け、私は、「マルコポーロ」に問題の記事を執筆したのである。それが、その年(1994年)の7月であったと記憶する。その後、その年の8月に、私は、ポーランドを訪れ、8月25日にクラコフからタクシーでアウシュヴィッツに行って、ポーランド人ガイドの案内を受けながら、同収容所跡を自分の目で見た。私は、そこで公開されて居る「ガス室」が、処刑用ガス室などではなかった事を確信した。その再撮影した写真は、マルコポーロの記事や、1997年の私の著作に掲載されて居る。

5.野坂昭如氏と情報操作研究会

帰国した直後、私は、野坂昭如氏が開く事を提案し、立ち上げたこの問題(「ホロコースト」)の研究会で、このアウシュヴィッツ訪問を含めた自分の調査の現況を語った。

野坂氏は、この問題に非常に熱心だった。この時、この研究会は、新宿のホテルのロビーで開かれたが、野坂氏は、その後、この研究会の為に、自身が所有する画廊を提供してくれて、定期的に研究会を開いてくれた。参加者は、ジャーナリスト、大学教授、評論家、などで、当時の朝日新聞の論説委員も居たし、驚く人も居ると思ふが、本多勝一氏も、この問題(「ホロコースト」見直し)に関心を持ち、非常に好意的な姿勢で、この研究会に出席した事も有ったのである。この研究会は、同年(1994年)の8月から、毎月1回開かれ、主に、私と木村愛二氏が語った事柄について、参加者から意見を求めると言ふ形で討論を進めたが、私にとって、この研究会でのやり取りは、雑談を含めて、非常に勉強に成るものだった。特に、その会に毎回出席して頂いた大学教授は、科学史の専門家で、731部隊研究の第一人者であった。この大学教授は、「化学兵器」と言ふ視点から、色々な意見を聞かせて下さり、アウシュヴィッツの「ガス室」について、その建物の内部で、「毒ガス」がどの様に拡散するか、コンピューターでシミュレーションをしてみよう、と言ふ提案もして下さったが、このシミュレーションが実現しなかった事は、残念である。

私は、この研究会を「情報操作研究会」と名付けた。マルコポーロ廃刊事件によって、この研究会は、消滅してしまったが、この研究会の立ち上げを提案し、場所を提供してくれた野坂昭如氏には、今も、深く感謝して居る。この研究会が、最後に開かれたのは、マルコポーロ最終号が発売された1995年1月17日(月)であったが、この日は、マルコポーロの発売日であると同時に、野坂氏が愛した神戸で、阪神大震災が起きた日であった。

6.私は、何を書いたか 

私がマルコポーロに寄稿した記事の冒頭箇所を引用しよう。

―――獣をいけにえとして捧げ、火で焼くというユダヤ教の儀式を「ホロコースト」と言った。これが転じて、「ナチスのユダヤ人虐殺」を意味するようになったのは、ナチスドイツがアウシュヴィッツなどの強制収容所にガス室を作り、毒ガスを使って計画的に虐殺、さらにそれを焼いた――という恐ろしい話とイメージが重なったからだ。ところが、このホロコーストが作り話だったという説が、今、欧米で野火のように広がりはじめている。戦後五十年近くもの間、語られてきたこの「毒ガス虐殺」が作り話だといわれて、驚かない人はいないだろう。私自身、この話を六年前に英文で読んだ時には、驚天動地の思いをしたものである。私は一医師にすぎないが、ふとした機会に、この論争を知り、欧米での各種の文献を読み漁るようになった。そして、今では次のような確信に達している。

「ホロコースト」は、作り話だった。アウシュヴィッツにも他のどの収容所にも処刑用ガス室などは存在しなかった。現在、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所跡で公開されている「ガス室」なるものは、戦後ポーランドの共産主義政権か、または同国を支配し続けたソ連が捏造した物である。アウシュヴィッツでもどこでも、第二次大戦中のドイツ占領地域で、「ガス室」による「ユダヤ人大量虐殺」などは一度も行なわれていなかったのだ。こう断言する理由は後述するが、その前に二つのことを言っておきたい。まず、第一に私は、第二次世界大戦中にドイツが採ったユダヤ人政策を弁護するつもりは全くないということである。たとえ「ガス室による大量虐殺」が行なわれていなかったとしても、ドイツが罪のないユダヤ人を苦しめたことは明白な歴史的事実である。私はその事実を否定する者ではないことをここで明白にしておく。第二は、近年、アメリカやヨーロッパで、「ホロコースト」の内容に疑問を抱人々が急速に増えつつあるのに、日本の新聞、テレビが、そのことを報道せず、結果的にはそのことを日本人の目から隠しているという事実である。最近は、論争を断片的に伝える報道もでてきたが、そうした報道は、「ホロコースト」に疑問を投げかける者は皆「ネオナチ」か「極右」であるかのような「解説」を加えている。

事実は全く違う。「ホロコースト」に疑問を投げかける人々の中には政治的には明白に反ナチスの立場を取る知識人やユダヤ人さえ多数含まれているのだ。例えば、プリンストン大学のアーノ・メーヤー教授は子供の頃ナチスの迫害を受けアメリカにわたったユダヤ人の一人で、日本でも有名なきわめて権威ある歴史家である。彼は「ガス室」の存在そのものまでは否定しない「穏健な」論者だが、それでもユダヤ人の大多数は「ガス室」で殺されたのではないという「驚くべき」主張をしている。このことは一九八九年六月十五日号のニューズウィーク日本版でも取り上げられている。また、同じくユダヤ系アメリカ人のもっと若い世代に属するデイヴィッド・コウルというビデオ作家がいる。彼は、ユダヤ人であるにもかかわらず、「ガス室によるユダヤ人虐殺」は作り話だと、はっきり主張しているのである。「ネオナチ」の中にも「ホロコースト幻説」を取り上げる人間はいるだろうが、ユダヤ人の中にも「ホロコースト」はなかったと主張する人間が現われていることは注目に値する。

とにかく、まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。それから、『シンドラーのリスト』も一旦忘れて頂きたい。映画は、歴史ではないのだから。そこで皆さんにまず、何が真実であったのかを先に言ってしまおう。欧米の幾多の研究を一口に要約し結論を述べ、証拠はあとから示そう。そうした方が、皆さんにとって後の話が理解しやすくなると思うからである。

1.ナチスがその政策においてユダヤ人に不当な差別を加え、様々な圧迫を加えたことは紛れもない事実である。そして、アメリカとの戦争に突入した後、ドイツ本国及びドイツの支配下に置かれたヨーロッパ諸国ではユダヤ人に対する圧迫が強まり、ユダヤ人を強制収容所に収容する政策が全ヨーロッパ的規模で開始された。この点について、従来の説明は大筋で正しい。


2.しかし、ヒトラー及びナチスの指導部は、収用したユダヤ人達の「絶滅」を計画したことなど一度もなかった。ナチス指導部が計画したことは、強制収容所に収容したユダヤ人達を戦後、ソ連領内などの「東方地域」に強制移住させることであった。彼らはこのユダヤ人強制移住計画をユダヤ人問題の「最終的解決(Endlösung)」と名付け、東部戦線でソ連を打倒 した後、実行するつもりでいた。


3.ナチスドイツが、アウシュヴィッツなど、ポーランド領内に建設した強制収容所は、戦後ドイツがソ連を打倒、占領した後に実行する「最終的解決」のためのユダヤ人強制移住計画の準備施設であった。すなわち、ナチスドイツは、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収容所に収容したユダヤ人達を戦争中は労働力として利用し、戦後、ドイツがソ連に勝利した暁には、ソ連領内ほかの「東方地域」に強制移住させる計画であった。従って、この計画とは両立し得ない「ユダヤ人絶滅」などをドイツ政府が計画、実行したことは、一度もなかった。


4.ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、「ユダヤ人強制移住計画」は頓挫する。そして、戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等の疾病の爆発的発生が起きた。その結果、多くの罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡した。


5.戦後、それらの収容所で病死したユダヤ人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病死者達の死体を「ガス室」の犠牲者であるかのように発表した。

読者の多くは、こんな話をすぐには信じられないに違いない。当然である。すぐに信じられる方がどうかしている。私も最初は信じることが出来なかった。読者と同様、私も物心ついてから、あの恐ろしい「アウシュヴィッツのガス室」についてくりかえし教えられ、聞かされてきた者の一人であって、あるきっかけから真実を知るまでは、「ガス室による大量虐殺」を疑ったことなど、ただの一度もなかったのである。

しかし、ある機会から「ホロコースト」について実は論争が存在することを知った私は、この論争に関する文献を買いまくり、読みまくった後、「ホロコースト」が作り話であるという確信に至ったのである。「ホロコースト」に疑問を投じる人々は、自分達のことを「ホロコースト・リビジョニスト(Holocaust revisionist)」、すなわち「ホロコースト見直し論者」と呼んでいる。筆者は、一医師であり歴史学を専攻したわけでは全くないが、六年前(一九八九年)に、ふとした機会に彼らの存在と研究を知り、その後、複数の大学教授に手紙などを書いて意見を求めてみた。その結果、有名な国立大学教授を含めた日本の学者たちがそれらホロコースト・リビジョニストたちの主張を全く論破出来ないことを知り、日本のアカデミズムのあり方に疑問を抱かずにはいられなくなったのである。また、英字紙マイニチ・デイリー・ニュースの投書欄で一九九三年五月に大論争をやったことがあるが、その時もリビジョニズムの正しさを確信する経験をしている。

気の早い読者は、「ホロコースト・リビジョニスト」達は、「ネオナチ」かそれに似た人間だと思うかもしれない。実際、「ネオナチ」の中にも「ホロコースト」の虚構を強調するグループはいる。だが、「ホロコースト・リビジョニスト」の中には、明らかに反ナチスの立場を取る個人やユダヤ人も多数含まれているのであって、「ホロコースト・リビジョニスト」を「ネオナチ」や「反ユダヤ」などという枠でくくることは余りに事実と懸け離れている。その反証として最も明らかなものは、最初の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、戦争中、フランスのレジスタンス運動に参加して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフランス政府から勲章まで授与された人物だったという事実ではないだろうか?このラッシニエという学者は、元は地理学者で、左翼思想の持ち主だったため、反ナチスのレジスタンス運動に参加したのであるが、そのレジスタンス活動の故に、ナチス占領下のフランスでゲシュタポに捕らえられ、強制収容所に入れられたという人物なのである。

(西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」(マルコポーロ・1995年2月号)より――――

文中のデイヴィッド・コウルの主張の要約は、単純化され過ぎて居る。又、ラッシニエは、大学教授ではなく、教員であった。この様に、この記事には、細部に、不正確な記述が、色々有った。だが、それは別として、私は、こうした自分の主張の根拠として、私は、例えば、次の様な事実を指摘した。

―――連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書は一枚もなかったのである。実際、連合国は、ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。

これに対しては、「ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ」とか、「ユダヤ人絶滅計画は極秘事項だったので、命令は全て口頭でなされたのだ」とかいう反論が予想されるが、そうした主張は、あくまでも「仮説」でしかない。事実としてそのような文書は、今日まで一枚も発見されていない。もし証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭でなされたとか主張するなら、その証拠を提示するべきである。実際、アメリカにはこのような主張をする人々がおり、それなりの「証言」や談話の記録、会議録、手紙などを引用する人すらいるが、結論から言うと、彼らが引用するそれらのものは、全く「証拠」になるようなものではない。具体的には、ニュールンベルク裁判におけるハンス・レマースの証言、ハインリヒ・ヒムラーが1943年10月4日に行なったとされる談話の筆記録、ヴァンゼー会議の記録、ヘルマン・ゲーリングが1941年7月31日に書いた手紙、ベッカーという軍人のサインがあるソ連発表の手紙等々であるが、これらの文書は、しばしばそれらの反論者たちによって「ユダヤ人絶滅を命令、記録したドイツ文書」として引用されるものの、よく読むと、全くそんな文書ではないのである。それどころか、ドイツ政府が計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」なるものの内容が、実はユダヤ人の「絶滅」等ではなく、ユダヤ人の強制移住であったことを明快に示す文書が、押収されたドイツの公文書の中に多数発見されている。それらの文書は、ポーランドに作られたアウシュヴィッツ収容所等へのユダヤ人移送が、ドイツ政府にとっては「一時的措置」でしかなかったことを明快に述べている。

(西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」(マルコポーロ・1995年2月号)よりーーー

 又、次の様な事実も指摘した。

――――アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で戦争末期にチフスが発生し、多くの死者を出したことは、明白な事実である。このことについては「ホロコースト」があったとする人々も異論を唱えてはいない。ナチスが建設したユダヤ人収容所で衛生業務に当たったドイツ軍軍医による記録、ドイツ西部で解放直後の強制収容所の衛生状態を観察したアメリカ、イギリスの医師たちによる報告などは、一致して、戦争末期から戦争直後にかけての強制収容所でのチフスの発生のひどさを詳細に記録しており、このことについては論争の余地はないものと思われる(J・E・ゴードンなど)。問題は、ドイツがそのような状況にどのように対応したかであるが、ドイツ軍当局は、ユダヤ人を戦時下の労働力として温存したかったのであり、意図的に衛生状態を悪化させたと考えさせる証拠は見つからない。例えば、ドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出してすらいる。例えば、一九四二年十二月二十八日の日付けで強制収容所の統括司令部がアウシュヴィッツ収容所に送った命令書には、こう書かれている。「収容所の医師達は、これまで以上に被収容者の栄養状態を観察し、関係者と連携して改善策を収容所司令官に提出しなければならない」これは、ヒムラー自身の言葉ではないが、この命令書はヒムラーの次のような言葉を引用しているのだ。「死亡率は、絶対に低下させなければならない」この命令は、言われているような「民族皆殺し」と両立する命令であろうか?

(西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」(マルコポーロ・1995年2月号)よりーーー

  そして、記事は、次の様に終はる。

―――ナチスドイツがユダヤ系市民に対して行なった様々な差別政策や弾圧は、民主主義の原則に対する明白な挑戦であり、その最終局面としての強制移住計画は、私自身を含めて、誰もが不当と言わざるを得ないものである。しかし、だからといって、ドイツがやっていないことまでやったと強弁することは間違っているし、そのことで、戦後生まれの若いドイツ人が罪人扱いされることも、こうした事実を検証しようとする言論を政府が抑圧することも明らかに間違ったことである。詳しく述べることが出来なかったが、六百万人という犠牲者数にも全く根拠がない。そもそも、ドイツが最も占領地域を広げた時ですら、そこにいたユダヤ人の数は、四百万人もいなかったという指摘もある。
最後に、一言言っておきたい。アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で生命を落としたユダヤ人達の運命は、悲惨である。彼らは、その意志に反して各地の収容所に移送され、戦争末期の混乱の中でチフス等の疾病によって生命を落としていった。その運命の悲惨さは、日本軍によって苦しめられた中国の民衆や、原爆の犠牲者と同様、現代に生きる我々が、忘れることを許されない今世紀最大の悲劇の一つである。現代の世界に生きる我々は、それを忘れる権利を持たない。しかし、そうであるからこそ、真実は明らかにされなければならないし、虚構を語ることは許されないのである。この記事をアウシュヴィッツその他の地で露と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい。

(西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」(マルコポーロ・1995年2月号)よりーーー

これが、私が書いた記事の主要部分である。ただし、文中のサイクロンB(チクロンB)の物性と毒性についての私の記述は、間違って居た。そして、繰り返して言うが、その他にも、この記事には、細部に多くの間違いがあった。それらの間違いについては、この廃刊事件後、パソコン通信を通じて訂正と自己批判をした上で、2年後の1997年に、「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道)を出版し、この記事(「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」)の誤った部分を訂正して居る。しかし、そうした細部の誤りは有ったにせよ、何が歴史の真実だったのか?についての私自身の認識は、今も変わっていない。そうした私の見解については、1997年の上の著書で、詳細に論拠を示して、論じているので、それに譲り、ここでは深入りしない。

7.中央官庁からの圧力 

こうして、マルコポーロ1995年2月号は、発売された。しかし、その直後から、イスラエル大使館とアメリカのサイモン・ヴィーゼンソール・センター(SWC)は、私の記事に対して抗議を展開した。

特に、SWCの抗議は激烈で、SWCは、日本政府に書簡を送り、同時に、文芸春秋社に対する広告ボイコットを呼びかけた。マルコポーロの発売日が、1995年1月17日(火)、阪神大震災が発生した日であった事から、この抗議は、震災の報道の陰に置かれ、直ちには注目されなかったが、文芸春秋社内部では、次第に、この抗議に対する対応が、深刻な社内問題に成って行った。そして、1月30日(月)、文芸春秋社が、マルコポーロの廃刊を発表した事は、既に報道された通りである。

この廃刊までの経緯は、繰り返さないが、ひとつだけ語っておきたいことは、この廃刊発表の直後、文芸春秋社の一方的な決定に異議を唱えた私が、2月1日(水)、都内で記者会見を開こうとした際、或る官庁が、私の職場(病院)の上司を介して、記者会見中止の圧力をかけ、私に沈黙を強いようとした事である。

当時、私は、医師であると同時に、国家公務員であった。だが、国家公務員であっても、勤務時間外に雑誌に記事を執筆する事も、記者会見を行なう事も、もちろん、全く自由である。それにも関わらず、その官庁は、職員に職権を乱用させ、私に記者会見を開かせまいと、すさまじい圧力を加えて来たのである。詳細は書かないでおくが、私の職場(病院)で、私に記者会見中止を強要しようとしたその官庁の職員は、私に向かって、「お前(西岡)の行動に、日本と言う国の運命が掛かっている」「言論の自由などと言う物は無いんだ」などと大声で怒鳴っている。

私は、24時間以上にわたって続けられた彼らによる事実上の軟禁と脅迫を逃れて、私に取材したいと言って、私の病院前まで来たサンデー毎日の車に飛び乗り、車内で同誌の記者のインタビューを受けながら、記者会見にたどり着き、記者会見を開いたが、あの時受けたその官庁職員による脅迫の恐ろしさは、今も忘れる事ができない。あの廃刊事件の際、私に、「ユダヤ人って怖いですね」と言った意味の事を言う人が複数いたが、その度に、私は、彼らのこの言葉を否定した。そしてこう答えた。「いいえ、ユダヤ人は何も怖くありませんでした。私が怖かったのは、日本人です。」これは、私の本心である。そして、怖いと思った事は、私が、その官庁による記者会見中止の圧力・脅迫について、私が、2月1日(水)の記者会見で、官庁名は出さずに言及し、抗議したのに、翌日の報道を見ると、一部を除いて、主要各紙が、私が記者会見を開いたこと自体は報じながら、私の発言のその箇所を報じなかったことである。日本の官庁と新聞の関係を垣間見た様な経験であった。

8.事件に対するマスコミ・学者の反応 

この中央官庁による記者会見中止の圧力と脅迫は、正直に言って恐ろしかった。だが、記者会見を開いてからは、この圧力も無くなり、それ以降は、恐ろしい思いなどは全く無かった。それどころか、廃刊事件に関する報道は、「高見の見物」の気分で眺めていた。マスコミは、この廃刊事件を大々的に取り上げたが、一部を除けば、マスコミの大部分は、私が書いた記事の内容については議論を避けたからである。私は、もう恐ろしい事は何も無かったので、連日の報道を見守るだけだったが、私から見れば、議論を避けた「逃げの一手」の報道ばかりだったので、中身の無いマスコミ報道を嘲笑的に眺めた。学者のコメントも、滑稽な物ばかりだった。時間が経って、私は、自分が書いた記事には、細部に誤った部分が幾つも有った事に気付くが、廃刊事件を取り上げるマスコミ各社は、それら間違いに気が付かない事も、笑うに笑えない報道のレベルの低さだった。一方、非常に懸念した事が有った。それは、事件後、文芸春秋社に寄せられたおよそ40通の読者からの手紙の中に、「ユダヤ人は怖い」と言った趣旨の手紙が複数有った事である。これは、私や花田編集長の思いとは真逆の声である。これほど、私や花田編集長の心情からかけ離れた物は無い。私も、花田編集長も、ユダヤ人に対する悪意、敵意などは微塵(みじん)も持って居なかった。これは、事件当時、私を激しく非難した岩上安身ですら「悪意の不在」と言う言葉によって認めている事実である。しかし、皮肉なことに、抗議側の姿勢と、文芸春秋社の余りに卑屈な「無条件降伏」を目にして、多くの一般読者が、「ユダヤ人は怖い」と言う気持ちを持ってしまった事は、返す返すも残念でならない。又、もうひとつ、非常に失望したことは、「言論の自由」と言う視点からこの問題を論じるマスコミが極めて少なかった事である。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(と言ったヴォルテール(1694〜1778)や「自由とは、常に、異なる人々の為の自由である」と言ったユダヤ人ローザ・ルクセンブルク(1871〜1919)とは、懸け離れて居たのが、あの時の日本のマスコミであった。私は、事件直後に、「私は、ガス室は無かったと思って居ますが、もし、仮に、ガス室が無かったと言う説が『定説』とされ、ガス室が有ったと言う説が禁止される社会に成ったら、ガス室は有ったと主張する人々の言論の自由を断固守ります」と言ったが、この気持ちは、今も、もちろん、変わって居ない。

9.「リベラル」は、ローザ・ルクセンブルクの言葉を忘れたのか?

その「マルコポーロ」廃刊事件から25年が経った。25年が経った今、あの事件を振り返ると、正直、あの事件が、日本の報道・言論にどんな影響を与えたのか、私自身、よくわからないと言うのが正直な気持ちである。上述の様に、私がマルコポーロに記事を執筆した最大の動機は、欧米で広がり始めた「ホロコースト」に関する言論規制を批判し、日本の言論の自由を守る事に有った。そして、併せて、「戦後50年」であったこの年(1995年)に、戦後50年間、この問題の検証を怠って来た日本のマスコミ、アカデミズムに、「あなた達は何を検証したのか?」と問う事も、私のもうひとつの動機であった。だが、私のこうした動機がどれほど理解されたのか、はなはだ疑問である。特に、今日、「ヘイトスピーチ規制」と言う大義名分の下、行政が言論を規制する動きが広がり始め、マスコミがこれを肯定的に報道している状況を目にするにつけ、上述の「自由とは、常に、異なる人々の為の自由である」と言ったローザ・ルクセンブルクの言葉が、脳裏によみがえらずに居ない。周知の通り、ローザ・ルクセンブルクは、共産主義者であったが、反ナチスの哲学者ヤスパースが賞賛した言葉の真の意味でのリベラル派であった。省みて、マルコポーロ廃刊事件から25年後の日本では、「リベラル」を自称する人々が、「ヘイトスピーチ規制」を叫び、真のリベラル派であったローザ・ルクセンブルクの言葉(「自由とは、常に、異なる人々の為の自由である」)とは真逆の行動をとって居る。こうした「リベラル・ファシズム」こそは、25年前、私がその台頭を懸念し、それへの警鐘として、私があの記事を書いた自由の敵なのである。彼らは、「リベラル」を名乗って居るが、本来のリベラルではない。彼らこそは、「ヘイトスピーチ規制」と言う名のファシズムの走狗である。その事を言って、この一文を終わりたい。

(終わり)

 (参考サイト:「マルコポーロ」廃刊事件)
 http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html

 (参考サイト:「ユダヤ人絶滅計画」は実在したか?)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53569129.html

 (参考サイト:「ガス室」は実在したか?)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53570697.html

 (参考サイト:「証言」の問題)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53570734.html

 (参考サイト:真の悲劇は何だったのか?)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53570801.html

 (参考サイト:「ホロコースト」の政治学)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53692325.html

 (参考サイト:戦時報道は終わらない)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53692325.html


(参考サイト:阪神大震災とマルコポーロ廃刊事件)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/77546944.html


(参考サイト:「マルコポーロは特攻隊だったんだ」−−戦後70年目の訃報)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8724442.html


(参考サイト:「火垂るの墓」と阪神大震災)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8720918.html


(参考サイト:マルコポーロ廃刊事件から18年−−SWCを批判したユダヤ人たち)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6258062.html


(参考サイト:アンネ・フランクは何故死んだか?−−ユダヤ人大量死の原因は発疹チフスの爆発的発生だった。)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7791375.html


(参考サイト:「ホロコースト」は何処まで本当か?−−「ユダヤ人絶滅」の命令書は発見されて居ない。)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7790102.html


(参考サイト:「ホロコースト」は何処まで本当か?−−ガス室で殺された死体は一体も発見されて居ない。)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7790027.html


(参考サイト:「ホロコースト」は何処まで本当か?−−ディーゼル・エンジンの一酸化炭素でガス室を作れるか?)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7791247.html


(参考サイト:「ホロコースト」は何処まで本当か?−−「ガス室大量殺人」の科学的不合理の数々)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7791285.html


(参考サイト:ダッハウ収容所の謎−−「ガス室目撃証言」は信じうるか?)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6736682.html


(参考サイト:彼らにとって原爆とは何なのか?(2011年01月30日ミクシイ日記))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/5138919.html


(参考サイト:或る在日レスラーの言葉(2010年01月30日ミクシイ日記))
http://livedoor.blogcms.jp/blog/nishiokamasanori/article/edit?id=5138892


令和2年(西暦2020年)1月30日(木)
マルコポーロ廃刊事件から25年目の日に


西岡昌紀(にしおかまさのり)  



http://www.asyura2.com/17/nihon32/msg/198.html

[国際29] 「慰安婦の強制連行」は騎士道物語である。

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/83800738.html
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978066082&owner_id=6445842


セルバンテス(1547〜1616)の「ドン・キホーテ」に、次の様な一節が有ります。

或る所に、旅籠(はたご)の亭主が居ます。この人は、騎士道物語が、本当の話だと思って居ます。

そこで、或る司祭が、この旅籠(はたご)の亭主に、騎士道物語は、本当に有った事ではないのだと言って聞かせるのですが、旅籠(はたご)の亭主は、騎士道物語を実際に有った物語だと固く信じて居て、司祭の言葉に耳を貸しません。

そのやり取りをお読みください。


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 「いいですか、御亭主」と、ふたたび司祭が言った。「フェリスマルテ・デ・イルカニアもドン・シロンヒリオ・デ・トラシアも、はたまた、騎士道物語に描かれているその他の騎士たちもこの世には存在しなかったんですよ。なにしろ、あれらはどれもこれも閑(ひま)な才知がでっちあげた作り話であって、無聊(ぶりょう)を慰めるのを目的として、そう、例えばあなたが言うように、収穫期ともなるとこの宿にやってくる刈り取り人夫たちが閑な折に、それを読んだり聞いたりして楽しむようにというので書かれたんですからね。本当に、わたしは誓ってもいいが、あのような騎士などこの世にはいなかったのだし、彼らの手柄や途方もない冒険なども、何ひとつ現実に起こったことではないんですよ。」
 「相手を見てものを言ってくださいよ。司祭様。」と、旅籠(はたご)の亭主が答えた。「まるでわしが、手の指が何本あるかも知らなきゃ、靴ずれしているところがどこかも分からない男のようじゃありませんか。司祭様、わしは決して間抜けじゃないんですから、子供だましみたいなことをおっしゃても無駄ですよ。こういう素晴らしい本が、ありもしないような嘘八百を並べ立てているんだとわしに思いこませようなんてのは、とてもできない相談ですよ。なにしろ、王室会議のお偉方の許可を得て出版されているんですぜ。それじゃ何ですか、あの方々が嘘のかたまりを、そして人を惑わすような合戦やら魔術やらの印刷を平気で見過しているとでもおっしゃるんですか?」


(セルバンテス(著)牛島信明(訳)『ドン・キホーテ/前篇二』(岩波文庫・2013年・第15刷)300〜302ページより)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%86%E3%80%88%E5%89%8D%E7%AF%872%E3%80%89-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9/dp/4003272129/ref=sr_1_8?ie=UTF8&qid=1425612665&sr=8-8&keywords=%E3%83%89%E3%83%B3%E3%80%80%E3%82%AD%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%86


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この旅籠(はたご)の亭主に似た人々が、今の世界にも居ないでしょうか?


令和3年(西暦20201年)1月9日(土)


西岡昌紀


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■韓国慰安婦訴訟、日本政府に賠償命令 ソウル中央地裁
(朝日新聞デジタル - 01月08日 10:53)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6370133

韓国慰安婦訴訟、日本政府に賠償命令 ソウル中央地裁

会員記事

ソウル=鈴木拓也
2021年1月8日 11時45分


 旧日本軍の慰安婦だった韓国人女性ら12人が日本政府に対し、1人当たり1億ウォン(約1千万円)の慰謝料を求めた訴訟の判決が8日、ソウル中央地裁で言い渡された。地裁は原告の訴え通り、日本政府に1人あたり1億ウォンの慰謝料を支払うよう命じた。

 地裁は判決で、「被告により計画的、組織的に行われた犯罪行為だと判断できる」とした。元慰安婦らが日本政府を相手取った損害賠償請求訴訟で、韓国の司法が判断を示すのは初めて。元徴用工への賠償を日本企業に命じた2018年の韓国大法院(最高裁)判決に続き、日本政府の賠償責任を認めた韓国の司法判断は、悪化している日韓関係の改善をさらに難しくすることになりそうだ。

 日本外務省の秋葉剛男事務次官は8日午前、韓国の南官杓(ナムグァンピョ)駐日大使を呼び、「極めて遺憾であり、日本政府として判決は断じて受け入れられない」と抗議した。

 判決後、元慰安婦の支援団体「正義記憶連帯」(正義連)の李娜栄(イナヨン)理事長は記者団に対し、「国際人権法の人権尊重原則を進んで確認した先駆的な判決だ。日本政府は、歴史的な事実を歪曲(わいきょく)し、『日本軍慰安婦』の被害自体を否定してきた。速やかに、判決に従い、賠償しなければならない」と述べた。

 原告は、元慰安婦が共同生活を送る「ナヌムの家」(韓国京畿道)に暮らす女性ら。13年に地裁に民事調停を申し立てたが、日本政府が応じず、16年に提訴した。

 日本政府は、賠償問題は196…


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http://www.asyura2.com/20/kokusai29/msg/887.html

[国際30] 心理兵器としてのビラ−−マルコポーロ廃刊事件から26年   西岡昌紀
*

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/83953737.html


昨年の暮れ、韓国から伝えられた或るニュースに、私は、強い関心を持ちました。


韓国では、長年に渡って、北朝鮮に対する宣伝、プロパガンダの一環として、軍と民間の双方が、北朝鮮に向けてビラを流布して来ました。即ち、北朝鮮の民衆に向けて、北朝鮮の体制批判や、韓国の状況を伝える内容が書かれたビラを風船とともに空に上げ、風に乗せて、北朝鮮に流布すると言ふ宣伝活動を、韓国の軍と民間団体が行なって来たのです。ところが、昨年の暮れに、韓国の国会が、それを禁じる決定をしたと言ふのです。

(クリックしてお読み下さい)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020121401161&g=int

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79063


周知の通り、韓国の文在寅政権は、親北朝鮮的な政権です。そして、韓国の国会も、北朝鮮に従属的な勢力が多数派を占めて居ます。


その為、北朝鮮に従属的な韓国国会は、韓国で永年に渡って行なはれて来た、北朝鮮に対するビラの流布を禁じる決定をしたと言ふのが、このニュースが伝える事なのです。


今の韓国の政治状況を反映したニュースと言へますが、このニュースを見た時、私は、或る事を思ひ出しました。


それは、今から26年前、マルコポーロ廃刊事件が起きた直後に出会った、韓国の若者の話です。


その若い韓国人男性の話をする前に、次の文章をお読み下さい。


これは、26年前、私が、文藝春秋社の月刊誌「マルコポーロ」に私が寄稿した記事の一部です。

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 アウシュヴィッツに収容された一人にマリア・ファンヘルヴァーデン(Maria Vanher-waarden)という女性がいる。全く無名の人ではあるが、この人が一九八八年の三月に、カナダのトロントで述べた証言は極めて興味深いものである。
 彼女は、一九四二年にアウシュヴィッツ及びそこに隣接するビルケナウ強制収容所に収容されたのであるが、列車で移送される途中、同乗したジプシーの女性から、アウシュヴィッツに着いたら、彼女たちは皆「ガス室」によって殺されてしまうのだという話を聞かされた。当然、彼女は、ジプシーが語ったその話に恐怖を抱いた。
 興味深いのは、その後である。彼女の証言によると、アウシュヴィッツに到着すると、彼女たちは服を脱ぐよう命令された。そして、窓のないコンクリートの部屋に入れられ、シャワーを浴びるよう言われたという。ここで、彼女たちの恐怖は頂点に達した。列車の中でジプシーの女性から「ガス室」で殺されるという話を聞かされていたからである。ところが、彼女の頭上のシャワーから出てきたものは、「ガス」ではなく、水だったのである。
 読者は、この証言をどう思うであろうか?このような証言は、他にもいろいろあるのだが、戦後半世紀もの間、何故か、こういう証言は「ガス室」が存在したと主張する人々によって徹底的に無視されてきたのである。証言は、証言でしかない。しかし、一つの事柄について対立する証言がある時、物証も検証せずに、一方の「証言」だけを取り上げ、他方を検討すらしないというやり方が、正当なものといえるであろうか?
 このファンヘルヴァーデンという女性の証で興味深いことは、彼女の証言に出てくるジプシーの女性が、何処で「ガス室」の噂を聞いたかという問題である。それを確かめる方法はないが、それに関連して、アメリカの歴史家マーク・ウェーバーは、戦争中、連合軍が、ラジオやビラによってドイツ占領下のヨーロッパに対してこの「ガス室」の噂を意図的に流布させていたことを『アウシュビッツ神話と真実』の中で指摘している。
 すなわち、戦争中の心理作戦としてのプロパガンダの一つに、この「ガス室」の話が織り込まれていたのである。そのようにして流布された戦争中の「ガス室」の話が、戦後検証されぬまま「歴史」に転化してしまったのが「ホロコースト」に他ならない。


(西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー『ナチ・ガス室」はなかった」(マルコポーロ・1995年2月号)より)

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 今から26年前、私がこの記事を寄稿した事を切っ掛けに、この雑誌(「マルコポーロ」)は、廃刊と成りました。


(「マルコポーロ」廃刊事件について
         ↓
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html
(クリックして下さい)


 記事の内容は、第二次大戦中、ナチス・ドイツユダヤ人を差別、迫害した事は明白である。しかし、アウシュヴィッツなどの収容所には、実は処刑用ガス室が存在した証拠は何も無く、アウシュヴィッツ他の収容所でユダヤ人が大量死した本当の原因は、戦争末期に収容所で起きた発疹チフスなどの感染症の爆発的発生であったと言ふ物でした。

 この記事には、当時の私の不勉強を反映した、間違った記述も有りましたが、アウシュヴィッツを始めとするナチス収容所に「ガス室」は無かったと言ふ私の確信は、今も、もちろん、変はり有りません。

  上に引用した記述は、戦後永らく信じられて来た「ナチのガス室」と言ふ話は、元を辿れば、戦時中、連合国が、行なって居た戦時宣伝(プロパガンダ)に在ったのであり、それが、戦後、検証されないまま、「歴史」に転化したと言ふ私の考察の一部です。


 この中で、私は、戦時中、アメリカやイギリスが、ラジオやビラによって、「ドイツは、ガス室で人間を殺して居る」と言ふ話を宣伝、流布して居た事実を取り上げて居ますが、こうした私の考察を述べたこの記事が切っ掛けと成って、この記事を掲載したマルコポーロが廃刊と成った事は、皆さんもご記憶の通りです。


 この「廃刊事件」の後、私の周りでは、色々な事が起きましたが、事件が起きてしばらくした頃、私は、アジア記者クラブと言ふ団体に招かれて、事件について講演を行なひました。


 出席した方達は、非常に好意的で、マルコポーロ廃刊事件と、この「ガス室」問題に関する私の話を非常に熱心に聴いて下さいました。


 その会合の後の事です。二次会に向かふ道での事だったと思ひます。講演の会場を出て、高田馬場の道を歩いて居た時、私の講演を聴いてくれた一人であった若い男性が、私に話し掛けました。


 その男性は、韓国の方でした。私の話について、「面白かったです」と言ってくれた後、その人は、こんな事を言ったのです。


「私は、韓国で、軍隊に居た時、北朝鮮に飛ばすビラを作って居ました。だから、今日の話は、とても面白かったです。」


 北朝鮮に対する心理戦に従事して居た元韓国軍兵士にとって、第二次大戦中、アメリカやイギリスが、ビラを使って敵国の占領地域に対して行なって居たと言ふ話は、非常に興味有るテーマだった様です。


 平和ボケした日本の「ジャーナリスト」や「学者」より、軍で宣伝ビラを作り、飛ばして居た元兵士の方が、ずっと、物事を見抜く目を持ってゐたと言ふ事なのでしょう。


 ただし、今の韓国がどうなのかは、わかりません。

2021年(令和3年)1月30日(土)

「マルコポーロ」廃刊事件から26年目の日に


西岡昌紀(にしおかまさのり)

(参考サイト)

(「ユダヤ人絶滅計画」は実在したか?)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53569129.html

(「ガス室」は実在したか?)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53570697.html

(「証言」の問題)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53570734.html

(真の悲劇は何だったのか?)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53570801.html

(「ホロコースト」の政治学)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53570809.html

(戦時報道は終わらない)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53692325.html

*
http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/180.html

[原発・フッ素53] ラ・アーグ再処理工場停電事故(1980年4月15日)から41年--これでも原発を支持しますか?  西岡昌紀
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9793265.html
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978975172&owner_id=6445842


あれから41年が経ちました。


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 1980年4月15日の早朝に、恐怖の事件がフランスで起こった。
 パリから直線にして300キロ、山あいの遠い道のりを経て、ノルマンディー半島の先端まで出ると英仏海峡がある。ここに、シェルブール港が寂しくたたずんでいる。映画『シェルブールの雨傘』の舞台として描かれた昔の時代ではなく、朝8時半にもなると、人びとは出勤時間を迎え、店舗や工場へ出た。
 なかでも、シェルブール港近くにあるひとつの工場は、さまざまな近代装置を揃えた巨大プラントだという噂だった。工場はすでに機械の運転準備を進め、あと10分後にはプルトニウムを大量に処理しはじめようという時刻を迎えていた。この工場こそ、ほとんど全世界の原子力発電所で発電用に使われ、死の灰の塊と変わった燃料を一手に引き受ける、恐怖のラ・アーグ再処理工場である。

(中略)

 その朝の時間に、いきなり工場の電気がパタリと止まった。一斉に、すべての電気が切られたのである。工場内に、血の凍るような戦慄が走った。
 それはただの停電と呼ぶべきものではなかった。モーターの音が切れ、ポンプが回転を止め、ファンがゆっくり停止すると、電灯のあかりもなくなった建物は浅い静寂のなかに置かれてしまった。
 だがこの静寂は、人のまわりに観察された現象だ。
 高レベルの廃液は、ポンプで送り出される水によって冷却されていた。そのポンプが回転を止めると、廃液が自分で音を立てはじめた。廃液のなかから湧き出てくる熱がどこへも伝えられず、次第に内部にこもってくる。

(中略)

 再処理工場が大爆発を起こすと、どうなるだろう。
 これは要するに、原子力発電所を100基とか1000基とか束ねて、それが同時にメルトダウン→ガス爆発(または核爆発)の経過をたどるもの、と理解してよい。
 その結果は、すでに西ドイツで解析されている。西ドイツのレポートによると、万一冷却装置が不能になると爆発によって工場の周囲100キロの範囲で、全住民が致死量の10倍から200倍の放射能を浴びて即死、つまりチェルノブイリからキエフの範囲、あるいは東海村から東京の範囲が即死地帯となる。最終的死亡者の数は、西ドイツの人口の半分にのぼる可能性がある、というのだ。
 このレポートが西ドイツのケルン原子炉安全研究所から内務省に提出されたのが1976年7月、いまから10年以上も前のことであるから、その当時より原子炉の数も規模もずっと大きくなっている今日では、蓄えている死の灰が桁違いに大きく、「致死量の及ぶ範囲は、1万キロを超える」というのが定説になっている。
 1万キロ?
 地球の一周が4万キロだから、前後左右に1万キロの範囲をカバーすると、地球の半分を覆いつくす範囲の人間が死んでしまう。国民の半分どころではない。地球の半分だ。しかしラ・アーグの再処理工場から1万キロの円を描くと、左の絵のように、人類のほとんどがこの世から姿を消す。
 1万キロ? 1万をさかさに読むと万一・・・・・
 その万一のことが、この1980年代にフランスで起こりかけたのである。
 これほど大変な事故が起きかけたというのに、それを知っている人は、全世界でも数少ない。これは、火災発生と同時に、フランスの大統領ジスカールデスタンが完全な報道管制を命じたからである。わが国で「あわや大事故」と報じた毎日新聞の日付が、火災から2ヵ月も後の6月11日である。さまざまな民間情報から、ようやく事件の全貌がわかってきたのである。
 しかしわが国の原子力産業は、このような人類史上の大事件をほとんど報じていない。

 
(広瀬隆「東京に原発を!」(集英社文庫・1986年)) 208〜216ページより)
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%AB%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%82%92-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%BA%83%E7%80%AC-%E9%9A%86/dp/4087491374/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1343884976&sr=1-1

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http://www.asyura2.com/20/genpatu53/msg/461.html

[国際30] モンデール元駐日大使とイスラエルーー1984年米大統領選挙の裏側    西岡昌紀

http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9795274.html
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979023238&owner_id=6445842


モンデール元駐日大使が他界しました。93歳でした。

モンデール氏は、民主党の大統領候補として、1984年の米大統領選挙に出馬しました。

結果的に、モンデール氏は、共和党のレーガン氏に敗れましたが、この1984年の大統領選挙の際、モンデール氏がどの様な戦いをして居たか、について、興味有る逸話が有るので、以下に引用します。

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 また、これは、その場に居合わせた私たちの友人に聞いた話ですが、モンデール氏は、毎日4時になると、かならずユダヤ人のある超大物弁護士のところへ電話を入れるそうです。中東問題でシオニスト・ロビーに嫌われないようにするにはどうすればいいかを相談するそうです。
 現在、モンデール氏は、対ソ連問題で、「軍縮をやる」と言っていますが、これはレーガン氏を意識して、当選したい一心で言っているだけで、彼のスピーチ・ライターは全部、ユダヤ人です。とても大見得をきったようにはできないでしょう。

(藤井昇&ケンブリッジ・フォーキャスト・グループ『世界経済大予言』(カッパブックス・1984年)105ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%A4%A7%E4%BA%88%E8%A8%80%E2%80%95%E9%AB%98%E5%BA%A6%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%8C%96%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%B9%BB%E6%83%B3-%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E8%97%A4%E4%BA%95-%E6%98%87/dp/4334004180/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1348046714&sr=1-2

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これが、アメリカの政治です。

(なお、この文中の「ユダヤ人のある超大物弁護士」は、2000年の米大統領選挙でも影響力を持ち、ゴア候補の参謀役を果たしたと、私は聞いて居ます。)


モンデール氏の御冥福をお祈りします。


2021年4月20日(火)

西岡昌紀

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■モンデール元米駐日大使が死去、93歳 普天間返還合意に尽力
(朝日新聞デジタル - 04月20日 10:38)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6490300


モンデール元米駐日大使が死去、93歳 普天間返還合意に尽力
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2021年04月20日 10:38 朝日新聞デジタル


朝日新聞デジタル

写真沖縄・普天間飛行場の返還問題について記者会見するモンデール駐日米大使と橋本龍太郎首相(いずれも当時)=1996年4月12日、首相官邸
沖縄・普天間飛行場の返還問題について記者会見するモンデール駐日米大使と橋本龍太郎首相(いずれも当時)=1996年4月12日、首相官邸

 元米副大統領で駐日大使を務めたウォルター・モンデール氏が19日、ミネソタ州ミネアポリスの自宅で死去した。93歳だった。クリントン政権の駐日大使として米軍基地縮小問題に取り組み、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の日本への返還合意に尽力した。

 複数の米メディアが同日、伝えた。

 1928年、ミネソタ州生まれ。同州選出の上院議員を経て、76年大統領選で民主党候補者のジミー・カーター氏から副大統領候補に指名され、大統領選に勝利したカーター氏のもとで77年1月に第42代副大統領に就任した。

 しかし、80年大統領選でカーター氏は共和党のロナルド・レーガン氏に敗北。モンデール氏は次の84年大統領選で、民主党候補として現職のレーガン氏に挑んだが、敗北した。

 93年に民主党のクリントン政権が誕生すると、モンデール氏は駐日大使に指名されて就任し、96年12月まで務めた。

 駐日大使の在任時の95年に、沖縄で米兵による少女暴行事件が発生した。米軍基地や日米安保体制への不信感が沖縄で高まる中、米軍基地の整理、縮小問題に取り組んだ。

 橋本龍太郎首相と会談を重ね、96年4月、最大の懸案だった普天間飛行場を「5年ないし7年以内」に日本に全面返還することで合意。橋本首相とともに発表した。ただ、25年たった現在、普天間飛行場の返還は実現していない。

 2008年11月、桐花大綬章を受章した。

 カーター元大統領は19日夜、声明を発表し、「米国史上ベストの副大統領だった」とモンデール氏の死を悼んだ。(ワシントン=園田耕司)


■官房長官「思いも引き継ぎ、普天間全面返還をめざす」

 元米副大統領で、駐日大使を務めたウォルター・モンデール氏の死去を受けて、加藤勝信官房長官は20日午前の記者会見で、モンデール氏が1996年4月に橋本龍太郎首相(当時)と米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還に合意したことを紹介したうえで、「25年が経過しているが、政府としてはモンデール氏の思いも引き継ぎ、地元のご理解も得ながら、普天間飛行場の一日も早い全面返還をめざす」と述べた。



http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/482.html

[国際30] ダイヤモンド価格がイスラエルを戦争に駆り立てる?ーー広河隆一「ダイヤモンド・シンジケート狙われたニッポン」(DAYS JAPAN(1988年12月号:82〜101ページ))より

今回の危機がこれに当てはまるかどうか、分かりませんが、イスラエルには、イスラエルの戦争は、イスラエル経済の悪化と連動してゐると考える分析が有る様です。


広河隆一氏の記事「ダイヤモンド・シンジケート狙われたニッポン」(DAYS JAPAN(1988年12月号:82〜101ページ))の一節を御紹介します。


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 1982年、私はレバノンにいた。この年9月、怒涛のようなイスラエル軍がレバノンに押し寄せ、約2万人の死者を出すレバノン戦争が始まった。私は今も、目の前を撤退していくPLO軍、それを泣きながら見送るパレスチナ・キャンプの住民、そしてそれから2週間後に起こった虐殺事件を忘れることはできない。
 それ以来、私には一つの疑問がつきまとった。それは82年のレバノン戦争はなぜ起こったのか、ということである。
 イスラエルは当初、自国外交官がパレスチナ人に襲撃されたため、と言っていた。しかしそれではこの戦争をはるか前から準備していたことが説明つかない。次にイスラエルは自国北部(ガリラヤ地方)がPLOに砲撃され、犠牲者が多く出たため、と述べた。しかし戦争開始までの1年間は、ガリラヤ地方がもっとも平穏だった時期なのである。
 それではなぜイスラエルは戦争をしなければならなかったのか。当時は圧倒的な外交的、政治的成功を勝ち得ていたPLOを、本当の脅威になる前に、たたき潰す必要があった。しかしそれだけでは理由にならないように思えた。
「イスラエルが戦争を起こすのは、国内的事情があるときだ」と、昔イスラエルの友人が言っていたのを思い出した。67年の戦争のとき、その大きな原因として、彼は人民の減少、経済援助の減少、ドイツからの賠償金の終結、失業者の増加、国民の海外移住などをあげた。不満のほこ先をかわす必要もあったという。実際、戦争のあと、これらの問題はかなり解決したのだ。
 80年から81年にかけて、イスラエルの経済状況が非常に悪化していたことを、やがて私は知った。なぜだか分からなかった。そのうちダイヤという言葉が耳に入った。当時イスラエルにとって武器に次いで外貨獲得源だったダイヤ加工業が、重大な危機に瀕していたというのだ。
「ダイヤがレバノン侵攻の直接の理由だとは思えないのですが・・・・・当時イスラエル経済は悲惨な諸問題を抱えていて、それから何とか逃れようとしていました」
 とエプスティン氏は言う。(西岡注:エプスティン氏は、ダイヤモンド・シンジケートの研究で知られるジャーナリスト。)
「その経済危機の主な原因がダイヤとはいえないのですか」と私は聞いた。
「まあ主要な原因の一つともいえるでしょうね。イスラエルのインフレも、ダイヤのせいで銀行が危機に陥り、通貨の下落をひき起こしたということでしょう」
「なぜそんなことが起こったのですか」
「デ・ビアスはイスラエルのやり方が気に入らなかったのです。それで支配下にあったイスラエルの銀行に圧力をかけたのです」とエプスティンは言う。

(広河隆一(写真・文)鈴木雄二(写真)「ダイヤモンド・シンジケート狙われたニッポン」(DAYS JAPAN(1988年12月号:82〜101ページ))92ページ)
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http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/575.html

[国際30] 本田雅和氏(「週刊金曜日・編集部)が見た小林賢太郎氏解任劇と日本政府のSWCへの姿勢   西岡昌紀

 「週刊金曜日」2021年7月30日号に、元朝日新聞記者で、現在は「週刊金曜日」記者である本田雅和氏が、東京オリンピック開会式直前に起きたショーディレクター・小林賢太郎(こばやしけんたろう)氏の解任劇について、一文を寄稿しておられます。
 本田雅和氏は、朝日新聞在職中、朝日新聞の中でも「左派」と見なされて居た方で、1995年の「マルコポーロ」廃刊事件の際は、この事件を担当し、私にも繰り返し取材をした方です。当然ながら、本田氏は、この事件(「マルコポーロ」廃刊事件)の際、私(西岡)と花田起凱「マルコポーロ」編集長(当時)に対して非常に批判的だったのですが、私(西岡)は、歴史観を始めとする意見の隔たりは大きかったものの、本田雅和氏に対しては、意見の違いを超えて、一定の敬意を持ちました。

 その本田雅和氏が、今回の小林賢太郎(こばやしけんたろう)氏解任劇をどう見たか?なかなか興味深いので、私の論評は抜きで、「週刊金曜日」から、記事の一部を紹介します。

 皆さんは、この記事をどう読まれるでしょうか?


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(以下引用)

 「虚偽と利権で誘致された」と批判されてきた東京五輪は、7月23日の開会式から17日間の公式会期に入った。式典は、演出責任者がホロコースト(ユダヤ人虐殺)を揶揄(やゆ)する発言の発覚で解任された翌日(予定通り)に強行された。
 
(中略)

 東京五輪組織委員会が22日に解任を発表したのは、開閉会式の制作・演出全般に調整役として携わる「ショーディレクター」、元お笑い芸人コンビ「ラーメンズ」の小林賢太郎(こばやしけんたろう)氏(48歳)。
 本人が発表したコメントなどによると、「思うように人を笑わせられなくて、浅はかに人の気を引こうとしていた頃」の1998年、若手芸人を紹介するビデオソフトの中で、ネタ出しのやり取りの一つとして、大量の「人の形に切った紙」を前に、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」を提案した。相方との会話で、「放送できるか!」と突っ込む、当時のコントがインターネットに紹介されている。
 確かにレベルの低い差別的揶揄だが、23年前の話である。その3年前には文藝春秋の雑誌『マルコポーロ』が「ナチ『ガス室』はなかった」とする論文を掲載し、反ユダヤ主義を監視する国際人権団体、サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC、本部・ロサンゼルス)からの激しい抗議と広告ボイコット運動の提起を受けて廃刊に追い込まれるという言論界の大事件があった。当時『朝日新聞』記者だった筆者も、編集者の歴史認識を問うキャンペーン記事を紙面展開した。
 その後も続く歴史修正主義者による歴史事実否定の言説や揶揄と差別を容認する日本社会の脆弱(ぜいじゃく)さはあるものの、これが五輪開幕直前の21日深夜に亡霊のように突然浮上したことを知った筆者には、その理由が解せなかった。
 しかも、今回も再びSWCが前面に出て、発覚の数時間後には国際的抗議の意思表示をしたのだ。数日前の開会式楽曲担当者のいじめ容認発言発覚のときは、組織委が本人の謝罪を受け入れ、いったんは「続投」の意向を示した後の「辞任」だったが、今度はほんの数時間で「解任」を即決。橋本聖子会長が「外交上の問題もある。早急に対応しなければということ。大変反省している」と述べ、その「脅えぶり」が伝わってくる。

 コロナ対策や障害者対応など、差別や人権に敏感とはとてもいえなかった組織委や日本政府も、SWCはそれほど怖いのか?
 実はこの辞任劇の背後には現職の防衛副大臣の中山泰秀(なかやまやすひで)・衆院議員(50歳)がいた。その経緯を中山氏自身がツイッターなどで自ら明らかにしていた。
 もともと親イスラエル派として知られる中山氏は31日未明、支持者からの情報提供で「小林賢太郎氏のユダヤ人に関する過去の発言について」という通報を受け、「早速SWCと連絡を取り合い、お話をしました。センターを代表されるクーパー師から以下のコメントがありました」と英文のコメントをそのまま公表する。
 いわく「いかに創造的な能力の持ち主であろうとも、ナチスのジェノサイドの犠牲者を侮蔑する権利はない。ナチスは障害者をもガス死させた。この人物の東京五輪へのいかなる関与も600万人の無実のユダヤ人とパラリンピックへの決定的な侮辱になろう」(筆者訳)。22日午前3時すぎのことだった。その後の日本政府や組織委の「早わざ」の経緯は前述した通りである。
「中山副大臣は安倍ー菅政権につながる自民党の主流、細川派の中堅ですよ」
 近代五輪のもつ差別性や「カネまみれ」体質を批判してきた鵜飼哲(うかいさとし)・一橋大学名誉教授(フランス文学)も「自民党中枢からの批判」を指摘して驚きを隠さない。そのうえで、SWCの狙いは東京五輪という「小さなターゲット」ではなく、IOC(国際五輪委員会)そのもの、トーマス・バッハ会長の体制に対する「牽制であり攻撃」だとみる。
 国連のオブザーバー資格を持つIOCの会長にバッハ氏が就任した2013年9月、SWCは国連に以下の2点を要求する公式レターを出しているからだ。(1)バッハ氏はイスラエル製品をボイコットするアラブ・ドイツ商工会議所の会頭であり、平和の祭典を担う人物としてふさわしくなく、会頭職の辞任を求めるべきだ(2)1972年の五輪ミュンヘン大会でのパレスチナゲリラによる人質作戦に関連して死亡したイスラエル選手ら11人への黙とう要求を、IOC副会長時代のバッハ氏はロンドン五輪で拒絶したが、五輪開会式典に黙とうを加えるべきだーー。
 今回の開会式では「黙とう」が取り入れられたが、特定の犠牲者ではなく、「亡くなった愛する人々」すべてが追悼の対象だという。
 
 中山副大臣が管轄する自衛隊とイスラエル国防軍(IDF)や諜報機関との協力関係は指摘されて久しいが、今回のSWCからの批判がIOC本体への牽制だとすれば、「IOCの言いなり」とされている日本政府も組織委も跪くしかないのだろう。饒舌なバッハ会長もIOCも、この件に関しては公式には沈黙したままだ。

(後略)


(本田雅和「『ぼろぼろ五輪』満身創痍で開催強行/失敗の責任問う声、体制側にも?」(週刊金曜日・2021年7月30日号6〜7ページ)より)
https://www.amazon.co.jp/%E9%80%B1%E5%88%8A%E9%87%91%E6%9B%9C%E6%97%A5-2021%E5%B9%B47-30%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B098GX2GGZ/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E9%80%B1%E5%88%8A%E9%87%91%E6%9B%9C%E6%97%A5&qid=1627818413&sr=8-2
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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-tsurezurenarumamani/archives/86437008.html

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979960324&owner_id=6445842



http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/752.html

[日本の事件32] ファントム機目撃証言の謎ーー青山透子(著)『日航123便 墜落の新事実/目撃証言から真相に迫る』(川出書房新社・2017年)より


1985年8月12日の日航ジャンボ機墜落事故から36年が経ちました。

この事故については、幾つもの謎が残されて居ます。

その謎の一つは、2機の自衛隊機(ファントム戦闘機)が、墜落直前のジャンボ機と共に飛行して居たとする目撃証言が有るのに、それらの目撃証言が無視されて来た事です。

この問題について、日航ジャンボ機墜落事件を調査し続ける青山透子さんが、著作の中で報告して居る事実は、以下の様な物です。


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 もう一つの疑問、ファントム2機についてであるが、これも墜落前の時刻に自衛隊員によって明確に記述された目撃情報がある。
 群馬県警察本部発行の昭和60年10月号『上毛警友』という冊子は日航機墜落事故特集号として、警察関係者のみならず救助や捜索に関係した、医師、日赤、報道、地元消防団、ボランティアなどあらゆる部署、現場の人々の手記が掲載されている。表紙は生々しい煙が立つ上野村の墜落現場の写真である。それぞれが経験した「あの日」のことが書いてあり、仕事や役割とはいえ、これほどまでに大変な思いをして任務にあたったのかと本当に頭が下がる思いで読んだ。
 その122ページに『日航機大惨事災害派遣に参加して』というタイトルで、自衛隊第12偵察隊(相馬原)の一等陸曹、M・K氏の手記がある。その出だしを読んだ字、これは確実な目撃情報だと確信した。
「8月12日私は、実家に不幸があり吾妻村に帰省していた。午後6時40分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム2機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。『何か事故でも有ったのだろうか』と話をした。午後7時20分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った。これは出動になると直感し、私は部隊に電話したが回線がパンク状態で連絡がつかない」(原文ママ、以下略)
 この後タクシーで向かったが、所属部隊はすでに20時半に第1陣偵察隊として先遣されていたという。
 自衛隊員がファントム機を見た、ということで見間違いはあり得ない。警察の編集する冊子に、当日自分が経験したままを書いたのであろう。この記述によって、群馬県吾妻村上空を18時40分頃ファントム2機が飛行していたことが明らかになった。そうなるとやはり、小林さんが語ってくれた静岡県藤枝市上空を18時35分頃にファントム2機が通過したという目撃証言と一致する。したがって、明確にしておかなければいけないことは、まだ明るい墜落前に航空自衛隊では日航機を追尾して飛行状況を確認した。さらに墜落するその時までしっかりと見ていた、という事実である。もはや墜落場所が一晩中特定できなかったという言い訳は当然のことながら通用しない。
 問題なのは、なぜ墜落前に飛んでいたファントム2機の存在を隠し続けているのか、ということである。どうしてもそうしなければいけなあい理由があったとしか考えられず、それがこの事故を事件ではないかと感じた理由である。
 さらに目撃者は続く。墜落現場となった上野村では多くの人たちがあの日の晩、いろいろなものを目撃している。特に注目すべきは子どもたちの目である。子どもたちはその小さな目で真実を見たのである。

(青山透子(著)『日航123便 墜落の新事実/目撃証言から真相に迫る』(川出書房新社・2017年)111〜113ページ)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E8%88%AA123%E4%BE%BF-%E5%A2%9C%E8%90%BD%E3%81%AE%E6%96%B0%E4%BA%8B%E5%AE%9F-%E7%9B%AE%E6%92%83%E8%A8%BC%E8%A8%80%E3%81%8B%E3%82%89%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B-%E9%9D%92%E5%B1%B1-%E9%80%8F%E5%AD%90/dp/4309417507/ref=pd_rhf_se_p_img_1?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=F21QDPJSX24PT8JR2FG6

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皆さんは、どうお考えに成りますか?

2021年8月12日(木)


西岡昌紀

ファントム機目撃証言の謎ーー青山透子(著)『日航123便 墜落の新事実/目撃証言から真相に迫る』(川出書房新社・2017年)より : 徒然なるままに (livedoor.jp)

[mixi] ファントム機目撃証言の謎ーー青山透子(著)『日航123便 墜落の新事実/目撃証言から真相に迫る』(川出書房新社・2017年)より



http://www.asyura2.com/17/nihon32/msg/273.html

[国際30] 大韓航空機「撃墜」事件(1983年9月1日)の二つの謎ーー発表された大韓航空機の飛行経路は本当か?   西岡昌紀

(2007年9月9日ミクシイ日記を2021年9月1日(水)加筆編集)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=556499383&owner_id=6445842&org_id=556481458

大韓航空機撃墜事件(1983年)には、幾つもの謎が有ります。

謎が多過ぎると言って良いのですが、それら多くの謎の中で、私がこだわり続けて居る二つの謎を指摘しておきます。

その一つは、事件当初に報道された「大韓航空機がソ連に よってサハリンに強制着陸させられた」と言ふ報道です。

私は、この最初の報道をNHKのニュースで聴いた事を 鮮烈に覚えて居ます。すぐに、「撃墜」に変はったのです が、第一報は、「強制着陸」だったのです。CIA筋の 情報、とテレビが言って居た様にも記憶して居ます。 この第一報は、一体、何だったのだろう?と今も思ひ続け て居ます。


もう一つの「謎」は、殆ど誰も「謎」と思って居ない事 ですが、航空評論家の青木日出男氏(故人)が、その 著書『空から見た地政学』の中で指摘しておられた或る 事実です。

それは、事件当時、あれだけ激しくやり合ったアメリカと ソ連が、大韓航空機の航路についてだけは、見事に一致 した発表をして居たと言ふ事実です。


この二番目の問題に注目して居る人を、私は、青木氏以外 に知らないのですが、もしかすると、大韓航空機は、米ソ 両国が発表した航路とは違ふ航路を飛んで居たのではない か?と、今も考え続けて居ます。


「強制着陸」の報道と共に、青木氏のこの指摘が、気に 成ってなりません。


2007年9月7日
2021年9月1日(水)加筆編集

西岡昌紀(内科医)

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(出典)

 シュルツの談話と、タス通信の声明と、内容はまったく対立するものだが、そのなかで一項だけまるで同文といえる個所がある。それは、問題の大韓航空機の飛行コースについてだ。「カムチャッカ半島、オホーツク海上空、サハリン上空」という経路が、まったく同文(タス通信も英語が公式文だ)といえるほどのものだった。
 そしてシュルツ談話にはソ連のレーダーが、いつから大韓航空機を追跡しはじめたかの、時間までが入っている。それはアメリカ側が、早くから同機のコース逸脱を知っていたとの、根拠を与えるものだった。
 カムチャッカ半島を横切ったのなら、KE007便は正規のコースを飛んでいて、途中からソ連領に迷い込んだのではなく、ずっと早い時期からコース逸脱をしていたか。意識的にソ連領空に入り込んだかということになる。このコースの問題は9月9日のオガルコフ総参謀長の会見でも説明され、これで確定してしまった。

(青木日出雄(著)「空から見た地政学/大韓航空機撃墜事件の盲点』(太陽企画出版・1987年)88〜89ページ)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A9%BA%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E5%9C%B0%E6%94%BF%E5%AD%A6%E2%80%95%E5%A4%A7%E9%9F%93%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%E6%92%83%E5%A2%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AE%E7%9B%B2%E7%82%B9-EYE-OPENER-%E9%9D%92%E6%9C%A8-%E6%97%A5%E5%87%BA%E9%9B%84/dp/4884661117/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%97%A5%E5%87%BA%E9%9B%84&qid=1598478886&sr=8-1


青木日出雄(あおきひでお) 昭和2年生まれ。北海道出身。陸軍航空士官学校代9期生。戦後、札幌文化専門学院、札幌短期大学卒。6級職国家公務員。電気通信省、日本電信電話公社を経て昭和31年、航空自衛隊入隊。昭和41年に『航空情報』編集部へ。昭和49年から『航空ジャーナル』主筆。著書多数。(本書カバーの著者略歴全文)

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http://www.asyura2.com/21/kokusai30/msg/832.html

[原発・フッ素53] 朴大統領暗殺(1979年10月26日)は、日本への警告だったのか?   西岡昌紀
(さくら通信再録・加筆編集稿)
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        朴大統領暗殺は、日本への警告だったのか?


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 今日は、10月26日です。10月26日は、1909年に伊藤博文がハルビンで暗殺された日です。そして、1979年に韓国の朴正熙大統領が暗殺された日なのです。つまり、二人は、同じ日に暗殺されて居るのです。皆さんは、これは、偶然だとお考えに成るでしょうか?
 「何を馬鹿な。」とおっしゃる方が多いに違い有りません。しかし、これが本当に偶然の一致なのかどうか、考えてみるべき事だと、私は思って居ます。

 御存知の通り、朴大統領は、側近に射殺される形で抹殺されました。その背景は今も謎ですが、この暗殺については、「朴大統領は、韓国の核武装を決意した。その為、アメリカの逆鱗に触れ、アメリカによって暗殺された」と言ふ言説が有ります。犬塚きよ子さんなどが、伝聞として書いておられますが、こう言ふ見方が有り、証拠は有りませんが、私は、可能性は相当有ると思って居ます。

 又、伊藤博文は、ハルビンで、安重根に射殺されたと信じられて来ましたが、どうやら真犯人は別に居た様です。ただし、この問題は、ここでは論じません。ここで論じたいのは、朴大統領の暗殺についてだからです。

 アメリカと言ふ国は、例へば、東京裁判で「A級戦犯」とされた人々を、現在の明仁天皇の誕生日である12月23日を選んで処刑したりして居ます。つまり、当時の皇太子が天皇に成った暁には、天皇誕生日(12月23日)が来る度に、日本人が、東京裁判を思ひ出す様に、12月23日を選んで、東條英機ら、7人の「A級戦犯」を処刑したのではないか?と言ふ指摘が為されて居る訳ですが、アメリカと言ふ国は、こう言ふ事をする国です。その事を考えると、朴大統領も、朝鮮民族にとっては忘れられない日である伊藤博文の命日を選んで朴大統領を「消した」のではないか?そんな疑念が私の頭には浮かぶのです。

 真実は闇の中です。しかし、朴大統領が、この日(10月26日)に暗殺されたのが、真実、「核」が理由であったとしたら、そして、10月26日と言ふ日をアメリカが意識して選んだのだとしたら、韓国に、或いは、朝鮮民族に核を持たせない、と言ふアメリカの決意には、強烈な物が有ったと言ふ事を意味して居ないでしょうか?

 ちなみに、当時のアメリカの大統領は、ジミー・カーター大統領でした。カーター大統領は、その後、1994年の核危機の際、北朝鮮を訪れて、金日成に、北朝鮮に核武装を思ひ止まらせる説得をして居ますが、もしかすると、アメリカ政府が北朝鮮への特使にカーター元大統領を選ん理由も、「朴正熙が何故死んだか、知って居るんだろう?」と言ふメッセージだったのかも知れませんね。


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 その一方で、私は、今、こんな事を考えて居ます。仮に、朴大統領が、韓国の核武装を考え、実現しようとして居た、と仮定した場合の話です。
 その「韓国の核武装」に、当時の日本が関与して居た可能性は無いでしょうか?

 仮定の上の話ですから、私の「妄想」と言はれても仕方の無い話です。しかし、当時の日本と韓国は、今とは全く違って、非常に密接な関係に在りました。はっきり言へば、当時の韓国は、日本の保守政権、財界と極めて密接な関係に在り、あらゆる面で、日本に依存して居ました。仮に、韓国が核武装を決意したとしたら、韓国が、日本の原子力関係企業に協力を求めた可能性は、十分有ったのではないか?と私は思ふのです。

 そう考えると、朴大統領の暗殺は、もしかすると、当時のアメリカ政府が、韓国とともに、日本人に対して送った警告だったのではないか?と、私は、「妄想」するのです。つまり、当時のアメリカ政府が、韓国とともに、日本人に対して、核武装など考えるなよ、と言ふ強いメッセージをこめて、朴大統領を、10月26日に抹殺したのではないか?と言ふ事です。
 もう一度言ひますが、10月26日は、伊藤博文が暗殺された日です。そして、もう一つ、日本では、「原子力の日」なのです。

 これは、偶然でしょうか?

核時代76年(2021年)10月26日(木)
「原子力の日」に


西岡昌紀(にしおかまさのり)


(再録)朴大統領は何故死んだか? : 歴史を考える (livedoor.jp)

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http://www.asyura2.com/20/genpatu53/msg/695.html

[国際31] ドストエフスキー(1821〜1881)生誕200年の日に   西岡昌紀
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 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

(ヨハネによる福音書、第十二章二十四節)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BE%E3%83%95%E3%81%AE%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC/dp/4102010106/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1356763976&sr=1-1

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『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に書かれた聖書の一節です。


2021年11月11日(木)

西岡昌紀(にしおかまさのり・内科医)


http://www.asyura2.com/21/kokusai31/msg/196.html

[日本の事件32] 横田めぐみさんは、何故、護国神社の近くで拉致されたのか?   西岡昌紀

横田めぐみさんが、北朝鮮によって拉致されて44年が経ちました。

中学生だった横田めぐみさんは、学校から帰宅する途中、新潟の護国神社のすぐ近くの路上で、北朝鮮工作員によって拉致されたとされて居ます。


その際の状況については、韓国に亡命した元北朝鮮工作員の安明進氏が北朝鮮で聞いた話が伝えられて居ます。それに依れば、横田めぐみさんは、路上で、偶然、北朝鮮工作員に遭遇し、目撃された事を恐れた北朝鮮工作員が、目撃者である横田めぐみさんを拉致したのだとされて居ます。

この「偶然」説に対しては、疑問の声も有り、私もその疑問を共有して居ます。しかし、その点については、ここでは論じません。横田めぐみさんが、学校帰りに、自宅近くの路上で拉致された事自体は事実とみて間違い有りません。

ここで指摘したいのは、その現場がどの様な場所であったか?です。

その拉致現場について、新聞・テレビ等では語られて居ない或る事実が有ります。

それは、横田めぐみさんが拉致されるずっと以前から、地元では、その場所で「神隠し」が起こると言ふ噂が有ったと言ふ、驚くべき事実です。

もう一度言ひます。横田めぐみさんが拉致された現場には、横田めぐみさんが拉致されるずっと以前から、そこで「神隠しが起こる」と言ふ噂が有ったのです。

以下の文章をお読み下さい。


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「護国神社の横に道は夜、幽霊が出る」
「学校の帰り道に黒い影がつきまとってくる。その影につかまると神隠しにあう」
 かつて地元のくちさがない少年少女を中心に怖れられた曰くつきの場所であったのが、「新潟縣護国神社」(以下・護国神社)なのだった。
 当時を知る人物は語る。
 「護国神社のまわりは松林のなかでいまでも暗いけれど、当時は車も少なかったからもっと暗かった。歩道の横の石でできた柱も古めかしくて、独特の雰囲気がありましたよ。その神社のまわりは松林なんだけど、部活の帰りの暗くなった夜道を歩いていると、黒い影がついてくる。林の中に兵隊の幽霊がいる。そして、その幽霊なのか、影なのかにに捕まると神隠しにあって、”消えちゃうんだ”って、近所の子たちはみんな怖れてました」
 そう語る人物が「少女」だった時代といえば、既に40年も昔のことである。昭和40年代前半、「もはや戦後ではない」とされた高度経済成長期、戦時中に一兵卒として前線に赴いた人物の多くが健在で、「戦争未亡人」「傷痍軍人」というような、戦争の面影が日常のなかにまだまだ残っていた。
 
(中略)

 「夜の”浜”は、死者が蘇える場所だ。夜中に浜へ出ると”あの世”に連れて行かれる」
 といった、口伝伝承や、護国神社をとりまく実際の風景ーーすべてをなぎ倒すように突風が吹き、生き物の気配を感じさせないような鉛色の日本海の風景などとまじり合って出来上がった都市伝説のように思えた。
 しかし、「護国神社の神隠し」は、旧日本軍の兵士の霊による仕業でも、この土地で妖怪とされる「たこ入道」によるものでもなく、実際に人々を”神隠しにしていた張本人”がいたことが数十年後に明らかにされたのだった。

 そのきっかけが、「横田めぐみさん拉致事件」だった。
 当時14歳だった横田めぐみさんが中学校からの帰り道に消息を絶ったーー近年、明らかにされたように北朝鮮工作員によって横田めぐみさんが拉致された現場自体、この護国神社の目と鼻の先の路上であり、まさに護国神社のすぐそばで「神隠し」にあっていたことが明らかにされたのだった。
 しかし、この横田めぐみ拉致事件が起こったのは、昭和52年11月、「護国神社の神隠し伝説」が地元の少年少女の間で語られていたのは、そのはるか以前の昭和年40代前半なのだ。
 この事実が意味することは、現在明らかにされている「拉致被害者」は氷山の一角でしかなく、それ以前にも多くの人間が北朝鮮へと拉致されているとしか考えられない恐ろしい現実である。
 多くの工作船は「潜脱地点」と呼ばれる、工作員の潜入・回収を行うポイントを設定しており、原始的な航法でやってくる工作船の目印になるように灯台であったり、地方であれば巨大な観光施設などの目印となる場所を目指して工作船は日本へとやってきたとされている。この護国神社脇にも「日本海タワー」と呼ばれる巨大なタワーが昭和43年に完成しており、護国神社の周辺では夜間に不審な船舶が目撃されることもあったという。
 この護国神社からは離れるが、おなじ日本海沿岸の町に育った人物は語る。
 「子供の頃、”夜中に海に出ると海の向こうの国に連れてかれるぞ”って、しょっちゅう言われてたよ。いつ頃の話かだって?俺が子どもの頃だから、もう40年は前だな」
 そして、この男性が生まれ育った町からそう遠くない町では、半径1キロとない狭い地域で5人からの人物が同時期に「神隠し」に遭い、今の今まで一切の遺留品が発見されていないという事件が発生している。
 そして、この町も横田めぐみさん拉致事件とは異なる拉致事件の捜査によって、この町の海岸にも多くの工作船がやってきていた事実が明らかにされたのだった。

(中略)

 そして、前出の男性はこう続けるのだった。
 「みんな、”神隠し”だなんていってたけど、拉致事件が明らかにされるずーっと前から、海の向こうから人さらいが来ていることをうすうす知ってたんだよ」
 かつて「裏日本」と呼ばれた日本海側の各県では思いのほか、「神隠し」にまつわる伝承が多い。過去半世紀に起こった「神隠し」とされる不可解な出来事のなかには、明らかにされていない拉致被害者の存在があるのだろう。
 そして、いくつかの恐るべき真実は、「都市伝説」や「怪談」とされるもののなかに眠っているのだ。

(田上順唯「護国神社”神隠し”事件の真相」(「日本の黒い事件」(ミリオン出版・2010年)81〜85ページ)82〜85ページ)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%BB%92%E3%81%84%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E2%80%95%E3%80%8C%E6%80%96%E3%81%84%E5%99%82%E3%80%8D%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E6%80%96%E3%81%84%E5%99%82%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/4813021182/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E6%80%96%E3%81%84%E5%99%82+%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3%E5%87%BA%E7%89%88+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%BB%92%E3%81%84%E4%BA%8B%E4%BB%B6&qid=1636885816&s=books&sr=1-1
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恐ろしい事ではありませんか。

2021年11月15日(月)

横田めぐみさんが拉致されて44年目の日に

西岡昌紀(にしおかまさのり)


横田めぐみさんは、何故、護国神社の近くで拉致されたのか? : 徒然なるままに (livedoor.jp)
[mixi] 横田めぐみさんは、何故、護国神社の近くで拉致されたのか?


http://www.asyura2.com/17/nihon32/msg/281.html

[社会問題10] 『椿三十郎』とマルコポーロ廃刊事件ーーマルコポーロ廃刊事件から27年   西岡昌紀

『椿三十郎』とマルコポーロ廃刊事件ーーマルコポーロ廃刊事件から27年 : 歴史を考える (livedoor.jp)
[mixi] 『椿三十郎』とマルコポーロ廃刊事件ーーマルコポーロ廃刊事件から27年


 最近、久しぶりに、『椿三十郎』(1962年)のDVDを見ました。

 『椿三十郎」」は、黒澤明監督の映画で、江戸時代、三船敏郎が演じる放浪する浪人が、或る藩のお家騒動に巻き込まれ、偶然、知り合った若侍たちと共に、汚職を行なって居たその藩の大目付と戦ひ、最後には、大目付に幽閉された城代家老を助け出すと言ふ時代劇です。

 私は、この映画が大好きで、映画館で、そしてVHSやDVDで、何度見たか分かりません。単に「面白い」だけでなく、人間の愚かしさ、滑稽さを描いた深い映画です。又、衣装や美術の美しさは、この映画の背景に在る日本文化の奥深さを感じさせる物です。


(『椿三十郎』について)
椿三十郎 - Wikipedia


 その『椿三十郎』について、以前から感じて居る事が有ります。

 それは、こお映画の物語が、27年前、私が当事者の一人と成ったマルコポーロ廃刊事件に何と似て居る事だろう、と言ふ事なのです。

(参考:「マルコポーロ廃刊事件」)
「マルコポーロ」廃刊事件 : 歴史を考える (livedoor.jp)


 その事に、私が最初に気が付いたのは、事件の真っ最中の事です。

 1995年1月30日(月)、文藝春秋社は、突然、「マルコポーロ」誌の廃刊を発表を発表しました。理由は、「マルコポーロ」同年2月号に私が寄稿した「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」に対して抗議が寄せられた事でした。(文藝春秋社は、記事の執筆者である私には一言の連絡もしないまま、同誌の廃刊を決定しました。)

(参考サイト:マルコポーロ廃刊事件から25年)
マルコポーロ廃刊事件から25年 : 歴史を考える (livedoor.jp)


 その翌日(1995年1月31日(火))、私は、当時の勤務先であった小田原市の病院に、いつもの様に出勤しました。すると、当院するなり、病院の入り口で、その病院の事務職員に呼び止められ、院長室に直行させられました。

 その病院は、厚生省(当時)の管轄下に在る病院でした。私を含めて、職員全員が厚生省(当時)の職員でしたが、特に、院長を始めとする病院幹部は、足しげく厚生省地方医務局に通ふ、厚生省の職員でした。

 その院長の部屋(院長室)に呼び出された私は、部屋に入った直後から、院長他の病院職員に取り囲まれ、前日発表された「マルコポーロ廃刊」と言ふ事件について、大声で罵倒を受けました。そして、今後、マスコミなどで一切、何も発言するな、と言ふ全く不当な要求を受けました。それは、厚生省の強い意向である事を院長(当時)他の病院幹部は、明言し、私に、そうした「今後、事件について何も発言しない」事を強制しようとしたのです。

 私は、もちろん、拒否しました。勤務とは無関係な事柄について、病院幹部や厚生省の要求に従ふ義務など有りません。それどころか、これは、厚生省職員の職権乱用である事は言ふまでも有りません。逆に言へば、厚生省は、職員に職権乱用をさせてまで、私の発言を封殺しようとしたのです。逆に言へば、それは、この問題が、それほどの重大事である事を意味して居ました。

 病院幹部による院長室でのこうした強要は延々と続きました。その日は、こうした院長室での軟禁に近い状況が続いた為、病院の業務に影響が出たほどです。話は平行線で、勤務に関係の無いマルコポーロの問題で、厚生省の要求には従えないと言ふ私と病院幹部の対立は、院長室を舞台に、夜まで続きました。
 更に、翌日の2月1日(水)に、私が、ジャーナリストの木村愛二さんの支援を受けて、都内の総評会館(当時)で独自に記者会見を開く事が厚生省に伝はってからは、院長らは半狂乱と成り、厚生省の意向を受けた院長らが、私に加える脅迫は、極限に達して居ました。
 運悪く、その日(1995年1月31日(火))が当直だった私は、その日、家に帰る事が出来ませんでした。その為、病院で当直の夜を過ごし、翌日も、朝から同様の状況が院長室を舞台に続いたのですが、その1月31日(火)か2月1日(水)に、こんな事が有りました。

 病院幹部が、院長室で、私に記者会見をやめろと言ふ要求を繰り返す中で、私は、「支援者の方達もおられますし・・・」と言って、記者会見を中止する事は出来無いと、言ひました。その時、私の「支援者」と呼べるのは、木村愛二さんと数人の人々で、その時点では、5人も居なかったと言ふのが事実です。ところが、私が口にした「支援者」と言ふ言葉に、院長らの病院幹部は、目を丸くして、驚いたのです。

 私は、その時の事を忘れられません。二人の病院幹部は、「支援者」と言ふ言葉を聞いて、本当に驚いた様子でした。恐らく、彼ら(病院幹部)は、私に「支援者」が居る等とは、思って居なかったのでしょう。そして、ここが滑稽なのですが、彼らが、私に大変な数の「支援者」が居て、私の記者会見に集結するかの様な想像をした事が、彼らの表情から、伺えたのです。

 その時、私の脳裏に、稲妻の様に浮かんだのは、『椿三十郎』の2つの場面でした。即ち、三船敏郎演じる椿三十郎が、本当は、10人も居ない自分の仲間を物凄い人数であるかの様に敵に思はせようとして、「あんな大勢にやって来られたんじゃ・・」と言ったり、「やって来たのは、130人!」と言って、敵方を脅かす場面を思ひ出したのです。

 「あれにそっくりだ。」と、私は思ひました。私は、別に、そうしようと思った訳ではありません。彼らの側が、勝手に、「支援者」と言ふ言葉に驚いただけなのですが、『椿三十郎』の中で、大目付の取り巻きたちが、三十郎(三船敏郎)の言葉に騙されて、三十郎の側に大変な数の味方がついて居ると錯覚した様に、病院幹部たちは、私の記者会見に、大変な数の支援者が集結したと錯覚したらしいのでした。

 その後、2月1日(水)の夕方、何とか病院を出て都内の記者会見場に行き、記者会見を開く事が出来ました。もし、2月1日(水)のあの記者会見を開かなかったら、翌日2月2日(木))にSWCと文藝春秋がホテル・ニューオーニで開いた共同記者会見で、私の「謝罪文」か何かが、私が居ないその場で朗読される予定だったのではないか?等と、私は想像して居ます。だからこそ、厚生省は、あれほど必死に成って、私に記者会見の中止を要求したのだと思ひます。しかし、とにかく、2月1日(水)に、彼ら(厚生省)の圧力をはねのけて記者会見を開いた結果、記事の筆者である私が、マルコポーロを廃刊した文藝春秋の決定に全く納得して居ない事を、社会に伝える事は出来たのでした。もし、私が、自分の病院での圧力に負けて、記者会見を欠席したり、記者会見を中止したりして居たら、そして、厚生省の要求通りに、「一切の発言を中止」して居たら、私が、自分の主張を取り下げたと受け止められて居た事は、明らかです。そう考えると、文藝春秋が「マルコポーロ廃刊」を発表した(1995年)1月30日(月)から2月1日(水)までの48時間余は、私にっても、日本にとっても、事件の行方を左右する決定的に重要な時間だったのだと言ふ他は有りません。

 時間が経って、事件を振り返った時、私は、この事件(マルコポーロ廃刊事件)は、何と、『椿三十郎』に似て居たのだろうと思ふ様に成りました。即ち、文藝春秋社は『椿三十郎』の舞台と成ったあの藩です。そして、花田紀凱編集長は、あの幽閉された城代家老です。私は、三十郎(三船敏郎)で、木村愛二氏は、あの若侍(加山雄三)だと思げば、マルコポーロ廃刊事件と『椿三十郎』は、驚くほど似て居ます。そして、城代家老を幽閉した大目付とその取り巻きたちが、マルコポーロ廃刊事件当時の際、私と花田編集長に圧力と脅迫を加えた厚生省や外務省の人間達にそっくりである事に驚き、笑はずに居られません。

 矢張り、黒澤明監督は偉大です。

 『椿三十郎』を見た事の無い方は、このブログをお読みに成った事を機会に、是非、この日本映画の傑作を御覧に成る事をお薦めします。

2022年2月1日(火)

マルコポーロ廃刊事件から27年目の冬に

(参考サイト:阪神大震災とマルコポーロ廃刊事件ーー22年目の冬に)
阪神大震災とマルコポーロ廃刊事件−−22年目の冬に : 歴史を考える (livedoor.jp)

(参考サイト:マルコポーロ廃刊事件から25年)
マルコポーロ廃刊事件から25年 : 歴史を考える (livedoor.jp)


西岡昌紀(にしおかまさのり)



http://www.asyura2.com/18/social10/msg/331.html

[戦争b25] 馬野周二(著)『経済裏陰謀の常識/日本人は何も知らないのか』(青春出版社・1987年)より

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 現在の社会は情報化社会といわれているが、まさしくその通りだ。情報が大衆を走らし、政治を左右するという意味で。
 ナチスは戦争を起し、ヒトラーは600万人のユダヤ人を殺した。これが現に世界中で信じられている「話」である。だが読者の中に、この世界の通説に挑戦する人はいないだろうか。
 私の見るところ、それは真実を語っていない可能性がある。

(中略)

 だいいたい600万人の人間を工場で殺して、死体を焼却し、残存物を有効利用するなどということが、物理的に可能であろうか。この人体の総重量は36万トンにもなるのだ。600万人という数にも疑問が多い。
 では、殺されたはずのユダヤ人たちはどこに消えたのか。
 当時ソ連は大変な人手不足だった。ともかく1000万人とも言われる兵隊と一般人が直接、間接に戦争で死亡し、それに幾倍する人員が戦争に直接関係する仕事に就いていた。それだから戦後の人手不足もまた甚だしかった。戦争が終ってのち、満州の日本兵がシベリアに抑留され、強制労働させられたのは、このソ連の人手不足のためである。
 主として旧ポーランド領の収容所にいたユダヤ人は、ソ連に連行され、そこで今日まで住んでいる。今ソ連でユダヤ人の大量出国問題が起っているのは、ここに原因がある、とする説もあることを紹介しておこう。
 人手不足はドイツでも同様だった。収容所に入れられたユダヤ人は、工場で働かされていたと考えられる。例の有名なウシュヴィッツでも、ユダヤ人達は近くのモノヴィッツの化学工場で働かされていた。

 ここに『アウシュヴィッツの神話』という本がある。
 当時この収容所の近所にいたドイツ軍将校で、この収容所にも入って見たことのあるウィルヘルム・シュテークリッヒ博士(*)は、のちに20年間も西ドイツ法務官吏を務めた人だが、最近このユダヤ人虐殺問題を刑事事件の手法で調査し、これは架空のデッチ上げだと断定した。その経過を書いたのが、この本である。
 戦時中、彼がアウシュヴィッツを見た時、
「私は秩序のとれた居住区と衛生的な設備、そして収容者が十分に栄養を与えられ(第二次大戦ではドイツに飢餓はなかった)、死の恐怖はもちろんのこと、特別にガックリしているとか、恐れを抱いているような風はなかった。その上、収容者に対する虐待とか、とくに大量殺人の徴候としての死体を焼く臭いなどを感じたことはなかった」
 と述べている。
 このアウシュヴィッツの経験から、彼はニュールンベルク裁判の戦犯証言を徹底的に調べて、前記の結論に達したという。私には彼の書いているところが正しいとも、正しくないとも判断はできないが、ただ最近、アメリカでもヨーロッパでも、歴史修正派が活動を強めていることを報告しておこう。戦後、戦勝国によって、彼らに都合のよいように作られた歴史を、正し像に修正しようとする動きである。
 第二次世界大戦に負けたドイツ、日本に関する多くの事実は、今日でも闇に押しこめられ、ディスインフォメーション(情報操作)が横行していることに注意しなければなるまい。

(馬野周二(著)『経済裏陰謀の常識/日本人は何も知らないのか』(青春出版社・1987年)55〜57ページ)
https://www.amazon.co.jp/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E8%A3%8F%E9%99%B0%E8%AC%80%E3%81%AE%E5%B8%B8%E8%AD%98%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E9%A6%AC%E9%87%8E-%E5%91%A8%E4%BA%8C/dp/4413014456/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=1R4VEWLD3XKTP&keywords=%E7%B5%8C%E6%B8%88%E8%A3%8F%E6%91%A9%E6%93%A6%E3%81%AE%E5%B8%B8%E8%AD%98&qid=1699847755&s=books&sprefix=%E7%B5%8C%E6%B8%88%E8%A3%8F%E6%91%A9%E6%93%A6%E3%81%AE%E5%B8%B8%E8%AD%98%2Cstripbooks%2C165&sr=1-1

(*)西岡注:馬野氏は、この箇所で「シュテーグ博士」と書いておられますが、これは「シュテークリッヒ(Staeglich)の誤記です。上の文中では、西岡がこれを訂正し、シュテークリヒと書いて居ます。

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http://www.asyura2.com/23/warb25/msg/253.html
[政治・選挙・NHK294] 西村幸祐X西岡昌紀:(対談)映画「オッペンハイマー」と「ゴジラー1.0」についての対談


クリストファー・ノーラン監督の映画「オッペンハイマー」と原爆投下について、そして、更には、山崎貴監督の映画「ゴジラ-1.0」について、保守系ジャーナリストの西村幸祐氏と西岡が対談を行なひました。
よろしければ、クリックして御覧下さい。

(前編)
https://www.youtube.com/watch?v=7THVyLbguac
(後編)
https://www.youtube.com/watch?v=2cYToB82wCk]

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 広島と長崎に投下された原爆製造の中心人物であったこの物理学者については、多くの本が書かれてきた。オッペンハイマーとは何者であったのか?彼の生い立ちから青春、物理学者としての人生、晩年の政治的苦境など、世界中の多くの歴史家やジャーナリストや科学者が、オッペンハイマーについての本や記事を書いてきた。

 だが、本書は、これまで世界中で書かれてきた数多くのオッペンハイマーに関する本や記事とは、全く違う性質の中身である。
 それは、本書が、オッペンハイマーの死についての本だからである。

(西岡昌紀(著)『オッペンハイマーはなぜ死んだか/長崎に原爆が落とされた謎を解く』(飛鳥新社・2021年)10ページ)
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