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私は普通の人です joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw コメント履歴 No: 100000
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[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
28. 私は普通の人です[1] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月12日 22:19:03 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[1]
悟りを得るには煩悩を捨て〜みたいに言われていますが実際は違います。
なぜなら煩悩を捨てるという事自体が既に欲だからです。
加えて悟りを得ようとすること事態も欲です。得られるはずもありません。

悟りは得るものではなく、自然と身につくものです。
ではどうすれば身につくのか。簡単です。簡単ですが難しくもあります。

まず、自身が存在しない体で全てを見ます。そうすれば、そこに自身は居ないので自身の欲がない状態で全てを見ることが出来、何かに肩入れすることなく本当の意味での客観的な見方ができます。その状態で全ての問題を見ればどうすれば良いかが見えてきます。

ただし、その時点でのその人の価値観や、何に重きを置いているかなどが完全に影響しないようにしなければ、真に問題を解決することはできません。

そして自分が居ない状態で考え、しかし自分はそこに居る状態で、ありとあらゆる全ての良き調和を成す事を考えれば、全ての問題は解決するでしょう。ただし、自分が得ていない知識に関しては解決は出来ません。そうしたものはどうすれば解決できるかアドバイス程度は出来ます。

なので、悟りを得た人に頼るのではなく、自分自身が悟りを得れば、ありとあらゆる立場に居る人が自分自身で最良の解決策を見つけることが出来るようになるでしょう。

なぜ最善ではなく最良なのか、それは最善は人間が居なくなることだからです。人間が居なくなれば全ての問題は無くなります。解決ではなく無くなります。それはいきすぎなので最良で良いのです。

話を戻し、では煩悩はどうやって捨てるのか。苦から逃れるには。
上記で述べたことに加え、常に正しさを求める心、正しい道に導いてあげたいという思いやり、思い込まず決め付けない様にする意思、特定の何かに対する愛を全てにもつ(ここでいう愛は優しく強く時には厳しく場合によっては突き放し、しなやかに相手を見守るように想う心です)、これらを理解し、身につければ、自身の苦や悲しみなどは自身で解決できるようになり、また他の苦や悲しみも自身の苦や悲しみとして解決できるようになり、結果としてそれらを解決し、癒し、真実の幸福へと導くことが自身の幸福となり、全ての苦や悲しみは解決に至るようになるのです。

最終的には、世界から問題は最小値になります。何故最小値か、それは子が生まれてくる以上、常に問題は残るからです。また悟ったといってもそれは悟っただけで、何かを行えば、悟った人も人である以上、問題は起こりえます。が、悟っているので問題は最良の形で解決できるでしょう。

加えて、悟ったからといって苦や悲しみから永遠に逃れられる訳でもありません。
あなたが悟っても他者が悟っていなければ、それについての苦は経験の度合いによってついてきます。その時の苦に屈すれば、悟りを得た状態から悟りを理解だけしている状態になってしまいます。

欲を捨てるのではなく、欲を捨てて考え、欲を抑える術を知る事が肝要なのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c28

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
29. 私は普通の人です[2] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月12日 22:44:33 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[2]
付け加えておきます。

自分中心で物事を考える時に現れるのは我欲です。>>28での欲は我欲としてください。自分が在っての愛する人、自分が在っての家族、会社、国、人類、地球、などなど、どれも自分中心で考えるので、いくらそれらを想っていたとしても、そこには自分が必ず存在します。なので皆、基準がばらばらになり、考え方が違ってきて問題が起こり争いになり、そこから苦や悲しみが生まれ、また新たな問題が生まれと負の連鎖となるのです。

下のほうのも欲ではないかと思う方も居るかもしれません。ですがこれらは、我欲でもなく他欲でもありません。自身が存在しない欲の無い状態で見たものなので、欲には含まれないのです。

もうひとつ、心を強くもってください。心を強く持つには覚悟することです。勝とうとするのではなく、全ての幸福の為に屈しないという想いです。

さらにもうひとつ、悟りを得ても、問題を解決出来る様になるだけで、解決するかどうかを決めるのは皆さん次第です。他者の幸福などどうでも良いと言うのであれば、悟りなど得ない方が良いでしょう。あなたの真意が試されるときですね。

最後に、これらは全て私が得たものであり、私の経験の結果です。皆さんはこれを完全に信じないようにして下さい。思い込まず決め付けずです。私に言えることは、これらは数学の公式の様なもので、誰にでも自分のものに出来るということだけです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c29

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
30. 私は普通の人です[3] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月13日 00:33:37 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[3]
>>29の下から5行目の「他者の幸福」は間違いで、「自分以外の幸福」です。訂正しておきます。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c30
[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
31. 私は普通の人です[4] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月14日 23:49:36 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[4]
これだけでは本当に悟りを得られるかどうか、疑問に思う方も居ると思うので、いくつか問題を解決しておきます。

偶像崇拝をしてはならない、というのがありますね。
一般的には、仏像を拝むなとか、そういう感じになっていますが、違います。

偶像とは、ありとあらゆる全てを指します。物質的に存在するもの、物質的に存在しないもの、全てです。

崇拝とは、それらを信じることです。身や心をゆだねてしまうことです。

なぜ偶像崇拝がいけないのかといえば、信じるということは、自分で考えずに他人任せにしてしまうことになり、自分自身では解決できなくなってしまうからです。

人間や、神、仏、救世主、天使、悪魔、善や悪といった創りだされた概念、その他全て、信じてしまうと、それらが言ったことや記したことは間違いないという風になってしまいます。

それらが本当に正しい事を言っていたり記していたりすれば、信じても旨くはいきますが、そうでなければ旨くいきませんし、場合によっては騙されます。

信じてはいけませんが、疑うな、信じるな、と言っている訳ではありません。
取りあえず信じてみて、それらを参考にして自分自身で考え、おかしいと思えば信じるのをやめれば良いのです。もしくは信じる対象をより正しく導けば良いのです。

こうしなさい、これが正しい、それは間違っている、などと、決め付けて言うのは簡単ですし、言われて従うのも簡単です。ですが、それらは偶像崇拝と同様に、言う人次第です。

そういった事を言う人に、そこは、これこれこういう理由でおかしくないかな、と説明しても聞く耳を持たない人は、貴方よりも未熟な人です。勿論、貴方の方が間違っている可能性もあるので、うぬぼれは禁物です。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c31

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
32. 私は普通の人です[5] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 00:17:46 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[5]
因果応報というのがありますね。

良い行いをすれば良い行いが返ってきて、悪い行いをすれば悪い行いが返ってくる、みたいなかんじでしょうか。

自然界を見てみます。カマキリが蝶を食べました。そのカマキリを鳥が食べました。その鳥を人間が食べました。因果応報が在るのならば、人間は何かに食べられなければいけません。

食べることは悪いことではない、と言う方が居るかもしれません。では、人間が人間を食べることも悪いことではないのでしょうか。自然界の法則であるならば、悪いことではありません。が、人の世の法則では悪いことです。

人間が人間を食べて良いという事は、何をやっても良いという事に繋がってしまいます。ので、人間の世界では弱肉強食を行ってはならないのです。

話を戻しますが、因果応報が在るのならば、自然界では何も生き残れなくなります。全ての種は何かを糧にしているので、子孫は残らなくなるからです。

では人間界での因果応報を考えてみます。

良い事をすれば良い事が返ってくる。当たり前の様に聞こえますが、良い事をしても何も返さない人もいます。逆に、良かれと思ってやったことが裏目に出て、悪い事が返ってくることもあります。悪いことをした場合も同様です。全ては人次第です。

では何故、因果応報という概念が生まれたのか。
ひとつは、この概念が広まれば、何も考えずに信じる人は、良い行いをし、悪い行いをしなくなるからでしょう。ですが、何が良くて何が悪いかは人それぞれです。だから意見の違いから衝突が起こります。双方、よく解ってもいないのに、良い悪いを譲らないからです。

真に良い良くない(悪い)は、悟りを得なければ解りません。時々答えに辿り着く人も居ますが、的確な説明が出来ない人ばかりです。

もうひとつは、先ほど説明した事を利用して、争いを起こさせる事を目的としている場合です。もしくは、自分の基準を他者に刷り込み、自分が幸福になる事を望んでいる可能性もあります。そこに他者の幸福を望むという歌い文句はあっても詭弁です。

これらはなるべくそうではないと信じたいものですね。解決するには、近しい人が悟りを得て、それらを広めた人に問うしかありません。もしくは、それらを広めた人が悟りを得るかです。

ともかく、まずは貴方が悟りを得る事が肝要です。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c32

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
33. 私は普通の人です[6] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 00:54:54 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[6]
輪廻について考えてみます。

輪廻とは、人は産まれて来る前に違う人生を経験し修行をして産まれてくる、また、死んだ後は産まれ変わり、また新たに修行をする、みたいな感じでしょうか。

私は産まれてくる前の記憶は在りません。また死んだ後どうなるかも知りません。産まれてくる前も死んだ後も、そんなの解るはずもありません。解ると言う方いらっしゃるなら是非お会いして話をしてみたいものです。

私は、変わった体験を何度かしました。人はそれを奇跡とよんだり、神の思し召しとよんだり、精霊が起こしたとよんだり、色んなことを言います。ですが、私は私の経験したことは、単に不思議な体験としかしていません。

不思議な体験をしたのですが、もしかしたら、それらは、私が今まで経験していなかっただけで、特別不思議な体験ではなかったのかもしれません。実際、麻薬や脳内麻薬などで、幻覚を見るなどと言われていますし、もしかしたらただの幻覚だった可能性もあります。

私にとって、その不思議な体験は、世の中常識で推し量れないことも在る、ということを学べた良いものだった、というだけにしています。これで十分だと思います。

話を戻します。
私は、輪廻は、因果応報と同様に、人間が作り出した概念に過ぎないと思います。
では何故、創られたのでしょうか。

ひとつは、生前死後が在るのならば、死は怖くない、恐れることは無い、死を悲しむことも無いと出来るからです。この考え方は、戦争にも役立ちます。戦争自体は良い事でも悪い事でも在りませんが、戦争を起こす人間が未熟であれば、当然悪くなります。火や刃物や核技術など、ありとあらゆる全ては人間次第で良くも悪くもなります。

もうひとつは、貧乏なのは生前悪いことをしたから、金持ちなのは生前良い事をしたから、とありますが、これはつまりは、お前は悪い事をしたから貧乏なんだ、そのまま貧乏でいろ、自業自得だ、となります。逆に金持ちは金持ちのままです。恐らくは、権力者が自分たちの都合にあわせて創ったものだと思われます。

加えて、仮に、輪廻が在ったとして、貴方は産まれかわりがあるのだから悟りを得るのは来世で良いとするのでしょうか。はっきり言いますが、悟りを得るのはわりと簡単です。貴方が覚悟を決めればわりとすぐです。輪廻があったとしても、貴方が悟りを得るのを先延ばしにすればするほど、他の存在が理不尽な目にあいます。

また、釈迦は何度も何度も生まれ変わってようやく悟りを得た、みたいな事が言われていますが、これも恐らくは、そんなにかかって悟りを得たということは、釈迦は特別で自分たちには無理だな、と思わせるためとも取れます。これも権力を維持するために都合がよいですね。いつまでたっても信者や他の民は悟りを得られず利用されつづけます。

ちなみに、これらは私の考えに過ぎないので、皆さんが悟りを得てご自信で考えて正しいかどうかを判断してください。


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c33

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
34. 私は普通の人です[7] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 01:51:21 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[7]
二極論について考えてみます。

二極論の代表例、善と悪、これは本来はないものです。この概念は二極論の中でもっとも争いを生むものと言っても良いかも知れません。

当然ながら、善と悪は対立します。場合によっては裏で繋がる場合も在ります。互いが妥協しあって仲良くすることも出来なくはありませんが、所詮はまやかしです。理不尽な目にあう存在は必ず出てきます。

人は誰しも産まれてきた時は無垢です。先祖代々受け継いだDNAの影響を受けて、性格や何を受け入れやすいかに個体差はあれど白紙の状態です。その白紙に、色んな人や物などに接して得た情報を取捨選択して、基準や価値観が形成されます。もちろん、輪廻などがある可能性も考慮しても良いですが、この問題にはさほど影響がないので置いておきます。

つまりは善と呼ぶ存在になるか、悪と呼ぶ存在になるか、これも人次第です。人とは本人だけではなく周りの人全てです。が、どちらになっても良くはありません。善が在るから悪が産まれます。なぜなら善は善の基準にあわない存在を悪とするからです。悪もまたしかり。

善も悪も無くした方が良い概念です。善は良い、悪は良くない、に置き換えましょう。そうすれば、対立は起きません。悪は善に置き換えられませんし、善は悪に置き換えられません。嫌っているから仕方の無いことです。しかし、良い良くないにすれば、良いところは伸ばし、良くないところは見直して良くする事ができます。

人は皆繋がっています。貴方と貴方の家族、友人、愛する人など、貴方と関わっている人に関わっている人、貴方に関わっている人に関わっている人に関わっている人、結果として、貴方は貴方以外の全てと関わっています。

貴方が何かをすれば、貴方以外の全ての人に貴方が影響し、誰かが何かをすれば、それは貴方にも影響してきます。つまりは、何かが何かをすれば、責任は全てに在るという事です。勿論責任の重さは違います。が、結果として解る事は、責任は誰か一人に取らせるものではなく皆で背負うものということです。

誰か一人に、特定の集団に、責任を取らせる事は楽ですよね。自分は関係ない、自分は悪くない、あいつが悪い、そう思いたいのは解りますが、それは良くないことです。なぜ、こんなことになっているのかと言えば、人間が未熟だからに他なりません。悟りを得るものが増えれば、こういったことはいずれなくせます。

そして未熟だけならまだ良いですが、悟りを得る術が在るのにそれを行わないのは愚かです。自分以外の幸福はどうでも良い、自分が関わっている範囲だけ良ければそれで良い、そういう考えが争いを生む原因となっている事にどうか気づいてください。


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c34

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
35. 私は普通の人です[8] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 04:11:00 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[8]
因果応報に関して、ひとつ忘れていたので付け加えておきます。

例えば、自分が誰かに何か嫌な事をされたとします。
馬鹿にされたり、いじめられたり、騙されたり、盗まれたり。因果応報があるからと、自分がこれらに対して何もしなければ、貴方以外の誰かが同じ目にあいます。

もちろん、貴方以外の誰かが何かしてくれる事もあるでしょうが、それは確実ではありません。その誰かが悟りを得ていれば良い解決は出来るでしょうが、そうでなければ必ず問題点は残ります。その場は解決できても最良ではないので問題は派生するのです。

かといってやられたらやり返せとは言っていません。あなた自身が考えて、やられた相手に貴方が思う最良の何かをすべきなのです。貴方に出来なければ貴方の身近な人に頼っても良い。とにかく相手がそれ以上貴方にやったような事をしなければそれで良いのです。

ですが、一番良いのはやはり、悟りを得て貴方自身が最良の解決をなす事です。悟りを得た者に頼るのも構いませんが、その者が居なければ、居なくなったら、どうしようもなくなります。

つまりは因果応報は、悪いことをしたい者にとっては都合の良いシステムだと言うことです。現在なら、まだ警察や軍隊や法などがあるので、悪いことをすれば、それ相応の報いを受けますが、結局はばれなければ報いは受けません。

また因果応報が創られたのは相当昔であろうと思います。その当時に、今のような警察や軍隊や法があったでしょうか。今よりははるかに悪い事をばれずにやりやすかったはずです。

結局のところ、これも悪い事をしたい人、いつの時代かの権力者が創りだした可能性があろうかと思います。もしくは、最初は普通に良い意味で作られたものが利用されたかです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c35

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
36. 私は普通の人です[9] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 05:00:23 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[9]
一応、悟りを得るにあたっての注意点というかアドバイスをしておきます。

釈迦は悟りを得るにあたって、魔から色々と妨害を受けたとされている様ですが、私も似たような経験をしました。一応言っておきますが、私は悟りという言葉を使っていますが、それが悟りかどうかは解りません。おそらく悟りだと思うので悟りという言葉を使っているだけだということをご理解ください。

私の場合は、色々不思議な体験をしただけで、それが魔かどうかは解りません。自然現象だったり、人工物だったり、人間だったり、夢だったりしました。

はっきり言える事は、どれも私の弱点に向けられていると言うことです。ので具体的な事は書きません。人それぞれ弱点は違います。

肝心なのは、それらを跳ね除けたり、無視したり、堪えたりすることではなく、理解することです。なぜそういった事をしてくるのか、起こるのか。なぜ理解なのか、それは理解すれば、それらに対する不必要な感情が生まれなくなるからです。

幼子が貴方の手をつねって、その幼子に何か嫌な感情が沸くでしょうか。幼子のすることだからたいした意味はないと本能的に理解しているから嫌な感情は沸かないはずです。結果として幼子とは仲良くやっていけます。これが赤の他人なら違ってくるはずです。

私はこれで結構しんどい思いをしました。少しの間ですが絶望感を味わったりもしました、が、深く考えれば理解に至るのですぐ立ち直ります。問題解決の最善は死です。では自殺が良いのか、となりますが、深く考えれば最善ではなく最良の生となります。ちなみにこれも私の考えなので信じないで御自身で考えてください。

ちなみに私は今、悟りは得ていないと思います。得てはいましたが、色々あって理解だけしている状態だと思います。なぜなら以前はありとあらゆる全ての良き調和を心から願い、心の底から全ての幸福を願っていたのに、今はそれがたぶんありません。

そういった事への執着がなくなりました。もしかしたら、こっちの方が本当の悟りを得た状態かもしれませんが、私にはよく解りません。私は私の人生が終わったら、もう消えてしまっても良いと思っています。今の私の理想は無です。今の世の中や人間を見ていたらそう思うようになりました。

ですが一応、自分が得たものは真に人の為になると感じるので残しておこうと思います。

弱点を克服するには心を強く持ち、深く考え理解することです。


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c36

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
37. 私は普通の人です[10] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 05:47:30 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[10]
人の嘘の見破り方を記しておきます。

人の嘘を見破るには、その人の信念を知ることです。言わせる事です。
信念などないと言う人は嘘を付くのに抵抗がないので信じない方が良いでしょう。

信念が解れば、その信念に沿わない事を言っている場合に、それを指摘し、それはこういう理由でおかしいのではないかとし、問いただす。問いただしても改めない場合は、単に心が弱いか、もしくは知っていて嘘をついているかです。

心が弱いだけなら正しい道へ導いてあげることができますが、知っていて嘘をついている人はそうはいきません。その場でハッキリさせなければ、また別の場所で同じ事をするでしょう。

なぜ知ってて嘘をつくのか、それは本当の信念が別にあるからです。嘘も方便と言いますが、この場合の嘘は良くありません。話が進まなくなるからです。解決するものが解決しなくなります。

人は皆、繋がっています。はじめは皆無垢で、そこから色々吸収していった筈です。おそらく最初は誰もが未熟だったでしょう。ですがある時何か問題が起こってそれを最良の形で解決できなかった。そこから負の連鎖が始まり今に至っているのでしょう。

知ってて嘘をつく人もそういった負の連鎖の被害者と言えます。
犯罪を起こす人、お金にがめつい人、戦争をしたがる人、またそういう人から被害を受ける人、人間以外のありとあらゆる全てもそうです。全て被害者です。

いいかげん責任の擦り付け合いはやめるべきです。悪いこともやめましょう。貴方の大事な人が同じ目かそれ以上の目に合うかもしれません。その時になって気付いても遅いのです。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c37

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
38. 私は普通の人です[11] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月15日 20:48:02 : W64jYYOSeo : BeysKTMvgV4[11]
>>37の下から3行目の、全て被害者です、を、全て被害者であり加害者でもあります。に訂正しておきます。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c38
[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
39. 私は普通の人です[12] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月16日 20:05:42 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[1]
善が先に生まれたのか、悪が先に生まれたのか、恐らくは善ではないでしょうか。

善と言っても善が正しいという意味ではありません。
人によって何が善かは違います。おそらく、はじめに何か問題がおき、それに対する取り決めの様なものができたか、その問題を起こしたものを責めたかでしょう。責めた方は自分は間違っていないと思っていたことでしょう。責められた方は何故自分が悪いのか理解していなかったでしょう。誰も悟りを得ずに何が良くて何が良くないか解っていなければ仕方の無いことです。

おそらくこれが善の始まりだと思います。そして問題を起こした側が悪とされた。
問題を起こすのは当事者ですが、その当事者が問題を起こす様に成長したのは、周りの全ての影響です。その当時はそこまで解っていなかったでしょうから責めることは出来ませんが、それが解ったら素直に認めることが大事なのです。

認めなければ責められるのは当然ですし、また良くないにも成らずに悪のままです。
悪とは自身にある責任を認めないことです。責任を認め、反省すれば、悪から良くない部分に成り、いずれは良くなる。

自身の悪い部分を認めれば謝罪したくなり、和解に至る。しかし、謝罪される側が拒めばそれも成り立たない。謝罪される側にも問題があり、謝罪を受け入れる責任があり、それを認めなければ謝罪される側もまた悪です。被害者であっても悪なのです。

また当事者にはあたらない部外者も、当事者らを見て見ぬふりするのは、悪です。部外者に何が出来るかは人それぞれ異なりますが、問題に対して自身にやれる事をやらないのは悪といえます。

もちろん、悟りを得なければそれらは解らないでしょう。ですが、悟りを得れば解る様になります。皆さんがすべき事は悟りを得る努力をする事です。つまりは悟りを得る事が皆さんのやるべき事です。

ちなみに悟り悟りと言っていますが、私は仏教徒ではありません。他宗教にも入ってはいません。悟りを得てよく考えれば、悟りを得ていない何者かによって産み出された思想に占脳される事も無くなります。

私もまだまだ未熟な部分は多々ありますが、悟りを得られれば、その未熟な部分もふとしたキッカケで改良する事ができます。

知らなかったら大丈夫、みたいな事を思ってる人も居るかもしれませんが、知らなかろうと問題は問題です。責任の重さに多少違いはあれど、その責任から逃れることはできません。悟りを得なければ、その負の螺旋からは抜け出せません。

皆さんが真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c39

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
40. 私は普通の人です[13] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月17日 05:36:11 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[2]
ボランティアについて考えます。

私は悟りを得る少し前、地元の海岸がゴミで溢れかえっているのが耐えられなくてゴミ拾いをしました。ボランティアには参加していませんが掃除をしました。少しは綺麗になったと思います。

掃除することは良いことです。ですが、それは自分が出しだゴミや汚れに関して言える事です。平気でポイポイとゴミを捨てる人の分まで掃除する必要はありません。ですが、海岸を綺麗にしたい、町を綺麗にしたい、という想いは良い事です。

ではどうすれば良いのでしょうか。

ゴミを捨てる人を注意すれば良いと言う人が居るかもしれませんが、それでも捨てる人は捨てますし、新たに捨てる人も出てきます。

ゴミを捨てても良い様に、自然に返る素材でゴミとなるものを作れば良いのでしょうか。これも良い事ですが、自然には返るまでは見た目はゴミですし景観は損なわれます。

結局のところ、各々がゴミを捨てたら色んな人が嫌な想い、理不尽な想いをするという事を、捨てる人、ゴミの元を作る人、ボランティアをする人、それらに関わっていない人全てが気付かなければなりません。

結局は、最良は各々が悟りを得る事です。それを気付かせるまでは、ボランティアはしない方が本当は良いのです。ですが、ボランティアをやりながら気付かせることができるのならば、それに越したことはありません。しかし、大きな問題にならない限り重くは受け止めないのではないでしょうか。

そしてもうひとつ、見方を変えれば、これも裕福な商売人にとって都合の良いシステムです。自分たちは、ゴミの問題を気にせずにすみ、ボランティアにやらせておけばいい訳ですから。一見持ちつ持たれつの関係になっていますがどちらの為にもなっていません。

また、後進国でのゴミ問題もそうです。彼らは我々日本人と違って文明の利器を自ら開発したわけでは在りませんので、それらをどう処理すれば良いかも良く解っていません。当然ゴミ問題は生まれますし、そこから派生する有害物質による害や、そこから派生する奇形児や障害児問題もあります。

加えて、これはゴミ問題だけではありません。おおよそお金が絡む全ての生業に言えることです。そしてこれは人間だけの問題でもありません。人間以外の生物や植物、自然環境、ありとあらゆる全てに派生します。人間はそういったありとあらゆる全てから恩恵を受け、またそれらは人間と対等な関係であると気付かなければなりません。人間が一番偉い事などないのです。自惚れてはいけません。

いつの時代も問題を起こすのは、我欲の過ぎる人です。ですが、我欲が過ぎる人が問題を起こすに至る様に成るのは、その他全ての人も関係しているのです。悟りを得て、人の世の真理を理解しなければ、本当の意味での解決には至らないという事に、どうか気付いて下さい。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c40

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
41. 私は普通の人です[14] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 09:36:35 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[3]
>>28でも少し述べましたが、仏教では「捨てる」ことが良いとされているようです。
これも在り得ない事です。そもそも捨てるということ事態も我欲であり他欲でもあります。

悟りを得る為に捨てる事は我欲です。また捨てれば拾う人が出てくるでしょう。その人が拾えば拾った人の我欲が満たされ、自身の欲を捨てたいが為に他者に欲を発生させてしまう事になります。つまり捨てれば良いというのは間違いです。

また、悟りを捨てさせようとするのも欲です。そこに我欲が無く本当の親切心からそう想っているとしても、それは他欲にあたります。そんな事で悟りは得られないからです。得られないのに捨てさせるということ事態が間違っているので、良くない事です。他者に間違いを選択させてしまっています。

結局は、>>28に行き着きます。
自分がいない状態で全てを客観的にみて問題を見る。そしてそこに自分を置き問題を解決する。これをしないと捨てるの行き着く先は「死」そして「無」です。魂や霊魂などが在るとすればそれらも捨てる=消滅する事になります。

私個人としては、今の様な人の世で在り続けるのならば、それも選択肢のひとつだとおもいます。実際、私自身は今は無を望んでいます。

ですが、皆が悟りを得て、分別をわきまえ、自然の摂理の中では平和など在り得ない人間が、人の世の真理を成せば、本当の意味での平和が成るでしょう。そこに差別はありません。しかし区別はあります。区別が無ければ世は混沌と化すでしょう。

話を戻し、では何故、「捨てる」事が良しとされたのか。

ひとつは、釈迦の教えを取り違えた、でしょうか。これは少し楽観的過ぎると思いますが可能性としては一応あります。

ひとつは、釈迦が間違っていた、でしょうか。今ある仏教の話などを聞けばこれも在り得ますが、中には正しいと解釈もあるので、可能性は低いかと思います。

おそらくは、これもいつの時代かの権力者によって改ざんされたと見て良いでしょう。
捨てると言う事は他者が拾えると言う事です。得ないと言う事は得る者の取り分が増えると言うことです。持たないと言うことは持ちたい者が得をすると言う事です。

全て他者が得をする仕組みになっています。

そして、全ての人が「捨てる」を成せばどうなるでしょうか。
この世界から人間は居なくなるでしょう。得をするのはどういう存在でしょうか。

私自身は、これでも良いとは思います。我欲を抑えず、自分中心に物事を考え、自分以外の理不尽に目も向けず、思い込みや決め付けで物事を考え、自身に在る責任を認めず、正しい道を歩もうとしないどころか歩もうとする者の邪魔をし、愛を愛欲や独占欲とはき違える人間ばかり。

それだけならまだ未熟なだけで済みますが、悟りを得る術が在るのに見向きもしないとなれば、それはもう救う意味など無いという事になるでしょう。

皆様が真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c41

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
42. 私は普通の人です[15] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 09:42:57 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[4]
上から2行目の、我欲であり他欲でもあります。を、我欲です。に訂正しておきます。

上から6行目の、悟りを捨てさせようとするのも欲です。の「悟りを」は間違いです。消し忘れました。捨てさせようとするのも欲です。に訂正しておきます。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c42

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
43. 私は普通の人です[16] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 22:05:34 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[5]
>>41の10行目11行目12行目、「これをしないと捨てるの行き着く先は「死」そして「無」です。魂や霊魂などが在るとすればそれらも捨てる=消滅する事になります。」は、仏教では、自分以外への執着を捨てる、とされている様なので「」内は私の間違いです。訂正しておきます。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c43
[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
44. 私は普通の人です[17] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 22:43:36 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[6]
>>41に補足しておきます。

自分以外への執着を捨てる、と仏教ではありますが、これもおかしいと気付くべきかと思います。

自分以外への執着を捨てれば、他者へのこうして欲しいとか、こうあって欲しいという願望を捨てるという事に繋がるので、他者を傷つけることは無くなります。ですが、これは皆がそうなればです。

また、他が自分以外への執着を捨てた者に危害を加えないとは言い切れません。人間は境遇次第で様々に変わります。加えて、自分以外への執着を捨てた者が、自分以外の他を救えるでしょうか。執着を捨てるという事はただ見ているだけだという事です。

結局は自分だけが執着を捨て気持ちよくなって、他の苦や悲しみ等に鈍感になり、気持ちに寄り添えず、機械的に、こうすれば良いなどと回答するだけになってしまいます。

他に執着する事は良くない事ですが、他を想う事は大事な事です。正しい道に導いてあげる存在が居なければ、人間が楽な方へ流れるのは自然な事です。今を見れば解るかと思います。

物質的な豊かさで幸せを感じているかもしれませんが、結局人間は、人と人との繋がりが在ってこそ真の幸福に気付きます。ですが、個人的にそれを成す為に、他を蔑ろにしていては、それは幸福とは呼べないでしょう。

結局は、悟りを得て、人の世の真理を元にしなければ、真の幸福は得られないという事です。

映画やドラマ、アニメ、漫画、こういった中では、一部分だけにスポットをあてて、さも、それが幸福であるかの様に表現しています。ですが、その幸福を得る為に他が理不尽な思いをしている現実があるのです。

皆さんが、真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c44

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45. 私は普通の人です[18] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月18日 22:52:21 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[7]
>>44の上から3行目4行目を訂正しておきます。

自分以外への執着を捨てれば、他者を傷つけることはなくなります。としましたが、訂正、補足しておきます。

執着を捨てた者が他者を、物理的に傷つけはしませんが、第三者が傷つける可能性は残りますし、また、他者の気持ちに寄り添えないので、心を傷つけてしまう可能性も残ります。としておきます。

結局のところ、自分以外への執着を捨てるだけでは不完全だという事です。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c45

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46. 私は普通の人です[19] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月19日 01:39:42 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[8]
悟りを得るにあたって、>>28に記した事にもう少し付け加えておきます。

私自身は、悟りを得ようとして得たわけではありません。既に述べましたが、悟りを得ようとすること事態が欲だからです。

私は、とあるキッカケを元に、この世界から理不尽な思いをする人が居なくなり、本当の意味での平和を成すにはどうすれば良いのか、という様な事を考え続けていました。その途中で恐らく悟りを得たのだと思います。ので、悟りを得る事に執着していないので悟りを得た状態でなくなったとしても別にどうでも良いと思っています。

また私は、悟りを得るまで、また得てからも苦は続いています。何故なら今がそういう世の中だからです。釈迦が居た時代は今ほど文明は進んでいなかったでしょう。入ってくる情報が少ない分、また色んなものがない分、苦や悲しみの元も少なかった事は想像できるかと思います。

なんでもそうだと思いますが、何かを成すには、最初の方は困難も多いかと思います。ですが、いずれはその困難も少なくなり、やがて無くなっていく事でしょう。

私は、色んな情報を、思い込まず決め付けずを心得ながら見てきました。そう心得ていても意図せずに、思い込んだり決め付けたりしてしまっている場合はありました。そういう経緯を経て、>>28にまで辿り着きました。私自身は悟りを得るのに時間もかかり苦労もしましたが、>>28を参考にして頂ければ、おそらくは苦労もさほどなく、時間も短縮できると思います。

ですが、これは私の経験でしかありません。もしかしたら結構苦労するかもしれません。人それぞれだと思います。

一応、気休めかもしれませんが、私は基本何も考えずに生きてきました。なので考えることはたぶん苦手な方だったと思います。なので普段考えることが出来ている皆さんなら大丈夫ではないでしょうか。

加えて、私は予定調和にまったく入らないような子供でした。ですが色々と周りの影響を受けていやいや参加するような状態になっていきました。ので、思い込まず決め付けずや、正義とかをすんなり受け入れられたのかもしれません。

結局は人それぞれ向き不向きはあるとは思いますが、悟りを得るにあたっては色んな要素が絡んでると思うので、一概に向き不向きは決められないと思います。ので、私は誰にでも悟りは得られると思っています。

皆さんが真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c46

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47. 私は普通の人です[20] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月19日 12:20:19 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[9]
仏教にある「中道」について考えてみます。
中道とは、何事もほどほどに、など他にも色々解釈は在るようです。

まず、ほどほどに、を考えてみます。
当然ながら、人によってほどほどは違います。庶民にとってのほどほどは、想像しやすいと思いますが、それでも差は生まれます。では、物凄いお金持ちのほどほどはどうでしょうか。物凄いお金持ちが、これが自分のほどほどだと言ってしまえば、それはほどほどになってしまうでしょう。当然ながら、これはお金だけに限ったことではありません。全てにおいてそう言える事です。

他には、2つのものから離れて矛盾対立を超える、みたいな事も言われていますが、離れる距離が短ければその範囲しか解りません。少し的を得ていますが、表現が解りにくいので理解に苦しむかと思います。

結局は、信者やその他の民を縛る為の概念でしかありません。人は何かによって縛るのではなく、導かなくては成りません。そうでなければ健やかに成長しません。縛れば、あるとき騙されたと知ってしまえば、その反発で騙した相手や集団を憎んだり怨んだりしてしまう人も居るでしょう。敵わないと思い込み決め付け諦めてしまう人も居るでしょう。その中から目覚める人も出るかもしれませんが、その為に他の多くが理不尽な思いをしていては良くありません。

この中道という概念も、欲深いものにとって都合の良いシステムになるという事です。

何事も、人の世の真理を元に、法を創り、倫理観や道徳観を養わなければ良くは成りません。人の世の真理は、未熟な人間が創った法やしきたりや道徳観や倫理観とは違い、既に在るものです。私はそれを見つけたに過ぎません。そしてこれは悟りを得れば誰にでも見付けられる筈です。

皆さんが真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c47

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
48. 私は普通の人です[21] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月19日 19:15:29 : P4Ob9F5d2Y : A0Or2gc_dP0[10]
悟りを得るにあたって、もうひとつ必要だと思われるものを>>28に加えておきます。

それは、無償の愛、です。自己犠牲も含まれる様に感じるかもしれませんが、自己犠牲は何かの為を想って行うものなので違うと思います。

無償の愛とは、一切の見返りを求めない愛〜、といった感じでしょうか。

ただし、無償の愛は、実行しては成らないものだと私は思っています。
無償の愛とは、言い換えれば究極の甘やかしだと思います。自分は何もせずにただただ与えてくれるだけでは、人間は甘えて堕落していくものです。もちろん全ての人がそうではないでしょうが。

また無償の愛は、生贄の儀式にも繋がってしまいます。抵抗しなければ格好の餌食です。もちろん抵抗してもされてしまう可能性は在りますが、しないよりはましです。他にも色々問題は孕んでいると思います。

したがって、無償の愛は、心得としてもっておくものに留め、実行には移さないが、正しいとします。この考え方が、悟りを得るにあたって必要になってくるかと思います。

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c48

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49. 私は普通の人です[22] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月20日 13:51:48 : kzULm2l8MQ : KutvneUZQCM[1]
>>36の11行目12行目の、それらに対する不必要な感情が生まれなくなるからです。を、それらに対する不必要な感情が抑えられる様になるからです。に訂正しておきます。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c49
[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
50. 私は普通の人です[23] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月20日 18:10:18 : kzULm2l8MQ : KutvneUZQCM[2]
悟りを得るにあたって必要だと思われることを>>28に追記しておきます。

人には個性が在ります。これは持って生まれたものだと思います。
こういうのは自分ではなかなか気付かないものではないでしょうか。

私の場合ですが、私の個性のひとつとして、物凄く楽観的というのがあります。悟りを得るまで、もしくは得てからも、色々と苦はあると記しましたが、そういうのにもしかしたら耐性があるのかもしれません。

これがないともしかしたら、悟りを得るにあたって、人によっては苦しみに耐えられないのかもしれません。私が思うにこれは、最初の方であればあるほど苦しみは多いと思います。皆が一度に悟りを得れば、その苦しみも、その時点で最小値になるでしょうが、現実的には難しいでしょう。

私に似て楽観的で、ここで記した様な事が出来るという方であれば、今、悟りを得ても耐えれると思います。一応、私が居ると言うことが解っていれば心の支えになれるかと思います。。私は私以外に悟っていそうな人を知りません。ので、もしかしたら人間は悟れないのか、と希望が持てなくなっています。

楽観的に関してですが、楽観的は時には人を傷つけます。どんなことでもあまり気にしないからです。加えて私は考えるということを殆どしてこなかったので、問題を起こしていたとしてもすぐ忘れていました。ですが問題は問題です。それが解決しなければならない問題だと気付いたときには解決しなければならないと思います。

私は、悟りを得る前に、まず自分自身の記憶を辿り、自分が起こした問題を振り返りました。そしてそれらには自分なりに回答を出したつもりです。それにあたって本心からやらなければ良かった、もう二度と同じような事はしてはいけない、と思いました。

皆さんも悟りを得ようとする前に、まずは自分自身を振り返ってください。そして自分自身の問題を解決してください。そうしなければ、悟りを得れば解る人の世の真理と、自身が抱える問題とで矛盾が生じて耐えられなくなると思います。

ですが、これらの問題を乗り越えれば、貴方は産まれてきた時と同じ様な無垢な状態に成れると思います。赤ん坊の様に無垢な人に産まれ変われると思います。

そうなった状態がもしかしたら悟りの境地と言えるのかもしれません。

私が悟りだと思っていたのは、その悟りの境地を知る為の術でしかないのかもしれません。が、ありとあらゆる全てを客観的に正しく見るにはやはり必要だと思います。悟りの境地に立てても、ありとあらゆる全てを客観的に正しくみる事ができなければ問題を最良の形では解決できないと思います。ので私はこれら全てが出来て悟りの境地ではないかと思います。

この世の問題から遠ざけて、純粋なまま育てるという風習が、身分の高い家柄ではあったかと思います。ですがこれは単に問題の本質を理解していないから純粋で居られるだけだと思います。だから問題に直面したとき大した事が出来ず、そこから新たな問題が生まれるのだと思います。

自分以外の事ばかり言うなとは言っていません。言いたい気持ちは解ります。ですが、自分の事も見つめなおしてみましょう。そうすれば自分以外の事もよく解るようになってくる筈です。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c50

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
51. 私は普通の人です[24] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月23日 13:55:52 : jbjebqnxog : 5UHyXR@J_Qo[1]
地球温暖化について考えてみます。

二酸化炭素とか温室効果ガスとか太陽だとか気象操作だとか温暖化はしていないだとか、色々言われています。
これらも考えられるとは思いますが、私は次の様に思います。

私が思う最大の要因としては、熱を発する全てが影響している、です。

太陽、地球、人間、動物、火を使うもの全般、車、テレビ、パソコン、他にもいくらでもあるでしょう。こうしたものから発せられる熱は、拡散し、ゆっくりと宇宙によって冷やされていくのだと思います。したがって熱を発するものが増えれば増えるほど熱は篭り易くなり冷却は遅くなります。

科学が発展し、熱を発するものは増えましたし、人口も増加しています。熱が篭るのも当然です。篭るといっても全体で見れば僅かかも知れません。しかし、熱を発するものを沢山有する地域ではより篭りやすくなるでしょう。全体で見れば1〜2度程度が、特定の地域ではそれ以上かと思います。

ではどうすれば解決できるのでしょうか。

熱を発するものを減らせば良いのでしょうか。これもひとつの手です。人間が欲を抑えた生活をすれば減らすことが出来ます。

逆に考えて、冷気を発する何かを作れば良いのではないでしょうか。熱だけを発するものが在るのだから冷気だけを発する何かも在るかもしれません。が、冷気だけを発する何かを作る際には熱が発生しそうな気もします。

結局のところは、人間の欲が強すぎるからです。人口増加は、子供が増えれば楽しいとか、人手が欲しいとか、色々あるでしょうが、いずれも先の事まで考えていません。

基本、人間の欲の過ぎることが温暖化の原因です。

そしてこれらも、結局は、ありとあらゆる全ての良き調和を成す事を目指す事で解決します。悟りを得る事は、それを成す為の通過点に過ぎません。

ちなみに、これらは私が得ている知識の範囲内で考えたものであって、私より、より多くの知識を得ている方が、悟りを得れば、より深く原因を追求し、より良い解決策を見つける事が出来るかと思います。

皆さんが真に目覚めますように。


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c51

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
52. 私は普通の人です[25] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月25日 09:08:18 : jbjebqnxog : 5UHyXR@J_Qo[2]
私は悟りを得た時、もしくは得る前に、今まで経験した事の無い様な幸福感を得ました。もし、そこで考える事をやめていたら私自身は幸福だったのかもしれません。ですが、自分は幸福でも自分以外が理不尽な目にあっていたら、それは本当の幸福ではないはずです。

自分は理不尽ではない、と全ての人が言ったとします。それは自分が理不尽な目にあっていないと思い込んでいるだけ、もしくはそう思いたいだけでしょう。また人だけではなく人以外もその対象となります。

皆さんは「気」という言葉をご存知でしょうか。気とは簡単に言えばエネルギーです。燃料や食事もエネルギーですが、気はそういった物質的なものではないものです。気をという言葉を使っていますが、気という言葉が使いやすいので使っているだけとしてください。

気には、良い気と、良くない気と、悪い気、が在ると私は感じています。良い気とは本当の意味での良い行いから発せられるものです。良くない気とは本当は良くないけれど良いと思い込んで行われるものから発せられるものです。悪い気とは悪いと解ってする良くない行いから発せられるものです。

良い気からは幸福感を得られます。良くない気からは幸福感と不幸感を得る事になります。悪い気からは不幸感を得てしまいます。もし、この世に他の不幸を幸福とするものが存在するのならば、悪い気から幸福感を得られるでしょう。逆に良い気からは不幸感を得てしまうのでしょう。

私の経験を踏まえて思うに、良い気で満たされれば病にもかからなくて済む様に感じました。しかし、世に良くない気や悪い気が在れば病にもかかってしまうでしょう。

病は気からと言います。自分だけが病にかからなくて良いのであれば、世に無関心になれば良いのでしょう。これは人里はなれた僻地でひっそり暮らすなら可能かもしれません。しかし世に無関心という事は、いずれはその僻地に無関心でいた事で手付かずだった良くない気や悪い気が押し寄せてくるという事です。

ありとあらゆる全ての良き調和を願い、悟りを得て、人の世の真理を理解すれば、良くない気や悪い気の元が解る様になります。結果として自分自身で解決できるようになります。ですが、一人で出来る事など限られています。皆が心をひとつにしない限りはありとあらゆる全ての良き調和は成りません。

いくら物質的な豊かさを得ても、内面が変わらなければ、同じことの繰り返しです。

結局は皆さん次第です。

皆さんが真に目覚めますように。


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c52

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
53. 私は普通の人です[26] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月25日 10:09:51 : jbjebqnxog : 5UHyXR@J_Qo[3]
食事の問題について考えてみます。

人間は人間以外ならば、口に出来るものは何を口にしても良いと私は思います。ですが、いくつか条件があります。その条件を守らなければ、人間は人間らしさを無くしてしまうでしょう。

ひとつは家畜を殺し家畜から得られるものを口にしてはなりません。家畜は自由に生きる権利を奪われ、ただ食される為だけに生きています。

ひとつは家畜を一箇所に集め自由な活動を阻害し対価を得てはなりません。人間も家畜も対等です。

ひとつは養殖を行ってはなりません。正確には、生物を特定の場所に閉じ込めて自由に生きる権利を奪ってはなりません。

ひとつは植物をその植物が元来生存するに適した環境以外で育ててはなりません。植物にも自由に生きる権利はあります。子孫を残す権利もあります。人間が自分たちの都合で、その権利を奪ってはなりません。

これらは全て奴隷制度と同等、もしくはそれ以上に良くない行いです。

かつて日本は第二次世界大戦、または大東亜戦争という戦争を行ったそうです。そこには奴隷解放という大義名分があったのではないでしょうか。その日本が、その当時なくそうとした悪しき制度を自ら行っているとは目も当てられません。

自然に生きる生物、植物を食す事は自由を奪っているのではないかと思われるかもしれません。しかし、人間と生物、植物の間でルールを交わすことは出来ません。したがって人間とその他には自然の摂理である弱肉強食があてはまります。ので、食べる事は悪い事ではありません。良い事でも良くない事でもないと思います。ただただ自然な事です。

ですが、伝統だからとか、シキタリだからとか、皆が食べているからだとか、美味しいからだとか、食べなくても他で補えるのに、己が欲を満たす為に食すのは良くないことです。

食に関して述べましたが、食以外の全てに言える事です。人間が己が欲を満たす為に他を犠牲にしすぎる事は良くない事です。

皆さんが真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c53

[近代史02] 釈迦の悟りとは何であったのか? 富山誠
54. 私は普通の人です[27] joSCzZWBksqCzJBsgsWCtw 2017年7月25日 10:50:04 : jbjebqnxog : 5UHyXR@J_Qo[4]
食事に関してもうひとつ記しておきます。

食事を作る際に持ちる道具についてです。宗教では、食事を作る際に用いる道具に関して、特定の生物を用いた食事を作った際に使った道具は穢れている、などとしているようです。

では食される生物は穢れているのでしょうか。残念ながら、穢れているのは食される生物ではなく人間の心です。加えて食される生物を穢れているとすることは、差別にあたります。全ての存在は対等です。これを忘れてはなりません。

皆さんが真に目覚めますように。
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/739.html#c54

   

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