52. 日本の呪詛システム・鬼[1] k_qWe4LMjvTmZoNWg1iDZYOAgUWLUw 2022年6月22日 18:52:41 : aq09Kjv3f5 :TOR MjlHUnZweXVhOHc=[4]
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源義光(読み)みなもとのよしみつ
日本大百科全書(ニッポニカ)「源義光」の解説
源義光
みなもとのよしみつ
(1045―1127)
平安後期の武将。園城寺(おんじょうじ)の新羅明神(しんらみょうじん)の社前で元服したところから新羅三郎と称した。父は頼義(よりよし)、母は上野介(こうずけのすけ)平直方(なおかた)の女(むすめ)で義家(よしいえ)の同母弟。弓馬の術の達人といわれた。左兵衛尉(さひょうえのじょう)に在任して京都にあったとき、後三年の役で兄の義家が陸奥(むつ)国において藤原清衡(きよひら)を助けて清原武衡(たけひら)、家衡(いえひら)らを相手に苦戦していることを知り、救援に赴くことを朝廷に申し出たが許されず、ために1087年(寛治1)官を辞して兄のもとへ馳(は)せ参じた。そして義家とともに武衡、家衡を金沢柵(かねさわのさく)に打ち破り京都に帰った。その後、刑部丞(ぎょうぶのじょう)、左衛門尉(さえもんのじょう)、常陸介(ひたちのすけ)、甲斐守(かいのかみ)などを歴任し、この間、東国の受領(ずりょう)経験を契機としてこの地に勢力を伸ばし常陸国(茨城県)の佐竹郷に本拠を構えた。また義光は笙(しょう)をよくしたが、豊原時忠(とよはらのときただ)を師とし、交丸(はしりまろ)とよばれる名器を授けられた。ところが陸奥国へ下向のとき、これを携行したが逢坂関(おうさかのせき)に彼を見送った師の時忠が別れを惜しんで帰らないので、義光は戦陣で名器を失うことを案じて、その名器を時忠に返したという。
[朧谷 寿]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
https://www.the-kansai-guide.com/ja/article/item/16013/
鬼の正体は疫病?丹波に残る鬼退治伝説。
日本では古来、退散させるべき目に見えない厄災や疫病を「蛇や龍」、「鬼」に例えて表現してきた。
厄災や疫病を架空の生き物に重ねるのは日本人ならではの心性と言えよう。
様々なものに例えられた鬼の中でも、大江山に棲み、都で悪行をかさねた「酒呑童子」が有名だ。
丹波には2つの「おおえやま」がある。京から丹波への入口にある「大枝山」、そして丹波から丹後
への出口にある「大江山」。酒呑童子はこの丹波の入口と出口に住み、丹波の地を往来していたのかも
しれない。
大江山の酒呑童子が描かれた最古の作品は14世紀に描かれた「香取本大江山絵詞」(重文、逸翁美術館蔵)
である。一条天皇(在位980年〜1011年)の時代、都で殿上の姫たちが次々と消えてゆくのを訝しんだ天皇
が陰陽寮の安倍晴明に占わせると、大江山の酒呑童子なる鬼が、姫たちをさらって山に連れ帰っているという。
これを聞いた天皇は源頼光を呼び、酒呑童子を討って姫たちを連れ戻すようにと命じた。大江山に入った
源頼光は、その名の通り酒好きの酒呑童子のために毒酒を持参し、道に迷った山伏に変装して、一夜の宿を
借りた。
そして、酒呑童子に毒酒をたらふく飲ませ、寝入ったところ首をはねた。その首が宙を飛び頼光の頭にかぶり
付くなど、酒呑童子のただ者ならぬさまが描かれている。
さらに首を都に持ち帰る途中、京への入口、大枝山で首が持ち上がらなくなり、止む無くその場に埋めた
というストーリーである。
最後に、「鬼に横道なきものを」と言って果てた、と書かれている。
今でも大枝山老の坂峠には首塚が残っている。
ちょうどこの頃、九州地方で流行り始めた疫病が994年に京に入り、京中で死者があふれたとされる。
源頼光は、九州から山陰道を通って丹波から京に入る通り道で鬼の酒呑童子を退治したとするなら、
京に病が入らないように疫病を退治したのだと考えられる。
ただ、「酒呑童子の正体は疫病である」と片付けてしまえば、ここまで擬人化して絵詞にまでなり、
今日に至るまで語り継がれた伝説の酒呑童子が泣く。
その正体は諸説ある。仏徒の最澄に比叡山を追われたともいわれる。
それらの話に共通するのは、あらぶる山の神の精を受けた男子として生まれ、酒と女色を好み、乱暴で、
ついに人間世界から追われ、鬼となり大江山に棲みついたというストーリーである。
列島に最初から住み着き、製鉄などに従事していた山の人間が、比叡山最澄の仏力により山を追われて
大江山に来た、と解釈すると、
最期の言葉「鬼に横道無きものを」が理解できる。
つまり、鬼は悪いことはするが、嘘をついたり正義に背いたりはしない
ということだ。
源頼光のように修験者に化けて騙し討ったり、
最澄のように山を追い出したりしない、
というような権力側の行いに対する民の怨嗟ともとれる。
>藤原千方の四鬼にまつわる逸話
>忍者のルーツになったと言われている、
>「藤原千方の四鬼(ふじわらのちかたのよんき)」の逸話についてご紹介します。
>平安時代の豪族である藤原千方は、
>強力な能力を持つ4匹の鬼を使役していました。
>風を操る風鬼・洪水を起こす水鬼・攻撃を弾き返す金鬼・気配を消せる隠形鬼、
>これらの鬼は四鬼と呼ばれ使役する藤原千方の力を絶対的なものとしていました。
>この能力を使って朝廷を支配しようと謀反を起こしますが、
>紀朝雄(きのともお)の歌によって四鬼を封じられ敗北します。
>この四鬼は忍法の原型になったと考えられており、
>忍者のルーツになったと言われています。
https://cherish-media.jp/posts/7070
鬼の種類とかっこいい名前一覧!逸話や伝説も!【日本・最強・妖怪】
鬼の語源とは、「隠(おん・おぬ)」が由来になったとされています。「隠」には「この世のものではない、見えない存在」という意味があるため、人に災いをもたらす存在だという意味で使われ「鬼」の由来になったとされています。
暗闇
鬼の漢字が持つ意味とは?
鬼という漢字には、由来となった「隠」と同じように「いない・かくれる」という意味があります。人間とは違う世界に住む「見えない存在」であることに由来されておりこのような意味になったと言われています。
鬼は悪いものなの?
鬼には超人的な能力があり、多くの怪異の原因になる存在であると様々な種類の伝説で伝えられてきました。そのため悪い存在であるという印象が強い妖怪ですが、鬼が村を守ったという良い種類の伝説もあり全ての鬼が悪い存在ということではないことが分かります。
鬼は3つの種類に分類される!それぞれが持つ特徴とは?
鬼には「神様」「霊」「妖怪」と主に3つの種類に分類することが出来ます。それぞれ異なる特徴を持っているので、3つの鬼の種類について一覧でご紹介していきます。
1.神様としての鬼
鬼は時として山や土地を守る神々を指し示すことがあります。この種類の鬼の特徴は、目が1つしかないという身体的特徴があります。また、人を助けるために超人的な能力を使ったという伝説が多く残り山神に属しているとされています。
雲
2.霊としての鬼
霊としての鬼の種類には、後程ご紹介する霊鬼といった鬼があげられます。多くの鬼は悪霊となった人の魂から生まれたとされており、人に災いをもたらすと人々から恐怖の対象としてこの種類の鬼は扱われています。
幽霊
3.妖怪としての鬼
妖怪のような存在が分からないものや、不思議な現象も昔は鬼の種類として扱われていました。昔の人々にとって未知の自然現象や、未確認生物に対する恐怖が妖怪や鬼として扱われるようになったのだと言われています。
節分でよく見る5色の鬼の意味は?どの鬼に豆を投げる?
鬼の色には仏教に由来した意味があり、「仏教の瞑想修行を邪魔する5つの煩悩」が鬼の色で表されています。その由来から自分が打ち勝ちたい煩悩の色の鬼に豆を投げると良いと言われている
鬼の由来や意味について理解した後は、鬼や妖怪の図鑑などでも人気の日本最強の鬼について名前や特徴について一覧でご紹介していきます。最強の鬼についての伝説などは、別の一覧でご紹介します。
1.酒呑童子
最強の鬼と言われる「酒呑童子(しゅてんどうじ)」は、平安時代に京の都付近で暴れていた最強の鬼だと称されています。鬼の種類の中でもかなり大柄で、身長は6m・角は5本あり目が15個もあると言われています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%BE%85
温羅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
温羅(うら/おんら)は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼[1]。
本項では温羅の解説とともに、温羅と吉備津彦命に関する「温羅伝説」についても解説する。
概要
温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされる。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり[2]、伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣され退治されたという[1]。
伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したものと見られ[3]、文書には数種類の縁起が伝えられている。また、この鬼退治伝承は桃太郎のモチーフになったともいわれる[1]が裏付ける史料等は見つかっていない。
内容
吉備地方の平野(鬼城山から望む)
伝承によると、温羅は異国から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたが、温羅はヤマト王権が派遣した武将から逃げおおせて倒せなかった[1]。このため崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の五十狭芹彦命を派遣した[1]。
討伐に際し、五十狭芹彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた[1]。温羅に対して矢を1本ずつ射たが温羅はその都度石を投げて撃ち落とした[1]。そこで命が2本同時に射たところ、1本は撃ち落とされたが、もう1本は温羅の左眼を射抜いた。すると温羅は雉に化けて逃げたので、五十狭芹彦命は鷹に化けて追った[1]。さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、五十狭芹彦命は鵜に変化してついに捕らえたところ温羅は降参し「吉備冠者」の名を五十狭芹彦命に献上した。これにより五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれるようになった[1]。
討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。この釜殿の精霊のことを「丑寅みさき」と呼ぶ[4]。
人物
温羅側
温羅(うら)
「吉備冠者」「鬼神」とも。
鬼ノ城を拠点とした鬼。渡来人で空が飛べた、大男で怪力無双だった、大酒飲みだった等の逸話が伝わる。
出自についても出雲渡来説・九州渡来説・百済渡来説・加耶渡来説・新羅渡来説など複数の伝承がある。
>689(持統天皇3)年に
>飛鳥浄原令(あすかきよみはらりょう)が発布されると、
>吉備国は備前国・備中国・備後国(びんごこく)に分割。
>播磨国から備後国まで一体運営していた状態から
>分割統治になることで、その勢力は大きく後退します。
>713(和銅6)年には備前国から美作国(みまさかこく)が分割され、
>今日まで旧国名として定着しています。
https://www.mapple.net/articles/bk/13667/
まっぷるトラベルガイド編集部
更新日:2022年4月8日
古代吉備国と大和朝廷の関係〜巨大古墳からひもとく〜
古代吉備国は最先端の技術を有し強大な勢力と化した
巨大古墳の築造には、測量や施工、膨大な量の鉄製農具や工具が必要です。これらの土木技術や製鉄技術には、渡来人が深く関わっていたと思われています。5世紀には多くの渡来人が、技術者集団として吉備国の古墳築造や製鉄に貢献。多くの人口と海上・河川交通に加え、最先端の技術を有する吉備国は、強大な勢力となっていきました。
古代吉備国は朝廷の直轄地に
吉備国を味方につけておきたい大和国は、555年に白猪屯倉(しらいのみやけ)・556年に児島屯倉(こじまのみやけ)を設置。朝廷の直轄地として、支配下に置きます。吉備国が大和国に服属したという見方もできますが、吉備国と大和国の間に目立った武力衝突は起こっていません。武力制圧によって支配されたというより、吉備政権の首長(地方豪族)が大和朝廷に加わったというニュアンスが近いようです。
古代吉備国と大和国の関係性が垣間見えるこうもり塚古墳
6世紀後半に築造された、こうもり塚古墳は吉備国の大首長の墓と考えられていますが、大和国(現在の奈良県明日香村)の石舞台古墳と同じ規模の巨大な横穴式石室に、石灰岩の一枚岩をくり抜いて造った「家形石棺」が安置されています。吉備国の首長は積極的に大和国に協力し、大和国も吉備国を認めていたのでしょう。
こうもり塚古墳
古代吉備国が有力な軍事拠点だったという証
飛鳥時代に入ってからも、吉備国と中央政権との協力関係は続きました。吉備国に古代山城が築かれたこと、外交と軍事の統括所である「吉備太宰(きびのおおみこもち)」が置かれていたことは、吉備国が有力な軍事拠点であったことの証といえるでしょう。679(天武天皇8)年には「吉備太宰・石川王が死去した」という知らせが届きますが、この石川王は吉備の総領だと考えられています。
関連記事
「鬼ノ城」は古代日本の防衛ラインだった〜桃太郎伝説の城〜
古代吉備国は分割統治になり勢力が大きく後退
しかし689(持統天皇3)年に飛鳥浄原令(あすかきよみはらりょう)が発布されると、吉備国は備前国・備中国・備後国(びんごこく)に分割。播磨国から備後国まで一体運営していた状態から分割統治になることで、その勢力は大きく後退します。713(和銅6)年には備前国から美作国(みまさかこく)が分割され、今日まで旧国名として定着しています。
ttps://ameblo.jp/asaborake/entry-11019361782.html
吉備路残照△古代ロマン
吉備路自転車道を回って以来すっかり古代吉備国の残り香に取り憑かれました。
歴史と神話が絡み合っているから多くの遺蹟の故事来歴が謎に包まれています。
鬼ノ城・温羅伝説・鳴釜神事等の謎に新しい解釈を加えていけるので楽しみです。
吉備氏と古代豪族
$吉備路残照△古代ロマン-古代豪族大和地方における豪族分布図
今、その豪族の末裔が皇居に住んでいる可能性が高い、と私は思う。
葛城氏かも知れない、吉備氏かも知れない、巨勢氏かも知れない、平群氏かも知れない、尾張氏かも知れない、大伴氏かも知れない、蘇我氏かも知れない、物部氏かも知れない、あるいは……。
もし吉備氏の勢力が強大だったころ、先陣を切って統一的な『歴史書』を編纂、流布させていたら……。
温羅の末裔一家が毎年、1月2日に高いところからガラス越しに手を振り、時折、幸せそうな家族団欒の絵柄を、日本国民に提供してくれていることだろう。
日本史上における『古事記』と『日本書紀』のもつ絶大な意義と影響力を思わずにはいられない。
吉備氏は大和政権の黎明期である3世紀頃、現在の岡山県全体(備前 備中 美作)と広島県の東半分(備後)と兵庫県の西部(播磨の一部)を中心に大きな勢力をもち、政権作りにも関与した。
但し、古代吉備国全体の統治者がいたわけではなく、何人かの首長が大和や出雲と対峙するために同盟を結び、それを吉備氏と称していたのである。
吉備地方は古来、温暖な気候に恵まれた代表な米作地帯。
また、中国山地産出の豊富な砂鉄と瀬戸内海沿岸での製塩、それに瀬戸内海という舟運に恵まれていた吉備は、朝鮮半島との交流もあって一大先進地帯を形成していた。
https://ameblo.jp/holypurewhite/entry-12086338916.html
吉備津神社
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岡山市の話をいくつか以前にご紹介させていただきました。
「吉備津彦$_社」 と 「鬼ノ城」 のお話です。
この時に 「吉備津神社」 にも参拝したのですが・・・実は、何も教えてもらえませんでした。
この神社のご祭神は 「大吉備津彦大神」 一般に言われている 「吉備津彦(きびつひこ)」 で、桃太郎のモデルとなっている人物です。
理由はわかりませんでしたが、シャッターをガラガラ閉める程度ではなく、なんというか、 「一切のものを通さない核シェルターの扉」 というくらいの防御をされました。
そうなるともう交信は不可能なので、仕方なく廻廊の方へ行ってみました。
この神社には、屋根付きの長い外廊下のような美しい廻廊があります。
廻廊を下っていると、いつの時代なのか判然としない、白い装束を着た巫女が十名程度、右往左往しているのが見えました。
多分、その場所の過去の映像だと思います。
全員、すごく慌てています。
衣擦れの音までハッキリ聞こえました。
どうしてバタバタしてるのかな? と思いましたが、廻廊はそこで右手にある御釜殿へ行くようになっていたので、先にそちらへ行ってみました。
御釜殿には、大きな釜が据えられていて、火が焚かれています。
この釜の下には、吉備津彦が退治した 「温羅(うら)」 が埋められているそうです。
温羅とは、桃太郎の鬼のほうのモデルとなった人物です。
温羅は吉備国に空を飛んでやって来て、鬼ノ城を拠点として一帯を支配したそうです。
温羅は、古代吉備地方の統治者であったとも、一説には百済の皇子だったとも言われています。
製鉄技術を吉備地域へもたらしたのは温羅という説もあります。
ですが、温羅は婦女子や船を襲ったとか、人間や猿を食べたとかも言われていて、人々から大変恐れられていたというふうになっています。
吉備の人々が都へ出向いて窮状を訴えたため、第十代崇神天皇の時代に吉備津彦が遣わされ、温羅を退治したのだそうです。
吉備津彦は温羅の首をはねて殺し、首を晒しましたが、死んだのちも温羅は唸り声をあげていました。
そこで吉備津彦は家来に命じて、犬に食べさせ骨だけにするのですが、唸り声はやまず、ついには御釜殿の釜の下に埋めた、という伝説が残っています。(この先も話は続きますが省略します)
その御釜殿は小さな建物になっていて、そこに据えてある大きな釜には火がくべられており、煙がもうもうと立ち込めていました。
私には釜の下に悪いものの首があるようには思えませんでした。
怨念も何もない、静かな空間でした。
長年、神事を行ってきたからそうなっていたのかもしれませんが、どうしても鬼の首が埋まっているとは思えませんでした。