[ペンネーム登録待ち板6] 岸田首相は主権者を舐めるな !
岸田首相は主権者を舐めるな !
植草一秀氏ブログ「知られざる真実」2022年9月7日
沖縄県知事選が9月11日に投票日を迎える。
岸田内閣が全力を投入して戦っている選挙。
県知事選であるから沖縄県の問題が争点の中心だが、岸田内閣に対する主権者の評価も選挙結果に重大な影響を与える。
立候補しているのは
無所属現職の玉城デニー氏=共産、立民、社民、社大、にぬふぁぶし、れいわ推薦
無所属新人で前宜野湾市長・佐喜真淳氏=自民、公明推薦
無所属新人で前衆院議員・下地幹郎氏,前任・翁長雄志氏とともに玉城デニー氏は辺野古米軍基地建設に反対している。
米国は普天間の返還と引き換えに辺野古米軍基地建設を求めてきた。
当初、日本政府は辺野古米軍基地建設を容認したが2009年に樹立された鳩山由紀夫内閣が普天間の県外・国外移設方針を示した。
この方針は撤回を迫られ、後継の菅直人内閣以降の内閣が辺野古米軍基地建設容認の姿勢を示してきた。
しかし、基地建設の現場となる沖縄は米軍基地建設を容認していない。
2006年に沖縄県知事に就任した仲井眞弘多氏は普天間基地の県外移設を公約として知事選挙に当選したが、第2次安倍内閣発足後の2013年12月25日に安倍晋三首相と会談後に転向し、辺野古埋め立て承認を発表した。
辺野古米軍基地建設容認に転向した仲井眞弘多氏は2014年11月の知事選において、オール沖縄で辺野古新基地建設反対を掲げた翁長雄志氏に10万票の大差をつけられて落選した。
翁長氏の死去にともない実施された2018年9月30日投開票の知事選で辺野古米軍基地建設反対の公約を掲げた玉城デニー氏が佐喜眞淳氏に約8万票の大差をつけて当選した。
2006年の知事選以来、沖縄県民は沖縄に新たな米軍基地を建設することに反対し続けてきた。
そのなかで「転向」したのが仲井眞弘多氏。
「転向」の結果、仲井眞氏は2014年の知事選で大敗した。
2014年の知事選で当選した翁長雄志氏は、辺野古米軍基地建設阻止に向けての行動力に欠ける側面があった。
永田町の政権与党との対立を回避したい勢力が支持勢力の一部に加わっていたからと思われる。
2012年の第2次安倍内閣発足後、とりわけ、2013年夏の参院選で衆参ねじれが解消されて以降、政権与党による暴走が加速した。
国会を支配する政権与党は札束で頬を叩く対応を沖縄に対して強めた。
その結果、政権与党とのつながりを希求する勢力を中心に、辺野古米軍基地建設阻止のオール沖縄から離脱する動きが拡大してきた。
辺野古を擁する沖縄県名護市の市長選では2018年、2022年で辺野古米軍基地建設容認と見られる政権与党側の候補者が連勝した。
辺野古米軍基地建設を強行する政権与党・政府はカネの力で沖縄県民に基地建設を強要する姿勢を強めてきた。
この流れのなかで実施される今回の選挙。
辺野古米軍基地建設を阻止しようとする勢力は厳しい戦いを強いられてきたといえる。
しかしながら、政権与党に強い逆風が吹き始めている。
最大の転機になったのは、岸田文雄首相が故安倍晋三氏の国葬を実施する方針を拙速に決定したこと。国葬実施に法的根拠がない。
内閣府設置法が法的根拠であるとするのは詭弁。
内閣法制局の腐敗と堕落が鮮明だ。
内閣法制局は高度に専門的な見地から政府に対して法的判断を助言する機関である。
ところが、安倍晋三氏が首相である時代に内閣法制局の位置づけを変容させてしまった。
首相の意向に沿う判断を示す人物を法制局長官に起用するようになったから。
安倍氏が人事権を濫用して内閣法制局の機能を崩壊させた。
今回、内閣法制局は国葬に法的根拠がないことを内閣に示すべきだった。
ところが、法制局は国葬を実施するための口実として詭弁を提供した。
無論、最終的に責任を負うのは岸田文雄氏だ。
岸田氏は法的根拠のない国葬実施を国会審議も経ずに閣議決定した。
しかも、巨額の国費=血税が投入される。
国民の反発は日を追うごとに拡大している。
沖縄県知事選に政権与党の暴走に対する批判が影響を与えぬわけがない。
岸田内閣国葬NOの意思を含めて玉城デニー氏の再選に力を注ぐことが、沖縄県民にとっての正しい行動になることは明白である。
*玉城デニー
玉城デニー(たまき デニー、1959年〈昭和34年〉10月13日 - )は、日本の政治家、元タレント。沖縄県知事(公選第8代)。
本名は玉城 康裕(たまき やすひろ)[2][3][4]。
衆議院議員(4期)、自由党幹事長兼国会対策委員長、沖縄市議会議員(1期)などを歴任した。なお、知事業務上、法的効果を伴う行政文書には本名を使用している[5]。
来歴
米国統治下の沖縄、中頭郡与那城村(現・沖縄県うるま市)出身[6]。沖縄の米軍基地に駐留していた米兵の父と伊江島出身の母の間に生まれたアメラジアンである[7]。父の母国である米国に渡航することを前提に母親から「デニス(Dennis)」と名付けられるが、結局母は先に帰国した夫を追うことはなかった。小学校4年生のときに家庭裁判所に申し出て、「康裕(やすひろ)」に改名した。「デニー(Denny)」は子供の頃からの愛称であった[2]。母親は「基地特需」で沸く沖縄において、生活費を稼ぐために住み込みで働く。そのため玉城は10歳まで母親の友人宅に預けられ、そこで育った[8]。
与那城村教育区立与那城小学校、与勝事務組合立与勝第二中学校、沖縄県立前原高等学校、上智社会福祉専門学校(福祉主事任用課程)卒業[9]。福祉関係の臨時職員、インテリア内装業、音響関係の会社勤務などを経て、30歳のときにタレントとして独立。琉球放送ラジオ(現在のRBCiラジオ)の人気番組「ふれ愛パレット」のパーソナリティや[10]、1998年7月にスタートした沖縄市エフエムコミュニティ放送の「OKINAWAミュージック・タペストリー」の総合プロデュースとパーソナリティ[11]、イベントの司会などを務めた。ラジオでは沖縄語を駆使し、高齢者から絶大な支持を受けた[12]。
2001年12月、周囲から翌年4月に控えた沖縄市長選挙[13]への立候補を促される。選挙も政治も何もわからなかった玉城は琉球放送の職員に相談したところ、嗅ぎ付けた新聞社に翌日の朝刊に「玉城デニー、沖縄市長選挙出馬へ」と記事にされてしまう。当時玉城は月曜日から金曜日まで朝8時半から11時までの帯番組「玉城デニーのすまいるスタジオ」を担当していたが、その日で番組を降りることになった。母親からは「人の口車に乗って馬鹿だね」と言われ、鬱々とした日々を送る[2]。
2002年5月に一念発起し、その年の9月の沖縄市議会議員選挙への立候補を決意[2]。史上最多得票でトップ当選を果たした[14]。2004年6月には下地幹郎らが旗揚げした政策集団「そうぞう」に参加した[15](後に「そうぞう」が政策集団から政党そうぞうに改組された際は参加せず)。
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/15921.html
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