137. 太郎の政治と日本の神々[1] kb6YWYLMkK2OoYLGk_qWe4LMkF@BWA 2022年6月18日 03:58:03 : eoqyAuNZqU :TOR N3B0VjBrbUg4Lkk=[12]
https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/4186397/
上島竜兵さんからゴチ 山本太郎氏がホレた立ち振る舞い「昭和の雰囲気を持った人」
2022年05月12日 06時15分
神奈川など改選数が複数の選挙区からの出馬が予測されており、
出身地の兵庫(改選数3)も候補の一つ。
「5月中旬には発表する」と説明していたこともあって、
10社を超えるメディアが駆け付けたが、
兵庫からの出馬を聞かれると
「出たいわぁ。宝塚出身ですし、特別な思いはある」と答えたものの、
「ギリギリまで見極めたい。可能性は50%」とけむに巻いた。
この日は、お笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」の上島竜平さんが急死したことが分かった。
上島さんは兵庫県出身で
俳優を目指して上京しており、
山本氏とは同郷∞役者≠ニいった共通点もある。
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※ということで山本氏の出身地「宝塚」と「(朝鮮)新羅」とで検索
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https://hyogo-jinjacho.com/data/6316179.html
シラギジンジャ
新羅神社
所在地 671-0245
姫路市四郷町明田706
主祭神 帯仲津彦命 タラシナカツヒコノミコト
配祀神 品陀別命 息長足姫命
【ホンダワケノミコト オキナガタラシヒメノミコト】
>創建時期は不詳であるが、
>古くから新羅大明神とも呼ばれ
>当社の由緒については、
>この近辺の多くの神社同様、
>神功皇后関係の伝説が語られており、
>これが地名由来や社名由来に結び付いている。
>皇后が朝鮮出兵の際、戦勝祈願のため
>皇后帰国の途次、当地に預け置かれた
>新羅の皇子を祀ったので
>新羅神社と称したという類のもの
>祭神はいわゆる八幡三神になっているので
>八幡神社の性格を持っている
※創作物語に過ぎない「三韓征伐」のヒロイン「神功皇后」のモデルが
「皇極=斉明天皇」だと言われている
上記の神社で祭られているのが「九州宇佐八幡」古神道を始め地域の祭神を「八百万の神」
というネーミングで吸収しその神々の頂点に立つのが仏教神(天照大神)という
「神仏習合」の系譜である明神「新羅明神」である
「人質」として預けられた(変な話である)新羅の王子は新羅系である「天武天皇」を連想
させるわけで
古代の「東征」物語も新羅系の天武天皇が百済系の天智天皇をクーデターで打倒し国家権力を
奪取した歴史を土台として創作した可能性が大である
※九州宇佐八幡・・・仏教が古神道より上位に位置する
神仏習合の原点
天智天皇をクーデターで打倒その後新たな「国家体制」を打ち立てた
天武天皇の祭神「天照大神」は仏教神であると
「大国主命」に加えそれぞれの地域で祭られていた地方神を「八百万の神」
と称してすべて吸収統合
ルーツは朝鮮半島の新羅国
古代の「東征」は新たな「国家体制」を打ち立てた支配権力の「東征」
「壬申の乱」を元に創作された物語であると
明治の神仏分離令により明神号廃止
明神号とは?
明神は神と仏が一緒になったような存在
ID非公開さん
2021/10/24 6:54
1回答
神社の名前に、大社や明神など様々なものがありますが、違いはなんでしょうか?
ベストアンサー
kaj********さん
2021/10/24 7:10
大社は、出雲大社だけに許された特権でした。大いなる神社という意味です。
ところが昭和以降に大社を名乗る神社が続出し、出雲大社側はそれに異議を唱えています。
明神は神と仏が一緒になったような存在で、明治に明神号は廃止されました。
しかし、民間などが明神を使う例も残ってはいますが、正式には無い過去の遺物のようなものです。
rik********さん
2014/4/26 9:37
4回答
平将門は反逆者なのになぜ明神号があるのですか。
親皇と名乗り、明らかに国家反逆罪のまま戦死しています。
ただ、至る所に例えば神田明神のように平将門を大明神として祀ってある神社があります。
これは、祟りなどを恐れたため死語に大明神という神号を与えたのでしょうか。
ベストアンサー
wak********さん
2014/4/26 12:07
結論から言うと大怨霊だからというのが正解です
関東地方では明神といえば将門のことを指します
多くの神社で将門が祀られてそれぞれに所縁があります
神田明神について説明すると
現在、神田明神の主祭神は大己貴命(おおなむち)=大黒天です
一ノ宮で大己貴命、二ノ宮で少彦名命(すくなひこなのみこと)、三ノ宮で将門が祭られています
神田明神は730年、大己貴命の子孫といわれる真神田臣(まかんだのおみ)により創設されました
しかし火災のため社殿はもとより由来書も全て焼失してしまいました
現在の神田明神はその頃将門の首塚辺りで天変地異が頻発したため真教上人が神社に奉伺したといいます
その後、家康が神田明神を篤く祀り、江戸時代を通して江戸総鎮守に置かれるようになりました
しかし徳川の時代が終わりから明治時代初期にかけて将門祭神廃止運動が起こりました
理由は質問者と同じく天皇に弓引く大反逆者だったからです
その当時の尊皇攘夷思想の流れから当然のことだったのでしょう
これに対し長く神田明神を愛してきた地元住民からの反対もあり、主祭神から三ノ宮への遷都(降格)ということで落ち着きました
nsm********さん
2014/4/26 12:51
日本三大怨霊はどれも神社に祀られてますが。
平将門(神田明神、築土神社、鎧神社等)
菅原道真(天満宮など)
崇徳上皇(白峯神宮)
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https://blog.goo.ne.jp/curtaincall_2007/e/c0636f3345f6cf446740244fcfb331cc
老いてなお青春(マラソンへの挑戦そして歴史と文化の路を訪ねて)
兵庫の宝塚と出石に古代ロランを訪ねて(宝塚ハーフマラソン大会≪その1≫)
2013年12月24日
姫路城の代わりに今話題の日本のマチュピチュ≪竹田城≫を、更に但馬の出石まで足を延ばし≪天乃日矛伝説≫を訪ねることにしたが、大会開催地の宝塚に歌劇以外に何か見所がないのだろうかと調べるうち、宝塚の地名の由来となった古墳探しに嵌り込んでいった。
宝塚の「塚」は古墳のこと、この地域には4世紀から7世紀に築造された古墳が多くあり、その中に宝塚と呼ばれた古墳があってその名が地名になったらしいのだが、どの古墳が宝塚古墳なのかいまだ特定されていないという。
インターネットを駆使して市内の古墳を調べるうち、全くの偶然だが、地名の由来と思われる宝塚古墳を見つけてしまった(と思っている)。それは宝塚駅から東北東2キロあまりにある「中山荘園古墳」である。
【宝塚市の中山荘園古墳】
宝塚市内に数ある古墳の中で「中山荘園古墳」に注目したのは、天皇陵の形式といわれる八角形の墳丘を持っていたからだが、なぜ兵庫県の宝塚市に天皇陵と思われる古墳があるのだろうか。「中山荘園古墳」は、昭和58年にマンション建設に先立つ発掘調査の結果、7世紀中頃に築造された古墳で、当時の天皇陵と共通する八角形の墳丘を持つことが確認され、終末期古墳の貴重な資料として国の史跡に指定されたという。
八角形が天下八方の支配者に相応しいという古代中国の道教思想の影響を受けて、7世紀中頃に天皇固有の陵墓形式になったと考えられているが、近畿地方にある8基の八角形墳のうち、この「中山荘園古墳」と奈良の「岩屋山古墳」を除いた6基が天皇陵(舒明・斉明・天智・天武持統・草壁・文武)に比定されている。近畿以外にも八角形の古墳はあるが、いずれも不整形で厳密には八角形古墳といえず、しかも東京・鳥取・群馬・広島と近畿から遠く離れており、地方豪族が天皇陵を模倣して築造したものだろう。それでは天皇陵に比定されていない八角形墳の「中山荘園古墳」と「岩屋山古墳」の被葬者は誰なのだろうか、天皇陵の可能性はないのだろうか、7世紀後半の天皇系図と突合しながら、私の天皇陵比定作業は始まった。
しかし641年没の舒明天皇から703年没の持統天皇まですべて天皇の陵墓は比定されており、陵墓の比定されない天皇はいない。この2基の八角形墳を当てはめる天皇が残っていないのである。やはり天皇陵墓ではないのだろうか。八角形墳の一覧表を眺めていると、中山荘園古墳と同じサイズの八角形墳「索牛子塚古墳」が気になってきた。偶然同じサイズなのだろうか。何か関連はないのだろうか。一体「索牛子塚古墳」の被葬者は誰なのだろうか。
【明日香村の索牛子塚古墳】
奈良県明日香村の「牽牛子塚古墳」は、2010年9月10日の全国紙朝刊で、斉明天皇と娘の間人皇女を合葬した「斉明天皇陵」に確定されたという衝撃的なニュースが記憶に新しい。発掘調査の結果、天皇陵特有の八角形墳で、石室が2室に分れた合葬墓だったことから斉明天皇陵に断定されたのである。斉明天皇は645年の「大化の改新」前後に重祚して二度天皇になった女帝である。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害した時の「皇極天皇」で、大化の改新で弟の孝徳天皇に譲位するが、難波京に遷都した孝徳天皇に反対して飛鳥に戻り、失意で崩御した孝徳天皇に代わり再び皇位に就いて「斉明天皇」となる。新羅に滅ぼされた百済の救援軍を率いて筑紫に遷幸するが、661年に筑紫の地で崩御してしまう。665年に斉明天皇の娘で孝徳天皇の皇后の「間人皇女」が薨去すると、母斉明天皇とともに667年に合葬されたと日本書紀に記述があり、その合葬陵が「牽牛子塚古墳」だというのである。
【終末期古墳の天皇合葬墓と仮葬墓】
「牽牛子塚古墳」は石室が2室に仕切られて、初めから合葬墓として築造されたものだとすると、先に崩御した斉明天皇は合葬されるまでどこかに仮葬されていたはずだが、日本書紀には斉明天皇が仮埋葬されたという記載がなく、崩御後合葬されるまで6年ものあいだ、殯をしていたとも思えない。牽牛子塚古墳を斉明天皇の合葬陵と断定した新聞は、従来の斉明天皇陵候補だった八角形墳「岩屋山古墳」を、合葬前に斉明天皇を一時的に埋葬した古墳ではないかと推論している。しかし八角形墳一覧を見ると、岩屋山古墳の対辺長が牽牛子塚古墳の2倍あり容積も4倍になり、大きい岩屋山古墳から小さい牽牛子塚古墳に合葬されたとはとても考えにくい。岩屋山古墳が合葬陵に改葬する前の仮墳墓だとするなら、大型古墳である天武持統天皇合葬陵の「野口王墓古墳」の仮葬墓だった可能性の方が高いのではないか。
近畿地方の八角形墳8基のうち、天皇が比定されていない2基(岩屋山古墳と中山荘園古墳)が、2基ある合葬陵墓(天武天皇・持統天皇と斉明天皇・間人皇后)の仮葬墓だとするなら、「岩屋山古墳」が「天武持統天皇合葬墳」の仮墳墓で、残る「中山荘園古墳」が消去法でもうひとつの合葬陵「牽牛子塚古墳」の仮墳墓だということになるではないか。斉明天皇がまず「中山荘園古墳」に単独埋葬され、6年後に娘の間人皇女と「索牛子塚古墳」に合葬されたとすれば、時期が四半期ずれて築造された同サイズの八角形墳だった理由が納得できる。かくして8基の八角形墳はすべて天皇が比定されたことになる。そこから私の斉明天皇の仮陵墓説を立証する旅が始まった。
【中山荘園古墳の発掘調査】
中山荘園古墳の発掘調査報告をみると、私の推論が証明されているように思えてくる。中山荘園古墳は7世紀第2四半期に築造された最初の八角形墳とみられているが、その墳丘の対辺長が同じ八角形墳の舒明天皇陵(641年崩御)の三分の一で、645年の大化の薄葬令により天皇陵墓の小型簡素化が定められたとすれば、中山荘園古墳は、舒明天皇陵より少し時代が下がる7世紀第3四半期に築造されたと考えたほうがいいのではないか。とすれば斉明天皇の崩御が661年だから、年代的にみて斉明天皇陵の可能性は十分にありうる。
昭和58年からの発掘調査によると、石室内の床が全面板石張りで木棺の痕跡があり、副葬品は皆無で鉢片が1点出土しただけ、羨道は幅70センチと狭く本来の機能を果たせず、墳丘の前庭部にテラス状の張り出しがあり祭祀の場だったらしい。盗掘されたにしては綺麗に盗掘され過ぎており、副葬品はすべて合葬陵に移されたのではないだろうか。そして恒久的な石棺ではない木棺に埋葬され、しかも羨道は狭く形だけ、前庭部の張り出しで祭祀が行なわれたという、天皇クラスの陵墓にしてはあまりに簡素な発掘内容が、やはり合葬されるまでの一時的な墓所だったことを我々に伝えているのではないだろうか。
【斉明天皇の実像】
それではなぜ斉明天皇の仮陵墓が宝塚市に造られたのだろうか。宝塚は明日香から遠すぎる。斉明天皇と宝塚市とはどんな繋がりがあったのだろうか。斉明天皇の出生を調べると、父の名が「茅渟王」、母の名が「吉備姫王」とある。茅渟は河内王朝の大阪和泉地方の古名で、茅渟の海とは大阪湾のことらしい。吉備は岡山から兵庫にかけて強大な古墳文化を持った古代国家である。茅渟と吉備を父母の名に持つ斉明天皇は、大和の明日香から山越えした大阪湾に面する地方豪族の出身だったのではないだろうか。斉明天皇が百済救援の出兵に吉備国で2万も集め、そして斉明天皇が筑紫で崩御すると2万の兵はそのまま引き返したと備中国風土記にあるという。吉備国は斉明天皇の強力なバックボーンであり、生まれ育った故郷だったのかもしれない。国内の反対を押し切って百済救援のため朝鮮出兵を決断し、60を過ぎた老躯を押して九州まで遠征し遷宮までしながら、朝鮮へ渡海する直前に筑紫の地で急逝した斉明天皇が、瀬戸内海を渡り難波津に上陸して帰る先は、母なる吉備国しかなかったのではないだろうか。
皇極(斉明)天皇は、飢饉の際に雨乞いの巫女役を買って人心を捉え、不具の孫建王の死を悼む歌を詠み自分の墓に合葬するよう命じ、夫舒明天皇への夫婦の情愛溢れる歌を詠む心優しい歌人であったが、一方で政治辣腕の女帝でもあったらしい。皇極天皇時代に大化の改新で蘇我一族を滅ぼし、譲位後は難波京に遷都した弟孝徳天皇を見捨て、重祚して斉明天皇になってからも、巨石による大規模な土木工事を好んで民に重い労役を課し、吉野や湯治に豪勢な行幸を重ね、晩年には蝦夷討伐軍や百済救援の無謀な朝鮮出兵で民を苦しめて、筑紫に遷した宮殿に落雷が落ち不吉な鬼火が飛び交い、舎人や近侍に疫病が蔓延して死人が出るという。斉明天皇の急逝は暗黒の強権な治世の報いではなかったか、臨終間際の斉明天皇は蘇我一族と民の怨念に狂人同然だったかもしれない。斉明天皇の亡骸が明日香の地に迎えられたのは、娘の間人皇后が自分の墓に合葬してくれた6年後だったのである。娘が合葬相手に夫孝徳天皇ではなく母斉明天皇を選んだことが、斉明天皇がいかに悲壮な最期だったかを物語っているのではないだろうか。
【宝皇女の素性】
「中山荘園古墳」の被葬者と考えた皇極(斉明)天皇について調べるうち、その諱(いみな)が「宝皇女」であることに気付いた。この諱の表記は後世の尊称とされており、重祚して皇極と斉明の二つの天皇名を持つ彼女の陵墓「中山荘園古墳」を、地元の人たちは尊称の諱「宝」を付けて「宝塚」と呼んでいたのではないだろうか。とすれば、宝塚市の名前は、この宝皇女が埋葬された中山荘園古墳の宝塚の名から来たのではないだろうか。宝塚の地名の由来となる古墳を探すつもりではなかったが、被葬者の天皇を探すうちに偶然見つけ出してしまった興奮に打ち震えてしまった。
しかし斉明天皇はなぜ「宝皇女」と呼ばれていたのであろうか。皇女とは天皇の娘を指すが、皇極(斉明)天皇は30代敏達天皇の曾孫にあたるも、祖父も父親も天皇にはなっておらず、厳密には皇女と呼べないはずである。しかも34代舒明天皇の皇后になる前に、用明天皇の孫高向王と結婚し漢皇子を産んだとされているが、この前夫と子の消息に記紀はほとんど触れていない。前夫高向の名は現天皇家の祖先といわれる継体天皇の母振姫の故地であり、昨年10月に敦賀マラソンで立ち寄った越前三国の地名である。父母が大阪和泉と吉備、そして前夫が越前三国という大和から遠く離れた世界に住んでいた素性不明な宝皇女と呼ばれる皇極(斉明)天皇が、あの偉大な天智・天武の母親になるのである。不思議というより怪しくさえ感じられる。意図的な素性隠しがあったのではないだろうか。
斉明天皇こと宝皇女は一体何者だろうか。斉明天皇は、新羅に滅ぼされた百済を救援するため60才の高齢を押して筑紫に宮殿を遷してまで朝鮮出兵を図ったが、滅ぼされた百済を救援する多大な犠牲を払おうとしたのは、百済王族の子孫だったから母国を救援しようとしていたのではないだろうか。
ここで大化の改新の宮中惨劇事件を思い起こす。中大兄皇子が皇極天皇の目前で蘇我入鹿を殺害した際、古人大兄皇子が「韓人が入鹿を殺した」と叫んだというが、古人大兄皇子は先代舒明天皇と蘇我馬子の娘法堤郎媛の子で有力な皇位継承者であり、皇極(斉明)天皇と子中大兄皇子を韓人と蔑んでいたから出た言葉にちがいない。
やはり当時は皇極天皇と中大兄皇子母子が百済系の子孫だったことは周知のことだったのだろう。
そして皇極(斉明)天皇の前夫高向王との子の名が漢皇子だったことも、海外から帰化した王族だったことを窺わせるではないか。そしてもうひとつ、斉明天皇がモデルといわれる神功皇后に「宝の国」を授けるとの神託があり夫の仲哀天皇に新羅征伐を進言したといわれているが、宝の国とは新羅のこと、宝皇女の名には新羅を征伐する百済王族の願いが秘められていたのかもしれない。
かくして斉明天皇は、大和の明日香に土着の豪族ではなく、朝鮮半島と交易を開く摂津から河内に勢力を持った百済王族を祖とする豪族の出だったのではと考える。蘇我氏の勢力下にあった明日香から遠く離れた宝塚の地に、斉明天皇こと宝皇女のルーツを見付けた興奮を覚えていた。
【中山寺の縁起】
宝塚マラソンの後に訪ねる予定の「中山荘園古墳」へ道順を調べるうち、またしても偶然だが、最寄り駅近くに大伽藍を持つ「中山寺」に、斉明天皇の影を見つけたのである。「中山寺」は安産祈願で本邦随一の霊場として皇室・武家・庶民から深く信仰されて、現在の伽藍は秀吉が当山に祈願して授かった秀頼によって再建されたという。ところが寺の縁起を調べると「聖徳太子が大仲姫のお告げでこの山を開き、悲運の忍熊皇子の鎮魂供養のため、逆臣物部守屋の障りを除く為に当寺を建立した」とある。安産祈願どころか怨念鎮魂の寺ではないか。
中山寺の境内にある「白鳥塚古墳」の被葬者と伝えられる大仲姫は、この地方の豪族大江氏の娘であり、14代仲哀天皇の先后である。そして仲哀天皇との子忍熊皇子は後后の神功皇后の子応神天皇との皇位争いに破れた悲運の皇子である。この中山寺に祀られる大仲姫と忍熊王子の夫であり父である仲哀天皇が、なんと朝鮮出兵途上に九州の地で崩御しているのである。仲哀天皇は後后の神功皇后から宝の国(新羅)征伐の神託を受けるが、これを信じなかったため神の怒りに触れて、熊襲征伐で赴いた九州の地で急逝し、神功皇后は仲哀天皇の崩御後に、身重ながら朝鮮出兵して三韓征伐を果たすのだが、この朝鮮出兵途上に九州の地で崩御した仲哀天皇と同じ運命を、二世紀後に斉明天皇が辿っている。この奇遇はどういうことなのか。
斉明天皇は百済救済軍を率いて九州まで行きながら朝鮮に渡る前に崩御し、息子の中大兄皇子が百済救済軍を率いて渡海して唐・新羅連合軍と戦い、結果は白村江の戦いで大敗するのだが、記紀編纂者が斉明天皇をモデルに神功皇后の三韓征伐の成功神話を創作したといわれる。斉明天皇と同じく朝鮮出兵途上で九州の地で崩御した仲哀天皇の先后とその子が宝塚の中山寺に祀られているとは、その実在性に疑問が持たれる仲哀天皇を通して同じ運命を辿った斉明天皇の影が中山寺に見えてくるではないか。
伝説上の仲哀天皇の先后の大仲姫と子忍熊王子の死は、皇極(斉明)天皇が舒明天皇の皇后になる前の前夫高向王との子漢王子の死を投影しているように思えてきた。斉明天皇の母吉備姫王の出身は大仲姫と同族だったのかもしれない。斉明天皇がここ宝塚に葬られて少しも不思議ではない。中山寺の縁起が、仲哀天皇と斉明天皇の深い因縁を通じて、斉明天皇陵の宝塚説(私の独断と偏見だが)を期せずして教えているのではないだろうか。
【仲哀天皇と斉明天皇の和風諡号】
仲哀天皇と斉明天皇を結び付けるキーワードがもう一つあった。天皇の死後に贈られる和風諡号に同じ「タラシ」が使われていることである。14代仲哀天皇に「タラシナカツヒコ」、皇后の神功皇后に「オキナガタラシヒメ」が、34代舒明天皇に「オキナガタラシヒヒロヌカ」、皇后の皇極(斉明)天皇に「アメトヨタカライカシヒタラシヒメ」の諡号に付いているが、その間の20代にわたる天皇には全く使われていないのである。このことは何を意味するのか、何を後世に伝えようとしていたのだろうか、まさに仲哀天皇と斉明天皇を結び付けるダビンチコードである。宝塚にその地盤をもつ大仲姫を先后にした仲哀天皇と同じ和風諡号を持つ斉明天皇の陵墓がこの地にあって少しも不思議でないのである。
《天之日矛伝説を訪ねて》
【但馬の小京都「出石」】
宝塚マラソンのついでにどこかいい所がないだろうか、兵庫県の観光地をネット検索するうち、すっかり忘れていた「出石(イズシ)」という地名に出会い鳥肌が立った。「但馬の小京都」といわれる「出石の紅葉」を紹介するブログだったが、昨年10月の福井県敦賀マラソンで継体天皇のルーツを訪ねる下調べ中に知った、新羅王子の天之日矛(アメノヒボコ)が但馬国出石に土着しその後裔が神功皇后そして応神天皇だという天之日矛伝説を思い出したのである。その「出石町」が「日本のマチュピチュ」竹田城の近くとあって、もう一泊して「但馬の小京都<出石>」で「天之日矛伝説」を探訪して来よう、古代ロマンの旅は果てしなく広がっていた。
現在の天皇家の祖先は第26代継体天皇といわれている。初代神武天皇から9代開化天皇までは実在性のない神話上の天皇、10代崇神天皇から14代仲哀天皇までが卑弥呼の邪馬台国を継承した大和中心の崇神王朝、次の15代応神天皇から25代武烈天皇までの応神王朝が、崇神王朝を倒して河内中心に巨大古墳を築造した百済系の外来王朝、そして越前から大和に入った26代継体天皇が応神王朝を倒し、現在の天皇家に繋がる継体王朝を樹立したと考えられている(三王朝交替説)。
継体天皇のルーツがもし天之日矛だとしたら、現天皇の祖先は新羅王族ということになる。天之日矛とはどんな人物なのだろうか。
【天之日矛の伝説】
手許にある現代語訳「古事記」の応神の段に<新羅国の阿具沼の岸辺で賤女が昼寝をしていると、女の陰処に日の光が虹のように射し、やがて妊娠して赤い玉を生んだ。新羅国王子の「天之日矛(アメノヒボコ)」が、その玉を貰い受けて家に飾っていると、その玉が美しい乙女となり、天之日矛は乙女を妻に迎えた。乙女は珍しい料理を作ってかしずくが、天之日矛は増長して罵るようになると「私は貴方の妻になるはずの女ではない。日の光から生まれたので母の国に参ります」とこっそり小さな船に乗り海を渡って日本に逃げて難波に留まり、阿加流比売(アカルヒメ)と言う。天之日矛は妻を追って海を渡るが海峡の神が遮り難波に入れず、戻って多遅摩(但馬)の国に留まり、多遅摩の娘を妻としてその子孫が葛城之高額比売命(神功皇后の母)である>とある。
日光で妊娠して卵から生まれる生誕神話は、北方アジアの遊牧民族で伝承される日光感精神話と南方系民族で伝承される卵生神話が、日本で融合して創られたのかもしれない。天から日射しが女陰に差し込む鉾は生殖の男根を象徴しているという説があり、この乙女の生誕神話を国生みの神話だと考えると、この天之日矛伝説は、天の創造した神聖な日本国土を新羅王族が侵略した歴史(外来王朝が大和王朝を征服)を投影して作られた伝説なのかもしれない。
ここで疑問が生まれる。神功皇后の子応神天皇の祖は新羅王子の天之日矛だとすると、応神天皇を妊娠した身で朝鮮半島に出兵して新羅を攻めた神功皇后が百済系だったとする定説と辻褄が合わなくなるのである。これは天之日矛の後裔である継体王朝の記紀編纂者が、継体天皇が20年の歳月を掛けて応神王朝を制圧した史実を隠蔽するため、天之日矛の後裔に葛城之高額比売命と神功皇后を持ってくることで、応神王朝から継体王朝に平穏に王権が継承されたと作為するためだったのかもしれない。
【都怒我阿羅斯等の伝説】
「日本書紀」では、垂仁3年に新羅王子の「天日槍(アメノヒボコ)」が渡来して播磨・近江・若狭そして但馬出石で土地の娘を娶って定着したとあるが、アカルヒメの話は出てこない。ところが垂仁2年に意富加羅国の王子「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」がアカルヒメを追いかける話がでてくる。額に角が有る人という名前で越前の角鹿(敦賀)に上陸し、天皇から赤織の絹を下賜されて任那に帰るが、そこで出会ったアカルヒメに逃げられ、日本まで追っていくというのだが、アメノヒボコと同一人物ではないかといわれている。
額に角が有る人とは、鹿の角の兜でも被った王子ではないだろうか。鹿の角だとすれば北方遊牧民のシャーマンが髣髴される。日光感精神話といい鹿の角といい北方アジア系の外来勢力が大和を侵略した古代の歴史を投影しているようで実に面白い話である。そしてなにより天之日矛(槍)より都怒我阿羅斯等の名の方が北方異民族らしく真実味がある。やはり都怒我阿羅斯等の伝説が元になって天之日矛(槍)伝説が創られたのかも知れない。
この天之日矛(槍)と都怒我阿羅斯等の伝説を読むほどに、古代ロマンの迷路に嵌ってしまいそうである。但馬の出石まで足を延ばして天之日矛を祀る「出石神社」を訪れてみれば、もう少し論理が整理されて、継体天皇のルーツにも少しは近付けるかもしれない。
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https://kazetabi.hatenablog.com/archive/category/%E6%AD%B4%E5%8F%B2
https://kazesaeki.wixsite.com/nature/blank-3
日本海への道、瀬戸内海への道
丹波から若狭へ、摂津から河内へ
古代の船は風と潮の流れに頼るしかなかった。その為、朝鮮半島の南西部、百済あたりから船に乗ると九州に上陸し、南東部、新羅あたりから船に乗ると若狭湾に上陸したと考えられている。
瀬戸内海は、小島が多いために潮の流れが複雑で、航海は易しくはなかった。そのため、大陸から畿内へと至るために、日本海側から兵庫県や福井県の河川を利用する道が重要で、海人と呼ばれる人々が活躍した。彼らが開いた道は、住吉神など海上交通と関わりの深い神が要所に祀られていることで想像できる。
若狭湾と播磨は、由良川と加古川で結ばれるが、このあいだの分水嶺の標高は95mしかなく、日本でもっとも低く、日本海と瀬戸内海側を簡単に行き交うことができる。また、由良川から武庫川へと抜ける道の途中、三田は、古代、大和の大神神社の荘園であり、そこから六甲山、中山寺などのある宝塚、貴族の崇敬が篤かった廣田神社がある「西の方の宮」という意味の西宮、河内へと至る。
この道の途中には鉱山が多く、大江山などの鬼伝説と鉱山関係者の関係を指摘したのは民俗学者の谷川健一だった。
古くから日本にいた人々と渡来人が、もっとも激しくせめぎ合ったのがこの地域なのかもしれず、出雲神話をはじめ各地に残された謎めいた伝承と、川や山など昔から変わらぬ風土から、この国の揺籃期のことが偲ばれる。
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https://www.asahi.com/articles/ASQ6J7WNZQ6HUOHB00N.html
朝日新聞デジタル
新羅王への敬意800年経た今も、韓国側が王碑の案内板寄贈
茂木克信2022年6月17日 10時30分
第120回新羅王祭でお披露目された案内板=2022年6月12日、新潟県燕市中島、茂木克信撮影
800年前に朝鮮半島から渡来したと伝わる新羅(しらぎ)王族にまつわる石碑を、120年間守り続けている集落が新潟県燕市にある。日韓関係が政治的に冷え込む中、いにしえからの民間交流を改めて見つめようと、王碑の案内板が新たに設けられた。
王碑が立つ同市中島の竹ケ花集落の丘で12日、120回目の「新羅王祭」が催された。一段高い場所にある碑の下で神事が執り行われ、そばの墓に眠る新羅王をまつった。王碑と祭祀(さいし)の由来を解説する案内板のお披露目もあり、地元住民ら約40人が祝った。
案内板には、大まかにこう記されている。
「1222年ごろ、寺泊(現長岡市)に高麗人(こまびと)が漂着した。竹ケ花の山中で暮らすかたわら、新羅の文化や進んだ技術を伝えた。『火伏のお札』に新羅王と書いて与えたと村に言い伝えられている。渡来から34年後に没。村人は王様を尊敬し、墓を建立した。以来800年にわたり、連綿として奉祀(ほうし)を続けている」
王碑は、竹ケ花集落や近隣の住民の寄付によって1900年に石垣ができ、2年後に碑本体が建立された。以来、新羅王祭が毎年行われてきたという。
案内板設置の動きは、昨年8月に駐新潟韓国総領事館(新潟市)の権相熙(クォンサンヒ)総領事が王碑を訪ね、集落で親善交流会が開かれたことから始まった。同年10月、お礼に集落の住民が総領事館を訪問した際、案内板の設置の支援と協力を依頼し、まもなく寄贈が決まった。
お披露目に立ち会った韓国民団県本部の鄭和仁(チョンファイン)団長は「800年の間、(日韓)両国が険悪な状況のときも奉祀を続け、120年前には立派な王碑を建立してくれた。このことは相互の理解や信頼、民間交流のうえで貴重なかがみとなる」と述べた。
集落は高齢化が進み、戸数もこの数年で3、4軒減って15戸ほどになったという。王碑建立の発起人の子孫で、王碑を守る海津和恵(かずえ)さん(75)は、「立派な案内板ができてありがたい。先祖代々守ってきた王の伝承や碑を、しっかりと子や孫の代に伝えていきたい」と話す。(茂木克信)
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