289. 皇国史観と南朝楠正成[1] jWONkY5qis@CxpPskqmT7ZCzkKw 2021年9月01日 21:14:27 : nDRCHW0fDY :TOR M0NqT1VhYkdoWlE=[3]
先日の報道によると防衛費要求額が3兆何千億円でしたか。
所詮「国防」を大義名分とした「軍産企業」の利権ビジネス。
岸防衛大臣が手にしている本年の「防衛白書」表紙が馬上の
楠正成。
外国勢力のバックアップを受けた「長州勢力」が徳川幕藩
体制転覆クーデターに利用した「尊王・尊南朝」。
上野の西郷どんの像も皇居外苑にある楠正成像も高村光雲が
製作に携わったのだとか。
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-f2325c.html
2021年7月18日 (日)
楠木正成の亡霊を呼び起こしてはならない!
https://hatakensan.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/hyoushi.jpg
※画像は13日に発表された日本の「防衛白書」の表紙
添付の画像の絵を見ていただきたい。
これは、本年の防衛白書の表紙に描かれた騎馬武者の墨絵だが、何をモチーフとしているか、銅像マニアならピンとくるはずである。
これは、皇居前広場に建つ楠木正成像に他ならない。
こちら
↓
【楠木正成像】
https://www.sumitomo.gr.jp/history/related/kusunoki/
馬の脚の形、武者の身体の捻り具合、全てそっくりである。
この銅像は、憲さんから言わせると上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と並び、東京の「ぶっ倒したい」三大銅像の一つである。
憲さんがこの事実を知ったのは今日の東京新聞、前川喜平さんの「本音のコラム」の「楠木正成の亡霊」というコラムである。
短いので全文引用する。
以下、引用。
2021年防衛白書が公表された。台湾情勢の安定が日本の安全保障にとって重要との記述が盛り込まれたが、このような記述は専守防衛の原則を逸脱している。
だが、僕がまず違和感を持ったのはその表紙が皇居外苑の楠木正成像を描いた墨絵だったことだ。高村光雲と弟子が造ったこの銅像は確かに傑作だが、なぜそれが防衛白書の表紙なのか。 戦前の皇国史観において、楠木正成は天皇に忠義を尽くした忠臣と称えられた。七生滅賊(七回生き返って朝敵を滅ぼす)は正成が残した言葉だ。
高村光太郎が敗戦後に書いた「楠公銅像」という詩がある。楠木像の木型を天皇にご覧に入れたときの楔を一本打ち忘れたため、風が吹くたびに劔が揺れた。「もしそれが落ちたら切腹と父は決心していたとあとできいた」「 父は命をささげていたのだ。 人知れず私はあとで涙を流した」この詩は父光雲の忠義を賛美しているのではない。
それに感動した自分を深く反省しているのだ。
光太郎は「典型」という詩で自らを「三代を貫く特殊国の特殊の倫理に鍛えられ」た「愚劣の典型」と呼んだ。 楠木正成に象徴される忠君愛国の倫理を捨て、その倫理に染まっていた愚劣な自己と決別したのである。私たちは光太郎の精神的転回を追体験すべきだ。 楠木正成の亡霊を呼び起こしてはいけない。 (現代教育行政研究会代表)
以上、引用終わり。
参考
↓
【高村光雲】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E5%85%89%E9%9B%B2
これに対し息子の高村光太郎は戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことを自省するなど進歩的な知識人であった。
参考
↓
【高村光太郎】
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E
そして、光太郎はこの楠木像や、上野の南洲西郷隆盛像など、父親光雲の作品を「芸術」としては認めていなかったようだ。
「父との関係―アトリエにて2―」でこのように書いている。
父の作品には大したものはなかつた。すべて職人的、仏師屋的で、又江戸的であつた。「楠公」は五月人形のやうであり、「南洲」は置物のやうであり、数多い観音、阿弥陀の類にはどれにも柔媚の俗気がただよつてゐた
光太郎の『楠公銅像』という詩は知らなかった。
以下である。
楠公銅像
――まづ無事にすんだ。――
父はさういつたきりだつた。
楠公銅像の木型を見せよといふ
陛下の御言葉が伝へられて、
美術学校は大騒ぎした。
万端の支度をととのへて
木型はほぐされ運搬され、
二重橋内に組み立てられた。
父はその主任である。
陛下はつかつかと庭に出られ、
木型のまはりをまはられた。
かぶとの鍬形の剣の楔が一本、
打ち忘れられてゐた為に、
風のふくたび剣がゆれる。
もしそれが落ちたら切腹と
父は決心してゐたとあとできいた。
茶の間の火鉢の前でなんとなく
多きを語らなかつた父の顔に、
安心の喜びばかりでない
浮かないもののあつたのは、
その九死一生の思が残つてゐたのだ。
父は命をささげてゐるのだ。
人知れず私はあとで涙を流した
以上
『典型』という詩は以下である。
典型
今日も愚直な雪が降り
小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
小屋にいるのは一つの典型、
一つの愚劣の典型だ。
三代を貫く特殊国の
特殊の倫理に鍛へられて、
内に反逆の鷲を抱きながら
いたましい強引の爪をといで
みつから風切の自力をへし折り、
六十年の鉄の網に蓋はれて、
端坐薫服、
まことをつくして唯一つの倫理に生きた
降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
今放たれて翼を伸ばし、
かなしいおのれの真実を見て、
三列の羽さへ失ひ、
眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
四方の壁の崩れた廃城に
それでも静かに息をして
ただ前方の広漠に向ふという
さういふ一つの愚劣の典型。
典型を容れる山の小屋、
小屋を埋める愚直な雪、
雪は降らねばならぬやうに降り
一切をかぶせて降りに降る。
以上。
高村光太郎はこの詩を作ることにより「楠木正成に象徴される忠君愛国の倫理を捨て、その倫理に染まっていた愚劣な自己と決別した」のだ。
http://www.asyura2.com/21/senkyo282/msg/721.html#c289