1484. 日高見連邦[1] k_qNgoypmEGWTQ 2018年2月05日 14:09:29 : tsXSIcNyYQ : k2SCtJak7u8[86]
>>1481 のコメントを受けて・・・
ウィキより
『チャールズ・L・ケーディス』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BBL%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9
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チャールズ・ルイス・ケーディス(Charles Louis Kades、1906年3月12日 - 1996年6月18日)は、アメリカ合衆国の軍人・弁護士。ケージスとも呼ばれる。
GHQ民政局課長・次長を歴任。日本国憲法制定に当たっては、GHQ草案作成の中心的役割を担い、戦後日本の方向性に大きな影響を与えた。
GHQ民政局[編集]
1945年、第二次世界大戦終結後に進駐軍の一員として来日。はじめGHQ民政局課長、やがて次長となり、局長コートニー・ホイットニーの下で日本の民主化を推し進めた。
1946年2月3日、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーは、日本国憲法のGHQ草案作成を民政局に指示した。ケーディスは条文の起草を行うため7つの委員会と各委員会を監督する運営委員会を設置することを提案した。ホイットニーは提案を受け入れ、2月4日の会議で1週間以内に草案を作成するように指示した[2]。ケーディスら民政局員は昼夜を問わず作成作業に当たったが、局員の中に憲法学を学んだものが一人もいなかったため、作成に当たっては憲法研究会の「憲法草案要綱」の他、世界12か国の憲法を参考にしている[3][4]。2月7日以降に各委員会が作成した試案は運営委員会に提出され、8日から9日にかけて運営委員会で会合が行われた後、10日に草案はホイットニーからマッカーサーに提出した[5]。マッカーサーは一部の修正を指示した後、2月12日に「マッカーサー草案」として日本政府に提示した[6]。
3月4日、ケーディスは国務大臣松本烝治が提示した日本政府案と説明書の英訳を行うが、日本政府案がマッカーサー草案と異なっていることに気付き、「日本政府案は受け入れられない」と激怒し松本と口論となった[7]。松本は経済閣僚懇談会への出席を理由に退席したが、ケーディスは松本の助手である法制局第一部長・佐藤達夫を相手に口論を続けた。英訳作業を終えた後、ケーディスは日本側と憲法の最終案作成の作業に入り、32時間の議論を経た3月5日に最終案が確定し、翌6日に日本政府により最終案「憲法改正草案要綱」が公表された[8]。その後、憲法改正草案要綱は衆議院・貴族院での手続きを経て、1947年5月3日に日本国憲法として施行された[9]。
1948年、マッカーサーの命を受けてアメリカへ帰国。当時、大統領ハリー・S・トルーマンとGHQ最高司令官マッカーサーとの間では、対日政策を巡る主導権争いが激化していた。マッカーサーには、ケーディスを用いてアメリカ政府上層部における自らの支持層を拡大しようという意図があったと考えられるが失敗に終わり、1951年にトルーマンにより更迭され、アメリカへ帰国した。
晩年[編集]
1949年5月3日、GHQ民政局次長を辞任。彼は、日本国憲法施行から2年に当たるこの日を自ら選んだと言われる。その後、再び弁護士としてニューヨーク州で活動を始め、1976年に引退した。1996年に90歳で死去した[10]。
ケーディスは講演会や日本のNHKの取材を通して、GHQで自らが主導した占領政策の正当性を主張し、警察法改正や破壊活動防止法の制定、自衛隊創設などの、占領政策を是正する動きを批判し続けていた。
ケーディスの個人文書が、メリーランド大学図書館のゴードン・W・プランゲ文庫に保管されている[11]。
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【ケーディス 関連年表】
1945年 駐軍の一員として来日。GHQ民政局次長。(ホイットニーの部下)
1946年2月3日 マ将軍、民生局に日本国憲法のGHQ草案作成を指示。
1946年2月12日 「マッカーサー草案」として日本政府に提示。
1947年5月3日 『日本国憲法』が施行される。
1948年 マッカーサーの命を受けてアメリカへ帰国。
*アメリカ政府上層部におけるマ将軍への支持層を拡大を企図。
1949年5月3日 GHQ民政局次長を、自ら辞任。
1951年 トルーマンにより更迭され、アメリカへ帰国。
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さて、これも最初から気になっていた“銀蝿くん”の書き込みなんだが・・・
>>1491
>ケイディスが本国に召還されて後、チャールズウイロビーが後任となって、英文校正と
解釈に当たったことについて、コテ荒らし自ら、引用URLを敷いて証明している^^
う〜ん、上の年表からすると、ケーディスが48年に帰国したのはマ将軍の支持だし、
49年に政治局次長の職を辞したのは“自ら”だし、最終的にトルーマンに更迭されるのは
51年だし・・・。いずれにしても、ケーディスが“召還”され、後任のウィロビーが
英文校正・解釈当たったのは、新憲法が公布された47年5月以前の話しだという・・・
・・・つまり其の前の時点でケーディスは一時的にでも“民生局次長”の職になかったと・・・
ああ、ウィキの誤記、若しくは記述漏れネ!・・・な訳があるかようっ!!(笑)
“銀蝿くん”の浅はかな“偽造・捏造”の歴史が、また1ページ。
http://www.asyura2.com/18/senkyo238/msg/181.html#c1484